美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 西洋の精神に加え父譲りの木彫技術

KEYWORD 高村山荘
高村光太郎が晩年の七年間を過ごした岩手県花巻市太田の小屋。彼は詩人で童話作家の宮沢賢治が1933年に37歳で死去した後、全集や詩碑の建立に尽力した。その縁もあり、45年4月に東京のアトリエを焼け出された際は花巻市の宮沢家に疎開する。しかし、そこも空襲で焼失、移住した先が太田だった。
小屋は木造平屋で板の間と土間だけの質素な作り。独居自炊の生活の中で、詩作や書の制作に専念した。「近くの小学校を訪れ、子供たちと交流しました。英字新聞も取り寄せており、地方にあっても世界とつながっていたのでしょう」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん。敷地内には高村光太郎記念館があり、彫刻や書などが展示されている。
前半に続き、限られた紙幅の中で、光太郎造型について要所要所のポイントを抑えた紹介をしていただきました。自称「研究者」の書くわけのわからない独断と事実誤認だらけの文章等とは比ぶべくもありません(笑)。『日経』さん読者の方の中には、この記事で「高村光太郎って、こういう人だったんだ」と初めて知られたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
記事にある「藁谷氏」は、昨日ご紹介した前半部分で光太郎彫刻の解説をなさって下さった、岩手県立美術館館長・藁谷収氏です。
ちなみに最後に紹介されている花巻高村光太郎記念館さんでは、先週から企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が始まっています。その設営作業の様子、展示に協力なさったやつかの森LLCさんのサイトから。
今週末には当方、現地におもむき、展示解説のオンライン配信の収録に行って参ります。
【折々のことば・光太郎】
春暖の如し、 中西夫人にたのみ、吸入器をかふ、
宿痾の肺結核は呼吸困難も引き起こしていたようです。「中西夫人」は、起居していた貸しアトリエの大家。「吸入器」は、上記花巻高村光太郎記念館さんに、他の遺品と共に展示されているものではないかと思われます。