カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 絵画

昨日は神奈川の箱根と静岡の熱海に行っておりました。

メインの目的は、熱海で開催された、潮見佳世乃さんの「歌物語×JAZZ」コンサートでしたが、他にもいろいろと廻りました。レポートいたします。

まず愛車を向けたのは、箱根。県は違えど熱海と意外と近く、芦ノ湖畔の成川美術館さんで、ちょうど「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」が開催中ですので、そちらを拝見しておこうと思った次第です。

首都高がまったく渋滞もなくスカスカで、午前中には到着。
KIMG4824
駐車場からの芦ノ湖。

長いエスカレーターで登って、入り口へ。
KIMG4825
KIMG4826
入るとすぐ、光太郎と交流の深かった舟越保武のブロンズがお出迎え。以前にも書きましたが、作者名を見ずとも「ああ、舟越だ」という感じで、これが個性というものなのでしょう。
KIMG4835 KIMG4836
館内から見た芦ノ湖。高台にあるので眺望がいい感じです。晴れていればもっと良かったのでしょうが、当方、究極の雨男・光太郎の魂を背負って歩いているので仕方がありません(笑)。
KIMG4833
「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は、二階の展示室でした。
KIMG4834
同館所蔵のもののコレクション展的な位置づけだったようです。同時開催的に別の展示室では「齋正機 コドモシリーズ~女の子~」も。
KIMG4827 KIMG4828
分類上は日本画なので、鉱物顔料で描かれているはずなのですが、色遣いやタッチはパステル画のようで、こういう描き方ができるんだ、という感じでした。
004
観ていて思い出しました。だいぶ以前、安達太良山麓の岳温泉さんに泊まった際、フロントに無料で置いてあった会津あたりの雪景を描いたポストカードをもらってきたのですが、どうも齋氏の絵だったようです。探したのですがみつかりませんで、どなたかに絵葉書として送ったようです。

風景画の方は、基本、齋氏の故郷・福島のもの。下記は花見山です。
KIMG4832
同展の開催を報じた『福島民報』さんの記事に、「古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作」とあったので、「ほんとの空」という作品を探しましたが、ありませんでした。

どうやら、こちらのことを言っていたようですが、題名は「ほんとの空」ではなく「トンボノ空ニ」。
KIMG4831
昨年、『福島民報』さんで為されている齋氏の連載「福島鉄道物語」で、この絵が「ほんとの空」という題のエッセイと共に掲載されたため、混乱が生じたのだと思われます。

キャプション的に、「ほんとの空」全文がパネルに印刷されていました。
KIMG4829
KIMG4830
途中でオチが予想できてしまいましたが、予定調和的にうるっときました。やはりこういうご経験が、作品創出の一つの契機ともなるのでしょう。そして、夕暮れの町を「コハク色」と捉える感性なども。

ミュージアムショップで、この絵のポストカード等がないか探しましたが、新作ということもあるのでしょう、ありませんでした。

その他、平山郁夫のシルクロード系がまとめて展示されていましたし、東山魁夷、加山又造といった大御所の絵も出ていまして、眼福でした。

ところで箱根といえば、光太郎、確認できている限り、4回程は足を運んでいます。

まず明治33年(1900)、「箱根山蘆のみづうみ雪にみて叔父の翁と詩のこと語る」という短歌があります。「叔父」は両親の弟(兄なら「伯父」)。光雲の弟・牧蔵は光太郎出生前に夭折していますので、母方の叔父なのでしょうが、詳細は不明です。

続いて昭和2年(1927)夏、智恵子を伴って。この際に撮ったのが、このブログのトップに出てくる写真です。撮影場所は大湧谷でした。
大湧谷 02e8124e
翌年には、智恵子と、智恵子の母・センも連れて訪れています。

さらに智恵子が歿した昭和13年(1938)、南品川ゼームス坂病院で付き添いの看護婦として智恵子を看取った智恵子の姪・春子の慰労のために。この際には伊豆大島にも足を伸ばしました。

調べれば、もう1回2回、訪れたことがあるかも知れません。

それから箱根といえば、彫刻の森美術館さん。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の同型の作が「みちのく」の題で野外展示されていますし、絶作「倉田運平胸像」(未完)も所蔵されています。

大湧谷や彫刻の森美術館さんも廻ろうかとも考えましたが、次の予定がありますし、またの機会にと思い、愛車を熱海方面に向けました。以後、明日。

【折々のことば・光太郎】

野末氏よりオレンジの小包、大半ぬきとらる。


昭和22年(1947)4月13日の日記より 光太郎65歳

野末氏」は編集者の野末亀治。花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた光太郎に、たびたび食糧等を送ってくれていました。「大半ぬきとらる」、まだまだ食糧不足のこの頃、郵便事情はこういうことだったのでしょうか……。

この年、東京地方裁判所の山口良忠判事(当時34歳)が、栄養失調で死亡しました。法律違反の闇市で食糧を手に入れることを拒否し、正式な配給の食糧だけで生きようとしたためでした。

昨日に引き続き、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品関連で。

鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」

期 日 : 2021年3月31日(水)~4月26日(月)
会 場 : 青猫書房 東京都北区赤羽2-28-8
時 間 : 3月 11:00~18:00  4月 11:00~19:00 日曜 11:00~17:00
休 業 : 火曜日
料 金 : 無料

福島県浪江町の山里で暮らしていたおじいさんと犬のおはなしを描いた絵本の原画展
009
絵本『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。

東日本大震災前から、子供たちのために幻灯の上映を続けていた川本さん、原発事故後の避難生活の中でも幻灯会を続け、最期は郡山の介護施設で亡くなりました。老いた愛犬・シマは、その前年に、川本さんの施設入所に伴って貰われていった里親さんの元で亡くなっていました。
001
002
003
004
005
007
008
ラストは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした「ほんとうの空」がある浪江の山里に還って行く、というシーンです。
006
絵の中に文字が書かれていることはあるのですが、基本、言葉がありません。それが却って効果的で、幻灯を一コマずつ見ていくような感覚が呼び起こされ、最後は涙腺崩壊に導かれます。

原画展、当方が把握している限り、これまでも埼玉や福島で開催されていましたが、今回は都内の絵本専門店さんで行われるそうです。関連イベントとして以下も予定されています。

 4月4日(日)  双葉郡高野病院医師・NGOシェア代表 本田徹さんのおはなし
 4月11日(日) NPOひなん生活を守る会代表 鴨下祐也さんのおはなし
 4月18日(日) 『ほんとうの空の下で』について ノグチクミコさん
 4月26日(月) 詩とライヤー演奏 福島で被災した星ひかりさん


コロナ感染には十分お気をつけた上で、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ひる分教場へゆく。道路雪解水ながれ。路なき雪の上をよつて歩く。困難。 知事、国分謙吉、村長高橋雅郎、投票、郵便物うけとる。


昭和22年(1947)4月5日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、4月に入ってもこういう状態だったのですね。

国分謙吉は地方自治法の施行に伴って、初めて選挙で選ばれた知事の一人です。これ以前は中央官庁から派遣された人物が知事でした。この時、後に光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼する津島文治(太宰治実兄)が、青森県知事に当選しています。

国分と光太郎は、昭和25年(1950)に新聞社の企画で対談を行っています。光太郎、この時点では、そんなことになるなどとは考えていなかったでしょうね。

知事選挙といえば、先般、当方の住む千葉県で知事選挙が行われました。とんでもない泡沫候補が何人も「売名のため」と公言して立候補したりし、変な意味で注目されてしまいました。千葉県民として恥ずかしい限りです。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品が展示されている展覧会をご紹介します。

齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~

期 日 : 2021年3月11日(木)~7月14日(水)
会 場 : 成川美術館 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根570番
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 大学生・高校生 900円(700円)
      中学生・小学生 600円(500円) 幼児 無料 ( )内は団体(10名以上)

現代の日本画に新たな風を吹き込む齋正機の展覧会。ローカル鉄道や田園風景、何気ない暮らしの情景を描いた作品は、懐かしい記憶や思い出を呼び起こす心温まる優しい世界です。本展のために作家が特別に制作したオイルパステル作品も会場限定で販売いたします。

Masaki sai 1966~
福島県生まれ。東京藝術大学日本画専攻卒業、同大学院修了。2003年洋画の登竜門として知られる昭和会賞(日動画廊)を日本画家として初めて受賞。明るく柔らかな作風で、機関士だった父の思い出である鉄道や、郷愁を感じさせる里山などをモチーフに、詩情溢れる日常の情景を描き続けている。

地方紙『福島民報』さんで、この展覧会について報じていました。

福島県内の風景画並ぶ 7月14日まで斎正機さん企画展 箱根

 福島市出身の日本画家斎正機さんの企画展「斎正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は十六日までに神奈川県箱根町の箱根・芦ノ湖成川美術館で始まった。七月十四日まで。柔らかい雰囲気の作品が来場者の目を引いている。
 古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作を含め、日本画とオイルパステル画約三十点が並んでいる。県内の風景を描いた作品が多い。
 入館料は大人千三百円、高校生九百円、小中学生六百円でいずれも税込み。開館時間は午前九時から午後五時。
 斎さんは福島民報で「福島鉄道物語」を連載している。
011
同紙には、記事にある「福島鉄道物語」の連載で、昨年、「ほんとの空」という作品が掲載されました。
010
背景の山は、「ほんとの空」だけに、安達太良山でしょう。温かみのある絵ですね。これが今回展示されているものかどうか不明なのですが、別物だとしても、こんな感じの作品と思われます。

齋氏、『福島民報』さんでの連載以外にも、地元の地銀・東邦銀行さんのカレンダーなどにも作品が採用されているそうです。ちなみに同行のカレンダーには智恵子の紙絵が使われたこともありました。

氏のオフィシャルサイトはこちら

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

分教場にて田頭さんの演説会に余出場の事を遠慮すべき旨、勝治さんより田頭さんに伝へるやうたのむ。よくさん会詩部会長其他の経歴該当すと思ふ。

昭和22年(1947)3月29日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の村長選挙に関わります。山小屋のあった山口地区の高橋雅郎が立候補、その応援演説を頼まれたものの、戦時中の肩書きを理由に遠慮したというのです。「田頭」は屋号です。

「よくさん会詩部会長」は、正確には日本文学報国会詩部会長。「其他」は、中央協力会議議員や、大東亜文学者会議議員などを指します。

高橋は光太郎の応援演説が無くとも当選しました。そのお嬢さん、高橋愛子さん(平成30年=2018にご逝去)は、光太郎詩「山の少女」のモデルとなり、永らく光太郎の語り部として活躍されました。

3月19日(金)、展覧会ハシゴの2つめは、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん。
KIMG4803
こちらでは「没後70年 南薫造」が開催中です。
KIMG4804
先週3月14日(日)、NHK Eテレさんの「アートシーン」で取り上げられました。
040
042
南は広島県で、光太郎と同年の明治16年(1883)に生まれています。東京美術学校西洋画科出身で、光太郎との本格的な交流は、ともに留学でロンドンに滞在していた明治40年(1907)からと思われます。

009光太郎から南に宛てた明治40年(1907)の葉書が展示されていました。

昨夕引越し申し候。
ポリテクニツクの直ぐ側候へば学校の
御帰りがけにても御寄り被下度候。午後
二時頃には小生大抵帰宅致し居候。
夜は大方在宅
の筈に候。
                光
          高村光太郎


描かれている絵は、近くの酒場のギャルソンかなにかでしょうか。または日本の蕎麦屋の出前持ちのようにも見えますが。

「ポリテクニツク」は、チェルシー・ポリテクニック。アカデミックな美術学校ではなく、さまざまな技芸を教える学校でした。

「引越し」は、元はロンドンのパトニー地区にいたのが、チェルシー地区に移ったことを表します。チェルシーでは、やはり留学仲間の白瀧幾之助とルームシェアをしていましたし、近くにはバーナード・リーチが住んでいました。

この頃の南は、
044
045
光太郎はその後、パリに移って明治42年(1909)に帰国、南は同43年(1910)、アメリカ経由で日本に帰りました。
046
041
「木版」は、光太郎が神田淡路町で経営していた画廊・琅玕洞で展示されました。
003 002
南はまた、装幀も手がけていました。『白樺』の「ロダン号」。光太郎も寄稿し、日本に於けるロダン受容の、一つのエポックメーキングとして語り継がれていますが、この表紙が南の装幀で、これは存じませんでした。その他、やはり光太郎が寄稿していた『美術新報』や『詩歌』でも、南が装幀を行っています。

光太郎は光太郎で、やはり明治43年(1910)、『南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会目録』のために、「南薫造君の絵画」という一文を寄せています。

ただ、大正初め以後は、疎遠になったようです。確認できている限りでは、光太郎が南に送った書簡の最後のものは、大正元年(1912)11月3日付けのもの。何か行き違いがあって、南の機嫌を損ねたことを謝る内容になっています。

それ以前、文展の評などで南の出品作について、光太郎が新聞雑誌にいろいろ言及していますが、好意的な評もする反面、歯に衣着せぬ物言いも為されていて、その辺りが疎遠になった一つの原因かとも思われます。

晩年(南は光太郎より早く昭和25年=1950に歿しています)の南は、郷里広島で活動。
047
048
当方、南の絵は、多くの作家の作品を集めた展覧会で、数える程しか見たことがなかったため、今回、まとめて見ることができ、なるほど、という感じでした。いろいろな意味で「なるほど」ですが……。
001
図録は250ページ近い労作です。いったいに、ステーションギャラリーさんで行われる展覧会の図録は、かなり厚冊のものが多く、値がはりますが(今回のものは2,400円也)、それだけに素晴らしいものです。

「没後70年 南薫造」、ステーションギャラリーさんでは4月11日(日)まで。その後、4月20日(火)〜6月13日(日)で広島県立美術館さん、7月3日(土)〜8月29日(日)には久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんに巡回だそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

電話は東京から岩手に移転できるなら欲し。出来ないなら不要、随意に処分せられたしと書く、

昭和22年(1947)3月6日の日記より 光太郎65歳

駒込林町の実家に暮らす実弟・豊周へ送る書簡の内容の一部です。昔は固定電話の加入権というのが、一つの財産といった意味合いがありました。それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

この時期に光太郎が電話を欲しがっていたというのは、意外といえば意外でした。この時点ではまだ蟄居中の花巻郊外旧太田村の山小屋には、電気すら通っていませんでしたし。ただ、結局電話は設置されずじまいでした。

都内から企画展情報です。光太郎と親しかった画家・南薫造の作品が集められました。

没後70年 南薫造

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月11日(日)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(4/5は開館)
料 金 : 一般 1100円 / 大学・高校生 900円 / 中学生以下無料
      入館券はローソンチケットで販売、日時指定・事前購入制。
      詳細は公式ウェブサイトへ

日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
000
001
南薫造は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。東京美術学校西洋画科で学び、在学期間は光太郎とかぶっています。本格的な交流は明治40年(1907)、ともに留学でロンドンに滞在していた際からと思われます。もう一人、二人の先輩に当たる白瀧幾之助を交え、すき焼きパーティーなどにも興じたそうです。

光太郎の南評。

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。
(散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910))

そんな南ですが、上記案内に「これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。」とあります。なるほど、そうなんだという感じです。確かに昨年も南の作品を集めた展覧会がありましたが、広島県呉市での開催でした。

また、古書店で入手した当方手持ちの図録も広島県立美術館さんでのもの(平成10年=1998の「南薫造展―イギリス留学時代を中心に―」)ですし、実際、多数の作家の作品を集めた展覧会でしか南の絵を見たことがありません。
002 001
ちなみに広島県美さんの図録に、南、白瀧、光太郎のスリーショットとキャプションの付けられた写真が載っていますが、光太郎とされる人物は光太郎ではありません。似ているといえば似ているのですが……。これが誰なのかおわかりの方、ご教示いただければ幸いです。

さて、新型コロナの影響で、今回の展覧会は事前予約制となっています。いたしかたありますまい。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切りぬき、小まいは残す。風ぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風も入るやうになる。


昭和21年(1946)7月21日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、当初は北側に窓がありませんでした。そこを自分で刳り抜いて、無理くり窓にしてしまったというわけです。窓と言っても、ガラスではなく障子紙でふさぐ形でした。

とにかくこの小屋は山の麓にあるため湿気が多く、そうなると大して気温が高くなくとも熱中症の危険が増します。実際、後の昭和24年(1949)の夏には、熱中症とみられる症状のため4回も臥床し、村人の世話になっています。当方も一度、7月頃でしたか、隣接する旧高村記念館(現・森のギャラリー)で数時間かけて寄贈された資料のリスト作成をしていた際に、ひどい眩暈(めまい)に襲われました。外気温は30℃に届いていなかったと思うのですが……。

都内から企画展情報ですが、まず『高田馬場経済新聞』さんの記事から 

早稲田の「漱石山房記念館」で特別展 漱石山房に集う文人たち生き生きと

000 明治の文豪 夏目漱石晩年の住居後地に新宿区が設置した漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7、TEL 03-3205-0209)で現在、漱石の著書「道草」の装丁などで知られる津田青楓と漱石山房に集った人々との交流に焦点を当てた特別展「漱石山房の津田青楓」が開催されている。
 同館は、漱石が亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれた家の跡地に新宿区が2017 (平成29)年9月に開設した施設。この山房では「木曜会」と呼ばれた漱石のサロン的な会合が開かれ多くの文化人が集った。同展は、そのうちの一人である津田青楓の生誕140年の年が2020年であることから企画された。青楓の手による漱石とその門下生たちの著書の装丁、漱石山房を描いた絵画などに加えて文章にも着目。青楓の仕事や書簡は、当時の漱石および門下生らの交友をみずみずしく伝える。
 同館の客間や書斎、ベランダ式回廊など在りし日の漱石山房を復元したフロアと、青楓が描いたその客間や書斎、回廊を同時に観賞できる展覧会は同館ならでは。

001 同展を担当した学芸員の鈴木希帆さんは「青楓といえば、装丁家、画家としての評価が一般的だが、『ホトトギス』や『白樺』などの文芸誌に小説を発表するなど『書く』仕事も手がけている。本展では、青楓の『描く(えがく)』『書く(かく)』の2つの仕事を紹介する。青楓は97歳まで存命したが、特に漱石および漱石没後の門下生との交流に焦点を当てた。このコロナ禍の中で、青楓にゆかりのある個人、文学館、美術館などから多くの貴重な資料提供や協力を得られたことでこの展示が充実した」と説明する。
 鈴木さんは「青楓は漱石を父のように慕っていた時期があり、漱石の死に際しては慟哭したと聞く。漱石山房の中でも重要な人物だったのだと感じる。青楓の文や描いたものから、ここ早稲田南町の漱石山房での青楓と漱石および門下生との心の交流までも感じとることができる。ここでこの展覧会を行うことの意義を、この土地に来てぜひ感じていただきたい」と呼び掛ける。
 関連イベントとして、講師に柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)、大野淳一(武蔵大学名誉教授)による「対談 津田青楓のデザインと文章」(要予約)も3月7日に同館で開催予定。
 開館時間は10時~18時(入館は17時30分まで)。月曜休館。観覧料は、一般=500円、小・中学生=100円。3月21日まで。
 

《特別展》漱石山房の津田青楓

期 日 : 2021年1月26日(火)~3月21日(日)
会 場 : 新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
料 金 : 一般500円、小中学生100円 
      ※団体(20名以上・要事前連絡)は個人の観覧料の半額
      ※小中学生は土日祝日は無料

夏目漱石の『道草』を装幀した画家・津田青楓は、2020年に生誕140年を迎えました。
染色図案やプロレタリア美術運動への関与など、青楓の画業についてはこれまでにも検証が行われていますが、その文筆活動についてはまとまった研究は行われていません。
青楓は『ホトトギス』や『白樺』などの文芸雑誌に小説を発表し、生涯に20冊以上もの単著を刊行しています。
画家青楓のみずみずしい文章は、「翻訳ものを読むような新しさ」で漱石山房の門下生たちをも唸らせ、漱石山房への青楓の出入りもパリで書かれた青楓の小説を読んだ小宮豊隆による紹介で始まりました。
青楓は描くだけでなく、「書く」画家でもありました。
本展示では、漱石や漱石の門下生たちの本の装幀、漱石山房を描いた絵画に加えて、青楓の文章に着目して、漱石に最も愛された画家・津田青楓に迫ります。
008
関連行事
特別展記念講演会「対談 津田青楓のデザインと文章」
日時:3月7日(日)14時~15時30分
講師:柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)・大野淳一(武蔵大学名誉教授)
申込:2月15日(月)必着
会場:漱石山房記念館地下1階講座室・多目的スペース
定員:40名(申込多数の場合は抽選)
料金:500円(特別展招待券付)

津田青楓は光太郎より3歳年上の画家。光太郎とは留学仲間で、俳句仲間でもありました。明治42年(1909)、光太郎は留学の終わり近くに約1ヶ月、イタリアを旅行しますが、その旅先からパリの津田に送った俳句が50句以上知られています。

双方の帰国後も、しばらくは交遊が続いていましたが、やがて疎遠になりました。どちらかというと光太郎が嫌っていた(光太郎も嫌われていた)漱石の関係かも知れません。津田は漱石の著書の装幀を多く手がけ、漱石に絵の手ほどきをしています(結局、ものにならなかったようですが(笑))。

また、津田は光太郎と知り合う前の智恵子とも、絵画つながりで交流がありました。智恵子の言葉として現代でもよく引用される「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。」は、津田が書き残したものです。

昨年、練馬区立美術館さんで、津田の大規模な回顧展がありましたが、コロナ禍のため、結局、行かずじまいでした。今回は行ってこようと思っております。皆様も感染対策に配慮しつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝食の頃雪囲ひを取り外しに青年達来る。又恭三さんかんとくに来る。お礼をのべる。皆はづし、萱と丸太とを始末してかへつてゆく。萱はそれぞれ背負つてゆく。

昭和21年5月13日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、冬場は村人達が小屋の回りに雪囲いを作ってくれていました。「恭三さん」は戸来恭三。光太郎と親しかった村人の一人です。
002
右は当会の祖・草野心平。昭和26年(1951)の写真です。後に光太郎の山小屋と雪囲いが写っています。

それにしても、これを外すのが5月中旬とは……。

岐阜県から展覧会情報です

第82回企画展「どうぶつ集合!」

期 日 : 2021年1月7日(木)~3月14日(日)
会 場 : 大垣市守屋多々志美術館 岐阜県大垣市郭町2丁目12番地
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日(2月23日(祝)は開館)、1月13日(水)、2月12日(金)、2月24日(水)
料 金 : 一般 300円(団体20人以上 半額150円) 18歳未満 無料

 市の栄誉市民であり、文化勲章受章者として郷土が誇る日本画家守屋多々志は、歴史画の第一人者として活躍しました。大垣市守屋多々志美術館は、守屋画伯の作品や資料を紹介する美術館として、平成13年7月28日に開館しました。
 この美術館は、守屋家と株式会社大垣共立銀行の協力によって、同銀行郭町ビルの改修後、市が無償で借り受け暫定的に整備したものです。
 作品保存の難しい日本画作品のため、常設展示は行っておりませんが、3,300点の作品と資料を整理しつつ、2ヶ月ごとに入れ替えて展示し、多くの作品をご覧いただけるように企画展や特別展でご紹介しています。
 美術館は、大垣駅南口から徒歩10分の市の中心地にあります。多くの皆様に守屋多々志の作品を鑑賞していただき、美術に親しんでいただければ幸いです。

「馬を描くことは誰にも負けぬ」と守屋が自負したとおり勇壮でいきいきとした駆ける馬、異国に嫁ぐ王女を背に誇らしげな《繭の傳説》のラクダ、《萩の宿》の夜の静寂を表す猫、《桃太郎》のお供に加わり得意顔の猿や忠心の犬など、名脇役となった動物が描かれた作品を集め展示します。
000
003
日本画家の守屋多々志(大正元年=1912~平成15年=2003)。当方、寡聞にして存じませんでした。調べてみましたところ、東京美術学校卒ですので、科は違えど光太郎の後輩に当たります。日本美術院に属し、法隆寺の金堂壁画、高松塚古墳の壁画模写などにも加わっています。平成13年(2001)には文化勲章も授与されていました。

で、今回の展覧会の出品作に「智恵子と光太郎」と題した絵が含まれています。
004
昭和9年(1934)、千葉県九十九里浜での光太郎と智恵子ですね。なぜ「どうぶつ集合!」に光太郎智恵子? と思ったところ、主な展示品解説のページに答えがありました。

《智恵子と光太郎》(1993年、大垣市蔵)
 こちらは1993年、守屋が81歳の時に描いた《智恵子と光太郎》という作品です。日本近代詩の礎を築いた高村光太郎と、その妻で画家の高村智恵子を描いています。
 智恵子は大学を卒業後、女性洋画家として活躍する中で光太郎と出会い、創作活動にますます打ち込むようになります。しかし、昭和6~7年ごろに酒造業を営む実家が破産し、家族が散り散りになってしまいました。その頃、智恵子自身も画家としてスランプに陥るなど、精神的に弱り切ってしまったことから健康を害してしまい、その後の闘病も虚しく昭和13年に亡くなりました。智恵子の死後、光太郎はふさぎこんだ生活を送りますが、昭和16年に妻に関する詩集『智恵子抄』を刊行します。
 この作品の場面は、智恵子が昭和9年5月から12月にかけ療養した九十九里浜の真亀海岸だといいます。この地で「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風に乗る智恵子」などが詠まれました。初夏の日差しが、やわらかい色調で二人を包んで降り注いでいます。精神を病んだ智恵子はまるで幼女のように無邪気な様子で描かれています。光太郎も足元の小さな蟹を見つめ、智恵子と過ごす時間を穏やかに見守っているようです。

「足元の小さな蟹」だそうで。また、よく見ると左上の方には千鳥の足跡らしき点々も。

守屋は歴史画を得意としたということで、智恵子の九十九里浜療養も、ある意味、歴史の一コマといえるかも知れませんね。ちなみにこの作、平成5年(1993)に開催された第48回春の院展出品作だそうです。

近くでの開催でしたら飛んでいく所ですが……。お近くの方、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

勝治さんの話では昨朝は零下20度なりし由。今朝は零下十度との事。

昭和21年(1946)1月31日の日記より 光太郎64歳

「勝治さん」は、光太郎を花巻郊外太田村に招いた、分教場の教師です。

何気に書いてありますが、「零下20度」……トホホです(笑)。

000

新しい年がやって参りました。昨年の今頃は、昨年があんな年になるとは予想だにしていませんでしたが、今年は果たしてどんな年になるのやら、です。

願わくは、コロナ禍も終息し、世界中にまた笑顔が戻る年であってほしいものだと、切に願います。

本年も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

画像は当会よりお送りした年賀状です。昭和12年(1937)、丑年生まれの山形の銀行家・長谷川吉三郎の求めに応じて光太郎が描いた牛の絵をあしらいました。何で間違えたか、昭和13年(1938)と書いてしまいましたが、その前年でした(笑)。

【折々のことば・光太郎】

飯盒にて朝食を用意はじめたる時、分教場の佐藤勝治さん来る。小豆餅重箱にひとつ。大根のつけもの二本、キヤベツの煮びたし一壺持参さる。食前に届けんとせられし由。雑煮の代りにそれをいただかんとす。勝治さんと年賀交換、生れてはじめての新年也。


昭和21年(1946)1月1日の日記より 光太郎64歳

「佐藤勝治さん」は、光太郎に太田村移住を勧めた、山口分教場の教師です。

「生れてはじめての新年」。雪深い山小屋で自らの戦争責任と向かい合う生活の中で、初めて迎える新年ということで、「新生」光太郎の初めての新年、ということでしょうか。

情報を得るのが遅れまして、もう会期も終盤ですが……。

コレクションの50年

期 日 : 2020年9月19日(土)~12月20日
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生無料

和歌山県立近代美術館は、1963年、和歌山城内に開館した和歌山県立美術館を前身として、1970年、和歌山県民文化会館1階に開館しました。「近代」を冠した国公立の美術館としては、日本で5番目の館となります。同会館で23年間の活動を続けたのち、1994年に現在の場所へ新築移転し、今年開館50年を迎えました。それを記念して開催する本展は、和歌山県立美術館時代に収蔵した作品83点を引き継ぎ、その後半世紀にわたる活動のなかで、約13000点の作品を収蔵するまでになった当館のコレクションの歩みを、選りすぐりの作品を通してたどります。当館のコレクションは、郷土の美術家を掘り起こすことから始まり、関西から日本、さらに世界へと目を広げるとともに、版画という専門分野の開拓から世界的なコンクールとなった和歌山版画ビエンナーレ展の開催を含め、地域を基礎とする活動を継続するなかで形づくられました。多くの人に支えられながら築かれたコレクションの豊かさを、改めてご覧いただきたいと思います。

そして会期後半からは「美術館を展示する 和歌山県立近代美術館のサステイナビリティ」を開催し、作品収集にとどまらない美術館活動を振り返ります。展覧会、教育普及など、幅広くもそれぞれが関連した多面的な美術館活動と、それらを支える地域とのつながりにも目を向け、これからの50年、さらに100年を見据えた美術館を考えるための機会といたします。
002
003
004
005
006
007
008
009
010
001光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出ています。若き日の佐藤が光太郎に依頼して描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。一時疎遠になったものの、光太郎晩年には最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作者として、佐藤が光太郎を推薦したことなどもあり、交流が復活しました。佐藤は当会の祖・草野心平ともども「連翹忌」の名付け親の一人ともなりました。

この絵を描いてもらった経緯、モデルを務めていた間の光太郎とのやりとりなどは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)に詳細が語られています。

光太郎が油彩で描いた自画像ではない他者の肖像画は5点ほどしか現存が確認出来ていません。そのうちの1点。貴重なものです。

ちなみに他の油絵による肖像画は以下。
002 001
左は「松岡玉治郎像」(大正2年=1913)。松岡は上高地の案内人です。右は「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。新潟佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女で、3歳で夭折した道子の肖像。こちらは写真から描かれました。
003 004
親友だった水野葉舟の両親、水野勝興・実枝夫妻(大正6年=1917)。

005それから近所に住んでいた美術評論家・関如来の著書『五色の酒』(大正3年=1914)の口絵に使われた関の肖像画。キャンバスではなくスケッチ板に短時間で描かれたそうです。

こちらは当方、現物を見た記憶がありません。手元の書籍類にカラー画像も見当たらず、現存しているのかどうか不明です。ただ、サイズが「43×31.3㌢」と明記されていて、亡失作品であればそれも変な話ですし、どこかに現存しているのかも知れません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

佐藤春夫像を含め、これらすべて大正前半の作です。この頃、光太郎が油絵の頒布会を行っていたことにも関わるのでしょう。

さて、和歌山の「コレクションの50年」。今週いっぱいですが、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

佐藤勝治氏来訪、山口へ小屋を建つる事を依頼、


昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

昨日ご紹介した玉音放送を聴いた件の前に、この一節があります。

佐藤勝治は花巻郊外太田村山口地区の山口分教場の教師でした。太田村移住は佐藤の薦めによるところが大きかったようですが、終戦と同時に、東京へは帰らないという決断をしていた点が興味深いところです。

岡山県から展覧会情報です。 

期 日 : 2020年9月9日(水)~9月21日(月)
会 場 : 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリー 岡山市北区表町1-5-1 
時 間 : 10:00~20:00

9月9日(水)より「高田博厚とパリの仲間たち展」を開催いたします。日本を代表する彫刻家、高田博厚の彫刻・パステル画などの作品を、高村光太郎・浜口陽三・シャガール・ビュッフェ・ミュシャなど同時代を生きた国内外の作家の作品と共に展示販売いたします。9月21日(月)までです。
005

006

基本、高田博厚がメインの展示即売会です。早世した碌山荻原守衛を除き、ほぼ唯一光太郎が親しく交わり激賞した同時代の彫刻家で、今年生誕120年。各地で回顧展等が開催されていますし、今後も予定されています。

ところがこちらは高田作品のみならず、光太郎のそれも出品されているとのこと。問い合わせてみましたところ、彫刻ではなく書と版画が出ているそうです。
007
書は色紙で、「書はわたしの安全辨」と書かれたものだとのことです。大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」中に、「詩はおれの安全辨」の一節があり、それが元ネタです。純粋造型たるべき彫刻に物語性や自己の喜怒哀楽が入り込むのを嫌った光太郎が、そういったものは文筆作品(特に詩)で表現し、彫刻の純粋性を護ろうとした意図を表す語です。

右画像は10数年前に市場に出ていた揮毫ですが、これそのものなのか、同じ句が書かれた別物なのかなどは不明です。

版画は木版で、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作されたもの。同書の後記に光太郎から鉄幹宛の書簡が引用されています。
001
木版の方は、恥かしながら『幼き QLAUAPATRAT』と申したく候。『クラウアパトラ』は通称クレオパトラの本名に候。女王の位につきたるが十七歳の時。此は其よりづつと以前、アントニイが始めて会ひたる幼年の頃のつもりに候。

光太郎の木版は、明治44年(1911)に自宅兼アトリエ竣工通知に送った葉書、大正12年(1923)の関東大震災後に智恵子の実家・長沼酒造の清酒「花霞」を取り寄せて、にわか酒屋を始めた際に作ったラベルや引札、昭和24年(1949)刊行の詩集『典型』題字など、他にも存在しますが、それらは文字中心で、絵画の木版で確認できているものはこれだけです。ただし、書籍の表紙画で、もしかすると木版かも、というものはありますが。

画像はモノクロですが、現物は赤と青の二色刷とのこと。しかし、だいぶ褪色しているそうです。

ちなみに『相聞』にはもう一枚、おそらく鉛筆での素描「埃及彫刻」も載っています。「埃及」は「エジプト」。光太郎によるエジプト風の絵はこの時期、他にも見られます。前述の碌山荻原守衛がエジプト彫刻にかなり魅せられていましたので、その影響もあるかも知れません。

近くなら見に行くところですが、このコロナ禍の時期でもありますし、ちと難しいところです。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

一般大衆の常識向上無くしては一切の事望み難し。

アンケート「昭和二十二年に望む事」より
昭和22年(1947) 光太郎65歳

実質的に次期首相を決めるための自民党総裁選挙が告示されました。何だか相変わらずの派閥の論理やらで決まりそうな気配にげんなりです。大本命というか、既に出来レースで決まっているであろう官房長官は、現政権の方向性を継続、などとのたまっていますが、令和二年の我々一般大衆は、立憲主義、国民主権、三権分立、平和主義、そして国民の政治への期待や信頼を破壊するような動きには断固としてNOを突きつけなければいけないと思います。

広島からコレクション展情報です。光太郎の留学仲間で画家の南薫造が中心です。 

期 日 : 2020年7月4日(土)~8月23日(日)
会 場 : 呉市美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10時~17時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般300(240)円 高校生180(140)円 小中生120(90)円 ( )内団体料金

 南薫造は、1883(明治16)念に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。東京美術学校を卒業後、イギリスやフランスで西洋画の研究を深めた南は、人物や自然を、穏やかで滋味深いまなざしで捉え、「日本の印象派」と評されました。東京美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員などを歴任し、日本の近代洋画史に大きな足跡を残すとともに、呉や広島野の美術の振興に貢献しました。また南は作風同様に人柄も温厚で、画家仲間や教え子など多くの人々から慕われ、尊敬されました。
 2020年は南の没後70年にあたります。
本展では当館の所蔵する南薫造の油彩画、 水彩画、版画、素描を一堂に展示するほか、南と交流のあった画家たちの作品を交えて、南の画業や生きた時代をたどります。

002

出品目録はこちら。

003

004交流があったということで、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)が並んでいます。同館の所蔵で、たましん美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん同様、新しい鋳造のものですが、同館ではこうして時折展示して下さっています。

光太郎との交流が始まったのは、おそらく本格的には明治40年(1907)、ともに留学でロンドン滞在中でした。ただ、光太郎は明治30年(1897)、南は同35年(1902)に美校に入学していますので、ロンドン以前にも面識はあったのではないかと思われます。ロンドンではもう一人、画家の白瀧幾之助も交え、つるんでいました(笑)。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていたそうです。

001

新型コロナには十分ご注意の上、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】002

その詩格の立派さに感動・根拠の深さ感動のはるかさを感受 高村光太郎

雑纂「梶浦正之詩集『梶浦正之詩抄』」全文
昭和15年(1940) 光太郎58歳


梶浦正之は光太郎より20歳若い、愛知出身の詩人です。おそらく梶浦宛の書簡等からの抜粋だと思われますが、『梶浦正之詩抄』の扉に、西條八十、野口米次郎、川路柳虹の短評と共に掲載されました。

こうした場合の常ですが、良い点として挙げている「詩格の立派さ」、「根拠の深さ」、「感動のはるかさ」など、光太郎自身の目指す詩のあり方にも通じるような気がします。

一昨日の『日本経済新聞』さんから。 

絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 銀座の画材店「月光荘」、大正文化に恩返し 日比康造

東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある000。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。

祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あるとき住み込みで働いていた家の向かいに、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻が住んでいることを知った。夫妻の本を愛読していた祖父は、大胆にも家を訪ねた。親切に招き入れられ、「いつでも来なさい」と言われた。

そこでは素晴らしい出会いが待っていた。夫妻の家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬などの画家など当時の文化人が集まっていた。交流を通し、祖父は芸術という世界の素晴らしさに心奪われるようになる。画材店を始めたのは、画家たちが絵の具に不満を持っているのを知ったからだ。

店名の月光荘は、鉄幹がフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して名付けてくれた。店のトレードマークのホルンは与謝野夫妻と交遊があった芥川龍之介らが考案してくれたもの。音を奏でて多くの人に集まってもらうという願いが込められている。

当時、店は銀座ではなく新宿にあった。銀座に移るのは戦争で新宿の店が焼け落ちたあとのことだ。建築設計は画家の藤田嗣治によるもので、パリにあるような当時としては珍しい造りだった。店にはカフェも併設されており、数多くの文化人が集まるサロンのような場所となっていった。

芸術の世界を教えてくれた人たちに恩返しをすることが祖父の願いだった。1940年に誕生した純国産絵の具第1号のコバルトブルーもそうした思いから生まれた。当時、絵の具はフランス頼りで、船便で到着までに2カ月はかかった。戦争が始まると外国からの輸入も途絶えた。

コバルトは特殊鋼の製造に使われるため、政府が各大学の研究室に開発を命じていたが、完成に至っていなかった。祖父は、専門書を読みあさり、原料の鉱物の焼成温度や時間を試行錯誤しながら執念で完成させた。軍からは供出の命令がきたが、絵の具以外の用途では決して首を縦に振らなかった。猪熊弦一郎、梅原龍三郎ら著名な画家も月光荘の絵の具をひいきにしてくれた。

私が知る祖父は晩年の姿だ。6歳の1年間、一緒に暮らした。明治の男らしく、寡黙で余計なことは言わず、背中で語る人だった。自分のやるべきことを黙々とやる姿に大きな影響を受けた。商売人というより、職人のような人だった。

時代が変わった今も、祖父のときのまま、絵の具はすべて手作りだ。顔料をバインダーと呼ぶ糊(のり)状のものとローラーで練り合わせる。作るのに8時間以上かかる色もあり、職人がつきっきりで作る。季節によっても色は変わってしまう。配合のレシピはあっても、同じ色にはならない。最後はやはり経験がものをいう。いつまでも変わらない同じ色を届ける。使ってくれる方々との約束を守るために、若い職人の育成にも力を注いでいる。

「色感は人生の宝物」。祖父は生前そう言っていた。素晴らしい色との出会いは人生を豊かにしてくれる。その思いを次の時代にも届けることが自分の使命と考えている。

(ひび・こうぞう=月光荘画材店店主)


月光荘画材店さん創業者の橋本兵蔵に関しては、与謝野夫妻を中心とした文献だったか、美術史を扱った文献だったかで読んだ記憶がありました。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が見えませんが。コバルトの軍への供出を拒んだというエピソード、いいですね。

名前といえば、この記事に出て来る面々、殆どすべて、光太郎となにがしかのつながりのあった人々です。

こういう人物の業績にも、もっともっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あの、欲、捨てっちまえば何でもない。
対談「朝の訪問」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

この年11月にNHK盛岡放送局で収録された対談の一節です。花巻郊外旧太田村での蟄居生活について。聞き手は同局アナウンサーと思われますが、詳細は不明。12月2日にラジオで放送予定だったのですが、なぜかお蔵入りとなりました。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分ほどの長さだったと記憶していますが、結構大変でした。カセットデッキで再生 → 一時停止 → 鉛筆で筆記、の繰り返し。不明瞭な所は何度も巻き戻して(「巻き戻す」というのが、今の若い人にはもう通じないそうですが(笑))再生し、前後のつながりから「ああ、そういうことか」という場合もありました。光太郎、数え67歳のくせに(笑)結構早口でしたし。今となってはいい思い出です。

『毎日新聞』さん。「文化の森 Bunka no mori」欄に、「今よみがえる森鷗外」という連載が為されています。「2022年に没後100年を迎える森鴎外。毎回筆者とテーマを変えて、作品に現代の光を当て読み解きます。」というコンセプトだそうで。

6月14日(日)の第15回は、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」でした。

001

002

ご覧の通り長いので、全文は引用しませんが、東京美術学校で鷗外の「美学」の講義を受けた光太郎に関わる部分のみ。

 また鷗外は、大正六年発表の「観潮楼閑話」において、彫刻家、高村光太郎と交わした議論の一部を次のように記した。
 「君は多く捨てて少く取り、わたくしはこれに反しているだけである。それゆえ君の目から見れば、わたくしは泛(はん)なるが如(ごと)くに見ゆるであらう。君の愛する所の『全か無か』の如きは、わたくしと雖(いえども)又愛する」、「併(しか)し人の製作品を鑑賞することとなると、一歩退いて看(み)なくてはならない。そうでないと展覧会などは成立しない」。
 宮も高村も、大正期の新思潮の中で新しい表現を模索した、鷗外から見れば次の世代だ。かつて原田とともに、血気盛んに論戦に挑んだ経験があるからこそ、若者たちの苛立(いらだ)ちも理解できたのだろう。表現者として、美術家への共感も
示されている。
 その一方、「M君」に語った台詞(せりふ)からは、若い芸術家を育てようとする気持ちと、自分の判断に対する謙虚な姿勢がうかがえる。そして高村に向けた言葉からは、審査委員という立場で
芸術振興を担う者としては、 たとえ生ぬるいと思われたとしても、寛容を旨として作品と向き合う姿勢が読みとれる。
 こうした心構えが、展覧会運営や作品批評にとって重要であることは、今
も変わりない。 感情的、反射的な批判が飛び交い、「全か無か」を迫られがちな現代こそ、「一歩退いて看」る鷗外の態度に学ぶところは大きいのではないだろうか。


高村光太郎と交わした議論」は、大正6年003(1917)、元々は光太郎が自分の悪口を言いふらしている、と聞いた鷗外が、光太郎を呼びつけたことに始まります。時に光太郎数え35歳、血気盛んな青年でした。対する鷗外は同じく56歳、晩年にさしかかる頃です。

」、「M君」は宮芳平。光太郎とも交流のあった画家です。光太郎に関する部分の前に、宮と鷗外の関わりが述べられており、ざっくり要約すれば、鷗外が審査員を務めていた文展で、宮が落選となり、納得行かなかった宮が観潮楼に乗り込んだという件に関してです。宮は光太郎より10歳年下でした。

そういえば、偶然ですが、このブログで一昨日、昨日とご紹介した信州安曇野の豊科近代美術館さん、宮の作品を多数所蔵、常設展示で出しています。宮は永らく信州諏訪で美術教師を務めていました。下の方に同館パンフからスキャンしたものを載せておきます。

ところで鷗外、光太郎が私淑したロダンにも興味を持ち、ロダンが唯一モデルにした日本人・花子(太田ひさ)をめぐる短編小説「花子」(明治43年=1910)も書いています。光太郎は評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆のため、花子に会いに岐阜へ行きました。今後の「今よみがえる森鷗外」の中で、そのあたりにも触れていただければ幸いなのですが……。

005


【折々のことば・光太郎】

人から助けられるのがきらい、自分のことは自分でやる、出来ないことはやらないまでだ。

談話筆記「おめでとう記者訪問」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での発言です。村人の様々な援助、「ありがた迷惑だからほっといてくれ」というより「申し訳ないから遠慮します」というニュアンスです。「身の丈にあったことさえできればいいので」的な。

もっとも、少しは「ありがた迷惑だからほっといてくれ」も無きにしもあらず。村人が光太郎にアトリエを寄贈する、などという不確かな話が新聞に載ったりしましたので。

それにしても、「出来ないことはやらないまでだ」という開き直り、若者がこうでは困りますが、齢(よわい)69歳ともなると、深い一言ですね。

平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介である「光太郎遺珠」を連載させていただいている、高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究(41)』。執筆に際しお世話になった方々にお送りしたところ、そのうちのお一人、兵庫ご在住の池田辰彦氏からメールが届きました。光太郎、それから太平洋画会で智恵子とも交流のあった画家・挿絵画家・漫画家、池田永治のご子息です。

お世話になっております。
「高村光太郎研究(41)」をお送りいただきましてありがとうございます。読ませていただきました。
ご逝去後七十年近くなりますが、ご研究のかたはししも分からぬ私にも高村光太郎先生のご功績の大きさと深さが伝わる気持ちがいたします。
お礼を申し上げるのが遅れましてたいへん申し訳ございません。

このたび、WEB版『画家池田永治の記録』を作ってみました。本の中の誤りを直したり、「作品一覧」に引用写真を増やしたりしました。
何の役にも立たぬすさびごとですが、お暇な折にご笑覧ください。


辰彦氏、父君に関するサイト「画家池田永治の記録」を立ち上げられたとのことで、早速拝見してみました。作品(洋画、俳画、漫画、挿絵、商業美術等)、年譜、写真、交流のあった人々からの書簡など、豊富な画像とともに紹介されており、クオリティの高いものです。

「光太郎遺珠」で紹介させていただいた、光太郎揮毫のチョッキ(昭和20年=1945)に関しても大きく取り上げられています。また、太平洋画会で智恵子と共に学んだことも年譜の中に記されています。

001  000

おおむね、昨年刊行された書籍『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』とかぶる内容で、おそらくご出版に際しデータ化したものを使われているのだと思われます。紙媒体の書籍として残すことも大切ですが、ネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当方、辰彦氏への返信メールには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が折に触れておっしゃっていた「どんなにすばらしい芸術家でも作品でも、放っておいてその業績が自然と残ることはない。次の世代の人々が、その業績を正しく理解し、さらに次の世代へと語り継ぐ努力をしなければ、あっという間に歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」というお言葉を引かせていただきました。


もう1件、昨日、散歩中にシャンソン系歌手にして、「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルのメロディーをつけて歌われているモンデンモモさんから、スマホにショートメール。

003

youtubeに動画を上げた、ということでしたので、こちらも早速拝見。




第1弾は光太郎智恵子に関係ない歌でしたが、今後、「智恵子抄」系もアップされるそうで。

こうした音楽も、CD等に残すことも大切ですが、やはりネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当ブログサイトもそうした考えのもと、今後も継続していくつもりで居りますので、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

著者は曾て印象派を讃美した。今は通過した。

雑纂『印象主義の思想と芸術』初版序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

『印象主義の思想と芸術』は、光太郎初の評論集として出版されました。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌらについて詳述しています。

光太郎自身も明治末から大正初めにかけては油絵をかなり描きましたが、どちらかというとポスト・インプレッショニズム(「後期印象派」と訳されますが、「後期」というより「後継」です)的なフォービズムの影響を受けているようです。

日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。先月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていましたが、それも終わってしまいました。ところが年間購読の手続きをしていましたので、まだ届きました。しかし、「うーん、連載は終わってるんだがなぁ」と思ってページを繰ると、これまでに同誌の特集等で取り上げたさまざまな芸術家30名ほどの紹介的な記事があり、光太郎も紹介されていました。

001 002


確かに同誌では、かつて何度も光太郎智恵子の特集などを組んで下さいました。

001 003

No.53  2000年5月号   特集 高村光太郎の世界   No.81  2002年9月号   特集 智恵子紙絵


002 004

No.90  2003年6月号 特集  高村光太郎 山のスケッチと手紙  No.103  2004年7月号  彫る・高村光太郎


005 006

No.118  2005年10月号   特集 高村光太郎の絶筆  No.142  2007年10月号   特集 高村光太郎の書


007 008

No.158  2009年2月号   特集 岩手県・花巻に高村山荘を訪ねて 高村光太郎の絶筆
No.219  2014年3月号   特集 高村光太郎詩と不即不離60年の道 松尾ちゑ子


009 010

No.257  2017年5月号   視る 高村光太郎の書  No.258  2007年6月号~   連載 高村光太郎のことば


ありがたいかぎりです。連載「高村光太郎のことば」は終わってしまいましたが、今後も折に触れて光太郎特集などを組んでいただければ幸いに存じます。


ちなみに今号で、もう1本、光太郎智恵子がの名はありませんでしたが、こんな記事も。

004003

006005

実践レッスン「レモン」をかこう」だそうで。なるほど、と思いました。

今号も含め、上記アーカイブも在庫が残っていればバックナンバーとして注文可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。

アンケート「名士と食物」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子はレモンを好みましたが、光太郎も柑橘系が好きだったのですね。それにしても「一晩に一箱」(笑)。蜜柑に含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。詳細は明日のブログにて。

明治末、光太郎と留学仲間だった画家・津田青楓の大規模回顧展が開催中です。

3月14日(土)の『日本経済新聞』さん。

漱石「道草」を彩った画家、津田青楓の自由な精神 東京・練馬区立美術館で没後初の本格的回顧展

夏目漱石晩年の長編「道草」「明暗」の装丁を手がけた011画家、津田青楓(せいふう)は、1978年に97歳の長寿を全うした。東京・練馬区立美術館で開催中の「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展は、この画家の曲折に富む生涯をたどる没後初の本格的回顧展だ。その多面的な仕事は、近代日本の変転の歴史を映し出す。

津田青楓の名で多くの人が思い浮かべるのは、漱石門下の画家としての活動ではなかろうか。漱石と寺田寅彦、小宮豊隆ら漱石宅に集う弟子たちを描いた俳画風の作品は漱石の評伝などにたびたび掲載されてきたし、橋口五葉の後を受けて担当した漱石の著作の装丁では、「道草」や「明暗」などに風合い豊かなデザインを施している。
漱石の書簡集に親しんだ人にとっていっそう印象深いのは、13歳年下の青楓に宛てた漱石晩年の手紙の数々だろう。大の美術好きだった漱石にとって青楓は心安い画友だった。漱石は自分が描いた絵の批評を仰いだり、ともに展覧会に出かけたりと交遊を続けながら、時々の心境を腹蔵なくこの弟子に明かしている。
青楓生誕140年を記念する今展は、漱石との交遊の軌跡を、装丁本やスケッチ、青楓宛ての漱石の書簡などから丁寧に跡づけている。ただ、生前の漱石と青楓の交流は5年間余りにすぎない。それだけでは語り尽くせない青楓の仕事の多面性に今展は光を当てる。


青楓は、京都市中の生け花の師匠の家に生まれ、16歳ごろ歴史画で名014を成した谷口香嶠に入門。京都市立染織学校を経て、京都高島屋図案部に勤めながら浅井忠らが主宰する関西美術院で洋画のデッサンを学んだ。

この10代末から20代にかけての仕事で印象的なのは、モダンで清新な図案の数々だ。染色や織物などの工房が多い京都では当時、豪華な図案集が多く出版され、その新たな担い手として、若い青楓は世に出た。1903年刊の図案集「うづら衣」所収の図案は、円山四条派以来の写生の伝統の上に、アールヌーヴォーなどの新しい西洋美術の動向をも摂取した革新性がある。商業用途で培ったデザインセンスは、後の漱石はじめ鈴木三重吉ら多くの著述家の本の装丁に生かされたのである。

20代後半には農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学、安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎といった画家や彫刻家と交遊し、本格的に洋画家としての道を歩み出す。しかし、同じ関西美術院出身の安井や梅原龍三郎が洋画壇の中心的な存在になったのに対し、二科会の創立メンバーでもあった青楓の油彩画の全貌は今なお、とらえがたい。人物画や静物に、物質感を的確につかむ確かな技量を示す作品があるが、本格的な研究はこれからだろう。

漱石の死後、関東大震災を経て、青楓は自らの画塾を京都で起013こし、マルクス経済学者、河上肇の感化を受ける。その社会問題への強い意識が「犠牲者」といった油彩画の代表作に結びつく。
「犠牲者」は作家の小林多喜二が獄死した33年(昭和8年)の作で、拷問を受けた運動家の姿を十字架のキリスト像を意識しながら描いた作品だが、これを制作中に青楓は、警察に踏み込まれ、一時拘留された。青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画もやめ、二科会からも脱会する。しかし、この作品は、戦後50~60年代以降、思想弾圧に対する告発をこめた作品として評価されてきた。
長い兵役や貧乏を体験し、美術が暮らしの糧となった青楓は、他の漱石門下のエリートたちとは、異なる社会観を抱かざるを得なかったのだろう。

その中で、大正期から長く描き続けた文人画風の日本画は、青楓の画業の真価を今に伝える。何ものにも縛られない自由な境地は、生活に追われたこの画家にとって、おのずと湧き上がる憧れの世界でもあったろう。大正期の新南画の流れをくむ18年の「お茶の水風景」や37年の「山高水長画巻」は、詩書画に通じた画家の筆墨から、生動する気韻が伝わる作品だ。
この画境は、人間のエゴイズムを書き続けながら絵や書に救いを求めた晩年の漱石の心境と通い合う。文豪が愛した脱俗の天地が、愛(まな)弟子の画面に生き生きと表れているのを見るのは、何とも心地がいい。4月12日まで。

開催要項等、以下の通りです。

生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和

期 日 : 2020年2月21日(金)~4月12日(日)
会 場 : 
練馬区立美術館 東京都練馬区貫井1-36-16
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,000円 高大生・65~74歳 800円 中学生以下・75歳以上 無料

1880年に京都市中京区に生まれた津田青楓は、1896年に生活の糧として図案制作をはじめたことから画家人生の第一歩を踏み出します。歴史画家谷口香嶠に師事し日本画を学び、関西美術院では浅井忠らにデッサンを学んで、1907年(明治40)に安井曾太郎とともに渡仏。アカデミー・ジュリアンで修行します。帰国後の1914年(大正3)には二科会の創立メンバーになるなど洋画の世界で活躍し、後に洋画を離れ、文人画風ののびやかで滋味豊かな作品世界を展開していきました。

青楓は文豪夏目漱石に愛され、彼に絵を教えた画家であり、漱石らの本の装幀も数多く手がけました。また、写生にもとづく創造的な図案の試みや、随筆や画論など多岐にわたる文筆活動、それに良寛研究とその成果ともいえる書作品など、幅広い交流と旺盛な制作活動で知られています。しかし、さまざまな分野で足跡を残した青楓ですが、これまでまとまったかたちで作品やその生涯を紹介する回顧展は開催されていません。

青楓は、長生でもありました。青年時代には日露戦争に従軍し、203高地の激戦に居合わせ、その凄惨な体験を赤裸々に文芸雑誌『白樺』に発表しています。昭和初頭には、二科展に社会思想を背景とした作品を発表し、物議をかもしました。自由を求めて時代に対峙しつづけた青楓の作品は、その時代を知るための歴史資料としての側面も持ち合わせているでしょう。

本展では、交友のあった夏目漱石と経済学者河上肇、それに私淑する良寛和尚と、青楓がもっとも影響を受けた3人を軸にしながら、作品や関連資料約250点を通して、明治・大正・昭和の時代を生きた画家津田青楓の生涯を振り返ります。


010

昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットで放映される「アートシーン」で取り上げられていました。

042

043  040

漱石著書の装幀。

河上肇との交流から、左翼思想へ。しかし自らも逮捕・拘留され、転向を条件に釈放。

045 046

047 048

その後は文人画へ。

049 050

これまでに青楓の大規模展が無かったというのは、意外でした。確かに当方も、山梨県笛吹市の青楓美術館さん、同じく釈迦堂遺跡博物館さんでまとめて作品を拝見したことはありましたが、それ以外は、東京ステーションギャラリーさんでの「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」など、複数作家の作品を集めた展覧会で観た程度でした。

青楓と言えば、最初に書いた通り、パリで留学仲間として光太郎と交流がありました。明治42年(1909)、留学も最終段階となった光太郎は、スイス経由でイタリア旅行に出かけましたが、その行く先々で青楓に俳句入りの書簡をしたためています。現在確認できている光太郎の俳句のうち、かなりの数がこれです。

両者帰国後も交流は続きましたが、青楓が京都在住だったため、顔を合わす機会は減ったようです。また、青楓が漱石と近づき、一方の光太郎は漱石を敬遠していましたので、そのあたりも疎遠になった理由の一つかも知れません。

ところで青楓は、智恵子とも交流がありました。智恵子の言葉としてよく使われる「世の中の習慣なんて……」は、青楓が書き残したものです。

昭和23年(1948)に津田が書いた「漱石と十弟子」の一節で、なぜか智恵子は「美代子」という仮名になっています。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

具体的な年月日は記されていないのですが、この後の部分でやはり留学仲間の荻原守衛の死にふれていますので、おそらく明治43年(1910)のことと思われます。ということは、書かれたのが昭和23年(1948)ですから、40年近く経っての回想です。

さて、会期は残り僅かですが、青楓展、時間を見て行ってこようと思っております。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

鉄腕ある者よ、出てくれ。
アンケート「アメリカ趣味の流入を防げ
――帝都復興に対する民間からの要求――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

「帝都復興」は、関東大震災で東京が壊滅状態におちいったことにかかわります。再建されるべき東京の街並みを、「質素で確かで優美な都」としたい、そのためにしっかりした方向性を示せる人物――鉄腕ある者――が出てきて欲しい、というのです。

新型コロナ問題、幸いに欧州各地のようなひどい事態にはなっていませんが、どうにも我が国では対応のちぐはぐさが目立ちます。だからと言って、信用のおけない人物に、わけのわからない「鉄腕」をふるわれても困るのですが……。

追記 新型コロナウイルス対策のため、本展示は延期(令和2年度中には開催予定)となったそうです。

埼玉県から展覧会情報です。 

斎藤与里没後60年特別展

期 日 : 2020年3月6日(金)~8日(日)
会 場 : 
加須文化・学習センターパストラルかぞ  埼玉県加須市上三俣2255
時 間 : 9:30~16:00(最終日は15:00まで)
料 金 : 無料

今年度修復を行った100号の大作「合奏」を初公開します。また、令和元年11月に販売されたオリジナルフレーム切手「斎藤与里の世界ー加須が生んだ日本近代洋画界の旗手ー」に掲載絵画も展示します。ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

斎藤与里(1885 年(M18)~1959 年(S34)) 洋画家 北埼玉郡樋遣川村(現加須市)に生まれる。 1905 年(M38)京都にて浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。鹿 子木孟郎とともに渡仏し、パリのアカデミー・ジュリア ンで学び帰国。帰国後は、岸田劉生、高村光太郎らとフ ュウザン会を結成し、明治末から大正期の日本洋画の進 展に大きな役割を果たす。 1915 年(T4)第 9 回文展にて「朝」が初入選し、翌年の 第 10 回文展に出品した「収穫」が特選となる。 1959 年(S34)に日展評議員、加須市名誉市民第 1 号とな り画業と人格をたたえられる。 「加須の偉人」の一人。


000

光太郎同様、明治末にパリに留学した斎藤与里。パリでは光太郎と入れ違いでしたが、光太郎の親友・碌山荻原守衛と交流しました。また、帰国した光太郎ともどもヒユウザン会(のちフユウザン会)の立ち上げに加わり、我が国の絵画革新に功績のあった一人です。

当方、信州安曇野碌山美術館さん、新宿中村屋サロン美術館さん、それからやはり与里の地元・加須市のサトヱ21世紀美術館さんなどで、与里作品を拝見しました。

案内文に「修復」云々の話がありますが、加須市のHPに以下の記事がありますのでご参照下さい。 

斎藤与里絵画の修復

■ 事業の目的・概要 令和元年 12 月に、加須市出身の個人(匿名)の方から斎藤与里絵画の修復のため、 1,000 万円の寄附がありました。そこで、この寄附を活用し、多くの方に斎藤与里の 絵画をご覧いただけるよう、修復計画の前倒しを行い、令和 2 年度に本市所蔵の斎藤 与里の絵画の中から、傷み具合などを考慮した上で、以下の 3 点の修復を行います。 
 
■ 修復する絵画 ①「北畠風景」(10 号) ②「静物二」( 10 号) ③「ハトと少女」( 10 号) ※修復した絵画は、順次当該絵画を中心に「斎藤与里展」を開催し、一般公開する
 
☆ 令和2年度予算額  1,522千円【市費】 偉人顕彰事業  1,522 千円


斎藤与里展の開催

令和元年度は、「加須の偉人」である斎藤与里没後60年にあたり、特別展を開催 します。今回の特別展は、令和2年2月末修復完了予定の100号の大作「合奏」の お披露目も兼ねています。
 
1 期 間 令和2年3月6日(金)~8日(日)の3日間        9時30分~16時00分(最終日は15時まで)
2 会 場 加須文化・学習センター パストラルかぞ 展示室
3 入場料 無 料



なんとまあ、匿名の個人の方が、与里絵画の修復のため1,000 万円の寄附をなさったそうです。なかなかできることではありませんね。今回公開される「合奏」という作品は、寄附以前から修復作業にかかっていたもののようですが。

斎藤与里、もっと知られていい画家だと思います。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生活上の強みは私達夫婦が最低の衣食でも平気で居られる性情を持つてゐる事であつた。当座の米がなくなればジヤガイモで生きてゐた。しかし此のなが年の窮乏生活と、其とまるで反対な亡父の嗣子であるといふ世間からの取扱との間に挟つて、智恵子がその神経を陰性にいためた事も大きかつたに違ひない。此は確に智恵子の後年の狂気の原因の一部を成してゐよう。

散文「某月某日(自分の生活の事を)」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

同じ文章の冒頭では、光雲の内弟子の一人、光太郎の兄弟弟子的な人物から、「生活を顧みないで、取れる金を取ろうとせずに「武士は喰わねど高楊枝」的な姿勢を貫いているのは喜劇だ」的な内容の手紙を受け取ったことが記されています。

その手紙は、光太郎を非難したり揶揄したりするものではなく、忠告の類だったのでしょうが、結果的にはその通りだったわけで、しかし、光太郎には自分を曲げてまで金を稼ぐことは出来ませんでした。

兵庫県のギャラリーでの展示情報です。 

井上よう子展 ―言葉がくれたもの―

期 日 : 2019年12月7日(土)~12月18日(水)
会 場 : 
ギャラリー島田 神戸市中央区山本通2-4-24リランズゲートB1F・1F
時 間 : 11:00-18:00 ※最終日は16:00まで
料 金 : 無料


小学時代「アンネの日記」に衝撃を受け、中3での姉の死から大きな喪失感を抱えた高校時代は、石川啄木「一握の砂」「悲しき玩具」、高村光太郎「智恵子抄」に、失われゆく自己・存在・命への愛おしさ、激しくはない静かな言葉にこそ宿る深淵な哀しみを共感していた。描き続けてきた絵には、そんな言葉達から受けた物が少なからず影響していると思う。
近年「言葉」に寄り添う依頼が重なり、不思議な気持ちでいる。
白石一文さんの小説への挿絵、後藤正治先生の「節義のために」「言葉を旅する」の装幀画…他。今年は村上春樹展や装幀画展、図書館での展示依頼。
変わらずブルーに塗れ、光を追いながら、言葉と共に…の展を構想しています。
井上よう子

30年前に出会い、すでに画ける人だった。そのころから青を基調にしていたが、誠実極まりない表現者としての深化を伴走できたことはこの上ない喜びだ。命あるものは必ず逝く。その哀切を抱きながら人は生きる。死や別離の降り積もる体験が抒情を削ぎ落とし、近作では荘厳の気配に満ちながら射し落ちる光が背筋を正す。日常でも画作においても「生きること」を飽まず問い続ける姿勢は、恩師、三尾公三の「完成度、インパクト、発想の斬新性、格調」の教えへのまっすぐな応答である。
島田誠

008


『毎日新聞』さんの兵庫版に紹介記事が出ています。 

言葉の力、絵に添えて 西宮の井上さん個展 神戸・18日まで /兵庫

 青を基調にした風景画や室内画に取り組んできた西宮市在住の画家、井上よう子さん(61)の個展が、神戸市中央区山本通2のギャラリー島田で開かれている。18日まで。今回は「言葉がくれたもの」というテーマを掲げた。青の陰影や光の描写が深化した絵画40点が並ぶ2会場には、小説や随筆の一節が、所々に小さく掲示されている。学生時代に好きだったという高村光太郎の「智恵子抄」、青に言及される村山由佳の「ヘヴンリー・ブルー」……。 井上さんは「作家の陳舜臣さんのエッセーや白石一文さんの新聞小説の挿絵など、近年は言葉に引き寄せられる仕事に恵まれましました。振り返ると、学生時代からさまざまな言葉に有形無形に刺激を受けてきたので、展示に加えてみました。散文詩的に楽しんでもらえたら」と話す。
 入場無料。ギャラリー島田(078・262・8058)。

000


000 001



「智恵子抄」からインスパイアされた作品も並んでいるとのことで、ありがたく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

北原白秋さんの「邪宗門」が出版された時にはまつたく驚いた。日本語がこんなにも自由に、又こんなにも豊麗に使へるのかと思つた。

散文「あの頃――白秋の印象と思ひ出009――」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


『邪宗門』は光太郎が欧米留学から帰国した明治42年(1909)に易風社から上梓されました。その後の光太郎詩にも大きく影響を与えていると言えるでしょう。

2年後の同44年(1911)には、版元を東雲堂書店に移し、第二版が刊行。光太郎が装丁、表紙絵を担当しました。

上記井上さんは青を基調としていますが、赤を効果的に使った光太郎の装幀も美しいですね。

11月2日(土)、3日(日)と、1泊2日で福島と岩手を廻っておりました。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。先月、二本松で開催された智恵子を偲ぶ「第25回レモン忌」にお邪魔した際、智恵子と同郷の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんで開催中の「新五星山展」の招待状を、大山画伯のご息女で女優の一色采子さんから頂きまして、立ち寄ることに致しました。

ちなみに今回も公共交通機関で行きました。午前4時半に千葉の自宅兼事務所を出まして、二本松着が9時でした。この日は素晴らしい秋晴れ。二本松駅前の「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を刻んだ光太郎詩碑にも、まさしく「ほんとの空」が映っていました。
KIMG3329
光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・橋本堅太郎氏の手になる智恵子像。「ほんとの空」の題名です。まさしく「ほんとの空」が背景に広がっていました。この像を写真に撮るには、朝の時間帯がいいようです。
000
その背後にあるのが大山忠作美術館さん。
KIMG3333
この日の午後、一色さんと、福島県立美術館長の早川博明氏によるトークショーがあり、そちらも拝聴したかったのですが、次なる目的地・盛岡に行かねばならず、そちらは断念。また、当方が着いた時は開館時間前で、一色さんもまだお見えになっていませんでした。

KIMG3337
館のロビーから見た安達太良山。
KIMG3335

近くの小高い丘は紅葉に色づいていました。

KIMG3336

この奥が霞ヶ城。菊人形の会場です。

さて、開館時間となりました。
003 004
「新五星山展」。名前に「山」のつく日本画の巨匠五人の作品を集めた展覧会です。五人すなわち横山大観、山口蓬春、杉山寧、横山操、そして大山画伯。「今回は」というのは、前回があったわけで、「新」がつかない「五星山展」が(東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、大山忠作)平成25年(2013)に開催されています。

このうち、横山大観は東京美術学校で光雲や光太郎とも関わりがありました。『高村光太郎全集』にも、大観の名がたびたび表れます。

こちらが展示目録。
002
KIMG3338
大山画伯には智恵子をモチーフとした作品も複数有りますが、今回は展示されておらず(安達太良山を描いた「安達太良山(残照)」という作品はありました)、そちらは少し残念でしたが、日本画の大作をまとめてみるのは久々で新鮮でした。また、五人それぞれに近代の新しい日本画を創出しようという意気込みが感じられました。
005
下記は、ミュージアムショップで購入した一筆箋とはがき箋。新商品のようで、初めて見ましたし、館のサイトにも掲載されていません。一筆箋の方は光太郎智恵子の後ろ姿、はがき箋は4種類のデザインのうち、智恵子生家をあしらったものもあります。早速使わせていただいています。

001
006
「新五星山展」、今月17日までです。ぜひ足をお運び下さい。

この後、次なる目的地、岩手盛岡を目指し、再び電車に乗り込みました。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】007 (2)

あれのアイデアというのは真正面から見ると二等辺三角形になつている。三角形の先端は空中に伸びていて向き合つた二人の乙女の像の真中辺に空間がある。この空間の面白さが群像の面白さで、何となしにわかる人は、そういうところを見ているからです。

講演筆録「視角で変る群像」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

智恵子の顔をもつ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関し、その除幕式の二日後に青森市の野脇中学校で行われた講演で語った一節です。

同じ講演では、「三角形という形は何か無限性と関係があるようです」などとも述べています。



明治から昭和にかけて活躍した画家・挿絵画家・漫画家、池田永治(いけだえいじ)。光太郎より6歳年下の明治22年(1889)、京都の生まれです。亡くなったのは光太郎より早く、昭和25年(1950)。歴史上の人物ということで、申し訳ありませんが呼び捨てにさせていただきます。

今年の夏、子息の辰彦氏からご連絡を頂きました。永治が光太郎に書いて貰った「書」が現存するのだが、どんなものだろうか、というお話でした。そこで、メールで画像を送っていただき、拝見。驚愕しました。他に類例のない大珍品だったためです。

他の人物等に光太郎が書いてあげた書は、現存数、決して少なくありません。各地にかなり残っています。そのほとんどがそうした場合の通例である色紙や著書の見返しなどに書かれたもの。しかし、件(くだん)の「書」は、なんとチョッキの背部に書かれたものだったのです。

文言は、「美もつともつよし」、無理くり書き003下せば「美最も強し」。為書(ためがき)的に「池田永一治画伯に献ず 光太郎」。「永一治」は、昭和3年(1928)以後の池田の号です。早世した妹の死を悼み、奮起しようと「永」と「治」の間に「一」を挿入し、「一つ増やす」という意味を込めたそうです。ただ、読み方は「えいじ」のままだったとのことですが。筆跡は間違いなく光太郎のもの。文言の「美最も強し」も、いかにも光太郎という感じです。同趣旨の「美ならざるなし」とか「美しきもの満つ」といった文言の書は複数現存していますが、「美最も強し」という文言は初めて見ました。

そして、揮毫の日付を見て、二度驚愕。「昭和二十年五月十四日」と書かれています。なんとまあ、光太郎が疎開のために岩手花巻の宮澤賢治の実家に発つ前日です。4月13日の空襲で、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居は全焼、しばらくは近所にあって消失を免れた妹・喜子の婚家に身を寄せていた光太郎ですが、以前から賢治の父・政次郎や賢治の主治医・佐藤隆房らから、花巻への疎開を勧められており、5月15日には上野駅から花巻に向かいました。

池田も昭和12年(1937)から駒込林町に住んでいたそうで、古地図で調べてみましたところ、直線距離で200㍍ほどの、本当に近所でした。さらに光太郎アトリエ兼住居と池田邸のちょうど中間あたりが光太郎実家の現髙村家(旧光雲邸)でした。『高村光太郎全集』には池田の名は記されていませんが、おそらく以前から交流があったか、少なくとも顔見知り程度ではあったと思われます。

ちなみにやはり近所の森鷗外邸(観潮楼)は、それ以前にやはり空襲で焼けています。近くでありながら旧光雲邸は焼けず、池田邸も無事でした。しかし、あちこちで火がくすぶっていた極限状況下で書かれた「書」。どこでどういうシチュエーションで書かれたのか詳細は分からないそうですが、おそらく光太郎が「明日、花巻へ発つ」という話を池田にし、池田が「ではお別れに何か書いて下さい」となり、といっても色紙など用意できようはずもなく、着ていたチョッキの背に書いて貰ったと推定できます。そして同じく「美」に携わる者同士、がんばろう、ということで「美もつともつよし」と書いたのではないでしょうか。凄いドラマだと思います。

で、子息の辰彦氏から、4冊の書籍を頂きました。

左上から、チョッキの写真も載っている『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』、池田は俳句、俳画も多く残したということで、『俳画家 池田永一治俳句集』、『新理念 俳画の技法 復刻版』、そして昭和5年(1930)から翌年にかけ、『読売新聞』に連載されたという『こども漫画 ピチベ 第二版』。すべて神戸新聞総合出版センターさんから辰彦氏らご遺族の私刊という形で、今月刊行されたものです。永治の業績をまとめておこうという意図だそうで、頭が下がります。

これらを拝読し、またまた驚愕(笑)。

まず、池田が太平洋画会の中心メンバーだったということ。当方、存じませんでした。太平洋画会といえば、光太郎と結婚披露前の智恵子が、日本女子大学校卒業後に通っていました。そこで調べてみましたところ……

001


明治45年(1912)の同会第10回展で、智恵子と池田の作品が並んで出品されていました。当然、池田と智恵子、交流があったでしょうし、のちに光太郎と池田の間でも、智恵子の話題になったでしょう。これにも本当に驚きました。

それから、池田は同じく挿絵画家・漫画家だった岡本一平とも交流がありました。一平は岡本太郎の父。妻のかの子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』メンバーでしたし、一平自身、東京美術学校西洋画科で、彫刻科を卒(お)えて再入学した光太郎と同級生でした。

また、これも当方存じませんでしたが、中原中也に「ピチベの哲学」という詩があるそうで、これは上記の『こども漫画 ピチベ 』からのインスパイアではないかという説があるそうです。中也といえば、当会の祖・草野心平を介して光太郎と知り合い、その第一詩集『山羊の歌』の装幀、題字を光太郎が手がけました。

現在と異なり、芸術界が狭かった時代ではありますが、こういう部分であやなされる人間関係には、実に驚かされます。

さて、池田永治、明治大正昭和の文化史の、貴重な一面を担った人物であると改めて感じ入りました。これを機に、もっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

そして自分の作らうとする胸像に、若し此の内から迸出する活発な内面生活の発露がなかつたら、其は無意味な製作に終る事を痛感しました。思想を持ち、信念を持ち、愛を持つ人格が出なかつたら、それきりだと思ひました。
000
散文「成瀬先生胸像の製作に従事して」より
大正9年(1920) 光太郎38歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

2件ほど。

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

NHKEテレ 2019年10月6日(日)  20時00分~20時45分

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。岸田劉生。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【司 会】小野正嗣 柴田祐規子
【ゲスト】会田誠(現代美術家)  田中晴子(東京ステーションギャラリー 学芸室長)
【出 演】山内崇嗣(アーティスト) 土師広(修復家)
     都築千重子(東京国立近代美術館 主任研究員)
 塩谷亮(画家)

本放送が9月29日(日)にありまして、拝見しました。東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」にスポットを当てています。

030
  

同時代の画家の中で、光太郎が最も高く評価していた一人である岸田劉生。なぜ光太郎が劉生を認めていたのか、その理由が分かったような気がしました。というか、彫刻と絵画、ジャンルは違えど光太郎との共通点のようなものが随所に垣間見えたというか。

まず、写実に軸足を置きながらも、単なる細密描写的な写実にとどまらず、深い精神性をも表現しようとしていたこと。


040

そのバックボーンにあった、「自然」への賛美。

002

そして細かな話ですが、岸田は「岸田の首狩り」と称されるほど、友人たちを捕まえてはその肖像画のモデルにしていました。下記は光太郎とも共通の友人だったバーナード・リーチ

031


光太郎も同様に友人知己を片っ端から彫刻のモデルにしていた時期がありました。

それから、それぞれ自分の妻をモデルにしていたという点も共通項です。


そして西洋と東洋の融合。

041


042

結論としては、この時代としては劉生の意識の高さが目立つ、という方向でした。

上記番組説明欄では<意識高い系>となっていますが、「系」がつくと揶揄するニュアンスを含みます。すなわち「意識高い」だけだとプラスの意味、「意識高い系」はマイナスの意味です。本放送を見る前に「おやっ」と気づき、劉生をディスるのかな、と思っていましたが、ちゃんと番組の中でコメンテーターの方が劉生は「系」ではないと否定して下さっていました。説明欄を執筆した方は、その違いをご存じなかったのでしょう。


ところで、9月24日(火)に放映されたBS日テレさんの「ぶらぶら美術・博物館」でも、同じく東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を取り上げていましたが、こちらは気がつかず、見逃してしまいました。

044
043




失敗しました。


さて、もう1件。

びじゅチューン!「指揮者が手」

NHKEテレ 2019年10月9日(水)  19時50分~19時55分
        10月14日(月) 5時55分~6時00分  24:50~24:55


古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

000


昨年、最初の放映がありました。笑えます。しかし、ただ笑えるだけでなく、よく光太郎について調べていると感心もさせられます。

それぞれぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

偽らざる感情の発露は凡て真であつて、同時に美だと思ひます。僕だつて人間ですから、嬉しい時には笑ひもし、癇癪の起つた時には随分怒鳴り散らす事もあります。其前に何の遠慮も会釈もないのです。それと同じ事で画でも矢張書き度くつて書き度くつて耐まらない時がある、さう云ふ時こそ本当のものが出来るのです。

散文「真は美に等し」より 大正2年(1913) 光太郎31歳 

「記者」と「主人」による戯曲風のスタイルで書かれています。上記部分は「主人」のセリフから。

同じ作品の中で「岸田君や木村君の様な人が、もつと沢山現はれて来なければ駄目だと思ひます」とも記されています。

3件ほど。

まず、東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」関連です。

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

NHK Eテレ 2019年9月29日(日)  9時00分~9時45分
再放送 10月6日(日) 20時00分~20時45分

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。岸田劉生。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【司 会】小野正嗣 柴田祐規子
【ゲスト】会田誠(現代美術家)  田中晴子(東京ステーションギャラリー 学芸室長)
【出 演】山内崇嗣(アーティスト)土師広(修復家)都築千重子(東京国立近代美術館 主任研究員)
     塩谷亮(画家)

001

002

ちなみに「没後90年記念 岸田劉生展」に関しては、先週の『日本経済新聞』さんで大きく取り上げられています。

001


長いので全文の引用はしませんが、光太郎に触れた箇所を。

38歳で急逝した劉生を厳しい批評家でもあった髙村光太郎は「時代を乗り越えた純美の深い探求者であつた」と偲(しの)び、「神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い」と言い切っている(「岸田兄の死を悼む」)。


続いて、智恵子関連で。

昼の特選ドラマ劇場 おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査

BS朝日 2019年9月30日(月) 12時00分~13時55分

「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」▽テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。篤志家の社長が刺された!その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演者  伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 (他)

000


年に数回、再放送が繰り返されています。今年6月にも再放送がありました。二本松の智恵子の生家、その裏山の光太郎詩碑、安達太良山の光太郎詩碑などが舞台となっています。


もう1件。

朝の!さんぽ道 【長野市編】旅人:渡辺正行

テレビ東京 2019年10月3日(木) 7時35分~8時00分

今話題になっている街を訪ね、様々な人にふれあいながらブラブラ街を散歩します。「あっ!」と驚いたり、「へ~!」と感心したり、思わず声に出したくなるような不思議なモノや人を探していきます。さらに、途中で出会った人に「あ~よかったな!」と思った“幸せエピソード”も聞いていきます。もちろんご当地ならではのグルメ情報も満載!騒がしい朝に飽きた人に、1日の始まりを楽しくする!ほんわか散歩番組です。

今週は、芸術の秋に食欲の秋…秋に行きたい街をテーマに、一足先に様々な秋の風景を探して歩きます。ご当地グルメや温泉が登場!

今回は、江戸時代に「一生に一度は善光寺詣り」と謳われた観光名所、善光寺からスタート◆参道で発見!おやきに次ぐ新名物「じゃがバタまん」とは?&200年続く老舗和菓子店がプロデュース!信州産リンゴをたっぷり使ったアップルパイに舌鼓◆8代続く!門前蕎麦の老舗で信州名物のクルミ蕎麦に大満足◆信州のリンゴがぷかぷか浮くリンゴ温泉でほっこり


今年、開眼百周年を迎える、光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんからスタートするそうです。仁王門も取り上げていただきたいところです。


それぞれ、ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

五月の空は水を含んで晴れ、 五月の空はブランダルジヤン。 光り満ちて若く、 木々の新緑大気をよろこぶ。

詩「風かをる」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いったん作られた後、「四月の馬場」と改題、内容も大幅に変えられて発表された詩の原型から。

ブランダルジャンは「blanc d'argent」。仏語で「銀白色」の意です。

先週始まった企画展です。

時代の転換と美術「大正」とその前後

期 日 : 2019年9月18日(水)~10月20日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
料 金 : 一般510(410)円、大学生300(250)円
       消費税率変更に伴い10月1日より:一般520(410)円、大学生300(260)円
       ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(ただし9月23日、10月14日は開館)、9月24日(火)、10月15日(火)

当館では和歌山県ゆかりの人物を軸に、大正時代に活躍した作家やグループに関わる展覧会を継続して開催してきました。それらの展覧会を通して作品や資料の収集が進んだことにより、大正時代とその前後にわたる時期の充実したコレクションが形成されつつあります。この展覧会では、そのコレクションの中から洋画と版画を中心とした作品を、同時期の社会と人に関わるテーマを通して紹介いたします。

大正は、1912年7月から1926年12月までの14年あまり、大正天皇が在位していた期間の元号です。過去のある連続した時間のまとまりを、文明や社会、政治体制など、特定の観点によって区切ったものが時代ですが、一世一元の制が定着した近代以降の日本においては、元号がそのまま時代区分として機能してきました。

元号が改まったからといって、ある日を境に人や社会が激変する訳でないことは、私たちが身をもって体験したばかりです。しかし、大正時代を中心にその前後を見渡してみれば、大逆事件、第一次世界大戦、本格的な政党内閣の成立、関東大震災、普通選挙法と治安維持法の公布、満州事変など、国際的にも国内的にも、見方によっては時代の転換点と言えるような出来事が続きました。

美術作品が人間の作り出すものである以上、ある時に起こった大きな出来事や、社会的、文化的な流行などが、その表現やテーマに影響を与えることはしばしばあります。もちろん作品の特徴を時代と結びつけるのは一面的な見方ではありますが、作り手の意図する/しないに関わらず、作品からは当時の人や社会のあり方、またそれらが変化する様子を読み取ることもできるでしょう。

元号が改められた本年、美術作品を通しておよそ100年前を振り返ることで、近代から現代に至る時代のつながりと変化を、改めて見つめ直したいと思います。

展示構成

1 自己意識の高まり –自己主張する若者たち–
 この時代の美術作品からは、自己意識を高めた若者たちの姿がうかがえます。自分とは何か、
 自分はどう生きるのか、その答えを探すかのように生まれた表現をご覧いただきます。
2 うつりかわる都市 –たち上がる帝都東京–
 新たに現れた都市の風景は、さまざまな画題を提供しています。江戸から東京への移行、関
 東大震災による崩壊から再び帝都としてたち上がる東京の姿を中心にご紹介します。
3 欧米との距離 –モダニズムの成熟–
 1918年に第一次世界大戦が終結すると、多くの日本人がヨーロッパに向かいます。西欧で新
 しい表現に目覚めた画家たちと、日本で自己の表現を深めた画家たちの作品を紹介します。
4 風景の意味 –日本を見つめる、東アジアを描く–
 交通手段、そしてメディアの発達は、見たことのない、あるいは見てみたい場所に画家たち
 を誘います。日本、そして東アジアの風景から、風景が描かれた意味を探ります。

001

002


関連行事

◇フロアレクチャー(学芸員による展示解説)
  9月22日(日)、10月6日(日) 14時から 展示室にて(要観覧券)
◇こども美術館部「かわるがわるかわるとわかる」(小学生対象の作品鑑賞会)
  10月5日(土) 11 時から12 時 展示室にて
  (小学生は無料、同伴される保護者は要観覧券)
  *2 日前までに電話(073-436-8690)かメール(bijutsukanbu@gmail.com)で。
◇だれでも美術館部(みんなでお話しをしながら作品を楽しむ鑑賞会)
  10月5日(土) 14時から 展示室にて(要観覧券)


光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出て000います。若き日の佐藤が光太郎に依頼し、描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。

描いてもらった経緯などは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)などに詳細が語られています。

この絵、平成28年(2016)に、東京ステーションギャラリーさんを皮切りに、今回と同じ和歌山県立近代美術館さん、下関市立美術館さんを巡回した「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」展にも出品されました。

というか、今回の展覧会、「動き出す!絵画……」と、コンセプト的にも共通するものがあり、ヒユウザン会(のちフユウザン会)関係など、出品作もけっこうかぶっているようです。

他に、光太郎と交流のあった作家たちの作もかなり出ています。梅原龍三郎、有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、戸張孤雁、木村荘八、石井鶴三、藤島武二などなど。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

怒は人間を浄める。 怒は人類の向きをただす。 腹が立つのをおそれない。

詩「或日の日記より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

のち、「怒」と改題され、内容も大幅に改訂されて詩集『道程改訂版』に収められました。

たしかに怒るべき時には怒るべきですね。

昨日は都内に出、美術館を三館、ハシゴして参りました(うち一館はミュージアムショップだけでしたが)。2回に分けてレポートいたします。

まずは東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさん。こちらでは、大正末のヒユウザン会(のちフユウザン会)などで光太郎と親しかった、岸田劉生の大規模な展覧会「没後90年記念 岸田劉生展」が開催中です。

KIMG3204

KIMG3205 KIMG3206

これまでにも、あちこちの美術館さんなどで劉生作品は一点、二点と拝見して参りましたが、劉生してまとめて観るのは実は初めてでした。

初期の頃の水彩画に始まり、光太郎が開いた日本初の画廊・琅玕洞での初の個展出品作、光太郎らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)や生活社の展覧会に出品した絵などが続きます。

001

その中には、光太郎・劉生共通の仲間であった斎藤与里木村荘八バーナード・リーチ、武者小路実篤、椿貞雄らの肖像も。何だかある種の同窓会みたいだと思いました(笑)。ちなみに劉生は光太郎の肖像画も描いたという記録があるのですが、当方、寡聞にして画像でも見たことがありません。現存が確認できていない作品なのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

その後、有名な「代々木附近」などを含む草土社時代等の作品などなど。

003

さらにはあまりに有名な「麗子」の諸作など。

004

それから、恥ずかしながら、当方、劉生が本格的に日本画にも取り組んでいたというのを存じませんでした。日本画でありながらいかにも劉生らしい作品群、興味深く拝見しました。

005


展示の最後には、おそらく劉生旧蔵のアルバムや写真も。以前にもご紹介した、光太郎と共に写っている雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたものもありました。

拝観後、ミュージアムショップで下記の図録を購入。

002

300ページ超の厚冊です。それだけに2,500円也と高価ですが、充実の内容です。特に、京都市美術館さんの学芸員であらせられる山田諭氏による「岸田劉生活動記録」という項が、100ページ近くあり、舌を巻く詳細さでした。のちほど熟読させていただきます。

同展、東京ステーションギャラリーさんでは10月20日(日)まで。その後、11月2日(土)~12月22日(日)で山口県立美術館さん、来年1月8日(水)3月1日(日)に名古屋市美術館さんを巡回します。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今の嵐と戦つた君達は 此から又恐ろしい颱風と戦はねばならない 君達は疲れてゐる 君達は力を出し切つた 此の暫くのまに眠りたまへ 心を落ちつけてやすやすと眠りたまへ

詩「無為の白日」初出形より 大正6年(1917) 光太郎35歳

「君達」は船員です。台風に遭遇し波に揉まれた船が台風の目に入り、ぱたりと風が止み、嘘のような晴天になったというシチュエーションです。

いつのことを謳ったのかよくわからない詩なのですが、ことによると、明治39年(1906)、留学のため横浜からカナダのバンクーバーまで太平洋を横断した時のことかもしれません。

このブログでも触れてきましたが、台風15号による千葉大停電、当方自宅兼事務所周辺は3日目に復旧しましたが、同じ市内でもまだの所があります。停電以外にも暴風による被害もそこそこありました。

KIMG3203

近くのアパート。ベランダ部分が落ちています。

KIMG3214

裏山の神社。桜の古木が根こそぎ倒れています。

これを書いている現在はまったく爽やかな秋晴れなのですが、何だか今夜も熱帯低気圧が直撃するそうで、弱り目にたたり目ですが、何とかなるでしょう。

大正末のヒユウザン会(のちフユウザン会)などで光太郎と親しかった、岸田劉生の大規模な展覧会です。

没後90年記念 岸田劉生展

期    日 : [前期]2019年8月31日~9月23日、[後期]2019年9月25日~10月20日
時    間 : 10:00~18:00(金~20:00)
会    場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
料    金 : 一般 1100円 / 高校・大学生 900円 / 中学生以下無料   
休 館 日  : 月(9月16日、9月23日、10月14日は開館)、9月17日、9月24日

日本近代絵画史上に輝く天才画家。満を持して登場!

画家・岸田劉生(1891-1929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。明治の先覚者・岸田吟香を父として東京・銀座に生まれ、父の死後はキリスト教会の牧師を志しますが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められ、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学びます。そして、雑誌『白樺』が紹介する「後期印象派」の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン、マティスら)を知り、大きな衝撃を受けます。1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともにヒユウザン会を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表します。しかし、画家としての自己の道を探究するために、徹底した細密描写による写実表現を突きつめ、その先にミケランジェロやデューラーら西洋古典絵画を発見、独創的な画風を確立します。1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともに草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与えました。また、最愛の娘・麗子の誕生を契機に、自己のなかの究極の写実による油彩画を志します。その後は、素描や水彩画、日本画にも真剣に取り組み、再び油彩画に「新しい道」を探究しはじめた1929年、満洲旅行から帰国直後に体調を崩して、山口県の徳山において客死しました。享年38歳でした。
本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、会期中150点以上の作品を基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、岸田劉生の芸術を顕彰しようとするものです。このたび没後90年を迎えて、一堂に名品が揃います。この機会をどうぞご堪能ください。
*会期中、一部展示替えがあります(前期=8/31~9/23、後期=9/25~10/20)。


001


光太郎の岸田評。

まずは岸田生前のそれから。

芸術の品は何にも換へがたい貴重なものであるが此を口で言ひ現はす事は到底出来ない。如何に真摯に、巧妙に、奥深さうに、物ありげであつても、又如何に厭味なく淡々としてゐても、眩い程光彩陸離としてゐても、此第一根源は偽はれない。作家の真生活は悉く作品に暴露せられて、精々明々毫髪も蔽はずである。手段となつた舂簸篩揀は此所で何の役にも立たぬ。もう此稿を終らねばならなくなつたが、今述べた品といふものを本当に知りたかつたら今年の二科会へ足を運んで、岸田劉生氏の作画をよく見られるのが捷径だと思ふ。(「芸術雑話」より 大正6年=1917)

岸田君の芸術には不思議な権威が備はつてゐる。此の権威が自然と見る人に伝はつて来て、文句無しに其人を感動せしめる。いきなり打つ。眼に見てゐるものは画であるが、心に感じて来るものは普通画を見た時の心理以上のものである。こつちに少しでもつまらない厭な心持の浮いた時には、正視するのが心に疚しく感じられる。何だか澄んだ光つた眼がこつちを見てゐるやうな気のする画だ。その画を見ると動揺してゐる心がぴたりと沈黙させられる。烈々としたものを受ける。静かだけれども動いてゐる。しかも恐ろしい静寂が湧いて来る。(「岸田君の芸術の事」より 大正10年=1921)

そして、昭和4年(1929)の劉生の死に際して。

岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。(略)岸田劉生を親しく知る者は天才といふ言葉を信じないわけにゆかなかつた。生れつき常人以上に優秀な人間があるといふ事を打消す事が出来なかつた。どんな詭弁を用ゐようともその事実があまり明瞭であり過ぎたからである。(「岸田兄の死を悼む」より 昭和5年=1930)


さらにその没後しばらく経ってからは……。

草土社時代以後の岸田氏の画業は実にめざましいものであつて、描写力をこれほど本格的に油絵具に持たしめ得た画家は日本に曾て類例が無かつた。日本の油画はあの厳密世界を通つたので稍倚りかかる脊梁を得たといつていゝ。(「寸言――岸田劉生十周忌回顧展覧会――」より 昭和13年=1938)


岸田劉生は黒田清輝以後、日本の画界で最も意味ふかい仕事をした天賦ゆたかな画家であつたが、その創立した草土社の運動は一見時代錯誤のやうな外貌を備へて神がかり式な古典的油絵を日本で猛烈に唱道した。此の運動の真意義を大局的に観察すると、結局従来の日本に於ける油絵への懐疑、油絵そのものの根帯の探求、油絵といふもの本来の意味と伝統との真摯な検討といふ重大な契機を持つてゐたのであつて、岸田劉生はまるで駆け足のやうな速さで西欧の古典の種々相を身を以て経験し、油絵具の描写力とそれにつながる造型的要素の機能とを試み、翻つて東洋的画趣と油画との関係に思を潜めるに至つた時、まだ壮年の齢をも越えぬ年で急死した。(「素材と造型」より 昭和15年=1940)

これほど光太郎が絶賛した画家は、他にはあまりいないように思われます。

それから、評ではなく個人的な感懐ですが、こちらも。

今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。(略)今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。(「岸田劉生の死」より 昭和4年=1929)

画像は大正8年(1919)、雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたもの。後列右端が光太郎、二人置いて劉生です。

002


003


光太郎をしてここまで言わしめた劉生の展覧会、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山に春がきて、ぼくの住んでいた小屋の前で、チーチクチーチクと鳴いた鳥の声が、こうして東京のアトリエにいながらも、聞えてくるような気がする。きせきれい、せぐろ、こま、るり、うそ、やまがら、やまばと、ひばり、それからほおじろだ。

対談「春をつげるバツケ」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

没する三ヶ月前、活字になったものとしては最後の対談です。かなうことなら帰りたかった、花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしを偲んでいます。

8月17日(土)、信州上田市のサントミューゼ上田市立美術館さんに「没後100年村山槐多展」を拝見に行きましたが、その前後のレポートを。

盆明けのUターンラッシュの時期ということで、それを避けるため未明のうちに千葉の自宅兼事務所を出ました。2時間ほど愛車を走らせたところで、休憩兼仮眠。そして早朝のうちに長野県に入りました。

上田に行く前に、思い立って上信越道を小諸で下車。有名な懐古園を目指しました。こちらには、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝となった、髙村豊周の手になる島崎藤村詩碑があります。詩は「小諸なる古城のほとり」(明治38年=1905)です。

KIMG3152

約35年ぶりに拝見。さすがに35年前より苔むしているようで、傍らの標柱的な碑に刻まれた豊周の名も判読しにくくなっていました。

KIMG3150

建立は昭和2年(1927)。豊周が母校・東京美術学校の鋳金科で教壇に立っていた頃の作です。

豊周の回想『自画像』(中央公論美術出版・昭和43年=1968)に拠れば、有島生馬を通じて依頼があり、藤村ファンでもあった豊周、快く引き受けたとのこと。今でこそ珍しくなくなりましたが、ブロンズに蠟型鋳金で鋳造した詩碑というのは、日本初だったということです。有島はせっかくの藤村碑、ありきたりのものにしたくないとの思いから、豊周の鋳金技術に白羽の矢を立てたそうで。

除幕式には有島や、この詩に曲を付けた作曲家の弘田龍太郎、さらに村山槐多の従兄・山本鼎らも出席したそうです。

その後、一般道で上田市へ。

ところで、帰ってきてから、「しまった」と思いました。「小諸」、「豊周」といえば、「疎開」というのを失念しておりまして。豊周の一家、昭和20年(1945)に、現在の長野県中野市に疎開しましたが、中野に落ち着く前の半月ほど、小諸にいたのです。それをすっかり忘れていました。

調べてみましたところ、豊周一家が滞在していたのは「粂屋」という旅館とのこと。何と、健在でした。しかも、江戸時代に脇本陣だった昔の建物をリノベーションしたシャレオツな宿として、実にいい感じに残っています。またあちら方面に行く機会もあろうかと思いますので、その際には見てこようと思いました。

さて、上田。まだサントミューゼさんは開館前の時間でしたので、郊外の塩田平方面に愛車を向けました。こちらには、疎遠になってしまいましたが、父親の実家があります。申し訳ありませんがそちらには寄らず、祖父母・伯父・叔母らの眠る墓に参りました。平成25年(2013)以来、6年ぶりでした。

その後、ほど近い別所温泉へ。

子供の頃からよく入った共同浴場・石湯さん。入湯料たったの150円です。長距離運転の疲れを癒しました。

KIMG3158

池波正太郎の『真田太平記』に何度か登場し、かの真田幸村公がここで「男」になったという設定になっています。

上田電鉄別所線・別所温泉駅。レトロ感あふれるいい感じです。

KIMG3161

静態保存されている車両・モハ5250。

KIMG3162

KIMG3163

KIMG3164

この丸窓が特徴です。

昭和2年(1927)建造の車両ということですが、この年、光太郎も別所温泉に来ています(宿泊先等は不明)。もしかするとこの車両に乗ったかもしれません。また、昭和2年というと、当方の父はまだ生まれていませんが、祖父母・曾祖父母あたりがもしかすると光太郎と遭遇しているかも知れないな、などと想像をふくらませました(笑)。


その後、塩田平に戻り、父親の実家にほど近い無言館さんへ。


KIMG3165

かつて近くにあって、村山槐多の作品などを展示していた信濃デッサン館さんの姉妹館で、こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

信濃デッサン館さんにはやはり6年前に参りましたが、こちらは約15年ぶりでした。

KIMG3166


001

002

遺作が展示されている戦没画学生、多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科卒業後に西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろに光太郎の後輩となる彫刻科、さらに豊周の教え子になるであろう鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません。

画学生というわけでは有りませんでしたが、元埼玉県東松山市の教育長だった故・田口弘氏もそうでした。田口氏はバシー海峡で乗っていた輸送船が撃沈され、九死に一生を得たそうですが、出征前に光太郎に書いて貰った書や署名本などは海の藻屑となったそうです。田口氏は何とか無事に復員されましたが、無言館さんに作品が展示されている人々は、帰って来られなかったわけで……。キャプションを見ると、田口氏と同じようにバシー海峡で船を沈められ、亡くなったという画学生もいました。

まだ美術家の卵の時期に戦地に送られ、そのまま帰ってこなかった画学生達。卵ですのでまだまだ技巧的には稚拙だったりするものもあるのですが、そうしたことを超え、訴えかけてくるものがあります。粛然とした思いにさせられました。

この時期だったからでしょうか、意外に多くの来場者がいらしていて、驚きました。中には若い方々も。その方々も熱心に展示をご覧になっていて、まだまだこの国も捨てたものではないと感じました。


その後、市街へ戻り、サントミューゼ上田市立美術館さんへ。昨日のレポートにつながります。

村山槐多展拝観後は、さらに上田に隣接する東御市の健康センターさんで日帰り入浴・仮眠。何とか高速道路の大渋滞も避けながら帰りました。

こうやって呑気に出歩いたりレポートを書いたりしていると、紹介すべき事項がどんどんたまります(笑)。明日以降、また新着情報の紹介に戻ります。

【折々のことば・光太郎】

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入つているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。
対談「心境を語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活についてです。「悪いこと」=大量の翼賛詩文を書いたこと、です。

昨日は信州上田方面に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的である、「没後100年 村山槐多展」。光太郎と交流のあった村山槐多は、大正8年(1919)数え24歳で夭折した鬼才の画家です。今年が没後100年、さらに近年、100点以上の作品が新たに見つかるなどし、また注目を集めています。


会場は上田市のサントミューゼ上田市立美術館さん。

002

003


KIMG3167

圧倒されました。

ほぼ生涯を追っての展示構成で、初めは最近見つかった少年時代のパステル画がメイン。その頃暮らしていた京都の風景が中心で、穏健な作風ながら天才の片鱗がまざまざと感じられました。

青年期になるとその才が一気に爆発/炸裂したかのようで、生き急ぎ、死に急いだ強烈な個性が咲かせた狂い咲きのあだ花、という感がありました。槐多の作品自体は以前にも見たことが何度かありましたが、まとめて多数の作品を見たのは初めてで、打ちのめされました。

こちらは図録というわけではないのですが、ときどきある「公式ガイドブック」という位置づけで刊行されている書籍。著者は、本展開催に尽力なさったおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏です。

004

光太郎にも触れて下さっています。

005

ただ、光太郎と槐多の交流がどのようなものだったのか、実はよく分かりません。

槐多の年譜には、大正3年(1914)の事項として、「この頃、高村光太郎の工房に出入りする」とあるのですが、光太郎側の資料としては、詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文、それから岸田劉生の追悼文の中で槐多に少し触れている程度です。今後の課題としておきます。


槐多展を見終わって、昼食を摂ろうとロビーに降りたところ、驚いたことに、渡辺えりさんが。といっても、ご本人でなく等身大パネルでしたが(笑)。


KIMG3170

まったく存じ上げていなかったのですが、同じサントミューゼさん内の大ホールその他を会場に、「日本劇作家大会」というイベントが開催中でした。渡辺さん、一般社団法人日本劇作家協会の会長さんだそうで。

いらしているのならご挨拶せねばと思い(笑)、スタッフの方に訊いたところ、今日はいらっしゃらないとのこと。渡されたチラシを見ると、19日(月)、ご講演でお見えになるそうでした。

001


そういえば、槐多展会場でいただいたサントミューゼさんのフリーペーパーにも渡辺さんが載っていて、おやっと思ったのですが、そういうことだったのかと納得しました。

こういうこともあるのですね。えりさんには槐多展、お時間ありましたらご覧下さいとメールしておきました。

明日は周辺でのいろいろをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

指導理念といふことが言はれてゐますが、さういふものは美術家自身、つまり現にそれをやつてゐる人が自分で樹てるべきで、政府から方針を樹てて貰ふといふやうなことは、抑々間違つてゐると思ひます。

対談「東亜新文化と美術の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時中の光太郎、詩や文章では大政翼賛の方向にどっぷりでしたが、美術方面では美術報国会にも入らず(実弟の豊周が事務局長でしたが)、いわゆる戦争画や兵士を題材にした彫刻などには批判的でした。この差異には興味深いものがあります。

紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
                   ◇
 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
                   ◇
 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


イメージ 1   イメージ 2   イメージ 3

当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

過日ご紹介した、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさんの山梨、静岡方面への研修旅行がつつがなく終わったそうで、同行された太平洋美術会の坂本富江さんから、静岡の地元紙『沼津朝日』さんのコピーが届きました。

高村夫妻顕彰団体が一小を訪問 智恵子の絵画作品に登場の木を見学

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻として知られる高村智恵子の足跡をたどって、智恵子の出身地、福島県二本松市の市民団体が17日、一小を訪れた。
 画家として活動していた智恵子は、光太郎と婚約した年の1913年、沼津にあった親友宅に滞在し「樟(くす)」と題する油絵を描いた。これは3点しか現存しない智恵子の作品の一つで、現在は山梨県北杜市の清春白樺美術館に収蔵されている。
 二本松市で智恵子・光太郎夫妻の顕彰活動を行っている団体「智恵子のまち夢くらぶ」は、毎年開催している夫妻の足跡をたどる旅の一環として、今年は智恵子ゆかりの沼津を選んだ。
 会員13人が山梨県で「樟」の実物を鑑賞した後、絵のモデルとなった木を見るため、一小を訪れた。同校校庭には江戸時代初期の沼津藩主大久保忠佐の墓である道喜塚(どうきづか)があり、その隣の大木が絵のモデルとなった。
 夢くらぶの熊谷健一代表はモデルの木を見学した感想として「美術館で見た原画は、図録で見るよりもはるかに良かった。モデルの木は大火でも生き残っただけあって、たくましい生命力を感じる。この木を智恵子が描いた意味合いを感じ取れた」と話す。
 今年の訪問先として「樟」ゆかりの地を提案した菅野ミチ子さんは、夢くらぶの会員になった理由として、「以前、観光客に智恵子のことを訪ねられたことがあったが、答えられませんでした。地元のことなのに勉強不足だと思い、学ぶために参加しました。」と話す。
 智恵子の生涯を研究している画家でエッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区在住)の著書が今回の旅のきっかけとなった。『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅 高村智恵子52年間の足跡』という題で、2015年に発売された増補改訂版では「樟」のモデル探しの旅が新たに付け加えられた。今回の来訪に案内人として付き添った坂本さんは「本がつないだ縁だと思っています。この機会を通して沼津も知ってもらえて嬉しい」と話している。

イメージ 1

「一小」というのは、沼津市立第一小学校さんです。

以前にも書きましたが、坂本さん、記事にあるとおり、現存が確認できている3点しかない智恵子の油絵のうちの1点「樟」に描かれている木が沼津一小さんに現存することをつきとめられました。

智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野(旧姓・大熊)ヤスが沼津に転居しており、大正2年(1913)、そちらを訪れて描きました。ヤス自身は沼津で結婚後、夫の転勤で外地に渡ったそうですが、その頃、智恵子のすぐ下の妹で、智恵子と同じ日本女子大学校、さらに東京女子高等師範学校を卒業したセキが、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、小宮の子を沼津のヤスの家で出産。ヤスの母親が親身になって世話をしてくれました。智恵子の沼津訪問もその関係です。その後、セキは渡米、生まれた子は里子に出されました。

イメージ 2

前列右端が智恵子、後列右から2人目がヤスです。

イメージ 3

「樟」の絵。以前は欅(けやき)と思われていました。

上記『沼津朝日』さんに載った写真を拡大すると……。

イメージ 4

たしかにこの木なのでしょう。

今後も枯れることなく、健在でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

健康の大切な事を真実に知る事。女学生時代に過度の運動をせぬ事。如何なる境遇にあつても自己の健康を護る事に本気になる事。旧時代の女性が健康を気にする程度の消極的な事でなく、もつと積極的、内面的、叡智的に。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

大正8年(1919)には、智恵子が順天堂病院に入院。これは子宮後屈症の手術のためでした。どうもこの際に、女学生時代の乗馬が原因と診断されたらしく、そのことが念頭に置かれた発言に思われます。

その他にも結婚後、常に健康を害していた智恵子。後屈症の手術直後には湿性肋膜炎(おそらく結核性)で入院していますし、大正11年(1922)には盲腸炎にも罹患しています。

ちなみにまた稿を改めてご紹介しますが、同じ「新時代の女性に望む資格のいろいろ」というアンケートには、智恵子も回答を寄せています。

昨日、NHK Eテレさんで放映された日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」を拝見しました。

イメージ 1

先般、未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めてい夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。その早すぎる晩年に光太郎と交流がありました。番組サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎が彼に捧げた詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採られ、その説明もありました。

イメージ 2

イメージ 3

コメンテーターとしてビデオ出演なさり、さらに槐多の詩の朗読も披露された詩人の高橋睦郎氏は……。

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

ちょっとカチンときましたが(笑)、まぁ、たしかにそうとも言えますね。

そして槐多絵画の代表作や、新たに見つかった作品などが、彼の詩と共にいろいろ紹介されました。

イメージ 7 イメージ 8

知っているようでよく知らなかった、槐多の短い生涯もうまくまとめられており、非常にわかりやすく見応えもありました。

次の日曜の夜、再放送があります。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子


再放送といえば、地上波テレビ東京さんで、今年4月に放映された「開運!なんでも鑑定団」。ゲスト秋川雅史さんが、光雲作の木彫の名品「寿老舞」をお持ちになった回。

イメージ 9 イメージ 10

イメージ 11 イメージ 12

系列のBSテレ東さんで放映があります。

開運!なんでも鑑定団【秋川雅史のお宝がスゴイ&日本のゴッホ(秘)絵画】

BSテレ東 2019年6月27日(木)  19時55分~20時55分

歌手・秋川雅史のお宝に衝撃の鑑定結果!さらに秋川の意外な趣味とは?▽母が70万円で購入した妖しい輝きを放つ大きな水晶球は本物?▽“日本のゴッホ”山下清の貴重絵も!

MC 今田耕司 福澤朗  ゲスト 秋川雅史  アシスタント 片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
出張リポーター 松尾伴内(出張鑑定in 茨城県五霞町)  ナレーター 銀河万丈、冨永みーな


それぞれ見逃されている方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一、肌の凍る様な冬が好き。
二、空気の透きとほつた山が好き。

アンケート「どちらが好きか」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

一は「夏と冬と」、二は「山と海と」という設問に対しての回答です。生涯冬を愛し、晩年には岩手の山中に独居自炊の生活を送った光太郎らしい回答です。

またテレビ放映情報です。

光太郎と交流のあった夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。先般、その未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めています。それらを展示している愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんの「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展」でのロケを中心にしています。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月23日(日) 9:00~9:45  再放送 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 6    イメージ 7

イメージ 8    イメージ 9

サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採って下さいました。

    村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


イメージ 1

以前にも書きましたが、槐多は詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版され、光太郎も推薦文を寄せています。番組紹介で「詩の朗読とともに」とあるのは、おそらく槐多の詩でしょうが、光太郎の「村山槐多」もぜひ取り上げていただきたいものです。

詩「村山槐多」は、槐多の死後17年も経ってからの作です。同様に、翌年には歿後26年経った親友の碌山荻原守衛を偲ぶ「荻原守衛」という詩も書いています。双方、根柢には先に逝ってしまった敬愛すべき親しい芸術家への哀悼の意がこめられ、似たような読後感を受けます。なぜこの時期に、という疑問が残りますが。

ちなみに、来月末から、長野県上田市でも槐多の作品展が開催されます。残念ながら休館となってしまった信濃デッサン館さん、それからこちらは現在も健在の戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏が槐多に惚れ込み、かつては信濃デッサン館さんで描いた作品を多数展示されるなどしていた縁ですね。関連行事として窪島氏とおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏の対談も予定されています。


イメージ 5  イメージ 4

さらにちなみに、美術図書出版の老舗・求龍堂さんから、『真実の眼ーガランスの夢 村山塊多全作品集』というカタログレゾンネ的な書籍も出版されました。編著は村松氏です。

他紙は存じませんが、『朝日新聞』さんでは広告も出ました。ただ、求龍堂さん自体のサイトにはまだ情報が出ていないようです。

当方、上田の展覧会には参ずるつもりです。関連する情報等出ましたら、またご紹介します。

さて、「日曜美術館」さん、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻や素画は近代が有し得た天才性の一分水嶺である。一均衡である。此巨大な芸術家の暗示する未だ目覚めざる美が東洋に在る事を信ずる私達は、先づ此古代的近代人の閲歴から生れた言葉を深く味ひたいと思ふ。

雑纂「訳書広告「続ロダンの言葉」」全文 大正9年(1920) 光太郎38歳

この年刊行された光太郎訳『続ロダンの言葉』の広告から。

いったいに光太郎は、自己の芸術を推し進めるだけでなく、先人(ロダンやミケランジェロその他)や同時代の芸術家(槐多や守衛など)にも学び、いいものはいいと評価する姿勢を崩しませんでした。

論語に曰くの「学而不思則罔 思而不学則殆」ですね。先人などに学ぶだけで自分なりの考えを持たなければ真の理解にはたどり着かず、自分だけの考えに頼って広く他から学ぶことをおろそかにすれば、独断に陥って危険だ、といったところでしょうか。光太郎はこのあたりのバランスが絶妙だったように思われます。

↑このページのトップヘ