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落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

昨日は午後から横浜市に行っておりました。

メインの目的は「元井美智子自作自演コンサート2023」。港の見える丘公園内のイギリス館さんでの開催でした。
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そちらは18:30開演で、一旦、会場を通り過ぎ、当初予定通りすぐ近くでよく足を運ぶ神奈川近代文学館さんにまず行きました。
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ただし、展示室の方ではなく閲覧室に(だいたいいつもそうですが)。
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側溝に猫が二匹。最初「死んでるのか?」と思ったのですが、どうやらあまりの暑さに涼をとっているだけのようでした(笑)。
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国会図書館さんのデジタルデータリニューアル
でいろいろ新情報を得ましたが、同データの「館内限定閲覧」扱いのもののうち、何点かはこちらにも所蔵があるので、閲覧。さらにそれとは別個の光太郎について書かれた部分がある現代の書籍で、必要な箇所をコピーして参りました。

閲覧室の利用が17:00までで、その後、早めの夕食を摂りに中華街へ歩きました。考えてみると、コロナ禍が始まって以後、初めてでした。

再び港の見える丘公園へ歩いて戻り、イギリス館さんへ。まだ時間がありましたので、館内を拝観。
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外観の模型。こちらの建物、昭和12年(1937)の竣工だそうで、元は英国総領事の公邸でした。そのあたり、いかにも、という造作です。
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壁や天井など、お約束のコテコテ装飾等は施されていませんで、古建築好きとしてはちょっと物足りないなと思いつつも、却って質素な感じには好感が持てました。

さて、開演時間が迫り、一階ホールへ(ホールといっても、元は大広間)。
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何とまあ、観客は当方一人でした。

元々、あまり大々的に宣伝をなさっていたわけでもなく、また、申し込みがあったものの、この暑さで体調を崩されキャンセル、という方が複数いらしたそうで。

というわけで、なんとも贅沢な一人だけのコンサート(笑)。すぐ目の前で弾いて下さいましたし、至福のひとときとなりました。ただ、配信のための動画撮影はなさっていたので、純粋に当方だけのためというわけではありませんでしたが(笑)。
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まず、「智恵子抄より」。

オリジナルの曲にのせ、元井さんご自身が詩の朗読。「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」。あくまで「朗読」で、故・米川敏子氏作曲の歌として歌われる「千鳥と遊ぶ智恵子」や、故・小山清茂氏による節回しがつく語りという形式の「樹下の二人」などとは異なっていました。それがかえって自然な感じで良かったと思いました。

ちなみに琴で朗読、というと、故・清水脩氏が昭和34年(1959)に作曲、レコード化されています。しかし、こちらは朗読が主で琴は伴奏、という感じでした。レコードでは故・竹脇無我さんと栗原小巻さんが朗読をなさっていました。
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その点、元井さんのそれは、朗読と琴の一体感、不即不離感という意味では、実に良かったと思いました。

聴きながら、二本松の智恵子生家には智恵子が少女時代に使っていた琴があったっけな、と思い出しました。
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ただ、あまり熱心ではなかったようで、琴に関するこれといったエピソードは残っていませんが。

その後、「茶摘み」「夏は来ぬ」をオリジナルの編曲で。さらに、完全オリジナルの「青女」。「青女」とは、中国の古典に出て来る霜・雪を降らすという女神で、俳句の季語にも使われる語です。「季節外れですけど、猛暑の毎日なので、これを聴いて少しでも涼んでいただきたい」とのことでした。
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アルペジオの部分など、たしかに舞い散る粉雪のような感じ。なるほど、と思いました。

コンサートの前後、途中でもいろいろお話をさせていただきました。何しろ当方一人でしたので(笑)。琴に関する豆知識や、光太郎智恵子についても。元井さん、花巻郊外旧太田村の高村山荘、光太郎記念館にも行かれたそうで、「記念館の解説板を書いた者です」というと、目を丸くなされていました。ぜひ二本松の智恵子生家にも行って下さい的なお話(智恵子の琴の件は言い忘れてしまいましたが)、それから例によって連翹忌の御案内。来年の第68回連翹忌の集いにはいらしていただけるようです。

というわけで、以上、横浜レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

皆さまがおよろこび下さつたので私もこれほどうれしい事はないと思ひました、今度の制作であなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません、


昭和8年(1933)4月23日 仁科節子宛書簡より 光太郎51歳

021今度の制作」は「成瀬仁蔵胸像」。智恵子の母校・日本女子大学校から制作依頼があったのが大正8年(1919)でした。その後、造っては毀しの繰り返しで、完成までに何と14年。そりゃまぁ「あなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません」となりますね。

同像は現在も日本女子大学さんの成瀬記念講堂ステージ上に鎮座ましましています。昨日、横浜へ向かう途中、カーナビのテレビでNHK Eテレさんの「宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (4)あまねく「いのち」を見つめて」が再放送されていて、拝見しながら行ったのですが、賢治の早世した妹・トシも同校卒業生ということで、この像がちらっと映りました。

邦楽と西洋音楽のコラボです。

第二回 掬月会

期 日 : 2023年7月15日(土)
会 場 : 宝生能楽堂 東京都文京区本郷1丁目5-9
時 間 : 14:00開演 
料 金 : S席 8,000円 A席 7,000円 B席 6,000円 C席 5,000円 自由席 3,000円

ご挨拶 水上優
 第二回掬月会では様々な「うた」をテーマにお届けします。
 私は宮中の「歌合」が題材の能「草紙洗」を舞わせて頂きます。
 また、田崎隆三師に「通小町」を連吟で謡って頂き、長男達は大伴黒主が志賀明神となる舞囃子「志賀」、次男嘉は亡霊となった平忠度が、和歌の師である藤原俊成の元を訪ねる仕舞「俊成忠度」をそれぞれ勤めます。
 今回声楽家の紀野洋孝氏に「声楽作品と能」についてのお話と独唱を生田流箏曲家福田恭子様の伴奏で演奏して頂きます。
 和歌、謡曲、歌曲、古代から現代、東洋と西洋、様々な「うた」をお楽しみいただければ幸いです。

 お話と演奏 声楽作品と能 紀野洋孝
 演奏 テノール 紀野洋孝、伴奏(箏)福田恭子
  別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》より「晩餐」 平井康三郎作曲「平城山」
 舞囃子「志賀」 水上達 安福光雄 小寺真佐人 曽和伊喜夫 藤田貴寛
 仕舞「俊成忠度クセ」 水上嘉 
 連吟「通小町」 田崎甫 田崎隆三 小倉健太郎 辰巳和麿
 狂言「鬼瓦」 山本則孝 山本泰太郎
 能「草紙洗」 水上優 野口能弘 山本凜太朗 宝生和英 田崎隆三 他
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テノールの紀野洋孝氏。別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」を複数の演奏会で積極的に演目に入れられたり、CDをリリースされたりなさっています。今回は、通常、ピアノでの伴奏を箏曲で。ご本人、ツイッターで「めちゃくちゃいい感じです!!!」とつぶやかれていました。別宮氏の「智恵子抄」が、日本語のフレーズを大切にした作曲なため可能なのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

私はまだ多くの迷を持つ。まだ多くの燃えはじまらない炎のくすぶりを持つ。そのけむりは時として自分をさへ窒息させかねない。しかし息をとめてゐる事は私を殺さないで却て私の肺臓を容量多くするといふ事にも気がついた。 私は今猛烈に勉強してゐる。一方は自分を棄てる事に。一方は自分を獲る事に。棄ててから獲るのでない所に中世的の夢から一歩出てゐると信ずる。

昭和3年(1928)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎46歳

何だか詩のような手紙ですね(笑)。悪い意味での「ポエム」ではなく。

横浜から能楽の公演情報です。

企画公演「能役者 鵜澤久」

期 日 : 2023年2月5日(日)
会 場 : 横浜能楽堂 神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘27-2
時 間 : 14:00~
料 金 : S席7,000円 A席 6,000円 B席 5,000円 全席指定

能役者・鵜澤久。女流という枠にとどまらず、確かな技術と曲に対する深い洞察力で、古典作品の上演だけでなく、現代演劇に参加するなど新しい試みにも積極的に取り組み続ける姿勢は、師である観世寿夫が追及した能役者の在り方というものを大いに感じさせます。本公演では、鵜澤久の身体を通じ、能の表現とは、そして能役者とは何かを問います。

演目
「プラティヤハラ・イヴェント」 鵜澤久 一噌幸弘 藤原道山
ジョン・ケージによってはじめられたチャンス・オペレーションの流れの中で、能の持つ不確定性に着目し、演奏家の「呼吸」の時間が演奏の速度や、間の長さを決めていくかたちで書かれた作品。1963年に一柳慧、高橋悠治、小杉武久、観世寿夫らにより演奏されました。

舞囃子「智恵子抄」
高村光太郎の詩集「智恵子抄」から10編の詩と一首の短歌を製作年代順に配列し、光太郎にとっての永遠の女性像としての智恵子と現実の狂気した智恵子、それを見守る光太郎を描いた新作能。1957年4月に構成・演出:武智鉄二、作曲・作舞:観世寿夫、出演:観世寿夫ほかにより初演され、その後は「千鳥と遊ぶ智恵子」を中心に舞囃子として繰り返し上演されています。
 智恵子:鵜澤光  光太郎:梅若紀彰
 笛:松田弘之  小鼓:田邊恭資  大鼓:佃良太郎
 地謡:山本順之 清水寛二 西村高夫 長山桂三 川口晃平

能「卒都婆小町」(観世流)
高野山に住む僧が都へと向かう途中、一人の老女と出会います。老女が卒都婆に腰を掛けていたため、僧たちはそれを咎め、立ち去らせようとしますが、老女は僧と卒都婆についての問答を交わし、ついには言い負かせてしまいます。実は老女は、小野小町でした。かつては美貌を誇り、歌を詠む優雅な生活を送っていましたが、今は老女となって零落し、物乞いをして歩く毎日。そのようなことを語るうち、小町の声が変わり、「小町のもとに通おう」と言い出します。どうやら、かつて小町に恋をした四位少将の霊が憑依した様子。小町に憑いた少将の霊は、生前、小町のもとに九十九夜まで通い、思いを遂げる百夜を前に死んだ「百夜通い」の有り様を再現します。これも小町の驕慢が生んだ報いなのでした。
 シテ(小野小町)鵜澤久  ワキ(僧)森常好  ワキツレ(従僧)舘田善博
 笛:一噌庸二  小鼓:鵜澤洋太郎  大鼓:國川純
 後見:梅若紀彰 清水寛二 谷本健吾
 地謡:観世銕之丞  観世淳夫  西村高夫  柴田稔  馬野正基  浅見慈一  長山桂三  安藤貴康
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解説にあるとおり、ダイジェスト版の舞囃子として、武智鉄二作の新作能「智恵子抄」が演じられます。

一昨年には、今回、地謡で出演なさる山本順之氏、清水寛二氏、西村高夫氏がやはり吟じられた「連吟 智恵子抄」を含む「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」がありましたし、さらに清水氏は現代アートのイベント「もやい展2021 東京」中のステージパフォーマンスでも「智恵子抄」朗誦をなさいました。

今回は舞囃子ということで、より原型に近いのではないでしょうか。

ちなみに「智恵子抄」の語が含まれていませんでしたが、『東京新聞』さんに鵜沢久氏の紹介を兼ねた予告記事が出ました。

<土曜訪問>捨て石よりダイヤに 性別超え評価 来月 横浜能楽堂で公演 鵜澤久(うざわ・ひさ)さん(能楽師)

002 長らく「男性の芸能」として発展してきた能の世界で、性差を超えて評価されているのがシテ方観世流(かたかんぜりゅう)の鵜澤久さん(73)だ。女性が初めてプロの能楽師と認められたのは一九四八年。今も女性の能楽師は少なく、「宗家」を継いでいるのは男性だけ。そんな男性中心の能楽界で、二月五日に横浜市で行われる横浜能楽堂企画公演「能役者 鵜澤久」は、「女流という枠にとどまらない」一人の能役者としてスポットライトを当てる。ここに至るまでにどのような日々があったのか、聞きたくなった。
 「能は男の人がやるものという概念が、いっぱいいっぱいいっぱいいっぱいあって、闘うつもりはないけど、精神的には闘わないとやっていけなかったんです」。自宅にある舞台の端に座り、居住まいを正して淡々と語り始めた。
 シテ方は「シテ」と呼ばれる主役のほかツレ(シテに付き従って出てくる役)、地謡、後見、演出、舞台のプロデュースなどを幅広く担う。二十五歳で演能団体「銕仙会(てっせんかい)」に入り「性差は単なる個性の一つ。能という表現芸術に、男性も女性もない」と信じて研さんしてきたが、男性の能楽師がどんどん会の舞台に関わって経験を積むのに対し、自身は初めて研究公演に出るまでに十年以上かかった。「地謡や後見など、シテ方の男性が若い時から当然経験していることも、ずっとできなかった」。それならばと自身で、女性の地謡の会を開いたこともある。
 女性の能楽師を下に見る空気を感じ続け「ふらふらと片足立ちで生きてきたようだった」と振り返るが、目の前の壁を押し続けるつもりで進むうちに、二〇一八年、観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞。外部からの確固たる評価を得て「やっと両足を大地に着けて、能役者ですと言えるようになった」とほほ笑む。
 能に惹(ひ)かれたのは、自分にとって自然な流れだった。父はシテ方観世流の鵜澤雅(まさし)。謡の稽古の声を子守歌に育った。三歳で初舞台を踏み、十三歳で初シテ。父は稽古をつけてくれることもあったが「女なんかだめだ」と能楽師になることに反対し続けた。それでも「逆境ほど力が湧いてくる人間なので」。小学五年の作文で「男になりたい。能楽師になりたいから」と書いた。中学生のころ、父が弟子の発表会に女性能楽師を呼び、黒紋付きで舞台に上がる女性を間近に見た。「いくら反対されたって、憧れないわけないですよ」
 東京芸大邦楽科に進み、大学院も出ると、当時能楽堂を立ち見でいっぱいに埋めていた能楽界の寵児(ちょうじ)、観世寿夫(ひさお)さん(一九二五〜七八年)に習うことを切望。寿夫さんのいる銕仙会に入りたいと、反対する父をかわして何度も会の稽古能を見に行った。あるときいきなり父に襟首をつかまれ、会の中心である観世銕之丞(てつのじょう)家の座敷に連れて行かれた。「こいつを今日から銕仙会に入れますから。ほら、あいさつしろ!」。うれしいよりも、急展開に驚くばかりだった。「そこまでやりたいなら、と父も思ったんじゃないかな」
 そのまま寿夫さんに面接され、かけられた言葉は「能は伝統の厳しい世界。入っても一生舞台に立てないと思いなさい。捨て石になる覚悟でやりなさい」。当時は寿夫さんに習いたい一心で、深く考えずに飛び込んだ。「後になってから、どうせ石ならただの石ころでは終わらない、金剛石(ダイヤモンド)になってやると思いました」
 年を重ねた今、感じるのは、自由な自分だ。「重力にそって力が下に落ちてきて、上の方が自由になったというか」。体に余計な力を入れずに気力を充実させられるようになった。二月の横浜能楽堂では即興的な現代音楽の演奏に全身で挑むほか、高い技術と精神性が必要な「老女物」の一曲「卒塔婆小町(そとわこまち)」を演じる。同じく能楽師として活躍する長女、光(ひかる)も舞囃子(まいばやし)で出演。「光は、私がやらなかった内弟子も経験し、多くの舞台に出ている」と頼もしげなまなざしを送る。根が男性社会であることはそう簡単には変わらないだろうと思うが「秩序を保って良い能をつくる、それだけ考えていればいい」。 

智恵子役の方がお嬢さんなのですね。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝おき上り食事、 夕方近く喀血、草野氏、関先生、大気先生 岡本先生くる

昭和31年(1956)3月29日の日記より 光太郎74歳

光太郎の命、あと4日です。

昨日は都内に出、3件ほど用件を済ませて参りました。

メインは新宿区の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」拝聴でした。

若干早く最寄りの神楽坂駅に着いてしまったので、駅近くでたまたま見つけた書店兼ギャラリー兼カフェに。中に入ると、「あれっ、ここ、来たことあるな」と思い出しました。平成26年(2014)、こちらで開催されていた「えがく展 7人の絵描きと10冊の本」で、『智恵子抄』も取り上げられていたので拝見に来ていました。こういうこともあるのですね。

とにかく暑かったので、アイスコーヒーを頂き、汗を引かせてから会場へ。
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まず楽屋に寄り、和編鐘奏者の有機音(ゆきね)さんにご挨拶。さらに客席へ。今回、「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」がプログラムに入っていて、その演奏前に「高村光太郎連翹忌運営委員会代表の方が会場にいらして下さっています」的な紹介をするというので、司会の方などと打ち合わせ。そんな大した者ではないのですが(笑)。

舞台には既に和編鐘がセッティングされていました。
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鋳金製の鐘が39個。音域的には3オクターブですね。これをマレットで叩いて音を鳴らす仕組みです。昨秋、代々木能舞台さんでの「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」の際に初めて拝聴しましたが、楽器でありながら自然の音に近いような感もありましたし、かなりの音量になりながら耳に優しいという不思議な楽器です。

その後、受付でパンフレットを拝受。
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さらに今回の演奏会が「CD発売記念コンサート」と銘打っていまして、チケットが「CD付」と「CDなし」の2種。当方は「CD付」を購入していましたので、下記のCDを拝受しました。
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こちらには「智恵子抄」系は収められていませんが。キングレコードさんから先月のリリースです。

さて、開演。2部構成で、第Ⅰ部は「鐘(和編鐘)シンフォニー」。昨秋の代々木でのステージにも出演された河崎卓也氏の朗読で、古典や近現代の短歌、そしてそれらからインスパイアされた和編鐘の調べ。鐘の音が時に風のように、また川のせせらぎのように、さらには海の波のようにという感じでした。
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休憩を挟んで第Ⅱ部。こちらでは3曲演奏され、冒頭が「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」でした。
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語りは菜月ひとみさん。光太郎詩の朗読は「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)一篇で、それ以外は光太郎智恵子の半生的な説明調。彼らについてあまりご存じない方には親切だなと思いました。

さらに「額田王歌物語より「煌めく歌人」」。第Ⅰ部にも登場された河崎さんが朗読、そこにまつながまきさんという方の舞。飛鳥時代ということで、高松塚古墳の壁画のような衣装が印象的でした。最後は「呂律の調べ」。はし本はるえさんという方の十七絃箏とのコラボ。いろいろバリエーションに富んだ構成でした。

終演後。
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左からまつながまきさん、河崎卓也さん、菜月ひとみさん、有機音(ゆきね)さん、はし本はるえさん。皆さんの今後のご活躍にも期待いたします。

今後といえば、有機音さん、今秋にも神戸で智恵子抄系をプログラムに入れた演奏会をなさって下さるそうで、ありがたいところです。詳細がわかりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后「毎日グラフ」の人3人くる、撮影、談話、

昭和28年(1953)6月6日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成したという話を聞きつけて来たようです。7月1日発行号に大きく写真が載りました。除幕前にネタバレ的に出してしまってよかったのかな、という感じですが。
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都内から演奏会情報です。

CD発売記念コンサート in矢来能楽堂 癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い

期 日 : 2022年7月9日(土)
会 場 : 矢来能楽堂 東京都新宿区矢来町60
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 一般5,500円/CDつき7,000円(5,500円+CD発売記念価格1,500円)

出 演 : ゆきね(有機音)(和編鐘) はし本はるえ(箏) 
      菜月ひとみ・河崎卓也(朗読) まつながまき(モデルパフォーマー)


枠に吊るした大小さまざまの鐘を鳴らして奏でる和編鐘(わへんしょう)。由来はとても古く、3000年ほど前の中国にさかのぼります。6月8日にキングレコードより、CD発売。記念して皆様に和編鐘のコンサートをお届けいたします。ご都合の良い方は、感染対策のうえ、ぜひお越しくださいませ。

曲 目 :
 1部 鐘(和編鐘)シンフォニー  和編鐘 
ゆきね(有機音) 朗読 河崎卓也
  春と修羅 水の源 いくつもの出会いに育まれて ホタル わらべ歌 時つもりゆく
  万葉の歌
 2部 響きのあう  和編鐘 ゆきね(有機音)
  智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」 朗読 菜月ひとみ
  額田王歌物語より「煌めく歌人」 舞 まつながまき
  呂律の調べ 箏 はし本はるえ
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有機音さんによる和編鐘、昨秋、代々木能舞台で開催された「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」を拝聴して参りました。レポートはこちら
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中央が有機音さんで、その後にセッティングされているのが和編鐘です。3オクターヴあり、これをマレットで叩いて音を出します。残響が長く、不思議な響きでした。

今回のプログラムには「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」という項が入っており、菜月ひとみさんという方が朗読をなさいます。当方、拝聴に伺うことに致しました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后朝日放送より村瀬幸子吹込の「智恵子抄」持参、試聴、承諾、夜九回放送の由、

昭和28年(1953)3月24日の日記より 光太郎71歳

朝日放送」はラジオ局、「村瀬幸子」は明治38年(1905)生まれの女優でした。

この頃から「智恵子抄」朗読、為されていたのですね。

10月31日(日)、六本木の国立新美術館さんで、第8回日本美術展覧会(日展)を拝見した後、初台へ。駅からほど近い住宅街の中にある、代々木能舞台さんで「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」を拝聴して参りました。
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代々木能舞台さん、場所が場所だけに、6月に「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝聴しに行った南青山の銕仙会能楽研修所さんのように、屋内に能舞台がしつらえてあるものとばかり思いこんでいました。しかし、さにあらず。客席は屋内でしたが、舞台は庭に。なるほど、これなら登録有形文化財指定もうなずけるな、と思いました。この日は光太郎がらみのイベントの通例で雨でしたが、画面中央の軒から雨だれがしたたり落ちている状態で、それはそれで趣がありました。
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こういう空間構成ですので、換気はばっちりです。寒いくらいでした。
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さて、午後1:30開演。二部構成で、第一部は「和編鐘で奏でる日本の音風景 日本の詩と季節の音風景」。万葉集や夏目漱石、石川啄木、与謝野晶子らの短歌、俳句を、河崎卓也さんが朗唱。その合間に、ゆきねさんの和編鐘と、田中泉代賀さんの十七絃によるオリジナル曲。

和編鐘というのは、当方、初めて聴きました。西洋音楽のチューブラーベルに近いのかな、という感じでしたが、チューブラーベルが2オクターブ未満であるのに対し、和編鐘は3オクターブ(やりようによっては、もっと増やせるかもしれません)。音色としては、とにかく残響が長いので、不思議な感じでした。ペダルを踏みっぱなしにしてピアノでコード演奏をするような。音量もかなりあり、半屋外のこの日の舞台でも、その意味では問題ありませんでした。逆に、かなりの音量でありながら、耳に優しい響きだとも感じました。その響きに誘われたのか、かなりの音量にもかかわらず、隣に座っていた老人男性は、いびきをかいてねていました(笑)。

第二部が、メインの「智恵子抄 愛はすべてをつつむ」。
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河崎さんが、「智恵子抄」所収の詩四篇と、それが書かれた前後の光太郎智恵子についての解説。詩の朗読中、ゆきねさんは、和編鐘ではなく、手持ちの鈴などを邪魔にならない程度に鳴らし、それもまたいい感じでした。

合間にやはり和編鐘によるオリジナル曲。こちらでは、箏はなく和編鐘のみでした。マリンバやビブラフォンのように、4本、または6本というわけにはいかないようで、マレットは2本でしたが、それでも速い動きで残響を生かした分散和音、トレモロ……。音量が大きいだけに、間違うと悲惨なことになりそうでしたが、さすがにそういう場面はありませんでした。

メロディー的にも、「智恵子抄」の感傷的な感覚、ある種のノスタルジー、そして胸が張り裂けそうな光太郎の思いなどが、しっかりと表現されていました。

終演後。
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「智恵子抄」、今回が初演だそうですが、これでお蔵入りとなることなく、再演、再々演、さらに曲目を増やし、箏なり笛なりとの合奏……と、発展させて行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる青年集配人くる、菊岡久利氏より余の十四歳頃のシシ合彫を送りくる。箱書の事、

昭和26年(1951)4月13日の日記より 光太郎69歳


詩人・菊岡久利の回想から。

僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。
(略)
当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。
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右上の画像、左端に「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」の署名。この年、下谷高等小学校を卒業した数え十四歳の光太郎は、東京美術学校の予備校として同窓生たちが作った共立美術学館予備科に入学、中学の課程を学んでいます(翌年には東京美術学校に入学)。その頃の懐かしい作品が、なぜか鎌倉からひょっこり現れ、入手した菊岡が光太郎に鑑定を依頼、まちがいなく自作だということで、新たに裏書きをしてくれたというわけです。

五十五年 青いぶだうが まだあをい」。菊岡は「詩」と書いていますが、これは俳句と言っていいと思います。筑摩書房『高村光太郎全集』にはなぜか脱漏している句です。

都内から、ちょっと変わった演奏会の情報です。

和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ

期 日 : 2021年10月31日(日)
会 場 : 代々木能舞台 東京都渋谷区代々木4-36-14
時 間 : 開場13:00 開演13:30
料 金 : 前売り4,000円 当日4,500円

出 演 : ゆきね(和編鐘) 河崎卓也(朗読) 田中泉代賀(箏)
演 目 :
 第一部 和編鐘で奏でる日本の音風景「日本の詩と季節の音風景」
   一、水の源 二、春ざわめく 三、音紋様 四、時つもりゆく 五、呂律の調べ
 第二部 智恵子抄「愛はすべてをつつむ」
   一、僕等 二、樹下の二人 三、千鳥と遊ぶ智恵子 四、レモン哀歌 五、亡き人に

今なぜ智恵子抄なのか?
 今、人を愛するという私たちが持つ自然な情動が、己の「いのち」を守るという生存のため、他人の命を脅かさないため、大きな枷をはめられています。しかしだからこそ、私たちは心の触れ合いという愛の形と、深い愛情から生まれた心の絆が、大きな安らぎと幸福、そして強さをもたらしてくれることを、智恵子と光太郎の詩に見いだすことができるのです。私の若き日の愛読書であった智恵子抄。今も愛することの凄さと、尊さを教えてくれます。
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「和編鐘」というのは、中国2400年前の祭器、編鐘(へんしょう)を日本的にアレンジしたものだそうで、枠に逆さに吊り下げた銅合金製の39個の鐘(3オクターヴ)を、マレット等で叩いて音を鳴らすものだとのこと。

今回演奏されるゆきね氏が、現在の形に確立されたそうです。


幻想的な中にも、郷愁を誘う響きですね。

この調べに乗せての「智恵子抄」。さらに箏曲演奏も入るようで。いったいどういう感じになるのか、楽しみです(当方、チケット購入いたしました)。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪、詩稿のこと、林檎等もらふ、これはねながら話す。


昭和26年(1951)2月21日の日記より 光太郎69歳

001せんてつ」は当時の国鉄の仙台鉄道管理局が発行していた社内誌のようなもの。「鈴木氏」はその編集に当たっていた鈴木肆郎。光太郎に詩の執筆依頼にやって来ましたが、これは断られ、代わりに旧作を転載することは了承を得たようです。

八重樫さん」は八重樫マサ。光太郎がたびたび泊まった花巻温泉松雲閣の仲居さんでした。松雲閣の宿泊客等を、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に案内する役目をたびたび務めました。

その労苦に応え、光太郎は八重樫に書の揮毫を贈ったりもしています。

左端が八重樫、右の二人は、仙台ご在住の佐久間晟氏、すゑ子氏ご夫妻。この年11月の撮影です。晟氏は前田夕暮門下の歌人で、その後、宮城県歌人協会の会長も務められました。すゑ子夫人も歌人。お二人とも歌誌「地中海」同人で、光太郎訪問の貴重な回想を書かれました。


今月16日、今年度の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定の答申がありました。

「共同通信」さん。

人間国宝に新たに4人、琉球舞踊初認定 文楽勘十郎さんも

 文化審議会は16日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に、琉球舞踊立方の宮城幸子さん(87)=那覇市=と志田房子さん(84)=東京都練馬区=ら4人を認定するよう萩生田光一文部科学相に答申した。琉球舞踊の分野からの人間国宝は初めて。
 他の2人は人形浄瑠璃文楽の人形遣いの桐竹勘十郎さん(68)=大阪市=と茶の湯釜の角谷勇圭さん(78)=大阪府東大阪市。政府は秋にも答申通り告示し、人間国宝は計114人となる。
 琉球舞踊は2009年に国の重要無形文化財に指定されたが、その技術を体得した個人を認定する人間国宝はいなかった。今回踊り手の「立方」2人が選ばれた。
 勘十郎さんの父は人間国宝の故宮永豊さん。勘十郎の名は父から継いだ。同じく人間国宝で女形遣いとして定評があった吉田簑助さんに師事し、立役(男役)が得意な父からも学んだことで役柄を広げた。伝統工芸の茶の湯釜は、保持者の死去で09年に解除されて以来となる。角谷さんは父も茶の湯釜の人間国宝だった。
 文化審はこのほか、指定済みの重要無形文化財の保持者団体構成員として、一中節保存会(東京・港)の1人の追加認定も求めた。一中節は三味線音楽の一種。

今回、認定のための答申があった4名の方のうち、文楽の桐竹勘十郎さん。NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。

光太郎詩も、複数回。『智恵子抄』から、「人に」(大正元年=1912)と「あどけない話」(昭和3年=1928)。
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『日本経済新聞』さん。

「常に新しいことを」文楽・桐竹勘十郎さん人間国宝に

 「師匠からは電話で『おめでとう』と5回。大変うれしかった」人形浄瑠璃文楽の人形遣い桐竹勘十郎さんは認定を受けた喜びとともに、今年4月に引退した人間国宝の師匠吉田簑助さんへの思い、感謝の言葉を繰り返した。「その後、師匠の奥様から『現役の時に一緒になりたかったな』とおっしゃっていたとうかがいました」
 1953年、大阪生まれ。父は立役を中心に遣い豪快な芸風で鳴らした、二代目勘十郎さん。14歳の時、人形遣いになりたいと話すと父は屈指の女形遣いである弟弟子、簑助さんへの入門を指示した。父と師匠、2人の人間国宝の芸を継ぎ、立役、女形問わず命を吹き込む表現力、チャリ(笑いを誘う滑稽な演技)も我が物とする芸域の広さが高く評価される。
 54年間、芸を磨いてきた日々を「役、人形、文楽自体を好きになることが上達への一番の近道だった」と振り返る。「若い人たちにもそう伝えている。これからは後進の指導・育成を第一に。もっともっと力を入れていきたい」。次代への継承を担う責任と覚悟も新たにする。
 若い頃から他ジャンルとの交流や子供向けテレビ番組への出演、文楽では珍しい新作の執筆など魅力発信にも積極的に取り組んできた。今後も「文楽の未来のために(多くの人に)見に来て、喜んでいただける新作は必要だと思う」。「常に何か新しいことをやりたい。もうこれは性分。そのために健康で長く続けたい」とさらなる活躍を誓う。
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関西テレビさん。

人形浄瑠璃 文楽 桐竹勘十郎さん人間国宝に認定へ

 人形浄瑠璃文楽の桐竹勘十郎さんが国の重要無形文化財「人間国宝」に認定されることになりました。
 桐竹勘十郎さん(68)は、女方・立役を問わず抜きん出た表現力を持つ人形遣いで文楽の上演に欠かせない存在です。
 後進の育成にも尽力するなど業績が評価され秋にも「人間国宝」に認定されることになりました。
【桐竹勘十郎さん】
「日に日に身が引き締まるといいますか、これはえらいことになったなという感じです」
 師匠で人間国宝の吉田簑助さんは今年4月に引退したばかりでした。
【桐竹勘十郎さん】
 「おめでとうおめでとうおめでとう、ずっとおめでとうを言ってくれはったんです。それがものすごく嬉しかったんです」
 勘十郎さんは8月3日まで大阪の国立文楽劇場の公演に出演しています。
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今後とも、さらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にハウレン草、山東菜を入れる。山東菜相当に育ち、間引にして汁に丁度よし。
昭和23年(1948)5月16日の日記より 光太郎66歳

「山東菜」は、白菜の仲間だそうです。育ちすぎるのを間引いて、汁の実にする、かしこいですね。

012先月、南青山の銕仙会能楽研修所さんで、山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見、拝聴しました。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞「新作能 智恵子抄」が抜粋連吟で演じられたもので。

その前後、「新作能 智恵子抄」についていろいろ調べている中で、能楽評論家の堀上謙氏著『能面変妖』(平成4年=1992 朝日新聞社という書籍に、写真が載っているという情報を得、古書店から購入しました。刊行当時の定価で5,100円もした豪華本です。帯が欠けているのと、背ヤケがあり、1,500円ほどで入手できました。

130ページあまりがカラー版で、古典から新作まで、さまざまな能面を種類別に取り上げ、面、それから演目の解説が為されています。工芸としての能面の持つ妖しい魅力に打たれます。

「新作能 智恵子抄」の面の写真、見開き2ページにわたり、ドーンと掲載されていました。分類上は「若女」面になるそうで。
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ボキャブラリーが少ないもので、陳腐な表現になり申し訳ありませんが、「幽玄」感が半端ないですね。

いつ、何処での撮影、というキャプション等がなかったのですが、演者は観世流・梅若晋矢氏。平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で「新作能 智恵子抄」が演じられた記録があり、その際に梅若氏が智恵子役をなさいましたが、本書の刊行はそれより前ですので、他の機会ということになります。
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解説がこちら。平成4年(1992)時点では、能としての上演は初演の昭和32年(1957)のみで、ダイジェスト版の「舞囃子」としてはたびたび上演されていたとのこと。したがって上記写真は、いずれかの機会で舞囃子として演じられた際のもの、ということになります。

「新作能 智恵子抄」制作に際し、多大な影響を与えたのが、古典の「安達ヶ原」(「黒塚」とも)。智恵子故郷の二本松に伝わる鬼女伝説が元となっています。今年4月に、NHK Eテレさんでオンエアされた「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」で、面を付けない「素踊り」としての上演が放映されました。で、『能面変妖』。本来の面の写真も。
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まさに「鬼気迫る」ですね。特に完璧モンスターである上の「般若」より、下の「痩女」の方。夢に出て来そうです(笑)。演者はどちらも故・観世栄夫氏。昭和32年(1957)の「新作能 智恵子抄」初演で光太郎を演じた故・観世寿夫氏の実弟です。

こうなると、「安達ヶ原」、それからもちろん「新作能 智恵子抄」も、ちゃんとした形で観てみたいものだと思いました。そうした機会が訪れることを期待します。

今日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参ります。光太郎詩を書かれた作品が複数出ている、という耳寄りな情報を得ました。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今日、大沢温泉にゆかんと思ひしが昨夜の吹雪の為に中止。雪つもれると、まだ降雪中にて電車不便の疑あり。 枕下に雪つもる。


昭和23年(1948)2月2日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から大沢温泉に行くには、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅、または神明前駅から乗車、6㌔㍍ほど山道を揺られる必要がありました。

5月30日(日)、目黒の「反転する光」展会場を後に、南青山に向かいました。次なる目的地は、銕仙会能楽研修所さん。こちらで「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。


南青山ですので、瀟洒な建物が建ち並び、道行く人々も一様にシャレオツ、走る車もポルシェにアウディにフェラーリにBMW(笑)。その一角に突如、古風なたたずまい。しかし、さほど違和感はありません。
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この2階に能舞台。ここは異世界、という感じではありました。
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こちらがプログラム。
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基本、観世流シテ方の山本順之氏を中心に据えた構成で、氏が地謡(じうたい)の名手であらせられることから、謡がメイン。したがって、面を付けての能楽はありませんでした。

プログラムの最初が、いきなり「連吟 智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」が元になっています。「新作能 智恵子抄」は、光太郎詩歌10篇から成っていました。「僕等」、「樹下の二人」、「あどけない話」、「人生遠視」、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「荒涼たる帰宅」、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」。このうち、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」が、山本氏を中心とした5人の方々の連吟で演じられました。
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日本の古典芸能には、西洋音楽のようなハーモニーという概念がないため、西洋音楽風に言えばユニゾン。しかし、5人の声質は全く同一ではないため、それが合わさることで太い川(たとえば阿武隈川)の流れのような、あるいは寄せては返す波(まるで九十九里浜)のような、そんな感じでした。そして、最初から最後までトゥッティーではなく、要所要所はソロ。それが全体の流れに変化をもたらし、メリハリがきちんと付いています。また、皆さん、当然のように暗譜。以前、アマチュア音楽活動をしていた頃、楽譜を見ながらでなくては不安でしょうがなかった自分が恥ずかしくなります(笑)。

ちなみに5人のうちのお一人、清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。
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上記画像は、以前に入手した西洋音楽の楽譜に当たるもの。素人の当方、これを見てもよくわからなかったのですが、実際に初めて聴いてみて、なるほど、そういうことかと得心しましたし、これは凄い、と感動しました。

また、プログラムと共に受付で頂いた資料には、「新作能 智恵子抄」についての解説がかなり詳しく載っており、興味深く拝読しました。
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さらに、第二部の山本氏と竹本幹夫氏(能楽研究者、早稲田大学名誉教授)の対談の中でも、「智恵子抄」に触れられ、そちらも「なるほど」でした。例えば、「新作能 智恵子抄」では、どちらかというとシテが智恵子、ワキが光太郎だったものが、抽出して演じられる舞囃子などの形式ではそれが逆転するとか。ダイジェスト版の舞囃子としてもあまり演じられる機会が多くなく、いい作品なのに残念と思って、今回のプログラムに入れられたとか。

ただ、解説に「能形式での再演はなく、すべて舞囃子、能舞という部分演奏形式で……」とあるのですが、手元の資料に拠りますと、平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で、「新作能 智恵子抄」全体が演じられたという記録があるのですが……。

他の演目は、やはり新作系で芥川龍之介の未発表詩に曲を付けた「相聞」(山本氏独吟)、後進の方々を交えた仕舞(面を付けない演舞)で古典作品の「嵐山」「西行櫻」「井筒」「天鼓」、闌曲(らんぎょく)「玉取」(山本氏独吟)。そして第二部が対談でした。

山本氏、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)のお生まれですので、御年82歳。失礼ながら、張りのある謡のお声も、ピタリと頭を動かさない舞の所作も、それを感じさせないものでした。さすが重要無形文化財保持者と思いました。

終演後、山本氏や清水氏とお話しさせていただこうかとも思ったのですが、意外と観客が多く、密の状態が怖いので、早々に失礼しました。

今後、できれば「智恵子抄」全10曲を聴いてみたいものですし、やはり「新作能 智恵子抄」として観てみたいとも思いました。そうした機会があることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔氏に千円小為替送り置きて買物に備ふ。油脂類を頼む。ラケットの値段を問合せる。フタバヤ指定。


昭和22年(1947)11月3日の日記より 光太郎65歳

「宮崎稔氏」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪で看護婦だった春子の夫。茨城取手在住で、岩手では入手出来にくいものなどを、このようにして送ってもらっていました。

で、唐突に「ラケツト」。調べたところ確かに「フタバヤ」というテニス用品メーカーがかつてあり、そこの製品のようです。なぜ岩手の山中で、数え65歳の光太郎がテニスラケットを必要としていたのかと思ったら、自分のためではなく、村の青年達に寄付するため、と、書簡に記載がありました。なぜ「フタバヤ指定」かは謎ですが。

さしもの光太郎でも「エア・ケイ」はできなかったでしょう(笑)。

都内から能楽系の公演情報です。

山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会

期 日 : 2021年5月30日(日)
会 場 : 銕仙会能楽研修所舞台 東京都港区南青山4-21-29
時 間 : 13時15分開場 14時開演
料 金 : 3,000円
主 催 : 順翁会 稲門観世会

第一部
 ★連吟 智恵子抄
  山本順之 清水寛二 西村高夫 安藤貴康 高橋輝久
 ★独吟 相聞 山本順之
 ★仕舞 嵐山 安藤貴康
 ★仕舞 西行櫻 清水寛二
 ★仕舞 井筒 山本順之
 ★仕舞 天鼓 西村高夫
 ★独吟 玉取(闌曲) 山本順之

第二部
 対談 舞台への思いを聞く 竹本幹夫 山本順之
 
「連吟 智恵子抄」。光太郎が歿した翌年、観世寿夫、武智鉄二により作られた新作能「智恵子抄」が元になっています。
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最晩年の光太郎、「智恵子抄」を能にすることに興味をそそられ、結局、実現はしませんでしたが、面を自分でデザインしようと描いたスケッチが残っています。
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近年はダイジェスト版ともいうべき舞囃子として演じられることが多いそうですが、さらに今回は謡のみの連吟で、動きはないのだと思います。

山本順之(のぶゆき)氏は、観世寿夫に師事し、銕仙会さんの理事を務められている重鎮です。やはり観世寿夫、それから山本氏に師事した清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。

その際は、当方、都合がつかず観に行けませんでしたし、平成30年(2018)に国立能楽堂であった公演「国立能楽堂夏スペシャル 開場35周年記念」で舞囃子「智恵子抄」が演じられた際は、申し込んだところ既に満席。結局、この系列の「智恵子抄」はまだ観たことも聴いたこともありません。そこで、今回の公演を申し込みまして、コロナ感染には十分気をつけつつ、行って参ります。

拝見後、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

午前八時院長さんと同道、光徳寺にゆく。英霊二百数十柱遺骨伝達式なり。遺族多く集まる。

昭和22年(1947)10月10日の日記より 光太郎65歳

光徳寺さんは、光太郎ゆかりの松庵寺さんのすぐ隣です。遺骨伝達といっても、遺骨そのものが戻ってきたわけではなく、死亡が判明し公報が出た戦死者の遺族に神道式の霊璽(仏式の位牌にあたるもの)などが渡されたという取り組みです。敗戦から2年あまり、まだまだ戦争の傷跡は深かったというのがわかりますね。

光太郎、自らの翼賛詩文を読んで戦地に赴き、散っていった多くの若者がいたことを、改めて噛みしめたのではないでしょうか。

智恵子の故郷、福島二本松に伝わる鬼婆伝説。能「黒塚」の原作となり、広く知られています。

舞台となった場所は、二本松市北部の安達ヶ原。現在は「安達ヶ原ふるさと村」という施設が出来、隣接する観世寺さんには、鬼婆が住んでいたという岩屋や、少し離れた場所には鬼婆の墓といわれる「黒塚」も残っています。

大正9年(1920)、智恵子の父・長沼今朝吉の三回忌法要のため、光太郎も智恵子の実家を訪れ、先に帰省していた智恵子と合流しました。この際に実家附近を二人で歩き回り、その体験が、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)のモチーフとなったようです。歩いた場所は、智恵子実家の裏山や、安達ヶ原。「樹下の二人」には詩本体の前に「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」という短歌一首が附されています。また、最晩年の「高村光太郎聞き書」には、当会顧問だった故・北川太一先生の「「樹下の二人」も『明星』ですね。その頃のことをうかがいたいのですが」という問いに対し、「「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。」と答えています。光太郎智恵子が安達ヶ原を訪れたのは間違いありません。

光太郎、その折にでも、鬼婆伝説のことを聞いたのかもしれません。あるいは既に能「黒塚」を知っていて、予備知識があったとも考えられます。のちに智恵子の心の病が昂進してからの詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)では、「意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて/のがれる途無き魂との別離」と、唐突に「鬼」の語が現れますが、あるいは安達ヶ原の鬼婆が頭をかすめたのではないでしょうか。

さて、鬼婆関連。

まずはテレビ放映の情報です。

にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」

NHK Eテレ 2021年4月23日(金) 21:00~21:55
再放送   2021年4月26日(月) 12:00~12:55

福島県・二本松市、安達ケ原に伝わる鬼女の伝説を舞踊にした作品「安達ケ原」を、3月に行われた特別日本舞踊公演からお送りします。出演は花柳寿楽、若柳壽延、猿若清三郎ほか。シテ(老婆実は鬼女)を演じた花柳寿楽のインタビューを交えてお楽しみいただきます。歌詞や演出は能「黒塚」から取られており、振り付けは二世花柳壽楽。前半は改心を見せている鬼の姿をしっとりと、後半は怒りに満ちた様子を描いた、舞踊の大作です。

【司会】高橋英樹,【アナウンサー】中條誠子,
【出演】花柳寿楽,若柳壽延,猿若清三郎,杵屋勝四郎,杵屋巳之助,杵屋勝四助,
    杵屋栄八郎,松永忠一郎,杵屋勝十朗,福原百七,堅田新十郎,堅田喜三郎,
    住田長十郎
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物語の舞台としての二本松の紹介の中で、光太郎智恵子に触れていただければありがたいのですが……。

舞踊で「安達ヶ原」といえば、一昨年には、「にほんまつart fes」というイベントの一環で、親しくさせていただいている女優の一色采子さん(お父さまが二本松ご出身で智恵子の絵も複数描かれている故・大山忠作画伯)と、福島市出身の舞踊家・二瓶野枝さんによるコンテンポラリーダンス「妖艶 Bewitching」の公演があったりもしました。この際は、当方、これを観に行く途中で愛車が故障、泣く泣く引き返し、後に報道で様子を知った次第です。

また、平成28年(2016)には、現代アートの「福島ビエンナーレ」の一環として、智恵子生家を会場に、小松美羽さんによるインスタレーションが行われ、やはり鬼婆伝説がモチーフとされました。

平成30年(2018)には、二本松で公開収録されたNHKさんの「民謡魂 ふるさとの唄」で、「あまちゃん」や「八重の桜」、「いだてん」などにもご出演された大方斐紗子さんが鬼婆役でご出演。ただし、この鬼婆は智恵子と光太郎の仲を取り持とうとする、いい鬼婆(笑)でした。
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さて、「にっぽんの芸能」、ぜひご覧下さい。

さて、やはり鬼婆がらみの別件、地方紙『福島民友』さんから。

怖くて...うまい!「おにばばソフト」 「酪王いちごオレパフェ」も

007 二本松市振興公社は今月から、二本松市の安達ケ原ふるさと村と道の駅安達「智恵子の里」下り線で、独自商品の「酪王いちごオレ」ソフトクリームをベースにした新スイーツを発売した。
 ふるさと村は、「安達ケ原の鬼婆」伝説をモチーフにしたオリジナル商品開発の第3弾となる「おにばばソフト」(600円)。「怖くて...うまい!」をキャッチフレーズに、出刃包丁や骨の形をしたクッキーをトッピングし、血をイメージしたいちごソースを使った。食事処のよってっ亭で販売している。
 道の駅では、いちごオレのパフェを考案した。酪王いちごオレソフトに、カラフルな色合いのあられの一種「おいり」をトッピングし、かわいらしいスイーツに仕上げた。あられの食感がおいしさを引き立てる。道ナカ食堂で400円で販売している。
 同公社は「同じソフトクリームをベースにする商品のギャップを楽しんでもらいたい」としている。

同じ件、福島テレビさんでも報じられていました。

恐怖を覚えるおいしさ!?鬼婆伝説の地・安達ケ原に誕生したソフトクリーム

二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「安達ヶ原の鬼婆は、この土地ではとても有名で、この鬼婆伝説を皆さんに知って頂きたいと」
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福島県二本松市の『安達ヶ原ふるさと村』
この地に伝わる鬼婆伝説をPRし、コロナ禍で減少した観光客を呼び戻そうと令和2年8月8日に、「オニババプロジェクト」が立ち上がった。
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鬼婆のリアルさ怖さを、ありのまま売り出していこうというプロジェクトで、第1弾は、トートバッグや缶バッジを制作。第2弾は、出刃包丁を模したハンバーグがのっている「オニババ出刃ーグカレー」
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そして、第3弾。4月5日に発売されたのが…
黒い角に白い髪の毛、しわしわで牙のはえたこわ~い表情!血のついた出刃包丁や骨…その名も「おにばばソフト」。
◇「おにばばソフト」600円(税込)
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「ふるさと村で大人気商品の『酪王いちごオレソフト』を土台にして、鬼婆の顔をプリントしたクッキー、生クリームで表現した鬼婆の髪の毛、角、出刃包丁のクッキー、骨のクッキー、意味ありげに赤いソースがかかっています」
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試行錯誤を重ね、出来上がるまでに4ヵ月ほどかかったそう。
二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「鉛筆で何度もデッサンをして、クッキーに焼いたときにいかに簡単にきれいに顔にでるかっていうのを何枚も何枚もクッキーを作って、型を作ってプリントクッキーが仕上がりました」
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「”おにばばソフト”を知って頂いて、鬼婆っているんだってこと、それがさらに二本松のPRにつながることが一番だと思っています。『怖くてうまい!』ソフトクリームを楽しんで頂けたらと思います」
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<二本松市の安達ヶ原に伝わる鬼婆伝説>
病を抱えるお姫様の乳母だった女性は、お姫様を助けるためには妊婦のお腹の中にいる子どもの生き肝を飲ませる必要があった。ある日やってきた妊婦のお腹を切りましたが、なんとその妊婦は自分の娘だったのです…ショックのあまり、鬼婆になってしまったという…
<安達ケ原ふるさと村> 福島県二本松市安達ケ原4-100

当方は「ちょっと、無理……」という感じですが、度胸のある方、ぜひどうぞ(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「展望」に原稿着の由にて臼井吉見氏より一五、〇〇〇圓小為替により送り来る。

昭和22年(1947)6月23日の日記より 光太郎65歳

「原稿」は、自らの生涯と戦争責任を綴った連作詩「暗愚小伝」です。「臼井吉見」は掲載紙『展望』の編集長でした。

「暗愚小伝」、18ページに亘る掲載ではありましたが、その稿料が15,000円というのは、当時の物価から換算すれば破格の金額のように思われます。当方、現代でも15,000円の原稿料を貰えることはほとんどありません(笑)。

能の公演情報です。

しかし、観に行こうと思っていましたが、ほぼほぼ発売と同時に完売。ただ、もしかするとキャンセル等があるかもしれません。  
時 間 : 午後6時30分開演(終演予定午後8時30分頃)
場 所 : 国立能楽堂 東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目18-1
料 金 : 正面=6700円 脇正面=5600円(学生3900円) 中正面=4400円(学生3100円)
演 目 :
舞囃子新作 智恵子抄(ちえこしょう)  鵜澤久  櫻間金記
高村光太郎が、妻智恵子へのひたむきな愛を詠んだ『智恵子抄』。
武智鉄二が原作から選んだ詩と短歌で
構成して、昭和32年に発表した新作能を舞囃子で上演します。
狂言小謡 花の袖(はなのそで)  野村又三郎(和泉流)
独吟 泰山府君(たいさんぷくん)  松野恭憲(金剛流)
仕舞 小歌(こうた)  宝生和英(宝生流)
一調 放下僧(ほうかぞう)  岡久広  曽和正博
袴狂言 釣狐(つりぎつね) 前(まえ)  野村万作(和泉流)
一族を猟師に狩られた古狐は猟師の伯父に化け、狩りを止めるよう猟師のところへ意見に行きます。 大曲「釣狐」の緊迫感溢れる前半を、今回は袴狂言でご覧いただきます。

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能の「智恵子抄」については、以前にもちらっと書きましたが、上記解説に有るとおり、武智鉄二構成、観世寿夫により、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に初演されました。

下記画像は、昭和37年(1962)、名古屋の愛知文化講堂での公演「中日五流能」のパンフレットから。

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その後もちょぼちょぼ演じら001れた記録がありますが、決してその回数は多いものではありません。

この新作能に関しては、生前の光太郎も乗り気で、自ら面のデザインを考えていたほどでした。亡くなる前年の昭和30年(1955)頃のスケッチブックに、そのラフスケッチが残されています。結局、光太郎生前の上演は叶わず、光太郎デザインの面も実現しませんでしたが……。

昭和30年(1955)と翌年の光太郎日記から。

武智鉄二が「智恵子抄」を能でやりたい由、面会は不必要と返事、
(10月4日)

藤島宇内氏くる、武智鉄二氏の話を伝言、面のスケツチを示すこと、京都の或職人がそれによつて面打をすること、「智恵子抄」能形式演能のこと、(10月9日)

夕方藤島宇内氏くる、武智鉄二氏のテカミ持参、「智恵子抄」能楽化のこと、(1月8日)


武智の回想も残っています。昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」という記事。武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。

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武智  能のほうは能面でしょう。だからどうしていいか困りましてね。私、はじめは高村さんに智恵子という能面を作って下さいと云ってお願いしたんですよ。そうしたら大分その気持になられたらしかったんですが、いまは病気で駄目だから、五、六年待ってくれれば彫ると云われたんです。私のほうとしては、先生の健康状態がどういうふうだかよく分りませんでしたが、五、六年待っても智恵子の面が出来てからやるほうがいいと思っていたのです。しかし「自分の身体のために何年もの間待って貰うわけにいかないだろうから、それだったらほかの変な職人に彫らさないで、昔からの能面を使ってやってくれ」と云ってらしたんですよ。結局古い能面を使ってやることになったけれども、この間高村豊周さん(光太郎氏令弟)にお会いしてお話をうかがったら、光太郎先生もずいぶんと能のことを気にされて、能面のデッサンは描かれたんだそうです。それは私、まだ拝見してないんですけれども、あるんですって。それから智恵子は、いつもセーターを着てズボンをはいていることが多かったから、そういう恰好で能をしてくれという話で……。
水谷  エンジのセーターで、黒いズボンをはいていらしたそうですね。
武智  それで、奥村土牛さんに衣裳をお願いしたのですが、ともかくセーターにズボンを能の中でどういうふうに生かすかですね。何しろ足が二本ニューッと出てるのは、いままでの能にないんですよ。ですからやる人はとてもやりにくいらしいですね。
水谷  二人の智恵子が出るそうですが、どういうのですか?
武智  つまり、智恵子と気が狂った智恵子の二人が出るんです。美しい智恵子というのは高村さんの詩の中で歌(うた)い上げてる永遠の女性像の智恵子で、もう一人の智恵子は現実に追いつめられて気が狂うという……その二人をドッペルゲンガーみたいに一緒に出すんです。それは能だから出来るんですね。面(めん)をカブっていればいいんですからね。で、一人のは、気が狂ったような顔をした面で、衣裳も同じ模様の衣裳で、色が違うだけです。


ここまで書き写してみて、やはり観たかった、という思いが強く湧きました。ごく普通にチケットが買える状況で観られるよう、しょっちゅう演じられることを期待しますが、なかなか難しいのでしょうね……。


【折々のことば・光太郎】

世界諸国語の中でも日本語はよほど風変りである。日本の詩人はよく、「言(こと)だまの幸(さきお)う国」といつて日本語の美しさをたたえているが、これは、自国語はどこの国の人でもよく分るからそう思うのであつて、ドイツ人はドイツ語が世界でいちばん美しい国語だというし(ケーベル博士)、フランス人、イギリス人もそれぞれフランス語、イギリス語でなければ微妙な表現はできないと思つているようで、決して日本だけが、「言だまの幸う国」ではないのである。ただ日本人にとつては日本語でなければあらわせない美があるということに外ならない。

散文「日本詩歌の特質」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

戦後9年、もはや翼賛の呪縛から解き放たれた光太郎にとっては、「日本」は特別に敬愛すべきものでも、ことさらに唾棄すべきものでもない、世界の中の「日本」と化していることが伺えます。

純邦楽のコンサートです。
会   場 : 紀尾井ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時   間 : 18時30分開場 19時開演
料   金 : 3,000円(全席自由)
主   催 : オフィス朝香
後   援 : 公益財団法人 日本伝統文化振興財団
出   演 : 朝香麻美子   賛助出演 鈴木璋子(歌・箏)
曲   目 : 奥組 初音曲(山田検校 作曲)  那須野(山田検校 作曲)
        樹下の二人(高村光太郎 作詩 小山清茂 作曲)
        遠野(柳田國男 作歌 唯是震一 作曲)

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箏曲奏者・友渕のりえさんの委嘱による昭和50年(1975)作曲の「樹下の二人」がプログラムに入っています。初演もこの年でした。

作曲者の故・小山清茂氏のことば。

 此の曲を作曲するに当って、私は、出来るだけ自然な節回わしであり度いと願った。そして、幸福な二人を表現するため、音域を中庸に保つ様に気をつけた。
 昭和五十年作曲以来、何十回うたってくれたことでしょう。今、友渕さんの歌うのを聴けば、総べては全く自然そのもの、音符はおおよその目安にすぎなくなって「彼女のもの」になって居ることを感ずる。

その後、いろいろな方が取り上げられ、CDに収められたり、コンサートの演目になったりしています。


当方、平成26年(2014)、この曲が演奏された箏曲奏者の故・浜根由香さんのコンサート「浜根由香 東北を謳う」を聴きに、福島県南相馬市に行って参りました。その後、その際のライヴ録音のCDも入手。例によって連翹忌の宣伝をし、いずれ連翹忌で演奏していただきたいものだと思っておりましたが、浜根さん、昨年6月に亡くなられたそうで、ショックでした。

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改めまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの欲情のあるかぎり、 ほんとの為事は苦しいな。 美術といふ為事の奥は さういふ非情を要求するのだ。 まるでなければ話にならぬし、 よくよく知つて今は無いといふのがいい、 かりに智恵子が今出てきても 大いにはしやいで笑ふだけだろ。

連作詩「智恵子抄その後」中の「吹雪の夜の独白」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

「あの欲情」は、性欲を指します。「枯淡の境地」といいますが、そこに至るまでに乗り越えてきたものの大きさが重要だと思います。元々枯れていた、ではやはり深みがありません。紆余曲折や多大な犠牲があっての「枯淡」。そういう意味での「非情」なのでしょう。

今年10月に、福島県南相馬市で行われた邦楽奏者・浜根由香さんのコンサート「東北を謳う」のライブ録音CDが届きました。コンサートのレポートはこちら
 
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1曲目が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」で始まる光太郎詩「樹下の二人」に故・小山清茂が作曲したものです。
 
協賛チケットという形で、一口1,000円を振り込むと、こちらが送られてきます。当方、当日のコンサートも拝聴しましたが、CDも欲しかったので申し込みました。復興支援を兼ね、コンサート当日の分と合わせて、収益は市社会福祉協議会に寄付されたそうです。
 
CDと一緒に入っていた文書から抜粋引用します。
 
浜根由香~東北を謳う~南相馬コンサートのCDが完成しましたのでお届けします。
 
皆様のご支援のおかげで10月19日(日)、暖かな日差しとお客様に恵まれて無事にコンサートを終える事が出来ました。
 
そして協賛チケットの総売り上げは323枚、全国の皆様からのあたたかいご支援の気持を南相馬に届ける事が出来ました。後日、社会福祉協議会から感謝状を戴きました。
 
御協力いただき本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。 
 
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それから、「南相馬公演を終えて~今、改めて思う事~」という文書も同封されていました。
 
コンサートの打ち上げで、改めて世話人の方々に震災の話を伺いました。
 
その方達は避難せずに現地に留まった、正しくは事情があって避難出来なかった方達でした。いち早く避難した友人に「早く逃げろ」と言われても逃げるわけにはいかなかった。
とはいえ、地震直後の混乱の中では避難した方々にも正しい情報が届かないため、避難場所が南相馬よりも放射能の高い場所だったとは知らず、そこで沢の水を飲んだ人も居た…という生々しい話も沢山聞きました。
 
以前、除染のボランティアで南相馬を訪れた際、「他の場所にはボランティアはたくさん来るけれども放射能が怖いから此所にはあまり来ない。なんでわざわざ南相馬に?」との質問がありました。
「何かせずにはいられなかった。」と率直に気持を伝えましたが、
「なぜ?」の答えになっていないなぁ…と東京に帰ってからも考え続けていました。
 
「なぜ他ではなく、南相馬だったのか?」
 
今改めて考えると、原発が危ないものだと薄々知っていたのに声を上げなかった自分が許せなかったのですね。だから「何かせずにはいられなかった。」見えない放射能が残したものを自分の目で確かめなければ。と除染作業に参加したのです。それがきっかけとなり10/19のコンサート、そしてこのCDをお届けする運びとなりました。
 
今も電力が足りない訳ではないのに各地の原発が次々と再稼働を始めようとしています。今回の事故で明らかになったように人間はまだ原子力を扱いきれません。大都市の電力を賄う為に地方に原発を作るのは自分だけ良ければいいという都会的・身勝手な発想であり、政治的発想です。政治家は政治が仕。音楽家は音楽が仕事ですから、専門外の人の仕事は任せておけと言う風潮もありますが、どんな職業についてもその前に人間です。
人としてやってはいけない事には声を上げなくてはなりません。
音楽家は炭坑のカナリアと似ています。危険に気が付いたら真っ先に声を上げなければいけない、音楽の修行だけやっていればよい訳ではないと思うのです。
 
そんな思いが大層なチラシを全国に配る原動力となり、本当に多くの方達の後押しで気持ちを形にすることが出来ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 
東日本大震災から3年9ヶ月が経ちました。しかし、まだまだ「被災」は終わっていません。浜根さんのように、それぞれの皆さんが、それぞれの立ち位置で、できることをしていっていただきたいものです。
 
追記  浜根由香さんは、平成28年(2016)6月、胃ガンのため亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月12日
 
大正3年(1914)の今日、雑誌『美術新報』に、散文「バーナード リーチ君に就いて」が掲載されました。
 
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昨日、箏曲奏者の下野戸亜弓さんの新しいアルバム「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」をご紹介しました。
 
他にも光太郎がらみの箏曲作品などを収めた音盤、楽譜類がいろいろあるのでご紹介します。

日本の唄 友渕のりえの世界

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平成3年(1991)リリースのCDです。廃盤となっており、入手は困難かと思います。
 
下野戸さんの「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」にも収録されている小山清茂作曲「樹下の二人」が収められています。唄と箏は友渕さん。
 
もともとこの曲は昭和50年(1975)、友渕さんにより委嘱されて作られたものです。
 
その楽譜がこちら。

赤土になる妹・樹下の二人

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昭和52年(1977)全音楽譜から刊行。こちらは現在でも入手可能です。
 
 
楽譜、といえば当方、こんなものも入手しました。

坂本勉作曲箏曲楽譜 地上のモナ・リザ

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光太郎の詩「地上のモナ・リザ」に曲を付けたもので、楽譜自体の刊行は昭和54年(1979)。初演は光太郎存命中の昭和30年(1955)に京都で行われたそうです。解説によると、「独唱・合奏からなり、さらに洋楽器を加えた、邦楽的なオーケストラと、合唱のための曲」とのこと。
 
カセットテープも販売されています。
 
この時のプログラム、パンフレット等を探していますが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。
 
先述の「樹下の二人」の楽譜はまがりなりにも五線譜で書かれています(それでも一般的な器楽や声楽の楽譜とはいろいろ異なりますが)ので、判読できます。しかしこちらは箏用の楽譜で、さっぱりわかりません。暗号のようです(笑)。

 
もう一点、別の曲が収められたCDです。

人間国宝 米川敏子 箏の魅力~オリジナル作品編

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題名の通り、人間国宝に認定された箏曲奏者・米川敏子さんのCDです。こちらも廃盤ですが、通販サイトなどでぎりぎり在庫が残っているようです。平成9年(1997)の発行。元はアナログレコードだったものの覆刻のようです。
 
やはり光太郎存命中の昭和28年(1953)に作曲され、その年の芸術祭奨励賞を受けた「千鳥と遊ぶ智恵子」が収められています。演奏は箏高音・米川敏子、十七絃・米川裕枝、ソプラノ・長門美保となっています。

さらにもう一点。

現代箏曲 清水脩作品集

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LPレコードで、発行年は不明です。
 
昭和34年(1959)に作曲された「智恵子抄より」が収められています。箏・松尾恵子、伴奏・ルビーノ・アンサンブル、歌詞ではなく朗読で竹脇無我さんと栗原小巻さん。ラインナップは「人に」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」です。復刻版CDが出ているようです。

 
さまざまな方が光太郎智恵子の世界を表現して下さっていて、ありがたいかぎりです。

 
【今日は何の日・光太郎】 9月12日

昭和54年(1979)の今日、『読売新聞』で、千駄木の高村家から光太郎の姉・咲の膨大な画稿と光太郎の臨画5点が発見されたことが報じられました。
 
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光太郎の臨画は全て明治30年(1897)前後のもの。東京美術学校に入学したのが明治30年、数え15歳。その前年には美校の予備課程的な共立美術学館に通っています。その頃に学校の課題として描いたものと推測されますが、少年の作品とは思えない出来ですね。

先月リリースされたCDです。 

万葉の恋歌 箏歌<KotoUta>をうたう

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箏曲奏者・下野戸亜弓さんの新作です。昭和50年(1975)に、作曲家・小山清茂によって作られた光太郎詩「樹下の二人」が収録されています。
 
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下野戸さんは山田流箏・三味線・歌、古典からオリジナルを含めた現代曲までさまざまな曲を演奏されているそうです。特に宮澤賢治の詩に曲を付けたものを多く手がけられているようです。
 
「樹下の二人」は下野戸さんの平成17年(2005)のライヴ録音CD「下野戸亜弓箏曲リサイタル2005」にも収録されており、当方、そちらも持っていますが、今回のものとは別テイクです。
 
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先日のこのブログの「今日は何の日・光太郎」で、戦時中に箏曲奏者の今井慶松が光太郎の「真珠港特別攻撃隊」に曲を付け、演奏した旨書きましたが、光太郎作品が箏曲で取り上げられるケースが意外にたくさんあります。
 
CDや楽譜等も複数販売されており、明日はその辺りをご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月11日

大正3年(1914)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の詩「無題録」が掲載されました。
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  無題録
 
 いとほしい髪の一すじより
 感情のはげしい瞬刻の閃光まで
 私にとつては宝玉だ
 抜きさしならない玉條だ
 よろこびは朗らかに魂身に燃え
 日輪は大なるひまはり草に祝福す
 いのちは一切の生にとゞまる
 抹殺と添削との卑穢な人間の想像こそは痛ましけれ
 そのアツピアランスの魂こそは痛ましけれ
 われを嘆けば
 あまくいたきアマリリスの赤さ
 直覚をすつるは
 罪悪に値す
 きりぎりす
 すいつちよう
 啼くはわれのみかは
 君ゆゑに
 あひたさゆゑに
 つくづくし
 うらの森にしぐれふる
 青いしぐれ――
 散る木の葉
 
現在確認できている智恵子の唯一の詩です。

コンサート情報です。 

第八回邦楽器とともに―新しい日本歌曲の夕べ― 新作歌曲を揃えて

【日時】2013年8月30日(金)18:00開場、18:30開演
【会場】津田ホール(東京・千駄ヶ谷)
【料金】全席自由3,500円
【後援】日本作曲家協議会、日本現代音楽協会、邦楽ジャーナル
 
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プログラムの中に、光太郎関連で以下があります。トリのようです。
 
「荒涼たる帰宅」
 詩:高村光太郎、曲:田丸彩和子、歌:小畑秀樹
 篠笛・尺八:設楽瞬山、薩摩琵琶:岩佐鶴丈
 
「一般社団法人 波の会日本歌曲振興会」さんは、日本における芸術歌曲の一層の普及、振興を図るという理念のもと、日本歌曲の創作、演奏及び普及に関する事業を行っているそうです。
 
「荒涼たる帰宅」作曲者の田丸彩和子さんのHPはこちら
 
当方、ぜひ聴きに行きたいのですが、当日は岡山に行っておりますので残念ながら欠礼いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月18日

昭和10年(1935)の今日、渡航したまま20年近く音信が途絶えがちだった弟、道利を神戸に迎えに行きました。
 
光太郎は長男、道利は次男です。さらにその下の三男・豊周の回想によれば、道利ははじめ軍人志望だっったのを光雲に反対され断念、東京外語学校を卒業したものの定職に就かず、見かねた光太郎が画廊・琅玕洞の店主に据えたものの、店自体が長続きせず、その上結婚も光雲に反対されて、大正の中頃に半分ヤケになって渡欧したそうです。
 
欧州では何か執筆をして糊口をしのいでいたようですが、詳細は不明。結局、フランスの慈善病院のようなところに入院、日本大使館から「送還するので引き取ってほしい」的な連絡が高村家にあったとのこと。
 
その道利は昭和20年(1945)に事故死しますが、非常に謎の多い人物です。

今朝になって気づきましたが、本日、13時27分からNHK総合テレビで放映の「スタジオパークからこんにちは」が、「アンコール特集 渡辺えり」です。少し前に放送されたものの再放送で、当方、本放送は見逃したのですが、えりさんのお父さんと光太郎の交流に関する話も含まれていたとのこと。ご覧下さい。
 
さて、話は変わって、檜書店さんという出版社が刊行している月刊誌で『観世』というものがあります。その名の通り、能楽観世流の機関誌のようなものではないかと推察します。
 
その『観世』の今月号に、「観世寿夫と『智恵子抄』」という記事が載っています。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、早速取り寄せました。
 
著者は宗教学者の山折哲雄氏で、同誌の連載「能を考える」の第十七回。6ページにわたって掲載されています。
 
題名にある「観世寿夫」は観世流のシテ方でしたが、昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を作り、上演しています。構成・演出は映画監督の武智鐵二。観世寿夫自身も光太郎役で出演しています。
 
初演は昭和32年ですから光太郎没後ですが、生前からこの話が進んでおり、光太郎の日記に武智の名と能楽「智恵子抄」に関する記述があります。また、それなら、と、能面のデザインも光太郎が手がけようとし、そのためのスケッチも残っています。ちなみにこの能面のスケッチ、現在開催中の千葉市美術館の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で展示中です。ただ、光太郎デザインの能面は結局実現しませんでした。
 
さて、『観世』の記事。観世寿夫を祖とする「銕仙会」に残る能楽「智恵子抄」の録音を、山折氏が聴いたことが書かれています。
 
曰く、
 
観世寿夫の声をきいているうちに、『智恵子抄』の言葉の一つひとつがまるで能舞台の上に這いのぼってくるような光景がみえはじめ、それがまぼろしのごとく揺らぎはじめていることに気がついた。起伏に富む現代詩の言葉が能の詩章の海にほとんど融けこんでしまっている。その両者のあいだをへだてる障壁が、それと気づかせないうちに取り払われていたのである。光太郎の詩の言葉が謡のリズムのなかに吸いこまれてしまったのか、謡の調べが詩の言葉の流れに融解してしまっているのか、それが判然としない…。
 
要するに何の違和感もなく、光太郎の詩句が謡曲として成立しているということですね。
 
そして山折氏、この新作能の背景には、謡曲「安達原」が色濃く影響していると指摘しています。まぁ、誰しもそう感じるところでしょう。
 
「安達原」は有名な鬼女伝説を元にした能の演目で(観世流以外では「黒塚」)、その舞台となったのがまさに智恵子の故郷、二本松の旧安達地区です。
 
平安時代の『拾遺和歌集』には平兼盛の作として、この安達ヶ原の鬼女伝説をモチーフにした次の歌が載っています。
 
陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
 
そして光太郎はそれを受けて、詩「樹下の二人」の冒頭に、詞書のように次の短歌を添えています。ある意味、本歌取りのようです。
 
みちのくの安達が原の二本松松の根方に人立てる見ゆ
 
「樹下の二人」は、この後、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と続くのです。
 
この「樹下の二人」、能「智恵子抄」でも使われています。山折氏によれば、観世寿夫は先述の光太郎短歌の背後に、謡曲「黒塚」があることを読み取っていたはず、というのです。それもそのとおりでしょう。
 
話は変わりますが、今月28日(水)に、国立能楽堂で行われる「能楽座自主公演」の演目に、「舞囃子「智恵子抄」」の文字が見えます。
 
こちらもぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月5日

昭和30年(1955)の今日、ラジオで日米対抗水泳大会の中継を聴きました。

昨夜、当方の住む千葉県香取市にある香取神宮にて開催された薪能を観て参りました。
 
演目は狂言「附子(ぶす)」、能「葵上(あおいのうえ)」。光太郎智恵子とは直接関係ありません。
 
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香取神宮には朱塗りの楼門があり、その下は幅広で長い石段があります。その石段と、石段下のスペースにパイプ椅子を並べて客席としていました。着物を着ていったので、石段ではちょっと困るな、と思ったら、幸い、椅子席にありつけました。
 
開演は午後六時。開演に先立って篝火に火が入り、三分咲きの桜、霞んだ空にはうっすらと月。いい感じでした。観衆もざっと見たところ400~500くらいいたのではないかと思いました。こうした伝統芸能のイベントに多くの人が集まるというのは素晴らしいと思います。手前味噌になりますが、「小江戸」と称され、伝統文化を大切にしている香取という街だからかと思います。
 
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はじめは狂言「附子」。昨今のテレビのお笑いなどと較べると、テンポが非常にゆったりとしています。しかし、それがいいと思いました。
 
続いて能「葵上」。狂言から一転、幽妙な世界に。囃子方や地謡の方々を含め、総勢20名程で、かなり本格的でした。遠目にも、前シテの六条御息所の生霊の泥顔面、後シテの般若面など、鬼気迫るものがありました。
 
ところで、光太郎には能に関する文章がいくつかあります。そのうち、昭和19年(1944)に書かれた「能の彫刻美」という評論では、次のように語っています。
 
能はいはゆる綜合芸術の一つであるから、あらゆる芸術の分子がその舞台の上で融合し展開せられる。その融合の微妙さとその展開の為方の緊密にしてしかも円転自在な構成の美しさとに観る者は打たれる。しかし私のやうな彫刻家が能を観るたびにとりわけ感ずるのはその彫刻美である。他の舞台芸術に絶えてないほど能には彫刻的分子が多い。能は彫刻の延長であるもののやうな気さへしてくる。
 
さて、昨日の「葵上」の演者は観世流の皆さんでした。観世流といえば、光太郎とも関連があります。
 
昭和32年(1957)に、映画監督・演劇評論家の武智鉄二作、観世寿夫作曲で新作能「智恵子抄」が作られているのです。
 
それを思い出してネットで調べていましたら、近々「智恵子抄」が上演されることが判りました。やはり薪能で、岡山県倉敷市の不洗観音寺さんというお寺で、5月17日(金)の18:00開演です。
 
(追記4/10)上記の部分、訂正です。こちらは数年前の情報との事。岡山在住の方からご指摘を頂きました。曜日が同じなのでてっきり今年と思いこんでいました。問い合わせ等されてしまった方、申し訳ありませんでした。
 
能にしても狂言にしても、日本の誇る伝統芸能。こうしたものの火を絶やさないようにしてほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】3月24日

昭和14年(1939)の今日、十字屋書店版『宮沢賢治全集』出版のための相談会に出席しました。
 
光太郎、そして草野心平らのこうした活動の結果、生前には無名だった宮沢賢治が世に知られていくことになるのです。

歌舞伎俳優の十二代市川團十郎さんの訃報が駆け巡りました。
 
光太郎は、十二代團十郎さんの曾祖父に当たる九代團十郎のファンで、青年期にはよく舞台を観に行っていましたし、2度、彫刻を手がけています(残念ながら2点とも現存しません)。
 
一度目は東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中の明治37年(1904)。当時の日記に記述があるのですが、油土を使ったレリーフでした。
 
二度目は昭和12年(1937)から翌13年(1938)にかけて。この時は粘土の塑像でした。しかし、未完成に終わっています。光太郎曰く「それから九代目團十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。團十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまつた。今もそのままになつてゐるが、これはもう一度必ず作り直す気でゐる。」(「自作肖像漫談」昭和15年=1940『高村光太郎全集』第9巻)。しかし、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろともこの像も焼けてしまいました。
 
二度目の像を作っている最中に書いた散文や詩も伝わっています。
 
まず散文「九代目團十郎の首」(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終つたわけである。彼は俳優といふ職業柄、明治文化の総和をその肉体で示してゐた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。
(中略)
 私は今、かねての念願を果たさうとして團十郎の首を彫刻してゐる。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたつてゐた。私の脳裏には夙くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取つてしまつてゐた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。
(後略)

さらに「團十郎像由来」という詩(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第2巻)も書かれました。
 
   團十郎像由来
 
 不動の剣をのみこそしないが001
 おびただしい悪血をはいたわたくしは
 おこさまのやうに透きとほつてしまつた
 精神に於けるオオロラの発光は
 わたくしを青年期高層圏の磁気嵐に追つた
 明治文化の強力な放電体
 九代目市川團十郎にばつたり出あつた
 巨大な彼の凝視に世紀のイデアはとほく射ぬかれ
 腹にこたへる彼のつらねに幾代の血の夢幻は震へ
 彼のさす手ひく手に精密無比の比例は生れ
 軽く浮けば有るか無きかの鷺娘
 山となれば力の権五郎
 一切の人間力の極限を
 生きの身に現じたこの怪物は
 無口なやさしい一個の老人
 品川沖に絲を垂れ
 茅が崎の庭でおでんをくふ
 わたしは捉へ難きものに捉へられ
 茫茫として春夏秋冬を粘土にうもれ
 あの一小舞台から吹き起る
 とめてとまらぬ明治の息吹を
 架空構築にうけとめようと
 新らしい造血作用を身うちに燃やして
 今は絶体絶命の崖の端まで来てしまつた
 
「昭和」に入って「明治」を懐かしみ、「明治」を代表する人物の一人して、九代團十郎を作ろうと思ったようです。
「平成」も25年。「昭和」の名優がまた一人亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月6日

昭和16年(1941)の今日、JOAKラジオ(現・NHK東京)で、光太郎作詞の歌曲「歩くうた」が柳兼子の歌で放送されました。

柳兼子は白樺派の美学者・柳宗悦の妻です。

新しい資料ではありませんが、最近入手したものを紹介します。 

「横笛物語 第三巻」福原一笛 CDアルバム 定価2381円+税

  
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横笛奏者、福原一笛さんのCDです。
 
「智恵子と空」「霞ヶ城幻想曲」という曲が収録されています。流行りの言葉で言えば智恵子へのオマージュといったところでしょうか。平成8年(1996)のライブ録音だそうです。
 
福原さんのHPを拝見しましたが、人間国宝の横笛奏者、故・寶山左衛門(たから・やまざえもん)氏に師事なさったとのこと。
 
寶氏のCD「笛のこころ」は以前から持っており、そちらにも「智恵子と空」が収録されています。
 
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「霞ヶ城幻想曲」の方は、福原さんの作曲で、笛以外にシタール、タブラが使われており、不思議な感覚の曲です。ちなみに「霞ヶ城」は二本松霞ヶ城、智恵子の故郷にある城ですね。
 
こういったものも、誰かが気をつけて情報や現物の収集をしておかないとなりません。少し前に、戦時中の光太郎作詞の歌曲について、SPレコードやら楽譜やら、当時出たものをいろいろ調べていたのですが、たかだか数十年前の話なのに難航しました。
 
現代のものでもまだまだ当方の知らないものがいろいろあるようです。こんなものもある、という情報をお待ちしております。

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