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能の公演情報です。

しかし、観に行こうと思っていましたが、ほぼほぼ発売と同時に完売。ただ、もしかするとキャンセル等があるかもしれません。  
時 間 : 午後6時30分開演(終演予定午後8時30分頃)
場 所 : 国立能楽堂 東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目18-1
料 金 : 正面=6700円 脇正面=5600円(学生3900円) 中正面=4400円(学生3100円)
演 目 :
舞囃子新作 智恵子抄(ちえこしょう)  鵜澤久  櫻間金記
高村光太郎が、妻智恵子へのひたむきな愛を詠んだ『智恵子抄』。
武智鉄二が原作から選んだ詩と短歌で
構成して、昭和32年に発表した新作能を舞囃子で上演します。
狂言小謡 花の袖(はなのそで)  野村又三郎(和泉流)
独吟 泰山府君(たいさんぷくん)  松野恭憲(金剛流)
仕舞 小歌(こうた)  宝生和英(宝生流)
一調 放下僧(ほうかぞう)  岡久広  曽和正博
袴狂言 釣狐(つりぎつね) 前(まえ)  野村万作(和泉流)
一族を猟師に狩られた古狐は猟師の伯父に化け、狩りを止めるよう猟師のところへ意見に行きます。 大曲「釣狐」の緊迫感溢れる前半を、今回は袴狂言でご覧いただきます。

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能の「智恵子抄」については、以前にもちらっと書きましたが、上記解説に有るとおり、武智鉄二構成、観世寿夫により、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に初演されました。

下記画像は、昭和37年(1962)、名古屋の愛知文化講堂での公演「中日五流能」のパンフレットから。

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その後もちょぼちょぼ演じら001れた記録がありますが、決してその回数は多いものではありません。

この新作能に関しては、生前の光太郎も乗り気で、自ら面のデザインを考えていたほどでした。亡くなる前年の昭和30年(1955)頃のスケッチブックに、そのラフスケッチが残されています。結局、光太郎生前の上演は叶わず、光太郎デザインの面も実現しませんでしたが……。

昭和30年(1955)と翌年の光太郎日記から。

武智鉄二が「智恵子抄」を能でやりたい由、面会は不必要と返事、
(10月4日)

藤島宇内氏くる、武智鉄二氏の話を伝言、面のスケツチを示すこと、京都の或職人がそれによつて面打をすること、「智恵子抄」能形式演能のこと、(10月9日)

夕方藤島宇内氏くる、武智鉄二氏のテカミ持参、「智恵子抄」能楽化のこと、(1月8日)


武智の回想も残っています。昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」という記事。武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。

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武智  能のほうは能面でしょう。だからどうしていいか困りましてね。私、はじめは高村さんに智恵子という能面を作って下さいと云ってお願いしたんですよ。そうしたら大分その気持になられたらしかったんですが、いまは病気で駄目だから、五、六年待ってくれれば彫ると云われたんです。私のほうとしては、先生の健康状態がどういうふうだかよく分りませんでしたが、五、六年待っても智恵子の面が出来てからやるほうがいいと思っていたのです。しかし「自分の身体のために何年もの間待って貰うわけにいかないだろうから、それだったらほかの変な職人に彫らさないで、昔からの能面を使ってやってくれ」と云ってらしたんですよ。結局古い能面を使ってやることになったけれども、この間高村豊周さん(光太郎氏令弟)にお会いしてお話をうかがったら、光太郎先生もずいぶんと能のことを気にされて、能面のデッサンは描かれたんだそうです。それは私、まだ拝見してないんですけれども、あるんですって。それから智恵子は、いつもセーターを着てズボンをはいていることが多かったから、そういう恰好で能をしてくれという話で……。
水谷  エンジのセーターで、黒いズボンをはいていらしたそうですね。
武智  それで、奥村土牛さんに衣裳をお願いしたのですが、ともかくセーターにズボンを能の中でどういうふうに生かすかですね。何しろ足が二本ニューッと出てるのは、いままでの能にないんですよ。ですからやる人はとてもやりにくいらしいですね。
水谷  二人の智恵子が出るそうですが、どういうのですか?
武智  つまり、智恵子と気が狂った智恵子の二人が出るんです。美しい智恵子というのは高村さんの詩の中で歌(うた)い上げてる永遠の女性像の智恵子で、もう一人の智恵子は現実に追いつめられて気が狂うという……その二人をドッペルゲンガーみたいに一緒に出すんです。それは能だから出来るんですね。面(めん)をカブっていればいいんですからね。で、一人のは、気が狂ったような顔をした面で、衣裳も同じ模様の衣裳で、色が違うだけです。


ここまで書き写してみて、やはり観たかった、という思いが強く湧きました。ごく普通にチケットが買える状況で観られるよう、しょっちゅう演じられることを期待しますが、なかなか難しいのでしょうね……。


【折々のことば・光太郎】

世界諸国語の中でも日本語はよほど風変りである。日本の詩人はよく、「言(こと)だまの幸(さきお)う国」といつて日本語の美しさをたたえているが、これは、自国語はどこの国の人でもよく分るからそう思うのであつて、ドイツ人はドイツ語が世界でいちばん美しい国語だというし(ケーベル博士)、フランス人、イギリス人もそれぞれフランス語、イギリス語でなければ微妙な表現はできないと思つているようで、決して日本だけが、「言だまの幸う国」ではないのである。ただ日本人にとつては日本語でなければあらわせない美があるということに外ならない。

散文「日本詩歌の特質」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

戦後9年、もはや翼賛の呪縛から解き放たれた光太郎にとっては、「日本」は特別に敬愛すべきものでも、ことさらに唾棄すべきものでもない、世界の中の「日本」と化していることが伺えます。

純邦楽のコンサートです。
会   場 : 紀尾井ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時   間 : 18時30分開場 19時開演
料   金 : 3,000円(全席自由)
主   催 : オフィス朝香
後   援 : 公益財団法人 日本伝統文化振興財団
出   演 : 朝香麻美子   賛助出演 鈴木璋子(歌・箏)
曲   目 : 奥組 初音曲(山田検校 作曲)  那須野(山田検校 作曲)
        樹下の二人(高村光太郎 作詩 小山清茂 作曲)
        遠野(柳田國男 作歌 唯是震一 作曲)

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箏曲奏者・友渕のりえさんの委嘱による昭和50年(1975)作曲の「樹下の二人」がプログラムに入っています。初演もこの年でした。

作曲者の故・小山清茂氏のことば。

 此の曲を作曲するに当って、私は、出来るだけ自然な節回わしであり度いと願った。そして、幸福な二人を表現するため、音域を中庸に保つ様に気をつけた。
 昭和五十年作曲以来、何十回うたってくれたことでしょう。今、友渕さんの歌うのを聴けば、総べては全く自然そのもの、音符はおおよその目安にすぎなくなって「彼女のもの」になって居ることを感ずる。

その後、いろいろな方が取り上げられ、CDに収められたり、コンサートの演目になったりしています。


当方、平成26年(2014)、この曲が演奏された箏曲奏者の故・浜根由香さんのコンサート「浜根由香 東北を謳う」を聴きに、福島県南相馬市に行って参りました。その後、その際のライヴ録音のCDも入手。例によって連翹忌の宣伝をし、いずれ連翹忌で演奏していただきたいものだと思っておりましたが、浜根さん、昨年6月に亡くなられたそうで、ショックでした。

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改めまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの欲情のあるかぎり、 ほんとの為事は苦しいな。 美術といふ為事の奥は さういふ非情を要求するのだ。 まるでなければ話にならぬし、 よくよく知つて今は無いといふのがいい、 かりに智恵子が今出てきても 大いにはしやいで笑ふだけだろ。

連作詩「智恵子抄その後」中の「吹雪の夜の独白」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

「あの欲情」は、性欲を指します。「枯淡の境地」といいますが、そこに至るまでに乗り越えてきたものの大きさが重要だと思います。元々枯れていた、ではやはり深みがありません。紆余曲折や多大な犠牲があっての「枯淡」。そういう意味での「非情」なのでしょう。

今年10月に、福島県南相馬市で行われた邦楽奏者・浜根由香さんのコンサート「東北を謳う」のライブ録音CDが届きました。コンサートのレポートはこちら
 
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1曲目が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」で始まる光太郎詩「樹下の二人」に故・小山清茂が作曲したものです。
 
協賛チケットという形で、一口1,000円を振り込むと、こちらが送られてきます。当方、当日のコンサートも拝聴しましたが、CDも欲しかったので申し込みました。復興支援を兼ね、コンサート当日の分と合わせて、収益は市社会福祉協議会に寄付されたそうです。
 
CDと一緒に入っていた文書から抜粋引用します。
 
浜根由香~東北を謳う~南相馬コンサートのCDが完成しましたのでお届けします。
 
皆様のご支援のおかげで10月19日(日)、暖かな日差しとお客様に恵まれて無事にコンサートを終える事が出来ました。
 
そして協賛チケットの総売り上げは323枚、全国の皆様からのあたたかいご支援の気持を南相馬に届ける事が出来ました。後日、社会福祉協議会から感謝状を戴きました。
 
御協力いただき本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。 
 
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それから、「南相馬公演を終えて~今、改めて思う事~」という文書も同封されていました。
 
コンサートの打ち上げで、改めて世話人の方々に震災の話を伺いました。
 
その方達は避難せずに現地に留まった、正しくは事情があって避難出来なかった方達でした。いち早く避難した友人に「早く逃げろ」と言われても逃げるわけにはいかなかった。
とはいえ、地震直後の混乱の中では避難した方々にも正しい情報が届かないため、避難場所が南相馬よりも放射能の高い場所だったとは知らず、そこで沢の水を飲んだ人も居た…という生々しい話も沢山聞きました。
 
以前、除染のボランティアで南相馬を訪れた際、「他の場所にはボランティアはたくさん来るけれども放射能が怖いから此所にはあまり来ない。なんでわざわざ南相馬に?」との質問がありました。
「何かせずにはいられなかった。」と率直に気持を伝えましたが、
「なぜ?」の答えになっていないなぁ…と東京に帰ってからも考え続けていました。
 
「なぜ他ではなく、南相馬だったのか?」
 
今改めて考えると、原発が危ないものだと薄々知っていたのに声を上げなかった自分が許せなかったのですね。だから「何かせずにはいられなかった。」見えない放射能が残したものを自分の目で確かめなければ。と除染作業に参加したのです。それがきっかけとなり10/19のコンサート、そしてこのCDをお届けする運びとなりました。
 
今も電力が足りない訳ではないのに各地の原発が次々と再稼働を始めようとしています。今回の事故で明らかになったように人間はまだ原子力を扱いきれません。大都市の電力を賄う為に地方に原発を作るのは自分だけ良ければいいという都会的・身勝手な発想であり、政治的発想です。政治家は政治が仕。音楽家は音楽が仕事ですから、専門外の人の仕事は任せておけと言う風潮もありますが、どんな職業についてもその前に人間です。
人としてやってはいけない事には声を上げなくてはなりません。
音楽家は炭坑のカナリアと似ています。危険に気が付いたら真っ先に声を上げなければいけない、音楽の修行だけやっていればよい訳ではないと思うのです。
 
そんな思いが大層なチラシを全国に配る原動力となり、本当に多くの方達の後押しで気持ちを形にすることが出来ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
 
 
東日本大震災から3年9ヶ月が経ちました。しかし、まだまだ「被災」は終わっていません。浜根さんのように、それぞれの皆さんが、それぞれの立ち位置で、できることをしていっていただきたいものです。
 
追記  浜根由香さんは、平成28年(2016)6月、胃ガンのため亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月12日
 
大正3年(1914)の今日、雑誌『美術新報』に、散文「バーナード リーチ君に就いて」が掲載されました。
 
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昨日、箏曲奏者の下野戸亜弓さんの新しいアルバム「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」をご紹介しました。
 
他にも光太郎がらみの箏曲作品などを収めた音盤、楽譜類がいろいろあるのでご紹介します。 

日本の唄 友渕のりえの世界

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平成3年(1991)リリースのCDです。廃盤となっており、入手は困難かと思います。
 
下野戸さんの「万葉の恋歌 箏歌〈Koto Uta〉をうたう」にも収録されている小山清茂作曲「樹下の二人」が収められています。唄と箏は友渕さん。
 
もともとこの曲は昭和50年(1975)、友渕さんにより委嘱されて作られたものです。
 
その楽譜がこちら。  

赤土になる妹・樹下の二人

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昭和52年(1977)全音楽譜から刊行。こちらは現在でも入手可能です。
 
 
楽譜、といえば当方、こんなものも入手しました。  

坂本勉作曲箏曲楽譜 地上のモナ・リザ

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光太郎の詩「地上のモナ・リザ」に曲を付けたもので、楽譜自体の刊行は昭和54年(1979)。初演は光太郎存命中の昭和30年(1955)に京都で行われたそうです。解説によると、「独唱・合奏からなり、さらに洋楽器を加えた、邦楽的なオーケストラと、合唱のための曲」とのこと。
 
カセットテープも販売されています。
 
この時のプログラム、パンフレット等を探していますが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。
 
先述の「樹下の二人」の楽譜はまがりなりにも五線譜で書かれています(それでも一般的な器楽や声楽の楽譜とはいろいろ異なりますが)ので、判読できます。しかしこちらは箏用の楽譜で、さっぱりわかりません。暗号のようです(笑)。

 
もう一点、別の曲が収められたCDです。  

人間国宝 米川敏子 箏の魅力~オリジナル作品編

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題名の通り、人間国宝に認定された箏曲奏者・米川敏子さんのCDです。こちらも廃盤ですが、通販サイトなどでぎりぎり在庫が残っているようです。平成9年(1997)の発行。元はアナログレコードだったものの覆刻のようです。
 
やはり光太郎存命中の昭和28年(1953)に作曲され、その年の芸術祭奨励賞を受けた「千鳥と遊ぶ智恵子」が
収められています。演奏は箏高音・米川敏子、十七絃・米川裕枝、ソプラノ・長門美保となっています。
 

さらにもう一点。  

現代箏曲 清水脩作品集

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LPレコードで、発行年は不明です。
 
昭和34年(1959)に作曲された「智恵子抄より」が収められています。箏・松尾恵子、伴奏・ルビーノ・アンサンブル、歌詞ではなく朗読で竹脇無我さんと栗原小巻さん。ラインナップは「人に」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」です。復刻版CDが出ているようです。

 
さまざまな方が光太郎智恵子の世界を表現して下さっていて、ありがたいかぎりです。

 
【今日は何の日・光太郎】 9月12日

昭和54年(1979)の今日、『読売新聞』で、千駄木の高村家から光太郎の姉・咲の膨大な画稿と光太郎の臨画5点が発見されたことが報じられました。
 
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光太郎の臨画は全て明治30年(1897)前後のもの。東京美術学校に入学したのが明治30年、数え15歳。その前年には美校の予備課程的な共立美術学館に通っています。その頃に学校の課題として描いたものと推測されますが、少年の作品とは思えない出来ですね。

先月リリースされたCDです。 

万葉の恋歌 箏歌<KotoUta>をうたう

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箏曲奏者・下野戸亜弓さんの新作です。昭和50年(1975)に、作曲家・小山清茂によって作られた光太郎詩「樹下の二人」が収録されています。
 
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下野戸さんは山田流箏・三味線・歌、古典からオリジナルを含めた現代曲までさまざまな曲を演奏されているそうです。特に宮澤賢治の詩に曲を付けたものを多く手がけられているようです。
 
「樹下の二人」は下野戸さんの平成17年(2005)のライヴ録音CD「下野戸亜弓箏曲リサイタル2005」にも収録されており、当方、そちらも持っていますが、今回のものとは別テイクです。
 
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先日のこのブログの「今日は何の日・光太郎」で、戦時中に箏曲奏者の今井慶松が光太郎の「真珠港特別攻撃隊」に曲を付け、演奏した旨書きましたが、光太郎作品が箏曲で取り上げられるケースが意外にたくさんあります。
 
CDや楽譜等も複数販売されており、明日はその辺りをご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月11日

大正3年(1914)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の詩「無題録」が掲載されました。
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  無題録
 
 いとほしい髪の一すじより
 感情のはげしい瞬刻の閃光まで
 私にとつては宝玉だ
 抜きさしならない玉條だ
 よろこびは朗らかに魂身に燃え
 日輪は大なるひまはり草に祝福す
 いのちは一切の生にとゞまる
 抹殺と添削との卑穢な人間の想像こそは痛ましけれ
 そのアツピアランスの魂こそは痛ましけれ
 われを嘆けば
 あまくいたきアマリリスの赤さ
 直覚をすつるは
 罪悪に値す
 きりぎりす
 すいつちよう
 啼くはわれのみかは
 君ゆゑに
 あひたさゆゑに
 つくづくし
 うらの森にしぐれふる
 青いしぐれ――
 散る木の葉
 
現在確認できている智恵子の唯一の詩です。

コンサート情報です。 

第八回邦楽器とともに―新しい日本歌曲の夕べ― 新作歌曲を揃えて

【日時】2013年8月30日(金)18:00開場、18:30開演
【会場】津田ホール(東京・千駄ヶ谷)
【料金】全席自由3,500円
【後援】日本作曲家協議会、日本現代音楽協会、邦楽ジャーナル
 
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プログラムの中に、光太郎関連で以下があります。トリのようです。
 
「荒涼たる帰宅」
 詩:高村光太郎、曲:田丸彩和子、歌:小畑秀樹
 篠笛・尺八:設楽瞬山、薩摩琵琶:岩佐鶴丈
 
「一般社団法人 波の会日本歌曲振興会」さんは、日本における芸術歌曲の一層の普及、振興を図るという理念のもと、日本歌曲の創作、演奏及び普及に関する事業を行っているそうです。
 
「荒涼たる帰宅」作曲者の田丸彩和子さんのHPはこちら
 
当方、ぜひ聴きに行きたいのですが、当日は岡山に行っておりますので残念ながら欠礼いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月18日

昭和10年(1935)の今日、渡航したまま20年近く音信が途絶えがちだった弟、道利を神戸に迎えに行きました。
 
光太郎は長男、道利は次男です。さらにその下の三男・豊周の回想によれば、道利ははじめ軍人志望だっったのを光雲に反対され断念、東京外語学校を卒業したものの定職に就かず、見かねた光太郎が画廊・琅玕洞の店主に据えたものの、店自体が長続きせず、その上結婚も光雲に反対されて、大正の中頃に半分ヤケになって渡欧したそうです。
 
欧州では何か執筆をして糊口をしのいでいたようですが、詳細は不明。結局、フランスの慈善病院のようなところに入院、日本大使館から「送還するので引き取ってほしい」的な連絡が高村家にあったとのこと。
 
その道利は昭和20年(1945)に事故死しますが、非常に謎の多い人物です。

今朝になって気づきましたが、本日、13時27分からNHK総合テレビで放映の「スタジオパークからこんにちは」が、「アンコール特集 渡辺えり」です。少し前に放送されたものの再放送で、当方、本放送は見逃したのですが、えりさんのお父さんと光太郎の交流に関する話も含まれていたとのこと。ご覧下さい。
 
さて、話は変わって、檜書店さんという出版社が刊行している月刊誌で『観世』というものがあります。その名の通り、能楽観世流の機関誌のようなものではないかと推察します。
 
その『観世』の今月号に、「観世寿夫と『智恵子抄』」という記事が載っています。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、早速取り寄せました。
 
著者は宗教学者の山折哲雄氏で、同誌の連載「能を考える」の第十七回。6ページにわたって掲載されています。
 
題名にある「観世寿夫」は観世流のシテ方でしたが、昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を作り、上演しています。構成・演出は映画監督の武智鐵二。観世寿夫自身も光太郎役で出演しています。
 
初演は昭和32年ですから光太郎没後ですが、生前からこの話が進んでおり、光太郎の日記に武智の名と能楽「智恵子抄」に関する記述があります。また、それなら、と、能面のデザインも光太郎が手がけようとし、そのためのスケッチも残っています。ちなみにこの能面のスケッチ、現在開催中の千葉市美術館の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で展示中です。ただ、光太郎デザインの能面は結局実現しませんでした。
 
さて、『観世』の記事。観世寿夫を祖とする「銕仙会」に残る能楽「智恵子抄」の録音を、山折氏が聴いたことが書かれています。
 
曰く、
 
観世寿夫の声をきいているうちに、『智恵子抄』の言葉の一つひとつがまるで能舞台の上に這いのぼってくるような光景がみえはじめ、それがまぼろしのごとく揺らぎはじめていることに気がついた。起伏に富む現代詩の言葉が能の詩章の海にほとんど融けこんでしまっている。その両者のあいだをへだてる障壁が、それと気づかせないうちに取り払われていたのである。光太郎の詩の言葉が謡のリズムのなかに吸いこまれてしまったのか、謡の調べが詩の言葉の流れに融解してしまっているのか、それが判然としない…。
 
要するに何の違和感もなく、光太郎の詩句が謡曲として成立しているということですね。
 
そして山折氏、この新作能の背景には、謡曲「安達原」が色濃く影響していると指摘しています。それはそのとおりでしょう。
 
「安達原」は有名な鬼女伝説を元にした能の演目で(観世流以外では「黒塚」)、その舞台となったのがまさに智恵子の故郷、二本松の旧安達地区です。
 
平安時代の『拾遺和歌集』には平兼盛の作として、この安達ヶ原の鬼女伝説をモチーフにした次の歌が載っています。
 
陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
 
そして光太郎はそれを受けて、詩「樹下の二人」の冒頭に、詞書のように次の短歌を添えています。ある意味、本歌取りのようです。
 
みちのくの安達が原の二本松松の根方に人立てる見ゆ
 
「樹下の二人」は、この後、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と続くのです。
 
この「樹下の二人」、能「智恵子抄」でも使われています。山折氏によれば、観世寿夫は先述の光太郎短歌の背後に、謡曲「黒塚」があることを読み取っていたはず、というのです。それはその通りでしょう。
 
話は変わりますが、今月28日(水)に、国立能楽堂で行われる「能楽座自主公演」の演目に、「舞囃子「智恵子抄」」の文字が見えます。
 
当方、能にはそれほど詳しいわけでもなく、これが観世寿夫作曲のものなのかどうか、判断できません。詳しい方、ご教授いただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月5日

昭和30年(1955)の今日、ラジオで日米対抗水泳大会の中継を聴きました。

昨夜、当方の住む千葉県香取市にある香取神宮にて開催された薪能を観て参りました。
 
演目は狂言「附子(ぶす)」、能「葵上(あおいのうえ)」。光太郎智恵子とは直接関係ありません。
 
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香取神宮には朱塗りの楼門があり、その下は幅広で長い石段があります。その石段と、石段下のスペースにパイプ椅子を並べて客席としていました。着物を着ていったので、石段ではちょっと困るな、と思ったら、幸い、椅子席にありつけました。
 
開演は午後六時。開演に先立って篝火に火が入り、三分咲きの桜、霞んだ空にはうっすらと月。いい感じでした。観衆もざっと見たところ400~500くらいいたのではないかと思いました。こうした伝統芸能のイベントに多くの人が集まるというのは素晴らしいと思います。手前味噌になりますが、「小江戸」と称され、伝統文化を大切にしている香取という街だからかと思います。
 
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はじめは狂言「附子」。昨今のテレビのお笑いなどと較べると、テンポが非常にゆったりとしています。しかし、それがいいと思いました。
 
続いて能「葵上」。狂言から一転、幽妙な世界に。囃子方や地謡の方々を含め、総勢20名程で、かなり本格的でした。遠目にも、前シテの六条御息所の生霊の泥顔面、後シテの般若面など、鬼気迫るものがありました。
 
ところで、光太郎には能に関する文章がいくつかあります。そのうち、昭和19年(1944)に書かれた「能の彫刻美」という評論では、次のように語っています。
 
能はいはゆる綜合芸術の一つであるから、あらゆる芸術の分子がその舞台の上で融合し展開せられる。その融合の微妙さとその展開の為方の緊密にしてしかも円転自在な構成の美しさとに観る者は打たれる。しかし私のやうな彫刻家が能を観るたびにとりわけ感ずるのはその彫刻美である。他の舞台芸術に絶えてないほど能には彫刻的分子が多い。能は彫刻の延長であるもののやうな気さへしてくる。
 
さて、昨日の「葵上」の演者は観世流の皆さんでした。観世流といえば、光太郎とも関連があります。
 
昭和32年(1957)に、映画監督・演劇評論家の武智鉄二作、観世寿夫作曲で新作能「智恵子抄」が作られているのです。
 
それを思い出してネットで調べていましたら、近々「智恵子抄」が上演されることが判りました。やはり薪能で、岡山県倉敷市の不洗観音寺さんというお寺で、5月17日(金)の18:00開演です。
 
(追記4/10)上記の部分、訂正です。こちらは数年前の情報との事。岡山在住の方からご指摘を頂きました。曜日が同じなのでてっきり今年と思いこんでいました。問い合わせ等されてしまった方、申し訳ありませんでした。
 
能にしても狂言にしても、日本の誇る伝統芸能。こうしたものの火を絶やさないようにしてほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】3月24日

昭和14年(1939)の今日、十字屋書店版『宮沢賢治全集』出版のための相談会に出席しました。
 
光太郎、そして草野心平らのこうした活動の結果、生前には無名だった宮沢賢治が世に知られていくことになるのです。

歌舞伎俳優の十二代市川團十郎さんの訃報が駆け巡りました。
 
光太郎は、十二代團十郎さんの曾祖父に当たる九代團十郎のファンで、青年期にはよく舞台を観に行っていましたし、2度、彫刻を手がけています(残念ながら2点とも現存しません)。
 
一度目は東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中の明治37年(1904)。当時の日記に記述があるのですが、油土を使ったレリーフでした。
 
二度目は昭和12年(1937)から翌13年(1938)にかけて。この時は粘土の塑像でした。しかし、未完成に終わっています。光太郎曰く「それから九代目團十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。團十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまつた。今もそのままになつてゐるが、これはもう一度必ず作り直す気でゐる。」(「自作肖像漫談」昭和15年=1940『高村光太郎全集』第9巻)。しかし、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろともこの像も焼けてしまいました。
 
二度目の像を作っている最中に書いた散文や詩も伝わっています。
 
まず散文「九代目團十郎の首」(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終つたわけである。彼は俳優といふ職業柄、明治文化の総和をその肉体で示してゐた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。
(中略)
 私は今、かねての念願を果たさうとして團十郎の首を彫刻してゐる。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたつてゐた。私の脳裏には夙くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取つてしまつてゐた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。
(後略)

さらに「團十郎像由来」という詩(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第2巻)も書かれました。
 
   團十郎像由来
 
 不動の剣をのみこそしないが001
 おびただしい悪血をはいたわたくしは
 おこさまのやうに透きとほつてしまつた
 精神に於けるオオロラの発光は
 わたくしを青年期高層圏の磁気嵐に追つた
 明治文化の強力な放電体
 九代目市川團十郎にばつたり出あつた
 巨大な彼の凝視に世紀のイデアはとほく射ぬかれ
 腹にこたへる彼のつらねに幾代の血の夢幻は震へ
 彼のさす手ひく手に精密無比の比例は生れ
 軽く浮けば有るか無きかの鷺娘
 山となれば力の権五郎
 一切の人間力の極限を
 生きの身に現じたこの怪物は
 無口なやさしい一個の老人
 品川沖に絲を垂れ
 茅が崎の庭でおでんをくふ
 わたしは捉へ難きものに捉へられ
 茫茫として春夏秋冬を粘土にうもれ
 あの一小舞台から吹き起る
 とめてとまらぬ明治の息吹を
 架空構築にうけとめようと
 新らしい造血作用を身うちに燃やして
 今は絶体絶命の崖の端まで来てしまつた
 
「昭和」に入って「明治」を懐かしみ、「明治」を代表する人物の一人して、九代團十郎を作ろうと思ったようです。
「平成」も25年。「昭和」の名優がまた一人亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月6日

昭和16年(1941)の今日、JOAKラジオ(現・NHK東京)で、光太郎作詞の歌曲「歩くうた」が柳兼子の歌で放送されました。

柳兼子は白樺派の美学者・柳宗悦の妻です。

新しい資料ではありませんが、最近入手したものを紹介します。 

「横笛物語 第三巻」福原一笛 CDアルバム 定価2381円+税

  
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横笛奏者、福原一笛さんのCDです。
 
「智恵子と空」「霞ヶ城幻想曲」という曲が収録されています。流行りの言葉で言えば智恵子へのオマージュといったところでしょうか。平成8年(1996)のライブ録音だそうです。
 
福原さんのHPを拝見しましたが、人間国宝の横笛奏者、故・寶山左衛門(たから・やまざえもん)氏に師事なさったとのこと。
 
寶氏のCD「笛のこころ」は以前から持っており、そちらにも「智恵子と空」が収録されています。
 
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「霞ヶ城幻想曲」の方は、福原さんの作曲で、笛以外にシタール、タブラが使われており、不思議な感覚の曲です。ちなみに「霞ヶ城」は二本松霞ヶ城、智恵子の故郷にある城ですね。
 
こういったものも、誰かが気をつけて情報や現物の収集をしておかないとなりません。少し前に、戦時中の光太郎作詞の歌曲について、SPレコードやら楽譜やら、当時出たものをいろいろ調べていたのですが、たかだか数十年前の話なのに難航しました。
 
現代のものでもまだまだ当方の知らないものがいろいろあるようです。こんなものもある、という情報をお待ちしております。

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