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仙台レポートの3回目、最終回です。
 
宮城県美術館を後にし、一旦仙台駅まで戻りました。土産物を買い、地下鉄に乗って長町へ。ピアニスト齋藤卓子さん、朗読の荒井真澄さんによるコンサート「楽園の月」を聴きに行きました。会場は昨年5月にやはりお二人で「シューマンと智恵子抄」の公演をなさった古民家カフェ「びすた~り」さんです。「シューマンと智恵子抄」の時と同じく一関恵美さんの墨画の展示もあります。
 
少し早めに着いてしまったので、周辺を散策しました。かの広瀬川では白鳥がいました(それにしても仙台は雪深かったな、と思っていたら、昨日は当方の住む千葉県北東部でも8㌢の積雪となりました)。
 
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さて、会場に着きました。やはり眼鏡が曇って何も見えません。受付で出迎えてくださった一関さんが一関さんだと気づきませんでした(笑)すみません。
 
荒井さんのMCで始まった「楽園の月」、まずは一関さんのスピーチ。会場内に並ぶご自身の作品や、講師として教えた福祉施設の皆さんの作品などについてのご説明や、昨年、斎藤さん共々訪れたパリでのエピソードなどを披露されました。
 
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また、どの時点で作品の「完成」とするか、といったお話もされました。福祉施設の皆さんはそのあたりの見極めが非常に上手いそうです。このあたり、彫刻にも関わる話だな、と思いながら聴いていました。光雲に代表される伝統的な木彫では「こなし」といって、作品の最後の仕上げに物凄くこだわります。そうした立場に立つと、ロダンの様な荒々しいタッチは「こなれていない」と見え、未完成のものにしか見えないそうです。一昨日、昨日と書いた佐藤忠良の彫刻などは、仕上げまでかなり丁寧に為されており、柔らかさにつながっているような気もしました。この点についてはまた、折を見て書きたいと思います。
 
さて、いよいよ斎藤さんのピアノ。今回はショパンとドビュッシーです。前回(昨年5月の『シューマンと智恵子抄』)は、どうしても荒井さんの朗読を中心に聴いたため、正直、ピアノの方にはあまり意識が向きませんでした。しかし今回は、荒井さんの朗読は曲間にされることが多く、ピアノにも集中できました。個人的にフランス近代物は大好きで、しかも名手・斎藤さんが目の前で弾かれているわけで、至福のひと時でした。ピアノもオーストリアのベーゼンドルファー。昨年11月にモンデンモモさんのコンサート「モモの智恵子抄2012」があった原宿のアコスタディオさんもベーゼンドルファーでした。その時に伴奏を務めた砂原嘉博さんに「べードルには88鍵より多い鍵盤のタイプがあるんですよ」と教わりました。びすた~りさんのべードルがまさにそれで、88鍵プラス低音に4鍵、全て真っ黒な鍵が足されているタイプでした。
 
光太郎はショパンに関してはほとんど言及していませんが、ドビュッシーについては同時代の人間ということもあったのでしょう、高く評価していました。ロマン・ロランの書いた「クロオド デユビユツシイの歌劇-ペレアス、メリザンド-」の翻訳(明治44年=1911『高村光太郎全集』第17巻)も手がけていますし、親友だった陶芸家バーナード・リーチのデッサンやエッチングを褒めるのにドビュッシーを引き合いに「其の優雅な美しさを持つ或作品にはドビユツシイの「アラベスク」の美を思はせるものもある」(「リーチを送る」大正9年=1920『全集』第七巻)と書いています。また、昭和8年(1933)に岩波書店から刊行された『岩波講座世界文学7 現代の彫刻』(『全集』第五巻)の中では、ロダンの出現にからめ、19世紀後半のフランスの芸術界を評して「フランスそのものが自分の声を出しはじめたのである」とし、「音楽に於けるドビユツシイ、詩に於けるマラルメ、皆その意味に於いてフランス再発見の声である」と書いています。
 
荒井さんの朗読は、曲の合間にヴェルレーヌやボードレール、島崎藤村など。これまた美声に聞き惚れました。ドビュッシーとヴェルレーヌ、ボードレールも因縁浅からぬものがあり、光太郎もちゃんとその点を押さえています。
 
「ペレアス エ メリザンド」で近代音楽界の大家となつたクロオド ドビユツシイは、其の以前既に近代詩人の詩に作曲してゐた。(中略)マラルメ、ヹルレエヌ、ボオドレエルに次いでは、ピエル ルイ等がドビユツシイに最も多く作曲された詩人である。
(「詩歌と音楽」明治43年=1910『全集』第8巻)
 
ふと、外を見るとまた雪。「雪見酒」ならぬ「雪見ピアノ」もいいものだな、と思いました。そして終演。
 
次は「雪見風呂」です。当初の予定では仙台郊外の秋保温泉に行くつもりでしたが、時間の都合もあり、市内の温泉入浴施設に行きました。それでも凄い雪のため、あちこちで立ち往生したり事故を起こしたりしている車があり、仙台駅に戻ったのはぎりぎりの時間でした。しかし、やはり雪のため新幹線も遅れており、結局は余裕でしたが。仙台名物牛タンの駅弁を食べながら、帰途に就きました。
 
というわけで、有意義な仙台行でした。今後ともお三方のご活躍を祈念致します。

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お三方が活動されている「アクテデュース」さんのHPから。
左から齋藤卓子さん 一関恵美さん 荒井真澄さん。
 
【今日は何の日・光太郎】1月29日

大正15年(1926)の今日、ロマン・ロラン友の会結成。光太郎も参加しています。

仙台レポートの2回目です。
 
宮城県美術館の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」。彫刻の数々の後には絵画や忠良が装幀した書籍などが並んでいました。そして、最後に並んでいたのが忠良の蔵書で、光太郎訳の『ロダンの言葉』2冊でした。
 
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どちらも叢文閣から刊行された普及版で、1冊は昭和4年(1929)の版、もう1冊は同12年(1937)の版でした。内容的には同一なのですが、昭和4年の版が表紙が取れてぼろぼろになってしまったので、新たに12年版を購入したとのこと。ぼろぼろになるまで読み込んだということです。実際、開かれていた頁にも線が引かれていました。また、忠良がこの2冊を宮城県美術館に寄贈した際の添え書きも一緒に展示されており、そこには「小生にとつての彫刻出発の一種の原点にもなつた本」と記されていました。
 
こうした後進の彫刻家への影響という点では、一人忠良のみではありませんでした。光太郎の弟・豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)に、以下の記述があります。
 
 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
  雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。
 
 忠良は昭和9年(1934)に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、同14年(1939)に卒業しています。今回展示された『ロダンの言葉』普及版は昭和4年と12年の版ですから 、この頃買ったものと推定されます。
 
 さらに、企画展ではなく常設の佐藤忠良記念館(県美術館に併設)には、忠良が入手した参考作品ということで、ロダン本人のデッサンも展示されていました。
 
 ロダン・光太郎・忠良、このように芸術の精神が受けつがれ、血脈となっていくのですね。
 
 最後に、今回の企画展図録に載ったノンフィクション作家・澤地久枝さんの文章から。
 
 佐藤さんの彫刻に心安らぐのは、粘土をこねて形を造ってゆくとき、佐藤さんはモデルの生命の源泉を手にくみとっていて、血の通う形ができてゆくからではないのだろうか。
 人も自然も、佐藤さんの作品では呼吸をし、むこうから語りかけてくるみたいだ。自然と私たち人間のいとなみの、ギリギリのところにある真実とでもいうべきもの、佐藤忠良作品に私が心から感動するのは、生命を愛する人の祈りが伝わってくるから。
 
 同じことは血脈を共有するロダンにも、光太郎にも云えるのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】1月28日

大正2年(1913)の今日、智恵子に宛てた長い手紙を書いています。夢の中で智恵子が磔(はりつけ)にされる話などが書かれました。
 
謎めいた、しかし面白い手紙です。いずれ稿を改めて御紹介しようと思います。

宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参りました。
 
午前5時半に千葉の自宅を出て、東京駅発8時12分の東北新幹線・はやぶさ1号に乗り込みました。朝が早かったし、途中停車駅があるとアナウンスや速度の変化で目が覚めますが、大宮を出たらあとは仙台までノンストップということで、爆睡しました。
 
ふと目を覚ますともう福島県内で、車窓から外を見て、驚きました。銀世界! 青森や岩手ならいざ知らず、南東北でもこの状況か、と思いました。
 
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9:48、仙台に到着。仙台では傘が必要なくらい雪が降っていました。
 
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路線バスに乗り、一路、宮城県美術館へ。
 
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入り口から玄関まで、職員の方が雪かきをしてくださっていました。館内に入ると、眼鏡が曇ってしばらく何も見えませんでした。後で訊くと、気温はマイナスだったそうです。
 
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さて、じっくり時間をかけ(途中で昼食もとりつつ)、本館の企画展と、常設の佐藤忠良記念館の展示を観ました。
 
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「書は人なり」とよくいいますが、改めて「彫刻も人なり」と思いました。
 
昨秋、上野の国立西洋美術館の企画展「手の痕跡」展で、ロダンの作品をまとめて観ましたが、そこで感じたのは「激しさ」でした。作品となった人物の表情、ポーズ、人体の部分部分の力の入り具合、躍動感、高揚感、そして作品のタッチ、どれをとっても「激しさ」を感じ、それがロダンという作者の人となりの反映のように思われました。
 
今回、佐藤忠良の作品からはロダンのような「激しさ」とは逆の、春の日差しのような穏やかさのようなものを感じました。乱暴な言い方で、反論もあるかも知れませんが、ロダンを「動」とすれば佐藤は「静」。しかし、「静」といっても、「止まっている」という感じではありません。「止まって」いたらマネキン人形です。しかし、佐藤の彫刻は「静」の中に「動」を感じます。佐藤自身「具象でモビールをやってみているような感じ」と述べていますが、まさにその通りです。例えば座っている女性の像でも、ただ漫然と弛緩したポーズをとっているわけではありません。座りながらも爪先を軽く立て、そこに軽い緊張感-「激しさ」ではなく抑制された-が感じられるのです。
 
「見る人に説明するようには作らない」というのが佐藤のポリシーだったようです。雄弁にがなりたてるのではなく、さりとて寡黙に口をつむぐのでもなく、抑制された自己主張。こういう部分に作者の人となり、さらには「東北人の典型」といった解釈を与えるのは安易でしょうか?
 
今年また、光太郎彫刻をまとめて観る機会があります。その時に自分でどう感じるのか、それから皆さんがどう感じるのか、興味深いものがあります。
 
続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎】1月27日

昭和10年(1935)の今日、日本語におけるソネットなどの定型、押韻詩を試みる文学運動、マチネ・ポエティック社が結成され、光太郎も参加しています。

仙台に来ています。 

宮城県美術館で彫刻家佐藤忠良の企画展を見終わりました。

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今は晴れていますが、午前中に着いた時は結構雪が降っていました。さすが東北。

夕方から斎藤卓子さんのピアノ、荒井真澄さんの朗読のコンサートです。同時開催中の一関恵美さんの墨画も楽しみです。

詳しくは帰ってからレポートします。


【今日は何の日・光太郎】1月26日

昭和17年(1942)の今日、美術評論集『造型美論』が刊行されました。

明日、1/26(土)は仙台に行って参ります。
 
2件、用事があります。
 
まず一件目、宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参ります。
 
佐藤忠良(ちゅうりょう)は明治45年(1912)、宮城県生まれの彫刻家。光太郎より一世代あとです。光太郎ら一世代前の彫刻家によって目を開かれ、具象彫刻で一境地を開きました。昭和33年(1958)から全10回限定で行われた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の第3回(昭和35年=1960)入賞者です。そんな関係で、連翹忌にもご参加いただいたことがあります。一昨年3月に亡くなり、昨年は一周忌と生誕百年が重なったため、佐藤忠良記念館を併設する宮城県美術館にて同展開催の運びとなりました。
 
他の方のブログで、忠良の蔵書で光太郎が訳した「ロダンの言葉」が展示されているなどといった記述を見つけました。その他には、直接、光太郎と関わる展示はあまりないようですが、光太郎の開いた日本近代彫刻の歩みが、次の世代にどのように受けつがれたのか、少し注意して観てこようと思っています。
 
ちなみに会期は2/24(日)まで。関連行事の目玉は昨年11/23に終わってしまいましたが、忠良の娘で、女優の佐藤オリエさんの講演会「父 佐藤忠良を語る」でした。
 
余談になりますが、佐藤オリエさんは、昭和45年(1970)に、TBS系の昼ドラ「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎役は故・木村功さん)。
 
実は佐藤オリエさんの講演会が終わってから、佐藤忠良展が開かれていたことを知り、ブログに載せるタイミングを逸していました。
 
もう1件。昨年5月のこのブログで御紹介した「シューマンと智恵子抄」の朗読・荒井真澄さん/ピアノ・齋藤卓子さんによるコンサート「楽園の月」が太白区長町の古民家カフェ「長町遊楽庵 びすた~り」さんで行われます。昨年同様、一関恵美さんの墨画展も同時開催ということです。素敵なお三方にお会いできるのが楽しみです。
 
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帰ってきましたら、詳しくレポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎】1月25日

大正15年(1926)の今日、ロマンロラン著、高田博厚訳の評伝『ベートオヱ゛ン』が刊行されました。

光太郎が装幀・題字を担当しました。

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感謝と祈り込め企画展 仙台・福島美術館1年9ヵ月ぶり再開

河北新報 12月20日(木)9時15分配信
 東日本大震災で被害を受け、休館していた福島美術館(仙台市若林区土樋)が19日、約1年9カ月ぶりに展示を再開した。企画第1弾として、縁起物にちなんだ掛け軸などを集めた「震災復興『めでた掛け~再会』-感謝と祈りをこめて」を開催している。来年3月3日まで。

 「めでた掛け」は同美術館の新春恒例の企画展で、今回は掛け軸や工芸品など約60点を展示。募金をした人に贈った「七福絵はがき」に使われた掛け軸が中心で、折り鶴を折る子どもを描いた絵などが来場者を和ませている。常設展では伊達政宗の書状や高村光雲の仏像などが飾られている。

 再開に合わせ、収蔵品の中から「福」の意味を持つ昆虫や鳥の図柄を選んで作ったしおり、シールなどの「七福グッズ」も販売している。期間中は座談会や茶会、紙切り遊びなどの催しも行う。

 美術館は当初、修繕費の約1300万円を調達するめどが立たなかったが、全国から約765万円の募金が寄せられ再開にこぎつけた。12月19日は1年前に初めて募金が寄せられた日という。
 学芸員の尾暮まゆみさんは「募金を頂いた全国の方には感謝の言葉しかない。今後、大地震が起きて私たちのような小さい美術館が被害を受けたら、支援していきたい」と話した。
 
 入館料は一般300円、学生200円。高校生以下、70歳以上、障害者は無料。連絡先は同美術館022(266)1535。


 
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「福島美術館」と言っても、福島県の「福島」ではなく、仙台で社会福祉法人を運営されていた故・福島禎蔵氏のコレクションが中心ということで「福島」だそうです。
 
追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。
 
昨年の大震災から1年9ヶ月。復興もある程度進んできているのでしょうが、まだまだこれからですね。
 
ところで「昨年の」と書きましたが、もう年の瀬ですので、あと2週間足らずで「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。やがては「平成23年の」と書くようになり、そして人々の記憶が風化していくのでしょうか……。

今朝の朝日新聞で、女川・光太郎の会に関する記事が大きく載りました。
 
同紙では毎週月曜日に「防災・復興」というコーナーが連載されていますが、その中で今日は「光太郎の詩は女川の宝」という見出しで、女川・光太郎の会会長、須田勘太郎さんが紹介されています。
 
震災で大きな被害を受けた光太郎詩碑建立の経緯や、建立に貢献した故・貝(佐々木)廣さん、そして女川の現状、今年の女川光太郎祭に関しても触れられています。須田さんの写真には、背景に貝さんの遺影も。
 
こうした地方の地道な活動にスポットを当てていただけるのは嬉しい限りです。
 
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昨日の続きで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた光太郎作の青沼彦治像についてです。
 
こちらは像の序幕記念の絵葉書。袋付き5枚セットのものを入手できました(仙台の古書店から送られてきた目録で発見しました)。像の下の方に移っているのが青沼彦治本人でしょう。残念ながら像が大写しになっているカットがありませんでしたが、意外と珍しいものだと思います。

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この像も、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。場所は古川駅から1㎞程北の荒雄公園というところです。すぐ近くに吉野作造記念館があります。当方、2年前の冬に行って参りました。

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岐阜の浅見与一右衛門像同様、やはり像は無くなっても翁を顕彰する気運は無くならず、昭和41年(1966)に工事が行われ、台座の基底部は野外ステージに転用、主柱部分に新たにレリーフを作ってはめ込んであります。

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注目すべきは主柱の裏側。大正14年(1925)建立当時の石製銘板が遺っていました。「監督 高村光雲  原型 高村光太郎  鋳造主任 高村豊周」の文字が刻まれています。

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さて、青沼家には、供出前にこの像を撮影したフィルムが残っており、ビデオテープにコピーされ、像の近くにある吉野作造記念館に所蔵されています。
 
当方、2年前にここを訪れた際、見せていただきました。動画として残っているというのは珍しい例です。しかし、動画といっても銅像を撮影したものですから、動きはありません。ただ、写真では見られない背部なども写っていたように記憶しています。
 
他にも光太郎作品で戦時供出されたものがあります。明日も続けます。

昨日に引き続き、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介です。
 
青沼彦治像

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『青沼彦治翁遺功録』より
 
大正14年(1925)、これも光雲の代作ということで、光太郎が制作。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられました。青沼彦治は慶応2年(1866)の生まれ。やはり酒造業を営んでいた素封家でした。地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、銅像建立を発願しました。除幕式は大正14年(1925)11月7日。青沼翁はまだ存命中でした(昭和11年=1936歿)。上の画像で像の右に立っているのが光太郎。左に座っているのが光雲、その後ろはおそらく鋳造を担当した光太郎の弟・豊周(とよちか)です。
 
後年、光太郎はこの像について「古川から入つたところにある荒雄村に、青柳とかいう人の銅像があつて、これも代作として原型を僕がやつたものだが、これは戦時中に供出してしまつたらしい。これはつまらないもので、なくなつてよかつた。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。自作でありながら手厳しい評です。
 
この像について述べた光太郎の文章は、長らくこれしか見つかっていませんでしたが、3年程前に、昭和11年、地元で非売私刊で出された『青沼彦治翁遺功録』という書籍に寄せた序文を見つけました(「光太郎遺珠」④収録)。少し長いのですが紹介します。
 
 わたくしは平素、青沼彦治翁に親炙してゐた者ではなく、先年亡父光雲が、翁の寿像を製作した時、その助手として働いたため、製作の前後に僅かに翁に接する光栄を得たに過ぎない者である。因つてただ、一彫刻家の目に映じた、翁の特徴についてのみその一端を語る事としたい。
 翁は決して長身の方ではなく、むしろ小柄であり、且つ肥満しても居られなかつた。さうかといつて鶴のやうに痩せても居られず、程よき比例を全身の均衡に持つて居られたので、すらりとした姿勢が、遠くから望見する時、ともすると長身のやうにさへ見えた。一方の肩が稍撫で肩になつてゐるのが、翁の特徴で其が又大変懐しみある温容となり、いかにも謙虚な魂を示して居られた。しかも第一公式の羽織袴の時の端然さは、まるで仕舞でも舞はれるかと思ふ程であつた。
 翁の相貌で誰でもすぐに気のつく事は、頭蓋の人並み以上に大きい事とその方形なる事と、前額の隆い事であつた。整然とした、鼻梁と、秀でた眉と、確乎たる頤との関係は、どうしても蒙古系の骨格とは思はれなかつた。
 殊にその二重瞼のいきいきした、聡明な眼光と、愛嬌ある、口唇とは、翁の動いてやまざる精神の若さを表現してゐた。特に異例なのは、耳朶の大きくて強くて張つて居られた事である。かなり多くの肖像製作に従事したわたくしも、翁ほどの大きな、耳朶は見た事は曾つてなかつた。僅かに亡父光雲の耳が此に拮抗し得られるかと思ふ(耳で名高い羽左右衛門の耳は、大きいけれども薄く、故大倉喜八郎翁の如きは、想像以上に小さかつた)。
 翁はいかにも物静かな、応対ぶりで会話をせられたが、いつの間にか中々熱心に、細かく周到に話題の中心に迫つてゆくのが常であつた。翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。
 亡父は耳が相当に遠かつたし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
 其を思へば、感旧の哀しみに堪へ難いが、しかし父はその製作により、翁はその巨大な功績のかずかずによつて、永久に吾等の間に記憶せられる。翁の遺徳の大なるに聯関して、直ちに亡父の遺作を想起し得る事は、不肖わたくしのひそかに慰とするところである。
 昭和十一年七月

実際には光太郎の作なのですが、あくまで光雲の名で創られていますので、この文章もそういう内容になっています。それにしても、肖像彫刻を創る際に光太郎が対象をどのように捉えていたのかが端的に表されていて、その意味では一級の資料です。また、翁と光雲の噛み合わない会話のくだりなどは、読んでいて微笑ましいものですね。
 
長くなったので、一旦切ります。続きは明日。

このところ、光太郎と船に関する内容で攻めていますので、今回も最近入手した船がらみの資料を紹介します。
 
昭和6年(1931)に、岩手日報社から発行された「岩手縣全圖昭和六年版」の附録、「省線外乗車船賃金表」です。

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東北本線、岩手軽便線(宮沢賢治の代表作の一つ『銀河鉄道の夜』のモデルともいわれています)など、鉄道の運賃、営業キロ数などが記載されています。

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鉄道だけでなく、気仙沼~宮古間の三陸汽船(宮古航路)についても表が載っています。昭和6年(1931)といえば、まさしく光太郎が「三陸廻り」の旅をした年。しかもこの宮古航路に乗っているのです。面白いものが手に入ったと喜んでいます。
 
宮古航路における光太郎。まずは東華丸という船で約8時間かけて気仙沼から釜石へ。営業キロ数140.2㎞、料金は特等3円29銭、並なら2円19銭。ついで釜石から宮古へ、また約8時間、第2三陸丸という船に乗ります。営業キロ数104.5㎞、料金は特等2円54銭、並なら1円69銭。おそらく光太郎は特等には乗っていないと思われます。
 
同じ「省線外乗車船賃金表」によれば東京仙台間の東北本線が乗車賃一等8円56銭、急行料金一等2円。当時の物価としては豆腐1丁40銭、カレーライス10銭、ビール大瓶35銭。
 
手元にある書籍で、昭和5年(1930)発行の四六判上製函付のアンソロジー『日本現代詩選』が1円70銭、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』が35銭。

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こういうのも調べてみると面白いものです。

女川レポートの最終回です。
 
8月10日(金)、石巻の宿を出て、再び女川に向かいました。佐々木(貝)廣さんの御霊前に焼香と、女川港の現状を観るためです。
 
前日の女川・光太郎祭参加の際に、女川港も通りましたが、今日はバスを止め、歩きました。

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一面、更地のようになっていますが、かつてはここが繁華街でした。そうといわれなければとても信じられないと思います。横倒しになったビルが三棟、そのままになっているのが名残です。今さらながらに津波の膨大な力に驚きました。

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4基あった光太郎碑のうち、2基だけはかろうじて残っています。メインの大きな碑は仰向けに倒れています。公園だったこの一帯は地盤が1㍍以上沈下したということで、満潮時には海水が周りを覆い、近づけません。おそらく文学碑としては日本最大、といわれていただけに、かえって動かそうにも簡単には動かせないようです。

メインの碑の真下にあった短歌「海にして……」を活字で刻んだ小さい碑は無くなっています。

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詩「霧の中の決意」を刻んだ碑は、ほぼ元の通り残っていました。

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それとセットになっていた詩「よしきり鮫」を刻んだ碑も行方不明とのこと。北川先生曰く、「よしきり鮫だけに、海へ帰ったんでしょう」。
 
前日の光太郎祭の中で、女川町長・須田善明氏があらたに公園を作り、そこに今ある碑を設置し直す予定とおっしゃっていました。震災の爪痕を風化させないためにも、そうしてほしいものです。横倒しになったビルのうち、元の交番だった建物も残すという話が持ち上がっているようです。地元の人々にとっては、辛い記憶の残るモニュメントとなると思いますが、やはりこういうことも大事なことだと思います。

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その後、仮設商店街に行きました。仮設住宅は当方の住まう千葉県香取市にも作られましたが、仮設商店街というのは初めてでした。

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港の周辺は壊滅状態でしたが、仮設住宅や仮設商店街には人々のエネルギーが溢れ、改めて人間の素晴らしさを感じました。しかし、そこにいる人々は皆、多かれ少なかれ痛手を負っているわけで、でも、そこから立ち直り、進んでいこうとなさっているわけです。
 
我々一般庶民に出来ることは小さなことだと思いますが、被災地のためにできること、やらなければいけないこと、もう一度考えてみたいと思います。
 
話は変わりますが、今日は国会図書館に行ってきました。地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前駅で降り、議事堂の裏を通って図書館に向かいつつ、議事堂の中で政争に明け暮れているセンセイ達を思い、腹が立ちました。もっと他にやるべき事があるんじゃないの? と。
 
おそらく一年後にまた女川を訪れることになると思います。一年後の女川がどうなっているのか、無論、復興していて欲しいと願っています。
 
以上、女川レポートを終わります。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭。北川太一先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の方々・北斗会さんで手配して下さいまして、石巻グランドホテルさんに宿泊致しました。
 
夕食の際にはサプライズが用意してありました。北川先生の米寿の御祝。これまでも北斗会の皆さんは、北川先生の還暦、古希、喜寿などの御祝いを企画なさってきており、北川先生が最近はあまり外に出られないということもあって、今回、それを兼ねることにしたそうです。教え子の皆さんも、教え子とは言う条、年かさの方はもう70代。北川先生とは60年以上のおつきあいです。それほどの長いおつきあいがあるというのも素晴らしいことですね。

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女川・光太郎の会の皆様、本宮寛子氏、ギタリストの宮川菊佳氏も交え、楽しい一時となりました。
 
翌朝、早くに目が覚めてしまいまして、石巻の街を散策してみました。石巻は昭和6年、光太郎が紀行文「三陸廻り」の連載第一回を記した地です。やはりあちこちに震災の爪痕がまだ残っています。

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ビートたけしさん、木村拓哉さんが出演されていたトヨタのReBORNキャンペーンCMに使われた石ノ森萬画館。石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎さんの記念館です。いまだ休館中でした。

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歩道橋には何やら青いプレートが。

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近づいてみると、この高さまで津波が来たという標識でした。

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橋の欄干もひん曲がっています。

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しかし、さすがに震災からもうすぐ1年半。復興は進んでいるようです。ReBORNのCMでは辺り一帯が廃墟でゴーストタウンのようになっているのかな、と思いましたが、そんなことはなく、街には普通の生活が見られました。もっとも、もともとの石巻の姿をよく知りませんし、1年半経って、瓦礫の撤去が進んだために却って被害の後がよく分からないのかも知れません。人々の生活にしても、旅人の自分には見えない所での苦労はまだまだたくさんあることと思います。
 
朝食後、再びバスで女川に向かいました。かつて光太郎碑が建っていた港の辺りを見に行くのがメインです。そのあたりはまた明日。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭に参加して参りまして、昨夜、帰宅いたしました。今日から数回、レポートさせていただきます。
 
朝7時、池袋駅前からマイクロバスに乗り込み、いざ出発。今回は北川太一先生が久々に参加なさるということで、先生が高校で教鞭を執ってらした頃の教え子の皆さんの会である北斗会の方々のお世話になりました。バスも北斗会で手配して下さいました。北川先生は奥様、息子さんとご一緒に仙台まで新幹線。宿泊予定の石巻グランドホテルで合流しました。
 
一路、女川へ。光太郎祭自体は午後1時開始でしたが、我々は3時からの第二部に参加致しました。
 
会場は町立野球場に作られた仮設住宅敷地内の坂本龍一マルシェ。坂本さんが資金を提供して作られた巨大テントです。

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女川町長・須田善明氏のご挨拶の後、北川先生のご講演。演題は「かさねて最後の詩「生命の大河」について」。北川先生、以前は毎年女川・光太郎祭でご講演をされていましたが、ここ数年は体調の問題もあり、ご欠席なさっていました。しかし、かつての光太郎祭を中心となって運営されていた佐々木(貝)廣氏が昨年の大震災で津波に呑まれて亡くなり、女川を訪れてご焼香したいというご希望で、今回のご講演が実現しました。

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内容は、先生のご盟友・故吉本隆明氏、ヴァレリー、サルトル等の言と光太郎の詩をからめ、震災、原発問題にゆれる社会への提言といったものでした。

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その後、オペラ歌手の本宮寛子さんの歌。本宮さん、以前のブログにも書きましたが、平成3年に女川で開かれた詩碑除幕記念のオペラ「智恵子抄」上演以来、女川のご常連です。

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4時過ぎに閉会となり、またマイクロバスで石巻へ。明日は石巻での様子をレポートいたします。

女川港のかつて繁華街だったあたりを訪れました。

横倒しになったビルが三棟、光太郎碑も仰向けになっています。

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しかし、高台に上がれば、仮設住宅や仮設店舗には人々のエネルギーが溢れています。人間って、素晴らしいものですね。

明日以降、撮影した画像を交え、詳しくレポートいたします。


今日は宮城県女川町での第21回光太郎祭に来ています。

今しがた終わりました。これから石巻グランドホテルに向かいます。北川太一先生、女川光太郎の会の皆さんと懇親会です。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

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女川とも関連が深い、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」について紹介します。
 
監修を北川太一先生が務め、台本は作家の山本鉱太郎氏。楽譜の「監修者の言葉」に書かれた北川先生の言によれば、このお三方で、果てしない討論をくり返し、生まれたものだということです。
 
初演は平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールでした。光太郎役は高橋啓三氏、智恵子役は本宮寛子氏。オペラとしては破格の登場人物二人だけという設定です。2幕7場、約1時間半の大作です。

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楽譜は平成3年(1991)10月に刊行されています。

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同じ平成3年(1991)10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで開催された「オペラ智恵子抄鑑賞会」でも上演されました。光太郎役は佐藤光政氏、智恵子役はやはり本宮寛子氏。
 
本宮寛子氏はこの辺りが機縁で、連翹忌の常連となって下さいました。今年5月の花巻光太郎祭で、ご一緒させていただいたのはこのブログでも書きました。
 
その後、何度か公演を重ね、平成18年(2006)10月14日には、日暮里サニーホールでの「光太郎・智恵子フォーラム」の一環として上演。この時は光太郎役が佐藤光政氏、智恵子役は津山恵氏でした。
 
また、昨年5月28日には、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の関連行事の一つとして上演されました。光太郎役に江原実氏、智恵子役に山口佳子氏という配役でした。
 
今年五月から始めたこのブログでも、リアルタイムで渡辺えりさんの演劇、荒井真澄さんと齋藤卓子さんの朗読などの公演の情報をお伝えしました。やはりドラマチックな光太郎・智恵子の世界ということで、色々な分野の表現者の方々が表現意欲をそそられるのでしょう。
 
今後ももっともっと色々な方が、もっともっと色々な分野で光太郎・智恵子の世界を表現してほしいものです。

昨日に続き、宮城県女川町がらみで、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を紹介します。 

「まち むら」第83号 平成15年9月30日 公益財団法人あしたの日本を創る協会発行


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2頁にわたり、作曲家・仙道作三氏の「台風の中の女川・光太郎祭」というエッセイが掲載されています。発行された頃の連翹忌で、仙道氏か故・貝廣氏に頂いたのではないかと思います。記憶があやふやです。

このエッセイでも述べられていますが、仙道氏と女川のつながりは深かったそうです。まず、平成3年に行われた女川の詩碑の除幕式に際し、碑に刻まれた光太郎短歌「海にして……」に混声四部合唱の曲をつけられました。同じ年10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで「オペラ智恵子抄鑑賞会」。これは北川太一先生の監修で、平成元年(1989)に作曲されたものです(明日のブログでさらに詳しく解説しましょう)。

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女川で光太郎がらみのイベントがある時には台風に見舞われることが何度かあったようで、「オペラ智恵子抄鑑賞会」の時も台風、仙道氏が「まち むら」に執筆された年の光太郎祭も台風。他にも何回か光太郎祭の日が台風だったというのを北川先生からお聞きした記憶があります。
 
今年はどうなることでしょうか。

宮城県女川町がらみの記事を書きましたので、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を引っ張り出して読んでみました。 

「詩をめぐる旅」伊藤信吉著 昭和45年12月15日 新潮社発行

  
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光太郎とも親交のあった詩人、故・伊藤信吉氏の著作です。主に近代の詩を取り上げ、その題名のとおり、日本全国に点在するそれぞれの詩の故地、いわば「歌枕」を訪れてのレポートです。60篇ほどの詩が取り上げられ、各篇4頁、光太郎に関しては「千鳥の足あと」(千葉・九十九里浜)、「国境の工事現場」(群馬/新潟・清水トンネル)、「冬の夜の火星」(東京・駒込台地)、そして「濃霧の夜の航路」(宮城/岩手・三陸海岸)です。女川の詩碑にも刻まれた「霧の中の決意」について論じています。
 
   霧の中の決意
  
  黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
 
 輪舵を握つてひとり夜の霧に見入る人の聴くものは何か。
 息づまるガスにまかれて漂蹰者の無力な海図の背後(うしろ)に指さすところは何か。
 方位は公式のみ、距離はただアラビヤ数字。
 
 右に緑、左に紅、前檣に白、それが燈火。
 積荷の緊縛、ハツチの蓋、機関の油、それが用意。
 霧の微粒が強ひる沈黙の重圧。汽角の抹殺。
 
 小さな操舵室にパイプをくはへて
 今三点鐘を鳴らさうとする者の手にあの確信を与へるのは何か。

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光太郎がこの詩を作ったのは、正確には女川ではなくもう少し北に行ってから、宮城・気仙沼から岩手・釜石にかけての8時間の夜間航海中のことだそうです。
 
北川太一先生は、近著「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」で、こう述べられています。
 
 釜石で改めて推敲されたという詩「霧の中の決意」は、この時光太郎が置かれていた時代と環境の中での、 深い思いに誘います。(中略)霧は実際に光太郎が三陸の海で経験したことですが、ここで自分自身にも、この詩を読む人にも問いかけているのは、自分たちが今置かれている状況、世界が戦争にまきこまれてゆこうとする、濃霧のような時代の到来の中での、生きるための決意だと言っていいでしょう。今この美しい三陸の自然や人の中にいて、その裏側で日々の身辺に確実に襲って来る、混沌とした世界。その道を歩むために、何が必要なのか、それを支える確信をどうしたら持つことができるのか。それが光太郎が問いかける問題、みずからが考え続ける問題だったに違いありません。(中略)奉天郊外で満州事変が起こったのは光太郎が三陸から帰った直後の九月十八日、翌日その第一報が臨時ニュースで放送されました。中国との十五年戦争の発端となった事件です。単に夜の海だけでなく、周囲に渦巻く世界の情勢は、どんなに光太郎の心を強く占めていたことでしょう。これらの詩を理解するためにも、夜の海での感想の底に流れる思いを感じ取るためにも、その状況を無視することは出来ません。
 
震災、原発事故、先の見えない経済不安、政治の混乱。混沌とした時代という意味では平成24年(2012)の現在も同じです。今、この時期に、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。
 
さらに光太郎に限っていえば、この時期に大きな転機を迎えざるを得なくなります。「詩をめぐる旅」から伊藤氏の言を拝借します。
 
 ガスの海で高村光太郎が崩れのない意志の歌を発想していたとき、東京本郷駒込の留守宅で異変が突発した。智恵子夫人に、精神分裂症の最初の兆候があらわれたのである。旅の途次でそのことを知らされた高村光太郎が、どれほどのショックを受けたか。愛する者が、事もあろうに精神分裂症に陥るとは! 高村光太郎と智恵子夫人の生活は、このとき音もなく暗転した。崩れのない「霧の中の決意」の詩。崩れはじめた智恵子夫人の脳髄の生理。この対照は悲劇的である。このような運命の翳りを、私どもはいかにして振払うことができるか。「三陸廻り」は高村光太郎にとって忘れることのできない旅であり、「霧の中の決意」はいわば『智恵子抄』の外篇として、二人の愛の生活を前後・明暗に境界づける詩だったのである。
 
混沌とした時代の不安、それに追い打ちをかけるような個人としての悲劇。この後、光太郎は戦争の波に翻弄され、戦後はそうした自らを恥じ、悔い、花巻の山小屋で「自己流謫」-自分で自分を流罪に断ずる処罰-を科します。
 
くり返しますが、今、この時期の我々が、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。

昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

宮城県牡鹿郡女川町。昨年三月の東日本大震災で20㍍を超える津波に襲われ、激甚な被害に見舞われた地です。俳優の中村雅俊さんの故郷でもあるそうです。
 
この地で平成4年(1992)から毎年、「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。
 
北川太一先生の近著『光太郎智恵子 うつくしきもの「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(このブログ6月24日の項参照)に詳しく書かれていますが、昭和6年(1931)夏、光太郎は『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、約1ヶ月の行程で三陸地方を旅しています。女川にもその際に立ち寄りました。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。地元有志の方々が中心となって立ち上げた「女川・光太郎の会」が設立母体です。碑については明日のブログで詳しくご紹介します。

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翌平成4年(1992)から毎年8月9日(光太郎が三陸へ旅立った日)に、その海岸公園を会場にして「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。ほぼ毎年、北川太一先生によるご講演があったり、地元の方々による合唱や朗読、連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さん、シャンソン歌手・モンデンモモさん、ギタリスト・宮川菊佳さんらのアトラクションなどで、おおいに盛り上がっていたとのことです(当方、女川には行ったことがありますが、光太郎祭には参加したことがありません)。

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平成14年(2002)には、それまでの北川先生のご講演の筆録が一冊の本にまとまりました。約400頁の堂々たるものです。

「高村光太郎を語る-光太郎祭講演-」北川太一著 平成14年4月2日 女川・光太郎の会発行

非売品ですが、時折古書店サイト等で見かけます。是非お読み下さい。

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これらの活動の中心となって獅子奮迅の活躍をなさっていた女川・光太郎の会事務局長の貝(佐々木)廣氏。やはり連翹忌の常連でしたし、他のイベント等でもご一緒させていただいたことがありました。ものすごい行動力と、繊細な気づかいの心を持ち合わせた方でした。「でした」と、過去形にしなければならないのが残念です……。
 
震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、北川先生をはじめ、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすらと横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、やがて、ご遺体発見の報。ショックでした……。
 
テレビやネットで女川の惨状を見るにつけ、心が痛みました。しかし、事実を認めたくなくて、女川には足が向きませんでした。自分の中では、女川は豊かな緑に囲まれた美しい港町、そこに行けば貝氏が元気な笑顔で迎えて下さる街、そのままの姿で取っておきたいという思いでした。
 
昨夏、数えてみれば20回目の女川・光太郎祭。例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思つていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。

さて、今年も第21回の女川・光太郎祭が開催されます。女川・光太郎の会の皆さん、さらには北川先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんの集まりである北斗会の方々のお骨折りです。
 
期日は例年通りの8月9日(木)。会場は女川の仮設住宅だそうです。15:00から北川先生のご講演。会場を移し、18:30から石巻グランドホテルにて懇親会。当方、北斗会の皆さんが手配して下さいまして、当日朝7時に池袋から貸し切りバスが出ますので、それに便乗します。帰着は翌10日の夕方です。お近くの方、そうでない方も御都合のつく方は、ぜひご参加ください。連絡をいただければ取り次ぎは致します。

今月末に続々刊行の光太郎関連新資料、第2弾が昨日また届きました。この世界の第一人者、北川太一先生の新刊です。
二玄社 高村光太郎/北川太一著 平成24年6月20日 定価1,600円+税

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昭和6年(1931)、光太郎は新聞社・時事新報社の依頼で、約1ヶ月かけて、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、そして宮古までをほぼ航路で旅し、紀行文「三陸廻り」を執筆しています。また、戦後、花巻郊外の山小屋で、雑誌『すばる』に「みちのく便り」という文章を断続的に連載しています。
 
本書は東北を描いたその二つの作品を軸に、同時期や二つをつなぐ時期の光太郎詩文を紹介しつつ、光太郎、さらには智恵子の内面を考える試みです。著者が「高村光太郎/北川太一」となってるのは、そういうわけです。
 
昨年の秋でしたか、千駄木の北川先生のお宅にお邪魔した際、この書籍に話になり、「なかなか進まなくて……」とぼやかれていたのを思い出します。ここ数年、手術を受けられたり、おみ足の調子もよろしくないとのことで、出歩くこともほとんどないとのことですし、御手紙には「毎日リハビリで……」というようなことも書かれています。そんな中、ついにこの書籍が刊行されたということで、我が事のように喜んでおります。
 
後にまた書きますが、ここで取り上げられた「三陸廻り」が縁で、彼の地での光太郎顕彰活動も湧き起こりました。しかし、ご存知の通りの昨年の大震災での大きな被害。顕彰活動の中心になっていた方も、あの津波に呑み込まれ、亡くなりました。そうした経緯をふまえ、北川先生は「あとがき」でこのように書かれています。
 
 光太郎の目に映り、心に残った三陸は、ことに今度の3.11の災害の後では、もうこれを読む人々のこころの中にしかありません。しかしそれは無くしてもいいものでしょうか。過去の度重なる災害から不死鳥のように蘇ったかけがえのないこの風土と人情は、更に純化され再生されなければなりません。
 
まさしくその通りだと思います。

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