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このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関する情報です。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

「1000年後のいのちを守る」を合い言葉に、震災のあった2011年の4月に中学生になったかつての女川一中生のみなさんが、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建てる事業を進めています。その7基目の除幕式が、避難訓練を兼ねて明日行われるとのこと。コミュニティ放送局・女川さいがいエフエムさんのサイトから情報を得ました。 

絆を深めるための津波避難訓練in野々浜

日 時 : 平成27年7月19日(日)
場 所 : 女川町野々浜 野々浜港(牡蠣処理場前)
主 催 : いのちの石碑を作る女川の子どもたちを支える会
      女川1000年後のいのちを守る会
日 程 : 受付 9時30分~9時50分 避難訓練 10時~10時50分 除幕式 11時~11時50分


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TBCラジオ東北放送さんのサイトにも記述がありました。

~「いのちの石碑」を作る女川の子どもたちを支える会 阿部一彦さん~

 震災時女川一中で教頭をつとめていた阿部さんは、震災後女川中学校の1年生が提案した「1000年後のいのちを守るための石碑」を作る女川の子どもたちを支えています。石碑は7基目になりこどもたちは高校2年生になりました。「もう二度と一人の命も失いたくない」、ひとりの命を守るためにはどうするかを考え続けている子供達は今月19日(日)に「絆を深めるための津波避難訓練in野々浜」を開催することにしました。
7基目の石碑の披露式とともに1000年後の命を守る、よりよい町づくりについて女川の子どもたちと考える機会です。みなさんもいっしょに考えませんか?


まだ細かな連絡が来ていませんが、予定通りであれば来月9日には、恒例の女川光太郎祭も行われるはずです。3月にはJR石巻線の女川駅が復活した女川、震災から5度目の夏。記憶を風化させないよう、そして何より復興に向け、着実に歩んでいって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月18日

大正9年(1920)の今日、文献社から『詩集 地上の光』が刊行されました。

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50名余の詩作品を掲載したアンソロジーで、光太郎詩「師走十日」「海はまろく」も収められています。この手のアンソロジーはかなり数が多いのですが、これは光太郎の作品が載ったものとしては古い時期のものの一つです。

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「イロハ順」というところに時代を感じます。「光太郎」が「幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

仙台に本社を置く東北の地方紙、『河北新報』さん。一昨日の一面コラムで光雲を取り上げて下さいました。

河北春秋

 組織「イスラム国」によるイラクやシリアの古代遺跡の破壊が続く。約3千年前のアッシリア帝国のニムルド遺跡、約2千年前に栄えたハトラ遺跡。世界遺産のあるパルミラも制圧したと伝えられる。なんとも残念▼と思ったら、日本でも明治維新のころ、文化遺産が災難に遭っていた。理由の一つは、新政府による「神仏分離令」だ。廃仏毀釈(きしゃく)運動が進み、結果として寺院や仏像、仏具などの売却、廃棄につながった。仏師の高村光雲が焼却寸前の観音像を買い取った、という逸話もある▼そして、明治6(1873)年の「廃城令」。お城は封建時代の遺物と見なされた。多くが破壊され、維持コストがかかると売り払われた。太平洋戦争を経て、天守が創建当時のまま残ったのは、12城だけだ▼その一つ、弘前城のある弘前市が言い出しっぺとなり、「現存十二天守同盟」なるものを結成する。兵庫・姫路や松山など11市と協力し、情報発信や外国人観光客誘致などを進めるそうだ。松江城(松江市)の国宝内定や城巡りブームもあって、大いに盛り上がるだろう▼存続の危機があった事実や背景も、伝えられるといいと思う。先達の価値観は、時の為政者によってすっかりひっくり返されることもある。いまだからこそ、考えてみては。(2015.6.12)

イスラミック・ステートによる文化財破壊のニュースから、明治初頭の廃仏毀釈へと話が進み、光雲のエピソードが紹介されています。先日放映されたNHKEテレさんの「日曜美術館 命を込める 彫刻家・高村光雲」の中でも少し扱われていたエピソードで、元ネタは昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』です。

神仏分離の政策は、王政復古となった慶応年間からすでに太政官布告の形で進められました。仏教の排斥を企図したものではなかったにも関わらず、各地で拡大解釈がなされ、エスカレート。廃藩置県前、中部地方のある藩では、藩主の菩提寺を含め、領内全ての寺院が破壊され、何と現在でも仏式の葬儀を行う家庭がほとんど無いということです。

『光雲懐古談』に記されたエピソードは、光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺という寺院境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになりました。請け負ったのは「下金屋」という金属のリサイクル業者。像に施されている箔の金を、焼却した後で取り出すというわけです。

今にも火をかけられる、という話が町の人から師匠・東雲の処にも007 (2)たらされましたが、あいにく師匠は留守。そこで、以前からそれらの観音像を手本とするため足繁く通っていた光雲が、現場に飛びます。業者と交渉の結果、特に出来がいいと目星をつけていた五体、それもすでに解体されていたものの部材を集めて、譲って貰いました。業者は足もとを見てふっかけてきたそうですが、後から駆け付けた師匠が支払いました。

そのうちの一体を、光雲は自分の守り本尊として師匠から買い取り、終生、手元に置いていたとのこと。江戸時代の仏師・松雲元慶の作で、右の画像の観音像です。現在も高村家に遺っているはずです。確かに光雲の作に通じる柔和なお姿ですね。

『光雲懐古談』のこのくだり、「青空文庫」さんで公開中ですので、ご覧下さい。四つの章に分かれていますが、ひとつながりです。



たかだか150年ほど前、我が国でもこうした乱暴な文化財破壊が行われていたわけで、イスラミック・ステートの暴挙も笑えません。

もっとも、『河北新報』さんの「河北春秋」(少し前には保守系の泡沫政党の議員が、別の日の「河北春秋」にお門違いの非難を開陳していて、笑えました)の最後に有るとおり、さらに近い過去である70年前の苦い経験も無視し、先人の守ってきた金科玉条を破壊しようとする為政者の支配する国ですから……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月14日

昭和23年(1948)の今日、散文「一刻を争ふ」を書き始めました。

稿了は翌日。翌月の雑誌『婦人之友』に掲載され、のち「季節のきびしさ」と解題の上、詩文集『智恵子抄その後』に収められました。

すでに2年余りを過ごした花巻郊外太田村の山小屋で、自然の営みの力に驚嘆させられることを綴っています。

東北レポートの最終回です。

5月17日の日曜日、仙台にて、朗読家の荒井真澄さん、ヴァイオリニストの佐藤実治さんによるコンサート「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて参りました。午後の部と夜の部の2回公演で、当方、午後の部を拝聴。

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「杜の都」と称されるだけあって、この季節の仙台は緑が溢れていました。さらに、この日は「仙台青葉まつり」。多くの人でにぎわっていました。

コンサート会場は、ジャズフェスティバルが開催されることでも有名な定禅寺通りに近いJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さん。

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大きな窓から外の光が差し込み、行き交う人々が見える状態ですが、防音はしっかりしているようで、外の喧噪は伝わってきません。

先月の第59回連翹忌でチラシをお配りしたところ、二本松在住の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷夫妻もいらしていました。熊谷氏、夢くらぶさん作成の智恵子のふるさとマップを会場の皆さんに配布、最後にはステージでご挨拶もされました(当方もでしたが)。

さて、午後の部は3時開演。

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当方、荒井さんの朗読を聴くのは3年前と、一昨年に続き、3回目でした。以前の2回は、一昨年の第57回連翹忌で、ピアノ演奏に合わせてのアクションペインティングをご披露下さいました斎藤卓子さん、一関恵美さんとのコラボでしたが、今回は佐藤さんのヴァイオリンによる演奏の合間、時には演奏にかぶせ、荒井さんの「智恵子抄」から11篇の詩の朗読でした。

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相変わらず情感たっぷりの、素晴らしい朗読でした。元々「智恵子抄」が大好きだという荒井さんですので、その作品に対する思いのたけが表されているように感じました。

ちなみにこの日に公演を組まれたのも、5月20日の智恵子の誕生日に近いという理由もあってのことだそうです。

第2部は、佐藤さんと、ピアノの及川久美子さん(佐藤さんの奥様だそうです)とによる演奏。ご夫婦ならではの息のあった演奏でした。ヴァイオリン演奏では定番の「チャルダッシュ」は、超絶技巧が冴えわたっていました。

最後にアンコール、第1部になかった荒井さんの「もしも智恵子が」の朗読と演奏で幕を閉じました。

いつも同じようなことを書いたり、講演などで喋ったりしていますが、こういう形で光太郎智恵子の世界を広めていただくことも、本当に有り難いかぎりです。全国の様々な分野の表現者の皆様、ぜひよろしくお願いいたします。

ところで荒井さん、宮澤賢治作品などの朗読にも取り組まれています。いただいたチラシを掲載しておきます。ともに仙台での開催で2件。クリックで拡大します。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月24日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、増築の上棟式に参加しました。

同校は昭和45年(1970)に廃校となり、校舎は10年ほど前まで残っていたのですが、老朽化のため解体されました。

下は20年ほど前に撮った写真です。

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仙台からコンサート情報です。  

無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」

期 日 : 2015年5月17日(日)
会 場 : Jazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)
       仙台市青葉区錦町1-5-14ノーバル・ビル1F
時 間 : 午後の会 開演 15:00  夜の会 開演 19:00
料 金 : 前売券 3,500円  当日券 4,000円 1ドリンク付き


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朗読の荒井真澄さんは、3年前、同じく仙台で開催された「シューマンと智恵子抄」というコンサートで、やはり「智恵子抄」を扱って下さいました。とても素敵な朗読をされる方です(朗読だけでなく、ご本人もとても素敵な方です)。

それ以前から「智恵子抄」の朗読を手がけられていて、youtubeに動画がアップされています。





ぜひお申し込みを。当方は既に申し込みました。

ところで今日は、東京大森に行って参ります。先月の第59回連翹忌にご参加下さいました潮見佳世乃さんの歌と語りによる歌物語コンサート「智恵子抄」を聴きに、です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月6日

昭和61年(1986)の今日、銀座の東京セントラル美術館で「the光太郎・智恵子展」が開幕しました。008

光太郎歿後30年、智恵子生誕100年記念ということで、けっこう充実した企画展でした。

当方はこの時大学生。卒論が光太郎で、この企画展が初めて観た光太郎展でした。その頃には、まさか30年後に自分がこういう立場になっているとは思いもよりませんでした(笑)。

ちなみに昨日、BSフジさんで再放送があった「浅見光彦シリーズ22 首の女(ひと)殺人事件」の原作、内田康夫氏の『「首の女」殺人事件』(同じく昭和61年=1986)では、この企画展が事件の発端という設定でした。

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ところでこの企画展は光太郎歿後30年、智恵子生誕100年記念でしたが、来年、2016年は光太郎歿後60年、智恵子生誕130年です。美術館、文学館、イベント会社の皆さん、よろしくお願いいたします。

3.11が巡ってきました。

新聞やテレビでは、少し前から東日本大震災がらみの特集などを組んで下さっていますし、イベントなどもいろいろあって、いいことだと思います。記憶を風化させないというのはもちろん、未だに避難生活を強いられている皆さんがたくさんいたりする現状に目をつぶるわけにはいきませんから。


新聞各紙の報道をご紹介します。  

<「福島」復興考えるシンポ>「地域ごとの被害を見て」 立命大で280人参加

毎日新聞京都版 3月9日

 東京電力福島第1原発事故に関連したシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、立命館大朱雀キャンパスホール(京都市中京区)で開かれ、放射能汚染被害を受けた福島県での農業復興や被災者支援の取り組みが報告された。復興支援の拠点施設「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」と福島大の主催で約280人が参加した。

 元NHKアナウンサーで、現在はNPO法人「8bitNews」を設立し、インターネットなどを使って福島のニュースを発信するジャーナリストの堀潤さんが講演した。

 「『今も苦しんでいる福島』と語った際、その福島は何を指すのか」とまず問題提起。「本州で岩手県に次いで広い福島県は、(原発がある)海側の浜通りから、山側の会津地方まで、放射能被害の程度が違う。地域ごとに細かく見ず、ひとくくりに福島を捉えてしまうと、支援を届ける場所が曖昧になる恐れがある」と警鐘を鳴らした。 

福島の現実と課題「現地で知って」 震災4年、京都でシンポ

京都新聞 3月9日

 東日本大震災から4年を迎えるのを前に、福島県の現状を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、京都市中京区の立命館大朱雀キャンパスであった。復興への取り組みが進む一方で、現在になって表面化した問題を大学教授や被災者が講演し、「課題解決のために、多くの人に現地を訪れてほしい」と市民に呼び掛けた。

 被災地の状況を全国に発信する取り組みの一環で、福島大などが主催した。東京や大阪に続いて京都でも開かれ、約280人が参加した。シンポでは、東京電力福島第1原発事故による県内の放射線量や影響を受けている生産物の出荷状況などを、福島大の教授が説明した。

 本多環特任教授は、家族と別れたり親がストレスを抱えたりして家庭環境などが変化した子どもは、自分の存在意義について悩み、自信をなくしていると指摘。震災から4年近くが経過して体力の低下が明らかになっているとし、「医療面のケアなど、これまでは対症療法にとどまっていたが、教育や福祉の専門家を交えた複合的な支援が必要だ」と訴えた。

 福島市にある松島屋旅館のおかみ高橋美奈子さん(47)は、関西の旅行業者から客に対して責任を持てないため福島行きの商品をつくれないと言われたことを紹介。「原発の汚染水問題などが起きる度に、企画や復興にむけた計画が覆えされる課題はある。現地を見てもらうために自分たちにできることを考えていきたい」と力を込めた。 

大震災から4年…実情伝え 福島大が京都でシンポジウム

福島民友 3月9日

 
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターは8日、京都市の立命館大で京都シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」を開いた。300人以上の聴衆を前に、同大の研究者らが震災、原発事故から間もなく丸4年となる本県の実情を伝えた。

   2013(平成25)年に東京、昨年は大阪でシンポジウムを開いており、今回が3回目。元NHKアナウンサーでジャーナリストの堀潤さんが基調講演した後、同センターの大瀬健嗣特任准教授が本県の放射性物質汚染の現状などについて、小山良太副センター長が本県農業の放射性物質対策などについて、本多環特任教授が子ども支援について報告した。「震災・原発事故からの福島の闘い」と題し、開沼博特任研究員をコーディネーターにパネルディスカッションも行った。


明るいニュースも報じられています。昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念し、文学碑が建てられ、今も女川光太郎祭を毎年開催している宮城県女川町から。 

<JR石巻線>復興の象徴また一つ 女川駅の新駅舎公開

毎日新聞 3月5日

 東日本大震災の津波で流失した宮城県女川(おながわ)町のJR石巻線女川駅の新駅舎が5日、報道陣に公開された。町のシンボルのウミネコが羽ばたく姿をイメージした大屋根が特徴。かさ上げなどの再建が進む町中心部の核となる。  
 
 旧駅は沿岸にあったが、新駅は約200メートル内陸に移設し、敷地も7~9メートルかさ上げした。ホームから真っすぐ先に海が見渡せ、駅舎を起点に海岸に向けて駅前広場やプロムナード(遊歩道)、商店街などを整備する復興計画が本格化する。

21日に開業し、石巻線浦宿駅までの2.3キロ区間の運行が再開、4年ぶりに石巻、仙台方面と鉄路でつながる。町はこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典で復興をアピールする。

3階建ての駅舎は、海外でも活躍する建築家、坂茂(ばん・しげる)さんが設計。温泉施設「ゆぽっぽ」を併設した。3階の展望台からは町を一望できる。


女川の新たな玄関口、新駅舎は水鳥の羽ばたきイメージ

産経新聞 3月6日

 東日本大震災の津波で被災し、不通となっているJR石巻線の浦宿-女川間(約2・3キロ)運転再開に先駆け、駅舎が流されるなど甚大な被害を受けたJR女川駅(女川町)の新駅舎が5日、報道陣に公開された。同区間は21日に運転が再開される予定。

公開された新駅舎は2月20日に完成。世界的建築家の坂茂(ばん・しげる)氏が設計した。屋根が木造の鉄骨3階建てで、延べ床面積は約900平方メートル。屋根は曲線を描き、水鳥が翼を広げて羽ばたく姿を重ねたという。1階は駅事務所や待合所、2階は町営の温泉施設になっている。

この日は女川駅からの列車の試運転も実施。2両編成の列車が女川駅から浦宿駅の手前まで、報道陣を乗せて2往復した。駅は震災前より200メートル内陸へ移転したため、一部ルートを変更。運転手や乗務員は、信号などの設備や新しいルートの確認を行った。

21日は午前6時12分の始発から運転再開。震災前と同じく1日に上下22本の列車が運行する。町営温泉施設は22日からオープンする。

JR石巻線は、美里町の小牛田(こごた)駅から女川駅を結ぶ全14駅約44・7キロ。平成23年3月の震災で全線不通となったが、同年4月から25年3月にかけ、浦宿まで段階的に復旧していた。浦宿-女川間は線路や、女川駅の駅舎が流されるなど甚大な被害を受け、同駅の移転やかさ上げのために再開が遅れていた。

女川町町民課町民生活係の小山幸宏主査は「駅は新しい女川町の玄関口になる。運転再開を皮切りに町を活気づけ、復興の一翼を担ってくれれば」と期待を込めた。


 しかし、素直に喜べない部分もあるようです。女川光太郎祭会場となっており、女川光太郎の会事務局長で、あの日、津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さんの奥様のお店、佐々木釣具店が入っている仮設商店街・きぼうのかね商店街に関する報道です。

(東日本大震災4年)仮設商店街、悩む移転

朝日新聞 3月9日

 4年前に津波被害を受けた東北沿岸の各地で、地元を元気づけてきた仮設商店街の商店主たちに「2度目の移転」の決断が近づいている。新たなまちなみにあわせた「本設」の商店街づくりの構想もあるが、東日本大震災を機に人口減と高齢化は加速。廃業を考える人は少なくない。

 ■細る客足、家賃増も壁
 宮城県女川町の中心部では、津波で全壊したJR女川駅が21日に新しくでき、12月には駅前に新商店街が完成する予定だ。構想では、幅15メートルの遊歩道が海岸にかけて延び、両側にスーパー、薬局のほか、ダイビングショップやギター工房など27店が並ぶ。

 商店街を運営する「女川みらい創造」によると、「半数は町の外から客を呼び込める店」だ。近江弘一専務は「観光客が趣味に没頭し、ゆったりと過ごせるように考えた」と話す。

 1・5キロ西の高台には、被災した商店が移った「きぼうのかね商店街」がある。50店が入る平屋建ての長屋は3年前、県立高校の敷地に建てられた。震災直後、相次いで完成した仮設住宅の近くにできたが、仮設に住む人は減り始め、早ければ2年後に閉鎖される見通しだ。

 ここから新商店街に移ると決めた店は九つ。別の場所で再建をめざす店もあるが、およそ10店は廃業が取りざたされ、移転に二の足を踏む店主が多い。

 一角で理容店を営む深堀浩一さん(71)は「年齢を考えれば難しいね」。ここで営業を終えるつもりだ。震災後、町の人口は3割減り、なじみ客の足も遠のいた。仮設商店街には国の復興予算や寄付があてられ、月2万円の共益費と光熱費で済むが、新商店街に移れば家賃もかさむ。


むずかしいところです……。

きぼうのかね商店街といえば、先頃来日された、英国のウィリアム王子も訪問なさいました。

ウィリアム王子、女川の「希望の鐘」鳴らし離日

産経新聞 3月1日008

 来日中の英国のウィリアム王子は1日、東日本大震災の被災地、宮城県石巻市を訪問後、女川町に入った。100人以上が出迎え、獅子舞踊りや太鼓を鳴らして歓迎した。
 王子はがれきの中から見つかった「希望の鐘」を鳴らし、復興のために開設した商店街の人々とも言葉を交わした。
 王子は日本での全日程を終えて1日夕、次の訪問先の中国へ向かった。

英王子「私も大切な母亡くした」石巻など訪問

河北新報 3月2日

 来日中の英国のウィリアム王子(32)は1日午前、東日本大震災で甚大な被害が出た石巻市と宮城県女川町を訪れ、被災状況を視察し、住民らと交流した。
石巻市では、社屋が津波にのまれながらも手書きの壁新聞を発行した石巻日日新聞の施設を訪れ、記者や津波で3人の子どもを亡くした木工作家の遠藤伸一さん(46)、綾子さん(46)夫妻と面会した。
王子は真剣な表情で夫妻の話に耳を傾け、「私も大切な母を亡くした。思い出してつらい時にはきょうのことを思い出します」と語り掛けた。伸一さんが涙ぐんだ際には、王子が腕をさすり、「あなたは立派な父親だ」と励ました。007
石巻湾を一望できる日和山公園では、亀山紘市長が震災時の様子を説明。王子は犠牲者を悼んで献花し、黙とうをささげた。石巻小の児童2人から折り鶴を手渡されると、「息子のお土産にします」と話した。
女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」では、地元住民が獅子舞や太鼓の演奏などで歓迎。王子は店舗を巡って商店主らと触れ合ったほか、がれきの中から見つかって商店街の象徴となっている「希望の鐘」を3回突き鳴らした。

 
右が「希望の鐘」です。この鐘の音が、すべての被災者の皆さんの心の中に、鳴り響くことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月11日

大正9年(1920)の今日、福島に帰省していた智恵子が東京駒込林町のアトリエに戻りました。

3月12日付けで光太郎が友人の作家・田村松魚に送った葉書に以下の記述があります。

智慧子は大層健康になつて肥つて昨夕帰つて来ました。丁度時候があたゝかなのでよかつたとおもひます。
しばらく田舎に居た人を見ると東京の生活の神経的に慌れて濁つてゐる事を感じさせられます。やはり国民の生気は田舎にあるかも知れませんね。
(略)
ちゑ子からあなたにも妙子さんにもよろしく


「智慧子」「ちゑ子」は原文の通り。「慌れて」もそうです。書簡や日記だと、意外に光太郎の表記はいい加減です。

智恵子歿後の昭和15年(1940)に書かれた「智恵子の半生」によれば、智恵子は結婚後も1年のうち3、4ヶ月は実家に帰っていることもあったそうで「東京には空が無いといつて歎いた」といいます。それが詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」につながります。

先程、1泊2日の行程を終え、仙台から帰って参りました。仙台にある大学に通っている息子の、学生寮から一般のアパートへの引っ越しのために行きましたが、せっかく仙台まで足を伸ばしたので、今朝方、美術館を観て参りました。若林区にある福島美術館さんです。以前に一度だけ、当方のブログにてご紹介いたしました。

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上記はいただいてきた館のパンフレットです。こちらにある通り、光雲作の木彫が2点、所蔵されています。

1点はチベット仏教学者で僧侶の河口慧海に関わるものだそうです。慧海は大阪堺の出身ですが、東京の本郷弥生町や根津など、高村家の近くに住んでいたこともあり、光雲や光太郎と交流がありました。下の画像で、左が光雲、右が慧海です。

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で、福島美術館さん所蔵の慧海ゆかりの光雲木彫がこちら。

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ただし、今日観に行ったところ、こちらは007展示されていませんでした。

もう1点、「落ちない観音様」。神棚に飾られていたそうですが、あの東日本大震災でも神棚から落ちなかったということで、館の方ではそこを売りにしています。もう受験シーズンもそろそろ終わりですが、御利益があるのでは?

そちらは展示されていました。そこで、レポートを兼ねてご紹介いたします。

福島美術館さんは、地下鉄南北線の愛宕橋駅からほど近い、住宅街にあります。

美術館には見えない建物ですね。それもそのはず、元は身体障害者の総合福祉施設、ライフセンターという今でいうカルチャーセンターだそうで、現在も運営母体は社会福祉法人共生福祉会さんです。このあたりの経緯も館のブログに記述があります。

ちなみに「福島」は共生福祉会の創設者、福島禎蔵の名から。

新春吉例「めでた掛け-35年目の迎春-」という企画展が終了したばかりで、常設展のみ。入館料は何と100円でした。良心的というか何というか……。頭が下がります。

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常設展のみということで、確かに狭いスペースでしたが、福島禎蔵、そして先代と先々代のコレクションの中から逸品が並んでいました。

やはり仙台。伊達家ゆかりの品々、和時計、歌川国芳などの絵、そして福島禎三がNHKさんとも関わっていたとのことで「ラヂオ」。

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そして、「仏像」のコーナーに「落ちない観音様」が鎮座ましましていらっしゃいました。想像していたより小さな仏様でした。

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キャプションによると、震災の時まで光雲作であることに気づいて居らず、礼拝の対象として神棚に置かれていたそうです。

先程も書きましたが、もう受験シーズンもそろそろ終わりですけれど、御利益があるのでは? 受験生の皆さん、ぜひ拝観を(笑)。

追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。

館の裏手には、ある意味仙台のシンボル、広瀬川。

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陽気がよければ川原でのんびりするのもいいかと思います。ただ、今朝は寒く、早々に引き上げました。昨日は晴れていながら小雪が舞っていました。強風に山の雪が飛ばされてくる風花(かざはな)だと思いますが。既にタンポポやオオイヌノフグリが咲いて、梅は散り始めている房総の住民にはきつい寒さでした。

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ところで、昨日のブログに書いた町田の八木重吉記念館さんにしてもそうですが、こうした施設の館が頑張っている姿には頭が下がります。こういう灯を消してはいけないと思います。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月3日

昭和30年(1955)の今日、吸入器を購入しました。

宿痾の肺結核が進行し、病床に臥すことが多く、光太郎の余命、あと1年と1ヶ月という時期です。それでも食事は自炊、調子のいい時には原稿や書を書いていました。

去る8月9日、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭が開催されました。
 
いくつかのメディアで報道されていますので、ご紹介します。

女川・仮設商店街で「光太郎祭」 町の“文化遺産”しのぶ

 女川町を訪れ、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第23回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町浦宿浜の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で開かれた。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が連作詩「暗愚小伝」を題材に、生い立ちや家庭環境などを解説した。

 光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎の詩文は町の文化遺産。当時の女川をしのびながら詩を詠んでほしい」とあいさつ。遺影に献花した後、地元の小学生らが女川を題材にした「よしきり鮫」などの詩を朗読した。

 文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長の講演、歌やギター演奏の披露もあった。

 祭りは、光太郎が三陸の旅に出発した1931年8月9日にちなみ、92年から毎年開催。91年に女川港に建てられた三つの文学碑は東日本大震災で二つが倒壊し、一つは行方不明になっている。
 
『石巻かほく』2014.08.15
 
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光太郎の詩の世界に浸る 第23 回「女川・光太郎祭」

 彫刻家・詩人として知られる高村光太郎が、時事新報の委嘱で三陸地方へと旅立った8 月9 日、きぼうのかね商店街で第23回「女川・光太郎祭」が開催されました。
 この旅行中に光太郎は女川へも立ち寄り、「三陸沿岸では一番新しい、一番きれいな水揚げ場だ。(中略)女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。」と評しています。
 この日はあいにくの雨模様でしたが、しっとりとしたギターの音色をバックに詩が朗読され、参加者は光太郎の目にした女川を想い、詩が描きだす独特の世界に浸りました。
 
『広報おながわ』 2014.09.01
 
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女川「光太郎祭」で講演

 女川町でこのほど、詩人・高村光太郎の顕彰式典「光太郎祭」が開かれた。83年前に詩人が三陸へ向けて東京を出発したこの日に式典を開催して今年で23回目。連作詩「暗愚小伝」について講演があり、戦争協力に及んだ詩人の軌跡に約50人が耳を傾けた。
 式典は、仮設商店街にテントを張って開かれた。文学碑3基の大きな写真が囲むステージで、研究者の小山弘明さん(49)が「暗愚小伝」を読み解く。
 小学校時代をこう描く。「身を捧げるといふことの どんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた」。小山さんは「このような教えが『三つ子の魂百まで』と言うように、戦争協力につながっていったのではないか」と解説した。
 光太郎研究の大家、北川太一さん(89)も式典に出席して、「戦争中の自分を『暗愚』と名付けたことは大事」と指摘した。「今また戦争に巻き込まれるかもしれない雰囲気が漂っている」と現代に重ねた。
 光太郎は1931年8月9日、三陸へ向けて東京を出発し、女川港で作品を残した。町で養鶏業を営んでいた画家の貝廣(かい・ひろし)さんがそれを知り、有志と共に町内外の3721人から寄付金を集め、91年に女川港のそばに文学碑を建てた。
 その後、毎年8月9日に碑の前で顕彰式典を開いている。公費に頼らない手弁当の式だ。貝さんは東日本大震災の津波で命を落とした。64歳だった。貝さんの妻や友人は遺志を継ぎ、中断させずに震災の年も式を開催した。津波で被災した碑は今、再建の日を待っている。
 毎回、町の人々が詩の朗読も行う。今回は高校生らと一緒に女川小学校6年生も参加。「道程」を千葉あいかさん(11)、「花のひらくやうに」を鈴木明梨さん(11)、「山のともだち」を成田千夏さん(12)が読み上げた。「みんなが真剣に聞いてくれたので良かったです」と鈴木さん。
 ギター奏者の宮川菊佳さんやオペラ歌手の本宮寛子さんも出演。本宮さんは強い風雨の音をかきけすようにソプラノを響かせた。
 
『朝日新聞』 2014.09.02
 
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『広報おながわ』は月刊ですので、9月1日にでるだろうと思っていたところビンゴでした。すると、翌日には『朝日』さんの宮城版に載ったようです。この手の地方でのイベントは、少し経ってから報道されることが多いものです。『石巻かほく』さんは約1週間後に掲載されました。
 
『朝日』さんからは、今年3月に表参道で行われた「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」/トークイベント、同じく6月の二本松の智恵子のまち夢くらぶさんの女川訪問の際にお世話になった、石巻支局の小野智美さんが取材にいらしていました。そのわりに記事にならなかったので、ボツかな、と思っていましたが、昨日、大きく取り上げて下さったようです。
 
8月25日、BS日テレさんの「深層NEWS」という番組に、女川の須田善明町長がご出演なさったので、拝見しました(光太郎がらみの話はありませんでした)。その中で、「人口減少率日本一」というお話が出て、驚きましたが、その後、女川再生に向けてのコンパクトな街づくり的な構想について語られていました。「光太郎ゆかりの町」的な側面でも進めて行っていただきたいものです。
 
ついでに書くと、8月30日のBS朝日さんの「いま日本は」という番組では、レギュラーコメンテーターの中村雅俊さんによる女川訪問、「中村雅俊が巡る被災地の未来 故郷・女川 おもいで旅(1)」が放映されました。女川光太郎祭の会場でもある「きぼうの鐘商店街」でのロケもありました。(2)があるはずなのですが、まだ放映予定が出ていません。
 
また、BS12(トゥエルビ)さんの「未来への教科書~For Our Children~」という番組(8月中に4回放映されました)で、仮設住宅に暮らしていく中で放課後に勉強する場を失ってしまった子供たちのために始められた事業・女川向学館が取り上げられ、中学生が英語で自分達の故郷・女川町をプレゼンテーションするという活動が紹介されていました。
 
さらについでに書くと、地上波NHKさんで、近々、以下の放映があります。 

特集 明日へ−支えあおう−「妻を探して海へ」

NHK総合 2014年9月7日(日)  10時05分~10時53分
去年秋、宮城県女川町のバス運転手・高松康雄さんは地元のダイバー高橋正祥さんを訪ねた。「妻をこの手で探したい」。勤め先の銀行で津波にあった妻は行方不明、手元に残るのは地震直後に妻から届いた「かえりたい」というメールだけだ。57歳になる高松さんは、高橋さんと厳しい訓練を重ねて潜水免許を取得。この夏、妻を探すため初めて海に潜る。手がかりは見つかるのか。訓練開始から1年、高松さんの妻への思いに密着する。

被災地からの声「宮城県女川町」

NHK総合 2014年9月8日(月)  26時15分~26時38分 =9月9日(火)2時15分~2時38分
被災地で出会った方々に、「いま一番言いたいこと」をうかがい、その思いをスケッチブックに書いてもらった上で、思いの丈を語っていただきます。今回は、宮城県女川町でお聞きした声をお届けします。
 
 
こういう番組を通し、女川の現状、町民のみなさんの今の思い等、しっかり受け止めて行きたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月3日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、和賀郡藤根村(現北上市)の高橋峯次郎が訪れ、平和観音堂についての相談をしました。
 
高橋は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ましたが、あいにく光太郎は彫刻を封印している最中でした。代わりに光太郎は自作の詩「観自在こそ」を揮毫、高橋に贈りました。その書は石に刻まれ、現在も北上市後藤の、高橋の建てた観音堂境内に残っています。
 
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詩は以下の通り。
 
観自在こそ たふとけれ 
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
 
平安時代に流行った「今様」の形式による観音讃仰の内容です。高橋は「文字で表された仏様」と感激したそうです。
 
ちなみに高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。
 
500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩を読みて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。

昨日の第23回女川光太郎祭をつつがなく終え、先程、2泊3日の行程を終え、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。3日間を振り返ってみます。
 
2泊とも、女川町内のEL FARO(エル ファロ)さんに宿を取っていただきました。こちらは一昨年の暮れにオープンした宿泊施設です。50棟ほどのコテージハウスのようなものが並んでいますが、すべて、トレーラーハウスです。
 
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50棟ほどのすべてに車輪と連結のための部品がついており、そのままトレーラーで牽引できるのです。建築物ではないので、基礎を打つ必要もなく、状況によっては移動可能という、画期的なものです。
 
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内部はごく普通のホテルのようです。もちろん、電気も水道も通じています。ユニットバスも各戸についています。
 
一昨日の夜にこちらに着き、翌朝、散歩を兼ねて女川港まで約1.5㌔の道を歩きました。
 
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東日本大震災による大津波で倒壊した光太郎文学碑、女川交番などはまだそのままでした。しかし、確実に復興への槌音が響いていました。
 
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資材置き場に咲く向日葵。なぜか涙が出そうになりました。
 
女川光太郎の会の方に迎えに来ていただき、光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」へ。
 
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今年は商店街の一角に、テントを張って会場を設営しました。
 
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午後2時、震災で犠牲になられた方々への黙祷から始まり、前座として当方の記念講演。この頃から大粒の雨が降り始めました。
 
女川光太郎の会会長須田勘太郎さん、女川町長・須田善明氏のごあいさつ、ギタリスト・宮川菊佳さんの伴奏による、地元の方々の朗読、さらに和太鼓演奏。
 
 
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そして北川太一先生のお話。特にテーマは決めず、「講演」というほど大げさにではなくおしゃべりしたい、とおっしゃったそうで、短いお話でしたが、参会の皆さんは、口々に「一言一言が心に染みた」と感想を述べられていました。当方も同感でした。
 
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朗読をしてくれた皆さんに、北川先生からサイン入りご著書のプレゼント。
 
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女川光太郎の会の中心として活動なさっていて、震災の津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さん夫人、英子さんのごあいさつ。
 
オペラ歌手・本宮寛子さんのアトラクション演奏。
 
以上、こじんまりと行われたイベントですが、それぞれの方が、それぞれの思いを込めて、作り上げたイベントです。
 
地元の方々はもちろん、各地から、故・貝(佐々木)廣さんと親しかった皆さん、東京から北川先生の教え子の北斗会の皆さん、花巻高村光太郎記念会から事務局の高橋さんと、いろいろな方がお集まり下さいました。
 
今後とも、こじんまりとではあるかと思いますが、続く限り続けていってほしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月10日
 
昭和47年(1972)の今日、中央公論美術出版から光太郎著『日本美の源泉』が刊行されました。
 
もともと『婦人公論』に昭和17年(1942)に連載されたものですが、当時の編集者がその草稿を処分するに忍びず、保存しておいたものを、そのまま複製し、和綴じにしたものです。
 
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本日、宮城県女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」において、第23回女川光太郎祭が行われました。

平成の初め、第1回が開催された頃からそうでしたが、女川光太郎祭といえば悪天候がお約束。今日も始まったとたんに雨が降り出しました。会場は屋外のテントの下で、どうなることかと思いましたが、つつがなく終わりました。

ご来場下さった皆様、ありがとうございました。詳細は帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月9日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が九段坂病院を退院しました。


統合失調症が進んだ智恵子は、睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺を図り、幸い、一命は取り留めました。しかし、この後、坂道を転げ落ちるように、心の病は悪化の一途をたどります。

宮城県女川町に来ております。

明日、午後2時から、町内の仮設商店街「きぼうのかね商店街」にて、「第23回女川光太郎祭」が開催されます。
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昭和6年(1931)、「時事新報」に依頼された紀行文執筆のため、光太郎がここ女川を訪れたことを記念してのイベントですが、ここ数年は東日本大震災からの復興の象徴の意味合いも加わっております。

光太郎遺影への献花、小中学生を含む地元の方々による朗読、当会顧問・北川太一先生のお話、ギタリスト宮川菊佳氏、オペラ歌手本宮寛子様の演奏、地元の皆さんの太鼓演奏、当方の記念講演と、盛りだくさんです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【今日は何の日・光太郎 補遺】8月8日

昭和23年(1948)の今日、彫刻家の石井鶴三から信州産のクルミを貰いました。

昨日に引き続き、女川ネタです。東京は芝の旅行会社・キッズワールドさんのパッケージツアーのご紹介です。 

宮城県女川町 復興視察ツアー 出かけよう東北へ!

世界遺産や歴史的名所、自然が育んだ多彩な山海の幸。
自然に恵まれ緑も海も豊かな東北は、これからが旅行のベストシーズンです。
今こそ行きたい魅力溢れる東北。
見て・食べて・泊まって・感じて、そして今を知ることが復興支援につながります。
今回は宮城県・岩手県のおすすめ観光スポットと、宮城県女川町の復興視察ツアーをご紹介!
 
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視察ツアースケジュール 仙台駅発着 / 専用バス / 日帰り / 仙台駅からの添乗員付
10:00 仙台駅発 ※1
12:00 昼食 約50分 女川温泉 華夕美(海鮮) 
12:50 女川町内視察(車窓)約30分 語り部ガイドによる震災当時や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてのお話を伺います。 
13:25 復興まちづくり情報交流館 約40分 町の復興の様子を映像やパネルを用いて説明していただきます。
14:15 マスカー水産加工品冷凍冷蔵庫 約30分 水産加工冷凍冷蔵施設、津波を受け流す建物構造を見学します。また、マイナス30度の冷凍庫の中も体験できます。※女川魚市場休市の場合はマリンパル女川へご案内します。 
14:55 きぼうのかね商店街 約40分 震災後に設置された仮設の復興商店街にてお買い物。  
15:35 女川町発 
17:30 仙台駅到着、解散 ※2 
 
※1 ご希望に合わせ、JRや国内線の手配、仙台観光や宿泊手配も別途承ります
※2 当日の交通事情により、予定時間は変更になる場合があります
 

ツアー代金 仙台駅発着/5月~7月土曜日催行

15名様20名様25名様
小型バス1台お1人様あたり¥11,300
小型バス1台お1人様あたり¥9,400
中型バス1台お1人様あたり¥8,600
  • ※催行日程、曜日、人数に合わせて料金は変動いたします。まずはご希望をお聞かせください!
  • ※ツアー代金より500円を女川町へお渡しします。
    (うち200円は女川町の復興支援金として利用され、300円は訪れた皆様が現地のお買い物などにご利用いただける地域通貨としてお返し致します。)

女川町はこんな町

宮城県の東端、太平洋に突き出た牡鹿半島の基部に位置する女川町。
石巻市に隣接し、日本有数の漁港「女川漁港」をもつ海のきれいな港町です。
中でも秋の味覚「秋刀魚」の水揚げ量は、全国でもトップクラスの業績を誇ります。

2011.3.11 東日本大震災、そして・・・

東日本大震災の発生。海に広く面している女川町は、津波によって壊滅的な被害を受け、10名にひとりという多くの町民が犠牲になりました。
震災から3年経った現在、町の復興計画は着々と歩みを進め、大型重機による造成工事が行われています。

今しか見ることのできないこのまちづくりを、次の大災害への備えに繋げてほしいと願う女川町の方々が、今回このツアーに協力してくださいました!
 


というわけで、15名以上の団体様で申し込みというツアーのようです。
 
職場や町内会などなど、こうした旅行の幹事をなさっている方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月25日
 
昭和25年(1950)の今日、帝国劇場で藤間節子舞踊リサイタルが開催され、「智恵子抄」第二集(「風にのる智恵子」「昇華」)が発表されました。
 
光太郎はパンフレットにエッセイ「再び村にて」を寄せています。

去る15日の日曜日に、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんとともに、光太郎ゆかりの地・宮城女川を訪問しました。
 
その際のレポートに書きましたが、『朝日新聞』さんの宮城版に記事が載りました。で、昨日、記事を書かれた石巻支局の小野智美記者から当日の『朝日新聞』が届きました。
 
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以前にも書きましたが、ネットで見るのと、実際に新聞の紙面で見るのとでは、感じが違いますね。
 
それから、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表からは、集合写真を送っていただきました。
 
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背景は女川港。小山ができていますが、ガレキではありません。この一帯は1メートル以上地盤が沈下しているとのことで、これを使って水際のかさ上げ工事を行うための資材です。
 
まだまだ東北は復興途上。ご理解とご支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月24日
 
昭和18年(1943)の今日、千葉三里塚に住む親友の水野葉舟に手紙を書きました。
 
ミッドウェー海戦の大敗から1年、前月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アリューシャン列島のアッツ島で日本軍守備隊が総員玉砕、翌月には日本本土が初めて空襲を受けるなど、敗色濃厚となっていた時期です。
 
同時に物資欠乏も進んでいた時期で、71年前の今日の手紙も、そうした世相を反映しています。
 
今朝「食べられる野草」下巻ありがたくいただきました。一通り皆実験してみようと思つてゐます、
 
「食べられる野草」は葉舟の著書。月明文庫の一冊として、上巻は前年に、下巻はこの年5月に刊行されています。

一昨日から昨日にかけ、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行に混ぜていただいたりで、出かけておりました。そのレポートを今日明日で。
 
まず、メインだった女川訪問についてです。
 
昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されています。
 
会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、繁華街は壊滅状態になるなど、東日本大震災による甚大な被害を乗り越え、今も「女川光太郎祭」は続いています。一昨年昨年は当方も参加して参りました。昨年からは講演もさせていただいております。
 
かつて「女川光太郎の会」の故・貝さんは二本松の智恵子追悼行事「レモン忌」にご参加なさり、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表は逆に女川光太郎祭に行かれたこともあるとのことで、以前から交流がありました。「智恵子のまち夢くらぶ」さんでは、毎年この時期に光太郎智恵子ゆかりの地を訪ねる研修旅行を実施されていて、今年はそういうわけで女川に行かれたのです。双方と関わっている当方も混ぜていただきました。
 
さらに今年3月、東京は表参道で開催された「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」と、その関連行事としてのトークイベントがあり、そこでご縁を結ばせていただいた『朝日新聞』石巻支局の小野智美さんに、「「光太郎が取り持つ被災地同誌の縁」的な記事になりませんか」と、連絡を入れておいたところ、取材にいらしてくださり、早速、今朝の宮城版に記事が載ったようです。

女川の光太郎の碑に花束と涙 福島から21人

 女川港のそばに横たわる高村光太郎の文学碑2基に15日、花が手向けられた。光太郎の妻、智恵子の出身地、福島県二本松市で顕彰活動をしている「智恵子のまち夢くらぶ」の21人が持参した。福島第一原発事故に日々、向き合うメンバーは、津波被害の現実を目の当たりにして「私たちも頑張ろう」と涙をぬぐった。
 夢くらぶ代表の熊谷健一さん(63)は3基の文学碑ができた1991年以来、町で光太郎の顕彰活動を続けていた「女川・光太郎の会」事務局長の貝廣(ひろし)さんらと交流してきた。15日は、津波で命を落とした貝さんを思い、変わり果てた町で暮らす人々も思って「悲しみの中で一生懸命生きる方々に私たちが励まされます」と声を詰まらせた。
 1基の詩碑は津波で流されて行方がわからない。残った2基の復興後の置き場所はまだ決まっていない。(小野智美)
 
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「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんは、ほとんどが初の女川訪問ということでしたし、熊谷代表他、何度目かの訪問だという方も震災後は初めてということで、かつての繁華街が消滅してしまった女川に息を呑まれていました。
出迎えて下さった「女川光太郎の会」の佐々木英子さん、笠松弘二さん、そして小野記者を前に、熊谷代表は感極まって嗚咽しながらのご挨拶でした。
 
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現在残った2基の光太郎碑がこちら。
 
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上記記事の写真を撮る小野さん。
 
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その後、かつて地元住民の100円募金で建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ、女川中学生徒の尽力で建てられた「いのちの石碑」(4月に建てられた4号碑)、仮設商店街「きぼうのかね商店街」を廻り、女川をあとにしました。
 
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女川は訪れるたびに少しずつ復興が進んでいますが、ほんとうに「少しずつ」であるのがもどかしいところです。福島は福島で、昨日もバスの中での皆さんの会話に耳を傾けていると、「おらほの庭は今度ぁ、5センチの除染だない」といった発言が聞こえる状況です。
 
まだまだ「被災」は続いています。「復興」へのご協力を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月16日
 
明治34年(1901)の今日、新詩社茶話会に出席しました。
 
弱冠19歳(数え)の光太郎、既に与謝野夫妻にその才を認められ、雑誌『明星』の「文芸雑俎」欄責任執筆者の一人に推されました。

昨日から一泊で出かけておりました。
 
千葉・柏、福島・二本松、宮城・女川と仙台を廻り、先程帰宅致しました。
 
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詳細は明日以降、レポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月15日
 
昭和26年(1951)の今日、龍星閣から『随筆 独居自炊』を刊行しました。
 
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昨日は都内2ヶ所を廻ってきました。
 
1ヶ所め、三鷹。
 
福岡を拠点に「智恵子抄」などのひとり芝居をなさっている玄海椿さんの東京公演「ロックンロール黒田官兵衛」、それからアクタースクール講師もされている玄海さんの教え子さん達のミュージカル「キッド」を観て参りました。
 
戦国や幕末の歴史物は大好きですし、ミュージカルの方も、頑張っても頑張っても光が見えず、夢と現実のはざまで苦悩する劇団員たちを描いた内容が、金にならない文化活動を続ける我が身とダブり、自虐的に面白く感じました。
 
終演後、玄海さんには「ぜひとも東京で「智恵子抄」を」とお願いしておきました。期待したいものです。
 
2ヶ所め、表参道。
 
 
講師は宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎先生と、朝日新聞石巻支局記者 小野智美さん。
 
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佐藤先生は、旧女川第一中学校(現・女川中学校)で、震災直後の2011年5月から、俳句の創作の授業をなさり、小野さんがそれを編集し、一冊の本になっています。題して「女川一中生の句 あの日から」。

 
さらに佐藤先生は「「いのちの石碑」建立プロジェクト」にも関わられ、小野さんはそれも記事に書かれています。



 
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さらに言うなら、佐藤先生の末のお子さんは、3.11当時、津波で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小学校6年生。そして74人のうちの1人だそうです……。その後、「小さな命の意味を考える会」を設立、代表を務められているとのこと。
 
そのお二人によるトークということで、その当時の女川の様子、授業風景、「いのちの石碑」建立の舞台裏など、興味深い、そして感動的なお話がたくさん聴けました。001
 
トークイベント終了後、お二人と少しお話をさせていただきました。お二人とも、当方も関わっている女川光太郎祭に何度か足を運ばれたそうですし、特に小野さんは、現在、女川光太郎祭を取り仕切られている佐々木英子さん(女川の光太郎文学碑建立に尽力された故・貝(佐々木)廣さん夫人)とツーカーだそうで、世間は狭いな、と感じました。
 
先の話になりますが、今年も8月9日(土)に女川光太郎祭が開かれるはずですので、みなさんにもよろしくお願い申し上げます。
 
また明日から東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月15日

明治45年(1912)の今日、美術新報社主催の「第三回美術展覧会」が開かれ、日本画「無題」を出品しました。
 
美術学校での授業には日本画の臨画がありましたし、卒業後も与謝野晶子が短歌を揮毫し、光太郎が絵を描いて屏風に仕立て、新詩社の支援者に買って貰う、などといったこともやっており、実は光太郎の日本画、少なからず残っています。
 
ただ、右の画像(「無題」)のように、臨画ではない作品はかなり斬新なものです。

3/8(土)、山形の最上義光歴史観を後にし、仙台へ向かいました。
 
仙台での目的地は、伊達政宗公の青葉城の一角にある仙台市博物館です。こちらでは以下の企画展が開催中です。 
 
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東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

会期:平成26年3月1日(土)~4月13日(日) 月曜休館 9:00~16:45(入館は16:15まで)
 
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公式サイトより。
 
 飛鳥時代に聖徳太子によって建立された法隆寺は、日本を代表する寺院として多くの人々に親しまれています。天智天皇9年(670)の落雷による火災で大きな被害を受けたとされ、和銅4年(711)頃に現在の中心伽藍が整ったと考えられています。復興された法隆寺は、聖徳太子と関わりの深い仏像が安置されるなど太子信仰の寺院として多くの信仰を集めます。約1300年にわたり保護されてきた世界最古の木造伽藍は、1993年に日本で初めて世界文化遺産に登録されました。
 本展は、東日本大震災の発災から3年を迎えるにあたり、震災からの復興を祈念して開催するものです。法隆寺がたどった復興から現在へと至る歴史を踏まえながら、同寺の宝物をはじめとする様々な美術品を一堂に展示します。
 また、岡倉天心(1863-1913)以来、法隆寺宝物の保存と継承に携わってきた東京美術学校(現 東京藝術大学)の関係者が同寺へ奉納した絵画や什物などを展示し、法隆寺が日本の文化興隆に果たした役割と、そこに携わった人々についても紹介します。
 
展示は三部構成となっており、第一部が「法隆寺-その美と信仰 法隆寺の仏教美術」、第二部が「法隆寺と東京美術学校」、第三部が「法隆寺と近代日本美術」です。
 
光雲が教授を務め、光太郎も在籍した東京美術学校と法隆寺は、密接な関係があります。古くは美校設立に尽力した岡倉天心とアーネスト・フェノロサによる救世観音像等の調査などが有名ですし、その後も寺宝の保存、継承のために美校の果たした役割には大きなものがありました。
 
そこで、第二部では美校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)が並んでいます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
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聖徳太子像の方は高さ約16㌢の小さなものですが(それでも、というかそれだけに非常に精緻です)、佐伯定胤像の方は同じく約90㌢。光雲作の木彫の中では大作の部類に入り、非常に迫力があります。約90㌢という数字は図録で調べましたが、実際に見た感じはもっと大きな感じです。この像は、頭部の原型を光太郎が作っており、その意味では光雲・光太郎親子の合作といってもよいと思います。
 
その他、飛鳥時代から近現代に至る寺宝の数々が展示されており、見応えのある企画展でした。
 
さて、この企画展、以下の日程で巡回となっています。
 
仙台展 仙台市博物館      2014年3月1日(土)~4月13日(日)
東京展 東京藝術大学大学美術館 2014年4月26日(土)~6月22日(日)
新潟展 新潟県立美術館     2014年7月5日(土)~8月17日(日)
 
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図録にはもう一点、光雲作の聖徳太子像が掲載されています。こちらは新潟展のみの出展です。
 
ぜひお近くの会場へ足をお運び下さい。
 
さて、企画展を見終わり、せっかくなので周辺を少し歩きました。山形は雪でしたが、仙台は晴れていました。
 
博物館の裏手には、かつて東北大学医学部の前身・仙台医学専門学校に留学していた魯迅の顕彰碑と胸像。
 
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さらに伊達政宗公の胸像もありました。
 
政宗公には有名な騎馬像がありますが、光太郎や光雲作の銅像と同じく、ご多分にもれず戦時に金属供出の憂き目にあいました。この胸像は供出されたあと、上半身部分のみ鋳つぶされずにうち捨てられていたものだそうです。
 
その後、たまたま残っていた原型を元に、2代目の騎馬像が鋳造されたそうです。それがこちら。博物館の裏手を登っていったところにあります。
 

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ここからの仙台市街のながめはgoodでした。
 

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その後、この日は仙台駅前に宿を取りました。続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月13日

昭和25年(1950)の今日、岩手黒沢尻の森口多里(美術評論家)の疎開先で、誕生日祝いの会食をしました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕131年ということになりますね。
 
で、昭和25年(1950)の今日、講演旅行の帰りに寄った森口の疎開先で饗宴にあずかりましたが、参会者の誰もその日が光太郎誕生日とは言われるまで知らず、全員サプライズの誕生祝いになったとのこと。こちらも昨年のこのブログに書きましたのでご覧下さい。

013昨日、1泊2日の東北出張から帰りましたので、そのご報告を、と思っておりましたが、別件での情報ご提供があり、そちらを優先します。
 
何といっても明日は3.11ですので。
 
宮城県女川町。津波で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの地です。当方、8月に女川で開催されている女川光太郎祭での講演をやらせていただいており、このブログで何度も女川について書きました。つい先日も、女川の話題をいろいろ書きました。
 
すると、今朝、このブログを開きましたところ、一昨年の記事に関し、コメントが入っていました。文京区の書肆・羽鳥書店さんからでした。同社では「女川一中生の句 あの日から」という文庫本が上梓されています。
 
3.11ということで、今日から関連イベントがあるそうです

●女川だより――あの日からの「家族の肖像」展

会 期 : 2014年3月10日(月)~19日(水)
会 場 : ギャラリー山陽堂(山陽堂書店2・3F)
      東京都港区北青山3-5-22  最寄駅:東京メトロ 表参道駅(A3 出口)
【営業時間】
 平日11:00~19:00  土 11:00~17:00  日祝休
  ※会期中13(木)・14(金)は18:30 まで
【問合せ】 03-3401-1309(山陽堂書店)

東日本大震災の震源地にもっとも近い場所、
宮城県の牡鹿(おしか)半島の付け根に位置する女川町(おながわちょう)は、
震災で甚大な被害に遭いました。

津波が町を襲ったあの日から、人々は何を思い、どう暮らしてきたのでしょうか。

半年後の2011年9月、一人の新聞記者が自ら願いでて、この地へ赴任してきました。それからのさまざまな出会いのなかに、女川第一中学校の生徒と教師のみなさんとの日々があります。女川一中では、2011 年の5月と11月に俳句の授業が行われました。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。そこにこめた思いを記者は丹念にたどり、『女川一中生の句 あの日から』として本にまとめました。
 
あの日から3 年。いまも女川町を中心に半島一帯を取材してまわる記者、小野智美さんは、“いま”の女川に暮らす人々の思いに耳を傾けつづけています。記者として記事を書くだけなく、限られた紙面では伝えきれない家族の肖像を「女川だより」(羽鳥書店HP にて連載中)で紹介しています。
 
『女川一中生の句 あの日から』と「女川だより」を中心に、あの日からの女川町を伝える文章や写真を展示します

●女川だより トークイベント

『女川一中生の句 あの日から』の編者である小野智美さんと、俳句の授業を担当された旧女川第一中学校(現・女川中学校)の教諭 佐藤敏郎さんのトークイベントを開催します。

女川第一中学校では、震災後の5 月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
佐藤さんは昨年11 月、震災で教職員と児童84 人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
【講師】 宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎氏
     朝日新聞記者 小野智美氏
【日時】  2014 年3 月14 日(金)  19:00 開始(終了後30 分ほど懇親会あり)
【会場】 ギャラリー山陽堂  定員: 25 名(要予約)
【参加費】  2000 円(含本代945 円。事前のお支払い。返金はできませんのでご了承ください。)
※必要経費を除いた金額は、KIKKAKE BUS 47(http://kikkakebus.tasukeaijapan.jp/)に寄付させていただきます。
【申込方法】 山陽堂書店 店頭・メール・電話・ファックス
         e-mail info@sanyodo-shoten.co.jp  Tel 03-3401-1309 Fax 03-3401-1358

 山陽堂書店HPでの案内は
こちら 
 
【プロフィール】
小野智美(おの さとみ)
朝日新聞記者。1965 年名古屋市生まれ。88 年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005 年に新潟総局、07 年に佐渡支局。08 年から東京本社。2011 年9 月から仙台総局。宮城県女川町などを担当。東松島市在住。著書に『50 とよばれたトキ─飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)、編著に『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012 年)。

佐藤敏郎(さとう としろう)
宮城県女川町立女川中学校教諭。1963 年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。宮城教育大学を卒業後、87 年度から国語教員に。2002 年度から、宮城県の派遣により、女川町教育委員会の社会教育主事を務め、05 年度に女川第一中に着任した。教務主任を経て、12 年度、県教育委員会が震災時の教訓を踏まえて新設した防災担当主幹教諭に就任。13 年度、女川第一中と女川第二中が統合して女川中に。

●女川の会 佐藤敏郎先生ご講演

【日時】 2014 年3 月15 日(土)14:00~16:00(開場13:30)
【会場】 文京区汐見地域活動センター2F 会議室(洋室A・B)
     東京都文京区千駄木3-2-6
     最寄駅:東京メトロ千代田線千駄木駅(出口1:団子坂方面)
【定員】 90 名(要予約/自由席)  【参加費】 1000 円(当日受付にて) 
【申込方法】 羽鳥書店(担当:矢吹) メール・電話
   e-mail info@hatorishoten.co.jp  Tel 03-3823-9319(平日10:00 ~ 18:00)
 
 女川第一中学校では、震災後の5月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
 佐藤さんは昨年11月、震災で教職員と児童84人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
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当方、早速、14日のトークショーの申し込みを致しました。
 
明日はやはり3.11関連で、銀座・永井画廊さんで開催中の「被災地への祈りのメッセージ展 高村智恵子紙絵展」に行く予定です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月10日

明治7年(1874)の今日、光雲が年季奉公と1年の御礼奉公を終え、独立しました。

今日も宮城・女川の話題をお送りします。
 
昨日、高村光太郎文学碑近くの津波で倒れたビル解体に関するニュースについて書く都合上、女川町のホームページを調べたところ、町の広報誌がPDFで出てきました。
 
その中で、このブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立に関しても記述がありました。
 
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いのちの石碑除幕式 千年後の君へ、想い届け

 「千年後の命を守るために」そう刻まれた石碑が姿を現した時、それは生徒たちの〝想い〞がようやく形になった瞬間でした。
 
 震災直後に入学した女川中学校の3年生が、社会科の授業を通じて作り上げた防災プラン。「絆を深める」「高台への避難ルートの確保」「記録を残す」、この3つを机上のアイデアにとどまらせないよう踏みだしたのが、いのちの石碑プロジェクト。
 
 中学生たちは町にある21の浜に石碑を建てるため、多方面で津波対策案を発表しながら募金活動を実施し、約半年で1000万円超に。さらに、その想いを知った山田石販の山田政博氏が石材を寄贈し、11月23日、約300人の関係者が見守る中、1碑目の除幕式が女川中学校で行われました。
 
 当日は、津波対策実行委員会の中心メンバーがこれまでの経緯や石碑に込めた想いを報告。また、流木から作られたTSUNAMIヴァイオリンを使って渋谷由美子さんが「花は咲く」を演奏し、参加者それぞれが千年後の女川の姿に思いを巡らせました。
 
 「子どもたちが〝行動〞することでプロジェクトが動きだし、応援が起き、今日につながりました。
それが大事。この子どもたちの行動に拍手を送りたい。アクションを起こし、動きださなければ変わりません。子どもたちが自らまちの再生へ、そしてこれからの日本を大きく支えてくれると思います」とは須田町長。
 
 高橋校長も「今の3年生は震災の年に入学しました。彼らの素晴らしいところは発信しただけでなく〝行動〞したということ。 10年後、20年後の未来を担うのは彼ら中学生です」とエールを送った後、全国から支援いただいたみなさんに感謝の意を述べました。 
石碑は幅1メートル、高さ2メートルで、その右肩上がりのデザインは復興を目指す女川の姿そのもの。そこに刻まれた生徒たちの真摯な想いが、後世まで末永く届きますように。
 

ぼうさい甲子園でグランプリを獲得

 それぞれの石碑には、生徒たちが震災を詠んだ俳句が各地域で内容を変えて刻まれ、女川中学校の石碑には「夢だけは壊せなかった大震災」が選ばれました。石碑裏面には防災プランが英語、フランス語、中国語にも訳されています。
 
 また、兵庫県・毎日新聞社・(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構が行う「ぼうさい甲子園(1.17防災未来賞)」において、同プロジェクトを進めた女川中学校がグランプリを獲得。表彰式は1月12日に兵庫県公館で行われます。
 
以前にも書きましたが、かつて平成3年(1991)、女川港に高村光太郎文学碑が「100円募金」で建立されたのにあやかって、生徒たちが募金活動を行ったそうです。高村光太郎文学碑建立に尽力した故・貝(佐々木)廣さんの魂が息づいています。
 
さて、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」サイトというがあります。
 
以下、利用ガイドから。
 
2011年3月11日に発生した東日本大震災。
この出来事を記録した、より多くの写真や動画、ウェブページなどを後世に伝えるため、インターネット上の記録を紹介する機能を追加しました。
●目的「東日本大震災 写真保存プロジェクト」(以下「本プロジェクト」)は ・震災前の、美しい日本の記録を保存すること
・未曾有(みぞう)の震災を風化させず、後世に伝えること
・将来の防災研究などに役立てること
を目的とした、非営利目的のプロジェクトです。
●募集内容
次の内容が記録された「写真」をはじめ、「動画」、「ウェブページ」、「ブログ記事」、などを広く募集いたします。
・東日本大震災のありのままの状況
・震災前の、かつての日本のすがた
・復興のようす

正確な資料として後世に役立てるため、「撮影日」「撮影場所」の正しい記載にご協力ください。
 
というわけで、震災前後の被災地の様子を永久に残していこうというプロジェクトです。
 
この趣旨に賛同し、当方も自分で撮影し、このブ001ログでご紹介してきた女川や石巻の様子を投稿しました。
 
その他にも今日現在で6万件超の投稿があります。震災の記憶を風化させないためにも、ご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月6日

昭和22年(1947)の今日、花巻光が太田村山口の光太郎の山小屋を、筑摩書房の編集者・竹之内静雄が訪れました。
 
竹之内と光太郎は戦前からの旧知の仲で、旧交を温めました。この時の様子は光太郎日記に記されている他、昭和61年(1986)の花巻光太郎祭で竹之内が行った記念講演で語られ、竹之内の著書、講談社文芸文庫『先知先哲』に「戦中戦後の高村光太郎」として収められています。

昨日のこのブログでも少し書きましたが、もうすぐ3・11ということで、新聞紙上などでも特集が組まれたりしています。
 
特集というわけではありませんが、光太郎ゆかりの地、女川からのニュースが、昨日の『朝日新聞』さんに載りました。

津波で倒れたビル、解体 宮城・女川

 宮城県女川町で3日、東日本大震災の津波で横倒しになったビルの解体が始まった。ビルが津波で倒れた例は世界でも珍しく、震災遺構として保存をめざす動きもあったが、周辺の復興工事の支障になるため、町は取り壊すことにした。1967年ごろに建てられた4階建ての「女川サプリメント」。ここに住み、健康食品の店を営んでいた千葉進さん(52)の一家6人は、高台に逃れて無事だった。震災の後、妻の郷里の青森県へ引っ越し。撤去については「私は離れていますから」と言葉少なだった。
 女川町には津波で倒壊したビルがほかに2棟残る。町は4階建ての「江島共済会館」は今秋までに撤去し、2階建ての「女川交番」は保存する方向だ。

 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くため女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に女川港に、4基の光太郎文学碑が建てられました。
 
3・11には巨大津波が町を襲い、甚大な被害。街は消滅、女川光太郎の会事務局長として、碑の建立に奔走された貝(佐々木)廣さんも津波に呑まれ、亡くなりました。光太郎碑もあるいは横倒しとなり、あるいは海に流失……。
 
津波で倒れたビルは光太郎碑のすぐ近くです。当方、一昨年昨年と、現地を訪れた際に見てまいりました。三棟あったのですが、そのうちの二棟は撤去されるそうで、一棟めの解体が始まったとのこと。
 
気になったので、女川町の公式サイトから調べてみました。
 
すると、今年1月発行の『広報おながわ』がPDFで見られ、その中に以下の記述がありました。

震災遺構の保存方針 女川サプリメント・江島共済会館は解体 女川交番を保存の方針、活用方法を検討

11月27日、須田善明町長が記者会見を開き、震災遺構の解体・保存に関する本町の方針を表明しました。

震災遺構については、今後の津波被害軽減のための学術的価値や損傷の激しさ、「震災を思いだしたくない」という町民の心情、造成工事スケジュールや財政面など、保存と解体をめぐって総合的に検討してきました。
 
町長は会見で、倒壊した3つの建物について①女川サプリメントは早ければ1月ごろから解体・撤去に着手、②江島共済会館は損傷の度合いが一番高く最終的には撤去するが、大勢の方が関心を持つ施設だけに造成工事の着手時期まで現状を維持、③女川交番は保存の方針で検討中だと述べました。

なお、震災遺構は今後の研究材料となることから、東北大学における3Dモデル化や町におけるレーザー測量等の記録にも努めていく点、また、これらの方針を踏まえて次回定例議会で予算化していく考えなどを示しました。
 
震災遺構の保存方針
女川サプリメント
港湾の復旧工事範囲であり、建物は1月ごろから解体・撤去に着手。
江島共済会館
鷲神浜エリアに位置し、今後盛土の造成工事、道路敷設が必要。最終的には撤去の方向だが、    当該地の造成工事の着手時期まで現状を維持。
女川交番
保存の方針で検討中。当該地の造成工事の着手時期は一番遅いため、何を後世に伝えるか議論   したうえで、保存・活用の方法について検討。
 
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保存されるという女川交番のすぐ隣が貝(佐々木)廣さんのご自宅でした。
 
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一帯は光太郎碑、保存の方向の女川交番も含め、震災メモリアル公園的な形に整備していく計画とのこと。
 
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こうした建物の保存。いろいろ難しい問題も含んでいることと思われます。地元被災者の皆さんには、つらい記憶を呼びさまされる、ある意味負の遺産であるという面があります。しかし、後の世代の人々が防災意識を高く保つために、震災の記憶を風化させないことも大切です。
 
そういう意味では、原爆ドームのある広島の平和記念公園のようなイメージと言っていいかも知れません。
 
明日も女川の話題を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月5日

大正3年(1914)の今日、雑誌『美の廃墟』に詩「道程」が掲載されました。
 
というわけで、今日が「道程」表表100周年です。
 
2/9のこのコーナーにも書きましたが、発表時は102行もある大作でした。それが10月に刊行された詩集『道程』に収録の際に、現在流布している9行の短い形に削られました。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然は子供達が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め
 

宮城県気仙沼市のローカルFMで、「けせんぬまさいがいエフエム」という局があります。
 
そちらで「水上洋甫のポエムディスカバリー」という番組がオンエアされているそうです。
 
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その中で、今年10月に光太郎が扱われました。さすがに当方の住む千葉県では宮城のFMは受信できませんが、動画サイト「youtube」にアップされましたのでご紹介します。全3回のうち、2回分ですね。

2021/05/09 追記 その後、削除され、現在は見られません。

第1回は10/16オンエアで「道程」、第2回は10/30オンエアの「レモン哀歌」。それぞれ詩の朗読だけでなく、その頃の光太郎について解説がなされています。
 
気仙沼といえば、このブログでたびたび紹介している女川や石巻同様、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くために訪れています。平成5年(1993)には、旧唐桑町に、短歌「黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり」を刻んだ歌碑が作られました。当方、10年以上前になりますが、ここを訪れたことがあります。
 
 
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当時はのどかな漁村の風景を楽しんだのですが、やはり東日本大震災による大津波……。
 
その気仙沼で、光太郎を扱ったラジオ番組ということで紹介させていただきました。
 
この碑は健在だそうですので、また折を見て、行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月16日

昭和27年(1952)の今日、丸ビル内の中央公論社画廊でこの年11月に開催された「高村光太郎小品展」御礼として一万円を受け取りました。
 
光太郎生前に開かれた唯一の個展です。
 
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 そういえば、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。昨日をもって全国3館巡回、全て終了しました。またそちらについては書きますが、ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

一昨年の東日本大震災から、今日で1,000日だそうです。
 
そういうわけで、今朝の『朝日新聞』さん紙上では関連記事がたくさん載っていました。
 
そんな中で、教育面でも震災がらみの連載がスタートしました。題して「千年後の命のため」。昭和6年(1931)に光太郎が訪れた宮城県女川町からのレポートです。
 
実は、先月末にも以下の記事が載り、今日明日じゅうには紹介しようと思っていましたので、タイムリーでした。

津波の記録、石碑に刻む 「100円募金」で建立 宮城・女川中3年生

 「千年後の命を守るために」と刻まれた石碑が、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校に建てられ、23日に除幕式があった。震災を記録に残そうと、同中の3年生66人全員で建てた。町内にある全21カ所の浜の津波到達点の上に建てる計画で、同校の碑は1基目になる。
 
 津波が流し去った町中心部を一望できる同校での除幕式。「今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」。3年生の鈴木智博君が、自分たちで考えた碑文を朗読した。
 
 3年生は入学後最初の社会科の授業で、「ふるさとのために出来ること」を考え始めた。11年冬には(1)高台へ避難できる町づくり(2)助け合える絆づくり(3)震災を記録に残す――の三つの津波対策を練り上げた。
 
 石碑は記録に残す具体策の一つ。約1千万円の費用は、今春から3年生が町内外で「100円募金」を呼びかけて集めた。3年生の木村圭さんは「活動は始まったばかり。千年先まで石碑を残すよう伝えなければ」と話した。(小野智美)
 
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8月にこのブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立プロジェクトに関する記事です。
 
子供たちの書いた「企画書」がこちら。

 
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 平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。その碑を建てるために奔走し、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいています。
 
当会としてもささやかながら出資しました。とはいいながら、1,000万円を募金で集めるのは無理なんじゃないか、と思っていました。しかし、あにはからんや、集まったそうです。この国の人々の優しさ、潜在的に持っている力というものを実感させられました。
 
そして今日から教育欄で始まった連載。このプロジェクトの軌跡が描かれるそうです。
 
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記事は『朝日新聞』さんのデジタル版でも読むことができます。ただ、長いので全文を読むには会員登録が必要です。
 
一部を抜粋させていただきます。
 
 国語の授業で1年生の時から作ってきた俳句から碑に刻む21句の候補を求め、短文や長文のメッセージの案も募集した。
 それから5日後の放課後。記録班の4人が教室に残った。班長の阿部由季さん(15)、須田美紀さん(15)、勝又愛梨さん(14)と鈴木君。メッセージを練り上げるためだ。
 阿部さんが、文言の案を見ながら「『あの苦しみ悲しみをもう二度と繰り返さないために』を入れたら」と切り出した。
 須田さんは「冒頭に由季ちゃんの『これから生まれてくる人たちに』をつけよう」と即座に返した。
 別の生徒の文も読み上げた。「大地震が来たら上に逃げてください。家にとどまる人がいたら……」。その先を阿部さんが引き取って「なんとしても引っぱり出しましょう」。
 鈴木君も大きな声で加わった。「なんとしても連れ出してください。ぜったいに引きずりだしてください」
 3人の活発なやりとりを聞いていた勝又さんが、小さな声で言った。「家に戻ろうとする人は、絶対に引き留めてください」。メッセージには、この言葉も使うことになった。
 この放課後の時間を勝又さんは忘れられない。
 「千年後まで残すための大事な話し合いだったから」
 鈴木君は、実行委員長として各地で募金を呼びかけてきた。今も見たくはないあの日の写真をスクリーンに映し、説明に立っている。あの日を突きつけられる質問にも嫌な顔を見せたことはない。「千年後の命を守りたい」。その一念だ。
 
 【碑文要約】 これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみをあわせたくない! その願いでこの碑を建てました。絶対に移動させないでください。大地震が来たらこの碑より上へ逃げてください。逃げない人は無理やりでも連れ出し、家に戻ろうとする人は絶対に引き留めてください。今、女川町はどうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 
恥ずかしながら涙がこぼれてしまいました……。
 
当方、8月9日に行われている女川光太郎祭に参加しております。来年の光太郎祭の折には(機会があればもっと早く)この碑を見てこようと思っています。
 
ぜひ皆さんも足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月4日

明治27年(1894)の今日、光太郎の妹・よし(喜子)が誕生しました。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出された光太郎は、翌月に花巻の宮澤賢治実家に移るまで、近所にあったよしの婚家である木彫家・藤岡幾の家に身を寄せていました。 

宮城・女川から2件ニュースが入っています。
 
まず『日本経済新聞』さんから。 

津波の記憶を石碑に 宮城・女川町の中学生、福岡で募金

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生たちが「1000年後の命を守ろう」と、町内の津波到達点21カ所に津波の恐ろしさを伝える石碑を建てる計画を進めている。必要な資金約1000万円は、一口100円の募金で広く集める。地元だけでなく、作文コンクールへの応募が縁でつながりができた福岡市など各地を訪れ、協力を呼びかけている。
 
 「女川町では津波でたくさんの命が失われました」。7月下旬の日曜日。買い物客が行き交う福岡市天神で、女川町立女川中学3年の阿部由季さんがマイクを握った。「1人でも多くの命を守るため、石碑を建てようと考えています」。同級生の神田七海さんも「ご協力をお願いします」と声を張り上げた。
 
 女川町はリアス式海岸の入り江に面し、津波が陸地を駆け上がった高さ(遡上高)は最高43メートルに達したとされる。家屋の約8割が流失し、人口約1万人のうち約8%が死亡・行方不明になった。
 
 震災の翌月に再開した女川第1中学校(現在は女川中学校に統合)に入学した阿部さんらは、社会科の授業で防災について話し合った。自分たちで考えた対策の1つが「いのちの石碑」で震災の記録を残し、次の世代に伝えることだった。
 
 計画では、町内に21カ所ある浜の津波到達地点に、高さ2メートル、横幅1.3メートルの石碑を1基ずつ建てる。碑には生徒の「夢だけは 壊せなかった 大震災」との句を刻む。高台への避難路も整備。水や食料も備蓄して避難訓練を毎年行うという。
 
 賛同した県内の業者が石材を寄贈したが、加工・設置には1基当たり約45万円、計約1000万円が必要。そこで、かつて女川町の住民が100円ずつ集めて海岸に高村光太郎の歌碑を建てたことに倣い、「100円募金」の開始を決めた。
 
 福岡での募金活動の契機になったのが、阪神大震災を機に設立された「夢みるこども基金」(福岡市中央区)の作文コンクール。「私のかなえたい夢」をテーマに「保育士になって震災をこどもたちに伝えたい。震災に遭って夢が増えました」とつづった阿部さんが最優秀賞に輝いた。神田さんも優秀賞だった。
 
 これが縁で同基金が今夏、2人を福岡市に招き、入賞した他の小中学生と一緒に募金活動をした。基金の古市悟事務局長は「子供たちが復興の中心になることに共感した。支援の輪が広がってほしい」とエールを送る。
 
 石碑は成人式を迎えるまでに完成させる計画。神田さんは「福岡でもみんなが協力してくれた。この気持ちを大切に活動を続けたい」と話す。すでに地元や、修学旅行先の東京でも街頭に立った。募金は銀行振り込みでも受け付ける。詳細は「いのちの石碑プロジェクト」のホームページ。
 
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平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいていることを感じました。
 
もう一件、8月9日に行われた「女川光太郎祭」の報道です。『石巻かほく』さんから。 

仮設商店街で「光太郎祭」 詩を朗読 作品に、古里思う 女川

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第22回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であり、約70人の住民らが参加した。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表(千葉県香取市)が「高村光太郎、その生の軌跡」と題して講演。「どんなに偉大な人でも伝えなければ、忘れ去られてしまう。光太郎の思いを女川の地で後々まで語り継ぐ活動をしてほしい」と呼び掛けた。

 献花した後、小学生ら7人が光太郎の詩を朗読した。文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が「観自在こそ-光太郎の底を貫く東方の信仰」をテーマに講話した。

 東日本大震災で女川町は壊滅的な被害を受けた。参加者は光太郎の作品に震災前の豊かな自然と風景を思い浮かべながら復興に向けて進むことを誓った。

 女川のことを記した紀行文や詩を題材にした光太郎の文学碑は1991年、女川港に建てられた。光太郎祭はその翌年から、三陸の旅に出発した8月9日に合わせて開催している。震災で三つあった文学碑のうち二つは倒壊し、一つは行方不明になっている。

 
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地方紙ですと、緊急性のないイベント報告等はかなりあとになって報道されるケースがあり、この記事も最近出ました。
 
当方についても記述がありますが、一番言いたかったことをズバリ書いて下さっており、感謝いたします。
 
とにかく女川をはじめ、被災地の元気を1日も早く取り戻してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月22日

昭和21年(1946)の今日、総合花巻病院長・佐藤隆房の夫人・雪江にあてた書簡に俳句「秋晴れて林檎一萬枝にあり」をしたためました。
 
気がつけば8月も下旬、東北ではそろそろ林檎も色づいていることでしょう。

8月10日、女川光太郎祭の翌日。北川太一先生の教え子の皆さんである北斗会の方々がチャーターされたマイクロバスに便乗して帰って参りました。
 
北斗会の方々は、北川先生のご講演があるということもありますし、多くの方が女川光太郎の会の中心だった故・貝(佐々木)廣さんと面識がおありで、そのため昨年・今年と多数女川光太郎祭にいらしていただいています。
 
バスに乗せていただく代わりに、帰りに二本松に寄り、いろいろとご案内しました。智恵子の生家、智恵子記念館、「樹下の二人」詩碑、大山忠作美術館など。
 
智恵子生家・記念館に着いて、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一さんの携帯に電話、すると熊谷さん、お仕事の合間に来て下さり、展示の詳しいご説明等なさってくださいました。1013
 
その中で、当方も初めて知ったのですが、智恵子の肖像写真として最も有名な右のショットについて、興味深いお話を伺いました。
 
ちなみにこの写真の初出は明治45年(1912)6月5日の『読売新聞』。「新しい女(一七)長沼智恵子」という記事に使われました。その後、同じ年10月の雑誌『新婦人』に口絵として大きく載りました(当方、こちらは持っています)。この時智恵子、数え27歳、前年暮れに光太郎と出会っています。
 
今まで、この写真がどこで撮影されたかなど、まったく考えたこともありませんでしたが、熊谷氏曰く、バックの障子や柱、壁の感じから、どうやら生家の縁側で撮られたものと考えられる、とのこと。実際にその場所でこのアングルから見ると、たしかにそのように見えました。
 
となると、他にも長沼一家が写った写真は複数あり、それらを含めて、地元の写真技師が撮影したということなので、原板的なものがどこかに残っていないかなどと思いました。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご一報いただけると幸いです。
 
さて、智恵子生家のすぐ近くに戸田屋さんという商店があります。食料品から日用雑貨、土産物まで売っているお店です。今回同行された文治堂書店の勝畑耕一氏が気づいたのですが、その店内に、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏の筆跡が残っていました。

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智恵子を顕彰する集いとし000て毎年10月に行われている「レモン忌」の第一回が平成6年に行われた(この年は10月ではなく9月)際の寄せ書きで、戸田屋さん店内の壁、高いところに貼ってありました。
 
当方、戸田屋さんは何度も訪れていますが、全く気づいていませんでした。
 
その上、戸田屋さんのおかみさんが貝さんのことをよく覚えていらっしゃり、我々一行が女川からの帰りであると知って、驚いていました。
 
人と人とのつながり、というのは本当に不思議なものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月14日

明治42年(1909)の今日、徴兵検査を受けました。結果は「咀嚼に耐えず」との理由で不合格でした。
 
軍医総監だった森鷗外が裏で手を回してくれたらしい、とのことです。
 

当方、8月8日、女川光太郎祭の前日に現地入りしました。宿を石巻に取ったので、仙台から小牛田(こごた)経由で東北本線、石巻線と乗り継ぎ、石巻駅に着きました。
 
女川光太郎の会の佐々木さんを待つ間、駅前を散策しました。すると、駅前ロータリーに彫刻が一つ。
 
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題して「母子像」。よくある地元の現代作家の作品かな、と思って説明板を見ると、昭和16年(1941)の作です。「意外に古いな」と思いつつ、作者名を見ると「高橋英吉」。記憶の底に引っかかる名前ですが、思い出せません。
 
その後、ロータリーの逆サイドにある「ロマン海遊21」という施設に行きました。1階は物産館のような感じで、いろいろと地のものや土産物等が並んでいました。地元で刊行された出版物のコーナーもあり、下記の書籍を購入しました。
 
こういう郷土史的な出版物を手に入れる(もちろん光太郎や智恵子にからむものですが)を手に入れるのも旅の醍醐味の一つです。
 
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『石巻圏20世紀の群像(上巻)文化・学術編』。平成13年(2001)ですから震災前の刊行です。
 
地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』に連載されたコラムの単行本化で、地元出身だったり、この地域を訪れたりした文化人を紹介するものです。光太郎に関しても4ページにわたって載っていたので、買いました。
 
買う前に立ち読みで光太郎の項を読んでしまったのですが、女川光太郎の会に関する記述があり、最後には「余談だが」と前置きの上、光太郎と同じ東京美術学校彫刻科に学んだということで、「高橋英吉(1911~42)」の名が記されていました。高橋は石巻出身でした。後で気がつきましたが、高橋の項も別に立てられていました。
 
「なるほど、やはり地元の彫刻家か。しかしやけに短命だったんだな」と思いつつ、駅前ロータリーに戻り、バッグから別の書籍を取り出しました。少し前のこのブログでご紹介した、姫路市立美術館学芸員の平瀬礼太氏のご著書「彫刻と戦争の近代」です。まだ熟読しておらず、道中読みながら来たので、その続きを読み始めました。
 
すると、「戦場に斃れた彫刻家たち」という項に、またもや「高橋英吉」の名が。この奇遇にはさすがに驚きました。やけに短命だと思ったら、戦死していたのですね。
 
曰く、
 
一九一一年宮城県石巻に生れた高橋英吉は東京美術学校で木彫を学び、一九三六年の文展鑑査会に「少女像」を出品して初入選、新文展でも入選するが、一九四一年に応召、一九四二年十一月にガダルカナルで戦死した。
 
「東京美術学校で木彫を学び」とあるので、光太郎の後輩ですし、もしかすると光雲の教えを受けているかも知れません。さらに高橋の絶作となった不動明王像について報じる当時の新聞記事も載っていました。
 
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これを読むと、戦場でたまたま持っていた針を使って彫ったものとのこと。造形作家としての執念のようなものを感じます。
 
しかし、たまたま彫刻の実作を目にし、十数分後に購入した書籍に名前があって、その数分後に読んだ書籍にも記述があり、不思議な縁を感じました。これはこのブログで紹介せよ、というメッセージかと思い、今日の記事を書いている次第です。
 
ちなみに『石巻圏20世紀の群像』に載っていた高橋の写真(前列右端)です。
 
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さて、千葉に帰ってから、『高村光太郎全集』別巻の人名索引を見ましたが、残念ながら「高橋英吉」の文字は見あたりませんでした。光太郎と直接の関わりはなかったか、あっても深いものではなかったのでしょう。
 
しかし、その名前が記憶に引っかかっていたのは確かです。そこでネットで調べてみたところ、平成22年(2010)にテレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に高橋作の木彫4点が出品されていたことが分かりました。この回のオンエアは確かに見た記憶があり、そこで覚えていたようです。
 
さらに調べると、今年3月17日のNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられていました。ただ、こちらは存じませんでした。
 
もうすぐ終戦記念日です。高橋のような前途有望な若者を死に追いやった戦争……。二度と繰り返してはならないと、つくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月13日

昭和28年(1953)の今日、雑誌『群像』掲載の座談「現代詩について」を西銀座の料亭・出井(いづい)で行いました。
 
座談の類は『高村光太郎全集』には収録されていませんが、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』、当方編集の「光太郎遺珠」に掲載されています。この座談は『高村光太郎資料』第三巻で読めます。
 
他の出席者は伊藤信吉、金子光晴、三好豊一郎。「出井」は関西割烹の名店で、現存します。

8月9日、女川光太郎祭が始まる前に、女川と隣接する石巻の街を歩いてみました。
 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』に寄せた紀行文「三陸廻り」は石巻から始まっています。下記はその際の光太郎自筆の挿画です。
 
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市街地の南、北上川河口の脇に立つ日和山から見た風景です。
 
さらにこちらは戦前の絵葉書。
 
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そして8/9に撮影した画像です。
 
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光太郎が82年前にここから同じように風景を見たんだなと思うと感慨深いものがありました。
 
「三陸廻り」の中では、日和山から見た石巻の街をこう記します。
 
 日和山から見下した石巻と湊町と仲の瀬とはぎつしりつまつてまるで空地のない建てこみ方だ。家と倉庫と鰹節工場と造船所と魚市場と檣柱と旗と煙突と、魚類の吐く息と鋼鉄の鳴る音と。坂路に立つて俯瞰図をスケツチしてゐると洋服姿のインテリ百姓らしい若者が通る。
 
上の三枚の画像ともに右手にある島が「仲の瀬」通常は「中瀬」と表記。現在は石ノ森萬画館が建っています。
 
さらに光太郎、日和山にある鹿島御児(かしまみこ)神社に詣でたことを記しています。そこにも行ってみました。
 
 
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震災で被害を受け、本殿を解体するそうです。義援金として賽銭を入れてきました。
 
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その後、山を下りて石ノ森萬画館へ。昨年はまだ閉鎖中でしたが、今年は再開し、家族連れなどでにぎわっていました。「サイボーグ009」の企画展をやっており、懐かしく拝見しました。
 
 
上が昨年、下が今年の写真です。
 
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中瀬に架かる橋も、昨年はまだひどい状態でしたが、今年はきれいになっていました。
 
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着実に復興は進んでいます。
 
しかし、街を歩くと、まだまだこんな建物も残っています。
 
 
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日和山から見た中瀬とは逆側の光景。
 
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元は民家や事業所が立ち並んでいたはずですが、ほとんど更地と化しています。
 
女川同様、石巻もまだまだ復興途上です。具体的な支援もなかなか難しいと思いますが、せめてそういう現状であるということは、頭に留めておいてほしいものです。
 
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千葉蒼玄氏書・復興支援絵葉書
 
【今日は何の日・光太郎】 8月12日

昭和26年(1951)の今日、光雲の師匠・高村東雲の孫に当たる高村晴雲が花巻郊外太田村山口の山小屋を訪れ、旧交を温めました。
 
おそらくこの時に贈られたとみられる晴雲作(?)の観音像が花巻の記念館に保管されています。

去る8/9(金)は、第22回女川光太郎祭でした。
 
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一昨年の大震災で亡くなった方々への黙祷に始まり、前座で当方の記念講演。なぜ女川で光太郎祭が開かれているのか、その経緯をあらためてご紹介し、かように人々を魅了する光太郎の人間像を簡単にお話しさせていただきました。来年以降、連作詩「暗愚小伝」を元に、さらに深く光太郎の人間像について述べようと思っています。
 
その後、女川光太郎の会会長の須田様のごあいさつ。須田様は昨年の『朝日新聞』さんの全国版で大きく取り上げられました。
 
さらに光太郎遺影への献花、地元の方々による紀行文や詩の朗読と続きました。
 
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朗読の際には、女川を愛するギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏をして下さいました。皆さん、すばらしい朗読でした。
 
その後、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生による特別講演「(観自在こそ)-光太郎の底を貫く当方の信仰-」。当方もお手伝いをさせていただきました。長らくこの会の運営に携わってこられ、一昨年の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの無私の精神に絡め、光太郎や高村家のバックボーンだった観音信仰についてのお話しでした。
 
さらにアトラクションで、やはり女川をこよなく愛するオペラ歌手・本宮寛子さんの歌。場所が場所なのでア・カペラですが、「この道」、そして「ある晴れた日に」。こういう手作り感が女川光太郎祭のいいところでもあります。
 
それにて閉会し、その後、きぼうの鐘商店街内の佐々木釣具店にて「貝さんを偲ぶ会」が行われました。東京から駆けつけた北川先生、先生の教え子の北斗会の皆さんもご満悦のご様子でした。
 
来年以降も女川光太郎祭は続きます。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月11日

昭和28年(1953)の今日、『東京新聞』に水谷八重子主演の演劇「智恵子抄」の予告記事が載りました。

先ほど、2泊3日の行程を終え、女川から帰って参りました。
 
詳細は明日からレポートいたします。今日は女川の現状のみ。
 
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もとの繁華街があった海岸一帯は、横倒しになったビルなどまだそのままですが、地盤のかさ上げ工事が始まっていました。
 
半ば海中に水没していた光太郎文学碑二基も陸上に引き上げられ、移動されていました。
 
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やはり碑面は損傷が激しい状態です。特に両端に配してある光太郎筆のイラストは金属板でしたので、傷が目立ちます。
 
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下図は女川町の復興推進課が出した将来構想イメージ図です。

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このような美しい町の姿を取り戻すため、今日も工事関係者の皆さんが忙しく立ち働いていました。当方が訪れた午前8:00には、引き上げられた碑の傍らにて皆さんで準備運動。炎天下、頭の下がる思いです。「よろしくお願いします」と心の中でエールを送りました。
 
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昨年よりも復興の進んだ様子があちこちで見受けられましたが、元の町の姿には遠く及びません。そういう意味では「被災」はまだまだ続いています。
 
微力ながら支援を続けていきたいと考えています。皆さんも、それぞれに出来る形でのご支援をよろしくお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月10日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤賢治生家が空襲で炎上、命からがら助かりました。
 
花巻ではこの終戦5日前の空襲で、47名の尊い命が絶たれました。光太郎と親交の厚かった佐藤隆房医師の総合花巻病院では、病院をあげて怪我人の救護に奮闘、後に光太郎はその敢闘をたたえる「非常の時」という詩を作って、病院に贈りました。

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女川光太郎祭、並びにその後の懇親会・「貝さんを偲ぶ会」、無事終わりました。

女川の皆さんの心の中に、光太郎の、そして光太郎祭を長らく続けて来られ、一昨年の震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの魂が受け継がれていることを実感しました。
詳しくは帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 8月9日

昭和6年(1931)の今日、紀行文「三陸廻り」執筆のため、およそ1ヶ月の旅に出ました。


このことを記念して、平成4年から女川光太郎祭が開かれています。

今日から2泊3日で、宮城県の女川に行って参ります。このブログでたびたび紹介しています「女川光太郎祭」が、今年で22回目。明後日開催されます。
 
もともと昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を1ヶ月ほど旅したことにちなむイベントでした。しかし、一昨年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた女川。光太郎祭の中心となって活動されていた貝(佐々木)廣氏が亡くなり、その追悼や町の復興のため、という側面も出てきたイベントです。
 
こちらのリンクをご覧下さい。NHKさんの「東日本大震災アーカイブス」の中のページです。

昨年3月に放送された、貝(佐々木)氏が光太郎顕彰に力を注いだことなどを語る、奥様・英子さんの証言、現在の光太郎文学碑の様子などが動画で見られます。平成3年(1991)の、女川港に建てられた光太郎文学碑除幕の時の貴重な動画も含まれています。

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現在の光太郎祭は、廣氏の意志を継いだ英子様主導となり、今年は英子様のお店・佐々木釣具店の入っている仮設商店街・きぼうの鐘商店街の集会所で開催されます。日時は8/9(金)、午後2時より。当方、単独で1本、北川太一先生とのコラボで1本、計2本の講演をこなします。
 
お時間のある方、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月8日

昭和63年(1988)の今日、池袋西武アート・フォーラムで、「生誕100年記念 智恵子紙絵展」が開幕しました。
 
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宮城県牡鹿郡女川町。一昨年の東日本大震災000で、甚大な被害を受けた町です。今でも時折、復興関連の報道などで取り上げられています。
 
ここ女川町で、震災前から毎年8月9日に、「女川光太郎祭」というイベントが開かれ続けています。昭和6年(1931)8月、『時事新報』の依頼で紀行文を書くことになった光太郎は、この地を含む三陸一帯を一ヶ月ほど旅して歩きました。それを記念して、光太郎の精神を受け継ぐといった意味合いです。
 
一昨年の震災の日、、中心になって活動されていた貝(佐々木)廣氏は、津波に呑まれて亡くなりました。町自体も、港に近い繁華街は壊滅、今もみなさん仮設住宅にお住まいです。しかし、途絶えることなく光太郎祭が続けられています。当方、昨年の第21回光太郎祭に参加いたしましたが、本当に頭の下がる思いです。
 
今年も8月9日、第22回女川光太郎祭が開催されます。
 
震災前は一貫して、光太郎文学碑の建つ海岸公園で行われていましたが、震災のあった一昨年は女川第一小学校、昨年は仮設住宅内の坂本龍一マルシェと、会場が移りました。今年は元の繁華街から西へ少し行った高台にあるきぼうの鐘商店街内に新しくできた集会所が会場になるそうです。
 
今年から、当方、講演の講師を頼まれました。おそらく永続的にやっていくことになると思います。
 
それ以外にも、恒例になっている、高村光太郎記念海会務局長・北川太一先生のご講演も予定されています。北川先生、ご高齢のため、いったんは退かれたのですが、やはり亡くなった貝氏の御魂に応えるためにも、とお考えなのでしょう。お体の許す限りは、女川に行かれるおつもりのようです。
 
詳細な日程はまだですが、午後2時から当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 -連作詩「暗愚小伝」をめぐって ①」、午後3時から北川先生によるご講演「(観自在こそ)―光太郎の底を貫く東方の信仰―」です。今月初めに千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関連行事での記念講演会同様、当方が助手(聞き手)を務めます。手前味噌ですが、意外と千葉での講演が好評だったので、同じ形でやります。
 
その他に(というと失礼ですが)、地元の皆様による光太郎詩の朗読、ご常連のギタリスト・宮川菊佳氏、オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクションなども計画されています。
 
一年ぶりの女川。昨年は更地と化した元の繁華街に横たわるビルに驚きましたが、一年間でどれだけ復興が進んでいるのか、この目で見てきます。都合のつく方は、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月27日

昭和30年(1955)の今日、夕食に銀座竹葉亭のウナギの蒲焼きを4串食べました。
 
この日の午後、北川太一先生が持参されたものです。この店も、先日ご紹介した中華料理「好々」同様、現存します。

今朝の『朝日新聞』さんの記事です。

三陸復興国立公園を指定 八戸から気仙沼の海岸線

環境省は24日、東日本大震災で被災した三陸地方の自然公園を再編成し、青森県八戸市から宮城県気仙沼市までの海岸線を「三陸復興国立公園」に指定した。リアス式海岸などの自然を生かした復興を進める。
 
 岩手、宮城両県に広がる陸中海岸国立公園に、青森県の八戸市と階上町にまたがり、ウミネコの繁殖地などがある種差海岸階上岳県立自然公園を編入した。面積は陸域1万4635ヘクタール、海域4万1300ヘクタール。景観や海鳥の繁殖地、野生植物を保全しながら観光や体験学習の場として利用し、農林水産業を活用したエコツーリズムの支援もする考えだ。八戸市にはビジターセンターを建設する。また、沿岸部の歩道を「みちのく潮風トレイル」として再整備する。これは八戸市から福島県相馬市までの沿岸部約700キロを結ぶ予定だ。
 
 今後、宮城県の南三陸金華山国定公園の同国立公園への編入も2014年中に目指す。将来的には宮城県にある松島など三つの県立自然公園の編入も視野に入れている。
 
 石原伸晃環境相は24日の閣議後会見で、「美しい自然、景観、豊かな文化を感じていただき、地域が活性化していくことを希望している。震災復興に貢献する国立公園を実現する第一歩と考えている」と述べた。
 
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このブログで何度か紹介してきましたが、三陸海岸は、昭和6年に光太郎が約1ヶ月、旅して歩いたゆかりの地です。
 
8月9日には宮城の女川で、「女川光太郎祭」が開催されます。当方、今年は講演の講師として招かれました。それもあって、今秋刊行予定の冊子『光太郎資料40』では、「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」という項で三陸を扱おうと思い、執筆中です。
 
久慈市はNHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台ともなり、ドラマさながらに観光客が増えているという報道も目にしました。過日、花巻で渡辺えりさんにきいたのですが、今後、「あまちゃん」では宮沢賢治をからめたエピソードも入るとのこと。ついでに(笑)光太郎もからめてほしいところです。ただし光太郎、久慈までは足を伸ばしていませんが。
 
さて、「三陸復興国立公園」。何にせよ、復興支援になるのであれば歓迎したいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月25日

大正2年(1913)の今日、意見の食い違いから、光太郎も参加していた美術団体「フユウザン会」が解散してしまいました。
 
後に光太郎は同人だった岸田劉生、木村荘八らと生活社を結成します。

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