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ともに東北の、光太郎智恵子に関わる地域を取り上げるテレビ番組の放映情報です。

まずは、智恵子の故郷、福島二本松の「ほんとの空」の下に聳える安達太良山関連。

実践! にっぽん百名山 「安達太良山」

NHKBS1 2017年7月29日(土)  17時00分~17時30分

福島を代表する名峰・安達太良山(標高1700m)を行く1泊2日の山旅。山麓に広がる新緑の樹林帯、春の訪れを告げる花々、ダイナミックな噴火口など登るごとに景色が変わる登山を楽しむ。ヤマ塾は、長く歩き続けるテクニックを紹介する。脚の運び方から、ペース配分、脚の疲労を軽減するためのグッズなど、脚力に自信のない人でも安心して山を登るためのノウハウを解説する。

司会 工藤夕貴 萩原浩司   語り 鈴木麻里子   出演 佐藤哲朗 金子貴俊

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今年4月に2回オンエアされたものの、再々放送です。

本格的な登山ルートを紹介する番組ですが、冒頭近くで「智恵子抄」中(「あどけない話」「樹下の二人」)で謳われた山である旨の解説も為されています。

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続いて、昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が立ち寄った宮城県女川町から。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 佐々木里子さん」

NHK総合1 2017年8月1日(火)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の佐々木里子さんは、津波で両親を亡くし実家の旅館も失った。旅館のあった場所は津波の危険区域に入っていたため建築規制がかかっていたが、移動可能なトレーラーハウスを使い旅館を再開した。

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007毎年8月9日に開催されている女川光太郎祭の折に、よく泊めていただいている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さんが取り上げられます。

佐々木さん、震災前は、ご両親に女川と共にあった「奈々美や旅館」をなさっていましたが、ご両親も旅館も津波で流されてしまいました。震災後、工事関係の皆さんやボランティアの方々などのために、同じように流失した旅館経営者の方々と手を組み、「建造物」だと建設の認可が下りないため、可動式のトレーラーハウスとして、震災の翌年にEL FARO(エル ファロ)さんを立ち上げられました。

その後、JR石巻線の女川駅が復旧、新たな市街地が駅付近に建設されると、EL FARO(エル ファロ)さんのあった清水地区はそちらへの利便性が良くなく、そこで、可動式である利点を生かし、駅前に移転することになったそうです。リニューアルオープンは来月とのこと。

番組では、そのあたりの内容となるでしょう。ちなみに「あの日 わたしは~証言記録」では、一昨年にはやはり女川町から、かつて建てられていた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関する「証言」も取り上げて下さいました。

で、女川光太郎祭。今年は第26回となり、やはり8月9日に開催されます。詳細は明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一日一万三千五百息 かくの如きもの今此所に存在して えいえいとして何ごとか為す。
詩「肉体」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

活動状況にもよりますが、人間の呼吸は1分間に15回くらいだそうです。すると、15×60で、1時間に900回、さらに24倍して21,600回の呼吸をしているという計算になります。ところが、睡眠中は呼吸の回数も激減するというので、「一日一万三千五百息」というのは妥当な数字なのでしょう。

話は変わりますが、全国のほとんどの小中高校等はもう夏休みに入ったことと思われます。受験生の担任の先生などは、休み前のHR、学年集会などで、「夏休み40日=960時間=57,600分=3,456,000秒、無駄にするな!」などと喝を入れることもあるようです。

それもその通りでしょうが、分秒でなく、呼吸回数で一日を捉え、何を為すかと考えるあたり、光太郎のおもしろさですね。「一日一万三千五百息」というのは、鍼灸の書物などに使われている語だそうです。

一昨日の朝、宿泊させていただいた青根温泉湯元不忘閣さんを後に、愛車を北へ向けました。メインの目的である仙台での朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」が午後3時開演。リハーサルや会場準備、チラシ折り込み等があるので昼頃には会場入りと思っていましたが、それにしても時間があったため、寄り道をしました(当初からそのつもりでしたが)。

行った先は、仙台からほど近い松島の瑞巌寺さん。こちらには、昭和2年(1927)、光太郎の父・高村光雲作の観音像が納められています。下の画像は古絵葉書です。瑞巌寺さんには30年ほど前に参拝いたしましたが、その際には存じませんで、見落としていました。

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納められているのは庫裡。こちら自体も国宝の建築です。


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光雲作としては類例があまり多くない、彩色彫刻です。おそらく丈六(約4.8㍍)の大きなもので、そうなると白木では見栄えがしないかもしれません。鮮やかな彩色が、神々しさをさらに倍加させています。

説明板によれば、元々は現JR仙石線が宮城電鉄だった頃、松島まで路線が延引された際に、無事故と事業の発展を祈願して同線の駅近くに奉納されたものだそうです。ということは、発願主は宮城電鉄さんだったのでしょうか。

この地の平安と、道中安全を祈願して参りました。

庫裡の向かいが宝物館となっており、まだ時間もありましたので、拝観。青根温泉不忘閣さん同様、やはり地元の英雄・伊達一族に関するお宝、それから円空仏なども展示されており、興味深く拝見しました。


さて、再び愛車を駆って仙台へ。途中で昼食を摂ったり、お二人への花束を買ったりしつつ、正午過ぎには青葉区のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんに到着しました。こちらは一昨年、やはり荒井さんのご出演なさった「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」以来、2年ぶり2回目です。

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ちょうど機材のセッティングが終わってリハーサルが始まるところでした。

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当方が持参した光太郎の遺影(連翹忌でも使わせていただいている、令甥の写真家、故・髙村規氏撮影のもので、ほとんど唯一、光太郎が笑顔の写真)、智恵子紙絵の複製などを並べさせていただきました。

その後、チラシの折り込みなどをお手伝いし、午後2時半、開場。当会と共に後援に入って下さった花巻高村光太郎記念会さんから、生前の光太郎をご存じの浅沼隆さん、さらに智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を進められている智恵子のまち夢くらぶの野里氏もはるばる駆けつけて下さいました。

開演は午後3時。

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休憩を挟んで1時間半ほどだったでしょうか。大西さんの奏でる古今東西の名曲に乗せ、荒井さんによる光太郎詩文等の朗読。テルミンの一種幽玄な響きと、荒井さんのしっとり落ち着いた美しいお声が絶妙にもつれ合い、絡み合い、美しくも悲しい、しかし最後は再生へと向かう光太郎智恵子の愛の世界を醸し出していました。

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全体の構成や、合間にはMCも入り、飽きさせない工夫が為されていました。テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方が多数いらっしゃいましたので、大西さんお得意のテルミン講座。さらにはお二人のなれ初め(笑)についてのお話などなど。お二人が初めて会われたのが、昨年の連翹忌。ビュッフェ形式で料理が並ぶうちの、ケーキのコーナーだったそうです(笑)。「天才は天才を知る」ということでしょうか(笑)、お互いに「ただ者ではない」と感じられたそうで、たちまち意気投合、これまでもちょこちょことコラボをなさり、今回が初めてのきちんとした公演でした。

午後の部がつつがなく終わり、楽屋でおにぎりなどを頂いて軽く腹ごしらえ。そして7時から夜の部でした。

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当方、リハーサルを含めて結局3回聴いたことになりますが、お二人のパフォーマンスがそれぞれにすばらしく、もちろん光太郎の詩文の魅力もあって、まったく飽きることもなく、どっぷりと光太郎智恵子の世界に浸らせていただきました。

午後の部と夜の部の合間、それから終演後に拝読したご来場の皆様が書いて下さったアンケートでも、絶賛の嵐でした。再演を希望する声も多く、是非実現して欲しいものです。

終演後、お二人と、大西さんのご主人(ラブラブご夫婦で、いつもご主人がご一緒です)、そして当方の4人で夜の仙台の街に繰り出し、打ち上げ。日付が変わる頃まで大いに盛り上がりました。

連翹忌が取り持つご縁でこうしたイベントとなり、望外の喜びです。これまでも、こうしたパフォーマーの方々のコラボ、美術館・文学館さんと関連行事の講演会講師、出版関係者の方々と執筆者の皆さん、顕彰団体さんと視察研修先の方々などを結びつける役割を果たして参りましたが、こういうネットワークを広げることも大事な役割と考えております。

この輪をもっともっと広げたいと存じます。さらに多くの方々に連翹忌へご参加いただき、こうしたネットワークに関わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

さわぐには及びません やる事をやりなさい  威張るには及びません 頭をはつきり持ちなさい

詩「ゆつくり急がう」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

詩全体には、昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。

この旅行に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化したということになっています。光太郎の留守中に訪ねてきた智恵子の母や妹が、智恵子の異状に気づいたそうです。となると、第三者の目による異状顕在化であって、もしかするとそれ以前から症状は現れていたかも知れません。詩人の深尾須磨子あたりはかなり早い時期から智恵子の言動に違和感を覚えていました。

そしてどうもこの時期の光太郎は智恵子の状態を楽観視していたようで、そのあたりが「さわぐには及びません  やる事をやりなさい」にも反映されているような気もします。

さすがに翌年に智恵子が自殺未遂を図ると、そうも言っていられなくなりますが……。その結果、青根温泉などへの湯治の旅に結びつくのです。

宮城県に行っておりましたが、2泊3日の行程を終えまして、先ほど、千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的は、昨日開催された朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」。当会も後援に名を連ねておりましたので。

宿泊は1泊目、同じ宮城県内の青根温泉湯元不忘閣さんに泊めていただきました。こちらは昭和8年(1933)、光太郎智恵子も1週間ばかり逗留した宿です。

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智恵子の心の病が完全に顕在化したのが、昭和6年(1931)。光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、女川を含む三陸一帯を旅していた時のことです。翌年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂。一命は取り留めましたが、どんどん症状は進行していきました。

そして翌8年、智恵子の故郷に近い東北や北関東の温泉巡りをすることで、少しは恢復するかと考えた光太郎は、智恵子を連れて旅に出ます。出発前の8月23日には、本郷区役所に婚姻届を提出。大正3年(1914)に結婚披露宴を行ってから、実に19年が経っていましたが、この間、2人は事実婚状態だったのです。以前にも書きましたが、フランスではそれが珍しくないそうで、光太郎が敬愛していたロダンとローズ・ブーレも、2人が亡くなる直前まで届けを出しませんでした。

さらに翌昭和9年(1934)には、光太郎の父・光雲が亡くなって、まとまった遺産が光太郎に入るのですが、その前に光太郎が先に逝ってしまえば(光太郎自身も結核の症状が既に出ていました)、智恵子には相続の権利が発生しません。そこらを考えての入籍だったのでしょう。しかし、智恵子にはもはやその意味を理解することもできなくなっていたようですが……。

東京を発った2人は、最初に智恵子の故郷・安達(現・二本松市)を訪れ、智恵子実家長沼家(既に破産して離散)の墓参などを行い、裏磐梯川上温泉に向かいました。そこで過ごした時の記憶を元に書かれたのが「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。

次に訪れたのが、青根温泉でした。戦後の昭和24年(1949)に、宮城在住の人物に送った葉書に以下の記述があります。青根に誘われたようで、その返答ですね。

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。 青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。

「大佐藤」というのが、光太郎が泊まった当時の不忘閣さんの名称でした。青根でもっとも早く湯宿を開いて、江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯として使われていました。当主は代々佐藤仁右衛門を名乗り、他にも佐藤姓の宿があったことから、区別するために「大」一文字をつけていたようです。

右は館内に展示されていた003古い看板。ちょっと見にくいのですが、「大佐藤」の文字が見て取れます。

「不忘閣」というのは、元々、お殿様のために使われていたメインの建物(現在は「青根御殿」と呼ばれています)の名前だったそうです。

その後、光太郎智恵子は、また福島県に戻り、9月2日には土湯温泉の奥にある不動湯から、智恵子の母・センにあてて葉書を送っています。

青根から土湯へまゐりました、土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます。

ちなみに不動湯は平成25年(2013)に火災で焼失。現在は日帰り入浴施設として再開されています。当方、旅先の岡山でそのニュースを知り、驚くと同時に心を痛めました。そして最後に栃木の塩原温泉に逗留し、帰京しています。

さて、不忘閣さん。現在の宿泊棟は現代の建築ですが、それ以外に光太郎智恵子滞在時の建造物がまだ残っています。

こちらは本館で、明治40年(1907)の竣工。

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現在は、食事のための棟として使われています。

中庭は庭園。池には魚に混じってサンショウウオorイモリ。自然が豊かなのがわかります。

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そして青根御殿。こちらは最初、江戸時代に建てられましたが、やはり焼失、光太郎智恵子が訪れた前年の昭和7年(1932)に再建されたものだそうです。

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現在は資料館的な使われ方となっており、毎朝、女将の解説で、宿泊客対象に見学ツアーが開かれています。

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伊達家関連のお宝。

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ここを訪れた文人墨客関係。

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大正11年(1922)には、光太郎の師・与謝野夫妻も逗留していました。

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となると、与謝野夫妻からここの話を聞いたのかも知れません。

また、本館内にはこんな掲示も。

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「頭がよくなる温泉」とのことで、まさに精神を病んだ智恵子にうってつけ。この点まで含めて、与謝野夫妻が光太郎にここを紹介したとしたら、いい話ですね。

温泉は、本館内と、別棟の蔵の中にもありまして、それぞれ堪能させていただきました。

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近くには、作曲家の古賀政男の記念館も。代表曲の一つ「影を慕いて」作曲の契機がこの地での体験だそうで、建物は古賀とは無関係の、仙台から移築された元宣教師の住居だそうですが、レトロな洋風建築がいい感じでした。

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足湯もありました。

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続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

七月は今猛然とわれらを襲ふ。 莢隠元(アリコヴエル)、サラダ、トマト、コンコムブル。 質素な友の食卓を満艦飾する 精気と新鮮と分厚な現実。
詩「卓上の七月――素描風なる日常詩――」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

シチュエーションとしては、友人の家族に招かれての会食のようです。野菜系が多く、健康的かつおしゃれっぽい感じですが、確かに質素かも知れません。しjかし、この前に、それを補ってあまりある友人一家のほほえましい様子が描かれています。

不忘閣さんの食事、山間の宿らしく山菜などが多かったのですが、健康的でした。

本日、仙台で開催される、朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」拝聴のため、昨日から宮城県入りしております。
現在地は、蔵王山中の青根温泉♨。湯元不忘閣さんという老舗の温泉旅館♨に泊めていただいております。

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こちらは、昭和8 年(1933 )8月末から9月初めにかけて約1週間、光太郎智恵子が逗留した宿です。心を病んだ智恵子の療養のため、ひと月ほど東北南部から北関東の温泉♨巡りをした一環でした。当時の建物が残っており、非常に風情があります。

このあと、宿を出まして仙台方面に向かいます。詳しくは帰ってからレポート致します。

3.11を迎え、東日本大震災に関わる話題をお届けしています。今回も、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」に関わる話題を。

まずは『東愛知新聞』さんの記事です。

宮城出身の遠藤さん 豊橋でチャリティー絵画展

 東日本大震災で被災、現在、田原市で生009活する宮城県女川町出身の遠藤美貴子さん(39)によるチャリティー絵画展「MNikico.EArTExhibitio HOPE」が、豊橋市曙町のギャラリーgaraco(garage2階)で開かれている。心に傷を抱えながらも、明るい未来に向けて前向きに進もうとする、自らの気持ちや被災地への願いを込めた小品絵画を販売している。31日まで。
 遠藤さんは6年前の3月11日、地元で被災。高台へ避難し、津波から逃れることができたそうだ。避難所生活、仮設住宅での暮らしを経て、翌年、自然豊かな田原市へ移住した。「仮設住宅で1人になった時、不安や怖い気持ちがよみがえった。亡くなった友だちも、知り合いもおり、心が苦しくなった。前向きになろうと、遠くの地を選んで移り住んだ」と話す。
 避難生活中、無心になりたい気持ち、不安を払拭したい気持ちから、心のケアのために描き始めた絵。田原に移っても、心はいつも被災地にあることから、「支援をしよう」と仕事の傍ら絵を描き、ポストカードを作り、チャリティー販売を開始した。毎年この時期に合わせてチャリティー展を開いており、収益を女川や気仙沼大島など被災地へ届け続けてきた。
 いつも田原市で展示を行っており、豊橋での開催は今回が初。会場には「HOPE(希望)」をテーマに、小品20点を展示した。作品は、コーヒーで染めた画用紙に、被災地への思いを投影させた少女や子供の姿を極細の製図ペンで細密に描いたもの。復興途中で被災地が姿を変える中、昔を懐かしむ気持ちを演出しようと、紙をコーヒーで染めてノスタルジックに仕上げている。「辛さを抱えながらも上を向いて」との思いを、祈る姿、希望のニュアンスを込めた風船を持つ姿などで表現。愛らしくも少し愁いのある表情が印象的だ。
 「いのちの大切さを伝えられたら、心に悲しみを抱えながらも、被災地の人たちが笑顔で頑張っていることを知って欲しい」 と遠藤さん。会場では絵以外に、ポストカード5種、自らデザインしたTシャツも販売。収益 は女川町の「いのちの石碑プロジェクト」や気仙沼大島へ届ける予定という。


同じ件が、豊橋地区で発行されている『東日新聞』さんにも記事が載っていますが、有料会員向けサービスなので読めませんでした。

全国紙では、『朝日新聞』さんの愛知版に載りました。

愛知)田原へ移住の遠藤さん 被災地支援の絵画展

 東日本大震災で被災した故郷の復興を願ったペン010画約20点が並ぶ。作者は、宮城県女川町から田原市へ移り住んだ遠藤美貴子さん(39)。「HOPE(希望)」をテーマにした初めての個展が、豊橋市曙町の園芸店「ガレージ」内のギャラリーで開催中だ。
 2011年3月。遠藤さんは、宮城県石巻市の勤務先にいた。高台の神社へ逃げ、津波も免れたが、水がひくまで孤立した。
 震災から3日目。長男が通っていた女川町の小学校まで歩き、やっと無事を確認した。住んでいた3階建てのアパートは全壊。避難所からテント生活を経て、仮設住宅に移った。海の近くで暮らしてきた遠藤さんはサーフィンが大好きだった。しかし、あの日以降、海を見ると足がすくみ、サーフボードを手にすることができなくなった。
 1年後の12年春、「人生を暗いまま終わりたくない」と引っ越しを決意。故郷に両親を残し、長男と2人で田原市へ移り住んだ。
 「心は被災地にあった。何もせずにはいられなかった」と遠藤さん。趣味で描いたオリジナルのポストカードなどを近くのサーフショップなどで販売し、売上金を被災地へ届ける活動を始めた。
 遠藤さんは被災地で出会い、絵とサーフィンが縁で、12年9月に田原市で奇跡的に再会した長野県の画家山本拓也さん(45)とともに、14年からチャリティー絵画展を開催。2人はこの春、田原市を生活の拠点とし、結婚する約束を交わしている。
 遠藤さんにとって今回の絵画展が初個展。会場には、女性や子どもをモチーフに繊細なタッチで描かれたペン画に、コーヒーで色づけをした小さな作品が並ぶ。
 年2回、帰郷している遠藤さんは「復興はまだ道半ば。仮設住宅で暮らす人たちは心が疲れてきているように見える。自分の絵で被災地に元気を届けたい」と話す。
 会場ではオリジナルTシャツの販売もある。経費を引いた売上金は、長男の同級生らが中心となり、女川町で1千年後の命を守るためのモニュメントづくりを進めている「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。31日まで。木曜定休。(松永佳伸)

昨年暮れになくなった岡山市の学校法人ノートルダム清心学園の元理事長・渡辺和子さんご執筆のエッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』を思い起こしました。

ただし、自主的な避難とは異なり、原発事故に伴う避難指示で、やむなく「置かれた場所」に留まらざるをえない皆さんも、まだまだたくさんいらっしゃいます。その無念さは、いかばかりか……。しかし、だからといって、咲かずに腐るのみではいけないような気もします。もちろん、そこに強制的に置かれたことに対する怒りは忘れてはいけないと思いますが……。


ちなみに今日、3月13日は、光太郎134回目の誕生日です。

戦後の7年間、自らの戦争協力責任を反省し、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁生活を送った光太郎。あえて過酷な環境に身を置き、自らの天職と定めた彫刻も封印しました。しかし、村人との関わりなどの中で、そして詩歌や書、さらに生涯の締めくくりとして、封印を解いて取り組んだ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などで、立派な花を咲かせました。

置かれた状況は異なりますが、こうした光太郎の生き様も一つの指針になるかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

自由と闊歩との外何も知らない、 勇気と潔白との外何も持たない、 未来と光との外何も見ない、 いつでも新らしい、いつでもうぶな魂を 寂寥の空気に時折訪れる 目もはるかな宇宙の薫風にふきさらして、 獅子はをなめてゐる。
詩「傷をなめる獅子」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「清廉」、「白熊」に続く、連作詩「猛獣篇」の第三作です。獅子がなめている傷は、「執念ぶかい邪智」を持った人間が、「あの極楽鳥ののむれ遊ぶ泉のほとり 神の領たる常緑のオアシスに、 水の誘惑を神から盗んで、 きたならしくもそつと仕かけた 卑怯な、黒い、鋼鉄のわな」によるものでした。まるで利権まみれの原発のようですね。

昨日は3.11。東日本大震災から6年が経過しました。

先日もこのブログで書きました、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件で。

まず、昨日の未明、NHK総合さんで放映された「被災地からの声 宮城県女川町」を拝見しました。

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進行は津田喜章アナウンサー。23分間の番組でしたが、はじめに「いのちの石碑」の件が取り上げられました。

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かつて光太郎文学碑が建っていたあたりの映像です(下の画像も)。

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そして、高台に建てられた「いのちの石碑」。

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その他、「女川光太郎の会」現会長の須田勘太郎氏がお住まいの、同町出島(いずしま)のレポートもありました。震災前、約500人いた島民は約90人に激減、小中学校も統合で無くなってしまったそうです。当方、女川には年に一二度お邪魔していますが、島嶼部には行ったことがありません。いずれ、須田氏に案内していただこうと思いました。

6年前の映像とともに、他にも女川町民の皆さんの「声」が多数。見応えがありました。


昨日は、『朝日新聞』さんの別刷り「東日本大震災6年」でも、「いのちの石碑」が紹介されました。

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プロジェクトのメンバーで、海上保安官を目指すという、山下脩さん。巨大防潮堤の建設という道を採らなかった女川町のキャッチフレーズ「わたしたちは海と生きる。」を地でいくようで、ジーンと来ました。

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再びNHK総合さんで放映で放映された「被災地の声」から、出演された阿部由季さんの「声」。

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まさしくそのとおりですね。

明日も「いのちの石碑」関連で。


【折々のことば・光太郎】

首が欲しい、 てこでも動かないすわりのいい首

詩「首狩」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この後、「○○な首」「××の首」というフレーズが10行続きます。「なんじゃ、そりゃ?」という感じですが、種明かしをすれば、彫刻のモデルとしての「首」を求めているわけです。いずれご紹介しますが、光太郎、電車に乗っても他の乗客の「首」が気になってしかたがない、的なことも発言しています。天性の造型作家としての、ある意味、宿業のようなものですね。

昨日のこのブログで、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件を書きました。

最近の状況がどうなっているかと思い、調べてみたところ、まず、今月初めに地方紙『河北新報』さんに載った記事がヒットしました。 

<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」

 東日本大震災の教訓を未来に伝えるため、宮城県女川町003の津波到達点に「いのちの石碑」を仲間と建立してきた鈴木美亜さん(18)=宮城県石巻市=が1日、石巻西高(東松島市)を卒業した。客室乗務員(CA)の夢を抱き、7月から米国の大学に語学留学する。津波で亡くなった祖母に「成長を見守っていてほしい」と祈り、新たな一歩を踏みだした。
 鈴木さんが生まれ育ったのは女川町尾浦地区。同じ集落にあった祖母トシミさん=当時(87)=の自宅は比較的高い場所にあり、チリ地震津波(1960年)でも被災しなかった。
 6年前のあの日、鈴木さんの父親が祖母を迎えに行ったが、祖母は「大丈夫だから」と自宅にとどまった。津波に見舞われ、戻らぬ人となった。
 強くて優しい、憧れの存在でもあった祖母との突然の別れに、鈴木さんは葬儀で涙が枯れるほど泣いた。
 「もう津波で命を落とす人を出したくない」
 2011年4月に入学した女川一中(現女川中)で、同じ思いを持つ同級生らと津波から命を守る活動を始めた。合言葉は「1000年後の命を守る」。
 町内の21の浜に石碑を建立する「いのちの石碑」プロジェクトや、被災体験や津波対策案などをまとめる「女川いのちの教科書」作りなどに携わった。
 CAは幼い頃からの夢。ボリビア人の母の帰郷で飛行機に乗ると、日本語が不得手な母にも優しく丁寧に対応する姿に憧れた。
 留学を決断したのは昨年12月。親や高校の先生には反対された。国内の大学で学ぶことも考えたが「CAになるために本場で語学を学びたい」という思いは捨てきれなかった。
 「なれるよ、みーちゃんなら」。以前、夢を語ったときに祖母が掛けてくれた言葉が頭をよぎった。
 約6年間、本音で語り合ってきた女川の仲間たちも後押ししてくれた。「もし挫折しても、女川のみんなが支えてくれると思う」
 青い海を漁船が行き交う尾浦の風景は、古里を遠く離れても心に深く刻まれている。米国で出会う新たな友人にも震災の経験を伝えていくつもりだ。1000年後の命を守るために。


あの日、小学6年生だった子供達も、高校を卒業する年令になりました。つらいこともたくさんあったとは思いますが、逆に、あの経験がその後の人生のプラスになっていくこともあると思います。


さらに今朝の『朝日新聞』さんの宮城版。

宮城)東京から現場に行き、被災者と心通わせる

 海を望む高台。向けられた録音機に、高校004生が訥々(とつとつ)と言葉を吹き込む。「あれから6年。震災を経験した人でも記憶が薄れている。どう伝えていくか。自分たちが頑張る」
 2月4日、女川町。TOKYO FMの復興支援番組「LOVE&HOPE」を担当するフリーディレクター、黒川美沙子さん(43)らが震災6年特番の取材に訪れていた。「大きな地震が来たら、この上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」。建てている女川中学校の卒業生の思いは3月10日、電波に乗って関東へと届けられる。
 女川の訪問は30回をくだらない。彼らを取材するのは2度目。指導してきた教員の阿部一彦さん(50)は「1回だけ取材に来るマスコミは何百人といる。でも黒川さんは、今の自分たちの生の声を、ずっと聞いてくれている」。
 番組は月曜から金曜の午前6時半から10分間。被災者や復興を支援する人たちが出演し、全国のFM38局をつないであの日の体験、今の思いが語られる。放送は8日、1432回を数えた。
     ◇
 「被災地と全国をつなごう」と番組が始まったのは、2011年4月4日。「心と体のケア」をコンセプトに、当初は低体温症の予防や上手な栄養の取り方を、避難所に向け発信するなどしていた。
 転機は1週間後。初めて石巻に入った。不明者を捜す自衛隊の車が走り、がれきが折り重なり、電気も水道も不通のまま。広がる光景は想像を絶した。
 倉庫で支援物資の仕分けをしている中年の男女がいた。津波に襲われ、かろうじて立つ自宅の2階でそれぞれ暮らすという。でも「ゼロからでなく、一からのスタート。命があるんだから」と取材に明るく答え、「また来てね。次はバーベキューしようね」と笑顔までくれた。
 泣きたくてどうしようもないはずなのに、笑っている。家族のため、地域のため、前を向かざるを得ない。その強さ、かなしさ――。現場に行かなければすくい取れない、ありのままの被災地を伝えよう。番組のつくりは、大きく変わった。
     ◇
 スポンサーはつかない。コスト管理の厳しい民放。震災3年を過ぎると、予算が4割ほど削られた。それでもスタッフは朝5時半に集合し、片道5時間。車を駆って月に1度は東北に行く。
 何度も出演してもらった福島県沿岸部の40代の男性。両親と子ども2人が犠牲になった。父と長男が見つからず、今も行方を捜す。震災5年の昨年、取材に訪れたパーソナリティーに「5年も経ったのに、いつまでやるんですか」と、あえて聞いてもらった。男性は声を荒らげ、でも涙ながらに「やめるつもりはない」と言い切った。
 震災から10年後、同じ質問をしたら何を語るのだろうか。心を通わせ、追っていきたい。
 仮設住宅を出て復興した、という人もいれば、家族を失った悲しみから立ち直っていない、という人もいる。被災者一人ひとりにある物語。そして、あのとき起きたこと。話を聞けば、伝え続けなければいけないという思いがわき上がる。「だから、番組は終われないですよね」(桑原紀彦)


記事にあるTOKYO FMさんの番組、明日には特番として拡大枠でオンエアされます。 

特別番組 『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

放送日時: 3月10日(金)16:00~16:55
放送局: TOKYO FM
出演者: 高橋万里恵  片田敏孝教授(群馬大学大学院教授・広域首都圏防災センター長)

1000年後の子どもたちの為に。 女川005の高校生による命のバトンを未来に繋ぐ活動に密着 LOVE & HOPE Special 『忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

TOKYO FMでは人と人とのこころのつながりを大切にし、問いかける「HUMAN CONSCIOUS~生命を愛し、つながる心」をステーション理念として掲げており、毎年3月11日に、6年前に発生した東日本大震災を風化させないために、特別番組を放送しています。
震災6年目となる今年は、3月11日の前日である10日(金)16:00~16:55に『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』を放送致します。
パーソナリティは、「釜石の奇跡」を生み出した防災研究の第一人者、群馬大学大学院の片田敏孝教授と、朝のワイド番組『クロノス』パーソナリティの高橋万里恵。東北の若い世代が伝え、残そうとしている「震災の記憶と記録」を紹介します。

◇1000年後の子どもたちのために…「女川 いのちの教科書」の取り組みとは?

東日本大震災から6年。震災の記憶が薄れゆく中、番組が密着したのは、宮城県女川出身の高校3年生による「1000年後のいのちを守るプロジェクト」です。震災当時小学校6年生だった彼らがまず手掛けたのが「いのちの石碑プロジェクト」。「ここより上に逃げてください!」という文字を刻んだ石碑を町内の津波到達地点に建立しました。困難だったのは土地の取得。「子供たちの1000年先を見据える活動に、一人、また一人と、自分の土地を提供する町民が現れた。」そう語るのは、子どもたちの指導にあたった阿部一彦先生(震災当時女川第一中学校教員)です。
そして、石碑の次に彼らが取り掛かったのが、「いのちの教科書」の作成です。「子どもが教科書で数学を学ぶように、女川のこと、地震や津波のことを学ぶ教科書を作りたかった。」この3年間で100回を超えるミーティングを重ね、試行錯誤の末、「女川 いのちの教科書(中学生版)はいままさに、完成のときを迎えています。
震災当時小学生だった彼らがこの6年間どんな思いでプロジェクトに関わってきたのか。大切な人を亡くしたもの。喪失感に悩んだもの。生きていることが苦しくなったと語るメンバーもいます。プロジェクトに関わる想いは違えども、願いはひとつ。「一人でも多くの命ではなく、一人の命も失わないように、この震災の記憶と記録を1000年後まで語り継ぎたい」そして旅立ちの季節。この春高校を卒業し、それぞれの夢に向かって飛び立つ彼らが選び取った進路と未来の夢とは?一人ひとりの選択と決意はそのまま被災地の希望の灯です。


関東地方の皆様、それから地域局で提携があって放送を聴ける皆さん、ぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

又新しいラツシユ・アワアに騒然たる人間の急迫の力を思ひ むしろ猛然として、 この元気溢れるスケルツオに短音の銅鼓(テムパニ)を打ち込むのである。 「さあ、やるぞ」

詩「月曜日のスケルツオ」より 
大正14年(1925) 光太郎43歳

「スケルツオ」は現代仮名遣いだと「スケルツォ」。音楽用語で「諧謔曲」と訳し、基本的に速い3拍子、ゆったりした部分との差異を対比させ、激しい感情を表したりします。

この詩の前半は、光太郎が彫刻のモデルに雇った少女のおしゃべりを引用しています。そのとめどない、他愛ない、おそらく早口でまくしたてるおしゃべりを、スケルツォと比喩しています。「やかましいから黙っていろ」という意味合いではなく、むしろ少女の生命感溢れるおしゃべりを心地よくとらえ、そこにかぶせる自らの「さあ、やるぞ」の一言を、ティンパニーの一打に例えてもいます。

「さあ、やるぞ」。いい言葉ですね。震災からの復興もそうですが、それぞれの置かれた場所で、前向きに、決然と、そして人の道を踏み外すことなく、「さあ、やるぞ」の声に満ちる世の中であってほしいものです。

3.11が近づいて参りました。このところ、メディアでも取り上げて下さっていて、記憶の風化の防止に役立っているような気がします。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」。震災の年に女川第一中学校(当時)に入学した生徒たちが、さまざまな困難を乗り越えて取り組んでいます。


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3.11間近ということで、久々にテレビ番組での紹介があります。東北地方では、今月2日(木)の午後に放映されたそうですが、今回は全国放送です。

被災地からの声「宮城県女川町」

NHK総合1 2017年3月10日(金) 26時48分~27時11分=3/11(土)午前2時48分~3時11分

今回訪ねたのは、宮城県女川町。離島の女性たちが震災後に作った島唄。6年を前に故郷への帰還。津波到達点に石碑を建てる高校生▽過去の出演者を再び訪ねる「あの声は今」

震災直後から、被災地で出会った方々の「いま一番言いたいこと」をそのままお伝えしています。被災者一人一人に寄り添った丁寧な取材で、被災地の今をお届けします。番組では、ご意見・お便りを募集しています。NHK仙台放送局へ郵送またはEメールでお送りください。詳しくは、NHK仙台放送局「被災地からの声」番組公式ホームページをご覧ください。

出演 津田喜章アナウンサー

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深夜、というより未明のオンエアですが、ぜひご覧下さい。


その他、震災関連の番組は数多く放映されます。できるだけご覧下さり、「記憶の風化」防止につなげていただいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

孤独に酔ひ、孤独に巣くひ 茯苓(ふくりやう)を噛んで 人間界に唾を吐く
詩「清廉」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎自身が「猛獣篇」と名付けた連作詩の第一作です。謳われているのは、架空の妖怪「かまいたち」。荒ぶる魂、消し得ない怒りを抱くものは、光太郎にとってすべて「猛獣」です。関東大震災後の、露わになった社会矛盾に対し、こうした「猛獣」に仮託して、自らの怒りを表出して行くのです。

昨日、仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに、以下の記事が載りました。 

<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙

 佐々木広さん=当時(64)=は、妻英子さんと宮城県女川町で釣具店を営む傍ら、画家として創作を続けていた。彫刻家で詩人の高村光太郎の町での足跡を伝えようと、25年前から地元で光太郎祭を開催する町民グループの中心メンバーだった。旧姓(貝)で活動し、英子さんは「貝さん」と呼んでいた。町中心部で津波に遭い、帰らぬ人となった。

◎七回忌に寄せて(3)画家としても活動した夫/佐々木英子さん(宮城県女川町)から広さんへ

 先日、東京の知人から絵手紙14枚が届きました。15年前に知人の母が病に倒れた時、貝さんが連日描いて送ったものでした。女川の魚の絵と共に「とびうおのように元気に!!」「魚さんも頑張れ負けるな!!と言っています」と添えられています。ちょうど元気をなくしていた私を励ましているような言葉に涙が出ました。
 ユーモアがあり、それでいて苦しんでいる人を助ける本当の優しさを知っていた人。たくさんの知人を絵手紙で応援していました。
 震災後間もなく、投函(とうかん)されずに残っていたはがきを見つけました。「人生には時に悲風 黒風が吹きます でもかならずきっと快風が吹きます」。こんな言葉があった1枚は、一人残された私に向けられているようでした。
 毎年8月に開かれていた光太郎祭、震災後も仲間たちと続けていますよ。子どもや大人たちが詩を朗読しています。光太郎さんは活気に満ちた女川を描いた作品を残しました。貝さんは、その光太郎さんに光を当てることで、足元の文化を耕そうとしていましたね。そんな思いをつないでいきたいと思っています。
 仏教の本をたくさん読み、私にいろんなことを教えてくれました。そして、自分のお葬式のために残した言葉に驚きました。生前、友人に「自分が死んだら弔辞を頼む」と言い、法華経の第16章を引用するようにと頼んでいたのですね。私は何も知らずにその方に弔辞をお願いしました。
 友人は第16章の「常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)」という8文字を引用しました。あなたが抱き続ける悲しみが真実へと導く、という意味です。
 8文字の意味、頭では分かるような気がします。でも、感情はそうはいかない。思いが強ければ、悲しみは深くなりますから。一生をかけて、答えを探すのかもしれません。


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毎年お邪魔しています8月の「女川光太郎祭」を主催なさっている佐々木英子さん、そして亡きご主人・廣さんが取り上げられました。

お二人と、女川光太郎祭に関して、このブログで書いた記事は以下の通り。手前味噌ながら、女川町の復興の歩みのアーカイブにもなっています。

平成24年(2012)
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平成25年(2013)

平成26年(2014)

平成27年(2015)
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平成28年(2016)


正直、もう七回忌か、という感じです。上記の『河北新報』さんの記事、改めてご夫妻のお人柄がにじみ出ているように感じました。

女川では、3.11ということで、各種イベントが企画されています。

11日(土)には、女川町総合体育館を会場に、「女川町追悼式」。一週間後の18日(土)、19日(日)で「女川町復幸祭」。その前日の17日(金)、昨年、女川町に天皇皇后両陛下が足を運ばれ、その際に皇后陛下が詠まれた短歌を刻んだ碑の除幕式が行われます。

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そのあたり、また報道がありましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

どうかきめないでくれ、 明るいばかりぢやない、奇麗なばかりぢやない、 暗いもの、きたないもの、 あきれたもの、殘忍なもの、 さういふ猛獣に満ちてゐる おれは 沙漠だ。 だから奇麗な世界に焦れるのだ。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

造型作家として、何ゆえ「美」を追い求めるのか、その答の一端が表されています。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な『トンボ』の第3号が届きました。

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編集に当たられているのは、詩人の曽我貢誠氏。連翹忌ご常連にして、今年はコールサック社さんからアンソロジー詩集『少年少女に希望を届ける詩集』を編纂上梓されました。

当方にもお声がけくださり、曽我氏もご参加下さった8月の女川光太郎祭に関し、5ページほど書かせていただきました。このブログでとびとびにご紹介してきたような内容――平成のはじめに女川の地に光太郎文学碑が建立された経緯、それを記念して始まった女川光太郎祭、平成23年(2011)の東日本大震災による被害、そこからの復興、若い世代による新たな街づくりなどについてです。

また、目次には入っていませんが、光太郎と交流のあった詩人、野澤一のご子息・俊之氏による巻頭言、巻末には当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』にからめてのエッセイが3編、それぞれ収録されています。

当方手元には50冊送られてきました。この際、送料のみでお頒けいたしますので、一冊140円、ゆうちょ銀行さんの振替口座――00100-8-782139  加入者名 小山 弘明――までご送金下さい。その際、ご住所ご芳名等、払込取扱票に書き込んでお知らせください。

追記 全冊はけました。

よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

さいはひやあめつちに居て身は健(けん)に星かぞふべく指ほしいまま

明治36年(1903) 光太郎21歳

もうすぐ今年も終わりますが、当方、今年も健康に過ごすことができました。というか、このブログを始めた平成24年(2012)5月3日から数え、今日で1,700日目ですが、その間、微熱程度はあったものの、どうやら大事には至らず続けて参りました。

あらためて健康にすごせることの「さいはひ(幸い)」に感謝したいと思います。

光太郎ゆかりの地として、毎年「女川光太郎祭」が開催されている宮城県女川町がらみで2件。

まずは東日本大震災で大きな被害を受けた女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」のDVDが発売されます。  

サンマとカタール~女川つながる人々

【発売日】 2016年11月9日(水)※レンタル同時リリース
【発売元】 TBSサービス
【価  格】 3,000円+税
【販売元・お問合せ先】
TCエンタテインメント(株)商品サポートセンター TEL:03-3513-9090
(受付時間:月〜金 10時〜13時/14時〜17時 ※土日祝日を除く)

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当方、映画館での上映テレビ放映を拝見しましたが、何度観ても熱い思いにさせられます。

直接、光太郎に関わる内容にはなっていませんが、ぜひお買い求め下さい。


もう1件、テレビ放映情報です

小さな旅 心に花を~宮城県女川町

NHK総合 2016年10月30日(日)  8時00分~8時25分
      再放送 11月5
日(土) 5:15~5:40 (地方によって異なります)

宮城県女川町は水産業のさかんな港町。震災後の復興をめざし、若者を中心とした町づくりが進んでいます。実は女川は、600種類以上の山野草が自生する、植物の宝庫。ふるさとの風景や大切なものを失った人々が、身近にある自然に心を癒やされています。震災前と変わらずに山の草花に出会う人、花を育てることで励まされ、生きてきた夫婦など、自然に勇気づけられながら、復興に向かう人たちと出会います。

語り 山田敦子

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こちらも直接光太郎に関わる内容にはならないかとは思いますが、ご覧下さい。

東日本大震災から5年半。いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。

その後も各地で大雨や大地震による被害が出ています。そういった地域のモデルケースともなるのではないでしょうか。

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【折々の歌と句・光太郎】

一心に絵具をぬれば自由画のわが家の屋根に太陽がのる

大正15年(1926) 光太郎44歳

一昨日からご紹介している、近所の千駄木小学校の児童と思われる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

小さな子どもの描く風景画には、赤い太陽がつきものですね。しかし、そうした風習が根付いたのはいつ頃のことなのかと、ふと思いました。「太陽は赤い」という概念は世界共通ではありません。

日本画の世界では赤い太陽も早い時期から描かれており、その影響なのでしょうか。

勘違いしていて見逃してしまいましたが、昨日、BS-TBSさんで放映されている「校歌を訪ねて」という番組で、女川町の女川中学校さんが取り上げられました。この番組は、東日本大震災からの復興に向けて頑張る東北の小中学校の校歌を紹介する5分間番組です。

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紹介にあるとおり、同校の卒業生の皆さんが、このブログでたびたびご紹介してきた「いのちの石碑」建立に携わっています。同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

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今月には、同町離島の江島など3地区に新たに碑が建ちました。報道各紙から。

まずは『河北新報』さん、先週の一面コラム。 

河北春秋 (2016.8.21)

<大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください>。そう刻まれた石碑が宮城県女川町に12基立つ。女川中を2014年3月に卒業した高校3年生たちが、中学時代から建立している。最終的に21基まで増やす計画だ。このほど、やっと折り返し点を迎えた▼「女川いのちの石碑」と呼ばれる。発端は東日本大震災から1カ月後、中学1年の社会科の授業。「古里のために何ができるか考えてみよう」。先生の問い掛けに生徒たちが応じた。「津波の被害をなくす方法を考えたい」「石碑を建てよう」▼女川町は震災で巨大津波に襲われ、人口の8%に当たる約830人が死亡・行方不明になった。生徒にとって一人一人の命こそ尊いものだった。「一人の命もなくさないでほしい」との願いを込め、津波到達点近くに石碑を設置する。合言葉は「1000年後の命を守るために」▼活動に参加する仙台市の常盤木学園高3年の神田七海さん(18)は、大好きだった祖父を津波で亡くした。祖父は津波から逃げない人の家に行っては連れだし、3度目に戻った際、流された。「どうすればいいの?」。話し合いの場で涙ながらに訴えた▼<逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください>。碑には生徒たちの切実な思いが刻まれている。


同じく『河北新報』さん。 

<震災5年5カ月>津波の記憶刻む石碑3基

005 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する宮城県女川町女川中の卒業生グループが、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を11日、同町の離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑はこれで12基となり半数を超えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。江島には高校3年生のメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。
 石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。石碑には<うらんでもうらみきれない青い海>の句が碑文と共に彫られている。
 江島の小山盛雄区長(75)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 島民に震災時の話を聞くなど交流した石巻高3年木村圭さん(17)は「島では津波への意識が高く、島民の絆も強く、命を落とす人がいなかった。学ぶことが多かった」と話した。


系列紙の『石巻かほく』さん。 

「震災教訓後世に」 女川中卒業生、いのちの石碑除幕 12基に

006 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町女川中の卒業生グループが11日、津波到達点を知らせる「女川いのちの石碑」の除幕式を離島・江島など町内3カ所で行った。町内の浜21カ所に建立を目指す石碑は、これで12基と半数を超えた。
 自然災害から命を守る対策などをまとめた「女川いのちの教科書」の報告会も開き、生徒たちは「日本、世界に教訓や命の大切さを伝えたい」と訴えた。
 グループは2014年3月の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。現在、高校3年生の約15人が中学時代からの活動を続ける。
 江島にはメンバー9人が渡り、住民らと除幕した。石碑は島の北側、集落への入り口の高台に設置。生徒が「この石碑より上へ逃げてください」などと刻まれた碑文を読み上げた。
 江島の小山盛雄区長(74)は「震災を経験した私たちは震災を風化させず、後世に残るようみんなで協力していく」と述べた。
 生徒たちは島民から震災時の話を聞くなどして交流した。小山区長は「津波はじわじわと高くなり、石碑を建立したここで約9.2メートル。昔の地震の教訓から、島の約4倍の津波が本土を襲う。心配だった」などと説明した。実際、町の中心部は34メートルの津波が観測され、町は最大で43メートルの巨大な津波に襲われた。
 江島は女川港から約14キロ。小山さんによると、江島では住宅は高台にあり、津波による被害は少なく、犠牲者もいなかった。住民は3日間孤立したが、ヘリコプターで救助されたという。震災時に約80人いた島民は約30人に減った。
 生徒たちは同日、町内の高白浜、指浜の両地区でも石碑の除幕式を行った。

<「いのちの教科書」作り報告>
 「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーは11日夜、東日本大震災の体験や教訓を記した「女川いのちの教科書」作りの報告会を開き、「一人でも多くの命を守りたいとの思いを込めた」と発表。
 未完成だが、内容を詰め、中学生向けの副読本として来春の完成と出版を目指す。
 「いのちの教科書」は84ページを想定。社会科として女川町の津波被害や津波対策案、理科として地震・津波のメカニズム、道徳として震災の記録など計8項目を盛り込んだ。
 生徒たちは「1000年後の命を守るために」を合言葉に活動してきた。その対策として(1)絆を強める (2)高台に避難できるまちづくり (3)震災の記録を残す- の三つを提示。「中学生が小学校の放課後クラブを運営する」「太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への避難路を整備する」など具体的な実践例を示し、自分たちの考えを記した。
 「記録を残す」ため、「いのちの石碑」の活動などを紹介したほか、道徳編として生徒たちの震災体験に多くのページを割いた。
 守る会会長の石巻好文館高3年阿部由季さん(18)は「命を守る対策について教科書から学んでもらえればうれしい」と話す。
 出版はまだ具体化しておらず、生徒たちを中学時代から見守る東松島市矢本二中の阿部一彦教頭(50)は「メンバーが高校を卒業するまで形にしてあげたい」と協力を呼び掛けている。


『毎日新聞』さんの宮城版。 

経験、語り継ぐ 女川中卒業生たち、石碑除幕式 離島・江島などで、設置目標折り返し /宮城

007 東日本大震災の教訓を未来に伝えようと活動する、女川町立女川中を卒業した高校3年生たち「女川1000年後の命を守る会」は11日、同町の離島・江島(えのしま)など3地区で津波の到達地点に建てた「女川いのちの石碑」の除幕式を開き、地元住民と経験を語り継ぐ決意を共有した。この日で石碑設置は計12基となり、町内全21地区の設置目標は折り返しに。防災の知識や教訓を伝える「女川いのちの教科書」の中間発表会も行い、来春の完成を目指して「命を守る大切さを世界に伝えたいので協力してほしい」と呼びかけた。
 女川港から定期船で約30分の江島。エメラルドグリーンに輝く海を眼下に見る高台で石碑の除幕式が開かれ、高校生9人がそれぞれ地区住民から話を聞いた。「津波は一気にではなくじわじわ高くなり、引き波が強かった。電気も水道も止まって孤立したが、上空を飛ぶヘリが気づいてくれず、防波堤に『SOS』と書いて救助を待った」。高校生たちは小山盛雄区長(74)が語る震災直後の話に真剣に耳を傾けた。
 江島は震災で約9・2メートルの津波に見舞われたが、島民はすぐに避難して無事で、発生3日後に全島避難。津波による家屋の被害はなかったが、余震で倒壊する被害が出て、約50世帯80人いた島民は約25世帯30人に減少したという。鈴木元哉さん(17)は「同じ女川でも本土と島、海と山で違い、問題は一つではないと感じた。人の多さや高齢者の数で避難の仕方も違うことが分かり、教科書づくりにも生かしたい」とかみしめていた。
 また、世代を超えて震災の経験を伝えていこうと、生徒たちが高校生になってから本格的に取り組む教科書づくりの中間発表会を開催。支援を受ける防災士らに向け、自分の経験や聞き取りした内容をまとめた教科書の途中経過を報告し、理解と協力を求めた。守る会会長の阿部由季さん(18)は「たくさんの人の協力があり、教科書はほぼ完成に近づいた。中高生たちに読んでもらいたいので、いざという時に行動できる内容や私たちの体験談を増やしたい」と話した。【百武信幸】
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巨大防潮堤の建設という選択をしなかった女川町。その代わり、海の近くには居住スペースは作らず、大地震の際にはとにかく高台に逃げる、という方針を掲げています。

その方針を端的に語るのが、右のポスター。女川駅に貼られていたものですが、「わたしたちは海と生きる。」の一言がドーンと記されています。

平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」で、主人公アキの祖母、宮本信子さん演じる「夏ばっぱ」が、震災後のシーンで、孫のアキ(能年玲奈さん)に向かって次のセリフを放ちました。

「海が荒れて大騒ぎしたのは今度が初めてではねぇ」
「おまんま食わせてくれた海が、1回や2回へそを曲げたからってよそで暮らすべぇと、おら、はなっからそんな気持ちで生きてねぇど」
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まさにそういうことなのでしょう。

「いのちの石碑」プロジェクト。息の長い取り組みになるかと存じますが、見守っていきたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

少(ちさ)きは老い老いしは朽ちて海の芥埃(あくた)よする東の岸べに立てり

明治35年(1905) 光太郎20歳

そういうわけで、海にちなんだ短歌です。

8月9日(火)に行われた、第25回女川光太郎祭について、レポートいたします。

当日の朝9時頃までは台風による暴風雨でしたが、その後は台風一過の晴天となりました。会場は女川フューチャーセンターCamassさん。女川駅前に新たに作られた施設です。一部は宿泊したエルファロさん同様、可動式のトレーラーハウスです。

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震災前の女川光太郎祭は、昭和6年(1931)に来訪した光太郎を顕彰するため、平成3年(1991)に建てられた巨大な文学碑の前で行われていました。

その碑は震災の津波で倒壊、碑の建設やその後の光太郎祭の運営に奔走されていた女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も、命を落とされました。

女川光太郎祭は、震災の年には小学校、翌年には仮設住宅の集会所と会場を移し、3年前から3年間、仮説商店街である「きぼうのかね商店街」で行われました。それが今年は駅前の女川フューチャーセンターCamassさん。理由を聞くと、少しでも元の碑に近い場所で、ということでした。なるほど、駅前のプロムナードをまっすぐ海に向かって下っていけば、碑のあった海岸緑地公園です。
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現在は一帯が工事中で、昨年まで見に行くことの出来た倒れた碑も見られません。ただ、いずれ震災前と同様、公園になる予定だそうで、その際にはまた碑が建てられるようです。

海側からみるとこうです。船の蔭あたりに碑があるはず。

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近くにある横倒しになった元の交番の建物は、震災遺構として保存されるとのこと。

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朝から会場入りし、会場設営のお手伝いをしました。昨年と一昨年は、屋外にテントを張っての実施でしたので、それに比べれば今年は楽なものでした。

昼過ぎの列車で、東京から当会顧問・北川太一先生ご一行がご到着なさるというので、駅にお出迎え。待っている間に撮影した画像です。

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ドキュメンタリー映画「サンマとカタール」のポスターも貼ってありました。
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女川駅には温泉入浴施設「ゆぽっぽ」、さらに無料の足湯も設置されています。
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駅裏の方には、民家も建ち始めていました。

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そうこうしているうちに、北川太一先生ご一行がご到着。

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晩年の光太郎に親炙された北川先生は、碑文の一部を揮毫されるなど碑の建立にひとかたならずご協力され、かつての光太郎祭の記念講演も行われていました。現在は当方が引き継いでおります。

ご一行は、さらに光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である写真家の高村達氏、北川先生の奥様・節子先生と令息・光彦氏、北川先生が高校教諭だった頃の教え子の皆さん。いずれも東京からで、遠路、ありがたいことです。特に北川先生は御年91歳。しかしまだまだお元気です。

さて、時間となり、開会。

まずは黙祷に始まり当方の講演。4年前からの連続講演で、戦後、光太郎が自らの来し方を振り返って20篇の詩にまとめた連作詩「暗愚小伝」を繙きながら、光太郎の人となりを語る、その4回目。明治42年(1909)の海外留学からの帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別し、放蕩生活を続けながらも人間として苦しみ、やがて奇跡のように智恵子と出会うまでをお話しさせていただきました。

前々日の安曇野碌山美術館さんでの講演は時間配分を誤りましたが、今回はその反省を活かし、ぴったり時間に収めました。

女川町長・須田善明氏、女川光太郎の会会長・須田勘太郎氏のご挨拶。

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その後、光太郎遺影や健在だった頃の文学碑の写真に献花。

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計12名の方による、光太郎詩文の朗読。小学生の男の子や、遠方からの方も朗読して下さいました。

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連翹忌にご参加下さっている、詩人の曽我貢誠氏が初めてのご参加。朗読も。氏は光太郎祭にいたく感激なされ、来年以降のご来訪も約されていました。

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北川先生の談話。前日に放映された天皇陛下のお言葉にも触れ、感極まって嗚咽されながらのお話となりました。予科練の少年たちを率いてのおん自らの軍隊生活、ある意味、時代に翻弄されながらも最終的には己の道を貫き通した光太郎への思いなどが、その涙に結晶したのでしょう。

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高村達氏のご挨拶、アトラクションとして、ギタリスト宮川菊由氏のギター演奏(朗読のBGMから)、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えて下さいました。

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最後に、故・貝(佐々木)廣氏の奥様、佐々木英子さんのご挨拶。

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さらに閉会後、昨年暮れにオープンした駅前商店街の一角にある「金華楼」さんにて懇親会。

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途中、喫煙のため店外に出たところ、美しい夕焼けが見えました。

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再会を約して、お開きとなりました。


地元紙・『石巻かほく』さんで報道されています。 

高村光太郎の生涯に思い 女川で「祭」 詩の背景、考察

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第25回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の女川フューチャーセンター・カマスで開かれた。
 町民ら約45人が参加し、光太郎が歩んだ生涯に思いをはせた。献花や、碑文などの朗読もあった。
 高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演。光太郎の生涯や詩について説明した。
 小山さんによると、光太郎が書いた詩「親不孝」は、パリなどへの留学を終え帰国した光太郎が将来を悩む心中を記した作品。「自分が目指すのはオーギュスト・ロダンのような芸術家だ」と考え、「自分の決めた道を歩むことは、親の期待を裏切ることになる」と、父親で彫刻家の光雲が用意した道を進まないことに対しての「親不孝」だと解説した。
 91年に女川のことを書いた紀行文や詩の文学碑が町内に建立され、翌92年から、光太郎が三陸地方を巡る旅に出発した1931年8月9日にちなみ、光太郎祭を開いている。
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あくまで前座である当方の講演を大きく取り上げて下さって、恐縮です。

というわけで、第25回女川光太郎祭、つつがなく終了。来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
昭和6年(1931) 光太郎49歳

月曜日にご紹介した三陸沖での作の異稿です。詩「霧の中の決意」に添えられました。

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三陸女川にての第25回女川光太郎祭、つつがなく終わりました。

晩年の光太郎に私淑された当会顧問・北川太一先生、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である高村達氏なども駆けつけて下さいました。

今年から、震災前の会場だった、光太郎文学碑が立っていた海岸緑地公園に近い、女川駅前の「フューチャーステーション・カマス」という施設で行われました。

前座で当方の講演、地元の方、遠方よりの方などの朗読、プロの音楽家の皆さんの演奏などを通じ、光太郎の遺徳を偲びました。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

山どりの瀬戸波あらし船の上にかぶさりゆるる金華山かな

                                                                      昭和6年(1931) 光太郎49歳


昨日に引き続き、昭和6年(1931)、女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅した折に詠んだ歌です。

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今朝、愛車を駆って信州を出発し、休み休み9時間ほどかけて、三陸女川に到着しました。

テレビの報道や、映画「サンマとカタール」で拝見していましたが、駅前がきれいに整備されていて、驚きました。

明日はその駅前近くの「カマス」さんという施設で、女川光太郎祭です。台風の影響が心配ですが、このイベントの時には台風が来ることがたびたびあり、一種のジンクスです。

今日明日の宿は、以前にも泊めていただいたトレーラーハウスの宿泊施設「エル・ファロ」さん。

詳細は帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮を追ふ親潮はガスまき立てて船にせまれり

                                                             昭和6年(1931) 光太郎49歳


三陸海岸を船で北上しつつ詠んだ歌です。

今朝までは北アルプスの山懐にいたのが、今は荒波打ち寄せる三陸海岸。不思議な感覚です。

光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

昨日、BSジャパンさんで放映され、録画、拝見しました。何度見てもいいですね。

「2011年3月11日 宮城県女川町」「住民の1割、建物の8割を失った」とのテロップ。背景には、あの日の光景。

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そしてタイトルバック。


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中東のカタールの支援で、水産業の中核施設・大型冷蔵庫「マスカー」が建設された件。カタールロケも敢行されています。

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メインは女川町で行われた昨年春の「復幸祭」。営業再開した女川駅、津波からの避難を想定してのロードレース「復幸男」、ももいろクローバーZさんのライヴ。

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さらに昨冬の駅前商店街オープン。

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定点カメラによるコマ送りなども含まれ、記録映画としても貴重なものです。

そして、毎年、女川光太郎祭でお世話になっている須田善明町長をはじめ、女川に生きる人々の姿。苦境に立ち向かう人々の姿に、勇気がもらえます。まさしくヒューマンドキュメンタリーと呼ぶにふさわしいものです。

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ぜひともDVD化して販売されることを希望します。


さて、今年も8月9日に、女川光太郎祭が開催されます。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。 

第25回女川光太郎祭

期 日 : 2016年8月9日(火)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川フューチャーセンターCamass
           宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原75-7 女川駅から徒歩2分
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって④―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)


会場が昨年までの仮説商店街から女川駅前に変更、今年は地元和太鼓サークルの演奏は無いそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

手に取れば飛ばうともせずのろのろと手のひら痒くあるきまはる蝉

大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎とのゆかりのある宮城県女川町を舞台に、東日本大震災から5年のあゆみを追ったドキュメンタリー映画、「サンマとカタール 女川つながる人々」。今年の5月に封切られ、当方は先月、浦安のシネマイクスピアリさんにて拝見して参りました。

ほぼ劇場公開は終了しましたが、驚いたことに、もうテレビで放映されます。 

映画「サンマとカタール 女川つながる人々」女川町の復興を追ったドキュメンタリー

BSジャパン 2016年7月30日(土)  16時00分~17時24分

壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の復興5年目を追う!前向きに生きる力を映像に込めた感動のドキュメンタリー。今だからこそ伝える5年間の想いに心が熱くなる!

東日本大震災から5年。住民の1割近くが犠牲となり、8割近くが住まいを失った宮城県女川町は今、目覚ましく復興し、新しい町に生まれ変わるために力強く歩んでいる。人々はどうやって立ち上がったのか?そして中東カタールの関わりとは? 復興5年目の女川町で生きる人々を約2年撮影したドキュメンタリー。女川町の復興の軌跡、切なくて強い人間の底力に迫ります。

監督 乾弘明  ナレーション 中井貴一

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直接、光太郎に関わる部分はありませんが、ぜひご覧下さい。


女川と言えば、来月9日は第25回女川光太郎祭が開催されます(昨年の様子はこちら)。こぢんまりと行うイベントですので、今のところネット上に詳細な情報等は出ていないようです。詳細がわかりましたら、またお伝えいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

子供等に蝉を分けてもらひたりうれしくてならず夕めしくふにも

大正13年(1924) 光太郎42歳

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅して廻りました。

その旅のはじめの頃に訪れたのが、、宮城県牡鹿郡女川町。

五 女川港(『時事新報』 1931/10/10掲載より抜粋)
 牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つている。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。活発な魚類の取引を見ていると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。

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これを記念して、平成3年(1991)に、「高村光太郎文学碑」4基が、女川港に建てられました。中心になったのは「女川光太郎の会」さん。町内外からの募金で、当時おそらく日本一という規模の文学碑を建立。

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さらに、翌年からは毎年8月9日に、「女川光太郎祭」が、その碑の前で開催されました。毎年、当会顧問の北川太一先生のご講演が盛り込まれていました。

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やがて平成23年(2011)3月11日、東日本大震災が発生。女川は最大17メートル以上の津波に襲われ、中心街は壊滅、住民の1割近くが亡くなりました。その中には、文学碑の建立や光太郎祭の開催に尽力していた、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんも含まれていました。震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすら横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、やがて津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、さらに、ご遺体発見の報……。ショックでした……。

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さらに4基あった文学碑のうちの2基は津波で流失、残る2基も再建のめどはまだ立っていないようです。

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震災の年の8月、例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思っていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。 

震災に負けず光太郎祭

『河北新報』 2011/8/10
 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第20回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川一小で開かれた。「文学でまちを元気にしよう」と企画を発案し、事務作業を一手に引き受けてきた会事務局の貝広さん(64)=同町女川浜=が震災の犠牲となり、毎年、会場となった女川文学碑公園も津波で損壊した。祭りの中止も検討されたが、会員有志が「貝さんの遺志を引き継ごう」と決意。音響会社などの協力もあって継続することができた。
  冒頭のあいさつで、女川・光太郎の会の須田勘太郎会長(70)は「震災で、貝さんをはじめ多くの人が帰らぬ人となった。光太郎の残した紀行文は、水産業のまち女川の文化遺産。復興の励みにしたい」と強調した。
  貝さんは有志を募って、光太郎が三陸地方を巡り、同町に立ち寄った際に書いた紀行文などを題材にした文学碑を1991年に建立。
  行政や団体からの補助金に頼らず、寄付だけで資金を集めた草の根運動が注目を集めた。碑の周囲を公園化し、92年から光太郎が三陸巡りに出発した8月9日に光太郎祭を実施。町民や光太郎の詩の愛好者、研究者が全国から集まるイベントに成長した。
  今年は、光太郎が女川町を訪れて80年、光太郎祭は20回の節目。貝さんは年明け前から開催準備に入っていたが、津波により女川文学碑公園近くの自宅で生涯を閉じた。

その後も仮設住宅集会所、仮設商店街と場所を変えながら、女川光太郎祭は継続。今年で25回目となります。平成25年(2013)からは、当方が記念講演を務めさせていただいております。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、昨夜、千葉県浦安市のディズニーリゾート脇にある、シネマイクスピアリさんにて、その女川の復興を追ったドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」を拝見して参りました。

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当方の住む千葉県での上映はここだけで、なぜ浦安? と思っていたのですが、震災の被災地つながりで、平成25年(2013)に、復興支援を目的としたイベントが開催されていた縁などがあったためのようです。

そんなわけで、上映前には、プロデューサー・益田祐美子氏、浦安商工会議所会頭・柳内光子氏らの舞台挨拶がありました。

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映画本編は73分と短めでしたが、女川の復興にかける、人々の熱い思いが詰まった一篇でした。女川光太郎祭に毎年ご協力いただいている須田善明町長も主要キャストとしてご出演。同じく光太郎祭で演奏して下さっている女川潮騒太鼓轟会の方も写りました。昨年の光太郎祭の様子はこちら

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主に昨年3月のJR石巻線女川駅の復旧時、それに伴って行われた「復幸祭」、同じく昨年12月の「おながわ復興まちびらき2015冬」前後の様子が中心でした

さらに、中東の国・カタールからの支援。カタールは、女川同様に水産業もさかんで、かつて天然ガスのプラント建設で日本の援助を受けたことから、『カタールフレンド基金』(総額1億米ドル)を設立。震災の翌年、そのうちの20億円をかけて、女川港に多機能水産加工施設「MASKAR(マスカー)」が作られました。こちらもある意味、復興のシンボルです。

こうした熱い物語の数々に、当方の隣に座られていたご婦人は何度もハンカチで涙をぬぐわれていました。当方も、女川駅復旧で一番列車到着のシーンには、思わずうるっときました。鉄道マニアではないのですが、光太郎文学碑が出来て間もない頃、石巻線で壊滅前の女川を初めて訪れた時のことを思い出したのです。

その後調べたところ、以前にご紹介した時よりも、上映館が増えていました。今後上映されるのは以下の通りです。

宮城  石巻・みやぎ生協文化会館アイトピアホール
  7/15(金) 18:30
 テーマソング歌唱幹miki復幸ライブ
岩手   盛岡ルミエール            7/16(土)~7/22(金) 
青森   シネマディクト ルアール/ルージュ    6/25(土)~7/1(金)
神奈川 シネマ・ジャック&ベティ 
舞台挨拶あり  7/16(土)~7/22(金) 
岡山   岡山メルパ                6/24(金)迄 9:45/15:35
愛媛   松山市総合福祉センター 大会議室    7/17(日)18(月・祝)13:00/16:00
 

さらに上映館が広がってほしいものですし、自治体さん、学校さんなどでの上映にも対応していただきたいものです。

また、のちほどご紹介しますが、今年も8月9日に女川光太郎祭が開催されるはずです。こちらもよろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな

明治33年(1900) 光太郎18歳

三陸といえば、海女さん。ただし、この歌は伊勢の歌人・太田軽舟の作品と共に雑誌『明星』に掲載されており、伊勢の海女さんを詠んだものかもしれません。


光太郎とのゆかりのある宮城県女川町が舞台。東日本大震災から5年のあゆみを追っています。

まずは封切りに関しての報道。 

「サンマとカタール」女川町長、舞台あいさつ

 東日本大震災で大きな被害を受000けた宮城県女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」の全国公開を記念した舞台あいさつが9日夜、東京都千代田区のヒューマントラストシネマ有楽町であり、須田善明町長が各地からの復興支援に感謝の言葉を述べた。
 再起を図る水産関係者や、町中心部の再生の様子などを約2年間追った作品。中東のカタールの支援により、水産復興の中核施設となる大型冷蔵庫が建設された経緯なども描いた。須田町長は「カタールとありがたい縁があった。(映画に登場した)多くの仲間がいたからこそ、震災を乗り越えられた」と述べた。
 乾弘明監督は「女川町は行政と民間が連携し、素晴らしいまちづくりをしている。日本の水産業をリードする町になる」と話した。
 作品の全国公開は7日に始まり、東京のほか名古屋、大阪などで上映される予定。東北では仙台市青葉区の桜井薬局セントラルホールで上映中。
(『河北新報』 2016/05/11)


毎年8月の女川光太郎祭で当方もお世話になっている、須田町長、上京して舞台挨拶にご登壇。

公式サイトには、熊本の皆さんへのメッセージも寄せられています。

今も続いている熊本地震に心を痛めておりますが、この映画から、熊本地震で被災した皆様に何かメッセージをお送りしたいと思い、映画にもご出演されている女川町長にメッセージをお願いしました。下記全文をご紹介させていただきます。
 
この映画を通じて、希望の光を届けることを願って。
 
●女川町長からのメッセージ
 
熊本地震で被災された皆様へ
 
目の前の現実とその先を思い、不安な日々を過ごされていると思います。
五年前の私達もそうでした。
だからこそ願っています。
諦めないでほしいし、心折れないでほしい、と。
 
自らの「立ち上がろう」という思いには必ず誰かが手を差し伸べてくれる、
そのことを私達は5年の歩みの中で知りました。
今、皆さんが困難を乗り越える力になれるように、
数多くの方々が、有形無形に最善の努力をしています。
それを信じ、希望を捨てず、励まし合い支え合いながら、
今の苦境を乗り越えていただけるよう、切に願います。
 
日常を取り戻すには多くの地域で長期戦になるかもしれません。
未だ復興途上の微力な私達ですが、
これまで皆さんからいただいてきたご支援に少しでも報いるべく、
経験を活かし皆さんのお力になれるよう努力していきます。
共にがんばろう!
 
女川町長 須田善明

5年前に甚大な被害を受けた当事者ならではの内容ですね。


さらにニュースサイトで調べてみると、封切り直前の試写会のニュースがヒットしました。眞子内親王殿下がご覧になったとのこと。

偶然ですが、当ブログでこの映画をご紹介したのが先週5日。翌6日には宮内庁三の丸尚蔵館さんの「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」をご紹介、その中で眞子さまに触れました。すると、さらにその翌日の7日に眞子さまが試写会をご覧になったというわけで、驚いています。 

眞子さま、震災復興のドキュメンタリー映画ご鑑賞

 秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、東日本大震災からの復興を描いたドキュメンタリー映画を鑑賞されました。
 眞子さまは7日午前10時ごろ、東京の有楽町で映画「サンマとカタール」を鑑賞されました。この映画は津波で大きな被害を受けた宮城県女川町が舞台で、中東のカタールから支援を受けながら復興に携わる人々を追ったドキュメンタリーです。眞子さまは真剣な表情でスクリーンに見入られていました。上映後は、映画に出演した被災者に「皆さんの前向きな姿に力をもらいました」「家族にも勧めたいです」と声を掛けられました。また、石巻市でご自身がされたボランティア活動についても被災者と話されていました。
(テレ朝 news 2016/05/07)

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もう1件。 

眞子さま、震災復興のドキュメンタリー映画鑑賞

 秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、東日本大震災で被災した宮城・女川町の復興への歩みを描いたドキュメンタリー映画をご覧になりました。
 眞子さまは7日午前、東京・千代田区の映画館を訪れ、7日から公開が始まった映画「サンマとカタール~女川つながる人々」をご覧になりました。
 この映画は、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城・女川町で、復興を目指して前向きに歩む人々と、生まれ変わっていく町の姿を追ったドキュメンタリー映画です。
 大学時代、ボランティアとして宮城県などの被災地を訪れていた眞子さまは、真剣な表情で映画を鑑賞し、上映終了後には観客らと共に拍手を送られていました。帰り際には「皆さんが前向きに生きている姿に力をもらいました」などと話されていたということです。
 女川町には今年3月、天皇・皇后両陛下が初めて訪れ、駅前に去年末に開業した商業施設などの様子を見て回られていました。
(TBSNEWS 2016/05/07)

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ご自身、震災が起こった平成23年(2011)には、女川に隣接する石巻で、身分を隠し、ひとりの大学生としてボランティアに参加されたというご経験をお持ちですので、ご興味があったのでしょうか。

そういえば、天皇皇后両陛下は、今年、女川をご訪問されました。

東北各地もまだ復興半ば。今はある意味、記憶の風化との戦いです。この映画の鑑賞も、一つの復興支援となります。よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

天地に白きは雲か紅(くれなゐ)はわれに倣へと躑躅の燃ゆる
明治36年(1903) 光太郎21歳

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当方自宅兼事務所の庭に咲くツツジです。

映画の公開情報です。

昭和6年(1931)、光太郎が訪れて紀行文「三陸廻り」を残したことを記念し、かつて巨大な「高村光太郎文学碑」が建てられ、以来、あの東日本大震災で碑は倒壊しながらも、「女川光太郎祭」が連綿と続けられている、宮城県女川町が舞台です。

まずは、仙台に本社を置く『河北新報』さんで、今年2月に掲載された記事から。 

女川復興の軌跡描く 苦悩追う映画先行試写会

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城000県女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」の先行試写会が21日、町まちなか交流館であった。実行委員会が主催。町民ら約150人が鑑賞した。
 タイトルは港町・女川を代表するサンマと、水産業の中核施設の大型冷蔵庫「マスカー」の建設を支援した中東のカタールから。再起に懸ける水産関係者や大切な人を失った住民の苦悩、まちづくりの様子や国境を越えた支援などを2年間にわたって追い、約1時間10分の作品に仕上げた。
 町民約30人が登場。映画の中で、マスカー建設に奔走した石森洋悦さん(59)は「町民に前を向いてほしかった」と明かし、復興イベント「復幸祭」実行委員長の阿部淳さん(41)は「『人が死んでいるのにお祭りか』などと非難も浴びたが、やり遂げた事実は残る」と思いを語った。
 阿部由理さん(55)は津波で自宅を失い、2012年に復興に尽力した町職員の夫を亡くした。上映後のあいさつで「主人のような人間がいたことを思い出してもらえたらいい」と語り掛けた。乾弘明監督(52)は「まちづくりの大変さや皆さんの苦労を肌で感じ、女川に力をもらった」と謝辞を述べた。
 映画は5月7日から東京都のヒューマントラストシネマ有楽町など全国で公開。県内では翌8日から仙台市青葉区の桜井薬局セントラルホールで上映される。


というわけで、明後日から、全国各地で順次公開が始まります。 

サンマとカタール~女川つながる人々


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あまりにも多くを失ったマイナスからのスター
カタールの援助が灯となった復興をゆだねられたのは若者達
泣いた、怒った、そして笑った!
荒れ野に芽吹いた小さな草が蕾をつけ
今、花開こうとしている
女川は流されたんじゃない
海の見える景色を残したまま新しい女川が誕生する!
女川復興の軌跡に迫る

宮城県女川町は牡鹿半島の付け根にある水産業の町。サンマの水揚げで有名だ。
石巻線の終着駅で、古くから天然の良港として栄えた美しい港町だった。

「あの日」までは…

この町の人々は、「あの日」2011年3月11日を何十年も何百年も語り継いでいくことになるだろう。住民の1割近くが犠牲となり、8割以上が住まいを失った。被災した全ての市町村の中でも、人口比では最も激烈な被害を蒙った町である。町の中心部は根こそぎ津波にのまれ、失うものは何もなくなった。

そんな絶望から、人はどうやって立ち上がるのだろう…。

最初の希望は、中東の国カタールによってもたらされた。古くは漁業で栄えたカタールは、震災直後に基金を設置し津波対応を施した冷凍冷蔵施設「マスカー」を建設。そして、小さな町だからできる独創的な発想と素早い行動、5年たった今でも寝る間を惜しんで復興にかける若きリーダーたち、その仲間が生み出す波及効果。人々の輪は町を飛び越え広がっていく。

女川は今、復興のトップランナーと呼ばれる。
震災前よりレベルアップした町づくり、そこに至る苦悩と喜びを見つめていく。

 青森 シネマディクト ルアール/ルージュ 6/25(土)~7/1(金)
 宮城 桜井薬局セントラルホール      5/8(日)~5/20(金)
 東京 ヒューマントラストシネマ有楽町   5/7(土)~5/20(金)
 千葉 シネマイクスピアリ            6/23(木)
 愛知 名演小劇場                5/14(土)~5/27(金)
 岐阜  大垣コロナシネマワールド        5/21(土)~6/3(金)
 大阪 シネ・リーブル梅田            5/21(土)~6/3(金)
 岡山 岡山メルパ                6/11(土)~6/24(金)
 広島 福山駅前シネマモード         6/11(土)
 岐阜 こくふ交流センター          10/30(日)
 兵庫 神戸アートビレッジセンター    6/12(日)
 広島 広島国際会議場 大会議室ダリア
    5/26(木)




予告編の動画を拝見、見知った顔もあり、これは是非観に行かなければ、と思いました。

限られた会場での公開ですが、皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

摘むに花くむに泉のあまからむ男の子世にゆく道たかうあれ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は5月5日。端午の節句です。

明治34年(1901)、数え19歳の光太郎は東京美術学校彫刻科在学中。さらに前年から与謝野鉄幹の新詩社に加わり、未来への夢をふくらませている時期でした。

「あの日」から5年目を迎えました。

「もう5年」、「まだ5年」……感じ方はそれぞれだとは思いますが、前向きに捉えたいと思います。

そこで、甚大な被害を乗り越え、一歩一歩復興へと歩み続けている、宮城県女川町からの情報です。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されるようになりました。
 
連翹忌にもご参加下さり、女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、石碑も倒壊、繁華街は壊滅状態になるなどしましたが、震災の年から奥様の佐々木英子さんが遺志を継がれ、女川光太郎祭は毎年続いています。

さて、その女川町でのイベントです。こちらも毎年行われてきましたが、今年は5年目の節目の年ということもあり、さらに盛大に開催されるようです。  

夢を叶える町がある 女川町復幸祭2016

開催日 : 平成28年3月26日(土)
 間 : 10:00〜16:00(予定)
会 場 : 女川駅前広場シーパルピア女川周辺
問合せ : 女川町観光協会 TEL:0225-54-4328

 『女川町復幸祭』は、東日本大震災から新生女川へ向けて進む姿を全国の人に見て頂きたいという想いと、『千年に一度の町づくり』への夢と希望を託し、大震災の起こった翌年2012年の3月に初めて開催致しました。
 2016年で5回目を迎える『女川町復幸祭』、今回は2015年12月23日にオープンした駅前プロムナードでの開催となります。
 炭火焼き秋刀魚の無料配布、多数の出店、魅力あるステージ等、一日中楽しめるイベントです。

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会場の「シーパルピア女川」は、昨春のJR石巻線女川駅が復旧したことにともない、新たに駅前に建設中のショッピングモールです。昨年暮れにオープンしましたが、今も拡充が続いています。

そちらのエリアマップがネット上にアップされています。

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故・貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんが店主をなさっている佐々木釣具店さんにもリンクが貼られていました。

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さらに、画家でもあった故・貝氏の紹介も。

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改めてご冥福をお祈り申し上げます。


こうした動きに対し、まるで逆に水を差すように、「東北観光復興元年」などと、まるで説得力のないきれいごとを選挙対策のための思いつきで言っているようなズレたお坊ちゃまの発言が報じられています。だいたい今年を「元年」と位置づけるなら、これまでの5年は何だったんだ? という感じですね。これまでも頑張ってこられた東北の皆さんに、非常に失礼です。地道に努力している皆さんの神経を逆なでして逆効果になるという予測ができない愚かさには、開いた口がふさがりません。さらに復興とか何とか言いながら、その反対側では稼働させてはいけないものをやっきになって再稼働させているこの矛盾……。本当の復興のためには、何を為すべきか、国民一人一人がよく考えたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

わが心はじめて怖るあめつちに一あり二なき力にふれて

明治38年(1905) 光太郎23歳

この歌の詠まれた経緯は今一つ不明ですが、災害を題材にしているようにも読み取れます。

「あめつち」=「天地」の力には逆らえませんが、その被害を最小限に食い止めることや、ましてやそれに伴う「人災」を無くすことは不可能ではないでしょう。「あの日」から5年目の今日、考えたい課題です。

昨日、NHK総合さんで、先週ご紹介した「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~宮城県女川町 勝又愛梨さん」の放映がありました。

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津波で甚大な被害を受けた女川町の高校生・勝又愛梨さんが取り上げられました。

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勝又さんも、津波でひいおじいさん、ひいおばあさんを失ったとのこと。

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その思いから、また同じような災害が起こった時に、恩師や同世代の若者達と共に、「女川1000年後のいのちを守る会」を結成、人々を救うための活動に取り組みます。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――。

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それにとどまらず、「いのちの教科書」というプロジェクト。


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それをもとにして、中学校などでゲストティーチャーとして出張授業。

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頭が下がります。


こうした出張授業、地元だけでなく、先月には千葉県でも行われました。 

東日本大震災:命守る方法考えて 体験基に津波対策語る 女川中卒業生が千葉の中学生と対話集会

『毎日新聞』 2015年11月29日 宮城版/千葉版001

 東日本大震災で被災した女川町で、津波到達地点を知らせる石碑を設置する活動を続けている町立女川中の卒業生12人が28日、千葉県船橋市の市立湊中(太田保校長、生徒数382人)を訪れ、「1000年後の命を守るための対話集会」を開いた。高校2年になった卒業生たちは、被災体験を基に中学生と命の大切さについて話し合い、「身近な命を守る方法を考え続けてほしい」と訴えた。【金森崇之】
 女川町は震災で住宅の9割が被災し、人口の約8%に当たる872人が死亡・行方不明となった。震災直後に女川中に入学した卒業生たちは「私たちと同じ思いをしてほしくない」と、授業で独自の津波対策案を検討。家族や友人を亡くした経験を語り合いながら、住民同士が助け合える絆づくり▽広い避難路と高台のまちづくり▽震災を記録に残す??という三つの対策案をまとめた。
 「1000年後の命を守る」を合言葉に、町内21カ所に津波最高到達点を知らせる石碑を作ることも計画。1000万円の寄付を集め、これまでに9基を完成させた。中学卒業後は、教訓を伝えるための「いのちの教科書」作りも続けている。
 対話集会は日本防災士会首都圏支部連絡協議会が企画し、湊中の全校生徒や地域住民約500人が参加した。女川中の卒業生は三つの対策案や活動をスライドを使いながら報告し、「悲しみは今もそばにあるけれど、前を向き続けて生きていく」などと決意を語った。
 湊中を含む船橋市立4、浦安市立1の計5中学の生徒34人とのディスカッションもあった。女川の卒業生が被災体験を伝えると、中学生も祖父母を亡くした経験やいじめ自殺の問題を踏まえて命の尊さについて思いを語り、「感謝の気持ちが命を大切にすることにつながる」「あいさつなどの小さい積み重ねで絆ができる」と意見を出し合った。
 女川中の卒業生で、曽祖父母やいとこ2人が行方不明のままの県立石巻北高校2年、勝又愛梨さん(16)は「当たり前にいた人たちが急にいなくなってしまうことを、私は小学6年で知った。中学生たちは話を真剣に聞いてくれた。命を守るにはどうしたらいいか考えて行動に移してくれると思う」と笑顔。湊中1年、村山翼空(たすく)君(13)は「話し合うことで震災のことが近くに感じられた。同じ悲劇が少しでも減るように、今日の話を帰って家族に伝えたい」と話した。
 

被災地 女川の高校生と対話交流 命と防災を考える機会

『東京新聞』 2015年11月29日 千葉版

 東日本大震災で町人口の一割近い命が奪われた宮城県女川(おながわ)町の高校生が二十八日、船橋市の湊中学校を訪れ、船橋市と浦安市の中学生と、命や防災をテーマに話し合った。高校生は、日常の何げない行動が、大きな災害時に命を守るのに役立つことがあると指摘。中学生は四年半前の震災を思い出しながら、あらためて命の尊さを考える機会になったようだ。 (服部利崇)
 訪れたのは、震災直後の四月に女川第一中(当時)に入学、現在は高校二年生になった十二人。中学一年の社会の授業の取り組みをきっかけに、高校生になった今も活動を続ける「女川1000年後の命を守る会」のメンバーでもある。
 生徒らは、津波被害を最小限にする三つの対策案を提案した。その一環で、災害から命を守る「いのちの教科書」づくり、募金を集めて津波到達地点より高い場所に建てる「いのちの石碑」などユニークな取り組みを続ける。この活動で、同会は社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰される。三十日の表彰式で上京するのに合わせ、日本防災士会首都圏支部連絡協議会が旗振り役となり対話交流が実現した。
 高校生との対話に、船橋、浦安両市の五つの中学校から三十四人が参加した。六グループに分かれ、高校生の司会で「命の尊さ」を感じた体験や、千年後の命を守るために今できることを話し合った。
 高校生は「地域行事に極力参加している。いざという時に助け合える雰囲気づくりに役立つから」と、日常の行動が命を守ることにつながるとアドバイス。触発された中学生は「スマホをしながら自転車に乗る友達を注意する」「毎日、感謝の言葉を口に出す」「地域の人にあいさつし、顔見知りになる」などと次々にアイデアを出していった。
 参加した湊中三年の石野彩さん(15)は「命を守ることは、身近な行動から始められる、という高校生の意見に共感した。明日から、できることをしたい」と話していた。


『東京新聞』さんの記事にある社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰」に関して調べたところ、今年度、「社会貢献の功績」ということで表彰を受けた全国47件の個人、団体の中に「女川1000年後のいのちを守る会」さんも含まれていました。


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そちらによると、「いのちの教科書」のプロジェクトは、日本だけでなく、アジアの国々をも視野に入れているそうです。確かに平成16年(2004)には、スマトラ沖地震による大津波で、東南アジアの国々も大きな被害を受けています。そういう意味では、日本の経験を他国に伝えることも大切なことです。ただただ頭が下がります。

泉下の光太郎も、若い世代のこうしたがんばりには、目を細めているのではないかと思います。


あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合東京 2015年12月14日(月)  23時20分~23時25分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組んでいる。


ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月8日000

大正13年(1924)の今日、詩人の山村暮鳥が歿しました。

半年程前にも書きましたが、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。


 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載年月日も大正13年(1924)12月という以外は不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

昨日もご紹介した宮城県女川町の「いのちの石碑」」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――。先月には新たな碑の設置が報じられていました。  

東日本大震災:女川中卒業生、離島に初「いのちの石碑」 「津波の記憶伝え続ける」 出島の2地区 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月01日無題
 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動する女川町立女川中の卒業生グループ「女川1000年後の命を守る会」は31日、津波到達地点を知らせる「いのちの石碑」の8、9基目を町内の離島、出島(いずしま)の2地区に設置した。住民らは「子どもたちが未来を運んできてくれた。津波の記憶を伝え続ける」と約束。高校生も「もっと活動を続けなければ」と決意を新たにしていた。【百武信幸】
 出島は女川港から片道約1時間の定期便で1日3便結ばれている。震災時は2地区に約500人が暮らしていたが、25人が死亡・行方不明となり、全島避難は約4カ月に及んだ。島にあった小中学校は本土の学校に統合され、住民によると、居住者は100人以下に減少しているという。
 女川中卒業生は寄付金をもとに在学中の2013年11月から石碑の設置に取り組んでおり、町内で計21基の設置を予定している。離島は今回が初めて。
 8基目が設置されたのは島北部の出島地区にある永清寺の境内。震災時は約40人が避難した。地区の高齢者ら10人は、当時と同じように助け合いながら階段を上って除幕式に参加し、卒業生が読み上げた「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」という碑文の言葉に聴き入った。区長の酒井実さん(74)は「碑を見守り、頑張って出島の再生に尽くしていく」と力を込めた。
 9基目は島南部の寺間地区にある厳島神社の参道に建てられた。区長の須田菊男さん(66)は、小学5年の時にチリ地震津波に遭った記憶を卒業生に語り、「当時は人的被害がなく、その経験があだになって震災の時に家に戻ってしまった人もいる。この石碑で、1000年後まで教訓を伝えてほしい」と呼びかけた。
 参加した阿部健さん(81)は「震災後、島に子どもの姿がなくなり希望を失った気がしたが、この子たちが碑とともに未来を運んできてくれた」と笑顔で話した。
 この日参加した卒業生はメンバー23人のうち高校2年の3人。伊藤唯さんは「助けられた感謝の気持ちをもっと形にして残したい」。山下脩(しゅう)さんは「観光で島に来る人もおり、一緒に逃げて命を守ってもらえたら」。神田七海さんも「『石碑を見守っていく』という言葉がうれしかった。自覚と責任を持ってこれからも活動を進めたい」と、それぞれ今後への決意を語った。
 

取材帳から:離島の石碑 /宮城

『毎日新聞』宮城版 2015年11月22日
 「なんかやー、心に栄養が入ってきた気がしたよ。子どもらの思いで生き返ったよう」
 相好を崩す男性の顔が、海で反射した光に照らされ輝いていた。
 10月31日、女川町の出島であった「いのちの石碑」除幕式での光景。東日本大震災の教訓を1000年後に伝えるという女川中卒業生の願いがこもった石碑を前に、地元住民は心を打たれた様子だった。「心に栄養が入ってきた」と笑顔を見せたのは、寺間地区の阿部健さん(81)。震災後、島の小中学校が閉校となり、子を持つ世帯は島を離れた。若者の姿が消え、希望をなくしていたという。「子どもたちが未来を運んできてくれた。長生きして教訓を伝えないと」。卒業生たちも石碑に込めた思いを新たにしていた。
 石碑を通じ、住民たちは地域へ、若者たちは未来へ、教訓を語り継ぐ。地域という横糸と次世代という縦糸を連綿とつむいだ先に、1000年後の命がつながっていくのだろう。【百武信幸】

宮城)「この上まで逃げて」いのちの石碑、計10基 

『朝日新聞』宮城版 2015年11月1日000
 「大きな地震が来たらこの上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」2基が31日、女川町の離島・出島(いずしま)の出島、寺間両地区でお披露目された。21カ所ある町内の浜の津波到達点に、女川中学校の卒業生たちが建立をめざすもので、10月に完成した江島(えのしま)の1基を含めて、計10基になった。
 1基目ができたときは中学3年だった生徒たちも高校2年になった。以前のようには集まれないものの、この日は3人が訪れ、島の人と除幕式に臨んだ。
 それぞれの石碑には、子どもたちが作った「あの時の 悲しみ苦しみ 忘れない」「がれき見て 空に誓った 涙こらえて」の句が碑文とともに彫られている。読み上げる神田七海さん(17)の姿を島の人は目を細めて見つめ、声を合わせて一緒に読む人もいた。
 震災前は500人ほどいた島民も、今は100人を下回るといわれる。「後ろしか向いていなかったような島に、子どもたちが石碑をつくってくれて、希望もたててもらった」と話す人もいた。石碑に込めた思いは「千年後の命を守るために」。伊藤唯さん(17)は「島や町の方にがんばってねと言われ、『千年後まで残ってほしい』という気持ちが日に日に強くなっています」と話した。(中林加南子)


頭が下がります。さらにこのプロジェクトのメンバーが、千葉県の中学校を訪れて「出張授業」を行ったことも報道されていますが、そちらはまたのちほど。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、分教場から小学校に昇格し、翌日に開校式を迎える山口小学校の門標を揮毫しました。

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こちらは翌年に撮影された写真ですが、背後に門標が写っています。

現在、この門標は花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)にて展示中です。

このブログでテレビ放映情報をよくお届けしています。ネットのテレビ放映情報サイトで「高村光太郎」とか「智恵子抄」「高村光雲」「ほんとの空」など特定のキーワードをいくつか登録しておき、番組名や番組説明そのキーワードを含む情報が得られるように設定してあります。

さらに地名として「十和田」「花巻」「女川」「安達太良山」「千駄木」「上高地」など、光太郎智恵子ゆかりの地もキーワードとして登録してあります。それらは番組説明を精査し、光太郎智恵子にからみそうだという場合には、このブログでご紹介しています。

さて、キーワード「女川」で1件ヒットしました。 

伊藤整のあの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」

NHK総合東京 2015年12月7日(月)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組む。


「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」は、平日の昼間に毎日放映されている5分間番組です。震災の翌年に始まり、その名の通り、東北を中心に、東日本大震災被災者のみなさんの声を届けるという番組です。

女川町民の方の証言が取り上げられるのは初めてではありませんが、証言者の「勝又愛梨さん」に当方のアンテナが反応しました。このブログにも検索機能を設定していますので、「勝又愛梨さん」で検索したところ、2年前の「東日本大震災から1,000日。 」という記事にその名がありました。

このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト――に関する記事です。

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このブログ内で、「いのちの石碑」に関する記事は下記の通り。 
 

勝又さんをはじめ、これに関わった若者たちは、石碑だけでなく「いのちの教科書」というプロジェクトも進めているそうです。来週放映の「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」では、そのあたりが紹介されるようです。

女川といえば、今春、JR石巻線の女川駅が4年ぶりに復活しました。

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町の広報紙『広報おながわ』の今月号では、駅前に新たに大規模商業施設がオープンすることが報じられています。

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毎年8月9日の、女川光太郎祭の勧進元・佐々木釣具店さんも、現在地の「きぼうのかね商店街」から駅前に移転するようです。

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月末にはいろいろとイベントも予定されているようです。追ってご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月1日

平成8年(1996)の今日、京都市左京区の思文閣美術館で開催されていた「智恵子抄 鮮烈な生の試み」展が閉幕しました。

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紙絵の実物等も多数出品され、光太郎よりも智恵子をメインとした企画展でした。

来年は智恵子生誕130年、光太郎歿後60年です。メモリアルイヤーということで、こうした企画がまた行われてほしいものです。

テレビ放映情報です。 

空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野

BSジャパン 2015年8月25日(火)  20時00分~20時55分

北上川沿いで栄えた城下町でもあり全国有数の人気温泉町として名をはせた花巻市から、独自の文化や風習が残る民話の里・遠野市まで空から眺めていきます。

花巻市の南端からスタートし、北上川に沿って花巻市の中心市街地へ。宮沢賢治の生家を越えて、江戸時代に城下町として栄えた町のメインストリートでカニのような建物を発見。そこは連日ランチタイム満員の人気大食堂・マルカン百貨店。花巻駅から温泉街を目指す途中で、幅が狭すぎる電車を発見。かつて温泉街まで走っていた馬面電車と呼ばれ保存されている花巻電鉄の車両を見ていきます。昭和の花巻を再現した小学校跡を通り、鉛温泉へ。昔からの湯治宿の不思議な自動販売機などを見ていきます。さらに花巻温泉では昭和初期に一大レジャーランドとして栄えた姿を偲びます。花巻から民話の里として知られる遠野へ。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のヒントにしたといわれるSLが走る橋を見ながら遠野市の中心へ向かいます。遠野物語で紹介されたカッパをはじめ、市内に残る民話にちなんだ場所を見て行きます。さらにこの地域特有の曲がった古民家、曲り家や馬を大切にしてきた生活を垣間見ます。  

出演者  伊武雅刀(くもじい)  柳原可奈子(くもみ)

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光太郎が昭和20年(1945)から足かけ8年を過ごした花巻が扱われます。番組説明によれば、光太郎が何度か訪れた鉛温泉や、太田村の山小屋から鉛温泉大沢温泉などを含む花巻南温泉峡や花巻町に出かける際に利用した花巻西公園に静態保存されている花巻電鉄などが紹介されるようです。


もう1件。 

遠くへ行きたい 阿藤快「世界三大漁場 金華山沖の魚と龍神祭り」石巻~女川

日本テレビ 2015年8月30日(日)  6時30分~7時00分

阿藤快が、夏の南三陸を旅する。石巻漁港で「金華カツオ」の水揚げを見学し「金華丼」を食べる。JR石巻線の真新しい「女川」駅で、駅にある温泉に入浴。女川の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で各店舗の軒先に貼られた面白いポスターに見入り、スペインタイルを作る工房でタイル作りを体験する。女川の夏の味覚「ホヤ」の水揚げを見て、獲れたてのホヤを刺し身でいただく。島全体が神域だという金華山で「龍神まつり」を見る。

 まずは仙台と石巻を結ぶJR仙石線の車中から。「石巻」駅で下車し、石巻漁港を訪ねる。ここは金華山沖で獲れる「金華カツオ」が有名だ。阿藤は金華カツオの水揚げを見学し、金華山沖で獲れた魚で作る「金華丼」を食べに「富喜寿司」へ向かう。店主の大場英雄さん(71歳)に話を聞きながら、金華丼をいただく。
  JR石巻線で「女川」駅へ。3月21日に完成した真新しい駅舎には、展望スペースや土産物屋のほか温泉入浴施設「ゆぽっぽ」がある。阿藤はさっそく駅の温泉を体験する。
 次に女川の「きぼうのかね商店街」へ向かう。町中で商売をしていた約50店が集まる仮設の商店街で、八百屋、カレー屋に理髪店、スナックなどが営業している。目を引くのは各店舗の軒先に貼られたポスター。どんぶり屋の軒先に「一杯 食わされた!」、つぶ貝の串焼き店には「ツイッター? やってないけど つぶ焼くよ」などなど。これらは被災地の人々を盛り立てようと、地元の新聞社や大手広告会社が協力し、各店舗に1点以上ある宣伝ポスターなのだ。阿藤は「つぶ焼くよ」のポスターが貼られた「串焼きたろう」で、店主の千葉静郎さん(62歳)につぶ貝を焼いてもらう。
  きぼうのかね商店街の中にある「みなとまちセラミカ工房」は、スペインタイルを作る工房だ。代表の阿部鳴美さん(54歳)が「津波で流された町を鮮やかな色彩のスペインタイルで飾りたい」と思い立ち、スタートさせた。スペイン産の素焼きの陶板の上に、スペイン産釉薬を使って絵付けし、3日かけて焼き上げる。民家のタイル表札のほか、壁飾りや看板として公共施設や集合住宅にも利用されている。工房ではオリジナルタイル作りの体験もできる。阿藤は阿部さんの指導でスペインタイル作りに挑戦する。
  女川の夏の味覚といえば、珍味として知られる「ホヤ」。女川湾では夜明け前から水揚げが行われている。阿藤は漁師の阿部次夫さん(63歳)の船に乗せてもらい、ホヤの水揚げ作業を見学する。生簀から揚げられたホヤは巨大な塊状で、船上で漁師さんたちがすばやくさばいていく。ホヤは傷みが早いため、作業はスピードが勝負だ。作業のあと阿藤は漁師さんたちに混じって獲れたてのホヤを刺し身でいただく。
  さらに女川湾から連絡船で35分のところにある金華山へ。金華山は黄金山神社を中心に、島全体が神域とされている。毎年7月最終の土・日に「龍神まつり」が行われ、長さ20メートルの「龍(蛇)踊り」の奉納が見ものだ。阿藤は多くの参拝客でにぎわう神社で龍踊りの奉納を見守りながら、石巻と女川のいまを見つめた、南三陸の旅を振り返る。

出演 阿藤快

<系列各局放送時間>
日本テレビ (日)6:30 札幌テレビ (日)5:45 青森放送 (金)10:25
ミヤギテレビ (日)6:30 テレビ信州 (日)6:30 北日本放送 (金)15:55
中京テレビ (日)7:00 四国放送 (木)10:55 南海放送 (火)10:25
日本海テレビジョン (土)5:29 広島テレビ (日)7:00 福岡放送 (日)7:00
長崎国際テレビ (土)16:25 鹿児島読売テレビ (日)5:45

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女川光太郎祭会場となっている「きぼうのかね商店街」が取り上げられます。

ポスター云々は、「女川ポスター展」。河北新報社さんの「今できることプロジェクト」と電通関西支社さんの復興支援事業コラボ企画で、インパクトのある面白いポスターを作ることで地域を活性化させようという試みです。

会期は終わっていますが、まだ参加したほとんどの店舗、企業でポスターが貼られています。

女川光太郎祭仕掛人の佐々木釣具店さんのものはこちら。先日、当方が撮影してきたものです。

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さらに女川光太郎祭の折に泊めていただいたステイイン鈴家さんのポスター。

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「空から日本を見てみよう+」、「遠くへ行きたい」、ともに今回は光太郎に直接触れることはないかもしれません(それぞれ以前にはちらっと触れて下さいました。こちらこちら)が、それぞれゆかりの地の様子、現状ということでぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月23日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から詩集『典型』の装幀原案を発送しました。

編集を担当した詩人、宮崎稔宛の書簡に以下の記述があります。

やつと「典型」装幀原図が決定、出来上りましたので、別封で契約書と一緒にお送りします、 原図については説明してありますからお分りと思ひますが、不明の点はおたづね下さい、

さらに版元の中央公論社の松下英麿に宛てた書簡の一部。

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります、書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です、

10年ほど前に、その原図がひょっこり出てきました。装幀家としても名を成した光太郎だけあって、詳細な指示が書き込まれ、さらにそれを元に出来上がった装幀も非常にいいものです。太田村では彫刻を封印した光太郎ですが、題字の木版は、この時期に彫刻刀を振るった数少ない作品の一つです。

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昨日、宮城県石巻圏の地方紙『石巻かほく』さんで、先日の第24回女川光太郎祭について報じて下さいました。

女川でしのぶ会 光太郎と戦争協力詩、文芸評論家・北川氏語る

 三陸紀行で女川町を訪れた詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第24回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であった。

 文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が、光太郎の作品や妻智恵子へ抱いた思いについて講演。

 戦争協力の詩文を作った過ちを敗戦後に探ろうと記した、連作詩「暗愚小伝」に関しては、「光太郎は何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」と述べた。

 参加者は、光太郎が女川を訪れた際に残した紀行文や、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などの詩を朗読し、当時の情景に思いをはせた。

 祭りは光太郎が1931年8月9日、三陸への旅に出発した日付にちなみ、92年に初めて開催された。

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記事にある「暗愚小伝」は、昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で一人蟄居生活を送りながら、それまでの自らの来し方を20篇の詩に綴った連作詩です。それを書いた最大の目的は、やはり自らの戦争帰任の省察です。

帝室技芸員に任ぜられ、御前彫刻を拝命した光雲の皇国史観の支配する家庭で育った幼少時、この国の卑小さに絶望した青年期、それと交流を絶って、芸術三昧の日々を送った智恵子との生活。そして智恵子を亡くし、どうしようもない虚脱感に捕らわれた自己。

私は精根をつかひ果し、
がらんどうな月日の流の中に、000
死んだ智恵子をうつつに求めた。
(略)
私はひとりアトリエにゐて、
裏打の無い唐紙のやうに
いつ破れるか知れない気がした。
いつでもからだのどこかにほら穴があり、
精神のバランスに無理があつた。
私は斗酒なほ辞せずであるが、
空虚をうづめる酒はない。
妙にふらふら巷をあるき、
乞はれるままに本を編んだり、
変な方角の詩を書いたり、
アメリカ屋のトンカツを発見したり、
十銭の甘らつきようをかじつたり、
隠亡(おんぼ)と遊んだりした
(「おそろしい空虚」より)

そして智恵子を狂わせ、死に至らしめたのは、社会との交流を絶った生活だったとし、その反省から、一転して積極的に世の中に関わろうとします。その世の中がどんどん戦時へと突き進んでいく時期だったのが、大きな悲劇でした。

智恵子と私とただ二人で001
人に知られぬ生活を戦ひつつ
都会のまんなかに蟄居した。
二人で築いた夢のかずかずは
みんな内の世界のものばかり。
検討するのも内部生命
蓄積するのも内部財宝。
(「蟄居」より)

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ、
だしぬけを驚いてゐる世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
(「協力会議」より)

軍部や大政翼賛会は、光太郎の文才や社会的影響力をいいように利用します。光太郎自身も、人心を荒廃から救うため、積極的にプロパガンダに没入していきます。

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキに かけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。003
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(略)
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。
(「真珠湾の日」より)


しかし、そうして書いた大量の空虚な翼賛詩篇を読んで、多くの前途有為な若者が散華していきました。



構想段階では、「暗愚小伝には」次の断片が入っていました。


  わが詩をよみて人死に就けり007

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


そして「終戦」。


   終戦009

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、

人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も014
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


「暗愚小伝」最後を飾るのはは「山林」という詩です。文字通り、花巻郊外太田村の山林における現在の自分の心境です。こんな一節があります。

おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。

光太郎は公的には戦犯として断罪されることはありませんでした。しかし、自らの罪は自ら罰する、というわけで、7年間にわたる不自由な山小屋暮らし、さらに彫刻封印という厳罰を科したのです。


「何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」という、当会顧問・北川太一先生のお言葉がうなずけます。
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今日は70回目の終戦記念日。直接、戦争を知る方々は次第に減り、その負の記憶はどんどん薄れています。あまっさえ、それを美化し、もう一度この国をおかしな方向へ持って行こうとする動きも顕著です。こうした時代にこそ、光太郎の精神に学ぶべきではないかと、切に思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月15日

昭和46年(1971)の今日、現代書館から詩人の村田正夫による評論集『戦争●詩●批評』が刊行されました。

上記の翼賛詩篇や「暗愚小伝」にからめ、光太郎についても考察が為されています。

宮城女川レポートの最終回です。

8月10日、前日の第24回女川光太郎祭を終え、千葉の自宅兼事務所に戻りましたが、女川を出る前に、やはり石碑を二つ見てから発ちました。

一つ目がこちら。昨年も見た「いのちの石碑」の鷲神浜地区に建てられたものです。泊めていただいた「ステイイン鈴家」さんや、女川光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」に近い場所に建っています。

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続いて、前日同様、女川港から国道398号で、東の方に。この碑を見に行ってきました。

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国道沿いにあって、前日も脇を通りましたが、その時は何か古い石碑があるなと思っただけで通り過ぎていました。それが、光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店・佐々木釣具店で読んだ地元紙『石巻かほく』に、この碑に関する記事が載っており、これはもう一度ちゃんと見に行かなければ、と思った次第です。

記事はこちら。ネット上にもアップされていました。 

戦後70年 伝える(2) 女川空襲 元駅員、町訪れ体験語る

 太平洋戦争で沿岸防衛の拠点の一つだった女川町の女川港。1945年8月10日、連合国軍の激しい空襲を受けた。
 石巻市桃生町出身の須藤良輝さん(87)=広島県福山市在住=は当時、女川駅の駅員として空襲に遭遇した。「女川の人たちにはかわいがってもらった。生きているうちに自分の経験を伝えたい」。5日、女川町を訪れ、住民に体験談を語った。
  ◇
 8月9日の朝。警報が鳴らないのに、見たことのない双胴機が上空を飛んだ。後から考えれば、空襲の偵察だったのだろう。
 10日午前8時ごろ、空襲警報が鳴り響いた。艦載機が5機編隊で10分おきに来た。湾内の掃海艇や海防艦に波状攻撃が続いた。超低空飛行だったので、日本軍の砲撃はかわされた。
 駅員は駅舎内に退避し、戦況を見守っていた。午後2時を過ぎると、攻撃目標が駅周辺に変わった。ホームにナパーム弾が投下された。オイルを保管していたドラム缶が火を噴きながら上空に飛ばされ、屋根を突き破った。
 駅長が町役場裏の防空壕(ごう)に退避するよう指示した。男性が女性の手を引き、500メートル先の壕を目指した。3分の1ほど走ったところで、後ろから爆音が聞こえた。2人で叫びながら伏せた。
 振り向くと戦闘機が迫っていた。航空士の若い男の顔が見えた。機銃掃射され、目の前にやっきょうが飛び散った。あの恐ろしさは忘れられない。
 午後4時を過ぎると、空爆はピタリとやんだ。
 港は全滅だった。2隻の掃海艇は船首しか見えず、漁船を含む多くの船が沈んだ。海軍の宿舎5棟は倒壊。駅前広場は250キロ爆弾で巨大な穴が開いていた。
  ◇
 須藤さんは空襲体験をまとめた手記を町に寄贈したことはあるが、実際に体験を語ったのは今回が初めて。集まった住民に対し、「戦争の悲劇を子どもや孫に語り継いでほしい」と涙ながらに訴えた。
 東日本大震災の2カ月後にも女川を訪れた。「気になって仕方がなかった。がれきだらけの町を見て、写真を撮ることもできなかった」と振り返る。
 「年齢を考えれば、女川に来るのはこれが最後だろう」と須藤さん。「復興を果たし、かつてのような活気のある港町に戻ってほしい」と願った。
■女川空襲
 女川防備隊が置かれるなど日本海軍の基地となっていた女川港は1945年8月、連合国軍の空襲を受けた。軍関係者ら200人以上が死傷。江島でも住民19人が死亡した。日本軍に撃墜されたグレー大尉はカナダ人の第2次大戦最後の戦死者で、町内に記念碑がある。


女川に空襲があり、多数の方が亡くなったということを、当方、寡聞にして存じませんでした。しかも昭和20年(1945)8月10日。まさに光太郎祭翌日、当方が千葉に帰る日です。そういうわけで、もう一度行き、線香を手向けて参りました。当方の愛車には、なんや かやで行った先で墓参をすることが多いので、常に線香が積んであるのが役に立ちました。

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先客がいて、香華をお供えしていました。関係者の御子孫でしょうか。

それにしても、昭和20年(1945)8月10日という日付には二重に驚きました。岩手花巻の宮澤家で、光太郎が2度目の被災となった花巻空襲も同じ日だったためです。もしかして同じ艦艇から飛び立った艦載機によるものではないかと思い、調べてみましたが、花巻は米軍艦載機、女川は英軍艦載機と、異なっていました。前日にはご存じの通り、長崎に原爆が投下されましたし、岩手釜石には艦砲射撃が行われています。もはやこの時期の日本はやられ放題だったわけですね。

今年は戦後70年。前日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の様子を、きぼうのかね商店街の食堂で昼食を摂りながら見ましたが、もう一度この国を戦争の出来る国にしようとする輩が、「返れ!」とヤジを受けながら空疎なスピーチをしているのを聴き、暗然とした思いになりました。泉下の光太郎はどのような思いでこの国を見ているのでしょうか……。

女川レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月12日

大正2年(1913)の今日、智恵子が福島の実家に金銭の無心をする手紙を書きました。

無心したのは光太郎と共に信州上高地婚前旅行をするための費用です。しかし手紙には、光太郎の「こ」の字も出てきません(笑)。

一部、抜粋します。

 こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから

 どうぞたすけると思召して こんどだけ暫くの間御都合下さいます様 偏に御願ひ申しあげます

 これは何につかふのでもありません ずつと前からも申しあげました通り 文部省の展覧会に出しますか また大阪の方で個人展覧会をいたしますか 何れにしましてもそれ等の絵を売りました上にすぐご返済申し上げます

恋する女の一念、ある意味、恐ろしいです(笑)。

8月9日の第24回女川光太郎祭の前後、女川町内を探訪しました。

今回は、3月に常磐自動車道と仙台東部道路がつながり、自宅近くから女川に隣接する石巻まで高速道路で行けるようになったので、自家用車で行きました。そのため、多少離れた場所で、今まで訪れたことのないところにも行ってみました。

まずはやはり3月に新生成ったJR石巻線女川駅。ウミネコをデザインしたという瀟洒な駅舎が出来ていました。

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向かって左側は、温泉入浴施設「ゆぽっぽ」です。朝早かったので、まだオープン前でした。

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こちらはホーム。

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待合室には、震災前の女川駅の写真が。

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20数年前に、はじめて女川を訪れた時のことを思い出しました。小牛田から石巻線に乗り、料金が路線バスのように後払いで、いざ払おうとしたら一万円札しかなく、駅前にあった商店で崩して列車に駆け戻って払った記憶があります。

現在の駅前は、まだまだ造成中でした。

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やはり駅前の地域医療センターにはこんなメッセージが。

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海の方に戻り、光太郎の文学碑を見に行きました。周辺は工事中ですが、日曜でしたので休工でした。元は4基あった碑のうち、詩「よしきり鮫」を刻んだ碑と、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびすおほぞらのもと」を活字で刻んだ小さな碑は津波で流され、紀行文「三陸廻り」と短歌「海にして……」を光太郎自筆で刻んだメインの碑と、詩「霧の中の決意」を刻んだ碑のみが残っています。

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いつの日かまた建てられ、女川名所の一つとなることを切に願います。

近くには横倒しになった旧女川交番。震災遺構として残すそうです。

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あの日、牙を剝いた海。この日は穏やかでした。

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その後、女川港から国道398号で、東の方に行ってみました。そちらの方に行くのは、初めてでした。このブログで何度かご紹介した、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」を見てみようと思ったからです。鷲神浜地区に建てられた碑は、昨年拝見しましたが、他の場所に建てられた碑は未見でした。

桐ヶ崎地区の碑はすぐにわかりました。

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上の画像、2回クリックすると拡大画像が出ます。碑文をお読み下さい。

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こちらが碑の前から見た海。碑はかなり高い場所にありますが、ここまで逃げないと津波にやられるということです。

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竹浦地区にも行ってみましたが、こちらでは碑が見つかりませんでした。昨日書いたとおり、時折雨が激しく降っていて、あまり歩けませんでした。

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また町の中心部に戻り、女川中学校さんに建った最初の碑も見て参りました。

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そうこうしているうちに、女川光太郎祭の準備にかからねば、という時間になり、この日の碑めぐりはここまでにしました。長くなりましたので、続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月11日

昭和2年(1927)の今日、連作詩「名所」を書きました。

「大湧谷」「草津」の二篇から成ります。004

   大湧谷

 岩がとろけてわいてゐるのを
 ひとりでのぞくのは止すがいい。
 千八百度の破壊力が
 たいへんやさしく微笑するから。


   草津

 時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば
 草津の町はただ一心に脱衣する。


大湧谷は神奈川の箱根、草津は群馬の草津温泉です。前月、草津には光太郎一人で、箱根には智恵子と二人でそれぞれ訪れています。このブログの上部、プロフィール欄に使っている光太郎智恵子のこの写真は、この年の大湧谷での一コマです。

また、どちらも他の年に智恵子ともども訪れており、お気に入りの場所だったようです。

先ほど、2泊3日の行程を終えて、宮城県女川町から千葉の自宅兼事務所に戻りました。

今回は、昨日行われた第24回女川光太郎祭についてレポートいたします。

元々は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日を記念して、永く光太郎の精神を受け継ごうと始まったイベントです。平成23年(2011)の東日本大震災で、女川光太郎の会の事務局長だった貝(佐々木)廣氏が津波に呑まれて亡くなり、女川の町自体も激甚な被害を受け、それ以来、復興のためのイベントという側面も加わりました。

さて、一昨日から泊めていただいていた宿、「ステイイン鈴家」さんで目を覚ますと、雨。光太郎自身が稀代の雨男で、生前から光太郎が何かやろうとすると必ず雨、冬なら雪、というのは有名な話です。その力は歿後も衰えることなく、毎年の連翹忌や5月の花巻高村祭、そしてこの女川光太郎祭の日には、必ずといっていいほど雨です。

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鈴家さんで朝食をいただき、まず自家用車を駆って、女川町内をいろいろ見て回りましたが、そちらについては明日レポートします。

光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」には9時頃着きました。当方、毎年、講演を依頼されていますが、それ以外にも肉体労働です。時に激しく降る雨の中、テント設営。さらに机やテーブル、看板、そして自分の講演に使うパソコンやプロジェクタのセッティング。体を使う仕事も大好きなのですが、けっこうずぶ濡れになったのはまいりました(笑)。


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そうこうしているうちに当会顧問・北川太一先生ご一家、北川先生が高校教師をなさっていた頃の教え子である北斗会の皆さんもご到着。

そして午後2時、開会。

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普段は漁船でサンマ漁などをなさっている須田勘太郎会長のご挨拶に続き、当方の講演。一昨年から、昭和22年(1947)に光太郎が自らの来し方を振り返って作った連作詩「暗愚小伝」をひもときながら、光太郎の人となり、業績についてお話しさせていただいています。昨日は主に欧米留学に出かけた青年期についてでした。

その後、光太郎遺影や、津波で被害を受けた光太郎文学碑の写真などに献花。

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続いて、地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩や紀行文「三陸廻り」の朗読。

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途中からギタリスト宮川菊佳氏の伴奏が入り、いい感じでした。

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そして北川太一先生のご講話。やはり震災がらみ、そして戦後70年ということで、ご自身の戦争体験などに基づき、もちろん光太郎の生き方をからめつつ、「命」についての感動的なお話でした。御年90歳になられた先生ですが、「あと10回来たい」とおっしゃっていました。そのとおりになってほしいものです。

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こちらは朗読をして下さった皆さんへの、北川先生からのご著書のプレゼント。

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須田善明女川町長のスピーチ。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えていただきました。

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女川の子供達「女川潮騒太鼓轟会」の演奏。

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こうして盛会の内に終わりました。終了後には雨も上がり、きれいな雲が。

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またまたテントなどの片づけを終え、きぼうのかね商店街集会所での打ち上げ。北川先生も楽しそうです。

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今後とも、息長く続けていって行きたいものです。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月10日

明治29年(1896)の今日、彫刻「兎」を完成させました。

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光太郎数え14歳の作。「手板浮彫」といい、約15㌢四方の板に彫られたレリーフです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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昨日から宮城県は女川町に来ております。本日行われた第24回女川光太郎祭に参加、講演をさせていただきました。

地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話、ギタリスト宮川菊佳氏、オペラ歌手本宮寛子さんの演奏、地元の子供たちによる和太鼓など、盛りだくさんの内容でした。

一年ぶりに訪れた女川は、JR石巻線が女川駅まで復旧。さらに今回は自家用車で来ましたので、これまで行ったことのなかった場所をいろいろ探索してみました。

詳しくは明日、帰ってからレポート致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】8月9日

昭和45年(1970)の今日、大分文化会館にて、演目に「智恵子抄」を含む、「平瀬克美ゆりかご舞踊20周年記念公演」が開催されました。

宮城県牡鹿郡女川町からのイベント情報です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は同年8月9日に東京を発って、約1ヶ月、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古と、主に船で旅をしました。それを記念して、毎年8月9日に行われている、光太郎顕彰のイベントです。

元々、中心になって運営なさっていた「女川光太郎の会」事務局長だった貝(佐々木)廣氏は、東日本大震災の津波で還らぬ人となってしまいました。その遺志を継ぎ、奥様の佐々木英子さんを中心に、細々とですが、続けられています。


そして今年。ネット上などに情報が出ず、電話で確認したのと、昨年の要項を参考にまとめてみました。こんな感じだと思います

第24回女川光太郎祭

期 日 : 2015年8月9日(日)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : きぼうのかね商店街 宮城県牡鹿郡女川町浦宿浜字十二神
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって③―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)
 太鼓演奏 女川潮騒太鼓 轟会


今年は日曜日にあたっていますので、多くの皆さんのご参加を期待しております。

女川は今年3月にJR石巻線の女川駅がリニューアルオープンし、だいぶ様変わりしているようです。かつて港に建っていた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトも継続中。震災から5年目の夏、女川の様子をぜひご覧下さい。


さて、今夜、BSフジさんで、「発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されます。

先週、このブログでご紹介した段階では、番組公式サイトに詳細情報が出ていませんでしたが、その後、アップされました

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また、先週のオンエアを見ていましたら、合間にCM的に次週予告が入りました。

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ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月3日

平成14年(2002)の今日、詩人の伊藤信吉が歿しました。

伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は群馬県立土屋文明記念文学館の初代館長に就任。そんなわけで同館には氏の旧蔵になる光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。

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