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3.11が近づいてきました。今年は震災から10年ということで、各種メディアも、例年より取り上げられる回数が多いようです。

あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
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その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。

【ぶらり、ぶんがく。本と歩く】津波被害からの復興に思い巡らす 高村光太郎「三陸廻り」 宮城県女川町・高村光太郎文学碑

001 出張先の宮城県女川町で、大きな碑を見つけた。震災遺構として整備された旧女川交番に立ち寄ろうと港に車を止めたら、駐車場のわきにある巨大な岩が目に留まった。碑面には、彫刻家としても文筆家としても知られる高村光太郎(1883~1956年)の文章と絵が彫られていた。
 〈古さびた女川の町が夜になると急に立ち上る。ただ海から来た人々への夜の饗宴の為にのみあるかと思う程、此の小さな町が一斉に一個の盛り場となる〉
 ネットで調べると「三陸廻り」という随筆の一節だった。昭和6(1931)年に時事新報に10回掲載された紀行文で、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古などを旅したという。平成3(91)年に建立されたこの文学碑は、東日本大震災で倒れはしたものの流されずに残った。町の再整備が進んで、再建されたそうだ。
 10年前の3月11日。女川に押し寄せた津波の高さは20メートルに達した。高台にある病院の1階まで冠水して、市街地は壊滅。港からその病院を見上げると、人々を襲った津波のとんでもない大きさを実感して、へたり込みそうになる。とはいえ再建は少しずつ進んでいる。かさ上げした土地に女川駅が再建され、駅前にはシーパルピア女川という商業施設が整備された。観光客の姿もあった。
   〈女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている〉
 文学碑にはそんな一節も刻まれていたが、町はまた立ち上がろうとしている。
 帰宅後に「三陸廻り」の全文を読みたくなって、文芸評論家の北川太一が著した『光太郎智恵子うつくしきもの』を入手した。そこで知ったのが、光太郎が旅した昭和6年は、2万人以上が犠牲になった明治三陸地震の35年後だったということだ。被災地が活気を取り戻してきた時期にあたる。
 旅人の視点で景色や暮らしが生き生きと描かれる「三陸廻り」にも、ちらほらと災後の意識が浮かび上がる。釜石では自然の調和力に思いを巡らせ〈自然と人工とは衝突とはいえない程一方が大きい〉。宮古については〈海溝に異変のあるたび大海嘯(つなみ)の害をうける〉ので、海岸を避けて街が作られたと推察し、〈裏が今は表になっている〉と記した。光太郎も死者を想っただろうか。いま三陸を歩く私たちが「あの日」を想うように。 (阿蘇望)
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この碑が多くの人々の募金によって建立されたことに倣い、震災後に避難の目安となるランドマークとして建てられ続けている「いのちの石碑」についての、仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事。

<ストーリーズ>1000年先の命を守る碑に/鈴木智博さん(21)宮城県女川町

「自分たちの活動が形となり、石碑ができた時はすごくうれしかった」。
 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台に造成された住宅地。「いのちの石碑」と刻まれた碑のそばで、大学生鈴木智博さん(21)が思い返した。
 震災当時は女川二小6年。漁港のある集落に家族7人で暮らしていた。津波で祖父母と母を亡くした。
 その年、入学した女川中の社会科の授業で「1000年先の命を津波から守ろう」と生徒たちから石碑を建てる案が出た。周囲に勧められリーダー役を引き受けた。活動は保護者や地域に広がった。
 13年11月、女川中の敷地内に1基目が完成した。「世界中から多くの支援がもらえて感謝しかなかった」。約300人の関係者が集まる中、生徒の先頭に立って除幕の綱を引いた。
 町内21カ所に建てられる予定の石碑は、津波到達地点より高い場所にある。現在は18基。教訓や震災を詠んだ俳句も刻まれる。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」。鈴木さんは石碑に刻まれた俳句の一つを口にした。「今後、1000年に一度の大災害があっても石碑より上に逃げ、みんなの命が救われてほしい」。改めて石碑を見つめた。
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鈴木さん、テレビにも出演されます。

テレメンタリー2021「“3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」

地上波テレビ朝日 2021年3月7日(日) 04:3005:00

最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

死者・行方不明者が約2万2000人に上る東日本大震災。宮城県は、被災した自治体の中で最も多い犠牲者が出ました。
女川町の漁師・鈴木高利さんは、津波で両親と妻・智子さんを失いました。遺されたのは長男・智博君、長女・奈桜さん、そして当時まだ2歳だった次女・柚葉ちゃん。7人家族が突然4人家族になって10年。子どもたちが成長するに伴って接し方にも悩みながら、高利さんは男手一つで子どもたちを育ててきました。
今、智博君と奈桜さんは仙台市の大学に通う学生です。智博君は震災を語り継ぎ、津波が襲った故郷に石碑を建てる活動を続けています。奈桜さんは「保育士」になるために勉強中です。まだ2歳だった柚葉ちゃんは、この春、中学生になります。
最愛の人を突然失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのかー。彼らを支えたものは何だったのかー。ある家族が歩んだ10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

◇ナレーター 滝藤賢一
◇制作    東日本放送

智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
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もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。

news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜

地上波日本テレビ 2021年3月6日(土) 16:00〜16:55

東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」

【メインキャスター】藤井貴彦(日本テレビアナウンサー)
【サブキャスター】 中島芽生(日本テレビアナウンサー)

三浦裕紀(テレビ岩手記者) 藤田耕司(ミヤギテレビ記者)
緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
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そして、3月6日(土)には、過日ご紹介した草彅剛さん主演の「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。

一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。

昭和22年(1947)1月1日の日記より 光太郎65歳

詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
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  この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。

その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています

特集展示「福島美術館の優品」

期 日 : 2020年12月1日(火)~2021年1月31日(日)
会 場 : 仙台市博物館 宮城県仙台市青葉区川内26
時 間 : 9時00分から16時45分
休 館 : 月曜日(祝日・振替休日の場合は開館)
      祝日・振替休日の翌日(土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)
      年末年始 12月28日(月)~1月4日(月)
料 金 : 一般・大学生 460円(360円)高校生 230円(180円)
      小・中学生 110円(90円) ( )内団体料金

仙台市若林区土樋(つちとい)にあった福島美術館(社会福祉法人共生福祉会運営)は、仙台で活躍した実業家・福島家が三代にわたり集めた約3,000点の美術工芸品を収蔵していました。
その内容は、伊達家ゆかりの文化財をはじめ、仙台四大(しだい)画家による絵画、さらに福島家が支援した近代の画家・書家の作品や、茶道具・香道具といった工芸品など多岐にわたります。
「街の小さな美術館」の愛称で親しまれてきた同館は平成30年に活動を休止し、文化財の多くが当館に寄託されました。
この特集展示では、福島美術館の資料の中から選りすぐりの優品を紹介します。
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仙台にかつてあった私立の福島美術館さん。当方も2度お邪魔しました。一昨年に閉館となり、所蔵品はどうなったのだろうと思っておりましたが、こちらに寄託されていたのですね。散逸しなかったのは幸いでした。

同館では、光雲作の木彫を2点所蔵されていました。

1点は光雲・光太郎父子と交流があった僧侶にしてチベット仏教学者の河口慧海にかかわる如来坐像。
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もう1点は、「聖観音像」。こちらは平成23年(2011)の東日本大震災まで、光雲作であるという認識がなく、神棚に置かれていていたそうです。それが震災で倒れ、初めて光雲作の銘が確認されたとのこと。そして神棚から「落ちなかった」ことで、一時、受験生に霊験あらたかという都市伝説が広まりました。

今回の展示では、「聖観音像」が出品されているそうです。

コロナ禍に充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003 (2)

入湯。幽邃境也

昭和20年(1945)6月18日の日記より
 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢賢治実家に疎開してきて、翌日、肺炎のため41℃の高熱を発し、1ヶ月臥床。6月15日には床上げをし、この日から24日まで、予後を養うため花巻郊外西鉛温泉に滞在しました。

「幽邃」は「ゆうすい」。「景色などが奥深く静かなこと」といった意味です。西鉛温泉、当時は明治館改め秀清館という一軒宿で、明治22年(1889)の創業。この頃は、賢治の母の実家が経営していました。当時としては珍しい四階建ての日本家屋で、建築設計にも手を染めていた光太郎、その造作に感心しきりでした。

現在は西鉛温泉の呼称は廃され、少し離れた場所で新鉛温泉となっています。

宮城県震災復興本部さん発行の冊子『NOW IS.』。A4判オールカラー、表紙を含めて8ページです。「宮城県内の復興の状況や復興に向けて取り組んでいる方々の「いま」の姿を紹介する広報紙」というコンセプトで、月刊。宮城県内では、公共施設や市営地下鉄の駅などに無料で置かれています。

毎月11日発行だそうで、もうすぐ今月号の発行となりますが、先月号にあたる第53号、「井ノ原快彦in女川」ということで、V6の井ノ原快彦さんによる女川町訪問記がメインでした。
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カマボコの「高政」さん、カタールの支援で建設された冷凍施設「マスカー」、津波で倒壊し、震災以降として保存公開されている旧女川交番、そしてこのブログでたびたび紹介している、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」についても大きく取り上げられています。
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当方、震災復興本部さんに申し込んで送っていただきましたが、PDF版はweb上で公開されています。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

そして、実物を観察させるにも、子供には子供特有の見方があるから、子供自身の見方によつて見させ、その見た所を描き出せるやうにすれば、自ら描く興味も湧いて来るであらう。


散文「教育圏外から観た現時の小学校」より
大正5年(1916) 光太郎34歳

当時小学校で行われていた図画教育――大人が描いた手本通りに模写させる――に対する批判です。自分も明治期にそういう教育を受け、図画の授業にはまったくつまらなかったと述懐しています。さらに同じことは文章、ひいては芸術一般にいえる、としています。

芸術に限らず、「いのちの石碑」などのアイディアもそうでしょう。はじめ、21基の石碑建立に1,000万円かかると分かった時、大人たちはさっさと「無理だ」と決めつけたようです。しかし、子供たちは光太郎文学碑の例に倣って募金で集めると言いだし、実際に僅かな期間で達成してしまいました。

新刊です。分類上は雑誌なのでしょうが、保存版的な

9月20日(日)の地方紙『石巻かほく』さんに紹介記事が出ていますので、まずそちらから

「石巻学」第5号が完成 文学特集、震災後の動きも紹介

 「石巻と文学」を特集した地域誌「石巻学」の第5号が完成した。石巻を舞台に作家ドリアン助川さんが書き下ろした小説をはじめ、詩人の吉増剛造さんが石巻について語った特集もあり、充実した内容になっている。ページ数も192ページと前号より約40ページも増加。港町・石巻が育んだ文学文化の魅力を伝えると同時に、東日本大震災と文学を考える1冊が誕生した。
 発行したのは「石巻学」プロジェクト(大島幹雄代表)。文学特集にふさわしく吉増さんとドリアンさんが登場。巻頭を飾っているのが「吉増剛造「『石巻』を語る」。吉増さんは昨年夏のリボーンアート・フェスティバルをきっかけに、石巻に足繁く通うようになった。詩人の目が捉えた石巻が語られている。
 ドリアンさんは大島さんと親交があり、小説の依頼を快諾。掲載されたのが「宿題」。ドリアンさんが震災後、門脇地区を訪れていた体験を下に書き上げた短編で、新しい震災文学が生まれた。
 石巻と文人たちとの出合いを振り返ったルポや回想は文学資料としても貴重。(1)結婚したばかりの吉村昭と津村節子夫妻の石巻での行商生活(2)石巻市が生んだ芥川賞作家辺見庸と門脇の思い出-を紹介している。
 高村光太郎や坂口安吾、北杜夫ら石巻地方を旅した作家や詩人は多く、その旅人たちに焦点を当てたのが「紀行文を旅する」。コロナ禍の今、旅の気分を味わえる読み物。紀行文に紹介された石巻の風土や暮らしに思いをはせながら石巻地方の魅力を再発見できる。
 震災後の動きにも着目。短歌集団「カプカプ」の短歌や、中学1年生の少女が亡き姉への思いをつづったメルヘン小説を掲載。第5号は地域から全国に向け発信する文芸誌の一面も備えた1冊になった。
 震災直後、俳句で心に抱いた思いや悲しみなどを表現した女川一中生の9年後を追ったルポや、震災後に読んだ本の中で印象に残った1冊について市民に聞いたアンケートも興味深い。震災を体験した市民や子どもたちに、俳句や読書がどのような役割を果たしたかを考えさせられる。
 代表の大島さんは「日和山にはたくさんの文学碑がある。松尾芭蕉や宮沢賢治、石川啄木ら多くの文学者が訪れ、石巻について書いている。特集は石巻と文学を巡る過去と今がダイナミックに交錯する中身の濃い内容となった。震災と文学の問題にも迫ることができた」と自負する。
 「石巻学」は2015年12月に創刊。これまで「映画」や「鯨」「音楽」などを切り口に、港町・石巻の魅力をさまざまな角度から探り、石巻の文化の奥行きの広さ、深さを発掘してきた。
 第5号は定価1700円(+税)。A5判。こぶし書房(東京都)発売。ヤマト屋書店TSUTAYA中里店などで扱っている。

石巻学VOL.5

2020年9月20日 石巻学プロジェクト編 こぶし書房 定価1,700円+税

「歩く 見る 聞く 石巻」をモットーに、石巻ならではの話題を特集してきた雑誌『石巻学』第5号発刊!

【特集 石巻と文学】
インタビュー 吉増剛造「石巻」を語る
ドリアン助川 宿題
大谷尚文 南浜町の辺見庸さん
大島幹雄 終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり
古関良行 紀行文を旅する
近江瞬 言葉で見つめる
短歌部カプカプ短歌集
 伊藤成美 まちでまなぶ/岩倉曰 わだのは/加藤奨人 綺麗
 阿部達人 雀島トワイライト・ゾーン/岩崎綾 融けるのを待つ
 齋藤麻理奈 知らない道/千葉楓子 七歳までは夢の中/近江瞬 サイレンの尾
佐藤珠莉 真っ白な花のように
伊藤唯 愛すべき未来のために我が道を
阿部一彦 伊藤唯さんと女川1000年後のいのちを守る会
小野智美 言葉を杖に立ち上がる――『女川一中生の句 あの日から』十四歳の九年後
大島かや子 「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災
アンケート 震災後に読んで、心に残った本は何ですか?
「石巻と文学」ブックリスト
梅里石雪 日和山慕情
【連載】
高成田享 石巻さかな族列伝5 漁師支えて三陸からトンガへ
本間英一 本間家蔵出しエッセー5 「橋本学」石巻を知る多才な郷土史家
大島幹雄 岡田劇場物語5 コロナ危機の中で
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上記目次で、色を変えてある項が、光太郎に関わります。

まず、河北新報社生活文化部長・古関良行氏による「紀行文を旅する」。石巻と、隣接する女川町を題材とした古今の紀行文の紹介です。最初に取り上げられているのが光太郎。昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」のうち、石巻と女川の項について述べられています。女川の項では、この紀行文が機縁となって光太郎文学碑が建立されたり、女川光太郎祭が開催されるようになったりした経緯、それらのために奔走なさりながら、東日本大震災の津波で還らぬ人となった故・貝(佐々木)廣さんについて、さらに今夏、光太郎文学碑が再建されたことなどについて言及されています。さらに当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)についても。

光太郎以外には、河東碧梧桐、瀧井孝作、臼井吉見、坂口安吾、田山花袋、白鳥省吾、北杜夫、三浦哲郎、井伏鱒二、池内紀らのそれが紹介されています。

下の方の「愛すべき未来のために我が道を」から「「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災」が、石巻に隣接する女川町に、大津波の際、避難すべき高さの目安となるランドマークとして建設され続けている「いのちの石碑」関連。先述の光太郎文学碑が「100円募金」によって建てられた故事に倣い、こちらも建設費用は募金でまかなわれています。

ちなみに先月2日の『朝日新聞』さんの投書欄に、「いのちの石碑」の話題が載りました。
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『石巻学』では、碑の建立に携わっている若者たち自身の寄稿もありますし、彼らを見守り続けてきた『朝日新聞』さんの小野智美記者(連翹忌にもご参加下さいました)、阿部一彦先生など。主に、「いのちの石碑」に刻まれている、震災直後に中学生だった若者たちが詠んだ俳句(小野さんの編集で「女川一中生の句 あの日から」としてまとめられています)を軸にしています。

感心したのは、単なる「美談の紹介」的なスタンスではなく、若者たちがプロジェクトの進行中も、時にネガティブになってしまうこともあったことを、赤裸々に紹介している点。あれだけの大災害を目の当たりにし、大切な人を喪い、むべなるかな、です。しかし、だからこそ、彼らの石碑建立にかける思いがより鮮やかに際立つようにも感じられました。

そうした描かれ方は、昨年、NHKさんで初回放映のあったスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」でもなされていました。今回執筆されている伊藤唯さんという方、どうも平祐奈さんが演じた主人公のモデルのようです。

さて、『石巻学』。それ以外にも、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた芥川賞作家の津村節子さんと、ご主人の故・吉村昭氏ご夫妻と石巻の関わりを追った「終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり」なども載っています。他の小説、レポート等もなかなか読みごたえのあるものでした。

また、詩人の吉増剛造氏(表紙の写真が氏です)へのインタビューでは、宮沢賢治と石巻について、詳述されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

そのころ、草野心平君が『春と修羅』を持ってきました。此の本は僕のところにも届いていたので、荷をといて読んでみました。すばらしいものがありました。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「その頃」は大正13年(1924)。本当にこの通りだったとすると、心平に薦められるまで、送られてきた『春と修羅』を読んでいなかったわけで、光太郎、チョンボでしたね(笑)。

昨日、8月9日(日)は、本来、宮城県女川町で第29回女川光太郎祭が開かれているはずでした。

例年であれば、県内外の方々による光太郎詩文の朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌やギタリスト・宮川菊佳さんの演奏、当方の連続講演など。

過去の様子はこちら。

平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)

今年は、コロナ禍のため、地元の皆さんで、朗読等も割愛し、光太郎文学碑に献花のみ、という予定で、本宮さんと当方も参列させていただく予定でしたが、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が、ということで、それも中止となってしまいました。

あの東日本大震災のあった平成23年(2011)でさえ、細々とながら途絶えさせることのなかった女川光太郎祭が、このような形で中止となったのは、非常に残念です。

ことに今年は、かつて連続講演をなさっていた当会顧問であらせられた北川太一先生がお亡くなりになった年でもありますし、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑再建のお披露目も兼ねるということでしたので、二重、三重に残念です。

元々、女川光太郎祭が開かれるようになった契機は、平成3年(1991)に、当時の女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられたこと。昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が女川にも滞在した事を記念しての事業でした。

建立費用は大口スポンサーに頼らない「百円募金」で集め、その精神が同じ女川の「いのちの石碑」に受け継がれました。
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同じ年に碑のお披露目記念ということで、仙道作三氏作曲・北川先生監修のオペラ「智恵子抄」が女川で上演され(智恵子役は本宮さんでした)、翌年から碑の前で光太郎祭が開かれることとなったわけです。

建立当時の碑がこちら。

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しかし、先述の通り、平成23年(2011)、東日本大震災の津波で碑は倒壊、4基あったうち2基は流失し、碑の建立や光太郎祭の開催に尽力されていた、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣氏も、還らぬ人となってしまいました。しかし、奥様の英子さんがその遺志を継がれました。

残った二基の碑、震災の翌年には、まだ半分水没している状態でした。これでも干潮時です。

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平成26年(2014)、陸に引き上げられ……。

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その後、昨年まではこんな感じでした。

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メインの碑は100㌧だかあるそうで、これを起こすだけでもものすごい労力だそうで……。

それが、一帯をメモリアルゾーンとして整備する中で、すぐ近くの津波で横倒しになった旧女川交番が、今年3月に整備完了。

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それに続き、春には光太郎文学碑も引き起こされたそうです。

コミュニティーラジオ局・OnagawaFM(女川さいがいFM)さんの先月のツイートから。

今朝の女川町は湿気多めの曇り空です。
最近、公園地区がかなり出来てきました。
長い間倒れていた高村光太郎さんの詩碑もしっかり立ち上がりました。

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本来なら、昨日、第29回女川光太郎祭で、この碑に献花だったわけです。

コロナ禍収束・終息後、訪れるつもりで居ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人は可愛らしい、可憐のような、愛すべきやうな即ちジヨリイの方が多くて、本当に美しい人、つまりしつかりして頼母しいやうな美しさ、即ちベルな人、フランスといふとローラン夫人、そんな風の美しさが、日本にはないのではないかと思ふ。

座談会筆録「現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

朝日新聞社の主催で開催されたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による講評座談会の一節です。審査員は光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史家)、杉田直樹(医学博士)、西成甫(解剖学者)、村山知義(劇作家)、鏑木清方。ミスコンといっても、写真審査のみでした。

ちなみに光太郎の父・光雲は、日本初のミスコンといわれる明治41年(1908)の「令嬢美人写真募集」で審査員を務めました。親子二代で何をやってるんだか感がありますが(笑)。

「ローラン夫人」はフランス革命後の混乱時に断頭台で処刑されたジロンド派党員かと推定されます。「ジヨリイ」、「ベル」は共に仏語で、「joli=かわいい」、「belle=美しい」。現代でも女性を評するのにこうした基準で語られることが多いように感じます。昭和初期の日本には、真の意味で「belle=美しい」の女性が居ないと、光太郎は嘆きました。現代ではそんなことは無いように思われますが……。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。今年の女川光太郎祭は、残念ながらコロナ禍の影響で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます

詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~

期 日 : 2020年8月7日(金)~8/38月13日(木)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

女川町とゆかりの深い詩人・彫刻家・歌人・画家であった高村光太郎氏とお互いに影響を受けあった宮沢賢治氏を取り上げ、光太郎と賢治の詩作や生き方を通して、心のふれあいを中心に展示いたします。

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同館では、昨年は「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」と題し、同様の展示をなさって下さいました。レポートはこちら

大々的なものではないようですが、こうした地道な工夫が必要なのだと存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もう東京へ帰る気持はありません。却つて東京の友人達をこつちに呼んで、大いに新しい地方文化の建設をやりたいと思つてゐますよ。

談話筆記「高村光太郎氏の疎開生活」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『雄鶏通信』に載ったもので、花巻郊外旧太田村の山小屋での、もっとも早い時期のレポートの一つです。この時期には帰京するつもりは無かったのですね。

コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた炙り出されていますが、文化方面であれば地方分散もそう難しくないように思われます。ただ、受け入れ先の地方に、それなりの「底力」がなければ不可能なのでしょうが……。

宮城県からバスツアーの情報です。 

3.11を忘れない 石巻 大川小学校・女川 いのちの石碑

3密を避けた新しい形態で旅行に行きませんか? 東日本大震災時の様子や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてお話させて頂く「現地語り部ガイド」2ヶ所付き。

全校児童108人の7割に当たる74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市の旧大川小学校跡地で「大川小学校伝承の会」の方から当時の状況などの説明をして頂きます。

東日本大震災で最も高い死亡率となった女川町は、被災地域の中でも唯一「防潮堤を造らない」町として、あくまでも「減災」を意識した町づくりに取り組み、当時の様子や今後の展望など詳しく解説頂きます。

石巻・女川での買い物で復興支援も!

[旅行日]  8月10日(月祝)  
[旅行代金] 9,500円  6,500円 Go To トラベルキャンペーン対象となります!
[行程]
仙台駅東口【8:30】=大川小学校(語り部案内付き)=いしのまき元気いちば(買い物)=シーパルピア女川(昼食)=女川・いのちの石碑など(語り部案内付き)=シーパルピア女川(買い物)=仙台駅東口【17:00】
[旅行条件]
 ・朝食おにぎりとお茶付き  ・昼食付き
 ・最少催行人員10名 ・添乗員同行
 ・バスガイド付き!
 ・ 利用バス会社:仙台バス㈱、仙南交通㈱または、㈱仙塩交通 
  [ご案内・注意]
 ※道路状況などにより帰着が前後する場合がございます。

受付締切  4日前まで
日程変更  予約日時まで
キャンセル 予約日時の11日前まで

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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

平成23年(2011)の東日本大震災では甚大な被害が発生、その教訓から、当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けています。最初の企画の段階で、かつて光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。そう言う意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。全21基の予定で、今春には18基目の設置が為されたそうです。

で、その「いのちの石碑」も行程に入っているツアーというわけで、ご紹介させていただきました。

実施日は8月10日(月・祝)。その前日には、例年であれば女川光太郎祭開催の予定でしたが、残念ながら、コロナ禍のため今年は中止だそうです。これまでは光太郎詩文の朗読や当方の連続講演などが行われていましたが、今年は規模を縮小し、光太郎文学碑(再建されたそうで、この件はまた改めてご紹介します)への献花のみとするはずだったところ、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が……ということでそれも無くなりました。致し方ありますまい……。

代わりに、といっては何ですが、こちらのツアー、ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩の中心は愛の熱情である。

散文「『職場の光』詩選評 十一」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

おそらく2年前に編んだ『智恵子抄』を念頭に置いた発言だと思われます。

『智恵子抄』所収の散文「智恵子の半生」には、「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。」と書かれています。

こちらの選評は、引用部分の後にこう続きます。「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛、祖国への愛、神への敬愛、さうして、畏多くも 大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念。詩はさういふところからこんこんと湧いて尽きない。」似ていますね。

ある意味、「大君の愛」、「大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念」を、「一人の女性の底ぬけの純愛」や「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛」とほぼ同列に扱うあたり、不敬のそしりを免れないようにも思われます。しかし、戦時中であっても、ぎりぎりの線でこう書いていた光太郎を改めて尊敬します。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。一面コラムの「河北春秋」、一昨日掲載分に光太郎の名が。 

河北春秋 2020.7.14

見上げる参道に人影はない。マスクを取り、石段を踏みしめる。仙台市太白区の愛宕神社。2体のてんぐ像がにらみを利かせる山門の脇に、その詩碑は立っている▼『化石を拾ふ』。石川善助(1901~32年)の絶唱が刻まれている。善助は仙台の裕福な商家に生まれたが、少年期に家産が傾き、いばらの道から抜け出せないまま事故死した。詩友には恵まれ、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平らが早すぎる死を惜しんだ▼脚に障害があり、雪道などでよく転んだという。そのせいか、恋愛には臆病で、勤めていた呉服店の同僚や、詩作を指導した文学少女に思いを寄せたらしいが、実ることはなかった。後者の女性は親族の勧めで歯科医の小澤開作氏に嫁ぎ、4男を生んだ。第3子の名は征爾。かの世界的指揮者である▼善助は、上京を果たして5年目の梅雨時に、泥酔して大森駅(大田区)近くの溝に落ち、溺死した。仙台で葬儀が営まれたのは7月13日。その日を覚えているせいで、この時季になると、詩碑を訪ねたくなる▼昭和歌謡に、彼の作品が隠れているといわれる。いわゆるゴーストライター。善助が書いた詞を買い、名曲の作者として名を残した人もいることになる。詩碑の向こうのビル群を眺めつつ、人の運、不運にふと思いを巡らす。

石川善助は、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』にも寄稿していました。そこで心平や、同人だった賢治・光太郎の名が出ているわけです。

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画像は戦後の昭和27年(1952)に刊行された『現代詩集 歴程篇』。角川文庫です。編者は「歴程同人」となっていますが、ほぼほぼ心平が行ったと見ていいでしょう。

この詩集では、光太郎ら存命だった同人はもちろん、賢治や中原中也、八木重吉など物故同人の作品も収録され、石川のそれも載っています。

数え32歳で亡くなった石川、生前に詩集は刊行されませんでした。没後、遺構詩集として『亜寒帯』が刊行(昭和11年=1936)され、光太郎が序文を書いています。名文ですので、全文引用します。

 ぐつと若い頃、漁船に乗り込んで鯨000油をふんだんに飲んだので、石川善助は寒さといふものを知らなかつた。アスフアルトがかんかん音を立てる大寒の夜にかたびらのやうな着物を着てよく新宿の焼鳥屋に来た。寒さを知らない石川善助の詩に、しかも寒さが充満してゐた。寒さを知らないのは、自身寒さの太極に外ならなかつたからだ。彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。彼はレオン ドウベルのやうな貧と、勤王の志士のやうな情操とに生きた。事実、彼は宮城の前を通る度に電車の中でも必ず敬礼するのを忘れなかつた。彼には祖先の血が多分に流れてゐた。彼の詩のイデオロギイにはそれ故一種特別な日本的、国土的の要素が盲管状に縦横に馳駆してゐた。その整備された形式の触感は鉱石の切断面に似、途轍もないあの癇高い爆笑の響が、金属性の詩語の間に潜められてゐた。彼は恰も風狂の徒のやうに路傍で死んで発見された。この痛ましい純情の詩人がどういふ位置を我が詩の歴史の上に持つか、其はもう少し歴史の上に持つか、其はもう少し歴史そのものが進展してから考へねばなるまい。彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。

「新宿の焼鳥屋」は、心平が経営(といっても屋台ですが)していた「いわき」です。椅子は智恵子が提供したリンゴ箱でした。

「河北春秋」に紹介されている詩碑は、広瀬川の段丘上、太白区の愛宕神社さんにあるそうで、これは存じませんでした。折を見て行ってみようと思いました。

それから、ゴーストライター云々。調べてみましたところ、石川はニットーレコードから昭和7年(1932)にリリースされた「再生の港」という歌の作詞者として記録が残っていました。作曲は高峰龍雄、歌唱は貝塚正、それぞれ当方、寡聞にして存じません。これ以外にも、何か有名な曲の作詞をひそかに手がけていたということなのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

いずれにせよ、『河北新報』さん、石川のような、まぁ、失礼ながらはっきり言えば忘れられつつある文学者に光を当てているわけで、こうした取り組みも地方紙の使命として大切なことと存じます。こうした動きが全国に広まってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

ヱツチングは小生もリーチ以来常に試作を志してゐるものゝ未だ機会なくしてとりかゝりませんが今に積年の希望を一度に果し、多くの素描を片端から、ヱツチングしたいと思つてゐます。

散文「『画工志願』読後感」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

雑誌『ヱツチング』第6号に掲載された文章から。『画工志願』は同誌の編輯・発行に当たっていた西田武雄の著書です。

「リーチ」は、留学中のロンドンで知り合い、それが縁で来日した陶芸家のバーナード・リーチです。リーチは元々は陶芸を志していたわけではなく、来日当初はエッチングを教えて生活の糧とする計画でした。

ところで光太郎、意外と「有言不実行」的な部分があります。おそらくこの後もエッチングに取り組んだ形跡は確認できていません。もっとも、智恵子の心の病がのっぴきならぬところまで進んでいた時期ですし、その後は泥沼の戦争、それどころではなかったのかも知れませんが。

ただ、これ以外にも、「戯曲を執筆するつもり」「小説を書きたい」など、発言したあとに実現しなかった事柄がけっこうあります。まあ、そういう人間臭さも光太郎の魅力の一つではありますが。

地方紙『石巻かほく』さんに、光太郎の名。 

石巻ゆかりの本(5完) 新潮日本文学アルバム 高村光太郎

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年000)は、1931(昭和6)年8月に三陸地方を旅行している。その時、女川町にも立ち寄った。時事新報の仕事の一環だった。

 その年の10月の夕刊に、紀行文「三陸廻り」を掲載。女川について「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」と記している。

 6年後の37(昭和12)年には、女川の地名を入れた詩「よしきり鮫」を発表。よほど港町・女川の印象が強かったようだ。

 光太郎の生涯と彫刻作品についてたどったのが、新潮日本文学アルバムシリーズの「高村光太郎」(新潮社、定価1320円・税込み)である。妻となる智恵子との出会い、美との格闘、父との確執などが豊富な写真と資料でつづられ、日本を代表する彫刻家・詩人の実像に迫る。

 巻末には山崎正和のエッセー「蕩児の憂鬱」が掲載されている。西洋に留学し、ロダンに心酔した光太郎が見つけた答えが興味深い。詳しい略年譜も参考になる。

 新潮日本文学シリーズからはほかにも「石川啄木」「志賀直哉」「宮沢賢治」と、石巻とゆかりのある人物たちが、それぞれ1冊の本になって取り上げられている。


取り上げられている『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』は、昭和59年(1984)の刊行。まだ版を重ねているようです。故・北川太一先生の編集になり、実に的確な解説と数百枚の写真で、光太郎の生涯を概観できるようになっています。刊行当時、卒論を書く際、真っ先に読んだ本の一つです。

昭和6年(1931)の三陸旅行についても紹介されており、そういうわけで『石巻かほく』さんで「石巻ゆかりの本」として取り上げて下さったのでしょう。

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ただ、記事を読むと石巻に隣接する女川の話がメインです。しかし、「三陸廻り」の紀行文は石巻から始まっていて、日和山から見た北上川の様子など、挿絵入りでレポートしています。『新潮日本文学アルバム』では石巻から旅のスタート、という記述になっていないので、そのあたりは割愛したのかもしれません。

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そういうことであれば、やはり北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)も紹介いただければいいのかな、という気もします。こちらは「三陸廻り」の全文(石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古)が、やはり詳細な解説入りで引用されています。


さて、光太郎智恵子の名は出て来ませんが、別件で。智恵子が「ほんとの空」があると言った安達太良山関連です。

まず、『福島民報』さん。 

規模縮小し山開き 登山者景色楽しむ 001安達太良山

 日本百名山の一つ、安達太良山(一、七〇〇メートル)が十七日、山開きした。新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、山頂で予定していたミズあだたらコンテストなどのイベントが中止となるなど規模を縮小して催された。

 新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が福島県で解除されて初の日曜日だったが、登山客は例年と比べ、大幅に少なかった。通常は山頂で先着順に登山記念ペナントを配布し、多くの登山客でにぎわうが、今回は各登山口で配った。

 二本松市などでつくる安達太良連盟が神事のみをあだたら高原スキー場ランデブーで行い、連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山客の安全を祈願した。

 あいくにの小雨や強風、霧などの天候。登山客は時折霧の隙間から見える雄大な景色を目に焼き付けていた。


続いて『福島民友』さん。 

「安達太良山」山開き...魅力堪能 感染防止、イベントは中止

 日本百名山の一つで、二本松市などにまたがる002安達太良山(1700メートル)で17日、山開きが行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため山頂イベントは中止となったが、福島県の緊急事態宣言が解除されて初の日曜日ということもあり、多くの登山客らが山頂を目指した。
 山頂はガスが濃く、強い風が吹く荒れ模様。例年なら、岩山に登ったり周辺で食事を取ったりする人や、山頂イベントに参加する人が多いが、この日は登り切った人たちが早々に下山していた。
 登山中は天候に恵まれ、雪が残る山肌に新緑の若葉がもえる様子や、阿武隈山系の山々が広がる大パノラマを楽しむ人の姿が見られた。登山客は、コロナ禍にも例年と変わらない姿を見せる安達太良山の魅力を堪能していた。

昨年は9,000人もの人出(当方、9,000分の1でした)があった山開きでしたが、今年は山頂イベントは中止、安全祈願祭等は登山口で実施したそうで、さびしいと言えばさびしい結果になりました。来年以降、旧に復することを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

東京にいたころと現在とを比べてみて、わたしは今の方がほんとうだと思っています。自然を見る眼もいまの方が詳しいのですから……。

対談「清談を聴く」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

対談者は掲載紙『新岩手日報』の顧問・伊東圭一郎。智恵子は安達太良山の山の上に「ほんとの空」を見、約20年後、光太郎は花巻郊外旧太田村の山林に「ほんとう」の生活を見たというわけです。

一昨日から昨日にかけ、愛車を駆って一泊二日で仙台方面に行っておりました。

メインの目的は、光太郎智恵子と関係のないところで、この春、ようやく大学卒業の運びとなった息子の引っ越しの手伝いです。修士課程に進んだわけでもなく、医学部でも薬学部でもないのに、なぜか6年間も大学に在籍しやがったスネかじりです(笑)。

荷造りや当方の車に積み込むべきものの搬入が終わったところで、息子のアパートにほど近い(車で十数分)寺院を訪れてみました。青葉区の慈雲山資福寺さん。

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仙台三十三観音の一つに数えられ、鎌倉時代の開山(その後移転しているそうですが)、伊達家にもゆかりの古刹です。境内には仙台ゆかりの土井晩翠の碑などもありました。

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なぜこちらを訪れたかというと、ご本尊が光太郎の父・光雲の作だという情報を得ていたためです。ただ、ご本尊というからには本堂なのか、それとも観音堂という堂宇もあるのでそちらなのか、よくわかりません。

下記が本堂。新しい建築のようでしたが大きく立派でした。

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観音堂はこちら。

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訪れたのが日没少し前、どちらも扉か閉ざされていて、また、説明板等もなく、何とも分かりませんでした。もうすこし早い時間でしたら庫裡をおとない、お話を伺うところでしたが、遠慮しました。

まぁ、場所はわかりましたので、再訪したいと思っております。こちらは別名「あじさい寺」とのことで、その季節がいいかもしれません。

また、同じ青葉区で、やはり仙台三十三観音の一つ大鶴山昌繁寺さんの観音様は、補修の際に光雲の手が入っているそうで(こちらは確実な情報です)、いずれそちらにも、と思っております。

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おまけ。資福寺さんの駐車場にいた猫さん(笑)。

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その後、息子と共に、息子がアルバイトをしていたという居酒屋さんで夕食。車ですのでアルコールは飲みませんでしたが(そうでなくても最近アルコールを摂取する習慣がなくなりましたけれど)、新鮮な海の幸等を堪能いたしました。

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息子と別れ、当方は亘理町へ。

宿泊先がこちら。

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ファミリーロッジ旅籠屋さん仙台亘理店。全国チェーンで、格安の宿です。何年か前にテレビ東京さんの経済番組か何かで見て(他店だったと記憶していますが)、「ほう」と思っておりました。アメリカ映画に出て来るカーホテル的な感じで、一泊朝食付き5,500円。朝食といってもパンとコーヒーとオレンジジュースのみですが、当方も光太郎同様、朝食はパン派ですのでかえってありがいところです。

ちょっと歩くと阿武隈川。智恵子の故郷・福島二本松も流れている川で、光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)に、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と謳われています(さすがに亘理から安達太良山は見えませんが)。1泊したあと、昨日の朝、歩いて行ってみました。

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2㌔㍍ほどで河口ですので、鷗の姿も。

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このあたりも、東日本大震災、そして昨年の台風19号による被災があったわけで、そんなことを思いつつこの景色を眺めておりました。

宿に帰り、朝食を摂りながらテレビを観ていると、このあと雪の天気予報。積もるようだと厳しいので、急いで帰途に就きました。

亘理ICから常磐道を南下。昨日のブログでご紹介した、NHKラジオ第一さんの「石丸謙二郎の山カフェ」を、カーラジオで拝聴しました。光太郎のエッセイ「山の春」から抜粋で石丸さんが朗読。戦争責任を痛感しての蟄居、という話にはなりませんでしたが、光太郎が戦後、山村で暮らしていたこと、他にも「山の雪」、「山の秋」などのエッセイもあることなども紹介して下さいました。

福島・茨城の県境あたりは雪になりましたが、積もるほどではなく、関東平野に下りたら雨となり、無事帰宅。ほぼほぼトンボ返りで少々疲れました。いずれまたゆっくり再訪したいところです。

というわけで、「仙台方面レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は実用を旨とし極めて単純(一見有趣味に見ゆるものは多く趣味低きものと見て差支なし。俗画家の年頭絵葉書の如きは此の適例。)

アンケート「書斎を如何に改善すべきか」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳


光太郎、これに限らず、随所で「用の美」といった持論を展開しています。それにしても「俗画家」とは、手厳しいですね。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日は3.11でした。あらためて、あれから9年経ったか、という感じです。

このところこのブログでよく話題にしている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」につき、昨日は『東京新聞』さんが「社説」で取り上げて下さいました。系列の『中日新聞』さんにも同じ社説が載ったようです。

社説 3・11から9年 千年先の郷土を守る

 牡鹿半島の付け根に位置する宮城県女川町は、東北電力女川原発のある町です。
 リアス海岸の岬を巡るとあちこちで、高さ二メートル、幅一メートルほどの平たい石碑に出合います。「女川いのちの石碑」です。
 建てているのは、女川中学校卒業生の有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。今月一日、十八基目ができました。
 あの日女川町は、最大一四・八メートルの津波に襲われました。
 人口約一万人のうち、死者・行方不明者は八百二十七人に上り、全住宅の九割に当たる約三千九百棟が被害に遭いました。
 東日本大震災の被災市町村の中で、最も被災率の高かった町だと言われています。

◆大震災を記録に残す
 震災翌月、当時の女川第一中(二〇一三年に女川第二中と統合して女川中)に入学した一年生は、社会科の授業で「ふるさとのために何ができるか」を話し合いました。そして「震災を記録に残す」活動の実践に乗り出すことを決めたのです。
 町内に二十一ある浜の集落すべてに津波は押し寄せました。
 それぞれの津波到達点に石碑を建てておこう、ふるさとの風景に震災の記憶を刻みつけ、千年先まで命を守る避難の目安にしてもらおう-。
 街頭やSNSで寄付を募ると、半年で目標額の一千万円が集まりました。
 石碑には、警告が刻まれます。
 <ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください>

◆津波わずかに高ければ
 末尾には、卒業生から未来へ贈るメッセージも添えました。
 <今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています>と。
 第一号は一三年十一月、女川浜を見下ろす母校の校庭に建ちました。今年中には二十一基目が完成し、プロジェクトは完了する予定です。
 そんな女川町でも、原発再稼働の手続きが最終段階を迎えています。
 女川原発は、震源に最も近い原発です。福島同様、激しい揺れと津波に襲われました。到達点よりわずかに高い所にあったため、辛うじて難を逃れたにすぎません。
 原発の敷地は、大地震の影響で一メートルも沈下しました。原子炉建屋の壁からは、千百三十カ所ものひび割れが見つかりました。
 震災で、満身創痍(そうい)にされた原発です。原子力規制委員会の審査を終えて、規制基準に「適合」と判断されはしたものの、とても安心とは言えません。規制委も安全だとは言いません。
 「あと三十センチ津波が高ければ、福島と同じになったと思います。原発に絶対の安全はなく、ふるさと喪失のリスクが付きまとう。福島の教訓です。再稼働を許すとすれば、これからも多大なリスクを、しょっていかねばならんのです。住民の命を預かるものとして、そんなことはできません」
 原発から三十キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は、再稼働にきっぱりと「ノー」を突きつけます。
 「目の前に、現実の課題が山積みです。風化だなんてとんでもない。(放射性物質をかぶった)稲わらひとつ、処分できない。避難計画をつくれと言われても、なかなか答えが見つからない。高齢者はどうなるか? 複合災害が起こったときは? 途中で風向きが変わったら? 隣町から逃げて来る人たちは?…。(国や東北電力は)何をそう急ぐのか」
 東北の被災原発を再稼働に導いて、「復興原発」にしたいのか。原発は安全です、ちゃんと制御(アンダー・コントロール)できていますと、五輪を前に世界へアピールしたいのか。
 いずれにしても、原発のある風景や暮らしの中に刻み込まれた震災の痕跡を、見過ごすことはできません。風化を許してはいけません。
 その一つ一つが、未来ではなく、今を生きる私たちへの「警告」になるはずだから。

◆ふるさとを奪わないで
 女川いのちの石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句を一句ずつ刻んでいます。
 原発に近い塚浜の公園に立つ十三番目の石碑には、こんな句が添えられました。
 <故郷を 奪わないでと 手を伸ばす>
 この痛切な願い、忘れるわけにはいきません。



女川原発の問題、原子力規制委員会の基準を満たしたという報道に接し、関心を寄せています。全国区のニュースでは報じられていないような気がしますが、先週にはこんな報道も。地元紙『河北新報』さんから。 

宮城県議会、女川再稼働の住民投票条例案を否決 自公会派など反対

 東北電力女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)の再稼働の是非を巡り、宮城県議会の野党会派は3日、開会中の2月定例会に住民投票条例案を議員提出した。即日採決の結果、賛成少数で否決された。

 議長を除く議員58人のうち、自民党・県民会議32人、公明党県議団4人、21世紀クラブ1人、緑風会1人の計38人が反対。賛成はみやぎ県民の声10人、共産党県議団5人、社民党県議団2人、無所属の会の2人の計19人。県民の声の1人が本会議を欠席した。

 野党は当初、「脱原発をめざす県議の会」を構成する5会派で共同提案する予定だったが、緑風会の高橋啓氏が「投票結果の尊重が条例案に盛り込まれていることに賛成できない」などとして提案者から外れ、採決でも反対に回った。

 条例案は自民会派が2日の議会運営委員会で、本会議での提案理由説明や常任委員会への付託の省略を求め、即日採決となった。

 県議の会の佐々木功悦会長は本会議終了後の取材に「残念としか言いようがない。再稼働の是非について意思を示したいという県民の強い思いを踏みにじる行為だ」と語った。


一方で、再稼働に明確に反対の意思表示をしている首長さんもいらっしゃいます。 

「もし国が認めてもノー」 女川原発再稼働に反対の町長

 東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)から30キロ圏内にある美里町の相沢清一町長は、女川原発再稼働への反対の姿勢を貫いている。東日本大震災から11日で8年半。原子力規制委員会の審査会合が大詰めを迎える今、改めて反対の理由を聞いた。
 ――女川原発2号機の再稼働に向けた規制委の審査が大詰めです。
 「やはり再稼働はするべきでないと思う。福島の原子力事故から8年半経った今も大勢が避難している。女川原発の30キロ圏内の住民はもとより、宮城県民が原子力の安全性を本当に信頼して再稼働に踏み切るのか、心配がある。特に宮城は『農業県』なので事故はあってはならない。もし国が認めても『ノー』と言わざるを得ない。私たちには住民の命を守る責任があり、万が一の時にはその責任がとれないからだ」
 ――特に心配な点は。
 「今、いろんな災害が起こっている。安易に環境が整ったと再稼働に踏み切るのは短絡的だ。防潮堤がしっかりしていても、テロ対策はまだ十分でない。つい先日もトラブル(2号機の冷却ポンプ停止)があった。原子炉など主要設備は対策しているだろうが、今回のような付帯設備はどうか。地震でパイプなどが崩れる恐れは大いにあるのではないか。非常に不安だ」
 ――再稼働に反対するきっかけは。
 「福島の事故が起きた。それまで『原子力は安全だ。国策で絶対心配ない』と思っていた。女川も津波があと数十センチ高かったらアウトだった。これは大変なことだと、我々は突きつけられた。自治体として町民の命を守る立場で、安易に納得してはだめだろうと考えた」
(以下略 『朝日新聞』2019.9.22)
 

「本当に安全なのか」 避難計画に疑問も 女川原発2号機、規制基準に適合

 東北電力女川原発2号機の再稼働に必要な審査書案が27日、6年がかりで了承された。今後、手続きを経て審査に合格しても、再稼働は対策工事が終わる見通しの2020年度より後で、地元自治体の同意も必要だ。地元住民は「本当に安全なのか」と話し、東京都港区の原子力規制委員会が入るビルの前でも、再稼働に反対する声が上がった。
 女川原発30キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は「福島の原発事故でなお自宅に帰れない多くの人がいる中、手続きを踏んだから再稼働ということでいいのか。町民の命を守るためにも動かすべきでない」と再稼働に反対することを改めて表明した。
 石巻市民でつくる団体代表の原伸雄さん(77)は規制委の「合格」判定を、「避難計画を審査せずに安全とする仕組みはおかしい」と批判する。原さんら市民17人は今月12日、 女川原発の重大事故を想定した市の広域避難計画に実効性はないとして、県と市を相手取って再稼働に同意しないように求める仮処分を仙台地裁に申し立てたばかりだ。
 申立書では、渋滞が起きると30キロ圏からすぐに脱出できないうえ高齢者らの避難手段も十分でないことを指摘した。原さんは「今の避難計画では住民の命を守れない」と見直しを求める。 避難計画で原発が立地する女川町と石巻市の避難者を受け入れることになっている自治体にも困惑が広がる。市の人口の4分の1に相当する約1万7000人を受け入れる予定の栗原市の担当者は、「体育館などには限りがあり、仮設住宅を建設するにも工務店も足りない。避難者にきちんとサービスを提供できるのか不安だ」と打ち明けた。
 一方、再稼働による被災地への経済効果を期待する声も。女川町観光協会の遠藤琢磨事務局長(51)は「東日本大震災前から電力関係者は宿泊や買い物で町の経済に貢献していた。復興特需も落ち着きつつあり、人の出入りが増えれば町が活性化する」と歓迎した。
 村井嘉浩・宮城県知事は再稼働に必要な知事同意について「立地自治体の首長や議会、県の安全性検討会の結論などさまざまな意見を総合して(再稼働が適切か)判断したい」と述べるにとどめ、賛否を明言しなかった。 規制委の審査会合に時間がかかった要因の一つは、想定する地震や津波がどのくらい影響を及ぼすのか慎重に議論したためだった。東北電は独自の手法で影響を評価。 評価方法を巡って、4年間のやり取りがあった。 震災で震度6弱の揺れに見舞われ、2号機の原子炉建屋の壁に入った1130カ所のひびは、全て幅1ミリ未満だった。揺れが大きかった上部ほど多く、3階に734カ所と集中した。東北電はひびを補修するものの、審査会合では仮に補修しなくても今後の大地震に耐えられるとするデータを示しながら安全性を主張。規制委は東北電の言い分を認めた。
 新たに整備した防潮堤は、地中深くにも壁ができるような形になった。敷地内には、山側から海に流れる地下水がせき止められ、地震時に液状化が起こりやすい状況に。東北電は規制委と議論を重ね、建屋周辺に複数のポンプを設け地下水をくみ上げることにした。規制委の更田(ふけた)豊志委員長は「条件を厳しく設定し慎重に審査した」とした。
 女川原発では、1号機は老朽化のため廃炉が決定。東北電は3号機の再稼働の合格も目指す。2号機が再稼働すれば、東北電として火力発電の燃料費など年間350億円を削減できるとしている。
(『毎日新聞』2019.11.27)


いかが思われますか? 最後に判断を下すのは、住民の皆さんだと思うのですが、しかし、上記の『河北新報』さんの記事の通り、住民投票の条例案は自公会派などにより否決されました。何だか、新型コロナの報道の陰で、こうした地方での大事な動きなどが全国的に報じられていないような気がするのですが……。

最後に明るい話題を。同じ宮城県の名取市のニュースで、『神戸新聞』さんの記事です。

午後2時46分過ぎに大きな虹 東日本大震災9年

 東日本大震災から丸9年。発生時刻の午後2時46分を過ぎたころ、宮城県名取市の震災メモリアル公園上空に、大きな虹がかかった。 見上げた女性は犠牲者を思い、「こうやって渡ってきてくれたんだね」とつぶやいた。

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昨夜7時のNHKさんのニュースでも紹介されました。

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昨夜7時のニュースでは、被災地岩手を舞台とし、震災についても描かれた「あまちゃん」で主演を務められたのんさんが生出演。被災地への思いを語られていました。

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ちなみに当方、昨夏、のんさんとお会いして少しお話をさせていただきました。当会会友・渡辺えりさんが、のんさんもご出演された舞台「私の恋人」にご招待下さり、その終演後でした。

その際、帯にのんさんが掲載されている渡辺さんの戯曲集『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』を持参、サインしていただきました。もちろん渡辺さんのサインも。念のため(笑)。

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今後とも、被災地復興に一役買い続けていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。

アンケート「名士の信仰」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

震災も「人間以上の或る大きな精神」の表れかもしれません。しかし、そこから立ち上がろうとする人々の姿にも「人間以上の或る大きな精神」を感じますし、上記の午前2時46分の虹などにも「人間以上の或る大きな精神」を感じます。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

3.11が近いということで、このところ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」関連をご紹介していますが、今日もまたその関係です。

まず、建設関係の業界紙『日刊建設工業新聞社』さんの昨日の記事から。 

東日本大震災9年/国土地理院、自然災害伝承碑をウェブ地図で公開/子どもたちが調査

東日本大震災の被災地の子どもたちが006調べた命を守る記念碑が、過去の自然災害の被害状況を現在に伝える「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図で公開された。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子どもたちが、震災直後に入学した中学校の先生と取り組んだ「女川いのちの石碑」15基を掲載。同時に全国で41基を追加し、公開総数は46都道府県150市区町村の472基となった。

1日時点で女川いのちの石碑は18基。小学6年生だった子どもたちは二十歳を超えた。震災のつらく、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後の命を守るために調べた15基を、国土地理院が自然災害伝承碑としてウェブ地図「地理院地図」で公開した。
自然災害伝承碑は過去に発生した津波や洪水、土砂災害などの自然災害の情報を伝える石碑やモニュメントを指す。被災箇所に近い場所に設置される場合が多く、インターネットによる情報発信で発生しやすい自然災害を地域ごとに知るきっかけづくりを目指す。
国土地理院は今後も地方自治体に協力を呼び掛け、情報を定期的に更新。広く発信していくとともに活用方法を提示していく。



「調べた」というわけではないので、若干の誤りがありますが、国土地理院さんで昨年から始まった「自然災害伝承碑」の登録で、「いのちの石碑」もその選に入ったという記事です。

仙台に本社を置く『河北新報』さんも報じています。 

自然災害伝承碑、東北の29ヵ所追加 国土地理院がホームページに掲載

 国土地理院は、自然災害の記憶を刻んだ石碑などの「自然災害伝承碑」に、青森、岩手、宮城、秋田4県の計29カ所を追加し、ホームページ(HP)の地域防災情報コーナー「地理院地図」に掲載した。
 宮城では東日本大震災の教訓を伝える「女川いのちの石碑」など女川町内の16カ所を紹介。岩手県山田町では昭和三陸地震(1933年)で被災した大沢地区の慰霊塔など11カ所を載せた。同地震で被害が出た青森県八戸市の記念碑1カ所と、日本海中部地震(83年)の津波が襲った秋田県三種町の慰霊碑1カ所も加えた。
 国土地理院は、昨年3月に伝承碑の地図記号を制定。同6月にはHPに掲載する取り組みを始めた。今回の追加分を含めると、東北6県は計115カ所となった。全国では472カ所。
 地理院東北地方測量部の担当者は「掲載数が増えれば、防災教育に役立てる動きもさらに広がる。地域の活動を引き続き後押ししたい」と話す。

国土地理院さんのサイトから。 

被災地の子供たちが調べた命を守る記念碑15基を公開【東北地測】

 今年3月11日は平成23年(2011)の東日本大震災発生から9年となります。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子供たちが、震災直後に入学した中学校で先生と始めた取組である「女川いのちの石碑」のうち15基を、自然災害伝承碑として新たに公開しました。
 「女川いのちの石碑」は、宮城県女川町内にこれまで18基が設置されています。現在大学生となった彼ら、彼女らが、自分たちが経験した辛く、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後のいのちを守るために活動し、調べた15基について、女川町から自然災害伝承碑の掲載申請があり、3月1日にウェブ地図「地理院地図」で公開しました。
 今回は、全国で41基を公開し、東北地方では、女川町のほかに青森県八戸市1基、岩手県山田町11基、秋田県三種町1基を公開しました。これにより、地理院地図における自然災害伝承碑の公開数は、46都道府県150市区町村の472基となりました。
 自然災害伝承碑の掲載は、市区町村の協力のもとに行っています。今後も全国の市区町村に情報提供を引き続き呼びかけ、情報を定期的に更新し、広く発信していくとともに、活用方法を提示していきます。


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実際の地図がこちら

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碑のマーク上でクリックすると、内容が表示されます。

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さらに碑の画像をクリックすると、詳細情報。

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この「自然災害伝承碑」は、一昨年の西日本豪雨の後、被災地に実は100年前にも大水害があったことを示す碑があったにもかかわらず、その存在が忘れられ、被災抑止に役立てられなかったという反省から制定されました。記憶の風化に歯止めを掛けるという意味では、有効な取り組みだと思います。

つい先日除幕された女川町大石原浜の碑も早速登録されています。その除幕の様子、少し遅れて昨日、仙台放送さんのローカルニュースで報じられました。 

女川町「いのちの石碑」18基目完成 津波を伝える〈宮城〉

震災の記憶を未来に伝える18基目の「いのちの石碑」が女川町に完成し、3月1日、除幕式が開かれました。

この活動は、女川中学校の卒業生たちが震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑の建立を続けているもので、今回で18基目の完成となります。
3月1日、女川町の大石原浜で行われた除幕式には、卒業生3人や地元住民など、およそ30人が集まり石碑の完成を祝いました。

地元の住民
「石碑を見て津波がきたんだねということで、これから地震・津波があった場合は高台に逃げると、これが1番ですね」

女川中学校卒業生 阿部由季さん
「震災がきたときに1人でも多くの命を守るということが目標なので、石碑を生かして、これからも震災を語り継いでいくようになればいいなと思っています」

最後となる21基目の石碑は、今年完成予定の女川小・中学校に建立されるということです。

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碑とともに、その建立に奔走したかつての女川第一中学の生徒たちの功績も、永く語り継がれてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

印象に残った作と特に申し上げたいものは、一つもありません。残らず、朽ち去る可き作品だと感じました。

アンケート「印象に残れる諸作――文展鳥瞰図――」より
 大正2年(1913) 光太郎31歳

「文展」は「文部省美術展覧会」。光太郎、つくづくこの手のアカデミズム展が大嫌いだったようで……。

ちなみにこの年の文展には智恵子が油絵三点を応募しましたが、すべて落選。それに対する抗議の意図も有るのかもしれません。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨夜放映された「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」を拝見しました。東日本大震災から9年を経ようとしている被災地のうち、岩手、宮城、福島のこれまでの歩みや現状をトピック的に紹介するものでした。

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宮城では、女川町の「いのちの石碑」関連。震災の年に中学校に入学した当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画、昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建てられた光太郎文学碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。

番組では当時の中学生の一人、現在二十歳となった鈴木智博さんを追っていました。昨年、成人式を迎えられたということですが、それでも現在二十歳ということは、いわゆる早生まれなのでしょう。

中学時代の鈴木さん。

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自宅は流され、お母さん、おじいさん、おばあさんを亡くされたそうです。そこで、自分と同じ思いをする人がいなくなってほしいと思ったとのことです。

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学校では、被災体験を元にした授業。このブログでたびたび紹介してきました阿部一彦先生もご登場。その中で「いのちの石碑」プロジェクトが立ち上がりました。

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右上が、生徒さんたちの手になる企画書。ここに光太郎碑に倣って募金で資金を集める旨、記されていました。しかし、募金といっても、1,000万円……。

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ところが、生徒さんたちは、修学旅行先でも募金を呼び掛けたりし、なんと半年余りで目標額を達成。

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石碑を作って下さった石屋さんでの映像も入りました。そして、一基目の除幕。その後も設置は続き、つい最近も18基目が建てられたそうですし、今年中には予定の21基がすべて完了するとのこと。

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鈴木さん、現在は仙台の大学で防災を学ばれているそうですが、週末には女川に帰って、漁業をなさっているお父さんのお手伝いや、昨年の台風19号の際には県内の被災地でボランティアをなさったりもしたそうで、本当に頭が下がります。

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そして、「いのちの石碑」以外にも、「1000年後の命を守る」活動も継続中。

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鈴木さん以外にも、多くの若者たちが活動に携わり、若者たち以外も支援の手を差しのべています。この活動、石碑ももちろん大事ですが、それとともに、人々の絆を深めることも柱として立ち上がりました。そういう意味では、一定の成果がすでにもたらされているように感じます。あの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、かつて光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の開催に奔走した貝(佐々木)廣さんも、空の上で目を細めているような気がします。

震災の悲劇は悲劇として、その後の取り組みということで、今後も語り継がれてほしいものです。

この番組、3月14日(土)の午前11時から、BS日テレさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いろいろな意味にて心をひかれる様な女性は多くありますが、単に「好きな女」と申す点では、文学、美術、演劇等を通じて小生は未だ仏国画家ルノアル氏の筆に成る女性ほど好きな女に逢つた事がありません。

アンケート「文芸に現はれたる好きな女と嫌ひな女」より
 明治45年(1912) 光太郎30歳

光太郎、どうも生涯を通じてふくよかな女性が好みだったようで……。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

本日も、東日本大震災関連で、宮城県女川町の話題を。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した光太郎文学碑を建立、その後、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。

まず、地元紙『河北新報』さんの記事。 

津波避難の教訓刻む 女川町に「いのちの石碑」18基目完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと、宮城県女川町女川中の卒業生らが建立を続けている「女川いのちの石碑」の18基目が同町大石原浜地区に完成し、現地で1日、披露式があった。

 卒業生有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民らが参加。震災当時、同地区では住民が高台に避難し、犠牲者が出なかったことなどが説明された。
 石森昌義行政区長(80)は「壊滅的な被害を受けたが、徐々に生活が落ち着いてきた。石碑を見て、津波避難の教訓を心に刻み生活したい」と話した。
 これまで建立した石碑のうち15基が「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に同日から掲載されたことも報告された。守る会の阿部由季会長(21)は「地図を通して多くの人が石碑を知ってくれたらうれしい」と期待した。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒たちが発案した。13年11月の1、2基目を皮切りに町内の各津波到達地点より高い場所に建立。最後となる21基目は今夏新設される女川小・中学校敷地内に建てられ、11月22日に披露式がある。


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NHKさんでは、ローカルニュースで取り上げて下さいました。 

「女川いのちの石碑」披露式

東日本大震災の教訓を後世に伝えたいと、女川町で当時の子どもたちの呼びかけで作られることになった石碑の1つが完成し、1日、披露されました。

女川町では津波の教訓を後世に伝えたいと、震災後、地元の中学生たちが「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、集めた募金をもとに沿岸部に21あるすべての集落で石碑の建立を続けています。
震災から9年を前にきょう、津波で大きな被害を受けた集落の1つ、大石原浜に18番目の石碑が完成し、地元の人たちに披露されました。
石碑は高さ2メートル余り、幅がおよそ1.5メートルあり、「一秒間大切にする我が命」ということばが刻まれています。
女川町では残る3つの集落でもことし11月までに石碑が完成し、国土地理院の自然災害伝承碑に登録されることになっています。
「女川1000年後のいのちを守る会」の阿部由季さんは「石碑で震災の記録を伝えることで、次に津波が来てもひとりでも多くの命を救いたいです」と話していました。


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過日も書きましたが、町中心部に近い光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。


【折々のことば・光太郎】

この部落に住んで、「民族の精神、山林に厳たり」との感を深くした。土地が痩せてゐるため苦闘して生きて行かねばならないことが、人間の良さを純粋に残してゐるのではないかと考へる。

談話筆記「光太郎の言葉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「この部落」は、前年秋に移り住んだ花巻郊外旧太田村山口地区です。光太郎が入村した当時は開拓団が入る前。火山性の強い酸性土壌で、田畑も少なく、村人は半農半林、炭焼きが貴重な収入源、闇屋の買い出しさえ来なかったといいます。

この談話は昭和21年(1946)3月3日の『週刊朝日』に載りました。偶然ですがちょうど今日は3月3日ですね。その前の週の号には、光太郎の山小屋と光太郎の写真も載りました。

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女川町はじめ、三陸リアス海岸の猫の額のような土地に暮らす皆さんも、立地条件的には「苦闘して生きて行かねばならない」わけで、そういう意味でやはり「人間の良さを純粋に残してゐる」のではないでしょうか。



第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日に引き続き、東日本大震災関係で。

まず、2月26日(水)の『毎日新聞』さん夕刊、「わたしの居場所」という連載。昨日ご紹介した女川町に隣接する石巻市の話題です。長い記事ですので、途中、省略します。 

津波被災地に交流の場 高齢者の孤立防止へ食料品店 宮城・石巻

 宮城県石巻市門脇地区の災害公営住宅前にある食料品店「まねきショップ」。常連客の大山泰三(67)が扉を開けると、オーナーの本間英一(70)が笑顔で迎えた。2016年000にオープンした地区唯一の商店だ。「公営住宅に暮らすお年寄りが買い物に困らないように」。私財を投じた本間は、東日本大震災後にできた「かどのわき町内会」の会長も務める。
 大山は公営住宅で1人暮らし。話し相手を求めてほぼ毎日、店を訪れる。「1人では寂しくて落ち込みがち。ここはいろんな人と話せて良いね」。店の隣には、あの日の津波に奇跡的に耐えた土蔵が残る。回船問屋や醸造業を営んでいた本間の先祖が明治期に建てたもので、街の歴史を物語っている。

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 まねきショップでは日中、本間の妻信子(68)と次男の妻美奈子(37)が店に立つ。店頭に並ぶケーキや総菜、喫茶スペースで提供する軽食は2人のお手製だ。
 本間は「買い物客は車を持っていないお年寄りが中心。荷物が重ければ、うちの奥さんが自宅まで届け、ついでに家庭ごみを収集所へ運ぶこともある」と話す。体操教室の日は高齢者を家まで迎えに行く。「やってあげないと、できないので。単なる手伝いです」と本間が言えば、「おせっかいなんです」と信子。
  店が建つのは先祖から受け継いだ広大な敷地の一角だ。震災前は、みそやしょうゆを貯蔵する蔵などが並んでいた。本間は大学で水産を学び、憧れだった船乗りとして世界を航海。30歳で地元に戻り、 テニスコートの経営を始めた。家業の醸造は廃業しており、商売の経験はなかったが「 せっかくある土地を使って、地域に貢献したい」と、知人から助言を得て開店にこぎ着けた。 店には、被災地の視察などで県外や海外からも人々が訪れる。本間が被災体験や街の歴史について話すこともある。手探りで始めた店はその名の通り、人を招く交流の場となった。東北ゆかりの詩人、高村光太郎の詩の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を引き合いに、本間が言う。「先がどうなるかは分からない。小さなことでもいいから、今できることを始めて、切り開いていくしかない」(敬称略)


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光太郎、昭和6年(1931)、女川を訪れる前に石巻にも立ち寄っています。そういう意味では「東北ゆかり」というより、「石巻ゆかり」。

「まねきショップさん」、これからも頑張っていただきたいものです。


続いて、テレビ放映情報。昨年の3月9日にNHK BSプレミアムさんで放映された「いのちの石碑」関連のドラマが再放送されます。 

ドラマ“女川 いのちの坂道”

NHKBSプレミアム 2020年3月7日(土)26時13分~27時12分(=3月8日(日)午前2時13分~)

東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!

出演 平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 他

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詳しくは昨年のこのブログの以下の記事をご参照下さい。

 テレビ放映情報。
 「ドラマ"女川 いのちの坂道"メイキング」他。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その1)。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その2)。
 宮城県女川町「いのちの石碑」関連。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以降の害毒は、物質的にも精神的にも、ものの評価基準を誤つたことです。立身出世主義といふことが、一番いけません。大臣になることなどを渇望の的としてゐるなど滑稽です。地位金力に憧れる気持などは早く捨てねばなりません。さういふ気持から八紘一宇といふことを誤つて、日本が世界を自由に引き廻すことだといふ間違ひをひき起こしたとも考へられます。

談話筆記「美しく懐かしき国、日本」より 昭和20年(1945)

最近は聞かなくなりましたが、かつてこの題名のようなお題目を唱えておきながら、数々のありえないような疑惑にまみれ、説明責任は全く果たさず、ごり押しの法解釈変更等で三権分立を崩壊させ、汚いヤジを飛ばすしか能が無く、原稿は棒読み、そして「思いつき」としか思えない「要請」で日本中を混乱に陥れ、「大臣」の椅子にしがみついている愚か者に叩きつけたい言葉です。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

光太郎ゆかりの地・宮城県女川町。光太郎が昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で、「三陸廻り」と題する紀行文の連載のため、女川も訪れたことを記念して光太郎文学碑が平成3年(1991)に建立され、その後、毎年、女川光太郎祭を開催して下さっています。

その光太郎碑のすぐ近くにあった旧女川交番。平成23年(2011)の東日本大震災時の津波で、鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物が根こそぎ横倒しになってしまいました。震災の翌年の様子がこちら。ちなみに光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の企画運営に奔走され、そしてあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった貝(佐々木)廣さんのご自宅は、この交番のすぐ隣だったはずです。

女川町では、交番や光太郎文学碑を含む海岸一帯をメモリアルゾーンとして整備中で、そのうち交番の「震災遺構」としての整備が終わり、昨日、除幕が行われたそうです。

地元紙、『河北新報』さんの記事。 

震災遺構旧女川交番が完工 横倒しの姿、教訓伝える

 東日本大震災の遺構として宮城県女川町が保存する「旧女011川交番」の完工式が29日、現地で開かれた。約9年前の姿のまま残された建物は震災の記憶と教訓、復興の歩みを後世へ伝える。
 旧女川交番は鉄筋コンクリート2階で、津波で基礎部分のくいが引き抜かれ横倒しになったとみられる。鉄筋コンクリート造の建物が津波で倒壊した世界的にも珍しい事例とされる。
 遺構を囲う壁には震災前の町の様子や被災状況、まちづくりの過程などを記したパネルを展示した。整備費は遺構周辺の広場を含め約4億1500万円。
 式典には約100人が出席。須田善明町長は「震災の悲しみや教訓と共に、立ち上がった人々の強さを伝えたい」と話した。



共同通信さんの配信記事。 

宮城・旧女川交番の遺構整備完了 津波で横転、パネル展示も

 東日本大震災の津波で横倒しになり、そのままの姿001で保存されている宮城県女川町の震災遺構「旧女川交番」と周辺広場の整備が完了し29日、記念式典が行われた。海岸近くの町中心部にある鉄筋コンクリート2階建ての旧交番は、引き波で基礎部分のくいごと引き抜かれた。

 町民ら約100人が参加した式典で須田善明町長は「教訓、悲しみはもちろん(被災から)立ち上がる人々の強さ、歩みを伝えたい」とあいさつ。「旧女川交番」と書かれたパネルを除幕した。

 震災前の街並みや復興をたどる写真も展示する。広場と合わせた整備費は約4億1400万円。国の復興交付金を充てた。



NHKさんのローカルニュース。 

津波で被災「旧女川交番」が震災遺構に

東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町にあ000る「旧女川交番」が震災遺構として整備され、29日、工事の完成を記念する式典が開かれました。
震災の津波で横倒しになった宮城県女川町の「旧女川交番」は、津波の威力のすさまじさを後世に伝える「震災遺構」として整備が進められてきました。

この工事が震災から9年を前に完了し、29日開かれた記念の式典では、出席者が全員で黙とうをささげ犠牲者を悼みました。

震災遺構として整備された「旧女川交番」の周辺はおよそ5メートルの高さまで盛り土された広場となっていますが、津波で横倒しとなった鉄筋コンクリート造り2階建ての「交番」は、そのままの状態で保存されています。

また、近くには復興に向けたこれまでの歩みなどをまとめた写真やパネルも設置されています。

中学生の時に保存を求めて活動した勝又愛梨さんは(21)「原爆ドームのように保存して100年後も震災のことを伝えるようにしたいです。実際に来て見てもらい、津波の恐ろしさを感じてほしい」と話していました。

また、女川町の須田善明町長は「震災遺構として、あの日の津波の威力、そこから立ち上がった町の姿を伝えていきたい」と話していました。


仙台放送さん。 

津波の恐ろしさを見て感じて 被災した交番が”震災遺構”に 宮城・女川町

東日本大震災の津波で被災した女川町の交番が、震災遺構として整備され2月29日から一般公開が始まりました。

旧・女川交番は震災の津波で横倒しになり、町が津波のすさまじさを伝える震災遺構として、保存に向けた整備を進めてきました。震災後の再開発で、交番の周りは3mほどかさ上げされましたが、見学用スロープが用意され当時の姿を間近に見ることができます。

女川1000年後のいのちを守る会 勝又愛梨さん
「実際にこの建物の大きさ、頑丈さを見て津波の恐ろしさが伝わるんじゃないか。話だけでは伝わらない、実際に見て感じるものがある」

旧女川交番は29日から一般公開となり、周辺には今後、公園が整備されます。

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NHKさん、仙台放送さんともに、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」建立に携わって来られた「女川1000年後のいのちを守る会」の勝又愛梨さんがインタビューに答えられていました。

今後、同じくメモリアルゾーン内の光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。

明日も震災関連で。


【折々のことば・光太郎】

わが子のために身を捨てて顧みぬ母の愛の深さには世界人類の在るところおしなべて差別はない。これは殆ど生物の本能ともいへる深いところから発動する言語道断の母の慈育愛そのものである。

散文「皇国日本の母」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この一節だけ取り出せば、首肯できる内容です。ところが、やはり大戦末期、このあとがよろしくありません。末尾には、お国のために「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いてしまっています。さすがに「こんなご時世でも死ぬなと教える母の愛」とは書けなかったのかも知れませんが……。

ちなみに「言語道断」。現代では「もってのほか」など、マイナスの意味でしか使われませんが、元々は仏教用語で仏教の真理や究極の境地は言葉では言い表せない、というわけで、プラスの意味にも使われていました。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

過日のこのブログにおいて、『朝日新聞』さんの記事からご紹介した件、仙台放送さんのローカルニュースでも取り上げられましたので、ご紹介します。

宮城県女川町の「いのちの石碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けているものです。 

女川町「いのちの石碑」 震災から9年目、最後の1基の完成を目指す〈宮城〉

宮城、岩手、福島の被災3県のいまをお伝えする「明日への羅針盤」。今回のテーマは「今年にかける」です。女川町の「いのちの石碑」の取り組みを紹介します。震災後、「1000年後のいのちを守る」を合言葉に当時中学生の生徒たちが町内の全ての浜に津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動をしています。今年で8年目となりました。
宮城県女川町。
漁業で栄えた港町も東日本大震災の津波で大きな被害を受けました。
町の人口の1割にあたる827人が犠牲に、およそ9割の家屋が被害を受けました。
海が見える高台に「1000年後のいのちを守る」と刻まれた石碑があります。

石碑の俳句
「忘れない この悲しみを 苦しさを」

震災の記憶を未来に残すため俳句とともに津波への対策などが記されています。

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石碑を建てたのは、当時、女川中学校に通っていた生徒たちです。

女川中学校の生徒 (2012年)
「1000年後の人たちの命を救うために、私たちの活動は必要だと思う」

夢だけは壊せなかった大震災。
自分たちが味わったあの悲しみ、苦しみを他の人に味わわせたくない。
石碑を建てるという夢に向かって生徒たちはまっすぐ進みます。

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そんな子供たちの姿に先生も手を差し伸べます。
阿部一彦先生 (2012年11月)
「1000年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはだめだ。大人に訴えましょう。伝わるはず。絶対!」
建設にかかる費用1000万円は募金で集めました。

「ありがとうございます」

募金はおよそ半年で集まり、震災から2年半が経ったころ、1基目の石碑が完成しました。

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女川中学校3年生(当時) 鈴木智博さん (2013年)
「うれしいです、やっと形になったのでいろんな人に見てもらいたいですね。震災があったということを知ってもらえればいい」

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震災から8年10ヵ月。
今では17基が建設されています。
この日は、月1回の活動報告の日です。

渡邊滉大さん(21)
「最終的な到達地点は“防災が当たり前に”。例えばご飯を当たり前に食べる。寝るときは寝る。それが当たり前にできる状況を作り上げて、最終的には防災が空気のように当たり前のような存在になってほしい」

鈴木智博さん(20)
「まだ学生だから時間に余裕がある。これからみんな就職とかして全国ばらばらになると自分の時間が少なくなる。みんなで協力していきたいというのが課題」
震災の経験、活動に対する葛藤。
防災への想いを語りました。
中学生だった子供たちも今では大学生や社会人。
鈴木智博さん(20)
「中学生の時から石碑を立てることを自分たちで計画していて、最後の1基が今年建つということは、自分の中で区切り。石碑は100円募金で建てたので、本当にいろんな人から協力を貰って建てた石碑なので、町内に限らず、支援してくれた人に『良かったね』と声をかけてもらえるような石碑になればいいと思う」

震災から9年目となる今年。最後の1基の完成を目指します。
石碑を立てる活動は今年一つの区切りを迎えますが、1000年後の未来のいのちを守る活動はこれからも続いていきます。


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彼らの未来に幸あれ、と祈念せざるを得ませんね。そして女川町の復興がさらに進むことも切に望みます。


【折々のことば・光太郎】

幼穉なのは困る事だが恐る可き事ではない。恥かしい事ではない。それよりも恐ろしく恥かしいのは正直な心を一瞬でも失ふ事だ。裸のまゝの心を知らずに曇らす事だ。雑念にとらはれる事だ。本源から離れる事だ。

散文「書簡――『智慧』に――」より 大正7年(1918) 光太郎35歳

『智慧』は、親友の水野葉舟、落合直史とともに刊行した個人雑誌です。残念ながら創刊号で終わってしまったようです。

「いのちの石碑」、はじめに上記の若者達が中学生だった頃、光太郎文学碑に倣って費用1,000万円を100円募金で集める、と言った時、「幼稚な思いつきだ、無理に決まっている」と鼻で笑った大人がいるやにも聞きました。しかし、ふたを開けてみれば半年余りで1,000万円が集まったそうで、当時の中学生達が「正直な心」、「裸のまゝの心」で、「雑念にとらはれる事」や「本源から離れる事」なく、頑張ったからだと思います。

NHKさんで放映されている、東日本大震災をはじめ、各地で被災された方々の証言を紹介する5分間番組「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」。先週5日の放映が、「宮城県女川町 阿部一彦さん」でした。

阿部さんは、震災のあった平成23年(2011)、当時の女川第一中学校(現・女川中学校)さんの教員でした。女川町では、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

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「石碑」は、昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建立された「高村光太郎文学碑」の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」です。

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震災の翌月に、中学校に入学した生徒さんたちと阿部さん。

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女川の復興のために、アイディアを絞りました。

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そうして考えられたのが、「いのちの石碑」。

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生徒さんたちが作った「計画書」には、光太郎文学碑が「100円募金」で建てられたことに倣って、建設費用1,000万円を募金でまかなうと記されました。

そして募金活動。修学旅行先でもおこなったそうです。

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その甲斐あって……。

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最後に阿部さんの率直な感想。

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こういう取り組みこそが、「教育」であり、「学習」なのだと思います。


さて、当時の64人の新入生の一人と思われる(違っていたらすみません)若者が、明日の「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」で取り上げられます。「いのちの石碑」がらみではありませんが。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~ 「宮城県女川町 佐藤柚希さん」

NHK総合 2019年 12月10日(火)  10時50分~10時55分

東日本大震災のとき小学生だった佐藤さん。復興への希望を込めて作った詩が町民を励ますスローガンになった。高校卒業後、役場の観光係として町のPR活動などに汗を流す。

NHKさんで出した番組説明ではわかりにくいのですが、「いのちの石碑」同様、女川町を象徴する下記のモニュメント関係です。

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町役場近くの地域医療センターのフェンスに設置され、町中心部から見ることができます。当方、初めてこれを見た時は、目が潤みました。 

昨年8月の『朝日新聞』さんの記事から。 

「流されたのではない」作者の佐藤柚希さん 

津波に打ちひしがれたまちで、少年は詩を書いた。「女川は流さ008れたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ」。詩は横断幕になって掲げられ、人々の心に明かりをともした。いま19歳になった少年は、町役場に就職し、ふるさとのために働いている。


 詩は「人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」と続く4行。震災の年の春、女川町立女川第二小6年生の佐藤柚希(ゆずき)さんが、授業で自分の思いを表現するように言われて、つくった。

 翌2012年9月、復興まちづくりの着工式の際、町が詩の前半を横断幕にして、高台にある地域医療センターのそばに掲げた。津波到達と同じ高さ18メートル、更地になった市街地を見下ろす場所だった。

 親戚から知らされた佐藤さんは、びっくりした。授業で提出して終わりだと思っていたのに、知らないところで詩はいろんな人に伝わっていたのだ。「あの言葉に支えられたよ」と、多くの大人が話した。

 石巻商業高に進み、公務員をめざした。人と接するのが苦手で、パソコンに向かうような事務仕事がいいと思ったからだ。担当の教師に「自分の持ち味をアピールした方がいい」と言われ、女川町の面接では、あの詩のことも話した。今年春に採用された5人の中の1人になった。007

 4月、産業振興課観光係の辞令を受けとった。「なんで配属になったかわかりますね」と総務課長。直属の産業振興課長は以前、復興推進課にいて、「自分が横断幕を発案した」と教えてくれた。

 観光係は、想像していた事務仕事とはまるきり違っていた。各地のイベントに出かけ、いろんな人と出あい、パンフレットを渡し、ふるさとの話をする。人と人のつながりがとても大事だと学んだ。詩のことを説明すると話が弾む。今では名刺に詩のフレーズを刷り込んでいる。

 詩を書いたときのことはよく覚えている。

 まず「女川」と紙に書いた。自分は家を失い、同級生の中には家族を流された者もいる。みんなを前向きにしたいと思った。「流されたんじゃなくて、何だろう?」。浮かんだのが「生まれ変わる」だった。「復興」なんて言葉はまだ知らない。どう生まれ変わるのか、根拠も何もなかった。

 あれから7年半。

 町職員になってわかったのは、女川町は歯をくいしばりながら、詩で書いた方向へと進んでいるということだ。災害公営住宅はすべて完成し、佐藤さんも入居する。海のそばにできた商店街は観光客でにぎわう。ただ町の人口は大きく減った。これからは、若者が住む喜びを感じられる場所が必要だと思う。

 横断幕は、いまも同じ場所で、生まれ変わる女川を見下ろしている。(石橋英昭)


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

申上げるのは変かも知れませんが、よく写真で見る牧水さんの顔が好きで、折があらば一度彫刻のモデルに坐つていただく事をねだらうなどと思つてゐながら、さういふ折も天然には来ず、ついそれなりになつてしまひました。私一人にとつては此も心のこりのひとつです。

散文「写真の顔――若山牧水009追悼――」より 
昭和3年(1928) 光太郎46歳

若山牧水は、光太郎より2歳年少の歌人。この年、44歳で早世しました。

たしかにいい顔をしています。イケメンとかではなく、何事かを成し遂げた人特有の強さというか、なんというか。

同じことは上記の阿部さんや佐藤さんの顔にも見て取れますね。



テレビ放映情報です。 昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2019年12月5日(木)  10時50分~10時55分

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」は、東日本大震災をはじめ、各地で被災された方々の証言を紹介する5分間番組です。これまでに、やはり「いのちの石碑」建立に携わった勝又愛梨さん、「女川光太郎祭」の折に宿泊させていただいているトレーラーハウスホテルのエル・ファロさんを経営されている佐々木里子さんなども取り上げられてきました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、「いのちの石碑」を発案した震災当時の女川第一中学校生の担任だった方です。当ブログ、以下の記事でご紹介させていただいています。

高校生が未来を創る町 女川町 七つ目のいのちの石碑。
<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」/忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書。
中学生が被災地で震災の教訓学ぶ/女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生。

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また、今年3月、NHK BSプレミアムさんで放映された、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」では、皆川猿時さんが阿部先生の役を演じられました。失礼ながら(「失礼ながら」というのが失礼かもしれませんが)、よく似ていらっしゃいます(笑)。

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「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」、ぜひご覧下さい。

その他、来週は、女川、十和田湖、花巻といった光太郎関連の地が紹介されるテレビ放映が相次ぎます。明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一見蕪雑に見える今日のただの言葉の中に脈々と伝はつてゐる日本古来の語法の美を発見し、その表現の性格を弁別し、正邪の乱れを格(ただ)し得る者にとつては、恐らく捨て置きがたい美の宝庫を其処に見るに違ひない。

散文「言葉の美しさ――日本の感覚――」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


詩集『道程』(大正3年=1914)によってこの国の口語自由詩を確立し、空虚な美辞麗句の羅列に過ぎなかったあまたの文語定型詩を葬り去った光太郎ならではの言です。

ただし、その光太郎ですら、この直後には空虚なこけおどし的文言に充ちた文語の翼賛詩を乱発する愚にとらわれるのですが……。


このブログでたびたびご紹介してきた、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」関連です。

秋の女川を楽しむモニターツアー! 「女川の魅力発見ツアー」

期 日 : 2019年10月1日(火)/10月6日(日)
行 程 : 仙台駅東口(8:30)→東北電力女川原子力PRセンター(見学)→
      ステイイン鈴家(海鮮膳の昼食)→大六天駐車場(見学)→
      女川まち巡り(鷲神浜いのちの石碑、駅前付近ほかを
       バスと徒歩で見学。シー
パルピア女川等で買物)→
      女川町まちなか交流館(「OCHACCO」オーナーによるお茶ワークショップ。
       お土産付き)→仙台駅東口(18:00頃)
料 金 : 4,500円
定 員 : 40人(最少催行人員 30人)

東日本大震災から約8年半。復興に向けて歩む女川町の魅力を実感しませんか。

震災遺構や、いのちの石碑、女川駅前など、震災と復興を知るまち巡りを行います。そして震災時に地域の方々が避難した、東北電力女川原子力発電所のPRセンターにも訪れ、模型や映像を通して原子力発電のしくみや、取り組みについて理解を深めます。

海の恵みを実感できる昼食を、女川湾が見渡せる「ステイイン鈴家」で。

また、今回はティータイムを豊かにするお茶のワークショップにも参加します。三陸発日本茶フレーバーティーを発信する「OCHACCO(おちゃっこ)」のオーナーによる、お茶のブレンドワークショップでは、自分で作ったお茶を持ち帰りOK!こちらもお楽しみに。

添乗員は同行しません。仙台リビング新聞社スタッフが同行します。

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この手の「いのちの石碑」見学を含むツアー、結構ありまして、しかし、近くなってからこのブログで紹介しようとすると、既に定員一杯になったようで、ネット上から情報が削除されているということが何度か有りました。

今回も10月6日(日)は既に埋まっているとのことですが、キャンセル等が有るかも知れません。

原発の問題が絡み、ちょっと複雑なのですが、とりあえずご紹介しておきます。女川光太郎祭を毎年開催してくださっている、光太郎ゆかりの地・女川。こうした機会以外でも、ぜひ足を運んでいただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

翼のある人がある。 眼に見えない翼をひるがへすと、 何処か遠くへ行つてしまふ人がある。
詩「(翼のある人がある)」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

のち、『現代詩人全集第九巻』(昭和4年=1929)に収められた際、削除された部分です。

光太郎、そういう意味で書いたのではないのかもしれませんが、「翼をひるがへ」して、「遠くへ行つてしま」った故・貝(佐々木)廣氏を思い出しました。

仙台から市民講座の情報です。光太郎の師・与謝野晶子と、智恵子の先輩・平塚らいてうのコラボです。

仙台文学館ゼミナール2019 ■■近代文学を読み解くコース■■ □与謝野晶子と平塚らいてうを読む□

期 日 : 2019年 9/18・10/2・10/16・10/30・11/13(各水曜日・全5回)
時 間 : 13:30~15:00
会 場 : 仙台文学館 仙台市青葉区北根2-7-1

料 金 : 1回500円
講 師 : 小嶋翔(吉野作造記念館主任研究員)


□『明星』で活躍した歌人・与謝野晶子。『青鞜』を創刊した思想家・平塚らいてう。ともに女性の地位向上に努めた2人ですが、実際には対立することもしばしば…。2人が思い描いた人間のあり方、女性のあり方とはどのようなものだったのでしょうか。「みだれ髪」「元始、女性は太陽であった」といった代表作品を中心に読み解きます。

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講師の小嶋氏、昨秋、日比谷図書館さんで開催された「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」でも、歌人の松平盟子氏との対談のパネラーを務められました。お題は「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」でした。

締め切りが過ぎてはいますが、まだ定員に達していない可能性もありますので、仙台文学館さんまでお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間劣性のありたけを根こそげ見たので あれの度胸も自然にすわつた。 二度とあへない歴史の割れ目に 人間性のまつぱだかが待つてゐた。

詩断片「(人間劣性の)」全文 昭和23年(1948)頃 光太郎66歳頃

構想のまま発表されずに終わった詩の断片と思われます。光太郎遺品の中から出て来た原稿用紙に罫を無視してメモ風に書き付けられていました。「人間劣性のありたけを根こそげ見た」「二度とあへない歴史の割れ目」は、おそらく、戦時にかかわると思われます。

題名の気仙沼レポートに行く前に、地方紙『石巻かほく』さんが、9日の第28回女川光太郎祭を記事にして下さいましたので、ご紹介します。 

女川で高村光太郎しのぶ会 生演奏に合わせ朗読、小学生も

 女川町とゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第28回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館ホールであった。
 町内外から光太郎ファンら約60人が出席。講演や紀行文、詩碑、詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れた。
 朗読では、子どもから大人までの15人がステージに登場。詩の朗読ではギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)の奏でるギターの生演奏に合わせ、女川小6年の内村有佑さん、4年の有生七さん兄妹や東松島市の加藤慶太副市長らが「道程」「あどけない話」「或(あ)る夜のこころ」を感情を込めて披露した。
 講演では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって(7)」の題で講演し、出席者は熱心に耳を傾けた。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅で女川を訪れ、海とそこに生きる人々のたくましい生活に心を打たれ、数々の詩歌や散文などの作品を残した。
 光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催。91年には女川港を臨む海岸公園に文学碑を建立したが、東日本大震災の津波で流された。

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さて、その翌朝、宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんを後に、愛車を駆って北上しました。今年の2月に三陸自動車道が気仙沼市の小泉海岸ICまで延伸されたとのことで、女川同様やはり光太郎の足跡の残る気仙沼も訪れてみようと思った次第です。

光太郎の気仙沼訪問は、やはり新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」の一環でした。紀行文に記された順番では女川のすぐ後、船で気仙沼入りしています。

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ただ、紀行文で起点となっている石巻までどうやっていったのかが不明です。で、以前にも書きましたが、光太郎が乗った三陸汽船、月に二便、東京芝浦港から出ている便があり、新幹線などなかった陸路より便利なのでこれを利用したのかも、と考えるようになりました。その場合、最初の寄港地は気仙沼。すると、光太郎、一度気仙沼に降り立ち、そこから石巻まで戻って改めて北上し、東京への帰りは宮古からの東京便に乗ったのかも知れません。あくまで推測ですが、可能性は高いと思われます。

さて、当方の気仙沼紀行に戻ります。

三陸自動車道を、現在の終点となっている気仙沼市の南端・小泉海岸ICで降り(復興支援のため、通行料金無料です。ありがたし)、まずは市街を迂回して唐桑半島へ。その突端に、平成5年(1993)に建てられた、光太郎の歌碑が建っています。約20年前、一度拝見に伺いまして、2度目です。最初の時は新幹線、在来線、そして路線バスを乗り継いでの訪問でした。

こちらが歌碑。

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紀行文「三陸廻り」の直後、雑誌『磁場』に発表された詩「霧の中の決意」(こちらも女川の光太郎文学碑に刻まれています)に添えられた短歌で、光太郎自筆を拡大したものです。曰く、

 黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり  光

光太郎、この唐桑半島には降り立っていないのですが、ここの沖合を船で通過したということで、この碑が建てられたわけです。

紀行文「三陸廻り」では、船中の様子としてこう書かれています。

夜の十時に気仙沼を出た小柄な東華丸は何処へも寄らずに釜石までゆく。夜の海は私を寝かさない。私は舷側に立つて珍しいものを見るやうにいつまでも海の闇黒を見てゐる。むしろ寒い。船員は交替時間にどしどし船底へ行つて眠るのが本務だ。客の好奇心などに構つてゐられない。五六人の船客も皆ねた。私は一人で露地裏のやうに狭い左舷右舷の無言のレエヴリイを楽しむ。十一時半。船が気仙沼湾の大嶋の瀬戸をぬけて御崎を出はづれ、漁火のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆と無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒で、ガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。船は眼そのもの、耳そのものとなる。ちんちんちんと低い鐘が三つ鳴る。又一つ。機関の音がぱたりと止み、船はうねりの横波の中で停る。急に静になつた舷側をぱちやぱちやと水がうち、盥のやうに船はゆれる。針路の漂蹰をなほす爲か、舵の鎖が重く強く長くずるずると音を立てる。船首の燈火が闇黒の世界にぼやけた暈をつくる。十分、二十分。依然たる寂寞。やがて三点鐘。又一点。機関は再び呼吸を始める。微速前進。船は幾度か考へなづむやうに又停り又進む。

御崎(おさき)というのが、この唐桑半島の突端です。

その、光太郎が通過した海。


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この日はあいにくの雨で、雷も鳴っていました。気温も19℃しかありませんでした。

せっかくですので、傘をさしつつ周囲を散策。

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御崎(おさき)神社さん。平安時代から続く古社です。例によってこの地の平安、道中安全、そして東日本大震災による津波等で亡くなった方々の鎮魂を祈願して参りました。

その後、舗装されていない遊歩道を歩いていましたら、灯台の手前の道の真ん中に何やら黒っぽい塊。はじめは切り株が転がっているのかと思ったのですが、近づいてみると……。

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とっさのことでしたし、肉薄までは出来なかったため画像が不鮮明で申し訳ありませんが、何とまあ、ニホンカモシカの親子でした。久々に野生のそれと遭遇し、さすがに驚きました。こんな海辺にも生息しているのですね。熊でなくて良かったとも思いました(笑)。

その後、愛車を気仙沼市街に向けました。

紀行文「三陸廻り」、気仙沼の項で、光太郎が訪れた場所が何ヶ所か挙げられており、この際、そちらも見ておこうと思った次第です。20年前に唐桑の歌碑を見に来た際には、市街は廻りませんでしたので。

光太郎が降り立った気仙沼港。やはり津波の爪痕が少し残っています。

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近くに、光太郎が訪れた前年の昭和5年(1940)、大阪毎日新聞、東京日日新聞主催 、鉄道省後援で選定された全国百ヵ所の景勝地・日本百景の碑があるはずですが、雨でしたし、パス。光太郎は「海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり」と書いています。

右上は市街三日町にある少林寺さん。やはり「三陸廻り」で「少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り」の記述があります。「焼けあと」とあるのは、昭和4年(1929)に、約1,000戸が焼失したという気仙沼大火によると思われます。

北野神社さん。気仙沼駅にほど近い、新町(あらまち)という地区です。

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ここの一角に、自在庵という庵があったそうで、光太郎はこう書き記しています。

此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の西蔵チベツト仏などを見せてくれた。「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。

「慧海師」は河口慧海、光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流のあった僧です。

その自在庵の跡地。北野神社さんの宮司さんとおぼしき方が、ご案内下さいました。その方によれば一昨年くらいまで建物が現存していたそうなのですが、惜しいことをしました。

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こうして気仙沼を後にし、千葉の自宅兼事務所へ。気仙沼から自宅近くまで高速道路で帰れてしまうようになり、便利な世の中になったものだと思いました。

紀行文「三陸廻り」は、気仙沼の後、釜石、宮古と続きます。釜石も20年ほど前にお邪魔しましたが、改めて、また、宮古には行ったことがないので、それぞれ機会を見て、光太郎の足跡をたどってみようと思っております。

以上、宮城レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人は野をおもひ山をおもふ    短句揮毫 戦後

花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、佐藤隆房医師筆の画に対する画讃です。「海をおもひ」の一語も付け加えたいものです(笑)。

8月9日(金)に行われた、第28回女川光太郎祭の前に、会場のまちなか交流館さん付近あちこちを廻りました。女川町の現状ということで、ご紹介します。

朝6時、起床。宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんでの朝食前に、まず元の海岸公園にある光太郎文学碑を見に行きました。

1年ぶりでしたが、1年前と同じ状況。しかし、その後、昨日も書きましたが、女川光太郎祭の中で、須田善明町長が来年の今頃には再建されているかもしれないとおっしゃって下さいました。

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宿に戻って朝食。続いて宿に隣接するJR石巻線女川駅の駅舎に併設された入浴施設、女川温泉ゆぽっぽさんへ。エルファロさんの部屋にもユニットバスがあるのですが、やはりゆったり足をのばしたいもので。

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ここの2階がゆぽっぽさんです。

展望テラスから見た駅前の街並み。

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昨年は入る機会を逸していましたので、2年ぶりでした。

帰りがけ、1階の売店で、書籍を購入。仙台の株式会社プレスアートさんが今年3月に発行なさった『女川 復幸の教科書』(定価1,000円+税)。A4サイズより一回り大きい、100ページほどのムックです。

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東日本大震災から8年間の、女川町「復幸」(「復興」ではないそうで)の歩みをメインとしていまして、興味深く拝読しました。巻頭近くの「女川ヒストリー」という項では、光太郎の女川訪問に触れて下さっていました。また、光太郎文学碑の精神を受け継いで、100円募金で資金を集め、建立され続けている「いのちの石碑」についての記事、女川光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店、佐々木釣具店の紹介なども。あの津波で亡くなった、元女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんの名も。

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女川駅構内には、新たな碑も建っていました。今年三月の建立だそうで。

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碑陰記に拠れば、周辺の造成工事の完了を記念してのもののようです。

つづいて、新築の町役場へ。

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上の画像でいうと右上、テラス的な一角には、昨年の9月、東日本大震災で亡くなった方々への慰霊碑が建立されています。

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当時の町民の約1割にも達した犠牲者全員の名が刻まれています。貝(佐々木)廣さんの名も。右下は女川光太郎祭会場に飾られた遺影です。

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役場の建物の中に、女川つながる図書館さんがあり、そちらへ。

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こちらでは、ミニ展示「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催中です。光太郎の著書や、当会顧問・北川太一先生のご著書などが並んでいました。

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こちら自体に所蔵のないものは、県立図書館さんから借りてこられたようでした。

光太郎がこの地を訪れた昭和6年(1931)頃の古写真もあり、興味深く拝見しました。

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この魚市場の光景を見て、文学碑にも刻まれた詩「よしきり鮫」(昭和12年=1937)が執筆されたわけです。

    よしきり鮫

 眼をあけて死んでゐる君もうろくづ。
 女川(をながは)の水揚場に真珠いろの腹はぬらりと光る。
 どうしても君の口は女のももをくはへるやうに出来てゐる。
 難破船をかぎつけると君はひらりとからだをひるがへし、
 倒さになつてそれは愛撫に似たすれちがひに018
 やはらかな女のももをぐいともぎる。
 君の鋸歯は骨を切る。
 君は脂肪でぎらぎらする。
 君の鰭は広東港へ高價で売られ、
 君の駄肉はかまぼことなる。
 くひちぎる事の快さを知るものは、
 君の不思議な魅力ある隠れた口に
 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる、
 このコンクリートの水揚場の朝河岸に
 からころとやつて来る浴衣がけのあの餌(えさ)どもを。


「うろくづ」は魚を表す古語です。故・貝(佐々木)廣さん、高校時代にこの詩に出会い、「うろくづ」の意味が分からず、先生に訊いたそうです。すると訊かれた先生もご存じなかったようで「うろつく、の間違いじゃないのか」とのたまったとのこと。貝(佐々木)さん、「そんなわきゃないだろう」とご自分で調べ、それが光太郎にのめり込む一つのきっかけだったと、生前におっしゃっていました。

画像は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された光太郎の紀行文「三陸廻り」に添えられた光太郎自筆のカット。「女川のしミ」と題されています。「しミ」は「しび」で、「鮪」。マグロ類のやはり古称です。

地方紙『石巻かほく』さんに、「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」展の記事が出ています。 

女川と光太郎の関わり紹介 13日まで特別展

 女川町とゆかりが深い高村光太郎(1883~1956)にちなんだ特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川~えにしをつなごう」が7日、町生涯学習センター内にある「女川つながる図書館」で始まった。
 光太郎が1931年に女川を訪れてから今年で88年目を迎える。「光太郎と女川との関わりを多くの人に知ってもらおう」と、今回初めて企画した。
 国語の教科書に掲載されるなど有名な「道程」の復刻版や「智恵子抄」をはじめ、1920年発刊の光太郎訳「續 ロダンの言葉」、光太郎と女川の関わりを分かりやすく知ることができる「光太郎 智恵子 うつくしきもの」(光太郎・北川太一著)など関連著作約40点を展示した。
 来場者には1931年前後の女川の様子を頭に浮かべてもらうため、当時の女川港やカツオ船の水揚げ風景といった白黒写真も飾り、来場者の関心を集めている。希望者がいれば、折り紙でのしおり作りや、「道程」「レモン哀歌」の朗読なども行う。
 図書館で同級生2人と簿記の勉強をしていた石巻商高1年の男子生徒(16)は「高村光太郎という名は正直知らなかった。これから勉強したい」と話し、著作物などを見ていた。
 町教委生涯学習課の社会教育指導員加納純一郎さんは「大人でも光太郎と女川との関わりを知っている人は意外と少ない」と説明。町民のほか、光太郎、文学ファンの来場を呼び掛けている。
 特別展は13日まで。時間は月~金が午前10時から午後8時まで。土日祝日は午後5時まで。入場無料。
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その後、まちなか交流館さんへ移動、第28回女川光太郎祭に参加させていただきまして、昨日のレポートの内容につながります。

明日は、翌日、女川を後に訪れた同じ宮城県の気仙沼レポートをお届けいたします。


【折々のことば・光太郎】

死を超えて人大なり      短句揮毫 戦後

津波に呑み込まれて亡くなり、しかしそのご遺徳を慕って今も女川に人々を集め続ける貝(佐々木)廣さんを思わずにいられない一言です。

昭和6年(1931)8月9日、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を執筆するため、光太郎は東京本郷区の自宅兼アトリエを出、約1ヶ月の三陸旅行に発ちました。10月に発表された紀行文には石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古といったあたりの様子が描かれています。

それを記念して、毎年8月9日には、女川光太郎祭が開催されており、今年で28回目となりました。このところ、毎年、記念講演の講師を仰せつかっており、今年も行って参りました。

会場は、JR石巻線女川駅前の商業施設シーパルピア内のまちなか交流館さん。

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県内外から多くの方々がお集まり下さいました。

最初に当方の講演。光太郎という人物の生涯を細かにたどるため、昭和22年(1947)に自らの生涯を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」をもとに、連続講演の形で行わせていただいており、とりあえず今年がその最後、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を中心に語らせていただきました。来年は「「暗愚小伝」その後」というわけで、最晩年、そして光太郎の死のあたりを扱う予定です。

その後、メインの行事。女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶に続き、光太郎遺影、かつて海岸公園に立っていた光太郎文学碑の写真(今年・新しいパネルに代えられました)に献花。

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その後、県内外の皆さんによる、光太郎紀行文や詩の朗読。

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女川町長・須田善明氏の祝辞。須田町長、久々においで下さいました。

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まだ確定でない、と前置きされつつ、来年の今頃には、かつての海岸公園一帯をメモリアルゾーンとして整備する事業が終わる予定で、倒壊したままの光太郎文学碑も再建される見通し、とおっしゃっていました。

ちなみに現状、こんな感じです。

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すぐ近くの旧女川交番の方は、基礎部分の工事にかかっているようでした。

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その後、ギタリスト・宮川菊佳氏の演奏。宮川氏、詩の朗読の際にBGM演奏も為されていました。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。本宮さんは、光太郎文学碑が建てられた平成3年(1991)に女川で開催されたオペラ智恵子抄(仙道作三氏作曲)の公演で、智恵子役をなさった方です。

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最後に、東日本大震災の津波で亡くなった女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏の奥様、英子さんのご挨拶。

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終了後は、まちなか交流館さんにほど近い金華楼さんで懇親会。

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一年ぶりにお会いする方々と久闊を叙し、また、盛岡のご出身で、旧太田村の蟄居時代に光太郎がたびたび足を運んだ温泉などにもよく行かれたという方、当会顧問の北川太一先生をご存じの方など、初参加という皆さんともいろいろお話をさせていただきました。こうやって人の輪が広がっていくのだな、と実感させれられました。

毎年書いておりますが、永続的に続いて欲しいものです。

明日は女川町内各所のレポートを。


【折々のことば・光太郎】007

うつくし かぐはし ほほゑまし  

  短句揮毫 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村で隠棲していた光太郎、時折、県都盛岡に出ることがあり、その際には「天よし」という飲み屋に立ち寄ることが多く、そこのマダム・たみ子さんに贈った書です。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。


マダムたみ子が長唄の免状を手にした祝いということで、「し」の字は三味線の糸を表し、長く書いたとのこと。粋な計らいですね。

女川光太郎祭で、小学生の詩の朗読もありまして「ほほゑまし」く拝聴しました。

今日、8月9日は、昭和6年(1931 )、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日です。それを記念して、毎年8月9日には「女川光太郎祭」が開催されています。
毎年、記念講演を仰せつかっているもので、昨夜から女川に来ております。

宿泊は例年通り、女川駅裏のトレーラーハウス・エルファロさん。

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女川光太郎祭が午後2時からなので、午前中、町役場敷地内の女川つながる図書館さんでのミニ展示を拝見。

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その後、光太郎祭会場のまちなか交流館さんに入りまして、この記事を書いております。

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詳しくは明日、帰りましてからレポートいたします。

毎年、8月9日に女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の広報誌『広報おながわ』さん。

今年は町立のつながる図書館さんで特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」も開催されるということで、女川光太郎祭と併せてご紹介下さいました。

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ありがとうございます。


もう1件。

茨城県筑西市の明野図書館さんの館報『花さき山』から。

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「音読会」というイベントで、光太郎を取り上げて下さるとのことで。

楽しみながら音読しよう☆ 音読会

期 日 : 2019年8月6日(金)/9月3日(火)
時 間 : 11:00~12:00
場 所 : 筑西市立明野図書館  茨城県筑西市海老ヶ島2120-7
料 金 : 無料

☆図書館スタッフと一緒に、気軽に発声練習や音読を楽しみませんか?
  8月は、「高村光太郎」がテーマです。
 声に出して読むことで、脳と心に刺激を与えましょう!
※申し込みは不要です。当日直接明野図書館 視聴覚室にお越しください。
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筑西市といえば、東京美術学校彫刻科で、光太郎の父・光雲に木彫を学び、後に陶芸に転じて大成した板谷波山の故郷です。今回のイベントとの関連はないのでしょうが。

それぞれお近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

美にして義ならざるなし     短句揮毫 時期不明

手持ちの書籍類から、この揮毫の画像をざっと探したのですが、見つかりませんでした。

ところが、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵品の中に、「美」と「義」が逆になった「義にして美ならざるなし」という書があるのに気がつきました。

短句の類は『高村光太郎全集』第11巻、第20巻にまとめられており、こちらは第11巻に載っています。第11巻は初版が昭和33年(1958)。その時点で編集に当たられた当会顧問・北川太一先生、「美」と「義」を取り違えたかな、という気もします。「義にして美ならざるなし」とした方が、意味的にはすっきりします。

「いや、間違いなく「美にして美ならざるなし」という揮毫もあるぞ」という情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。

昨日に引き続き、宮城県女川町からイベント情報です。 

第28回女川光太郎祭

期 日 : 2019年8月9日(金)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
料 金 : 無料
問い合わせ : 
   女川光太郎の会事務局 佐々木英子
   〒986-2243 宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜字内山3-1NI・1街区2 桜ヶ丘東住宅404
   090-6686-7811 
内  容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 アトラクション演奏 オペラ歌手 本宮寛子  ギター奏者 宮川菊佳 
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑦―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 終了後 懇親会

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昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅した一環で立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港に面した海浜公園に巨大な光太郎文学碑が建立され、さらに翌年から始まった女川光太郎祭。その後、東日本大震災による津波で甚大な被害を受けた平成23年(2011)も含め、毎年開催されています。今年は文治堂書店さんが自社のPR誌『トンボ』第8号に案内を掲載して下さいました(上記画像)。

昨年までの様子はこちら。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

生活も不便とはいへ、まづ正常の状態で進んでゐて、決して極端なまねはして居りません。蛇や蛙やバツタを食べて生きてゐるのではありません。

雑纂「太田村の便り」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

一方で、翌年行われた座談会では、蛙を食べたことや、蛇も食べようと思ったものの歯が悪いのでやめたという発言をしています。バッタについては他では言及されていません(長野県民ではありませんし(笑))。

蛙に関しては、明治末のパリ留学時代にフランス料理として食べていたので、あまり抵抗はなかったのでしょう。しかし、だからといって、それを常食にしていたわけではないということですね。

毎年、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町で、新たな取り組みです。

詩人・彫刻家高村光太郎と女川

期    日 : 2019年8月7日(水)~13日(火)
時    間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
会    場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
料    金 : 無料

女川つながる図書館(女川町生涯学習センター内)にて特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催されます。 図書館の館内を使った小さな展示会です。 昭和6年に高村光太郎が女川を訪れ、書いた作品や訪問当時の女川の様子の写真などを中心に、関連書籍の紹介や、しおりなどの手作り体験、朗読等を予定。 入館無料 お気軽にお立ち寄りください。

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8月9日(金)に女川光太郎祭が開催されるということで、それに合わせてのミニ展示的なもののようです。

女川光太郎祭では、当方、毎年、講演をおおせつかっておりまして、今年もやらせていただきます(詳細は明日のこのブログで)。そちらの会場は、女川駅前のショッピングモール・シーパルピア内のまちなか交流館さんですが、今回の展示は生涯学習センター内のつながる図書館さんだそうで、住所で調べましたところ、町役場の敷地内のようです。まちなか交流館さんとつながる図書館さん、徒歩数分といったところでしょう。

のちほどレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

今年の冬は旧臘以来肋間神経痛といふものに悩まされてゐて、一切が停頓状態です。中々厄介な病気で、痛みばかりでなく、呼吸にも影響します。ホルモン不足から来る老年病と考へられて、何んだかをかしいやうですが、今年の山の厳寒にも関係があるでせう。春暖の候になれば、自然治癒することと思つてゐます。

雑纂「生成言」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も5年が過ぎ、光太郎の病状、「ホルモン不足から来る老人病」といったそんな軽いものでなく、結核性の重いもので、結局、それが原因で亡くなります。重篤なものであるという自覚はあったはずですが、このように対外的にはかたくなに肋間神経痛で押し通しました。離れて暮らす弟妹の家族、東京方面の旧友たちに心配をかけたくないという気持ちと、彼等により無理矢理にでも山小屋生活を中止させられてしまうのではないか、という危惧もあったかと思われます。

先週のテレビ朝日さん系列のニュースから。

災害の教訓活かせ! 13年ぶり「地図記号」で減災へ

 どこにどんな施設があるかなどを地図上に示す「地図記号」。現在、130種類以上もあるが、今回、13年ぶりに新たな地図記号が制定された。そのきっかけとなったのは1年前のあの災害だった。
 地図記号を定める国土地理院はなぜ新たな記号を誕生させたのか。自然災害伝承碑。過去に起きた地震や津波など自然災害の教訓を後世に伝えるためのものだ。
 1年前、300人近くが亡くなった西日本豪雨。被害の大きかった広島県坂町には約100年前の水害を伝える石碑があったのだが、存在を知らない住民も多かったという。ウェブ上にはすでに180基以上の情報が載っている。
 9月からは紙の地図にも順次、反映していくといい、その数も増えていく見込みだ。なかには、宮城県女川町のいのちの石碑。東日本大震災の教訓を伝えようと当時、小学生だった地元の有志が町内に設置した。この石碑も記号となり、今後、地図に掲載されていく予定だ。

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そして、昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町に建てられ続けている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

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実際に国土地理院さんの当該ページを覗いてみました。

残念ながら、女川町に関してはまだ情報が登録されていませんでしたが、隣接する石巻市の部分では既にアップされています。

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昭和8年(1933)の昭和三陸大津波、そして平成23年(2011)の東日本大震災。

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まさしく「温故知新」。大切なことだと思います。


【折々のことば・光太郎】

芸術の郷土性と世界性との関係には実に汲めどもつきぬ妙味があります。

雑纂「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」より
 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

生粋のパリジャンだったロダンに対し、フランス南部モントーバンの出身であるブールデルを引き合いに出し、ロダンの都会芸術とは別種の風を吹き込んだことを紹介してからの流れです。

昨日のこの項で紹介した、同じ岩手県立美術工芸学校の開校式祝辞(昭和23年=1948)では、岩手に新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治などの稀有な才能が排出したことにもふれています。

たびたびこのブログにてご紹介させていただいております、宮城県女川町の「いのちの石碑」関連です。東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。
会    場 : 仙台市シルバーセンター 交流ホール
                                 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3番2号
時    間 : 13:20~15:40
料    金 : 無料

内容 : シンポジウム「守りたい、子どもたちの未来」
それぞれの立場で命の大切さを語り継いでいる方々から、現在の活動内容や未来を生きる子どもたちへの
メッセージを伝えてもらいます。当日は関連書籍やグッズ販売も予定しています。
 パネリスト :   ① 佐藤敏郎さん(元中学校教諭)
           ② 丹野祐子さん(閖上中学校遺族会代表)
           ③ 「女川いのちの石碑」活動に従事した渡邊滉大さん
           ④ 谷口光さん(日本ユニセフ協会職員)
 コーディネーター : 渡辺祥子さん(アナウンサー、朗読家)

募集 : 300名 事前のお申し込みをお願いします
申し込み : 宮城県ユニセフ協会
     電話 022-218-5358 FAX 022-218-3663
       E-mail sn.municef_miyagi@todock.coop
 
 
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活動開始当時、中学生だった少年少女達は、今年、成人式を迎えました。そしてやはり今年、NHK BSプレミアムさんでは、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川 いのちの坂道」が放映され、「いのちの石碑」が取り上げられました。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

わたしは、山の生活で、彫刻はやらないことにきめました。やりたいと思つていてやらないのは神経にさわつていけないし、小屋の状態や時候から考えても彫刻をすることは無理だと思つて、はつきりとつてしまつたのです。

談話筆記「南沢座談」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

終戦直後から丸七年の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を回顧して語った一節です。

「時候」の一語には、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩により、多くの前途有為な若者を死に追いやった反省からくる「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――中であったという意味合いが込められているように思われます。

明日はその旧太田村に移り住む前に疎開していた旧花巻町に向けて東京を発った日で、それを記念して花巻では毎年、高村祭が催されています。当方、今日から前乗りします。

昨日は3.11。あれからもう8年経つかという感じです。

8年前のあの日、宮城県女川町では、当時、女川光太郎の会事務局長だった貝(佐々木)廣氏が、津波に呑み込まれて亡くなりました。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため、女川を訪れたことを記念し、画家でもあった貝氏が中心となり、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、光太郎文学碑が建てられました。以来、やはり貝氏が音頭を取って、毎年8月9日(光太郎が三陸に向けて東京を発った日)に、女川光太郎祭が開催されることとなり、貝氏歿後は奥様の英子さんが世話役を引き継いで、現在も続いています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。

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昨日は、テレビ朝日系のニュースで「いのちの石碑」プロジェクトを進めるかつての中学生たち――「女川1000年後のいのちを守る会」が取り上げられました。

石碑と教科書に思いを…林キャスターが見た被災地

 東日本大震災から8年の月日が経った。亡くなられた人は去年から2人増え、1万5897人に。行方不明者は6人減り、2533人に。そして、いまだに5万1778人もの人が全国で避難生活を続けている。宮城県女川町では被災当時小学生だった子どもたちが20歳となり、あの日、体験したことを「1000年先まで伝えよう」と活動を続けている。
  津波到達地点よりも高い場所に設置されている「女川いのちの石碑」。現在、17基が町内に設置されている。すべての石碑の裏面には外国語の記述も。これらの石碑を建てる活動は震災当時、小学6年生だった若い人たちによって進められている。そのメンバーの渡辺滉大さん(20)と鈴木智博さん(19)。2人とも今年、成人式を迎えた大学生だ。800人以上が犠牲となった宮城県女川町。震災直後の春に中学校に入学した彼らは、社会科の授業をきっかけに1000年後の命を守るため、津波の教訓を記した石碑を設置するプロジェクトを立ち上げた。1基目の石碑は中学3年生になった2013年秋に設置することができた。石碑は町内21カ所に設置する予定で、これまでに17基が完成。残りの4つは来年の秋ごろまでに設置する見込みだ。命を守るため、津波からの避難を呼び掛ける石碑づくりは、まさに子どもたちが主役となって進められてきた。
  そして、次に取り組んだのは「いのちの教科書」作りだ。中学卒業後、「女川1000年後のいのちを守る会」を発足した彼ら。進学や就職などそれぞれの道を歩みながらも定期的に集まって震災への備えを学習する教材作りも進めてきた。この教科書、いずれは英訳して津波の多い東南アジアなどにこの教訓を伝えたいと考えているそうだ。1000年後のいのちを守る会では全国の学校などでの講演も行っている。今月も渡辺さんは母校の後輩たちに向けて震災当時の体験談や継続している活動の意義などを語った。

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過去の映像も織り交ぜ、さらに石碑以外にも彼等が取り組んだ「いのちの教科書」にも触れられました。


昨日、女川で行われた追悼式では、テレ朝のニュースにも出演された鈴木智博さんが「遺族代表のことば」を述べられました。

 東日本大震災から今日で8年を迎えます。この8年を長いと感じる方も短いと感じる方もいるでしょう。私にとって8年はあっという間だったと思います。8年前、私は小学6年生で卒業式の練習を終え教室で反省会をしていました。その時震災にあいました。経験したことない地震の揺れ。そして津波によって壊滅した街を眺め、頭で理解できずただただぼう然としていたのを覚えています。母と祖父母の行方が分からないことを教えられたのはそれから約1週間後のことでした。涙もほとんど出ず、顔では笑っているのに心から笑うことができませんでした。
 私は中学時代の同級生とともに「1000年後のいのちを守るために」を合言葉に、震災を未来へ伝えていく活動を行っています。町民どうしで絆を持つ。避難がしやすい安全な街を創る。いのちの教科書や石碑をつくり後の時代に伝える。この3つで津波の被害を減らし、1000年後を生きる人たちが辛い想いをしないようにすることを目標にしています。ですが活動が始まった当初、震災を思い出すのが嫌で、進んで参加しようとは思いませんでした。ましてや自分の体験を人の前で話すことなど考えたくもありませんでした。ですが必死に活動に取り組む同級生たちや、他の地域で震災関連の活動をする同世代の人たちを見て少しずつ、自分も向き合わなければいけない。また何かできることがあるのではないかと思うようになりました。ですがまだ完全に震災を受け止められていません。いろんな 想 いを持って、葛藤もありますが現在も活動を続けています。
 避難先や仮設住宅で5年半を過ごし、今は県内の大学で教職について学んでいます。そして今年成人式を迎えることができました。式の前にお墓参りに行き成人式の事を伝えました。きっと喜んでいると思います。女川町の新成人として責任をもって震災を伝えていきたいと思います。
 平成という時代が幕を閉じ、新しい時代になろうとしている今、震災前に住んでいた尾浦、そして女川の町は復興が進み、あの時とは見違えるほどきれいになりました。サンマ祭りや復幸祭などの大きなイベントには全国から観光客が訪れ、大きなにぎわいをみせています。
 ただ、震災の風化も進んでいます。今年震災を経験していない子どもたちが小学2年生になります。このまま何もしなければ震災の記憶や教訓は忘れ去られ、あの時の繰り返しになってしまいます。だから直接関係のない人も映像で津波を見るだけではなく、実際にあった現実として、見て、聞いて、感じて自分でいのちを守る意識をもってもらいたいです。
 私たちが建てた女川いのちの石碑にはこう刻まれています。
 今、女川町はどうなっていますか?
 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 私は震災から立ち直るこの町の一員として震災を語り継ぎ、これからも自分の体験と向き合っていきたいと思います。
 平成31年 3月11日 遺族代表 鈴木智博


彼らへの支援は今でもあちこちで……。

3月7日(木)の『中日新聞』さん。

3・11の経験を基に絵画展 宮城から田原に移住の山本さん

015 東日本大震災で被災し田原市に移住した学校職員、山本美貴子さん(41)と、移住後に再婚した夫の画家、拓也さん(47)によるチャリティー展覧会「3.11 HOPE MARKET」が豊橋市曙町南松原の園芸店「garage(ガレージ)」で開かれている。三十一日まで。
 美貴子さんは震災の発生時、長男と宮城県女川町で二人暮らし。隣の石巻市の職場にいた美貴子さんは近くの高台の神社に避難し、水に囲まれて一晩を明かした。がれきや遺体をかきわけて女川に戻ったのは三日後。美貴子さんは女川へ向かいながら、家族の死を覚悟した。家族は幸いにも無事だったが、「三十人の友人を亡くした」。
 一年ほど避難所や仮設住宅を転々とした。しかし、大切な人を亡くした女川で暮らしつづける苦しみが募り、震災翌年の二〇一二年四月に転居。「どこでもよかったけれど、海で育ったから海のない場所での生活が考えられなかった」と田原を選んだ。
 田原市への移住後、女川でテント暮らしだった時にボランティアとして物資を手渡してくれた拓也さんと夏のアートイベントで再会。共通の趣味のサーフィンなどで愛を深め、一七年三月十一日に入籍した。
 美貴子さんは、被災経験を基に制作した作品を中心に新作の絵画六点を出展。家や車がキャラクターの上にのっている作品は、津波にさらわれた地を表現。月日がたって花が咲いた様子も同時に描き、「津波は憎たらしいけれど、私たちは自然の中で生きてるんだ」との思いを込めた。
 コーヒーを使ってセピア調に仕上げられているのも作品の特長。「故郷では津波とともに古くていいものがなくなってしまったように感じる。セピアに描くのは、古いものへのあこがれかも」と話す。
 会場には過去作のポストカードやポスターも。一方、「シルクスクリーン」と呼ばれる印刷技法を用いたオリジナルデザインのTシャツやトレーナー、かばんやタオルなど、拓也さんの作品も並ぶ。
 二人は「震災は風化しつつあるが、南海トラフ地震だっていつくるか分からない。展覧会をきっかけに、どう逃げるか、どこで落ち合うのかなど、自分たちの防災を家族で話してもらえたらうれしいです」と口をそろえる。
 展覧会は午前十時~午後七時、最終日は午後三時まで。木曜定休。作品を販売し、その売り上げから経費を差し引いた全額を、津波到達地点に石碑を置き後世に伝える女川町の「いのちの石碑プロジェクト」などに寄付する。

山本さんの件は、一昨年にも報道されていました。


同じ『中日新聞』さんで、今日の記事。

いのちの石碑 伝えたい 津波の教訓 女川中生刻む 白山・蕪城小教諭が授業企画

016 東日本大震災で被災した宮城県女川町の女川中学校で始まった「いのちの石碑プロジェクト」について考えてもらおうと、白山市蕪城小学校の内野貴司教諭(29)が、大震災が起きた十一日、五年生の社会科授業で取り上げた。児童約三十人が石碑を造った被災者の思いに寄り添い、次世代に残す大切さを学んだ。
 プロジェクトは、「千年後の命を守る」をテーマに当時の女川中学の一年生が震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内二十一の浜に建てる活動。「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」など、それぞれの石碑には教訓や被災者の思いをつづった俳句が刻まれている。
 内野教諭は昨年八月、女川中や、津波で多くの児童が犠牲になり、閉校した同県石巻市の大川小学校の校舎跡を訪れた。女川中の元教諭で、小六の次女を大川小で亡くした佐藤敏郎さん=石巻市=らと交流した。内野教諭は同じ悲劇が繰り返さないよう石碑を建てる女川中の活動を児童に伝えようと授業を企画した。
 内野教諭が「女川中の生徒はどんな思いで石碑を造ったのか」と呼び掛けると、児童は次々に手を挙げて「将来、震災を知らない人にも思い出してもらえる」「生き残った人の気持ちは壊れていないと思う」と意見を述べた。
 大川小を訪れたことのある横山栞菜(かんな)さん(11)は「被災地にはまだがれきも多いけど、石碑が建つことで私たちにも教訓になる」と話した。内野教諭は「家に帰って震災のニュースを目にした時に心から復興を願ってほしい。今日の授業が、被災者の思いに心を寄せるきっかけになれば」と期待を込めた。


そして、3月10日(日)にNHK BSプレミアムさんで放映されたドラマ「女川 いのちの坂道」。

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上記画像には、最初にご紹介した光太郎文学碑が写っています。「津波」の「津」の字の上です。

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こちらだと、一番下の中央やや左。周辺は「メモリアルゾーン」として整備中ですが、建立当時、日本一巨大な文学碑と言われた横幅10メートルの石碑で、津波で倒れたままとなっています。いずれ再建するとのことですが。

平祐奈さん演じる主人公・咲(さく)は、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーという設定です。実際に彼等の担任だった阿部一彦先生は、同じく被災地を舞台にした平成25年(2013)の朝ドラ「あまちゃん」でも先生役だった皆川猿時さんが演じました。

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女川中学校のシーンでは、「いのちの石碑」に関わる、おそらく実際の掲示物が使われていました。

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しかし、咲は、「女川1000年後のいのちを守る会」の活動にあまり熱心ではないという設定。未だに母親が行方不明のまま、それが元で父親ともうまく行っておらず、ダンサーを目指して上京したものの、そちらでもなかなか芽が出ない、ということで、ネガティブな感情を持ち続けています。うまい描き方だと思いました。被災地の皆さん、ポジティブな方々がよく報道等で取り上げられますが、失礼ながら、みんながみんな前向きなわけではないというのが現実です。

特に咲をネガティブにさせている要因が、老人たちを助けるため、何度も海岸と高台を往復して、結局、津波にさらわれた母親が英雄扱いされていること。そして、その母親を止めなかった老婆。

しかし、咲は、新たな「いのちの石碑」の除幕式を兼ねた避難訓練で、かつて母親がそうしたように、その老婆を背負って坂道を上ります。

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そうしたことで、もろもろの思いを吹っ切る咲。最後は仲間と共に力強く、序幕のロープを引きます。

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NHKオンデマンドさんで配信されていますが、ぜひ、再放送もしていただきたいものです。


今後も、「女川1000年後のいのちを守る会」の動きを、こちらのブログで追っていこうと思っております。


【折々のことば・光太郎】

地中の冬がほんとに来て此の水が冷え切るのは一月だ。胸をつくやうに冷たい水道の水の出る頃こそ私の製作慾の燃えさかる戦ひの季節だ。もうぢきだ。
散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

生涯、冬を愛した光太郎。この点は残念ながら、当方、同意できません(笑)。自宅兼事務所の庭の連翹や桜の蕾がふくらんできたのを見て、「もうぢきだ」と思っています。


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