カテゴリ:東北 > 宮城県

今年ももうすぐ3.11、あの日から13年ですね。

智恵子の故郷、福島二本松の南、郡山でのイベントです。

光太郎智恵子に直接関わるものではないようですが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっていますので、ご紹介します。

3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない

期 日 : 2024年3月10日(日)
会 場 : 郡山市労働福社会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 13:30~
料 金 : 無料

2024年3月11日(月)、「3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない」を開催します。ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

講演 「福島原発事故は人々に何をもたらしたのか」
 講師  関礼子さん(立数大学社会学部教授)

パネルディスカッション 「原発事故から13年を語る」
 コーディネーター 関礼子さん
 パネラー 
  ふるさとを返せ津島原発所訟原告団、子ども脱被ばく裁判原告団、福島原発被害井護団

女川原発差し止め訴訟からの報告

福島の取り組みからの報告
 福島原発事故被害から暮らしと健康を守る会
 市民立法「チェルノブイリ法日本版」をつくる郡山の会
 小児甲状腺がん支援グループ あじさいの会
 請戸テントひろば
 汚染水の海洋投棄を止める運動連絡会

お問い合わせ
 3.11原発いらない福島実行委員会 080-6220-0996(藤井)
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13年が経ちますが、いまだに複数町村で「帰還困難区域」が存在する現状。これで「原発事故はもう終わった話」とは言わせないぞ、と思います。
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また、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町の原発再稼働に関しても議題に。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

遠くから見てゐると東京では随分無駄な動きに人々が喘いでゐるやうです。


昭和21年(1946)10月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住してからまる一年、花巻町疎開から数えれば約1年半。すっかり地方からの視点になっています。

「めぐみネット 共同通信アグリラボ」というサイトに出ていた記事です。共同通信さんの関係なので、全国の地方紙いくつかには掲載されたのではないでしょうか。ご執筆は日本離島センター専務理事・小島愛之助氏。 

よんななエコノミー 震災からの復興と離島振興 宮城県女川町

013 元日に能登半島地震が起きると、宮城県女川町は6日、備蓄していたアルファ米や野菜ジュース、ポリタンク、非常用飲料水袋など生活物資を被災した石川県志賀町に提供し、その3日後には副町長ら職員4人を現地に派遣した。女川町は、東日本大震災の復興支援で志賀町から2015年度に事務員、19年度に保健師の派遣を受けており、同じ被災地として手を携えていこうとしている。
 その東日本大震災によって女川町も壊滅的な被害を受けたが、「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに、急ピッチで復興まちづくりを行ってきた。その効果もあって、女川駅や駅前商店街(シーパルピア女川)を中心として、かつてのにぎわいが戻ってきている。また、大震災の被害を千年後まで伝え、命を守りたいという思いから、町内21カ所には「いのちの石碑」が建っている。この石碑は、大震災の年に中学校に入学した子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、建設資金の調達や石碑のデザインなどを行ったものである。
 女川町には、人口が50人足らずの江島と約90人の出島の二つの有人離島があるが、このうち出島を今回は紹介したい。出島は、女川町の沿岸から一番近いところで300メートルほどしか離れていない。そのため、本土と島を結ぶ全長364メートルの橋を建設する出島架橋の整備事業が17年からスタートし、昨年11月に橋の中央部分が設置された。今後、道路の整備などが進められ、ことし12月に開通する予定である。
 出島への交通アクセスは、シーパル女川汽船の「しまなぎ」で女川港から20分。出島架橋が開通すれば、女川の市街地から車で15分に短縮されるという。時間・距離の短縮はもちろんのこと、病気やけがなどの緊急時にすぐ搬送できないという問題が解消し、住民の安心な生活につながるという点も大きい。一大漁業基地であり、釣り客のメッカでもある島と本土が陸路でつながることで、島の産業が継続的に営まれていくというメリットも多大である。
 出島には縄文時代の配石遺構があり、「出島ストーンサークル探検ツアー」の実施主体となっている「一般社団法人 女川未来会議出島プロジェクト」は、架橋後の町施設の管理をはじめとして、島の観光など各種事業の発展と創出に関わる支援を行うことにあるという。
 同プロジェクトの代表理事を務める高野信さんは福島県郡山市出身の元教員。定年後に教員時代の上司の故郷である出島に半ば移住した。架橋の効果も相まって、離島観光が女川町の復興に大きく寄与することを期待したい。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ詩文を残したゆかりの町として「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。東日本大震災では甚大な被害でしたが、その後、記事にあるとおり、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、10年以上かけて町内の海岸沿いの高台等に全21基の「いのちの石碑」が建てられました。
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そういう女川町さんですので他人事ではないと、能登半島地震に被災地に対しての素早い支援。記事は先月のものですので「6日」とあるのは地震発生から5日後の1月6日(土)です。素晴らしい。

その背景には、東日本大震災の折に、今回大きな被害のあった志賀町さんから支援を受けていたお返し的な要素もあるとのこと。まさに「情けは人のためならず」。ちなみにこのことわざ、「他人に情けをかけるとそのひとが甘えてしまって結局はその人のためにならないから控えるべきだ」という意味だと誤用されることが多いそうですが、正しくは「常日頃から他人に情けをかけておけば、いざ自分が困った時にそれが返ってくる」という意味ですね。だからといってそれを期待して「常日頃から他人に情けをかけておこう」というのでもなく、逆に考えれば「常日頃から他人に反感を買いまくっている輩はいざという時にも助けてもらえないよ」ということになるのかもしれません。

その他にも東日本大震災の被災地から、今回の能登半島地震の被災地への支援が続々という報道をよく目にします。まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと思う今日この頃です。

記事内容に戻りまして、女川町の友人離島の一つ、出島(いずしま)。こちらには女川光太郎祭を主催されている「女川光太郎の会」の須田勘太郎会長がお住まいです。一度渡ってみようと思いつつなかなか果たせないでいるのですが、記事にある今年開通するという橋が完成すればすぐに行ける感じになりますね。ちなみに出島にも「いのちの石碑」が建立されています。
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3.11もあと1ヶ月ほど。13年経ちますが、福島の原発周辺など、いまだに復興の進まない地域もありますし、その後も今回の能登半島や熊本など地震の被害は後を絶ちません。それでもその都度、過去の教訓を生かしてやっていくしかないのだろうなと思います。

【折々のことば・光太郎】

どうか十分に治療を尽してください。牛乳などは三里塚の事だからたくさんあるのだらうと思つてゐますが、あびる程のんでください。日本には以前から牛乳が少くて一般人の健康にかなり影響してゐたと思ひます。岩手地方はすべて酪農にするといいと考へてゐます。


昭和21年(1946)8月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

千葉成田の三里塚に居た親友・水野葉舟宛書簡から。葉舟は結核性の肋膜炎で翌年には没します。光太郎、この頃から食と健康に関する発言が目立つようになります。家庭菜園に毛が生えた程度とはいえ、まがりなりにも農業に従事するようになったことが大きいのでしょう。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

宮城レポートの2回目です。

8月9日(水)、第32回女川光太郎祭が行われ、その様子は昨日レポートいたしましたが、そちらが始まる前、さらに午前中の光太郎文学碑への献花と午後の式典の間などに、会場周辺をうろうろしました。

見ておこうと思ったのは、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、「100円募金」で建てられた「いのちの石碑」。避難の際の目印となるよう、東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され続け、一昨年、予定の全21基がすべて完成しました。

以前にも拝見したのですが、港の東、山祇神社さん境内に建てられた碑。
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この碑を発案した、震災当時の中学生たちが作った碑ごとに異なる俳句、それから全碑共通の避難マニュアル的な文章などが刻まれています。これも全碑共通の右肩が上がったシルエットは町内の遺跡から発掘された鎌倉時代の板碑をモチーフとし、供養塔の意味合いも込められているとのこと。

1号碑が建てられたのは、平成25年(2013)。
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女川光太郎祭会場のまちなか交流館さんや、光太郎文学碑と隣接する震災遺構・旧女川交番などに設置されたパネルに、その際の様子が記されています。

それから毎年のように少しずつ碑が建てられ続け、最後の一基が建ったのが一昨年。その最後の碑は、新設された女川小中学校内に設置され、まちなか交流館さんからも見えました。
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高台に建てられたそれは、まるで町中心街を見守る守護神のようにも見えました。これからも、その役割を果たし続けてほしいものです。

8月10日(木)、女川町を後に、松島町に向かいました。そのあたりは、明日。

【折々のことば・光太郎】

今ちゑ子は殆ど癡呆状態をつづけてゐます、此は体質に潜んでゐた精神病の素質が出て来たのではないかと心配してゐます、遺伝梅毒の懸念を持つて血液検査をしてもらひましたところ此方は痕跡無しといふ事です、 年齢上の更年期に来る強い神経衰弱かとも思ひますがそれにしては少し度が強過ぎます、

昭和8年(1933)11月6日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

8月から9月にかけ、東北と北関東の温泉廻りをした後、智恵子の心の病状は却って悪化していました。そこで脳梅毒の検査をしてもらったところ陰性だったとのこと。わざわざ陽性だったものを陰性だったと虚偽の記述をしないでしょうから、これは真実でしょう。

しかし、ネット上などではまことしやかに「智恵子は脳梅毒だった、若い頃の光太郎が女遊びにうつつをぬかしていたせいだ」と、エビデンスも明記せず面白おかしく書いている輩が多く、閉口しています。

2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。

女川光太郎祭を昨日無事に終え、千葉に帰る途中で松島瑞巌寺さんに立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲作の木彫観音像を拝観、さらにそれを描かれた作品も含まれる墨画家・一関恵美さんの個展〈千貫之風 sengan no kaze〉を拝見。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜から宮城県牡鹿郡女川町に来ております。
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『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を訪れたのが昭和6年(1931)。それを記念しての「女川光太郎祭」が、今日、4年ぶりに通常開催されます。
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詳しくは帰りましてから。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

本日開幕です。

一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉

期 日 : 2023年7月13日(木)~10月1日(日)
会 場 : 瑞巌寺宝物館 宮城県宮城郡松島町松島字町内九十一番地
時 間 : 8:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 大人700円 小中学生400円

墨画は水と墨と紙から生まれる無限の濃淡と、滲みと調和から表現される作品です。この度瑞巌寺宝物館では、仙台在住で墨画家として活動されている一関恵美氏の墨画展を開催いたします。皆さまの心に恵風が吹き渡りますように。関連企画として墨色七夕の展示・制作実演・墨画体験ワークショップなどもございます。(瑞巌寺さんサイトより)

伊達政宗公の菩提寺 国宝 瑞巌寺にて 松島湾から青龍山をつなぐ杉の参道 禅寺の静寂 神秘的な風吹く松島の地 墨画の世界 心をこめて墨を磨り 濃淡やあわいにじみで表現した墨画を展示致します。 瑞巌寺の夏から秋にかけて 季節のうつろい 木々や花々の変化も愛でながら 「千貫乃風」ご高覧頂きたくご案内申し上げます。(一関さんサイトより)
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墨画家の一関恵美さん。光太郎作品の朗読にも取り組んで下さった朗読家の荒井真澄さん、光太郎がらみのコンサートを開かれたピアニスト・斎藤卓子さんとともに「シューマンと智恵子抄」(平成24年=2012)、「楽園の月」(平成25年=2013)等に作品を寄せられた方です。日比谷松本楼さんでの第57回連翹忌の集いでは、斎藤さんのピアノにのせてアクションペインティングをご披露下さいました。

昨夜、荒井さんから画像が届きまして、それがこちら。今日現在、こちらのフライヤーの画像がネット上に見つけられませんで、そのまま載せます。
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左上が一関さんが描かれた聖観音像。光太郎の父・光雲作の大きな像で、瑞巌寺さんの庫裡に納められているものです。こちらの絵も展示されるということでしょう。ありがたし。

10月1日(日)までと、会期が長いのもありがたいところです。今年は4年ぶりに女川光太郎祭が元の規模で開催されますので、その帰りに立ち寄ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君の葉書にある通り晴朗こそ欲しい。しかし其は言葉で書かれた晴朗では役に立たない。晴朗が言葉にあらはれたのでなければ意味を持たず、又人を決して打たない。内なる世界が晴朗である時のみ晴朗なものが生きてあらはれる。僕も晴朗を自分に望んでゐるが、まだ中々晴朗なものは及びもつかない。ウソの晴朗を書いて死んだものを作るよりは、むしろ自己のなりのままをさらけ出して人に訴へるものを書く気でゐる。さうして心を鍛へてゆけばおのづから晴朗な内奥の自己に到達すると信じてゐる。


昭和3年(1928)2月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

ポジティブですね。しかし、そのポジティブさが脳天気なそれではないところが、光太郎の光太郎たる所以の一つです。

今年も3.11が近づいて参りました。「あの日」から丸12年ですので、亡くなられた方々の十三回忌ということになります。その中には、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏も含まれます。

『毎日新聞』さん、2月19日(日)の記事から。女川町に建てられ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関わります。

「記憶のない私は何もできない?」 母と向き合った14歳の決意

 宮城県石巻市立桃生(ものう)中学校2年の武田瑚白(こはく)さん(14)は、夏休みに書いた作文に胸の内をつづりました。まだ2歳だった「あの日」の記憶はほとんどありません。
 東日本大震災の発生から間もなく丸12年になります。この春からは小学校の全学年が「震災後生まれ」です。当時を知らない世代にも震災を身近な出来事と受け止めてもらい、将来の災害から命を守るためにはどうすればいいのでしょうか。
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  瑚白さんが生まれ育った石巻市は2011年3月11日の大震災で津波にのまれたり、避難生活で体調を崩したりして、約4000人が犠牲になりました。当時、暮らしていたアパートは津波の被害を免れ、両親とも無事でした。でも、隣町の女川町にあった母志乃さん(45)の実家は流され、同じ町に住んでいた曽祖父母や叔母らが亡くなりました。
 テレビで震災特集が始まると「見たくない」とチャンネルを変え、街に流れる防災サイレンの音を聞き「思い出す」と体をビクリと反応させる母。そんな様子を見て、いつしか「震災には、触れちゃいけないのかな」と思うようになりました。
 被災地の人たちは、日ごろから震災について語り合っているわけではありません。多くの人が心に傷を負っただけに「思い出したくない」「思い出させて、傷つけてしまうかもしれない」との不安があり、震災を話題にしづらい空気もあるのです。
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東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町の実家跡地で長女瑚白さんと話す武田志乃さん

ありのままに伝えることで
 瑚白さんに昨年7月、転機が訪れます。それは桃生中の阿部一彦校長(56)が「より深く震災のことを理解するきっかけになれば」と初めて企画した社会科見学での体験でした。まずは海から約1キロにあり、教室などが黒焦げのままの石巻市立門脇(かどのわき)小学校の被災校舎を訪ねました。当時の惨状を語ったのは、伝承活動を支援する団体「3・11メモリアルネットワーク」の藤間千尋さん(44)です。
 3階建て校舎には1階天井に近い高さ約1・8メートルまで津波が襲いました。街では車のガソリンなどが流れ出して「津波火災」が起き、校舎も火災に。校内の児童224人と教職員は高台に避難し助かりましたが、下校した児童7人が犠牲となりました。
 震災の惨状をありありと語る姿に瑚白さんは「石巻で被災した人だろう」と思い込んでいました。でも藤間さんは神奈川県出身。1995年の阪神大震災の時、高校2年生で被災者の救援に駆けつけられなかった後悔がありました。そんな思いが背中を押し、震災後に石巻でボランティアを始めて移住した人でした。
 藤間さんは、被災者や語り部の体験に耳を傾け、その言葉や思いをありのままに伝えるよう努めたといいます。「経験していなくても伝えられることはある。みんなも伝える一人になって」との言葉が、瑚白さんの胸に刺さりました。
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門脇小学校の被災校舎前で藤間千尋さん(中央)の説明を聞く桃生中学校の生徒ら

「生きて戻ってきて」校長の言葉の意味
 その後、女川町立女川中学校(震災当時は女川第一中学校)の旧校舎の脇にある「女川いのちの石碑」を訪ねました。阿部校長は、震災時に社会科教諭としてこの中学に勤めていました。校内にいた生徒たちの命を守った一方、自宅に帰った生徒2人が犠牲になりました。学校再開後も生徒たちに街の様子を見せるか迷い教室のカーテンを閉めたこともありました。窓から見える一面のがれきの中で遺体を捜す人もいたからです。
 阿部校長は、教え子たちが「1000年後の人にも震災の教訓が伝わるように」と、この石碑を建てたことを説明。そして「命って一つしかない。一人一人の命が大事だよ」と力を込めました。桃生中で阿部校長は連休前の集会の時に「生きて戻ってきてください」と話していました。その言葉の意味が瑚白さんには実感をもって伝わってきたそうです。
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石巻市立桃生中学校の阿部一彦校長(右)から震災体験を聴く生徒たち。
後方にあるのが「女川いのちの石碑」

 「私たちは震災を経験した人から話を聞ける世代。被災した人の気持ちを100%理解できなくても『もっと知ろう』と聞くことで少しずつでも近づけるはずだ」。そう感じた瑚白さんは「少年の主張」大会に向けて作文に書こうと決め、震災体験を志乃さんに聞くことにしました。
 でも、志乃さんは戸惑います。「もう、あんな思いを誰にもしてほしくない」と経験を伝えたい気持ちがある一方、思い出したくない記憶でもあったからです。それでも、我が子が熱心に相談を持ちかける姿を見て「もう中学生だし、娘の手伝いができたら」と話すことにしました。
 震災直後、瑚白さんの妹の瑚志(こゆき)さん(11)の出産予定日が迫る中、女川の実家が跡形もなく流され、がれきの街で両親を捜し回ったこと。出産後は物資不足でミルクさえ手に入らずに不安だったこと……。話したことで心が少し整理され「私も前を向かなきゃ」と思えたそうです。
 志乃さんはこうも言います。「震災を経験したからこそ簡単には伝えられないこともある。『責任を持って伝えたい』という娘の姿は頼もしく、娘たちが体験者の話を心で受け止めたことを、年の近い世代に伝える方が響く気がします」
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火災が発生した住宅街=宮城県石巻市で2011年3月11日

「命のバトンを終わらせたくない」
 桃生中では、昨夏の社会科見学後、昼休みや放課後を利用した自主学習活動に、「いのちの大切さを考える会」が加わりました。瑚白さんはリーダーを務めています。震災後生まれの最初の世代である妹に、いつか自分の言葉で語り継ぐことが目標になったそうです。作文の最後にはこう書きました。<命のバトンを、絶対にここで終わらせたくない>
 被災地では、災害を体験した人たちが、その記憶や教訓を伝える「語り部」をしています。当事者の声は心に訴える力があり、各地の震災遺構や伝承施設で聞くことができます。被災地に足を運べなくても、文部科学省の「学校安全ポータルサイト」で、若い語り部による「東日本大震災の教訓を語り継ぐ動画教材」が見られます。
 文科省は12年に閣議決定された「学校安全の推進に関する計画」で、東日本大震災では徹底した防災教育により危険を免れた学校などがあったことに触れています。その上で「地域で語り継がれてきた災害教訓の中には、地域の特性によらない普遍的な内容も含まれており、それを受け継いでいく中から具体的な対策が見いだされることもある」として、児童・生徒らによる語り継ぎが重要だと指摘しています。
 被災地では学校で「語り継ぎ」を進める取り組みも始まっています。宮城県気仙沼市立鹿折(ししおり)中学校は、生徒が震災を体験した地域の人たちにインタビューした内容をまとめ、地元の小学生や大人たちに発表。生まれる前の災害でも、身近な人に聞くことで自分のことと捉えやすくなります。
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津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の街を歩く人たち=2011年3月14日

「誰でも語り継げる」
 02年度に開設された兵庫県立舞子高校の環境防災科で、初代科長を務めた諏訪清二さん(62)=防災教育学会会長=は「1期生は阪神大震災があった時、まだ小2でした。授業で『語り継ぐ』をテーマに作文の課題を出したところ、親に初めて体験を聞いた生徒も多くいました。語り継ぐ役割を親だけに期待せず、学校がきっかけを作り、自然と親子で語らうことが大事です」と言います。
 その上で、学校教員に対しても「自分は経験していないからと引いてしまうのではなく、先生も、生徒も『誰でも語り継げるんだ』ということを一緒に学んでほしい」と話します。

12年が経とうとし、震災を直接知らない世代が増える中、いかに伝えていくかというのは本当に大切な課題ですね。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。七月一日頃神戸着の由。二ヶ月間のうちには君にも会へる訳である。碧い空と紫の水とを見て愉快に日を送つて居る。


明治42年(1909)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

明治39年(1906)2月に横浜を出航し、カナダのヴァンクーヴァーから大陸横断鉄道でニューヨークへ。翌年には豪華客船オーシャニックでロンドンに。さらにその翌年、英仏海峡を渡ってパリ。それぞれの都市で約1年ずつを過ごし、最後はおよそ1ヶ月間のイタリア旅行。3年余りの留学も終わりを告げ、ぐるりと地球を一周して日本に帰ります。

宮城県から生涯教育系講座の情報です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年10月8日(土) 11月12日(土) 12月10日(土)
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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内容的には7月から9月まで行われていたものが再度開催されるようです。それだけ人気が高かった講座なのでしょう。

詩人・茨木のり子を中心に、茨木が評論等で取り上げた金子光晴山之口貘、石垣りん、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋、そしてわれらが光太郎についても触れて下さるそうです。

ところで、探し方が悪いからなのかもしれませんが、以前はもっとたくさん各地で行われていたこの手のカルチャー講座が少なくなったように感じます。コロナ禍も影響しているのかもしれません。教室閉鎖といった記述も見られますし……。

それだけに貴重な機会です。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方細田明子さん婚約者(医師)と同道くる、五月廿五日披露会によばれる、諾、

昭和29年(1954)4月18日の日記より 光太郎72歳

細田明子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた荒川区三河島のトンカツ屋「東方亭」の息女です。光太郎は彼女が幼い頃から娘のようにかわいがり、詩「少女に」(昭和16年=1941)、「女医になった少女」(昭和24年=1949)などの詩のモデルとしました。
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詩の題名通り女医となった明子さん、この年、結婚なさり、光太郎披露宴に招待しました。光太郎、一度は承諾したものの、結局、体調がすぐれず欠席することとし、6月8日には記念帖を進呈しました。
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曰く

心臓をわるくしてゐてお祝に出られなかつた お二人は殊に心臓がおつよいといふ事だし それにあやかりたかつたが是非もなかつた たゞ新郎が心臓専門なのは心づよい 光太郎

テレビ放映情報です。

徳永ゆうきの一期一会はなうた旅 #22

BSJapanext 2022年8月29日(月) 19:58〜21:00

実力派演歌歌手の徳永ゆうきが北海道・東北地方の7道県をおさんぽ! その土地にゆかりのある方と一緒に北国の絶景やグルメ・工芸品等を巡ります。旅先を訪れる際にはその場所にまつわる”はなうた”を歌いながら、別れ際にはお世話になった方々へ歌をお届けします♪ みるだけでなく、聞いても楽しい旅番組です!

今回の「はなうた旅」の舞台は宮城県。演歌歌手の徳永ゆうきが女川町を旅します。
▼ダンボールで作ったランボルギーニ!?
▼三陸の海の素材を使った石鹸とは?
▼絶品!銀鮭のフルコースに舌鼓!

出演者 徳永ゆうき

6月に放映された#12では、智恵子の故郷・福島県二本松市が取り上げられ、智恵子についても言及していただきました。

今回の舞台は、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町。
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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を連載するために三陸一帯を旅した光太郎。女川にも宿泊しました。それを記念して、平成3年(1991)には光太郎文学碑が建立され、翌年からは毎年8月9日に女川光太郎祭が開かれています(一昨年からコロナ禍のため中止)。

平成23年(2011)の東日本大震災では甚大な被害となり、その後、津波からの避難のランドマーク「いのちの石碑」が、光太郎文学碑の精神を受け継いで全額寄付金で建立されました。活動の中心メンバーの一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさって下さっていました。

その女川町でのロケということで、光太郎文学碑、いのちの石碑、ちらっとでもご紹介いただければ幸いです。

番組紹介文にあるのは「ダンボールで作ったランボルギーニ!?」。
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「絶品!銀鮭のフルコース」。
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ちなみにこの銀ザケ、女川の出島にお住まいの漁師にして女川光太郎の会会長・須田勘太郎さんから毎年のようにクール宅急便で送っていただいております。
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ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

大沢より映画班の人車でくる、それにて大沢山水閣泊り、 入浴、今日の湯はあつし、

昭和28年(1953)11月25日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った岩手花巻。

「映画班の人」はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」制作スタッフです。光太郎の帰郷に便乗したか、撮影のために帰郷したか、ニワトリが先か卵が先か何とも云えませんが、翌日から撮影も行われました。

新刊、というより稀覯書の覆刻、さらに2ヶ月ほど経ってしまっていますが……。

石川善助詩集『亜寒帯』復刻版

2022年6月27日 石川善助著 モリナカヒデキ編 あるきみ屋 定価990円(税込み)

詩集『亜寒帯』は1936年に刊行された石川善助の唯一の詩集であり遺稿詩集です。編纂は逸見猶吉、草野心平、宍戸儀一。装幀は亀山巖。1970年に名著刊行会から再刊されて以来、52年ぶりに北海道の小さな版元から復刻されました。

石川善助は1901年仙台市国分町の生まれ。さまざまな職業に就きながら詩作や民話研究に励んだ後、27歳の時に上京しました。小森 盛、高村光太郎、草野心平、尾形亀之助、佐藤惣之助ら多くの詩人と知り合い、とくに草野心平とは自宅に居候するほど親交がありました。また、宮沢賢治とはお互いに才能を認め合う仲で、善助の死後、追慕を綴った賢治の手紙が残されています。

善助は1932年に酒に酔った帰り道に誤って線路脇の側溝に転落し、31歳の若さで生涯をとじました。生前に詩集は刊行されませんでしたが、友人たちによって没後4年目に詩集『亜寒帯』が刊行されました。序文は高村光太郎。

<彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。〜詩集『亜寒帯』序文より〜>

本書は北海道根室市のあるきみ屋によって原本に近い形で、2022年、善助の命日である6月27日に復刻されました。合わせて、宮沢賢治「石川善助に」、「宮沢賢治と児童文学」編者執筆、郡山弘史「亜寒帯の詩人」、「石川善助と草野心平」編者執筆を収録。さらに別冊で詩集「亜寒帯」用語の手引きと、石川善助作・童話「海豹と市長」が付いています。

仙台市太白区の愛宕神社の山門脇には詩碑「化石を拾ふ」が広瀬川を見下ろすように今も立っています。
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石川善助(明34=1901~昭7=1932)。当方は光太郎との絡みで存じていましたが、一般にはほとんど忘れられつつある名ではないかと存じます。

光太郎が序文を書き、没後に刊行された唯一の詩集『亜寒帯』が覆刻されました。おそらく商業ベースでは採算が取れるかどうかと云う出版と存じますが、敢行なさった版元の英断には敬意を表します。

死後、地元の友人が編集・発行した随筆集『 鴉射亭随筆 』に寄稿された宮沢賢治の「石川善助に」を収録、さらに編者・モリナカヒデキ氏による、石川と賢治や当会の祖・草野心平との関係に触れた解説つきだそうです。

また、附録として石川の童話「海豹と市長」、用語解説集が付いているとのこと。
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ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午前九時35分常盤線花巻行、 みちのく号、草野君、難波田君同車、食堂にてビール、 夕方七時花巻着、清六さん等出迎にゐる、

昭和28年(1953)11月25日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに岩手に帰りました。このあと、12月5日まで滞在します。

当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで過ごし、気候のいい時期には花巻郊外旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

生涯教育系講座です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年7月9日(土) 8月6日(土) 9月10日(土)
会 場 : 河北TBCカルチャーセンターエスパル教室
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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講師の渡辺善雄氏、平成29年(2017)にはNHKカルチャーさんの仙台教室で「東北ゆかりの作家たち」という講座もなさっていました。

今回は「茨木のり子を中心に」ということだそうです。茨木のり子は大正15年(1926)、大阪の出身。光太郎とは直接の面識はなかったようです。詩集『自分の感受性くらい』などで有名ですが、講座の案内にあるとおり、『うたの心に生きた人々』、『詩のこころを読む』など、近現代の詩人の評論なども遺しました。当方、2冊とも持っていたはずなのですが『詩のこころを読む』が見つかりません(笑)。

『うたの心に生きた人々』は、平成6年(1994)、ちくま文庫の一冊として刊行されました。元版は昭和42年(1967)、さ・え・ら書房さんから出ています。与謝野晶子、光太郎、山之口貘、金子光晴の4人の評伝集です。元々ジュニア向け的なところもあり、平易な語り口ですが、おさえるべきところはきちんとおさえ、入門編としては好著です。

光太郎の項の扉には「日本の詩に新しい道をひらき、「現代詩の父」とあおがれながら、戦争賛美詩も書いたが悪びれず反省し責任を負った古武士のような詩人。」とあります。言い得て妙、ですね。
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ちくま文庫版は絶版のようですが、童話屋さんでは、『うたの心に生きた人々』を、取り上げられた4人それぞれ1冊ずつの分冊として刊行しています。光太郎の巻は『智恵子と生きた-高村光太郎の生涯-』というタイトルです。

さて、講座「現代の詩と詩人」、お近くの方、ぜひどうぞ。

余談になりますが、今週木曜には、当方も市民講座講師を仰せつかっております。埼玉県東松山市の「きらめき市民大学」さんというところでのクローズドの開催なので、一般の方はご参加いただけません。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があり、そのご縁で、同市と光太郎、さらに彫刻家・高田博厚との関係でお話をさせていただいております。毎年生徒さんが変わるということで、ほぼ同じ内容。楽をさせていただいて申し訳ないのですが(笑)。

他の自治体さん、各種団体さん、日程さえ合えば(さらに交通費くらいは出していただければ(笑))光太郎に関する講座講師、お受けいたしますので、コメント欄等からご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

北川太一氏来訪の由、抹茶、玉露、菓子「老松」等もらふ、


昭和28年(1953)5月6日の日記より 光太郎71歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この頃は日本橋にお住まいだったはずですが、なぜか京都の銘菓「老松」をご持参。京都へ行かれるご用事でもあって、京土産だったのでしょうか。

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。平成23年(2011)に起きた東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。

中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、募金で賄われました。平成25年(2015)の1基目に始まり、年に数基ずつ建てられ、昨年には当初予定の21基めが竣工しました。

先週、5月19日(木)のkhb東日本放送さんのローカルニュースから。

宮城県の新たな津波浸水想定 沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しへ

 宮城県が先週公表した津波の浸水想定についてです。公表から1週間、沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しに動き出しています。災害への備えに終わりはない、次の災害に備える住民の思いを取材しました。
  県が、5月10日に公表した新たな津波の浸水想定。満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定していて、浸水面積は県全体で391平方キロメートルと東日本大震災の1.2倍に上ります。
 宮城県河川課佐藤宏課長「何としても人命を守るのが今回の主眼。何があってもとにかく逃げるという行動を取ってください」

■津波で被災し移転するも移転先が浸水想定域に
 東松島市のあおい地区で、自治会長を務める小野竹一さん(74)です。東日本大震災の津波で、海の近くの大曲浜にあった自宅が流されました。
 安全な場所を求めて、2016年に海から3.5キロほど離れたあおい地区に移転した小野さん。しかし、新たな想定ではこの地区にも津波が及びます。
 あおい地区会小野竹一会長「ここには津波来ない。大丈夫という先入観がすごくあったと思う。自分の命を守るために、どんなふうにするのかが大事ですから、それに適応した暮らし方、避難の仕方、高齢者、小さい子どもを守るためにどんなことをしていなかればいけないか」
 東松島市には、最大10.6メートルの津波が押し寄せる想定です。今回の想定では、東日本大震災の1.3倍が浸水することに。
 あおい地区は市内最大の集団移転団地で、災害公営住宅や戸建ての住宅に580世帯、約1300人が暮らしています。
 東日本大震災では津波は到達しませんでしたが、今回の想定では1メートルから3メートルの津波が押し寄せます。
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■新たな避難マニュアルを作成へ
 あおい地区の自主防災組織では、これまで年に2回のペースで防災訓練を行ってきました。今後、内陸や高台への避難場所を盛り込んだ避難マニュアルを作成することを決めました。
 あおい地区会小野竹一会長「あおい地区として、一番良い避難マニュアルをこれから作っていく必要がある。できれば6年の総合防災訓練までには、住民に示すことができれば、一番良いのかなと思う」
 東日本大震災を上回る災害にどう備えるのか。岩沼市は県の担当者を招き、19日に住民説明会を開催。この他、松島町と利府町以外の12の市と町でも住民説明会を検討しています。
 宮城県河川課佐藤宏課長「もしかすると、あの時よりも深くなるかもしれない。そういったことがあり得ることを常に認識しながら、津波、地震が来た時には、避難という行動を取っていただきたいということを説明していく」

■避難して命を守ることの大切さを訴える
 今回の想定を受け、思いを新たにした人がいます。津波で母親と祖父母を失った、女川町の鈴木智博さん(23)です。
 震災後、中学校の同級生たちと津波が押し寄せた町内の21カ所すべての地区に石碑を建て、避難して命を守ることの大切さを訴え続けています。
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 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「やっぱり、ここまで来るのかと驚きました」
 女川町では、最大20.7メートルの津波が想定され、浸水面積は東日本大震災の2.1倍に拡大します。
 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「どれだけ災害に備えていても終わりはないと考えていますし、少しでも命を守れるような行動を取ってほしいと自分たちの経験からも思う」
 竹浦地区に造った石碑。そこに刻んだ言葉。
「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
 新たな想定では、津波はこの石碑を超えることが分かりました。東日本大震災を上回る災害に備える。次こそ、命を守る避難を。
 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「今回の浸水想定が出たことで、新たに災害に対する関心が上がったと思うので、この機会に改めて災害に対する準備や避難の行動を考え直してほしいと思う」
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鈴木さん、中高生の頃、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文を書くため女川にも立ち寄ったことを記念して行われている(一昨年・昨年はコロナ禍のため中止)女川光太郎祭にご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。

あまり考えたくないのですが、あの大津波を上回る想定が新たに出され、防災計画の見直しも必要とのこと。「満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定」とのことですが、決してあり得ない話ではないわけで……。

もう1件、やはり「いのちの石碑」がらみで、地元紙『河北新報』さんから。やはり5月19日(木)の報道でした。

女川・出島の自然や歴史堪能 有志がトレッキングコース整備

 宮城県女川町の離島・出島(いずしま)で、有志のグループがトレッキングコースの整備を進めている。豊かな自然や歴史に触れられる約10キロの周回路で、今年4月にルートが決まった。島と町本土を結ぶ出島架橋の開通を2024年度に控え、関係者は観光の目玉にしようと、韓国版トレッキング「宮城オルレ」の認定を目指す。
 コースを作ったのは島内外の有志でつくる「女川未来会議出島プロジェクト」。出島架橋後を見据えて新たな観光資源を発掘するため、トレッキングに着目した。プロジェクト事務局の高野信さん(63)=郡山市=が20年3月に島民対象の説明会を開き、理解を得て整備に取り組んでいる。
 人口減少で使われなくなり、草木が生い茂るかつての生活道路を基にコースを検討。島の西側中央にあり、巨石が並ぶ縄文時代の配石遺構群「出島遺跡」を発着地に選んだ。ボランティアの協力を得て樹木を伐採したり急斜面にロープを設置したりし、水平線を一望できる入り江や神社、漁港を巡るルートを決めた。
 女川中の卒業生が東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えるため、島内2カ所に建立した「女川いのちの石碑」もコースに取り入れ、震災の教訓を伝える。
 コースは決まったが、課題は残る。案内板がなく、ルートを示すテープの設置も不十分。島内に商店はなく、飲料の自動販売機が港に1台あるだけで、公衆トイレも1カ所しかない。
 高野さんはトイレ増設や駐車場設置を町に働きかける考え。「島民や町の協力を得ながら架橋開通までに島ぐるみで観光客を迎える環境を整えたい」と話す。
[出島]女川町本土から東に約300メートル離れ、面積約2・6平方キロメートル。女川港から離島航路を使い約20分で着く。主要産業は漁業。東日本大震災の津波で島民25人が犠牲になり、島内に1校ずつあった小中学校は2013年3月に閉校。人口は震災前の約500から94(今年3月末現在)に激減した。全長約360メートルの架橋は17年に着工し、24年度の開通を予定する。
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出島(いずしま)は女川湾の入り口に浮かぶ島で、女川光太郎祭を主催なさっている女川光太郎の会・須田勘太郎会長がお住まいです。人口が震災前の5分の1まで減少してしまったというのがショッキングでした。しかし、逆に本土から移住なさった方が民宿を開くなどの動きもありますし、画像にもある縄文遺跡なども貴重なものですね。



震災で25人が亡くなったという出島にも、鈴木さんらのご努力で「いのちの石碑」が設置されています。上記動画では4:55頃から。

こちらにも一度行ってみようと思いながら果たせないでいます。今年は女川光太郎祭も復活することを期待し、できれば足をのばしてみようかと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】003

晴、 手の彫刻の支度、 午后藤島さんくる、 谷口さんの彫刻写真撮影は来月にのびる、

昭和27年(1952)12月20日の日記より
 光太郎70歳

手の彫刻」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の習作です。大正7年(1918)作の「手」と同じく、観世音菩薩の印相・施無畏印の形をとっています。元々「乙女の像」が「智恵子観音」という当初構想からの発展系であることの名残です。

藤島さん」は、この頃、光太郎の身の回りの世話を何くれとなく見てくれた詩人の藤島宇内、「谷口さん」は建築家の谷口吉郎、「乙女の像」一帯の公園の設計を任されていました。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連、昨日でいったん終わるつもりでしたが、3.11当日の昨日も関連報道がありまして、予定を変更してそちらをご紹介します。

まず、『新潟日報』さん。

[座標軸]いのちの石碑 千年後のために伝えたい

 波は、こんなに高い場所にまで届くものなのか。
 11年前の東日本大震災で15メートルもの大津波にのまれた宮城県女川町を昨年3月、歩いた。
 震災直後に中学生になった女川町の子どもたちが「千年先の人々の命を守りたい」と発案して募金を集め建立した「女川いのちの石碑」を巡るためだ。
 碑は町内に21ある浜で津波到達地点より上に建てる計画で、訪れた時には20基が設置されていた。
 高台にある碑にはそれぞれ、異なる句が刻んであった。
 〈ただいまと/聞きたい声が/聞こえない〉〈逢いたくて/でも会えなくて/逢いたくて〉
 奪われた命への悲しさ、悔しさを胸に詠んだものなのだろう。
 碑の前で震災の日を頭に描こうとしたが、石碑から臨む海はどこも思っていた以上に遠く、静かで、なかなか像を結ばなかった。
 緊迫したあの日を想起させたのは、全ての碑に共通して刻まれていた避難を迫る一文だ。
 「大きな地震が起きたら、この石碑より上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」
 計画の最後となる21基目の碑は昨年11月に完成した。そこには、〈夢だけは/壊せなかった/大震災〉と、8年前に設置された1基目の碑と同じ句が刻まれた。
 千年先の命を守る。その夢は、あの日の教訓を永遠に伝え継ぐことで実現させたい。

続いて、兵庫県を放送対象地域とするラジオ関西さん。

《東日本大震災11年》「月のスマイル~夢だけは 壊せなかった 大震災」 手作り絵はがきに込めたぬくもりと愛の書

 東日本大震災から11年。1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を経験した元教師が、自ら描いた「月のスマイル」の挿絵に書とコラボレーションした絵はがきを作成、その売り上げを被災地の復興支援活動に寄付する。
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 大阪教育大学附属特別支援学校(旧・大阪教育大学附属養護学校)の教諭として31年間勤務した大島昇さん(71・大阪市大正区)は、20年ほど前に書家・川合翠石さん(49・大阪市阿倍野区)と出会う。
 川合さんは書家・榊莫山さんの晩年の弟子。近畿大学文芸学部芸術学科を卒業し、奈良教育大学大学院修士課程を修了。
 川合さんの一筆一筆の癒しの書は、素朴な画にフレーズを添える独自の書の世界を開き、親しみやすさと柔らかい語り口で多くのメディアに登場、「バクザン先生」と親しまれた榊莫山さんを思わせる。
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 「大島さんの月のスマイルには、優しさが一枚一枚にこもっている」と話す川合さんは、その絵に合う素朴な言葉を書で表現している。
 温かみのある絵に文字が加わることで、大きなメッセージになる。時に勇気づけ、時に和ませる。東日本大震災への思いを忘れないためにも、20年近くの親交のある、川合さんに書と絵画のコラボ絵はがきを作ることを提案、快諾を得て作成した。
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 書の世界は、従来の古典的なものから素朴なものまで幅広く、このようなスタイルは公募展ならば規定外、型破りとされるが、川合さんは墨の濃淡も考えながら、一枚一枚に優しさを込めた書を添えた。こうした取り組みは「大島さんとでなければ、出来なかった企画だった」と話す。
 やり直しが効かない直筆でのコラボレーション。楽しみながらコラボは続く。
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 大島さんは阪神・淡路大震災の被災地、兵庫県西宮市内の重度障がい者福祉施設の避難所へ、毎週末にカートやリュックに水や菓子などを詰め込んで届けた。その施設では、大島さんの恩師の小児科ドクターが泊まり込んでいた。そこで「この震災の記憶を決して忘れないようにしないとね」と話していたことが忘れられないという。
 その言葉を胸に、自分自身で何かできることはないかと思いついたのが、「月のスマイル」を描くことだった。鎮魂の祈りを込めて、1日1枚のペースで阪神・淡路大震災の犠牲者の数と同じ6434枚を、10センチ四方の和紙に約10年で描きあげた。
 大島さんが定年退職を控えた2011年3月11日に東日本大震災が起きた。退職後にボランティアの誘いを受けた宮城県石巻市の学校での炊き出しに出向いた。避難所となった施設での炊き出しを通して、被災地で懸命に生きる人々の姿を見て逆にエネルギーをもらったと振り返る。
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 そして阪神・淡路大震災と同様に、東日本大震災も忘れまいと自分の心に留め、「月のスマイル」の絵はがきを描いた。犠牲者、行方不明者(※)を上回る計1万9000人分を描き上げたのが2019年の夏だった。
 しかし、新型コロナウイルスの猛威は被災地と大島さんとの距離を遠ざけた。震災から9年経った2020年以降は、訪れることができなくなり、震災10年を迎えた昨年、宮城県女川町の支援学校や小、中学校、福祉事業所、「つながる図書館」などに、「月のスマイル」の絵はがきすべてを寄贈した。
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 大島さんは「関西から『忘れないよ!』というメッセージを送りたい、この絵と書を見てほっこりしてもらえたら」その一心だった。
 作成にあたり、印刷以外は専門業者を介さず、一からの手作り。絵はがき用に書きあげた百数十枚の作品の中から、川合さんと選んだ。そして昨年秋に1万5000枚(15枚組×1000セット)が完成した。
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 大島さんが震災直後に訪れた宮城県女川町では2013年11月に「女川いのちの石碑プロジェクト」がスタート。その最後となる21基目の石碑除幕式(2021年11月)に合わせて、コラボ絵はがきを届けることができた。
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 絵はがきは大島さん・川合さんらの友人や知人の購入協力で多くのカンパとなり、増刷もできた。ささやかな取り組みが実を結んでゆく。大島さんは「心温かい方々との良き出逢いと協力に、心から感謝するとともに、これからも活動を継続していきたい」と話す。
 震災から11年を迎え、大島さんらは多くの人に「月のスマイル」の絵はがきを手に取ってもらえるようになってもらいたいとの思いから、その売り上げを「頒布協力金」の収益として、「女川いのちの石碑プロジェクト」をはじめ支援学校や福祉事業所などに贈るという。

 ※2021年3月11日の震災10年を前に公表した警察庁の統計では死者1万5899人、行方不明者2526人 計1万8425人
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  【東日本大震災・チャリティー絵はがき「月のスマイル」】

〇金額 1セット15枚組・1500円で頒布(税込み金額 ※送料は別途必要) 
〇申し込み方法 希望セット数と送付先を nobo224@amigo.zaq.jp(大島昇さん)まで。折り返し、ゆうちょ銀行の払込用紙「いのちの石碑プロジェクト応援し隊」振込用紙を送付する。
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中越地震が起こった新潟、阪神・淡路大震災に見舞われた兵庫、やはりそれぞれ大地震の被災地ということで、東日本大震災で大きな被害を受けた地域へのシンパシーが深いのでしょう。他の地域の方々が冷たい、というわけではないのですが。

昨日もご紹介しました通り、今上陛下も高いご関心を寄せられている活動ですが、まだまだ全国的な認知度はそう高くないと思われます。また何か動きがありましたら、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

快晴、 朝薬師堂に参詣、小杉未醒作の薬師を見る、 蔦沼にゆく。 九時過車にて一同オイラセをさかのほり、子の口に至る、モニユマン建設地点を見る、 宇樽部に来り、東湖館入、 後小憩後舟にて十和田湖を一周、東湖館に帰着、夜談話、 (宇樽部泊)

昭和27年6月17日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。

子の口」は、十和田湖から奥入瀬川が流れ出す地点。元々、像はここに建設予定でした。その後、横槍が入り、現在の休屋地区に変更になっています。「宇樽部」は、子の口と休屋の中間の集落。「東湖館」についてはこちら。この夜、関係者一同の前で、モニュメント制作を引き受けることを公言、さらにプライベートで「智恵子を作ろう」と呟いたと云います。

3.11当日となりました。11年前と同じような、穏やかな朝です。あの日の朝も、また穏やかな一日が過ぎていくものだと信じて疑わなかったのですが……。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、とりあえず最後です。

昨日までと少し違った切り口で、3月6日(日)の『朝日新聞』さん。

(わたしと震災のあいだに 東日本大震災11年:1)いつか、語れるのかな 家族も家も無事 だから苦しくて それでも

 紺色の制服を着ているのは、私とあと数人しかいなかった。
 2011年4月。宮城県女川(おながわ)町にある女川第一中学(現女川中)の入学式。1カ月前の地震で体育館は壊れ、紅白の幕を張った図書室に約60人の新入生が集っていた。
 ほとんどはパーカやセーターなどの私服姿だ。着るはずだった制服は、家ごと津波で流された。部屋からあふれた上級生は、廊下で校歌を歌った。
 新入生だった阿部由季さん(23)は、自分が制服を着てきたことを悔やんだ。「なんで気づけなかったんだ。私だけ家があることを自慢してるみたい」
 東日本大震災で女川町は9割の住宅が全壊などの被害に遭い、800人以上が犠牲になった。
 5月の大型連休明け。窓を閉めても腐った魚のようながれきの臭いが漂う。放課後、学年主任の教諭に尋ねられた。「震災の前後で家族の人数に変化はありますか」。町役場は流され、住民に関する書類も失われた。学校が家庭の被災状況をつかむ調査だった。
 「先生、すみません」
 声が少し震えた。
 「家族は全員無事でした。家も被害がない。みんなに申し訳ないです」
 涙がほおをつたった。
 その数週間後、生徒たちの俳句が廊下に張り出された。
 「逢(あ)いたくて でも会えなくて 逢いたくて」
 「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
 自分は震災を簡単に語ってはいけない、と思った。

 16年8月、数台のテレビカメラに囲まれ、次々と質問される。「今はどんな思いですか?」「震災当時を振り返ってどうですか?」
 高校3年になった阿部さんが答えた。「将来の災害に備え、命を救えるようになってほしいです」
 中学2年から同級生たちと女川町に「いのちの石碑」を21基つくる活動を始めた。つらい経験をした友人も活動に参加しているのに、頑張らないわけにはいかないから。碑には「この石碑よりも上に逃げて下さい」と刻んだ。
 阿部さんは何度も取材に応じた。でも、事前に考えた内容にとどめ、自分の思いは口にしない。
 笑顔で話すのは失礼だと思い、眉間に力が入る。家族も家も無事だった自分が「被災者ぶっている」。そんな思いが心に居座り、苦しかった。
 高校を卒業して、教育に携わる仕事に就いた。子どもたちに震災のことを話したいと思っていたが、踏み出せないままだった。

 昨年11月、最後の21基目の碑が完成した。集まった報道陣に中学の同級生たちがそれぞれの思いを語ったが、阿部さんはそこでも発言を控えた。
 自分以外の7人は津波で自宅や家族を失っている。「私の話はやっぱり薄っぺらいから」
 ただ、震災直後と違うこともある。活動をともにしてきた友人たちがいる。
 その一人が鈴木智博さん(22)。震災で母や祖父母を亡くしている。数年前の3月11日に集まったとき、彼は「今日は法事で来るのがけっこう大変だったよ」とさりげなく言った。
 「ごめんね、気がつかなかった」。集まる日を決めた阿部さんは謝った。でも同時に、ずっと家族の話題を避けていた彼が「大変」と正直に伝えてくれたことが、うれしくもあった。
 震災体験は人によって違う。失っていない私は、悲しみを本当のところでは分からないし、震災を語れない。そんな気持はまだ消えない。それでも、お互いを受け入れあえる友人がいることに支えられている。
 コロナ禍が終息したら、そろった石碑の前で友人たちと語り部活動を始める。
 「私は自宅も家族も無事でした」。女川を訪れてくれた人に語れる日が来るのかな、と思う。

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読んで切なくなりました。「あなたが負い目を感じる必要はないんだよ」と云いたくもなりました。「震災で家族を亡くした友人がいる」というだけで、辛いことです。女川町の友人を亡くしている当方としては、そう思います。

続いて、『産経新聞』さんのニュースサイト。紙面に載ったかどうか、不明ですが。

震災11年 陛下見守られる「記憶の襷」 女川中卒業生が描く夢

 「バトンズ・オブ・メモリー(記憶の襷(たすき))」。天皇陛下が昨年、国際会合で紹介された東日本大震災の津波碑が、宮城県女川町にある。千年に1度といわれた災害で死者・行方不明者が800人を超えた同町で、悲劇を繰り返さないため、震災当時の子供たちが夢見た「1000年後の命を守る」21基の石碑。昨年11月には最後の1基が完成したが、成年となった子供たちは新たな夢を描き始めている。
 「石碑は、過去の災害を知るうえで役立つだけではなく、未来の人々の命を守るため、災害の記憶と教訓を未来へと繋いでいく『記憶の襷』でもあるのです」。昨年6月、各国首脳ら約500人が参加してオンラインで開催された「国連水と災害に関する特別会合」。陛下は1枚のスライドを示しながら、英語でこう、語りかけられた。
 スライドに映されたのは、震災直後の平成23年4月に女川第一中(現・女川中)に入学した生徒ら。社会科の授業で津波対策案を立て、町内にある21の全ての浜に避難の目印となる石碑を建てようと、募金活動を実施。半年間で1千万円を集め、25年11月に1基目を建立した。現在も卒業生ら十数人が石碑建立や教科書作り、体験の伝承などの活動を続けている。
 陛下はライフワークとして過去の災害の記録や石碑を研究しており、女川の石碑についても熱心に資料を集められていたという。ご研究を支える広木謙三・政策研究大学院大教授(62)は「『記憶の襷』というお言葉のとおり、過去に学び未来に生かすということは、陛下が大切にされてきたメッセージ。特に、若い世代の人たちがそうした活動に継続的に取り組んでいることに、関心を持たれたのではないか」と話す。
 「21基目が、できたんですね」。広木教授は昨年11月、陛下からこう、言葉をかけられたという。
  
 「自分たちの活動が、陛下のところにまで届いていたんだなあって。でも、まだ、これからなんです」
 10年以上活動を続けてきた女川第一中の卒業生の一人、伊藤唯(ゆい)さん(23)=横浜市=は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。最近、その「準備」として始めたことがある。
 《3月11日…教室で卒業式の準備をしていた時に地震が起きて、机の下に潜った…真っ黒な津波を見て言葉を失う…みんなで歌を歌って気持ちを紛らわした》
《4月12日…私服での入学式…「愛するふるさとが、大震災で大変なことになった。社会科として何ができるか。小学校で学んだことを生かして考えてみよう」…最初の授業の先生の言葉》
 スマートフォンのメモアプリに、びっしりと書き込んだ震災以降の記録。「自分の体験を、きちんと伝えられるように」と2月から書き始めた。でも、「一気には書けない」。
 毎年3月が近づくと、体調を崩す。当時の光景がフラッシュバックする。眠れない。昨年10月、東京などで最大震度5強を観測した地震でも大きな衝撃を受けた。それでも、「自分の言葉で伝えていけたら、伝わり方も変わるんじゃないか」とメモに向かう。震災と向き合う「怖さ」が「なくなってしまうことのほうが怖い」。活動を通じて、そう思うようになった。
 最後の石碑が完成した昨年、集まった同級生らは、「ここがスタートライン」と口をそろえた。活動について話し合う年末恒例の「合宿」にも、多くのメンバーが参加。「石碑を世界文化遺産に」「新しい教科書を作りたい」…。新たな夢、やるべきことが「山のように」出てきた。
 「石碑を設置して終わりじゃない。千年先に、あの石碑を使って一人でも多くの命を救えていたら、その瞬間に、自分たちの夢が本当にかなう」。1基目の石碑が建ったあの日のように、皆で描いた夢は必ず実現できると、信じている。
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第5回国連水と災害に関する特別会合」についてはこちら

11年が経ち、この手の報道は激減するのでは、と心配していたのですが、杞憂でした。マスコミの皆さんの「この手の報道を激減させてはいけない」という気概を感じます。ありがたし。

【折々のことば・光太郎】

古間木駅下車、副知事等出迎、車にて蔦温泉まで、三本木を通る、 大町桂月墓に詣づ、 (蔦温泉泊)〈(浴)〉


昭和27年(1952)6月16日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。もっとも、この時点ではまだ青森県からの依頼を受けるか否か、決めかねていましたが。「古間木駅」は、現在の三沢駅です。

もともとこのモニュメントが、十和田湖の国立公園指定15周年、さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月ら、功労者の顕彰碑というコンセプトだったため、桂月が移り住んだ蔦温泉に立ち寄りました。

昨日に続き、東日本大震災で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連です。

『毎日新聞』さん。3月6日(日)の一面トップでした。かつて数年間、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさった鈴木智博さんに迫ります。

宮城・女川、津波到達点の石碑 1000年後の命を守る

013 波は穏やかに打ち寄せていた。東日本大震災から10年以上が過ぎた宮城県女川町。多くの漁船が行き交い、カキなどの養殖が行われている女川湾を見下ろす高台に2021年11月21日、1基の石碑が完成した。碑にはこう刻まれている。「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」。碑の周りには20代の若者たちの姿があった。
 震災の教訓として、町内の沿岸部21カ所の「浜」と呼ばれる集落の津波到達点に石碑を建てる――。こう計画したのは、震災直後に中学生になった鈴木智博さん(22)をはじめとする仲間たち。11月に完成した碑が目標とした21基目。「1000年後の命を守る」。この誓いを、ともに被災した同級生たちと次世代に受け継ごうとしている。
 小学校の卒業を間近に控えた「あの日」の朝も、いつもと同じように母の智子さん(当時38歳)に見送られた。「行ってらっしゃい」という母の声は今も耳に残っている。
 小学3年だった妹と一緒にバス停まで走った。生まれ育った尾浦地区の当時の人口は約200人。ほとんどの家が漁を営んでいた。
 教室で卒業式の準備をしていた午後2時46分。突然「ドン」と突き上げるような揺れに襲われた。机の下に隠れたが、激しく動く机を押さえることができなかった。避難した校庭の地面はひび割れ、しばらくすると雪が降り始めた。体がぬれないよう、頭上に大きなブルーシートをかぶせられ、その下で膝を抱えて寒さをこらえていた。
 「津波が来たぞ!」。約50分後、大人の叫び声が校庭に響いた。より高台にある総合体育館に向かって走った。背後から地鳴りのような音に加え、流された建物がぶつかり合うごう音が聞こえ、同級生らの悲鳴と混じり合った。
 たどり着いた体育館で、毛布を体に巻いて過ごした。友人たちには次々と家族が訪れたが、自分の家族は姿を見せなかった。体育館の中はいつしか、家族単位と見られる固まりが増えてきた。「尾浦の方は家が残っているらしい」。そんな大人たちの会話が聞こえたが、不安は消えなかった。 父の高利さん(55)が体育館に現れたのは、震災から数日後だった。異臭が漂うがれきの中を歩き、尾浦地区の寺に身を寄せた。そこで、高利さんから、智子さんと祖父母の3人が「どこにもいないんだ」と知らされた。「どこかに逃げていてほしい」心の中で何度も祈ったが現実は非情で、3人は遺体で見つかった。
 古里の被害は甚大だった。住民約1万人の8%以上が津波の犠牲となり、6511棟あった建物の約65%が地震で全壊するか、津波で流された。自宅を失った鈴木さんは親類のいる仙台市に避難。さらに奈良県の親類宅に移った。女川町に戻るのは、再び雪がちらつき始める約9カ月後のことになる。

◇中学生が建立を計画
鈴木さんが進学するはずだった町立女川中学校(当時は女川第一中学校)は4月12日に再開し、入学式を行った。校舎は女川湾を望む高台にあり、被害を免れた。生徒の半数以上は各地の避難所から臨時のスクールバスで通った。
 未曽有の災害で教師たちも混乱を極めた。1年生の学年主任になった阿部一彦さん(55)も悲惨な出来事を経験した生徒とどう向き合うか悩んでいた。入学式から2日後にあった最初の授業は鮮明に覚えている。教室の窓は全てカーテンが閉められていた。壊滅的な被害を受けた町を見ないようにするためだった。 授業の冒頭に「今の女川にできることを考えてみよう」と切り出したが、生徒の反応は薄かった。「被災した町の様子も見せずに、どうやって古里のことを考えさせられるんだ」。思い切ってカーテンを開けた。3階の窓からは、がれきが広がる町の中心部と、遺体を捜す大人たちの姿が見えた。すると生徒たちも一斉に立ち上がり、窓から変わり果てた古里を見下ろした。
 「見せてはいけなかったかもしれない」。阿部さんは再びカーテンを閉めてから後悔したが、生徒たちは机に向かい「女川にできること」を書き始めていた。「漁業を復興しよう」「観光の町だけど、今は観光どころじゃない」……。10代の子どもたちなりに考えた未来への思いが並んだ。「前を向こうとする生徒のために、私も何かやらなければいけない」。阿部さんは生徒たちと、次のいけない」。阿部さんは生徒たちと、次の津波対策を考えていこうと決めた。
 授業の一環として生徒たちは町を歩き、津波の到達点を確認していった。震災から8カ月が経過した11年11月。津波の到達点に石碑を建設して避難路を整備することなど、三つの「対策案」をまとめた。
 1カ月後、鈴木さんが避難先から女川町に戻ってきた。久しぶりに会った同級生たちが石碑の建設を計画していると知って驚き、同時に否定的な考えが頭を占めた。「そんなこと、中学生にできるわけがない」
 だが、鈴木さんたちは、時に涙して被災体験を友人らと語り合い「いのちの石碑」を建てる活動に踏み出していく。
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さらに3面に続き。

宮城・女川、津波到達点の石碑 10年かけて21基完成 次世代に活動語り継ぐ

011 巨大津波が襲った宮城県女川町で育った鈴木智博さん(22)には三つの古里の姿が目に浮かぶ。一つ目は、もう正確には思い出すことができない震災前の町。二つ目は、鮮明に脳裏に焼き付いている津波が押し流した町。そして復興計画が進み、生まれ変わった今の町――。
 鈴木さんは2011年12月、避難先の奈良県から女川町に戻ってきた。更地が広がっているだけだった。
 中学校での友人たちは自然に受け入れてくれた。「プリントが配られる度に、お前の机の中に入れるの大変だったんだぞ」。自分の存在を忘れずにいてくれた同級生の言葉がうれしかった。仮設住宅での暮らしだったが、同級生は誰もが同じような境遇。「避難先では、被災していない地域とのギャップを感じていました。でも、女川に帰ってきて、普通の中学生に戻れたような気がしました」
 それでも同級生が取り組んでいた津波対策を考える授業には積極的に関わる気になれなかった。母と祖父母の3人を奪った津波のことを思い出したくはなかったし「対策を作っても無駄だ」とも感じていたからだ。震災をテーマにした作文には自分の体験や家族については何も書かなかった。

◇被災経験作文に
転機は2年生の12年7月、仙台市などで開かれた「世界防災閣僚会議」に参加したことだ。開会式では、親族を亡くした同級生が代表して演台に立ち、家族を失う悲しさや防災の大切さを訴えた。 会議から約10日後の放課後。鈴木さんは、学年主任だった阿部一彦さん(55)の前で切り出した。「先生、俺も書いてみます」。どうして嫌がっていた作文を書こうと決めたのか、はっきりとは思い出せない。経験を人に伝えたいと思う一方で、被災の記憶が曖昧になっていくことにモヤモヤした気持ちを抱えていた。「文章にしたらすっきりするかな」。そう考えたのかもしれない。
 作文は全校集会で披露することになり、一晩で書き上げた。震災があった日の朝のこと、県外へ避難したこと、家族への思い……。気持ちが整理されたわけではなかったが「自分の中で一つの区切りにはなったかも」。全校集会の後、生徒たちは津波対策案の実現に向けて実行委員会を作ることを決めた。同級生の中で唯一親を亡くしながら、被災と向き合おうとした鈴木さんを友人が委員長に推薦した。鈴木さんは「お飾りみたいなものだろうと思っていたんですよ」と、重責を引き受けた当時を振り返り、笑みを浮かべる。
 中学生が始めた小さな活動は、徐々に町を巻き込んで本格化していった。女川町は沿岸部に漁業を営む「浜」と呼ばれる集落が点在し、いずれも津波の被害を受けた。避難を促す石碑は、津波が襲った21カ所の浜の全てに建てるべきだ。そう考えた鈴木さんたちは、12年11月に町長や町議会にも石碑建立を提案した。 ただ、鈴木さんは口にしなかったが「大人は自分たちに授業として津波対策を考えさせたいだけだ。結局、石碑なんて建たないんだろう」と冷めていた。建設資金が1000万円と聞いた時は気が遠くなった。
 それでも費用を募金で集めることを決め、13年2月、町内の仮設商店街や旅館、水産会社に頼んで募金箱を置かせてもらった。3年生の時に修学旅行で訪ねた東京では、企業や大学を訪ね、協力を呼び掛けた。
 後ろ向きな気持ちが少しずつ変わっていった。津波対策を訴えると、子どもの話だと聞き流さずに真剣に耳を傾けてくれる大人たちがいた。全国から寄付も相次ぎ、わずか半年で1000万円が集まった。「本当に石碑を建てられるかもしれない」。計画は現実味を帯びてきた。
 石碑に刻む言葉は「自分たちと同じ思いをする人が二度と出ないように」と生徒が知恵を出し合って考えた。石碑の形は町内にある鎌倉時代の供養塔を参考に、上部の右側が高くなるデザインにした。津波で命を奪われた大切な人たちへの追悼の思いも込めたいと、鈴木さんが提案した。
 最初の石碑は同年11月23日、女川中学校の敷地内に完成した。鈴木さんが「無理だ」と否定してから約2年。「自分たちの活動が形になった」。達成感がこみ上げた。ただ、町の復興は始まったばかりで、高台造成が終わらずに石碑が建てられない集落も多かった。「成人式までに全ての石碑を建てよう」。それがみんなの次の目標になった。
 生徒たちは、津波で壊れた建物を震災遺構として後世に残すことも町に提案した。実は、鈴木さんは「津波を思い出すから見たくない。残したところで本当に震災のことが伝わるのか」と反対していた。だが戦争の悲惨さを広島から世界に発信する原爆ドームを思い、意見をのみ込んだ。生徒たちは13年10月に須田善明町長と面会。町は程なく、津波で横倒しになった旧女川交番を保存する方針を決めた。須田町長は「子どもたちの思いを確認した上での決断だった」と明かす。

◇見守った保護者
 これらの活動は、当初から賛同者ばかりだったわけではない。「悲しい思い出を直視させていいのか」「(親が)止めなければだめじゃないか」。そうした声が渦巻く中、活動を見守る「支える会」の代表になった保護者の一人、山下由希子さん(53)は「子どもたちを信じましょう」と周囲の説得を続けた。山下さんは津波で友人を亡くし、自宅を流された。生活を立て直すことに精いっぱいだった時、未来を語る息子たちの姿に励まされた。石碑を建てられる場所も探し、地権者らと交渉した。子どもたちにはばれない ように、こっそりと。
 鈴木さんたちが14年に中学を卒業すると活動は休日が中心となった。集まれる機会が減っても活動を続けたのは、そこが同じ境遇の仲間たちがいつも同じように出迎えてくれる「居場所」だったからだ。
 その年の5月、鈴木さんの古里、尾浦地区に石碑が完成した。この頃から、鈴木さんは各地で中学生らに向けた講演を頼まれることが増えた。震災を知らない子どもたちは真剣なまなざしで被災体験に聴き入ってくれた。大学生になると、石碑や震災遺構を案内する町の語り部ガイドも引き受けるように。19年には町の追悼式で遺族代表としてマイクの前に立った。人見知りな性格を自覚している。「昔の自分からしたら信じられない。でも石碑を建てる活動があったから、震災と向き合うことができた」
 21基目の石碑は、21年11月21日に完成した。場所は、新しく建てられた女川小・中学校の前。除幕式が開かれた高台からは復興した女川の町と、太陽の光を反射する女川湾がよく見えた。
 その3日前、鈴木さんは自分たちが学んだ旧校舎の敷地内に建てた1基目の石碑の前で、修学旅行で訪れた中学生約100人に体験を語っていた。今だからこそ必ず口にする言葉がある。「中学生や高校生までは誰かに守ってもらう立場だったと思います。でも、皆さんが大人になったら、自分が誰かを守らなければいけない立場になる。その時に、震災のことを思い出してほしい。今ここで聞いた話を伝えてほしい」
 中学生の頃は被災体験を隠すものだと思っていた。「どんなに頑張っても、石碑が建っても、震災を『良かったこと』にすることはできない。震災のマイナスは大きすぎる」と考えていたからだ。でも活動を支えてくれた多くの出会いを経て「この経験を少しでもプラスの方向に変えていきたい」と思えるようになった。
 この春、社会人になる。震災前の女川の姿は薄れてきたが、1000年後の命を守る。「次の目標は私たちが活動した意味を下の世代に語り継いでいくこと。残りはまだ990年もあるんです」

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11年が経とうとし、記憶の風化が懸念されていますが、その中でこれだけ長い記事を、一面トップ、さらに三面と2ページにわたり掲載して下さった『毎日新聞』さんの英断に、敬意を表します。

明日は同じく「いのちの石碑」関連、違った切り口での報道を。

【折々のことば・光太郎】

花巻カジ町シバタにてレインコオトを求む、やぶにて中食ビール、 花巻温泉に行き、マドロスパイプ、モモヤマ等、 鎌田女史にあふ、一緒に花巻駅七時の電車で(志戸平温泉泊)


昭和27年(1952)6月15日の日記より 光太郎70歳

翌日、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖方面に向かいます。「やぶ」は宮沢賢治もよく通った「やぶ屋」さん。「モモヤマ」は「桃山」、現在も販売されている刻み煙草の銘柄です。花巻温泉や大沢温泉に泊まることが多かった光太郎ですが、この日は大沢温泉の近く、志戸平温泉に宿泊しました。翌日からの長旅に向けて、英気を養おうとしたのでしょう。

十和田湖で撮られた写真には、この日購入したレインコートと思われるものを着た光太郎が写っています。
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今年も3.11が近づいて参りました。

宮城県女川町。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に竣工した光太郎文学碑の建立に奔走し、その後の女川光太郎祭運営に尽力した貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなって、もう11年か、という感じです。

震災後、津波の際の避難の目印として、町内の高台に建てられ続けてきた「いのちの石碑」。光太郎文学碑の建設費用が募金でまかなわれたことに倣い、当時の中学生たちが全国に呼びかけ、浄財が集まりました。震災から10年だった昨年には、当初計画の21基が完成しています。

先月15日の『河北新報』さん。仙台市の尚絅(しょうけい)学院中学校さんの生徒さんたちによる「尚絅新聞」というコーナーで、「いのちの石碑」を訪れた際のレポート等が。

1000年後の命を守りたい 宮城・女川 震災教訓刻んだ「いのちの石碑」 実行委・鈴木さん 「1000万円 募金集め建立」

 「1000年後の命を守っていくための活動です」
 旧女川中の敷地内に建てられた「いのちの石碑」を前に鈴木智博さん(22)は実行委の取り組みを語りました。震災当時は小学6年生。直後に入学した女川中の同級生らとともに、2012年秋ごろから津波の脅威を伝える石碑を建設しようと活動を始めました。
 提示された1000万円の建設費用は、修学旅行先の東京など、各地で100円募金を呼び掛け、約半年かけて集めました。
 13年11月、1基目が完成。女川町内の全21行政区に、順次石碑が設置されました。石碑には、「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」という言葉を入れました。
 さらに、女川中の生徒が考えた俳句も添えられています。「夢だけは壊せなかった大震災」「ただいまと聞きたい声が聞こえない」など全21基にそれぞれ句が彫ってあります。どれも震災を経験して感じた率直な気持ちが込められています。
 実行委では、震災の記憶を後世に伝えるための「命の教科書」の制作など、さまざまな活動にも取り組んでいます。
 長い間、海と共に暮らしてきた女川の人にとって、海はなくてはならない存在。津波が街を襲っても、再び海の見える街をつくろうと決断しました。鈴木さんたちの活動は、これから増えていく震災を知らない世代に、自分の命を自分で守る大切さを伝える役割も担っているのです。
 最後の1基は21年11月23日に完成しましたが、「1000年先の命も守る」という思いを持つ鈴木さんたちにとっては、たった1%を過ぎただけ。鈴木さんは、「大きな津波が来たとしても、被害を受ける人を一人でも少なくしたい。そして、残りの990年、みんなで命を守っていきたい」と強く語りました。
 今回、鈴木さんにお話を聞いて、いのちの石碑の存在をもっとたくさんの人に知ってもらい、命を守るために何ができるかを考えていきたいと思いました。
【2年生 佐藤ひかり・鳥飼日和・藤枝慎之輔】

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記事にある鈴木智博さん。かつて、毎年8月9日(光太郎が昭和6年=1931に、「三陸廻り」執筆のため東京を発った日)に行われていた(一昨年、昨年はコロナ禍のため中止)光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」に複数回参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさいました。

最近はこのように県内外から訪れる人々に、「いのちの石碑」のあらましを伝える語り部としても活動されています。今年1月の栃木県那須町の広報誌『広報那須』から。
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昨秋行われた、那須中央中学校さんの修学旅行に関わります。この際も鈴木さんがご講演なさいました。

鈴木さん、今月初めと思われますが、NHKさんのローカル番組にもご出演。

未来への証言/女川町 鈴木 智博さん

鈴木 智博(すずき・ともひろ)さん(22)※年齢や情報は取材時点
女川町在住。震災の津波で母と祖父母の3人を亡くした。中学生の時から同級生とともに未来の人たちへのメッセージを記した「女川いのちの石碑」を建てる活動を始め、令和3年11月に当初の目標であった21基目が完成した。子どもたちに震災の教訓を伝える教科書作りや、震災遺構を残す活動も行っている。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年12月22日取材)
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小学校卒業間近 津波が町を襲った
丹沢)つらい記憶を思い出すことにもなるので、話したくないことは話したくないと言ってくださいね。震災当時は小学校6年生?
鈴木)小学校6年生ですね。卒業式の練習が終わって教室に戻って反省会とかをしていた時間でした。
すごい覚えているのが、黒板の横に天井からちょっと低いくらいの戸棚が置いてあって、その上にブラウン管のテレビが置いてあったんですね。それが地震の揺れで目の前にバーンと落ちてきてグチャグチャになって、机の下には隠れていたんですけど机ごと揺れて動いて、という状況でした。その後はいったんみんなで校庭まで急いで避難しました。3月で雪もちらほら降っていたのですごい寒くて、でも着のみ着のまま避難してきました。先生が、余震もあったんですけど学校の中に戻って、上着を取ってベランダからポンポン投げてくれて、それを拾って自分のを着たのを覚えています。
丹沢)津波が来たときはどんな状況でしたか?
鈴木)地域の人たちが下からどんどん避難してきて「津波が来る」って誰かが言いました。僕自身は見てはいないんですけど「すごい勢いで波が来る」って言うので、そこからもっと上の方の、山の上の総合体育館に避難しました。最初の夜はクラスの友達同士で集まっていたんですけど、次の日とか、ちょっと経ってくると家族の人が迎えに来たり一緒に避難したりしていましたね。そこにどれぐらいいたのかな。1週間までいないと思うんですけど。
丹沢)家族の安否は分からなかった?
鈴木)全然分からなかったです。当時避難所で、よく遊びに行っていた家の人に混ぜてもらって一緒に毛布みたいなのに入らせてもらっていたんですけど、人づてに尾浦の方ではうちのお父さんは何とか大丈夫そうだと、船回してるっていうのはちらっと聞いて、それ以外は全く分からない。妹2人いて、上の方は小学生だったんで一緒に避難して分かっていたんですけど、当時保育所にいた下の妹の方は全然分からないという状況でした。
丹沢)分かったのはいつぐらいですか?
鈴木)お父さんが女川町内から外れた浜だったので、何日か経った後に同じ浜の近所の人が迎えに来てくれて、その時に下の妹は保育所の先生が避難させたって一緒に来て、そのあと自分の浜に帰ってから、お母さんとおじいさんおばあさんがいないんだっていうのを聞かされました。
丹沢)どこで亡くなったとか詳しいことが分かったのは?
鈴木)最初おじいさんだったんですけど、それが大体5月6月ぐらいだったかな、確か。7月まで仙台市の方に避難していて、そこから奈良県に行くんですけど、7月までにおじいさんとお母さんは何とか見つかりました。その後におばあさん。おばあさんだけ見つからなくて、DNA鑑定で分かったという状態でした。

父と子ども、家族4人の生活に
鈴木)最初女川のお寺で3月末ぐらいまで、そのあと仙台の伯母さんの所に避難して、そのあと奈良県にお母さんの実家のおじいさんおばあさんがいるんですけど、そこに避難しました。
丹沢)転々としながら。女川に戻ったのはいつぐらいですか?
鈴木)2011年の12月末ぐらいかな。冬休みに入る時に転校して、こっちに帰って来て仮設住宅に入って、1月から女川の第一中学校に通い始めました。中学校高校で大体5年弱ぐらい仮設住宅に4人で住んでいたんですけど、お父さん、仕事は毎日朝も早い中で、朝ご飯、夕ご飯、高校の時はお弁当も作ってもらって。本当に感謝しています。
丹沢)当時お父さんは漁に出て、カキの養殖とか…。
鈴木)メロウド漁も行っていました。朝はいなかったですね。たぶん何か出来たやつをチンしたりしていたのかな、高校の時は。今だと自分でぱっと作れるんですけど。お弁当買ってあることが多かったかな。
丹沢)その中で長男だったらまだ3歳だった妹のお世話とか…。
鈴木)そうですね。妹と遊ぶからっていうので家事からは逃げていましたね。(笑)

家族を失った悲しみは…
丹沢)お母さんやおじいさんおばあさんが亡くなった悲しみを家族で受け入れていくのも大変だったんじゃないですか?
鈴木)たぶん…。最初の方はそんな暇もなかったのかなと思いますね。毎日大変すぎてあまり覚えていないんですよ。妹2人の方が覚えているかなって思うんですけど、それどころじゃないぐらい毎日毎日何かしなきゃならなかったので、やっと今になって少しずつって感じじゃないかなと思います。
丹沢)今になって?10年経って…。
鈴木)本当に。そんな暇がないくらい、毎日大変だったかなと思いますね。
丹沢)今思い出すことはあります?
鈴木)そうですね。たとえば卒業式とか成人式とか。もしかしたらその先の結婚式とかあるかもしれない中で、そういう時にたぶん思い出すんだろうなというのはありますね。お父さんが言っていたのは、「見せたかった」じゃないですけど、卒業式とかそういう締めの時にいないのは思う所があるみたいです。

1000年後の命のために石碑を建てる
智博さんは中学生時代から同級生らとともに石碑を建てる活動を始めた。「1000年後の命を守るために」を合言葉に、津波の到達点より上の高台などに設置されている。写真は2013年11月23日、1基目の石碑の除幕式の時のもの
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鈴木)石碑は、2011年4月に津波で大変なことになってしまった故郷のためにどういうことが出来るかみんなで考えたいという授業を最初にしたらしいんですけど(※当時智博さんは仙台の中学校に通っていてた)、急にこっちに帰ってきたら「石碑を立てたい」とか色々聞いて、「無理だろうな」って。どうせ中学生が言っているだけで、計画させて「よく出来ました」で終わりなんだろうなって何となく思っていたんですけど、1年生の最後の方に、当時の僕は何を思ったか分からないんですけど、社会科の先生に「作文を書きます」って言ったんですよ。内容が震災の記憶というか体験について。「誰か書く人いれば教えてね」と言われて「僕書きます」って言っちゃったんですよ。そこから中心っていうか関わるようになってきて。僕の始まりはそんな感じでした。

中学校1年生だった智博さんの作文。智博さんたちが作った「女川いのちの教科書」に掲載されている。
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丹沢)作文を見た周りの人たちが「こういう思いがあるなら」ということで巻き込んでいったんですか?
鈴木)作文を書いたあとに、委員会みたいなのを作ろうという話があった時に勝手に名前が載っていたんです。当時「津波対策実行委員会」って名前だったんですけど、そこに入れられていて、「実家が漁師だから海のことにも詳しいだろう」って委員長に祭り上げられて、そこから中学校の間は一応まとめ役としてやっていました。

中学生が1000万円の資金を集める
丹沢)石碑を建てるとなったらお金とか色々なことが出てくるでしょう?
鈴木)一番はやっぱりそこで、まず協力してくれる石屋さんがなかったんですよ。最初の頃。丸森の石屋さんに何とか紹介していただいて、行ったら「石は寄付させていただきます」と。本当に有難い話なんですけど、「設置費と工事費、あと彫るお金は何とかしてほしいです」と言われて、どれぐらいなのかなと思っていたら、「1000万かかる」って言われたんですよ。
丹沢)中学生で…。
鈴木)いやこれはどうしようって思って、でもせっかくやってきたんだし、お金がないから募金して集めるしかないよねって。中学2年生の秋、冬ぐらいかな、最初100円募金で色んなお店に募金箱を置かせていただいて女川の町内で募金活動していました。そのあと東京に修学旅行で4月に行った時に、まあ大人になってからでも東京は行けるだろうし、中学生の時、この活動をやっている時にしかできないことをしたいねということで、文部科学省とか電通とかジブラルタ生命とかユネスコとかそういう所にお邪魔して発表して募金活動させてもらいました。2013年の夏に目標の金額達成して11月に第1基、第2基の披露ということでつながりました。
丹沢)すごい!中学生が1000万。
鈴木)そうなんですよ!本当にまさかと自分たちもびっくりしたんですけど、何より先生方とか、よく来て取材していた方とかが、もう「まさか」って感じで本当にびっくりしていました。

自分と同じ思いはしてほしくないから
丹沢)気が付いたら委員長になっていたという状態で。そういうことを頑張るのはすごくはっきりした意志がないとできないんじゃないかと思うんですけど…。
鈴木)はっきりした意志があるかと言われたらそれは自分でもよくわかっていない所はあるんですけど、でも、地元のために何かしたいなっていう気持ちと、自分みたいな被害というか、同じ思いをしてほしくないって思いは中学校の時から今もあると思います。僕だけじゃないんですけど、みんなそういう気持ちで、何とか今もやっているのかなという気がしています。
よく「建って良かったね」「これで終わりだね」って言われるんですけど、建てて終わりではなくて、100年後だろうが200年後だろうが1000年後だろうが、それがあるからこそ一人でも多くの人の命を救えたら、その時にやっと建てて良かったなというのを思うと思うんですよ。
ゴール的には、一人でも多くの人の命が次に災害が起きた時に助かればって思いでやっています。
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「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
「逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」などと刻まれている。

“夢だけは 壊せなかった 大震災”
石碑にはそれぞれ五七五のメッセージが刻まれている。1基目と21基目のメッセージは「夢だけは 壊せなかった 大震災」
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丹沢)「夢だけは壊せなかった大震災」あの言葉は誰が考えたんですか?
鈴木)あれは同級生です。僕ではないんですけど、当時中学生だった僕らの1個2個上の世代の人たちが国語の授業で、俳句の短い言葉で自分の思いを吐き出そうという中で出来た俳句で、これはいいなって思うのを自分たちが選んで載せています。あの「夢だけは壊せなかった大震災」もその一つで、第1基と最後の石碑の両方で同じやつが刻まれています。
丹沢)ちょっと難しい質問かもしれないですけど、夢ってなんですか?
鈴木)笑。難しいですね。
丹沢)智博君にとっての。
鈴木)そうですね。なんでしょうね。昔から「自分はこうしたい」というのはあんまりないんですけど、何かしらの形で人のために貢献できるような活動ができればなあって思っていた所があったので、それがこういう防災の活動に近いのかなっていうのはあります。これを自分が嫌になるまで、とりあえず死ぬまで続けていきたいなって。自分も続けられるようにですけど、下にもちゃんと受け継いでいけるような、そういう活動をしていきたいなっていうのが、夢ですかね。

あの甚大な被害、そして残された人々の思い、決して風化させてはならない、と、改めて思います。明日もこの項、続けます。

【折々のことば・光太郎】

晴、 かたづけ、洗濯、毛皮収納、


昭和27年(1952)6月13日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。さすがに6月ともなれば、マタギから買い求めた分厚いカモシカの毛皮も不要となったようです。
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昨日は信州松本平の『市民タイムス』さんの一面コラムをご紹介しましたが、仙台に本社を置く『河北新報』さんでも一面コラムで光太郎に触れて下さっていました。

河北春秋(2/1):高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている…

高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている。「一杯ぐっとのむとそれが食道を通るころ、丁度(ちょうど)ヨットの白い帆を見た時のような、いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」▼思わずぐっとやりたくなる一節。随筆『ビールの味』から。「ロンドンの食卓でスタウトを強いられてからビールを飲みおぼえた」とあるから110年ほど前の留学時のようだ▼英政府中枢にもビール好きは多いのだろうか。新型コロナ対策のロックダウン(都市封鎖)中に首相官邸で飲み会が繰り返された疑惑。ロンドン警視庁が捜査に乗り出し注目を集めている。一部出席を認め謝罪したジョンソン首相。屋内集会禁止の時期に誕生会が開かれていたことも判明し、逆風が強まるばかり▼日本でも4年前に似たようなことが。西日本豪雨が迫る夜、議員宿舎であった「赤坂自民亭」なる会合。当時の首相や閣僚らが地酒を楽しんだ。共通するのは政治の「たるみ」か▼ビールのうまさを記した光太郎。「ふだんは別に飲みたくもない。(中略)いつに限らず昼間は絶対に飲まない」とも書いている。昼食時のアルコール習慣もあるという英官邸にこの戒めを送ろう。ただ、小欄は冒頭の描写が忘れられない。今夜も麦の芳香を味わうとしよう。(2022.2・1)
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引用されている随筆「ビールの味」は、昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表されたもの。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻に収められているほか、昨年、平凡社さんから刊行されたアンソロジー『作家と酒』などにも採られています。

また、令和元年(2019)には、文京区立森鷗外記念館さんで開催されたコレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」でも、このエッセイが取り上げられました。

それにしても、ロックダウン下で宴に興じていたという英国首相、わが国でも緊急事態宣言可発令中に政治資金パーティーが堂々と開かれていたという報道もありましたし、何やってんだ……という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

鉄砲うち二人窓前を通り山の方にて時々音がする、


昭和27年(1952)1月2日の日記より 光太郎70歳

「鉄砲うち」はハンターですね。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近、猟を副業にしていた地元民もいたようですし、時に東京などからもハンターがやってくることがありました。

社団法人東京都猟友会理事だった宮本甲治氏(おそらく故人)のエッセイ集『猟銃と歩いた旅』(昭和52年=1977 欅出版)に、光太郎の山小屋近くへ都内から友人らと三人で猟に出かけ、光太郎と知らずに遭遇していろいろ話を聞いたエピソードが語られています。
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 渓流を渡り、小高い山の麓に出た。
 前方は見渡す限り、茫々たる一面の荒野が広がっている。そこに、ポツンと一軒の家がある。農家にしては粗末で小さく、掘立小屋といったほうが適当なくらいのチッポケな家であった。小屋の北側の方には、萱束で囲って寒風を防いであった。
 その家の中から老眼鏡をかけ六十を過ぎたぐらいの爺さんが、のこのこと私の方に向って来た。これを見て、私はハッとした。清流の脇で撃った銃弾が、小屋へも流れたかと思ったからだ。
「どうです、獲れましたか」
と、老人は聞いた。特大のゴム長靴を履いて、古びたカーキ色の国民服を着た大男で、白い無精髭をはやし、写真でみた乃木将軍のような風体をした人であった。
 この老人の手を見て驚いた。それは、ありふれた先細の貧弱な手ではなく、永い間重労働で荒れた手とも違う。ちょっと類のないガッチリした、握力の強そうな厚味のある巨手であった。老人は、
「どこから鉄砲撃ちに来たか」
と聞いた。友人が東京の谷中だというと、
「ほう東京。わたしも東京生まれで、東京の人に会うのは、懐かしいなあ」
といった。そして私達をしげしげと見ながら、
「谷中はどの辺ですか」
と重ねて友人に尋ねた。谷中の天王寺近くで、彫刻家の朝倉文夫氏宅の附近だと、松村氏が応えると、
「朝倉君は、懇意な友人ですよ」
といった。この人も彫刻師だという。


その後、宮本氏一行は小屋に案内されて茶を饗され、老人と談話。

 一見したところ、この人は独り暮らしらしい。御家族はと尋ねると、
「妻は死んでしまい、一人残って……」
と大きな掌を顔にあてて悲しげにボソボソと小声で言った。こんな山の中での独り暮らしでは、さぞかし、心細いでしょうと慰めると、
「いやあ僕は、東北地方の純朴さが、とても好きだから、人が思うほど淋しくはない」


しばらくの談話の後、山小屋を辞した一行……

 彫刻師の職業では、辺鄙なこんな山中の家では、不便で職が成りたつまい。一体あの老人は何者だろうと私達は噂話をし合ったが、もとより、老人の素姓は誰も知らなかった。
 ただ老人の人並みはずれた、巨大な手だけが、強く印象に残っていた。


そして……

 それから数年経った。一九五二(昭和二十七)年十月のある日、都下の新聞は紙面に大きく、ゴム長靴を履いた、チャンチャンコ姿の老人の写真を掲載した。
 こんど国立公園の十和田湖畔に建立される、裸婦像制作のため高村光太郎氏が、詩想と芸魂をやしなっていた岩手の山中から、十年振りに帰京したことを一斉に報じた。
 私達がお茶の接待をうけた、山小屋の主人は、この高村光太郎であったのだ。


後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。

『毎日新聞』さん東京版で、昨年12月から今年の1月8日(土)にかけ、3回に分けて連載された記事です。少し前には東北版にも掲載されたようです。

ぐるっと東日本・くつろぎの宿 青根温泉 湯元不忘閣

伊達政宗がつかった石風呂でゆったり 文人も愛した名湯の宿
000 温泉につかれば、名将政宗の気分――。東北きっての武将といえば伊達政宗である。政宗ら仙台藩主御用達の温泉宿が宮城県にある。青根温泉の湯元不忘閣だ。幾多の歴史を刻み、文化財級の建物が林立する名宿はかつて文人にも愛された。政宗もつかった名湯の宿とは――。
  ◇一番の自慢は「歴史と温泉」
 伊達政宗をこれほどまでに身近に感じたことがあっただろうか。「政宗も入った石組みの湯船」で温泉につかると、ゆったりとした気分とともに「政宗と裸の付き合いに……」と変な感慨が増してくる。
 青根温泉は、宮城と山形にまたがる蔵王山麓(さんろく)に位置し、湯元不忘閣は歴代仙台藩主の保養所だった。1606年に滞在した政宗が「この感激と喜びを忘れないように」と「不忘」と名付けたことがその名の由来とされる。008
 湯守(ゆもり)と関守を務めた不忘閣当主は代々、佐藤仁右衛門(にうえもん)を襲名してきた。訪れると、現在の21代当主に代わり、妻でおかみの真由美さん(57)が対応してくれた。
 おかみによると一番の自慢は「歴史と温泉」だという。
 初代・佐藤掃部(そうぶ)(後に仁右衛門を名乗る)が青根温泉の発見者の一人とされる。1528年の発見当初から「手付かずの天然温泉」と言われるのは、湧き出た源泉がそのまま注がれ続けてきたからだ。
 風呂は全部で六つある。
 その一つ「大湯 金泉堂(きんせんどう)」が「政宗の湯」の看板を掲げる。薄暗い建物内にある細長い石風呂だ。
 共同浴場としても使われてきたが、建物の老朽化で2006年に閉鎖。伝統工法を用い、青森ヒバと土壁で造った建物が08年に完成した。002
 1546年に石工30人が組み上げた湯船はそのままで、かすかに温泉臭のする透明な湯が、「ざばざば」と絶え間なく注がれる。水面に反射した光が、屋根裏に架けられた青森ヒバの丸太に揺らめく。
 また、「蔵湯浴司(よくす)」は、三の蔵のうち穀蔵の2階の床を取り払い、ヒノキ風呂を置いた。「蔵の前の石畳のたたずまいをお客さんにも楽しんでほしい」。真由美さんが発案し、仁右衛門さんの設計で2006年に完成した。
 豪華旅館と思われがちだが、歴史を刻み昭和をほうふつとさせる古い木造建築の温泉旅館だ。「秘湯」と呼ばれることについて、おかみが言う。
 「大好き。ひなびたイメージがいい」

◇タイミング、94段の階段…
 大湯は時間制で男女入れ替えだが、蔵湯は貸し切りだ。建物から草履に履き替えて石畳を歩く。三つの蔵の間に大崎八幡宮の小さなほこらがあった。一番奥の蔵の重たい引き戸を開けると、吹き抜けの空間にヒノキ風呂が置かれ、脱衣場がある。蔵の静けさの中で湯の注がれる音だけが響く。荘厳な雰囲気だ。
 ただ、蔵湯に入るのは、なかなか難儀する。旅館の受付脇に置かれた青森ヒバ製の「蔵湯 貸切札」だけが「空き」の目印だからだ。30センチほどの札を持って蔵湯へ行き、「30分以内の入浴」を終えたら札を元の場所に戻す。タイミングが合わず、一度も蔵湯に入れない客もいるらしいが、おかみの真由美さんはこう説明する。004
 「空きを電光掲示板で表示することもできますが、秘湯の温泉らしく、あえて木札にした」
 また、受付を真ん中にして、六つの風呂が点在している。
 「風呂を行ったり来たりしていれば、いつかは札に出合えます」
 「御殿湯」の大と小(時間制で男女入れ替え)、共同浴場としても使われた「新湯」(同)、先々代の当主の幼名をつけた「亥之輔(いのすけ)の湯」(貸し切り風呂)――。風呂巡りが楽しい。
 新湯は石組みの湯船が大湯に次いで古い。11年完成の亥之輔の湯は、茶室のような入り口をかがみながら入ると、小さな石風呂がある。半露天で、江戸時代の石垣を見ながら湯船につかれる。
 風呂を堪能したら、もう一つ難儀なことが待っていた。山の斜面に造られた客室の最上階に泊まると、受付から数えて94段の階段を上り切らなければならない。風呂はすべて1階にあり、蔵湯の木札を「ちょっと見に行く」などとても無理で、息が切れてしまう。
 でも、天気がいい日には仙台の街明かりが展望できる。1階には風呂の合間の休憩所「喫茶去(こ)」があって地酒の振る舞いもあり、難儀なことも報われる。
 「客室を造るか、蔵湯と大湯を造るか、どちらにお金をかけるか迷いました。豪華なお風呂は家にはありませんので」
 温泉旅館の誇りに懸けて蔵湯と大湯に資金をつぎ込んだ選択は正しかったようだ。

 ◇国登録の文化財が目白押し
007 「ひなびたイメージ」とおかみが謙遜する秘湯の名宿だが、伊達政宗ら仙台藩主の御殿湯だった490年超の足跡は確かに残る。
 離れの建物や門、1896年ごろに建造された蔵湯の建物を含む蔵三つ、会食室として使われている1907年建造の木造2階建て本館、そして、仙台藩主が泊まった建物を32年に復元した木造2階建て入り母屋造りの青根御殿――。2014年にこれらの建造物が国登録の有形文化財となった。
 うち、青根御殿には、仙台藩ゆかりの書画骨董(こっとう)と江戸時代の古文書が展示されている。3000点もの古文書があり、東北大学の寄付研究部門による解読文書も一部添えられている。
 おかみは毎朝、館内歴史ツアーのガイド役も務める。
 政宗の父輝宗が着用したとされる鎧兜(よろいかぶと)、仙台藩主が狩りで使った弓矢、お姫様の鏡台、弁当箱、狩野探幽の掛け軸、欄間には伊達家の三引(みつびき)両紋と竹に雀(すずめ)紋……。「お殿様が置いていったものがほとんど」だという。蔵王の山麓にあって交通の便も良くないが、文人にも愛された。003
 与謝野鉄幹・晶子夫妻は2度訪れ、歌を詠んだ。芥川龍之介は菊池寛のすすめで1カ月間、座敷蔵に滞在したという。斎藤茂吉、高村光太郎・智恵子夫妻、吉川英治、川端康成、古賀政男が宿泊した記録も残る。
 山本周五郎が歴史小説「樅(もみ)ノ木は残った」を完成させたのは青根御殿の部屋で、窓からは今もモミの木が見える。
 同小説が70年にNHKの大河ドラマになった際に「樅ノ木ブーム」が起き、宿泊客からの要望で始まったのがこの館内歴史ツアーだという。
 ただ、文化財にもなった貴重な古建築を維持するのは苦労も多い。「ご先祖様がここまで守ってきたのだから、自分の代で消したくはない」。次代に向けて政宗ゆかりの名宿は歩みをとどめることはない。005

 ◇メモ
 東北新幹線の白石蔵王駅からミヤコー路線バスで約50分、仙台駅からはミヤコー高速バスで約60分。どちらも「遠刈田温泉、アクティブリゾーツ宮城蔵王」行きで終点まで。アクティブリゾーツ宮城蔵王からは宿の車で送迎してくれる。駐車場あり。予約は湯元不忘閣のホームページから。 電話0224・87・2011。
001
光太郎は、昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子の療養のため、各地の温泉巡りに智恵子を連れ歩きます。初夏には草津、そして8月24日から9月上旬にかけ、東北と北関東の温泉地。裏磐梯川上温泉を皮切りに、青根温泉、再び福島に戻り土湯温泉の奥にある不動湯、最後は栃木の塩原温泉

当方、このうち、草津にはだいぶ前に2度訪れました。裏磐梯川上温泉は近くを通ったことはありますが、ここが光太郎智恵子の泊まったところだ、という場所は未踏です。不動湯は、平成25年(2015)に焼失する前に1度、それから焼失直後、さらに日帰り温泉施設として復活してからも訪れました。塩原にも1度足を運びました。

そして、青根温泉。もう5年近く経つか、という感じですが、その際のレポートがこちら。宿泊させていただきましたので、記事にある各湯にゆったりつかり、不忘閣の館内歴史ツアーも体験しました。またぜひ泊まってみたい宿の一つです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。


昭和26年(1951)11月11日の日記より 光太郎69歳

宮静枝は詩人。光太郎とは戦前から交流があり、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会(この席上で、有名な「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が「発見」されました)に、光太郎ともども参加しています。下の画像、前列左から二人目が宮、四人目が光太郎、その隣が賢治実弟の清六です。
009
宮は平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、日記にある「ライカにて撮影いろいろ」という写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
001 002
珍しい光太郎の後ろ姿も。
006

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991竣工)に倣って、募金で賄われました。
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先月、当初予定の全21基の最後となった碑が除幕されましたが、その時の様子や、これまでの活動、そして立役者の若者たちの現在の様子などを、一昨日、NNN系ミヤギテレビさんが報じました。題して「女川いのちの石碑10年 その先の夢」。ネット上でもその動画(8分ほど)が見られまして、拝見しました。

これまでの活動について。
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きっかけは、震災直後、社会科教諭だった阿部一彦先生の授業。
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最初の企画書。ここに光太郎文学碑に倣って募金で費用を賄う旨、記載されています。
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町関係者へのプレゼン。
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募金活動。映像はおそらく町内でのものでしたが、彼らは修学旅行先でも募金を呼びかけました。
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そして、あっという間に目標の1,000万円を集め、年に2基くらいずつ、町内の各浜の高台に碑が建てられていきました。
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各碑には、大地震の際には、この碑より高い場所に逃げるようにということなどが記されています。また、佐藤敏郎先生の国語の授業で彼らが詠んだ俳句も刻まれています。

そして、先月、最後の21基目が除幕。
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中心になって活動した、何人かの若者の現在が紹介されました。
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橋梁建設等の会社に就職した渡邊滉大さん。
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上京し、ダンサーを目指しているという伊藤唯さん。
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地元で語り部的な活動を続けている鈴木智博さん。
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今秋、女川を修学旅行で訪れた栃木県の中学生に、講演。
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女川では、毎年8月9日に、女川光太郎祭が開催されています(昨年と今年はコロナ禍で中止)。先述の光太郎文学碑が除幕された翌年の平成4年(1992)に始まりました。かつては当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が講演を務められ、その後、当方が引き継ぎました。それ以外に、県内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読が為されています。

つい先日、昔の女川光太郎祭パンフレットを引っ張り出して見たところ、かつて鈴木さんがその詩文朗読をなさっていたことがわかり、驚きました。それも、震災翌年の平成24年(2012)から同26年(2014)まで、3回も。もしかすると、それ以前にもやって下さっていたかも知れません。

平成24年(2012)。町営野球場に建てられた仮設住宅内の坂本龍一マルシェが会場でした。
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同25年(2013)、かつてあった仮設商店街に会場が移りました。当時のこのブログを見たところ、鈴木さんが写っている画像がありました。
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翌26年(2014)には、長い紀行文の朗読を担当して下さっていました。
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当方、この当時は鈴木さんのことを存じ上げませんでした。

ぜひまたお願いしたいものです。

ミヤギテレビさんでは紹介されませんでしたが、活動に携わってきた若者の中にはJリーガー海上保安官になった方もいらっしゃいます。
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彼らの未来に幸多かれ、ですね。

【折々のことば・光太郎】

夕方たえ子さん砂糖持参 配給


昭和26年(1951)8月9日の日記より 光太郎69歳

女川の光太郎文学碑の由来となった、新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」のため、光太郎が東京を発ったのが、昭和6年(1931)8月9日。その日を記念して、8月9日に女川光太郎祭が行われています。

その丁度20年後の8月9日の日記から。何気なく書かれた一節ですが、終戦後6年経とうとしていたこの時期に、まだ配給があったのか、と、意外でした。調べてみますと、煙草は昭和22年(1947)まで、酒は同24年(1949)まで、衣料は翌25年(1950)まで、それぞれ切符による配給が続けられていたとのこと。もっとも、物によっては配給制も有名無実化していたようですが。

仙台から、書道展の情報です。

第68回河北書道展

期 日 : 前期 2021年12月11日(土)~12月14日(火)
      後期 2021年12月17日(金)~12月20日(月)
会 場 : TFUギャラリーミニモリ 仙台市宮城野区榴岡2-5-26 
時 間 : 午前10時~午後5時 (最終日12月20日(月)は午後4時まで)
料 金 : 一般・大学生500円(消費税込み)/高校生以下無料

「河北新報社」主催の東北最大級の公募書道展です。今回、東日本大震災10年の節目に「墨魂 東北の力」を冠として開催します。
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008「第4部 近代詩文」の区分で、東松島市の浅野沙都美さんという方の作品「高村光太郎のうた」が、東北電力賞に選ばれています。

書かれているのは短歌です。

太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは

この短歌の正確な制作年月日は不明ですが、昭和21年(1946)頃には既に詠まれているようです。「太田村」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)。「山口山」は、光太郎の山小屋の裏山一体の俗称です。

光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、人に贈る書などで、この短歌を揮毫することが多くありました。

富山県水墨美術館さんで、先月末まで開催されていた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」でも、日本近代文学館さん所蔵の、この短歌を書いた色紙が展示されました。

ところで、太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡には、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあり、その「板彫とか小さな帯留め程度のもの」も、実作の現存が確認できていません。

ただ、蝉に関しては、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた竹内てるよや、地元在住の浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。

それにしても、あくまできちんとした「作品」というわけではなかったようで……。

ちなみに山小屋での彫刻というと、光太郎歿後に、山小屋の囲炉裏の灰の中から野兎の首を作ったテラコッタが発見されました。これも、作品として発表したものではなく、手すさびに作った、というようなものですが。

さて、「第68回河北書道展」、浅野さんの作が出るのは後期日程で、12月17日(金)からです。また、来年2月9日(水)~13日(日)には、大崎市民ギャラリー緒絶の館で大崎展も開催されるとのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡から、市立第一高女の生徒三人来り、新聞班の訪問記事をとる、ひる辞去。


昭和26年(1951)8月7日の日記より 光太郎69歳

「市立第一高女」は、現在の盛岡市立高校さんです。昭和23年(1948)には学制改革で「盛岡市立女子高等学校」と改称、さらに翌年には盛岡市立女子商業高等学校と合併し、盛岡市立高等学校となっています(共学化はさらに後)。昭和26年(1951)には既に高等女学校ではなくなっていましたが、慣習的に昔の呼称で記したのでしょう。

こうした高校生らの訪問記、意外と数が残されているようですが、その性質上、あまり外部に公開されていることが多く、当方も未見のものがほとんどです。

一昨日ご紹介しました、宮城県女川町の「いのちの石碑」。同じ女川町の光太郎文学碑の精神を受け継いだプロジェクトです。

一昨日はテレビ報道系を紹介いたしましたが、今日は新聞記事から。

まず、『朝日新聞』さん。社会面に掲載されました。

女川いのちの石碑 完成 「千年に1度の災害から守るため」

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で津波の教訓を後世に残す「女川いのちの石碑」が完成し、21日に披露された。
 震災直後の2011年4月、旧女川第一中学校(現在の女川中)の授業で当時の1年生が話し合い、「千年に1度の災害がまた来たときに命を守る」ための活動を開始。町内21カ所の浜の津波到達地点付近に石碑を設置していった。この日の女川中で21基目。当初の計画通り完成した。
 碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと刻まれた。住民から他の地点にも設置してほしいとの要望があり、今後も活動は続ける。卒業生で祖父母と母親を津波で亡くした大学生の鈴木智博さん(22)は「石碑を建てて終わりじゃない。語り継いだり、防災教育に使ったり、千年後の災害で命を守れたときに意味が生まれると思う」と話した。

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続いて、『毎日新聞』さん。宮城県版での掲載でした。

いのちの石碑、「夢」は続く 女川、目標の21基完成 「1000年後まで」「心に寄り添い」 中学から10年「女川に石碑21基」実現 1000年後の命守る「夢」

 1000年後の命を守りたい-―。東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生の願いから始まった「女川いのちの石碑」の活動が大きな節目を迎えた。目標の21基目が完成し、21日に披露式が開かれた。この10年、力を合わせ活動を続けた女川中の卒業生らは目標達成に感謝し「これからがスタート」と誓い合った。
 21基目が建てられたのは、2020年に新設された町立女川小・中学校の校舎脇で、女川湾を望む一角。石碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと教訓が刻まれた。
 震災直後に女川一中(後に女川中)に入学した生徒らは誰もが大切な人を亡くしたり、自宅を流されたりする中、社会科の授業で対策を話し合い、「これからを生きる人が同じ思いをしてほしくない」と石碑設置を発案。募金活動で1000万円以上集め、周りの大人も動かして1基目が13年11月に完成。卒業後も「女川1000年後のいのちを守る会」として、町内の各浜の津波最高到達点に建立してきた。
 この日の披露式は、メンバーが「支援への感謝を伝えたい」と関係者を招待し、除幕後、中学時代から支えてきた阿部一彦・現石巻市立桃生中校長らと笑顔で記念撮影。全21基には震災直後に中学生が詠んだ句が刻まれ、21基目は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」。メンバーは21基建立という「夢」の実現を喜びながら、新たな「夢」をかみしめた。
 気仙沼海上保安署で働く山下脩さん(22)は「これからがスタート。1000年後まで続け、亡くなる人を1人でも減らすことが夢」と話し、横浜市で暮らす伊藤唯さん(23)は「みんなで続けてきたから自分の夢もぶれなかった。ダンサーとして子どもたちを教えており、活動を続けて誰かの心に寄り添えるダンスが踊れたら」と語った。
 石碑設置と合わせ、当時の記憶を残す教科書づくりや語り部を続けていて、新たな石碑の設置も検討する。
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「共同通信」さん。全国の地方紙や『日本経済新聞』さんが、これを使いました。

女川いのちの石碑、21基目建立 中学生が発案、計画達成

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で、津波の脅威を後世に伝える「女川いのちの石碑」の21基目が完成し21日、除幕式が開かれた。発生直後に町立女川中に入学した生徒らが「千年先の人々の命を守りたい」と石碑の建立を発案。この日で、町内の津波到達地点より高い場所に計21基建立する計画が達成された。
 最後の1基は、昨年移転した町立女川小・中学校脇に建立。式典で、同級生ら有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」会長の阿部由季さん(23)は「石碑が震災を後世に語り継ぐ一つのきっかけになれば幸いです」と話した。
 石碑は震災を記録に残し、将来の津波被害を最小限にするため当時の生徒が提案。修学旅行先などで街頭募金を行い資金を調達し、2013年11月に1基目が完成した。卒業後も活動を続け、これまでに20基を町の防災集団移転地など高台に設置してきた。
 メンバーは今後、追加の建立や、石碑にQRコードを付け、震災前後の町の様子を伝える仕組みづくりを計画している。鈴木智博さんは「まだ1%の10年しか経過していない。残り990年、次の世代に伝えながら防災の輪を広げたい」と語った。
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『読売新聞』さん。社会面で、かなり大きく取り上げられました。

1000年後も 命守る碑 震災直後入学 中学生ら 女川 津波到達地点21基目完成

 東日本大震災で被災した宮城県女川町で、津波到達点に警鐘の石碑を建てる活動を続けてきた当時の中学生らが21日、、目標だった最後の21基目を建てた。震災の教訓が刻まれた「女川いのちの石碑」。「いつまでも忘れずに命を守ってほしい」との願いが込められている。
 震災で町は高さ14.8㍍の津波に襲われ、800人超が犠牲となった。女川第一中学校(現・女川中)の社会科教諭だった阿部一彦さん(55)は、震災直後の4月に入学した1年生の授業で、「ふるさとのために何ができるか」と問いかけた。これをきっかけに、生徒らは町内の津波到達点付近に石碑を建て、被災体験を後世に伝える活動を始めた。
 目標は、町内で確認できた到達点21か所に建てること。修学旅行先の東京都内で寄付を呼びかけるなどして約1000万円を集め、2013年に1基目を建てた。活動は卒業後も続いた。
 21日には除幕式が行われ、高台に移転した女川中近くの設置場所に、活動してきた卒業生や阿部さんらが集まった。大学4年生になった鈴木智博さん(22)は「目指すのは1000年後の人たちの命を守ること。震災を語り継ぎ、世界に防災の輪を広げたい」と語った。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」――。生徒らが当時詠んだ五七五が全ての石碑に1句ずつ刻まれ、最後の21基目は、東北大大学院で地球物理学を学ぶ山田太介さん(23)の句になった。句の通り、地震発生のメカニズムを解明したいと、研究者の道に進むことを目指して努力を重ねてきた。
 幼い頃から、道端できれいな小石を拾うのが好きだった。鉱物の研究者に憧れた。そんな日常を、震災が一変させた。家族は無事だったが、宝物の小石は自宅とともに津波で流された。がれきが散乱する通学路、重苦しい雰囲気の教室。この10年間、厳しい状況でも「震災に夢を変えられたくない」と思い続けてきた。
 「また大災害が起きても、この句を見て少しでも前向きな気持ちになってもらいたい」と願っている。

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地元紙『河北新報』さん。

「夢だけは 壊せなかった 大震災」 いのちの石碑、最後の21基目完成

 東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えようと、宮城県女川町の女川中卒業生が建立する「女川いのちの石碑」の最後の21基目が完成し、21日に町内の現地で除幕式があった。2013年11月の1基目設置から丸8年で整備を終えた。同級生らが集い、災害から未来の命を守る決意を新たにした。
 いのちの石碑は震災直後の11年4月に入学した生徒が計画した。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促す言葉を碑に刻み、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建ててきた。
 21基目は昨年夏に開校した女川小中学校の校舎脇に設置。碑文は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」を選んだ。
 全ての碑には災害への備えとして「非常時に助け合うため普段からの絆を強くする」「高台にまちを作り、避難路を整備する」「震災の記録を後世に残す」との文字が刻まれている。
 除幕式には同級生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーや保護者ら約30人が出席した。阿部由季会長(23)が「私たちのようにつらく悲しい経験をすることがないよう活動してきた。震災を後世に語るきっかけになってほしい」と語った。
 守る会はメンバーが中学2年だった13年2月、建立費に充てる募金を開始。約半年間で約1000万円を集めた。現在は社会人や大学生になった約10人が中心となり、各石碑の前で語り部活動を続ける。
 メンバーの鈴木智博さん(22)は「残りの990年、人々が自分の命を守れるように防災の輪を広げていきたい」と力を込めた。
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同じく『石巻日日新聞』さん。

いのちの石碑 計画達成 女川・最後の21基目建立 ゴールでなく〝スタート〟 1千年後へメッセージ

 東日本大震災の教訓を生かし、1千年後の命を守ろうと女川町立女川中学校の卒業生が設置を進めてきた「女川いのちの石碑」の最後となる21基目が21日、お披露目された。出席した卒業生8人は、プロジェクト完結を喜びながらも「これからがスタート」とさらなる伝承活動に誓いを新たにした。
 平成25年11月の第1基設置から丸8年。21基目は、女川の海を見晴らす女川小中学校東側の遊歩道に建立された。
 関係者約30人が見守る中、卒業生で構成する「1000年後のいのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「支え協力してくれた皆がいて活動が続いた」と多くの支援に感謝。「この石碑が震災を語り継ぐきっかけになれば」と思いを語った。
 震災当時の中学1年生が「自分たちに何ができるか」考えを絞って取り組んできた。重ねた会合は200回以上。呼び掛けた募金は半年ほどで1千万円を超え、地元石材店からは石碑の無償提供を受けた。
 山下脩さん(23)は「ゴール地点とも思うが、建てることが目的ではなく、今回がスタート。これから伝えていく活動をしたい」、鈴木美亜さん(22)は「一つの自信になり、誇りを持てた。大好きな女川が笑顔あふれる町になればいい」と生き生きとした表情をあふれさせた。
   須田善明町長は「皆さんの思いと行動力には頭が下がる。このつながりを大切にこれからも歩みをすすめてほしい」と激励した。
 石碑には①普段から絆を強く②高台にまちを作り、避難路を整備③震災の記録を後世に残す―などの言葉が刻まれている。すべて津波到達点より高い地点に設置され、避難の目印の役割もある。
 そして後世の人たちへのメッセージも。「今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」
 1基目と同じ山田太介さん(23)の句「夢だけは 壊せなかった 大震災」も刻まれた。
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一昨日も書きましたが、活動に取り組んできた若者たちの多くが、「これがゴールではない」という前向きな姿勢でいることに感動しました。しかし、こうした方面にのみ縛られることなく、それぞれの道で夢を叶えることも期待します。

【折々のことば・光太郎】

新しき村の連中三人来訪、小屋の前に腰かけて談話。甲州のブドウ酒2本もらふ。一緒にのむ。
昭和26年(1951)6月3日の日記より 光太郎69歳

新しき村」は、『白樺』以来の朋友・武者小路実篤が、大正7年(1918)、宮崎県に開いたコミュニティーです。昭和14年(1939)には埼玉県に「東の村」も作られ、さらに昭和23年(1948)には財団法人化も為されました。

実篤のこうした活動の先例も、光太郎が山小屋生活に入った一つの契機と言えるかも知れません。

東日本大震災による大津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として、津波到達地点より高い場所に「いのちの石碑」の設置を続けています。かつて「100円募金」で建てられた、女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われています。

その取り組みは多方面で注目され、高校生になった発案者の若者たちが、国連の防災会議で発表を行ったり、天皇陛下も「第5回国連水と災害に関する特別会合」で紹介されたり、「自然災害伝承碑」という新たな地図記号が制定される契機になったりしています。

その「いのちの石碑」関連で、昨日のNHKさんのローカルニュースから。

「いのちの石碑」 震災遺族が修学旅行生に語り部 女川町

 女川町で東日本大震災の記憶や教訓を記した石碑を建てる活動を続けている女川中学校の卒業生が、修学旅行で訪れた県外の中学生に語り部を行い、助け合うことの大切さを伝えました。
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 語り部を行ったのは、震災当時、小学6年生で、県内の大学に通っている鈴木智博さん(22)です。震災で母親と祖父母を亡くしています。
 鈴木さんたち女川中学校の卒業生は、1000年先まで震災の記憶を伝えようと、町内の、津波が到達した場所付近の合わせて21か所に「いのちの石碑」を建てる活動を続けています。
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 18日は、町に最大で14.8メートルの津波が来て、町民の8%以上が犠牲になったことなどを体験談を交えて語りました。
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 その後、旧女川中学校にある最初に建てた「いのちの石碑」まで案内し、「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない」などと書かれた碑文を読みました。
そして、石碑には亡くなった方への慰霊や鎮魂の思いも込められていることや、非常時に助け合うためにふだんから人と人との絆を強くすることが大事なことなどを伝えました。
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 話を聞いた女子生徒は、「石碑を見て、思いが大事に刻まれているなと感じました。自分の地域でも地震が起こったとき、近所の人と一緒に逃げられるようにしたいです」と話していました。
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 鈴木さんは、「今の中学生は震災当時の記憶があまりないと思うので、自分の話を聞いて今後、災害があった時に自分の命を守れるように行動してほしいです。きょう聞いたことを周りの人にも話してほしいと思います」と話していました。
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 今月21日には、最後の21か所目の「いのちの石碑」が披露されるということです。

修学旅行で訪れたのは、栃木県の中学生でした。『下野新聞』さんから。

大震災の教訓 現地で体感へ 那須の小中3校、東北に修学旅行

【那須】新型コロナウイルスの感染状況が落ち着いたことを受け、町内の公立5小中学校は今月、修学旅行を実施する。このうち3校の行き先は東北地方で、震災遺構見学や全町避難した小学生との交流などが予定されている。町は2年前から防災教育に力を入れてきたため、関係者は「多くのことを学んでほしい」と期待している。
 那須中央中3年生は18日、昨年からオンライン交流を重ねてきた宮城県女川町を訪れ、震災時の津波到達点の目印「いのちの石碑」を見学。石碑建立に携わり、現地で語り部活動を続ける大学生の鈴木智博(すずきともひろ)さんに話を聞く。
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修学旅行というと、関東からは京都・奈良、関東以外からは東京というのが定番のような気がしますが、コロナ禍の影響もあり、だいぶ様変わりしているようですね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手・花巻でも受け入れに力を入れているようですし、「東北」としての修学旅行ガイドでも光太郎ゆかりの地が取り上げられたりしています。

かなり前から、単なる物見遊山ではなく、体験型の取り組みなどが取り入れられてはいる(「いのちの石碑」発案者の若者たちは、中学校時代の修学旅行先でも募金への呼びかけを行っていました)ようですが、そういった部分で、光太郎智恵子ゆかりの地がもっと注目されてほしいものです。

さて、「いのちの石碑」。NHKさんの報道の最後にも触れられていましたが、明後日、当初計画で最後の一基の除幕が行われるそうです。来週には、そちらの報道もご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

五月廿六日はじめて時鳥の声をきく。この夜夜鷹なきはじめる。廿七日も八時頃よりなく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

時鳥」は「ホトトギス」。都会の人はご存じないかも知れませんが、田舎では夏の到来の象徴です。当方自宅兼事務所周辺もかなりの田舎(笑)、初夏の朝はあちこちで「テッペンカケタカ」の大合唱です。
夜鷹」(ヨタカ)についてはこちら

宮城県から企画展情報です。

宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々

期 日 : 前期 2021年9月18日(土)~10月10日(日)
      後期 2021年10月12日(火)~11月7日(日)
会 場 : 宮城県美術館 仙台市青葉区川内元支倉34-1
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日  毎週月曜日
       ただし祝日・休日にあたる場合は開館し、原則として翌平日が休館
料 金 : 一般300円(20名以上の団体は240円) 大学生150円(20名以上の団体は120円)
      高校生以下無料

このたびの本展は、ここ仙台の地で、皇室ゆかりの品々をまとまった形で紹介する初めての機会となりました。

明治天皇(1852-1912)は、明治9年(1876)および14年(1881)の2回にわたって東京から陸路を進んで東北各地を巡幸されました。この巡幸は、皇室と東北地方の人々の距離を縮め、互いの存在を強く意識するきっかけとなりました。その後、歴代天皇や宮家の方々の御訪問、また秩父宮雍仁親王(1902-52)との深い御縁など、皇室と東北各地を繋ぐ様々な縁が、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品の数々にうかがえます。

本展では、東北各県にゆかりのある作家や作品を中心に、各地域の伝統的な技術による工芸品も含めて、皇室と東北の各地との絆を伝える品々を紹介します。このほかにも、江戸時代の京都御所で飾られた屏風、明治以降の宮殿などの室内装飾品や皇室行事で用いられた大作、作家の代表作も並びます。ぜひこの機会に、皇室に伝えられた様々な美のかたちをご堪能ください。

当館本館2階では、「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」を同時開催いたします。
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関連イベント ※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から、予定が変更になる場合がございます。
 講演会「皇室と東北ゆかりの美 ―宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品から―」
 講師  五味聖(宮内庁三の丸尚蔵館 主任研究官)
 日時  10月10日(日曜日) 午後2時~(90分程度、開場は午後1時30分)
 会場  講堂
 定員  150名 ※先着順(聴講無料)
 午後1時より、講堂前にて整理券を配布します。

 まちなか美術講座「皇室と東北のつながり ―宮内庁三の丸尚蔵館の名品から―」
 講師  土生和彦(当館学芸員)
 日時  10月16日(土曜日) 午後1時30分~
 会場  東北工業大学一番町ロビー2階ホール
 定員  20名 下記宛先へ事前のお申込みが必要です。申込み多数の場合は抽選。
     先着順ではありませんので、ご注意ください。
 申込み方法 往復ハガキにてご応募ください。氏名・住所・講座タイトルを明記。
 申込み期間: 9月1日(水曜日)~10月1日(金曜日)※当日消印有効。
 【宛先】〒980-0811 仙台市青葉区一番町1-3-1(TMビル)
       東北工業大学一番町ロビー「まちなか美術講座」 係 

出品目録によると、001光太郎の父・光雲作の「養蚕天女」(大正13年=1924)が展示されます(前期のみ)。

三の丸尚蔵館さんには、光雲作の「養蚕天女」が二点、収蔵されています。サイズが異なり、大きな方が像高約50㌢。今回展示されるのはこちらです。小さい方は同じく約25㌢。こちらは昭和3年(1928)の作です。いずれも昭和天皇のご成婚記念に贈られたもので、明治以降、歴代の皇后陛下が養蚕に取り組まれていることにちなみます。

ただ、なぜこれが「東北ゆかりの品」なのか解らなかったのですが、どうも、皇后陛下の養蚕に使われている蚕の稀少品種「小石丸」が、山形県で現在も受け継がれているとのことで、その関係でしょうか。

ところで、関連行事のうち、まちなか美術講座「皇室と東北のつながり ―宮内庁三の丸尚蔵館の名品から―」を担当される土生和彦氏。以前は愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんにご勤務なさっていまして、平成25年(2013)、同館他2館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」では大変お世話になりました。仙台に異動されていたんだ、という感じでした。

さて、毎度同じ文句ですが、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前11時14分の電車にて花巻郵便局にゆき、昨夜の詩稿「おれの詩」を「心」の木村氏に速達。電報もうつ。


昭和23年(1948)11月26日の日記より。

『心』は、この頃、盟友・武者小路実篤が主宰していた雑誌です。下の画像、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋内部ですが、光太郎の背後の棚、武者の絵が無造作に画鋲で留められています。

「おれの詩」は、翌年の新年号に掲載されました。003

    おれの詩

 おれの詩は西欧ポエジイに属さない。
 二つの円周は互に切線を描くが、
 つひに完くは重らない。
 おれは西欧ポエジイの世界を熱愛するが、
 自分の詩が別の根拠に立つことを否めない。
 アテネの空とクリスチアニスムの地下泉とは
 西欧ポエジイの言語思考の方式を生んだ。
 それは限なく美しく強くおれの内部に滲透するが、
 その粉食と牛酪と肋間肉(アントルコオト)との生理は
 おれの日本語の必然を近づけない。
 おれの詩はおれの五臓六腑から出る。
 極東の突端に生れて粒食に育ち、
 麹と大豆と魚肉とに養はれた魂は、
 遠くガンダラの余薫を身にしめるとはいへ、
 むしろ厖大な大陸の黄土文化に啓発され、
 日本古典のせせらぎに沐浴し、
 遽々然として今原子力に瞠目するのだ。
 おれの詩はおれの実体以外になく、
 おれの実体は極東の一彫刻家であるに過ぎない。
 おれにとつて宇宙は構造の原点であり、
 詩は構造の対位法(コントルポアン)だ。
 西欧ポエジイは親愛なる隣人だが、
 おれの詩の運行は一本軌道がちがつてゐる。

昨日お伝えした、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」新設の件、後追いでの報道と、当方が見落としていた報道がありましたので、ご紹介します。

ローカルTV局・ミヤギテレビさん。

宮城 女川いのちの石碑20基完成

 津波から避難する目印にと、女川町の当時の中学生が各浜の高台に建てたいのちの石碑。今月20基目までの石碑が完成し披露式が行われました。
 女川町の小乗地区と横浦地区では、今月8日地元住民や女川中学校の卒業生が参加し披露式が行われました。
 いのちの石碑は、当時の中学生が震災の悲しみを繰り返さないために、女川町の21の浜の津波到達地点より高い場所に避難の目印となる石碑を建てる取り組みです。設置の費用1000万円は募金で集め、今回で20基目まで完成しました。
 最後となる21基目の石碑は今年11月に女川小・中学校の近くの高台に設置する予定です。
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続いて地方紙『石巻日日新聞』さん。

千年後の命を守るために 女川の石碑 20基目除幕 11月に残る1基披露

 多くの被害をもたらした東日本大震災の津波の教訓を後世に伝え、千年先の命を守ろうと、女川町立女川中学校の卒業生が設置に取り組んできた「女川いのちの石碑」は8日、19、20基目が除幕された。町内に21ある浜全てに建立する計画。残る1基は小学校併設の新しい中学校敷地内に建て、11月21日に披露する予定。
 19基目は小乗浜、20基目は横浦に建立。いずれも新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、地域への披露式が1年延期されていた。このうち横浦は高台の防災集団移転団地に建立。地域住民や須田善明町長のほか、卒業生のうち4人が海の見える団地内の公園に集まり、石碑を覆った白い布を下ろした。
 4人のうち伊藤唯さん(23)は「町や地元の人に支えられて20基目まで来た」と10年を振り返り、阿部由季さん(23)は「震災を伝えていくのに役立ってほしい」と期待。残り1基となる中、鈴木智博さん(22)は「建てて終わりではなくこれからがスタート」と見据え、山下脩さん(22)も「仕事の合間を縫って語り継ぐことをしてけたら」と話した。
 取り組みを進めたのは、震災翌月に女川第一中(後に女川中)に入学した1年生。社会科の授業をきっかけに津波被害を最小限にする3つの対策(①互いに絆を深める②高台に避難できる町づくり③記録に残す)を考え、その一つとして津波が到達した地点よりも高い場所に石碑を建てることにした。
 2年生の3学期に募金を開始し、半年余りで1千万円が集まり、その年の11月に最初の2基が完成した。石碑は統一した形で台座を含めた高さは2メートル、幅1メートル、重さ2トン。碑文に3つの対策を刻み、津波が来た時の避難や笑顔あふれる未来の町への願いを記してある。
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最後に、やはり地方紙『石巻かほく』さん。

「いのちの石碑」19、20基目 小乗、横浦地区に完成 女川

 東日本大震災の教訓を後世に伝えるため、女川町女川中の卒業生らが町内21カ所に建立を進めている「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗、横浦の両地区に完成した。披露式が8日、現地で行われた。
 小乗地区では、卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約20人が参加した。メンバーが碑文に込めた思いや、各浜で津波到達点より高い場所に建てたことなどを説明した。参加者は石碑を前に震災当時やこれまでの生活を振り返った。
 石碑は高さ約2・3メートル、幅約1・2メートル。「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などのメッセージや「黒津波 女川の景色 消しさった」といった当時の生徒が考えた俳句が石碑ごとに刻まれている。
 小乗地区の阿部求行政区長(73)は「若者が地域の未来を思って行動してくれている。石碑の意味をしっかり理解し、住民同士で支え合いたい」と話した。
 横浦地区にはメッセージの他に「今ここに 生きててくれた ありがとう」と俳句が記されている。区長の木村初雄さん(72)は「震災を経験した私たちが風化させないように協力しなければいけない」と気持ちを新たにした。
 石碑の建立は2013年に始まり、19、20基目は19年11月に完成した。翌年に披露式を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
 「いのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「石碑を建て終えてからがスタートだと思っている。教科書の作成や講演会の実施など発信に力を入れていく」と抱負を語った。
 21基目は、昨夏新設された女川小中に建てられ、11月21日に披露式を行う予定。各石碑には住民が感じた震災の教訓などを見られるようにしたQRコードを刻むことも検討されている。
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最後に書いてあるQRコードの件。実現して欲しいものです。石碑類、建てて建てっぱなしになることが少なからずあるのですが、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーの皆さんは、定期的に碑の清掃等にも取り組まれていますし、さらにQRコードの追刻も活動を進化・深化させる上で効果的と存じます。

まったく、頭の下がる思いです。

【折々のことば・光太郎】

牛尾をオツクステールにする。


昭和23年(1948)7月31日の日記より 光太郎66歳

「オツクステール」はスープです。現代では高級なメニューとしてもてはやされていますが、当時の日本では牛の尾は捨てるもの、というのが常識でした。欧米留学の経験もあった光太郎は、捨てられる牛の尾があると、貰って、自家製のスープにしていました。

この日入手したのは、分娩の際、死んでしまったという牛の尾。近くの開拓地に住む青年が届けてくれました。

昨日ご紹介した、宮城県女川町の光太郎文学碑に倣い、費用を募金でまかなった「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、建立が進んでいます。

全21基中の19・20基目が除幕されたということで、報道されました。

テレビ局のローカルニュースから。まず、OX仙台放送さん。

“強い地震が来たら石碑より上へ逃げて”女川町「いのちの石碑」 中学卒業生が震災の教訓を刻む

 女川町では震災の教訓を石碑に刻んで後世に伝える、「女川いのちの石碑」が新たに2つ完成し8日、除幕式が開かれました。
 この活動は2011年に入学した女川中学校の卒業生たちが、震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑を建てているものです。
 女川町小乗地区で行われた8日の除幕式には、女川中学校の5人の卒業生などおよそ20人が集まり、19基目の石碑が披露されました。
石碑には「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などとメッセージが刻まれています。
 小乗地区住民「地域の方々が仲良く支え合って歩んでいただければと」
 また午後からは、女川町横浦地区で20基目の石碑が披露されました。
 女川中学校卒業生 山下脩さん「最終的には夢としては千年後まで語り継いでいければなと思っています」
 「いのちの石碑」最後の21基目は、11月に女川小・中学校に建てられる予定です。
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続いてtbc東北放送さん。

 「いのちの石碑」最後1つを残し完成 宮城・女川町

 宮城県女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内21の浜に建立を進めている石碑が20基まで完成しました。
 女川町の小乗地区では、石碑の披露式が行われ、建立した若者たちや住民が参加しました。この石碑は、女川中学校の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が建立を続けているものです。町内21の浜の津波到達地点よりも高い場所に石碑を建てる計画で、8日は、19基目の小乗地区と20基目の横浦地区の2つがお披露目されました。会では、最後となる21基目の石碑を女川小中学校に建立し、今年11月21日に披露する予定です。
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さらに、NHKさん。

女川町いのちの石碑 20基目が完成

 東日本大震災の教訓を伝えようと当時、中学生だった人たちの呼びかけで、女川町の沿岸の地区に建てられることになった石碑のうち20基目が完成し、披露されました。
 女川町では、震災当時、中学生だった人たちが、津波の教訓を後世に伝えようと「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、沿岸にある21の地区に石碑をつくる活動を続けています。
大きな被害を受けた横浦地区では、震災後、新たに造成された高台の住宅地に20基目となる石碑が建てられました。
 8日は、大学生や社会人になったメンバー4人と地元の人たちが集まって、全員で石碑の幕を引きました。
 石碑は高さおよそ2メートル、幅およそ1メートルで、「今ここに生きてくれててありがとう」といったことばが刻まれています。
 そして、メンバーの1人の伊藤唯さんが「大きな地震が来たら石碑よりも高い場所に逃げて、家に戻ろうとする人がいたら引き止めてください」と呼びかけました。
 残る1基の石碑は、ことし11月に完成する予定です。
 「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さんは、「21基の石碑を建てて終わりではなく、震災の教訓を伝え続けたい」と話していました。
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それから、KHB東日本放送さん。

東日本大震災の教訓を後世に いのちの石碑 19・20基目 宮城・女川町で披露

 震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町で、当時の中学生が設置した石碑の披露式が行われました。
 この石碑は、女川中学校の卒業生が、津波で被災した町内21カ所に建設を目指しているもので、8日は19基目と20基目がお披露目されました。
 新型コロナの影響で、1年遅れての公開となりましたが、今年11月には、最後の1基が女川小中学校に設置されます。
 女川1000年後のいのちを守る会・鈴木智博さん
「これを建てて終わりじゃなくて、伝えていくのがこれからの使命なのかなと考えています」
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新聞でも報道されています。仙台に本社を置く『河北新報』さん。

女川中生の思いつないで20基目 避難誘導の「いのちの石碑」

 東日本大震災の教訓を未来に伝え残そうと、宮城県女川町女川中の卒業生らが町内に建立している「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗(このり)、横浦両地区にそれぞれ完成し、8日に現地で披露式があった。
 卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約30人が参加した。石碑を除幕した後、メンバーが碑文に込めた思いを説明。住民らは、震災当日の出来事を振り返りながらメンバーと語り合った。
 小乗地区行政区長の阿部求さん(73)は「当時の子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、本当に頑張った。石碑を見て地域で支え合って歩みたい」と話した。
 2基の披露式は新型コロナウイルスの影響で1年延期して開いた。月1回の伝承活動も昨春以降、自粛が続く。守る会の伊藤唯さん(23)は「石碑を建てて終わりではなく、これがスタートだと思って活動したい」と意欲を語った。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒らが企画。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促すため、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建てている。建立は13年11月に始まり、最後の21基目は昨夏新設された女川小中学校に建て、11月21日に披露式を開く予定。
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この活動、今年6月には、オンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、一昨年にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。

今秋には最後の碑が、新たに開校した女川小・中学校に建てられるそうで、今後とも、この活動を見守っていきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉貸別荘の儀は訪問者殺到を恐れて中止にせんかと相談す。


昭和23年(1948)7月24日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、マイナス20度にもなり、メートル単位で雪が積もる厳冬期だけでも、花巻温泉に新設された貸別荘を借りてはどうか、という話があり、光太郎もその気になりかけたのですが、結局、そうすると、交通の便が悪くないため訪問客が多くなりそうだと危惧し、取りやめにしました。

8月9日(月)、地元の皆さん限定で行われた第30回女川光太郎祭について、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「三陸廻り」90年に敬意 高村光太郎文学碑に献花

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのび、町内の「女川光太郎の会」が9日、町海岸広場内の文学碑に献花した。碑は東日本大震災で被災して昨夏に再建を果たし、会員らが建立からの30年間に思いを巡らせた。
 光太郎は1931年に石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古までを旅し、紀行文「三陸廻(めぐ)り」を著した。光太郎が石巻に向かって東京を出発した日から今月9日で丸90年を迎え、町民5人が光太郎の詩や紀行文を刻んだ文学碑に花を手向けた。
 碑は震災の津波で亡くなった町内の画家貝広さん=当時(64)=が中心となって91年に3基を建てた。1口100円の募金活動で建設費を募り、約10年がかりで完成させた。
 女川港の水揚げ場を詠んだ「よしきり鮫(ざめ)」を記した詩碑が震災の津波で流出。主碑が倒れ、詩碑1基が残った。貝さんの思いを継いだ会員らが残った2基の再建を町に要望。町が護岸工事を終えた海岸広場に昨年8月ごろ、設置した。
 毎年8月9日に光太郎の詩を朗読する「光太郎祭」は、新型コロナウイルスの影響で昨年から献花のみ実施している。92年に始まり、今年で30回目を迎えた。
 光太郎の会の須田勘太郎会長(81)は「多くの方の支えで碑を再建できた。貝さんら先人の思いをつなぎ、これからも祭りを続けたい」と語った。
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昨年に引き続き、今年も一般の方の参加はなく、女川光太郎の会の皆さんによる、光太郎文学碑への献花のみ行われました。来年こそは、旧に復してほしいものです。

明日も女川系のネタを。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳つり今夏はじめて


昭和23年(1948)7月22日の日記より 光太郎66歳

「蚊帳(かや)」。風流といえば風流ですね。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。宮城県の女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

女川光太郎祭は、残念ながら、昨年に引き続きコロナ禍で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます
期 日 : 2021年8月7日(土)~8月13日(金)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

光太郎と啄木の短歌・詩・評論を通して、作品に流れる人間観や人生観を知っていただくような展示を行います。
◇図書館の館内を巡りながら、特別展の展示を楽しみつつ観ることができます!!
◇高村光太郎と石川啄木を、わかりやすく知ることができます。
◇入館者に手作りの記念品を差し上げます。
※新型コロナ感染症予防のため、マスクの着用・こまめな消毒、三密の回避のご注意をお願いいたします。
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この手の展示で光太郎に触れて下さるのが、毎年この時期の恒例となっていて、今年で3回目です。
女川つながる図書館特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」。
宮城レポート その2 女川町内各所。
女川つながる図書館特別展「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」。


初回の一昨年は光太郎がピンで、昨年は光太郎と交流のあった、同じくみちのくゆかりの宮沢賢治とからめての企画でした。そして今年は、やはりみちのく出身で、光太郎と交流のあった石川啄木とのタイアップです。

会場が特設される訳ではなく、図書館内の書架の上だったり、カウンターの前のちょっとしたスペースだったりを使ってのミニ展示ですが、こういう取り組みを行うことも、大切なことだと思います。

来年以降も継続していただきたいものですし、来年こそは女川光太郎祭の復活も切に祈念する次第です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃石井鶴三、笹村草家人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。


昭和23年(1948)6月20日の日記より 光太郎66歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と明治期から親しかった画家・石井柏亭の実弟です。笹村草家人も彫刻家で、この後、信州安曇野の碌山美術館建設に奔走、光太郎にも協力を要請しました。

001有賀剛は笹村の友人で、神田小川町の汁粉屋主人。光太郎は2日後には有賀のために複数の書を揮毫しています。そのうち1枚は「悠ゝ無一物満喫荒涼美」。前年に作った連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」の一節、「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」を漢文風にアレンジしたものです。

千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家。旭谷正治郎は同じく秋田横手出身の画商です。平成27年(2015)には、旭谷宛の光太郎書簡などが展示された「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が、横手市の雄物川郷土資料館さんで開催されました。

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