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溜まってしまう前に……。

まずは3日(金)の『日本経済新聞』さん……というより共同通信さんの配信記事です。信州善光寺さんでのもろもろをご紹介して下さいました。

善光寺、あうんの呼吸1世紀 仁王像の節目祝う企画

長野市の善光寺で国宝の本堂に向かう参拝客らを仁王門の両脇から出迎える2体の仁王像・阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が今年9月に開眼100年を迎えるのを記念し、ライトアップや写真コンテストなどの企画が相次いでいる。善光寺の事務局は節目の年に「より多くの方に善光寺を訪れてほしい」と期待を寄せる。
1752年に建立された当初の仁王門と仁王像は1847年の地震に伴う火災で焼失。いったん再建された後も火災に見舞われ、仮の門を代用した時代を経て1918年3月に現在の高さ約14メートルの仁王門が建立された。
高さ約5メートルの仁王像2体が復活したのは翌19年9月。彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が木曽ヒノキを使い、完成までに4年の歳月を要したという。
昨年は仁王門再建から、今年は仁王像開眼からそれぞれ100年に当たるのを記念し、善光寺は昨年9月から仁王門に貼られた約1200枚の千社札を剥がしたり、仁王像のすす払いを造立後初めて実施したりして、装いも新たにした。
また、仁王像の姿や造形美を際立たせるために午前6時から午後8時までオレンジ色にライトアップし、門の脇を5色の吹き流しで彩る。仁王門や仁王像の写真コンテストとして6月14日まで作品を受け付けているほか、保存や管理を目的に明治、大正期や昭和20年代までの古い写真も募っている。節目となる9月ごろには大規模な記念法要も予定されている。
4月下旬、善光寺を初めて訪れたという甲府市の無職、山下広明さん(71)は「災害など苦難を乗り越えた力強い仁王門、仁王像だと感じた。100年という記念の年に来られて、パワーをもらえた」と話していた。〔共同〕

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続いて、4日(土)、『読売新聞』さんの一面コラム。

編集手帳

陽光に輝く綠の濃淡が心を弾ませる。咲き競うツツジやシャクナゲも生命力にあふれる。 〈植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭〉。高村光太郎は詩『新緑の頃』で青葉若葉の季節を讃美する◆誰もが幸福そうに見える。山が人を幸福にするのはなぜだろう-----。奥秩父の山小屋が舞台の笹本稜平さんの小説『春を背負って』で、主人公の小屋主が登山客の姿に思う。山小屋を訪れる人々は自然の中で癒やされていく◆大型連休中に山歩きやキャンプを楽しむ方も多かろう。今日は「みどりの日」、新緑のエネルギーを吸収し、英気を養うにふさわしい◆この春、社会に出た若者は、緊張続きのひと月を経て、ほっと一息というところか。抑え込まれていた疲れが噴き出して、虚脱感に覆われがちな時期でもある◆〈悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののためにめiに/ああ みどりは輝く〉。室生犀星の『五月』と題された四行詩は悩める心を優しく励ます。薫る風に憂いを払い、心機一転、次なる一歩を踏み出したい。

まさに青葉若葉の季節です。それだけに自宅兼事務所の庭の雑草取りも大変ですが(笑)。


そして今朝の『毎日新聞』さん。俳壇・歌壇面に載ったコラムです。

出会いの季語 北上へ花を追い=高田正子009

 今年は思いのほか長く花時を楽しむことができた。関東圏では卒業式のころには咲き始めていたが、その後の冷え込みによって、めでたく入学式までもちこたえたのだ。そのうえ、花を追って北上するという贅沢(ぜいたく)をしてしまった。標高の高い所へ赴き、はからずも花の時を遡(さかのぼ)ることは日常的にもあり得るが、桜前線を追って自ら動くのは、日々の飯炊きを担う者にとっては目くるめく体験である。
 最終目的地は岩手・北上(きたかみ)の雑草園。俳人山口青邨(せいそん)(1892~1988年)の旧居である。元は東京・杉並にあったが、北上市の詩歌の森公園内に移築されているのだ。
 身ほとりの花が大方散り、遅咲きの桜はまだ固い蕾(つぼみ)であった四月後半、いつもの吟行メンバーが東京駅に集合した。朝からコートが要らないほどの陽気である。<もうひとり待つて始まる花の旅 正子>。とはいえアラ還以上の世代に遅刻は無い。
 みちのく(道の奥)へも今や新幹線でぴゅーっと一走りである。永久(とわ)の別れになることをも覚悟して芭蕉と曽良が旅立ったのは、たった三百年前のことだというのに。 車窓の景色は川を越えるたびに季節を巻き戻してゆく。あら辛夷(こぶし)が、と思うころには仙台に着いていた。芭蕉が「心もとなき日数(ひかず)重なるままに」差し掛かった白河の関も、気づかぬままに通過した模様。<居眠りて過ぐ白河の花の関 正子>。両岸が緑に潤む川を渡ると北上駅である。コートのライナーを外してきたことをコートのライナーを外してきたことを心から悔やみつつ、初日は花巻へ。宮澤賢治の里から、翌日高村光太郎山荘を経て北上へ戻り、雑草園へ。
 わが書屋落花一片づつ降れり 山口青邨
青邨は旅の一行の先生の先生である。桜は一片だに散らさぬ完璧な佇(たたず)まいで、ちょうど花弁を散らしていたのは門の白梅であった。以前訪れたときには庭に居た石の蛙の姿が見えず。冬眠中? そんなわけはないと思うが、また夏に来てみようか。(たかだ・まさこ=俳人)

桜前線をトレースする行程、「東北新幹線あるある」です(笑)。

ぜひ高村山荘のレポートも書いていただきたいところですが……。


【折々のことば・光太郎】

人間の生活は網の目のように引つぱり合つてできているので、文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて悪いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような気がする。
散文「山の人々」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

高村山荘のある花巻郊外旧太田村山口地区を評しての一言です。たしかに「地方創成」といいながら、プチ東京をあちこちに作っても仕方がありませんね。

昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家の誘いで、光太郎が岩手花巻に疎開するため東京を発った5月15日、光太郎を偲ぶ高村祭が、毎年、手作りのイベントとして、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で行われています。

第62回 高村祭

期 日 : 2019年5月15日(水)
会 場 : 高村山荘 「雪白く積めり」詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85-1
         雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場 岩手県花巻市太田11-363-1
時 間 : 10:00~14:30頃
料 金 : 無料
内 容 :
 式典
  児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス等
  特別講演 「高村光太郎と花巻病院」 講師 後藤勝也氏(総合花巻病院院長)
  花巻と光太郎の縁を取り持った総合花巻病院創設者・佐藤隆房と高村光太郎の関係

無料臨時バス運行 
 往路  花巻駅西口発 午前9時30分   高村山荘着  午前9時50分
 復路  高村山荘発   午後2時30分   花巻駅西口着  午後2時50分

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。また、この日は無料で高村光太郎記念館・高村山荘に入館できます。

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山荘周辺、新緑の美しい季節ですし、この日は山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんも入場無料。ぜひ足をお運びください。

ついでというと何ですが、先週の『秋田魁新報』さんに載った記事をご紹介しておきます。

「気ままな旅」花巻・高村記念館へ行く

 3月下旬、新青森駅7時43分発はやぶさ10号で盛岡へ向かう。目的地は花巻市太田にある高村光太郎記念館・高村山荘。列車は1時間で盛岡駅に到着した。
 駅内のカフェで朝食をとり、トヨタレンタカー盛岡駅南口店で小型乗用車・ヴィッツを借りる。カーナビに行く先をセットし、盛岡南インターから東北自動車道へ入る。約30分車を走らせ、花巻南インターでおりる。記念館まで11キロ。
 県道12号(花巻大曲線)を右折して、道なりに10分程行くと県道37号(花巻平泉線)と交差する。前方に「花巻南温泉峡」のアーチ看板を確認し、交差点を左折してすぐ高村橋(豊沢川)にかかる。ここから5分くらいで記念館に着く。
 高村光太郎記念館・高村山荘は2015年4月28日にリニューアルオープンしている。森の中にある、白く瀟洒(しょうしゃ)な記念館はこぢんまりとして温もりに満ちていた。切妻(きりづま)屋根(漆黒(しっこく)と銀色)の建物が左右に2棟(母屋(おもや)と離れ、あるいは夫婦のように)並び渡り廊下で繋(つな)がっている。母屋は入り口(受付)・展示室1・詩朗読コーナー・休憩コーナー・土産品(色紙、書籍、絵葉書)コーナー等で、離れは展示室2・企画展示室で構成されている。
 特に展示室1では代表作の彫刻や詩が紹介されていた。たとえば十和田湖畔に建つ裸婦像「乙女の像」の中型試作(妻・智恵子がモチーフ)父・高村光雲の還暦記念として制作された胸像試作「光雲の首」(欧米留学後初の彫刻作品)近代的感覚を表現した、天を真っ直ぐ貫くような人差し指「手」のレプリカ(実際に触れて体感できる)をはじめ「道程」「レモン哀歌」などの詩作品も鑑賞できる。また展示室2は、「東京からみちのく花巻へ」「地上のメトロポオルを求めて」「書について」「賢治を生みき、我をまねきき」のテーマで、高村光太郎の人物像が多面的に理解できるように演出されていた。 そもそも彫刻家、詩人として知られた高村光太郎の記念館が花巻市太田(旧太田村山口)にあるのは、戦火で東京のアトリエを失い、花巻へ疎開してきたことによる。7年間、太田村山口で山居生活を送りながら多くの詩や書を残した。特に書には一家言をもち「正直親切」「大地麗(うるわし)」といった名作を学校などに寄贈する一方、トレードマークの彫刻については封印していた。それは戦時中の己の翼賛活動を恥じ入る、自分への罰であった。
 光太郎は村人との交流により、この地に文化の花を咲かせ、国際的な連携拠点となるようなメトロポオル(中心地)の建設を夢見た。すべては花巻へくる奇縁になった宮沢賢治との出会いにある。光太郎は賢治を認め、世に知らしめた。「宮沢賢治全集」の題字を手がけたり「雨ニモ負ケズ」の詩碑を揮毫(きごう)したり。彼の短歌が物語る。「みちのくの花巻町に人ありて賢治をうみき われをまねきき」
(東北女子大学家政学部教授 船水周)




【折々のことば・光太郎】

わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まつ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青く晴れているとなおさらうつくしい。

散文「山の雪」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

同じ件を、同じ年に書いた詩「この年」でも取り上げています。

  この年000
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で「神の国」とたたえねばならず、その結果、多くの若者を死に追いやった日本。そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はことさらに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや単に世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで紙に描いた日の丸を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

世間的には明日から10連休だそうで。ゴールデンウィーク中に始まるイベントを一つ。 

美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―

期 日 : 2019年5月3日(金・祝)~5月26日(日) 期間中無休
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 森のギャラリー  岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 10:00~15:00 
料 金 : 大人200円(150円)学生・生徒・児童150円(100円)
         高村光太郎記念館は別途料金

光太郎はこの地を文化の発信地にしようとしていました。自分を取り巻く自然すべてのものが美に満ちていると語っています。
新緑の季節、光太郎さんぽ道で草花を愛でながら、光太郎と智恵子の息吹を感じてみませんか?
≪展示内容≫ 多田民雄 ポスター作品、安部勝衛 陶芸・書作品

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光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)の傍らに建つ花巻郊外旧太田村の「森のギャラリー」は、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館の建物です。こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、展示に使用されていました。

その後しばらく倉庫として使われていましたが、一昨年から記念館の別館のような扱いで、記念館に展示しきれないものの展示や、地元の皆さんの作品展、市民講座やワークショップなど、幅広く活用されています。

今回は、地元の画家・多田民雄氏と、陶芸家の安部勝衛氏の作品が展示されます。

多田氏は昨年、旧太田村にほど近い花巻市円万寺地区のギャラリーBunさんでポスター展を開かれています。その際は高村光太郎記念館をモチーフにした作品も出品されたとのこと。今回も、高村山荘が描かれている作品などが出るようです。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、5月15日(水)には、高村山荘敷地内で、毎年恒例の「高村祭」が開催されます。当方、その際にお邪魔するつもりで居ります。

皆様も、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供の頃たべつけた物はいつまでもなつかしく、今日でも飲屋などで畳み鰯を焼いてくれると心がしんみりする。

散文「子供の頃の食事など」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この項、しばらく前から花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた戦後の作品を紹介してきましたが、今日のみ戦前の作品に戻ります。

この項、筑摩書房版『高村光太郎全集』を底本に、その掲載順に言葉を拾っています。同全集は、詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳などにわけ、ほぼ年代順に並べるスタイルですが、昭和30年代の初版刊行時に執筆時期が不明だった作品もあり、あるべき場所でないところに置かれている作品もあり、これもその一つです。

4月2日(火)、東京日比谷公園松本楼様では、当会主催の第63回連翹忌の集いを催しましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも独自に花巻としての連翹忌他が開催されています。ちなみに花巻では「回忌」のカウント法なので、「64回忌」と、こちらよりプラス1になります。

今年は同地でかなり報道されていますので、ご紹介します。

まず、午前中、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、詩碑前祭。例年は、その名の通り、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」を刻んだ光太郎詩碑の前で地元の方々が詩の朗読などをなさり、詩碑に献花などがなされるのですが、何と今年は大雪だったそうで、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの開催となったそうです。

まず『岩手日報』さん。

高村光太郎先生に思いはせ 花巻で詩碑前祭

 詩人で彫刻家高村光太郎(1883~1956年)の第六十四回忌詩碑前祭は命日の2日、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれた。1945(昭和20)年から7年間、旧太田村山口で山居生活を送った光太郎の遺徳をしのんだ。
 地元の顕彰団体、高村記念会山口支部(照井康徳支部長)主催で住民ら約60人が参加した。
 地域の小中学生9人が詩「山からの贈り物」「案内」などを朗読。支部会員も「雪白く積めり」「大地麗し」「道程」などを趣深く読み上げ、光太郎と住民との交流の拠点となった旧山口小校歌を参加者全員で歌い、焼香した。
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続いてIBC岩手放送さんのローカルニュース。

ゆかりの地・花巻で64回忌…高村光太郎の遺徳を偲ぶ/岩手・花巻市

4月2日は詩人で彫刻家の高村光太郎が73歳で亡くなった命日です。ゆかりの地・花巻では六十四回忌が開かれ、地域の人たちがその遺徳を偲びました。
「道程」や「智恵子抄」などの詩集で知られ、彫刻家としても活躍した高村光太郎は、1945年5月、戦火を逃れて東京から花巻に移住しました。7年間を過ごした地、花巻市太田では、毎年、命日の4月2日に詩碑前祭が開かれています。六十四回忌のきょうは生憎の雪で、会場を初めて高村光太郎記念館の中に移して行われました。参加者が朗読した詩の中には、光太郎が花巻の雪景色を初めて目にした際の作品もありました。
「雪白くつめり。雪林間の路をうづめて平らかなり。ふめば膝を没して更にふかくその雪うすら日をあびて燐光を発す」
「わたしらも今70歳ですから、あと3つで先生が亡くなった歳に近くなるんですよね、それで今度新しい『令和』を迎えて、感無量なところがございます。詩の朗読会を通じて先生のことを理解していただければなと思います」(高村光太郎記念会・照井康徳さん)
参加者たちは合わせて10の詩に親しみ、当時に思いを馳せて故人を偲んでいました。

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午後からは、花巻市街の松庵寺さんに会場を移し、連翹忌法要。

岩手朝日テレビさんのニュース。

高村光太郎の命日 花巻の寺で法要

4月2日は詩人や彫刻家として活躍した高村光太郎の命日です。
これに合わせてゆかりのある花巻市の寺では法要が行われました。
詩集「道程」などで知られる高村光太郎は1945年に宮沢賢治の弟・清六の家に疎開し、戦後7年間を花巻市で過ごしました。
法要は光太郎が妻・智恵子の命日に訪れていたという松庵寺で毎年行われていて、今年は地元の関係者やファンなどおよそ20人が出席しました。
厳かな雰囲気の中、参列した人たちは光太郎の遺影を前に焼香して手を合わせました。
最後に小川隆英住職が光太郎が松庵寺で詠んだ詩を紹介し参列者全員で先人をしのびました。


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とおっしゃるのは、生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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同じく松庵寺さんの小川住職


NHKさんでは、詩碑前祭・法要ともに報じて下さいました。法要を先に、詩碑前祭を後にと、時間的な順序は逆でしたが。

高村光太郎の命日に花巻市で法要

詩人で彫刻家の高村光太郎の命日だった2日、戦時中に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
高村光太郎は、昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失ったあと、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開し7年間を過ごしました。
73歳で生涯を閉じたのは東京ですが、花巻市双葉町の松庵寺では毎年、命日に、光太郎が好きだった花の名前から「連翹忌」と呼ばれる法要を営んでいます。
2日も長年のファンなどおよそ20人が集まり、住職から昭和20年に光太郎が作った「松庵寺」という詩について、「妻の智恵子や母をしのんでこの寺でおつとめし、優しい心がうかがわれる」と説明を受けるとその人柄に思いをはせていました。
毎年、レンギョウの花を手向けている倉金和子さんは、「50回忌から続けています。光太郎先生は山の中で1人で苦労したと思うので生きている限りは続けたい」と話していました。
また、光太郎が疎開暮らしをした山荘近くにある「高村光太郎記念館」には、市民や子どもなどおよそ50人が集まりました。
そして、雪深い花巻での暮らしをつづった詩、「雪白く積めり」などを朗読して光太郎をしのびました。

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盛岡放送局の上原アナ。直接は存じませんが、年に数回花巻や盛岡に泊まるたび、テレビを通じ流れてくるそのシブ~いお声に魅了させられています(笑)。

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詩碑前祭・連翹忌法要、ともに末永く続けて行っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

此の狩野派流の課程には中々意味の深いところがある。いきなり自由画式に放任しないで、古画の伝統に十分親炙させるといふのは、つまり絵画の持つ絵画性といふものを何時の間にかのみ込ませようとする方法と見るべきである。広く言つて其の造型性、造型性の中の絵画性、何故絵画が絵画であり得るかといふ要因を言説に拠らず、古画への直接の見参によつて了会させようといふのである。
散文「姉のことなど」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治25年(1892)、光太郎10歳の時に早世した6つ上の長姉・さく(咲子)の思い出を語る文章の一節です。さくは狩野派に絵を学び、15歳にして「素月」の号を許されていました。

先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

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先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

4月2日、光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。東京日比谷公園松本楼さんでは、当会主催の連翹忌の集いを行いますが、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻でも、花巻としての連翹忌を開催して下さっています。また、当日、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑前では、地元の皆さんによる光太郎詩朗読などの「詩碑前祭」も。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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お近くの方はぜひそちらにご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

余事ながら、腰掛けの仕事卓に使ふ回転椅子は昔パリの百貨店ボンマルシエで買つて来た仕入物であるが、実に丈夫でまだ何ともなつていない。別に高価な品ではないのだが、金物などの作り方が丁寧親切に出来てゐるには感心する。螺旋で上下し、回転軸は別にあり、ばねで後ろへ傾くやうになつてゐる。
散文「三十年来の常用卓」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

欅の板で自作した仕事机に関する散文の末尾の部分です。自作の仕事机は天板が台形で、体の正面に当たる部分が斜めに切ってあって、左の方が手前に張り出し、肘を載せられるようになっている作りで、これが甚だ使いやすいとのこと。たまたまそういう形の板があったのでそのようにしてみたそうです。

それとセットの椅子は、明治末の留学時にパリで購入した物を持ち帰ったそうで、記述を読むと現代ではごくあたりまえの事務椅子のようですが、当時としては珍しいものだったようです。他の文章等でもこの椅子についての記述があり、やはり高級品でなくともしっかりした作りであることに感心したと述べています。

先ほど、盛岡から帰って参りました。

岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴しましたので、レポートいたします。

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会場は盛岡駅前の複合施設・いわて県民情報交流センター アイーナ内の同大アイーナキャンパス。

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いい天気でしたが、盛岡市民の皆さんのソウルマウンテン・岩手山は少し雲がかかっていました。

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講師は同大教授の菊池直子先生。何と、日本女子大学家政学部のご出身だそうで、もろに智恵子の後輩に当たられます。

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同大の研究紀要に論文としてご発表なさる(近日中に刊行)そうですが、昨日はその骨子となる2点について、ご発表されました。

ホームスパンとは、現在も岩手で継承されている羊毛を使った織物で、光太郎とホームスパンの関わりが2点あり、服飾の専門家としてのお立場から、それぞれを丁寧にご説明下さいました。

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まず1点。「ホームスパンの毛布」。

戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの丸7年間、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた光太郎、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京しました。翌28年(1953)、像の完成序幕後、一時的に村に帰ったものの、宿痾の肺結核でもはや身体はボロボロ、東京で療養せざるを得なくなり、結局、同31年(1956)に中野の貸しアトリエで亡くなりました。

光太郎歿後、中野にあった遺品の大半が花巻高村光太郎記念会さんに寄贈され、その中に、ホームスパンらしき毛布というか、膝掛けというか、大きな布が1枚、含まれていました。永らく箱に入ったまま収蔵庫にしまわれていて、その存在に気づいたのが平成28年(2016)。これはホームスパンではないか、ということで、当時の光太郎日記などを当たってみると、「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回ありました。

「メーレー夫人」というのは、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)。ファーストネームの「エセル」は統一されていますが、ファミリーネームの方は文献によって「メレー」「メーレ」「メイレ」「メーレー」「メレ」「メアリー」など、さまざまです。外国語を無理矢理カタカナにする際、よくある話です。

メレは世界的に有名な染織家だったそうで、伝統的な手工芸が滅びつつあることに危機感を抱き、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動にも関わったとのこと。そして、陶芸の分野でアーツ・アンド・クラフツを進めていたバーナード・リーチ、さらにリーチ経由で日本の民芸運動の濱田庄司とも交流があったそうです。リーチといえば、明治40年(1907)に、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、それがきっかけで来日した人物です。濱田も光太郎とつながっています。

そしてメレは、リーチとのつながりから、来日はしなかったものの、大正15年(1926)と昭和3年(1928)の2回、日本で作品展を開きました(1回目はリーチとの2人展)。そのいずれかの折に、会場の鳩居堂画廊を訪れた光太郎が、メレの作品を購入したと、岩手でホームスパン制作に携わっていた福田ハレという女性が光太郎本人から聞いたと回想文に書いています。しかも、それは一緒に見に行った智恵子が欲しがったため、とのこと。

こちらがその毛布(というか膝掛けというか)。

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当方も以前に実物を見せていただいたのですが、モダンなデザインの中にも温かみが感じられ、しっかりした作りでしかも大きく、いろいろ使いでがありそうだと思いました。

菊池先生、そしてメレに関するご著書もある染色工芸家の寺村祐子氏が鑑定した結果、メレ作品の特徴が随所に表れており、メレ本人、或いは弟子がたくさんいたとのことで、メレ工房の作と断定していいだろう、ということだそうです。

昭和20年(1945)、空襲で亡き智恵子と過ごした光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、その前に布団類などは防空壕に入れていたと、光太郎の随筆に記述があり、おそらくこれもその中に入っていたのだろうと思われます。ものがいいものであるということと、智恵子が欲しがって買ったという話が事実なら、智恵子との思い出の品、という部分もあるわけですね。

現在、日本国内には確認できているメレの作品というのは数点しかないそうで、そういう意味でも実に貴重なものです。


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もう1点は、現在も花巻高村光太郎記念館さんに常設展示されている光太郎愛用の服。こちらは来歴もはっきりしており、やはり花巻郊外旧東和町でホームスパン制作に携わっていた、及川全三の弟子だった福田ハレが織ったホームスパンで、仕立ては盛岡の名テーラー・四戸慈文です。ちなみに四戸は、光太郎と交流の深かった画家・深沢紅子の父だそうです。光太郎が「猟人服」を作ってくれ、と頼んだそうで、その際、とにかくポケットをたくさんつけてくれという注文だったとのこと。それは昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行された佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』という、花巻周辺の人物の証言集的な書籍に記述があります。

光太郎曰く「この服を着ればカバンも要らず風呂敷も要らず、大きなスケッチブックも入れば文具箱も入り、手さげ鞄に入れる位はみなおさまる服にしてもらいたい」。さすがにスケッチブックは無理だろう、と思っていたのですが、菊池先生がこの服を調べてみると、何とまあ、後ろ身頃が巨大なポケットになっていて、本当にスケッチブックが入るというのです。これには驚きました。

光太郎は山小屋のあった太田村の村おこし的なことも常々考えており、その一環として、ホームスパン制作を村に根付かせようと、あれこれ画策したそうです。その甲斐あって、一時はホームスパン制作が行われましたが、残念ながら技術を学んだ娘さんが北海道に転居してしまったりで、太田地区のホームスパンは途絶えてしまいました。

しかし、及川の系譜の人々が盛岡や旧東和町などに健在で、岩手県としては今でもホームスパン制作が続いています。

話は戻りますが、そういう土地で、世界的に有名なメレ夫人の作が新たに発見されたということの意義も大きいですね。

いずれ、花巻高村光太郎記念館さんの方で現物の公開が期待されるところです。

そういうわけで、実に興味深い講座でした。

今日も今日とて公開講座に行って参ります(笑)。いわき市立草野心平記念文学館さんの「冬の企画展 草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事で、「居酒屋「火の車」一日開店」。料理研究家の中野由貴さんが講師です。「衣・食・住」のうち、昨日は「衣」、今日は「食」です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

散文「智恵子の切抜絵」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心を病んだ智恵子が、入院先のゼームス坂病院で作った紙絵(「紙絵」と光太郎が命名するのは戦後)は、メレ夫人の毛布のように防空壕に入れて置いたのではなく、茨城、山形、そして花巻の3ヶ所に疎開させ、それで無事に残りました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日、千葉の自宅兼事務所を発ち、光太郎第二の故郷というべき岩手花巻に来ております。毎年三回ぐらいは来花しておりますが、今年はこれが初めてです。
現在、宿泊させていただきました大沢温泉♨さんでこのブログを書いております。戦後、光太郎がよく泊まった宿です。

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まだオフレコなので詳細は控えますが、来年の初夏、中部地方のある美術館さんで、光太郎とさらに二人の美術家三人にスポットを当てる展覧会が企画されており、こちらに協力要請がありました。その出品物をお借りする交渉のため、花巻に来た次第です。

まず、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さん。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接しています。

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今年はこの時期としては雪が少ない状況です。ただし、昨日は晴れていましたが、奥羽山脈を越えて来る季節風に乗って、風花がしきりに舞っていました。

その後、市街地に戻り、光太郎と交流のあった宮沢賢治の関係の林風舎さんへも足を運びました。

今日は別件で、盛岡まで北上し、過日ご紹介しました岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴して参ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

3件ほど。

まずは昨日の『岩手日日』さん。

先人ちょっと身近に 浅沼さん 光太郎との思い出語る

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 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)
に理解を深める「高村光太郎先生に学ぶ会」が27日、花巻市太田の太田小学校(藤本実校長、児童113人)で開かれた。6年生24人が当時の太田村山口に暮らしていた光太郎について地域住民から思い出話を聞き、先人とのつながりを心に刻んだ。

 同市太田の浅沼隆さん(77)が講師を務め、光太郎が山口小学校の入学式で来賓としてあいさつしたり、運動会を楽しく盛り上げたりしたエピソードを披露。山口の住民も、ごちそうを作った際は光太郎に持っていくなど親しく交流したと振り返り、「動物や自然に囲まれた田舎暮らしを満喫していた」と明かした。

  同校では、サンタクロース姿や、野菜の栽培に精を出す光太郎の写真を飾っており、浅沼さんはそれぞれ「高村先生は学芸会の時にサンタクロースの格好で長靴を履いていた。駄菓子をくれた」「キャベツにたかったアオムシを取る手伝いをした。取ったアオムシを踏みつぶしたら『駄目だ』と言われた」と回想。
  光太郎は山口に暮らしている間、彫刻制作を封印していたとされるが、「木彫りの小さいセミを作っていて、餅を持っていった時に見せてくれた。子供たちを大切にしていた」と心柄も伝えた。
  児童は光太郎の作品の数や宮沢賢治との関わりについて質問し、「地域に溶け込んで暮らしていたことが分かった」「作品を一つ一つ見てみたい」などと感想。児童らは「生き物や自然、子供が好きだったことを感じた。いろいろな作品を残したすごい人だけど、少し身近に感じられた」と話していた。

浅沼さんのお父様は、光太郎の暮らした山小屋に近い旧山口小学校の初代校長先生でした。光太郎が移り住んだ当初は分教場だったのが、昭和23年(1948)に小学校に昇格し、赴任してこられました。浅沼さんは、小学校までしか配達してくれなかった光太郎あての郵便物を小屋に届けたりもしていました。

ちなみに、当方原作の「乙女の像のものがたり」に、「隆君」という光太郎がかわいがっていた少年が登場しますが、浅沼さんがモデルです。

浅沼さん、この他にも地元で光太郎の語り部的な活動をいろいろなさっています。ありがたいですね。


続いて、『日本農業新聞』さん。2月26日(火)の記事です。 

原発事故―傷痕 今も 失われた日常忘れないで… 福島の“思い”描く

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 来月11日に東日本大震災から8年を迎える。愛犬との平穏な自給自足の生活、先祖伝来の土地での有機農業……。地震に伴う東京電力福島第1原子力発電所事故によって多くの人が人生を狂わされた。「原発事故の災禍を決して忘れてはいけない」。絵本で映画で、原発事故の風化に危機感を抱いた表現者たちは訴える。

老夫と愛犬 淡々と 絵本ロングセラー
 
 原発事故が奪った、老夫とその愛犬の日常を描いた絵本『ほんとうの空の下で』がロングセラーとなっている。著者は福島県郡山市に住む、イラストレーターのノグチクミコさん(55)。来月11日で東日本大震災から8年。ノグチさんは「原発事故があった時、こういう人が生きていたんだということをたくさんの人に知ってほしい」と呼び掛ける。
  絵本のモデルとなった川本年邦さん(享年87)は生前、福島県浪江町で自給自足の生活を営んでいた。物語は、川本さんが小学校や幼稚園で行っていた幻灯機の上映会の様子や愛犬シマとの笑顔あふれる日常から始まる。川本さんは、東日本大震災による原発事故の影響で避難を余儀なくされる。仮設住宅での生活の後、シマを里親に出し、高齢者住宅へ転居した。
  ノグチさんはこうした姿を絵本であえて文章を付けず、変わりゆく生活を幻灯の映像を見ているように、一コマ一コマ淡々と描いた。ノグチさんは、「誰かを責めるわけではない。人によって、いろんな見方をしてほしい」と文章を付けなかった理由を明かす。また、「何回も読み返してほしいので、重たい、悲惨な震災のイメージは避けたかった」と鉛筆だけで柔らかな印象になるように色付けした。
  本の題名は最後まで悩んだが、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の「ほんとの空」にちなんで「ほんとうの空の下で」と命名した。川本さんが最期を過ごしたシニアホームの窓から見える空がとても狭かった。「せめて、本の中は本当の広い空で飾りたい」というノグチさんの思いから、物語の最後は川本さんが過ごした福島の空が描かれている。
  絵本は2017年10月にノグチさんが自費出版し、600冊以上を販売した。雑誌の書評に紹介されるなど各地から反響が相次ぎ、1月から農文協でも取り扱いが始まった。農文協は「川本さんの生き方を全国の人にぜひ見てほしい」とPRしている。
  問い合わせは農文協・農業書センター、(電)03(6261)4760。

一昨年に刊行された絵本『ほんとうの空の下で』。昨年には原画展も開催されました。じわじわと売れ続けているとのことで、モデルとなった泉下の川本さんと愛犬のシマも喜んでいることでしょう。


最後に、『毎日新聞』さん。やはり2月26日(火)に掲載された、当会会友・渡辺えりさんによる人生相談のコーナー。

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本題とはあまり関係ありませんが、光太郎の名が。お父様が光太郎と交流があったえりさん、やはり各所で光太郎について触れて下さるのでありがたい限りです。

ところで、同じ日にえりさんの事務所(おふぃす3○○(さんじゅうまる)さん)から葉書が届きました。

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3月21日(木)のえりさんのコンサート、そして8月からの新作舞台「私の恋人」の案内でした。なんと、「あまちゃん」でえりさんと共演されたのんさんがご出演とのことで、驚きました。のんさんに関しては、ご存じの通り業界内でいろいろありますので……。以前にもえりさんから、当て書きでのんさんを起用する脚本に手を着けたものの、結局は断念せざるを得なかったというお話をうかがっていましたし……。

今回の「私の恋人」は、第160回芥川賞を受賞して注目を集める上田岳弘さんが平成27年(2015)に発表した同名原作をベースに、えりさん流の切り口で贈る音楽劇だそうで、えりさんご自身の念願だったという「“たくさんの役柄を少人数で演じきる”という手法に挑み、時を超え、性を超え、物理も超えて30の役をたった3人で演じる」実験的な手法だそうです。もしかすると、光太郎智恵子も登場するのかな、などと思っているのですが、どうなることやら……。

また情報が入りましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

この年建設された国会議事堂に関する感想です。その建築としてのデザイン性には、光太郎のみならず当時の心ある造形作家の多くが批判をあびせました。のちに光太郎は「霊廟のやう」とも評しています。

そのデザインもさることながら、現今ではここに巣くう魑魅魍魎の方が問題ですね(笑)。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

岩手盛岡から、市民講座の情報です。
会 場 : 岩手県立大学アイーナキャンパス学習室4
      いわて県民情報交流センター(アイーナ)7階 
盛岡市盛岡駅西通1丁目7-1
時 間 : 11:00~15:30
料 金 : 無料

内 容 : 
①11:00~12:00 文化の講座民藝運動と昭和恐慌期の東北農村社会:ある知的交差の素描
  講師 :三須田 善暢(国際文化学科)
②13:00~14:00 生活の講座Ⅰ「高村光太郎のホームスパン」
  講師 :菊池 直子(生活科学科 生活デザイン専攻)
③14:30~15:30 生活の講座Ⅱ「嚥下が困難な人の食事 とろみ材とゼリー材の利用も含めて」
  講師 :加藤 哲子(生活科学科 食物栄養学専攻)

定  員 : 各30名 事前申し込みが必要です。
        申込期間は平成31年2月8日(金)~3月8日(金)(定員に達し次第終了)

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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた羊毛を使った織物。イギリスが発祥の地です。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。

岩手では、花巻郊外旧東和町(現・花巻市東和町)に居を構えた及川全三という人物が、ホームスパンの普及に努め、現在も盛岡などで及川の流れをくむ人々がその灯を守っています。及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだそうです。

光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村にも、及川の指導でホームスパンを作っていた村民がいて、村の振興にも関心を寄せていた光太郎が興味を示し、その技術を広める手助けをしようとしたり、実際に服を作ってもらったり、及川の工房を訪ねたりしました。

下の画像は、花巻高村光太郎記念館で展示されている、ホームスパンによる光太郎の服。オーダーメイドです。
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このあたりのお話は出るでしょう。

それから、光太郎とホームスパンのつながりは、もう1点。その件についてもいろいろ情報を得ているのですが、今回の講座でどの程度その話が出るかというところでして、あまり詳しく書くとフライングだと怒られそうですので、また講座終了後にレポートします。

というわけで、他の用件もあり、久々に(といっても半年ぶりくらいですが)盛岡、そして花巻に行って参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丁度イタチを彫刻に木彫にしようかと思つて居たので、よく注意して観察したが、彫刻にはテンの方がいいと思つた。イタチではまだ丸すぎる。カハウソのやうな短い圓い口もとは愛嬌があるが、どうも少し中途はんぱで、ずばぬけた霊気に乏しい。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

駒込林町のアトリエ件住居の庭に現れたつがいのイタチを見ての感想です。光太郎によれば、桃は彫刻になるがリンゴはだめで、蝉も彫刻になるけれどカマキリはならない、とのことです。同様に、テンはよくてもイタチは不可。どういう基準なのか、実際に実作に当たっている造形作家の方の意見を訊いてみたいものです。

ちなみに当方自宅兼事務所の近所でも時々イタチを見かけます。たいがい愛犬との散歩中で、U字溝のコンクリート製のふたとふたの間、台形の隙間から現れて、当方と犬に気づくとまた戻っていきます。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

岩手盛岡から、市民講座の情報です。 

館長講座2018 第4回 「岩手の近代彫刻Ⅱ」

期    日 : 2019年2月2日(土)
会    場 : 岩手県立美術館 ホール 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時    間 : 14:00~15:30
料    金 : 無料 
講    師 : 藁谷収 (岩手県立美術館館長)
備    考 : 定員120名 申し込み不要

彫刻家でもある当館の藁谷収館長が、「作り手の視点」で語る講座。専門の彫刻を中心に当館所蔵の作品や現代イタリア彫刻について紹介しながら美術の楽しみ方を全4回シリーズでお話しします。

長沼守敬、高村光太郎、堀江尚志と続く岩手の近代彫刻は、人間に対する深い愛情を表現した舟越保武へとつながっていきます。さらに戦後には創作活動のあらたな可能性を追求し新しい価値を与える彫刻家が出てきます。多様に展開する現代の彫刻の一端を紹介いたします。

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藁谷館長、岩手大学さんで教鞭も執られているようで、昨秋には花巻市主催の岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」でも講師を務められていました。

ちなみに同館では現在、企画展として、光太郎と交流のあった宮沢賢治がらみの「ますむらひろし展―アタゴオルと北斎と賢治と―」を開催中です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が着物を着てゐる限り、裸体の魅力は滅びない。又人間が全裸の生活に立ち返つてその魅力に麻痺するや否や、性の挑発物としての着物が発達しはじめる。此の循環を想像する事は面白い。

散文「循環」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

人間に対する強い愛情の表現の一カテゴリーとしての裸体画、裸体像。滅び去ることはないのでしょう。

最近入手した雑誌から。 

月刊絵手紙 2019年2月号

2019/02/01 日本絵手紙協会 定価762円+税

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一昨年から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』さん。



今号は、詩「雪白く積めり」(1945=1945)。背景はこの詩の作られた花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)付近の雪景色です。表紙にも同じ写真の一部分が使われています。

   雪白く積めり000
 
 雪白く積めり。
 雪林間の路をうづめて平らかなり。
 ふめば膝を没して更にふかく
 その雪うすら日をあびて燐光を発す。
 燐光あをくひかりて不知火に似たり。
 路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
 松林の奥ほのかにけぶる。
 十歩にして息をやすめ
 二十歩にして雪中に坐す。
 風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
 万境人をして詩を吐かしむ。
 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
 わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
 わづかに杉の枯葉をひろひて
 今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
 敗れたるもの卻て心平らかにして
 燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
 美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
メートル単位で雪が積もるこの風景を見ずして、光太郎の山小屋暮らしを語るなかれ、ですね。


続いてもう1冊。

月刊石垣 2019年1月号

2019/01/10 日本商工会議所 定価477円+税

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『月刊石垣』といっても、城郭マニアの皆さん向けの雑誌ではなく、純然たるビジネス誌です(笑)。

「全国の魅力的なまちを取り上げる「まちの解体新書」」というコーナーが、「◆福島県二本松市◆ほんとの空のある 信義を重んじたまち」ということで、智恵子の故郷・二本松を紹介して下さっています。全5ページで、ちょっとした分量です。

ただし、「ほんとの空」の語がタイトルにあるのですが、本文には光太郎智恵子に関する記述はありませんでした。最近は「ほんとの空」の語が一人歩きしている感がありますね。


それぞれ、上記リンクから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自己の生活する社会の根柢に大きな眼を見開いた認識を持たない作家の作は、結局するところ月並芸術に終る。巧妙は巧妙なりに、平凡は平凡なりに、所謂芸術派的芸術の末社の陥るところは皆これである。

散文「ネオ月並式」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自己の制作に対しても常に厳しい眼を持っていた、光太郎ならではの言ですね。

3件、ご紹介します。

まず、1月11日(金)の『読売』新聞さん夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇(たたず)まいを表現するのに凛(りん)という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさまの意味もあることを知った◆りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る◆〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう〉。詩の趣旨に沿う年初となったといえようか。暖冬といわれながらも、この一両日あたりは各地で冷え込み、東京都心では2日続けて氷点下の気温が観測された◆例年、正月のあとにはインフルエンザの流行のピークが控える。今週の厚生労働省の発表によれば、患者数はすでに注意報のレベルを超えた◆〈極寒の一族〉による〈滅菌〉に、比喩以外の意味は無論ない。こまめな手洗いなどでウイルスの感染を防ぎ、凛として寒い時期を乗り切りたい。

ちなみに『読売』さんでは、文中の「霙」に「あられ」とルビを振っていますが、この字は「みぞれ」です。「あられ」は雨かんむりに「散」で「霰」。念のため、『高村光太郎全集』を確認してみましたが、ここにルビはありませんでした。『読売』さんで、読者のためを思ってルビを振ったのでしょうが、残念ながら間違っています。このコラムを読み、光太郎が間違ったのかと思った方がもしいらしたら、そうではありませんのでよろしく。

続いて1月17日(木)の『朝日新聞』さん岩手版。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~「光太郎の食卓」を紹介して下さいました。 

岩手)高村光太郎の食卓たどる企画展 花巻

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883―1956)の食生活に焦点をあてた企画展「光太郎の食卓」が、岩手県花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。2月25日まで。
 留学で欧米に渡った光太郎は、新しい食文化に触れ、オートミールやコーヒーを好んだ。妻の智恵子に先立たれた後、1945年、戦禍を逃れて花巻市の山荘に移住した後も、自家菜園で野菜を育て、知人が差し入れた肉や乳製品を食べていた。菜園のキャベツを酢漬けにした「シュークルート」などもたびたび食卓に上っていたという。
 企画展では、光太郎の山荘に残されていたまな板やフライパン、バター入れなどの調理道具とともに、光太郎が書いた回想や随筆などをパネル展示し、生涯にわたる食生活と創作の関わりを探っている。宮沢賢治の農民に寄り添う姿を敬いつつ「雨ニモマケズ」に記した一日玄米4合の食が「彼の命数を縮めた」として、牛乳飲用などを勧める随筆「玄米四合の問題」なども紹介している。(溝口太郎)
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同じ『朝日新聞』さんの福島版では、1月19日(土)に以下の記事も。 

福島)詩人・草野天平の生涯、寄り添った妻通して 地域誌編集人が著書

 いわき市出身でカエルの詩人として著名な草野心平。その7歳下の弟、天平も詩人として詩作に励んだ。世俗を離れ、身を削るようにして詩を書き、42歳で亡くなった詩人とその家族の歩みとは――。いわき市で地域誌「日々の新聞」を発行する編集人、安竜昌弘さん(65)が「いつくしみ深き 草野天平 梅乃 杏平の歳月」を出版した。
 多彩で数多くの詩を残し、宮沢賢治を世に知らせるなど文学史に残る活躍をみせた心平(1903~88)。一方、天平(1910~52)は、東京・銀座で喫茶店を営んだり、出版社に勤めたりした後、31歳ごろから詩作を始め、37歳の時の「ひとつの道」が生前唯一の詩集となった。
 晩年は比叡山の寺にこもり、詩作に励んだ。貧しい生活の中で肺を病み、42歳で世を去った。
 天平は、詩を完成させるのに短くて半年、長くて1,2年かけたという。残された詩は静謐(せいひつ)で言葉がゆっくりと染みこんでくる。
 その業績を後の世に伝えたのが、妻の梅乃(1921~2006)だった。
 東京で国語教員などをしていた梅乃は、天平を師と仰ぎ、比叡山の天平を訪ねた。やがて前の夫と別れ、天平と結婚して最晩年の1年8カ月を共に過ごした。
 天平亡き後、詩作ノートなどを読み込み、詩集を出すことに心血を注ぐ。没後6年の1958年に「定本 草野天平詩集」を出版し、第2回高村光太郎賞を受賞した。
 生前の梅乃と交流があった安竜さんは「天平が世に知られたのは、梅乃さんがいたからだ」という。今回の著書では、天平の業績だけでなく、寄り添った梅乃のことも詳しく記した。
 生涯をかけて天平を伝え続けた梅乃も亡くなった。梅乃の13回忌の18年7月、天平だけでなく、梅乃や息子・杏平のことも書き記したいと著書にまとめた。
 「天平は自由な精神を持ち、平和を願い続けた。天平の詩をひもとき、その精神に触れてほしい」
 いわき市平の日々の新聞社1階には、詩人ゆかりの資料などを集めた「草野天平・梅乃メモリアルルーム」がある。同市小川町の草野心平記念文学館では1月から「天平と妻梅乃」を3月24日までスポット展示している。「いつくしみ深き」は2千円(税別)。問い合わせは、日々の新聞社(0246・21・4881)へ。

当会の祖・草野心平の弟にして、やはり詩人だった草野天平。光太郎と天平は、直接の面識はなかったようですが、妻の梅乃は、最晩年の光太郎が暮らしていた中野区桃園町のアトリエを訪れるなどしています。子息・杏平氏は以前の連翹忌にもご参加下さり、今年も年賀状をいただきました。

草野心平記念文学館さんでは、光太郎にも触れる冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」が開催中ですので、記事にあるスポット展示も拝見してこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗練され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生まれる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。

散文「装幀について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
 
書物の装幀には比例の美が必要だという話から、装幀に限らず万事そうであるという、この一節につながっています。その言は文化芸術にとどまらず、生活習慣までそうであるというところに落ち着きます。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第11号が届きました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

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今号は「ラムチョップ(骨付きラム)とゴボウチップス」だそうで、昭和26年(1951)のクリスマスの時期の日記から考案されています。

12月25日(火) 昨夜雪少しふる、くもり、弘さん買い物してくる、山羊肉のため千円提供。(略)田頭さん夫人立よる、クリスマスのラジオをきく、校長さんくる(略)

12月26日(水) 終日雨、ひる頃阿部博さん来訪、リンゴ、山芋、岩手川一升もらふ。弘さんにゴボウ及び山羊骨付き肉をもらふ。昨日屠殺、隣人等と饗宴せし由、昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

光太郎が食したのは骨付きラムといっても、山羊だったようです。「弘さん」は光太郎の暮らした山小屋の付近の開拓地に入っていた青年、「田頭さん夫人」は先般亡くなった高橋愛子さんのお母様、「校長さん」は、高橋愛子さん同様、この地で光太郎の語り部を務められている浅沼隆さんのお父様で、近くの山口小学校校長にして光太郎歿後は花巻高村光太郎記念会事務局長も務められた故・浅沼政規氏。

「阿部博さん」は花巻石神町のリンゴ農家。宮沢賢治の教え子でもありました。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。

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岩手川」は現在も生産されている盛岡の地酒です。ケーキを野生動物に食べられてしまったというエピソード、笑えますね。

クリスマスといえば、12月16日(日)、花巻高村光太郎記念館さんでは、「クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。当方、欠礼いたしましたが、館のブログサイトにレポートがアップされています。ご覧下さい。

また、「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が開催中。展示風景の画像が追加で送られてきました。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

春になると絵画の展覧会が始まる。始まる前になると辻々にビラが張り出され、人々は美しい衣裳をきて、先を争つてそれに出掛ける。

散文「仏蘭西の春」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

留学していたパリの思い出を綴ったエッセイの一節。

パリの春の展覧会は「ル・サロン展」です。光太郎ら新進の芸術家はあまり好まなかったアカデミックな展覧会ですが、一般市民がこぞってそれを観に行く風習が根付いている点には、芸術後進国の日本人として、敬意を表しています。

光太郎第二の故郷・岩田花巻郊外旧太田村にお住まいだった、生前の光太郎を知る高橋愛子さんが亡くなられました。

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今年の5月で86歳ということでしたので、その後誕生日を迎えられていれば87歳、そうでなければ86歳ということになります。

愛子さんのお宅は「田頭(たがしら)」という屋号の旧家。お爺さまの故・与左衛門氏は、隣家の故・駿河重次郎氏と共に、村のまとめ役的な存在で、光太郎の山小屋造りに協力を惜しまなかった一人でした。

お父様の故・雅郎氏は、光太郎が太田村に入った昭和20年(1945)にはシンガポールに出征中。翌年に復員し、その後、太田村長になりました。お母様の故・アサヨさんともども、何くれとなく光太郎の面倒を見てくださいました。

そして愛子さん。光太郎の山小屋に配給の物資を届けたり、光太郎を訪ねてくる客人を案内したり、やはり光太郎サポーターでした。

昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会に、サプライズで光太郎がサンタクロースに扮して登場、子供たちにお菓子を配ったり、一緒にステージで踊ったりしましたが、そのサンタの衣裳を作ってあげたのが、愛子さんとお母様。赤い襦袢をベースに、長い白ひげは、当時村で飼われていた羊の毛を使ったそうです。

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昭和24年(1949)に書かれた光太郎詩「山の少女」は、愛子さんがモデルとも言われている作品です。

    山の少女

  山の少女はりすのやうに
  夜明けといつしよにとび出して
  籠にいつばい栗をとる。
  どこか知らない林の奥で
  あけびをもぎつて甘露をすする。
  やまなしの実をがりがりかじる。
  山の少女は霧にかくれて
  金茸銀茸むらさきしめぢ、
  どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
  さういふ少女も秋十月は野良に出て
  紺のサルペに白手拭、
  手に研ぎたての鎌を持つて
  母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
  稗を刈つたり粟を刈る。
   山の少女は山を恋ふ。
  きらりと光る鎌を引いて
  遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
  ときどきそつと見たくなる。

光太郎歿後、昭和38年(1963)の第7回連翹忌にご出席くださり、昭和41年(1966)に山小屋近くに開館した旧高村記念館(現・森のギャラリー)の受付を永らく務められました。当方が初めてお会いしたのも、平成の初め頃、旧高村記念館ででした。

さらに、最近まで、光太郎の語り部としてご活躍。

地元テレビ岩手さんの「5きげんテレビ」、NHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」、ATV青森テレビさんの「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」 などにご出演、光太郎の思い出を語られた他、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんにはインタビュー記事が載り、地元の太田地区振興会さん編刊の『高村光太郎入村70年記念 思い出記録集 大地麗』に寄稿されたりもしています。

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花巻光太郎記念館さんでは、愛子さんのお話をまとめた「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」というリーフレットも発行。

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たびたび同地を訪れられている渡辺えりさん002とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際のセレモニーにもご出席されています。写真中央に愛子さんが写っています。実を言いますと、当方、愛子さんのご逝去は、渡辺さんからの電話で知りました。

そして、今年の5月15日。毎年この日に、光太郎の暮らした山小屋敷地内で開催されている花巻高村祭で、当方がインタビュアーを務め、愛子さん他4名の生前の光太郎をご存じの皆さんにお話を伺う、トークセッションが開催されました。

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その際には、まだまだお元気だったのですが……。

もっとも、今頃、雲の上で光太郎と再会し、喜ばれているかも知れません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

相変わらずの自炊生活は、単調だけれども興味は深い。些細な食物でも自分の頭の働いてゐるものと思ふと満足が出来る。

散文「三月七日(火曜日)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「自炊生活」といっても、戦後の太田村でのそれではなく、ごく短期間、ひとり暮らしをしていた明治末の話です。

戦後の太田村でも、愛子さんたち村人に支えられながら送った「自炊生活」の中で、同じようなことを考えていたのかもしれません。

昨日に引き続き、最近の新聞記事等から。

まずは12月4日(火)、『福島民友』さん。 

【郡山】柔らかな肌触り特徴 丸栄ふとん、ガーゼタオルを発売

 郡山市の丸栄ふとん店は11月30日、太002さの異なる綿糸を6重に重ねて織り上げたガーゼを使ったガーゼタオル「やまももぼし」を発売した。同店の片田尚子さん(61)は「地元の誇りをぎゅっと詰めたふとん店発のガーゼタオルで『ふくしまプライド。』をアピールしたい」と話す。
 創業100年の同店発ブランドとして一枚一枚丁寧に仕上げたガーゼタオルは柔らかな肌触りが特徴。洗濯すると生地の間に空気の層ができ、さらにふわふわになるという。ガーゼタオルには、安達太良山と磐梯山、吾妻山の稜線(りょうせん)と「ほんとの空」をイメージした星、モモをはじめとする県産果物の絵を施した。同市の今泉女子専門学校の学生のアイデアをデザインに取り入れた。
 同店では、6重ガーゼを使ったハンカチやフェイスタオル、おでかけケット、バスタオルを販売している。問い合わせは同店(電話024・922・2250)へ。

こんなところにも「ほんとの空」なのですね。

丸栄ふとんさんのサイトを調べてみました。「やまももぼし」、大きく紹介されています。

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続いて12月13日(木)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。夕刊の一面コラムです。 

河北抄 12/13

 暖冬傾向かと思っていたら、冷え込みが急に厳しくなった。高村光太郎の詩にあるように今年も、きっぱりと冬が来た。仙台市街地から見える泉ケ岳の斜面に白い面積が増えているようだ。
 14日は泉区のスプリングバレー泉高原スキー場でスキー場開きが予定されており、愛好者にとっては少しでも早くゲレンデで滑りたくなる時季。歌人奥村晃作さん(82)が60代の頃に詠んだ代表歌に<一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで>がある。
 スキーは板の上に乗って滑るだけなのに、一日中楽しめる。ごく当たり前のことを簡単に言い切ってしまうことで、スキーに限らずスポーツ競技の奥深さが浮き彫りになる。奥村さんが持ち味とする「ただごと歌」の真骨頂である。
 フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナルが9日にカナダで終わり、年内の主要大会は21~24日の全日本選手権を残すだけとなったが、主役不在の感は否めない。競技の奥深さを体現し続ける羽生結弦選手のけがからの復帰が待たれる。


そのとおり、きっぱりと冬が来ました。自宅兼事務所のある、比較的温暖な千葉県でも、朝は車のウィンドウが凍るなど冷え込みが厳しくなってきました。

光太郎第二の故郷、花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんは、もう雪に覆われているそうです

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この寒さがこたえたらしいとのことで、明日、詳しくご紹介しますが、お近くにお住まいだった、戦後すぐこの地に暮らしていた光太郎をご存じの高橋愛子さんが、昨日、亡くなったそうです。取り急ぎご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。

散文「出さずにしまった手紙の一束」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

光太郎エッセイの中ではかなり有名なものの一つです。パリで本物の芸術の洗礼を受け、芸術後進国の日本とのあまりの差に戦慄し、そしてその頂点に自分の父親(高村光雲)が居る、という現実に苦悩する姿が語られています。同じ文章の少し後の方では、「僕は今に鈴虫の様な事をやるにきまつてゐる」と記しました。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に立つ、高村光太郎記念館さんからイベント情報です。  

高村光太郎記念館 クリスマススペシャルコンサート

期   日 : 2018年12月16日(日)
会   場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時   間 : 14:00~
料   金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

今回は光太郎ストリングスに加え、スペシャルメンバーとして花巻の金星少年少女オーケストラのメンバーと地元の方による朗読でコンサートを盛り上げます。

 演  奏 光太郎ストリングス
 朗  読 高村光太郎「ブランデンブルグ」他  
 演奏曲 ヴィヴァルディ「二つのバイオリンの為のコンチェルト」
     コルレリ「クリスマスコンチェルト」 他

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「光太郎ストリングス」は、今年7月にやはり高村光太郎記念館さんで開催された「弦楽四重奏スペシャルコンサート」が初舞台でした。岩手大学管弦楽団の卒業生の皆さんだそうです。

金星少年少女オーケストラのメンバーも客演されるとのこと。同オケは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシユ」に登場する「金星音楽団」から名付けられています。さらに地元の方による朗読も入るそうです。

ちなみに同館では、先週末から「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が始まりました。展示風景の画像等、送られてきましたのでご紹介します。

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光太郎の001遺品である、山荘内部に遺されていた買い物かご、フライパン、おろし金、まな板の調理用具、小岩井牧場バター、日東紅茶缶、加糖インスタントコーヒー缶。

それから常設展示ゾーンから、肥後守(折りたたみナイフ)を移動。これは昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に載った、濱谷浩が撮影した光太郎の手の写真に写っているものです。削っているのは鰹節です。

想像でしかありませんが、濱谷は彫刻刀を持って木を削る写真を撮りたかったところ、光太郎は戦時中の戦争協力を恥じて、「自己流謫」(自分で自分を流罪に処すること)と称した蟄居中。天職と考えていた彫刻も、自らへの最大の罰として封印していました。そこで、彫刻刀ならぬ肥後守、木材ならぬ鰹節を削っている写真を撮らせたのではないかと思われます。そう考えると、ある意味、壮絶な写真です。

こちらの写真もパネル展示されているようです。その他、パネル展示で光太郎の食生活の様子や、数々の「食」をモチーフにした詩を紹介しているとのこと。

また、前回企画展示「光太郎と花巻電鉄」のために、品川在住の石井彰英氏が制作された昭和20年代花巻町とその郊外のジオラマも、引き続き展示中です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

自然の大きな、ゆつたりとした姿を眺めると、何事も皆面白くなる。全く所謂煩悩といふものが清められる。頭の中を綺麗なもので洗ふ様な心持ちがする。
散文「雲と波」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

今朝は自宅兼事務所のある千葉県北東部で、おそらく初霜が下りました。愛犬と散歩しつつ、いよいよ光太郎が愛した本格的な冬だな、と思いました。ぴいんと張り詰めた冷気の中、当方も多少は煩悩が浄められるような気がしました。

光太郎第二の故郷・花巻から企画展情報です。 

平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~  「光太郎の食卓」

期    日 : 平成30年12月8日(土)~平成31年1月27日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時    間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料    金 : 小中学生 150円(100円)  高等学校生徒及び学生 250円(200円)
        一般 350円(300円)
   ( )は20名以上の団体
休 館 日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

高村光太郎記念館 「光太郎の食卓」 太田村山口での山居生活で、農耕自炊の生活を目指していた高村光太郎の「食」にまつわるエピソードや資料を紹介します。

関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
 企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:平成30年12月13日(木曜日)午前9時から午後3時10分
 2回目:平成31年1月10日(木曜日)午前9時から午後3時10分

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昨年から高村光太郎記念館さんがこの試みに参加、今年は「光太郎の食卓」だそうです。

まだどのような展示が為されるか、具体的には聞いておりませんが、これまでに女性スタッフを中心に取り組んできた「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」、「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part2」といった市民講座や、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんでの連載「光太郎のレシピ」などでの蓄積を生かすのだと思われます。


ところで、『広報はなまき』の11/15号に、こんな記事も出ています。

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光太郎愛用の巨大ゴム長靴の紹介です。こちらは常設展示のコーナーで展示中です。

当方、年明けにでも行ってこようかと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

岩手に来て思ふに、岩手は日本の脊梁の最強部たる地勢を持ち、人間を持つ。岩手の文化はやがて日本を支へる強力な柱とならう。

散文「「小田島孤舟歌碑」序」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身で、光太郎同様、雑誌『明星』に依った歌人であり、明治41年(1908)、岩手新詩社を興した小田島孤舟の著書に寄せた序文の一節です。

近々開催の市民講座系、2件ご紹介します。

まずは北海道帯広から、文学系。  

釧路高専公開講座「高村光太郎の文学」

期  日  : 2018年11月17日(土) 
会  場 : とかちプラザ 講習室402  帯広市西4条南13丁目1
時  間 : 13:00~15:00
料  金 : 無料
定  員 : 70人
講  師 : 小田島本有氏(釧路工業高等専門学校 創造工学科 一般教育部門教授)

父光雲や、後に妻となる智恵子の存在に注目しつつ、『智恵子抄』や戦争に対する姿勢を通して高村光太郎の文学を浮き彫りにします。

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続いて、光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻から美術系。  

岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」

期  日 : 2018年11月20日(火) 
会  場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)3階2・3中ホール
        岩手県花巻市花城町1-47

時  間 : 午後1時30分から午後3時30分まで
料  金 : 無料
定  員 : 50人 花巻市内在住または勤務者
講  師 : 藁谷収氏(岩手大学教育学部教授)

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それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

一地方に徹底したものは即ち普遍に徹底したものである。

散文「鈴木白羊子詩集「太陽花」序」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

鈴木白羊子は、伊豆下田に住んでいた詩人。光太郎も寄稿した雑誌『太陽花』、『向日葵』などを刊行していました。「太陽花」、「向日葵」共にヒマワリの別名です。よほど好きだったのか、雑誌名にも、詩集名にも使っています。

引用文は、宮澤賢治を評した散文「コスモスの所持者宮澤賢治」(昭和8年=1933)中の「内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。」に通じます。

また、愛妻智恵子の追悼文的な「智恵子の半生」中の「一人に極まれば万人に通ずる」も同じ趣旨と言えましょうか。

まずは富山県の地方紙『北日本新聞』さん。一昨日、10月5日(金)の一面コラムです。 

天地人

戦後詩を代表する北村太郎さんの詩の一節を引く。〈部屋に入って 少したって/レモンがあるのに/気づく〉。以前からそこにあったレモンは、爽やかな香りがして初めて詩人の目に留まる
▼匂いが演出する“認識の時間差”なら、この時期、キンモクセイとなる。自転車通勤の道すがら、ほのかに香り始めた。ふと、鼻をくすぐられて周りを見ても、にわかには姿を見せない。香りの主張に比べ、花そのものは葉に隠れて目立たない
▼甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、秋の深まりを思う人も多いだろう。先日の本紙「とやま文学散歩」に、〈この町のこの風が好き金木犀(きんもくせい)〉(吉崎陽子)とあった。見慣れ、住み慣れた町も、季節の匂いの演出で新鮮な顔つきになる
▼〈この風〉は、花を揺らし、芳香を運んでくれる。すそうあってほしい秋の風だが、9月以降、台風が矢継ぎ早にやって来て、秋の野辺を騒がす強風が吹き荒れた。3連休となるこの週末も台風25号が列島に迫るようだ。予報通りに進めば、朝鮮半島をかすめて日本海を北上する。このコースをたどると、県内は強い南風が吹き、過去には大きな火災が起こっている
▼冒頭のレモンのこじつけながら、きょうは高村智恵子の命日「レモン忌」。死を悼んだ夫、高村光太郎の「レモン哀歌」にちなむ。風雨に備えつつ、夜長に詩集などを開く人もいるだろう。

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智恵子の命日、10/5は、どなたが制定されたのか、「レモンの日」ということにもなっており、そのおかげであちこちで取り上げられています。ありがたいことです。


同じく10月5日(金)、『日本経済新聞』さんの夕刊社会面には、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」が紹介されました。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙の中に、同じ記事が載ったところもあるようです。 

高村光太郎、思い出の花巻 記念館でジオラマ

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が終戦間際から7年間を過ごした岩手県花巻市の情景を伝えるジオラマが、同市の高村光太郎記念館で展示されている。高村が随筆で「ローカル色豊かで旅情をそそられる」と表した花巻電鉄の企画展の一環だ。
 高村は空襲で東京都内のアトリエを失い、45年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開。終戦直後に現在の記念館近くの山荘に移り住み、52年までに「暗愚小伝」などを執筆した。
 ジオラマを制作したのは東京都品川区の石井彰英さん(62)。以前の作品で、高村の妻、智恵子が最期を迎えたゼームス坂病院(品川区)をつくったことがきっかけで、同館から依頼を受けた。10月5日は智恵子の命日。
 1年がかりで完成したジオラマは幅180センチ、奥行き120センチ。町のにぎわいや温泉街など昭和20年代の雰囲気を表現した。高村も乗った車幅が狭く前面が縦長の「馬面電車」が走り、背丈1センチほどの約520人の衣服にもこだわった。石井さんは「当時を知る世代も知らない世代も、人々の息吹や幸せを感じ取ってほしい」と話す。企画展は11月19日まで開かれている。

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地方版でなく社会面だったので、ありがたいところです。


昨日には、福島の地方紙二紙。

まずは『福島民友』さん。 

「好きです智恵子純愛通り」 顕彰団体がイメージソングCDに

 詩集「智恵子抄」で知001られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子の没後80年、智恵子純愛通り記念碑建立10年を記念し、顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶは」はイメージソング「好きです智恵子純愛通り」を録音、CDを作った。団体代表の熊谷健一さんらが2日、三保恵一二本松市長に報告、曲を録音したCDを贈った。
 作詞、作曲は「安達の光太郎」をペンネームとする二本松市に住む男性。高村光太郎の詩「樹下の二人」や「あどけない話」をモチーフに光太郎、智恵子の美意識などの世界観を表現したという。歌は東日本大震災で浪江町から横浜市に避難した歌手のハーミーさんが吹き込んだ。
 熊谷さんは「歌詞は優しく、メロディーも覚えやすい。気軽に口ずさみ、光太郎や智恵子の世界に思いをはせてほしい」と話した。


続いて『福島民報』さん。 

今日の撮れたて 安達太良山(二本松市) 「ほんとの空」と錦秋満喫

 日本百名山の安達太良山(一、七〇〇メートル)で紅葉が見頃を迎えた。高村智恵子が愛した「ほんとの空」の下、山肌を覆う低木、樹林が赤、黄、茶色に染まる。五葉平の緑に割り込むように秋のモザイクを広げていく。
 連日、大勢の登山者が訪れる。二本松市の奥岳登山口からロープウェイで八合目の薬師岳に登ることができる。降りてからは一面に広がる錦絵のような景色を楽しみながら山頂を目指す。
 問い合わせは富士急安達太良観光 電話0243(24)2141へ。

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当方、今日は二本松に行って参ります。「第24回レモン忌」に参加後、智恵子生家での「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ」等を拝観、岳温泉に1泊し、明日は二本松市市民交流センターで行われる「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」会場に顔を出し、その足で山形県天童市の出羽桜美術館さんで開催中の企画展「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部 日本本画と文士の書」を拝見に行く予定です。

錦秋の安達太良山を見、できれば「好きです智恵子純愛通り」CDもゲットしたいと考えております。

皆様もぜひ、二本松、そして花巻へと足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

この詩人の能く重きに堪へるねばり強さと、内燃する熱情と、性来の正直さとを知るものは、尚ほ実に多くの未来を彼に負はせる。この詩人は必ずそれに答へるであらう。

散文「神保光太郎の詩」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ「光太郎」の名を持つ神保光太郎は、高村光太郎より22歳年少、およそ一世代下の詩人です。やはり高村光太郎同様、本名は「みつたろう」ですが、自ら「こうたろう」と名乗りました。

高村光太郎による他の詩人の評はかなり数多く残されましたが、感心するのは、そのどれをとってもありきたりな評ではなく、その詩人を的確に表し、それから、一つとして使い回しがないということ。ある詩人の評に使った表現を、別のある詩人の評にも転用するというインチキをしていません。当然といえば当然ですが、その語彙力、表現の豊かさに感心させられます。

昨日、花巻の大沢温泉さんから郵便が届きました。角形2号(240㍉×332㍉・A4サイズ対応)の大きな封筒です。

当方、花巻に泊まる際にはよく利用させていただいていて、年に3回ぐらいはお世話になっています。そこで、忘れ物でも送って下さったのか、いや、それにしては、最後に泊まったのは7月だし……、イベントか何かの案内だろうか?……などと思いつつ、開封してみると……

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「菊水館」さんが、今月末で休業とのこと。驚きました。同時に、年三回程度の利用客にまでこの文書を送って下さる姿勢に感激しました。

大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、長期の湯治客など用の「湯治屋(旧・自炊部)」、そして別館的な茅葺きの「菊水館」の三つに分かれています。

戦後の7年間、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎も、ここの湯をこよなく愛し、たびたび訪れています。長い時には2週間も逗留しました。日記によれば、だいたい「山水閣」に宿泊したようですが(そこで「山水閣」には光太郎が泊まった部屋を再現した「ぼたんの間」がスイートルーム的に使われています)、「菊水館」に泊まったという記述もあります。公式サイトで光太郎を紹介して下さっていますし、「山水閣」内には光太郎にかかわる展示も為されています。

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そのうちの「菊水館」に通じる高明橋脇の法面(のりめん)が、8月9日に崩れ、通行ができなくなったそうです。

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8月9日といえば、女川光太郎祭の日。台風13号が日本列島を直撃していました。その影響でしょう。当方、今月初めに花巻に行きましたが、その際は鉛温泉さんに宿泊したので、存じませんでした。

「湯治屋」につながる曲がり橋は健在なため、そちらを使って営業を続けてこられたそうですが、冬になると積雪が半端ではないところなので、宿泊客の食材等の搬入が困難になるため、「菊水館」のみ休館だそうです。再開のめどは立っていないとのことですが、早期再開を目指すそうで、そうあってほしいものです。

当方、大沢温泉さんでは主に「菊水館」に宿泊しています(何度泊まったかもはや思い出せません)。光太郎も泊まった築160年の趣、食事も美味しく、事前に「苦手な食材は?」的な質問もして下さるなど、細やかな対応がなされています。それでいてリーズナブルな料金。曲がり橋を渡って露天風呂に行くというのも風情があります。

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「山水閣」、「湯治屋」は健在ではありますが、当方にとっては、やはり「菊水館」。そういう方も多いのではないでしょうか。一日も早い再開を願ってやみません。

追記 2019年6月末より、宿泊はできないものの、「ギャラリー茅」として再オープンしました。


【折々のことば・光太郎】

現代のむつかしくなやましい社会生活の中にあつて、否応なしに気むつかしくなつているわれわれも、たまには「雅歌」のような古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声をきくと楽しい。馬鹿らしいほど単純だと思いながら、やつぱり読む。
散文「雅歌」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「雅歌」は聖書の一節で、神に対する信仰の告白的な内容ですが、光太郎は男女の恋愛詩としても読めるとしています。特に好んだのが「北風よ起れ、南風よ来れ、我園を吹きてその香りを掲げよ。ねがはくはわが愛する者のおのが園に入りきたりてその佳き果を食はんことを」の句で、書として揮毫したりもしています。

古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声」も、光太郎の目指した一つの境地でしょう。ただ、光太郎詩は「馬鹿らしいほど単純だ」とは思いませんが。

昨日は、北鎌倉に行っておりました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成し、その上映が行われるということで、行って参りました。

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その前に、同じ北鎌倉にある、笛ギャラリーさんに立ち寄り、昼食を頂きました。光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェです。

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ご近所には、光太郎と交流の深かった
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詩人・尾崎喜八の令孫がお住まいで、笛さんと共同で、毎年10月には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。

今年も10月5日頃から開催の由、チラシが出来たら送って下さるとのことで、また近くなりましたらご紹介いたします。

その後、北鎌倉・台地区の川上さんというお宅へ。いくつかある棟のうちの一棟を、地域の公民館的な形で開放されているそうで、そちらが上映会の会場です。二間続きの座敷、襖を外してぶち抜き、大型テレビを設置してありました。

逗子にお住まいの、テルミン奏者・大西ようこさんが、ご主人ともどもお見えでした。筋金入りの智恵子ファン(笑)で、「智恵子抄」をテーマにしたコンサート等を何度もなさっている、筋金入りの智恵子ファン(笑)です(しつこい(笑))。



参会の方々は、会場をご提供下さった川上さんはじめ、北鎌倉のナショナルトラスト運動に取り組まれている「北鎌倉湧水ネットワーク」「台峯緑地保全会」の皆さんが中心で(そちらのサイトにも上映会のレポートが)、ジオラマ作者の石井氏が以前に北鎌倉のジオラマも制作されたご縁で、おつきあいが続いているそうです。今回のDVDで、挿入音楽を演奏なさった屋良朝信氏もご参加なさいました。

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光太郎のDVD、北鎌倉のそれと、二本上映されました。開け放した窓から野鳥の鳴き声が聞こえ、DVDに入っている効果音かと聞きまごう状態で、いい感じでした。

光太郎DVDの方は、ナレーション原稿を執筆させていただいたので、以前から何度も拝見していますが、制作者の石井氏の解説入りで観ると、また違ったものでした。

北鎌倉の方は、同地を舞台とした小津安二郎監督・原節子主演作品「麦秋」へのオマージュ的な。原さんといえば、昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で智恵子を演じられていて、不思議なご縁を感じました。

ところで花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」。一昨日、岩手めんこいテレビさんでご紹介下さいました。石井氏のジオラマもばっちり映りました。 

「光太郎と花巻電鉄」 高村 光太郎 企画展

詩人で彫刻家の高村 光太郎と花巻電鉄の関わりなどを紹介する企画展が、岩手・花巻市で開かれています。
これは、高村 光太郎が、花巻で暮らした7年間の日常を紹介しようと企画されました。会場には、光太郎が疎開していたころの花巻の風景を再現した、ジオラマが展示されています。中でも、東北初の電車として知られる「花巻電鉄」は、光太郎が、買い物や療養先の花巻温泉へ出かける際に、生活の足として利用していたものです。このほか、直筆の書や着用した衣服、主治医に宛てた手紙など、光太郎ゆかりの品々が展示されていて、訪れた人たちは、光太郎の足跡に思いをはせていました。この企画展は、11月19日まで開かれています。

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記念館さんで、「高村光太郎ジオラマDVD」が販売されてもいます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩の内容といふのは言葉で言ひあらはされた意味の事ではなくて、詩人がさう書かねばならなかつた気魄なり、感覚なり、詩心の事である。詩を読んで其の意味ばかりにとらはれて此の真の内容に気がつかなければ詩を読んだかひが無い。詩の持つ意味は詩人の心の向けられている方位の如何を示し、肝要なのはそれがどういふ内容に於いて満ちてゐるか、欠落してゐるかといふ事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

この前の部分では、絵画も然りと光太郎は書いています。結局、どんな芸術でもそうなのでしょう。

呑気に花巻レポート的なことを長々書いているうちに、紹介すべき事項がまた山積みです(笑)。東北の地方紙2紙、コラムで光太郎智恵子に触れて下さっていますのでご紹介します。

まず、『福島民報』さんの「論説」欄。 

【智恵子没後80年】さらに魅力発信を(8月31日)

 今年は二本松市出身の洋画家・高村智恵子の没後八十年に当たる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ「智恵子抄」の朗読大会をはじめ各種記念事業が市内で企画されている。智恵子が表現した芸術、文化の世界に改めて思いを巡らせ、魅力を県内外にさらに発信する機会としたい。
 智恵子は一九三八(昭和十三)年に五十二歳で亡くなった。病気療養中、千数百点に上る紙絵を残した。愛と芸術に生きた先駆的な女性と評価され、多くの人々を魅了している。
 朗読大会は全国から参加者を募り、十一月十八日に開かれる。夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じて二人の世界を感じてもらう。十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」や、智恵子抄を題材にしたスケッチ展示が行われる。十二月にはカフェを予定している。市内で販売されている智恵子にちなんだ菓子を味わいながら、二人の人生を語り合う。多くのファンが訪れる場となろう。
 紙絵や油絵が並ぶ記念館と生家は一九九二(平成四)年四月に開館した。一九九五年度には約八万三千人が訪れたが、減少傾向が続き、二〇一七年度は約一万六千人だった。展示物配置の刷新や生家を使った各種企画など来場者増を図る対応が待たれる。すぐ近くの鞍石山には「樹下の二人」の詩碑があり、「あれが阿多多羅山[あたたらやま]、あの光るのが阿武隈川…」を実感できる光景が広がる。記念館と生家を見た後、立ち寄れば、詩の世界をより身近に感じられる。整備されている遊歩道をもっと活用する手だてを探る必要がある。見学者の満足度向上を図り、観光ルートとして一層の売り込みに力を入れてほしい。
 九月九日からは福島現代美術ビエンナーレが「重陽の芸術祭」として二本松市で開幕する。切り絵や絵画の斬新な作品が市内に飾られる。生家も会場となる。新進気鋭の女性作家も多く出品する。若手女性作家を対象に智恵子の名前を冠した賞を創設する考えが実行委員から示されている。どう継続していくかなど課題はあるだろうが、実現へ向け検討してもらいたい。芸術家としての智恵子の魅力を広く訴える契機になる。
 二本松市は、おいしい日本酒、多彩な菓子、霞ケ城や二本松少年隊といった歴史、「ほんとの空」が広がる安達太良山、伝統の祭りなど観光資源に恵まれる。さらに誘客を目指すために全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい。(吉田雄一)

取り上げられているイベント等、また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

「全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい」、その通りですね。


続いて『岩手日報』さん。一面コラムです。 

(風土計)2018.9.4

 挑戦する者には、常に無数の質問が浴びせられる。全く新しい試みであれば、なおさらだろう。「なぜ前例のないことをするのか」「リスクが大きすぎる」
▼一つ一つ質問に答えるうち、挑戦者は不安を覚えてくる。道を切り開く意欲は衰え、守りに入るようになる。英語で言う「death by a thousand questions(千の質問による死)」だ
▼二刀流の復活にも、数々の疑問が米メディアから投げかけられた。「打者に専念すべきでは」「チームが上位進出する見込みも薄いのに投手をやる意味がない」。それらを振り払い、挑戦者はマウンドに戻ってきた
▼大谷翔平選手の投手としての復帰戦は49球で終わったが、存分に野球を楽しんでいるように見えた。二刀流を疑ういくつもの「なぜ」に、日本にいた時から揺るがなかった人だ。これからも千の質問に、自ら切り開く道を阻まれることはないだろう
▼「岩手の人」を信念の強い牛に例えた高村光太郎に、「牛」という別の詩もある。〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする〉。自ら好きで挑んだことに悔いなどあるはずもない。挑むことで、自信は強さを増す
▼浴びせられる千の質問にも微動だにせず、ついにその成すべきを成す。牛のような、「岩手の人」の強さを見る。

岩手の皆さん、光太郎から贈られた詩「岩手の人」(昭和24年=1949)を大事にして下さり、いろいろなところで引用して下さいます。

岩手の人眼(まなこ)静かに、001
鼻梁秀で、

おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。

たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

画像は花巻北高校さん(大谷選手の母校ではありませんが)に立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

明日も新聞各紙から、ということで、周辺人物との関わりなどから光太郎に言及された記事をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

普通に人は、詩精神の衝動によつて詩を書く人が詩人であると考へる。私は、詩精神の衝動によつて書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考へる。同じやうに聞えるがいささか違ふ。あらかじめ詩なるものを書かうとしてかかる人は、新旧に拘らず、詩といふものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然に詩になる人にしてはじめて、づばぬけた生きた詩が出来るものだと考へるのである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

書いたものが必然に詩になる人」。他の文章で述べていますが、そうした者の好例が、宮沢賢治や草野心平だというのです。もちろん、自身も其れを目指していたのでしょう。

まずは状況説明を兼ねて、『岩手日報』さんの記事。9月2日(日)、花巻からの帰りがけにゲットして参りました。

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もう一紙、『岩手日日』さんにも載りましたが、一日遅れだったため、現物はゲットできず。さらにネットでも有料会員限定の記事なので読めません。どうやら当方の顔がどアップで出ているようなのですが(笑)。

用意したレジュメを掲載します。画像をクリックしていただくと拡大します。幼少期から最晩年まで、光太郎や周辺人物の遺した詩文から、「食」に関する内容の部分などを抜き出しました。ただ、光太郎に関しては、全てを網羅するには準備期間が短く、書簡類、短歌、俳句などはほぼ割愛。随筆的なもの、対談・座談、日記、そして詩に限定しました。
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まずは幼少年期。明治中期から後期です。

廃仏毀釈の影響で、彫刻の注文仕事が激減していた父・光雲。光太郎が生まれた明治16年(1883)頃が、窮乏のどん底だったそうで、光太郎幼少期の一家の食事は、漬物系に豆などがメインディッシュ、魚が出れば御馳走という状況でした。

その後、光雲が東京美術学校に奉職してから徐々に生活は好転し、海外留学直前の日記を見ると、牛肉なども食卓に並ぶようにはなりました。しかし、まだまだつつましいものでした。

光太郎実弟の豊周は、光太郎が留学に出た明治末になって初めてカレーを口にし、「こんなうまいものが世の中にあったのか」という感想を記しています。光太郎自身も留学に出て、初めて洋食らしい洋食に出会ったようです。明治39年(1906)~同42年(1909)の留学時代。

以前にも書きましたが、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、自分で作っていたことが日記に残されているボストンビーンズなどが現れます。イタリアでは、パスタの食べ方が分からなくてうろたえた、というのが笑えます。
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帰国後、智恵子との生活。欧米で親しんだ洋食も取り入れ、和洋折衷の食生活となったようです。朝食はパンにオートミールなど、のちの高度経済成長期の共働き家庭を先取りしている感がありました。夕食は和食系が多かったようです。
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決して豊かでなかった生活の中で、野草を食べるなどの工夫していたこともうかがえます。しかし、金が入ると贅沢もしていたようで、朝からサラダにマヨネーズ(当時は高級品)をかけて食べたり、玉露のお茶を常用したりしていた光太郎を、豊周は「世間一般とは物差がちがう」とし、容赦ありません。

昭和初期、智恵子が心を病み、転地療養、入院ということで、光太郎のひとり暮らしが始まります。もっとも、それ以前から智恵子は福島の実家に帰っていた時期が長かったのですが。そして智恵子が亡くなった前後から、泥沼の戦争……。日本全体が食糧不足に陥りますが、この時期も、それなりに工夫していたようです。
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そして、智恵子と暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ兼住居が空襲で全焼。宮沢賢治の実家の誘いで花巻に疎開し、終戦を迎えます。その後も東京に帰らず、戦時中に詩文で若者を鼓舞して死に追いやった反省から、郊外旧太田村での蟄居生活。
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穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給。あとは、旧知の人々が、光太郎を気遣って、いろいろなものを送ってくれ、それで凌ぎました。戦後の日記はかなり残っており、どのような食事をしていたかがほぼわかります。それらをもとに、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

やはりいろいろ工夫をし、厳しい環境の中でも豊かな食生活を心がけていたようです。山奥の陋屋にいながら、仏蘭西料理的なものも自作したりしています。逆に、真実かどうか、リップサービスで「盛ってる」のではないかとさえ思われますが、座談会では蛙まで捕まえて食べたと発言したりもしています。そこで、見かねた周囲の人々が、光太郎を招いて豪勢な会食会を開いたことも。

亡き宮沢賢治を敬愛していた光太郎ですが、有名な「雨ニモマケズ」の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では駄目だ、という発言は繰り返ししていました。これからの日本人は、肉や牛乳などをもっと積極的に摂取し、体格から変えなければ欧米に伍していけない、と。戦後、各界からそういう提言がありましたが、光太郎の発言は、それらを先取りしていたように思われます。

最後に、青森十和田湖畔に立つ「乙女の像」制作のため、再び上京した昭和27年(1952)以降。
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日記によれば、上京してからしばらくは、かなり外食もしていました。何だかんだ言って、やはりプロの料理には舌鼓を打っていたようです。アトリエを借りた中野にほど近い新宿がホームグラウンド。当会の祖・草野心平が経営していた「火の車」という怪しい居酒屋(笑)がありました。あとは生まれ故郷に近い浅草・上野方面、それから日本橋周辺にもよく出没しました。時には渋谷、目黒、神田、赤坂などにも。こってり系の店がけっこう多いのも特徴です。中華、うなぎ、牛鍋、天ぷら、はたまたロシア料理や柳川鍋など。最頻値は寿司屋でしたが。今も残る店がかなりあり、今後、小分けにして訪れてみようと思っています。
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最晩年、体調の悪化に伴い、外出を控えるようになると、アトリエの家主・中西夫人に頼んで食材などを買ってきて貰い、自炊。やはり肉類が目立ちます。

今回、あらためて光太郎の食生活を辿ってみると、やはりその時期その時期の生活全体が端的に象徴されているように感じました。また、光太郎という巨人を作り上げる上で、「食」の果たした大きな役割も実感できたように思います。結局、座談会で光太郎が述べていますが「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです。」の一言に尽きるように思われます。


【折々のことば・光太郎】

古来多くのよい詩はやはり必ず人間性の基底に強く根を張つてゐる。作者個人のものであつてしかし同時に万人のものである。それは個人を超え、時代を超え、思想を超える。どういふ時にも人の心にいきいきと触れる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎にとっての目指すべき「詩」の在り方であると同時に、74年の生涯で、光太郎にはそれが体現できたと言えましょう。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成しました。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。

ナレーションとテロップの原稿を当方が執筆いたしまして、そうした関係でスタッフに名を連ねさせていただき、現物を50枚下さいまして、愛車に積んで持って帰りました。

オープニング。

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バックに横笛の達人、花巻高村光太郎記念会・髙橋事務局長の演奏。

光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の映像、最初は当時の古写真だったものが、ジオラマの映像に切り替わり、いつのまにか光太郎も登場。

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その後、ここにたどり着くまでの光太郎、そして智恵子の紹介を兼ね、花巻以外の各地の紹介。

南品川・ゼームス坂病院。智恵子終焉の地です。石井氏が以前に作られたもので、これがご縁で花巻高村光太郎記念館さんに氏をご紹介しました。

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福島二本松、智恵子の生家。

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東京千駄木の光太郎アトリエ。

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安達太良山。バックに「あどけない話」(昭和3年=1928)の朗読。

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そして、花巻。

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光太郎の足跡が残っている場所を主にしていただきました。

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もちろん、花巻電鉄の車両も走り回っています。

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それから、光太郎が疲れを癒した郊外の温泉地の数々。

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そして、旧太田村。光太郎の山小屋や、近くの山口小学校など。

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石井氏曰く「牧歌的」だそうですが、人々の息づかいまで聞こえてきそうです。

本編のあとには、エンドロールを兼ねて、「制作日誌」。

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ロケハンの際の画像もふんだんに使われ、現在も残る建造物がどうジオラマになったかという対比がされ、面白い工夫です。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。ご入用の方は、お問い合わせ下さい。

それから、9月9日(日)、神奈川県鎌倉市で、上映会が催されるそうです。石井氏が以前に作られた、北鎌倉のジオラマを撮影されたものも同時上映とのこと。当方もお邪魔して参ります。ご興味のある方、リンクからお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

われわれはもう一度新しい意味の素朴を発見して更に詩の樹液を更新したい。ことに日本語といふ素朴の性質を十分に新しい面から究明して、未知のしかも身近な美を此の世に生かしたい。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「未知のしかも身近な美」というのがいいですね。美は到るところにあると考えていた光太郎ならではの言です。

二泊三日の行程を終え、花巻か000ら千葉に戻りました。

昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を終えたあと、愛車を駆って花巻市街に向かいました。光太郎の立ち寄った場所などを見るためです。

その前に、記念館さんに隣接する光太郎が7年間を暮らした旧太田村の山小屋脇にあった、光太郎お手植えの栗の木。

昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った巨木でしたが、とうとう枯死してしまい、倒壊の危険があるということで伐採されました。右手の石柱は、光太郎が書いた木柱のコピーです。「亡父光雲十三回忌記念播種 昭和廿一年十月十日」と刻まれています。

7月に訪れた時にそういう話を聞いてはいたのですが、やはり残念でした。

続いて、旧太田村山口地区のほぼ中心にある古い石碑。詩「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)や、散文「山の人々」(昭和26年=1951)などで触れています。

右から二番目の最も背の高い碑には「見真大師」の文字。浄土真宗開祖の親鸞上人の別名です。

この辺りでもかつて行われていたという、「隠し念仏」にも関わるものです。

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このあと、花巻市街へ。以前にも訪れた場所は割愛し、その後、こんな所にも立ち寄っていたのか、という場所を中心にまわりました。

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小田島薬局さん。箸で食べるのが作法の十段巻きソフトクリームで有名なマルカンさんのすぐ隣。光太郎、ここで薬を買ったり、商売抜きで店主と個人的につきあいがあったりしました。店主宛の書簡も残っています。

マルカンさんには何度か足を運びましたが、気づかずに通り過ぎていました。

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市役所近くの新ばしさん。うなぎや寿司を饗するお店です。こちらも気づかずに何度も前を通り過ぎていましたが、光太郎日記に3回ほど、ここで食事をしたことが記されていました。

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市街の東、御田屋町の宗青寺さん。曹洞宗の寺院です。昭和20年(1945)、疎開直後で宮沢賢治の実家に厄介になっていた頃の光太郎が、何度か足を運んでいます。宮沢家とそう遠くない距離です。

このあと、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。先月、1階奥の観光案内所的なスペースの展示コーナーがリニューアルされたという情報を得ておりまして、確認に。

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まずは米大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手がドーンとお出迎え。

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大谷選手、隣接する奥州市のご出身ですが、花巻東高校卒ということで。

さらに同校の先輩・西武ライオンズの菊池雄星投手や、富士大学さん卒などで花巻に関わるプロ野球選手たちの紹介も。

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さらに来年のラグビーワールドカップ開催で盛り上がる釜石関連で、釜石シーウェイブスさんのコーナー。

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ちなみに当方、試合のための移動と思われるシーウェイブスの選手の皆さんと、新花巻駅から同じ新幹線に乗り合わせたことがあります。

さて、かつてあった光太郎コーナーもリニューアルされたということで探してみると、隅っこにありました(笑)。

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高村光太郎記念館さんで販売されているグッズ等が並べられていました。ただ、ほとんど何の説明もなく、「何だかなあ」という感じでした。今後の整備を期待します。

このあと、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、書店に立ち寄り、なかなか面白い書籍をゲットしました。さらに前日にはコンビニでも。そのあたりは明後日頃、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一番肝腎なのは詩の成立以前の問題、つまり詩を生む心的状態であつて、それが備はつてゐなければ、いかに巧妙な技術的操作や、いかに精巧斬新な手法的按排があつても、それだけでは、機具を造るやうに機械的に出来るものではありません。その詩以前の心的状態といふのは心の満ちあふれて已み難い状態で、これの無い詩作は人を捉へません。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「已み難い」というのは、会話の際の光太郎の口癖でもあったそうです。

昨日、花巻にやって参りまして、本日、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきました。
今回は、花巻まで愛車を駆って行き、昨日の早朝に千葉県の自宅兼事務所を出発、午後には着きました。ちょうど秋田小坂町の皆さんがバスで来られていました。

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下の画像は、小坂町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎が印税がわりに建ててやった別棟。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、記念館さんで今日の講座の打ち合わせ。

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打ち合わせを終えて宿へ。今回、鉛温泉♨さんにお世話になっております。


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かつて光太郎が堪能した宿名物の深さ1.3 メートルの立って入る「白猿の湯」や、美味しい料理を満喫しました。

今朝、再び記念館さんに参りまして、講座の受講者の皆さんを待ちました。会場は昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館。

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当会の祖、草野心平が建立に尽力し、看板の文字も揮毫しています。現在は「森のギャラリー」として、こうしたイベントや市民の方々の作品展などに活用されています。

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現在は地元太田地区ご出身の方の版画などが展示されており、光太郎をモチーフとした作品も。

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やがて受講者の皆さんご到着。付近の自然観察というのもメニューに入っていて、そのひとコマです。

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このあと、当方は光太郎が書き残した詩文をもとに、幼少期から最晩年の光太郎の食生活を紹介しました。細かな内容はまた帰ってからブログに書きます。

さらに藤原記念館館長、高橋花巻光太郎記念会事務局長からもお話。

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その後、光太郎が児童を孫のようにかわいがった旧山口小学校(現在はスポーツキャンプむら屋内運動場)で、山口小学校卒業生の方のお話を拝聴。

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さらに地区の公民館的な施設で昼食。光太郎が残した日記などを元にメニューを組んだ「光太郎弁当」(笑)。

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ヘルシーなメニューで美味でした。いずれ商品化も考えているとのこと。

記念館さんに戻り、展示の見学。現在は企画展「光太郎と花巻電鉄」開催中です。

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ここで皆さんとはお別れし、このあと当方は花巻市街でぶらりと光太郎の足跡をたどりました。いずれレポートいたします。

今夜も鉛温泉♨さんに泊まり、明日、ゆっくり帰ります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から市民講座の情報です。 

光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ

期   日 : 2018年9月1日(土)
時   間 : 午前9時から午後3時20分まで
会   場 : 花巻高村光太郎記念館他 (集合:まなび学園ロビー バスで移動)
料   金 : 400円
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴 定員20名

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高村光太郎記念館に併設の「森のギャラリー」での講話は、高村光太郎記念館長・藤原睦氏、花巻高村光太郎記念会事務局長・高橋邦広氏、それから当方もお話をさせていただきます。当方からは、光太郎の生涯を通じ、どのような食生活を送っていたか、光太郎本人や周辺人物の証言などから追いかけます。

その他、マイクロバスを使い、市街の桜地人館さん、光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑などをめぐる予定で、対象は花巻市在住または勤務の方限定となっています。

終了後、このような話をしたよ、というのはこちらのブログでレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩がいつまでも幼稚であつていいといふのではない。成長すればする程、複雑微妙になればなる程、技術の高度化が加はれば加はる程、尚更思はくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩のよろこびである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

一般読者の投稿詩に対するアドバイスですが、かつての光太郎自身もこのようにして成長してきたんだよ、ということなのでしょう。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。

『朝日新聞』さんに載った記事を2本紹介します。

まずは2日の夕刊。先月、岩手版に載った記事を元に、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」を紹介して下さっています。 

(ぶらっと)光太郎が暮らした街再現

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の岩手県花巻市を再現したジオラマ模型が、「高村光太郎記念館」(同市太田)で公開されています。
 旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物と風景を、約150分の1で再現。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」の電車が中を駆け巡っています。
 展示は11月19日まで。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。

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続いて、1日の長崎版に載った記事。 

(人あかり 小さな目・選者より)印象派の絵の前で、高村智恵子を思う /長崎県

 九州国立博物館で「至上の印象派展」が開催され、全64作を堪能した。ルノワール、ゴッホ、ピサロ、シスレー、モネ、ピカソなど教科書に載っている絵の数々。そんな中、セザンヌの作品の前で高村智恵子を思い出した。
 彫刻家・詩人である高村光太郎の妻・智恵子はセザンヌに傾倒していた画家でもあり、結婚当時から他界するまでの生涯を、夫によって一冊の詩集「智恵子抄」にうたいあげられた女性である。
 高村光太郎の父・光雲は1889(明治22)年、彫刻家で岡倉天心らが創立した東京美術学校(現東京藝術大学)に奉職。光雲は著名な彫刻家として、上野の公園に西郷隆盛像を建立したことは広く知られている。
 話は戻るが、智恵子は1911(明治44)年、「元始、女性は太陽であった」と唱(とな)え、婦人解放運動の第一人者であった平塚らいてうらの雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描くなど活動していた。この年12月に高村光太郎と出会い、東京・駒込林町のアトリエで窮乏生活が始まった。
 もともと体質が弱かった智恵子は肋膜(ろくまく)炎を患い、父・長沼今朝吉の死に遭い、その後、酒造業を営んでいた長沼家は破産し、憔悴(しょうすい)してしまった。その間、関東大震災が起き、40代半ばから、精神を患う統合失調症の兆候があらわれ、自殺未遂をし、九段病院に入院。病気は進行し、35(昭和10)年、南品川ゼームス坂病院に転院した。夫・光太郎の苦しみは深まるばかりだった。
 苦悩の詩が愛の証しとして「智恵子抄」となり、珠玉の作品集として今日まで読まれている。その中の「山麓(さんろく)の二人」の一節。
 半ば狂へる妻は草を籍(し)いて坐(ざ)し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
 この作詩当時、智恵子の意識は尋常と異常とを交互にさまよっている状況が読み取れる。この詩の悲痛な末尾部の1行。
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 私の手もとに「智恵子の紙絵」(社会思想社)という画集がある。65(昭和40)年12月、紙絵126作品を収録している驚きの本が店頭に並んだ。
 この紙絵の本は色紙(いろがみ)の配色といい画家であった智恵子を思い出させ、狂気の底に美意識が生きていたことを証明していた。入院中、作成された紙絵は、約千数百点にのぼり、光太郎だけに見せていたという。
 忘れられない逸話がある。狂った妻は光太郎が四つん這(ば)いの馬になった背に跨(またが)り、「ハイドー、ハイドー」と乗るのが好きだった。「智恵さん、楽しいかい?」と涙を落としながら光太郎は病室を這(は)い回っていたという。
 智恵子、38(昭和13)年没。41(昭和16)年8月、詩集「智恵子抄」発行。同年12月、太平洋戦争開戦。印象派の光と光太郎の愛は不滅だ。
(県文芸協会長 浦一俊)

智恵子の生涯につき、かなりくわしくご紹介下さっています。ただ、最後の馬のエピソード、後の映像作品等にそういった描写があったと思いますが、光太郎の書いたものには記述はありません。


もう1件、現在発売中の『週刊新潮』さんをご紹介しておきます。

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作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」。先頃世界文化遺産への登録が確定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」関係の内容です。

潜伏キリシタン同様、江戸時代に弾圧の対象であった九州の「隠れ念仏」、東北の「隠し念仏」に話が及び、「九州にしても、東北にしても、信仰の自由が保障されたのちも、その土地に熟成された独自の信仰にこだわる人びとは少なからず存在する。それを異端として排除するのはまちがいだろう。宮澤賢治は『春と修羅』のなかで、「秘事念仏」という言葉を使っているし、高村光太郎には「かくしねんぶつ」という詩がある。柳田国男は、遠野には「一種邪宗らしき信仰あり」と書いた。「隠す」のも、大事なことではないかと私は思う。」と結んでいます。

光太郎の「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)は以下の通り。

    かくしねんぶつ001
 
 部落の曲りかどの松の木の下に
 見真大師の供養の石が立つてゐる。
 旧盆の十七日に光徳寺さまが読経にくる。
 お宿は部落のまはりもち。
 今年の当番は朝から餅をつき、
 畑のもので山のやうなお膳立。
 どろりとした般若湯を甕にたたへて
 部落の同信が供養にあつまる。
 大きな古い仏壇の前で
 黒ぼとけさま直伝の
 部落のお知識がまづ酔ふと
 光徳寺さまもみやげを持つて里にかへる。
 あとでは内輪の法論法義。
 異様な宗旨が今でも生きて
 ロオマの地下のカタコムブに居るやうな
 南部曲(まが)り家(や)の
 暗い座敷に灯がともる。

散文でも触れています。

 この山の人々はたいへん信心ぶかく、たいてい真宗の信者である。部落のまんなかに見真大師の供養の石が立つているくらいで、昔は毎月その方の寄り合いなどをして部落中の人がお経をあげたりしたらしい。その上ここには一種の民間だけの信仰があつて、そのおつとめが今も行なわれている。子供が生れると、その赤さんを母親が抱いて、お知識さんといわれる先達にみちびかれて、仏壇の前で或るちかいの言葉をのべる。又子供が五六歳になると、やはりお知識さんのみちびきで或るきびしいおつとめが行なわれる。それをやらない人は焼きのはいらない生(なま)くらの人であるといわれる。
(「山の人々」 昭和26年=1951)

と、かなり堂々と書いている光太郎、潜伏キリシタンほどでないにせよ、弾圧の歴史があったことを、もしかすると知らなかったのかな、とも思いました。

しかし五木氏、光太郎のマイナーな作品をよくご存じだと思ったところ、氏には『隠れ念仏と隠し念仏』という御著書がおありでした。光太郎についても記述があるかもしれませんので、図書館等で探してみます。


【折々のことば・光太郎】

私は日本語の美についてもつと本質的な窮まりない処に分け入りたい。人に気づかれず路傍に生きてゐる日本語そのものに真の美と力との広大な磺脈のある事を明かにしたい念願はますます強まるばかりである。

散文「詩の勉強」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和14年(1939)ともなると、自らが確立した口語自由詩が多くの支持を得、もはや「詩」といえば口語自由詩となったという自負があったのかもしれません。

東北の新聞2紙から。

まずは青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。今月23日の掲載分で、先週行われた「十和田湖ウォーク」にからめでです。

天地人 2018年7月23日分

 夏の一日、久しぶりに十和田湖に出かけた。湖畔の「乙女の像」まで足を延ばしたのは、子どものころの遠足以来かもしれない。高村光太郎の晩年の傑作とされる一対の裸婦像は、十和田湖の美を象徴する。彫像の前に、にぎやかな女性旅行者たち。手を合わせるように向き合う乙女のポーズに興じながら写真を撮り合っていた。
 乙女の像から少し奥まった所にある十和田神社は近ごろパワースポットとして人気という。杉木立を抜け境内に入ると、バックパック姿の外国人旅行者が、ベンチに腰を下ろし、霊験あらたかな空気に浸っていた。
 一段と深みを増した緑がぐるり。水面(みなも)を渡る風がすうっと頬をなでる。湖上遊覧では圧倒的なパノラマに解放感を味わった。
 いつからか観光地としての衰退が叫ばれている十和田湖である。しかし悠久の時が創り出した雄大な自然美は、きらきらと多彩な表情を見せ、底知れぬ力を感じさせる。最近は、奥入瀬渓流のコケに注目したエコツーリズムや湖畔のカヌー体験など、新たな切り口でこの一帯の魅力を伝える体験型観光も増えているという。
 きのう全国から千人超が参加した十和田湖ウオークもその一つだろう。神秘の湖の周りを歩いて歩いて1周50キロ。存分にいい汗をかいた後の温泉や冷えたビールは、体にしみたに違いない。いつもよりずっと深い眠りも堪能できたのではないか。


確かにインバウンドの方々が目立つようになった十和田湖周辺ですが、国内の方々にも、もっと訪れていただきたいものです。


続いて『朝日新聞』さんの岩手版。昨日の掲載です。 

光太郎の花巻 再現 記念館でジオラマ公開

 彫刻家で詩人の高村001光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の花巻を再現したジオラマ模型が、花巻市太田の高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻電鉄」で公開されている。
 模型は幅1・8メートル、奥行き1・2メートル。旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物とその風景が、実物の約150分の1のジオラマで再現されている。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」も再現され、「馬面電車」と呼ばれた独特の細い電車がジオラマの中を駆け巡っている。
 光太郎は東京のアトリエを空襲で失い、知人の賢治の実家を頼って花巻市に疎開、戦後の7年間は旧太田村山口(花巻市太田)の山小屋で暮らした。ジオラマは、光太郎が暮らした当時の雰囲気を伝える企画展の目玉で、東京都品川区のジオラマ制作者、石井彰英さんに依頼し、市内の光太郎研究の専門家が情報提供して制作されたという。
 同館は「光太郎は山荘にこもっていたのではなく、市街地や温泉にも出かけて多くの人と交流していた。懐かしい情景と光太郎の足跡を感じてほしい」。展示は11月19日まで(会期中、休館なし)。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。(溝口太郎)


今月14日に始まった花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」をご紹介下さいました。以前も書きましたが、各紙一斉に報じられるより、小出しにしていただけると、その都度読んだ方がいらしていただけるので、ある意味ありがたいところです。『岩手日日』さん、『読売新聞』さんではすでに報じられています。

しかし『朝日』さんの記事にある「市内の光太郎研究の専門家が情報提供」というのは、市内ご在住の『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』編集長の北山氏と、千葉県在住の当方がごっちゃになっているようです(笑)。


十和田湖、そして花巻。夏の旅行シーズン、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。定形無し、定理無し、定住無し、捉ふ可からず、しかも人中に遍漫す。故に詩は無限に変貌す。

散文「余はかく詩を観ず」全文 昭和2年(1927) 光太郎45歳

他にも佐藤春夫、堀口大学らの同じ題の文章が掲載されており、アンケートに分類してもいい内容ですが、『高村光太郎全集』では第8巻の評論の巻に掲載されています。

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