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6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。オリンピック中継のため1週延期となりましたが、最終回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑥ 岩手県花巻市…「智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き  かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ」。

地上波日本テレビ 2021年8月11日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#6 舞台(高村山荘)

昭和20年、ここで光太郎は自給自足の生活を始める。智恵子抄発表後、しばらくは智恵子を詩に書くこともなく過ごしたがこの場所に来てから、智恵子に関する詩を再び書き始めた(智恵子抄その後)。智恵子との思い出を胸に、ここで新たな創作を生み出す。


ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#5は7月28日(水)、「栃木県塩原温泉」でした。
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塩原温泉の柏屋旅館さん。
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この宿に入る前、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで智恵子祖父母らの墓に参り、その足で裏磐梯川上温泉に向かい、以後、宮城蔵王の青根温泉を経て、再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。いったいに、どこの温泉地でも中心街から離れた静かな宿を選んでいます。

そして湯治旅行の最後が塩原だったわけです。
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下の画像は二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。
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番組では、ほぼこの写真が撮られた地点でロケ。
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いいですね。

そして、明日の放映が光太郎智恵子篇最終回、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)がメインです。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

入れちがひに鈴木喜緑なりとて青年来訪、埼玉杉戸から来訪。詩の事や其他談話。詩稿を見る事は断る。来訪しても無駄といふハガキを出したもの届かぬうちに来たの也。

昭和23年(1948)7月18日の日記より 光太郎66歳

鈴木喜緑は大正14年(1925)、東京生まれ。のちに吉本隆明等と共に「荒地」同人となる詩人でしたが、この時点ではまったくの無名でした。

7月12日(月)、宿泊させていただいた大沢温泉さんを後に、レンタカーで下山、旧太田村の高村光太郎記念館さん及び隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)に向かいました。
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明日、7月16日(金)から、企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」が始まるということで、展示の準備等、進んでいるかな、と思って行ったのですが、まだ展示用のパネル等が届いたところという状況で、箱に入ったままでした。

ただ、チラシは頂いて参りました。
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それから、昨夜、メールの添付ファイルで、会場内の様子の画像を送っていただきました。
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昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に全10回で掲載された、光太郎の紀行文「三陸廻り」。パネルで全文と、関連する画像等を展示しています。当方がお貸しした古絵葉書も使っていただいたようで。
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光太郎が訪れた昭和6年(1931)の宮城県石巻の地図。複製だそうですが。
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上半分は、こちらも当方がお貸ししたもので、光太郎が「三陸廻り」の旅で利用した三陸汽船の航路を描いた鳥瞰図。金子常光の手になるもので、大正15年(1926)発行です。下半分は、女川あたりでしょうか、現在の様子を撮影したもののようです。
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右の方に写っているのが、光太郎のエッセイ「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿。

三陸沿岸を含め、甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年が経ち、また、三陸を舞台とするNHKさんの朝ドラ「おかえりモネ」が放映されるなどしていますので、タイムリーな企画といえるのではないでしょうか。

「おかえりモネ」。坂口健太郎さん演じる医師の名が「菅波光太朗」。どこかで本家・光太郎(笑)とリンクするシーンがほしいものです。
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ちなみに、ドラマの中で主人公・永浦百音(清原果耶さん)の実家があるという設定の「亀島」は、実際に気仙沼の湾に浮かぶ「大島」がモデルとされています。

光太郎、「三陸廻り」の旅では、大島には上陸しませんでしたが、三陸汽船の船で、島をかすめて航行、紀行文にも「大島」の語が。
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十一時半、船が気仙沼湾の大島の瀬戸をぬけて御崎(おさき)を出はずれ、漁火(いさりび)のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆ど無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒でガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。

この濃霧を、光太郎は短歌でも謳いました。上記企画展チラシに引用されています。

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧(さぎり)を立てて船にせまれり

これを刻んだ碑が、大島の東側、南北に垂れ下がる唐桑半島の突端に建てられています。

他に、記念館さんでは、最近入手したという、昭和25年(1950)、光太郎が盛岡で講演を行った際の資料等(写真、チラシ、参会者の書いた感想帖など。展示はされていません)を拝見し、必要な部分のコピーをいただいて参りました。

いただいて、といえば、記念館女性職員の方が写真撮影されて作られたフォトブック『山からの贈り物 山口山の四季』。記念館/山荘附近の自然を写したものです。多謝。
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その後、隣接する高村山荘へ。
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コロナ禍のため、訪れる方が減少。すると、逆に、熊の出没が増えているそうです。つい最近も一頭、罠にかかったそうですが、他の個体もいるらしいとのこと。

当方が訪れた前日、山荘套屋の腰板がベリッとはがされたそうで……。
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はがされた部分、裏手に置いてあったのですが、この時だけ元の位置に持ってきて撮影しました。

そんなわけで、裏山の智恵子展望台、奥の旧記念館(現・別館的な森のギャラリー)方面へは、立ち入り禁止となっていました。
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記念館、山荘を後に、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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光太郎の食卓カレンダー」などが販売されている光太郎グッズコーナー、それからMLBで活躍中の大谷翔平選手、菊池雄星選手の母校である花巻東高校さんのコーナーも。
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光太郎グッズコーナーでは、上記『山からの贈り物 山口山の四季』の姉妹編とも言うべきフォトブック『光太郎の風景2020・秋』を購入しました。こちらも素晴らしいものです。
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光太郎、賢治についてのパネル展示が為されているインフォメーションスペース。
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地元の書家の方が書かれた、光太郎詩「おそれ」(大正元年=1911)の一節。
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いい感じですね。

この後、「光太郎の食卓カレンダー」などを手がけられた、やつかの森LLCの皆さんと昼食。実に有り難いことに、当方の歓迎の意味もあって、BBQ。当方、肉食系男子ですので、実にありがたし(笑)。
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恐縮しつつも遠慮無くがっつりいただきました(笑)。

さて、高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」、明日から8月30日(月)までの会期です。コロナ感染及び熊の出没には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、道の駅も比較的近くですので、こちらにもお立ち寄りいただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

二時頃より円万寺神楽なるもの神楽堂にあり、群衆多く集まる。各部落より一群つつ仮装などして参詣に来り、歌舞す。


昭和23年(1948)4月25日の日記より 光太郎66歳

僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていた、花巻郊外旧湯口村(光太郎の居た太田村の隣村)の円万寺観音堂での一コマです。

多田は京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。

円万寺神楽は現在も受け継がれ、国指定の無形民俗文化財に登録されています。

7月11日(日)、花巻市博物館さんで「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」を拝観後、レンタカーを市街地に向けました。次なる目的地は、市中心部御田屋町にある旧菊池捍(まもる)邸。先月末からの土・日限定で、内部の公開と、音楽/朗読イベントが開催されています。
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何度か、レンタカーでこの前を通ったことがあるのですが、その存在に気づいていませんでした。歩いていたら見逃さなかったのでしょうが。
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KIMG5223大正15年(1926)の竣工。当時の花巻では珍しい洋館です。ただ、完全な洋館でもなく、奥の方は畳敷きの和室もあり、和洋折衷。この家の持ち主だった菊池捍が、札幌農学校出身ということで、北海道の建築スタイルと、元々の武家屋敷の様式をうまく融合させて設計を依頼したようです。右画像の窓などは、上下にスライドさせて開ける形になっており、北海道の建築によく見られるタイプだそうで。

ただ、内部の造作では、洋館建築のお約束の装飾パーツ(アカンサスやデンティルなど)が見当たらず、そういう技術を持った左官屋さんなどが、当時の花巻近辺には居なかったのかな、などと思いました。

菊池家は元々、南部藩の砲術方だったそうで、この場所には江戸時代から屋敷があったということですが、近隣からのもらい火でその屋敷は燃え、大正時代に新しくこの家を建てたとのこと。

昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王がここに泊まったそうです。また、宮沢賢治の寓話(以前、「童話」と書きましたが、「寓話」というべきだそうで)「黒ぶだう」の舞台「ベチュラ公爵の別荘」に比定されている他、童話「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラ宅も、この家からのインスパイアではないかという説があるそうです。

そして、光太郎。

光太郎の日記には、この家を訪れた記述が見当たりませんが、捍の息女である故・聡子さんの回想が残っていました。
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ピアノ講師を永らく務めていた聡子さん、賢治実弟の清六と共に訪れた光太郎に、ピアノ演奏を披露したとのこと。
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義姉の故・初枝さんがこの家にいらしたのは、昭和23年(1948)の3月頃までだそうですので、それまでの間、ということになります。

その間の光太郎の日記は、昭和21年(1946)5月16日~7月16日と、9月21日~10月9日、いずれも太田村から花巻町に出かけていた時期の分が欠けており、この間なのでは、と推測できます。

もう少し、建物の外観等を。
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下は別棟というか、離れというか。菊池捍の娘婿だった画家、寺島貞志が使っていたアトリエです。
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さらに、昔ながらの蔵も。
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午後4時から、音楽/朗読イベント。
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奥の和室で開催されました。
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「智恵子抄」の中から、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の朗読もしていただき、ありがたい限りでした。

今後、この建物の活用方をいろいろ考えていかれるそうで、いいことだと思います。有効に使われてほしいものです。

また、今週末の7月17日(土)、18日(日)にも、とりあえず最後の内部公開があるそうですので、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

この後、当方は定宿としております大沢温泉さんへ。
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続きは、明日。

【折々のことば・光太郎】

光太郎赤ちゃんお誕生に書く言葉をきめる。「日輪光光」。


昭和23年(1948)4月21日の日記より 光太郎66歳

「光太郎赤ちゃん」は、茨城取手在住だった詩人の宮崎稔と、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子夫妻の長男。光太郎を敬愛する二人が、我が子を「光太郎」と名付けました。

昨日まで一泊二日で、花巻に行っておりました。3回に分けてレポート致します。

東北新幹線を新花巻駅で下車、予約しておいたレンタカーを借り、まずは新花巻駅近くの花巻市博物館さんへ。こちらでは、テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」が開催中です。
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近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解く、というコンセプトで、「序章 舟運から鉄道へ」、「第1章 花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」、「第2章 内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」、「第3章 温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」、「終章 賑わうまちと新花巻駅開業」の五部構成でした。

図録は発行されていませんで、代わりに、『花巻市博物館だより』№63というリーフレットから。
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展示品目録。こまごまとした出品物が大半で、点数は非常に多くなっていました。
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空襲での東京駒込林町のアトリエ焼失に伴い、昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」(後述のブリヂストン美術館さん制作の映画はこの際に撮影)を果たした光太郎。その間に重要な「足」となった花巻電鉄について、特に興味深く拝見しました。

平成30年(2018)には、花巻高村光太郎記念館さんで、「光太郎と花巻電鉄」という企画展も開催されました。その際に当方がお貸しした古絵葉書など、かぶる展示もありましたが、そうでないものも多数。逆に、「光太郎と花巻電鉄」の際に出たものが、こちらには並んでいないというケースも。同じ花巻市の施設なので、もう少し連携するなりすれば、と思いましたが、そのあたりは縦割り行政的なものの弊害なのでしょう。

例えば、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」。もちろん光太郎が中心の映画ですが、東北本線の列車や、花巻電鉄が走行しているところの遠景、それから光太郎が花巻電鉄に乗車しているシーンなどが含まれています。その部分だけでも取り出して放映したり、それが無理でも静止画でパネル展示にしたりといったことは不可能ではないはず。
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それから、ジオラマ作家・石井彰英氏作製のジオラマ。こちらは「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたものですが、現在も花巻高村光太郎記念館さんで展示中です。
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これを、期間内だけでもこちらに運ぶことも不可能ではないはず。

また、花巻高村光太郎記念館さんの物販コーナーでは、石井氏がご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」も販売中。それをこちらに持ってきて放映したり売ったりすることも出来なくはないでしょう。

いろいろ権利の問題などで、面倒な手続きが必要かもしれませんが、そもそもそういう発想自体が欠けているのでは、と思うことがしばしばあります。

閑話休題。花巻電鉄といえば、今回の展示に合わせ、ほぼ実寸大の模型が製作され、ロビーに置かれています。「馬面電車」、「ハーモニカ電車」などと称された、デハ3型です。
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これなども、今後、何かの機会に活用していただきたいものです。

それから、お子さん向けに、車輌のペーパークラフト。こちらは無料で配付されているようです。
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自由にカラーリング出来るようになっており、コンテストのような企画が行われています。「花巻市博物館長賞」に輝くと、「商品」がもらえるそうで。「賞品」ではないのかな、と思うのですが(笑)。

さて、同展、8月29日(日)までだそうです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半学校にゆく。今年はじめてなり。箱を持ちゆき郵便物を入れ置くやうたのむ。子供達持参は中止のやうのべる。余が二三日おきにゆく事。


昭和23年(1948)4月19日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった、太田小学校山口分教場(のち、山口小学校に昇格)。「今年」は「今年度」という意味でしょう。

郵便はその分教場までしか届けてもらえず、光太郎が自分で取りに行ったり(同時に差し出し分を預かってもらいました)、教師や児童が届けてくれたりしていました。

中には、光太郎がお駄賃にと、雑誌や食べ物をくれるので、それを目当てに、という子供もいたようで、光太郎、そういう気配を感じ取ったようです。

昨日から一泊二日で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」、続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」を拝見。
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宿泊は例によって、大沢温泉さんにお世話になっております。
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このあと、高村光太郎記念館さん、道の駅花巻西南(愛称・賢治と光太郎の郷)などを回って帰ります。

詳しくは帰りましてから。

過日ご紹介した、花巻でのイベントの報道が出ていますので、ご紹介。

まずは、花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」。『岩手日日』さんの記事です。

発展支えた“大動脈” 郷土の近代鉄道史に焦点 花巻市博物館テーマ展

 東北本線開通から新花巻駅開業までの花巻の近代鉄道史に焦点を当てた、花巻市博物館(高橋信雄館長)の2021年度テーマ展「鉄道と花巻―近代のクロスロード―」は、同市高松の同館で開かれている。鉄道の発展に伴い栄えるまちの様子、発展に携わった人物なども関連資料を通して紹介し、現在の充実した交通網に至るまでの歩みを振り返っている。8月29日まで。
  花巻に鉄道が延伸したのは、1890(明治23)年。東北本線開通(上野―盛岡間)や花巻駅開業に始まり、同駅を起点とした岩手軽便鉄道、花巻電鉄が誕生し、交通網が発達。本県初のターミナルへと成長した。
 今展は「花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」「内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」「温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」など5章構成。写真や絵、図、絵はがき、切符など多様な資料176点が並ぶ。
 このうち「花巻近代鉄道史―」では、同館所蔵の「花巻駅長舎之図」(明治22、23年)や「花巻駅停車場図面」(明治30年代)のほか、個人所蔵の東北本線時刻表(明治時代)などを公開。同駅舎や停車場の設計を手掛けた宮澤猪太朗(1848~1912年)についても伝えている。
 序章では、鉄道が導入される前に物資の主要な輸送手段だった「舟運」の歴史にも触れている。
 テーマ展に合わせて同館では、同市の材木町公園に保存、展示されている花巻電鉄の車両「デハ3」の一部を、ほぼ実物大に再現した模型を設置。市内の児童(10)は「花巻電鉄については、4年生の時に社会科で習った。模型は本物みたい。幾多の苦労や困難があって今の鉄道まで発展したのだと知ることができた」と、興味深げに見入っていた。
 同館学芸員の小田島智恵さんは「現在は当たり前のように交通の便が良い花巻だが、その歴史まで理解している人は少ないのではないか。花巻は実はすごい所なのだと知ってもらいたい」と来館を呼び掛ける。
 関連行事として、17日午後1時30分から講演会が行われる予定で、釜石市世界遺産課の森一欽課長補佐が「釜石鐵の鉄道~内陸から海へつなぐ鉄路~」と題して話す。31日には、小田島さんによる講座「岩手軽便鉄道と花巻」も開催する。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(32)1030=へ。
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光太郎も、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から、花巻町中心街や大沢温泉などの温泉郷への足として使っていた花巻電鉄。画像にあるデハ3型車輌の模型は、ぜひ今後も活用していただきたいと存じます。

ちなみにこちらが、現役当時のおそらくデハ3型。当方手持ちの古絵葉書です。ぜひ乗ってみたかったと思いました。
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続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」。『岩手日報』さんから。

池捍邸を26日から一般公開 花巻、宮沢賢治作品の舞台モデル

 宮沢賢治作品の舞台とされ、大正ロマンを象徴する建築の花巻市御田屋町の「菊池捍(まもる)邸」は26日から一般公開される。市民有志による保存・活用委員会(木村清且(きよかつ)会長)が、菊池捍(1870~1944年)や、市ゆかりの人物を顕彰する場とした。公開は1カ月間だが、将来的にはまち中心部に活気を呼び込む常設の施設を目指す。
 26日のオープニングセレモニー後は、7月18日まで毎週土日に開館。午前10時~午後4時。入館料(協力金)は500円。問い合わせは同委員会事務局の北山公路さん(090・2884・0466)へ。
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さらに、IBC岩手放送さんのローカルニュース的な……。

池捍(まもる)さんのお家…!

 花巻市御田屋町・上町商店街の東側にある「菊池捍邸」におじゃましました(#^^#) 菊池捍さんは、花巻出身。国内外で農業技術の発展に従事した方です!
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 7年かけてじっくり建てられた家で、まもなく築100年!
 「花巻瓦」の屋根が美しい洋館… 加えて、館内には武家屋敷の構造が見られるという、後世に残したい貴重な建物です。
 この通りは数えきれないほど来ていますが… 知りませんでした<(_ _)>
 先週末から、来月18日までの土日に開館しています。今日は特別に館内から中継しました!
 「菊池捍邸 保存・活用委員会」会長 木村清且さん(写真左)にご紹介いただきました(^^)
 邸宅を毎日綺麗に管理している 佐藤吉雄さん(写真右)は、本日見守り隊です(#^^#)
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 宮沢賢治の物語が読み取れ、かつ様々な先人が訪れた邸宅… ワクワクします!
 そして、ここを守ろうとたくさんの方が活動を続けていることも、素敵ですね( ˘ω˘ )
 応援していきたいです(^^)/
 襖の柄もオシャレ…!
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 土日の日中は、委員会の皆さんに様々お話が聞けますし、じっくり見学ももちろん可能!
 夕方には、朗読会・観劇会・音楽鑑賞会などが開催されています(^^♪
 入場料(運営協力金) 500円(小学生以下は無料)
 お問い合わせ 090-2884-0466
 ありがとうございました\(^o^)/
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当方、明日から1泊で、それぞれを拝見に行って参ります。帰りましたらレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

駒込のアトリエ焼失の日。


昭和23年(1948)4月13日の日記より 光太郎66歳

さすがに、この日付は忘れがたいものだったのでしょう。昭和20年(1945)、3月10日の東京大空襲では難を逃れたものの、その後も断続的に空襲が続き、4月13日の空襲で、智恵子と暮らした思いで深いアトリエ兼住居は、灰燼に帰しました。
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日記では、この日、北海道弟子屈から詩人の更科源蔵、また、それとは別に盛岡から岩手県立美術工芸学校の佐々木一郎、森口多里が訪ねてきたことが記されています。おそらくアトリエ焼失の際の話題にもなったのではないでしょうか。

しかし、アトリエの焼失がなければ、花巻に行くこともなかったわけで、人の縁というのはつくづく不思議なものですね。

まだチラシ等も出来ていないとのことで、不十分な情報ですが……。

企画展「光太郎の三陸廻り」

期 日 : 2021年7月16日(金)~8月30日(月)
 追記 コロナ禍のため花巻市関連施設利用制限「レベル4」となり、9月23日(木)まで休館
    その後12月まで開催 
会 場 : 花巻市高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体
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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、宮城から岩手の三陸一帯を約1ヵ月、光太郎は主に船を使って旅しました。光太郎がこの旅に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化した、とも言われています。

『時事新報』に「三陸廻り」が載ったのは、その年10月3日から27日まで。断続的に全10回での掲載でした。
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当会顧問であらせられた、故・北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)に掲載された行程図がこちら。
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紀行文に記された寄港地は、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古です。

館からの連絡では、掲載回毎のパネルを作成し、それに光太郎のスケッチと現在の各地の様子(漁港や海岸の写真が中心)を添えて展示、とのこと。光太郎の足跡を辿りながら、震災から復興しつつある沿岸の各地の現在を写真で紹介する主旨で、これに光太郎が訪れた昭和6年(1931)の石巻鳥瞰図(複製)を補足資料として加えるとも書かれていました。また、随筆「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿を参考資料として展示するそうです。

その他、当方手持ちの資料の中から、古絵葉書など、使えそうなものをお送りしました。使っていただけるかどうか未定ですが。

「光太郎のスケッチ」は、こちら。全10回の「三陸廻り」、各回に掲載されました。
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このうち、「女川のしみ」(しみ=鮪)、「船尾におかれた綱の団塊」の2点は、平成3年(1991)に竣工した女川の光太郎文学碑に使われました。

文学碑といえば、この旅での寄港地のうち、気仙沼、そして釜石にも、この旅で光太郎が訪れたことを記念する文学碑が建立されています。釜石の碑は、平成7年(1995)の建立。その頃見に行ったきりで、震災後、どうなっているのかわかりませんが、健在ではあるようです。

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さて、企画展「光太郎の三陸廻り」。チラシ等が廻ってきましたら、またご紹介しますが、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる近くワタルさん来訪。龍角散うけとり。


昭和23年4月8日の日記より 光太郎66歳

「ゴホン!といえば龍角散」というコピーがすぐに浮かぶのは、一定以上の年代の方ですね(笑)。江戸時代には秋田藩佐竹家の藩薬として、すでに存在していたそうです。

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昨日に引き続き、岩手花巻からの情報です。

テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」

期 日 : 2021年6月26日(土)~8月29日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 小、中学生 150円(100円) 高、学生 250円(200円)
      一般 350円(300円) ( )内は20名以上の団体割引料金

近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解きます。

主な内容 
「舟運から鉄道へ」「東北本線の開通」「岩手軽便鉄道の誕生」
「花巻電鉄と新温泉開発」

☆関連事業 7月17日(土) 講演会 7月31日(土) 学芸員講座 ギャラリートーク等
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元々、昨年開催予定だったものですが、コロナ禍のため一旦中止となり、仕切り直しての開催です。

昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」を果たした光太郎、その間に重要な「足」となった花巻電鉄も取り上げられます。
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展示品のうち、「岩手軽便鉄道沿線名所図絵」という古い鳥瞰図が、『広報はなまき』6月15日号に紹介されました。
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さらに、同館の「先人コーナー」。

先人コーナー展示替えのお知らせ

花巻市博物館では、花巻ゆかりの先人を紹介するコーナーを設けています。昨年度は、小原樗山、山室機恵子、工藤善太郎の3人を紹介しましたが、今年度は多くの先人のうち、渕澤能恵、佐藤隆房、薄衣八百藏の3人を取り上げました。

佐藤隆房(1890-1981)
佐藤隆房は、明治23年(1890)栃木県那須郡(現・那須町)に生まれました。大正12年(1923)、33歳の若さで「花巻共立病院」(現・総合花巻病院)を設立、外科医長を兼ねて初代院長に就任します。
慈善活動にも力を入れ、昭和8年(1933)の三陸大津波の際は救護班を沿岸に送り、昭和20年の花巻空襲の際にも陣頭指揮を執り、負傷者の救護を行いました。文化・芸術にも造詣が深く、宮沢賢治や高村光太郎など、花巻ゆかりの文化人たちとの交流がありました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、旧太田村の山小屋に移る直前の約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房が新たにラインナップ入り。

来月には「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」に行って参りますので、こちらも廻ってこようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午前書初。正信偈の中から選んで(「顕真実」3「金剛心」1)四枚書く。


昭和23年1月2日の日記より 光太郎66歳

正月二日に書き初めを行うのが、光太郎のルーティーンでした。「正信偈」は「しょうしんげ」。親鸞 の著した『教行信証』中の「正信念仏偈」を指します。

「顕真実」三枚中の一枚は、花巻高村光太郎記念館さん、一枚は大沢温泉さんに所蔵されています。「金剛心」も花巻高村光太郎記念館さんに納められていますが、元は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎に贈られ、駿河はその書を拡大コピーした石碑を自宅前に立てました。
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光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻からイベント情報です。

菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展

期 日 : 2021年6月26・27日、7月3・4日、10・11日、17・18日
      (6月第4週~7月第3週までの土曜日・日曜日開催)
会 場 : 旧菊池捍邸 岩手県花巻市御田屋町2-9
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

大正15年に建てられた菊池捍邸は洋館のような外観にも関わらず間取りは武家屋敷という大変貴重な建物となっている。10年ほど前まで菊池捍氏の子孫が住んでいたので内部も建築当時のままきれいに残されている。

菊池捍氏は明治3年花巻城士の子に生まれ、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校に進学。同じく花巻出身の総長佐藤昌介と新渡戸に薫陶を受けた農業技術者だった。全国どころか、台湾やスマトラでも活躍したのち帰郷。北海道時代に見た開拓使の建物に影響されてこのような洋館風の外観で家を建てたものと思われる。

イベント当日の展示は、その菊池捍に関連する資料とその次男で、戦前戦後に活躍した写真家菊池俊吉が撮った写真、そして空襲で東京のアトリエを焼かれ、この家に疎開した娘婿で、戦前のプロレタリア美術の第一人者だった寺島貞志の絵、佐藤昌介やその妹で島崎藤村の初恋の相手佐藤輔子、佐藤輔子がのちに結婚した鹿討豊太郎の写真など、この家にまつわる方々の資料や作品となる。宮沢賢治や高村光太郎などもどうやらこの家に関わっている由。

関連行事 :
 6月26日(土) オープニングセレモニー トークイベント
  木村清且さん(木村設計A・T代表取締役社長)
  平澤広さん(花巻市立萬鉄五郎記念館学芸員)
  坂場有紀子さん(菊池捍氏曾孫)
 各日曜日 16:00~17:30 朗読会などの併催イベント
  6/27 宮沢賢治作品朗読と昔話、レコード鑑賞
  7/4   宮沢賢治作品朗読と朗読劇、レコード鑑賞
  7/11 宮沢賢治、高村光太郎詩朗読、フルート演奏
  7/18 おとなに贈るおはなし会、レコード鑑賞

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菊池捍(まもる)は、花巻出身の農業技術者。昭和19年(1944)に歿していますので、光太郎と直接の面識はありませんでしたが、その姻族の佐藤昌(元旧制花巻中学校校長)は、昭和20年(1945)の花巻空襲で、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を1ヶ月近く住まわせてくれ、その後も光太郎と交流を続けた人物でした。他にも宮沢家などで、菊池の縁者の人々と同席した記録が残っています。

言い伝えによると、光太郎もこの菊池邸に足を運んだらしいとのこと。ただ、残されている日記にはその記述が見当たりません。しかし、当方が見落としていることも考えられますし、日記は昭和24年(1949)と翌年の大部分が失われていたり、その他の年も欠落している部分があったりで、その間に訪問していた可能性があります。

旧菊池邸は、大正15年(1926)の竣工。宮沢賢治の童話「黒ぶだう」の舞台である建物のモデルとも考えられているそうです。また、先日ご紹介した『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号の連載「光太郎レシピ」の撮影も、こちらで行われたとのこと。

古建築好きの当方としては一度行ってみたいと思っていましたし、朗読イベントで光太郎詩が取り上げられるというので、7月11日(日)にお邪魔することに致しました。皆様もぜひどうぞ。

ところで古建築というと、昨日、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」。智恵子の故郷・二本松にたたずむ、菊池邸より1年早く建てられた、「8月カフェ」さんが取り上げられました。
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この番組、ドラマ仕立てで、渡部豪太さん演じるカフェブロガー・真田ハルが、全国の「ふるカフェ」を巡り、その謎を解き明かすというスタイルです。古建築好きの当方、時折拝見しています。地元の皆さんが本人役でご出演、それが何とも言えず温かみがあっていい番組です。
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ちなみにハルが口にしているのは、手作りスコーン。
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美味しそうですね!

番組冒頭は二本松駅から。
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カフェオーナーの吉村明美さんからの調査依頼。吉村さんは元々、郡山で喫茶店を経営されていたそうですが、今年3月に娘さんとこちらにカフェをオープンなさったそうです。

賢治の「雨ニモマケズ」パロディー。
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ここで「高村光太郎の「智恵子抄」に謳われた「ほんとの空」のある二本松」といった紹介が欲しかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。

こちらがカフェ。
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元二本松町長・田倉孝雄が建てさせた建築だそうで。
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当時の欧米で最先端の流行だった様式を随所に取り入れていました。
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光太郎智恵子がこの建物を目にした可能性もあります。

ところで、番組冒頭近く、8月カフェさんに着く前、ハルが二本松城の大手門跡の説明板を読んでいると……。
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石垣を愛でている謎の美人。石の積み方に詳しく、実にマニアックです(笑)。

最初、気がつかなかったのですが、「あれっ、佐藤さん?」。思わず叫んでしまいました。
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番組後半に再登場なさり、ここで正体が明らかに(笑)。以前、教育委員会文化課にいらした佐藤真由美さん。平成28年(2016)に、8月カフェさんすぐ近くの歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の際、主任学芸員としてお世話になった方です。その際には、展示品をお貸ししましたので、千葉の当方自宅兼事務所に搬入/搬出にいらっしゃいました。その後も毎年のように智恵子を偲ぶ「レモン忌」にご参加なさっています(昨年はコロナ禍で中止)。

建設の経緯などは、佐藤さんがハルに語る、という設定になっていました。出演なさるとは存じませんで、驚きました。今度お会いしたら「いい芝居してましたね」とからかってあげようと存じます(笑)。

6月20日(日) 18:30〜18:55、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お雑煮、屠蘇代りの冷酒二杯 お供へをかざり、みかん林檎を供ふ。筆、槌、コムパス、等を祭る。

昭和23年(1948)1月1日の日記より 光太郎66歳

山居生活4年目の幕開けでした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号が届きました。
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巻頭特集は「高3女子のリアルトーク「花巻えもい!!」」。高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)の建つ花巻北高校さんに通う、お二人の生徒さんによる若者目線での花巻紹介です。大人が見過ごしてしまう「良さ」の取り上げ方や、「田舎あるある」的な自虐ネタなど、楽しく読ませていただきました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は、「青菜のエチュベとサヤエンドウのポタージュ」。「エチュベ」はフランスの家庭料理だそうです。
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料理好きの方、ぜひどうぞ。

編集に協力されているやつかのもりLLCさんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

昨日販売分がこちら。
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彩りが初夏っぽい感じを受けますね。

こちらも末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

朝田頭さん奥さん来訪、昨夜余の夢を見て心配ゆゑ来りしとの事、弱つて田頭さんを余が訪ねし夢なりし由、元気故心配なきやう申述ぶ。濁酒三合程もらふ。

昭和22年(1947)12月24日の日記より 光太郎65歳

「田頭(たがしら)」は屋号で、旧太田村村長・高橋家です。光太郎、村民に愛されていたのがよくわかるエピソードですね。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手県花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんに関する報道。『岩手日報』さんには一週間程前に出ましたが、『岩手日日』さんで、一昨日報じられました。内容的にはかぶりますが、ご紹介します。

光太郎の食卓再現 顕彰合同会社やつかのもり 日記、書簡基にカレンダー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動などに取り組む花巻市轟木の合同会社やつかのもり(藤原正代表)は、「光太郎の食卓カレンダー」を作製した。カレンダーには光太郎の食卓を再現した写真、エピソード、食を通じた相関図を掲載。同社ではカレンダーが光太郎に親しみを持つきっかけになることを願う。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、 独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 同社は藤原代表(69)と地元の女性社員8人で組織。アカシアの天ぷら、 ショートケーキ、トマトケチャップを使った鍋など、カレンダーに掲載されている料理は光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した。
 光太郎は欧米への留学経験もあることから、オリーブオイル、オーストラリア産のチーズ、アンチョビなど当時の花巻としては珍しい食材も出てくる。光太郎に手作りジャムやケーキを届けた盛岡スコーレ高校の創立者である吉田幾世さんら、食を通じて交流した県人も紹介している。
 藤原代表は「当時の文献 を見ると高村光太郎は牛肉なども食べており、かなりの食通だったことが分かる。カレンダーで高村光太郎をより身近に感じてもらい、記念館などに足を運ぶ人が増えてくれれば」と期待する。
 カレンダーは5月始まりで、見開きA3判、税込み800円。作製した500部のうち、限定100部を販売。道の駅はなまき西南で購入できる。
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記事にある「光太郎の食卓カレンダー」は、花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されたもので、光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたもの。

『マチココ』さん連載に関しては、時折、当方にレファレンス依頼があり、その意味ではちょっとだけ関わらせていただいております。

少し前には「「醢」って何ですか?」。光太郎の日記に「醢」という文字があるそうで。
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調べてみましたところ、「醢」は「かい」と読み、「兎醢」で「とかい」と読むようです。訓読みでは「ししびしお」、「しおから」などと読むとのこと。中国料理系で、「醢」は魚肉、鶏肉、獣肉などを塩と麹に漬けて発酵させたものだそうです。元々は原材料名+「醢」と表記したそうで、日本の平安時代の文献にも「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍=肉)などの語が見られるということです。どんな感じの料理なのか、今一つイメージが湧きにくいのですが……。塩辛に近いものなのでしょうか。身が兎肉で。

「魚醢」は「魚醤」とほぼ同義だそうで、「魚醤」は醤油のルーツの一つとされ、当方生活圏内の銚子市などでも販売されています。読み方は「ぎょしょう」ですが、「ひしお」と読む場合もあります。

ところで、当方、ワープロソフトは昭和のフロッピーディスクの頃から(笑)「一太郎」を使い続けています。文書作製の際の細かな設定等は「ワード」だと、やってやれないことはないのでしょうが、当方、そのスキルがありません。「一太郎」はかなり極めたので、ほぼお手の物です。最近のニュースでは、法案の作成ミスが、官公庁で「すでに民間では“過去の遺物”となった「一太郎」をまだ使っている」ことが原因だ、というのがありましたが。「一太郎」だろうが「ワード」だろうが、ミスは生じると思うのですが……。

したがって、当方の使っている日本語辞書は「ATOK」。別にジャストシステムさんを擁護する訳ではありませんが、明らかに日本語変換に関しては「IME」より数段上です。上記の「醢」も、「ATOK」では「ひしお」と入力して変換すれば、初期設定の時点で「醤醢」が出て来ます。「IME」では出来ませんでした(何か方法があるのかもしれませんが)。なぜか最も一般的でないであろう「醓」は出て来ます。
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まぁ、はっきり言うと、光太郎等、近代の文献の引用を行うためには、「IME」は使い物にならないという感じですね。一般の方々が普通の文書を作成する分には問題ないのでしょうが。

閑話休題、「光太郎の食卓カレンダー」、「やつかの森LLC」さんサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后サダミさんと同道及川善三氏来訪、茸狩の由。初対面、メーレー夫人の毛布を見らる。

昭和22年(1947)10月26日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」は「及川全三」の誤りです。岩手にホームスパンを根付かせた及川の弟子の一人が、「サダミさん」こと駿河定見(光太郎の山小屋近くの住人)の姪、戸来サツ子でした。サツ子から、光太郎が所蔵するエセル・メレ作の毛布のことを聞いた及川が訪ねてきたというわけですね。

昨日の『岩手日報』さんから。

光太郎の魅力広める起業 花巻・記念館で勤務した女性ら 活動充実へ合同会社 カレンダー販売や展示

 花巻市で暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動を続ける女性らが、合同会社「やつかのもり」(藤原正代表社員)を設立した。光太郎の食卓を再現した写真を使ったカレンダー販売や、道の駅はなまき西南(同市轟木)での展示、ブログ運営などを展開。本県を愛した光太郎の魅力を広く発信する。
 同社は同市太田の高村光太郎記念館で勤務した女性8人と「賢治と光太郎の郷(さと)」と銘打ち関連グッズも販売する道の駅の役員藤原代表社員(69)の計9人で組織。市内外で顕彰活動を進めようと4月に設立し、光太郎が過ごした山荘に自生するハンノキの方言「やつか」を社名にした。
 事業第1弾となるカレンダーは光太郎が宮沢賢治の家族に振る舞ったとされるアカシアの花の天ぷらなど、文献から推測して再現した料理の写真を掲載した。見開きA3判で500部作製し、800円。
 道の駅では賢治と光太郎に関連した展示を企画。月に1度販売する弁当「光太郎ランチ」の基となる資料提供も行う。
 光太郎ゆかりの場所を歩くブログ「こうたろう散歩道」を運営し、盛岡市でのイベント開催も検討する。
 藤原代表は「多くの人を巻き込み、郷土が誇る偉人の魅力を発信したい」と意気込み、記念館で30年勤務し、光太郎が校訓を贈った旧山口小学校に通った新渕和子副代表(69)は「校訓『正直親切』は、平和を願う気持ちそのもの。その精神をしっかり伝えていきたい」と誓う。
 カレンダーは道の駅などで販売。Eメール(kotarocafe30@gmail.com)でも申し込みを受け付ける。

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というわけで、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんを拠点に、さまざまな光太郎顕彰活動を事業化する会社「やつかの森LLC」さんが立ち上がりました。

まず、記事にある通り、光太郎の食卓カレンダー花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。
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こちらに10部贈って下さいまして、保存用を除いた残り9部をフェイスブックで「送料のみでお分けします」と書き込みましたところ、即日完売。購入して下さった方々から好評でした。

さらに、昨年から行われている「光太郎ランチ」。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんとのコラボです。毎月15日、10食の限定販売だそうで、昨日の販売分がこちら。
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上記画像、後に写っているのは道の駅はなまき西南さんのインフォメーションスペース。光太郎、賢治に関する説明パネルがあり、さらに以前にはなかった光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の書額。光太郎の筆跡ではなく、現代の方が書かれたもののようですが。

今後、さらにいろいろと事業が展開されていくようで、頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前、二階で揮毫、「雨ニモマケズ」の後半を横にかく。一枚書き損じ、二枚書く。尚、板の小額に「彧彧」と書く。院長さん得意の文句。面白く書けたり。

昭和22年(1947)10月10日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋を1週間程あけ、花巻町桜町の佐藤隆房(院長さん)邸に厄介になっていた時の記述です。

「雨ニモマケズ」後半の書はこちら。
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前日には前半も書いています。
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001これらは佐藤隆房邸、宮沢賢治詩碑近くの桜地人館さんで展示されています。

「彧彧」は右の画像。佐藤隆房の回想を引きましょう。

 私は杉の木の並び立つ姿を表現する最もよい字がないかと漢和大辞林を始めから終わりまでくって遂に「彧」の字を探し出しました。先生が山から来たとき私が
「いつかの『ちくちく』(矗々)の字は落第したようですから、漢和大辞林からこういう文字を探しました。」
と紙片に書いたのを出し
「『或』(あるいは)のひっさげ一本のところが三本になってい、これは『エキ』又は『イク』と読んで、『彡』で引くのです。玉蜀黍(とうもろこし)などが繁茂した姿で、『馥郁』の『郁』という字の古文字だそうです。これでどうですか。」
(中略)
「ホウ成程。面白いですね。イクイク、エキエキですか。ここではエキエキですね。その中(うち)書きましょう。」
 先生は墨痕あざやかにその額板にたてに書きました。私はそれをいただいて、潺湲楼の脇床の正面のなげしの上にかけました。先生は坐ってそれを眺めて
「これはよくできた。三本のひっかけは本当に玉蜀黍が風になびいているようだ。」

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こちらは佐藤邸の離れ(潺湲楼)にしばらく掲げられていましたが、現在は花巻高村光太郎記念館さんの所蔵となっています。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
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 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
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 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
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メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
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かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
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003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

昨日は、県立図書館さんに行っておりました。自宅兼事務所や近隣の図書館さんですと、ネット上のデータベースでの調査に限界があるためです。

『読売新聞』さんの地方版記事で、光太郎智恵子光雲がらみがいろいろありましたので、しばらくはそちらをご紹介します。

まず、4月2日、岩手版の記事。「うめえなっす」という連載の一環のようです。

うめえなっす 賢治の注文料理堪能 天ぷらそばとサイダー やぶ屋(花巻市)

002 天ぷらそばと三ツ矢サイダー。一見、珍しい組み合わせが「やぶ屋」の看板メニューだ。花巻市出身の詩人・宮沢賢治(1896~1933年)が好み、「賢治さんのセットをください」というファンが相次いだことから、いつからか「賢治セット」と呼ばれるようになった。 まずはサイダーで喉を潤してから、麺をすする。そばは、県産のそば粉のみを使った二八のひきぐるみで、香り豊かだ。かつお節で取っただしに、1923年(大正12年)に創業した時から代々引き継いでいる「かえし」を加えた、濃厚なつゆが麺によく絡む。
 エビと季節の野菜の天ぷらは、創業時からの衣の大きい「草履揚(ぞうりあげ)」を貫き、見た目も派手だ。つゆと油を堪能したところで、再びサイダーをグイッ。冷たい気泡が食道を通り、すっきりすると、更に箸が進んだ。
 やぶ屋は、創業者が仙台市の同名の店で修業したことにちなむ。賢治は、英語で「BUSH(ブッシュ)」と呼び、同僚や教え子と度々訪れた。賢治が「一杯やろう」と言えば、お酒ではなく、サイダーだった。彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。
 営業部長の笹川博之さんは「全国からたくさんのファンが来る。賢治人気に驚くばかり」と話す。笹川さんによると、20年以上前、花巻でサイダーの売り上げが伸びていたため、生産するアサヒ飲料(東京)が店を訪ねてきた。理由を知った同社は、広告で賢治のエピソードを用いるようになったという。
 木造2階建てだった店舗は、現在4階建てになり、宴会場も含めて600席ある。新型コロナウイルスで席数を減らしたが、メニューは普段通り。苦難の中でも、伝統と味を守り続ける構えだ。
思い巡らせそばを食す
 宮沢賢治には筋金入りのファンが多い。笹川さんは客から「賢治さんはそばから食べたの? それともサイダーから?」と聞かれて戸惑った。記録は残っていないので、実際にどう食べたかはわからない。
 訪れるファンの世代や性別は様々だが、皆、賢治に思いを巡らせながら、そばを食べるのだろう。自分も想像しながら食べてみた。「うめえなっす!」と言う賢治の姿が、浮かんだ。
メモ
 「天ぷらそばとサイダー」は1000円。「わんこそば」は中学生以上3000円、小学生2500円、小学生未満2000円(いずれも税別)。仕出しや出前も可能。月曜定休。
 花巻総本店は、JR花巻駅から徒歩10分、JR新花巻駅から車で15分。JR盛岡駅の駅ビル「フェザン」にも店舗がある。問い合わせは、花巻総本店(0198・24・1011)へ。

花巻市のやぶ屋さん。賢治が天ぷらそばとサイダーをよく注文していたというエピソードは、比較的有名ですね。当方も何度か訪れ、このセットを頂きました。

魚乃目三太さん著のコミック『宮沢賢治の食卓』でも、当然のように紹介されています。
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賢治がまだ健康だった花巻農学校の教師時代、そしてやぶ屋さんが創業した大正12年(1923)頃のエピソードです。

ちなみに光太郎も登場する同じ魚乃目三太さん著の『続 宮沢賢治の食卓』でも、やぶ屋さん。
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002「雨ニモマケズ」を手帳に記す少し前、昭和6年(1931)という設定です。死も覚悟しつつ東京に向かう直前に、ふと、やぶ屋さんに立ち寄ったと描かれています。当方、寡聞にしてこれが史実かどうか存じませんが。

読売さんの記事に、「彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。」とありますが、「証言」というより、戦後の光太郎自身の日記に、何度もやぶ屋さんで食事をしたことが記録されています。右は、昭和12年(1937)頃のやぶ屋さん。賢治が通っていた頃と、光太郎が足を運ぶようになった時期の、ちょうど中間くらいですね。「祝南京陥落」という幟(のぼり)が生々しい感じです。

それからこれも読売さんの記事にある、アサヒ飲料さんの「広告で賢治のエピソード」は、こちら。
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同社のサイトにも、賢治とサイダーのエピソード。
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光太郎が昭和20年(1945)に花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念して、毎年5月15日に行われてきた、高村祭。昨年に続き、今年もコロナ禍で中止となりましたが、当方、今月末か来月初めにあちらに行くことになりそうなので、機会がありましたらまた賢治セットを頂いてこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

竹内てるよさんとは初対面なり。大変肥えて丈夫さうに見える。しかしどこか病的なり。元気よき話いろいろ。此所の空気の甘さ、気圧のよさ、空気の乾き等述べらる。持参の五目寿司をいただき午食。

昭和22年(1947)9月6日の日記より 光太郎65歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。突然、光太郎の山小屋を訪れました。

戦前には重度の脊椎カリエスにかかり、当会の祖・草野心平らが「竹内てるよを死なせない会」を作り、光太郎も加盟し援助しました。また、確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。そんなわけで、てっきり面識があったはずと思っていましたが、意外や意外、戦後になって初対面だったとのこと。

この際のてるよの回想も残っています。それによれば、この時、山小屋に蝉の彫刻があったとのこと。他にも目撃証言がありますし、きちんとした作品としてではなかったものの、手すさびや腕を鈍らせないための修練のような意味合いで、蝉の制作をしていたことは間違いないようです。


花巻から届きました。
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「光太郎の食卓カレンダー」。昨年も発行されましたが、新バージョンで、今月から来年4月までの1年間分です。

各月見開き2ページ、『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。

昨年との大きな違いは、まず、大きさ。昨年はA5判で、開いたらA4判でしたが、今年は倍のA4判、開くとA3判となりました。001

メニュー的には以下の通り。

5月 ウコギのホロホロかけご飯
6月 カフェドシトロンとサヤエンドウのサラダ
7月 アカシアの天ぷら
8月 アンチョビサンド
9月 支那料理風甘酢あんかけ
10月 カレイの青葉ソースとキガラチャ飯
11月 林檎とサツマイモのケーキ
12月 ラムチョップ
1月 豚肉とキャベツのケチャップ鍋
2月 イングリッシュブレックファスト
3月 そば粉ガレット
4月 チーズとフキノトウ入り茶碗蒸し

料理は、基本、花巻疎開後の光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたものです。レシピは載っていませんが、元にした文章が各月とも掲載されています。

販売は、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで店頭販売、それから発行元の「やつかの森LLC」さん(花卷高村光太郎記念会の元職員の方々で作った会社)のサイトから申し込めます。頒価税込800円、送料370円だそうです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起こされる。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。

昭和22年(1947)8月23日の日記より 光太郎65歳

故・田口弘氏は、のちに埼玉県東松山市の教育長を務められました。国内最大級の国際的ウオーキング大会「日本スリーデーマーチ」の東松山市への誘致・運営、東武東上線高坂駅前に延びる「彫刻プロムナード」(やはり光太郎と交流の深かった高田博厚の作品群)整備など、大きな足跡を残されました。

昭和19年(1944)、氏が南方に出征する際、駒込林町のアトリエで光太郎に著書や色紙を贈られました。しかし、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、氏は命からがらの目に遭います。貰った著書や色紙は海の藻屑となりました。

収容所生活を経ての復員後のこの日、光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村を訪れ、改めて揮毫をして貰いました。その後も交流は続き、氏が貰った品々、現在は東松山市立図書館さんで、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

まずは4月14日(水)付けの地方紙『岩手日日』さんの記事。

賢治の世界観触れる 新入社員が施設見学 観光協会セミナー

  花巻観光協会主催の新入社員セミナーが13日、花巻市内で開かれ、会員企業に入社した新入社員らが市内の観光施設を見学。宮沢賢治の世界観や食文化など多彩な花巻の魅力に触れた。
 市内2事業所から22人が参加。宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などを訪ね、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長から、各施設の概要や見どころを聴き、昼食にはわんこそばも体験した。
  このうち宮沢賢治童話村では、賢治童話の世界が体感できる「賢治の学校」や、 賢治童話に登場する植物、動物、星、鳥、石について学ぶことができる7棟のログハウス「賢治の教室」などを見学。花巻温泉に今春入社した滝沢市の髙橋桃子さん(18)は「自分も楽しめたので、お客さまに聞かれたときには、この楽しさを伝えられるようにしたい」と話していた。
 セミナーは、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などについて対応できる人材育成が目的。講師を務めた観光ガイドの髙橋会長は「花巻を訪れた観光客がまた来たい、行って良かったと思えるガイドを心掛けている。セミナーの参加者一人ひとりがその担い手になってくれればうれしい」と話していた。 19日と26日にも同様の日程でセミナーを開く予定。
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途中入社の方とかもいらっしゃるかも知れません。だから「新社会人」ではなく「新入社員」の語になっているような気がします。ただ、画像で見る限りは皆さんお若い方ばかりですね。

皆さんには、賢治や光太郎の世界について広める役割を期待したいところです。

花巻ではこんな取り組みも。花巻市さんのホームページから。

【令和3年4月1日から】教育旅行で花巻市内に宿泊していただくと、花巻市所管の対象施設を無料でご利用いただけます

花巻市外の学校が、学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施し、同教育旅行期間中に花巻市が所管する対象施設を利用した際、学校の児童、生徒、学生及びその引率者を対象とし、市施設入館料等を全額免除いたします。
 
実施期間 令和3年4月1日(木曜)から11月30日(火曜)まで
対象施設一覧(全10施設)
 宮沢賢治記念館 宮沢賢治童話村 花巻新渡戸記念館 萬鉄五郎記念美術館
 高村光太郎記念館 花巻市博物館 石鳥谷歴史民俗資料館 花巻市総合文化財センター
 大迫郷土文化保存伝習館 石鳥谷農業伝承館
ご利用の際の条件等
【利用対象者】学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施する花巻市外にある学校の児童、生徒、学生及びその引率者。(学校:小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校及び専修学校)
【宿泊施設】市内の旅館業法第3条第1項に規定する許可を受けた者又は住宅宿泊事業法第2条第4項に規定する住宅宿泊事業者が営む施設に宿泊すること。
【その他】施設予約及び旅行日程表の提出が事前に行われていること。

▽手続きの流れ、連絡先等につきましては、下記チラシをご覧ください。
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ある意味、英断ですね。ダンピングのような気がしないでもありませんが、リピーターとして再度訪れてくれたり、口コミで各施設の評判を広めてくれたりすれば、採算は取れるのかな、とも思われます。

全国の学校関係者の皆さん、旅行業に携わる方々、ご一考を。

ところで、最近の高村光太郎記念館さん周辺の風景、4月13日(火)に送られてきた画像でご紹介します。
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例年5月15日(光太郎が花巻に向けて疎開に出発した日を記念して)に開催されてきた、高村祭は、昨年に引き続き、やはりコロナ禍のため中止となりましたが、感染防止に努めつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑に蟲多く、大根苗、ホウレン草その他半分以上くはれて消える。


昭和22年(1947)6月21日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋前に開墾した畑の様子です。本格的に農業を初めて2回目の夏、それでもまだこんな状況だったのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第25号が届きました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は「じゃがいものニョッキと蜂蜜レモン紅茶」だそうで。
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「蜂蜜レモン紅茶」は、まさにそのまま、花巻郊外旧太田村の山小屋で賞味していました。あのボロボロの小屋と、ハイカラな飲み物のギャップがすごいと思います。

巻頭の特集は、「桜の風景」。花巻の桜の名所がふんだんに紹介されています。岩手では、これから盛(さか)りでしょうか。
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他に、宮沢賢治の足跡を追う「賢治の散歩道」という連載では、花巻中心部の仲町にあった「精養軒」が紹介されています。
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こちらは北上市の中村邸とともに、賢治の「注文の多い料理店」のモデルの一つと言われているそうです。昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する光太郎の壮行会が、ここで開かれています。

マチココさん、オンラインで定期購読の手続きが取れます。ぜひどうぞ。

それから、毎月15日は、「光太郎レシピ」と関連する「光太郎ランチ」の日。昨年開業した道の駅はなまき西南さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されています。

今月の光太郎ランチの画像等が、花巻から送られてきました。
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こちらでもジャガイモ。やはり新じゃがの旬だということでしょうか。

白玉団子までついていて、少しカロリー高めかな、という気がしないでもありませんが、これは満足の弁当ですね。

特に急な話題が入らなければ、明日も花巻ネタで。

【折々のことば・光太郎】

つゆをミヅにてつくる。ミヅは朝仁太郎翁が持つてきてくれたり。


昭和22年(1947)6月20日の日記より 光太郎65歳

「ミヅ」は「水」ではなく、山菜の名前です。以前のマチココさん「光太郎レシピ」で「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」として取り上げられたりもしました。
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4月2日(金)、第65回連翹忌の日の『岩手日報』さん。連翹忌に触れてくださいました。

風土計 2021.4.2

〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎「道程」は、旅立ちの季節が似合う。9行の口語自由詩が、初めの一歩を後押しする▼新たな学校、新たな職場。期待と不安が入り交じる中、「初めまして」もマスク越し。人の顔を覚えづらいのは厄介だ。会釈され知り合いと気づくこともあろう。まずは挨拶から。少しずつ心を通わせ、もどかしさを補いたい▼疎開した花巻で7年間を過ごした光太郎。「岩手の人」では〈沈思牛の如し。/地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す〉と県民性をたたえた。丑(うし)年の今年、きょうが命日だ▼生前好んだ花にちなむ「連翹(れんぎょう)忌」法要は、新型コロナウイルスの影響で昨年に続き中止となった。高村記念会山口支部(照井康徳支部長)は、ささやかな集いで遺徳をしのぶという▼71歳の照井支部長は今も、幼少時に見かけた大柄な姿を忘れない。「先生のおかげで地域が活性化した」と感謝。「正直親切」「心はいつでも新しく、毎日何かを発見する」の金言を胸に刻む▼コロナ禍、東京五輪・パラリンピックの行方等、震災10年を経てなお、先の見通せない日々。こんな時こそ、自ら道を切り開く光太郎の精神に学ぶところは大きい。「希望」はレンギョウの花言葉。困難が待ち受けていても、決して失わずにいたい。

紹介されている「連翹忌法要」は、都内での当会が主催する集いではなく、やはり4月2日の光太郎忌日に、花巻市の松庵寺さんで開催してくださっている、花巻としての法要です。こちらも昨年に引き続き、中止のやむなきに至ったそうで……。

連翹の花言葉が「希望」とは存じませんでした。もっとも、「花言葉」というのは随分いろいろ種類があるようですが……。なぜなのでしょうね。

続いて、『朝日新聞』さん。「マダニャイ とことこ散歩旅」という夕刊の連載、3月23日(火)の掲載分です。

マダニャイ とことこ散歩旅:568 清洲橋通り:18 赤玉石

■「名石の庭」で輝く緋色
 清澄庭園(東京都江東区清澄3丁目)には、三菱財閥が集めた全国の有名な石があり、「名石の庭」「石の博物館」とも評される。正門左手奥の大正記念館近くに緋色(ひいろ)の石がある。雨にぬれるとルビー色に輝く石がずっと気になっていた。
  佐渡赤玉石で、高さ60センチ、横120センチ、幅80センチ。いつから庭園に置かれているかはっきりしていない。
 赤玉石は掘り尽くされてしまい、産地だった新潟県佐渡市赤玉地区で1982年に採掘を終えた。かつて赤玉石を一手に扱っていた立脇隆彦さん(68)は「もう二度と手に入らない名石です」と語る。
 歌人で彫刻家の高村光太郎は、大戦末期の空襲で東京・駒込のアトリエとともに彫刻など数多くの作品を失った。「石くれの歌」と題した、こんな詩がある。
 《石くれは動かない/不思議なので/しやがんで/いつまでも見てゐた/あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある/これひとつだけが/この林泉の俗をうけない》
 研究者に尋ねたが、「あかい佐渡石」と庭園の赤玉石の関連は分からなかった。ただ、石を見つめていると、不思議と、すべてを失った光太郎の気持ちが分かる気がする。
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引用されている「石くれの歌」は、光太郎生前には活字になった記録がなく、残された草稿も「原稿」とも言えないメモ書きのようなものです。
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制作年も不明。昭和20年(1945)の太平洋戦争末期に、筑摩書房から『石くれの歌』という詩集の刊行を希望していたことがわかっており、その頃の作かもしれません。また、戦後の昭和22年(1947)に書かれた他の詩の原稿用紙の裏面にもこれが書かれており、この時期の作の可能性もあります。

従って、光太郎が見た「あかい佐渡石」、昭和20年(1945)頃の作であれば、東京で見たもの。戦後の作ならば、花巻で見た可能性もあります。光太郎の日記や書簡、エッセイ等、あるいは周辺人物の回想等に、もしかするとモチーフになった石のことが書かれているかもしれませんが、とりあえず、ぱっと思いつくものはありません。当会顧問であらせられた北川太一先生の書かれた、『高村光太郎全集』や『高村光太郎全詩稿』の解題にも、そうした記述は見当たりません。

記事にある「研究者に尋ねたが」の「研究者」は当方でして(笑)、この記事を書いた記者氏から電話での取材で、「清澄庭園に立派な佐渡の赤玉石があるんだが、光太郎の「石くれの歌」に出てくる石はこれなのではないか?」という趣旨でした。そこで、上記のように、この詩の制作状況が不詳であることをお伝えし、「江東区なら、光太郎のホームグラウンドの下町なので、可能性はありますが、清澄庭園のものがこの詩に謳われているとは断言できませんね」とお答えしました。

それにしても、赤玉の佐渡石というのが、そんなに稀少価値のあるものとは存じませんでした。調べてみましたところ、佐渡のものはもう採掘禁止、最近は津軽産のものが出回っているようです。昔採掘されたものは、ホテルニューオータニさんの庭園にもあるそうで、こちらは日本一の大きさと言われているとか。

しかし、「石くれの歌」の詩句「あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある」からすると、それほどの巨石でもなさそうな感じはしますね。

文京区千駄木やら、花巻市中心街やらの光太郎ゆかりの場所で、昔からここに佐渡赤玉石がある、という情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃分教場行、芝林の畑山氏、田頭さん等校庭に来る。花見宴をはじめられ、招かれる。畑山氏湯口村の上田氏といふ人、その弟さん工藤さんといふ人をつれてくる。

昭和22年(1947)5月9日の日記より 光太郎65歳

岩手の山村、5月はじめに花見なのですね。「湯口村の上田氏」は、おそらく現花巻市長の上田東一氏の父君か、ご縁者だと思います。

この後、他の村人や、たまたま光太郎を訪ねて北海道からやって来た詩人の更科源蔵も加わり、宴も酣(たけなわ)となりました。酔って人に絡み出す人が出てきた頃、光太郎はこっそり退散しています(笑)。

岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。

言葉の深さ知って 佐藤智一校長 祖父から受け継いだ書を桜城小に寄贈へ 高村光太郎の「詩魂萬機」

 盛岡市立桜城小(児童356人)の佐藤智一校長(60)は、祖父で同校第6代校長の故・佐藤憲政さんから受け継いだ高村光太郎(1883~1956)の書「詩魂萬機」を同校に寄贈する。1950(昭和25)年冬、当時大慈寺小校長だった憲政さんが、花巻市太田(当時・稗貫郡太田村山口)の山荘に暮らしていた光太郎を訪ね、揮毫(きごう)してもらった。盛岡市内の自宅に70年ほど保管していたが、佐藤校長が3月の定年退職を前に寄贈することに。「子どもたちには、高村光太郎の言葉を通じてたくさんの詩に親しみ、言葉の深さを味わってほしい」と願う。
 憲政さんは1895(明治28)年生まれ。岩手師範学校本科(現岩手大教育学部)卒。戦中から戦後の42~46(昭和17~21)年度に桜城小校長を務めた。同小は憲政さん、佐藤校長の母校で、佐藤校長の祖母のフヨさんも教員として勤めた。同校が国語教育に重点をおいていることから、「お世話になった学校の教育に役立つことができれば、祖父も喜んでくれると思う」と感謝の気持ちを託した。
 「詩魂萬機」の書は、細身の筆を執って彫り付けるように書かれている。
 「詩魂」は、「詩をつくる心、詩で表現しようとする心」の意があるが、書に添えられた研究者の北川太一さん(故人)の記によると、「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。「これを揮毫せる他例を知らない」とも記されている。
 光太郎の「彫刻十箇條」(1926・大正15年)の冒頭には、「彫刻の本性は立體感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」との一文がある。
 佐藤校長は「この書を通じて〝詩魂〟という言葉を知ったが、物事の本質を極めようとする心や、そこから得られる感動という解釈もできると感じた。子どもたちには物事を深く掘り下げ、『本物とは何か』を考える心を持ってほしい」と語った。
 佐藤校長の自宅には、山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡も残っており、再訪を願うような文面に二人の温かな出会いがにじむ。
 書は佐藤校長が全校児童に紹介した。
 3月11日まで校長室前に展示し、来校した保護者らにも公開する予定。
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驚きました。

まず「詩魂万機」の書。『高村光太郎全集』第二十巻、「短句」の項に掲載がありますが、故・北川太一先生が書かれた解題の部分に詳しい説明がなく、詳細は不明でした。まぁ、おそらくこういう形で誰かに贈られた書から採ったのだろうとは予想していましたが、盛岡の学校の先生に贈ったものだったか、という感じでした。

ちなみに毎日このブログの最後に書いている【折々のことば・光太郎】で、出典不明のまま、昨年5月16日に紹介していました。

記事にある北川先生が書かれた鑑定書的な「記」。「「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。これを揮毫せる他例を知らない」まったくその通りです。

それにしても、ある意味、物凄い書です。高級な筆で、墨をたっぷり含ませ、流れるように書かれた優雅な書、などといった評は一切当てはまりません。この大きさの紙に書くには細すぎる筆で、まるでギチッ、ギチッと音を立てながら、木を彫るかのような書き方ですね。それでいて、恐ろしい気魄が感じられます。画像で見ただけで涙が出そうになりました……。

いつ書かれたものか、詳細は不明です。ただ、消去法的に考えると、やはり日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)かな、という気がします。それ以外の年でしたら、日記に佐藤憲政氏のために揮毫、といった記述が有ってしかるべきですので。

『高村光太郎全集』に、佐藤憲政氏の名は5回出て来ています。

まず書簡。憲政氏宛のものが一通。昭和25年(1950)11月20日付けでした。

 おてがみ拝見、
 先日は御来訪、おかげで思はぬ浅酌閑談の快を味ひました、山にては御らんの通りの生活ゆゑまるでお構ひも出来ませんが時にお越し下さらばいつでも炉辺に招じまゐらせます、尤もこれからは少々雪がつもり過ぎますが、


おそらくこれが記事にある「山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡」「再訪を願うような文面」なのでしょう。

前述の通り、昭和25年(1950)の日記は失われていますが、その分、郵便物の授受を記録した「通信事項」は掲載されており、11月19日に「佐藤憲政氏よりテカミ」、11月21日に「佐藤憲政氏に返ハカキ(大慈寺小学校長)」とあります。

日記では、昭和27年(1952)9月5日。

十時頃盛岡大慈寺小学校長佐藤憲政氏来訪、ひる頃まで談話、別に用事なし、

別に用事なし」にはクスリとさせられました。

さらに意外なことに、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した後の昭和29年(1954)1月15日。

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、

光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに来たというのは、出張か何かのついでだったのでしょうか。

これらを総合して勘案すると、「詩魂万機」の書、昭和25年(1950)の書簡で「先日は御来訪」とある時に書いて渡したと考えるのが、妥当なような気がします。

もっとも、日記に佐藤氏の名を添えずに「詩魂万機」を書いたという記述があるかも知れません。幸い、【折々のことば・光太郎】のために、また日記を最初から読み返している最中ですので、継続して調査していきましょう。

それにしても、光太郎の肉筆の書がある小学校、何とも贅沢な話です。それが死蔵とならないよう、先生方には活用の方向を考えていっていただきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

はじめて美味の南瓜にあたる。鶴首甚だ甘味に富み、質もうまし。種子を取る。来年大につくらん。一顆、鍋に一ぱい。此間中試食用の南瓜みな不味なりしが、これにて安心。

昭和21年(1946)10月15日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で栽培していたカボチャ。それまでに収穫していた別種のものはあまり美味しくなかったと書かれていましたが、鶴首のカボチャを初めて収穫し、食べたところ、大当たり(笑)。その喜びが文面から伝わってきます。

001古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。

昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。

先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。

佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。

手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
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祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。

そして、光太郎の写真。
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キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。

また、別の日の写真。
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こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。

こんな写真も。
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「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。

グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。

こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。

 或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。

寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。

それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。

その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。

岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。

古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。

昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳

山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。

過日ちらっとご紹介した、花巻観光協会さん制作のプロモーション動画「いわて花巻12湯(はなまきじゅうにとう)」について、地元紙『岩手日日』さんが記事にしました。

「ぬぐだまるじゃ…」“鹿”が温泉巡り 花巻12湯プロモ動画公開

001 花巻観光協会は、湯のまち花巻をPRするため、花巻市内の温泉を紹介する「花巻12湯(とう)」プロモーション動画を作成し、公開した。郷土芸能の鹿(しし)踊りの鹿が湯巡りする内容で、テロップで表示する素朴な花巻弁とともに温泉地の魅力を伝えている。
 花巻12湯は、花巻温泉郷にある花巻温泉、台温泉、金矢温泉、松倉温泉、志戸平温泉、渡り温泉、大沢温泉、山の神温泉、鉛温泉、新鉛温泉、花巻北温泉、東和温泉の12温泉地の総称で、2年ほど前から観光PRに使用している。
 動画の作成は、ひなびた温泉街や先人も好んだ趣ある湯治宿、リゾート気分を味わえる近代的な温泉ホテルなど、東北有数の温泉地としてさまざまな特色を持つ花巻の温泉に特化した形でPRする狙い。
 動画は、かつて温泉地と花巻駅を結んでいた花巻電鉄(1971年廃線)に鹿踊りの鹿が乗り込み、いくつかの温泉地を巡って終点の花巻駅に降り立つまでを2分44秒にまとめた。
 二つの源泉を持つ大型リゾートホテルの志戸平温泉、歴史ある温泉街の台温泉、六つの湯巡りが楽しめて宮沢賢治や高村光太郎も訪れたといわれる大沢温泉、深さ1・25メートルの立ち湯が有名な鉛温泉などを紹介。
 鹿踊りの鹿は、太鼓を打ち鳴らしながら温泉地を散策し、花巻温泉そばの釜淵の滝や立ち湯「白猿の湯」の周りでは踊りも披露。最後は湯につかって手足を伸ばし「ぬぐだまるじゃ…」「いうごどねじゃ」と温泉を満喫する。
 1月下旬に動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開後、SNS(インターネット交流サイト)上では「鹿踊りの鹿がかわいい」「電車に乗ったり、温泉に入るのが面白い」「癒やされる」などと好評。公開から約2週間で閲覧回数が3万回を超える人気となっている。
 新型コロナウイルスの感染拡大が観光面にも大きな影響を及ぼす中、花巻観光協会は「予想以上の反響があり、うれしい。動画を見て行きたいと思ったなら動ける時にぜひ訪れてほしい」と話している。

動画はこちら。



「12湯」は以下の通りです。
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花巻の伝統芸能・鹿(しし)踊りの鹿が、幻の花巻電鉄に乗って、湯巡りをします。
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動画で詳しく紹介されるのは5湯。すべて光太郎の足跡が残っています。

志戸平温泉さん、花巻温泉さんに続き、台温泉さん。
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光太郎が、当会の祖・草野心平と共に泊まった松田屋旅館さんが写っています。

大沢温泉さん。光太郎が最も多く泊まった宿です。
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鉛温泉さん。深さ約1.25㍍、立って入る名物「白猿の湯」は、やはり光太郎が日記回想文に書き残しています。
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コロナ禍終息後、またのんびり行ってみたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる前花巻町より来りしとて未知の青年来訪。詩をつくり居り、そんな事にて漫然と来訪せらるらし。詩は教へ得るものにあらずといふ事を述べる。


昭和21年(1946)9月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活。この手の迷惑を顧みない招かれざる来訪者が時折あったのも、悩みの種でした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号、昨日は連載「光太郎レシピ」について書きましたが、今号は特集「まちのモニュメント」が組まれていますので、今日はそちらについて。
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市街を中心に、花巻のあちこちで見られる、特徴的だったり、ちょっとおもしろかったりといったモニュメントの数々が紹介されています。

右上の画像は花巻駅前に聳えるオブジェ「風の鳴る林」。斉藤ヒサ氏という方の作品だそうですが、宮沢賢治の世界観からのインスパイアだそうです。

やはり花巻といえば賢治、ということで、多くのモニュメントが賢治がらみですね。
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見開きのSLは「銀河鉄道の夜」をイメージした、「未来都市銀河地球鉄道」。コンクリートの壁に特殊塗料で描かれており、昼間は輪郭しか見えません。

そして、こちら。題して「やすらぎの像」。
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平成7年(1995)、やはり花巻駅前に設置されたものです。この年は太平洋戦争終戦から50周年。終戦の年の8月10日にあった花巻空襲で亡くなった方々への、慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。

像の原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

池田氏、絵画が制作の中心でした。平成30年(2018)には花巻市内の萬鉄五郎記念美術館さんで「詩情をつむぐ写実 池田次男展」が開催されました。市内5つの文化施設の共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環でした。

花巻空襲を題材とした、当方手持ちの『花巻がもえた日』という絵本があります。

文は岩手の県立高校に勤務されていた加藤昭雄氏、絵は花巻で絵手紙講師等をなさっていた遠藤市子氏。平成24年(2012)の刊行です。
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この中で、最終ページに「やすらぎの像」。
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戦争が終わって六十数年がたちました。
今日は花村ユキさんが「やすらぎの像」の前で小学生に空襲の話をする日です。
「このあたりでたくさんの人が死にました。私たちは何人ものけが人を手当てし、病院まで運んだんです。
十六歳の私に、どうしてそんな勇気や力が出せたのか、今でも不思議でなりません。
何十年も看護師をしてきましたが、あの日のような恐ろしい体験はありませんでした。
この像は、花巻の人たちがお金を出し合って、二度と戦争を起こさないと誓うために建てたものです。
でも、世界のどこかで、今も戦争は続いています。
皆さんは、今日のお話を忘れないで、どうか戦争のない平和な世の中にして下さいね」
ユキさんの目は涙でうるんでいました。


「花村ユキさん」は架空の人物ですが、終戦の年に看護学校を卒業して花巻病院に就職し、空襲の際に身を挺して負傷者の救護に当たった看護師という設定です。実際、モデルになった方がいたのでしょう。

終戦後の9月5日、花巻病院で行われた空襲の際に奮闘した職員の表彰式で、光太郎は彼ら彼女らを讃える詩「非常の時」を朗読し、敬意を表しました。絵本ではそのエピソードも扱われていますし、巻末に「非常の時」全文を引用して下さっています。
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昨年、この詩がコロナ禍で逼迫する医療体制を支える医療従事者の皆さんへのエールとしても読めるということで、岩手ではちょっとした話題になりました。

感染者数が減少傾向とはいえ、まだまだ予断を許さぬ状況が続いています。そこに立ち向かわれている医療従事者の皆さんには、本当に頭の下がる思いです……。

それにしても、コロナ発生の状況はある意味、防ぎようがなかったかも知れませんが、戦争は人類の叡智をもってすれば、防げるはずです。そうした思いを多くの人が抱き続けるよすがとして、「やすらぎの像」、そしてそこに込められた思い、これからも語り継がれていって欲しいものです。

さて、『マチココ』さん。昨日も書きましたが、
オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

尚花巻広徳寺にゐる多田等観師が余にあひたしといひ居る由にて、圓次郎翁の家にてあふ事。翁の都合次第にていつでもゆく旨返答す。お盆過ぎといふ話。河口慧海さんの友人。チベットに居た僧侶也。

昭和21年(1946)8月2日の日記より 光太郎64歳

「広徳寺」は「光徳寺」、「圓次郎」は「圓治郎」(山小屋近くの住人)の誤りです。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、明治45年(1912)から大正12年(1923)までチベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現・市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、光太郎と交流を持つようになりました。

河口慧海も僧侶にしてチベット仏教学者。
光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流がありました。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想文などに書き残された食事の記録から、光太郎が作ったメニューを再現したり、現代風にアレンジしたりというコンセプトです。今号は「酢豚とお粥」。
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酢豚の方は、昭和20年(1945)の日記に「夕食古鹵肉をつくる」とあるのが元ネタです。

昨年の暮れ頃でしたか、こちらの連載に関わっていらっしゃる花巻高村光太郎記念会さんの女性スタッフの方からメールが来まして「古鹵肉って何ですか?」。当方、光太郎はともかく、料理には詳しくありませんが(笑)。

調べてみたところ、国会図書館さんのデジタルデータで答えを見つけました。
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大正15年(1926)刊行の『手軽に出来る珍味支那料理法』。

そこで、さも以前から知ってましたよ、という顔をして「酢豚のことです」と返信(顔は関係ありませんが(笑))。というわけで、今回の「光太郎レシピ」、当方も軽~く協力させていただきました(笑)。

それにしても光太郎が「古鹵肉」などという語を知っていたというのも不思議です。光太郎の知識や興味は実に多岐にわたっており、まさに「博覧強記」という語がよくあてはまります。

『マチココ』さん、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

明日も『マチココ』24号ネタで(このところまたブログのネタが不足気味なので、卑怯ですが2回に分けます(笑))。

【折々のことば・光太郎】

カツコー、時鳥、此頃更に声をきかず、鴬のみ相変らずさかん也。候鳥已に去りしか。キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイといふやうに鳴く鳥あり。カナカナ終日さかんになく。油蝉もなく。


昭和21年(1946)7月24日の日記より 光太郎64歳

「時鳥」はホトトギス、「候鳥」は渡り鳥です。「キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイ」野鳥好きの方はこれで何の鳥なのかわかるのでしょうかね。

テレビ放映情報です

土曜スペシャル 冬本番! 雪見の名湯&絶景露天風呂SP~いいお湯・夢気分~

地上波テレビ東京 2021年2月6日(土)  18時30分~19時54分

「“冬に行きたい”名湯ベスト10」をご紹介!全国の雪見風呂&絶景が広がる温泉が続々と登場する! 1位に輝いた温泉には、大久保佳代子とたんぽぽ川村の仲良しコンビが来訪。 一度は入ってみたい…誰もが感嘆する絶景風呂を堪能する。落ち着いたら、絶対に行きたい温泉であること間違いなし!
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▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天
▽雲の上から望む!標高1300mの天空風呂
▽空と海とひとつに!潮風香る絶景の湯
▽大正ロマン漂う湯の郷!夜の雪化粧風呂
▽開湯から1900年!乳白色の雪見温泉
▽川岸に湧く…緑と黒 2色のにごり湯
▽宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天
▽創業140年!国の有形文化財の湯
▽江戸時代から続く湯治場!湯も景色も白い幻想的な世界

出演者 大久保佳代子(オアシズ)   川村エミコ(たんぽぽ)

このうち、「宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天」は、おそらく花巻南温泉峡・大沢温泉さんでしょう。賢治は、父・政次郎が関わっていた仏教講習会の場だった同温泉をたびたび訪れていました。子どもの頃の賢治が写った写真も残っています。
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光太郎も大沢温泉の混浴露天風呂を利用していました。

『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から。

009 大沢温泉は川向きの室で、夜になると豊沢川の流れの音がするし、カジカの鳴声もするし、閑静で、考えごとの仕事などにとてもよいです。湯は体のためにも大変よいし、気分もさわやかになり、病後やけがなどした時は温泉はいいです。豊沢川添いの温泉は、遊蕩的な気分が割になくって、閑静で、落ついてけばけばしさのないことが何よりです。大沢で変なことがありましたよ。泊まったある夜、入浴しようと風呂に行ったところ、中年の婦人がたった一人入っておるんです。みんなが混浴する風呂だから、入っても差し支えないとは思ったが、婦人一人のところに入っていくのもどうかと考えて、その婦人の上がるのを待ちました。ところがまたそこに別の婦人が来て入れ替わりにその人が入ってしまった。おやおやと思ってみたものの、入っていく機会をなくしてしまった。待っているうちにまたも婦人がやってきた。そうこうして一時間半ばかり待ってやっと入れたんですよ。女風呂の風呂番みたいなことを長々やりました。滑稽でしたね。

昭和26年(1951)、村人に語った内容です。笑えますね。

ちなみに少し前、動画投稿サイトYouTubeに、花巻観光協会さん作成の「【岩手・花巻】花巻12湯(はなまきじゅうにとう)プロモーション動画【花巻温泉郷】」がアップされました。


大沢温泉さんの部分(1:11~)では、光太郎の名も出して下さっています。
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さて、「土曜スペシャル」。他にも光太郎が浸かった温泉が複数取り上げられます。

▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天」は、おそらく、群馬県みなかみ町の宝川温泉汪泉閣さん。映画「テルマエ・ロマエⅡ」(平成26年=2014 阿部寛さん主演)のロケにも使われ、一躍有名になりました。光太郎は昭和4年(1929)と、同17年(1942)の2回、宿泊しています。どうも2度目に泊まった際の建物、部屋がそのまま残っているようで、いずれ訪れようと思っております。
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上の画像は当方手持ちの古絵葉書、下は不鮮明ながら、昭和17年(1942)、宿の主人(鈴木重郎)と一緒に撮った写真です。鈴木の回想文(『藤原風土記』(安達成之、川崎隆章編 宝川温泉汪泉閣発行)所収「宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる」昭和38年=1963)から採りました。
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また、「▽創業140年!国の有形文化財の湯」は、同じく群馬県みなかみ町の法師温泉長寿館さんと思われます。大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んでいます。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築が有名です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられてここで撮影、話題となりました。
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視聴可能な地域にお住まいの方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜半セキと一緒に廻虫一匹出る。いかの脚の如き弾力ある強靱さなり。三寸五分以上あり。
昭和21年(1946)5月3日の日記より 光太郎64歳

「廻虫」は「カイチュウ」。現代ではほぼ聞かなくなった寄生虫ですね。こうした部分が、光太郎の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしが「自虐的」とも評されるゆえんです。

新刊情報です

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」

2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税

賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!

出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
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目次
はじめに
 伝え、残したいこと
 含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫010
 大伯父は「賢治さん」
 イギリスとの深い縁
 イギリスびいき
 一族の一員という立場
 縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
 曽祖父・政次郎
 最大の理解者、祖父・清六
 炎天下の「イギリス海岸」で
 祖父と山に登る
 高村光太郎さんと祖父
 志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
 願望としての「雨ニモマケズ」
 「ヒドリ」論争
 「賢治ブーム」のなかで
 「行ッテ」のもつ深い意味
 「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
 大伯父がつなぐ縁
 親子を超えた曽祖父の慈愛
 詩と音楽の協演
 私が好きな作品
 ファンタジーではなくSF
 「ほんとうの幸せ」とは
 ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて


昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。

上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。

016中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。

清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。

さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。

 以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
 子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
 その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。

高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。

やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。

 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。

和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。

 もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
 これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
 つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
 そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。


一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。

この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。

それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。

また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。

現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。

ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。

和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。

そして……

 みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
 このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
 そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
 いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
 自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。


和樹氏ご自身も、

 私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
 だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。


だそうで。

当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。

その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。

たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。

ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。

こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。

昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳

場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。

1月4日(月)のこのブログでご紹介しました岩手県としての「いわてモー!モー!プロジェクト2021」。その時点ではまだだった詳細が、1月7日(木)に発表されていました

「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」について 

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令和3年(2021 年)の丑年に合わせ、「うし」で岩手を盛り上げながら各種事業を総合的に展開する「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」のプロジェクト全体概要やPRキャラクターについて、お知らせします。 

1 プロジェクト全体概要
 モー!っと育てよう/産地支援プロジェクト
  本県畜産業の産地力強化に向けた取組を支援します。
   ゲノム評価に優れる県有種雄牛の造成
   県有種雄牛の魅力を全国の生産者へPR
   全国和牛能力共進会鹿児島大会に向けた生産者の取組支援
 モー!っと食べよう/消費拡大プロジェクト
  トップセールスや、いわて牛・いわて短角牛、乳製品などの消費拡大イベント等を実施し
  ます。
   民間企業との連携による、全国的な乳製品イベント開催
   トップセールスや有名シェフとの連携等によるPRの実施
   民間企業との協働による、いわて牛商品開発や販売支援
   いわて牛取扱推奨店との協働によるフェア開催
   県内小中学校を対象とした「いわて牛・いわて短角牛学校給食の日」実施
 モー!っと楽しもう/体験・交流プロジェクト
  観光等との連携による牛と親しむ体験・交流事業等を促進します。
   東北DC※を契機とした、体験型産地ツアー等開催
   旅行会社との連携による、牛関連施設を巡るコース提案(くずまき高原牧場、小岩井農
    場、牛の博物館など)
   「塩の道」「闘牛大会」等との連携によるフードツーリズムの促進
   ※東北デスティネーションキャンペーン(2021.4.1~9.30)
 モー!っと伝えよう/ブランド強化プロジェクト
  県産牛や乳製品の美味しさや、プロジェクトの取組等の情報を国内外へ発信します。
   アジア・北米・豪州等に向けた、いわて牛PR
   県内外百貨店におけるいわて牛や県産品のPR
   県内スポーツプロチームとの協働による、いわて牛等のPRや牛肉・乳製品販売
   公式サイトの開設
   応援ソング制作・配信、オリジナルピンバッチ等PRグッズ制作

 ※ 県が中心となって、JA全農いわて等の関係団体や民間企業との連携により実施します。
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2 PRキャラクター 
 チャンプくんとそばっち
[説明]
・ 「チャンプくん」は、第 7 回全国和牛能力共進会のPRキャラクターとして平成 9 年に誕生し、以来、いわて牛普及推進協議会のPRキャラクターとして活躍
・ 今回、岩手県イメージキャラクター「そばっち」との異色のコンビとして起用
000
やはり今回も光太郎がらみで発表がありました。ありがたく存じます。
011
1月7日(木)の達増岩手県知事の定例記者会見で、事業の詳細が発表され、その中でも光太郎について触れて下さいました(9分03秒くらいから)。
曰く、

そして、やはり今年はうし年ということから話を始めたいと思います。岩手ゆかりの詩人、高村光太郎さんが「岩手の人」という詩を書いています。岩手の人は牛の如しということで、いろいろ慎重に歩んで、ついに成すべきを成すというふうに結ばれています。新型コロナウイルス対策もあります、慎重に歩みを進めて、しかしやるべきことはやると、ついに成すべきを成すというような、そういう年にしたいと思います。

なるほど。

今後も光太郎がらみで推進していただければ、と存じます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

〈朝山鳩の声をきく〉〈(雪解水の流れる音が一面にきこえる。)〉


昭和21年4月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、ようやく遅い春がやって来た、という感じですね。

昨日は、大学入試共通テストについて書きましたが、先月5日には、一般の方対象に、花巻観光協会さん主催のご当地検定「はなまき通検定」が行われました。その際に出題された問題が、同会のサイト上で公開されましたのでご紹介します。

問題は全50問で、そのうち、直接光太郎に関わる問題が3問含まれていました。このブログをいつも読んで下さっている皆さんには、お茶の子さいさい(死語ですね(笑))の設問でしょう。

【問題35】
昭和16年(1941 年)に出版された、高村光太郎が夫人智恵子に対する思慕や二人の生き方の希望などを表現した作品集のタイトルは次のうちどれか。
1 智恵子抄
2 智恵子抄その後
3 案内
4 道程

【問題36】
高村光太郎が高村山荘で生活するなかで、唯一彫刻刀を使い便所の明り取りとしてくり抜いたといわれる文字は次のうちどれか。
1 道
2 智
3 高
4 光

【問題37】
高村光太郎記念館の近くにある「雪白く積めり」の詩碑を鋳金した人間国宝の鋳金家、高村豊周と高村光太郎の関係として正しいものは次のうちどれか。
1 高村光太郎の弟
2 高村光太郎の甥
3 高村光太郎の息子
4 血縁関係はない

念のため、正解を記しておきますと、【問題35】は「1 智恵子抄」、【問題36】が「4 光」、そして【問題37】で「1 高村光太郎の弟」ですね。
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3枚目の画像、左から光太郎の父・光雲、豊周、そして光太郎です。

また、「光太郎」の語は含まれていませんが、こんな問題も。

【問題 6】
令和2年8月7日にオープンした花巻市内にある「道の駅」は次のうちどれか。
1 道の駅とうわ
2 道の駅石鳥谷
3 道の駅はなまき西南
4 道の駅はやちね

正解は「道の駅はなまき西南」。愛称が「賢治と光太郎の郷」ですね。
015
この「はなまき通検定」、6年ぶり4回目の実施だそうです。初回は平成24年(2012)、この際は68人が受検し、合格者わずか1人という超難関。翌年の2回目では難易度を見直したところ、89人受検で59人合格。第3回は平成27年(2015)に実施され、56分の7の合格だったとのこと。そして今回は、42名の方がチャレンジし、合格は22名だったそうです。全50問(1問2点、100点満点)で、合格基準は80点以上とのことでしたが、やはりそう簡単ではなかったようですね。

ちなみに当方、光太郎に関わる問題以外は、宮沢賢治関連、温泉関連などはほぼほぼ大丈夫でしたが、次のような問題はお手上げでした(笑)。

【問題17】
毎年2月11日に花巻市で開催されている「わんこそば全日本大会」の横綱歴代最高杯数は次のうちどれか。
1 158杯
2 208杯
3 258杯
4 408杯

ちなみに正解は「3 258杯」だそうで(笑)。

こうした取り組みもいわゆる「町おこし」に有効でしょう。全国自治体等の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】003

ツマゴをはいてゆく。雪相当につもりてツマゴを没す。あるきにくし。

昭和21年3月11日の日記より 光太郎64歳

「ツマゴ」は藁で編んだ雪靴。光太郎が暮らした花巻郊外旧太田村山口地区でも、現在では作れる人があまりいなくなってしまった由、聞いたような記憶があります。

画像は翌年、令甥の髙村規氏に送ったはがき。ツマゴが描かれています。

まず地方紙『岩手日報』さんの記事から

光太郎ランチ弁当を開発した「ミレットキッチン花(フラワー)」の代表 本舘博子さん

002 彫刻家で詩人の高村光太郎の日記を基に、地元の食材をふんだんに用いる光太郎ランチ弁当を開発。花巻市轟木の道の駅はなまき西南で毎月15日に限定販売している。「人が集まり、にぎわう地区にするため食からサポートしたい」と意気込む。
 同市轟木出身。子どもの頃は自宅裏山で竹スキーをしたり、ゴム跳びをして遊んだ。「ジャンパースカート」に憧れ、当時女子高だった花巻南校に進学。友達の推薦で応援団リーダーになり、華やかな校風ながら「あえてビリッと厳しい態度を取っていた」と笑う。
 盛岡市の盛岡中央職業訓練校の事務科で和文タイプライターや簿記、珠算を学び、花巻商工会議所に就職。結婚を機に退職し、旧笹間、花巻農協で金融関係の業務に長く携わった。
 農協女性部の活動で雑穀料理のレパートリーを広げる活動や幼児の食育に取り組んだ。「地域の人と接する機会が増え、人生が豊かになった」と振り返る。
 かごや花器に自由に花を飾るフラワーアレンジメントが趣味。「花を見ていると心が安らぐ」と自宅には生花を絶やさない。花巻市北笹間で夫、次男夫婦と4人暮らし。

光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋近くに昨年オープンした、道の駅はなまき西南さんのテナントで、記事にある通り毎月15日に限定販売の「光太郎ランチ」産みの親の方です。高齢者向けに弁当の宅配などの事業もなさっているそうで、頭が下がります。

さて、今月の「光太郎ランチ」。下記のメニューだったそうです。
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さらに画像も花巻光太郎記念会の女性スタッフの方から送っていただきました。
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美味しそうですね。

実際に召し上がっての感想は、特に大根とソーセージのケチャップ炒め、イカとキャベツの酢味噌和えが特に美味しかったとのこと。

フルーツは、キウイを煮たものとミカンだそうです。また、メニューにありませんが、塩こうじ入り玉子焼きもリクエストして入れてもらい、ボリューム満点だったそうで。これで定価は800円。十分に元は取れそうですね(笑)。

ちなみにボストンビーンズは、光太郎が明治末の海外留学中に作り方を覚え、現地でもよく食していたものです。その他も、記事にある通り、光太郎の日記などから着想を得てのメニューで、こじつけではありません。
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そういう意味では、なかなかメニューを考えるのも制約があって大変だと思いますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる食、ソバ粉をスルメをつけてある汁にてとき、飯盒中皿に入れてむす。一種のパンとなる。味淡泊にてあしからず。バタでくふ。 こいか漬けを仕込む。大根千六本、刻みスルメ、せん切コブ、それに伊藤光富久氏よりもらつたアラレ(焼米と黒豆)をも入れる。唐辛子。醤油を補充す。


昭和21年3月3日の日記より 光太郎64歳

ついでですので、この項も食事内容で。昭和21年(1946)から翌年の春ぐらいまでは、細かに作ったメニューを記録しています。この日もこれ以外に朝食、夕食の品目をすべて書き残しました。

そば粉パン、光太郎の得意料理の一つとなりました。「大根千六本(せろっぽう/せんろっぽん)」は、マッチ棒ほどの太さに刻んだもので、味噌汁の具などに使いますね。これも光太郎の好物の一つでした。

地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から、掲載順に2本

まずは元日の紙面から。

困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙

 文学者や芸術家、政治家らが後輩に宛てた手紙、若い日をつづった手紙…。明治以降の盛岡ゆかりの著名人の書簡、原稿などを収集する盛岡てがみ館(及川政己館長、盛岡市中ノ橋通)の資料から、コロナ禍を乗り越えようとしている中高生ら若い世代に触れてもらいたい手紙を紹介する。先人たちの自筆の手紙には、それぞれの時代の息遣いとともに、困難の中から見いだした希望も感じさせる。

高村光太郎【「岩手山の肩」の原稿 昭和22(1947)年作、同23年発表】
 「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ。あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
 終戦後に花巻市に疎開し、農民のような暮らしをしながら、多くの作品を生んだ詩人・彫刻家の高村光太郎(1883-1956)。「岩手山の肩」は、稗貫郡太田村(現花巻市)で過ごした7年間のうち、2度目の冬を迎えた1947(昭和22)年の12月に書き上げられた。岩手山をのぞむ、岩手人への力強いメッセージとして、翌48年1月1日付けの「新岩手日報」に発表された。
 20年4月の空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、花巻の宮沢家に疎開。同年11月から「山口」という集落の山小屋をすまいとし、山口小学校(当初山口分教場)に自ら寄贈した幻灯機で幻灯会を開くなど、子供たちとも積極的に交流した。同小において、盛岡市にあった県立美術工芸学校の生徒に講話をしたり、同校の卒業式に祝辞を寄せたりと、岩手の教育にも心を傾けていた。
 「岩手山の肩」について、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんは「戦後の復興の意味も込めて書かれた詩と思われるが、『も一度天地に立て』と、コロナ禍のいまも響くものがある」と話す。
 光太郎は十和田湖畔のモニュメント制作のため岩手を離れてからも、1955年までは太田村に住民票を残した。「制作が終わったら山口に帰るつもりでいた。岩手に強いシンパシーを感じていたのだろう」と語った。
003
この後、金田一京助、田子一民、舟越保武・道子夫妻、そして石川啄木が紹介されていますが、そちらは割愛します。

当方のコメントが載っていますが、先月はじめに盛岡に行った際に取材を受けました。詩「岩手山の肩」の原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、盛岡にお立ち寄りの際には是非ご覧頂きたく存じます。

続いてもう1件、1月7日(木)掲載の記事。

「高村光太郎と共に」自費出版 盛岡市小杉山の加藤千晴さん 24歳時の肖像など紹介 哲学の視点交え生き方つづる

000 盛岡市小杉山の加藤千晴さん(72)は、本県ゆかりの彫刻家・詩人の高村光太郎(1883―1956)の生き方、父・高村光雲や縁のある人々について、哲学の視点を交えてつづった「高村光太郎と共に」(B6判、41㌻)を自費出版した。光太郎が米国ニューヨークに留学中、幼なじみである加藤さんの祖母・金谷ふゆ(60年に82歳で逝去)に送った24歳のポートレートなどを紹介し、青年期の心についても解説。「驚きは芸術の始まり。若い人たちに光太郎の心意気も知ってもらいたい」と話す。
 加藤さんは、ふゆの娘の照さん(104)=樺太・豊原生まれ、旧姓金谷=の長男。静岡大学大学院を修了し、東京芝浦電気の半導体プロセス開発に従事。定年退職後に盛岡市に帰郷し、照さんの話や光太郎に関する資料を少しずつまとめた。
 「あまり知られていない光太郎さんの姿を知ってもらいたい」と、金谷家の女性たちやゆかりの人々についてつづった「光太郎と女神たち」(花巻高村光太郎記念会発行)を2017年に発行。併せて、県立盛岡短大(現県立大盛岡短期大学部)教授などを務めた父の故・千代司さんの残した講義ノートなどを通じて、哲学にも関心を持つようになった。
 本書は「光太郎と女神たち」の姉妹版ともいえ、Facebook(フェイスブック)に投稿した光太郎の話題を再編集。彫刻家の父・光雲が師事した高村東雲のエピソードや光太郎の言葉から考える「美の力」、戦後に花巻に疎開した光太郎と照さんとの交流などについて、書簡などの資料も合わせて紹介した。
 加藤さんが「若い人たちに伝えたい」と取り上げたのが、「紐育(ニューヨーク)の光太郎」のエピソード。
 1906(明治39)年、留学先のニューヨークで撮影したと思われる若き光太郎の肖像を「若さのエネルギー、ここには夢があります」と紹介する。
 一方で、世界を見て帰国した光太郎は日本の芸術界に受け入れられず、アイデンティティー崩壊の危機にあったと解説。「認められない寂しさのはけ口の一つが詩で、後にそれらをまとめたのが『道程』」と話す。
 同詩集は、後に芸術院賞受賞。自己崩壊の危機から救い出してくれたのが(後に妻となる)智恵子だったと光太郎が回想録に記していることにも触れた。
 「アイデンティティーの崩壊という青年期に直面する問題から、どのようにして自分を救っていくのか、光太郎の姿からも見ることもできる。若い人たちの勇気にもなるといい」と願う。

光太郎の従妹(いとこ)に当たる加藤照さんの子息・千晴氏による『高村光太郎と共に』が11月に自費出版され、その紹介です。

照さんには平成28年(2016)に一度お会いしましたが、104歳になられ、まだお元気のようで、何よりです。

「岩手山の肩」、そして光太郎自身の生き様、そういったものが若い人たちの生きる指針と成るようでしたら、望外の喜びですね。

【折々のことば・光太郎】

風もなし。湯のたぎる音しづかなり。


昭和21年(1946)1月30日の日記より 光太郎64歳

雪に覆われた太田村の山小屋、おとなう人もない時には、まさしく静寂に包まれていたのでしょう。

状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
003
県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
000
ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


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