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当会顧問・北川太一先生が亡くなる前からそういう予定だったもので、19日(日)、20日(月)と、一泊で花巻に行っておりました。レポートいたします。

今年はあちこちで雪が少ないという報道には接していましたが、まさにそうでした。例年ですとこの時期、新幹線で仙台を過ぎると銀世界となるという感じですが、今回はまるで春先のような風景が広がっていました。

左は奥州市付近を通過中の車窓から。右は新花巻駅のホームから。その分、レンタカーの運転は楽でしたが。

まずレンタカーを向けましたのは、花巻市総合文化財センターさん。市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、「ぶどう作りにかけた人々」を開催中で、光太郎に関わる展示もしてくださっています。


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総合文化財センターさんのある大迫地区では、戦後、ぶどう作りに取り組み、現在でもエーデルワインさんというワイナリーがあります。その推進に一役買ったのが、昭和22年(1947)から知事を務めた国分謙吉。国分は昭和25年(1950)に光太郎と対談をしたこともあり、その対談の中でもぶどう作り、ワインについて言及していました。そのあたりを展示では紹介してくださっています。

また、この地で実際にぶどう栽培等にあたった高橋繁造旧蔵の、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)書も展示されています。ただし印刷で、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたものです。しかし印刷ではありますが、精巧な作りで自筆と見まごうもの。平成21年(2009)には、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出ました。依頼人は亡父の遺品で、光太郎自筆のものかと思っていたそうですが、残念ながら印刷ということで¥10,000ほどの鑑定。それでも現存数は多いものではなく、当方、入手したいと思いつつ果たせていないものです。

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こちらは2月2日(日)までの開催です。

続いて、花巻高村光太郎記念館さんにレンタカーを向けました。こちらも例年より少ない積雪。この時期、1メートル以上積もっていることも珍しくないのですが。

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こちらでは、やはり「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環で、「光太郎からの手紙」が開催中です。

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同館所蔵の光太郎書簡のうち、初代花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤隆房夫妻に宛てたものが中心でした。


中には『高村光太郎全集』未収録の、現在確認されている中では最後の光太郎書簡も。先月『朝日新聞』さんがこれについて言及してくださいました。

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光太郎が歿する6日前、昭和31年(1956)3月27日のもので、この日は自分でペンを取ることが出来ず、世話になっていた中野の貸しアトリエの大家さんであった、中西富江に代筆して貰っています。

また、昨年、その寄贈が報道された、当時中学生だった横浜在住の女性にあてた葉書。

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どの手紙も、内容的にもさることながら、味わい深い光太郎の筆跡。書の揮毫ほどに力をこめてはいないのですが、その肩の力が抜けた具合、実に絶妙です。

さらに、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展の際に発行された冊子も。表紙は、画家の夏目利政の手になる智恵子の肖像。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。

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このあたり、亡くなった北川太一先生にも見ていただきたかった、と思いつつ拝見しました。

すると、隣の常設展示室から、北川先生のお声が。「ああ、そうだった」と、思い出しました。

すっかり失念していましたが、平成25年(2013)、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の折に、各会場で流したビデオをこちらでも放映させてもらっていまして、その中に北川先生がご登場されていたのでした。

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ちなみに同じビデオには、平成26年(2014)に亡くなった、光太郎令甥・髙村規氏もご出演。そう考えると、このビデオ、今となってはお二人を偲ぶよすがとしても貴重なものとなりました。

その後、隣接する光太郎の山小屋(高村山荘)へ。やはりこの時期としては異例の雪の少なさです。例年ですと、積雪のためこの小屋に近づくことが出来ません。

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久しぶりに中にも入れていただきました。

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雪は少ないとはいえ、冷蔵庫のような寒さでした。改めてここで厳しい生活を送った光太郎に思いを馳せました。

こちらを後に、宿泊先の大沢温泉さんへ。

かつて定宿としていた菊水館さんは、一昨年の台風による道の崩落のため、いまだ休業中。今回も自炊部さんでした。

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障子を開けると、その菊水館さん。

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ゆっくり温泉に浸かり、このところのいろいろあった中での疲れを癒しました。夕食は自炊部さん併設の食堂で摂りました。

本来、自炊部ですので、湯治客用の調理場もあります。下記はガスの自販機的な。いい感じですね。

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当方、使ったことはありませんが。

その晩は、雪でした。翌朝、目覚めると……

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やはりこうでなくては駄目ですね(笑)。ただし、朝の時点では雪というより霙(みぞれ)でした。

上の方に書き忘れましたが、花巻高村光太郎記念館さんでの「光太郎からの手紙」は、1月27日(月)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本語の質を緻密にさせてゐる点でも大いに教はるところがあります。

散文「中村草田男句集『火の島』に寄せる」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳


中村は明治34年(1901)生まれの俳人。

「言葉」の使い方に、実に神経を配っていた光太郎。同じような人々にはこうして共感を示していました。

料理研究家の中野由貴さんから、『ワルトワラ』第45号が届きました。宮沢賢治ファンの方々による文芸同人誌のようです。

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中野さんご執筆の「イーハトーヴ料理館 賢治たちの自炊めし 二膳目 光太郎さんからの食アドバイス」が5ページにわたり掲載されています。

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昭和22年(1947)、光太郎が雑誌『農民芸術』第1巻第3号に発表した散文「玄米四合の問題」を中心に、光太郎の「食」に対する意識、光太郎から見た賢治の「食」などについて述べられています。

また、昨年の今頃、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展「光太郎の食卓」のレポートなども。同展は、一昨年の秋に行われた同館主催の市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part .2」の内容を元にしたものでした。そちらの講師を当方が務めさせていただき、その際のレジュメを中野さんにお送りしたところ、いたく感謝されてしまい、かえって恐縮している次第です。

中野さんとはその後、昨春、いわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事として開催された「居酒屋「火の車」一日開店」でご一緒させていただきました。そんなこんなで今回の玉稿にも当方の名を出して下さっています。ありがたし。

それから、中野さんが監修された都内でのイベントのご案内も同封されていました。花巻市さんと小岩井農場さんのコラボ企画だそうで、題して「宮沢賢治のイーハトーブ花巻レストラン」。


2月8日(土)には、中野さん他によるトーク・朗読イベントもあるそうです。『ワルトラワラ』の件も含め、詳しくは中野さんのサイトをご参照下さい。


【折々のことば・光太郎】

さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。

散文「武者小路実篤氏」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この前段で、朋友・武者小路の人となり、芸術世界を激賞した後の一言です。

一昨日から、残念ながら他の人の「存在の理由」を否定し、「人には各々天性がありますから」と考えられなかった故に起こった凶悪犯罪の裁判が始まっています。その報道を読むにつけ、改めて心が痛みます。

光太郎関連の連載が為されていて、定期購読しております雑誌2誌、最新号が届きました。


まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第17号です。花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々のご協力で為されている「光太郎レシピ」。今号は「元旦のお点前」だそうで。

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細かなメニューとしては「豚肉とキャベツのケチャップ鍋とホワイトアスパラガスのサラダ」。昭和22年(1947)の光太郎日記にこんな感じのメニューが載っています。


続いて『月刊絵手紙』さん。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載です。今号は詩「下駄」(大正11年=1922)。

この連載は平成29年(2017)の6月号からですので、けっこう長くなりました。ただ、最近は画像もなく文字だけ、詩や散文の一節を紹介するにしても、解説も、執筆年等の記載もなく、ちょっと安易だな、と言う気がします。月刊誌の編集となると大変なのはわかりますし、光太郎について取り上げて下さるのはありがたいのですが……。

明日も雑誌系をご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

画を見る人よ、画面のコバルトとカドミユウムは無機物である。無機物を見たまふな。その関係を見たまへ。そのオルガニザシヨンを。

散文「神戸雄一詩集『岬・一点の僕』序」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「コバルト」と「カドミユウム」は、元素や重金属としてのそれではなく、前者は寒色系、後者は暖色系の油絵の具の代表、象徴です。「オルガニザシヨン」は、「Organisation」。おそらくフランス語として書いています。「組織」「機構」といった意味です。ここでは絵の具の選択、配置等にこめられた画家の意図ということでしょう。

今月7日から始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「光太郎からの手紙」につき、『朝日新聞』さんが岩手版で報じて下さっています。 

岩手)光太郎からの手紙展 花巻高村記念館

 終戦後の7年間、岩手県花巻市太田の山荘で暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎が書いた手紙を集めた企画展「光太郎からの手紙」が同市の高村光太郎記念館で開かれている。新しく見つかった、山荘で暮らしていた頃にファンに返信したはがきも展示されている。
 宮沢賢治との縁で戦火の東京から花巻へ疎開後、7年間を山荘で暮らした光太郎。企画展では1945(昭和20)年の花巻疎開直前から、56(昭和31)年に東京のアトリエで亡くなるまでに書いたはがき28点と書簡11点などを集めた。
 山荘時代の光太郎を物心両面で支えた花巻の佐藤隆房医師(宮沢賢治の主治医)とやりとりした手紙が中心で、賢治との縁、虫雑草との戦いや食生活、十和田湖の乙女の像創作前後のことなど、山居7年から最晩年までの足跡や思いをたどることができる。
 このうち56年3月27日、東京に戻って病の床に伏していた光太郎が代筆で佐藤医師に宛てた手紙では「手許でみたくなりましたので」と、預けていた亡妻智恵子の切り絵を送るよう依頼している。光太郎が亡くなったのは6日後の4月2日。花巻高村光太郎記念会によると「現在知られている中では光太郎が差し出した最後の手紙」だという。
 企画展は来年1月27日まで。12月28日~1月3日は休館。(溝口太郎)



佐藤隆房


今月7日のこのブログの記事で「どうも話を聞くと『全集』未収録のものも含まれているような気がします。」と書きましたが、画像の書簡がまさにそうでした。しかも、現時点では「最後の手紙」となります。

これまでに確認できていた「最後の手紙」は、昭和31年(1956)3月1日付けで、智恵子の姪にして看護師の資格を持ち、智恵子の最期を看取った宮崎春子にあてた現金書留でした。

このごろいたみが少しつよいので閉口しています、 金同封します、 光太郎 宮崎春子様

「いたみ」は結核によるもので、光太郎はそのために翌月2日に歿しました。

春子は、30歳で早世した智恵子の妹・ミツの娘。前述の通り、昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院し、同13年(1938)、同院で亡くなった智恵子の付き添いを務めました。有名な智恵子の紙絵の制作現場を目撃した、ほぼ唯一の人物です。

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昭和20年(1945)には、光太郎が間を取り持って、詩人の宮崎稔と結婚。花巻郊外太田村の光太郎が暮らした山小屋も訪問しています。ところが、夫の稔は昭和28年(1953)に胃潰瘍で死亡。子供2人を抱えて途方に暮れる春子に、光太郎は経済的援助を惜しみませんでした。

で、今回展示されている上記画像のものは、さらに下って亡くなる6日前のものです。さすがにその時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。しかし、翌日には体調が少しだけ戻ったようで、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書いていますが。ちなみに短い日記は3月30日まで書いています。

 拝啓
  御無沙汰いたしておりますが お変り御座いませんか
  大変突然ですが 御預り願つておりました
  智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います
  手許で見たくなりましたので…
  永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。
  鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

   三十一年三月二十七日
                    高村光太郎
                    代筆中西富江
  佐藤隆房様

宛先は佐藤隆房。昭和20年(1945)、宮澤賢治の父・政次郎らと共に光太郎の花巻疎開に尽力し、宮澤家が8月10日の花巻空襲で焼けたあと、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に入るまで1ヶ月間、自宅離れ に光太郎を住まわせてくれた人物です。花巻病院の院長でもあった佐藤は、花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。隆房没後は、子息の故・佐藤進氏があとを継ぎました。

「紙絵」云々は、昭和20年(1945)3月、空襲がひどくなって、それまで駒込林町の光太郎自宅兼アトリエ(4月13日の空襲で全焼)に保管されていた千点を超える智恵子紙絵を、山形の詩人・真壁仁、茨城取手の宮崎稔、そして花巻の佐藤の元に分散疎開させたことにかかわります。従来、当会の祖・草野心平の勧めもあって、光太郎最晩年に、再び光太郎の元に戻ったとされてきましたが、今回の手紙が書かれたのが亡くなる6日前。果たして間に合ったのでしょうか。

それにしても、おそらく光太郎最後の手紙に、最愛の妻・智恵子の名、そして智恵子がこの世に残した生きた証である紙絵の件が記されたことには、感動を禁じ得ません。

というわけで、「光太郎からの手紙」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

結局詩人の天から与へられた智慧といふものは、三歳の童子の持つやうな直覚的な智慧なんでそれが尊いのである。

談話筆記「童心と叡智の詩人――北原白秋の業績――」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳

白秋の亡くなった日に語られ、翌日の『読売報知新聞』に載った談話の一節。ベクトルは異なれど、論理的な思考から言葉を紡ぐのではなく、「直覚的な智慧」から詩作を行ったという意味では相通じていた朋友・白秋への手向けの言葉です。

花巻高村光太郎記念館さんも参加している「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」。花巻市内5つの文化施設で統一テーマの元に行われる共同企画展です。高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」という展示が行われています。

以前にもご紹介しましたが、参加館五つのうちのひとつ、花巻市総合文化財センターさんでの展示「ぶどう作りにかけた人々―北上山地はボルドーに似たり―」でも、光太郎がらみの展示が為されています。 

ぶどう作りにかけた人々―北上山地はボルドーに似たり―

 日 : 2019年12月7日(土)~2020年2月2日(日)
会 場 : 花巻市総合文化財センター  岩手県花巻市大迫町大迫3-39-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 一般 200円 小中学生 100円
休館日 : 12月28日~1月3日


大迫地域の「ぶどう作り」は、昭和22年のカスリン台風、同23年のアイオン台風の被害による復興施策をきっかけとし、当時の県知事・国分謙吉の勧めにより動き出しました。国分謙吉が「北上山地はボルドーに似たり」と語って勧めた「ぶどう作り」は70年を経過し、今では、地域の代表的な産業となっています。また、「ワイン造り」という大きな実りにも繋がりました。その取り組みの様子を、国分謙吉や村田柴太などの先人とともに辿り、「ぶどう作り」と「ワイン造り」の歩みについて展示・紹介します。

展示構成
(1)大迫の風土と産業
大迫の歴史・地理的な特徴などから、「ぶどう作り」以前の主な産業である馬産、養蚕、葉タバコの生産について紹介します。
(2)台風の襲来
戦後間もない1947(昭和22)年とその翌年のカスリン・アイオン台風による大迫地域の被害の様子をたどります。
(3)ぶどう栽培の夢
1947(昭和22)年秋、当時岩手県知事だった国分謙吉は大迫地区の有志を前にぶどう栽培を力説しました。そこから岩手県立農業試験場大迫葡萄試験地の設置し、ぶどう栽培の夢は始まりました。
(4)ワインの誕生
大迫のぶどうは1951(昭和26)年に初出荷を迎えました。そして、1962(昭和37)年9月、念願のワインが誕生します。
(5)新しいぶどうとワインへ
大迫ぶどうは、大粒品種の栽培やワイン専用種の栽培へと飛躍しました。「ぶどう作り」と「ワイン作り」の現在について紹介します。

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戦後、初の民選知事だった国分謙吉が大きく取り上げられ、その関係で、国分と交流のあった光太郎にも言及されています。

ちなみに民選知事、というと、青森県では、光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼した津島文治(太宰治の実兄)がそうでした。

過日、同館の方からメールを頂きまして、展示風景画像やキャプション、配付資料等につき、添付ファイルがありました。

展示の様子。

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国分と光太郎に関するキャプション。


昭和25年(1950)、国分と光太郎の対談が行われ、翌年の『朝日新聞』岩手版に掲載されたという情報を提供したのですが、そのあたりを紹介して下さっています。

それから、国分と交流があり、ぶどう作りに貢献した高橋繁造旧蔵の光太郎資料。

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詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の、光太郎自筆草稿を印刷したもので、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されました。これについてもどういうものなのかをレファレンスさせていただきました。

その他の展示リスト。

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高村光太郎記念館さんの「光太郎からの手紙」と併せ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は彼の顔を憶ふ度に素朴日本の顔を見る思がする。彼こそ天成の民族詩人であると言へよう。
散文「素朴日本の顔――『牧水全集に』――」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

確かに奇を衒わない牧水の短歌には、光太郎詩にも通じるところがあるような気がします。

今日から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎からの手紙」が始まります。

それに合わせて、地方紙『岩手日報』さんが以下の記事を載せて下さいました。 

光太郎 ファンへ「礼状」 花巻・記念館であすから展示007 (2)

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、ファンへつづったはがきが7日から、花巻市太田の高村光太郎記念館(藤原睦館長)で展示される。神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が花巻市に寄贈した。1945(昭和20)年から7年間、現在の同市太田で山居生活を送った光太郎が、高橋さんのファンレターへ返信した。光太郎を顕彰する関係者によると、ファンへの返信は珍しく、残りの生涯への決意を示す貴重な資料と評価される。
 「小生の作ったものが若い人達(たち)の心に触れたといふお話をきくと(中略)大変はげまされます」「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります」。味のある筆跡で光太郎の思いが記されている。
 同館の冬季企画展「光太郎からの手紙」は来年1月27日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。


この葉書の寄贈については、『朝日新聞』さんが岩手版で先月14日、全国版でも同21日に報じて下さっています。『岩手日報』さんは、企画展の開催に合わせ、この時期に記事にしたとのこと。

先日、電話取材があり、全文の読み(光太郎の筆跡に慣れていない人には、「触れた」などが読みにくいようで)や、こういう内容だよ、といった点をお答えしました。かなり根掘り葉掘り訊かれたのでずいぶん詳しく回答しましたが、記事になってみるとそれがあまり反映されて居らず、短い記事でした(笑)。まぁ、新聞紙面はスペースが限られていますので、ニュースが多い時には個々の記事が短くなり、そうでない時は普段は記事にならないようなことも扱われる(『朝日』さんの全国版に載った時がそうなのだと思います)、という相対的な面がありますので、致し方ないでしょう。

ちなみに終末近くの「味のある筆跡で」は当方の発言です。

さて、企画展「光太郎からの手紙」。記念館さんから連絡があり、概要をお聞きしました。それによると、上記葉書以外は、昭和20年(1945)、宮澤賢治の父・政次郎らと共に光太郎の花巻疎開に尽力し、宮澤家が空襲で焼けたあと、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に入るまで1ヶ月間、自宅離れに光太郎を住まわせてくれた佐藤隆房に宛てたものだそうです。

花巻病院の院長でもあった佐藤は、花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。隆房没後は、子息の故・佐藤進氏があとを継ぎました。

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後ろで立っているのが賢治実弟の清六、前列左から、賢治の父・政次郎、佐藤隆房邸に厄介になる前に半月ほど光太郎を住まわせてくれていた元旧制花巻中学校長・佐藤昌、光太郎、佐藤隆房、賢治の妹・クニ、清六夫人・愛子、賢治の母・イチ、賢治の妹・岩田シゲです。

で、光太郎から隆房宛で葉書30通ほど、封書が10通ほどを展示するとのこと。基本、『高村光太郎全集』に掲載されているものですが、『全集』掲載時、葉書や封書の現物から引き写したのではなく、『岩手日報』から採録した場合があり、そうした際にありがちな誤読、写し間違いがあるようです。また、どうも話を聞くと『全集』未収録のものも含まれているような気がします。あとでデータを送ると言われていますので、その際に精査しようと思っております。

それから関連資料として、昭和25年(1950)11月、当時の水010沢町(現・奥州市)公民館で1日だけ開催された「高村光太郎先生夫人智恵子“切抜絵”」展のパンフレット。

奥州市立水沢図書館さんに現物が保存されており、平成27年(2015)に拝見に伺いましたが、その後、光太郎遺品の中にも同じものがあったのが見つかり、今回、初めて展示されます。

当時、水沢に疎開していた日本画家の夏目利政が、この展覧会の開催に尽力しました。夏目は明治42年(1909)、駒込動坂町の自宅に智恵子を下宿させてくれた人物です。

日本女子大学校を同40年(1907)に卒業した智恵子は、卒業後も女子大学校が運営する寮に住み続けていましたが、突如その寮が閉鎖されることになりました。途方に暮れる智恵子に手をさしのべたのが、やはり女子大学校の卒業生で福島出身の幡ナツ(旧姓・小松)。自分が住んでいた夏目の家に智恵子を斡旋してくれました。下の写真は夏目家で撮影されたもの。夏目は写っていませんが、左端がナツの夫・幡英二、一人おいて智恵子、右端がナツです。幡夫妻はその後、福島市で現在も続く明治病院さんを開院しました。

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その夏目は水沢に疎開していて、近くに光太郎も疎開していると聞き、コンタクトを取ったわけです。自分と知り合う前の智恵子を知っている人物と出会い、光太郎は驚いたそうです。

で、「高村光太郎先生夫人智恵子“切抜絵”」展のパンフレット。夏目が描いた智恵子の絵が表紙を含め、三葉載っています。佐藤隆房に宛てた光太郎の手紙の中に、この展覧会について言及しているものがあり、関連資料として展示するとのことです。

高村光太郎記念館さんでは、佐藤に宛てたものの他にも大量に光太郎書簡類をお持ちですが、今回は上記の高橋光枝さんに宛てたもののみが新発見ということで出す以外、展示しないそうです。「多方面にわたると焦点がぼやける」そうで。で、「今回は」ということでして「次回」も構想に入れ、次のこうした機会には佐藤に宛てたもの以外を出そうと考えているとのことでした。

というわけで、「光太郎からの手紙」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩は決してただの大袈裟な概念によつてのみは出来ない。自己の実感として真実に身についたところから詩は生れる。一見甚だつまらないやうな些細な日常の生活からでも生れる。

散文「『職場の光』詩選評 三」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

なるほど、光太郎の詩には「一見甚だつまらないやうな些細な日常の生活」を題材にしたものも数多くあります。ただ、それを詩にするためには「詩精神」=「物の中心をつかむ心の眼」が必要だとも述べています。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から、企画展示の情報です。 

令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 「光太郎からの手紙」

期 日 : 2019年12月7日(土)~2020年1月26日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 一般 350円(300円) 小中学生 150円(100円)
      高等学校生徒及び学生 250円(200円) ( )は20名以上の団体
休館日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

光太郎が差し出した手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

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他館開催内容

花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰~生誕130年~」
「リンゴの神様」と言われリンゴ研究の第一人者。後に、北海道大学長となった島善鄰について紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「阿部芳太郎展」
宮沢賢治の詩集『春と修羅』の外箱装丁に携わり、彼が推し進めた農民劇の背景画を担当した花巻の画家として知られています。賢治との交友はもとより萬鉄五郎と交流し、同地域の美術運動をけん引し続けました。今展は、阿部芳太郎の画業を紹介するとともに、賢治や萬との関わりにも光を当てていきます。

花巻市総合文化財センター テーマ「ぶどう作りにかけた人々 ―北上山地はボルドーに似たり―」
昭和22・23年に襲ったカスリン・アイオン台風被害は、現在のぶどう作りのきっかけとなりました。その取り組みに関わった人々やぶどう、ワイン作りの歩みについて紹介します。

花巻市博物館 テーマ「松川滋安と揆奮場」
文武の藩学「揆奮場」を設立するため奔走した、松川滋安。苦難を乗り越えたその生涯を明らかにします。

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関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:2019年12月12日(木) 午前9時から午後3時10分
 2回目:2020年1月9日(木)  午前9時から午後3時10分


花巻市内5つの文化施設で「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」という統一テーマの元に行われる共同企画展。高村光太郎記念館さんが参加するのは今年で3回目となります。一昨年が「高村光太郎 書の世界」、昨年は「光太郎の食卓」でした。

で、今年は「光太郎の手紙」。同館所蔵の光太郎書簡の展示になります。書簡類は、内容もさることながら、光太郎の味わい深い文字も魅力の一つです。リスト等まだ送られてきてませんので、具体的にどういう手紙が展示されるか不明ですが、わかり次第ご紹介します。ただ、先頃報じられた神奈川の女性から寄贈を受けたハガキは出ると思われます。


また、当方の把握している限り、総合文化財センターさんの展示で、光太郎がらみの展示品が出ます。

詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の、光太郎自筆草稿を印刷したものです。

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同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたもの。平成21年(2009)頃、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、これ(または昭和30年=1955作の「開拓十周年」を同じように印刷したものだったかもしれません)が出ました。鑑定依頼人(亡父の遺品、的な感じだったと思います)は直筆だと思っていたようですが、印刷ということで1万円くらいの鑑定結果だったと記憶しております。ただ、印刷ではありますが、現存数もそう多くなく、貴重なものではあります。当方、入手したいと思いつつ果たせていません。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一億の生活そのものが生きた詩である。

散文「戦争と詩」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

それはそうなのでしょう。そうなのでしょうが、この後に続く一文はいただけません。曰く「一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。」捨て身の覚悟で聖戦完遂にのぞむべし、ということですね。

また、この後の部分にはこんな一節も。「皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最後にのぞんで心安らかに、大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。」

同じ文章で「一億の生活そのものが詩である」といいながら、将兵たちの「このまことを措いて詩を何処に求めよう」。矛盾しています。或いはすべての日本人が前線の将兵の如き心構えをもって事に当たれ(いわば「国民皆兵」)ということでしょうか。

今年ももうすぐ12月8日、太平洋戦争開戦の日となります。毎年のように自称“愛国者”が光太郎の翼賛詩をネットで紹介し、「これぞ大和魂の顕現」とありがたがる憂鬱な時期です。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事です。

岩手)高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が戦後、高橋光枝岩手県花巻市の山荘で蟄居(ちっきょ)していた約70年前に、ファンの中学生から来た手紙に返信したはがきが、受け取った本人から同市の高村光太郎記念館に寄贈された。戦争賛美したことへの自責の念から彫刻を封印していたとされる当時の光太郎だが、詩作や彫刻への思いを記しており、心境を伝える貴重な新発見だという。
 「おてがみが こんな山の中へまで来ました」。こんな書き出しで始まるはがきを、寄贈者である神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が受け取ったのは、終戦から5年後の1950(昭和25)年9月のことだ。
 高橋さんは当時、横浜市在住の中学3年生。光太郎の詩集「智恵子抄」のファンで、彫刻展で見た光太郎のセミの彫刻に感激して太田村山口(現花巻市)の光太郎に宛てて手紙を送ったところ、この返信が来たという。

「書いた手紙の内容は忘れたが、お返事をくれた優しさがうれしく、生涯の宝としてずっと大切に保管してきた」と高橋さん。今年8月、親類の法事で岩手県奥州市を訪れた際、約50年ぶりに花巻市の光太郎の山荘を訪れて立派な記念館ができているのに感激し、「わかる人に見てもらいたい」と寄贈の意向を伝え、9月に正式に寄贈した。
 返信のはがきを送った当時の光太郎は、東京大空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁を頼って花巻に疎開、そのまま粗末な山荘に蟄居して5年目だった。戦時中に戦争賛美したことなどを悔いた光太郎は当時、彫刻を封印していたとされるが、はがきには、自作が若い人の心に触れたことに「大変はげまされます」と感謝を伝えたうえで「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居(お)ります」と記しており、彫刻への意欲もうかがえる。
 「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」の制作依頼が来て、光太郎が山荘を離れるのはその2年後。はがきを読んだ光太郎研究者の小山弘明さん(55)=千葉県香取市=は「ファンレター的な手紙に返信した例はほとんどなく、若い世代への期待も見て取れる。山荘時代も手すさびで小さなセミなどを作っていたという目撃談もあり、創作再開への意欲は当時からあった。十和田湖の像の依頼が来る前は、死ぬまで太田村にいるつもりだったことが再確認できるという意味でも貴重な資料だ」と話している。
 はがきは12月7日から来年1月27日まで光太郎記念館で開かれる冬季企画展「光太郎からの手紙」に展示される。(溝口太郎)


花巻高村光太郎記念館さんに、横須賀在住の高橋さんという女性が光太郎から受け取ったはがきを寄贈されたというニュース。

先月、市民講座の講師を仰せつかって花巻を訪れた際、市役所の担当の方から「こういうものの寄贈があったのですが」とコピーを渡され、調査いたしました。当初、消印の年月日ががなかなか判読できず、何年のものかを特定するのに手間取りましたが、光太郎が郵便物等の授受を記録した「通信事項」というノートがあり、昭和25年(1950)9月、確かに高橋さんから手紙を受け取り、返信をしたという記録がありました。

文面は以下の通り。

おてがみがこんな山の中へまで来ました、
小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、
おてがみに感謝します、
この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、


上野で光太郎の木彫「蝉」をご覧になって感動した高橋さんが、光太郎にその気持ちを伝えたことに対する返信だそうです。戦後、光太郎存命中にその作品がまとめて展覧会等に出たのは3回しかなく、そのうち2回は昭和27年(1952)の帰京後。すると、高橋さんがご覧になったのは昭和23年(1948)、上野の東博さんで開催された「近代日本美術綜合展覧会」か、と思いましたが、2年もたっていますし、その際には「蝉」は並びませんでした。となると、やはり東博さんで常設展示のような形で出していたのかもしれません。

若い人達」云々。戦後の光太郎は、若い世代に対して、新生日本を作っていってほしいという期待をかけ、あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行ったりもしていました。そうした気持の一つの表れのような気がします。

最後の一文中の、「この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもり」。昭和25年(1950)当時、光太郎は確かにこう考えていました。昭和27年(1952)に帰京したのは、岩手の山小屋では不可能な「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためで、それが終われば山に帰るつもりでいました。実際、「乙女の像」除幕後の昭和28年(1953)には一度、山に帰ったのですが、健康状態がもはや山での生活に耐えられず、やむなく再上京(それでも住民票は昭和30年=1955まで移しませんでした)、結局、東京で歿することになります。

とまあ、そういったお話も電話取材に対してしたのですが、紙幅の都合でそこまでは載せられなかったようですので、補足します。

というわけで、貴重なはがきのご寄贈、ありがたい限りです。

その他、新聞各紙でやはり光太郎の名が出ているコラム、記事等がまたいろいろありまして、明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

先生方が別に美について説明したり教えたりする必要はない。ただ身体の中に持つていてもらいたいのです。自然にそれがにじみ出してくる。それでいいのです。人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります。

談話筆記「美の日本的源泉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

光太郎が暮らしていた山小屋近くの山口分教場で行われた講話の筆記から。昭和17年(1942)の『婦人公論』に連載した「日本美の源泉」をもとにした連続講話ですが、上記の「あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行った」一つの例です。

それにしても「人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります」。昨今の「ナントカを見る会」の報道に接すると、その通りだなあ、と思います。

11月2日(土)、盛岡を後に、レンタカーで一路、花巻へ。宿泊先である在来線花巻駅前のかほる旅館さんにチェックイン。かほる旅館さんは、先月の市民講座「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際に引き続いてです。初めて泊めていただいたのが20数年前、それ以来、何だかんだで10回近くはお世話になったでしょうか。

一泊素泊まり5,000円也。夕食は外で。

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徒歩数分の、いとう屋さんへ。戦後の光太郎日記にたびたび記述があり、当時の花巻町中心部で光太郎が最も多く利用したと思われる食堂です。建物はリニューアルされていますが。

腹を満たしたところでかほる旅館さんに帰り、入浴、就寝。翌朝は7時に出ました。

まずレンタカーを向けたのが、大沢温泉さん。

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出来ればこちらに泊まりたかったのですが、紅葉シーズンの土曜日で、頼もうとした時にはもう満室でした。しかし、意地でもここの露天風呂につかりたいと思い(笑)、日帰り入浴600円也で入湯。

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紅葉が見頃でした。


露天風呂だけが目的ではなく、メインの目的は、休業中の菊水館さんを使っての「昔ギャラリー茅(ちがや)」の拝見でした。

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花巻で宿泊予約する際、まず菊水館さんに当たるのが習慣で、年に数回泊めていただいていましたが、昨年8月の台風で、こちらにつながる道路の法面(のりめん)が崩れ、食材やらの物資搬入等が困難ということで、昨年9月いっぱいで一時休業となってしまいました。そこで、今年6月から「昔ギャラリー茅」として、いろいろな展示を行っています。

先月、花巻に伺った際には立ち寄る時間が無く、今回、お邪魔した次第です。

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建物は築170年近いもので、やはり戦後の光太郎日記に、光太郎もこちらに泊まったことが記されています。

展示も入れ替えがあるようで、現在は「大沢温泉×岩手大学 学生 コラボレーション企画 今昔の彼方へ」ということで、現代アート的な作品の展示もありました。

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上記は当方、一度泊まった部屋。ただ、よく泊めていただいていた梅の間の棟は使っていませんでした。

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こちらは菊水館さんの内湯・南部の湯の女風呂。当方、初めて足を踏み入れました(笑)。

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他に、宮澤賢治関連、南部のお殿様関連、昔の品々などの展示も。エンドレスで流れていたアナウンスでは光太郎関連も、という内容でしたが、今回は見あたりませんでした。

こちらは元の食堂。ここに泊めていただいた時には、朝夕、素朴ながらも美味しい料理に舌鼓を打っていたことを思い出し、涙が出そうになりました。

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ギャラリーとしての活用もいいと思いますし、皆様にもぜひ足をお運びいただきたいのですが、やはり宿泊施設として、一日も早い再開を希望します。


大沢温泉さんをあとに、花巻高村光太郎記念館さんへ。

先月、ダッシュでしか見られなかった企画展示「高村光太郎 書の世界」をゆっくり拝見。


額の裏に、当会の祖・草野心平の揮毫のある作品も。

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昨年の企画展示「光太郎と花巻電鉄」の際に、ジオラマ作家・石井彰英氏に制作をお願いしたジオラマは、常設展示室に移動していました。広い部屋に置くと、この大きさがさらに際だつなと思いました。

その後、事務室で今後の企画展等についての相談やらを受け、さらに隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)へ。

こちらも紅葉がいい感じでした。最近はキツネが出没するそうです。

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内部の照明に手を入れたそうで、確かに以前より見やすくなっていました。

お土産に当方大好物のリンゴをたくさんいただき、大感激のうちにこちらを後にし、最後の目的地へ。市街桜町の、故・佐藤進氏邸です。

先月11日に亡くなられた進氏、父君の佐藤隆房は賢治の主治医で、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏ご自身も、光太郎と交流がおありで、父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

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こちらは高村山荘套屋内部に飾られている写真。前列中央が光太郎、後列右端が進氏、一人おいて父君です。

先月のご葬儀には参列適わず、弔電は送らせていただいたのですが、やはり四十九日前にはご焼香を、と思い、参じました。奥様がいらしていて、対応して下さいました。

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改めてご冥福をお祈り申し上げます。


その後、東北新幹線新花巻駅でレンタカーを返却、帰途に就きました。以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人間以上の人間がそこにいるように見える。美はここに至つて真に高い。われわれの魂はもろもろの附属物を洗い去られて、ただ根源のものこそ貴重だということを悟らせられる。

散文「ロンダニーニのピエタ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダン同様、光太郎が終生敬愛して已まなかったミケランジェロの有名な作品の一つ、「ロンダニーニのピエタ」に関してです。

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当方、光太郎の彫刻に関して、同じようなことを感じます。

智恵子の故郷・福島二本松を後に、次なる目的地、岩手盛岡に向かいました。昭和20年(1945)以後、花巻町およびその郊外旧太田村に足かけ8年暮らしていた光太郎がたびたび訪れた街です。

盛岡駅から路線バスに乗り、たどりついたは中の橋の岩手銀行赤レンガ館さん。旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して、各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財。明治44年(1911)の竣工ですので、たびたび来盛した光太郎も眼にしているはずの建物です。

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こちらでは、11月2日(土)、3日(日)の2日間、「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」が開催されていました。

基本、岩手の伝統産業の一つであるホームスパンの、現代作家の方々による展示、即売、製作実演などでした。


建物の趣と相まって、まるで日本ではなくどこか外国のバザールとかマルシェとか、そういった雰囲気でした。

出展されていた工房さんの中には、ともに光太郎と交流のあったホームスパン作家・及川全三やその高弟・福田ハレの流れを汲むところも。


ちなみに一昨日の夜、車を運転中に何の気なしにカーナビテレビのチャンネルをNHK Eテレさんに合わせたところ、生涯教育的な番組「趣味どきっ」が放映中で、何とみちのくあかね会さんが取り上げられていました。自宅兼事務所に帰って調べましたところ現在放映の月曜シリーズが「暮らしにいかすにっぽんの布」ということで、今日も午前中に総合テレビさんでオンエアがありまして、録画予約しておきました。

余談になりますが、この番組では書道を扱った平成27年(2015)の「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」で光太郎智恵子を取り上げて下さり、少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきました。


閑話休題。で、赤レンガ館さんの一角に、特別展示として、光太郎の遺品である毛布が展示されていました。戦後の光太郎日記に何度か「メーレー夫人の毛布」として記述があり、その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認された(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)ものです。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

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以前に一度、所蔵する花巻高村光太郎記念館さんで拝見し、今回は二度めです。

今年2月に、岩手県立大学さんの公開講座として、先述の菊池教授による「高村光太郎のホームスパン」があり、拝聴、また、菊池教授の研究報告「「高村光太郎記念館」所蔵のホームスパンに関わる調査」を拝読、わずかながらご調査に協力させていただき、自分でもいろいろ調べたので、感慨ひとしおでした。

その後、赤レンガ館さんの向かいにある「プラザおでって」さんに移動。こちらで菊池教授の特別講演「高村光太郎のホームスパンを探る!」を拝聴するためです。

おでってさんから見た赤レンガ館さん。いかにも辰野建築です。

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大筋では、2月の講座と同一でしたが、その後、他KIMG3363の専門家の方が現物を見ての感想などが新たに加わり、また、前回は60分だったのが今回は90分と、その分、ボリュームアップしていました。

他の専門家の方、というのがこちら。毛織物作家の大久保芙由子さん。NHKさんで放映中の「鑑賞マニュアル 美の壺」にもご出演された方です。また、本場英国への留学のご経験がおありだそうで、光太郎毛布の作者、エセル・メレとはお会いできなかったそうですが、その流れを汲む作家の人々と交流されたそうです。

今回のレジュメには大久保さんから菊池教授に送られた光太郎毛布の分析的な報告も附されていました。実際にこういったものの制作に従事されている方の視点はさすがと思わせられるものでした。

まとめ的な部分で曰く、

エセル・メイリの作品が、高村光太郎・智恵子夫妻によって選ばれ、長い間身辺に置かれて慈しまれ、彼らの美意識にかない、彼らの生活の一部となりえた貴重なものとして尊重したいと思う。

なるほど。

ところで、「メイリ」とあるのは、「Ethel Mairet」のカタカナ表記が日本では確定していないためです。文献によって「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイリ」「メアリー」など、さまざまだそうで。

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当方としては、こうした真に「いいもの」を見極め、身辺に置いて愛用した智恵子や光太郎の審美眼的な部分にも感銘を覚えます。

ちなみに、以前にもこのブログに掲載しましたが、この毛布(と思われるもの)を膝に掛けている光太郎の写真。

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おそらく昭和28年(1953)で、場所は光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエです。背後に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が写っています。菊池教授、今回のご講演ではこの画像もスクリーンに投影してくださいました。

その後、再び赤レンガ館さんへ。菊池教授、大久保さんもいらっしゃり、現物を見ながら「この部分がこうなっている」「この色は××を使って染めている」的な解説を拝聴。ありがたく存じました。


続いて、すぐ近くのニッポンレンタカーさんの営業所で車を借りました。ここから翌日までレンタカーでの移動です。

宿泊は花巻でしたが、その前に、盛岡市内の岩手県立美術館さんへ。現在開催中の「紅子と省三 ―絵かき夫婦の70年―」を拝見。

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共に盛岡出身の画家、深澤省三・紅子夫妻の画業をたどる回顧展です。夕方6時まで開館しているということで、ラッキーでした。

夫妻は共に戦後に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教壇に立ち、同校にオブザーバーとして関わった光太郎と交流がありました。

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こちらは昭和25年(1950)、盛岡の菊屋旅館(現・北ホテルさん)で開催された光太郎を囲む会食会「豚の頭を食う会」。深澤夫妻も写っているはずです。

この翌日から、雫石にあった夫妻の家に、光太郎はおそらく2泊逗留しました。当方、平成27年(2015)、夫妻のご長男、故・竜一氏のお宅にお邪魔し、その際に光太郎に書いてもらったという宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節を揮毫した書を拝見しました。

さらにその折に詳しくお話を伺ったのですが、竜一氏は東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を、三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた竜一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員。花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪ねられたりもしたそうです。雫石のお宅では、光太郎、好物の一つだった牛乳を一升ほどもがぶ飲みいていたとのこと(笑)。

さらに、紅子の父・四戸慈文は、盛岡で指折りの仕立て職人だったそうで、のちのちまで光太郎が愛用したホームスパンの猟人服(花巻高村光太郎記念館さんで常設展示中)も四戸の仕立てでした。

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さて、夫妻の絵を拝見。

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同じく盛岡の深沢紅子野の花美術館さんを二度訪れたことがあり、夫妻の絵はそちらでも拝見していましたが、油絵の大作をまとめて見るのは初めてでした。

ステレオタイプの表現をするな、と、ジェンダー論者のコワい方々に突っ込まれそうですが(笑)、男性的で雄渾な省三の絵、女性的で細やかな紅子の絵、それぞれに眼福でした。特に紅子の一見油絵に見えない水彩風の優しいタッチで描かれた大きな絵画群が印象に残りました。日本画的な要素も強いな、と感じていましたところ、年譜を見ると紅子は女子美術学校ではじめ日本画に取り組んでいたそうで、なるほど、と思いました。

光太郎との関わりが展示の説明の中に一切無く、その点は残念でしたが、いいものを見せてもらった、という感じでした。

その後、レンタカーを南に向け、花巻へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

静かに坐りこんだやうな彫刻作品に対しても、こちらもじつと坐りこんで静かに呼吸すると、呼吸の微動によつて、向ふの彫刻も肩なり胸なりで微かに呼吸してゐるやうに感じる。

散文「埃及彫刻の話」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

特に具象の優れた造型作品に接すると、確かにこう感じますね。絵画でもそうですが、やはり彫刻の方が、3Dである分、この傾向は強いように思われます。

昨日から一泊二日で東北二県を回っております。

昨日は、智恵子の故郷・福島二本松。智恵子と同郷の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんへ。
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その後、盛岡へ。旧岩手銀行赤レンガ館さんで展示中の光太郎遺品の毛布ーー世界的染色工芸作家・エセル・メレの作ーーを拝見、さらにそれに関わる講演を拝聴。

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さらに岩手県立美術館さんで、光太郎と交流のあった画家の深澤省三・紅子夫妻の展覧会「紅子と省三 絵かき夫婦の70年」を拝見。
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今日は花巻の大沢温泉さんに開設されたギャラリー茅(ちがや)、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎書の世界」を拝見するなどして帰ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。

岩手での展示等につき、紹介の記事が出ています。ありがたし。


まず、『朝日新聞』さん。花巻高村光太郎記念館さんの企画展「高村光太郎 書の世界」を紹介して下さいました。

高村光太郎の書 記念館で企画展

 晩年の約7年間、花巻市で山居生活を送っ001た、詩人で彫刻家の高村光太郎による「書」を集めた企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。

 1945年、宮沢賢治との縁で花巻に疎開した光太郎は、戦争に加担した悔恨から彫刻制作を封印する一方、大小さまざまの味わいのある書を残した。

 企画展「高村光太郎 書の世界」は、彫刻、文芸と並んで光太郎の「第3の芸術」ともいわれる書を通じ、花巻時代前後の足跡を浮かび上がらせる狙い。1951(昭和26)年、花巻の山口小学校長から校訓の考案を頼まれて書いた「正直親切」など十数点を展示し、書の理論について光太郎がつづった散文などもパネルで紹介している。

 11月25日まで。会期中は休館なし。(溝口太郎)



続いて、『盛岡経済新聞』さん。

盛岡・赤レンガ館で「ホームスパン」イベント再び 羊毛の魅力を見て触れて

 工芸展「赤レンガ伝統工芸館 vol.4 ホームスパン」が11月2日・3日、「岩手銀行赤レンガ館」(盛岡市中ノ橋通1)で開催される。(盛岡経済新聞)

 「岩手銀行赤レンガ館」を管理する「岩手銀行」が、県内に継承される伝統工芸品を広く知ってもらおうと企画した同展。観光施設として県内外から多くの人が訪れる同施設を活用し、岩手という地域や産業の価値をPRする拠点にするとともに、県内で伝統工芸に関わる人を応援する。

 展示は年4回の予定で6月にスタートし、1回目は「漆」、7月の2回目は「かご」、10月に行われた3回目は「南部鉄器」、最後となる4回目は「ホームスパン」をテーマに行われる。工芸展の企画の背景には2017(平成29)年に開催されたホームスパン工房・作家による合同展示会「Meets the Homespun」の成功もあるという。今回の展示は「Meets the Homespun」の2回目という位置付けでもある。

 同展のコーディネートを担当してきた「まちの編集室」の木村敦子さんは「これまで開催している中で、県外や海外からの来場者が多かったのも印象的。県内の人からも、1つのものについて複数の作家や工房が集まるので、見比べながら購入できるという感想が聞こえている」と話す。「伝統工芸についてよく知らないという声はあるが、興味を持つ人は県内外に確実にいるということが分かったのも収穫」とも。

 今回の展示では県内17のホームスパン工房・作家が参加。ベテランから若手まで幅広い作り手が一堂に集まる。このほか、県産羊毛「i-wool(アイウール)」を使った製品の展示販売や、毛糸やつむぎ道具など羊に関わるものが並ぶ「ひつじまわり展」、ワークショップ、高村光太郎の妻・智恵子が大切にしていたエセル・メレエ製のホームスパンの毛布の特別展示なども行われる。

 初日には「プラザおでって」で特別講演も開く。展示にも参加している「蟻川工房」の蟻川喜久子さんによるホームスパンと実用についての内容のほか、岩手県立大学盛岡短期大学部教授の菊池直子さんが特別展示のエセル・メレエのホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告する。

 木村さんは「完成された製品だけではなく、毛糸や道具、小物などの販売もあるので、自分で作りたいという人の素材探しにもぴったりだと思う。ホームスパンの工房や作家が一度に集まる機会はなかなかない。見て、触れて、自分好みのアイテムや誰かに贈るプレゼントを見つけてほしい」と呼び掛ける。

 開催時間は10時~16時。入場無料。

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こちらは今度の土日に開催される「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」の予告です。

当方も土日、盛岡、花巻、さらに智恵子の故郷である福島二本松にも立ち寄って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】


芸術は各個の持つ魂を表現したもので比較されたりなどすべきものではないと思ひます。

談話筆記「聖徳太子奉賛展への出品について」より
大正15年(1926) 光太郎44歳


000「第一回聖徳太子奉賛美術展」は、この年5月から6月にかけ、上野の東京府美術館で開催された大規模な展覧会です。

文展などの官設の展覧会には出品しようとしなかった光太郎が、ブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)、木彫「鯰」(大正15年=1926)を出品し、「高村が展覧会に作品を出した!」と驚かれました。

同展が無審査の展覧会だったためで、それならば出品もやぶさかでない、という考えでした。この後も昭和2年(1927)と翌年に開催された、やはり無審査の「大調和展」にも作品を出しています。


ちなみにこの時出品された「鯰」は、竹橋の国立近代美術館さんの所蔵。現在、熊本市現代美術館さんで開催中の「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」に出品されています。

雑誌系、2件ご紹介します。

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)  vol.16

2019年10月20日 Office風屋 定価500円(税込)
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一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。

花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。

メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。

ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))


もう1件。

季論21 2019秋 第46号

2019年10月20日 本の泉社 定価909円+税
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歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。

サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。

傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。

まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。

しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。

それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。

これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。

それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。

しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。

ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。

散文「山形県総合美術展彫刻評」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。

岩手盛岡からイベント情報です。

 IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)

期 日 : 2019年11月2日(土)・3日(日)
時 間 : 10:00~16:00
会 場 : 
岩手銀行赤レンガ館 岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目2番20号
料 金 : 無料

岩手には漆器や南部鉄器、ホームスパンなど多くの優れた伝統工芸品があります。本イベントはその 展示や紹介を国の重要文化財である赤レンガ館で開催することによって、伝統工芸品のさらなる認知度の拡大を図るとともに、工芸品を製造・販売する事業者の皆さまの販路拡大の機会としていただくことを趣旨として開催するものです。
入場無料のイベントですので、お気軽に赤レンガ館に足をお運びいただき、歴史ある建築物と岩手が誇る優れた伝統工芸品とのコラボレーションをご堪能くださいますよう、お願い申しあげます。

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特別展示 エセル・メレ工房製作 「高村智恵子が愛した毛布」

高村光太郎の妻・ 智恵子が大切にしたホームスパンの毛布を特別展示。イギリスのエセ ル・メレ工房にて約100年前に作られた作品です。

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特別講演


蟻川喜久子氏(蟻川工房)  11:00-12:00 「使い継ぐ民藝・ホームスパン」
民藝の精神を受け継ぎ、「羊毛の本質を活かす」仕事を続ける蟻川工房。使ってこそのホームスパンと実用の美しさについて伺います。

菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)  13:30-15:00
「高村光太郎のホームスパンを探る!」
特別展示のエセル・メレによるホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告。文献を読み解いて掘り下げます。



花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、光太郎の遺品の中から見つかったホームスパン(羊毛を使った手織り)の毛布。戦後の光太郎日記にも「メーレー夫人の毛布」として何度か記述があります。その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認されました(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

今年の3月に盛岡で開催された「岩手県立大学盛岡短期大学部 アイーナキャンパス公開講座」の中で、菊池教授が「高村光太郎のホームスパン」という講座をなさり、さらに同大の研究紀要で詳細をご記述。当方、講座を拝聴に伺いました

講座を受講された方などから、ぜひ現物を見たいという声が上がり、今回の特別展示につながったようです。当方、一昨年くらいに現物を手に取って拝見しましたが、非常にしっかりした作りで、保存状態も良く、よくぞ残っていたものだと感じました。

その菊池教授、さらに現花巻市の旧東和町でホームスパン制作に携わり、光太郎と交流のあった及川全三の流れを汲む、蟻川喜久子氏による講演も予定されています。

会場の岩手銀行赤レンガ館さんは、旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。明治44年(1911)の竣工、東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財です。

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ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

夭折して今は居ない或る若い彫刻の学生が曾て私に心事を語つた。「世の中に立てませんから帝展へはどうにかして出します。其れには帝展の人達がいくら口で否定しても事実として存在する帝展風の彫刻といふものを作ります。さうして特選になます。推薦になるまで辛抱します。推薦になつてしまつたら、思ふ存分自分の為事をやります。どうか長い目で見てゐて下さい」。此れをきいて私は暗然とした。この若者の死んだ事を聞いた時私は涙を催した。

散文「帝展の彫刻について 四」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


当時のアカデミックな公設展覧会のありようが象徴的に示されています。現在ではこういうこともないのでしょうが……。


光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」につき、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。

書でたどる創作の日々 光太郎記念館企画展 初公開資料も【花巻】 

 高村光太郎記念館の企画000展「高村光太郎 書の世界」は、花巻市太田の同館で開かれている。書額や原稿など花巻で生み出された作品を通し、光太郎の創作の日々をたどる企画。初公開資料もあり、多くの光太郎ファンでにぎわっている。11月25日まで。
 同館企画展示室に特設コーナーを設け、詩人の草野心平に贈られた色紙額「不可避」や旧山口小学校の依頼を受け揮毫(きごう)した書額「正直親切」など26点を展示。1950年に旧太田村役場改築記念として制作された「大地麗(だいちうるわし)」は7年ぶりの実物展示とあり、来館者の関心が高い。
 このうち光太郎晩年の芸術評論「書についての漫談」原稿は初めて公開される資料。「その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかわらず必ず書ける。その代り、いくら骨折っても自分以上の書はかけない。(中略)卑しい根性の出ている書がいちばんいやだ」などの主張が印象的な直筆資料で、読みやすい文字と少ない訂正箇所、著名書作家にも言及した評論の鋭さなどが興味深い。
 各資料には制作時期や当時の逸話を記した説明書きもあり、花巻での小太郎の生活や交遊などもうかがい知れる企画展。同館では「(光太郎の)花巻時代の物がまとまって外に出る貴重な機会。作品だけでなく当時のエピソードも紹介できることが(同市)太田で開く企画展の意義」と話し、多くの来館に期待を寄せる。
 午前8:30~午後4時30分。期間中無休。一般入場料550円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012まで。



「大地麗」の書については、花巻市さんの広報紙『広報』はなまきの10月15日号でも取り上げられています。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」というコーナーです。
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この書を書いてもらうにあたって、そうホイホイと書を書いてくれるわけではなかった光太郎に対し、当時の高橋雅郎村長ら、村の中心人物たちは一計を案じました。「女性の頼みなら、無礙に断ることもあるまい」と、村長夫人のアサヨさんを依頼に派遣したのです。ちなみに彼の地で永らく光太郎の語り部を務められた高橋愛子さんはそのご令嬢です。その作戦が当たり、光太郎はこの書を書いてくれました。


もう1件。花巻市さんでは季刊で冊子体の広報誌『花日和』も刊行していますが、その2019年秋号。光太郎も足繁く通った大沢温泉さんが大きく取り上げられています。

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大沢温泉さん、昨年8月の台風13号で、別館的な菊水館につながる道路の法面(のりめん)が崩落、食材などの物資を搬入するのが困難となったため、宿泊棟としては休業せざるを得なくなりました。が、建物自体に被害はほとんど無く、今年6月から、ギャラリーとしての活用を始めたそうです。その名も「昔ギャラリー茅(ちがや)」。

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いずれ宿泊棟としても再開されるはずですが、当分はこういう活用のようです。やはり建物は利用されないでいると、何というか、生命力みたいなものがどんどん失われるわけで、なかなかいいアイディアですね。

来月初めにまた東北に行く予定があり、宿泊は花巻でと考え、大沢温泉さんで営業中の湯治屋さん(自炊部)、通常の温泉旅館的な山水閣さんを当たりましたら、既に満室でした。まぁ、紅葉シーズンですし、菊水館さんの分のキャパが減っているので仕方がありません。ただ、日帰り入浴を兼ねて、拝見してこようと思っております。

記念館さんも含め、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて美の発見には眼を新にするといふ事が必要である。唯ひたすらに在来の物の見方にのみ拘泥して其の美の基準からばかり物をうけ入れてゐると、知らぬまに感覚が麻痺して、眼前に呈出された美を見損ふ事がある

散文「服飾について」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎、伝統的な美の尊重も大事だと考えていましたが、新しい美の創出にも貪欲でした。

ただ、この文章、戦時下でもんぺ姿の女性達にも美を見出すべきだ、というのが趣旨で、何だかなぁ、という感じではあります。

今日は新聞のみですが……。

まず『日本経済新聞』さん、10日夕刊の掲載です。

読書日記 ナレーター 近藤サト(2) 「緑色の太陽」 芸術の核心を見る手助け

美術史や美術論が好きだ。といっても評論家や研究者による論考はいまいち肌に合わず、実作者の言葉にひかれる。一方でやはりアーティストは文章より作品のほうがすばらしいのが悩ましい。

そんな中で彫刻家であり詩人の高村光太郎による芸術論『緑色の太陽』(岩波文庫)は異彩を放つ。初めて手にしたのは90年代後半だったか。一読して私が覚えたのは、憤りだった。なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと。
表題作「緑色の太陽」に光太郎は記す。「僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何(いか)に取扱っているかをSCHAETZEN(評価)したいのである」「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりとは言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである」
太陽を緑色で描いていい。光太郎がこれを記したのは明治43年(1910年)。私の祖父母の時代に存在した論考だ。それなのに、私が幼いとき誰もそんなことは言わず、太陽は赤と刷り込まれ、芸術の核心から遠ざけられた。大人になり自分で探さなければ「緑色の太陽」にたどり着けないなんてあんまりだ。
光太郎の芸術論は、わかっているけれど言語化できないことを鮮やかに文章にする。結論を押しつけるのではなく、違う視点を差し出して、ものを見る手助けをしてくれる。もしかしたら光太郎は自信のない、私たちによく似た人物だったのではないか。居丈高な評論とは対照的な筆致から、そんなことも感じる。

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岩波文庫の『緑色の太陽』。当会顧問の北川太一先生による編集・解説で、昭和57年(1982)に刊行されました。光太郎生前に『緑色の太陽』という書籍があったわけではなく、光太郎の評論・エッセイから30篇ほどをセレクトして一冊にまとめたものです。標題は明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された同名の評論から。「日本初の印象派宣言」と評されたり、光太郎と出会う前の智恵子がこれを読んで感激したりといったものです。001

近藤さん、テレビ東京系の美術番組「美の巨人たち」でナビゲーターを務められるなど、美術にも造詣が深く、光太郎の言わんとする点をよく押さえて下さっています。

一読して私が覚えたのは、憤りだった」。えっ、何でだよ! それがすぐ「なぜこれを、小中学校で教えてくれなかったのかと」。巧い構成です。

さて、岩波文庫『緑色の太陽』。岩波さんのサイトで調べてみましたところ、「在庫なし」扱いでした。古書市場では普通に入手できますが、これを機に重版を希望します。

文庫の重版といえば、新潮文庫版の『智恵子抄』、過日、都内の新刊書店で令和になってからの重版を見かけました。百二十何版だったかでした。ありがたい。

もう1件。過日の岩手花巻「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の件を、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。 

詩人、彫刻家遺徳しのぶ 光太郎記念館講座 受講者が詩碑巡り

【花巻】高村光太郎記念館講座「詩と林檎(りんご)のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」は7日、花巻、北上両市内で開かれた。高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=を講師に、受講者が両市に建つ詩碑を見学。本県に大きな足跡を残した詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。
 光太郎作品に親しむ男女27人が受講。花巻市花城町のまなび学園を発着点に、光太郎の文字を拡大して刻まれた「開拓に寄す」太田開拓三十周年記念碑=同市太田=や「ブランデンブルグ」詩碑=北上市二子町=などを現地確認した。
 名称や所在地、建立年などが示された資料が配付されたほか、小山代表が各地で詳細に説明。花巻市双葉町内に建つ「松庵寺」詩碑の説明では「(光太郎は)戦争中は(妻の)智恵子に関する詩を書かなかったが、戦後になって初めて書いたのがこの『松庵寺』。石碑もいつかは朽ち果ててしまう物であり、次世代に語り継がなければならない。ゆかりの地である岩手の皆さん、よろしくお願いします。」と呼び掛けていた。
 専門家の解説付きで詩碑を見回る貴重な機会だけに、どの受講者も満足そうな表情。
 同市豊沢町の照井富士子さん(67)は、「きのう詩集を一冊読み終えたばかりで、改めて感動した。ホテルでの昼食もおいしかったし、とても楽しかった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせていた。

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「来年」があるかどうか分からないのですが(笑)。

書かれたのは顔見知りの記者さん。さも同行したかの如き書きぶりですが、最終見学地の松庵寺さんで待ちかまえていてそこだけでの取材でした(笑)。まぁ、受講者27名プラス市役所の方々、高村光太郎記念館のスタッフの皆さんも数名ずつ同行し、バスは満席、バスの後ろから乗用車一台での移動でしたし、時間も長かったのでそんなもんでしょう。

それにしても台風19号。1週間ずれていたら、と、ぞっとしました。前日のレモン忌にしてもこの碑巡りにしても、やはり雨男・光太郎のせいで(笑)、途中、パラパラと雨に見舞われましたが、パラパラ程度で助かりました。


【折々のことば・光太郎】

からだの中で養つたもの、うまく言ひ現はせないが、何といふか、全身を搏つやうなもの、さうだ、全身から湧きあがり燃えあがるものでなければだめだ。

談話筆記「芸術する心」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

談話筆記だけに光太郎の生の声がよく表されていますね。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻旧太田村の山小屋(高村山荘)と隣接する、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2019年9月27日(金) ~11月25日(日) 会期中無休
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。
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同館では、一昨年にも同名の展示を行いました。その際は花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環でしたが、今回は単独開催のようです。

10月7日(月)、花巻市・北上市で行われた市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の最中、トイレ休憩で同館駐車場に立ち寄った間隙に、急いで写真を撮らせていただきました。
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展示品の目録がこちら。
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一昨年の展示とだいたいかぶっていますが、そうでないものも出ています。いずれにしても優品揃いです。

「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で見て回った石碑類に刻まれた碑文の元となった書も多く、同講座参加者の方にはぜひ併せて見ていただきたいものですし、その他の皆さんもぜひ足を運んで下さい。

当方、来月初めにまた改めて拝見に伺います。


【折々のことば・光太郎】

僕等が一番望みを掛けて居るのは、次の世代を形造る今の少年である。今の人はこの子供を自分達より大事にしなければならぬ。さうしてそれに自分達が教育して欲しかつたことを教育してやつて、次の代を立派にしなければ駄目である。
談話筆記「戦後の我が芸術界」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「戦後」といっても太平洋戦争ではなく、第一次世界大戦を指しています。師・与謝野夫妻や光太郎も関わった、文化学院さんなどの大正自由教育運動などを念頭に置いた発言でしょう。

過日、同じ時期に書かれた「教育圏外から観た現時の小学校」という散文を見つけました。光太郎の教育論が端的に示されています。高村光太郎研究会さんから来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』にてご紹介するつもりでおります。

東北レポートの2回目です。

10月6日(日)、智恵子を偲ぶレモン忌が催された福島二本松をあとにして、その日のうちに岩手花巻まで移動しました。翌日朝から夕方まで、市民講座の講師を仰せつかっていたためです。
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講座のタイトルが「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」。わざわざ当方の名なぞタイトルに入れる必要もないのですが、知らぬ間にそういうことになっていました(笑)。花巻市内と隣接する北上市で、光太郎ゆかりの石碑等をバスに乗って見て歩き、それぞれの石碑等の解説を当方が行うというツアーです。

花巻に着いたのが午後9時頃。もともとそのくらいの予定でしたし、集合場所である市の施設・まなび学園さんが市街地中心部ということで、宿泊は普段の温泉峡ではなく、在来線花巻駅前のかほる旅館さん。昔ながらの商人宿といったたたずまいです。講話を仰せつかった3年前の賢治祭の時などもかほる旅館さんでした。
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市役所の方がかほる旅館さんまで車で迎えに来て下さり、集合場所のまなび学園さんへ。ここから参加者の皆さんとバスに乗り込み、いざ、ツアー開始。
 
走り出してすぐの当方挨拶では、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、これから巡るそれぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたい、的な話をさせていただきました。

さて、最初の目的地、花巻北高校さん。旧制花巻中学校の後身です。有名な卒業生は元NHKさんの名物アナ、故・高橋圭三さん、それからご卒業はされていないということですが、ミュージシャンの故・大瀧詠一さんなどなど。高校さんと光太郎に直接の関わりはありませんが、光太郎の精神に学んでほしいという昭和51年度(1976年度)の卒業生保護者の皆さんにより、高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)、台座に光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の一節が刻まれています。
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続いて、花巻温泉の「金田一国士頌碑」。昨年、国の登録有形文化財に指定された旧松雲閣別館の、道をはさんだ向かいにひっそり建っています。
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グループ企業としての花巻温泉社長だった金田一国士の業績を称える碑で、金田一の没後10年の昭和25年(1950)に建立。碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下記は除幕式の集合写真。左の方に光太郎も居ます。ガタイがいいのですぐわかります(笑)。
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その後、豊沢川にかかるかつて光太郎も渡ったであろうことから命名された「高村橋」を渡り、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある旧太田村へ。ここで高村山荘、そして隣接する高村光太郎記念館さんの駐車場にまずバスを駐め、10分のトイレ休憩。

その10分間に当方はダッシュで高村光太郎記念館さんへ。
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また来月初めにゆっくり見に行きますし、明日、詳しくご紹介しますが、企画展「高村光太郎書の世界」が開催中です。

さて、山荘敷地内にも光太郎関連の碑が4つあるのですが、時間の関係で割愛。山荘の土地を提供してくれた駿河重次郎が、戦死した子息の追善供養のため、かつて光太郎に貰った書を昭和32年(1957)になって石に写して建てた「金剛心」碑を見学。
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この日初めて、光太郎筆跡による碑ということになります。

続いて、山荘入り口の旧山口小学校。石ではなくコンクリート的な素材ですが、「正直親切」碑。かつてここにあった山口分教場が小学校に昇格した際に書いてあげた校訓です。同じ筆跡を使った碑が、光太郎の母校・東京都荒川区立第一日暮里小学校さん、それから光太郎を敬愛していた故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにもあり、そういう部分ではちょっと珍しいのではないかと思います。
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さらにこの地区の共同墓地。「金剛心」碑同様に駿河翁の肝いりで、光太郎の書を写した「皆共成仏道」碑。訓読すれば「皆共に仏道と成る」。「金剛心」ともども仏典由来の言葉です。昭和34年(1959)の建立です。
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この周辺が林檎畑。講座のタイトル「詩と林檎のかおりを求めて」の通りでした。
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旧山口小学校跡地の向かいにある「太田開拓三十周年記念碑」。昭和51年(1976)の建立で、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。曰く「開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる」云々。まがりなりにも農作業に従事していた光太郎の言葉だからこそ、重みがありますね。

バスに乗り込み、北上市へ。午前中最後の見学地・後藤地区の平和観音堂さん。
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当地で教師をしていた高橋峯次郎という人物が、戦没者供養のために建てたもので、ここの一角に光太郎碑が建っています。高橋は自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、昭和27年(1952)、光太郎に本尊の彫刻を依頼しました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりに観音讃仰の詩を書いた書を高橋に贈り、高橋が石碑にしたというわけです。くわしくはこちら

こちらの一行が着いた時、地元小学生の一団がやはり見学に訪れていました。ただし、光太郎碑というより、高橋の事績の学習のようでした。ついでで結構ですので(笑)、光太郎との関わりなども教えていただきたいものです。

ちなみにこちらは個人が建てたものではありますが、光太郎生前唯一の、光太郎の筆跡になる光太郎詩碑です。

その後、北上駅近くのホテルで昼食。お腹もふくれたところで午後の部に突入。同じ北上市の飛勢城趾に向かいました。

平成3年(1991)、竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。その内の一つがここにある光太郎詩碑です。刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」(昭和22年=1947)の一節。昭和25年(1950)に光太郎がこの近くで講演をした際にこの詩を朗読したというゆかりがありますし、「北上平野」の語も使われています。

ただ、以前も書きましたが、建立当初は碑のある場所からも非常に素晴らしい展望だったのが、30年近く経って繁茂した草木が展望を妨げ、碑のある場所からは何も見えなくなり、碑自体も埋もれる寸前です。下記は碑の前の展望台から撮影しました。
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続いて花巻市に戻り、文化センターでトイレ休憩。ここで、予定を変更し、急遽、ぎんどろ公園の宮澤賢治の「早春」詩碑も見学しました。
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この日、二番目に訪れた花巻温泉の「金田一国士頌」碑と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑、という話を「金田一国士頌」碑の前でしたところ、時間もあるし、ついでに見ておきましょうということになった次第です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

次の目的地はそこからほど近い石神地区の林檎園。当地の林檎栽培先駆者の一人、阿部博を顕彰する碑が建っています。
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刻まれているのは光太郎の筆跡で、阿部のために光太郎が即興で作った詩「酔中吟」。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス


七・七基調の俗謡調ですので、最後は「デリシャス」と読まず「デリシヤス」と五音で読めば調子がいいようです。「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう称したわけですね。阿部は盛岡高等農林学校で賢治の教えを受け、のち、賢治の主治医で太田村に移る直前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房医師の家で、光太郎と知り合いました。

当方、この碑を見るのは25年ぶりくらいで、懐かしく感じました。25年前、碑の詳しい場所も分からないまま花巻駅からタクシーに乗り、「石神でリンゴやってる阿部さん」と言い、運転手さんが苦労して阿部さん宅を見つけて下さいました。さらに博氏の子息と思われる方が、「石碑はここではないんだ」と、ご自宅から少し離れたこの畑まで自家用車に乗せて下さいました。

同様に、25年ぶりに訪れたのが、次の岩手雪運株式会社花巻物流センター敷地内の「牛」碑。
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元々、雪印乳業さんの花巻工場だった昭和43年(1968)、「牛」つながりで光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。

傍らには、ここが雪印さんの工場だったという碑。平成21年(2009)の建立です。『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん今年の4月号に紹介が載っており、「こんな碑が建ったんだ」と思っていまして、初めて目にしました。
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表面には光太郎肖像写真、裏面には光太郎の事績が刻まれています。ありがたし。

さて、いよいよ最後の訪問地、花巻市街の松庵寺さん。

こちらには光太郎碑が三基建っています。
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建立順に、右が昭和48年(1973)の建立で、昭和22年(1947)、光太郎がここで二十三回忌の法要をしてもらった母・わかを偲んで詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれています。わかは大正14年(1925)に亡くなっていますが、リンゴをお供えした母に再会出来たような気がする、といった歌ですね。

左は詩「松庵寺」(昭和20年=1945)が、佐藤隆房の筆跡でブロンズパネルになっています。「松庵寺」は、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)以来、4年ぶりに、また、戦後初めて書かれた智恵子を題材とした詩です。碑の建立は昭和62年(1987)。

中央がその「松庵寺」英訳の碑です。花巻北高校さんなどで英語の先生をなさっていた平賀六郎氏が、日本を訪れる外国の方に日本文化を知って欲しいと英訳されたもので、碑は平成20年(2008)に建てられました。

この三基の碑の前で、当方最後のご挨拶。最初と同じように、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、それぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたかったのですが、いかがだったでしょうか、的に話をまとめました。それから、堅牢な石碑といえども永遠のものではなく、やがては地上に割れてくずおれる日も来ようかと思われますが、そうなる日が少しでもあとのばしになって欲しい、そして、光太郎の名や業績や、次の世代へと語り継ぐ責務が我々にはあるんだよ、的な話も。

そしてまなび学園さんに戻り、午後3時、解散。

一日がかりの行程でしたが、それでも割愛した石碑もかなりありました。前述の高村山荘敷地内、それから、市街地なので参加者の方々もいつでも行けるでしょうということで、市役所近くの鳥谷崎神社さんにある「一億の号泣」(昭和20年=1945)詩碑、桜町の光太郎が揮毫した賢治の「雨ニモマケズ」碑。それから、東北新幹線の新花巻駅方面に、個人の方が個人の敷地に建てた光太郎からの書簡を写した碑もあります。当方が知らない他の碑もあるかも知れません。

しかし、この日廻っただけでも、高村光太郎記念館さんのスタッフの方、市役所の方が綿密にルートや昼食場所等考えて下さったお蔭でスムーズに回れました。大感謝です。

どこかの団体さん、学校さんなどで、こうした光太郎ゆかりの地を巡る的な研修旅行等お考えでしたら、このような形で添乗致します。花巻に限らず都内でも、それから十和田湖や智恵子のゆかりの二本松、九十九里やら犬吠埼やらの房総各地などなど。お声がけ下さい。


【折々のことば・光太郎】

が、兎に角、彫刻といふものは芸術と名づくべきものゝ中(うち)で、最も原始的な自然に近いもので、野蕃人が天地の間に受けた美の観念を現す時には、先づ石や樹に何か彫刻するといつた風なことをしたもので、従つて彫刻は最も神秘的なものとも云へませう。

談話筆記「彫刻の話」より 大正7年(1918) 光太郎35歳

ただ単に手頃な素材だからというだけでなく、太古の昔から人類は石や樹木に霊性を認め、さらに新たな生命を吹き込むために彫刻を施したとも考えられます。

石碑にも似た部分が有るようにも感じます。

都内からイベント情報です。

宮澤賢治123生誕前夜祭 宮澤和樹氏講演会

期    日 : 2019年8月26日(月)
時    間 : 19:00~20:30
会    場 : 紀伊國屋ホール 東京都新宿区新宿3丁目17-7
料    金 : 1000円(消費税含む)

今もなお語り継がれ、愛され続ける宮澤賢治。今年の8月27日には生誕123歳を迎えます。人形劇団プーク創立90周年記念公演「オッペルと象」に先立ち、前夜祭を開催いたします。賢治の実弟、宮澤清六さんのお孫さんである宮澤和樹さんをお招きし、清六さんから聞いた賢治の素顔をお話頂きます。賢治に想いを馳せながら、和やかなひとときを一緒に過ごしましょう!

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当方、和樹氏のご講演は、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれました。そこで、和樹氏、宮澤家に疎開していた頃の光太郎のエピソードもご紹介下さいました。


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左端が政次郎、隣が光太郎、その隣は賢治の主治医にしてやはり光太郎を寄寓させてくれた佐藤隆房、後ろで立て膝の状態にいるのが清六です。

和樹氏、あちこちでご講演をなさっていますが、それらの報道等を読むと、どうもご講演の内容、おおむねフォーマットが定まっているようで、今回も宮澤家で厄介になっていた頃の光太郎に触れていただけるような気がします。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

自分自身のことは、やはり自分のそのときやりたいことを目茶苦茶にやる以外に、それがどういうふうな形で現れてくるか、その場にならんとわからん。だから、却つて自分ではこういうふうにしてゆくだろうということは考えられない。また考えちや面白くない。

対談「芸術について」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

余命4ヶ月という時点での発言です。

確かに光太郎、詩「道程」にあるように、自らの道を切りひらいていこうという姿勢は常に持ち続けていましたが、その道がどこにどういう風に続いている、と、長いスパンで物事を考えることは苦手だったようです。その結果、俗世間と極力交わらない芸術精進の生活を強いて智恵子の心の病を引き起こしたり、戦時には翼賛詩文を大量に書き殴って多くの前途有為な若者を死地に追いやったりしたということなのでしょう。

しかし、その都度、しっかりと反省し、再び立ち上がって方向転換をしたという意味では、精神力の強さを感じます。

昨日、元のYAHOO!ブログからこちらに移転しました。とりあえずエラーもなく、元のデータは移行できましたので、胸をなで下ろしております。ただ、過去記事を見ますと文字や画像のサイズなどが結構むちゃくちゃになっているものもあり、少しずつ修正していこうと思っております。また、自分のブログ内にリンクを貼った箇所がかなりあり、12月まではそれでいいのですが、以後、リンクの期限切れとなるので、そちらも併せて直していく予定です。


ただ、2600件余の記事を修正せねばならず、それから、このライブドアさんのブログの編集画面、使い方が分からない箇所などがあり、今日の投稿にしてもそうですが、しばらく見づらい状態になるかと存じますが、よろしくお願い申し上げます。


さて、今日のタイトルの花巻関連、ということで。


まず、11日(日)の地方紙『岩手日報』さんの記事から。

花巻電鉄、雄姿見て 廃線50年記念し写真展

 花巻市中北万丁目の農業菅原唯夫さん(70)は同003市材木町の市民の家で、大正から昭和にかけて花巻を走っていた花巻電鉄の花巻西鉛線廃線50周年を記念した写真展を開いている。市街地と温泉街を結んだ東北初の路面電車。形から「馬面(うまづら)電車」と親しまれていた当時の様子を紹介している。

 路面電車は1915(大正4)年運行開始。花巻西鉛線(西花巻麟西鉛温泉間)は69年、花巻温泉線(花巻麟花巻温泉間)は72年に廃線となった。

 写真展では約250点を展示。乗車する詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)や、花巻西鉛線の最終営業日に住民らが駅のホームで電車を見送る写真などが並ぶ。

 貨車に木炭や硫黄を積んだ写真や、車両内がぎゅうぎゅう詰め状態だったことから、路面電車は住民にとって欠かせない存在だった。

 菅原さんは「花巻電鉄があったことを市民に知ってもらいたい。市の観光資源として、どのように継承していくか来場者の意見を聞かせてほしい」と訴える。

 20日まで。午前9時~午後5時。入場無料。期間中は材木町公園内で保存している当時の電車「デハ3」の乗車体験もできる。問い合わせは菅原さん(090・9532・7434)へ。


続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。

「馬面」花巻電鉄 旅情誘う 廃線50年で乗車会

 花巻市街地と花巻南温泉郷を結び、1969年まで運行されていた花巻電鉄鉛線の車両を保存展示する岩手県花巻市の材木町公園で、体験乗車会が開かれている。廃線から50年になるのに合わせ、地元の郷土史家菅原唯夫さん(70)が市に呼び掛けて実現した。20日まで。

 花巻電鉄で唯一現存する車両だが、台座として使われている枕木の傷みが激しく、荷重のかかる車内の一般公開は5年ぶりとなる。

 向かい合って座ると、膝と膝がくっつくほど狭い車内を見学した花巻市の会社員田口建二さん(50)は「今の時代にこれで温泉に行けたら面白いでしょうね」と話した。

 花巻電鉄は県道の一部を借用してレールを敷設したために最大幅員が1.6メートルしか確保できず、車両は独特の細長い形状となった。その見た目から「馬面(うまづら)電車」の愛称で市民に親しまれた。

 1915(大正4)年に営業運転が始まり、湯治客や沿線住民の足として利用された。宮沢賢治や高村光太郎が利用したことでも知られる。

 公園内の公共施設「市民の家」では、菅原さんが収集した花巻電鉄にまつわる写真展も開かれている。午前9時~午後5時、入場無料。連絡先は菅原さん090(9532)7434。


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昭和40年代まで、長年、市民の足として親しまれ、花巻町やその郊外旧太田村に蟄居していた光太郎もしばしばりようした花巻電鉄の写真展だそうです。会場はJR東北本線花巻駅西の材木町公園にある「市民の家」。元花巻町役場だった建物を移築したもので、ここの2階で光太郎が講演を行ったこともあります。また、同公園内には、光太郎も乗ったデハ3型の車両も静態保存されていまして、そちらの内部公開もあるとか。



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ぜひ足をお運びください。


続いて、定期購読させていただいている、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第15号が昨日届きました。


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花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの協力で為されている「光太郎レシピ」。「赤魚のムニエルと白瓜の雷干し」がメインです。さらに、花巻高村光太郎記念会事務局長にして横笛の達人・高橋邦広氏のご紹介。

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さらにテレビ放映情報。花巻がらみを3件ご紹介します。

わがまま!気まま!旅気分

BSフジ 2019年8月17日(土) 6時00分~6時55分

盛岡や花巻周辺を台湾で人気のユーチューバー三原慧悟さんと岩手めんこいテレビ・滝澤アナが2人旅。わんこそば挑戦や温泉など岩手の魅力満載。三原さんの動画撮影にも密着


旅人は台湾で大人気のユーチューバー三原慧悟さんと岩手めんこいテレビ・滝澤悠希アナウンサー。  花巻空港で台湾からの旅行客をお出迎えする地元の皆様に出会う。三原さんに気付いた旅行客の反応は?  花巻温泉を訪れた2人は名湯や敷地内の滝で癒やされる。 盛岡で2人はわんこそばに挑戦。 2日目は冷麺作りの体験や、つなぎ温泉を満喫。 小岩井農場では、アクティビティや農場グルメを堪能する。

<出演者> 三原慧悟 滝澤悠希(岩手めんこいテレビ・アナウンサー)


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出川哲朗の充電させてもらえませんか? 釜石から花巻大沢温泉まで130キロSP

地上波テレビ東京 2019年8月17日(土)  18時30分~20時54分

行くぞ!銀河鉄道の旅!釜石から花巻・大沢温泉まで130キロ!あ~ニッポンの原風景が美しすぎてヤバいよヤバいよSP

釜石大観音前から出発!釜石は、出川の大伯父が社長を務めていた日本製鉄の製鉄所や、曽祖父が「銀河鉄道の夜」のモデルとなる鉄道(岩手軽便鉄道)の社長を務めたゆかりの地。 ゲストの陣内智則と合流し、電動バイクで出発すると銅像を発見。出川の大伯父の銅像ではないかと興奮する。陣内と別れ、翌朝ゲストの石原良純と合流する。宮沢賢治記念館に行きたいという良純の願いを叶えるため、3人は記念館に向かう。出川は、大谷翔平と菊池雄星を輩出した高校をどうしても見たいと回り道。結果、遠回りしたことで良純と出川は言い争いバトルに。果たして無事ゴールの花巻・大沢温泉にたどり着けるのか?
出演者 出川哲朗 陣内智則 石原良純



光太郎も愛した大沢温泉さんが終点とのことですが、宮沢賢治がらみの内容がかなり扱われるようです。あの出川さんのひいおじいさんが岩手軽便鉄道の社長だったとか、意外な話になりそうです。出川さんの大伯父の銅像というのも、光太郎の「三陸廻り」(昭和6年=1931)に記述のあるもののような気がします。出川さん、そういう家系の出だったのですね。


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ゲストの石原良純さんと出川さん、賢治のコスプレに挑戦。しかし出川さんは、賢治というより笑ゥせぇるすまん(笑)。

ナニコレ珍百景 歩道橋に大量のツバメの巣&巨大岩と一体化した家SP

地上波テレビ朝日 2019年8月18日(日)  18時30分~19時58分

★岩手・花巻…今はなき昭和のモノだらけ!?古すぎる小学校▼石川・輪島…岩を突き抜けた滝&巨大岩の下で岩と一体化した家…住人は?▼福島…歩道橋の下はツバメのマンション!?200以上の巣▼茨城・古河…大物芸能人の番組のような飲食店に衝撃ドッキリ大作戦▼埼玉・富士見…路肩の白線がクネクネ波うっている謎の道路▼東京・杉並…何のため?真下を向いたカーブミラー▼福島…女子中高生の姉妹と仲良しすぎる家族〔変更あり〕

放送11年間あの珍百景は今
成長に仰天&感動の子ども珍百景続々▼千葉…逆さ言葉が得意な小学生は今▼神奈川…連続逆上がりが得意な5歳の女の子は今▼岡山・倉敷…外国人に英語で観光案内する小学生▼千葉…アリジゴクの定説を覆す大発見をした小学生は今

家族じまん珍百景
おばあちゃんとだけ電話で話す犬▼顔がハートになった犬▼ムーンウォークする犬▼うちわで踊るリス▼釣竿で遊ぶネコ▼おもてなしポーズ犬〔変更あり〕

出演者 名倉潤・堀内健・原田泰造(ネプチューン)  森葉子(テレビ朝日アナウンサー)  キムラ緑子、松村沙友理&賀喜遥香(乃木坂46)
ナレーター 奥田民義、広居バン


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大沢温泉さんと、さらに奥の鉛温泉さんの中間にある「昭和の学校」さんが取り上げられるようです。こちらは廃校になった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。


それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

こころつねにあたらしく日々発見に満つ  

           短句揮毫 昭和24年(1949) 光太郎67歳

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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の太田中学校に贈った書です。前半部分は後に盛岡少年刑務所にも贈りました。

このブログもリニューアルしたということで、「こころつねにあたらしく」やって行こうと思っております。

先ほど、2泊しました宮城県から帰着しましたが、メインの第28回女川光太郎祭をはじめ、3~4回はそのレポート等に費やさねばなりませんので、それを始める前に別件をご紹介してしまっておきます。

新刊書籍情報です。宮城から帰って来ましたら、自宅兼事務所に届いていました。

渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫

2019年8月15日 渡辺えり著 早川書房(ハヤカワ演劇文庫) 定価1,620円(税込)

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東日本大震災後に発表された渡辺えりの代表作二篇
高村光太郎と宮澤賢治をモチーフにした、渡辺えりの円熟の夢幻劇二篇

のんさん推薦!
「えりさんの作品から受ける感動は、トラウマとなって記憶に刻まれるような衝撃があります。色んな思考が渦巻いて、見る人を惑わせて不安にさせて、心をかき乱してくる。その中に見えてくる希望が心地いい。ファンタジーな世界が入り乱れる天使猫と、悪夢のように語られる月にぬれた手。私は、えりさんの作品に触れることが出来て良かったなあ…そんな風に感じて胸が熱くなりました。」

〈内容紹介〉
終戦後、花巻郊外の粗末な小屋。高村光太郎は大戦中の自身を厳しく省みる日々を送っている。ある日、亡き妻・智恵子の幻影が現れ――女性と地方の立場から、光太郎が象徴する都会の男性中心社会を問い直す『月にぬれた手』。
東北地方の瓦礫の中でケンジは、妻の遺体を探す「猫」と出会う……東日本大震災と向き合い続ける著者が、宮澤賢治の人生と作品を織り交ぜて描いた、鎮魂と祈りの音楽劇『天使猫』。
解説/山口宏子


渡辺えりさん率いる劇団・おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんによる、光太郎を主人公とした平成23年(2011)初演の「月にぬれた手」と、翌年に初演された宮沢賢治が主人公の「天使猫」のシナリオです。もちろんご執筆は渡辺さん。
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渡辺さん、同じハヤカワ演劇文庫で、平成19年(2007)には『渡辺えり子Ⅰ――光る時間(とき)/月夜の道化師』も出されていますが(改名前なので「渡辺えり子」となっています)、こちらは光太郎と交流のあったお父様をモチーフにした「光る時間(とき)」が収められています。

今回の出版に際しては、少しだけ、お手伝いさせていただきました。先月でしたか、渡辺さんから電話があり、「月にぬれた手」中で、平岩紙さん演じた智恵子のセリフに、大正11年(1922)に智恵子が回答したアンケート「哀憐な美しさを見ます」からの引用があるのですが、その出典がわからなくなってしまった(事務所移転のどさくさで資料類が何処にいったかわからなくなったそうで)とのことで、お教えしました。

上記紹介文にある通り、帯にのんさんの推薦文が印刷されています。のんさん、現在公演中のおふぃす3○○さんの新作「私の恋人」で、渡辺さんと共演なさっています。本格的な舞台は初出演だそうで。ご招待いただいておりますので、月末の東京公演を拝見に行く予定です。

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詳細はこちら

さて、ハヤカワ演劇文庫 『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

低きに居む      短句揮毫 戦後

「む」はこの場合、意思を表す助動詞。したがって、「低い立ち位置に居よう」といったところでしょうか。

ある意味、上から目線で多くの空虚な翼賛詩文を書きまくり、あまたの前途有為な若者を死地に追いやった反省が、この句にもにじみ出ています。

光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉
▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と
▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという
▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか
▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった
▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。



ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。

追記 当該の詩は「カフエライオンにて」(大正2年=1913)、『高村光太郎全集』では補遺巻の第19巻に収められていました。

【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。

『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉  ■自らの「愚」究明する表現人の責任

 19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
 たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
 以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
 戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の

典型
」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
 中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
 しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
 かねて評価した歌人
斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)

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評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。

多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。

『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。

雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。

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簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。

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TBSさん系のローカルテレビ局・IBC岩手放送さん。毎週金曜日の夜に「ぶっくまーく岩手」というミニ番組を放映なさっているそうです。

「ブックマーク」は栞(しおり)ですね。「しおりをはさんで、また見たくなる。そんな岩手の映像を、毎週お届けします。いにしえから受け継がれてきた伝統の匠の技、北国ならではの美味しい食べ物、 懐かしくも美しいみちのくの風景、岩手ファンを増やす魅力的な観光地、など、など。2分30秒に凝縮した珠玉の映像と音声で、つづって行きます。」だそうで。

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ネット上でも配信されており、先週、花巻高村光太郎記念館さんの回がアップされました。

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いつ放映されたものかよくわかりませんが、雪の季節のロケだったようで……。

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彫刻作品が展示され、詩の朗読を聞けるコーナーもある、第一展示室。

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光太郎の遺品や書などを展示する第二展示室。

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隣接する、光太郎が昭和20年(1945)の秋から丸7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の紹介も。

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全国ネットでも放映していただきたいものです。

また、学校さんも夏休みに入り、そろそろ梅雨明けでしょうし、夏の観光シーズンとなります。ぜひ現地にも足をお運びいただきたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢賢治の清書原稿は甚だきれいであるが、その手記初稿の難読さは想像以上で、殆と古代エジプト的イエログリフに近い。編者はその解読に一方ならぬ努力をしてゐるが、筆写の際、万一にも魯魚の誤なきを期しがたい。

雑纂「宮沢賢治文庫おぼえ書」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

『宮沢賢治文庫』は、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合から、光太郎と賢治の実弟・清六の編集で6冊が刊行されました(予定では全11巻)。装幀・題字は光太郎。各巻に光太郎と清六による「おぼえ書」が収められています。

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当方手持ちのものは、花巻高村光太郎記念館さんに無期限貸与中(笑)。第二展示室にて展示されています。上記は平成28年(2016)にTVIテレビ岩手さんで放映された「5きげんテレビ」から。キャプションが間違っていますが。

それにしても、賢治の筆跡を「イエログリフ(ヒエログリフ)」とは、すごい例えですね(笑)。もっとも、こういう状態ですからむべなるかな、という気もしますが。

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定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第14号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

今号は「カフェドシトロンとサヤエンドウサラダ」。

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欧米留学から帰国してすぐの随筆「珈琲店より」(明治43年=1910)、心を病んだ智恵子が入院中の昭和11年(1936)に書かれた随筆「某月某日」が典拠です。

花巻といえば、この『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、花巻市さんで発行している季刊情報誌『花日和』の2019年夏号に大きく取り上げられました

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの版元であるオフィス風屋さん、そして編集に当たられている北山公路氏と高橋菜摘さんの紹介です。当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に昭和20年代の花巻とその周辺を再現するジオラマを作成していただいた石井彰英氏の工房を、北山氏と共に訪れたことがあります。熱い方でした(笑)。

冒頭部分、抜粋します。

 ひと味違う切り口  「 Machicoco (マチココ)」は、花巻 の「まち」と「ひと」にスポットを当て、魅力を伝えることで街歩きにつなげる“花巻まち散歩マガジン”。2017年に創刊し、じわじわとファンを増やしている。今年4月発行の13 号では、特集「春が来たっ。」と題し、市内の春の風景とともに、ピカピカのランドセルを背負った小学生、袖の長い学生服を着た中学生の姿を掲載。他にも「花巻ウラ昔話」、「花巻まにあ」、高村光太郎の食した料理を紹介する「光太郎レシピ」など、観光情報誌とはひと味違った切り口で、地元ならではの話題が盛り込まれている。

そして終末部分。

 北山さんはマチココが街に根付いた理由について、次のように語る。「紙媒体にとって大切だと感じるのは、ブレないこと。クオリティを落とさないこと。創刊当時の初心を貫いたことで、その想いが徐々に浸透したのだと思います」
 ページをめくり、興味を持った人が一人また一人と街に出かけていく。紙媒体には心を動かし、波及させる力がある。北山さんと高橋さんの挑戦は続く。

おっしゃるとおり、紙媒体の良さというものはやはり厳然として存在するわけで、今後もそれにこだわった紙面作りに邁進していただきたいものです。


『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんは、花巻高村光太郎記念館さんをはじめ、花巻市内各所で販売しています。また、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円。

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『花日和』は無料。市役所や観光案内所等に置いてある他、都内でも岩手県のアンテナショップである東銀座の「いわて銀河プラザ」さんなどで入手可能です。


【折々のことば・光太郎】

返事が出来ないのでせずにゐました。感動をまるで受けないものについての所感をきかれるのは困るものです。

アンケート「帝展の佳作に就いて」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

「帝展」は、文展(文部省美術展覧会)の後身としてこの年から始まった「帝国美術院展覧会」。光太郎、こうした審査を伴うアカデミックな公設展覧会はとにかく毛嫌いしていました。

昭和25年(1950)1月、花巻郊外旧太田村の山小屋で逼塞していた光太郎、ひさびさに県都盛岡に出て、あちこちで講演などを行いました。県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、警察署、県立図書館など。その中に、盛岡少年刑務所さんも含まれていたとのこと。

少年刑務所では、五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、高村光太郎祭が開催されています。当方も一度、講演をおおせつかりました


以前は法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月の開催でしたが、今年はすでに開催されたということで、『朝日新聞』さんの岩手版が報じています。

岩手)反省し更生誓う 少年刑務所で高村光太郎の詩朗読

 盛岡少年刑務所(盛岡市上田)で7日、ゆかりのあ000彫刻家で詩人の高村光太郎の詩を受刑者が朗読する催しがあった。反省を促し、出所後の生き方について考えてもらおうと毎年この時期に開いている。
 窃盗や詐欺などの罪で収容された10~30代の受刑者が参加。10~20人の4グループに分かれ、光太郎の詩の一節から「うす汚いたくらみをやるのは止さう」「みんなと一緒に大きく生きよう」など、声をそろえて読み上げた。
 4人の受刑者は詩集を読んだ感想やこれからの決意を盛り込んだ作文を発表した。20代の男性受刑者は見捨てずに支えてくれた家族に感謝の気持ちを述べ、「未来は変えることができる」と力を込めた。
 「出所したらまず家族に謝りたい」。取材に応じたこの受刑者は、刑務所生活を通してはじめて自分を支えてくれる家族のありがたさに気がついたという。罪を犯した理由を、欲求に流されてしまったからと自己分析。出所後は「自分の熱中できるものを見つけたい」と語った。
 1945年に花巻市に疎開した光太郎は5年後に盛岡少年刑務所を訪れ、500人以上の受刑者を前に「青空たたえて」の題で講演した。少年らの更生を願って「心はいつでもあたらしく」と記した書を残している。(藤谷和広)


あまり報道されることが多くなく、されたとしても地元紙でベタ記事(一段組)になる程度で、ネットにこの行事の報道が出ることはまれです。一般の方々に、更生保護などの部分で関心を持っていただくためにも、もっと大きく取り上げていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

夏は山菜を食はず、多く畑の野菜をくひますが、これに慣れると八百屋のものなどくへません。秋には栗とキノコです。

散文断片「山の食ひもの」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙3枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

「畑の野菜」は自作のもの。取りたてですからさもあらん、ですね。

野菜ではありませんが、毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の女川光太郎の会・須田勘太郎会長から、鮭の切り身が届きました。ありがたし。

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須田さんや、女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣さんの奥様からは、年に数回、さまざまな海産物が届きます。鮭以外にサンマ、ホヤ、アワビ、牡蠣など。やはりこちらのスーパーなどで購入するものとはひと味も二味も違います。もっとも、ホヤ、アワビなどの高級食材はそもそもスーパーでも購入しませんが(笑)。

新刊書籍です。

高村光太郎の戦後

2019年6月3日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

戦争を賛美した二人の巨人、詩人・彫刻家高村光太郎と歌人斎藤茂吉。
戦後、光太郎が岩手県花巻郊外に独居して書いた『典型』と茂吉が山形県大石田に寓居して書いた『白き山』の定説を覆し、緻密な論証により正当な評価を与え、光太郎の十和田裸婦像の凡庸な所以を新たな観点から解明した卓抜で野心的評論

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【目次】
第一章 高村光太郎独居七年
 (一)  空襲によるアトリエ焼失、花巻疎開、花巻空襲、太田村山口へ
 (二)  山小屋生活の始まり
 (三)  山小屋の生活における高村光太郎の思想と現実
 (四)  高村光太郎の生活を援助した人々
 (五)  一九四五年の生活と「雪白く積めり」
 (六)  一九四六年の生活と「余の詩を読みて人死に就けり」
 (七)  一九四七年の生活
 (八)  「暗愚小伝」その他の詩について
 (九)  一九四八年の生活
 (一〇) 一九四九年の生活
 (一一) 一九五〇年の生活
 (一二) 一九五一年の生活
 (一三) 一九五二年の生活
第二章 高村光太郎『典型』と斎藤茂吉『白き山』
 (一)  はしがき
 (二)  戦争末期の斎藤茂吉(その一)
 (三)  戦争末期の高村光太郎
 (四)  戦争末期の斎藤茂吉(その二)
 (五)  余談・高村光太郎と三輪吉次郎
 (六)  戦争末期から終戦直後の斎藤茂吉
 (七)  『小園』を読む(その一)
 (八)  高村光太郎「おそろしい空虚」と「暗愚」
 (九)  『小園』を読む(その二)
 (一〇) 敗戦直後の斎藤茂吉
 (一一) 大石田移居、『白き山』(その一)
 (一二) 肋膜炎病臥前後
 (一三) 『白き山』(その二)
 (一四) 『白き山』(その三)
 (一五) 『白き山』(その四)
 (一六) 『白き山』と『典型』

第三章 上京後の高村光太郎 十和田裸婦像を中心に

 (一)  帰京
 (二)  十和田裸婦像第一次試作
 (三)  十和田裸婦像第二次試作
 (四)  十和田裸婦像の制作
 (五)  十和田裸婦像の評価とその所以
 (六)  十和田裸婦像以後
あとがき


昨年、同じく青土社さんから刊行された『高村光太郎論』に続く労作です。前著が明治末、光太郎の西欧留学期から晩年までを概観する内容だったのに対し、本著はタイトル通り、戦後の光太郎に焦点を当てる試みです。ただ、第二章はどちらかというと斎藤茂吉論が中心で、当方、そちらはまだ読破しておりません。

第一章、第三章について書きますと、『高村光太郎全集』中の光太郎日記や書簡からの引用が実に多いのが特徴です。やはり当人の証言をしっかり読み込んだ上で論ずるのはいいことですので、この点には感心しました。おそらくそうした作業を行っていないと思われるエラいセンセイ方の論文もどきもよく眼にしますが。

そして概ね戦後の光太郎に対して好意的な筆です。世上から過小評価され、注目されることも少ない戦後の詩に対し、高評価を与えてくださっています。

この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩であるというのが今の私の評価である。弁解が多いとしても、これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない。

この一節は戦後唯一の詩集の表題作ともなった詩「典型」(昭和25年=1950)に対してのものです。

   典型
000
 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃嘘に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。


それから感心させられたのは、「わからないことはわからないとする」こと。詩句の意味や、光太郎のとった不可解とも思える行動の理由など、苦しい解釈やこじつけで切り抜けず、正直にわからないとしている点に好意がもてます。

ただ、「それはこういうことですよ」と教えてあげたくなった点があるのも事実でした。残念ながら、参考資料の数が多くないのがありありとわかります。本書には「参考文献」の項がありませんが、第一章、第三章に於いては、十指に満たないのではないかと思われました。光太郎本人の日記や書簡をかなり読み込まれているのはいいのですが、周辺人物の証言や回想などで、かなりの部分氷解するはずの疑問が疑問のままに残されたりもしています。

また、光太郎の戦後七年間の花巻郊外旧太田村に於ける山居生活の意味づけ。光太郎本人は「自己流謫」という言葉で表現しました。「流謫」は「流罪」の意です。戦時中、大言壮語的な勇ましい翼賛詩文を大量に書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死地に追いやったという反省、その点を中村氏、前著からのつながりで、認めていません。結局、若い頃から夢想していた自然に包まれての生活を無邪気に実現したに過ぎなかったとしています。

中村氏、前著にも本著にもその記述がないので、おそらく厳冬期の旧太田村、光太郎が暮らした山小屋に足を運ばれたことがないように思われます。メートル単位で雪が積もり、マイナス20℃にもなろうかという中、外界と内部を隔てるのは土壁と障子紙と杉皮葺きの屋根のみ、囲炉裏一つの厳冬期のあの山小屋の過酷すぎる環境は、無邪気な夢想の一言で片付けられるものではありません。

また、山居生活中に彫刻らしい彫刻を一点も残さなかった件についても、誤解があるように思われます。それを小屋の環境の問題や、作っても売れる当てがないといった問題に還元するのはあまりに皮相的な見方でしょう。「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎が、「自己流謫」の中で、自らに与えた最大の罰として、彫刻を封印したと見るべきなのではないでしょうか。

ちなみに光太郎、きちんとした「作品」ではありませんが、山居中に手すさびや腕をなまらせないための修練的に、小品は制作しています。その点も中村氏はご存じないようでした。

さらに、第三章で中心に述べられている「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。こちらも「凡庸」「貧しい作」としています。確かに傑作とは言い難く、光太郎自身も「十和田の裸像、あれも名前(注・サイン)が入っていません。はじめ入れたんだけど、よくないんで消してしまった。」(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)としています。しかし、近年、『全集』未収録の光太郎の談話や、像に関わったさざざまな人々の証言が明らかになるに従い、あの像に込められた光太郎の思いが見えてきました。そういったところに目配りが為されて居らず、「凡庸」の一言で片付けられているのが残念です。

ただ、前述の通り、根柢に光太郎に対するリスペクトが通奏低音のように常に流れ、日記や書簡が読み込まれ、無理な解釈やこじつけが見られないといった意味で、好著といえるでしょう。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

芸術界のことにしても既成の一切が気にくはなかつた。芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権のことばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えてゐる者はむしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないやうに見えた。

散文「父との関係3 ――アトリエにて4――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

ここで述べられているのは明治末のことですが、その最晩年まで、こうした見方は続いたようです。

中村稔氏もこうした光太郎の反骨精神は高く評価されています。

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

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森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

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展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

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モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっています。下の方には陶芸作品も。

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過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

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モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。

ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

5月15日(水)、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻郊外旧太田村で開催されました第62回高村祭。今日は高村祭自体ではなく高村光太郎記念館さんなどの状況をレポートしようと思っておりましたが、ありがたいことに地元メディア各社さんで高村祭の模様を取り上げて下さっていますので、そちらをご紹介します。

まず、地元紙『岩手日日』さん。

芸術家の生涯思いはせ 「雪白く積めり」朗読 花巻、高村祭 光太郎遺徳しのぶ

詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭は15日、花巻市太田のスポーツキャンプむら屋内運動場で開かれた。光太郎の詩の朗読や合唱、講演などが行われ、来場した市民らが花巻に大きな足跡を残した芸術家の生涯に思いをはせた。

花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)と高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が主催。戦禍を逃れて光太郎が花巻に疎開してきた1945(昭和20)年5月15日を記念して58年から開かれており、今年で62回目。雨天のため高村山荘碑詩前広場から屋内に変更して開催され、市内外から約500人が参加した。

光太郎の写真が飾られた祭壇に、太田小学校年の照井彩笑さん、照井莉心さんが花を手向け、花巻東高茶道部による献茶で開会。西南中学校の1年生が先導し、高村山荘の碑詩に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参加者全員で朗読した。

大島会長と藤原忠雅副市長のあいさつに続き、太田小2年生17人が「かっこう」の器楽演奏、詩「案内」を朗読。児童たちは光太郎が詩人草野心平と共に作詞を指導した「旧山口小学校校歌」も歌って会場を和ませた。

西南中の1年生48人は、光太郎の「心はいつも あたらしく 日々何かしら 見いだそう」の言葉が盛り込まれた同校精神歌を合唱。花巻南高3年の三浦莉奈さんが「岩手山の肩」 、同じく横田遥奈さんが「激動するもの」の朗読に続き、花巻高等看護専門学校の1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」を会場に響かせた。

45年8月10日の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した同専門学校1年の佐々木優花さんは「花巻空襲時に働いていた人たちへの尊敬の思いを込めて朗読した。私も患者に寄り添うことができる看護師になりたい」と話していた。

発表後は、総合花巻病院の後藤勝也院長が「高村光太郎と花巻病院」と題して講演した。

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続いて、NHKさんのローカルニュース。

光太郎しのぶ「高村祭」

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦中から戦後にかけて7年間を過ごした花巻市で、15日光太郎をしのぶ催しが開かれました。

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高村光太郎は、昭和20年4月、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟、清六を頼って花巻に疎開して、69歳までの7年間を過ごしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。

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昭和20年の花巻空襲を詠んだ「非常の時」の詩を朗読した、花巻高等看護専門学校1年の佐々木優花さんは、「戦争を知らない世代なのでこの詩を読んで戦争の恐さを感じた。人は強い時も弱い時もあるが、もしもの時には強い心で向かっていきたい」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。

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さらに、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎しのび「高村祭」 ゆかりの花巻市で

花巻ゆかりの芸術家に思いをはせました。
詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村光太郎をしのぶ「高村祭」が、15日、花巻市で開かれました。
高村光太郎は、1945年の15日、花巻市に疎開し、太田地区で7年を過ごしました。
「高村祭」は今年で62回目を迎え、県内外からおよそ500人が集まりました。
式では、地元の児童や生徒たちが、光太郎ゆかりの歌や詩の朗読などを披露しました。


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岩手山の肩
「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ、あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
花巻南高校 3年・三浦莉奈さんは、「地域の人たちにも、高村光太郎先生の詩はすてきなものだと、自分の口で伝えていきたい」と話しました。


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また、サンタクロースの光太郎と記念撮影をした、当時の小学生にも話を聞きました。
高村光太郎と記念撮影した高橋征一さん(76)は、「毎日、正直で、みんなといっしょに仲良く暮らしてください(と言われ)、『正直親切』という言葉が、一番記憶に残っている」と話しました。
参加した人たちは、花巻を愛した芸術家・高村光太郎に思いをはせていました。


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高村祭、毎年5月15日です。まだ行かれたことのない方、来年以降、ぜひよろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

山口部落で畑をいぢつてばかりゐた八年間のブランクがブランクになつてゐなかつた事を知つた。マイナスであるべきものがむしろプラスになつてゐるのを知つた。恐らく人間の潜在意識といふものが内で造型意識を眠らせずにゐたものと思へるし、頭の中にたまつてゐたものが今堰を切つて流れはじめたやうな感じである。

散文「制作現況」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後の文章です。高村祭が開催される旧太田村での生活(正確には丸7年ですが、それ以前に旧花巻町の宮沢家、佐藤家などで過ごした半年間を含めれば、足かけ8年です)が、彫刻制作の上でも決してマイナスに作用していないとの発言。多分に強がり的な要素や、発表された文章を目にするであろう花巻や太田村の人々に対する配慮などもあるのでしょうが、作りたい彫刻を作りたいように作れる喜びは、実際、ブランクを埋めて余りあるものだったと思われます。

一昨日から1泊で花巻に行っておりました。

昨日は、郊外旧太田村で、第62回高村祭。昭和20年(1945)、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居をを空襲で失った光太郎が、宮沢賢治の実家や賢治の主治医・佐藤隆房らの勧めで、花巻に疎開。そのために東京を発った5月15日に、毎年、高村祭が開催されています。

例年は光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑(光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋まっています)の前で行っていましたが、昨日は朝まで本格的な雨だったため、数百メートル離れた旧山口小学校跡地の、スポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。こちらが会場となるのは平成24年(2012)以来のことでした。

前日から、光太郎もよく泊まっていた大沢温泉さんに宿泊していましたが、朝5時過ぎに宿を出、レンタカーで旧太田村、高村山荘に。

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5時半から会場設営と言うことで、そのお手伝いです。その時点でかなりの雨だったので、高村ドームでの開催が決定。早速、作業にかかりました。当方、高村祭で講演などを仰せつかったりもしますが、こういう力仕事の方が性に合っています(笑)。

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ほぼ終わったところで、宿に戻りました。5時過ぎではチェックアウトも出来なかったので。ついでに雨に濡れた体を露天風呂で温めました。

そして再び旧太田村。シャンソン系歌手のモンデンモモさん、舞踊家の増田真也さんと落ち合い、開会前に周辺をご案内しました。そのあたりは明日書きますので省略。

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午前10時、開会。

光太郎遺影に献花・献茶の後、市立西南中学校の生徒さんの先導で、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を全員で朗読。その後、主催者ということで、花巻高村光太郎記念会の新会長・大島俊克氏のご挨拶など。

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山口小学校が統合された太田小学校さん2年生児童の合奏、光太郎詩「案内」の群読。それから旧山口小学校の校歌斉唱。光太郎作詞ではありませんが、光太郎や当会の祖・草野心平のアドバイスは入っているとのこと。それにしても数十年前に廃校になった学校の校歌が歌い継がれているというのは驚きです。

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西南中学校さん1年生諸君は、光太郎を詠み込んだ歌詞の「西南中学校精神歌」。さらに語りも今年は今までより充実していました。

詩の朗読で、花巻南高校さんと花巻高等看護専門学校の生徒さん。

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花巻高等看護専門学校の皆さんは、さらに合唱も。

第1部の最後は、総合花巻病院さんの後藤勝也院長による記念講演「高村光太郎と花巻病院」。

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花巻病院、そして先述の佐藤隆房元院長と光太郎とのエピソードなどをご紹介下さいました。後藤院長ご自身、幼い頃に花巻電鉄の車内で光太郎が向かいの席に座ったというご経験がおありだそうでした。

昼食後、第2部。地元の方々のお祭り的な要素が色濃く残っています。光太郎がこの地にいた頃は、旧山口小学校でこの時期に運動会(光太郎もビンつり競走に出場しました)が実施され、それが地区全体のイベントのような感じでしたが、それが高村祭に引き継がれているように思われます。

トップバッターは、昨年から参加して下さっている花巻農業高校鹿(しし)踊り部の皆さん。昨夏、長野県で行われた第42回全国高校総合文化祭郷土芸能部門で、見事、最優秀賞を受賞されました。

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勇壮な演舞でした。激しい動きで、しかもかなり長時間。こりゃ大変だ、と思っていましたところ、踊り終わってかぶりものを取ったら、何と、女子生徒も2名混ざっていまして、驚きました。

ちなみにこの鹿踊りに触発されて現れたのでしょうか、この後、会場を後に新花巻駅を目指してレンタカーを発車したところ、会場すぐ近くの山口集落の中心あたりで、野生の鹿(牝鹿でした)に遭遇しました。このあたり、年に3、4回は訪れているのですが、鹿に遭遇したのは初めてで、これにも驚きました。残念ながら急いでいたので、車を駐めて写真を撮る余裕がありませんでしたが。

閑話休題、高村祭に戻ります。

続いては地元の婦人会の皆さんの踊り。婦人会といいつつ、歌と太鼓は男性の方(笑)。しかもお一人は、昭和24年(1949)、サンタクロース姿の光太郎と一緒に写真に収まった高橋征一さんでした。

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改めてこの山口小学校があった場所で高村祭が行われているんだなと、感慨深いものがありました。

そして、モンデンモモさん。

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光太郎詩にオリジナルの曲を付けた「道程~冬が来た」「案内」「もしも智恵子が」の3曲を熱唱。

ここまで拝見拝聴したところで、家庭の事情もあり、早く帰らねばならず中座させていただきました。

帰ってからネットを開くと、早速、IBC岩手放送さんのローカルニュースがアップされていました。

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詩人で彫刻家の光太郎を偲ぶ「高村祭」/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎を偲ぶ「高村祭」が15日、花巻市で開かれました。
 高村光太郎は、詩集「道程」や「智恵子抄」などの作者として知られています。62回目を数える今年の高村祭は、朝方の雨の影響で光太郎が過ごした高村山荘に近い、屋内運動場に場所を移して開かれました。
(朗読)
「雪白く積めり…」
 高村祭は、74年前の5月15日に光太郎が戦火を逃れて東京を発ち花巻に疎開したことから、毎年この日に開催されています。地元の中学生や高校生が光太郎の詩の一節を引用した歌や、作品の朗読を披露しました。
(合唱)
「心はいつもあたらしく…」
(朗読)
「岩手山があるかぎり南部人種は腐れない新年はチャンスだあの山のように君らはも一度天地に立て」
(花巻南高校3年・三浦莉奈さん)
「(光太郎の詩は)聞いている人にダイレクトに届く人に伝わりやすい」
 会場には県の内外から多くのファンが足を運び、朗読やコーラスに耳を傾けて光太郎に思いを馳せていました。


手作り感溢れる、しかし盛大に行われた高村祭。泉下の光太郎、面はゆい思いをしつつも喜んでいるのではないでしょうか。

明日も関連する内容で。


【折々のことば・光太郎】

以前にはパリの「空気」ベルリンの「空気」と並んで、東京の「空気」があつた。それが今は「東京」といつても何もないではないか。ただもの珍しい文化のかけらが、尖つたガラスの破片が散らばつているようにそこらにあるだけで、私はそうしたものにはぶつかるが「空気」を感ずることができない。

談話筆記「おろかなる都」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。7年ぶりに見た生まれ故郷・東京は、光太郎の目にはこう映っていたのです。

今日は光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻郊外旧太田村の山口小学校跡地で、第62 回高村祭が行われています。途中で抜けて帰路につき、只今東北新幹線やまびこ号車中でこの記事を書いております。

毎年、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で開催する高村祭ですが、今朝がたまでかなりの雨だったため、山口小学校跡地に建てられた屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。

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詳しくは帰りましてからレポートいたします。

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