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昨日から岩手花巻に来ております。
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先月オープンした「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」を訪れ、さらに花巻高村光太郎記念館さんに。
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開催中の企画展示「光太郎の父高村光雲の鈿女命」を拝見。今日はそちらの関連行事の市民講座で講師を務めます。
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宿泊は大沢温泉♨さん。

詳細は帰ったらレポートいたします。

花巻高村光太郎記念館さんで4日から開催されている展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、地方紙二紙の報道をご紹介します。

まず『岩手日日』さん、9月7日(月) 

日本神話の場面 精巧に 光太郎記念館 光雲作「鈿女命像」

007 高村光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作したとされる木彫「鈿女命(うずめのみこと)像」が、花巻市太田の高村光太郎記念館で展示されている。
 光雲の孫にあたる藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が花巻市に寄贈したもので、光雲の作品は同館で初公開となる。23日まで。
 像を保管していた藤岡さんが今年1月、光太郎と縁の深い土地で展示してほしいと寄贈した。
 像は高さ33㌢で制作年代は不明。サクラの木を材料とし、一本の木から作品を掘り出す一木(いちぼく)造りとみられる。
 日本神話の中から、天岩戸(あまのいわと)に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すため、踊りを披露した天鈿女命(あめのうずめのみこと)をモチーフにしている。
 衣服のなびく様子や指先の動きなどが細かく彫られ、天照大神を
引き出そうとする緊張感が読み取れる。父の作であることを示す光太郎直筆の木箱もある。
 同館の佐々木正晴館長は「細かな意匠が張り巡らされているので、光雲の技巧を堪能してほしい」と話している。
 展示時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料350円で観賞できる。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

続いて、仙台に本社を置く『河北新報』さん 

花巻・高村光太郎記念館 父・光雲の木彫り初公開

 詩人で彫刻家の高村光太郎の父で、近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)の木彫り「鈿女命(うずめのみこと)」の展示会が4日、花巻市の高村光太郎記念館で始まった。今年1月に花巻市に寄贈された作品で、初めての公開となる。23日まで。
 「鈿女命」は桜材を使用したとみられる一木造りで高さ33㌢。日本神話で天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもった際、踊りで誘い出した天鈿女命(あめのうずめのみこと)を題材としている。
 保管していた光雲の孫の一橋大学名誉教授藤岡貞彦氏(85)=横浜市=が花巻市に寄贈した。専門家の鑑定の結果、光運の銘がなく、緻密な仕上げが施されていないことから、習作か制作途中の作品とみられる。
 佐々木正晴館長は「衣の細かい彫りや手足の先まで緊張感の漂う出来は、光雲の特徴を表している。これまでに光雲作の天鈿女命像は確認されておらず、非常に貴重な作品だ」と話す。
 会期中無休。入場料は大人350円、高校・大学生250円、小・中学生150円、小学生未満無料。連絡先は記念館0198(28)3012。


これまでに『朝日新聞』さん、IBC岩手放送さんの報道を紹介しましたし、近々『岩手日報』さんも報じて下さるはずです(電話取材を受けました)。のちほどご紹介します。

来週9月15日(火)には、関連行事としての当方の市民講座「高村光雲の彫刻に触れる」が開催されます。「触れる」といっても触れられませんが(笑)。

展示は23日までと短めですが、連休がありますので、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一十六歳 高村小父
雑纂「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」より 
昭和18年(1943) 光太郎61歳

『をぢさんの詩』は、光太郎唯一の年少者向け詩集です。内容的には戦時中ということで「痛い」ものが多く、「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流してありがたがっている愚か者がいるのですが、その気が知れません。

それはともかく、編集に当たってくれた詩人の高祖保にあてた献呈本が最近出て来まして、その見返しに書かれた献辞から採りました。出版時に数え61歳だった光太郎が、年少者向けということで1の位と10の位を入れ替え、「一十六歳」と洒落を効かせています。


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新着情報紹介に戻ります。本日は岩手県からのニュースを2件。

まずは花巻高村光太郎記念館さんで先週はじまった展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、IBC岩手放送さんがローカルニュースで報じて下さっています。  

高村光太郎の父・光雲の木像 初公開/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎の父・光雲が手掛けた作品が、花巻市の高村光太郎記念館で初めて公開されました。
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こちらが高村光太郎の父で、仏師であり近代彫刻の巨匠と言われる高村光雲の作品「鈿女命」です。
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高さは33センチ、サクラの木を材料とし、今から80年以上前に制作したとみられています。
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この木像は、光雲の孫で、光太郎の甥にあたる横浜市在住の藤岡貞彦さんが所有していたもので、今年1月に花巻市に寄贈されました。木像は日本神話の中で天照大神が天の岩戸に隠れた際、その前で踊って大神を誘い出した神が題材で、微笑みながら優雅に舞っている様子が表現されています。
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(高村光太郎記念館・佐々木正晴館長)
「光雲の木彫りの特徴が随所に色濃く出ている細かい衣装とかをご覧いただきたい」
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このほか、木像が父・光雲の作品であることを証明する光太郎直筆のサインが書かれた木箱も一緒に展示されていて、高村親子の作品に対する思いを身近に感じることができます。
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展示会は今月23日まで開かれています。
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ついでに同じ件で、地方紙『岩手日日』さんに先月載った記事。
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関連行事としての当方の講座についてもご紹介いただきました。多謝。

別件で、やはり花巻からのニュース。地方紙『岩手日報』さんの記事です。 

花巻温泉、修学旅行受け入れ本格化 県内小中の予約大幅増

 新型コロナウイルスの影響で修学旅行の「県内志向」が強まる中、花巻市の花巻温泉(安藤昭社長)で県内小中学校の受け入れが本格化してきた。

 2日は第1陣となる岩泉町の小川小が宿泊。予約は19校(同日現在)と昨年度の3校から大幅に増加した。感染リスクが比較的低い県内で、宮沢賢治や高村光太郎ら偉人ゆかりの地としてクローズアップされている。

 小川小は当初、公共交通機関を使って仙台方面を計画していたが、感染リスクを考慮し貸し切りバスで移動できる県内に変更。6年生12人が国語の授業で学んでいる賢治ゆかりの地を巡った。

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だるまみたいな(笑)着ぐるみは、花巻温泉さんの公式キャラクター「フクロー」だそうです。

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賢治の一族が創業に関与し、桜並木や花壇の設計は賢治が行って、さらに光太郎もたびたび宿泊した花巻温泉さん、近代的なホテルが建ち並び、こうした需要にはうってつけのように思われます。

子供たちに郷土の魅力について理解を深めてもらうというコンセプトもいいと思います。コロナ禍収束/終息後も続けて欲しいものですね。そしてできれば全国から受け入れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は絵画の立体化ではない。その胚胎からして別種である。彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の触覚、此れを深くしては心の触覚。此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。
散文「彫刻について」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「心の触覚」、いい言葉ですね。

花巻高村光太郎記念館さんから荷物が届きました。開けてみると、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」など。先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンに合わせて開発された新商品です。

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今月中旬にはあちらに参りますので、その際に購入しようと思っていたのですが、何とまあ、それまでに売り切れ必至、増産の発注をかけたものの間に合わないだろう、とのことで、わざわざ送って下さいました。

懐かしの「サクマ式ドロップス」のような(というかまったく同一?)缶入りです。ちなみに
サクマ式ドロップス、健在です。


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アニメ映画「火垂るの墓」を想起される方も多いのではないでしょうか。

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さて、マイナスドライバーを使って蓋を開け……。

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「酸っぱいだろうな」と覚悟しつつ(といっても当方、柑橘系の酸っぱさは大丈夫です。梅干し系、酢の物系の酸っぱさは苦手ですが)、パクリ。

ところが、予想していたほどには酸っぱくありませんでした。食べる前は、やはり昔懐かしのロッテさんの「小夏」を思い描いていました。ところが「小夏」に比べれば酸っぱさはたいしたことがありません。というか、甘さの方が勝っているような。これなら小さいお子さんでも食べられるな、と思いました。それでもレモン果汁はちゃんと使われています。配合にはかなりこだわったそうで、こういう味が出来上がったのでしょう。

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ちなみに「小夏」はロッテさんのラインナップから外れているようです。姉貴分の「小梅」は健在ですが。ただ、キャラクターとしての「小夏」(「小梅」の従姉妹だそうで(笑))は同社のサイトに紹介されています。集英社文庫の『レモン哀歌 高村光太郎詩集』の表紙も手がけられたイラストレーター、林静一氏のデザインです。

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「智恵子のレモンキャンディ」のラベル画は、以前から花巻高村光太郎記念館さんで、ポストカード等に使われていたもの。これはこれで今風な感じがいいように思われます。

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さて、同館からはもう一つ、先月末にいわてめんこいテレビさんで放映された「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」を録画したDVDも入っていました。

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なかなかよくまとまっていましたし、様々な切り口がなされていて、その点には感心いたしました(突っ込みどころも多いのですが)。深夜でも、または系列のBS放送などででも、とにかく全国放映を期待しております。

さて、「智恵子のレモンキャンディー」、しばらく品薄が続きそうですが、ぜひお買い求め下さい!


【折々のことば・光太郎】

美しい細い絹の絲を使つて、花や、葉や、実や様々な模様が編み出されたアイリツシユレースは精巧なものになると、実に立派なものであります。洋服の胸飾、帽子の装飾などに、その一部分を応用しても随分美しいではありませんか。

散文「帽子に応用したアイリツシユレース」より
大正13年(1924) 光太郎42歳


雑誌『婦人之友』に、写真入りで掲載されました。光太郎、造型作家として、アパレル系にも一家言持っていたようです。

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花巻高村光太郎記念館さんで明日からはじまる展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、『朝日新聞』さんが岩手版で報じて下さっています。 

岩手)高村光雲の木彫が花巻市に 光太郎記念館で初公開

 彫刻家高村光太郎の父で、近代彫刻の巨匠、高村光雲(1852~1934)の作とみられる木彫像が、光雲の孫から花巻市に寄贈された。4日から同市の高村光太郎記念館で初公開される。
 作品「鈿女命(うずめのみこと)」は高さ33センチの一木造りの彫像。日本神話で天照大神が天岩戸にこもってこの世が暗闇となった時、岩戸の前で踊って大神を誘い出したとされる天鈿女命(あまのうずめのみこと)が題材だ。
 光雲の四男で植物学者の藤岡孟彦さん(1892~1977)が形見分けとして受け継いだものといい、昨年11月、孟彦さんの次男で一橋大学名誉教授の教育学者、藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が「光太郎ゆかりの地で保管・展示してほしい」と花巻市に寄贈を申し出た。
 同12月、花巻市の依頼を受けた光太郎研究の第一人者である小山弘明さん(55)=千葉県香取市=が、箱にある「高村光雲作 木彫 昭和十年 男光太郎識」の墨書が光太郎の直筆であることや、作品の意匠、伝来などから「光雲作」と確認した。
 伝統仏師で西洋美術を学んだ光雲は、東京・上野公園の西郷隆盛像や国重要文化財「老猿」の作者でも知られる近代彫刻家。小山さんによると、「下絵」は残されているが、光雲作の天鈿女命の像はこれまで確認されていないという。
 小山さんは「おそらく試作品だが、彫刻史的にも大変貴重だ」。寄贈した藤岡さんは「今まで世に知られていない作品だが、あるべきところに保管されて良かった」と話した。 5月に公開予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い延期されていた。展示は23日まで。(溝口太郎)

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関連行事として、9月15日(火)に「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」と題して、市民講座講師を仰せつかっており、パワーポイントでスライドショーを制作中です。

そこで、光雲の人となり、光太郎との彫刻観の相違など、改めて調べ直してみて、「こういうことだったか」と、自分でも勉強させていただいております。

記事にあるとおり、展示は明日から9月23日(水)まで。あまり期間が長くないのですが、コロナウィルス感染防止にお気を付けた上で、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】002

それは無論出来の悪い為ではなく当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した。

談話筆記「ロダン翁病篤し」より 
大正6年(1917) 光太郎35歳


ロダン初期の作、「鼻の潰れた男」に関してです。『東京日日新聞』2月2日の掲載です。

前年、軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後、健康に不安を訴え、同じく病気がちだった内妻ローズ・ブーレと入籍を果たしました。しかしそれもむなしく、ローズは2月に歿し、ロダンも後を追うように11月に亡くなりました。

まずは昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松・安達太良山ネタです。

今月号の『広報にほんまつ』、表紙が安達太良山系の薬師岳パノラマパーク。

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ロープウェーの山頂駅に近く、「この上の空がほんとの空です」という木標が建っています(画像では中央やや左)。

続いて「“菊”と“日本酒”と“温泉”と… にほんまつの観光DMO ~ともに磨く「にほんまつ」ブランド~」という記事が4ページ。

「DMO」とは、「Destination Management Organisation」の略だそうで、「観光戦略を練って交流人口拡大を目指していく組織」といった意味だそうです。一般社団法人として平成30年(2018)に設立されたとのこと。

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最近、役所まかせではないこうした動きが広がっているように感じます。

こちらでは「にほんまつブランド」ということで、「日本酒」、「ワイン」、「和菓子」、「安達太良山」、そして「岳温泉」の5つを特に推しているそうで、広報でもそうした動きが取り上げられていました。

その中で、「安達太良山」。「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を使って下さっています。

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「ADATARAリトリート」だそうです。「リトリート」は、「日々の忙しい生活から離れて、 自分の時間やリラックスタイムで疲れを癒すこと」。岳温泉さんのホテルなどと提携し、各種プランが設定されています。

当方、11月に彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、現地で調査すべきこともあって、久々に一泊で行ってこようと思っております。ただ、例年、10月に行われている菊人形、それから智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集い、今年はやはり中止だそうですが、コロナ禍収束/終息後、また新たに活況を呈してほしいものです。

続いて光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻の『広報はなまき』。表紙で先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンについて紹介されています。

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006こちらは今月、やはり市民講座の講師でお邪魔しますので、その際に行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

体格よき婦人を求む 当方彫刻家 午前在宅

雑纂「モデル」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

彫刻制作において、モデルの手配には常に苦労していました。依頼を受けての肖像彫刻であればその本人をモデルにすればよいのですが、そうでなければ友人知己や行商に来る老人などを拝み倒してモデルになってもらったり、このように新聞広告を出して募集したりもしました。

しかし、応募者はたくさんあったものの、よい体格の者がおらず、逆に「めいめいに窮迫した身上話などを長々と述べ立てて、是非使つてくれといふやうに要請されるので、これを断るのに骨が折れ、おまけにその日一日分の日当を払はなければ、気の毒でかへせなかつた。」(「モデルいろいろ-アトリエにて6・7-」昭和30年=1955)ということでした。

そこでのちには智恵子をモデルにいくつか彫刻を作ったりもしています。ただ、それらはおそらく戦災ですべて失われ、現存が確認できていません。

昨日もちらっとご紹介しましたが、岩手のテレビ局・めんこいテレビさんで1時間の特番が組まれています。 

智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~

めんこいテレビ 2020年8月29日(土)  14時00分~14時55分

彫刻家で詩人の高村光太郎はなぜ岩手の山小屋で7年も独居自炊の生活を送ったのか。美の巨人が貫いた亡き妻・智恵子への愛、岩手の人と自然に対する強い思いに迫る。

日本の近代美術を代表する彫刻家の一人で、詩集「道程」や「智恵子抄」などでも知られる高村光太郎は戦争が終結した昭和20年8月15日を花巻で迎えた…。縁あって宮沢賢治の生家に疎開していた光太郎は終戦後も東京には戻らず、花巻の山小屋で暮らし始める。なぜ光太郎は人里離れた粗末な小屋を終の棲家と決め、7年も暮らしたのか…。番組をナビゲートするのは2人の女性。愛読書は「智恵子抄」、文学者では石川啄木推し!という石橋美希アナウンサー。花巻在住で、雑誌の高村光太郎のレシピ企画に携わっていた和服美人・保坂悦子さん。2人は、光太郎が暮らした花巻市の高村山荘や、智恵子のふるさと福島県二本松市などを訪ねた。“美の巨人"が貫いた亡き妻・智恵子への愛に二人は感動。岩手の自然と人に魅せられた光太郎は山小屋でいったい何を発見したのか。

出演者
 石橋美希(めんこいテレビアナウンサー)
 保坂悦子(花巻市在住・バー経営)
 中村好文(建築家)

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんなどでロケが行われています。

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出演者の中に建築がご専門の中村好文氏の名。氏は平成25年(2013)に『小屋から家へ』という書籍を上梓なさっています。光太郎の山小屋、光太郎と交流のあったスキー選手の猪谷六合雄が赤城山に建てた小屋、鴨長明の「方丈」など7つの特徴的な「小屋」を紹介するものです。同年と翌年、同書とリンクする展覧会「中村好文展 小屋においでよ!」が、都内金沢で開催されました。

そういうわけで光太郎の山小屋、さらに建築ということになると、山小屋に移る直前の1ヵ月ほどを過ごし、その後も街に出て来た時は定宿としていた花巻病院長・佐藤隆房邸の離れも取り上げられるそうです。

また、保坂悦子さんという方、おそらく『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの連載「光太郎レシピ」に関わられているのでしょう。山小屋での光太郎の「食」的な内容も盛り込まれているようです。

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さらに、光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さん。

追記 下記カット、大沢温泉さんではなく、志戸平温泉さんでした。

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おそらく後半は、智恵子にスポット。

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智恵子の故郷・福島二本松でのロケも敢行されました。

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二本松霞ヶ城。

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智恵子記念館さん。

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隣接する戸田屋商店さん。

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岩手の皆さん、ぜひご覧下さい。

しかし、岩手のみでの放映というのも勿体ない気がします。めんこいテレビさんはフジテレビさん系列のようで、地上波で、とはいいませんが、BSフジさんあたりででも全国放映していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

詩は小生にとつて生活行動と芸術衝動との安全弁の役をしてゐます。しかしこれではなぜ詩を書くかといふ問の答にはなりませんね。

アンケート「何故詩を書くか」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

彫刻を純粋造型たらしめるため――光太郎曰くの「胸中の氤氳(いんうん)」が彫刻に入り込まないようにするため――に、「胸中の氤氳」は詩として吐き出す、という、他でもよく語られている光太郎の方法論です。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が載りました。 

岩手)光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開

000 岩手県花巻市の中心市街地から南西へ10キロ余り。旧太田村山口の雑木林の中に、彫刻家で詩人の高村光太郎が戦後の7年間を暮らした山荘がある。杉皮ぶきの屋根に板戸、畳3畳しかない粗末なこの小屋に光太郎を導いたのは、宮沢賢治との縁、そして2度の空襲だった。
 1945年4月13日の空襲で東京文京区千駄木の自宅兼アトリエを失った光太郎は翌月、花巻の宮沢家に身を寄せた。賢治の死後に全集や詩碑の建立に尽力した光太郎。それに感謝した賢治の父・政次郎の招きや賢治の主治医・佐藤隆房らを頼っての疎開だった。
003 そのわずか3カ月後、今度は花巻空襲で宮沢家を焼け出され、11月に知人らが世話をしてくれた山口の山荘に移り住んだ。
 冬は零下20度、すきま風や吹雪も舞い込む山荘で7年間も暮らした理由はよくわからない。戦時中、日本文学報国会の詩部会長を務め、多くの戦争協力詩を書いた「自責の念」からの蟄居(ちっきょ)だったとも言われる。ここで自らを省みる詩集「暗愚小伝」も書いている。
 ただ、周囲の知人には「私は静かな山の生活が好きなのです」とも話し、農耕にいそしみ、地域と深く交流もした。ホームスパンを指導し、小学校ではサンタクロースにも扮した。
001 光太郎との記憶は今も残る。農家の三男、藤原秀盛さん(93)は14歳から東京・蒲田の軍需工場で働き、大空襲の火の海の中で九死に一生を得て故郷の太田村に帰り、20歳で開拓に取り組んだ。痩せ地で大豆も実らぬ厳しい暮らし。仲間と気晴らしに郷土芸能のカセ踊りを舞っていたある夜、後ろからついてきた「乞食(こじき)じいさん」が光太郎だった。「いい笛の音色だ。十二支踊りの面をつくって郷土芸能にしよう」と語ったといい、新しい文化の灯をともそうとしてくれた心に藤原さんは思いをはせる。
 渡辺安蔵さん(87)は48年春、光太郎に招かれて山荘に遊びに行った。前年の秋、光太郎と顔見知りだった義父に「外で待っているから米けてやれ」と命じられ、一升を届けたのが出会いだった。「白いひげに法被姿。最初はホイド(乞食)かと思った」
 山荘で、光太郎は外国に行った経験や向こうの子どもの話をしてくれた。日が暮れ、「家さ帰る」と別れを告げると「胸を出してごらん」と言われた。光太郎は大きな手の指先で胸に文字を書き、「心という字だ。『シン』とも読むんだ」と言って送り出してくれた。「本当に温かく、人を引きつける人でした」
002 人と自然を愛し、地元の中学校には「心はいつでもあたらしく」の書を送った光太郎は52年、依頼された十和田湖乙女の像の制作のため、山荘を離れた。「仕事が終わったら山口に帰る」と繰り返していたという。持病の肺結核が悪化し56年、東京で帰らぬ人になった。享年73歳。
 花巻市では毎年5月、山荘で光太郎をしのぶ高村祭が続く。花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長は「戦後の苦しい時代、光太郎先生が地域に残してくれたものはかけがえがない宝。『心はいつでもあたらしく』は、生きる指針です」と話した。(溝口太郎)

今年は戦後75年という節目の年で、各種メディア、例年より戦争特集的な企画が多かったように感じました。この記事もそうした流れの一環かな、と思います。やはりあの戦争による戦後をどのように過ごしたのか、という点に於いて、岩手での光太郎の生き様は一つの指針となるのではないでしょうか。

岩手での光太郎の生き様、といいますと、岩手のローカルテレビ局・いわてめんこいテレビさんで、8月29日(土)、「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」という1時間の特番を放映して下さるとのこと。

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高村光太郎の山小屋暮らし7年」といいつつ、智恵子の故郷・二本松でのロケも敢行されています。そちらは明日、ご紹介します(なにぶん、ネタ不足は相変わらずなもので(笑))。


【折々のことば・光太郎】

あの詩集の内容を考えると一つの告白といつたもので文学賞をもらうようなものではなかつた。だから感想といわれても困る。それに年も年だから賞をもらつても感激するということもない。

談話筆記「賞を受けて」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

016「あの詩集」は前年刊行の『典型』、「文学賞」は第二回読売文学賞です。

『典型』は、自らの半生を顧みた連作詩「暗愚小伝」20篇を含む、生前最後の詩集(「選集」等を除いて)。光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。

しかし、賞を貰うようなものではないというわけで、このような談話。さらに、当方手持ちの、親しかった詩人の川路柳虹にあてた葉書にも、「拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。」としたためました。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」などの「Prix」。「栄誉」、「賞」などを表します。

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光太郎、賞金五万円は山小屋近くの山口小学校や地元青年会などにそっくり寄付してしまいました。

昨日に引き続き、花巻ネタで。

地方紙『岩手日日』さんの記事から。 

「智恵子のレモンキャンディ」発売 花巻・高村記念館【岩手】

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」の販売が始まった。道の駅はなまき西南開業に合わせて開発され、同館、同駅で取り扱い中。光太郎詩・レモン哀歌にちなんだネーミングやパッケージデザインが楽しく、観光客らの人気を集めている。
 同駅は、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が花巻居住の拠点とした山小屋から、さほど遠くない立地。駅内には地元ゆかりの偉人について伝える情報発信コーナーがあり、同館や花巻高村光太郎記念会では、PRのためグッズ開発にも力を注ぐ。今春から取り組む光太郎詩「非常の時」関連手作りマスクは、多くの観光客が手にするほど人気という。
 パッケージにはレモン哀歌にちなんだ「トパアズ色の香気が立つ」の一文が添えられ、光太郎と妻・智恵子のエピソードを想起させる挿絵が目を引く。酸味は控えめで、子供にも優しい味わいに仕上がっているのも特徴的だ。
 パッケージ裏面では同館や高村山荘について紹介しており、駅利用者が、花巻と光太郎について知るきっかけづくりにもなりそう。開発に携わった同館スタッフの井形幸江さんは「駅の開業に合わせ、オリジナルで手頃、お土産になる物をみんなで考え合った。味やデザインなど細かいところまでこだわった商品なので、キャンディを通じて光太郎や記念館にも関心を持ってもらえたら」と願う。
 85グラム、約30粒入り。税込み350円。問い合わせは同館=0198(28)3012=まで。

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同館ブログによれば、「道の駅の開業に合わせて、私達も何かお土産になるものを、と昨年から考え、ついに実現したキャンディです。中身の味は勿論、デザインなど細かいところまで検討しました。あまりにも検討しすぎて、納品がギリギリでした。」だそうで。

来月には同館で開催される市民講座の講師を仰せつかっておりますので、買い込んで来たいと存じます。今月オープンした「道の駅はなまき西南」も訪れたいところですし。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局文部省あたりであらうが、それは局であらうと課であらうと構はないが、美術はもとより文芸にしても、一般国民生活の上の美に関する條件だとか、古社寺保存の類、名所旧跡も入るし、また芸術家の生活に就ても、それら一切を管轄するところがあつてほしい。

散文「文部省へ 美の問題の統一」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この後の部分では「現状のやうでは問題によつて色色なところへ持つて行かねばならないし、面倒で連絡もとれてゐない。一切のさういふものを、大きくても小さくても係りの者があつて、そこで凡そ美に関する問題を職掌してくれるところが分れば、僕ら国民は大変楽だと思ふ。」と続きます。

横の連携がない、いわゆる「縦割り行政」に対する批判と提言です。80年前もそうだったのですね。

昨日に引き続き、光太郎の父・光雲がらみです。

花巻高村光太郎記念館さんにおいて、以下の展示等が行われます。 

光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)

期 日 : 2020年9月4日(金)~9月23日(水)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体


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関連行事000

高村光太郎記念館講座 
「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」


 期 日 : 2020年9月15日(火) 
 会 場 : 花巻高村光太郎記念館
 時 間 : 10:00~12:00 
 料 金 : 受講料無料 (要観覧券)
 対 象 : 花巻市内在住・在勤者
 定 員 : 15名 (要予約・抽選)
 講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


右は『広報はなまき』の8月15日号から。

昨年、光雲四男にして、藤岡家へ養子に入った孟彦(植物学者 明治25=1892~昭和52=1977)の子息であらせられる、横浜ご在住の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から、光雲遺品の木彫「鈿女命」の寄贈がありました。保存状態が余り良くなく、後述しますが傑作とは言い難いものなのですが、それでも貴重な作であることに変わりはなく、ポンと寄贈なさったその心意気にはいたく感動いたしました。

当方、花巻市の担当の方と共に藤岡家に参じまして、現物を拝見。その後、いろいろと調査を進めました。

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題材は日本神話の八百万の神の一柱、天鈿女命(あめのうずめのみこと)。弟・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の暴虐に心を痛めた天照大神が、天岩戸に籠もって世界が暗闇となった時、思金神(おもいかねのかみ)の発案により、天鈿女命が岩戸の前で扇情的な踊りを披露、はやし立てる神々の歓声を不思議に思った天照大神 が岩戸の隙間から顔を覗かせたところを、力自慢の天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が引き出したという神話が残っています。

おそらく桜材の一木造りで、銘は入って居らず、細かな仕上げも為されていないため、習作あるいは制作途中の作品である可能性が高いのですが、細部の表現の仕方等、光雲木彫の特徴がよく表れています。

各種の制作のために光雲が描いた下絵類の中に、天鈿女命を描いたものが現存しますが、これまでに光雲作の天鈿女命像は他に類例が確認できておらず、貴重な作です。

製作年は詳らかに出来ませんが、箱書きは光太郎の筆跡により、昭和10年(1935)に書かれています。前年に歿した光雲の形見分けとして孟彦に伝えられ、おそらく箱書きもその時点で為されたのでしょう。光太郎が自身の木彫を納める袱紗(ふくさ)や袋、 水墨で描いた絵画等に使った印が捺されています。

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展示では像と箱、それから光雲の代表作の写真を十数葉(当方がお貸ししました)並べます。

それから関連行事として、市民講座。光雲と光太郎について、いろいろお話しさせていただこうと思っております。

コロナ禍のため、今年に入ってからのこの手の仕事はこれまですべてキャンセルとなっており(この後予定されていたものでもキャンセルになったのがありますし)、久々の講師拝命です。やはりコロナ禍のため、定員は当初予定より大幅に少なくして15名。花巻市在住・在勤の方限定です(が、個人的に当方をよくご存じの方、応相談です(笑))。

展示期間があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

新しい人達のものが満載してあるので、よむのがたのしみです。

散文「詩華集『航海』読後感」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

雑誌『詩集』第三巻第一号掲載。「読後感」といいつつ、受贈の礼状をそのまま引用したようです。光太郎、後進の若い詩人たちに対しては、常に温かいまなざしを送っていました。

詩華集『航海』は、前年に発行されたもので、池永治雄、岡田淑子、下條綾子、八百坂芳夫、佐野嶽夫、横堀真太郎の七人によるアンソロジーです。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第21号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「梅酒とナスとキュウリの煮びたし」だそうで。

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自宅兼事務所の庭にもナスがなっています。当方は好きではないので食べませんが(笑)。

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「食べません」といえば、昨年、碌山美術館さんで種をいただいてきたソバ。昨年植えて、結構花が咲いて実がなりましたが、蕎麦を打てるほどには収穫できませんでしたので、種を取っておき、今年も植えたら咲きました。もっぱらベランダでの観賞用です。

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「ベランダでの観賞用」といえば、右上の花。近くの駐車場に生えていたのを取ってきました。可憐な水色の花がいい感じなのですが、名前が判りません。草花に詳しい方、ご教示いただければ幸いです。

閑話休題。もう一つ「マチココ」さんで紹介されている梅酒。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「梅酒」(昭和15年=1940)が元ネタですね。

   梅酒
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 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

狂瀾怒濤の世界の叫」は、この年開戦の第二次世界大戦。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していました。

光太郎、智恵子を喪った心の空隙を埋めるように、すでに大量の空虚な翼賛詩を書き殴るようになっていました。しかし、亡き智恵子を思い起こす時(「あはれな一個の生命を正視する時」)のみ、「世界はただこれを遠巻にする」というのです。

しかし、局面打開のため、翌年には太平洋戦争へと突入。そうなると、公表される光太郎詩はそのほとんどが翼賛詩。智恵子が謳われることはありませんでした。

再び詩の中に智恵子が蘇るのは、終戦後の昭和20年(1945)の智恵子命日(10月5日)に書かれた「松庵寺」においてでした。

今号の『マチココ』さん、奥付では8月10日(月)の発行となっていますが、ちょうど終戦記念日ころ読者に届くということで、このような選択にしたのかも、などと思いました。考え過ぎかも知れませんが。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

家庭の雑事を女の人が受持つてゐるのはたいへんなものですね。僕は自分でそれをやつてゐるからよく分ります。

座談会筆録「新女性美の創造」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

智恵子が亡くなりすでに3年、そしてこの後も約15年間、光太郎は「家庭の雑事」をほぼ自分一人でやり続けました。「業績」というには語弊がありますが、こうした点も光太郎の偉いところだと思います。

昨日に続き、岩手県花巻市、花巻高村光太郎記念館さんにほどちかい場所にオーピンした「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷(さと)」についてです。

岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでは、賢治・光太郎コーナーについても触れて下さいました。 

新しい道の駅に地元で人気の焼き肉店 花巻市にオープン

岩手県内では34駅目となる新しい道の駅が花巻市に8月7日オープンした。地元で30年以上愛されている焼き肉店が、この施設の中に移転し、おいしいホルモンを楽しめる。
7日オープンしたのは花巻南インターチェンジから車で約7分ほどの所に出来た道の駅「はなまき西南」。愛称は「賢治と光太郎の郷」。休憩所には花巻市にゆかりのある宮沢賢治と高村光太郎の資料が展示されている。
道の駅には3つのテナントが入っていて、産直ではその日地元でとれたばかりの新鮮な野菜が並んでいる。
買い物に来ていた女性
「うれしいですよ。地元の物も出るし盛り上げていきたい」
なかでも30年以上前から地元で愛されている焼き肉食堂「味楽苑」は移転オープンし、人気メニューの「ささまホルモン」が注目を集めている。
報告:森尾 絵美里 アナ
「ホルモン大好きなんです。いただきます。噛めば噛むほどあぶらがしっかり出てきます」
他にも近隣の高齢者へお弁当の配達をするなど「地域を支える拠点」としての役割を担っている。
産直は9時から。味楽苑は11時からオープンし、年中無休で営業する予定だという。

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他の報道は賢治・光太郎コーナーには触れられませんでしたが、一応。

岩手朝日テレビさん。 

道の駅はなまき西南 開所式

花巻市に新しい道の駅がオープンしました。
施設には県内の道の駅としては初出店となるある店舗も!花巻市轟木の県道13号沿いにオープンしたのは、道の駅「はなまき西南」です。
店が少ないこの地域の活性化につなげたいという住民の要望により整備されました。
産直には開店と同時に多くの人が訪れ地元でとれたおよそ30種類の新鮮野菜が並びます。
また、オープンを記念して、一般的に流通していないワインの搾カスをブレンドした特別なエサで育った花巻産の黒毛和牛が販売されているほか、先着でもちのお振る舞いもありました。
弁当やお惣菜を販売するこちらの店では、地域の高齢者世帯に弁当を配達するとともに、声かけや見守りをする活動にも取り組むということです。
市内の店舗で30年あまりに渡り営業してきた味楽苑が道の駅に移転しました。
県内34の道の駅で焼肉店の出店は初めてで、訪れた人たちは店自慢のホルモンをさっそく味わっていました。
地元の期待に応えオープンした道の駅「はなまき西南」。地域のにぎわいの拠点となることが期待されます。

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さらに地方紙。

『岩手日日』さん。 

地域支える拠点に 道の駅「はなまき西南開業」

014 県内34ヶ所、花巻市内4カ所目となる道の駅「はなまき西南」は7日、同市轟木にオープンし、開所式が行われた。休憩所や産直、焼き肉レストランなどを備える地域特性を生かした駅で、式後は多くの買い物客らが待望のオープンを喜び合った。
 式には上田東一市長や国交省岩手河川国道事務所の平井康幸所長、地元選出県議、地権者ら約30人が出席。上田市長が「地域の特性を生かした個性豊かな玄関口として、地域活性化に大きな効果をもたらすと期待している。地域を支える拠点として末永く愛され、利用されることを願う」と式辞を寄せた。
 神事に続いてテープカット、くす玉開きを行い営業開始。長い行列をつくった市民らが次々に入店し、産直「すぎの樹」で買い物などを楽しんでいた。レジ先着200人には記念の紅白餅が手渡され、店内に笑顔が広がっていた。
 主要地方道森岡和賀線笹間バイパス利用者の利便性向上、地域特性を生かしたにぎわいの場創出を狙った整備内容は来店者にも大好評。仕事で同道を走行する機会が多いという北上市常盤台の自営業八重樫實さん(75)は「今までの産直(すぎの樹)も利用していたが、こちらの道路沿いにある方が利用しやすい。車を運転する者にとっては休憩も出来て便利。近くに食堂がない場所なので(焼き肉などを提供する)レストランが入ったのもいい」と歓迎していた。
 道路管理者の県と花巻市による一体型整備で、敷地面積は8,219平方メートル。建物は鉄骨平屋建ての床面積951.60平方メートルで敷地内に大型12台、小型36台、身障者用1台、二輪4台の駐車場を備える。管理運営は西南地域住民や市、JAいわて花巻などが出資する「はなまき西南」で、駅長を務める同社の安藤功一さん(62)は「地元の小中学生らとも連携を深め、地域の人たちが気軽に立ち寄れる施設にしていきたい。全国から訪れる観光客の案内も上手にできるようにしなければ」と気を引き締めていた。
 道路利用者の休憩や買い物などの利便性向上のほか、弁当宅配サービスなどで地域の高齢者見守り機能を果たすのも特徴的。加工施設には地域の女性でつくる加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入り、地元農産物を使った弁当や総菜などを販売する。

『岩手日報』さん。 

道の駅オープン 産直や焼き肉店が入居

024 花巻市轟木の道の駅はなまき西南(安藤功一駅長)は7日、オープンした。県道盛岡和賀線沿いで交通アクセスが良く、初日から多くの人でにぎわった。産直や焼き肉店などが入居し、地域振興の拠点として役割が期待される。
 花巻農協直営の産直「すぎの樹」は、レタスやキャベツ、ズッキーニなどの野菜を通常30~40品目販売する。
 焼き肉店の味楽苑(鈴木貫(とおる)店長)では多くの家族連れらがテーブルを囲み、名物の「笹間ホルモン」を焼いたり、冷麺などを味わった。


当方自宅兼事務所のある千葉県香取市近隣、道の駅は3カ所あります。どこも他にはない特色を打ち出し、それなりに繁昌しています。

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しかし、少し離れたところにある道の駅の中には、閑散としているところも。そういうところは立地条件も確かに良くないのかもしれませんが、やはりあまり特徴らしい特徴が見えず、魅力に乏しいように思われます。

「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷」、そうならないようになってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩とは気である 気の実である 短句揮毫 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎は「詩魂」という言葉も好んで使いました。その人間の根幹をなすものがそれで、そこから外部に出てくるものが詩なり造形芸術なりの、その人にとっての「実」なのだというわけですね。

というわけで、何度かご紹介して参りました、花巻高村光太郎記念館さんにほど近い、道の駅「はなまき西南」(愛称「賢治と光太郎の郷」)が、昨日、オープンしました。2回に分けてご紹介します。

テレビ岩手さんローカルニュースから。 

岩手県花巻市 道の駅「はなまき西南」オープン

岩手県花巻市に市内4か所目となる道の駅が7日オープンし、記念のセレモニーが行われた。セレモニーでは、関係者がくす玉とテープカットで新しい道の駅のオープンを祝った。花巻市内としては18年振り、4か所目の整備となった道の駅『はなまき西南』は、延べ床面積約950平方メートルで、地元の朝採れ野菜が並ぶ産直コーナーのほか、道の駅には珍しい焼肉店がある。こちらの店は地元で30年以上営業していた人気店だが、今回の道の駅オープンに合わせて運営会社から依頼を受け、地域のためになるならと移転を決めたという。県道13号線沿いに整備された道の駅『はなまき西南』は、地域の賑わいの場としても期待されている。

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続いてIBC岩手放送さん。ちなみにキャスターは先日の「わが町バンザイ」でレポーターをルロメられた奥村奈穂美アナでした。 

県内34か所目の道の駅「道の駅はなまき西南」オープン/岩手・花巻市

岩手県内34か所目となる道の駅が花巻市に誕生し、開所式が行われました。地域の食を支える拠点として、地元住民から大きな期待が寄せられています。
花巻市轟木に新たにオープンしたのは「道の駅はなまき西南」で、7日は開所式が行われ関係者がテープカットでオープンを祝いました。道の駅はなまき西南は総事業費およそ8億4000万円で整備され、鉄骨平屋建の施設は産直コーナー、惣菜コーナー、焼肉店、休憩所の4つのコーナーに分かれています。
オープン前には200人を超える人たちが、行列を作るほどの盛況ぶり。オープンとともに地元で採れた新鮮な野菜や、果物などを買い求めていました。道の駅はなまき西南は土産品も充実していて、地域の人たちと観光客の交流の場として貢献しそうです。

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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということですが、そのあたりに触れられて居らず、残念でした。

愛称のとおり、2人の紹介コーナーも設けられています。花巻高村光太郎記念会さんのブログサイト「森のたより」から画像を拝借。


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説明板、地元の方が書かれたものですが、原稿がこちらに廻って参りまして、憚りながら校訂、加筆させていただきました。


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グッズコーナーも。

地域活性化に大きな効果をもたらすことが期待されます。その拠点として末永く愛されてほしいものです。

明日もこの項続けます。


【折々のことば・光太郎】

自国の国民性を自覚する事は、自己の血を洗ふ事である。自国の国民性を知る事は、自己の天然を知る事である。此の意味に於てのみ、自国々民性の考察が私に強い執着を持つて来る。

翻訳「日本の国民性に就いて考ふ」前書きより
 大正4年(1915) 光太郎33歳

中国に滞在していた親友の陶芸家バーナード・リーチからの長い手紙を翻訳し、雑誌『智仁勇』に発表、その前書きの部分からの抜粋です。

幼稚なネトウヨのように、いたずらに自国の国民性の優越を誇るのではなく、自己のアイデンティティーの特性をとらえるために、自国の国民性を考えるべきとの言です。

ゆかりの文学館、二館でのミニ展示をご紹介します。007

まず、花巻高村光太郎記念館さん。「光太郎とスプリング・エフェメラル~春を彩るはかない花たち~」だそうで、同館スタッフの方々が撮られた、高村山荘(記念館に隣接する終戦後の7年間、光太郎が暮らした山小屋)周辺の写真が展示されています。

以下、同館のブログサイト「森のたより」、7月末の投稿から。したがってまだ梅雨明け前の内容です。

みなさんこんにちは。
高村光太郎記念館です。
今日で7月が終わります。
コロナウイルスや雨の日が多く日照不足でパッとしない日々が続きます。008
皆さんの地区はいかがでしょうか?
いろいろ規制がある中で、来館してくださる方々に少しでも楽しんでいただけたらと、、企画展示室で記念館周辺の写真の展示をしております。
春の景色やお花に絞っての展示です。
職員が3年間撮りためた写真がたくさんあります。
四季折々の景色や花々もぜひ体験していただきたいのですが、気になる方には写真集も作りましたのでお求めいただけたら、と思います。009
「山の贈り物」という写真集です。
余計な字は一切ありませんのでより身近にこの風景を楽しんでいただけると思います。
A4判、オールカラー143ページの写真集です。
価格は2800円(消費税込み)1冊360円の送料でお送りいたします。
お申し込みはメール、又はFAXで
✉ kotaroucafe30@gmail.com
FAX 0198283012
までご連絡ください。数量が多くありませんので、お早めに!



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スプリング・エフェメラル」は、「春先に花をつけ、夏まで葉をつけると、あとは地下で過ごす一連の草花の総称。春植物(はるしょくぶつ)ともいう。直訳すると「 春のはかないもの」「春の短い命」というような意味で、「春の妖精」とも呼ばれる。」(フリー百科事典・ウィキペディア)だそうです。具体的には、あのあたりにはカタクリなどが咲いていたっけな、と思いあたりました。それから、画像で見る限り、ショウジョウバカマかな、と思われるものも。

ショウジョウバカマは光太郎、スケッチにも残しています。

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また、四季の木々や草花などの写真集も新たに作られたそうで、それらをことのほか愛した光太郎も泉下で喜んでいるのではないでしょうか。

もう1件、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館さん。こちらは地方紙『福島民友』さんの記事をまず引用させていただきます。 

【いわき】草野心平と古関裕而、交流紹介 日記の複製や写真展示

006 いわき市草野心平記念文学館は1日、同館で展示「草野心平と古関裕而」を始めた。詩と作曲で本県を代表する2人の関わりを紹介している。30日まで。

 同館によると、2人は1973(昭和48)年に冬季大会「第29回国体猪苗代大会」の大会賛歌を共同で制作した縁で知り合い、以後県内の小、中学校の校歌を手掛けたという。草野の日記の複製や2人が写った写真など14点を展示している。

 日記には、草野が古関から郷土料理の紅葉漬けをもらい返礼のはがきを書いたことなど、人間味ある交流が書かれている。時間は午前9時~午後5時。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。

NHKさんで放映中の(現在はコロナ禍のため撮影中断があって再放送中ですが)連続テレビ小説「エール」の主人公、窪田正孝さん演じる古関裕而(ドラマでは「古山裕一」)。光太郎とは直接の関わりは確認できていませんが、心平とは縁があったのですね。存じませんでした。まあ、同じ福島県出身で、同年配(古関は心平の3歳下)ですので、あり得る話でした。

ところが、今日現在、同館のサイトを見ても、この展示に関しては記述がありませんでした。開催中のメインの企画展は「没後90年 童謡詩人金子みすゞ展」ですし。急遽決まったミニ展示なのかな、という気がします。

何はともあれ、両館ともにぜひ足をお運び下さい……というのも、コロナ禍収まらぬ現在、なかなか申し上げにくいのですが、感染防止に充分ご配慮の上、よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

大変立派な詩集『葡萄の房』をいただき、山の小屋に異彩を放ち、美しく眺めました。詩は幾重にも鍛鋏されたものである事を感じ珍重の思をいたしました。
散文「葡萄の房に寄せて」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

『葡萄の房』は、不二書房より刊行された大阪出身の詩人・藤村雅光の詩集です。おそらくその受贈礼状の全文、または抜粋。同じ不二書房の雑誌『詩文化』に掲載されました。

「鍛鋏」は「たんきょう」と読むのでしょう。当方愛用の1,400ページ超の漢和中辞典にも載っていない語でした。おそらく鍛冶屋さんが鉄を鍛えて不純物を取り除いたり、植木屋さんがハサミで余計な枝葉を刈り取ったりといったところからの連想かと思います。「鍛錬」であれば「詩句を練り直す」という意味があり、類義といえるかも知れません。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。

まずは「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」が取り上げられました。 

高村光太郎『手』 木彫りと塑像が融合した光太郎の代表作

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。父の高村光雲は明治時代を代表する彫刻家で、小さな仏像から大きな西郷隆盛像まで大小さまざまな作品を遺しました。光雲の長男として生を受けた光太郎は、自然な流れで木彫家の後継者として育ち、小学生のころには小刀で木彫りのまね事を始めていました。
 作品『手』は、東大寺大仏の右手などに見られる「施無畏(せむい)の印(いん)」を、光太郎自身の左手で結んだ光太郎の代表作です。粘土による塑像から石こう像を経て鋳造されたブロンズは、木彫りの台座に支えられ、人さし指は真っすぐに天を貫いています。『手』は単なるブロンズ像ではなく、木彫りと塑像の折衷によって出来上がった作品なのです。
 明治以前からの日本における伝統的な工芸・木彫りと、明治以降に西洋文化の影響を受けた塑像が一体となった『手』。木彫家の光雲の血を引き、欧米留学で西洋の芸術を身に付けた光太郎だからこそ、この作品を作り出せたと言えるでしょう。
 高村光太郎記念館では『手』のほか、併設して実物大で作られた『さわれる手』も展示しています。鑑賞するだけでなく、直接触れて光太郎の作品を感じ取ってみてください。


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この連載、時折、光太郎作品や遺品等を取り上げて下さっているので、非常にありがたく存じます。過去の記事はこちら。

 実業家・大倉喜八郎のブロンズ像 (平成29年=2017 11月15日号)
 光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) (平成30年=2018 8月15日号)
 光太郎が使用した硯(すずり)と筆 (平成31年=2019 9月15日号)
 「大地麗(だいちうるわし)」の書 ( 同 10月15日号)
 
同じ「広報はなまき」最新号で、光太郎がらみの記事がもう1件

道の駅「はなまき西南」が8月7日にオープンします

 太田・笹間地区に整備を進めてきた道の駅「はなまき西南」が8月7日(金)にオープンします。
 同施設は、道路利用者への安全で快適な道路環境の提供と、地域の特性を生かしたにぎわいの場の創出を目的に整備。道の駅に必要とされる ▼地域連携機能(物産館や加工施設などを有した地域振興施設) ▼情報発信機能(道路・観光情報の提供など) ▼休憩機能(駐車場やトイレなど)ーの三つの機能を有しています。
 中でも特徴的なのは地域連携機能。加工施設をミレットキッチン花(フラワー)が運営し、地元食材を使った弁当や惣菜を提供することで地域活力の向上を図るとともに、地域の高齢者を対象に配食サービスを通じた見守りを推進するなど、地域を支える拠点施設としての役割を担います。

■施設概要
 ◦所在地 轟木7-203
 ◦床面積 951.6平方㍍(敷地面積8,219平方㍍)
 ◦総事業費 約8億4,000万円
 ◦建物構造 鉄骨造平屋建て
 ◦建物構成 ▼地域連携機能…物産館、食堂、加工施設
  ▼情報発信機能…道路・観光情報などの情報提供施設
  ▼休憩機能…駐車場、トイレ、休憩所
 ◦駐車台数 大型車12台、普通車36台、身障者用1台、二輪車4台

道の駅「はなまき西南」開所式
 日時8月7日(金)、午前10時
 場所道の駅「はなまき西南」
 *一般開放は、開所式終了後の午前11時30分を予定しています。

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来月オープン予定の道の駅「はなまき西南」。なぜ光太郎がらみかといいますと、愛称が「賢治と光太郎の郷(さと)」ということになったためです。

場所的には、花巻高村光太郎記念館さんから直線距離で4㌔㍍ほど。かつて光太郎もこの辺りを歩いたはずで、そこで「光太郎」。「賢治」は、やはり全国区の知名度として花巻と言えば賢治なので、外せないのでしょう(笑)。このあたりには賢治の足跡は残っていないような気もしますが、どうなのでしょう。当方、賢治にはそれほど詳しいわけではありませんのでよくわかりません。ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

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施設内には展示スペース的なコーナーも設けられるとのことで、光太郎と賢治の関わりについての説明版が掲げられる予定です。地元の方が書かれた原稿がこちらに廻ってきまして、僭越ながら校閲させていただきました。

計画はだいぶ前からあったのですが、いよいよ8月7日(金)、オープン予定だそうです。花巻高村光太郎記念館あんと併せ、ぜひ足をお運び下さい(しつこいようですがコロナ感染拡大にはお気を付けつつ)。


【折々のことば・光太郎】

幸いに父は達者で居ります。父の面前で、その父の愛について語るなどといふ事は面はゆくて出来ません。

アンケート「名士回答 私が父の愛を最も深く感じた時の思ひ出」全文
昭和6年(1931) 光太郎49歳

父・光雲に対して、彫刻家としては、その方向性の相違を烈しく意識せざるを得なかった光太郎ですが、人間的な部分では感謝の念は忘れたことはありませんでした。どれだけ反抗しても結局はスネかじりになり、お釈迦様の手のひらでいばっている孫悟空のような……。しかし、それを名言できないあたり、日本人の感覚としてはこうなのでしょう。

主要紙地方版記事シリーズです。今回は『朝日新聞』さんの岩手県版から。 

(いま聞きたい)大滝克美さん マーケティングから見た岩手の強みは/岩手県

■「行ってみたい」豊富な資源 岩手に移住したコンサルタント

 30年近く岩手に関わってきた、マーケティングコンサルタントの大滝克美さん(53)。一昨年からは県内でペンション経営を始め、埼玉から移住した。人口減少が進むなか、何が人を引きつけるのか。マーケティングのプロの目から見た岩手の強みとは。

――岩手に移住したきっかけは
 コンサルタントの仕事で、もともと10年ほど前から1年の半分ほど岩手に来ていました。少し前に、安比で飲食店の物件を探していた知人から相談を受けましたが契約には至らず、いっそ自分でやってみようと、ペンション経営を始めました。これまでコンサルとしてやってきたことの、いわば実証実験です。2018年夏から岩手に単身赴任し、今年春から家族も移住しました。
――岩手の魅力はどんなところでしょうか
 広い県土、海や山、川、起伏に富んだ土地、歴史、そのバリエーションが強みです。人も多様で個性的。人を引きつける資源が豊富です。それらを、今しかない、行ってみたいというライブ価値に高めていくと、観光の可能性は無限に広がります。
 その場に行ってみたいという本能的な欲求は、例えば、八幡平のドラゴンアイの人気ぶりを見ても根強いものがあります。今年もSNSでは、「(桜などになぞらえ)まだ8分咲き」とか「天気悪く来週もう一度来よう」などと、2度3度訪れる様子が伝わってきました。
――どうアピールすればいいのでしょう
 高村光太郎は「岩手の人 牛のごとし」と記し、寡黙で真面目な面を表現しました。宣伝がうまくないと言われるのも、そうした県民性が底流にある。ただ、それは愛すべき特性で、無理に変える必要はない。私も岩手で仕事をするなかで、「人知れずそんな努力をしていたのか」と驚くことが何度もありました。思慮深く、奥ゆかしいのです。コツコツ努力したという情報をじっくり伝えていくことが、遠回りなようで、岩手らしい王道のような気がします。
 都内の大手百貨店のバイヤーは「北海道や沖縄の物産展は盛り上がりが前半に集中するけれど、お客さんが長く続くのは岩手だ」と言う。魅力を伝え切れていない分、未知の何かがある。だからまた来る、というわけです。観光に置き換えると、岩手に長くいたい、また来たいと思う人が多いということになるので、勝算ありと言えます。
――岩手にとって課題はどこにあると感じますか
 物を加工する力を育てることでしょう。観光の先進地でもある北海道や沖縄、長野などはさまざまなよい商品を出し、価格競争力もあります。岩手の物作りは素材にこだわり、手作りで、デザインに凝っていて品質は高い。けれども生産量や価格に課題があります。豊富な岩手県産原料が県外の製造を支えていることを誇りにしながらも、安定的に供給できる加工業は県内にもっともっと育っていい。
 人口減少との向き合い方も大事です。自治体の地域活性化事業では、成果指標として「定住人口を増やす」と記すことがあります。果たして現実的でしょうか? 市町村の数だけ独自色がある。それぞれの個性を生かして、例えば「30歳代を増やす」「子育て世代を呼び込む」などと戦略的なテーマが必要です。
 「(うちの自治体には良いものが)何もない、どうしよう」と困ることはない。岡目八目、30年近く岩手を見てきてそう断言できます。

 おおたき・かつみ 1966年、新潟県村上市(旧山北町)生まれ。東北大工学部を卒業後、リクルートグループを経て、バブル崩壊後に安比高原でリゾート開発に携わる。97年、マーケティング業へ転身。地方食材ならではのこだわりを重視したブランドづくりや、販売支援を手がけた。2007年に岩手県の産業創造アドバイザーに就任。18年、泊まれるビアバー「安比ロッキーイン」の経営を始め、岩手に移住した。

岡目八目」、なるほど、という感じでした。地域の良さは、他から移ってきた人や、一度離れて戻ってきた人の方が、他の地域との違いもよく分かり、見えやすいようです。

当方も岩手の皆さんとの付き合いが長いせいか、挙げられている岩手県民の美徳的な部分には納得がいきますね。実に堅実にものごとを進め、決して慌てない、といいますか。

しかし、「生き馬の目を抜く」江戸ッ子や、「もうかりまっか?/ぼちぼちでんな」のなにわ商人(あきんど)などからすれば、「まだるっこしい」「もどかしい」と感じることがあるだろう、というのも想像がつきますね。

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光太郎はラジオ放送のために録音したアナウンサーとの対談(昭和24年=1949)で、こんな発言をしています。読みにくいかもしれませんが、すみません。テープから文字起こしをしたそのままですので。

で、岩手が、岩手の大地が好きな、岩手の牛みたいな性格ですね。しっかりものをやって、確かにものをやって、で、のろいですよ、すごく。のろいけれども確かにやるってことは、確かにやる。根本からやるってことは、日本の生活の中に非常に欲しいところなんです。ええ。これは、これまで、明治以来、あんまり文化の進み方を速く急いだから、根本からやるってことはおろそかになった。それでものをしっかりこさえるってことが、どうもうまく行ってない。で、国民性にも、国民性まで、そうなりがちだったですね。かえって、その、昔は、そういうこと、できていたんです。昔の手の周りの道具類とか家具類なんかよく見ると、しっかりできてんですね。明治以来の商品化したそういうものは、もう、すぐ壊れるようにできてる。これじゃ、あの、とてもいけない。で、岩手は、そこ、まだ、その伝統、生きてるんです。

ここでも「牛」のたとえが出ていますね。

この対談の年に書かれた「岩手の人」という詩が元ネタです。既に何度がご紹介しましたが、改めて全文を。画像は花巻北高校さんに立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、006
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

さて、大滝氏のインタビュー。コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた新たに顕現した昨今、示唆に富んだ提言ですね。これから、本当の意味での「地方創成」がさらに進むことを期待します。


【折々のことば・光太郎】008

人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです。

談話筆記「「十和田記念碑」除幕式における高村光太郎先生のお話」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨日のこの項同様、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕の日のもので、昨日は新聞『東奥日報』に語った談話、本日のものは式典での挨拶の筆録です。

「霊肉一致」という境地までたどり着いているのかな、という気がしますね。

ローカルTV局・IBC岩手放送さんで、毎週水曜日の19:00~19:57、「わが町バンザイ」という自主制作番組が放映されています。「さまざまな組み合わせのアナウンサー2人(時にはゲスト)が、県内33市町村を基本的に行き当たりばったりで訪ね歩く。「岩手ってやっぱりいいよな!」と心の底から思えるような“ふるさと讃歌バラエティ”。」だそうで。

6月24日(水)のオンエアが、「花巻南温泉峡」。その中で花巻高村光太郎記念館さん、隣接する高村山荘も取り上げられました(というか、前半はまるまるそちら)。同館からDVDに録画してくださったものが届きました。ありがたし。

番組の「お約束」だそうで……。

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ドローン空撮ですね。右端が花巻高村光太郎記念館さん、髙村山荘は左上あたりです。

進行役は同局の浅見智アナ、奥村奈穂美アナ。

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お二人とも通常のニュース番組も担当されており、見知ったお顔でした。特に美人さんの奥村アナは当方のど真ん中ストライク(笑)。


閑話休題(笑)。まずは花巻高村光太郎記念館さん。この番組、通常はアポ無し突撃取材だそうですが、やはりコロナ禍でそうもいかないようで……。

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館内に入ると……。

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取材は休館中だった5月末。女性スタッフの方々が、光太郎手ぬぐいを素材とした手作りマスクを製作中。

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同封のカードには、光太郎詩「非常の時」の一節。

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昭和20年(1945)の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった医療従事者を称えた詩です。それが現在のコロナ禍の状況と重なる、ということで。

浅見アナが詩の一部を朗読。

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テロップの口語訳は当方です。

ここでCM(笑)。岩手銀行さん。

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なぜ「ノンストップ」ではなく「のんストップ」かといいますと……。

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のんさんがご出演(笑)。このCMは存じませんでした。「あまちゃん」で一躍注目を集めた三陸鉄道(三鉄)さんも登場。

さて、続いては……。

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花巻高村光太郎記念館さんのロゴ、「光」という字が左右反転状態なのです。

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ちなみにロゴの右下、「?」にかかっているあたり、熊の爪痕です(笑)。

裏返しの謎を解明すべく、髙村山荘へ。

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答えは山荘の別棟、光太郎が使っていたトイレにありました。

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光太郎が自ら壁に彫りつけた「光」の文字。

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下記は昭和24年(1949)、濱谷浩撮影のカット。本当に彫っているシーンなのか、それっぽく見せるための「やらせ」なのか、何とも不明ですが、ともかく禿頭の後ろ姿は光太郎本人です。

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その後、山荘本体へ。

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最近、二重の套屋の内側に、記念館用に当方が作成した花巻時代の光太郎年譜などを、新たにパネルにして展示したそうで……。

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この項目で、奥村アナ、ウケてました(笑)。

再び記念館に戻り……。

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今秋開催予定の企画展示の宣伝も。

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フリップの通り、光太郎遺品のホームスパンの毛布を展示するそうです。

ただ、その前に、昨年、光太郎令甥の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から寄贈があった、光太郎の父・光雲作の木彫を展示する企画展が、9月頭から中旬まで計画されています。当方現在、そちらの説明パネルやキャプションの執筆にかかっております。

番組後半は、花巻南温泉峡。光太郎が泊まった鉛温泉さん、大沢温泉さんなどは、残念ながら扱われませんでした。

そして、ラスト。

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両アナ、いつの間にかマスクがお色直し(笑)。

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いい感じですね(笑)。

奥村アナ、「正直親切」を、これから座右の銘になさるそうで(笑)。

IBC岩手放送さん、ゴールデンタイムにこういう番組を放映されている、その郷土愛には感服しました。岩手の皆さんは、お一人お一人、そういう郷土愛に溢れていらっしゃり、それがコロナ感染ゼロの原動力にもなっているような気がします。

コロナ禍おさまりましたら、皆様、ぜひ、足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は常々定型詩としての短歌に俗情の交加するのを嫌ふ。短歌はおのづから人間醇粋感情の格高き表現の器であると確信するので木下利玄氏の短歌に私が推服するのは当然の事である。

散文「木下利玄全集内容見本」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

木下利玄は光太郎より三歳年下。少年期より短歌を佐佐木信綱に学び、『白樺』発刊に尽力しました。

光太郎自身は、意外とろくでもない巫山戯た短歌も詠んでいますが、本来、短歌は「人間醇粋感情の格高き表現の器である」と思っていたのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第20号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」。美味しそうです。

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「ミズ」はイラクサ科ウワバミソウ属。よく似た名の「ミズナ」とは別物で、きれいな沢沿いなど湿った場所に生える山菜です。当方も花巻でよく饗されます。

花巻郊外旧太田村における光太郎の好物の一つで、昭和22年(1947)にはずばり「山菜ミヅ」という詩も書いています。

   山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず002
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

右の画像は光太郎の残した「ミズ」のスケッチです。書き込みは以下の通り。

ミズ 西鉛温泉ニテ 昭和二十年六月二十日  
○花 淡緑  ○根もと 淡紅  ○葉 鮮緑
 ウラ 白緑  ○総丈 一尺五寸位 


花巻郊外旧太田村に移る前、花巻町中心街の宮沢賢治実家に厄介になっていた頃、結核性の肺炎で1ヶ月臥床した予後を養うため滞在した西鉛温泉で書かれたものです。


さて、『マチココ』さん。第20号記念と言うことで、特集は「20歳のころ」。花巻のさまざまな皆さんにインタビューか寄稿してもらうかしたようで、20余名の方々の「20歳のころ」が掲載されています。

で、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長をはじめ、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの皆さんの「20歳のころ」も多数掲載されています。それぞれ「なるほどね」という感じでした。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

第一次大戦当時のスペイン風邪みたいに、例えば、アブストラクトが、全世界をふきまくるのではありますまいか。

座談会筆録「敗けた国の文化――東西美術・工芸の交流――」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨今のコロナ禍にともない、約100年前のスペイン風邪のパンデミックがまた脚光を浴びていますね。光太郎自身は罹患しませんでしたが、光太郎が将来を嘱望していた画家の村山槐多はスペイン風邪で死亡しています。また、光太郎の師・与謝野寛、晶子夫妻は家族が次々感染、大変な思いをしたそうです。

「アブストラクト」は「抽象芸術」。彫刻でも絵画でも主に具象を主戦場としてきた光太郎ですが、その勢いは無視できないものとなっていたようです。

それにしてもその例えが、40年近く前のスペイン風邪。よほど印象に残っていたのでしょう。

地方紙『岩手日日』さんに載った記事を2本。

まずは何度かお伝えしている、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件で、6月6日(土)の掲載です。 

共感呼ぶ「非常の時」 手作りマスク人気 高村光太郎記念館 一節印字した紙片同封も 【花巻】

 緊急事態宣言解除など002を受け1日から再開した高村光太郎記念館(花巻市太田)で、同館スタッフ手作りのマスクが人気を集めている。花巻空襲時の救護者をたたえた光太郎詩「非常の時」の一節を印字した紙片を同封し、コロナ禍という「非常の時」を生きる来館者の感動を呼んでいる。
 同館では2019年秋、光太郎が山口小学校(現在は花巻市立太田小学校と統合)に贈った「正直親切」の文字とイラスト、館名などを染めた手拭いを製作。今春のコロナ休館期間を利用し手拭いを裁断、各地で品不足となっていたマスクに作り替えた。
 製作に当たったスタッフ9人は、感染拡大という混乱を戦時下の苦難になぞらえ、紙片同封を発案。11年の東日本大震災発生時にも人々の共感を呼んだ「人安きをすてて人を救ふは難いかな 人危きを冒して人を護るは貴いかな」の文字で、奮闘する医療者らに感謝を伝えている。
 手拭いのデザイン画は、花巻高村光太郎記念館職員の三上昭子さんが担当。消しゴムはんこの技法で描かれた図柄がかわいらしく、手拭い裁断の位置によっては「正直親切」の文字がマスク上できれいに確認できる。「職員全員で意見を出し、何パターンも試作して出来上がった。コロナが流行し始めた頃から『非常の時』とリンクする部分を皆が感じ、製作することになったマスク。リピーターも多い」と喜ぶ。
 マスクは1枚300円。開館は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012まで。

この記事が載ったことで、「さらに相乗効果的に売り上げが伸び、翌日には15セットも売れたそうです。

「非常の時」と手作りマスクに関しては、以下の過去記事をご参照下さい。

 光太郎の食卓カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)セット。もう1件、昨日も同じ『岩手日日』さんに光太郎がらみの記事が出ました

高村光太郎詩「雲」掲載 70年以上前の雑誌発見 【花巻】

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家003・高村光太郎作の詩「雲」が掲載された雑誌が花巻市内で見つかり、関係者の関心を集めている。発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く、資料的価値も高いとみられている。
 雑誌は1946(昭和21)年7月発行の「週刊少国民」。紙面はカラーページやイラスト、写真も多く、明るさを取り戻しつつある戦後世相を感じさせる。花巻市内の民家で発見されたことから、全国的に見ても相当数が発行されていたことが推測される。
 「雲」は、同年6月14日光太郎の制作とされる詩。20行足らずの短さだが「太陽に色どられた空中のパレツト」「光とかげとの運動会」といったイメージ豊かな表現が印象に残る。発見に携わった同市中北万丁目のAct21主宰・菅原唯夫さん(71)は「70年前にこのような作品を生み出したことがすごい」と話す。
 昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。


ニュースバリューということを問題にすると、ものすごく稀少な雑誌ではないので、それほどの件ではないのですが、「発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く」というあたり、それから、作品が書かれた花巻で見つかったというあたりに価値があるような気がします。

『週刊少国民』、「少国民」の語からして怪しさが漂いますが、お察しの通り、戦時中に創刊された子供向け雑誌です。版元はなんとまあ、朝日新聞社さんでした。戦時中から光太郎はたびたび寄稿していました。確認できている光太郎の寄稿は以下の通りです。



このうち、「神風」のみ散文で、あとは詩です。当然のように戦時中のものは、少年向けの翼賛詩。「君たちも早く成長してお国のために命を捧げなさい」的な……。残念ながら読むに堪えない「痛い」ものばかりです(ところがこの手の詩こそ光太郎の真骨頂だと、涙を流してありがたがる愚か者がいまだにいるのですが)。

さすがに「雲」は戦後の作で、翼賛色はなくなっています。ただ、戦後になって「少国民」でもあるまい、ということで、この年の9月には廃刊となっています。あるいはGHQの指導が入ったかもしれません。

記事の最後に「昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。」とあり、確かにそういう面もあったとは思いますが、それよりも、翌年に発表した己の半生を綴りつつ戦争責任を懺悔した、20篇からなる連作詩「暗愚小伝」の構想、執筆にかかっていたのも、発表作の少なかった理由と考えられます。

そうした思いを抱きつつ、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さん、6月1日(月)から再開しました。コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ足をお運びいただき、光太郎の思いに触れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

ぼくは、あそこでだんだんやつているうちに、これが本当の生活で、東京の連中は、みんなうその生活をしている。ここが世界の中心だと思うようになり、あそこを世界のメトロポリスにしようと考えた。それであそこに短波を備えつけて、どことでも通信できるようになれば、東京にいるよりもよほどいいと思つた。

座談会筆録「詩の生命」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「あそこ」が、花巻郊外旧太田村です。「短波を備えつけて」云々は、いわば「テレワーク」、「リモート会議」といったことに繋がるでしょうか。そういう部分での先見性も、光太郎は持ち合わせていました。

またもやネタ不足となりまして、最近手に入れた古いものシリーズです。

先だって、昭和30年代はじめの花巻絵葉書セットをご紹介しましたが、その後、およそ10年後の昭和40年代はじめの花巻絵葉書セットを入手しました。

まず、カバー。昭和39年(1964)に開港した花巻空港です。飛行機は懐かしの双発プロペラ機YS-11ですね。

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題字の「はなまき」の文字は、何と、光太郎の花巻疎開に尽力し、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房花巻病院長の揮毫です。

カバー裏側に解説文。光太郎の名も。

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イラストマップもカバーの裏に。

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昭和43年(1968)に廃線となった花巻電鉄鉛線が描かれていますし、下記の高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)のキャプションには「昭和41年10月ここに高村記念館を建立して遺作を保存しております」とあるので、昭和41年(1966)~昭和43年(1968)の間の発行ということになります。発行元は「花巻市観光協会」となっていました。

葉書宛名面の切手貼付欄は「7円」と印刷されています。葉書の料金が7円だったのは昭和41年(1966)~昭和47年(1972)、年代的に合いますね。金魚のデザインの7円切手、記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか(歳がバレますね(笑))。

さて、絵葉書本体。8枚セットでした。

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縦長で、上半分が光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑、下半分が高村山荘です。現在は二重の套屋に蔽われていますが、この当時は第一套屋のみ。第二套屋の竣工は昭和52年(1977)です。

昭和30年代の絵葉書セットもそうでしたが、あとは温泉地が中心です。

花巻温泉佳松園。昭和40年(1965)、建築業協会賞を受賞したとあります。

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左下は台温泉。過日も書きましたが、小規模な温泉宿が多数軒を連ね、その中の松田屋旅館さんに光太郎、それから当会の祖・草野心平が泊まっています。まだ道路が舗装されていないようです。

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右上はこれのみ戦前の絵葉書の画像ですが、花巻南温泉峡の西鉛温泉秀清館。昭和20年(1945)、花巻疎開直後に結核性の肺炎で1ヶ月臥床した光太郎が、予後を養うために6月に1週間滞在しました。昭和47年(1972)に閉館となったそうですが、下記にはまだ健在で写っています。

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奥に写っている愛隣館さんが昭和35年(1960)に創業し、「西鉛温泉」という呼称は「新鉛温泉」と改められ、絵葉書キャプションもそうなっています。

鉛温泉藤三旅館さん。中央の古い建物、三階の一番奥が光太郎の泊まった31号室です。

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それから温泉ではありませんが、鉛温泉スキー場。なぜかスーツにネクタイでスキー板を履いている人が居るのですが(笑)。

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大沢温泉さん。立て替えられる前の山水閣さんのようです。

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志戸平温泉さん。現在の姿にだいぶ近くなっています。

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各温泉さん、緊急事態宣言の解除を受け、徐々に再開しているようです。連休明けには既に再開したところ、宿泊はまだでも日帰り入浴のみ再開しているところもあり、大半は今月末や来月初めから全面的に再開するようです。ちなみに高村山荘・高村光太郎記念館さんも6月1日(月)から再開の予定だそうです。まだ油断は禁物ですが、早く元の状態に戻って欲しいものですね。

特に急ぎの情報が入らなければ、明日も最近手に入れた古いものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

もう六年です。すっかり住みなれて、都会へ出る気はしません。僕はもう都会を信用しません。都会は腐りかけている。

対談「高村さんと語る」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

ところが翌年には「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、帰京します。まあ、花巻郊外太田村ではあれだけの大作を制作することが不可能だったためですが、帰京したら帰京したで、ぶつぶつ言いながらも東京の生活も楽しんでいた部分もありますが……。しかし、住民票は本当に身体が動かなくなり、死を予感するようになった昭和30年(1955)まで太田村に残していました。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。昨日ご紹介した『山と渓谷』の増刊号同様、1週間ほど前、久々に新刊書店さんに行って目にし、「ああ、これ、文庫になったんだ」と気づいた次第です。 

2020年4月15日 門井慶喜著 講談社001(講談社文庫) 
定価920円+税


第158回直木賞受賞作、待望の文庫化!

天才で、ダメ息子な宮沢賢治。その生涯を見守り続けた父が、心に秘めた想いとは。

政次郎の長男・賢治は、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子。
政次郎は厳格な父親であろうと努めるも、賢治のためなら、とつい甘やかしてしまう。
やがて妹の病気を機に、賢治は筆を執るも――。

天才・宮沢賢治の生涯を父の視線を通して活写する、究極の親子愛を描いた傑作。<第一五八回直木賞受賞作>


ハードカバーは平成29年(2017)9月に刊行されています。その後、翌年1月には第158回直木賞を受賞しました。

光太郎がその作品世界を激賞し、その歿後は、当会の祖・草野心平らとともに、作品の普及に尽力した宮沢賢治。主人公は賢治の父、政次郎です。政次郎は、昭和20年(1945)4月の空襲で、駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、疎開させてやった張本人。同8年(1933)に亡くなった賢治の作品を世に知らしめてくれたということで、光太郎に恩義を感じていました。

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前列左端が政次郎、その隣が光太郎です。ついでに書くなら二人の間から顔を出しているのが、花巻空襲で宮沢家が被災した後、光太郎を一時自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌、うしろで立て膝の人物が、賢治実弟の清六、光太郎の右隣が花巻病院長・佐藤隆房、女性陣は左からクニ(賢治妹)、愛子(清六夫人)、イチ(賢治母)、岩田シゲ(賢治妹)です。

『銀河鉄道の父』、戦中戦後の話は出て来ませんので、光太郎本人は登場せず(大正15年=1926の、光太郎と賢治唯一の出会いの場面は描かれていません)、名前が2度ほど出て来る程度ですが、政次郎と賢治の関係が、ある意味、光雲と光太郎の関係を彷彿させられます。

すなわち、政次郎も光雲も、息子の特異な才能に戸惑ったり、うまく立ち回れないところにやきもきしたりしながらも、自慢の息子ととらえていました。しかし息子である賢治も光太郎も、父を「重し」のように感じ、反発することもしばしば。それでいてすねをかじる時には平気でかじり、政次郎も光雲も「しょうがないやつだ」と思いつつ、結局は息子のいいなりになることも……。まぁ、世の多くの父と子が、多かれ少なかれこのようなドラマを演じ続けてきたのかも知れませんが、この二組の父子はまさしく典型例のようです。010

ハードカバーでお読みいただいていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

天地微妙  短句揮毫  戦後期

光太郎が賢治の作品世界を激賞した理由、いろいろと考えられますが、その一つが、賢治の「自然観」にあったのではないでしょうか。

光太郎はこよなく自然(nature)を愛し、そして人間も自然の一部、したがって、自然に対し、自然に(natural)従うべし、といった考えがありました。そうした「自然観」を賢治の作品世界にも見出し、共感を持っていたのではないかと思われます。

「天地微妙」の句にも、大自然が織り成し、かたときも休むことなく、微妙に移り変わりながら美を顕現しているさまへの讃仰が見て取れるような気がします。

一昨日ご紹介した『岩手日報』さん掲載の記事「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」の関連記事が、やはり同紙に出ました。 

「非常の時」に将来重ね 花巻高看 高村光太郎学ぶ

 花巻市東町の花巻高等看護専門学001校(大島俊克校長)は14日、1年生の文学の授業で、彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)を取り上げた。終戦5日前の花巻空襲の負傷者の救護に当たった医師や看護学校生らの勇敢さを讃えた詩「非常の時」も紹介。新型コロナウイルス感染症拡大の現状で、学生は非常時に何をなすべきか、将来の看護師としての自身の姿に思いをはせた。
 文学の授業は約40人が受講。非常勤講師の阿部弥之さん(73)が、宮沢賢治(1896~1933年)の作品紹介に尽力した光太郎の功績、総合花巻病院の前身、花巻病院院長の佐藤隆房博士(1890~1981年)との関わりを説いた。
 「非常の時」について阿部さんは「花巻空襲で動揺したりうろたえたりせずにやるべきことをやった医師や看護学校生に感激して書いた詩」と述べ「こういった学校の歴史を知ってほしい」と呼び掛けた。
 授業を受け関心を高めた学生。阿部菜月さん(18)は「非常時に、人のために行動できる看護師になれるよう勉強を重ねたい」と誓った。石田あかりさん(18)は「宮沢賢治や高村光太郎といった偉人と関わりのある病院や学校で学べるのは誇り」とかみしめた。
 光太郎が疎開先の花巻に向けて東京・上野をたった1945年5月15日にちなんで、例年5月15日に高村山荘詩碑前(花巻市太田)で高村祭が開かれ、看護学校生が「非常の時」を朗読するが、今年は新型コロナウイルスの影響で同祭が中止となった。


記事にある通り、例年せあれば昨日は高村祭でした。やはり記事にあるように看護学校の生徒さんが「非常の時」を朗読して下さり、それから昨日もご紹介した「手づくり光太郎マスク」を贈られた太田小学校・西南中学校の児童生徒さんによる群読や音楽演奏、そしてこのところ、花巻農業高校鹿踊り部さんの演舞なども盛り込まれていました。

ここ5年間の様子、以下にリンクを貼っておきます。

 平成27年(2015)  平成28年(2016) 平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)


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いつも書いていますが、来年以降、旧に復することを祈念して已みません。

そして、看護学校生の皆さん、この大変な時期に敢えて看護の世界に生きていこうとするその決意には、花巻空襲の際に奮闘した医療関係者を光太郎が讃えたように、敬意を表せざるを得ません。彼らの未来に幸福あれ、とも祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩魂万機  短句揮毫  戦後期?

光太郎の言う「詩魂」とは、いわゆるポエムを作り出すためのものというだけでなく、「物事の本質を十分に見極め、さらに端的に美しく表現する精神」といった意味だと思われます。

「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」 (略)しかし彫刻にはもつと肝腎な根本生命がある。詩の魂である。立体感を重んずる余り、一にも二にも其事ばかりで彫刻を律してゐると、いつの間にか彫刻の生命が無機的なものとなる。芸術の総勘定としての生命が卻つて圧しつぶされてしまふ。(略)立体感をまでも生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。此所に詩と云ふのは、必ずしも文学的の謂ではない。所謂「詩的」なといふ事ではない。(略)人間の内にある名状し難い無限への傾きのやうなもの、結局「詩」とでも言ふより外言ひ様の無い、あの一つのものの事である。此があるからこそ、そもそも彫刻もはじまるのである。此の根本無くして何の立体感ぞ。詩の魂は翼を持つ。(「彫刻十個條」大正15年=1926)

そして「万機」。どんな機会にもその「詩魂」を見出しうるということでしょう。空襲という極限状況下でも、敢然と負傷者の救護に当たった花巻の医療関係者たちの精神も「詩魂」。現代の新型コロナ禍に対し、最前線で闘っておられる皆さんの精神も「詩魂」です。

先月27日、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの皆さんによる「手作り光太郎マスク」寄贈の件、『岩手日報』さんでは早々に報じて下さいましたが、5月2日(土)には『岩手日日』さん、そして昨日、『朝日新聞』さんの岩手版で報道されましたので、ご紹介します。

まず『岩日』さん。 

真心つなぐ善意の輪 光太郎先生の教え今に

 新型コロナウイルスの感染予防に役立ててもらおうと、花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)の有志は4月27日、手ぬぐいを使った手作りマスクを花巻市の太田小学校と西南中学校に寄贈した。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の詩「非常の時」を添えて助け合いの思いを伝えるとともに、児童生徒の健やかな成長を願った。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は花巻に疎開し、終戦後は旧太田村山口の山小屋(現高村山荘)で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。つながりは現在も受け継がれ、同市太田の太田小学校は「正直親切」など光太郎の筆跡を校内に掲示し、6年生児童は「高村光太郎先生に学ぶ会」で地域ゆかりの先人に理解を深めている。
 この日は同市太田の新渕和子さん、高橋順子さんが同校を訪れ、高学年用と低学年用のマスク計100枚を梅木康行校長に手渡した。同記念会が新商品として製作した「正直親切手ぬぐい」を使用し、耳に掛ける部分はストッキングを活用するなど工夫。光太郎が花巻空襲の際、総合花巻病院の医師や看護師の奮闘をたたえた詩「非常の時」の一節を添えた。
 新渕さん、高橋さんは「光太郎先生は困った人を助けることは尊いことという意味で『非常の時』を書いている。私たちもその精神を引き継ぎ、何かの役に立てればとマスクを作った」と説明。梅木校長は「子どもたちの安全第一に使わせていただく」と感謝した。
 同市轟木の西南中学校には、同市の障害者支援ボランティアグループあおぞらから無償提供された花巻まつり用手ぬぐいで製作したものも含め、全校生徒分のマスク158枚を贈った。

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校長先生、早速かわいらしいリス柄のマスクを着用して下さっています(笑)。

ちなみに先日、同館の玄関付近の木にエゾリスらしき姿が現れたそうで、下記はその画像です。

エゾリス


続いて、『朝日』さん。 

岩手)手作り「光太郎マスク」、小中学校2校に寄贈 記念会、職員手づくり

 一般財団法人花巻高村光太郎記念会が、花巻市内の小中学校2校に職員手作りのマスクを寄贈した。
 高村光太郎記念館で4月から発売予定だった手ぬぐいなどを使いマスク約260枚を作り、光太郎が「心はいつでもあたらしく」などの書を贈ったことがある太田小と西南中に届けた。包みには花巻空襲の際、危険を顧みず負傷者の救護にあたった医師や看護師をたたえて光太郎が作った詩「非常の時」の一節「人危きを冒して人を護るは貴いかな」と記したカードも添えた。
 「光太郎精神を引き継ぎ、何かお役に立てればと思った」と職員代表の新渕和子さん。太田小の梅木康行校長は「絶対に感染は起こさないと心を新たにしました」と話した。

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同館女性スタッフによるブログサイト「森のたより」によれば、その後、太田小学校児童の皆さんからのお礼の手紙も届いたそうです。

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新型コロナ禍、まだまだ収束には時間がかかるかと存じますが、こうした善意の輪、広げていきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

天人満堂  短句揮毫  戦後期?

「満堂」は「堂の中に満ちていること。また、堂の中にいるすべての人。満場」。昨日ご紹介した「天人充満」とほぼ同義でしょう。やはり自らを手厚く遇してくれた花巻周辺の人々に対する謝意と思われます。

コロナ禍に揺れている今こそ、この国が「天人満堂」という状態であってほしいものです。

このブログ、一昨日から、偶然ですがコロナ禍に関する地方紙報道シリーズとなっています。本日は『岩手日報』さん。 

「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、東京をたち疎開先の花巻に向かった1945年5月15日から75年を迎える。終戦5日前に遭った花巻空襲で、負傷者の救護に当たった医師、看護学校生らの勇敢さをたたえた詩「非常の時」の情景が、新型コロナウイルスの感染リスクと闘う医療従事者の姿と重なるとして、共感が広がっている。非常時に人間は何をなすべきか、詩は訴えかけてくる。

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人安きをすてて人を救ふは難きかな。
非常の時
人危きを冒して人を護(まも)るは貴いかな。
非常の時
身の安きと危きと両つながら忘じて
ただ為すべきを為すは美しいかな。

 「非常の時」は冒頭、こうつづる。非常事態時、自分の安全な状態を捨て、危険を冒して救護に当たることは難しく、貴い。身の安全や危険を意識の外に追いやり、なすべきをなすことは美しい―。
 光太郎は45年5月、花巻中心部の宮沢賢治の実家に疎開。同年8月10日に花巻駅周辺などが空襲を受け、花巻市が把握するだけで犠牲者は48人を数えた。光太郎は同日、宮沢家で初期消火を手伝ったとされる。
 「非常の時」は終戦後の9月に病院職員の表彰式に出席した光太郎が救護班として活動した勇敢な少女らをたたえ、祝辞に代えて朗読した。同市の高村山荘詩碑前で例年5月15日に開かれる高村祭では花巻高等看護専門学校生が朗読する。今年は同感染症の影響で中止し、山荘近くの高村光太郎記念館も休館している。
 花巻高村光太郎記念会長で同校長の大島俊克・公益財団法人総合花巻病院理事長は「医療人はコロナ禍でも、ある程度の危険は覚悟の上、携わっている。博愛の精神で患者に向かう姿勢は今にも通じる」と受け止める。
 同記念会は4月、光太郎ゆかりの太田小と西南中に贈った手作りマスクに詩の一節を書いたカードを添えた。活動の中心を担った井形幸江さんは「感染症をうつさない、うつさせない、うつらないためにできることは何か、と考えさせられる」と詩に向き合う。
 顕彰活動を行う高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=は「非常の時」を「倫理を失わず、なすべきことを実践した病院関係者への畏敬の念が込められている」と解釈し「医療関係者への差別や偏見がなくなればと願い、この詩を紹介したい」と胸に刻む。


    非常の時   高村光太郎

 非常の時000
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。
 非常の時
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱きもの亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。



昨夜まで、断続的にメールや電話で取材を受けておりました。意外と言えば意外だったのが、詩の文語体が一般の方にはわかりにくい、という指摘。なるほど、そう言われればそうかもしれません。そこで、全文の口語訳を、と頼まれまして、無理くり訳し、メールにて送信しました。記事の冒頭近くにある「非常事態時、自分の安全な状態を捨て」云々(「うんぬん」です。「でんでん」ではありません。念のため(笑))は、そこからの抜粋です。

ついでですから、送った全文訳を以下に。新型コロナの関わりもあり、かなりの意訳にせざるを得なかったので、その点はご了承ください。また、当方、古文は専門外ですので、助詞、助動詞などの扱いに問題があるかもしれませんが、あくまで意訳ということで。

 非常事態の時に
 人が安全な状態を捨てて人を救うのは難しいことである。
 非常事態の時に 
 人が危険を冒して人を守ろうとするのは貴いことである。
 非常事態の時に 
 自分の身の安全や危険といったことを意識の外に追いやり
 ただ為すべきことをなすのは美しいことである。
 非常事態の時に
 人がこういうことを行えるのは
 ひとえに平常心が心の中にあって
 人をしてこのような行いをさせるのである。
 たとえようもなく大きいのであろう、
 常に心の中にしまわれている使命感は。
 盛んに発揮されるのだろう、
 人の心の中に潜んでいる責任感は。
  (花巻空襲のあった)その日、爆撃と銃撃にさらされた数時間は
 たちまちのうちに街を血みどろにし
 岩手花巻の街はそのために大混乱に陥った。
 病院の窓はことごとく爆撃のために破損し、 
 飛んできた銃弾が病棟を貫いた。
 この時、実に冷静に怪我人を運び
 この時、取り乱すことなく病人の看護に当たったのは
 神ではないわれらの隣人、
 与えられた場所を守って動じなかった病院職員の諸氏であった。
 神ではなく、しかし神に近かったのは
 医療関係者として職責を果たす使命感が自らの身を案ずる意識を忘れさせたためである。
 私はこのことを聞いて襟を正し、
 人間というものが時に清く、
 本来弱い者が時に限りなく強くなることに思いを馳せ、
 心に刻みつけられている使命感の実に高いことを
 ただじっと仰ぎ見るのである。

 
この詩を通して、とにかく訴えたいのは、現在、最前線で闘い続けられている医療関係者の皆さんに対する感謝、エールです。新型コロナによる日本の死者数が少ないのは、ひとえに医療関係者の皆さんのご尽力によるもの。政府の手柄ではありません。しかしながら、真逆に、医療関係者の皆さんが感染源となりかねない、との偏見が横行している現状には実に胸が痛みます。

医療関係者の皆さんへの感謝の意を示すため、各地の建物が青色(NHS=国民保健サービスのシンボルカラー)にライトアップされるなどの取り組みがアメリカで始まり、日本にも波及しています。しかし、日本での謝意表示はまだまだですね。もともと高度な医療を実践してきた日本では、医療関係者の皆さんの苦闘もあたりまえのように受け止められているのかもしれません。

「非常の時」が、そのような現状に対する警鐘として機能すれば、泉下の光太郎も喜ぶことと思われます。お読み下さった方、この詩の拡散を希望します。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

天人充満  短句揮毫  昭和25年(1950) 光太郎68歳

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どういうシチュエーションで この句が書かれたかまでは存じませんが、リンゴ農家で賢治とも親交のあった故・阿部博氏旧蔵の書です。想像ですが、自らを親切に遇してくれる花巻の人々を天人に例え、ここは天人が満ちあふれているような素晴らしい街だ、ということでしょうか。

「花巻」を「病院」に置き換え、この句もまた、医療関係者の皆さんに贈りたい言葉です。

最近手に入れたものシリーズです。

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昭和26年(1951)10月30日、花巻から送られた葉書で、『高村光太郎全集』に漏れていたものです。例によって味わい深い筆跡です。

同便速達第四種で原稿お送りします、
一日で書けるものでありながらその一日が中々得られない次第で遅れました。
        十月卅日


宛先は、「平凡社編集部 関博」。

当日の日記です。

 十月三十日 火
くもり、晴れてくる、 花巻行、 十二時の電車でゆく、平凡社へ電報、郵便局でいろいろ発送、しんばしでうな丼、三時半の電車でかへる、(略)

原稿」とあるのは、この年11月30日発行の『世界美術全集 第25巻 日本Ⅳ』のためのものです。そちらは20年ほど前に現物を手に入れました。

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この中で、光太郎は図版の解説文を4本執筆しています。

まず、長沼守敬の「老夫」(明治33年=1900)。

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続いて、父・光雲の「老猿」(明治26年=1893)。

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親友、荻原守衛の「銀盤(柳敬助像)」(明治43年=1910)。

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同じく、「北條虎吉肖像」(明治42年=1909)。

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『世界美術全集』への同様の寄稿は前年から始まっており、他の巻ではロダン、ミケランジェロ、江戸期の彫刻、エジプト彫刻について執筆しています。

「物書きあるある」として、当方もそうなのですが、自分で書きたくて勝手に書く原稿は、思い立ったらすぐに書くことが多く、それに対し、依頼されて書くものは手を付けるまでに意外と時間を要します。書き始めてさえしまえばけっこう早く書き上がるのですが、書き始めるまでが長いのです。あるいは逆に、そうなることが分かっているので、頼まれたら即書いてしまうとか。物書き全員がそうだというわけではないのでしょうが。

まぁ、この年の光太郎は結核性の肋間神経痛がひどく、ペンを持つのも苦痛で、農作業は思い切って放棄した状態だったので、当方のような単なる怠惰とは違うとも思いますが(笑)。

光太郎、この原稿を送り、電報を打ち、さらに当方が入手した葉書(日記に「いろいろ発送」とあるうちの一つということですね)も送ったわけで、念入りです。

日記に出て来る「しんばし」は、花巻市役所近くに今も健在の食堂です。建物は建て替わっているようです。

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電車」は廃線となった花巻電鉄です。

当方、美術系古書専門店さんの目録から註文し、入手しましたが、他店の目録にも同じ関博宛の葉書(これも『高村光太郎全集』未収録)が出ました。そちらも註文したのですが、抽選に負けたようで、駄目でした。また、1月には『日本古書通信』さん巻末に載っている古書店さんの新入荷品目録に、誰宛か、いつのものかは不明でしたが、やはり「高村光太郎葉書」。これが破格の値段でたったの5,000円。「一桁間違ったんじゃないのか」と思いつつ註文しましたが、こちらも抽選に負けました。

当方、基本的に『高村光太郎全集』未収録のもののみ購入しています。それらを集成して「光太郎遺珠」として世に出しているわけです(5,000円の葉書はもしかすると既知のものだったかも知れませんが、「5,000円ならそれでもいいや」と思って註文しました)。

比較的長命だった上に、筆まめだった光太郎。上記葉書は『高村光太郎全集』からの通しナンバーで3,457通目です(諸般の事情により、通しナンバー外のものが49通ありますが)。しかし、まだまだ書簡類は各地に眠っていることと思われます。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

   ひかりをつつむ  短句揮毫  戦後期?

書簡類と同じように、こうした短句を揮毫した色紙類なども、ぽつりぽつりと市場に出て来たり、「こういうものを持っている」という情報のご提供を受けたりします。既知の詩や散文などの一節を抜き書きしたものでない、オリジナルのものであれば(その見極めが難しいのですが、これについてはまた改めて書きます)、これも「光太郎遺珠」収録対象です。こちらも情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

繰り返し書きますが、新型コロナの影響で、各種イベント等がほとんど行われなくなり、このブログのネタにも困っています。

新着情報系がない時は、最近入手したもののご紹介。少し前に同様の趣旨で「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。」という記事を書きましたところ、意外と反響が大きくて驚きました。

今回は「新発見」というものではないのですが、ちょっと珍しいと思われるものが手に入ったので、そちらをご紹介します。光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻の昭和30年代はじめと思われる絵葉書セットです。

まずはカバー。二つ折りの状態のものを開いてスキャンしました。画像をクリックしていただくと拡大します。

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花巻市さん、花巻市観光協会さんが発行元ということになっています。裏表紙的な方には、アバウトな地図。2系統あって、ともに昭和40年代に廃線となった花巻電鉄(細い弧線)がここでは健在です。右上には光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建てられた十和田湖も。このあたりは縮尺を無視しています。

カバーの裏には手書きの文字で「33.9」とあります。おそらく最初に購入した方が、昭和33年(1958)9月にゲットした、という意味でしょう。その日の体温だとしたら低すぎます(つまりませんね(笑)、すみません)。

中身は8枚入っていました。やはり昭和30年代はじめと思われる写真でした。なぜわかるかというと、こちら。

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昭和20年(1945)から7年間、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)です。中央が元々の小屋(鉱山の飯場小屋を移築したもの)、左の白い建物は昭和26年(1951)、オリジナル『智恵子抄』の版元、龍星閣の肝煎りで増築された二間×三間の別棟、右の方は便所と風呂場です。

光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)には、中央の元の小屋を保存するための套屋(カバーの建物)がかけられ、左の新小屋は50㍍ほど移築されています。しかし写真はそれが行われる前のもの。それから、カバーには先述の通り「花巻市」とあり、花巻に市政が施行されたのが昭和29年(1954)ですから、おそらく昭和30年(1955)前後の撮影でしょう。

右は光太郎の山小屋と同じく旧太田村の音羽山清水寺さん。光太郎も何度か足を運んでいます。

花巻といえば、宮沢賢治。

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昭和11年(1936)建立の、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」碑も取り上げられています。イギリス海岸は2枚にわたって。

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もう一つ、花巻といえば、温泉。有名な温泉5カ所が採用されています。

豊沢川沿いに点在する花巻南温泉峡の一番奥、鉛温泉藤三旅館さん。

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光太郎が泊まった当時の建物で、令和となっても健在です。

光太郎がもっとも多く逗留したと思われる、大沢温泉さん。

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左は「菊水館」となっていますが、本来の菊水館さんは写真左の方、江戸時代竣工の茶色い茅葺きの部分です。赤い屋根の方の建物は、位置関係からして現存しないのではないかと思われます。菊水館さん、一昨年の台風で道路の法面が崩れ、車が通行できないため宿泊棟としては休業し、「昔ギャラリー茅」として活用されています。ここにも光太郎が宿泊しています。

右は山水閣さん。現在は建て替えられて近代的な建物になっていますが、光太郎が居た頃はちょっと高級な温泉旅館的な棟でした。光太郎がよく泊まった部屋が「牡丹の間」という名で再現されています。

続いて、志戸平温泉さん。

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光太郎、ここにも泊まっています。ただ、残念ながら当時の建物は残っていません。おそらく画像は光太郎が泊まった頃の建物なのでしょう。

南温泉峡から一山越えた花巻温泉さん。

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こちらは建物がメインではなく、庭園を前面に押し出しています。松雲閣は、やはり光太郎の定宿の一つ。現在は旅館としては廃業しましたが、建物は健在で、一昨年、国の有形文化財に登録されました。

最後に台温泉さん。南温泉峡とは異なり、小さな温泉旅館がたくさん。その中の松田屋旅館さんに光太郎の足跡が残っています。絵葉書には松田屋さんは写っていないように思われますが、すぐ近くでしょう。

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以上8枚のセットでした。元の購入者の方が、他の何枚かを使ったりしていなければ、これで全部です。

この手の古絵葉書、かえって戦前のものなどの方が、その古さ故の資料的価値などから、市場に多く出回っています。このような昭和30年代位のものだと、中途半端に古い、的な感じなのでしょう、あまり見かけません。ただ、当方としては、光太郎が居た頃とそう離れていない時期のものなので、ありがたいのです。

ところで、気になって各温泉宿のHPを見てみました。案の定、何軒かは新型コロナの影響で休業中のようです。岩手県では感染者ゼロが続いていますが、やはり気をつけるに超したことはありませんね。

昨日のこのブログでは、「世界がもとに戻ったらしたいこと」ということで、「図書館系に行って調べものをしたい」と書きましたが、やはり「温泉に行きたい」も挙げねばなりません(笑)。大手を振って温泉に行ける碑が戻ってくることを念じつつ……。


【折々のことば・光太郎】

秋水かげふかし  短句揮毫  戦後期  光太郎70歳頃

おそらく花巻郊外旧太田村に蟄居していた頃の揮毫です。

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シニアズ』さんという、岩手の盛岡でシニア世代向けに発行されている情報誌があるそうです。基本、新聞折り込みで近郊に配付、さらに病院さんや銀行さんの待合席等にも置いているとのこと。

そちらの4月26日(日)号に、生前の光太郎をご存じで、花巻ご在住の浅沼隆さんの談話筆記が載りまして、花巻高村光太郎記念館さんから情報を頂きました。 

晩年を花巻で過ごした芸術の天才 高村光太郎の人柄

 明治~昭和を芸術とともに生き抜いた日本を代表する彫刻家・詩人、高村光太郎。その光太郎が昭和20年5月、東京空襲でアトリエを失った時に宮沢賢治の実家に招かれ、花巻市に疎開、その後太田村山口地区(現花巻市太田)の山荘で7年間農耕自炊の生活をしていました。現在もその山荘を保管し、隣接して高村光太郎記念館があります。
 幼少期に光太郎と出会い、現・花巻高村光太郎記念会理事も務められる浅沼隆さん(78)から光太郎にまつわるお話を伺いました。
 当時、小学生だった浅沼さんは校長であった父の頼みで光太郎の山荘まで郵便物や小包を運ぶのが日課になっていたと話します。温厚で誰にでも親切だったという光太郎は、自宅前の菜園で野菜を育てていたそうで「光太郎先生と一緒に野菜の収穫をしていた時、キャベツについていた青虫をはらうと「蝶々になるから殺すな」と怒られましたね。先生は当時では珍しかった西洋野菜も育てていて、先生からセロリをもらってかじったらとっても苦くて。吐き出せないから頑張って飲み込んだよ」と話されました。
 留学の経験もあった光太郎は、新鮮な野菜でシチューや牛鍋などハイカラな料理を作っていました。山荘での食卓風景を再現するイベント「ゆかりの盛岡・公会堂~高村光太郎の食卓」を今秋には開催を予定しています。
 ここを文化の発信地としようとした光太郎の意志は今も岩手の人々に受け継がれています。
(4月2日の「連翹忌(れんぎょうき)」、5月15日の「高村祭」はいずれも今年は中止)


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余談ですが、最後に書いてあるイベント、本来、今月の予定で、当方、講師を仰せつかっていましたが、秋に延期となりました。その頃にはコロナ騒ぎも終息していてほしいものです。

閑話休題。浅沼さん、以前から光太郎の語り部として、さまざまな機会でお話をなさっています。

平成25年(2013)の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」。

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平成28年(2016)、テレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」。

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一昨年の第61回高村祭。当方が進行役を務め、浅沼さん他4名の、生前の光太郎をご存じの方に思い出を語っていただきました。

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昨年は、地元の太田小学校さんでゲストティーチャーとして。

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花巻高村光太郎記念館さんで、かつて作ったリーフレット。同じく生前の光太郎をご存じの、高橋征一さんと浅沼さんの証言録です。

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当方など、どんなに偉そうにいろいろ語ったところで、生前の光太郎を存じません。そういう意味では、浅沼さんたちのように生前の光太郎と親しく接せられた皆さんを実にうらやましく感じますし、こういう皆さんの体験談をしっかり残していかねば、とも思います。

これからもお元気で、語り部としてご活躍いただきたいものです。

おまけ(その1)。浅沼さんのお父様、故・浅沼政規氏が校長先生で、浅沼さん、高橋さんが通い、光太郎がよく茶飲み話に訪れた、山口小学校の在りし日の姿です。

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おまけ(その2)。『シニアズ』さんの読者プレゼントに、花巻高村光太郎記念館さんが協力なさったそうで。「太っ腹だな」と思ったら、5名様限定でした(笑)。

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【折々のことば・光太郎】

美にして実 実にして潤    短句揮毫 戦後期 光太郎70歳頃

欅の板に書き付けられた揮毫、というか柿の実を描いた絵の画賛です。自画自賛ではなく、他の人物の画です。美しいうえに、食べることができて実用的、さらに食べたらその潤いもすばらしい、ということでしょう。

ちょうど浅沼さんが郵便物を届けていた頃のものです。

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ネタ不足で悩んでいるという嘆きに反応して下さり、各地から「こんな情報が」と、メール等で提供いただいています。ありがたいかぎりです。

今日は光太郎第二の故郷ともいうべき花巻からの情報です。

過日ご紹介しました、花巻高村光太郎記念館さんの手作り布マスクの件。光太郎が戦後の七年間を暮らした山小屋(高村山荘)のある太田地区の、太田小学校さん、それから西南中学校さんの、それぞれ児童生徒さん一人に一枚ということで、女性職員の皆さんが突貫作業で制作、寄贈されたそうです。

昨日、『岩手日報』さんが報じて下さいました。 

光太郎の思いマスクに 記念館が2校に寄贈西南中学校2

 花巻市の花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)は27日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動に取り組む同市の太田小(梅木康行校長、児童97人)と同市轟木の西南中(千葉龍太郎校長、生徒138人)に手作りマスクを寄贈した。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けた取り組み。太田小には新渕和子さん、高橋順子さん、井形幸江さんが訪れ、梅木校長に児童の人数分のマスクを手渡した。
 光太郎が詠んだ「非常の時」の一節が書かれたカードも添えた。1945(昭和20)年の花巻空襲で、医療活動に西南中学校1励んだ総合花巻病院の医師や看護師らをたたえた詩。新型コロナの医療現場で奮闘する医師らの思いを子どもたちに伝える狙いがある。高橋さんは「感染症が早く終息してほしいという思いを込めて作った。喜んでもらえるとうれしい」と思いを込めた。梅木校長は「子どもたちの安全が第一。貴重なマスクを使わせていただき、感染者を出さないようにしたい」と礼を述べた。


画像、上二枚は西南中学校さん、一番下が太田小学校さん太田小学校1での贈呈の様子。他紙も取材にいらしていたそうで、記事が出ましたらまたご紹介します(またこれでネタ的に助かります(笑))。

両校共に、毎年5月15日の高村祭(今年はコロナ禍のため中止となりましたが)にご参加下さり、音楽演奏や詩の朗読などで、祭を盛り上げて下さっています。

太田小学校さんは、かつて光太郎の山小屋近くにあった山口小学校を併合した関係で、山口小学校に光太郎が楽器を贈った縁を踏襲し、もちろん当時の楽器ではありませんが、今でも楽器演奏を披露して下さっています。

西南中学校さんも、光太郎が住んでいた頃の太田中学校を併合した関係で、太田中に光太郎が贈った言葉「心はいつも新しく」を歌詞に盛り込んだ「精神歌」を演奏して下さっています。

下記は昨年の高村祭です。

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それから、『岩手日報』さんでは、マスクに添えられたカードに一節が引用されている光太郎詩「非常の時」(昭和20年=1945)について、改めて新型コロナとの関連で記事にするそうで、一昨日、メールでレファレンス依頼があり、昨日、返答しておきました。こちらも記事が出ましたらまたご紹介します(これでさらにネタ的に助かります(笑))。

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花巻からはもう1件、全く別件の情報提供がありましたが、貴重なネタは小出しに、ということで、また後ほどご紹介します(笑)。


【折々のことば・光太郎】

心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する

短句揮毫 昭和24年(1949) 光太郎67歳

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上の方にも書きましたが、太田中学校に校訓として贈った言葉です。前半部分は翌年、盛岡少年刑務所さんにも贈りました。光太郎自身、気に入った言葉だったのでしょう。

まずは残念なお知らせから……。

過日、ご紹介しました富山県水墨美術館さんで5月22日(金)から開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が、新型コロナの影響で中止となりました。

まあ、ある程度は予想していましたので、驚きはしませんでしたが、やはり残念です。美術館さんとしても断腸の思いだと存じます(「中止で当然だろう」と簡単に片付けないで下さい)。あらためて開催するかどうか、未定だとのことです。ぜひこの騒ぎが終息したのち、仕切り直しで開催していただきたいものです。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

緊急事態宣言が全国対象となり、ほとんどの美術館さん、文学館さんなどが既に休館となっていたり、これからなったりということになるのでしょう。本当に早く、元に復してほしいものです。

そんな中、やはり休館中の花巻高村光太郎記念館さんで、女性職員の方々が中心となって作られたグッズをいただきました。

まず、「光太郎の食卓カレンダー」。A5サイズ(開くとA4サイズ)の冊子型壁掛けタイプです。今月から来年3月まで、つまりは令和2年度としてのカレンダーになっています。

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに連載中の、「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、巻末には簡略な解説も。

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それから、手作りの布製マスク。

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添えられたカードに引用されているのは、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった当時の総合花巻病院の医師や看護師たちの奮闘をたたえ、終戦直後に行われたその表彰式で光太郎自らが朗読した「非常の時」の一節です。

   非常の時

 非常の時
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。002
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は004
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱
ものき亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。


今年はやはり中止となってしまいましたが、毎年5月15日に行われている花巻高村祭では、花巻高等看護学校さんの生徒さんが、この詩を必ず朗読なさっています。画像、上は花巻病院さんの古絵葉書、下は過去の高村祭です。

カードにある「3.11震災のとき、多くのボランティアの共感を呼びました」というのは存じませんでした。なるほど、そう言われてみればそういう内容ですね。そして、今、まさに最前線で新型コロナと闘われている医療関係の皆さんに、この詩を贈りたく存じます。

このカレンダーとマスク、5月14日(木)と翌日、盛岡と花巻で開催予定だった市民講座(講師は当方の予定でした)の際にセットで販売予定だったものだそうです。ところがやはり新型コロナのために講座は延期となり、品物が余ってしまっているとのこと。花巻市内で必要な方に譲られているそうですが。

そこで、「当会ブログサイトやフェイスブックで呼び掛けますから、ネット販売的にやってみてはいかがですか」と提案しました。そこで協議していただいたところ、マスクそのものはネット販売だとトラブルの元になるかもしれないということで、「カレンダーのみ」、「カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット」で注文を受けることにしたそうです。

詳細は以下の通りになります。

光太郎の食卓カレンダー 001

1冊 500円(送料込み)
2冊以上6冊まで 一冊分300円+送料180円
  (例:4冊……300円×4+180円=1,380円)

代金は郵便切手可



 

カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット

1セット 1,500円(送料込み) 手ぬぐい1枚からマスク4枚制作可 代金は郵便切手可

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申し込み方法

 品名、数量、送付先郵便番号、住所、氏名、電話番号を明記の上、代金(郵便切手可)を以下まで。

 〒025-0037 岩手県花巻市太田3-85-1 花巻高村光太郎記念館内 記念館物販担当 井形様宛

申し込み期限
 2020年5月15日(金)まで または、カレンダー、手ぬぐいの在庫(各100)がなくなり次第終了します。


お問合せ先 Eメールアドレス
 
kotarocafe30@gmail.com     花巻高村光太郎記念館内 井形様  まで


ふるって(ふるわなくても結構ですが(笑))お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

然し、光に面してゐる人のみが光を求めてゐる人達だと断言することはいけない。社会の闇の面に対し、それを正視しつゝ苦しんでゐる人達も光を求め、闇を貫いて光を求めてゐるのだと云ふことは忘れてはならない。

アンケート「闇を貫く光」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

この後の部分には、「真つ暗な不遇の境遇の真中で胸の中の小さな光を消されまいと、雄々しく闘つてゐる者もゐる」という一節もあります。

新型コロナ、最前線で身を削って闘われている医療関係の皆さん、休業や自粛で収入が激減し不安を抱える皆さん、休みたくても休めず仕事を続けるしかない皆さん、そして罹患して重症となり苦しい思いをされている皆さん、それを支える家族や周りの皆さん、あきらめることなく、闘いましょう。

最後に光太郎はこう結んでいます。「要は「光」への信仰を失はなければ、如何なる闇に向ふとも、否向ふ程、その人の光は浄く明るく輝くのだと思ふ。

隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「チーズとふきのとう入り茶碗蒸し」だそうで。

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「茶碗蒸しにチーズを入れるか?」という感覚でしたが、実際、光太郎の日記(昭和21年4月3日)にそう書いてあり、意外でした。上記画像、クリックすると拡大表示されます。ちなみに今回の撮影場所は光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)の囲炉裏ばたですね。

当方、チーズもふきのとうなどの山菜も大好きですので、これは是非食べたいと思いましたが、愚妻がチーズを苦手としており、頼んでも作ってくれないでしょう(笑)。自分で自分の分だけ作るというのも何ですし……(笑)。

他に今号は「特集 花」だそうで、花巻市内いろいろな場所で撮影された花の画像がてんこ盛りです。

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都会の片隅にひっそり咲く花もいいのでしょうが、やはり花は広々とした自然の中に置いてこそ、という気がしました。

例年であれば、「ぜひ見に行きましょう」的な呼びかけをここに書くところですが、今年はそうも行きません。

昨日現在、岩手県は47都道府県で唯一、新型コロナの感染報告がありません。『産経新聞』さんのサイトにこんな記事が出ていました。 

「普段通りの春」感染者ゼロの岩手 マスク売れ残るスーパーも、にぎわう回転ずし店

 日本国内で新型コロナウイルスの感染者が増加する中、全国の都道府県で唯一「感染確認ゼロ」が続く人口約123万人の岩手県。6日には学校の新学期が始まり、通学路に子供たちの笑顔も戻った。県内では首都圏や関西圏に比べ、マスク姿もまだまだ少ない。県庁にも「なぜ岩手はゼロなのか?」との疑問が寄せられているという。「移動する人口が少ない」「まじめな県民性で手洗いを守っている」などの声もあるが、隣接する青森、宮城、秋田の3県は感染者が2ケタ台だけに、それだけでは説明がつかない。県民の暮らしぶりは-。
 「普通通りの春を迎えている」。盛岡市近郊に住む主婦(39)は、新型コロナウイルスの感染拡大が続く中での生活ぶりをこう語った。

 3月中はほとんど休みだった中学生の子供2人は、一斉休校が続く首都圏や関西圏とは違い、4月6日に新学期が始まると毎朝、学校に通っている。授業も通常通り夕方まで行われ、部活動でも何の制限もなく練習をこなしているという。

 大型スーパーでもドラッグストアでもマスクは品薄状態が続くが、街ではマスクをしていない人を多く見かける。3月中旬に一度だけトイレットペーパーの買い占めも起きたが、それ以降は普通に買えるようにもなり、特に困ったことはない。ほかの食料品の品ぞろえも豊富で、レジでも前の人や後ろの人と間隔をあけて並ぶこともない。

 「そもそも、住んでいる地域では(感染リスクが高まる密閉、密集、密接という)『3密』の場所や機会がほとんどない」(主婦)。岩手県の面積は47都道府県中、北海道に次いで2位と広く、1平方キロメートル当たりの人口密度の小ささは83・8人とやはり2位。「3密」があるのは「ボウリング場やカラオケのような娯楽施設か居酒屋、スナックぐらい」という。

 それでも、気になることがある。最近、地元のテレビ番組で首都圏から夜行バスで若者たちが帰省してきたというニュースが報じられたからだ。「頼むから、今の時期、コロナ疎開だけがやめてほしい」と眉をひそめた。

 県内で複数の店舗を展開しているスーパーの男性社員(46)によると、新幹線の駅近くや幹線道路の国道4号沿いにある店舗ではマスクがすぐに売り切れてしまうが、それ以外の店舗では1日ではけないこともしばしばあるという。

 「地元では(新型コロナウイルスの感染拡大を)まだまだ対岸の火事で見ている」と打ち明ける。

 土日になれば、国道沿いの回転ずし店の駐車場はいっぱいになり、家族連れでにぎわう。東京都内の飲食店で閑古鳥が鳴いているのに比べて「緊迫感や危機感が薄いことを物語る光景」と話す一方、「地元の人々は、岩手が日本一の『田舎』であることが証明された、と自虐的に言っている」と苦笑する。

 ただ、ご多分に漏れず高齢化が進む岩手では持病を抱える高齢者と一緒に3世代、4世代が暮らす大家族や高齢者のみの家も多く、こうした世帯の危機感は強い。男性社員は「感染者が出るのは時間の問題だと思う。高齢者が多い地区は特に心配だ」と語った。

 日本での感染拡大は、春節の時期に中国から多くの観光客が来日したのが引き金になったとの分析がある。

 岩手の場合、北海道や宮城県などに比べて台湾からの観光客が多い。台北から花巻空港への直行便もあり、台湾総督府民政長官として台湾の発展に貢献した後藤新平の記念館(奥州市)などが人気スポットだ。「中国本土からの観光客が他県に比べ少なかったからこそ、1、2月に感染が広がらなかったのではないか」との声がある。

 県庁には現在、「なぜ感染者ゼロなのか」という問い合わせが県内外から相次いでいるという。県外からの場合、そこには「特別な対策があるのではないか」というニュアンスが含まれており、ある県幹部は「東京まで新幹線の往復が3万円以上で、おいそれと遊びには行けない。まじめな県民性で手洗いを励行しているからだと思う」と分析する。

 ただ、県民が問い合わせる理由は異なる。「PCR検査の実施件数が少ないのが理由ではないのか」というのだ。

 事実、感染の有無を調べるPCR検査は10日現在で136件と全国最少。最後まで「感染者ゼロ」を争った鳥取県、島根県の対人口比検査実施件数と比べてもそれぞれ5分の1、5分の2程度に過ぎず、いずれも感染者数が2ケタ台の宮城県(660件)、秋田県(491件)、青森県(313件)の実施件数と比べても各段に少ない。

 「単に検査体制が十分に整備されていないからではないか」という疑念はある意味もっともにも見えるが、岩手県側は「必要な検査は行っている」と真っ向から否定する。

 今月7日に東京都や大阪府など7都府県に緊急事態宣言が出された直後、県は対象地域への往来自粛を呼びかけた。このまま感染者ゼロが維持されるに越したことはないが、いったん感染者が出れば、一気に拡大した時のリスクは都市部の比ではない。関係者は注意深く動向を見守っている。

どうもそう単純な話ではなさそうですが、まさしく「感染者ゼロが維持されるに越したことはない」わけで、そうなってほしいものです。

そのための対策の一環として、各種イベント等の中止は、やはり岩手県でも行われています。印刷等の関係でしょう、『マチココ』さんには予告の案内が出てしまっていますが、例年5月15日に、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で開催されている「高村祭」、今年は中止だそうです。その前日と、当日、盛岡と花巻で、それぞれ当方が講師を務める市民講座が予定されていましたが、それも中止。花巻高村光太郎記念館さんなども休館中だそうです。致し方ないでしょう。

毎日のように書いていますが、早くこの騒ぎが終息、収束することを祈念するばかりです。


【折々のことば・光太郎】

現代新興美術の立場より見て、古美術を否定すべきいはれ更に無し。

アンケート「古美術と現代美術」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

アンケート全体としては、いわゆる「温故知新」の精神を説いています。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「イングリッシュブレックファスト」だそうで。
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光太郎、欧米留学時の経験から、西洋風の食事が合理的かつ意外に安価にできてしまうことに気づき、智恵子との結婚生活の中でも、それから花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居してからも、けっこうこの手の朝食を摂っていたようです。

続いて、『月刊絵手紙』さん。平成29年(2017)から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は、昭和24年(19149)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎が、校訓として地元の太田中学校さんに贈った言葉「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。花巻高村光太郎記念館さんで展示されることもある光太郎の揮毫を撮った画像も載っています。

太田中学校さんでは、この言葉を盛り込んだ「精神歌」なる歌も作り、歌い継がれているそうです。毎年5月15日の花巻高村祭に生徒の皆さんがご参加下さり、披露して下さっています。

ところで、『月刊絵手紙』さんのこの連載、今号で最終回だそうです。2年あまり続いてきて、非常に残念ですが、仕方ありますまい。またどこかの雑誌などでこういった企画を立ち上げていただけるとありがたいところです。「書け」と言われれば書きますし(笑)。


【折々のことば・光太郎】

文化の表面に附著するさういふ過剰なものが根を張ると、長い間には文化の実体をまでも腐敗せしめる。

散文「倫理の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

ここだけ取り出せば、いい言葉です。ただ、戦時中ということで、前後は非常にキナ臭い内容になっています。「さういふ過剰なもの」の例は「チヨコレイトや、フアンシイクリイムや、社交ダンスや、ジヤズ」。「敵国」であったアメリカ文化の象徴ですね。続く一文も「質実にして清純な、東亜の新しい文化を創造することこそ、今日以後の若人の責務である。」となっており、「東亜の」の一語さえなければよかったのに、と思いました。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

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