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テレビ放映情報です

土曜スペシャル 冬本番! 雪見の名湯&絶景露天風呂SP~いいお湯・夢気分~

地上波テレビ東京 2021年2月6日(土)  18時30分~19時54分

「“冬に行きたい”名湯ベスト10」をご紹介!全国の雪見風呂&絶景が広がる温泉が続々と登場する! 1位に輝いた温泉には、大久保佳代子とたんぽぽ川村の仲良しコンビが来訪。 一度は入ってみたい…誰もが感嘆する絶景風呂を堪能する。落ち着いたら、絶対に行きたい温泉であること間違いなし!
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▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天
▽雲の上から望む!標高1300mの天空風呂
▽空と海とひとつに!潮風香る絶景の湯
▽大正ロマン漂う湯の郷!夜の雪化粧風呂
▽開湯から1900年!乳白色の雪見温泉
▽川岸に湧く…緑と黒 2色のにごり湯
▽宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天
▽創業140年!国の有形文化財の湯
▽江戸時代から続く湯治場!湯も景色も白い幻想的な世界

出演者 大久保佳代子(オアシズ)   川村エミコ(たんぽぽ)

このうち、「宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天」は、おそらく花巻南温泉峡・大沢温泉さんでしょう。賢治は、父・政次郎が関わっていた仏教講習会の場だった同温泉をたびたび訪れていました。子どもの頃の賢治が写った写真も残っています。
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光太郎も大沢温泉の混浴露天風呂を利用していました。

『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から。

009 大沢温泉は川向きの室で、夜になると豊沢川の流れの音がするし、カジカの鳴声もするし、閑静で、考えごとの仕事などにとてもよいです。湯は体のためにも大変よいし、気分もさわやかになり、病後やけがなどした時は温泉はいいです。豊沢川添いの温泉は、遊蕩的な気分が割になくって、閑静で、落ついてけばけばしさのないことが何よりです。大沢で変なことがありましたよ。泊まったある夜、入浴しようと風呂に行ったところ、中年の婦人がたった一人入っておるんです。みんなが混浴する風呂だから、入っても差し支えないとは思ったが、婦人一人のところに入っていくのもどうかと考えて、その婦人の上がるのを待ちました。ところがまたそこに別の婦人が来て入れ替わりにその人が入ってしまった。おやおやと思ってみたものの、入っていく機会をなくしてしまった。待っているうちにまたも婦人がやってきた。そうこうして一時間半ばかり待ってやっと入れたんですよ。女風呂の風呂番みたいなことを長々やりました。滑稽でしたね。

昭和26年(1951)、村人に語った内容です。笑えますね。

ちなみに少し前、動画投稿サイトYouTubeに、花巻観光協会さん作成の「【岩手・花巻】花巻12湯(はなまきじゅうにとう)プロモーション動画【花巻温泉郷】」がアップされました。


大沢温泉さんの部分(1:11~)では、光太郎の名も出して下さっています。
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さて、「土曜スペシャル」。他にも光太郎が浸かった温泉が複数取り上げられます。

▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天」は、おそらく、群馬県みなかみ町の宝川温泉汪泉閣さん。映画「テルマエ・ロマエⅡ」(平成26年=2014 阿部寛さん主演)のロケにも使われ、一躍有名になりました。光太郎は昭和4年(1929)と、同17年(1942)の2回、宿泊しています。どうも2度目に泊まった際の建物、部屋がそのまま残っているようで、いずれ訪れようと思っております。
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上の画像は当方手持ちの古絵葉書、下は不鮮明ながら、昭和17年(1942)、宿の主人(鈴木重郎)と一緒に撮った写真です。鈴木の回想文(『藤原風土記』(安達成之、川崎隆章編 宝川温泉汪泉閣発行)所収「宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる」昭和38年=1963)から採りました。
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また、「▽創業140年!国の有形文化財の湯」は、同じく群馬県みなかみ町の法師温泉長寿館さんと思われます。大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んでいます。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築が有名です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられてここで撮影、話題となりました。
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視聴可能な地域にお住まいの方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜半セキと一緒に廻虫一匹出る。いかの脚の如き弾力ある強靱さなり。三寸五分以上あり。
昭和21年(1946)5月3日の日記より 光太郎64歳

「廻虫」は「カイチュウ」。現代ではほぼ聞かなくなった寄生虫ですね。こうした部分が、光太郎の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしが「自虐的」とも評されるゆえんです。

新刊情報です

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」

2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税

賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!

出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
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目次
はじめに
 伝え、残したいこと
 含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫010
 大伯父は「賢治さん」
 イギリスとの深い縁
 イギリスびいき
 一族の一員という立場
 縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
 曽祖父・政次郎
 最大の理解者、祖父・清六
 炎天下の「イギリス海岸」で
 祖父と山に登る
 高村光太郎さんと祖父
 志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
 願望としての「雨ニモマケズ」
 「ヒドリ」論争
 「賢治ブーム」のなかで
 「行ッテ」のもつ深い意味
 「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
 大伯父がつなぐ縁
 親子を超えた曽祖父の慈愛
 詩と音楽の協演
 私が好きな作品
 ファンタジーではなくSF
 「ほんとうの幸せ」とは
 ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて


昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。

上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。

016中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。

清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。

さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。

 以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
 子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
 その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。

高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。

やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。

 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。

和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。

 もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
 これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
 つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
 そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。


一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。

この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。

それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。

また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。

現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。

ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。

和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。

そして……

 みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
 このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
 そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
 いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
 自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。


和樹氏ご自身も、

 私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
 だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。


だそうで。

当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。

その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。

たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。

ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。

こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。

昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳

場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。

1月4日(月)のこのブログでご紹介しました岩手県としての「いわてモー!モー!プロジェクト2021」。その時点ではまだだった詳細が、1月7日(木)に発表されていました

「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」について 

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令和3年(2021 年)の丑年に合わせ、「うし」で岩手を盛り上げながら各種事業を総合的に展開する「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」のプロジェクト全体概要やPRキャラクターについて、お知らせします。 

1 プロジェクト全体概要
 モー!っと育てよう/産地支援プロジェクト
  本県畜産業の産地力強化に向けた取組を支援します。
   ゲノム評価に優れる県有種雄牛の造成
   県有種雄牛の魅力を全国の生産者へPR
   全国和牛能力共進会鹿児島大会に向けた生産者の取組支援
 モー!っと食べよう/消費拡大プロジェクト
  トップセールスや、いわて牛・いわて短角牛、乳製品などの消費拡大イベント等を実施し
  ます。
   民間企業との連携による、全国的な乳製品イベント開催
   トップセールスや有名シェフとの連携等によるPRの実施
   民間企業との協働による、いわて牛商品開発や販売支援
   いわて牛取扱推奨店との協働によるフェア開催
   県内小中学校を対象とした「いわて牛・いわて短角牛学校給食の日」実施
 モー!っと楽しもう/体験・交流プロジェクト
  観光等との連携による牛と親しむ体験・交流事業等を促進します。
   東北DC※を契機とした、体験型産地ツアー等開催
   旅行会社との連携による、牛関連施設を巡るコース提案(くずまき高原牧場、小岩井農
    場、牛の博物館など)
   「塩の道」「闘牛大会」等との連携によるフードツーリズムの促進
   ※東北デスティネーションキャンペーン(2021.4.1~9.30)
 モー!っと伝えよう/ブランド強化プロジェクト
  県産牛や乳製品の美味しさや、プロジェクトの取組等の情報を国内外へ発信します。
   アジア・北米・豪州等に向けた、いわて牛PR
   県内外百貨店におけるいわて牛や県産品のPR
   県内スポーツプロチームとの協働による、いわて牛等のPRや牛肉・乳製品販売
   公式サイトの開設
   応援ソング制作・配信、オリジナルピンバッチ等PRグッズ制作

 ※ 県が中心となって、JA全農いわて等の関係団体や民間企業との連携により実施します。
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2 PRキャラクター 
 チャンプくんとそばっち
[説明]
・ 「チャンプくん」は、第 7 回全国和牛能力共進会のPRキャラクターとして平成 9 年に誕生し、以来、いわて牛普及推進協議会のPRキャラクターとして活躍
・ 今回、岩手県イメージキャラクター「そばっち」との異色のコンビとして起用
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やはり今回も光太郎がらみで発表がありました。ありがたく存じます。
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1月7日(木)の達増岩手県知事の定例記者会見で、事業の詳細が発表され、その中でも光太郎について触れて下さいました(9分03秒くらいから)。
曰く、

そして、やはり今年はうし年ということから話を始めたいと思います。岩手ゆかりの詩人、高村光太郎さんが「岩手の人」という詩を書いています。岩手の人は牛の如しということで、いろいろ慎重に歩んで、ついに成すべきを成すというふうに結ばれています。新型コロナウイルス対策もあります、慎重に歩みを進めて、しかしやるべきことはやると、ついに成すべきを成すというような、そういう年にしたいと思います。

なるほど。

今後も光太郎がらみで推進していただければ、と存じます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

〈朝山鳩の声をきく〉〈(雪解水の流れる音が一面にきこえる。)〉


昭和21年4月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、ようやく遅い春がやって来た、という感じですね。

昨日は、大学入試共通テストについて書きましたが、先月5日には、一般の方対象に、花巻観光協会さん主催のご当地検定「はなまき通検定」が行われました。その際に出題された問題が、同会のサイト上で公開されましたのでご紹介します。

問題は全50問で、そのうち、直接光太郎に関わる問題が3問含まれていました。このブログをいつも読んで下さっている皆さんには、お茶の子さいさい(死語ですね(笑))の設問でしょう。

【問題35】
昭和16年(1941 年)に出版された、高村光太郎が夫人智恵子に対する思慕や二人の生き方の希望などを表現した作品集のタイトルは次のうちどれか。
1 智恵子抄
2 智恵子抄その後
3 案内
4 道程

【問題36】
高村光太郎が高村山荘で生活するなかで、唯一彫刻刀を使い便所の明り取りとしてくり抜いたといわれる文字は次のうちどれか。
1 道
2 智
3 高
4 光

【問題37】
高村光太郎記念館の近くにある「雪白く積めり」の詩碑を鋳金した人間国宝の鋳金家、高村豊周と高村光太郎の関係として正しいものは次のうちどれか。
1 高村光太郎の弟
2 高村光太郎の甥
3 高村光太郎の息子
4 血縁関係はない

念のため、正解を記しておきますと、【問題35】は「1 智恵子抄」、【問題36】が「4 光」、そして【問題37】で「1 高村光太郎の弟」ですね。
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3枚目の画像、左から光太郎の父・光雲、豊周、そして光太郎です。

また、「光太郎」の語は含まれていませんが、こんな問題も。

【問題 6】
令和2年8月7日にオープンした花巻市内にある「道の駅」は次のうちどれか。
1 道の駅とうわ
2 道の駅石鳥谷
3 道の駅はなまき西南
4 道の駅はやちね

正解は「道の駅はなまき西南」。愛称が「賢治と光太郎の郷」ですね。
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この「はなまき通検定」、6年ぶり4回目の実施だそうです。初回は平成24年(2012)、この際は68人が受検し、合格者わずか1人という超難関。翌年の2回目では難易度を見直したところ、89人受検で59人合格。第3回は平成27年(2015)に実施され、56分の7の合格だったとのこと。そして今回は、42名の方がチャレンジし、合格は22名だったそうです。全50問(1問2点、100点満点)で、合格基準は80点以上とのことでしたが、やはりそう簡単ではなかったようですね。

ちなみに当方、光太郎に関わる問題以外は、宮沢賢治関連、温泉関連などはほぼほぼ大丈夫でしたが、次のような問題はお手上げでした(笑)。

【問題17】
毎年2月11日に花巻市で開催されている「わんこそば全日本大会」の横綱歴代最高杯数は次のうちどれか。
1 158杯
2 208杯
3 258杯
4 408杯

ちなみに正解は「3 258杯」だそうで(笑)。

こうした取り組みもいわゆる「町おこし」に有効でしょう。全国自治体等の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】003

ツマゴをはいてゆく。雪相当につもりてツマゴを没す。あるきにくし。

昭和21年3月11日の日記より 光太郎64歳

「ツマゴ」は藁で編んだ雪靴。光太郎が暮らした花巻郊外旧太田村山口地区でも、現在では作れる人があまりいなくなってしまった由、聞いたような記憶があります。

画像は翌年、令甥の髙村規氏に送ったはがき。ツマゴが描かれています。

まず地方紙『岩手日報』さんの記事から

光太郎ランチ弁当を開発した「ミレットキッチン花(フラワー)」の代表 本舘博子さん

002 彫刻家で詩人の高村光太郎の日記を基に、地元の食材をふんだんに用いる光太郎ランチ弁当を開発。花巻市轟木の道の駅はなまき西南で毎月15日に限定販売している。「人が集まり、にぎわう地区にするため食からサポートしたい」と意気込む。
 同市轟木出身。子どもの頃は自宅裏山で竹スキーをしたり、ゴム跳びをして遊んだ。「ジャンパースカート」に憧れ、当時女子高だった花巻南校に進学。友達の推薦で応援団リーダーになり、華やかな校風ながら「あえてビリッと厳しい態度を取っていた」と笑う。
 盛岡市の盛岡中央職業訓練校の事務科で和文タイプライターや簿記、珠算を学び、花巻商工会議所に就職。結婚を機に退職し、旧笹間、花巻農協で金融関係の業務に長く携わった。
 農協女性部の活動で雑穀料理のレパートリーを広げる活動や幼児の食育に取り組んだ。「地域の人と接する機会が増え、人生が豊かになった」と振り返る。
 かごや花器に自由に花を飾るフラワーアレンジメントが趣味。「花を見ていると心が安らぐ」と自宅には生花を絶やさない。花巻市北笹間で夫、次男夫婦と4人暮らし。

光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋近くに昨年オープンした、道の駅はなまき西南さんのテナントで、記事にある通り毎月15日に限定販売の「光太郎ランチ」産みの親の方です。高齢者向けに弁当の宅配などの事業もなさっているそうで、頭が下がります。

さて、今月の「光太郎ランチ」。下記のメニューだったそうです。
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さらに画像も花巻光太郎記念会の女性スタッフの方から送っていただきました。
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美味しそうですね。

実際に召し上がっての感想は、特に大根とソーセージのケチャップ炒め、イカとキャベツの酢味噌和えが特に美味しかったとのこと。

フルーツは、キウイを煮たものとミカンだそうです。また、メニューにありませんが、塩こうじ入り玉子焼きもリクエストして入れてもらい、ボリューム満点だったそうで。これで定価は800円。十分に元は取れそうですね(笑)。

ちなみにボストンビーンズは、光太郎が明治末の海外留学中に作り方を覚え、現地でもよく食していたものです。その他も、記事にある通り、光太郎の日記などから着想を得てのメニューで、こじつけではありません。
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そういう意味では、なかなかメニューを考えるのも制約があって大変だと思いますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる食、ソバ粉をスルメをつけてある汁にてとき、飯盒中皿に入れてむす。一種のパンとなる。味淡泊にてあしからず。バタでくふ。 こいか漬けを仕込む。大根千六本、刻みスルメ、せん切コブ、それに伊藤光富久氏よりもらつたアラレ(焼米と黒豆)をも入れる。唐辛子。醤油を補充す。


昭和21年3月3日の日記より 光太郎64歳

ついでですので、この項も食事内容で。昭和21年(1946)から翌年の春ぐらいまでは、細かに作ったメニューを記録しています。この日もこれ以外に朝食、夕食の品目をすべて書き残しました。

そば粉パン、光太郎の得意料理の一つとなりました。「大根千六本(せろっぽう/せんろっぽん)」は、マッチ棒ほどの太さに刻んだもので、味噌汁の具などに使いますね。これも光太郎の好物の一つでした。

地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から、掲載順に2本

まずは元日の紙面から。

困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙

 文学者や芸術家、政治家らが後輩に宛てた手紙、若い日をつづった手紙…。明治以降の盛岡ゆかりの著名人の書簡、原稿などを収集する盛岡てがみ館(及川政己館長、盛岡市中ノ橋通)の資料から、コロナ禍を乗り越えようとしている中高生ら若い世代に触れてもらいたい手紙を紹介する。先人たちの自筆の手紙には、それぞれの時代の息遣いとともに、困難の中から見いだした希望も感じさせる。

高村光太郎【「岩手山の肩」の原稿 昭和22(1947)年作、同23年発表】
 「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ。あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
 終戦後に花巻市に疎開し、農民のような暮らしをしながら、多くの作品を生んだ詩人・彫刻家の高村光太郎(1883-1956)。「岩手山の肩」は、稗貫郡太田村(現花巻市)で過ごした7年間のうち、2度目の冬を迎えた1947(昭和22)年の12月に書き上げられた。岩手山をのぞむ、岩手人への力強いメッセージとして、翌48年1月1日付けの「新岩手日報」に発表された。
 20年4月の空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、花巻の宮沢家に疎開。同年11月から「山口」という集落の山小屋をすまいとし、山口小学校(当初山口分教場)に自ら寄贈した幻灯機で幻灯会を開くなど、子供たちとも積極的に交流した。同小において、盛岡市にあった県立美術工芸学校の生徒に講話をしたり、同校の卒業式に祝辞を寄せたりと、岩手の教育にも心を傾けていた。
 「岩手山の肩」について、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんは「戦後の復興の意味も込めて書かれた詩と思われるが、『も一度天地に立て』と、コロナ禍のいまも響くものがある」と話す。
 光太郎は十和田湖畔のモニュメント制作のため岩手を離れてからも、1955年までは太田村に住民票を残した。「制作が終わったら山口に帰るつもりでいた。岩手に強いシンパシーを感じていたのだろう」と語った。
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この後、金田一京助、田子一民、舟越保武・道子夫妻、そして石川啄木が紹介されていますが、そちらは割愛します。

当方のコメントが載っていますが、先月はじめに盛岡に行った際に取材を受けました。詩「岩手山の肩」の原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、盛岡にお立ち寄りの際には是非ご覧頂きたく存じます。

続いてもう1件、1月7日(木)掲載の記事。

「高村光太郎と共に」自費出版 盛岡市小杉山の加藤千晴さん 24歳時の肖像など紹介 哲学の視点交え生き方つづる

000 盛岡市小杉山の加藤千晴さん(72)は、本県ゆかりの彫刻家・詩人の高村光太郎(1883―1956)の生き方、父・高村光雲や縁のある人々について、哲学の視点を交えてつづった「高村光太郎と共に」(B6判、41㌻)を自費出版した。光太郎が米国ニューヨークに留学中、幼なじみである加藤さんの祖母・金谷ふゆ(60年に82歳で逝去)に送った24歳のポートレートなどを紹介し、青年期の心についても解説。「驚きは芸術の始まり。若い人たちに光太郎の心意気も知ってもらいたい」と話す。
 加藤さんは、ふゆの娘の照さん(104)=樺太・豊原生まれ、旧姓金谷=の長男。静岡大学大学院を修了し、東京芝浦電気の半導体プロセス開発に従事。定年退職後に盛岡市に帰郷し、照さんの話や光太郎に関する資料を少しずつまとめた。
 「あまり知られていない光太郎さんの姿を知ってもらいたい」と、金谷家の女性たちやゆかりの人々についてつづった「光太郎と女神たち」(花巻高村光太郎記念会発行)を2017年に発行。併せて、県立盛岡短大(現県立大盛岡短期大学部)教授などを務めた父の故・千代司さんの残した講義ノートなどを通じて、哲学にも関心を持つようになった。
 本書は「光太郎と女神たち」の姉妹版ともいえ、Facebook(フェイスブック)に投稿した光太郎の話題を再編集。彫刻家の父・光雲が師事した高村東雲のエピソードや光太郎の言葉から考える「美の力」、戦後に花巻に疎開した光太郎と照さんとの交流などについて、書簡などの資料も合わせて紹介した。
 加藤さんが「若い人たちに伝えたい」と取り上げたのが、「紐育(ニューヨーク)の光太郎」のエピソード。
 1906(明治39)年、留学先のニューヨークで撮影したと思われる若き光太郎の肖像を「若さのエネルギー、ここには夢があります」と紹介する。
 一方で、世界を見て帰国した光太郎は日本の芸術界に受け入れられず、アイデンティティー崩壊の危機にあったと解説。「認められない寂しさのはけ口の一つが詩で、後にそれらをまとめたのが『道程』」と話す。
 同詩集は、後に芸術院賞受賞。自己崩壊の危機から救い出してくれたのが(後に妻となる)智恵子だったと光太郎が回想録に記していることにも触れた。
 「アイデンティティーの崩壊という青年期に直面する問題から、どのようにして自分を救っていくのか、光太郎の姿からも見ることもできる。若い人たちの勇気にもなるといい」と願う。

光太郎の従妹(いとこ)に当たる加藤照さんの子息・千晴氏による『高村光太郎と共に』が11月に自費出版され、その紹介です。

照さんには平成28年(2016)に一度お会いしましたが、104歳になられ、まだお元気のようで、何よりです。

「岩手山の肩」、そして光太郎自身の生き様、そういったものが若い人たちの生きる指針と成るようでしたら、望外の喜びですね。

【折々のことば・光太郎】

風もなし。湯のたぎる音しづかなり。


昭和21年(1946)1月30日の日記より 光太郎64歳

雪に覆われた太田村の山小屋、おとなう人もない時には、まさしく静寂に包まれていたのでしょう。

状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
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県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
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ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


先週の『読売新聞』さんの岩手版に8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

いわて経済便 地域の「食」支える道の駅 はなまき西南 高齢者へ弁当宅配も

 県内で特色のある道の駅が増えている。花巻市の「はなまき西南」は、道路利用者へのサービスに加え、スーパーがない地元住民の暮らしを支える役割も果たしている。
 同所は、県内34番目の道の駅として8月にオープン。市中心部から西南に約7㌔・㍍離れた田園地帯にあり、近くには彫刻家の高村光太郎が終戦後の一時期、暮らした山荘が残る。この山荘や温泉地にやって来た観光客がターゲットだ。施設内には高村のほか、花巻生まれの詩人・宮沢賢治の写真や詩が掲げられている。
 同時に力を入れているのが、地区住民への生活のためのサービスだ。
 西南地区では6年前、唯一のスーパーが閉店。住民の中には、隣の北上市まで買い物に行かざるを得なくなった人もいる。
 閉店の前後から、地元の住民組織が道の駅誘致の運動を始め、「高齢者などが気軽に立ち寄れ、買い物もできる場所」にするよう市に訴えた。さらに住民ら約170人が出資して株式会社「はなまき西南」を設立し、道の駅の運営を担うことになった。
 同社がテナントに迎えたのが、JAいわて花巻の農産物直売所「すぎの樹」。道の駅オープンに合わせ、地区の別の場所から移転した。観光客向けに漬け物などの土産物を販売する一方、住民ニーズの高い野菜や果物などの生鮮食料品も維持した。「車で中心部に出られない高齢者を意識した」(JAの担当者)という。
 「以前は市中心部のスーパーで買い物していた。近くで買えるようになって便利になった」。近くに住む男性(52)は出店を喜ぶ。
 さらに、買い物が困難な高齢者のため、道の駅を拠点に、弁当や総菜の宅配サービスも始まった。
 地元の女性たちで作る加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」は、元々ボランティアで、宅配活動を行ってきた。これを事業化し、規模や配達地域を拡大。地元産野菜をふんだんに使い、道の駅でも店頭販売している。代表の本舘博子さん(70)は「高齢者を見守りながら、一般のお客さんにも飽きのこない味を提供したい」と意欲を見せる。
 隣接地には10月、地区初の大手コンビニチェーン店もオープンした。安藤功一駅長(62)は、「コンビニと産直の組み合わせで、スーパーに代わる役割を果たすのが目標。外からの利用者と住民の両方を意識し、品ぞろえを充実させていきたい」と話している。

県内の特色ある道の駅
 くじ(久慈市) 久慈秋まつりの山車などを展示 
 三田貝分校(岩泉町) 廃校になった分校の跡地を利用
 石神の丘(岩手町) 彫刻美術館に隣接。緑豊かな立地
 雫石あねっこ(雫石町) 日帰り温泉施設を併設
 とうわ(花巻市) 温泉と宿泊施設を併設
 遠野風の丘(遠野市) 沿岸被災地の鮮魚を売る店舗併設
 厳美渓(一関市) 伝統の餅料理を提供
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なるほど、オープンの裏側にはこういう経緯があったのかと、納得させられる記事でした。

紹介されている「ミレットキッチン花(フラワー)」さんは、毎月15日、限定販売の「光太郎ランチ」も手がけられています。

今月の「光太郎ランチ」はこんな感じ。花巻高村光太郎記念会さんから画像を頂きました。
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美味しそうですね。

この取り組みも地域活性化に一役買い続けていってほしいものです。

001【折々のことば・光太郎】

栗をひろつてやいてくふ。美味限りなし。


昭和20年(1945)10月19日の日記より 光太郎63歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、初めて囲炉裏で火を起こし、最初に手がけたのが焼き栗でした。

一昨日の『岩手日報』さんから、花卷高村光太郎記念館さんで開催中の「光太郎と佐藤隆房」の報道をご紹介します。花巻市内五つの文化施設で「令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」として行われている一環です

花巻疎開の縁たどる 高村光太郎記念館展 尽力した佐藤博士紹介 人柄伝わる水彩画も

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎(1883~1956)と花巻共立病院(現総合花巻病院)設立者で、初代院長の佐藤隆房(たかふさ)博士を紹介する企画展を開いている。光太郎の花巻疎開に尽力し、暮らしを支えた佐藤博士。2人の軌跡を貴重な色紙や写真でたどっている。
 佐藤博士の水彩画に光太郎が文章を書き添えた色紙4枚を中心に、関連資料や解説パネル計25点を展示。リンゴの絵に光太郎が「ひかりをつつむ」と書き添えた色紙からは、2人の人柄が感じ取れる。
 佐藤博士は宮沢賢治の主治医で、賢治の死後に同市桜町の「雨ニモマケズ」詩碑の建設委員長を務めた。その際に光太郎に揮毫(きごう)を依頼。1944(昭和19年)には、花巻疎開前野光太郎を東京の自宅に訪ね、詩碑の詩文に脱字があり追刻を依頼したエピソードも紹介されている。
 光太郎が佐藤博士の邸宅の離れ「潺湲楼(せんかんろう)」に滞在していた時に愛用した椅子は風格が漂い、息子で同病院長を務めた佐藤進さん(2019年10月死去)を交えた3人の写真は、家族ぐるみで親交があったことを伝える。
 佐々木館長(55)は「佐藤博士の絵に光太郎が画賛した色紙は大変貴重な品だ。花巻疎開の縁をつくってくれた人物でもあり、功績を紹介し身近に感じてもらいたい」と語る。 同展は来年1月25日まで。12月28日~1月3日休館。午前8時半~午後4時半。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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しれっと一般人のような顔をしていますが、写真は市役所の方と当方です(笑)。

記事にある通り、期間は来年1月25日(月)まで。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡より池野のぶ子女史来訪、草木染の和紙をもらふ。及川全三といふ人の話をきく、メーレー夫人の毛布見せる。


昭和20年(1945)9月24日の日記より 光太郎63歳

「メーレー夫人の毛布」は、過日、花巻高村光太郎記念館さんで開催された「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」他で展示された、イギリスの染織工芸作家、エセル・メレ作の毛布です。「及川全三」は花巻郊外土沢で工房を開いていたホームスパン作家。のちに直接会って交流を深めます。

「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、50日間の開催で1,950人の入場者だったそうで、コロナ禍の中ではまずまずというところ、という判断とのことでした。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』。月2回の発行です。今月15日号で、8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

賢治さんのまちづくり 第93回 宮沢賢治と高村光太郎

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、宮沢賢治と深いつながりを持つ人物です。今回は二人の縁について紹介します。
 賢治の作品で生前に発刊されたのは詩『春と修羅』と童話『注文の多い料理店の』2作品。このうち『春と修羅』を詩人・草野心平から薦められた光太郎は、その世界観に魅了され、以降文通により賢治や心平と交流を深めました。光太郎は、賢治の死後も「賢治全集」の編集や装丁のほか、花南地区にある「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫(きごう)などを行っています。
 昭和20(1945年)、東京の自宅兼アトリエを空襲で失った光太郎は、賢治の父・政次郎や弟の清六を頼って花巻の宮沢家に疎開しました。しかし疎開先の宮沢家も空襲で焼失。その後、光太郎は太田の小屋(高村山荘)で7年間過ごし、その間には地域の人々との交流もありました。
 道の駅はなまき西南は、高村山荘がある花巻西南地域に建てられ、8月7日にオープンしました。多くの人が立ち寄り、西南地域に新たなにぎわいを創出しています。
 一般公募により「賢治と光太郎の郷(さと)」という愛称が付けられた同施設。休憩スペースには、賢治と光太郎とのつながりが記されたパネルが展示されています。皆さんもぜひ立ち寄ってご覧ください。

【問い合わせ】本館賢治まちづくり課 (☎ 41-3890)
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また、今年一年の回顧的なページでも

▲道の駅「はなまき西南」がオープン

 西南地域に道の駅「はなまき西南」がオープンしました。同施設は道路利用者への安全で快適な道路環境を提供するほか、地域を支える拠点としての役割を担います。
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花巻方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。

花巻といえば、昨夜、花巻高村光太郎記念館の方から届いたメールに、昨日の同館周辺の画像が添付されていました。
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すごいことになっていますね(笑)。80㌢ほど積もっているそうですし、雪の重みで倒れた木も一本あるとのこと。「きっと光太郎は喜んでいるでしょう」ということですが、「冬の詩人」と言われる光太郎、その通りかもしれません。

【折々のことば・光太郎】

松庵寺にて一枚起請文をもらふ。

昭和20年(1945)8月23日の日記より 光太郎63歳

004松庵寺」は花巻市街にある浄土宗の寺院です。ほぼ毎年、光太郎はこちらで智恵子や父・光雲の法要を営んでもらっていました。そうした縁から、今年はコロナ禍で中止となりましたが、4月2日には花巻としての連翹忌を開催して下さってもいます。

この年にはずばり「松庵寺」という題名の詩も書かれました。

   松庵寺

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


境内には、佐藤隆房の揮毫によるこの詩の碑も建っています。

光太郎の手元に残された控えの詩稿欄外のメモ書きによれば、執筆は「昭和二十年十月五日下書、二十二年六月清書」。ところが、この年の松庵寺での法要は日記によると10月10日。そこで『高村光太郎全集』のこの詩の解題では、「制作の日付には疑問が残る」となっています。

しかし、謳われている情景が10月10日の法要ではなく、上記の8月23日のことであれば、10月5日執筆でも矛盾はありません。ただ、そうなると詩の中の「秋の村雨ふりしきるあなたの命日」と一致しません。智恵子命日(レモンの日)は10月5日です。8月23日では月命日とかにもなりませんし……。

やはり光太郎が日付を書き間違えたということなのでしょうか。または下書きと清書の間で、かなりの変更があったのかもしれません。8月23日、10月10日双方の出来事を一篇にまとめてしまったというようなことも考えられます。


定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第23号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「リンゴとサツマイモのケーキ」。
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意外と光太郎はスイーツ好きだったようで、戦前の文章にもそうした記述がありますし、今号で紹介されていますが、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋で、ケーキを自作していたとのこと。昭和22年(1947)の日記には「午後シヨートケーキをつくりくふ。」の一文があります。あのぼろぼろの小屋でどうやって作っていたのか、ちょっと想像ができませんが(笑)。

山小屋でケーキといえば、以前にも書きましたが、昭和26年(1951)の日記には「昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。」の記述があります。数ある光太郎笑えるエピソードの中でもポイントの高いものの一つです(笑)。

リンゴに関しては、宮沢賢治の教え子で、花巻で林檎園を経営していた阿部博とのからみ。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。
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甘く酸っぱいリンゴの味と人生の甘酸との掛詞で、ザブトン一枚ものです(笑)。

また、光太郎は阿部に、即興で詠んだ「酔中吟」という詩も揮毫して贈りました。
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「たいしよ」は「大将」ですね。のちに阿部はこの書を石碑に刻み、リンゴ園の敷地に建立しました。
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昨年開催された市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で、花巻、北上の光太郎碑を案内して歩いたのですが、この碑も行程に入れていただきました。

こちらのリンゴ園では、この揮毫から文字を採ったリンゴジュース「阿部のたいしよ」を販売していたとのこと。『マチココ』さんの画像にも写っています。
リンゴジュースのラベル
現在はやめてしまったそうですが、ぜひ復刻していただきたいものです。

ちなみに『マチココ』さんの撮影、こちらのリンゴ園内にあるレストラン「わいんさっぷ」さんで行われたとのこと。
リンゴ園のカレー屋さん表札 阿部リンゴ園
牛すじカレー
牛スジカレーが人気だそうです。

また、花巻高村光太郎記念会さんから、こちらのリンゴも送っていただきました。
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まだ手を付けていません。それ以前にも、石鳥谷地区産のものを送っていただき、そちらを食べているところです。
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ちなみに特にこの時期、全国から色々なものが届きます。ありがたし。
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積んである一番下が阿部さんのリンゴ、その上が石鳥谷地区産のリンゴ、さらに昨日落手した十和田産の長芋(箱に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が印刷されています)、右は愛媛から届いたミカンです。
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さて、『マチココ』さんに戻ります。

今号の特集は「看板」。
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花巻市街などの、どちらかというとレトロな、味のある看板が多数取り上げられています。何度か泊めていただいた在来線花巻駅前のかほる旅館さんのそれも。
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昨日、『朝日新聞』さんの先週の夕刊に掲載された「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事をご紹介する中でも書きましたが、どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。

【折々のことば・光太郎】

正午鳥谷崎神社々務所ニテ天皇陛下の玉音録音放送ヲキキ平和再建の詔書渙発を知る。

昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

鳥谷崎神社、そしてその時の模様を綴った詩「一億の号泣」についてはこちら

一昨日、昨日と、1泊2日で花巻、盛岡を廻っておりました。レポートいたします。

12月4日(金)、新幹線を新花巻駅で降り、迎えの車に乗って、まずは花巻市役所さんへ。市の主催で来年度に計画されているイベントや展示の打ち合わせを行いました。市民講座の講師、展示の監修等を仰せつかりまして、ありがたいかぎりです。

再び市の公用車に乗せていただき、花卷高村光太郎記念館さんへ。
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まだ積雪には至っていませんでしたが、気温はかなり低い状態でした。

こちらでは昨日から、花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマとした共同企画展の一環、「光太郎と佐藤隆房」が始まっています。一昨日は内覧ということで、地元紙の取材も入っており、対応しました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、郊外旧太田村に移る前の1ヶ月程、光太郎を自宅離れに住まわせてくれ、その後も援助を惜しまなかった佐藤隆房元総合花巻病院長と光太郎の交流を紹介する展示です。
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隆房は光太郎歿後、財団法人高村記念会を設立、初代理事長となり、それは子息の故・進氏に引き継がれました。
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左上画像は光太郎が1ヶ月暮らした佐藤家離れの2階。ここを光太郎は「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。「潺湲(せんかん)」は「水のせせらぎ」。すぐそばに豊沢川の清流があることに由来します。右画像は佐藤家を訪れた際に光太郎が愛用していたという椅子です。

佐藤が絵を描き、光太郎が賛を書いたものが四点。
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「天しろし」
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「ひかりをつゝむ」
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「孤坐」
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「人は野をおもひ山をおもふ」

いつもながらに味のある書です。

そのうちに地元紙に報道が出るはずですので、またその際にご紹介します。

花巻高村光太郎記念会として来年度に行う企画展示の打ち合わせ等を行い、こちらを後にしました。

その後、車で送っていただき、盛岡へ移動。こちらでは、「ゆかりの盛岡から高村光太郎を知る会」の会合。コロナ禍の為中止となりましたが、今年の5月に岩手県公会堂で、同会主催の講座「光太郎の食卓から」が開かれる予定で、当方も一役買うはずでした。下記は幻の要項です。
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この講座では、盛岡でイタリアンの「アッカトーネ」さん、さらに「光太郎山荘」ならぬ「敲太楼山荘」さんのオーナーソムリエ・松田宰氏にもお話をいただく予定でした。

そこで、この日は松田氏の料理に舌鼓を打ちつつ、会合。当初はお店で開催のはずでしたが、三密を避けるため、農林会館という建物の会議室で行いました。
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テイクアウト的なこういう状態でしたが、実に美味でした。

この日は中の橋地区のホテルブライトイン盛岡さん(アッカトーネさんの向かいです)に宿泊。昨日のブログにも同じ画像を使いましたが、翌朝、部屋の窓から取った岩手山。
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南隣は啄木・賢治青春館さん。
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北隣は盛岡てがみ舘さんの入っているプラザおでってさん。さらに道路を渡ると旧岩手銀行赤レンガ館さん。
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部屋で朝食を摂った後、ロビーで地元紙『盛岡タイムス』さんの取材を受けました。来年元日の同紙で、光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、そのためです。てがみ館さんで直筆原稿が常設展示されている光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)をメインとするとのことでした。その後、連れだっててがみ館さんへ。
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現在、盛岡とその周辺の古絵葉書などを中心とした「なつかしの盛岡」展が開催中です。光太郎も見た風景ということで、興味深く拝見しました。
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「岩手山の肩」原稿はこちら。
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006紙面は来年、送って下さるそうです。ちなみに紙面を送って下さる、と言えば、明日、12月7日(月)だかの『朝日新聞』さんの夕刊でも光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、岩手行きの前に電話取材等に対応しました。品川のレモン哀歌詩碑などに関わるようです。やはり紙面を送って下さるそうで、そのうちにご紹介します。

その後、記者さんと別れ、当方は盛岡駅前の岩手県立図書館さんで調べ物。光太郎が題字を揮毫し、昭和二、三十年代に刊行されていた地方紙『花巻新報』を閲覧してきました。

当会発行の冊子『光太郎資料』で、光太郎が作詞、邦楽奏者の杵屋正邦が作曲し、昭和26年(1951)に花巻で日本舞踊を振り付けて上演された「初夢まりつきうた」について書いたのですが、まだ不分明な点が多く、その補完が主目的でした。すると、やはり当たりで、いろいろと分かりまして、次号の『光太郎資料』にその辺を書こうと思っております。

また、それ以外にも光太郎が昭和25年(1950)に花城農業高校(現・花巻農業高校)で行った講演の長い筆録も掲載されていたのを発見した他、『高村光太郎全集』未収の談話筆記等多数見つかりました。

コロナ禍のため、長時間の滞在が出来ないという制約があり、1時間あまりで撤収しましたが、他にも目星を付けている蔵書がありますので、またいずれ、と思っております。

というわけで、有意義な岩手紀行でした。

おまけ。東京駅から高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所最寄りのバス停・JR佐原駅で降りたところ、田舎の駅で普段はあり得ない人山の黒だかり、もとい黒山の人だかり。何事だ、と思ったら、JR東日本さんの超豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が停車していました。そういえばちょっと前にこっちの方に来ると新聞で予告されてたっけ、と思いあたりました。
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赤いのはお出迎えでやって来た、千葉県のゆるキャラ・チーバくんです。ちょんまげは当地の偉人・伊能忠敬がらみですね。
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0001泊2日コースで、2名1室最高50万円、最低でも37万円。一人旅だとそれぞれ75万円と55万5千円に跳ね上がります。当方には一生無理でしょう(笑)。ちょっと前に、元宝塚の遼河はるひさんと、深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 で智恵子役をなさった紺野まひるさんが2泊3日コースを体験乗車するというテレビ番組を拝見し、バーチャル体験はしましたが。

ちなみに現在の2泊3日コース、岩手も通るルートで運行されています。こちらは2名で55万円から75万円、1名だと82万5千円から112万5千円だそうで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻着(午前七時過) 宮沢家に入る、 雨、


昭和20年(1945)5月16日の日記より
光太郎63歳

4月13日の空襲で駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居を焼け出され、しばらくは近くにあった妹の婚家で過ごしていましたが、そこも他の被災者で手狭になり、宮沢賢治の実父・政次郎、実弟・清六、そして佐藤隆房等の誘いで花巻へ疎開。上野駅を発ったのが前日の夕方でした。光太郎が「TRAIN SUITE 四季島」などを見たら、腰を抜かすのではないでしょうか(笑)。

究極の雨男・光太郎、花巻に着いた時も雨でした。その魂を背負ってしまった当方も究極の雨男となり、昨日も関東に帰ってきたら雨でした(笑)。

昨日から岩手盛岡に来ております。
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昨日は花巻に立ち寄り、市役所、それから花巻高村光太郎記念館さんへ。同館で今日から始まる企画展示「光太郎と佐藤隆房」を内覧。
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市役所、それから盛岡に移動し、こちらのいろいろな団体さんと、来年度のイベントや展示等の打ち合わせ。

これから地元紙の取材を受けます。

詳細は帰りましてから。





盛岡ご在住の加藤千晴氏から、ご著書が届きました。題して『高村光太郎と共に』。B6判で40ページ程の冊子です。

加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
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内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。

下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
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表紙画像の扇子には、光太郎の長姉にして狩野派の日本画を学び、しかし数え16歳で病没した咲(さく)の手になる絵が描かれています。

扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。

ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。

【折々のことば・光太郎】009

小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。


明治43年(1910)9月15日の日記より
 光太郎28歳

「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。

右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。

どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。

地方紙『岩手日日』さんの一面コラム、一昨日掲載分です

日日草 2020年11月27日

海の幸、山の幸、そして豊かな自然に恵まれている本県。県民性はと言うと、口数は少なくとっつきにくい面があるが真面目で忍耐強く、物事に動じないといったイメージが強い。東北人に共通する気質だろう▼太平洋戦争下、詩人宮沢賢治の実家を頼って東京から花巻に疎開し、その後、周辺の山村に粗末な小屋を建てて7年間過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎も詩の中で「岩手の人沈深牛の如し」と寡黙で冷静沈着、思慮深い人柄を表明している▼クラスター(感染者集団)の発生で県内でも新型コロナウイルスの患者数は増加スピードを増し、緊張感が急速に高まっている。感染拡大に歯止めをかけるには「真面目」な県民性に頼る他ない▼マスクの着用、手指消毒、室内の換気に加えイベントの自粛や密閉、密集、密接の「3密」を回避する県民の行動、それに行政や医療関係者らの献身的な取り組み。見えない「敵」の封じ込めに官民一丸となった懸命の活動が続く▼1日の感染者数の最多更新が全国で相次ぎ、飲食店の時短営業や不要不急の外出自粛も呼びかけられるなど、感染は「第3波」の様相を呈している。1人ひとりが忍耐強く真面目に対策を講じる「岩手の人」で在り続けること。それが一日も早い収束への近道だろう。

まったくもって、感染拡大が止まらない状況ですね。昨日は全国で新たに2,600人超の感染が確認されたそうで……。下記グラフは昨日時点での全国の新規感染者数です。
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また、当方だけかも知れませんが、こうした状況に対し、以前より危機感が薄くなっているような気がします。『岩手日日』さんに引用されている「岩手の人」(昭和24年=1949)にあるように、「沈深牛の如し」でなくてはいけないのではないでしょうか。「岩手の人」、全文はこちら

【折々のことば・光太郎】

あゝ人生のはかなさよ。

明治37年(1904)4月17日の日記より 光太郎22歳

東京美術学校彫刻科の同級生だった山本筍一の見舞いに行っての感懐です。この前の部分には「いたくも痩せ衰へたる様とても恢復はむつかしかるべしとは誰が胸にも浮びし所なるべし。」とあり、そして他の用を済ませて帰宅したところ、「程なきに知らせありて山本君死去! あゝ。」。

山本は、どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。美学の講義を担当していた森鷗外には、けちょんけちょんに言われています。彫刻の技倆もはじめはまるで駄目で、同級生から小馬鹿にされていました。ところが、奈良へ修学旅行に行き、古仏の数々を目の当たりにして開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、若くして亡くなりました……。

コロナでは、相変わらず若年層の死亡はほとんどないようですが、高齢だから死んでいい、というわけでもありません。亡くなった方々の死を警鐘と捉えなければ、その方々も浮かばれませんね……。

市のサイト等に詳しい情報が出るのを待っていたのですが、まだのようで……。仕方なく見切り発車でわかっている範囲を紹介します。情報ソースは『広報はなまき』11月15日号です。

令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマに共同企画展を開催します。
各施設を巡り、花巻ゆかりの先人や功績に触れてみませんか。

会期 12月5日(土)~ 令和3年1月  24 (日)

■入館料・休館日 施設によって異なります
※小中学生や、市内に在住または在学の高校生、富士大学生は「まなびキャンパスカード」や「学生証」の提示で無料。小学生と特別支援学校の児童・生徒1人につき保護者1人も無料になります。

■花巻新渡戸記念館
▽「猫塚家‐新田開発の先駆者‐」
 新田開発の先駆者として当地方の開発で活躍し、新渡戸家の新田開発の協力者でもあった猫塚家。代々受け継がれた資料から同家の業績を紹介します。
【会場】 同記念館(☎31-2120)

■萬鉄五郎記念美術館
▽「明治・大正・昭和前期のいわて近代美術館」
前衛絵画の萬鉄五郎や、西洋彫刻の長沼守敬(もりよし)、情緒的な表現で魅了する松本竣介。花巻にゆかりが深いこれらの表現者を中心に、明治期から昭和前期にかけて岩手の近代美術を形作った美術家を紹介し、その相関を検証します。
【会場】 同美術館(☎42-4402)

■花巻市博物館
▽「小野寺周徳‐花巻画人の先駆的存在‐」
医師と画人の二足のわらじを履きながらも、花巻画人の先駆者としてその名をはせた小野寺周徳。その生涯を振り返り、多彩な表現力を発揮した作品を紹介します。
【会場】 同博物館(☎32-1030)

■花巻市総合文化財センター
▽嶽妙泉寺(たけみょうせんじ)‐早池峰信仰に関わった人々‐」
江戸時代、盛岡城東の鎮山として重視された寺院「嶽妙泉寺」。早池峰山の信仰をたどり、それに関わった嶽妙泉寺の人々を紹介します。
【会場】 同センター(☎29-4567)

■高村光太郎記念館
▽「光太郎と佐藤隆房」
高村光太郎と佐藤隆房との生涯にわたる交流を各種資料で解説します。
【会場】 同記念館(☎28-3012)

スタンプラリー
共同企画展会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと次の協賛館のうち1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げます。
〇協賛館 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷歴史民俗資料館、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館

バスツアー
 共同企画展の開催館5館をバスで巡ります。
 □期日 ①12月10日(木)②令和3年1月14日(木)
 □時間 午前9時~午後3時10分
 □集合場所 まなび学園
 □定員 各回20人(抽選)
 □参加料・入館料 無料(昼食代は自己負担)
 □申込期限 11月30日(月)
 □申し込み 本館生涯学習課(☎41-3588)
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高村光太郎記念館さんでは、「光太郎と佐藤隆房」。
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佐藤隆房は花巻病院院長にして宮沢賢治の主治医。光太郎の花巻疎開に骨折った一人でもあります。終戦後の一時期、旧太田村の山小屋に移る前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれたりもしました。光太郎歿後は財団法人高村記念会を立ち上げ、彼の地での光太郎顕彰に尽力してくれました。

昨年のこの企画では、「光太郎からの手紙」ということで、主に佐藤に宛てた手紙が展示されましたが、今回はどんな感じなのか、当方、関わっていないので不明です。ただ、他の用件もあり、12月4日(金)、5日(土)と一泊で盛岡、花巻に行って参りますので、その際に拝見し、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

時候あたゝかし。上野権現前清水堂側の彼岸桜は早やちらほらと笑みそめて山は今が最も風情ある時なり。


明治37年(1904)4月2日の日記より 光太郎22歳

季節外れで済みません(笑)。昔から上野公園一帯は桜の名所でした。明日は上野の都美さんに東京書作展を拝見に伺います。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻にあり、光太郎や宮沢賢治もたびたび宿泊したゆかりの宿、大沢温泉さん。当方も花巻に宿泊する際は、真っ先にここに予約。取れなかった場合などに他を当たるという習慣になっています。

先月、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)に行った際にゲットしてきたパンフレット類から。
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すべて光太郎の名を挙げて下さっています。

その大沢温泉さんで、求人です

株式会社 大沢温泉山水閣フロント係 募集要項

募集要項
 仕事詳細
  *山水閣のフロント業に従事いたします。001
  <主な業務>
  ・お客様のお出迎え、受付、案内業務
  ・各種会議、研修会場のセッティング
  ・予約受付、会計清算業務
  ・その他 付随する業務
 職種 ホテル業務
 雇用形態 正社員
 勤務地(住所) 岩手県花巻市湯口字大沢181
 屋内の受動喫煙対策 あり(禁煙)
 特記事項 館内に喫煙場所あり
 勤務時間 変形労働時間制
  変形労働時間制の単位 1年単位
  就業時間1 7時30分〜19時00分
  就業時間2 9時00分〜20時30分
  就業時間3 8時00分〜19時00分
 最寄り駅 JR東北本線 花巻駅
 最寄り駅から就業場所までの交通手段 車 所要時間20分
 給与・年収 155,000円〜180,000円(月額)
 休日・休暇
  年間休日数 96日 週休二日制 シフト制。月7日の休日を基本とする。
  他に年公休12日有(繁忙期以外で、日程相談のうえ取得)
  6ヶ月経過後の年次有給休暇日数 10日
 資格
  (普通免許自動車免許:通勤用) 普通自動車運転免許 あれば尚可(AT限定可)
 スキル・経験 必要な経験・知識・技能等 不問
 企業の特徴
  豊沢川の渓流沿いに立地し、山水閣、自炊部、菊水館と三つの異なる施設からなる。
  大浴場が五つありお風呂巡りができる。宮沢賢治、高村光太郎ゆかりの温泉でもある。
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企業情報
 会社名 株式会社 大沢温泉
 本社所在地 岩手県花巻市湯口字大沢181
 設立日 昭和22年
 資本金 3,240万円
 代表者 役職 代表取締役社長 
 代表者名 高田 貞一
 従業員数 企業全体75人 うち女性40人 うちパート10人
 事業内容 温泉旅館業
 各種保険 雇用保険,労災保険,健康保険,厚生年金

その他・PR
 雇用期間 雇用期間の定めなし
 求人に関する特記事項 従業員食堂あり 1食@100円
 年齢 年齢制限あり 年齢制限範囲〜61歳
 年齢制限該当事由 定年を上限
 年齢制限の理由 定年年齢62歳の為労働基準法第61条の深夜業務
 備考 月平均労働日数 22.4日
 賞与 賞与制度の有無 あり007
 賞与(前年度実績)の有無 あり
 賞与(前年度実績)の回数 年2回
 賞与金額 計 1.50ヶ月分(前年度実績)
 利用可能託児施設 なし
 転勤の可能性の有無 なし
 再雇用制度 あり
 上限年齢 上限 65歳まで
 育児休業取得実績 なし008
 通勤手当 実費支給(上限あり)月額17,700円

応募方法
 選考プロセス 面接(予定1回)
 採用人数 1人
 募集理由 増員
 応募資格 不問

家庭やら何やらのしがらみが一切なければ、当方も応募するところですが……。


【折々のことば・光太郎】

天の奇巧を弄ぶこそいとをかしけれ。

明治37年(1904)3月31日の日記より 光太郎22歳

この年の3月31日は十二支十干の「甲子(きのえね)」。この日が雨だとその後長雨になり、晴れればそのまま晴天が続くという俗信があるそうで、その点についての記述です。

おおいなる自然現象の不思議、ひいては詩「道程」(大正3年=1914)にも謳われた「自然」への畏敬の念が既に読み取れます。

11月18日(水)、地方紙『岩手日日』さんの記事から

目指せ「はなまき通」 ご当地検定へ事前講習会【岩手】

 花巻観光協会主催のご当地検定「はなまき通検定」に向けた事前講習会は14日、花巻市交流会館で開かれた。受検申込者が観光ガイドを講師に花巻の民俗芸能やイベント、先人などに関して知識を深めた。
 2014年度以来、4回目となる今回の検定は45人が受検予定。希望者対象の事前講習会には午前、午後の部合わせて33人が受講を申し込み、うち午前の部は26人が参加した。
 初めに19年に211万人余りとなった観光客入り込み数、81万5700泊余りの宿泊客数の推移などを同協会職員が説明後、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師となって講習を進めた。
 高橋会長は検定テキストを基に花巻の歴史や花巻八景、早池峰神楽や鹿(しし)踊り、わんこそばのほか、宮沢賢治や高村光太郎などの先人についても解説。特に賢治に関しては生い立ちから亡くなる当日の様子まで詩や童話の作品を交えて詳細に伝えた。
 改めて勉強するため検定に再挑戦するバスガイドの伊藤美雪さん(27)=北上市=は「ある程度分かっているつもりでも知らないことが多く、受講して良かった。最期まで自分のことより人のためを考えていた賢治さんの話には涙が出そうになった」と話した。
 今回の検定は「初級編」として12月5日に予定され、花巻市内を中心に近隣地域、県外からも受検する。4択式の50問を出題し、100点満点で80点以上が合格になる。
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はなまき通検定」、「2014年度以来、4回目となる」そうですが、存じませんでした。

実施要項等調べてみましたところ、以下の通りでした。すでに募集期間を過ぎていますが、こういうイベントもあるんだな、ということで。

『はなまき通検定』実施のお知らせ

◆はなまき通検定とは?
花巻に関する知識の深さを認定する検定試験です。この検定を通じて、花巻の良さを再認識していただくとともに、観光に従事する方だけではなく市民皆で観光客をおもてなしできるよう、花巻の知識を習得していただくことを目的に実施します。今回は初級編の検定となります。

◆はなまき通検定の概要
日時:令和2年12月5日(土)午前10時~午前10時50分(50分間)
場所:花巻市交流会館(岩手県花巻市葛3-183-1)
検定料:500円(検定当日に会場にてお支払い)
受験資格:年齢・住所等の制限なくどなたでも
定員:申込先着70名 

◆合格特典
合格者全員に合格証と合格記念ピンバッジを進呈いたします。

◆お申込みについて
お申込み期間:令和2年10月9日~令和2年10月23日(金)
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記事にあった「検定テキスト」、PDFファイルでリンクが貼られていました。全72ページ、かなりの分量で、内容的に多岐にわたっていますし、各項目の掘り下げもかなり深いと感じました。

光太郎の項も5ページにわたっていて、花巻とは直接関わらない部分まで詳述。たしかに、なぜ光太郎が花巻に住むことになったのか、その背景を知るためには必要なのかもしれません。下記画像、クリックで拡大します。

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その他の項目の中にも、光太郎の名がちょいちょい出ています。

しかし、これで「今回は初級編」だそうですから、「中級編」や「上級編」になったらどんだけ~? という感じですね(笑)。

全国の自治体の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

写真より制作することを考へれば実物を写生するなどわけも無く出来ざるべからざるやの感あり。

明治36年4月6日の日記より 光太郎21歳

五代目尾上菊五郎の肖像彫刻制作について。未だ「卵」ながら、彫刻家としての矜恃が感じられます。

花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「高村光太郎とホームスパン-山居の夢-」が開催されていますが、その関連で2件。

まず、11月5日(木)付けで地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました

光太郎の思い触れ 23日まで企画展

 高村光太郎記念館の企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、花巻市太田の同館で開かれている。2016年に発見された、光太郎と妻の智恵子にとって思い入れの深いホームスパンの毛布をメインに展示。光太郎とホームスパンを巡る物語を伝えている。23日まで。
 光太郎は1945年、花巻に疎開。終戦後に暮らした現在の同市太田山口(旧太田村山口)を「手仕事で豊かにしたい」との思いから、同村をホームスパンの産地にしたいと考えていたという。
 智恵子は結婚後、芸術的センスを磨くとともに、生活を支えるために機織りや草木染めに取り組んでいた。
 今展では、智恵子が昭和初期ごろに東京で開催されたイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952年)の作品展を観覧した際に気に入り、光太郎にねだって購入してもらった毛布を公開。智恵子が愛用し、妻亡き後は光太郎が使用していた。
 毛布は1㍍64㌢×1㍍76㌢。茶色の地に、植物で染めた青や赤、黄色の横しまがデザインされており、浮き織りや平織りなどを組み合わせている。
 会場では、本県のホームスパンの活動も紹介しているほか、同市東和町のホームスパン作家、山本実紀さんが毛布と同じように織った布や製作道具なども並べている。
 佐々木正晴館長は「光太郎のこの地への思いに触れていただければ幸いだ」と来館を呼び掛ける。
 入館料は一般350円、高校・大学生250円、小学生150円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

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もう1件、光太郎とは直接の関連はありませんが、やはりホームスパンに関し、お隣北上市で開催される予定のイベントを

『homespunと手しごと』 vol.27

期 日 : 2020年11月20日(金)~11月29日(日)
会 場 : 展勝地レストハウス 岩手県北上市立花14地割21−1
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 11月24日(火)
料 金 : 無料

毎回大好評の『homespunと手しごと』 の第27弾を開催いたします。

1945(昭和20)年5月、花巻へ疎開した光太郎は、戦後7年間を稗貫郡太田村山口(現・花巻市太田山口)で過ごしました。この頃光太郎は知人への手紙にこの地で「日本最高文化の集落」を10年計画で建設すると記しており、その後、夢の実現として「太田村をホームスパンの産地にしたい、青年たちには陶芸づくりをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料・手紡ぎ・手織りの本格ホームスパンを作らせる」と語ったとされています。

光太郎にはホームスパンの大切な想い出がありました。大正末か昭和初めに、東京でイギリスの著名な染織家エセル・メレの作品展が催されたとき、智恵子にこの1点だけは何としても欲しいと懇願され、ホームスパンの毛布を購入したという話です。光太郎は亡くなるまで智恵子の想い出とともにこの毛布を大切にしたといいます。

光太郎は、太田村山口をホームスパンの産地にしたいと望むと同時に、自身が身に着けるものとしてオーダーメイドでホームスパン製の猟人服を作っています。背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。(高村光太郎記念館で常設展示しています)

現在、県内では様々な形で「ホームスパン」という技術が受け継がれ伝承されています。光太郎のまいたホームスパンという夢の種は山口では花開かなかったものの、少しずつ岩手の地に広がっていったように感じます。
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県内各地のホームスパン工房の作品展なのでしょう。

光太郎とホームスパンには、不思議な機縁を感じます。

大正末か昭和初め、たまたま智恵子にせがまれて購入した毛布が英国製のホームスパンだったことにはじまり、その毛布が東京と花巻と2回の戦火をくぐり抜けて残り、たまたまホームスパン作家でもあった及川全三の弟子が太田村の山小屋近くに住んでいて、その製作過程を見、自分でもホームスパンの服を作ってもらって愛用……。

その岩手のホームスパンの伝統が脈々と受け継がれていることにも感動を覚えます。この灯を絶やさないようにしていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

われらのすべてに満ちあふるゝものあれ


短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昭和27年(1952)3月、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙より。同校は光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。

同校では光太郎の薦めでホームスパン製作をカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

こういう映画があったというのを存じませんでした。

一昨日の『デイリースポーツ』さんから

「利用したことのない新幹線駅」にもドラマがある…新花巻駅誕生の「逆転劇」描いた映画が公開へ

002 岩手・新花巻駅に東北新幹線が止まる運動に奔走した地元住民を描いた映画「ネクタイを締めた百姓一揆」が6日から東京・UPLINK渋谷で劇場公開される。「請願駅」が東北新幹線の駅となるまでの14年間の実話を元にした作品だ。東京初公開を前に、地元関係者に話を聞いた。
 新花巻駅は、1971年10月に当時の国鉄が発表した東北新幹線基本工事計画では予定されていなかった。本作は「花巻市に駅の設置を」という市民運動が起こり、決定事項を覆して85年3月に開業するまでの「逆転劇」を描いた群像劇となる。
 新花巻駅設置運動史「耐雪花清(たいせつかせい)」という冊子がある。当時、花巻市役所職員として、運動史の編纂に加わった藤戸忠美さんに話をうかがった。
 「昭和46年当時、花巻市民には『新幹線が止まって当然』という思いがありました。岩手県では、盛岡と最南端の一関の中間地点にある花巻は国鉄の乗降客で盛岡に次いで県内2位であり、温泉などの観光地であることや、宮沢賢治の生誕地であったり、高村光太郎が晩年7年間を過ごしたこともあったので、新幹線が止まるものだと疑ってもいなかった。ところが、決まったのは隣の北上だった。隣町に負けたという悔しい思いがあり、花巻市民として動き出したのです」
 そう振り返る藤戸さんは、運動の中心人物を挙げた。藤戸さんは「小原甚之助さんという市民会議の議長さんです。情熱家で、花巻に新幹線の駅ができないことについて『子孫に対して申し訳ない』という思いを持たれていた。運動のスタート当時は、行政より市民の方が燃えていました」と証言する。
 新花巻駅は東北新幹線と在来線の釜石線との交差地点に設けられた接続駅。JR東日本によると、2019年度の1日平均乗車人員は891人。新幹線駅の1日平均乗車人員は900人ということで、ほぼ全国平均的な数字となる。利用者はやはり観光客が多いのだろうか。花巻市観光課の駒木裕也さんに話をうかがうと、「花巻温泉郷」の存在を挙げた。
 「花巻温泉郷は12の温泉からなり、その泉質も雰囲気もさまざまです。また、宮沢賢治や萬鉄五郎を始めとした著名な先人を輩出し、高村光太郎や新渡戸稲造ゆかりの地として知られ、偉人たちの足跡をたどることができるスポットが数多くあります」
 とはいえ、今年はコロナ禍によって観光地は全国的に打撃を受けた。花巻の場合はどうだったのか。
 「花巻は東北最大の温泉宿泊地であるため、特に宿泊施設に与える影響は相当に大きなものがあります。このため、市では独自に利用助成制度を創設しました。Go Toトラベル事業の効果もあり、9月・10月については、昨年と同様あるいはそれ以上にお客様にお泊まりいただいた状況となっておりますが、今後の情勢を引き続き注視していかなければならないと思っております」
 今回の作品公開について、駒木さんは「花巻に所縁のある方はもちろん、花巻にお越しいただいたことのない方も、本作品を通じて、故郷を思い出したり、舞台となった場所を訪れてみたいと感じていただけましたら」と歓迎。「新花巻駅は文化や産業の結節点としても重要な役割を果たしています。来年にはJR東日本の東北デスティネーションキャンペーンも予定されており、地域にとってなくてはならない存在になっています」とアピールした。
 岩手県在住の河野ジベ太監督は「実在する新幹線の1つの駅にまつわる物語ですが、同時に昭和に整備されてきた様々なインフラに込められた普遍的な物語でもあります。今の私たちにとって当たり前の便利な日本は、かつての人々の熱い思いによって実現されてきたものです」と指摘。「激動の70年代、理想と現実、人と人の思いが真っ向からぶつかった時代。不器用に間違えて回り道してぶつかって、それでもくじけず前を向くエネルギーを大切にしようと思いながら脚本を書きました。おじさんたちの映画なのに青春映画のようになっているのはきっと新しいことに挑戦したときに人は誰でも若者のようなエネルギーを持つからだと思います」とコメントを寄せた。
 ツイッターには「#利用したこと無い新幹線駅」というハッシュタグがある。投稿者が乗降したことのない駅名を列挙していて、新花巻も名を連ねている。だが、そうした「通過駅」の1つ1つにもドラマがあるのだ。
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調べてみましたところ、公式サイトがありました。それによれば映画は2017年の制作。地元・花巻はじめ各地でぽつぽつと上映会が開かれてきた他、平成30年(2018)には「門真国際映画祭2018」に参加、最優秀脚本賞を受賞しているそうです。で、都内での劇場公開が今日からだそうで

ネクタイを締めた百姓一揆

期 日 : 2020年11月6日~11月12日(木)
会 場 : UPLINK渋谷 東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階
時 間 : 11/6・7・9・10 13:15~ 11/8・12 13:10~ 11/11 17:40~
料 金 : 一般¥1,900/シニア(60歳以上)¥1,200/ユース(19歳~22歳)¥1,100
      アンダー18(16歳~18歳)¥1,000/ジュニア(15歳以下)¥800
      UPLINK会員¥1,100(土日祝¥1,300)ユース会員(22歳以下)¥1,000

岩手県に実在する東北新幹線・新花巻駅設置を巡る14年間の物語を、地元在住有志が一切の妥協なく撮り切った長編巨大群像劇。計画にない駅は、出来るのか。時代に翻弄される国鉄を背景に描かれるそれぞれの想い、圧巻の147分。

上映前・後舞台挨拶開催決定!!
11/6(金)【上映前舞台挨拶】登壇者:菅原修(国会議員ミツヅカ役)、菅原季咲良(録音)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/7(土)【上映後舞台挨拶】登壇者:小原良猛(タニカワ産業役兼プロデューサー)、堀切大地(エキストラ)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/8(日)【上映後舞台挨拶】登壇者:小原良猛(タニカワ産業役兼プロデューサー)、河野ジベ太(監督)(約5分)

11/11(水)【上映後トークショー】登壇者:久場寿幸、曽我真臣(共に「カメラを止めるな!」等俳優)、河野ジベ太監督(約15分)

※敬称略
※ゲストは予告なしで急遽変更になる場合や中止になる場合がございますので、ご了承ください。



上記予告編だけでもかなりのストーリーがつかめますね。まさに「長編巨大群像劇」というにふさわしそうです。かなり笑えますが(笑)。新花巻駅は、東京駅や上野駅を除いた東北新幹線の駅の中で、当方が最も多く利用している駅ですが、その背景にこういうことがあったというのも全く存じませんでした。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

東京よりもこつちの方がよい、ただ山荘は越冬設備ができていないので一週間ほど大沢温泉に泊り山荘を整理して再び東京に行きたいと思う

談話筆記「庭木に思い出新た」全文 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和28年11月27日『河北新報』夕刊に載った「庭木に思い出新た 高村翁岩手の山荘に帰る」と題した記事に附された談話です。記事本文は以下の通りでした。

【花巻】昨秋岩手県稗貫郡太田村の山荘を下山して東京に戻った高村光太郎翁は二十年ぶりにノミをとった苦心の作“乙女の像”もでき上り目的の十和田湖畔に建て、一段落したというので二十五日詩人草野心平氏を伴って再び岩手県入りした。高村翁は相変らずカーキー色の詰えり服といった無造作な姿で部落内にあいさつ回りをし、さらに同村山口小学校児童たちの歓迎会にのぞんだりし、いつもながらの地元民の温情に目を細めて喜んだ。山荘に落着いた翁は庭にある植木をなつかし気になでながらつぎのように語った。

この年、10月21日に「乙女の像」除幕式のため青森十和田湖を訪れた光太郎は、25日にいったん帰京し、1か月後の11月25日から12月5日まで、旧太田村等に滞在しました。宿泊は山小屋ではせず、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉松雲閣でした。滞在中の前半にはブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影がありました。記事にある「同村山口小学校児童たちの歓迎会」の模様が映画にも写されています。
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当初の計画では、冬期は東京、それ以外は太田村と、二重生活を送る心づもりもあったのですが、健康状態がそれを許さず、結局、これが最後の太田村滞在となりました。

このころの光太郎、新幹線など想像すら出来なかったことでしょう。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事から。10月21日(水)の掲載だったようです

花巻の自然・動物パチリ 元教諭が写真展

003 花巻市の自然を中心に撮影を続けている同市下幅の元県立高校教諭、瀬川誠孝さん(82)の作品を集めた「残したい花巻の自然・写真展」が同市四日町1丁目の花北振興センターで開かれている。動物の生態や自然風景などを写した約30点が、高村光太郎ら岩手ゆかりの先人の言葉とともに展示されている。11月30日まで。
 水鳥を捕らえたタカの仲間のノスリや、卵塊の泡にまみれたモリアオガエル――。自然の一瞬をとらえた作品の数々は、北上川や周辺の山々を毎日歩き続けて見つけた光景を記録したものだ。写真の傍らに、瀬川さん自身が墨書した高村光太郎の「心はいつでもあたらしく……」や、石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし……」などの言葉が、語りかけるように掲げられている。
 瀬川さんは県立高校で40年以上化学の教諭を務めた。写真撮影を始めたのは40代からで、オオルリやハクビシンなどの生態をとらえた作品は、たびたび朝日新聞などで紹介されてきた。瀬川さんは「自然の中から生まれた先人の言葉に学び、新しいものを発見してきました。自然と人間の生き方について考えるきっかけにしていただければうれしい」と話している。

光太郎や啄木の言葉を添えて、というのがいいですね。調べてみましたところ、花巻市の花北地区コミュニティ協議会さんのページに案内がありました

残したい花巻の自然・写真展

期 日 : 2020年10/1(木)~11/30(月)006
会 場 : 花北振興センター ギャラリー 
      岩手県花巻市四日町一丁目1-27
時 間 : 午前9時~午後9時
休 館 : 期間内無休
料 金 : 無料

長年、花巻の自然を撮り続けている瀬川誠孝さん(82歳、下幅)の写真の中から、「残したい自然」として30点を選んでいただき、写真展を開催します(内容 野鳥11点、動物7点、祭り4点、風景8点)。

お近くの方、ぜひどうぞ。

もう1件、同じ日に載った記事。過日ご紹介した道の駅はなまき西南さんで販売が始まった「光太郎ランチ」について地元紙では既報ですので、後追い記事といったところです。

高村光太郎にちなんだ豪華弁当 花巻の道の駅で限定販売

 岩手県花巻市轟木に今夏オープンした道の駅はなまき西南に、彫刻家で詩人の高村光太郎の食事をヒントにした手作り弁当「光太郎ランチ」が登場した。毎月15日の1日限定で販売する。
 終戦後の7年間、同市太田の山荘で暮らした光太郎にちなみ、地元の女性グループ・ミレットキッチン花が、財団法人花巻高村光太郎記念会の協力で地元の食材を使って創作した。
 今月15日の第一弾は「牛肉ステーキきのこ添え」や「枝豆ご飯」など9品入りの豪華版で一食800円。「林檎(りんご)汁1瓶、牛肉百匁(もんめ)、納豆2最中7個などもらう。夜牛鍋」(1947年10月22日の光太郎日記)などの記述を参考にした。グループ代表の本舘博子さんは「光太郎さんはグルメとは聞いていたが、あの時分に牛肉を食べていたとか新たな発見で驚いた。光太郎さんを知ってもらうきっかけになれば」。
 光太郎が花巻に疎開するため東京を出発した1945年5月15日にちなみ、毎月15日に10食限定で発売する。季節の食材を使い、メニューは月替わりという。

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ちなみに10月15日(木)の販売分10個、花卷高村光太郎記念館さんの方によれば、あっという間に完売だったそうです。

コンビニ弁当などと比べると、800円というのは安くないと思いますが、素材がいいものですし(もちろんお味も美味にござりました)、手間も格段にかかっているわけで、やはりいいものはいい値段でも売れるということでしょう。他のメニューもありますし、10個限定というのがまたマーケティング的にはいい線なのかも知れません。

今後も完売状態が続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

制作の苦心は一口にはいえないが同じ像を二つならべるといふ行き方は若い人には無理で、老人の私だからやれたと考えている。

談話筆記「間に合つてよかつた 寒くなつたら山へ帰りたい」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕式(昭和28年=1953の10月21日)に出席するため青森入りした際の談話の一節です。
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10月15日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見した後、レンタカーを道の駅はなまき西南さん(愛称・賢治と光太郎の郷)に向けました。10分足らずで着く距離です。
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こちらのテナントの一つ、ミレットキッチン花(フラワー)さんで開発された新メニューの弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に呼ばれていました。
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レポートする前に、状況をわかりやすくするため地方紙二紙の記事をご紹介。

まずは『岩手日日』さん 

光太郎の好物弁当に 毎月15日「ランチの日」 10食限定 道の駅はなまき西南

 花巻市轟木の道の駅はなまき西南で15日から、花巻ゆかりの彫刻家高村光太郎が好んで食べていた物を入れた手作り弁当の販売が始まった。光太郎が花巻へ疎開するため東京をたったのが1945年5月15日だったことから、毎月15日を「光太郎ランチの日」とし10食限定で提供する。
 同道の駅には「賢治と光太郎の郷」の愛称があり、構内に併設されている食品加工女性グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が開業前から、光太郎に結びつくメニューを考えていた。市の委託を受けて高村光太郎記念館(同市太田)を運営する「花卷高村光太郎記念会」の女性スタッフが4年ほど前から光太郎の食事を再現し、研究しているのを知った本舘代表が提案し、今年8月下旬から打ち合わせや試食などを重ね、協力して販売にこぎ着けた。
 同記念会では、光太郎が花卷で過ごした7年間のうちに残した日記や手紙にあった食に関わる記述を参考に、出来るだけ近づけて試作していた。
 弁当には地元産の食材をふんだんに使用。メニューは毎月変更予定で、第1弾は▽枝豆・青のりごはん▽ブリの醤油(しょうゆ)麹(こうじ)焼き▽牛肉ステーキのキノコ添え▽大豆のトマト煮▽キュウリのつくだ煮-など。光太郎が好んだ牛肉やキノコ、リンゴ、マメのほか、自分で栽培していたトマトやキュウリも取り入れた。
 15日には同道の駅でお披露目会が行われ、関係者ら10人余りが弁当を味わった。
 本舘代表は「光太郎がグルメだったことはあまり知られていないのではないか。弁当を通じて光太郎の意外な面に触れてもらえたら」と期待。同記念館女性スタッフの井形幸江さんは「戦後の食糧難の中、光太郎は健康な体をつくるため食べることを大事にしていた。道の駅に寄る地域内外の人に食べてもらい、光太郎の人柄や功績の普及につなげたい」と話していた。
 1食800円(税込み)。毎月午前11時ごろには店頭に並ぶ。問い合わせはミレットキッチン花=0198(29)5522=へ。

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続いて『岩手日報』さん 

「光太郎ランチ」始めました 花巻・道の駅で毎月15日、限定販売

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、花巻市西南地区で過ごした際の日記を基にした「光太郎ランチ」弁当(800円)を地元の女性グループが開発した。
 「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が15日、同市轟木(とどろき)の道の駅はなまき西南で初めて販売。西南地区の食材をふんだんに使った。光太郎が花巻に向けて東京を出た45年5月15日にちなみ、毎月15日に限定10食を販売する。
 次回は来月15日午前10時半ごろから販売する。
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というわけで、お披露目会に参加して参りましたので、レポートします。

早く着いてしまったので、道の駅内をうろうろ(笑)。写真を撮り忘れましたが、先月は建設中だったファミマさんが敷地内にオープンしていました。
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JAいわて花卷さん直営の産直コーナー「すぎの樹」さん。平日でしたがにぎわっていました。
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その奥にミレットキッチン花(フラワー)さん。
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「光太郎ランチ」、お披露目会の前に既に販売されていました(笑)。
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視線を上げると壁に光太郎肖像画。先月は気付きませんでした(笑)。
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お披露目会会場のインフォメーションスペースへ。
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ハロウィン仕様です。
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すでにテーブルに「光太郎ランチ」。見るからにおいしそうです(笑)。
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参加者名簿も。当方、上田市長、道の駅代表取締役の根子氏と同じテーブルでした。
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やがて時間となりまして、開会。上記記事にありましたミレットキッチン花(フラワー)代表・本舘さんのご挨拶。
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そしていよいよ、待ちに待った「いただきます」(笑)。
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色どりもいい感じですね。

メニューが箸袋の中に。
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隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの連載「光太郎レシピ」にしてもそうですが、実際の光太郎日記などの記述から、現代風にアレンジして作られています。
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意外とボリューミーでしたし、品数が多めで飽きさせない工夫がされているな、と感じました。そしてやはり手作り感。お世辞抜きで(笑)美味しくいただきました。参会の皆様も同様だったようです。また、800円(税込み)という価格も妥当だろうと感じました。
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当方、食べるのに夢中で、皆さんの写真を撮るのを忘れており(笑)、正方形の写真は花巻高村光太郎記念館の方の撮影です。

自分の名が冠された施設で、自分の名が冠された弁当……泉下の光太郎も苦笑しつつ喜んでいるのではないかと思いました。「光太郎ランチ」、末永く愛されてほしいものです。

以上、花卷レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

開発も道路からでなくてはならないと思います。道路は誰かが一心になって、働きかければできないことはないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三三」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

道の駅はなまき西南さん、広い県道13号沿いに作られました。この県道も道の駅も、地元の皆さんがその必要性を訴え、整備されたのでしょう。

光太郎、詩の代表作「道程」(大正3年=1914)でも謳ったように、「道」を絶えず意識する、「求道者」の生涯でした。

10月14日(水)、東京藝術大学さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝観後、上野駅から東北新幹線に乗り、一路、花卷へ。

午後2時半過ぎ、北上駅で新幹線を降り、レンタカーを借りて今宵の宿にして光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さんへ。
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湯治屋(自炊部)で、六畳一間。
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部屋の中になぜかコンロ。ガスの自販機付きです。炊事場にあるのは知っていましたが、これまで泊まった部屋にはありませんでした。
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窓を開けると豊沢川の清流。
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早速ひとっ風呂浴び、腰に手を当ててコーヒー牛乳の一気飲み。正しい「温泉あるある」です(笑)。

その後、8月にオープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで、花巻高村光太郎記念館の皆さんと夕食。
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1ヵ月分くらいの肉を賞味しました(笑)。

宿に帰り、また温泉に浸かってぐっすり就寝。翌朝も暗いうち、起床と同時に露天風呂。命の洗濯です(笑)。
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売店で買い込んでおいたパンで朝食を済ませ、チェックアウト。花巻高村光太郎記念館さんを目指しました。
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先週から企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」が始まっています。花巻市総合文化財センターさんにお勤めの佐藤幸泰氏が中心となって構成されています。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。
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昨年、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示されましたが、こちらでは初公開です。

光太郎生前の写真でこの毛布が写っているものがあり、提供しました。中央の横長2枚です。
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大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買い、2度の戦火(東京駒込林町、花卷宮沢家)をくぐり抜けて奇跡的に残った逸品です。

その他、直接光太郎に関わるものとしては、岩手ホームスパンの父、及川全三に贈った鎌倉書房『高村光太郎詩集』新装版(昭和26年=1951)。
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及川の弟子で、太田村山口出身の戸来幸子(正しくはサツ子)あての光太郎葉書(昭和25年=1950)。
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無事御帰国のおハガキを先日拝見しました、父上からもお便りをいただき恐縮に存じます、
御健康と存じますが、小生も相変らず元気でゐます。
この辺でももう田植がはじまりかかつてゐます、皆忙がしさうです。
ホームスパンを立派に織れるやうになつた技術は今後もすてずに大成されるやうに念じ上げます、御両親によろしく、

戸来は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河家の血縁。光太郎の山小屋に再三届け物などで訪れ、光太郎の日記にその名が頻出します。駿河家でホームスパン製作や講習に取り組んでいましたが、戸来は北海道に嫁ぎ、旧太田村ではホームスパンが根付かなかった一因となったように思われます。

智恵子と織物に関しても触れて下さっていました。
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岩手は元々ホームスパンの産地として名高く、その伝統は現代まで受け継がれており、その辺りに関する展示も充実していました。
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ミュージアムショップでも関連商品。上の方の画像で一筆箋とポストカードのものがありますが、それも販売されています。
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展示は11月23日(月)まで。ぜひ足をお運びください。
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その後、道の駅はなまき西南さんでのイベント(「光太郎ランチ」お披露目)に参加しましたが、その前に時間がありましたので、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)とその周辺を散策。
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「雪白く積めり」詩碑。この地下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯(ひげ)が埋まっています。

裏手の智恵子展望台。
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柱には生々しい熊の爪痕。
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そちこちに、光太郎が愛したキノコや栗。自然が豊かだというのがよく分かりますね。
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そうこうしているうちに時間となり、道の駅へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

やはり知ることが根本になります。どしどし取り入れて見ききを広くしなければなりません。見るといっても、それはただ上っ面を見るだけでなく、もっと深く掘りさげて、そのなかにある根本をつかむことです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三二」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

なるほど。

昨日から一泊で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

昨日は都内台東区の東京藝術大学大学美術館さんに寄り、「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見。光太郎木彫「蓮根」を久しぶりに拝観しました。

その後、一路花巻へ。宿泊している花巻南温泉郷大沢温泉さんにチェックイン。
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早速ひとっ風呂浴びた後、8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)へ。花巻高村光太郎記念館さんの方々と、テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで夕食。
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今日は、まず記念館さんに行き、企画展示「高村光太郎とホームスパンー山居に見た夢ー」を拝見します。

その後、再び道の駅に。テナントの「ミレットキッチン花」さんで販売される手作り弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に参加して参ります。

詳細は帰りましてから。

今日明日と1泊で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花卷に行って参ります。

まず、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見。それから、8月に記念館近くにオープンした道の駅はなまき西南(愛称「賢治と光太郎の郷」)さんでのイベントに参加して参ります。

花卷といえば、このブログでも2ヵ月に1度、欠かさずご紹介しています隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第22号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「カレイの青菜ソースとキガラチャ飯」。
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「キガラチャ飯」は「黄枯ら茶飯」のようです。「醤油と酒などとを加えて炊いた飯」だそうで、存じませんでした。「
黄枯ら茶」は色の名前で、「黄唐茶」とも書き、薄い藍色を帯びた薄茶色とのこと。そういう色になっているので「黄枯ら茶飯」なのでしょう。

毎号、このように光太郎が実際に作ったメニューを元に現代風にアレンジしたりしたレシピが掲載されていますが、今までに紹介された「光太郎レシピ」を取り入れた「光太郎ランチ」なる新メニューが、道の駅はなまき西南さんのテナント「ミレットキッチン花」さんでお披露目されます。

今のところの予定では、毎月15日に限定10食販売する予定だそうです。毎年5月15日、旧太田村山口地区の光太郎が暮らした山小屋敷地で、「高村祭」が開催されている(今年はコロナ禍で中止でしたが)ことにちなみ、15日だとのこと。また、別途予約注文の場合は、5日前までに数量申し込みで受注可能だそうです。

そのお披露目会に呼ばれましたので、行って参ります。

ちなみに道の駅はなまき西南さんに関し、先月、地方紙『岩手日日』さんに記事が出ましたが、ご紹介するタイミングを失っていましたので、これ幸い、ここでご紹介します 

道の駅はなまき西南 花巻市西南地区に道の駅がオープン

県道13号沿い、花巻市轟木に市内4番目となる道の駅が8月にオープンした。駅内は24時間利用可能なトイレや駐車場、インフォメーションスペースを完備し、テナントとして産直施設「すぎの樹」と、地元で長年愛されている焼肉店「味楽苑」が移転したほか、地域のお母さんたちで立ち上げた加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入居。産直では採れたての野菜や花をはじめ、同グループ手作りの弁当や総菜、パン、加工品、宮沢賢治や高村光太郎に関連したお土産やグッズも販売している。田畑に囲まれた交通量の多い地域とあって、住民やドライバーが待ち望んでいた道の駅。買い物や休憩に立ち寄る人で連日にぎわっている。
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偉人ゆかりのスポットにも近く、「賢治と光太郎の郷」を愛称にオープン。

産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり
産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり。

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地元産の雑穀や野菜を使ったミレットキッチン花の「弁当」(500円)。
高齢者世帯への配達も行っている。

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地元で人気の焼肉店「味楽苑」が移転入居。焼き肉やラーメン、定食などが味わえる。

味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)
味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)。

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オープンを機に開発された新商品「智恵子のレモンキャンディ」(350円)

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

僕は東京でもひとりでいるのがよかったし、そんなことで、山口にやって来ているので、できれば誰も来てもらいたくないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三〇」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

太田村山口に来て、村人たちに敬愛されていた光太郎でしたが、本来あまり人付き合いは得意な方ではありませんでしたし、「厚かましい」ことは自分がするのも、他人にされるのも大嫌いでした。

それでも村人と酒を酌み交わしたり、近くの山口小学校で茶飲み話をしたりはしていたわけですが、それすらもかつての光太郎からすれば、あり得ないようなことでした。ただ、やはり自分のテリトリーである山小屋にはあまり来てほしくなかったようです。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示です

高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-

期 日 : 2020年10月5日(月)~11月23日(月・祝)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体

「ホームスパン」 とは、 「家」 と 「紡ぐ」 の英単語からなる言葉で、日本では、羊毛を手紡ぎ ・ 手織りした織物がホームスパンと呼ばれています。
太平洋戦争で花巻へ疎開した高村光太郎の日記や手紙には 「ホームスパン」 という言葉が散見されます。また、山口集落でホームスパン作りの手伝いをした際に「ホームスパンは手の先で始まり、最後の仕上げまで手先でやるのが特徴だ、染色も化学染料でなく天然産のものを用いるがよい」 と、語った逸話も残されています。
平成28年11月、高村光太郎の遺品の中から、色鮮やかなホームスパンの毛布が見つかりました。近年の調査で英国の著名な染織家であるエセル ・ メレの毛布と分かり、これを機に高村光太郎とホームスパンの物語も少しずつ分かってきました。
高村光太郎記念館では、見つかった毛布とともに、これまで注目されなかった光太郎とホームスパンにスポットを当てた企画展を行います。高村光太郎とホームスパンの優しくて温かい物語をご覧ください。

1 光太郎と智恵子とホームスパン
高村が生きた時代とともに、バーナード・リーチとの交友関係、智恵子と織物などのエピソードを紹介します。

2 山口での試み
戦後、太田村山口に移り住んだ高村は「日本最高文化の集落」を10年計画で太田村山口に作ろうとし、「青年たちには陶芸作りをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料、手紬、手織りの本格的なホームスパンを作らせる」と語ります。高村が山口に見た夢と試みについて、ホームスパンを中心に紹介します。

3 夢の行方
高村が愛用した猟人服の製作に関する物語や盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)との関わりなど、試みのその後について紹介します。
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メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。

現物は昨秋、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示され、拝見して参りました。まぁ、それ以前にも光太郎記念館さんで手にとって見せていただいたりしていたのですが。

また、光太郎記念館さんの別館的な「森のギャラリー」では、紙に印刷した複製を展示したりもしていました。

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大正末か昭和初め、メレの作品展(バーナード・リーチらとの共同展)が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたという証言が残っています。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。東京では、事前に布団類は防空壕に入れておいたとのことで、その中にこれも含まれていたのでしょう。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村の山小屋から再上京した光太郎ですが、この毛布も持って行くか、送るかしまして、中野の貸しアトリエで撮られた写真に写っています。
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光太郎歿後、他の遺品の一部と共に、花巻光太郎記念会に寄贈され、長い間倉庫に眠っていたのが、平成28年(2016)になって、日の目を見たというわけです。

光太郎とも交流のあった柳宗悦によって提唱された民芸運動の一環として、岩手では元々、ホームスパン制作が盛んで、現代にもその伝統が継承されています。その作家で、やはり光太郎と交流のあった及川全三やその弟子筋、さらに光太郎記念館で常設展示されているホームスパンによる光太郎の猟人服などについても展示が為されるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

岩手の人はおっとりしています。気長ですが、お終いには必ずやってのけます。岩手からきっといいのがでるように思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一五」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

頼んだホームスパンの制作がなかなか出来なかったことなどを念頭に置いての発言でしょう。しかし、待たされて待たされて、やっと出来上がったその出来栄えは予想していた以上に素晴らしいということで、「お終いには必ずやってのけます」と言ったわけです。

新刊情報です

散策&観賞 岩手(南部地域)編 ~修学旅行に行く前に読む本~

2020年10月1日 ユニプラン編集部編 株式会社ユニプラン 定価510円+税

歴史と雄大な自然に包まれた岩手県から、花巻・遠野・奥州・平泉といった南部地域にある約20件の観光・学習施設を掲載。

中尊寺をはじめとした魅力的な定番スポットを豊富な写真ともに紹介しています。
さらに、岩手県にまつわるコラムも充実。
歴史や文化(平泉文化/遠野物語など)、ゆかりの人物たち(宮沢賢治/高村光太郎/石川啄木)のコラム8件を掲載しており、地域への理解を深めて頂こうとしています。
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目次
 序
 岩手県の風土 岩手県全図 中尊寺境内図 平泉・奥州詳細図
 一関・平泉
  厳美渓  猊鼻渓  達谷窟毘沙門堂  平泉文化史館  中尊寺
  毛越寺  高館義経堂  平泉文化センター  岩手サファリパーク
  平泉文化(奥州藤原氏のおこり/平泉文化の特徴/藤原三代の文化遺産)
 奥州
  高野長英記念館  奥州市伝統産業会館  後藤心平記念館
 花巻
  宮沢賢治記念館  高村光太郎記念館・高村山荘
  宮沢賢治(宮沢賢治のプロフィール/賢治の作品)  光太郎の軌跡
 遠野
  遠野市立博物館  とおの物語の館  伝承園
  遠野物語  東北の民間信仰  石川啄木
 陸中海岸南部
  碁石海岸  東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」
  リアス海岸の形成  プレートテクトニクス
 問合わせ先


ユニプランさんというのは、修学旅行の班別自主研修教材・地図・しおり等を多く手がけていらっしゃる京都の出版社です。

コロナ禍の影響で、じわりと東北、特に岩手への修学旅行が増えているそうで、県内の学校さんで花巻温泉さんを拠点にするところが増えているという報道がありましたが、県外からもあるそうです。先日、花巻高村光太郎記念館さんで伺ったところ、山形の中学校さんが100名ほどでいらしたそうで。

そういう流れを受けての岩手県南部ガイドです。同社刊行の東北編としての栄えある第1弾のようです。

花巻高村光太郎記念館さん、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)も取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。上記表紙にも写真が載っています。
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さらに花巻と光太郎との関わりについても書いて下さっていて、理解が深められるようになっています。戦時の翼賛活動を恥じての蟄居、という記述がないのが残念ですが。
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岩手県、さすがにコロナ感染ゼロはとぎれましたが、それでも感染リスクの少ない地域であることは変わりなく、さらに感染ゼロがとぎれたために、かえって神経質にならなくとも、というところでしょうか。

それから、上記目次を見ると、この地域、あらためてこんなにも見どころが多いかという感じもしました。といっても、やはりクラスターが起こらないようにしていただきたいものですし、むずかしいところですね。


【折々のことば・光太郎】

ほんとうだと思っていても、それが間違いのときは、すぐに改めればいいのです。嘘が得だとか、ほんとうのことが得だとか、ということなしに従うのがいいのです。
談話筆記「高村光太郎先生説話 八」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

修学旅行ではありませんが、光太郎の住む花巻郊外太田村山口地区へ、校外学習的にやってきた新制花巻高等学校(昭和28年に花巻北高・南高に分離)の生徒たちに語った講話の一節です。会場は山小屋近くの山口小学校でした。

戦時中の翼賛活動を念頭に置いての発言でしょう。ある意味「君子は豹変す」を地で行っています。しかし、ただ単に間違いは改めるべき、だけでなく、「ほんとうのことが得」、つまり「改めた方が得」、という考えではなしに、と付け足しているところがすごいと思います。当時の高校生たち、何を感じ取ったでしょうか。

修学旅行なり、校外学習なり、校内にいてはわからないさまざまな見聞を広めるいい機会です。花巻では、生前の光太郎をご存じの方々もまだご存命。そこで、「光太郎はこんな人だった」というお話を、修学旅行なりで若い世代に伝えるような取り組みがあってもいいのかな、という気がします。

新聞記事等2件ご紹介します。

まず『岩手日報』さん。昨日掲載分で、花巻高村光太郎記念館さんでの光雲作「鈿女命」像展示について

高村親子の作品花巻に 光雲の木彫像を展示 孫が寄贈、特徴色濃く 光太郎記念館

009 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は23日まで、彫刻家で詩人の光太郎の父で、日本近代彫刻界の礎を築いた光雲(1852~1934年)の木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を展示している。1月に光雲の孫で一橋大名誉教授の藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が寄贈。光太郎が疎開した地に、日本を代表する彫刻家親子の作品が初めてそろった。
 題材は日本神話の天鈿女命。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にこもり世界が暗闇になったが、天鈿女命が踊りを披露して天照大神が岩戸の隙間から顔をのぞかせた逸話がモチーフとなっている。
 木彫像は桜材の一木造りで高さ33㌢。作品には光雲の銘がなく、緻密な仕上げも施されていないことから、習作や制作途中だった可能性が高い。しかし、躍動感のある身のこなしや着物の細やかな意匠など光雲の木彫像の特徴が色濃く表れている。
 木彫像を入れる箱には光太郎の自筆で「男 光太郎 識」と書かれており、間違いなく光雲の作品であることが示されている。1935(昭和10)年前後に光太郎が使っていた「光」の文字が彫られたはんこも押されている。
 藤岡さんは、光太郎の弟に当たる父から遺産として木彫像を相続。「記念館は光太郎さんが移り住んでいた場所にあり、作品を譲るのに最もふさわしい」と寄贈を決めた。
 同館は午前8時半~午後4時半で、会期中は無休。入場料は一般350円、高校・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。


他紙等で既報の記事は以下の通り。『朝日新聞』さん『岩手日日さん』と『河北新報』さんIBC岩手放送さんNHKさん

展示は23日(水)までです。


まったく別件ですが、『読売新聞』さんの夕刊1面コラムに光太郎の名が。9月16日(水)掲載分です

よみうり寸評

「牛」という詩の冒頭で高村光太郎はその特徴を挙げた。〈のろのろと歩く〉と。だが意志は強い。〈牛は後(あと)へはかへらない/足が地面へめり込んでもかへらない〉◆政界でまず連想されるのは鈍牛と呼ばれた大平正芳元首相だが、この人の経歴も牛の歩みに重なろう。午後の国会で首相に指名される運びの菅義偉氏である。47歳で国政に進出するまでの半生はすっかり知れ渡った◆牛は力も強い。詩人はいう〈弾機(ばね)ではない/ねぢだ/坂に車を引き上げるねぢの力だ〉。バネが跳ね上げるようだった前政権の手並みを思う。アベノミクスで景気を一気に回復軌道に乗せたが、近頃はバネの伸びも案じられた◆先の連想から菅氏の身上はネジの力にあるとも考えられよう。地方創生、財政再建等々、粘り強さを生かすにはあつらえ向きの中長期的課題が待ち受ける。ただしコロナ禍という眼前の関門を越すにはバネの力が欠かせない◆新政権の本領はネジかバネか。その船出にあたり、両方の力を併せ持つに違いないと願望を記す。

さすがに前政権のおぼえめでたかった同紙だけある論調ですね。

引用されている詩「牛」全文はこちら


【折々のことば・光太郎】

新しい時代感覚を持たなければ、世の中の指導者になる資格がありません。時代という流れは大きな力を持っています。

談話筆記「高村光太郎先生説話 六」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳
だ、そうです、新総理。

花巻レポートの最終回です。

9月14日(月)から1泊させていただいた花巻南温泉峡の大沢温泉さん。かつて光太郎もたびたび宿泊した温泉地です。
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こちらはゴージャスめの温泉旅館「山水閣」、南部藩のお殿様も泊まった(光太郎もですが)築170年近い萱葺きの別館「菊水館」、そして湯治客用の「自炊部(湯治屋)」の三棟に分かれています。経営はグループで同一です。

当方、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、一昨年の台風により、そちらに通じる道が被災したため宿泊棟としては休業中です。

そこで、このところ自炊部さんにお世話になることがほとんどとなっています。
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窓を開けると豊沢川の清流、その対岸に菊水館。
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菊水館の建物は無事でしたし、自炊部からは曲がり橋という橋で歩いていけますので、昨年からは「昔ギャラリー茅(ちがや)」として活用されています。やはり人が出入りしないと建物は死んでしまいますから、いい取り組みだと思います。当方、昨秋以来2度目の訪問となりました。
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まず目にとまったのは、昨秋は無かったと記憶していますが、元のロビーだったところに、大型テレビを縦に置いた液晶ディスプレイ。東北新幹線の新花巻駅待合室にも同じような機器がセットされていましたが、当節、流行なのでしょうか。
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現在の展示内容についての動画などが流れ、さらに「古き良き花巻 昭和35年観光映像」ということで、昭和35年(1960)撮影の映像も。
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ディスプレイ下部は固定で「馬面電車」といわれた花巻電鉄。2系統あったうちの一つが、かつて花巻中心街から南温泉峡の鉛温泉まで通じていて、大沢温泉さんにも駅があり、その画像です。

さて、動画部分。当時としては画期的だったと思われるカラー映像です。
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タイトルの後は東北本線花巻駅ですね。
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ナレーションは花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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こちらでも花巻電鉄。

花巻といえば宮沢賢治。そういえば高橋圭三さん、賢治とは遠縁だそうです。
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市街桜町の賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫しました。
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当時は普通に見られたイギリス海岸(現在は水面が上がり、通常は水底です)。

そして、光太郎。
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まだ記念館は建てられていませんでしたが、光太郎の暮らした山小屋には套屋がかぶせられ、高村山荘として整備されていました。
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「雪白く積めり」詩碑も既に建っていました。

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山荘裏手の高台には智恵子展望台。ここで夜な夜な光太郎が「チエコーッ」と叫んでいたという証言から名付けられました。
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現在はウッドデッキが整備され、きれいになっています。

その他、市内各所の見どころや、年中行事など。なかなか見応えのあるものでした。

その他の展示。昨秋と同じだったところもあれば、変わっていたスペースもありました。
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こんなコーナーも。
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先ほどの映像のナレーター、花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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作家の夢枕貘さん。
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故・西城秀樹さん、そして渡辺えりさん。
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渡辺さんのものは、平成25年(2013)5月、高村祭などでご講演いただいた際のものです。その時は渡辺さんは山水閣さんの牡丹の間、当方は菊水館に泊まりました。一緒ではありませんでしたので、念のため(笑)。

さて、菊水館。こうした利用方法も一つの手ではありますが、やはりまた宿泊棟として復活して欲しいものです。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

古老の天気に関する考えを記録に取ることもあります。これは科学的な予報ではないのですが、長い間の体験から生まれでる感じによって、当たることがあります。人よりも動物のほうが天候や天気に対する感覚が強いと考えられるくらいですから、あながち、でたらめなことでもないと思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 四」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。自然と一体化して暮らすという、光太郎にとっては若い頃からの理想の実現という意味もありました。

花巻レポートの2回目です。

9月14日(月)、「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」さんをあとに、レンタカーを花巻高村光太郎記念館さんに向けました。ものの10分ほどで到着(これから彼の地を訪れる皆さん、ぜひセットでお立ち寄り下さい)。
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翌日行われる市民講座「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」で講師を仰せつかっており、市の担当者の方との打ち合わせです。

と、その前に展示を拝見。何度もご紹介していますが、光太郎の父・高村光雲作の木彫「鈿女命」が、光雲四男の故・藤岡孟彦氏子息の貞彦氏から寄贈され、展示されています。

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像高33㌢、小さなものではありませんが、さりとて大きい、というわけでもありません。
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寄贈というお話があって、昨年の12月に横浜の藤岡氏のお宅に参上し、拝見して以来でした。

衣の襞や帯の緒、髪の生え際などの処理の仕方が、他の光雲彫刻とよく似た特徴を表しています。しかし、細かな仕上げが為されて居らず、やはり習作か制作途中かという感じです(銘も入っていませんし、台座は荒彫りのただの円盤です)。

今回、像の向かって左から見て、さらにその感が強くなりました。言い方が悪いかも知れませんが、ある意味、逃げています。問題は像の右手。

010光雲作の天鈿女命像は他に類例が確認できていませんが、光雲の残した下絵帖の中にはその姿が描かれています。その下絵と実際の像を見比べると、決定的な違いがあります。

下絵は左手を掲げ、像は逆に右手、という違いもあるのですが、そこは問題ではなく、掲げた方の手がどうなっているか、です。

下絵では掲げた手が体から離れています。で、この通りに彫るとなると、手に持った細い榊の枝を360度全方向から彫らねばなりません。これはきつい作業です。ちょっとでも力加減を誤れば、ポキッといってしまいます。ところが、光雲の技倆をもってすれば、やってやれないことではありません。実際、観音像などで、手に持った細かな持物(じもつ)を体から離し、360度全方向から彫った作は実在します。

しかし、体にくっつけてしまった方が断然楽ですね。見えている面だけ彫ればいいし、ポキッと行ってしまう危険性も格段に低くなります。

で、今回の像は下絵と異なり、榊が頭にくっついています。さらには下絵では両手に榊の枝を持っていますが、像は右手だけ。左手は手ぶらです。そこで、「逃げている」と言えるわけです。

そうは言っても、全体的にはなまなかの者には不可能な精緻な彫りが施されていることは間違いありませんが。

そう考えると「習作」というより、弟子達に示した「お手本」なのかもしれません。技倆がそれほどでもない弟子でも作れるように、あえて難易度を下げているのかも、というわけです。おそらくそうした目的で作られたであろう木彫も現存しています。

ただし、当方、彫刻は専門ではありませんので、専門家の(特に実技家の)方のご意見を伺いたいものです。

さて、展示ですが、像以外に光太郎の署名による箱書きが為された箱、さらに当方がお貸しした光雲作の木彫の写真(光雲令孫の故・髙村規氏撮影)も並んでいます。
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本来なら、こういった彫刻の実物をお借りして展示できればなお良いのでしょうが……。写真のキャプション、さらに展示の説明パネルは当方が執筆させていただきました。
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展示を拝見後、市の担当の方と打ち合わせ、さらにプロジェクタでパワーポイントのスライドショーを試写したりもしました。

それも無事終わり、隣接する高村山荘へ。光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋です。
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二重の套屋(とうおく)の中に、ボロボロの山小屋。もう何十回目かの訪問ですが、何十度来ても、そのたび胸に迫るものがあります。

この日はこれで撤収し、宿泊先の大沢温泉さんへ。大沢温泉さん編は明日のこのブログでレポートします。

翌日、8時半過ぎに再び記念館さんへ。会場設営後、10時から講座でした。講座の会場は第一展示室。光太郎のブロンズ彫刻がずらっと並んでいるスペースです。
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お聴き下さったのは20名ほど。浅沼隆さんはじめ、生前の光太郎をご存じの地元の方々や、以前の講座にもご参加下さった皆さんもいらっしゃり、心強い限りでした。

内容的には光雲の人となり、彫刻の代表作などの紹介、さらに同じ彫刻の道に進んだ光太郎との比較、光雲の弟子達などについてお話しさせていただきました。特に光太郎との比較の部分では、漠然とは分かっていたつもりでしたが、改めて発表用にいろいろ考えてみると、今まで見えなかった部分も見え、自分でも勉強になりました。こういう場合の通例ですが。

11月に都内で高村光太郎研究会が予定されており、そちらで発表をすることになりまして、ある意味手抜きですが、今回の講座の内容を元に発表しようと考えております(スライドショーやレジュメがほぼほぼそのまま使えますし(笑))。そこで、発表内容の詳細はそちらが終わりましたらまたこのブログにて記述いたします。

スライドショーを使ってのお話終了後、ギャラリートーク的に、実際に「鈿女命」を見ながら解説。
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その後、NHKさんのインタビュー。翌朝のローカルニュースで、講座の件ではなく展示の方が取り上げられました 

高村光太郎の父 光雲の木彫

戦中から戦後にかけて7年間を花巻で過ごした、詩人で彫刻家の高村光太郎の父で、明治を代表する彫刻家の高村光雲が制作したとされる木彫が花巻市に寄贈され、初めて展示されています。
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花巻市の高村光太郎記念館で展示されているのは光太郎の父、高村光雲が制作したとされる木彫「鈿女命像」です。光雲の孫が花巻市に寄贈し、初めて公開されました。木彫はサクラの木を一木造りしたもので、日本の神話に出てくる「天鈿女命」をモチーフにしたものです。高さは30センチあまりで、「天鈿女命」が「天岩戸」に隠れた天照大御神を誘い出すため、踊りを披露している様子が表現されています。
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72歳の女性は「静かなようで躍動感があり、力を感じます」と話していました。
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高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表は、「光雲は近代を代表する彫刻家で、長男の光太郎が目指した方向性との違いを明らかにしていくうえで価値の高い作品である」と話していました。
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この木彫は今月23日まで高村光太郎記念館で展示されています。
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というわけで、展示は来週23日(水)まで。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供は伸び伸び育てるのがいいのです。無理に型に押しこめては縮んでしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

山小屋近くの山口小学校の職員室で教員相手に語った雑談の一部です。浅沼校長(上記浅沼隆さんのお父様)、こんな雑談も筆録していました。

結局、父の跡継ぎ、二代目光雲となることを拒否し、家督相続も放棄した光太郎。そしてそれを許した光雲は、「無理に型に押しこめ」ず、「縮んでしまう」ことを避けたという意味で、本当に素晴らしい父だったと思います。

一昨日・昨日と1泊2日で、市民講座講師のため岩手花巻に行っておりました。3回にわけてレポート致します。

花巻到着後、まず向かったのは、先月オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。
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あいにくの雨模様でした。

さらに平日の日中でしたが、そこそこお客さんが入っており、胸をなで下ろしました。オープン早々閑古鳥が鳴いていては先行きが心配ですし。

向かって左が産直コーナー的な物産館「すぎの樹」さん。
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地元の農産物、お弁当、加工食品などが並んでいます。

壁には花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた絵。ここにこういう絵があったことに気がつきませんで、後で花巻高村光太郎記念館さんの方に、「こういう絵があったでしょう」と言われ、「?」。そこでスマホの画像を見てみると、ちゃんと写っていました(笑)。拡大すると……。
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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということで、賢治グッズ/光太郎グッズのコーナーも。
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こちらのオープンに合わせて開発された新商品「智恵子のレモンキャンディー」、当方が訪れる頃には売り切れ必至だろうと、今月初めに送って下さったのですが、まだ残っていました。
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当方大好物のリンゴも売られていまして、買わないという選択肢はありませんでした(笑)。購入したのは小さめの品種でしたが4つで230円と激安。少し前には当方地元・千葉のスーパーで1個200円くらいでしたので、嬉しい価格でした。
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産直コーナーの隣は焼き肉レストラン「味楽苑」さん。この日は既に新幹線車内で昼食(駅弁)を済ませていたのでパスしましたが、いずれこちらで食べさせていただこうと思いました。

さらにその奥がコミュニティスペース的になっており、テーブルと椅子。
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壁面には賢治と光太郎に関する説明パネル。地元の方のご執筆ですが、こちらにも原稿が回ってきまして、校閲、加筆させていただきました。
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空いている壁面もありますし、まだまだ工夫の余地はありそうです。市内の賢治/光太郎マップとか、それぞれのスポットの紹介とか。さらに映像機器等を置く構想もあるやに聞いています。

建物の外には海鮮系の移動販売車。
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草花のコーナーも。リンドウが綺麗でした。いかにも、秋。
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全体としては、まだオープンしたばかりなので、まだまだこれからどう発展していくか、という感じですね(同じ敷地内にコンビニも建設中でした)。

今後はここを拠点にいろいろな活動等が展開していくことを望みます。当方地元の道の駅では、地元ラジオ局とのタイアップでコンサートが開かれたり(かつては「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみさんなどもいらっしゃいまして拝聴しました)、日曜日、今回の花巻行きのための手土産を買いに行ったら、フリーマーケットが行われていたりしました(いずれ出店しようかな、などとも思いました(笑))。地元の皆さんで、どんどん良いアイディアを出して行っていただきたく存じます。

みなさまもぜひ花巻にお越しの際はお立ち寄りを。


【折々のことば・光太郎】

子供は先生のいうことはよくききます。しかし、親子で教えることはできません。教えるというのではなくて空気です。耳や目からでなくて、いつとはなしに体で覚えます。いつのまにか染みこみます。染みこんだものはなかなか取れません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた山小屋近くにあった山口小学校の保護者懇談会での発言です。

明日、レポートいたしますが、市民講座で光雲・光太郎親子の彫刻の系譜的なお話しをさせていただきました。それぞれに傑出した彫刻家であった二人、しかし目指す方向性は異なり、いろいろな問題を孕んでいるのだな、と、改めて感じました。

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