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光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。

最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
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記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。

ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。

 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。


その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
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   大地うるはし

 村役場の五十畳敷に
 新築祝の額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。012
 大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合せるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。

『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。

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ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
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光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
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さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。

【折々のことば・光太郎】

今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、


昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。

この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。

    レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の一面コラムで光太郎をメインに取り上げて下さいました。

河北春秋(9/7):「いくらまはされても針は天極をさす」。

「いくらまはされても針は天極をさす」。花巻市の高村光太郎記念館に展示される高村光太郎(1883~1956年)の書は言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象を与える。地元の山口小(現太田小)の校訓を揮毫(きごう)した「正直親切」は達筆というより誠実そのもの。児童が書いたようですらある▼光太郎は「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ」とつづった。太平洋戦争中に戦意高揚の詩を作ったことを悔いた光太郎は戦後、最後の作品である十和田湖畔の『乙女の像』(53年)まで彫刻の制作には慎重だった。その分、従前に増して書に意欲を見せた▼光太郎の書を「実に味わいがあり、まさに見ていて飽きない」と愛するのが仙台市の作家伊集院静さん。書にまつわるエッセー集『文字に美はありや。』は、書に伝わる「人の哀しみ」に美を見いだす▼第70回河北書道展があす開幕する。戦争の傷跡がまだ残る54年に産声を上げた。東日本大震災、新型コロナウイルス禍に直面しても中止せず、喜怒哀楽を伝えてきた▼光太郎はこうも記している。「直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい」。古希を迎える書の杜で、困難にも辛抱強く、ぶれずに生きる東北の人々に会いたい。(2023・9・7)

花巻の高村光太郎記念館さんで展示されている光太郎書を取り上げて下さいました。その評もなかなか的確ですね。

言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象」という「いくらまはされても針は天極をさす」。戦後の花巻郊外旧太田村蟄居時代に書いた色紙です。
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「ぶれない自分」というものを表象しようとしたものでしょう。世の中が戦時に突入すると、ぶれる、というか、豹変した光太郎ですが。

この語は揮毫等で好んで使いました。おそらく初出は昭和2年(1927)に書いたたった2行の詩「詩人」。

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
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おそらくそう離れていない時期に、この語を刻んだ木皿も残されています。

木皿は光太郎実弟の鋳金家・豊周により、ブロンズに鋳造されて、戦後の高村光太郎賞牌として受賞者に授与されました。
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また、同じ趣旨の「針は北をさす」と揮毫された書が、岩手県奥州市の人首文庫さんに現存します。

達筆というより誠実そのもの」「児童が書いたようですらある」と評された「正直親切」はこちら。
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昭和23年(1948)に、蟄居していた山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格し、光太郎が校訓として贈ったものです。横書きで現代風に左から右、一年生の児童にも読めるようにと新仮名遣いでルビも書き込みました(拗音を一回り小さいサイズで書くというルールはまだ定着していなかったようです)。

この文字を刻んだ碑が、確認出来ている限り全国に三基。花巻の山口小学校跡地、埼玉県東松山市の新宿小学校さん(同市元教育長の故・田口弘氏肝煎り)、荒川区立第一日暮里小学校さん(光太郎母校)です。
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三基のみならず、日本中の全ての小学校さんに設置していただきたいものです(笑)。あるいは永田町の衆参本会議場とか議員会館とかにも(笑)。

『河北新報』さんん、伊集院静氏の『文字に美はありや。』にもふれられています。こちらでも光太郎書が取り上げられています。

さて、秋となりました。「芸術の秋」とうことで、各地で書道展なども多くなってくることでしょう。今回の『河北新報』さんコラムも同社主催の「河北書道展」にからめての光太郎紹介でした。同展、「近代詩文」部門もあり、光太郎詩を書いた作品が入賞しているかな、と思いましたが、残念ながらネット上で見られる上位入賞作品にはありませんでした。おそらく各種書道展で、光太郎詩文を書いて下さるかたが少なからずいらっしゃると存じますが、ぜひとも光太郎曰くの「あたり前と見える」「無理と無駄との無い」書でお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子も春子さんの看護になつてから前よりもよい様に見うけられます。しきりと手芸をやつて居る様です。


昭和12年(1937)2月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「手芸」は、奇跡と言われた紙絵の制作と思われます。智恵子の生命、あと1年半あまりですが、その間に千数百点の紙絵を作りました。
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昨夜、NHKさんのラジオ第2で「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る 1」の放送がありました。

2本立ての内容で、前半は光太郎と盛岡放送局高橋忠アナウンサーとの対談「朝の訪問」から。後半は賢治実弟の宮沢清六による賢治詩「原体剣舞連」「春と修羅」の朗読でした。

「朝の訪問」、昭和24年(1949)の録音です。SNS上で花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での録音、と勘違いされている方の投稿がありましたが、盛岡放送局での録音です。おそらく、戦時中に翼賛活動に邁進していた光太郎の肉声を流すのはまかりならん、というGHQの横槍でお蔵入りになっていたものです。

久しぶりに拝聴しました。手元にカセットテープがあるのですが、カセットテープだけに再生すればしただけ劣化が進みますので、めったに再生しません。平成16年(2004)頃、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の依頼で文字起こしをし、そちらを読めば内容は確認出来ますし。

「対談」と分類していますが、相方の高橋アナウンサーは聞き手、ネタふりに徹する感じで、8:2から9:1くらいで光太郎が滔々と語りつづけています。昭和24年(1949)、数え67歳の光太郎、意外と張りのある人間的にも芯の強さを感じさせる声です。

10月30日(月)まで、聴き逃し配信があります。ぜひお聴き下さい。
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ところで、光太郎のしゃべり、あまりにも滔々としすぎていて、ちょっと違和感。「あれ、こんなんだったっけ?」的な。そこで文字起こししたものと見比べながらもう一度聴くと、だいぶ編集されていました。言い淀んだり、言い間違って言い直したりした部分は全てカットです。

例えば、こんな一節。

ええ、不自由って、もし、そういうこと言い出したら、むやみに不自由だけど、ま、あそこに住む以上は、それを織り込んであるんです。だから、もう、何ですね。平気なもんです。ま、それで、て言いますか、覚悟の上だしね。人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あのー、欲、捨てっちまえば何でもない。ただ、その、合理的な食事生活や何かって言うと差し支えるから。

オンエアされたのは赤字の部分で、「何ですね」とか「何て言いますか」、「あのー」といった間投詞的な無意味な部分はほぼすべてカットされていました。そこで会話として聴くと無駄がないため、忙しく感じます。

またそれ以外でも結構ツギハギになっていました。

前は不自由だったですよ。夜はもうほとんど本は読めなかった。で、細かい字のものは、手紙でも読めない。自分が詩を書いたりする時は、新聞紙、こう広げてね、毛筆で一寸角ぐらいの字を書く。それで字を書いた。そうしないと読めない。それから、石油ランプじゃ暗いから、炉で焚き火をしてその灯りで書いた。もう、原始生活の原始生活でしょうな。

全体にこんな感じで、話の流れを損なわない程度に編集が為されています。また、バッサリとカットされている部分も多々ありました。放送枠の関係で、仕方がないのでしょうが。

生放送を除けば、テレビ番組でもそうですね。もう10年前になりますが、渋谷のNHK放送センターさんで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録に立ち会いました。その際は司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるトーク、オンエアされたのは約3分の1くらいで、「この発言とこの発言の間にこういう発言もあったはずだが無くなってるなぁ、もったいない」という感じでした。まぁ、そんなものなのでしょう。

さて、聴き逃し配信、ぜひお聴き下さい。清六の朗読、それから司会の宇田川清江氏、解説の保阪正康氏のトークもなかなかのものです。

また、以前にも書きましたが、来週は「賢治を語る 2」として、「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)もオンエアされます。併せてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あれから父の一周忌がすむと、今度は智恵子の弟の急病、つづいて死亡といふやうな事があつて寸暇なく心ならずも原稿が遅れましたし、又枚数も少くなりましたが、ともかく別封でお送りしました、遅延のおわびまで


昭和10年(1935)10月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎53歳

智恵子の弟」は、二本松の長沼酒造三代目を継いだ啓助。結局は家業を破産に導いてしまいました。その後は上京し、大学野球早慶戦のダフ屋や廃品回収業のようなこともやって細々と暮らしていたのですが、この月、数え39歳で窮死しました。

ラジオ放送で、光太郎の肉声が流れます。

「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る」1

NHKラジオ第2 2023年9月4日(月) 20:30~21:00

「朝の訪問」昭和24年11月録音 R1未放送 高村光太郎 聞き手;高橋忠アナウンサー
宮澤清六朗読「原体剣舞連」「春と修羅」

詩人で童話作家の宮沢賢治が亡くなって今年で90年になります。賢治本人の音声記録は残念ながら残っていませんが、縁のある人たちの言葉で宮沢賢治を偲びます。1回目は彫刻家で詩人の高村光太郎です。高村光太郎は昭和20年4月に空襲でアトリエを焼け出され、賢治の故郷・岩手県花巻市に疎開しました。昭和24年11月収録「朝の訪問」では、自分の理念や生き方に合った岩手県の土地柄や県民性について語っています。

司会 宇田川清江(元NHKアナウンサー)
解説 保阪正康(ノンフィクション作家)
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今回放送されるのは、昭和24年(1949)11月18日、NHK盛岡放送局で録音された光太郎とアナウンサーの対談「朝の訪問」。録音当時には放送されず、公共の電波に乗るのはおそらく今回が初めてだろうということです。

当方は聴いたことがある、というか、カセットテープを所持しております。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分あまりのものでしたが、岩手の風土や人々、食べ物などについて、「矍鑠」という年齢でもありませんが、数え67歳の光太郎、しっかりと語っています。文字に起こしたものは北川先生と当方で編んだハードカバーの『光太郎遺珠2006.4』(高村光太郎記念会)に収めてあります。

今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さった、NHKエデュケーショナルの方からこれを放送したい、というお話があり、その後いろいろ情報交換して参りまして、様々なことがわかりました。

まず当時これが放送されずお蔵入りになった理由。GHQの横槍が入ったらしいとのこと。昭和24年(1949)といえばまだ占領は解けて居らず、様々な場面でGHQの許可が必要な時期でした。公的には戦犯としての訴追は免れた光太郎ですが、GHQの判断としては、戦時中、日本文学報国会や大政翼賛会文化部の要職にいた光太郎を出演させるのは好ましくない、という判断だったようです。このあたり、放送と出版とではスタンスが大きく異なったようですね。中央で発行されていた雑誌等への光太郎寄稿は、終戦の翌年、昭和21年(1946)には始まっており、特に光太郎だから、という理由で削除を求められたり発禁になったりということは無かったようです。

NHKエデュケーショナルの方曰く、「当時、NHK放送会館にはGHQのCIEが入っており、放送内容に目を光らせていたことが考えられます」だとのことで。「CIE」は「Civil Information and Educational Section」。「民間情報教育局」と訳され、教育政策、教育行政の監督と指導が主な仕事だったそうですが。また、テープはある放送局員が廃棄せずに保管したため、残ったとのこと。グッジョブですね。

ちなみに戦後、光太郎の肉声が初めて電波に乗ったのは、昭和27年(1952)3月30日と思われます。この時もNHKさんの「朝の訪問」。対談相手は山形の詩人・真壁仁、録音場所は花巻温泉松雲閣でした。この前年には占領が解除となっていました。この時の録音はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、最近ですとやはりNHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。

それからもう1点、今回の「朝の訪問」は、光太郎の対談相手(というか聞き手)が不明だったのですが、当時、盛岡放送局にいた高橋忠アナウンサーと判明しました。高橋の名は『高村光太郎全集』に2回登場します。いずれも昭和23年(1948)の日記です。1回目は放送の出演依頼で、これは光太郎が断っています。2回目は9月21日、盛岡放送局で放送された「宮沢賢治十六回忌に因みて」(『高村光太郎全集』第8巻)の件。これは光太郎本人ではなくアナウンサー(高橋?)が朗読しました。

その後の「朝の訪問」録音時の昭和24年(1949)は日記の大半が失われています。また、賢治の名は出て来ませんが、まぁ、賢治を含む岩手の人々、ということで位置づけるようです。

さらに9月11日(月)には、「賢治を語る 2」として「草野心平、賢治を語る わが文学わが回想」(初回放送 昭和58年=1983 8月11日 ラジオ第2)、「堀籠文之進 賢治の思い出」(同 昭和57年=1982 7月16日 FM盛岡ローカル)も予定されているそうです。

それぞれぜひお聴き下さい。ネットでの聴き逃し配信もあるようです。

【折々のことば・光太郎】

この療法はまづリンゲル液をももに注射してから(此は体力の補充の意味)、更に臀部へ硫黄剤の発熱作用を持つ薬液を筋肉注射し、三十九度から四十度の熱を出させます。患者は随分苦しいらしいのですが、又その為興奮を誘致して注射した夜から翌日あたりへかけてかなり看護に骨折れますけれど、発熱してくると酒にでも酔つたやうになり、それから眠ります、一日位ねむつてさめると幾分前よりも騒がぬやうになるように見うけます、


昭和10年(1935)1月11日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

心を病んだ智恵子のため、精神医学者・諸岡存(たもつ)が行っていた「発熱療法」の様子です。硫黄剤が使われるようになる以前は、毒素の薄いマラリア菌で熱を出させていたとのこと。いずれにしてもあまり効果はなかったようです。

ちなみに先月亡くなった森村誠一氏の小説『新・人間の証明』では、この施術後の熱を下げるために智恵子に解熱作用のあるレモンを食べさせていた、という話になっています。その可能性も捨てきれません。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。8月3日(木)が4回目のご出店でした。

メニュー的には、サーモンと彩り野菜のガレットロール、ローストビーフの温野菜添え、トマトと卵の炒め物、里芋のクルミかけ、オカワカメの酢の物、オクラのスープ、ごはん、お新香、ベイクドチーズケーキ、カフェドシトロン。これで1,000円だそうですから、安いものですね。
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用意なさった34食分、完売だったそうです。次回は9月13日(水)の予定とのこと。

同じくやつかの森LLCさんがメニュー考案にあたられ、
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。
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豆おこわ、揚げジャガイモと鶏肉の甘辛炒め、生節入り夕顔煮、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、わかめとミョウガの酢の物かぼちゃの花添え、白茄子とミニトマトのコンポート、お新香、それからメニューには印刷されていませんが、さつまいもの蒸しパンも。

「こうたろうカフェ」、「光太郎ランチ」ともども、かつて光太郎が作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を使用したりして作られています。

毎月のメニューを考えるのも大変だと存じますが、末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山であなた方がつまれた木の芽草の芽をめづらしくよみました。藤の芽、山吹の新葉が喰べられるといふ事ははじめて知りました。タラの芽は小生も大好きで今年も千葉の田舎でとつてもらつて喰べました。コゴメの葉も上州の山奥の「湯の小屋」といふ処で先年喰べて大変うまいものと思つた事があります。小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか。


昭和9年(1934)5月18日 中込友美宛書簡より 光太郎52歳

中込友美は戦後、戦災孤児のために「久留米勤労補導学園」を創設した人物。この当時、信州松本在住だったようです。で、その地から送られた食べられる野草的な内容の書簡に対する返信です。

小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか」。約10年後に、花巻郊外旧太田村の山小屋に住み、実際に山菜類を貴重な食料とすることになるとは思っていなかったことでしょう。

『朝日新聞』さん岩手版、8月10日(木)掲載の記事です。

(賢治を語る 没後90年)湯あみや自炊、昔の風情を 大沢温泉・高田貞一社長/岩手県

 花巻市の山あいにある秘湯「大沢温泉」は、北東北の詩人・宮沢賢治が通い詰めた温泉としても有名だ。賢治と温泉の関わりについて、同温泉の高田貞一社長(67)に聞いた。

――大沢温泉の歴史は?
 今から約1200年前、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)軍の毒矢に負傷した際、現在の大沢温泉のお湯につかったところ、ほどなく傷が癒えた、と伝えられています。
――映画化された門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」にも、大沢温泉が出てきます。
 賢治は少年のころ、信仰心のあつい父に連れられて、仏教会の講習会場だった大沢温泉に何度も足を運んでいます。学生時代は悪ふざけをして、湯をくみ上げる水車を止めてしまい、風呂場が大騒ぎになったという逸話も残っています。花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯あみにも来ていたようです。
 また、賢治の死後になりますが、詩人の高村光太郎も1945年、空襲で東京のアトリエを焼失し、賢治の親類を頼って花巻に疎開しています。以後7年間、花巻を愛し、大沢温泉を「本当の温泉の味がする」と言って喜んで頂きました。
――温泉が賢治の作品にも影響したと思いますか?
 それはどうでしょうね。ただ、賢治の作品は岩手の大自然や生活などを題材にしたものが多いです。大沢温泉は山あいにあり、豊かな自然に恵まれています。あるいはそういうこともあったかもしれません。
――賢治の写真は今も、昔ながらの雰囲気が味わえる「湯治屋」に飾られています。
 宮沢家から頂いた集合写真はパンフレットに使わせて頂いたり、館内に飾らせて頂いたりしています。
 約200年前の建物で、賢治ゆかりの自炊部がある「湯治屋」も、賢治の時代から徐々に変わってきています。例えばトイレなどは水洗になり、自炊部で自分で料理して食事を取っている人は全体の1~2割程度。多くの方が館内の食堂でご飯を食べていらっしゃいます。
 かやぶきの屋根を含め、古い建物を維持していくのは大変ですが、賢治が通った場所でもあり、「昔ながらの雰囲気が好きだ」というお客さんもたくさんいるので、今後も維持していきたいと考えています。

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上記集合写真、明治39年(1906)の撮影だそうです。豊沢川にかかる「曲り橋」の上と思われます。手前のガス燈(?)が何ともいい感じです。
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というわけで、賢治や光太郎の息吹が今も確かに感じられる大沢温泉さん、花巻にお泊まりの際にはぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

先程申すのを忘れましたが、ボール紙の菓子折の中にちゑさんのよく喰べるアツプルパイがありますから出して下さい。出さないと二三日で腐ります。今日は乗合が無くてタクシで来ました。


昭和9年5月12日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

千葉九十九里に移り住んでいた母と妹夫婦の元に預けた智恵子を見舞っての帰り、途中の大網停車場から。現代ならスマホで電話をかけるか、LINEを送るか、という内容ですね。「乗合」は乗合馬車かと思われます。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのレストランです。

7月27日(木)が3回目の出店だったそうで、画像等送って下さいました。メニュー的には、かつて光太郎が実際に使った食材や作った料理などの記録から、現代風にアレンジを施してのメニューとなっています。
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令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた、兵庫県ご在住の料理研究家・中野由貴さんが、当ブログをご覧になって足をお運びになり、フェイスブックでご紹介下さっています。インフルエンサー的な方のレポートは実に有り難いところです。

明後日、8月3日(木)にも「こうたろうカフェ」出店があるとのこと。次回メニューは「
サーモンのガレットロール・ローストビーフ・トマトと卵の炒め物・里芋のクルミかけ・お新香・ご飯・おくらのスープ・ベイクドチーズケーキ・コーヒー」だそうです。

紹介すべき事項がたまっていますので、もう1件、花巻関係で。

花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』につき、NHKのさんローカルニュースで取り上げられました。先月の放映でしたので、「来月」というのは今月のことです。

高村光太郎が疎開していた花巻で描いた植物などのスケッチ展

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦時中に疎開していた花巻市で描いた身近な植物などのスケッチの展示会が開かれています。
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高村光太郎は、昭和20年、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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「山のスケッチ」と題された今回のテーマ展には、疎開中に光太郎が描いた身近な草花のスケッチなど7点が展示されています。
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このうち光太郎が湯治先の西鉛温泉で描いたスケッチは山菜の「ミズ」を描いたものです。
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昭和20年6月20日という日付けとともに「丈1尺5寸」などと観察した内容がつづられています。
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また白い6枚の花弁が優しいタッチで描かれた「チゴユリ」というスケッチや、光太郎が過ごした花巻の山口地区のかやぶき屋根の集落を描いた作品もあります。
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鹿児島県の奄美大島から観光で訪れたという男性は「光太郎さんの『道程』や『智恵子抄』の詩はよく知っていますが、スケッチは初めて見ました。小さな命を愛しながら過ごしていたのがわかりました」と話していました。
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高村光太郎のスケッチの展示は花巻市の高村光太郎記念館で来月31日まで開かれています。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう略 肉どりは出来ました故仕上げる前に一度見て下さい、今週中は午前午后宅に居ります、

昭和8年6月19日 岩波茂雄宛書簡より 光太郎51歳

岩波書店の社章として依頼を受けたメダル制作に関わります。
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モチーフはミレーの「種まく人」。

以前にも書きましたが、これはボツとなりました。新たにエッチングで描かれた社章は、作者が不明です。

毎月15日に、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分がこちら。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像を送りいただきました。
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メニューは「さやえんどう入り炒飯」「味噌焼おにぎり」「マグロ焼き魚」「じゃが玉ねぎ煮込み」「さやいんげんの油炒め」「トウモロコシ焼」「キュウリの酢の物」「こかぶ漬け」「塩麹入り卵焼き」「番茶寒天」だそうです。かつて光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で作っていた野菜類がふんだんに盛り込まれています。

メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさん、今月27日、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店の予定。
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そちらのメニュー、「白身魚のムニエル~バジルソース~」「ズッキーニのソテー」など。光太郎が好きだったバター、あんこなどをたっぷり使うそうで。茄子やキュウリなど夏野菜は、光太郎が暮らしていた花巻太田産を使われるとのことです。

花巻ついでにもう1件。今月15日発行の『広報はなまき』。
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市内の博物館・記念館等の文化施設などで所蔵している逸品を紹介する「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」というコーナーがあり、花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』で展示されている光太郎のスケッチが紹介されています。ただし、こちらは複製だったような気がするのですが……。

27日、「ワンデイシェフの大食堂」さんの「こうたろうカフェ」、それからテーマ展『山のスケッチ』、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏にはまつたく年々愛想がつきます。とてもやりきれません。此は私の個人的生理に基づく事です。それでますます北緯五十度の方へ牽かれます。 北海道で自分の生活と仕事とを大成したい念願が強まるばかりです。山へヒツコムのでは無くて前進するのです。人生への一つの道を開墾するのです。そこを根拠にして一つの生活と空気とを創りたい気がします。


昭和3年(1928)9月25日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

夏の暑さに弱かった光太郎、明治末にほとんど無計画で北海道移住を企てましたがすごすごと1ヶ月程で退散したにも拘わらず、またぞろこの時期に北への憧れを募らせていました。

結局、この時期にもそれは果たせず、意外な形で実現するのは、戦後の花巻郊外旧太田村移住においてでした。

実施期日的にはまだ先ですが、〆切りが間近でして……。

高村光太郎記念館夏休みワークショップ「紙絵をつくろう!」

期 日 : 2023年8月1日(火)~8月3日(木)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 10:00~12:00
料 金 : 500円程度(材料費)

高村光太郎の妻・智恵子は、数々の紙絵作品を世に残しました。智恵子の紙絵をお手本に自由なテーマで紙絵をつくってみましょう。3日間で一つの作品を制作するワークショップとなります。

対 象 : 花巻市内の小学生
締 切 : 7月18日(火曜)

定員をこえる場合は抽選となります。定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。次のいずれかの方法でお申し込みください。
 ・花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
 ・専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。
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智恵子の故郷、福島県二本松市では毎年「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施しており、今年で28回目。作品募集の対象が「福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童」ということで、このワークショップで作った作品をそちらに応募、ということも考えているそうです。
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なるほど。

こういう活動も通じて、自治体さん間の交流がさらに活発となれば、という気もします。ゆくゆくは光太郎智恵子がらみの自治体さんなどから担当者の方などに集まっていただいて、「光太郎智恵子サミット」的なものもあるといいか思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

私も習つてゐます。そのうち「東方」へも「エスペラント」で文章を書く気でゐます。

昭和3年(1928)7月2日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

エスペラントは19世紀末に考案された人工の言語。世界共通語として普及させようという動きがたびたびありました。日本でも知識階級を中心にエスペラントを学ぶ機運が高まり、宮沢賢治などもその一人。「イーハトーヴ」などの造語はエスペラントを意識して作られたとする説があります。光太郎のエスペラントによる作品の発表は幻と終わりましたが……。

下の画像は「樹下の二人」(大正12年=1923)のエスペラント語訳。
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平成25年(2013)、日本エスペラント協会さんが刊行した『Japana Literatura Juvero』に掲載されています。近現代詩50篇ほどの訳を集めた書籍です。

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岩手より帰って参りました。レポートいたします。

6月30日(金)、盛岡駅で花巻市役所の方々などの乗られる車に拾っていただき、盛岡スコーレ高等学校さんへ。
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同校は、光太郎と親しかった羽仁吉一・もと子夫妻が戦前に創立した都下東久留米市の自由学園さんの流れを汲み、その関係もあって光太郎との交流が生まれました。

同校サイトに載った沿革史から。
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創立者・吉田幾世は、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で光太郎が数多くの寄稿をし、智恵子も取材を受けた雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行い、その流れの中で昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」を開校させました(そこから数えて今年で創立90周年だそうで)。戦後に各種学校の認可を受け、さらに新制高校へと変わって行きます。
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そうした中で、羽仁夫妻の指示もあったのだと思いますが、吉田が花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪ね、交流が始まりました。光太郎は同校の「生活即教育」という理念のもと、いろいろと物づくりに取り組む姿勢に共鳴し、ホームスパン制作などを推奨し、それが現在も続いています。
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光太郎、盛岡を訪れた際には同校にも足を運び、同校からも遠足を兼ねて当時の生徒さんたちが光太郎の山小屋を慰問に訪れるなどしました。

戦後の光太郎、日本の将来を創っていく若い世代にかける期待は大きかったようで、山小屋近くの山口小学校や太田中学校、盛岡では県立美術工芸学校(現・岩手大学さん)、少年刑務所さん、そしてスコーレさん(当時は盛岡生活学校)などに積極的に関わりました。

さて、今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、吉田と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、当方にも協力要請があって、お借りするものの下見などを含め、お邪魔した次第です。

同校や関係者に贈られた光太郎直筆の書。
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光太郎の山小屋を生徒さんたちが訪問した際の写真パネル。
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現代の生徒さんたちが文化祭の展示として作った光太郎との交流史。
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羽仁夫妻、自由学園さん、『婦人之友』などにも触れつつ、これから展示構成を花巻市さんと詰めていこうと存じます。

その後、例によって花巻南温泉峡、大沢温泉さん自炊部に宿泊。
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翌7月1日(土)、旧太田村へ。

光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)。
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こちらの套屋の内部に、やはりスコーレさんで撮影された写真も。
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光太郎が着ているのはホームスパンの猟人服ですね。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』を拝見。
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パネル等の壁面展示のみでした。
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光太郎散文「山の春」(昭和26年=1951 ちなみにこれも『婦人之友』に寄稿されました)を元に、当時の写真、光太郎画集『山のスケツチ』(没後の昭和41年=1966、中央公論美術出版)から精密複製、そして描かれている植物を最近撮った写真。

以前にも書きましたが、牧野富太郎をモデルとしたNHKさんの「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。

関連資料として詩「山菜ミヅ」原稿(昭和22年=1947)、一点だけ実物の光太郎スケッチ(太田村風景)、「花は何とて」詩稿。
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このうち、「花は何とて」は、戦時中の昭和20年(1945)、花巻町の宮沢家に疎開していた折の作と推定されます。この頃構想していた翼賛詩ではない詩集『花と実』の序詩として書かれました。結局、詩集は未完に終わり、この詩も生前に発表されることはありませんでした。

展示されているのは、花巻病院長だった佐藤隆房に贈ったもの。光太郎が手元に残した手控えの詩稿と、若干の表記の相違が認められます。
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こちらのテーマ展示は8月31日(木)まで。是非足をお運び下さい。

さらに、4月から5月にかけて開催された企画展「山口山の木工展」で展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品の一部が、ロビーに展示されています。宮沢賢治や光太郎の世界観があたたかく表現されていて、ほっこり。
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併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

友の会の例会を左の通り催したいと存じます故どうぞ、 ○今月十五日午後二時より ○拙宅にて ○会費三十銭

昭和2年(1927)1月8日 今井武夫宛書簡より 光太郎45歳

「友の会」は「ロマンロラン友の会」。片山敏彦、高田博厚、尾崎喜八なども会員でした。
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昨日から岩手県に来ております。

昨日は戦後の昭和二十年代に光太郎が訪れたり、当時の生徒さんたちが花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪問したりという交流があった、盛岡スコーレ高等学校さんにお邪魔致しました。
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今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、同校創設者の吉田幾世と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、協力要請があったため、花巻市役所の方々などとともに、ご挨拶的な。

お借りする予定の品などを拝見。
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その後、公用車で送っていただき、花巻南温泉峡、大沢温泉さんに宿泊。
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今日はこれから花巻高村光太郎記念館さんに伺い、開催中のテーマ展『山のスケッチ』拝観の予定です。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

昭和53年(1978)から続く行事ですが、基本、クローズドなので報道されることがあまり多くありません。ただ、今年は地方テレビ局ローカルニュースで取り上げられました。

岩手めんこいテレビさん。

盛岡少年刑務所で「高村光太郎祭」 “心はいつでもあたらしく”

 彫刻家で詩人の高村光太郎は岩手県花巻市で暮らしていた73年前、講演のため盛岡少年刑務所を訪れていました。
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 6月23日、教えを引き継ぐ伝統の行事が行われました。
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 盛岡少年刑務所では、23日に46年間続く行事「高村光太郎祭」が行われました。
 盛岡少年刑務所では1950年に彫刻家で詩人の高村光太郎が講演に訪れ、その際、光太郎から「心はいつでもあたらしく」という書が贈られました。
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 施設の運動場にはその言葉を刻んだ石碑が建てられています。
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 この行事は、書に込められた「前向きに生きる大切さ」を受刑者に引き継ごうと指導の一環として行われています。
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 23日は受刑者が光太郎をしのんで花を手向けたあと、その作品の一つである「私は青年が好きだ」を朗読しました。
受刑者
「私の好きな青年は麦のように踏まれるほど根を張って起き上がる」
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 続いて受刑者の代表が光太郎の書を踏まえて自ら記した作文を発表しました。
受刑者代表
「いつか出所して困難な壁にぶつかったときには『心はいつでもあたらしく』という盛岡で出会った言葉を胸に乗り越えたい」
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 また23日は高村光太郎記念館の梅原奈美館長の講演も行われ、受刑者たちは盛岡少年刑務所とゆかりがある光太郎の歴史に思いをはせていました。

光太郎がこちらを訪れたのは、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居中だった昭和25年(1950)1月。この際はこちらだけでなく、県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、盛岡警察署、県立図書館などで講演を行っています。

少年刑務所さんに残した書は、「心はいつでもあたらしく」。普段は所長室に掲げられています。前年にはプラスアルファの「心はいつでもあたらしく/毎日何かしらを発見する」という文句を、山小屋のあった旧太田村の新制太田中学校さんに校訓として贈っており、そこからの転用です。

少年刑務所さんでは昭和52年(1977)にこの書を元にした石碑を建立し、翌年から「高村光太郎祭」を実施。受刑者が自分を見つめ直す機会とするといった意図があるようです。

当方、平成28年(2016)の「高村光太郎祭」に招かれ、講演をさせていただきました。その際には光太郎も戦争協力などで罪多き人生だったこと、そしてそれを自ら烈しく悔い、きちんと自分なりに総括をしたことなどを語りました。

その頃も受刑者の方が光太郎詩を朗読したり、作文を発表したりというプログラムがありましたが、継続されているのですね。

今年、皆さんが群読したという詩「私は青年が好きだ」、以下の通りです。

   私は青年が好きだ

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は麦のやうに017
 踏まれるほど根を張つて起きあがる。
 私の好きな青年は玉菜のやうに
 霜にあふほどいきいきとしてまろく育つ。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は木曽の檜の柾目のやうに
 まつすぐでやわらかで香りがいい。
 私の好きな青年は鋼のバネのやうに
 しなやかでつよく弾みがいい。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は朝日に輝く山のやうに
 晴れやかできれいで天につづく。
 私の好きな青年は燃え上がる焚火のやうに
 熱烈で新鮮であたりを照らす。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は真正面から人を見て
 まともにこの世の真理をまもる。
 私の好きな青年はみづみづしい愛情で
 ひとりでに人生をたのしくさせる。

フォーシームのど直球ですね(笑)。それもそのはず、大日本青少年団発行の雑誌『青年』へ昭和15年(1940)2月に発表されたもので、既に日中戦争は泥沼化、事態の打開を図って翌年には太平洋戦争に突入する時期ですので、現人神の赤子たる若き皇国臣民はかくあるべし、ということです。そうした背景を抜きにして考えれば、「道程」などにも通じるストイックな求道の精神も垣間見え、悪い詩ではないと思います。

そこで戦後になってもこの詩は他の翼賛詩とは異なり、お蔵入りにされることなく、家の光協会さんで朗読のレコードを出したり(昭和30年=1955)、故・清水脩氏によって混声合唱曲として作曲されたり(昭和44年=1969)しています。

こちらに収容されている皆さんのように、特殊な状況に置かれている人々には、カットボールやチェンジアップのような変化球よりも、こうした100マイルのフォーシームの方が心に響くのではないでしょうか。

少年刑務所高村光太郎祭、末永く続くことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

此間の会は実に特異な会で忘れがたい愉快な一夕でした。あれから又ラヂオでもヸルドラツク氏の朗読をききました 巴里で金曜毎に皆が会ふときいて羨ましく思ひました。


大正15年(1926)5月3日 尾崎喜八宛書簡より 光太郎44歳

此間の会」は、来日したフランスの詩人・劇作家、シャルル・ヴィルドラックの歓迎会。ヴィルドラックは光太郎も敬愛していたロマン・ロランとも親しく、「巴里で金曜毎に皆が会ふ」メンバーにロランも含まれていたようです。
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グルメ系の取り組み3件です。

まず、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるもの。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「シュガートースト」、「グリーンピースのバターライス」、「鮭の塩焼き」、「豚肉と筍の煮物」、「イカとミズの酢味噌かけ」、「蕗の油炒め」、「卵焼き」、「蓬餅のきな粉かけ」だったそうです。

ミズや蕗、蓬など、山菜系がふんだんですね。かと思うと洋風のシュガートーストやバターライス。見事に東西の味覚が融合しているようです。

毎月15日、店頭販売は10食限定ということなのですが、予約が入ったのでしょうか、19食出たそうです。ありがたし。

2件目、同じくやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で、先月から参入されている、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店です。

こちらも15日(木)だったそうで、やはり画像等送って下さいました。
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メニュー的には「ちりめん山椒ご飯」、「ローストビーフと彩り野菜のガレットロール」、「むね肉の香味焼き」、「山菜ミズのたたき」、「ゼンマイの煮物」、「菊芋とラディッシュのピクルス」、「サヤエンドウと南瓜のサラダ」、「赤魚とミズのお吸い物」、「黒豆ゼリー」、「カフェドシトロン」。こちらでも旬のミズが使われていまして、光太郎詩「山菜ミズ」(昭和22年=1947)のレクチャーもして下さったそうです。

社会教育系の「シニア大学」の団体さん、先月も入らしたリピーターの方、今月初めてという方など、こちらも36食完売だとのことで。

お客様の声。「ウワバミ草(ミズ)って初めて知った」「父が好んで酒の肴にしていた」「手が込んでいる」「工夫されててどれもおいしい」「菊芋のピクルスをもっと食べたかった」「メニュー表を見ながらこれは何と味わった」だそうです。

3件目、富山県高岡市から。以前にやつかの森LLCさんが考案したレシピを元に、「光太郎ランチ」として個人でご自宅を開放して振る舞われている、茶山千恵子さんの取り組み。6月6日(火)、7日(水)、18日(日)と、3回行われたそうです。
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読書会を兼ねての開催だそうで、岐阜の高山、石川の金沢や七尾からいらしたという方も。
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茶山さん、来月は「宮沢賢治セット」で「ざる蕎麦」「炭酸ソーダ」「人参フライ🥕私流」「サラダ」だとのこと。

今後とも末永く継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

無題3木喰上人の遺跡絵葉書お送り下されて忝く存じます。柳さんの研究で図らず世に出た此等の彫刻を興味深く見て居ります。


大正14年(1925)1月30日 
硲真次郎宛書簡より 光太郎43歳

木喰は江戸時代後期の僧侶。100年程前の円空同様、諸国を行脚しながら独特な木彫の仏像(いわゆる木喰仏)を彫り続けました。近代に入ってのその再評価には、「柳さん」=柳宗悦の功績が大きかったようです。

光太郎のそのプリミティブな美を高く認め、「徹底した庶民的無差別的無我没入の境」(「技法について」昭和16年=1941)と評しています。







昨日の段階ではネット上にはフライヤー等が出ていないのですが、一応、花巻観光協会さんのサイト、それから『広報はなまき』に情報が出ました。

テーマ展『山のスケッチ』

期 日 : 2023年6月17日(土)~8月31日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

 東京から花巻へ疎開した高村光太郎は、滞在した先々で目にした初夏の光景に感動し、花や野菜などをスケッチして残しました。
 その後移住した山口集落では暮らしの中で接した植物などがスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想もうまれました。
 詩集は未完に終わったものの、山の暮らしの中で詠んだ詩やスケッチは当時の文芸誌や雑誌に掲載され、世に知られることとなりました。
 この展示では、光太郎が太田村(現花巻市)で過ごした自然をテーマとして、草花のスケッチや詩稿などの資料を紹介します。

展示資料
 ・散文『山菜ミヅ』原稿           1点
 ・詩『花はなにとて』原稿          1点
 ・鉛筆淡彩『山口集落』           1点
 ・草花素描集『山のスケッチ』より精密複製  6点
 ・光太郎写真(昭和26年9月撮影)     2点
  他、草花写真パネル

展示の見どころ 
 詩『花はなにとて』草稿は今回が初公開の資料です。光太郎全集や回想録などで作品の存在は知られていましたが、直筆原稿の公開は初めてです。
 散文『山菜ミヅ』は、鉛筆淡彩による山菜のスケッチとともに雑誌『婦人公論』昭和22年6月号で発表された作品です。東京出身の人として知られていた光太郎が、岩手の自然の中で生活を送っていることを世に知らせた資料であると言えるでしょう。

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スケッチに関しては、複製での展示。現物は三冊、現存が確認できていますが、おそらく髙村家の所蔵のはずです。

それらの中から十数葉を原色版で複製し、中央公論美術出版さんから『山のスケッチ』という画集が昭和41年(1966)に出ています。光太郎の画集としては唯一の出版です。
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「らんまん」に出てきそうな(笑)。

これらを描くため、というわけではないのですが、光太郎、牧野富太郎の著書を都内在住の人々に手に入れてくれと依頼し、実際、光太郎の山小屋には牧野の『植物集説』上下、『植物分類研究』上下、『続植物記』が遺されていました。戦前のものも含まれていますが、依頼されたうちの一人、筑摩書房編集者の竹之内静雄が何とか見つけてくれたようです。

「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明日久しぶりの短歌会に参上いたしたいのも山々ながら、留守中つもつて居ります緊急の用事を先づ片つけねばならず、残念ながら多分まゐれない事と存じます。来会諸士によろしく。


大正13年(1924)11月27日 与謝野晶子宛書簡より 光太郎42歳

確認できている晶子宛唯一の書簡です。二人の関係を考えればかなりの数が送られているはずなのですが……。晶子の夫・寛宛は十数通確認できています。

この書簡も、晶子の著書『女子作文新講 巻二』に画像入りで紹介されているため、確認できた次第です。

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岩手日報社さん発行の文芸誌『北の文学』。最新号が先月末に出まして、「出たら一冊送って下さい」と、花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの方にお願いしておきましたところ、届きました。多謝。

北の文学 第86号

2023年5月27日 岩手日報社 定価1,100円+税

 『北の文学』は岩手日報社が発行する新人発掘・育成のための文芸誌です。第86号は応募作品から選ばれた小説部門の優秀作と入選それぞれ2編を収録。巻頭コラムはデビュー作「家庭用安心坑夫」が第168回芥川賞候補になり、一躍注目を集めた小砂川チトさん(盛岡市出身)が登場しています。
 日上秀之さん(宮古市出身)の特別寄稿小説「溺生(できせい)」や早坂大輔さん(盛岡市・書店BOOKNERD)と、くどうれいんさん(盛岡市出身)の対談も掲載。これまで以上に充実した内容となっています。
 小説部門の優秀作に選ばれたのは瀬緒瀧世(せお・たきよ)さん=宮城県在住、花巻市ゆかり=の「fantome(ファントーメ)」と、谷村行海(ゆきみ)さんの「どこよりも深い黒」。瀬緒さんは初応募での受賞です。谷村さんは過去7回入選を重ね、11度目の応募で優秀作をつかみました。

■主な内容
・巻頭コラム 小砂川チト「罪やかなしみでさへ、そこでは」
・特別寄稿小説 日上秀之「溺生」
・特集・対談 早坂大輔×くどうれいん 「行くべき街」盛岡
・第86号小説部門優秀作
 瀬緒瀧世「fantome(ファントーメ)」 / 谷村行海「どこよりも深い黒」
・小説部門入選作
 森葉竜太「トマト祭り」 / 咲井田容子「卯年炭」
・第86号選考経過・選評
・寄稿・文芸評論 春日川諭子「においの描写から考える『悲の器』の女性像」
・俳句 兼平玲子「世界で二番目の街」/  川柳 澤瀬海山「天動説」/  エッセー 4編
・85号合評会から
・投稿 あの日あの時7編
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同誌、年2回の発行で、毎号、作品の公募を行っているそうです。
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「小説・戯曲・文芸評論」の3部門だそうですが、小説の応募が大多数。今号では応募総数27篇で、内訳は小説21篇、戯曲と文芸評論が3篇ずつ。各部門で優秀作を選ぶわけではなく、3部門を通観して優秀作を選ぶ形で、今回の受賞(優秀作2篇、入選2篇)はすべて小説でした。どうもこのところ小説のみ選ばれているようです。

受賞作決定の際の『岩手日報』さん記事はこちら

で、優秀作の一つ、瀬緒瀧世氏の「fantome(ファントーメ)」。昭和20年代前半の花巻と郊外旧太田村を舞台とし、光太郎も登場します。タイトルの「fantome」はエスペラント語だそうで、英語の「fantome(ファントム)」からの派生でしょうが、名詞ではなく形容詞のようです(あえて細かな訳は載せません)。

主人公である10歳の少女・シズ江は、他の人間には見えぬそこにいるはずのない人が見え、さらに会話もできるという特殊能力の持ち主。そこで、「fantome」です。ちなみにその力のない普通人も、シズ江と手をつなげば同じことができるという設定です。

シズ江はその力で、光太郎の山小屋で「蒼白い顔をした女」と、花巻まつりの夜に花巻上町通りで「季節外れの黒いコートを着た男」を見、会話をします。そしてシズ江と手を繋いだ光太郎も……。光太郎ファンの皆様には、それぞれ誰なのか、言わずもがなでしょうね。

選評に次のようにありました。

高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。

たしかに「幻想的」。一歩間違えば「荒唐無稽」に陥るところですが、その一歩を間違っていません。ただし、一点、史実と異なるところがあり(一昨年刊行されたある書籍に同じ誤りがあり、どうもその書籍を参考にされてしまったようで)ますが、いたしかたありますまい。

当方、いただいてしまいましたが、オンラインでの購入も可能です(最上部リンク参照)。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀座の辻村農園にてダリアの球根を選び荷造を叮嚀にして直接農園より御送附いたすやう依頼致し候 球には皆それぞれ名称を附するやうたのみ置き候

大正9年(1920)4月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

明治期創業の「辻村農園」は神奈川県小田原市にあり、この頃、東京にも売店を設けていました。そこで買い求めたダリアの球根を、福島の智恵子の実家に送りました。福島では珍しい花で、近隣の人々が長沼家の庭にずいぶんと見に来たそうです。

グルメ系で2件。それぞれかつて光太郎が自分で調理したりしたメニューを元に、現代風の料理にアレンジしての取り組みです。

まずは富山県高岡市から。

地元を中心に演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子氏が、ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっていますが、今月(5月)から花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に、「光太郎ランチ」の日も設定なさっています。

今月(5月)は1回のみの実施でしたが、ご好評だったということでしょう、来月(6月)は3回に増えました。
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一昨年、やつかの森LLCさんで刊行された「光太郎の食卓カレンダー」のうちの1食分を参考に作られるそうです。

それから岩手。本家のやつかの森LLCさんの活動です。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店で、こちらも今月(5月)からやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」という名で参入なさっています。
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6月は15日(木)に「こうたろうカフェ」。
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山菜の「ミズ」の語が2回。旬なのでしょう。正式には「ウワバミソウ」という名です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。
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    山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり001
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

カラー画像は昭和21年(1946)、光太郎が描いたスケッチ、モノクロ画像はそれを元に描かれ翌年の雑誌『婦人公論』第31巻第6号に詩「山菜ミヅ」と共に載ったものです。下の方は鶴首南瓜です。

さて、富山光太郎ランチ、花巻こうたろうカフェ、お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたの本を昨日うれしくおうけとりしました あれは雑誌に出たときも愛読したものです 世間でも認めてゐるやうですがあれは全く今の文学壇には珍らしいものです 事件でなしに生活が書かれて居ます あれをよむものは必ずあなたのこころのひゞきをうけとります そしてそのひゞきは人を脅かすものでなくて人をあたためるもの清めるものです 私は此をよみながらいくど微笑しいくど遠くを望み見たかしれません 私のやうに悪の分子の多いものにとつて斯ういふものは実に貴いものに思はれます 実際此をよんであなたを敬愛せずに居られる人が此世にあるだらうかと思はれます あなたに対する私の愛をどうか心からうけとつて下さい


大正9年(1920)3月30日 室生犀星宛書簡より 光太郎38歳

あなたの本」はこの月、新潮社から刊行された犀星の小説『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』。何だかほめ殺しに近いような手放しの賛辞ですね。

犀星と光太郎の関係は、なかなかに複雑です。犀星、昭和4年(1929)には光太郎をして「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。」(『天馬の脚』)と書いていたのに、光太郎歿後には「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」(『我が愛する詩人の伝記』)。

残された書簡によれば、互いの母親が亡くなった際にはそれぞれ衷心からのお悔やみ、励ましなど交わしていたようなのですが……。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるものです。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「筍御飯」「若布御飯のおにぎり」「ほっけ焼き」「独活(うど)の天ぷら」「ほうれん草のおひたし」「豚肉とうるいの炒め」「切り干し大根酢醤油」「煮小豆」「塩麹卵焼き」だそうです。筍やら山菜やら、季節柄、という感じですね。

同じくやつかの森LLCさん、地元季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回となり、代わって新しい取り組みを。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご参加を始められました。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで、月イチで「こうたろうカフェ」を出店されるとのことです。
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この日(5月16日)のメニューは「ホロホロご飯」「生ハムと彩り野菜のガレットロール」「春キャベツの肉巻きソテー」「ボストンビーンズ」「長芋の夏みかん皮のせ」「ワラビの和え物」「ふわとろ玉子スープ」「スフレフロマージュ」「カフェドシトロン」。やはり光太郎ゆかりのメニューだそうです。
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こじゃれた感じですね。

平日の昼間だったにもかかわらず、開店してまもなく用意した28人分が完売だそうで、驚きました。

さらに店内に展示もなさったようです。
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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)附近の風景等でしょう。

それから、先述の『花巻散歩マチココ』さん。
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5年間、34回の連載が終わってしまったのは残念ですが、新たなる「こうたろうカフェ」の船出にエールを送りたいと存じます。

さて、こうした活動が遠く富山県にも飛び火しています。『花巻散歩マチココ』さんの「光太郎レシピ」を元にした「光太郎の食卓カレンダー」が、一昨年、やつかの森LLCさんから発売され、お買い求め下さった茶山千恵子氏(富山県ご在住、彼の地で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている方)が、ここに載っているレシピを元に「光太郎ランチ」。

茶山氏、大学の家政科で食物栄養を専攻されたそうで、料理の腕前もプロフェッショナル。ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっています。その一巻として、本家のやつかの森LLCさんから許可を取られ、5月14日(日)に第一回を開催されたとのこと。
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下記が元ネタの「光太郎の食卓カレンダー」当該ページ。
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来月以降も月イチで継続して下さるそうですし、光太郎に関するレクチャーや、さらに今後、朗読もなさりつつ、といった御計画のようで、ありがたいかぎりです。

こうした輪がさらに広まって行くことを願って已(や)みません。

【折々のことば・光太郎】

無題例の彫刻会の趣意書漸く出来いたし候間 別封にて御覧に入れ申候 かやうな事の勝手わからぬ為め閉口いたし居候 何卒よろしく御声援被下候様お願申上候 自分の思ふまゝなる製作に没頭しながら 相当の生活の資を得る事如何に困難なる今日かと常に歎じ居候 今度の会に若し或る端緒を得ば むしろ異常の幸福とおもはねばなるまじく それすら甚だ覚束なき心地いたし居候


大正6年(1917)11月11日 与謝野寛宛書簡より 光太郎35歳

例の彫刻会」は「高村光太郎彫刻会」。スポンサーを募り、彫刻を頒布する会です。これで資金を得、アメリカで個展を開くという計画がありましたが、結局入会者が少なく頓挫してしまいます。

それでもこれを契機にブロンズの「手」、「裸婦坐像」、「腕」などの秀作が産み出されました。

昨日全国公開開始の映画「銀河鉄道の父」。早速拝見して参りました。宮沢賢治の父にして、光太郎と親交の深かった政次郎を主人公とするものです。
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原作は門井慶喜氏の直木賞受賞作。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)には文庫化も為されています。

原作では、光太郎は名前がちらっと挙げられている程度で、大正15年(1926)12月の賢治と光太郎の出会いは省略、賢治が没した直後で物語が終わるので、その後の政次郎ら一家と光太郎の交流も描かれていません。映画でも光太郎は登場しませんでした。「家族のドラマ」に焦点を当てていますので、賢治の交友関係などは元々あまり描かない方針だったようです。他の賢治もので必ずといっていいほど触れられる保阪嘉内藤原嘉藤治なども登場しません。

ただ、光太郎と親しく交わった宮沢家の面々の物語ということで、興味深く拝見しました。
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この中で、賢治の妹・トシと祖父・喜助は光太郎と面識はありませんでした。
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この写真では、左端が政次郎、一人置いて光太郎、その後の中腰が清六、右から二人目がイチです。トシよりさらに下の妹のクニとシゲ(どちらも映画にちらっと登場)も写っています。

光太郎の右のチョビ髭は、賢治主治医でのちに光太郎が花巻郊外旧太田村に移る直前に1ヶ月厄介になった佐藤隆房。映画では益岡徹さんが演じられていました。
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公式パンフレット(880円)も購入。賢治の『春と修羅』をモチーフにしたデザインです。
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この中に「宮沢家ゆかりの花巻マップ」というページがあり、「雨ニモマケズ」詩碑は光太郎の揮毫である旨の記述。
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光太郎揮毫といえば、賢治没後を描いた映画のラスト近く、光太郎が装丁した文圃堂版『宮沢賢治全集』が政次郎の元に届き、それを手にとって読むシーンがありましたが、背の文字、光太郎の筆跡に似せて作られていました。
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花巻といえば、花巻でも当然ロケが行われています。
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しかし、宮沢家の店舗や住居、花巻の街並みなど多くのシーンは、岐阜県恵那市の岩村地区で撮影されていました。
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こちらは旧中山道の宿場町で、当方の住む千葉県香取市佐原地区同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

当方、一度、こちらの街並みを歩きました。このブログを始める前の平成21年(2009)でしたので、ブログ内にレポートは存在しませんが。街並みが尽きて、岩村城に上がっていく山の麓の辺りに、「浅見与一右衛門銅像」が現存します。現在あるものは、戦時中の金属供出を経ての二代目で、この辺り出身の彫刻家の作。しかし、供出された初代の像は大正7年(1918)、光雲の代作として光太郎が作ったものでした。初代の台座は現在も残っています。二代目の像も初代の像を模して作られたようです。

岩村でのロケが行われたということは公式サイトで事前に知っておりましたので、なるほどねと思いつつ拝見しました。

それにしても、原作の小説もそうでしたが、役所広司さん演じる政次郎の親バカぶりが何ともすごいものでした。また、菅田将暉さんの賢治の駄目息子ぶりも。原作でも賢治最晩年の東北採石工場勤務の件はカットされていましたが、映画では花巻農学校の教壇に立っていたこともスルー(羅須地人協会で農民に講義をしているシーンはありましたが)。まぁ、2時間ほどの尺の中でまとめなければなりませんし、ニートとして描いた方が賢治の駄目っぷりが強調されるような気はしました。しかし、コアな賢治ファン、中に少なからず存在するであろう神格化に近い賢治信奉者の人々にからは批判が起こるような気もします。

何はともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

この間はお忙がしい中をおいで下さつて恐入りました それに又美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別にあなたにお礼を申さねばならない様な気がします


大正3年(1914)12月27日 柳八重宛書簡より 光太郎32歳

柳八重は光太郎の親友の画家・柳敬助の妻にして、日本女子大学校での智恵子の先輩。明治44年(1911)、智恵子に光太郎を紹介する労を執ってくれました。

この間」は12月22日、上野精養軒で開催された光太郎智恵子の結婚披露宴です。この日は真冬の関東にしては珍しく、豪雨でした。これから始まる二人の結婚生活(それ以前から同棲はしていたようですが)の行く末を暗示している、などと書くと恣意的な解釈をするな、と言われそうですが。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市に行っておりました。

まずは花巻市郊外で現地調査。昭和25年(1950)に光太郎が文字を揮毫した墓石の探索でした。この年の光太郎日記は大半が失われており、その詳細が不明でした(郵便物の授受を記録したノートは残っており、そこにちらっと記述がありまして)が、昨年12月に国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムが大幅にリニューアルされ、自宅兼事務所に居ながらにして、これまで得られなかった大量の情報が手に入るようになり、墓石銘当該人物の出身地が判明しました。さらに他のサイトで、当該人物の血縁とおぼしき方々がその地区にまだ住んでらっしゃることも判明。雲をつかむに近い話ではありますが、無駄足覚悟で行ってみました。新花巻駅からレンタカーです。

戦後の7年間、光太郎が暮らした旧太田村もかなりの寒村で現在もそんな感じですが、この地区も同じような佇まい。よそ者が車を駐めて歩いていると目立つ、というか、当方のような人相の悪い男がうろうろしていると、物騒な昨今、不審です。お庭で何か作業をされていた年配のご婦人に「何かお探しですか」と声を掛けられました。そこで「これこれこういうわけで……」と説明し、光太郎に墓石の揮毫を依頼した人物の名を挙げると、「ああ、その方はもう亡くなってますけど、そのお宅でしたらひと山向こうのこの辺で……」と、詳しく教えて下さいました。

教えていただいた通りにレンタカーを走らせ、ここだろう、というお宅で呼び鈴を鳴らし、出ていらしたご婦人に「かくかくしかじかで……」と言うと、ご主人を呼んで下さって、「ああ、そのお墓でしたらあそこですよ」。指さされた数百メートル先の小高い山頂に共同墓地。「分かりにくい場所なので案内しましょう」と、軽トラを出して下さり、当方はレンタカーでついていきました。最初のご婦人にしろ、このご夫婦にしろ、何とも親切な方々で……。

車を駐めてご夫婦の後について山道を上ると、共同墓地。そして二基の墓石が、まごうかたなき光太郎の筆跡で、光太郎の遺した記録と一致しました。感無量でした。長時間探したあげく結局見つからず、という事態も覚悟していたのですが、とんとん拍子に見つかったのは、奇跡的でした。光太郎や、墓石に眠る方々のお導きなのか、という気もしました。二基の墓石に眠るお二人、それぞれ太平洋戦争で亡くなっています。お一人は軍人で、抑留されていたシベリアで最期を迎えられたことが墓石側面に記されていましたし、事前に得ていた情報とも一致しました。もうお一方は「軍属」と記されていましたが、そちらはいつどこで亡くなったか何も書かれていませんでした。

ご夫婦、これが光太郎の書いた文字だということは御存じではありませんでした。ただ、依頼した人物(お墓に眠るお二人の父君)の昔の日記が残っているというお話でしたので、そこに経緯が記されているかも知れません。

持参した香を手向け(最初に案内していただいた時には興奮のあまり忘れていたのですが、レンタカーにとってかえし、ボストンバッグから引っぱり出しました)、合掌。

ちなみに、茨城取手山形米沢と、これで記録に残る光太郎揮毫の墓石すべての所在が分かりました。まだ同様の例で記録が確認できていないものがあるかもしれませんが。

その後、旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。

山荘前のかつて光太郎が自耕していた畑の跡には水芭蕉が咲き誇っていました。
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千葉の自宅兼事務所ではとっくに散ってしまった連翹も。
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久しぶりに、山荘裏手の智恵子展望台に上ってみました。冬期は積雪のため行くことが出来ません。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さん。
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こちらでは企画展「山口山の木工展」が開催中。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や宮沢賢治の世界を表した木工作品の展示です。「山口山」というのは、この辺りの低山の総称です。
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光太郎、そして賢治ワールドのとにかく楽しい作品がいっぱいです。
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しかもモーター仕掛けで動いているものも。
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光太郎も動いて藁を打っていました(笑)。
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やじろべえ。絶妙のバランスで静止しています。
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ダム湖の流木でつくられたという鹿。
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どの作品も木ならではの温かみにあふれ、光太郎も絶賛するのでは、という気がしました。

拝観後、市役所の方に今年度の展望等報告を受けました。そしてお土産。
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最近流行りの缶バッヂです。これもいい感じですね。

記念館をあとに、宿泊させていただく大沢温泉さんへ。
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チェックイン後、旧菊水館のギャラリー茅へ。以前は宿泊棟で、当方、こちらに泊まることが多かったのですが、平成30年(2018)の台風でこちらに通じる橋が車で通行できなくなり、宿泊棟としては休業。その後、手前の棟をギャラリーとして活用していたのですが、さらに茅葺き部分の棟も完全に展示スペースに改装。宿泊棟としての使用はあきらめたようです。その点はちょっと残念ですが……。
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こちらでは「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」が開催中です。鈴木敏夫氏は、スタジオジブリさんの代表取締役プロデューサー。大沢温泉さんファンとのことで、この展示が実現しました。集客になるならこれもありかな、と存じます。
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まっくろくろすけ、本物が一匹くらい混じっていてもわからないでしょう(笑)。
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茅葺きの棟、天井板が取り払われて、下から茅葺きの裏側が見えるようになっていました。
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手前の棟の貴賓室的な部屋はそのままに残されている部分も。おそらく光太郎、このあたりの部屋に泊まったと思われます。当方も二度、泊めていただきました。

茅葺きの棟も、露天風呂に面した窓側には宿泊棟時代の名残。
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この手の部屋にはさんざん泊まりました。もう泊まれないのかと思うと、やはり寂しいですね。

屋根も山側はトタン葺きになっていました。
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部屋に戻り、温泉に浸かって、夕食は自炊部内の食事処やはぎさんでいただきました。

というわけで、花巻高村光太郎記念館さん「山口山の木工展」、大沢温泉さん「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」、それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

まだ山に居りましたが、この一日には下山いたす筈になつて居ります。

大正2年(1913)9月29日 窪田空穂宛書簡より 光太郎31歳

」は、8月上旬から10月にけ、滞在していた上高地です。9月には智恵子も光太郎を追ってやって来、ここで二人は結婚の約束を交わしました。窪田は智恵子と入れ替わりに下山しています。

この葉書、『高村光太郎全集』等未収録の新発見ですが、神保町の玉英堂書店さんが売りに出しています。

昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今年2月、宮沢賢治令弟・清六氏の令孫たる宮沢和樹氏との公開対談以来、2ヶ月ぶりです。宿泊は例によってなのですが、大沢温泉さん。
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昨日は花巻市の郊外で現地調査をし、夕方、高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。企画展「山口山の木工展」を拝見しました。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や賢治の世界を表した木工作品の展示です。
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このブログ、いつもは旅先からですとスマホでの投稿で、入力が面倒くさく(タブレット買えよ、という話ですが(笑))、ここいらで「詳しくは帰りましてからレポートいたします」で終わりにしているのですが、今日は別。

とにかくここのところ、取り上げるべき事項が大杉栄、もとい、多すぎでして、花巻がらみの新情報、今日のうちにご紹介してしまいます。

まず、「山口山の木工展」につき、花巻市さんの方で動画が作成され、公開されています。


ぜひご覧の上、足をお運び下さい。

もう1件、もう先週になりますが、やはり花巻市さんよりこんな冊子を戴きました。
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題して『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』。

光太郎が亡くなる2ヶ月前の昭和31年(1956)に語った談話筆記「花巻温泉」の全文と、その英訳が載せられています。さらに光太郎が花巻にいた前後の画像などがふんだんに使われ、理解の手助けとなっています。下記は、ここ、大沢温泉さんのページ。
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制作されたのは、花巻市の地域おこし協力隊で活動されている森川沙紀氏。2月の宮沢和樹氏との公開対談にいらっしゃいまして、お近づきにならせていただきました。

A5判47ページ、なかなかの労作です。奥付画像を貼っておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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さらにもう1件。4月19日(水)付の『岩手日報』さん記事。

「北の文学」第86号優秀作が決定

 岩手日報社発行の文芸誌「北の文学」第86号の優秀作は、宮城県富谷市の瀬緒瀧世さん(38)=花巻市ゆかり=の小説「fantome(ファントーメ)」、横浜市の谷村行海さん(27)=盛岡市出身=の小説「どこよりも深い黒」に決まった。
 瀬緒さんの作品は、宮沢賢治の家族を頼り疎開していた高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。初めての応募での受賞となる。
 谷村さんの作品は、俳句に打ち込む男性と結婚が気になる年上の彼女との心模様を展開。安定感のある文章力で、若者の世界を軽やかに繰り広げた。応募は11回目。76号で初入選し、これまで7回入選している。
 応募は小説21編、文芸評論3編、戯曲3編だった。事務局の予備選考を通過した小説9編、文芸評論1編を最終候補として選考会を開催。編集委員の鈴木文彦さん(東京都、盛岡市出身)、久美沙織さん(長野県、盛岡市出身)、大村友貴美さん(横浜市、釜石市出身)の合議で優秀作2編、入選作2編を選んだ。
 優秀作には賞状と賞金10万円を贈り、入選作とともに5月発行の「北の文学」86号に掲載する。
 入選作は次の通り(敬称略)。
 ◇小説▽「トマト祭り」森葉竜太(47)=山田町▽「卯年炭」咲井田容子(48)=埼玉県越谷市、山田町ゆかり

両親が花巻出身の縁
 瀬緒瀧世さんの話 久しぶりによいお知らせをいただいた。両親が花巻出身で、小さい頃よく遊びに行っていた。高村光太郎や宮沢賢治は身近な存在で、本作は母や祖母から聞いた話が積み重なってできた物語。書き物は読んでいただいて初めて小説になると思う。1年1本を目標に、できれば明るい話を書いていきたい。

実体験を元に書いた
 谷村行海さんの話 選評の指摘をばねに頑張ってきたので、やっと賞を取れてうれしい。句会を含め実体験を基に書いたが、作品にはリアリティーを出したいと思っている。読んだときにちょっとだけ笑えるような、、コメディーよりのものも書いてみたい。この道を勧めてくれた恩師と、毎回作品を読んでくれた父に感謝したい。


というわけで、花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた小説が優秀作に選ばれたそうで、喜ばしいかぎりです。来月、岩手日報社さんから発行される『北の文学』に掲載されるそうで、読むのが楽しみです。

さて、今日は帰りがけ、都内に立ち寄るつもりです。

詳しくは帰りましてから。

グルメ系カテゴリで3件ご紹介します。

まず、毎月恒例、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、今月分。
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毎月、光太郎の日記や書簡などを元に、光太郎が作ったメニュー、ふるまわれた料理、使った食材などを現代風にアレンジしたりして詰め合わせたもので、今月のメニューは、「ひえ・麦ごはんのおむすび」「にら玉炒飯」「ニシンとスルメの柔らか煮」「ソーセージ」「卵豆腐」「コーンと青豆のバター炒め」「ふきのとうの酢醤油」「桑茶ゼリー」「お新香」。盛りだくさんですが、桑茶は血糖値を抑える効能もあるそうで、ヘルシーですね。

ところで、メニュー考案に協力されているやつかの森LLCさん。季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回だったそうです。最終回っぽい文言があるな、と思っていたら、その通りでした。5年もの長い間、お疲れさまでした。

代わりに、というわけでもないようですが、新しい取り組みとして、花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」に「光太郎レシピ」を使って参戦なさるそうです。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで。詳細がわかりましたらまたご紹介します。

そのやつかの森LLCさん編集の冊子が発売されました。『KOTARO CAFE 高村光太郎の食卓―おやつ編―』。
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昨秋から先月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の際、会場で無料配付していた冊子をきちんと製本したものです。A5判並製、20ページで頒価500円。

前半は光太郎智恵子が食した「おやつ」的なものについて、残された文献等からわかることを当方がまとめました。
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後半は「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、会場内の展示パネルの解説文を転載。
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ご入用の方、やつかの森LLCさんまでご連絡ください。

紹介すべき事項が多く、やはり「食」でもう1件。全国学校給食会協会さん発行の月刊誌『学校給食』の2023年5月号
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当会の祖・草野心平の故郷、福島県いわき市の小学校教諭・田島裕司氏の寄稿で「高村光太郎の詩のように」という記事が掲載されています。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を引きつつ、勤務校で取り組まれてきた「虹色スマイルプロジェクト」(コロナ禍で頑張る医療従事者を光で応援することから始まった取り組み)、いわき市にある古刹・白水阿弥陀堂の台風による浸水被害への支援などを紹介されていて、あまり「食」には関わらない感じでしたが。「道程」がらみの部分のみ、下に。
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「給食」ということで、「食事中の会話制限」というお話にもなっていました。ようやくコロナ禍も落ち着いてきた感があり、そうした制限も緩和されつつあるのではないかと思われますが、昨日あたりは「第九波の懸念」などといった報道も為されており、まだまだ予断を許しませんね。

そんな心配もなく、「食」を自由に満喫できる日が遠からずやってくることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

私はものを避けるのはイヤです 何にでも正面からぶツかつて行きたうございます 常にさう心懸けて居るのでございます


大正2年(1913)1月8日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

「道程」の書かれるほぼ1年前。既に「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」的な精神が感じられますね。

この書簡では、光太郎との交際に難色を示していた智恵子の郷里の人々の様子を教えてほしい、逃げずにぶつかるから、的なことを、智恵子の妹・セキに宛ててしたためています。

















花巻高村光太郎記念館さんでの企画展が始まります。

山口山の木工展

期 日 : 2023年4月20日(木)~5月15日(月)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

高村光太郎は、高村山荘の裏山一帯を山口山(やまぐちやま)と呼んでいました。
奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏。今回は高村光太郎や宮沢賢治をモチーフに取り入れ、山口山(高村山荘周辺)の木材を一部使用した作品を展示します。

(2)展示作品
 ・高村光太郎と智恵子をイメージした壁掛けオブジェ
 ・高村光太郎の山小屋暮らしをイメージしたカラクリオブジェ
 ・セロ弾きのゴーシュをモチーフとした楽器のカラクリオブジェ
 ・宮沢賢治をモチーフとしたやじろべえ
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以前はこうした地元の作家さんなどの作品展示は、敷地内の「森のギャラリー」(旧高村記念館)で行われていましたが、企画展示室を使うのですね。

あたたかみあふれる木工作品、いい感じのようです。当方、今回は関わっていないのですが、月末には拝見に行って参ります。皆様も是非どうぞ。

花巻高村光太郎記念館さんとえば、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)で、光太郎忌日・連翹忌の4月2日(日)、地元の方々が光太郎を偲ぶ詩碑前祭を行って下さいました。光太郎顕彰にあたっているやつかの森LLCさんのサイトから、画像をお借りしました。
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以前、公開で行われていた市街松庵寺さんでの光太郎法要は、非公開でお寺さんとして執り行ったそうです。

4月2日(日)といえば、智恵子の故郷・二本松でもイベントがあったとのこと。直接、光太郎智恵子とは関わらないのですが、二本松に「さつき山公園」というのがあり、そのオープニングイベントだそうで。

「風信子(ヒヤシンス)」さんという歌い手さんのユニットがステージに立ち、「本当の空を忘れないで」という歌などをご披露。YouTubeに動画が上がっています。


「本当の空」は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」由来なのでしょう。動画キャプションに「2023年4月2日に二本松市さつき山公園で開催されました「さつき山公園まつり」で歌わせて頂きました。4月2日…高村光太郎さんの連翹忌(レンギョウキ)に、智恵子さんが愛した二本松の本当の空の下で、光太郎さんが愛したレンギョウに囲まれて歌わせて頂きましたこの日を一生忘れません。」とありました。

ありがとうございました。

【折々のことば・光太郎】

私はあなたの大事なお姉様を如何なる場合でも傷つけることはございません 世の中に伝はつてゐるきたならしい噂をも耳にはして居ります しかしそれに対しては 噂をする者等こそ自身を愧ぢよとおもつて居るばかりでございます


大正元年(1912)10月7日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。どうも結婚前の光太郎智恵子の良からぬ噂を耳にし、光太郎を問い詰める的な手紙を送った、その返答のようです。

地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。

見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】

 花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
 研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
 参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
 このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
 研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
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毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。

新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。

続いて『上毛新聞』さん。

《ぐんまヒストリー》赤城山 信仰の山が人気行楽地に

 季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
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 富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
 当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
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 大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
 戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
 大沼にはスケート場が最大8面作られ、団体客でにぎわった。夏はカップルが湖面にボートを浮かべ、氷室に保管しておいた大沼の氷で作ったかき氷も好評だったという。
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 スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
 入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
 赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。

歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
 大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
 県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
 釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。

上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。

昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。

明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。

平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
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どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね


大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生木村荘八斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。

テレビ放映情報です。

業の花びら 〜宮沢賢治 父と子の秘史〜

NHKBSプレミアム 2023年3月24日(金) 23:00〜00:30

宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。なぜその詩だったのか。ディレクター今野勉が迫る「賢治・もう一つの顔」。

岩手県花巻市郊外に建つ、詩人・童話作家の宮沢賢治の記念詩碑。碑文は有名な「雨ニモマケズ」だが、賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという。なぜ「業の花びら」だったのか。賢治の素顔を追い続けてきたディレクター今野勉は、賢治の“業”への強いこだわりに注目。対立の最中に父子で出かけた関西旅行、“業”をテーマにした童話「二十六夜」の謎に迫る。今明かされる、賢治・もう一つの顔。

【語り】森田美由紀
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今年は賢治の没後90周年ということもあり、いろいろあるようです(余談ですが、今度の土曜日から東北新幹線新花巻駅の発車メロディーが賢治作曲の「星めぐりの歌」になるそうです)。テレビ番組でも再放送を含め、賢治がらみが放映される頻度が高いように感じています。

今回は新作で、深夜ではありますが1時間半の特番。光太郎が碑文を揮毫し、昭和11年(1936)、花巻の羅須地人協会跡に除幕された「雨ニモマケズ」碑の関係です。となると、光太郎の名も出てくるのでは、と期待しております。

ただ、メインは賢治の父・政次郎が推したという「業の花びら」。大正14年(1925)の作だそうです。

光太郎も編集等に携わった文圃堂書版『宮沢賢治全集』(昭和10年=1935)から。
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「賢治」といえば「異稿」。この詩にも異稿が存在します。

光太郎が「玄米四合の問題」を寄稿した雑誌『農民芸術』第3号(昭和22年=1947)から。
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さらに賢治の主治医だった佐藤隆房の子息にして花巻高村光太郎記念会理事長であらせられた故・佐藤進氏の『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)から異稿の画像。
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ところで、同書に依れば、詩碑に刻む詩の選択に関しては、以下のように記されています。

 ここでどの詩を選ぶべきかが大きな問題となりました。盛岡の賢治の会では、「業の花びら」が最もよいと主張し、父(註・佐藤隆房)らは「業の花びら」は詩としてはよいが、難解な点もあり、詩人ばかりでなく一般の人にも、わかりやすい詩が望ましいと考えました。
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 このとき、賢治さんの父の政次郎さんは、賢治さんが手帳にかきつけてあった、「雨ニモマケズ」がよいと言いました。熟読してみて、この詩はただの文学詩というのではなく、賢治さんの心からの自戒の精神が盛り込まれたもので、いうなれば賢治さんの精神の結論とも思われる感銘深いものです。父は政次郎さんの説明に深い共感を覚え、個人としてもまた建設委員長としても、この「雨ニモマケズ」が最適であると主張しました。


番組説明にある「賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという」とは趣が異なりますね。まぁ、進氏の記述も聞き書きなわけで、それが絶対かというとそうも言い切れません。

とにかく番組を拝見してみようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ジエントルマン流でゆけば是非とも直ぐに御答礼の訪問をしなけれやならないのだがこゝは ひとつゼニトルマン流に略して手帋を以て失礼ながら御礼を申上げました。何卒あしからず。


明治43年(1910)11月7日 白瀧幾之介宛書簡より 光太郎28歳

光太郎には珍しく、オヤジギャク炸裂の書簡です。相手が気の置けない留学仲間・白瀧幾之介だったためでしょう。「帋」は「紙」の異体字です。

それにしても「ジェントルマン」→「ゼニトルマン」というダジャレ、明治時代に既にあったのですね(笑)。

定期購読しております『花巻散歩マチココ』さんの34号が届きました。

表紙はマルカン大食堂さんの名物・10段ソフトクリーム。「実物大」だそうで(笑)。
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創刊より6年を経て、次号から版元が変わり、内容も刷新されるそうです。それに伴い、今号はこれまでのクロニクル的なページも多く割かれていました。
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そういえば、光太郎をかなり大きく取り上げて下さった号(第6号)もあったなぁ、という感じでした。

連載の「光太郎レシピ」。
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「ゼンマイの白和えと三色あられ」です。
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レシピ下部にはレシピ考案にあたられているやつかの森LLCさんのひと言。何だか最終回っぽい文言で、次号からのリニューアルでこの連載も無くなるのかな、と思ったのですが特に「最終回」という文言は見あたりません。確認してみます。

もう1件、同じくやつかの森LLCさんメニュー考案の「光太郎ランチ」。毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで販売されています。

今月分の画像を頂きました。多謝。
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メニュー的には「赤飯」、「そば粉焼パンスルメ入り」、「牛肉の味噌焼き」、「油揚げ焼き」、「大根と夏みかんのサラダ」、「金平ゴボウ」、「塩麹入り卵焼き」、「お新香」、「レモン紅茶寒とおさつ焼き」。個人的には「レモン紅茶寒」が非常に気になります(笑)。

先月はたまたま15日に現地におりましたので、2食分ゲットして千葉の自宅兼事務所に持ち帰り、妻と頂きました。また機会があればそうしようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

よか楼が落成した。このごろに一緒にたべに行きませんか。僕はあそこを休憩のCozy Cornerにしたいと思つてる。

明治43年(1910)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎28歳

よか楼」は、浅草雷門前にあったカフェーです。現代のカフェとは異なり、酒を供し、美人の女給が居るというのが売りで、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場にも使われました。
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吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は「よか楼」の女給「お梅」に入れあげるようになり、一日に5回も足を運んだりもしたそうです。ほとんどストーカーですね(笑)。「お梅」が他の客のテーブルにかかりっきりになっていると、キレて暴れたりもしたとのこと。しょうもない奴でした(笑)。

「よか楼」は新聞に女給の写真入りの広告をたくさん出し、それが人気を呼んだそうです。すると、「お梅」の写真が載った広告も出たのかな、と思っており、調べてみようと思います。現在のところ、「お梅」と特定できる写真を確認できていませんので。光太郎がどんな顔立ちの女性に惚れたのか、興味があります。それを言えば、河内楼の若太夫も写真が確認できていませんが。

下記は新聞ではなく『東京大正博覧会』(大正3年=1914)のパンフレットに載った広告。もしかするとこれが「お梅」かもしれませんが、名前が出ていません。新聞に何度も出たという広告もこんな感じで名前は出さなかったのでしょうか。そうでないことを祈ります。
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それにしてもこの時代に「Cozy Corner」(憩いの空間、的な)という語をさらりと使うあたり、いかにも光太郎です。

今日、3月13日は光太郎の誕生日です。満140年ということになります。

それを記念して、岩手県内の一部郵便局で今日販売が始まるオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」が、花巻市に贈呈されました。

地方紙『岩手日日』さん。

光太郎生誕140年を記念 フレーム切手13日から販売 花巻

 日本郵便東北支社は、生誕140年を迎える花巻ゆかりの先人・高村光太郎を題材としたオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を作製した。切手には光太郎の写真をはじめ、高村山荘、詩碑や彫刻などの写真がデザインされ、花巻市内や近隣市町の郵便局で、光太郎が誕生した13日に販売を開始する。  
 生誕140年の節目に、光太郎と花巻を広くPRしようと制作。日本郵便が、市と高村光太郎記念会、光太郎の顕彰団体「やつかのもりLLC」と協力してデザインした。
 表題には光太郎が長年過ごした高村山荘の写真と、光太郎と妻智恵子のキャラクターを使用。切手は光太郎本人がトマトを手入れする姿や冬の高村山荘、山荘で初めて迎えた冬に生まれた作品「雪白く積めり」の詩碑などの写真を採用した。
 台紙には、光太郎がデザインした山口小学校の校章や同校に贈った校訓「正直親切」、地元の子供たちと写真を撮るサンタクロースに扮(ふん)した光太郎の写真など、花巻で過ごした日々が紹介されている。
 10日には市役所でフレーム切手の完成披露が行われ、上田東一市長は「素晴らしい切手を発行してもらい市民も喜ぶと思う。改めて注目する機会になる。ありがたい」と感謝。日本郵便県西部地区連絡会統括局長の齋藤一志水沢大町郵便局長は「光太郎は宮沢賢治が世に広まるきっかけとなった人物。切手の発行に合わせて光太郎の人柄などにも触れるきっかけになれば」と述べた。 フレーム切手は1シート1690円(税込み、84円切手×10枚)で、計700シートを発行。13日から花巻、北上、奥州、西和賀、金ケ崎各市町の70局、15日からインターネットで販売する。
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同じく『岩手日報』さん。

高村光太郎との縁、切手に 日本郵便東北支社、生誕140年で発売

 日本郵便東北支社(仙台市、小野木喜恵子支社長)は13日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念したオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を発売する。
 花巻市役所で10日に贈呈式を行い、同市や奥州市の郵便局長らが出席。県西部地区連絡会統括局長の斎藤一志(ひとし)水沢大町郵便局長が上田東一花巻市長に切手シートを手渡した。
 1シート1690円で、84円切手10枚がセットになっている。同市で7年間過ごした高村の農作業姿や暮らした山小屋(高村山荘)、自筆の詩などの写真を用いた。
 花巻、北上、奥州、金ケ崎、西和賀の5市町の70郵便局、日本郵便のウェブサイトで700シート限定で販売する。
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オンラインでの販売は明後日からだそうです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

例の彫刻は出来た相だな。つひ忙がしいので御無沙汰してゐる。僕は四月の中旬に関西へ出懸る。 店はまだ出来ぬ。いつかの子供の首を鋳金にして呉れないか。鋳金料は報知次第早速御届けする。 その内、君の画や何か借りに出懸ける。

明治43年(1910)3月27日 荻原守衛宛書簡より 光太郎28歳

留学仲間で親友だった碌山荻原守衛に宛てた葉書から。
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例の彫刻」は守衛の絶作にして代表作「女」、「いつかの子供の首」は、前年に守衛が制作した塑像「小児の首」。「店」は翌月開店した神田淡路町の画廊・琅玕洞。光太郎は実弟の道利を名目上の店主にします。当初予定では守衛の個展を開いたり、そうでない時にも守衛作品をバンバン売る予定でした。

ところが光太郎が「四月の中旬に関西へ出懸」けているうちに(4月22日)、守衛は急逝してしまいます。

『週刊朝日』さんの3月17日号、作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」の中に、光太郎の名。
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ときめきは前ぶれもなく 岩手に惹かれる

 二月二十七日の朝日新聞夕刊によれば、NYタイムズ「今年行くべき五十二カ所」で、日本の盛岡市がイギリスのロンドンに次いで二番目に紹介されているという。ロンドンは首都で、今年はチャールズ国王の戴冠式などで注目度が高いことはわかる。
 では、盛岡はなぜ? 人口三十万人弱、みちのくの地方都市なのに。日本ではこれまで東京・京都・大阪などが選ばれたのは当然として、なぜ今年選ばれたのか。
 名物のわんこそばに挑戦する楽しさが一つ。「盛岡は人が良く、自然もきれい。ごはんもおいしい」とオーストラリアから来た若い観光客は言う。
 NYタイムズは、盛岡が選ばれた理由をいくつも挙げている。混雑を避けて歩いて楽しめる場所。山に囲まれていくつもの川が流れる豊かな自然がある。盛岡城跡や赤レンガの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的建物が並ぶ。東京から新幹線で約二時間と近い……など。
 盛岡駅そばのジャズ喫茶「開運橋のジョニー」など秋吉敏子さんも演奏する「和ジャズの聖地」。岩手大学近くの「ナガサワコーヒー」。生豆の仕入れと焙煎で評判だ。
 盛岡の魅力を私がつけ加えるとしたら、手織りのホームスパンの生地を織る工房。日本古来のものを受け継ぐ伝統工芸品はあるが、ホームスパンという羊の毛で織った西洋の生地はなんとも手ざわりが良く素朴で暖かい。注文してから時間のかかる生地を、白黒の縦縞模様と濃紫の無地、二着分を織ってもらい、つれあいのジャケットと私のツーピースに仕立てた。四十年前なのに、今も大切に着ている。
 わんこそばでいえば、量で勝負出来ぬ私は、そばに酒をかけて楽しむ酒そばを食べる。講演会の会場の隣にあった不来方城(盛岡城)跡の丘に寝そべった春の日ののどけさ。街はなぜか西洋の香りがしておしゃれである。ここで東京から移り住み、木馬を作っている友人にも出会った。
 JTBが出していた「旅」という雑誌があった。戸塚文子という女性の名物編集長がいて、ある時グラビアと読み物で、母娘旅をして欲しいと言われた。照れ屋の私は母と二人旅などしたくなかったが、母にいちおう聞いてみた。「どこへ行きたい?」
 すると即座に「岩手県」という返事。理由は、宮沢賢治と石川啄木、それに高村光太郎であった。若い頃文学少女だった母は短歌を作り、賢治の詩が大好きだった。
 「参ったなあ」と思いながら賢治の故郷へ。なぜ賢治の作品が西洋風の不思議な世界なのか、その謎が少し解けた。
 欧米の人々が岩手県に惹かれる理由もわかる気がする。光太郎が智恵子なき晩年を過ごした雪深い小屋にも光太郎の詩のノートや、彫刻家として作ったトルソーなどがあった。ここにはどこにもない不思議な世界が広がっている。
 そういえばコロナの初期の頃、陽性者が毎日増え続ける中で、岩手県だけが0を続けていた。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

NYタイムズさんの「今年行くべき五十二カ所」に盛岡が選ばれた件、ある意味、衝撃的でしたね(笑)。しかし、記事にもあるとおり、わんこそばホームスパンなどの名物、赤レンガ伝統館などのたたずまいなど、たしかに素晴らしいものがあります。岩手を「イーハトーブ」とした賢治や、「岩手は日本の背骨」と言い切った光太郎にしてみれば、当然だという感覚かもしれません。

ただ、下重氏、記憶違いをなさっているようで、光太郎にはトルソの作品は現存しませんし、「詩のノート」というのも花巻には無いはずです。一応、指摘しておきます。

ところで、岩手といえば、今号の表紙は女優ののんさんで、東日本大震災にからめた「3.11被災地の歩み 「あまちゃん」放送10周年 のん “私は太陽”自分の魅力を発掘し続ける」という記事がトップでした。言わずもがなですが、「あまちゃん」の主要な舞台の一つが岩手県だったわけで、それに伴い、達増知事へのインタビュー記事「岩手県は自信をもらった」なども掲載されています。
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また、「あまちゃん」や舞台「私の恋人」で共演された、当会会友・渡辺えりさん(来る4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにもご参加予定です)に関する記述も。のんさん曰く「尊敬する大先輩なのに、同じ目線で接してくれる。私がツッコミを入れると、「のんちゃんのバカ!」なんて言う。一緒に映画「レ・ミゼラブル」を見たときには隣で号泣しちゃう。無邪気なところがすてきです

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

先夜木曜のパンの会につひ行きはぐれ大きに残念いたし候。


明治43年(1910)1月15日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

パンの会」は雑誌『方寸』、『スバル』の同人らを中心に起こった芸術至上主義的運動で、石井柏亭、北原白秋、木下杢太郎、そしてこの書簡の宛先である長田秀雄らが中心メンバーでした。光太郎の海外留学中に始められ、帰朝後の光太郎も早速参加しています。

明日、お披露目です。

オリジナル フレーム切手「高村光太郎と花巻」の販売開始および完成披露のお知らせ

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 小野木 喜惠子)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。

このオリジナル フレーム切手は、生誕140年を迎える高村光太郎を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。

商品名 高村光太郎と花巻 
販売/受付開始日 2023年3月13日(月)
販売/受付開始日(Web) 2023年3月15日(水)午前 0時15分
申込受付数 400セット
販売郵便局
 岩手県の花巻市,北上市,奥州市,和賀郡西和賀町,胆沢郡金ケ崎町内の郵便局(70局)
 ※上記地域内の簡易郵便局でも販売する場合があります。
商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚) B5台紙 1枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 セット単位で販売します。
販売価格(税込) 1セット 1,690円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、
   販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

贈呈式
 日 時 : 2023年3月10日(金)午後 1時30分~
 場 所 : 花巻市役所 本庁舎本館2階 応接室
 受贈者 : 花巻市長 上田東一(うえだ とういち )様
 贈呈者 : 水沢大町郵便局長 齋藤一志(さいとう ひとし)
 備 考 : 当日は「完成披露」として実施いたします。
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光太郎肖像が切手になるのは、平成12年(2000)に発行された「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集以来です。
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なお、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。あくまで参加者限定ということで、この切手だけ買いに来るというのはお断り申し上げます。

明日には花巻市役所で上田市長に贈呈式が挙行されるとのこと。報道されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞へ登つたのだ。


明治42年(1909)8月28日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

前月には3年半の欧米留学を終えて帰国した光太郎。留学前に何度も登った懐かしい赤城山に早速行きました。

動画配信を予定しているというので、それがアップされたら一緒に紹介しようと思っていたのですが、遅れていますので、見切り発車です。先月、花巻市で開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の報道を。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎はなぜ岩手・花巻へ? 研究家ら対談、宮沢賢治との関連探る

  詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と宮沢賢治(1896~1933年)とのつながりを考える対談「なぜ光太郎は花巻に来たのか」が14日、岩手県花巻市のなはんプラザであった。
 東京を拠点に顕彰活動をする「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明氏(58)と、賢治の弟清六さんの孫でカフェ林風舎(花巻市)社長の宮沢和樹氏(58)が登壇。手記や作品を基に、光太郎と賢治との出会いや互いの印象を紹介した。
 東京大空襲でアトリエを失った光太郎は1945年、賢治の実家に疎開。防空壕(ごう)をつくるよう助言した。和樹氏は「清六は避難に備えて、賢治の原稿や手紙をまとめた。資料が残っているのは光太郎の助言があってこそだ」と語った。
 同年の花巻空襲で宮沢家が焼失した後は花巻市太田に山荘を構え、7年半の隠居生活を送った。小山氏は、光太郎が戦意高揚の詩を創作したことに触れ「多くの若者を犠牲にさせたことに後悔し、自ら罰を与えたのではないか」と推察した。
 対談は光太郎の生誕140年を記念し、太田地区振興会が主催。市民約200人が参加した。
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続いて『岩手日報』さん。

花巻での光太郎追う 生誕140年記念対談講演会

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は14日、同市大通りのなはんプラザで高村光太郎生誕140年記念事業・対談講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」を開いた。
 約200人が参加。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)を研究する小山弘明さん(58)=千葉県=と宮沢賢治(1896~1933年)の実弟・清六さんの孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が対談した。
 光太郎が宮沢家を頼り同市に疎開し、宮沢賢治全集の出版に助力した逸話などを当時の写真も用いて説明。和樹さんは「光太郎先生が(宮沢家の)自宅に防空壕を設けるアドバイスをしたことで、原稿などが花巻空襲を免れた」と紹介した。
 光太郎が花巻で過ごした7年について、小山さんは「戦争に加担する詩を書いた自らを罰する気持で山荘にこもったのではないか」と持論を述べた。
 同市太田の阿部正文さん(73)は「光太郎先生と幼少の頃に会った記憶がある。名作が世に出る秘話が知れた」と満足した。

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『岩手日日』さん。

宮沢賢治との逸話披露 高村光太郎生誕140年記念講演 

  花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)による講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」は14日、同市大通りのなはんプラザで開かれた。高村光太郎生誕140年記念事業として初めて開催され、市民ら約200人が来場。高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(58)と、宮沢賢治の弟清六の孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が、賢治と光太郎が知り合うきっかけや逸話を披露した。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 詩人・草野心平が光太郎に賢治の存在を伝えたことが交流のきっかけになったという。賢治が上京した際、アポイントなしで光太郎のアトリエを訪れたが、小山代表は「(光太郎は)仕事が忙しく、明日また来てくれといって賢治はすぐに帰った。次の日に賢治は来なかった。光太郎もいきなり賢治が訪問してきて、面を食らったのではないか」と推測した。
 光太郎は賢治の実家に疎開した際に、清六に「日本中に爆弾を落とされてもおかしくない。防空壕(ごう)を作るべき」と提言したという。和樹さんは清六に語られた話を思い出しながら「防空壕があったおかげで原稿が戦火から免れた。光太郎先生が祖父に提言しなければ、全て焼けてしまっていた」と説明した。
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動画配信が為されましたら、また改めてご紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。


明治42年(1909)4月4日 高村道利宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、すぐ下の弟・道利に宛てた絵葉書から。この葉書は昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」で展示されました。
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地方局IBC岩手放送さんのローカルニュース番組から。

まずは花巻市の萬鉄五郎記念美術館さんで明日まで開催される「歌人 小田島孤舟」展に関して。ただ、光太郎から小田島宛の書簡等も展示されていますが、それには触れられていませんでした。

「岩手歌壇の父」小田島孤舟の足跡をたどる ふるさとの花巻市で企画展

 数多くの短歌を作り「岩手歌壇の父」とも称される歌人、小田島孤舟の足跡を紹介する企画展が、岩手県花巻市で行われています。
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 1884年に花巻市東和町に生まれた小田島孤舟、本名・理平治は、画家の萬鉄五郎の同級生です。国語の教師の傍ら歌人としても活躍しました。3800を超える短歌を制作し、石川啄木との交流を始め岩手と中央文壇を結ぶ重要な役割を果たしました。
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 花巻市東和町の萬鉄五郎記念美術館で行われている企画展では、孤舟の足跡をたどる関係資料114点が展示されています。
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 中でも萬が描いた孤舟の肖像画や2人の手紙のやり取り、それに歌集の冊子絵などは、萬と孤舟との生涯にわたる友人関係を分かりやすく伝えています。
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 この企画展は2月26日まで開かれています。
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閉幕間際の紹介ですが、このニュースを見て「そんなのやってるんだ」と初めて知った方が今日明日で行かれるということも有りえますね。

もう1件、これも光太郎とは直接関わりませんが、過日亡くなった松本零士氏と花巻のつながりについて。

漫画家の松本零士さん死去 「銀河鉄道」が縁で交流があった岩手・花巻市でも悼む声

 マンガ家の松本零士さんが急性心不全で13日に亡くなりました。85歳でした。松本さんはかつて、代表作「銀河鉄道999」のヒントになった童話「銀河鉄道の夜」を書いた宮沢賢治のふるさと岩手県花巻市を訪れ、子どもたちと交流していました。
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(松本零士さん)
「未来は無限大。無限大の夢が皆さんにはある。どうか、どうか若い人は頑張ってください」
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 松本さんは2012年、「宇宙」をテーマに子どもたちが体験活動を行う、公益財団法人日本宇宙少年団の花巻分団が花巻市に設立されるにあたり、プレイベントとして開かれた交流会を訪れました。「銀河鉄道の夜」を生んだ宮沢賢治のふるさと、花巻市の訪問をとても喜んでいたといいます。
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  松本さんを招待した佐々木和彦さんはこう振り返ります。

(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「タクシーに乗って走りながら景色を見て、『こういう景色がああいう発想を生むんだな』とおっしゃったんですね。つまり(宮沢)賢治の銀河鉄道というイメージが、こういう環境から出るんだなということをおっしゃったのを覚えています」
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 松本さんが初めて「銀河鉄道の夜」に触れたのはスライドの上映だったそうです。
(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「どうしてこういう発想ができるのか、というのがわからなかったと。こういう素晴らしい世界があるのか、という気持ちを持ったというんですね」
 佐々木さんは天上に向かう銀河鉄道に亡くなった松本さんを重ねて冥福を祈りました。
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(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「松本先生も自ら銀河鉄道に乗って、これから楽しい旅をつづけるんだろうなと思っていました。悲しくなりますけど、先生にとっては楽しいんじゃないかなと思います」

松本氏、平成28年(2016)の『サライ』6月号に「銀河鉄道の夜」関連の寄稿をなさっていました。
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改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今日は巴里は大層な濃霧で町が夢の様に見えます。今朝丁度ノオトルダム寺院の南塔の鐘を見に行つて高い上から四方を見た時の心持ちたらありませんでした。それにあのゴオゴイス。どうしても中世期頃の魂がどこかあの建築の中に活きて居て僕らをおびやかして居る様でした。尖塔の尖がつたさきについて居る鉄の鶏が今にも鳴きはせぬかと思はれました。塔のテツペンから下を見て居ると何だか飛び下りて見たくなつて思はずぞツとしました。


明治42年(1909)3月11日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

後の長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)にも通じる内容ですね。「ゴオゴイス」は「Gargouille」、ノートルダム大聖堂を飾る伝説の竜で、現在は「ガルグイユ」と表記されることが多く、「雨にうたるる……」でも「ガルグイユ」となっています。

この書簡と似たような「塔のてっぺんから宙を歩けそうだと思った」的な話を、パリ在住の留学生仲間にも語り、彼らは「高村の神懸かり」と、心配したり揶揄したりしたそうです。

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