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先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

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昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

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ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

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こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

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「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


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すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

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さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後の頃は不眠不休に近かったとか……。

それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

昨日に続き、岩手花巻ネタで。

先週末の地方紙『岩手日日』さんの記事です。 

花巻電鉄で地域おこし 志戸平温泉「しどの日」

 志戸平温泉の恒例企画「しどの日」は10日、花巻市湯口の同温泉で開かれた。ステージイベントに加え、1970年代まで市中心部から同温泉などを結んでいた花巻電鉄を紹介する展示会を初開催。出展趣旨に賛同する市民から多くの協力が寄せられており、同社のイベントを中心に、新たな地域おこしが芽生えている。
 同社は毎年4月10日を「しどの日」と名付け、さまざまな会員参加型サービスを展開。5回目となる今年は、同社顧客通信紙の編集スタッフに同電鉄に乗車経験がある委員がいたことから、展示会の企画が持ち上がった。
 これに協力したのが、地元の記録や資料を掘り起こして研究、紹介している「Act21」主宰の菅原唯夫さん(65)=同市南万丁目=。懐かしい「馬面(うまづら)電車」の勇姿を収めた写真のほか、かつて同温泉に設置されていた遊園地の様子を収めた映像、同電車を利用する高村光太郎の姿、同温泉の絵はがきなど多彩な内容が市民の関心を集めている。
 会場には、菅原さん所蔵の物だけでなく、Act21の活動に賛同する市民が菅原さんに託した写真なども並ぶ。「こういった展示会がなかったら捨てていたアルバム。使っていただければうれしい」などと、菅原さんと同社に感謝の手紙が添えられた物もあるという。
 イベントに携わる同社宿泊部の田中弘子次長は「当初は10日だけの展示予定だったが、反響が大きく、19日まで延期することにした。多くの方に見ていただき、思い出を蘇らせてもらえたらうれしい」と、多数の来場に喜びの表情。菅原さんは「イベントをきっかけに一層の協力が得られ、回顧展の開催などにつながれば」と、地域の盛り上がりに期待する。
 来場者は「これに乗って何度も志戸平に来たよ」「高村光太郎も乗ったことがあるんだね」などと懐かしそう。藤原茂男さん(57)は「小さな電車だったけど、憧れていた。街並みに昔の面影が残っている写真が多く、何だかホッとしますね」などと語り、興味深げだった。
 展示会は観覧無料。問い合わせは同社=0198(25)2011=まで。


昭和20年(1945)に空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎は、宮澤家などの誘いで花巻に疎開、終戦後も帰郷せず、7年間、花巻からさらに山奥の太田村に独居自炊の生活を送りました。

光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)に近い花巻南温泉峡の一つ、志戸平(しどだいら)温泉でのイベントです。

光太郎は山小屋で暮らしながらも、時折花巻町まで出ることが有りました。年に数回は賢治の主治医だった佐藤隆房邸(太田村に移る前にここにも暮らしていました)に宿泊したり、納税やら金融機関での雑務やらのため日帰りで行ったりしていたのです。その際には山小屋から4㎞ほどの二ツ堰駅まで歩き、そこから花巻電鉄を利用しました。また、二ツ堰から花巻町と逆の花巻南温泉峡方面に行くために、花巻電鉄に乗ることも。

この路線は昭和44年(1969)に廃線となっています。車両は花巻駅近くの材木町公園に静態保存されています。

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下の画像、中央に立っているのが光太郎です。

この花巻電鉄に関する写真展が、志戸平温泉さんで開催中です。光太郎が写っている写真も展示されています。下の画像で、右の方の大きなパネルに光太郎の顔が見えます。

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同様の写真展は、以前に花巻に行った際、市内のショッピングモールで開催されていました。また、昨日お知らせした花巻高村光太郎記念館の企画展的な展示をするスペース――奥の副室――で、来年の展示にこういった内容をやりたいと、㈶花巻高村光太郎記念会さんの事務局の方がおっしゃっていました。

次の日曜日、19日まで志戸平温泉さんで開催中です。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月14日

昭和17年(1942)の今日、光太郎が題字を揮毫した竹内てるよ詩集『灯をかかぐ』が刊行されました。

題字のみ光太郎。装幀、表紙画は画家の古沢岩美です。竹内は戦前から、多くの詩集の題字を光太郎に依頼しています。

少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

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一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

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それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

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光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

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 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

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松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

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「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
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奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

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岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

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また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

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朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

昨日は都内に出かけておりました。

メインの目的は、4月末にリニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館関連でした。

新しい記念館内に、イメージ映像と朗読の音声で光太郎の詩を紹介するコーナーが設置されます。そのための朗読の収録が、昨日、水道橋の高速録音スタジオさんで行われました。

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朗読を担当されたのは、ベテラン声優の堀内賢雄さん。洋画の吹き替えで、ブラッド・ピッドの声などを担当されています。アニメでもご活躍で、一昨日は「クレヨンしんちゃん」の収録だったそうです。記念館の朗読コーナーでは、光太郎詩4篇を流すとのことで、その朗読をしていただきました。4篇は、「道程」、「レモン哀歌」、「雪白く積めり」、「メトロポオル」です。

収録にかかる前に打ち合わせをしました。その中で堀内さんがおっしゃっていたのですが、記念館で流れる光太郎の詩の朗読をなさるということを、「声優冥利に尽きる」ということで、声優仲間から非常にうらやましがられたそうです。しかし、ある意味、ものすごいプレッシャーでもあるとのことでした。なるほど、そういうものかと思いました。

さて、収録。まずは「道程」。ただし、詩集『道程』に収録され、よく知られている短い形ではなく、雑誌『美の廃墟』での発表形、すなわち102行ある大作です。これ1篇で8分を超えました。渋い落ち着きのある、しかし張りのあるバリトンの声で、素晴らしい朗読でした。よくある「さあ、感動しなさい」と言わんばかりに感情移入丸出しの妙な抑揚をつけた朗読ではなく、あくまで淡々と、しかし内に込めたエネルギーを感じさせるものでした。

比較的短い残り3篇の収録も続けて行われましたが、こちらも1篇ごとに詩の内容をよく勘案されて調子を変え、テンポも変え、しかし感動の押し売りではない、これまた素晴らしい朗読でした。サブ(副調整室)で聴いているスタッフさんたちや、当方など、1篇終わるごとに、感嘆のため息でした。

レモン哀歌」、「雪白く積めり」は以前のこのブログでご紹介しています。左記リンクでご覧下さい。「メトロポオル」のみ、このブログ内にありませんでしたので、下記に全文を載せます。画像は詩の舞台、花巻郊外旧太田村にある光太郎が暮らした山小屋です。

   メトロポオル
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智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。

岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、003
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。


どうもボキャブラリーが貧困で、うまく堀内さんの至芸を言葉で表せません。ぜひ、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際にお聴き下さい。

堀内さんの朗読もそうでしたが、スタッフの皆さんの仕事ぶりにも感心しきりでした。「最高のものを作ろう」という気概といいますか、とにかく妥協を許しません。ベテラン堀内さんの朗読にも、ばしばしダメ出しが出ましたし、収録後に行った映像部分の打ち合わせでも、よりよくするためにはどうしたらいいかと、侃々諤々の議論でした。たとえばイメージ映像に載せて、詩が画面に映し出されるのだそうですが、そのフォント(字体)をどうするか一つとっても、「ビジュアル的に考えてこれがいい」「いや、これは無難すぎて面白くない」「これは癖がありすぎだろう」「詩の内容を考えるとこれでしょう」といった具合に。プロというものはこういうものだな、と感じました。

繰り返しますが、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際に視聴なさってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月10日

昭和26年(1951)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校の第一回卒業式のために祝辞を書きました。

昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校しました。初代校長は、美術史家・美術評論家の森口多里が務め、教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。その後、ことあるごとに光太郎は同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

県立美術工芸学校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

昨年から連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第79号をいただきました。ありがたく拝受いたしました。

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今回で最終回だそうですが、宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(五)」が6ページ。『智恵子抄』からインスパイアされた小説、舞台芸術、映画・ドラマ、音楽などでの二次創作の紹介、光太郎智恵子略年譜に見る二人の生の軌跡、オリジナルの『智恵子抄』(昭和16年=1941)のあとに刊行されたさまざまな『智恵子抄』の紹介などの内容です。

他の記事や詩作品等も興味深く拝読しました。中でも柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」は特に興味深いものがありました。現在の『青い花』は第四次ということですが、第一次は昭和9年(1934)の刊行で、今官一を編集発行人とし、太宰治、壇一雄、そして中原中也を含む十数名が参加していたそうです。

中也は同じ年に、光太郎に題字を書いて貰い、第一詩集『山羊の歌』を刊行しています。柏木氏の記事の中には、岩手県奥州市の人首文庫(ひとかべぶんこ)さんに所収されている中也がらみの資料についての紹介があり、「ほう」と思いました。やはり昭和9年(1934)、「胡桃の会」というサークルの会合で書かれた署名帖に、中也の名があったというのです。

人首文庫さんは、詩人の佐伯郁郎の生家に作られた史料館です。佐伯は内務省警保局図書課に勤務し、戦時中は情報局情報官として図書の検閲等に当たっていました。10年以上前になりますが、こちらに光太郎から佐伯宛の全集未収録の書簡が5通、さらに詩稿も収蔵されていることを知り、コピーを戴きました。『青い花』の記述がその人首文庫さん収蔵の資料の紹介だったので、「ほう」と思った次第です。

以下、憶測に過ぎませんが、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

当方には、この文言が検閲をすり抜け、雑誌や詩集に掲載された陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。

人首文庫さん、行こう行こうと思いつつ、まだ足を運んだことがありません。『青い花』での柏木氏も「岩手の山村にある「文庫」には、戦前の文学活動を物語る”宝物”がまだ眠っている気がする。」と記されています。改めて、折を見て行ってみようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月8日008

昭和2年(1927)の今日、光太郎が装幀、題字を担当したロマン・ロラン著、市谷佳義訳 『マハトマ・ガンヂ』 が刊行されました。

右は扉の画像です。

版元の叢文閣は、この前後、ロマン・ロランがらみの書籍をたくさん出版し、装幀や題字を光太郎に依頼しています。片山敏彦訳の戯曲『愛と死の戯れ』、『時は来たらん』、高田博厚訳『ベートォヹン』、『ヘンデル』、尾崎喜八訳の戯曲『花の復活祭』。

智恵子はまだそれなりに健康で、光太郎も円熟期、精力的に仕事をこなしていた時期です。

先月末に、花巻市さんのサイトで、市議会に於ける市長演述がアップされました。

長いので全文は引用しませんが、郊外太田地区の高村光太郎記念館に関する発言もありましたので、そこのみ引用させていただきます。

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルについては、平成26年度当初予算に予算計上しておりましたが、市民の意見を十分に反映するために、説明会を開催するとともに、市民の皆様から意見をお聞きするよう指示いたしました。
宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルは、事業の進捗に若干の遅れが生じておりますが、宮沢賢治記念館は本年4月に、高村光太郎記念館はゴールデンウィーク前後にそれぞれリニューアルオープンする予定となっております。


昭和41年(1969)、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)敷地内に建てられた最初の記念館は、施設の老朽化が進み、閉鎖。一昨年の5月、それまで花巻市の歴史民俗資料館だった建物を新たに高村光太郎記念館とし、花巻市営として再スタートしました。ただし、あくまで仮オープンということで、とりあえずのものでした。それが今年の「ゴールデンウィーク前後」にグランドオープンする予定だそうです。

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初代記念館


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現在の記念館


というわけで、現在はリニューアル工事中ですが、上記画像でいうと、手前の建物のみでの展示だったものを、奥のもう一棟も使用することとなり、展示面積は2倍程になります。常設展示以外にも、企画展示を行うスペースも設定されています。展示内容もほぼ固まっています。

そこで、㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方が、昨日、当方自宅兼事務所にお見えになり、いろいろと打ち合わせをしました。当方、館内に掲示される説明パネル、展示品のキャプション等の一部を執筆することとなり、早速作成にかかっています。

また、来週には館内の映像や音声で光太郎詩を紹介する「朗読コーナー」の録音のため、東京水道橋に出向いてきます。朗読を担当なさるのは、ベテランの男性声優さんだそうです。楽しみです。


グランドオープンとなりましたら、ぜひぜひ、008ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月6日

平成元年(1989)の今日、PHP研究所から、日野多香子著『冬よ ぼくに来い いちずに美をもとめつづけた高村光太郎』が刊行されました。

「PHP愛と希望のノンフィクション」というジュブナイル(年少者向けの刊行物)シリーズの一冊です。

幼少期からその死までの、光太郎の生涯をわかりやすくまとめたものです。

昨日の『岩手日報』さんの「論説」です。いわゆる社説のようなものでしょうか。

釜石がW杯会場に 日本開催の意義を象徴

 ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開催12会場の一つに釜石市が選ばれた。16年のいわて国体とともに、国内外に本県の今を発信する好機としたい。

 ラグビーW杯は4年に一度の開催。世界的にはサッカーW杯や五輪、パラリンピックに次ぐスポーツの大イベントと位置付けられている。開催年に当たる今年は9月から10月にかけて、第8回となるイングランド大会が行われる。

 これまでは欧州やニュージーランド、オーストラリア、南アフリカなどのラグビー伝統国のみで開催され、日本大会はアジア初。サッカーなどに比べ国内の注目度は決して高いとは言えず、集客など運営面での不安は拭えない。

 会場地として12カ所程度を目安としてきた日本大会組織委に対し、大会運営を委託される「W杯リミテッド」が10程度を望んだのも、財政面のリスク回避が背景だ。

 それでも12に落ち着いたのは、リスクより日本開催の意義を重んじたからだろう。その象徴的存在が釜石だ。

 花園ラグビー場がある大阪府東大阪市が日本ラグビーの「西の聖地」なら、既に大卒選手が主流だった1980年代、高卒選手を主力に鍛え上げながら日本選手権で7連覇した新日鉄釜石(当時)の地元釜石は「東の聖地」。その誇りは全県民が共有する。

 開催地には15自治体が立候補。釜石は、競技場新設を予定する唯一の候補地だった。

 仮称「釜石鵜住居復興スタジアム」の建設予定地は津波で被災した釜石東中、鵜住居小跡地周辺。東日本大震災の津波で、地区防災センターの避難者を含め多数の市民が犠牲になった地域だ。

 同市では依然、2千人以上が仮設住宅で暮らす。「被災者の感情に配慮すべき」という声も聞こえる中、野田武則市長は昨夏の誘致表明で、財源に一定の見通しが立ったことなどを背景に「地域の宝となるのであれば、多少の非難はあっても開催する意義がある」と決意を語った。

 スタジアム予定地には、かさ上げ用の土砂がうずたかく積まれる。1月中旬、現地を視察したW杯リミテッド幹部は「非常に心を動かされた」と語った。葛藤を超えて誘致に動いた釜石市民の思いが通じた瞬間だろう。

 復興はラグビーにも似る。15人が塊となり、ひたすら前を目指す姿は釜石ラグビーの真骨頂であり、高村光太郎が「沈深牛の如し」と表現した県民性にも重なる。

 約29億円とされる施設建設費をはじめ、実現までに課題は多いが、W杯を運営する側も労苦を共にする覚悟で決めたからこその会場決定に違いない。その総意を励みに、ひたすら前を目指したい。


そこで光太郎を使うか、という感じですが、なかなか上手いですね。『岩手日報』さんは一面コラムの「風土計」でしばしば光太郎の名を上げて下さっています。2013年4月2日昨年の11月13日今年もすでに1月13日に。

「沈深牛の如し」というのは、昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された詩「岩手の人」の一節です。

  岩手の人007

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


花巻市の花巻北高校さんの校庭に、高田博厚作の光太郎胸像が立っています(埼玉の東松山にも同型の胸像があります)。

台座に嵌め込まれたプレートには、こ008の「岩手の人」の一節が刻まれています。

この詩は、一説には当時の岩手県知事、国分謙吉をモデルにしたとも言われています。「沈深牛の如し」は光太郎自身にも当てはまるような気がしますが。

さて、ラグビーW杯、釜石での開催決定。東日本大震災からの復興支援となるのであれば、非常にいいことだと思います。また、松尾雄治選手がいた頃の新日鐵釜石の黄金時代を知る身には、感慨深いものがあります。ラグビーは高校の体育の授業でやった程度ですが、あの頃は、普段着に横縞の009ラガーシャツの襟を立てて着るのが結構流行っていました。松任谷由実さんの名曲「ノーサイド」とともに、青春時代を想い出します(笑)。

釜石といえば、光太郎は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』連載の紀行文「三陸廻り」で、船を使って釜石にも立ち寄っています。それを記念して、釜石にも光太郎の文学碑が建てられました。平成7年(1995)のことです。

写真は建立間もない頃に当方が撮ったものです。碑文は「三陸廻り」の釜石の項から抜粋したもので、光太郎署名だけ自筆拡大、他は活字です。

当方、東日本大震災後、釜石には足を運んでいませんが、この碑は健在でしょうか。同じ三陸の女川の光太郎文学碑は無惨に倒壊四基中の二基は津波によって流失してしまいました。

機会があったら、ぜひまたこの碑を見に行きたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月5日

昭和16年(1941)の今日、東和音楽出版社から『新国民楽譜 歩くうた』が刊行されました。

前年発表された、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉の歌唱による国民歌謡「歩くうた」の楽譜です。

オフィシャルな楽譜は前年12月にNHKさんの前身、日本放送協会から『国民歌謡第七十六輯』として刊行されていますが、比較的ヒットしたためでしょうか、こうした後追いの出版もなされました。

左が『新国民楽譜』、右がオフィシャルな『国民歌謡 第七十六輯』です。

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今週火曜日の『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、光太郎に触れて下さいました。 

風時計 2015.1.13

戦後、岩手には1万戸もの開拓農家が入植した。開拓5周年の労苦をたたえ、1950年に高村光太郎が寄せた詩がある
▼<宮沢賢治のタンカルや源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る>(開拓に寄す)。タンカルとは宮沢賢治が名付けた肥料用の炭酸石灰。晩年の賢治は土壌を改良するため、この普及に命を懸けた
▼志半ばで逝ったが、その尽力は戦後の開拓で花開いたと言える。光太郎が記すように、酸性の火山灰土壌と闘う人々はタンカルを力とした。岩手の開拓者たちは、まず土を変え、不毛の荒れ地を豊かな耕地に一変させた
▼国連の「国際土壌年」の今年、土が大きな国際テーマになる。世界にある農地の半分で土が劣化し、1年に砂漠化する面積は日本の国土の3割に及ぶ。食料供給の危機でありながら忘れられた資源にようやく光が当たる年だ
▼賢治は酸性土を「病土」とみて健康にしようとした。国際年の標語「健全な暮らしは健全な土地から」に通じる。厳しい現状でも、救いは日本の技術が途上国の土壌改良に役立っていることだろう
▼開拓10年に光太郎は再び寄せた。<見わたすかぎりはこの手がひらいた十年辛苦の耕地の海だ>。知と技で、病土を耕地の海にする。それに勝る国際貢献はなかろう。
 
 
引用されている詩は二つ。まず、昭和25年(1950)に盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた「開拓に寄す」。

   開拓に寄す000
 
岩手開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
人間ひとりひとりが成しとげた
いにしへの国造りをここに見る。
 
エジプト時代と笑ふものよ、
火田の民とおとしめるものよ、
その笑ひの終らぬうち、
そのおとしめの果てぬうちに、
人は黙つてこの広大な土地をひらいた。
見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、
掘つても掘つてもガチリと出る石ころに悩まされ、
藤や蕨のどこまでも這ふ細根(ほそね)に挑(いど)まれ、
スズラン地帯やイタドリ地帯の
酸性土壌に手をやいて
宮澤賢治のタンカルや
源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、001
何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る。
 
トラクターもブルドウザも、
そんな気のきいたものは他国の話、
神代にかへつた神々が鍬をふるつて
無から有(う)を生む奇蹟を行じ、
二万町歩の曠土(あかつち)が人の命の糧(かて)となる
麦や大豆や大根やキヤベツの畑となつた。
さういふ歴史がここにある。
 
五年の試煉に辛くも堪へて、
落ちる者は落ち、去る者は去り、
あとに残つて静かにつよい、
くろがね色の逞ましい魂の抱くものこそ
人のいふフランテイアの精神、
切りひらきの決意、
ぎりぎりの一念、
白刃上(はくじんじやう)を走るものだ。
開拓の精神を失ふ時、002
人類は腐り、
開拓の精神を持つ時、
人類は生きる。
精神の熱土に活を与へるもの、
開拓の外にない。
 

開拓の人は進取の人。
新知識に飢ゑて
実行に早い。
開拓の人は機会をのがさず、
運命をとらへ、
万般を探つて一事を決し、
今日(けふ)は昨日(きのふ)にあらずして
しかも十年を一日とする。
心ゆたかに、
平気の平左(へいざ)で
よもやと思ふ極限さへも突破する。
開拓は後(あと)の雁(がん)だが
いつのまにか先の雁になりさうだ。
 
開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
岩手の原野山林が
今、第一義の境(さかひ)に変貌して
人を養ふもろもろの命の糧を生んでゐる。
 
 
この詩の一節を刻んだ碑が、花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くに建っています。昭和51年(1976)建立の「太田開拓三十周年記念碑」です。
 
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もう一篇の「開拓十周年」は、昭和30年(1955)にやはり盛岡市の県教育会館で行われた岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。
 
  開拓十周年
 
赤松のごぼう根がぐらぐらと003
まだ動きながらあちこち残つていても、
見わたすかぎりはこの手がひらいた
十年辛苦の耕地の海だ。
 
今はもう天地根元造りの小屋はない。
あそこにあるのはブロツク建築。
サイロは高く絵のようだし、
乳も出る、卵もとれる。
ひようきんものの山羊も鳴き、
馬こはもとよりわれらの仲間。
 
こまかい事を思いだすと
気の遠くなるような長い十年。
だがまた、こんなに早く十年が
とぶようにたつとも思わなかつた。
はじめてここの立木へ斧を入れた時の
あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。
歓迎されたり、疎外されたり、
矛盾した取扱いになやみながら004
死ぬかと思い、自滅かと思い、
また立ちあがり、かじりついて、
借金を返したり、ふやしたり、
ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
開拓の精神にとりつかれると
ただのもうけ仕事は出来なくなる。
何があつても前進。
一歩でも未墾の領地につきすすむ
精神と物質との冒険。
一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
開拓の鬼となるのがわれらの運命。
食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、
これなくして真の独立はない。
そういう天地の理に立つのがわれらだ。
開拓の危機はいくどでもくぐろう。
開拓は決して死なん。
 
開拓に花のさく時、
開拓に富の蓄積される時、
国の経済は奥ぶかくなる。
国の最低線にあえて立つわれら、
十周年という区切り目を痛感して
ただ思うのは前方だ。
足のふみしめるのは現在の地盤だ。
静かに、つよく、おめずおくせず、
この運命をおおらかに記念しよう。
 
 
どちらも晩年の作。智恵子の死や戦争や、さまざまなことを経てたどりついた境地が表されています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月16日

昭和3年(1928)の今日、『東京日日新聞』に、散文「日本家庭大百科事彙」が掲載されました。
 
書肆・冨山房により前年から刊行が開始された「日本家庭大百科事彙」の書評です。同書は日本女子大学校での智恵子の先輩で、光太郎と智恵子の間を取り持った柳八重が家事家政方面の編集に当たり、自らも執筆しています。他に、光雲(木彫)、豊周(工芸美術、室内装飾)も執筆者に名を連ねました。
 
ところで日本女子大学校といえば、NHKさんの今年後期の連続テレビ小説(朝ドラ)が、同校の設立に奔走した女性実業家・広岡浅子が主人公の「あさが来た」となることが発表されました。
 
広岡は、光太郎がその胸像を作った同校初代校長成瀬仁蔵や、柳八重、さらに同じく智恵子の先輩・小橋三四子などとも深いつながりがありました。もしかすると智恵子や光太郎も登場するかも、と期待しています。

テレビ放映情報です。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2014年12月25日(木)  21時54分~22時00分  再放送2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
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JR東日本さん提供の5分間番組です。
 
今年5月には、「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」ということで、二本松の智恵子生家周辺を取り上げて下さいました。公式サイトはこちら
 
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今回は、光太郎が何度も訪れた、花巻郊外の大沢温泉さんからです。宮澤賢治や相田みつをゆかりの宿としても有名です。
 
当方も定宿としています。一昨年はつごう7泊ほど泊めていただきました。しかし、今年は花巻には2回行きつつも、1回も泊まりませんでした。1度目は1月下旬。大沢さんがいっぱいで、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに泊めていただきました。2度目は5月15日の光太郎祭でしたが、この時は夜行高速バスを使い、車中泊でした。だからしばらく行っていません。テレビを見て、懐かしみたいと思います。
 
ただ、来年は既に泊めていただくことが決まっています。今から楽しみです。とにかく温泉が素晴らしいし、料理や部屋、そして宿全体の雰囲気が非常にいい感じです。
 
一年中、いつ行っても、それぞれの季節ごとの良さがありますが、一番お薦めなのは、冬です。
 
こちらは4年前の今頃撮った画像です。今の季節はこんな感じです。
 
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寒さは半端ではありませんが、雪見の露天風呂、そして温泉で火照った身体に染み渡る清冽な冷気、そして寒くなったらまたザブン。たまりません。
 
ただし、この冬は近くの高村山荘・高村光太郎記念館は、グランドオープンに向けてのリニューアルで閉鎖中ですので、お気をつけ下さい。
 
さて、「いにしへ日和」。ぜひご覧下さい。本放送は明後日、再放送が来年1月1日。再放送とはいえ、元日から光太郎がらみの放映があるというのは、幸先がいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月23日
 
昭和20年(1945)の今日、詩「雪白く積めり」を執筆しました。
 

   雪白く積めり
 000
雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。004
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
この年、秋、花巻町から郊外の太田村山口に移り住んだ光太郎。鉱山の飯場小屋だった建物を村人の協力で移築してもらい、7年間の孤独な山小屋(高村山荘)暮らしを始めました。北川太一先生曰く「生涯で最も鮮烈な冬」。その山小屋での冬を謳った、記念すべき第一作です。右上の画像は、昭和23年(1948)冬に撮影された光太郎の山小屋です。
 
この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらは30年程前、初めてここを訪れた時に撮影したものです。3月下旬でしたが、日陰にはまだ膝まで雪が残っていました。

新刊です。
2014/11/01 株式会社花美術館発行 定価1200円+税
 
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目次(抄)000
 祈り―東日本大震災
 啄木、賢治の共通性 望月善次
   長男としての誕生―戸籍と誕生日の揺れ
   誕生時の恵まれた環境
   宗教の家
   盛岡中学校入学と挫折
   先進的教育教授と中途退職
   夭死
   国民的人気と国際的展開
   献身的支援者~肉親の証言から
 明治の青春 金田一秀穂
 生涯にわたる兄への敬愛と献身-宮澤清六 宮澤明裕
 啄木、賢治の異質性 望月善次
   文学的ジャンルの相違―「童話」VS「評論・日記」
   宗教への態度―遠ざかる(拡散)VS格闘(集中)
   結婚の有無―積極的VS消極的
   美術的側面―デザインVS絵画
   全集発行時期―死後8年VS死後1年
   学問と知識―文系人間VS理系人間
   運の在り方―文学的幸運VS経済的幸運
 『一握の砂』と『注文の多い料理店』その装丁 原田光
 郷愁のモニュメント 藤田観龍
 美術館紹介 石川啄木記念館/岩手県立美術館/宮澤賢治イーハトーブ館/宮澤賢治記念館
 
というわけで、岩手の生んだ二人の天才、石川啄木と宮澤賢治について、故郷岩手を軸にした53ページの特集です。特に賢治に関し、その世界を世に広める功績のあった光太郎の名が随所に現れます。
 
後半は「現代の短詩型文学-故郷と幻想の間」「現代作家-原風景への憧憬」「現代工芸-美の精粋」ということで、各分野の現代作家の皆さんの作品がたくさん。
 
その中で白井敬子さんという歌人の方の作品です。
 
光太郎・北斎・虚子・百閒忌花の四月に皆連れ立ちて
 
4月2日、光太郎忌日連翹忌を題材になさって下さいました。ちなみに葛飾北斎の北斎忌は18日、高浜虚子の虚子忌(椿寿忌)は8日、内田百閒の百閒忌は20日。短歌ではなく、俳句としては季語にもなり、歳時記に載っているようです。
 
さて、『花美術館』、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月7日
 
平成20年(2008)の今日、愛知県一宮市尾西歴史民俗資料館で開催されていた、「特別展 花子とロダン―知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い―」が閉幕しました。
 
花子といっても、今年度上半期のNHKさんの001朝ドラ「花子とアン」の村岡花子ではなく、明治期の日本人女優、花子です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、その舞台を見たロダンの強い要望で、彫刻作品のモデルを務めました。
 
大正10年(1921)には帰国、その際、自身をモデルにしたロダン彫刻2点を持って帰りました。それらは一時、東京美術学校に寄託され、光太郎の目にとまりました。昭和2年(1927)にアルスから評伝『ロダン』を出版する取材の一環として、光太郎は花子を岐阜の実家に訪ねています。
 
同展ではその後送られた光太郎からの書簡も展示されました。
 
 
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当方の住む関東南部は秋たけなわ。紅葉もこれから見頃です。
 
しかし、北東北はもう冬支度が始まっていることと思います。
 
そういうわけで、岩手花巻の高村光太郎記念館・高村山荘と、青森十和田湖の観光交流センター(愛称「ぷらっと」)が、今月いっぱいで冬期閉鎖に入ります。
 
この冬、花巻や十和田にお越しの皆様、ご注意願います。
 
花巻の記念館の方は、冬期というより、グランドオープンのための改修工事という事情ですが、やはり秋の観光シーズンを終え、冬期をねらったという側面もあるのでしょう。
 
以下、同館サイトからのコピペです。

高村光太郎記念館 リニューアル工事に伴う閉館について

高村光太郎記念館は、光太郎生誕130 年に当たる平成25 年の5 月15 日に旧花巻歴史民俗資料館を活用して暫定的に開館しました。
 
また、平成25 年度に行われた展示設計に基づき、同館では本年度、旧資料庫を含めた建物全体を改修し、より魅力的な展示とするためリニューアルすることとしています。
 
平成26 年12 月1 日より平成27 年4 月中旬まで、記念館は閉館します。      
 
本年12 月より工事を行う予定です。資料等の入れ替えのための期間を含め、本年12月1 日より来年4 月中旬(予定)までの間、高村光太郎記念館は臨時閉館いたします。

大変ご不便をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。なお、隣接する高村山荘も同期間、冬季閉鎖いたします。
 
閉館中は、まなび学園(生涯学園都市会館)において資料の展示を行います。  
 
高村光太郎記念館の閉館中、まなび学園において同館収蔵資料の一部を展示します。
 
会期は本年12 月上旬からを予定しておりますが、内容や期間など、詳しいことは決まり次第お知らせします。
 
 
来春にはグランドオープンということで、改修計画が進んでいます。より一層充実した施設となることを願ってやみません。
 
 
また、先月、十和田湖畔にオープンした十和田市観光交流センター「ぷらっと」も、11月30日をもって、冬期閉鎖に入ります。
 
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再オープンはやはり来春4月と聞いていますが、こちらはネット上に日時の情報が見つかりません。上記は『広報とわだ』の今月号、オープンの記事です。
 
それぞれ情報が入りましたら、またお知らせします。
 
ちなみに十和田湖といえば、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)の建立60周年にあたり、記念誌的な書籍の刊行を進めています(当方も一部執筆させていただきました)。同会のサイトで、昨日、その話題がアップされています。ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月5日
 
昭和27年(1952)の今日、龍星閣『智恵子抄』特装版の製本が完了しました。
 
『智恵子抄』特装版。十和田湖畔の裸婦像制作のため光太郎が帰京した記念、ということで刊行されました。
 
外函のラベルによれば、「最上羊皮丸革朱赤染表装・紺染布函入」、「限定貳百冊」、「但限定貳百冊印刷之内百七十冊製本、参十冊廃棄」、「昭和二十七年十一月五日製本出来」だそうです。
 
こちらが外函。
 
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ぱかっと開けると中函が出てきます。
 
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さらにそれを開けると本体。マトリョーシカ状態です(笑)。
 
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表紙に羊の皮を使っているそうです。昔、この手の皮装本が流行った時期がありました。
 
ところが、奥付を見ると「九月三十日発行」となっています。
 
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一般に、奥付の発行日と、実際に刊行された日が一致しないことは往々にしてありますが、1ヶ月以上もずれているとは、少し不思議です。
 
通常、図書館等のデータは、奥付の日付を公式な発行日とします。しかし、この場合、外函には「十一月五日製本」と明記されています。何だかなー、という感じですね。
 
ちなみに龍星閣さんでは、昭和34年(1959)4月10日には、「皇太子殿下(現・今上天皇)ご成婚記念」で、『智恵子抄』の「紅白版」なるものも出しています。表紙に紅白の布を使っている、というだけですが(笑)。

「智恵子抄」中の詩に曲を付けた作品を自由曲に取り上げた学校があったので、先日、このブログにてご紹介しましたが、昨日、盛岡の岩手県民会館で、第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が開催されました。
 
共に鈴木輝昭氏作曲の「亡き人に」が神奈川の清泉女学院音楽部さん、「レモン哀歌」が北海道の北海道帯広三条高校合唱部さん。
 
また、智恵子の後輩に当たる福島県立橘高校合唱団さん、日本女子大附属高校コーラスクラブ さんも出場しました。
 
結果、清泉さんが金賞、帯広三条さんと日本女子大附属さんは銀賞、橘さんは銅賞でした。
 
以下、朝日さんの神奈川版の記事から。見出しに光太郎の名が。 

神奈川)清泉女学院、光太郎表現し金賞 全日本合唱コン

岩手県民会館で25日に開かれた第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門で、Aグループ(8~32人)に関東支部代表として出場した清泉女学院は金賞、日本女子大付属は銀賞を受賞した。
 
 清泉女学院の自由曲は高村光太郎が作詩した「亡き人に」。妻の智恵子への深い愛情を表現した。部長の當麻真利奈さん(2年)は「部員で詩の意味を話し合い、詩の内容を、聞いている人たちに届けられるように歌った」。部員たちはステージ上で左右に分かれて立ち、高音の見事なハーモニーで会場を包んだ。當麻さんは「支えてくれた多くの方に感謝の気持ちを込めた」と振り返った。
 
 日本女子大付属は、与謝野晶子作詩の「絵師よ」を披露。伸びのある力強い声で、晶子の情熱を歌い上げた。部長の安藤春菜さん(3年)は「高校生には難解な歌詞もあったけれど、晶子の他の詩や短歌をいっぱい読んで学んだ」。歌詞をよく読み、日本語を美しく表現できるよう力を注いだという。気持ちよく楽しく、練習してきたことを出し切れた、と明るい笑顔で話した。
 
全国版にも大きく記事が出ました。
 
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写真は清泉さんです。
 
北海道版では帯広三条さんについて以下の記述が。
 
帯広三条は8年連続出場。自由曲で女声合唱とピアノのための組曲「智恵子抄」から選曲した「レモン哀歌」を、一体感のあるハーモニーで歌い上げた。部長の中居沙耶さん(3年)は「自分たちらしい合唱ができた」と話した。
 
12月17日には、ブレーン株式会社さんから、ライブ録音のCDが発売されます。こちらは全出場団体の演奏を収録。さらに後ほど、金賞受賞団体の演奏を収めたDVD/ブルーレイも発売されるはずです。今からたのしみです。
 
12/24追記 今年から、全出場団体のDVD/ブルーレイが発売されています。ただし、受注生産ですが。
 
ところで全国版の記事は、このように結ばれています。
 
日本人作曲家の曲が例年以上に多かったように感じたが、言葉の意味がいま一歩伝わらず、ちょっぴりもどかしくなる演奏も。合唱の醍醐味は、歌い手と聴き手の「共振」にあり。響きの源流である言葉にぜひ、もう少し意識を。
 
なるほど。
 
「部員で詩の意味を話し合い、詩の内容を、聞いている人たちに届けられるように歌った」という清泉さん、そういう意味でも頭一つ抜けたのかも知れません。
 
こうした入り口からでも、光太郎詩の世界に入っていく若い人達がもっともっと増えて欲しいものですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月26日
 
昭和38年(1963)の今日、資生堂ギャラリーで開催されていた第1回連翹会展が閉幕しました。
 
かつて昭和33年(1958)から42年(1967)にかけ、10回限定で、造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」が存在しました。筑摩書房の『高村光太郎全集』の印税を賞金にあて、初めから10回限定と決めて始められたものです。
 
連翹会展は、その高村光太郎賞造型部門の選考委員、受賞者による展覧会として、この年から昭和43年(1968)まで、6回開催されました。
 
第1回展の出品者は以下の通り。
 
木内克、菊池一雄、佐藤忠良、白井晟一、高村豊周、高田博厚、谷口吉郎、豊福知徳、西大由、舟越保武、堀内正和、本郷新、向井良吉、柳原義達。錚々たるメンバーですね。
 
さらにこの年、京都で見つかった光太郎の木彫「蝉」「柘榴」も出品されました。

第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の中学、高校部門が今月25(土)、26日(日)に盛岡市の岩手県民会館で行われます。
 
合唱楽譜の発行、販売を専門にしているパナムジカさんのサイトに、コンクール情報として、参加校と演奏曲目の一覧が書かれています。
 
それによると、高校Aの部(8~32人)で、光太郎作詞、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」から自由曲を選んだ学校が2校ありました。
 
北海道帯広三条高校合唱部さんが「レモン哀歌」、神奈川の清泉女学院高等学校音楽部さんが「亡き人に」。それぞれ難曲ですが、さすがに全国まで駒を進める学校ですので、しっかり歌いこなせているのでしょう。入賞してほしいものです。
 
以前にも書きましたが、この「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」は、智恵子の母校・福島高等女学校の後身である福島県立橘高校合唱団による委嘱作品です。同校合唱団は、この組曲全3曲の中から1曲ずつを自由曲とし、平成21年(2009)から3年間、全日本合唱コンクール全国大会に出場し、上位入賞しています。昨年には楽譜が刊行され、他校でも取り上げるようになったということでしょう。
 
ちなみに橘高校さん、やはり今回の全国大会に出場します。同じく鈴木輝昭氏の作曲で、大岡信作詞の「肖像」が自由曲です。
 
智恵子の後輩、といえば、日本女子大附属高校コーラスクラブ さんも出場します。自由曲は、やはり鈴木輝昭氏の作曲、与謝野晶子作詞の「絵師よ」。
 
昨日の『朝日新聞』さんに、この全国大会の特集記事が載りました。中高・大学一般合わせて出場122団体のうち、4つがピックアップされ、紹介されています。
 
高校の部では、初出場の京都女子高さん。開催地である岩手出身の宮澤賢治作詞「無声慟哭」(西村朗作曲)が自由曲ということです。「無声慟哭」は賢治の妹・トシ(やはり智恵子の後輩です!)の死に際して作られたもので、「レモン哀歌」と並び称される有名な挽歌です。
 
記事から一部引用させていただきます。
 
 部員たちの楽譜を見せてもらうと、意味の解釈がびっしりと書いてある。「無声慟哭」は、宮沢賢治が、愛していた妹を亡くした悲しみや葛藤を表現した詩だ。5日間、昼休みも話し合いを重ね、難解な詩を解釈。意味を意識しながら歌うようにしている。
 豊かな表情で表現することにも、力を入れているといい、「一つ一つの歌詞に合わせた表情を心がけたい」とアルトパートリーダーの成田千夏さん(17)。
 
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大切なことですね。合唱ですから、音程やハーモニー、リズム、ディナミークといった音楽としての要素がしっかりしていなければ仕方がありませんが、それと同じくらい、歌詞をどう伝えるか、ということも大切だと思います。
 
ここまで書いて想い出しました。当方、学生時代から合唱を続けています(社会に出てからサボっていた時期もありましたが)。学生時代に歌った曲の中に、故・伊藤海彦氏作詞の「島よ」(大中恩作曲)、「季節へのまなざし」(荻久保和明作曲)があり、当時、やはり詩の解釈に随分こだわりながら歌ったなあ、と。
 
そこで、過日、鎌倉のギャラリー笛さんにお邪魔した際、偶然にも伊藤氏の夫人にお会いすることができ、驚くと同時に感激いたしました。当方にとっての伊藤氏は、光太郎と交流のあった詩人というだけでなく、「島よ」「季節へのまなざし」の伊藤氏なのです。
 
閑話休題。全日本合唱コンクール全国大会、各校ともがんばってほしいところです。特に北海道帯広三条高校合唱部さん、清泉女学院高等学校音楽部さん(そういえば、清泉さんも鎌倉でした)には、しっかりと光太郎詩のこころを表現していただきたいものです。
 
ちなみに一般公開もされるはずですので、岩手方面の方、足をお運び下さい。25,26両日とも9:45開演だそうです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月22日
 
昭和24年(1949)の今日、智恵子の母・センが、千葉県九十九里で歿しました。
 
智恵子に負けず劣らず、波乱の生涯でした。センは智恵子の祖母・ノシが智恵子の祖父・次助と結婚した際の連れ子。智恵子の父・斎藤今朝吉と結婚し、智恵子をもうけてから夫婦で長沼家の養子に入りました。
 
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8人の子供のうち、智恵子を含む5人に先立たれ、1人は音信不通。さらに長沼酒造の隆盛と破産……。しかし、晩年は五女セツのもとで落ち着いた生活を送り、光太郎からの心遣いもあり、それなりに幸福だったと思われます。
 
下記画像は昭和3年(1928)夏、箱根で撮られた一葉。光太郎智恵子夫妻と、センです。
 
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岩手の地方紙、『岩手日日』さんの報道です。 

展示計画概要を説明 花巻市 光太郎記念館改修で (08/27)

 花巻市太田の高村光太郎記念館の展示改修に向けた市による2回目の説明会は25日夜、太田振興センターで開かれた。4月の説明会以降、市に寄せられた意見の検討結果を報告し、主に2014年度事業で進める展示改修の概要を説明した。

 地元の住民ら19人が参加。市生涯学習交流課が展示と施設改修の基本設計や周辺環境整備、運営方法に関わる40件余りの意見・要望への検討案を説明した。

 この中、研究者や学生が調べものをできるスペースを確保してほしいという要望に「事務室や休憩コーナーで対応する」として事務室を当初計画の約1・5倍に広げ、トイレの位置を移す設計変更を説明。高村山荘を望む窓の設置に関する要望には「建物の構造上、実現は困難」と理解を求めた。

 施設は、彫刻作品や映像中心の展示室1を「動」、作品解説と生涯を紹介する展示室2を「静」の空間とし、図書が閲覧できる休憩室、企画展示室も配置。展示室2は、山荘暮らしや県内著名人との関わりなど六つのゾーンで紹介する。

 山荘そばにある智恵子展望台への遊歩道の改修や駐車場舗装工事、屋外公衆トイレ改修、敷地内案内看板の設置のほか、15年度に予定する杉木立の伐採や詩碑前広場の改修案も説明した。

 参加者からは「開館日ごとの日付に合わせて光太郎の日記を紹介しては」「立木はどれを切るかでなく、どれを残すかの発想で取り組むべき」「山荘裏山の地滑り対策を」など貴重な意見や提案が相次いだ。

 細川祥市生涯学習部長は「地元の人たちの思いを大事に相談しながら進めたい」と語った。

 同記念館は、光太郎が晩年の7年間を過ごした高村山荘そばの旧記念館に代わり、近くの旧花巻歴史民俗資料館を活用して13年5月に暫定オープン。市は9月にも展示関係を発注し、10月から施設改修に入り、冬季は閉館して本格工事を進め、年度内の完了を目指す。
 
 
昨日発行の『広報はなまき』に関連情報が出るかと思って、ブログでの紹介を待っていましたが、ざっと見たところ、ありませんでした。
 
 
また、4月のこのブログで、その時点で公開されていた図面を載せましたが、より詳細な図面もPDFでアップされています。
 
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昨秋、施工業者のプロポーザルに委員として参加しましたが、その時点では、さっさと改修を済ませようという、いわば拙速に進める感がありました。しかし、その後、市長さんが替わり、このように住民のみなさんの意見も取り入れてじっくりやっていく方向に転換したとのことで、非常に素晴らしいと思います。これぞ民主主義ですね。
 
現在の記念館昨年5月仮オープンの段階でもかなり充実していますが、いまある展示室のさらに奥、かつて歴史民俗資料館だった頃に収蔵庫として使っていたスペースも第2展示室となるなど、さらに進化してゆきます。
 
ご期待下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月2日
 
昭和51年(1976)の今日、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の夜の部で、北條秀司脚本「智恵子抄」が上演されました。
 
智恵子役は有馬稲子さん、光太郎役は今年の初めに亡くなった高橋昌也さんでした。
 
二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏が、「智恵子に扮する有馬稲子像」としてこの際の有馬さんを描き、二本松駅前にある大山忠作美術館さんの目玉の一つとなっています。
 
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それが縁で、昨年は同館で有馬さんと、大山画伯のご長女、女優の一色采子さんとのトークショーが実現しましたし、さらにそれが縁で、一色さんは今年の連翹忌にご参加下さいました。
 
このようにして人と人との縁というものが広がって行くのですね。

いただきもの2点です。双方、昨日届きました。ありがたいかぎりです。

『平成25年度 盛岡てがみ館 館報』

2014年8月1日  編集発行(公財)盛岡市文化振興事業団  盛岡てがみ館
 
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毎年、送って下さっています。恐縮です。
 
今年2月から6月にかけて開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」の報告も掲載されています。出品物や光太郎の画像も載っており、資料としてありがたいものです。
 

『永瀬清子研究年報 第9号』

2014年2月17日
編集発行 岡山県赤磐市教育委員会熊山分室 赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会事務局
 
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光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子に関する資料集です。こちらも毎年送って下さっています。
 
地元での顕彰活動の記録や、各種出版物その他で永瀬清子が紹介されたものの一覧が載っており、このブログで永瀬清子を紹介した日の記事もくまなく載せて下さっています。恐縮です。

 
ご入用の方、それぞれ上記発行元団体に直接お申し込み下さい。上記にリンクを貼ってあります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月20日
 
昭和16年(1941)の今日、道統社から評論集『美について』が刊行されました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太001郎】で、やはり昭和16年(1941)の今日、詩集『智恵子抄』の刊行を紹介しました。
 
全く同じ日付で、評論集『美について』と詩集『智恵子抄』が刊行されたというわけです。
 
『美について』は戦後になって筑摩選書版、角川文庫版も出版されましたが、内容は同一ではありません。それを言うと、『智恵子抄』もそうですが……。
 
 
当方、本日、先頃亡くなった高村規氏の葬儀に行って参ります。

光太郎に関わる(関わるかも知れない)テレビ放映がぽつぽつあります。 

とことん歴史紀行2時間スペシャル「宮沢賢治~イーハトーブに見た夢~岩手・花巻」

BS11 2014年8月8日(金)  19時00分~21時00分
 
「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」「000グスコーブドリの伝記」など数々の名作を遺した宮沢賢治。彼の作品は今なお多くの日本人の心を掴んで離さない。今回は宮沢賢治が理想郷・イーハトーブとして描き、こよなく愛した岩手県花巻市を中心にゆかりの地を訪ねながら、宮沢賢治の素顔と知られざるエピソードに迫ります。さらにに「銀河鉄道の夜」に影響を受けたという漫画家・松本零士さん。宮沢賢治への想いを熱く語ります。番組では林風舎、宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、大沢温泉、羅須地人協会、石と賢治のミュージアムや賢治が通ったそば屋・やぶ屋、小岩井農場なども訪れます。また「銀河鉄道の夜」をイメージした客車の"SL銀河"の勇壮な走りもお楽しみください。
 
ナレーション:石丸謙二郎
 
 
光太郎も 愛した大沢温泉が扱われます。さらに光太郎揮毫の「雨ニモマケズ」詩碑などが紹介されれば、と思います。
 

<ドラマ名作選>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2014年8月9日(土)003  12時00分~13時55分
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !!
 
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年(2006)2月24日に金曜プレステージの枠で、地上波フジテレビさんが放映した2時間ドラマの再放送です。BSフジさんで、たびたび再放送しています。今はもう使われていない、花巻の古い高村記念館でロケが行われました。
 
原作は内田康夫さん。昭和61年(1986)に刊行された浅見光彦シリーズの第10作です。
 
こちらのドラマはかなり原作に忠実に作られています。 

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014年8月11日(月)  6時35分~6時45分 再放送 17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたいコミュニケーション能力や自己表現する感性を育てる番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、歌舞伎/「ドンタッポ」、はい!ここで名文/僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる「道程」高村光太郎、うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
出演 中村勘九郎,中村いてう,中村仲助,小錦八十吉,おおたか静流 ほか
 
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「はい! ここで名文」のコーナーで、「道程」が扱われます。このコーナーは、
 
ヨシタケシンスケさんのほんわかイラストと、名文が出会ったら、こんな楽しい世界になりました。日常生活のさりげないひとコマにどんな名文が出てくるのでしょう。みなさんも当ててみてくださいね。
 
だそうです。004
 
 
それぞれ、ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月5日
 
平成2年(1990)の今日、群馬県草津温泉に、光太郎詩「草津」の詩碑が除幕されました。
 
温泉街から少し離れた囲山公園に建てられたこの碑は、推敲の跡が激しく残る光太郎自筆原稿をもとに、鋳金家の西大由がステンレスパネルを制作、自然石に嵌め込んだものです。
 
当方、初めてここに行った時は真冬で、こんな感じでした。
 
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昨日に引き続き、女川ネタです。東京は芝の旅行会社・キッズワールドさんのパッケージツアーのご紹介です。 

宮城県女川町 復興視察ツアー 出かけよう東北へ!

世界遺産や歴史的名所、自然が育んだ多彩な山海の幸。
自然に恵まれ緑も海も豊かな東北は、これからが旅行のベストシーズンです。
今こそ行きたい魅力溢れる東北。
見て・食べて・泊まって・感じて、そして今を知ることが復興支援につながります。
今回は宮城県・岩手県のおすすめ観光スポットと、宮城県女川町の復興視察ツアーをご紹介!
 
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視察ツアースケジュール 仙台駅発着 / 専用バス / 日帰り / 仙台駅からの添乗員付
10:00 仙台駅発 ※1
12:00 昼食 約50分 女川温泉 華夕美(海鮮) 
12:50 女川町内視察(車窓)約30分 語り部ガイドによる震災当時や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてのお話を伺います。 
13:25 復興まちづくり情報交流館 約40分 町の復興の様子を映像やパネルを用いて説明していただきます。
14:15 マスカー水産加工品冷凍冷蔵庫 約30分 水産加工冷凍冷蔵施設、津波を受け流す建物構造を見学します。また、マイナス30度の冷凍庫の中も体験できます。※女川魚市場休市の場合はマリンパル女川へご案内します。 
14:55 きぼうのかね商店街 約40分 震災後に設置された仮設の復興商店街にてお買い物。  
15:35 女川町発 
17:30 仙台駅到着、解散 ※2 
 
※1 ご希望に合わせ、JRや国内線の手配、仙台観光や宿泊手配も別途承ります
※2 当日の交通事情により、予定時間は変更になる場合があります
 

ツアー代金 仙台駅発着/5月~7月土曜日催行

15名様20名様25名様
小型バス1台お1人様あたり¥11,300
小型バス1台お1人様あたり¥9,400
中型バス1台お1人様あたり¥8,600
  • ※催行日程、曜日、人数に合わせて料金は変動いたします。まずはご希望をお聞かせください!
  • ※ツアー代金より500円を女川町へお渡しします。
    (うち200円は女川町の復興支援金として利用され、300円は訪れた皆様が現地のお買い物などにご利用いただける地域通貨としてお返し致します。)

女川町はこんな町

宮城県の東端、太平洋に突き出た牡鹿半島の基部に位置する女川町。
石巻市に隣接し、日本有数の漁港「女川漁港」をもつ海のきれいな港町です。
中でも秋の味覚「秋刀魚」の水揚げ量は、全国でもトップクラスの業績を誇ります。

2011.3.11 東日本大震災、そして・・・

東日本大震災の発生。海に広く面している女川町は、津波によって壊滅的な被害を受け、10名にひとりという多くの町民が犠牲になりました。
震災から3年経った現在、町の復興計画は着々と歩みを進め、大型重機による造成工事が行われています。

今しか見ることのできないこのまちづくりを、次の大災害への備えに繋げてほしいと願う女川町の方々が、今回このツアーに協力してくださいました!
 


というわけで、15名以上の団体様で申し込みというツアーのようです。
 
職場や町内会などなど、こうした旅行の幹事をなさっている方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月25日
 
昭和25年(1950)の今日、帝国劇場で藤間節子舞踊リサイタルが開催され、「智恵子抄」第二集(「風にのる智恵子」「昇華」)が発表されました。
 
光太郎はパンフレットにエッセイ「再び村にて」を寄せています。

過日のブログでご紹介した光太郎書簡に関する続報が、『朝日新聞』さんの岩手版に出ました。

光太郎の手紙寄贈 神奈川の縁者

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙を所有する神奈川県在住の進(しん)慶子さん(66)が4日、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れ、手紙を寄贈した。館を運営する光太郎記念会の高橋邦広理事は「貴重な資料をありがとうございました」と喜んでいた。
 進さんは、光太郎の実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の離婚した妻の故和田美和さんの縁者。その美和さんに光太郎が出した手紙1通で、書かれた日が1933年8月24日と確認した高橋さんは「よく81年も保管しておいてくれました」と感謝の言葉を述べた。
 手紙には「あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと、弟と離婚した美和さんをいたわる記載があり、進さんは「光太郎の優しい面がわかる内容でもあり、捨てないでいた」と話した。
 光太郎は、智恵子と1914年に実質的な結婚生活に入り、手紙が書かれた前日の8月23日に婚姻届を出した。これは精神的に不安定な智恵子を法的に守るための対応とされ、翌日には2人で旅行に出かける慌ただしい中で、弟の離婚した妻へ手紙を書いたのは、2人の女性の境遇に「いろいろ重なるものを見たのではないか」と記念会は推測していた。
 進さんは、豊周さんからの手紙も1通寄贈。「ともかくこれで手紙が落ち着くところに落ち着いた」とほっとしていた。
 両方の手紙は高村家のプライベートな部分も多く含まれており、展示について記念会は「関係者とよく協議して決めたい」と話している。
 
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ついでに第一報での誤りについての訂正記事も出ました。
 
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光太郎書簡は、現在までに3,400通ほど見つかっていますが、まだまだ埋もれているものがたくさんあるはずです。
 
筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っていますが、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、高田博厚、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。今回報道されたものもそうですが、 こんな人にも手紙を送っていたのか、というケースもあります。ここ数年で見つかって、『高村光太郎全集』に掲載されていないものとしては、伊藤静雄、谷川俊太郎、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)、稲垣足穂、マチスなど。また、あるべくしてあったという宛先のものもここ数年でけっこう見つかっています。永瀬清子、中山義秀、平櫛田中、石井鶴三、高祖保など。
 
それから、一通の手紙で、それまで特定できていなかった年譜上の出来事の日付が確定することもあります。
これも最近見つけた例でいうと、大正元年(1912)、智恵子と過ごした銚子犬吠埼から帰京したのが9月4日だったこと、昭和30年(1955)、花巻から東京中野に住民票を異動したのが6月1日であったことなどが、それぞれ1通の書簡の発見により判明しました。
 
幸い、最近、光太郎の新たな書簡が見つからない、という事態にはなっていませんが、本当にまだまだ眠っている書簡がたくさんあるはずです。ご協力をお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月6日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院していた駒込病院から退院しました。
 
約1ヶ月の入院で、この退院の日付も最近見つかった6月14日付の田村松魚あての書簡により特定できました。
 
御手紙ありがたく拝見しました。六日にやつと退院しましたが筆をとるのがひどくおつくうだつたので まだまるで友達にもその事をしらせず失礼してゐました。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が出ました。

光太郎の手紙見つかる

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙が、縁者の家から見つかった。実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の元妻に宛てた手紙で、悲しみを慰めるプライベートな内容となっている。近く花巻市の高村記念会に寄贈される予定で、同会は「第一級の資料」と喜んでいる。
 
 手紙は、豊周と離婚した故和田美和さんに宛てたもので、親類の神奈川県大磯町の進(しん)慶子さん(66)が、和田さんから預かっていた荷物の中から見つけた。高村記念会に連絡をとり、光太郎全集や豊周全集などにも載っていない新資料で、直筆だと確認された。
 
 内容は「ただあなたの未来の御幸福御健康を祈ります。あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと記され、離婚に関連していると推測される。
 
 手紙の冒頭に「おてがみ再読しました」とあり、和田さんの手紙を受けての返信とみられる。
 
 手紙の末尾に「八月二十四日」と書かれ、封筒の消印は翌日の昭和8(1933)年8月25日。光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、24日夜には2人で旅行に出かけており、手紙はその直前に書かれ、投函(とうかん)されたことになる。
 
 忙しい中で書簡をしたためたとみられ、記念会では、光太郎の誠実さが読み取れるとしている。
 
 進さんは、子どもがなかった和田さんの世話をしており、没後約20年たった数年前、預かった荷物を捨てようと整理をしていて、手紙の差出人に「高村光太郎」という文字を見つけた。和田さんから生前、高村家との関係を聞いており、「自分で持っていてももったいないので活用できるならしてもらいたい」と寄贈を決めたという。
 
 光太郎は、「道程」「智恵子抄」などの詩集や、十和田湖畔のブロンズ像「乙女の像」などの作品で知られているが、見つかった手紙には、これらの制作過程にかかわる記載はなく、プライベートなものだけ。
 
 だが、新たな人となりが見えてくる可能性もあり、同会は「研究者の手で解明してもらいたい」とし、公開については「遺族などと協議をして決めたい」としている。
 
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この書簡の存在については、昨秋、花巻の高村光太郎記念会さんから情報を得ていましたが、予定では明日、記念会さんに寄贈されるとのことで、記事になったようです。
 
傷心の元義妹に宛てたもので、慈愛に溢れたいい文章です。ただ、公序良俗に反することが書いてあるわけでもないのですが、やはり家庭内のゴタゴタにからむ内容なので、記念会さんとしてもあまり大っぴらに公開はしない方向とのこと。それでいいと思います。
 
離婚の経緯などについては、豊周自身が自著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)の中で、かなり具体的に語っており、特に極秘事項というわけでもないのですが、ことさらに取り上げるべき事柄ではないと思います。
 
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売れば売ったでかなりの金額になるものです。ところが、現所有者の方は、全くの善意で寄贈してくださるとのこと。すばらしいと思います。
 
ところで記事の中で「光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、」とあるのは大間違いで、正しくは婚姻届です。何をどう間違えたのか、全く逆になってしまっています。
 
昭和8年(1933)というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失してしまった福島の不動湯や栃木の塩原温泉などを巡っています。8月24日のことです。その前日に、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
その同じ日にこの書簡が書かれているということで、忙しい中に手間を厭わなかった光太郎の慈愛の念が感じられます。
 
ちなみに盛岡てがみ館さんでは、来週月曜まで、企画展「高村光太郎と岩手の人」を開催しています。まだまだ各地に眠っている光太郎書簡はかなりあると思われます(もしかすると智恵子書簡も)。こうした書簡類、死蔵されたままにならないことを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月3日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外旧太田村の山小屋に、二間×三間の別棟が増築されました。
 
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右が昭和20年(1945)からの元々の小屋、左が増築された別棟です。ちなみによく見ると二つの小屋の間で光太郎が手を振っています。

現在、増築部分は少し離れた場所に移築、倉庫的に活用されています。
 
費用は詩集『智恵子抄』版元の龍星閣が持ちました。同社は明瞭な印税制をとらず、こういう形で光太郎に還元したそうです。

過日、花巻の第57回高村祭に行った折、入手してきたチラシです。
 
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花巻で運行されている観光タクシー「あったかいなはん花巻号2014」の案内です。昨年から始まった企画ですが、レトロジャンボタクシーで花巻市内の観光施設等を廻って、半日1,000円、1日で2,000円という値段です。
 
半日コースは午前コースと午後コースに分かれており、両方通しで1日コースとなります。午後コースの方に、高村光太郎記念館・高村山荘が含まれています。その午後コースは、他に宮澤賢治記念館マルカン百貨店大展望大食堂を巡回します。なぜにデパートの食堂?と思われるかも知れませんが、ここの巨大ソフトクリームが花巻名物の一つで、最近、旅番組などでもよく取り上げられているからです。しかも「ツアーの参加特典」となっていますので、タクシー料金に含まれているようです。ただ、巨大ソフトクリーム、もともと150円ですが……。こちらは割り箸で食べるのが正式な作法です。当方も話の種にと思い、一度食べたことがありますが、半端なものではありません。
 
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「あったかいなはん花巻号」、要予約ですが、ネットのいわて花巻旅行社さんのページから可能です。
 
以前は在来の花巻駅から高村光太郎記念館・高村山荘行きの路線バスがあったのですが、数年前に廃線となり、公共交通機関で行こうと思ったら、通常のタクシーか、この「あったかいなはん花巻号」しかありません。通常のタクシーは花巻駅から片道3,000円ちょっとですので、往復となると7,000円ほどになってしまいます。まして東北新幹線の新花巻駅からですと、さらに距離があります。
 
ぜひご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月23日

昭和12年(1937)の今日、新潟長岡で「光雲遺作木彫展観」が開催されました。
 
新潟に光雲支援者が多くいたことから開催の運びとなりました。光太郎も観に行っています。
 
この時に、光太郎の文章「〔高村光雲作木彫展観〕」が載っているパンフレット的なものが発行されました。文章は『高村光太郎全集』に掲載されているのですが、パンフレットそのものを探しています。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

5/15(木)、岩手花巻で行われた第57回高村祭。地元紙に報道されましたのでご紹介します。 

光太郎しのび朗読や合唱 花巻で高村祭

『岩手日報』
 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第57回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、郷土ゆかりの先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。太田小児童の楽器演奏、西南中の合唱に続き、花巻北高の遠藤鮎喜(あゆき)君(3年)と佐々木愛美さん(2年)が「晴天に酔う」「レモン哀歌」を朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年の佐藤百(もも)さん(18)は1945年8月の花巻空襲時に、危険を顧みず負傷者救護に尽力した看護師らをたたえた詩「非常の時」を情感を込めて読み上げた。佐藤さんは「戦争作品はあっても、看護師などに目を向けた詩は少ない。意味を調べながら練習した」と話した。
 同看護専門学校のコーラス披露もあり、訪れた市民ら約300人とともに光太郎に思いをはせた。
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光太郎精神 現代に 地元学生ら詩朗読、合唱 名前の由来は光太郎の妻 名付け親に持つ末盛千枝子さん

『岩手日日』
 花巻市ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する高村祭が15日、同市太田山口地区の高村山荘詩碑前で開かれた。地元の学生たちによる光太郎作品の朗読や、編集者の末盛千枝子さん(八幡平市)の特別講演などを通じ、参加者が偉人の足跡に思いをはせた。

 光太郎が東京から花巻に疎開してきた日を記念し、花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が毎年主催。57回目の今年は、詩集「道程」刊行100周年が重なった。

 各地から450人以上が参加。開会に先立ち光太郎の遺影が飾られた詩碑に太田小2年生の中島流星君と石川澄花さんが献花し、三彩流新茗会新田社中が献茶して開会。参加者全員が詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読した。

 続いて地元の学生たちが出演し、新緑に包まれた会場で光太郎の残した言葉を響かせた。太田小2年生21人は光太郎と交流のあった旧山口小の校歌を元気いっぱい歌ったほか、「かっこう」をピアニカで演奏、光太郎の詩「案内」を暗唱した。

 西南中学校1年生49人は「心はいつでも新しく、毎日何かしらを発見する」という光太郎の言葉を取り入れた精神歌を合唱。県立花巻北高校の遠藤鮎喜君(3年)と佐々木愛美さん(2年)、花巻高等看護専門学校の佐藤百さん(1年)による光太郎の詩の朗読後、同校1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」のコーラスを披露した。

 特別講演では、本県出身の彫刻家・故舟越保武氏の長女で、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、「私にとっての高村光太郎」と題して光太郎との縁を振り返った。

 末盛さんの父は光太郎が訳した本「ロダンの言葉」を読んで彫刻家になろうと決心した経緯があり、29歳の時に初めての娘である末盛さんが東京で生まれた時、全く面識のない光太郎を突然訪ねて名前を頼んだという。

 光太郎は妻智恵子を亡くしてから3年しか経っていない頃で、「女の名前は智恵子しか浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って名付けてくれた-と末盛さんは聞かされてきた。

 末盛さんは「自分はそんな大切な名前に値しない。父が無理難題を言って申し訳ない」と感じてきたが、「最近になって父は彫刻家としてやっていく励ましをもらいたくて高村さんを訪ねたのだろう、高村さんは大変さを身に染みて分かっていたから、若い彫刻家の頼みを断れなかったのではと思えるようになった」と心境の変化を語った。

 盛岡にいた当時、光太郎から「おじさんのことを覚えていてください」と言われたことにも触れ、「父が彫刻家になることが高村さんの励ましに応えることだった。弟2人(舟越桂氏、舟越直木氏)も彫刻家になり、曲りなりにも応えられたのでは」と思いをはせた。
 
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それから、撮ってきた写真を整理していたら、過日のブログに載せ忘れていたものがありましたので、ついでに。
 
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左はポスター、右は会場正面に掲げられた光太郎肖像写真です。
 
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会場のゴザの上を飛び跳ねていた蛙。思わず「心平先生、いらしてたんですか?」と呼びかけてしまいました(笑)。
 
今日は福島二本松の智恵子生誕祭に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月18日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに入れるベッドの購入契約をしました。
 
メーカーはエムプレス。光太郎、約2年後に、このベッドの上で終焉の時を迎えました。
 
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昨日、岩手花巻で行われた第57回高村祭をレポートします。
 
夜行高速バスで花巻駅前に着いたのが朝6時30分過ぎ。駅の売店で買ったパンとコーヒーで朝食。タクシーで会場の高村山荘―昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が暮らした山小屋―に向かいました。会は10時からなのですが、早めに行って周辺散策、それから敷地内の高村光太郎記念館を観ようと思った次第です。
 
東北北部もようやく新緑の季節となり、昨日は光太郎関連のイベントにしては珍しく雨も降っておらず、いい感じでした。記念館のかたわらの山桜はまだ花を付けていました。
 
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会場の設営を終えて、いったんお帰りになるという花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋氏、山口支部の浅沼さんなどにご挨拶、その後、周辺を歩きました。
 
山荘の向かって右手は光太郎が使用していた便所ですが、「月光殿」という洒落た名前が付けられていたものです。明かり取りのために「光」一字が壁に彫りつけられています。
 
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裏手に回ると、中からの様子が見えるようにしてありました。以前はこうなっていなかったので、興味深く拝見しました。
 
記念館は8時30分開館ですが、少し前に入れていただき、お茶まで戴いてしまいました。ショップでは、復刊された花巻版『高村光太郎詩集』も並んでいました。
 
そうこうしているうちに参会の皆様が集まり始め、当方も会場に移動。会場はやはり敷地内の「雪白く積めり」詩碑前の広場です。もともと第1回の光太郎祭(昭和33年=1958)は、この詩碑と山小屋の套屋(とうおく=建物全体のカバー)落成記念を兼ねて開かれたという経緯があり、ここが伝統的に会場になっています。
 
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さて、開会。献花、献茶、参会者全員による「雪白く積めり」朗読、主催者挨拶と続き、これも伝統的に、地元の小中高生、花巻高等看護専門学校生徒の皆さんによる朗読や器楽合奏、合唱などが行われました。
 
小学生の器楽合奏は、もともと光太郎が旧山口小学校に楽器を寄附したことに由来します。おそらく初期の高村祭ではその光太郎寄附の楽器が使われていたと推定されます。

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その後、特別講演。講師は光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご令嬢、末盛千枝子さん。講師紹介で「ご令嬢」と紹介されると、ご来場の末盛さんのお友達の皆さんが非常にウケていました。
 
当方、昨秋、東京代官山でのイベントで末盛さんのお話を伺いましたが、その折りのお話プラスアルファで、興味深い内容でした。やはり直接光太郎をご存知で、家族ぐるみ光太郎と縁のあった方のお話ですので、そうでない方のお話とは違います。
 
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右上は終了後のサイン会の様子です。
 
その後、お昼の弁当を戴いて、さらに当方は記念会スタッフの方と記念館改修についての打ち合わせ。現在は手前の展示スペースのみを使っていますが、その奥のスペースを使い、倍近い広さになるとのことで、図面を見ながら現場を拝見しました。1年後には新規オープンの予定ですが、今年就任された新市長の方針で、地元の皆さんの声も反映させていくとのことです。当方もまた関わらせていただきます。
 
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その後、末盛さんともども山荘内部に特別に入れていただきました。2年ぶりに中に入りましたが、やはり感慨深いものがありました。
 
そして花巻駅まで送っていただき、千葉へと帰りました。
 
高村山荘、記念館、新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運び下さい。来年には記念館改修完了の予定ですし、また第58回高村祭もあります。そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
昨年運行され、好評だったレトロジャンボタクシー「あったかいなはん花巻号」、今年も運行されています。そちらについてはまた日を改めて書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月16日

昭和25年(1950)の今日、花巻の寿デパートで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち花巻にあったものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはここに保管されている等の情報をお持ちの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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東北新幹線はやぶさ車中にて書いております。

昨夜は池袋から夜行バスに乗り、今朝、花巻に着きました。今日は花巻郊外、旧太田村の光太郎が暮らしていた山小屋・高村山荘敷地内にて、第五十七回高村祭でした。

詳しくは明日、また投稿いたします。

【今日は何の日・光太郎 補遺】5月15日

昭和33年(1958)の今日、花巻で第1回高村祭が行われました。


当時の呼称は「高村記念祭」。記念講演の講師は草野心平、伊藤信吉でした。

岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

国語教育の向上へ〜高村光太郎詩集 県内学校施設に贈る (05/13)

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念して刊行した「高村光太郎詩集」を花巻市内をはじめ、県内の学校施設に贈った。晩年を過ごした花巻市で12日に贈呈式が行われ、光太郎研究の第一人者北川太一氏(東京都)による解説付きの資料として国語教育の向上に役立つことを願った。
 
  同詩集は、「道程」「智恵子抄」「典型」など代表作91編を収めたB6判、320ページ(定価1400円)。一編ごとに北川氏が詩の制作背景や用語などの解説を添え、光太郎の詩を読み解く資料として好評を得ている。
 
  もともとは1969年に旺文社文庫として発刊され、92年に旧高村記念会(現記念会の前身)として再発行。今回、昨年の節目の年を記念して光太郎の誕生日(3月13日)に改定新版として3000部を作った。

同市役所に佐藤会長ら記念会関係者4人が訪れ、贈呈の趣旨説明後、佐藤会長が上田東一市長に詩集を手渡した。

 上田市長は「花巻の子供たちがこれを読んで心を豊かに、光太郎さんと花巻のつながりも学んでもらえればうれしい」と感謝し、佐藤会長が「よろしくお願いします」と思いを託した。

 詩集は「各学校の書架に納めてほしい」と市内の小中学校30校を含め県内の全小中学校、高校、大学の計625校に3月中に寄贈された。

 寄贈に当たっては、光太郎が花巻在住当時に取材を通じて交流のあった写真新聞記者阿部徹雄さんの子息の力(つとむ)さん(静岡県在住)から東日本大震災の復興支援への意味を込めて寄せられた寄付金も役立てられており今後、図書館施設などにも贈る予定。
 
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明日行われる「第57回高村祭」を主催されている一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんが、同会刊行の『高村光太郎詩集』を岩手県内の学校に寄贈したという内容です。
 
この『高村光太郎詩集』、記事にあるとおり、元は昭和44年(1969)に旺文社文庫の一冊として刊行されたものの復刻です。100篇ほどの詩を収め、そのすべてに、北川太一先生による詳細な脚注がついています。
 
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さらに同じく北川先生による巻末の解説も非000常に充実しており、この手のものの中では白眉です。昔の文庫本はものすごく手間がかかっていたというのがよくわかります。
 
ちなみに表紙は、旺文社文庫では洋画家の故・深尾庄介氏のイラスト(これも豪華な起用です)。
 
一方の花巻版は、光太郎自身が大正9年(1920)に、与謝野晶子著『晶子短歌全集』第三巻の挿画として描いたペン画の「手と星空」を使っています。
 
自作のブロンズ彫刻で、光太郎の代表作の一つ「手」をモチーフにしています。
 
この他にも花巻の高村光太郎記念会さんでは、昭和37年(1962)に筑摩書房から無題1刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。
 
こちらは故・佐藤隆房氏編。佐藤氏は初代の花巻高村光太郎記念会会長で、宮澤賢治の主治医でもありました。先の記事にもお名前が上がっている現会長・佐藤進氏はそのご子息です。この書籍は題名の通り、光太郎が花巻に住んでいた7年間の様々なエピソードを、地元の皆さんの証言等で構成したもので、非常に貴重な記録です。
 
こちらも何度か再版がかけられていますが、そろそろ在庫が払底してしまっているそうなので、近々再刊する予定とお聞きしています。あるいはもうされているでしょうか。
 
この手のご当地限定光太郎書籍、なかなか花巻でしか手に入りません。明日の高村祭を含め、ぜひとも花巻光太郎山荘付近へお越し下さいませ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月14日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋戸外で誤って転倒、肋骨を傷めました。
 
転倒した際に石油ランプを破壊し、痛みが引くまで1週間かかるほど激しく転んだようです。太田村は無医村でしたので、病院にも行かずに耐えていましたが、日記には毎日のように肋骨の痛みを綴っています。見かねた村人が温泉での湯治を勧めました。高齢者の転倒事故、昔からあったのですね。

先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
 
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
 
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
 
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
 
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今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
 
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日

昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
 
この日の日記に以下の記述があります。
 
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
 
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
 
   わが詩をよみて人死に就けり
 
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞が読んだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
 
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。

岩手花巻の㈶高村記念会さんからご案内をいただきました。 

滴一滴第57回高村祭

日 時 : 平成26年5月15日(木) 午前10時から午後14時30分頃まで
場 所 : 岩手県花巻市太田3-91 高村山荘詩碑前
      (雨天時はスポーツキャンプ村屋内運動場)
主 催 : 一般財団法人花巻高村光太郎記念会 同山口支部
共 催 : 花巻市 花巻市教育委員会 一般社団法人花巻観光協会
内 容 : 式典 地元学生による詩の朗読 器楽演奏 コーラス等
 
特別講演 末盛千枝子先生(編集者) 演題『私にとっての高村光太郎』
 
5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエを空襲で焼け出された光太郎が、宮澤家の招きで花巻に疎開するために東京を発った日です。それを記念して、毎年この日に光太郎がかつて暮らしていた旧太田村山口の山小屋(高村山荘)で、高村祭が行われています。
 
昨年は山荘近くにリニューアルオープンした高村光太郎記念館の仮オープンも兼ね、お父さまが光太郎と交流があった女優の渡辺えりさんによる特別講演があり、多くの方でにぎわいました。
 
今年の特別講演は末盛千枝子さん。やはりお父さまの彫刻家、故・舟越保武氏が光太郎と交流があり、ご自身も光太郎と面識がおありです。昨秋、東京代官山でのイベント、読書会「少女は本を読んで大人になる」にご出演、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は「智恵子」にちなんで光太郎が名づけてくれたというお話、その後、成長なさってから光太郎と実際にお会いになった時のお話など、興味深い内容でした。今回もそのあたりが聴けると思います。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月3日

大正15年(1926)の今日、詩人の尾崎喜八に宛てて、自作木彫「鯰」をプリントした絵葉書を送りました。
 
大正末から昭和初めにかけ、光太郎はこのように自作の彫刻や自分と智恵子の写真を使った絵葉書をよく使用していました。「鯰」はこの時開催されていた「聖徳太子奉賛美術展覧会」に出品したものでした。
 
おまけ
 
このブログ、本日をもって、3年目に突入しました。昨日までまる2年、主に新しい情報を中心に、1日も休まず更新して参りました。時折、ネタに苦しむこともありましたが、探せばネタは結構転がっているものですね。
 
地味なブログですのでなかなか閲覧数が伸びませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
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花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

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