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昨日に引き続き、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻からの情報です。

地元紙『岩手日日』さんから。 

地域の魅力 色鮮やかに ギャラリーBun 多田さんがポスター展 花巻

 花巻市の元教諭で絵画サークル講師多田民雄さん(83)の作品展は、同市円万寺のアートスペース・ギャラリーBunで開かれている。地域の自然や名物に目を向け、色鮮やかなポスターに仕上げた20点を展示。多くの市民らが会場に足を運び、花巻の魅力を再確認している。25日まで。
 同市高松にアトリエを持つ多田さんが、なめとこ山や胡四王山などを描いた「イーハトーブの山々」シリーズなどを出品。ほかに高村光太郎記念館や花巻人形、早池峰神楽などを題材とした作品も並ぶ。サイズは変形10号、ポスターカラーを用いて描かれている。
 このうち「花巻で良かった」は、マルカンビル大食堂のソフトクリームを紹介した一枚。名物の10段巻きに客の満足顔を重ねた仕上がりがほほ笑ましく、ひときわ鑑賞者の目を引いている。
 多田さんは同市高松生まれで、花巻中学校に15年間勤めるなど、長年古里の教育に尽力。花巻への愛着もひとしおで、「病気をした時に先輩教師に冬のくらかけ山に連れて行ってもらい、大自然に感動した。若い頃は自分のことばかりだったが、今は周囲に生かしてもらっているという思いが強い」と、地元に寄せる思いを語っている。
 午前11時~午後5時。火、水曜休廊。問い合わせは同ギャラr-=0198(23)7275まで。

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まったく花巻は絵になる場所や風物の宝庫です。

記事にあるマルカン大食堂のソフトクリーム、当方も一度、作法に従い割り箸で頂きました(笑)が、「ハンパない」の形容がぴったりです。

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上記は、昨年創刊された花巻の情報誌『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんから。


郊外旧太田村の、光太郎曰く「ここの疎林がヤツカの並木で、/小屋のまはりは栗と松。」(詩「案内」昭和24年=1949)という、緑に囲まれた山小屋(高村山荘)、高村光太郎記念館も、非常に絵になるビュースポットですね。

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ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

彼の群像のグルウピング、彼の人物のポオズの動勢。さういふものが皆彫刻家たる私を打つ。彼の画を見るといつでも強い電撃のやうなものを、私自身の彫刻本能にうける。あんな美しい感じの彫刻を一つでも作りたいと思ふ。

散文「ブレエクのイマジネエシヨン」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「ブレエク」は、ウィリアム・ブレイク。18~19世紀の英国人画家です。ダンテの『神曲』の挿画を描いたことで知られています。

おそらく光太郎が傾倒したロダンも、大作「地獄の門」制作に際して参照したのではないでしょうか。

先週9日、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が実施されました。

地元紙『岩手日日』さんの報道。 

光太郎 より身近に 記念館講座 ゆかりの地巡る

 高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」は9日、花巻市内で開かれた。参加者は詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)ゆかりの地をバスで巡ったり講話に耳を傾けたりして、花巻で一時期を過ごした偉人に思いをはせた。
 1945年に花巻に疎開し旧太田村山口の小屋で戦後7年間、地域の人たちと交流しながら暮らした光太郎への理解を深めようと同記念館が毎年開催。市内から親子ら約30人が参加した。
 同市桜町の桜地人館や詩人で童話作家の宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が刻まれた詩碑を見学後、同市太田の高村山荘に移動。花巻高村光太郎記念会のメンバーや花巻観光協会ボランティアガイドの説明を受けながら、光太郎が暮らした小屋や展望台、光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた詩碑など山荘一帯を歩いて巡った。
 ガイドらは小屋を2層のさや堂で覆い保存していることや、展望台がある高台から光太郎が妻智恵子の名を叫んでいたこと、詩碑の下には光太郎のひげが埋められていることなどを紹介。参加者はメモしながら聞き入っていた。
 同市東和町安俵、主婦小原由起子さん(43)は、長男佑太君(7)と初めて参加。「光太郎のことを知るきっかけになればと思って参加した。大変な暮らしだったことが分かった」と改めて理解を深めた様子。佑太君は「学校の勉強と違って観察したりいろいろなものを見つけたりすることができて面白い」と楽しんでいた。
 参加者は昼食で光太郎の日記から再現した食事を味わい、講話にも耳を傾けた。

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その後、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ女史からメールで詳細なご報告や画像が送られてきましたので、捕捉します。

郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺散策の際の資料。「見つけよう!」だそうです。

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いかにも自然が豊かな場所だというのが分かりますね。

こちらは、光太郎が好んで食べ、詩にもしている山菜・ミヅ。正式にはウワバミソウというそうです。当方も先月行われた第61回花巻高村祭の折にいただきました。シャキシャキした食感がよく、また、食べきれずに持ち帰った分は、うどんに入れて山菜うどんにしてみましたが、goodでした。

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その後、古民家を改修して集会所的に活用している「新農村地域定住交流会館・むらの家」で、地区の祭りに参加、地元の太田小学校の子供たちに混じって、餅つきや魚つかみに挑戦したそうです。

昼食は記事にあるとおり、光太郎の日記から再現された弁当。ラベルは特製のようです。

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箸袋にメニューが記載されていますが、よもぎ御飯、そば粉パン、ホッケのトマトソース、シュークルート、ミヅの吸い物、焼き鳥、煮豆、ヨーグルトだそうです。商品化してもいけるような気がします。


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昨年は当方も講師に加えていただき、光太郎文筆作品に記された星々の話をさせていただきましたが、その時のレジュメを転用し、天文サークルの方が講話「光太郎と星」をなさったり、星座早見盤の使い方の講習などを行ったりしたとのことです。

その後は記念館さんの自由見学だったそうです。


この手の地域密着型の講座――特に若い世代に向けて――というのは、非常に大切な試みだと思われます。

記念館さんでは、来月14日から、かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てた企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催予定です。ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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来週には、東京・大井町の工房から搬出だそうで、当方も立ち会う予定でおります。

また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

リーチの美は正統な伝統から生れながら、現代感覚の相当大胆な表現につき進んでいるが、病的のうるささには落ちていない。それはリーチの人柄の如き好ましい新である。恐らく健康な原始人の感覚を内蔵しているリーチの先祖がえりの新であろう。この新は下司ばつていない。とりすましていない。物欲しげでない。まして神々のへどではない。

散文「リーチ的詩魂」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

このところこのコーナーでご紹介している、バーナード・リーチの陶芸作品に関してです。他者の作品評ではありますが、光太郎自身の目指す芸術のあり方もよく表現されています。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報紙『広報はなまき』の今月1日号に、先月行われた第61回高村祭の記事が載っています。  

光太郎に思い馳せる 第61回高村祭

 5月15日、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第61回高村祭」が高村山荘詩碑前で行われ、約650人が威徳をしのびました。
 光太郎にゆかりのある太田小学校の児童が、遺影の飾られた詩碑に献花し開会。参加者全員で詩「雪白く積めり」を朗読したほか、地元小中高生などが合唱や朗読を披露しました。
 続く座談会では、光太郎と交流のあった地元民4人が思い出を紹介。訪れた皆さんは、語られるエピソードに耳を傾け、郷土ゆかりの先人に思いを馳せていました。

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それから、同じ第61回高村祭を報じた、『読売新聞』さん岩手版。ネットでは有料会員登録をしないと読めませんで、自宅兼事務所に隣接する成田市の市立図書館さんで拝読しました。  

光太郎をしのぶ 献花や座談会も 花巻・高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第61回「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。小中高生らが献花し、詩の朗読や合唱を披露。光太郎と交流があった地元民4人が思い出を語る座談会も行われ、約650人が耳を傾けた。
 終戦前の1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、交流があった宮澤賢治の実家に招かれて5月15日に花巻へ疎開。約7年間、粗末な小屋で農耕自炊の日々を送った。
 座談会では、高橋愛子さん(86)が光太郎と初めて会った時の印象を、「よれよれのリュックを背負って大きな靴を履き、本当に偉い先生なのかと思った」と明かした。よく亡くなった妻の智恵子さんの話をしていたといい、「寂しくないかと尋ねると、『智恵さんがいるから』と答えていた」と懐かしんだ。
 小学生だった高橋征一さん(75)と浅沼隆さん(76)は、光太郎がサンタクロースの姿で学芸会に来た時のことを、「愛子さんと母親が赤いじゅばんで縫った服を着て、羊毛のひげを付けていた」と紹介。小屋で火をおこす手伝いをした時は「火吹き用に渡された紙筒が英字新聞で驚いた」という。

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遅ればせながらご紹介いたしました。

高村山荘、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さんでは、明後日、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」を開催予定。さらに来月14日からは企画展「光太郎と花巻電鉄」が予定されています。目玉はジオラマ作家・石井彰英氏作成の、光太郎居住当時前後を再現した花巻とその周辺のジオラマ。完成したとの報が届いています。また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】003

結局これは一つの造形的結構であり、人体をこういう形にしてそれを作つたに止まり、見る者は一つの山のような、海のような、「巨大なるもの」の人体的形象化を見れば十分なのである。

散文「考える人」より 昭和25年(1950)
 光太郎68歳

平凡社刊行『世界美術全集24 西洋十九世紀』に載った、ロダン作「考える人」の解説から。左は同書の図版です。

書き出しは、「「考える人」は別に考えているのではない。こんな動物的巨大漢がこんな無理な形で物を考えている筈もない。」。

「無理な形」は、右の肘を左の太ももに置くという、極度に上半身をねじったポーズです。

ロダンに出会う前、若かりし頃の光太郎も、そういう彫刻を作って喜んでいましたが、いわくありげなポーズや謎めいた題名をつけた「文学的」な彫刻は、彫刻を病ましめるものだと悟りました。以後、光太郎の彫刻は純粋に造形美を表出するもの、自己内面の喜怒哀楽は彫刻に表すべきでなく、詩歌などの文学で吐き出す、という方向に行きました。

文学的にいろいろなことを物語っているように見えるロダン彫刻も、純粋に造形美として見るべし、ということですね。

昨日に引き続き、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』の2018年6月号から。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載で、今号のサブタイトルは「光太郎が送った夏のたより」。全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。

昨日はグラビア的に画像入りで紹介されている佐藤隆房医師宛の昭和27年(1952)のはがきを取り上げましたが、続く見開き2ページで、大正期から戦後までの7通が引用されています。

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まず、大正12年(1923)8月15日、四国在住の龍田秀吉という人物仁送ったはがき。

遠い町からのお便りは此処のアトリエに海の風のやうなものをもつて来ました。私は家の中で海水着を着て裸体生活をしてゐます。今年の夏は割に弱らない方ですがそれでも頭が半分になつたやうです。ご健康をいのりながら。

海水着」は現代の海パンのようなものなのでしょうか? 想像すると笑えます。


続いて、同15年(1926)7月20日、親友だった作家の水野葉舟に宛てて。

昨夜は一足ちがひにお素麺がお宅から届いた。それで僕だけ喰べた。おつゆが大層うまかつた。昨日天ぷら揚物を此頃に喰べさせてもらひにゆく事を申出たが考へてみて取消す。この暑さに汗を流しながら天ぷらをくふのもやり切れない。むしろ僕は一人で生瓜をかぢる。〈(君が支度するといけないと思つて一筆)〉

相手が親友だけに、ある種ぶっきらぼうな文面ですが、それだけによそ行きでない親愛の情が表れています。


昭和に入って、昭和2年(1927)7月19日、宛先はアナキズム系詩人の小森盛です。

上州白根の方を少し歩いて草津其他の湯に浴して来ました。お葉書をありがたう。この暑い中の働きを想像します。私は夏に極めて弱い白熊のやうな質ですが、今年は山歩きのおかげで夏にまけずに働けさうです。先月末少しからだを痛めた為、又八月号の「大調和」には原稿を休みました。今東京はしう雨気味で涼風が吹きさわぎます。

この年、記述されているとおり、群馬の草津温泉や、長野の別所温泉、さらに智恵子を伴って箱根にも行きました。ずばり「大涌谷」、「草津」という題名の詩も書いています。


再び水野葉舟宛。同14年(1939)7月10日。

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒にたべるやうな気がします、

前年10月に智恵子が歿し、新盆の夏です。


さらに同16年(1941)7月20日、詩人の宮崎稔に宛てたはがき。

昨日は山百合の花たくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速父と智恵子との写真に供へましたが殆と部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。厚く御礼申上げます。尚近く詩集「智恵子抄」を龍星閣から出版しますがお送りします故註文なさらぬやうに願ひます。

ユリの花、亡き智恵子が「好きだったので」ではなく、「好きなので」と現在形になっています。無意識にそうしたのでしょうが、気になる一言です。「殆と」は、通常、「ほとんど」と発音し、「ど」と送りがなを付けるべきですが、光太郎、この葉書以外にもほぼ全ての文筆作品で、「殆と」と書いています。旧仮名遣いで濁点をつけない場合の延長なのか(「手紙」を「テカミ」と書く場合がありました)、北関東から東北にかけての方言で「ほどんと」と発音する(おそらく智恵子はそうだったでしょう)のが伝染したのか、何とも言えません。


そして戦後、同22年(1947)7月20日、花巻郊外太田村の山小屋から、截金師の西出大三へ。

おてがミ忝く拝見、尚小包にて雑誌「天来」其他書物も落手、御芳志ありがたく御礼申上げます。早速分教場の棚備供へつけます。山中も猛暑となり、作物急に成長しはじめました。今日は遠雷の音をきき、夕立に恵まれるかと期待して居ります。夏の日と夏の雨とは植物成長に無二の天恵、自然の摂理を感嘆します。今年のジヤガイモと南瓜の成績はどうなるかと思つてゐます。

最後に、当時、少女だった令姪の高村美津枝さん(ご存命)にあてた、同年8月28日付。

八月廿六日のおてがみ今日来ました。お庭の作物のことおもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。

「農」の人となっていることがよくわかります。「チサ」はレタス、「インギン」は「インゲン」の誤りかとも思いましたが、別の野菜のようです。当方、南瓜が4種類、ナスも3種類あるなどとは存じませんでした。


書き写してみて改めて思いました。当方、雑誌、書籍などの受贈の礼状として、絵葉書(絵手紙ではなく)等を使うことが多くありますが、ここまで味のある文章は添えていません。まして日々の事務的連絡等で多用するメールの類では、尚更です。が、少しは光太郎を見習って行こうと反省いたしました。


さて、『月刊絵手紙』さん、日本絵手紙協会さんサイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。


【折々のことば・光太郎】

美こそ彼をささへてゐた唯一のものであり、彼にとつて一切は美の次元から照射されてはじめて腑甲斐あるものとなつた。

散文「(わたしはさきごろ)」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

おそらく発表されずお蔵入りとなったミケランジェロに関する断片的な散文の一節です。題名は付されておらず、『高村光太郎全集』では便宜的に書き出しの一句を題名としています。

晩年にさしかかり、自らの来し方も「美」に捧げた一生だったという感懐が見て取れます。

定期購読しています日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。昨年6月号から始まった「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が、2年目に入りました。

今号は、全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。題して「光太郎が送った夏のたより」。

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全3ページで、1ページ目は、はがきの画像入り。宛先は戦時中、光太郎を花巻に招いた一人で、戦後すぐには光太郎を約1ヶ月、自宅離れに住まわせた佐藤隆房医師です。はがきの現物は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。

足かけ8年にわたった花巻、そして郊外旧太田村での蟄居生活最後の年、昭和27年(1952)の7月19日付。いつ見ても光太郎の筆跡は味のあるすばらしい字です。流麗な美しい文字というわけではないのですが、この独特の味はなかなか出そうと思って出せるものではありません(そこで、今日の記事は「書道」カテゴリーで投稿します)。

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先日中は大変お世話さまになりました。久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来て愉快でしたが夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり残念に思ひました、
山居七年、山の人間になつてしまつた小生の生理には普通の市民生活が無理になつたものと見え、此の分では東京での生活がどうあらうかと気がかりでもあります、 ツヅク

2枚組の1枚目なので、「ツヅク」となっています。

久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来」は、この月10日から12日にかけ、独居自炊の郊外太田村から花巻町に出て来て、佐藤邸に滞在したことを指します。前月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、青森十和田湖を訪れており、その報告を佐藤、そして宮澤賢治の父・政次郎にするためでした。

夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり」云々。光太郎は「冬の詩人」と言われますが、まさしくそうで、夏の暑さは一番の大敵としていました。昭和24年(1949)の夏には、旧太田村の山小屋で、熱中症とみられる症状のため4回も臥床しています。

東京での生活」。この年10月に、太田村での山小屋生活をいったん切り上げ、東京に戻って「乙女の像」の制作にかかることを指しています。完成後は再び太田村で暮らすつもりでいましたが、健康状態がもはやそれを許さず、昭和28年(1953)初冬、十日あまり戻ったのみで、その後は東京を出ることがかないませんでした。


ところで、「ツヅク」のあとの2枚目は、かなりどきりとさせられる内容が含まれています。『月刊絵手紙』さんでは紹介されていませんが、『高村光太郎全集』第15巻から引用します。

ただ東京滞在が秋から冬にかけての季節なので、幾分凌げるかとも思ひかへしてゐます。まづ仕事に専念して一切を克服する外はないでせう。七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意識の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮澤賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうにも思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。

足かけ8年、花巻町と郊外旧太田村で厄介になった光太郎、その点では感謝しても感謝し尽くせないという思いは当然ありましたが、それでもその生活すべてが快いものではありませんでした。閉口させられる部分、腹立たしいことなども少なからずあり、そうした思いを、心許した佐藤には洩らしたのだと思われます。

やはり不世出の巨人を収めておくには充分な器ではなかったということでしょう。そして賢治にもそれは当てはまるというわけですね。生前の賢治の生き様は、故郷の人々に完全に理解、肯定されたわけではなかったという指摘、ある意味、その通りでしょう。「賢治をいぢめたのは花巻です。」重い一言です。


さて、『月刊絵手紙』さん。このはがき以外に7通の「光太郎が送った夏のたより」が紹介されています。そちらは現物が花巻高村光太郎記念館さんにあるわけではなさそうで、活字での紹介です。長くなりますので(ブログのネタに少し困り始めたという点もあり(笑))、明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この女体のゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱を見よ。

散文「ミケランジエロの作品」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

平凡社刊『世界美術全集17 ルネサンス期Ⅱ』に寄せた図版解説18篇のうち、イタリアフィレンツェのメディチ家礼拝堂に収められた4体の装飾彫刻(「朝」、「昼」、「夕」、「夜」) 中の「朝」解説文から。

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同書から画像を採りました。「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」。まさにその通りですね。

この文章の書かれた昭和25年(1950)の時点で、十和田湖の「乙女の像」の構想がどの程度光太郎の頭の中にあったのか、判然とはしませんが(「智恵子観音」を造るというアイディアはそれ以前からありました)、「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」という意味では、明治42年(1909)、欧米留学の最後にその眼で観たこの像も参考にしているのではないかと思われます。

花巻高村光太郎記念館さんから、市民講座の情報です。

光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ

期   日 : 2018年6月9日(土)
時   間 : 午前9時~午後3時20分
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴
集 合 場 所 : 生涯学園都市会館(まなび学園)ロビー  貸し切りバスで移動
料   金 : 1,000円
問合・申込    : 高村光太郎記念館 0198‐28‐3012

高村光太郎の太田村山口で暮らした山村周辺の自然豊かな里山と展示作品を鑑賞します。
光太郎が日記に書き残していた、当時の自炊生活の食卓を再現して光太郎の世界を感じます。


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詳細日程
 8:50 まなび学園ロビー集合して受付  
 9:00 まなび学園発バス移動
 9:05 賢治詩碑・桜地人館見学(20分)
 9:25 桜地人館出発バス移動
 9:45 髙村光太郎記念館駐車場着
 9:50 高村山荘自然散策(50分)
      あじさいロード自然散策(ガイド)(5分) 
      高村山荘見学(ガイド)(10分)
      展望台見学(ガイド、本舘)(10分) 
      森のギャラリー見学(本舘)(10分)
      トイレ休憩(5分)
      「雪白く積めり」詩碑(ガイド)(5分)
      案内所まで(ガイド)(10分)
 10:40 駐車場集合 出発 バス移動 
 10:45 むらの家見学 祭りへの参加 (55分) 
 11:15 餅つき、魚つかみ体験、釜石交流など
 11:40 むらの家出発
 11:45 旧山口小学校見学(学校門札、ドーム、正直親切の看板など(10分)
 11:55 太田地区振興会館に徒歩で移動
 12:00 昼食会交流会
       光太郎レシピ紹介、受講者感想発表など
 13:00 太田地区振興会館出発バス移動 記念館へ 
 13:25 記念館企画室へ集合
 13:30 講話「光太郎と星」(20分)天文サークル星の喫茶室代表 佐々木一行氏
      DVD視聴(10分)  
      星座早見盤の使い方と星の話(20分) 伊藤 修氏
 14:20 記念館自由見学・休憩(40分)
 15:00 記念館出発バス移動
 15:20 まなび学園着 解散


高村光太郎記念館さん以外にも、市街桜町の光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑、桜地人館さん、太田地区の新農村地域定住交流会館・むらの家さん(ちょうどイベントが開かれているそうで、そちらに合流)、旧山口小学校跡地などを回るそうです。

高村光太郎記念館さんでは、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれていますし、昼食は光太郎記念館さん女性スタッフによる、光太郎が食べたメニューの再現だそうで、もりだくさんの内容です。

市内在住か勤務の方対象ですが、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ああ研究! 研究とは何だらう! 柱の数を数へたり、敷石の色を調べたり、窓の大きさを計つたり、様式が何だの、時代が斯うだのと言つて騒ぎ立てるのが研究かしら。馬鹿馬鹿しいと思つた。

散文「ミラノの本寺とダ ヸンチの壁画」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎はこの年の春、3年超の欧米留学を切り上げて帰国する前に、パリを出発してスイス経由でイタリアを1ヶ月ほど旅して回りました。この文章は帰国後に発表したものですが、現地のレポートを「××君」宛の書簡形式で書いたものです。「××君」は、荻原守衛あたりかと推察されます。

イタリアでは最初にミラノを訪れ、ミラノ大聖堂(ミラノの本寺)やスフォルツェスコ城、そしてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を眼にしました。

上記はミラノ大聖堂の荘厳な建築を見ての一節。本当に美しい芸術作品を前にすると、こういう感懐にとらわれるものでしょう。

造形美術に限らず、音楽でも、文学でも、そうだと思います。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村での第61回高村祭に参加して参りまして、花巻高村光太郎記念館さんの新しいパンフレットをゲットして参りました。A4判、三つ折り、オールカラー。

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今年度のスケジュールが掲載されています。

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大きなところとしては、以下の通り。

まず来月、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が企画されています。また近くなりましたら精しくご紹介しますが、貸切バスを使い、花巻市街の桜地人館さん見学、郊外の里山散策、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれています。

7月14日からは、企画展「光太郎と花巻電鉄」。かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てます。このブログでフライング気味に何度か紹介してしまって、関係の方にご迷惑をおかけしてしまっていたのですが、ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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秋には2回目の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」、12月からは次の企画展「光太郎の食卓」。

昨年刊行された『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。そのあたりともリンクするようです。

こちらが先月発行のマチココさん第7号。まだこのブログでご紹介していませんでした。

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今号は「鶏ガラスープ入りカレーピラフとヤキトリ」。実に美味しそうです。


ついでと言っては何ですが、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』も、昨年度から引き続き、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を続けて下さっていますのでご紹介します。こちらも高村光太郎記念館さんのご協力が入っています。

最新号の2018年5月号。

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「ことば」は光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、挿画は太田村在住時に光太郎が描いたスケッチ帖の中から、薬草としても使われる「ナットウダイ」。


ちなみにマチココさんでは、ジオラマのご紹介もして下さるそうですが、その他、多方面で光太郎智恵子、もっともっと盛り上がって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

美しい生活いふのは伸縮自在なやうに生活を調整して、うしろ暗い事が心に存在せぬ生活である。さうすると自然に生活の外形も美しくなる。無理をした立派さほど醜いものはない。

散文「美しい生活」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

タウン誌のはしりのようなものでしょうか、光太郎が暮らしていた太田村の隣村・湯口村の久保田良致という人物が発行していた謄写版の冊子『若い感覚』に寄せた文章の一節です。

自らの山小屋暮らしを念頭に語っていることはいうまでもありません。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の旧太田村で昨日開催された第61回高村祭。地元紙『岩手日報』さんのサイトには、昨日のうちに報道がアップされました。 

光太郎しのび歌や作品朗読 花巻で高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1900356年)をしのぶ第61回高村祭(高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。地域住民や県内外のファンら約650人が参加し、多くの名作を生んだ光太郎への敬慕の思いを寄せた。
 光太郎と交流のあった太田小に通う高橋文耶君と照井美空(みく)さん(ともに2年)が詩碑に献花。西南中1年生が「西南中学校精神歌」を歌うなど地元の児童生徒たちが光太郎作品を披露し、地域住民らが座談会で思い出を語り合った。
 光太郎は戦災のため花巻に疎開し、45年5月15日から約7年間を過ごした。


同じく地元紙『岩手日日』さんは、最近、有料会員登録をしないと記事全文が読めなくなってしまっており、割愛します。


サイトで確認できたのは、今日になって『朝日新聞』さんの岩手版。 

花巻で61回目の「高村祭」

 彫刻家で詩人の高村光太004郎が戦時中、東京から岩手県花巻市に疎開した日を記念した「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘周辺であった。約500人の参加者が詩碑の前で光太郎の詩を朗読したり思い出を語ったりして、その芸術と人柄に思いを寄せた。

 「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎の死後、山荘近くに詩碑が除幕された1958年から続いて今年で61回目になる。晴天に新緑が輝く中、地元の西南中学校の生徒らが、光太郎の「雪白く積めり」などを朗読した。

 1945年から7年間、花巻で暮らしていた当時、光太郎と交流があった地元の4人による座談会もあった。光太郎から短歌を学んだという高橋愛子さん(86)は「(山荘の独り暮らしで)寂しくないですかと聞いたら『智恵さん(亡妻の智恵子)がいるから』と話していた」と懐かしんでいた。(溝口太郎)


テレビニュースの動画で、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎をしのぶ 詩人で彫刻家

詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村 光太郎の功績をしのぶ「高村祭」が、岩手・花巻市で開かれた。
高村 光太郎は1945年の5月15日、花巻市に疎開し、この地で7年間過ごした。
「高村祭」は光太郎の功績をしのんで毎年行われていて、高村山荘の近くの会場にはおよそ600人が集まった。
15日は、近くの太田小学校の児童や花巻北高校の生徒が、光太郎の詩を朗読した。
光太郎に短歌を教わった高橋愛子さんは、「『愛子さんも(短歌を)書いてみたら』と言われた。(光太郎に見せたら)自分の書いたところが直されて無かった。とにかく何でも知っている人だった」と語った。
参加した人たちは、花巻を愛した偉大な芸術家に思いをはせていた。

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プログラム中の座談会でもお話しいただいた高橋愛子さん。単独インタビュー(笑)。

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それから、『読売新聞』さんも、顔見知りの北上支局長さんがいらしていましたので、記事になっているか、これからなるのか、当方自宅兼事務所隣町の成田市立図書館さんに行けばオンラインサービスで調べられそうですので、近々行ってみます。

暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、こうしたニュースであふれてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

もともと彼は捨身飼虎の菩薩に外ならず、死の数時間前にさえ、訪問してきた一農人の為にわざわざ二階の病室から下りて農事の相談に応接したほどの、殆と仏に近い人であつた。私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低限食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも必ず肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」の問題は重大である。

散文「玄米四合の問題」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

自分より13歳年下ながら遙かに早く夭折した天才・宮澤賢治を、光太郎は敬愛して已みませんでした。しかし、有名な「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分には納得いかなかったようで、いろいろな箇所でこれではいかんと発言しています。日本人と欧米人との体格差という部分が、戦後のこの時期に特に気になったのではないでしょうか。後半では日本にもっと肉食や牛乳飲用が広まることを期待し、酪農を勧める提言もしています。

先ほど、1泊2日の行程を終えて岩手花巻より帰って参りました。本日、彼の地の光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地にて、第61回高村祭――昭和20年(1945)の5月15日、東京駒込林町のアトリエを空襲で失った光太郎が宮沢賢治実家の誘いで花巻に疎開するため、上野駅を発った日を記念しての――が行われ、そちらに参加して参りました。

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昨日、千葉の自宅兼事務所を出まして、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、レンタカーを借りて高村山荘脇の花巻高村光太郎記念館さんに。今日の高村祭の打ち合わせを致しました。その後、ほぼ定宿と化している大澤温泉菊水館さんに宿泊しました。今回、デジカメをかねて使用しているスマホを自宅兼事務所に忘れて行き、昨日分についての画像がありません。新緑に包まれ、カジカガエルの声響く大澤温泉さんの画像を載せたかったのですが……。

一夜明けて、今日。午前10時から高村祭でした。

以下掲載の画像は、花巻光太郎記念館さんの方からメールで送っていただきました。ありがたや。

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まず、山荘近くで光太郎がよく訪れ、交流が深かった山口小学校が統合された太田小学校の児童さんによる光太郎詩碑・遺影への献花と、花巻東高(かの菊池雄星・大谷翔平などを輩出した高校さんですね)茶道部の生徒さんによる献茶。ちなみに詩碑の地下には当会顧問・北川太一先生が寄贈された、光太郎が亡くなった時の遺髯が埋められています。

西南中学校――こちらは光太郎が「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」という言葉を贈った旧太田中学校が統合された先です――の生徒さんの先導で、詩碑に刻まれた光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を、参会者全員で朗読。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会長、上田東一花巻市長のごあいさつ。

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太田小学校2年生の児童さんたちの器楽演奏、旧山口小学校校歌斉唱、詩「案内」(昭和25年=1950)の群読。かつて光太郎が旧山口小学校に楽器一式を寄贈したことにちなんで、器楽演奏が綿々と続けられています。

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西南中学校1年生生徒さんたちによる「西南中学校精神歌」斉唱、詩「山林」(昭和22年=1947)からの群読。

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花巻北高校と花巻高等看護専門学校の代表生徒さんによる光太郎詩朗読。

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看護学校の皆さんは、光太郎詩にメロディーを付けた「最低にして最高の道」、「リンゴばたけに」、それから佐藤進花巻高村光太郎記念会長作詞の「花巻の四季」の合唱も披露して下さいました。

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この後、メインイベントともいうべき、座談会「思い出の光太郎先生」。この地で暮らしていた頃の光太郎をご存じの方4名に、当方がインタビューしたり、話を振ったりしつつ、光太郎との思い出を語っていただきました。

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昭和6年(1931)生まれの高橋愛子さん。光太郎が暮らしていた当時の村長さんの娘さんで、光太郎詩のモデルにもなった方です。昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に、サンタに扮した光太郎がサプライズで登場した際の、サンタの衣裳を、お母様と愛子さんが光太郎の指示で縫ったとのこと。赤い布は襦袢、白い髯は羊の毛だったそうです。

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藤原秀盛さん。昭和2年(1927)生まれ、御年92歳。戦後に入植者が拓いた開拓地――元々の山口集落の西側――にお住まいで、地域に伝わる「かせ踊り」の名手、実演もご披露下さいました。戦後すぐ、仲間と踊りの練習をしていたところ、その歌舞音曲を聞きつけた光太郎がふらりと現れ、その踊りのための面――十二支をかたどった――を彫る約束をしてくれたのに、それが果たされなくて残念、というお話でした。また、昭和24年(1949)、光太郎の山小屋に電線を引く工事の手伝いもされたとのこと。当方、藤原さんを除くお三方のお話は何だかんだで以前にも伺っていましたが、藤原さんのお話は初めてでした。

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光太郎が山口集落にいた頃の山口小学校児童だった、高橋征一さんと浅沼隆さん。学芸会の思い出や、山小屋での光太郎の様子、山小屋裏手の智恵子展望台から、福島の方に向かって「チエコー」と叫んでいた光太郎などのお話を頂きました。

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前列右から二人目が高橋征一さん、後ろの窓から顔を出しているのが浅沼隆さんです。

昨年までは、講演という形で行っていたのですが、今年初めてこのような座談会の形式をとり、初の試みだったもので、どうなることかと不安もありましたが、終わってみれば好評でしたので、胸をなで下ろしております。

昼食休憩をはさんで、午後の部は演芸会的に、地元の皆さんのステージ。トップバッターは、これもおそらく今年初めてではないかと思うのですが、花巻農業高校鹿踊り部の皆さんによる春日流鹿踊りの演舞。迫力満点の勇壮なものでした。

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その後、太田神楽。笛は花巻高村光太郎記念会事務高橋事務局長。先月、当会主催の連翹忌でも笛の演奏を
していただきました。

ここまで聴いたところで、退散。もう少しゆっくりしたかったのですが、家の事情もありまして……。

今後とも、この地での光太郎を偲ぶこの高村祭、綿々と受け継がれていって欲しいものです。今日の高村祭にしても、泉下の光太郎もきっと喜んでいることでしょうし。


【折々のことば・光太郎】

日本は国を挙げて生活即芸術の方向に進んで、人類最善の理想国をやがて樹立せねばならないが、その基本となるべきは自然を常住の相手とする農そのものである。

散文「第四次元の願望」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、宮沢賢治の精神に共鳴し、自らも農に取り組み始めた昭和21年(1946)春の発言です。結局、穀物類は配給や村人の援助に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給に成功しました。そうした生活が、光太郎の人間としての幅をまた大きくしたように思われます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻よりイベント情報です。 

第61回 高村祭

期   日 : 2018年5月15日(火)
会   場 : 高村山荘 「雪白く積めり」詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85-1
         雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場 岩手県花巻市太田11-363-1
時   間 : 10:00~14:30
料   金 : 無料
内   容 : 式典
         児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス等
         座談会 『思い出の光太郎先生』
         語り部 藤原秀盛 高橋愛子 高橋征一 浅沼隆
         司  会 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

無料臨時バス運行 
 往路  花巻駅西口発 午前9時30分   高村山荘着  午前9時50分
 復路  高村山荘発   午後2時30分   花巻駅西口着  午後2時50分

高村祭は、高村光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開催されています。
第一部では地元の小学生による楽器演奏や中学生による合唱、高校生・花巻高等看護学校生による詩の朗読などを披露、第二部では花巻農業高校鹿踊り部が演舞を披露します。

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というわけで、光太郎を偲ぶ高村祭。毎年、手作りのイベントとして、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った山小屋(高村山荘)敷地内で行われます。

過去6年間の様子はこちら。


毎年、記念講演という形でいろいろな方にお話をしていただいてきましたが、今年は講演ではなく、座談会。山荘周辺にお住まいで、ここで暮らしていた頃の光太郎を知る方々に、その思い出を語っていただきます。当方は司会を仰せつかっています。

午後は基本、地元の方々の演芸会的な感じ。今年は花巻農業高校鹿踊り部さんの演舞があるということです。部活動で「鹿踊り部」というのも、ある意味すごいですね。

山荘周辺、新緑の美しい季節ですし、この日は山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんも入場無料。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

面白いことに人はその顔立ちそつくりの発言をするものだといふことを発見した。
散文「芸術政策の中心」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

どこぞのあまり品の感じられない大統領がそういう感じですね。

昨日、「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の件をご紹介しましたので、やはり文化遺産系の話題を。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手県花巻市さんのサイトから。

花巻温泉旧松雲閣別館が登録有形文化財に登録されました

花巻市で初となる登録有形文化財

花巻温泉旧松雲閣別館は、昨年11月27日に開催された文部科学大臣の諮問機関である文化審議会(馬渕明子会長)において登録有形文化財に指定するよう答申されておりましたが、3月27日付けをもって文化財登録原簿に登録され、同日付け官報に告示されました。
今回の登録では、県内から同館のほか、旧岩手県知事公舎洋館、旧千田正家住宅主屋、同板倉(金ヶ崎町)、旧上有住小学校校舎(住田町)が登録されております。

花巻温泉旧松雲閣別館の概要

松雲閣別館は、大正13(1924)年6月に新築された高級旅館松雲閣の別館として、昭和2(1927)年に建築・開業しました。入母屋作りの木造二階建て、延べ床面積約1,600平方メートルで総ヒノキ造り、赤色釉薬の花巻瓦葺き、手すきガラス使用、鉄くぎを一切使用していない組み立て方式による大規模旅館建築の建物です。
平成14(2002)年に老朽化に伴う閉館までの間、昭和天皇をはじめとする皇族の方々、後藤新平、斎藤實、高橋是清等の政治家、与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子等の文人が利用するなど、岩手の迎賓館として長く愛されました。館内には、昭和36(1961)年の昭和天皇行幸啓時の貴賓室や浴室等もよく残り、背後の松林に映える堂々とした姿は往時の花巻温泉の景観を今に伝えています。

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花巻温泉旧松雲閣別館、上記記事に光太郎の名がありませんが、光太郎もたびたび宿泊しています。花巻温泉内の旅館の中では、最も格式の高いところで、確認できている光太郎最後の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)に、以下の記述があります。

一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った当時の岩手県知事・国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

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平成14年(2002)に閉館となりま002したが、取り壊されることなく保存され、今回の指定。花巻市では初だそうで、めでたいことですね。

記事にあった『官報』等を拝見しました。北から順の掲載で、今回、北海道、青森県からの指定がなかったので、いの一番です。ただ、他にもごっそり指定されており、そういうものなのかと、初めて知りました。

光太郎智恵子ゆかりの建造物の中には、やはり老朽化ということもあって、比較的最近になって、残念ながら取り壊されたものが少なくありません。

昨日ちらっとご紹介した、九十九里浜で智恵子が療養していた田村別荘、戦後、光太郎が蟄居した花巻郊外旧太田村の山口小学校、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見と、翌年の除幕式の際に光太郎がそれぞれ一泊した東湖館など。

また、昭和8年(1933)、光太郎智恵子が泊まった福島安達太良山麓の不動湯温泉は、火災で焼失してしまいました。

色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり価値あるものは残すべきですね。そして、残すだけでなく、新たな活用の道を探ってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

あの南部鉄瓶に示された此の人等の祖先が持つた精妙な工芸感覚
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の血が此の人等の中に脈うつてゐる事を私は信ずる。私は百の期待をかけてこの人等の今後のあらゆる工芸作品を長く見守つてゆかうと思ふ。
散文「展覧会に寄する言葉」より 
昭和23年(1948) 光太郎66歳

草稿のみ遺され、どこに掲載されたか不明の散文です。「新岩手日報に送る」とメモがありますが、同紙に掲載が確認できていません。紙面の都合でボツになったのでしょうか。

いずれにせよ、岩手の造型作家へのエールです。花巻温泉旧松雲閣別館にも見られる、この地の美的水準の高さを、光太郎は高く買っていました。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、毎年光太郎の忌日・4月2日に花巻としての連翹忌を開催して下さっています。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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当方、当会主催の連翹忌の集いを東京日比谷松本楼さんでで開催する都合上、そちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。

例年、終了後に地元紙やテレビのローカルニュースなどで報道されています。



『広報はなまき』といえば、今号の表紙は、やはり戦後に花巻で暮らした僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観を主人公とした「第42回花巻市民劇場公演 多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」の様子でした。

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等観は、同時期に隣村にいた光太郎と交流があり、お互いの草庵を行き来したりもしていました。

そんなわけで、光太郎も登場。

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おそらく中央の恰幅のいい方が光太郎でしょう。

となると、メインの写真で、等観の後ろにいる右の方も光太郎のようです。

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平成16年(2004)初演の再演のようで、さらなる再演、さらには等観ゆかりの千葉での公演などもしていただけるとありがたいのですが……。

それにしても、連翹忌にしてもそうですが、花巻の皆さんの地元愛には頭が下がります。地方都市はそうあるべきですね。


【折々のことば・光太郎】

今の日本では、空碧くして水白き自然の緻密な写生画を目して真面目な作と為すのである。してみると、其の真面目な作といふものは私等の魂の切に欲求する所と非常に違つたものになるわけである。

散文「文部省展覧会第二部私見」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎が求めているものは、作品に表される個々の作家のやむにやまれぬ衝動――その絵をどうしてもそう描かざるを得なかった作家個人の内面の表出、自然に対する見方――とでもいったものでしょうか。

文展に並ぶ作品には、黒田清輝ら一部の例外を除いて、そうしたものが感じられない、というのです。

『岩手日報』さんに、彫刻家・深沢竜一氏の訃報が出ました。

深沢 龍一氏ふかざわ・りゅういち=画家の故深沢省三・紅子夫妻の長男)

 10日午後8時12分、肺炎のため都内の病院で死去、93歳。東京都出身。自宅は東京都練馬区南田中。葬儀・告別式は家族らのみで行う。喪主は妻トシさん。
 盛岡市紺屋町の深沢紅子野の花美術館に深沢夫妻の絵を寄贈し、高窓のステンドグラスのデザインに携わるなど開館に尽力した。


昭和18年(1943)、氏は東京美術学校在学中に学徒出陣となり、3人の上級生の皆さんと共に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、大先輩・光太郎から激励の言葉を頂いたそうです。同年、それをモチーフにした「四人の学生」という光太郎の詩が書かれています。

  四人の学生

 けふ訪ねてきたのは四人の学生。
 見しらぬ彫刻科の若い生徒。
 非常措置の実施によつて学窓から
 いち早く入営するといふ美の雛鳥。
 彼等はいふ、002
 「さとりがひらけたやうに
 はつきり心がきまりました。」
 私はいふ、
 「どんなときにも精神の均衡を失はず、
 打てば響いて
 当面する二つなき道に身を挺するこそ
 美を創る者の本領、
 美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
 四人の学生のうしろに
 いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
 君、召させたまふ時、
 顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
 まことに千載にして一遇の世に生き
 若き力として名乗り得る者は幸である。
 四人の学生は多くを語らないが
 眉宇すでに美しい。
 「先生もどうかお元気で、」と
 この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
 学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
 聖業成りたまふの気
 氤氳として天に漲るを覚える。

海軍の特攻隊に配属されながらも、幸い、無事に復員できた氏は、モンゴルから引き揚げてきたご両親(深沢省一・紅子ご夫妻)と合流、郷里岩手に帰られ、雫石郊外で開墾、牧畜を始めたそうです。ご両親は岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授にご就任、その関係で花巻郊外旧太田村にいた光太郎と親しく交わりました。氏もたびたび光太郎の山小屋を訪れたとのこと。

昭和22年(1947)11月29日の光太郎日記に、氏の訪問の様子が記されています。

午前テカミ書のところへ深沢氏来訪。雫石よりとの事。焼パン、つけものいろいろ、イクラ、牛乳三合ほどもらふ。めづらし。雫石にての開墾生活の話いろいろ。横カケといふところの奥(雫石町より一里程)に新しく家(三十坪)を建てられ、全家すでに移住されし由。風景絶佳の由。ひる弁当を持参此処でくふ。余は汁をつくり進せる。もらつたパンを余はくふ。シユークルートも出す。午後三時半辞去さる。今夜は盛岡泊りの由。

同じ年の8月9日には、やはり太田村の山小屋を訪れたお母様に、氏が頼んでおいた書の揮毫を渡した旨の記述もありました。

午前九時頃分教場行、十時頃盛岡婦人之友友の会の女性達四十人ばかり分教場に来る。深沢紅子さんも来てゐる。(略)深沢さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。竜一氏よりたのまれゐしもの。竜一氏より半紙をもらふ。

「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。おそらくこの時のものと思われる(或いは後述の昭和25年=1950に光太郎が深澤家を訪問した際かもしれません)書を、当方、3年前(平成27年=2015)に氏のご自宅で拝見しました。

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ちなみにその年の連翹忌にもご参加下さいまして、スピーチをお願いしました。上の方の画像がその時のものです。スピーチの前に、光太郎の遺影に深々と頭を下げられ「先生、ご無沙汰しておりました!」と大きなお声でおっしゃっていたのが忘れられません。

昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。残念ながら、この年の光太郎日記は大半が失われていますが、賢治の主治医で、光太郎の花巻疎開に一役買い、さらに終戦直後に約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせた佐藤隆房編著の『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に、父君・省三氏からの聞き書きが掲載されています。

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心温まる交流の様子がよくわかります。

太田村に帰った後、光太郎は佐藤隆房にあてた書簡に、「西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。」としたためています。

その後、氏は彫刻を志し、たびたび作品を持参して光太郎の山小屋を訪ね、アドバイスしてもらったそうですが、やはり残念ながらそのあたりの光太郎日記が失われています。

またお一人、生前の光太郎を知る方が亡くなられ、誠に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。
散文「書をみるたのしさ」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎最晩年の言ですが、実際にこの時期、終焉の地となった中野の中西家アトリエで、書の写真集を見る光太郎の姿が、たびたび写真に収められています。

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日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏で、先週7日(水)、8日(木)掲載分で、昭和20年(1945)8月10日(実に終戦5日前です)の花巻空襲について書かれ、その中で、光太郎についても触れられていました。

その後、10日(土)、11日(日)掲載分で、何と、やはり花巻で、既に郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた光太郎と遭遇されたご体験が記されていました。

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光太郎、肉屋で買い物をしていたそうです(笑)。時折、花巻町に出てくることがありましたので、有り得る話です。さらに、光太郎歿後、氏が旧太田村の山小屋に行かれた際の印象なども書かれていました。


そして昨日掲載分。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がらみでまた光太郎。

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しかし、これには閉口しました。

「雨ニモマケズ」、最初に賢治が手帳に記した際、後半の一節に、「リノトキハナミダヲナガシ」と書いた部分が、後世、「リノトキハナミダヲナガシ」と改変され、現在もこの形で流布している出版物等も数多く存在します。


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以前から山折氏は、この「書き換え」を光太郎の仕業として、あちこちでそう発表されていました。

確かに、昭和11年(1936)、光太郎がその碑文を揮毫し、花巻に建立された碑には、「リノトキハナミダヲナガシ」と刻まれています。

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しかし、光太郎はあくまで送られてきた原稿を元に揮毫しただけであって、「」→、「」の改竄には関わっていないはずです。

光太郎が揮毫する以前、昭和9年(1934)9月の『岩手日報』に「雨ニモマケズ」が掲載された段階で、既に「」→、「」の改竄が行われています。つまり、少なくとも光太郎が碑文を揮毫した時点では、この部分、世上では「ヒデリ」として流布していたわけです。

それを、いくら碑文を揮毫したからといって、光太郎の仕業にされてはたまりません。

山折氏のこの決めつけに関しては、いろいろと反駁も出ているのですが、それらを眼にされていないのか、あるいは一度こうと思い込んだらもはや修正できないのか、しようとしないのか、何とも言えませんが……。

このブログでは、あまり批判めいたことは書きたくないのですが、『日本経済新聞』さんという、かなり影響力の大きいメディアに載った記事ですし、実際、いろいろな方のブログ等で、既に昨日の記事をもとに「そうだったのか」的な記述が散見されます。

困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行してゐる。なまじつか習つた能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

散文「書について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

書においても独特の、しかしすばらしい作品の数々を遺した光太郎の、最も有名な書論、冒頭部分です。

ひっくり返せば、自分は決してこういう書は書かないぞ、という宣言ですね。

今日、3月10日は、73年前に東京大空襲があった日です。同じ昭和20年(1945)、東京ならぬ花巻空襲関連で。

著名人の出生から連載時までの半生を描いた、日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏です。

氏ご自身は昭和6年(1931)、米国桑港のご出身ですが、お母様のご実家が岩手花巻の中心部にある専念寺さんという寺院で、戦時中には花巻に疎開、旧制花巻中学(現・花巻北高校さん)に通われていたとのこと。

そして昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲。7日掲載の第7回、8日掲載の第8回で、その日のこと、そして終戦の玉音放送について語られています。長いので引用はしませんが。

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第7回では、花巻空襲の証言集『花巻が燃えた日』(平成11年=1999 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部)を紹介する中で、光太郎の名も出して下さっています。

ちなみに同じ加藤氏の御著書で、姉妹編とも言える絵本、『花巻がもえた日』(平成24年=2012 ツーワンライフ)にも光太郎が登場します。空襲があった時、光太郎は宮沢賢治の実家に疎開していました。

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当日の光太郎日記。ただし、あとで落ち着いてから書いたものと思われます。

八月十日 金
晴 午前五時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりと思ふ。艦載機なり。九時半頃なり。(花巻町初爆撃)。 (中略) [午后一時過より空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来らる<(千代田さん火傷)>]

町中心部への本格的な攻撃は午後でしたが、午前中から郊外の飛行場は空襲を受け、町内でも小規模な機銃掃射があったそうです。「校長さん」は、元花巻中学校長・佐藤昌、「千代田さん」は光太郎と同じく宮沢家に厄介になっていた千代田稔という青年です。

逃げ遅れた賢治実弟の清六は、敷地内に作った防空壕に避難しますが、家屋の燃える熱で壕内でも発火、たまたま壕に入れてあった一升瓶の醤油で消し止め、九死に一生を得たそうです。そのおかげで、というと何ですが、やはり壕に入れておいた賢治の遺稿は無事でした。清六が逃げ遅れなかったら壕に入ることもなく、壕もろとも灰になっていたことでしょう。不思議な縁を感じます。

山折氏の母方の実家・専念寺さんもかろうじて無事だったそうでした。

それにしても、当方寡聞にして、山折氏と花巻とのつながりは存じませんでした。「私の履歴書」、このあともしばらく続きます。賢治に関するご著書もおありの山折氏ですので、また賢治がらみで光太郎への言及があるかもしれません。注意しておこうと思いました。


追記 早速今日、花巻で光太郎と遭遇した思い出を書いて下さっていました。後ほどご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

美は小味となり、本格的な美そのものよりも、むしろそれを作り出す方便であるところの手腕技倆の方に関心が払はれ、「うめえもんだ」といふやうな感嘆の声を人は求めるやうになつたのである。人にはとても出来ないやうなものを工夫して作り出す競争が始まつた。細工の意識である。

散文「江戸の彫刻」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

江戸期の「細工」の考えが、明治の「超絶技巧」につながるのでしょう。そういったものに光太郎は積極的な価値を見いだしてはいませんでしたが……。

昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』。第6号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんの協力による創刊号からの連載「光太郎レシピ」プラス、今号は特集で「賢治の足跡 光太郎の足跡」。表紙もそれに伴い、昭和20年(1945)に光太郎が約1ヶ月暮らした、市内桜町の佐藤隆房邸の離れです。ここを光太郎は「潺湲楼(せんかんろう)」と名付け、郊外太田村の山小屋に移り住んでからも、町に泊まりがけで出てきた際には、ここに宿泊することがほとんどでした。佐藤は賢治の主治医でもありました。

その他、主に市街の、光太郎ゆかりの場所がたくさん紹介されています。終戦の玉音放送を聴いた鳥谷崎神社さん、毎年のように智恵子や光雲の法要を営んでもらっていた松庵寺さん、それから光太郎の日記に名が出てくる店舗。今も同じ場所に残っているところが何軒もあり、驚きました。また花巻へ行く際には、探してみたいと思いました。やはり、地元をよく知る方の情報量にはかないません。日記にちらりと出てくる屋号で、あの場所か、とわかってしまうのでしょう。
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それから、市の中心部ではありませんが、旧東和町のホームスパン工場跡地なども。ここで羊毛織物のホームスパン制作にいそしんでいた及川全三は光太郎とも因縁浅からずでした。『マチココ』さん、今後、この方面についても詳しく取り上げたい旨、聞き及んでおります。光太郎との絡みをぜひ紹介していただきたいものです。

オンラインで年間購読の手続きができます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

抽象と具象、この差は紙一重だ。

談話筆記「東洋と抽象彫刻」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

分類しろと言われれば、光太郎のそれは具象彫刻です。しかし、ただ単に対象を本物そっくりに作るというのではなく、対象の精髄的なものを取り出して表現するという意味では、抽象彫刻の要素も色濃く持っています。ロダンもそうであったと光太郎は指摘しています。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から、演劇の公演情報です。

第42回花巻市民劇場公演 「多田等観物語 日が昇る 観音山に帰りたい」

日時 : 2018年2月24日(土) 18:30  2月25日(日)14:00
会場 : 花巻市文化会館 岩手県花巻市若葉町三丁目16番22号
料金 : 一般1,000円/高校生500円/中学生以下無料
主催 : 花巻市・花巻市民劇場実行委員会

 「今、日本の仏教は壊滅的な状況にある。多種多様な思想が我々の生活をもてあそんでいる。インドの仏教は滅び、セイロン・ビルマ・シャムの仏教は半死の状態である。今こそ仏教の原点を残しているチベットの仏教を学び、日本に命ある新しい仏教の教義を作らねばならない。
 このままでは親が子を思い、子が親を慕うと言うあたりまえのことができぬ地獄のような世界になってしまう。だから多田君、チベットの仏教を学び、日本に持ち帰って欲しいのだ。」と島地大等(盛岡北山・願教寺住職)の想いを受け多田等観はチベットへ旅立った。明治45年1月のことである・・・。

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平成16年(2004)に初演されたもので、市民の皆さんによる手作りの演劇です。

主人公の多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。


花巻市さんの広報紙『広報はなまき』によれば、「▼20代の若き僧がなぜチベットに行くことになったのか▼なぜ花巻にチベットの経典などがあるのか▼円万寺の人とのふれあい▼彫刻家で詩人の高村光太郎との出会い―などを、ユーモアを交えながら描く。」とのことで、光太郎も登場するそうです。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

世界の美はもう一度健康をとりもどさねばならず、更にもう一度高度の美にまで引き上げられねばならない。

散文「美の中心」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

太平洋戦争末期の文章で、全体にはキナ臭さを含むものですが、こうした時期にも光太郎が「美」の行く末を真剣に案じていたことがうかがえます。

ともに岩手花巻に関わる光太郎作品が載った雑誌系、2冊ご紹介します。 

花巻市情報誌『花日和』平成29年冬号

2017/12  花巻市発行  無料

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花巻市内の花巻市観光協会、花巻観光案内所などで無料配布されている、年4回発行の市の情報誌です。無料と侮るなかれ、A4変形版30ページオールカラーの、毎号なかなか凝った作りです。

巻頭近くに「ふるさとの詩(うた)」というコーナーがあり、今号は光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が掲載されています。

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バックの写真は、光太郎も何度か宿泊した、鉛温泉藤三旅館さん。いい感じですね。

『花日和』、首都圏でも入手可能です。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

ところで、「ふるさとの詩(うた)」というコーナー、平成25年(2013)の同誌発刊以来、宮沢賢治の作品が毎号掲載されていましたが、今号は光太郎。このまま当分、光太郎作品が載り続けるのでしょうか。そうだとすると、かなりありがたいのですが。


もう一冊。

『家庭画報』2018年3月号

2018年2月1日  世界文化社発行  定価1,400円

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こちらも巻頭近くに、「残したいことば、未来につなぐことば――心を伝える絵手紙」というコーナーがあり、今号は、花巻郊外旧太田村から送られた光太郎の書簡(ハガキ)が紹介されています。

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昭和22年(1947)、4月6日付で、宛先は東京在住の姪・高村珊子さんです。4月の段階でまだ春が来ていない、ようやく雪の下からフキノトウが、というあたり、春の訪れの遅さに驚きますが、北東北ではそんなものなのでしょう。当方自宅兼事務所のある千葉県では、ぼやぼやしているともうそろそろフキノトウが出始めます。

解説は、日本絵手紙協会名誉会長の、小池邦夫氏。同会発行の『月刊絵手紙』でも、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

こちらは一般書店店頭で販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然の風景は透明だが、詩人の描く風景はまつたく主観の雄弁な告白者だ。

散文「彫刻その他」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

2月13日(火)、秋田小坂をあとに、再び高速バスに乗って岩手方面へ。バス終点の盛岡から東北本線に乗り、光太郎第2の故郷ともいうべき花巻を目指しました。

到着が昼頃でしたので、迎えに来て下さった花巻高村光太郎記念会の事務局長さん、そして市役所の方と昼食。向かったのは、市役所近くの「茶寮かだん」さん。宮沢家と姻戚感関係だったという、旧橋本家の別邸を改装しオープンした、最近流行の古民家カフェ的なお店です。なるほど、外観といい、内部の造作といい、実にいい感じでした。

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画像ではわかりにくいのですが、天井は漆喰塗りで、電灯ソケットの周りはアールヌーボー風の鏝絵(こてえ)が施されています。

当方一行が通されたのは玄関脇の洋間でしたが、奥の和室では、賢治や妹のトシが眺めたというひな人形などが飾られていました。

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何かの折には、光太郎も見たかも知れません。

また、ここに賢治が設計した花壇が元々あったということで、それが復元されているそうです。現在は雪で覆われていますが。

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遠くに見える高い建物は、大食堂で有名なマルカンさんです。

その手前に、かつてあった呉服屋の大津屋さんがこちらの元の持ち主だそうです。

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ここでは光太郎も買い物をしていたことが、日記に記されています。

その後、事務局長さんの車で、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地は陽が差していましたが、旧太田村に近づくにつれ、雲行きが怪しくなり、とうとう雪が降ってきました。

車窓からの眺めも、「雪原」的な感じに。

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そして記念館さん。積雪はメートル単位だったでしょう。

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ちなみに昨年12月の様子はこんな感じでした。

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こちらで、来年度の諸事業について、色々と打ち合わせ。詳細はのちほど、正式に発表になってからご紹介しますが、例年行っている5月15日(今年は火曜日です)の高村祭、その他に企画展示や市民講座等、いろいろと面白い企画が盛りだくさんです。

現在も今月26日(月)までの日程で、企002画展「高村光太郎 書の世界」が開催中でしたが、新幹線の時間もあり、2度目の拝観は叶わず。

同じ敷地内の、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)は、冬期閉鎖中。そこにたどり着くまでがやはりメートル単位の積雪で、近づけませんでした。

以前にも書きましたが、60歳を過ぎた光太郎、まったく、よくぞまあこんなところで、しかもたった一人、七度も冬を越したものだと思います。

しかし、この過酷な環境が、自らを見つめさせるよい契機になったのでしょう。はじめは無邪気にこの地に文化集落を作ると意気込んでいた光太郎も、自らの戦争責任をしっかりと捉え、真の意味でのヒューマニスティックな視点を得ました。それを光太郎自身は「脱郤(「郤」は「却」の正字)」と名付けました。

俗念や煩悩の塊である当方も、こうした暮らしを続ければ、「脱郤」に至れるのでしょうか(笑)。しかしとてもここで暮らすのは無理そうです。

――という過酷な環境を呈しているこの地、ぜひ、多くの方に、この時期に訪れていただきたいものです。

再び事務局長さんに送られ、新花巻駅から新幹線で帰りました。都内に入ったあたりからの車窓風景。

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関東地方の人間は、富士山を見るとほっとします。昭和27年(1952)、旧太田村の山小屋から帰京した光太郎は、どんな思いで富士山を眺めたろうか、などと思いました。

以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

われわれは気宇を大にして分秒を積んで切磋しなければならない。

散文「とびとびの感想」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

太平洋戦争に於ける日本の敗色が濃厚となってきた時期のもので、それ故の一種悲壮な決意といった感じです。

光太郎は、戦後の旧太田村での山小屋暮らしの中でも、そしてそこから帰京して取り組んだ最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中も、ベクトルは違えど、こういうことを考え続けていたのではないかと思われます。

先月末、花巻市の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」について、『読売新聞』さんが岩手版で大きく紹介して下さいました。

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手前味噌で恐縮ですが、当方のコメント及び写真が掲載されています。取材日は昨年12月14日。1ヶ月以上経っての掲載で、掲載紙を送って下さった担当記者さんは恐縮されていましたが、かえってこの時期の掲載もありがたいものです。この手の企画展は、開幕当初に熱心な方々がすぐ観にいらっしゃり、会期半ばには客足が落ち込みますが、こうしてメディアで大きく取り上げられると、また復調するものですので。

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会期は今月26日(月)まで。無休です。ただし、積雪は今がピークかと思われます。しかし、記念館さんに隣接する、光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)での過酷な越冬の状況を、身を以て感得できまるという意味では、この時期がおすすめです。ちなみに1月半ばでこんな状況です。

この時期のこの地を知らずして、光太郎の山小屋生活を「しょせんはポーズに過ぎなかった」的な批評をなさっているエラい先生方などに、特にお奨めしたいですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

私はリユクサンブウル美術館にあるロダンの「ジヤン ポオル ロオランス」の首と、「ダルウ」の首とを朝から中食の頃まで見てゐた事が幾度もある。そして思ひきつて帰つて来ると、自分のアトリエに入るや否や又見たくなつて、慌てて美術館へ引きかへした事もある。

散文「肖像雑談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ時代の思い出です。

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左が、「ジャン・ポール・ローランス」、右が「ダルー」です。

強引なまとめですが、「高村光太郎 書の世界」で、当方、同じような感想を持ちました。ただ、カンパーニュプルミエル街の光太郎アトリエからリュクサンブール美術館は徒歩15分ほど。当方自宅兼事務所から花巻ではそうもいきません(笑)。

まずは今朝の『朝日新聞』さんから。 

芥川賞に若竹千佐子さん・石井遊佳さん 直木賞に門井慶喜さん

 第158回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、芥川賞に若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」(文芸冬号)と石井遊佳(ゆうか)さん(54)の「百年泥」(新潮11月号)の2作、直木賞には門井慶喜(かどいよしのぶ)さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)が選ばれた。副賞は各100万円。贈呈式は2月下旬、東京都内で開かれる。

(略)

 直木賞の門井さんは1971年、群馬県桐生市生まれ。同志社大卒。大阪府寝屋川市在住。大学職員として働いた後、2006年に「天才たちの値段」でデビュー。評論「マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代」で日本推理作家協会賞、「東京帝大叡古(えーこ)教授」「家康、江戸を建てる」で直木賞候補に。受賞作は、宮沢賢治の生涯を父政次郎の視点から書いた。
 会見での第一声は「風がきた。飛ぶだけだ。そういう気持ちです」。歴史小説家という仕事について「歴史好きの父から慶喜という名を与えられたことで、決まっていたのかもしれない。21世紀の読者にとって価値のあるものを歴史の中に見つけていく、21世紀の文章で届けていく」と話した。
 選考委員の作家、伊集院静さんは「圧勝でした。門井さんは歴史的事実だけでなく、父と子というテーマに対峙(たいじ)した。どうしようもなさや柔らかさなど、賢治の幅を広げたのも門井さんの功績」とたたえた。


というわけで、直木賞は門井慶喜氏の『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父・政次郎を主人公とした小説です。政次郎は、昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエを失った光太郎を、花巻の自宅に疎開させてくれた人物ということで、昨年のこのブログで同書をご紹介させていただきました。ただし、光太郎は直接は登場せず、2回ほど、名前が出ているのみでしたが。

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最近、同書が新刊書店で平積みになっているのを眼にし、失礼ながら、この手の書籍が刊行後しばらく経ったこの時期で平積みになっているのは珍しいな、と思っていました。すると、コンビニのレジでは「直木賞候補作一覧」的な広告が印刷されたマットが敷かれていて、なるほど、と思った次第です。

非常に読み応えがありまして、光太郎がらみの人物がたくさん登場することもあり、ぜひ受賞して欲しいものだと思っていたところ、見事に受賞。嬉しいニュースです。

こちらは昨秋、『朝日新聞』さんに載った、作家の逢坂剛氏による書評。スクラップしておいたものです。

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以前にもこの画像を使いましたが、こちらが政次郎(中央)です。右が光太郎、左は政次郎の妻・イチ。花巻郊外旧太田村の、光太郎が蟄居していた山小屋(高村山荘)前でのワンショットです。

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当会の祖・草野心平(後列左)も写っているものもあります。

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前列左から政次郎、イチ。前列右端は、政次郎ともども、光太郎を花巻に招いた、賢治の主治医でもあった佐藤隆房、その後ろは賢治実弟の清六です。佐藤の左の女性は、すみません、当方、よくわかりません。賢治の妹のシゲあたりでしょうか。

『宮沢賢治全集』の編集などにより、生前は無名だった賢治を世に送り出してくれたということで、政次郎は光太郎や心平に深く恩義を感じていました。その結果、光太郎の花巻疎開が実現したわけです。

後に光太郎は、こんな短歌も遺しています。

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みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきき

政次郎や佐藤を指しての一首です。


ところで、直木賞とセットの芥川賞に選ばれた若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」。こっちも賢治がらみか、と思いました。「おらおらでひとりいぐも」というのは、妹・トシの臨終を謳った賢治の詩「永訣の朝」の一節だからです。ところが、こちらは直接に賢治が登場するわけではなく、現代を舞台にしているとのこと。ただ、若竹さん、やはり岩手のご出身だそうです。

さて、『銀河鉄道の父』。以前にご紹介した時にも書きましたが、物語は賢治歿後の昭和10年(1935)までで終わっているので、その後の政次郎(昭和32年=1957まで存命)を描く続編を期待したいところです。そうすると、光太郎との関わりがさまざまな点で出てきますので。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

テレヴヰジヨンの完全な発達によつてその混淆した使命の両分されるに至るまで、この罐詰芸術は果してどんな独自の役割を果すだらう。

散文「七つの芸術」中の「五 映画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「七つの芸術」の中に映画も入れているというのが意外な気もしますが、光太郎、確かに映画も好んでよく観ていましたし、映画評論的なものも書いています。花巻郊外旧太田村に蟄居中も、時折、花巻町に出て来ては、賢治実弟の清六らと共に、フランス映画などを観ていました。

それにしても、昭和初期の時点で、後にテレビが世の中を席捲するであろうことを予言しているようにも読め、その先見性には驚かされます。

暮れに届きました。定期購読している『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第5号です。

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毎回裏表紙に掲載されている連載の「光太郎レシピ」。

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花巻郊外太田村在住時の日記を元に、光太郎が食したであろう料理を再現しています。今号は「牛鍋とサツマイモ焼きパン ウイスキー入りミルクティー」。なかなか豪勢です(笑)。

巻頭の特集は「窓」。主に花巻市街のレトロな建築に使われている窓を取り上げています。

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花巻市内の文化施設5館が、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み。花巻高村光太郎記念館さんは「高村光太郎 書の世界」展。他館より期間が長く、来月26日(月)までです。

次号(2月発行)では、「賢治の足跡・光太郎の足跡」という特集を組んで下さるそうです。ありがたや。

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オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

立体写真的な銅像は、光太郎の最も嫌うところでした。光太郎が手がけた肖像彫刻は、どれもその人物の内面までも表す、その人以上にその人、というものでした。

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定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』1月号が届きました。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

今号は、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している書、「詩とは不可避なり」の揮毫が紹介されています。戦後の花巻在住時に書かれたものです。

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今号はこれ以外に、上記「詩とは不可避なり」の書も展示されている、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」の紹介も載せていただいています。

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定価822円で、一般書展での取り扱いはなく、オンライン購入のみですが、ぜひどうぞ。


花巻関連でもう1冊、注文しておいた書籍が届きました。

温泉天国 ごきげん文藝

2017年12月30日 杉田淳子、武藤正人編 河出書房新社 定価1,600円+税

おとなの愉しみを伝えるエッセイアンソロジー「ごきげん文藝」。第一弾は、日本中に点在する「温泉」をテーマにしたエッセイ32篇を収録。ぽちゃんと浸かれば、そこはまさに天国です。

目次
 湯のつかり方(池内紀) カムイワッカ湯の滝(嵐山光三郎) ぬる川の宿(吉川英治)
 湯船のなかの布袋さん(四谷シモン) 花巻温泉(高村光太郎) 記憶(角田光代)
 川の温泉(柳美里) 美しき旅について(室生犀星) 草津温泉(横尾忠則)
 伊香保のろ天風呂(山下清)
 上諏訪・飯田(川本三郎) 村の温泉(平林たい子)
 渋温泉の秋(小川未明) 増富温泉場(井伏鱒二)
 美少女(太宰治) 
 浅草観音温泉(武田百合子) 温泉雑記(抄)(岡本綺堂) 硫黄泉(斎藤茂太)
 丹沢の鉱泉(つげ義春) 熱海秘湯群漫遊記(種村季弘) 湯ヶ島温泉(川端康成)
 温浴(坂口安吾) 温泉(北杜夫) 母と(松本英子) 
 濃き闇の空間に湧く「再生の湯」(荒俣宏) 春の温泉(岡本かの子)
 ふるさと城崎温泉(植村直己) 奥津温泉雪見酒(田村隆一) 
 別府の地獄めぐり(田辺聖子)
 温泉だらけ(村上春樹) 温泉で泳いだ話(池波正太郎)
 女の温泉(田山花袋)

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光太郎の「花巻温泉」が収録されています。これは、昭和31年(1956)、『旅行の手帖』第26号に掲載された談話筆記です。花巻温泉さん以外に、志戸平温泉さん、大沢温泉さん、鉛温泉さん、台温泉さん、そして現在は無くなった西鉛温泉が紹介されています。

非常にユーモラスな部分もあり、そうと知らずに読めば、また行くつもりなんだろうと言う気がする文章ですが、これが語られたのは、その死の一ヶ月半前。既に自らの命の火が消えかかっている自覚が十分にあった時でした。もはやそれらの温泉に浸かることは叶わないと知りつつ、かつて病んだ身体を癒してくれたそれぞれの温泉や、そこで出会った人々に対する哀惜の言葉が、胸を打ちます。

その他の人々の作品も興味深く拝読。面白いのは、現代の作家さんたちも、光太郎ら近代の人々も、裸になって湯に浸かってしまえば変わらない、という部分です。ある意味、日本人の魂ですね(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

立体感とは、存在感の中核、空間の一点に確かに構造(コンストラクト)せられたものの感、量の確認、つかみ得る感、消し難く、滅ぼし難い深厚の感、魂の宿るに足りる殿堂の感、自体具足の小宇宙感。彫刻に関する私の諸考察はすべてこの立体感を中心とした放射線状に在ります。

散文「彫塑総論」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この時期、ブロンズの塑像でも、木彫でも、新境地に至る実作をものにしていた光太郎。その裏側には確固とした理論がありました。

一昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの「高村光太郎 書の世界」展を拝見した後、大沢温泉菊水館さんにて一泊いたしました。今年3度目でした。

翌朝は小雪が舞っていました。

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軒先にはつらら。

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光太郎も浸かった露天風呂。

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NHKさんの朝のローカルニュースで、花巻市内の文化施設5館の共同開催「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」をバスで廻るツアーのニュースをやっていました。

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6時台の放映は、予期しないまま始まってしまい、改めて7時台の放映をもう一度視聴。

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朝食後、チェックアウト。レンタカーで花巻市博物館さんを目指しました。

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こちらでは、やはり「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「及川全三と岩手のホームスパン」展が開催中です。

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花巻の旧東和町出身で、この地に天然染色の羊毛織り、ホームスパンを根付かせた及川全三。光太郎とも交流がありました。その及川の歩みを作品や書簡、遺品などから追っていました。

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及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだとのこと。本場イギリスでも途絶えていた技術を復活させるため、かなりの苦労があったようです。

図録は発行されていませんでしたが、『花巻市博物館だより』には、展示パネルの一部が転載されているようで、そちらをいただいて帰りました。

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及川の作品、民芸運動の流れを汲むということで、素朴な中にも暖かみと気品があり、いいものでした。また、解説がなければ見落としてしまいそうなさまざまな工夫なども、解説パネルでよく理解できました。

しかし、残念ながら、光太郎との交流についてはほとんど触れられていませんでした。

そもそも及川がホームスパン制作を志したのは、柳に見せられたイギリスの染織家、エセル・メレのホームスパン作品がきっかけだそうで、そのメレの作品を光太郎が持っており、及川は旧太田村の山小屋でそれをたびたび見せてもらいました。その作品も高村光太郎記念館さんで所蔵しており、この機会に展示すればよかったのに、と感じました。また、盛岡てがみ館さんなどあちこちに及川の弟子にあたる福田ハレや戸来幸子に宛てた光太郎書簡も残っています(及川やホームスパンにふれています)し、過日もご紹介した光太郎愛用のホームスパンの服も、高村光太郎記念館さんで展示されています。

「及川全三と岩手のホームスパン」と銘打つなら、光太郎との関わりも外せない要素だと思うのですが、館同士の連携、情報共有などがうまくいっていないのか、また、改めて光太郎と及川全三に絞った展示を考えているからなのか、何ともいえません。同じようなことは、今夏同館で開催された企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」の際にも感じたのですが……。

ただ、今月9日に行われた関連行事、菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)による記念講演「ホームスパン作家・及川全三の足跡をたどって」では、光太郎についても触れられたそうで、それが救いですが……。

ところで、冒頭でご紹介した、参加5館を廻るバスツアー、来月も実施されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひ自分の崇拝する人から其が傑作であると保證されてゐるとしても自分自身で其感動を得ない時に、其作品を無理に善いと見ようとするのはいけません。
散文「展覧会を見る人に」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

そのとおりですね。世間には、「世間で人気の行列ができる展覧会だから見に行こう」という人もいるようですが。

昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。

花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。

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記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。

地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。

常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。

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左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

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地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

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左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。

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「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。

「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。

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右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。

これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。


ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

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クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

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記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

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冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。

この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

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以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。

散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。

今日明日と、1泊で花巻に行って参ります。

花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試みが始まっています。題して「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」。

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高村光太郎記念館さんは、今年度からの参加で、書を軸にした企画展示が為されています。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月3日(水)
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

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会期的には既に始まっているのですが、報道陣向けの内覧が、本日14時からだそうで、当方、その頃参上します。それに合わせて日程を組んでいただいたようで、恐縮です。


他館で光太郎に関わるのが、花巻市博物館さん。こちらは明日、拝見に行くつもりでおります。

及川全三と岩手のホームスパン

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年1月28日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月1日(月)
料 金 : 小・中学生:150円(100円)  高校・学生:250円(200円)
      一般:350円(300円)  ( )内は20名以上の団体料金

大正期から農家の副業として作られていた羊毛織の「ホームスパン」に植物染の技術を導入し、美術的な価値を与え、工芸品としての地位を確立させた及川全三(おいかわぜんぞう)【花巻市東和町出身】。
全三のホームスパン工芸への取り組みと民藝運動を提唱した柳宗悦 (やなぎむねよし)との交流についても所蔵資料とともに展示紹介します。

展示構成
1.及川全三のこと
 高等小学校から岩手のホームスパン業界を育てるまでの全三の生涯を紹介します。
2.及川全三とホームスパン
 全三とホームスパン工芸への取り組みについて紹介します。また、羊毛織のホームスパンを知るために、ホームスパンの概要や岩手とホームスパンとの関わり、製作工程なども併せて紹介します。
3.柳宗悦との交流
 民藝運動を提唱した柳宗悦との交流について、柳宗悦の人物像を踏まえて紹介します。
4.全三の弟子と岩手のホームスパン工房
 全三の内弟子である、福田ハレや鈴木光子の紹介とともに、全三の弟子たちによって設立・技術指導されたホームスパン工房を紹介します。

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及川の名は、光太郎日記に頻出します。羊毛で作るホームスパンの風合いを好んだ光太郎が、及川や、その弟子の福田ハレなどに自分用のものを依頼しています。高村光太郎記念館さんに展示されている光太郎の服もホームスパン。太田村の振興のため、及川の手を借りて光太郎も村でのホームスパン制作を推奨、山小屋近くに住んでいた戸来幸子という女性が織ったものを、盛岡で仕立ててもらったそうです。

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また、日記には、光太郎が東京から疎開した際に持ってきた荷物の中に、イギリスの染織家、エセル・メレ(1872~1952)の織ったホームスパンの大きな布(膝掛け、または毛布的な)が入っていて、及川に何度もそれを見せたことが記されています。

その現物と思われる布も、高村光太郎記念館さんに所蔵されています(展示はされていません)。で、花巻市博物館さんで「及川全三展」ということで、貸し出されるのかなと思っていましたが、それは実現しませんでした。

いずれそのあたり、大きな動きがあるのではないかと思っております。またその折には詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

自然は常に子を見守る親の心を持つてゐる。自然が進む生命は即ち私達の進む生命である。私達の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程は即ち自然の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程である。自然は賢明であるが、自然は常に命がけである。自然は人間を育てるために無数の人間を作る。無数の時代を作る。そして機会を待つ。

散文「印象主義の思想と芸術」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

この前年に書かれた詩「道程」とリンクしています。特に詩集『道程』掲載形の9行ショートバージョンではなく、雑誌『美の廃墟』に初出時の102行ロングバージョン

「印象主義の思想と芸術」は、天弦堂書房から書き下ろしで刊行された、光太郎最初の評論です。250ページほどあり、おそらく前年、オリジナル「道程」と並行して書き始められていたのではないかと推定できます。

まずは雑誌『中央公論』の今月号。光太郎の書が紹介されています。

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グラビアページの連載で、題して「川端康成の眼」。ご執筆は公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏。川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載のようです。

で、今号は光太郎の扇面揮毫。「高村光太郎とほろびぬ美」という題名で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品されたものです。当方も8月に拝見して参りました。

詩集『智恵子抄』中の絶唱、「樹下の二人」の一節にして、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」が書かれています。

岩手県立美術館さんでの企画展会期中、水原氏が花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、そして隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられたというお話は、同館の方から伺っていましたが、その際の感想なども綴られていました。

現在、書店に並んでいます。定価は税込み930円。ぜひお買い求め下さい。


もう一点。花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の11月15日号です。こちらも連載で「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」というコーナーがあるのですが、光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」が紹介されています。

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制作年代は大正15年(1926)。モデルの大倉喜八郎は、戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した人物です。大倉は自身と妻の肖像彫刻を、光太郎の父・光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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その光雲作の木彫のための原型だったわけです。光太郎は粘土原型をストーブで焼いてテラコッタにし、それから光太郎歿後にブロンズに鋳造されました(『広報はなまき』さんでは石膏原型となっていますが、誤りです)。

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テラコッタは、いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。

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ブロンズに鋳造されたものは数多く存在し、花巻高村光太郎記念館さんにも所蔵されています。『広報はなまき』さんの記事は、そちらの写真です。


というわけで、今日は光太郎の書と彫刻を取り上げて下さった刊行物をご紹介しましたが、文筆作品系も出ています。来週ご紹介します。


今日から一泊二日で信州です。安曇野の碌山美術館さんにて、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」のパネリストを務めて参ります。愛車には、甲府で行われる高校の同級生の結婚披露宴に参加する娘を乗せて行き、珍道中になりそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

日本人の視官感覚の中で一番優れてゐるのは線の受感性でせう。線を流暢に用ゐる事は日本人の僅かに誇りとする事の出来る能力であると思ひます。島田の髷をみても解ります。浮世絵を見ても解ります。日本人の肉筆の文字を見ても解ります。若い女の人が車の上で御辞儀をするのを見ても解ります。玄関の台石の上に並べられた下駄の位置を見ても解ります。

散文「工房雑感」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

上記扇面の光太郎筆跡を見ても、「線を流暢に用ゐ」ているな、と思わせられます。

玄関の台石の上に並べられた下駄の位置」は笑いました。うちの娘は、靴は脱いだら脱ぎっぱなし(笑)。これでは当分、嫁に行かせられません(笑)。

雑誌の新刊です。  

BRUTUS 2017/11/15号

2017年11月1日 マガジンハウス 定価630円+税

寒さが募ると、人は温かいお湯に浸かってまったり過ごす、シンプルかつ究極の癒し、温泉を目指します。リゾート型のリラグゼーションや浴感、眺望に建築まで、温泉に求めるのは百人百様。12のキーワード別に厳選した名湯紹介を皮切りに、あなたが今入りたい温泉がきっと見つかる熱いコンテンツ。さて、この冬はどんな温泉に浸かりましょうか?

目次002
 百人百湯アンケート。
   あなたにとっての「最高の温泉」は?
 HOT SPRINGS INDEX
 愛さずにはいられない!
   キーワード別・名湯の宿12選。
 いい湯、いい宿、まだまだあります。
 〈山形座 瀧波〉再生物語。
 わたしの温泉愛
 温泉街はこうして生まれ変わる。
   長門湯本温本温泉と星野リゾートの戦略。
 もっと温泉が楽しくなる1 7のトピック。
 温まるって、シアワセです。
 他


「わたしの温泉愛」中の、「5 昔ながらの自炊部で気ままにステイ。」で、当方もよくお世話になる花巻南温泉峡の大沢温泉さんが取り上げられています。温泉ソムリエの伊藤裕香さん、イラストレーターのmiccaさんによるレポートです。

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昭和20年(1945)からの花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、光太郎が何度も訪れ、最長で連続10泊ほどもした温泉です。当時走っていた花巻電鉄が、そうした際の足でした。

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また、幼き日の宮沢賢治も、ここで父の政次郎の肝煎りで開かれていた仏教講習会のため、足を運んでいました。館内にはその折の集合写真なども展示されています。

そういうわけで、記事には光太郎と賢治の名が。ありがたや。

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他にも、光太郎が訪れた温泉がいくつか取り上げられています。同じ花巻南温泉峡の鉛温泉藤三旅館さん、青森で酸ヶ湯温泉さんと蔦温泉旅館さん、福島会津東山温泉は向瀧さん。

次号は15日発売ということで、現在、店頭に並んでいます。ぜひお買い求め下さい。


ついでというと何ですが、同じようなネタをもう1件。プレスリリース的な報道です。

楽天トラベル、2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキングを発表

旅行予約サービス「楽天トラベル」 ( https://travel.rakuten.co.jp/ )は、「2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング」を発表しました。「湯治」のキーワードを含む宿泊プランについて、年間の宿泊人泊数(=宿泊人数×泊数)を集計した結果、1位は青森県の「酸ヶ湯温泉旅館」でした。トップ5を、青森・群馬・岩手の3県の宿泊施設が占める結果となりました。

2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング003
 1位 青森県 酸ヶ湯温泉旅館
 2位 群馬県 四万温泉 積善館本館
 3位 岩手県 大沢温泉 自炊部
 4位 岩手県 岩手 花巻温泉郷 鉛温泉 藤三旅館
 5位 群馬県 草津温泉 お宿 木の葉(このは)

(略)

3位の岩手県「大沢温泉 自炊部」は、宮沢賢治や高村光太郎ら文人に愛された大沢温泉にあり、湯治を目的に長期滞在する人のための宿泊施設として、自炊ができる共同の炊事場やコインランドリーなどを備えています。豊沢川に面し、四季折々の風景が楽しめる混浴露天風呂「大沢の湯」をはじめ、女性用露天風呂など計5つの浴場で湯めぐりができます。泉質はアルカリ性単純温泉で、神経痛、筋肉痛、慢性消化器病などに効くといわれています。


「自炊」という特殊な形態限定でのランキングですが、やはり酸ヶ湯さん、大沢さん、鉛さんと、光太郎の利用した宿がベスト5中に3件ランクインしています。また、四万温泉 積善館本館さんも、ネット上では「与謝野晶子や高村光太郎・太宰治といった文人も訪れていたとのことです。」と紹介されています。ただ、探し方が悪いのかも知れませんが、当方手持ちの資料では、光太郎がそちらに泊まったことを示す資料が見あたらず、情報をお持ちの方はご教示いただければと存じます。

そろそろ初冬の気配、というか、暦の上では立冬を過ぎました。温泉が恋しくなってきましたね。当方、今年中にもう1回くらい、大沢さんか鉛さんに泊めていただくかも知れません。その際にはまたレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の所在はa次元。 a次元こそ絶対現実。 岩手の山に智恵子と遊ぶ 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

詩「智恵子と遊ぶ」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。

この年は、前年末からの帯状疱疹に悩み、結核性の肋間神経痛も悪化。思い切って、農作業はほとんど放棄しました。毎年恒例だった、花巻町松庵寺などでの光雲、智恵子の法要も中止しています。光太郎にとって、自らの「死」が現実味を帯びてきた年といえるでしょう。ただし、翌年には体調がかなり恢復しますが。

昨日に引き続き、少し前に刊行された書籍のご紹介をいたします。

本日は、宮沢賢治と光太郎の関わり、的な。 

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多くの人びととの出会いを糧に、賢治は自らの世界観を築き上げていったにちがいありません。そのことが死後実を結び、世界的な規模で読まれるいしずえとなったのではないか。そう感じている私は、本書で賢治が影響を受けたと思われる16人を登場させました。本書を読み、「宮沢賢治」がどのようにして形成されたのか。感じ取っていただけたなら、とてもうれしいです。(「はじめに」より)

目次
 はじめに 
 Ⅰ 石川啄木 文学への助走 ヘンリー・タッピング 英語への窓 葛飾北斎 浮世絵趣味
    鈴木東民 作家願望 藤原嘉藤治 ピアノを弾く詩人
   鳥羽源蔵 トバスキー、ゲンゾスキー
 Ⅱ 草野心平 才能の発見者 高村光太郎 コスモスの所持者
   森荘已池 「店頭」での出会い 
     黄瀛 コスモポリタン 鈴木東蔵 「石っこ」同志 
 Ⅲ 新渡戸稲造 東京志向 田鎖綱紀 日本語速記術の創始者 
    グスタフ・ラムステット フィンランド初代駐日公使
   佐々木喜善 民俗学とエスペラント レフ・トルストイ ベジタリアン 
 宮沢賢治略年譜 主要参考文献 
 おわりに 著者略歴


宮沢賢治学会理事であられる佐藤竜一氏の新著です。氏の御著書のうち、『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』は以前にもご紹介させていただきました。

まさしく題名の通り、賢治とさまざまな面から交流があったり、会ったことはないものの影響を受けたりした16人の人物を取り上げています。

光太郎の項、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎とも交流のあった人物――啄木、藤原嘉藤治、心平森荘已池黄瀛、佐々木喜善――も取り上げられており、それらの人物の項にも光太郎の名が現れています。


もう一冊。こちらは小説です。

銀河鉄道の父

2017年9月12日 門井慶喜著 講談社 定価1,600円+税

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明治29年(1896年)、岩手県花巻に生まれた宮沢賢治は、昭和8年(1933年)に亡くなるまで、主に東京と花巻を行き来しながら多数の詩や童話を創作した。
賢治の生家は祖父の代から富裕な質屋であり、長男である彼は本来なら家を継ぐ立場だが、賢治は学問の道を進み、後には教師や技師として地元に貢献しながら、創作に情熱を注ぎ続けた。
地元の名士であり、熱心な浄土真宗信者でもあった賢治の父・政次郎は、このユニークな息子をいかに育て上げたのか。
父の信念とは異なる信仰への目覚めや最愛の妹トシとの死別など、決して長くはないが紆余曲折に満ちた宮沢賢治の生涯を、父・政次郎の視点から描く、気鋭作家の意欲作。

目次
1 父でありすぎる 2 石っこ賢さん 3 チッケさん 4 店番 5 文章論 6 人造宝石 7 あめゆじゅ 8 春と修羅 9 オキシフル 10 銀河鉄道の父

元は『小説現代』誌上に、昨年から今年にかけて連載されたものの加筆訂正版です。

主人公は宮沢政次郎。賢治の父にして、昭和20年(1945)、空襲で東京を焼け出された光太郎を花巻の自宅に疎開させてくれた人物です。ただ、全編賢治に対する政次郎の行動が描かれ、賢治と関係ない部分での政次郎はほとんど割愛されています。といって、政次郎視点で賢治の生涯を浮き彫りにする、というのが主眼でもなく、あくまで描かれているのは、父としての政次郎の内面です。

時間軸としては、賢治出生の明治29年(1896)から、賢治歿後2年が経った昭和10年(1935)まで。光太郎は直接は登場せず、賢治が生前唯一の詩集『春と修羅』を光太郎にも贈った件、光太郎や心平、横光利一らが『宮沢賢治全集』に関わったという話が紹介されているのみです。

それでも、後に光太郎を花巻に呼び寄せる政次郎の心意気、的な部分は、こういう人物ならさもありなん、と思わせる流れで描写されていますし、やはり光太郎と関わった賢治の弟妹も登場します。

ただ、残念なのは、当方、それほど賢治や政次郎に詳しくないので、劇中のどこまでが事実なのかよく分からない点。晩年に賢治が勤務した東北採石工場のことなどは一切出てこず、どうなっているのかと疑問に思いました。このあたり、コアな賢治ファンの方にお伺いしたいものです。

できれば続編を期待したいところです。光太郎が碑文を揮毫した昭和11年(1936)の「雨ニモマケズ」詩碑建立、昭和20年(1945)の光太郎花巻疎開、同じ年、終戦間際の花巻空襲で自宅が焼けたこと、その後の郊外太田村に移った光太郎との関わり、そして光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に数え83歳で亡くなるまで……「光太郎サポーター」としての政次郎。同じく光太郎を色々と助けた総合花巻病院長・佐藤鷹房、草野心平との関わり等々。無理でしょうかね……。


というわけで、2冊とも好著です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなき国情なくして この国は成立しない。 科学と美との生活なくして この国は滅びる。

詩「明瞭に見よ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

明治大正昭和、激動の時代に翻弄され、時に道を誤りつつも反省と軌道修正を繰り返し、まがりなりにも人々の尊敬を集める晩年を迎えた光太郎の言ならではの重みがありますね。空虚な「美しい国」ナントカとはちがって、です(笑)。

毎年そうなのですが、芸術の秋ということで、この時期はご紹介すべきイベントが多く、また、それらのイベントに行ったレポートも書かねばなりません。いきおい、速報性があまり問われない、新刊書籍の紹介が後回しになっています。ことに出たてのものでなく、少し経ってから気づいて慌てて購入したものなどは、なおさら「旬」を逃したような気がして、いっそう後回しになってしまっています。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻系の出版物も、ご紹介していないものが4冊ほどたまってしまいました。今日明日で、2冊ずつご紹介します。

今日は花巻高村光太郎記念館さんに関わるものを。 

低反発枕草子

2017年1月15日 平田俊子著 幻戯書房 定価2,400円+税

東京・鍋屋横町ひとり暮らし。 三百六十五日の寂しさと、一年の楽しさ。 四季おりおりの、ささやかな想いに随(したが)いて……


著者の平田俊子さんは、詩人、劇作家、小説家。さらに立教大学さん他で教壇にも立たれています。また、光太郎にも触れた平成27年(2015)刊行の詩集『戯れ言の自由』で、第26回紫式部文学賞を受賞されました。

本書は、『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。

同書の中で「光太郎ファン」を自称され、随所に光太郎智恵子の名を出して下さっています。光太郎終焉の地・中野アトリエや、光太郎智恵子が婚約を果たした信州上高地などのゆかりの地も歩かれていますし、ことに花巻高村光太郎記念館さん・高村山荘が多く登場します。

ただ、執筆時期が、館のリニューアルオープン前、花巻市街のまなび学園さんに間借りしていた時期だったようで、現在の様子とは異なっています。リニューアル後に行かれたのかどうか、興味のあるところです。

その他、題名の通り清少納言さながらに、四季折々の随想、宮仕え(大学でのお仕事)の様子など、軽妙な文章で語られており、無聊の慰めとさせていただきました。

ぜひお買い求め下さい。


もう1冊。定期購読しています隔月刊の花巻タウン誌です。 

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ) vol.4

2017年10月20日 Office風屋 定価500円(税込み)

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裏表紙に連載「光太郎のレシピ」が掲載されています。花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

今号は「オクラの種のスープ」「支那料理風甘酢あんかけ」「抹茶」。あんかけはレシピも詳しく載っています。ちなみにオクラやセロリといった西洋野菜は、光太郎が東京から種子を取り寄せ、この地に広めたそうです。

この連載も、出来るだけ長く続いてほしいものです。


明日も花巻系、特に宮沢賢治と光太郎のつながりについて書かれたものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

まことの美を知る苦しめる者に幸あれ。 苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人こそ 天のものなる美を知るのだ。

詩「人間拒否の上に立つ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダンと共に、終生敬愛してやまなかったルネサンスの巨匠・ミケランジェロを題材にした長詩です。

晩年の光太郎は、むしろロダンよりもミケランジェロに傾倒していたようで、対談などでもその名が多く見られます。満で88歳まで生き、さらに老年期に入っても旺盛な制作意欲を見せたミケランジェロに、自らを重ね合わせていたように思われます。

まことの美を知る苦しめる者」「苦しみのためへし折れて をさな児の心にかへつた只の人」は、ミケランジェロであると同時に、かくありたいと願う光太郎自身の姿でしょう。

先週の金・土と、1泊2日で岩手花巻を訪れておりました。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、金曜から始まった「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」を拝見し、さらにその前後、光太郎ゆかりの場所をいろいろと廻りました。

高村光太郎記念館さんの企画展で、光太郎が彼の地に暮らしていた頃よく利用していた花巻電鉄にスポットをあてた展示も視野に入れている、という話が以前にあり、それなら智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成されたジオラマ作家の石井彰英氏に、ジオラマを作成していただいてはどうかと思いついて、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。石井氏がぜひ現地のロケハンを、ということなので、ご案内した次第です。石井氏の息子さんも助手として同行されました。

石井氏、試作品をお持ちくださいました。

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右が花巻電鉄の車両、左の方は大八車やリヤカーです。

光太郎が暮らしていた頃の花巻町とその周辺を、畳一畳分くらいに再現、そこに廃線となった花巻電鉄を走らせるというコンセプト。そこで、光太郎ゆかりの建造物などが残っている場所をレンタカーで廻りました。

光太郎が暮らした太田地区にある「新農村地域定住交流会館・むらの家」。直接の関わりはありませんが、当時の農家建築の例として。

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光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)。

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花巻電鉄が二系統あったうちの片方の終点、市街北西部の花巻温泉。

元の駅の跡。

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線路跡はサイクリングロードとなり、それとわかるように残っています。右下は初代花巻電鉄社長・金田一国士の顕彰碑。光太郎の詩「金田一国士頌」が刻まれています。

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光太郎がたびたび泊まった旧松雲閣別館。

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宮沢賢治が設計した花壇。復元されたものですが、オリジナルは光太郎が眼にしているはずです。

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続いて、一山越えて、花巻電鉄のもう一方の系統が走っていた、花巻南温泉郷。


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右上の画像、三階の一番左の部屋に、光太郎が泊まりました。有名な深い岩風呂「白猿の湯」も堪能しています。

そして、その日の宿、大沢温泉さん。こちらも光太郎御用達です(笑)。当方もですが(笑)。

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翌日は、市街地方面へ。

光太郎が山小屋からの行き帰りによく使った二ツ堰駅跡。最寄り駅は神明駅でしたが、二ツ堰駅は単線の交換駅で、市街から二ツ堰駅止まりの列車もあり、主にここで乗降していました。ここから山小屋まで徒歩1時間強です。

向かい側には光太郎が立ち寄った遊坐商店の建物があります。


花巻駅西口近くの材木町公園。移築された旧花巻町役場と、静態保存されている花巻電鉄の車両。

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市街の鳥谷ヶ崎神社さん。光太郎は終戦の玉音放送をここで聴きました。

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光太郎が父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法事をやってもらっていた松庵寺さん。今も毎年4月2日に花巻としての連翹忌法要を営んで下さっています。

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光太郎が碑文を揮毫した桜町の賢治詩碑。昨年の今頃、この碑の前でお話しをさせていただきました。今年も賢治祭に向け、周辺の草刈りなどが行われていました。

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すぐ近くの桜地人館さんにも立ち寄りました。

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やはり近くの佐藤隆房邸。旧太田村の山小屋に移る前、1ヶ月ほど光太郎が暮らしていました。

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最後に、元々は賢治詩碑のあった場所に建っていた、羅須地人協会。宮沢家の別荘だった建物です。現在は花巻空港近くの花巻農業高校さんに移築されています。当方、移築後、初めて訪れました。

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他にも光太郎ゆかりの地、足跡の残る場所はありますが、とりあえず代表的なところはこんなものかということで、駆け足で巡りました。

これらの場所が、石井氏の手によって、どのようなジオラマとなってゆくのか、非常に楽しみです。

花巻で、光太郎ゆかりの地を歩きたいという方、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本はすつかり変りました。 あなたの身ぶるひするほどいやがつてゐた あの傍若無人のがさつな階級が とにかく存在しないことになりました。

連作詩「暗愚小伝」中の「報告(智恵子に)」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

敗戦、そしてGHQによる統治が始まり、「傍若無人のがさつな」軍は解体されました。そして世界に誇る平和憲法の制定。しかし同じ詩の中で、それを「他力による変革」、「内からの爆発で」「自力で得たのでないことが」「恥しい」としています。

それをないがしろにし、いわんやなし崩しに改悪しようとする現在の「傍若無人のがさつな階級」の出現までも、光太郎は見こしていたのかもしれません。

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