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1月11日(火)、『毎日新聞』さんの岩手版から。

「わんこそば」発祥は花巻 40年歴史追い続け結論 花巻の泉沢さん、研究成果自費出版 /岩手

000 「はい、じゃんじゃん!」。給仕の掛け声で、次々とおわんにそばが入れられる岩手名物のわんこそば。花巻市の泉沢善雄さん(68)はその歴史を約40年追い続けた。発祥の地を巡り「盛岡説」と「花巻説」で論争が続いたが、泉沢さんは自身の調査で「100%花巻」と結論付けた。
 花巻説は江戸時代前期の盛岡藩主・南部利直が花巻に寄った際、献上されたそばがおわんに盛られていたことに、盛岡説は大正時代の首相、原敬=盛岡市出身=が同市に墓参りで帰省した際に「そばは椀コに限る」と言ったことに由来。両市は互いに「発祥」を譲らなかった。
 泉沢さんは、店主らの聞き取りや郷土史の文献調査などで、明治時代に初めてわんこそばという名称で提供したのが花巻の「大畠家」だと突き止めた。一方、盛岡で広まったのは、戦後、盛岡のそば屋が大畠家を参考にして始めたことがきっかけだった。
 さらに盛岡で普及する前の1946年、詩人高村光太郎が知人に送った手紙に「花巻のワンコソバでも早く復活すればいい」という記述を見つけたのが決定打となった。「重要な証拠。2年ほど前に古本屋で偶然見つけたときはうれしかった」
  泉沢さんは県内の高校を卒業後、上京し銀行に勤務した。そばとの関わりは79年、体調を崩した母親のため25歳で花巻市のそば屋に転職したことから始まる。「いろいろな巡り合わせでそばと出合った」と懐かしむ。仕事にも慣れた83年ごろ、調査を始めた。
 研究成果をまとめた本を2021年8月に自費出版。「わんこそばの調査は終えた」と肩の荷を下ろす。今後は従来、関心がある宮沢賢治研究にいそしむつもりだが「新事実を見つければまた調べ始めるかも」。わんこそばとの縁は切れそうにない。

泉沢氏とわんこそばの件につきましては、昨年11月に『日本経済新聞』さんに取り上げられまして、このブログでも紹介させていただきました。

日経さんには、戦後、花巻の老舗そば店・嘉司屋さんに光太郎が訪れていたという記述があった程度でしたが、今回の記事によると、光太郎の書いた書簡にわんこそばに関する記述があって、それが花巻発祥説の根拠となったそうで、驚きました。

となると、泉沢氏のご著書にも光太郎に関する記述があるだろうと思い、調べてみました。題名は『わんこそば―その歴史と文化―』。昨年8月の刊行でした。県内の図書館さんやそば店さんに寄贈された他、花巻のマルカンビルさんや賢治の学校さんで販売、とのこと。先月、マルカンビルさん、賢治の学校さん双方に立ち寄りましたが、気づきませんでした。もう売り切れていたのか、そちらで販売されていることを知らなかったので見落としたのか、というところです。

また3月に花巻行きの予定ですので、その際に探してみようと思っております。地元の方々は、その前にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

弘さんに風呂桶進呈の約束、


昭和26年(1951)11月13日の日記より 光太郎69歳

弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「風呂桶」は、昭和23年(1948)、村人や宮沢家の厚意で光太郎に贈られた物でしたが、薪を大量に使わなければならず、結局、あまり使われませんでした。

花巻に現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。
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一昨日から昨日にかけ、光太郎第二の故郷・花巻に行っておりました。レポートいたします。

今回は、特に現地で何かのイベント等があるために行ったわけではなく、友人3人を案内するというのがメインの目的でした。あとはついでに花卷高村光太郎記念会さんなどと、事務的な手続き、相談等もありましたが。

18日(日)朝、東京駅に集合し、東北新幹線で一路、花巻へ。雪が心配でしたが、花巻の積雪はほとんどありませんでした。
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今年の花巻のトレンドと言えば……。
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他にも菊池雄星選手ら、花巻東高校さんや富士大学さんの関係で、ゆかりのプロ野球選手がたくさん。新花巻駅の待合室、観光案内所を兼ねた展示スペース「ステップイン・はなまき」です。
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レンタカーを調達し、市街へ。

まずは光太郎ゆかりの松庵寺さん。光太郎歌碑、詩碑が計3基。
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その後、周辺を歩きました。

少し前にこのブログでご紹介した、嘉司屋さんで昼食。
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左上は光太郎揮毫の賢治詩碑拓本の縮小版。右上は店内にあった書籍の一節。そう遠くないところにかつてあった支店の方に、光太郎が訪れていたということでした。ただ、残念ながら「四代目の佐々木喜太郎さん」の名は、『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。またお店がすいている時にでもお邪魔し、何か光太郎ゆかりのものをお持ちでないかどうか訊いてみようと思いました。

続いて、「賢治の広場」。どうも宮沢家の親戚で、さらに賢治の妹のシゲ(光太郎とも交流)が嫁いだ岩田家の関係で作られた施設のようです。
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宮沢家の親戚筋などに保存されていたとおぼしきいろいろなものも展示されていました。

そして、マルカンビル。大食堂で、名物の10段巻きソフトクリームに挑戦。当方、2度目でしたが、作法通りに割り箸を使って(笑)美味しく頂きました。女性陣はお二方で一つをシェア。実はお一人ずつでも食べられそうでしたが(笑)。
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腹もふくれたところで、再びレンタカーで、花巻南温泉峡。宿泊させていただく大沢温泉さんを一旦通り過ぎ、「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使い、昔の商店街を再現し、レトロな昭和グッズを大量に展示しています。
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現役の小学校だった頃、卒業記念として昔の児童さん達が作ったらしい、大きな銅板のプレート。地元ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」がモチーフです。
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南下して、大沢温泉山水閣さん。

当方、大沢温泉さんでは、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風による土砂崩れで物資搬入が不可能となり、現在休業中。その後は自炊部に泊まり続けています。今回、お連れしたのはセレブの方々ですので、さすがに自炊部というわけにはいかず、通常の温泉ホテル形態の山水閣さんにしました。自炊部は自炊部で非常に風情があるのですが、裏を返せば風情しかありません(笑)。自炊部ではこの季節、コタツも有料。コタツの台とコタツ布団は常備ですが、頼んで別途料金を支払わないと、コードを貸してくれません(夏場は扇風機も有料だったはず)。一人旅ならそれがいいのですが……。

ただ、館内でつながっていますので、温泉は自炊部棟の温泉にも入れます。
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自炊部棟にある、大露天風呂「大沢の湯」。当方、ここに入らないと気が済みません(笑)。女性専用の時間帯もあり、同行のレディーたちにも気に入っていただけたようです。

豪華な夕食をいただき、就寝。この夜は10㌢くらいの雪が降ったようでした。

翌朝の窓外の風景。眼下には豊沢川の清流。木々は樹氷のように見えました。
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朝食後、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村(現・花巻市太田地区)の高村光太郎記念館さんへ。
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この周辺は、だいぶ道路にも積雪がありました。レンタカーがセダンタイプで、屋根に積もった雪がずり落ちてトランクの上に溜まり、後ろが見えなくなったりもしました。いつもワンボックスで、雪はすぐ落ちるのためそういうことはなかったのですが、セダンだとそうなるんだ、と初めて知りました。

こちらで、企画展「光太郎の三陸廻り」の際にお貸ししていた鳥瞰図や古絵葉書などを返していただき、ありがたいことにその分のギャラが出て、拝受。さらに事務的な相談を少々。その間に友人達には展示を見て貰いました。

隣接する光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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これでもまだ雪が少ない状態です。来月には1メートル以上積もるでしょう。そうなるとここに近づけません。
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中尊寺金色堂のように、二重の套屋(カバーの建物)の中に、山小屋が保存されています。通常非公開ですが、久しぶりに山小屋内部に入れてもらいました。この季節に中に入ったのは初めてかもしれません。
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光太郎の蟄居生活、それを「単に戦争責任を反省しているポーズにすぎなかった」的な論調を眼にしますが、「そう思うならここでこの季節に一晩でもすごしてみろ」と言いたくなります。

駐車場にはジャンボレトロタクシー、どんぐりとやまねこ号。現在は1日3,000円で、ここや賢治記念館などを廻っているそうです。
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その後、ほど近いところに昨年オープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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光太郎グッズコーナー。新製品も。
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インフォメーションスペースには、いわて花巻空港さんに先月まで展示されていた写真パネルなども。
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こちらで、地元の関係者の皆さんとお会いし、また事務的な話など。
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お土産を大量に頂いてしまいました。多謝。

そして最後の目的地、宮沢賢治記念館に。

と、その前に、予定にはありませんでしたが、花巻駅近くの公民館的な「市民の家」に寄り道。元の花巻町役場を移築したものです。
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敷地内には、光太郎も乗った花巻電鉄デハ3型
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そして、新花巻駅近くの宮沢賢治記念館へ。
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こちらは平成27年(2015)にリニューアルされましたが、新しくなってから初めて足を踏み入れました。リニューアル後の展示については、賛否両論いろいろです。賛否両論いろいろだろうな、というのがわかる感じでした。

敷地内の「注文の多い料理店 山猫軒」さんで昼食。
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レンタカーを返却し、帰途につきました。

細かくレポートする余裕がなく、アバウトに辿っただけでしたが、心も胃袋も満腹の1泊2日でした。コロナ禍も漸く落ち着きつつあり、観光客も戻ってきています。皆様もぜひどうぞ。また、依頼があって、日程的な都合などかみ合えば、今回のようにツアーガイド的なことも致します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

昨日式場から Black & White ヰスキーをもらふ。


昭和26年(1951)9月5日の日記より 光太郎69歳

式場」は式場隆三郎。精神科医でしたが、文学にも関心が強く、戦前には白樺派の面々と親しく交わり、この頃は『日曜日』という雑誌を主宰?していました。同誌には光太郎の山小屋の訪問記も写真入りで掲載されています。

Black & White」は高級ウイスキーですね。

昨日から一泊二日の日程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。
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今回は、普段の単独行ではなく、友人3名と共に、です。
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何やら珍道中ですが(笑)、詳しくは帰りましてからレポート致します。

定期購読しています『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんの第29号が届きました。
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裏表紙に連載中の「光太郎レシピ」。今号は「チキンソテーのきのこソース&林檎と胡桃のサラダ」。
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チキンときのこの組み合わせ、あまり見かけないような気がしますが、実に美味しげですね。

その他、巻頭特集は「橋のある風景」。光太郎が暮らした郊外旧太田村方面の「高村橋」が取り上げられていないのが残念ですが……。

「光太郎レシピ」企画に携わられているのが、やつかの森LLCさん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などにも関わられています。

今月15日に販売の分。
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マチココさんの「光太郎レシピ」、「光太郎ランチ」ともども、光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想等から、光太郎が作ったメニューを分析、現代風にアレンジというコンセプトです。

それぞれ、末永く続いて欲しいものですね。

当方、今日、明日と一泊で花巻に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

日報の祓川氏来訪 講和の詩七日までにとの事。岩手川特撰一本もらふ。

昭和26年(1951)9月3日の日記より 光太郎69歳

日報」は岩手日報、「講和」は第二次大戦正式終結のためのサンフランシスコ講和条約を指します。9月8日が調印式でした。

」は、「岩盤に深く立て」。講和条約調印により、GHQによる占領体制が解除、日本の独立国家復帰がなされることを念頭に書かれました。

  岩盤に深く立て
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 四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら
 ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
 何から何までお情けで生きてきて
 物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
 もういい頃と見こみがついて
 一本立ちにさせるという。
 仲間入りをさせるという。
 その日が来た。
 ヤマト民族よ目をさませ。
 口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
 オツチヨコチヨイといわれるお前の
 その間に合わせを断絶しろ。
 その小ずるさを放逐しろ。
 世界の大馬鹿者となつて
 六等国から静かにやれ。
 更生非なり。
 まつたく初めて生れるのだ。
 ヤマト民族よ深く立て。
 地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。

世界の大馬鹿者となつて/六等国から静かにやれ。」あたり、戦犯として訴追されかねなかった自らに対する叱咤のようにも読めますね。

岩手川」は、地酒。まさかこれがギャラだったわけではないと思いますが(笑)。 

1ヵ月前ですが、先月11日の『日本経済新聞』さんの文化面。花巻そば友の会元副幹事長・泉沢善雄氏の署名記事です。

「はい、ジャンジャン!」おかわり自由 わんこそばの謎 独特の掛け声で知られる岩手名物の歴史、四半世紀かけて調査

 「はい、ジャンジャン、はい、ドンドン!」。こうした給仕の掛け声とともに、一口大のそばを何杯もおかわりする岩手名物わんこそば。石川啄木や宮沢賢治の作品・日記にも、わんこそばらしきものを食べる記載がある。なぜこうした食べ方が生まれたのか。長く花巻のそば屋に勤めた私は、この謎を追い続けて四半世紀以上になる。
 意外に思われる方も多いだろうが、掛け声の中で食べる現在のスタイルが定着したのはそう古いことではない。1980年代前半、東北新幹線の暫定開業に合わせ、テレビ局が盛岡のそば店「東家」に取材に来た。静かにそばを給仕していると、ディレクターが掛け声を要望。女将さんがアドリブでやった「はい、ジャンジャン」がその後、定番となったのである。なお、全く同じではつまらないと、アレンジした掛け声を使う店も多くある。
 私は花巻の老舗「やぶ屋」に定年まで勤め、57年開始の「わんこそば全日本大会」にも裏方として長く関わった。若い頃から、大会の準備や打ち上げでご一緒した先輩方の話を書き留め続けた。今では亡くなった方も多く、貴重な記録になったと思う。
 90年代以降は図書館で古い文献を調べたり、花巻や盛岡の老舗を何件も訪ねて話を聞かせてもらったりと調査を続けた。花巻と盛岡にはそれぞれにわんこそば起源説がありライバル関係にあるともいえるが、純粋に謎を追っていることを伝えると皆さん快く話を聞かせてくれた。
 私が調べたところでは、わんこそばをメニューとして最初に出したのは花巻の「大畠家」。江戸時代から代々御用そばを任され、殿様や城代などにそばを提供した。明治になり、町民から「お殿様が召し上がったそばを食べてみたい」との希望があり、これに応えて提供したのがわんこそばの始まりとみられる。
 対して、盛岡で最初にわんこそばを出したのは「わんこや」(既に廃業)。戦後間もなく、何か名物をと考え、花巻に珍しい食べ方があると聞いて大畠家を視察している。大畠家の女将さんによると、作り方や給仕の方法を教えてあげたという。その後、盛岡のそば組合で「加盟店みんなで売ろう」という動きがあり、容器をそろえて売り出した。1杯いくら、ではなく食べ放題方式も盛岡で導入されたようだ。
 国分謙吉・岩手県知事(在任1947~55年)の時代に、県の要請で東京の物産展にわんこそばを出すようになり、岩手名物として全国に認知が広がった。こうした経緯を踏まえ、わんこそばの発祥は花巻、発展させたのが盛岡、と私は結論づけている。わんこそばの起源が、親戚が集まった席でおなかいっぱいになるまでそばをごちそうする「そば振る舞い」にあったのも間違いない。
 調査結果をまとめた本を2001年に出版。出版にあたっては、宮沢賢治や高村光太郎も訪れた花巻の老舗「嘉司屋」の4代目社長、佐々木喜太郎氏が強く応援してくれた。自分たちのしてきたことを後世に伝えたいという思いもあったろう。今夏には、新たな調査結果を加えた増補改訂版を出したところだ。
 わんこそばと似た食文化は全国のそば名産地にみられる。新潟県三条市の「サイメン」、長野県松本市の「とうじそば」、島根・出雲の「カケソバ」などなど。本で紹介する際、各地の詳しい方に手紙や電話でお話は聞いたが、コロナ禍もあり実際に訪れることはできていない。いつかは食べに行きたいものだ。
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花巻出身の力士も参加した1960年、第4回のわんこそば大会(岩手県花巻市の嘉司屋)

嘉司屋さんは、花巻市中心街・東町(マルカンビル裏手)にある、創業明治37年(1904)の老舗のそば屋さん。大正15年(1926)には、少し離れた末広町に支店も開店したそうです。昭和20年(1945)の花巻空襲で、本店が焼失、しばらくは支店のみで営業を続けていたとのこと。平成8年(1996)に元々本店があった現在地に戻ったそうですが、そうすると、記事にある「高村光太郎も訪れた」は、支店時代のことということになります。

このブログで毎日、最下部に書いています【折々のことば・光太郎】のために、岩手時代の光太郎日記を読み返しているのですが、残念ながら嘉司屋さんの名が見つかっていません。読み飛ばしてしまったか、読み返していない部分に記述があるのかも知れません。また、日記も脱落している部分が多いので(昭和24年=1949と25年=1950のほとんど、その他にもところどころ)、たまたまその間に嘉司屋さんに行ったとも考えられます。嘉司屋さんについて「ここに書いてあるよ」という情報がありましたら、御教示下さい。

来週末にまた花巻に行って参りますので、その際は嘉司屋さんに寄ってみようと思っております。もしかすると何か光太郎関連のものが残っているかも知れません。ちなみに光太郎が、わんこそばに挑戦したという記述は、日記以外の文献等も含めて見当たりません(笑)。

当方、学生時代に初めて花巻を訪れた際に、やはり老舗のやぶ屋さん(こちらは光太郎日記に頻出します)で、わんこそばにチャレンジしました。結果は61杯でリタイア。胃のキャパとしては、もう少しいけたような気がしますが、同じ味が延々続くのが耐えられなかったという感じでした。薬味やおかず的なものも饗されるのですが、それを早々に消費してしまったのが痛かったと思います(笑)。現在はどうだか存じませんが、当時のやぶ屋さんでは、わんこそば10杯が、通常のそば1杯ぶんだということでしたので、それでも6杯ぶんは食べたことになります。ちなみに仲間内で一番食べた男は、111杯でした(笑)。

胃腸に自身のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

十時頃校長さん平賀さん迎にくる、学校にゆく、CIEの映画につづきて余の談話一時間。聴衆は湯口、太田のP・T・A・の会員達其他、


昭和26年(1951)8月2日の日記より 光太郎69歳


学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱の山口小学校。「CIE」は、GHQの部局の一つ、「民間情報教育局 (Civil Information and Education Section)」です。「Education Section」ということで、教育・宗教・芸術などの文化戦略を担当し、メディアの検閲や教育基本法制定に関与したそうです。映画の制作なども行っていたのですね。

全国紙の地方版から2件、ご紹介します。

まず、『毎日新聞』さんの富山版。現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関してです。

3人の巨匠が究極の書、表現 県水墨美術館 /富山

 近代日本美術界の巨匠、熊谷守一(1880~1977)、高村光太郎(1883~1956)、中川一政(1893~1991)の3人による書に焦点を当てた展覧会「画壇の三筆」展が11月28日まで、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。
 高村は晩年「書は最後の芸術である」と語り、彫刻だけでなく書の中にも東洋の美を追求した。熊谷、中川の画家2人も、絵画作品と同じく味わいのある書を生み出したことで知られ、特に中川は富山名物ますずしのパッケージデザインと題字を手がけたことでも有名。
 会場では、同時代を生きた3人の芸術家の書と彫刻、絵画、陶芸作品計約100点を展示。熊谷の「南無阿弥陀仏」は幼くして病死した娘を思って書かれたものといい、子を思う気持ちが胸を打つ一枚。中川の「正念場」は97歳の時の書。生涯、美を追い求めた執念が伝わる。
 同美術館では「3人が到達した究極の表現世界を見てほしい」と話す。観覧料一般1200円、大学生1000円。月曜休館。会期中、3人の映画や映像上映もある。問い合わせは同館(076・431・3719)。

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会期は今月28日(日)まで。後期に入り、一部作品の展示替えが行われています。光太郎に関しては、駒場の日本近代文学館さん所蔵のものを入れ替えたり、前期から展示されている書画帖『有機無機帖』のページを替えたりしています。まだ行かれていない方も、前期に行かれた方も、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに画像の一番右、確認できている限り、「智恵子抄」の詩句を大書した唯一の作品(色紙や書籍の見返しに揮毫したものは複数確認できていますが)です。「わがこころは今大風の如く君に向へり」、詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の冒頭部分です。今回の展覧会のフライヤーにも画像がサムネイル的に使われました。

山形県天童市の出羽桜美術館さんの所蔵で、コレクション展的な際に展示されています。当方も現地で観て参りました。これまで、各地で開催されてきた光太郎展てきなもので展示されたことはなかったと思っていましたが、昭和51年(1976)、かつて銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「高村光太郎――その愛と美――没後20周年」展の際に出品されていたことをつきとめました。図録には画像が載っていなかったのですが、出品目録に掲載されていました。

同館の収蔵品を集めた、出羽桜酒造さんの三代目・中野清次郎は詩も書いており、同郷の詩人真壁仁と親しかったそうです。真壁は光太郎とも親しく(戦時中には智恵子紙絵の3分の1を預かり、戦災から守りました)、その真壁を通じてこの書を書いてもらったらしいとわかりました。それが昭和25年(1950)で、この年の光太郎日記は大半が失われており、もし残っていれば関連する記述があっただろうにと残念に思っております。

続いて、『朝日新聞』さんの岩手版。

没後100年、原敬ってどんなひと?

004 【岩手】「平民宰相」「初の本格的政党内閣」などと語られることの多い原敬(盛岡市出身、1856~1921)。その死から4日で100年を迎え、大慈寺(同市)で追悼会(え)が開かれた。原はどのような人物だったのか。原敬記念館の学芸員、田崎農巳(あつみ)さん(46)は「現実主義が重要な特質」と説明する。(唐沢俊介)
 「退屈だと思う」。田崎さんはそう語り、赤茶けた史料を指し示した。原が行った演説の速記録だ。「政策の説明に時間を割くため、面白みに欠ける」という。
 田崎さんは、原は目先の利益や甘い言葉を操る「大衆迎合」とは異なる現実主義者、リアリストで、「公利」を追求していたとみる。「官僚組織や新聞社で仕事をする中で身につけた知識と経験で、この国に必要なことを見極め、着実に実行しようとした」
 例えば、外交ではそれまでの強硬路線から、世界的な潮流であった協調路線へ転換した。「これは日本の大陸進出を警戒する欧米列強をむやみに刺激しないようにするためです。日記にも『将来恐ルヘキハ此国』と記し、原は特にアメリカとは戦争をしてはいけないと考えていました」
 原は普通選挙法に否定的だったとされている。しかし、「それは間違い」と田崎さんは指摘する。「彼は普通選挙法に反対していません。日記にも徐々に進めていくと書いてあります」
 田崎さんは、原が問題にしたのは国民の政治的成熟度だったと考える。「『世論(せいろん)』と『輿論(よろん)』を明確に区別していました。前者は、他者に依存した言論、つまり『誰それが言っているから』という理由で決めた意見。後者は自ら学び、組み立てた意見。『輿論』を主張できる国民の増加に合わせて普通選挙権を認めていくというのが原の考えでした」。ここにも現実主義が貫かれている。
 原の生涯をたどっていると、ある詩を思い出すと田崎さんは言う。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」の一節だ。
 高村は岩手県人を牛にたとえ、「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひにその成すべきを成す」と表現した。「歩みは遅いのですが、着実に前へ進み、結果を出す。原は置かれた場所で、自分にできることを懸命に取り組んできました」。戊辰戦争で敗れた「賊軍」側でありながら、実績を重ね、総理大臣にまで上りつめた。
 次の一歩を踏み出そうとした原だったが、1921年11月4日、道半ばで18歳青年の凶刃に倒れた。65歳だった。
 原敬の墓所がある大慈寺で4日、第101回忌追悼会があった。約140人が参列し、原の功績をしのんだ。
 原敬100回忌記念事業実行委員会が主催。委員長である谷藤裕明・盛岡市長(71)らが追悼の言葉を述べた。読経や焼香のほか、盛岡市立大慈寺小学校の校歌奉納があった。コロナ禍のため、児童の歌う映像が堂内で流された。
 原敬のひ孫で京都市在住の岩谷千寿子さん(69)も参列し、「原敬から何事にもチャレンジする精神を学び取ってほしい」と語った。
 1856年、岩手郡本宮村(当時)の盛岡藩士の家に生まれる。15歳で上京した後、司法省法学校に入学し、26歳で外務省に入省。天津領事やパリ公使館書記官として勤務した。辞職後、大阪毎日新聞の社長に就任した。
 1900年、立憲政友会に入党。同党の総裁に就き、18年に第19代内閣総理大臣になった。21年11月4日、東京駅で暗殺された。脅迫状も届いていたが、「運を天に任せる」として、警備を厚くすることはなかった。葬儀は大慈寺で行われ、約3万人が参列したという。
 離婚歴がある。1人目の妻・貞子とはうまくいかず離縁。2人目の妻・浅と再婚する。2人の間に子どもはおらず、養子・貢(みつぎ)を迎える。子煩悩な一面を持ち、息子と2人で出かけた際、「家では浅に怒られてしまうから」と2人前の汁粉を注文し、どちらも子どもに食べさせた。愛妻家で、字が読めない浅に新聞の講談読物を毎晩、読んで聞かせていたという。
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「岩手の人」(昭和23年=1948執筆)。地元岩手では、有り難がられ、現代でも折に触れて引用される詩です。特に今年は丑年だということもあり、牛に触れられている部分がよく取り上げられました。
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 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。015
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

なるほど、原敬も典型的な「岩手の人」だったのかもしれませんね。

【折々のことば・光太郎】

盛岡生活学校の生徒さん20名ほど吉田幾世さんに引率されて来訪、学校にて話することにし、ひる前山口小学区にゆく。お弁当を一緒にくひ、雑談、後さんびかの合唱をきく。

昭和26年(1951)5月5日の日記より 光太郎69歳

盛岡生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)は、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

吉田幾世さん」は、同校の創立者で、初め、羽仁夫妻の依頼で光太郎の元を訪れ、のち、このように生徒さん達を連れて訪問したりもしていました。

吉田の回想から。弁当を食べた場所が一致しませんが、おそらく記憶違いでしょう。

 又、桜の花の咲く頃、先生の山荘に遠足したクラスもある。戦後の食料不足の中で配給された食品を持ちよって皆でサンドイッチをつくり、それを工芸で習った夾纈(きょうけち)染めの和紙に包んだお揃いのお弁当をもって行った。その一つを先生にもお上げして、山荘の横の草原へ円陣を作ってご一緒に頂いた。先生は「おいしい、おいしい」と喜んで召上がり、皆に歌を歌ってちょうだい、と所望された。次々と出る合唱を、先生は目をつぶってたのしそうに聞いて下さった。
(吉田幾世『忘れ得ぬ人々――学園の礎を築いてくださった方々――』平成6年=1994 学校法人向中野学園生活教育研究所)

その際の写真。不鮮明ですが。
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まずは10月17日(日)、盛岡郊外の紫波郡矢巾町にあるTOM CREPERIE&DELIさんでのイベント「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋などで、光太郎が自炊した料理を現代風にアレンジして食する、というものです。

企画なさったやつかの森LLCさんの方から画像をいただきました。
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当初、10名程の定員と見込んでらしたそうですが、倍の20名がお集まりだったとのこと。

メニューがこちら。
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光太郎の得意料理の一つ、そば粉のパンケーキ。
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手前は、シメジにゼンマイとバクロウタケを加え香高いソースにした、たっぷりチキンのソテー。

サツマイモのポタージュ。茸類やサツマイモは、光太郎が暮らした旧太田村のものだそうで。
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栗のクレープ。栗も旧太田村産。
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コーヒーにグレナデンシロップを入れ、薄切りレモンを浮かべたカフェドシトロン。
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それぞれ見るからに、美味しそうですね。しかし、都内でこんなコースを頼んだらたちまち財布が破綻を起こすことが火を見るより明らかですが、何となんと、これで税込み1,650円だそうで、一桁間違っていませんか、と、心配になりました(笑)。

ただ食べるだけでなく、やつかの森LLCさんの方が、光太郎の「食」についてレクチャー。
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グッズや食材の販売も。
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好評につき、第二回も企画して欲しいという声が多かったそうです。その際には、来て光太郎についてしゃべれ、というオファーも頂きました。社交辞令でなく、実現してほしいものです(笑)。

さて、同じくやつかの森LLCさん企画による豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売されていますが、その今月分。
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やはり秋、ということで栗や茸、サツマイモなどが使われています。

こちらは昨年10月から始まり、1周年を迎えたとのことで、よろこばしく存じます。

さらに先週届いた『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんの第28号。
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巻頭特集は「古民家巡り散歩」。古建築大好きの当方としては、テンション上がりまくりでした(笑)。6・7月に公開が行われた、かつて光太郎も訪れたという旧菊池捍(まもる)邸も取り上げられていました。

そして巻末の連載「光太郎レシピ」。こちらもやつかの森LLCさんの仕掛けです。撮影場所は、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前ですね。
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今号は「牛肉入りジャガバタの蒸しパンサンドとインゲンの野菜スープ」だそうで。

こちらは隔月刊で、もう4年半続いています。

それぞれ、今後も継続していって欲しいものですね。

【折々のことば・光太郎】

町にゆき茶百匁明治屋にて菓子一折かふ、小学校の先生のため、外にアツプルパイ、

昭和26年(1951)2月6日の日記より 光太郎69歳

「明治屋」は、おそらく現在も花巻で総菜販売店として、営業を続けているものと思われます。

郵便物の受け取りや差し出しの依頼、そのついでの茶飲み話などでしょっちゅう足を運んでいた、山小屋近くの山口小学校へ差し入れを購入。失礼ながら、戦後5年あまりの時期に、花巻でアップルパイが売られていたというのも驚きですが、それを購入した光太郎もやはりグルメだったんだな、と思いました(笑)。

昨夜のNHKさんのローカルニュースから。

“大谷選手やアマビエも” 手作りかかしコンテスト 花巻

コロナ禍によるイベントの中止が相次ぐ中、花巻市では地元の人たちが手作りしたユニークな「かかし」が登場し、コンテストが行われています。
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この催しは、花巻市太田地区の老人クラブなどが、地域を盛り上げようと初めて企画しました。
かかしはすべて地元の人たちの手作りで24体あります。
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先月から地元の「道の駅」や小学校近くの田んぼなど3か所で展示されきましたが、6日はコンテストのため1か所に集められました。
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ことし大活躍した奥州市出身の大谷翔平選手やコロナ退散の願いを込めた妖怪の「アマビエ」。
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それに、晩年を地元・花巻で過ごした詩人の高村光太郎と妻の智恵子など親しみやすいものが多く、訪れた人たちが見入っていました。
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かかしは、このあと地元の人たちによる投票で優秀作品が選ばれます。
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企画した太田地区老人クラブ連合会の阿部敏美さんは「どのかかしもよく考えて作ってもらいました。コロナ禍で様々な催しが中止となっているので、少しでも楽しんでもらえたらうれしいです」と話していました。
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019会場は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の新農村地域定住交流会館・むらの家さんかな、という気がします。バックに太田小学校さんが写っているようですし。

「これはもはや「現代アート」ではあ~りませんか(故・チャーリー浜さん風に)!」と思いました(笑)。

特に光太郎。昭和51年(1976)公開の市川崑監督作品「犬神家の一族」に出てきた、あおい輝彦さん演じる犬神佐清(すけきよ)か、と突っ込みたくなりました(笑)。作者の方、すみません。

この催し、今年から始まったようですが、来年以降もぜひ存続させて欲しいものです。

今日、明日と1泊で、富山に行って、富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」開会式に出席して参ります。

【折々のことば・光太郎】020

「智恵子抄その後」を奥さまに、テカミを院長にと熊谷氏に托す、


昭和26年(1951)1月12日の日記より 光太郎69歳

詩文集『智恵子抄その後』は、前年11月の刊行。連作詩「智恵子抄その後」6篇を根幹に、岩手での詩文を集めたもの。題名とは裏腹に、智恵子に関する詩文は多くありません。

新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)には、この中からも詩篇が採択されています。

岩手からグルメ系のイベント情報です。

GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう

期 日 : 2021年10月17日(日)
会 場 : TOM CREPERIE&DELI 岩手県紫波郡矢巾町又兵エ新田第7地割1
時 間 : 11:30~

今回で4回目となるGOOD LIFE TABLEは、花巻市にゆかりのある彫刻家であり詩人の高村光太郎にちなんで開催いたします。高村光太郎が食べていた当時の食事のエピソードを紹介しながら、光太郎の料理をお楽しみいただけます。フランス、パリに留学していた頃好んでいたと言われている、そば粉の食事などをベースに、花巻市太田ゆかりの食材を使用したランチをご用意いたします。高村光太郎のお話を聞きながらぜひ、光太郎ランチをお楽しみください。テイクアウトも可能です。
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会場のTOM CREPERIE&DELIさんは、ガレットとクレープを中心としたレストランだそうです。矢巾町ですから、花巻と盛岡の中間ですね。失礼ながら、こんなところにこんなシャレオツなお店があったのか、という感じです。

企画に携わられたのが、やつかの森LLCさん。『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」や、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などにも関わられています。

それぞれ、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、実際に作っていた料理を現代風にアレンジするといったコンセプトですが、今回はそれを実際にレストランで饗し、味わって貰うというイベントのようです。「光太郎をたべよう」と言っても光太郎を料理して食べるわけではなさそうです(笑)。

ただ、おそらくコース料理的に出てくるのでしょうが、案内に料金の話が書かれておらず、そのあたりが不明です。詳細が分かりましたらまたご紹介します。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后弘さん郵便物を届けに来る、日本酒らんまん五合ばかり進呈、「らんまん」はどうも癖があって余には不向。


昭和26年(1951)1月9日の日記より 光太郎69歳

「弘さん」は、近くの開拓地に住んでいた青年です。

「らんまん」は、秋田銘醸さんで現在も造られている日本酒。当方が子供の頃は、関東でもテレビCMが放映されていました。


呑兵衛だった光太郎ですが、どちらかというとビール党でした。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、光太郎顕彰活動を進められている「やつかの森LLC」さんが、写真集を刊行されました。

山からの贈り物 やつかの森の四季

2021年9月1日 やつかの森LLC編・刊 定価1,320円
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 令和3年9月1日に私どもの写真集が出来ました。表紙は、皆さんなかなか足を運びにくい冬の季節です。
「暮しの手帳」の元編集長の松浦弥太郎氏が「雪の積もった冬の夜、一度で良いから、山荘で眠ることだ。」と言っている、憧れの景色と思われます。
 四季を通して、私どもが見てきた景色をお届けします。景色は似ていても同じ景色は二度とはなく、
朝、箒を持ち掃除をしながら、夕方、自転車で廻りカギを閉めに行きながら、お客様を案内しながら、荷物を運びながら、目に留まったものを撮りためました。
 今、里では稲が実り、光太郎がおいしいと絶賛した花巻のお米が収穫を迎えるのももう少し。あまりおいしくて、次の日の分まで食べてしまったり、秋には光太郎も少し肥ったと友人に伝えたエピソードもあります。
 高村光太郎記念館周辺では、こんな景色が見られることでしょう。遠く真っ赤に見える水引も、早く会いたいです。


「山からの贈り物」というタイトルは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)にちなみます。挟まっていたリーフレットに全文が印刷されていました(上記挨拶文も)。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)周辺、四季折々の景色。実にいい感じです。雪深い地域であるだけに、冬とそれ以外の季節のギャップが大きいのもありますし、光太郎が愛した豊かな自然がそれぞれの季節を美しく彩っています。
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道の駅はなまき西南さんで店頭販売中、また、最上部画像に連絡先がありますので、そちらまでご注文下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜圓次郎翁宅にて法隆寺幻灯会。説明をする。


昭和23年(1948)12月12日の日記より 光太郎66歳

光太郎が小学校に寄贈した幻灯機を使っての幻灯会。講師も光太郎が務めました。なんとも贅沢ですね(笑)。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第27号が届きました。

特集は「菊池捍邸誌上内覧会」。花巻で6月から7月にかけて行われた、「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」のプレイバックです。
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当方、7月11日(日)に行って参りました。レポートはこちら

光太郎が訪れ、ピアノ演奏を聴いたという部屋。
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連載「光太郎レシピ」。光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされたものです。今号は「石垣だんご」と「くるみ味噌だれ」。
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美味しそうですね。

メニューを考え、調理を担当されている「やつかのもりLLC」さんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

今月販売分がこちら。
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これで税込み800円。奉仕価格ですね。

先月分を御紹介しませんでしたので、ついでに。
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じゃがバターピラフ、タカキビ入りパンケーキ杏ジャム添え、カツオの竜田揚げ、ミズの小女子煮、いんげんの胡麻和え、花豆の甘煮、塩麴入り卵焼き、キュウリの糠漬け、いなきび入りコーヒーカン、だそうで。

メニューを考えるのも一苦労ではないかと存じますが、こちらも末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日雨ふりしきる。むす。 終日何もせず。妙にねむ気あり、時々横になる。

昭和23年(1948)8月13日の日記より 光太郎66歳

そういう日もあったでしょうね(笑)。

先月16日に始まった、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎の三陸廻り」について、8月12日(木)の地方紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

浮かぶ往時の情景 高村記念館 光太郎三陸紀行を紹介

000 花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、三陸沿岸各地を旅して執筆した紀行文「三陸廻(めぐ)り」にまつわる資料を紹介する企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。
 一旅行者として、各地の自然や様子、旅で感じたことなどをありのままにつづった文章をパネル展示しているほか、関連資料も並べ、光太郎の多才さや当時の三陸の姿を知ることができる。30日まで。
 「三陸廻り」は、かつて存在した日刊紙「時事新報」から光太郎が依頼を受け、1931(昭和6)年8月上旬から約1ヵ月かけ宮城県石巻市から岩手県宮古市までを船旅し、執筆。同年10月3~27日に、同市に全10回掲載された。文量は1回原稿4~5枚ほどで、挿絵も光太郎が描いた。
 会場では、各回の文章と挿絵(複製)を、現在の各地の様子を撮影した写真とともに紹介。補足資料として、石巻市街全図(1931年)や三陸沿岸市街絵はがき、三陸汽船航路図絵(1940年)、初公開となる「汽車ぎらい宿屋ぎらい」(1946年)の直筆原稿もある。
 第1回「石巻」では、「日和山(ひよりやま)は河口を扼(やく)する昔からの物見台である。松と桜とに装われた此小丘陵の突端に立つと、眼下にひろく、さすがに争われない北上川の人工的河口が甚だ怪奇なガニ股をひろげている」などと記され、どの回も風景が浮かび上がってくるように表現されている。
 第3回「金華山」では、父光雲(1852~1934年)と金華山とのつながりにも触れている。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐企画担当は「光太郎が花巻に疎開するより前に岩手に来ていたことはあまり知られていない。旅行記には趣深い表現や鋭い視点での感想も残され、光太郎の才能の豊かさを感じ取っていただけるのではないか」と来館を呼びかけている。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校・学生250円、小学生150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

この記事が出たのが3日前。ところが、昨日、記事にもある高橋氏から連絡があり、「今日から今月いっぱい臨時休館」とのこと。

「はぁ?」と思い、市のHPで確認してみたところ、以下の通りでした。

新型コロナウイルス感染拡大による市関連施設の利用制限ガイドライン 岩手緊急事態宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用します(8月13日更新)

 本ガイドラインでは、感染拡大状況に応じた市関連施設の利用制限を示しています。(8月13日掲載)
 県では、県内における新型コロナウイルス感染症が拡大していることに鑑み、新たな感染を強力に抑え込むため、8月12日に「岩手緊急事態宣言」を発令しました。
 市では、同宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用することとしましたのでお知らせします。
 なお、今後の感染状況によっては、期間の延長、ガイドラインの変更や、施設によってはガイドラインと異なる利用制限をすることもありますのでご了承願います。

レベル1 市内・県内の感染者は無い状況が続いた場合
 レベル1へ移行す目安としては、市内・県内の感染者は0が続き、首都圏等で感染が少ない場合)

レベル2 市内・県内の感染者は減少している場合
 レベル2へ移行する目安としては、市内の感染者は0が続き、県内の感染者は一ケタ以下が続き、首都圏等で感染が減少している場合

レベル3 市内で感染拡大の恐れがある場合 県内で感染拡大の恐れがある場合 市内において感染が若干あり、県内において感染が減少していない、または二ケタ以上の感染者がある場合
 県内または隣接県において感染が拡大し、市内においても感染が拡大する可能性が高いと判断される場合には、スポーツ施設について、岩手県内規模での開催に限ること、または大会の中止を依頼することもある

 レベル4【現在適用しているレベル】
 緊急事態宣言が岩手県に発令された場合 県内・市内で感染が拡大している場合 市内で感染者が連続して発生している場合
 詳しくは、添付ファイルをご覧ください。

で、「レベル4」が発令され、花巻高村光太郎記念館、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、宮沢賢治童話村など、すべて31日(火)まで休館だそうです。
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元々、企画展「光太郎の三陸廻り」は30日(月)までの予定でしたが、休館回復後、会期を延長するのか、それともこのまま終了とするのか、そのあたりは未定とのことでした。

あちら方面へお出かけの予定のある方、ご注意下さい。

まだ始まって一ヶ月足らずですので、休館回復後の会期延長を希望しますが、どうなりますことやら……。第一、31日(火)で「レベル4」が解除されるかどうかも不透明ですし……。

これだけ感染拡大が続く中、花巻市の決定は、ある意味、「英断」と言えるのかも知れませんが、それにしても、「いつまでこの状態が続くんだ」と思わざるを得ませんね……。

【折々のことば・光太郎】

右鼻孔に出来た腫物面疔になる虞あり、ズルフアミン剤が欲しと思ふ。


昭和23年(1948)8月3日の日記より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で、進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。

この後、光太郎、大事には至りませんでしたが、10日ほど腫れが引かず、閉口したようです。

6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。オリンピック中継のため1週延期となりましたが、最終回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑥ 岩手県花巻市…「智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き  かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ」。

地上波日本テレビ 2021年8月11日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#6 舞台(高村山荘)

昭和20年、ここで光太郎は自給自足の生活を始める。智恵子抄発表後、しばらくは智恵子を詩に書くこともなく過ごしたがこの場所に来てから、智恵子に関する詩を再び書き始めた(智恵子抄その後)。智恵子との思い出を胸に、ここで新たな創作を生み出す。


ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#5は7月28日(水)、「栃木県塩原温泉」でした。
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塩原温泉の柏屋旅館さん。
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この宿に入る前、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで智恵子祖父母らの墓に参り、その足で裏磐梯川上温泉に向かい、以後、宮城蔵王の青根温泉を経て、再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。いったいに、どこの温泉地でも中心街から離れた静かな宿を選んでいます。

そして湯治旅行の最後が塩原だったわけです。
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下の画像は二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。
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番組では、ほぼこの写真が撮られた地点でロケ。
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いいですね。

そして、明日の放映が光太郎智恵子篇最終回、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)がメインです。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

入れちがひに鈴木喜緑なりとて青年来訪、埼玉杉戸から来訪。詩の事や其他談話。詩稿を見る事は断る。来訪しても無駄といふハガキを出したもの届かぬうちに来たの也。

昭和23年(1948)7月18日の日記より 光太郎66歳

鈴木喜緑は大正14年(1925)、東京生まれ。のちに吉本隆明等と共に「荒地」同人となる詩人でしたが、この時点ではまったくの無名でした。

7月12日(月)、宿泊させていただいた大沢温泉さんを後に、レンタカーで下山、旧太田村の高村光太郎記念館さん及び隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)に向かいました。
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明日、7月16日(金)から、企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」が始まるということで、展示の準備等、進んでいるかな、と思って行ったのですが、まだ展示用のパネル等が届いたところという状況で、箱に入ったままでした。

ただ、チラシは頂いて参りました。
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それから、昨夜、メールの添付ファイルで、会場内の様子の画像を送っていただきました。
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昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に全10回で掲載された、光太郎の紀行文「三陸廻り」。パネルで全文と、関連する画像等を展示しています。当方がお貸しした古絵葉書も使っていただいたようで。
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光太郎が訪れた昭和6年(1931)の宮城県石巻の地図。複製だそうですが。
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上半分は、こちらも当方がお貸ししたもので、光太郎が「三陸廻り」の旅で利用した三陸汽船の航路を描いた鳥瞰図。金子常光の手になるもので、大正15年(1926)発行です。下半分は、女川あたりでしょうか、現在の様子を撮影したもののようです。
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右の方に写っているのが、光太郎のエッセイ「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿。

三陸沿岸を含め、甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年が経ち、また、三陸を舞台とするNHKさんの朝ドラ「おかえりモネ」が放映されるなどしていますので、タイムリーな企画といえるのではないでしょうか。

「おかえりモネ」。坂口健太郎さん演じる医師の名が「菅波光太朗」。どこかで本家・光太郎(笑)とリンクするシーンがほしいものです。
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ちなみに、ドラマの中で主人公・永浦百音(清原果耶さん)の実家があるという設定の「亀島」は、実際に気仙沼の湾に浮かぶ「大島」がモデルとされています。

光太郎、「三陸廻り」の旅では、大島には上陸しませんでしたが、三陸汽船の船で、島をかすめて航行、紀行文にも「大島」の語が。
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十一時半、船が気仙沼湾の大島の瀬戸をぬけて御崎(おさき)を出はずれ、漁火(いさりび)のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆ど無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒でガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。

この濃霧を、光太郎は短歌でも謳いました。上記企画展チラシに引用されています。

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧(さぎり)を立てて船にせまれり

これを刻んだ碑が、大島の東側、南北に垂れ下がる唐桑半島の突端に建てられています。

他に、記念館さんでは、最近入手したという、昭和25年(1950)、光太郎が盛岡で講演を行った際の資料等(写真、チラシ、参会者の書いた感想帖など。展示はされていません)を拝見し、必要な部分のコピーをいただいて参りました。

いただいて、といえば、記念館女性職員の方が写真撮影されて作られたフォトブック『山からの贈り物 山口山の四季』。記念館/山荘附近の自然を写したものです。多謝。
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その後、隣接する高村山荘へ。
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コロナ禍のため、訪れる方が減少。すると、逆に、熊の出没が増えているそうです。つい最近も一頭、罠にかかったそうですが、他の個体もいるらしいとのこと。

当方が訪れた前日、山荘套屋の腰板がベリッとはがされたそうで……。
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はがされた部分、裏手に置いてあったのですが、この時だけ元の位置に持ってきて撮影しました。

そんなわけで、裏山の智恵子展望台、奥の旧記念館(現・別館的な森のギャラリー)方面へは、立ち入り禁止となっていました。
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記念館、山荘を後に、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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光太郎の食卓カレンダー」などが販売されている光太郎グッズコーナー、それからMLBで活躍中の大谷翔平選手、菊池雄星選手の母校である花巻東高校さんのコーナーも。
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光太郎グッズコーナーでは、上記『山からの贈り物 山口山の四季』の姉妹編とも言うべきフォトブック『光太郎の風景2020・秋』を購入しました。こちらも素晴らしいものです。
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光太郎、賢治についてのパネル展示が為されているインフォメーションスペース。
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地元の書家の方が書かれた、光太郎詩「おそれ」(大正元年=1911)の一節。
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いい感じですね。

この後、「光太郎の食卓カレンダー」などを手がけられた、やつかの森LLCの皆さんと昼食。実に有り難いことに、当方の歓迎の意味もあって、BBQ。当方、肉食系男子ですので、実にありがたし(笑)。
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恐縮しつつも遠慮無くがっつりいただきました(笑)。

さて、高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」、明日から8月30日(月)までの会期です。コロナ感染及び熊の出没には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、道の駅も比較的近くですので、こちらにもお立ち寄りいただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

二時頃より円万寺神楽なるもの神楽堂にあり、群衆多く集まる。各部落より一群つつ仮装などして参詣に来り、歌舞す。


昭和23年(1948)4月25日の日記より 光太郎66歳

僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていた、花巻郊外旧湯口村(光太郎の居た太田村の隣村)の円万寺観音堂での一コマです。

多田は京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。

円万寺神楽は現在も受け継がれ、国指定の無形民俗文化財に登録されています。

7月11日(日)、花巻市博物館さんで「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」を拝観後、レンタカーを市街地に向けました。次なる目的地は、市中心部御田屋町にある旧菊池捍(まもる)邸。先月末からの土・日限定で、内部の公開と、音楽/朗読イベントが開催されています。
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何度か、レンタカーでこの前を通ったことがあるのですが、その存在に気づいていませんでした。歩いていたら見逃さなかったのでしょうが。
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KIMG5223大正15年(1926)の竣工。当時の花巻では珍しい洋館です。ただ、完全な洋館でもなく、奥の方は畳敷きの和室もあり、和洋折衷。この家の持ち主だった菊池捍が、札幌農学校出身ということで、北海道の建築スタイルと、元々の武家屋敷の様式をうまく融合させて設計を依頼したようです。右画像の窓などは、上下にスライドさせて開ける形になっており、北海道の建築によく見られるタイプだそうで。

ただ、内部の造作では、洋館建築のお約束の装飾パーツ(アカンサスやデンティルなど)が見当たらず、そういう技術を持った左官屋さんなどが、当時の花巻近辺には居なかったのかな、などと思いました。

菊池家は元々、南部藩の砲術方だったそうで、この場所には江戸時代から屋敷があったということですが、近隣からのもらい火でその屋敷は燃え、大正時代に新しくこの家を建てたとのこと。

昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王がここに泊まったそうです。また、宮沢賢治の寓話(以前、「童話」と書きましたが、「寓話」というべきだそうで)「黒ぶだう」の舞台「ベチュラ公爵の別荘」に比定されている他、童話「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラ宅も、この家からのインスパイアではないかという説があるそうです。

そして、光太郎。

光太郎の日記には、この家を訪れた記述が見当たりませんが、捍の息女である故・聡子さんの回想が残っていました。
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ピアノ講師を永らく務めていた聡子さん、賢治実弟の清六と共に訪れた光太郎に、ピアノ演奏を披露したとのこと。
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義姉の故・初枝さんがこの家にいらしたのは、昭和23年(1948)の3月頃までだそうですので、それまでの間、ということになります。

その間の光太郎の日記は、昭和21年(1946)5月16日~7月16日と、9月21日~10月9日、いずれも太田村から花巻町に出かけていた時期の分が欠けており、この間なのでは、と推測できます。

もう少し、建物の外観等を。
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下は別棟というか、離れというか。菊池捍の娘婿だった画家、寺島貞志が使っていたアトリエです。
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さらに、昔ながらの蔵も。
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午後4時から、音楽/朗読イベント。
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奥の和室で開催されました。
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「智恵子抄」の中から、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の朗読もしていただき、ありがたい限りでした。

今後、この建物の活用方をいろいろ考えていかれるそうで、いいことだと思います。有効に使われてほしいものです。

また、今週末の7月17日(土)、18日(日)にも、とりあえず最後の内部公開があるそうですので、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

この後、当方は定宿としております大沢温泉さんへ。
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続きは、明日。

【折々のことば・光太郎】

光太郎赤ちゃんお誕生に書く言葉をきめる。「日輪光光」。


昭和23年(1948)4月21日の日記より 光太郎66歳

「光太郎赤ちゃん」は、茨城取手在住だった詩人の宮崎稔と、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子夫妻の長男。光太郎を敬愛する二人が、我が子を「光太郎」と名付けました。

昨日まで一泊二日で、花巻に行っておりました。3回に分けてレポート致します。

東北新幹線を新花巻駅で下車、予約しておいたレンタカーを借り、まずは新花巻駅近くの花巻市博物館さんへ。こちらでは、テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」が開催中です。
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近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解く、というコンセプトで、「序章 舟運から鉄道へ」、「第1章 花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」、「第2章 内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」、「第3章 温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」、「終章 賑わうまちと新花巻駅開業」の五部構成でした。

図録は発行されていませんで、代わりに、『花巻市博物館だより』№63というリーフレットから。
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展示品目録。こまごまとした出品物が大半で、点数は非常に多くなっていました。
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空襲での東京駒込林町のアトリエ焼失に伴い、昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」(後述のブリヂストン美術館さん制作の映画はこの際に撮影)を果たした光太郎。その間に重要な「足」となった花巻電鉄について、特に興味深く拝見しました。

平成30年(2018)には、花巻高村光太郎記念館さんで、「光太郎と花巻電鉄」という企画展も開催されました。その際に当方がお貸しした古絵葉書など、かぶる展示もありましたが、そうでないものも多数。逆に、「光太郎と花巻電鉄」の際に出たものが、こちらには並んでいないというケースも。同じ花巻市の施設なので、もう少し連携するなりすれば、と思いましたが、そのあたりは縦割り行政的なものの弊害なのでしょう。

例えば、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」。もちろん光太郎が中心の映画ですが、東北本線の列車や、花巻電鉄が走行しているところの遠景、それから光太郎が花巻電鉄に乗車しているシーンなどが含まれています。その部分だけでも取り出して放映したり、それが無理でも静止画でパネル展示にしたりといったことは不可能ではないはず。
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それから、ジオラマ作家・石井彰英氏作製のジオラマ。こちらは「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたものですが、現在も花巻高村光太郎記念館さんで展示中です。
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これを、期間内だけでもこちらに運ぶことも不可能ではないはず。

また、花巻高村光太郎記念館さんの物販コーナーでは、石井氏がご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」も販売中。それをこちらに持ってきて放映したり売ったりすることも出来なくはないでしょう。

いろいろ権利の問題などで、面倒な手続きが必要かもしれませんが、そもそもそういう発想自体が欠けているのでは、と思うことがしばしばあります。

閑話休題。花巻電鉄といえば、今回の展示に合わせ、ほぼ実寸大の模型が製作され、ロビーに置かれています。「馬面電車」、「ハーモニカ電車」などと称された、デハ3型です。
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これなども、今後、何かの機会に活用していただきたいものです。

それから、お子さん向けに、車輌のペーパークラフト。こちらは無料で配付されているようです。
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自由にカラーリング出来るようになっており、コンテストのような企画が行われています。「花巻市博物館長賞」に輝くと、「商品」がもらえるそうで。「賞品」ではないのかな、と思うのですが(笑)。

さて、同展、8月29日(日)までだそうです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半学校にゆく。今年はじめてなり。箱を持ちゆき郵便物を入れ置くやうたのむ。子供達持参は中止のやうのべる。余が二三日おきにゆく事。


昭和23年(1948)4月19日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった、太田小学校山口分教場(のち、山口小学校に昇格)。「今年」は「今年度」という意味でしょう。

郵便はその分教場までしか届けてもらえず、光太郎が自分で取りに行ったり(同時に差し出し分を預かってもらいました)、教師や児童が届けてくれたりしていました。

中には、光太郎がお駄賃にと、雑誌や食べ物をくれるので、それを目当てに、という子供もいたようで、光太郎、そういう気配を感じ取ったようです。

昨日から一泊二日で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」、続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」を拝見。
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宿泊は例によって、大沢温泉さんにお世話になっております。
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このあと、高村光太郎記念館さん、道の駅花巻西南(愛称・賢治と光太郎の郷)などを回って帰ります。

詳しくは帰りましてから。

過日ご紹介した、花巻でのイベントの報道が出ていますので、ご紹介。

まずは、花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」。『岩手日日』さんの記事です。

発展支えた“大動脈” 郷土の近代鉄道史に焦点 花巻市博物館テーマ展

 東北本線開通から新花巻駅開業までの花巻の近代鉄道史に焦点を当てた、花巻市博物館(高橋信雄館長)の2021年度テーマ展「鉄道と花巻―近代のクロスロード―」は、同市高松の同館で開かれている。鉄道の発展に伴い栄えるまちの様子、発展に携わった人物なども関連資料を通して紹介し、現在の充実した交通網に至るまでの歩みを振り返っている。8月29日まで。
  花巻に鉄道が延伸したのは、1890(明治23)年。東北本線開通(上野―盛岡間)や花巻駅開業に始まり、同駅を起点とした岩手軽便鉄道、花巻電鉄が誕生し、交通網が発達。本県初のターミナルへと成長した。
 今展は「花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」「内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」「温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」など5章構成。写真や絵、図、絵はがき、切符など多様な資料176点が並ぶ。
 このうち「花巻近代鉄道史―」では、同館所蔵の「花巻駅長舎之図」(明治22、23年)や「花巻駅停車場図面」(明治30年代)のほか、個人所蔵の東北本線時刻表(明治時代)などを公開。同駅舎や停車場の設計を手掛けた宮澤猪太朗(1848~1912年)についても伝えている。
 序章では、鉄道が導入される前に物資の主要な輸送手段だった「舟運」の歴史にも触れている。
 テーマ展に合わせて同館では、同市の材木町公園に保存、展示されている花巻電鉄の車両「デハ3」の一部を、ほぼ実物大に再現した模型を設置。市内の児童(10)は「花巻電鉄については、4年生の時に社会科で習った。模型は本物みたい。幾多の苦労や困難があって今の鉄道まで発展したのだと知ることができた」と、興味深げに見入っていた。
 同館学芸員の小田島智恵さんは「現在は当たり前のように交通の便が良い花巻だが、その歴史まで理解している人は少ないのではないか。花巻は実はすごい所なのだと知ってもらいたい」と来館を呼び掛ける。
 関連行事として、17日午後1時30分から講演会が行われる予定で、釜石市世界遺産課の森一欽課長補佐が「釜石鐵の鉄道~内陸から海へつなぐ鉄路~」と題して話す。31日には、小田島さんによる講座「岩手軽便鉄道と花巻」も開催する。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(32)1030=へ。
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光太郎も、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から、花巻町中心街や大沢温泉などの温泉郷への足として使っていた花巻電鉄。画像にあるデハ3型車輌の模型は、ぜひ今後も活用していただきたいと存じます。

ちなみにこちらが、現役当時のおそらくデハ3型。当方手持ちの古絵葉書です。ぜひ乗ってみたかったと思いました。
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続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」。『岩手日報』さんから。

池捍邸を26日から一般公開 花巻、宮沢賢治作品の舞台モデル

 宮沢賢治作品の舞台とされ、大正ロマンを象徴する建築の花巻市御田屋町の「菊池捍(まもる)邸」は26日から一般公開される。市民有志による保存・活用委員会(木村清且(きよかつ)会長)が、菊池捍(1870~1944年)や、市ゆかりの人物を顕彰する場とした。公開は1カ月間だが、将来的にはまち中心部に活気を呼び込む常設の施設を目指す。
 26日のオープニングセレモニー後は、7月18日まで毎週土日に開館。午前10時~午後4時。入館料(協力金)は500円。問い合わせは同委員会事務局の北山公路さん(090・2884・0466)へ。
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さらに、IBC岩手放送さんのローカルニュース的な……。

池捍(まもる)さんのお家…!

 花巻市御田屋町・上町商店街の東側にある「菊池捍邸」におじゃましました(#^^#) 菊池捍さんは、花巻出身。国内外で農業技術の発展に従事した方です!
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 7年かけてじっくり建てられた家で、まもなく築100年!
 「花巻瓦」の屋根が美しい洋館… 加えて、館内には武家屋敷の構造が見られるという、後世に残したい貴重な建物です。
 この通りは数えきれないほど来ていますが… 知りませんでした<(_ _)>
 先週末から、来月18日までの土日に開館しています。今日は特別に館内から中継しました!
 「菊池捍邸 保存・活用委員会」会長 木村清且さん(写真左)にご紹介いただきました(^^)
 邸宅を毎日綺麗に管理している 佐藤吉雄さん(写真右)は、本日見守り隊です(#^^#)
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 宮沢賢治の物語が読み取れ、かつ様々な先人が訪れた邸宅… ワクワクします!
 そして、ここを守ろうとたくさんの方が活動を続けていることも、素敵ですね( ˘ω˘ )
 応援していきたいです(^^)/
 襖の柄もオシャレ…!
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 土日の日中は、委員会の皆さんに様々お話が聞けますし、じっくり見学ももちろん可能!
 夕方には、朗読会・観劇会・音楽鑑賞会などが開催されています(^^♪
 入場料(運営協力金) 500円(小学生以下は無料)
 お問い合わせ 090-2884-0466
 ありがとうございました\(^o^)/
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当方、明日から1泊で、それぞれを拝見に行って参ります。帰りましたらレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

駒込のアトリエ焼失の日。


昭和23年(1948)4月13日の日記より 光太郎66歳

さすがに、この日付は忘れがたいものだったのでしょう。昭和20年(1945)、3月10日の東京大空襲では難を逃れたものの、その後も断続的に空襲が続き、4月13日の空襲で、智恵子と暮らした思いで深いアトリエ兼住居は、灰燼に帰しました。
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日記では、この日、北海道弟子屈から詩人の更科源蔵、また、それとは別に盛岡から岩手県立美術工芸学校の佐々木一郎、森口多里が訪ねてきたことが記されています。おそらくアトリエ焼失の際の話題にもなったのではないでしょうか。

しかし、アトリエの焼失がなければ、花巻に行くこともなかったわけで、人の縁というのはつくづく不思議なものですね。

まだチラシ等も出来ていないとのことで、不十分な情報ですが……。

企画展「光太郎の三陸廻り」

期 日 : 2021年7月16日(金)~8月30日(月)
 追記 コロナ禍のため花巻市関連施設利用制限「レベル4」となり、9月23日(木)まで休館
    その後12月まで開催 
会 場 : 花巻市高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体
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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、宮城から岩手の三陸一帯を約1ヵ月、光太郎は主に船を使って旅しました。光太郎がこの旅に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化した、とも言われています。

『時事新報』に「三陸廻り」が載ったのは、その年10月3日から27日まで。断続的に全10回での掲載でした。
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当会顧問であらせられた、故・北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)に掲載された行程図がこちら。
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紀行文に記された寄港地は、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古です。

館からの連絡では、掲載回毎のパネルを作成し、それに光太郎のスケッチと現在の各地の様子(漁港や海岸の写真が中心)を添えて展示、とのこと。光太郎の足跡を辿りながら、震災から復興しつつある沿岸の各地の現在を写真で紹介する主旨で、これに光太郎が訪れた昭和6年(1931)の石巻鳥瞰図(複製)を補足資料として加えるとも書かれていました。また、随筆「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿を参考資料として展示するそうです。

その他、当方手持ちの資料の中から、古絵葉書など、使えそうなものをお送りしました。使っていただけるかどうか未定ですが。

「光太郎のスケッチ」は、こちら。全10回の「三陸廻り」、各回に掲載されました。
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このうち、「女川のしみ」(しみ=鮪)、「船尾におかれた綱の団塊」の2点は、平成3年(1991)に竣工した女川の光太郎文学碑に使われました。

文学碑といえば、この旅での寄港地のうち、気仙沼、そして釜石にも、この旅で光太郎が訪れたことを記念する文学碑が建立されています。釜石の碑は、平成7年(1995)の建立。その頃見に行ったきりで、震災後、どうなっているのかわかりませんが、健在ではあるようです。

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さて、企画展「光太郎の三陸廻り」。チラシ等が廻ってきましたら、またご紹介しますが、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる近くワタルさん来訪。龍角散うけとり。


昭和23年4月8日の日記より 光太郎66歳

「ゴホン!といえば龍角散」というコピーがすぐに浮かぶのは、一定以上の年代の方ですね(笑)。江戸時代には秋田藩佐竹家の藩薬として、すでに存在していたそうです。

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昨日に引き続き、岩手花巻からの情報です。

テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」

期 日 : 2021年6月26日(土)~8月29日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 小、中学生 150円(100円) 高、学生 250円(200円)
      一般 350円(300円) ( )内は20名以上の団体割引料金

近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解きます。

主な内容 
「舟運から鉄道へ」「東北本線の開通」「岩手軽便鉄道の誕生」
「花巻電鉄と新温泉開発」

☆関連事業 7月17日(土) 講演会 7月31日(土) 学芸員講座 ギャラリートーク等
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元々、昨年開催予定だったものですが、コロナ禍のため一旦中止となり、仕切り直しての開催です。

昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」を果たした光太郎、その間に重要な「足」となった花巻電鉄も取り上げられます。
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展示品のうち、「岩手軽便鉄道沿線名所図絵」という古い鳥瞰図が、『広報はなまき』6月15日号に紹介されました。
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さらに、同館の「先人コーナー」。

先人コーナー展示替えのお知らせ

花巻市博物館では、花巻ゆかりの先人を紹介するコーナーを設けています。昨年度は、小原樗山、山室機恵子、工藤善太郎の3人を紹介しましたが、今年度は多くの先人のうち、渕澤能恵、佐藤隆房、薄衣八百藏の3人を取り上げました。

佐藤隆房(1890-1981)
佐藤隆房は、明治23年(1890)栃木県那須郡(現・那須町)に生まれました。大正12年(1923)、33歳の若さで「花巻共立病院」(現・総合花巻病院)を設立、外科医長を兼ねて初代院長に就任します。
慈善活動にも力を入れ、昭和8年(1933)の三陸大津波の際は救護班を沿岸に送り、昭和20年の花巻空襲の際にも陣頭指揮を執り、負傷者の救護を行いました。文化・芸術にも造詣が深く、宮沢賢治や高村光太郎など、花巻ゆかりの文化人たちとの交流がありました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、旧太田村の山小屋に移る直前の約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房が新たにラインナップ入り。

来月には「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」に行って参りますので、こちらも廻ってこようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午前書初。正信偈の中から選んで(「顕真実」3「金剛心」1)四枚書く。


昭和23年1月2日の日記より 光太郎66歳

正月二日に書き初めを行うのが、光太郎のルーティーンでした。「正信偈」は「しょうしんげ」。親鸞 の著した『教行信証』中の「正信念仏偈」を指します。

「顕真実」三枚中の一枚は、花巻高村光太郎記念館さん、一枚は大沢温泉さんに所蔵されています。「金剛心」も花巻高村光太郎記念館さんに納められていますが、元は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎に贈られ、駿河はその書を拡大コピーした石碑を自宅前に立てました。
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光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻からイベント情報です。

菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展

期 日 : 2021年6月26・27日、7月3・4日、10・11日、17・18日
      (6月第4週~7月第3週までの土曜日・日曜日開催)
会 場 : 旧菊池捍邸 岩手県花巻市御田屋町2-9
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

大正15年に建てられた菊池捍邸は洋館のような外観にも関わらず間取りは武家屋敷という大変貴重な建物となっている。10年ほど前まで菊池捍氏の子孫が住んでいたので内部も建築当時のままきれいに残されている。

菊池捍氏は明治3年花巻城士の子に生まれ、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校に進学。同じく花巻出身の総長佐藤昌介と新渡戸に薫陶を受けた農業技術者だった。全国どころか、台湾やスマトラでも活躍したのち帰郷。北海道時代に見た開拓使の建物に影響されてこのような洋館風の外観で家を建てたものと思われる。

イベント当日の展示は、その菊池捍に関連する資料とその次男で、戦前戦後に活躍した写真家菊池俊吉が撮った写真、そして空襲で東京のアトリエを焼かれ、この家に疎開した娘婿で、戦前のプロレタリア美術の第一人者だった寺島貞志の絵、佐藤昌介やその妹で島崎藤村の初恋の相手佐藤輔子、佐藤輔子がのちに結婚した鹿討豊太郎の写真など、この家にまつわる方々の資料や作品となる。宮沢賢治や高村光太郎などもどうやらこの家に関わっている由。

関連行事 :
 6月26日(土) オープニングセレモニー トークイベント
  木村清且さん(木村設計A・T代表取締役社長)
  平澤広さん(花巻市立萬鉄五郎記念館学芸員)
  坂場有紀子さん(菊池捍氏曾孫)
 各日曜日 16:00~17:30 朗読会などの併催イベント
  6/27 宮沢賢治作品朗読と昔話、レコード鑑賞
  7/4   宮沢賢治作品朗読と朗読劇、レコード鑑賞
  7/11 宮沢賢治、高村光太郎詩朗読、フルート演奏
  7/18 おとなに贈るおはなし会、レコード鑑賞

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菊池捍(まもる)は、花巻出身の農業技術者。昭和19年(1944)に歿していますので、光太郎と直接の面識はありませんでしたが、その姻族の佐藤昌(元旧制花巻中学校校長)は、昭和20年(1945)の花巻空襲で、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を1ヶ月近く住まわせてくれ、その後も光太郎と交流を続けた人物でした。他にも宮沢家などで、菊池の縁者の人々と同席した記録が残っています。

言い伝えによると、光太郎もこの菊池邸に足を運んだらしいとのこと。ただ、残されている日記にはその記述が見当たりません。しかし、当方が見落としていることも考えられますし、日記は昭和24年(1949)と翌年の大部分が失われていたり、その他の年も欠落している部分があったりで、その間に訪問していた可能性があります。

旧菊池邸は、大正15年(1926)の竣工。宮沢賢治の童話「黒ぶだう」の舞台である建物のモデルとも考えられているそうです。また、先日ご紹介した『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号の連載「光太郎レシピ」の撮影も、こちらで行われたとのこと。

古建築好きの当方としては一度行ってみたいと思っていましたし、朗読イベントで光太郎詩が取り上げられるというので、7月11日(日)にお邪魔することに致しました。皆様もぜひどうぞ。

ところで古建築というと、昨日、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」。智恵子の故郷・二本松にたたずむ、菊池邸より1年早く建てられた、「8月カフェ」さんが取り上げられました。
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この番組、ドラマ仕立てで、渡部豪太さん演じるカフェブロガー・真田ハルが、全国の「ふるカフェ」を巡り、その謎を解き明かすというスタイルです。古建築好きの当方、時折拝見しています。地元の皆さんが本人役でご出演、それが何とも言えず温かみがあっていい番組です。
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ちなみにハルが口にしているのは、手作りスコーン。
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美味しそうですね!

番組冒頭は二本松駅から。
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カフェオーナーの吉村明美さんからの調査依頼。吉村さんは元々、郡山で喫茶店を経営されていたそうですが、今年3月に娘さんとこちらにカフェをオープンなさったそうです。

賢治の「雨ニモマケズ」パロディー。
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ここで「高村光太郎の「智恵子抄」に謳われた「ほんとの空」のある二本松」といった紹介が欲しかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。

こちらがカフェ。
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元二本松町長・田倉孝雄が建てさせた建築だそうで。
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当時の欧米で最先端の流行だった様式を随所に取り入れていました。
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光太郎智恵子がこの建物を目にした可能性もあります。

ところで、番組冒頭近く、8月カフェさんに着く前、ハルが二本松城の大手門跡の説明板を読んでいると……。
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石垣を愛でている謎の美人。石の積み方に詳しく、実にマニアックです(笑)。

最初、気がつかなかったのですが、「あれっ、佐藤さん?」。思わず叫んでしまいました。
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番組後半に再登場なさり、ここで正体が明らかに(笑)。以前、教育委員会文化課にいらした佐藤真由美さん。平成28年(2016)に、8月カフェさんすぐ近くの歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の際、主任学芸員としてお世話になった方です。その際には、展示品をお貸ししましたので、千葉の当方自宅兼事務所に搬入/搬出にいらっしゃいました。その後も毎年のように智恵子を偲ぶ「レモン忌」にご参加なさっています(昨年はコロナ禍で中止)。

建設の経緯などは、佐藤さんがハルに語る、という設定になっていました。出演なさるとは存じませんで、驚きました。今度お会いしたら「いい芝居してましたね」とからかってあげようと存じます(笑)。

6月20日(日) 18:30〜18:55、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お雑煮、屠蘇代りの冷酒二杯 お供へをかざり、みかん林檎を供ふ。筆、槌、コムパス、等を祭る。

昭和23年(1948)1月1日の日記より 光太郎66歳

山居生活4年目の幕開けでした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号が届きました。
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巻頭特集は「高3女子のリアルトーク「花巻えもい!!」」。高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)の建つ花巻北高校さんに通う、お二人の生徒さんによる若者目線での花巻紹介です。大人が見過ごしてしまう「良さ」の取り上げ方や、「田舎あるある」的な自虐ネタなど、楽しく読ませていただきました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は、「青菜のエチュベとサヤエンドウのポタージュ」。「エチュベ」はフランスの家庭料理だそうです。
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料理好きの方、ぜひどうぞ。

編集に協力されているやつかのもりLLCさんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

昨日販売分がこちら。
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彩りが初夏っぽい感じを受けますね。

こちらも末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

朝田頭さん奥さん来訪、昨夜余の夢を見て心配ゆゑ来りしとの事、弱つて田頭さんを余が訪ねし夢なりし由、元気故心配なきやう申述ぶ。濁酒三合程もらふ。

昭和22年(1947)12月24日の日記より 光太郎65歳

「田頭(たがしら)」は屋号で、旧太田村村長・高橋家です。光太郎、村民に愛されていたのがよくわかるエピソードですね。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手県花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんに関する報道。『岩手日報』さんには一週間程前に出ましたが、『岩手日日』さんで、一昨日報じられました。内容的にはかぶりますが、ご紹介します。

光太郎の食卓再現 顕彰合同会社やつかのもり 日記、書簡基にカレンダー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動などに取り組む花巻市轟木の合同会社やつかのもり(藤原正代表)は、「光太郎の食卓カレンダー」を作製した。カレンダーには光太郎の食卓を再現した写真、エピソード、食を通じた相関図を掲載。同社ではカレンダーが光太郎に親しみを持つきっかけになることを願う。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、 独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 同社は藤原代表(69)と地元の女性社員8人で組織。アカシアの天ぷら、 ショートケーキ、トマトケチャップを使った鍋など、カレンダーに掲載されている料理は光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した。
 光太郎は欧米への留学経験もあることから、オリーブオイル、オーストラリア産のチーズ、アンチョビなど当時の花巻としては珍しい食材も出てくる。光太郎に手作りジャムやケーキを届けた盛岡スコーレ高校の創立者である吉田幾世さんら、食を通じて交流した県人も紹介している。
 藤原代表は「当時の文献 を見ると高村光太郎は牛肉なども食べており、かなりの食通だったことが分かる。カレンダーで高村光太郎をより身近に感じてもらい、記念館などに足を運ぶ人が増えてくれれば」と期待する。
 カレンダーは5月始まりで、見開きA3判、税込み800円。作製した500部のうち、限定100部を販売。道の駅はなまき西南で購入できる。
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記事にある「光太郎の食卓カレンダー」は、花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されたもので、光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたもの。

『マチココ』さん連載に関しては、時折、当方にレファレンス依頼があり、その意味ではちょっとだけ関わらせていただいております。

少し前には「「醢」って何ですか?」。光太郎の日記に「醢」という文字があるそうで。
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調べてみましたところ、「醢」は「かい」と読み、「兎醢」で「とかい」と読むようです。訓読みでは「ししびしお」、「しおから」などと読むとのこと。中国料理系で、「醢」は魚肉、鶏肉、獣肉などを塩と麹に漬けて発酵させたものだそうです。元々は原材料名+「醢」と表記したそうで、日本の平安時代の文献にも「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍=肉)などの語が見られるということです。どんな感じの料理なのか、今一つイメージが湧きにくいのですが……。塩辛に近いものなのでしょうか。身が兎肉で。

「魚醢」は「魚醤」とほぼ同義だそうで、「魚醤」は醤油のルーツの一つとされ、当方生活圏内の銚子市などでも販売されています。読み方は「ぎょしょう」ですが、「ひしお」と読む場合もあります。

ところで、当方、ワープロソフトは昭和のフロッピーディスクの頃から(笑)「一太郎」を使い続けています。文書作製の際の細かな設定等は「ワード」だと、やってやれないことはないのでしょうが、当方、そのスキルがありません。「一太郎」はかなり極めたので、ほぼお手の物です。最近のニュースでは、法案の作成ミスが、官公庁で「すでに民間では“過去の遺物”となった「一太郎」をまだ使っている」ことが原因だ、というのがありましたが。「一太郎」だろうが「ワード」だろうが、ミスは生じると思うのですが……。

したがって、当方の使っている日本語辞書は「ATOK」。別にジャストシステムさんを擁護する訳ではありませんが、明らかに日本語変換に関しては「IME」より数段上です。上記の「醢」も、「ATOK」では「ひしお」と入力して変換すれば、初期設定の時点で「醤醢」が出て来ます。「IME」では出来ませんでした(何か方法があるのかもしれませんが)。なぜか最も一般的でないであろう「醓」は出て来ます。
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まぁ、はっきり言うと、光太郎等、近代の文献の引用を行うためには、「IME」は使い物にならないという感じですね。一般の方々が普通の文書を作成する分には問題ないのでしょうが。

閑話休題、「光太郎の食卓カレンダー」、「やつかの森LLC」さんサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后サダミさんと同道及川善三氏来訪、茸狩の由。初対面、メーレー夫人の毛布を見らる。

昭和22年(1947)10月26日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」は「及川全三」の誤りです。岩手にホームスパンを根付かせた及川の弟子の一人が、「サダミさん」こと駿河定見(光太郎の山小屋近くの住人)の姪、戸来サツ子でした。サツ子から、光太郎が所蔵するエセル・メレ作の毛布のことを聞いた及川が訪ねてきたというわけですね。

昨日の『岩手日報』さんから。

光太郎の魅力広める起業 花巻・記念館で勤務した女性ら 活動充実へ合同会社 カレンダー販売や展示

 花巻市で暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動を続ける女性らが、合同会社「やつかのもり」(藤原正代表社員)を設立した。光太郎の食卓を再現した写真を使ったカレンダー販売や、道の駅はなまき西南(同市轟木)での展示、ブログ運営などを展開。本県を愛した光太郎の魅力を広く発信する。
 同社は同市太田の高村光太郎記念館で勤務した女性8人と「賢治と光太郎の郷(さと)」と銘打ち関連グッズも販売する道の駅の役員藤原代表社員(69)の計9人で組織。市内外で顕彰活動を進めようと4月に設立し、光太郎が過ごした山荘に自生するハンノキの方言「やつか」を社名にした。
 事業第1弾となるカレンダーは光太郎が宮沢賢治の家族に振る舞ったとされるアカシアの花の天ぷらなど、文献から推測して再現した料理の写真を掲載した。見開きA3判で500部作製し、800円。
 道の駅では賢治と光太郎に関連した展示を企画。月に1度販売する弁当「光太郎ランチ」の基となる資料提供も行う。
 光太郎ゆかりの場所を歩くブログ「こうたろう散歩道」を運営し、盛岡市でのイベント開催も検討する。
 藤原代表は「多くの人を巻き込み、郷土が誇る偉人の魅力を発信したい」と意気込み、記念館で30年勤務し、光太郎が校訓を贈った旧山口小学校に通った新渕和子副代表(69)は「校訓『正直親切』は、平和を願う気持ちそのもの。その精神をしっかり伝えていきたい」と誓う。
 カレンダーは道の駅などで販売。Eメール(kotarocafe30@gmail.com)でも申し込みを受け付ける。

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というわけで、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんを拠点に、さまざまな光太郎顕彰活動を事業化する会社「やつかの森LLC」さんが立ち上がりました。

まず、記事にある通り、光太郎の食卓カレンダー花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。
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こちらに10部贈って下さいまして、保存用を除いた残り9部をフェイスブックで「送料のみでお分けします」と書き込みましたところ、即日完売。購入して下さった方々から好評でした。

さらに、昨年から行われている「光太郎ランチ」。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんとのコラボです。毎月15日、10食の限定販売だそうで、昨日の販売分がこちら。
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上記画像、後に写っているのは道の駅はなまき西南さんのインフォメーションスペース。光太郎、賢治に関する説明パネルがあり、さらに以前にはなかった光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の書額。光太郎の筆跡ではなく、現代の方が書かれたもののようですが。

今後、さらにいろいろと事業が展開されていくようで、頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前、二階で揮毫、「雨ニモマケズ」の後半を横にかく。一枚書き損じ、二枚書く。尚、板の小額に「彧彧」と書く。院長さん得意の文句。面白く書けたり。

昭和22年(1947)10月10日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋を1週間程あけ、花巻町桜町の佐藤隆房(院長さん)邸に厄介になっていた時の記述です。

「雨ニモマケズ」後半の書はこちら。
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前日には前半も書いています。
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001これらは佐藤隆房邸、宮沢賢治詩碑近くの桜地人館さんで展示されています。

「彧彧」は右の画像。佐藤隆房の回想を引きましょう。

 私は杉の木の並び立つ姿を表現する最もよい字がないかと漢和大辞林を始めから終わりまでくって遂に「彧」の字を探し出しました。先生が山から来たとき私が
「いつかの『ちくちく』(矗々)の字は落第したようですから、漢和大辞林からこういう文字を探しました。」
と紙片に書いたのを出し
「『或』(あるいは)のひっさげ一本のところが三本になってい、これは『エキ』又は『イク』と読んで、『彡』で引くのです。玉蜀黍(とうもろこし)などが繁茂した姿で、『馥郁』の『郁』という字の古文字だそうです。これでどうですか。」
(中略)
「ホウ成程。面白いですね。イクイク、エキエキですか。ここではエキエキですね。その中(うち)書きましょう。」
 先生は墨痕あざやかにその額板にたてに書きました。私はそれをいただいて、潺湲楼の脇床の正面のなげしの上にかけました。先生は坐ってそれを眺めて
「これはよくできた。三本のひっかけは本当に玉蜀黍が風になびいているようだ。」

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こちらは佐藤邸の離れ(潺湲楼)にしばらく掲げられていましたが、現在は花巻高村光太郎記念館さんの所蔵となっています。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
       ◇
 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
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 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
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メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
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かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
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003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

昨日は、県立図書館さんに行っておりました。自宅兼事務所や近隣の図書館さんですと、ネット上のデータベースでの調査に限界があるためです。

『読売新聞』さんの地方版記事で、光太郎智恵子光雲がらみがいろいろありましたので、しばらくはそちらをご紹介します。

まず、4月2日、岩手版の記事。「うめえなっす」という連載の一環のようです。

うめえなっす 賢治の注文料理堪能 天ぷらそばとサイダー やぶ屋(花巻市)

002 天ぷらそばと三ツ矢サイダー。一見、珍しい組み合わせが「やぶ屋」の看板メニューだ。花巻市出身の詩人・宮沢賢治(1896~1933年)が好み、「賢治さんのセットをください」というファンが相次いだことから、いつからか「賢治セット」と呼ばれるようになった。 まずはサイダーで喉を潤してから、麺をすする。そばは、県産のそば粉のみを使った二八のひきぐるみで、香り豊かだ。かつお節で取っただしに、1923年(大正12年)に創業した時から代々引き継いでいる「かえし」を加えた、濃厚なつゆが麺によく絡む。
 エビと季節の野菜の天ぷらは、創業時からの衣の大きい「草履揚(ぞうりあげ)」を貫き、見た目も派手だ。つゆと油を堪能したところで、再びサイダーをグイッ。冷たい気泡が食道を通り、すっきりすると、更に箸が進んだ。
 やぶ屋は、創業者が仙台市の同名の店で修業したことにちなむ。賢治は、英語で「BUSH(ブッシュ)」と呼び、同僚や教え子と度々訪れた。賢治が「一杯やろう」と言えば、お酒ではなく、サイダーだった。彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。
 営業部長の笹川博之さんは「全国からたくさんのファンが来る。賢治人気に驚くばかり」と話す。笹川さんによると、20年以上前、花巻でサイダーの売り上げが伸びていたため、生産するアサヒ飲料(東京)が店を訪ねてきた。理由を知った同社は、広告で賢治のエピソードを用いるようになったという。
 木造2階建てだった店舗は、現在4階建てになり、宴会場も含めて600席ある。新型コロナウイルスで席数を減らしたが、メニューは普段通り。苦難の中でも、伝統と味を守り続ける構えだ。
思い巡らせそばを食す
 宮沢賢治には筋金入りのファンが多い。笹川さんは客から「賢治さんはそばから食べたの? それともサイダーから?」と聞かれて戸惑った。記録は残っていないので、実際にどう食べたかはわからない。
 訪れるファンの世代や性別は様々だが、皆、賢治に思いを巡らせながら、そばを食べるのだろう。自分も想像しながら食べてみた。「うめえなっす!」と言う賢治の姿が、浮かんだ。
メモ
 「天ぷらそばとサイダー」は1000円。「わんこそば」は中学生以上3000円、小学生2500円、小学生未満2000円(いずれも税別)。仕出しや出前も可能。月曜定休。
 花巻総本店は、JR花巻駅から徒歩10分、JR新花巻駅から車で15分。JR盛岡駅の駅ビル「フェザン」にも店舗がある。問い合わせは、花巻総本店(0198・24・1011)へ。

花巻市のやぶ屋さん。賢治が天ぷらそばとサイダーをよく注文していたというエピソードは、比較的有名ですね。当方も何度か訪れ、このセットを頂きました。

魚乃目三太さん著のコミック『宮沢賢治の食卓』でも、当然のように紹介されています。
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賢治がまだ健康だった花巻農学校の教師時代、そしてやぶ屋さんが創業した大正12年(1923)頃のエピソードです。

ちなみに光太郎も登場する同じ魚乃目三太さん著の『続 宮沢賢治の食卓』でも、やぶ屋さん。
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002「雨ニモマケズ」を手帳に記す少し前、昭和6年(1931)という設定です。死も覚悟しつつ東京に向かう直前に、ふと、やぶ屋さんに立ち寄ったと描かれています。当方、寡聞にしてこれが史実かどうか存じませんが。

読売さんの記事に、「彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。」とありますが、「証言」というより、戦後の光太郎自身の日記に、何度もやぶ屋さんで食事をしたことが記録されています。右は、昭和12年(1937)頃のやぶ屋さん。賢治が通っていた頃と、光太郎が足を運ぶようになった時期の、ちょうど中間くらいですね。「祝南京陥落」という幟(のぼり)が生々しい感じです。

それからこれも読売さんの記事にある、アサヒ飲料さんの「広告で賢治のエピソード」は、こちら。
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同社のサイトにも、賢治とサイダーのエピソード。
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光太郎が昭和20年(1945)に花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念して、毎年5月15日に行われてきた、高村祭。昨年に続き、今年もコロナ禍で中止となりましたが、当方、今月末か来月初めにあちらに行くことになりそうなので、機会がありましたらまた賢治セットを頂いてこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

竹内てるよさんとは初対面なり。大変肥えて丈夫さうに見える。しかしどこか病的なり。元気よき話いろいろ。此所の空気の甘さ、気圧のよさ、空気の乾き等述べらる。持参の五目寿司をいただき午食。

昭和22年(1947)9月6日の日記より 光太郎65歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。突然、光太郎の山小屋を訪れました。

戦前には重度の脊椎カリエスにかかり、当会の祖・草野心平らが「竹内てるよを死なせない会」を作り、光太郎も加盟し援助しました。また、確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。そんなわけで、てっきり面識があったはずと思っていましたが、意外や意外、戦後になって初対面だったとのこと。

この際のてるよの回想も残っています。それによれば、この時、山小屋に蝉の彫刻があったとのこと。他にも目撃証言がありますし、きちんとした作品としてではなかったものの、手すさびや腕を鈍らせないための修練のような意味合いで、蝉の制作をしていたことは間違いないようです。


花巻から届きました。
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「光太郎の食卓カレンダー」。昨年も発行されましたが、新バージョンで、今月から来年4月までの1年間分です。

各月見開き2ページ、『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。

昨年との大きな違いは、まず、大きさ。昨年はA5判で、開いたらA4判でしたが、今年は倍のA4判、開くとA3判となりました。001

メニュー的には以下の通り。

5月 ウコギのホロホロかけご飯
6月 カフェドシトロンとサヤエンドウのサラダ
7月 アカシアの天ぷら
8月 アンチョビサンド
9月 支那料理風甘酢あんかけ
10月 カレイの青葉ソースとキガラチャ飯
11月 林檎とサツマイモのケーキ
12月 ラムチョップ
1月 豚肉とキャベツのケチャップ鍋
2月 イングリッシュブレックファスト
3月 そば粉ガレット
4月 チーズとフキノトウ入り茶碗蒸し

料理は、基本、花巻疎開後の光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたものです。レシピは載っていませんが、元にした文章が各月とも掲載されています。

販売は、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで店頭販売、それから発行元の「やつかの森LLC」さん(花卷高村光太郎記念会の元職員の方々で作った会社)のサイトから申し込めます。頒価税込800円、送料370円だそうです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起こされる。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。

昭和22年(1947)8月23日の日記より 光太郎65歳

故・田口弘氏は、のちに埼玉県東松山市の教育長を務められました。国内最大級の国際的ウオーキング大会「日本スリーデーマーチ」の東松山市への誘致・運営、東武東上線高坂駅前に延びる「彫刻プロムナード」(やはり光太郎と交流の深かった高田博厚の作品群)整備など、大きな足跡を残されました。

昭和19年(1944)、氏が南方に出征する際、駒込林町のアトリエで光太郎に著書や色紙を贈られました。しかし、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、氏は命からがらの目に遭います。貰った著書や色紙は海の藻屑となりました。

収容所生活を経ての復員後のこの日、光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村を訪れ、改めて揮毫をして貰いました。その後も交流は続き、氏が貰った品々、現在は東松山市立図書館さんで、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

まずは4月14日(水)付けの地方紙『岩手日日』さんの記事。

賢治の世界観触れる 新入社員が施設見学 観光協会セミナー

  花巻観光協会主催の新入社員セミナーが13日、花巻市内で開かれ、会員企業に入社した新入社員らが市内の観光施設を見学。宮沢賢治の世界観や食文化など多彩な花巻の魅力に触れた。
 市内2事業所から22人が参加。宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などを訪ね、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長から、各施設の概要や見どころを聴き、昼食にはわんこそばも体験した。
  このうち宮沢賢治童話村では、賢治童話の世界が体感できる「賢治の学校」や、 賢治童話に登場する植物、動物、星、鳥、石について学ぶことができる7棟のログハウス「賢治の教室」などを見学。花巻温泉に今春入社した滝沢市の髙橋桃子さん(18)は「自分も楽しめたので、お客さまに聞かれたときには、この楽しさを伝えられるようにしたい」と話していた。
 セミナーは、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などについて対応できる人材育成が目的。講師を務めた観光ガイドの髙橋会長は「花巻を訪れた観光客がまた来たい、行って良かったと思えるガイドを心掛けている。セミナーの参加者一人ひとりがその担い手になってくれればうれしい」と話していた。 19日と26日にも同様の日程でセミナーを開く予定。
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途中入社の方とかもいらっしゃるかも知れません。だから「新社会人」ではなく「新入社員」の語になっているような気がします。ただ、画像で見る限りは皆さんお若い方ばかりですね。

皆さんには、賢治や光太郎の世界について広める役割を期待したいところです。

花巻ではこんな取り組みも。花巻市さんのホームページから。

【令和3年4月1日から】教育旅行で花巻市内に宿泊していただくと、花巻市所管の対象施設を無料でご利用いただけます

花巻市外の学校が、学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施し、同教育旅行期間中に花巻市が所管する対象施設を利用した際、学校の児童、生徒、学生及びその引率者を対象とし、市施設入館料等を全額免除いたします。
 
実施期間 令和3年4月1日(木曜)から11月30日(火曜)まで
対象施設一覧(全10施設)
 宮沢賢治記念館 宮沢賢治童話村 花巻新渡戸記念館 萬鉄五郎記念美術館
 高村光太郎記念館 花巻市博物館 石鳥谷歴史民俗資料館 花巻市総合文化財センター
 大迫郷土文化保存伝習館 石鳥谷農業伝承館
ご利用の際の条件等
【利用対象者】学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施する花巻市外にある学校の児童、生徒、学生及びその引率者。(学校:小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校及び専修学校)
【宿泊施設】市内の旅館業法第3条第1項に規定する許可を受けた者又は住宅宿泊事業法第2条第4項に規定する住宅宿泊事業者が営む施設に宿泊すること。
【その他】施設予約及び旅行日程表の提出が事前に行われていること。

▽手続きの流れ、連絡先等につきましては、下記チラシをご覧ください。
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ある意味、英断ですね。ダンピングのような気がしないでもありませんが、リピーターとして再度訪れてくれたり、口コミで各施設の評判を広めてくれたりすれば、採算は取れるのかな、とも思われます。

全国の学校関係者の皆さん、旅行業に携わる方々、ご一考を。

ところで、最近の高村光太郎記念館さん周辺の風景、4月13日(火)に送られてきた画像でご紹介します。
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例年5月15日(光太郎が花巻に向けて疎開に出発した日を記念して)に開催されてきた、高村祭は、昨年に引き続き、やはりコロナ禍のため中止となりましたが、感染防止に努めつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑に蟲多く、大根苗、ホウレン草その他半分以上くはれて消える。


昭和22年(1947)6月21日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋前に開墾した畑の様子です。本格的に農業を初めて2回目の夏、それでもまだこんな状況だったのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第25号が届きました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は「じゃがいものニョッキと蜂蜜レモン紅茶」だそうで。
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「蜂蜜レモン紅茶」は、まさにそのまま、花巻郊外旧太田村の山小屋で賞味していました。あのボロボロの小屋と、ハイカラな飲み物のギャップがすごいと思います。

巻頭の特集は、「桜の風景」。花巻の桜の名所がふんだんに紹介されています。岩手では、これから盛(さか)りでしょうか。
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他に、宮沢賢治の足跡を追う「賢治の散歩道」という連載では、花巻中心部の仲町にあった「精養軒」が紹介されています。
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こちらは北上市の中村邸とともに、賢治の「注文の多い料理店」のモデルの一つと言われているそうです。昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する光太郎の壮行会が、ここで開かれています。

マチココさん、オンラインで定期購読の手続きが取れます。ぜひどうぞ。

それから、毎月15日は、「光太郎レシピ」と関連する「光太郎ランチ」の日。昨年開業した道の駅はなまき西南さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されています。

今月の光太郎ランチの画像等が、花巻から送られてきました。
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こちらでもジャガイモ。やはり新じゃがの旬だということでしょうか。

白玉団子までついていて、少しカロリー高めかな、という気がしないでもありませんが、これは満足の弁当ですね。

特に急な話題が入らなければ、明日も花巻ネタで。

【折々のことば・光太郎】

つゆをミヅにてつくる。ミヅは朝仁太郎翁が持つてきてくれたり。


昭和22年(1947)6月20日の日記より 光太郎65歳

「ミヅ」は「水」ではなく、山菜の名前です。以前のマチココさん「光太郎レシピ」で「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」として取り上げられたりもしました。
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4月2日(金)、第65回連翹忌の日の『岩手日報』さん。連翹忌に触れてくださいました。

風土計 2021.4.2

〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎「道程」は、旅立ちの季節が似合う。9行の口語自由詩が、初めの一歩を後押しする▼新たな学校、新たな職場。期待と不安が入り交じる中、「初めまして」もマスク越し。人の顔を覚えづらいのは厄介だ。会釈され知り合いと気づくこともあろう。まずは挨拶から。少しずつ心を通わせ、もどかしさを補いたい▼疎開した花巻で7年間を過ごした光太郎。「岩手の人」では〈沈思牛の如し。/地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す〉と県民性をたたえた。丑(うし)年の今年、きょうが命日だ▼生前好んだ花にちなむ「連翹(れんぎょう)忌」法要は、新型コロナウイルスの影響で昨年に続き中止となった。高村記念会山口支部(照井康徳支部長)は、ささやかな集いで遺徳をしのぶという▼71歳の照井支部長は今も、幼少時に見かけた大柄な姿を忘れない。「先生のおかげで地域が活性化した」と感謝。「正直親切」「心はいつでも新しく、毎日何かを発見する」の金言を胸に刻む▼コロナ禍、東京五輪・パラリンピックの行方等、震災10年を経てなお、先の見通せない日々。こんな時こそ、自ら道を切り開く光太郎の精神に学ぶところは大きい。「希望」はレンギョウの花言葉。困難が待ち受けていても、決して失わずにいたい。

紹介されている「連翹忌法要」は、都内での当会が主催する集いではなく、やはり4月2日の光太郎忌日に、花巻市の松庵寺さんで開催してくださっている、花巻としての法要です。こちらも昨年に引き続き、中止のやむなきに至ったそうで……。

連翹の花言葉が「希望」とは存じませんでした。もっとも、「花言葉」というのは随分いろいろ種類があるようですが……。なぜなのでしょうね。

続いて、『朝日新聞』さん。「マダニャイ とことこ散歩旅」という夕刊の連載、3月23日(火)の掲載分です。

マダニャイ とことこ散歩旅:568 清洲橋通り:18 赤玉石

■「名石の庭」で輝く緋色
 清澄庭園(東京都江東区清澄3丁目)には、三菱財閥が集めた全国の有名な石があり、「名石の庭」「石の博物館」とも評される。正門左手奥の大正記念館近くに緋色(ひいろ)の石がある。雨にぬれるとルビー色に輝く石がずっと気になっていた。
  佐渡赤玉石で、高さ60センチ、横120センチ、幅80センチ。いつから庭園に置かれているかはっきりしていない。
 赤玉石は掘り尽くされてしまい、産地だった新潟県佐渡市赤玉地区で1982年に採掘を終えた。かつて赤玉石を一手に扱っていた立脇隆彦さん(68)は「もう二度と手に入らない名石です」と語る。
 歌人で彫刻家の高村光太郎は、大戦末期の空襲で東京・駒込のアトリエとともに彫刻など数多くの作品を失った。「石くれの歌」と題した、こんな詩がある。
 《石くれは動かない/不思議なので/しやがんで/いつまでも見てゐた/あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある/これひとつだけが/この林泉の俗をうけない》
 研究者に尋ねたが、「あかい佐渡石」と庭園の赤玉石の関連は分からなかった。ただ、石を見つめていると、不思議と、すべてを失った光太郎の気持ちが分かる気がする。
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引用されている「石くれの歌」は、光太郎生前には活字になった記録がなく、残された草稿も「原稿」とも言えないメモ書きのようなものです。
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制作年も不明。昭和20年(1945)の太平洋戦争末期に、筑摩書房から『石くれの歌』という詩集の刊行を希望していたことがわかっており、その頃の作かもしれません。また、戦後の昭和22年(1947)に書かれた他の詩の原稿用紙の裏面にもこれが書かれており、この時期の作の可能性もあります。

従って、光太郎が見た「あかい佐渡石」、昭和20年(1945)頃の作であれば、東京で見たもの。戦後の作ならば、花巻で見た可能性もあります。光太郎の日記や書簡、エッセイ等、あるいは周辺人物の回想等に、もしかするとモチーフになった石のことが書かれているかもしれませんが、とりあえず、ぱっと思いつくものはありません。当会顧問であらせられた北川太一先生の書かれた、『高村光太郎全集』や『高村光太郎全詩稿』の解題にも、そうした記述は見当たりません。

記事にある「研究者に尋ねたが」の「研究者」は当方でして(笑)、この記事を書いた記者氏から電話での取材で、「清澄庭園に立派な佐渡の赤玉石があるんだが、光太郎の「石くれの歌」に出てくる石はこれなのではないか?」という趣旨でした。そこで、上記のように、この詩の制作状況が不詳であることをお伝えし、「江東区なら、光太郎のホームグラウンドの下町なので、可能性はありますが、清澄庭園のものがこの詩に謳われているとは断言できませんね」とお答えしました。

それにしても、赤玉の佐渡石というのが、そんなに稀少価値のあるものとは存じませんでした。調べてみましたところ、佐渡のものはもう採掘禁止、最近は津軽産のものが出回っているようです。昔採掘されたものは、ホテルニューオータニさんの庭園にもあるそうで、こちらは日本一の大きさと言われているとか。

しかし、「石くれの歌」の詩句「あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある」からすると、それほどの巨石でもなさそうな感じはしますね。

文京区千駄木やら、花巻市中心街やらの光太郎ゆかりの場所で、昔からここに佐渡赤玉石がある、という情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃分教場行、芝林の畑山氏、田頭さん等校庭に来る。花見宴をはじめられ、招かれる。畑山氏湯口村の上田氏といふ人、その弟さん工藤さんといふ人をつれてくる。

昭和22年(1947)5月9日の日記より 光太郎65歳

岩手の山村、5月はじめに花見なのですね。「湯口村の上田氏」は、おそらく現花巻市長の上田東一氏の父君か、ご縁者だと思います。

この後、他の村人や、たまたま光太郎を訪ねて北海道からやって来た詩人の更科源蔵も加わり、宴も酣(たけなわ)となりました。酔って人に絡み出す人が出てきた頃、光太郎はこっそり退散しています(笑)。

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