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紹介すべき事項が山積しておりまして、せっかく情報をご提供いただいても取り上げるのが遅くなってしまい、申し訳なく存じます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に携わられ、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチンフラワーさんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。
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メニューは「ちらし寿司」「白米ご飯」「豚肉とじゃがいもの炒め」「焼き鮭」「切り干し大根とふのりの酢の物」「長芋の塩昆布和え」「塩麹卵焼き」「豆銀糖とりんご」「お新香」だそうで。

基本的には日記等から光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考にし、現代風にアレンジしています。

やつかの森LLCさん、この他にもいろいろと活動に当たられています。

先月22日には光太郎が山小屋(高村山荘)で7年間の蟄居生活を送った旧太田村の上太田山関振興会館さんで、出前講座 「光太郎のハイカラ料理を知ろう」。

花巻市では、各種市民団体や、学校さんや企業さんなどで特定の内容の講座を受けたいという場合に「この人の、あるいはこのグループのこういう講座を開いてほしい」と要望を出せば、それが実現する「出前講座」というシステムがあるそうです。やつかの森LLCさん、昨年10月にもやられていました。

先月の様子がこちら。
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やはり光太郎グルメ系で実際に調理。
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「食」からのアプローチは、偉人を身近に感じる一つの手だてですね。

さらに今月16日には、花巻南高校さんを会場に行われた岩手県高教研国語部会中部支部の研修に呼ばれ、お話をなさったそうです。対象は高校の国語の先生方が中心で、他に南高文芸部の生徒さん、家庭クラブ顧問の先生も参加されたとのこと。
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タイトルは「こうたろう散歩道 山小屋暮らしの高村光太郎」。光太郎のプロフィール、宮沢賢治とのかかわり、旧太田村での生活などをお話しされたとのこと。

意外といえば意外でしたが、岩手の高校の国語の先生方の中にも、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945 高村山荘敷地内に詩碑あり)をご存じなかった方がけっこういらしたとのこと。まぁ地元でも専門外であればそんなものなのかも知れませんが。

やけに長い尺を与えられたそうで、寸劇を入れたり、やつかの森LLCさんお得意の食事方面のお話をされたりもなさったとのことでした。
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今後とも多方面でご活躍いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生多分来月三日か四日頃又お邪魔に参上、今度は七日頃まで御厄介に相成度存じ居ります。その間に一度お風呂もいただきたくお願申上げます。

昭和21年(1946)9月29日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

旧太田村から花巻町中心街に出る際には、山小屋に移る直前の前年9月から10月にかけ、厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房宅の離れ(潺湲楼)に宿泊するのが通例でした。

この頃は山小屋に風呂が無く、佐藤邸で入浴するのを楽しみにしていた部分も。佐藤邸が花巻の桜町なので、光太郎は巫山戯て「桜温泉」と呼んだそうです。

今週、花巻に行って参りましたが、現地で仕入れたりした情報等を。

まず、コンサート系です。

VALENTINE CONCERT 朗読と音楽で楽しむお茶時間 高村光太郎『智恵子抄』より

期 日 : 2024年2月23日(金)
会 場 : 喫茶店 ココ・タベルバ・ラパン 岩手県花巻市若葉町3丁目14-30
時 間 : 13:00 開場 13:30 開演
料 金 : 1,500円(1ドリンク・お菓子付き)

出 演 : 朗読 牧野幹  フルート 牧野詩織  ピアノ 菅原千恵子

2/23(金祝)ココ・タベルバ・ラパンにて、VALENTINE CONCERTがあります💕

ラパンのレジ前でおなじみ!「やつかのもり」さんのお菓子や、とりあえずココ・クレバで読み聞かせをしてくださっている牧野幹さんも登場します✨

牧野詩織さんのフルートと菅原千恵子さんのピアノも楽しみです~🎶
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朗読をなさる牧野幹さんという方、「光太郎を知る会」のメンバーのお一人で、フライヤーを直接いただきました。フルートの牧野詩織さんという方は、お嬢さんだそうです。

もう1件、テレビ放映情報を。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #99

BSよしもと(無料) 2024年2月21日(水) 19:00~19:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は岩手県花巻市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? マルカンビル大食堂、高村光太郎記念館 ほか

【出演者】又吉直樹(ピース)、せきしろ(構成作家) ほか
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盛岡の回だったかを1度拝見したことがあるのですが、毎回東北でロケが行われているというのは存じませんでした。

で、今回は花巻市。調べてみたところ、花巻は2回目だそうです。最初は昨年8月の第74回で、宮沢賢治記念館さん、光太郎もよく行ったやぶ屋さんなどを廻られたとのこと。気づきませんでした。
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で、今回は郊外旧太田村の高村光太郎記念館さん。
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それから隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋)。
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そしてマルカンさん。
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マルカンさんはともかく、光太郎記念館はなかなか全国放映の番組で取り上げられることが少ないので、ぜひご覧下さい。

ところでこの番組、又吉直樹氏と構成作家のせきしろ氏が自由律俳句を詠むという文学的テイストの番組です。そこで文学館系もよくロケ地になっています。ということは、今後、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん、十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんなどにも行っていただきたいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もあなたのsituationの好転の一日も早く来るやうに此所で祈ります。意識せられなくともさういふ時こそあなたの内部を豊饒にし、逞しくする何事かがあなたに加へられてゐるのだと思ひます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

福永武彦は小説家・詩人・仏文学者。この頃、北海道帯広で英語教師をしていた福永は、結核に罹患したことが元で、最初の妻・原條あき子との間で不和が生じていました。そのあたりを愚痴ったと思われる福永からの書簡への返信の一節です。

岩手レポート2回目です。

2月12日(月)、郊外旧太田村の高村光太郎記念館/高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんを廻り、再びレンタカーを市街に向けました。

次なる目的地は南万丁目地区の「わいんさっぷ」さん。
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以前はカレー屋さんとして営業なさっていましたが、現在は閉店されているとのこと。こちらはリンゴ園の一角です。
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リンゴ園を開かれたのが、故・阿部博氏。花巻農学校での宮沢賢治の教え子で、宮沢家を通じて光太郎とも知り合い、交流を重ねました。おそらく光太郎もここに足を運んでいます。
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子息の阿部弥之氏は、宮沢賢治花巻市民の会会長、宮沢賢治学会副代表などを歴任された方。光太郎についても花巻高等看護専門学校さんで特別講義をなさいました。昨年10月には、宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」の際にパネラーのお一人として登壇されています。当方はコーディネーターでした。

その阿部氏を中心に、花巻とその近隣の方々で「光太郎を知る会」という会を結成、花巻に疎開してからの光太郎日記を会員の皆さんで読み合わせしたりといった活動をなさっているそうです。他にもいろいろと光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCの方、花巻南高校文芸部さんの顧問の先生などもメンバーです。

で、そちらの会に招かれまして、参上した次第です。
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会員の皆さんが日頃から疑問に思われていることを挙げてもらい、当方が質問に答えたりといった形で進めました。

印象的だったのは、光太郎の花巻及び郊外旧太田村での足かけ8年、特に太田村での戦後のまる7年の位置づけに関して。リアルタイムでは当会の祖・草野心平らがとにかく早くその生活を切り上げて帰京するように繰り返し催促していました。光太郎実弟の豊周も光太郎の世話をしてくれた人々に感謝しつつも、特に彫刻の部分で空白となったこの時期が惜しいとか、光太郎の寿命を縮めた年月だったかもしれないとか回想に残しています。地元の皆さんにとってはそれが悔しい、というわけで。

なるほど、そういう見方もあるか、という感じでした。で、当方の返しは、「光太郎が戦争責任を含め、自分を見つめ直すためにどうしても必要な時間だった」。光太郎は繰り返し「脱却」という言葉を使いましたが、1年やそこらでは「ほんとに「脱却」できたのかよ、早すぎるだろ」という感じです。やはり7年という長さに重みを感じざるを得ません。豊周の言い分ももっともですが。

閉会後、リンゴ園の敷地内にある光太郎碑を拝見。
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昭和62年(1987)に建立されたもので、光太郎が故・博氏に贈った「酔中吟」という即興詩が刻まれています。
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 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう呼んだわけですね。

当方、こちらの拝見は3度目でした。最初は平成の初め頃。その際は一面識もなかった阿部氏のご自宅に突撃訪問し、案内していただきました。2度目は花巻市さん主催の市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で講師を務めさせていただいた際。それももう5年前になるか、という感じでした。

その後、定宿の大沢温泉さんへ。
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着いてすぐ、真夜中、さらに翌早朝と、3回、温泉を愉しみました。

2月13日(火)となり、大沢温泉さんから午前7時30分頃出立しました。午前11時に花巻市役所近くでやつかの森LLCの皆さんとお会いする約束でしたが、それまでどうしようかというところで、ふと思い立ち、レンタカーを東に向けました。目指すは沿岸の釜石市。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため船で訪れた街です。それを記念して平成7年(1995)には「三陸廻り」の釜石を訪れての一節を刻んだ文学碑が建立されました。建立された頃拝見に伺ったのですが、その後御無沙汰しており、いずれまたと思っておりました。
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平成31年(2019)には花巻-釜石間の東北横断自動車道が全線開通し、概算で1時間ちょっとで着けそうだな、というわけで、その通り午前9時頃に到着しました。
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釜石駅。

NHKさんの「あまちゃん」で一躍有名になった三陸鉄道、通称「三鉄」さん(「あまちゃん」では「北鉄」)。
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光太郎碑は市街地の只越町というところにあったはずで、そちらに向かいました。約30年前には意外とすぐに見つけられました。しかし、街の様子が一変していて、戸惑いました。まぁ、何もなくても30年経てばいろいろ変わるでしょうし、何と言っても平成23年(2011)の東日本大震災がありましたから。その爪痕を物語るもろもろ。
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青いプレートは津波がここまで来たよという目印です。
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午前11時には花巻に戻らねばならず、30分程探し、石川啄木の歌碑などは見つかったのですが、結局、光太郎碑は発見できずでした。もしかすると津波で流されたり、損壊したので撤去されたりしたのかもしれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

というわけで、午前11時、花巻に戻ってやつかの森LLCの皆さんと会食。その席上、6月にはまたイベントを開きたいというようなお話がありました。詳細が出ましたらまたご紹介します。

以上、岩手レポートを終わりますが、明日以降も地元で仕入れてきた花巻ネタ等を取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

身のまはりの品など可笑しい程簡単ですが不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由です。電燈なくランプとローソクです。


昭和21年(1946)9月13日 西岡文子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での7年間、まさに「不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由」。禅問答のようですが(笑)。

2月12日(月)、13日(火)と1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻方面に行っておりました。レポートいたします。

1日目。あちら方面に行く際には、ほぼほぼ毎回これに乗る東北新幹線やまびこ53号で北へ。特に急ぐ場合でもなければ全席指定のはやぶさ号は使いません。

途中、智恵子の故郷・福島二本松を通りますが、この日は智恵子の愛した安達太良山の上に拡がる「ほんとの空」が実にみごとでした。
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正午前、新花巻駅着。花巻在住の方々のSNS等で情報を得てはいましたが、ほんとうに雪が全くなく、驚きでした。この日のためにワークマンさんで防水のブーツを購入して履いていったのですが(笑)。
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右上画像はこの日の夕刻、宿で見たその日の『岩手日報』さん。除雪に当たられている業者さん、この冬は商売あがったりだそうで。まあ、安全面等を考えれば積雪が少ないのも悪くはないのかもしれませんが、農業面等で春以降の水不足が心配という声も多く聞かれました。

新花巻駅の観光案内的なスペースでは、花巻東高さん出身の菊池雄星投手、大谷翔平選手にまつわるコーナーがリニューアルされていました。
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駅前でレンタカーを借り受け、市内西部、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地からだらだらと長い坂を上り続けてたどりつく奥羽山脈山麓ですので、さすがにこちらでは雪が見られました。
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令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。今回の展示では、当方、読めないという字を読んであげた程度であまり関わりませんでしたが。
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劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さま、故・渡辺正治氏に宛てた葉書。宮沢賢治にも触れられています。
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平成28年(2016)に寄贈されたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。当方、20年ぶりくらいに現物を拝見しました。

その他は、光太郎の花巻疎開やその後の生活などに支援を惜しまなかった、総合花巻病院長・佐藤隆房とその家族に宛てたもの。
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佐藤編著の『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から関連する一節を抜き出したり、当時の写真をパネルにしたりで並べて展示。

フライヤーに画像が使われていた光太郎愛用の矢立は、常設展示コーナーに。
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ロビーに戻ると、こんなものが。
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昨年、同館で開催された企画展「山口山の木工展」で作品が展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作なさっているさとうつかさ氏の新作と思われます。素晴らしい。

記念館さんを後に、隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)へ。
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多い年ですと1㍍以上の積雪で、この時期には山荘に近づくこともできないのですが、今年はこんな感じで。

山小屋内部の光太郎遺影に「また来ました」と合掌。
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さらに山小屋裏手の智恵子展望台に。この季節に展望台に登れるというのは通常ではありえません。ある意味、そら恐ろしく感じました。
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展望台からの眺望。これだと例年の3月末から4月初めの感じです。
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展望台下の「雪白く積めり」詩碑。
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ここも雪はかすかに「積めり」状態でした。

その後、車で10分程の、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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産直等のコーナー。光太郎肖像画も掲げられています。
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無料休憩所、図書コーナーを兼ねたインフォメーションスペース。
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その一角で、主に地元の方々によると思われる写真展が開催されていました。
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光太郎がらみの写真も出品、ありがたく存じました。

光太郎がよく足を運んだ旧山口小学校跡地。
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光太郎が歩いた道。
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この後、市街地に戻りましたが、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

旧盆を過ぎると自然界は急に変つてくるやうです。夏の土用までが生成の盛季であとは成熟期に入るやうです。足並揃へてゐた草木が今は銘々がそれぞれが自分流の歩き方をはじめた感じがします。昨夜の明月は山中特に冴え渡つて凄いほどでした。万籟死してただ蟲の声ばかりでした。


昭和21年(1946)9月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

前年5月まで東京暮らしだった光太郎、花巻郊外旧太田村に移ってことさら自然の季節による推移には敏感となりました。今年のような異常な暖冬の様子を見たら、何と言ったでしょうか。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。

市街地は全く雪がありませんでした。
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さすがに光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺には積雪が有りましたが、例年より全然少ない状態。

隣接する高村光太郎記念館さんで、令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。
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その後、道の駅はなまき西南さん、市街地のリンゴ園などを訪問。地元で光太郎顕彰にあたられている方々とお会いして参りました。
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宿泊は例によって大沢温泉さん。
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今日もこれからいろいろと廻ります。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

終戦直後の昭和20年(1945)秋から、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した昭和27年(1952)秋まで、光太郎がまる7年間暮らした、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。主にその当時を紹介する高村光太郎記念館さんも隣接し、ぜひ皆様に足をお運びいただきたいスポットです。

しかし、いかんせん交通の便がよろしくありません。昔は市の中心街から路線バスが通じていましたが廃線。通常のタクシーですと片道数千円。当方はほぼほぼ毎回(来週もですが)レンタカーです。

そこで、花巻市の老舗タクシー会社、文化タクシーさんが「どんぐりとやまねこ号」という最大9人乗りのジャンボタクシーを運行して下さっています。現在は高村山荘や宮沢賢治記念館さんもコースに入った「どんぐり号」が午前中、南部杜氏伝承館・酒匠館さん、宮沢賢治童話村さんなどを廻る「やまねこ号」が午後、その2コースを「どんぐりとやまねこ号」として1日で運行されています。
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以前、妻と二人で花巻に行った際は、午前中に当方が高村光太郎記念館さんで市民講座講師、その間に妻が「どんぐり号」を利用という荒技(笑)もやりました。

さて、同じ文化タクシーさんで最近、「観光ジャンボタクシー 花巻市周遊 高村光太郎ゆかりの地コース」を設定して下さいました。車両は「どんぐりとやまねこ号」と同じレトロジャンボタクシーで、高村山荘・高村光太郎記念館さん及び近くの音羽山清水寺(光太郎もたびたび訪れた古刹)のみを廻るコースです。
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発着場所は東北本線花巻駅、東北新幹線新花巻駅、さらに花巻空港も選べるそうで。所要時間は約1時間30分となっていますが、出発時間も含めかなり融通が利くようです。また、予約が重なった場合には通常のワゴン車での対応となる感じでしょう。料金は1台借り切って15,600円だそうで、1人2人での使用だと割高ですが、大人数でなら元は取れそうです。また、他にも色々なコースが設定されています。

グループで行かれるという方、ぜひ利用をご検討下さい。

【折々のことば・光太郎】

冬は雪にこそ埋れて居れ、身神の充実はさは夏の比ではありません。アトリエを建てて冬期凍結の虞なく彫刻の出来る日をひたすら待望いたして居ります。フランスあたりなら、きつと請求すれば政府で建ててくれるに違ひないのですが、此の国の有様ではやむを得ません。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

結局、後に自ら戦争責任への処罰として彫刻制作は封印するのですが、移住1年目のこの頃はまだ太田村にアトリエ建設という夢は捨てていなかったようです。

新聞各紙から2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日報』さんから。1月13日(土)に出た「岩手とロダン“考える”」という記事を受けてのコラムです。

展望台 高村光太郎のアイドル

 「知らないグループが増えたな~」
 大みそかのNHK紅白歌合戦。ここ最近、冒頭のつぶやきの方が恒例となりつつある。そんなワタシでも注目したのは、音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)の大ヒット曲「アイドル」だった。
 子どもから大人まではまるキャッチーで中毒性のある曲調。ビルボードのグローバルチャート(米国を除く)で日本語曲として初めて1位を獲得するなど、とにかく世の中を席巻した。
 時をさかのぼること100年前、同じく日本中を席巻したのがフランスの彫刻家ロダンだった。ブームの火付け役となったのが、花巻市ゆかりの高村光太郎。本県では花巻へ疎開した後の山小屋(高村山荘)暮らしのイメージが強く、最初は結びつかなかった。だが興味を持ち調べると、面白い話がいくつもあった。
 20代からロダンの造形に傾倒した光太郎、1908(明治41)年にはフランスのロダン邸を訪ねた。本人は不在で夫人に待たせてもらったが、部屋にある素描にすら参ってしまい、逃げるように帰ったという。
 光太郎は帰国後、知りたいロダンの秘密、これこそ私なりの愛、とばかりに対話録の翻訳に取りかかり、16(大正5)年に「ロダンの言葉」として出版。光太郎にとって、まさにロダンは完璧で究極のアイドルだったのだろう。
 現在、ロダンの代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示中。台座を含めると高さ3㍍を超え、想像よりも大きい。誰も彼もとりこにした造形の美しさを、ぜひ間近で見てほしい。


光太郎がロダン邸を訪れたのは確認できている限り2回ありました。最初は明治40年(1907)11月、当時ロンドンにいた光太郎がパリの荻原守衛の元を訪れ、パリ郊外ムードンのロダン邸を一緒に訪れました。しかし、ロダンは留守。妻のローズ・ブーレはパリ市内のアトリエに廻るよう勧めましたが、光太郎がロンドンに帰る時間の都合であきらめたと、守衛からロダン宛の書簡に記されています。

2度目は年月日がはっきりしません。ロンドンを引き払ってパリに移り(明治41年=1908 6月10日)、帰国の途に就く(明治42年=1909 5月)までの約1年の間であることは間違いありませんが。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」(昭和26年=1951)に次の一節があります。

 ロダンには熱中していたけれど、やはり訪問する気にはなれなかつた。訪問客が多くて困るだろうということも察しられたし、それを無理おしして出かけてゆく神経の太さもなかつた。アトリエの外を通つたり、展覧会でも遠くからロダンの姿を見かけるといつた程度だつた。ある日曜日、有島、山下などの諸君の発意で、多勢でロダンのムードンのアトリエに行つてみようということになつて、僕もついて行つたが、ロダンは留守だつた。奥さんがロダンの部屋に案内してくれた。扇の地紙の形をした大きな机があつて、要のところに椅子がある。僕はロダンの椅子に腰かけ、床の上にうず高く積み重ねてあるたくさんのデツサンをあかず見た。一枚一枚台紙に貼つて整理されている無数のデツサンを次々に見ていると、実に威圧される感じだつた。庭に出ると、ちようど白い布をグルグル巻いてバルザツクの像が立つていた。布でつつんであつても、大きな量塊の感じが強く出ていて、今でもそれが印象にのこつている。

「有島」は有島生馬、「山下」は山下新太郎です。展覧会でせっかく姿を見かけたロダンにも声をかけずじまい。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあったのですが、それよりも「自分はまだ何者でもない」という気後れのようなものが先に立っていたのではないでしょうか。

もう1件、過日、ちらっとご紹介した岡山出身の詩人・永瀬清子のからみで、『毎日新聞』さんの岡山版から。

 日々の暮らし つむぐ言葉 赤磐出身の詩人、永瀬清子 来月17日 無料朗読会 ピアノの弾き語りも /岡山

012 岡山県赤磐市は、市出身の詩人で「現代詩の母」ともいわれる永瀬清子(1906~95年)を広く知ってもらおうと2月17日、市くまやまふれあいセンター(同市松木)で朗読会「永瀬清子の詩の世界~貴方がたの島へ」を開く。
 永瀬は2歳までを現赤磐市で、その後は父親の転勤や結婚のため金沢や名古屋、東京で過ごした。学生時代に始めた詩作は結婚後も続け、昭和初期には高村光太郎や宮本百合子らに認められるなど、当時随一の女性詩人の一人となった。
 45年、戦況の悪化に伴い帰郷し、農業をしながら結婚生活や子育て、古里を詩に詠んだ。後進の指導にも情熱を傾けた。
 朗読会は赤磐市が毎年、永瀬の誕生日で命日でもある2月17日前後に開いている。副題「貴方がたの島へ」は、岡山県瀬戸内市・長島にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に通い、約40年間にわたって詩を指導した永瀬が入所者への思いをつづった詩の題名。
 当日は市民による詩の朗読などのほか、シンガー・ソングライターの沢知恵(ともえ)さん(52)による「永瀬清子とハンセン病療養所」と題したピアノの弾き語りコンサートもある。
 沢さんは音楽活動の傍ら、永瀬と同じように長年、瀬戸内のハンセン病療養所に通っている。2014年に岡山市に移住し、岡山大大学院でハンセン病療養所の音楽文化を研究した。永瀬の詩に曲をつけた楽曲や、ハンセン病患者の隔離の歴史に関する著書もある。 主催者の一つで「赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会」の担当者は「多感な青春時代、結婚の戸惑い、子育ての悩みなどそれぞれの人生のステージで、自分の気持ちを代弁してくれているように感じられる永瀬の詩の魅力を知って欲しい」と話している。
 午後1時半~4時。入場無料だが、事前申し込みが必要(先着順)。問い合わせ・申し込みは市教委熊山分室(086・995・1360)


いつもながらに赤磐市さんの永瀬清子顕彰の取り組みには頭が下がります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今胡瓜が伸びるさかり、ゑん豆、いんげんは実をつけ、トマトは蕾、茄子も蕾、南瓜は成長の途中、葱は仮植、稗は雑草のやうに繁つてゐます。時無大根や山東菜などは既に賞味、とりたての美味に感嘆しました。ジヤガが秋にどの位とれるかたのしみです。


昭和21年(1946)7月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住し、生まれて初めて取り組んだ農作業も、そこそこ成果を上げているようです。行き当たりばったりや思いつきなどではなく、文献等でしっかり研究し、さらに村民に謙虚に教えを請うてちゃんと計画を立てるという姿勢が成功の要因でした。数年後に近くの開拓地に入植した元軍人はまったくの我流を押し通そうとし、村人の忠告に一切耳を傾けず、結局、うまくいかずに撤退しました。

当時の光太郎が書いた「農事メモ」というノートが残っています。
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過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。毎月15日の限定販売で、メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。

今月15日分がこちら。
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小豆飯、ゆかりご飯、ブリの醤油麹焼き、豚肉のトマトケチャップ炒め、キャベツの煮浸し、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、干し柿入り甘酒ゼリー、大根の漬物だそうです。今月はご飯が2種類でボリューミーですね。しっかりデザートもついています。

もう1件、全く別件です。

昨年11月2日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事としまして、同題の市民講座を当方が致しました。その動画が今月いっぱいYouTube上に上げられるそうです。
無題
会期中にあがるのかな、と思っていたのですが、このタイミングでの公開。まぁ担当各所もいろいろお忙しいと存じますので、いたしかたありますまい。

当方としては自分がべしゃっくっている動画はあまり見たくないのですが、テロップを付けていただき、誤字脱字等ないか確認してくれということでしたので拝見しました。もうちょっとしっかりしゃべれよ、という感じです。

三本に分割されています。リンクを貼り付けておきますのでよろしくお願い申し上げます。
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」①
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」②
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」③

【折々のことば・光太郎】

里から此の小屋に来るまでの道路に熊の出るやうな所はありませんが、小屋のあるところよりも奥へゆくと出るやうです。去秋茸取りの人達が逃げて帰つてきた事があります。小生猟師から熊膽を求めました。


昭和21年(1946)5月6日 喜田聿衛宛書簡より 光太郎64歳

昨年の花巻は熊の出没がものすごく、市街地でもたびたび目撃情報がありました。当方もレンタカー運転中にちらっと見かけたような気がしています。先週は隣接する北上市のショッピングセンターに冬眠しそこねたと思われる子熊が侵入とのことで、ニュースになりました。

花巻郊外旧太田村の山小屋付近、現在も熊が生息していますが、かえって光太郎がいた頃はあまり里には降りてこなかったようです。この頃の方が共存が図れていたということなのでしょうか。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが、花巻高村光太郎記念館さんで始まった展示です。

小学生紙絵作品展

期 日 : 2023年12月20日(水)~1月21日(土)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(木)~1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金
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8月に行われた「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」で制作された、花巻市内の小学校児童の皆さんによる紙絵の展示です。

市役所の方から展示風景の画像を頂きました。
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10月に智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第28回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」と連動しての企画でした。
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展示作品のほとんどはそちらに応募されたそうです。そのうち、上の画像3枚目の右下、「きつね」の紙絵が入賞していました。
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光太郎記念館の周辺など普通にキツネが歩いており、おそらく実物を見た記憶で作られたものでしょう。下の画像は今年の2月、当方が記念館近くで撮ったキツネの足跡です。
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光太郎も書簡に記していました。
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10月に二本松で入賞作品展があり、その後、作品が返却されて花巻で展示、というわけですね。二本松での展示風景はこちら。
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こういった企画を含め、さらに花巻市さんと二本松市さん、光太郎智恵子つながりでのさまざまな交流がさらになされていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の干柿の小包昨日到着、感謝いたします。小包の板箱二つに割れて届きましたが中身は傷ついて居りません。多分原型のままと存じます。早速賞味いたしましたが、お言葉の通り、自然の甘味無類にて、此の醇乎たる味の美は名状し難い高さがあります、


昭和21年(1946)1月22日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

三輪吉次郎は山形在住だった詩人。当方、以前に光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)内部に入れていただいた際、三輪から送られた木箱を目にしました。ラベルが貼ってあり、三輪の名が記されていたのです。この時のものか、その後も同様に食料などを送った際のものかは判然としませんでしたが。現在もそのまま山荘内部にあると思われます。

6月に発行された書籍です。少し前に手に入れていたのですが、紹介するタイミングを失っていました。

賢治学+(プラス)【第3集】

2023年6月20日 岩手大学人文社会学部 宮沢賢治いわてセンター編 杜陵高速印刷出版部刊
定価1,800円+税

平素は「岩手大学 人文社会科学部 宮沢賢治いわて学センター」の活動へのご理解・ご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございます。当センターの第2回シンポジウムなどを特集した『賢治学+(プラス)』第3集が刊行されました。ご高覧いただければ幸いです。
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目次
《巻頭言》横山英信「『賢治学+(プラス)』第三集に寄せて」
《特集「盛岡藩の言論と出版」》
 〈報告〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム
「盛岡藩の言論と出版」(木村直弘)
 〈総評〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」(脇野 博)
 講演①「直訴と目安箱からみる盛岡藩政――南部利済の時代に注目して――」(兼平賢治) 
 講演②「盛岡藩における出版事業――盛岡・花巻・遠野――」(中村安宏)
 シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」
 〈ディスカッション〉(司会:脇野 博、シンポジスト:兼平賢治、中村安宏)
《岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会より》
 髙橋 愛「文学ツーリズムとその可能性」
 朴 鍾振「韓国における賢治絵本翻訳の展開――
ヨユーダン出版社の〈宮沢賢治コレクション〉――」 
 桑原尚子「国際開発・国際協力からみた宮沢賢治――
「農民芸術概論綱要」から読み解く――」
 中里まき子+エリック・ブノワ
  講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:
『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」 
 岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会のこれまで
《フォーラム「賢治学」》
〈エッセイ〉
 谷口義明「天文学者、宮沢賢治と遊ぶ――椀コの謎――」
 金野吉晃「賢治随想」
〈論文〉
 大野眞男「『春と修羅』第一集における括弧表現と語りの複層的構造に関する一試論」
 大沢正善「「風野又三郎」と『新編農業気象学』――宮沢賢治の高層気象学――」
 小松田儀貞「宮沢賢治の〈芸術〉――賢治という薬あるいは毒――」
 瀬川愛美「宮澤賢治のオノマトペとフランス語訳――
「なめとこ山の熊」と Les Ours de la Montagne Nametoko──」 
 木村直弘「デクノボーとしてのゴーシュ――愚者が智者となる〈革命〉をめぐって――」
《フォーラム「いわて学」》
〈エッセイ〉
 佐藤竜一「自転車を乗り回した漢学者・那珂通世――夏目漱石との接点をめぐって――」
 船場ひさお「岩手と横浜をつなぐ」
 前田千香子「公園林としての気仙茶の木々」
 寺崎 巖「いわてフィルハーモニー・オーケストラ」
〈論文〉
 家井美千子「岩手大学図書館蔵『十和田山本地由来記』テキストの特徴」
〈編集後記〉 (木村直弘)

昨年の12月22日に開催された「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」の記録中の、同大教授・中里まき子氏とボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏による講演「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」が収められています。「『智恵子抄』仏訳」は、一昨年、フランスのボルドー大学さんから出版された中里氏、ブノワ氏訳の『Poèmes à Chieko』です。
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同書、新潮文庫版『智恵子抄』を底本としていますので、多くの詩篇が訳されていますが、特に「レモン哀歌」(昭和14年=1939)について詳述されています。宮沢賢治いわて学センターさんでのご講演ということもあったのでしょうが、賢治の「永訣の朝」との類似性などが述べられています。光太郎は妻・智恵子、賢治は妹・トシと、それぞれ最愛といえる女性に先立たれ、おのおのの死の瞬間を謳い、そしてその間際に智恵子は「レモン」、トシは「あめゆじゆ」を口にし……。

こうした点は諸家によって夙に指摘されてきたことですが、さらにフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユの日記が比較対象として挙げられています。バタイユは明治30年(1897)の生まれで、光太郎より14歳下、賢治とは一つ違い、同世代ですね。バタイユは智恵子が亡くなった同じ昭和13年(1938)、恋人のコレット・ペニョ(通称・ロール)を奇しくも智恵子・トシと同じく結核で亡くしています。そしてロールはその死の間際、智恵子の「レモン」、トシの「あめゆじゆ」と同じように、バタイユから受けとった薔薇の花を、まぁ当然食べはしませんでしたが、口づけをして……というわけで。

ついでに言うなら、ロールは智恵子同様に心の病でもあったようですが、バタイユ曰く「私が薔薇を手渡すと、彼女は異常な状態を抜け出して私に微笑み、はっきりと最後の言葉を述べた。「美しいわ」と言った」。レモンをがりりと噛んだ智恵子は「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つ」しただけで言葉は発しませんでしたが、トシは賢治詩「松の針」によれば「ああいい さつぱりした まるで林のながさ来たよだ」とつぶやいたそうで、このあたりの洋の東西を問わない類似性には驚かされました。

それ以外の部分でも、「智恵子抄」中の「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)と、戦後の『智恵子抄その後』に収められた「案内」(昭和24年=1949)との比較。「樹下の二人」は智恵子が光太郎に故郷・二本松をガイドするというシチュエーションが謳われていますが、「案内」では、光太郎が亡き智恵子に花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)周辺を紹介するという、主客の逆転といった点について述べられています。なるほど、と思いました。

Amazonさん等で入手可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

当地は雪がふかく三尺平均位になり、歩行困難な次第です。寒気も相当で万年筆も使用中に凍ります。幸ひ燃料があるので助かります。


昭和21年(1946)1月11日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなるという太田村の山小屋。書いている最中の万年筆のインクまで凍りました。

光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)にほど近い道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんの商品で、光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジしています。

今年最後の販売が12月15日(金)。メニューの考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「青豆入り麦飯」、「白六穀御飯」、「牛かつ」、「里芋とイカの煮付け」、「大根のバター炒め」、「キャベツの甘酢和え」、「チョコレートムースとりんご」、「塩麹入り卵焼き」、「お新香」。彩り的にも何となくクリスマスっぽい感じですね。

作りたてが味わえて、このボリュームで800円。さまざまな物品等の価格高騰の折、予算内におさめるのがなかなかに大変なようです。おそらく地産地消的な部分で食材の仕入れ価格も都会よりは安く抑えられるから可能なのでしょう。

概ねすぐに完売するそうですが、来年以降も愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

何と申上げてよいか分からぬやうな新年がまゐりましたが、ともかくも無事に越年して新春を迎へた事はやはりうれしい気がいたします 謹んで御慶申納めます。今年こそ最悪の年だらうと言はれてゐますがどうか国民が間違を起さずにそれを乗り切つてくれるやうにと思つて居ります。


昭和21年(1946)1月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

前年の敗戦から4ヶ月。新しい年がやってきましたが、GHQの占領方針なども一般国民には不透明な中、この国は何処に向かうのだろうという不安を抱えての新年スタートでした。

もうすぐ令和6年となりますが、違った意味でこの国は何処に向かうのだろうという不安を感じざるを得ないこの年末です。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で光太郎顕彰活動にあたられているやつかの森LLCさん。同市土沢にあるレストラン・ワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」としておおむね月に一度出店なさっています。一般の皆さんが店の調理場を借りてランチを作り、それを販売するというシステムなので「ワンデイシェフ」というわけです。

11月28日(火)に「こうたろうカフェ」出店があったということで、画像等送っていただきました。
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光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、光太郎に親しんでもらおうという取り組みです。

今回のメニューは下記画像の通り。
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「新米ご飯」、「キャッシュトースト」、「鮭のムニエル」、「野菜畑のローストチキンテリーヌ」、「ごぼうチップス」、「ミネストローヌスープ」、「シュークルート風浅漬け」、デザートに「焼き林檎のアイスクリーム添え」(林檎は光太郎の暮らした山小屋近くの林檎園のもの)、「アメリカンコーヒー」だそうで、いつもながらバラエティーに富んでいますね。早めのクリスマスバージョンというコンセプトだそうです。

予約ががっつり入り、過去最高の42食、スタッフ分を併せて51食分を作られたとのこと。今年は鮭が不漁ということで、中々手に入るめどが立たず苦労なさったそうでした。

いつも書いていますが、「食」へのこだわりも一方ならぬものがあった光太郎、その方面からのアプローチも大切なことです。

現地ではこれから雪深い季節となるため、「こうたろうカフェ」としての出店はしばらくお休み、次回は3月だそうです。その間にこれまで(5月から計7回行われたそうで)の検証と今後のメニュー作りに当たられるとのことですが、もう予約が入っているそうで、盛況ぶりが何よりです。

再開後のさらなる飛躍を期待します。

【折々のことば・光太郎】

太田村には今小屋が建ちつつあります。うしろに山を負ひ、前に山清水がわき、畑と林とに囲まれたところ。開墾が楽しみです。明日又検分にゆきます。人情実に純朴。ほんとの日本の山村です。稗とおジヤガを主食として小生もやります。山羊を飼つて栄養と肥料をとります。山には兎が多く、これから茸で一ぱいのやうです。


昭和20年(1945)9月15日 小盛盛宛書簡より 光太郎63歳

約1ヶ月後の10月17日に太田村に移り、しばらく山口分教場の宿直室に寝泊まりしながら小屋の造作を整え、独居生活を始めます。

山羊を飼ったり兎を捕ったりということは実現しませんでしたが、野菜類の自給自足(ほぼ、ですが)、茸や山菜などの採集は実際に行われました。

道の駅はなまき西南愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは「アマランサスご飯」「大根餅」「牛すき煮」「魚のムニエル」「白菜と菊花のお浸し」「キャベツのオイスターソース炒め」「りんご入りさつまいも巾着」「塩麹入り卵焼き」「お新香」。ちゃんと栄養バランスも考えた上で、いい感じの品々が詰め合わさっています。

やつかの森LLCさん、これ以外の活動として、不定期に(おおむね月イチで)花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店なさっていますが、今月は1週間後の11月28日(火)だそうです。

「食」からの光太郎へのアプローチ、これもまた一つの方法ですね。光太郎自身、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。

そちらもこんな料理を饗しましたというご報告を頂きましたらご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の詩集について左の通り略定めました。 ○書名 詩集「花と実と」(或は「花と実」) ○頁数 十二行詰六〇頁程 ○篇数 三〇篇ほど ○内容 草木の花、果実、蔬菜、穀類などを短章の詩にうたひたり。日本の山野に取材せるもの多し。

昭和20年(1945)7月4日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎63歳

終戦直前のこの時期、こんな詩集を出すことを構想していました。戦争の敗色濃厚ということもあり、もはや翼賛詩は阿呆らしくて書けないという感じだったかも知れません。「果実、蔬菜、穀類など」を謳うとのことでしたが、この後の花巻空襲、終戦の玉音放送、花巻郊外旧太田村への移住などのバタバタで、結局この詩集の計画は頓挫しました。入れる予定だった詩篇は断片的に残ってはいますが。

これが実現していたら、「光太郎ランチ」「こうたろうカフェ」などのよいネタになったことでしょう。

いただきものの書籍と雑誌をご紹介します。

まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。

永瀬清子詩集

2023年10月13日 永瀬清子著 谷川俊太郎選 岩波書店(岩波文庫) 定価1,050円+税

女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。

妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)

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目次
 はしがき(谷川俊太郎)無題
 [詩]
  『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『大いなる樹木』――(桜井書店、一九四七)より
  『美しい国』――(爐書房、一九四八)より
  『焰について』――(千代田書院、一九五〇)より
  『山上の死者』――(日本未来派発行所、一九五四)より
  『薔薇詩集』――(的場書房、一九五八)より
  『永瀬清子詩集』――(昭森社、一九六九)より
  『海は陸へと』――(思潮社、一九七二)より
  『続 永瀬清子詩集』――(思潮社、一九八二)より
  『あけがたにくる人よ』――(思潮社、一九八七)より
  『卑弥呼よ 卑弥呼』――(手帖舎、一九九〇)より
 [短章ほか]
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『女詩人の手帖』――(日本文教出版、一九五二)より
  『蝶のめいてい 短章集1』――(思潮社、一九七七)より
  『流れる髪 短章集2』――(思潮社、一九七七)より
  『焰に薪を 短章集3』――(思潮社、一九八〇)より
  『彩りの雲 短章集4』――(思潮社、一九八四)より
 渦巻の川――わが詩作の五十年(永瀬清子)
 《対談》やさしさを教えてほしい(永瀬清子・谷川俊太郎)
 《研究ノート》(白根直子)
 永瀬清子自筆年譜

先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。

永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。

永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。

残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。

特に「へー」と思ったのが、こちら。

 高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。


おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。

 高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。

その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。

ぜひお買い求め下さい。

紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。

門 ⅩⅦ

2023年8月24日 岩手県立花巻南高等学校文芸部
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目次(抄)
 特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
  座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
  文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ 
   ――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
        兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
  コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
 特集Ⅱ 聖地開演
  一幕 「こども本の森遠野」
  二幕 「高村光太郎記念館」
 随筆
 詩
 小説
 短歌
 戯曲
 花南文芸部活動録
 編集後記


賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。

で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。

特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。

他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。

そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。

若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。

ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。

この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。

昭和20年(1945)7月3日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎63歳

智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。

この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

10月31日(火)~11月2日(木)、2泊3日で花巻に行っておりました。レポートいたします。

10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
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同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
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設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
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今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
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11月2日(木)には、レンタカーで北上川にかかる朝日大橋を渡っている最中、ふと河岸を見ると何やら黒い塊。もしかすると熊だったかも知れません。市役所さんのホームページには11月1日(水)にその場所で目撃情報があったと記されていました。くわばら、くわばら(死語ですが)。

同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
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例によって説明パネルを書かせていただきました。
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吉田が雑誌『婦人之友』との関わりも深いということで、同誌の誌面を拡大したパネル、スコーレ高校さん所蔵の古写真なども。
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光太郎が同校に勧め、現在も続くホームスパンとぶどうジュースに関する展示。
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そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
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光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
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右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。

そして一番驚いたのがこちら。
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開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。

5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。

拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
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そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
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チェックイン後、再び市街へ出て、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の打ち合わせを兼ね、主催者の太田地区振興会、共催のやつかの森LLCの方々、そしてメインパネラーにして宮沢賢治令弟、故・清六氏令孫の宮沢和樹氏と会食。

翌朝、時間がありましたので、大沢温泉さん内のギャラリー茅(旧菊水館)で開催中の「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」を拝見。
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4月に続き、2回目です。

さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
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渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
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イーハトーブセンターさんに到着。
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勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。

二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
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第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
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皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。

本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。

太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。しかし昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡に、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあります。また、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた詩人の竹内てるよや、浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。しかし、現物は確認出来ていません。

その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。

そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
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翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
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この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
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約1時間半、光太郎と吉田、さらに『婦人之友』について、スライドショーを使いつつ話しました。近いうちにYouTubeに動画が上がると存じます。

終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。

そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

実に充実した3日間でした。

企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。


昭和20年(1945)2月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
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画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。

2泊3日、予定は全てこなし、帰りの新幹線🚄に乗り込みました。

昨日は宮沢賢治イーハトーブセンターさんで「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めました。
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今日は花巻高村光太郎記念館さんで
開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事として同題の市民講座講師を務めました。
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どちらもつつがなく終えることができました。

すみません。決まり文句ですが、詳しくは帰りましてからレポート致します。




昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
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今日、宮沢賢治イーハトーブセンターさんで、シンポジウム的な「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めさせていただきます。

昨日はその会場設営をちらっとお手伝い。
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その後、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄り、開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」を拝見。
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明日はこちらで関連行事としての市民講座講師を仰せつかっております。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)。いい感じに紅葉が始まっています。
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宿泊は定宿とさせていただいている大沢温泉自炊部さん。
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詳しくは帰りましてからレポート致します。



光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。活動報告をお送り下さいまして、そこからご紹介させていただきます。

グルメ系で、花巻市土沢地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さんでの取り組み。同店は一般の皆さんが店の調理場を借りてランチを作り、それを販売するというシステムです。やつかの森LLCさんでも、不定期ながらおおむね月に一度、「こうたろうカフェ」としてランチをご提供。

一昨日が「こうたろうカフェ」で、その画像等が届きました。
メニュー看板
メニュー表 (2)
本日のランチ
香茸おこわ、鶏もも肉 リンゴのソテー
ハムのトッピング
洗い場基本的には、日記等から読み取れる、光太郎が自分で作ったメニューや使った食材などを現代風にアレンジして、ということですが、かなり本格的ですね。メニューは画像にもありますが、文字起こししますと、以下の通り。

 ・香茸おこわ
 ・ピザトースト
 ・鶏もも肉のマスタード焼き
 ・青菜のエチュベ
 ・しめじの菊花和え
 ・赤ささげ豆煮
 ・南瓜の野菜スープ
 ・お新香
 ・栗入り小豆寒天
 ・アメリカンコーヒー


季節感もたっぷりです。

以下、画像が添えられていたメール本文からコピペ。

・鶏もも肉のマスタード焼き 粒マスタードに蜂蜜を入れてます。
・付け合わせは、マカロニポテトサラダ、ハムのせ
・りんごは、バターで焼くと甘くなっておいしいです。
・青菜のエチュベは、ほうれん草、小松菜、豆苗、キャベツのバター味の蒸し煮です。
・バターナッツカボチャは、スープに合います。サツマイモ、玉ネギ、ササゲ、ベーコンなど具沢山です。
・香茸おこわは、香りが良くて、初めの方も沢山いらっしゃいました。
・煮豆は、程よい甘味に仕上げてます。
・シメジの和え物は、和風だしで菊花の食感と香りを楽しみます。
・ピザトーストは、アンチョビソースをベースにして、パプリカと紫玉葱のスライス、こんがりチーズの上に塩ゆでしたむきエビをのせて焼きました。
・仕上げにイタリアンパセリを添えます。
・デザートは、ほんのり甘く煮た栗をあずき寒天に閉じ込めました。コーヒーに合います。
・太田産の食材を使い、秋を満喫していただければ幸いです。お腹いっぱいのこうたろうカフェのランチでした!

「太田」は光太郎が7年間暮らした旧太田村(現・花巻市太田)です。

驚いたのは、平日昼間にもかかわらず、用意した32食分があっという間に完売とのこと。大都会、あるいは地方でも有名観光地とか利便性の良い商業施設内とかならいざ知らず、失礼ながら、そういう場所ではありません。「こういうことを始めます」とお知らせを頂いた今春、これまた失礼ながら「あんな立地のところで成り立つんだろうか?」と心配したのですが、杞憂に終わったようです。常連さんもついたそうですし。

それもこれも料理のおいしさ、さらに価格の点(ワンデイシェフの大食堂さんの共通取りきめで1,000円)もあるのでしょう。

もう1件、やつかの森LLCさんの活動。「出前講座」だそうです。

花巻市では、各種市民団体や、おそらく学校さんや企業さんなど、講座を受けたいという場合に「この人の、あるいはこのグループのこういう講座を開いてほしい」と要望を出せば、それが実現するというシステムがあるそうで、それが「出前講座」です。

依頼主はどういう団体か当方は存じませんが「わかくさ新緑の会」という方々だそうで、テーマは「高村光太郎のハイカラ料理を知ろう」とのこと。

調理法の講座というわけではなく、料理はあらかじめ、やつかの森LLCさんと以前にもコラボなさった盛岡郊外の紫波郡矢巾町にあるTOM CREPERIE&DELIさんがご用意。

メニュー
トム特製ランチ
やつかの森LLCさんは、寸劇の形で旧太田村時代の光太郎をご紹介なさったそうです。
勝治先生と吉田幾世
洗い場 洗い場
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郵便荷物届ける女先生
洗い場 洗い場
現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」にもからめて下さったそうです。

バイタリティー溢れる各方面でのご活動、頭が下がりますし、光太郎の世界をご紹介下さり、有り難く存じます。偉人の顕彰といっても、何も小難しい文章を書いたり何だりではなく、こういう切り口も大いにありだな、と存じます。全国の各種顕彰活動に携わる皆さん、御参考までに。

【折々のことば・光太郎】

八木重吉さんの詩集決定版のやうなものがあなたの手で編まれ、書物展望社から出る運びとなられた由、およろこび申上げます、題字も書きませう、お示しのどちらの題名がよいか小生も迷ひます、

昭和18年(1943)12月27日 八木登美子宛書簡より 光太郎61歳

八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されましたが、誤植等が多く、改めて登美子の編集による決定版詩集の刊行が企図されました。

登美子はその題字揮毫を光太郎に依頼し、それに対する返答です。この時登美子が題名の候補として挙げたのが「麗日」「花がふつてくるとおもふ」。それぞれ重吉の詩の題名ですが、どちらかを詩集の題名にも使おう、というわけでした。

光太郎は二種類とも揮毫し、登美子に送りましたが、やはり戦時中ということもあり、個人での出版は不可能で、光太郎の揮毫はお蔵入りとなりました。現物は神奈川近代文学館さんに収蔵されています。

岩手から市民講座の案内です。手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業「続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」

期 日 : 2023年11月1日(水)
会 場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 ホール 岩手県花巻市高松1-1-1
時 間 : 14:00~16:30
料 金 : 無料
      ※ 先着200名限定、満席となり次第入場不可 整理券の発行は行いません。

花巻市太田・山口での7年間の生活について、見た事、伝え聞いた事について語り合いながら、光太郎の生き様について紐解いてみる。
第一部は太田地区の皆さんから、第二部は地域外の方々から光太郎観について伺いながら、光太郎ファンの幅広い拡大につなげる。

メインパネラー
 宮沢和樹氏 「林風舎」代表取締役 賢治実弟・宮沢清六令孫

パネラー 
 浅沼隆氏  高村光太郎記念会理事 太田の高村山荘近くに居住 花巻農学校卒
 寺沢三夫氏 花巻地方農業共済組合総代並びに総代長を歴任
 照井康徳氏 高村光太郎山口会会長 花巻農学校卒
 阿部彌之氏 「宮沢賢治」花巻市民の会元会長 「宮沢賢治学会」元副代表
 菊池節子氏 俳句結社「藍生」「樹氷」会員
 森川沙紀氏 花巻市地域おこし協力隊員

コーディネーター
 小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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主催は、かつて光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん。今年2月、やはり同会主催で行われた宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」が好評だったとのことで、第二弾です。

今回は生前の光太郎をご存じの方々などにお集まりいただき、いろいろと語っていただきます。当方はコーディネーターということで、皆様からお話を引き出す役です。

今回もご登壇いただく浅沼隆氏を含め、やはり生前の光太郎の思い出を語って貰う座談会が、平成30年(2018)5月、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で当時行われていた「高村祭」の中で催されまして、司会を務めさせていただきました。
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その際にお話を伺った高橋愛子さん高橋征一さんは既に亡くなられました。

それからつい最近、今回のパネラー候補のお一人だった平賀タエさんという方が亡くなったそうです。平賀さんは、愛子さんと同級。御年91歳であらせられました。光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎の長女で、光太郎の日記にも「たえ子」として30回近く名が出て来る方でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、11月1日(水)、平日昼間ですが、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。現在、会場の宮沢賢治イーハトーブ館さんでは賢治がらみで「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」も開催中です。併せてどうぞ。
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また、翌日の11月2日(木)には、現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事として、同館で当方ピンでの同名の講座も予定されています。というわけで、当方2日連続です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

辻詩の集といふのは小生まだ見ませんが、へんな誤植のあつた事はほんとにお気の毒に存じます、詩の誤植は殊に閉口にて殆ど全篇を傷ける事になります、小生なども常に新聞雑誌でこの誤植になやまされて居ります。


昭和18年(1943)11月10日 上田静栄宛書簡より 光太郎61歳

007「辻詩の集」は『辻詩集』。光太郎が詩部会長となった日本文学報国会の編集で刊行されたアンソロジーで、多くの詩人の翼賛詩が集められました。なぜかこの手のアンソロジーには必ずと言っていいほど採られている光太郎の作は載っていませんが。

誤植は本当に恐ろしいと思います。

当方も最近、よくやります。上述の「光太郎と吉田幾世」講座のレジュメ、花巻市役所さんに送ったところ指摘があり、「地方」を「痴呆」としていました(笑)。「痴呆はお前だ!」とツッコミが入りそうです(笑)。

また、過日発行した『光太郎資料』60集でも、「当会」とすべきところを「倒壊」(これもなかなか笑えます)、「特異な」が「得意な」(こちらは「あるある」ですが)。これも指摘されて初めて気づいた有様で……。一応、それぞれプリントアウトして確認しているのですが、ふっと集中力の途切れた時に視線がそこを通り過ぎると、見落とすのですね。そうでなければ「痴呆」や「倒壊」はありえません。気をつけます。

月に一度はネタを提供していたけだるので、非常に助かっております(笑)。光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に近い、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで毎月15日に限定販売される「光太郎ランチ」、今月分の画像等が届きました。
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003毎月、かつて光太郎が自分で作った料理や、使った食材などを現代風にアレンジして、構成されています。

今月のメニューは以下の通り。

 ・ サツマイモご飯
 ・ 新米ご飯
 ・ 焼き鮭松茸添え
 ・ 蛸と里芋煮
 ・ 風呂吹き大根
 ・ 大根葉の塩昆布和え
 ・ キノコソテー
 ・ 塩麹入り卵焼き
 ・ お新香
 ・ リンゴ

何と、松茸が使われています。今年は夏の暑さとその後の残暑で、キノコ類全般が不作だとのことですが……。

リンゴも今秋収穫されたものなのでしょう。リンゴ中毒の当方としては(笑)、早く岩手の新リンゴを食べたいものです。
 
令和2年(2020)の10月15日に「光太郎ランチ」販売が始まりましたので、丸3年が終わり、4年目に突入したわけですね。末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今度僕の家の隣に八百屋さんが開業しました、これで大いに助かります。ついでに肴屋さんと肉屋さんでも出来ればいいと思つてゐます、 外食券のお礼その他一筆

昭和17年(1942)4月11日 風間光作宛書簡より 光太郎60歳

東京の食糧事情、まだ新規に開店する店舗があるくらいには余裕があったのですね。

「外食券」は、単身の勤め人など自炊をあまりしない者に米の配給の代わりとして配付された券です。これを持って「外食券食堂」に行けば、外食が出来たというわけです。この書簡は風間から外食券を貰った礼状です。

この時期の光太郎に「光太郎ランチ」を饗したら、あまりの豪華さに目を回したでしょう(笑)。

文藝春秋さん発行の月刊文芸誌「文學界」。同社の公式サイトにはまだ情報が出ていませんが、最新の2023年11月号、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏による連載「煽情の考古学」が「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」となっています。
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同連載、日本各地、さらには海外まで含め、戦争遺跡などを実地に歩かれてのレポート。今号で第22回だそうです。

「高村光太郎の戦争詩碑」は、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑です。

以前にも書きましたが、詩「一億の号泣」は、終戦二日後の昭和20年(1945)8月17日、『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されたもので、8月15日の玉音放送を鳥谷崎神社社務所で聴いた時の感懐を謳ったものです。
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  一億の号泣

 綸言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来(きた)る
 玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
 五体わななきてとどめあへず
 玉音ひびき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく
 宸極に向つてひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

戦時中の翼賛詩の流れを汲み、文語体。敗けた悔しさが滲み出ています。

この詩を刻んだ石碑、光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会が光太郎自筆揮毫を石に刻み、鳥谷崎神社に建立しました。ところがその建立を巡っては、すったもんだがいろいろありました。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・豊周は、一度はこの碑の建立を許可したのですが、当会の祖・草野心平が「この詩はマズい」。すると豊周も「なるほど、その通りだ」。ところが観光協会では既に碑を作ってしまった後でした。結局、碑は正式に除幕されることなく、昭和39年(1964)には一旦撤去され、神社の床下に格納されました。ゴタゴタがあった中で、碑文を削り、碑ではなくすという案もあったようですが、そうはなりませんでした。

ところがどうしたわけか、昭和57年(1982)頃に床下から出され、再び建立されました。豊周が没したのは昭和47年(1972)、心平は同63年(1988)。無関係ではないような気もします。

「煽情の考古学」では、この碑を巡る経緯、さらには福島二本松の智恵子記念館レポートも。そうした中で、「光太郎の屈折」として、翼賛詩を巡る問題を提起しています。

ちなみに大沢温泉山水閣さんには、宮沢賢治や光太郎などに関わる展示コーナーがあり、この碑の拓本も展示されています。
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ところで、豊周はこの詩を巡り、興味深い回想を残しています。長野県に疎開していた終戦前日のことです。

 八月十四日のこと、座敷で寝ころんでいると、朝日新聞の長野支局から記者が訪ねて来た。私に何の用があって来たのかさっぱりわからないので「何の用か」と聞くと、「実はまだ絶対秘密なのだが戦争が終る」と言うのだ。
 「明日の昼、天皇陛下がラジオの放送でそのことを国民にお告げになることになった。」
 私は本当にびっくりして飛び起きた。
 「それで先生に明後日の新聞に詩を書いてもらいたいのです。」
 おかしいなと私は思ったが先方は、
 「一億号泣という詩を作ってもらいたい、明後日の新聞に出すから、すぐ作って渡してもらえないでしょうか。」
 兄と私を間違えたらしい。
 「俺は高村光太郎じゃないよ。光太郎の弟だよ。」
 「えっ、光太郎先生じゃないんですか。これは困ったな。光太郎先生は何処に居るんです。すぐ行って来ます。」
 「いや、ここにはいないんだ。すぐ行くと言ってもちょっくら行かれはしないよ。」
 「何処なんです。」
 「岩手県の花巻の在にいるよ。」
 記者は慌てて帰って行ったが、さすがは新聞社で、その日のうちに兄に通じて、どうやら用は間に合ったらしい。兄としても考える時間もないし、非常に迷惑千万なことだったろうと思う。しかし戦争の詩といえば高村光太郎と決っていたから、最後のお務めと思って、曲がりなりにも詩を作って間に合わせたものだろう。だが、光太郎の詩としては決していいものでなく、私は好きでない。のみならずその詩が後で攻撃の材料になり、兄も自分で不覚を感じていた。

(『自画像』昭和43年=1968 中央公論美術出版)

おおむねこの通りだったのでしょう。新聞社の方で既に「一億号泣」というタイトルまで指定していたとは驚きでしたが。

光太郎自身は、のちに昭和23年(1948)、戦後の一時期住まわせてもらった佐藤隆房に宛てた書簡にこう記しています。

あの時は一途の心から一億の号泣と書きましたが、其後の国民の行動を見てゐますと、あの時涙をしんに流したものが果して一億の幾パーセントあつたのか、甚だこれは小生の思ひ過ごしであつたやうに感ぜられます。

鳥谷崎神社に行かれる方、あくまで「負の遺産」として、この碑を見ていただきたいと存じます。

というわけで、『文學界』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十二月八日以来たてつづけにいろいろの当面の用事に従つて居りますにつけ、ますますわれわれが美の内面世界を深く探り進まねばならぬ事を痛感します、われわれ東方の美をどういふ風に世界像として造型すべきか、猛然とした気持になります、


昭和16年(1941)12月22日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎59歳

ひるがえって開戦直後には、このような感懐を抱いていました。

ともに光太郎とゆかりの青森県十和田市と岩手県花巻市、30年程前から友好都市の協定を結んでいます。

そもそもは光太郎ではなく、新渡戸一族の縁だそうです。現在の十和田市中心街となっている三本木地区は元々は川が通っておらず、不毛の原野でした。そこで江戸時代の文政年間、花巻出身で盛岡藩士だった新渡戸傳(つとう)が、十和田湖を源流とする奥入瀬川から水を引いて人口の河川・稲生川を作る工事に着手しました。傳は旧5,000円札の肖像だった新渡戸稲造の祖父に当たります。灌漑工事は明治まで続き、稲造の父・十次郎、兄・七郎の三代が関わり、十和田市には三人の銅像も建てられています。作者は光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作時に光太郎の助手を務めた、青森野辺地町出身の小坂圭二でした。
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そういうわけで、両市の交流事業がこれまでもいろいろありました。

さらに来月、十和田市から花巻市への探訪ツアーが開催されます。『広報とわだ』の先月号から。
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花巻高村光太郎記念館、隣接する高村山荘さんも行程に入っています。ありがたし。若干先の話ですが、申し込みが10月13日(金)までとのことで……。

調べてみましたところ、昨年のこの時期にあった同じツアーでも記念館・山荘を訪れて下さっていました。記念館には「乙女の像」の中型試作なども展示されており、その意味ではインパクトがあったということでしょうか。今年もご訪問下さいます。
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また、遡って令和元年(平成31年)には、友好都市協定締結30周年の記念イベント等もあったとのこと。
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逆に花巻市から十和田市への訪問市民ツアーは、10月21日(土)。ただ、「乙女の像」やそれに関わる展示が為されている観光交流センター「ぷらっと」のある十和田湖には行かれないようですが。

今後はもう少し光太郎を前面に押し出しての友好都市交流が為されるとありがたいところです。そうしますと、他にも光太郎智恵子所縁の自治体さんはいろいろあるわけで、各地を結んで「光太郎智恵子サミット」なども開かれるといいのですが、なかなか難しいのかもしれませんね。

さて、十和田の皆さん、11月11日(土)の「花巻市探訪ツアー」、ぜひご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は山百合の花をたくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速亡父と智恵子との写真に供へましたが殆ど部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。厚く御礼申上げます。 尚近く詩集「智恵子抄」を龍星閣から出版しますがお送りします故御註文なさらぬやうに願ひます。


昭和16年(1941)7月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎59歳

「好きだったので」と過去形ではなく「好きなので」と現在形。光太郎の中ではまだ智恵子は生きているのでしょう。

『智恵子抄』の刊行は1ヶ月後でした。

昨日のこのブログで書きましたが、このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

今日は、宮沢賢治令弟にして光太郎と交流の深かった故・宮沢清六氏令孫・宮沢和樹氏。『朝日新聞』さん岩手版から。

賢治を語る 没後90年 切ない願い「雨ニモマケズ」 「林風舎」代表・宮沢和樹さん

 北東北の詩人・宮沢賢治が亡くなって21日で90年になった。賢治の代表作の一つとなった「雨ニモマケズ」の詩にはどのような思いが込められていたのか。彼の死後、多くの作品を世に送り出した賢治の実弟・清六さんの孫で、賢治のゆかりの品や肖像などを保護する「林風舎」(花巻市)の代表、宮沢和樹さん(59)に聞いた。008

――祖父の清六さんは、どのような人物でしたか?
 賢治と年が八つ離れていましたが、妹トシと並んで、賢治の最も良き理解者でした。
 賢治は多くの作品を世に残しましたが、生前刊行できたのは詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の2冊だけです。賢治の作品のほとんどは死後、祖父の手を通して発表されました。童話にしてはやや難解ですので、最初はどの出版社からも相手にされませんでしたが、尊敬する兄の作品を世に送り出すことを、祖父はどこか自分の使命のように考えていました。

――詩人・高村光太郎も賢治を評価していました。
 当時、すでに詩人として成功を収めていた光太郎は、賢治と生前に一度面会し、その作品を「自分の作品よりも後世に残るものになるかもしれない」と高く評価していました。賢治の死後に刊行された全集の題字は、光太郎によるものです。
 戦争中、東京のアトリエが空襲で焼かれた光太郎は、疎開先として賢治の実家に身を寄せます。その際、清六は光太郎から「念のために防空壕(ごう)を作り、あらかじめ大切な物を避難させておいた方がいい」と助言され、賢治の原稿や資料を防空壕と土蔵の二つに分けて避難させました。結果、1945年8月10日に空襲が花巻を襲い、賢治の実家は焼けてしまいましたが、作品は奇跡的に残すことができました。

――花巻には「雨ニモマケズ」の詩碑があります。
 賢治の没後3年目の36年秋に建てられた最初の詩碑で、毎年賢治の命日には詩碑の前で「賢治祭」が開かれます。
 碑文は「雨ニモマケズ」が選ばれましたが、長いために後半部だけが刻まれました。
 碑文の字は光太郎によるものです。実は届いた文面には誤りがありましたが、高名な詩人の字であるため、そのまま刻印されました。その後、光太郎が誤りを正すために追刻を施し、世にも珍しい「直しの跡が見える詩碑」になっています。

――「雨ニモマケズ」で、清六さんが考えていたことは?
 「雨ニモマケズ」は、賢治が作品として残したものではなく、死の約2年前に病床で手帳に書いたものでした。
 そこには「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」という文がありますが、祖父は常々、「この『行ッテ』が大事なのだ」と話していました。
 自分が実際に動くことが大事なのだ、そしてそれは、病床にいて自分では動くことのできない、賢治の切ない願いではなかったか、と。
 作品を通じて、賢治の願いや夢みた世界が、多くの人に伝わっていくことを願っています。


こうしたお話、氏のご著書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』(令和3年=2021 ソレイユ出版)などにも記されていますし、今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」などでも語られました。

過日も書きましたが、その公開対談が好評だったということで第2弾が11月1日(水)、宮沢賢治イーハトーブ館ホール行われます。今回はさらに生前の光太郎をご存じの方々などにもパネラーとなっていただき、当方がコーディネーターとしてお話を伺います。

昨日、フライヤーその他が届きました。
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詳細はまたのちほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生の過去を知るべき詩集は“道程”一冊しかなく、それが絶版になつてゐて不便なので文献上再版して置くべきだといふ事になるのでせう、これは拒否するいはれが無いやうです、それであなたの編輯といふ條件で再版を承諾します、

昭和15年(1940)8月8日 三ツ村繁蔵宛書簡より 光太郎58歳

この年11月、三ツ村の山雅房から刊行された『道程改訂版』に関わります。大正3年(1914)の初版『道程』をベースにしていますが、削除した詩篇もあり、その後の詩篇も多数追加、『道程』とはいいうものの、別の詩集というべきものでした。

11月には「150部限定版」、通常の「書店版」が同時に刊行され、翌年には「普及版」。こちらは昭和18年(1943)の9刷まで版を重ねました。昭和17年(1942)にはこれにより昭和16年度の第一回帝国芸術院賞受賞。

どうも戦時下における文化人代表の一人として光太郎を引っぱり出すため、実績を積ませようとする軍部や大政翼賛会(8月の時点では準備段階で、未だ正式に発足していませんが)の意図が、出版そのものの裏側に透けて見えます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村にある高村光太郎記念館さんでの企画展です。

令和5年度高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月30日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

吉田幾世は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校)の創始者です。高村光太郎と吉田幾世の関わりについて写真や掛け軸などの資料とともに紹介します。
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 2023年11月2日(木) 10:00~12:00 高村光太郎記念館第一展示室
 講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 高村光太郎と吉田幾世の交流について解説。

 申し込み締め切り日 10月20日(金)
 定員をこえる場合は抽選となります。
 定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
 次のいずれかの方法でお申し込みください。
 高村光太郎記念館(0198-28-3012)へお電話ください。
 専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

吉田幾世(大正元年=1912~平成15年=2003)は、盛岡出身の教育者。戦前に羽仁吉一・もと子夫妻が東京東久留米に創設した自由学園に学びました。卒業後、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で、明治末から光太郎が数多くの寄稿をした雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行いました。その流れの中で、吉田は友の会のメンバーと共に、昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を開校させ、自由学園の精神を受け継ぐ岩手女子教育の新生面を担うこととなりました。

戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎が移住すると、吉田は『婦人之友』に光太郎の寄稿を仰ぐべく山荘を訪れ、以後、学校ぐるみでの光太郎とのさまざまな交流が続くことになります。吉田が生徒たちを引き連れて光太郎の山小屋を訪れたり、光太郎が盛岡の同校で講演を行ったり、さまざまなアドバイスをしたりと。

そうした交流についての紹介、それから光太郎から吉田や同校などに贈られた書、当時の古写真などを展示します。当方、展示パネルおよびフライヤー裏面の解説文を執筆いたしました。

特に書は、新たに確認されたこれまで未公開のものの展示も。こういう書を書いた、という記録は残っていたものの、その現物が確認できていなかった作品が含まれ、「こんなものも見つかった」という報せと共に市役所さんから送られてきた画像を見て仰天しました。

11月2日(木)には関連行事としての当方の講座があります。今回、参加資格に花巻市在住とか勤務とかの縛りが特に無いようなので、ぜひどうぞ。もちろん展示のご高覧も、です。

【折々のことば・光太郎】

毎日お送りの書きものは面白くよんでゐますが一々御返事は書きません、御ゆるし下さい、

昭和14年(1939)8月20日 野澤一宛書簡より 光太郎57歳

野澤一は山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで四尾連湖畔に独居生活を送り、そののち上京。なぜか面識がなかったと思われる光太郎に対し膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その数300通超、一通が3,000字を超えることもありました。光太郎、ある意味辟易しながら、それを面白がってもいました。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されている花巻市土沢地区の「ワンデイシェフの大食堂」さん。9月13日(水)がご出店日でした。

かつて光太郎が実際に作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりしたメニューは以下の通り。

栗ご飯、アンチョビサンド(軽くトーストしたバケットにレタス・チーズ・ドライトマトをのせアンチョビソースとオリーブオイル)、ピーマンの肉詰め(人参・コーン・エリンギを細かいサイノメに切り和風だしのあんかけに)、林檎とナッツのサラダ(リーフレタスに皮つきのリンゴを刺してオシャレに盛り付け)、夕顔のポトフ(大きめに切った夕顔に鶏の旨味が染み込ませ)、ゴーヤの佃煮、舞茸スープ、お新香、コーヒーゼリーサンデー(寒天とコーンフレークの食感も加えアイスとチョコソース・バナナ・ポッキーのトッピング)、お茶(煎茶にミントを加えて煎れたモロッコ風ミントアイスティー)。
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専門の料理人でない皆さんがここまで作るか、という感じですね。

9月15日(金)には、道の駅はなまき西南さんでの豪華弁当「光太郎ランチ」の販売もありました。
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こちらのメニューは以下の通り。

栗ご飯、そば粉クレープ鶏照りレタス、牛肉入りジャガバタ炒め、里芋と厚揚げの煮物、塩麹入り卵焼き、きゅうりとトマトの酢の物、蒸しかぼちゃのごまかけ、舞茸当座煮、糠漬け、フルーツ。

どちらにも光太郎が好んだ栗ご飯や舞茸が入っています。秋ですね。

それぞれ末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の死は小生にとつてかなりひどい打撃ですがしかし遠からず平常の常態に復して今度は猛烈に仕事に専念しようと考へてゐます、四十九日がもうぢきです、

昭和13年(1938)11月16日 更科源蔵宛書簡より 光太郎56歳

智恵子の死にも不屈の光太郎。しかし前年に始まった日中戦争は既に膠着化、挙国一致体制が求められ始め、彫刻も詩作も自由には出来なくなっていきます。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
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高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
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直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。

最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
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記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。

ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。

 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。


その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
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   大地うるはし

 村役場の五十畳敷に
 新築祝の額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。012
 大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合せるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。

『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。

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ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
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光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
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さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。

【折々のことば・光太郎】

今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、


昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。

この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。

    レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

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