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岩手日報社さん発行の文芸誌『北の文学』。最新号が先月末に出まして、「出たら一冊送って下さい」と、花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの方にお願いしておきましたところ、届きました。多謝。

北の文学 第86号

2023年5月27日 岩手日報社 定価1,100円+税

 『北の文学』は岩手日報社が発行する新人発掘・育成のための文芸誌です。第86号は応募作品から選ばれた小説部門の優秀作と入選それぞれ2編を収録。巻頭コラムはデビュー作「家庭用安心坑夫」が第168回芥川賞候補になり、一躍注目を集めた小砂川チトさん(盛岡市出身)が登場しています。
 日上秀之さん(宮古市出身)の特別寄稿小説「溺生(できせい)」や早坂大輔さん(盛岡市・書店BOOKNERD)と、くどうれいんさん(盛岡市出身)の対談も掲載。これまで以上に充実した内容となっています。
 小説部門の優秀作に選ばれたのは瀬緒瀧世(せお・たきよ)さん=宮城県在住、花巻市ゆかり=の「fantome(ファントーメ)」と、谷村行海(ゆきみ)さんの「どこよりも深い黒」。瀬緒さんは初応募での受賞です。谷村さんは過去7回入選を重ね、11度目の応募で優秀作をつかみました。

■主な内容
・巻頭コラム 小砂川チト「罪やかなしみでさへ、そこでは」
・特別寄稿小説 日上秀之「溺生」
・特集・対談 早坂大輔×くどうれいん 「行くべき街」盛岡
・第86号小説部門優秀作
 瀬緒瀧世「fantome(ファントーメ)」 / 谷村行海「どこよりも深い黒」
・小説部門入選作
 森葉竜太「トマト祭り」 / 咲井田容子「卯年炭」
・第86号選考経過・選評
・寄稿・文芸評論 春日川諭子「においの描写から考える『悲の器』の女性像」
・俳句 兼平玲子「世界で二番目の街」/  川柳 澤瀬海山「天動説」/  エッセー 4編
・85号合評会から
・投稿 あの日あの時7編
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同誌、年2回の発行で、毎号、作品の公募を行っているそうです。
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「小説・戯曲・文芸評論」の3部門だそうですが、小説の応募が大多数。今号では応募総数27篇で、内訳は小説21篇、戯曲と文芸評論が3篇ずつ。各部門で優秀作を選ぶわけではなく、3部門を通観して優秀作を選ぶ形で、今回の受賞(優秀作2篇、入選2篇)はすべて小説でした。どうもこのところ小説のみ選ばれているようです。

受賞作決定の際の『岩手日報』さん記事はこちら

で、優秀作の一つ、瀬緒瀧世氏の「fantome(ファントーメ)」。昭和20年代前半の花巻と郊外旧太田村を舞台とし、光太郎も登場します。タイトルの「fantome」はエスペラント語だそうで、英語の「fantome(ファントム)」からの派生でしょうが、名詞ではなく形容詞のようです(あえて細かな訳は載せません)。

主人公である10歳の少女・シズ江は、他の人間には見えぬそこにいるはずのない人が見え、さらに会話もできるという特殊能力の持ち主。そこで、「fantome」です。ちなみにその力のない普通人も、シズ江と手をつなげば同じことができるという設定です。

シズ江はその力で、光太郎の山小屋で「蒼白い顔をした女」と、花巻まつりの夜に花巻上町通りで「季節外れの黒いコートを着た男」を見、会話をします。そしてシズ江と手を繋いだ光太郎も……。光太郎ファンの皆様には、それぞれ誰なのか、言わずもがなでしょうね。

選評に次のようにありました。

高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。

たしかに「幻想的」。一歩間違えば「荒唐無稽」に陥るところですが、その一歩を間違っていません。ただし、一点、史実と異なるところがあり(一昨年刊行されたある書籍に同じ誤りがあり、どうもその書籍を参考にされてしまったようで)ますが、いたしかたありますまい。

当方、いただいてしまいましたが、オンラインでの購入も可能です(最上部リンク参照)。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀座の辻村農園にてダリアの球根を選び荷造を叮嚀にして直接農園より御送附いたすやう依頼致し候 球には皆それぞれ名称を附するやうたのみ置き候

大正9年(1920)4月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

明治期創業の「辻村農園」は神奈川県小田原市にあり、この頃、東京にも売店を設けていました。そこで買い求めたダリアの球根を、福島の智恵子の実家に送りました。福島では珍しい花で、近隣の人々が長沼家の庭にずいぶんと見に来たそうです。

グルメ系で2件。それぞれかつて光太郎が自分で調理したりしたメニューを元に、現代風の料理にアレンジしての取り組みです。

まずは富山県高岡市から。

地元を中心に演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子氏が、ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっていますが、今月(5月)から花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に、「光太郎ランチ」の日も設定なさっています。

今月(5月)は1回のみの実施でしたが、ご好評だったということでしょう、来月(6月)は3回に増えました。
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一昨年、やつかの森LLCさんで刊行された「光太郎の食卓カレンダー」のうちの1食分を参考に作られるそうです。

それから岩手。本家のやつかの森LLCさんの活動です。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店で、こちらも今月(5月)からやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」という名で参入なさっています。
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6月は15日(木)に「こうたろうカフェ」。
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山菜の「ミズ」の語が2回。旬なのでしょう。正式には「ウワバミソウ」という名です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。
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    山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり001
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

カラー画像は昭和21年(1946)、光太郎が描いたスケッチ、モノクロ画像はそれを元に描かれ翌年の雑誌『婦人公論』第31巻第6号に詩「山菜ミヅ」と共に載ったものです。下の方は鶴首南瓜です。

さて、富山光太郎ランチ、花巻こうたろうカフェ、お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたの本を昨日うれしくおうけとりしました あれは雑誌に出たときも愛読したものです 世間でも認めてゐるやうですがあれは全く今の文学壇には珍らしいものです 事件でなしに生活が書かれて居ます あれをよむものは必ずあなたのこころのひゞきをうけとります そしてそのひゞきは人を脅かすものでなくて人をあたためるもの清めるものです 私は此をよみながらいくど微笑しいくど遠くを望み見たかしれません 私のやうに悪の分子の多いものにとつて斯ういふものは実に貴いものに思はれます 実際此をよんであなたを敬愛せずに居られる人が此世にあるだらうかと思はれます あなたに対する私の愛をどうか心からうけとつて下さい


大正9年(1920)3月30日 室生犀星宛書簡より 光太郎38歳

あなたの本」はこの月、新潮社から刊行された犀星の小説『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』。何だかほめ殺しに近いような手放しの賛辞ですね。

犀星と光太郎の関係は、なかなかに複雑です。犀星、昭和4年(1929)には光太郎をして「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。」(『天馬の脚』)と書いていたのに、光太郎歿後には「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」(『我が愛する詩人の伝記』)。

残された書簡によれば、互いの母親が亡くなった際にはそれぞれ衷心からのお悔やみ、励ましなど交わしていたようなのですが……。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるものです。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「筍御飯」「若布御飯のおにぎり」「ほっけ焼き」「独活(うど)の天ぷら」「ほうれん草のおひたし」「豚肉とうるいの炒め」「切り干し大根酢醤油」「煮小豆」「塩麹卵焼き」だそうです。筍やら山菜やら、季節柄、という感じですね。

同じくやつかの森LLCさん、地元季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回となり、代わって新しい取り組みを。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご参加を始められました。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで、月イチで「こうたろうカフェ」を出店されるとのことです。
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この日(5月16日)のメニューは「ホロホロご飯」「生ハムと彩り野菜のガレットロール」「春キャベツの肉巻きソテー」「ボストンビーンズ」「長芋の夏みかん皮のせ」「ワラビの和え物」「ふわとろ玉子スープ」「スフレフロマージュ」「カフェドシトロン」。やはり光太郎ゆかりのメニューだそうです。
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こじゃれた感じですね。

平日の昼間だったにもかかわらず、開店してまもなく用意した28人分が完売だそうで、驚きました。

さらに店内に展示もなさったようです。
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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)附近の風景等でしょう。

それから、先述の『花巻散歩マチココ』さん。
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5年間、34回の連載が終わってしまったのは残念ですが、新たなる「こうたろうカフェ」の船出にエールを送りたいと存じます。

さて、こうした活動が遠く富山県にも飛び火しています。『花巻散歩マチココ』さんの「光太郎レシピ」を元にした「光太郎の食卓カレンダー」が、一昨年、やつかの森LLCさんから発売され、お買い求め下さった茶山千恵子氏(富山県ご在住、彼の地で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている方)が、ここに載っているレシピを元に「光太郎ランチ」。

茶山氏、大学の家政科で食物栄養を専攻されたそうで、料理の腕前もプロフェッショナル。ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっています。その一巻として、本家のやつかの森LLCさんから許可を取られ、5月14日(日)に第一回を開催されたとのこと。
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下記が元ネタの「光太郎の食卓カレンダー」当該ページ。
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来月以降も月イチで継続して下さるそうですし、光太郎に関するレクチャーや、さらに今後、朗読もなさりつつ、といった御計画のようで、ありがたいかぎりです。

こうした輪がさらに広まって行くことを願って已(や)みません。

【折々のことば・光太郎】

無題例の彫刻会の趣意書漸く出来いたし候間 別封にて御覧に入れ申候 かやうな事の勝手わからぬ為め閉口いたし居候 何卒よろしく御声援被下候様お願申上候 自分の思ふまゝなる製作に没頭しながら 相当の生活の資を得る事如何に困難なる今日かと常に歎じ居候 今度の会に若し或る端緒を得ば むしろ異常の幸福とおもはねばなるまじく それすら甚だ覚束なき心地いたし居候


大正6年(1917)11月11日 与謝野寛宛書簡より 光太郎35歳

例の彫刻会」は「高村光太郎彫刻会」。スポンサーを募り、彫刻を頒布する会です。これで資金を得、アメリカで個展を開くという計画がありましたが、結局入会者が少なく頓挫してしまいます。

それでもこれを契機にブロンズの「手」、「裸婦坐像」、「腕」などの秀作が産み出されました。

昨日全国公開開始の映画「銀河鉄道の父」。早速拝見して参りました。宮沢賢治の父にして、光太郎と親交の深かった政次郎を主人公とするものです。
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原作は門井慶喜氏の直木賞受賞作。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)には文庫化も為されています。

原作では、光太郎は名前がちらっと挙げられている程度で、大正15年(1926)12月の賢治と光太郎の出会いは省略、賢治が没した直後で物語が終わるので、その後の政次郎ら一家と光太郎の交流も描かれていません。映画でも光太郎は登場しませんでした。「家族のドラマ」に焦点を当てていますので、賢治の交友関係などは元々あまり描かない方針だったようです。他の賢治もので必ずといっていいほど触れられる保阪嘉内藤原嘉藤治なども登場しません。

ただ、光太郎と親しく交わった宮沢家の面々の物語ということで、興味深く拝見しました。
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この中で、賢治の妹・トシと祖父・喜助は光太郎と面識はありませんでした。
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この写真では、左端が政次郎、一人置いて光太郎、その後の中腰が清六、右から二人目がイチです。トシよりさらに下の妹のクニとシゲ(どちらも映画にちらっと登場)も写っています。

光太郎の右のチョビ髭は、賢治主治医でのちに光太郎が花巻郊外旧太田村に移る直前に1ヶ月厄介になった佐藤隆房。映画では益岡徹さんが演じられていました。
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公式パンフレット(880円)も購入。賢治の『春と修羅』をモチーフにしたデザインです。
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この中に「宮沢家ゆかりの花巻マップ」というページがあり、「雨ニモマケズ」詩碑は光太郎の揮毫である旨の記述。
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光太郎揮毫といえば、賢治没後を描いた映画のラスト近く、光太郎が装丁した文圃堂版『宮沢賢治全集』が政次郎の元に届き、それを手にとって読むシーンがありましたが、背の文字、光太郎の筆跡に似せて作られていました。
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花巻といえば、花巻でも当然ロケが行われています。
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しかし、宮沢家の店舗や住居、花巻の街並みなど多くのシーンは、岐阜県恵那市の岩村地区で撮影されていました。
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こちらは旧中山道の宿場町で、当方の住む千葉県香取市佐原地区同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

当方、一度、こちらの街並みを歩きました。このブログを始める前の平成21年(2009)でしたので、ブログ内にレポートは存在しませんが。街並みが尽きて、岩村城に上がっていく山の麓の辺りに、「浅見与一右衛門銅像」が現存します。現在あるものは、戦時中の金属供出を経ての二代目で、この辺り出身の彫刻家の作。しかし、供出された初代の像は大正7年(1918)、光雲の代作として光太郎が作ったものでした。初代の台座は現在も残っています。二代目の像も初代の像を模して作られたようです。

岩村でのロケが行われたということは公式サイトで事前に知っておりましたので、なるほどねと思いつつ拝見しました。

それにしても、原作の小説もそうでしたが、役所広司さん演じる政次郎の親バカぶりが何ともすごいものでした。また、菅田将暉さんの賢治の駄目息子ぶりも。原作でも賢治最晩年の東北採石工場勤務の件はカットされていましたが、映画では花巻農学校の教壇に立っていたこともスルー(羅須地人協会で農民に講義をしているシーンはありましたが)。まぁ、2時間ほどの尺の中でまとめなければなりませんし、ニートとして描いた方が賢治の駄目っぷりが強調されるような気はしました。しかし、コアな賢治ファン、中に少なからず存在するであろう神格化に近い賢治信奉者の人々にからは批判が起こるような気もします。

何はともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

この間はお忙がしい中をおいで下さつて恐入りました それに又美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別にあなたにお礼を申さねばならない様な気がします


大正3年(1914)12月27日 柳八重宛書簡より 光太郎32歳

柳八重は光太郎の親友の画家・柳敬助の妻にして、日本女子大学校での智恵子の先輩。明治44年(1911)、智恵子に光太郎を紹介する労を執ってくれました。

この間」は12月22日、上野精養軒で開催された光太郎智恵子の結婚披露宴です。この日は真冬の関東にしては珍しく、豪雨でした。これから始まる二人の結婚生活(それ以前から同棲はしていたようですが)の行く末を暗示している、などと書くと恣意的な解釈をするな、と言われそうですが。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市に行っておりました。

まずは花巻市郊外で現地調査。昭和25年(1950)に光太郎が文字を揮毫した墓石の探索でした。この年の光太郎日記は大半が失われており、その詳細が不明でした(郵便物の授受を記録したノートは残っており、そこにちらっと記述がありまして)が、昨年12月に国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムが大幅にリニューアルされ、自宅兼事務所に居ながらにして、これまで得られなかった大量の情報が手に入るようになり、墓石銘当該人物の出身地が判明しました。さらに他のサイトで、当該人物の血縁とおぼしき方々がその地区にまだ住んでらっしゃることも判明。雲をつかむに近い話ではありますが、無駄足覚悟で行ってみました。新花巻駅からレンタカーです。

戦後の7年間、光太郎が暮らした旧太田村もかなりの寒村で現在もそんな感じですが、この地区も同じような佇まい。よそ者が車を駐めて歩いていると目立つ、というか、当方のような人相の悪い男がうろうろしていると、物騒な昨今、不審です。お庭で何か作業をされていた年配のご婦人に「何かお探しですか」と声を掛けられました。そこで「これこれこういうわけで……」と説明し、光太郎に墓石の揮毫を依頼した人物の名を挙げると、「ああ、その方はもう亡くなってますけど、そのお宅でしたらひと山向こうのこの辺で……」と、詳しく教えて下さいました。

教えていただいた通りにレンタカーを走らせ、ここだろう、というお宅で呼び鈴を鳴らし、出ていらしたご婦人に「かくかくしかじかで……」と言うと、ご主人を呼んで下さって、「ああ、そのお墓でしたらあそこですよ」。指さされた数百メートル先の小高い山頂に共同墓地。「分かりにくい場所なので案内しましょう」と、軽トラを出して下さり、当方はレンタカーでついていきました。最初のご婦人にしろ、このご夫婦にしろ、何とも親切な方々で……。

車を駐めてご夫婦の後について山道を上ると、共同墓地。そして二基の墓石が、まごうかたなき光太郎の筆跡で、光太郎の遺した記録と一致しました。感無量でした。長時間探したあげく結局見つからず、という事態も覚悟していたのですが、とんとん拍子に見つかったのは、奇跡的でした。光太郎や、墓石に眠る方々のお導きなのか、という気もしました。二基の墓石に眠るお二人、それぞれ太平洋戦争で亡くなっています。お一人は軍人で、抑留されていたシベリアで最期を迎えられたことが墓石側面に記されていましたし、事前に得ていた情報とも一致しました。もうお一方は「軍属」と記されていましたが、そちらはいつどこで亡くなったか何も書かれていませんでした。

ご夫婦、これが光太郎の書いた文字だということは御存じではありませんでした。ただ、依頼した人物(お墓に眠るお二人の父君)の昔の日記が残っているというお話でしたので、そこに経緯が記されているかも知れません。

持参した香を手向け(最初に案内していただいた時には興奮のあまり忘れていたのですが、レンタカーにとってかえし、ボストンバッグから引っぱり出しました)、合掌。

ちなみに、茨城取手山形米沢と、これで記録に残る光太郎揮毫の墓石すべての所在が分かりました。まだ同様の例で記録が確認できていないものがあるかもしれませんが。

その後、旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。

山荘前のかつて光太郎が自耕していた畑の跡には水芭蕉が咲き誇っていました。
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千葉の自宅兼事務所ではとっくに散ってしまった連翹も。
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久しぶりに、山荘裏手の智恵子展望台に上ってみました。冬期は積雪のため行くことが出来ません。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さん。
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こちらでは企画展「山口山の木工展」が開催中。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や宮沢賢治の世界を表した木工作品の展示です。「山口山」というのは、この辺りの低山の総称です。
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光太郎、そして賢治ワールドのとにかく楽しい作品がいっぱいです。
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しかもモーター仕掛けで動いているものも。
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光太郎も動いて藁を打っていました(笑)。
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やじろべえ。絶妙のバランスで静止しています。
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ダム湖の流木でつくられたという鹿。
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どの作品も木ならではの温かみにあふれ、光太郎も絶賛するのでは、という気がしました。

拝観後、市役所の方に今年度の展望等報告を受けました。そしてお土産。
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最近流行りの缶バッヂです。これもいい感じですね。

記念館をあとに、宿泊させていただく大沢温泉さんへ。
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チェックイン後、旧菊水館のギャラリー茅へ。以前は宿泊棟で、当方、こちらに泊まることが多かったのですが、平成30年(2018)の台風でこちらに通じる橋が車で通行できなくなり、宿泊棟としては休業。その後、手前の棟をギャラリーとして活用していたのですが、さらに茅葺き部分の棟も完全に展示スペースに改装。宿泊棟としての使用はあきらめたようです。その点はちょっと残念ですが……。
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こちらでは「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」が開催中です。鈴木敏夫氏は、スタジオジブリさんの代表取締役プロデューサー。大沢温泉さんファンとのことで、この展示が実現しました。集客になるならこれもありかな、と存じます。
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まっくろくろすけ、本物が一匹くらい混じっていてもわからないでしょう(笑)。
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茅葺きの棟、天井板が取り払われて、下から茅葺きの裏側が見えるようになっていました。
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手前の棟の貴賓室的な部屋はそのままに残されている部分も。おそらく光太郎、このあたりの部屋に泊まったと思われます。当方も二度、泊めていただきました。

茅葺きの棟も、露天風呂に面した窓側には宿泊棟時代の名残。
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この手の部屋にはさんざん泊まりました。もう泊まれないのかと思うと、やはり寂しいですね。

屋根も山側はトタン葺きになっていました。
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部屋に戻り、温泉に浸かって、夕食は自炊部内の食事処やはぎさんでいただきました。

というわけで、花巻高村光太郎記念館さん「山口山の木工展」、大沢温泉さん「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」、それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

まだ山に居りましたが、この一日には下山いたす筈になつて居ります。

大正2年(1913)9月29日 窪田空穂宛書簡より 光太郎31歳

」は、8月上旬から10月にけ、滞在していた上高地です。9月には智恵子も光太郎を追ってやって来、ここで二人は結婚の約束を交わしました。窪田は智恵子と入れ替わりに下山しています。

この葉書、『高村光太郎全集』等未収録の新発見ですが、神保町の玉英堂書店さんが売りに出しています。

昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今年2月、宮沢賢治令弟・清六氏の令孫たる宮沢和樹氏との公開対談以来、2ヶ月ぶりです。宿泊は例によってなのですが、大沢温泉さん。
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昨日は花巻市の郊外で現地調査をし、夕方、高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんに推参。企画展「山口山の木工展」を拝見しました。奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏による、光太郎や賢治の世界を表した木工作品の展示です。
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このブログ、いつもは旅先からですとスマホでの投稿で、入力が面倒くさく(タブレット買えよ、という話ですが(笑))、ここいらで「詳しくは帰りましてからレポートいたします」で終わりにしているのですが、今日は別。

とにかくここのところ、取り上げるべき事項が大杉栄、もとい、多すぎでして、花巻がらみの新情報、今日のうちにご紹介してしまいます。

まず、「山口山の木工展」につき、花巻市さんの方で動画が作成され、公開されています。


ぜひご覧の上、足をお運び下さい。

もう1件、もう先週になりますが、やはり花巻市さんよりこんな冊子を戴きました。
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題して『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』。

光太郎が亡くなる2ヶ月前の昭和31年(1956)に語った談話筆記「花巻温泉」の全文と、その英訳が載せられています。さらに光太郎が花巻にいた前後の画像などがふんだんに使われ、理解の手助けとなっています。下記は、ここ、大沢温泉さんのページ。
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制作されたのは、花巻市の地域おこし協力隊で活動されている森川沙紀氏。2月の宮沢和樹氏との公開対談にいらっしゃいまして、お近づきにならせていただきました。

A5判47ページ、なかなかの労作です。奥付画像を貼っておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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さらにもう1件。4月19日(水)付の『岩手日報』さん記事。

「北の文学」第86号優秀作が決定

 岩手日報社発行の文芸誌「北の文学」第86号の優秀作は、宮城県富谷市の瀬緒瀧世さん(38)=花巻市ゆかり=の小説「fantome(ファントーメ)」、横浜市の谷村行海さん(27)=盛岡市出身=の小説「どこよりも深い黒」に決まった。
 瀬緒さんの作品は、宮沢賢治の家族を頼り疎開していた高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。初めての応募での受賞となる。
 谷村さんの作品は、俳句に打ち込む男性と結婚が気になる年上の彼女との心模様を展開。安定感のある文章力で、若者の世界を軽やかに繰り広げた。応募は11回目。76号で初入選し、これまで7回入選している。
 応募は小説21編、文芸評論3編、戯曲3編だった。事務局の予備選考を通過した小説9編、文芸評論1編を最終候補として選考会を開催。編集委員の鈴木文彦さん(東京都、盛岡市出身)、久美沙織さん(長野県、盛岡市出身)、大村友貴美さん(横浜市、釜石市出身)の合議で優秀作2編、入選作2編を選んだ。
 優秀作には賞状と賞金10万円を贈り、入選作とともに5月発行の「北の文学」86号に掲載する。
 入選作は次の通り(敬称略)。
 ◇小説▽「トマト祭り」森葉竜太(47)=山田町▽「卯年炭」咲井田容子(48)=埼玉県越谷市、山田町ゆかり

両親が花巻出身の縁
 瀬緒瀧世さんの話 久しぶりによいお知らせをいただいた。両親が花巻出身で、小さい頃よく遊びに行っていた。高村光太郎や宮沢賢治は身近な存在で、本作は母や祖母から聞いた話が積み重なってできた物語。書き物は読んでいただいて初めて小説になると思う。1年1本を目標に、できれば明るい話を書いていきたい。

実体験を元に書いた
 谷村行海さんの話 選評の指摘をばねに頑張ってきたので、やっと賞を取れてうれしい。句会を含め実体験を基に書いたが、作品にはリアリティーを出したいと思っている。読んだときにちょっとだけ笑えるような、、コメディーよりのものも書いてみたい。この道を勧めてくれた恩師と、毎回作品を読んでくれた父に感謝したい。


というわけで、花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた小説が優秀作に選ばれたそうで、喜ばしいかぎりです。来月、岩手日報社さんから発行される『北の文学』に掲載されるそうで、読むのが楽しみです。

さて、今日は帰りがけ、都内に立ち寄るつもりです。

詳しくは帰りましてから。

グルメ系カテゴリで3件ご紹介します。

まず、毎月恒例、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、今月分。
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毎月、光太郎の日記や書簡などを元に、光太郎が作ったメニュー、ふるまわれた料理、使った食材などを現代風にアレンジしたりして詰め合わせたもので、今月のメニューは、「ひえ・麦ごはんのおむすび」「にら玉炒飯」「ニシンとスルメの柔らか煮」「ソーセージ」「卵豆腐」「コーンと青豆のバター炒め」「ふきのとうの酢醤油」「桑茶ゼリー」「お新香」。盛りだくさんですが、桑茶は血糖値を抑える効能もあるそうで、ヘルシーですね。

ところで、メニュー考案に協力されているやつかの森LLCさん。季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回だったそうです。最終回っぽい文言があるな、と思っていたら、その通りでした。5年もの長い間、お疲れさまでした。

代わりに、というわけでもないようですが、新しい取り組みとして、花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」に「光太郎レシピ」を使って参戦なさるそうです。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで。詳細がわかりましたらまたご紹介します。

そのやつかの森LLCさん編集の冊子が発売されました。『KOTARO CAFE 高村光太郎の食卓―おやつ編―』。
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昨秋から先月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の際、会場で無料配付していた冊子をきちんと製本したものです。A5判並製、20ページで頒価500円。

前半は光太郎智恵子が食した「おやつ」的なものについて、残された文献等からわかることを当方がまとめました。
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後半は「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、会場内の展示パネルの解説文を転載。
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ご入用の方、やつかの森LLCさんまでご連絡ください。

紹介すべき事項が多く、やはり「食」でもう1件。全国学校給食会協会さん発行の月刊誌『学校給食』の2023年5月号
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当会の祖・草野心平の故郷、福島県いわき市の小学校教諭・田島裕司氏の寄稿で「高村光太郎の詩のように」という記事が掲載されています。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を引きつつ、勤務校で取り組まれてきた「虹色スマイルプロジェクト」(コロナ禍で頑張る医療従事者を光で応援することから始まった取り組み)、いわき市にある古刹・白水阿弥陀堂の台風による浸水被害への支援などを紹介されていて、あまり「食」には関わらない感じでしたが。「道程」がらみの部分のみ、下に。
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「給食」ということで、「食事中の会話制限」というお話にもなっていました。ようやくコロナ禍も落ち着いてきた感があり、そうした制限も緩和されつつあるのではないかと思われますが、昨日あたりは「第九波の懸念」などといった報道も為されており、まだまだ予断を許しませんね。

そんな心配もなく、「食」を自由に満喫できる日が遠からずやってくることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

私はものを避けるのはイヤです 何にでも正面からぶツかつて行きたうございます 常にさう心懸けて居るのでございます


大正2年(1913)1月8日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

「道程」の書かれるほぼ1年前。既に「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」的な精神が感じられますね。

この書簡では、光太郎との交際に難色を示していた智恵子の郷里の人々の様子を教えてほしい、逃げずにぶつかるから、的なことを、智恵子の妹・セキに宛ててしたためています。

















花巻高村光太郎記念館さんでの企画展が始まります。

山口山の木工展

期 日 : 2023年4月20日(木)~5月15日(月)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

高村光太郎は、高村山荘の裏山一帯を山口山(やまぐちやま)と呼んでいました。
奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏。今回は高村光太郎や宮沢賢治をモチーフに取り入れ、山口山(高村山荘周辺)の木材を一部使用した作品を展示します。

(2)展示作品
 ・高村光太郎と智恵子をイメージした壁掛けオブジェ
 ・高村光太郎の山小屋暮らしをイメージしたカラクリオブジェ
 ・セロ弾きのゴーシュをモチーフとした楽器のカラクリオブジェ
 ・宮沢賢治をモチーフとしたやじろべえ
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以前はこうした地元の作家さんなどの作品展示は、敷地内の「森のギャラリー」(旧高村記念館)で行われていましたが、企画展示室を使うのですね。

あたたかみあふれる木工作品、いい感じのようです。当方、今回は関わっていないのですが、月末には拝見に行って参ります。皆様も是非どうぞ。

花巻高村光太郎記念館さんとえば、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)で、光太郎忌日・連翹忌の4月2日(日)、地元の方々が光太郎を偲ぶ詩碑前祭を行って下さいました。光太郎顕彰にあたっているやつかの森LLCさんのサイトから、画像をお借りしました。
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以前、公開で行われていた市街松庵寺さんでの光太郎法要は、非公開でお寺さんとして執り行ったそうです。

4月2日(日)といえば、智恵子の故郷・二本松でもイベントがあったとのこと。直接、光太郎智恵子とは関わらないのですが、二本松に「さつき山公園」というのがあり、そのオープニングイベントだそうで。

「風信子(ヒヤシンス)」さんという歌い手さんのユニットがステージに立ち、「本当の空を忘れないで」という歌などをご披露。YouTubeに動画が上がっています。


「本当の空」は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」由来なのでしょう。動画キャプションに「2023年4月2日に二本松市さつき山公園で開催されました「さつき山公園まつり」で歌わせて頂きました。4月2日…高村光太郎さんの連翹忌(レンギョウキ)に、智恵子さんが愛した二本松の本当の空の下で、光太郎さんが愛したレンギョウに囲まれて歌わせて頂きましたこの日を一生忘れません。」とありました。

ありがとうございました。

【折々のことば・光太郎】

私はあなたの大事なお姉様を如何なる場合でも傷つけることはございません 世の中に伝はつてゐるきたならしい噂をも耳にはして居ります しかしそれに対しては 噂をする者等こそ自身を愧ぢよとおもつて居るばかりでございます


大正元年(1912)10月7日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。どうも結婚前の光太郎智恵子の良からぬ噂を耳にし、光太郎を問い詰める的な手紙を送った、その返答のようです。

地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。

見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】

 花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
 研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
 参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
 このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
 研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
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毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。

新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。

続いて『上毛新聞』さん。

《ぐんまヒストリー》赤城山 信仰の山が人気行楽地に

 季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
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 富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
 当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
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 大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
 戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
 大沼にはスケート場が最大8面作られ、団体客でにぎわった。夏はカップルが湖面にボートを浮かべ、氷室に保管しておいた大沼の氷で作ったかき氷も好評だったという。
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 スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
 入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
 赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。

歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
 大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
 県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
 釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。

上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。

昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。

明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。

平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
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どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね


大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生木村荘八斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。

テレビ放映情報です。

業の花びら 〜宮沢賢治 父と子の秘史〜

NHKBSプレミアム 2023年3月24日(金) 23:00〜00:30

宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。なぜその詩だったのか。ディレクター今野勉が迫る「賢治・もう一つの顔」。

岩手県花巻市郊外に建つ、詩人・童話作家の宮沢賢治の記念詩碑。碑文は有名な「雨ニモマケズ」だが、賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという。なぜ「業の花びら」だったのか。賢治の素顔を追い続けてきたディレクター今野勉は、賢治の“業”への強いこだわりに注目。対立の最中に父子で出かけた関西旅行、“業”をテーマにした童話「二十六夜」の謎に迫る。今明かされる、賢治・もう一つの顔。

【語り】森田美由紀
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今年は賢治の没後90周年ということもあり、いろいろあるようです(余談ですが、今度の土曜日から東北新幹線新花巻駅の発車メロディーが賢治作曲の「星めぐりの歌」になるそうです)。テレビ番組でも再放送を含め、賢治がらみが放映される頻度が高いように感じています。

今回は新作で、深夜ではありますが1時間半の特番。光太郎が碑文を揮毫し、昭和11年(1936)、花巻の羅須地人協会跡に除幕された「雨ニモマケズ」碑の関係です。となると、光太郎の名も出てくるのでは、と期待しております。

ただ、メインは賢治の父・政次郎が推したという「業の花びら」。大正14年(1925)の作だそうです。

光太郎も編集等に携わった文圃堂書版『宮沢賢治全集』(昭和10年=1935)から。
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「賢治」といえば「異稿」。この詩にも異稿が存在します。

光太郎が「玄米四合の問題」を寄稿した雑誌『農民芸術』第3号(昭和22年=1947)から。
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さらに賢治の主治医だった佐藤隆房の子息にして花巻高村光太郎記念会理事長であらせられた故・佐藤進氏の『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)から異稿の画像。
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ところで、同書に依れば、詩碑に刻む詩の選択に関しては、以下のように記されています。

 ここでどの詩を選ぶべきかが大きな問題となりました。盛岡の賢治の会では、「業の花びら」が最もよいと主張し、父(註・佐藤隆房)らは「業の花びら」は詩としてはよいが、難解な点もあり、詩人ばかりでなく一般の人にも、わかりやすい詩が望ましいと考えました。
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 このとき、賢治さんの父の政次郎さんは、賢治さんが手帳にかきつけてあった、「雨ニモマケズ」がよいと言いました。熟読してみて、この詩はただの文学詩というのではなく、賢治さんの心からの自戒の精神が盛り込まれたもので、いうなれば賢治さんの精神の結論とも思われる感銘深いものです。父は政次郎さんの説明に深い共感を覚え、個人としてもまた建設委員長としても、この「雨ニモマケズ」が最適であると主張しました。


番組説明にある「賢治を最も理解していた父が推したのは「業の花びら」という詩だったという」とは趣が異なりますね。まぁ、進氏の記述も聞き書きなわけで、それが絶対かというとそうも言い切れません。

とにかく番組を拝見してみようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ジエントルマン流でゆけば是非とも直ぐに御答礼の訪問をしなけれやならないのだがこゝは ひとつゼニトルマン流に略して手帋を以て失礼ながら御礼を申上げました。何卒あしからず。


明治43年(1910)11月7日 白瀧幾之介宛書簡より 光太郎28歳

光太郎には珍しく、オヤジギャク炸裂の書簡です。相手が気の置けない留学仲間・白瀧幾之介だったためでしょう。「帋」は「紙」の異体字です。

それにしても「ジェントルマン」→「ゼニトルマン」というダジャレ、明治時代に既にあったのですね(笑)。

定期購読しております『花巻散歩マチココ』さんの34号が届きました。

表紙はマルカン大食堂さんの名物・10段ソフトクリーム。「実物大」だそうで(笑)。
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創刊より6年を経て、次号から版元が変わり、内容も刷新されるそうです。それに伴い、今号はこれまでのクロニクル的なページも多く割かれていました。
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そういえば、光太郎をかなり大きく取り上げて下さった号(第6号)もあったなぁ、という感じでした。

連載の「光太郎レシピ」。
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「ゼンマイの白和えと三色あられ」です。
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レシピ下部にはレシピ考案にあたられているやつかの森LLCさんのひと言。何だか最終回っぽい文言で、次号からのリニューアルでこの連載も無くなるのかな、と思ったのですが特に「最終回」という文言は見あたりません。確認してみます。

もう1件、同じくやつかの森LLCさんメニュー考案の「光太郎ランチ」。毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで販売されています。

今月分の画像を頂きました。多謝。
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メニュー的には「赤飯」、「そば粉焼パンスルメ入り」、「牛肉の味噌焼き」、「油揚げ焼き」、「大根と夏みかんのサラダ」、「金平ゴボウ」、「塩麹入り卵焼き」、「お新香」、「レモン紅茶寒とおさつ焼き」。個人的には「レモン紅茶寒」が非常に気になります(笑)。

先月はたまたま15日に現地におりましたので、2食分ゲットして千葉の自宅兼事務所に持ち帰り、妻と頂きました。また機会があればそうしようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

よか楼が落成した。このごろに一緒にたべに行きませんか。僕はあそこを休憩のCozy Cornerにしたいと思つてる。

明治43年(1910)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎28歳

よか楼」は、浅草雷門前にあったカフェーです。現代のカフェとは異なり、酒を供し、美人の女給が居るというのが売りで、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場にも使われました。
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吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は「よか楼」の女給「お梅」に入れあげるようになり、一日に5回も足を運んだりもしたそうです。ほとんどストーカーですね(笑)。「お梅」が他の客のテーブルにかかりっきりになっていると、キレて暴れたりもしたとのこと。しょうもない奴でした(笑)。

「よか楼」は新聞に女給の写真入りの広告をたくさん出し、それが人気を呼んだそうです。すると、「お梅」の写真が載った広告も出たのかな、と思っており、調べてみようと思います。現在のところ、「お梅」と特定できる写真を確認できていませんので。光太郎がどんな顔立ちの女性に惚れたのか、興味があります。それを言えば、河内楼の若太夫も写真が確認できていませんが。

下記は新聞ではなく『東京大正博覧会』(大正3年=1914)のパンフレットに載った広告。もしかするとこれが「お梅」かもしれませんが、名前が出ていません。新聞に何度も出たという広告もこんな感じで名前は出さなかったのでしょうか。そうでないことを祈ります。
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それにしてもこの時代に「Cozy Corner」(憩いの空間、的な)という語をさらりと使うあたり、いかにも光太郎です。

今日、3月13日は光太郎の誕生日です。満140年ということになります。

それを記念して、岩手県内の一部郵便局で今日販売が始まるオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」が、花巻市に贈呈されました。

地方紙『岩手日日』さん。

光太郎生誕140年を記念 フレーム切手13日から販売 花巻

 日本郵便東北支社は、生誕140年を迎える花巻ゆかりの先人・高村光太郎を題材としたオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を作製した。切手には光太郎の写真をはじめ、高村山荘、詩碑や彫刻などの写真がデザインされ、花巻市内や近隣市町の郵便局で、光太郎が誕生した13日に販売を開始する。  
 生誕140年の節目に、光太郎と花巻を広くPRしようと制作。日本郵便が、市と高村光太郎記念会、光太郎の顕彰団体「やつかのもりLLC」と協力してデザインした。
 表題には光太郎が長年過ごした高村山荘の写真と、光太郎と妻智恵子のキャラクターを使用。切手は光太郎本人がトマトを手入れする姿や冬の高村山荘、山荘で初めて迎えた冬に生まれた作品「雪白く積めり」の詩碑などの写真を採用した。
 台紙には、光太郎がデザインした山口小学校の校章や同校に贈った校訓「正直親切」、地元の子供たちと写真を撮るサンタクロースに扮(ふん)した光太郎の写真など、花巻で過ごした日々が紹介されている。
 10日には市役所でフレーム切手の完成披露が行われ、上田東一市長は「素晴らしい切手を発行してもらい市民も喜ぶと思う。改めて注目する機会になる。ありがたい」と感謝。日本郵便県西部地区連絡会統括局長の齋藤一志水沢大町郵便局長は「光太郎は宮沢賢治が世に広まるきっかけとなった人物。切手の発行に合わせて光太郎の人柄などにも触れるきっかけになれば」と述べた。 フレーム切手は1シート1690円(税込み、84円切手×10枚)で、計700シートを発行。13日から花巻、北上、奥州、西和賀、金ケ崎各市町の70局、15日からインターネットで販売する。
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同じく『岩手日報』さん。

高村光太郎との縁、切手に 日本郵便東北支社、生誕140年で発売

 日本郵便東北支社(仙台市、小野木喜恵子支社長)は13日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念したオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を発売する。
 花巻市役所で10日に贈呈式を行い、同市や奥州市の郵便局長らが出席。県西部地区連絡会統括局長の斎藤一志(ひとし)水沢大町郵便局長が上田東一花巻市長に切手シートを手渡した。
 1シート1690円で、84円切手10枚がセットになっている。同市で7年間過ごした高村の農作業姿や暮らした山小屋(高村山荘)、自筆の詩などの写真を用いた。
 花巻、北上、奥州、金ケ崎、西和賀の5市町の70郵便局、日本郵便のウェブサイトで700シート限定で販売する。
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オンラインでの販売は明後日からだそうです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

例の彫刻は出来た相だな。つひ忙がしいので御無沙汰してゐる。僕は四月の中旬に関西へ出懸る。 店はまだ出来ぬ。いつかの子供の首を鋳金にして呉れないか。鋳金料は報知次第早速御届けする。 その内、君の画や何か借りに出懸ける。

明治43年(1910)3月27日 荻原守衛宛書簡より 光太郎28歳

留学仲間で親友だった碌山荻原守衛に宛てた葉書から。
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例の彫刻」は守衛の絶作にして代表作「女」、「いつかの子供の首」は、前年に守衛が制作した塑像「小児の首」。「店」は翌月開店した神田淡路町の画廊・琅玕洞。光太郎は実弟の道利を名目上の店主にします。当初予定では守衛の個展を開いたり、そうでない時にも守衛作品をバンバン売る予定でした。

ところが光太郎が「四月の中旬に関西へ出懸」けているうちに(4月22日)、守衛は急逝してしまいます。

『週刊朝日』さんの3月17日号、作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」の中に、光太郎の名。
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ときめきは前ぶれもなく 岩手に惹かれる

 二月二十七日の朝日新聞夕刊によれば、NYタイムズ「今年行くべき五十二カ所」で、日本の盛岡市がイギリスのロンドンに次いで二番目に紹介されているという。ロンドンは首都で、今年はチャールズ国王の戴冠式などで注目度が高いことはわかる。
 では、盛岡はなぜ? 人口三十万人弱、みちのくの地方都市なのに。日本ではこれまで東京・京都・大阪などが選ばれたのは当然として、なぜ今年選ばれたのか。
 名物のわんこそばに挑戦する楽しさが一つ。「盛岡は人が良く、自然もきれい。ごはんもおいしい」とオーストラリアから来た若い観光客は言う。
 NYタイムズは、盛岡が選ばれた理由をいくつも挙げている。混雑を避けて歩いて楽しめる場所。山に囲まれていくつもの川が流れる豊かな自然がある。盛岡城跡や赤レンガの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的建物が並ぶ。東京から新幹線で約二時間と近い……など。
 盛岡駅そばのジャズ喫茶「開運橋のジョニー」など秋吉敏子さんも演奏する「和ジャズの聖地」。岩手大学近くの「ナガサワコーヒー」。生豆の仕入れと焙煎で評判だ。
 盛岡の魅力を私がつけ加えるとしたら、手織りのホームスパンの生地を織る工房。日本古来のものを受け継ぐ伝統工芸品はあるが、ホームスパンという羊の毛で織った西洋の生地はなんとも手ざわりが良く素朴で暖かい。注文してから時間のかかる生地を、白黒の縦縞模様と濃紫の無地、二着分を織ってもらい、つれあいのジャケットと私のツーピースに仕立てた。四十年前なのに、今も大切に着ている。
 わんこそばでいえば、量で勝負出来ぬ私は、そばに酒をかけて楽しむ酒そばを食べる。講演会の会場の隣にあった不来方城(盛岡城)跡の丘に寝そべった春の日ののどけさ。街はなぜか西洋の香りがしておしゃれである。ここで東京から移り住み、木馬を作っている友人にも出会った。
 JTBが出していた「旅」という雑誌があった。戸塚文子という女性の名物編集長がいて、ある時グラビアと読み物で、母娘旅をして欲しいと言われた。照れ屋の私は母と二人旅などしたくなかったが、母にいちおう聞いてみた。「どこへ行きたい?」
 すると即座に「岩手県」という返事。理由は、宮沢賢治と石川啄木、それに高村光太郎であった。若い頃文学少女だった母は短歌を作り、賢治の詩が大好きだった。
 「参ったなあ」と思いながら賢治の故郷へ。なぜ賢治の作品が西洋風の不思議な世界なのか、その謎が少し解けた。
 欧米の人々が岩手県に惹かれる理由もわかる気がする。光太郎が智恵子なき晩年を過ごした雪深い小屋にも光太郎の詩のノートや、彫刻家として作ったトルソーなどがあった。ここにはどこにもない不思議な世界が広がっている。
 そういえばコロナの初期の頃、陽性者が毎日増え続ける中で、岩手県だけが0を続けていた。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

NYタイムズさんの「今年行くべき五十二カ所」に盛岡が選ばれた件、ある意味、衝撃的でしたね(笑)。しかし、記事にもあるとおり、わんこそばホームスパンなどの名物、赤レンガ伝統館などのたたずまいなど、たしかに素晴らしいものがあります。岩手を「イーハトーブ」とした賢治や、「岩手は日本の背骨」と言い切った光太郎にしてみれば、当然だという感覚かもしれません。

ただ、下重氏、記憶違いをなさっているようで、光太郎にはトルソの作品は現存しませんし、「詩のノート」というのも花巻には無いはずです。一応、指摘しておきます。

ところで、岩手といえば、今号の表紙は女優ののんさんで、東日本大震災にからめた「3.11被災地の歩み 「あまちゃん」放送10周年 のん “私は太陽”自分の魅力を発掘し続ける」という記事がトップでした。言わずもがなですが、「あまちゃん」の主要な舞台の一つが岩手県だったわけで、それに伴い、達増知事へのインタビュー記事「岩手県は自信をもらった」なども掲載されています。
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また、「あまちゃん」や舞台「私の恋人」で共演された、当会会友・渡辺えりさん(来る4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにもご参加予定です)に関する記述も。のんさん曰く「尊敬する大先輩なのに、同じ目線で接してくれる。私がツッコミを入れると、「のんちゃんのバカ!」なんて言う。一緒に映画「レ・ミゼラブル」を見たときには隣で号泣しちゃう。無邪気なところがすてきです

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

先夜木曜のパンの会につひ行きはぐれ大きに残念いたし候。


明治43年(1910)1月15日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

パンの会」は雑誌『方寸』、『スバル』の同人らを中心に起こった芸術至上主義的運動で、石井柏亭、北原白秋、木下杢太郎、そしてこの書簡の宛先である長田秀雄らが中心メンバーでした。光太郎の海外留学中に始められ、帰朝後の光太郎も早速参加しています。

明日、お披露目です。

オリジナル フレーム切手「高村光太郎と花巻」の販売開始および完成披露のお知らせ

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 小野木 喜惠子)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。

このオリジナル フレーム切手は、生誕140年を迎える高村光太郎を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。

商品名 高村光太郎と花巻 
販売/受付開始日 2023年3月13日(月)
販売/受付開始日(Web) 2023年3月15日(水)午前 0時15分
申込受付数 400セット
販売郵便局
 岩手県の花巻市,北上市,奥州市,和賀郡西和賀町,胆沢郡金ケ崎町内の郵便局(70局)
 ※上記地域内の簡易郵便局でも販売する場合があります。
商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚) B5台紙 1枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 セット単位で販売します。
販売価格(税込) 1セット 1,690円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、
   販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

贈呈式
 日 時 : 2023年3月10日(金)午後 1時30分~
 場 所 : 花巻市役所 本庁舎本館2階 応接室
 受贈者 : 花巻市長 上田東一(うえだ とういち )様
 贈呈者 : 水沢大町郵便局長 齋藤一志(さいとう ひとし)
 備 考 : 当日は「完成披露」として実施いたします。
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光太郎肖像が切手になるのは、平成12年(2000)に発行された「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集以来です。
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なお、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。あくまで参加者限定ということで、この切手だけ買いに来るというのはお断り申し上げます。

明日には花巻市役所で上田市長に贈呈式が挙行されるとのこと。報道されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞へ登つたのだ。


明治42年(1909)8月28日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

前月には3年半の欧米留学を終えて帰国した光太郎。留学前に何度も登った懐かしい赤城山に早速行きました。

動画配信を予定しているというので、それがアップされたら一緒に紹介しようと思っていたのですが、遅れていますので、見切り発車です。先月、花巻市で開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の報道を。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎はなぜ岩手・花巻へ? 研究家ら対談、宮沢賢治との関連探る

  詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と宮沢賢治(1896~1933年)とのつながりを考える対談「なぜ光太郎は花巻に来たのか」が14日、岩手県花巻市のなはんプラザであった。
 東京を拠点に顕彰活動をする「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明氏(58)と、賢治の弟清六さんの孫でカフェ林風舎(花巻市)社長の宮沢和樹氏(58)が登壇。手記や作品を基に、光太郎と賢治との出会いや互いの印象を紹介した。
 東京大空襲でアトリエを失った光太郎は1945年、賢治の実家に疎開。防空壕(ごう)をつくるよう助言した。和樹氏は「清六は避難に備えて、賢治の原稿や手紙をまとめた。資料が残っているのは光太郎の助言があってこそだ」と語った。
 同年の花巻空襲で宮沢家が焼失した後は花巻市太田に山荘を構え、7年半の隠居生活を送った。小山氏は、光太郎が戦意高揚の詩を創作したことに触れ「多くの若者を犠牲にさせたことに後悔し、自ら罰を与えたのではないか」と推察した。
 対談は光太郎の生誕140年を記念し、太田地区振興会が主催。市民約200人が参加した。
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続いて『岩手日報』さん。

花巻での光太郎追う 生誕140年記念対談講演会

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は14日、同市大通りのなはんプラザで高村光太郎生誕140年記念事業・対談講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」を開いた。
 約200人が参加。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)を研究する小山弘明さん(58)=千葉県=と宮沢賢治(1896~1933年)の実弟・清六さんの孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が対談した。
 光太郎が宮沢家を頼り同市に疎開し、宮沢賢治全集の出版に助力した逸話などを当時の写真も用いて説明。和樹さんは「光太郎先生が(宮沢家の)自宅に防空壕を設けるアドバイスをしたことで、原稿などが花巻空襲を免れた」と紹介した。
 光太郎が花巻で過ごした7年について、小山さんは「戦争に加担する詩を書いた自らを罰する気持で山荘にこもったのではないか」と持論を述べた。
 同市太田の阿部正文さん(73)は「光太郎先生と幼少の頃に会った記憶がある。名作が世に出る秘話が知れた」と満足した。

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『岩手日日』さん。

宮沢賢治との逸話披露 高村光太郎生誕140年記念講演 

  花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)による講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」は14日、同市大通りのなはんプラザで開かれた。高村光太郎生誕140年記念事業として初めて開催され、市民ら約200人が来場。高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(58)と、宮沢賢治の弟清六の孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が、賢治と光太郎が知り合うきっかけや逸話を披露した。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 詩人・草野心平が光太郎に賢治の存在を伝えたことが交流のきっかけになったという。賢治が上京した際、アポイントなしで光太郎のアトリエを訪れたが、小山代表は「(光太郎は)仕事が忙しく、明日また来てくれといって賢治はすぐに帰った。次の日に賢治は来なかった。光太郎もいきなり賢治が訪問してきて、面を食らったのではないか」と推測した。
 光太郎は賢治の実家に疎開した際に、清六に「日本中に爆弾を落とされてもおかしくない。防空壕(ごう)を作るべき」と提言したという。和樹さんは清六に語られた話を思い出しながら「防空壕があったおかげで原稿が戦火から免れた。光太郎先生が祖父に提言しなければ、全て焼けてしまっていた」と説明した。
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動画配信が為されましたら、また改めてご紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。


明治42年(1909)4月4日 高村道利宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、すぐ下の弟・道利に宛てた絵葉書から。この葉書は昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」で展示されました。
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地方局IBC岩手放送さんのローカルニュース番組から。

まずは花巻市の萬鉄五郎記念美術館さんで明日まで開催される「歌人 小田島孤舟」展に関して。ただ、光太郎から小田島宛の書簡等も展示されていますが、それには触れられていませんでした。

「岩手歌壇の父」小田島孤舟の足跡をたどる ふるさとの花巻市で企画展

 数多くの短歌を作り「岩手歌壇の父」とも称される歌人、小田島孤舟の足跡を紹介する企画展が、岩手県花巻市で行われています。
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 1884年に花巻市東和町に生まれた小田島孤舟、本名・理平治は、画家の萬鉄五郎の同級生です。国語の教師の傍ら歌人としても活躍しました。3800を超える短歌を制作し、石川啄木との交流を始め岩手と中央文壇を結ぶ重要な役割を果たしました。
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 花巻市東和町の萬鉄五郎記念美術館で行われている企画展では、孤舟の足跡をたどる関係資料114点が展示されています。
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 中でも萬が描いた孤舟の肖像画や2人の手紙のやり取り、それに歌集の冊子絵などは、萬と孤舟との生涯にわたる友人関係を分かりやすく伝えています。
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 この企画展は2月26日まで開かれています。
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閉幕間際の紹介ですが、このニュースを見て「そんなのやってるんだ」と初めて知った方が今日明日で行かれるということも有りえますね。

もう1件、これも光太郎とは直接関わりませんが、過日亡くなった松本零士氏と花巻のつながりについて。

漫画家の松本零士さん死去 「銀河鉄道」が縁で交流があった岩手・花巻市でも悼む声

 マンガ家の松本零士さんが急性心不全で13日に亡くなりました。85歳でした。松本さんはかつて、代表作「銀河鉄道999」のヒントになった童話「銀河鉄道の夜」を書いた宮沢賢治のふるさと岩手県花巻市を訪れ、子どもたちと交流していました。
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(松本零士さん)
「未来は無限大。無限大の夢が皆さんにはある。どうか、どうか若い人は頑張ってください」
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 松本さんは2012年、「宇宙」をテーマに子どもたちが体験活動を行う、公益財団法人日本宇宙少年団の花巻分団が花巻市に設立されるにあたり、プレイベントとして開かれた交流会を訪れました。「銀河鉄道の夜」を生んだ宮沢賢治のふるさと、花巻市の訪問をとても喜んでいたといいます。
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  松本さんを招待した佐々木和彦さんはこう振り返ります。

(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「タクシーに乗って走りながら景色を見て、『こういう景色がああいう発想を生むんだな』とおっしゃったんですね。つまり(宮沢)賢治の銀河鉄道というイメージが、こういう環境から出るんだなということをおっしゃったのを覚えています」
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 松本さんが初めて「銀河鉄道の夜」に触れたのはスライドの上映だったそうです。
(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「どうしてこういう発想ができるのか、というのがわからなかったと。こういう素晴らしい世界があるのか、という気持ちを持ったというんですね」
 佐々木さんは天上に向かう銀河鉄道に亡くなった松本さんを重ねて冥福を祈りました。
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(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「松本先生も自ら銀河鉄道に乗って、これから楽しい旅をつづけるんだろうなと思っていました。悲しくなりますけど、先生にとっては楽しいんじゃないかなと思います」

松本氏、平成28年(2016)の『サライ』6月号に「銀河鉄道の夜」関連の寄稿をなさっていました。
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改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今日は巴里は大層な濃霧で町が夢の様に見えます。今朝丁度ノオトルダム寺院の南塔の鐘を見に行つて高い上から四方を見た時の心持ちたらありませんでした。それにあのゴオゴイス。どうしても中世期頃の魂がどこかあの建築の中に活きて居て僕らをおびやかして居る様でした。尖塔の尖がつたさきについて居る鉄の鶏が今にも鳴きはせぬかと思はれました。塔のテツペンから下を見て居ると何だか飛び下りて見たくなつて思はずぞツとしました。


明治42年(1909)3月11日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

後の長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)にも通じる内容ですね。「ゴオゴイス」は「Gargouille」、ノートルダム大聖堂を飾る伝説の竜で、現在は「ガルグイユ」と表記されることが多く、「雨にうたるる……」でも「ガルグイユ」となっています。

この書簡と似たような「塔のてっぺんから宙を歩けそうだと思った」的な話を、パリ在住の留学生仲間にも語り、彼らは「高村の神懸かり」と、心配したり揶揄したりしたそうです。

昨日開幕の企画展示です。光太郎の書簡が複数展示されています。

第67回企画展「いわての芸術家の手紙」

期 日 : 2023年2月21日(火)~6月12日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
時 間 : 午前9時から午後6時 まで
休 館 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般200円(160円) 高校生100円(80円) 中学生以下無料
      ( )内20人以上団体料金

 芸術家の手紙は、彼らが創り出した作品とは違った魅力を持っています。 制作の苦労や喜びがつづられた手紙は、 作品への理解を深める手がかりになります。 また、 芸術家の人となりを知ることのできるユーモラスな内容の手紙や、送り手への気遣いを感じる手紙もあります。

 本展では彫刻家の高村光太郎が県立美術工芸学校校長の森口多里に送った手紙をはじめ、深沢紅子、舟越保武といった岩手ゆかりの芸術家の手紙を通して、その業績や作品を紹介します。
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ギャラリートーク
開催日  令和5年3月21日(火曜日) 、令和5年5月23日(火曜日)
開催時間 午後2時から午後2時45分まで
対象   どなたでも
開催場所 盛岡てがみ館 展示室
内容   当館館長と学芸員が展示解説をします。
申し込み 必要
 令和5年3月21日(火曜日)は令和5年3月11日(土曜日)、令和5年5月23日(火曜日)は令和5年5月10日(水曜日)のいずれも午前10時から、電話(019-604-3302)で先着順に受け付けます。
費用   必要 上記企画展と同じ
定員   8人(新型コロナウイルス感染症の状況に応じて変更する場合あり)

同館、『高村光太郎全集』にもれていた光太郎書簡(同館の御厚意により当方編集の「光太郎遺珠」には所収)、多数所蔵されており、これまでもたびたび展示して下さっています。

盛岡てがみ館、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」。
東北レポートその4(盛岡編①)。
盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

また、光太郎詩稿も。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

今回は石川啄木顕彰に功績のあった吉田孤羊、岩手県立美術工芸学校長だった森口多里に宛てた書簡など。いずれもペン書きの気負わない書体ですが、それだけに光太郎の普段着の人柄がにじみ出るようなものです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

外国に参りてより既に三年。しかも業得る所の多くは埃に似たる末技のみ。自らかへりみて深く之を恥ぢ申候。唯以前よりは稍自らを知り得る様になりたるかと存じ、以て心を慰め居る事に御座候。


明治42年(1909)1月25日 平櫛田中宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学も終盤、この年6月には帰国の途に就きます。「業得る所の多くは埃に似たる末技のみ」、謙遜ではなく、実際それに近い感覚だったと思われます。上っ面だけ学んで全てを会得した気になる軽薄な輩と異なり、自分に厳しい光太郎の一面も、大きな魅力の一つです。

花巻レポートの最終回となります。

2月15日(水)、花巻高村光太郎記念館さんを後に、萬鉄五郎記念美術館さんへと向かう道すがら、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ立ち寄りました。
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インフォメーションスペースに新しいパンフレットが置いてありましたので、ゲットして参りました。
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この日はたまたま15日。月に一度、テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんで「光太郎ランチ」が販売される日です。
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夏場ですと千葉の自宅兼事務所まで持って帰るには傷みが心配ですが、この時期なら大丈夫だろうと、この日の夕食用に妻と2人前購入するつもりで参上したところ、メニュー立案等に協力なさっているやつかの森LLCの方がいらして、無料で頂いてしまいました。多謝。

というわけで、妻と二人でいただきました。妻には「わざわざ買ってきたんだぞ」(笑)。
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この日のメニューは、五目御飯に、
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小麦粉焼きパン、
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メインのおかずは鮫のしょうゆ麹竜田揚げ。
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毎月定番の塩麹入り卵焼きも。

さらに、ごぼうの煮付け、切り干し大根の酢の物、白菜の松前和え、たくあん漬け。
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デザート的には干し柿と、光太郎も絶賛した岩手銘菓の豆銀糖。
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妻曰く、「いろいろ入っていて楽しい」「五目御飯がGOOD」「鮫って珍しいね」「干し柿はすごく甘い」「また買ってきて」。

ところで、スマホで撮影しながら食べていると、隙を見て悪い奴が「鮫のしょうゆ麹竜田揚げ」をかっさらって逃亡。「くをらぁ!」と、すぐに奪い返しましたが、いわゆる「イカ耳」状態で「ニャゴニャゴ、ニャー(ずるいぞ、よこせ)」とうるさいので、しかたなく豆粒ほどのひとかけらだけ(笑)。
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結局、二人と一匹でおいしくいただきました(笑)。

その他、道の駅では、当方大好物の林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送。こちらは翌日届き、やはりおいしくいただきました。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

先週巴里へ一寸参り、セザンの妙味をはじめて知り申し候。


明治40年(1907)11月13日 雑誌『方寸』宛書簡より 光太郎25歳

ロンドン在住中、碌山荻原守衛の誘いでパリへ小旅行。守衛とは前年にニューヨークで知り合っていましたし、先にパリに移っていた守衛がロンドンの光太郎を訪ねてきたこともありました。

この際、守衛の習作「坑夫」を見せられた光太郎、「これは凄い、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るように」と進言、守衛もそれに従い、そのおかげでこの作品が世に残ることとなりました。
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セザン」は「セザンヌ」。いずこかの美術館か画廊で初めてその作品を見たのでしょう。

花巻レポートの2回目です。

2月15日(水)、宿泊していた大沢温泉さんをあとに、レンタカーを駆って花巻高村光太郎記念館さんへ。この日も天気は上々でした。
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さっそく館内へ。

市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」、こちらでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』という題で、1月22日(日)まででしたが、パネル等まだ撤去されず、端に寄せられて残っていました。
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宮沢賢治の親友でもあり、戦前から光太郎と交流のあった藤原嘉藤治が、戦後、開拓関連の仕事に従事していたため、光太郎もそれを助け、開拓者を讃える詩を執筆しました。その関連を中心にした構成です。
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当方執筆の説明パネル。
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当方撮影の写真。
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昨年12月、雫石町まで足を伸ばして撮影したものです。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は正規の日程で開催中。
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当方出演の展示解説動画、まだYouTube上で公開中です。

記念館さんを出て、隣接する(100メートルほど離れていますが)高村山荘へ。
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ピークは過ぎたようですが、まだまだ雪深い状態です。
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絵に描いたような氷柱(つらら)。

二重の套屋(カバーの建物)の中に、光太郎が独居自炊の生活を送った粗末な山小屋が保存されています。こんなところで7年間も……と、特にこの季節は胸が締めつけられる思いがします。

大沢温泉さんの駐車場にもありましたが、やはりキツネの足跡。かつて光太郎が見たキツネたちの子孫でしょうか。
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詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルにした詩碑。

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まさにこの季節にぴったりの詩です。全文はこちら。詩碑自体は昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、この碑の前で花巻高村祭が開催されていました。

再びレンタカーを駆り、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。その辺りは明日レポートします。

その後、花巻市東部の土沢地区へ。こちらにはやはり市立の萬鉄五郎記念美術館さんがあり、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として「歌人 小田島孤舟」展が開催中です。
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当初、この日は光太郎の足跡の残る釜石方面へ行こうかと考えていたのですが、「歌人 小田島孤舟」展で、光太郎にちらっと触れているという情報があり、急遽、こちらにうかがいました。
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この地出身の萬鉄五郎は、大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のち「フユウザン会」)で光太郎と共にメンバーだった画家、ここからほど近い旧小山田村生まれの小田島孤舟は石川啄木との関係から『明星』とも関わった歌人で、戦後には光太郎とも交流がありました。この二人、小学校(同館が現在立つ位置)で同級生。長じてからもつながりが続き、小田島が萬に自著の装幀をしてもらったりしていました(そのあたりは存じませんでした)。また、画家になることをめざしていた小田島は、親しい萬の才能に打ちひしがれ、志望を変更したそうです。

光太郎と萬は同じヒユウザン会のメンバーでしたが、あまり仲良くはなかったようです。昭和11年(1936)の回想「ヒウザン会とパンの会」から。

 琅玕洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあつたのは岸田劉生及その友人門下生の一団であつて、私も大体に於て岸田のグルウプであつた。その他、川上凉花、真田久吉、萬鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れてゐた。
(略)
 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となつたのである。


小田島は戦後、光太郎に自著『孤舟歌碑』の序文を依頼し、光太郎もそれに応えています。そのあたりを踏まえ、当方、花巻高村光太郎記念館さん内の常設展示説明パネルには小田島についても言及しました。
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萬鉄五郎記念美術館さんの展示でも、『孤舟歌碑』の序文関係が。
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盛岡市先人記念館さん所蔵の、光太郎から小田島宛の葉書2通(ともに昭和22年=1947)。かつて同館の御厚意により、当方編集の「光太郎遺珠」で紹介させていただきました。
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さらに『孤舟歌碑』序文の原稿。全文は『高村光太郎全集』第8巻に収録されていて、写しでしたが、初めて拝見。「ほほぉ」という感じでした。
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「歌人 小田島孤舟」展、2月26日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

レンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

新花巻駅待合室には、大沢温泉さん同様、おひな様。鹿踊りバージョンも。
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明日は、途中、すっ飛ばした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん関連を。

【折々のことば・光太郎】

昨夕引越し申候。 ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。


明治40年(1907)10月19日(推定) 南薫造宛書簡より 光太郎25歳

6月にニューヨークからロンドンに渡った光太郎ですが、ロンドンの中でも転居しています。

ポリテクニツク」は、美術学校ではなく、一般人が通う技芸学校。当初はザ・ロンドン・スクール・オブ・アートという美術学校でデッサン等を学んでいました(ここで陶芸家となるバーナード・リーチと親しくなりました)が、あまり学ぶものがないと考え、ポリテクニックに移りました。

父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格を得、毎月60円の給与が出るようになった代わりに、家具や室内装飾などの応用美術の調査報告が義務づけられたことも関わるかも知れません。

宛先の南薫造は留学仲間の画家です。
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昨日まで1泊2日で、光太郎の第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

2月14日(火)、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りて花巻市街へ。晴れていましたし、覚悟していたより雪が少なく、ラッキーでした。この日は宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏令孫の宮沢和樹氏(林風舎代表取締役)との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でした。主催は光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻市太田地区振興会さん。地元の皆さんも、光太郎と賢治のつながり等、あまり詳しくないので、ぜひそのあたりを知りたい、ということで実現しました。

会場はJR東北本線花巻駅近くのなはんプラザさん。
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もと、「銀河鉄道の夜」のモデルの一つとされる岩手軽便鉄道の駅があったあたりです。

目の前は「いとうや」さん。かつての光太郎御用達の食堂。建物は建て替わっていますが。
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ロビーでは、ご協力下さったやつかの森LLCさんによる出店。
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講師控え室の窓から。始まる頃には雪がちらつき始めました。
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会場内。
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平日ということで、入りを心配していたのですが、ほぼ満席。ありがたし。
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約1時間半、和樹氏と対談。
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和樹氏、これまでもあちこちでご講演をなさっています(当方も一度拝聴しました)ので、手慣れたものです。当方も今回はパワーポイントの操作等もなく、一人でしゃべりっぱではないので楽でした。また、昨年12月、打ち合わせ的に、和樹氏と主催の太田地区振興会の方々、そして当方で「こんな話をしたらいいんじゃないの」という意見調整をしておきましたので、それが功を奏しました。

内容的には賢治と光太郎、お互いの評価や影響、唯一二人が出会った大正15年(1926)12月の話、賢治没後の光太郎や当会の祖・草野心平らによる賢治顕彰の始まり、詩人・永瀬清子も関わる「雨ニモマケズ」の発見、賢治の父にして和樹氏令曾祖父・政次郎の骨折りによる戦時中の光太郎花巻疎開、和樹氏令祖父・清六氏と光太郎の交流、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際のエピソード、戦後の光太郎の旧太田村への移住などなど。

ただ、太田村での話は今回あまり触れないようにという主催者側の要望でした(そのあたりはまた次の機会に、と考えられているとのこと)ので、おおむね戦時中までの話に終始しました。

最後に質問の時間を取りましたが、仕込み無しで多くの方から質問が寄せられ、並々ならぬ興味を持って聴かれていたんだなというのがよくわかりました。深謝。

のちほど動画配信等もあるようです。詳しくは連絡を受けてからご紹介します。

その後、一旦、宿泊先の大沢温泉自炊部さんに行き、チェックイン。
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途中、車を駐めて撮影した夕日。
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昨年12月は満室で泊まれなかったのですが、今回は早めに予約を入れたので大丈夫でした。

チェックインをし、荷物を置いてまたすぐ市街へ出て、慰労会。楽しいひとときでした。

宿に帰って一風呂浴びて就寝。部屋はこんな感じでした。
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翌朝。晴れていたので助かりましたが、外気温は-9℃。温暖な房総に暮らしている身にはこたえました(笑)。
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かつて定宿としていた江戸時代竣工の菊水館さん。現在は宿泊棟としては休業中です。
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フロント隣の休憩スペース的な座敷。桃の節句が近いので、ひな飾り。いい感じですね。
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朝風呂を堪能し、チェックアウト、駐車場へ。

おそらくキツネの足跡でしょう。
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夜の間に軽く降雪。こうなることを見越してワイパーを立てておきました。
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この時期、北国のレンタカーにはブラシが常備されていますのでこの程度の積雪は恐るるに足らず(笑)。

まず花巻高村光太郎記念館さん、そして隣接する高村山荘へ。その辺りは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小生先月上旬英国倫敦に移住仕り相変らず頑健に罷在候間乍憚御休神被下度候。


明治40年(1907)8月9日 加藤景雲宛書簡より 光太郎25歳

1年4ヶ月過ごしたアメリカを後に、ロンドンに移りました。

大西洋を渡る際には、のちにかのタイタニックを就航させるイギリスの船会社、ホワイトスターラインの豪華客船オーシャニックに乗ったことを、10年ほど前に突き止めました。

こちらは昨年入手した令和元年(2019)刊行の洋書です。
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光太郎第二の故郷、岩手県花巻市に来て、現在、光太郎も愛した大沢温泉さんにおります。

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昨日は花巻市街で、宮沢賢治実弟の故・清六氏令孫にあたる宮沢和樹氏と公開対談でした。

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今日は光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんなどを訪れるつもりです。

詳しくは帰りましてから。

手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか

期 日 : 2023年2月14日(火)
会 場 : なはんプラザ COMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(先着200名限定)

高村光太郎が花巻に来て、78年。光太郎生誕140年。そして、「道の駅はなまき西南」が愛称「賢治と光太郎の郷」としてオープンしたこと等をきっかけに、改めて、果たしてなぜ光太郎は花巻に来たのか? 大きな理由は宮沢賢治の育った土地であるから? そのことだけなのか?一体どのような誘引力が働いたのか? おおまかな話は知っているつもりだが、真相は? もう少し掘り下げたイキサツを探ってみたいという地域の皆さん方の素朴な疑問を解明するべく、対談を企画したところです。

講 師 : 宮沢和樹氏 株式会社林風舎代表取締役 宮沢家当主
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
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宮沢家と光太郎のつながりを軸に、賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏と当方で対談を行います。

昨年、事前打ち合わせを行いまして、その後主催の太田地区振興会さんから「こんな項目で」と提示されているのが以下のような感じです。

・賢治と光太郎、そもそもの接点 ・お互いのお互いへの評 ・光太郎の北方志向
・光太郎の「三陸廻り」 ・宮沢政次郎/宮沢清六から見た光太郎
・佐藤隆房/草野心平/黄瀛の役割 ・大正15年、賢治と光太郎最初で最後の会見


細かくシナリオを決めているわけではないので、これらからさらに話があちこちに飛ぶこともあろうかと思われますが、こんな流れです。

現地は雪深い時期、さらに平日ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫塑室と其中に候ひし小生の書斎昨暁全焼いたし、書類は固より筆一本紙一枚も残らず焼け失せ申し候。……父上のも小生のも製作品皆灰燼、未だ初雪も無之内から、ちと大きなる焚火にて候ひき、その夜の凄さ、之も材料に候、

明治35年(1902)12月22日『明星』掲載の書簡より 光太郎20歳

光太郎がまだ実家に居た頃、祖父の隠居所を改装してアトリエとして使っていましたが、木彫制作で出たおが屑や木っ端に、不始末だったストーブの火が燃え移って火事になってしまいました。

この季節、皆様も火の要心を。

光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を2件。

まず花巻市役所さんから、新たに高村光太郎記念館さんのPR動画を作成したというお知らせを頂きました。

2分足らずの短いもので、早速拝見。
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「山口山の四季」と題されていました。「山口山」は光太郎が蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)裏手の山です。そこから先が奥羽山脈、まさに「山口」です。

この地で光太郎が書いた詩「案内」(昭和25年=1950)、「山のともだち」(昭和27年=1952)に乗せて、四季折々の画像。
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いい感じですね。

リンクを貼っておきます。ぜひご覧下さい。



もう1件。

去る1月29日(日)に開催された「令和4年度高村光太郎記念館講座 光太郎のそば粉おやつ教室」の画像等も届きました。

人が集まるかな、と心配していたのですが、杞憂に終わったようで、5組の親子12名様がご参加下さったそうです。
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講師を務められたやつかの森LLCさんの方からのメールの一節。

子供達は、材料の計量に慎重な手つきで、お母さんたちが見守ります。粉袋フリフリ、卵、ヨーグルト、コメ油混ぜ混ぜ、それを合わせてモミモミ。カップに絞り、ブルーベリーのトッピング。そば粉の焼パンは、光太郎レシピでおなじみのそば粉にみそ、重曹を入れてフライパンで焼くところを見学し、バターと黒蜜をかけて試食しました。そば粉の香ばしい香り、もちもちした食感と想像を超えたおいしさに皆さん感動した様子でした。これをきっかけに光太郎に興味を持ったというお母さんの言葉に、私たちは嬉しい気持ちでいっぱいになり、まだまだ頑張れる元気をもらいました。

こういうアプローチもありですね。継続しておこなっていただきたいものです。

明日も花巻系の情報をお届けします。

【折々のことば・光太郎】

小生の駄作今更紙面を汚したるを悔みて慙汗とゞめがたく候。


明治37年(1904)10月30日 与謝野寛宛書簡より 光太郎22歳

光太郎の短歌も載った雑誌『明星』の受贈に対する礼状の一節です。4年前の明治33年(1900)から断続的に光太郎短歌が誌面を飾っており、そこで「今更」。

色鉛筆と思われる絵が描かれています。
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こちらも現在、25万円で売りに出ています

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんより、画像を頂きました。同社でメニュー考案にご協力なさり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。猫の七福神が宝船に乗って、正月らしさを演出していますね(笑)。
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お品書きは、赤飯、白米、焼き鮭、豚肉のトマトケチャップ煮、とろろ芋の酢醤油ブロッコリー添え、赤かぶの酢漬け、塩麹入り卵焼き、デザートはパイナップルの罐詰とリンゴのコンポートだそうです。

赤飯に白米で紅白の彩り。なるほど。豚肉のトマトケチャップ煮には人参と玉葱、もち麦が入っているそうです。

毎月のことですが、光太郎日記からの引用文等を印刷したリーフレットもついています。これで税込み800円とのこと。

毎月のメニューの考案も中々大変だと存じますが、末永く愛され続けて欲しいものです。

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ひる頃草野心平氏くる、写真アルバムについての質問いろいろ、今宿屋にかんづめの由、

昭和31年(1956)2月19日の日記より
 光太郎74歳

写真アルバム」は筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。前年から当会の祖・草野心平が編集、解説文の執筆にあたり、光太郎が歿しておよそ2週間後の4月20日に刊行されました。心平、何としても光太郎存命中に仕上げたかったようで、「宿屋にかんづめ」。その甲斐あってか、光太郎が歿する2日前にゲラを見せることができたそうです。

成人年齢が18歳へと引き下げられたのに伴い、「成人式」という呼称が使われなくなりつつあるようですね。

地方紙『岩手日日』さんから。

感謝と決意胸に 花巻市 20歳のつどい 新たな門出晴れやか

  花巻市の2022年度20歳(はたち)のつどい(市主催)は7日、同市若葉町の市文化会館で開かれた。成人年齢の引き下げを受け、成人式から名称を変更して行われ、スーツや色鮮やかな振り袖に身を包んだ今年度20歳になる市民が、記念撮影をするなどして新たな門出を祝った。
 対象者950人のうち686人(男性360人、女性326人)が出席。式典の部では国歌斉唱と対象者代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が式辞、藤原伸市議会議長が祝辞を述べた。
 上田市長は式辞で高村光太郎の代表作「道程」の一節「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」を贈り、「一歩一歩進むことで道ができる。新たな未来を切り開く出発点に立つ今、目指す自分を思い描き、信念と決意を持って苦難に負けず、自分の道を進んでほしい」と前途を期待した。
 対象者を代表して2人が決意を述べ、記念事業実行委員会の金野渉真委員長(矢沢中出身)は「今の目標は花巻のために自分自身がプレーヤーとして活躍し、未来を創造すること。目標をかなえるために来年度から岩手の大学に編入し、より実践に近い形で花巻と向き合いたい。そして支えてくれた家族や友人、恩師、花巻に恩返しをしていきたい」と誓った。藤原千咲副委員長(西南中出身)は「実行委員会の活動を通して楽しませる喜び、達成感を知ることができた。この経験から誰かを楽しませたいという人生の目標が見えてきた気がする。一歩踏み出し挑戦すればきっかけをつかめる」と力を込めた。
 式終了後は「咲かせよう~最幸(さいこう)の未来の花巻を~」をテーマに記念行事が行われたほか、出身中学校ごとに記念写真を撮影した。
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おそらく全国でおこなわれた同様の催しに於いて、首長さんなり来賓の方なりのご挨拶等で、「道程」などの光太郎詩の引用が他にもあったのではないかと思われますが、やはり光太郎第二の故郷ともいうべき花巻で、というところに大きな意味があると思います。

上田市長、平成31年(2019)の成人式でもやはり「道程」を引用されてご挨拶なさいましたが、お父さまが光太郎と交流がおありだった方のそれは、ずしりと来るような気がしますね。また、参加された20歳の方々の曾祖父母、祖父母のみなさんの中には、やはり光太郎と交流があったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

何にせよ、これからの花巻を背負って立つ皆さんの門出ですし、全国に目を向ければ、この国の将来を託す皆さんの門出でもあります。

幸多からんことを!

【折々のことば・光太郎】

后「地上」の人くる、丸山義二氏筆記、談話一時間、


昭和31年(1956)1月16日の日記より 光太郎74歳

地上」は雑誌名、「丸山義二」は兵庫県生まれの農民作家です。3月発行の『地上』第10巻第3号に「春を告げるバツケ」の題で、この日の二人の対談が掲載されました。「バツケ」は「バッケ」、岩手の方言でフキノトウのことです。その題の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)までの、花巻郊外旧太田村での独居自炊の生活について語られています。丸山も農民作家だけあって、話の引き出し方が的確でした。

活字になった数ある対談のうち、これが光太郎生涯最後のものとなりました。

期日的には少し先の話ですが、〆切りの日程が迫っておりまして……。

令和4年度高村光太郎記念館講座「光太郎のそば粉おやつ教室」

期 日 : 2022年1月29日(日)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 午前10時30分から正午 まで
料 金 : 1,000円程度(材料代、保険料)
対 象 : 花巻市在住の小学生とその保護者5組(抽選)
       注)きょうだいなどの場合は1名まで同行できます
締 切 : 1月6日(金)
申 込 : 定員をこえる場合は抽選となります。
      定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
      次のいずれかの方法でお申し込みください。
      花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
      専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

高村光太郎にちなんだおやつを親子で作る講座です。そば粉を使ったカップケーキを作り、光太郎と食について学びます。

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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の関連行事です。

光太郎が昭和20年(1945)秋から、花巻郊外旧太田村の山小屋で始めた蟄居生活。光太郎は、米よりも入手しやすいそば粉を使ってパンを作ることを思いつきます。味噌を加え、重曹をいれて焼いてふくらませ、もらい物のバターや黒蜜などをつけて食べてみると、なんとも美味しかったようで、繰り返しこれを作って食べていました。

講師はやつかの森LLCの皆さん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」や、花巻のタウン誌『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」のメニュー考案をなさっている方々です。それらでもそば粉のパンは取り上げられていました。

対象は花巻市内ご在住の方に限るようですが、他の自治体等の皆さん、こういう取り組みもあるよ、ということで、ご参考までに。

明日もグルメ系の話題をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、「花霞」売出しの木版びらを持参、大正十二年のものらし、

昭和30年(1955)11月6日の日記より 光太郎73歳

宮崎丈二」は詩人。この頃、よく光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れていました。「「花霞」売出しの木版びら」は、関東大震災直後、光太郎が智恵子の実家の福島長沼酒造から銘酒「花霞」を取り寄せ、にわか酒屋を始めた際に撒かれたものです。

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宮崎がどうやってこんな古いものを入手したのか、そのあたりは謎ですが。

岩手から学会情報です。

岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会

期 日 : 2022年12月22日(木)
会 場 : 岩手大学学生センターA棟1階G19教室 岩手県盛岡市上田3-18-8
       & オンライン(WebExウェビナー使用)
時 間 : 17:00~18:00
料 金 : 無料

講 師 : エリック・ブノワ 氏(ボルドー・モンテーニュ大学教授/フランス文学)
      中里まき子氏(岩手大学人文社会科学部准教授/フランス文学)
演 題 : 高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら

 講師は、本学部と交流協定を結んでいるフランスのボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏(フランス文学)と本学部准教授の中里まき子氏(フランス文学)です。
 主たるトピックは、昨年中里氏がブノワ氏の協力を得てフランスのボルドー大学出版から上梓なさった、高村光太郎『智恵子抄』の仏訳版 Poèmes à Chieko についてです。まず、中里氏による日本語での講話、次にブノワ氏によるフランス語の講話(通訳は中里氏)という構成となります。
 今回はコロナ禍下ではありますが、講師方のご希望により、対面とオンライン併用のハイフレックス形式での開催となります。会場へ直接お越しいただく場合もオンラインでの申込が必要となりますので、下記、ご確認宜しくお願い申し上げます。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
 なお、コロナ禍拡大の影響により、オンラインのみの開催となる可能性もあります。その節は速やかに大学および学部HPやML等でお知らせいたします。悪しからずご了解ください。

☞【登録リンク】
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仏訳智恵子抄『 Poèmes à Chieko』は、昨年4月に刊行されました。それを記念して、今回と同じく訳者の中里まき子氏、エリック・ブノワ氏によるご発表「『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって」が、日本比較文学会東北支部さんの「第23回比較文学研究会」の中で、昨年7月に行われています。

今回はさらに宮沢賢治もからめてのお話になるとのこと。オンラインでの試聴も可だそうです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

<夕方モデルさんくる 結婚後はじめて、元気なり、>


昭和30年(1955)8月19日の日記より 光太郎73歳

「モデルさん」は旧姓藤井照子。昭和27年(1952)から翌年にかけ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。結婚を機にモデル業はやめ、品川の方に住んでいたようです。以前から書いていますが、いまだご存命なのかどうか、不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。


昨日のこのブログ、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の件、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の件につきましてご紹介しました。

すると、午後になって、『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんの最新号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊以来、「光太郎レシピ」という連載が続いています。「光太郎ランチ」同様、やつかの森LLCさんのご協力で、光太郎の日記や書簡、周辺人物の証言などから、光太郎が食べたメニューを現代風にアレンジして紹介するものです。ちなみに表紙の焼きおにぎりは関係ありません(笑)。

今号はこちら。「カブとインゲンのブルイエとヴァンショー(ホットワイン)」だそうで。
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もう1件、グルメ系で。

今年2月に、通販会社・フェリシモさんから「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」が発売されました。〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉を含む4セット(他に〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉)で、申し込むと毎月1セットずつ届く(バラ売りはなく、届く順番もフェリシモさん任せ)というシステムです。

004一般のお店で取り扱いが始まりました。もしかすると複数のお店で販売されているかも知れませんが、当方が情報を得たのは横浜桜木町のSTORY STORY YOKOHAMAさん。JR桜木町駅を出てすぐの「コレットマーレ」さん5階にある、老舗書店の有隣堂さん系列の書店兼雑貨店です。上記4セット以外にも、それ以前からフェリシモさんで出していた「日本近現代文学の世界へ 文学作品イメージティー」の4セット(〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉)も販売されています。

過日、都内に出た際に桜木町まで足を伸ばし、〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉と、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉を買い込んで参りました。バラで複数ずつ買えるというのがありがたいところです。
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〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉は以前にもいただきましたが、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉は初。「苹果(りんご)が香る」ということでしたが、フレーバーはきつくなく、爽やかな感じでした。
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複数点ずつ購入して参りまして、ギフトにも使っております。皆様も是非お買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ラジオで日米水泳をきく、

昭和30年(1955)8月6日の日記より 光太郎73歳

「日米水泳」は「第4回日米対抗水上競技大会」。「フジヤマのトビウオ」と称された古橋廣之進らが出場し、神宮水泳場、さらに大阪でも開催されました。

光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、今月販売分の画像が届きました。
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今月のメニューは青豆入り麦飯、白六穀ご飯、チキンステーキ、ロール白菜、いか大根、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、お新香、焼きりんごだそうです。意外とヘルシーな献立かな、という気がしました。

グルメ系でもう1件。

高村山荘と隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」、今月初めに現地に赴き、展示解説の動画撮影に臨みましたが、先週、公開されました。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説①

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説②

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説③

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計40分ほどを3本に分割しています。何とまぁ、かなりの手間だったと思いますが、字幕をつけて下さったので、当方の顔より字幕の方をご覧になって下さい(笑)。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は来年3月21日(月)までの開催です。

ところで、同時開催されている花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」について、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

先人の偉業知って スタンプラリーも 市内5施設共同企画展

 2022年度花巻市共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は、市内五つの文化施設で開かれている。各施設が花巻ゆかりの先人らを取り上げ、偉業への関心や古里への愛着を育む。期間中はスタンプラリーなどのイベントもある。2023年1月22日まで。

 花巻新渡戸記念館(高松)、萬鉄五郎記念美術館(東和町土沢)、市博物館(高松)、市総合文化財センター(大迫町大迫)、高村光太郎記念館(太田)の5館が連携した企画展。

 花巻新渡戸記念館では十和田市の開拓に貢献した新渡戸稲造の父十次郎、萬鉄五郎記念美術館では石川啄木らとともに活躍し、同級生だった萬とも生涯を通じて交遊があった東和町出身の歌人小田島孤舟、市博物館では杣(そま)やマタギなど山をなりわいの場とした人々、市総合文化財センターでは早池峰山の植物研究に関わってきた先人、高村光太郎記念館では光太郎の詩「開拓に寄す」などを紹介している。

 14日には、市民ら22人が参加して共同企画展開催の5館を巡るツアーが行われ、各館の企画展担当者による展示解説や調査研究の成果に耳を傾けた。市博物館の松橋香澄学芸調査員は「山をなりわいの場とした人の暮らしや道具を紹介する展示。名前は伝えられていないが、今につながる暮らしをつくった先人たちを知ってほしい」と話していた。

 スタンプラリーは、開催館5館中3館のスタンプを集めると記念品がもらえる。残る2館と協賛館1館のスタンプでさらに記念品が入手できる。協賛館は宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館。記念品の受け取りは開催館のみ。

 問い合わせは市文化会館=0198(24)6511=へ。

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こちらは来年1月22日(日)までの会期です。

もう現地は雪に包まれる日が多くなっていますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕食は桑原氏紹介の神田淡路町の支那料理「好々」の出張料理、女将来て料理す、北京料理、皿数多くして中西氏宅一同にてくふ、アトリエに桑原氏とくふ、中々美味、

昭和30年(1955)7月24日の日記より 光太郎73歳

4月末からこの月初めまで、宿痾の肺結核のため赤坂山王病院に入院していた光太郎。結局、治癒は難しいとのことで中野の貸しアトリエに戻って療養。食慾は衰えず、この日は中華料理に舌鼓。「中西氏宅」は貸しアトリエの大家、「桑原氏」はそちらと親しかった美術史家・桑原住雄です。

12月3日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの、企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説動画撮影を終え、市街に戻りました。

宿泊先は在来線花巻駅前の商人宿。なんだかんだでここに泊まるのも7、8回目でしょうか。このブログを始めてからも5回目です。
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チェックインし、一休みした後、道路を挟んで向かいのグランシェール花巻さんへ。
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改装中ということで、シートに覆われていました。

来年2月14日(火)、こちらに隣接するなはんプラザさんでのイベントの打ち合わせ。詳細はまた後ほどご紹介いたしますが、主催は太田地区振興会さん。「太田地区」というのは、光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った旧太田村です。宮沢賢治実弟の清六の令孫・和樹氏と当方で、賢治と光太郎の接点、光太郎の花巻疎開の経緯などについて、2時間近くの公開対談。そこで、太田地区振興会の役員の方々、和樹氏も交え、夕食を頂きながら打ち合わせでした。

翌朝チェックアウトし、あいにくの雨の中、レンタカーを北に向けました。目指すは盛岡の西に位置する雫石町です。

花巻高村光太郎記念館さんでは、開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」と並行して、花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」で、『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、光太郎と開拓農民たちとの交流などをテーマにしたミニ展示を行います。

メイン展示物は、最近寄贈された、昭和25年(1950)に旧太田村で蟄居中だった光太郎が作った詩「開拓に寄す」の光太郎直筆高を精密印刷したもの。光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭で参会者に配付されました。当時としてはなかなかの出来で、直筆と見まごうものです。そこで、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出たことがあります。依頼人は直筆と信じていたようで……。しかし、印刷ということで1万円ほどでした。また、以前に寄贈されたものは令和元年(2019)から翌年にかけ、花巻市総合文化財センターさんで展示されました。

で、雫石町に、やはり同じ書をブロンズパネルに写して嵌め込んだ石碑があるという情報を得まして、この際だから見ておこうと思った次第です。

東北自動車道を盛岡ICで降り、北西方向へ。目指すは長山地区の開拓記念公苑というところ。岩手山の山麓というか中腹というか、そんな感じです。

途中に有名な小岩井農場さんがありました。そういえば、賢治ゆかりの地です。
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当方、学生時代に訪れたことがあり、懐かしく思いました。もっとも、今回は立ち寄りはしませんでしたが。

このあたりから雨は霙まじりとなりまして、やがて……。
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さらに北上して開拓記念公苑に近づくと完全に雪。それも大雪となりましたが、ともかく到着。
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一帯は民家もほとんどありません。なぜこんなところに公園的なスペースを造ったのか、という感じでした。

公苑内には多くの石碑や石仏が。
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目指す碑は、「戦後開拓50周年記念」という名称でした。
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平成7年(1995)の竣工のようです。

光太郎詩「開拓に寄す」のブロンズパネル。
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「おお」という感じでした。

この詩の中の一節を写した碑は、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村にも建てられています。前日に撮っておいた写真。
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「太田開拓十周年記念」碑。昭和51年(1976)の建立です。

さて、開拓記念公苑には「拓魂」碑という碑もありまして、昭和45年(1970)にこの碑が造られたのがこの公苑の始まり的な……。こちらは開拓25周年記念だそうで。
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碑の裏面に、やはり光太郎詩「開拓十周年」のブロンズパネル。
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「開拓十周年」は、昭和30年(1955)の作。やはり盛岡で開催された記念式典に寄せて作られた詩で、5周年の「開拓に寄す」同様に光太郎筆跡を写した印刷物が配布されたそうです。そこからさらにこの碑面を作ったのでしょう。

この詩の印刷物は県外の開拓関係者にも配付されたそうで、現在の福島県南相馬市小高地区には、この詩を読んで感激した平田良衛という人物によって、配付されたその年(昭和30年=1955)にこの詩の全文を刻んだ碑が建てられました。ただ、筆跡は地元の書家のもので、おそらく碑に写すことも光太郎の許可を得ていなかったのではないかと思われます。まぁ、それでも光太郎生前に建てられた数少ない光太郎詩碑の一つということにはなるのですが。

二つの詩とも、「開拓」とまでは行かないものの、太田村の山小屋前に畑を開墾し、まがりなりにも農業に取り組んで野菜類はほぼ自給していた光太郎の作だけあって、実体験に基づいた具体的な記述がなされています。光太郎が蟄居生活を始めた後、山小屋近くに開拓地がひらかれ、そこの住民とも親しく接した光太郎は、彼らから聞かされたの体験談も盛り込んだのでしょうし。決して机上で生まれた詩ではないということです。そこで開拓関係者たちの心を揺り動かしたのでしょう。

そういえば、光太郎と親しく交流していた画家の深沢省三・紅子夫妻子息の故・竜一氏が開拓に携わり、昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。その際には好物の牛乳を一升も飲んだそうで(笑)。場所的には旧西山村、この公苑のある長山地区もかぶります。光太郎もこの辺に来たんだなぁ、と、感慨深く思いました。

雪の開拓記念公苑を後に、下山。やはり小岩井農場近くで霙、さらに下ると雨。岩手山、おそるべしでした(笑)。

盛岡駅前でレンタカーを返却、帰途に就きました。
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さて、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は12月10日(土)から。並行しての企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は開催中です。ぜひ、花巻高村光太郎記念館さんまで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来食事は中西夫人が作りくれる、 ひるワラサ切身2 ヒジキ、


昭和30年(1955)4月17日の日記より 光太郎73歳

昭和27年(1952)の帰京後も、基本的に自炊していた光太郎ですが、宿痾の肺結核のため、そろそろ自炊も不可能になりつつありました。「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さんです。

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