カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 彫刻

一昨日になりますが、愛知県小牧市のメナード美術館さんに行って参りました。
 
現在、同館では「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」を開催中です。
 
イメージ 1

 
イメージ 2
 
「近代日本洋画」といいつつ、彫刻や海外作家の作品も展示されています。チラシの表に印刷されていますが、光太郎の木彫「鯰」、そして「栄螺」も。下記画像は同館発行のポストカードです。
 
イメージ 3
 
同じく現在愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に、この2点も並べさせて欲しかったのですが、メナードさんの「開館25周年記念 コレクション名作展」の目玉の一つとしたい、という意向でかないませんでした。まあ、仕方がないでしょう。
 
で、一昨日はこちらを観て参りました。当方、これを目にするのは10年ぶりでした。他の光太郎木彫にしてもそうですが、面の取り方、刀痕の冴えなど、舌を巻くような技術です。その技法がいやらしく目に付くことがなく、出来上がったものは実物以上に実物に見えます。
 
光太郎以外の出品物。下記が出品目録ですが、錚々たるメンバーの作品が並び、光太郎と交流のあった作家も多く、興味深く拝見しました。
 
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

同展は12/23(月・祝)まで。
 
さて、同館を後にし、少し小牧市内を散策しました。館への道々、あちこちにのぼりが立っており、「小牧山城築城450年」とのことでした。織田信長が築き、後に徳川家康が小牧・長久手の戦で布陣した城ですね。行ってみました。
 
イメージ 8
 
うっかり写真を取り忘れましたが、なかなかの眺望でした。
 
その後、刈谷市で一泊、昨日は碧南に参りました。そのあたりは、また明日。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月24日

大正6年(1917)の今日、雑誌『週』に散文「巨匠ロダン翁」を発表しました。

18日に亡くなったロダンの追悼談話です。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

昨日から一泊で愛知でした。只今、帰りの新幹線車中です。

昨日は小牧市のメナード美術館さんに行って参りました。現在開催中の所蔵品展「近代日本洋画 時代を代表する巨匠たち」に、同館所蔵の光太郎木彫「栄螺」と「鯰」が展示されているためです。

そして今日は碧南の藤井達吉現代美術館さんへ。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏の講演がありました。

なかなか有意義な二日間でした。詳しくは帰ってからレポートします。

【今日は何の日・光太郎】 11月23日

昭和11年(1936年)の今日、花巻羅須地人協会跡地に、光太郎揮毫になる宮澤賢治「雨ニモマケズ」詩碑が除幕されました。

花巻市の東方、宮沢賢治記念館近くにある花巻市博物館で、来月から以下の企画展が開催されます。

共同企画展 ぐるっと花巻再発見! 佐藤隆房展―醫は心に存する― 

期 日 : 平成25年12月1日(日)~平成26年2月11日(火・祝)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休館日 : 12月28日から1月1日まで
料 金 : 小、中学生 150(100)円 高、学生 250(200)円 一般 350(300)円
 
 花巻における近代病院の礎となった花巻共立病院。(現【公財】総合花巻病院)を創立し、花巻の先進医療化に寄与するとともに、町政・市政へ多大な貢献をされた佐藤隆房博士。
また、宮沢賢治、高村光太郎など花巻ゆかりの文人と広く親交を持ち、芸術・文化の世界にも深い理解と造詣を有した一面もありました。
今回の展覧会では、御子息の佐藤進氏、(公財)総合花巻病院の全面的な御協力のもと、医師としての活動、市政功労者としての活動、文化・芸術の理解者、庇護者としての活動、さらに乗馬や狩猟、俳句・絵画など趣味人としての活動等、佐藤隆房博士を多角的に顕彰・紹介していきます。(同館サイトより)
 
イメージ 1

佐藤隆房医師は、宮澤賢治の主治医。その関係で、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
この企画展では、おそらく光太郎関連の品々もいろいろ展示されると思われます。これから雪深い時期となりますが、雪の花巻も乙なもの。また、今年5月にリニューアルとなった花巻郊外の高村光太郎記念館も、かつては冬期間閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月8日

平成9年(1997)の今日、洋画家・難波田龍起が歿しました。
 
難波田は北海道旭川の生まれ。幼少時に父の仕事の都合で東京に移り、数え9歳の時に駒込林町の光太郎アトリエのすぐ裏に転居。十代の頃から詩を携えて光太郎アトリエに出入りしていました。その後、光太郎の勧めもあって洋画の道に進んでいます。往年は連翹忌にも参加していました。

もう1日、愛知碧南でのネタを書かせていただきます。
 
先日、藤井達吉現代美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展開会式・内覧会での出来事です。当方、まず正面玄関でなく地下1階の裏口的な所から入り、地階で木本文平館長や来賓の方々とお話をさせていただいてから、1階の開会式会場へ参りました。
 
すると、横切った正面玄関前に、ほぼ等身大のブロンズ彫刻がありました。光太郎像です。「こんなところにこんなものが」と驚きました。
 
イメージ 1
 
012光太郎展会場ですから光太郎像があってもおかしくはないのですが、今までに見たことのない光太郎像で驚いたわけです。ただ、その時は人が多く、また開会式が間もなく始まるのとで、近くでじっくり見られませんでした。
 
さて、内覧会後、問題の像に近寄ってよく見てみました。すると、光太郎像と思ったのは当方の早とちりで、藤井達吉の像でした。
 
左は晩年の光太郎の写真ですが、よく似ていると思いませんか。
 
禿頭、丸眼鏡、和服にちゃんちゃんこ……。ただし藤井像、よく見ると見事な髭があり、そこは違っていました。
 
同時代の交流があった芸術家同士、やはり似てくるものなのだな、と思いました。
 
「やはり」というのは理由があります。
 
やはり光太郎と同時代の歌人・斎藤茂吉と光太郎もその晩年の風貌が似ている、と、これは比較的よく言われることです。
 
下の画像は昭和21年(1946)2月の『週刊朝日』の記事です。「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」という題での、山形に疎開していた茂吉と、花巻郊外太田村の光太郎の訪問記です。
 
イメージ 3
 
右の方に双方を拡大してみましたが、いかがでしょう。似ていますよね。上が茂吉、下が光太郎です。
 
話は変わりますが、開会式での木本館長のご挨拶の中で、光太郎が稀代の雨男である旨のお話がありました。
 
そのとおりで、光太郎はその生前、人生の節目節目に必ずといっていいほど雨、もしくは雪に見舞われています。
 
欧米留学に旅立った明治39年(1906)2月3日・雪。智恵子との結婚披露宴の大正3年(1914)12月22日・真冬にも関わらず土砂降り。十和田湖畔の裸婦像除幕式の昭和28年(1953)10月21日・雨。その終焉の日の昭和31年(1956)4月2日・春の大雪……数え上げればきりがありません。高村家でもそれは有名で、光太郎が何かやるときには雨や雪が降るので、「お印が来た」と言っていたそうです。
 
光太郎歿後もそれが続き、4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です。実際、昨年も今年も雨でした。その他、当方が光太郎顕彰に本格的に取り組んだ昨年から、光太郎がらみで遠出すると、本当に必ずといっていいほど雨か雪です。
 
開会式での木本館長のお話。今年の連翹忌が雨、碧南の前の巡回先だった岡山井原の田中美術館での開会式が雨、館長が再び井原に出向いての「日曜美術館」ロケの日も雨、ところが碧南での今日の開会式は晴れ。館長は晴れ男だそうで、「私が勝ちました」とおっしゃっていました。実際その日は朝からいい天気でした。
 
ところが内覧会が終わって、先の藤井達吉像を見ていると、館長が笑いながら近づいてきて、「やられました」。何事かと思ったら、外は雨。これには驚きました。天気予報では降水確率10パーセントぐらいっだったはず。光太郎、意地を見せました(笑)。
 
さて、明日は二本松の大山忠作美術館で開催中の「五星山」展での記念イベント、有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーに行って参ります。
 
天気はどうなることやら……。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月3日

明治32年(1899)の今日、光太郎をかわいがってくれた祖父・兼吉が歿しました。
 
光太郎の彫刻作品に、祖父・兼吉のレリーフがあります。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展にも並んでいます。

今日から「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで一般公開が始まります。
 
昨日は開会式・内覧会ということで、お邪魔して参りました。

013
 
ここに行くのは初めてでした。名古屋から東海道本線、名鉄線を乗り継ぎ、碧南駅から館まで歩きました。意外と駅から近く助かりましたし、古民家等が残る街並みがいい感じでした。館のすぐ近くには歴史のある味醂工場などもあるようで、再訪の際には街並み探訪もしてみようと思いました。
 
着くと、担当学芸員の土生和彦氏が出迎えて下さいました。館長室にて木本文平館長、それから6月から8月、同展が最初に公開された千葉市美術館の河合正朝館長もいらしていて、お話を伺いました。千葉展は結局2万人近くの方がいらしたそうでしたし、2館目の岡山井原市立田中美術館も、「日曜美術館」の放映後に入館者数が跳ね上がり、1万人以上とのこと。藤井達吉現代美術館も問い合わせ等非常に多いそうです。ありがたいかぎりです。
 
午後3時半から開会式。木本館長のごあいさつや来賓祝辞、担当学芸員の紹介などがあり、テープカットも行われました。
 
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
 
その後、2階の会場へ。3館目ともなると、どのような展示の工夫をしているのかと、そちらがまず気になりました。
 
イメージ 5
 
入り口には巨大なパネル。今回はポスター、チラシ等、木彫の「柘榴」をメインに使っています。昨日もいらしていましたが、株式会社アーティカルの小島邦康氏の力作です。
 
会場は3室に分かれており、1室目はブロンズ彫刻が中心。光太郎以外にもロダンや荻原守衛など周辺作家の作品もあって、比較ができます。
 
2室目の前半は木彫が中心。鏡を使って「蟬」の腹部が見えるようにしてあったり、木彫を包んでいた袱紗や布を一緒に展示したりという工夫がされていました。ブロンズ同様、同時代の光雲や佐藤朝山の作品も並んでいます。2室目後半は光太郎晩年にスポットを当て、十和田湖畔の裸婦像試作などが中心でした。
 
1階の3室目は智恵子紙絵が26点並ん014でいます。面白いなと思ったのは、通常、壁に垂直に掛ける智恵子の紙絵を、展示ケースを使って床と水平に置き、いろいろな角度から観られる点。22点は壁に垂直の展示ですが、4点だけこのように展示しています。紙絵なので2次元の作品と思われがちですが、厚さコンマ何㍉ながら紙の重なりが感じられる展示方法でした。
 
また、同館は美術普及教育的な部分にも力を入れているそうで、子供向けの工夫も随所にされていて感心しました。入り口には「キッズガイド」というA4判二つ折りの冊子があり、それと対応して、いくつかの展示作品の低い位置に子供向けのキャプションが設置されています。小さい頃からいいものを観ることは大切だと思います。
 
さらに4室目として常設展。館の名前に冠されている藤井達吉の作品が展示されています。藤井は光太郎と縁の深かった工芸家。藤井については明日のこのブログで詳しく書きます。
 
会期は12月15日まで。月曜休館ですが、基本的に午後6時まで開館しています。何度も書いていますが、この機会を逃すと、これだけの光太郎彫刻が集められる機会がまたいつあるかわかりません。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月1日

大正10年(1921)の今日、雑誌『明星』が復刊。光太郎は詩「雨にうたるるカテドラル」を寄稿しました。
 
「雨にうたるるカテドラル」は、パリ留学中に訪れたノートルダム寺院をモチーフにした長い詩(93行)です。壮大なゴシック建築、そこに刻まれた数々の歴史、それをとりまくイル・ド・フランスの空気、さらにそれと対峙する自己の姿を鮮やかに描き出しています。
 
光太郎は粘土で彫刻を作り、木で彫刻を作り、そしてこの詩のように言葉で彫刻を作ったとも言われています。

6月に千葉市美術館さんを皮切りに始まった「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展。8月には岡山井原市の田中美術館さんに巡回、先週日曜日に閉幕しました。
 
そしていよいよ今週金曜日、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで開幕します。
 
さて、同じ愛知県の小牧市にあるメナード美術館さんでは、「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」が開催中です。
 
同館は常設展示は行わず、企画展のみ。時々このように館蔵名作展的なものを行っています。
 
「近代日本洋画」とタイトルにありますが、彫刻や西洋の絵画も展示されています。その彫刻作品の中に、光太郎の木彫「栄螺(さざえ)」と「鯰」があります。
 
栄螺」は永らく行方不明で、もはや失われてしまったとまで思われていたのが、平成15年に70余年を経て所在が明らかになったものです。

 
イメージ 3
 
「鯰」は現在3点の現存が確認されています。メナードのものは我々の世界では分類整理上「鯰3」とナンバリングしています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、千葉で「鯰2」、井原で「鯰1」と「鯰2」が展示されました。今度の碧南では「鯰1」のみ展示されます。それに対しての「鯰3」です。
 
イメージ 1
 
「鯰1」は個人蔵。「鯰2」は竹橋の東京国立近代美術館所蔵。そして「鯰3」がメナード美術館蔵というわけです。
「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展で、ぜひとも3尾の「鯰」を一堂に会させたかったのですが、こればかりは所蔵者の方々の都合もあり、どうしようもありません。
 
というわけで、碧南の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、メナードの「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、併せてご覧下さい。ただ、同じ愛知県内ですが碧南~小牧は2時間近くかかるようです。
 
ちなみに「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、日本洋画は岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、小出楢重、梅原龍三郎、熊谷守一、長谷川利行、佐伯佑三……まだまだメジャーな名前が続きます。西洋の作品もセザンヌ、モネ、ゴッホ、ピカソ、マチス、シャガール、ヴァン・ドンゲン、ルオー、ブラマンク……。彫刻の部も光太郎以外に高田博厚、佐藤忠良、舟越保武(すべて光太郎に関わる彫刻家です)。
 
会期は12/23までです
 
【今日は何の日・光太郎】 10月29日

昭和9年(1934)の今日、編者として名を連ね、装幀や題字を担当した文圃堂版『宮沢賢治全集』の刊行が開始されました。
 
イメージ 2
 
編集実務は草野心平。毎日のようにこのブログに心平の名が出てきますが、それだけ光太郎との縁が深かったということですね。

先日、このブログ内の【013今日は何の日・光太郎】で、十和田湖畔の裸婦像(通称「乙女の像」)除幕式について書きました。

そちらが昭和28年(1953)の10月21日ということで、今年は60周年を迎えたわけです。そこで、地元・十和田では60周年を記念して、いろいろと顕彰活動が行われています。
 
例えば記念講座
 
 
さらに智恵子忌日・レモン忌へのご参加。

などなど。
 
来年には「子供たちにも理解できるもの」ということで、マンガによるガイド本の作成が企画されているそうです。
 
当方、レモン忌会場にて十和田の皆さんの知遇を得、お手伝いをすることとなりました。
 
その関係で、「研究の資料となれば」ということで、十和田市のまちづくり支援課様からDVDが送られてきまして、早速拝見しました。
 
驚きました。なんと昭和28年10月21日に行われた、裸婦像除幕式の模様を撮影した動画が入っていたのです。
 
元は青森県の社会教育センターに保管してある16㍉フィルムで、約8分間の動画です。はじめは同じ日に除幕された奥入瀬渓谷・銚子大滝の佐藤春夫詩碑除幕の様子。続いて裸婦像除幕式の模様でした。
 
残念ながら音声はないのですが、銚子大滝でも十和田湖畔でも、立って歩いて喋っている光太郎の姿が映っています。
 
光太郎が写っている動画としては、同じ年にブリヂストン美術館が作成し、翌年公開された「美術映画 高村光太郎」というものがあり、こちらは有名です。先日のNHKさんの「日曜美術館」でも、「こういうものがありますよ」とお教えし、番組内で使ってもらいました。それが唯一、生前の光太郎の写った動画だろうと長らく思っていたところに、除幕式の動画があったということで、非常に驚いたわけです。
 
戦時中の大政翼賛会中央協力会議を撮影した動画も現存しますが、光太郎が中心に写っているカットはないようで、写っているとしても隅の方だと思われます。
 
ちなみに除幕式の動画には、佐藤春夫、谷口吉郎(裸婦像台座設計者)、津島文治(太宰治実兄・当時の青森県知事)、藤井照子(裸婦像制作時のモデル)、そして草野心平の姿も。銚子大滝のカットでは、心平、足下の覚束ない佐藤春夫の手を引いて歩いています。佐藤春夫碑についてはこちら
 
DVDが届いたのが川内村の「かえる忌」前日で、当方講演の中に心平と光太郎の交流の一つとして裸婦像の件も話す予定でしたので、不思議な縁を感じました。
 
当日の光太郎のスピーチが載った青森県の『教育広報』の存在を知ったのも数年前ですし、同時に地元紙などに載った光太郎郎談話もいくつか見つけてはいます。ただ、まだまだ地元にはこの手の資料が眠っていそうな気がするので、これを機に調べてみようと思っています。
 
ところで裸婦像。先週の『デーリー東北』さんで紹介されました。 

十和田湖畔に紅葉シーズン到来(2013/10/23 08:49)

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔が紅葉シーズンを迎え、全国から訪れる観光客らが木々の色づきを楽しんでいる。十和田湖国立公園協会によると、22日現在は5割程度。見頃は今月末まで続く見込みだ。
 同日の休屋地区は曇りで時折小雨がぱらついた。湖畔のシンボルで建立から60周年を迎えた高村光太郎作による乙女の像周辺の樹木も黄や赤に染まり始め、観光客を引き付けていた。
 乙女の像と同じ〝還暦〟を記念し、夫婦で旅行に訪れた埼玉県上尾市の会社員赤尾友康さん(60)は「秋に来たのは初めて。すごくきれい」と喜んだ。
 
イメージ 2
 
本当に、多くの人でにぎわってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月28日

昭和62年(1987)の今日、草野心平が文化勲章受章者に選定されました。
 
心平がらみのネタが続いたところで、今日のこのエピソード。これも不思議な縁を感じます。
 
たびたびこのブログでご紹介している二本松出身の画家・大山忠作も文化勲章受章者ですが、氏の伝記『安達太良の虹―大山忠作伝―』(2012 栗城正義著 歴史春秋社)によれば、福島県出身の文化勲章受章者は5人しかいなかったそうです(今年、郡山出身の磁気記録工学研究者・岩崎俊一氏が選定されたので6人目)。そのうち2人が光太郎と縁があるというのも面白いですね。

京都から展覧会情報です。 

皇室の名品-近代日本美術の粋-

 
イメージ 1
 
会 期 : 2013/11/9(土)~2014/1/13(月・祝)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町(岡崎公園内)
入場料 : 当日一般1,300円 学割・前売り割引あり
 
記念イベント
11/16(土) 記念講演会 「皇室と日本近代工芸」 京都国立近代美術館学芸課長 松原龍一
11/23(土) 記念鼎談 「皇室が護り育てた日本近代美術」
       大原美術館長 高階秀爾・前京都国立近代美術館長 尾﨑正明・
       宮内庁三の丸尚蔵館研究官 太田彩
12/14(土) 記念講演会 「皇室と明治の美術」 東京芸術大学 古田亮
同展サイトから
 本展は、代々の皇室に引き継がれてきた美術品群が国に寄贈されたことを受け、平成5(1993)年に開館した宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する美術工芸品の中から、選りすぐった近代以降の作品約180点を、六つの章に分け体系的に紹介するものです。日本画の横山大観、竹内栖鳳、油彩画の高橋由一、彫刻の高村光雲、七宝の並河靖之、金工の海野勝珉など、内国勧業博覧会や万博への出品作、御成婚や御即位を祝して制作された作品など、皇室ゆかりの名品が一堂に会します。
 本年12月に天皇陛下は傘寿を迎えられます。その佳き年と、京都国立近代美術館の開館50周年、宮内庁三の丸尚蔵館の開館20周年が重なりました。各館の記念事業の一つとして、皇室とは特別にゆかりの深い京都の地で、皇室が守り育んでこられた、まさに近代日本美術の粋をご観覧いただけるまたとない機会となります。
 
上記チラシにも載っていますが、光雲の作品も展示されます。
 
大正13年(1924)の作、「松樹鷹置物」。宮内庁001の三の丸尚蔵館に所蔵されているものです。ただし後期のみの展示となっていました。前期は11/9~12/8、後期が12/11~1/13で、前後期でかなり展示品の入れ替えがあるようです。
 
他には以下の通り。
「鶴亀置物」 
 明治40年(1907) 竹内久一との合作 後期
「萬歳楽置物」 
大正5年(1916) 山崎朝雲との合作 前期
「猿置物」 大正12年(1923) 前期
「矮鶏置物」 明治22年(1889) 後期
 
光雲と皇室との関連は深く、明治20年(1887)の皇居造営の際に内部の装飾彫刻を手がけたのを皮切りに、同23年(1890)には帝室技芸員に任命、同26年(1893)には皇居前広場に建つ楠木正成像原型を完成させ、その他、何度も御前彫刻を仰せつかっています。
 
せっかくの機会ですので、足をお運び下さい。当方も「松樹鷹置物」が並ぶ後期に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月22日

昭和17年(1942)の今日、詩人の風間光作、西山勇太郎と群馬県宝川温泉湯ノ小屋を訪れました。
 
この時、宿の主人・鈴木重郎の日記帳に言葉を書き残しています。

昨日、智恵子の故郷、二本松に行って参りました。数えてみたら今年に入って5回目でした。5回目にして初めてといっていいくらいの快晴で、安達太良山がよく見えました。
 
イメージ 1
 
まずは二本松駅前の市民交流センターでの「智恵子講座'13」の第4回。6月の第3回では当方が講師を務めましたが、昨日は受講の方に回りました。
 
昨日の講師は福島県立美術館・主任学芸員の久慈伸一氏。今年は講座全体のテーマが「高村光太郎に影響を与えた人々」という題で、昨日はロダンと荻原守衛についてのお話でした。
 
イメージ 2
 
その後、天気が良かったので、車は交流センターにおいたまま歩いて霞ヶ城(二本松城)まで行きました。有名な「二本松の菊人形」が開催されていたからです。
 
今年は地元・福島も舞台にしていたNHK大河ドラマ「八重の桜」がメインで、多くの観光客でにぎわっていました。
 
イメージ 5

イメージ 6
 
綾瀬はるかさん演じる山本八重の人形、顔が綾瀬さんそっくりに作ってありました。
 
その後、市民交流センターまで戻りました。センター3階には二本松出身の日本画家・大山忠作の作品を集めた「大山忠作美術館」があります。「智恵子に扮する有馬稲子像」「霧(高村智恵子)」など、智恵子をモチーフにした絵も複数あり、以前にも何度か訪れたことがあります。
 
こちらでは先週の土曜日から企画展「五星山」展が開催されています。
 
「五星山」とは、東魁夷・高辰雄・平郁夫・加又造・大忠作。すべて文化勲章を受章した日本画家です(全て故人)。
 
イメージ 8

イメージ 7

以下、同館のサイトから、大山忠作長女の大山采子さん(女優・一色采子さん)のメッセージです。
 
2011年3月11日、私達は日本人は未曾有の災害にみまわれました。
 
殊に福島県はあってはならない原発事故により、12市町村が生まれ育った郷里を追われ避難を余儀なくされました。
 
福島県にある人口約6万人の二本松市に建てられた小さな美術館も地震の被害を受け、その美術館が含まれている市民交流センターも被災者の一時避難場所となり、 今なお二本松市は浪江町をはじめ多くの方々の受け入れ地となっております。
 
この小さな美術館に”山”のつく現代の巨匠達の作品を一同に介し、それを被災された方々、福島の方々、そして日本の方々に見ていただくことが出来たら どんなに素敵だろうという夢を抱いて立ち上がった企画が、この「五星山展」です。
 
時代・団体を超えて小さな田舎の美術館に集まった作品は、まさに日本人としての「絆」の象徴であり、日本国から最高の栄を浴された先生方のお作品を 一同に味わえるこの幸せは、被災された方々また多くの日本の方々に強い感動と日本人としての誇りと希望を抱いていただけるものと確信しております。
 
どうかこの小さな田舎町から発信する想いにご賛同戴き、是非ともご支援・ご協力を賜りたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。
                         「五星山展」実行委員会委員長 大山采子

関連行事として、以下の通りになっています。
 
記念講演会 「大山忠作と戦後日本画の巨星たち」
開催日時:平成25年10月27日(日) 午後2時~
講師:福島県立美術館館長 早川博明氏
 
トークショーⅠ
片岡鶴太郎トークショー「流れのままに」
平成25年10月19日(土) 午後2時~
 
トークショーⅡ
有馬稲子トークショー 「私と《智恵子に扮する有馬稲子像》」
平成25年11月4日(月・祝) 午後2時~

問い合わせ先 「五星山展」PR委員会二本松事務局(岳温泉観光協会) TEL:0243-24-2310
 
鶴太郎さんは上記チラシにも使われている「五星山」の題字を揮毫されました。有馬さんは昭和51年(1976)に新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じ、同館の目玉作品の一つで今回も展示されている「智恵子に扮する有馬稲子像」はこの際に描かれたものです。
トークショーは有馬さんと一色さんの豪華共演です。
 
当方、11/4のトークショーのチケットを手に入れ、そちらにうかがいます。そこで、昨日はオープン直後で人も多かったし、展覧会自体も11/4にゆっくり見ようと思っていたのですが、思いがけず昨日も一色さんがいらっしゃり、しかも一色さんによるギャラリートークがあるというので、予定を変更して拝見して参りました。
 
イメージ 4
 
一色さん曰く、「一粒で五度おいしい」。それぞれの画家の特色がよく表されている作が集められていること、同じモチーフ(富士山や牡丹)をどのように描きわけているかの比較ができることなどを指しています。そのとおりでした。全体の点数はあまり多くないものの、これだけのビッグネームの作品を一度に(しかも400円で(笑))観られるのはたしかにめったにない機会です。
 
しかし、一色さん、さすが女優さんです。人前で話すことには慣れていらっしゃいまして、ギャラリートークも非常にわかりやすく、面白く、さらにさすが大山画伯のお嬢さん、造詣の深さにも感心しました。
 
当方、ギャラリートーク終了後には、あつかましくも一色さんを呼び止め、いつものように連翹忌の営業をして参りました。
 
今年に入ってからも以下の方々に営業活動を行いましたが、来年の連翹忌で何人釣れるでしょうか(笑)。
フルート奏者の吉川久子さん宇宙飛行士の山崎直子さんNHKの伊東敏恵アナシンガーソングライターの北村隼兎さんなどなど。
 
ところで、「五星山展」。キャッチコピーは「心の復興支援」。経済的な部分だけでなく、と謳っているのが素晴らしいと思います。日展、院展、創画会と、会派も違う五人の巨匠の作品を集めるのにはいろいろ面倒な問題もあったと思いますが、出品作家それぞれのご遺族なども、「そういうことなら」と、こころよくご協力して下さったそうです。
 
「五星山展」PRサイトのキャッチコピーは「展覧会に行くという復興支援がある」。実際、昨日も二本松の街を歩いていて、まだまだ復興途上というのを痛感しました。
 
イメージ 9   イメージ 3
 
 皆さんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月15日

大正元年(1912)の今日、読売新聞社三階で第一回ヒユウザン会展覧会が開かれました。
 
光太郎は「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」の油絵四点を出品しました。智恵子の出品も予定されていましたが、実現しませんでした。一説によるとふさわしい額縁が入手できなかったとのこと。
 
同人には岸田劉生、木村荘八、万鉄五郎、斎藤与里らがおり、彼ら自身はあまり意識していなかったようですが、メディアでは「反文展美術家の大同団結」と騒がれました。結果的には、アカデミズムに依らない新しい美術の潮流を作ったという意味で美術史上重要な展覧会でした。

現在、岡山県井原市の田中美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。11月からは愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に巡回となります。
 
過日、同館よりチラシその他届きました。
 
イメージ 1

イメージ 2
 

 
以下、同館サイトから。 

生誕130年 彫刻家高村光太郎展 

会期   平成25(2013)年 11月1日(金)から 平成25(2013)年 12月15日(日)まで
 
観覧時間
10:00-18:00 ※11月9日(土)は21時までの夜間特別開館
 
休館日
月曜日(ただし11月4日は開館し、翌11月5日は休館)
 
観覧料
一般700(560)円  高校・大学生500(400)円  小・中学生300(240)円 ※()は20名以上の団体
 
関連行事
 
■記念講演会① 
日 時 2013年11月16日(土) 午後2時~3時30分
講 師 土生 和彦 (当館学芸員)
内 容 「木彫家・高村光太郎」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)

■ 記念講演会② 
日 時 2013年11月23日(土) 午後2時~3時30分
講 師 水沢 勉 氏 (神奈川県立近代美術館 館長)
内 容 「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ ミュージアムコンサート 
日 時 2013年11月9日(土) 午後7時~8時
内 容 光太郎の詩の世界を歌曲で味わってみませんか。当日は展覧会場も午後9時までの夜間特別開館となります。
作 曲  野村 朗 氏
演 奏  森山 孝光 氏(バリトン) 森山 康子 氏(ピアノ)
定 員   100名 (定員になり次第締切)
曲 目  歌曲「冬の言葉」(詩:高村光太郎) 連作歌曲「智恵子抄」(詩:高村光太郎)
参加費 無料(展覧会場観覧には別途観覧料が必要です)
場 所 美術館1階 ロビー

■ワークショップ
日 時 2013年12月1日(日) 午前10時~午後4時
内 容 「塑像に挑戦!光太郎の手を作ろう」
彫刻家が作った「手」の作品は、本物以上に表情豊かで迫力があります。自分の手と一日じっくり向かい合い、粘土で手を作りましょう。
講 師 小島 雅生 氏(造形作家・東海学園大学 准教授) 
対 象 小学3年生~中学生
定 員 10名 (定員になり次第締切)
参加費 500円
持ち物 昼食、汚れてもよい服装
場 所 美術館地下1階 創作室

【講演会、コンサート、ワークショップ申込方法】  2013年10月22日(火)午前10時より受付を始めます。お電話にて、①氏名、②住所、③電話番号、④参加人数をお知らせください(先着順)。
tel 0566(48)6602
 
■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います(約30分)。
日 時 11月: 2日(土)、9日(土)、30日(土)  12月: 7日(土)、14日(土) 午後2時より
予約不要 観覧券をお持ちの上、美術館2階ロビーにお集まりください。
 
過日のNHKさんの「日曜美術館」の反響として、実物を見てみたい、というのを多く目にしました。この機会にぜひどうぞ。特に木彫の数々は、この機会を逃すと次はいつ見られるか分かりません。
 
ところで、岡山井原展の方も、今月20日まで開催中ですのでよろしく。

【今日は何の日・光太郎】 10月12日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹の新詩社刊行の雑誌『明星』に、初めて作品が載りました。
 
「大我小我」という欄に載った短歌五首です。
 
君が文よみつつをればそれとなくゆかしき人の息の香ぞする
君こよひ来べしとききて人知れずかきし障子の歌を消すかな
実の二つ成りし無花果(いちぢく)けさ見れば一つはあらで歌むすびあり
里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな
それゆゑに智恵を忘れんものならば筆も我折らむ書(ふみ)も我裂かむ
 
与謝野晶子の「みだれ髪」にも通じる、いかにも『明星』の星菫調ですね。ただし、光太郎初期のものは、鉄幹の添削がかなり入っているということで、後に光太郎自身、この時期のものは自分の作とは言い難いと発言しています。

10/6(日)、福島は二本松旧安達町地区で行われた智恵子忌日の集い「レモン忌」。昨日も書きましたが、青森は十和田から、22名もの皆さんが参加なさいました。
 
レモン忌に来られる前に花巻の山荘や記念館を観てこられたとのこと。熱心ですね。当方が説明ボードを執筆したと言ったら驚かれていました。
 
なぜ十和田から大挙して? ということになりますと、今年は光太郎作の「十和田湖畔の裸婦像」(乙女の像)が建立されて60周年ということで、彼の地ではいろいろと記念事業的なところに取り組まれている、その一環としての研修旅行的な意味合いだそうです。
 
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトに、「レモン忌」のレポートがアップされています。
 
その席上、いろいろな情報やらお土産やらをいただきましたのでご紹介します。
 
まず情報。
 
「乙女の像建立60周年記念事業」とのことで、残念ながら先月で募集は終わってしまいましたが、像に通じる湖畔の遊歩道の愛称募集が行われていたそうです。
 
こういう募集があったとは存じませんでした。まだまだ情報収集力が足りません。反省しました。
 
イメージ 1
 
遊歩道にフットライトを設置、像まで行ける時間を延長したそうです。いずれ愛称が決定したらまたお伝えします。010
 
その他にも、こちらはこのブログで以前にご紹介しましたが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが中心となって、裸婦像の背景を探る講演などの「ろまんヒストリー講座」が行われています。来年には講演の内容などをまとめた書籍を発行したいとのことでした。
 
ところで、5月頃、当方自宅兼事務所に東京のイベント会社から、今年の秋に裸婦像に関わる企画展を行いたいとの協力要請の電話がありましたが、その後、なしのつぶてでした。どうなっているのかな、と思っていましたところ、企画展示の案は予算の都合で立ち消えになったとのこと。残念です。
 
十和田の皆さんからはお土産もいただきました。奥入瀬源流水のペットボトルです。ありがとうございました。
 
もったいなくてなかなか飲めません。キンキンに冷やして飲む、珈琲を淹れるのに使う、などと考えています。
 
それから、10/1には日本郵政さんの東北支社で、オリジナル フレーム切手『十和田湖畔「乙女の像」建立60 周年記念』が発行されたとのこと。

 
イメージ 3
 
 
「レモン忌」会場に20セットほどお持ち下さり、希望者に販売して下さいました。通信販売は行って居らず、青森県内の郵便局でしか手に入らないとのこと。これはレアです。これこそもったいなくて使えません。
 
ちなみに50円が10枚。ですから額面500円なのですが、頒価は900円。日本郵政さん、商売がうまいですね(笑)しかしネット販売等に対応すれば売り上げはもっと伸びるような気もするのは素人考えでしょうか。
 
というわけで、今回のレモン忌では、二本松の皆さんと十和田の皆さんの交流が実現しました。さらに花巻の皆さんも含め、東北圏で交流を深めていきたい由。すばらしいお考えだと思いました。出来ることはどんどん協力していこうと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月8日
 
昭和13年(1938)の今日、駒込林町のアトリエで、智恵子の葬儀が執り行われました。
 
イメージ 1

 
3年後の昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』が刊行されますが、おそらくそのための書き下ろしとして、この日のことを謳った詩「荒涼たる帰宅」が作られました。
 
  荒涼たる帰宅011
 
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
感情を表す言葉を一切排除し、淡々と経過を追っています。逆にそれだけに光太郎の空虚感がクローズアップされています。
 
この後、戦後になるまで、発表された詩の中に智恵子が謳われることはなくなります。
 
愛する者の死を謳い、愛する者に別れを告げ、「詩人」としての光太郎も、一度、死にました。この後はひたすら空虚な戦争詩のオンパレードとなっていくのです。

岩手からイベント情報です。 

岩手大学ミュージアム10周年記念事業 大学収蔵美術展 ~教材としてのアートの魅力~

期間:2013年9月27日(金)~11月3日(日)
会場:岩手大学情報メディアセンター(図書館) 盛岡市上田3-18-8
入場無料
 
イメージ 1
 
岩手大学さんの美術・デザインコース(特設美術科)で教材として提示するために収集された美術品を一般公開するというものです。
 
光太郎の代表作「手」も含まれているとのこと。
 
以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同じ型から鋳造したりということで、複数存在するものがあり、「手」も全国に10点以上あるのではないかと思われます。
 
他にサモトラケのニケや萬鐵五郎の作品なども展示されているようです。
 
同大の特設美術科は、光太郎と交流のあった盛岡出身の画家・深沢紅子、美術史家の森口多里(水沢町出身)らが昭和22年(1947)に開いた岩手美術研究所を母体としているそうで、のちに岩手美術工芸学校、そして岩手大学特設美術科へと発展していったとのこと。
 
光太郎は花巻時代に美術工芸学校で講演を行ったり、卒業式などには祝電を送ったりしています。当方、この頃森口に送った葉書を5通所蔵しています。
 
というわけで、光太郎と縁浅からぬ岩手大学さんで、光太郎の作品も展示されているイベント。お近くの方はぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月4日

昭和28年(1953)の今日、後楽園に「ホリデイ・オン・アイス」を観に行きましたが、満員で入れませんでした。
 
「ホリデイ・オン・アイス」といえば、アメリカのフィギュアスケーターによるアイスショーで、当方が子供の頃(昭和40年代)、テレビのCMもやっていた記憶があります。昭和20年代にすでに日本公演があったというのは驚きでした。
 
光太郎、この後しかたなく草野心平が経営していた居酒屋「火の車」に出かけています(笑)。

昨日、渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6(日)放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録を観るためです。

イメージ 2
 
司会は伊東敏恵アナと俳優のARATA改め井浦新たさん、ゲストは美術にも造詣の深い作家の平野啓一郎氏でした。
 
驚いたのは、ほとんどぶっつけ本番だということ。収録本番前に軽くリハーサルもあったのですが、それも「カメラ戻し」―VTRが終わってスタジオの映像に戻ること―のタイミングの確認ぐらいで、実際のトークは撮り直しを一切せず、一発収録でした。
 
お三方とも、光太郎・智恵子についてよくお調べになっていたようで、話ははずみ、結局カメラが回っていたのは1時間近くだったでしょうか。45分の番組中、VTRが約30分、逆算するとスタジオでの部分は約15分ということになります。お三方のお話の部分もこれから編集し、それくらいの時間にまとめるとのこと。つまり放映されるのはスタジオでのお話の約3分の1というわけです。いろいろいいお話だっただけに、残念な気もします。逆に言うと、当方は全部のお話が聴けてラッキーでした。
 
約30分のVTRもよくできていました。8月からの短期間でよくぞこれだけ作ったという感じです。ネタバレになるのであまり細かくご紹介できませんが、千駄木や品川、花巻や十和田など光太郎ゆかりの地の映像、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館木本館長、高村光太郎記念会事務局長北川太一先生の的確な談話、そして花巻時代の光太郎の思い出ということで、花巻高村記念会理事の浅沼隆さんのお話がありました。その他、当時の写真や動画(昭和29年=1954、ブリヂストン美術館作成の美術映画『高村光太郎』から抜粋)、そして井原市立田中美術館で実際にいろいろな角度から撮影された光太郎彫刻の数々……十分ネタバレになっていしまいました、すみません(笑)。
 
伊東敏恵アナのナレーション、バックに流れる音楽も素晴らしく、これぞテレビの持つ威力、という気がしました。Vを観終わる頃にはなぜか涙が出そうになりました。
 
ただ、番組全体の方向性が、どちらかというと彫刻の技法やら美術史上における位置づけといったことよりも、人間・光太郎に突っ込んだ作りになっており、特にサブタイトルにもあるとおり、智恵子との関わりがかなり深く追求されています。その意味では「日曜美術館」といいながら、彫刻や美術史の専門家の方々には不満の残る内容かも知れません。
 
しかし、これは一般向けのテレビ放送であって、学会での研究発表等ではありません。スタジオでのお話も、出演者の方々それぞれの個人としてのご発言ということで、お考え下さい。当方のような立場の人間がああいう発言をすると問題があるかな、という部分もあります。ですが、一般向けに光太郎智恵子の世界を紹介するには、十分すぎる内容だと思います。
 
惜しむらくは45分という時間の枠ですね。また別の機会に「日曜美術館 高村智恵子」または「高村光雲」、さらには他の番組でも取り上げられることを期待します。
 
さて、昨日発売のNHKさんのPR誌『NHKウィークリーステラ』で、今回の放送について1ページ、紹介が載っています。一般書店でも販売されています。前田敦子さんの表紙が目印です。ぜひお買い求め下さい。
 
イメージ 1
 
【今日は何の日・光太郎】 10月3日

昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』で、光太郎の紀行文「三陸廻り」の連載がスタートしました。
 
実際に旅したのは8月から9月ですが、その旅の間に留守を預かる智恵子に統合失調症の症状が顕在化したそうです。日本という国時代も泥沼の戦争に向かう時期。光太郎にとって大きな転機の時期の始まりです。

次の日曜日(10/6)、午前9時からNHK Eテレで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。が放映されます。 

日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像

NHK Eテレ 2013年10月6日(日)  9時00分~9時45分
       再放送
 10月13日(日) 20時00分~20時45分
 
『智恵子抄』で知られる高村光太郎。今回は、日本の近代彫刻を切り拓いた偉大な彫刻家としての人生に注目する。傑作誕生の陰には、妻・智恵子との知られざる物語があった。

番組内容

まっすぐに天をさす人差し指。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻「手」。日本近代彫刻のれい明期を告げる作品の作者は、「智恵子抄」で知られる高村光太郎だ。明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれ、フランス留学をきっかけに独自の彫刻を模索。そんな光太郎を支えたのが妻・智恵子の存在だった。最晩年の大作など傑作の数々を紹介しながら、生涯を智恵子の面影と共に生きた、彫刻家・高村光太郎の実像に迫る。

出演者

  • 出演 芥川賞作家…平野啓一郎,
  • 司会 井浦新,伊東敏恵

同番組の公式サイトにも詳細情報がアップされました。

 
イメージ 1
 
まっすぐに天をさす人差し指、呼応するようにほかの指は内側に力強く折り込まれていく。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻『手』。日本近代彫刻のれい明期を告げるこの作品、作者は『智恵子抄』の詩で知られる高村光太郎(1883~1956)だ。

明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、将来を約束された日本彫刻界のプリンスだった。しかし、東京美術学校・彫刻科在学中に近代彫刻の父・オーギュスト・ロダンの存在を知り、日本独自の近代彫刻を創造する決意をする。フランス留学を経て帰国した光太郎は先鋭的な活動をスタート。旧態依然とした日本の美術界を徹底的に批判し、どこまでも理想を求める中で孤独を深めていくようになる。そんな光太郎を絶望の淵から救い出し、一変させたのが妻・智恵子との出会いだった。「智恵子の純愛に接し、退廃生活から救い出された」と語る光太郎は、以後、智恵子ともに手に手を取り合って、彫刻に打ち込み、数々の作品を生み出していく。

しかしその幸せは長くは続かなかった。智恵子の死、戦争、そして戦争賛美の詩人というレッテル・・・。さまざまな紆余曲折の中で、一生を通じて智恵子の面影とともに生きた彫刻家・高村光太郎。その実像に迫っていく。
 
アドバイザーとして番組制作に関わらせていただきましたが、驚きました。何に驚いたかというと、45分の番組を制作するのにここまでこだわるか、という姿勢です。
 
担当ディレクター氏からは3日にあげずメールやら電話やらが入り、質問攻勢でした。たとえば……
 ・ 光太郎が生まれた旧下谷区西町3番地の現在の正確な番地は。
 ・ 光太郎がロダンの存在に衝撃を受けたことを示す文筆作品というと。
 ・ 光太郎が死んだはずの智恵子とビールを飲んだというエピソードがあるようだが、その出典は。
 ・ 光太郎の木彫作品の制作過程にどのような試行錯誤があったのか。
 ・ 木彫作品を入れていた袋や袱紗は智恵子が縫ったという説があるが本当か。
 ・ 智恵子が懐に入れて歩いたという木彫作品は特定できるか。
 ・ 『青鞜』創刊号の智恵子の表紙絵は何を描いたものか。
 ・ 光太郎がパリでロダンの「考える人」を実際に見た事が証明できるか。
 ・ 智恵子が好きだった花は。
などです。
 
担当ディレクター氏曰く「五月雨式」にそれらの質問が矢継ぎ早に来て、その都度分かる範囲のことはお答えしました。「豚もおだてりゃ木に登る」というわけで、「この度の番組制作では、そちらがいてくださるだけで、どれだけ心強いかわかりません。本当にありがとうございます。」という言葉にまんまとのせられてしまいました(笑)
 
それにしても、「事実ではないことは盛り込みたくない」ということで、かなり細かい点まで突っ込まれています。その姿勢には感心しました。昨今、番組制作の在り方についていろいろ批判が起こることがありますが、この番組については素晴らしいと思いました。
 
ぜひご覧下さい!
 
さて、明後日10/2にはスタジオ収録が行われます(放映直前に収録というのには驚きました)。当方、出演はしませんが、撮影に立ち会わせていただけることになりましたので、渋谷のNHKさんに行って参ります。
 
また、同じく10/2発行のNHKさんのPR誌「NHKウィークリーステラ」に今回の放送の紹介が載るそうです。一般書店で販売していますので、ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月30日

1950(昭和25年)の今日、光太郎が部分的に解説を担当した『世界美術全集 第24巻 西洋十九世紀Ⅲ』が平凡社から刊行されました。
 
光太郎が担当したのはロダン作「考える人」「姉と弟」の解説。以後、断続的に昭和28年(19853)まで、『世界美術全集』の解説を手がけています。ロダン以外にはミケランジェロや古代エジプト彫刻、光雲などでした。

昨日ご紹介したNHKさんの「日曜美術館」、10月6日放送の「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。現在岡山県井原市の田中美術館さんで開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。
 
当方、先月30日、オープニングの日に行って参りましたが、その後どういう状況かと思い調べてみました。
 
まず9月9日付の『中国新聞』さんの記事。

全国の光太郎彫刻115点展示

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念した特別展「彫刻家・高村光太郎展」が、井原市井原町の田中美術館で開かれている。同市出身の彫刻家平櫛田中=ひらくしでんちゅう=(1872~1979年)も高く評価した彫刻作品を並べ、美術家としての足跡に光を当てている。10月20日まで。
 全国の美術館や個人が所蔵する光太郎の木彫や塑像、スケッチなど計115点を並べる。代表作で、仏像の手に着想を得たブロンズ像「手」や、果物の種を宝石のように削り、みずみずしさを表現した木彫「柘榴(ざくろ)」などがある。
 詩集「道程」「智恵子抄」でも知られる光太郎。展示品の中には、妻智恵子が、果物や花を題材に、色紙を切り貼りした「紙絵」43点もある。
 福山市引野町の無職藤井俊昭さん(63)は「光太郎の作品は、細部にこだわる繊細さと、大胆な彫り方が同居していて魅了される。趣味で彫刻をしているので勉強になる」と話していた。
 一般700円、65歳以上350円、高校生以下無料。9月11日、10月9日午後1時半からは、同館でギャラリートークもある。
 9月29日午後1時半からは井原市井原町の市民会館で、学芸員の記念講演会がある。入場無料。同館=電話0866(62)8787。
2108f0a6
続いて9月12日付の『山陽新聞』さん。

彫刻家高村光太郎の背景探る 井原・田中美術館で作品解説

 特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」を開催中の井原市井原町、市立田中美術館で11日、作品解説があった。美術ファンら約50人が生命感あふれる作品が生まれた背景に耳を傾けながらじっくりと鑑賞した。
 最初に青木寛明主任学芸員が、詩集「道程」などで知られる詩人の顔とは違う彫刻家の姿を紹介。妻・智恵子をイメージした「裸婦坐像」は「結婚直後に作られたもので智恵子との安定した生活が如実に感じられる」と説明した。
 ロダンの影響を受けた代表作「手」については「見る向きによって指が細く見える。いろいろな角度から眺めてみて」と呼び掛けた。
 井原市制施行60周年記念展。光太郎の彫刻48点にロダンらの作品を加えた計115点を展示している。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。山陽新聞社など共催。
 作品解説は10月9日午後1時半からも行う。
e05b5eae
11日に行われたギャラリートークの報道です。
 
ギャラリートークは10月9日にも行われる由。それから井原の次に巡回になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館の学芸員・土生和彦氏による記念講演が29日に隣接する市民会館で開催されます。

8d5a5e3c-sそれから、報道ではありませんが、田中美術館の学芸員、青木寛明氏からメールを頂きましたので抜粋します。 

入館者数はまだまだですが、来館者の皆様には好評です。「こんなに良いとは思わなかった」という感想が多々あります。ありがたいことです。先日来館された老婦人は蝉1のご所蔵者に少女の頃、作品を見せてもらったことがあるとのことで、袋があったはずだがと言われ、展示していることを言うと喜ばれていました。
 
こういうエピソードは心が温まりますね。画像は光太郎令甥・髙村規氏の撮影になるものです。

会期、10月20日までです。ぜひ足をお運び下さい。

ae050c75【今日は何の日・光太郎】 9月17日

大正10年(1921)の今日、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン著、光太郎訳『自選日記』が叢文閣から刊行されました。
 
光太郎は彫刻家としてはあまり金が稼げませんでした。一つの彫刻を仕上げるのにも徹底的にこだわりぬいていたためで、父・光雲のように彫って彫って彫りまくるということはできなかったのです。
 
語学に堪能だった光太郎はこうした翻訳も多く手がけています。この頃、翻訳が一番手っ取り早く稼げる手段だったとのことです。
 
他にも有名な『ロダンの言葉』をはじめ、エリザベット・ゴッホ(画家ゴッホの妹)、ヴェルハーレン、ロマン・ロランなどの訳を手がけています。

昭和51年(1976)に放映が始まったNHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの「日曜美術館」。美術番組の嚆矢ですね。
 
これまでの放送で光太郎がメインで取り上げられたことはなかったそうですが、10月6日のオンエアでついにそれが実現します。題して「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。同番組のサイトで予告が出ましたのでお知らせします。
 
イメージ 1
イメージ 2
 
 
岡山県井原市立田中美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。制作はNHK広島放送局です。
 
先月はじめ、田中美術館の次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館を通し、協力要請がありました。そして広島放送局の担当ディレクター氏に当方事務所兼自宅までお越しいただき、いろいろと打ち合わせを致しました。その後、メール等でやりとりしながらあちらのご質問に答えたり、種々の情報をご提供したりで、現在番組制作中です。田中美術館や東北各地でのロケはもう行われ、北川太一先生の談話も撮られたそうです。
 
光太郎の彫刻家としての歩みに智恵子との関わりをからめ、その歩みの集大成として十和田湖畔の裸婦像にたどり着くという流れでの45分間だそうです。
 
本放送は10月6日(日)9:00~、NHK Eテレにて。再放送は特に何もなければ同じくNHK Eテレにて、1週間後の10月13日(日)20:00~になるはずです。ぜひご覧下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 9月16日011

昭和48年(1973)の今日、兵庫県神戸市の神戸文化ホールが開館しました。外壁に智恵子の紙絵「紫陽花」をあしらった田中岑氏による巨大モザイクが作られました。
 
同時に壁画の下には草野心平筆による光太郎詩「晩餐」の一節、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ」を刻んだ碑も設置されました。
 
イメージ 4
 
 この碑の元になった心平の揮毫は、心平を偲ぶ集い「かえる忌」の会場となっている福島県川内村の小松屋旅館さんに現存します。

追記:どうも工芸による複製のようです。
 

神奈川発の情報を2つご紹介します。
 
まずは昨年の今頃も同じネタを書いたのですが…… 。

お三の宮日枝神社で「例大祭」-市内最大の神輿の巡行も

 「お三の宮」(おさんさま)として市民に親しまれている「日枝神社」(横浜市南区山王町5)の「例大祭」が9月13日~15日の3日間にわたり開催される。(ヨコハマ経済新聞)

 日枝神社は「横浜関外総鎮守」といわれ、寛文年間(1661年~1673年)に、当地では「吉田新田」開墾者として知られる吉田勘兵衛が江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分霊してまつったのが創建とされている。

 勘兵衛は摂州能勢郡(現在の大阪府能勢町付近)出身で、江戸へ出て一代で財を成した材木商。「釣鐘型」をした横浜の入海が埋立てに適している点に注目し、幕府の許可を得た後、新田開発事業に着手。地元の村民達の協力のもと、11年余りの歳月と多くの資金を投じて完成させた。この新田開発が後の横浜発展の礎になったとも言われている。

 日枝神社の例大祭は「かながわのまつり五十選」に選ばれている祭事。13日は、13時30分頃から伊勢佐木町1・2丁目で、彫刻家・高村光雲作の火伏神輿(ひぶせみこし)行列。14日には、市内随一の大きさの「千貫神輿(せんがんみこし)」(高さ約3メートル70センチ)が丸一日かけて氏子町内を巡る。最終日の15日には、大小約40基の氏子神輿による神輿パレードを実施。14日と15日には、有隣堂前で和太鼓演奏を行う。

 イセザキ・モール1・2 St.の石田隆さんは「火伏神輿行列は、2005年から行列を再現して今回で9回目。通常、神奈川県立歴史博物館に展示されている高村光雲作の火伏神輿を特別に展示・行列するのでぜひご覧いただければ」と話している。
 
017


続いて合唱のコンサートです。  

洋光台男声合唱団 第11回演奏会

9月28日(土) 14:30開演
会場 神奈川県立音楽堂
入場料 1,500円
 
昨日のブログにも書いた作曲家・清水脩の合唱曲「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されます。ただし演奏は客演の常磐ひたちメンネルコールさんのようです。
 
イメージ 2
 

「芸術の秋」と申しますが、その名の通り、各地でいろいろと光太郎智恵子がらみのイベントがあるようです。
 
 
今日はその1つ(2つ)で、二本松に行って参ります。どちらもモンデンモモさんがらみで、午前中は油井小学校での子供たちとのイベント、夜は二本松交流館でのコンサートです。
 
その他にもネット検索でいろいろひっかかっていま011すので、おいおいご紹介します。
 
主催者の方や情報をお持ちの方、「こういうイベントがあるよ」との情報提供もお待ちしています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月13日

明治43年(1910)の今日、親友の水野葉舟とともに、浅草雷門近くのレストラン「よか楼」で夕食を摂りました。
 
まだ智恵子と出会う前で、この頃は吉原河内楼の娼妓・若太夫に惚れ込んでいました。若太夫との破局の後、明治44年(1911)には、この「よか楼」の女給・お梅に入れあげることになります。

先月のブログでご紹介した青森・十和田湖での「ろまんヒストリー講座」、第一回の模様が報道されています。

建立60周年「乙女の像」 誕生秘話など紹介

 十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)は8月29日、市視聴覚センターで「ろまんヒストリー講座」を開き、元青森県近代文学館室長で、市教育長の米田省三さん(64)が「乙女の像誕生秘話」と題し、像の作者高村光太郎の人生を紹介した。
 講座は、十和田湖の魅力に導かれて建立された乙女の像60周年を機に、あらためて歴史を振り返ろうと、同会が進めている「ろまんヒストリー発信事業」の一環。約60人が興味深く聞き入った。
(『デーリー東北新聞』 2013.9.2)
 
イメージ 1
 
主催する「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトにも紹介されています。

 
今月末には第2回の講座があるとのことです。
 
9月26日(木) 19:00〜
十和田市視聴覚センターAV研修室
講師 川口浩一(ATV青森テレビアナウンサー)
入場無料
 
イメージ 2
 
【今日は何の日・光太郎】 9月3日
 
明治37年(1904)の今日、智恵子の妹・チヨが誕生しました

生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開催中の田中美術館がある岡山県井原市。光雲の高弟だった平櫛田中の故郷ということで、街のあちこちに田中の彫刻が配されています。
 
特に田中美術館にほど近い「田中苑」という公園には、たくさんの田中作品、田中の筆跡を刻んだ碑などがあります。また、田中美術館ロビーにも。
 
イメージ 1

イメージ 5
「鏡獅子」
 
イメージ 2
田中筆跡
 
イメージ 3   イメージ 4
 左:「岡倉天心胸像」  右:「西山公」
 
イメージ 6    イメージ 7
左:田中筆跡  右:「鏡獅子」石膏原型
 
他にも市立図書館や福祉センター前にも田中の彫刻、それから町中至る所で現代作家やロダンの野外彫刻が観られます。
  
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月2日

昭和20年(1945)の今日、宮澤賢治の会主催の「高村先生からお聞きする会」で「美しく懐かしき国、日本」と題して講話を行いました。

岡山県井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。共催に入って下さっている『山陽新聞』さんで報道されました。 

井原で高村光太郎展が開幕 生命感あふれる彫刻ずらり

 井原市立田中美術館(同市井原町)で30日、特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」(同美術館主催、山陽新聞社など共催)が開幕。生涯にわたって制作を続けた彫刻作品を通して、詩集「道程」「智恵子抄」などで知られる詩人の顔とは違った芸術家の姿を紹介している。
 光太郎は、木彫家の父・光雲に幼少から彫刻を学び英仏など海外にも留学、創作に励んだ。同展は現存するほぼ全てという48点を核に、同時代の彫刻家の作品や妻・智恵子の美しい切り絵など計115点を展示している。
 会場には、西洋的なモチーフと仏教の印を融合した代表作「手」や、人物の内面までとらえた胸像、動植物の木彫などがずらり。傾倒したロダンや、親交のあった荻原守衛らの彫像も並び、入場者らは作風を見比べながら堪能していた。
 井原市制施行60周年記念展。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。


イメージ 1
 
 
井原は他にもいろいろと見所があります。明日はその辺りを書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月1日

大正12年(1923)の今日、関東大震災に遭いました。
 
この日、智恵子は福島に帰省中で難を逃れました。光太郎はアトリエで彫刻制作中でしたが、幸い駒込林町のアトリエは無事。その後、被災者のためにアトリエを開放したり、智恵子の実家から製品の日本酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めたりしました。

昨日、岡山県は井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開会式に行って参りました。
 
6月から8月20日にかけての千葉展に続いての巡回開催です。田中美術館は光雲の高弟だった平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の個人美術館として昭和44年に開館したものです。井原市は田中の故郷です。
 
午前10時から隣接する井原市民会館で開会式、市長や議員さんの挨拶の後、美術館に移動してテープカットが行われました。
イメージ 5

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3
 
井原市のゆるキャラ、「でんちゅうくん」も駆けつけました。平櫛田中作の彩色木彫「鏡獅子」をモチーフにしています。

005  006

その後は展覧会を観ました。
 
出品されているのは千葉展とほぼ同一ですが、いろいろ違いもあります。
 
まず木彫「鯰」。千葉では1点だけでしたが、こちらでは2点並んでいます。
 
それから千葉では2点のみ展示されていた木彫を包む袱紗(ふくさ)。光太郎が自作の短歌をしるしているものですが、こちらでは「蓮根」や「鯰」のものなど、多数出品されています。
 
また、田中美術館がもともと所蔵していた光太郎から田中にあてた書簡も3通並んでいます。このうち1通、留学先のパリから送られたものは未発表のもの。来春刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。
 
そして田中の作品の数々も観られます。光雲の系譜を引きつつも独自の世界に達した見事なものです。
 
逆にスペースの関係で智恵子の紙絵は千葉より少ない展示ですが、それでも43点並んでいます。
 
千葉展の際にも書きましたが、光太郎智恵子に関し、これだけの規模の展覧会はめったにありません。特に西日本では久しぶりの開催です。ぜひ多くの方に観ていただきたいものです。
 

【今日は何の日・光太郎】 8月31日007

昭和35年(1960)の今日、龍星閣から『光太郎智恵子』が刊行されました。
 
光太郎智恵子の詩文、書簡のうち、お互いに関するものをピックアップして一冊にまとめたものです。
 
昭和43年(1968)には増補版も刊行されています。
 
一昨日の火災で全焼した福島の不動湯温泉から、光太郎智恵子連名で、智恵子の母・センに送った葉書も収録されています。日付は昭和8年(1933)9月2日。この葉書は現在、二本松の智恵子記念館に展示されています。
 
青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。もう二三日ここにゐるつもりでゐます 九月二日
 
不動湯さんは本当に残念でした。
 
当方のコメントがNHK福島さんで流れ、ネットにも載りました。
光太郎智恵子が泊まった部屋や自筆の宿帳が焼けたのは残念ですが、それ以上に亡くなった方がいらっしゃるというのに心が痛みます。

「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。千葉市美術館での千葉展は好評のうちに幕を閉じ、明日から岡山県井原市の田中美術館(でんちゅうびじゅつかん)さんに会場を移して開催されます。
 
 
イメージ 2
 

井原市制施行60周年記念 田中美術館秋季特別展 「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」

会期 平成25(2013)年8月30日(金)~10月20日(日)  8月30日は開会式のため、10時30分より開館
 
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 
休館日 月曜日
 ただし、9月16日、9月23日、10月14日は開館、9月17日、9月24日、10月15日は休館
 ※8月24日(土)~8月29日(木)は、展示替えのため休館
 
主催 井原市立田中美術館
 
共催 NHKプラネット中国、山陽新聞社
 
企画協力 NHKプラネット中部
 
入館料 •一般:700円(560円)•65歳以上:350円(280円) •高校生以下 無料 ※( )内は有料団体20名以上の料金
            
(問)井原市立田中美術館(℡0866-62-8787)         
〒715-8601 岡山県井原市井原町315 井原市立田中美術館
         
記念講演会
日 時:平成25年9月29日(日) 13時30分~15時         
講 師:土生 和彦 氏 (碧南市藤井達吉現代美術館 学芸員)         
会 場:井原市民会館 鏡獅子の間         
演 題:木彫家・高村光太郎         
入場料:無料         

概要
髙村光太郎(1883-1956)は江戸末期から明治期に活躍した木彫家・高村光雲(1852-1934)の長男として東京・下谷に生まれ、幼い頃より後継者としての修練を与えられました。父から江戸時代そのままの指導方法によって木彫の基礎を学んだ光太郎は東京美術学校で木彫の他に塑造を学び、卒業後アメリカそしてフランスに留学します。
帰国後の光太郎の活動は、彫刻よりも文筆活動によって広く知られるようになります。日本最初のポスト印象派宣言とも、あるいはフォーヴィズムの先駆とも評される「緑色の太陽」(1910)に代表される評論、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)などの詩業、そして『ロダンの言葉』(1916)といった翻訳は、芸術家である彼の存在を印象付けました。
その一方で光太郎は、彫刻の制作とその発表については慎重であり続けました。残念なことに1945年の空襲によって彼のアトリエは被災し、多くの彫刻作品が失われ、彫刻家としてのあゆみは全体像が見えにくいものとなってしまいました。そして、疎開による環境の変化は、彫刻を制作する機会の妨げとなりました。
最晩年、光太郎は自ら「私は今でも自分を彫刻家だと思つているし、私の彫刻の仕事をかえり見て、それが詩の仕事に及ばないとは思わない。また、明治以來の日本の彫刻の中で自分の彫刻がどういう役割を果たしているかも知つている。そしてまだ相當の可能性を保持していることも信じている」(「自傳」)と記しました。彫刻家の歿後、戦災を免れた作品によって直ちに遺作展が開催され、今日に至るまで数多くの展覧会で彼の彫刻は近代日本を代表する作品として取り上げられています。
生誕130年の節目を迎えて開催される今回の展覧会では、光太郎の原点ともいえる木彫作品をはじめ、彼が参照したロダン(1840-1917)や同時代の佐藤朝山(1888-1963)、中原悌二郎(1888-1921)などによる作品と妻・智恵子(1886-1938)が制作した紙絵をあわせて展示します。本展が光太郎の彫刻作品を見直す契機となると共に、今日活発化している近代日本彫刻をめぐる研究への一助なとなることを願います。

出品作品
•高村光太郎作品(彫刻)48点、(スケッチブック)2冊、(クロッキー帳)1冊 
•高村智恵子作品(紙絵)43点
•光太郎周辺の彫刻家たち:ロダン3点、ブールデル1点、マイヨール1点、
 高村光雲1点、荻原守衛2点、毛利教武1点、佐藤朝山7点、中原悌二郎2点
•その他:土門拳撮影光太郎彫刻写真1点、デスハンド1点、
 高村光雲愛用で光太郎が受け継いだ彫刻刀1揃 
 
特に西日本在住の皆様、ぜひ足をお運び下さい。
 
当方、今夜から夜行高速バス、新幹線を乗り継いで岡山入りし、明日の開会式に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月29日

昭和62年(1987)の今日、愛媛松山いよてつそごうで開催されていた「高村光太郎と智恵子の世界」展の関連行事として、愛媛松山子規記念館を会場に、北川太一先生が記念講演をされました。
 
イメージ 1

先日のブログでふれた光雲の高弟・米原雲海がらみの情報です。『北日本新聞』さんの記事から。  

「清宵」高岡に“里帰り” 光雲弟子・米原雲海の木彫像

 高岡市の美術品収集家、荒俣勝行さん(70)が所有し、3月まで国登録美術品として東京国立近代美術館に預けられていた木彫像「清宵(せいしょう)」が高岡に“里帰り”し、24、25の両日、同市で行われる「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」(北日本新聞社後援)で展示される。高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925年)が1907年に制作し、東京と西欧で高く評価された作品で、荒俣さんは「優しい表情が何よりの魅力。多くの人に見てもらいたい」と話している。

 国登録美術品制度は、優れた価値を持つ作品に、美術館で広く公開の機会を設けるために国が実施している。登録されると、文化庁の推奨する全国の美術館で展示される。

 「清宵」は稚児天神像で、東京勧業博覧会で1等、日英博覧会で金賞となった雲海の出世作。文化庁の調査員は「どの方向から見ても欠点がない」と評価した。雲海は岡倉天心の教えを受けており、美術史上の価値も高いという。

 荒俣さんは2001年に県内の古物商から入手した。文化庁による鑑定を受け、翌年、国登録美術品に選ばれた。島根県立美術館に5年、その後、東京都国立近代美術館に5年預けたが、「手元に置き、県内で公開したい」との思いからことし3月に登録を取りやめ、作品を引き取った。

 土蔵造りフェスタでは、同市木舟町の国重要文化財「菅野家」に展示し、24日は午後1時から、25日は午前11時から見学できる。「清宵」のみ、両日とも午後6時まで。入場には菅野家の観覧料が必要。
イメージ 1
 
「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」は高岡市で恒例のイベントだそうです。土蔵造りの街並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている山町筋(やまちょうすじ)で「土蔵の家で所蔵のお宝展示」などが行われるとのこと。その一環として雲海の木彫が観られるようです。
 
高岡というと高岡銅器が有名で、彫刻と因縁浅からぬ土地柄、そういうつながりもあるのでしょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月23日

昭和8年(1933)の今日、光太郎・智恵子、正式に入籍しました。
 
二人が結婚披露宴を行ったのは大正3年(1914)暮。それ以来、世間の習慣に束縛されたくないということで、事実婚の状態でした。フランスでは事実婚は今も珍しくないそうで、光太郎の敬愛していたロダンとローズ・ブーレもそうでした。
 
日本でも智恵子と縁の深い平塚らいてうと奥村博なども大正元年(1912)から昭和16年(1941)まで事実婚状態でした。らいてうは長男の兵役に際し、「私生児」として不利益を被らないようにと入籍を決意したそうです。
 
光太郎の場合は、智恵子の統合失調症が関係しています。自分に万一のことがあった場合の財産分与などを考えてということだったそうです。

テレビ東京系にて昨日オンエアの「開運!なんでも鑑定団」。
 
新聞の番組欄では「高村光雲に意見する天才弟子!入魂の傑作に仰天鑑定!」とのことだったので、観てみました。
 
依頼人は川越市在住のご婦人。亡くなったご主人は島根県安来市のご出身で、近所に光雲の高弟・米原雲海が住んでおり、雲海にもらったと伝えられる木彫の鑑定依頼でした。
 
鑑定に入る前の解説的な映像では、雲海だけでなく光雲についても詳しくふれ、よく作ってあるな、と感心しました。
 
雲海についてはこのブログでも以前に書いたことがあります。
 
ところが鑑定の結果、雲海の作ではなく、雲海の弟子の木山青鳥という彫刻家の作品でした(銘も入っていました)。
  
イメージ 1
 
若干、拍子ぬけというか、羊頭狗肉の感は否めませんでした。それでも80万円と、そこそこの鑑定金額ではありました。
 
木山青鳥という彫刻家については当方、全く存じませんでしたが、雲海の弟子であれば、光雲の孫弟子ということになるわけですね。ちなみに雲海は養子に入って米原姓になる前は木山姓で、青鳥は甥だそうです。
 
光雲の弟子は、光雲自身の書いたものなどでその系譜は分かっていますが、孫弟子ともなるとなかなかすぐには名前が出てきません。先日のブログでご紹介した宮城石巻の高橋英吉も、光雲の弟子・関野聖雲に師事していますから、孫弟子になります。
 
そのあたりの系譜についても、少し調べてみようかな、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月21日

昭和29年(1954)の今日、3ヶ月ぶりに入浴しました。
 
最晩年、中野のアトリエ時代の話ですが、日記に記述があります。
 
光太郎、温泉は大好きでしたが、入浴自体はあまり好まなかったようで、普段は行水程度で済ませていたようです。花巻郊外太田村山口の山小屋時代も、村人が厚意で立派な風呂桶を作ってくれましたが、水を汲んだり沸かしたりが面倒で、また自分一人でもったいない、という感覚もあり、あまり利用しませんでした。

イベント情報です。 

乙女の像建立60周年記念講座

期 日 : 平成25年8月29日(木) 
会 場 : 十和田市視聴覚センターAV研修室(十和田市文化センター2階)
時 間 : 19:00~20:30
料 金 : 
無料

  : 米田省三氏(十和田市教育長)

 
主催は「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さん。「平成25年度元気な十和田市づくり市民活動支援事業」の対象事業となっているようです。
 
イメージ 1   イメージ 2
  
当方、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の岡山展開会式が翌30日なので、こちらには行けませんが、紹介だけさせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月17日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに三河島のトンカツ屋・東方亭の主人が訪れました。
 
東方亭は戦前から戦中にかけ、光太郎がよく通った店です。武田麟太郎の短編小説「好きな場所」(昭和16年=1941)によれば、はじめ光太郎は店では正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。どこまで真実かわかりませんが、国策協力を余儀なくされていた時期に、肩書きなしの一個人に戻れる数少ない場所だったのはまちがいないでしょう。
 
店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、光太郎は彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

当方、8月8日、女川光太郎祭の前日に現地入りしました。宿を石巻に取ったので、仙台から小牛田(こごた)経由で東北本線、石巻線と乗り継ぎ、石巻駅に着きました。
 
女川光太郎の会の佐々木さんを待つ間、駅前を散策しました。すると、駅前ロータリーに彫刻が一つ。
 
イメージ 1
 
題して「母子像」。よくある地元の現代作家の作品かな、と思って説明板を見ると、昭和16年(1941)の作です。「意外に古いな」と思いつつ、作者名を見ると「高橋英吉」。記憶の底に引っかかる名前ですが、思い出せません。
 
その後、ロータリーの逆サイドにある「ロマン海遊21」という施設に行きました。1階は物産館のような感じで、いろいろと地のものや土産物等が並んでいました。地元で刊行された出版物のコーナーもあり、下記の書籍を購入しました。
 
こういう郷土史的な出版物を手に入れる(もちろん光太郎や智恵子にからむものですが)を手に入れるのも旅の醍醐味の一つです。
 
イメージ 2
 
『石巻圏20世紀の群像(上巻)文化・学術編』。平成13年(2001)ですから震災前の刊行です。
 
地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』に連載されたコラムの単行本化で、地元出身だったり、この地域を訪れたりした文化人を紹介するものです。光太郎に関しても4ページにわたって載っていたので、買いました。
 
買う前に立ち読みで光太郎の項を読んでしまったのですが、女川光太郎の会に関する記述があり、最後には「余談だが」と前置きの上、光太郎と同じ東京美術学校彫刻科に学んだということで、「高橋英吉(1911~42)」の名が記されていました。高橋は石巻出身でした。後で気がつきましたが、高橋の項も別に立てられていました。
 
「なるほど、やはり地元の彫刻家か。しかしやけに短命だったんだな」と思いつつ、駅前ロータリーに戻り、バッグから別の書籍を取り出しました。少し前のこのブログでご紹介した、姫路市立美術館学芸員の平瀬礼太氏のご著書「彫刻と戦争の近代」です。まだ熟読しておらず、道中読みながら来たので、その続きを読み始めました。
 
すると、「戦場に斃れた彫刻家たち」という項に、またもや「高橋英吉」の名が。この奇遇にはさすがに驚きました。やけに短命だと思ったら、戦死していたのですね。
 
曰く、
 
一九一一年宮城県石巻に生れた高橋英吉は東京美術学校で木彫を学び、一九三六年の文展鑑査会に「少女像」を出品して初入選、新文展でも入選するが、一九四一年に応召、一九四二年十一月にガダルカナルで戦死した。
 
「東京美術学校で木彫を学び」とあるので、光太郎の後輩ですし、もしかすると光雲の教えを受けているかも知れません。さらに高橋の絶作となった不動明王像について報じる当時の新聞記事も載っていました。
 
イメージ 3
 
これを読むと、戦場でたまたま持っていた針を使って彫ったものとのこと。造形作家としての執念のようなものを感じます。
 
しかし、たまたま彫刻の実作を目にし、十数分後に購入した書籍に名前があって、その数分後に読んだ書籍にも記述があり、不思議な縁を感じました。これはこのブログで紹介せよ、というメッセージかと思い、今日の記事を書いている次第です。
 
ちなみに『石巻圏20世紀の群像』に載っていた高橋の写真(前列右端)です。
 
イメージ 4

さて、千葉に帰ってから、『高村光太郎全集』別巻の人名索引を見ましたが、残念ながら「高橋英吉」の文字は見あたりませんでした。光太郎と直接の関わりはなかったか、あっても深いものではなかったのでしょう。
 
しかし、その名前が記憶に引っかかっていたのは確かです。そこでネットで調べてみたところ、平成22年(2010)にテレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に高橋作の木彫4点が出品されていたことが分かりました。この回のオンエアは確かに見た記憶があり、そこで覚えていたようです。
 
さらに調べると、今年3月17日のNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられていました。ただ、こちらは存じませんでした。
 
もうすぐ終戦記念日です。高橋のような前途有望な若者を死に追いやった戦争……。二度と繰り返してはならないと、つくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月13日

昭和28年(1953)の今日、雑誌『群像』掲載の座談「現代詩について」を西銀座の料亭・出井(いづい)で行いました。
 
座談の類は『高村光太郎全集』には収録されていませんが、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』、当方編集の「光太郎遺珠」に掲載されています。この座談は『高村光太郎資料』第三巻で読めます。
 
他の出席者は伊藤信吉、金子光晴、三好豊一郎。「出井」は関西割烹の名店で、現存します。

光太郎顕彰活動に取り組んでいることで、各地の美術館や文学館の学芸員さんと知遇を得ました。4/2の連翹忌にも、毎年多数ご参加いただいています。
 
現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」など、光太郎が関係する企画展を開催して下さった館の学芸員さん、光太郎と関連の深い作家の個人美術館等の学芸員さんなどなど。
 
昨日、このブログでご紹介した吉川弘文館さん刊行の『彫刻と戦争の近代』をお書きになった平瀬礼太氏も姫路市立美術館の学芸員さんです。
 
平成22年(2010)、同館で「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」という企画展がありました。白滝は光太郎より10歳年上の画家で、東京美術学校西洋画科に学んだ光太郎の先輩です。光太郎と同時期にイギリス、フランスに留学、彼の地で一時期共同生活をするなど、いろいろと光太郎の世話を焼いてくれました。
 
その白瀧と、さらに白瀧と同居していたやはり画家の南薫造両名に連名で宛てた光太郎の絵葉書2通が、「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」に展示されました。どちらも明治41年(1908)、パリからロンドンの白瀧・南に送られたもので、『高村光太郎全集』等に未収録でした。
 
禿頭で体格の良かった白瀧を「入道殿」、小柄だった南を「アンフアン兄」(enfant=仏語で「小僧」)とあだ名で呼び、伝法なべらんめえ口調で書いた珍しい葉書です。また、パリでアフタ性口内炎を患い抜歯したことや、それまでの光太郎資料に名が見えなかった建築家の日高胖(ゆたか)の名も記されるなど、興味深い内容です。
 
後に図録でその存在を知り、同館にその内容を問い合わせたところ、対応して下さったのが平瀬氏。こころよく協力して下さり、大きく拡大したカラーコピーを送って下さいました。おかげで本年4月刊行の『高村光太郎研究34』所収の拙稿「光太郎遺珠⑧」で全貌を明らかにできました。
 
さて、『彫刻と戦争の近代』。たまたま『日本経済新聞』さんの書評欄に載っているのを目にし、まず平瀬氏のお名前に気づいて驚き、ついで評を読んで「これは買わなければ」と思い、取り寄せた次第です。
 
ちなみに書評は以下です。書評だけでなく、著者紹介も兼ねた記事ですね。
 
イメージ 1
 
最後に地方美術館の学芸員としてのご労苦も語られています。
 
当方の存じ上げている地方美術館・文学館の学芸員さんは皆、日々いろいろなご労苦との闘いのようです。予算の獲得、行政との折衝、施設設備の問題などなど……。
 
そうした中で頑張ってらっしゃる皆様には本当に頭の下がる思いです。あらためてそんな皆さんにエールを送りたい気持ちです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月7日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外大沢温泉の山水閣さんに宿泊しました。
 
大沢温泉さんは花巻での当方の定宿で、たびたびこのブログでも取り上げていますが、光太郎お気に入りの温泉一つでした。

今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
 
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
 
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
 
目次(詳細項目略) 000
 近代彫刻の変容―プロローグ
 戦争と彫刻
  近代日本の彫刻と戦争
  芸術と社会
 戦争の時代
  戦争の時代への突入と彫刻
  彫刻制作への圧力
  傷痍軍人と彫刻
 日米開戦の衝撃
  変転相次ぐ彫刻活動
  盛り上がる彫刻界
  銅像の行方
  突き進む彫刻
 戦後へ
  敗戦とともに
  混乱の中で
 まだ終わらない戦争―エピローグ
 
光太郎についても随所に記述があります。
 
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
 
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
 
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
 
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
 
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
 
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
 
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月6日

昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。

 
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
  イメージ 1 000
 
『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

千葉市美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。早いもので、開幕から1ヶ月が過ぎました。
 
いろいろな方のブログ等で、おおむね好意的にご紹介いただいており、ありがたいかぎりです。
 
昨日、『朝日新聞』さんの千葉版に紹介記事が載りました。
 
イメージ 1
 
 
それからやはり昨日、記事自体は7/17に載ったようですが、『日本経済新聞』さんのサイトにも、紹介がアップロードされました。
 
イメージ 2
 
もう一点。「インターネットミュージアム」というサイトがあり、そちらでは動画入りで紹介されています。
 
イメージ 3
 
彫刻は動きませんが、カメラが動き、実際に観に行ったようなバーチャル体験が出来ます。
 
しかし、バーチャルはあくまでバーチャル。実際にご覧いただきたいのはもちろんです。
 
千葉展の後、岡山井原、愛知碧南と巡回しますが、これだけの規模の光太郎展、首都圏では次はいつ開催されるかわかりません。二度と開かれない、ということはないように願いたいものですが、さりとて毎年のように開かれる、というのもありえません。
 
まだご覧になっていない方、ぜひお越し下さい。また一度足を運ばれた方も、二度、三度と繰り返し観ることで、その都度新たな発見があるものです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月3日

昭和11年(1936)の今日、『東京朝日新聞』に、評論「一彫刻家の要求」の第1回が掲載されました。
 
このあと、4日・5日と3回にわたって掲載されたこの評論は、前年公布された「帝国芸術院官制制定の件」による美術界の混乱に対する苦言です。
 
曰く、
 
帝国芸術院は政府の美術行政上の諮問機関だといふ事であるが、上から下に問ふだけの諮問機関では役に立たぬ。諮問されなければ黙つて居る事となるし、諮問するのは美術の表面しか分らない素人の役人風情であるから、このままでは帝国芸術院の機能は甚だ遅鈍な間の抜けたものとなるにきまつてゐる。……
 
手厳しい意見です。

現在、千葉市美術館さんで「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されていますが、8月30日(金)から、次の会場・岡山県井原市の田中(でんちゅう)美術館さんに移ります。
 
その田中美術館で、詳細情報が発表されました。
 
イメージ 1

イメージ 2


関連行事として、9月29日(日)に記念講演会があります。講師は巡回の3館目になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館学芸員の土生(はぶ)和彦氏。ご期待下さい。
 
西日本在住の方などで、「千葉は遠いのでちょっと……」という方、ぜひ井原の方へお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月29日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養中の智恵子の見舞いに訪れました。
 
智恵子が九十九里にいたのはこの年5月から12月の半年余りでしたが、毎週のように光太郎は見舞いに訪れたそうです。ただ、正確な日付が特定できる日は意外と少ないので今日を選びました。
 
明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

↑このページのトップヘ