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昨日は都内に出かけて参りました。
 
まずは上野の東京国立博物館さん。連休谷間の平日、しかもそこそこ雨が降っていましたが、多くの人でにぎわっていました。
 
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特別展「キトラ古墳壁画」が目的の方が多かったようで、ご覧の通りの行列。興味はあるのですが、40分待ち、と言われ、そちらはパスし、本来の目的のジャンル別展示だけ観ることにしました。
 
本館1階第18室が「近代の美術」となっており、光太郎のブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)、光雲の木彫で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されています。
 
00418室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。
 
キャプションには「江渡幹子氏寄贈」とあり、光太郎と交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の縁者かな、と思いました。狄嶺の妻がミキという名です。当時、女性は戸籍上の名に「子」がついていないことが多く、一種の敬称として互いに「子」をつけて呼び合ったり、自分でも「子」をつけて名乗ったりすることが一般的でした。また、やはり戸籍上の名に漢字が使われていなくても、自分で漢字をあてることもよく行われていました。智恵子も与謝野晶子も、それから現在NHKの朝ドラ「花子とアン」で扱われている村岡花子もそうです。「花子とアン」にはそういうエピソードもありました。

追記 やはり寄贈者は江渡の妻・ミキでした。

 
光太郎の回想に依れば、モデルは駒込林町のアトリエに造花を売りに来る老人。昔、旗本だったそうで、江戸時代の面影を残すその顔に惹かれてモデルとして雇ったそうです。
 
ただ、光太郎の縁者によると、光雲の異母兄・中島巳之助に甚だよく似ている、という証言もあります。
 
そして18室の終わり近くに「老猿」。
 
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圧倒的な存在感です。「高さ90センチ」というデータは頭に入っているのですが、どうみてもそれ以上の大きさに見えます。
 
こちらはあまり目にする機会が多くなかったので(平成14年=2002の茨城県近代美術館「高村光雲とその時代」展、同19年=2007の東京国立近代美術館「日本近代の彫刻」展に続き、3回目です)、興味深く観ました。
 
やはり彫刻は3次元の作品なので、観る角度によって見え方が違いますし、写真等ではわからない細部もよく観られました。
 
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「老人の首」「老猿」の展示は5月25日(日) まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
その後、上野を後に、一路日本橋へ。三井記念美術館さんでの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」を観て参りました。そちらのレポートはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月1日

明治26年(1893)の今日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
 
はるばる海を渡って「老猿」が展示されました。アメリカの人々は、その技術の巧みさに驚いたといいます。
 
そうした彫刻としての凄さとは別の面でも話題になりました。この「老猿」は、そもそも老いたニホンザルが猛禽と格闘した後、飛び去って行く猛禽を見上げている構図だそうです。左手には逃げた猛禽の羽根を握りしめています。
 
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これが物議をかもしました。シカゴ万博日本パビリオンのすぐ前、一説によると「老猿」の視線の先にはロシアのパビリオンがありました。そのロシアの国章が鷲。
 
当時の日本は東アジアの覇権を巡ってロシアや清とにらみ合いを続けている時期でした。教科書にも載っているビゴーの風刺画が有名ですね。
 
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翌年には日清戦争、さらにその翌年、講和のための下関条約に対しては、ロシアが中心になっていわゆる「三国干渉」を仕掛けてきます。そこで、「老猿」が握りしめている猛禽の羽根はロシアを象徴し、日本のロシアに対する威嚇だ、ととらえられたのです。
 
しかし、光雲はそうした外交や政治には疎かったといいます。どうもこの説は牽強付会に過ぎるように感じます。

注文していた雑誌が届きました。『新潮45』3月号。
 
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一昨日のブログでふれたノンフィクション作家の大野芳氏の「《歴史発掘》ヨーロッパを席巻した幻の女優「マダム花子」」が掲載されています。
 
全14ページで、ロダンや光太郎と縁のあった日本人女優・花子の伝記です。短いながら、最近の調査でわかったことなども盛り込まれています。
 
3月号ですので、もう店頭には並んでいませんが、新潮社さんのサイト、Amazon、雑誌のオンライン書店・Fujisan.comなどで入手可能です。
 
『東京新聞』さんの連載と併せ、単行本化を希望します。
 
単行本といえば、昨秋、講談社さんのコミック誌『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」の単行本第1巻が発売され、こちらも入手しました。
 
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講談社さんサイトより。
 
実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象から作者像をイメージした、全く新しい、いわば真の二次創作ともいえる手法で創作された、詩人と近代日本の物語。
⟨(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。
そこには萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、与謝野晶子、斎藤茂吉、若山牧水、高浜虚子、石川啄木、立原道造、中原中也、高村光太郎、正岡子規らの作品からイメージされたキャラクターたちが、創作者としての欲望と人間としての幸せに人生を引き裂かれながら、絶望と歓喜に身を震わせ、賞賛され、阻害され、罪を犯し、詩作にまい進する。

『秒速5センチメートル』『まじめな時間』で高い評価を得た清家雪子の、これまでのイメージを一新し、一線を踏み越えた、狂気と知性と業の物語!
 
シュールです。萩原朔太郎をモデルとした主人公・「朔くん」を中心に話が進みますが、朔太郎の詩そのままに(それ以上に)幻想的な世界です。光太郎と智恵子をモデルにした「コタローくん」「チエコさん」も登場します。
 
こちらは新刊書店に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月29日

平成10年(1998)の今日、ジャパンイメージコミュニケーションズからVHSビデオ「日本詩人アルバム 詩季彩人⑩ 高村光太郎・竹久夢二」が発売されました。
 
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いわゆるヒーリング系のもので、非常に健康的です(笑)。
 
ジャケット解説文から。
 
 日本が生んだ言葉の精鋭達、詩人。その世界の一端に静かに触れてみる。
 美しい日本の風景にのせておくる一編の詩は、あなたに忘れていた何かを思い出させてくれるでしょう。人間故の苦しみ、喜び、悲しみ、憤り、歓喜、悲哀、そして慈しみと癒し。「詩季彩人」は、喧噪を離れ、静かに詩人達の言葉のリズムに心をゆだねる時間を提供します。
 
やはりAmazonさんなどで入手可能です。もっとも、みなさんそろそろVHSビデオのプレーヤーもほとんど使わなくなっているのではないかとは思いますが……。

ご存知上野の東京国立博物館さん。
 
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企画展や特別展というわけではないのですが、現在、光雲・光太郎父子の作品が同時に展示されています。
 
場所は本館18室。同館は収蔵品数も厖大なため、展示の入れ替えも頻繁にやっています。展示は適当に並べるわけでなく、部屋ごとにコンセプトを明らかにし、関連のある作品をまとめる形をとっています。
 
で、現在、本館18室では「近代の美術」ということで、33件の作品が並んでいます。以下、同館サイトから。
 
近代の美術
本館 18室  2014年4月15日(火) ~ 2014年5月25日(日)
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。これら所蔵品から明治、大正、そして昭和の戦前にかけた日本近代の美術を紹介します。
 
光雲作品は重要文化財の木彫「老猿」(明治26年=1893)。光太郎作品はブロンズの「老人の首」(大14=1925)です。
 
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他にも上村松園「焔」、黒田清輝「読書」、土田麦僊「大原女」など、近代美術の至宝が目白押し。同館のブログでは「日本の近代美術の全貌を見ることができる部屋」と書かれています。
 
当方、連休谷間の明後日あたり、三井記念美術館「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」と併せて観に行こうと思っています。
 
みなさんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月28日

大正15年(1926)の今日、日本橋柳屋ソーダ・ファウンテンで、来日したフランスの小説家、シャルル・ヴィルドラック夫妻の歓迎会に出席しました。
 
ヴィルドラックはロマン・ロランと親しく、この時期光太郎は片山敏彦らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しており、同会主催で行われました。
 
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後列左から二人め光太郎、片山敏彦、右端尾崎喜八
前列左から2人め倉田百三、ヴィルドラック夫妻、高田博厚

板橋区在住の坂本富江さまから情報を頂きました。
 
『東京新聞』さんにノンフィクション作家・大野芳さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」という連載があるとのことで、切り抜きも送って下さいました。
 
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だいぶ前のこのブログでご紹介しましたが、「ハナコ」とは明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛された日本人女優です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・000太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
花子とロダンとの交流は、大正6年(1917)のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正10年(1921)、花子はそのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。
 
ロダンと関わった数少ない日本人の一人というわけで、昭和2年(1927)、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行した評伝『ロダン』に描かれています。
 
昭和20年(1945)、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」、ドナルド・キーンさんによる花子遺族の訪問を軸に描かれていますが、光太郎と花子の交流についても触れられています。連載の6回目にあたる4/22には、光太郎から花子宛の書簡の写真が掲載されていました。
 
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さて、ネットでいろいろ調べてみたところ、大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」は系列の『中日新聞』さんでも連載されているようですし、新潮社さんから刊行されている雑誌『新潮45』の4月号に大野さんの同名の記事が載っています(早速注文しました)。
 
「花子」といえば朝ドラの「花子とアン」での村岡花子さんが旬ですが、もう一人の「花子」にも注目していただきたいものです。ちなみに余談になりますが、「花子とアン」、当方の住む千葉県香取市でもロケが行われています。 吉高由里子さん演じるヒロインの花子が、初恋の相手の帝大生に別れを告げるシーンや、花子のお父さん役の伊原剛志さんが社会主義伝道をしているシーンなど。
 
さて、記事を送って下さった坂本富江さんは、智恵子も所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの会員です。来月には第110回太平洋展が開催され、坂本さんは智恵子の故郷・二本松に近い三春の滝桜の絵を出品なさるとのこと。
 
会場は六本木の国立新美術館、会期は5/14(水)~26(月)です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】4月27日

明治24年(1891)の今日、光雲が東京美術学校から「楠正成銅像」模型主任を命ぜられました。
 
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東京渋谷の東急百貨店本店で、昨日から下記のイベントが始まりました。

秀作彫刻展

 場 : 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
 期 : 20144月24日(木)~30日(水)
 間 : 10時~19時 最終日は17時閉場
 
木のぬくもりを十分に活かした木彫やブロンズ像などを一堂に集め、展示販売いたします。
 
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展覧会、というより展示即売会です。
 
上記画像にあるとおり、光雲の木彫「阿倍仲麻呂」が出品されています。税込み864万円……。光雲の真作であれば、このくらいの値段はつきます。ただ、何をもって真作とするか、というと微妙な問題をはらみます。
 
光雲には弟子が多数いました。山崎朝雲、米原雲海など、のちに大成し、有名になった弟子もたくさんいましたし、無名のまま終わった弟子はそれ以上に多かったと思われます。
 
ちょっと変わった所では、昭和11年(1936)に猟奇的な殺人事件をおこして世間の耳目を集めた、かの阿部定のヒモだった女衒・秋葉正義も一時期ではありますが、光雲の元で木彫を学んでいたとのこと。
 
そうした無名の弟子はなかなか生活が苦しく、その援助のため、ほとんど弟子が作った作品の仕上げだけを光雲が行い、「光雲」のクレジットを入れてやったこともあるというのです。そうすることによって、市場価格が上がる仕組みです。もちろん、光雲がその上乗せ分をピンハネしていたわけではなく、弟子の実入りにしてやっていたわけです。
 
そうした弟子の手がほとんど入っていない作品の場合、「高村」でなく「高邨」と銘を入れたらしいという説もあります。
 
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といっても、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。
 
さて、864万円……。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月25日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外湯口村(現・花巻市)の円万寺を来訪、一緒に奉納の神楽を見物しました。
 
当時、円万寺には、チベットで修行した経験を持つ僧・多田等観が疎開していて、親密に交流しており、光太郎の暮らす太田村山口の山小屋から5㎞以上ありましたが、ときおり行き来していました。
 
円万寺は小高い山の上にあり、登っていくのは大変です。光太郎もこの日の日記に「観音山正面の石段をのぼる。くたびれる。」と記しています。
 
ただ、それだけにここから見るながめは絶景です。下記は花巻市観光協会さんのページから拝借しました。
 

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一昨日、信州安曇野碌山美術館さんで開催された第104回碌山忌に行って参りましたが、その前に立ち寄った所があります。
 
同じ安曇野市にある臼井吉見文学館さん。
 
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臼井吉見は編集者、作家。やはり安曇野の生まれです。
 
昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊、編集長に就きます。
 
『展望』には、発刊の年に詩「雪白く積めり」が掲載された他、翌昭和22年(1947)には20篇からなる連作詩「暗愚小伝」が載るなど、光太郎作品がたびたび掲載されました。
 
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「暗愚小伝」は、ある意味、光太郎のターニングポイントになった作品群です。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
「暗愚小伝」の載った号に記された「編輯後記」で、臼井はこう書いています。
 
 つづいて二回の戦火に遭ひ、遠く岩手の山奥にみづからの手でしつらへた住ひに孤坐する高村光太郎氏が、想を構へること二年間、稿成つて珠玉二十篇を寄せられたことは感謝にたへない。歌ふところは孤独な老詩人の生涯の精神史であり、題して暗愚小伝といふ。電燈のつかない山小屋の榾火のあかりで鏤骨の推敲を重ねられた夜々をおもひ感慨なきを得ない。この詩人の数多い詩業のなかで本篇の占める特異な位置と意味については贅言するに及ぶまい。
 
掲載誌の編輯後記ということもあり、ここでは褒めています。しかし、これは言わば「建前」。昭和48年(1973)に有精堂から刊行された「日本文学研究資料叢書 高村光太郎・宮沢賢治」所収の「高村光太郎論」では、「本音」が出ています。
 
詩稿を手にして、ぼくはいたく失望したことをいまでも覚えている。これをかきあげないかぎり、一行も他の文章はかけないとまで言われ、骨にきざむ思いで苦心されたものであっただけに、いたましい思いなしには読み通せないものであった。そこには詩のリズムは消え失せて、説明ふうの言葉だけが並んでいたといっても過言ではなかった。
 
編集者というもの、なかなか一筋縄で000はいかないものです。
 
さらに臼井は、昭和39年(1964)から、実に10年かけて長編大河小説『安曇野』全五巻を書きました。新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、安曇野に生きる人々の群像が描かれています。
 
第二部では守衛との絡みで光太郎も登場します。
 
さて、安曇野市臼井吉見文学館さん。
 
その『安曇野』の原稿をはじめ、臼井の遺品や著書、蔵書、揮毫、書簡などが展示されています。平日ということもあり、他に入場者もなく、学芸員の方が細かく説明して下さいました。ありがたいかぎりでした。
 
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光太郎の原稿や、臼井宛の書簡の類はないかと期待していたのですが、そういうものはないとのこと。その点は少し残念でした。
 
安曇野方面には、他にも光太郎とゆかりのあった人物に関わる文学館、美術館のたぐいがたくさんあります。これからも、毎年、碌山忌にはお邪魔すると思いますので、そうした施設を毎年少しずつ制覇していきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月24日

平成9年(1997)の今日、NHK総合テレビで放映された「夢用絵の具」で、智恵子が扱われました。
 
サブタイトルは「ふたつの緑 高村智恵子」。003
 
この番組は毎回一つの「色」を軸に、その色と関わりの深い一人の人物をからめて描くというコンセプトの45分番組でした。平成8年(1996)の11月に単発で、その後、同9年の4月から翌年3月まで1年間、毎週木曜日の夜に放映されました。
 
MCは堺正章さん、大島さと子さん、テーマソングは辛島みどりさん。智恵子の回のゲストは浅野ゆう子さんでした。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる光太郎の評論、「緑色の太陽」に触発され、画家への道を目指す智恵子。しかし太平洋画会では、師・中村不折に人体を描くのに緑の多用は避けるべき、とたしなめられます。
 
絵画制作に絶望後、心を病んだ智恵子が作り始めた紙絵。そこにも鮮やかな緑が……。
 
平成10年(1998)には、好評だった回の内容をまとめた『夢用絵の具 心を染めた色の物語』(中村結美/夢用絵の具プロジェクト著、駿台曜曜社)が刊行されました。

昨日、信州は安曇野に行って参りました。光太郎の朋友・荻原守衛(碌山)の忌日・碌山忌だったためです。
 
会場は安曇野市の碌山美術館さん。
 
昨年は雪だったことを思い出し、ヒヤヒヤしながらハンドルを握りましたが、今年は大丈夫でした。ただし、夕方にはやはり寒いと感じましたし、帰りの道中、八王子付近では土砂降りの雨に見舞われました。
 
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先週の福島同様、まだ桜の花が残っていました。ヤマブキや連翹も花盛り。
 
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こちらは館の庭にある光太郎の詩碑ですが、右上に連翹が写っているのがおわかりでしょうか。以前は気がつきませんでしたが、光太郎詩碑があるから連翹を植えて下さっていたとしたら、ありがたいことです。
 
午後3時頃、碌山美術館さんに到着。所館長、学芸員の武井氏、それから今年の連翹忌にご参加下さった五十嵐理事といった顔なじみの方々にお出迎えいただきました。
 
まずは碌山館で、今年1月と2月にテレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられた絶作の「」をはじめ、1年ぶりに守衛の彫刻の数々を拝見しました。
 
第一展示棟では、光太郎ブロンズ。昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお借りした「腕」、「園田孝吉胸像」、それから「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」、「手」、さらに新しく購入した「倉田雲平胸像」。
 
第二展示棟では、企画展「小品彫刻の魅力ー動きの表現-」が昨日から始まり、ここにも光太郎の「裸婦坐像」が展示されていました。他には橋本平八、戸張孤雁など。
 
下の画像は館で販売しているポストカードです。
 
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午後4時、例年通り車に分乗して、守衛の墓参。現地で荻原家当主の義重氏から興味深いお話を色々うかがえました。守衛の墓標は画塾・不同舎の先輩、中村不折の筆になるものですが、「故荻原守衛君之墓」と書かれた揮毫から、遺族が違和感を感じて「君」の字を除いたとのこと。その「君」の字だけ、荻原家に伝わっていたそうです。他にも荻原家が改宗して、戒名も変わった話など。
 
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墓参の後、再び館に戻り、午後5時から学芸員の武井氏による研究発表会。
 
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明治41年(1908)、欧米留学から帰る途中で立ち寄ったイタリア、ギリシャ、エジプトでの足取りと、その時に描かれたスケッチブックに関する考察でした。帰国時の守衛の足取りはまだ不明な点が多いそうです。ただ、スケッチブックにはギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドも描かれているとのこと。
 
ちなみに光太郎は翌年帰国しましたが、ほとんど船中無一文だったため、寄港地のどこにも上陸しなかったそうです。
 
後述する「碌山を偲ぶ会」の席上でも、参会者の方からお話が出ましたが、守衛は日本郵船の因幡丸で明治41年(1908)の3月13日に日本に着いたらしいとのこと。
 
当方、一昨年、高村光太郎研究会の研究発表で、やはり欧米留学時の光太郎の船旅について発表した関係で、そうした船を巡る話は興味深いものがありました。
 
午後6時15分。館内のコテージふうの施設、グズベリーハウスにて、「碌山を偲ぶ会」。昨年に引き続き、お邪魔しました。
 
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はじめに光太郎の詩「荻原守衛」(上記の詩碑に刻まれています)を参会者全員で朗読。光太郎にふれていただき、ありがたいかぎりでした。
 
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その後は会食しつつ、いろいろな方のお話を聞いたり、当方もスピーチをしたり、ヤマハの文化財級のオルガン伴奏で「ふるさと」をみんなで歌ったりと愉しい時間を過ごしました。
 
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午後8時過ぎ、散会。一路、千葉の自宅に帰りました。
 
碌山忌、今年で104回目だそうです。ということは、まだ58回の連翹忌と違い、もう守衛本人を知っている方はいらっしゃいません(連翹忌でも光太郎本人を知っている方はだいぶ少なくなりましたが)。それでも地元・安曇野の方々を中心に、守衛の魂を受け継いでいこうという気概が感じられます。末永く続けていって欲しいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月23日

平成20年(2008)の今日、故・小沢昭一さんのCD「昭一爺さんの唄う童謡・唱歌」がリリースされました。
 
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光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩く歌」が入っています。
 
以下、小沢さんが亡くなった一昨年のこのブログからコピペです。
 
この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。

昨日書きました三井記念美術館さんの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」同様、光雲の木彫作品が並ぶ企画展です。 会場は東京藝術大学大学美術館さん。
 
全国3ヶ所の巡回で、すでに1館目の仙台市博物館さんは終了。当方は先月、そちらを観て参りました。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

 催 : 東京藝術大学 法隆寺 朝日新聞社
 期 : 2014/4/26[土]~6/22[日]
 間 : 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 館 : 月曜日(4/28、5/5は開館)、5/7[水]
 金 : 一般前売り¥1,300(当日¥1,500)、大学・高校生前売り¥800(当日¥1,000)
 
推古天皇15年(607年)、聖徳太子によって建立された日本を代表する古刹・法隆寺。その法隆寺の至宝を総合的に紹介する大規模な展覧会が、約20年ぶりに東京で開催される。  本展では、除災や国家安穏を祈って造られた金堂の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、奈良・飛鳥時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など仏教美術の粋を出陳。また、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画・彫刻なども展示される。
法隆寺で聖徳太子の教えとともに守られてきた、約70件の名品たちとじっくり向き合えるまたとない機会を、ぜひお見逃しなく。
 
 
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飛鳥時代からの仏像などの数々の寺宝に混じって、光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。これは東京美術学校と法隆寺が密接な関係にあったことが背景になっています。
 
さらに新潟展ということで、新潟県立美術館にて2014年7無題月5日(土)~8月17日(日)に巡回されます。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月20日

昭和18年(1943)の今日、龍星閣から『随筆某月某日』が刊行されました。
 
同名の題で『知性』、『歴程』、『東京帝国大学新聞』、『改造』など、あちこちの雑誌等に発表した随筆その他を集めたものです。
 
智恵子に関する内容のものも含まれ、『智恵子抄』を補完するという意味合いもある一冊です。

今週土曜日(4/19)、地上波テレビ東京系の「美の巨人たち」にて、カミーユ・クローデルがメインで扱われます。 

美の巨人たち カミーユ・クローデル『ワルツ』

地上波テレビ東京系 2014年4月19日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2014年5月14日(水) 22時54分~23時24分
 
番組内容
今日の作品はカミーユ・クローデル作『ワルツ』。高さ45cm程のブロンズ像、男女がワルツを踊る姿は躍動感に溢れています。ところが、どこか危うく不安定。なぜ倒れそうな程に傾いているのか?師であり愛人であったロダンへの想い、そして苦悩…そこには彼女の葛藤と決意が込められていました。また作品誕生にまつわる偉大な音楽家とは?困難な時代を生きた女性彫刻家カミーユ、作品に込められた情愛、プライド、悲しみに迫ります。
 
ナレーター 小林薫
 
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以前にも書きましたが、カミーユは、光太郎が敬無題愛していたロダンの弟子にして愛人です。
 
それなりに才能に恵まれていながら、偉大なる師の蔭で、「しょせんはロダンの猿真似」と酷評され、ロダンにも捨てられ、最期は精神病院で寂しく歿するという、何やら智恵子を彷彿とさせられる生涯でした。
 
今回扱われる「ワルツ」という作品も、そういう背景抜きには語れない作品のようです。地上波テレ東系が受信できない地域の方、BS放送で来月オンエアされます。ぜひご覧下さい。
 
もう一人、ロダンの弟子といえば、光太郎の親友だった荻原守衛(カミーユほど長い間、直接に指導を受けたわけではありませんが)。
 
来週火曜日(4/22)は守衛の命日・碌山忌です。信州安曇野の碌山美術館にて、碌山忌の集いが開かれます。
 
詳細は以下の通り。

碌山忌(104回忌)

2014年4月22日(火)

会場:碌山美術館(入場無料)
 ミュージアムトーク 10時30分 14時30分
 碌山忌コンサート(館庭) 13時30分~15時30分
 墓参  16時~
 研究発表会 17時~17時45分 杜江館2階
 「イタリア・エジプト日記と旅スケッチの考察」同館学芸員・武井敏氏
 碌山を偲ぶ会  18時15分~ グズベリーハウス
 
碌山忌記念講演会 2014年4月27日(日) 13時30分~15時
「日本彫刻史上の橋本平八」 毛利伊知郎氏(三重県立美術館長) 杜江館2階
 
昨年の碌山忌は、何と雪でした。まさか今年は大丈夫だとは思いますが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月16日000

平成11年(1999)の今日、文化庁特別会議室において平成11年第4回文化財保護審議会が開催され、光雲の木彫「老猿」を重要文化財に指定する旨の答申がなされました。
 
この年は近代の作品の指定が多く、同時に指定されたのは、黒田清輝の油絵「湖畔」、土田麦僊の日本画「絹本著色湯女図」、同じく村上華岳で「絹本著色日高河清姫図」などでした。
 
そういえば、今年の2月に「美の巨人たち」で取り上げられた守衛の「」(石膏原型)も昭和42年(1967)に重要文化財に指定されています。
 
いずれ光太郎の彫刻もそうした指定を受けて欲しいものです。

新潮社さんで発行している『波』というPR誌があります。
 
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現在発売中の4月号から、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんの連載「父と母の娘」がスタートしています。
 
以前にも書きましたが、末盛さんは光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女です。「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親とのこと。今年の花巻光太郎祭(5/15(木))では末盛さんを講師に招き、記念講演をしていただくそうです。
 
「父と母の娘」、第1回はその光太郎による命名、そして偉大な芸術家に名前を付けてもらってのプレッシャーなどについてのお話が書かれています。そうしたお話は、昨年の12月に代官山のクラブヒルサイドさんで開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」でお聴きしましたが、非常に興味深い内容です。
 
『波』、他にも津村節子さんの連載「時のなごり」等も載っています。今月号は「震災から三年」。夫の故・吉村昭さんともども三陸の田野畑村と縁の深い津村さんですが、近著『三陸の海』に関わる内容となっています。
 
ぜひお買い求めを。
 
ところで末盛さんのお父様、故・舟越保武氏関連の展覧会が、今週末から東京オペラシティーアートギャラリーで開催されます。
 
同館サイトから。

[特別展示]舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン

舟越保武(1912-2002)は、清新な造形のなかに深い精神性をたたえた数々の作品によって、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残しました。作風の重大な転機は戦後まもなく、長男の急死を契機にカトリックの洗礼を受けたことでした。その8年後の1958(昭和33)年《長崎26殉教者記念像》の制作に着手、完成までに4年半を費やし、後年「作家生命を賭けるつもり」だったと述べる この作品によって、第5回高村光太郎賞を受賞。以後、島原の乱の舞台・原城跡で着想を得た《原の城》やハンセン病患者の救済に命を捧げた《ダミアン神父》をはじめ、キリスト教信仰やキリシタンの受難をテーマにした数々の名作を制作します。
 
そうした観点から、《長崎26殉教者記念像》は舟越芸術の原点と呼べる重要な作品といえるでしょう。
 
《長崎26殉教者記念像》のためのデッサンは98点を数えます。粘土でつくった聖フランシスコ吉(きち)像の顔に舟越は敬虔なクリスチャンだった父の面影を見たそうですが、《長崎26殉教者記念像》は舟越の父への贖罪と再生の記念碑というべき作品に違いありません。
 
主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
協賛:日本生命保険相互会社
 
会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2014.4.19[土]─ 6.29[日]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(ただし、4月28日、5月5日は開館)
特別展示入場料:200円
 
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「長崎26殉教者」 高村光太郎賞記念作品集『天極をさす』より
 
こちらもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月15日

明治44年(1911)の今日、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を、僅か1年で閉じました。
 
昨年の今日のブログでは、琅玕洞開店について書きました。日本初の画廊ともいわれ、光太郎も気合いを入れて開いたのですが、現実は厳しく、ちょうど1年で閉店です。
 
詳しくはこちら

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

昨日は都内に出て参りました。
 
まずは4/2(水)の第58回連翹忌会場、日比谷松本楼様に。今回の連翹忌では、フルート奏者の吉川久子様が演奏と朗読で、華を添えてくださることになり、そのための打ち合わせでした。
 
吉川様は、昨年6月に横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートを開かれました。連翹忌では、昨年のコンサートで伴奏を務められた海老原真二さん、三浦肇さんにも加わっていただき、昨年のコンサートのダイジェストをやっていただきます。ありがたいことです。
 
 
ちなみに日比谷公園の桜は7~8分咲きといったところでした。
 
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その後、上野に行きました。上野の桜も同じような感じでした。上野では、東京藝術大学大学美術館へ。先週始まった「藝大コレクション展―春の名品選―」を観て参りました。
 
 
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「2013年度新収品」ということで、光雲の木彫「鷹(寿老)」(昭和3年=1928)が展示されています。光雲は同一のモチーフで複数の作品を作ることも多かったのですが、これは他に類例が無く、非常に興味深いものでした。
 
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実際に観るまでどういうものかさっぱり解らなかったのですが、キャプションを読み、帰ってからネットで調べてみてよくわかりました。
 
元和7年(1621年)、徳川幕府二代将軍・秀忠の江戸城への帰途、その愛鷹「寿老」が、日本橋本町にあった「木屋」という雑貨屋の店内に舞い込み(「屋根にとまり」とする資料もありました)、そのまま戻らなかったため、この鷹を下賜されたという逸話があるそうです。
 
この彫刻は木屋の後裔が光雲に依頼して作らせたとのこと。鷹はもちろん「寿老」で、とまっている米俵は「寿老」の飼育のために毎年給されていた米を表しているそうです。
 
いつ見ても光雲の木彫は、その超絶技巧に舌を巻かされます。
 
他の出品リストは以下の通りです。
 
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チラシがこちら。
 
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厚冊の豪華図録は作られていませんが、無料の簡易図録が配布されていました。ありがたや。
 
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会期は来月13日(日)までです。その後、現在、仙台市博物館で開催中の「東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち」展が巡回してきます。こちらは来月26日(土)~6月22日(日)まで。やはり光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村で、地元の方が村長選挙に立候補、応援演説を頼まれましたが断りました。
 
戦時中の大政翼賛会文化部や日本文学報国会といった「前科」を自ら問題にしてのことです。同様の「前科」がありながら、そしらぬ顔をして、本人が国政選挙に打って出た文学者もいたのですが……。

信州安曇野の碌山美術館様より、同館館報の第34号をいただきました。B5判、72ページもある分厚いものです。ありがとうございます。
 
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表紙は同館にて新しく収蔵した光太郎彫刻「倉田雲平胸像」。長野出身の彫刻家・酒井良氏が解説されています。
 
十和田湖畔の裸婦像制作後に取り組み、結局、未完のまま光太郎は歿してしまいました。しかし、未完ゆえの荒々しいタッチが不思議な迫力をかもし出している彫刻です。モデルは日華ゴム(現・ムーンスター)の創業者・倉田雲平です。
 
後半、光太郎の甥・高村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」が掲載されています。
 
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昨年4月、同館で催された碌山忌記念講演会の筆録です。
 
こちらは18ページもあり、非常に読み応えがあります。内容的にも、近親者として見た光太郎の様々なエピソードが紹介されており、非常に興味深いものです。表紙の「倉田雲平胸像」についても記述があります。
 
他にも学芸員の武井敏氏による「碌山研究 荻原守衛のイタリア・エジプト旅行② ―フィレンツェ篇―」、「美術講座 ストーブを囲んで 名誉副館長荻原孝子さんを語る 碌山の芸術に捧げた生涯」など、興味深い記事が満載です。
 
4/2(水)の連翹忌にご参加頂ける方には、無料でお配りいたします。
 
それ以外の方、お問い合わせはこちらまで。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和19年(1944)の今日、茨城取手の長禅寺で、講話を行いました。
 
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取手には、光太郎と親交の深かった宮崎仁十郎・稔の親子が住んでいました。のちに戦後になって、光太郎が仲介して、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と稔が結婚します。
 
宮崎家との関係から、長禅寺には光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基現存しています。一基は昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。小川芋銭(うせん)は日本画家。取手に近い牛久に暮らし、河童の絵を描き続け、やはり宮崎家と交流がありました。もう一基は昭和23年(1948)建立の「開闡(かいせん)郷土」碑。ともに題字のみ光太郎の揮毫です。
 
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左:「小川芋銭先生景慕之碑」  右:「開闡郷土」碑
 
長禅寺は戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。やはり宮崎家の肝煎りです。聴衆は40名程。母についての話があったということですが、それ以上詳しいことは不明です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月21日001
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口の小屋に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が訪ねてきました。
 
二人の用件は、青森・十和田湖畔に立てる十和田国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼でした。これが十和田湖畔に立つ裸婦群像(通称・乙女の像)に繋がっていきます。
 
その前年から青森県では佐藤春夫ら、中央の著名文化人等に相談するなど、いろいろと段取りを立て、この日の二人の訪問に至ります。二人には佐藤春夫からの丁重な手紙が託されていました。
 
4月には県の関係者も山小屋を訪問、ともかくも現地を見てから、という光太郎の要望で、6月には関係者一同で十和田湖の現地視察。この際にも谷口と藤島は同行しています。
 
下記の画像が6月の現地視察時のもの。左端から草野心平、光太郎、松下英麿(編集者)、谷口、菊池一雄(彫刻家)、佐藤春夫夫妻、藤島です。
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そのあたりの事情は、この画面左の「ブログリンク」にも登録してありますが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのHP「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」に詳しい経緯が書いてあります。
 
「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」中の「「乙女の像」の歴史と魅力にせまる ろまんヒストリー」lというメニューです。
 
昨年、像の除幕から60周年を迎えたのを機に、十和田市さんや地元ボランティアの皆さんが中心となって、像をめぐるいろいろな顕彰活動が展開されています。
 
過日は像の設置工事に直接携わった技師の方への聞き取り調査もなさったとのこと。今まで活字になっていなかったような当時の様子等が、やはり「十和田奥入瀬ろまん新聞」中にアップロードされています。
 
今年も引き続き、いろいろと顕彰活動が行われるとのこと。当方も少しばかりお手伝いしています。今後の活動については、順次、ご紹介していきます。

3/8(土)、山形の最上義光歴史観を後にし、仙台へ向かいました。
 
仙台での目的地は、伊達政宗公の青葉城の一角にある仙台市博物館です。こちらでは以下の企画展が開催中です。 
 
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東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

会期:平成26年3月1日(土)~4月13日(日) 月曜休館 9:00~16:45(入館は16:15まで)
 
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公式サイトより。
 
 飛鳥時代に聖徳太子によって建立された法隆寺は、日本を代表する寺院として多くの人々に親しまれています。天智天皇9年(670)の落雷による火災で大きな被害を受けたとされ、和銅4年(711)頃に現在の中心伽藍が整ったと考えられています。復興された法隆寺は、聖徳太子と関わりの深い仏像が安置されるなど太子信仰の寺院として多くの信仰を集めます。約1300年にわたり保護されてきた世界最古の木造伽藍は、1993年に日本で初めて世界文化遺産に登録されました。
 本展は、東日本大震災の発災から3年を迎えるにあたり、震災からの復興を祈念して開催するものです。法隆寺がたどった復興から現在へと至る歴史を踏まえながら、同寺の宝物をはじめとする様々な美術品を一堂に展示します。
 また、岡倉天心(1863-1913)以来、法隆寺宝物の保存と継承に携わってきた東京美術学校(現 東京藝術大学)の関係者が同寺へ奉納した絵画や什物などを展示し、法隆寺が日本の文化興隆に果たした役割と、そこに携わった人々についても紹介します。
 
展示は三部構成となっており、第一部が「法隆寺-その美と信仰 法隆寺の仏教美術」、第二部が「法隆寺と東京美術学校」、第三部が「法隆寺と近代日本美術」です。
 
光雲が教授を務め、光太郎も在籍した東京美術学校と法隆寺は、密接な関係があります。古くは美校設立に尽力した岡倉天心とアーネスト・フェノロサによる救世観音像等の調査などが有名ですし、その後も寺宝の保存、継承のために美校の果たした役割には大きなものがありました。
 
そこで、第二部では美校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)が並んでいます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
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聖徳太子像の方は高さ約16㌢の小さなものですが(それでも、というかそれだけに非常に精緻です)、佐伯定胤像の方は同じく約90㌢。光雲作の木彫の中では大作の部類に入り、非常に迫力があります。約90㌢という数字は図録で調べましたが、実際に見た感じはもっと大きな感じです。この像は、頭部の原型を光太郎が作っており、その意味では光雲・光太郎親子の合作といってもよいと思います。
 
その他、飛鳥時代から近現代に至る寺宝の数々が展示されており、見応えのある企画展でした。
 
さて、この企画展、以下の日程で巡回となっています。
 
仙台展 仙台市博物館      2014年3月1日(土)~4月13日(日)
東京展 東京藝術大学大学美術館 2014年4月26日(土)~6月22日(日)
新潟展 新潟県立美術館     2014年7月5日(土)~8月17日(日)
 
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図録にはもう一点、光雲作の聖徳太子像が掲載されています。こちらは新潟展のみの出展です。
 
ぜひお近くの会場へ足をお運び下さい。
 
さて、企画展を見終わり、せっかくなので周辺を少し歩きました。山形は雪でしたが、仙台は晴れていました。
 
博物館の裏手には、かつて東北大学医学部の前身・仙台医学専門学校に留学していた魯迅の顕彰碑と胸像。
 
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さらに伊達政宗公の胸像もありました。
 
政宗公には有名な騎馬像がありますが、光太郎や光雲作の銅像と同じく、ご多分にもれず戦時に金属供出の憂き目にあいました。この胸像は供出されたあと、上半身部分のみ鋳つぶされずにうち捨てられていたものだそうです。
 
その後、たまたま残っていた原型を元に、2代目の騎馬像が鋳造されたそうです。それがこちら。博物館の裏手を登っていったところにあります。
 

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ここからの仙台市街のながめはgoodでした。
 

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その後、この日は仙台駅前に宿を取りました。続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月13日

昭和25年(1950)の今日、岩手黒沢尻の森口多里(美術評論家)の疎開先で、誕生日祝いの会食をしました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕131年ということになりますね。
 
で、昭和25年(1950)の今日、講演旅行の帰りに寄った森口の疎開先で饗宴にあずかりましたが、参会者の誰もその日が光太郎誕生日とは言われるまで知らず、全員サプライズの誕生祝いになったとのこと。こちらも昨年のこのブログに書きましたのでご覧下さい。

東京から企画展の情報です。
 
 
期 日 : 2014年3月21日(金・祝)- 4月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 展示室1
時 間 : 
午前10時 - 午後5時 4月11日(金)は午後8時まで
休 館 : 毎週月曜日
料 金 : 一般300(250)円 高校・大学生100(50)円(中学生以下は無料)
 
     ( )は20名以上の団体料金

東京藝術大学のコレクションは、前身である東京美術学校の開校に先立って開始された芸術作品・ 資料の収集にはじまります。以来125 年余り、収集された作品は28500 件以上、教育資料として古今の優品や貴重な資料が収集されただけでなく、本学に学び、また教えた歴代の学生と教員たちによっても多くの作品が残されています。

東京藝術大学大学美術館では、この多彩なコレクションを広く展観する機会として、毎年春にコレ クション展を開催しています。本年は、特に絵画作品に光をあてて、皆様のお目にかけます。上代絵 画の名品≪過去現在絵因果経≫[国宝]から、2013 年度新収蔵品の高村光雲作≪鷹(寿老)≫まで、 バリエーション豊かな藝大コレクションをお楽しみください。
 
東京藝術大学は、前身である東京美術学校の時代から、120年以上の長きにわたって古今東西の芸術資料・作品の収集につとめてきました。28,500件以上の多様なコレクションはその成果であり、藝大の歩みを映し出すものです。本展覧会では春の名品選と題して、藝大コレクションを代表する作品を展示、その豊かな魅力をお伝えします。また特集展示として、二つのテーマを設けて近世・近代の絵画をご紹介します。

特集展示1 女性を描く/ヌードと出会う
特集展示2 近世の山水/近代の風景 ―富士山図を中心に― 

 
というわけで、光雲の作品が展示されます。《鷹(寿老)》という作品、調べてみましたがよくわかりません。同館のサイトには収蔵品のデータベースがあるのですが、ヒットしませんでした。「2013年度新収品」とあるので、まだアップされていないのかもしれません。

時間を見つけて観に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月8日

大正9年(1920)の今日、『続ロダンの言葉』の翻訳が完了しました。
 
単行書『続ロダンの言葉』は、この年5月に叢文閣から出版されました。

「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんの運営するサイト「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」。「奥入瀬日記」という項目があり、こまめに更新され、現地の様子等がよくわかります。
 
今月7日に始まった「十和田湖冬物語2014」の紹介などで、ライトアップされた十和田湖畔の裸婦像(通称「乙女の像」)や、今年が100周年にあたる光太郎詩「道程」などについて触れてくださっています。ありがとうございます。
 
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それから、1週間ほど前の報道ですが、青森の地方紙『デーリー東北』さんで「十和田湖冬物語」開幕が報じられています。

北東北最大級 雪と光の祭典「十和田湖冬物語」が開幕

デーリー東北新聞社 2月8日(土)9時9分配信
 
 北東北最大級の雪祭り「十和田湖冬物語」が7日、湖畔休屋の特設会場で開幕した。さまざまな雪のオブジェがイルミネーションで彩られ、一面の銀世界ときらめく光が非日常的な空間を作り出している。3月2日まで。
 陸上自衛隊八戸駐屯地が約3週間かけて制作した雪像は、ねぶたと竿灯(かんとう)がテーマで、高さ8メートル、幅23・4メートルと圧巻の迫力。オープニングセレモニーでは、関係者が雪像に点灯して開幕を祝った。
 午後8時からは呼び物の「冬花火」が打ち上げられ、色とりどりの200発が漆黒の夜空を鮮やかに照らした。花火の打ち上げは期間中、毎日行われる。
 会場には、中に入って地酒やカクテルを楽しめるかまくらや大型すべり台、温泉を利用した足湯のコーナーも登場。出店が並ぶ「ゆきあかり横丁」では青森、秋田両県の郷土料理が味わえる。

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会期は3/2(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月17日001

昭和58年(1983)の今日、疋田寛吉著『書人外書伝』が刊行されました。
 
取り上げられているのは歌人の会津八一、陶芸家の北大路魯山人、そして光太郎。専門の書家ではない三人ですが、その書は独特の光彩を放ち、書道史上、無視できないものとなっています。
 
帯に印刷された詩人・大岡信の推薦文より。
 
 世を去ってのち、ますます強い魅力を放射しつづける三書人をあえて一堂に会さしめ、三者三様の書のうちに、互いの差異を超えて貫道する書の真髄を透視し、えぐり出そうとする。(略)まことに気持のいい書の本が誕生したものだ。
 
読売新聞社刊。

テレビ放映情報です

美の巨人たち 荻原碌山(守衛)『女』

BSジャパン 2014年2月19日(水)  22時54分~23時24分
 
毎回一作品にスポットを当てそこに秘められたドラマや謎を探る美術エンターテインメント番組。今日の作品は荻原碌山(守衛)『女』。天才彫刻家が追い求めた芸術の境地とは?
番組内容
今日の作品は、“東洋のロダン"と呼ばれた彫刻家・荻原碌山(守衛)作『女』。高さ98cmのブロンズ彫刻。早世した荻原碌山の遺作であり、日本近代彫刻の幕開けといわれる作品です。両手は後ろに組まれ、地面に埋まるような足。顔は天を見上げ、苦悶の表情を浮かべています。この不思議なポーズが意図するものとは…?また苦悶の表情の正体とは…?二つの運命の出会いによって生み出された天才彫刻家の最高傑作をご紹介します。
ナレーター 小林薫
音楽
<オープニング・テーマ曲> 
 「The Beauty of The Earth」 作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン) 唄:ジョエル・タン 
 <エンディング・テーマ曲> 
 「終わらない旅」 西村由紀江

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1/25に地上波テレビ東京系で放映されたものです。その折は直前まで気づかず、放映前にご紹介できませんでした。

紹介・解説の部分では、連翹忌ご常連の碌山美術館学芸員・武井敏氏がご登場。ミニドラマの部分は「親友 故人荻原を偲ぶ」という題で、光太郎と戸張孤雁、そして相馬良(黒光)が、守衛の没後、思い出を語るという構成で、光太郎役は俳優の大浦龍宇一さんが演じられています。
 
地上波テレビ東京系は全国的に系列局が少ないのですが、今回はBS放送ですので全国で視聴できます。ただし、BS放送視聴の加入契約をしていないと不可能ですが。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月14日

平成6年(1994)の今日、テレビ東京系で「日本名作ドラマ 智恵子抄」が放映されました。
 
単発の2時間ドラマでした。キャストは光太郎役は滝田栄さん、智恵子役が南果歩さん、光雲役に昨年亡くなったすまけいさん、智恵子の母・センを渡辺美佐子さん、水野葉舟で中丸新将さんなど。「智恵子抄」の映像化は何度かなされていますが、この南さんの演じた智恵子は出色だったと思います。
 
この「日本名作ドラマ」、第1期(平成5年=1993 5~9月)と第2期(同10月~平成8年3月)に分かれ、第1期は前後編各2回にわけての連ドラ枠での放送でした。森鷗外「雁」に始まり、若き日の木村拓哉さん主演の川端康成「伊豆の踊子」、夏目漱石「門」、太宰治「斜陽」などのラインナップで、こちらはVHSテープで販売もされました。
 
「智恵子抄」は、樋口一葉「にごりえ」、織田作之助「夫婦善哉」などと同じ第2期で、こちらは不定期の単発2時間ドラマとしての放映でした。第2期に関しては残念ながら映像ソフト化がされていません。当方は当時のテレビ放映を録画したものを持っていますが。

青森の地方紙『デーリー東北』さんで、一昨日に掲載された記事です。

十和田市、湖畔休屋の遊覧船ターミナル取得を検討 観光拠点施設に

 昨年12月に破産した十和田湖観光汽船(青森市)が所有していた湖畔休屋の遊覧船ターミナルについて、十和田市が建物の取得を検討していることが31日、地元関係者らへの取材で分かった。地元の理解を得た上で建物を購入し、案内所機能を強化した上で、観光拠点施設として活用する方針とみられる。
 遊覧船ターミナルは桟橋前広場に面した国有地に建っており、2005年に完成した。鉄骨造りの2階建てで、総床面積は約695平方メートル。
 遊覧船乗客の待合所として定着し、運航する2社が昨年までチケット販売の拠点としていた。しかし、十和田湖観光汽船の破産で使用できなくなる可能性が指摘されていた。
 遊覧船は4月から休屋発着便のみとなり、十和田観光電鉄(同市)の単独運航に切り替わるが、ターミナルを引き続き使用するかどうかは決まっていなかった。建物が市の所有に移れば、建物の一部を借りて従来通りのチケット販売が続けられることになる。
 さらに市は、建物の改修も計画しているもよう。関係者によると、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設し、大町桂月や高村光太郎といった湖ゆかりの文化人の資料を展示する予定
 近くで総合案内所を運営する十和田湖国立公園協会が、ターミナル内に移転する可能性もある。
 取得が決まれば、市は十和田湖観光汽船の破産管財人を務める岩谷直子弁護士(青森市)と売買契約を結ぶとみられる。
 ターミナルの取得について、市は取材に「現時点では答えられない」としている。
 
一昨年のこのブログで、十和田観光汽船さんに触れました。その時は民事再生手続きに入る、というものでしたが、昨秋、それも断念、破産ということになったそうで、残念です。
 
十和田湖で遊覧船を運航する十和田湖観光汽船(青森市)は15日、民事再生法による経営再建を断念し、年内にも破産手続きに入る方針を固めた。
 同社は青森地裁に提出した再生計画案に基づき立て直しを目指してきたが、見込んだほど業績改善が進まなかったため、14日付で地裁から再生手続きの廃止決定を受けた。このまま事業を続けても負債が膨らみかねず、「悔しいが、どうしようもない」(松橋泰彰社長)と再建断念を決めた。
 同社代理人の長谷一雄弁護士(東京都)によると、乗客8万5000人、約1億2000万円の売り上げ目標に対し、今年度の業績は「1~2割下回る状況」。運航本数の縮小や営業期間の短縮で経費を節減してきたが、肝心の客足の回復が鈍く、財務を抜本的に改善するまでには至らなかった。
 慢性的な経営不振に加え、東日本大震災による観光客の激減がダメージとなり、同社が約5億7000万円の負債を抱えて民事再生法の適用を申請したのは2012年8月。水面下で探ってきた同業他社との事業統合も不発に終わり、頼みの再生手続きが頓挫したことで再建への手立てを失った。松橋社長によると12月中旬にも破産手続きに入る見通しだ。
 期間限定で雇用していた従業員約35人は15日に退職したが、残る従業員で窓口業務は24日まで続ける。
 共同で遊覧船事業を手がけてきた十和田観光電鉄(十和田市)は単独で運航を続ける方針だが、慢性的な赤字部門をいつまで抱えていられるかは不透明で、「運航体制は今後の検討課題」としている。
 十和田市観光商工部の母良田篤夫部長は「少しでも乗客を増やそうと支援してきただけに、残念だ。十和田湖観光にとって遊覧船は欠かせない魅力。今後は残る1社に頑張ってほしい」と肩を落とした。
2013年11月17日  読売新聞)
 
一昨日の報道は、そのターミナルビルだった建物に、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設し、大町桂月や光太郎といった湖ゆかりの文化人の資料を展示する計画があるらしいという報道ですね。
 
実現すればそれはそれでいいことだと思います004が、複雑な気持ちです。
 
さて、当方、今週末に1泊で十和田湖に行くことに致しました。7日の金曜日からスタートするイベント、「十和田湖冬物語2014」を観て参ります。
 
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そのための切符の手配で、昨日、自宅最寄りのJR佐原駅に行きました。窓口で切符を頼んでいると、ちょうど足下に「乙女の像」。驚きました。

JRさんで「青森・函館 津軽海峡紀行」というキャンペーンを行っているとのことで、その宣伝でした。
 
思わずケータイで写真を撮りましたが、駅員さんは「?」という表情でした(笑)。
 
そちらのものではなく、青森限定のパンフレットが置いてあったので貰ってきました。「十和田湖冬物語2014」が大きく扱われています。幻想的な感じですが、どう考えても寒そうです。過日の岩手もかなりの雪でしたが、今回も覚悟して臨みます。
 
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ちなみに自宅周辺では、既に先月末からオオイヌノフグリやホトケノザが咲き、蜂が飛んでいます。雪国の皆さんには怒られそうですね(笑)。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月3日

昭和29年(1954)の今日、日比谷公会堂でブダペスト弦楽四重奏団の演奏を聴きました。
 
クラシック音楽にも造詣の深かった光太郎、岩手太田村に住んでいた頃は、時折訪れた花巻の町でレコードを聴くくらいで、禁断症状でしょうか、山林を歩きながらバッハの「ブランデンブルグ」が幻聴で聞こえた、というエピソードがあります。
 
その意味では、帰京後、こうした機会が増えたのは幸いでした。
 
ちなみにこの時の曲目はバルトークの弦楽四重奏曲第6番、ミヨーの同12番、そしてバーバーの弦楽四重奏曲ロ短調。これは別名「弦楽のためのアダージョ」。映画「プラトーン」のテーマとして使われたものですね。
 
この夜の印象をもとに、ずばり「弦楽四重奏」という詩が書かれています。

一昨日、茨城県笠間市に、映画「天心」を見に行くと共に、日動美術館さんにも行って参りました。
 
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こちらは銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により創設された美術館で、光太郎の作品は収蔵されていないようですが、彫刻や絵画で、光太郎と深い交流のあった作家の作品がたくさん並んでいます。
 
一度は行ってみようと思いつつなかなか果たせず、一昨日、初めて行ってみました。
 
正面入り口を入ると右手に「パレット館」。名だたる画家達が愛用したパレット、さらにパレットに絵を描いたものが展示されています。
 
左手が「フランス館」。こちらに光太郎と親交のあった画家たちの作品が展示されています。具体的には岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、梅原龍三郎、安井曾太郎などなど。それらが並ぶ1階の展示室は「長谷川仁・林子記念室」という名前になっていますが、その室名を書いた扁額は草野心平の揮毫でした。意外なところで意外な人の名を目にしました。
 
2階展示室は、フランス印象派系の作品など。こちらも光太郎が評論で取り上げたり、知遇を得たりしていた作家の作品が多く並んでいました。ルノワール、ドガ、セザンヌ、モネ、マチス、ピカソ……。
 
やはり本物は違いますね。収蔵作品は3,000点ほどだそうで、展示替えもあり、下のパンフレットにある高橋由一「鮭」などは見られませんでした。
 
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「フランス館」入り口あたりから、奥の「野外彫刻庭園」にかけて、やはり光太郎と親交のあった彫刻家の作品もたくさん並んでいました。佐藤忠良、舟越保武、本郷新、菊池一夫などなど。
 
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これで、屋内展示でもいいので、何かしら光太郎の作品があればいうことなしです。
 
「野外彫刻庭園」を通り抜けると、「企画展示館」です。「世界文化遺産登録記念 東海道五十三次と富士山写真展」が開催中でした。富士河口湖町立河口湖美術館さんとのコラボ企画で、広重の「東海道五十三次」、そして公募入選の富士山の写真がずらっと並んでいます。富士山と、それを取り巻く四季折々の自然。やはり日本人の魂をゆさぶる風景ですね。 
 
同館には、徒歩20分くらいのところに「春風萬里荘」という別館がありますが、こちらには行きませんでした(映画「天心」を観る都合がありましたので)。こちらは陶芸家の北大路魯山人の旧居を移築したものだそうで、茅葺き入母屋造りの重厚な建築だそうです。
 
魯山人は光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれ。今のところ、二人の間に直接のつながりは見いだせていませんが、どこかしらで接点はあったのではないかと想像しています。ちなみに「春風萬里荘」にも心平の書が展示されているそうです。また折を見て、こちらにも行ってみたいと思っています。
 
というわけで、日動美術館。都会の喧噪を離れた雰囲気も非常に好ましいと感じました。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月28日

昭和9年(1934)の今日、草野心平により『宮澤賢治追悼』が刊行されました。
 
光太郎は「コスモスの所持者宮澤賢治」を寄稿しています。歿後間もなく、まだ一般にはほとんどその存在を知られていなかった賢治に対し、光太郎は以下のように語りました。
 
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する 。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。

東京で北川太一先生を囲んでの新年会を行った11日(土)、青森十和田では、十和田湖奥入瀬観光ボランティアガイドの皆さん、地元の自然ガイドクラブの方々を中心に、十和田湖畔の裸婦群像―通称「乙女の像」―に関する勉強会を行ったそうです。
 
昨秋、当方も同行した北川太一先生宅と、光太郎の令甥・規氏が住まわれる高村家訪問の様子のビデオを観ながらだったとのこと。
 
 
毎日まじかに見ている湖畔休屋の方が「乙女の像は高村光太郎の作品である。とはご紹介しますが、『裸婦群像(乙女の像)は十和田の深く美しい自然から、世界に向けて発信する命を繋ぐ愛と救済のシンボル』だったとは知りませんでした。ご案内の際は、乙女の像に込められた光太郎の深い想いを伝えたい。」と感想を述べていました。
 
今回の企画テーマ「乙女の像を探る」から地元の私達は、十和田湖畔に建つ「乙女の像・裸婦群像」の意味を少し分かった気がします。
 
十和田湖の美しさも深いけど、乙女の像も深いなぁ〜・・・
 
その通りですね。
 
ちなみに十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイト、今月初めにも「十和田湖畔に建つ裸婦群像[2]」と題して記事が書かれています。
 
本当にそんじょそこらに無秩序に建つ銅像や野外彫刻とは違い、彼の地の宝ですので、大切にしていっていただきたいものです。
 
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画像は昔のテレホンカード。今の季節、こんな感じなのかなと思います。当方、来月には十数年ぶりに対面してきます。
 
ところで十和田といえば、やはり11日(土)、地元青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」に光太郎が紹介されました。
 
 

天鐘(2014/01/11掲載)

  高村光太郎は、動物篇という詩の連作でさまざまな動物を取り上げた。ニューヨークにある動物園のオリの前で、シロクマを見つめる男がいた。せっかくの日曜日にである▼〈彼は柵にもたれて寒風に耳をうたれ/蕭条(しょうじょう)たる魂の氷原に/故しらぬたのしい壮烈の心を燃やす〉という一節がある。オリの中に閉じこめられたシロクマに許されていたのは、北極圏に広がる氷原の記憶を呼び起こして、懐かしむ以外になかった▼さらに詩では〈白熊といふ奴はつひに人に馴(な)れず/内に凄(すさま)じい本能の十字架を負はされて紐育(ニューヨーク)の郊外にひとり北洋の息吹をふく〉とその孤独を歌う。人間に捕獲され、自由だった北極から連れて来られたのだろう▼シロクマにとっては、平成も決して平穏な時代ではない。生息地から無理やり引き離されるのではなく、生息地の北極圏で生き、子孫を残していくことが極めて困難になっているからである。絶滅の恐れも指摘される。これもまた、人間に起因する▼人間活動を原因とする地球温暖化は、異常気象や氷雪の融解などさまざまな異変を地球上にもたらしている。国連の気象変動に関する政府間パネルは、警鐘を鳴らし続けている▼地球温暖化によって食糧生産が減少し、人間の安全が脅かされると予測する。適応できる限界を超える異変さえ見込まれる。国家・国益の狭い枠にとらわれない〝地球的な思考〟がなければ、難局を解決できないのではあるまいか。
 
引用されているのは大正14年(1925)に書かれた「白熊」という詩です。明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ滞在中の経験を元に書かれたもので、遠く故郷を離れた、異郷にある自分と動物園の白熊を重ねています。
ちなみに「動物篇」とあるのは「猛獣篇」の誤りです。
 
コラムでは地球温暖化の問題に話を広げています。今年元日のブログに書きましたが、通称「乙女の像」を作った頃の光太郎は、日本とか西洋とかいったくびきから解放され、地球規模の視点を得ていたといえます。
 
光太郎もさすがに地球温暖化までは予想していなかったとは思いますが、地球規模の視点を得ていた光太郎の作品として、通称「乙女の像」に対峙していただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月14日

明治36年(1903)の今日、光雲が第5回内国勧業博覧会審査官に任命されました。
 
当ブログ、閲覧数30,000件を超えました。ありがとうございます。

青森からのイベント情報です。 

十和田湖冬物語 2014

[期間]   2014年02月07日~2014年03月02日

雪と氷に覆われる神秘的な冬の十和田湖では、十和田湖のシンボルともいえる乙女の像が闇に浮かび上がります。また、周辺の散策路も雪明かりでほんのりと照らされ幻想的です。イベントでは「雪月花」をテーマとした冬花火とライトショーが行われるほか、郷土芸能や郷土料理、かまくら内でお酒も楽しめます。

[会場]   十和田湖畔休屋 特設イベント会場
[住所]   〒018-5501 十和田市十和田湖畔休屋

[問合せ先]   十和田湖冬物語実行委員会(十和田湖総合案内所内)  ☎ 0176-75-2425

[イベント内容]
  ■冬花火:期間中毎日 20:00~20:10
  ■乙女の像ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
  ■津軽三味線ライブ:平日/19:00・20:30、土日祝/20:30
  ■ステージイベント:土日祝/19:30~
  ■ゆきあかり横丁:平日15:00~21:00、土日祝11:00~21:00
  ■酒かま蔵:期間中毎日 19:00~21:00
  ■かまくらBar:期間中毎日 18:00~21:00
  ※この他にも、様々なイベントが行われます。
  ※予定が変更になる場合もあります。
 
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昨年は乙女の像建立60周年で、今年にかけ、さまざまな顕彰活動が企画されています。こちらは恒例のイベントですが、真冬の十和田も乙なものだと思います。ぜひ足をお運び下さい。今年は当方もうかがう予定です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月9日

昭和10年(1935)の今日、智恵子の親友だった秋広あさ子に葉書を書きました。
 
拝啓 只今小包にて結構な林檎をたくさん頂戴仕り難有存上げます、ちゑ子の大好物ゆゑ病中にても林檎だけは喜んでいただきます、 小生寸暇無きため御返礼もお送りいたしがたく失礼仕候へどもとりあへず畧儀ながら葉書にて御礼まで申述べます、
 
秋広は日本女子大学校での智恵子の同窓。同じ寮で暮らしたこともあり、当時の回想などが「智恵子様のこと」という題名で、昭和34年(1959)の草野心平編『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房刊)に掲載されています。
 
智恵子が統合失調症を発症したのち、親身になって心配し、智恵子を訪ねてきたり、この葉書にあるように見舞いの品を送ったりしました。
 
以下、「智恵子様のこと」より。
 
お二階の機(はた)に腰かけて無心に筬(おさ)を動してた智恵子様が、人の気配に目を上げられた時、遠くをみつめる様な目指しで何か一生懸命に思い起そうとしてらつしやる御様子。‶智恵子さん、おぼえてらつしやる? アサ子ですよ!″遠くから一本の綱を漸く探り当てた様に微笑んでうなずいた智恵子様は、もうお話の出来ない美しい人形になつてしまわれたれたのでした。

昨年、6月の千葉市美術館さんを皮切りに、岡山県井原市田中美術館さん、愛知県碧南市藤井達吉現代美術館さんと、3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。好評のうちに12月15日、閉幕しました。
 
さて、その最後の会場となった藤井達吉現代美術館を運営する愛知県碧南市のサイト内に、碧南市長・禰宜田政信氏が動画で語るページがあり、毎月更新されています。自治体の首長が毎月動画でメッセージを発信するというのは、全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。
 
昨日、今月分がアップされました。題して「高村光太郎と碧南市」。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、そして光太郎と交流のあった藤井達吉にからめ、約7分間のメッセージが流れます。


 
市長さんのお話によれば、碧南展での入場者数はのべ16,600人、1日平均420人だったそうです。
 
ぜひご覧下さい。
 
ちなみにバックナンバーを見ると、初期の頃を除き「××と碧南市」で統一されています。「××」は、愛知県という土地柄上、織田信長や徳川家康、武田信玄などの戦国武将が多いのはうなずけますが、光太郎や三島由紀夫、高浜虚子、富岡鉄齋といった文化人、そうかと思うとミスタードーナツ、アンコール遺跡など、「どういう関係があるんだ?」というものまで広範囲にわたっています。
 
また、碧南市の広報誌「広報へきなん」の今月号もネット上にアップされています。24ページもある豪華な広報誌ですが、15ページ目、「まちかどフォト ホットニュース」欄に「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に関する記事があります。こちらもぜひご覧下さい。

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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月7日

平成6年(1994)の今日、TBS系テレビの「金曜ドラマ」枠で「いつも心に太陽を」の放映が始まりました。
 
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全11回の連ドラでした。スタッフ、キャストは同じ「金曜ドラマ」枠で、この1年前に放映されていた「高校教師」と共通する方が多用されていました。のちに全4巻のVHSテープが販売されました。
 
キャストは西田敏行さん、小林稔侍さん、観月ありささん、遠山景織子さんほか。『智恵子抄』を一つのモチーフとし、ヒロイン・観月さんの役名が「高井智恵子」、中盤には袴田吉彦さん演じる『智恵子抄』大好き文学青年が登場していました。ただ、後半にはまったく『智恵子抄』がらみの話はなくなってしまいました。
 
まだ無名だった大杉漣さんや温水洋一さんがほんのちょい役で出演なさっていて、笑えます。

暮れに岩手花巻の浅沼隆様から地元紙『岩手日日』さんが送られてきました。
 
浅沼さんは花巻郊外旧太田村にお住まいで、太田村時代の光太郎をご存じの方です。昨秋、NHKさんで放映された「日曜美術館」で、その頃の思い出を語られました。現在は農業のかたわら、花巻の財団法人高村記念会理事として、現地での光太郎顕彰活動に取り組まれています。
 
送っていただいた『岩手日日』さんの記事のうち、先月6日の記事がこちらです。
 
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光太郎の業績伝えて 高村記念会 市へ美術品5点寄付

 財団法人高村記念会(佐藤進会長)は5日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作した美術品5点(評価額6400万円相当)と記念館整備資金として500万円を花巻市に寄付し、同市太田の高村光太郎記念館で後世に伝えていくよう願った。
 
 寄贈された美術品は▽十和田湖畔裸婦像原型▽光雲還暦記念像(光雲の首)▽少年の首(薄命児頭部)▽裸婦坐像▽手。
 同記念会の佐藤会長、宮澤啓祐理事ら関係者が市役所を訪問、父親の故隆房さんが光太郎と親交のあった佐藤会長は「高村先生のことを忘れてもらいたくない。市から支援を頂いて後世に残したい」と語り、美術品と寄付金の目録を受け取った大石満雄市長は「本物の作品が花巻にあるのはすごいこと。後世に残すため十二分に対応していきたい」と応じた。
 東京出身の光太郎は、宮澤賢治との縁で花巻に疎開し7年間暮らした。
 市は、同市太田の旧花巻歴史民俗資料館を活用し、同記念会が設置・運営して老朽化していた高村記念館の収蔵資料を全て移す計画で「高村記念館」を整備している。光太郎の生誕130年に当たる2013年度は、5月15日の高村祭に合わせてプレオープンした。
 新しい記念館では、今回寄贈された美術品5点を含む光太郎の彫刻、書画、文芸、愛用品などを展示している。光太郎の顕彰施設としては国内唯一で、市賢治まちづくり課によると入館者数は着実に伸びているという。
 14年度も施設や周辺環境の全体整備を継続し、光太郎の疎開70年目に当たる15年度の本格オープンを目指している。

というわけで、昨春仮オープンした高村光太郎記念館で展示されている光太郎ブロンズ彫刻のうち、5点が財団法人高村記念会から花巻市に寄贈され、所有権が移ったという記事です。
 
彫刻の名前が、多少誤解を招きそうなので補足しますが、「十和田湖畔裸婦像原型」とあるのは「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」が正しい名称で、七尺の十和田の裸婦群像の2分の1スケールで作られた試作です。
 
「光雲還暦記念像(光雲の首)」とあるのは、「光雲の首」を正しい名称としています。明治44年に作られた「光雲還暦記念像」そのものは空襲で焼け、現存しませんが、こちらはそのための試作として作られたと推定されているものです。石膏のまま高村家の蔵から見つかり、昨秋亡くなった人間国宝の鋳金家・斎藤明氏がブロンズに鋳造しました。
 
ところで記事にもあるとおり、今後も花巻の記念館の整備が続きます。当方、そちらにも関わっております。
 
それからやはり記事にあった高村記念会の創設者・佐藤隆房に関する企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」が、現在、花巻市博物館で開催中です。当方、来週、観行く予定です。
 
花巻の今後にご注目下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月5日

大正4年(1915)の今日、北原白秋に宛てて年賀状を書きました。
 
麻布区坂下町十三 北原白秋様
 
賀正 大正四年一月五日 駒込林町二十五 高村光太郎 <いつも貴重な雑誌を頂いて居りましてありがたく存じます。>
 
当方、今年もたくさんの年賀状を頂いております。ありがとうございます。

光雲の作品も出品され、京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展が、テレビで大きく取り上げられます。

皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」

NHKBSプレミアム 2014年1月1日(水)  19時00分~20時00分
NHKBSプレミアム  2014年1月2日(木)  19時00分~20時00分
 
豪華けんらん、唯一無二。皇室が収集してきた究極の宝が京都に集結。美術品に課せられた使命とは?かつて日本を救った職人たちの物語に女優の栗山千明が迫る。
 
宝石のように輝く七宝、再現不可能とされる謎の金属置物。明治以降、皇室が収集してきた究極のコレクションが京都に集結している。そんな名品ぞろいの展覧会を取材することになったのは新人ディレクターの宮崎京子(栗山千明)。静まり返った会場で不思議な光景を目にする。なんと作品たちが動き出したのだ!美術品に託された国家の命運、かつて日本の危機を救った職人たち。作品たちが物語る秘話に次第にのめり込んでゆく。
 
出演 栗山千明 井上順 山崎樹範 飯尾和樹 語り 國村隼
 
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NHKさんサイトから
 
現代技術では再現不可能と言われる色を放つ「七宝」、世界に衝撃を与えた超細密「金属工芸」、世界初の技術を駆使して織り上げた豪華絢爛「西陣織」など、明治から昭和にかけて皇室が集めた秘蔵コレクション。
 
これらの美術品が生まれたのは開国間もない明治時代。諸外国の干渉を退け、急速に近代化を推し進めるには、日本は工業も未成熟で、まだ体力が足りなかった。
 
そこで美術品を輸出し、大量に外貨を獲得しようという国家プロジェクトがあった。いわば国策によって生まれた究極の美術品たち。
 
しかしその後日本が成長し、西洋文化が入り込むにつれ、美術品とそれを作り上げた匠たちの技や思いは薄れていった。
 
番組は、ドラマ仕立ての中で、実際に取材したVTRを紹介する形で進行。主人公は、栗山千明さん扮する「宮崎京子(みやざききょうこ)」。京都にある架空の番組制作会社「京都町家(きょうとまちや)テレビ」に勤務するアシスタントディレクター。
 
その京子が、「京都町家テレビ」の社長兼プロデューサー・藤田(井上順)の命令で、先輩ディレクター・池田浩一(山崎樹範)と共に、京都国立近代美術館で開かれる「皇室の名品」展の取材にいく所から番組は始まる。
 
美術館の広報担当・林(飯尾和樹)の案内をうけ取材を進めていくと、突然、美術品たちが動き、京子にしゃべり出す。そこで語られるのは、美術品に駆使された高度な職人技や、生み出した職人達の埋もれた秘話。2夜連続でお伝えする。
 
番組サイトでは、二代 川島甚兵衞の綴錦「百花百鳥之図壁掛」、川之邊一朝、海野勝珉、六角紫水ほかによる「菊蒔絵螺鈿棚」、海野勝珉「蘭陵王置物」、並河靖之「七宝四季花鳥図花瓶」などの画像が使われています。
 
番組では光雲作品も取り上げていただけると有り難いのですが……。ちなみに光雲がらみの出品物は以下の通りです。
 
「矮鶏置物」(明治22年=1889)、「鶴亀置物」(明治40年=1907、竹内久一と合作)、「萬歳楽置物」(大正5年=1916、山崎朝雲と合作)、「猿置物」(大正12年=1923)、「松樹鷹置物」(大正13年=1924)。
 
新春を彩る絢爛たる世界。ぜひご覧下さい。
 
「皇室の名品-近代日本美術の粋」展についてはこちら。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月29日

昭和27年(1952)の今日、浅草のストリップ劇場「フランス座」に行きました。
 
数え70歳の光太郎、性的な関心というより、美しいものを観たいという欲求なのでしょう。ある意味、尊敬します。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

昨日、小学館さんで刊行している雑誌、『サライ』の12月号を取り寄せて手に入れました。
 
実は、現在、店頭で販売されているのは1月号です。ではなぜ先月号を手に入れたのか、と申しますと、ネットで調査中、12月号の付録「平成26年『サライ』特性カレンダー 「日本美術の名宝」暦」に光太郎の木彫「鯰」が使われているという情報を得たからです。
 
喜び勇んで書店に行ったのが14日。その時点では毎月10日発売というのを知らず、既に12月号は売られていませんでした。あきらめきれずにネットでバックナンバーが購入できないかと試み、ようやく手に入れた次第です。
 
早速開封してみると、こんな感じでした。
 
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そして6月が「鯰」。竹橋の東京国立近代美術館が所蔵しているもので、今年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の千葉展と岡山展で出品されたものです。
 
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他のラインナップは以下の通り。
 
1月:国宝「普賢菩薩像」、2月:狩野山雪「雪汀水禽図屏風」、3月:俵屋宗達「風神雷神図屏風」、4月:岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」、5月:円山応挙「藤花図屏風」、7月:狩野永徳「洛中洛外図屏風」、8月:葛飾北斎「諸国瀧廻り」、9月:久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」、10月:快慶「阿弥陀三尊像」、11月:狩野秀頼「高尾観楓図屏風」、12月:雪舟「秋冬山水図」。
 
こうしてみると、近代は光太郎だけですね。
 
それから本誌の方では光雲が紹介されています。
 
10月にこのブログで紹介した京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展の記事が載っており、光雲の「松樹鷹置物」が大きく載っています。
 
この雑誌は美術関連にも力を入れています。7月号では「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を取り上げて下さいました。ありがたいことです。
 
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当方、時折利用する雑誌専門の通販サイト「Fujisan.com」で入手しましたが、小学館さんのサイトからもバックナンバーが取り寄せられます。ともに定価750円。ぜひお買い求めを。

【今日は何の日・光太郎】 12月22日

大正3年(1914)の今日、上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われました。
 
99年前の今日が、二人の結婚記念日というわけです。まぁ、共棲生活に入ったのはもっと前と推定されますし、逆に入籍したのは昭和8年(1933)ですから実に20年近く後ですが。
 
雨男光太郎の面目躍如で、この日も冬には珍しい豪雨だったそうです。
 
以前にも書きましたが、第一詩集『道程』の刊行も同じ大正3年です。したがって、来年・2014年は『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚100周年ということになります。そのあたりの線で顕彰活動を進めていこうと考えております。

南関東は昨日まで3日ほど雨や雪が続き、都心でも初雪を観測したそうです。が、基本的に冬の関東は乾燥したカラカラ陽気で、火災が発生しやすい状態です。
 
111年前の今日、光太郎も火災に泣かされました。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月21日

明治35年(1902)の今日、駒込林町155番地の光雲宅に作った光太郎アトリエが火災で焼失しました。
 
東京美術学校彫刻科を卒業した年で、まだ光雲宅に同居していた時代の話です。この年の3月に、一部を光雲と共用する形で、自宅敷地内にアトリエを建ててもらったのですが、わずか1年足らずで燃えてしまいました。
 
以下、その直後に光太郎の書いた「工場失火についてのおぼえがき」から。
 
 明治三十五年十二月二十一日午前三時半彫塑室焼失し参考品書籍類及雑具悉皆烏有に帰せり。
 源因は暖炉の落し灰なるべし。
 彫塑室はこの三月の新築に係り、三間に四間の土蔵造りにして北に明取りの窓あり、来年博覧会に出品すべき油土の原型も製作中のこととてまたこの内にありしが皆燃え果てたり。
 
 
以下、「おぼえがき」ということで、火事見舞いに来てくれた人々の名前等が列記されています。
 
光太郎の弟の豊周による『定本光太郎回想』(昭和47年=1972)にも記述があります。
 
 外から火を被っても中の物は安全にして置きたいという配慮から土蔵造りになって居り、天井はガラス張りで明りをとる、当時としては立派ないいアトリエだったのだが、春に出来て十二月には燃えてしまったのだから、ほんのわずかな寿命だったし、家としては莫大な損害だった。
 普請の時に残っていた縁の下のカンナ屑に、ストーブの残り火がうつり、発見した時にはすっかり火の手がまわって、危くて入れない。近所にあった大阪屋という下宿の主人が火事なれている人でよく働いてくれたりして、ようやく火は消しとめたけれど、とうとう中のものは、父や兄の作品をはじめ一物も持ち出さずに灰になってしまった。焼跡の灰を兄はいつまでも掘り返して、未練深く参考写真の使えそうなのを丁寧に探し出していたのだが、いかにも気の毒だった。この失火の時の覚え書が兄の手で残されていて、全集十一巻に入っている。アトリエは取り壊され、そのまま建て直されなかった。
 
現在、写真だけは残っている初期の彫刻「仙」「まぼろし」などは、この時に燃えてしまったと推定されます。画像はこの年3月に発行された美術学校生徒の作品写真集『第弐回彫塑生面』から取りました。
 
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火災には気をつけたいものです。

先月、十和田の皆様を東京千駄木の高村家、そして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生のお宅にご案内しました。
 
その時の話、それからそれを十和田市長に報告したという件が彼の地で報道されたそうです。
 
高村家、北川邸訪問については、青森テレビの川口浩一氏の書かれた文章が『毎日新聞』さんに載りました。
 
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市長への報告については『東奥日報』さん。
 
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全文ご紹介します。
 
今年で建立60周年を迎えた十和田湖畔の「乙女の像」について調査研究に取り組んでいる十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が11月中旬、制作者・高村光太郎のおいや光太郎研究の第一人者を訪ね、乙女の像にまつわるエピソードを聞いた。会のメンバーは27日、十和田市役所を訪れ、小山田久市長に調査成果を報告、像に込められた光太郎の思いなどを次世代に伝えていく決意を示した。
 
 乙女の像は、詩人で彫刻家の高村光太郎が制作した1対のブロンズ裸婦像。十和田湖を広く世に紹介した文人・大町桂月、当時の県知事・武田千代三郎、地元村長・小笠原耕一の3氏の功績をたたえ、国立公園指定15周年を記念して1953(昭和28年)に県が建立した。
 会のメンバーは11月15日、光太郎のおいに当たる高村規さん(83)=東京在住=と、光太郎全集を編集した研究者・北川太一さん(88)=同=を訪問。両氏は、乙女の像が前のめりの2体により無限性を意味する三角形を構成していることや、光太郎自身は「十和田のための裸婦群像」と呼んでいたことなどを指摘した。
 また、妻・智恵子がモデルになったとの定説については、北川さんは「必ずしもそうではない」とした上で、「裸婦群像は、3人の功労者への思い、平和への祈り、十和田の深く美しい自然から世界に向けて発信する、命をつなぐ愛と救済のシンボル。生身の智恵子でもない、もっと永遠のもの」と解説したという。
 さらに、光太郎が家族から「みつたろう」と呼ばれていたが、父・光雲と彫刻上の意見が合わず、反抗心から意識して「こうたろう」の名を使い続けたこと、智恵子の本名はカタカナの「チヱ」であることなど、新たな発見があった。
 訪問調査に参加した吉崎明子さん(73)は「十和田湖の自然を大切にした光太郎の思いをあらためて知ることができた」と話し、同会の小笠原哲男会長(84)は「今後、調査結果などをマンガにして子供向けのガイド本を発刊し、次の世代に伝えていきたい」と話した。
 
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトには、この記事についての記述があります。
 
また、市のホームページでしょうか、こちらのサイトには市長への報告について記載されています。
 
今後も光太郎顕彰の拠点の一つとして、十和田の皆さんには頑張っていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月9日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹晶子夫妻の新詩社茶話会に出席、初めて多くの新詩社同人と顔を合わせました。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

一昨日、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、碧南展は3回目の訪問です。ちなみに千葉展は3回、岡山展も1回行きましたので、つごう7回目でした。
 
一昨日は最後の大きな関連行事として、神奈川県立近代美術館館長の水沢勉氏による記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」がありました。
 
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彫刻を中心に、光太郎の造形作品を取り上げ、その背景や意義などをわかりやすく解説され、非常に興味深く拝聴しました。単に即物的な彫刻の解説にとどまらず、人間・光太郎の道程を下敷きにし、さらに光太郎絵画と智恵子絵画の比較といった点まで踏み込まれ、ある意味目から鱗でした。光太郎の絵画はやはり彫刻家としてのそれで、対象の扱い方も彫刻家的、それにひきかえ智恵子の方がもっと自由に捉えており、もっと智恵子の造型にスポットがあたってもいいのではないか、など。
 
智恵子の油絵で現存するものは三点しか確認されていませんが、その他の造型作品として、デッサンが2点、雑誌の口絵として油絵をカラー印刷したものが2点、やはり雑誌のカット(ペン画?)や、今回も展示されている紙絵などが残されています。また、手芸作品なども。
 
来年は光太郎智恵子結婚100年(ついでにいうなら詩集『道程』出版100年)。美術館、文学館関係の方、こうした企画展示を計画されてはいかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。6月に千葉市美術館で始まり、岡山井原市の田中美術館を経て、現在は最後の碧南市藤井達吉現代美術館ですが、碧南展も折り返しを過ぎました。いよいよ大詰めです。
 
折り返しを過ぎたところで入場者6,000名を超えたとのこと。後半はさらに伸びて欲しいものです。リピーターが多いそうで、ありがたいかぎりですが、まだの方にもぜひご覧いただきたく存じます。
 
下記は『岐阜新聞』さんのサイトから。
 
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さらにこちらは東海地区で載った『朝日新聞』さんの全面広告です。
 
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会期は12/15(日)まで。いよいよ大詰めです。本当に1人でも多くの方に観ていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月25日007

昭和22年(1947)の今日、戦後の詩2篇を補い、白玉書房から詩集『智恵子抄』を再刊しました。
 
オリジナルの『智恵子抄』は、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、戦時にも関わらず13刷まで版を重ねましたが、やはり戦争の影響で龍星閣が休業、昭和26年(1951)に同じ龍星閣が復元版を出版しますが、その間、白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
 
補われたのは「松庵寺」(昭和20年=1945)、「報告」(同21年=1946)の2篇でした。どちらも智恵子の命日(10月5日)に書かれたものです。
 
ただ、白玉書房の鎌田敬止は、元の版元である龍星閣の澤田伊四郎と十分に連絡を取っていなかったようで、この出版には若干のトラブルが生じました。

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