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東北から帰ってきてからも、あちこち出かけています。

一昨日は、都下小平の武蔵野美術大学美術館さんに出かけて参りました。以前にご紹介した「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が始まりました。

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他にも企画展が開催されており、「近代日本彫刻展」は一室のみでの開催でした。

光太郎作品としては、木彫の「白文鳥」(昭和5年=1930頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が2種類、展示されています。


「白文鳥」は、一昨年に全国3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でお借りして以来、約1年半ぶりに観ました。

愛くるしい彫刻です。分類すれば写実彫刻なのですが、全体にざっくりした彫刻刀の痕を残しており、完璧な写実ではありません。また、光雲のように羽毛の一本一本を様式化して彫るということもやって居らず、ロダンに学んだ粘土での表現を木彫に反映させているのがよくわかります。

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しかし、写実以上に写実。生命力に溢れています。

今回は、この「白文鳥」を入れていた共箱も展示されていました。こちらは初めて観ました。

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さらに「手」が2点。上野の朝倉彫塑館さん(左)と、竹橋の東京国立近代美術館さん(右)所蔵のものです。以前にも書きましたが、この2点は確実に大正期の鋳造です。また、木製の台座も光太郎の制作。2つ並んでいるのを観るのは初めてで、今まで気づいていませんでしたが、台座の形がかなり異なっています。

竹橋のものは意外と台座の板の部分が薄タイプです(右の画像)。ところが朝倉彫塑館さん所蔵のものは、板の部分の厚さがこの2倍近くあります(左)。どちらも面の処理の仕方が、「白文鳥」とよく似ており、この台座の制作が後の木彫作品(「蟬」「蓮根」など)を多く作るようになった一つの契機というのがうなずけます。

ちなみに全国各地にある「手」の台座は、高村家所蔵のものを模しています。こちらも光太郎作の台座と推定され、刳型の付いた装飾的な台座です。

図録には、ブロンズをはずした台座のみの写真も載っています。ただし、図録の印刷が間に合わなかったそうで、受付で名簿に住所氏名等を書き、代金を支払って、後ほど郵送していただくシステムになっていました。

こちらは8月16日まで開催されています。ただし、東京国立近代美術館さんの「手」は6月20日までの展示だそうです。


もう1件、展覧会レポートを。というか、まだこのブログではご紹介していませんでしたので紹介も兼ねます

後閑寅雄喜寿チャリティ書画展

開催日 2015年5月27日(水) ~ 5月31日(日)
時 間 9時~21時(ただし小ギャラリーは16時30分まで。最終日は16時まで)
会 場 流山市生涯学習センター 
     千葉県流山市中110 つくばエクスプレス(TX)流山セントラルパーク駅3分
入場無料
 
 流山市にお住いの書道家。学校サポートボランティアによる毛筆授業の指導補助を長年続けられています。文字を読む、書くということから離れつつある中で学校教育における書道の指導の重要性が高まり、市民との協働による日本の伝統文化である毛筆授業を平成12年11月から続け、毎年約800人の児童を対象に通年で約100回の授業補助を行っています。平成26年度には流山市育成会議連絡協議会から青少年の育成功労者として表彰されました。

参考借用陳列敬仰作品(小ギャラリー)
西川春洞、西川寧、浅見筧洞、新井光風、田中東竹、牛窪梧十、青山杉雨、成瀬映山、梅原清山、有岡陖崖、金子鷗亭、金子卓義、佐藤氷峰、金子大蔵、張廉卿、宮島詠士、上條信山、田中節山、市澤静山、高塚竹堂、今関脩竹、清水透石、中山竹径、佐藤竹南、深井竹平、尾上紫舟、日比野五鳳、杉岡華邨、高木東扇、高木厚人、池田桂鳳、榎倉香邨、小林章夫、今井凌雪、村上三島、古谷蒼韻、斗盦、和中簡堂、鈴木槃山、渡辺大寛、内藤富卿、黒野陶山、松井如流、鈴木桐華、野口白汀、小木太法、宮沢賢治、高村光太郎、村上鬼城、中村不析、北村西望、殿村藍田、清水比庵、山本直良、与謝野晶子、山手樹一郎、吉田茂、片山哲、他

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流山在住の書家、後閑(ごかん)寅雄(号・恵楓)氏の作品展です。

参考出品ということで、古今の書もたくさん展示され、その中に光太郎の名があったので、観に行きました。


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後閑氏の作品は素晴らしいものでした。一時流行った、書なのか絵画なのか解らない、墨痕の形のおもしろさだけに頼った「読めない書」ではなく、また、これは現代でもよくあるのですが、書かれている言葉のみに頼り、造型性の薄い書(「誰々の詩句を書きました」というだけのもの)でもありませんでした。

そして参考借用陳列敬仰作品。光太郎の書も展示されているとはいえ、比較的新しく、類例の多い戦後の色紙か何かだろうと勝手に思いこんでいて、軽い気持ちで観に行ったのですが、実際に眼にし、仰天しました。

展示されていた光太郎作品は、短歌が書かれた短冊でした無題が、おそらく明治末のものです。

右の画像は、以前から知られている短冊ですが、よく似ています。こちらは明治44年(1911)頃のものです。「天そそる家をつくるとをみなよりうまれし子等は今日も石切る」と読みます。

白黒反転で、一見、版画のように見えますね。しかし、これは手書きです。といっても、黒地に白で書いているのではなく、字の周りを墨で囲んで塗りつぶしているのです。この手法を「籠書き」と言います。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。

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左は明治45年(1912)の雑誌「劇と詩」、右は同44年(1911)の同じく『創作』の、それぞれ表紙です。

今回展示されていた短冊も、この籠書きの手法。しかも、「天そそる……」の短冊同様、上部に墨絵が描かれており、ますます同じ時期のものと思われました。贋作特有の反吐が出そうないやらしさは感じられず、間違いないものだと思います。第一、こうした手法のものでは贋作の作りようがありません。

さらに驚くべきことに、書かれている短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。「金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜのふく」と読めました。眼にした段階で「こんな短歌、記憶にないぞ」と思ったのですが、その場では資料がありません。急いで自宅兼事務所に帰り、調べてみると、はたして、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。こういうこともあるのですね。

こちらは東京の書道用品店さんの所有だそうで、近いうちに行って手にとって見せていただこうと考えております。

ところで、参考借用陳列敬仰作品、他にはどんな物が並んでいたかというと、他の光太郎のものは、複製が1点。関連する人物として、与謝野晶子の色紙、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の複製、それから昨年個展を拝見した金子大蔵氏の作品も並んでいました。氏は好んで光太郎の詩句を取り上げられていますが、やはり光太郎の詩「最低にして最高の道」の一節を書かれていました。

こちらの展覧会は31日(日)までです。会期が短いのが残念です。


武蔵野美術大学さんともども、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月29日

昭和26年(1951)の今日、55年ぶりに手に取った少年時代の彫刻に墨書揮毫をしました。

彫刻は木彫レリーフの習作「青い葡萄」。明治29年(1896)、数え14歳の作品です。

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これを詩人の菊岡久利が入手、花巻郊外太田村の光太郎の元に送りました。以下、菊岡の回想。

 僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

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こちらが裏面。後半の「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」は明治29年(1896)の署名です。

東北に3泊4日で出かけたり、延々とそのレポートを書いたりしている間に、新聞各紙で光太郎智恵子に関する報道が数件なされています。まとめてご紹介します。ネタの少ない時には5日間にわけて紹介する内容ですが、紹介しなければならないネタが多く、苦渋の選択です。

まずは智恵子の故郷・福島二本松の安達太良山がらみで、福島の地方紙2紙の1面コラム。開催中のふくしまディスティネーションキャンペーン、今月17日が安達太良山の山開きだった関係です。

あぶくま抄

『福島民報』 5月17日
 高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「あどけない話」は、二本松市、猪苗代町などにまたがる安達太良山の名を全国区に広げた。妻智恵子が愛した、東京にはない「ほんとの空」に近づける山として。
 3日に亡くなった詩人長田弘さんも故郷の自然に愛着を抱き続けた。東日本大震災後、本県出身の詩人を代表し、日本記者クラブで2回ほど講演した。高校時代まで親しんだ福島市の信夫山は、街のど真ん中にあり盆地を遠く見渡せる。講演で石川啄木の短歌<ふるさとの山に向ひて言ふことなし…>を引いた。「山は変わらない。山は古里の象徴だ。そういう風景によって生かされている」。景観を壊す復興に異議を唱えた。
 安達太良山はきょう、山開きを迎える。奥岳登山口から途中、ゴンドラを使えば約1時間半で山頂にたどり着く。登山初心者に優しい。地元グループが山道の倒木を片付け、朽ちかけた橋を修復した。受け入れ準備は整った。
 20日は智恵子の129回目の生誕日だ。安達太良山だけでなく、二本松市内の生家や「樹下の二人」の詩碑などを訪ねてみてはどうか。天空で安らかに過ごしているであろう、智恵子と光太郎が歓迎してくれる。

【編集日記】

『福島民友』  5月23日
 さわやかな日が続く。初夏の風が吹きすぎるだけで、日々の雑事で生まれた心のもやもやも、すっと消し飛んでしまう気がする▼1931(昭和6)年5月出版された作家梶井基次郎の代表作「檸檬(れもん)」は主人公の青年が、書店で本の上にレモンを置いて立ち去り、その爆発を夢想する。青年の屈託を吹き飛ばすようなレモンの色彩イメージが発表当時、反響を呼んだという▼「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎も、妻智恵子の死の翌年、レモンをかじる妻の姿を思いおこして詩「レモン哀歌」を作った。人は心が沈んだとき、レモンのさわやかさが必要になるのかもしれない▼智恵子の生家がある二本松市では、道の駅「安達」で、この詩にちなんで、智恵子の誕生日である今月20日からレモンをテーマにしたキャンペーンが始まった。月末までレモンを食材にした食事やグッズが提供される▼さらに、6月6日からは生家で、智恵子の部屋など、通常は公開されていない場所が期間限定で公開されるという。苦難の多かった智恵子と光太郎だが、今は多くの人から愛されている。震災からの復旧、復興を目指す郷土も、さわやかな二人の力を借りて、屈託を吹き飛ばしたい。

智恵子の生家の特別公開に関しては、また後日、ご紹介します。


続いて『朝日新聞』さん。2件あり、1件は岩手版の記事。今月15日、高村祭の日から始まった花巻高村光太郎記念館の企画展に関してです。

岩手)高村光太郎記念館 企画展「山居七年」始まる

『朝日新聞』岩手版 5月22日
 花巻市の高村光太郎記念館で企画展「山居七年」が開かれている。光太郎が同市太田にある「高村山荘」と呼ばれる小屋で過ごした1945年からの7年間の足跡をパネルや記録映画で紹介。水彩画など約20点を展示している。
 同記念館が4月にリニューアルしたことと、光太郎が花巻に疎開してから今年で70年になるのを記念して開催した。水彩画は「牡丹(ぼたん)」。疎開直後に発症した肺炎が完治した記念に主治医に贈ったものという。このほか、地元の小学校の学芸会にサンタクロースに扮して遊戯に参加したエピソードなどを紹介している。
 今回の展示は9月28日まで。10月からは展示資料を入れ替えて続けるという。



さらに先週土曜の全国版夕刊。過日、当方がお話をうかがってきた埼玉東松山の田口弘氏にからむコラムです。東武東上線高坂駅がその舞台。

(各駅停話)高坂駅 つややか ブロンズ通り

 高坂駅は三角屋根に時計台が載ったヨーロッパ風のかわいらしい駅舎。西口を出てれんが敷きの歩道を進むと、延々とブロンズ像が並んでいるのに気づく。
高村光太郎やガンジーの像、胴体だけの男女の裸像――。約1キロにわたり、30体以上もある。いずれも日本を代表する彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87年)の作品だ。
 高田は31年に渡仏。肖像彫刻の技術を磨き、ノーベル賞作家のロマン・ロランらとも親交を持った。モデルと会話することで、作品にその人の思想を表現するよう意識していたという。
 駅前の像は86年、東武鉄道が駅舎を今の姿に改築したのにあわせて、東松山市が街のシンボルにしようと整備した。高田は晩年を鎌倉のアトリエで過ごしていたが、東松山でも、当時の市教育長だった田口弘さん(93)の誘いで展覧会や講演会を開いていた。それが縁になり、「彫刻通り」の構想につながった。
 「高田の作品がこれだけ集まるのは全国でも珍しい。半日くらいかけて、彫刻の良さを感じてほしい」と田口さん。像は酸性雨で溶けないよう、年に1回お色直しをしている。約30年経つ今も、つややかで美しいままだ。(鈴木智之)

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ブロンズ通りに関しては、一昨年のこのブログでご紹介しました。


最後に、大阪の地方紙『大阪日日新聞』さんから。御堂筋の光太郎彫刻「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」――御堂筋では「みちのく」――に関してです。

智恵子が2人、御堂筋に立つ

『大阪日日新聞』 5月23日
今回の案内人 亀井澄夫 日本妖怪研究所所長
中央区高麗橋「高村光太郎作 みちのく」
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」(高村光太郎著『智恵子抄(ちえこしょう)』より)
 彫刻家であり詩人の高村光太郎が、長沼智恵子に出会ったのは明治45年、智恵子27歳、光太郎29歳のときである。大正3年、2人は結婚。芸術家とその妻は、お互いを最良の理解者として生活を共にする。
 しかし、結婚生活は24年を経て、智恵子の死によって終わりを告げる。その後、智恵子への思いをつづった詩集『智恵子抄』で、彼女は新たな生をうけ、それぞれの人の心に智恵子像を刻むことになる。『智恵子抄』は芸術に関心がなくとも、異様な感動を呼ぶ愛と狂気の傑作である。光太郎は晩年、2体の裸婦が向き合う作品を十和田湖に残している。それと同じテーマの裸婦像が御堂筋の歩道上にある。久しぶりに御堂筋を歩いてみた。
 2体の裸婦は同じ顔、同じ姿で手を重ねようとしている。生の波動が手から手へ伝わるようである。一瞬の後、手がスイッチとなり、2人のエネルギーがお互いをかけめぐり、動きだす。この顔は、もちろん智恵子である。光太郎と出会った頃の写真とうり二つである。
 「智恵子は(中略)まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています」
 智恵子は芸術家にとって、意欲をたかぶらせる魔女である。できた作品を最初に鑑賞し、的確な評を述べ、それを愛し、その心を慈しんだ智恵子。
 光太郎は智恵子との生活で智恵子を呼吸し、自身を内なる炎で燃やし、浄化した。そんな彼の作品を路上で見られる大阪人は幸せである。たまには足をとめて、智恵子とともに空を見上げてみてはいかがだろうか。もう人間であることをやめた智恵子。恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩道。智恵子飛ぶ。

終末部分、正しくは「遊歩道」ではなく「遊歩場」なのですが……。


というわけで、各紙で光太郎智恵子を取り上げて007 (2)下さり、ありがたいかぎりです。いつも同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、どこの新聞にも光太郎智恵子の名がまったく載らない、という事態にはなってほしくないものです。当方の活動がそのための一助と成れば幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月28日

平成12年(2000)の今日、新潟県立近代美術館で開催されていた企画展「生誕110年記念 広川松五郎 高村豊周展」が閉幕しました。

豊周は光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝。殆どの光太郎ブロンズ作品の鋳造を手がけました。広川は豊周の盟友にして染織工芸家。ともに近代工芸の改革者として、活躍しました。

右の画像は図録の表紙です。豊周の「挿花のための構成」という作品で、大正15年(1926)のものです。斬新ですね。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」

NHKEテレ 2015年5月31日(日)  9時00分~9時45分  再放送 6月7日 20時00分~20時45分

日本の近代彫刻を切り拓いた高村光雲。高野山金剛峰寺におさめた本尊が80年ぶりに公開されるのを機に、職人としての姿勢を貫きながら新たな芸術を探求した生涯に迫る。

開創1200年を迎えた高野山で、金剛峯寺金堂の本尊が、昭和9年におさめられて以来、初めて開帳された。作者は、幕末から昭和にかけて、日本の近代彫刻を切りひらいた彫刻家・高村光雲。金堂の本尊は、70歳を過ぎ、なみなみならぬ思いで彫り上げたこん身の作。職人であることに誇りを持ちながら、新たな時代の彫刻を探求し続けた、その生涯に迫る。
高村光雲は、11歳で仏師のもとに弟子入りし、ひとりの職人としてその道を歩み始めた。
明治維新の後、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などの影響で、木彫の世界が厳しい状況に追い込まれる中、決して信念を曲げず修行を重ねた。西洋の彫刻を学んだ息子の光太郎は、職人としての姿勢を貫こうとする光雲を強く批判したが、光雲自身も新しい彫刻を模索し、「老猿」など、近代彫刻を代表する傑作を世に送り出した。

そんな光雲が、最晩年「現代第一流ノ人格手腕ヲ具備スル彫刻家」と目され、依頼を受けたのが高野山の秘仏だった。死を意識しながら、何を目指したのか。職人と芸術家、相反する領域をひょうひょうと行き来しながら、木彫一筋に生きた光雲の実像に迫る。

出演 アーティスト…須田悦弘
司会 井浦新 伊東敏恵
朗読 石橋蓮司

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高野山開創1200年の特別開帳にからめての内容のようです。007 (2)

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』をはじめ、光雲は詳細な談話筆記を大量に残しています。おそらく石橋蓮司さんの朗読というのは、そのあたりからでしょう。ぴったりの感じがします。

ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月26日

明治31年(1898)の今日、臨画「布袋図」を描きました。

無題光太郎数え16歳、東京美術学校の予備ノ課程に在学中でした。「乙 高村光太郎」と署名があります。他の作品では「予備科乙」となっているものがあり、「乙」はクラス名のようです。

縦98センチ、横44センチ。驚嘆の出来ですね。

この頃の日本画の講師には川端玉章らがいました。

橋本雅邦は、この年4月に校長・岡倉天心へのバッシング、「美術学校事件」に連座して、図案科の助教授だった横山大観らと共に退職しています。

ちなみに嘱託職員には座学の美学担当で森鷗外がいました。

今年1月のこのブログで、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」についてご紹介しました。

これは、日本の武蔵野美術大学美術館さんとの共同開催で、基本的に同じ内容を、先に英国で、のちに日本で開催するというものです。

そういうわけで、光太郎の木彫「白文鳥」とブロンズの「手」が、海を渡りました。

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その日本展が、今月末から、武蔵野美術大学美術館さんで始まります。 

近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−

会 期 : 2015年5月25日(月)~8月16日(日)
会 場 : 武蔵野美術大学美術館 展示室5
休館日 : 日曜日、祝日 ※6月14日(日)、7月20日(月・祝)、8月16日(日)は特別開館
時 間 : 10:00ー18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入館料 : 無料
主 催 : 武蔵野美術大学 美術館・図書館
監 修 : 黒川弘毅(武蔵野美術大学彫刻学科教授)

イギリス、ヘンリー・ムーア・インスティテュートの企画による本展では、森川杜園、高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八、横田七郎の木彫など、日本の近代彫刻の特徴を示す自然物をモチーフにした彫刻約10点を紹介する。明治以降、彫刻史において独自のポジションを形成した近代日本彫刻の意義を検証すると同時に、その作品の魅力に迫る。

<出展作品>
・「手」 高村光太郎 1918年 ブロンズ、木彫(台座部分)
  東京国立近代美術館所蔵/台東区立朝倉彫塑館所蔵(注
・「白文鳥」 高村光太郎 1931年頃 木彫 個人蔵(フジヰ画廊)
・「冬眠」 佐藤朝山 1928年 木彫 福島県立美術館所蔵(横井美恵子コレクション)
・「石に就て」 橋本平八 1928年 木彫/「石に就て」 の原型となった石 個人蔵(三重県立美術館寄託)
・「静物」など5点 横田七郎 1928年~1929年 木彫 平塚市美術館所蔵
・(予定)「蘭者待 模刻」 森川杜園 1873年 木彫 東大寺所蔵

注) 台東区立朝倉彫塑館所蔵作品は全期間、東京国立近代美術館所蔵作品は5月25日から6月中旬までの展示を予定。いずれもブロンズ部分は「真土(まね)鋳造法」によるもの。高村光太郎によって作られたと推定され木製台座の形状は異型で、この2作品の同時展示は初の試みとなる

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おそらく木彫の「白文鳥」は、一昨年、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来の展示です。

「手」に関しては、少し書きにくい問題があります。全国の美術館等に、いったいこれがいくつあるのか、当方も把握できていません。ブロンズの彫刻はそういうものが多く、かの有名なロダン作「考える人」も世界中に存在します。

重要文化財に指定されている荻原守衛の「女」にしてもそうです。ただし、「女」は石膏原型が残っており、厳密に言うと重要文化財に指定されているのは、この原型です。

ところが、「手」の原型は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエもろとも焼失してしまったと推定されます。

それでは、全国にあまたある「手」はどうやって作られたのかということになりますが、大正期に鋳造された初めの「手」から採った型で作られているのです。したがって、厳密に言えば複製です。

複製ではなく、大正期に鋳造されたものは、多分、竹橋の東京国立近代美術館さん所蔵のものと、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵のもの,さらに高村家にも。他にも有るかもしれませんが、当方が把握しているのはこの3点のみ。そのうち2点が今回の武蔵野美術大学美術館さんに展示されます。

この2点には、木製の台座が付いています。この台座も、光太郎が彫ったものと推定されています。当方、ブロンズ部分を取り外した台座のみの写真を見せて貰ったことがあります。「白文鳥」などの木彫を手がけるようになったのは、この「手」の台座の制作が、一つの契機になっているのではないかという説もあります。

ところで、全国にあまたある「手」の台座は、木製ではなく樹脂製。やはりコピーなのです。

見に行かれる方、ぜひ、台座に注目して下さい。


当方、今日から3泊4日で、東北に行って参ります。

その前に、東京で高村達氏写真展「Botanical Garden~植物園」を拝見。 その足で東北新幹線に飛び乗り、今夜はまた鉛温泉藤三旅館さんに宿泊です。花巻の㈶高村光太郎記念会さんのご尽力で、昭和23年(1948)に光太郎の泊まった31号室に泊めていただくことになりました。有り難い限りです。

明日は光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋、高村山荘敷地にて第58回高村祭。記念講演を仰せつかっています。明日の宿泊は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎が足しげく通った温泉宿で、光太郎が泊まった部屋を復元した「牡丹の間」に泊めていただきます。

その後、現地でいろいろと調査。そして17日(日)には仙台で、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」 」を聴いて参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月14日

昭和13年(1938)の今日、東京資生堂画廊で「岸田劉生十周忌回顧展覧会」が開幕しました。

同4年(1929)に数え39歳で早逝した岸田の回顧展です。そのパンフレットに光太郎執筆の「寸言-岸田劉生十周忌回顧展覧会」が掲載されました。

昨日の『毎日新聞』さんの青森版に、先月、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集・発行の『十和田湖乙女の像のものがたり』を紹介する記事が載りました。

執筆はATV青森テレビさんのアナウンサー・川口浩一氏。同書に「十和田湖と「乙女の像」を巡る人々(国立公園指定八十年に寄せる)」を寄稿なさっています。

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青森県内数カ所でしか販売されていませんが、電話等での注文は可能かと存じます。

十和田市 大七書店  0176-23-5371
十和田湖総合案内所  0176-75-2425
奥入瀬渓流館      0176-74-1233
なりた本店 しんまち店 017-723-2431

また、明後日、花巻郊外旧太田村の高村山荘高村光太郎記念館敷地にて行われる第58回高村祭にて販売いたします。他にも当方の関わった書籍、雑誌類も販売します。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月13日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋前で、さまざまな野菜の種や苗を植えました。

手帖のメモから。007

畑にジャガを五畝いける。インゲン出かかる 南瓜苗床に三種まく。(鶴首、千成、北海道。)茄子をまく。キヤベツ仮植。

かなりの程度の自給自足を目指し、前年から本格的に農業に取り組んだ光太郎。ところが前年は同じ時期に右掌が化膿、花巻町で切開手術を受けたりで、思うように出来ませんでした。

今年こそは、と気負って臨み、この年以降はある程度の成果を上げています。ただし、穀類は配給に頼らざるを得ませんでした。

また、昭和26年(1951)は結核性の肋間神経痛がひどく、耕作を中止しました。

昨日は埼玉県東松山市に行って参りました。こちらにお住まいの、光太郎と交流のあった田口弘氏のお宅を訪問させていただくのが第一目的でした。

氏は同市の教育長を永らく務められ、在任中には、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営に骨を折られました。退任後は市立図書館顧問、幼稚園の園長先生などを歴任、現在はご隠居なさっています。大正11年(1922)年生まれの、御年93歳だそうです。

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氏と光太郎、出会いは昭和18年(1943)。俳人の柳田知常を介してだったそうです。翌年には軍属として南方へ出征される前に、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、数点の揮毫をしてもらったとのこと。この点、3月に女優の渡辺えりさんとご一緒にお話を伺いに行った、深沢竜一氏や、動員先の工場から光太郎を訪ねたえりさんのお父様と似ています。

氏は南方で乗っていた輸送艦が撃沈されて命からがらの目にあいました。その際、出征前に光太郎に揮毫して貰った書は海のもくずとなったそうです。戦後は捕虜としてジャワ収容所に入れられ、昭和21年(1946)に帰国されたとのこと。

昭和22年(1947)には、花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎を訪問。その後も2回ほど太田村の光太郎の元を訪れたそうです。

光太郎ゆかりの品々を、拝見して参りました。

山小屋で書いて貰ったり、埼玉のご自宅008に送り届けられたりした書が4点、光太郎からの書簡が10通、光太郎から贈られた献呈署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻、それらが小包で届いた際の包み紙(宛名や差出人の部分が光太郎筆跡)、鉄道荷札。さらに、光太郎歿後に、特に高村家にお願いして鋳造させて貰ったという、ブロンズの「大倉喜八郎の首」など。

こちらは軸装された書。聖書の一節です。氏がクリスチャンであるため、光太郎が特にこの言葉を選んで揮毫してくれたそうです。

我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん ロマ書 光太郎

と読みます。

他の3点の書は、色紙。しかし、太田村の山小屋で、目の前で書いて貰ったという2点は、戦後の混乱期ゆえ、色紙というよりボール紙のようなものです。よくある縁取りもされていません。
しかし、それだけにかえってよそゆきでない雰囲気が感じられました。

書かれているのは短句「うつくしきもの満つ」「世界はうつくし」、短歌「太田村山口山のやまかげにひえをくらひて蟬彫る吾は」。短句二つは、南方の海に沈んだ書と同じ言葉を、再度書いて貰ったそうです。

うつくしきもの満つ」は、光太郎が好んで書いた言葉で、他にも類例がありますが、この言葉を最初に書いて貰ったのは、昭和19年(1944)の自分が最初ではないかというのが氏の弁です。

世界はうつくし」。昭和16年(1941)には「うつくし」が漢字の「世界は美し」という詩が作られていますが、この言葉が書かれた書は類例がありません。

それぞれ氏が私刊された書籍(『詩文集 高村光太郎の生き方』)などで写真は見たことがありましたが、やはり実物を手に取ってみるのとでは大違いですね。


氏とは、10年ほど前の連翹忌でお会いしていますが、長々お話ししたのは初めてでした。氏から当方の自宅兼事務所に電話があり、一度会って話がしたい、ということでお邪魔いたしました。こうした品々の今後について、これからご相談させていただくことになります。

昨日のお話の中で、氏のおっしゃった言葉が非常に心に残りました。光太郎について詳しく研究するのはいいが、それだけでなく、そこから何を学ぶか、自分の人生にどのように活かしていくかが重要だ、とのお言葉。まったくもってそのとおりですね。


帰りがけ、氏のお宅から2㌔ほどの所にある市立新宿小学校さんに寄りました。こちらには、氏のお骨折りで建立された石碑があります。

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光太郎が昭和26年(1951)、太田村の山口分教場が小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。

10年ほど前にこの碑を見に行ったことがありましたが、昨日、建立の際のお話も伺ったので、改めて観て参りました。

文字は渋る石屋さんを、「あなたの仕事が半永久的に残るんだから」となだめすかし、手彫りでやってもらったとのこと。機械を使っての彫りでは、光太郎の書の感じがうまく表せないという理由です。

この書の現物は花巻の高村光太郎記念館にありますし、光太郎の母校である東京荒川区の第一日暮里小学校さんも校訓として使用、やはりが建っていますし、花巻の山口小学校跡地にも碑が建っています。

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小学一年生でも読めるようにと、ひらがなのルビも光太郎が書き添えています。

「正直親切」。単純なようで、奥の深い、いい言葉です。


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他にも東松山市には、やはり田口氏のお骨折りで出来た、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚の作品を配した「彫刻通り」があります。こちらには光太郎胸像もあるのですが、一昨年、観て参りましたので、昨日はパスしました。


それにしても、貴重なお話が伺えました。当方、生前の光太郎は存じません。その分、直接交流のあった方々の証言など、積極的に聴いておきたいと考えております。

来週末には、花巻高村祭のためまた花巻に行きます。その際、地元の、やはり生前の光太郎を知る方々とお話しできる機会を設けて下さるとのこと。ありがたく拝聴して参ります。

追記 田口氏、2017年2月にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈009り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月10日

大正13年(1924)の今日、古今書院からロマン・ロラン作、光太郎訳の戯曲『リリユリ』が刊行されました。

装幀、題字も光太郎です。

つい先だって、今まで知られていなかったロマン・ロランの文章の光太郎訳が見つかりました。のちほど詳細をレポートします。

テレビ放映情報です。  

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2015年5月5日(火)  12時00分~13時55分
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !!
 
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年(2006)2月24日に、地上波フジテレビさんが放映した2時間ドラマです。地上波フジテレビさん、BSフジさんで、年に1~2回は再放送されています。

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岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

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ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


もう1件。 

歴史秘話ヒストリア 「高野山1200年へのいざない~平安のスーパースター空海の物語」

NHK総合 2015年5月13日(水) 22時~22時43分

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開創1200年を迎え、秘仏である金堂(総本堂)の本尊薬師如来(高村光雲作)が初めて開帳されています。それに触れられるかどうか不明ですが、とりあえずご紹介しておきます。

ただ、ネット上には、同番組で一昨年2月に放映された「空海からの贈りもの ~天空の聖地・高野山~」の回と同一の内容である旨の記述もあり、そうであれば、新たに撮っていないことになり、光雲作の薬師如来像には触れないような気がします。

詳細がわかりましたらまたご紹介します。



それから、同じく詳細はまだ発表されていませんが、今月末には光雲がメインの番組があります。

日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道

NHK Eテレ 2015年5月31日(日) 9:00~10:00

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こちらは完全に新たな制作です。高村家には先週、そのための取材が入ったそうです。

これも詳細がわかりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月4日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに、ラジオパーソナリティ・秋山ちえ子さんが訪問。ラジオ番組の録音を行いました。

当日の日記です。

晴、涼、 (略) NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、

秋山ちえ子さんといえば、TBSラジオで放送されていた「秋山ちえ子の談話室」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。こちらは平日の朝、昭和32年(1957)から平成14年(2002)まで45年間もの長きにわたって放送されていました。

光太郎の談話が録音された昭和29年(1954)当時、秋山さんが担当していたのは、NHKさんの「私の見たこと、聞いたこと」という番組です。この時期の光太郎日記は記述が簡潔で、オンエアを聴いたという記述は見あたりません。当時のテープなどが残っていればと思うのですが、難しいでしょう。

ちなみに秋山さん、大正6年(1917)のお生まれですが、まだご存命で、朗読などのご活動をなさっています。

2016/04/13追記 秋山さんが亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

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昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

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ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

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こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

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「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


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すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

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さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後の頃は不眠不休に近かったとか……。

それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

昨日も、都内に出、3件の用事を済ませて参りました。

一つずつ詳しくレポートしたいところなのですが、今日から花巻に泊まりがけで出かけますので、そちらのレポートも書かねばならず、昨日の分はダイジェストで記述します。

まず、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さん。企画展「鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」を観て参りました。

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先月から始まっているのですが、一昨日から「中期」日程(5/17まで)に入り、展示替えで光雲木彫が展示されています。明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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どちらも平成14年(2002)、茨城県立近代美術館で開催された企画展「高村光雲とその時代」展で観て以来、13年ぶりに拝見しました。何度観ても、光雲の刀技の冴えは、神業の域です。

「矮鶏」はポストカードが販売されていました。さらに図録を購入。花巻から帰ってからゆっくり読みます。


続いて、都下・調布の武者小路実篤記念館さんへ。こちらはこのブログを始める前、震災の年の夏にお邪魔したことがあり、2度目の訪問でした。その際は、収蔵されている光太郎から武者小路宛の葉書の調査でした。

こちらも一昨日、春の特別展「一人の男~武者小路実篤の生涯~」が始まりました(6/14まで)。同館の特別展では、これまでに「実篤と○○」、「白樺派と××」的ないわばミクロ的視点の企画が多かったようですが、今回は、生誕130年記念やら開館30周年やらということで、実篤その人をマクロ的に取り上げ直す、といったコンセプトのようでした。すると、光太郎もからんできますし、同館から招待券を戴きましたので、観に行った次第です。

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入ってすぐ、巨大な年譜が展示されており、ざっと見ただけでも武者小路が主宰したり関わったりした雑誌で、光太郎が寄稿している雑誌が結構あることに、改めて気づきました。『白樺』をはじめ、『生長する星の群』、『大調和』、『星雲』、『向日葵』、『心』など。また、それらの現物も並んでいましたし、展示されていた写真パネルには光太郎が写っているものも。興味深く拝見しました。

こちらも詳しくレポートしたいところですが、先を急ぎます。すみません。


最後に練馬の光が丘。「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさんの「ミニミニライブ 第13回」です。

何が「ミニミニ」かと言いますと、会場です。ホールやライブハウスなどではなく、民家の一室(それも一戸建てでなく、光が丘団地の集合住宅)でやってしまうという大胆な試みで、したがって、キャパシティー的に「ミニミニ」です。それでも20名ほどお客さんが集まっていました。

プログラム的には「ミニミニ」ではなく、みっちり2時間。前半が「智恵子抄」ということで、モモさんオリジナル曲を中心に、モノドラマ形式のステージでした。後半は「イタリアン・ポップス」。伴奏はもはや「相棒」と化しているピアニストの砂原dolce嘉博さん。いつもながらに息の合った演奏でした。

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民家の一室だけあって、非常に家庭的な雰囲気、さらに終演後にはお部屋をご提供下さった澤村様ご夫人の手料理を賞味しつつの懇親会も行われました。当方、帰ってやることもあり、途中で退散いたしましたが。


というわけで、またまた有意義な1日でした。先述の通り、今日から花巻です。明日は花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープンと言うことで、そちらの式典、さらに午前中は報道陣への内覧があり、当方も説明のお手伝いです。特になにもなければ1泊009で(宿泊は光太郎も泊まった鉛温泉さん)帰る予定ですが、もしかすると滞在が延びるかも知れません。いずれにせよ、有意義な旅としたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月27日

大正8年(1919)の今日、『時事新報』で連載「ホヰツトマンのこと」が始まりました。

ホヰツトマン」は、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)。アメリカの詩人です。光太郎は大正6年(1917)から、『白樺』などにホイットマンの「自選日記」の翻訳を発表、同10年(1921)には単行本として刊行しています。

一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。

メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。

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昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。

続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。

ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。

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さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。

企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。

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同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。 

荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放

 安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。

 学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。

 書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。

 碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。

 同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。

報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。

同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。

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その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。

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講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。

続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。

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新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。

ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。

余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます

しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。


講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。

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昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。

参加者の方のスピーチもあり、今月2日の第59回連翹忌にご参加いただいた新宿中村屋サロン美術館さんの河野女史のスピーチも。

当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。

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その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。

以上、長野レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日

昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。

像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。

他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。

昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。

今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。

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こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。

釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。

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行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。

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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。

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2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。

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時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。

さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。

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場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。

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入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。

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邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。

その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。

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こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。

桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。

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門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。

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山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。


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さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日

大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。

銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。

昨日に続き、都内レポートです。007

芝増上寺を後に、次は新宿中村屋サロン美術館さんに行きました。

現在開催中の「テーマ展示 柳敬助」を観るためです。昨秋の開館の時に続き、2度目の訪問となりました。今月2日の第59回連翹忌に、事務の方と学芸員の方、お二人がご参加くださり、招待券も戴いてしまいました。
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柳敬助は光太郎より2歳年長の画家。東京美術学校に学び、明治末、光太郎や荻原守衛と同時期に滞米しており、彼の地で二人と知り合っています(光太郎とは渡米前の東京美術学校で面識程度はあったかも知れませんが)。帰国後は中村屋の裏に守衛の設計監督で建てられたアトリエで1年ほど創作を続け、中村屋サロンの一員となりました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同年、日本橋三越で開かれた遺作回顧展の初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

信州安曇野の碌山美術館さんには柳の作品がある程度まとまって収蔵されており、今回の展示はそちらから10点あまりと、その他、「個人蔵」となっているものでした。

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碌山美術館さん収蔵のものは、同館に毎年行っていますので、何度も観たものですが、その他の「個人蔵」というものは初めて観るものばかりで、興味深く拝見しました。特に、ハガキ大の小さな板に油彩で書かれた「板絵」には「ほう」と思いました。小さな画面に魂が凝縮されている感じでした。


さらに奥のスペースでは、常設展的に「中村屋サロン 通常展」。

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光太郎作品は油彩の「自画像」と、碌山さんから借りているブロンズの「裸婦坐像」。ともに何度見ても素晴らしい作品です。もちろん他の作家のものも。

来月9日、14:00からギャラリートークがあります。ぜひ足をお運び下さい。

最後に受付前のショップを覗くと、当方の知らなかった新刊書籍が置いてあり、早速購入しました。

新宿ベル・エポック

2015/4/20  石川拓治 小学館 定価1,800円+税

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帯文から

芸術と食を生んだ中村屋サロン

インドカリーで有名な中村屋に芸術家たちが集った理由とは? 愛と情熱に溢れた知られざる新宿の良き時代

明治末期から大正、昭和前期にかけて、活況を呈した中村屋サロン。彫刻家・荻原守衛(碌山)、高村光太郎、画家・中村彝…。激動の時代、彼らを支え、世のために尽くした相馬愛蔵・黒光夫妻の物語。


ちょうど受付に、連翹忌においで下さった学芸員の方がいらっしゃいまして、「こんな本が出てるんですね。存じませんでした」と申し上げると、「昨日届いたんです」とのこと。ラッキーでした。

帰りの電車の中で早速読み始めましたが(まだ読了はしていません)、非常にわかりやすくまとまっていて良いと思いました。著者の石川拓治氏はノンフィクション作家。前述の学芸員さんに教えていただいたのですが、「奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録」という書籍も書かれています。たまたまその題材になったリンゴの無農薬栽培の話は知っていたので、意外といえば意外でしたが、「食」という点で中村屋さんと共通するのかも、と思います。

来週には碌山美術館さんの碌山忌に行って参りますので、それまでに読んで置こうと思っています。

皆様もぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月18日

昭和18年(1943)の今日、連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死しました。

それを受けて光太郎は「提督戦死」「山本元帥国葬」という詩を作り、さらに「厳然たる海軍記念日」「われらの死生」という詩でも山本の戦死に触れています(すべて昭和18年=1943)。

いろいろ紹介する事項が多く、間が空いてしまいましたが、先週末、京都に行って参りましたのでレポートします。

目的地は2カ所。まずは東山の知恩院さんに。

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こちらにある友禅苑という庭園には、光雲が原型を作成した聖観音像が鎮座ましましています。

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この像は秋11月、紅葉の季節にライトアップされます。

知恩院さんには何度も足を運んでおりますが、実はそのライトアップの報道を読むまで、こちらに光雲原型の観音様がいらっしゃることを存じませんで、この機会にと思い、拝見して参りました。

光雲は江戸の生まれで、東京をホームグラウンドにしていましたので、東京には光雲作の仏像を収める寺院が非常に多いのですが、京都はそうでもありません。

数年前にその発見が報じられた嵯峨野の大覚寺さん、鷹が峰の光悦寺さんなどが有名なところです。

そちらは堂内や宝物館に収められていますが、知恩院さんのものは露座です。京都で露座の仏像でちょっとしたもの、というのは珍しいのではないでしょうか。


知恩院さんを出て、そのまま歩いて南下、円山公園や祇園を抜け、清水方面へ向かいました。知恩院さんを含め、早咲きの桜がみごとでした。まだソメイヨシノはほとんど開花していませんでした。

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ただ、雨だったのが残念でした。それはそれで風情があったのですが。

次なる目的地は、清水寺近くの清水三年坂美術館さん。

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こちらでは、2月から企画展「明治の彫刻」を開催中です。

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光雲作の木彫が4点、展示されています。「聖観音像」「月宮殿 天兎」「老子出関」「西行法師」です。

他に光雲と親交の深かった石川光明、光雲高弟の山崎朝雲などの木彫、今年1月、テレビ東京系の「美の巨人たち」で取り上げられた森田藻己の根付「竹の中の大工」もありました。光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。

木彫は見る機会が多いのですが、今回、牙彫(げちょう・象牙彫刻)がたくさん出品されており、まとめて牙彫を見るのは初めてなので、興味深く拝見しました。明治前半には牙彫が輸出品としてもてはやされましたが、光雲は師匠伝来の木彫にこだわり、廃仏毀釈で仏像の注文がほとんどなくなっても牙彫にはてをつけなかったそうです。また、金工でなく、木彫や牙彫で作られた自在置物もあり、「こんなものもあったのか」と驚きでした。

企画展は館の二階でしたが、一階は常設展的に、彫刻以外の七宝や金工、漆芸などの作品が並んでいました。こうした明治の「超絶技巧」がちょっとしたブームですが、やはり凄い、と思いました。

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同館では同館自体でこのような展示を行いつつ、さらに出張巡回で「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」も展開しています。現在は山口県立美術館に巡回中です。こちらでも光雲の木彫が並んでいます。

館の方とお話をさせていただきましたが、こちらの展示品はほぼすべて、館の所蔵する「村田コレクション」だそうで、外部から借り受けることはほとんどないそうです。「光太郎展をやりませんんか?」という営業の意図もあっておじゃましたのですが、どうもそうはいかないようです。

さて、「明治の彫刻」、来月17日まで開催中です。知恩院さんともども、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月1日

明治42年(1909)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭』が創刊されました。

この雑誌の編輯人は小橋三四子、発行兼印刷人は柳八重。いずれも智恵子と親しい同大の先輩で、1年半後には二人を介して光太郎と智恵子の邂逅が実現します。

『家庭』には智恵子の描いたカットも掲載されました。数多い挿画の中でどれが智恵子の手になるものか特定できない面がありますが、このあたりは智恵子作と云われています。

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十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、約2年間にわたって編集されていた書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が完成しました。

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一昨年、光太郎制作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建立から60周年を迎えたのを機に、地元の観光ボランティアの皆さんが、像の創られた背景などを改めて知ろうという取り組みの中から生まれたものです。

昨年逝去された光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長であられた高村規氏、当会顧問にしてこの世界の第一人者・北川太一先生、さらに昭和28年(1953)、像の設置工事の現場監督をされた元青森県技師・小山義孝氏の聞き書きなど、貴重な証言が収められています。高村氏、北川先生へのインタビューは一昨年。当方も同道しました。

当方、たまたま会の皆さんの知遇を得、制作に協力させていただきました。5分の2ほどは当方の執筆、あとは全体の校閲などもやらせていただき、結局、「監修」ということで奥付に名前を載せていただいております。

B5判388ページ、画像をふんだんに使っているため、全ページコート紙の贅沢な造りです。

目次は以下の通り。

発刊に寄せて 北川太一氏
まえがき 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会会長 小笠原哲男氏
乙女の像ものがたり

資料編
 「乙女の像」概説
 北川太一氏インタビュー
 高村規氏インタビュー
 小山義孝氏インタビュー
 記念色紙 写真と解説
 石版 写真と解説
 講演記録「乙女の像誕生秘話」 十和田市教育長 米田省三氏
 寄稿「十和田湖と『乙女の像』を巡る人々」 ATV青森テレビアナウンサー 川口浩一氏
 記録 第19回レモン忌
 活動記録 乙女の像・ろまんヒストリー発信事業について

あとがき

「乙女の像ものがたり」は、小学生向けに書きました。光太郎の伝記を兼ね、史実を元にしたフィクションです。細かく云うと、この時この人はここにはいなかったはずだとか、いろいろあるのですが、あくまで「ものがたり」ということで勘弁して下さい。

「資料編」は一般向けの内容です。「「乙女の像」概説」という部分を当方が書き下ろしました。また、昨秋、十和田湖畔に開館した観光交流施設「ぷらっと」館内展示説明パネルのために書いたものも転載されています。

その他の記事も、これでもかとてんこ盛りで、非常に充実した内容となっています。

先週にはボランティアの会の皆さんが、十和田市長を表敬訪問、完成の報告をされ、その様子が地元で報道されました。

こちらは『東欧日報』さんの記事。

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さらにローカルテレビ局でも地域のニュースとして紹介されました。

市長さんはことのほか完成を喜んでいらしたそうです。

発行部数はそれなりに多いのですが、地元の学校さんなどに寄贈の分が多く、販売にまわされるのは少ないそうです。好評となり、増刷されることを期待します。

ボランティアの会さんの連絡先は以下の通り。直接お問い合わせ下さい。

十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会
 〒034-0303 青森県十和田市法量字前川原86-15 tel/fax 0176-72-2642

チラシ画像も載せておきます。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月31日

平成23年(2011)の今日、岩手県奥州市の黒壁ガラス館で開催されていた「奥州市郷土先人顕彰事業 企画展 文学の先達と奥州市」が閉幕しました。

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過日もちらっとご紹介した同市の人首(ひとかべ)文庫さん所蔵の資料などから、奥州市にかかわるものが展示されました。

奥州市出身の詩人・佐伯郁郎の関係で、佐伯宛の光太郎書簡、色紙等も並びました。他には井上靖、谷崎潤一郎、山本有三、巽聖歌、萩原朔太郎、井伏鱒二、室生犀星、堀口大学、林芙美子、川端康成、小川未明、西条八十、北原白秋、野口雨情らの自筆資料、宮澤賢治、宮靜枝、川端の初恋の相手・伊藤初代らに関する資料など、これまたてんこ盛りでした。

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まずは新聞報道から。 

<高野山>大法会の詳細発表

毎日新聞2015年3月16日(月)

 高野山真言宗・総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)は16日、寺の境内で開く開創1200年記念大法会(だいほうえ)(4月2日~5月21日)の詳細な日程を発表した。金堂(総本堂)の本尊薬師如来(高村光雲作)が初めて開帳される他、さまざまな法会(儀式)や催しが連日執り行われる。

 初日は172年ぶりに再建された中門の落慶式典があり、金剛峯寺の中西啓寶(けいほう)座主による加持の後、大相撲の白鵬関ら3横綱による土俵入りがある。その後、金堂で薬師如来の開帳と僧約400人による読経などがある。

 期間中は他宗派による法会もあり、5月19日には天台宗(総本山・比叡山延暦寺=大津市)が初めて高野山で法会を営む。また、境内の資料館「高野山霊宝館」では連日、国宝や重文を特別展示する。

 金剛峯寺は期間中延べ20万~30万人の参拝を見込んでいる。高野山は平安時代の僧、弘法大師空海が真言密教の道場として開いた。【上鶴弘志、入江直樹】
 

4月2日から高野山開創1200年記念大法会 和歌山

産経新聞2015年3月18日(水)

 高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺は、4月2日から5月21日までの開創1200年記念大法会の内容を発表した。初日は開白法会のほか、約170年ぶりに再建された壇上伽藍中門の落慶法要が営まれ、大相撲の白鵬ら3横綱の奉納土俵入りがある。期間中、壇上伽藍大塔に大日如来などを3D映像で投影する「高野山1200年の光-南無大師遍照金剛-」、秘仏の特別開帳なども予定されている。

 開創1200年記念大法会は、弘仁7(816)年に弘法大師・空海が高野山に密教の道場を開いて1200年目を迎えたことを記念して開催。4月11日には阪神大震災や東日本大震災の犠牲者を追悼する災害物故者追悼法会、5月19日には開山以来初めてとなる天台宗総本山・比叡山延暦寺の僧による「慶讃法会」が営まれる。

 壇上伽藍大塔への3D映像の投影は、同12~17日午後7時20分と同8時10分に声明と合わせて行われ、境内は幻想的な雰囲気に包まれる。

 秘仏の公開は、これまで開帳された記録が残っていない高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来(高村光雲作)や金剛峯寺・持仏間の弘法大師坐像が特別開帳される。霊宝館では、運慶作「八大童子像」(国宝)をはじめ、空海が中国・唐から投げて高野山に飛来したとの伝承が残る「飛行三鈷杵」(重要文化財)など高野山三大秘宝、快慶作「孔雀明王像」(同)などが展示される。詳細は金剛峯寺公式ウェブサイト(http://www.koyasan.or.jp)。


というわけで、弘法大師空海による開山から1200年を迎える世界遺産・高野山金剛峯寺さんで、いろいろと記念行事が行われます。

その中で、金堂に納められている光雲作の薬師如来像が初めてご開帳されるとのことです。

現在の金堂は昭和7年(1932)の再建、同9年(1934)落慶。その際に、昭和元年(1926)の火災で焼失してしまった開創当初から格蔵されていた秘仏本尊7尊を光雲が復刻したのですが、これまで一度もご開帳されたことがないそうです。

初日は4月2日。この日は大相撲の横綱・白鵬の土俵入り奉納なども行われるそうです。

奇しくも光太郎の命日・第59回連翹忌の当日です。同じく4月2日は、以前にご紹介した東京芝増上寺の宝物展示室にて、徳川二代将軍・秀忠の「台徳院殿霊廟」模型の公開も始まります。

こういうことを「仏縁」というのかな、と思っています。000


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月30日

平成3年(1991)の今日、文彩社から、中村傳三郎著 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』が刊行されました。

光雲・光太郎親子、碌山荻原守衛などについての論考です。

光太郎の父・光雲がらみの展覧会情報です。 

三の丸尚蔵館 第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現

会 場 : 宮内庁三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1 皇居東御苑内
 期 : 平成27年3月21日(土・祝)~6月21日(日)
               前期:3月21日(土・祝)~4月19日(日)
               中期:4月25日(土)~5月17日(日)
               後期:5月23日(土)~6月21日(日)
休館日 : 毎週月・金曜日,展示替の期間 但し,5月4日(月・祝)は開館
 
 :  4月14日(火)まで 午前9時~午後4時15分
               4月15日(水)から会期終了まで 午前9時~午後4時45分
入館料 : 無料 

概  要
本展では,当館が所蔵する19世紀から現代までの作品を中心に,国内だけでなく,海外のものも含めて,鳥を主題とした作品の数々を紹介いたします。
美しい宝石のような羽を持つ鳥や力強く空を自由に舞い飛ぶ鳥の姿に,古くから人々はあこがれて吉祥の意を見いだし,その姿を描き,形作って,身近に飾ってきました。長寿の鳥とされたツルは,慶事の折には必ず登場します。また,神聖で高貴な鳥であるクジャクは,花鳥画の主要な画題の一つとして描かれ,近代にもその伝統は引き継がれました。そして,家禽かきんとして人の生活と密接に結びついてきたニワトリは,古代中国の伝説に基づく諫鼓鶏かんこどりのように泰平の図として表される一方,作家たちが実際にニワトリを飼って観察し写生することで,躍動感あふれる作品が生み出されました。この他,身近な小禽や水鳥,外来種のインコ,現代では絶滅が危惧されているライチョウなど様々な鳥の,多彩な表現をお楽しみください。
美術の世界に棲すむ鳥の楽園へようこそ。


三の丸尚蔵館の概要
三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類が平成元年6月,国に寄贈されたのを機に,これら美術品を環境の整った施設で大切に保存・管理するとともに,調査・研究を行い,併せて一般にも展示公開することを目的として,平成4年9月に皇居東御苑内に建設され,翌年11月3日に開館しました。
なお,平成8年10月に故秩父宮妃のご遺贈品,平成13年4月に香淳皇后のご遺品,平成17年10月に故高松宮妃のご遺贈品,さらに平成26年3月には三笠宮家のご寄贈品が加わり,現在約9,800点の美術品類を収蔵しています。

出品目録によれば、光雲作の木彫が2点、いずれも中期(4月25日(土)~5月17日(日))に展示されます。

明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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「矮鶏置物」は、はじめ明治22年(1899)のパリ万博に出品予定で製作されました。ところが、その前に、光雲の意思とは関係なく、美術協会の展覧会に出品する羽目になり、さらにそれを見た明治天皇が是非欲しい、ということでお買い上げになったものです。

このあたりの事情は、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に詳しく述べられています。

ネット上の「青空文庫」さんで読めますので、リンクを貼っておきます。



「松樹鷹置物」は、一昨年、京都国立近代美術館で開催された「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展にも出品されたもので、こちらも光雲木彫の最高峰の一つです。

他にも石川光明橋本雅邦、海野勝珉、竹内栖鳳、堂本印象らの逸品が展示されます。お見逃しなく。


余談になりますが、現在、ある地方の市立美術館で、収蔵品展的な企画展が開催されていて、主な出品物作者に光雲があげられています。ところが、チラシの写真を見た限り、木彫を元にブロンズで鋳造した複製です。それを「光雲作」として出品するのはどうかと思いますね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月17日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、村の診療所医師・山田林一の診察を受けました。

前々日から熱っぽかったということで、近くの分教場の教師だった佐藤勝治が連れてきてくれました。山田医師は結核による発熱を抑える薬・ピラミドンを置いていきました。医師が診れば明らかなのですが、光太郎はかたくなに結核であることを否定し続けていました。

青森在住の彫刻家・田村進氏から、書籍を戴きました。008

『日本美術家事典2015』。版元サイトにも載っている序文によれば、「現在制作活動を行っている日本の美術家(日本画・洋画・彫刻・工芸・書)の個々の歩みを一冊にまとめることに主眼をおいて企画された事典」とのことで、平成元年(1989)に創刊、以後、増補改訂が続けられ、今年のものは第26号になるそうです。

B5版、600ページ超の大判大冊で、「現代作家篇」と「物故作家篇」から成り、前者が中心です。「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」「書」の5分野で、作家名を項目とし、おそらく数千名が紹介されているようです。

「彫刻」の部では、扉ページに田村氏の作品「光太郎山居」の石膏原型が使われています。一昨年から制作にかかられ、このほど、ブロンズ鋳造が完成したと、御手紙にはありました。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居生活を送っていた頃の光太郎肖像です。


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田村氏の紹介が載ったページは、全体像も掲載されています。

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昨夏発行された美術雑誌『花美術館』にも紹介がありました。昨秋には、当方、このためのレリーフ習作を戴いてしまいました。4月2日の第59回連翹忌にて展示し、皆様にお見せするつもりでおります。

『日本美術家事典2015』、「物故作家篇」も掲載されており、光太郎、光雲、豊周(智恵子はありません)も項目になっていますし、光太郎と同時代、または次の世代で交流のあった作家も網羅されており、ありがたい書物です。版元サイトから購入可能ですし、公共図書館等に置かれるでしょう。ぜひお手にとっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月15日

昭和29年(1954)の今日、雑誌『美術街』第121号に、光太郎の実弟・豊周執筆の評論「无型と実在」が掲載されました。

无型(むけい)は鋳金家であった豊周が中心となり、大正15年(1926)に結成された工芸作家の同人の会です。

昨日は、東京町田の西山美術館さんに行って参りました。先日の八木重吉記念館さん同様、町田に娘が住んでいる関係です。ロダンの作品がかなりあるということで、行ってみました。

こちらは実業家の西山由之氏が、自宅敷地内に開設された私設美術館です。

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コレクションは3本柱で、「ロダン」、「ユトリロ」、そして「銘石」です。

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まずは通り沿いにドーンと大きな門。ご自宅の門と兼用のようで、表札もかかっていました。

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ここから町田特有の急な坂をさらに車で上がっていき、ご自宅の脇に美術館があります。

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入り口にはなぜか黄金色の「考える人」。

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さらに銘石。ロビーにも。

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ここでの「銘石」は、アメジストなどの水晶系の大きなものという感じで、「パワーストーン」と謳っており、どれも直接手で触れられるようになっていました。

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5階建ての1階はロビー、受付、そしてショップです。入館料1,200円でしたが、JAFの会員証提示で900円に割引でした。最初に、「こちらに該当する方は割引がございます」と見せられた紙にJAF会員に関しても書いてあり、「あ、会員証持ってます」ということに。非常に親切だなと思いました。さらに小さな水晶の欠片を2粒いただけます。「お財布に入れておくと金運アップになりますよ」とのこと(笑)。

2階、3階にロダンの作品が展示されているということで、階段を上がって2階に。すると、最初に眼に入った彫刻は、意外なことにロダンではなく荻原守衛の「女」でした。

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さらに驚いたことに、キャプションによれば、守衛を援助していた新宿中村屋の相馬家にあったものだそうです。戦時中の疎開などの関係で、この地に残されたとのこと。したがって、守衛と親交のあった山本安曇の鋳造です。

そこから先には、様々なロダン作品と「銘石」が。ロダン作品はブロンズが中心でしたが、大理石やデッサンもありました。

有名なところでは、「鼻の潰れた男」、「青銅時代」、「バルザックの頭部」など。

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4、5階はユトリロの展示でした。こちらは撮影禁止と言うことで画像はありませんが、油彩、水彩など数十点が並んでいました。

壁に貼られている年譜を見て、初めて知りましたが、ユトリロは光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれでした(生まれといえば、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。存命なら満133歳になります)。

光太郎がユトリロに言及したのは、今のところ昭和15年(1940)に書かれた評論「上野の現代洋画彫刻」の中で一度だけですが、好意的に紹介しています。表記は「ユトリヨ」となっています。

ドガの画いた灰色の間仕切、マネの生きて濡れてゐる絵具、ルソオのたのしい調和、ユトリヨのエナメル色の空。これらを昔のルウブル紙幣のやうに笑ふものは必ず芸術から復習をうけるだらう。

なるほど、という感じですね。
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さて、西山美術館さん。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月13日

昭和35年(1960)の今日、『光太郎資料』が創刊されました。

当会顧問にして、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生による手作りの冊子です。筑摩書房から刊行された最初の『高村光太郎全集』の補遺と訂正から始まりましたが、不定期刊行で平成5年(1993)までの間に第36集まで出され、さまざまな資料が掲載されました。

光太郎の誕生日に合わせ、この日の創刊となったと思われます。

その名跡をお譲りいただき、当方が37集以降を3年前から刊行しています。

先程、1泊2日の行程を終え、仙台から帰って参りました。仙台にある大学に通っている息子の、学生寮から一般のアパートへの引っ越しのために行きましたが、せっかく仙台まで足を伸ばしたので、今朝方、美術館を観て参りました。若林区にある福島美術館さんです。以前に一度だけ、当方のブログにてご紹介いたしました。

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上記はいただいてきた館のパンフレットです。こちらにある通り、光雲作の木彫が2点、所蔵されています。

1点はチベット仏教学者で僧侶の河口慧海に関わるものだそうです。慧海は大阪堺の出身ですが、東京の本郷弥生町や根津など、高村家の近くに住んでいたこともあり、光雲や光太郎と交流がありました。下の画像で、左が光雲、右が慧海です。

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で、福島美術館さん所蔵の慧海ゆかりの光雲木彫がこちら。

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ただし、今日観に行ったところ、こちらは007展示されていませんでした。

もう1点、「落ちない観音様」。神棚に飾られていたそうですが、あの東日本大震災でも神棚から落ちなかったということで、館の方ではそこを売りにしています。もう受験シーズンもそろそろ終わりですが、御利益があるのでは?

そちらは展示されていました。そこで、レポートを兼ねてご紹介いたします。

福島美術館さんは、地下鉄南北線の愛宕橋駅からほど近い、住宅街にあります。

美術館には見えない建物ですね。それもそのはず、元は身体障害者の総合福祉施設、ライフセンターという今でいうカルチャーセンターだそうで、現在も運営母体は社会福祉法人共生福祉会さんです。このあたりの経緯も館のブログに記述があります。

ちなみに「福島」は共生福祉会の創設者、福島禎蔵の名から。

新春吉例「めでた掛け-35年目の迎春-」という企画展が終了したばかりで、常設展のみ。入館料は何と100円でした。良心的というか何というか……。頭が下がります。

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常設展のみということで、確かに狭いスペースでしたが、福島禎蔵、そして先代と先々代のコレクションの中から逸品が並んでいました。

やはり仙台。伊達家ゆかりの品々、和時計、歌川国芳などの絵、そして福島禎三がNHKさんとも関わっていたとのことで「ラヂオ」。

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そして、「仏像」のコーナーに「落ちない観音様」が鎮座ましましていらっしゃいました。想像していたより小さな仏様でした。

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キャプションによると、震災の時まで光雲作であることに気づいて居らず、礼拝の対象として神棚に置かれていたそうです。

先程も書きましたが、もう受験シーズンもそろそろ終わりですけれど、御利益があるのでは? 受験生の皆さん、ぜひ拝観を(笑)。

追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。

館の裏手には、ある意味仙台のシンボル、広瀬川。

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陽気がよければ川原でのんびりするのもいいかと思います。ただ、今朝は寒く、早々に引き上げました。昨日は晴れていながら小雪が舞っていました。強風に山の雪が飛ばされてくる風花(かざはな)だと思いますが。既にタンポポやオオイヌノフグリが咲いて、梅は散り始めている房総の住民にはきつい寒さでした。

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ところで、昨日のブログに書いた町田の八木重吉記念館さんにしてもそうですが、こうした施設の館が頑張っている姿には頭が下がります。こういう灯を消してはいけないと思います。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月3日

昭和30年(1955)の今日、吸入器を購入しました。

宿痾の肺結核が進行し、病床に臥すことが多く、光太郎の余命、あと1年と1ヶ月という時期です。それでも食事は自炊、調子のいい時には原稿や書を書いていました。

一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

今月から始まった仏文学者小倉孝誠氏の連載「美術と文学―共鳴と相克」の第三回が、「国境を越えたロダンの魅力 リルケや白樺派も熱狂」で、日本に於けるロダン受容についても述べられ、光太郎に触れています。

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かなり長文ですので、全文は載せません。

「ロダンといえば彫刻、彫刻といえばロダンという感じで、近代彫刻の歴史における彼の地位は突出している。」にはじまり、ロダンの略伝、ヴィクトル・ユゴーやバルザック、ゾラ、ミルボー、そしてリルケら、文学者との交流が語られます。

そして日本に於けるロダン受容史的な話になり、白樺派とのかかわり、明治45年(1912)の与謝野夫妻によるロダン訪問、そしてわれらが光太郎がムードンのアトリエを訪ねたエピソードが紹介されています。

彫刻家にして詩人の高村光太郎は、08年ムードンのアトリエを訪ねた。ロダンは不在で会えなかったが、そこで彼の作品を前にした時、その量感と官能性に圧倒された、と後に回想している。

これはパリ留学中に有島生馬や山下新太郎らと共にムードンのアトリエを訪れたことを指します。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」でその際の様子が語られています。それ以前にも明治40年(1907)11月、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリに荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエまで足を伸ばしていますが。2回とも正確に言うと、「会えなかった」というより、留守を狙って行ったふしがあります。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあり、邪魔をしないようにという配慮があったようです。ただ、内妻のローズ・ブーレは在宅で、彼女にロダンの彫刻やデッサンの束を見せて貰ったりしてはいます。

特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、「入門講座」と謳う連載ですので、それでいいと思います。ちなみに第一回はドラクロワ、第二回はゾラと印象派を主に取り上げていました。

当方、日経さんは購読しておりません。ネットでも、有料会員登録をしないと読めない記事の扱いになっていました(後で別の入り口から入ると読めたのですが)。そこで、こういう場合どうするか、といいますと、地元の市立図書館に行き、コピーをしてきます。おそらく全国の公立図書館でそれが可能だと思います。図書館にはそういう使い方もありますので、ご参考までに。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月21日000

昭和57年(1982)の今日、岩手花巻で、佐藤隆房著『非常の時』が刊行されました。

佐藤隆房は、宮澤賢治の主治医にして、光太郎とも交流を持ち、光太郎歿後は花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めました。

題名の「非常の時」は、昭和20年(1945)の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった、佐藤率いる総合花巻病院の職員一同に光太郎が贈った詩の題名です。題字は光太郎筆跡を転用しています。

内容的には、『花巻病院新聞』などに掲載された佐藤の随筆を集めたもので、光太郎に触れる箇所もたくさんあります。

この前年に亡くなった佐藤の遺稿集という形で、子息の進氏(現・㈶花巻高村光太郎記念会理事長)によって私刊されました。

京都から企画展情報です。 
 場 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
 期 2015年2月21日(土)~2015年5月17日(日)月・火曜日休館(祝日は開館)
 金 一般800円、大・高・中学生500円

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明治の彫刻が日本の美術館で展示されることは滅多にない。展示されるとしても せいぜい木彫や牙彫で、他の素材を使った作品は展示されない。明治の彫刻には、 木彫、牙彫以外に漆彫刻や貝殻、べっ甲、珊瑚などを彫刻して木や象牙に象嵌する彫嵌(ちょうがん)作品もある。
今回の展示では高村光雲や石川光明、安藤緑山らの牙彫・木彫 作品に加え、堆朱陽成や逸見東洋の堆漆作品、旭玉山、田中一秋らの彫嵌作品など、明治の多様な彫刻美術の全貌をご高覧いただきたい。


清水三年坂美術館さんは、幕末、明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館として平成13年(2001)に、京都清水寺近くに開館しました。平成23年(2011)には企画展「高村光雲と石川光明」を開催して下さっています。

また、昨年から東京日本橋静岡三島山口と、全国巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展も、同館の所蔵品によるものです。

光雲の木彫がある程度まとめて見られる機会はそう多くありません。当方も桜の時期にでも暇を見つけて行ってこようかなと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月13日

昭和23年(1948)の今日、電車を乗り間違いました。

花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた時期のエピソードです。花巻の町に出、その帰途、花巻電鉄の西花巻駅から下り線に乗るはずが、間違って上り線に乗ってしまい、一時間半ほど無駄にしてしまいました。

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以前にもご紹介しましたが、こちらは当方手持ちの古絵葉書です。

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こちらは現在の花巻駅近くの 西公園で、静態保存されている車両「デハ3」。

「馬面電車」と呼ばれる非常に細長い独特の形状です。

昨日、青森の「十和田湖冬物語2015」の報道について書きましたが、調べてみますと、もっと報道されていました。

まず、仙台に本社のある東北地方ブロック紙、『河北新報』さんです。

雪光照らす「乙女の像」 十和田湖雪祭り開幕

 十和田市の休屋地区で6日、雪祭り「十004和田湖冬物語」が開幕した。湖畔の会場を花火やイルミネーションが彩る。3月1日まで。
地元のバラ焼きなど青森、秋田の名物をそろえた屋台が並び、夜には地酒のかまくらバーが営業する。週末と祝日には、雪上でバナナボートに乗ったりホーストレッキングを体験したりできる。
乙女の像も期間中、毎日午後5~9時にライトアップされる。初日は風もなく、家族連れなどが穏やかな波音に耳を傾けながら冬限定の光景を楽しんだ。
イベントは17年目。期間中は約20万人の人出でにぎわう。連絡先は十和田湖国立公園協会総合案内所0176(75)2425。

こちらは光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を前面に押し出して下さいました。ありがとうございます。


続いて青森の地元紙、『東奥日報』さんから。 

十和田湖に大輪/冬物語開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光が包む「十和無題田湖冬物語」が6日、十和田市の十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。今年もメーンイベントの冬花火約200発が打ち上げられ、湖畔の夜空を鮮やかに彩った。

【写真説明】十和田湖畔の冬空を鮮やかに染めた花火=6日午後8時すぎ


さらに、『朝日新聞』さんのデジタル版。35秒の動画付きですが、会員限定で視聴可です。 

「十和田湖冬物語」が開幕 巨大雪像や冬の花火

 冬の十和田湖に観光客を呼び込もうという「十和田湖冬物語2015」が6日始まった。3月1日までの間、十和田湖畔休屋地区の特設会場では、巨大雪像やかまくらバー、乙女の像のライトアップが行われるほか、連日午後8時からは冬花火も打ち上げられる。

今年の巨大雪像は「ねぶたとなまはげ」で、青森・秋田両県を代表するイベントがテーマ。毎年の人気となっている「酒かまくら・かまくらバー」も今年は全長26メートルとビッグサイズになった。16万球のLEDを使ったイルミネーションや光のトンネルなどもあり、訪れた観光客たちは寒さも忘れ、幻想的な光景を楽しんでいた。

「冬物語」は今年で17回目。前身となる「冬紀行」から数えると26回目になるという。イベントの開催時間は平日が午後3時から同9時まで、土日祝日は午前11時から午後9時までとなる。

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ぜひ多くの皆さんに足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月9日

昭和16年(1941)の今日、翻訳家の菊池重三郎に葉書を送りました。

 御著「バンビの歌」ありがたくいただきました。御本をおくつて下さつた事をほんとに忝く存じました、いつもあなたがよい仕事をして居られるのに敬意を表します、小生はまが此の本をよんだ事がありません、それ故これを繙くたのしさを思つて非常に愉快です、
 略儀ながら御礼申述べます、

菊池重三郎は「チップス先生さようなら」などの翻訳で有名です。「バンビの歌」はオーストリアの作家、フェーリクス・ザルテン が大正12年(1923)に著したもの。ディズニーのアニメ映画「バンビ」(昭和17年=1942)の原作です。

当方、この記事を書く上で、「バンビ」が戦時中の公開だったと初めて知りました。日米の国力の違いがまざまざと表されていますね。どんなに「大和魂」を振りかざしても、勝てるわけがありません。

先週金曜日、過日ご紹介した「十和田湖冬物語2015」が開幕しました

地元紙、『デーリー東北』さんの記事から 

銀世界彩る光の競演 「十和田湖冬物語」開幕

デーリー東北新聞社 2月7日(土)004

 光の競演が銀世界を幻想的に彩る「十和田湖冬物語2015」が6日、十和田市の湖畔休屋特設会場で開幕した。雪像などが闇に浮かび上がる会場で、大輪の花火が夜空を焦がし、観光客を楽しませた。3月1日まで。

会場では、陸上自衛隊八戸駐屯地が制作した高さ8メートル、幅23・4メートル、奥行き14・3メートルの巨大雪像「ねぶたとなまはげ」が、大迫力で来場者を“お出迎え”。光のゲートやスノーランプが周囲を優しく照らした。

観光客は「ゆきあかり横丁(よこちょう)」で青森、秋田両県のグルメを味わったり、かまくらバーや足湯でくつろいだり、思い思いに祭り気分に浸っていた。

期間中は毎日午後8時から約10分間、花火が打ち上げられる。湖畔を象徴する乙女の像もライトアップされる。


また、青森放送さんからの配信で、日本テレビ系列のCS放送「日テレNEWS24」で取り上げられたようです。 

雪像に明かりともる「十和田湖冬物語」開幕

2月7日(土)13時7分配信

 冬の十和田湖を彩るイベント十和田湖冬物語が青森県十和田市で6日夜、始まった。

今年で17回目となる十和田湖冬物語は休屋地区を会場に6日、始まった。開会式では青森ねぶたと秋田のなまはげを描いた高さ8メートル、幅23メートルの大型雪像に明かりがともされた。会場には光のトンネルや色とりどりのイルミネーションが飾られ、幻想的な雰囲気を演出している。ステージでは津軽三味線やねぶたばやしが演奏され開幕を盛り上げた。そして200発の花火が凍(い)てつく夜空に大輪の花を咲かせ、訪れた観光客を魅了していた。

十和田湖冬物語は来月1日まで開かれる。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月8日

昭和31年(1956)の今日、終焉の地となった中野のアトリエで、指圧の施療を受けました。

当日の日記です。

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧を受ける、

また、2月13日の日記には、

午后内田文子さん指圧の人栗田夏子さん同道くる、指圧を受ける、来週月曜に又くる由、次から一度足とも300円とのこと、

さらに余白のメモにも、

指圧家世田谷区北沢4-487 青木方 栗田夏子氏 電(32)2541(青木) 31年二月十三日 二度目施療 日曜日毎、一回足共300円の由、 

との記述があります。

昨日は、千葉市中央区、千葉港近くの千葉県立美術館に行って参りました。
 
一昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が開催されたのは、市立美術館。こちらは県立美術館です。 
 
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同館は耐震改修工事のため、一昨年1月か004ら休館していましたが、工事も終わり、一昨日がさらに開館40周年記念も兼ねての再オープンでした。
 
再オープンを祝って、千葉県のゆるキャラ・チーバくんも来館(笑)。真横から見ると千葉県の形をしているというすぐれものです。よく間違われるのですが、決してメタボ犬ではありません。第一、「犬」でもありません。「不思議ないきもの」です。

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 ちなみに当方自宅兼事務所はチーバくんの耳の付け根あたりです。
 
さて、千葉県立美術館。再オープン記念のメインの企画展は、「開館40周年記念特別企画展 平山郁夫展 -仏教伝来の軌跡、そして平和の祈り-」(1月24日~3月22日)です。平山氏は生前、千葉県にご在住でした。
 
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 もともとそちらが第一の目的ではなく、同時開催の同館所蔵品による「アート・コレクション」(1月24日~3月29日)を見に行くつもりで出かけました。
 
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事前に詳細が不明でしたので、このブログでご紹介しませんでしたが、光太郎彫刻も展示されるはず、と思って行きました。なぜそう思ったかというと、新しい鋳造ですが、同館では光太郎彫刻を7点ほど持っていることを知っていたためです。
 
「アートコレクション」は「千葉県立美術館名品展」と「彫刻」に分かれており、光太郎作品が並ぶなら「彫刻」だろうと思っていましたが、あにはからんや、「千葉県立美術館名品展」の方に出品されていました。光太郎代表作の一つ、「手」です。有名な作品だけあって、人だかりがしていました。
 
他には光太郎作品は出ておらず、ちょっと残念でしたが、「名品展」と謳うだけあって、日本画、洋画、彫刻、工芸、書、版画の五分野で、たしかにいいものがたくさん出ていました。
 
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工芸のコーナーでは、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・高村豊周の作品も展示されていました。また、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、中西利雄、柳敬助、佐藤忠良、舟越保武など、光太郎と交流のあった作家の作品も数多く並んでいたので、興味深く拝見しました。

さらに同時開催で、パネル展「千葉県立美術館40年の歩み」(1月24日~4月4日)もありました。40年間に開催された企画展のポスターや図録などが展示され、昭和56年(1981)に開催された企画展「高村光太郎、その芸術」の、「手」を使ったポスターも貼られていました。他にも移動美術館のポスター類も展示されていて、やはり「手」をあしらったものもあり、嬉しくなりました。
 
最後に「平山郁夫展」を見ました。「仏教005伝来の軌跡」ということで、有名なシルクロード系の連作が中心でした。柔らかなタッチと、奇をてらうことのない画風には、やはり好感が持てました。
 
青森十和田の奥入瀬渓流を描いた「流水間断無」も展示されていました。なぜ? と思いましたが、大陸の乾いた沙漠を長く旅した後は、日本の水と緑の風景が恋しくなったそうで、ある意味、対になる作品ということになるわけです。そういえば、昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で紹介された時も、そういう話になっていました。
 
さて、千葉県立美術館。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月26日

大正14年(1925)の今日、『読売新聞』に、散文「自刻木版の魅力」が掲載されました。
 
光太郎が唯一、版画をメインに語った散文です。自身、葉書や自著等の題字(『典型』など)、さらには関東大震災直後に智恵子の実家・長沼酒造の銘酒「花霞」を東京に取り寄せて販売した時の引札などで、木版を手がけました。
 
この文章は、同じ年の雑誌『詩と版画』、昭和6年(1931)の同じく『線』に転載されました。

1月も最終週となりました。2月のイベントを少しずつご紹介します。 

十和田湖冬物語 2015

【期間】
 2015年2月6日(金)~2015年3月1日(日)

十和田湖のシンボル「乙女の像」のライトアップや、幻想的なイルミネーション各イベント等が楽しめます。厳冬期に打ち上げられる冬花火は、湿度が低く空気が澄んでいる為、甲高くまた外輪山にこだまし、夏とは趣が違います。ぜひ、ご来場ください。

【会場】
 十和田湖畔休屋 特設イベント会場無題
[住所]
 〒018-5501 十和田市十和田湖畔休屋
【開催時間】
土、日、祝日  11:00~21:00
 平  日    15:00~21:00
【主催】
十和田湖冬物語実行委員会
【お問い合わせ】
一般社団法人十和田湖国立公園協会(十和田湖総合案内所)
  ☎ 0176-75-2425   Fax 0176-70-6002
 
【イベント内容】
■冬花火:期間中毎日 20:00~20:10004
■乙女の像ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
■光のゲート&光のトンネル:期間中毎日 17:00~21:00
■イルミネーション・ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
■ゆきあかり横丁:平日15:00~21:00、土日祝11:00~21:00
■酒かま蔵:期間中毎日 19:00~21:00
■かまくらBar&足湯:期間中毎日 18:00~21:00
■バナナボート:金・土・日・祝 11:00~19:00
■ホーストレッキング:土・日・祝 10:00~15:00
 
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昨年の「十和田湖冬物語2014」にお邪魔しました。やはりとてつもなく寒いのですが、なかなか活気に溢れたイベントでした。もう寒いのは当たり前なんだから、寒いのを楽しんでしまえ、という感じですね。
 
会場へのアクセスは、公共交通機関ですと、秋田鹿角方面からと、十和田市方面から、それぞれシャトルバスが出ているようです。また、ホテルのバスが青森・八戸方面にも運行されているようです。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月25日005

昭和19年(1944)の今日、光太郎が序文を執筆した池田克己詩集『上海雑草原』が刊行されました。
 
池田は明治45年(1912)生まれの詩人。特殊建設の現場監督として徴用され、中国大陸に渡っての経験を記した詩集です。
 
無事に帰還し、戦後は雑誌『日本未来派』を創刊したり、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋に足を運んだりしましたが、昭和28年(1953)、数え42歳で急逝しています。

光太郎彫刻が、海を渡ります。企画は武蔵野美術大学美術館さん。 
 
 
本学美術館がヘンリー・ムーア・インスティテュートと展覧会を共同開催します。
 
ヘンリー・ムーア・インスティテュートと武蔵野美術大学 美術館・図書館が共同開催する展覧会「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」が、1月28日よりイギリスで開催されます。高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八などによる日本の優れた近代彫刻を紹介します。なお、本学美術館での開催は、5月25日(月)からです。
 
ヘンリー・ムーアは20世紀を代表する具象彫刻家。イングランド北部の都市・リーズ芸術学校に学びました。そこで、リーズに「ヘンリー・ムーア・インスティテュート」が設立されています。そちらのサイトから。 

A Study of Modern Japanese Sculpture

28th January 2015 - 19th April 2015 (2015年1月28日~4月19日)
 
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光太郎作品は、ブロンズの「手」、木彫の「白文鳥」が展示されるようです。他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎といったラインナップになっています。
 
イギリスの皆さんが、光太郎をはじめとする日本彫刻をどう見るのか、興味深いところです。
 
 
「日本彫刻」「イギリス」といえば、昨夜のテレビ東京系「美の巨人たち」で、そういう話が出ました。
 
取り上げられたのは森田藻己(そうこ)。明治から昭和前期に活躍した根付師です。
 
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この番組は、毎回、ミニドラマ的な部分が間に挿入される構成になっており、昨夜は根付に興味を抱いたイギリス人女性が京都を訪れるという話になっていました。実際、イギリスなどで日本の根付は高く評価されているようです。
 
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ところで、過日のこのブログで、この番組の紹介を書いた時、「森田藻己は光雲とも交流のあった根付師です。光雲がらみの話が出ればいいのですが……。」と書きましたが、ありがたいことに、そういう話になりました。
 
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光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。
 
衛星放送のBSジャパンで、2月18日(水)の23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方は、こちらをご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月18日
 
昭和26年(1951)の今日、『朝日新聞』岩手版に、当時の岩手県知事・国分謙吉と光太郎との対談「新しき岩手の創造」が掲載されました。
 
国分は岩手初の民選知事です。光太郎詩「岩手の人」のモデルであるという説もあります。

一昨日、東京本郷のフォーレスト本郷さんにて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきましたが、少し早めに自宅兼事務所を出て、界隈を歩きました。
 
昨年からそうしていますが、この界隈には光太郎智恵子光雲の故地、ゆかりの人物に関する記念館等が多く、毎年のこの機会には、そうした場所を少しずつ見て歩こうと思っています。昨年は、明治期に太平洋画会で智恵子の師であった中村不折がらみで、台東区立書道博物館を訪れました。
 
今年は、東京国立博物館黒田記念館の耐震改修工事が終わり、リニューアルオープンしましたので、まずそちらに行きました。
 
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東京美術学校西洋画科で、光太郎の師で006あった黒田が、大正13年(1924)に亡くなる際、遺産の一部を美術奨励事業に活用するようにとの遺言を残し、それを受けて昭和3年(1928)に建てられました。設計は美術学校で教鞭を執っていた建築家・岡田信一郎です。
 
永らく美術研究所(現・東京文化財研究所)の庁舎として使用されていましたが、新庁舎が近くに建てられ、この建物は東京国立博物館に移管、黒田の作品を中心に展示されてきました。
 
その後、東日本大震災を受けて、平成24年(2012)から改修が始まり、このたびリニューアルオープンの運びとなりました。
 
新たに「特別室」が設けられ、黒田の代表作品の数々が一気に観られる、ということで、かなりにぎわっていました。入場は無料です。ありがたいのですが、もったいない気がします。
 
館内に入り、これまた重厚な感じの階段を上がって二階に。左手が特別室、右手が黒田記念室です。黒田記念室入り口には光太郎作の黒田清輝胸像が展示されており、それを観るのが最大の目的でしたが、黒田に敬意を表し、まずは特別室に。
 
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「湖畔」 (重要文化財) 明治30年(1897)
 
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三部作「智・感・情」 明治32年(1899)
 
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「舞妓」 明治26年(1893)      「読書」 明治24年(1891)
 
すべて撮影可でした。これらを一度に観られるというのは、贅沢ですね。ただし、特別室は年3回の公開だそうで、今回の公開は今日まで。次回は3月23日(月)~4月5日(日)だそうです。
 
続いて黒田記念室へ。
 
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上の画像は入り口上部、欄間のような部分です。わかりにくいのですが、中村不折の揮毫で「黒田子爵記念室」と書かれています。
 
そして入り口左には、光太郎作の「黒田清輝胸像」。まるで黒田本人が「ようこそ」と言いながら迎えてくれているような感じです。

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一昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来、久しぶりに拝見しました。
 
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記念室内部は、完成作だけでなく、スケッチ、デッサン、下絵、さらには黒田の遺品なども展示されています。また、室内は創建当初の内装。天窓からの採光が温かく、いい感じです。
 
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特別室は年3回のみの公開ですが、記念室は常時公開です(月曜休館)。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月12日011
 
平成4年(1992)の今日、双葉社から関川夏央・谷口ジロー『『坊ちゃん』の時代 第三部 啄木日録 かの蒼空に』が刊行されました。
 
漱石と、同時代の文学者達を描いた五部作の三作目です。この巻は明治42年(1909)4月から6月の東京を舞台とし、主人公は石川啄木です。
 
光太郎はこの年7月に欧米留学から帰朝するため、登場はしませんが、「パンの会」のシーンで、「近々帰ってくるそうだ」と噂されています。
 
光太郎は登場しませんが、智恵子が登場します。
 
市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。
 
智恵子はらいてうをかばいます。 
 
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しかし、なおも食い下がる啄木、すると、堪忍袋の緒を切らせた智恵子のビンタ炸裂(笑)。
 
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関川氏の創作ですが、こういうエピソードがあったとしても、不思議ではないでしょう。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
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「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

昨日のこのブログ、皇居前広場に立つ楠正成像(楠公銅像)についてでした。昨日書きましたとおり、売店で、楠公銅像をあしらったA4判クリアファイルを購入しましたが、そのかたわらにこんなものも並んでいて、買ってしまいました。
 
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サンリオさんのキャラクター、キティちゃんのハンドタオルです。
 
ご当地キティということで、日本各地の観光地などでその土地々々の風物をあしらったキティちゃんグッズが売られていますが、楠公銅像のバージョンがあったとは知りませんでした。
 
また、ボールペンとシャープペンシル、それからストラップもありました。
 
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また、帰ってからネットで調べてみると、ファスナーマスコットもあり、ネットで購入しました。
 
楠公銅像、一種の東京のシンボルとして愛されている事の証左でしょうが、高村光雲も、あの世で苦笑しているのではないかと思います。
 
同じ光雲作、そして共に「東京三大銅像」に入っている上野の西郷隆盛像バージョンもあるかと思って調べてみました。しかし、西郷さんについては鹿児島限定でのバージョンがありますが、上野の西郷さんとしてのキティちゃんグッズは無いようです。上野限定はパンダがモチーフ。ぜひ、上野西郷バージョンを作っていただきたいものです。
 
では、光太郎がらみでのキティちゃんグッズは、というと、こちらもちゃんと存在しまして、明日のこのブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月20日
 
昭和4年(1929)の今日、岸田劉生が歿しました。
 
「麗子」像の連作などで有名な岸田劉生。数え39歳の早逝でした。
 
大正期の『白樺』や、フユウザン会、生活社を通じ、劉生と光太郎は深いつながりを持っていました。そのためその逝去の報には、哀惜の意を隠せません。
 
12月22日の『読売新聞』に載った光太郎の「岸田劉生の死」から、書き出しの部分を抜粋します。
 
 今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。私は食後の洗面所で立ちながら言つた。「岸田劉生が死んだのかな」さう口に出して言つたら急に胸がいつぱいになつた。走馬燈のやうにいろんな事が頭に出て来てをさまりがつかない。今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。
 此頃では人が天才といふ言葉を大変嫌ふやうだが、いくら嫌つても天才といふもののある事を打消すわけにはゆかない。ただ稀有(けう)なだけだ。画家岸田劉生は私達の身近に親しく見る事の出来たその稀有な天才の見本だ。此は二十年も前から口にしてゐた事だが今でも此言を取消すわけにゆかない。岸田劉生を除いては今日、吾が日本に天才らしい画家を一人ぐらゐしか私は知らない。彼だけは私の見る所、無條件に天才であつた。
 
続いて、翌年2月の雑誌『みづゑ』に載った「岸田兄の死を悼む」から抜きます。
 
 岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。昔荻原守衛が死んだ時もかなりの打撃をうけたが、この方はむしろ多分に友情的の分子が含まれてゐたと思ふ。友情といふ方面から言へば、最近、岸田兄と私とは以前ほどの私交的関係を持たず、文通すら殆ど絶えてゐたし、僅かに「大調和展」の会員であつた関係上、その会合などの時に旧交を温めた程度の交友状態に過ぎなかつたのであるが、私が岸田劉生に対する尊敬と評価とひそやかな景慕とは二十年来渝る事無き、言はば公人としての公けな心根であつた。そして心の奥の方では、いつも、私自身がもつと成長し、もつと成熟し得る時が来たら、又再び以前のやうに近しい、しかし以前よりも平淡な、水のやうに何でもない程親しい友交を獲たいと念願し、遠く望んでゐた事であつたのである。さういふ事は今はすべて空しくなつた。
(略)
 彼は多くの人の期待と予望とを背負ひながら死んでしまつた。神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い。無いとなると世界中に無い。実に言ひやうもなく惜しい。
 
 
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上の画像は、大正8年(1919)、『白樺』10周年記念に撮られた一枚です。前列右から3人目が岸田、後列左から3人目が光太郎です。

過日、上京した折に、時間が少し余っていたことがありました。そこで寄り道。行った先は皇居前広場。ここには光雲が主任となって、東京美術学校が請け負った楠木正成の銅像があります。
 
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実は当方、ちゃんとこれを見るのは初めてでした(幼い頃に見た記憶があるのですが)。
 
実に重厚。それもそのはず、この像は「無垢」です。
 
「無垢」というと、一般に「純真無垢」など、「イノセント」という意味で使われますが、こうした金属工芸の場合、「内部が中空ではない」という意味です。通常の銅像をはじめとする鋳金では、「中型」と「外型」を作り、その間に溶けた銅を流し込む方式で、出来上がったものは中空の状態になります。ところがこの像は、外型のみの状態に溶けた銅が流し込まれ、内部まで詰まっている状態です。したがって、重量としても物凄いことになっていると思われます。
 
そう思つて見るのでそう感じるのかも知れませんが、とにかく重厚です。
 
しかし、光太郎はこの像や、同じ光雲の手になる上野の南洲西郷隆盛像など、「芸術」としては認めていません。
 
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた。(「父との関係―アトリエにて2―」 昭和29年=1954)
 
たしかに絶対的評価としてはそうなのかもしれません。しかし、相対的評価としてみると、これほどの存在感、迫力を放つ像は、他に無いように思います。
 
そこで、この像と、西郷隆盛像、さらに靖国神社にある大熊氏廣作の大村益次郎像を合わせて「東京三大銅像」とする場合があります。
 
今年、銅像を扱ったテレビ番組を2本観ました。6月21日、BS日テレさんで放映された中川翔子のマニア★まにある #32銅像男子・(ドウゾウダンシ) 銅像男子が語る銅像の魅力!?」、10月30日、同じくBS日テレさんの「木曜スペシャル #15 偉人巡礼!歴旅銅像ツアー」。どちらも、ちらっと楠公銅像、西郷隆盛像にふれていました。事前に楠公銅像に触れるかどうか分かりませんでしたし、ちらっと紹介されただけなので、放映後もこのブログでは特にコメントしませんでしたが、この際なのでご紹介しておきます。
 
まず、「木曜スペシャル」の方では、全国の坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信の銅像を紹介するのがメインでしたが、合間に「東京三大銅像」の紹介がありました。
 
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続いて「中川翔子のマニア★まにある」。こちらはサイト「日本の銅像探偵団」管理者の遠藤寛之氏が選ぶ「一度は見ておきたい銅像ベスト3」ということで、堂々の第1位に、楠公銅像を挙げて下さいました。
 
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遠藤氏によれば、楠公銅像は「キング・オブ・銅像」だそうです(笑)。
 
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ちなみに第2位は、「二本松の菊人形」会場である福島二本松霞ヶ城に建つ二本松少年隊の像でした。作者は二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」も作られた、光雲の孫弟子にあたられる橋本堅太郎氏です。
 
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さて、楠公銅像そばに売店があり、そこで楠公銅像グッズをいろいろゲットしてきました。
 
まずは最近よくあるA4判クリアファイル。中央に楠公銅像、裏面は皇居二重橋です。
 
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もったいなくて使えません。袋に入れたまま保管しています。
 
また、その他、笑える楠公銅像グッズが手に入りました。また明日、ご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月19日
 
平成18年(2006)の今日、福島二本松で、NTT DoCoMo東北のCM「智恵子のふるさと篇」の撮影が行われました。
 
 
主演は宮崎あおいさん。
 
こちらは、当時、東北で配布されていたカード型の広告です。智恵子の生家・記念館裏手の「樹下の二人」碑の前に立つ宮崎さん。裏面は安達太良山と阿武隈川、ほんとの空です。
 
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二本松で智恵子の顕彰活動を行っている「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんもご出演なさいました。
 
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昨日は新宿方面に行って参りました。
 
用件は二つありましたが、まずは新宿文化センター小ホールで開かれた、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴。
 
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講師は大原美術館館長にして美術史家の高階秀爾氏でした。
 
スクリーンを使って画像を大きく提示しつつ、碌山荻原守衛をはじめ、新宿中村屋に集った芸術家たちのプロフィール、作品、美術史的位置づけなどを非常に分かりやすくお話下さいました。
 
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光太郎については、明治43年(1910)に書かれた評論「緑色の太陽」を軸に、同時代の美術家に与えた影響の大きさを語られました。
 
「緑色の太陽」は、日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。
 
その他、柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、中村彝、鶴田吾郎らについて詳述。特に中村彝の画風に見られるルノワールの影響などのお話は、非常に興味深いものでした。
 
また、中村屋サロン美術館さんからのお知らせもありました。現在開催されている開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」は来年2月までですが、その後、サロンを形成した作家一人一人を取り上げていくとのこと。
 
次回企画展は柳敬助を中心にするそうです。柳といえば、やはり光太郎と親しく、また、妻の八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。光太郎と智恵子が知り合うきっかけを作った一人です。これも観に行かなければ、と思いました。
 
いずれ光太郎も単独で扱っていただきたいものです。
 
さて、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた」。まだ御覧になっていない方は、ぜひ足をお運びください。光太郎の油絵「自画像」、ブロンズの「手」「裸婦坐像」が展示されています。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月2日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、開校記念日の学芸会が行われ、光太郎が寄贈した式場用幔幕が披露されました。
 
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光太郎がデザイン案を出した校章が大きく染められています。この日の児童向け光太郎講話から。
 
 幕に染めた『校章』のことですが、『校章』は学校の印で、帽章としても使われますが、山口の学校の『校章』を、さて何にしようと考えて、結局、栗を採り入れることにしました。
 栗はここの名産です。栗の実は食べるとおいしい。栗はおいしいものの代名詞で、うまいものを栗のようだというくらいです。木は硬くて長持ちします。それに、玉の中央から上に伸びているのは雌しべで、これから大きくなるという意味です。実はふっくらと丸いのがいいのです。
 栗のことを思つていたら、、みなさんの顔も栗の実のようにつやつやして見えます。
 そういうわけで、これを採り入れたのです。
(浅沼政規著『山口と高村光太郎先生』平成7年(1995)㈶高村記念会より)

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