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光太郎第二の故郷・花巻からの情報を書くつもりでしたが、予定変更。昨日開幕し、今日は中日(なかび)、明日には閉幕という彫刻個展です。

特別企画 秋川雅史 木彫展

期 日 : 2022年9月17日(土)~9月19日(月・祝)
会 場 : 靖山画廊 東京都中央区銀座 5-14-16 銀座アビタシオン 1F
時 間 : 11:00~17:00
料 金 : 無料

究極の声を追い求めて歌をうたう。思い描くイメージを一本の木から彫り出していく。どちらもやり直しはきかない。このたびテノール歌手秋川雅史が、ジャンルを超えた芸術家として初の個展を開催致します。3年の歳月をかけ制作した「木彫楠公像」など、魂が込められた作品をご覧ください。

※場合によっては、入場制限させて頂く可能性もございます。

テノール歌手の秋川雅史さん。仏師の関侊雲氏に師事して木彫にも取り組まれ、昨年の二科展では、光太郎の父・光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、彫刻部門で入選を果たされました。当該作品、さらに今年の二科展入賞作品も展示されるとのこと。秋川さんご本人によるプレス対応を、報道各社さんがニュースにしています。

『東京スポーツ』さん。

秋川雅史は木彫で二刀流 歌手活動回復し「最近彫れないストレスがあって…」

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・中央区の「靖山画廊」で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)の開催に伴い、取材に応じた。
 大ヒット曲「千の風になって」で知られる秋川だが、趣味で木彫を始め、個展の開催が決定した。
 コロナ禍の影響で、コンサートなどは中止や延期となり、木彫を制作。最近は状況が徐々に回復傾向で、歌手としての活動も戻ってきており、秋川は「最近彫れないストレスがあって…。テレビ番組収録の楽屋で彫っています。、待ち時間が長いので」と明かした。
 歌手と木彫の二刀流については「歌手はメインの本業。お客様が求める以上のパフォーマンスをするというプレッシャーがあって、歌の練習ってつらいことが多いけど、彫刻の練習は楽しいですね。自分なりに自分のレベルで成長していけたら」と語った。
 個展では、昨年の第105回二科展彫刻部門で入選した木彫楠公像(楠木正成像)などを展示。同像の制作は、皇居外苑国民公園にある楠木正成像を見てかっこいいと思ったことがきっかけだという。
 同像を前に「これが彫りたくて、最終目標と思って彫り始めて3年。最初は四角い木で、遠い道のりでした」と振り返った。
東スポ
『中日スポーツ』さん。

「歌手は辛いことも多いが…彫刻は楽しいことばかり」秋川雅史が自身初の個展「これからも二刀流で」  

 テノール歌手の秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で自身初の個展「木彫展」の取材会を行った。
 昨年の「二科展」彫刻部門で入賞した「楠木正成像」や「金剛力士 仁王像」など、この11年間に彫りためてきた木彫刻11点を19日まで同画廊で展示。さらに今年の二科展で入賞した「木彫龍図」は二科展終了後の19日に披露する。
 念願だった個展に秋川は「10年前の作品を見ると、未熟だなと思います。人間はいつまでも成長するんだなとも思いました。11年の成長の過程を見てほしいです」とアピール。2年連続での二科展入賞には、「昨年とは違って、今回はアーティストとしてちゃんと作っているか、ということを見られた結果だと思うので、昨年以上にうれしいです。来年から? どうしましょうかね。また頑張って作ります!」と笑顔を見せた。
 木彫刻を始めたのは、故郷愛媛県西条市に伝わる西条だんじり彫刻の魅力に触発されたのがきっかけだったという。彫刻教室にも通い、1年に一作のペースで作品を仕上げてきた。「本業の歌手はプレッシャーがあって辛いことも多いです。でも、彫刻は楽しいことばかり。のめり込める時間がいいです」。今後には「歌と木彫刻、これからも二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい」と力を込めた。
中日スポーツ
『サンケイスポーツ』さん。

歌手、秋川雅史が木彫の初個展を開催 「1日5、6時間。彫れない日はストレスで」と〝二刀流〟を宣言 二科展も2年連続入選 

 テノール歌手、秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)を開いた。
 「彫刻を始めて11年。念願だった個展ができることになりました」と秋川は感激しきり。東京・新国立新美術館で19日まで開催中の「第106回二科展」彫刻部門で「木彫龍図」が2年連続の入選。個展では、昨年の彫刻部門で芸能界初の入選を果たした「木彫楠公像(楠木正成像)」を中心に、二科展出品中の最新作を除く過去の全作品12点や、代表曲「千の風になって」の歌詞をしたためた書などを展示する。
 出身の愛媛・西条市でだんじり祭りの彫刻に幼少期から「血が騒いだ」と言う。43歳で一念発起し、「彫刻、教室、東京でネットで検索して、一番上に出てきた先生に入門した」と笑って告白。「いまでは1日5、6時間、地方公演中やテレビ局の楽屋でも彫ります。彫り始めると止まらなくなる。彫れない日はストレスで」とのめりこむ。
 昨年の入選作のモデルとなった皇居外苑前の楠公像は「とにかくかっこいい。彫りたい!と思った」。埼玉・深谷市にある畠山重忠像にも心をひかれていると言い、「コンサートで全国に行くときも銅像をチェックしています。いま(山梨・JR甲府駅前の)武田信玄像を彫り始めたところ」と〝銅像シリーズ〟を今後のテーマに掲げる。
 二科展挑戦のきっかけは同じ事務所所属のモデル、押切もえ(42)の絵画での入選に「触発された」ことだったという。最後は「彫刻家と歌手という〝二刀流〟で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷選手? 超えたいですねえ!」と取材陣への笑顔のリップサービスで締めくくった。
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日テレさん。

秋川雅史、彫刻家と歌手の二刀流“大谷選手を超え目指す”

 『千の風になって』の楽曲で知られる、テノール歌手の秋川雅史さん(54)が17日、これまで秋川さんが彫り続けた彫刻作品を集めた、自身初の個展イベントに登場。歌手と彫刻家の“二刀流”を宣言し、世界で活躍する”二刀流選手”超えの記録を目指すと語りました。
 木彫刻家としての顔も持つ秋川さんが、これまでの彫刻作品を集めた初の個展『秋川雅史 木彫展』を17日~19日までの3日間開催します。秋川さんの彫刻作品は、昨年の美術の展覧会『第105回 二科展』の彫刻部門で初入選し、今年の『第106回 二科展』でも2年連続となる入選に輝きました。
■秋川「ネットで調べて一番上のところに」彫刻の師との意外な出会い
 43歳から彫刻を始めたという秋川さんは、『第106回 二科展』で入選となった『木彫龍図』について「愛媛県の西条市出身で、だんじり彫刻を見て育ったので、彫刻を見ると血が騒ぐ。だんじり彫刻は、龍が見せ場なんで、自分だったらこういう龍を彫りたいとイメージがありました」と語りました。
 また、彫刻を始めるにあたり、教室に通ったそうで「インターネットで『彫刻、教室、東京』とキーワードを入れて一番上に出てきたところに行きました。そこの先生が超一級の先生でした」と、師匠となる先生との運命的な出会いを明かしました。
 歌手としても活動する秋川さんは今後について「彫刻もアートだし、歌もアート。広い意味でアーティストと。だけどその中で、歌手と彫刻家の二刀流で、数々の記録を打ち立てたい。大谷選手を超えたいですね」と、世界で活躍する“大谷選手超えの二刀流”を目指すと宣言しました。
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テレ朝さん。

秋川雅史、初の個展スタート「“二刀流”で数々の記録を」 

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」を開催(19日まで)。報道陣の取材に応じた。
 秋川は昨年の二科展彫刻部門に「木彫楠公像(楠木正成像)」で初入選。今年、「木彫龍図」で2年連続となる入選を果たした。
 個展では「木彫楠公像」をはじめ、これまで手がけた彫刻や書を展示。秋川は、「彫刻を始めて11年。念願だった個展が初開催出来ることになりました」と喜び、「成長の過程を見てもらえたら」と呼びかけた。
 地元・愛媛県西条市の「西条まつり」で彫刻を見て育ち、「彫刻を見ると血が騒ぐ」とルーツを明かす。1日5~6時間を彫刻に費やしているが、「のめり込める時間」と表現し、「歌手は本業で、求めている以上のものを提供しないといけない。歌の練習はつらいことが多いけど、彫刻は楽しいことばっかり」と笑った。
 今後の目標を聞かれると、「全国に格好良い銅像がある。その銅像を木で彫るのがテーマ。武田信玄像に手をかけ始めた」と掲げた。歌手と彫刻家の“二刀流”だが、「広い意味でアーティスト。その中の二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷(翔平)選手を超えたいですね」とライバル視した。
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テレ朝 テレ朝2
今後とも、秋川さんのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

高村晴雲くる、玄関で。


昭和29年(1954)1月11日(火)の日記より 光太郎72歳

「高村晴雲」は、光雲の師・初代高村東雲の孫で、本名は東吉郎。かつては光雲に師事し、この時点では三代東雲を襲名していたのですが、光太郎はうっかり昔の号の晴雲と記録してしまったようです。しばらく北海道にいた三代東雲、光太郎に先立って昭和26年(1951)に帰京しています。

























日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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先月6日から上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催中の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」展。先月末、一部作品の展示替えが行われ、後期展示となりました。
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光太郎の父・光雲作品。前期では「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ていましたが、後期に入って「鹿置物」(大正9年=1920)にバトンタッチ。こちらも逸品です。
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公式サイト上で「出品目録」を見つけました。
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国宝に指定された「蒙古襲来絵詞」、高橋由一の「鮭」などは通期展示。それから目玉の一つ、伊藤若冲の「動植綵絵」なども後期からの展示です。

前期展示のレポートですが、主催に入っている読売新聞社さん発行の『読売中高生新聞』に関連記事が出ていましたのでご紹介します。

日本の風土を記録

004 日本美術の奥深にふれる特別展「日本美術をひも解く― 皇室、美の玉手箱」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開催されています。宮内庁三の丸尚蔵館の名品と、東京芸術大学の収蔵品が結集した同展の魅力を、同美術館の黒川廣子館長に聞きました。
 本展は、皇室ゆかりの品が収蔵されている宮内庁三の丸尚蔵館と、近代以降の日本で芸術の教育・研究 機関として重要な役割を担ってきた東京芸術大学のコレクションを合わせて、日本美術の魅力を紹介するものです。タイトルにある「玉手箱」には、「様々なジャンルや作品に出会える」(黒川館長)という意味が込められています。
 時代ごとではなく「生き物」や「物語」「風景」などのテーマごとに作品が区分されていて、所々に「蒔絵・螺鈿」「やまと絵」「障壁画」などの伝統技法や形式の解説もあります。小さい子どもも楽しめるワークシートも用意されていて、与えられたミッションをもとに、楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 会場に入るとまず、黄金の蒔絵とオーロラのような螺鈿が調和しながら 輝きを放つ「 菊蒔絵螺鈿棚」が来場者を迎えます。明治天皇の許可のもと、東京美術学校(現・東京芸大)と、宮内省(現・宮内庁)が 制作した、 記念的な作品です。
 文字をテーマとしたコーナーでは、 伝藤原行成「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」などが目をひきます。 雲母(きら)とよばれる鉱物を粉末状にして 描かれた文様がある料紙など、素材と文字の美しさのかけ合わせが印象的です。
 また、だれもが一度は教科書などで見たことがあるであろう、鎌倉時代の元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」も、物語をテーマとしたコーナーに展示されています。「当時は写真がない時代なので、絵で表現して現在に伝えているところに 歴史的な 価値があります」と、黒川館長。多くの画家が模写を行った作品だそうです。
 「蒙古襲来絵詞」を 含め、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品として 昨年初めて国宝指定された5件が展示されるのが、本展の見所のひとつです。この中で、桃山時代の武士のように力強い獅子が描かれた狩野永徳の「唐獅子図屏風」は生き物を集めたコーナーに展示され、会場に威風を放っていました。
  豪華絢爛な屏風絵から、月ごとに咲く花と鳥や虫を合わせた 酒井抱一「 花鳥十二ヶ月図」のような繊細な掛け軸まで、バラエティー豊か。重要文化財となっている、明治時代の高橋由一「鮭」は油絵です。「身近な画題を描くことで、洋画を受け入れてもらおうと一生懸命でした」という黒川館長の説明に、当時の洋画家たちの挑戦に思いをはせました。雌雄のつがいで展示されている 高村光雲のかわいらしい木製彫刻「矮鶏(ちゃぼ)置物」は、元々雄のみだったのが、明治天皇が気に入って購入され、それに合わせて雌を急きょ制作したそうです。
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 黒川館長によると、貴重な作品を守るために、作品ごとに当てる光を変えたり、温度も作品にとってちょうどいい温度にしたりと、気をつけているそうです。美術館が少し肌寒く感じたのはそのせいだったのかと納得しました。
 日本美術の特徴がぎゅっと詰まった展覧会。「日本で起きる全てを大切に記録するのが美術。日本ならではの表現で、日本という風土を記録しているのが魅力です」という、黒川館長の言葉が心に残りました。これからは作品の背景にも気を配って、作品を見ていきたいと思いました。
 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は、東京芸術大学、宮内庁、読売新聞社主催。9月25日まで、会期中、一部展示替えあり。詳細はホームページ 。

編集後記
 国宝級の美術品は、何度鑑賞しても飽きませんでした。美術や歴史の教科書に載っている実物を、目の前で見られるのは感動します。特に同世代には、日本人として、世界に 誇る日本美術の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。ぜひ足を運んでみてください。(岡島)
 ★企画者・ 岡島花蓮記者(中3)、 児玉龍之介記者(高2)、 飯島記者(高2)、 池上颯記者(中2)、 那須祐香記者(小5)

9月の金・土は午後7時30分まで開館だそうです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前志戸平より車で花巻温泉松雲閣別館に移る。 再び出て理髪等、


昭和28年(1953)12月2日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。かつてたびたび宿泊した松雲閣別館に宿を移し、5日の朝、再上京するまで逗留しました。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。午後1時に天心記念五浦美術館さんに伺う予定で、時間が早かったので、野口雨情記念館さん、野口雨情生家、天心遺跡(六角堂)などに立ち寄りましたが、午後1時近くになりましたので、満を持して同館へ。
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少し前、同館刊行の『新納忠之介旧蔵資料目録Ⅰ 「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年=2016)という厚冊の書籍を、自宅兼事務所の隣町の図書館で見つけ、頁を繰ってみたところ、光太郎の父・光雲、光太郎、そして光太郎実弟・豊周から新納忠之介に宛てた書簡類がリストに載っていました。
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001新納は明治元年(1868)鹿児島生まれ、東京美術学校の彫刻科第3回卒業生で光太郎の大先輩です(光太郎は第11回卒業)。光太郎在学時には同校助教授を務めていましたが、いわゆる美術学校事件で天心らとともに連袂辞職、日本美術院に加わりました。

ちなみに同期卒業生のうち、「本山辰吉」は本山白雲。高知桂浜の坂本龍馬像、国会議事堂前庭の伊藤博文像などで有名ですね。

それから「板谷嘉七」は陶芸家となった板谷波山です。「黒岩倉吉」は黒岩淡哉。そこそこ有名な彫刻家です。

新納はその後奈良に移り住み、主に仏像修復の分野で活躍しました。奈良東大寺さんの不空羂索観音像、京都三十三間堂さんの千手観音像などは新納の手により修復されています。また、光雲は信州善光寺さんの仁王像を制作するにあたって、東大寺さんの金剛力士像も参考にしていますが、その調査にも協力しています。今年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」には、新納から光雲に送られた、東大寺さん金剛力士像のレポートも展示されていました。

さて、新納宛書簡。調べたところ、『高村光太郎全集』及びその補遺として当方が編集を続けている「光太郎遺珠」に未掲載でした。

そもそも新納の名は、『高村光太郎全集』には4回しか出て来ていませんでした。光太郎の後輩で、仏像修復の分野で新納の右腕となった明珍恒男の追悼文(昭和15年=1940)の中に一箇所、明治38年(1905)、光太郎から光雲に宛てた書簡二通に。奈良を訪れた光太郎が新納の世話になったという記述でした。それから、明治42年(1909)、来日直前のバーナード・リーチ宛の英文書簡。日本でリーチの世話をしてくれそうな人物をリストアップする中で、新納は英語もしゃべれるし、日本彫刻に関する知識も半端ない、的なことが書かれています。

そんなわけで、光太郎から新納宛書簡、ぜひ拝見したいと存じ、同館に閲覧許可の申請をして伺った次第です。ついでというと何ですが、光雲、豊周からのそれも拝見させていただくことに致しました。

リストに「年賀状」とありましたが、本当に年賀状でした(笑)。文面は「賀正 大正十二年一月 駒込林町二十五 高村光太郎」のみ。それでもこの時期に光太郎と新納が年賀状のやりとりをする間柄だったということがわかります。豊周からのものもほぼ同じような感じでした。

元同僚だった光雲からの書簡は、さすがに数も多く、長文のものがほとんどでした。丁寧な時候の挨拶に始まり、美校の近状、東京の美術界の動向等々。時には愚痴も(笑)。光太郎が欧米留学後、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞に関する記述もありました。こちらでは光太郎の仲間の新しい芸術作品も販売していましたが、伝統的な漆器なども扱っており(そちらの方がよく売れたようです(笑))、その手配を頼むような内容でした。

閲覧に際しては、学芸員の方に大変お世話になりました。百年以上前の史料と言うことで、机の上には大きな中性紙を敷き、その上に三人がかりで一通一通広げてくださったり、撮影も許可して下さったり……。恐縮してしまいました。

閲覧後、展示を拝見。そちらも学芸員さんのご配慮で、無料でした。

常設展は天心の関係。
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企画展は「並河靖之の雅な技――世界を魅了した明治の京都七宝――」。並河の有線七宝の作品は、超絶技巧系の展覧会や、京都の清水三年坂美術館さんの常設展示などで何度か拝見していましたが、何度見ても舌を巻かされます。並河と共に「二人のナミカワ」と称される無線七宝の濤川惣助の作品も並び、眼福でした。
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まだまだ全国のこうした施設に光太郎書簡等、眠っているかと存じます(島根で新たな発見があったそうですし、北海道にあるという情報は既に得ておりまして、来年あたり拝見に伺おうと思っていますが)。光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨にいたるまで埋もれさてはならない、というのが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のスタンスでした。当方もそれを引き継いで、今後ともやっていこうと思っております。

以上、北茨城レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

三時過ぎ副知事来る、小型像其他につき協定、尚礼として500,000円もらふ(小切手)夜八時青森駅より上車、しん台車、津島知事、横山副知事等見送りにくる、

昭和28年(1953)10月24日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のための青森行、最終日です。宿泊していた浅虫温泉東奥館に横山武夫副知事が訪れ、最後の事務手続きが行われました。「小型像」は、「乙女の像」の小型試作。「乙女の像」本体と同じく伊藤忠雄による鋳造で、青森県に寄贈されました。現在、青森県立郷土館に所蔵され、昨年から今年にかけて開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」で展示されました。

上車」は「乗車」の誤りですね。

こういうのもありかな、と。

3D彫刻複製 「西郷隆盛像」高村光雲【大】

¥500,000 税込  送料無料でお届けします000
受付開始:2022年8月6日(土)
原型:上野公園 西郷隆盛像
彫刻:高村光雲
高さ:37cm(台座含む)
横:14.5cm
奥行11cm
技法:STH方式(3D計測・3D出力)
材質:pla

3D彫刻複製の主な特徴
すべての形情報をそのまま取り込める世界唯一の技術、3Dスキャン。独自の3D計測プロセスがもたらす圧倒的な正確さ。豊かな凹凸と、立ち上がるような立体感あふれる像質は、まさに「ハイパー複製」。原型の再現にどこまでも応えうる忠実性を提供すること。3D計測、3D出力、大きさ、質感などあらゆる要素をこの観点から徹底的に考え、一から開発いたしました。そして、3D彫刻複製の哲学である「彫刻研究のための複製」としての方向性を先鋭化させ、本格的な芸術表現をより身近にするための本質だけに特化して生まれたのが、この新世代の3D彫刻複製です。
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3D複製技術を彫刻等に応用する試みは、徐々に広がっているようです。

美術館さんの貴重な収蔵品の3Dコピーを作り、来館者が手にとることができるようにしたり、磨崖仏など現地から動かせないものの縮小コピーを作って研究に使用したり。

また、平成31年(2019)、火災で大きな被害を受けたパリ・ノートルダム大聖堂の再建においても、火災前に採ってあった内部の3Dデータを使うの使わないのという報道も目にしました。その後どうなったか存じませんが。

そう考えると、活用の幅はいくらでもありそうな気がしますね。

そして「西郷隆盛像」。権利的な部分はどうなっているのかな、と思うのですが、どうなのでしょう? 今回発売されたものは【大】だそうで、価格は50万円。やがて【中】とか【小】とかも出るのでしょうか?

この手の情報、今後も気を付けてみていこうと思います。

【折々のことば・光太郎】

夜去年上京の記念につき藤島さんと外でビフテキ、ビール、リオにてカクテル、夜十時かへる、

昭和28年(1953)10月13日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋をあとに上京して、丸1年が経ちました。

先月末の『中国新聞』さんから。

「売れない」ものを作る【いかさミュージアム散歩】井原市立田中美術館

001 1907年、横山大観や菱田春草を育て上げて日本画の革新にめどがついた岡倉天心は、次に木彫(もくちょう)の振興を目指した。天心の依頼により、高村光雲が選抜した6人の中に平櫛田中の名があった。
 6人は天心の待つ上野の寺に集う。ある者が宮内省御買い上げ品以外に彫刻の需要がないことへの苦しさを訴えると、天心は即座に「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と一言だけ言った。
 売りたいという心で人にこびたものを作ることは、自分の心を裏切っている。言下に田中は、売れないものを作るのは造作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感得した。この言葉をもって、名作「活人箭(かつじんせん)」が生まれた。坊さんを作れば、誰も買わないだろうと。000
 田中は、上京翌年の26歳から参禅し、禅を精神の支柱にしていた。自分の好む禅など作品にしたところで需要はありはしないと思っていた。「一生の早い時期に偉い人に会うという事は、人間の第一の幸福です」。この幸福な時期は13年、天心が50歳で世を去ることで終わる。「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。誠に恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」
 07年の年齢を列記しよう。光雲55歳、天心45歳、大観39歳、田中35歳、春草33歳。美術界は風雲児天心の下、硬骨漢たちがこれまでの常識を打ち破って「売れない」ものを作り、芸術上の大革新が行われる。そして、当時、理解し難かった作品は今、傑作として人々の称賛を得ている。(田中美術館学芸員・青木寛明)
 <メモ>新館建設のため休館中。来年4月にリニューアルオープンする。住所は井原市井原町315。グッズは、井原市民会館内の仮事務所で販売中。通信販売もある。☎0866(62)8787 http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/

題名の「いかさ」って何だ? と思い、調べたところ、「井笠」。岡山県井原市、笠岡市を中心とした地域の略称でした。青森県の「三八上北(さんぱちかみきた……三戸郡・八戸市・上北郡)」などと同じ伝ですね。当方、東北によく行くので、現地で見るテレビのローカル天気予報などで使われる「三八上北」は、その語呂の良さから耳に残っています(笑)。

その井原市にあり、現在新館建設のため休館している田中(でんちゅう)美術館さん、というよりそちらで作品がまとめて収蔵されている平櫛田中の紹介です。

記事冒頭の、明治40年(1907)に岡倉天心、光太郎の父・光雲により6人の彫刻家が集められた、というのは日本彫刻会の結成を指します。田中以外の5人は、米原雲海、山崎朝雲、加藤景雲、森鳳聲、滝澤天友。とりあえず全員、光雲の高弟といって良いかと思われます。

田中の「活人箭(かつじんせん)」画像は制作直後のもの。田中がこれを天心に見せたところ、天心は「なぜ余計な弓矢を作った?」と一喝したそうです。実際に弓矢を手にしていなくとも、見た人にその存在を感じさせるような彫刻でなければ駄目なんだ、というわけです。「余白の美」と申しましょうか、「象徴的技法」と申しましょうか、確かにその通りですね。
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そして田中は上記のように改作します。田中が傾倒した禅の精神にも通じるところがあるのでしょう。

同じことは天心の「売れないものを作れ」という一語にも表されているような気がします。世の中に迎合するな、という意味と、判ってもらおうとして説明しすぎるな、といった意味もあるように感じます。光太郎なども、こうした精神を持って彫刻制作に当たっていたのではないでしょうか。光太郎も、一時、親しかった田中の影響もあって禅に親しんでいました。そうした制作態度を「気取っている」と評する向きもありますが……。

ちなみに最初の田中の写真、元になったのはこちら。
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東京美術学校での光雲門下生の集合写真です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』口絵に使われているもので、光太郎も写っていまして、明治35年(1902)頃の撮影と推定されます。これが田中の若い頃唯一の写真だそうです。上記記事を書かれた学芸員の青木氏から、「写真のオリジナルプリントがどこに所蔵されているか知らないか」と問い合わせがあったのですが、当方も存じませんで、役に立てませんでした。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

さて、井原市立田中美術館さん、建設中の新館は10月に竣工予定、来年4月にリニューアルオープンだそうです。まだ先の話になりますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后一時メダル150個全部出来、内山氏持参、青森県事務所に届けてもらふ、

昭和28年(1953)10月10日の日記より 光太郎71歳

「メダル」は、生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。正式なものは内山嘉一郎により150個鋳造されたということで、時折、ネットオークションに出ます。2度ほど、10万円ちょっとまで粘って入札したのですが、負けました(笑)。



ネット上などで、けっこう鳴り物入りの紹介が為されています。

 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
 前期展示①:8月6日(土)~8月28日(日)
 前期展示②:8月6日(土)~9月4日(日)
 後期展示①:8月30日(火)~9月25日(日)
 後期展示②:9月6日(火)~9月25日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、9月19日(祝)は開館)
料 金 : 一般2,000円(1,800円)、高・大学生1,200円(1,000円)
       ( )は前売り料金 
   

じっと見る そっと見る うつくしい 宝もの

本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の珠玉の名品に、東京藝術大学のコレクションを加えた82件の多種多様な作品を通じて、「美の玉手箱」をひも解き、日本美術の豊かな世界をご覧いただくものです。代々日本の文化の中心に位置して美術を保護、奨励してきた皇室に伝わる優品の数々は、特筆すべき重要な存在です。

また、本展が開催される東京藝術大学は、前身である東京美術学校で岡倉天心が1890年に初めて体系的に日本美術史の講義を行った場所でもあり、以降、芸術の教育・研究機関として重要な役割を担います。本展は、このような歴史的背景をもつ両者共同ならではのアプローチで、貴重な美術品の数々の魅力をわかりやすくご紹介します。
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展覧会のみどころ
1 日本美術を分かりやすく「ひも解く」
 「文字からはじまる日本の美」「人と物語の共演」「生き物わくわく」「風景に心を寄せる」のテーマごとに、日本美術の世界をたどります。
2 三の丸尚蔵館所蔵の国宝全5件公開
 昨年、三の丸尚蔵館の収蔵品として初めて国宝に指定された5作品を、まとめて公開する初の機会になります。
 春日権現験記絵 やまと絵の集大成として名高い絵巻/通期展示
 蒙古襲来絵詞 元寇の様子を描いた絵巻/通期展示
 唐獅子図屏風 桃山時代を代表する狩野永徳筆/前期展示①
 動植綵絵 伊藤若冲の代表作/後期展示①
 屏風土代 平安時代三跡の一人・小野道風の書/後期展示②
3 若冲「動植綵絵(どうしょくさいえ)」10幅公開
 さまざまな生き物や植物を緻密に描いた傑作「動植綵絵」。あらゆる生き物の尊い生命、生きているからこその美しさを描き表わそうと、約10年をかけて若冲が制作した全30幅の大作。動植物の構図を熟慮し、自身が学んだ絵具の使い方や描き方を駆使して独特の世界観を表わしています。色鮮やかに表現された雄鶏が圧巻の〈向日葵雄鶏図〉や、70種類近くの虫が画面いっぱいに描かれた〈池辺群虫図〉など、本展では10幅を一堂に公開します。本展で公開される10幅は以下の通りです。
芍薬群蝶図、梅花小禽図、向日葵雄鶏図、紫陽花双鶏図、老松白鶏図、芦鵞図、蓮池遊魚図、桃花小禽図、池辺群虫図、芦雁図/後期展示①

序章 美の玉手箱を開けましょう
 「美術」を学問的にとらえた近代。岡倉天心は、未来の美術を作るための基礎となるように初めて日本美術史を教えました。そして、宮内省と東京美術学校によって後世に伝えるべき名品が作られます。
1章 文字からはじまる日本の美
 平安時代、日本人の感性によって生み出された優美な仮名は、物語や和歌を発展させ、さらにそれらによる様々なモチーフが豊かな美術意匠へと展開していく土壌を築きました。
2章 人と物語の共演
 人々の日常生活、信仰、回想や幻想などから創出された様々な物語は、折々の日本の四季の風景や人々の有り様を豊かに描き表わし、深遠な日本美の世界に我々を誘います。
3章 生き物わくわく
 人は様々な生き物と共存する中で、生き物への愛おしみや尊崇、感謝などの様々な想いを、美術造形に表現してきました。生命(いのち)あるものへの多彩な眼差しによる表現のかたちを見つめます。
4章 風景に心を寄せる
 豊かな自然は人々の心を動かし、古くから文学や絵画に表現されてきました。身近な風景や自然現象に対する素直な感動や畏怖の表現は、美の世界を広げ、さらなる感動をもたらします。

「3章 生き物わくわく」で、光太郎の父・光雲作の「矮鶏置物(ちゃぼおきもの)」(明治22年=1889)が展示されます。前期展示①ということで、8月6日(土)~8月28日(日)。
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他にも、日本美術史上に燦然と輝く優品の数々が出品されます。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

夕方アイスショーにゆきしが満員、火の車にゆく、草野君ゐる、


昭和28年(1953)10月4日の日記より
 光太郎71歳

「アイスショー」は「世界一アイス・ショウ アメリカン・ホリデイ・オン・アイス 日本公演」。昭和17年(1942)にアメリカで始まったフィギュアスケートの興行で、東京では後楽園で開催されました。

「ホリデイ・オン・アイス」といえば、当方の幼い頃、テレビCMなども放映されていました。

しかし満員で入れず、仕方なく当会の祖・草野心平の経営する居酒屋「火の車」へ。笑えます。

正直、これほど早く達成するとは思っていませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。64年前に建てられた煉瓦造りの本館「碌山館」の損傷が激しく、コロナ禍による入館者激減などもあり、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われていますが、昨日、目標額の700万円に到達したとのこと。まだまだ世の中捨てたもんじゃないなと思いました。

受付の始まった7月15日(金)にこのブログでご紹介し、「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、たった2週間での目標額到達。いかに同館が地域に、さらに全国的に愛されてきたかがわかりますね。

「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、このブログでもう一押しするか、と思っていた矢先で、そのためのネタも見つけてありました。当方、クラウドファンディングには詳しくありませんが、目標額をクリアしても終わりでなく、さらに支援を受け付けるようなので、ご紹介します。SBC信越放送さんのローカルニュース、7月21日(木)のオンエアでした。

雨漏り…レンガに亀裂…「碌山美術館」ピンチ! 修繕費は500万円超…どうする? 館長 長野・安曇野市

長野県内有数の観光地・安曇野のシンボルのひとつに碌山(ろくざん)美術館があります。教会をイメージさせるレンガ造りの趣きのある建物。この建物がピンチとなっています。館長が美術館を守るため選んだ方法とは?
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安曇野市穂高にある碌山美術館。

(幅谷啓子館長)「坑夫っていうのは、パリで作ったのを持ち帰った作品、高村光太郎が絶賛して持ち帰るようにすすめてくれた作品」
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美術館には明治時代の彫刻家・荻原碌山(おぎはら・ろくざん)の代表作の彫刻15点が、展示されています。碌山は、現在の安曇野市の出身、近代彫刻の礎を築きました。
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作品が展示される「碌山館(ろくざんかん)」。
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教会をイメージさせるレンガづくりが特徴の美術館は、住民の力で造られました。建設されたのは、今から64年前の1958年のこと。「碌山の美術館を作ろう」と、地元の教員たちが呼びかけ、賛同した人々、およそ30万人からの寄付金で、誕生しました。
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その証は、今も美術館に残っています。「開館に携わって頂いた方約30万人の方たちの力で生まれましたっていうプレート」
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幅谷館長が、美術館の異変に気づいたのは、2021年の夏のことでした。「風とか雨が強い時は雨が流れ落ちる状態、こういう跡があるんですけどずっと流れたような跡があります」美術館を襲った雨漏り。
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外の壁のコンクリートやレンガにも亀裂が入っていました。「これをこのまま放置しとくとどんどんひどくなるし」
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美術館の修繕は、待ったなしの状態。ですが、500万円以上かかる費用を捻出できる状況にないのです。
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「入館者の方が減ってまして、運営面も大変になりまして預貯金を取り崩して今運営をしている状態」新型コロナの感染拡大で、来館者が激減。コロナ前は、年間、2万7千人ほどが訪れていましたが、2021年はおよそ1万5千人にまで減りました。

美術館をどう守っていけばいいのか? 幅谷館長が、7月ある挑戦を始めました。インターネットで寄付を募る「クラウドファンディング」です。
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住民の寄付で誕生した美術館。もう一度、住民の力に美術館のこれからをゆだねることに決めました。「皆さんの力で修理を始めたいと思って、碌山の彫刻をこれからもずっと長く皆さんに親しんでもらいたい、この碌山館を作品とともに長く後世に伝えたい」目標金額は700万円。
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住民の力で誕生した美術館、幅谷館長の思いは届くのでしょうか? 寄付の募集期間は、8月31日までです。
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8月31日(水)まで、寄附の受付は継続されるようです。目標金額以上、いくら集まっても困ることはないでしょう。こうなったら大台突破も有りうるかもしれませんし、ぜひよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

夜熊谷氏(AK)来訪せし由、 九時半「九十九里」放送の中に余のもの引用の由。

昭和28年(1953)9月24日の日記より 光太郎71歳

AK」はJOAK、NHKさんの東京放送ですね。昭和9年(1934)、半年あまり智恵子が療養した千葉の九十九里浜を紹介する番組内で、光太郎作品を引用するその許諾ということでしょう。当該番組、録画放映の技術はまだ確立されておらず、おそらくテレビではなくラジオだったと思われます。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんでの「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」、神保町の東京古書会館さんでの「七夕古書大入札会一般下見展観」に向かう前、まず最初に訪れたのが台東区の谷中霊園さんでした。最近、こちらに光太郎の父・光雲作の、当方が知らない銅像があるという情報を得まして、拝見に、というわけです。

この日は公共交通機関での移動で、JR日暮里駅にて下車、紅葉坂を上って園内へ。目指す銅像は徳川慶喜の墓所近くということで、そちら方面を目指しました。

途中には、谷中の五重塔跡。
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徳川慶喜墓所。
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さて、目指す銅像はこの近く、ということなのですが、なかなか見つかりません。というのも、慶喜の墓所敷地がかなり広大で、「近く」の範囲も相当なものだからです。

関係ない渋沢栄一の墓所などが見つかりました。
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それでも、ようやく発見。
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2体並んでいるうちの、左の方です。
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「初代 小川源兵衛之像」というキャプション。背面には「高村光雲作」の銘。

小川源兵衛は、嘉永三年(1850)年生まれ(光雲より2歳年長)。日本橋で「近江屋」という店を構えていた織物商です。屋号は出身地の近江に由来します。光雲は、この手の実業家等の銅像を全国でいくつか手がけており、不思議ではありません。ただ、どちらかというと、光雲個人の作というより工房作かな、という感じです。それにしても愚劣な立体写真的な像とは一線を画していますね。

中には原型を光太郎が代作したものも2体。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。いずれも戦時の金属供出で像本体は失われてしまいました。この「小川源兵衛之像」は、それらとは異なり、光太郎イズムは感じられませんし、光太郎が描き残した文章にもこの像の話は出て来ません。

さらに言うなら、この像の建立の経緯はまったくわかりません。その人物の追悼録的な書籍が刊行されていれば、そこに詳細が記されることが多いのですが、そうした書籍も見つけられていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

また、こんな都心にあって戦前の作であるにもかかわらず、金属供出を免れている点も謎です。同じ谷中霊園内の「川上音二郎像」は、おそらく供出されたのでしょう。現在は台座だけが空しく残っています(左下画像)。
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ちなみに2体並んでいる右の方は、「二代目小川源兵衛」の像。背面の銘(右上画像)によると、山本稚彦による昭和48年(1973)の作だそうです。山本稚彦は、光雲の高弟の一人・山本瑞雲の子息。光太郎とも交流がありました。

昭和48年(1973)であれば、もはや金属供出は関係ないわけで、もしかすると左の初代の像も、一旦は金属供出に遭ったものの、戦後になってから保存されていた原型を元に新たに鋳造されたのかも知れません。やはり原型光雲作で、愛媛県新居浜市の広瀬公園にある「広瀬宰平像」などはそのパターンです。あるいは金属供出を免れるため、遺族が像本体を戦後になるまで秘匿していたという例(光太郎の親友・碌山荻原守衛作の「宮内良助像」など)もあり、そういうケースも考えられます。

さて、「小川源兵衛之像」、谷中霊園、正確にはその中の東京都ではなく寛永寺さんが管理している一角にあります。そのため「甲の何々」「乙のいくついくつ」という表示のないエリアです。
無題
ご興味のおありの方、ぜひ探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏とりつづき午后終、小坂さん粘土かたつけ、二時過運送屋三輪車で牛越さん等と一緒に石膏型を持ち去る、牛越さんの家までの由、


昭和28年(1953)6月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、石膏取りも終わり、石膏型が中野の貸しアトリエから運び出されました。これで、光太郎の手を離れた、ということになるわけです。それにしてもオート三輪で、というのが時代を感じさせますね(笑)。この光景、見てみたかったものです(笑)。

小坂さん」は制作のため雇った助手・小坂圭二。「粘土かたつけ」は、石膏型を取り終わった後、中から原型の粘土を掻き出したりする作業で、七尺もの巨像となると、光太郎一人では不可能だったでしょう。

牛越さん」は石膏取り師の牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。

昨日はデジタルアーカイヴサイトについてご紹介いたしました。同様にネット上でこんな動画も公開されているよ、ということで。公開は昨年だったのですが、最近のネタ不足を補う意味で、このタイミングでご紹介させていただきます。

2本ご紹介しますが、どちらも竹橋の国立近代美術館さん制作で、光太郎のブロンズ代表作「手」についてのものです。

まずは10月に公開された「高村光太郎《手》1918年頃|キュレータートーク|所蔵品解説006」。


7分余りの尺ですが、その中で、学芸員さんが「手」の魅力等につき、語られています。
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これは以前から指摘され続けてきたことですが、作品の制作背景として、ロダンの影響、それから仏像からのインスパイアがある、と。ただ、それが見る角度によって西洋的要素と東洋的印象とが変わる、という指摘には、なるほどそういう風に考えたことはなかったな、と思わされました。
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そのあたり、武蔵野美術大学美術館さんで平成27年(2015)に開催された「近代日本彫刻展」で、こちらの「手」と、朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と、2点(どちらも光太郎の生前鋳造、台座の木彫部分も光太郎作)を同時に並べた際の発見だそうで。
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そして、最も驚いたのが……。
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動画で5:00頃からですが、何とブロンズの部分と、台座を分離。

当方、画像では見たことがありましたが、動画では初めて見ました。もちろん実際に見たこともありません。
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この作品を元々所有していた有島武郎の名が記されていることは存じていましたが、自殺した有島から受け継いだ秋田雨雀、さらにその後の所有者名も記されているとのこと。それは存じませんでした。
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ここまで公開するとは、実に素晴らしいと思いました。

ちなみに同じシリーズでは光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」篇などもありました。

もう1本、こちらの方が先にアップされたもので、「ガイドスタッフが選ぶイチオシ作品|#29 高村光太郎《手》」。こちらもなかなかのものです。


「手」を見た子供たちの声が紹介されていまして、笑ったり、感心したりでした。
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こういう取り組みも、一種のアーカイヴと言えましょう(特に台座を紹介した方など)。そして、実際に作品を見に行ってみよう、という契機にもなるのでは、と思います。そうした意味で、こういう取り組み、全国の美術館さん、文学館さん等で、もっともっと広がってほしいものだとも思います。

【折々のことば・光太郎】

中原綾子さんくる、夜食に東中野モナミといふフランス料理の御馳走になる、有島生馬氏に偶然あふ、

昭和28年(1953)4月4日の日記より 光太郎71歳

中原綾子」は歌人。昭和初期、光太郎が中原に宛て、智恵子の心の病の症状を詳細に記した書簡を複数送ったことで有名です。「有島生馬」は画家で、武郎実弟。光太郎とは留学仲間でした。

東中野モナミ」は、かつて存在したレストラン兼結婚式場。建物はフランク・ロイド・ライトの設計だったそうです。文化人の交流の場ともなり、主に光太郎より1~2世代下の岡本太郎、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生、野間宏、安部公房らが集っていました。

また、上記の秋田雨雀、小説「智恵子飛ぶ」を書かれた津村節子氏なども。

光太郎の父、光雲のからみで、見落としていた新聞記事がありました。『夕刊フジ』さん4月8日(金)掲載で、その後気づいたものの、紹介するタイミングを失っていました。

今日になって『毎日新聞』さん東京版にも同じ記事が出ました。どうも共同通信さんあたりの配信記事のようです。

東京舞台さんぽ 越後屋の歴史継ぐ日本初の百貨店「三越」 東京・日本橋室町

 江戸時代後期に歌川広重が描いた浮世絵「名所江戸百景・するがてふ」は、買い物客らでにぎわう呉服店「越後屋」と遠くに見える富士山を描いた作品。するがてふ(駿河町)は、現在の東京都中央区日本橋室町のことで、越後屋は日本橋三越本店として当時と同じ場所で営業を続けている。
 三井高利が1673年に江戸に開いた越後屋は、83年に駿河町に移転。現金掛け値なし、切り売りといった画期的な商売手法で大繁盛した。江戸庶民の憧れの地であり、富士山の眺望が良かった駿河町は、浮世絵の格好の題材だった。
 1904年に三越呉服店と屋号を改め、日本初の百貨店となった。堂々たるルネサンス様式の本館は35年に完成したもので、2016年に国の重要文化財に指定された。完成当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築だった。
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 正面玄関で買い物客を迎え入れる2頭のライオン像は、三越の象徴的存在。内装は華やかで、本館1階中央ホールにそびえる高さ約11メートルの天女像は、まるでゲームの〝ラスボス〟のよう。壁面には大理石が張り詰められており、隠れたアンモナイトの化石を探すのも楽しい。
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 建物の屋上には三井家を守る三囲神社があり、商売繁盛と幸運をもたらすとされる活動大黒天の木像が祭られている。日本を代表する彫刻家、高村光雲が、1912年に手掛けた。
 越後屋が伝説の名工左甚五郎に大黒を彫るよう依頼する、古典落語「三井の大黒」とよく似た話であることに興味をかき立てられる。しかし三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からないという。
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【メモ】屋上には「漱石の越後屋」と刻まれた石碑がある。夏目漱石の作品に越後屋や三越が多く登場することを記念して、2006年に建てられた。

日本橋三越さん。実は当方(「実は」というほどのことでもありませんが(笑))、学生時代の4年間、冬休みはお歳暮の時期ということで、三越さんでアルバイトをさせていただいておりました。と言っても店舗ではなく、配送の方でしたが。バブル前夜の景気が上向いていた時期で、バイト代もけっこうなものでしたし、何と言っても老舗中の老舗だけあって、扱う品物も豪勢なものでした。当時のN首相宛のお歳暮、ウィスキー1本40,000円也とか(笑)。

閑話休題。

屋上に鎮座まします三囲(みめぐり)神社さんに納められているという光雲作の大黒天像。通常非公開でして、当方、画像も見たことがありませんでした。こういうものだったのか、さすが光雲、という感じです。

記事では「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」とあり、残念です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に「光雲に依頼した経緯や落語との関係」が載っていますので。もっとも、光雲が語っているのは落語ではなく講談との関わりですが、内容的には同一でしょう。

少し長くなりますが、関係する部分を引用します。「左甚五郎と其研究」という章の、まず冒頭「未だ曾て出会つたことがない」という項から。明らかな誤字は正しました。

 左甚五郎と其作の事に就いては、予も子供の時分からいろいろ聞ては居るが、真実甚五郎の作なるものには、未だ曾て出会つたことがない。思ふに左甚五郎といふ人は、机山系に属する左利きの彫物大工ではあるまいか。併(しか)し乍ら、何分にも其遺作が明瞭ならぬので、其人の有無さへも疑はれて只今の処では、未だ何れとも断言することの出来ないのは、甚だ遺憾とする処である。
 従来何処でも堂宮の彫物に、無銘の美事な作があると、其多くは甚五郎作と称せられ、また木像彫刻になると、拙劣極まる大黒天の像にも甚五郎作の名を附けて、巧拙ともに甚五郎にしてあるのは、実に不思議な訳であるが、考へて見ると、之れには相当の理由があると思ふ。
(略)
 後者は左甚五郎が江戸に出て来て、大工の棟梁某の家に食客となつて居た時、小刀で彫つた不状(ぶざま)な大黒天の像を、越後屋(今の三越呉服店)へ持つて往つて見せた処、其大黒天が莞爾(につこ)と笑つたと云ふので、直ぐさま大枚百両に買つて呉れ、越後屋も此大黒天を買つてから、店が一層繁昌したといふ話から起つたもので、之れは講釈師が張扇に花を咲かせた作り話であるが、これから考へついて、大工彫の拙(まづ)い大黒天でさへあれば左甚五郎作と云ふ名を附けて、狡猾(ずる)い古道具屋などが担ぎ廻すのではあるまいか。
(略)


それに続く「三越の大黒天」という項。

 越後屋の大黒天の事に就て、三四年前の事、予は三越呉服店の日比翁助氏に、其実否を尋ねた処、氏は一向知らぬとあつて、更に同店の大黒柱と云はれて居る、藤村喜七老人へ、其事を問合せてくれられたが、藤村老人も、然(さ)う云ふ大黒天は全く無いと答へたさうだ。乃(そこ)で日比氏は此話を縁として店に大黒天を祀りたいと言出し、其製作を予に依頼されたから、随分念を入れて彫つたが、此大黒天には、予の銘を入れて置いたから、後世に至つて伝来の甚五郎作の大黒だなどゝ、間違へられる気遣ひはない。
(略)


日比翁助は三越専務、藤村喜七は常務です。このあと、藤村の還暦祝にと三越から贈られた黄金の大黒像原型も、光雲が依頼されて彫ったという話が続きます。

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』は、700ページ超の分厚いものです。前半3分の2ほどが「昔ばなし」で、光太郎の友人だった作家・田村松魚が光雲宅に出向いて語ってもらい筆録した回顧談(一部はそれ以前に公の場で語ったもの)、後半3分の1ほどは「想華篇」と題し、国華倶楽部などさまざまな場で語ったさまざまな内容の話の筆録集成です。

「昔ばなし」の方は、後に中央公論美術出版さんと新人物往来社さん、日本図書センターさんからハードカバーの覆刻が出、岩波文庫さんでも『幕末維新懐古談』の題名で出版されました。さらにインターネット上の青空文庫さんにもおそらく全文が掲載れていると思われます。

とこらが「想華篇」の方は、その後の各種覆刻ではカットされており、そのため一般にはあまり知られていません。三越さんの大黒天像については「想華篇」で語れており、そこで「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」ということになってしまったのでしょう。

「想華篇」部分も含めた覆刻、あるいは「想華篇」単独での覆刻がなされてほしいものです。三越さんの大黒天像以外にも、生人形の松本喜三郎や光雲の師・髙村東雲、さらにそのまた師・髙橋鳳雲、主に関東の寺社建築や装飾彫刻などについても語られており、貴重な記録です。

ところで余談というと何ですが、上の方の画像にもある、やはり日本橋三越さん所蔵の巨大天女像、正式な作品名は「天女(まごころ)像」といい、作者は佐藤玄々。佐藤は元々、光雲の高弟の一人・山崎朝雲の弟子で、「朝山」と号していました。従って光雲から見ての孫弟子に当たります。ところが、思うところあって朝雲門下を離れ、「玄々」と改名しています。

参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿行、三越にてウドン等 二幸にて肉まん、タキシでかへる、


昭和28年(1953)2月25日の日記より 光太郎71歳

光太郎、三越さんの日本橋本店ではなく、新宿店でうどんを食べたか、あるいは自宅調理用に買ったかしたようです。「二幸」は現在の新宿アルタの場所にあった総合食品店。やはり三越さんのグループ企業でした。

現在、長野県立美術館さんで開催中の「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展について。

関連行事として、先月末には彫刻家・修復家の藤曲隆哉氏と東京芸術大学大学院小島久典助教によるご講演が行われましたが、一昨日は同大の藪内佐斗司名誉教授、山田修講師のご講演。地元紙『信濃毎日新聞』さんがその模様を報じています。

善光寺から文化財を考える 東京芸術大の2氏、県立美術館で講演

 県立美術館(長野市)で11日、善光寺(同)御開帳記念企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)関連の講演会が開かれた。善光寺仁王門の金剛力士像を弟子らと共に作った彫刻家高村光雲(1852~1934年)や文化財のデジタル化に関する紹介があり、約30人が耳を傾けた。
 講師の一人で、東京芸術大名誉教授の藪内佐斗司(やぶうちさとし)さんは高村光雲について「日本伝統の木彫に西洋的な彫刻技法を取り入れ、写実的な彫刻表現を確立した」と説明。同時代を生きた思想家岡倉天心にも触れ「文化とは、その土地に根差す固有のアイデンティティーを深めることで生まれる美意識。普遍性や効率を求める文明とは異なる」とした。
 同大非常勤講師の山田修さんは、3Dスキャナーなどを活用した文化財のデジタル化を紹介。仏像の色や内部の形を緻密に再現することで制作当時の状態を知る手掛かりも得られるとし、「本物を超えた新たな見方を示してくれるのがデジタル技術だ」と力を込めた。
 企画展は26日まで。仁王像に関する同大の調査結果などを展示している。
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藪内氏、奈良県のゆるキャラ「せんとくん」の作者としても有名な方ですが、本来は仏像の保存修復がご専門です。平成19年(2007)、NHK教育テレビ(現・Eテレ)で放映されていた「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」(全8回、テキストも刊行)の中で、やはり光雲に触れて下さいました。
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もう1件、ご開帳記念グッズ情報です。

令和四年善光寺御開帳記念大判

善光寺で御祈祷を受けた令和四年善光寺御開帳記念大 判(本金メッキ〈24K〉仕上げ)。過去 2 回の善光寺御開帳 でも、家内安全・商売繁盛などを願って、多くの参拝 客の皆さまにお求めいただきました。縦約 7 センチ・横約 4.3 センチの大判を収める台紙は観音開き。中央の大判を護るように、左右に善光寺仁王 像が配置されています。SDGs の観点から、台紙には 牛乳パックを再生した厚紙を使用。台紙を開いて、お 仏壇など、お好きなところにお飾りいただけます。 

▼サイズ
パッケージ A4サイズ
台紙・・・縦 15cm  横 8cm (観音開き時 横20cm)
大判・・・縦    7cm  横 4.3cm

▼配送について
・配送方法:宅急便コンパクト
・送料:全国一律 ¥660
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大判はともかく、パッケージに光雲とその高弟・米原雲海作の仁王像があしらわれてしまっているもので(笑)、購入しようかどうか迷っております。

さて、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展、今月26日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝九時頃谷口氏くる、一緒に駒場の民芸館にリーチ 柳氏をたづねる、久しぶりでリーチにあふ、中食御馳走になり、二時過辞去、


昭和28年(1953)2月21日の日記より 光太郎71歳

谷口氏」は建築家の谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」を含む一帯の公園設計を担当しました。

過日もご紹介しましたが、「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末、ロンドン留学中の光太郎と親しくなり、それが直接のきっかけで来日、柳宗悦(「柳氏」)ら、白樺派の面々とも交流を持ちました。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この時が18年ぶりの来日。翌年まで日本に滞在しました。

駒場の民芸館」は、日本民藝館さん。昭和11年(1936)の竣工で、当方、近くの日本近代文学館さんに行ったついでなどで何度か訪れましたが、光太郎もここに来ていたというのは見落としておりました。

光太郎と交流の深かった彫刻家・舟越保武の関連です。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。先月下旬の掲載でした。

パリから75年ぶり帰郷 彫刻家・舟越保武さん作品「女の顔」 「作家生活の岐路となった石像」 岩手県立美術館で公開

  岩手県一戸町出身の彫刻家、舟越保武さん(1912~2002年)が盛岡市で制作後、長く所在不明となっていた胸像「女の顔」が同市の県立美術館の新収蔵作品展で公開されている。昨年、パリで見つかって同美術館に渡り、75年ぶりの「帰郷」を果たした。
  大理石の「女の顔」は家族で盛岡市に疎開していた1947年の作品。長男の誕生を祝って作られたとされる。フランスの近代彫刻の影響を受け、女性のあでやかな表情が表現されている。
 東京の展覧会で当時の駐日フランス大使が称賛して買い上げた後、所在不明となっていた。昨夏、パリ在住の日本人がオークションに出品。現地の画廊が落札し、昨年12月に県立美術館が購入した。
 学芸普及課の吉田尊子課長は「舟越さんは『女の顔』が芸術の本場に渡ったことで自信を持ち、東京での制作活動再開を決心している。作家生活の岐路となった石像で、盛岡に戻ってきたことは非常にうれしい」と話した。
 舟越さんは高村光太郎賞をはじめ数々の賞を受賞した日本を代表する具象彫刻家。処刑された宣教師らの像「長崎26殉教者記念像」や、島原の乱から着想を得た「原の城」などで知られる。
 新収蔵作品展は7月24日まで。午前9時半~午後6時。月曜休館。一般410円、学生310円、高校生以下無料。「女の顔」は作品展終了後も常設展示される。連絡先は019(658)1711。
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後追い、同じ件で『朝日新聞』さん岩手版。

舟越保武の幻の「女の顔」 75年ぶりに里帰り 県立美術館に収蔵

 彫刻家の舟越保武(1912〜2002)が終戦直後に盛岡で制作し、長く所在が分からなくなっていた大理石の胸像「女の顔」が見つかり、岩手県立美術館で展示されている。75年ぶりに故郷へ戻り、家族は再会を喜んでいる。
 舟越は岩手県一戸町で生まれ、幼少期から東京美術学校(現東京芸術大学)に進学するまで、盛岡で過ごした。処刑されたカトリック信者を描いた「長崎26殉教者記念像」など、キリスト教の信仰をテーマにした作品で知られ、秋田県の田沢湖畔に立つ「たつこ像」も制作している。
 「女の顔」は、戦争末期に疎開して以来、盛岡で暮らしていた舟越が1947年、長男の誕生を祝って制作した。東京の展覧会に出品され、駐日フランス大使が買い上げて本国に持ち帰ったあと、所在が分からなくなっていた。
 ところが昨夏、作品がパリのオークションに出品されたことが判明。落札したパリの画廊から、東京の画廊関係者を経て、舟越の作品を収蔵している県立美術館が購入した。購入にあたって、パリに住む三女の茉莉(まり)さん(76)の協力を得たという。
 長女で岩手県八幡平市に住む末盛千枝子さん(81)は75年ぶりに作品と対面。父が戦後の混乱期に、穏やかな表情から静けさが伝わる作品をつくったことに改めて感銘を受けた。
 舟越は、高村光太郎が訳した「ロダンの言葉」を読んで彫刻家を志した。ロダンを生んだ国の大使に評価されたことに特別な意味があったという。
 「もう一度彫刻でやっていこうという時期に大使に買い上げていただき、どれほどうれしかったことか」と振り返る。
 次女で東京都内で暮らす苗子さん(79)も「父が若いころにあこがれていた芸術の街パリに父の作品が長い間あったこと、父の故郷・盛岡に帰ってきたことが、夢のように思えます」と話している。
 妻・道子さんの著書「青い湖」によると、舟越は大使の評価に力づけられ、制作活動を本格的に再開するため再び上京した。
 一方、作品をつくった翌年、長男が生後8カ月で病死。それをきっかけに洗礼を受け、キリスト教関係の美術に向かっていく。
 県立美術館の吉田尊子(たかこ)・学芸普及課長は「女の顔」について、舟越の人生において分岐点にある作品と指摘。「ほほえみの中に女性のつややかさがある。同時に、舟越作品の特徴である静かで内省的なものが感じられる」と話す。
 「女の顔」は7月24日まで開かれている新収蔵作品展で展示され、その後も常設展示される予定。
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003光太郎に名付け親になってもらった編集者・末盛千枝子さんの談話も載っていて、興味深いところでした。

舟越の「女の顔」、実にきれいな彫刻ですね。舟越が光太郎訳『ロダンの言葉』を通じて親しんだ、ロダンの「パンセ」(右画像)などを彷彿とさせられます。

それにしても、このように光太郎彫刻が海外でひょっこり見つかることもあるかな、という気もしました。ただ、光太郎の場合、生前に個展らしい個展は晩年の昭和27年(1952)に一度やったきりで、それも即売は行わなかったはずですので、可能性は低そうです。

木彫「栄螺」が、大阪の高島屋百貨店で昭和5年(1930)に開催された「木耀会木彫展覧会」という合同展兼即売会に出されて売れ、平成14年(2002)に約70年ぶりに見つかったことはありましたが。

【折々のことば・光太郎】

此頃少しやせたので、なるべく多くたべるやうに努める、出京以来食事の量不足せしかと思ふ、自炊時間不規則のためなり、


昭和28年(1953)1月10日の日記より 光太郎71歳

この時期の日記はかなり簡略になっていて、その日の出来事や訪問者等の事務的な記録がほとんどなのですが、この日には珍しくこういった記述がありました。

「帰京」ではなく「出京」としているところも興味深いところです。軸足は花巻郊外旧太田村に残しているよ、という感覚だったのでしょう。実際、住民票は昭和30年(1955)まで移しませんでした。

現在、長野県立美術館さんで開催中の「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展について、地元紙『信濃毎日新聞』さんの報道。

まず、先週金曜の記事。

「善光寺さんと高村光雲」展 入館1万人達成 長野県立美術館

 県立美術館(長野市)で開催中の善光寺(同)御開帳記念の企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)の入館者が27日、1万人に達した。節目の入場者となった埼玉県宮代町の契約社員渡辺裕美さん(59)に、記念品が贈られた。
 企画展は4月2日に始まり、48日の開館日での達成となった。県内の美術館を巡る1泊2日のツアーで同館を訪れた渡辺さんは前日に善光寺にも足を運んだといい、「企画展を楽しみにしていた。美術館のデザインも格好良いですね」と笑顔。松本透館長は、同館で販売中の御朱印帳を渡辺さんに手渡した。
 企画展では、善光寺の仏像研究と修復を続けてきた東京芸術大の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。28日午後1時半、同大関係者らが研究内容について話す。先着30人(30分前に整理券配布、企画展の観覧券が必要)。
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地方の美術館の企画展、さらにコロナ禍という逆風の中、50日ほどで1万人の入場達成というのはなかなかのものです。ちなみに1万分の1は当方です(笑)。

続いて、やはり『信毎』さんから同展関連行事の開催報告的な。昨日の記事です。

金剛力士像の制作技法を解説 県立美術館、企画展で講演会

 県立美術館(長野市)は28日、善光寺御開帳を記念して開催中の企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)の記念講演会を同館で開いた。企画展の展示に携わった専門家2人が、彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが手がけた同寺仁王門の金剛力士像の制作手法などを解説した。
 彫刻家・修復家の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(39)は、金剛力士像の制作には、原型から正確に模刻できる「星取り法」と呼ばれる西洋技法が用いられたと説明。粘土からかたどった石こうを原型として、木彫にしていったといい「星取り法の導入でリアルな表現が可能となった」とした。
 東京芸術大学大学院の小島久典助教(35)は、古仏を分析して内部構造を明らかにする研究手法や成果を発表。企画展では東大寺(奈良市)の古仏を3D(3次元)計測などを用いて模刻して展示しており、「実際に模刻してみることで研究が進んだ」と話した。企画展は6月26日まで。
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画像に写っている羅漢像は、少年時代の光太郎が彫った手板浮彫(レリーフ)の習作です。光太郎にも触れて下さったんですね。多謝。

ついでというと何ですが、もう1件。5月22日(日)、長野朝日放送さんで「「善光寺さん」に憧れて 第二章 ~春風まとい 御開帳へ~」という50分の番組が放映されました。レポーターは女優の常盤貴子さん。
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番組後半で、同展のレポートも。
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テレビ朝日さんのサイト、それからテレビ配信サイト「Tver」さん等で、期間限定ですが視聴出来ます。同館については42:35頃から、同展については45:10頃から。ぜひご覧下さい。

ちなみにタイトルに「第二章」とありますが、やはり常盤さんご出演の「第一章」が1月に長野朝日放送さんで放映されました。その後、当方自宅兼事務所のある千葉県でも、チバテレさんが遅れて放映して下さいまして、視聴いたしました。今回も期待しております。おそらく他の地方局さんでも放映があるのではないでしょうか。

また、同展、記事にもあるとおり、6月26日(日)までと、かなり長めの開催期間です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

モデル、手を終る、払、七日まで休みのこと、 午前岡氏来り、大工さん連行、床下の補強をしてくれる、根太にツカを立つてくれる、この補強で二三トンの重さに堪へるといふこと、

昭和27年(1952)12月31日の日記より

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、大晦日までやっていたのですね。さらにその後はアトリエの床の補強工事に立ち会いました。過日も書きましたが、この貸しアトリエ、元々は水彩画家の中西利雄が建てたもので、中西没後にイサム・ノグチ、さらに光太郎が借りました。画家のアトリエですから、「乙女の像」のような巨大彫刻の制作を想定していなかったための補強工事です。

少し前のものですが、3月に駒場の日本近代文学館さんから発行された『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、注文しておいたものが届きました。

B5判167ページ、目次的には以下の通り。

エッセイ
 文は人なりき 中村明
 調べることの楽しさと限界 樽見博
 フランスにおける日本文学の受容 ――翻訳と研究の近況 坂井セシル
 有島生馬の小説「彫千代」と関連資料について 山本芳美
 『谷崎潤一郎と書物』その後 ――『春琴抄』赤表紙本の謎 山中剛史
 とうに終わっていた「女流文学」 水村美苗
論考
 内田魯庵訳『小説罪と罰』と二葉亭四迷 高橋修
 耐震元年の「五重塔」――濃尾大地震と〈暴風雨〉 馬場美佳
 尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって―― 吉田昌志
 獅子文六「やっさもっさ」原稿にみる「混血児」・売春婦・女のビジネス 小平麻衣子
 漱石「野分」前後と絵画の領域 ――『草枕絵巻』を補助線として―― 関礼子
資料紹介
 資料翻刻 伊藤整宛諸氏書簡 ――チャタレイ裁判関係書簡を中心に 
  青木裕里香・石川賢・小川桃・加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・信國奈津子・宮川朔
  ・宮西郁実

昭和女子大学教授・吉田昌志氏による「尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって――」が目当てで注文いたしました。

尾崎紅葉は『金色夜叉』で知られる小説家。慶応3年(1868)の生まれで、光太郎より15歳年長です。胃ガンで亡くなったのは明治36年(1903)、数えで36歳ということになり、早世と言っていいでしょう。何となく「明治文壇の重鎮」的なイメージがあって、これは意外でした。

光太郎、紅葉とは文学的な交流ではなく、彫刻の制作を通しての関係がありました。確認できている限り、光太郎は紅葉の肖像彫刻を3点作っています。

 紅葉は、死ぬ少し前に肖像を作ったんだ。研究科の頃で、二、三日通って寝床のそばで作った。それを家に帰って完成したんだが、大きいのと小さいのと二つ石膏で作った。一つは紅葉にあげたかも知れない。寝床のまわりに、鏡花・風葉等の弟子がいっぱい取り囲んでいて、その隅で作ったんだ。痩せている紅葉だな。それでも洒落をとばしたりしていた。
(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

これで2点。ただし、この2点は現存が確認出来ていません。時に光太郎数え21歳、東京美術学校の本科を卒業後、研究科に残っていた頃です。この後、西洋画科に入り直し、さらに明治39年(1906)には欧米留学へと旅立ちました。

そしてもう1点は、紅葉が亡くなった直後、東京帝国大学医科大学で、紅葉の遺言により解剖が施された際の制作。光太郎は解剖に立ち会い、その印象をもとに「解剖台上の紅葉山人」という塑像を仕上げました。

こちらは幸い、現存が確認出来ています。
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さらに素描も。
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この時期、光太郎は当時の文化人の中で、これは、と思う人物の肖像彫刻を作ることを企図しており、元々紅葉もその中の一人としてターゲットにしていました。そこで、紅葉の親戚だった小説家・劇評家の山岸荷葉の知遇を得、尾上菊五郎や紅葉に繋ぎを取ろうとしました。そのあたりはたまたま残っていた明治36年(1903)の日記に記述があります。ところが残念ながら、紅葉像を制作したり解剖に立ち会ったりした時期の日記は失われています。

さて、吉田氏の論考。上記のような光太郎サイドの記録(実弟・豊周の証言等を含め)の他に、紅葉サイドのそれが細かく紹介されていて、非常に興味深く拝読いたしました。

中でも驚いたのは、紅葉の解剖時の写真が掲載されていたこと。元ネタは吉田精一旧蔵の『阿免乃安渡』、紅葉の葬儀写真集で、日本近代文学館さんに所蔵されているそうです。これは存じませんでした。
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この中には光太郎の姿もあるとのこと。ただ、手前の人物の頭に阻まれて、よくわかりません。それにしても、明治36年(1903)にはまだ美校の研究生だった数え21歳の光太郎にしては、貫禄があるような気もします。むしろ矢印の人物の後の学生服二人組のうちの、右側の長い顔の方が光太郎なのではないかと感じます。矢印の人物の髪が長いのも気になるところです。これまでに確認出来ている明治37年(1904)の写真では、光太郎は坊主頭です。
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ことによると『阿免乃安渡』には細かな説明が書いてあって、「これは誰々」と特定出来るのかもしれませんが……。

最後に紅葉逝去に際し、光太郎が詠んだ歌。翌年1月の第一期『明星』辰歳第1号に「白斧」の総題で発表されたうちの一首です。

やがて見む国に巨人の生(あ)れし日をさらば讃へよとばかり泣かる(紅葉山人の死に)

さて、『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、オンラインで入手可です。頒価1,040円(送料別途)とのこと。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方エントツ屋くる、とりつける、ストーブよくもえる、


昭和27年(1952)12月24日の日記より 光太郎70歳

場所は終焉の地となった中野の貸しアトリエです。ストーブは前日、大枚19,500円を払って購入しました。2ヶ月前まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では囲炉裏生活だったことを考えると、格段の違いですね(笑)。
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膝に掛けているのは、かつて智恵子にせがまれて買ったエセル・メレ作のホームスパンの毛布かと思われますが、この写真では判然としません。

新刊です。

近代を彫刻/超克するー雪国青森編

2022年3月28日 小田原のどか著 書肆九十九合同会社 定価2,200円+税

2021年冬、国際芸術センター青森[ACAC]主催にて開催された「小田原のどか個展 近代を彫刻/超克するー雪国青森編」の展覧会図録、刊行。

雪中行軍遭難事件、工部美術学校と東京美術学校、ロダンと高村光太郎、模型、義手、墓碑、彫像、慰霊碑──。彫刻と近代の分岐点としての、青森・八甲田。「創造的断層」が立ち現れる。
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目次:
 ◎はじめに
 ◎図版[撮影:小山田邦哉]
 ◎本展のためのキーワード集[執筆:小田原のどか]
 ◎論考「彫刻の来た道:「国民のはじまり」をたどる」[執筆:小田原のどか]
 ◎作品リスト
 ◎関連作家プロフィール
 ◎小田原のどかと巡る青森[執筆:慶野結香]
 ◎関連イベント
 ◎展覧会情報
 ◎謝辞

3月刊行ということで、すぐ注文しましたが、つい先日届きました。昨年12月から今年1月にかけて(本来2月まででしたが、コロナ禍のため会期短縮)、青森市の青森公立大学国際芸術センター青森 [ACAC]さんで開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」図録という位置づけです。なざぜ会期終了後の発売なのかよくわからないのですが……。

同展、八甲田山系を挟んで南北に位置する二つの彫刻――大熊氏廣作「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」(明治39年=1906)と高村光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像 昭和28年=1928)」――それぞれへのオマージュでした。

光太郎より一世代前で、十分にその基本構想を果たせないまま閉校となった工部美術学校出身の大熊と、その創立が工部美術学校のアンチテーゼとしての側面も持つ東京美術学校出身の光太郎。この二人が「欧化と国粋のはざまで揺れ続けた、この国の近代彫刻史の裏と表」、そして先述の二像を「八甲田山の両側に立つこれらの彫刻の足元には、創造的断層が走っています。それは、ありえたはずの彫刻の分岐点です。」「八甲田の山並みは彫刻史の起伏と重なり、彫刻は歴史の定点観測装置に転じます。」としています。

ロダニズムの洗礼を受けていない大熊、もろにロダンと向き合わざるを得なかった光太郎、その点以外でも、二人の一世代の差は、当時の社会的状況の中、近代化や戦争の問題等、ジェネレーションギャップを生んでいます。そういう意味ではまさに「創造的断層」ですね。そして小田原氏が以前から取り組まれている、公共彫刻のあり方という問題でも、この二像にはそれぞれに一つの答えが包摂されていると思います。そんなことも感じつつ、当方、1月に同展を拝見して参りました。特に大熊の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」については、当方、ほとんど知識がありませんでしたので、興味深く存じました。
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今回の書籍(図録)も、「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」の方にウェイトが多くかかっているように感じます。反面、「乙女の像」や光太郎についてはもう少し調べていただきたいな、という感があります。小田原氏が昨年刊行された『近代を彫刻/超克する』でも、戦時の金属供出に遭った光太郎の公共彫刻の存在をご存じないまま書かれていたようですし、今回のものでも「「乙女の像」が光太郎最後の彫刻作品」「台座の石は福島産」と、ネット上などにも散見される誤った記述が為されています。光太郎最後の彫刻作品は、小品ではありますが、「乙女の像」除幕の際に関係者に配付された「大町桂月記念メダル」です。
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台座の石は「折壁石」で、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているサイトが多く、閉口しています。「折壁石」、かつては日本橋三越さん等にも使われ、しかし現在ではほぼ枯渇してしまいました。「乙女の像」を含む一帯の設計に当たった建築家・谷口吉郎が「石材は福島県産の折壁石」(「十和田記念像由来」『高村光太郎と智恵子』昭和34年=1959所収)と書いてしまったことが原因で、勘違いが起こっているようです。まず「福島県産の折壁石」というのが矛盾しています。

谷口は「湖畔の像」(雑誌『文学散歩』第10号 昭和36年=1936)では、こんなことも書いています。

 私は、このモニュマンが年月のために、あまり、わびしい姿になるのを好まなかったので、台座の表面には、福島産の黒ミカゲを張ることにした。これなら、光沢のある肌にコケがすぐはえる心配もなく、変色もない。
 そのことを草野心平氏に話すと、「福島県の石なら、智恵子さんの故郷だから、それがいい」と、すぐ讃意を得た。心平さんも福島の産だった。


105ここでは「折壁石」が「黒ミカゲ」に変わっています。それでは、先に「折壁石」と書いたのが誤りだったのかというと、そうではありませんでした。「乙女の像」の設置工事の監督を務められた当時の青森県技師・小山義孝氏の証言によれば、これは間違いなく岩手県産の「折壁石」であるということでした。氏はサンプルとして渡された「折壁石」の石版を永らく保管されていましたが、終活の一環として寄贈され、現在、このサンプルは十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されています。『十和田湖乙女の像のものがたり』(平成27年=2015 十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会編)所収、寄贈の際の小山氏の談話。

 こちらは、台座の石でございます。名前は折壁石と申しまして岩手県産のものでございます。(略)見た目は黒っぽくて御影石ということになるんでございましょうけれども、ちゃんとした名前になりますと折壁花崗閃緑岩。閃緑岩というのは地球の古い地質から出て来るものでございますが、北上山地・北上山脈の南の方で尽き果てる所で地表に現れたのではと推測しています。
 それで、折壁石が使われているところは東京の三越デパートの床や壁、それから国会議事堂にも使われておりますよと。ところが十年位前には採り尽くしてしまい現在はもうほとんどないそうです。要は、名品なんですね。


なぜ「岩手産」が「福島産」に間違われてしまったのか不明ですが、一度その誤りがある程度定着してしまうと、なかなか真相が表に出て来ない、そういう例ですね。こうした件は光太郎智恵子がらみでいくつもあり、このブログ等で必死に配信しているのですが、なかなか正しく伝わりません。

閑話休題、そういった点を差し引いても『近代を彫刻/超克するー雪国青森編』、好著です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后古田晁氏来る、詩人叢書のこと、承諾、中山義秀氏に解説をたのむこと、

昭和27年(1952)12月13日の日記より 光太郎70歳

古田晁」は筑摩書房社主。「詩人叢書」は、翌年三月刊行の『現代日本名詩選 道程・典型』。小説家の中山義秀が解説を書いています。中山には「智恵子抄」を一つのモチーフとした短編「生ける魂」(昭和18年=1943)があり、それをめぐって光太郎と書簡のやりとり等がありましたし、中山の回想文も残っています。

この時、解説文執筆者として中山を推したのが古田なのか光太郎なのか、日記の文脈だけでは不分明ですが……。
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先週も行ったのですが、昨日も鎌倉に行っておりました。

北鎌倉の建長寺さんで「三門楼上五百羅漢特別展」が始まり、先週行った時には会期前だったため、昨日、改めて伺った次第です。我ながらフットワークが軽いな、と思いますが、人間も軽いもので(笑)。

午前中は都内永田町の国立国会図書館さんで調べ物。そちらで昼食を摂ってから、鎌倉へと向かいました。北鎌倉駅から徒歩。
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昨日は暑くもなく寒くもなく、この時間帯には雨も降っていなかったので、ラッキーでした。

拝観料500円也をお納めして、山内へ。
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三解脱門、略して「三門」。国指定重要文化財です。
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こちらの楼上に、光太郎の父・光雲の師匠であった髙村東雲のさらにそのまた師・髙橋鳳雲が原型を制作した鋳銅の五百羅漢像が納められています。普段は非公開ですが、この中から一部を運び出しての特別展示。
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会場は得月楼という堂宇でした。
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こんな感じです。
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数えてみましたところ、およそ50体ちょっと。幕末のものですが、いずれも保存状態が良く、かといってつい最近作られたようなぎらつきもなく、いい感じに経年による風合いが備わっていました。そして50体ちょっとのそれぞれが違ったお顔で、ポージングや持物もバリエーションに富み、見応えがありました。中には象に乗ったり犬を連れていたりの羅漢様もいらっしゃり、微笑ましくもありました。

こちらはポストカード(100円)。
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三門楼上ではこのような形で配置されているわけですね。

それから、図録、ではないのですが、図録のような調査報告書(3,000円)が販売されていましたので、そちらも購入。
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ちょっと前のもので、平成15年(2003)の刊行でした。このさらに少し前に、三門の大修理が行われた際、羅漢像他を他に移し、一体一体の細かい調査が行われ、その報告書的なものです。論考二本とすべての像の写真、さらに「台帳」として、大きさや鋳造の際に打たれた刻銘の銘文、像の特徴などなど、詳細に記されています。

ナンバーも振られており、それによれば全514体。光雲の回想では700体ほど、ということでした。ナンバリングでは、一つの台座に複数体の羅漢様が配されているものも一つと数えていますので、それをどう数えるか、というあたりにそのズレの一因があるようです。ただ、それでも700までは行かないようで、光雲、話を盛ったな、という感じですね(笑)。あるいは、あまり考えたくありませんが、流出してしまったものも皆無とはいいきれないでしょう。

報告書を見て、「おやっ」と思ったのは、意外と同じポージングの像が多いこと。結跏趺坐だったり、座って合掌していたりというお像はけっこうたくさんありました。それでも衣の様子や顔立ちはそれぞれに異なっていますし、「同一の型から鋳造されたものは無かった」と記述されていました。

報告の中では、やはり光雲の回想が重要な資料として引用されたりしていました。また、それ以外の文献や、明治期の新聞記事なども引かれ、興味深く拝読いたしました。

それによると、光雲の回想にはなかったのですが、原型制作には光雲の師・東雲もあたっていたとのこと。まぁ、あり得る話ですし、実際、以前に見たことがある東雲作の僧形の像の中には、こちらの羅漢像とよく似た作もありました。

また、光雲は「村田整珉の鋳造」「整珉没後に弟子の木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継いだ」的なことを書き残しましたが、実際には村田整珉の銘が入った像はなく、ほとんどに栗原貞乗の銘が入っているとのことでした。

それにしても、見事。ただ、やはり、三門楼上に納められている状態も拝見したいものだな、と思いました。いずれそういう機会が訪れることを期待しております。

さて、「三門楼上五百羅漢特別展」、5月5日(木)までの会期です。ちょっと短いのが残念ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷公会堂にデユアメルのコンフエランスをききにゆく、片山敏彦、田内静三、今井氏等にあふ、


昭和27年(1952)11月13日の日記より 光太郎70歳

デユアメル」は、フランスの作家、ジョルジュ・デュアメル。この年、読売新聞の招待で来日しています。

コンフエランス」は仏語の「conférence」で、英語風に読んだ外来語としては「カンファレンス」。直訳すれば「会議」ですが、「講演」的な意味で用いたのではないかと思われます。

片山敏彦」と「今井氏」(今井武郎)は、戦前、光太郎と共に「ロマン・ロラン友の会」のメンバーでした。大正15年(1926)、友の会の招聘で来日した シャルル・ヴィルドラックは、デュアメルの姻戚です。
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田内静三」は詩人。やはり光太郎とは旧知の仲でした。

テレビ東京さん系で放映されている「出没!アド街ック天国」。明後日のオンエアは、現在ご開帳期間中の信州善光寺さんがメインで取り上げられます。

出没!アド街ック天国〜善光寺〜

地上波テレビ東京 2022年4月30日(土) 21:00~21:54

7年に一度の秘仏ご開帳!「信州 善光寺」▼人生を変えた!?極上みそ汁&名物おやき▼そば好き長野県民絶賛の信州ラーメン&山菜名人やま爺の草鍋▼泊まれるアートなお寺

待ちに待った7年に一度のご開帳!「信州善光寺」へ出没。門前にはご開帳に合わせた新店を始め、そば好きの地元民も行列する“信州ラーメン”、山菜名人・やま爺の春限定“草鍋”など美味しい名物が揃います。長野県産食材を使ったアップルパイ、栗バーガーなどのスイーツや、野沢菜たっぷりのおやきやニラせんべいなど地元のおばあちゃんお手製のおこびれ(おやつ)も人気。秘仏のご開帳で盛り上がる門前散策を楽しみましょう。

【司会者】 井ノ原快彦、片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【レギュラー出演者】 峰竜太、薬丸裕英、山田五郎
【ゲスト】 もう中学生、羽賀朱音(モーニング娘。’22)
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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる仁王像、三宝荒神像、そして三面大黒天像の納められている仁王門をぜひ取り上げていただきたいものです。

テレ東さん、系列局が少ないためテレビではリアルタイムでの視聴が不可能、という地域が多いのですが、動画配信サイト「GYAO!」さんでは最新回を1週間無料放映して下さいます。

また、同じく「TVer」さんでは、プライム帯(19:00~22:00)の放映についてはリアルタイム配信が始まりました。その告知のためにテレ東さんが出した広告が「自虐的で面白い」と、話題になっています。
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この手の取り組み、もっと広まってほしいものです。

さて、「出没!アド街ック天国〜善光寺〜」、ぜひご覧下さい。ついでに言うなら、明日は無料放送のBS松竹東急さんで、過日ご紹介した岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」(昭和42年=1967)の放映があります。そちらもお見逃しなく。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、「智恵子抄」皮製、劉生日記皮製をもらふ、50,000圓印税、

昭和27年(1952)11月2日の日記より 光太郎70歳

「智恵子抄」皮製」は、光太郎の帰京記念という名目で、澤田伊四郎が興した龍星閣が発行した特製本です。二重函、表紙が羊皮製でした。
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昨日は鎌倉に行っておりました。妻が「大河ドラマ館を見たい」といいだしまして、連休に入ってしまうとかなりの混雑が見込まれるので、その前に、というわけでした。

事前に、せっかく鎌倉に行くのなら、他に光太郎智恵子や光太郎の父・光雲がらみで何かないか(長勝寺さんの光雲原型日蓮像、東慶寺さんの智恵子親友・田村俊子碑などは以前に拝見したので、それ以外)と探しました。

真っ先に思いついたのが、建長寺さん。こちらの三門(山門)楼上には、光雲の師・髙村東雲のさらに師・髙橋鳳雲の手になる五百羅漢像が納められていて、時折、公開が為されています。

そこでネットで調べてみましたところ、「五百羅漢特別展」。「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、会期が明後日・4月29日(金)からでした。また来週あたり、行って参ります(笑)。

三門楼上五百羅漢特別展

期 日 : 2022年4月29日(金)~5月5日(木)
会 場 : 建長寺得月楼  神奈川県鎌倉市山ノ内8
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料 別途拝観料(高校生以上500円、小中学生200円)

普段は三門楼上にお祀りされ、非公開になっている『五百羅漢像』。その一部を特設会場にて展示させて頂きます。また期間限定の特別御朱印もご用意しております。是非お越し下さい。
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フライヤーには「高橋鳳雲と弟子高村東雲(高村光太郎の父)」とありますが誤りで、東雲は先述の通り、光太郎の父・光雲の師匠です。似たような名前なので混乱が生じることはしばしばあります。
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幕末に、伊勢屋嘉右衛門という豪商が発願し、鳳雲に五百羅漢の制作を依頼しました。さらに木像のままだと火災等が恐ろしいというので、当時の鋳金の名人・村田整珉に鋳造を依頼。整珉没後はその弟子・木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継ぎました。「五百羅漢」といいつつ、鳳雲は七百体ほど作ったそうです。鳳雲は、七百もの羅漢像を一気呵成に彫り上げたわけではなく、他の仕事の合間に少しずつ制作したとのこと。そういう契約だったようです。そしてできた端から整珉が鋳造していったというわけです。鋳金の方は建長寺さんに納められ、木彫原型はしばらく伊勢屋が自宅に置いていたのですが、徳川幕府瓦解と共に伊勢屋は破産し、甲州の身延山久遠寺さんに納められました(その際に東雲と光雲が修繕を行ったそうです。破産しても羅漢像を道具屋等に売り払わなかった伊勢屋を光雲は絶賛しています)。ところが伊勢屋が心配した通り、その後、久遠寺さんの火災で焼失してしまっています。

一昨年、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で、建長寺さんを含む「鎌倉五山」の回がありまして、その中でこの羅漢像が取り上げられ(ナビゲーター・近藤サトさん)、興味深く拝見しました。まず番組冒頭近く、予告編的に。
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番組後半に入ると、詳細を紹介。
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いやぁ、実に見事です。

光雲による評。

是はモウ私も聊か彫刻は致しますが、口でこそ五百羅漢と言ひますが、ナカナカ大変なもので、十体か十五体はどうか、斯うか図が纏まるものでありますが、五百体の羅漢が皆坊主頭で被て居るものは袈裟と法衣、是が五百体が五百体ながら同一の図が出来ぬやうに色々と変化の有るやうに拵へるといふことは、ナカナカ容易な苦心では無い。
(「光雲懐古談」昭和4年=1929)


さもありなん、ですね。しかも、少しずつ作っていって出来た端から鋳造に廻したわけで、それでも最初の頃に作ったもののポージング等、しっかり記憶に残していてかぶらないようにしていたということなのでしょうから、舌を巻かされます。

さて、明後日からの展示は、三門楼上での公開ではなく、得月殿という堂宇に羅漢像の一部(選抜チームでしょうか(笑))を移しての展示だそうです。ぜひ足をお運び下さい。

おまけで、昨日の鎌倉レポートを。

鎌倉の大河ドラマ館
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市川猿之助さん演じる文覚。光太郎の親友だった碌山荻原守衛が彫刻のモチーフにしています。元は北面の武士・遠藤盛遠でしたが、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って殺してしまい、出家したという伝説があります。守衛は自身と、中村屋創業者相馬愛蔵の妻・黒光をそこに重ねていたふしがあります。

ところで大河ドラマ館、新たに建造物が建てられたわけではなく、鶴岡八幡宮境内の鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムさんでの展示が、現在、大河ドラマ関連というわけです。

同館、平成28年(2016)までは、神奈川県立近代美術館・鎌倉館でした。土地貸借契約等の関係で鶴岡八幡さんに返却され、一時は取り壊しの話もありましたが、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして再生、コルビジェの弟子・坂倉準三設計のその建物は一昨年、重要文化財指定を受けています。

昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった美術評論家にして詩人でもあった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。また、最後の企画展示「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」でも光太郎作品を並べて下さり、拝見に伺いました。中に入ったのはそれ以来でしたが、懐かしさに胸がいっぱいでした。
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その後、鶴岡八幡宮さんを皮切りに、御朱印マニアの妻とともに、源氏や御家人たちゆかりの寺社巡り。
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八幡宮境内、源氏池の中の旗上弁天社さん。
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段葛。
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比企氏ゆかりの妙本寺さん。
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上はシャガの花。下は妙本寺さんの幼稚園。
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千葉氏ゆかりの妙隆寺さん。ただし無人で御朱印はいただけず。
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北条氏ゆかりの寶戒寺さん。
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御本尊の地蔵菩薩様以外にも、閻魔大王様もいらっしゃり、「後々お世話になります」と、手を合わせて参りました(笑)。

昨日も雨。過日、福島に三春滝桜を見に行った際もそうでしたが、どうも妻も雨女のようで(笑)。まぁ、雨の鎌倉も風情がありましたが。

閑話休題。建長寺さんの五百羅漢特別展示、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ニユートーキヨー社長より生ビール6本届けくる、

昭和27年(1952)10月31日の日記より 光太郎70歳


「ニユートーキヨー」は老舗のビアホール。光太郎がビール好きを公言、周囲にもビールを勧めたりしていたため、その感謝の意を込めての進呈だったようです。この後もメーカーや店からビールを贈られることが相次ぎました。

長野レポートの2回目です。

4月23日(土)、宿泊した長野駅近くのビジネスホテルをチェックアウトし、再び善光寺さんへ。まだ朝のうちでしたが、御開帳期間ということで、結構な人出でした。ただ、人山の黒だかりとまでは行っていませんでしたが。
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まずは前夜、ライトアップを拝見した仁王門をもう一度拝観。
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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる仁王像、阿形。
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同じく吽形。
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仁王門をくぐった先にそびえる山門。
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そして本堂。
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前立本尊と巻かれた布でつながった回向柱。これに触れることで、前立本尊に触れるのと同じご利益だということで、そうさせていただきました。
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その後、本堂裏手の忠霊殿内にある善光寺史料館へ。普段こちらで展示されている、仁王像や三宝荒神像、三面大黒天像の雛形は、現在、長野県立美術館さんに出張中ですので、この日はパスしようと思っていたのですが、空いたスペースを使って、現代アート作家の小松美羽さんの作品が展示されているというので、行きました。
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小松さん、平成28年(2016)には、現代アートの「福島ビエンナーレ」の一環として、二本松の智恵子生家を会場にインスタレーションをなさった方です。その後も各地でご活躍中。
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今回もがっつり小松ワールドが展開されていました。
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史料館の通路に掲げられた説明パネル。仁王門、仁王像について。
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なるほど、という感じでした。

その後、隣接する長野県立美術館さんへ。
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こちらでは「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展が開催中です。
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東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会」という触れ込みで、善光寺史料館さんから仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像の雛形を移し、関連資料等と共に展示、さらに詳細な説明パネル、映像、光雲令曾孫・髙村達氏撮影の写真等で構成されていました。
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ただ、全体の出品点数は多くなく、そのためか図録は刊行されておらず、少し残念でした。特に説明パネルに書かれていた内容、ぜひ公刊していただたきたいと思いました。雛形は5センチ角のパーツを木寄せで組んであること、仁王像はそれを4倍、三宝荒神と三面大黒天は3倍に拡大し、その際には伝統的な寄せ木造りの技術と、星取りの技法を組み合わせていること等々。制作に先立って、千葉県松戸市の萬満寺さんの仁王像を視察した件などにも触れられていました。

それからAR技術を駆使し、スマートフォンなどでQRコードを読み取ると仁王像の3D画像データが見られるようになっているということで、試してみましたが、当方のスマホ、というか、インストールされているGoogle Chromeあたりのバージョンが古いためか、うまく起動しませんでした。

ただ、会場内でプロジェクタを使って流されていた映像が、それに近いものだろうと思われ、そちらを拝見。仁王像の背面など、通常では見られない部分について、特に興味深く拝見しました。背部の衣の裾にあたる部分に、光雲と雲海の銘が入っているというのも初めて知りました。やはりこのあたりの画像を含む書籍等、公刊していただきたいものです。概要的なものがweb上に出てはいますが。

関連資料として展示されている光雲の制作日誌、星取り機などの道具類、髙村達氏撮影の写真などは、東京藝術大学さんで昨年開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展とかぶるものが多かったのですが、藝大さん所蔵の光雲が講義で使ったという木寄せ模型など、初見のものもありました。

会期は6月26日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。

その後、長野駅方面へ歩きました。

土産物屋さんで購入したピンバッヂ。
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参道沿いにある老舗旅館・藤屋さん。
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公式サイトには、光雲も宿泊した旨、記述があります。おそらく仁王像開眼の大正8年(1919)頃でしょう。現在の建物はその後の大正14年(1925)竣工だそうですが。それでも古建築好きにはたまりません(笑)。

というわけで、充実した1泊2日の長野行でした。以上、長野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

午后一時半主婦之友より迎へ、紀尾井町福田家、川島四郎博士、竹内てるよさんと座談会、七時頃かへる、


昭和27年(1952)10月27日の日記より 光太郎70歳

紀尾井町福田家」は、老舗の料亭。まったくの偶然だったようですが、これ以前の光太郎の花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活中、女将・福田マチが、光太郎の暮らしぶりを報道で知り、さまざまな食料などを送ってくれました。当会の祖・草野心平ら知り合いが食料等を贈ることはあっても、未知の人物からの援助は珍しい例でした。

この日行われた元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよとの座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」は、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。

一昨日、昨日と、1泊2日の行程で長野県に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず一昨日、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・碌山忌ということで、安曇野の碌山美術館さんへ。以前はこの日を含め、必ず年に1、2回お邪魔していたのですが、コロナ禍後は碌山忌も講演会や懇親会等のイベントを削除していたため、足が遠のいていました。調べてみましたところ、コロナ禍前の平成31年(2019)の碌山忌にお邪魔したのが最後でした。

これまでは千葉の自宅兼事務所から自家用車で出向くことがほとんどでしたが、今回は中央本線あずさ号で松本まで行き、松本からレンタカーを借りました。

途中、昼食を摂った町中華の駐車場からみたアルプスの山々。少しピンぼけですみません。
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碌山美術館さんに到着。3年ぶりということで、多少の懐かしさを感じました。
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まずは一通り、昨年寄贈された守衛生前の鋳造になる「宮内氏像」など、守衛や光太郎らの彫刻作品等を拝見。

その後、碌山館(右上写真)裏手の光太郎詩碑へ。
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詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)が刻まれています。コロナ禍前の碌山忌では懇親会がプログラムに入っており、その冒頭、参加者全員でこの詩を音読するのがルーティーンでした。
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碑の周辺には、光太郎が愛した連翹が植えられていまして、千葉ではもう散ってしまっていますが、こちらではまだ花が残っていました。
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右上は詩碑同様、光太郎の名が刻まれたプレート。碌山館の入り口裏側の壁に嵌められています。

午後1時半から、「宮内氏像」のモデル・宮内良助の令曾孫・郡司美枝氏によるご講演「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」を拝聴。
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宮内良助は、日本橋や浅草橋で帽子とその関連商品を扱っていた実業家。守衛の兄・本十も同じような商売をしていたので、その紹介で像が作られたようです。同じく守衛作の「北条虎吉像」(国指定重要文化財)のモデル、北条寅吉(正しくは「寅」なのですが、像の名前が誤っているそうで)も同業者とのこと。本十は守衛のきょうだいの中で、このように最も守衛に対する支援を行い、そのため、上記のプレートにも光太郎と並んで名が刻まれています。
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戦前の帽子をめぐる文化史的なお話等々、非常に興味深く拝聴させていただきました。

「宮内氏像」は、守衛が歿する直前の明治43年(1910)1月には、同郷の山本安曇によって鋳造が為され、守衛の歿した直後の同年5月からロンドンで開催された日英博覧会に出品されました。

ちなみに日英博覧会には、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が監督となった「台徳院殿霊廟模型」も出品されています。

さらに、山本安曇は光太郎実弟にして鋳金家の髙村豊周の2つ先輩で、守衛没後に鋳造されたその絶作「女」の鋳造(これも明治43年=1910)の際には、豊周にも手伝わせています。
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そこで、「宮内氏像」の鋳造にも豊周が関わっていないかと調べてみましたが、残念ながらそちらとは無関係だったようでした。

閑話休題。明治43年(1910)に鋳造された「宮内氏像」、一時行方不明だったそうですが(安曇野の守衛生家にあったかも、とのことでしたが)、宮内家に戻り、しかし、日暮里の本行寺さん(こちらのご住職・加茂行昭氏は荒川区芸術文化振興財団のお仕事もなさっていて、平成18年(2006)日暮里サニーホールでの「光太郎智恵子フォーラム」開催等に御尽力されました。余談ですが、司会は当方でした。)の宮内家の墓所や、大宮の宮内家、さらに都内のマンションに宮内家が移転するとそちらにも、と、演題の通り「《宮内氏像》の旅」状態だったそうです。碌山美術館さんに寄贈され、その長い旅も終わったかと、郡司氏、ほっとなさっていたご様子でした。
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高野前館長から、寄贈に対する感謝状の贈呈。

その後、関係者で守衛の墓参。
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太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折揮毫の墓碑。裏面には戒名。ただ、後に荻原家が曹洞宗(?)から日蓮宗に宗旨替えしたため、戒名も変えられたなど、墓前で現荻原家ご当主の荻原義重氏にいろいろお話を伺いました。

今年もコロナ禍のため、懇親会は行われず(それでも講演会が復活しただけでも喜ばしいところですが)、これにて当方は安曇野を後に、レンタカーを駆って長野市へ。

レンタカーを返却、長野駅近くのビジネスホテルにチェックインし、荷物を置いて、善光寺さんへ。もうとっぷりと日は暮れていましたが、逆にその時間を狙いました。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による仁王像等のライトアップが為されているためです。
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いい感じでした。

向かって左、阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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裏に回ると……。
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三宝荒神像。
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三面大黒天像。
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裏側の二尊は、かえって昼間だと薄暗くてよく見えないのですが、照明が絶妙でかなり細かい部分まで拝見でき、有り難く存じました。

ホテルまで戻り、Good night。続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小平英雄氏来訪、疎開した老人首は火事で色はげし由、


昭和27年10月25日の日記より 光太郎70歳

小平英雄氏」は、思想家の江渡狄嶺の縁者です。「老人首」は、ブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)。光太郎生前の鋳造で、戦火を避けるためもあって江渡家に贈られていました。
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その後上野の東京国立博物館さんに収められ、時折常設展に出品されています。同型のものは碌山美術館さんでも展示されています。

モデルは光太郎のアトリエに時々花を売りに来ていた、元旗本の老人です。

昨日は神奈川県平塚市、それから東京都荒川区に行っておりました。ネタがない時には分割して書くところですが、紹介すべきネタが溜まっており、一気にレポートします。

まず、平塚市美術館さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の木彫二点が出ている「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」が開催されています。
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「写実」をテーマに、光雲ら近代の作家たちがどのように「写実」に取り組んだのか、その後「抽象」に押されて一段下に見られるようになった「写実」の系譜が、現代作家さんたちにどのように受け継がれ、されにどうエボリューションされてきているのか(メチエの部分、精神性といった方向で)というコンセプトで、「なるほど」という感じでした。

「彫刻」と「絵画」の二本立てで、「彫刻」パートでは、松本喜三郎と安本亀八の生人形にはじまり(「彫刻」の項に入れるのは一つの冒険ですね)、光雲やその高弟・平櫛田中、それから富山高岡系のそれほどメジャーではない金工作家の作など。そしてそれぞれにその系譜に連なると思われる現代作家さんたちの作品、という構成です。「絵画」では「写実」の祖として高橋由一(もう何人か出していただけるとなおよかったのですが)。あとは現代作家さんたちでした。
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フライヤー表に使われている安本亀八の「相撲生人形」は、分解したパーツの状態で出品(5月10日(火)からの後期展示では組み立てて展示するそうで)。西洋彫刻の「写実」が本格的に入ってくる前に、既に日本には独自の「写実」があったことが象徴されていました。

ちなみに初代の孫に当たる三代安本亀八の生き人形が、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市の大祭の山車に複数据えられています。

そして西洋の写実を取り入れた光雲、という位置づけで、光雲作品が2点。明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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共に20数年ぶりに拝見。どちらもほれぼれするような作でした。

「魚籃観音」の手に提げた魚籠(びく)、それから衣の袂(たもと)や裾など、一木から彫り出されているわけで、光太郎などはこうした超絶技巧にあまり価値を認めていなかったようですが、こうした部分の凄みが光雲作の人気が衰えない一つの要因であることは確かでしょう。もちろん、全体のフォルムの優美さなどもそうですが。

「寿老舞」は、開会前に問い合わせたところ、「個人蔵」と御教示いただきましたが、もしかするとテノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものかな、と思っておりましたら、まさにその通りでした。

最近流行りの図録を兼ねた書籍(ISBNコード付き)を帰りがけに購入。
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昨日は公共交通機関を使っての移動でしたので、電車内等で熟読いたしました。ただ、版元がやる気があるのか無いのか、公式サイトが一年以上更新されていないようで、この書籍の情報がヒットしません(アマゾンさん等では出て来ますが)。余計なお世話かも知れませんが……。内容的には各地のキュレーターさんの寄稿、秋川さんと現代作家さんたちとの対談など、非常に読みごたえがあるものでした。

巻末に同展の巡回情報が出ていました。以下の通りです。

・足利市立美術館 会期:2022年6月12日(日)~7月21日(木
・高岡市美術館  会期:2022年7月29日(金)~8月31日(水)
・ふくやま美術館 会期:2022年9月23日(金・祝)~11月20日(日)
・新潟市美術館  会期:2022年11月29日(火)~2023年1月29日(日)
・久留米市美術館 会期:2023年2月11日(土)〜4月2日(日)

お近くの会場にぜひ足をお運びください。

その後、同時開催の「けずる絵、ひっかく絵」展も拝見しました。こちらも近代の井上三綱、鳥海青児と現代作家さんたち。

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フェイスブックで友達申請してきて下さった方の作品も出ており、興味深く拝見しました。

神奈川を後に、都内荒川区へ。日暮里サニーホールさんで朗読公演「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」を拝聴して参りました。
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、同誌に光太郎智恵子がらみの文章もよく寄稿されています。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。その都度、内容・構成等も少しずつ変えられ、「今日はこんな風にやるか」という感じです。

昨日は、光太郎詩の朗読はまるまる一篇読まれたのは冒頭の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)のみで、智恵子の詩「無題録」(大正3年=1914)、昭和7年(1932)の智恵子から母・セン宛て書簡、それ以外はト書き的にやられ、朗読というより一人芝居のような趣向でした。

以前にもコラボされた、Yoshi氏による電子ピアノ(伝・カッチーニ作「アヴェ・マリア」)がバックに流れ、いやが上にも漂う悲壮感、寂寞の思い……。いい感じでした。
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終演後、宮尾さん、それから宮尾さんも加盟されているという日本詩人クラブさんの理事の方々と会食及び打ち合わせ。先の話ですが、12月に行われる会合で、宮尾さん他による「智恵子抄」系の朗読と、さらに当方に講演をして欲しいというオファーでした。一般には非公開かも知れませんが、詳細が出ましたらまたご紹介します。

というわけで、充実した一日でした。と言いつつ、2日休んでまた明後日からは信州方面に出かける予定ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

創元社秋山孝男氏毛利氏来訪、天上の炎文庫版承諾、


昭和27年(1952)10月21日の日記より 光太郎70歳

『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されましたが、約30年ぶりの復刊です。

昭和30年(1955)には新潮文庫のラインナップにも入りました。創元文庫版、新潮文庫版、共に同一の金子光晴による解説文が付されています。
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お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第42号が届きました。多謝。いわずもながなですが、同館は光太郎の親友だった碌山荻原守衛(明治12年=1879~明治43年=1910)の個人美術館です。
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年刊で、毎号数十ページの濃密な内容となっています。
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今号の巻頭には、新たに寄贈されたという「宮内氏像」(明治42年=1909)。作品自体は以前から知られていたものですが、これはブロンズに鋳造されたのが守衛の生前というのが貴重だというわけです。意外といえば意外でしたが、同館に収蔵されているものを含め、現存するほとんどの碌山ブロンズ作品は、守衛没後の鋳造だそうです。生前に鋳造されたと確認出来ているものは、「北条虎吉像」(明治42年=1909)に一つ、そして今回の「宮内氏像」と、2点だけだとのことでした。

結局、数え32歳で亡くなり、生前には「巨匠」「大家」という地位を得られなかったことが大きいのでしょう。ただ、守衛は亡くなる前、明治41年(1908)と翌年の文展に「北条虎吉像」以外に「女の胴」、「坑夫」、「文覚」、「労働者」を出品しており、それらの出品形態はどうだったのかな、と、疑問に感じました。粘土原型のままだったのか、石膏に取ったものだったのか、鋳造されていたのか、ということです。来週末には現地に赴きますので、訊いてこようと思っております。

光太郎のブロンズ彫刻についても、光太郎生前の鋳造と確認出来ているものは、そう多くありません。現在、全国の美術館さん等で展示されているものの多くは、没後の鋳造です。代表作の「手」にしてもそうで、生前鋳造と確認出来ているものは、竹橋の国立近代美術館さん蔵のもの(有島武郎旧蔵品)、谷中の朝倉彫塑館さん蔵のもの、そして髙村家に一つと、三点のみです。

もっとも、光太郎ブロンズは、最初から多数の人々に頒布される目的で、まとまった数が鋳造されたものも存在します。生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で関係者に配られた「大町桂月メダル」(小品ではありますが、完成品としては、これが光太郎最後の彫刻です。「乙女の像」を「絶作」、「最後の作品」とする記述が目立ちますが、誤りです)、さらに遡って、昭和12年(1937)作の「日本水先人協会記念牌」(こちらは当方も一つ入手しました)なども。
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それにしても小品ですし、ものすごく大量に鋳造されたわけでもありませんが。

閑話休題。『碌山美術館報』では、同館学芸員の武井敏氏による「《宮内氏像》について」、さらに同じく武井氏の「荻原守衛のロダン訪問」など、興味深い考察が満載でした。光太郎についても随所で触れて下さっています。リンクを貼っておきましたので、お読み下さい。

その「宮内氏像」の特別展示が、同館で4月22日(金)から始まります。4月22日といえば守衛の忌日・碌山忌。コロナ禍前は懇親会等も行われていましたが、そちらは今年もありません。ただ、守衛墓参と、「宮内氏像」特別展示の関連行事を兼ねた講演会「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」が行われます。講師は「宮内氏像」モデルの宮内良助令曾孫・郡司美枝氏。

長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」も拝見したいので、併せて行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏小坂氏来訪、 回転台しん棒中、小型届く、払、


昭和27年(1952)10月15日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。おそらく、平成30年(2018)、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きな回転台のものと思われます。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の図録、というか、展示内容等を解説した冊子が届きました。
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A5判で22ページ、無料で配布中とのことです。

編集は当方ではありませんが、執筆はほとんど当方です。といっても、新たに書き下ろした部分はあまりなく、今回の企画展示及び一昨年に開催された「高村光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の際の展示解説パネル、双方の関連行事としての市民講座で語った内容を文字起こししていただいたものに手を入れた感じです。
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巻頭の「ご挨拶」的なページは書き下ろしましたが。

内容的には光雲と光太郎、それぞれの歩み、おのおのが目指したもの、共通する点、相違点等々で9ページ、展示の目玉である光雲作「鈿女命」像について2ページ、やはり光雲作の文京区の金龍山大圓寺さんに納められた「准胝(じゅんてい)観音像」の胎内仏のコピーとして寄進者や檀家に配付された懐中仏について1ページ、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、光雲の師・髙村東雲の孫・晴雲(三代東雲)作の聖観音像について1ページ。

さらに彼の地の光太郎ゆかりの寺院、音羽山清水寺さん、法音山昌歓寺さんに関わる光太郎日記・書簡からの抜粋で1ページ。それから英文学者の長沼重隆に送った葉書も新たに寄贈され、展示されていますので、その解説と、やはり光太郎日記・書簡からの抜粋及び散文「ホイツトマンの「草の葉」が出た」(昭和4年=1929)全文。

最後に今回の展示の目録。
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100円くらいで販売しても売れるんではないかな、と思うのですが、無料で配布中だそうです。気前のいいことで(笑)。

ご入用の方、花巻高村光太郎記念館さんまで、お問い合わせ下さい。送っていただけるかどうかは不明ですが。

合わせて企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までの開催です。地震により不通となっている東北新幹線も、当初予定より早く、明後日には全線復旧だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

夕方停車場前瀬川氏宅にゆき、発車まで休む、 夜十一時42分停車場、見送人多し、汽車は駐留軍用のもの、しん台車、 汽車ゆれる、


昭和27年(1952)10月11日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半を過ごした岩手を後にしました。およそ1年後には、短期間、また花巻に戻るのですが。

本日も光太郎の父・髙村光雲作品の出る展覧会情報です。

まず、神奈川県から。

市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと

期 日 : 2022年4月9日(土)~6月5日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9時30分 ~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般900円/高大生500円

幕末から明治初めに流行った生人形の迫真の技は、当時の日本人はもとより、来日した西洋人にも大きな衝撃を与えました。明治20年代に滞日した人類学者シュトラッツは「解剖学の知識もなしに強い迫真性をもって模写することができる」生人形師の力量に感嘆しました。また、彼は、生人形が理想化も図式化もされず、ありのままの姿であることにも着目しています。

高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。

ここで重要なのは、写実表現はそもそもこの国にあったということです。遡れば江戸期の自在置物、さらには鎌倉時代の仏像に行きつきます。写実は洋の東西を問わず追求されてきたと見るべきでしょう。日本は近代化する過程において西洋由来の新たな写実表現を受容しました。これは既存の写実の方法や感性を新たに上書きする、もしくは書き替える作業であったことと思われます。

今また写実ブームが到来しています。現代の作家が手がけた作品にも先祖返り的な要素が見受けられます。これは旧来の伝統的な写実が息づいている証です。連綿と続く写実の流れが、いわば間欠泉の様に、息吹となって彼らの作品を介して噴出しているのです。また、彼らの作品の中には近代的なものと土着的なものが拮抗し、新たな写実を模索している姿勢も見出せます。このような傾向は、高橋由一まで遡ることができます。

本展は、松本喜三郎らの生人形、高橋由一の油彩画を導入部として、現代の絵画と彫刻における写実表現を検証するものです。西洋の文脈のみではとらえきれない日本の「写実」が如何なるものなのか、またどのように生まれたのか、その手がかりを探ります。

出品作家作品
【序章】松本喜三郎、安本亀八、高橋由一、室江吉兵衛、室江宗智、高村光雲、関義平、須賀松園(初代)、平櫛田中
【彫刻】佐藤洋二、前原冬樹、若宮隆志、小谷元彦、橋本雅也、満田晴穂、中谷ミチコ、本郷真也、上原浩子、七搦綾乃
【絵画】本田健、深堀隆介、水野暁、安藤正子、秋山泉、牧田愛、横山奈美
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近代の巨匠たちから現代作家の皆さんの作まで、幅広く展示するようです。メインはフライヤーにも使われている、生(いき)人形。

フライヤーの作品は安本亀八ですが、喜八と並ぶ松本喜三郎(喜三郎作も複数展示されます)について、案内文に「高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。」とあります。出典は『光雲懐古談』(昭和4年=1929)。まず、安政年間、江戸で初めて喜三郎の生人形が見世物小屋に出た際のことが語られています。喜三郎は肥後の出身でした。

曰く「江戸の人形師は申すに不及(およばず)、彫刻師でも惣(すべ)て製作品として多少関係のある人が見て皆驚いた。どうして斯(こ)んなものが出来るだらうと云つた位。」「それが評判なことは湯や髪結床(かみどこ)のやうな人の集る所で、此人形の噂の無い所は無い。どうだ見たかといふやうなもので、見て驚いて迚(とて)も叶はぬといふのが一般の評でありました。

何がそれほど凄いのかというと、「其時分人形の困難なのは裸体である。人形は多くは手頭を拵へて人形の胴組をして着物を被(き)せる、足に足袋を穿かせるといふことで余程迯(に)げが出来る。裸体のものは継目が無い。全身作らねばならぬ。余程困難だ。其の困難な製作を意地にやつたので、皮肉に人のやらぬことをやつた。」というわけです。ご覧になる方、ここが一つのポイントですので、よろしく。

この他にも、その後評判になった喜三郎の作品を数多く紹介し、その手間のかけ方(毛髪を一本ずつ植える、植えた髪を自身で結う、衣服も自分で仕立てて着せる、など)を細かく解説し、「実に見事な出来で、結構過ぎて凄い。」「到底他の工人の及ぶ所では御座いません。」等々、手放しで絶賛しています。

光雲は、喜三郎本人とも面識があり、その思い出も語られています。光雲がまだ修行中だった頃、師匠・髙村東雲の元に、喜三郎が製作の参考にしたいということで、仏像を借りに来ました。すると東雲は、自分の師匠・髙橋鳳雲のさらに師匠・幸慶の十一面観音像を寺院から借りられるよう手配してあげます。そうして出来た張り子の観音像を見て、「さう申すと可笑(をか)しいが、康慶(註・「幸慶」の誤り)さんの十一面様よりも余程是は良い出来だ。」。

そして喜三郎本人を「是丈の作者でありますから定めし立派な人物で、非常な権式で、如何にも先生らしい人と何人も想像いたしませうが、私は面会致し実に案外に思ひました。至つて背の低い田舎風の老人で、着物は綿服、羽織は鉄色の極く短いので、千種色股引を穿き、口数の少ない人で、一見田舎風の老人が江戸の青物市場へ野菜の仕切を集めに来たやうな風俗で御座いました。」と回想しています。

さて、その光雲の作も2点、展示されるそうです。

まず、明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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「魚籃観音」は、最近ですと平成30年(2018)から翌年にかけ、全国巡回のあった「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」に展示されましたが、当方が拝見に伺った東京展では出品されず、残念に思っておりました。それ以前に拝見したことはありましたが。

「寿老舞」は「個人蔵」とのこと。上記画像のものではないかも知れません。もし上記画像のものであれば、テノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものです。

再来週に拝見に伺う予定ですので、確かめて参ります。また、巡回があるようなのですが、情報が不足しています。そのあたりも調べてきます。

もう1件、ご紹介いたします(また、このブログで取り上げるべき事項が溜まって来てしまいましたので)。島根県益田市からの情報です。

雪舟等楊 終焉の物語 ~室町から令和へ~

期 日 : 2022年4月16日(土)~6月26日(日)
会 場 : 益田市立雪舟の郷記念館 島根県益田市乙吉町イ1149
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜(5/3㊋㊗は開館)、5月9日(月)、5月11日(水)
料 金 : 一般300(240)円/小中高100(80)円
      ※( )内20名以上団体料金及び各種割引料金

室町時代の画聖・雪舟等楊は、その生涯のうち何度も益田を訪れ、東光寺(現・大喜庵)で終焉を迎えたと伝えられています。雪舟没後から現代に至るまで、時代によって数々の雪舟顕彰活動が行われてきました。本展では、世紀を超えて継承されてきた雪舟に関する絵画、遺跡など幅広く紹介します。

同時開催 特別企画 あの日せっしゅうになった!part2

益田市雪舟顕彰会は昭和 55 年第三次同会結成以来、市内の幼児を対象に「絵の好きな子どもを育てる幼児の絵画展」を開催しています。今回は平成 23 年から令和 2 年までの“雪舟特別賞”受賞作品を展示します。子どもらしい色彩豊かで自由な表現をお楽しみください。
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フライヤーに使われているのが、光雲作の「雪舟禅師像」(大正15年=1926)。市の指定文化財だそうです。こちらは同館で常設展示されているものとばかり思っていましたが、そうなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。
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左上画像は平成12年(2000)、茨城県立近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際のもの、右上は当方手持ちの戦前と思われる古絵葉書です。戦前から地元の宝として珍重されていたことが分かります。

絵画と彫刻、分野は違えど同じ造型作家として、大先輩へのリスペクトが感じられる作ですね。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

飛田先生清六さんより托されたりとて線香、両関を届けらる、明日の智恵子命日のため、

昭和27年10月4日の日記より 光太郎70歳

「飛田先生」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校教員、「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

戦後の光太郎、毎年10月には花巻町中心街の松庵寺さんなどで、光雲や母・わか、そして智恵子の法要を行ってもらっていましたが、この年は一週間後に帰京(生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため)を控え、ルーティーンを崩したようです。

それを知った清六が、わざわざ線香と酒を届けてくれました。ありがたいことです。

このところ、光太郎の父・光雲の作品が展示されている企画展示が各地で相次いで開催されています。それらを報じた報道等をご紹介します。

最初に、長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」。地元紙『信濃毎日』さんが主催に名を連ねており、詳しく報道してくださっています。

まず、開幕直前、内覧会を受けての報道。

仁王像の迫力、AR技術で実感 企画展「善光寺さんと高村光雲」、2日から県立美術館で

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まる。善光寺の仏像調査を重ね、修復にも携わってきた東京芸術大(東京都)の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。AR(拡張現実)技術で表現した仁王門の仁王像も見ることができる。
 大正時代に制作された仁王像や三面大黒天像、三宝荒神像などについて、同大大学院の保存修復彫刻研究室が行った近年の調査内容をパネルなどで紹介。それぞれひな型を作ってから当時の最新技術を用いて3~4倍の大きさの像を作る技法などを伝えている。制作に関わった高村光雲の画帳なども並ぶ。
 制作技法を解明するため、同研究室は仁王像の3D(3次元)計測も実施。展示ではこのデータを活用し、会場に掲示したQRコードをスマートフォンで読み取ると、画面に仁王像が立体的に再現され、迫力のあるたたずまいを実感できる。
 1日、同館で関係者向けの内覧会が開かれ、霜田英子学芸員(56)は「善光寺の仏像を巡る制作技術の継承と解明は連綿と続いてきた。善光寺の仏像を身近に感じてもらう機会にしたい」と話した。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下・18歳未満は無料。
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さらに開幕後の報道。

仏師・光雲と西洋彫刻の技術、関係性を解説 長野県立美術館で記念展「善光寺さんと高村光雲」始まる

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが仁王門の金剛力士像などを制作するために作ったひな型を、東京芸術大(東京都)の調査研究などと合わせて紹介している。
 仁王門の金剛力士像や三面大黒天像、三宝荒神像は光雲や弟子の米原雲海(1869~1925年)らが大正時代に制作。展示では明治期に伝わった西洋彫刻の技法で、ひな型から3~4倍の大きさの像を作る「星取り法」が用いられたことを解説している。仏像の調査、修復を手掛けた東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の研究も紹介。AR(拡張現実)技術で表現した金剛力士像はスマートフォンで見られる。
 この日の開会式には関係者約20人が出席。同研究室の岡田靖准教授は「善光寺の各仏像を通じ、日本古来の仏師であった光雲が西洋芸術を柔軟に受容して制作した歴史を感じてほしい」と述べた。将来に向けた保存につながる研究の重要性にも触れた。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下と18歳未満は無料。
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同展、善光寺史料館さんに収蔵されている、仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の各原型の他、光雲令曾孫の写真家・髙村達氏が、2月に都内で開催なさった「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」に出品された写真も展示されています。

御開帳に行かれる方、ぜひこちらにも足をお運び下さい。

続いて、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。一昨日の放映で、京都清水三年坂美術館さんで開催中の「明治・大正時代の木彫」展が取り上げられました。
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トップが光雲作のレリーフ「江口の遊君図額」(明治32年=1899)。
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ただ、残念ながら現地ロケはなく、画像を提供してもらっての紹介でした。他に13点、光雲作品が出ていますが、そちらは映りませんでした。

光雲以外に、光雲の盟友・石川光明の木彫、それから超絶技巧の自在置物が取り上げられました。
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こちらは5月29日(日)までの会期です。

最後に、花巻高村光太郎記念館さん。2月に始まった「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」につき、先月末に『岩手日報』さんが報じて下さいました。

光雲の木彫像「鈿女命」公開 花巻・高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作した木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を公開している。
 日本神話の「天鈿女命」が題材。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもり世界が暗闇になったとき、岩戸の前で踊りを披露した天鈿女命の姿を表現している。揺れる服のしわや、しなやかな指先などが繊細に作られている。
 公開は5月15日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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会期は5月15日(日)まで。先月の地震の被害を受けた東北新幹線、仙台以北は復旧しましたし、郡山-仙台間も20日頃には復旧の見通しだそうです。

上記三展以外に、上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催されている「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」でも、光雲作品、というか、光雲と橋本雅邦、濤川惣助ら18名の合作「綵観」(明治38年=1905)が展示中です。

4月2日(土)の連翹忌当日、光太郎、そして当会顧問であらせられた北川太一先生の墓参の帰り、立ち寄って拝見して参りました。
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あくまで「天平」がメインで、「綵観」は、「ついでに出しました」感がにじみ出ていましたが(笑)、いいものでした。

珍しく写真撮影も可でした。ただ、作品保護のためでしょう、照明がかなり落とされていて、明瞭に撮影出来ませんでした。光雲木彫作品「猗子」は上の画像、右から二面めです。その下の画像は裏面になります。
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さらに今後、今月中に光雲木彫の出る展覧会が、確認出来ている限り各地であと二つ、始まる予定です。何だかここに来て、光雲人気がまた高まっているのかな、という感じです。また追ってご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

朝教材社の人、外山卯三郎氏の名刺を持ちて来訪、出版物の推薦文をかき与へる、

昭和27年(1952)10月4日の日記より 光太郎70歳

外山卯三郎」は美術評論家。「出版物」は、外山が刊行に関わった『児童の図画教育』。推薦文自体は草稿が残っていて、そこから採録したものが『高村光太郎全集』に掲載されていますが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

このところ、光太郎よりも光太郎の父・光雲がらみの情報を多く紹介しています。それだけ光雲作品の出る展覧会等が開催されているということで、やはり光雲人気、衰えないのだなと感じています。

今日も光雲作品の出る展覧会を2件。

まずは光雲が奉職し、光太郎も通った東京美術学校の後身・東京藝術大学大学美術館さんでの展覧会。

藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑

期 日 : 2022年4月2日(土)~5月8日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 ※ ただし、5月2日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円)、大学生110円(60円)、高校生以下及び18歳未満は無料

東京藝術大学は、前身である東京美術学校の設立から135年の長きにわたって作品や資料の収集につとめてきました。その内容は古美術から現在の学生制作品まで多岐に及びます。当館では、この多彩なコレクションを広く公開する機会として、毎年藝大コレクション展を開催しています。
2022年の藝コレは、「春の名品探訪」と題して約3万件の所蔵品の中から選りすぐった名品を中心に展示します。さらに今回は、天平の美術に思いを馳せた特集展示も見どころとなっています。
8世紀奈良の天平美術は、国際色豊かな唐の影響を受けつつ鎮護国家思想のもとに花開き、後代にも大きな影響を与えました。著しい損傷を被りながらも威風を伝えている《月光菩薩坐像》は、天平彫刻を代表する仏像のひとつです。また今回の展示では所蔵する乾漆仏像の断片や東大寺法華堂天蓋残欠に新たな光を当てています。最新の研究成果により南都仏師たちの技法が解き明かされます。
そして特集の白眉は、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》(重要文化財)です。今回の展示では、厨子とその内側四方に描かれた合計7面全て、さらに吉祥天像(模刻)によって立体的な展示を試みます。鎌倉時代に制作されたこの名品にも、天平の面影を見ることができます。

特集展示以外もみどころはたくさんあります。
まず《小野雪見御幸絵巻》(重要文化財)、狩野常信《鳳凰図屏風》などの古美術。
さらに藝大コレクション展では約 10 年ぶりの出品となる長原孝太郎《入道雲》、初公開の白川一郎《不空羂索観音》といった近代洋画の逸品、そして狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や橋本雅邦《白雲紅樹》(重要文化財)などの近代日本画の名品も展示されます。
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皇室ゆかりの品も展示されます。《綵観》は、日本画・彫刻・工芸の各界を代表する当時の帝室技芸員とその候補者、東京美術学校教授らにより制作されました。橋本雅邦、高村光雲、川端玉章、濤川惣助など総勢18名の非常に豪華なメンバーによる合作で、木製のつづら折りになる小屏風には、それぞれの技法や画題で製作された花鳥風月が配されています。絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸など技法もさまざまで、1面ごとに作者の個性が楽しめます。
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綵観」、平成29年に同館で開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」 でも出品され、その際に拝見しました。

明治38年(1905)に制作されたもので、木製の枠(縦33.3㌢ 横24.1㌢)を画帖に見立てて日本画、木彫、牙彫、金工、蒔絵などの作品を配し、8面を繋いで屏風の形に仕立てたものです。2人で1面という箇所もあり、表裏で18人の作家が腕を揮っています。光雲以外には野口小蘋、橋本雅邦、海野勝珉、香川勝廣、川之辺一朝、白山松哉、加藤陶寿、濤川惣助、竹内久一、石川光明、大島如雲、宮川香山(二代)、山田宗美、安藤重兵衛、佐竹永湖、荒木寛畝、川端玉章。帝室技芸員を含む、当代一流の作家たちです。

光雲は木彫で狆のレリーフを作りました。題して「猗子」。
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他にも狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や、奈良県マスコットキャラクター「せんとくん」を生み出し、現在、奈良県立美術館館長を務める籔内佐斗司氏制作の鹿をイメージした面など、見どころの多い展示となっているようです。

もう1件、埼玉です。

近代木彫・工芸逸品展

期 日 : 2022年3月30日(水)~4月5日(火)
会 場 : そごう大宮店 7階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は午後5時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

木の息吹を感じる木彫作品から人気作家の陶芸品まで時代とジャンルを超えた匠の逸品をご紹介いたします。
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光雲作の「聖徳太子像」が出ます。像高17.3㌢の小品ですが精緻ですね。ただ、光雲単独の作なのか、工房作なのか不明です。

それぞれ、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十一時過孟彦来訪、村長さん清水さん、鯉淵学園の助手、生徒等4名も同道、夕方6時半まで、

昭和27年(1952)8月9日の日記より 光太郎70歳

「孟彦」は光雲四男・光太郎実弟で、藤岡家に養子に入った藤岡孟彦。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている光雲作の「鈿女命」は、光雲没後に孟彦が形見分けに貰ったものです。

孟彦の回想から。

 27年の文化祭に、亡兄高村光太郎に来講して貰った。これには少しいきさつがある。兄は終戦近く罹災し東京を引揚げ知人を頼って岩手県花巻市に移ったが、ここでの戦火に会い稗貫郡太田村の山口という山村に引込んだ。以来8年をそこで農耕にいそしみつゝ送っていた。私も同様関西で勤め先と仮寓を焼払われ暫く音信が絶えたが鯉渕に来て東北地方に近くなったのを幸いに、一度こちらから訪ねたいし、学園にも来て貰いたく思い、23年の秋、着任早々手紙を出した。その返事にはかねてから望んでいたような山林生活をして愉快にやっているとあって安心した。その後訪ねる機会もなく、空しく月日は流れて行く。26年9月ごろ思い切って講演に来て貰えないか頼んでみた。一体私は、生れつき兄にも遠慮する方なのである。これも早速返事があり前年(25年)冬以来神経痛が全治しないので用心している。無理をしてよそへ講演に行ってから悪化した経験がある。全治すれば出かけるとあったので実はこの秋の文化祭に来てもらう心組みでいた私は少なからず失望した。ところがその翌27年8月特研生が私と西村君の引率の下に仙台、盛岡へ見学旅行に出掛けることになったので、この機会を外してはと思い8月?日盛岡で解散後、花巻に戻り途中一泊して翌日太田村山口の山小屋に辿りつき兄と久し振りに会う事が出来たのは実に嬉しかった。西村君の他に8期生の中込、日野原二君も同行した。さて、この時耳寄りの話を聞いた。というのは、兄は仕事のために10月、半年程滞在の予定で上京するというのである。この会見とその前後談を書くと、とても面白いのであるが関係がないから省く。
(『鯉淵学園通信』第38号 昭和32年=1957 6月)


省かないでほしかったのですが、学園の通信ではしかたがありますまい。

光太郎の鯉淵学園での講演は、11月に実現しました。その筆録は翌年1月発行の『農業茨城』第5巻第1号に「芸術と農業」の題で掲載されています。

信州善光寺さん、今年は御開帳です。数え七年に一度ということで、本来は昨年の予定でしたが、コロナ禍のため一年延期されました。4月3日(日)~6月29日(水)の予定だそうです。

そこで、御開帳に合わせ、昨日ご紹介した長野県立美術館さんの企画展「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」が開催されるわけです。

また、日本郵政さんでは、御開帳記念ということで、 ご当地フレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」を発売しました。信越支社さんのプレスリリースから。

オリジナルフレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」の販売開始

日本郵便株式会社信越支社(長野県長野市、支社長 菊地 元)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。このオリジナル フレーム切手は、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

商品名 七年に一度の盛儀 善光寺御開帳
販売/受付開始日 2022年3月25日(金)
販売/受付開始日(Web) 2022年3月25日(金)午前 0時15分
申込受付数 14,000シート
販売郵便局 長野県の全郵便局(440局) ※一部の簡易郵便局は除きます。
商品内容 フレーム切手 1シート 84円切手×5枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,000円
 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

切手デザイン
善光寺御開帳は、本堂に安置される秘仏の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として鎌倉時代に造られた前立本尊(まえだちほんぞん)を、数えで7 年に一度開扉(かいひ)する盛儀(せいぎ)です。本商品は、善光寺御開帳の魅力を盛り込んだデザインとしています。
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光太郎の父・光雲と、その高弟米原雲海による仁王像(大正8年=1919)、それを納める仁王門もデザインされています。
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基本、長野県内の郵便局さんでの販売ですが、日本郵政さんのサイト内の「郵便局のネットショップ」から通販も可(会員登録が必要ですが)。早速注文しました。

善光寺さん御開帳のフレーム切手、前々回(平成21年=2009)、前回(平成27年=2015)の際にも発行されました。それぞれ、仁王門の写真があしらわれた切手も含まれていまして、タイミングを失っていたので、このブログではご紹介していませんでしたが、入手しました。

前々回(平成21年=2009)のもの。当時の封筒の郵便料金は80円だったのですね。
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前回(平成27年=2015)のものはこちら。82円バージョンです。
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上記2点は入手しておりましたが、今回、改めて調べてみますと、前回(平成27年=2015)にはハガキ用の52円バージョンもありました。
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こちらは未入手でして、探してみます。

それにしても、こういう光太郎智恵子・光雲がらみの郵便関係(切手・はがきなど)、コツコツ集めているうちに、ミニ展示ができるくらい溜まってきました。ご要望があれば貸し出しいたしますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち山口部落の老婆といふ人、青年をつれてきて何かをたのむ、言葉まるで分らず、断りてかへす、


昭和27年(1952)8月1日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も丸7年が経とうとしていた時期で、かなり彼の地の方言等にも通じていた光太郎ですが、時にはこういうこともあったようで……。訪ねてきた老婆がたまたま言語不明瞭だったのかも知れませんが……。

長野県から企画展情報です。

善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から

期 日 : 2022年4月2日(土)~6月26日(日)
会 場 : 長野県立美術館 長野市箱清水1-4-4(善光寺東隣)
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 水曜日
料 金 : 一般・大学生500円、高校生以下無料

善光寺御開帳に合わせ、高村光雲から始まった、東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会を開催します。

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大正7年(1918)、信濃善光寺さんの仁王門が再建されました。明治24年(1891)の大火で焼失したものです。翌大正8年(1919)には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の手になる仁王像、さらに三面大黒天像、三宝荒神像が納められました。
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開眼100周年ということで、平成31年(2019)から、東京藝術大学さんによる、像の本格調査が始まりました。その結果、それまで明らかにされていなかった事実がいろいろと判明していますし、文化財指定、仁王門の改修などもありました。

善光寺仁王像 初の本格調査。 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
信州善光寺仁王像関連。 第14回善光寺サミット。 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
「善光寺仁王門の改修工事」他。 信州善光寺仁王門工事見学会。 
善光寺仁王門、国登録有形文化財に。

それらの成果を踏まえての企画展のようです。

会場の長野県立美術館さんは、善光寺さんのすぐ隣。併せて仁王門自体もご覧下さい。当方も時間を見つけて行ってきたいと思っております。

【折々のことば・光太郎】

九時頃豊周、細君、珊子さん三人来訪、山水閣の番頭さんがついてくる。昨夜山水閣に一泊、今朝車で山口校まで来りし由、


昭和27年(1952)7月31日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は、光雲三男にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光太郎の実弟です。後に鋳金分野の人間国宝となりました。

その豊周の回想。

 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。


この直前にはこんな記述も。

 山の生活について、直接知っていることはあまりないが、あのプラスの面とマイナスの面はやはり考えなければいけない。洋行以外長く東京を離れたことのない兄が、七年間もあそこに住んだこと自体は、極めて特殊な体験である。水がいいとか、野菜が新しいとかは、田舎にゆけばみんなそうで、当たり前のことだけれど、なんといっても山の中にいるのだから、ものの考えが純粋になる。東京のように朝に晩に酔っぱらいが訪問することもないし、来るのは花巻、盛岡あたりの文学青年や、農家の人たちばかりだから、その点やっぱり良かったと思う。健康についてはマイナス。勿論彫刻が出来なかったことは特別大きなマイナスだが、その代り、兄の書はここで一進歩を遂げた。
 丁度あの時十和田の像の話がもち上って、それで東京に帰れるようになったのは、僕には自然の摂理が、うまく兄を導いたような感じがするのだ。もしあの話が起らずに、もうすこしあそこにとどまっていたら、必ず動けなくなっていただろう。


東京にいた頃、「朝に晩に」「訪問」した「酔っぱらい」は、当会の祖・草野心平などでしょう(笑)。それはともかく、なかなか鋭い見方ですね。

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