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いわゆる「超絶技巧」系の展覧会で、光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA

期 日 : 2023年9月12日(火)~11月26日(日)
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号 三井本館7階
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(但し9月18日、10月9日は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)
料 金 : 一般 1,500(1,300)円 大学・高校生 1,000(900)円
      ( )内団体料金 中学生以下 無料

 三井記念美術館を皮切りに2014年から2015年にかけて全国を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展、2017年から2019年に全国巡回した「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展で、多くの人々を魅了した「超絶技巧」シリーズの第3弾。本展では、金属、木、陶磁、漆、ガラス、紙など様々な素材を用い、孤独な環境の中、自らに信じられないほどの負荷をかけ、アスリートのような鍛錬を実践している現代作家17名の作品、64点を紹介します。いずれも単に技巧を駆使するだけでなく、「超絶技巧プラスα」の美意識と並外れたインテリジェンスに裏打ちされた作品をセレクトしました。
 また超絶技巧のルーツでもある七宝、金工、漆工、木彫、陶磁、刺繍絵画などの明治工芸57点もあわせて展覧します。
 明治工芸のDNAを受け継ぎながら、それらを凌駕するような、誰にも真似できないことに挑戦し続ける作家たちの渾身の作品を、ぜひその目でお確かめください。
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メインは現代の作家さんたちによる超細密工芸ですが、そのルーツということで、明治工芸等も出ています。光雲作品は「白衣観音像」。その他、光雲と並び称される石川光明、光雲高弟の一人・米原雲海の作なども。出品目録はこちら
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同展、今年2月から全国巡回が始まっており、三井記念美術館さんで4館めです。

 岐阜県現代陶芸美術館 2023年2月11日(土・祝)〜4月9日(日)【終了】
 長野県立美術館 2023年4月22日(土)〜6月18日(日)【終了】
 あべのハルカス美術館 2023年7月1日(土)〜9月3日(日)【終了】
 富山県水墨美術館 2023年12月8日(金)〜2024年2月4日(日)
 山口県立美術館(予定) 2024年9月12日(木)~11月10日(日)
 山梨県立美術館(予定) 2024年11月20日(水)~2025年1月30日(木)

長野展あたりで光雲作品が出ているらしいという情報を得ていたのですが、詳細が不明でいるうちに失念していました。ひところの「超絶技巧」ブームもだいぶ下火になったような感もあり、これまでの巡回、あまり話題にならなかったような気もしています。

ところで、光雲といえば、当方は拝見しませんでしたが、昨夜、テレビの某人気クイズ番組で光雲の「老猿」が問題に出たそうです。作者名として光雲を問う問題だったようですが(違っていたらすみません)、それに対しX(旧Twitter)上で「難問過ぎる」という御意見と「わかって当然」という御意見と、半々くらいだったでしょうか。個人的には「日本人としてマストの知識でしょ」と思うのですが……。ちなみにその放送中あたりから、そのあおりで当ブログへのアクセス数が跳ね上がりました(笑)。

閑話休題、「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」。今後の巡回を含め、お近くの会場にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生例の通り光の一字を彫つていただければ仕合に思ひますが、一字分のお礼ではすまない事に存じますゆえ、臨機幾字分かの割になりましてもかまひません、まづはお願まで


昭和15年(1940)5月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

この後、光太郎が終生愛用した「光」一文字の印を、宮崎を通じて中国の画家・書家・篆刻家の斉白石に依頼したことに関わります。昭和20年(1945)には駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲で全焼しますが、この印は彫刻刀などの道具類、智恵子ゆかりの毛布等と共に防空壕に入れて置いて難を逃れたようです。

テレビ番組の放映情報です。

まず再放送。

再 にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 9月21日(木) 15:35~15:45  9月23日(土) 07:00~07:10

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

昨日が本放送。これまでに番組内で使われた高杉真宙さんと津田健次郎さんの朗読をまとめて流す回です。7月に放映された高杉さんによる「あどけない話」(昭和3年=1928)を含みます。
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続いて、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。珍しく、相次いで二つの番組で取り上げられます。

四大化計画 〜世界は3つで語れない〜 教養バラエティー「未完成作品」

地上波NHK総合 2023年9月20日(水) 22:00~22:45

内村光良司会の知的教養バラエティー。世界の三大〇〇に4つ目を提案して“四大化”してしまおう!人類史に残しておくべき、完成を凌駕する「未完成」の芸術的魅力とは!?

あなたの好奇心をゆさぶる知的エンタメ!未完成でありながら輝きを放つ作品たちを深堀り!世界初!未完成なのに世界遺産「サグラダ・ファミリア」、20世紀を代表する作家カフカの未完の最高傑作「城」、天才彫刻家ロダンの人生を映す代表作「地獄の門」▽世界の小沢の人生観を変えた日本漫画の金字塔VS.強火担・中川翔子による超有名アクション映画▽ジャッジするのはいとうせいこう、宇垣美里、片桐仁、川島明、ニッチェ近藤

【出演】内村光良,小沢一敬,中川翔子,いとうせいこう,宇垣美里,片桐仁,川島明,近藤くみこ,【語り】甲斐田裕子,成田剣
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通常時、「歴史探偵」が放映されている枠です。この日は「歴史探偵」がお休みで、単発のこの番組が入ります。

もう1件。

ねこのめ美じゅつかん 31歩め 「考える人」は何も考えていない!?

地上波NHK Eテレ 2023年9月21日(木) 08:25〜08:35 
 再放送 9月23日(土) 11:30〜11:40 9月26日(火) 15:45〜15:55

キャッチュアイの2匹が静岡県立美術館で目にしたのは「考える人」。実は、何も考えていなかったのではないかと言い出す弟子ネコにボスもびっくり!一体どういう事なのか?

19世紀フランスを代表する彫刻家、オーギュスト・ロダンの傑作「考える人」。その造形を見てリアルだなあと感想を漏らすボスネコに対し、弟子ネコはそうではなく、“無理している”からこそ迫力があるのだと語り出す。さらにはそもそも、「考えていない人」かも知れないと、ボスを混乱させ始める。「考える人」にこめられたヒミツに迫る。そして古川琴音の「画家のうた」ではドラクロワの気になる超有名絵画を取り上げる。

【声】カミナリ,【出演】古川琴音
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「ねこ目線」で有名美術作品を見るという番組、一昨年に始まり、何度か拝見しました。笑えます。しかし、笑えるだけでなく、なかなかの鋭い視点で感心もさせられました。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先般智恵子逝去の節は早速御弔電をいただき感謝したしました。匆々の間に日を過ごし思はず延引いたしましたが右厚くお礼申上げます。 お返し ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアルキシ


昭和13年(1938)10月28日 山崎斌宛書簡より 光太郎56歳

山崎斌(あきら)は染織工芸家。「草木染」の命名者でもあります。心を病む前、駒込林町のアトリエ兼住居で機織りにも取り組んでいた智恵子とも交流がありました。

山崎からの弔電には「ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)」という短歌が打電されていました。

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌が、やはり電報のスタイルでしたためられました。無理くり書き下せば、(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)。この歌を読んだ山崎、「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」とも回想しています。

9月10日(日)、最後の訪問先、東京国立博物館さんに着きました。
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常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
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チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。
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光太郎も慧海像(塑像)の制作に着手したのですが、残念ながら未完のまま戦災で焼失したと考えられ、作品の現存が確認できていません。
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これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
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同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。

もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
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制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。

他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
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拝観後、他の展示室もざっと拝見。

第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
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しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
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「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
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石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。

9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。

「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、


昭和12年(1937)11月9日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳
大熊座
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。

広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。

広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。

9月10日(日)、京橋のアーティゾン美術館さんを後に、地下鉄を乗り継いで千代田区の半蔵門ミュージアムさんへ。こちらでは「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が11月5日(日)まで開催中です。
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日本画家・堅山南風が関東大震災を描いた「大震災実写図巻」全3巻を中心に、横山大観、棟方志功ら同時代の作家の作品(そちらは震災とは無関係)が展示されています。
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南風は震災当時巣鴨に住んでいましたが、翌日から紙と矢立を手に東京市内、特に被害の大きかった下町方面を中心にスケッチをして廻り、二年後に31葉の絵を全3巻の絵巻として完成させました。ただし今回の展示、31葉全てが見られるように広げられているわけではありませんでした。

日本画ならではの墨が効果的に使われ、恐ろしいまでの臨場感でした。浅草凌雲閣(通称・十二階)が倒壊する様子(空中に投げ出された人まで描き込んでありました)などは伝聞や想像を元に描かれたものでしょうが、大半は自身の見た惨状。ドサクサに紛れて追い剥ぎをする人物なども描かれ、人間の暗部も描かれています。しかし、上中下と巻が進むにつれ、助け合って復興に向かう人々や、市外からの支援の様子なども題材となり、最後は犠牲者への鎮魂の祈りを込めた仏画で締めくくられています。

図録は刊行されていませんでしたが、4枚だけポストカードが販売されていました。

時系列順に。
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残念ながらポストカードになっていませんでしたが、目当てはフライヤーにも使われていた中巻の「貼札ヲ着タ銅像」。光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の西郷隆盛像が描かれています。

現物は撮影禁止だったものの、エントランスの大看板にほぼ実物大の画像があしらわれていて、そちらを撮りました。
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この西郷像の姿、当時の動画にも収められていたり、現代でも森まゆみ氏の新著『聞き書き・関東大震災』では表紙に使われていたりと、いわば関東大震災を象徴するアイコンともいえるような感じですね。

再び地下鉄を乗り継いで、上野へ。

100年後のリアル西郷さん。
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こちらが目的で上野に行ったわけではなく、「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」を拝観するため東京国立博物館さんに行くのが目的でしたが、ちょうど通り道だったもので。

というわけで、明日はトーハクさんをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今年のお初穂の餅は殊におめでたく早速亡父の霊前にもお供へいたしました 父光雲はすべてのたなつものの類に敬虔の念を持つて居りました 又納豆は小生の好物とて是又ありがたく頂戴いたしました


昭和12年(1937)11月6日 長谷川吉三郎宛書簡より 光太郎55歳

一昨日のこの項でご紹介した色紙二点の礼として、山形の銀行家・長谷川から餅と納豆を贈られた礼状の一節です。

「たなつもの」は穀物。「納豆は小生の好物」だったのですね。そういえば、花巻高村光太郎記念館さん前の「詩の森」さんで出していた「光太郎そば」には、「光太郎の好物だった」ということで納豆がトッピングされていました。「ほんとかよ?」と思っていたら本当でした(笑)。

ちなみに「詩の森」さん、先月末で閉店とのこと。残念です。しかし、キッチンカーで移動販売をなさっている方が「光太郎そば」を受け継ぐと言うお話もあるようです。

一昨日、久々に上京し、美術館さん・博物館さん三館を巡りました。

まずは京橋のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)さん。こちらでは「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展が開催中です。

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同館では旧ブリヂストン美術館さんだった時代、昭和28年(1953)から昭和39年(1964)にかけ、17本の「美術映画シリーズ」を制作し、それらを複数のモニターで一挙上映、取り上げられている作家の作品等を併せて展示するというもの。

第3作が「高村光太郎」。昭和28年(1953)に撮影され、公開は翌年でした。
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前半は昭和28年(1953)の11月26日と27日、一時帰村(前年に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京していました)した花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)とその付近での撮影。
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光太郎彫刻の紹介が挟まり、後半はそれより前の同年5月25日、中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景。
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こちらは現代でも様々な美術館さん、文学館さん等で上映される機会が多く、また、回りまわって当方手元にはDVDも存在し、少なくとも数十回拝見しています。

そこで、はっきり言うとあまり期待せずに出かけました。

ところが行ってみてびっくり。もう1本、光太郎が登場する作品が存在したのです。題して「美術家訪問」第7集。「高村光太郎」よりだいぶ後、光太郎歿後の昭和33年(1958)制作でした。
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これは存じませんでしたが、「「高村光太郎」からの使い回しの動画を使っているんだろう」と思いました。ところが、実際に見てみて驚天動地でした。光太郎の部はぴったり2分間。撮影日は同一と思われるものの、使い回しのカットはほとんどなく、初見の映像のオンパレードだったのです。尺の関係などがあって「高村光太郎」で使えなかった映像をもったいないから使ったということでしょう。

「高村光太郎」同様、花巻郊外旧太田村のシーンから。
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作品紹介。これも「高村光太郎」にはなかった「鯰」。
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そして中野の貸しアトリエ。
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一緒に映っているご婦人は、貸しアトリエの大家さん・中西富江氏(水彩画家・中西利雄未亡人)と思われます。

帰って来てから気がついたのですが、ネット上でこの動画が公開されていました。


ぜひご覧下さい。

それから、同じく「美術家訪問」の第1集(昭和29年=1954)には、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周も。これも存じませんでした。
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一緒に映っているのは君江夫人でしょうか。こちらは残念ながらネット上には公開されていません。

全17本のラインナップは以下の通り。取り上げられている作家は全61名です。
伊東深水  川島理一郎 斎藤与里  高村豊周  熊谷守一  平櫛田中  川端龍子
児玉希望  石井柏亭  近藤浩一路 小絲源太郎 木村荘八  北村西望  辻永
中川一政  田辺至   松林桂月  山下新太郎 山口蓬春  梅原龍三郎 中村岳陵
朝倉文夫  中沢弘光  白瀧幾之助 前田青邨  金山平三  奥村土牛  西山翠嶂
堅山南風  飯塚琅玕斎 徳岡神泉  坂本繁二郎 安田靫彦  和田三造  福田平八郎
有島生馬  松田権六  横山大観  高村光太郎 正宗得三郎 結城素明  石川寅治
榊原紫峰  富本憲吉  吉田三郎  小野竹喬  寺内萬治郎 堂本印象  中村研一
鏑木清方  川合玉堂  小杉放庵  野田九浦  斎藤素巌  中川紀元  岩田藤七
清水多嘉示 森田元子  鳥海青児  山本豊市  林武
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あらためて貴重な映像の数々だな、という感じです。全ては拝見しませんでしたが、それぞれの作家の制作風景、鬼気迫るものさえ感じさせられました。しかし、戦前に亡くなった、光太郎の父・光雲や光太郎の親友・荻原守衛などの動画が残っていないのは返す返す残念だな、とも思いました。

それぞれの作家の作品等。
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光太郎の「手」(大正7年=1918)は、今日からの展示です。

「美術映画」シリーズのパンフレットなども展示されていました。
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「これは欲しい」と思いました(笑)。

ミュージアムショップで図録を購入。
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表紙は光太郎とも交流の深かった梅原龍三郎です。

フィルムを象った4枚組のしおりも購入しました。右上に光太郎も居ます。
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もったいなくて使えませんが(笑)。

拝観後、地下鉄を乗り継いで半蔵門ミュージアムさんでの「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展へ(ちなみにアーティゾンさんでは堅山の動画もありました)。明日、そちらをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

中原君の夭折は残念でした、


昭和12年(1937)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳

「中原君」は中原中也。その第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の装幀・題字は光太郎でした。

コロナ禍前は毎年ご紹介していました。おそらく4年ぶりの本格開催と思われます。しかも記念大祭だそうで。

お三の宮日枝神社御鎮座350年記念大祭~お三の宮秋祭り~

期 日 : 2023年9月15日(金)~17日(日)
会 場 : お三の宮日枝神社 神奈川県横浜市南区山王町5-32
      イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
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 15日(金) 例祭(式典)   午後5時 斎行
 16日(土) 神社大神輿御巡行 午前9時 出御祭
 17日(日) 町内神輿連合渡御 午前9時 出発式
  〜神賑行事〜
 16日(土) 午後5時居合奉納演武(横浜無外会)
 17日(日) 午後5時和太鼓 奉納演奏(ヒビカス横浜)
 両日 日中 お囃子奉納演奏(横浜やっしゃ鯛)
     19時 奉納演芸会(お三の宮奉納演芸委員会)
 終日縁日・献灯

「お三の宮」「おさんさま」として親しまれている日枝神社の例祭で、《かながわのまつり50選》にも選ばれています。横浜随一の大神輿「千貫みこし」による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小30〜40基にも及ぶ町内神輿連合渡御が神社からイセザキ町へと練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。境内では神賑行事として、奉納演芸会やお囃子・和太鼓・居合演武の奉納などが催され、献灯や縁日で賑わいます。

今年(令和5年)は、御鎮座350年の佳節を迎えます。皆さまと共に奉祝の誠を捧げるべく、御鎮座350年記念大祭を盛大に斎行したいと存じます。
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イセザキモールさんのサイトによれば、光雲が装飾彫刻を担当した「火伏神輿」がモール内に展示されるそうです。

9月15日(金)朝10時~夕方4時ころ007
伊勢佐木町1・2丁目【火伏の神輿】展示(有隣堂ヨコ、神酒所)

1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、伊勢佐木町町内会として高村光雲(上野、西郷隆盛像ほか)に制作を依頼しました。ちょうど100年前の1923年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたことから「火伏の神輿」と言われるようになりました。祭礼期間以外は、神奈川県立歴史博物館エントランスにて展示しています。

「火伏神輿」、以前に拝見に伺ったときはかつがれていましたが、今回は展示のみなのでしょうか? また、やはり光雲作の木彫獅子頭一対も併せて展示されていましたが、そのあたりも不明です。
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それにしても、またもや関東大震災がらみか、と、少し驚きました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

チヱ子には春子さんを附添にたのみました。今日お給料を看護婦会へ払ひました。

昭和12年(1937)1月21日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「春子さん」は長沼春子。智恵子実妹にして大正11年(1922)に30歳で早世したミツの遺児です。したがって、智恵子にとっては姪ですが、ミツの死後、智恵子の母・センが養女として届けましたので、戸籍上は妹の扱いでした。戦後、光太郎が間を取り持って茨城取手の詩人・宮崎稔に嫁ぎました。

当時の一等看護婦の資格を持ち、光太郎の依頼で、ゼームス坂病院に入院していた智恵子の付き添い看護にあたることとなりました。

春子の回想「紙絵のおもいで」より。

「昨日血を吐いたのですが大した事もないのですよ。」
とおっしゃって寒々としたソファーに寝ておられた。伯母の病院の地図を書いてくれたり、いろいろと今までの病状を伺い、お暇をした。翌日南品川ゼームス坂病院に行った。病院ではやはり看護服の方が働きよいだろうというので、服をきて行った。
 そうっとドアを開けて、
「伯母さま、御機嫌よう、春子です。」と声をかけた。変り果てた伯母の姿! 私は思わず胸をしめつけられ涙があふれてきた。
 じっと立って見ていた伯母は、
「啓助は死んだの?」
「はい死にました。」
 重ねて「修二は?」と二人の弟たちのことをきかれた。そののち三年あまり看護中身内の者のことを聞いたのはこの時だけであった。
(略)
 私はそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれはてた姿を見ては泣いた。ただ神に祈った。


三年あまり」は記憶違いで、実際には2年弱でした。春子が付き添いに入った頃、まだ紙絵制作は為されていませんでしたが、千羽鶴や紙灯籠などは作り始めていたそうです。
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都内で開催中の企画展です。

楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス

期 日 : 2023年9月2日(土)~10月15日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時 間 : 午前11時 ~ 午後6時 金曜日は午後7時まで開館
休 館 : 月曜日、9月19日(火)、10月10日(火)
      9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開館
料 金 : 一般1,000円 高大生600円 中学生以下無料

 安らぎと自由の追求。
 忙しない俗世を離れ、清雅な地での隠遁生活を送りたいと願うのは、超高速の情報が飛び交う現代社会に生きる私達ばかりではありません。むかしの人たちも政治や社会のしがらみから逃れ、清廉な生活にあこがれたがために、自ら娯しみ遊戯の精神を忘れず、自由を希求する「自娯遊戯」の世界を描いた絵画や工芸品を求めたりしました。そのために、東洋の山水画には、生き方の理想や文学的なテーマが隠されていることが少なくありません。そこには、田舎暮らしのスローライフを求める「楽しい」隠遁から、厳しい現実を積極的に切り抜ける「過激な」隠遁まで、実に多種多様な隠遁スタイルが見いだせます。
 本展は、理想の隠遁空間をイメージした山水・風景や、彼らが慕った中国の隠者達の姿を描いた絵画作品とともに、清閑な暮らしの中で愛玩されたであろう細緻な文房具なども併せて展示いたします。中国の士大夫や日本の文人たちが抱いたマインドフルネス(安寧な心理状態)に触れることで、暮らしを楽しむ生の充実の一助となれば幸いです。

同時開催:特集展示「住友コレクションの近代彫刻」
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メインの「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」ではなく(そちらはそちらで優品がいろいろ出ているのですが)、同時開催としてひっそり行っている特集展示「住友コレクションの近代彫刻」で、光太郎の父・光雲作の「楠木正成銅像頭部木型」(明治26年=1893)が出品されています。

その名の通り、皇居前広場に立つ「楠木正成銅像」の頭部の木型です。像自体が巨大なものですので、頭部のみとはいえ、像高70㌢ほどの大きなものです。当方、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」、平成30年(2018)に小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」で拝見しました。

元々「楠木正成銅像」は、住友家の別子銅山開坑200周年という意味合いもあって奉納され、その関係でこの作品が住友コレクションに入っています。頭部以外の木型は行方不明となりました。
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他に光雲高弟の一人、山崎朝雲や東京美術学校での光雲の同僚にして盟友・石川光明、光太郎と交流のあった木内克の作なども出ています。
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また、「住友コレクションの近代彫刻」に絞った記念講演会も開催されます。

講師:野城今日子氏(渋谷区立松濤美術館学芸員) 定員:50名(予約制)

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日碑文の石刷り到着、彫刻の早く出来たのに驚きました。 文字の拙さは汗顔の至りでありますが、石屋さんの彫刻は大層やはらかにうまく彫れたと感心しました。 今部屋にかけて眺めて居ります。


昭和11年(1936)11月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎54歳

この年、宮沢家の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が届けられたことに対する返信です。同碑は全国に数ある賢治碑の第一号です。

石屋さん」は今藤清六。昭和21年(1946)、詩碑の誤字脱字の追刻の際にも鑿を振るいました。

もう8月も終わりですが、最近気がつきまして……。

戦時中から光太郎と交流があった埼玉県東松山市元教育長の故・田口弘氏が、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで、やはり光太郎と深い繋がりのあった彫刻家・高田博厚と意気投合。その結果整備されたのが、東武東上線高坂駅前から伸びる高田の彫刻群を配した「高坂彫刻プロムナード」。光太郎胸像(昭和35年=1960)も含まれています。

その光太郎胸像が、『広報ひがしまつやま』の今月号で取り上げられていました。
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不定期に掲載されている「絵子猫さんのアイテム探し」というコーナーです。
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作者は同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さん。サンリオさんやポケモン系などのお仕事のかたわら、市の母子手帳表紙なども手がけられています。絵子猫さんの手に掛かると、武骨な光太郎像が何ともメルヘンチック(笑)。

絵子猫さん、昨年は、同市で開催された「彫刻家 高田博厚展2022」の関連事業として、彫刻プロムナード設置作品の数点を描かれ、ご講演もなさいました。
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この際には、ぜひ光太郎胸像も描いていただきたいものだと思っていたのですが、実現していました。多謝。

5月号にはやはり新作の「憩い」。
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もうこうなると、プロムナードの全作品(32点)を描かれ、画集として出版(当然、市が補助をして(笑))していただきたいものです。

同市、昨年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した比企氏ゆかりの街(同市は元々は比企郡松山町でした)として脚光を浴び、さらに今年はWBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表チームの斬り込み隊長・ヌートバー選手の関係で有名になりました。お若い頃、ソフトボールをなさっていたヌートバー選手のお母さまが同市のご出身、現在もお祖父様とお祖母様は同市ご在住です。

「高坂彫刻プロムナード」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

チエ子は病勢ますます募るので知人の周旋で品川のゼームス坂病院といふ病院へ先月末入院させました、実に可哀想でありません、其後小生家事整理に日を送つてゐますがさびしさ極まりありません。


昭和10年(1935)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎53歳

心の病がもはやどうにもならなくなった智恵子、ついにその終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しました。
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知人」は、根津で貸家業を営んでいた津谷宇之助だと、津谷の子息が回想に残しています(『谷中根津千駄木』第69号 「津谷明治聞き書き 根津の旦那津谷宇之助と賢者河口慧海」平成14年=2002)。津谷は光雲と親しい間柄で、同院の顧問だったそうです。

都内から企画展情報です。

創造の現場―映画と写真による芸術家の記録

期 日 : 2023年9月9日(土)~11月19日(日)
会 場 : アーティゾン美術館 東京都中央区京橋1-7-2
時 間 : 10:00 〜 18:00 祝日を除く毎週金曜日は20:00まで
休 館 : 月曜日 祝日の場合は開館し翌平日は振替休日
料 金 : 一般1,200 円(ウェブ予約チケット)
      ※予約枠に空きがある場合、窓口販売チケット(1,500円)購入可

 1953 年、アーティゾン美術館の前身となるブリヂストン美術館は映画委員会を発足しました。「美術映画シリーズ」と冠し、1964年までに61人の芸術家を取材して17本の記録映画を製作しました。これらは梅原龍三郎(1888-1986)や高村光太郎(1883-1956)、前田青邨(1885-1977)と いった日本の芸術家たちの制作風景や日常の様子を記録した、大変貴重な映像資料です。プロジェクトの発案者は当館創設者石橋正二郎の長男、石橋幹一郎でした。映画委員会の委員長に就任した幹一郎は「本当に美術を愛し、理解に努力している人びとの助けとなり、また芸術の先達たちの動く肖像画を伝える」ことを念願し、事業を主導しました。その結果、1950年代に盛んになる美術映画において特に近代美術の分野で先駆的な役割を果たし、イタリアの国際映画祭で受賞するなど国内外で評価を得ました。

 また、近年当館は現代美術の現場を記録し続けた写真家、安齊重男(1939-2020)の作品を収集しています。安齊は自らを現代美術の伴走者と称し、1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本展では「美術映画シリーズ」の全貌をご紹介するとともに、その取材対象となった芸術家たちによる作品、そして安齊による写真作品を展観します。当館のコレクションに国内の美術館からの借用作品を加えた約80点で構成します。「美術映画シリーズ」と安齊作品とを並列することで、日本の近現代美術の制作現場を概観することにもなるでしょう。「創造の現場」を捉えた映画と作品の魅力をお楽しみください。

見どころ
1 ブリヂストン美術館映画委員会製作「美術映画シリーズ」を一挙公開
 ブリヂストン美術館は開館翌年の1953年から1964年までに61人の芸術家 を取材し17本の映画を製作しました。日本映画近代化の立役者ヘンリー小谷の甥で記録映画プロデューサーの高場隆史や、抽象画家の小谷博貞、青木繁の一人息子で尺八奏者の福田蘭童らが製作に携わり、記録性だけでなく芸術性にも配慮された内容でした。これまであまり紹介されてこなかったこれらの映画について、その全貌をご紹介します。

2 安齊重男によるアーティストたちの
制作現場を捉えた写真約30点を展示
 安齊重男は自らを現代美術の伴走者と称し、国内外のアーティストたちのポートレイトや制作現場を写真によって記録してきました。当館には安齊が生前自ら選んだ206点の写真作品が収蔵されており、それらのなかから特に石橋財団コレクションと関連の深い作家の肖像写真や制作風景などをおさめた約30点をまとめて展示します。

3 日本近現代美術の「創造の現場」を一堂に
 「美術映画シリーズ」では1950~60年代、安齊重男の作品では1970年代以降の日本の芸術家たちのアトリエでの制作風景や日常の素顔などが記録されています。映画には梅原龍三郎が実際に左手に絵筆を持って描く姿や川合玉堂の肉声などがおさめされ、貴重な記録となっています。本展はこれらの映画と写真を一堂に集めて日本近現代美術の「創造の現場」を展観する試みです。

展覧会構成
第1章 映画のなかの芸術家たち─美術映画シリーズ
 梅原龍三郎、川合玉堂、高村光太郎、前田青邨など美術界の巨匠たちを取材し、アトリエでの制作風景や日常の様子を記録した、ブリヂストン美術館「美術映画シリーズ」。本章では、これらに登場する作家たちの映像とともに彼らの作品をご紹介します。

第2章 写真のなかの芸術家たち─安齊重男の眼
 安齊重男(1939-2020)は、自らを現代美術の伴走者と称し1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本章では、現在200点以上所蔵する当館の安齊作品のなかから約30点ご紹介します。
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というわけで、美術家たちのまさしく「創造の現場」を追う展示です。

光太郎のそれ(昭和29年=1954)を含む、旧ブリヂストン美術館時代に制作された「美術映画」17本と、それらとその他のスチール写真、関連する作品等の展示。光太郎彫刻は、竹橋の国立近代美術館さん所蔵の「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、大人の事情があるようで、9月12日(火)からの展示だそうです。
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「美術映画 高村光太郎」は、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年ぶりに岩手から上京して入った中野の貸しアトリエでの制作風景が映ります。また、像の除幕後、一時的に帰村した花巻郊外旧太田村での映像も。

他に取り上げられる作家は、梅原龍三郎、川合玉堂、鏑木清方、坂本繁二郎、前田青邨ら。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

よく観察してゐますと智恵子の勝気の性情がよほどわざはひしてゐるやうに思ひます、自己の勝気と能力との不均衡といふ事はよほど人を苦しめるものと思はれます、智恵子に平常かかる点で徹底した悟入を与へる事の出来なかつたのは小生の無力の致すところと存じます、


昭和10年(1935)2月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

療養先の九十九里浜から引き取られた心を病む智恵子を評しています。この頃は郊外に静かな貸家を探していましたがことごとく断られていました。

9月1日(金)は、関東大震災からちょうど100年となります。

区切りのいい年ですので、各種メディア等でも取り上げていますし、関連するイベント等も多く計画されているようです。

一昨日の『毎日新聞』さん夕刊。

震災時の写真を手に探した影 関東大震災100年

 関東大震災から100年の移り変わりを写真に収めるため、本社に残る1世紀前の写真を手に街を歩いた。1923(大正12)年9月1日に発生し、近代以降で最大規模の被害となった災害の死者・行方不明者は10万人以上に及んだ。
 発生当初の惨状を記録した数百枚から人の営みが伝わる写真を選定した。当時のカメラマンの正確な撮影位置を探し求めて炎天下を汗だくになって歩いた。東京大空襲や高度成長を経た首都圏の風景は形を変え、結局、当時と比較できたのはわずかだった。
 2枚を見比べると、私たちが見慣れた風景に100年前の未曽有の災害が現実味を帯びてくる。東京都防災会議の昨年5月の発表によると、最大震度7の「都心南部直下地震」は今後30年以内に70%の確率で起こると予想されている。
 もし再び大地震が発生したら、我々も公園や駅などの開けた場所に逃げるかもしれない。ファインダーの中に地続きの歴史を垣間見た気がした。

記事本体は短いものですが、写真が大きく掲載されていました。そのうちのトップの1葉が、光太郎の父・光雲を主任として東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像。この画像だけでB4判ほどの大きさでした。
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まったく同じアングルから撮影した写真を合成したもので、左が現在の様子、右が震災時の古写真。長いキャプションがついています。

彫刻家の高村光雲作で1897年に完成した上野公園の西郷隆盛像。その周辺は震災直後から行方不明者を捜す張り紙であふれていた。火災を免れた公園内は救護所などが設置されたという=写真右は1923年9月

同じ手法で、銀座、浅草、日暮里駅、そして鎌倉鶴岡八幡宮の画像も。

オリジナルの写真がこちら。
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この伝言板と化した西郷像のインパクトは大きかったようです。

こちらは古絵葉書。
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日本画家の堅山南風の描いた「大震災実写図巻」の一部。昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 アートシーン」内で映りました。
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こちらは千代田区の半蔵門ミュージアムさんで開催中の特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」で展示されているそうです。フライヤーにも使われていました。

堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春

期 日 : 2023年7月19日(水)~11月5日(日)
会 場 : 半蔵門ミュージアム 東京都千代田区一番町25
時 間 : 10時00分~17時30分
休 館 : 毎週月曜日・火曜日(月曜日・火曜日が、祝日や振替休日にあたる場合も休館)
料 金 : 無料

1923年の関東大震災から100年の節目をむかえる本年、堅山南風《大震災実写図巻》を展示します。巣鴨で被災した南風は浅草や上野に出向いて、被害状況や復興に至る様子を描き留め、のちに31枚の絵を3巻に仕立てました。その描写から、当時の人々の苦悩・悲哀や助け合いの様相が伝わります。

あわせて、南風と同時代の画家による作品12点を初公開します。会期前半の9月10日までは、日本の風景を題材とした、横山大観、川合玉堂、棟方志功、山田申吾の作品です。9月13日以降の会期後半は、竹内栖鳳、鏑木清方、小杉放菴、前田青邨、山口蓬春による人物や動植物の絵画を紹介します。
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歴史に学び、防災意識を高めるためにも、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声がかれ息がつまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度、器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、


昭和10年(1935)1月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

心を病んだ智恵子の病状、親交のあった歌人の中原綾子に宛てた複数の書簡に細かく記されています。

千葉市にある千葉県立美術館さん。収蔵品からセレクトされた品々をいわば出開帳する「移動美術館」を以前から開催なさっています。同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵、毎回のようにその中からなにがしかがラインナップに入っています。

約1年ぶりとなる次回は県北部・富里市での開催。「手」(大正7年=1918)が出ます。

第47回千葉県移動美術館~読書へのいざない~

期 日 : 2023年9月1日(金)~9月27日(水)
会 場 : とみらいテラス(富里市立図書館) 千葉県富里市七栄653-1
時 間 : 火曜日から木曜日 9時30分から18時 金曜日 9時30分から19時
      土曜日・日曜日・祝日 9時30分から17時
休 館 : 月曜日(9月18日(月曜日・祝日)は開館し、19日(火曜日)休館)
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。
47回目となる今回は、「富里市立図書館」を会場に、洋画・日本画・彫刻・工芸の分野から、浅井忠や高村光太郎、香取秀真など15点を展示するとともに、図書館司書が厳選した作品と関連する書籍もご紹介します。
展示後は、富里市立図書館や連携する県内図書館で書籍を借り受け、ご自宅でお楽しみいただけます。

学芸員によるギャラリートーク
 県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。
 日時 9月9日(土曜日)、16日(土曜日)いずれも10時30分から
 定員 各回20名  料金 無料
 申込方法 9月1日(金曜日)から電話で申し込み 富里市立図書館 電話0476-90-4646
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「手」以外でフライヤーに載っている作品は、浅井忠「裸婦」「小丹波村」、津田信夫「鷲」、香取秀真「美々豆久香爐」、安井曾太郎「熱海付近」、板倉鼎「金魚と雲」、梅原龍三郎「竹窓読書図」、福田平八郎「椿大瑠璃」、富取風堂「南天」。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんのこの病気は小生今後の運命をも決する大難でもあります、昨今の様な容態では御迷惑の程お察し申上げますし、又殊に俊太郎さんの教育上にも悪い影響があり相なので心痛に堪へません。事によつたら今度参上の時は一度ちゑさんを東京に連れて来ようかと考へてゐます。


昭和9年(1934)12月9日 齊藤せつ子宛書簡より 光太郎52歳

せつ子(セツ)は智恵子実妹。夫と幼い息子(俊太郎)、そして実母・センともども、九十九里浜に移り住んでおり、この年5月から心を病んだ智恵子を預かっていました。

智恵子の病状は一向に好転せず、子供の教育上よろしくないとのことで、結局、月末には光太郎が智恵子を引き取ることになってしまいます。

一昨日から始まっていました。

日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―

期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円

日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
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河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
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下記画像では、左が光雲、右が
慧海です。
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さて、今回の展示。

「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。

その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。

ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。

こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、


昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳

結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。

山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」につき、NHKさんのローカルニュースで紹介されました。

米沢出身の美術評論家 今泉篤男氏 論評と美術作品の特別展

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東京国立近代美術館の創設にも携わった米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏の作家の思いなどをくんだ論評と美術作品をあわせて展示する特別展が米沢市で開かれています。
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米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏は、美術作品に込められた作家の思いなどをくんだ評論が昭和20年代に高く評価され、東京国立近代美術館で現在の副館長にあたる次長を初めて務めたほか、京都国立近代美術館の初代館長も務めました。
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米沢市の上杉博物館で開かれている特別展では、美術誌に掲載された今泉氏の論評と作品をセットにしたものなど、およそ50点が展示されています。
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このうち、彫刻家・高村光太郎氏の木彫りの作品「鯰」について、今泉氏は「高村光太郎の作品にはなにか東洋の骨格、東洋の詩精神を感じられる」などと評価しています。
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また、美術作品の評論を活動を軸にしていた今泉氏が青年時代に描いた絵画、「監獄の外郭」も展示されています。
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米沢市上杉博物館の遠藤友紀学芸員は「今泉氏は地元の米沢であまり知名度は高くないが、美術にまつわる非常に大きな仕事をした人物でこれを機会にぜひ身近に感じてほしい」と話していました。
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この特別展は、今月20日まで開かれています。
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光太郎木彫「鯰」(大正15年=1926)、目玉の出品物の一つということで、大きく取り上げて下さいました。ありがたし。

竹橋の東京国立近代美術館さんからの借り受けで、同館でのコレクション展に時折出品されるのですが、常に出ているわけではありませんし、他館に貸し出される例もそうそうないものです。

もうすぐ閉幕ですが、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。
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【折々のことば・光太郎】

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう、あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。そしておいしい新らしい食物。よくたべてよく休んでください。智恵さん、智恵さん。


昭和9年(1934)5月9日
 高村智恵子宛書簡より
光太郎52歳

心の病の療養のため、智恵子は九十九里浜真亀海岸に移り住んでいた智恵子の母・セン、妹・セツ(節子)夫妻の元に預けられました。

その智恵子宛で送られたはがき。現存が確認できている最後の智恵子宛書簡です。もはや文字を読むことも叶わなくなった智恵子のため、「節子さんによんでもらつて下さい」としています。

末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、光太郎の万感の思いが込められているように感じます。

岡山から企画展情報です。

特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月27日(日)
会 場 : 岡山県立美術館 岡山県岡山市北区天神町8-48
時 間 : 午前9時~午後5時 8月26日(土曜日)は19時まで夜間開館
休 館 : 8月21日(月曜日)
料 金 : 一般 1,400円 65歳以上 1,300円 大学生 1,000円 
      高校生 800円 中学生以下 無料

 三の丸尚蔵館は、皇居の東御苑内において、皇室に代々受け継がれた絵画・書跡・工芸品などの美術品を収蔵管理・調査・公開する施設です。現在約9,800点におよぶ収蔵品は、皇室から国への御寄贈品、御遺贈品などからなり、古代から近現代までの各時代・さまざまな分野にわたる貴重な作品が数多く収められています。
 三の丸尚蔵館では令和元年度から新施設の建設工事が始まり、令和7年度の全館完成までの移行期間中に、より多くの方々に作品をご覧いただき、皇室と日本文化に親しんでいただきたいとの方針のもと、各地で展覧会が実施されています。
 このたび岡山県立美術館においては、やまと絵の最高峰とされる高階隆兼筆《春日権現験記絵》(国宝)をはじめ、横山大観による水墨風景画の逸品《秩父霊峯春暁》、極めて精緻な彫金による《神龍呈瑞》など、各時代・分野の名品をご紹介します。また、近代の洋画家・松岡壽、満谷国四郎、児島虎次郎、鹿子木孟郎や、人形作家・平田郷陽ら、岡山が輩出した作家たちによる皇室ゆかりの作品を一挙に展覧いたします。皇室の御慶事の記念品として作られてきた、趣向を凝らした手のひらサイズの菓子器・ボンボニエールも見どころのひとつです。
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前期展示は7月15日(土)に始まっていますが、8月8日(火)からの後期展示で、光太郎の父・光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されます。
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何度か拝見しましたが、像高約1メートル、なかなかの大作です。

出品目録は以下。
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逸品ぞろいですね。

ちなみに同様の趣旨、宮内庁三の丸尚蔵館さん蔵品の出開帳的な展示で、やはり光雲作の木彫「文使」(明治33年=1900)が出ている「皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」が、秋田県立近代美術館さんで開催中です。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日久しぶりにて二本松万福寺にまゐりゑ子と一緒にお墓に香華を手向けました、役場へも一寸立寄りました、午后磐梯山下の川上温泉に投宿、無事、


昭和8年(1933)8月25日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

万福寺」は「満福寺」の誤記。智恵子実家の長沼家の菩提寺で、現在も長沼家墓所が残っています。

前日、本郷区役所に婚姻届を提出し、この日はまだ籍が残っていた油井村の長沼家の戸籍から智恵子を除籍した、ということでしょう。












新刊です。

三人書房

2023年7月28日 柳川一著 東京創元社 定価1,700円+税

 大正八年東京・本郷区駒込団子坂、平井太郎は弟二人とともに《三人書房》という古書店を開く。二年に満たない、わずかな期間で閉業を余儀なくされたが、店には松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれた──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、横山大観、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の数々を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩の姿を通じて描く。第十八回ミステリーズ!新人賞受賞作「三人書房」を含む連作集。
 乱歩デビュー作「二銭銅貨」発表から百年の年に贈る、滋味深いミステリ。

目次
 「三人書房」
 「北の詩人からの手紙」
 「謎の娘師(むすめし)」
 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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というわけで、若き日の江戸川乱歩の元に持ち込まれた謎の数々を、快刀乱麻を断つ如く(死語ですね(笑))、博覧強記頭脳明晰で行動力にも富む乱歩が次々と解決していく、という連作推理小説です。

全五話から成り、それぞれに語り手が交代。乱歩の友人だったり、弟たちだったり……。ちなみにタイトルの「三人書房」は、乱歩が二人の弟と共に一時期経営していた古書店の屋号です。

そして最終話「光太郎の〈首〉」では、光太郎が語り手。戦後の七年間、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、光太郎がやはり乱歩によって真相の解明された昭和初期の奇妙な事件を回想するという形です。

奇妙な事件というのは、光太郎が作ったブロンズの胸像が依頼主の元から盗難に遭い、さらに無残に破壊されて見つかるということがたてつづけに起こり……というもの(架空の話ですが)。イタズラや怨恨や金目当てなどではなく、犯人には、光太郎彫刻を破壊しなければならない切羽詰まった事情があって……という設定ですが、詳しくはお買い求めの上、お楽しみ下さい。

ちなみに乱歩の代表作の一つ「D坂の殺人事件」の「D坂」は、かつて「三人書房」があり、さらに光太郎アトリエ兼住居にも近い団子坂です。『高村光太郎全集』には乱歩の名はありませんが、近くに住んでいた同士、顔を合わせたことくらいはあったでしょう。

その他、内容説明欄にある通り、宮澤賢治(第二話の章題にある「北の詩人」)、宮武外骨、横山大観らが登場。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたく存じました、又先日は届書の事にていろいろ御世話さまになりましたが、昨日区役所へ無事に届済みとなりました。今晩小生等は二本松へ出発いたします、お墓まゐりを致した上どこかの温泉にてしばらく静養いたしてまゐります、

昭和8年(1933)8月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

」は婚姻届。永らく事実婚だった光太郎智恵子でしたが、ついに届けを出しました。智恵子の心の病が昂進し、光太郎は結核。万が一、先に自分が死ぬことがあったら、法律上、妻ではない智恵子に相続の権利がないことを考慮し、正式な夫婦となりました。

光太郎自身には財産と呼べるものはほとんどなかったのですが、この頃まだ健在だった父・光雲が没すれば、相当額の遺産が入ることが予想され(実際、翌年に光雲が亡くなり、相続した遺産が後の智恵子のゼームス坂病院入院費用に宛てられます)、それをふいにしたくないという……。

ただし、夢幻界の住人となってしまっていた智恵子に、その意味が理解できたかどうか……。

どこかの温泉」は、巡った順に、裏磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車の出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2023年8月5日(土)・6日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8/5 午前10時 献石神楽朝御饌祭 午後5時30分 夕御饌祭
      8/6 午後5時30分 夕御饌祭 午後6時10分 斎火受渡・渡祭始式
         午後6時30分~午後11時30分ごろ 渡祭

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。地区の名前でしょうか。
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他にも「太一丸」という団体?の祭車にも光雲工房作の彫刻が使われていますが、こちらは人手不足で最近出ていないようです。

同祭、昨年、BSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、いわば演奏・演舞を奉納します。
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ちょうど放送が始まった時間、まさに「羽衣」の祭車の順番でした。
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光雲の手になる彫刻も、何となくわかりました。

ただ、これより後の順番だった祭車はしっかり彫刻などが映り、番組ゲストの小川雅生氏(桑名石取祭保存会研究員)による細かな解説もあって、「羽衣」も、もう少し後の登場だったらよかったのに、という感じではありました。
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ちなみにゲストはもうお一方、女優の大西礼芳さん。三重県のご出身だそうで。
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大西さん、光太郎と面識のあった村岡花子をモデルとした平成26年(2014)の朝ドラ「花子とアン」や、『青鞜』編集部を舞台とした演劇「私たちは何も知らない」にご出演されていた方です。

番組では、平成28年(2016)に同祭を含む日本全国33の山車祭りがユネスコ世界遺産に登録された件についても触れられていました。
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一度、拝見に伺いたいものです。お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草津へ来ましたがちゑ子は始めてです、お湯がよいのでからだにきき相談に思ひます、

昭和8年(1933)5月18日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の湯治のため、草津に。この際は現在も続く旅館「望雲」さんに宿泊しました。8月から9月にかけては、東北、栃木と複数の温泉めぐりに出かけ、そちらは有名ですが、草津行きの件はあまり取り上げられていません。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

テレビ番組の再放送情報です。

興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHKBSプレミアム 2023年7月23日(日) 13:30~14:30

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】
 興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介
 東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

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BS8Kさんで今年2月に放映された番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月に放映されました。で、今回、再放送。

前後編60分ずつで、前編は明日放映ですが、日曜日放映の後編の方で光太郎に触れられています。

天平彫刻と、鎌倉期の康慶・運慶父子の彫刻作品との比較の中で。
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光太郎の担当は天平彫刻、釈迦十大弟子の一人、富楼那(ふるな)像の映像と共に。
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昭和17年(1942)の『婦人公論』に6回にわたって連載された評論「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)から言葉を引用。
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ただし、引用部分はこの像だけに対する評ではなく、広く天平彫刻全般についてのものです。平安期の神護寺薬師如来像を語る中で、それ以前の天平期はこうだった、という文脈です。光太郎には「十大弟子像」そのものを論じた詩文もあるのですが、それらからの引用ではありませんでした。ついでにいうと、テロップに「随筆」とあるのもちょっとなぁ……という感じなのですが、いたしかたありますまい。これに限らず、光太郎の評論は無機質な評論の枠を超えた名文ですので。

その他、番組内容説明にもある通り、興福寺さんの魅力が様々な角度から取り上げられます。ご覧になっていない方(ご覧になった方も(笑))ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】001

おたづねの団扇は左図のやうなものですが果して今日も存在するや否や、頑古にして風雅、風流にして実用的。


昭和4年(1929)4月25日 原静枝宛書簡より
 光太郎47歳

時折ある絵入りの書簡の一つ。原という人物からの往信がどんなものだったのか不明なのですが、うちわについての問い合わせに対する返答です。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

明日開幕の企画展等、2件。いずれも東北地方での開催です。

今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯

期 日 : 2023年7月8日(土)~8月20日(日)
会 場 : 米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日 (月曜日が休日の場合はその直後の平日)
料 金 : 一般490(390)円 高大生340(270)円 小中生240(190)円
      ※( )内は20名以上の団体

今泉篤男(いまいずみあつお 1902~1984 米沢市出身)は、戦前から評論活動をスタートし、国内外の美術工芸に関する幅広い分野を対象とした美術評論家です。一方で、東京国立近代美術館初代次長、京都国立近代美術館初代館長を勤めた美術館人でもありました。国立美術館の仕事のほか、資生堂ギャラリーをはじめとする多くの美術館運営に関わり、評論家としては1950年代に日本の「近代絵画」をめぐる問題提起が「今泉旋風」を巻き起こすなど、今日でも美術界全体に今泉の足跡をみることが出来ます。本展では、今泉篤男の遺した多彩な仕事を、ゆかりの作家の作品と今泉の言葉を通して紹介します。

展示構成
第一章 生い立ち 米沢・山形での学生時代 第二章 東京帝国大学~留学 初期の評論活動
第三章 美術批評家 今泉篤男の誕生    第四章 美術館人として 美術評論家として
第五章 工芸への情熱           第六章 ゆかりの作家たちと郷里へのまなざしと

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今泉は光太郎とも親しく、光太郎は戦時中の昭和19年(1944)には雑誌『美術』に載った「回想録」を今泉に口述したりしています(掲載は翌年)。

そこで、光太郎の木彫「鯰」のうち、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの(大正15年=1926)が出張。
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他に濱田庄司、椿貞雄、梅原龍三郎、安井曾太郎、平櫛田中、バーナード・リーチら、光太郎と関わりのあった面々の作も。さらにルノワールや加守田章二(高村光太郎受賞者)なども。

もう1件。同日開幕で、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~

期 日 : 前期 2023年7月8日(土)~8月2日(水)
      後期 2023年8月5日(土)~9月3日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 8月3日(木)、8月4日(金)
料 金 : 一般 ¥1200 (1000) 高・大学生 ¥1000(800)  中学生以下無料
      ※( )内は前売り、20名以上の団体

本展では、伊藤若冲や琳派を中心とした江戸時代の絵画や近代絵画の名品など、皇室ゆかりの名宝をご覧いただくとともに、秋田県出身の平福百穗が結成した「金鈴社」のメンバーの作品など、秋田県ゆかりの絵画や美術工芸品(明治時代の七宝や彫刻、金工品)を展示します。あわせて、明治天皇や秩父宮雍仁親王による秋田県訪問の様子を納めた写真をパネル展示し、皇室と秋田県のつながりをご覧いただきます。
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皇居内の三の丸尚蔵館さんが改修中のため、出開帳的な。これまでも各地で行われてきていますし、今年はこの後も、光雲作品が出るそれが岡山と石川でも予定されています。

秋田で出品される光雲木彫は「文使」(明治33年=1900)。ただし前期(7/8~8/2)のみです。

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当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し逓信省から献上されたもので、台座部分には螺鈿と蒔絵の装飾も施されているなど、入魂の作です。

光太郎、光雲共に木彫作品を直に見られる機会はそう多くありません。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻界の対人関係などにあまり頭を使はない方がいいかと思ひます。さういふ事は皆一場の喜劇に過ぎません。


昭和2年(1927)5月6日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

山本の父・瑞雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。稚彦自身も彫刻家となりました。光太郎同様、二代目的な部分でいろいろあったのでしょうか。

訃報を2件。

まず、彫刻家にして元東京藝術大学さん学長の澄川喜一氏。今朝の『朝日新聞』さんから。

澄川喜一さん死去 彫刻家 スカイツリー監修

000 抽象的な木彫で知られた文化勲章受章者で、東京芸術大学長も務めた彫刻家の澄川喜一(すみかわ・きいち)さんが4月9日に91歳で死去していたことが分かった。同大学が発表した。
 島根県に生まれ、山口県の錦帯橋を見て木の造形にひかれ、同大学で彫刻を学んだ。母校の教授や美術学部長を歴任し、95年~2001年に学長を務めた一方、新制作展を中心に作品を発表。70年代後半から続く、木の反りを生かした抽象的な「そりのああるかたち」シリーズで評価された。 その造形性を生かし、東京湾アクアライン川崎人工島「風の塔」に関わり、東京スカイツリーではデザイン監修。平櫛田中賞、本郷新賞といいた彫刻賞のほか、日本芸術院会員にもなった。各地で石や金属による野外彫刻も多く手がけた。

戦後、東京美術学校から改組された東京藝術大学さんの美術学部彫刻科を卒業され、母校の教壇に立たれました。光太郎の父・光雲から連綿と続く同大の彫刻の伝統を受け継ぎつつも、革新的な抽象彫刻を得意とされました。さりとて具象彫刻を否定されたわけではなく、公共空間での彫刻のあり方として、光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像などは高く評価なさいました。また、氏は島根県のご出身で、同郷の森鷗外の顕彰などにも関わられたことがありました。

もうお一方、昨日、亡くなられました。高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。
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しばらく前から闘病されていたそうでしたが、昨年の高村光太郎研究会ではご病気をおして発表、今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さいました。

お通夜が本日6月22日(木)18時~、告別式は明6月23日(金)11時~、それぞれ大阪府泉南郡田尻町葬祭場(〒598-0092 大阪府泉南郡田尻町吉見335番地1)で執り行われるとのことです。

澄川氏、西浦氏、謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

急に来たくなつて、昨夜遅く高崎へ来て、今朝一番の汽車で沼田へ行くところです。右の窓には例の赤城、左には榛名がすつかり晴れ渡つて見えます。 今日は又山を歩いて法師の湯までゆかうと思つてゐます。


大正14年(1925)6月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎43歳

温泉好きだった光太郎、東京在住時には、特に上州の温泉をよく訪れました。「例の赤城」とあるのは、かつて水野と共に赤城山の猪谷旅館に長期滞在したことがあるためです。



昨日は三越百貨店日本橋本店さんに行っておりました。主目的は、渡辺えりさんご出演の舞台「三婆」の拝見。
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特に光太郎智恵子らと関わる内容ではないのですが、渡辺さんからの「観に来なさい」圧が凄く、さらに、妻が「チケット取って!」。どうも当方と共にえりさんご出演のテレビ番組をいろいろ観ているうちに、あろうことか(笑)渡辺さんのファンになってしまったようです。

ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
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そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
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当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。

その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
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残念ながら通常非公開で、当方も現物は拝見したことがありません。

この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。

それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。

そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
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ところが、これ以前にも三越さんがらみの大黒天像が、光雲によって制作されていました。

先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
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『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。

生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。

三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
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恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。

「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。

ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。

箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。

ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。


大正14年(1925)1月28日 川西英雄宛書簡より 光太郎43歳

川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。

昨日は都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは上野の森美術館さんで昨日始まった「第4回日本木彫刻協会展」。
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仏師の関侊雲氏が会長を務められている一般社団法人「日本木彫刻協会」さんの主催です。
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受付でいただいたフライヤーに、「事業内容」の一つとして、こんな記述。
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なるほど、大切なことですね。

そこで、積極的に入門者等を募集されているようです。
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木彫のみでなく、仏画も。
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素晴らしい!

さて、展示作品を拝見。
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こじんまりした会場で、さほど展示点数も多くなく、ちょうどいい感じです。大規模な公募展等で「これでもか、これでもか、いやいや、まだまだぁ!」というスタイルだと、申し訳ありませんが食傷気味になってしまいますので。
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関氏、それから高弟とおぼしき方の作品。
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こういう作を前にすると、同じ日本人として誇らしくなりますね。

それから、名誉会員のテノール歌手・秋川雅史氏の作。光太郎の父・光雲が主任となって皇居前広場に据えられた「楠木正成銅像」の模刻。申し訳ありませんが、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として、こちらを拝見するのがメインの目的でした。
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外連も衒いも韜晦もなく、実に真摯に作られているのがよく分かります。こちらが出品された一昨年の二科展、昨年の秋川氏個展ともに見逃していましたので、ようやく拝見できて満足でした。

同じく秋川氏、昨年の二科展入選作。
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さらに金剛力士像。群馬県前橋市の天明寺さんに納められる予定の像の下絵だそうで。
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秋川氏、いつのまにかテノール歌手としてではなく、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げられていました。かなり本気ですね。今後ともそれぞれの分野でご活躍されることを祈念いたします。

ところでこんな展示も。
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関氏、今年の大河ドラマ「どうする家康」のお仕事もされているそうで。

当方、同番組は拝見していませんので存じませんでしたが、毎週書かさず見ている妻にこの画像を見せたところ、「ああ、これ!」。かなり重要なモチーフのようでした。

会場の上野の森美術館さんを後に、すぐそばの、やはり光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」にご挨拶。
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その後、永田町の国会図書館さんへ。
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昨年12月のデジタルデータリニューアルに伴い、自宅兼事務所のPCで閲覧できるデータ数が飛躍的に増大。その結果、『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品などが続々見つかっています。ただ、大人の事情で自宅兼事務所のPCで閲覧できず、館内限定閲覧可のデータも多く、そちらを調べに行った次第です。

集中力が保てませんので2時間ちょっと、明治末から昭和初めまでのデータを調べ、やはり『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品を見つけてきました。散文と、書簡(雑誌に転載されたもの)のそれぞれ複数です。高村光太郎研究会さんから来春発行予定の年刊誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。それから本日誕生日の智恵子がらみでも実に面白い婦人雑誌記事を見つけました。大正末のものですが、いずれこのブログで紹介します。

しかし、まだまだ調べるべきデータが山のようにあり、これから何度も通うことになりそうです。「浜の真砂は尽きるとも世に光太郎智恵子の種は尽きまじ」という感じです(笑)。

さて、「第4回日本木彫刻協会展」。会期が短く5月23日(火)までですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

此間お話の御尊父の肖像製作の事は大変たのしみに思つて居ります それに佐渡ははじめての処故秋の風景などいろいろ想像してみて居ます


大正7年(1918)6月13日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。のちに光太郎はその歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀、装画を手がけます。

「御尊父の肖像製作」は結局実現せず、代わりに、というわけでもないのでしょうが、木彫の「蟬」が贈られましたし、湖畔の愛娘で夭折した道子の肖像画を描きました。また、この年の10月に佐渡島を訪れた際には、書幅も残しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さん。守衛作品を純錫製のミニチュアにしたもの5種を発売なさいました。

純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種

新しいミュージアムグッズ 錫製品に荻原守衛彫刻シリーズが、ついに登場。作品を3Dスキャンし、3Dプリンターで出力した像の修整を経て型取りした、精巧なミニチュアです。木台座、桐箱付、各4,600円。 別途送料とお振込手数料がかかります。 ※ご注文頂いてからの製造につき、お手元届くまで半月ほどお時間をいただくことがございます。ご了承くださいませ。
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《女》高さ 約6.5cm 《坑夫》高さ 約5cm 
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《宮内氏像》高さ 約5cm 《文覚》高さ 約5cm 《女の胴》高さ 約5.5cm

いい感じですね。

5点中、守衛絶作の「女」と留学中の作品「坑夫」は、光太郎がその保存に関わったものです。
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「女」は、令和2年(2020)にトーハクさんと藝大さんの協力の下、ブロンズで像高25㌢ほどの縮小模刻が発売されましたが、今回のものはさらに小さいサイズで価格もお手頃です。しかも小さいからといって侮る勿れ、ちゃんと3Dスキャンによる制作です。

光太郎作品もこんな感じでのミニチュア化があってもいいように感じました。ブロンズの「手」とか、木彫の「蟬」「鯰」「白文鳥」など。ただ、大人の事情で難しいでしょうね。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、地元の土産物店などで昔からミニチュアが作られていますが、しょせんお土産品ですので……。

ちなみに光太郎の父・光雲の「老猿」は、平成27年(2015)にポリストーン(石粉、合成樹脂混合)製のレプリカ(像高20㌢)がトーハクさんから出ていますし、「西郷隆盛像」も3D彫刻複製といううたい文句で販売されています(像高37㌢)。

閑話休題、碌山美術館さんのシリーズ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子への御葉書は直ぐ転送いたします ちゑ子は医者の言葉によつて今年は海へ行く事にして 福島県相馬郡原釜 金波館に滞在して居ります いつでもあなたからのお便りを大変うれしがつて居りますから 時々御葉書をやつて下さい

大正6年(1917)8月9日 旗野すみ子宛書簡より 光太郎35歳

旗野すみ子(スミ)は、日本女子大学校での智恵子の後輩。新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に住んでいました。スミの姉・ヤヱがやはり日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。スミは後に結婚して再上京、立川の農事試験場付近に住み、光太郎智恵子夫婦と交流が続きます。
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こちらは大正2年(1913)の『読売新聞』。

さらに大正5年(1916)、旗野家で撮られた写真。左端が智恵子、後列中央がスミです。
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福島県相馬郡原釜 金波館」は、結婚前の少女時代から智恵子が家族共々何度も訪れていた定宿。現在の南相馬市原釜尾花海水浴場です。

現代の仏師の方々などの作品展です。

第4回日本木彫刻協会展

期 日 : 2023年5月19日(金)~5月23日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園 1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

展示物 現代仏師・木彫刻作家による仏像・パネル・置物などの木彫刻 約30点
出展者 協会会員、準会員を中心とした、プロ及びプロを目指す木彫刻作家数名
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画像に使われている作品は、テノール歌手にして同会準会員の秋川雅史氏の作。一昨年の第105回二科展入選作です。

秋川氏、同会会長の関侊雲氏に師事なさり、木彫に取り組まれています。元々は光太郎の父・光雲の木彫に魅せられてのことだそうで、上記作品も光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻です。
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同作、先述の第105回二科展の他、昨年開催された秋川氏の個展にも出品されました。一昨年には『毎日新聞』さんで同作について語られています。

また、令和元年(2019)には、光雲作の木彫「寿老舞」を引っ提げて、テレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」にご出演。1,200万円という高額鑑定となりました。その後、同作は平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に貸し出されました。また、同展の図録には秋川氏と現代の作家さんたちの対談も収録されています。

会期が短いのが残念ですが、日程的に都合がつけば拝見に伺おうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう

大正6年(1917)3月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎35歳

「こんな所」は福島・いわき。大理石は石灰岩の一種で、関東や福島の山地でも産出します。注文のあった石彫の制作のため、大理石を入手する目的での旅でした。光太郎、生涯に何点か石彫作品も制作しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。

『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。

重文が語る 近代美術評価の変遷 東京国立近代美術館で51点展示

 全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
 明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
 本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
 会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
 岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
 5月14日まで。展示替えあり。

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4月25日(火)、『朝日新聞』さん。

なぜ重要文化財に? たどってみたら 東京国立近代美術館に51点集結 

 「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
 高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
 主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
 しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
 確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
 しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
 大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
 そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
 こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
 評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
 黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。

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今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。

会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
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「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。

評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。

彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。

それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。

言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。

今後の議論を待ちたいところです。

ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
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ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。

さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)


大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。

田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。

4月24日(月)、『毎日新聞』さんの滋賀県版に載った記事。

<名品手鑑Ⅱ(めいひんてかがみ2)> 滋賀の博物館・美術館探訪/62 醒井木彫美術館 森大造の多彩な作品群 今にも跳ねそうな「卯」 仏像、干支にちなむ動物信楽焼のレリーフまで/滋賀

 醒井木彫(さめがいもくちょう)美術館のそもそもの発端は、木彫の里出身の森大造(もりたいぞう)(1900~88)の遺作を里帰りして故郷に納める倉庫を探していたことに始まりました。木彫の里は醒井から3キロさかのぼった川筋に、田畑もなく山にかかわる暮らしをした、江戸末期より宮大工に始まる木彫が今日にも伝わるところです。たまたま醒井在住の岩嵜家が、倉庫ではなく木彫の里の現役・物故作家の作品も一緒に森大造の遺作と一般公開する美術館に、という展開が現実になりました。美術館正面の扉は、木彫の里現役作家による天女のレリーフ像でにぎわいます。
  世界の彫刻史はギリシャの代理石像と近世記念碑に見るブロンズ像の流れが主流で、木彫は天災人災で保存が難しく、幸い日本には仏像の形で寺院に多く残されました。木彫の里では、寺院建築の内外を飾る彫刻と仏壇の内陣に見る精緻な伝承の紋様を彫り続け、高村光雲(たかむらこううん)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に見る人形師系列のリアルな作風を踏襲しています。
 森大造はその流れをくみつつ創意を重ね、個性豊かな一刀彫りの表現による、多彩なモチーフの作品を制作しました。大別すると、祈りの造形である仏像、必ずしも古仏の再現ではなく図象学に基礎を置く昭和の仏像を、微笑薬師やにっこり地蔵など親しい仏像を心がけました。また日本独特の文化を探り、俳句に見る人間模様の造形、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)、蕪村(ぶそん)、特に奥の細道と題した美術館にある馬上の芭蕉像は定評の作品でした。一方で究極の動と静を窮めた能彫を、竹生島・小鍛冶・石橋・松風など極彩色のものも多く制作しました。
 最後に木彫を超えて、素材は多岐にわたり、展覧会制作による空間構成を意図した造形です。美術館裏にあるセメントの「楯(たて)」は、戦争中の制作で醒井小学校の国旗掲揚塔に設置されたものでした。なお、彦根城内金亀公園には井伊直弼(いいなおすけ)像、彦根駅前には初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)の馬上像、また米原市役所の屋外に見る壁面には信楽焼の陶によるレリーフの家族像が残ります。他に、醒井駅前には霊山三蔵(りょうせんさんぞう)像と居醒(いさめ)の清水には日本武尊(やまとたけるのみこと)の像も。木彫だけでなく造形家の顔も見ることができる作品群です。
 ここでは生活の場にみる動物、今年は干支(えと)の卯(う)年にあたり兎(うさぎ)を掲載しました。ただの兎ですが単純なものほど想をねる作業の繰り返しで、ふくよかでうずくまったポーズの次の瞬間はどこに跳ぶのか、静かな中に動きのある親しい作品です。来年の辰(たつ)は、唯一実在の動物ではなく雲から湧き上がった形になりました。
  森大造発想の原点は日常生活にあり、夜寝ている時と健康を害して臥(ふ)せている時以外は彫刻が頭から離れず、正に彫刻することしか能のない、大は屋外に見る銅像から小は白檀(びゃくだん)の切れ端で女性と子供の装身具までと、一貫した彫刻人生でした。材木屋さんが建築材にならず誰も使わない木材を運び込むと、その中に何かを発想して彫り出すことを楽しみました。神代檜(じんだいひのき)というボソボソの木材で霊山三蔵を、美術館にもレリーフ状の彫刻が二、三収まりました。
 動きも音もなく、昨今のテレビや動画にみるにぎやかで騒々しい趣向から遠く離れて、清流のほとりにある静謐(せいひつ)を極めたたたずまい。そこに、名もなくお金もなくひたすら木を彫り続けた大造さんの作品に囲まれて、こよない平和な時を過ごすことができる空間になりました。

一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
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森と光太郎の関わり、その一。

昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
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こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。

森と光太郎の関わり、その二。

光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
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しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。

当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。

それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。

昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
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境内左手の森の中に観音堂。
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扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
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かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。

どちらもいいお顔をしていますね。

ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
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面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。

というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。


大正5年(1916)8月25日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がらみで3件。

まずは『八戸経済新聞』さん。

十和田湖遊覧船が今期の運航開始 船からしか見られないスポットも

 春の行楽シーズンに合わせ、十和田八幡平国立公園に指定される十和田湖の見どころを船で巡る「十和田湖遊覧船」の今期の運航が4月28日、始まる。
 運航は十和田観光電鉄。奥入瀬渓流側の子ノ口(ねのくち)と乙女の像や飲食店などが並ぶ休屋(やすみや)を結ぶAコースと、休屋を発着点とするBコースを運航する。
 遊覧船は、青森ねぶた祭や八戸三社大祭の山車の題材にも使われる南祖坊(なんそぼう)と八ノ太郎(はちのたろう)の「十和田湖伝説」や、田沢湖(秋田県)・支笏湖(北海道)に次いで全国で3番目に水深が深いことなど、十和田湖にまつわる物語や豆知識の解説を交えながら名所を巡る。ゴールデンウイークの4月下旬~5月上旬ごろは新緑を目前に控えた淡い色合いの景色が広がり、5月中旬~6月上旬ごろは鮮やかな新緑が楽しめる。
 同社によると、中山半島の先端付近で傘のように枝を広げる「見返りの松」や、3キロにわたって断崖が広がる御倉半島の「千丈幕(せんじょうまく)」、火山噴火の影響で形成された赤い岩肌が見られる「五色(ごしき)岩」などは、「船で行かないと見られない名所」だという。
 同社では、マイカーで十和田湖を訪れる場合は有料駐車場のある休屋発着のBコース、観光バスなどで訪れる団体客にはAコースの利用を勧めている。
 料金は、大人=1,650円、小学生=880円。3階に用意するグリーン席の追加料金は、大人=550円、小学生=330円。今期の運航は11月6日まで。
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何度か載せていただきましたが、湖上から見る風景はまた違ったものですし、海とは違い波もほとんど無くおだやかなクルーズです。北国の春を楽しむにはもってこいでしょう。

同じく船の関係で、ローカルテレビ局RAB青森放送さんのニュースから。

八戸港 4年ぶりクルーズ船

 八戸港に4年ぶりに大型客船が寄港しました。
 ことしは初めて外国客船の寄港も予定されるなど、県内観光の盛り上がりが期待されます。
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 けさ八戸港に入港したのは大型客船「飛鳥Ⅱ」5万142トンです。
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 2019年5月以来およそ4年ぶりとなる大型客船の寄港。
 埠頭では地元の観光関係者が大漁旗を振って歓迎しました。
 「飛鳥Ⅱ」は横浜港を23日に出て常陸那珂や大船渡を巡る6日間の船旅です。
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 あいにくの雨模様とはなりましたが、およそ140人の乗客たちはさっそく貸し切りバスに乗り込み十和田湖・奥入瀬渓流や蕪島・種差海岸などに向かいました。
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★神奈川から
Q.どうですか船旅は?
「楽しいです」
「いろいろなところを見て歩きます 乙女の像にも行ってきます」
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★京都から
「きょうだけねちょっと雨が残念ですけれど 奥入瀬初めてなのでものすごく楽しみにしていたんです」
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★VISITはちのへ 阿部寿一 専務理事
「本格的な観光の始まりというのを実感しています おもてなしの心を大切にしてお出迎えに対応していきたいと思っています」

 八戸港にはことし大型客船4回の寄港が予定されています。
 このなかにははじめて外国客船も含まれていて、県内観光の盛り上がりが期待されます。

「コロナ禍」という単語が使われていませんでしたが、「4年ぶり」とくればそういうことなのでしょう。この手のクルーズ船、ただ海上を周遊するだけでなく、寄港地でバスに乗り込み、周辺の観光が為されます。そこで八戸港から十和田方面へも。ありがたいところです。

最後に、再び『八戸経済新聞』さんから。「乙女の像」の語は出てこないのですが……。

青森・黒石の作家が「青森だいすきシール南部版」制作 青森愛をシールで表現

 青森県黒石市でイラストを手がける「青森のあやちか」さんが八戸を中心とする青森県南部地方の名所や名物のイラストを集めた「青森だいすきシール南部版」を制作し、4月16日に販売を始めた。
 はがきサイズほどのシートに、「八戸三社大祭」の山車、「八戸えんぶり」の烏帽子(えぼし)、郷土玩具「八幡馬」、国宝「合掌土偶」、郷土菓子「南部せんべい」、横浜町の菜の花畑や十和田市の奥入瀬渓流の風景など、南部地方の名所や名物をちりばめた。イラストはタブレット端末とタッチペンで描き、手描き風に仕上げた。
 青森のあやちかさんは青森市出身。県外で創作活動をしながら社会人生活を送っていたが、コロナ禍を受け黒石市に移住。久しぶりに住んだ青森県で「何となく描いたのがリンゴだった」といい、これをきっかけに青森県を題材にしたイラストを描き始めた。SNSに投稿したイラストを見た人からは「かわいい」「とても良い」などの反応があり、「シールにすれば、いろいろな人に喜んでもらえる」と考えたと言う。
 昨年11月、「ねぶた」「ねぷた」の山車や、「青森りんご」「大間のマグロ」などの特産物・海産物、「岩木山」「弘前の桜」など津軽地方の名物・風景を描いたイラストを1枚のシートに集めた「青森だいすきシール」を制作し、「松の湯交流館」(黒石市中町)・青森県観光物産館アスパム(青森市安方)の「青森県地場産セレクト」などで販売。シールを見た人から「南部や下北のイラストも描いてほしい」などのメッセージが複数寄せられ、「南部版」の制作を始めた。
 SNSに寄せられたメッセージや図書館で読んだ資料などを参考にイラストを制作。これまで縁がなかった旧南部領の祭り、文化、観光スポットなどを描くことで「自分の中の『青森』は津軽地方が中心だったと感じた」と話し、南部版の完成によって「自分が知らない青森の物がまだあると気づいた」と振り返る。「青森の文化や歴史を調べると、とても面白い。古くからあるものを今でも取り入れて生活できている青森を、面白くいとおしく感じる」とも話し、現在は下北版の制作に向けて準備を進める。
 完成した南部版について「メモ帳や土産品など、いろいろなところにペタペタと貼って楽しんでほしい」と呼びかける。
 価格は500円。カネイリのミュージアムショップ(八戸市三日町)・番町店(番町)・イオンモール下田店(おいらせ町中野平)・さくら野弘前店(弘前市城東北3)、青森県地場産セレクト、松の湯交流館で扱う。
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「青森だいすきシール南部版」、右下に「乙女の像」がきっちり描き込まれています。

昨年末でしたか今年はじめくらいでしたか、イラストを描かれた「青森のあやちか」さんから当方のツイッターアカウントに「乙女の像」をイラスト化して使っていいものかどうかというご相談がありまして、「全く問題ありません」的な返答を致しました。公共空間に設置された彫刻ですし、実際、いろいろイラスト化なども為されています。

十和田市ご当地ナンバー。
ハローキティ十和田湖限定乙女の像バージョン。
十和田湖ひめます認証店ロゴ。
青森空港巨大ステンドグラス「青の森へ」完成披露除幕式。

漫画家の能町みね子さんにいたっては、「乙女の像」を主人公にした漫画まで描かれています。

というわけで、「乙女の像」、こういった形でも愛され続けてほしいものです。

ところで、昨日、現物が届きました。
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黒石市の有限会社小野商会さんがフェイスブックでシールを紹介されていて、「送付していただけますか」とメッセージを送ったところ、送料120円で送って下さいました。多謝。

ただ、現在のところ、大々的にオンラインでの販売を為さっているサイト等が見あたりません。今後に期待します。

【折々のことば・光太郎】

それつぱかりの金がないのかなあと君は思ふだらうと考へるが事実ないんですよ 文展なんかで子供だましの絵でも平気でふだん画いてる人にとつてははした金にも足りない位の金でせうがそれの出来ない僕には中々はした金ではないんです しかし金はかりたくない 自分でやつぱり作つてからにします

大正3年(1914)3月4日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

」は詩集『道程』の出版費用です。内藤は版元の抒情詩社社主でした。

大正元年(1911)のヒユウザン会展では、油絵を寺田寅彦が購入してくれましたが、そうした例は他にほとんどなく、収入といえば僅かな原稿料と、父・光雲の下職としてのもののみ。これではいかん、と、この後、油絵の頒布会を始めますが、当の光太郎自身が遅筆でした。

結局、『道程』の出版は10月。費用は光雲に出して貰っています。

テレビ放映情報です。

アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜 #48いま会いに行ける銅像 後編

BSフジ 2023年4月29日(土) 13:30~13:55

街を歩いていると、ふと出会い、注目をして歩くと実にさまざまな場所にいる「銅像」。身近にあるけど、よく知らない、知るほどに謎が深まる「銅像」の世界を紐解いていく。

先週に引き続き、アートの冒険に出かけるのは女優の坂東希。長年、銅像を研究しているスペシャリストと共に、東京都内の銅像を巡る。

今回は、現在増え続けている「キャラクター像」や「偉人像」、そして銅像の作り方なども取り上げる。さらに、現役の芸大生に“見ると楽しい東京の銅像”も教えていただく。

出演者:坂東希  ナレーション:松本穂香

4月15日(土)、「前編」のオンエアがあり、拝見しました。
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番組説明欄の「長年、銅像を研究しているスペシャリスト」は平瀬礼太氏。ご著書を何冊か拝読したことのある方でした。
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光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校として請け負った、皇居前広場の楠木正成像が、長めの尺で取り上げられました。
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さらに、同じく光雲主任、美校総出での制作になる上野の西郷隆盛像もちらっと。
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番組後半では、ロダン。日本に於けるロダン受容の歴史等について、国立西洋美術館研究員・山枡あおい氏のレクチャーの中に、光太郎の名も。
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さて、4月29日(土)は「後編」。「現在増え続けている「キャラクター像」や「偉人像」、そして銅像の作り方など」にスポットを当てるそうで、今回は光雲や光太郎にはあまり関わらないかも知れませんが、一応、ご紹介しておきます。

ちなみに予告編動画には、「前編」で取り上げられなかった、志村けんさんの銅像などがちらっと写りました。
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銅像の作り方」には非常に興味があります。動画で見られる機会は滅多にないような気がしますので。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】真山孝治宛て書簡

上高地名産

大正2年(1913)8~9月(推定)
真山孝治宛書簡より 光太郎31歳

この年8月上旬、光太郎は信州白骨温泉を経て、上高地に着きました。

偶然と思われますが、歌人の窪田空穂、画家の茨木猪之吉、歌人・編集者の谷江風、画家の真山孝治らと同宿でした。また、日本近代登山の父、ウォルター・ウェストン夫妻、伝説のシェルパ上條嘉門次も。

そして9月には智恵子も光太郎を追ってやって来ます。二人は10月まで滞在、ここで婚約を果たしました。

書簡は真山に宛てたもので、窪田と谷との連名です。

窪田が下山するのと同時に智恵子が入山し、驚いた窪田が『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を投稿しました。

4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。

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