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『読売新聞』さん青森版、先週末に出た記事です。

十和田湖 輝く新緑

 十和田湖畔に広がる木々に若葉が生え始め、訪れる人の目を楽しませている。遊覧船やボート、カヌーなどに乗ると、新緑と湖水の青とのコントラストが一望でき、湖畔とはひと味違った風景が楽しめる。
 十和田八幡平国立公園の中にある十和田湖は、周辺にブナなどの林が広がる。透明度が約12メートルの湖水は、光の反射で深い青色からエメラルドグリーンまで様々な表情を見せる。
 10日は白波が立つ荒れた天候だったが、高村光太郎の最後の作品として知られる「乙女の像」の近くにボートツアーがさしかかると、雲の切れ間から日光が差し込み、ブロンズ像と新緑、湖水のブルーが輝いていた。
 十和田奥入瀬観光機構は、「10、11月の晩秋まで多くの観光客に楽しんでほしい」としている。
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画像からも湖畔の新緑の美しさが伝わってきますね。

ただ、記事中の「最後の作品」というのは誤りで、「最後の大作」というべきです。何度も書いておりますが「最後の作品」は、完成したものとしては、昭和28年(1953)10月21日に行われた「乙女の像」の除幕式の際に関係者に配付された記念メダルです。小品ですが黙殺されていいものではありません。また、体調不良で未完のまま終わりましたが、その後取り組んだ「倉田雲平胸像」も含めれば、そちらも「最後の作品」ということになります。
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004ネット上や印刷物だと関係団体さんなどの紹介であっても「乙女の像」を「光太郎最後の作品」としている記述が目立ち、辟易しておりますが、一度こうとなってしまうとたとえ事実と異なっていてもそれが定着してしまうという例ですね。

閑話休題、「新緑」ということで、これも再三取りあげていますが、「新緑」を謳歌する光太郎詩を。

     新緑の頃
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて005
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

昭和15年(1940)、雑誌『婦人之友』に掲載されました。既に日中戦争が泥沼化、国家総動員法がしかれていた時期で、「日本という国は何と素晴らしい国なのだ!」というプロパガンダ的な要素が見え隠れします。

そういう点を抜きにすれば、いい詩ですね。

さて、「新緑」の十和田湖、ぜひ足をお運び下さい。先月末からは遊覧船の運航も再開していますし。

【折々のことば・光太郎】

他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。


昭和22年(1947)9月15日 菊池正宛書簡より 光太郎65歳

自著に序文を書いてくれ、という依頼に対しての断りの一節です。詳しくはこちら

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

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高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

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こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
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「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
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P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

注文しておいた新刊が届きました。

瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家

2024年4月10日 土田昇著 みすず書房 定価4,200円+税

 町の仏師から日本を代表する木彫家、帝室技芸員、東京美術学校教授へと登りつめた高村光雲。巨大な父の息子として二世芸術家の道を定められながら、彫刻家としてよりもむしろ詩人として知られることになる高村光太郎。そして、刀工家に生まれた不世出の大工道具鍛冶、千代鶴是秀。
 明治の近代化とともに芸術家へと脱皮をとげ栄に浴した高村光雲は、いわば無類の製作物を作る職人でありつづけた。その父との相似、相克を経て「芸術家」として生きた光太郎の文章や彫刻作品、そして道具使いのうちに、著者は職人家に相承されてきた技術と道徳の強固な根を見る。
 戦後、岩手の山深い小屋に隠棲した光太郎が是秀に制作を依頼した幻の彫刻刀をめぐって、道具を作る者たち、道具を使って美を生みだす者たちの系譜を描く。
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目次
第一章 職人の世界――火造り再現の旅のはじまり
火起こし / 千代鶴是秀の鍛冶場 / 仕事の領分――冷たい鉄と熱い鉄 / 鋼作り / 地金作り / 鍛接 / 火造り / 山の鍛冶場 / 最後の職人たち――作業感覚に支えられて / 売るためでなく / 「絶滅種」の道具 / 剣錐を造る / 本三枚の刃物の難しさ / 本三枚と格闘する / 出来る時には出来てしまう / 驚異の青年鍛治 / 本三枚の切出小刀の製作仲介 / 作業感触の支配下で

第二章 道具と芸術
不思議を転写した彫刻 / 芸術家とはなにか / 美しいとはなにか / 大工の技術、彫刻家の技術 / 大工の研ぎ、彫刻家の研ぎ / 岐れ道を歩む者たち――千代鶴是秀と高村光太郎 / 千代鶴是秀と明治日本 / 高村光雲と明治日本 / 明日の小刀を瀏瀏と / 高村光雲の彫刻道具 / 仏像作家、森大造と道具 / 特殊鋼の刃物、純炭素鋼の刃物 / 是秀作、左右の印刀――実用本位の刃物 / 津田燿三郎の墨坪 / 道具はどう機能すべきか――森大造と津田燿三郎

第三章 職人的感性と芸術家――高村光雲と光太郎
高村光雲『幕末維新懐古談』との出会い / 『光雲懐古談』想華篇――「省かれてしまった部分の方が面白い」 / 芸術家父子と技法の移譲――岩野勇三と岩野亮介 / 息子がなす無謀――父親と同じではいない / 職人手間、物価の話と、道具の単位 / 世間に知られぬ名人の話 / 無類の制作物を作る「職人」たち――村松梢風『近代名匠傳』 / 職人の道徳――錆びた木彫道具 / 父との相似、相克――息子、光太郎と「のつぽの奴は黙つてゐる」 / 《薄命児》と川縁の地 / 二代目芸術家の洋行 / 帰国と芸術論「緑色の太陽」 / あやうい上手さからの脱却のシミュレーション――「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」 / 鋸の色と切味の間の微妙な交渉 / 鋸の製作 / 健康な道具の色 / 三尺の目と一厘の目 / 職人と社会の問題 / 芸術家と社会の問題、芸術家と戦争――佐藤忠良、西常雄 / 「まだうごかぬ」――高村光太郎と西常雄 / 千代鶴太郎と彫塑の師、横江嘉純 / 息子がみつめた「父の顔」 / 工房の中の芸術家――光太郎による光雲作品の評価 / 木彫地紋――修業の第一歩 / 木彫地紋を彫る小刀 / 小さな木彫作品群――《桃》と《蟬》、光雲の荒彫りの洋犬 / 道具調べと職人道徳 / 後進の彫刻家にとっての高村光太郎 / 十和田湖畔の裸像 / 研ぎという刹那な達成 / 名人大工<江戸熊>の研ぎ / 光太郎の変容、是秀の変容 / 随筆身近なものへの感触の確かさ――「三十年来の常用卓」/ 折りたたみの椅子

第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎
コロナ禍の研ぎ比べ――是秀の二本の叩鑿 / 錆びた彫刻刀――光太郎と是秀の接点たる道具 / 光雲の玄能、光太郎の彫刻刀 / <マルサダ>の一文字型玄能 / 錆落とし / 父の検証 / 研ぎ / 焼班やきむら / 仮説と消えゆくウラの文様 / 異形、異例の彫刻刀

借受記録帳より――光太郎のアイスキ刀 図面および寸法と覚書
参考文献
あとがき

著者の土田昇氏は、三軒茶屋の土田刃物店三代目店主であらせられます。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等を行う職人さんであると同時に、お父さまの二代目店主・一郎氏と交流のあった伝説の大工道具鍛冶・千代鶴是秀作品の研究家としてもご活躍。平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を刊行されています。

千代鶴是秀は光太郎の木彫道具も制作しましたし、実現したかどうか不明なのですが、光太郎は終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。また、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎を、是秀が中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。「乙女の像」の石膏取りをした牛越誠夫は是秀の娘婿でした。

是秀が光太郎のために作った彫刻刀は、令和3年(2021)に東京藝術大学正木記念館さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で初公開されました。その少し前に髙村家で見つかったもので、土田氏がその錆び落とし、研ぎにあたられたとのこと。「第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎」に、その経緯や作業の工程などが詳しく語られていて、実に興味深く拝読いたしました。

問題の彫刻刀は、先端部分のみを木製の柄にすげる通常の彫刻刀と異なり、柄の部分まで鉄で出来た「共柄」と呼ばれるタイプ。当方、この手の道具類にはさほど詳しいわけではなく、現物を拝見した時には「へー、このタイプか」と思っただけでした。しかし、本書を読むと「共柄」のものは実用に適さず、土田氏は「異形」とまで言い切られています。光太郎と交流のあった朝倉文夫は、わざわざ是秀が作った「共柄」の彫刻刀の鉄製の柄に木製の柄をかぶせていたそうで。

また、材質も特殊。是秀は早い時期から日本の伝統的な「玉鋼」ではなく、より良質な輸入鋼の「洋鋼」による制作を主流としていたにもかかわらず、光太郎の彫刻刀は「玉鋼」製だったとのこと。そうした異形、異質な作品が光太郎に作られた理由について、考察が為されています。

また、光太郎の父・光雲が使っていた玄能(げんのう)についても。こちらは「丸定」という明治期の名工の作。こちらも錆び落としや柄の補修などを土田氏が担当され、そのレポートも読み応えがありました。作業が一段落した際の記述に曰く「空振りするだけで、握る手、振り上げ振り下ろす肩や腕に制作者丸定と、柄をすげて実用した光雲が憑依しているかのように感じました」。

昨日届いたばかりですし、300ページに迫る厚冊ですので、まだ全て読み終えていませんが、他にも『光雲懐古談』、光太郎のさまざまな評論やエッセイ、詩についての考察などがちりばめられています。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等に取り組まれている土田氏の読み方は、やはりいわゆる「評論家」のセンセイとはひと味もふた味も違います。なにげに読み飛ばしてしまうような一行に、「この背景にはこういうことがある」という指摘、唸らせる部分が多々ありました。

また、光雲や光太郎の周辺にいたさまざまな彫刻家などについての記述も。荻原守衛はもちろん、森大造などについても触れられていて、舌を巻きました。

ちなみにタイトルの「瀏瀏と研ぐ」は、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)からの引用です。

   鯰

 盥の中でぴしやりとはねる音がする。000
 夜が更けると小刀の刃が冴える。
 木を削るのは冬の夜の北風の為事(しごと)である。
 煖炉に入れる石炭が無くなつても、
 鯰よ、
 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
 檜の木片(こつぱ)は私の眷族、
 智恵子は貧におどろかない。
 鯰よ、
 お前の鰭に剣があり、
 お前の尻尾に触角があり、
 お前の鰓(あぎと)に黒金の覆輪があり、
 さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
 何と面白い私の為事への挨拶であらう。
 風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
 智恵子は寝た。
 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水(とみづ)を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

土田氏にかかると、終わりから二行目の「研水(とみづ)を新しくして」だけでも深い意味。詳しくはぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩稿「暗愚小伝」(題名未定)は、いつまでも書き直してゐてもきりがありませんから此の十五日までに遅くもそちらに届くやうにするつもりで居ります。 一応読んでみて下さい。雑誌でも検閲があるのでせうが一切自由に書きましたからご注意下さい。

昭和22年(1947)6月1日 臼井吉見宛書簡より 光太郎65歳

自己の生涯を振り返り、同時に戦争責任にも言及した20篇から成る連作詩「暗愚小伝」。前年から取り組んでいて、ようやくほぼ脱稿しました。これを書く前と後とでは、花巻郊外旧太田村での山小屋生活の意味もかなり変容したように思われます。移住当初はここに仲間の芸術家たちを招いて「昭和の鷹峯」を作るといった無邪気な夢想もありましたが、続々入る友人知己の戦死の報(木彫「鯰」を贈った新潟の素封家・松木喜之七なども)、東京で巻き起こった戦犯追及の声などに押され、自らの戦争責任を直視せざるを得ず、「自己流謫」へと。「流謫」は「流罪」に同じです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
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「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
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終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」ライトアップも為されているはずの「第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう」が先週金曜に開幕し、その模様が報じられています。

ATV青森テレビさん。

冬空に200発の花火や名物「かまくらバー」も!「十和田湖冬物語」が開幕

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冬の十和田湖をイルミネーションや花火で彩る「十和田湖冬物語」が、2日に開幕し、訪れた人たちが、幻想的な世界を楽しみました。
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十和田湖冬物語は十和田湖休屋地区の特設会場で始まりました。イルミネーションで色鮮やかに飾り付けられた会場では大きな「かまくら」を使ったバーが登場。訪れた人たちはお酒を飲んだり、肉まんや串焼きといった温かい食べ物を食べたりして楽しんでいました。
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また午後7時半を迎えると、冬の澄んだ夜空に200発の花火が打ち上げられました。
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※訪れた人は「きれいでした。よかったです見に来て。」「花火、音楽と一緒に上がってきれいでした」「雪があっての花火ですごいきれいでした」
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十和田湖冬物語は2月25日まで毎週火曜日と水曜日を除いて開催され、イベント期間中の週末にはステージイベントも行われます。
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RAB青森放送さん。

十和田湖冬物語 開幕 毎日 冬空に花火

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冬の十和田湖が満喫できる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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会場の十和田湖畔休屋地区では4年ぶりにコロナ禍前に戻して、地元の食を味わえる雪灯り横丁やスノーパークが設置されました。
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雪不足が心配されましたが名物のかまくらバーもお目見えしました。

また今月25日までの期間中、午後7時30分から毎日打ち上げられる花火が冬空に大輪の花を咲かせて訪れた人たちが冬の十和田湖を楽しんでいました。
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地方紙『デイリー東北』さん。

澄んだ夜空に光の大輪 「十和田湖冬物語」開幕

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔休屋地区で2日、厳寒期の自然の魅力に触れる「十和田湖冬物語」が開幕した。雪が舞う夜空に光の大輪が咲き、来場者が見入っていた。25日まで。
 冬期の誘客促進などを目的に、実行委員会(中村秀行委員長)が主催して26回目。期間中は火、水曜を除き、午後7時半から花火約200発を打ち上げる。1玉7千円のメッセージ花火もある。
 会場の多目的広場は入場無料。新型コロナウイルスの5類移行を経て、飲食を提供する屋台村が4年ぶりに復活した。酒類を扱うかまくらバーを含め、地元業者ら7店舗が出店し、家族連れや訪日客らでにぎわいを見せた。
 初日は十和田市無形文化財の「晴山獅子舞」も披露された。週末には青森、岩手、秋田3県の芸能パフォーマンスが行われる。
 東京都から夫婦で訪れた主婦服部博子さん(68)は「澄んだ空の冬花火は華やかできれい。思い出の一つになった」と喜んでいた。
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会場の十和田湖畔休屋地区、半端ない寒さですが、その寒さを吹き飛ばす熱気に溢れていることと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

あのいただいた和紙は実に珍重です。秋には障子をすつかり新しくします。ワラビ糊をつくつて張るつもりです。 貴下手植えの萩は今年花を持つかどうか分りませんが、勢は盛んです。

昭和21年(1946)8月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

前年5月の花巻疎開の折には光太郎を花巻まで送りとどけた宮崎が、久しぶりに茨城から光太郎に会いに来ました。障子紙や萩の苗は手土産。花巻町中心街の宮沢賢治実家や花巻病院長・佐藤隆房から託されたものかもしれませんが。

この書簡には萩の葉のイラストが描かれていました。
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昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
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こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
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先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
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新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
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大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
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あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
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その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
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さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
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光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
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宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

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もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」の立つ、青森県十和田市からイベントの復活情報です。

第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう

期 日 : 2024年2月2日(金)~2月25日(日)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

 1998年度に十和田湖畔で誕生したイベント「十和田湖冬物語」が、今年で26回の開催を迎えました。
 今年は屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します。また、毎年好評の「冬花火」や、県境を跨ぐエリアの特徴を活かした冬の国境まつりなど、冬の十和田湖をお楽しみいただけるコンテンツをご用意しております。
 その他にも、冬ならではのアクティビティや、期間限定の食魅力などが追加される予定です。詳細が決まり次第、公式HPにて公開いたします。
 当イベントを通して、閑散期の集客を促進し、観光施設やサービスの利用増加に繋げて、地域を盛り上げていきたいと考えております。
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冬花火 19:30打ち上げ(音楽と花火ショープログラム5分程度)
厳しい冬の澄み切った夜空だからこその「冬花火」。木曜〜月曜まで、音楽と花火がシンクロした花火ショーが行われます。
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雪灯り横丁 17:00~20:00
コロナの規制がなくなり屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します!わいわい楽しい屋台料理をお召し上がりください。
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冬の国境まつり
青森・秋田・岩手の北東北三県の芸能のパフォーマンスを毎週末開催。
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スノーアクティビティの充実
好評の滑り台やスノーランプなどのほか、雪でつくった特別観覧シート、連携事業者によるバナナボートなど。
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このイベント、平成10(1998)年度に始まり、永らく湖畔休屋地区での屋台村を中心としたイベントでした。当方、平成25(2013)年度平成29(2017)年度と、2回、お邪魔いたしました。その後、スタイルが変わり、令和2(2020)年度と翌令和3(2021)年度はイルミネーションが中心に。当方、2度目の際に行って参りました。それぞれ「乙女の像」のライトアップが為されていました。

そのままイルミネーション系のイベントとして続くのかな、と思っておりましたところ、昨年度はウォーキングのイベントがあった程度で「あらら……」という感じでしたが、今年度、また屋台村を中心とした昔のスタイルに戻して実施とのこと。「乙女の像」のライトアップもまた為されるやの情報も得ております。

JRさんのバスが八戸から、そおれとは別に十和田市街から「十和田湖アクセスバス」というのも出ているそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は東京でよく食べに行つたトンカツヤの主人がだしぬけに訪ねてきたので驚きました。秋田の温泉に行つたかへりとの事。コーヒーとサツカリンをもらつて久しぶりにカフエノワールを賞味しました。


昭和21年(1946)7月12日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

終戦からおよそ1年、世の中もだんだん落ち着いてくると、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に昔の知り合いがぽつりぽつり訪れるようになりました。

「トンカツヤ」は三河島の「東方亭」。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。
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新刊です。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻

2023年11月30日 小田原のどか著 制度社青土社 定価4,200円+税

破壊される瞬間に、彫刻はもっとも光り輝く
彫刻を「思想的課題」と自らに任じ、日本近現代の政治・歴史・教育・芸術そしてジェンダーを再審に付す。問い質されるは、社会の「共同想起」としての彫像。公共空間に立つ為政者の銅像が、なぜ革命・政変時に民衆の手で引き倒される無残な運命に出遭うのか――。画期的かつ根源的な思索の書。
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目次
 プロローグ
 1部 彫刻をめぐって
  1.彫刻という名前
  2.われ記念碑を建立せり――「水俣メモリアル」を再考する
  3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく
  4.不可視の記念碑
  5.モニュメント・マスト・フォール?――BLMにおける彫像削除をめぐって
  6.彫刻とはなにか――「あいちトリエンナーレ2019」が示した分断をめぐって
  7.女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか?
  8.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?
  9.箱(キューブ)をひらく――ジャコメッティの彫刻とコレクション/
キューレイション/エキシビジョン
  10・三島由紀夫への手紙
 2部 固有の場所から
  1.爆心地の矢印[長崎]――矢形標柱はなにを示したか
  2.この国の彫刻のために[長崎]
  3.彫刻を見よ[東京]――公共空間の女性裸体像をめぐって
  4.拒絶から公共彫刻への問いをひらく[福島]
ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって
  5.被爆者なき後に[広島]――広島平和記念資料館
  6.“私はあなたの「アイヌ」ではない”[白老]――ウポポイ(民族共生象徴空間)
  7.「過去」との絶え間ない対話のために[韓国]――《平和の女子像》をめぐって
  8.旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築
 3部 時代との共鳴
  1.ウェブ版「美術手帖」ファイル
   1.ナガサキのあとに彫刻は作れるのか――「森淳一 山影」
   2.共産主義と資本主義の裂け目で――
The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Projects
   3.彫刻という困難――小谷元彦「Tulpa-Here is me」
   4.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか? Ⅱ――青木野枝「霧と山」
   5.私たちは何を学べるのか?――「表現の不自由展・その後」評
   6.公共建築から芸術祭へ――到達/切断地点としての「ファーレ立川」
   7.美術史という「語り」を再考する――コレクション特集ジャコメッティと Ⅱ
   8.名の召喚――柳幸典展
   9.「傷ついた風景の向こう」に見えるもの――
DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに
   10.帰宅困難と自宅待機――Do'nt follow the Wind
   11.コロナ禍は美術館に何をもたらすか?
――『ラディカル・ミュゼオロジー』『美術館の不都合な真実』を手がかりに
   12.女性器が「選ばれない」世界で――遠藤麻衣×百瀬文 新水晶宮
   13.「歌う」から「語る」へ――彼女たちは歌う Listen to Her Song
   14.「個」と「公」を仲立ちし、たぐり寄せる。――加藤翼「Supersturing Secrets」
   15.マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト
――カタルシスの岸辺「光光DEPO」
   16.相次ぐ告発、美術業界の変化のただ中で――居場所はどこにある?
  2.「東京新聞」ファイル
   1.彼女たちは歌う
   2.アイヌの美しき手仕事
   3.性差(ジェンダー)の日本史
   4.石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
   5.小泉明郎+オヤマアツキ「王の二つの身体」
   6.シアターコモンズ/第13回恵比寿映像祭/TPAM
   7.アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド――建築・デザインの神話
   8.女が5人集まれば皿が割れる
   9.膠を旅する――表現をつなぐ文化の源流
   10.白川昌生展 ここが地獄か、天国か。
   11.山城千佳子リフレーミング
   12.ロニ・ホーン――水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
   13.Vira Video!――久保田成子展
   14.イミグレーション・ミュージアム・東京多国籍美術展
  3.ぐるぐるキョロキョロ展覧会記――『芸術新潮』ファイル
   1.コレクションを活かす/隠す
   2.越境者を照らす光――ヤン・ヴォーーヴ・ンヤ
   3.“世界初”の国際芸術祭は新たな基準となるか
――ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW――光の破片を捕まえる」
   4.選べない私を選ぶ
――鴻池朋子 ちゅうがえり ジャムセッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
   5.名品という視座を味わう――もうひとつの江戸絵画大津絵
   6.排除と収奪の日本史――性差(ジェンダー)の日本史
   7.サイレンスを見つめる――ミヒャエル・ボレマンス マーク・マング
――ダブル・サイエンス
   8.希代のプロモーターの原点を知る――式場隆三郎「脳室反射鏡」
   9.幻視者(ヴィジョナリー)が問いかけるもの
――平成美術:うかかたと瓦礫1989-2019
   10.どっちだと思う?――アネケ・ヒューマン&クミ・ヒロイ、
潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点
   11.時の可能性と対峙する――3.11とアーティスト:10年目の想像
   12.歴史の編み目をくぐり抜ける――
ホーツーニェンヴォイス・オブ・ヴォイド――虚無の声
   13.風穴を開け、空気を入れ換える
――SIDE CORE presents EVERY DAY HOLIDAY SQUAD soloexbition"underpressure"
   14.差異に宿るエナジー――アナザーエナジー展:挑戦し続ける力
――世界の女性アーティスト一六人
   15.破滅と熱狂、その先に――加藤翼 縄張りと鳥
   16.残/遺されたものを見る――Walls & Bridges 世界にふれる 世界を生きる
   17.むき出しの写真と対峙する――
ユージン・スミスとアイリーンスミスが見たMINAMATA
   18.背後の戦争画――3.11とアーティスト小早川秋声 旅する画家の鎮魂歌
   19.「3.11から一〇年」の影に
――せんだいメディアテーク開館二〇周年展 ナラティブの修復
   20.開かれた「フェミニズム」へ向かって
――ぎこちない会話への対応策――第三波フェミニズムの視点で
   21.地球を感知する場――池内晶子あるいは、地のちからをあつめて
   22.「人類よ消滅しよう」――生誕一〇〇年 松澤宥
   23.稀有な複数性の発露 Chim↑Pom展
   24.未然の迷宮――森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
   25.版画に宿る抵抗の精神――彫刻刀が刻む戦後日本
   26.見ること、極限の問い――ゲルハルト・リヒター展
   27.交差点としての美術展――アーティスト支援プログラム
 あとがき


目次を書き写すだけで疲れました(笑)。

彫刻等の実作のかたわら、この手の文筆活動を盛んに行われている小田原のどか氏の評論集です。目次にあるとおり、あちこちに発表されたものの集成で、雑誌『群像』2020年7月号に載った「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」他、ところどころで光太郎に触れて下さっています。

先週末、『朝日新聞』さんに書評が出ました。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻 小田原のどか〈著〉 平和プロパガンダと女性裸体像

 この国には街や公演の随所で女性の裸体像が立っている。なぜ「裸の女」なのか。本書によると、日本の公共空間に「平和」を冠するその第一号がお目見えしたのは1951年のこと。東京・三宅坂に「平和の群像」と題された三体の彫刻が設置された。同じ台座には、戦時中には軍閥の力の象徴として「寺内元帥騎馬像」が置かれていた。
 ところが戦時中の物資不足で騎馬像が金属回収されると台座だけが残される。そこに戦後、当時の電通社長、吉田秀雄の指針で「軍服を脱ぎ捨てた『三美神』」を建立し、新生日本の平和と自由を「広告宣伝とタイアップの彫刻」により広く演出したのだ。著者はそこに連合国軍総司令部(GHQ)が関与した可能性についても触れている。
 街中に氾濫(はんらん)する女性の裸体像は、この平和の宣伝戦略(プロパガンダ)が行き届いた結果だった。だが、そのことで起源は忘れられる。「彼女」たちは「無言」で「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」(高村光太郎)と命じられるしかなかった。しかし忘れてはならない。先の騎馬像の作者は現在、長崎の「平和公園」にそびえる「平和祈念像」と同じ彫刻家、北村西望で、筋骨隆々な裸体の巨人像は力の顕現そのものに見える。先に新生日本と書いたが「ここに『新しさ』はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性がある」――そう著者は書き「戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所」と断言する。
 戦後、日本に「自由と平和」をもたらしたのは、歴史的に言えば「敗戦と占領」にほかならない。ゆえに著者はこの国に氾濫する女性裸体像を「戦後民主主義のレーニン像」と名付ける。そしていつか、それらが引き倒される時が来るかもしれないことに思いを馳(は)せ、長崎に、広島に、水俣にあるモニュメントに「無言」ではなく「応答」しようとし、あえてこれらの「彫刻を見よ」と呼びかけるのだ。
評・椹木野衣 美術評論家・多摩美術大学教授

近年、公共の場に設置された彫刻作品についての論考等がちょっとした流行りになっていますが、平瀬礼太氏などともに、小田原氏もその急先鋒のお一人ですね。

彫刻の場合、同じく昔からある美術作品でも、絵画との大きな相違点の一つがこの辺りにあるような気がしています。絵画でも戦時中の藤田嗣治らの戦争画、戦後も各地に設置された巨大壁画的なもの、或いは大きくないものでもバンクシーの作品群など、プロパガンダ性、メッセージ性を色濃く持つものも存在しますが、3Dの表現である彫刻の方がそうした性格を色濃く持たざるを得ないと感じています。「屋外」ということも大きいと思われます。肖像画が屋外に出ることはめったにありませんが、肖像彫刻は銅像として乱立していますし。

とにもかくにも、ご興味おありの方、お買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

右掌の切開手術をうけに花巻病院長邸に起居。六月末やうやく全治、十日程前に帰つて来ました。右手で文字が書けるやうになつたのも昨今です。畑が遅れ、今大多忙です。


昭和21年(1946)7月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、生まれて初めての本格的な農作業を始めたところ、掌にできたマメが潰れて化膿し、手術まで受ける羽目になりましたが、ようやく完治。

しかしそのため5月16日から7月16日まで、まるまる2ヶ月、日記は書きませんでした。この間(またはやはり日記が欠けている9月21日~10月9日)に昨年国の重要文化財に指定された花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を訪れたのではないかと推定されます。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号の2024年2月号
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巻頭特集が「骨董を楽しむ 再再訪K氏コレクション」全28ページ。「K氏」というのは、記事自体を執筆なさっている古美術愛好家・加瀬礼二氏という方のようです。

古陶磁が中心ですが、光太郎の父・光雲の作も2点。
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まず、鋳金にして量産したと思われるレリーフの原型「因陀羅大将」。おそらく石膏でしょう。裏面には見覚えのある光雲の筆跡で「大正六年一月二日 試作」と書かれています。因陀羅大将は薬師如来十二神将の一柱で、元々インドの土俗信仰の神だったものが仏教に取り入れられたものです。十二、というわけで他の神将ともども方角や年月日などの干支に割り振られ、因陀羅大将は「巳」の担当です。

もう一点、こちらはブロンズで「聖徳太子孝養立像」。
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何が「孝養」かというと、父・用明天皇の病気平癒を祈願するお姿、というわけです。こちらもある意味伝統的な図題で、聖徳太子信仰とともに昔から作られ続けてきたモチーフです。

光雲も好んだというか、注文されることが多かったようで、木彫による複数の作例が確認できています。令和3年(2021)にはテレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に木彫の像が登場、1,500万円の鑑定額がつきました。
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人気の図題と言うことで、ブロンズに写されたものが販売されています。現代の鋳造であればさほどの値段にはなりませんが、光雲生前に、光太郎実弟にして光雲の三男・豊周が鋳造を手がけたものであれば、そこそこの値がつくものです。『小さな蕾』さん掲載のものは大正9年(1920)、豊周鋳造だそうで、まさにこのタイプのものですね。

ちなみに筆者の加瀬礼二氏、令和3年(2021)9月号の同誌にも「高村光雲 聖徳太子像」という記事を寄稿され、他のタイプのブロンズ聖徳太子像をご紹介下さいました。

というわけで、『小さな蕾』2月号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨日は猛烈な吹雪で二丁も歩けないほどでした。もうもうとけむるやうな雪の粉が風景をまつたくかき消してしまひました。開墾にもまだ手がつきません。

昭和21年(1946)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる地吹雪というやつですね。前年秋から独居生活を始めた花巻郊外旧太田村、3月半ばでもこうなのか、と、新鮮な驚きだったようです。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

新春を彩るにふさわしい企画展です。

開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美

期 日 : 2024年1月4日(木)~3月3日(日)
      前期:1月4日(木)―2月4日(日) 後期:2月6日(火)―3月3日(日)
会 場 : 皇居三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-8 皇居東御苑内
時 間 : 午前9時30分〜午後5時
休 館 : 月曜日(ただし月曜が祝日または休日の場合は開館し、翌平日休館)
料 金 : 一般1,000円、大学生500円

本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。

※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。

皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22 年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25 年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。

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今秋リニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館さんの開館記念展。第1期の「三の丸尚蔵館の国宝」が既に先月から始まっており、年明けから第2期「近代皇室を彩る技と美」期間に入ります。
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光太郎の父・光雲の木彫、絶対になにがしかは出品されるだろうと予想し、何が出るかなといろいろ調べていたのですが詳細が分からずやきもきしていたところ、昨日になって詳細が発表されました。

それによると光雲作は「猿置物」(大正12年=1923)。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。
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第2期の中でさらに前期(1月4日(木)―2月4日(日))、後期(2月6日(火)―3月3日(日))に分かれ、前期のみの展示だそうです。

他の目玉の展示品は川合玉堂の「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」、横山大観で「日出処日本」、海野勝珉による「蘭陵王置物」(重要文化財)など。いずれも新春らしく吉祥感あふれる作です。

出品目録がこちら。
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観覧には予約が必要ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の冬籠ももう半分通り越して残り惜しいやうな、又春が待たれるやうないろいろの気がします。今年は暖冬に属してゐるやうで零下二〇度の日は一朝だけでした。吹雪のひどいのも一晩だけ。幸に健康でゐます。


昭和21年(1946)2月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

マイナス20℃の日があっても暖冬ですか……。岩手県、おそるべしです。

昨日は約1ヶ月ぶり、おそらく今年最後の上京をしておりました。レポートいたします。

まずは虎ノ門の大倉集古館さん。
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こちらでは先月から「大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉」が開催中です。
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基本、大倉財閥創業者の大倉喜八郎・喜七郎父子の本人たち、それから交流のあったさまざまな人々の書が中心の展示でした。

しかし、受付カウンター脇、展示ナンバー1が光太郎の父・光雲作の木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は喜八郎の号です。

残念ながら撮影禁止。さらに発行されていた図録にも画像が載っていませんでした。特別展示的な扱いなのでしょうか。下記は過去の他の展覧会の図録から。
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像高約50センチ。実に緻密な作りです。二人の着物に大倉家の家紋までうっすら彫り込んであるのには舌を巻きました。また、座布団など、まさに座布団としか思えません。

この像を拝見するのは20数年ぶり2度目。初回は他の光雲作品数十点と共に見たため、この像だけの印象というのがあまり残っておらず、その意味ではいい機会でした。

生きている人物の肖像をやや苦手としていた光雲が、喜八郎の顔の部分は光太郎に塑像で原型を作らせ、それを元に木彫に写すという、何度か行われた手法で作られているため、出品目録では光雲・光太郎の合作ということになっています。

光太郎の喜八郎原型はこちら。粘土を焼いてテラコッタにし、さらにそこからブロンズに写され、同型の物は全国に存在します。左上と下がテラコッタ、右上はブロンズです。テラコッタは左耳の部分が欠けてしまいました。
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ロダン風の荒々しい光太郎の原型も、光雲が木に写すと柔和な感じに。光太郎はそれが気に入らなくて八つ当たりみたいな詩「似顔」(昭和6年=1931)も書きましたが、記念像として注文主がいる作品ではしかたありますまい。

ところで、夫人の方は光太郎が原型を作ったという記録が見あたりません。どうなっていたのでしょうか。詳しい方、御教示いただければ幸いです。

その他、出品目録は以下の通り。残念ながら他に直接光雲、光太郎に関わる展示品はありませんでした。それでもなかなかの優品揃いでしたが。
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その後、新宿へ。

JR新宿駅東南口を出てすぐのK’s cinemaさんで一昨日封切られた映画「火だるま槐多よ」を拝見。
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「槐多」は光太郎と交流のあった画家、村山槐多。タイトルの「火だるま」は光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用です。赤い絵の具「ガランス」を愛した槐多を「火」として表した光太郎、それほど深い関わりではありませんでしたが、鋭く本質を見抜いていたことがうかがえます。

といっても、槐多の伝記映画ではなく、槐多の絵、それから槐多は詩も書いていましたので、その詩と、まぁいわば槐多ワールドを映画で表現するといった趣。ある意味、現代アートのインスタレーションに近い感じでした。槐多本人がこの映画を観たら、「美しい」と言ったような気はします。

したがって、ストーリーはあるものの、緻密な伏線が張られて山あり谷あり、ラストに向けて伏線が回収されてどんでん返しが複数回、最後に大団円、というタイプの作りではありません。困ってしまった映画評論家のセンセイは「映像美を楽しもう」的な評でごまかしています(笑)。

公式パンフ(1,000円)。佐藤寿保監督と、佐野史郎さんら主要キャストの皆さんのサイン入りでした。
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光太郎詩「村山槐多」の全文も収録されています。
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映画の中では抜粋で引用されていました。

また、槐多に惚れ込んだ窪島誠一郎氏の文章も掲載されています。当方、窪島氏が設立し槐多の作品を多数展示していた信濃デッサン館さんを訪れたことが複数回ありますが、その後、同館閉鎖後、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルされてからはまだ行っていません。すぐ近くに亡父の実家があるのですが、交流もほぼ無くなってしまいまして……。いずれ近いうちに、とは思っております。

映画「火だるま槐多よ」、K’s cinemaさんでは1月12日(金)までの上映、その他、年明け早々には大阪や槐多と縁の深い長野で封切られますし、順次全国で公開されます。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜は猛烈な吹雪で小屋の中へも吹き込みました。今日は吹雪はやみ、細雪がちらちらしてゐます。


昭和21年(1946)2月4日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。屋根は杉皮葺きで天井板は張らず、壁は粗壁、窓は障子。吹雪の際には寝ている布団にもうっすら雪が積もる程でした。

光太郎の父・光雲作品が出ます。

彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜

期 日 : 2023年12月22日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日 ※1/8(月.祝)、2/12(月.祝)は開館、1/9(火)
      12/29(金)から1/3(水)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
      ( )は20名以上の団体料金

 開館時の平成7年(1995)、400点に満たなかった当館の所蔵品は、現在800点を超えました。これらの所蔵品は、七尾市出身の実業家・池田文夫氏が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」289点と、能登七尾出身の長谷川等伯の作品6点を含む「能登ゆかりの作品」に大別されます。ジャンルは絵画・工芸・彫刻・書・写真など幅広く、時代も中世から現代までと多岐にわたっています。
 当館ではこれらの作品を多くの方にご鑑賞いただくため、年に数回テーマを変えながら展覧しています。今回は「自然とともに」「彫刻って面白い!」の2テーマで計57点を紹介します。
 一言で「彫刻」といっても、粘土・石膏・ブロンズ・FRP(繊維強化プラスチック)・石・木・金属などの素材があります。技法においても、粘土のように肉付けして成形する塑像(そぞう)や、型を作って制作するもの、石や木を彫ったり組み合わせたりしたもの、さらには様々な金属を加工した作品など多種多様です。
 また、「これはなんだろう?」と思う抽象作品から、「本物そっくり!」と思える具象作品まであって、それら彫刻作品の多様性が、面白さや魅力でもあるのです。ここでは、様々な素材による、味わい深い彫刻作品34点をお楽しみください。
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七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品を「池田コレクション」として収蔵している石川県七尾美術館さん。

光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)も含まれ、これまでもたびたび展示して下さっています。他に光雲高弟の一人・山崎朝雲の彩色木彫「土部」(昭和27年=1952)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)なども。
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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「記録」一巻は大本営を過信した小生の不明の記録となりました。


昭和20年(1945)12月26日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

詩集『記録』は昭和19年(1944)3月、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された翼賛詩集です。戦争終結後、光太郎の戦争責任を糾弾する声がほうぼうから上がり、その際、最も槍玉に挙げられたのが『記録』でした。

「記録」というタイトルについては、同書の序文に述べられています。

「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。(略)物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

そして昭和22年(1947)に書かれた自らの半生を省みる連作詩「暗愚小伝」でも。

    真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのは
 ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
 つひに太平洋で戦ふのだ。002
 詔勅をきいて身ぶるひした。
 この容易ならぬ瞬間に
 私の頭脳はランビキにかけられ、
 咋日は遠い昔となり、
 遠い昔が今となつた。
 天皇あやふし。
 ただこの一語が
 私の一切を決定した。
 子供の時のおぢいさんが、
 父が母がそこに居た。
 少年の日の家の雲霧が
 部屋一ぱいに立ちこめた。
 私の耳は祖先の声でみたされ、
 陛下が、陛下がと
 あえぐ意識は眩(めくるめ)いた。
 身をすてるほか今はない。
 陛下をまもらう。
 詩をすてて詩を書かう。
 記録を書かう。
 同胞の荒廃を出来れば防がう。
 私はその夜木星の大きく光る駒込台で
 ただしんけんにさう思ひつめた

太平洋戦争が始まり、もはや抒情的な詩など書いている場合ではない、そこで代わりに叙事詩的な詩でもって、この未曾有の時を「記録」するのだ、というわけでしょう。

しかし、戦後となって振り返ってみれば、その自分の選択は大きな過ちであったということに気づかされます。『道程』、『智恵子抄』などで積み上げてきた豊かな抒情詩の世界を自らぶち壊してまで挑んだ「記録」は、ただ空虚な「不明の記録」に過ぎなかった、と。この場合の「不明」はイコール「暗愚」ですね。

何度も書きますが、こうした光太郎の真摯な反省などには目もくれず、詩「十二月八日」(昭和16年=1941)の一節をSNSに上げて喜んでいる幼稚なネトウヨには怒りを覚えます。今年の12月8日には、何ととある地方議会の議員のセンセイまで。ぞっとします。

また、「暗愚小伝」中の「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」についても、それこそが「暗愚」だったと光太郎が書いているのに、それが理解できず「光太郎、すばらしい!」と言っている輩も……。頭を抱えたくなります。






始まってしまっている展覧会ですが、昨日、気が付きました。

大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉

期 日 : 2023年11月15日(水)~2024年1月14日(土)
会 場 : 大倉集古館 東京都港区虎ノ門2-10-3
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、
      12/29~12/31 ※年始は1月1日より開館します
料 金 : 一般 1,000円 大学生・高校生 800円 中学生以下 無料

今から150年前の明治6(1873)年10月、大倉喜八郎によって大倉組商会が設立されました。大倉組商会は後に15財閥の一つに数えられる大企業に成長します。本展では大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示し、詩作や書の贈答によって結ばれた交流の様を展観いたします。

大倉集古館には、大倉喜八郎と交流をもった中国清時代や、明治大正の偉人たちの書が所蔵されています。彼らは折に触れ歌を詠み、それを贈り合いました。また、喜八郎自身は、光悦流と称する自らの書風によって歌を書きあげ、嫡子の喜七郎は、松本芳翠に書を学び、友とともに漢詩を作り軸に仕立てました。大倉財閥150年をめぐる偉人たちの交流の跡を示す書の数々を展示いたします。
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はじめ、各地に同型のブロンズがある光太郎作の「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出ているのかと思ったのですが、さにあらずでした。出品リストによれば、展示されているのはそちらを元に光太郎の父・光雲が制作した木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は大倉の号です。
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リストでは光雲・光太郎合作となっています。現に生きている人物の肖像彫刻はやや苦手としていた光雲、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを見ながら木彫にすることがあって、この像もその一つ。法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもその手法で制作されています。また、塑像となると、まるまる光太郎が代作した作品が4点ばかり確認できています。

光太郎はこんなことを書き残しています。

 首は可成作つたが、半分以上は父の仕事の下職のやうにしてやつてゐたから、半ば父の意志が入つて居り、数は沢山拵へたけれど自分の作には入らない訳だ。私が粘土で原型を拵へても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀されて了ふ。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵へたものだが、出来上つたものはまるで元のものとは違ふ。(「回想録」昭和20年=1945)

ある意味、仕方のないことだと思いますが。

ところで、この書きぶりだとまだ同様の作がたくさんあるような感じですね。個人の肖像などで知られていない例が相当数あるのかもしれません。

「大倉鶴彦翁夫妻像」、二十数年前に一度拝見しましたがそれ以降目にしておりません。今月末に上京する予定がありますので、その際に、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野心平さんの事大に心配してゐたところ、おてがみに同封の同君のテガミ拝受、又おてがみによりて草野夫人や子供さん達が郷里にかへられて居る事を知り、なつかしく存じました。


昭和20年(1945)11月6日 川鍋東策宛書簡より 光太郎63歳

戦時中、中国にいた心平の消息が終戦後にまるでわからず、気を揉んでいたところにもたらされた心平無事の報。心平にしても、光太郎が岩手に疎開し、そのまま居着いているとは夢にも思っていなかったため、連絡が取れなかったのでしょう。

心配は翌年3月には復員、9月に光太郎の隠棲していた太田村を訪れ、再会を果たします。

光太郎に私淑し、そのDNAを受け継いだ彫刻家の一人、佐藤忠良について『読売新聞』さんから。

御堂筋から撤去されて5年、彫刻家・佐藤忠良の作品はどこへ…市が展示場所模索

002 大阪市のメインストリート・御堂筋に展示されていた彫刻家、佐藤 忠良ちゅうりょう 氏(1912~2011年)の彫刻作品が撤去され、約5年間、眠ったままになっている。市が設置を依頼していたビル所有者の要望で撤去した後、展示先が見つからないためだ。他の28作品は御堂筋に並ぶが、唯一見られない状態で、関係者からは「素晴らしい作品。新たな場所を早く見つけてほしい」との声が上がる。

今は美術館の一室に…
 市は1992年、格調高いまちづくりを進めようと、「御堂筋彫刻ストリート」事業を開始。2009年までに、企業などからルノワールや高村光太郎ら、いずれも著名な芸術家らの彫刻29作品の寄贈を受け、御堂筋の淀屋橋―心斎橋間(約2キロ)沿いの市有地歩道や、民間のビルの一角に設置した。
 このうち撤去されたままとなっているのは、佐藤氏の「布」(高さ70センチ)。左手に布を持つ裸婦の像で、評価額は1300万円とされる。市は、大和銀行(現・りそな銀行)から003寄付を受け、同行支店が入るビル所有者の協力を得て、1993年から心斎橋付近の御堂筋沿いに展示していた。
  しかし、2015年にビル所有者が代わり、16年に銀行の支店も別の場所に移転。この際、ビルの外装工事を実施するため、所有者が作品の移動を市に求めた。
 市は現状維持を求めたが、工事に支障が出る恐れがあることなどを理由に断られ、18年夏に作品を撤去。市立美術館(天王寺区、休館中)の一室で保管されてきた。
 元々の場所付近で再設置を模索した市は、地元企業でつくる「御堂筋まちづくりネットワーク」(中央区)などに協力を依頼してきたものの、色よい返事は得られなかった。
 このため市は範囲を広げて探している。市幹部は「御堂筋の魅力を高めるため寄贈を受けており、御堂筋以外での設置は考えられない。なるべく早く探したいのだが……」と話す。
 一方、佐藤氏の作品100点以上を所蔵する佐川美術館(滋賀県守山市)の学芸員で、作品に詳しい馬場まどかさんは「高い価値を持つ作品を市民が見られないのは残念。市には柔軟に対応し、新しい場所を見つけてほしい」と求めている。

 ◆ 佐藤忠良= 宮城県出身で、戦後日本の具象彫刻を代表する彫刻家。素朴な女性像が有名で、「群馬の人」など数々の傑作を生み出した。ロングセラーの絵本「おおきなかぶ」の挿絵を描いたことでも知られる。

大阪御堂筋の彫刻群。記事にあるとおり、平成4年(1992)から設置が始まりました。第1号がロダンの「イヴ」。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」も「みちのく」の題で平成6年(1994)、旧三和銀行さんの寄贈によりラインナップに入りました。当方、2度ほど拝見に伺っています。最後は平成21年(2009)にザッキンの「女のトルソ」が設置され、全29体……のはずでしたが、逆に佐藤忠良の「布」が平成30年(2018)に撤去されてしまったそうで……。

これが光太郎と縁のあった忠良の作品だということで当方も報道に気がつきましたが、他の作家のものだと気づかなかったかもしれません。もっとも、忠良作品は御堂筋にはもう1体「レイ」という作があり、こちらは健在ですが。それにしても何だかなぁ……という感じですね。

御堂筋の彫刻群といえば、平成23年(2011)と令和2年(2020)、それぞれ謎の赤い服や花輪がつけられるという「事件」がありました。こういうと大阪の皆さんの気に障るかもしれませんが、この手のパブリックアートを軽んじる風土があるのでしょうか。
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もっとも、パブリックアートと称するものの中には、アートだかガラクタだか分からないと言われても仕方がないものも存在しますが。

ただ、今回報じられた「布」はとりあえず保存は為されているのでまだましですね。今年7月には、旧広島駅ビルの壁面を飾っていた、忠良と同じく光太郎と交流があってそのDNAを受け継いだ舟越保武の彫刻が令和2年(2020)にビルの建て替えに伴って廃棄されていたという件が報じられました。この報道に接した時は腹が立つやら情けないやらでした……。

ちなみに忠良と舟越は親しい間柄で、二人による対談集には光太郎について語り合っている部分があったりします。

二人の間には他にも光太郎がらみの共通点が色々。

まず、二人とも「高村光太郎賞」の受賞者です。同賞は最初の『高村光太郎全集』(筑摩書房)の印税を原資に、昭和33年(1958)から10年間限定で造型と詩二部門で開催されました。忠良は昭和35年(1960)の第三回、舟越は同37年(1962)の第五回受賞です。

二人の合作的なモニュメントも。北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋です。二人、ではなくやはり光太郎のDNAを受け継ぐ柳原義達(第一回高村光太郎受賞者)、本郷新(高村光太郎賞選考委員)も加わった四人の合作で、光太郎の「乙女の像」へのオマージュ的な意図も見え隠れします。ちなみに本郷に関してはネット上などでなぜか「高村光太郎に師事」という記述が為されることが多いのですが、光太郎は弟子という弟子は一切取りませんでした。アドバイス程度は受けたのでしょうが、「師事」という語は使わないでいただきたいものです。

また、忠良の息女は女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。そこで忠良はオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という彫刻も残しています。
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舟越の息女は、絵本編集者の末盛千枝子さん。漢字は異なりますが、光太郎に「ちえこ」と名付けられました。当方、オリエさんとは面識がありませんが、末盛さんとはたびたびお会いしています。そこで前述の広島の報道にはなおさら心が痛みました。

そして御堂筋。舟越の彫刻も御堂筋彫刻ストリートに設置されています。忠良、舟越、光太郎の作品が野外で同時に見られるのはここだけではないでしょうか。

御堂筋、将来的には車道を廃し、すべて歩行者用道路とする計画もあるやに聞きます。その際には(できればそれを待たずに)、忠良作品「布」もしかるべき場所に再設してほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子のお墓、お詣りして下さつたさうでまことにありがたく存じます。おまけに大変な風雨の日であつたさうで尚更忝く存じます。墓所も何も今では見廻る家人もなく荒れ果ててゐることと心苦しく存ぜられます。五日には花巻でも雨でしたが、智恵子の切抜絵の額の前へ心ばかりの線香を焚き、お茶を上げ、林檎や茸を供へたのみでした。


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10月5日の智恵子命日に関わります。「智恵子のお墓」、というか髙村家の墓所は染井霊園ですが、この時点では光太郎に代わって髙村家を継いだ実弟・豊周の一家は疎開先の長野からまだ戻っていませんでした。

翌10日には、花巻町中心街の松庵寺で、父・光雲のと併せて法要をしてもらいます。

師走に入り今更感がありますが、妻と共に一昨日に行って参りました紅葉狩りのレポートを。

行き先は隣町の成田山新勝寺さんとそちらに付随する成田山公園。先々週くらいに放映されたチバテレさんのローカルニュースで「紅葉が見頃を迎えました」的なのがあり、行ってみようかと。

車を駐める都合も考え、まずは成田山公園。さっそくいい感じに木々の葉が色づいていました。
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成田山公園といえば園内に書道美術館さんがあり、平成26年(2014)に与謝野晶子の書を拝見に伺いまして、それ以来でした。

さらに成田山公園といえば、明治末に吉原の娼妓・若太夫を巡って光太郎とすったもんだのあった小説家・木村荘太がここで自裁しました。昭和25年(1950)のことでした。同行した妻にはそんな話をするのも何なので黙っていましたが。

公園を通り抜けると、裏手から新勝寺さんの境内に入ります。こちらにも紅葉した木々がそこここに。
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実は当方、隣町に住んでいながら新勝寺さんにお参りするのは初めてでした。信心深さに欠けるもので(笑)。

ただ、以前からこちらの釈迦堂という堂宇は見てみたいと思っておりましたので、この機会に。元々は本堂だったものです。
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こちらが何なのかといいますと、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)中に「成田不動と其堂羽目彫刻」という章があって、こちらの外壁に施された五百羅漢のレリーフを写真入りで紹介していますし、他の章でも触れられています。こりゃ一見の価値はあるな、というわけで。
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その五百羅漢像がこちら。
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作者は松本良山。光雲が師事した高村東雲のさらに師・高橋鳳雲らと共に江戸三代仏師の一人に数えられた名工です。確かに見事ですね。

他に「二十四孝図」。こちらは『光雲懐古談』では触れられていませんが、島村俊表という彫物師の作。やはり江戸期の作です。
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さらに他の箇所にも見事な彫り物。作者はよく分からないのですが。
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他の堂宇にも。

一切経堂。
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三重塔。キンキラキンですが、現代のものではなく江戸中期の建築で重要文化財です。
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それから、彫刻とは関係なく、現代の建物ですが、光輪閣。大人数での行事等を行うための施設です。
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中に480畳の大広間があり、そちらの襖絵は、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さまにして、同郷の智恵子をモチーフにした絵も複数描かれた故・大山忠作画伯の手になるものです。たまに公開している場合があり、あわよくばと思って行ってみたのですが、やはり非公開でした。

ちなみに襖絵の一部はこんな感じ。分割民営前の郵政省時代、昭和の終わりか平成の初め頃発行された40円絵葉書10枚セットです。
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最初と最後にあしらわれた絵は新勝寺さんの所蔵ではありません。最後が舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた有馬稲子さんを描かれたもの。これが入っていたので購入しました。

ちなみに一色さんのフェイスブックを見ましたところ、来年秋に一般公開が為されるそうでした。その頃また行ってみようと思っています。
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その後、門前に出て昼食。参道も当方の好きな古建築が随所に残り、いい感じです。右下は旅番組、散歩番組などでよく紹介される老舗のうなぎ屋・川豊さん。ここでは食べずに安い蕎麦での昼食でしたが(笑)。
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平日にもかかわらず、善男善女(当方は違いますが(笑))の皆さんで賑わっていました。

自宅兼事務所の庭でも、一本だけある楓が色づいています。
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北国ではとっくに終わっていると思いますが、やはり房総は温暖なのですね。

というわけで、来週末ぐらいまではまだ紅葉が見られるでしょう。成田山、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

太田村にはまだ小屋が建ちません。村の人が営林署から山小屋の小さなのを払下げてもらつてそれを移したいとしてゐるやうです。丸太と藁の小屋よりも雪に強い方がよいといつてゐます。雪は四尺以上のやうな話で、零下二十度といふ事です。小生初めての経験なのでたのしみです。小生の耐寒力のいいためしになります。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

成田郊外三里塚に隠棲していた水野葉舟宛書簡から。山小屋の図面が書き込まれていました。おおむねこの通りの造作となりました。
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昨日は都内で第66回高村光太郎研究会でした。レポートいたします。

同会、当方も会員に名を連ねておりますが、年に一回、会員および会員外の方にもお願いし、研究発表を行っています。

会場は文京区のアカデミー茗台さん。
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昨日の発表者は3名でした。

まず、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏。発表題は「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」。
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「新出“手”書簡」というのは、このブログで令和2年(2020)に4月にご紹介した、『高村光太郎全集』等に漏れていた、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載の光太郎による「手紙」と題する散文(大正7年=1918制作の光太郎ブロンズ「手」に関わります)で、「口村佶郎」はその「手紙」を送られた相手です。

口村佶郎について当方も調べは進めていましたが、よくわからない人物でした。それが、前田氏のご発表でいろいろとわかり、目からウロコの連続でした。

まず『芸術公論』の主幹であったという事実。そこで同誌は個人発行に近いマイナーな雑誌だったため、「手紙」と題する散文が令和2年(2020)まで見つけられなかったのも無理はない、とフォローして下さいました。

それから「手紙」の載った『芸術公論』第3巻第1号には、「名誉毀損事件ニ付青山泰石氏ガ彫刻家米原雲海ノ不正行為ニ関シ東京区裁判所ニ於ケル證言左ノ如シ 口村佶郎ニ対スル名誉毀損事件ニ関シ證人トシテ陳述書」という記事が載っているのですが、この「名誉毀損事件」につき、詳細に。

ことは島根県に建てられた出雲松江藩初代藩主・松平直政の銅像に関わります。元々、地元の青山泰石という彫刻家が像の建立を計画し自ら制作するつもりでいたのが、他の団体の推挙等により、光太郎の父・光雲高弟の米原雲海(やはり島根出身)が制作することになったという出来事がありました。この件に関し、口村が『芸術公論』誌上で米原を糾弾、それに対し、米原側から名誉毀損の訴えが起きたというものです。

その裁判の渦中に光太郎が口村に宛てた「手紙」が『芸術公論』に載ったということで、その末尾近く、「濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません」とあり、そこから光太郎の立ち位置も垣間見える、といった内容でした。

また、米原と言えば、光雲と共に信州善光寺さんの仁王像も手がけていますが、それに関しても似たようなスキャンダル的なものもあったとのこと。

組織としての高村光太郎研究会では、研究発表会での発表者に発表内容をまとめた論文的なものを寄稿してもらっての(それ以外の訳の分からない寄稿もあるのですが(笑))機関誌『高村光太郎研究』を発行しています。次号は来年4月発行予定。詳しくはそちらに前田氏が詳しく書かれることでしょうから、それを御覧下さい。

お二人目の発表は、当会顧問であらせられた北川太一先生ご子息・光彦氏。
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「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」と題され、光太郎智恵子、さらに同時代あるいは先行する様々な分野の人々がどのように「美」というものを捉え、目に見えるよう具現化していったのか、その根底にあったものは……的なお話をなさいました。

ある意味、比較文化論的な内容で、名が挙がった人物は、レジュメの1ページ目だけでも高田博厚、ロマン・ロラン、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、コロンブス、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、コペルニクス、ベーコン、エラスムス、モンテーニュ……。

光太郎智恵子に関しては単体で扱うのではなく、様々な「流れ」の中でどう位置づけられるのか、どういうところからどう影響を受け、それをさらにどう後世に伝えていったのかなど、確かにそうした捉え方も必要だなと改めて感じました。

三人目に当方。「智恵子、新たな横顔」ということで、智恵子に関して直近約10年で発見された新資料等をまとめてみました。
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画像は使用したパワーポイントのスライドですが、最近流行りのモノクロ画像をカラー化するというアプリで古写真をカラー化したものを載せてみました。智恵子に関し新たな資料が発見されるにつれ、言わばよくわからない存在だったモノクロの智恵子から、身近な現実の智恵子へと変貌しつつあるという意味を込めました。

一番言いたかったのは、かつて吉本隆明が『智恵子抄』をして「高村の一人角力(ずもう)」と評し、伊藤信吉や他の論者も同様のことを書き、現代のジェンダー論の方々も頭から『智恵子抄』を様々なハラスメントの象徴して捉えている事への異議です。

智恵子側の資料の発掘が進んでいなかった吉本や伊藤の時代はさておき、現代のジェンダー論の方々は智恵子の書き残したものなどは無視し、最初からアレルギー反応。「光太郎というフィルターを通してではなく、もっと智恵子という人物を直接的に見ようよ」ということです。それは逆に『智恵子抄』を「類い希なる純愛の詩集」と手放しで讃美する見方に対しても言えますね。確かに様々なハラスメントが見え隠れはするので。

この件に関しては新資料の紹介と共に、うまくまとまりますかどうか自信はありませんが、やはり来春刊行の『高村光太郎研究』に書かせていただきます。

発行の頃、またご紹介します。

終了後、窓の外。カーテンを開けたら夕焼け空がいい感じでした。
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その後、懇親会。楽しいひとときでした。
以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

そのうち太田村といふ山間地方に丸太小屋を建てるつもり。追々その地に最高文化の部落を建設します。十年計画。 戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。


昭和20年(1945)8月19日 寺田弘宛書簡より 光太郎63歳

8月10日の花巻空襲で疎開先の宮沢賢治実家も焼け出され、この頃は旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅に厄介になっていました。その後、9月には花巻病院長・佐藤隆房宅に移りますが、10月には郊外旧太田村へ。その構想は終戦後直ぐに持ったようです。

ただ、終戦4日後、まだ自らの戦争責任に関する反省は見られませんで、「戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべき」と戦時中の延長のような考えですし、太田村移住も「最高文化の部落を建設」という無邪気な夢想に近いものでした。

時折、本当に時折ですが、光太郎のブロンズ彫刻が売りに出されます。ブロンズは同一の型から同じ物が作れますので、光太郎歿後に鋳造された物が販路に乗るわけです。といっても無制限に鋳造されることもないので、やはり貴重な機会ではあります。

まず、大阪で昨日始まった展示即売会。「手」(大正7年=1918)が出ています。

古美術上田 EXHIBITION

期 日 : 2023年11月23日(木)~11月30日(木)
会 場 : 竹井事務所 大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号
時 間 : 13:00~19:00
料 金 : 入場無料

超名品!高村光雲の息子であり、智恵子抄で有名な“高村光太郎” 代表作「手」を11月23日~30日の1週間限定で展示販売 ~あの超貴重品を手に入れる今世紀最後のチャンス! 昭和初期美術の名品と共にガラス越しではなく“間近”で!~

株式会社竹井事務所は、竹井事務所2F(所在地:大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号)にて高村光太郎の「手」を中心に、古美術上田による昭和初期美術の展示・販売会を2023年11月23日(木)から11月30日(木)の期間限定で開催します。

昭和初期の日本は、第一次世界大戦による好況が終わり、戦後恐慌によって日本全体が貧しくなった時代です。そんな中で作り上げられた美術品には作家の強い意志が感じられ、その象徴の一つとして高村光太郎の「手」がしばしば挙げられます。不遇の時代に作られた逞しい作品の力と美を間近でご高覧下さい。

【主な展示・販売品】
 ・高村光太郎「手」 ・鋳銅金鶏鳥置物  ・純銀鵞置物  ・青銅器倣花瓶
 ・鋳銅蟹香炉  ・鋳銅蜂文花瓶  ・鋳銅篝火形香炉  他

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会場の「竹井事務所」さんは大阪ですが、主催の「古美術上田」さんは東京都文京区(そこで、下記の別の業者さんによるオークション会場も都内ですし、この記事のカテゴリは「東京都」としました)。

上記の説明文、突っ込みどころが多いのですが……。

まず「今世紀最後のチャンス」。今世紀はまだ80年近く残っていますし……。まぁ、貴重な機会であることはその通りですね。それから「昭和初期」と謳っていますが、「手」は大正7年(1918)の作と確認できています。まぁ、他の展示品の多くが「昭和初期」なのでしょう。

そして、「手」の販売価格。書いてありません。「応談」ということでしょうか。台座を見るとどうも古い鋳造ではないようなのですが、どのくらいで考えているかと、気になりますね。

もう1件、美術品オークションから。

第764回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

期 日 : 2023年12月7日(木)、8日(金)
会 場 : 東京毎日オークションハウス 
       東京都江東区有明3-5-7 TOC有明ウエストタワー5階
時 間 : 12/7(木) 16:00 - (Session1 online)
      12/8(金) 12:00 - (Session2 Auction House)
料 金 : 入場無料

こちらでは、やはりブロンズの「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)が出ます。

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006欧米留学に発つ前年、浅草の花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。

同型のものは、髙村家、碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さんなどにあります。

ところでこの手のオークション、以前はこのブログで度々ご紹介していましたが、一度、光太郎の父・光雲作の木彫ということで出品されていたものが、画像を見ただけでもあまりに「いけない」ものだったので、以後、ここで取り上げるのをやめていました。ただ、今回はブロンズで、まず間違いなさそうなのでご紹介します。

予想落札価格的な設定が100万から150万。まぁ、妥当な線でしょう。「代表作」とは言えない「薄命児」でこの値段ですから、上記の「手」はその数倍ではないかと思われます。

懐に余裕のおありの方(個人でも法人でも)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今朝は西鉛の山のマタギが宮沢さんところへ訪ねて来たので、熊捕りの話をききました。

昭和20年(1945)8月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

「西鉛」は花巻南温泉峡の一番奥にあった西鉛温泉。光太郎は花巻の宮沢家に疎開後、肺炎で高熱を発して約1ヶ月臥床した予後を養うため、6月に1週間程当時に音すれました。

そのあたりのマタギは、賢治の「なめとこ山の熊」に登場しますね。

まだだと思っていたら、始まっていました。

秋のライトアップ2023(夜間特別拝観)

期 間 : 2023年11月16日(木)~12月2日(土)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂(外観のみ)、鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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重要文化財 大鐘楼
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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近年はプロジェクションマッピング(鐘楼の画像に見える葵の御紋など)も取り入れたりしています。

また、例年そうですが、「月かげプレミアムツアー」や「フォトコンテスト」など期間中にさまざまなイベントも企画されています(最上部リンクご参照)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今は青葉の世界となり、北上川がこんこんと満溢して流れてゐます。朝夕河畔へ散歩にゆきます。ここに居ると宮沢賢治の詩がよく分かります。


昭和20年(1945)7月2日 椛澤ふみ子宛書簡より

5月に東京から花巻に疎開し、この時期は未だ花巻に空襲が無く、つかのまの平和でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の顕彰にあたる信州安曇野の碌山美術館さんでの美術講座です。

美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 無料

語り手 : 太田寛さん(安曇野市長、当財団理事)
      平沢重人さん(安曇野市文書館長、臼井吉見文学館長、当財団理事) 

ダルマストーブで暖をとりながら開催する恒例の講座です。
小説『安曇野』完結50年にあたる本年、小説の最後の舞台である当館のグズベリーハウスで、『安曇野』についてお話しいたします。
第5部の臼井とかつての同僚・横沢正彦(荻原碌山研究委員会委員長)とのやりとりや、主人公の一人・荻原守衛を中心としたお話です。
暖かい服装でお出かけください。

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大河ドラマの誘致運動も起こっている小説『安曇野』がらみです。安曇野出身の臼井吉見が昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説で、荻原守衛や支援者の相馬愛蔵・黒光夫妻、そして光太郎も登場します。

市長おん自らのご登壇ということで、市としての熱意も感じられますね。ちなみに平成29年(2017)の「ストーブを囲んで」では、当方も語り手を務めさせていただきました。

碌山美術館さんといえば、安曇野市さんの広報誌『広報あづみの』11月15日号、表紙がドーンと同館碌山館(内壁に光太郎の名も刻まれています)。
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11月5日(日)に一夜限りで行われたライトアップの様子です。紅葉も実にいい感じですね。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

着物は智恵子手織の反物二反にて宮沢さんにたのんでモンペ姿の上下羽織を縫つていただきそれを常用してゐます。宮沢さん一家は実に綿密に小生をいたはつて下さります。まつたく賢治さんのおかげと思ひます。


昭和20年(1945)6月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎63歳

智恵子手織の反物二反」もおそらく防空壕に入れて置いたため、4月13日の空襲による焼失を免れたようです。
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おそらく左画像のちゃんちゃんこと右画像のズボンが同じ生地のように見え、それで「上下」でしょう。右画像の格子縞のちゃんちゃんこがもう一反と思われます。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」。年に1回、研究発表会を行っており、そこで発表した事柄などを各発表者が論文的な文章にまとめ、これも年1回発行されている機関誌『高村光太郎研究』に載せる、と、活動はこれだけなのですが、その研究発表会が下記の通り催されます。会員外の方も参加自由です。ちなみに組織としての研究会のHP等は存在しません。

第66回高村光太郎研究会

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : アカデミー茗台 東京都文京区春日2‐9‐5
時 間 : 13:30~17:00(終了後懇親会あり)
料 金 : 500円(懇親会費別)

研究発表
 「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」 前田恭二氏
 「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」 北川光彦氏
 「智恵子、新たな横顔」 小山弘明

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発表者お一方め、前田恭二氏は武蔵野美術大学さんの教授です。発表題にある「新出“手”書簡」というのは、このブログで令和2年(2020)に4月にご紹介した、『高村光太郎全集』等に漏れていた、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載の光太郎による「手紙」と題する散文と思われます。また、これも発表題中の「口村佶郎」はその「手紙」を送られた相手です。前田氏、当方の投稿を御覧下さったか、あるいは独自にこの文章に辿り着かれるかしたのでしょう。口村佶郎と、光太郎の父・光雲高弟の一人、米原雲海とのからみについて発表されるようで、これは聞き逃せません。

口村佶郎、『高村光太郎全集』にその名が見あたらないのですが、「龍皚」というペンネームを使っており、「口村龍皚」としては『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇にその名が書かれていました。明治45年(1912)3月、精神学院発行の雑誌『心の友』第8巻第3号に口村の文章が掲載されており、目次では「佶郎」、本文は「龍皚」となっており、同一人物であることが判明しました。

お二人目の発表者は、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・光彦氏。「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」だそうで。

最後におまけで当方も。「智恵子、新たな横顔」と題しました。同じような題で、平成26年(2014)10月、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第20回レモン忌」において講演をさせていただきました。その際には、平成2年(1990)、北川太一先生編集になる『アルバム高村智恵子――その愛と美の軌跡――』(二本松市教育委員会)刊行後に発見された智恵子資料(文筆、絵画、写真など)を紹介しました。今回はさらにその後の約10年で発見された新資料等をまとめてみました。

ただ、全てこのブログで少しずつご紹介してきた事柄ではありますので、下記リンクをお読みいただければ済んでしまうのですが(笑)。まぁ、一部は現物も持参します。
 明治35年(1902)智恵子高等女学校時代の写真
 明治40年(1907)智恵子が描いた? 絵葉書
 明治42年(1909)の智恵子を描いたカット
 明治44年(1911)『青鞜』表紙絵
 明治44年(1911)『西洋料理法』装幀
 大正元年(1912)『青鞜』同人 小磯俊子による智恵子評
 大正2年(1913)油絵「樟」モデルの木
 大正12年(1923)『女性日本人』へ寄稿
 大正12年(1923)『婦人之友』が取材
 大正末~昭和はじめ 智恵子愛用の毛布
 昭和3年(1928)『美術新論』に写真掲載

会員外の方も参加自由です。事前予約等も不要です。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】000

御高配により西鉛温泉にまゐり、もつたいない程の病後静養にひたり居候 一週間ほど滞在完全に健康をとりもどしたき念願に有之日々目に見えて体力増進の確信を得申候 清六さんに案内せられて此の仙境に在る事東京の事態を思へば夢のやうに感ぜられ身の幸福を天地に感謝致し居候


昭和20年(1945)6月20日 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開し、翌日から結核性の肺炎でダウンした光太郎、予後を養うため、花巻南温泉峡の一番奥にあった西鉛温泉秀清館(宮沢賢治の母の実家が経営)で一週間の湯治をしました。当時としては珍しい四階建ての日本家屋で、建築設計も行っていた光太郎、その造作に感心しきりでした。残念ながらこの建物は現存しません。

始まってしまっている展覧会です。

五百亀記念館開館10周年記念企画展 秋川雅史彫刻展~彫り奉らん~

期 日 : 2023年10月12日(木)~12月17日(日)
会 場 : 五百亀記念館 愛媛県西条市明屋敷238番地2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日、祝日の翌日
料 金 : 無料

西条市出身のテノール歌手、秋川雅史氏が音楽活動のほか彫刻の分野においても才能を発揮し、制作に挑み続ける初期の作品から最新作までを紹介。また、彫刻師・近藤泰山及び地元で活躍する石水信至、杉森哲明両彫刻師の作品、さらに伊曽乃神社祭礼絵巻の特別展示を行い「西条祭りとだんじり」をもう一つのテーマに地元色豊かに空間を彩ります。

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フライヤーに使われている彫刻は、秋川氏が一昨年、二科展入選を果たされた受賞作。皇居前広場に建つ光太郎の父・光雲作の楠正成像模刻です。今年5月には、上野の森美術館さんで開催された「第4回日本木彫刻協会展」で展示が為されました。その他、これまでの秋川氏の作品がメインです。

で、公式サイトなどにその記述がないので気づかずにいましたが、秋川氏が蒐集された彫刻コレクションも展示されており、光太郎の父・光雲、そして高弟の一人・平櫛田中の作も出ているそうです。

光雲の作はおそらく「寿老舞」。令和元年(2019)、秋川氏がテレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」に鑑定依頼をなさった作です。その後、平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に出品されました。
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お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸ひ無事元気でゐます、屋根瓦を五六枚やられた程度ですみました、昨夜も相当賑やかな事でしたが罹災者の事を考へて終夜火事で明るい路上をうろついてゐました、そのうち太陽が煙の中へ臙脂色に登つて来ました、実に不思議な色でした。此家もそのうちにはやられる事と思つて今所持の物を諸方に分散する事を始めました。


昭和20年(1945)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎63歳

いわゆる東京大空襲の日の書簡です。「屋根瓦を五六枚やられた」のは機銃掃射によるものと思われます。これを機に、智恵子紙絵、光雲遺作、それから自分の作品の一部を郊外に住む友人等の元に疎開させました。

疎開させた光雲作品には光太郎が最も高く評価していた「洋犬の首」が含まれていました。
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光太郎が生まれるずっと以前、少年時代の光雲が横浜で見た西洋犬に衝撃を受け、帰ってすぐ記憶の確かなうちに彫ったという習作です。後の光太郎の木彫に通じるテイストが溢れています。

昨日も書きましたが、結局、4月13日の空襲で光太郎自宅兼アトリエは全焼します。

毎年この時期はそうですが「芸術の秋」ということで、紹介すべき事項が山積しています。日程的なことを考えつつ紹介する順番を勘案しているのですが、時に失念したりもしまして申し訳なく存じます。

また、ある程度共通性のある事項はまとめてご紹介しています。ネタのない時期は1件ずつご紹介するところですが……。

今日は地方紙記事から。

まず、もうすぐ閉幕の展覧会の評。10月25日(水)に共同通信さんが配信し、全国の多くの地方紙さん等に掲載されました。

【3分間の聴・読・観!(15)】芸術に命吹き込む瞬間を捉える 意志ある表現と緊迫感

 アーティゾン美術館(東京都中央区)の「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で、作品を生み出す芸術家たちの強い個性と人間味に感じ入った。作家その人と制作現場を目にすることで理解も楽しみも広がる。
 展示の「第1章」は同美術館の前身であるブリヂストン美術館が1950~60年代に製作した「美術映画シリーズ」と、絵画やブロンズ像など作品の展示で構成されている。登場するのは梅原龍三郎、前田青邨、鏑木清方、高村光太郎、川合玉堂、坂本繁二郎ら、そうそうたる顔ぶれだ。
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 制作現場の映像に、一人一人の手指の滑らかさや力の強弱が見て取れた。創造に向かうまなざしだけでなく、合間にお茶を口に含んだり近所の人と道であいさつを交わしたりする姿、アトリエ内外の景観も収められている。記録映画プロデューサー高場隆史らによる貴重な映像記録と言っていい。
 梅原たち6人それぞれを主役にした映画は1本当たり10分前後から最長で約17分間。会場では繰り返し上映されており、私は2度、3度と鑑賞した。6、7人ほどの美術家を数分間にまとめた「美術家訪問」シリーズも見ることができる。
 とりわけ鏑木清方の絵筆にフォーカスした映像の緊迫感に引きつけられた。しならせた筆先から描線がほどき出る感覚と言えばいいだろうか。清方が引く糸のように細い線が人物に命を吹き込んでいく。芸術は人間の意志と五感を掛け合わせて生まれるものだと得心した。
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 方や、能舞台で「石橋(しゃっきょう)」を舞う喜多六平太を前に、素早く手を動かして何枚もスケッチをする前田青邨の姿も映画らしい捉え方だろう。作品の誕生をカラーで追っている。
 同展では写真家安齊重男が撮影した猪熊弦一郎、堂本尚郎ら現代美術家の制作風景、パフォーマンスなどの写真を「第2章」として展示している。「現代美術の伴走者」を自任した安齊がシャープに切り取った個性は皆、鮮やかだ。同展は11月19日まで。

9月9日(土)に始まった、京橋のアーティゾン美術館さんでの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」。昨日も前を通ったのですが、当方は9月10日(日)に拝見して参りました。そのレポートはこちら。先月は『朝日新聞』さんに、やはり光太郎の名を出しつつの展評が出ています。

続いて、青森の『東奥日報』さん。一面コラムに、上記アーティゾン美術館さんの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で創作風景動画が公開されている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」70周年をご紹介下さっています。

東奥春秋 1000年の大計

 「円錐(えんすい)空間にはまりこんで(中略)立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。詩人・彫刻家の高村光太郎がそう思いを込めたブロンズ像。傍らの碑に刻まれた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を久しぶりに読み、像を見上げ、改めて新鮮な感動を覚えた。「幾千年でもか」と。
 ブロンズ像はもちろん、乙女の像のこと。先日、除幕から70周年を迎えた。その日の朝、像が建つ御前ヶ浜には、清掃に精を出す地域住民の姿があった。「除幕式の日も雨だった」と、あいにくの雨も意に介さず。やや前傾姿勢で向かい合う2体の像と、像を慕う住民の思いが湖畔の風景に溶け込んでいた。
 十和田湖地域の未来像を描く官民合同の検討が始まった。宿泊施設を誘致し、国立公園ならではの感動体験を提供するモデル事業への採択を目指す。同湖の国立公園指定から今年で87年。「十和田湖1000年会議」という名称に、湖畔再生の大計を建てる意気込みが漂う。
 「ここでしかできない暮らしを築いた上で、観光で人がくる体制をつくりたい」。初回の会議ではそんな声があったという。「幾千年でも」は、十和田湖の美しさに魅せられた彫刻家から会議に与えられた課題かもしれない。カルデラ湖の円錐空間の秋は深まりゆく。


像の清掃が行われたのは、70年前に除幕式が行われた当日の10月21日(土)でした。
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最後に、光太郎と交流があった臼井吉見が執筆し、光太郎も登場する大河小説『安曇野』関連で。

『中日新聞』さん。

臼井吉見「安曇野」知って 「大河に」市がパンフ1万部作成

 安曇野市は、同市堀金出身の作家臼井吉見(1905〜87年)の小説「安曇野」(筑摩書房)の概要を紹介するパンフレットを1万部作り、26日に市役所で配布を始めた。現在絶版のこの小説の魅力を市民に伝え、市が目指す「安曇野」を原作としたNHK大河ドラマ化への機運を高める。
 この小説は、東京で中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、彫刻家荻原守衛(碌山)、教育者井口喜源治、社会運動家木下尚江という郷土ゆかりの5人の群像を中心に明治30年代から昭和までの社会、文化、思想を描く長編大河の全5部作。現在は図書館などでしか読めないが「市と筑摩書房で復刻版を検討している」(太田寛市長)という。
 小説の知名度向上のために初めて作ったパンフはA4判8ページ。「NHK大河ドラマ化実現へ奮闘中」「完結まで10年 原稿用紙5600枚」「登場人物はなんと総勢2000人」など目を引くキャッチコピーが表紙を飾る。あらすじ、主要な登場人物の相関図のほか、中村屋サロン美術館(東京・新宿)や碌山美術館、臼井吉見文学館など関連施設の案内も載る。裏表紙も面白い。板垣退助、森鷗外、太宰治、バーナード・リーチ…と登場人物の一部の名前がずらーっと並ぶ。
 大小の字ばかりの表紙、裏表紙という思わず手にしたくなる装丁や、キャッチコピーも自ら考えた政策経営課の寺島直樹さん(37)は「難解ともされる小説の中身を分かりやすくまとめた。郷土にこれだけの先人が居て、時代を生きたことをより多くの皆さんに知ってもらえたら」と話している。
 支所や市内外の美術館、博物館、イベントでも順次配布する。本年度内に小説を紹介するホームページも公開する。(問)同課=0263(71)2401
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『信濃毎日新聞』さん。

“安曇野”の名を広めた小説「安曇野」 パンフレット完成

 安曇野市は26日、市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」を紹介するパンフレットが完成したと発表した。完結から約50年がたち入手が難しくなる中、安曇野の地名を普及させるきっかけとなった同小説に光を当てる。市役所や市内外の美術館、博物館などで配る。
 同小説は、全5部作(原稿用紙約5600枚)で1974(昭和49)年に完結した。明治から昭和にかけて活躍した、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))や新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描き、登場人物は2千人を超える。
 パンフレットはA4判、8ページ。小説のあらすじや主要な登場人物の相関図、市内ゆかりの施設を紹介している。市は同小説のNHK大河ドラマ化を目指しており、来年3月までに小説の紹介サイトを開設予定。太田寛市長は「安曇野という言葉を広めた小説を知ってほしい」としている。
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問題の(別に問題はないのですが(笑))パンフレットがこちら。『中日』さん、『信毎』さん、ともに光太郎の名がありませんが、パンフにはしっかり載っています。
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大河ドラマ誘致の一環ですね。実現するといいのですが……。というか、大河ドラマ「高村光太郎」も見てみたい気もします(笑)。

他に11月1日(水)の「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件も報道されていますが、そちらはまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

いよいよ緊迫して来ましたが、これからこそ国民の力の真価が出るわけです、夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり、各自十全に戦ふ時です、

昭和20年(1945)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

敗戦のおよそ半年前。「夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり」……。真剣にそう考えていたのでしょうか……。

昨日は埼玉県に行っておりました。主目的は、東松山市で開催中の「彫刻家 高田博厚展2023」拝見でした。

そちらに行く前、東松山にほど近い鶴ヶ島市に寄り道。
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安養山善能寺さんという寺院です。少し前、こちらにあるお堂の中に光太郎の父・光雲作の仏像と、光太郎の書を板に写したものなどがある、という情報を得まして、そちらを拝観させていただこうというわけで。

目指すお堂は山門を入った境内ではなく、駐車場にありました。
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ところが扉に鍵がかかっていまして、寺務所に行ってご住職に開けていただきました。ご住職、これから法事なので、ということで「一瞬でもいいですか?」「一瞬でいいです」。

さすがに一瞬(原義は「一度またたきをするほどの極めて僅かな時間」)とは行きませんでしたが(笑)、許可を得て写真を撮らせていただきました。
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光雲作という観音像は、おそらく木彫金箔張り。ただ、箔は剥離している部分もあり、100年程は経っている感じです。また、銘などは確認出来ませんでしたが、いいものであることは間違いないようです。

その右に光太郎書「甘酸是人生」を写した板。鶴ヶ島市と東松山市の間に位置する坂戸市の玄石庵さんの作と思われます。オリジナルの書は花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。平成27年(2015)、当方もちょっとだけ制作に協力させていただいたNHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた書です。花巻の林檎農家・阿部氏に贈られました。「甘酸」は林檎の味にかけています。
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さらに堂内には、光太郎の書いた般若心経を写した、おそらく陶板も。
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やはり埼玉県のときがわ町にある正法寺さんと言う寺院に、平成11年(1999)、同様の衝立が奉納されており、何か関係があるのかも知れません。正法寺さんのものは全文ですが、こちらは冒頭部分のみ。

善能寺さんのご住職によれば、それぞれ檀家衆からのご寄進、的なお話でしたが、詳しいことを聴いている時間がありませんでした。それでもお忙しい中で対応して下さり、感謝です。

善能寺さんを後に、愛車を北に向け、東松山へ。中心街に着く前、高坂地区を通りましたので、「高坂彫刻プロムナード」にも立ち寄りました。光太郎胸像を含む、高田博厚の彫刻32体が並んでいます。
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各地にある同型のものを含め、何度も拝見していますが、何度見てもいいものです。特に東松山のものは、色がいい感じに落ち着いています。

さらに北上し、「彫刻家 高田博厚展2023」会場の市民文化センターさんへ。
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昨年から同展会場がこちらになりました。それ以前は市役所向かいの総合会館さんでした。
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メインの高田の彫刻群。2室使っての展示でした(昨年は1室だけだったような……)。
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光太郎も詩のモチーフにしたフランスの詩人、レオン・ドゥーベルなど、主として肖像彫刻群が中心でした。
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鎌倉にあった高田のアトリエの一部を再現したコーナー。
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同じく鎌倉にあった高田愛用のピアノ。
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平成30年(2018)、高田博厚彫刻展の関連行事として行われた堀江敏幸氏との公開対談で同市を訪れられた、故・野見山暁治氏追悼コーナーも設けられていました。
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昨年もなされていましたが、高田が肖像を制作した人々などに関する展示も。

光太郎。
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同市と高田とを結びつけた、元同市教育長の故・田口弘氏。
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光太郎、高田、そして田口氏三人の関連年表。
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元は当方が作って、同市での市民講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」でレジュメの一部として配付したものです。昨年も展示されていたのかも知れませんが、気づきませんでした。「ありゃま」でした(笑)。

その他、一週間前に開催された「ひがしまつやまアートフェスタin高坂彫刻プロムナード」で、市民の皆さんが作られた彫刻なども。
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こんな感じで「彫刻の街」的な進め方もありだな、と思いました。

拝観後、関連行事としての講演会を拝聴。講師は同市にお住まいの陶芸家・畠山圭史氏。
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当方は拝見していませんでしたが、令和元年(2019)の連続テレビ小説「スカーレット」で、実技指導やストーリー構成に関わられたそうですし、氏の作品が劇中でも使われたとのこと。
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陶芸家としては異色のご経歴の方です。元々、カーデザイナーであらせられたのが、そのお仕事の中で粘土を使ううちに、粘土で形を作る魅力に取り憑かれ、脱サラして陶芸界に入られたとのこと。そこで、同じく粘土で造型を行うお立場から、高田の彫刻について私見を述べられたりなさいました。機械による制作ではない「手」での造型ということで(ご自身の陶器に関してもそうでしたが、「指の跡」という語を多用なさっていました)、相通じるものがある、と。また、そういう点で、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの北大路魯山人の作に衝撃を受けたともおっしゃっていました。

同市の吉澤教育長による終演後の謝辞。
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実は当方、亡父の仕事の都合で小5の途中から中2が終わるまで、同市に3年半程居住しておりまして、何と、吉澤教育長、中2の時の同級生、それもわりと仲の良い存在でした。ちょっと前にそういうことが判明し、教育委員会の方を通じて当方の訪問は伝えてありました。この後、約45年ぶりに久闊を叙しました。

閑話休題、「彫刻家 高田博厚展2023」、11月7日(火)までが会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は早速お話の桜材の一端 御持参下され、尚又その節貴重な食品まで頂戴、感謝に堪へません、


昭和19年(1944)4月13日 内山義郎宛書簡より 光太郎63歳
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以前にもご紹介しましたが、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎に宛てた葉書で、10年ちょっと前に入手しました。住所が「比企郡今宿村」となっています。東松山市に隣接する現在の鳩山町です。どうも内山が疎開していたのではないかと考えられます。「観音院」という寺院、令和元年(2019)に行ってみましたが、建物は残っていたものの既に廃寺状態でした。

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