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もう半月ほど前の話ですが、1月12日(水)、埼玉県東松山市で市民講座の講師をやって参りました。光太郎自身は東松山に足跡を残していませんが、意外と縁の深い土地です。

会場は市立の「きらめき市民大学」さん。
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シニアの方々向けに、各種の講座を行っている生涯教育の施設です。

そもそもの縁は、戦時中から光太郎と交流のあった、故・田口弘氏が永らく教育長を務められていたこと。

田口氏、師範学校生だった昭和18年(1943)、俳人・柳田知常に光太郎を紹介されました。卒論が「高村光太郎研究」だったそうで。翌年、南方に出征する前に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、書や詩集『記録』を貰ったそうです。ところが、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、九死に一生。光太郎から貰った品々は海の藻屑に……。

戦後、復員して中学校教諭となり、昭和22年(1947)と同24年(1949)には、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問、再び書を貰いました。その後、光太郎に食料、日用品などを送り、光太郎からはやはり書などを贈られるというやりとりが続きました。

昭和25年(1950)には、学生時代に作成した光太郎スクラップブックを当会の祖・草野心平に貸し、それが心平編集の中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の資料として大いに役立ったそうです。

昭和31年(1956)、光太郎が歿すると、その葬儀に参列、以後、忌日の連翹忌の集いには30回ほどもご参加下さいました。

その後、教育長になられた田口氏、昭和58年(1983)、同市に新たに開校した新宿小学校さんの校庭に、光太郎の筆跡を用いた「正直親切」碑を建立。「正直親切」の言葉は、元々、太田村の山口小学校に校訓として贈った言葉で、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、廃校となった山口小学校跡地にもにも同じ筆跡を使った碑が建立されています。

ちなみにきらめき市民大学さんの担当の方が、小学生だった折に除幕が行われ、児童代表でご挨拶をなさったとのこと。その際の写真を見せていただきました。
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田口氏、おそらく連翹忌の席上で、光太郎との交流から彫刻家となった高田博厚と知り合い、意気投合。同市で高田の個展を開催するのに奔走した他、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻をずらっと並べた「彫刻プロムナード」整備にもあたられました。こちらには光太郎胸像も含まれています。

亡くなる前年、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈、現在は市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

また、高田博厚の鎌倉アトリエにあった品々も、平成29年(2017)に田口氏との縁で同市に寄贈され、同市では毎年、それらを公開する「高田博厚展」を開催しています。

さて、当方の講座、「高村光太郎と東松山」と題し、前半は光太郎の人となり、後半は上記の内容を語らせていただきました。
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こちらでこの話をさせていただくのは、平成31年(2019)に続いて2回目でしたし、市立図書館さんでも2回、同じような話をさせていただいております。

終了後、受講生の方の一部と懇談。その方々が「高田博厚と遊ぼう会」なるグループを結成され、高田についていろいろ調べたり、実際に高田の作品を多数所蔵・展示なさっている長野の豊科近代美術館さんを見に行ったりされているそうです。
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今後は、彫刻プロムナードを地域の有用なコンテンツとして活用することを念頭に、さらに活動の幅を広げたいとのこと。泉下の田口氏も喜ばれていることでしょう。

ちょっと前のものですが、昨年9月に発行された『Earth Signal Tokainaka Journal』という冊子の第9号も頂いて参りました。「埼玉トカイナカエリアの鉱脈発掘魅力発信マガジン」だそうで。
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4ページにわたり、彫刻プロムナードを紹介する記事も載っています。

さらに会の方々と、昼食。指定されたレストランはもろに彫刻プロムナード沿い、しかも光太郎胸像の設置場所すぐ近くでした。店内にも高田の小品が。
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ちなみに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のある市立図書館さん、「正直親切」碑の立つ新宿小学校さん、高坂彫刻プロムナード、地図に表すと以下の通りです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。 多賀園にて支那料理をくひ、その間に余は放送局にゆき新年放送年賀の言葉を録音。


昭和26年(1951)12月8日の日記より 光太郎69歳

お供は当会の祖・草野心平。前夜に心平と共に台温泉松田屋旅館に宿泊し、盛岡行でした。

古今東西の美術作品を、ゆるいうたとアニメーションで紹介する5分間番組「びじゅチューン! 」。新作で光太郎の父・光雲の代表作「老猿」(国指定重要文化財)が取り上げられます。

びじゅチューン!「老猿は主役じゃなくても」

NHK Eテレ 2022年1月25日(火) 22:45〜22:50  再放送 1月28日(金) 15:55〜16:00

発想の源は、高村光雲「老猿」(東京国立博物館)。この彫刻は、そのまわりだけ空気がちがうような、圧倒的な「ドラマ性」を感じさせます。もし脇役としてキャスティングされたとしても、その存在感の強さで主役を食ってしまうでしょう。「白雪姫」の小人C役、「桃太郎」のサル役…。「たまたま脇役として起用されて現場のパワーバランスをおかしくさせてしまうストーリー。「老猿」と周囲とのギャップを楽しんでください。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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前後して、旧作の「指揮者が手」の放映も。こちらは光太郎ブロンズの代表作「手」がモチーフです。初回放映は平成30年(2018)でした。

びじゅチューン!「指揮者が手」

NHK Eテレ 2022年1月25日(火) 22:50〜22:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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父子競演ですね(笑)。

一昨年発売され、「指揮者が手」を含む『びじゅチューン! DVDBOOK 5』に、実は「老猿」がちらっと登場していました。「特典映像」中の「トーハクトラベル」というコーナーの中ででした。
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いずれ本編で扱って下さるかな、と思っていたら、実現しました。

光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」も、さらにちらっと。
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こちらも本編で扱っていただきたいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校紀念会にゆく、2000円キフ。学芸会を見て三時過ぎかへる、ソバを御馳走になる。


昭和26年(1951)12月2日の日記より 光太郎69歳

山口小学校は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにありました。2年前の学芸会にはサンタクロースに扮してサプライズ登場した光太郎でしたが、この年は大人しく参観したようです(笑)。

寄付が2000円。この年に出たハードカバーの創元社版『高村光太郎詩集』が260円、中央公論社版の『高村光太郎選集』第一巻が340円でした。現在の5分の1くらいでしょうか。

青森レポートの2回目です。
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1月19日(水)朝、宿泊させていただいたポニー温泉さんを後に、この日も十和田湖奥入瀬観光機構の方の車に乗せていただき、青森市を目指しました。

途中で見た八甲田山。この日も快晴で、「こんなにきれいに見えることはめったにありませんよ」だそうで。
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車は奥入瀬渓流からその八甲田山中に入り、徐々に山頂が近づいてきました。
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山頂付近には樹氷。沿道の木々も樹氷に近い状態。
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全県一円が東京スカイツリーより低い(笑)千葉県民には、実に新鮮な風景です。

峠を越えると、津軽富士こと岩木山もその偉容を現しました。
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最初の目的地、国際芸術センター青森[ACAC]さんに到着。やはり雪に覆われていました。
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こちらで、彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」が開催中です。
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八甲田山の南北に位置する、2つの近代彫刻、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と、大熊氏広作の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」へのオマージュです。

「雪中行軍」というと、我々の世代は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』や、それを原作とした高倉健さん主演の映画「八甲田山」などで、概略を存じていますが、光太郎の東京美術学校在学中の明治35年(1902)、青森の陸軍第8師団の歩兵第5連隊が雪中行軍演習中に遭難し、210名中199名が凍死した事件です。

ちなみにこの日、八甲田山を越えて青森市に入った当方ですが、遭難現場周辺も通りました。関連施設などもあるそうでしたが、冬期閉鎖ということでした。

大熊氏広作の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」は、生存者の一人、後藤房之助伍長をモデルにしたものです。後藤は雪中で直立したまま仮死状態で発見され、その後、一命はとりとめたとのこと。
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会場に入ってすぐ、やはり生存者の一人・小原忠三郎伍長の義手(後藤も小原も救出後、壊死した手を切断したそうで)と、乙女の像のポストカードが並べられていました。これにより、展覧会全体の概要を象徴する、という意図なのでしょう。
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会場手前の方は、「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」関係が中心。
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十和田湖観光交流センターぷらっとさんに光太郎胸像を寄贈された、田村進氏作の模刻も展示されていました。
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所狭しと並んだ角柱状の作品は、遭難死した兵士たちの墓標をモチーフにしたもの。「幸畑墓苑」の名で、遭難現場近くに実物が現存しているそうです。現在は雪に埋もれていますが。
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後半は乙女の像関連を中心に。やはり土産物のミニチュアに混じって、十和田湖の像の除幕後、光太郎から青森県に寄贈された小型試作(右手後方ガラスケース内)も並んでいました。鋳造は像本体と同じく伊藤忠雄です。
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赤く光っているのは、一昨年、東京藝術大学大学美術館陳列館での「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」に小田原氏が出品された作品。
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光太郎の訳著『ロダンの言葉』普及版(昭和4年=1929)の表紙に用いた、ロダンの素描がモチーフです。
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光太郎、同じデッサンを、遡って明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分(笑)。

ところで本展、大熊氏広と光太郎という、ほぼ一世代異なる二人の対比、という側面も強調されていました。
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大熊は日本近代彫刻の黎明期、工部美術学校に学び、わが国銅像のほぼ最初の作「大村益次郎像」を作ったことで歴史に名を残しました。大熊らの世代はロダンを学ばず、その前の世代のきれいな彫刻を範としていました。そのため、光太郎の大熊評はさんざんです。ちなみに千葉の当方自宅兼事務所から徒歩10分程のところに、大熊作の郷土の偉人・伊能忠敬像が現存しています。

さて、皆様、ぜひ足をお運び下さい、と言いたいところですが、新型コロナ変異株の蔓延による措置として、2月13日(日)までの開催予定だった同展、1月23日(日)で閉幕だそうです。まったく、いつまで続くコロナ禍ぞ、ですね……。それにしても、打ち切り前に拝見できたのはラッキーでした。

その後、当初予定にはなかったのですが、時間があったので市街に出て、棟方志功記念館さんに案内していただきました。
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志功と光太郎、直接の交流はなかったようですが、当会の祖・草野心平は志功とのコラボがたくさんありました。

館内、志功作品は撮影可。
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それから撮影不可でしたが、光太郎と関係の深かった高田博厚作の志功銅像がありました。それは存じませんでしたし、つい最近、高田にも関わる市民講座の講師を務めたばかりでしたので(後ほどレポートいたします)「おお」という感じでした。

昼食後、ここから羽田へ飛んで千葉に帰る手筈で青森空港さんへ。

昨年、除幕披露された三沢市ご出身の森本千絵氏による幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」を拝見するのも今回の青森行の目的の一つでした。
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中央付近、乙女の像もあしらってくださっています。ありがたし。
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同行して下さった十和田湖奥入瀬観光機構の方によれば、「下の方の四角は湖水でしょうかね」。なるほど。

というわけで、昨日レポートした「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」、上記の「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」、「青の森へ」と、乙女の像三昧の1泊2日でした(笑)。

来年、2023年は、乙女の像除幕から70周年となります。ついでにいうなら、光太郎生誕140周年でもあります。光太郎、蟄居生活を送っていた最中も「70歳になったらほんとうの彫刻を始める」と言っており、数え70歳で乙女の像に取りかかったため、そうした周年になるわけです。

そこで、地元で乙女の像の古稀にあわせ、記念イベントを、ということで関係の皆さんに発破をかけさせていただいて参りました。実現することを強く望みます。

以上、青森レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

穴ぐらの整備にかかり、かたづけもの、 校長さんが生徒三人に薪をかついでよこす。

昭和26年(1951)11月24日の日記より 光太郎69歳

「校長さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長・浅沼政規。「穴ぐら」は野菜などの貯蔵庫です。冬籠もりの準備に追われていた光太郎、「70歳になったらほんとうの彫刻を始める」と言ってはいたものの、一年後には乙女の像制作にかかっているとは、思っていなかったことでしょう。

一昨日、昨日と、青森県を廻っておりました。今回は光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」三昧でした。2回に分けてレポートいたします。

1月18日(火)、東北新幹線七戸十和田駅へ午前10時半過ぎに到着。予想はしていましたが、かなりの積雪でした。
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ただ、2日間とも好天に恵まれ、雪が舞っている時もありましたが、吹雪には遭遇せずに済んでラッキーでした。

十和田湖奥入瀬観光機構の方に迎えに来ていただき、十和田湖へ。公共交通機関としては、八戸駅からバスが日に1便だけ出ているのですが、千葉の自宅兼事務所最寄り駅を始発で発っても、それには間に合いません。当初予定では七戸十和田駅から十和田市街まで路線バス、そこからタクシーと覚悟していたのですが、迎えに来ていただけることになり、さらに青森市を廻った翌日もずっと車に乗せて下さいまして、実に助かりました。

途中の奥入瀬渓流。
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そして十和田湖到着。
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遊覧船が係留されていますが、運休中です。

十和田湖観光交流センターぷらっとさん。平成30年(2018)以来、3年ちょっとぶりです。
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2階が光太郎や、十和田湖を紀行文で世に知らしめた明治の文豪・大町桂月の資料展示コーナーとなっています。入場無料です。
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平成26年(2014)のオープン以来展示されている、乙女の像除幕の日に書かれた、光太郎を初めとする関係者一同の寄せ書き色紙。さらに乙女の像台座に使われた岩手県一関市産折壁石の見本。ともに乙女の像序幕の際に工事監督だった元青森県の土木技師・小山義孝氏の寄贈です。
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像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているサイトが多く、閉口しています。

同じくオープン以来展示されている、光太郎の「大町桂月記念メダル」。
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乙女の像序幕の日に、関係者に記念品として配付されたもので、小品ながら完成した彫刻としては光太郎最後の作品です。こちらもネット上に「乙女の像が光太郎最後の作品」という記述が目立ちますが、それも誤りです。

平成30年(2018)に寄贈披露会が行われた、光太郎胸像(生前の光太郎をご存じの田村進氏作、題字は当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)と、乙女の像制作時に使われた回転台
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さらにその後購入された、乙女の像小型試作。ただし光太郎歿後に鋳造されたものです。
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昨年、当方が寄贈した『婦人公論』。詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」初出の昭和29年1月1日号です。
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書籍といえば、図書コーナー的なところにこんな書籍も置いてありました。
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昨年行われた東京五輪の聖火リレー記念誌。乙女の像前でもセレモニーがあり、その写真も。
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1階には、平成24年(2012)の朝ドラ「梅ちゃん先生」でテーマ曲バックのジオラマを作成された山本高樹氏作のジオラマ。乙女の像もちゃんとあります。
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その後、歩いてリアル乙女の像を見に行きました。
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考えてみると、この季節、昼間に乙女の像を見るのは初めてだったような……。以前に開催されていた「十和田湖冬物語」の際は、2回ともライトアップされている夜間でしたので。
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再びぷらっとさんに戻り、地元の観光関係の皆さんと懇談。久しぶりにお会いする方もいらして、懐かしゅうございました。
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そして日が暮れ、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」を拝見。イルミネーションやプロジェクションマッピング等を駆使したイベントです。
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会場は、十和田神社さんから乙女の像までの範囲で、ぐるっと回って1㌔㍍弱というところでしょうか。まぁとにかく幻想的な世界でした。
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イルミネーションは、エリアごとにどんどん内容が変わり、飽きさせません。また、積雪をうまく活用しているのにも感心しました。
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十和田神社さんの境内では、社殿をスクリーンにしてのプロジェクションマッピング。
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乙女の像もライトアップ。
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像からは、来た道を戻るのではなく、湖畔方面へ別のルートが延びています。途中で元の道に合流しますが。
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平日でしたので来訪者は少なかったのですが、それでもカップルなどがちらほら。「いい思い出になるだろうな」と思いました(笑)。

その後、再び車で十和田市街まで送っていただき(本当に感謝です)、宿泊。

続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

旧小屋の薪を整理して軒下を歩けるやうにする、雪の時の準備。


昭和26年(1951)11月23日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺も、厳冬期には半端ない積雪となります。そのための準備ですね。

実際、一昨日あたりの山小屋周辺は、新たに数十㌢の積雪があったそうです。

今年のカレンダー、光太郎に関係するものを入手していますのでご紹介します。

まず、光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられている、やつかの森LLCさん発行のものが2種類。いずれもB3判の1枚物で、12ヵ月分です。
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左上は、昨秋刊行された写真集『山からの贈り物 やつかの森の四季』から写真を採ったもので、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋と、その周辺の風景です。
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右上は、『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載中の「光太郎レシピ」から。リーフレットもついていました。
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いずれも「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで販売中です。

もう1点。東京都立川市に本店を置く、多摩信用金庫さんのカレンダー。系列のたましん美術館さんの収蔵品をあしらったものです。

A2判で、すべて彫刻が使われています。表紙には中国六朝時代の「東魏二尊仏」、1~3月(初めて見ましたが、3ヵ月で1枚です)が、光太郎の盟友・荻原守衛の「女」(明治43年=1910)。
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4~6月に、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)。
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7~9月は、光太郎に影響を受けた中原悌二郎の「若きカフカス人」(大正8年=919)、そして10~12月で、光太郎が敬愛したロダンの「カレーの市民」(明治17年=1884)。
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彫刻フリークにはたまらないと思います(笑)。

当方、ネットオークションで入手しました。今日現在、まだ出品されているようですし、たましんさんでも配付しているかもしれません。

それにしても、光太郎智恵子がらみのカレンダー、毎年のように入手はしていますが、結局、勿体なくて使えません(笑)。今年の3点も大事に保存します。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校のため揮毫、「正直親切」と横にかく。


昭和26年(1951)10月25日の日記より 光太郎69歳

「正直親切」。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1キロメートル弱)の山口小学校に、校訓として贈った言葉です。
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12月には同校の学芸会に招かれた光太郎、児童たちにこの言葉について、こう語りました。

結局、平凡なことですが、「正直」というのを採りました。正直は一番根本になると思いますし、正直はそのときは損なようでも、永い間には得になるのです。それに「親切」を加えました。そういうわけで、あの書「正直親切」をあげた次第です。

書は、戦後風に左から右に書き、さらに低学年でも読めるようにと新仮名遣いでルビを振っています。

この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎の母校である東京都荒川区の第一日暮里小学校ん、光太郎と交流のあった田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市立新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

余談ですが、1月12日(水)には、東松山市で生涯学習講座の講師オファーがあり、行って参ります。

展覧会自体は先月から始まっていますが、光太郎の父・光雲の木彫が今日から展示です。

特別展 和歌山と皇室―宮内庁三の丸尚蔵館名品展― 後期

期 日 : 2022年1月4日(火)~1月23日(日)
会 場 : 和歌山県立博物館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日   ※ただし、1月10日(月・祝)は開館し、1月11日(火)は休館
料 金 : 一般520円(420円)、大学生310円(250円)
       ( )内は20人以上の団体料金 1月9日(日)は無料

 紀の国わかやま文化祭2021(第36回国民文化祭・わかやま2021、第21回全国障害者芸術・文化祭わかやま大会)を記念して、宮内庁三の丸尚蔵館の名品を紹介する展覧会を開催いたします。
 本展では、三の丸尚蔵館が引き継いだ皇室コレクションの中から、和歌山県にゆかりのある作家による絵画や工芸品、そして県内の名勝地を主題とした作品を紹介いたします。また、明治23年(1890)に明治天皇へ遣わされたトルコ皇帝の使者一行が帰国する際に、紀伊大島沖で暴風に遭遇して沈没したエルトゥールル号の救助にあたった和歌山県の人々による尊い行いに思いをはせる作品も紹介いたします。
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【関連行事】 

講演会「紀の国を旅する」 講師:朝賀 浩 氏(宮内庁長官官房参事官)
 日時:1月8日(土)午後1時30分~3時
 会場:和歌山県立近代美術館(博物館となり)2階ホール  ※事前申し込み制 先着50名
 (12月4日(土)9:30より電話(073-436-8670)にて申し込み受付開始)
       ※新型コロナウイルス感染症拡大の状況により、中止となる場合があります



光雲の木彫は「猿置物」(別名「猿・三番叟」 大正12年=1923)。写真は故・髙村規氏によるものです。
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猿本体は桜材、台の部分は桑の木だそうです。光雲円熟期の傑作の一つといっていいでしょう。当方、三の丸尚蔵館さんや東京藝術大学大学美術館さんなどで、三回ほど拝見しましたが、実に精巧なものでした。

三の丸尚蔵館さんといえば、来年秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。昨年、この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。
九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」
宮城県美術館「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」
宮崎県立美術館「皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~」


今後もこうした取り組みを継続してほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

終日創元社の検印紙捺印にかかる、(2000)夕方終り、包装。 その間に朝日新聞記者来て近況談話。

昭和26年(1951)10月6日の日記より 光太郎69歳

この時代の全国紙地方版に載った記事、なかなか見つけられずにいます。この際の「近況談話」もそうです。何か上手い方法はないでしょうか。

大晦日の地方紙『デーリー東北』さんの記事から。

「乙女の像」制作中の写真、七戸に 助手務めた彫刻家・小坂の親戚、宮沢さん方 

001 十和田湖のシンボルで、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に手掛けた「乙女の像」は、野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二が助手を務めて仕上げた高村の最高傑作と言われる作品だ。制作中の写真は、これまでごく一部の関係者しか持っていないとみられていた。だが、今年に入り、小坂と家族ぐるみの付き合いしをしてきた七戸町の宮沢弘子さん(72)方から1枚が見つかった。関係者は十和田市や野辺地町以外での発見に驚いている。
 乙女の像は1953年、十和田八幡平国立公園の指定15周年を記念して作られた。高村が自分の命が残り少ないと予期しながら手掛けた最後の作品で、東京で小坂と共に制作した。
 今回、見つかった写真は、像に針金を巻き付けた場面で、これから本格的な作業に入ることをうかがわせる一枚。高村と小坂が像を挟むように並んで写っている。
 乙女の像の調査などに携わった、十和田奥入瀬観光機構の山本隆一事務局長は、撮影時期は「完成前の53年3月ごろのものではないか」とみる。高村の日記にあった記述とも一致するという。
 山本事務局長もこの写真自体は資料として残っているとしつつ、「七戸で見つかったことは思わぬ発見」と驚く。
 宮沢さんによると、写真は親戚関係に当たる小坂が過去に送ってきた物という。これまで他の作品などと共に長年、保管してきた中、「実は制作途中の写真が残っていること自体が貴重なのでは」と気付き“発掘”したという。
 宮沢さんは今月、七戸町に写真のコピーを寄贈。東北新幹線駅の七戸十和田駅が十和田湖の玄関口の一つであることから、駅への展示を提案した。
 写真について宮沢さんは「(圭二)おじちゃんが七戸にもゆかりがあることが分かるきっかけになる」と強調。「七戸との縁は知られていない。十和田湖への観光客や地元の人に、少しでも知ってもらえたらうれしい」と話している。


今回見つかったという写真と同じものは、当会顧問であらせられた故・北川太一先生もお持ちで、既に昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』や、平成27年(2015)、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが出され、当方も3分の1ほど執筆させていただいた『十和田湖乙女の像のものがたり』などに掲載されています。

ただ、北川先生旧蔵のものがキャビネ版程度の大きさでしたし、助手を務めた小坂本人の遺品であるということ、一般にはあまり知られていない写真という意味でも、貴重なものといえるでしょう。

左下が問題の写真。右下は少し前に撮られたと見られるもので、やはり北川先生がご提供下さって『十和田湖乙女の像のものがたり』に掲載されている写真です。どちらもおそらく詩人の藤島宇内の撮影と思われます。藤島は当会の祖・草野心平の弟子筋で、像の制作に当たってあれこれ世話を焼いてくれました。
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両方とも十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」さんに、タペストリーにプリントされて展示されてもいます。
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タペストリーは、「乙女の像」完成後に小坂がもらい受け、さらに小坂の弟子筋の彫刻家、北村洋文氏の手に渡った「乙女の像」制作時に使われた回転台(左上写真にも写っています)が、「ぷらっと」さんに寄贈された平成30年(2018)に、新たに作られました。

記事にある山本氏によると、小坂は七戸町の宮沢家(宮沢賢治とは無縁だそうです)から小学校に通っていたとのことでした。

その山本氏から頂いた、一昨日、令和4年元日の「乙女の像」画像。
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「最低気温-16℃、最高気温-6℃」だそうで、いやぁ、「寒い」などというものではないでしょうね(笑)。

今月中旬には現地に行く予定でおりますが、心して行って参りたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

(智恵子命日)レモンを供へる。
 
昭和26年(1951)10月5日の日記より 光太郎69歳

昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の命日。回忌の数え方でいうと、十三回忌は前年でした。ただ前年の日記は失われており、残念です。

「供へる」と言っても、おそらく手元に智恵子の遺影は無かったはず(昭和20年=1945の空襲で焼けてしまったため)。

そして「乙女の像」。光太郎自身、オフィシャルな場ではそう明言しませんでしたが、その顔は明らかに智恵子の顔、と言われています。

上記、藤島宇内の回想文「逝ける詩人高村光太郎」(昭和31年=1956 6月、『新女苑』第234号)より。

 製作にかかる時、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか、」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。


泣けるエピソードですね。

2022年、令和4年となりました。
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個人としては、当方、喪中ですので、個人の皆様への年賀状は欠礼させていただきましたが、法人、団体様へは、こちらも公人として上記をお送りいたしました。画像は光太郎、東京美術学校在学中の彫刻で、「虎の首」。上野動物園(または浅草花やしき)に通って作ったものです。

動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。象、獅子、虎、熊、猪、鷲、鶴などが常連であつたが、虎には油断するとよく尿をひつかけられた。人をめがけて放尿する癖が虎にはある。
(「モデルいろいろ」昭和30年=1955)


ところで、昨年は『智恵子抄』発刊80周年でしたが、今年はその辺り、どんなものだろうと思って調べてみました。

130年前 明治25年(1892) 光太郎10歳(数え年。以下同じ) 一家が今も髙村家の続く本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木)に引っ越しました。

120年前 明治35年(1902) 光太郎20歳 雑誌『百虹』に、現在知られている最も古い詩「なやみ」が掲載されました。

110年前 明治45年/大正元年(1912) 光太郎30歳 この年はいろいろありました。まず、実家にほど近い駒込林町25番地に、光太郎アトリエが竣工しました。続いて、前年に知り合った智恵子への最初の詩「N――女史に」(のち「人に」と改題)を書きました。その智恵子と、銚子犬吠埼で愛を誓い合ったのもこの年。そして秋には岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会を結成、第一回展に油絵を出品しました。

100年前 大正11年(1922) 光太郎40歳 眼を病み、医師から彫刻も執筆も読書も禁じられました。

90年前 昭和7年(1932) 光太郎50歳 心を病んでいた智恵子が自殺未遂……。一命は取り留めました。

80年前 昭和17年(1942) 光太郎60歳 前年の『智恵子抄』に続く第三詩集『大いなる日に』を刊行しました。戦時中ということで、全篇、翼賛詩です。

70年前 昭和27年(1952) 光太郎70歳 生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を後に、中野桃園町の貸しアトリエに移りました。

ちなみに「来年の話をすると鬼が笑う」と申しますが、来年、2023年は、光太郎生誕140年に当たります。ちょっと中途半端な周年ですが、関係の方々、今から来年に向け、生誕140周年記念のなにがしかを企画していただきたいものです。協力は惜しみません。

というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝ラジオで年賀ハカキ放送をきく。一日ラジオをかける。 雑煮、抹茶、 元村長さん宅から餅少々もらふ。


昭和27年(1952)1月1日の日記より 光太郎70歳

上にも書きました通り、70年前の今日、光太郎70歳の元日です。

3件ほど、ご紹介します。

まずは2時間ドラマの再放送

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」

BS朝日 12月28日(火) 20:00〜21:54

テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…。

出演者
伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 (他)

智恵子の故郷・二本松が事件に関わる舞台の一つという設定で、智恵子生家や安達太良山でロケが行われました。年に1、2度、再放送が繰り返されています。
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あとの2本は、光太郎らに触れられるかどうか、というところですが……。

耳をすませば「女の道、切り開いて〜橋田壽賀子・篠田桃紅〜」

地上波NHK総合 12月29日(水) 06:10〜06:39

今年4月に亡くなった脚本家・橋田壽賀子さんと3月に亡くなった美術家・篠田桃紅さん。時代の風潮に逆らい、女性の生きる道を新たに切り開いた二人の言葉に耳を傾ける。

橋田さんは女性初の脚本部員として松竹に入社するが、男社会の壁にぶつかり退社。フリーの脚本家として、テレビで辛口ホームドラマという新たなジャンルを開拓。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」などの名作を手がけた。父の反対を押し切り書道家になった篠田さん。名筆を写すことをよしとする書道界に反発し「水墨抽象画」という独創的な手法を確立。どの美術団体にも属さず自由な生き方を貫き、100歳を過ぎても創作を続けた。

【出演】美術家…篠田桃紅,脚本家…橋田壽賀子,【語り】加賀美幸子
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今年3月に亡くなった、篠田桃紅さん。「書」からスタートしましたが、伝統に囚われることなく、やがて墨による抽象表現の世界は、1950年代のニューヨークでも高く評価されました。エッセイストとしても足跡を残し、近年は満100歳を超えられてから、立て続けにエッセイ集を刊行、常に着物姿の凜としたたたずまいと相まって、人気を博しました。
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篠田さんの座右の銘の一つが、光太郎の「道程」(大正3年=1914)。複数のエッセイ集にその記述が見られます。

6月にもNHKさんで篠田さんの追悼的に過去の番組のアーカイブ放映がありましたが、その際は10分間の短いもので、残念ながら「道程」がらみの話は出て来ませんでした。今回は尺が多少長そうなので、期待しております。

もう1件。

ゆく年くる年

地上波NHK総合 12月31日(金) 23:45〜00:15

今年もコロナ禍が続き、経済や暮らしが大きな影響を受けた一年。「来年こそは笑顔を取り戻したい」という願いを全国各地から生中継でお伝えします。


コロナ禍2度目の年越し。東京「浅草寺」と京都「清水寺」や長野「善光寺」岩手平泉の「中尊寺」など各地の名所を生中継で結び、新型コロナ感染の終息を願う人々の様子を伝える。さらに今回、終夜体制で飛行機の整備を行う羽田空港の格納庫にもカメラが入る。また、来年本土復帰50年を迎える沖縄は、基地と隣り合わせの神社から平和への祈りをお届けする。

キャスター 高瀬耕造 桑子真帆
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大晦日の風物詩ですね。

信州善光寺さんからの中継も。昨年、国の登録有形文化財に指定された仁王門に納められている仁王像は、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の作です。一昨年が開眼百周年ということで、本格的な学術調査等も行われたりもしました。今回、仁王門が取り上げられるかどうか、微妙なところですが……。

ところで善光寺さんの仁王像と言えば、今月初め、地上波フジテレビさん系列で放映された「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」。
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こちらでは、善光寺さんの仁王像の謎について取り上げられました。ただし、光雲らの作であるという紹介はスルー。
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一般的な寺院の仁王像と、阿形、吽形の配置が逆になっている理由について。
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この問いに対し、アイドルグループ・NMB48のメンバー渋谷凪咲さんは……
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笑いました。まぁ、光雲におっちょこちょいの一面があったことは否定できませんが(笑)。

正解として紹介されたのが……
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たしかにこういう説がありますが、これが「定説」というわけでもなく、他にやはり阿吽が通常と逆の東大寺南大門の仁王像(金剛力士像)に倣ったという説もあります。テロップででも「※諸説あります」と出してほしかったところです。

ところで、テレビ番組で彫刻といいますと、12月14日(火)、地上波TBSさん系で放映された「マツコの知らない世界」。ご自身でも彫刻制作に当たられている俳優の片桐仁さん(多摩美術大学卒)がご出演、彫刻についてさまざまな面から語って下さいました。

その中で、光太郎も。

各地の公共彫刻を紹介する中で、大阪の御堂筋が取り上げられました。
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こちらには、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が「みちのく」の名で設置されています。片桐さん、「みちのく」もご紹介下さいました。ありがとうございます。
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まぁ、メインは光太郎も敬愛していたロダンでしたが。
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この放映直後、ツイッター上では「大阪に高村光太郎か、すげーな」的な投稿が相次ぎました。

「おてらツアーズ」にしても「マツコの知らない世界」にしても、系列外の地方局等で番販の形による遅れての放映があるかも知れませんので、紹介しておきます。

さて、これから放映の「ゆく年くる年」等、ぜひごらんください。

【折々のことば・光太郎】

十一時頃盛岡より深沢省三氏来訪。岩手川一升(美校より)ハムをもらふ。仙台市にて紙絵展の事たのみに来られしなり。一度断り、又宮崎稔氏でも看視するならと返事す。

昭和26年(1951)9月17日の日記より 光太郎69歳

智恵子遺作の紙絵展、盛岡、花巻、それから都内などでも相次いで開催され、人々に驚きを持って迎えられました。そこで仙台でもぜひ、という話が持ち上がったのですが、残念ながら仙台展は実現しませんでした。

青森から彫刻の個展情報です。

小田原のどか「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」@ 国際芸術センター青森

期 日 : 2021年12月25日(土)~2022年2月13日(土)
会 場 : 国際芸術センター青森[ACAC]展示棟ギャラリーA
       ⻘森市⼤字合⼦沢字⼭崎152-6
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 12月29日(水)~1月3日(月)、1月14日(金)~1月16日(日)、
      1月28日(金)~1月30日(日)
料 金 : 無料

公共空間に置かれた彫刻を歴史や社会を批評的に読み解くメディアと捉える小田原のどか(1985年宮城県生まれ)は、彫刻家としての制作活動のみならず、複数の媒体での執筆連載、出版社「書肆九十九」の運営など、多岐にわたる活動を展開している。これまでに『小田原のどか作品展《↓》』(同志社女子大学mscギャラリー、2014)、『STATUMANIA 彫像建立壁』(ARTZONE、2017)、『近代を彫刻/超克する』(トーキョーアーツアンドスペース、2019)といった個展のほか、『群馬青年ビエンナーレ2015』(群馬県立近代美術館)、『ゲンビどこでも公募2015』(旧日本銀行広島支店)、『あいちトリエンナーレ2019』、『PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-』(東京藝術大学大学美術館 陳列館、2020 ※共同キュレーターを兼任)などで作品を発表。主な著書に『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021)、また、自身が経営する版元から『原爆後の75年:長崎の記憶と記録をたどる』(長崎原爆の戦後史をのこす会編、書肆九十九、2021年)、共同の出版プロジェクトから『彫刻の問題』(白川昌生、金井直、小田原のどか著、トポフィル、2017)、『彫刻 SCULPTURE 1──空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(小田原のどか編著、トポフィル、2018)などを出版。そのほか、東京新聞、芸術新潮、ウェブ版美術手帖で連載を担当、群像、現代思想などに寄稿多数。

本展では、『表層/地層としての野外彫刻 プロジェクト2021「ここにたつ」』の2021年度の試みとして、小田原が青森県内の野外彫刻を実際にリサーチし、雪深い冬季に屋外の彫刻が見られなくなってしまうという環境にも着目しながら、大熊氏廣《雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)》や高村光太郎《乙女の像》、高村のアシスタントを務めた野辺地出身の小坂圭二をはじめとする青森ゆかりの彫刻家を調査した成果を発表する。小田原は、大熊氏廣と高村光太郎のふたりを「欧化と国粋のはざまで揺れ続けた、この国の近代彫刻史のおもてと裏」と捉え、八甲田山の両側に立つふたつの彫刻の足元に、「創造的断層」、「ありえたはずの彫刻史の分岐点」を見る。そして、本展において、《乙女の像》のために高村光太郎が残した「十和田湖畔の裸像に与ふ」という詩の一節に対しても応答を試みる。
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彫刻実作のかたわら、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(部分)、『近代を彫刻/超克する』(全体)などを執筆され、近代彫刻史のご研究もなさっている、小田原のどか氏の個展です。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」オマージュの部分もあるということですし、光太郎彫刻自体も展示されるそうです。これはぜひ拝見に伺わねば、と思っております。

この展示のために、土産物として販売されていた(現在もされているのでしょう)「乙女の像」のミニチュアを貸して欲しい、とのことです。
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当方、ご協力したいのはやまやまですが、この手のものは手元にありません。サンリオさんのハローキティ十和田湖乙女の像バージョンのグッズは各種取り揃えましたが、ちょっと趣旨が違うようですし……。また、昔のテレホンカードも数十枚。こちらはいずれ十和田湖観光交流センターぷらっとさんあたりにでも寄贈しようかな、と思っています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

忠善さんの奥さんくる、ビール瓶進呈の事きめる、忠雄さんとりにくる 廿数本。米糠のあたらしいのをくれる。


昭和26年(1951)9月8日の日記より 光太郎69歳

ビール党だった光太郎、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でも、何だかんだでビールを入手できていたようです。おそらく当時は瓶を換金できたのでしょう。代わりに米糠、村人との微笑ましい交流ですね。

昨日は、上野の東京藝術大学さんで、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見して参りました。
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光太郎の父にして、近代彫刻界の泰斗・髙村光雲、その子・光太郎、そして鋳金分野で人間国宝となり、家督相続を放棄した光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ三男・豊周、三人の制作の舞台裏を展示するものでした。

会場は、正木記念館
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ふと、視線を感じ、振り返ると……。
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閑話休題、正木記念館は、東京美術学校第5代校長・正木直彦(光太郎在学中に着任)を顕彰するためにその名を冠し、昭和10年(1935)、作品陳列館として建てられました。

その正木像。一見、木彫に見えますが、陶製です。作者は美校出身で、のち、母校で教鞭を執った沼田一雅。
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いざ、2階の会場へ。残念ながら、内部は撮影禁止でした。

畳敷きの大広間二つをぶちぬきにして、周縁に展示物。反時計回りに進みました。

まずは光雲、光太郎、豊周の順に、使っていた道具類、スケッチ帖・作品下図や習作の小品などがまとめてありました。

興味深かったのは、彫刻刀などの類。光雲のものは200本程、光太郎のそれは150本くらい展示されていました。両者共に木彫を手掛けていたので、種類的に重なるものも多かったのですが、明らかに違うと感じたのは、篦(へら)。光雲は、柄の先に輪になった針金を付けた搔き篦(下の画像のタイプ)を多用していましたが、光太郎の道具の中に、それは見あたりませんでした。
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光太郎の使用していたという篦は、下記のタイプ。それもけっこう大きなものでした。
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光雲は、仏像等ではない、あまり作り慣れない物をモチーフにする際には、粘土や石膏で原型を作り、星取りの技法で木に写していたようですが(そのための鹿の彫刻の石膏原型が2点、星取り器も展示されていました)、やはり根本は木彫伝来の「カーヴィング」(削り取る技法、いわば「マイナス」)。それに対し光太郎は、ロダンから学んだ「モデリング」(積み重ねるやり方、言い換えれば「プラス」)が中心だったことが、篦一つとってもわかります。

先月お会いした彫刻家の吉村貴子さんもこの展示をご覧になり、同じことを感じられたとメールに書かれていました。実作者もそう感じるんだな、と思い、嬉しくなりました(笑)。

ところで、光太郎の彫刻刀の中に、一本、「千代鶴是秀作」とキャプションのついたものがありました。柄の部分まで鉄で出来ている特徴的なもので、「やはり是秀作を使っていたか」という感じでした。

彫刻刀以外には、光雲の使っていたものとして玄翁や墨壺、焼き印、光太郎使用ではチョークや鉛筆、さらに回転台なども展示されていました。豊周は鋳金家でしたので、二人とはだいぶ異なる道具でした(鏝や火箸、デバイダなど)。

それぞれに、彼らの息づかいが伝わってきそうで、感無量でした。

会場右手が道具類の展示でしたが、正面と左手は、作品が中心でした。といっても、完全な完成作はほとんどなく、石膏原型など。かえって、普段あまり観る機会のないもので、興味が尽きませんでした。

光雲の石膏原型は、フライヤーに使われている宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物(キャプションは「秋の鹿」)」(大正9年=1920)、それとは別の「鹿置物」(昭和3年=1928)、「春の鶏」、「元禄若衆」(大正14年=1925)、「三番叟」(大正11年=1922)、「郭子儀」。また習作と思われる木彫の「魚籃観音」(大正8年=1919)も展示されていました。

また、展示という訳ではないのですが、もともとある会場の欄間。こちらも光雲の手になる物だそうです。下記はネット上にあった画像を拝借しました。
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こちらにはキャプションがなされておらず、光雲作と分からない人には分からないのですが……。

さらに、道具類と共に並べられていた、光雲のスケッチ帖の類も興味深く拝見しました。まず、人体解剖図的なもの。下記は平成14年(2002)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。
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その他、信州善光寺さんの仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の下絵なども。

ちなみに仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像に関しては、現・髙村家当主の写真家・髙村達氏撮影の写真が、大きなタペストリーで壁面に飾られていました。

010光太郎の石膏原型は、「虎の首」(明治38年=1905)と「野兎の首」(制作年不詳)。「野兎の首」の石膏には驚きました。もしオリジナルのものであれば、豊周の弟子筋の故・西大由氏がボロボロのテラコッタから苦労してとったものです。

豊周の作は、完成品の「朱銅花入」が二点。それぞれに見事な作です。うち一点は、光太郎が使っていたという彫刻用の回転台の上に置かれており、いい感じでした。

さらに、光雲が守り本尊的に大切にしていた仏像も展示されていました。江戸時代の仏師・松雲元慶の作になる聖観音像。光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。当時はいわゆる「廃仏毀釈」の時代で、本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになり、その直前に、光雲や師匠の髙村東雲が救い出したうちの一体です。

青空文庫さんに、そのエピソードがアップされています。

本所五ツ目の羅漢寺のこと 蠑螺堂百観音の成り行き 私の守り本尊のはなし

画像は平成7年(1995)3月の『芸術新潮』から。光雲の特集「これが日本の木彫だ! 高村光雲」が組まれていました。

当方、これの実作はおそらく初めて拝見しましたが、やはり後の光雲の作に通じると感じました。

また、東雲のさらに師匠・高橋鳳雲の兄で、これも仏師だった高橋宝山の小品「亀」と「文殊菩薩」も。こちらも初見でした。

なかなか玄人好みの展示で、あまり一般向けではないかも知れませんが、彫刻史を考える上では非常に貴重な機会です。会期が12月19日(日)までと短いのですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】011

夜「天」といふ字を書く、草野君のため。


昭和26年(1951)8月10日の日記より
 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。

光太郎、これ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。


光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田湖休屋地区で、10月21日(木)~11月23日(火・祝)に開催されていた「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」に続き、「第2章 光の冬物語」が始まりました。第1章同様、「乙女の像」のライトアップも為されているようです。

まず地方紙『東奥日報』さん記事。

十和田湖畔に幻想的な光/フェスタ第2章開幕

 十和田湖畔を光で彩る「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタ・ルーチェ)2021-2022」の第2章が4日、始まった。雪が舞う寒空の下、地元に残る伝説を表現した幻想的な光が十和田神社周辺を包み込んだ。
 神社や乙女の像付近を回る約1キロのコースに「生の光」「風の光」など六つのエリアを設定し、イルミネーションやプロジェクションマッピングを生かして伝説の世界観を演出した。
 姉妹と一緒に訪れた十和田湖小学校2年の森田陽菜さんは「神社のプロジェクションマッピングの模様にびっくりした。いろいろな光があって楽しい」と話した。この日は音楽に合わせて花火が上がり、会場を盛り上げた。
   フェスタは十和田湖冬物語実行委員会(中村秀行実行委員長)が主催。11月23日まで行われた第1章に続く第2章は4日から来年2月20日(12月29、30日を除く水・木曜日休業)まで、時間は午後5時半~同9時。
 花火は土日祝日限定(24日は実施、1月1、2日はなし)で、観覧できるのは各日先着1500人。イベントのチケットがない人は予約が必要。問い合わせは十和田奥入瀬観光機構(電話0176-24-3006)へ。
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続いて『デーリー東北』さん。

雪景色彩る幻想的な光/十和田湖畔ライトアップ

 光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタルーチェ)2021―2022」の第2章「光の冬物語」が4日、十和田神社周辺で開幕した。雪に包まれた夜の湖畔は色とりどりのイルミネーションに彩られ、訪れた人たちが、光と自然が織り成す幻想的な世界に酔いしれた。来年2月20日まで。
 フェスタルーチェは十和田湖冬物語実行委員会が主催。従来の雪祭りをリニューアルしたイベントとして昨年度初めて開催した。本年度は2章立てとし、秋に第1章の「光の紅葉物語」を実施していた。
 冬を迎えた湖畔の神社周辺約1キロの参道は、十和田湖伝説をモチーフにライトアップされ、神社本殿ではプロジェクションマッピングの投影が行われた。期間限定の花火や津軽三味線の演奏も来場者を楽しませた。
 開催時間は午後5時半~9時。入場料は前売り券1200円、当日1600円、小学生以下無料となる。
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開催要項等は、下記の通りです。

カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語

期 日 : 2021年12月4日(土)~2022年2月20日(日) 水・木曜休み
会 場 : 青森県十和田市大字奥瀬十和田湖畔休屋地区 
時 間 : 17:30– 21:00
      
1月・2月の土日祝日は花火が上がり終了時間を21:30まで延長(1/1・2を除く) 
料 金 : 前売券 1,200円 当日券 1,600円 パスポート 3,000円
      ※小学生・未就学児のご入場は無料。
      ※パスポートはオンラインでのみ販売。イベント期間中は何回でも入場可。
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昨年の様子がこちら。


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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、


昭和26年(1951)7月19日の日記より 光太郎69歳

法音山昌歓寺さんさんは、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から4㌔ほどの場所にある、曹洞宗の寺院です。光太郎は当時の住職と親しい間柄でした。

どうも境内に建てる石碑の文字の揮毫を頼まれたらしいのですが、この約束は空手形に終わったようです。同じ昌歓寺さんの十一面観音像を彫るという約束も同様で、こちらは光太郎歿後、光太郎と交流があった彫刻家・森大造が代作しました。

テレビ放映の情報です。

正しく学んで福招き!おてらツアーズ

地上波フジテレビ 2021年12月5日(日) 16:05〜17:20

 田村淳先生の面白ウンチクを知れば、絶対にお寺を参拝したくなる!今回は知っているようで意外と知らない情報満載の東京・浅草寺、柴又帝釈天、長野・善光寺を訪ねます。
 東京のお寺を巡るのは、田村淳先生と草刈民代、とよた真帆、井森美幸、そして鷲見玲奈の5人。浅草寺でお馴染みの雷門は、正式名称でないのをご存じでしたか?冒頭から知って自慢したくなるウンチクが盛り沢山です!超最先端のある技術が江戸時代の匠の技と融合した美しい建物、本堂の他にも絶対に立ち寄っておきたい隠れご利益スポットがあるなど、いつもの浅草寺参りでは知ることのできない情報が次々と飛び出します。
 さらに柴又帝釈天では、映画「男はつらいよ」の寅さんが活躍したおなじみの風景の数々のほか、全国でも珍しい姿だというご本尊に、一同大興奮!浅草名物の超高級うな重、寅さんの愛した天丼、絶品グルメをかけた恒例の復習テストでは、まさかのあの人が大失態!?
 そして「遠くとも一度は参れ」と言われるほど、ご利益が期待できるうえに、来年は7年に一度の御開帳の年と、まさに今最も注目すべき長野の善光寺・訪ねるのは、紺野美沙子、とよた真帆、アンミカ、渋谷凪咲。門でお寺を守る仁王像。実は、通常とは左右逆に立っているという奥深き理由を淳先生が熱弁。また、ある物を一周させれば、大変な功徳が得られるという知られざるスポットにも紹介します。さらには本堂のお参りは正面よりも、ある向きにお願いする方が良いのだとか!?絶品の信州牛とマロンスイーツを掛けた復習テストに答えられるのは誰!?


出演者 田村淳(ロンドンブーツ1号2号) 
【東京】井森美幸 草刈民代 鷲見玲奈 とよた真帆 
【長野】アンミカ 紺野美沙子 渋谷凪咲 とよた真帆
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三箇所の寺院が紹介されますが、まず注目すべきは、信州善光寺さん。昨年、国の登録有形文化財に指定された仁王門に納められている仁王像は、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の作です。一昨年が開眼百周年ということで、本格的な学術調査等も行われたりもしました。

テレビ番組で善光寺さんが取り上げられる機会は意外と多いのですが、仁王像を紹介する例はほとんどなく、残念に思っておりましたが、今回は「通常とは左右逆に立っているという奥深き理由を淳先生が熱弁」だそうで、ありがたく存じます。

左右逆」というのは、多くの寺院の仁王像が、向かって右に口を開いた阿形像、左に口を閉じた吽形像と配しているのに対し、善光寺さんではそれが逆になっているということです。その理由、諸説あるようですが、東大寺南大門の仁王像(金剛力士像)もそうなっており、それとの関連が指摘されています。また、冬至の日の朝日と夕日の関連で、という説もありますが……。

その他に取り上げられる、浅草寺さんには、手水舎にやはり光雲作の沙竭羅龍王像が鎮座ましましています。番組説明中の「本堂の他にも絶対に立ち寄っておきたい隠れご利益スポット」の一つとして、紹介していただきたいところです。

ちなみにこの像は、明治期に浅草寺さん境内にあった噴水の上部に据えられていたものです。下記は当方手持ちの古絵葉書、いわゆる手彩色です。
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また、柴又帝釈天(題経寺)さん。こちらも彫刻のお寺として有名です。つい先だっても、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で取り上げられました。同番組では、「新」になる前の平成28年(2016)にも、帝釈天さんの彫刻が扱われています。

というわけで、「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

しう雨、晴、夕方雷雨、夜くもり、むしあつし。旧小屋の杉皮ふき。大工さん雨を冒してやる。

昭和26年(1951)7月11日の日記より 光太郎69歳

前日に、村人が馬車で運んできてくれた、屋根用の杉皮。この日は大工さんが、雨の中、葺き替え作業をしてくれました。その作業中は、増築された新小屋に待機していたのでしょう。

都内から展覧会情報です。

髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料

期 日 : 2021年12月10日(金)~12月19日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 正木記念館2F 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 ~午後5時
休 館 : 12月13日(月)
料 金 : 無料

本展では髙村光雲(1852~1934)・光太郎(1883~1956)・豊周(1890~1972)が制作時に使用した原型、道具、下図・スケッチ類を展示公開します。光雲は、生涯木彫制作を中心に創作活動を行いました。その制作方法は、髙村東雲工房で学んだ仏師としての直彫りによる方法から、明治30年以降に米原雲海(1869~1925)と共に始めた油土・石膏原型を使用する星取り法へと変化していきます。本展で展示する光雲が制作した石膏原型類からは、油土で造られた原型を石膏像に起こし、星取りをする過程を知ることができます。また、あわせて光雲・光太郎が使用した箆、彫刻刀類と豊周の制作道具類も紹介します。光雲工房の制作方法と光太郎の制作手法についてその有様と変化を見ることができるでしょう。

展示協力 髙村達、加藤恵美子、山田亜紀
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関連行事

「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展 関連講演会
 ※事前予約制(定員80名)
 予約フォーム:https://forms.gle/LGaHyQXk7pghp3tD7
 日時:12月11日 13時(開場は12時30分)
 会場:東京藝術大学美術学部 中央棟1階 第一講義室
 内容:
 ・藤曲隆哉「髙村光雲資料と制作背景について」30分
 ・髙村達「レンズを通じてみた光雲・光太郎・豊周」30分
 ・田中修二(大分大学)
「近代日本彫刻史における髙村光雲の位置─彫刻史を創った彫刻家」30分
 ・藤井明(小平市平櫛田中彫刻美術館)「髙村光雲の周辺-平櫛田中を中心に―」30分
 ・座談会 「髙村光雲・光太郎・豊周研究のこれから(仮)」15:30~
   毛利伊知郎(美術史家・前三重県立美術館長) 高村達 田中修二 藤井明 藤曲隆哉(司会)

彫刻の原型や道具類など、いわば制作の舞台裏に関する展示が中心のようですが、普段、眼にする機会の少ない分野で、いわば玄人好みという感じですが、非常に興味深いところです。

フライヤーに使われているのは、宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物」(大正9年=1920)の石膏原型。
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星取りを行って、木彫に仕上げたわけですが、当方、恥ずかしながら光雲が星取りを実践していた事は存じませんでした。

ちなみに星取りというのは、こういうことです。
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東京都小平市さんで発行している『田中彫刻記』から。

その他、光太郎の彫刻でも、石膏原型が出品されるようです。
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こちらは藝大さんの構内に立っている、「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)。この石膏原型は当方、未見です。

追記・これは展示されていませんでした。すみません。

会期が短いのが残念ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

屋根囲の杉皮30本哲夫さんが馬車で運びくる、


昭和26年(1951)7月10日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、増築が為されましたが、そのついでに、元々の小屋の方も手を入れることになりました。屋根は瓦やスレートなどではなく、杉皮葺きで、その杉皮を交換するというのです。

『毎日新聞』さん、月曜日の夕刊に、「美とあそぶ」という連載があります。各界で活躍する著名人の方々が、御自身の美術にまつわる体験等を、3週前後に分けて語られています。

11月8日(月)、15日(月)は、テノール歌手の秋川雅史さん。音楽活動のかたわら、木彫にも取り組まれていて、今年9月に開催された第105回記念二科展の彫刻部門で、見事、入選を果たされました。秋川さん、光太郎の父・光雲のファンだそうで、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」に、光雲の真作を引っ提げてご出演なさったことも。二科展入選作も、光雲が主任となって制作された「楠木正成像」の模刻でした。

で、11月8日(月)の「美にあそぶ」は、その二科展入賞作について。

美とあそぶ 秋川雅史さん/1 これまでで一番の自信作

 2021年第105回記念「二科展」の「彫刻部門」に初めて出品し入選しました。入選できるか自信は半々。知人からは約100件の祝福メールが来て、06年に紅白歌合戦への出場が初めて決まった時以来の反響の大きさでした。
 作品は「木彫楠公(なんこう)像」。皇居前にある楠木正成の銅像をモチーフにしました。著名な彫刻家の高村光雲の写真集でこの銅像の存在を知り、形のかっこよさに魅了され、大きな目標になりました。
 音楽活動は新型コロナウイルスの感染拡大で制限され、年に70~80あったステージは8割以上なくなりました。昨年は半年間ゼロ、今年も3カ月間ゼロという時もありましたが、マイナス思考になってはいけないという気持ちでした。毎日、彫れる時間がたくさんでき、かなり集中できましたし、相当きあいも入りました。4~5年かかるところを3年で完成。これまでの作品で一番の力作で、自信作です。
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01815日(月)には、彫刻に手を染められたきっかけについて語られていました。公演で訪れられたドイツで購入した鷹の木彫を見ているうち、「自分でも作れそうだ」とお思いになったとのこと(それもすごい話ですが(笑))。その後、東急ハンズさんで買われた彫刻刀(笑)を使い、我流で始められたそうですが、我流では限界がある、と、仏師の関侊雲氏に師事なさったそうです。

関侊雲氏、「雲」の字が号に入っているので、光雲系かと思ったのですが、さにあらず、京都の松久朋琳の流れを汲むとのこと。そして、秋川さんが最初に作られたのが、右の「聖観音像」だそうです。見事ですね。

このあたり、『婦人公論』さんのサイトでも紹介されています。誌面への掲載はなかったようなのですが。

今後とも、ご本業の音楽、そして彫刻と、ご活躍を続けていっていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃朝日新聞の記者盛岡よりくる。小屋建築の記事らし。写真とつてゆく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

小屋建築」は、この頃行われていた山小屋の増築工事です。

主要紙の古い記事も、可能な限り調査しているのですが、この記事は未見です。気をつけて調査してみます。

本日も新刊紹介です。

近代を彫刻/超克する

2021年10月27日 小田原のどか著 講談社 定価1,300円+税

〈思想的課題〉としての彫刻を語りたい。 

街角の彫像から見えてくる、もう一つの日本近現代史、ジェンダーの問題、公共というもの……。
都市に建立され続け、時に破壊され引き倒される中で、彫刻は何を映すのか。
注目の彫刻家・批評家が放つ画期的な論考。
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目次
 1章 空の台座
  1 彫刻という困難  2 彫刻が可視化するもの  3 記念碑としての彫像
  4 彫刻のはじまり  5 空の台座と女性像
 2章 拒絶される彫刻
  1 破壊される彫像  2 光太郎とロダン  3 《風雪の群像》
  4 《サン・チャイルド》  5 長崎の《母子像》
 3章 彫刻を語る
  1 「彫刻」となったレーニン  2 《わだつみの声》
  3 「もう一つの東京裁判」  4 彫刻の立つ地点
 あとがき
 註  


彫刻の実作のかたわら、一貫して銅像などの公共空間に置かれた「公共彫刻」について考察を発表されている、小田原のどか氏の近著です。元は雑誌『群像』さんの今年1月号、4月号、6月号に載ったものを加筆修正、だそうです。実は6月号の時点で気づいたのですが、いずれ単行本化されるだろうと予測していまして、その通りでした。

また、「1章 空の台座」(「空」は「そら」ではなく「から」です。)は、平成30年(2018)に刊行された、小田原氏を含む10数名の皆さんによる、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル)中の「空の台座――公共空間の女性裸体像をめぐって」を大幅に改稿したもの、とのこと。

光太郎について、「2章 拒絶される彫刻」中に「2 光太郎とロダン」という項が設けられています。また、他にアメリカの彫刻家・ボーグラムや本郷新との関わりや、大熊氏広の「大村益次郎像」、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)などを紹介する中でも、光太郎に触れられています。

ただ残念なのは、「2 光太郎とロダン」中、事実と反する記述があること。「光太郎が屋外に残した彫刻は、東京藝術大学内の《高村光雲像》と、遺作である十和田湖の《乙女の像》のみである。」という部分です。他に3点、光太郎が屋外設置の公共彫刻を手掛けたことが確認できています。

まず、光太郎クレジットのものとしては、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。それから「監督・高村光雲 原型・高村光太郎」という扱いで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。そして完全に光雲の代作のようですが、岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。下の画像、左から順に、赤星、青沼、浅見です。
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ただ、残念ながら、3点とも戦時の金属供出にあい、現存しません。赤星像と浅見像は、それぞれ武石弘三郎と永井浩によるいわば「後釜」が戦後に設置され直し、青沼像は残された台座に作者不明のレリーフが嵌め込まれた形で残っています。
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上の画像、左が青沼像、右は浅沼像の台座です。浅沼像のほうは、少し離れた場所に新たな像が設置され、元の台座は台座のまま残っています。もっとも、これらの写真を撮りに行ったのも十数年前なので、現在どうなっているか不明なのですが……。

こういった、金属供出などによって、台座のみが残された件についての考察が、『近代を彫刻/超克する』中の「1章 空の台座」です。

小田原氏、来月末から青森市の国際芸術センター青森さんを会場に、個展を行うそうです。「いよいよ、高村光太郎の彫刻と自作が並びます。」とのことです。コロナ禍のため動きが取れず、昨年、藝大さんで開催された「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」も観に行けず、青森空港の巨大ステンドグラス「青の森へ」や、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022」もまだ拝見していませんので、この機会に、と思っております。

さて、『近代を彫刻/超克する』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

松下英麿氏に起こされる。特級白鶴二本かついでくる、よみうり賞の祝の由、ビール四本のみて夕方まで選集、てんらん会の打合。五時辞去。


昭和26年(1951)5月22日の日記より 光太郎69歳

0c2e0e33松下英麿氏」は、中央公論社の編集者。光太郎とは戦前からの付き合いで、貴重な光太郎回想も複数残しています。「よみうり賞」は、詩集『典型』による第二回読売文学賞の受賞、「選集」はこの年10月に同社から刊行が始まった『高村光太郎選集』(草野心平編)、「てんらん会」は、翌月、銀座の資生堂画廊で開催された「智恵子紙絵展覧会」です。ちなみにこの時から光太郎の考えで「紙絵」の語が使われるようになりました。主催が同社と創元社でした。

例によって、日本酒をもらうとその銘柄を記録しています。この日は「白鶴」。いわゆる灘の銘酒で、現在も販売されていますね。

うっかりしていたら、始まっていました。

秋のライトアップ二〇二一

期 間 : 2021年11月5日(金)~11月28日(日)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門回廊、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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主な見どころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。

国宝 三門
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した 高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」(三解脱門)を 表すことから三門といいます。※回廊公開は3年ぶり

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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聖観音菩薩像、明治25年(1892)の作で、東京美術学校として依頼を受け、光太郎の父・光雲が主任となって制作されたたものです。木造原型は美校の後身・東京藝術大学さんに収蔵されています。

関連行事として、法話「聞いてみよう! お坊さんのはなし」、御影堂プライベートツアー、フォトコンテスト、限定御朱印授与等が企画されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうちよみうり記者来訪、よみうり文学賞に内定の由にて感想筆記。ごく簡単にのべる、

昭和26年5月2日の日記より 光太郎69歳

015前年に始まった読売文学賞の詩歌俳句賞。第一回は当会の祖・草野心平が蛙の詩で受賞しました(他に斎藤茂吉が『ともしび』で)が、それに続く第二回を光太郎が受賞しました。

受賞作は前年に刊行された詩集『典型』。自らの半生を顧みた連作詩「暗愚小伝」20篇を含み、選詩集的なものを除き光太郎生前最後の詩集です。光太郎と共に会津八一も『会津八一全歌集』で受賞しています。

この日、光太郎の語った内容は以下の通り。5月14日の『読売新聞』に掲載されました。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

 典型に文学賞がでるというのは意外だ。典型そのものがよいというのではないだろう。長く詩を書いているから、また年をとつてもまだやつているからという意味ではないだろうか。いずれにしてもまあいらないと断るのはワザとらしくていやだから素直にもらう。
 あの詩集の内容を考えると一つの告白といつたもので文学賞をもらうようなものではなかつた。だから感想といわれても困る。それに年も年だから賞をもらつても感激するということもない。若いときならうれしいものだつたけど――かえつて悪いような気がするというのが本当のところだ。


光太郎、賞金五万円は山小屋近くの山口小学校や地元青年会などにそっくり寄付してしまいました。

一昨日、また都内に出ておりまして、2件、用を済ませて参りました。

まず向かったのは、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さん。
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展覧会等の観覧ではなく、アートライブラリで調べ物です。以前、こちらでは、古い美術雑誌で『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎の文章を発掘したりしたのですが、やはり『高村光太郎全集』に漏れている書簡が収蔵されているという情報を得まして、調べに行った次第です。書簡などの一点物がここにあるというのは存じませんで、盲点でした。
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具体的には、昨年寄贈された「難波田龍起関係資料」の中に、それが含まれていました。難波田は明治38年(1905)生まれの画家で、大正2年(1913)、少年時代に本郷区駒込林町の光太郎アトリエ裏に移り住み、光太郎に親炙、美術と詩作も光太郎の影響で始めたという人物です。

難波田宛の書簡は、『高村光太郎』全集に18通収録されていますが、リストを見ると、他に3通。うち1通は書簡とは言えず、昭和17年(1942)に開催された難波田の個展の目録に寄せた「難波田龍起の作品について」という文章(『高村光太郎全集』第6巻所収)の原稿だけが封筒にボンと入っていました。

封筒、といえば、昭和13年(1938)11月8日付けのもの。こちらは前月に亡くなった智恵子の会葬御礼的なもので、印刷でした。おそらく多数の人物に同一のものが送られたようで、『高村光太郎全集』には、光太郎の親友だった水野葉舟に送られたものが掲載されています。最後の宛名だけ異なりますが、同じものでした。

そして、葉書。昭和17年(1942)2月24日付けのもので、こちらは完全に『高村光太郎』全集に漏れていたもので、これを確認できただけでも収穫がありました。

内容的には、駒込林町のアトリエに来てくれたのに、留守にしていて申し訳なかった、別封で新刊の評論集『造型美論』を送ったよ、といったものでした。留守にしていた理由というのが、「文芸会館の会合」。具体的に何を指すのか不明ですが、この月に日本少国民文化協会が結成されていますので、それに関わるかもしれません。それに伴い幼少年誌が統合され、光太郎も寄稿した『少国民の友』や『日本少女』といった雑誌が生まれました。また、翌月には同会主催の講演会で光太郎が演壇に立ち、詩「或る講演会で読んだ言葉」として発表しています。

また、光太郎が議員を務めていた大政翼賛会中央協力会議の件にも触れられ、いかにも戦時、という内容でした。

驚いたのは、難波田と連れだって光太郎の留守宅を訪れたのが、中込友美であったことでした。中込に関しては、先月の『東京新聞』さんに大きく取り上げられ、このブログでもご紹介しました。詩作のかたわら、社会福祉にも高い関心を持ち、戦後は戦災孤児のための施設を運営したりした人物です。今回見つけた葉書の中にも「中込さんの厚生美術制作団の構想と実行との力に期待します」という一節があり、戦時中からそういう活動に携わっていたのか、と思いました。

『高村光太郎全集』に3箇所しか出て来ない中込の名を、このところ立て続けに眼にし、不思議な感覚でした。まるで中込の魂に導かれてそうなったような……。

そう思っておりましたところ、昨日、智恵子もかつて所属していた太平洋美術会の坂本富江さんから封書。「『東京新聞』さんにこんな記事が載ってましたよ」ということで。
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10月10日の記事を読んでの感想的なものですね。これも中込の魂の導きか、と思いました(笑)。

MOMATさんのアートライブラリ、まだまだ何かありそうだと思いますので、さらに調査を継続しようと思っております。

さて、竹橋を後に、続いて入谷に。次なる目的地は、入谷駅からほど近い「いりや画廊」さんです。こちらでは彫刻家の吉村貴子さんの個展「雲魂UNKON」が開催中。
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吉村さん、光太郎にも興味をお持ちで、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する論考等も書かれています。そんな関係でご案内をいただき、これは参上せねば、というわけで馳せ参じました。

「雲根」とは、元々中国の古典に出て来る言葉で「岩石」の意です。日本でも江戸時代に「弄石家」と云われる趣味人の間で広く使われていたそうです。吉村さんの修士論文が、その弄石家で『雲根志』という書物を著した江戸時代の木内石亭という人物に関してのもので、こちらは帰りの車中で興味深く拝読いたしました。

実際に吉村さんとお会いするのは初めてでしたが、いろいろお話を伺う中で、維新後に西洋から入ってきた石彫とは別の系列で、元々日本には石彫文化があり、吉村さん御自身も実作でその流れを汲む、ということなのかと理解しました。
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石の作品の素材は花崗岩だそうですが、割って、彫って、削って、磨いて、ということで、凄い労力なのでしょう。下の画像は吉村さんのフェイスブックから。
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ちなみに光太郎も、数は少ないのですが、石彫を手掛けています。現存が確認できていない作品で、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)。写真のみ確認できています。詳しくはこちら
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吉村さん、石以外に、ガラスの作品も。
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ガラスでありながら、やはり岩石感があふれていますが。

多くの作品で、中央に丸い穴が開けられています。「これ、どういう意図ですか?」とお聞きしたところ、この穴から裏側に入ってまた表に戻ってくる、表裏一体、循環、「雲根」の原義「雲は石より生ずるによりて、石を雲根と云ふ」みたいな……。なるほど、と思いました。今流行りの「SDGs」を連想させられました。

こちらは11月13日(土)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヱン豆は小鳥が皆たべてしまふ。

昭和26年(1951)4月26日の日記より 光太郎69歳

ヱン豆」は「えんどう」、サヤエンドウでしょうか。とあるテレビ番組で、アナウンサーの方が光太郎書簡を読む中で、「えんまめ」と読んでいて吹き出しましたが(笑)。

鳥さんたちは非常に賢く、人間が畑やプランターなどに種子などを埋めるのを見て理解しており、人がいなくなったら速攻で掘って食べるそうです。

本日も新刊紹介です。

高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺

2021年10月30日 髙橋純編訳 吉夏社 定価2,600円+税

残されていた「師弟」の交流記録1931‐44。1931年より長くパリに暮らした彫刻家・高田と、彼に信頼を置いていたロラン。新発見となる、当時の二人が交わした23通に及ぶ往復書簡に見る「師弟」の記録。ナチス・ドイツ支配下のフランスに留まり、在仏新聞記者協会の役職にもあった日本人彫刻家による希有な時代の証言、さらに後年綴られた高田回想録『分水嶺』を補完するものでもある。高田のパリ時代、「ロランによる小林多喜二虐殺抗議文」を巡る論考なども収載。

目次
編訳者まえがき
序 発見された二十三通の手紙
高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡
付論 多喜二とロマン・ロラン―高田博厚が伝えた「幻の抗議文」について
付録 ロマン・ロランの日記抜粋
   ロマン・ロランに届いた一通の日本語の手紙
   レオンドゥーベル友の会の「趣意書」   
   「世界最小新聞社社長」――新聞記者高田の回想
   高田博厚「ロマン・ロラン」(一九三六年執筆)
年譜
解説――高田博厚の「詩と真実」

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高田博厚は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。

高田も、光太郎の影響で絵画から彫刻に転じ、光太郎の援助もあって渡仏、時代に翻弄されつつも、世界的に名声を得るに至りました。

そして、ロマン・ロラン。光太郎も早くからロランを敬愛し、大正2年(1913)には、日本で最初の『ジャン・クリストフ』の訳を発表しました。また、同11年(1922)から翌年にかけ、戯曲『リリユリ』を翻訳、同13年(1924)には単行本として上梓しています。

そして1大正15年(1926)、片山敏彦、尾崎喜八、さらに高田らと共に「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。唯一確認できている、光太郎と高田が一緒に写った写真も、「ロマン・ロラン友の会」でのものです。後列左から二人目が光太郎、前列一番右に高田。前列中央は、フランスの作家、シャルル・ヴィルドラック夫妻です。
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高田は昭和6年(1931)の渡仏後、ロランと実際に会い、驚くべきことに、ロランは自らの胸像制作をまだ無名だった高田に依頼します。それまでフランスのどの彫刻家に対しても、その申し入れを断り続けていたのに、です。

そして昭和6年(1931)からロランが歿する昭和19年(1944)まで、二人の間で書簡のやりとりも為されました。その往復書簡が、パリのフランス国立図書館の「ロマン・ロラン寄贈資料庫」に保管されており、訳者・髙橋氏がそれを確認、この書籍で初公開なさったというわけです。ロランから高田宛の書簡は、おそらくロラン夫人が夫の没後、ロランの書いた物を散逸させないため、高田から譲り受けたのであろうとのことでした。

残念ながら、二人の往復書簡の中には光太郎の名は出て来ませんが(「序 発見された二十三通の手紙」では、光太郎にも言及されています)、二人の偉大な芸術家の魂の交流の様子は、興味深く拝読させていただきました。

ぜひお買い求め下さい。

高田博厚というと、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「彫刻プロムナード」が整備されている埼玉県東松山市で、毎年、高田の彫刻展が開催されています。今年の展示は10月28日(木)からでした。
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こちらもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、食パン沢山、其他食品いろいろもらふ。今夜学校へ泊る由、尚100,000円もらふ。小屋増築についてスルガさん、院長さん等と相談して東京へかへる由。

昭和26年(1951)4月2日の日記より 光太郎69歳

澤田伊四郎氏」は、出版社・龍星閣主。戦前に詩集『智恵子抄』を出版し、戦時の休業から社業を再開した昭和25年(1950)には、詩文集『智恵子抄その後』、翌26年(1951)1月には、『智恵子抄』の戦後新版を出版しました。明確な印税制を採って居らず、「100,000円」は、これらに対する「御礼」として支払われたものです。

それでも尚、光太郎の取り分が足りないということで、小屋の増築費用も龍星閣で持つことになりました。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森十和田湖畔休屋地区で、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」が開幕しました。

まず地方紙『東奥日報』さん記事。

十和田湖畔、色めく秋の演出 ライトアップイベント開幕 11月23日まで

 十和田湖畔を光で彩る「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタ・ルーチェ)2021−2022」が21日、休屋地区の十和田神社周辺を主会場に開幕した。訪れた観光客らが、幻想的にライトアップされた参道沿いの紅葉を楽しんだ。
 十和田神社の鳥居や本殿、乙女の像を巡る約1キロのルートを、大小のボール型照明や投光器などで自然の色合いを生かしながら演出する。午後5時20分、鳥居前で関係者らが点灯式を行い、湖畔のにぎわい復活に期待を寄せた。
 八戸市から訪れた佐々木睦美さん(34)は「近場で楽しめるイベント。真冬のイルミネーションとはちょっと違って、光に温かみも感じた」、友人の大館知世さん(35)は「赤くライトアップされた木の間から月が見えて幻想的だった」と話し、約1時間の散策を満喫していた。
 フェスタはこれまでの「十和田湖冬物語」のリニューアルイベントで、同物語実行委員会(中村秀行実行委員長)が主催し前年度から開催。本年度は秋の第1章と冬の第2章に分けて行う。第1章は11月23日までで、時間は午後5時半〜同9時。新型コロナウイルス感染対策のため、1日の入場者数を制限する。
 チケットなど問い合わせは実行委事務局の十和田奥入瀬観光機構(電話0176-24-3006)へ。
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続いて『デーリー東北』さん。

紅葉、光で美しく/十和田湖フェスタルーチェ開幕

008 光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタルーチェ)2021―2022」(十和田湖冬物語実行委員会主催)が21日、湖畔の十和田神社周辺で開幕した。11月23日までを第1章の「光の紅葉物語」とし、赤や黄色に染まる木々を幻想的にライトアップしている。
 フェスタルーチェは従来の雪祭り・十和田湖冬物語をリニューアルしたイベントで、昨年度初めて開催。今季は2章立てで、12月4日~来年2月20日は「光の冬物語」に衣替えする。
 神社本殿や周辺約1キロの参道が色とりどりの光で照らされ、会場に流れる音楽と共に神秘的な世界を作り出している。紅葉は色付き始めで、今後さらに見応えが増しそうだ。
 時間は午後5時半~9時。入場には新型コロナウイルスワクチンの接種済証や検査の陰性証明が必要となる。

主催の十和田奥入瀬観光機構の方から、画像を頂きました。

まず点灯式。右はその後の十和田神社さん境内の様子。
DSC_2181 点灯式3 IMG_8809
この奥に、ライトアップされた「乙女の像」。
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いい感じですね。

記事にあるように、11月23日(火)までが紅葉シーズンに合わせての「光の紅葉物語」、仕切り直して12月から来年2月までは、雪景色の中での「光の冬物語」だそうです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

目覚めて時計午后三時なるに驚きおきる、昨夜三時にねたり、


昭和26年(1951)2月22日の日記より 光太郎69歳

この時期、実に体調が悪かったというのが、こういうところにも表れているような気がします。12時間も爆睡してしまったわけで……。

本日発売です。拙稿が載っています。

美術の窓 №458 2021年11月号004

2021年10月20日 生活の友社 定価1,524円+税

このパーツに夢中! 惹き込まれる女性像

色っぽいうなじ、肩のまるみ、なめらかな背中、ふっくらとした胸やお尻……女性の身体にはいつの時代も芸術家たちの創作意欲を搔き立てる、曲線的な造形美が溢れています。本特集では美術史家による名画のパーツごとの魅力の解説、現代作家の厳選グラビア、パーツにこだわる作家へのインタビューで女性の造形美の魅力を紹介。さらにアジアの女神や土偶の形にも注目し、「究極の女性像」を見比べるチャート&グラビアを収録。小誌でも人気の高い女性像特集、2021年版は女性像の造形の魅力を徹底的に掘り下げます!

巻頭特集は古今東西の裸婦像に関してですが、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関し、記事が2本。

まず、同館館長であらせられる中川美彩緒氏が「和魂洋才-書画のススメ」というコーナーで、同展にて展示中の光太郎画帖「有機無機帖」について書かれています。題して「当展必見の一帖 高村光太郎「有機無機帖」より」。

「有機無機帖」は、最晩年の昭和29年(1954)、親しくしていた美術史家の奥平英雄に贈られた画帖で、現在は駒場の日本近代文学館さんに所蔵されています。
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そして、拙稿「五匹目の「蝉」 「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」」。こちらも同展で展示中、というか、本邦初公開となった、新発見の木彫「蝉」についてです。
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光太郎の木彫は、少年時代の習作を含め、20点余りしか現存が確認できていません。そこにさらに1点が加わり、しかも、代表作の一つに数えられる「蝉」の新たなバージョン、さらに言うなら、その最も新しい作例ということで、もっともっと注目されていい物なのです。しかし、どうもその価値があまり注目されていませんで、残念に思い、書いた次第です。

中川氏の玉稿と併せ、詳しくはご購入の上、お読み下さい。また、「有機無機帖」、「蝉」、もちろん他にも書と彫刻の優品が多数展示されています。ぜひ富山まで足をお運び下さり、現物を御覧頂きたく存じます。

ところで『美術の窓』さん、先月号でも紹介すべき記事がありました。巻頭特集の「耳にこだわる」。往古来今の美術作品で、「耳」がどのように表現されているかに注目したもので、興味深く拝読いたしました。その中で、光太郎の父・光雲の代表作の一つ「老猿」(国指定重要文化財)が取り上げられました。
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人間の耳とは明らかに異なり、上端が尖っている、と。光雲は、これを作るに際し、ニホンザルを観察し、詳細なスケッチをしていますので、実際に猿の耳はそうなっているのでしょう。
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さらに、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」の耳、それから、今月号の裸婦像特集では守衛の代表作「女」が取り上げられています。

また、先月号にはチューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の案内も。
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今月号、先月号とも、オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰にて岡田さん出迎へ、手橇に荷と余とのり三人にてひき又押す、岡田さん宅にて中食馳走になる。四時頃小屋着。


昭和26年(1951)2月7日の日記より 光太郎69歳

1月15日に成人式の講演のため、水沢町に出かけて以来、花巻温泉大沢温泉、花巻町の佐藤隆房宅などを転々とし、約3週間ぶりに太田村の山小屋に帰りました。

「二ツ堰」は、当時走っていた花巻電鉄の駅。ここから村人達が光太郎をソリに乗せて運んでくれたそうです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森十和田湖からイベント情報です。

カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語

期 日 : 2021年10月21日(木)~11月23日(火・祝)
会 場 : 青森県十和田市大字奥瀬十和田湖畔休屋地区 
時 間 : 17:30– 21:00
料 金 : 前売券 1,200円 当日券 1,600円 パスポート 3,000円
      ※小学生・未就学児のご入場は無料。
      ※パスポートはオンラインでのみ販売。イベント期間中は何回でも入場可。

イルミネーションが秋と冬で変化する!

今年は「FeStA LuCe」として、会期を2つに分けて開催します。秋・冬それぞれに変化するイルミネーションをお楽しみ下さい。

『第1章 光の紅葉物語』では美しく色付いた樹木のライトアップをメインに神社参道を演出します。
『第2章 光の冬物語』では幻想的な動物たちが登場。ウィンターシーズンらしいイルミネーションへ変化します。

「FeStA LuCe:フェスタ・ルーチェ」は、イタリア語の「フェスティバル」と、光という意味の「ルーチェ」を合わせ、特別な光の世界を楽しんでもらいたいという思いを込めたイルミネーションイベントです!2017年に初めて和歌山で開催されてから毎年開催されているこのイベントですが、昨年は青森県の十和田湖に初上陸を致しました。今年も十和田神社をメイン会場として幻想的な世界が広がります。

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昨年から始まったイベントですが、以前は「十和田湖冬物語」として開催されていたイベントが、イルミネーションなどを中心に形を変えて実施されたもの。

昨年の様子はこちら
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「乙女の像」のライトアップも為されました。
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好評だったのでしょう。今年は会期が延長され、さらに2期に分けての実施になります。まず紅葉の時期とぶつけての開催ということで、「第1章 光の紅葉物語」。12月から来年2月までは「第2章 光の冬物語」だそうです。

当方もいずれかには参上するつもりでおります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

上々の天気、温、 窓を開けて渓流を見る、


昭和26年1月30日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉での記述です。「渓流」は、宿の下を流れる豊沢川。真冬ですので、こんな感じだったかな、というところです。
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富山県から企画展示情報ですが、まず、地方紙『北日本新聞』さんの記事から。

高峰の別邸と接点か 高岡出身の彫刻家 本保義太郎 市美術館、情報提供呼び掛け

 高岡市美術館は、開催中の国立美術館巡回展「高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」で紹介している市出身の彫刻家、本保(ほんぼ)義太郎(ぎたろう)(1875~1907年)について、同郷の化学者、高峰譲吉(1854~1922年)ゆかりの建物「松楓殿(しょうふうでん)」と接点があった可能性があるとして、裏付ける資料を探している。高峰の別邸として知られる同建物は、元々は米セントルイス万国博覧会で日本のメインパビリオンとして建設され、本保が万博を視察しているためだ。同館は市民らに情報提供を呼び掛けている。(牧野陽子)
 1904年開催のセントルイス万博で日本のパビリオンだった建物は高峰が譲り受けてニューヨークに移設し、松楓殿として日米親善の社交場に活用した。昨年、建物の一部が高岡商工ビルに再現され、常設展示されている。
 本保は高岡市源平町の仏師の家に生まれた。東京美術学校(現東京芸術大)に進み、卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。フランスに留学し、ロダンが彫塑のトップを務めた展覧会で入選した。
 本保は32歳で病死。市美術館の村上隆館長は「偉大な芸術家へと歩み始めた矢先に亡くなり残念」と話す。早世で市民に存在があまり知られておらず、巡回展を企画した国立西洋美術館関係者は「高岡の宝が知られていないのはもったいない」と言う。
 同展では本保が手掛けたブロンズ像「若菜売」や裸婦立像、デッサンをはじめ、肖像写真や所有していた美術雑誌など資料を含め約20点を展示。本人が入手したセントルイス万博の図録も並ぶ。本保は万博に出品し、県などの委嘱で現地を視察しており、松楓殿や高峰と直接つながりがあった可能性がある。
 村上館長は「松楓殿、本保さんの存在は高岡にとっても大きな財産。きちんとした資料で調べていきたい」と話している。
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本保義太郎。東京美術学校彫刻科で、光太郎の一級上でした。明治37年(1904)3月31日の光太郎日記に「やがて本保君来られ会談三十分許にして帰らる」という記述があります。『高村光太郎全集』では、本保の名は唯一、ここだけですが。

記事に「卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。」とありますが、当方が資料を持っているところでは、明治34年(1901)に美術学校校友会倶楽部で開催された「彫塑会第二回展覧会」。図録がこちら。
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光太郎と本保の作品が連番になっています。本保の作はこちら。
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改めて引っ張り出して見て、「あれっ」と思いました。上記記事の画像に写っている「若菜売」は上半身のみですが、こちらは全身像です。別の作なのか、鋳造する際に上半身だけとしたのか、何とも不明ですが。

前年の第一回展にも光太郎、本保、ともに作品を出しているようです。

本保と光太郎、他にも縁があります。

光太郎は、明治39年(1906)から欧米留学に出、初め、1年余りニューヨークに滞在しました。その間、現地の彫刻家、ガッツオン・ボーグラムの助手を短期間務めました。それに先立つ明治37年(1904)、本保も渡米し、ボーグラムの助手となっていました。ただ、翌年に本保はパリに渡り、明治40年(1907)には彼の地で客死しており、同41年(1908)に渡仏した光太郎とは、直接会えなかったようです。本保がボーグラムを光太郎に紹介した、というわけでもなさそうです。

パリでの本保は、ロダンに認められ、サロン出品も果たしたそうですが、その半年後、32歳の若さで結核のため没したとのこと。やはり光太郎より先にパリに渡っていた荻原守衛が、その最期を看取ったそうです。

その本保の作がまとまって出品されているということで。

令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

期 日 : 2021年9月14日(火)~10月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1-30
時 間 : 9:30〜17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,200円(団体・シニア 900円) 高校・大学生 600円(団体 480円)
      小・中生 300円 親子券 1,400円(大人 1名、小・中生迄 2名のセット券)

2021年(令和3年)9月10日(金)から10月31日(日)の間、令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術 -〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき が開催されます。臨時休館に伴い、会期は10月31日(日)まで、延長されました。

国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に開館以来、松方コレクションをはじめとする良質な西洋美術の作品及び資料を収集・展示し、調査研究・保存修復・教育普及等の活動を行っています。

本展では、国立西洋美術館のコレクション形成史に触れつつ、西洋のルネサンスから20世紀初頭までの優品を紹介するとともに、異なる地域の背景をもちながら1951年(昭和26年)に創立された高岡市美術館のコレクションと並べて展示し、これらを双方向的に照らし合わせる新たな試みによって、歴史あるそれぞれのコレクションの意義、地域と美術の関係性をあらためて問い直します。

日本が西洋への扉を開いた明治時代、高岡は二人の先駆者を輩出しました。1900年パリ万国博覧会の事務局長を務めた林 忠正と、留学先で彫刻家・ロダンにめぐりあった本保義太郎。彼らを手掛かりに、近代以降の日本に流入した西洋美術の源流を探ります。
無題
無題2
ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

原稿終り、清書、丁度10枚になる、「婦人之友」宛のもの。


昭和26年(1951)1月29日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉さんでの一コマです。「原稿」はエッセイ「山の春」。温泉旅館で執筆、「文豪あるある」ですね。当方もやってみたいものですが(笑)。

まず、宮崎県から企画展情報です。

皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~

期 日 : 前期 2021年10月9日(土)~11月3日(水)
      後期 2021年11月5日(金)~12月5日(日)
会 場 : 宮崎県立美術館 宮崎市船塚3丁目210番地
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 月曜日 11月4日(木) 11月24日(水)
料 金 : 無料

宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品の中から、優美な皇室御慶事の品々や宮崎県ゆかりの作品などを特別展示します。国文祭・芸文祭を契機として開催する、全国初となる展覧会として、貴重な美術工芸品約30点を前・後期日程で入れ替えて紹介いたします。

宮内庁三の丸尚蔵館は、皇居東御苑内において皇室ゆかりの美術工芸品を収蔵・公開する施設です。その中から、優美な皇室御慶事の品々をはじめ、宮崎の名所が描かれた絵巻や本県とゆかりのある巨匠の名品などを紹介します。国文祭・芸文祭を契機として開催される全国初の展覧会です。
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006光太郎の父・光雲の木彫「文使」(明治33年=1900)が展示予定です(前期のみ)。

当方、この作品は2回拝見しました。最初は平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際。2度目は平成30年(2018)、所蔵元の宮内庁三の丸尚蔵館さんでの第80回展覧会「明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み」で。

後者の際のレポートからコピペします。

画像には写っていませんが、文使の背部の帯の結び目など、どうやったら一木から彫り上げられるのだろうという感じです。それから文使いのかしこまった表情。人形のようなそらぞらしさは無く、確かに血の通った人間の描写です。全体のシルエットというか、モデリングというか、そういった点でも守旧にとどまることなく、西洋美術のエスキスもちゃんと取り入れた光雲ならではのしっかりしたもので、作り物感がありません。

また、台座の部分には、蒔絵と螺鈿細工が施されています。おそらくそれぞれ専門の職人の手によるものと思われますが、これまた精緻な作りとなっていました。

明治33年(1900)の作で、当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し、逓信省から献上されたということです。献上当時、文使が手にしている柳筺には、このご成婚に際して発行された記念切手17枚(妃殿下の年齢に合わせて)が入れられていたとの事。何とも粋な計らいですね。

以上、コピペです。

ただ、この作品がなぜ宮崎県ゆかりなのかは分かりかねます。すみません。

このところ、三の丸尚蔵館さんが積極的に作品貸し出しを行っての企画展が多く(それも地方で)、喜ばしい傾向だと思われます。

宮城県美術館「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」。
九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」。

もう1件。こちらは市民講座です。

第6回太宰府学講座 日本近代木彫史と山崎朝雲、冨永朝堂

期 日 : 2021年10月16日(土) 
会 場 : 太宰府市文化ふれあい館 福岡県太宰府市国分四丁目9番1号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 500円
講 師 : 田鍋隆男さん(元福岡市博物館学芸課長)

明治時代になって木彫界に新しく西洋の技法が取り入れられました。その過程を高村光雲、その弟子山崎朝雲、さらにその弟子冨永朝堂の作品に見てみます。写真は延寿王院前の『御神牛』です。(太宰府天満宮提供)

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うっかりしておりまして、申込期日を過ぎてしまっていますが、ご希望の方、問い合わせてみて下さい。

コロナ緊急事態宣言が解除され、徐々にこうしたイベント類も旧に復してきたようです。まだまだ油断は禁物ですが。

【折々のことば・光太郎】

夜「山の人々」全部で16枚ほど書き終る。 二時にねる。


昭和26年(1951)1月5日の日記より 光太郎69歳

「山の人々」は、この年2月の『婦人公論』に載ったエッセイです。花巻郊外旧太田村の山小屋生活も5年以上が過ぎ、光太郎自身も「山の人々」の一員となっていました。

















9月18日(土)に、光太郎の父・光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた「橋本堅太郎展-無分別」を拝見に伺った、小平市平櫛田中彫刻美術館さん。こちらで、こんなものを購入して参りました。
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漫画『田中彫刻記』。同館学芸員で、当方もいろいろお世話になっている藤井明氏が監修なさっています。

作画は、いとうたかし氏。この方、プロの漫画家さんではなく、小平市の職員さんだそうですが、やはり同市にある武蔵野美術大さんのご出身だそうで、「なるほど」という感じでした。各自治体等の皆さん、こういう手もありますよ(笑)。
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満107歳まで現役を続けた彫刻家・平櫛田中の一代記で、平成25年(2013)の刊行です。奥付に拠れば平成30年(2018)第4刷となっており、一回にどれだけ刷っているのか不明ですが、順調に版を重ねているようですね。

A4判(大判です)60ページ、定価は500円。目次は以下の通りです。
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主要登場人物。
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残念ながら、田中と親しかった光太郎は登場しませんが、光太郎の父・光雲は出て来ます。なぜかロン毛ですが(笑)。
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ちなみに田中は、一から光雲に師事したわけではなく、漫画でも紹介されていますが、西日本方面である程度の基礎を学んでからの弟子入りでした。そのため、後述の米原雲海らと異なり、「雲」一字が入っていません。

光雲が登場するのは、「第二話~星取(ほしと)り法との出会い~」と、「第四話~日本美術(にほんびじゅつ)の指導者(しどうしゃ)~」。
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その他、光太郎や光雲と縁の深い面々がいろいろ登場します。

右上のコマにもいる岡倉天心。一介の仏師に過ぎなかった光雲を東京美術学校に招き、のちに光太郎が入学した折には同校校長でした。それから、禅僧・西山禾山。光太郎は田中の手引きで、西山の臨済禅の提唱を聴いたりしています。また、田中の兄弟子だった米原雲海は、光雲と共に、信州善光寺さんの仁王像制作に当たりました。

それにしても、田中の生涯もかなりドラマチックだな、と、改めて思いました。そして、彫刻に対する態度。同じ光雲門下でも、上手く立ち回り、稼いだ彫刻家もいますが、田中は違いました。光雲や光太郎もそうでしたが、世間に広く認められるようになるまでは、真摯に制作に向き合おうとすると、どうしても経済的に困窮します。それでも妥協をしない結果陥る赤貧生活の中で、田中は3人中2人の子供を病気で失いました。妻には苦労のかけっぱなし。そのあたり、智恵子が心を病むに至った、光太郎の生活とダブります。「家族を犠牲にして、何が芸術だ」と云われれば、それまでですが……。

さて、『田中彫刻記』、同館にて販売中。ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

多田等観氏にハカキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる。

昭和24年(1949)1月5日の日記より 光太郎67歳

多田等観は、僧侶にしてチベット仏教学者。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に隣接する湯口村の円万寺の堂守をしていました。

この葉書、『高村光太郎全集』未収録でしたが、平成29年(2017)、花巻市博物館さんで開催された「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」展に出品されました。
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9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。

後ほど詳しく御紹介しますが、10月8日(金)から富山県水墨美術館さんで開催される企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に協力させていただいておりまして、そのポスターやチラシを置いていただこうと、まぁ、いわば営業。それから、2館で開催中の企画展を拝見するのも目的でした。

まず、小平市の平櫛田中彫刻美術館さん。
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こちらでは、光太郎の父・光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた「橋本堅太郎展-無分別」が開催中です。

2体の智恵子像は、橋本市のお父さまで、やはり彫刻家だった橋本高昇が二本松出身という縁もあって制作されました。そして「今ここから」の方は、橋本市の遺作となった作品です。
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残念ながら、今回、2体の智恵子像に関する展示はありませんでした(石膏原型か習作でも出ていれば、と思ったのですが)。ただ、氏の得意とした数々の女性像が並び、2体の智恵子像と相通じるテイストを感じました。
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橋本作品は一部を除き、撮影可でした。

左下は代表作「竹園生」の雛形。星取の赤い点が残っています。右下は「まとう」と題された作品。
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続いて「希№2」(左下)、「無題」(右下)。
KIMG5305希№2 KIMG5302無題
地下展示室では、「つたえあい」(左下)、「Largo」(右下)。
KIMG5284つたえあい KIMG5286Largo
「渓流」(左下)、ステンレスを使った「風をきく」(右下)。
KIMG5288渓流 KIMG5290風をきく
「流木 その四」(左下)、そしてこれも代表作「清冽」(右下)。
KIMG5292流木 その四 KIMG5296清冽
「日ざしを追う」。
KIMG5294日ざしを追う
きれいなだけの作ではなく、時に、荒々しい彫り跡が残っていたりもします。しかし、それが却って生命感を醸すのに役立っているようにも見えました。そして、人体構造を熟知した上で、さらに確かなデッサン。止まっているポーズでも躍動感を感じられるところは、ロダンなどの影響も見て取れるような気がします。

光太郎とも親しかった平櫛田中に師事した橋本氏、もちろん、氏なりの個性も持ちつつ、系譜的にはやはり相通じるものがあるのかな、と思いました。

その田中の作品群も久々に拝見し、眼福の思いでした。

それにしても、コロナ禍ということもあり、きちんとした彫刻をまとめて観たのは、実に久しぶりでした。まだ油断は禁物ですが、ぼちぼちコロナ禍も収束・終息に向かいつつあるようで、以前のように気軽に展覧会を堪能できる日も遠くないのかな、という気がし、喜ばしく思います。

今回の企画展としての図録は発行されていませんでした。代わりに、橋本氏の作品写真集の豪華本が販売されていました。見本を手にとってめくると、平成23年(2011)の出版で、当然、遺作の「今ここから」は載っていません。「ほんとの空」も見あたりませんでした。

ところが、別の作品を発見し、びっくり仰天。当方、何度か実物を目にしていたのに、それが橋本氏の作品と知らなかった(アホですね(笑))彫刻がありました。

こちらです。
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光太郎と縁の深い、宮沢賢治の像。花巻農業高校さんの敷地内に移転されて建っている、羅須地人協会(賢治の旧居)の前に設置されています。平成18年(2006)の作ということでした。橋本氏が亡くなった時の報道に「宮沢賢治像」の語があったのですが、これだとは思いませんでした。

さて、「橋本堅太郎展-無分別」、11月23日(火・祝)までの予定です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ボールペンで書いてみる。スルスルすべるやうな感じなれど、面白味なし。インキが油のやうなり。

昭和24年(1949)1月4日の日記より 光太郎67歳

ボールペン、意外と歴史は新しいのですね。調べてみたところ、昭和18年(1943)、ハンガリーで発明され、日本には戦後になって入ってきたようです。

光太郎のボールペン、この日、交流のあった編集者から届いた小包に入っていたものです。おそらく、初めて手にしたのでしょう。

昨日レポートしました通り、9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。今日明日と、そちらのレポートを、と思っていたのですが、昨日、新情報を得まして、そちらを先に御紹介します。

長野県から、企画展示の情報です。

THE EXPO 善光寺2021~甲信越戦国物語~特別展

期 日 : 2021年9月14日(火)~9月26日(日)
会 場 : 長野市立博物館 長野市小島田町1414 川中島古戦場史跡公園内
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休 館 : 9月21日(火) 24日(金)
料 金 : 一般300円、高校生150円、小・中学生100円
      9/20(月),9/23(木)は入館無料
      土曜日は子どもウェルカムデーにつき小・中学生無料

 2022年4月、善光寺御開帳が開催されます。善光寺は全国から多くの参拝者が訪れる庶民信仰の寺として知られています。戦国時代におこった川中島の戦いにあっては、武田信玄・上杉謙信が自国に善光寺本尊を迎えようとし、争奪戦となりました。
 今回の展示では、川中島の戦いにおける善光寺や、そのほかの神や仏との関係をみることで、川中島の戦いの一面を描き出します。そして、川中島古戦場の首塚に代表されるような戦死者の供養についても、やはり神と仏の関係から扱います。
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概要説明やチラシに記述がありませんが(そこで、これまで気づかなかったのですが)、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる、善光寺さん仁王像の試作(ひな形)が展示されています。
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こちらは通常、善光寺史料館さんで常設展示されているものですが、いわば出開帳です。

NHKさんのローカルニュースで、展示について報じられました。こちらでも仁王像については言及されませんでしたが。

善光寺と川中島の戦いにゆかりの品集めた特別展 長野 

 善光寺と川中島の戦いにどのようなつながりがあるのでしょうか。双方にゆかりがある、よろいや錦絵などが集められた特別展が長野市で開かれています。
 長野市立博物館で開かれている特別展は、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いと善光寺にゆかりがある、かぶとや木像などおよそ100点が展示されています。
 このうち、魂が宿るともされる武田信玄と上杉謙信のそれぞれの位はいは、ともに高さおよそ115センチ、横およそ30センチとほぼ同じサイズで、いずれも善光寺に所蔵されています。
 また、江戸時代の作品とされる川中島の戦いの錦絵では、千曲川を挟んで武田信玄と上杉謙信が対陣している様子が描かれています。
 長野市立博物館の北澤瑞希研究員は「川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が善光寺の本尊を奪うためだったとも言われている。両雄の位はいがいずれも戦場近くの善光寺にあり、両者の因縁の深さを知ってほしい」と話していました。
 この特別展は、長野市立博物館で今月26日まで開かれています。
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最後の画像に、仁王像が写っています。

ところで、やけに会期が短いな、と思ったのですが、コロナ禍のため、当初予定では9月3日(金)開幕予定だったのが、遅らせての始まりとなったためだそうです。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝ゆつくり。 雑煮を祝ふ。 門松一本、紙製国旗をかかぐ。 雑煮は豚肉入大根、里芋、餅、あわ餅。


昭和24年(1949)1月1日の日記より 光太郎67歳

昭和24年(1949)の年明けです。

この年は、NATO発足、中華人民共和国建国、ドイツは東西に分断、ソ連が初の核実験に成功、明るいニュースとしては、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞(日本人初のノーベル賞)などがありました。

宮城県から企画展情報です。

宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々

期 日 : 前期 2021年9月18日(土)~10月10日(日)
      後期 2021年10月12日(火)~11月7日(日)
会 場 : 宮城県美術館 仙台市青葉区川内元支倉34-1
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日  毎週月曜日
       ただし祝日・休日にあたる場合は開館し、原則として翌平日が休館
料 金 : 一般300円(20名以上の団体は240円) 大学生150円(20名以上の団体は120円)
      高校生以下無料

このたびの本展は、ここ仙台の地で、皇室ゆかりの品々をまとまった形で紹介する初めての機会となりました。

明治天皇(1852-1912)は、明治9年(1876)および14年(1881)の2回にわたって東京から陸路を進んで東北各地を巡幸されました。この巡幸は、皇室と東北地方の人々の距離を縮め、互いの存在を強く意識するきっかけとなりました。その後、歴代天皇や宮家の方々の御訪問、また秩父宮雍仁親王(1902-52)との深い御縁など、皇室と東北各地を繋ぐ様々な縁が、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品の数々にうかがえます。

本展では、東北各県にゆかりのある作家や作品を中心に、各地域の伝統的な技術による工芸品も含めて、皇室と東北の各地との絆を伝える品々を紹介します。このほかにも、江戸時代の京都御所で飾られた屏風、明治以降の宮殿などの室内装飾品や皇室行事で用いられた大作、作家の代表作も並びます。ぜひこの機会に、皇室に伝えられた様々な美のかたちをご堪能ください。

当館本館2階では、「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」を同時開催いたします。
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関連イベント ※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から、予定が変更になる場合がございます。
 講演会「皇室と東北ゆかりの美 ―宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵品から―」
 講師  五味聖(宮内庁三の丸尚蔵館 主任研究官)
 日時  10月10日(日曜日) 午後2時~(90分程度、開場は午後1時30分)
 会場  講堂
 定員  150名 ※先着順(聴講無料)
 午後1時より、講堂前にて整理券を配布します。

 まちなか美術講座「皇室と東北のつながり ―宮内庁三の丸尚蔵館の名品から―」
 講師  土生和彦(当館学芸員)
 日時  10月16日(土曜日) 午後1時30分~
 会場  東北工業大学一番町ロビー2階ホール
 定員  20名 下記宛先へ事前のお申込みが必要です。申込み多数の場合は抽選。
     先着順ではありませんので、ご注意ください。
 申込み方法 往復ハガキにてご応募ください。氏名・住所・講座タイトルを明記。
 申込み期間: 9月1日(水曜日)~10月1日(金曜日)※当日消印有効。
 【宛先】〒980-0811 仙台市青葉区一番町1-3-1(TMビル)
       東北工業大学一番町ロビー「まちなか美術講座」 係 

出品目録によると、001光太郎の父・光雲作の「養蚕天女」(大正13年=1924)が展示されます(前期のみ)。

三の丸尚蔵館さんには、光雲作の「養蚕天女」が二点、収蔵されています。サイズが異なり、大きな方が像高約50㌢。今回展示されるのはこちらです。小さい方は同じく約25㌢。こちらは昭和3年(1928)の作です。いずれも昭和天皇のご成婚記念に贈られたもので、明治以降、歴代の皇后陛下が養蚕に取り組まれていることにちなみます。

ただ、なぜこれが「東北ゆかりの品」なのか解らなかったのですが、どうも、皇后陛下の養蚕に使われている蚕の稀少品種「小石丸」が、山形県で現在も受け継がれているとのことで、その関係でしょうか。

ところで、関連行事のうち、まちなか美術講座「皇室と東北のつながり ―宮内庁三の丸尚蔵館の名品から―」を担当される土生和彦氏。以前は愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんにご勤務なさっていまして、平成25年(2013)、同館他2館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」では大変お世話になりました。仙台に異動されていたんだ、という感じでした。

さて、毎度同じ文句ですが、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前11時14分の電車にて花巻郵便局にゆき、昨夜の詩稿「おれの詩」を「心」の木村氏に速達。電報もうつ。


昭和23年(1948)11月26日の日記より。

『心』は、この頃、盟友・武者小路実篤が主宰していた雑誌です。下の画像、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋内部ですが、光太郎の背後の棚、武者の絵が無造作に画鋲で留められています。

「おれの詩」は、翌年の新年号に掲載されました。003

    おれの詩

 おれの詩は西欧ポエジイに属さない。
 二つの円周は互に切線を描くが、
 つひに完くは重らない。
 おれは西欧ポエジイの世界を熱愛するが、
 自分の詩が別の根拠に立つことを否めない。
 アテネの空とクリスチアニスムの地下泉とは
 西欧ポエジイの言語思考の方式を生んだ。
 それは限なく美しく強くおれの内部に滲透するが、
 その粉食と牛酪と肋間肉(アントルコオト)との生理は
 おれの日本語の必然を近づけない。
 おれの詩はおれの五臓六腑から出る。
 極東の突端に生れて粒食に育ち、
 麹と大豆と魚肉とに養はれた魂は、
 遠くガンダラの余薫を身にしめるとはいへ、
 むしろ厖大な大陸の黄土文化に啓発され、
 日本古典のせせらぎに沐浴し、
 遽々然として今原子力に瞠目するのだ。
 おれの詩はおれの実体以外になく、
 おれの実体は極東の一彫刻家であるに過ぎない。
 おれにとつて宇宙は構造の原点であり、
 詩は構造の対位法(コントルポアン)だ。
 西欧ポエジイは親愛なる隣人だが、
 おれの詩の運行は一本軌道がちがつてゐる。

以前にもちらっと御紹介しましたが、光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた展覧会が開催されます。

橋本堅太郎展-無分別

期 日 : 2021年9月17日(金)~11月23日(火・祝)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般300円(220円)・小中学生150円(110円)
       ※( )20名以上団体料金

東京藝術大学で平櫛田中に彫刻を学び、2021年1月31日に他界した橋本堅太郎(文化功労者)は、戦後ながく具象彫刻の第一人者として活躍しました。本展では、数多くの温和で美しい女性像を創り出した橋本堅太郎の彫刻世界を紹介します。
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代表作の一つ「竹園生」の画像が案内に使われています。

できれば来週末には拝見に伺う予定でおります。コロナ感染にはお気を付けつつ、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝、岡崎市の石屋さんといふ鈴木政夫といふ人来訪。バタ、サツマイモ等もらふ。愛読者。石彫希望の由。


昭和23年(1948)11月24日の日記より 光太郎66歳

鈴木政夫(大正5=1916~平14=2002)は、のち、木内克に学び、石彫の彫刻家となります。太平洋戦争に出征、復員後、家業の石材店を手伝ったりしていたのですが、彫刻への思い断ちがたく、敬愛していた光太郎を岩手の山中に訪ねました。30歳を過ぎて、彫刻家として立っていけるかどうか、専門の教育も受けて居らず、家族も反対している中、光太郎に相談に来たのです。

ちなみに鈴木の兄・基弘は、東京美術学校で学んだ彫刻家でしたが、鈴木は兄のアカデミックな作風を嫌っていました。

鈴木の著書『高村光太郎先生訪問始末記』(平成2年=1990 私刊)より。

「私はこのままでは駄目になってしまいます。先生、彫刻とは一体何なのでしょうか。彫刻とは人生にとって何なのでしょうか。今の私には基礎となるものを持っていません。でも私の兄のような彫刻が、どうしても本当の彫刻とは思われません。すでに私は三十歳半ばの年齢です。今から彫刻などして、果たしてものになるでしょうか。仕事には年齢のタイミングというものがあると聞いています。しかし、石が叩けるということ。身体がなんとか丈夫である、ということ。そして彫刻がしたいという情熱、この三つだけは持っているつもりです」
 先生はじっと私の話を聞き終わり、しばらくお考えになっていた。
「君は何を言っている。何を心配しているのかね。明治から今日まで、日本の彫刻家で、石の自由に叩けた彫刻家がいたというのかね。それに彫刻の仕事だけは身体が丈夫でなくては駄目だ。あのミケランジェロを見たまえ。それに君は何よりも彫刻を作りたいという情熱に燃えているではないか。こんなにまで三拍子揃った財産を、すでに君は持っているではないか。それだけで、君はもう立派に彫刻家となれる資格を持っているのだよ。あせることはない。遅いということはそれだけ大きくなるということなのだ。ゆっくり、ゆっくりやりたまえ」
 私はみるみるうちに目頭が熱くなり、一筋二筋と涙が頬に伝わった。やがてとめどもなく流れてきた。今までの思いつめていた力が一度に抜けた。思えば長い長い道のりであった。これだけの言葉を聞きたいばかりに、なんと私は大きな犠牲を青春に支払ったことか。しかし今まさにその支払いも、私にとって決して無駄使いではなかったことが、こうして先生に証明していただけた。

ただし、光太郎、太田村で光太郎の元、修業をしたいという鈴木の申し出は断っています。

『週刊ポスト』さんの2021年9月10日号に、光太郎の父・光雲の名。巻末の「山下裕二×壇蜜/美術館へ行こう」という連載です。
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この連載、8月20日号から港区の芝増上寺さんが扱われていて、その4回目です。

増上寺・宝物展示室【4】壇蜜、日英友好「建築模型」の存在感に見入る

 日本美術応援団団長で美術史家・明治学院大学教授の山下裕二氏と、タレントの壇蜜が、日本の美術館や博物館の常設展を巡るこのシリーズ。今回は東京都・港区の増上寺・宝物展示室の第4回。2人が日英両国の友好の証である貴重な「模型」を見る。

デザイン:古宇田實、彫刻:高村光雲『台徳院殿霊廟模型』(中門・透堀・拝殿・相之間・本殿)明治42年(1909年) Royal Collection Trust/(c) Her Majesty Queen Elizabeth II 2021

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壇蜜:増上寺の宝物展示室はお寺の中とは思えないモダンな異空間です。『台徳院殿霊廟模型』は豪華絢爛で存在感を放っていますね。
山下:日本文化を紹介する趣旨で明治43年の日英博覧会へ出品された建築模型で、明治末期の伝統工芸や建築の最高の技術が結集されています。台徳院殿霊廟は徳川2代将軍の秀忠公の墓所で、3代・家光公が寛永9年に増上寺で造営したもの。この霊廟を基に日光東照宮も造営されました。
壇蜜:装飾美を誇る日光東照宮の原点だったとは。霊廟は境内で見学できますか。
山下:明治時代に一般公開されて観光地となり戦前には国宝に指定されていましたが、昭和20年に大空襲で焼失してしまいました。
壇蜜:戦火で……。模型が残っていたのは貴重です。
山下:日英博覧会を訪問した記念に英国国王のジョージ5世へ献上された後、英国王室のロイヤル・コレクションとして保管されていたのです。日英友好400年の平成25年にエリザベスII世女王より日英文化交流の歴史的記念物として日本で展示するよう提案があり、増上寺へ長期貸与という形で里帰りしました。
壇蜜:模型は日英両国が築いた友好の証なのですね。
山下:展示前の修復・組み立て作業中に重要な部品をチャールズ皇太子が直々に届けられたことも。令和元年に天皇陛下の「即位礼正殿の儀」で来日された折には、宝物展示室を訪れて模型をご覧になりました。
【プロフィール】
山下裕二(やました・ゆうじ)/1958年生まれ。明治学院大学教授。美術史家。『日本美術全集』(全20巻、小学館刊)監修を務める、日本美術応援団団長。
壇蜜(だん・みつ)/1980年生まれ。タレント。執筆、芝居、バラエティほか幅広く活躍。近著に『三十路女は分が悪い』(中央公論新社刊)
●増上寺・宝物展示室
【開館時間】10時~16時(最終入館15時45分)※当面の間、平日は11時~15時閉館(最終入館14時45分)
【休館日】火曜(祝日の場合は開館)
【入館料】700円 ※徳川将軍家墓所拝観共通券1000円
【住所】東京都港区芝公園4-7-35

「台徳院殿霊廟模型」。記事にある通り、明治43年(1910)に開催されたイギリスでの博覧会出品のため制作され、その後、英王室に寄贈されましたが、平成25年(2013)に里帰りし、修復作業後、同27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室で常設展示されています。当方も一度、拝見に伺いました

元々、増上寺さんにあった、徳川二代将軍・秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」(太平洋戦争の空襲で焼失)を10分の1スケールにしたもので、東京美術学校が依頼を受け、光雲は監修という立場でした。光雲が彫った部分もあるかもしれませんが、全体には工房作の扱いですね。

ところで山下氏、いわゆる「超絶技巧」系の工芸作品等の魅力を広めた仕掛け人のお一人ですが、どうも光太郎が「超絶技巧」系を「生命(ラ・ヴィ)が無い」と切り捨てたことを根に持たれているようで、あちこちで光太郎をけちょんけちょんにけなされています。技法や素材云々にかかわらず、「生命(ラ・ヴィ)が無い」ものはやはり駄目、光太郎の言も至極もっともだと思うのですが、いかがでしょうか。

山下氏、一方、光雲は、どちらかというと「超絶技巧」系に近い立ち位置だったということで、その限りではないようです。光雲は光雲で、輸出向けの牙彫(象牙彫刻)など、粗製濫造のものが多い、と、批判していたのですが……。

閑話休題。「台徳院殿霊廟模型」、先述の通り、増上寺さんの宝物展示室で常設展示されています。一見の価値あり、ですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

学校で雉子生捕  昭和23年(1948)10月13日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校です。生け捕りにしたキジは、光太郎が捕まえたのか、先生たちなのか、この記述だけでは不明ですが、翌日にはその肉を分けてもらっています。

歌手の方々に関するニュースを2件。

まずは「千の風になって」などで知られる、秋川雅史さん。趣味で木彫をなさっていましたが、このほど、二科展で入選を果たされたそうで。

『日刊スポーツ』さん。

テノール歌手秋川雅史「二科展」彫刻部門で入選 芸能界初の快挙

 テノール歌手秋川雅史(53)が、21年第105回記念「二科展」に出品し1日、彫刻部門で入選した。関係者によると、彫刻部門での入賞は、芸能界では初めてだという。
 秋川が木彫刻を趣味にしていることは広く知られていたが、公募展に出品するのは今回が初めて。作品は「木彫楠公像(楠木正成像)」。
 秋川は「入選いたしました。ありがとうございます。もちろん私は、歌手なんですが、木彫刻も本気で取り組んでおりまして、二刀流ではございませんが、実はすでにお寺の方にも私の製作した仏像を奉納させていただいております。昨年はコロナの影響でほとんどのコンサートがなくなってしまい、その間はステイホームで家で彫刻を彫る毎日でした」とコメントした。
 秋川によると、だんじり彫刻では有名な愛媛県西条市の出身であることから、子どもの頃から、素晴らしい彫刻を目にして育ったという。また、11年前に仕事で訪れたドイツで「鷹」の彫刻を買って帰り、それを眺めていたら自分でも彫れるんじゃないかと思ったのが、本格的に始めるきっかけになったという。
 今回製作した「楠木正成像」は皇居前にある銅像に影響を受けて製作。秋川は「皇居前の像は下から見上げるのですが、私は木に落とし込む訳ですから上からも眺める姿になります、なので馬の尻尾の形状や、顔の目線を上に向く様にしたり、自分なりのエッセンスを入れ込んだ、秋川雅史の、木彫楠公像として作品に仕上げました。また、この作品は一木から掘り出しており、細かい彫刻刀が届かないところなどは特注の彫刻刀を作ってもらったりなど、こだわりにこだわり3年掛かって完成させました」。
 最後に、「彫刻家としてはこうして二科展で入選いただきましたが、歌手としての登板は、8日に東京オペラシティで行います。そちらの方も是非お越しください(笑い)」とコメントした。

◆第105回記念「二科展」 
▼会場 国立新美術館 
▼会期 9月1日~13日。(7日は休館日)
▼時間 午前10時~午後6時
▼主催 公益社団法人 二科会
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日テレさん。

テノール歌手・秋川雅史 二科展、彫刻部で入選「ステイホームで生活は彫刻家」

 「千の風になって」などで知られる、テノール歌手の秋川雅史さんが、第105回記念「二科展」彫刻部に出品し、初入選をしたことを所属事務所が発表しました。彫刻部での入選は芸能界では初めてだということです。
 彫刻が趣味だという秋川さんは「今回、第105回『二科展』彫刻部で、私の製作した「木彫楠公像(楠木正成像)」が入選いたしました。ありがとうございます」と喜びを明かしました。
 さらに「みなさんは秋川雅史というと『歌手』だと思っている方が多いと思います。もちろん『歌手』なんですけれども、実は『二刀流』じゃありませんけれども、彫刻の方も本気で取り組んでいまして、すでに3つのお寺さんの方にも私の仏像を奉納させて頂いているくらい彫刻家としての活動も行っております。昨年はコロナの影響で8割・9割の歌の仕事がなくなってしまったので、まさにステイホームで生活は彫刻家といった感じでこの作品を作りあげました」と語りました。
 今回入選したのは『木彫楠公像(楠木正成像)』。秋川さんは作品について「皇居前にある楠木正成像の銅像に影響を受けて製作したのですが、銅像って目の上の位置に飾られているので、下から見上げる形で制作をするんですけれども、今回はそれを木に落とし込むということで、上から眺める姿ということで、少し馬の尻尾の流れを上向きにしたりとか、顔の目線を遠くに持っていったりとか、自分なりのエッセンスを組み込んでいって、そして秋川雅史の『木彫楠公像』という作品に仕上げました。また、この作品は一木から掘り出しており、細かい彫刻刀が届かないところなどは特注の彫刻刀を作ってもらったりなど、こだわりにこだわって3年掛かって仕上げた作品であります」と、熱い思いを明かしました。
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入選作は、「木彫楠公像(楠木正成像)」。東京美術学校として依頼を受け、光太郎の父・光雲が主任となって制作され、明治33年(1900)、皇居前広場で除幕された「楠木正成像」をモデルになさいました。

秋川さん、光雲愛が半端なく、光雲の木彫を入手されたりもされていて、この作も光雲へのオマージュですね。

『日刊スポーツ』さんの記事に有る通り、第105回二科展、六本木の国立新美術館さんで、13日までの開催です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

さらに、訃報を一つ。今日の朝刊を見て、「ありゃま」と思いました。いわば、秋川さんの大先輩の方でして。

「時事通信」さん。

西脇久夫さん死去 コーラスグループ「ボニージャックス」、85歳

007 コーラスグループ「ボニージャックス」のメンバー、西脇久夫(にしわき・ひさお)さんが8月30日午前8時50分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。85歳だった。宮城県出身。葬儀は近親者で済ませた。
 早稲田大グリークラブ出身の男性4人でグループを結成し、1958年にボニージャックスとしてデビュー。トップテナーを務めた。
 ボニージャックスは、童謡の「ちいさい秋みつけた」「手のひらを太陽に」やロシア民謡の「一週間」など5000曲以上の幅広いレパートリーを持ち、63年から3年連続でNHK紅白歌合戦にも出場した。

『東京スポーツ』さん。

「ボニージャックス」西脇久夫さん死去でメンバーが追悼

 4人組コーラスグループ「ボニージャックス」の西脇久夫さんが、肺がんのため8月30日、午前8時50分に都内の病院で亡くなった。85歳。故人を悼みメンバーがコメントを寄せた。
 バスの玉田元康は「ボニージャックスは63年、グリークラブ時代を含めると67、8年になります。長い長い付き合いでした。肺癌という重い病気と頑張って闘った。最後まで歌おうとしていた姿が忘れられません。長い間ご苦労様でした」。
 バリトンの鹿島武臣は「昨日から解散しないでくれという電話が鳴りっぱなしです。西脇は根っからのリードボーカル、生まれながらのテノール馬鹿でした。目立ちたがり屋、キザ、我儘、スター意識ギンギラギン。しかし、コーラスグループにはテノール馬鹿が必要なのです」と追悼。続けて「これからは残された3人で頑張ります。我々には定年がない代わりに仕事がこなくなったらおしまい。連日パラリンピックが教えてくれています。『失ったものを数えるな。残っているものを数えろ!』往生際の悪いのは僕らの売りです」と決意を新たにした。
 また、ともに活動していた「ベイビーブー」のリーダー・ユースケは「先日、宮崎の童謡コンサートでご一緒させて頂いたばかり。あまりに突然の訃報で現実を受け入れきれずにいます。生涯歌い続けてこられたそのお姿と歌声、目に耳に残っています。今はただ、西脇さんのご冥福を心よりお祈りしております」とコメントを寄せた。

当方、ボニージャックスさんの2枚組CDを1点、所持しています。コロムビアさんから平成9年(1997)リリースの「ボニージャックスの日本の唱歌」。下の画像、右から二人目が、亡くなった西脇さんです。
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こちらには、光太郎作詞の戦時歌謡「歩く歌」(飯田信夫作曲)が収められています。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十時松庵寺。院長さん夫人、宮沢老人、勝治さん来集。


昭和23年(1948)10月9日の日記より 光太郎66歳

「松庵寺」は、花巻市街に現存する寺院です。花巻及び郊外太田村在住時代、ほぼ毎年、この時期に、光雲、智恵子、そして母・わかの法要を営んで貰っていました。

「院長さん」は、花巻病院長・佐藤隆房、「宮沢老人」は賢治の父・政次郎、「勝治さん」は光太郎を太田村に誘った元分教場教師・佐藤勝治です。

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