カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 彫刻

1月ももう終わりですが、今年のカレンダーを新たにゲットしました。

We Love Towada 2023 卓上カレンダー

青森県十和田市の春夏秋冬をイラスト化したWe Love Towada カレンダー2023卓上カレンダーです。

こちらのカレンダーは、ハガキサイズの月めくり卓上タイプで、青森県十和田市出身のデザイナー藤森加奈江さんがデザインしたものです。

お買い求めは、道の駅とわだや十和田市内各所、とわこみゅオンラインショップでご購入できます。

価格 ¥1,100円 (税込)
※オンラインで購入の場合は、別途送料300円加算されます。

販売場所
・とわこみゅオンラインショップ (販売中) → 購入ページはこちら
・道の駅とわだ (1月上旬から予定)
・十和田市観光物産センター(1月上旬から予定)
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がデザインされています。

まず表紙的な1枚。下部中央やや右の位置に。
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1月も小さく右の方に。
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2月は像のシルエットが大きく。
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7月は像がメインです。
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4回も使っていただき、ありがたし。

他に、奥入瀬渓流、北里大学さん、官庁街通りなどの風景や、イベントとしての桜流鏑馬、夏の花火大会などがあしらわれています。

オンラインでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

何卒御養生十分被遊たく存上候 東山の翠微鴨川の清流朝夕の御薬と存じまゐらせ候

明治30年(1897)頃8月9日 高村光雲宛書簡より 光太郎15歳頃

この項、今日より書簡から抜粋します。

現在確認できている3,500通余りの光太郎書簡のうち、最も古いと推定されるものから。封筒が欠けているのですが、京都に出張中の父・光雲に宛てたものです。光雲、どうも出張先で体調を崩したらしく、それを気遣う文面となっています。光太郎、この頃はまだ孝行息子でした。

昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
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夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。

会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
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受付で出品目録を頂きました。
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思っていたより展示点数が多いので、驚きました。

まずは肖像彫刻群。
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武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。

続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
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ともに360°から鑑賞可能。

光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
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昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。

何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
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その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
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なかなか充実した展示でした。

昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。

彫刻家 高田博厚 没後35年記念し展示会 鎌倉

 日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家、高田博厚の没後35年を記念した展示会が、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市で開かれています。
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 高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
 鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
 このうち、代表作の「カテドラル」は、戦争の砲弾で傷ついたフランスの大聖堂を女性の胴体として表現した、高さおよそ55センチの彫刻作品です。
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 また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
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 訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
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 鎌倉市文化課の竹下歩実さんは、「高田作品を一堂に会して展示していますので、作品のポーズの違いなどさまざまな差異を楽しんでもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。

ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。

会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、

昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳

宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。

神奈川県鎌倉市から、企画展情報です。

没後35年 高田博厚展

期 日 : 2023年1月21日(土)~1月31日(火)
会 場 : 鎌倉芸術館 神奈川県鎌倉市大船6-1-2
時 間 : 午前10時から午後5時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本市ゆかりの彫刻家・高田博厚の没後35年を記念し、高田博厚展を鎌倉芸術館において開催します。高田博厚は、昭和41年に鎌倉市に住居とアトリエを構え、昭和62年に亡くなるまで多くの彫刻作品を創作した彫刻家です。
 本展覧会では、多くの優れた作品を生み出した高田博厚の生涯を、3つの時代(渡仏前、パリ時代、東京・鎌倉時代)に分け、それぞれの時代の作品を展示することで、作品の変遷を辿ります。中でも、生涯を通じて多数制作されたトルソを主に、高田の言葉と共に紹介することで、彼のトルソに対する想いや、個々の作品の細やかな違いを楽しめる他、作風に影響を与えたロダン等、他作家の彫刻作品も展示します。
 ロダン、ブールデル、マイヨールらヨーロッパ近代彫刻家についての研究を通じ、彫刻についての思索を深め、高い精神性が込められた作品を数多く残した、高田博厚の世界をぜひお楽しみください。
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早世した碌山荻原守衛を除き、戦前の光太郎が唯一深い交流を持っていた彫刻家・高田博厚。光太郎の援助もあって昭和6年(1931)に渡仏し、以後、光太郎と直接会うことは叶いませんでしたが、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国するや、光太郎顕彰活動の一端を担ってもくれました。

帰国後にアトリエを構えていた鎌倉で開催される歿後35年記念展だそうで、光太郎胸像(昭和34年=1959)も展示される予定です。同型のものは各地に存在しますが。
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『毎日新聞』さんの神奈川版に、予告記事が出ていました。光太郎の名も出して下っています。

高田博厚の世界たどる 没後35年展、鎌倉で21日から 胴体彫刻など50点/神奈川

002 晩年を鎌倉市で過ごした彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の没後35年展が21日から鎌倉芸術館ギャラリーで開かれる。生涯を通じて多く制作されたトルソ(胴体彫刻)のほか、西田幾多郎、萩原朔太郎らの頭像、デッサンなど約50点が展示される。
 高田は石川県生まれ。幼いころから、語学に優れ、文学や芸術に親しんだ。18歳で上京後、高村光太郎の勧めで彫刻を学び、31歳でフランスに渡った。作家のロマン・ロランや画家のポール・シニャックらと交流。第二次世界大戦中も帰国せず、新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会の要職を勤めた。
 展示では、渡仏前▽パリ時代▽東京・鎌倉時代――の3期に分け、作品の変遷をたどる。胴体部分をクローズアップしたトルソを中心に「君は指で思索する」とロマン・ロランに称賛された高田博厚の世界が楽しめる。31日まで。無料。


ロダンやマイヨールの作も並ぶということですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧をうける、


昭和31年(1956)2月8日の日記より 光太郎74歳

昭和30年代、40年代、故・浪越徳治郎氏の「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の名言と共に展開された普及活動もあって、指圧は民間療法として流行していました。

しかし、余命2ヶ月となった光太郎には焼け石に水だったようです。

沖縄から企画展情報です。

美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展「宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」

期 日 : 2023年1月20日(金)~2月19日(日)
会 場 : 沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般¥800(¥640) 高校・大学生¥500(¥400) 小・中学生¥200(¥160)
      ( )内は前売券または20名以上の団体料金。

 復帰50年を節目として行われる国民文化祭「美ら島おきなわ文化祭2022」の一環として、沖縄で初めて皇室に伝えられた美術工芸品の展覧会を開催します。
 宮内庁三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品などが平成元年(1989)に国に寄贈されたの機に、皇居東御苑に平成5年に開館した施設です。
 この度、三の丸尚蔵館が所蔵する沖縄ゆかりの油彩画や工芸品と、皇室に伝えられた名品の数々を紹介します。
 絵画や写真を通して、皇室に伝えられた沖縄の姿をご覧ください。

沖縄ゆかりの品々
 明治20年(1887)頃の沖縄を写生した山本芳翠の連作画をはじめ、旧桂宮家に伝えられた「琉球塗料紙箱・硯箱」、昭和天皇や秩父宮家に献上された沖縄ゆかりの作家による作品や沖縄に根ざした特色ある工芸品を展示します。
 また、宮内庁が所蔵する明治時代の古写真の中から沖縄ゆかりの人物写真や明治20年の沖縄を写した写真、明治34年撮影の「沖縄県内各学校写真帖」をパネルで紹介します。

皇室の美 北斎の肉筆画、沖縄で初披露
 三の丸尚蔵館が所蔵する名品から、江戸時代に活躍した円山応挙「張飛図」と葛飾北斎「西瓜図」を紹介します。
 また、明治時代初期に記録のために作成された「雅楽図」や、高村光雲・山崎朝雲「萬歳楽置物」、綴織による大型の壁掛けなど、皇室がその伝承に深く関わってこられた雅楽を主題とした作品や儀式で用いられた伝統的な装束、着物など、高貴で優美な染織美をご覧ください。
このほか、皇室の御慶事の折に記念品として作られてきた愛らしいボンボニエールなどを紹介します。
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三の丸尚蔵館さんといえば、今年年秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。

今回は、九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」でも出品されたブロンズの「萬歳楽置物」(大正4年=1915)が展示されます。木彫原型が、光太郎の父・光雲と、その高弟・山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されたものです。
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当方、一度、現物を拝見しましたが、実に見事な作でした。何より皇室で大切に保管されてきただけあって、状態がいかにもよく、まるで最近作られたばかりのようでした。

沖縄で光雲作品の展示というのはめったにありませんし、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后浅沼政規氏くる、余の談話筆記の原稿をあずかる、ヰスキーソーダを出す、

昭和31年(1956)1月19日の日記より 光太郎74歳

004浅沼政規氏」は、昭和27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山口小学校校長を務めていた人物。光太郎にかわいがられた子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、光太郎の語り部を務めて下さっています。

余の談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。

浅沼は活字にすることを希望して、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、光太郎生前には実現しませんでした。

いわゆるコレクション展で、光太郎木彫2点が出ています。

メナード美術館開館35周年記念展 所蔵企画 35アーティストvol.Ⅱ

期 日 : 2023年1月6日(金)~4月2日(日)
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(1月9日は開館)、1月10日
料 金 : 一般 900円 (700円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

開館35周年記念展の第2弾「35アーティストvol.Ⅱ」では、当館を代表する作家35人のなかから9人の作品をご紹介いたします。大胆な筆づかいと色彩による作品を描いたゴッホ、北斎の娘で美人画の名手とうたわれた葛飾応為(後期展示のみ)、戦後の日本洋画壇をけん引した梅原龍三郎、詩人としても知られる彫刻家の高村光太郎らの作品をご覧いただきます。さらには、9人を軸にゆかりのある作家たちの作品をともに展示し、より当館のコレクションをお楽しみいただけるものとなっています。

主な出品作家
フィンセント・ファン・ゴッホ、ジェームズ・アンソール、尾形光琳(前期展示)
葛飾応為(後期展示)、安田靫彦、梅原龍三郎、国吉康雄、高村光太郎、鈴木五郎ほか


初公開コレクション
ノーマン・ロックウェル《牛乳配達夫とカップル(パーティー出席者たち)のための習作》
土佐光芳《三十六人歌合帖》、鈴木五郎《石との融合 五利部椅子》


その他の出品作家          
ピエール=オーギュスト・ルノワール ポール・ゴーギャン フェルナン・クノップフ
エドヴァルド・ムンク ピエール・ボナール ジュール・パスキン 
ノーマン・ロックウェル ポール・デルヴォー アレクサンダー・カルダー
本阿弥光悦(前期展示)  俵屋宗達(前期展示) 烏丸光広(後期展示) 葛飾北斎(後期展示)
小林古径 前田青邨 安井曽太郎 岸田劉生 前田寛治 高田博厚 佐藤忠良
など

というわけで、光太郎木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が展示されています。
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「栄螺」は平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。
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その後、同館が買い取り、時折展示して下さっています。光太郎彫刻の中では、一つのエポックメーキングとなった作品です。これを作る前と後で、彫刻の概念そのものに大きな変化があったとのこと。

「鯰」は、複数作られたもののうち、新潟の素封家・松木喜之七に贈られたものです。松木は鯉の木彫を光太郎に依頼し、光太郎も何とか彫り上げようとしましたが、どうしても自分で納得の行く作が出来ず、代わりに、とこの鯰を進呈しました。しかしその後、松木は太平洋戦争末期、もういい年だったにも拘わらず「根こそぎ動員」に遭って出征、台湾沖で戦死してしまいました。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔んだようです。
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光太郎木彫が見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜になつてから山口の浅沼菊蔵さん、重次郎さん細君忠善さん細君、佐々木といふ人とくる、昌歓寺に観音像との事、約束しがたき事告げる


昭和30年(1955)12月5日の日記より 光太郎73歳

山口」は昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた岩手県花巻郊外旧太田村山口地区。「昌歓寺」は太田村の古刹で、蟄居中に光太郎も何度か足を運んでいます。

そちらに新たに十一面観音像を奉納、その制作をお願いしたいという依頼はこれ以前からあり、おそらく来訪した面々は、見舞いがてらの催促だったように思われます。結局、それは実現出来ず、光太郎歿後になって光太郎の父・光雲の弟子筋に当たる彫刻家・森大造が光太郎の代わりに制作に当たりました。この像は同寺に現存しています。

2023年、令和5年となりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
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画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。

未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。


さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。

それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。

130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳

光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。

また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。

120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。

智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。

110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。

光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。

100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。

結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。

9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。

90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。

心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。

80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。
黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。

70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。

というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。

何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。

昭和30年(1955)10月27日の日記より 光太郎73歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。

2022年も残りあと僅かとなりました。もうすぐ2023年、兎年となります。

 そこで、展覧会情報等のサイト「インターネットミュージアム」さんのイベント。

ミュージアム干支コレクション アワード 2023 兎

2023年は卯年。インターネットミュージアムでは「兎」が入っている館蔵品をサイトでご紹介するとともに、好きな1点にネットで投票していただく「ミュージアム 干支コレクション アワード」を実施します。

投票期間 12月13日(火) 15:00 ~ 2023年1月26日(水) 15:00

お一人様、一日一票のみ投票可能です。複数回の投票は行えません。詳しくは、「ミュージアム 干支コレクション アワード 投票について」をご覧ください。
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エントリー (全 70 点)
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全国の美術館さん所蔵の「兎」の名品がエントリー、投票が行われています。

竹橋の国立近代美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」(明治32年=1899頃)も参戦。一館一点のエントリーだそうでして、膨大な所蔵品を誇るMOMATさんではこれを選んで下さったというわけで、ありがたいことです。
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東京美術学校在学中、数えで17歳の作品です。とても10代の少年の作とは思えませんね。まぁ、父・光雲なりその高弟なりの作った手本があって、それを模刻したものかもしれませんが。

投票の途中経過も公開中。それを見ると光太郎の兎、苦戦中のようです。ぜひ皆様の清き一票を(笑)。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、 くもり、晴、暑、 平熱、


昭和30年(1955)10月5日の日記より 光太郎73歳

昭和13年(1938)に歿した智恵子の忌日。光太郎生前最後となりました。戦後すぐの花巻郊外旧太田村蟄居時代は、ほぼ毎年、花巻町に出て、松庵寺さんで父・光雲、母・わかのそれと併せて法要を営んでもらっていましたが、もはやほぼ臥床していたこの年は、特別に何も行えませんでした。

テレビ放映の情報です。

まずは「開運!なんでも鑑定団」。地上波テレビ東京さんで8月30日(火)に初回放映のあったものの再放送。

開運!なんでも鑑定団3本の矢!戦国大名<毛利家秘宝>衝撃値!

地上波テレビ東京 2022年12月25日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2022年12月29日(木) 18:54〜20:54


■3本の矢…戦国大名<毛利家3代の秘宝>に衝撃値■樹齢500年…アノ超絶彫刻にも使用<巨木宝>に仰天鑑定額■ブルース・リーら…<伝説映画>お宝一挙鑑定

【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】クミコ(歌手)
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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BSテレ東さんでの放映は、他の回と2本合わせての放映となります。

問題の鑑定依頼品は、トチノキのテーブルと椅子。長野県の方からの鑑定依頼でした。
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由緒があるものではなく、現代の実用家具だそうですが。
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司会の今田耕司さんが座らせてもらったところ……
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ここで、トチノキについての解説。
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連翹忌の集いで使わせていただいている日比谷松本楼さん近くの桜田通りです。
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さらに木材としてのトチノキ。
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ここで、番組説明にある「アノ超絶彫刻」。光太郎の父・光雲の代表作「老猿」です。
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なるほど。

光雲が使ったのは栃木県鹿沼市のトチノキ。伐採した後の切り株からまた芽が出、10年ほど前にはまだ健在だったそうですが、現在はどうなっているのでしょうか。

ちなみに「老猿」、上野の東京国立博物館さんの所蔵で、今年は常設展にずいぶん長い間展示していただきましたし、来年3月から竹橋の東京国立近代美術館さんで開催される記念展「重要文化財の秘密」展に目玉の一つとして貸し出されます。また近くなりましたらご紹介します。

余談ですが、番組内ではトチの実の紹介も。
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これはパリ留学中の光太郎が好んで食べた食材の一つです。さすがに番組でそこまでは触れられませんでしたが。

もう1件。

宮川一朗太のおっ!さんぽ #37

BSJapanext(無料) 2022年12月26日(月) 19:58〜21:00

俳優・宮川一朗太が、おっさんの嗅覚をいかして北海道・東北地方の知られざる魅力を掘り起こします!その地でしか味わえない極上グルメに、息を飲む絶景など、旅気分をゆったり楽しめる60分!
今回は福島県・二本松市をお散歩!
▼あの有名人の御用達?名物のソースカツ丼 ▼極上の癒し、安達太良山の岳温泉 ▼世界一の日本酒、奥の松酒造

出演者 宮川一朗太
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智恵子の故郷・福島二本松を、俳優の宮川一朗太さんがお散歩。光太郎智恵子、「智恵子抄」、「ほんとの空」といった話になるかどうか……というところですが。
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それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】000

夕方草野心平氏くる、「文学アルバム」について、すしを一緒にたべる、玉ずし、


昭和30年(1955)9月11日の日記より 光太郎73歳

「文学アルバム」は、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。光太郎が歿しておよそ2週間後の翌年4月20日に刊行されました。

幼少期からの光太郎の生涯を豊富な写真で追ったもので、亡くなる直前の光太郎、そのゲラを確認し、「That's the endか」と言ったと伝わっています。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎のブロンズ作品も多数所蔵、入れ替えながら展示して下さっています。

今年7月から8月にかけ、昭和33年(1958)竣工の本館(碌山館)修復のためのクラウドファンディングが行われました。当初目標額は700万円。それがあっという間に達成され、セカンドゴールの1,200万円、サードゴールの1,800万円も次々にクリア。最終的には、1,088名の方から総額23,702,000円が集まったそうです。

この秋から早速改修工事が始まり、それもほぼ終わったようです。

地元紙『信濃毎日新聞』さん、11月17日(木)の記事。

美術館を守ろう CFで広がる支援の輪、改修や展示充実に 中信の文化施設で予想超える反響

 中信地方の美術館が施設を維持・管理していくために行ったクラウドファンディング(CF)に県内外から多くの支援が寄せられている。新型コロナ下で集客が安定せず、美術館の経営が厳しさを増す中、文化施設を後世に残したいという趣旨に大勢が賛同。関係者らは予想を超えた反響を喜び、施設を守っていく決意を新たにしている。
 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(ろくざん)(本名守衛(もりえ))の作品を展示する同市穂高の碌山美術館で今月上旬、国登録有形文化財「碌山館」の改修工事が始まった。壁の剥離やひびを直し、扉や雨どいを修繕する。工事は12月中に完了する見込みで、碌山館の展示物は一時的に美術館の別の建物に移している。
 碌山館は1958年4月に開館。教会風のれんが造りで市内観光の見どころの一つとなっていたが、壁にひびが入ったり、雨漏りしたりするなど傷みも目立っていた。新型コロナの感染拡大で来館者が減少し、自己資金での修繕は難しいとみて、7月15日から8月末までCFで改修工事の資金を募った。
 目標の700万円は開始2週間で突破し、8月末までに県内外の1088人から2370万円余が集まった。「結婚式の前撮り写真を撮影した思い出の場所」「なくならないでほしい」など多くのメッセージも寄せられた。中には支援金を手渡しに訪れる人もいたという。
 碌山館はもともと、地元住民らの寄付によって建てられた。学芸員の武井敏さんは想定を超える支援に感謝しつつ「この場所と雰囲気を守っていかねばならないと感じた」と気を引き締める。残った資金は別の建物の改修などに充てる方針という。
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 同市穂高有明の絵本美術館「森のおうち」は、4月20日から5月末にかけてCFで運営資金を募集。入館者数の減少に加え、併設して営業している結婚式場や宿泊施設の収入も落ち込んだことから、施設を存続させるため広く協力を求めた。絵本作家いせひでこさんや作家の柳田邦男さんらも応援メッセージを寄せ、県内外の513人から目標の800万円を超える1400万円が集まった。
 資金は人件費や光熱費など運営資金の他、施設の魅力向上に使う。展示品を並べるショーケースを新調し、美術館のじゅうたんを張り替え、敷地内に桜の木を植えることも計画する。学芸員の米山裕美さんは「皆さんに支援をいただける施設なんだと実感し、励みになる」と話した。
 展示内容の充実にCFを活用する施設もある。木曽町新開に19日にオープンする公設民営の「ふるさと体験木曽おもちゃ美術館」は、館内で遊べるおもちゃを拡充する費用として9月20日にCFを開始。当初目標の300万円は10月中に超え、今月5日までに413万円余が集まった。
 木製の積み木やパズルなどベースとなる備品は町が購入するが、指定管理者として施設を運営する同町のNPO法人「ふるさと交流木曽」は、「木曽らしい体験ができるプログラムを充実させたい」と判断。地元特産の野菜や果物をかたどった木のおもちゃ、木曽五木を加工したおもちゃなどを新たに製作する。星野太郎副館長は「子どもたちに木曽町特産の木になじんでもらい、町の魅力や文化も伝えていきたい」と話している。

で、今月初め、「返礼品」が届きました。寄付のコースによって、あらかじめこれこれ、と指定出来るシステムで、当方が申し込んだのは鋳金製のペーパーウェイト。材質は錫で、同館のワークショップで扱われているものです。その他、ポストカードと無料入館券。
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煉瓦造りのロマネスク風の碌山館がモチーフ。いやぁ、実にシャレオツですね。

ところで同館、12月21日(水)~12月31日(土)まで冬期休館だそうです。で、来年1月1日(日)から再び開館とのこと。1月の方が寒い気がするのですが(笑)。

きれいになった同館、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后関先生くる、退院の話相談


昭和30年(1955)7月2日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院の話。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるよりは、自宅療養に切り替えてはどうかという話でした。

ちなみに光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとちょうど9ヶ月でした。

昨日のこのブログで、先週、地方紙二紙に掲載された一面コラムをご紹介しましたが、昨日の『福島民報』さんの一面コラムにも智恵子の名が出ていました。アニソン歌手の水木一郎さんが12月6日(火)に亡くなったことを受けてのものです。

あぶくま抄 ロケットパンチ

♪空にそびえるくろがねの城…。歌い出しから胸は躍った。♪無敵の力はぼくらのために…。強靱[きょうじん]なパワーで自分たち子どもが守られているような気がした。「マジンガーZ」の主題歌を半世紀にわたって歌い続けた水木一郎さんが世を去った▼「アニメソングの帝王」と評され、持ち歌は1200曲を超えるが、当初は子ども相手の歌と軽んじられた。アニメが世界に誇る日本の文化に定着するまで並々ならぬ苦労があったからこそ、若手に優しいまなざしを向け、アニキと慕われた▼実父のように敬愛した小野町出身の作詞家丘灯至夫さんから、10曲以上の楽曲を受けて足場を築く。仲間と登山部を結成して2015(平成27)年、安達太良山に登った。丘さん作詞のヒット曲「智恵子抄」の譜面を山頂で配り、「ほんとの空」に感謝の歌声をささげた。恩義を忘れぬ人柄がしのばれる▼革ジャンに赤いスカーフを巻いた姿は、昭和の子どもを熱狂させた正義のヒーローそのものだった。不穏な令和の今に憤りを感じつつ旅立ったに違いない。追悼にふさわしい言葉が浮かんできた。地球の平和を乱す不義へ、天上から今度は自ら飛ばせ、鉄拳ロケットパンチ。
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水木さんが「アニソン登山部」を結成されたというのは存じていましたが、故・丘灯至夫氏作詞の「智恵子抄」(昭和39年=1964 二代目コロムビア・ローズさん歌唱)のからみだったとは初めて知りました。山頂で歌われたということも。そういえば水木さん、都内で開催された「丘灯至夫さんの作品を歌う会」にも参加なさっていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、先月から今月にかけ、全国の地方自治体さんの広報誌に光太郎やその父・光雲、さらに智恵子の名。まぁ、どれもほんのちょっとですが(笑)。

鹿児島県いちき串木野市さんの『広報いちき串野』11月24日号。
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同市は「短歌のまち」を標榜しているそうで、同市出身の歌人・萬造寺斉の紹介。与謝野夫妻の新詩社を通じ、光太郎とも交流がありましたので、光太郎の名も出して下さいました。

続いて、新潟県新発田市さんの『広報しばた』12月1日号。
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それ以前の号から「もっと知りたい! 郷土の偉人 大倉喜八郎」という連載が為されていたようで、この号では大倉と交流のあった人々の紹介。「芸術家」として、木彫による肖像彫刻の制作を依頼された光雲、そのための原型塑造を作った光太郎の名が出ています。

さらに、市町村ではなく、県。群馬県さんの広報誌の増刊的な『tsulunos PLUS(ツルノスプラス)』の12月号。特集が「群馬発、世界に誇る温泉文化」だそうで、草津温泉の紹介の中に光太郎智恵子の名。
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ただし、「「草津」の碑」は智恵子療養のために訪れた昭和8年(1933)の作ではなく、昭和2年(1927)のものですが。

最後に智恵子の故郷、福島県二本松市さんの『広報にほんまつ』12月号。「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」表彰式の話題。
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光太郎つながりで花巻からも募集していたのですね。

少しずつですが、いろいろ取り上げて下さりありがたいことです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になると、こうは行きませんので、そうならないよう努力いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

細雨、涼、 横になると痰せきが出る、相当に出るやうになる、


昭和30年(1955)6月26日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結果のため、赤坂山王病院に入院したものの、病状は一進一退でした。治癒に至るには既に進行しすぎていたようです。

先週書きかけて途絶してしまった新刊紹介の続きです。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんから発行されている文芸同人誌的な『とんぼ』。第15号が届きました。
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版元店主・勝畑耕一氏による「追慕録」に、今年8月に亡くなった北川節子様の追悼文が掲載されています。節子様、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じの方でした。

それから、手前味噌で恐縮ですが、当方の連載「連翹忌通信」。前号から最近の「もの」の発見ということで、今号は花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫天鈿女命像と、鋳銅製准胝(じゅんてい)観音像について。

ご入用の方、文治堂書店さんまでご注文なさってください。頒価500円+税とのことです。

新刊、といえば、最近、光太郎の名を冠した自費出版の書籍が出ました。早速購入してみましたが、読み始めて驚きました。「こんなものを出版するとは何事だ」という感じで。

極端な話、1ページに1箇所は事実誤認。それから同じく1ページに1箇所は根拠不明の独断(そういう事実は確認出来ていないという事柄を根拠にしての論の展開)。さらにいうなら、1ページに1箇所は「てにをは」の崩壊や誤字脱字。人様に読んでいただくという姿勢が欠落しています。話の進め方もあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、明治期の話かと思うと突然脈絡もなく戦中や戦後の話に飛び、予備知識がない読者には、いつの話をしているのかさっぱり分からないと思います。途中、いろいろ出典が書かれてはいるのですが、どうも『高村光太郎全集』に眼を通していないようですし。いくら自費出版だといっても、ありえませんね。

3分の1くらいまでは我慢しながら読んだのですが、途中でやめました。時間の無駄ですし、精神衛生上もよくありません。

「××」という本が出ているのに、なぜこのブログで紹介しないんだ? と思われた方、そういうわけですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

二時回診、ラジオで角力、


昭和30年(1955)5月19日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。

この日、光太郎が聴いていた大相撲中継は、夏場所。かの栃錦が横綱として優勝し、のちの大横綱となる初代若ノ花が関脇でした。平幕には元寺尾関・元逆鉾関の父・鶴ヶ峯など。大鵬はまだデビューしていませんでした。

たまっている新刊等紹介の2日目です。こちらも刊行から2ヶ月経ってしまいました。

言葉を植えた人

2022年10月4日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,500円+税

〈暗闇にあるとき人は、一つの言葉を抱きしめるようにして生きることもあるだろう〉――確かな杖となる言葉を味わうエッセイ集。

舟越保武、 志村ふくみ、石牟礼道子、吉本隆明、池田晶子、神谷美恵子、北條民雄、宮﨑かづゑ、井筒俊彦……。言葉にならないものの波打ち際に立って言葉を紡いできた人々の、珠玉の名言と対話するように紡がれるエッセイ集。

本当の誇りとは、誰かの役に立っていると感じることではおそらくない。それは愛される者であるよりも、愛する者であることを真に望む、自己への信頼なのである。(本文より)
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目次
 祈り001
 かたちの詩人――舟越保武
 アッシジの聖女――舟越保武
 生ける幻――舟越保武
 彼方からやってくる色――志村ふくみ
 光の人――志村ふくみの詩学
 秘められたコトバ――志村ふくみと石牟礼道子
 常世の国と「沖宮」――石牟礼道子
 語らざるものからの手紙――石牟礼道子
 叡知の遺産――石牟礼道子
 死者たちとの連帯を求めて――宇井純
 生命のつながり――中村桂子
 世界という書物――池田晶子
 無垢なる魂への贈り物――上皇后美智子さま
 詩人はなぜ、思想家になったのか――吉本隆明の態度
 かなしみの詩学――中原中也と小林秀雄
 魂との邂逅――中原中也の詩学
 「生きがい」の哲学の淵源――神谷美恵子
 幸福の哲学者――神谷美恵子003
 いのちのひびき――北條民雄の詩学
 幸福の証人――宮﨑かづゑ
 求道としての哲学――久松真一
 宗教を超えて――久松真一の書と霊性
 言葉といのちのコスモロジー――大峯顯
 月影の使徒――河波昌
 哲学は人間を救い得るのか――井筒俊彦
 詩人哲学者の誕生――井筒俊彦
 文化の奥に潜むものを求めて――井筒俊彦
 言葉とコトバ――井筒俊彦
 禅の彼方、禅の深み――鈴木大拙の悲願
 霊性と宇宙の地平――山崎弁栄と内村鑑三
 内村鑑三の書
 批評家の誕生――粟津則雄の眼
 あとがき


様々な新聞雑誌等に発表されたエッセイの集積です。

目次に光太郎の名は見えないのですが、光太郎と交流の深かった舟越保武の項で光太郎に触れられています。曰く「彫刻家高村光太郎の真の後継者は、舟越保武ではなかったか。一見すると似ていない作風だが、一個の存在のなかに永遠の実在を見つけようとした態度において二人は強く響き合う。高村光太郎が作る蟬は、岩手の山を飛ぶ蟬であり、同時に永遠なる世界に生きる蟬でもある。舟越が作る女性も、この世の人でありながら同時に、悠久(ゆうきゅう)の世界を生きる人でもある。

また、舟越による光太郎評も紹介されています。

そういえば若松氏、今年刊行された詩集『美しいとき』のあとがきでも、光太郎と舟越について触れて下さっていました。また、他の書籍でも。

『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
『詩と出会う 詩と生きる』。

ほんの少しだけ光太郎に触れられているという御著書はまだあるかもしれませんが。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生血清をとりにくる、とたんに血痰が出る、それをみせる、かなり出る、 横臥安静、

昭和30年(1955)4月11日の日記より 光太郎73歳

この日の症状は喀血に近い状態だったようで、これを機に、月末には赤坂山王病院に入院ということになってしまいます。

「芸術の秋」が過ぎ、きっぱりと冬が来ました。

思えばこの秋は、光太郎智恵子、光太郎の父・光雲がらみのイベントやコンサート、美術館さん等での展示などがたくさん行われ(展示等でまだ続いているものもありますが)、それらの紹介やレポートなどで毎日てんやわんや(死語ですね(笑))でした。イベント系は期日があるので、ブログで紹介するにもタイミングがありまして……。今月もさまざまなイベント等があり、追々紹介していきますが、ようやく一段落という感じです。

そこで、期日がないため後回しにしてきてしまっていた新刊紹介を、今日から3日間続けます(飛び込みで何もなければ、ですが)。

刊行順に、まず、光雲が登場する小説です。だらだら後回しにしていたら、刊行から3ヶ月経ってしまいました。

猫絵の姫君 戊辰太平記

2022年8月26日 智本光隆著 郁朋社 定価1,500円+税

フランス革命の女戦士マリアンヌのように幕末維新を駆け抜けた新田義貞の末裔・武子姫。やがて鹿鳴館の華になる――。

目次
 序章  黒船の海
 第一章 風吹く大地の姫君
 第二章 密勅
 第三章 新田官軍
 第四章 戊辰無情
 第五章 明治の風景
 第六章 維新の十字架
 第七章 箱館戦争
 終章  鹿鳴館の華

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主人公はのちの井上馨夫人・武子。元勲であった夫とともに、いわゆる鹿鳴館外交を担った女性です。ちなみに鹿鳴館の開館は明治16年(1883)、光太郎が生まれた年です。その鹿鳴館外交については終章で扱われる程度で、メインは武子の少女時代からそこまでの歩み、特に戊辰戦争時です。

武子は上野国の小領主・岩松俊純の娘として生まれました。それが嘉永3年(1850)ですので、同5年(1852)生まれの光雲より2歳年長です。岩松家は鎌倉時代末期の新田義貞の子孫にあたるという触れ込みで、幕末には新田姓に戻し、戊辰戦争時にはいわゆる官軍側にたって「新田官軍」を編成、幼い頃からお転婆(これも死語ですね(笑))だった武子も銃をとって参戦しました。「八重の桜」の山本八重、後の新島八重のようですね。立場は逆ですが。

ところでタイトルの「猫絵」は、まだ平和だった頃、俊純が歳末になると猫の絵を描いて世話になった人々に贈る習慣があり、それを方々に届けるのが武子の役目だったというところから来ています。ちなみに小説の中では、「武」にはほど遠く温厚な人物であった俊純を、武子が「猫絵を描くしか能がない」と蔑む描写が見られます。しかしその猫絵がのちに一家やさらに戊辰戦争の行方をも変えるきっかけになる……という展開です。

当方、「敗者の美学」とでも言いましょうか、旧幕側の人物たち――旧会津藩、新選組、彰義隊、遊撃隊など――にシンパシーを感じており、いわゆる官軍側の人物を主人公としたものはまず読みません。そこで、この小説に描かれている事柄がどの程度史実に即しているのかよくわからないのですが……。

さて、「第五章 明治の風景」及び「終章 鹿鳴館の華」に、若き日の光雲が登場します。

006昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に、光雲は大隈綾子(大隈重信夫人)と旧知の間柄だったことが記されており、綾子と武子もつながりが深かったため、作者の智本氏、光雲と武子もどこかで出会っているはず、と、登場させたのでしょう。武子、綾子、光雲の三人が会しているというシーンがあります。光雲はまだ「光雲」と号して独立する前、高村東雲の元での修業時代です。そこで「第五章 明治の風景」では、幼名の「光蔵」。「終章 鹿鳴館の華」で、実は「光蔵」は高村光雲だった、というわけです。

小説中の光蔵少年、かなりのおっちょこちょい(これも死語ですね(笑))で、いきなり往来に飛び出し、薩摩の兵にぶつかってあやうく斬られそうになったりしています。実際、『光雲懐古談』などで、光雲は自らをおっちょこちょいと評しており、そういうエピソードがあっても不思議ではないでしょう(笑)。

ただ、苦言を呈させていただければ、「光蔵」のルビが「こうぞう」になっていること。正しくは「みつぞう」です。右は『光雲懐古談』から。

余談になりますが、光太郎も本名は「みつたろう」。「みつぞう」の「みつ」を採ったわけです。のちに自ら「こうたろう」と名乗るようになりましたが。

そういう部分は差っ引いても、実に面白い小説です。官軍側が主人公ですが、旧幕側の土方歳三、小栗忠順らも気骨或る人物として描かれていますし。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸子さんくる、東芝のミキサー持参、13,000円のもの、10,000円に割引の由、

昭和30年(1955)4月10日の日記より 光太郎73歳

幸子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた三河島のトンカツ屋の娘。アルバイト的に光太郎が起居していた貸しアトリエの片付け等に訪れていました。

東芝のミキサー」は下のようなものだったと思われます。

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昨日に続き、11月20日(日)の『日本経済新聞』さんに掲載された「美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視」という記事の後半をご紹介します。

美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 西洋の精神に加え父譲りの木彫技術

 「生の芸術」論争を見ても、様々な意見を持った芸術家たちが会する「パンの会」が談論風発な集まりであったことは想像に難くない。高村光太郎の創作に、そうした仲間たちとの交流が刺激を与えたのは間違いない。
 さらに大きな影響を与えた人物が身近に2人いた。1人目が木彫の大家で東京美術学校教授を務めた父・高村光雲(1852~1934年)、2人目が妻の高村(旧姓・長沼)智恵子(1886~1938年)である。
 「私が父の彫刻の仕事を承(う)けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了(しま)っていたことだ」
 光太郎は「回想録」(「昭和文学全集」第4巻に所収)でそう記す。小学生の時に彫刻刀を譲られたことで、父・光雲の意志を感じたという。
 1897年(明治30年)、14歳のときに東京美術学校予備ノ課程に入学。日蓮をモチーフとした木彫「獅子吼(ししく)」は卒業制作、学校の展覧会では注目されたようだが、本人は「その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった」(「回想録」)と記し、やむにやまれぬ思いだったと明かしている。
 教授や父の勧めで米欧に留学。その経験が帰国後に「芸術界の絶対の自由」を求めた評論「緑色の太陽」につながる。それは日本の美術界、彫刻界への挑戦状であり、対抗する相手には父・光雲も含まれていた。
 光太郎は雑誌で辛辣な美術評論を執筆するとともに、洋画家の斎藤与里、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八らと美術団体「ヒュウザン会(後のフュウザン会)」を結成した。
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 油彩画「自画像」はこの頃に描かれた。「彫刻を作っても発表する場がない」として絵に力を入れていた時期という。光太郎は米国で知り合った荻原守衛に連れられ、東京・新宿のパン店、中村屋に出入りしていた。鋭い視線でこちらを見つめる男の表情は、旧態依然とした日本の彫刻界、美術界への怒りを示しているのかもしれない。
 彫刻では代表作「手」を発表して以来、6年ほどのブランクを経て発表したのは、「鯰(なまず)」「蟬(せみ)」などの木彫だった。「塑造は(粘土を重ねるという)足していく彫刻であるのに対し、木彫は削っていく彫刻。光太郎の木彫作品には父親譲りの刀のキレが感じられます」と藁谷収氏は話す。
 ロダンをはじめ西洋の精神を生かして日本の彫刻界に斬り込んだ光太郎。しかし、ブロンズの「手」に日本の伝統が見いだされるように、父・光雲から学んだ木彫の技術は、独自の彫刻を生み出すに至ったのだ。
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 一方、智恵子との出会いについて、光太郎自身は次のように記す。若太夫に振られた後も、東京・浅草の「よか楼」の女給・「お梅さん」に入れあげていたときのことだ。「私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである」(「ヒウザン会とパンの会」)
 日本女子大学校(現・日本女子大学)卒で、1911年に平塚らいてうらが創刊した雑誌「青鞜」の表紙絵を描いた智恵子の登場で、光太郎の放蕩(ほうとう)は終わりを告げる。
 13年(大正2年)、光太郎は智恵子と婚約し、妻をモデルにして彫刻の勉強をする。しかし、幸せな日々は長くは続かない。31年(昭和6年)には智恵子の精神変調が明らかになり、翌年自殺未遂を起こす。38年、彼女は多くの紙絵を残し、52歳で亡くなる。
 終戦近い45年4月には東京のアトリエが空襲で炎上し、作品原型の多くを失う。同年10月からは現在の岩手県花巻市太田の小屋に移り、農耕自炊の生活を送る。
 「木彫作品をつくる材料は用意しながら、彫刻刀を振るおうとはしませんでした。戦争責任を感じていたからでしょう」と花巻高村光太郎記念会事務局長補佐の高橋卓也さんは語る。そこには戦時中、戦意高揚の詩を書いたことへの深い自省の念があった。
 再び彫刻制作に挑んだのが青森県から依頼を受けた「十和田湖畔裸婦像」だ。2人の女性が向き合うが、その顔は智恵子をモデルにしている。やはり彼女は光太郎のミューズだったのだ。
 明治末期から大正期に生まれた「パンの会」などのグループは海外からもたらされた芸術思潮が刺激となった。大切にされたのは作家の主観。「僕の後ろに道はできる」(「道程」)と詠んだ光太郎はその申し子といえる。

KEYWORD 高村山荘
 高村光太郎が晩年の七年間を過ごした岩手県花巻市太田の小屋。彼は詩人で童話作家の宮沢賢治が1933年に37歳で死去した後、全集や詩碑の建立に尽力した。その縁もあり、45年4月に東京のアトリエを焼け出された際は花巻市の宮沢家に疎開する。しかし、そこも空襲で焼失、移住した先が太田だった。
 小屋は木造平屋で板の間と土間だけの質素な作り。独居自炊の生活の中で、詩作や書の制作に専念した。「近くの小学校を訪れ、子供たちと交流しました。英字新聞も取り寄せており、地方にあっても世界とつながっていたのでしょう」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん。敷地内には高村光太郎記念館があり、彫刻や書などが展示されている。


前半に続き、限られた紙幅の中で、光太郎造型について要所要所のポイントを抑えた紹介をしていただきました。自称「研究者」の書くわけのわからない独断と事実誤認だらけの文章等とは比ぶべくもありません(笑)。『日経』さん読者の方の中には、この記事で「高村光太郎って、こういう人だったんだ」と初めて知られたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

記事にある「藁谷氏」は、昨日ご紹介した前半部分で光太郎彫刻の解説をなさって下さった、岩手県立美術館館長・藁谷収氏です。

ちなみに最後に紹介されている花巻高村光太郎記念館さんでは、先週から企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が始まっています。その設営作業の様子、展示に協力なさったやつかの森LLCさんのサイトから。
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今週末には当方、現地におもむき、展示解説のオンライン配信の収録に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

春暖の如し、 中西夫人にたのみ、吸入器をかふ、

昭和30年(1955)3月3日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核は呼吸困難も引き起こしていたようです。「中西夫人」は、起居していた貸しアトリエの大家。「吸入器」は、上記花巻高村光太郎記念館さんに、他の遺品と共に展示されているものではないかと思われます。

11月20日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版的なページに、2面ぶち抜きで光太郎が大きく取り上げられました。「美の粋」と題した連載の一環のようでした。

光太郎について、非常にわかりやすくポイントを抑えて紹介されています。長いので2回に分けてご紹介しますが、今日は芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーとして活動していた青年期。

美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 メンバーの間で「生の芸術」論争

  「パンの会」発足は1908年(明治41年)12月である。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)は当時、パリ留学中だったから参加していない。加わるのは帰国した09年。雑誌「スバル」に評論などを発表したのが縁で、両方のメンバーだった詩人・歌人の木下杢太郎から誘われたとみられる。
 ブロンズ、木彫を手がける彫刻家であるとともに、「道程」(14年)、「智恵子抄」(41年)などで知られる詩人でもあった光太郎。彼自身は「私は何を措(お)いても彫刻家である。(略)彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである」(「自分と詩との関係」=「昭和文学全集」第4巻に所収)と記しているが、文学と美術の響き合いを目指した「パンの会」を一人で体現する存在といえるだろう。
 光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」(同書に所収)で「パンの会」をこう振り返っている。
 「当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した」
 その文章では「失はれたるモナ・リザ」という詩のモデルとなった吉原遊郭の娼妓・若太夫との恋愛と別離についても触れている。彼女を光太郎から奪ったのは「パンの会」のメンバー、作家の木村荘太だった。
 10年に「スバル」に発表した光太郎の評論「緑色の太陽」は「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」と記した。美術家が自らの信じるままに表現することを求めたこの文章は、日本に於ける印象派宣言として注目された。
 注目されるのは、そこで「パンの会」創設メンバー、洋画家・版画家の石井柏亭に言及していることだ。光太郎は柏亭が重視する「地方色(ローカルカラー)」、すなわち日本の絵が持つ独自性の存在は認めるが、そこに価値は認めないと主張する。
 論争のきっかけは、洋画家の山脇信徳が09年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品した「停車場の朝」。クロード・モネ「サン・ラザール駅」を思わせるこの絵を、陶芸家のバーナード・リーチ、作家の永井荷風らは高く評価したが、柏亭らは認めなかった。
 光太郎は「『天の光』を写そうとする努力が尊い」と山脇を弁護したが、柏亭は美術・文芸雑誌「方寸」で反論する。それへの再反論が「緑色の太陽」だった。光太郎は「DAS LEBEN(生命)の量」で絵を評価したいと記す。その後、杢太郎や作家の武者小路実篤らを巻き込んで繰り広げられた議論は「生の芸術」論争と呼ばれた。
  光太郎が山脇の絵以上に「生の芸術」だと捉えていたのは10年に30歳で亡くなった荻原守衛(碌山)の彫刻だ。碌山は留学中にフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンに会った。光太郎は碌山の作品に長年敬愛するロダンと同じ魂の輝きを感じていたのだろう。
 光太郎は武者小路や作家の志賀直哉らが10年に創刊した文芸・美術雑誌「白樺(しらかば)」でロダンを紹介する。
007 「光太郎は日本の近代彫刻の扉を開いた一人です。対象をアウトラインとして表現するのではなく、かたまりとしてどう捉えるかを重視した。『私』の中で確認するという感覚的な手法はゴッホからの影響が感じられます」。彫刻家でもある岩手県立美術館館長の藁谷収さんはそうみる。
 5本の指がそれぞれ異なった曲がり具合、伸び具合を示す左手を表現した「手」は光太郎の代表作の一つだ。その絶妙なかたちによって「手という本来は表面的なものを題材に立体的な彫刻を生み出しています」(藁谷さん)。
 その独特な形は作家の強い意志や内に秘めた生命力を感じさせ、ロダンの思想をうかがわせる。一方で手のひらなどの滑らかな部分には木彫からの影響が見られ、光太郎自身も仏像の印相の一つである施無畏印をヒントに東洋的技法で近代的感覚を表現したと語っている。東洋と西洋の折衷が光太郎独自の彫刻を生み出したわけだ。
 文展で活躍し、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授を務めた彫刻家・朝倉文夫とは、光太郎の朝倉への歯に衣(きぬ)着せぬ批評もあり、微妙な関係にあったとされる。もっとも生前作られた「手」のうち1体を所有していたのは朝倉。光太郎をひそかにライバル視していたのだろう。

後半は「西洋の精神に加え父譲りの木彫技術」と題し、ロダンへの感化以前から、光太郎彫刻のバックボーンとして身体にしみ込んでいた伝統的木彫技術、それを叩き込んだ父・光雲との関わりが紹介されます。また、光雲と同様、光太郎の人生に大きな影響を与えた妻・智恵子についても。

その後半部分は明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

七時に一寸おき食事、又ねて十一時おきる、 ポストまで外出、 足のゆび痛む、油脂剤をつける、
昭和30年(1955)3月1日の日記より 光太郎73歳

結核の症状は一進一退で、小康状態と重篤状態をくり返し、しかし快方には向かわず少しずつ昂進して行ったようです。光太郎が二度寝するのは珍しいことでしたし、郵便物の投函に出たこの日以降、また10日ほど外出不能になっています。

光太郎の父・光雲が監督となって制作された聖観音像もライトアップされる、京都東山知恩院さんのライトアップ。一昨日から始まっています。

秋のライトアップ2022

期 間 : 2022年11月12日(土)~12月3日(土)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂(外観のみ)
       経藏(外観のみ・11年ぶりの公開)、大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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主な見どころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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大鐘楼
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。
寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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経蔵
内部の天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳されています。また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれています。 ※ライトアップの拝観は11年ぶり
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昨日から、妻がお友達と京都に行っておりまして、「では、知恩院さんのライトアップ観に行って、聖観音像の写真を送ってくれ」と頼んでおいたところ、届きました。
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池の水面にも映り込む紅葉、風情がありますね。

昨年11月、BSイレブンさんで放映された「京都紅葉生中継2021 古都を照らす希望の光〜曼殊院の紅葉を堪能!」という番組から。
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まずは事前に撮影しておいた昼間の映像等。
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そして「生中継」。
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光雲の手になる作である解説もあり、ありがたく存じました。

他の場所も。
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例年、そうですが、期間中にさまざまなイベントも企画されています(最上部リンクご参照)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】001

難波田さんくる、夫人よりガウンをもらふ、手製の由、


昭和29年(1954)12月30日の日記より
 光太郎72歳

難波田さん」は難波田龍起、かつて駒込林町にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいた画家です。光太郎に私淑して美術の世界に入り、詩作にも取り組みました。

難波田夫人も、光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエを訪問したことがありました。その夫人から贈られたという手製のガウン、1年ほど後の写真ですが、これかな、という気がします。

昨日も都内に出ておりました。

まずは泉屋博古館東京館さんで、「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」を拝見のため、六本木へ。
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都内でも紅葉が始まっている感じでした。
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陶芸家・板谷波山。創立間もない東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に学んだという異色の経歴があります。そこでの教えが後の波山芸術バックボーンの一つとなっている点は確かに感じられました。

撮影可だった作品。
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紋様は描かれているだけでなく、浮き彫り風になっており、確かに彫刻のエッセンスが感じられます。1ミリにも満たない凹凸で感じられる立体感という意味では、智恵子の紙絵にも通じるものがあります。そういえば智恵子も太平洋画会で彫刻を学んだ経験がありました。

師・光雲の木彫が2点。波山に乞われて造ったという「瓜生岩子像」は、個人的な依頼に対して気楽に応じた、という感じでした。といってもいい加減に造っているわけではなさそうですが。もう1点の「三猿置物」は、きちっと「作品」として仕上げたという様相。拝見に行く以前に入手していた図録にサイズが記されており、「高24.2 幅27.2 奥行18.6」。その数値から「こんなもんか」というイメージを固めていたのですが、実際に拝見すると、その倍くらいに感じられました。

光雲にしても、光太郎にしても、優れた彫刻はやけに大きく見える傾向があります。現在、常設展で出ているトーハクさんの「老猿」にしても、実際に見たことがあるという方と話す中で「像高90㌢ほどですよ」という話をすると「え? 1㍍50㌢くらいと思ってましたが」ということがままあります。内部から迸るエネルギー的な物の発露がそういう錯覚を起こさせるのでしょうか。

003波山の木彫「元禄美人」にも驚きました。図録で見た時には「ふーん」という感じだったのですが、実物を見ると実にいいのです。特に驚いたのは、着物の柄を陰刻で彫ってあること。図録の画像もよく見ればそれが分かるのですが見落としていまして、実物を見て「うおー、こんなことをやっていたのか」と初めて気がつきました。波山の本業である作陶にも通じる技法ですね。

そしてメインの陶磁器(というかほとんど磁器)。当方、いわゆる「焼き物」にはあまり興味はないのですが、波山の葆光(ほこう)彩磁は以前から好きでした。多くの作をまとめて見たのは今回が初めて。目を奪われました。また、波山は焼き上がったものに少しでも納得が行かない点があると、叩き壊してしまうことで有名でしたが、その破片も数多く展示されていました。妥協を許さない芸術家の魂的な物を強く感じました。

ついでにというと何ですが(笑)、波山と交流のあった光太郎の「手」も出ています。どこから借りてきたものか不明なのですが、苦言を呈させていただければ、台座が稚拙なのが残念です。

ちなみに光太郎と波山。光太郎が美校に入学する前、旧制中学の課程を本郷にあった共立美術学館予備科で学びましたが、数学が苦手でどうにもならなかったそうです。そこで波山に頼み、数学を得意とする人物を紹介してもらって個人教授をお願いしたとのこと。それでも駄目だったようですが(笑)。

さて、拝観後、六本木を後に銀座へ。同じ都内でも下町方面を廻ることが昔から多いので、「ギロッポンからザギンって、俺らしくないな」などと思いつつ(笑)。

次なる目的地は王子ホールさん。こちらでは作曲家・朝岡真木子氏の作品が演奏される「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」を拝聴して参りました。朝岡氏から招待状を頂いてしまいまして、馳せ参じた次第です。
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9月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」。歌唱はその際と同じく清水邦子氏。情感たっぷりに歌い上げていらっしゃいました。

他の曲目も、9月の演奏会とは異なるものがほとんどでしたし、二重唱などもあって、合唱経験者の当方としては生で聴くハモりは心地よいものでした。

演奏中は撮影禁止でしたが、終演後。
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左から朝岡氏、清水氏、メインで歌われた前澤悦子氏、加賀清孝氏。

その後、ホワイエで朝岡氏、清水氏とお話をさせていただきました。清水氏、「智恵子抄」を歌われたことで光太郎智恵子の世界に非常に興味を持たれ、明日、二本松の智恵子生家/智恵子記念館に行かれるそうです。明日まで生家二階の特別公開、智恵子の花嫁衣装の展示が為されていて、そちらをご覧になりたいとのことでしたので、フライヤー等お渡ししておきました。

今週はもう1度、都内に出ます。10日(木)、三越劇場さんでの「朗読劇 智恵子抄」。主演の一色采子さんから「来なさい」という至上命令ですので(笑)。今月、というと、またのちほどご紹介しますが、20日(日)に神戸で和編鐘の有機音さんのコンサートに「応援出演」ということで行って参りますし(光太郎智恵子について語って参ります)、月末には高村光太郎研究会でまた都内。千葉の田舎から出て行くのはなかなか大変なのですが、「芸術の秋」ですから仕方がありません(笑)。というか、コロナ禍で自粛、中止が相次いでいた頃に較べれば、足を運べる催しが多いことは幸いと云うべきでしょう。ただ、「第8波が懸念」という報道もあり、まだまだ予断を許さぬ状況ですが……。

【折々のことば・光太郎】

火の車より使、清六さんからのマヒ茸松茸、ベニマス等もらふ、夜それをくふ、

昭和29年(1954)10月9日の日記より 光太郎72歳

火の車」は当会の祖・草野心平が経営していた居酒屋。「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

この頃の光太郎は、宿痾の肺結核で外出も出来ない状態でしたが、食欲だけは旺盛でした。

昨日は都内に出ておりました。

まずは中目黒。めぐろ歴史資料館さんで昨日から始まった特別展「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」を拝見。
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明治生まれで既に故人となった目黒ゆかりの名工二人(道具鍛冶・千代鶴是秀と蒔絵筆師・小宮又兵衛)、昭和生まれで現在も目黒でご活躍中の刀装師・髙山一之氏の三人にスポットを当てたものです。

このうち、千代鶴是秀は光太郎と直接交流があり、光太郎は是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。

今回の展示、是秀は朝倉文夫と交流が深かったため、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵の是秀作品が数多く、さらに、平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされた土田昇氏(土田刃物店さん)所蔵のものなどが展示されていました。

図録(700円)から。
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以前に朝倉彫塑館さんで拝見した記憶があるのですが、何度見ても素晴らしいものです。

昭和15年(1940)に土門券が撮影した光太郎の写真には、これとよく似た彫刻刀が映っています。
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もしかすると、これも是秀作かな、と思っております。

ただ、同じ日に撮影された別のショットでは、是秀っぽくない道具を使っています。まぁ、一つの彫刻を制作するにも色々な道具を使うのでしょうが。
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その他、是秀から朝倉宛の書簡なども多数展示されており、興味深く拝見しました。他の二人の「名工」の作も。

続いて、地下鉄を乗り継いで文京区千駄木へ。旧駒込林町の、光太郎アトリエにほど近い旧安田楠雄邸庭園さんが次なる目的地でした。こちらでは一昨日から「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催中。
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こちらは、入り口の向きは逆なのですが、まさに髙村家(光太郎実家)の隣です。当方、昨年「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で講話をさせていただいて以来、約1年ぶりでした。

2階建ての1階では、髙村家所蔵の光雲作品や古写真など。
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2回の座敷では、昨年から今年にかけての、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展東京藝大さん)、「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」(日本写真会館さん)、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」(長野県立美術館さん)などに展示された、光雲作品の写真タペストリー等(光雲令曾孫・髙村達氏撮影)が中心でした。
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達氏がいらしていて、久しぶりにお目にかかりました。コロナ禍前の令和元年(2019)の連翹忌以来だったでしょうか、久闊を除しました。この写真類をお借りして、当方が関わっている花巻の高村光太郎記念館さんあたりで企画展示が行えないものかと、そんな提案をしておきました。

安田邸をあとに、ここまで来たついでなので(笑)、指呼の距離にある光太郎旧居址。今は一般の住宅になってしまっています。
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その中間には、過日ご紹介した洋画家・近藤洋二が厄介になっていた、宮本百合子の実家。
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この案内板の前を通って、細い路地をくねくね行き、突き当たりを左折すれば光雲邸(光太郎実家)のあった現・髙村邸。さらに安田邸の裏門となります。

さて、「目黒の名工」は12月11日(日)まで、「となりの髙村さん展」は会期が短く11月6日(日)までです。さらに安田邸にほど近い文京区立森鷗外記念館さんでは、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」も開催中です。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后山端静子くる、果物をもらふ、丈夫のやうなり、155番地にゆきたる由、筆談、

昭和29年(1954)9月29日の日記より 光太郎72歳

山端静子」は光太郎のすぐ下の妹。現在、令孫が北鎌倉でカフェ兼ギャラリー笛を経営なさっています。この兄妹が会ったのは戦後2回目、そしておそらく光太郎生前最後だったようです。

155番地」は先述の光太郎実家。光太郎、しづ(静子)兄妹のさらに下の豊周が跡を継いで居住していました。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、市民文化センターさんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2022」の拝観。さらに昨日は関連行事として、同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんのご講演があり、どうせ行くならこの日に合わせようと思った次第です。

いつも書いていますが、高田博厚は光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎はいち早くその才を認めて高田のフランス留学を支援しました。光太郎歿後、帰国した高田は光太郎顕彰に協力し、その縁でやはり生前の光太郎をご存じだった同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏と親しくなりました。そして同市で高田の個展や講演会を開催するなどし、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて、東武東上線高坂駅前から伸びる道路に「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品が野外展示されています。

昨日の絵子猫さんのお話、それから展示自体も彫刻プロムナードに関係しますので、まず、彫刻プロムナードに立ち寄りました。

当方、初めてプロムナードを歩いたのは平成25年(2013)。その後、光太郎像だけは、今年1月にもすぐ近くのレストランで食事をした際に拝見しましたが、昨日は久々に全作品を見つつ歩きました。
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まずは光太郎像。
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これがクリソツかというと、そうではありません。それもそのはず、高田がこれを制作したのは光太郎歿後、しかも昭和6年(1931)に日本を離れて以来、光太郎には会っておらず、記憶の中の光太郎と、晩年の写真とを頼りに作られたものだからです。それでも、この像から立ち上るオーラは、まぎれもなく光太郎のものです。

その他、全作品は撮りませんでしたが、光太郎とも交流のあった人々を作ったもの。

詩人の高橋元吉。
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さらに宮沢賢治。
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どうも当方、この賢治の顔が、お世話になっている某美術館さんのキュレーター氏に似ていると感じる、というか「ああ、××さん!」と呼び掛けたくなります(笑)。どなたのことか、関係の方はご想像下さい(笑)。

その後、昼食を摂って、市民文化センターさんへ。
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高田の彫刻群。
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一昨年の同展で、やはり関連行事のご講演をなさった元NHKアナウンサー・室町澄子氏の像。
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そして、昨日、ご講演なさった絵子猫さんとのコラボ。
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ブロンズ彫刻がずらっと並んでいると、それはそれで迫力があってよいのですが、いかんせん色彩がありません。その点、今年は実に色鮮やかでした。

同時開催で、「探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~」。光太郎を含む、彫刻プロムナードでモデルとなった人物たちを題材にした紙芝居を、地元の小中高生の皆さんが制作、元になった彫刻の写真と共に展示されていました。
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光太郎。
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制作は東京農大三高美術部の皆さん。ありがとうございます!
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高橋元吉。
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宮沢賢治。
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そして、彫刻は無いものの、プロムナード整備の功労者、故・田口弘氏についても。これは意外でした。
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光太郎との交流から始まり、戦時中の九死に一生を得られた体験、戦後の高田との交流。
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うるっときてしまいました(笑)。

さて、時間となり、絵子猫さんの講演会。
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冒頭、森田市長のご挨拶。
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この後は、絵子猫さんご自身の希望により、講演というより、インタビュー形式で。インタビュアーは市職員の方でした。

いかにして独自のイラストレーションの世界が作られたか、これまでの歩み的なお話。
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そして、彫刻プロムナード。お近くにお住まいだそうで。
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美大時代、裸婦デッサンがお好きだったという絵子猫さん、最近は個人でモデルを雇うわけにも行かず、しばらくそちらから離れていたところ、ある日、「あ、これも裸婦じゃん」と、高田の裸婦像を描くことを思いつかれたそうです。なるほど。

そうして生まれたのが、こちら。
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デジタルとアナログの融合的な手法で描かれているとのこと。

お土産はこちらのポストカード、さらにモノクロ版A4サイズ。塗り絵になりそうです。
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光太郎像は描かれていないようですが、マハトマ・ガンディーはありました。絵子猫さん曰く、「初めてオジサンを描きました」(笑)。
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何だかガンディー、「スターウォーズ」のヨーダみたいです(笑)。

閑話休題、こういう形で地域の人材を活用するのは非常に理想的ですね。他の市町村の関係の皆さん、ご参考までに。

というわけで、「彫刻家 高田博厚展2022」。11月10日(木)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

平熱、セキもタンもさっぱり出ず、 午后奥平さんくる、ビール、余もビール少〻のむ、岡本先生くる、診察だけ、容態よき由、 夜食に玉ずしをとる、

昭和29年(1954)7月30日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核、病状は一進一退でした。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

現在、京都府の泉屋博古館さんで開催中で、来月初めから同館の東京館に巡回される特別展「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」の図録が届きました。2,500円也。
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当方、いわゆる骨董としての焼き物にはあまり興味がありませんが、波山の作品は別です。表紙にもある淡いパステルカラーのような葆光(ほこう)彩磁の色合いは非常に好きです。実作も何度か拝見しましたが、図録で見ても見飽きることがありませんね。

さて、それよりも購入の目的は、「参考出品」ということで出ている、光太郎の父・光雲の木彫2点。波山は東京美術学校卒業で、光雲に木彫の手ほどきを受けています。陶芸と彫刻、一見、あまり関連はなさそうですが、やはり立体造形という点で共通点がありますし、図柄の構成などにも洗練された美意識が必要ですから、美校での教えは後の波山芸術に大きく影響しているのだろうと思います。

下記は図録にあった美校彫刻科の写真。右端に映っているのが波山だそうです。
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そんなわけで、師・光雲の作品も出しているのだろうと思いまして、実際、「三猿置物」という光雲作品は、美校時代の波山の木彫と共に展示され、これが波山の師匠の作品だよ、という意味での参考出品のようでした。
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「三猿置物」、昭和6年(1931)の作で、稲荷山光明院さんという川崎市にある寺院の所蔵だそうですが、当方、寡聞にしてこういう作品があったことは存じませんでした。面白いなと思ったのは、日光東照宮の三猿や、各地で石仏としての庚申塔などに刻まれている三猿は、それぞれが対等の感じで配されているのに対し、三匹を親子猿にしている点。さすが光雲、一筋縄ではいかないな、という感じです。

ちなみに下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の場所にある江戸時代の庚申塔。今、撮ってきました(笑)。
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下の三猿、ちょっとわかりにくいかもしれませんが。

同じく光雲の「瓜生岩子像」(明治32年=1899)。こちらも存じませんでした。
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波山が光雲に頼んで作って貰ったものだそうです。

図録に曰く

 波山の妻・まるは、福島県喜多方市出身の社会慈善家・瓜生岩子の内弟子だった。その縁により、波山との結婚の際には瓜生が媒酌人をつとめている。波山夫妻は瓜生の生き方を敬慕し、1897(明治30)年に瓜生が亡くなって、その三回忌を迎えた際に、恩師であった高村光雲に「瓜生岩子像」(参考作品3)の制作を依頼した。慈善事業に尽力した瓜生の人柄が伝わる光雲の佳作であり、波山夫妻は本作を座右に置いて日々の励みにしたという。

なるほど。

光雲、人物肖像の木彫はやや苦手としており、後の大倉喜八郎夫妻像や法隆寺の管長・佐伯定胤の像などは、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを木に写すという手法で作られました。しかし、この瓜生岩子像には光太郎の手は入っていないようです。というか、明治32年(1899)では、光太郎はまだ数え17歳の美校生でしたし。


003その光太郎のブロンズ代表作「手」も参考出品ということで展示され、図録にも載っています。が、過日も指摘しましたが、やはり誤記。制作年が大正7年(1918)であるところ、明治35年(1902)となっています。

「個人蔵」だそうで、もしかすると高村家のものかな、と思っていたのですが、台座の形を見る限り、光太郎歿後の新しい鋳造のようです。それで価値が大幅に下がるわけではありませんが。

さて、先述の通り、京都展(10月23日(日)まで)が終わると、東京展(11月3日(木・祝)から12月18日(日)、泉屋博古館東京館さん)。当方、拝見に伺う予定で居ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野君くる、 すすめられて電気冷蔵器を草野君に一任、筑摩書房の金で買ふとの事、

昭和29年(1954)7月11日の日記より 光太郎72歳

「冷蔵器」は冷蔵庫のことですね。白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

以下、心平著『わが光太郎』(昭和44年=1969)より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
こういう交渉には押しの強い心平はうってつけです(笑)。

この冷蔵庫をモチーフに、詩人の平田俊子氏が「アストラル」という詩を書かれています。また、最近、心平の別荘だった福島県川内村の天山文庫に、どうやらこの冷蔵庫が保存されているらしいという話を知りました。次に訪れる際に確かめてみたいと思います。

明日開幕、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品展示ですが、光太郎も関連します。

彫刻家 高田博厚展2022

期 日 : 2022年10月19日(水)~11月10日(木)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 無料

東松山市では高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品やデッサン等を、2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は高田作品の展示に加え、市内在住の人気イラストレーター絵子猫さんと高坂彫刻プロムナードのコラボ企画をご用意しました。ぜひこの機会に「東松山市の芸術の秋」をご堪能ください。

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過去の同展の様子はこちら。

  平成30年(2018)  令和2年(2020)  

関連行事等

同時開催 探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~

高坂彫刻プロムナードに立つ、高田博厚ゆかりの著名人たちのエピソードをもとに市内中学生、高校生が紙芝居を制作しました。この紙芝居をご覧いただき、その後、その銅像をスケッチをしました。描いていただいた絵は、東松山市民文化センターで展示します。
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高坂彫刻プロムナード」は、高田の作品群が屋外展示されている、東武東上線高坂駅前から延びる通りです。同市の元教育長であらせられ、生前の光太郎と交流のおありだったた故・田口弘氏が、昭和40年(1965)に、当会主催の連翹忌の集いで高田と意気投合。以後、高田の個展や講演会を同市で開催するなど親交を深め、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品から成ります。

その「高坂彫刻プロムナード」を市民の皆さんが描くというイベントが9月24日(土)に開催され、作品の展示が行われます。光太郎胸像を描いたものもあるんじゃないかな、と思い、拝見に伺うことにしました。

もう1件。

特別講演会「絵子猫さんと高坂彫刻プロムナード」

イラストレーターとして第一線で活躍する絵子猫さんに、幼少時代のお話や幻想的で夢のような作品はどうやって生まれるのかなどを伺います。また、身近なアートの楽しみ方についても教えていただきます。
日時:令和4年10月22日(土曜日)午後2時から午後3時30分まで
会場:市民文化センター 大会議室
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)市内外問わず
定員:80名
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫(エコネコ)さんの講演会。こちらも「高坂彫刻プロムナード」がらみです。

どうせ東松山まで行くならこの日に合わせようと思い、講演会に申し込みました。定員80名、抽選だそうで、外れたとしても裏技で伝手(つて)を頼れば(当方、毎年、同市で市民講座の講師を務めさせていただいたりしておりますので)関係者枠で入れてくれるだろうと思っておりました。ズルですが(笑)。で、昨日、当選の通知、というか「当講演会は定員80人に達しなかったため、抽選は実施しませんでした。そのため、お申込みいただきました皆さまは当選となります。」とのこと。裏口入学ならぬ裏口入場をしなくて済みました(笑)。さらに「なお、講演会には空きがまだございますので、お近くにご興味がある方がいましたら、お声がけいただければ幸いです。」だそうですでので、この場を借りてご紹介いたします。お申し込みはこちら

案内に使われている絵子猫さんのイラスト、「高坂彫刻プロムナード」の高田彫刻をお描きになったものです。
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共に女性像ですからそんなでもありませんが、ブロンズ彫刻にはどうしても「武骨さ」が伴います。しかし、こうしてキラキラのイラストになると、なんともイメージが変わりますね。

このタッチで光太郎胸像をお描きになったとしたらどうなるんだろう、と興味深いものがあります。既に描かれているのかも知れませんが。
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となると、光太郎彫刻の数々も、ぜひ描いていただきたいものです。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などはいい感じになりそうですし、同じくブロンズの「裸婦坐像」や木彫の「白文鳥」なども面白く出来そうです。しかし、光太郎の父・光雲の「老猿」や「仁王像」などだとどうなってしまうのだろうなどとも思いました。

というわけで、東松山市高田博厚展2022、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方大川先生くる、ストマイ注射、脈高し、 夜に入りて高熱出らしく、せきもつよく、呼吸困難、悪寒手足のふるへくる、クロロマイセチン3錠、ネオフイリン2のみ、ややおさまる、


昭和29年(1954)7月7日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は、確実に光太郎の命を削っています。ただし、この後、かなり持ち直しては行きますが。

こんな状態で日記を書いてる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなりますが、亡くなる3日前の昭和31年(1956)3月30日まで、日記は続けられます。よほど具合の悪かった日は書かなかったようですが、それでも小康状態になると、遡って書いています。この日の分もそうかもしれません。

大川」は誤記で、正しくは「大気」。「チーム光太郎医師団」の一人、大気(おおき)寿郎医師のことですが、名前を誤記したり「高熱出たらしく」の「た」が脱字になったり、痛ましさを感じます。

情報を得るのが遅れまして、会期あとわずかですが……。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月23日(日)
会 場 : 泉屋博古館 京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町24
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,000円 高大生800円 中学生以下無料

 陶芸家 板谷波山は、明治5年(1872)茨城県下館町(現・筑西市)に生まれ、昭和28年(1953)には陶芸家として初の文化勲章を受章し、昭和29年(1954)には日本画の横山大観とともに茨城県名誉県民の第一号となりました。
 波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さないという強い信念により、端正で格調高い作品を数多く手がけました。その一方で、波山は、故郷のまちと人々をこよなく愛し、共に信頼し、共感し合いながら、生きていくことを大切にした人物でもありました。
 令和4年(2022)3月3日、我が国の至宝である板谷波山は、生誕150年を迎えました。この記念すべき年に、住友コレクションはじめ波山の選りすぐりの名作を一堂に集め展覧します。あわせて、波山が生まれ愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、そして試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」と謳われる波山の様々な姿を紹介いたします。
 波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、そして、波山の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
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陶芸家・板谷波山。東京美術学校彫刻科卒という、ちょっと変わった経歴です。したがって、光太郎の父・光雲に彫刻の手ほどきを受けており、光太郎の先輩でもあります。

そこで、「参考作品」ということで、光雲の木彫二点と、光太郎の「手」も出品されていました。波山展をやってるなぁ、というのは存じておりましたが、光雲・光太郎の作品が出ているとは気づきませんでした。
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光雲の木彫二点は、「瓜生岩子像」(明治32年=1899)と、「三猿置物」(昭和6年=1936)だそうですが、当方、二点とも拝見したことがありません。

光太郎の「手」は、ブロンズの代表作「手」と思われますが、出品目録には「明治35年 1902」と書かれています。代表作の「手」は大正7年(1918)作ですので、誤植なのだろうと思うのですが、もしかすると全く違う「手」なのでしょうか? オンラインショップで図録が購入可能でしたので、早速註文しました。届き次第見てみます。

ところで同展、全国巡回でした。これまでにも波山の故郷・茨城県筑西市のしもだて美術館さん、廣澤美術館さん、板谷波山記念館さん3館合同の同時開催で4~6月に、石川県立美術館さんでは6~7月で。

さらに来月から泉屋博古館さんの東京館でも開催されます。当方、こちらを拝見に行こうと存じます。また、来年1月2日(日)~2月26日(土)には茨城県近代美術館さんにも巡回だそうです。

東京展の情報を。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年11月3日(木)・祝~12月18日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号 
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,200円(1,000円)、高大生800円(700円)、中学生以下無料

京都展は10月23日(日)まで。その後の東京、茨城と、お近くの会場にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前長谷川仁夫妻玄関まで、藤島武二先生の写真うけとり、預る、

昭和29年(1954)5月18日の日記より 光太郎72歳

長谷川仁」は、ジャーナリスト。この頃、戦時中に亡くなった洋画家・藤島武二の胸像制作の話があり、光太郎に制作依頼がありました。光太郎は欧米留学前の明治38年(1905)、西洋美術を学び直そうと、東京美術学校の西洋画科に再入学(結局、留学のため中退)しましたが、その際に藤島は同科の教授でした。そこで、「先生」の文字。

光太郎、体調が回復すれば、この頃手がけていた「倉田雲平胸像」を完成させ、さらに藤島像の依頼も受けたかったようですが、それは幻に終わりました。

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

新刊です。

平櫛田中回顧談

2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編
中央公論新社刊 定価2,200円+税


自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
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目次
 刊行にあたって 平櫛弘子002
 1 生いたち
 2 大阪と中谷一家
 3 奈良と森川杜園
 4 東京に出る
 5 禾山和尚
 6 長安時の生活
 7 茶屋町の生活
 8 米原雲海と山崎朝雲
 9 岡倉天心と日本彫刻会
 10 岡倉天心の思い出
 11 日本美術院の再興
 12 上野桜木町の家とその頃の諸作
 13 二児を失う
 14 色々の天心像
 15 素材と用具と伝統技法の復活
 16 帝展参加と“霊亀随”
 17 肖像彫刻
 18 鏡獅子の制作
 19 六代目の手紙
 20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
 21 美術学校に勤めた頃
 解説
掲載作品一覧
年譜

光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。

当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。

平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。

内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。

光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。

そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。

 米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
 『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。


平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。

その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。

また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、

昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳

「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。

 一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
 所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。


新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。

流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。

2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

光太郎第二の故郷・花巻からの情報を書くつもりでしたが、予定変更。昨日開幕し、今日は中日(なかび)、明日には閉幕という彫刻個展です。

特別企画 秋川雅史 木彫展

期 日 : 2022年9月17日(土)~9月19日(月・祝)
会 場 : 靖山画廊 東京都中央区銀座 5-14-16 銀座アビタシオン 1F
時 間 : 11:00~17:00
料 金 : 無料

究極の声を追い求めて歌をうたう。思い描くイメージを一本の木から彫り出していく。どちらもやり直しはきかない。このたびテノール歌手秋川雅史が、ジャンルを超えた芸術家として初の個展を開催致します。3年の歳月をかけ制作した「木彫楠公像」など、魂が込められた作品をご覧ください。

※場合によっては、入場制限させて頂く可能性もございます。

テノール歌手の秋川雅史さん。仏師の関侊雲氏に師事して木彫にも取り組まれ、昨年の二科展では、光太郎の父・光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、彫刻部門で入選を果たされました。当該作品、さらに今年の二科展入賞作品も展示されるとのこと。秋川さんご本人によるプレス対応を、報道各社さんがニュースにしています。

『東京スポーツ』さん。

秋川雅史は木彫で二刀流 歌手活動回復し「最近彫れないストレスがあって…」

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・中央区の「靖山画廊」で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)の開催に伴い、取材に応じた。
 大ヒット曲「千の風になって」で知られる秋川だが、趣味で木彫を始め、個展の開催が決定した。
 コロナ禍の影響で、コンサートなどは中止や延期となり、木彫を制作。最近は状況が徐々に回復傾向で、歌手としての活動も戻ってきており、秋川は「最近彫れないストレスがあって…。テレビ番組収録の楽屋で彫っています。、待ち時間が長いので」と明かした。
 歌手と木彫の二刀流については「歌手はメインの本業。お客様が求める以上のパフォーマンスをするというプレッシャーがあって、歌の練習ってつらいことが多いけど、彫刻の練習は楽しいですね。自分なりに自分のレベルで成長していけたら」と語った。
 個展では、昨年の第105回二科展彫刻部門で入選した木彫楠公像(楠木正成像)などを展示。同像の制作は、皇居外苑国民公園にある楠木正成像を見てかっこいいと思ったことがきっかけだという。
 同像を前に「これが彫りたくて、最終目標と思って彫り始めて3年。最初は四角い木で、遠い道のりでした」と振り返った。
東スポ
『中日スポーツ』さん。

「歌手は辛いことも多いが…彫刻は楽しいことばかり」秋川雅史が自身初の個展「これからも二刀流で」  

 テノール歌手の秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で自身初の個展「木彫展」の取材会を行った。
 昨年の「二科展」彫刻部門で入賞した「楠木正成像」や「金剛力士 仁王像」など、この11年間に彫りためてきた木彫刻11点を19日まで同画廊で展示。さらに今年の二科展で入賞した「木彫龍図」は二科展終了後の19日に披露する。
 念願だった個展に秋川は「10年前の作品を見ると、未熟だなと思います。人間はいつまでも成長するんだなとも思いました。11年の成長の過程を見てほしいです」とアピール。2年連続での二科展入賞には、「昨年とは違って、今回はアーティストとしてちゃんと作っているか、ということを見られた結果だと思うので、昨年以上にうれしいです。来年から? どうしましょうかね。また頑張って作ります!」と笑顔を見せた。
 木彫刻を始めたのは、故郷愛媛県西条市に伝わる西条だんじり彫刻の魅力に触発されたのがきっかけだったという。彫刻教室にも通い、1年に一作のペースで作品を仕上げてきた。「本業の歌手はプレッシャーがあって辛いことも多いです。でも、彫刻は楽しいことばかり。のめり込める時間がいいです」。今後には「歌と木彫刻、これからも二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい」と力を込めた。
中日スポーツ
『サンケイスポーツ』さん。

歌手、秋川雅史が木彫の初個展を開催 「1日5、6時間。彫れない日はストレスで」と〝二刀流〟を宣言 二科展も2年連続入選 

 テノール歌手、秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)を開いた。
 「彫刻を始めて11年。念願だった個展ができることになりました」と秋川は感激しきり。東京・新国立新美術館で19日まで開催中の「第106回二科展」彫刻部門で「木彫龍図」が2年連続の入選。個展では、昨年の彫刻部門で芸能界初の入選を果たした「木彫楠公像(楠木正成像)」を中心に、二科展出品中の最新作を除く過去の全作品12点や、代表曲「千の風になって」の歌詞をしたためた書などを展示する。
 出身の愛媛・西条市でだんじり祭りの彫刻に幼少期から「血が騒いだ」と言う。43歳で一念発起し、「彫刻、教室、東京でネットで検索して、一番上に出てきた先生に入門した」と笑って告白。「いまでは1日5、6時間、地方公演中やテレビ局の楽屋でも彫ります。彫り始めると止まらなくなる。彫れない日はストレスで」とのめりこむ。
 昨年の入選作のモデルとなった皇居外苑前の楠公像は「とにかくかっこいい。彫りたい!と思った」。埼玉・深谷市にある畠山重忠像にも心をひかれていると言い、「コンサートで全国に行くときも銅像をチェックしています。いま(山梨・JR甲府駅前の)武田信玄像を彫り始めたところ」と〝銅像シリーズ〟を今後のテーマに掲げる。
 二科展挑戦のきっかけは同じ事務所所属のモデル、押切もえ(42)の絵画での入選に「触発された」ことだったという。最後は「彫刻家と歌手という〝二刀流〟で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷選手? 超えたいですねえ!」と取材陣への笑顔のリップサービスで締めくくった。
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日テレさん。

秋川雅史、彫刻家と歌手の二刀流“大谷選手を超え目指す”

 『千の風になって』の楽曲で知られる、テノール歌手の秋川雅史さん(54)が17日、これまで秋川さんが彫り続けた彫刻作品を集めた、自身初の個展イベントに登場。歌手と彫刻家の“二刀流”を宣言し、世界で活躍する”二刀流選手”超えの記録を目指すと語りました。
 木彫刻家としての顔も持つ秋川さんが、これまでの彫刻作品を集めた初の個展『秋川雅史 木彫展』を17日~19日までの3日間開催します。秋川さんの彫刻作品は、昨年の美術の展覧会『第105回 二科展』の彫刻部門で初入選し、今年の『第106回 二科展』でも2年連続となる入選に輝きました。
■秋川「ネットで調べて一番上のところに」彫刻の師との意外な出会い
 43歳から彫刻を始めたという秋川さんは、『第106回 二科展』で入選となった『木彫龍図』について「愛媛県の西条市出身で、だんじり彫刻を見て育ったので、彫刻を見ると血が騒ぐ。だんじり彫刻は、龍が見せ場なんで、自分だったらこういう龍を彫りたいとイメージがありました」と語りました。
 また、彫刻を始めるにあたり、教室に通ったそうで「インターネットで『彫刻、教室、東京』とキーワードを入れて一番上に出てきたところに行きました。そこの先生が超一級の先生でした」と、師匠となる先生との運命的な出会いを明かしました。
 歌手としても活動する秋川さんは今後について「彫刻もアートだし、歌もアート。広い意味でアーティストと。だけどその中で、歌手と彫刻家の二刀流で、数々の記録を打ち立てたい。大谷選手を超えたいですね」と、世界で活躍する“大谷選手超えの二刀流”を目指すと宣言しました。
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テレ朝さん。

秋川雅史、初の個展スタート「“二刀流”で数々の記録を」 

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」を開催(19日まで)。報道陣の取材に応じた。
 秋川は昨年の二科展彫刻部門に「木彫楠公像(楠木正成像)」で初入選。今年、「木彫龍図」で2年連続となる入選を果たした。
 個展では「木彫楠公像」をはじめ、これまで手がけた彫刻や書を展示。秋川は、「彫刻を始めて11年。念願だった個展が初開催出来ることになりました」と喜び、「成長の過程を見てもらえたら」と呼びかけた。
 地元・愛媛県西条市の「西条まつり」で彫刻を見て育ち、「彫刻を見ると血が騒ぐ」とルーツを明かす。1日5~6時間を彫刻に費やしているが、「のめり込める時間」と表現し、「歌手は本業で、求めている以上のものを提供しないといけない。歌の練習はつらいことが多いけど、彫刻は楽しいことばっかり」と笑った。
 今後の目標を聞かれると、「全国に格好良い銅像がある。その銅像を木で彫るのがテーマ。武田信玄像に手をかけ始めた」と掲げた。歌手と彫刻家の“二刀流”だが、「広い意味でアーティスト。その中の二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷(翔平)選手を超えたいですね」とライバル視した。
テレ朝3
テレ朝 テレ朝2
今後とも、秋川さんのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

高村晴雲くる、玄関で。


昭和29年(1954)1月11日(火)の日記より 光太郎72歳

「高村晴雲」は、光雲の師・初代高村東雲の孫で、本名は東吉郎。かつては光雲に師事し、この時点では三代東雲を襲名していたのですが、光太郎はうっかり昔の号の晴雲と記録してしまったようです。しばらく北海道にいた三代東雲、光太郎に先立って昭和26年(1951)に帰京しています。

























日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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先月6日から上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催中の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」展。先月末、一部作品の展示替えが行われ、後期展示となりました。
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光太郎の父・光雲作品。前期では「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ていましたが、後期に入って「鹿置物」(大正9年=1920)にバトンタッチ。こちらも逸品です。
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公式サイト上で「出品目録」を見つけました。
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国宝に指定された「蒙古襲来絵詞」、高橋由一の「鮭」などは通期展示。それから目玉の一つ、伊藤若冲の「動植綵絵」なども後期からの展示です。

前期展示のレポートですが、主催に入っている読売新聞社さん発行の『読売中高生新聞』に関連記事が出ていましたのでご紹介します。

日本の風土を記録

004 日本美術の奥深にふれる特別展「日本美術をひも解く― 皇室、美の玉手箱」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開催されています。宮内庁三の丸尚蔵館の名品と、東京芸術大学の収蔵品が結集した同展の魅力を、同美術館の黒川廣子館長に聞きました。
 本展は、皇室ゆかりの品が収蔵されている宮内庁三の丸尚蔵館と、近代以降の日本で芸術の教育・研究 機関として重要な役割を担ってきた東京芸術大学のコレクションを合わせて、日本美術の魅力を紹介するものです。タイトルにある「玉手箱」には、「様々なジャンルや作品に出会える」(黒川館長)という意味が込められています。
 時代ごとではなく「生き物」や「物語」「風景」などのテーマごとに作品が区分されていて、所々に「蒔絵・螺鈿」「やまと絵」「障壁画」などの伝統技法や形式の解説もあります。小さい子どもも楽しめるワークシートも用意されていて、与えられたミッションをもとに、楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 会場に入るとまず、黄金の蒔絵とオーロラのような螺鈿が調和しながら 輝きを放つ「 菊蒔絵螺鈿棚」が来場者を迎えます。明治天皇の許可のもと、東京美術学校(現・東京芸大)と、宮内省(現・宮内庁)が 制作した、 記念的な作品です。
 文字をテーマとしたコーナーでは、 伝藤原行成「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」などが目をひきます。 雲母(きら)とよばれる鉱物を粉末状にして 描かれた文様がある料紙など、素材と文字の美しさのかけ合わせが印象的です。
 また、だれもが一度は教科書などで見たことがあるであろう、鎌倉時代の元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」も、物語をテーマとしたコーナーに展示されています。「当時は写真がない時代なので、絵で表現して現在に伝えているところに 歴史的な 価値があります」と、黒川館長。多くの画家が模写を行った作品だそうです。
 「蒙古襲来絵詞」を 含め、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品として 昨年初めて国宝指定された5件が展示されるのが、本展の見所のひとつです。この中で、桃山時代の武士のように力強い獅子が描かれた狩野永徳の「唐獅子図屏風」は生き物を集めたコーナーに展示され、会場に威風を放っていました。
  豪華絢爛な屏風絵から、月ごとに咲く花と鳥や虫を合わせた 酒井抱一「 花鳥十二ヶ月図」のような繊細な掛け軸まで、バラエティー豊か。重要文化財となっている、明治時代の高橋由一「鮭」は油絵です。「身近な画題を描くことで、洋画を受け入れてもらおうと一生懸命でした」という黒川館長の説明に、当時の洋画家たちの挑戦に思いをはせました。雌雄のつがいで展示されている 高村光雲のかわいらしい木製彫刻「矮鶏(ちゃぼ)置物」は、元々雄のみだったのが、明治天皇が気に入って購入され、それに合わせて雌を急きょ制作したそうです。
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 黒川館長によると、貴重な作品を守るために、作品ごとに当てる光を変えたり、温度も作品にとってちょうどいい温度にしたりと、気をつけているそうです。美術館が少し肌寒く感じたのはそのせいだったのかと納得しました。
 日本美術の特徴がぎゅっと詰まった展覧会。「日本で起きる全てを大切に記録するのが美術。日本ならではの表現で、日本という風土を記録しているのが魅力です」という、黒川館長の言葉が心に残りました。これからは作品の背景にも気を配って、作品を見ていきたいと思いました。
 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は、東京芸術大学、宮内庁、読売新聞社主催。9月25日まで、会期中、一部展示替えあり。詳細はホームページ 。

編集後記
 国宝級の美術品は、何度鑑賞しても飽きませんでした。美術や歴史の教科書に載っている実物を、目の前で見られるのは感動します。特に同世代には、日本人として、世界に 誇る日本美術の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。ぜひ足を運んでみてください。(岡島)
 ★企画者・ 岡島花蓮記者(中3)、 児玉龍之介記者(高2)、 飯島記者(高2)、 池上颯記者(中2)、 那須祐香記者(小5)

9月の金・土は午後7時30分まで開館だそうです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前志戸平より車で花巻温泉松雲閣別館に移る。 再び出て理髪等、


昭和28年(1953)12月2日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。かつてたびたび宿泊した松雲閣別館に宿を移し、5日の朝、再上京するまで逗留しました。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。午後1時に天心記念五浦美術館さんに伺う予定で、時間が早かったので、野口雨情記念館さん、野口雨情生家、天心遺跡(六角堂)などに立ち寄りましたが、午後1時近くになりましたので、満を持して同館へ。
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少し前、同館刊行の『新納忠之介旧蔵資料目録Ⅰ 「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年=2016)という厚冊の書籍を、自宅兼事務所の隣町の図書館で見つけ、頁を繰ってみたところ、光太郎の父・光雲、光太郎、そして光太郎実弟・豊周から新納忠之介に宛てた書簡類がリストに載っていました。
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001新納は明治元年(1868)鹿児島生まれ、東京美術学校の彫刻科第3回卒業生で光太郎の大先輩です(光太郎は第11回卒業)。光太郎在学時には同校助教授を務めていましたが、いわゆる美術学校事件で天心らとともに連袂辞職、日本美術院に加わりました。

ちなみに同期卒業生のうち、「本山辰吉」は本山白雲。高知桂浜の坂本龍馬像、国会議事堂前庭の伊藤博文像などで有名ですね。

それから「板谷嘉七」は陶芸家となった板谷波山です。「黒岩倉吉」は黒岩淡哉。そこそこ有名な彫刻家です。

新納はその後奈良に移り住み、主に仏像修復の分野で活躍しました。奈良東大寺さんの不空羂索観音像、京都三十三間堂さんの千手観音像などは新納の手により修復されています。また、光雲は信州善光寺さんの仁王像を制作するにあたって、東大寺さんの金剛力士像も参考にしていますが、その調査にも協力しています。今年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」には、新納から光雲に送られた、東大寺さん金剛力士像のレポートも展示されていました。

さて、新納宛書簡。調べたところ、『高村光太郎全集』及びその補遺として当方が編集を続けている「光太郎遺珠」に未掲載でした。

そもそも新納の名は、『高村光太郎全集』には4回しか出て来ていませんでした。光太郎の後輩で、仏像修復の分野で新納の右腕となった明珍恒男の追悼文(昭和15年=1940)の中に一箇所、明治38年(1905)、光太郎から光雲に宛てた書簡二通に。奈良を訪れた光太郎が新納の世話になったという記述でした。それから、明治42年(1909)、来日直前のバーナード・リーチ宛の英文書簡。日本でリーチの世話をしてくれそうな人物をリストアップする中で、新納は英語もしゃべれるし、日本彫刻に関する知識も半端ない、的なことが書かれています。

そんなわけで、光太郎から新納宛書簡、ぜひ拝見したいと存じ、同館に閲覧許可の申請をして伺った次第です。ついでというと何ですが、光雲、豊周からのそれも拝見させていただくことに致しました。

リストに「年賀状」とありましたが、本当に年賀状でした(笑)。文面は「賀正 大正十二年一月 駒込林町二十五 高村光太郎」のみ。それでもこの時期に光太郎と新納が年賀状のやりとりをする間柄だったということがわかります。豊周からのものもほぼ同じような感じでした。

元同僚だった光雲からの書簡は、さすがに数も多く、長文のものがほとんどでした。丁寧な時候の挨拶に始まり、美校の近状、東京の美術界の動向等々。時には愚痴も(笑)。光太郎が欧米留学後、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞に関する記述もありました。こちらでは光太郎の仲間の新しい芸術作品も販売していましたが、伝統的な漆器なども扱っており(そちらの方がよく売れたようです(笑))、その手配を頼むような内容でした。

閲覧に際しては、学芸員の方に大変お世話になりました。百年以上前の史料と言うことで、机の上には大きな中性紙を敷き、その上に三人がかりで一通一通広げてくださったり、撮影も許可して下さったり……。恐縮してしまいました。

閲覧後、展示を拝見。そちらも学芸員さんのご配慮で、無料でした。

常設展は天心の関係。
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企画展は「並河靖之の雅な技――世界を魅了した明治の京都七宝――」。並河の有線七宝の作品は、超絶技巧系の展覧会や、京都の清水三年坂美術館さんの常設展示などで何度か拝見していましたが、何度見ても舌を巻かされます。並河と共に「二人のナミカワ」と称される無線七宝の濤川惣助の作品も並び、眼福でした。
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まだまだ全国のこうした施設に光太郎書簡等、眠っているかと存じます(島根で新たな発見があったそうですし、北海道にあるという情報は既に得ておりまして、来年あたり拝見に伺おうと思っていますが)。光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨にいたるまで埋もれさてはならない、というのが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のスタンスでした。当方もそれを引き継いで、今後ともやっていこうと思っております。

以上、北茨城レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

三時過ぎ副知事来る、小型像其他につき協定、尚礼として500,000円もらふ(小切手)夜八時青森駅より上車、しん台車、津島知事、横山副知事等見送りにくる、

昭和28年(1953)10月24日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のための青森行、最終日です。宿泊していた浅虫温泉東奥館に横山武夫副知事が訪れ、最後の事務手続きが行われました。「小型像」は、「乙女の像」の小型試作。「乙女の像」本体と同じく伊藤忠雄による鋳造で、青森県に寄贈されました。現在、青森県立郷土館に所蔵され、昨年から今年にかけて開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」で展示されました。

上車」は「乗車」の誤りですね。

こういうのもありかな、と。

3D彫刻複製 「西郷隆盛像」高村光雲【大】

¥500,000 税込  送料無料でお届けします000
受付開始:2022年8月6日(土)
原型:上野公園 西郷隆盛像
彫刻:高村光雲
高さ:37cm(台座含む)
横:14.5cm
奥行11cm
技法:STH方式(3D計測・3D出力)
材質:pla

3D彫刻複製の主な特徴
すべての形情報をそのまま取り込める世界唯一の技術、3Dスキャン。独自の3D計測プロセスがもたらす圧倒的な正確さ。豊かな凹凸と、立ち上がるような立体感あふれる像質は、まさに「ハイパー複製」。原型の再現にどこまでも応えうる忠実性を提供すること。3D計測、3D出力、大きさ、質感などあらゆる要素をこの観点から徹底的に考え、一から開発いたしました。そして、3D彫刻複製の哲学である「彫刻研究のための複製」としての方向性を先鋭化させ、本格的な芸術表現をより身近にするための本質だけに特化して生まれたのが、この新世代の3D彫刻複製です。
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3D複製技術を彫刻等に応用する試みは、徐々に広がっているようです。

美術館さんの貴重な収蔵品の3Dコピーを作り、来館者が手にとることができるようにしたり、磨崖仏など現地から動かせないものの縮小コピーを作って研究に使用したり。

また、平成31年(2019)、火災で大きな被害を受けたパリ・ノートルダム大聖堂の再建においても、火災前に採ってあった内部の3Dデータを使うの使わないのという報道も目にしました。その後どうなったか存じませんが。

そう考えると、活用の幅はいくらでもありそうな気がしますね。

そして「西郷隆盛像」。権利的な部分はどうなっているのかな、と思うのですが、どうなのでしょう? 今回発売されたものは【大】だそうで、価格は50万円。やがて【中】とか【小】とかも出るのでしょうか?

この手の情報、今後も気を付けてみていこうと思います。

【折々のことば・光太郎】

夜去年上京の記念につき藤島さんと外でビフテキ、ビール、リオにてカクテル、夜十時かへる、

昭和28年(1953)10月13日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋をあとに上京して、丸1年が経ちました。

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