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昨日、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山系のラジオ・テレビ番組をご紹介しましたが、今日は新聞記事から。

まず、福岡に本社を置く『西日本新聞』さん。8月21日(火)のコラムです。 

「普通の酒」が頂く栄冠 論説委員 長谷川 彰

 安達太良山。「あだたらやま」と読み、福島県二本松市の西にそびえる火山だ。阿多多羅山の漢字を当て、詩人高村光太郎の「智恵子抄」にも登場する。東京には空がないという妻の智恵子が、遠くを見ながら、この山の上に毎日出ている青い空が「智恵子のほんとの空だといふ」とつづられた一節を、ご存じの方も多いと思う。
 二本松市内には、造り酒屋だった智恵子の生家跡が残っているが、程近くに奥の松酒造という蔵元がある。創業300年の歴史を誇り、安達太良山の伏流水を使って醸す地酒の数々は、九州にもファンが少なくない。蔵の営業マン、津島健さん(49)が全国を駆け巡り、その魅力をアピールしていることも大きい。
 その津島さんが苦笑いしながら言うのだ。「四合瓶(720ミリリットル)千円の普通の酒が世界一になっちゃって」
 ロンドンで7月に開かれた世界最大級のワイン品評会、インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)の日本酒部門で、出品した「あだたら吟醸」が最優秀賞に輝いたからだ。9部門の各最高賞から唯一選ばれる「チャンピオン・サケ」の栄冠だ。
 5年前に、福岡県八女市の喜多屋の「大吟醸 極醸 喜多屋」が選ばれて話題を呼んだのを、ご記憶かと思う。
 面白いのは、この「あだたら吟醸」、20年ほど前からの定番商品とか。「主に贈答用だった吟醸酒を、気軽に晩酌で楽しんでもらいたい」と生み出した酒だという。
 お値打ち価格にするため酒米でなく飯米を使い、醸造用アルコールも用いつつ、杜氏(とうじ)の技術で風味と品質を磨き上げたそうだ。大吟醸や純米酒が並み居る中での栄誉に、「社長も私もびっくりで、うれしいやら申し訳ないやら」と謙遜する津島さんだが、手応えを感じている様子だ。
 IWCでは当初、最高の素材と技術を極めたような酒が高く評価されていたが、日本酒が世界で広く飲まれるようになり、審査の目が多様性を帯びてきているらしい。
 日本酒は安物、悪酔いするといったイメージが広まり、地方の酒蔵が次々に行き詰まった時期も「お客に愛飲される酒造りに徹してきた」(津島さん)。そんな取り組みへの評価にもつながるとしたら、今回の栄誉は意義深い。
 津島さんと一緒に味わった受賞酒は、流れる水のようにすっきりとし、程よい甘さと香りが鯛(たい)のカルパッチョと合った。「限定酒とかじゃなかったので、受賞特需にも応じられそうです」。消費税込みで1本1080円の世界一の酒。心意気にも酔いしれた。
=2018/08/21付 西日本新聞朝刊=


奥の松さんの件、調べてみましたところ、先月の福島の地方紙で報道されていましたが、今回の『西日本新聞』さんのように、光太郎智恵子にからめた記事ではなかったので、気づきませんでした。 

奥の松吟醸酒世界一 品評会「IWC」日本酒部門

 世界最大級のワイン品評会「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)2018」の最終審査結果が十日(日本時間十一日)、英国・ロンドンで発表され、日本酒部門の最優秀賞「チャンピオン・サケ」に奥の松酒造(二本松市)の吟醸酒「奥の松 あだたら吟醸」が輝いた。福島県内蔵元の世界一は二〇一五(平成二十七)年のほまれ酒造(喜多方市)に次いで二度目。
  全国新酒鑑評会の金賞受賞銘柄数で六年連続日本一を誇る県産酒の品質の高さを世界に改めて示す受賞となった。
  ロンドンで行われた授賞式で奥の松酒造の遊佐丈治社長(55)が表彰を受けた。「三百年を超す奥の松の歴史の中で最も素晴らしい賞を受け、うれしく思う。福島には(東京電力福島第一原発事故の)風評の影響が残っており、自信につながる」と喜びを語った。「奥の松 あだたら吟醸」(七百二十ミリリットル、税込み千八十円)はフルーティーな香りと膨らみのある味、バランスの良さなどが高く評価された。
  日本酒部門には日本国外を含む四百五十六社が計千六百三十九銘柄を出品。出品社・銘柄数はともに過去最多だった。
  五月に山形市で日本酒部門の審査会が開かれ、純米酒や吟醸酒など九部門別に最高賞に当たる「トロフィー」受賞酒を選出。県内蔵元は吟醸酒の部でトロフィーを得た「奥の松 あだたら吟醸」と、純米酒の部でトロフィーに選ばれた名倉山酒造(会津若松市)の「純米酒 月弓」が最終審査に臨んだ。「チャンピオン・サケ」は九部門でトロフィーを獲得した九銘柄の中から選考した。

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震災からの復興に、はずみをつける快挙ですね。同じ蔵元どうし、泉下の智恵子やその家族も喜んでいることでしょう。


もう1件、福島県内各地で昨年から行われている体験型イベント、「ふくしま ほんとの空プログラム」関連で。 

安達太良山で心育む 二本松「ほんとの空プログラム」

 豊かな自然環境で子どもの好奇心001や探究心を育む活動「ふくしま ほんとの空プログラム」の安達太良山トレッキングは十九日、福島県二本松市の安達太良山で開かれた。
  県内外から四十人とプログラムサポーターのタレント長沢裕さん(伊達市出身)が参加した。安達太良マウンテンガイドネットワークのガイドで、夏の登山を楽しんだ。一行はロープウエーで八合目の山頂駅に移動し、薬師岳を通り山頂を目指した。登山道ではさまざまな木々や草花、青い空と雄大な安達太良連峰の景色を楽しんだ。山頂では猪苗代湖や磐梯山を望みながら、おにぎりやお弁当を食べた。
  田村市の本田匠君(10)は「初めての登山だったけど、みんなで頂上を目指して楽しかった」と達成感に浸っていた。
  プログラムは福島民報社の主催、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。


同プログラム、今後、鮫川村での宿泊体験、西会津町での探検プログラム、来年2月には郡山での「雪まみれキャンプ」などが計画されています。


「ほんとの空」を合い言葉に、福島がどんどん元気になっていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩は如何なる生活の片隅にもなければならぬ。決して謂ふところの詩らしい章句の中にのみあるのではない。粗雑であつてはならないが、詩がわれわれの日常生活の中から直接に出て来るのも亦たのしい事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

たしかに何げない日常生活の中に「詩」を見つけ続けた光太郎らしい言です。

まず、過日、第27回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町からの報道。仙台放送さんのローカルニュースです。  

津波到達点に17カ所目の「いのちの石碑」完成【宮城・女川】

宮城県女川町では、震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」が完成し、11日、除幕式が行われました。
 新しい「いのちの石碑」は、女川町の飯子浜地区に完成しました。「いのちの石碑」は震災の記憶を未来に残そうと2011年に入学した当時の女川中学校の生徒たちが、町内21カ所の浜に設置を進めているもので、今回が17基目の完成となります。
 設置者のひとり、鈴木元哉さんは「まだまだ自分たちに出来ること、そんなことを見つけながら、減災・防災これからの1000年後の命を守るために、何か行動、活動ができたらなと思います」と話していました。
 石碑には、1000年後の命を守るため「大きな地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などの対策案が刻まれています。

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このブログでたびたび取り上げている、女川町に建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。新たに17基目が除幕されたということです。毎回、頭の下がる思いです。


続いて、『岩手日日』さんの1ヶ月前の記事。サイト上では登録有料会員しか読めなかったのですが、福島二本松の、記事にもある「智恵子のまち夢くらぶ」さんの方からコピーを拝受しました。 

高村夫妻が紡いだ縁 智恵子のまち夢くらぶ・福島 花巻訪問、山荘など見学

【花巻】彫刻家で詩人の高村光太郎の関連施設がある花巻市に15日、妻智恵子の出身地・福島県二本松市から智恵子を顕彰する市民団体が訪れ、戦後7年余りの間、光太郎が暮らした高村山荘などを見学して当時の自然環境に親しみながら、地元住民とも親交を深めた。
 訪れたのは二本松市を拠点に活動する「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一会長)の会員と福島、郡山両市民を合わせ24人。同団体が光太郎や宮沢賢治を学ぶ機会にと実施したもので、花巻訪問は3年ぶり3回目。
 一行は地元の太田地区振興会や花巻高村光太郎記念会の案内により、花巻市太田のかつて光太郎が暮らした高村山荘や高村光太郎記念館、智恵子展望台などを巡った。
 一行の希望で、山荘内の「雪白く積めり」詩碑前で昼食を取った後、同記念館の関係者が横笛の演奏を披露したほか、子供の頃に光太郎と接した経験を持つ浅沼隆さん(76)=同市太田=が焼いたサンマを灰に落としてしまい、光太郎がそれを気にせずに食べたという思い出をしみじみと語り、ほのぼのとした雰囲気で交流を深めた。
 智恵子のまち夢くらぶは2005年に結成し、智恵子の生家がある通りを「智恵子純愛通り」と愛称を付け、愛称記念碑を建立するなど、智恵子の顕彰と地域活性化の活動を展開。花巻の団体とは光太郎の命日(1956年4月2日)に毎年東京で行われる連翹忌(れんぎょうき)で知り合い、交流を図っている。熊谷会長(67)は「山荘は光太郎が晩年の一時期を暮らした大切な場所。私自身は6回目の花巻訪問になるが光太郎ゆかりの地が大切に保存されていることに感謝したい」と話していた。
 高村山荘敷地内で地域づくり事業を展開している太田地区振興会の佐藤定会長(76)は「光太郎夫妻が取り持つ縁で生まれた交流なので末長く続けていきたい」と語る。

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記事にも有るとおり、当会主催の連翹忌がこうしたコーディネートの拠点となっていることに、悦びを感じます。こうした輪をどんどん広げていきたいものです。

花巻高村光太郎記念館さんでは、企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催中。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

技術は前進し、精神は遡る。
散文「詩の進展」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

戦時中の文章ですので全体的には翼賛的なニュアンスで貫かれていますが、いわゆる「温故知新」ということが言いたいのだと思います。その点だけは評価できます。

少し前から紹介すべき内容が多すぎて、このブログで取り上げるのが中々追いつきません。嬉しい悲鳴ですが。

今月初めからの新聞各紙の記事をまとめてご紹介します。

まず、『福島民友』さん。8月5日(日)に福島市で開催された女優の中嶋朋子さん朗読会についてです。 

北の国からの蛍...倉本作品「朗読」 福島で女優・中嶋朋子さん

 脚本家倉本聰さんが手掛けたドラマ「001北の国から」の蛍役で知られる女優中嶋朋子さんによる朗読会が5日、福島市のとうほう・みんなの文化センターで開かれた。倉本さんが富岡町をテーマにした点描画「夜の森 桜はそっと呟(つぶや)く」に添えた詩の朗読では、中嶋さんが自然の視点に立った情景をしっとりと聞かせ、来場者を倉本作品の世界にいざなった。
 中嶋さんとゲストの詩人和合亮一さん(福島市)が朗読した。「夜の森―」は富岡町にある「夜の森の桜」の東京電力福島第1原発事故後の心情を想像した詩で、中嶋さんは「倉本さんは観察のプロフェッショナル。夜の森の桜を繊細に表現したのだろう。皆さんも作品を心の声で読んで味わってほしい」と語った。
 中嶋さんはこのほか、本県ゆかりの高村光太郎の「樹下の二人」と草野心平の「おたまじゃくしたち45匹」を読み上げた。和合さんも自作「詩の礫(つぶて)」などを披露した。
 トークショーでは「北の国から」の撮影秘話を披露。連続ドラマで列車を中嶋さんが追い掛ける場面は「走りながら、いいタイミングでマフラーが飛んでいくシーンを撮るために何度も走った」と明かし、ユーモアを交えながら倉本さんやスタッフの情熱が今も語り継がれる名シーンをつくり出した様子を紹介した。
 朗読会は福島民友新聞社の主催、大清プロダクションの特別協賛。同センターで開催中の展覧会「森のささやきが聞こえますか―倉本聰の仕事と点描画展」との同時開催。
 「あぁ懐かしい」
 中嶋朋子さんは朗読会前に展覧会会場を訪れ、倉本聰さんが描いた点描画などを鑑賞した。
 中嶋さんは「自然の中にいると人間の無力さが分かる。倉本先生は自然の強さや優しさ、大きさを木に語らせた」と想像した。「北の国から」の小道具や撮影セットの展示では、蛍役の衣装と再会。「あぁ懐かしい」と声が漏れた。
 中嶋さんはこれまでも観光などで何度も来県していると明かし、「自然豊かな福島にまた訪れたい」と話した。


続いて同じ福島の『福島民報』さん。7日掲載の記事です。 

記念事業で誘客 智恵子没後80年

 二本松市出身の洋画家・高村智恵子を顕彰002する民間団体「智恵子のまち夢くらぶ」は今年の智恵子没後八十年に合わせ、多彩な記念事業を展開する。メイン事業として十一月十八日に二本松市コンサートホールで「全国『智恵子抄』朗読大会」を開く。愛と芸術に生涯をささげた智恵子を多くの人に知ってもらい、観光誘客にもつなげる。
 「全国『智恵子抄』朗読大会」は国内初開催となる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ智恵子抄は、智恵子への愛情が凝縮された詩集として知られる。智恵子、光太郎夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じ、県民だけでなく全国の人々に「純愛」を感じてもらう。福島大名誉教授の沢正宏さんが審査委員長を務める。八月下旬から出場者を募る予定。
 十二月には「智恵子カフェ」を催し、智恵子にちなんだ菓子を味わいながら智恵子と光太郎の人生について語り合う。九月には智恵子純愛通り記念碑第十回建立祭、十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」などを予定している。夢くらぶは毎年、智恵子に関するイベントを開催してきたが、全国規模の催しを主催するのは初めて。
 六日に同市の市民交流センターで開いた企画会議で事業の詳細を決めた。熊谷健一代表(67)は「智恵子の魅力を発信して文化振興につなげたい」と話した。各種イベントに関する問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話0243(23)6743へ。


だいぶ前にちらっとご紹介しまして、詳細はまた改めてご紹介しますが、チラシは下記の通りです。

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それから、8月6日(月)の『毎日新聞』さん。歌人の川野里子氏のコラムです。 

ことばの五感 「本物」はどこに?=川野里子

 都会生活が長くなったせいか「本物の生活」というものに憧れるようになった。しかし「本物の生活」とは一体どんな生活のことなのか? 例えば野菜は無農薬で育て、衣類から家具まで手作りをする。魚を焼くにも炭火を熾(おこ)し、風呂も薪で沸かす。そんな生活のことだろうか。私の父母は老後このような「本物」生活に楽しそうに没頭した。だがそのために働きずくめに見えた。怠け物の私には無理だ。あのひたむきな「本物」への情熱を不思議な気持ちで思い出す。「本物」とは何か?
 あるアメリカ人の老婦人が「アメリカには何でもあるけど、本物がないのよ」と嘆いていた。彼女によればイギリスやフランスには本物があるという。では、ということでイギリスに行き、バッキンガム宮殿を見学した。だが、かつてルネッサンス様式だった建物はその後ネオクラシック様式へと模様替えをし、さらにさまざまに増築されたややこしい建物だった。これは「本物」か? ルネッサンス様式といえばイタリアだ。しかしルネッサンスは古代ローマの復興の意味だという。建築に、絵画に、彫像に古典への憧れが滲(にじ)む。いったい本物はどこにあるのか?
 こないだは祠(ほら)があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇 五島 諭 
 確かにあったはずの祠は幻だったのか? どこかにあって、しかし探すとなぜか見つからない。そういうものを私達は常に探しているのかもしれない。ずっと昔から人間は「本物」に憧れ、「本物」を目指して心の旅を続けてきた。ブランドものや骨董(こっとう)品が本物であるか否かに始まって、本物の味、本物の芸術、本物の旅などなど。詩人、高村光太郎の妻の智恵子は「ほんとの空」は故郷にしかない、と言った。そういえば本物の愛なんてことも若い頃は考えたな。苦しい堂々巡りだった。
 肛門をさいごに嘗(な)めて眼を閉づる猫の生活をわれは愛する 小池 光
もしかするとこれこそ「本物の生活」なのか?
(かわの・さとこ=歌人)


川野さんのお名前、記憶のどこかに引っかかっていましたが、5月に中村稔氏著『高村光太郎論』書評を書かれていました。


さらに、昨日の『朝日新聞』さん。読書面です。  

(著者に会いたい)『本を読む。 松山巖書評集』 松山巖さん

心揺さぶられた33年分の541冊 松山巖004さん(73歳)
 大学の建築学科を出て、親友と建築事務所を作ったが、なかなかうまくいかない。もの書きになろうと思っていた1983年、新宿の飲み屋で知り合った「カメラ毎日」の西井一夫編集長(故人)から、書評を書くようにと1冊の本を手渡された。
 『學藝諸家 濱谷浩写真集』。学問や芸術を追求する諸家、つまり藤田嗣治、鈴木大拙、湯川秀樹、高村光太郎、井伏鱒二ら91人を45年かけて撮った本だ。詩人・堀口大学を写した4枚の中には、堀口の娘の子ども時代と、花嫁姿の写真がある。
 「こんなに時間をかけて撮るんだ、とびっくりしましたね。一人一人はともかく、全体としてみると人間って面白いもんだなって。これを気どった文章で評することは僕にはできないと思って、素直に書きました」
 西井さんからは、翌月も、その翌月も、書評の依頼が来た。初の著書である都市論『乱歩と東京』が日本推理作家協会賞を受け、読売新聞の読書委員に。
 その後、毎日、朝日の書評委員になり、読売の委員を一昨年まで長年つとめるなど、新聞に書評を書き続けてきた。
 「はじめは都市や建築、美術の本が中心でしたが、だんだん崩れちゃって、何でもやるようになりました」
 歴史や評論に加え、小説が増えていく。安岡章太郎や井上ひさし、津島佑子、又吉直樹に、パトリック・モディアノ、ギュンター・グラス、ミシェル・ウエルベックらも取り上げた。雑誌での書評もあわせて、この本には541冊分が収められている。33年間の定点観測的な「ブックガイド」ともなった。
 本にまとめたのは、昨春、大腸がんの手術を受けた後、気力が湧かず、書いてきた書評を再読してみたらと思ったからだ。
 「気力も戻ってきたけれど、友だちがすごく喜んでくれるのに驚いてます。書評している本を読みたいとか、図書館で借りて読んでいるとか」
 松山さんはいつも、本から受けた印象をはっきり書く。
 「こんな視点があるのかっていう本や、笑っちゃう本も含めて、心揺さぶられた本を取り上げてきました。『學藝諸家』はいいスタートでしたね」
 (文・石田祐樹 写真・倉田貴志)


戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居していた光太郎を訪ね、訪問記を書いた写真家・濱谷浩の写真集について触れられています。

同じく昨日の『室蘭民報』さん。 

伊達で12日まで故佐々木寒湖展、躍動感ある筆遣い

 伊達市ゆかりの書家、故佐々木寒湖(かんこ)005さんの作品展が12日まで、松ヶ枝町のだて歴史の杜カルチャーセンター講堂で開かれている。躍動感あふれる大作が来場者を楽しませている。
 佐々木さんは留萌管内増毛町生まれ。1945年(昭和20年)~56年に伊達高校の教諭を務めた。近代詩文書の草分け・故金子鴎亭氏に師事し、仮名交じりの親しみやすい作品を数多く発表。毎日書道展や日展で活躍し、金子氏とともに創玄書道会を設立した。
  展示は同センターを運営する伊達メセナ協会が初めて企画。97年に遺族から市に寄贈された作品など27点で、高村光太郎や西条八十、更科源蔵の詩などを題材にした近代詩文書は力強さに満ちている。
  「曠野のをちこちの 部落が懐かしく灯を點し初めた頃 駅員は漸くそれに答えるやうに 発車を報らせる笛を鳴らした」としたためた書などが目を引いている。 (野村英史)

光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。


最後に、やはり昨日の『石巻かほく』さん。女川光太郎祭を報じて下さいました。  

高村光太郎をしのび、女川で祭り 詩の朗読や講演

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第27回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町まちなか交流館で開かれた。町民ら約40人が参加し、作品を通して、光太郎の思いに触れた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演した。
 6章20編の詩で作られる「暗愚小伝」では、光太郎が太平洋戦争への協力を促す詩を作り、多くの若者を戦地に向かわせたことを自己批判している。小山代表は「心にたまるうみをはき出すように、酒に溺れたこともあった。罪深かったという思いがあったのではないか」と述べた。
 女川小の児童や愛好家ら8人が光太郎の詩を朗読したほか、光太郎の写真に向かって献花などもした。
 光太郎祭は、光太郎が1931年8月9日、三陸地方を巡る旅に出発した日にちなみ、92年から開催されている。

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余裕が有れば分けてご紹介すべきでしたが、今後も美術館さんの企画展示、公演系、講座系の情報等目白押しですので、いたしかたありません。まぁ、それだけまだ光太郎智恵子(光雲も)が人々に忘れ去られていないということなので、ありがたいことですが。


【折々のことば・光太郎】

詩精神と言つても、別に手の上に載せて、これが詩精神だといふやうに説明することは出来ないが、しかし詩精神を養ふのに欠くことの出来ない心の持ち方といふものはある。それはすべての物なり事なりを、新しい眼と心とで見たり考へたりすることであつて、慣れつこになつてしまはないやうにすることである。毎日はじめて見たやうに物を観察することである。

ラジオ放送「詩精神と日常生活」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦後になって、花巻郊外太田村の太田中学校には「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」という言葉を校訓として贈っています。前半部分は盛岡少年刑務所にも。その原型とも言える一節です。

まずは17日、日曜日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」。

正平調 2018/06/17

作家黒井千次さんの父は90歳で亡くなった。四十九日の法要を済ませた後、残された本を整理しようと入った部屋で1本の黒い万年筆を目にする。握りが太く、吸入式の外国製である◆何げなくキャップを取り、ペン先を走らせて驚く。すらすらと書けた。生前に入れたインクが残っていたのだ。「そこにだけ、まだ父は生きている」。そんな不思議な感慨を覚えたと、エッセーで書いている◆そこにだけ、まだ父は生きている。あるとき、ある瞬間、そんな思いにかられることは間々ある。昨年、牧場を経営する弓削忠生(ただお)さんに書いていただいた本紙「わが心の自叙伝」でも遺品のくだりが印象に残った◆牧場をどう続けるか、決断に迫られていたときのことだ。73歳で生涯を閉じた父の遺品に、彫刻家で詩人、高村光太郎の詩を見つけた。高村は開拓の精神をたたえる詩を残したが、その一節を書き写していた◆「読んでいると、父の思いが見え隠れしているように思えた」。で、意を決したそうだ。難しい課題はあるが、父が挑んできたことに取り組もう、牧場を残し続けようと◆きょうは父の日だ。感謝の贈り物もいいが、もし他界しているのなら、引き出しの奥に眠る遺品を手に取るのもいい。どこかで、まだ父は生きている。

光太郎がメインではありませんが、『神戸新聞』さんの「正平調」、よく光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて、同じく17日の『毎日新聞』さん、読書面。 

今週の本棚・新刊 『高村光太郎論』=中村稔・著(青土社・3024円)

 高村光太郎の詩「寂蓼(せきりょう)」が、漱石「行人」中に描かれた近代人の内面「かうしては居られない、何かしなければならない、併(しか)し何をしてよいか分からない」に酷似しているという指摘から始め、光太郎の西欧体験を辿(たど)り、智恵子との出会いを探る。西欧との齟齬(そご)、日本との齟齬に悩む新帰朝者・光太郎の焦燥の背後には、一貫して「父光雲の脛(すね)をかじるつもりだったとしか思えない」自己中心的な甘えがあった。
 甘えは智恵子との間にもあった。「智恵子は東京に空が無いといふ」に始まる「あどけない話」を、「夫婦としての会話のない」悲劇的作品とする指摘など鋭い。光太郎の性欲は強く、智恵子は淡泊。それが智恵子発狂の遠因の一つだったとする。その孤独が詩篇「猛獣篇」を書かせ、智恵子の死後には、太平洋戦争下、厖大な戦争詩を書かせた。敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。これは通念を覆す指摘だ。
 著者は詩人、満九十一歳。『中原中也私論』『萩原朔太郎論』『石川啄木論』などに続く力作評論。頭脳の明晰と強靱(きょうじん)に驚嘆する。


中村稔氏著『高村光太郎論』の書評です。最後にあるとおり、満九十一歳の氏による書き下ろしの労作。まさにそのバイタリティーには驚かされます。「敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。」という部分には首肯できませんが……。


最後に、訃報を一つ。昨日の『朝日新聞』さんの朝刊を開いて目に入り、あらら……という感じでした。 

小峰紀雄さん死去

 小峰紀雄さん(こみね・のりお=小峰書店社長、元日本書籍出版協会理事長)10日、肝不全で死去、79歳。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 児童書専門の同社で、原爆の惨状を伝える絵本「ひろしまのピカ」(丸木俊著)などの編集、出版を手がけた。

小峰書店さんからは、教育評論家の遠藤豊吉氏の編集による「若い人に贈る珠玉の詩集」、『日本の詩』全10巻が刊行されています。おそらく日本全国津々浦々ほとんどの小中学校さんの図書室に完備されているのではないでしょうか。全10巻中の「わたし」、「あい」、「しぜん」に、光太郎の詩が掲載されています。

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当方、うっかり気づきませんでしたが、一昨年には新版が刊行されたそうです。

そして、記事にもあるとおり、小峰書店さんと言えば、丸木位里・俊子夫妻の「ひろしまのピカ」。こういう良質な児童書を世に送り出して下さり、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの高い哄笑とあの三題噺ももう聞かれないか。あの玄人はだしの落語もあのしんみりした鋭い批評も聞かれないか。あのうまさうな酒の飲みぶりも見られないか。
散文「岸田劉生の死」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

明治末には光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で個展を開き、大正初めのヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社、大調和展などで、光太郎と共に洋画の革新運動に携わった鬼才・岸田劉生。光太郎より8歳年下で、数え39歳の若さでの急逝でした。8歳も年長ながら、光太郎は岸田を「無條件に天才であつた」とし、その死を悼みました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の旧太田村で昨日開催された第61回高村祭。地元紙『岩手日報』さんのサイトには、昨日のうちに報道がアップされました。 

光太郎しのび歌や作品朗読 花巻で高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1900356年)をしのぶ第61回高村祭(高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。地域住民や県内外のファンら約650人が参加し、多くの名作を生んだ光太郎への敬慕の思いを寄せた。
 光太郎と交流のあった太田小に通う高橋文耶君と照井美空(みく)さん(ともに2年)が詩碑に献花。西南中1年生が「西南中学校精神歌」を歌うなど地元の児童生徒たちが光太郎作品を披露し、地域住民らが座談会で思い出を語り合った。
 光太郎は戦災のため花巻に疎開し、45年5月15日から約7年間を過ごした。


同じく地元紙『岩手日日』さんは、最近、有料会員登録をしないと記事全文が読めなくなってしまっており、割愛します。


サイトで確認できたのは、今日になって『朝日新聞』さんの岩手版。 

花巻で61回目の「高村祭」

 彫刻家で詩人の高村光太004郎が戦時中、東京から岩手県花巻市に疎開した日を記念した「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘周辺であった。約500人の参加者が詩碑の前で光太郎の詩を朗読したり思い出を語ったりして、その芸術と人柄に思いを寄せた。

 「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎の死後、山荘近くに詩碑が除幕された1958年から続いて今年で61回目になる。晴天に新緑が輝く中、地元の西南中学校の生徒らが、光太郎の「雪白く積めり」などを朗読した。

 1945年から7年間、花巻で暮らしていた当時、光太郎と交流があった地元の4人による座談会もあった。光太郎から短歌を学んだという高橋愛子さん(86)は「(山荘の独り暮らしで)寂しくないですかと聞いたら『智恵さん(亡妻の智恵子)がいるから』と話していた」と懐かしんでいた。(溝口太郎)


テレビニュースの動画で、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎をしのぶ 詩人で彫刻家

詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村 光太郎の功績をしのぶ「高村祭」が、岩手・花巻市で開かれた。
高村 光太郎は1945年の5月15日、花巻市に疎開し、この地で7年間過ごした。
「高村祭」は光太郎の功績をしのんで毎年行われていて、高村山荘の近くの会場にはおよそ600人が集まった。
15日は、近くの太田小学校の児童や花巻北高校の生徒が、光太郎の詩を朗読した。
光太郎に短歌を教わった高橋愛子さんは、「『愛子さんも(短歌を)書いてみたら』と言われた。(光太郎に見せたら)自分の書いたところが直されて無かった。とにかく何でも知っている人だった」と語った。
参加した人たちは、花巻を愛した偉大な芸術家に思いをはせていた。

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プログラム中の座談会でもお話しいただいた高橋愛子さん。単独インタビュー(笑)。

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それから、『読売新聞』さんも、顔見知りの北上支局長さんがいらしていましたので、記事になっているか、これからなるのか、当方自宅兼事務所隣町の成田市立図書館さんに行けばオンラインサービスで調べられそうですので、近々行ってみます。

暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、こうしたニュースであふれてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

もともと彼は捨身飼虎の菩薩に外ならず、死の数時間前にさえ、訪問してきた一農人の為にわざわざ二階の病室から下りて農事の相談に応接したほどの、殆と仏に近い人であつた。私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低限食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも必ず肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」の問題は重大である。

散文「玄米四合の問題」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

自分より13歳年下ながら遙かに早く夭折した天才・宮澤賢治を、光太郎は敬愛して已みませんでした。しかし、有名な「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分には納得いかなかったようで、いろいろな箇所でこれではいかんと発言しています。日本人と欧米人との体格差という部分が、戦後のこの時期に特に気になったのではないでしょうか。後半では日本にもっと肉食や牛乳飲用が広まることを期待し、酪農を勧める提言もしています。

『毎日新聞』さん社会面に連載されている俳人・坪内稔典氏による連載「季語刻々」。古今の名句を毎日一句ずつ紹介するコラムです。これまでもたびたび光太郎の句を取り上げて下さっていましたが、昨日もご紹介下さいました。

季語刻々 ゴンドラにゆらりと乗りぬ春の宵 高村光太郎

 1946年4月17日朝、光太郎が住む今の岩手県花巻市郊外の山小屋はもやに包まれ、いかにも春暁らしい風景だった。お茶、チーズ、大根や煮干しが具のみそ汁、かゆ、たくあんがこの朝のメニュー。昼間は雨がけむって降った。以上、光太郎の日記を紹介した。取り上げた句は1909年にイタリアを旅行した際のベネチアの風景である。<坪内稔典>

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句自体は明治42年(1909)春、留学先のパリから、約1ヶ月、スイス経由でイタリア各地を旅行した際の吟です。この旅中には60句ほどの句を詠みました。大半は留学仲間だった画家の津田青楓に宛てた絵葉書等にしたためたものです。

解説で用いられているのは、約40年後の昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村の山小屋での日記。前年秋からの山小屋生活の初期は、日々の献立を日記に詳述していました。「食」に対する光太郎のこだわりが見て取れます。

光太郎の短歌は、『明星』関連で松平盟子氏などが近年だいぶ取り上げて下さっていますが、俳句の方はまだまだ脚光が当たっていません。もっと注目されていいものだと思われます。


【折々のことば・光太郎】

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。

散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

南薫造は、津田青楓同様、光太郎の留学仲間だった画家です。

他の作家への評ではありますが、光太郎が目指す芸術の一つのありようが示されています。

今月2日、東京日比谷で開催した当会主催の連翹忌とは別に、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも花巻としての連翹忌、さらに光太郎が暮らした郊外旧太田村での詩碑前祭が行われました。

毎年、ネットでその報道を検索し、このブログでご紹介していましたが、今年それを報じて下さった地元紙『岩手日日』さん、それから『朝日新聞』さん、ともに有料会員向けページでの掲載で、読むことができませんでした。

ふと、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する、成田市の市立図書館さんで、『朝日新聞』さんの記事検索ができるデータベースサイト「聞蔵Ⅱビジュアル」が閲覧できることを思い出し、行って検索して参りました。 

光太郎の63回忌 詩を朗読、しのぶ 花巻市の高村山荘/岩手県

 彫刻家で詩人の高村光太郎の63回忌にあたる2日、光太郎が晩年を過ごした花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。約50人の住民が参加し、「道程」や「岩手の人」、「雪白く積めり」など光太郎の詩を朗読して故人をしのんだ。
 戦時中、宮沢賢治との縁で東京から花巻に疎開した光太郎は、戦後も1945年から7年間にわたり、当時の太田村山口の山荘で暮らした。
 厳寒の地で1人暮らした理由は、戦争協力詩などを書いたことへの「自責」とされているが、山荘時代の光太郎は、野良仕事帰りの村人をコーヒーでもてなすなど地域と様々な交流を重ねたという。
 白ひげのサンタクロース姿で村の小学校の学芸会に参加したことも。そこで光太郎から駄菓子を貰った記憶がある高橋征一さん(75)は、「クリスマスなんてなかった時代に華やかな気持ちになれた。当時は入植したじいさんだと思っていたが、ありがたい人です」となつかしんだ。
(2018.4.7)

高橋征一さんは、比較的有名なこの写真で、右から二人目。太田地区振興会の副会長さんで、この詩碑前祭や毎年5月15日の高村祭などの裏方を務められ、さらに光太郎の語り部としても活動なさっています。

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ありがたいですね。


ついでに先月末の神奈川版の記事。神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」に関してです。こちらは無料会員でも閲覧できる記事ですが。 

【神奈川の記憶】 (105)生誕140年「与謝野晶子展」

■恋・戦争…「まことの心」詠む
 ◇大胆でパワフル 行き方たどる
 歌人与謝野晶子の作品と人生をたどる特別展が神奈川近代文学館(横浜・港の見える丘公園)で開かれている。開館から34年、「取り上げたことのない最後の大物」だったというが、生誕140年を記念しての企画となった。
 晶子といえば、まず「みだれ髪」だろう。1901(明治34)年、22歳で刊行した第一歌集である。
  その子二十櫛(はたちくし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
  やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君
 今日でも奔放さを漂わせる。美への思いや恋愛を若い女性が高らかに歌い上げたのだ。同時代の人には大きな驚きだっただろう。
 展示ではその背景を紹介している。与謝野鉄幹の存在だ。詩歌革新を掲げ「明星」を創刊した鉄幹は投稿作品を熱心に添削したが、晶子への指導は〈挑発〉だったと歌人の三枝昂之さんは指摘する。「京の紅は君にふさはず我が噛(か)みし小指の血をばいざ口にせよ」と「明星」に記した。「晶子の才能を見抜き、もっと大胆に、もっとパワフルに、と煽(あお)り続け」、生まれたのが「みだれ髪」だったと三枝さんは考える。
 晶子は髪が豊かでいつも髪を幾筋か垂らしていたので「みだれ髪の君」と呼ばれていたという。
 鉄幹と晶子はこの年、結婚。晶子の作品に刺激され北原白秋、高村光太郎、石川啄木らが参加し「明星」は浪漫派の拠点となる。
     *
 晶子といえばもう一つ思い出す「君死にたまふこと勿(なか)れ」も紹介されている。
 あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ/末に生れし君なれば/親のなさけはまさりしも/親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや
 日露戦争が始まった1904年、激戦地の旅順に弟が送られた。当時、問題とされたのは、今日とは異なる視点からだった。
 すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね/かたみに人の血を流し/獣(けもの)の道に死ねよとは/死ぬるを人のほまれとは/大みこゝろの深ければ/もとよりいかで思(おぼ)されむ
 天皇は戦場に出ないと指摘したこの部分が、「世を害する」と国家主義の立場から厳しい批判を浴びた。
 それに対して晶子は、何かにつけて天皇の名をあげ「忠君愛国」を説くといった風潮は危険であり、私の好きな王朝文学の中で天皇が人に死ねという場面など見たことがないと指摘。さらに「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき。まことの歌や文を作らぬ人に、何の見どころか候べき」と反論した。
 〈反戦詩〉として脚光を浴びるのは第2次大戦の後のことのようで、「家族を思う〈まことの心〉」を詠んだというのが晶子の思いだったようだ。
     *
 1878(明治11)年に晶子は大阪・堺の和菓子商の家に生まれた。店番のかたわら、蔵にあった古典を読みふけり育った。
 「一生の事業」として晶子は「源氏物語」の現代語訳に取り組むが、紫式部を「12歳の時からの恩師」と慕い、「式部と私との間にはあらゆる註釈(ちゅうしゃく)書の著者もなく候」と記している。
 「新訳源氏物語」全4巻を1913年に完成させたが、納得できなかった。そこで32年に改訳に乗り出した。35年には鉄幹が急逝。「新新訳源氏物語」全6巻が完成したのは39年。その翌年に脳出血で倒れ、42年に亡くなる。文字通りのライフワークだった。
 その生涯をたどるとパワフルさに圧倒される。鉄幹との間にもうけた子どもは12人。その子育てをしながら創作に励んだ。評論も数多く、戦前期を代表する女性論客ともいえそうだ。
 経済的にも家を支えた。鉄幹が不遇の時期を迎えると、鉄幹の渡欧を実現させようと資金集めに奔走。歌を百首も書き付けたびょうぶを売り出している。
 欧州からの手紙を受け取ると、晶子は7人いた子どもを親族に託し12年にパリへと旅立っている。
 近代日本に新たな表現世界をもたらした浪漫派の代表歌人とされる晶子だが、「顕彰されるようになったのは死後いくらかたってからでした」と文学館の浅野千保学芸員は説明する。その奔放さ、大胆さは「ふしだら」と受け止められがちだったようだ。
 展示をめぐりながら、ついつい思い浮かべるのは「忖度(そんたく)」がキーワードの昨今の風潮。晶子ならどんな歌を詠むのだろう。
 「歌は歌に候。後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候」
 晶子のこの言葉が強く記憶に残った。5月13日までの開催。

ちなみに、「君死にたまふこと勿(なか)れ」を批判した急先鋒は、大町桂月。のちに光太郎が、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰する「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作することになるのは、不思議な縁だと思います。


もう1件。福島の地方紙『福島民友』さんから。

【二本松】闇夜に浮かぶ「万燈桜」 道の駅「安達」でライトアップ開始

 二本松市の道の駅「安002達」智恵子の里下り線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜」が満開となり、ライトアップが4日からスタートした。22日まで毎日午後6時30分~同10時に点灯する。
 万燈桜は樹齢約270年の一本桜で、高さ約15メートル。初日は同所で点灯式が行われ、同道の駅を運営する市振興公社社長の三保恵一市長が「利用者に大いに楽しんでもらいたい」とあいさつ。同社の松坂浩統括・駅長と共に点灯のスイッチを押した。
2018/04/06

万燈桜、樹齢はおよそ270年だそうで、かつてこの近くに住んでいた智恵子も見上げたのではないでしょうか。見事ですね。


ところで「聞蔵Ⅱビジュアル」、以前に国会図書館さんでそれを使って、光太郎生前の記事をいろいろ検索させていただきましたが、久しぶりに今回使ってみると、昔の記事も増えている、というか、検索能力が上がってでヒットする件数が増えているように感じました。また、『毎日新聞』さんのデータベース「デジタル毎日」も同様でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、その補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』に連載中)にも漏れている、光太郎談話等が見つかりそうで、また調べに行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は知識でも得られない。論理でも捕捉し難い。実に厄介至極なものである。
散文「富士見町教会堂の階上にて」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

ここでいう「趣味」とは、「趣味は音楽鑑賞です」などの、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という意味ではなく、「悪趣味」といった、「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」の意です。

まさしくその通りですね。

一昨日の横浜行レポート、続きです。

神奈川近代文学館さんでの特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」拝観後、車をみなとみらい地区に向けました。次の目的地は、横浜美術館さん。お目当ては、「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展




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さらにお目当ては、この展覧会の目玉、ロダン作の「接吻」の大理石像。

これのみ、写真撮影が可でした。

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想像していたより大きく、見上げるような高さでした。後で調べたところ、パリのロダン美術館にあるオリジナルは180センチほどだそうで、レプリカであるこちらもほぼ同じでしょう。それがさらに展示台に乗っています。

ブロンズの「接吻」は、平成24年(2012)、上野の国立西洋美術館さんで開催された「手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描」展などで拝見したことがありまして、そちらは高さ90センチほど。

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「接吻」というとその大きさ、とい003うシナプス回路が脳内に出来上がっていましたので、意外でした。

それから、ブロンズにはブロンズの量感の良さがありますが、それとは異なる大理石の質感もまた魅力的だと思いました。

光太郎は、明治43年(1910)の散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」中で、次のように述べています。

RODIN の胸像の青銅(ブロンズ)の色は色ばかり見てゐても快感を与へられる。そして、その材料の色と彫刻の内容とがぴたりと出合つて居る。 ST.JOHN は青銅で、接吻は大理石であつた。

「ST.JOHN」は聖ヨハネ。おそらく明治13年(1880)作の「説教する洗礼者ヨハネ」でしょう。たしかにこれが大理石だと、かなりの違和感があるように思えます。

ちなみに光太郎も、大理石彫刻を手がけています。

残念ながら、現物の現存は確認できていませんが、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)がそれです。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

そのドラ息子(笑)に宛てた書簡も残っています。

まず、大正6年(1917)3月31日付。

拝啓 先日は大変懇ろな御手がみ頂戴いたし小生も稍心を安んじ申候 あれ以来石屋に再三の催促をいたし漸く両三日前石が到着いたしました 今度の石は材質殊の外よろしく 一寸パリアンマーブルの面影あるような気がいたします 全く東京では求めがたき品と信じます それで大変嬉しくおもつて居ります 職工は三日から参りまして點模(ホンダン)にかかります 其を督励して出来るだけ早くしかし充分に心を尽して私が仕上げます 今月中には大てい御手許にさし上げられるかと思つて居ります 今日は他の近作と同時にあの原型も一緒に写真にとりました 写真が失敗でなかつたら御覧に入れます (写真の技術が小生は大下手故心配して居ります) 
(略)

さらに同年4月28日付。

(略)
例の大理石はあれから仕事いたして居りますがも少し運びました上自分のアトリエに持ち来りて最後の仕上げをいたす心算で居ります 今月も最早三四日になりましたが完成はいま少々御猶予をねがはねばならぬ事まことに御気の毒に存じます 
(略)
今少し仕事の運びたる上アトリエに持ち来り 貴下に一度見て頂いてから最后の仕上げをいたしたく存じて居りますゆゑ其節は一寸御報告申上げるつもりでございます よろしく御承知置き下さるやうお願ひ申上げます
(略)

光太郎、粘土で原型を作り、その上でそれを大理石に写すという手法で制作していたようです。荒削りには職人さんの手を借りていたようで、そういうこともやっていたんだ、と興味深く感じました。

おそらくその粘土での原型が左下。写真のみ現存しています。

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右は、前年から取り組んでいた歌人の今井邦子の像。こちらも大理石に写すつもりでしたが、やはり実現しませんでした。こちらも現物は現存が確認できていません。どこからか、ひょっこり出てこないものかと思っているのですが……。

閑話休題。

「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」を拝観した後、同時開催の同館コレクション展も拝見しました。藤田嗣治、岸田劉生、河野通勢ら、光太郎と交流のあった作家の作品も含まれており、ラッキーでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

「来るべきところへ来た。行くべきところへ行かないでは居ないだらう。」 これが正直な、私自身の現状に対して私の有つてゐる心である。

散文「文展第二部に聯関する雑感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この後、延々と自分が歩いてきた道について、こうであった、そして今後はこうなるだろう、といった言が続きます。どうも翌年に発表した詩「道程」の原形(初出形)102行ロングバージョンのさらに原型のような気がします。

今日は長くなりましたので、もう引用する気力がありません(笑)。いずれまた何かの機会にご紹介します。

日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏で、先週7日(水)、8日(木)掲載分で、昭和20年(1945)8月10日(実に終戦5日前です)の花巻空襲について書かれ、その中で、光太郎についても触れられていました。

その後、10日(土)、11日(日)掲載分で、何と、やはり花巻で、既に郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた光太郎と遭遇されたご体験が記されていました。

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光太郎、肉屋で買い物をしていたそうです(笑)。時折、花巻町に出てくることがありましたので、有り得る話です。さらに、光太郎歿後、氏が旧太田村の山小屋に行かれた際の印象なども書かれていました。


そして昨日掲載分。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がらみでまた光太郎。

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しかし、これには閉口しました。

「雨ニモマケズ」、最初に賢治が手帳に記した際、後半の一節に、「リノトキハナミダヲナガシ」と書いた部分が、後世、「リノトキハナミダヲナガシ」と改変され、現在もこの形で流布している出版物等も数多く存在します。


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以前から山折氏は、この「書き換え」を光太郎の仕業として、あちこちでそう発表されていました。

確かに、昭和11年(1936)、光太郎がその碑文を揮毫し、花巻に建立された碑には、「リノトキハナミダヲナガシ」と刻まれています。

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しかし、光太郎はあくまで送られてきた原稿を元に揮毫しただけであって、「」→、「」の改竄には関わっていないはずです。

光太郎が揮毫する以前、昭和9年(1934)9月の『岩手日報』に「雨ニモマケズ」が掲載された段階で、既に「」→、「」の改竄が行われています。つまり、少なくとも光太郎が碑文を揮毫した時点では、この部分、世上では「ヒデリ」として流布していたわけです。

それを、いくら碑文を揮毫したからといって、光太郎の仕業にされてはたまりません。

山折氏のこの決めつけに関しては、いろいろと反駁も出ているのですが、それらを眼にされていないのか、あるいは一度こうと思い込んだらもはや修正できないのか、しようとしないのか、何とも言えませんが……。

このブログでは、あまり批判めいたことは書きたくないのですが、『日本経済新聞』さんという、かなり影響力の大きいメディアに載った記事ですし、実際、いろいろな方のブログ等で、既に昨日の記事をもとに「そうだったのか」的な記述が散見されます。

困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行してゐる。なまじつか習つた能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

散文「書について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

書においても独特の、しかしすばらしい作品の数々を遺した光太郎の、最も有名な書論、冒頭部分です。

ひっくり返せば、自分は決してこういう書は書かないぞ、という宣言ですね。

昨日は3.11でした。

午後、地上波フジテレビさんで放映された「FNN3・11報道特番 その避難は正解か!?」を拝見しました。その中で、光太郎ゆかりの宮城県女川町の、七十七銀行さん女川支店の件を取り上げていました。津波到達直前から、一気に18㍍の津波が押し寄せ、さらに引き波となって町を呑み込んでていく動画が流れ、涙を禁じ得ませんでした。

あの中に、貝さんが居たのか、と。

貝(佐々木)廣さん。当時、女川光太郎の会事務局長を務められていた方です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を執筆するため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、光太郎文学碑が女川の海岸公園に建てられたのが、平成3年(1991)。その中心となって活動され、その後は碑を建てて建てっぱなしでなく、毎年、光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催し続けられたのも貝さんでした。

連翹忌にも20数回ご出席下さり、平成18年(2006)には、東京日暮里で開催された「高村光太郎歿後50年記念 高村智恵子生誕120年記念 光太郎・智恵子・フォーラム」で、女川での光太郎顕彰の取り組みをご紹介下さいました。記念講演は当会顧問・北川太一先生、司会は当方でした。

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「こーんなでっかい文学碑を建てたんですよ」と、ステージを走り回っていた貝さん。

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7年前の昨日、その貝さんは、津波に呑まれ、還らぬ人となってしまいました……。

その貝さんを含む、町内で亡くなられた方々854名(実に当時の人口の1割です)すべての名が刻まれる慰霊碑が建設されるそうで、テレビ朝日さん系のニュースで報道されていました。 

東日本大震災から7年 宮城・女川町 復興への思い

 東日本大震災から11日で7年です。宮城県女川町では、新たに建立が進む慰霊碑に地元の中学生が復興への思いを書いた石のプレートを積み上げました。
  女川町では、高台に建設中の新庁舎の敷地に町で犠牲になった854人の名前を刻んだ慰霊碑を建てる予定です。10日は、卒業式を終えた女川中学校の3年生46人が慰霊碑が建てられる場所を訪れ、復興への思いを書いた石のプレートを積み上げていきました。
 家族4人を亡くした鈴木翔さん:「身内が亡くなっているんです、震災で。1人見つかっていない。悲しいという思いもありながらも、自分はしっかり生きていかないといけない。それを置く瞬間に(感じて)慰霊碑を全国のみならず、世界の皆さんに見てもらって、我々の思いを見てほしい」
 東日本大震災による死者は1万5895人で、今も2539人が行方不明のままです。

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ローカル局、仙台放送さんでも、一昨日、報道されました。 

震災犠牲者思い 石板を慰霊碑に 宮城県女川町

東日本大震災から11日で7年です。
女川町では、地元の子供たちが復興や鎮魂の思いを書いた石版を慰霊碑の一部として積み上げました。
 女川町では高台に建設中の町役場の敷地内に震災により町内で亡くなった約850人の名前を刻む慰霊碑を建てる計画です。
10日は、午前中に卒業式を終えたばかりの女川中学校の卒業生46人が参加して、復興や鎮魂の思いを書いたブロック状の石版を慰霊碑の周りに積み上げていきました。
 石版には、
「安らかにお眠り下さい」、
「女川は今復興の道をたどり始めています」
といった町民や子供たちのメッセージが書かれています。
 男子 「見守ってほしいと、石に思いを込めました」
 男子 「亡くなった方々が天国で安らかに休めるようにと気持ちを込めて石を積みました」
 女川町では、11日に訪れた人たちにも石版へのメッセージの書き込みを受け付ける特設ブースを設ける予定です。

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女川中学校さんの卒業生諸君が、石版を積んだそうですが、来年度成人を迎える代の彼等の先輩たちは、このブログでたびたびご紹介して参りました、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトに携わってきました。

その当時(当時は統合前で女川一中)の先生が、木曜日にNHKさんの番組で紹介されます。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2018年3月15日(木) 10時50分~10時55分  

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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5分間番組ですが、これまでにも、「いのちの石碑」がらみで女川中の生徒だった勝又愛梨さん、毎年の女川光太郎祭の際に厄介になっている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さん が取り上げられました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、昨年『朝日新聞』さんでも大きく紹介されました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

飛鳥朝の仏の魅力は多くの人のいふ如き調和温恭の境にあるのではなくて、実は不協和幽昏の美に根ざしてゐる。この釈迦像の仏らしからぬ眼を見、口を見、顎を見れば、しかもその胴体が平然と北魏の衣紋に包まれてゐる不思議を見れば、われわれ後代の造型家は、上代作家の大胆と自由とに驚く。

散文「法隆寺金堂釈迦三尊像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

美術出版社刊行の『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』のために書き下ろされた文章です。

そちらに載った法隆寺釈迦三尊像の写真がこちら。

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今気が付きましたが、この像は右手が「施無畏(せむい)」の印になっています。光太郎ブロンズの代表作、「手」(大正7年=1918)、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の左手の形がそれです。

「施無畏」とは、仏・菩薩が衆生(しゆじよう)のおそれを除き、救うこと。当方、仏教徒というわけではありませんが、東日本大震災で亡くなられた皆さんのみ魂が、彼岸で釈尊や観世音菩薩から、「何も畏れることはない」と、救済されていると信じたいものです……。

今日、3月10日は、73年前に東京大空襲があった日です。同じ昭和20年(1945)、東京ならぬ花巻空襲関連で。

著名人の出生から連載時までの半生を描いた、日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏です。

氏ご自身は昭和6年(1931)、米国桑港のご出身ですが、お母様のご実家が岩手花巻の中心部にある専念寺さんという寺院で、戦時中には花巻に疎開、旧制花巻中学(現・花巻北高校さん)に通われていたとのこと。

そして昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲。7日掲載の第7回、8日掲載の第8回で、その日のこと、そして終戦の玉音放送について語られています。長いので引用はしませんが。

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第7回では、花巻空襲の証言集『花巻が燃えた日』(平成11年=1999 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部)を紹介する中で、光太郎の名も出して下さっています。

ちなみに同じ加藤氏の御著書で、姉妹編とも言える絵本、『花巻がもえた日』(平成24年=2012 ツーワンライフ)にも光太郎が登場します。空襲があった時、光太郎は宮沢賢治の実家に疎開していました。

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当日の光太郎日記。ただし、あとで落ち着いてから書いたものと思われます。

八月十日 金
晴 午前五時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりと思ふ。艦載機なり。九時半頃なり。(花巻町初爆撃)。 (中略) [午后一時過より空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来らる<(千代田さん火傷)>]

町中心部への本格的な攻撃は午後でしたが、午前中から郊外の飛行場は空襲を受け、町内でも小規模な機銃掃射があったそうです。「校長さん」は、元花巻中学校長・佐藤昌、「千代田さん」は光太郎と同じく宮沢家に厄介になっていた千代田稔という青年です。

逃げ遅れた賢治実弟の清六は、敷地内に作った防空壕に避難しますが、家屋の燃える熱で壕内でも発火、たまたま壕に入れてあった一升瓶の醤油で消し止め、九死に一生を得たそうです。そのおかげで、というと何ですが、やはり壕に入れておいた賢治の遺稿は無事でした。清六が逃げ遅れなかったら壕に入ることもなく、壕もろとも灰になっていたことでしょう。不思議な縁を感じます。

山折氏の母方の実家・専念寺さんもかろうじて無事だったそうでした。

それにしても、当方寡聞にして、山折氏と花巻とのつながりは存じませんでした。「私の履歴書」、このあともしばらく続きます。賢治に関するご著書もおありの山折氏ですので、また賢治がらみで光太郎への言及があるかもしれません。注意しておこうと思いました。


追記 早速今日、花巻で光太郎と遭遇した思い出を書いて下さっていました。後ほどご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

美は小味となり、本格的な美そのものよりも、むしろそれを作り出す方便であるところの手腕技倆の方に関心が払はれ、「うめえもんだ」といふやうな感嘆の声を人は求めるやうになつたのである。人にはとても出来ないやうなものを工夫して作り出す競争が始まつた。細工の意識である。

散文「江戸の彫刻」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

江戸期の「細工」の考えが、明治の「超絶技巧」につながるのでしょう。そういったものに光太郎は積極的な価値を見いだしてはいませんでしたが……。

地方紙二紙、岩手の『岩手日報』さんと、福岡の『西日本新聞』さんが、相次いでそれぞれの一面コラムで光太郎智恵子と光雲に触れて下さっています。

まずは『岩手日報』さん。

風土計 2018・3・1

 3月がまためぐってきた。7年前から、この月は春を迎える以上に重い意味を持った。東日本大震災を振り返り再生を祈る月。傷跡が少しずつ癒えていく様子が、ゆっくりと訪れる東北の春と重なる
▼津波に洗われた陸、原発事故で汚された空を取り戻す作業が続く。「ほんとの空が戻る日まで」は復旧・復興を支援する福島大の合言葉。福島の現状を知らせるため、このタイトルのシンポジウムを全国各地で開く
▼「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。高村光太郎「智恵子抄」から。中井勝己福島大学長は「安達太良(あだたら)山の上の空がほんとの空でないと思う県民はまだ多い」と語った
▼「ほんとの空」とは古里のことだ。病弱の智恵子は、時々田舎の空気を吸わなければ体がもたない。光太郎は「智恵子の半生」に「彼女の斯(か)かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった」と書く
▼避難を余儀なくされている福島の人々は、今なお5万人を超える。懐かしい古里をひたすら思う姿は智恵子と共通するものだろう。福島だけではない。宮城でも岩手でも、古里につながる道を人々が歩み続けている
▼春がすみの言葉のように、その視界はまだぼんやりしているかもしれない。けれど、信じて進みたい。その先にきれいな空があるはずだ。


先月ご紹介した福島大学さん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで--震災の記録と教訓を残し、未来に活かす」にからめています。 同じ東北同士、福島の皆さんに対するあたたかな励ましに溢れています。


続いて『西日本新聞』さん。

春秋  2018.3.5

 きのうは「ミスコンの日」。1908年3月5日、日本で初めて一般女性を対象としたミス・コンテストの結果が発表されたことに由来するそうだ
▼ミスコンといっても、当時は写真だけで審査した。新聞社が主催し、審査員は洋画家の岡田三郎助や彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門らそうそうたる顔触れ。約7千の応募の中から1位に選ばれたのは、福岡ゆかりの女性だった
▼旧小倉市(現北九州市)の市長の四女で、学習院女学部に在学中の末弘ヒロ子(16)。実は、義兄が本人に無断でコンテストに写真を送ったのだった。優勝の知らせに彼女はずいぶん困惑したという
▼今ならスターへの登竜門だろうが、良妻賢母が女性の美徳とされた時代のこと。「美貌を誇示するなどけしからん」「美人投票など校風にそぐわない」と批判され、ヒロ子は退学させられた。その時の学習院院長は、名高い陸軍大将、乃木希典だった
▼一説によると、乃木は後に、ヒロ子が自ら応募したのではなく、義兄をかばって事実を告げなかったのだと知り、退学させたことを後悔した。彼女の幸せを考えた乃木は、良い結婚相手を見つけてやろうと、八方手を尽くして探した▼それを聞いた旧知の陸軍大将、野津道貫が長男との結婚を申し出た。ヒロ子は侯爵家に嫁ぎ、良き妻、良き母として義父や夫を支えたという。110年前のミスコンにこんな逸話があった。


明治41年(1908)、『時事新報』が主催しての日本初のミスコンテスト。光雲も審査員だったというのは、意外と有名な話です。

その後に刊行された応募写真の写真集がこちら。

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第一位となった末弘ヒロ子がこちら。

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第一位ということで、他のカットも掲載されています。第二位と第三位の女性は2カット、他は1カットだけです。

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たしかに美人さんですね。

これが元で学習院を退学になったというのは存じていましたが、その後の乃木とのエピソードは存じませんでした。いい話ですね。


ところで、以前にも書きましたが、光太郎もミスコンの審査員を務めたことがあります。父・光雲に遅れること約20年、昭和4年(1929)のことでした。

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この際は『朝日新聞』さんが主催で、『アサヒグラフ』誌上の企画でした。やはり審査は写真のみ。審査後の座談会が『アサヒグラフ』に掲載されました。

光太郎以外の審査員は、藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、村山知義など。やはり美術関係者が多いのは、その審美眼を買われての事だったのでしょう。


明日は『日本経済新聞』さんの記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

仕事が巧妙になるほど俗になつてゐる。

散文「天平彫刻の技法」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

室町以降、江戸時代の木彫に対する評です。非常に便利な丸鑿という道具が開発され、平鑿や切り出ししかなかった頃より楽に木を彫れるようになり、かえって堕落した、というのです。

この話、いろいろな分野に当てはまるような気がしますね。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の2月号が届きました。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、これまでは全1ページでしたが、今号は3ページも取って下さっています。

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大正2年(1913)の1月と推定される、光太郎から智恵子への長い手紙の全文を掲載して下さいました。これは、現在、ほぼ唯一確認できている結婚前の智恵子宛です。光太郎智恵子の結婚披露は翌大正3年(1914)でした。

全文を紹介しようと思いましたが、長いので、こちらのリンクをご参照下さい。平成25年(2013)に放映されたNHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で、この手紙が取り上げられた際のレポートです。ついでに言うと、この手紙が紹介されている書籍、CDの情報はこちら

智恵子に宛てた光太郎書簡は、5通しか現存が確認できていません。

1通目は、大正元年(1912)と推定され、これも結婚前ではありますが、智恵子と同居していたすぐ下の妹・セキとの連名で宛てたもの。そこで、先ほど、「ほぼ唯一」と書きました。

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから 同封にて失礼の段おゆるし下さいまし 十月五日 高村光太郎 光 長沼ちゑ子様お妹様御座下

この次に、今回のものが入り、続いて大正5年(1916)夏。

いろんなものを写真にとりました 此は少し黒く焼きすぎました。もつとよく出来るでせう。 東京はまだ暑さ烈し

こちらは絵葉書、というか、写真を絵葉書として使ったもので、写真は智恵子の首を作った光太郎彫刻です。この時智恵子は、新潟の友人宅に滞在していました。

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次いで、時期的にはずっと飛んで、心を病んだ智恵子が療養していた千葉県九十九里浜にいた五番目の妹(セツ=節子)の家に送ったハガキ。昭和9年(1934)5月、同地に移った直後のものです。

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。 そしておいしい新らしい食物。 よくたべてよく休んで下さい。 智恵さん、智恵さん。

「節子さんによんでもらってください」とは、もはや夢幻界の住人となっていた智恵子は自分で読むことが出来なくなっていたからでしょう。末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、心打たれます。

最後に、同じ年の12月、やはり九十九里に送ったものです。

さつきはいそいだので無断で帰りました、無事に帰宅しました。 今度参上の時は多分東京から自動車を持つてゆけるでせう。それまで機嫌よくしてみんなに親切にして下さい。 心のやさしいのは実に美しいものですね。お天気がよいので暖かです。

「自動車」は、結局、九十九里にも置いておけなくなった智恵子の迎えの車です。「田村別荘」として平成11年(1999)まで残っていたセツの家には、姉妹の母・セン、セツの夫、さらにセツの幼い子供がおり、その子供への教育上の配慮から、ふたたび智恵子を光太郎が引き取ることになりました。翌年には南品川ゼームス坂病院へ入院することになります。

この5通以外は、先述の彫刻「智恵子の首」などとともに、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰燼に帰したと推定されます。ただ、なにがしかの事情で、今回の5通同様に、他所に保管されているものがまだあるかもしれません。それを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

美とは生活の附加物でなくて、生活の内部から人間を支へてゐる精神的基礎である。美を感ずる事は能力に属する。此の能力ある時美は到る処に充満する。此の能力の発動なき時この世は如何につまらない愚痴の世界であるか。

散文「戦時、美を語る」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日中戦争が泥沼化しつつある時期の発言です。こうした時代にも「美」を忘れるなという提言で、国民の心の荒廃を防ごうとしていたことがわかります。

昨日ご紹介した、埼玉東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンにつき、『東京新聞』さんが取り上げて下さいました。 

高村光太郎、思いに触れて 東松山市立図書館に資料コーナー

 昨年二月に亡くなった東松山市の003元教育長田口弘さん=当時(94)=が生前、同市に寄贈した彫刻家で詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の資料約百点を活用した「田口弘文庫『高村光太郎資料コーナー』」が十三日、東松山市立図書館二階にオープンした。光太郎が田口さんに贈った書や書簡のほか、田口さんが収集した「道程」「智恵子抄」の初版本など貴重な資料が展示されている。 (中里宏)
 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)時代、恩師の影響で光太郎に傾倒。一九四四年、初めて東京・駒込のアトリエで光太郎に会って以来、戦後も交流を続けた。
 同年夏、田口さんは占領地で日本語を教える海軍教員として南方に赴任する前、「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の二枚の色紙を書いてもらった。しかし、赴任途中に乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、色紙は失われた。展示されている同じ言葉の色紙は、九死に一生を得た田口さんが戦後、岩手県で隠とん生活を送っていた光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。田口さんは二〇一六年、これらの資料を市に寄贈した。
 オープン式典でテープカットした田口さんの長女栗原直子さんは「父は『(高村光太郎に)じかに会ったことで人生が変わった。本物に触れれば胸に響くのではないか』と、子どもや若い人が資料を直接見ることを望んでいた。実現して本当にありがたい」と話していた。


それから、オープン記念の講演の中でご紹介させていただきましたが、当日の『朝日新聞』さんの土曜版の連載、「みちのものがたり」が「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」。

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長いので全文の引用はしませんが、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残り、田口氏も訪れた山小屋(高村山荘)での光太郎を追っています。当時の光太郎をご存じの皆さん(高橋愛子さん、浅沼隆さん、高橋征一さん)の証言、宮沢賢治との関わり、隣接する花巻高村光太郎記念館さんの紹介等。写真は山小屋別棟の便所です。光太郎自身が明かり採りのために「光」一文字を壁に彫り抜きました。

それから、同じ土曜版の「編集部から」という記事。雑誌の「編集後記」のようなもので、こちらでも光太郎に触れて下さっています。 

編集部から

 三省堂神保町本店(東京都千代田区)は、教科書004を店頭販売する珍しい本屋さんです。そこで、3時間も立ち読みをする迷惑な客をやってしまいました。6、7面「みちのものがたり」で取り上げた高村光太郎の「道程」が、どれだけ今の教科書に載っているか確認するためでした。
 ところが、「僕の前に道はない」で始まる詩がなかなか見つからない。少なくとも、5社から出ている中学の国語教科書(各3学年分)には皆無。出版社が多く、必修用やら選択用やら複雑な高校の教科書はすべてに目を通せた自信はないものの、やっと1冊だけありました。
 岩手県北上市の日本現代詩歌文学館は、2006年度の教科書に掲載された詩歌作品を調べています。それによると、「道程」は中学の3冊、高校の4冊に掲出されていました。教科書の定番教材としての「道程」の地位は、この10年ほどで急激に低下したと考えられます。
 「道程」の読みを聞いて、教室の男子生徒たちがざわついたのも今は昔。「有名な詩にあるだろう。僕らの後ろに道は出来るんだ!」と熱く語っても、きょとんとされてしまう時代が近づいているようです。(坂本哲史)


中学校の教科書に、「道程」が見あたらないという話。確かにそうかもしれません。ただ、道徳の教科書で取り上げて下さっている出版社さんがあるようです。


やはり先週の土曜、『毎日新聞』さんでは、光雲・光太郎父子の名を出して下さいました。

工芸の地平から 人形と彫刻=外舘和子

 日展、日本伝統工芸展などいずれの団体展におい005ても「人形」は工芸領域の一つと見做(みな)されているが、その条件は他の工芸と明らかに異なる。陶芸は土、金工なら金属と、工芸は通常扱う素材によって分類されるが、人形は作家により陶、木、布など、素材を限定しない。人形はヒトの形象を基本とする、その具象性によってのみ領域が成立しているのである。 
 
 日本の歴史を遡(さかのぼ)れば、ヒトガタの形象は縄文時代の土偶や古墳時代の形象埴輪(はにわ)に始まり、仏像のように重厚なものから、雛(ひな)人形など、より親近感ある形象まで幅広い造形として発達した。昨今流行(はや)りの超絶技巧に相当するものなら幕末明治の「生(いき)人形」がある。
 ところが明治期に西洋から「彫刻」の概念が入ってくると、にわかに仏像は「彫刻」に分類されるようになった。仏師であった高村光雲が東京美術学校の彫刻の教員になり、観古美術会などの明治の展覧会の彫刻部門に仏像が出品されたことがその背景にある。しかし日本の木彫や仏像はむしろ人形的であり、その特徴は人形同様“表面への拘(こだわ)り”にある。人形・彫刻とも、量感やバランス、ポーズや動勢に配慮するが、人形はその上でさらに表面造形を丁寧に行う傾向を持つ。彩色し、あるいは衣装を着せ、表面を丁寧に加飾し、顔の表情は細やかに整える。それは日本の仏像において、彩色し、截金(きりかね)を貼り、翻る衣の生地の雰囲気を慎重に表現し、顔の表情で全体の印象が左右される状況と通じる。
 面と骨格、マッスとボリュームで対象を大きく掴(つか)むことを重視し、表面や細部に拘ってはならないとする西洋の人体彫刻とは、日本の人形・仏像とも、理念において対照的でさえある。また、人形と彫刻の違いを“大きさ”であると主張する人もいるが、周知のように仏像は必ずしも大型のものだけではない。また、仮に等身大以上の大きいものが彫刻だというなら、戸張孤雁(とばりこがん)、高村光太郎、中原悌二郎など近代の主要な彫刻家は殆(ほとん)ど彫刻を作っていないことになる。大きいものを彫刻とする説は、近代の主要な彫刻家が得意としたサイズを説明できない。
 昨年、中世を代表する仏師・運慶、快慶の展覧会が相次いで開催された。快慶は表面の截金等による加飾がその特徴でさえある。また日本の造形史上の傑作、運慶の無著(むじゃく)像の最大の魅力は、その今にも言葉を発しそうな顔の表情にある。「人形は顔がいのち」という雛人形のCMが思い出されよう。さらに、無著像はその顔の表情に比べると手指の表現が硬い。顔と手の表現に苦労するのは現代の人形作家も同様だ。表面を重視し、細部に拘る日本の人形と仏像に、西洋由来の彫刻とは異なる、共通の造形姿勢を見るのである。(とだて・かずこ=工芸評論家)


購読していない新聞は、当方、地元の図書館で閲覧させていただいたり、コピーを取らせていただいたりしております。皆様もぜひそうして下さい。


【折々のことば・光太郎】

橋梁、倉庫、事務所、病院、実験室までは通り得る建築機械論も住宅建築に及んで人間性の反逆に遭つた。住む機械は人間の持つロマンチスムをも運転させ得る機械でなければならなくなつた。

散文「七つの芸術」中の「三 建築について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「建築機械論」は、フランスの建築家、コルビジェが提唱したものです。「住宅は住むための機械である」とは、彼の有名な言です。しかし、コルビジェとて、無機質な「機械」を想定してそう言ったわけではなく、水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではない、同様に住むことができない住宅は住宅ではない、といった意味での「機械」です。

駒込林町の自身のアトリエや、交流のあった思想家・江渡狄嶺の依頼による「可愛御堂」などの建築設計もこなした光太郎。コルビジェについても同じ文章で「彼の機械主義の中に既に新しいロマンチスムが潜んでゐた」と理解を示しています。

元日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」で、光太郎に触れて下さいました。

正平調 2018・1・1

長い1本の道が続いていた。脇には昔のままプラットホームがあり、さびたレールもそこだけは残されている。年の暮れ、三木鉄道の廃線跡を歩いた◆播州鉄道として開業したのは1916(大正5)年のことである。国鉄、そして第三セクターと運営形態は時代とともに変わっていったが、乗客は次第に少なくなり、2008(平成20)年にその役割を終えた◆この春で廃線からちょうど10年になるのを前に、旧三木駅からの片道約5キロが遊歩道として整備されつつある。古い駅舎をイメージした休憩所が建ち、沿道につくられた花壇ではパンジーの花が風に揺れていた◆〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の詩「道程」の一節である。思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう◆このごろはどうしたわけか“遺産ブーム”で、近代産業、文化といった歴史の痕跡に再び光があてられている。後ろにできた道をふと振り返りたくなるのは、進むべき未来に迷いが生じてきたせいかもしれない◆今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。

1868年が明治元年でしたので、今年、2018年は、明治に換算すると151年ということになります。元号としての明治150年でなく、明治元年から始まった維新が150年ということで、いろいろな立ち位置から、それにかかわる記念事業等も計画されているようです。どうも判官贔屓というか、天の邪鬼というか、敗者の歴史に心牽かれる当方としては、新選組の近藤勇や沖田総司らの歿後150年という意味で感懐が涌いたりもします。

さて、『神戸新聞』さん。兵庫県内の三木鉄道廃線跡にからめ、「思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう」とし、光太郎の道程を引きつつ、「今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。」と結んでいます。その通りですね。

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【折々のことば・光太郎】

効果を横に並ぶるは卑し。有れども無きが如くすべし。

散文「彫刻十個條」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

あくまで自然に見える彫刻を、光太郎は目指しました。しかし、感覚的にさらっと造るのではなく、さまざまな技法を駆使し、ある種の超絶技巧も含みます。それがそうとわかるような、というか、技法を駆使していることを自己主張するような彫刻では駄目だ、ということでしょう。

彫刻のみならず、人生全般に当てはまるような気もします。

ちなみに右は光太郎の代表作の一つ、「手」。おそらく大正7年(1918)の制作と推定されますので、ちょうど100年前の作ということになり、各種展覧会で出品される際にはコメントしてほしいものです。

久々に、光太郎詩の引用から始めます。

大正元年(1912)、雑誌『抒情詩』第2巻第12号に掲載された「冬の朝のめざめ」。
後に詩集『道程』(大正3年=1914)、さらに『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められました。
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    冬の朝のめざめ

 冬の朝なれば
 ヨルダンの川も薄く氷りたる可べし
 われは白き毛布に包まれて我が寝室(ねべや)の内にあり
 基督に洗礼を施すヨハネの心を
 ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
 我はわがこころの中に求めむとす
 冬の朝なれば街(ちまた)より
 つつましくからころと下駄の音も響くなり
 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
 しづかに運る天行のごとく
 われも歩む可し
 するどきモツカの香りは
 よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
 いづこよりか室の内にしのび入る
 われは此の時
 むしろ数理学者の冷静をもて
 世人の形(かたちづ)くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
 起きよ我が愛人よ

 冬の朝なれば
 郊外の家にも鵯ひよどりは夙に来鳴く可し003
 わが愛人は今くろき眼を開(あ)きたらむ
 をさな児のごとく手を伸ばし

 朝の光りを喜び

 小鳥の声を笑ふならむ
 かく思ふとき
 我は堪へがたき力の為めに動かされ
 白き毛布を打ちて
 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり
 冬の朝なれば
 こころいそいそと励み
 また高くさけび
 清らかにしてつよき生活をおもふ
 青き琥珀の空に
 見えざる金粉ぞただよふなる
 ポインタアの吠ゆる声とほく来れば
 ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
 たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
 冬の朝なれば
 ヨルダンの川に氷を噛まむ


「わが愛人」は智恵子。現代とは「愛人」の語の指す意味が異なります。「恋人」に近い意味合いでしょう。

「起きよ」と言っても、光太郎の傍らで眠っているわけではありません。二人が共同生活を始めるのはもう少し後。「郊外の家」というのが当時智恵子が暮らしていた雑司ヶ谷の借家で、そこで目覚めるであろう智恵子の姿を推量しているわけです。

光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、冬の朝の爽やかな目覚め、清冽な空気の中で、敬虔な宗教的感動といった感覚が呼び起こされたのか、キリストやヨハネを想起しています。また、掲載誌の発行が12月ということも忖度し、クリスマスに絡めたとも考えられます。もっとも、イエスの降誕をことほぐ当方の三博士ではありませんので、考え過ぎかも知れません。


少し前になりますが(今月7日)、『宮崎日日新聞』さんの一面コラムでこの詩を引いて下さいました。

くろしお ヨルダン川は凍っているか

 昨日の朝は宮崎市で氷点下になるなど、県内はこの冬一番の冷え込みだった。白くなる息を見て、思い出したのが高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「冬の朝のめざめ」だ。
  冒頭に「冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷(こお)りたる可(べ)し」とある。ヨルダン川は中東シリアのゴラン高原から南に流れ、死海へ注ぐ川。ヨルダンとイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっており、沿岸部も含めて度々、聖書の主要な舞台として登場する。
  下流に近いエルサレムもその一つ。地図を見て驚いた。宮崎市と同じ北緯31度。遠い異文化の町ではあるが、毎日同じ角度の太陽を眺めていると思うと親近感を覚える。地中海性気候だが、冬にはたまに雪が降るという点でも似ている。
 本当にヨルダン川が凍る日もあるかもしれない。キリスト教に関心があった光太郎は度々かの地に思いをはせていたのだろう。ただ「智恵子抄」が出た当時は、イスラエルが建国する1948年より以前だから、その後の激しい紛争については知る由もなかった。
  三つの宗教の聖地エルサレムが再び揺れている。首都問題は建国以来くすぶっていたが、トランプ米大統領がイスラエルの首都と認める意向を示したことに対してアラブ諸国が一斉に反発、欧州や国連も米国の行動に懸念を強めている。
  中東の紛争は宗教に加え民族や部族の対立が絡み合って、他国が介入するほど泥沼に陥りやすい。トランプ氏には現地の寒さに肌感覚で思いをはせる慎重さが求められよう。同じ角度の太陽を仰ぐ者として問題の平和的な解決を切に願う。


メインは米国トランプ大統領の、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転するという発言に対してですが、時宜を得たうまい引用です。

問題の平和的な解決を切に願う。」九泉の光太郎もそう願っていることでしょう。


【折々のことば・光太郎】

少し誇張して言ふと、芸術が分るといふ事は人間の心の深さの尺度になると言へる。よき芸術家は必ず深い心を持つてゐる。深い心がなくてはよい芸術は出来ないのだ。その深い心の汲めない人はあやしい。

散文「芸術鑑賞その他」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

世界の指導者の皆さんが、芸術のわかる人、深い心の汲める人であってほしいと願います。どう考えてもそうでないとしか思えない人、その人のポチも居るのが残念ですが。

まずは雑誌『中央公論』の今月号。光太郎の書が紹介されています。

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グラビアページの連載で、題して「川端康成の眼」。ご執筆は公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏。川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載のようです。

で、今号は光太郎の扇面揮毫。「高村光太郎とほろびぬ美」という題名で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品されたものです。当方も8月に拝見して参りました。

詩集『智恵子抄』中の絶唱、「樹下の二人」の一節にして、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」が書かれています。

岩手県立美術館さんでの企画展会期中、水原氏が花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、そして隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられたというお話は、同館の方から伺っていましたが、その際の感想なども綴られていました。

現在、書店に並んでいます。定価は税込み930円。ぜひお買い求め下さい。


もう一点。花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の11月15日号です。こちらも連載で「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」というコーナーがあるのですが、光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」が紹介されています。

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制作年代は大正15年(1926)。モデルの大倉喜八郎は、戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した人物です。大倉は自身と妻の肖像彫刻を、光太郎の父・光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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その光雲作の木彫のための原型だったわけです。光太郎は粘土原型をストーブで焼いてテラコッタにし、それから光太郎歿後にブロンズに鋳造されました(『広報はなまき』さんでは石膏原型となっていますが、誤りです)。

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テラコッタは、いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。

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ブロンズに鋳造されたものは数多く存在し、花巻高村光太郎記念館さんにも所蔵されています。『広報はなまき』さんの記事は、そちらの写真です。


というわけで、今日は光太郎の書と彫刻を取り上げて下さった刊行物をご紹介しましたが、文筆作品系も出ています。来週ご紹介します。


今日から一泊二日で信州です。安曇野の碌山美術館さんにて、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」のパネリストを務めて参ります。愛車には、甲府で行われる高校の同級生の結婚披露宴に参加する娘を乗せて行き、珍道中になりそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

日本人の視官感覚の中で一番優れてゐるのは線の受感性でせう。線を流暢に用ゐる事は日本人の僅かに誇りとする事の出来る能力であると思ひます。島田の髷をみても解ります。浮世絵を見ても解ります。日本人の肉筆の文字を見ても解ります。若い女の人が車の上で御辞儀をするのを見ても解ります。玄関の台石の上に並べられた下駄の位置を見ても解ります。

散文「工房雑感」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

上記扇面の光太郎筆跡を見ても、「線を流暢に用ゐ」ているな、と思わせられます。

玄関の台石の上に並べられた下駄の位置」は笑いました。うちの娘は、靴は脱いだら脱ぎっぱなし(笑)。これでは当分、嫁に行かせられません(笑)。

雑誌の新刊です。  

BRUTUS 2017/11/15号

2017年11月1日 マガジンハウス 定価630円+税

寒さが募ると、人は温かいお湯に浸かってまったり過ごす、シンプルかつ究極の癒し、温泉を目指します。リゾート型のリラグゼーションや浴感、眺望に建築まで、温泉に求めるのは百人百様。12のキーワード別に厳選した名湯紹介を皮切りに、あなたが今入りたい温泉がきっと見つかる熱いコンテンツ。さて、この冬はどんな温泉に浸かりましょうか?

目次002
 百人百湯アンケート。
   あなたにとっての「最高の温泉」は?
 HOT SPRINGS INDEX
 愛さずにはいられない!
   キーワード別・名湯の宿12選。
 いい湯、いい宿、まだまだあります。
 〈山形座 瀧波〉再生物語。
 わたしの温泉愛
 温泉街はこうして生まれ変わる。
   長門湯本温本温泉と星野リゾートの戦略。
 もっと温泉が楽しくなる1 7のトピック。
 温まるって、シアワセです。
 他


「わたしの温泉愛」中の、「5 昔ながらの自炊部で気ままにステイ。」で、当方もよくお世話になる花巻南温泉峡の大沢温泉さんが取り上げられています。温泉ソムリエの伊藤裕香さん、イラストレーターのmiccaさんによるレポートです。

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昭和20年(1945)からの花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、光太郎が何度も訪れ、最長で連続10泊ほどもした温泉です。当時走っていた花巻電鉄が、そうした際の足でした。

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また、幼き日の宮沢賢治も、ここで父の政次郎の肝煎りで開かれていた仏教講習会のため、足を運んでいました。館内にはその折の集合写真なども展示されています。

そういうわけで、記事には光太郎と賢治の名が。ありがたや。

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他にも、光太郎が訪れた温泉がいくつか取り上げられています。同じ花巻南温泉峡の鉛温泉藤三旅館さん、青森で酸ヶ湯温泉さんと蔦温泉旅館さん、福島会津東山温泉は向瀧さん。

次号は15日発売ということで、現在、店頭に並んでいます。ぜひお買い求め下さい。


ついでというと何ですが、同じようなネタをもう1件。プレスリリース的な報道です。

楽天トラベル、2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキングを発表

旅行予約サービス「楽天トラベル」 ( https://travel.rakuten.co.jp/ )は、「2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング」を発表しました。「湯治」のキーワードを含む宿泊プランについて、年間の宿泊人泊数(=宿泊人数×泊数)を集計した結果、1位は青森県の「酸ヶ湯温泉旅館」でした。トップ5を、青森・群馬・岩手の3県の宿泊施設が占める結果となりました。

2017年 湯治体験が人気の温泉宿ランキング003
 1位 青森県 酸ヶ湯温泉旅館
 2位 群馬県 四万温泉 積善館本館
 3位 岩手県 大沢温泉 自炊部
 4位 岩手県 岩手 花巻温泉郷 鉛温泉 藤三旅館
 5位 群馬県 草津温泉 お宿 木の葉(このは)

(略)

3位の岩手県「大沢温泉 自炊部」は、宮沢賢治や高村光太郎ら文人に愛された大沢温泉にあり、湯治を目的に長期滞在する人のための宿泊施設として、自炊ができる共同の炊事場やコインランドリーなどを備えています。豊沢川に面し、四季折々の風景が楽しめる混浴露天風呂「大沢の湯」をはじめ、女性用露天風呂など計5つの浴場で湯めぐりができます。泉質はアルカリ性単純温泉で、神経痛、筋肉痛、慢性消化器病などに効くといわれています。


「自炊」という特殊な形態限定でのランキングですが、やはり酸ヶ湯さん、大沢さん、鉛さんと、光太郎の利用した宿がベスト5中に3件ランクインしています。また、四万温泉 積善館本館さんも、ネット上では「与謝野晶子や高村光太郎・太宰治といった文人も訪れていたとのことです。」と紹介されています。ただ、探し方が悪いのかも知れませんが、当方手持ちの資料では、光太郎がそちらに泊まったことを示す資料が見あたらず、情報をお持ちの方はご教示いただければと存じます。

そろそろ初冬の気配、というか、暦の上では立冬を過ぎました。温泉が恋しくなってきましたね。当方、今年中にもう1回くらい、大沢さんか鉛さんに泊めていただくかも知れません。その際にはまたレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子の所在はa次元。 a次元こそ絶対現実。 岩手の山に智恵子と遊ぶ 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

詩「智恵子と遊ぶ」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。

この年は、前年末からの帯状疱疹に悩み、結核性の肋間神経痛も悪化。思い切って、農作業はほとんど放棄しました。毎年恒例だった、花巻町松庵寺などでの光雲、智恵子の法要も中止しています。光太郎にとって、自らの「死」が現実味を帯びてきた年といえるでしょう。ただし、翌年には体調がかなり恢復しますが。

一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊から。

舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も

 毎年夏から秋にかけて大勢の観光客でにぎわ001う長野県・上高地。1933(昭和8)年にバスの乗り入れが始まるまで、旅行者や登山客は、徒歩で徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入った。日本アルプスの魅力を初めて国内外に広く知らせたウェストン(1861~1940)の著書など、多くの紀行文に登場する峠を訪ねた。【関雄輔】

 「峠の最高点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで、円い形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山の風景とは、全くその趣を異にしている」
 
 英国出身のウェストンは宣教師として日本を訪れ、1891年(明治24年)の夏、徳本峠を経て槍ケ岳を目指した。悪天で断念したが翌年、登頂に成功。その後も繰り返し徳本峠を越え、周辺の魅力を「日本アルプスの登山と探検」などの著書に記した。ウェストンだけでなく、上高地を舞台に「河童(かっぱ)」を書いた芥川龍之介や、詩人の高村光太郎もこの峠を歩いたという。
 
 今月1日の早朝、松本市の安曇支所前でバスを降り、徳本峠への道を歩き始めた。上高地までは約20キロ。2時間ほど歩くと、道ばたに炭焼き窯の跡があった。上高地が観光地化される以前から、この峠道は狩猟や炭焼きなどに従事する人々の生活の道だったのだろう。今は利用する登山客も少なく、ハイシーズンの北アルプスとは思えない静かな山道が気持ちいい。
 
 さらに歩くこと1時間、現在は営業休止中の岩魚留(いわなどめ)小屋にたどり着いた。道沿いの沢が、岩魚を足止めするほどの急流に変わることからこの名が付いたという。

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 小屋の前で休憩中、この日初めて他の登山者と出会った。神奈川県藤沢市から来たという小川武士さん(53)。「多くの人が行き来した歴史あるルートで、以前から
一度歩いてみたいと思っていた」。互いの疲れをいたわり合い、峠への急坂に取りかかった。
 
 息を切らしながら3時間ほど登ると、峠の広場に出た。標高2135メートル。あいにくの曇り空で、ウェストンが「日本で一番雄大な眺望」と賞した穂高岳の姿は見えない。翌日に期待をかけ、今夜の宿である徳本峠小屋に荷物を下ろした。
 
 1923(大正12)年に営業を始めた徳本峠小屋は、2010年に建てられた新館に隣接して旧館がそのまま残されている。国の登録有形文化財に指定されており、内部の柱や梁(はり)は建てられた当時のままという。
 古い落書きがいくつも残されていた。ほとんどが名前と日付で、特に多いのが「昭和二十年八月」。「八日」もあれば「二十日」もある。終戦の前後、彼らはどんな思いでここに来たのだろう。
 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴だった。峠の木々004の間から穂高岳が見えた。峠から尾根伝いに霞沢岳(2646メートル)まで往復し、昼過ぎに上高地へと下山。梓川沿いの散策路は大勢の観光客でにぎわっていた。
 大正時代末から昭和の初めにかけ、上高地は観光地として大きく姿を変えた。商店や旅館が増え、バス路線の開通で峠道は使われなくなった。豊かな自然は今も変わらないが、人の流れは100年あまりで大きく変化した。英語や中国語の会話が聞こえてくる現代の上高地を歩きながら、ウェストンらが歩いた往時の風景を思った。

徳本峠登山ルート(長野県松本市)
アクセス
 徳本峠へは、安曇支所前から徒歩で約7時間半。峠から上高地への下りは約1時間半。霞沢岳へは峠から往復約7時間。所要時間は個人差が大きいため要注意。徳本峠小屋(090・2767・2545)は予約が必要。


記事にある、光太郎が徳本峠を越えて上高地に入ったのは、大正2年(1913)の夏。あとから結婚前の智恵子も追いかけてきて合流、1ヶ月ほどを過ごしました。智恵子も健脚で、徳本峠を歩いて越えました。光太郎は上高地で描いた油絵を、この年開かれた生活社展に出品しています。

上高地についてはこちら。



白状いたしますと、当方、上高地には行ったことがありません。いずれ、とは思っております。


【折々のことば・光太郎】

夫人一生を美に貫く。 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず、 夫人おんみづからめでさせ給いし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ。

詩「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎の本格的な文学活動の出発点といえる新詩社を主宰していた与謝野鉄幹・晶子夫妻。いわば光太郎の師にあたります。

その晶子が亡くなったのは、昭和17年(1942)5月29日。晶子は光太郎より5歳年長でしたので、数え65歳。早いといえば早い逝去でした。光太郎のこの詩、智恵子へのそれとはまた趣を異にした、味わい深い挽歌です。

しかし、こう言っては何ですが、晶子はこの時点で亡くなったのは、ある意味、幸せだったかも知れません。

かつて日露戦争の際に、出生する弟に「君死に給ふことなかれ」と謳いかけた晶子も、この年にはこんな短歌を詠んでいます。

  戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
  水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

「四郎」は「四男」の意で、大正2年(1913)生まれのアウギユスト(本名です。ロダンのファーストネームから採りました)。

この時期、ほとんどすべての文学者は、こうした戦意高揚の作品を書くことが求められていました。変な言い方ですが、晶子ももう少し生きながらえてしまっていたら、この手の歌をもっとたくさん遺してしまうことになったでしょう。そうならなかったのがせめてもの救い、というわけです。

昨日は終戦記念日でした。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で、それにからめて光太郎を紹介して下さいました。

風土計 2017.8.15

 岩手にとって1934(昭和9)年は歴史に刻まれる年だろう。その夏は異常に寒かった。大凶作となって人々は食うに困り、娘は身売りに出された。前年の大津波に続いて、農漁村はみるみる疲弊していく
▼釈迢空(ちょうくう)こと折口信夫が詩「水牢(みずろう)」を世に問うたのは、この年だった。<水牢さ這入つて 観念の目を閉ぢた><娘を売つて-から 水牢だ>。以前に東北の旅を通じて、農民の窮状を目の当たりにしていた
▼飢えは人々の怒りを呼び起こす。青年将校の暴走を生み、政治は軍部を抑えられない。そして戦いへと、ひた走っていく。水責めの牢獄・水牢に社会全体が入り込み、抜け出せなくなる。そんな時代だった
▼戦火の中で折口の養子・春洋(はるみ)も戦死した。<戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ>。悲憤の歌がいくつも残る。今年で生誕130年の民俗学者はこの時、心の水牢に入り込んだのだろう
▼もう一人、あえて水牢を望んだ人がいる。高村光太郎は終戦後間もなく、花巻の粗末な小屋に入った。戦争賛美の詩を書き続けた自らを罰するために。そして語った。「ぼくは自分から水牢に入るつもりだった」と
▼72年前のきょう8月15日。終戦により人々は水牢から放たれたが、引きずり込まれる者もいた。戦争というものの、それが宿命なのかもしれない。


花巻郊外旧太田村。譲り受けた鉱山の飯場小屋を移築してもらっての「水牢」生活は7年に及びました。それでも許されたとは思っていなかったようですが、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の依頼に応えるために再上京。仕事が終わればまた「水牢」に戻るつもりでした。しかし、健康状態がそれを許しませんでした。10日余り太田村に帰ったものの、結局は東京で療養せざるを得なかったのです。というより、これこそがある意味、天の配剤だったのかも知れません。「もう十分だ」という……。

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村人達との心温まる交流、若い頃から憧れていた自然に包まれての生活など、プラスの面もありましたが、それをさっ引いてもマイナスの要因の多い暮らしでした。小屋は村の一番はずれで、夏は周りを熊がうろつき(現在もです)、冬は零下二十度、寝ている布団にさえ隙間から入り込んだ雪がうっすらと積もったといいます。最初の数年間は電気さえ引いていませんでした。その自虐ともいえる過酷な生活は、戦時中に大量の翼賛詩文を書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死に追いやった反省からくるものでした。公的には戦犯として訴追されなかった光太郎ですが、己を罰するために、あえて不自由な生活、さらに天職と考えていた彫刻の封印を、自らに科したのです。

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まったくもって、こうした世の中が再び訪れないよう、一人一人が考えていかなければならないと、痛切に思いました。


【折々のことば・光太郎】

夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつの間にか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。

詩「荒涼たる帰宅」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年8月に刊行された詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩の末尾です。3年前の智恵子葬儀の日をモチーフにしました。

亡き智恵子を偲ぶ時、「狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」(「梅酒」 昭和15年=1940)と謳っていた光太郎でしたが、この詩をもって、公表された詩で智恵子を謳うことは、戦後まで途絶えます。

智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていた光太郎、愛する者の死を謳うことで、愛する者に別れを告げ、同時に詩人としての「魂」も自ら死に追いやったといえます。ここから約4年、上記のような翼賛詩の書き殴りの時期が続きます。

岩手レポートを書いている間に、新聞各紙で光太郎智恵子についていろいろ触れて下さいました。

まず、一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊。

(言葉の服)日本人のおしゃれ:下 智恵子の素(しろ) 堀畑裕之

 昭和のおしゃれで見てみたかったのは、『智恵子抄』で知られる智恵子の普段着だ。写真はきものだが、撮影された昭和2年(1927年)、40歳ごろの智恵子について高村光太郎はこう書いている。
 「彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すようになった。しかも其(そ)が甚だ美しい調和を持っていた。『あなたはだんだんきれいになる』という詩の中で、
 《をんなが附属品をだんだん棄(す)てると/どうしてこんなにきれいになるのか。/年で洗はれたあなたのからだは/無辺際を飛ぶ天の金属》
と私が書いたのも其の頃である」
 今では女性のセーターとズボンなんて当たり前だが、当時はまだ圧倒的にきもので、そんな男みたいな格好は考えられなかった。だが洗練された智恵子の飾らないスタイルは、逆に女性としての素地を美しく際立たせたはずだ。
 そしてこれは期せずして時代の最先端でもあった。1920年代中ごろ~30年にかけて、華の都パリでは「ギャルソンヌ」ルックが流行していた。女性が髪を短く切り、コルセットを脱ぎ捨てて「男の子」のようなスタイルになることである。そのファッションリーダーがココ・シャネルで、実は智恵子とは3歳違いだった。第一次世界大戦後、社会進出した「新しい女」たちが求めたのは、性に縛られない自由で活動的なおしゃれだったのだ。
 互いを尊重し合い、ともに芸術家として苦闘した智恵子と光太郎も、この時代精神を自ら生きていたに違いない。
 連載は最後になります。長い間ご愛読ありがとうございました。(matohuデザイナー)

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しかし、その裏側にはやはりいろいろと軋みがあったと思うのですが……。


続いて『福島民友』さん。7/31(月)の一面コラム。

編集日記 福島好き

 「飛行機好き」を自認する作家の浅田次郎さんは、たとえ長いフライトでも機内では眠らないそうだ。旅先に思いを巡らせたり機内食を食べたり、いろんな楽しみがあると著書に書いている
 ▼そんな浅田さんが乗り合わせたら、どんな感想を語ってくれるだろうか。日本航空が8月、国内・国際線の機内などで、本県にスポットを当て、文化や歴史など、さまざまな魅力を発信してくれることになった。4月から行っている地域プロモーション活動の一環という
 ▼機内誌では白河から会津へと観光地をたどり、その英語版では裏磐梯の自然を特集、機内ビデオでは「ほんとの空」の安達太良山を紹介する。ファーストクラスでは県内の郷土料理や地酒を夕食に用意するなど念が入っている
 ▼本県への観光客は、東日本大震災と原発事故の影響で大幅に減ったが回復しつつある。県は今年の観光客数の目標を震災前(2010年)の1・07倍に当たる6120万人に設定して誘客を進める
 ▼機内誌や機内食で、本県の「絶景」や「温泉」「食と日本酒」をたっぷり楽しんでもらった後は、実際に足を運んで、機上では味わえない本県を堪能してほしい。誰もがきっと「福島好き」になるはずだ。


ついでにJALさんのキャンペーンに関しても。

JAL、福島の魅力発信 8月・機内誌特集やアレンジ郷土料理

 日本航空(JAL)は8月の1カ月間、国内・国際線の機内などで本県の魅力を集中的にアピールする。国内線・国際線の機内誌「SKYWARD」では「扉開ける、東北路」と題し、白河から下郷町の塔のへつり、大内宿、会津若松とたどりながら沿線の歴史と文化を紹介する。
 今年4月からスタートした地域プロモーション活動「地域紹介シリーズ」の一環。英語版では外国人観光客に人気が高い裏磐梯の自然の美しさを特集する。また、お笑いコンビ「パックンマックン」が二本松市と安達太良山などを紹介する機内ビデオを上映する。
 国内線ファーストクラスでは「星野リゾート磐梯山温泉ホテル」がアレンジした本県の郷土料理を夕食に提供する。コメは会津産コシヒカリ、茶菓は福島市の「いもくり佐太郎」、日本酒は会津坂下町の「飛露喜」で、料理を通じて福島の風土と歴史を堪能してもらう。
 このほか、JALマイレージバンクのサービス「とっておきの逸品」では、会津そばなどの県産品を保有マイルと交換できる。JALパックでも会津地区を中心に県内各地のホテルを利用した宿泊プランを設定している。
 ジャルセールスの二宮秀生社長は28日、PRのため福島民報社を訪れた。二宮社長は「さまざまな企画を用意した。福島のためにできる限り力になりたい」と語った。
 日本航空東北支店の筈見昭夫支店長、池俊彦マネージャーが一緒に訪れた。

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がんばろう! 福島!


『読売新聞』さんでは、十和田湖の話題。

国立公園 廃屋撤去しイメージ改善

 環境省や自治体は、全国の国立公園内で廃業したホテルや食堂などの施設が放置されて景観の妨げになっていることから、廃屋の撤去に本格的に乗り出した。
 国立公園を重点的に整備する「国立公園満喫プロジェクト」の一環。電柱の地中化や新たな観光施設の整備も進めることで訪問者数を増やし、自然保護の意識向上につなげたい考えだ。
景観悪化
 青森、岩手、秋田県にまたがり、景勝地として名高い十和田八幡平国立公園内にある十和田湖畔。南岸に位置する「休屋(やすみや)地区」を歩くと、玄関や窓に板を打ち付けた食堂や廃ホテルが目立つ。雄大な自然や、詩人で彫刻家の高村光太郎が作ったブロンズ像「乙女の像」を楽しむことができ、かつては修学旅行生をはじめとする観光客でにぎわっていた。だが、東日本大震災後に廃業が相次ぎ、廃屋が十数軒に上るようになった。
 「暗いイメージがつく」など、地元関係者らの声を受け、同省は同地区の国有地内にある廃屋の撤去を進めることを決めた。2020年度までに撤去し、跡地には開放的な芝生広場などを整備することで、廃屋で遮られていた湖畔の景色を見やすくする。
 休屋地区で飲食店を経営する男性(47)は「景観改善は待ち望んでいた。寂れたイメージを変えるきっかけになるかもしれない」と歓迎する一方、「一つ二つ解体しただけでは人気は回復しないだろう。整備の継続と、人を呼び寄せるソフト面の対策も必要になる」と課題も指摘した。

人気に格差004
 国立公園は現在、全国に34か所あるが、交通の便や知名度によって人気に差がある。ピークの1991年には、国立公園全体を延べ4億1596万人が訪れた。同年の訪問者は、富士山のある富士箱根伊豆国立公園は同1億1434万人、十和田八幡平は同1067万人、阿寒国立公園(北海道)は同697万人だった。
 その後の景気の冷え込みや東日本大震災の影響などで、14年には全体数が同3億5218万人に減少。だが、富士箱根伊豆の人気は衰えず、逆に1億2390万人に増えた。一方で、十和田八幡平は474万人、阿寒は360万人に減って差は広がった。
 十和田八幡平だけでなく、訪問者数が伸び悩む地方の国立公園などで、廃業後の施設が放置されるケースは多く、訪問者から「寂れた地域」「がっかりポイント」などと酷評されることもある。現状を重く見た環境省は、各公園内の国有地内に残されたままの廃屋を撤去または改修し、広場や観光施設などに活用してもらうこととした。各自治体の土地や私有地内の廃屋については、自治体に交付金を活用してもらうなどして再整備を促すことにした。

訪問客増を期待
 大山隠岐国立公園(鳥取、島根、岡山県)では、鳥取県大山町が、公園内にある寺院の参道周辺で景観改善に取り組んでいる。2年前に廃業した飲食・宿泊施設を国の交付金を活用して改修し、今年7月、観光案内所やカフェを備えた施設として生まれ変わった。また、廃業した山荘の解体作業中で、跡地に来年度、商業施設をオープンさせる予定だ。さらに同県は、大山の眺望を遮る電線・電柱を地中化することを検討している。
 日光国立公園(福島、栃木、群馬県)では、温泉地にあるバスの停留所前で、廃業後に放置されたガソリンスタンドを撤去する予定だ。同省関東地方環境事務所の担当者は、「バスを降り立った観光客を、すぐに落胆させたくはない」と話す。阿寒では温泉街の廃屋の撤去方法を検討中。阿蘇くじゅう国立公園(熊本、大分県)では、見通しを遮る立ち木の伐採などを行う予定だ。
 環境省の担当者は「国立公園の目的は、貴重な自然を保護すること。ただ、影響のない範囲で多くの人に美しい風景に親しんでもらい、自然保護への理解につなげてほしい」として、訪問客増に期待している。(野崎達也)

十和田湖休屋地区、確かにゴーストタウン的なところもありまして、気になっています。良い方向へと進んでほしいものです。

他にも光太郎の名が出た記事がありましたが、またの機会にご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この大地の生活物理の裏がはに 人は迅速にして静寂なる天を持つ。

詩「落日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

上記のようにさまざまな人の営みがあり、しかし、その上にはそれを見守る空があるのですね。

一昨日の地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。

西南に「道の駅」構想 花巻 県道盛岡和賀線市内4番目 20年度開業目指す

003 花巻市太田、笹間両地区を合わせた「西南地区」を南北に貫く県道盛岡和賀線で、新たな「道の駅」の整備が検討されている。花巻市の基本構想では、2020年度の開業を目指しており、実現すれば市内では石鳥谷町の「石鳥谷」、大迫町の「はやちね」、東和町の「とうわ」に続く4番目の施設になる。
 同線は、花巻市を挟んで盛岡、北上両市を結ぶ幹線道路。国道4号を補完する物流路線や緊急輸送時の2次路線などとして重要な役割を担っているものの、沿線沿いには休憩施設がなく、地元からは商業施設や生活利便施設としての機能も視野に整備を望む声が寄せられていた。
 10年の道路交通センサスによると、同線の平日1日当たりの交通量は最大で2万1603台。両地区は東北道花巻南インターチェンジ(IC)から約4・6キロ、花巻温泉や台温泉、花巻南温泉峡といった温泉地からも10キロ圏内と恵まれた立地の一方、地域にとっては商業施設がないことや飲食店が少ないことが課題となっている。
 加えて西南地区は合併前の旧花巻市地域で最も人口・世帯数が少なく、活性化への課題もあることから、地域資源としての同線に着目。高村光太郎ら地元ゆかりの偉人の話題も多い花巻の文化・観光情報や農作業体験情報の提供のほか、万一に備えた防災拠点、宅配・給食・見守りサービスなどの拠点としての機能も含めた整備が検討されている。
 地域住民らとの協議も踏まえて市がまとめた基本構想では▽農業と地域コミュニティの交流拠点▽市の人・もの・情報の交流拠点▽ホンモノに出会える体験情報の発信―の3点を基本方針に設定。今後は基本計画や基本設計、管理運営体制の検討などが進められる見通しだ。
 地元住民で組織する西南地域振興協議会の本舘憲一会長は「施設整備後の管理運営が重要。構想は練られたが、実務をどうするのか。地元で取り組むことになるので、これから組織の立ち上げを本格的に進めたい」と意欲を示している。

というわけで、光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋(高村山荘)にほど近い場所に、新たな道の駅が作られるという報道です。

昨年あたりから計画が具体化、花巻市さんや岩手県さんのサイトにもぽつりぽつり情報が出ています。この計画は花巻高村光太郎記念会さんにも早くから伝えられており、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設置するという話もあるようです。

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高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん、入場者数の部分では苦戦しているそうですが、花巻市街から遠いこと、周辺に他の観光施設がまったくないことなどもその原因でしょう。

ここで新たな道の駅ができることで、高村山荘・高村光太郎記念館への新たな導線となることが期待されます。

道の駅が静かなブームで、当方の生活圏にもいくつか作られました。しかし、明暗が分かれています。やはり他にはない特徴を前面に押し出し、施設設備の部分でも充実しているところは勝ち組となっています。そうでないところは単なるトイレ休憩所的な……。

花巻西南に新たに作られる道の駅が、にぎわうことを切に祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

否、人はロボツトぢやない。 否、社会は機関車ぢやない。 否、個人は鋲や歯車ぢやない。            
詩「機械、否、然り」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

人を人として扱わない、強欲な資本主義社会への痛烈な批判です。この頃の光太郎の立ち位置をよく表しています。

「ロボット」の語は、1921年にチェコの作家、カレル・チャペックが創出したとされています。光太郎のこの詩は、我が国における「ロボット」の語のかなり早い使用例と思われます。

出版社コールサック社さんから、季刊詩誌『コールサック』の第90号が届きました。昨年の連翹忌に主幹の鈴木比佐雄氏がご参加下さり、そのご縁から毎号送って下さっています。恐縮です。

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その上、毎号のように光太郎に触れて下さっていて、その点でも恐縮です。3月に発行された第89号では、光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一(明37=1904~昭20=1945)のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

今号では、野澤一の詩、9篇が掲載されています。すべて野澤生前唯一の詩集『木葉童子詩経』から選ばれています。そして野澤のプロフィールの中で、光太郎に触れられています。

『木葉童子詩経』は、昭和9年(1934)、6年間に001わたる山梨県四尾連湖畔に丸太小屋を建てての独居自炊の様子を謳ったもので、光太郎にも贈られました。

光太郎から野澤への礼状が遺っています。

啓上 “木葉童子詩経”一巻今日拝受、 忝く存じます、
以前原稿の御送附をうけてそれぎりになつてゐた事を思ひ出しました、其時は丁度妻が危篤状態の際で一切を放擲してゐた時でした、
妻の病気はまだ続いてゐますが 今は読書の余裕も出来ました、早速拝読します、

日付は昭和9年(1934)4月25日。智恵子の心の病がのっぴきならなくなり、千葉九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・節子一家のもとに智恵子を預ける直前です。

「危篤状態」云々は、昭和7年(1932)、睡眠薬アダリンを大量に服用しての、智恵子の自殺未遂を指します。

その後、野澤は昭和14年(1939)から翌年にかけてと、死の直前に、光太郎にあてて近況報告やらその時々の思いやらを綴った書簡を実に数百通、ほとんど一方的に送り続けました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。

そのエネルギーに押されてか、光太郎は、随筆「某月某日」(昭和15年=1940)中で、野澤をして次のように評しています。
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二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大竜の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。

『木葉童子詩経』は、昭和51年(1976)と、平成17年(2005・右画像)に、文治堂書店さんから再刊されています。

一昨日のこのブログで、文治堂書店さん創業者の渡辺文治氏の訃報を書きまして、その中で、当会顧問の北川太一先生の「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すという同氏の姿勢に受けた感銘を紹介いたしました。こう言っては失礼ですが、この『木葉童子詩経』もその一冊といえそうです。

さらにはこうした無名詩人を毎号取り上げる『コールサック』も、社は違えど、同じにおいを感じます。

それぞれ出版文化の継承という意味でも、意義のある仕事です。継続していただきたく存じます。そして願わくは、「売れそうもない」という状態でなくなることを、と思います。


【折々のことば・光太郎】

うそは決してつくまい、 正しい人にならう、真理を究めよう、 すなほに、やさしく、のびのびと、 朝日のやうにいきいきと進まう。

詩「春の一年生」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎の手元に残された草稿に「冨山房教科書一年生用のために」とのメモ書きがあります。

以前にも書きましたが、「一年生」といっても、冒頭近くに「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではなく、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生でしょう。

ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

それにしても、昨今話題の「もりかけ問題」(蕎麦は関係ありません(笑))関係者に朗読させてみたいものです(笑)。

光太郎関連のさまざまな出版物を刊行して下さっている、東京杉並の文治堂書店さん。そちらの創業者・渡辺文治氏が先月、亡くなったそうです。

当方、直接面識はありませんでしたので、すぐに知らせが来なかったのですが、昨日、別件で同社から届いた書簡にその旨の記述と、葬儀の際の会葬御礼が同封されていました。

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003同社から刊行された当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に、「文治さんと清二さん」という小文が掲載されており、そこで渡辺氏についての思い出が語られています。初出は平成2年(1990)、同社のPR誌『トンボの眼玉』でした。「清二さん」は渡辺氏の筆名「谷川清二」のことで、「文治さん」と「清二さん」は同一人物です。

氏の業績、人となりのご紹介のため、抜粋します。

 文治さんがはじめて応接間とも書斎とも書庫とも物置ともつかぬ、机一つないわが家の四畳半にやって来て、窮屈そうに坐ったのは、あれはいつのことだったろう。
 ずっとガリ版で出し続けていた『光太郎資料』が二十冊あまりになったのを、詩の輪読会のメンバーの一人、日大法学部の田鍋幸信さんが見て、文治さんに話したらしい。文治さんのことは、僕の大好きな中島敦の、立派な四冊の本の出版社として知っていた。本は飛び切り上等だったけれど、社長と社長夫人しかいないその出版社の実情は、例えば小説「シュロ竹」を見よ。文治さんの本屋さんだから、糞真面目に文治堂というのも良いではないか。
 目の前にいる文治さんは、活字で『光太郎資料』出しましょう、という。好男子なのに風采決して陸離とは言えない。低い声でぼそぼそ話す文治さんの、思い切りのいい決断。文治さんはいったい何を考えているのだろう。
 その本が文治さんの目にかなったとしても、売れる筈のないそんな本を、出す出版社はおそらくない。半分あきれかえりながら、僕はこの降って涌いた計画に熱中した。しかもあろうことか、六冊の無鉄砲なシリーズは、昭和五十二年に五年かかって完結した。

004こうして世に出たのが、『高村光太郎資料』全六集。母胎は北川先生編集の『光太郎資料』ですが、そのまま単行本化したわけではなく、徹底して再編がなされ、第一集から第三集までは、昭和32年(1958)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』補遺作品の巻。平成11年(1999)に同全集の増補改訂版が完結するまで、補遺巻としての役割を果たし続けました。

第四集から第六集までは、諸家による光太郎智恵子の同時代評、回想、そして第一~三集のさらに補遺。こちらも貴重な資料集成です。

これで北川先生と同社との関わりが出来、以後、光太郎関連の出版物等が同社から刊行されたり、同社発行の雑誌に先生の玉稿が載ったりしました。画像の広告にある光太郎デッサン「裸婦」複製などもその一環です。

再び北川先生の玉稿から。

 その間にも感じたことは、このやさしく、声高に語らぬ人が、強情我慢な一面もあり、ことに自分の美意識や語感にかけてはゆずらないこと。ふと作家論などを始めると、思いもかけず熱っぽい、頑強な評論家に豹変すること。「五万円もあれば暮らせますよ」という何気ない文治さんの言葉にも、この人は決して、商売の出版屋にはなれないだろうな、と思いながら、いささか古めかしいけれど、われら同世代には通じるに違いないこの人の、「志」を僕は感じはじめていた。そしてその文治さんの「志」をつつむ文治さんの家の、奥さんや息子さんのなんとも言えぬ温かさも。


雑誌としては、『蝉』、『近代詩研究―詩と音楽―』といったあたりに、北川先生の玉稿が載りました。『高村光太郎資料』を補う、光太郎の評伝「高村光太郎伝試稿」。こちらは掲載誌や形態を変えつつ、現在は高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究』誌上で続いています。

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 『資料』の最後の巻がまだ出来上がらない頃、文治さんは文治堂のPR誌を作るという。僕は長い間地面の中でいのちを養い、或る日与えられた短い時を力いっぱい歌いあげる『蝉』という名を提案し、それは文治さんに採用された。第一号が陽の目を見たのは、ちょうど鳴きしきる蝉の季節、昭和五十年七月のことだったけれど、出来上がったのは、とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある文芸誌だった。

その中で、渡辺氏は「谷川清二」の筆名で、私小説風の一篇を発表し、出版者と小説家の二足のわらじの活動が始まりました。

 文治さんは相変わらず、惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出したが、清二さんの小説も次々に生まれた。それは読む者をよろこばせ、或いはさまざまな感慨に誘った。はじめの頃の軽妙に人間の機微を描いた作品は、それぞれのやり方で僕等が歩いて来た、戦中戦後の重い人生への反芻にひろがり、今を覆い、一転して古代に託した力強い人間説話ともなった。

平成のはじめ頃には引退され、現社主の勝畑耕一氏に引き継がれたようで、おそらく引用した北川先生の玉稿は、引退記念のはなむけなのではと思われます。

勝畑氏に委譲された同社、その後も「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すというコンセプトは受け継がれ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな良書が刊行されています。また、「とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある」PR誌も、昨年、『トンボ』として復活。書かせてくれと言った覚えは全くないのですが(笑)、当方も半ば強引に執筆陣に加えられ、さらに来月発行の次号からは、連載も始まります。

その渡辺氏の訃報。気骨と良心のある出版者がまた一人、旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ちよこまかとして戦ひ獲るのが如何に君の周囲の流行でも、 私はもう一度古風に繰返さう。 ――正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。――

詩「或る親しき友の親しき言葉に答ふ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩には珍しく、他の詩に書かれた詩句を引用しています。すなわち終末の「正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。」が、大正15年(1926)に書かれた「火星が出てゐる」からの転用です。

故・渡辺氏などもそういった考えから、「周囲の流行」に背を向け、数々の良書を世に送り出していたのでしょう。

虎の威を借る狐よろしく、「官邸の最高レベルが言っている」などと圧力をかけたり、「忖度」を駆使したりして、国有地や学部新設の権利などを、「ちよこまかとして戦ひ獲る」輩、それを許したり、斡旋したりしている輩に贈りたい言葉ですね(笑)。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの土曜版。不定期に掲載される芥川賞作家の又吉直樹さんによる文学散歩的なコーナー「又吉直樹のいつか見る風景」。ちらりと光太郎の名を出して下さいました。

又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)

004 日本橋の中央に全国への道路元標というものがある。道路でよく目にする「東京 500キロ」「東京 27キロ」と距離を示す標識の「0キロ地点」が日本橋だということだ。クイズとして、「あの標識はどこまでの距離?」と誰かが出題してくれないかと密(ひそ)かに期待しているのだが、まだその機会には恵まれていない。鮮やかに「日本橋!」と答える準備はできている。きっと、出題するまでもなくよく知られたことなのだろう。だが、その日本橋の下から舟に乗り遊覧できることはあまり知られていないのではないか。
 先日、そこから舟に乗った。「日本橋川」の上は高速道路が走るため、空はよく見えない。出発してすぐに鎧(よろい)橋がある。明治末、「パンの会」という新しい芸術の精神を持った若者(木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎など)が集まったカフェ「メゾン鴻の巣」が近くにあった。
 沿岸の建物のほとんどは川に背を向けていて、非常階段で喫煙している人の脱力した表情が印象に残った。かつては江戸城まで物資を運搬する水路だったが、現在は日常の裏側なのかもしれない。ところが、「隅田川」に出ると一気に視界がひらけて爽快だった。
(略)
 東京都心の川を、小型の船(舟)でめぐるクルーズが、いま人気だ。神田川の支流、日本橋川にかかる日本橋の船着き場からは、土日ともなると、多くの乗り合い便が発着している。
 今回は、船をチャーターし、NPO法人水都東京を創る会(suito.or.jp)のガイドで、江戸から近代にかけ、流域で花開いた文学活動の残り香を訪ねる旅、と決め込んだ。江戸橋、鎧橋と下り、隅田川へ出て、江戸入りした徳川家康が、日本橋川とともに造成した「塩の道」の小名木川へ。河口の万年橋の近くには、現在も芭蕉記念館が。扇橋閘門の先で折り返し、もと来た川を戻り、佃島を望みながら亀島川から再び日本橋川へ。約90分の旅だった。


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長いので省略しましたが、日本橋から扇橋までの船旅のレポートになっています。

日本橋から下流に向かうと、すぐ江戸橋、続いて鎧橋です。レポートにあるとおり、鎧橋際には、西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」がかつてあって、北原白秋木下杢太郎らが始めた芸術運動「パンの会」の会場として使われていました。明治42年(1909)、欧米留学から帰った光太郎もたちまちその渦に巻き込まれ、気焔を上げています。
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明治43年(1910)11月20日、日本橋の三州屋で行われた大会では、劇作家・詩人の 長田秀雄の入営壮行会を兼ねたものでしたが、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」 の貼り紙――幟(のぼり)という説もあり――に、光太郎が黒枠を描き込んだため、「萬朝報」に取り上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と糾弾されました。翌月に大逆事件の大審院第一回公判を控えていた時期であり、当局も過敏でした。

さらに同日、実際にはやりませんでしたが、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって、作家の木村荘太(画家・荘八の兄)と決闘騒ぎになりかけたりもしています。

このあたりは、木村の書いた小説『魔の002宴』(昭和25年=1950)に詳述されています。

さて、又吉さんのクルーズ。船をチャーターしてのものだったそうですが、いくつもの会社がクルーズ船を運行しています。チャーター便、その場で直接申し込む乗り合い便、一人でもOKというものもあります。

これまでもテレビの旅番組的なもので取り上げられており、レポーターの皆さん、一様に川から東京の街並みを観る新鮮さに驚きの声を上げていました。

機会を見つけて利用してみたいものです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

星が一つ西の空に光り出して 天が今宵こそ木犀色に匂ひ 往来にさらさら風が流れて 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる さういふ秋がやつて来たんだ

詩「秋が来たんだ」より 昭和
4年(1929) 光太郎47歳

関東は昨日梅雨入りだというのに、季節外れですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を探していますので、こういうことも起こります。

どちらかというと、光太郎は「述志」の詩人と捉えられがちで、力強く自己の内面を表出した作品が多いのは確かです。

しかし、それにとどまらず、こうした何気ない詩句の中に、非常に美しい自然の描写などがあり、これもまた一つの光太郎詩の魅力です。

福島の地方紙二紙から。

まずは昨日の『福島民友』さんの記事。

魅力発掘へ市街地調査 福島・二本松でJICA訓練生

 国際協力機構(JIC001A)二本松青年海外協力隊訓練所に入所する訓練生188人は27日までに、福島県二本松市の中心市街地を歩いて調査活動を行い、地元の魅力を掘り起こした。
 訓練生は24グループに分かれ、二本松の飲食店や菓子店の歴史や商品などについて調べた。
 このうち同市出身の洋画家・紙絵作家、高村智恵子の誕生日に合わせた「生誕祭」が開かれた智恵子記念館、智恵子の生家では切り絵を体験したほか、市民らと和やかに歓談した。
 訓練生は市民との交流を楽しみながら取材を重ねた。今後はマップを作るなど、市民への報告を予定している。


国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所さんが安達太良山の中腹にあるため、これまでも智恵子がらみ、「ほんとの空」がらみで何度かご紹介させていただきました。


これからも「ほんとの空」の下、がんばっていただきたいものです。


「ほんとの空」といえば、『福島民報』さんにはこんな記事も。

名機 ほんとの空に舞う ブライトリングDC-3 復興支援で県内飛行 小塩江中(須賀川)生徒 体験搭乗

 復興支002援として福島空港に降り立った航空機の名機「ブライトリングDC-3」に26日、須賀川市の小塩江中の生徒18人が搭乗し、空からの古里の風景を楽しんだ。
 スイスの時計メーカー・ブライトリングが企画する世界一周飛行の一環で、国内では熊本、神戸などを経て福島空港に22日到着した。
 天候不良のため、1回目の大笹生小(福島市)の児童を乗せたフライトが中止になった。午後には天候が回復し、小塩江中のフライトはコースを変更して須賀川、郡山両市上空を周回飛行した。生徒は「空飛ぶ文化遺産」と称される名機のエンジン音や窓からの眺めを満喫した。着陸後は世界一周飛行に立ち会った記念に「搭乗証明書」が贈られた。
 27日は招待客を乗せた会津方面へのフライトを3回実施する予定。

記事にあるとおり、スイスの時計メーカーによるイベントで、「ブライトリング DC-3 ワールドツアー大空を見上げよう!2017 熊本~神戸~福島」の一環だそうです。熊本、神戸、福島と、それぞれ震災の被災地を回って下さり、それぞれの地で希望を与えて下さいました。


福島、飛行機、ほんとの空というと、一年前の「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ2016千葉」を思い出しました。最高時速370キロのプロペラ飛行機によるレースで、福島市在住の室屋義秀選手が初優勝しています。今年も同じ千葉幕張海浜公園で、次の土日(6/3・4)に開催され、室屋選手が参戦します。室屋選手、先月行われたツアー第2戦のサンディエゴ大会で優勝していますので、今回も大いに期待されます。昨年は“ほんとの空”から追い求めた夢の結実と報道されました。今年もそうなってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

その詩は生理的の機構を持つ。 その詩は滃然と空間を押し流れる。 その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎、「天上」という語を好んでわりと多用しています。詩作のあり方にしてもそうですが、己の生き方として高見を目指し続けるポリシーが、「天上」の語を使わせるのでしょう。

ある意味、見習いたいものです。

日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の2017年6月号をご紹介します。

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同誌では、これまでもたびたび光太郎智恵子を取り上げてくださり、先月号では「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という題で、10ページの特集を組んでくださっていました。

そして今号からは、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載が始まりました。ありがたや。

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今月号は、詩「粘土」(大正3年=1914)から15行ほどが抜粋されています。サブタイトルの「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす」は、その最終行に含まれる詩句です。バックには光太郎ブロンズ彫刻代表作の一つ「手」(大正7年=1918)があしらわれています。

おそらく来月号以降もこんな感じで続くのでしょう。いつまでも続けていただきたいものです。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。


【折々のことば・光太郎】

その詩をよむと詩が書きたくなる。 その詩をよむとダイナモが唸り出す。 その詩は結局その詩の通りだ。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎は詩人として著名ですが、評論などの散文では詩の方法論的なものをほとんど書き残していません。

代わりに、というわけでもありませんが、この「その詩」が、光太郎の考えていた詩の方法論を端的に示しています。ただし、あくまで詩ですので、直截な表現ではなく、象徴や比喩を多用し、しかし味わい深い方法論が展開されています。

まず福島の地方紙『福島民友』さんの記事から。昨日の掲載です。

過日、このブログでご紹介しました、いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の企画展「草野心平の詩 料理編」の関連行事、「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」を報じた記事です。 

詩人・草野心平の『美味』食す 再現料理、独特な食世界を堪能

 いわき市出身の詩人草野心平が営ん001いた居酒屋や作品で出てきた料理を再現して味わう「心平さんの胃袋探訪~創作料理の試食と解説」は21日、同市小川町の市立草野心平記念文学館で開かれ、参加者が花を載せて食べるサンドイッチや、コーヒー味のくず湯など、独特な心平の味覚の世界を堪能した。同館の主催。
 同館で6月18日まで開かれている企画展「草野心平の詩 料理編」の関連イベントとして開き、約30人が参加した。料理研究家の中野由貴さんが講師を務め、心平が出店した店や再現した弁当について解説した。
 中野さんは心平が営んだ焼き鳥屋台「いわき」に高村光太郎が最初の客として訪れたことなどを紹介した。試食では、ごま油を使ったおかゆ「心平がゆ」や大根をしょうゆ、酒、みりんで漬けた「大根の半日づけ」などが振る舞われた。


講師の中野由貴さんとは、先日、花巻で行われた第60回高村祭でお会いし、いろいろお話を伺わせていただきました。今回も参上したかったのですが、当日、居住地域のボランティア活動に参加せねばならず、欠礼しました。いずれ、何かの機会に「光太郎の食」的な催しがあればご出馬いただきたいところです。

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企画展は来月18日までの開催です。


続いて、23日付の『東京新聞』さんの記事。

【ふくしま便り】二本松・岳温泉の今 「歩く」催し 健康増進訴え 

 再生可能エネルギーの拠点として「エコツーリズ002ム」で復興を図る福島市の土湯温泉の挑戦を先週、本欄で取り上げた。同じく温泉地でユニークな取り組みを始めているのが岳(だけ)温泉(福島県二本松市)。こちらは「歩く」をテーマに据え、体を動かして温泉で癒やされる「ヘルスツーリズム」に活路を見いだそうとしている。さて、どんな取り組みか。

 岳温泉は、高村光太郎が詩集「智恵子抄」でたたえた安達太良(あだたら)山の中腹にある。標高六百メートルほどの高原に旅館やホテルが点在し、スキー場が隣接する保養型の温泉地だ。

 十八日、一軒のホテルで講演会が開催されていた。講師はドイツ人のハートヴィッヒ・ガウダー氏(62)。モスクワ五輪の競歩で金メダルを獲得するなど一流のスポーツマンであった同氏は、四十一歳で突然、細菌性の心臓疾患に倒れる。心臓移植で命を取り留め、後にニューヨーク・マラソンで完走を果たすなど健康を取り戻す。その過程で考案した運動法が「パワーウォーキング」。心拍数をコントロールしながら負荷をかけて歩き、体全体を鍛える歩行法だった。

 「健康は努力によって得られるのです」と話すガウダー氏の言葉に約四十人の老若男女が聞き入った。この日のために県外から来た夫婦の姿もあった。

 講演会を企画した岳温泉観光協会の鈴木安一会長によると、ガウダー氏が初めて岳温泉に来てパワーウォーキングを紹介したのは二〇〇五年春。これを契機に「歩いて健康になる温泉」をキャッチフレーズに掲げた。

 岳温泉がもっともにぎわったのは一九八三年からの十年ほどだった。東北新幹線が開通したが最寄りの二本松駅は通らない。これに反発し、日本国からの独立を宣言。「ニコニコ共和国」をぶち上げると、物珍しさに観光客が殺到した。鈴木会長も第三代大統領に就任したが、ブームは長く続かない。次に活路を求めたのが、ヘルスツーリズムだった。

 「そもそも温泉は健康づくりの場です。欧州の保養地のような落ち着いた滞在型の温泉地を特色としたいと考えました」

 その後、二〇一一年三月に東日本大震災と福島第一原発事故が起きる。岳温泉は被災者の避難宿舎となり、県外からの客は激減した。

 小中学校が主導する教育旅行も途絶えた。原発事故から六年のこの冬、埼玉県の中学が事故後初のスキースクールを実施すると、「やっと解禁」と地元紙に大きな見出しで報じられた。

 そんな逆風の中で粛々と続けてきたのが、健康へのこだわりだった。柱の一つが総合型地域スポーツクラブ「岳クラブ」。

 毎月定期的に行っている「月例ウォーク」などのイベントに、県内外を問わず、誰でも参加できるクラブだ。

 六月のスケジュールを見ると、「滝ウォーク十一キロ」「山奉行コース十一キロ」などがある(ショートコースもあり)。いずれも参加費は三百円(年会費千五百円)。ほかにも「あだたら縦走トレッキング」「ノルディックウォーキング教室」「体力測定会」などのイベントがある。併設して「安達太良マウンテンガイドネットワーク」があり、友人同士の登山でガイドを頼むこともできる。

 福島県の宝はいくつもあるが、雄大な山々と温泉の魅力は格別だ。まずは訪れることから復興への手助けが始まる。

 問い合わせは、岳クラブ=電0243(24)2310、ハートヴィッヒ・ガウダーパワーウォーキング協会=電03(3791)8375=へ。 (福島特別支局長・坂本充孝)


安達太良山の山開きは、やはり21日の日曜日でした。こちらの報道では、残念ながら光太郎智恵子に触れられていませんでしたので割愛いたします。

山頂方面、行こう行こうと思いながら、まだ果たせていません。今年こそは機会を見つけて登ってこようと思っております。記事の最後にあるとおり、「まずは訪れることから復興への手助けが始まる。」というわけで、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

蹉跌は證(あかし)だ。 真なるものは必ず蹉跌す。 蹉跌の深みに転落せぬもの、 己はそいつの友ではない。

詩「街上比興」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

心平が創刊した雑誌『学校』の創刊号に寄せた詩です。原題は「興」一文字でしたが、後に改題されています。

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心平や、同人だった伊藤信吉、萩原恭次郎など、光太郎より一世代若い詩人たち――ある意味、「蹉跌」まみれだった人々――へのエールという意味合いもありましょう。

その1。

昨日レポートいたしました、5/15(月)の第60回花巻高村祭。『毎日新聞』さんが一日遅れで報じて下さいました。

高村祭 児童らが元気に、詩の朗読や合唱 60回目 /岩手

 詩人で彫刻家の高村光太001郎(1883~1956年)が花巻市で7年間を過ごしたことを記念する「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘詩碑前広場であった。毎年、光太郎が疎開してきた5月15日に開かれ、今年で60回目を迎えた。 
 雨が降るなか行われた式典には約400人が参加。地元の太田小や西南中、花巻東高校の児童生徒らが光太郎の詩の朗読や合唱などを元気な声で披露し、会場中に響かせた。
 学生を代表して「非常の時」を朗読した花巻高等看護専門学校1年の主浜京香さん(19)は「すばらしい作品だと思い、気持ちを込めて読んだ。これから光太郎のいろいろな詩を読んでいきたい」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催され、ゆかりのある温泉を当時の絵はがきなどで紹介。実際に使用していた「鉄砲風呂」も展示している。6月26日まで。【鹿糠亜裕美】


その2。

同日発行の花巻市さんの広報誌『広報はなまき』では、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」、同じ敷地内にある光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台リニューアルについて報じられています。

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その3。

その智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しむという、「高村光太郎記念館講座」の参加者募集が始まっています。

高村光太郎記念館講座「初夏の里山さんぽ~山口の暮らし~」の受講生を募集します

新しくなった智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しみます。

対     象 : 市内に在住または勤務する方を優先します。
日     時 : 平成29年6月9日(金曜日)、午前9時から午後3時まで
集合場所 : まなび学園ロビー 岩手県花巻市花城町1−47
定  員 : 20人 定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
参  加  料   : 400円(入館料、保険料)
申込期限 : 平成29年5月26日(金曜日)

問い合わせ・申し込み 花巻市生涯学習課 電話:0198-24-2111(内線418)


その4。

その高村光太郎記念館さん発行の『高村光太郎記念館通信 メトロポール』の第4号が、花巻市さんのホームページ上にアップロードされました。内容的には、先月2日の光太郎忌日に開催された「詩碑前祭」、松庵寺さんでの「連翹忌法要」、それからやはり智恵子展望台のリニューアル、そして、ひそかに記念館・山荘の入場券売り場がカフェを併設することとなり、その紹介です。

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その5。

また、まだ詳細は未定ですが、7月の終わり頃、やはり記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催す計画があります。「光太郎が見た星空の紹介」も盛り込まれています。館のスタッフさんから届いたメールの添付ファイルから。

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詳細が決まりましたら、またお知らせします。


こうした地道ともいえる取り組みの積み重ねも大切なことだな、と思います。


【折々のことば・光太郎】

生きよ、生きよ、生き抜いて死ね。 そのさきは無い。無いからいい。

詩「夏書十題 無いからいい」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日ご紹介した「死ねば」とワンセットの詩です。

「死ねば」は「死ねば死にきり」と、ある意味、突き放すようなというか、身もフタもないというか、破滅的というか、そういう感じですが、この「無いからいい」が後に続くことによって、今ある命を精一杯燃焼させよ、というエールになっています。

思わず「わかりました」と応えたくなります(笑)。

昨日ご紹介した、岩波書店さん刊行の『岩波茂雄文集 第3巻』。昭和17年(1942)11月3日、丸の内の大東亜会館(現・東京會舘)で開催された、同社の創業30周年を記念する「回顧三十年感謝晩餐会」について調べるために購入しました。

光太郎も出席したこの席上、岩波茂雄から光太郎に依頼があって作られた岩波書店店歌「われら文化を」が披露されています。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔。前年には、やはり光太郎作詞の「新穀感謝の歌」の作曲も手がけています。こちらは宮中で行われていた新嘗祭を全国規模に拡大した新穀感謝祭にかかわります。

「回顧三十年感謝晩餐会」については、同年・同社刊行の雑誌『図書』第83号終刊号や、昨日もご紹介した『写真で見る岩波書店80年』(平成5年=1993)などに詳しく紹介されていますが、『岩波茂雄文集 第3巻』、その補完資料として使えそうです。

『図書』や『写真で見る岩波書店80年』にも載っていた、当日の写真。出席者は520余名だったそうです。

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それから、こちらも『写真で見る岩波書店80年』とかぶりますが、左から信時、岩波茂雄、光太郎の3ショット。

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こちらが撮影されたのは、熱海にあった岩波茂雄の別荘「惜櫟(せきれき)荘」。昭和16年(1941)の竣工です。「居眠り磐根江戸草子」「酔いどれ小籐次留書」シリーズなどで有名な時代小説家の佐伯泰英氏が買い取り、建造当時の形に解体復元されたことが話題になりました。平成25年(2013)にはBS朝日さんでその様子を追ったドキュメンタリー「惜櫟荘ものがたり」が放映され、光太郎についても触れられていました。

キャプションには信時の名はありませんが、信時側の資料である、平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」付録のブックレットに、信時家に伝わる惜櫟荘での写真が掲載されており、同じ日に撮影されたものと思われます。

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おそらくこの時に、「われら文化を」作成の相談が為されたのではないでしょうか。

「われら文化を」、歌詞は以下の通りです。


 あめのした 宇(いへ)と為(な)す、
  かのいにしへの みことのり。
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。001

 おほきみかど のりましし
 かの五箇条の ちかひぶみ。
 われら文化を つちかふどもがら、
 思ひはるかに 今日もゆかむ。

 ひんがしに 日はありて
 世界のうしほ いろふかし。
 われら文化を つちかふともがら、
 こころさやけく 明日もゆかむ。


「回顧三十年感謝晩餐会」の席上、「岩波合唱団」によって初演されました。指揮は澤崎定之、ピアノは宮内(瀧崎)鎮代子(しずよこ)。「岩波合唱団」というのは実態がよくわかりませんが、澤崎と宮内は、この時代、それなりに名の通っていた音楽家です。斉唱、二部合唱、四部合唱と、三回演奏されたとのこと。

このうち、斉唱バージョンがレコード化されています。レーベルは「音研」。正式には「目黒音響科学研究所」といい、社歌や校歌などの自主制作盤を手がけていました。現物を入手しようと探しているのですが、なかなか見つかりません。ただ、先ほどもご紹介したCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に、これから再録された演奏が含まれています。

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おそらく、「回顧三十年感謝晩餐会」の出席者に、記念品として贈られたのではないかと思われます。『岩波茂雄文集 第3巻』に、「創業三〇年記念品に添えた書状文案」(昭和18年=1943)という文章が載っており、「心許りの記念の品其節献呈仕るべき筈の処意外に準備に手間取り此程漸く出来仕り候に付き一周年を期し別送御手許まで御届け申上候」という一文があります。記念品が何だったのか、詳細な記述がないので何ともいえませんが、レコードであれば、プレスに手間取ることも有り得、当てはまるような気がします。

聞いた感じでは、荘厳な感のする曲です。当時の評が『図書』に載っています。「大方の御批評では、詞句の格調といひ、曲の旋律といひ、共に一岩波書店の店歌に留めておくのは惜しいほど優れたものであるとのことであつて、広く文化にたづさはる人々の歌にしたいといふお言葉さへ耳にしたのであつた。」とのことでした。

しかし、やはり時局を反映し、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、」「おほきみかど のりましし」と言った語句が使われており、そのためでしょう、この歌は戦後、お蔵入りとなったようです。

岩波茂雄は、昭和15年(1940)には同社で刊行した津田左右吉の複数著作(『古事記及日本書紀の研究』など)が検閲に引っかかり、出版法違反により起訴され、同17年(1942)の第一審では禁錮2ヶ月、執行猶予2年の判決を受けています。その後控訴し、「回顧三十年感謝晩餐会」開催時には係争中でした。結局、戦時中のため、裁判もしっかりおこなわれなかったようで、同19年(1944)には時効により免訴ということになっています。

その岩波ですら、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す」=「八紘一宇」という文言を織り込んだ歌を自社の店歌にしていたわけで、まさに暗黒の時代だったことがよくわかります。

ただ、岩波流のレジスタンスもあったという説もあります。、「回顧三十年感謝晩餐会」が開かれていた同日同時刻、しかも同じ大東亜会館で、情報局主催の「大東亜文学者会議」閉会後の懇親会も開催されていました。ところが「大東亜文学者会議」出席者の多くは、光太郎を含め、情報局主催の懇親会に参加せず、岩波の「回顧三十年感謝晩餐会」に出席。これに対し、情報局次長の奥村喜和男が、「岩波はけしからん!」と激怒したそうです。しかし、同日同時刻に設定したのは岩波ではなく情報局だという説もあり、真相は闇の中です。それにしても、多くの人々が情報局主催の懇親会ではなく、岩波の晩餐会に出席したというのは、ある意味痛快です。

このあたり、今秋当会発行予定の『光太郎資料 48』に詳しく書くつもりでおります。ご入用の方はご一報下さい。


【折々のことば・光太郎】

黙つてゐても心の通じる、 いいも悪いも両手に持つ、 さういふ友を持つのはいい。
詩「さういふ友」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎より2歳年長だった岩波茂雄なども「さういふ友」の一人だったかもしれません。

大正2年(1913)の詩「人類の泉」では、「もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです」と謳っていた光太郎ですが、15年経つと、心境の変化があるのでしょうか。

同じ「人類の泉」で、智恵子に対しては「けれども 私にあなたが無いとしたら―― ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある」と語りかけていましたが、この時期には「親離れ」ならぬ「智恵子離れ」的な部分もあったのではないかと思われます。

状況をわかりやすくするために、まず地方紙『岩手日報』さんの記事から。

花巻歩きのお供に一冊 女性目線の情報マガジンを発刊

 花巻市南万丁目のオフィス風屋(かぜや)(北山公路代表)は20日、花巻まち散歩マガジン「Machicoco(マチココ)」を発刊する。「車を降り、街を歩こう」をコンセプトに、懐かしい花巻の風景にこだわった冊子を隔月で展開する。市内の40、50代女性5人が執筆し、デザインも女性が担当。メンバーは花巻ファンを掘り起こそうと意気込んでいる。
  巻頭特集は「街を撮る」。商店街、バスの時刻表、宮沢賢治をイメージしたベンチなど日常の景色が並ぶ。冊子はA5判オールカラー16ページで1500部発行を想定し1部500円(税込み)。市内企業などに協賛金1口3万円(税別)を募り、発行時に1口15冊、年6回で計90冊を配布。書店での販売予定はない。
  人物紹介の連載「顔と手」やリレーエッセー「花巻まにあ」、高村光太郎の日記から料理を再現する「光太郎レシピ」のほか、市内イベントの情報欄や街マップも掲載する。
  問い合わせは電子メール(
machicoco.hanamaki@gmail.com)へ。

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で、早速、年間購読の手続きをいたしまして、届いた創刊号がこちら。

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A5判16ページ、オールカラー。目次は以下の通りです。

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最終ページ(裏表紙)に、連載「光太郎のレシピ」。

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上の画像は、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)の囲炉裏端ですね。

花巻高村光太郎記念館さんの主に女性職員の皆さんの協力で、独居自炊生活をしていた頃の光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

館では昨年あたりからこの方面の活動をなさっていて、現在、館の受付脇にそういった展示もなされていますし、昨年2月にはテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」で紹介されました。5月には今回紹介されている「そば粉パン」、当方もいただきました

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なかなかに美味でした。

それにしても、戦後間もない昭和21年(1946)の時点で、こうしたものを作って食べていた光太郎。「食」へのこだわりが強かったことが見て取れます。いわゆるグルメ、美食家というわけではありませんでしたが、頑健な肉体の創出には「食」の充実が欠かせないという考え方で、そうした意味では宮澤賢治の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」では駄目だ、と公言していました。

今後、そうした光太郎がこだわって作った料理の数々が紹介されるはずですので、楽しみです。


『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』、その他にも花巻とその周辺の街の風景や、そこに生きる人々(隠れた名物・マルカン大食堂の10段巻きソフトクリーム職人さんなど)が紹介され、「新しい花巻の魅力を発見」というコンセプトがよくわかる作りになっています。後ほどご紹介しますが、来月、高村山荘敷地で行われる高村祭の案内も。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊だそうで、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

急にしんとして 山の匂のしてくる人がある。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、若い頃から自然志向的な部分は色濃くあり、周辺には郊外で隠遁生活を送っていた友人知己も少なからずいましたが、自身はなかなか思うに任せず、東京市本郷区駒込林町、都会の真ん中に暮らしていました。18年後に、自身が実際に「山の匂のしてくる人」となると、具体的には想定していなかったと思われます。

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