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一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

どちらかというと女性向け、新刊のムックです。

&Me-time  &Premium特別編集 私の好きな、ひとりの時間。

2023年12月5日 マガジンハウス編・刊 定価1,880円

「ひとりの時間」をどんなふうに過ごしていますか? 本を読んだり、音楽を聴いたり、気の向くままに散歩してみたり、どこかへふらりと旅に出てみたり。「ひとりの時間」は、楽しむことができる人にとっては、心地のいい贅沢な時間。心を鎮め、自分の内面とじっくり向き合うことは、自分が本当に大切にしたいものに気づくきっかけになるはずです。過ごし方、暮らし、旅、映画、音楽、本まで、「ひとりの時間」や「静かに過ごす時間」にまつわる記事を1冊にまとめました。
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目次
Making Me Time あの人の、ひとりの時間のつくり方、楽しみ方。
 佐竹彩 三國万里子 上白石萌歌 松下萌黄 岡本佳樹 山田みどり 服部あさ美
 宮田・ヴィクトリア・紗枝
Why Do We Need Me Time? なぜ、ひとりの時間は必要なのでしょうか?
 吉本ばなな
Movie ひとりの時間を豊かに感じる映画。
 高崎卓馬
Lifestyle ひとり、心地よく暮らす住まい。
 吉原ゴウ 桐野恵美 
Travel 私を変えた、ひとり旅。
 タカコ・ノエル 黒島結菜 吉田恵里香 宇賀なつみ チェルシー舞花 木本梨絵
 佐久間由衣
Workstyle ひとりだからできたこと。
 曽我貴彦 宮後優子 倉橋孝明
Miri Masuda 益田ミリの、ひとりの時間。
What were in Their Minds? あの人が、ひとりで考えたこと。
 ヘンリー・D・ソロー スーザン・ソンタグ 森茉莉 篠田桃紅 星野道夫
My Peaceful Time 私の、静かな時間の過ごし方。
 加山幹子 宮田・ヴィクトリア・紗枝 関田四季 大塚寧々 花楓 溝口実穂 高橋周也
 村田明子 山根佐枝 白石聖 山口恵史
Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。
 篠田桃紅 いわさきちひろ パブロ・ピカソ 熊谷守一 高村智恵子
Soothing Stories 心を鎮める読書案内。
 高山なおみ
Peaceful Home 静かな暮らし。
 高木由利子 山下りか 濱田敦司 藤井繭子
Sounds of the Nature 自然の音を聴く。
 泊昭雄 大森克己 在本彌生 野川かさね 藤田一浩
Soothing Tunes 週末を静かに過ごすための音楽。

同じマガジンハウスさんから発行されている雑誌『& Premium』の増刊的な位置づけのようです。「私の好きな、ひとりの時間」をテーマに、これまでの本誌に載った記事からピックアップして1冊にまとめたと思われます。書き下ろし的な部分もあるかもしれませんが。

智恵子が取り上げられている「Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。」は『& Premium』の第97号(令和3年=2021)に掲載されました。
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そちらをお読みになっていない方など、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨十八日は午前中挨拶まはり。午後小屋にゆきて火を焚いて一人障子張りにかかり、屋根に音を立てて落ちる栗をやいてたべました。静寂きはまりなく神気澄みて無上の歓喜をおぼえました。


昭和20年(1945)10月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

2日前、花巻郊外旧太田村に移住し、近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。ちょうど光太郎の大好物だった栗の実の落ちる頃で、早速、囲炉裏の火で焼いて食べたとのこと。

寒がりの当方としてはあまり来てほしくないのですが、来ちゃった感がありますね、冬。昨日あたりは関東では小春日和でしたが。

『東京新聞』さん、11月13日(月)のコラム。

筆洗

 「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず」-。吉田兼好が『徒然草』にこんなことを書いている▼いやいや、春が終われば夏、夏の後に秋がくるのはあたりまえでしょと言いたくもなるか。兼好さんが強調するのは四季の移ろいとはそんなにはっきりしたものではなく、「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ…」なのだという。つまり、春の中に夏の気配があり、夏のころから秋が忍び込んでいる。季節とはそういう微妙な変化なのだと▼兼好法師に逆らう気はないが、微妙な変化とは言いにくい今年の冬の訪れだろう。強い寒気が流れ込んだ影響で、週末あたりから急に冷え込んできた。東京でも昨日、冬の訪れを告げる北風の「木枯らし1号」が観測された▼11月に入っても最高気温が20度を大きく超える日が続いたのに、この寒さに毛布をあわてて引っ張りだした。夏から一気に冬へ、とはおおげさだが、秋が感じにくかった分、冬に寝込みを襲われた気分になる▼週末に訪れた京都では今年、紅葉が遅れていると地元の方がおっしゃっていた。季節の急な移ろいに紅葉の足並みがついていけないようである▼冷え込みに思い出すのは高村光太郎の詩か。「きっぱりと冬がきた(中略)。きりきりともみ込むやうな冬がきた」。体調管理にはお気を付けいただきたい。小欄、きっぱりと風邪をひいた。

お大事にどうぞ(笑)。

11月10日(金)、『産経新聞』さん大阪版、俳人の坪内稔典氏によるコラム。

モーロクらんらん(31) 冬構え001

 暦の上では8日が立冬だった。今日は冬の3日目だが、さて、冬の備えはできているだろうか。冬への備えを季語では「冬支度」「冬用意」「冬構え」などと言う。これらの語、冬はちゃんと構えて、あるいは十分に用意して迎えるべきものだ、ということを示している。
 ところが近年、この冬を迎える気持ちが緩んでいる。暖冬が続き、防寒用具などが整ってきたせいだろうが、たとえば「冬隣(ふゆどなり)」という季語がよく使われるようになっている。
 かつて春を待つ喜びを「春隣」と言ったが、その言い方を冬にも転用したのが「冬隣」だ。最新版の歳時記『角川俳句大歳時記』はこの転用を容認し、「春夏秋冬みな隣をつけ」ると言い、「冬隣の場合、寒く厳しい冬に対して身構える緊張感が伴う」と解説している。
 その解説の通りだと、「冬支度」でいいではないか。あるいは、「冬構え」のほうがぴったりだ。「冬隣」だと元になった「春隣」の気分がどうしても漂う。つまり、冬を喜ぶ気分になる。
 たしかに喜んで冬を待つ気分はあるだろう。スキーが好き、あるいはコタツを囲む暮らしへのあこがれなどは「冬隣」的かも。でも、冬は冬らしく、春は春らしくなければせっかくの季節感がだらしなくなる。つまり、「春隣」を「冬隣」へ転用することに私は反対だ。精神とか感受性がこうした転用から緩むのではないだろうか。
 「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ」「しみ透(とお)れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のやうな冬が来た」。以上は高村光太郎の詩「冬が来た」の一節。やや物騒だが、冬はこの詩のようなものだろう。

日本華道社さん発行の月刊誌『ざ・いけのぼう』12月号。「特集・はなのおはなし」という連載から。

特集四季の花詩~《冬》~

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冷たく厳しい冬が強くしてくれる

 高村光太郎は東京美術学校を卒業後、海外へ留学。帰国してから約5年の間に書いた詩を時系列にまとめ、第一詩集として『道程』(大正3/1914年)を出版しました。「冬が来た」は「一九一三年」の項にあり、光太郎30歳、愛妻・智恵子と結婚する前の年の作品のようです。
 「公孫樹の木も箒になった」と表現された冬の景色。夏は緑、秋は黄色の葉が生い茂っていた公孫樹の木から、葉がすっかり落ちてしまった様子は、私たちに寒々とした冬を思い起こさせます。
 強い言葉で冷たく厳しい冬を表現し、「人にいやがられる」と語っていますが、詩の後半は厳しい冬を歓迎し、高揚する思いが歌われています。 
 寒い冬に対して、光太郎は他の季節にはない特別な力を感じていたのかもしれません。冬の厳しさが、自分を強く鍛えてくれるように思い、「僕に来い」と呼び掛けたのでしょう。冬の激しいエネルギーを自らの糧とし、どんな苦境も強く生き抜いていくという強い意志を感じます。


同じ項には北原白秋の「雪に立つ竹」も紹介されています。

同誌、華道家元池坊さんの機関誌のような感じですが、一般にも販売されていまして、Amazonさん等でも入手可能です。ぜひお買い求めを。
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花巻高村光太郎記念館さんの紹介も載せて下さっています。そこで写真を借りたいということで花巻市役所さんに連絡が行き、ついでに本文の内容も問題ないか見てほしい、ということになったそうで、すると市役所さんから当方に校訂依頼が回ってきました。

というわけで、あちこちで「冬が来た」「冬が来た」「冬が来た」……(笑)。寒さに弱い当方、これから数ヶ月は気の重い日々です。温暖な房総で暮らしているくせに、と、北国の皆さんには怒られそうですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「宮沢賢治詩集」をやはり青磁社からたのまれています。賢治さんの実家に居る事とて編纂には便利です。未発表の詩も発見されたのでそれも入れます。

昭和20年(1945)7月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

花巻の宮沢家に疎開していた折の書簡から。終戦後の翌年から刊行が始まる『組合版 宮沢賢治文庫』の編集作業、戦時中から既に行っていたのですね。

11月8日(水)、『毎日新聞』さんの山梨版記事から。光太郎の花巻郊外旧太田村隠棲、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)についてです。

山は博物館 光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る

 岩手県花巻市のJR花巻駅から西へ9キロ余り。彫刻家で詩人としても知られる高村光太郎(1883~1956年)は太平洋戦争後、太田村(現花巻市)の外れの「岩手の山」で7年間、おんぼろ小屋に一人で住んだ。東京にいた時、戦争を支持する詩を多数発表した自らに「暗愚」を見いだし、流刑を意味する「流謫(るたく)」を科した。
 戦争詩を最初に書いたのは、日本が日中戦争を始めた1937年と言われる。「事変(じへん)二周年」で<植民地支那にして置きたい連中の貪慾(どんよく)から君をほんとの君に救ひ出すには、君の頭をなぐるより外ないではないか>と戦争を正当化。精神の支柱は、欧米のアジア支配からの解放だった。太平洋戦争開戦の「十二月八日」は<東亜(とうあ)を東亜にかへせといふのみ。彼等(かれら)の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ>と主張。光太郎にとってこの戦争は「大東亜戦争」だった。
 44年の詩集「記録」には「特別攻撃隊の方々に」「海軍魂を詠ず」「戦に徹す」などを載せた。
 45年4月、東京のアトリエが空襲で焼け、翌月、宮沢賢治の縁で花巻町(同)に疎開。敗戦後の11月、太田村の小屋に落ち着いた。鉱山などで使い古した建物を移築したため、粗末で当初は電気も通じておらず、まるで炭焼き小屋と同情された。光太郎は62歳で、当時は老人とみられた年齢。肺を病み、しばしば吐血して心配されたが、以前から土に根差した文化を理想とし、地方暮らしは希望していたものだった。
 そのころ、戦争協力者への糾弾は文学にも広がり、光太郎も対象になった。知人へのはがきには、詩集の「『記録』は大本営を過信した小生の不明の記録となりました」との記述がある。
 47年7月号「展望」に、転機となる詩20編の「暗愚小傳(しょうでん)」を発表。自分の精神史を告白した。「真珠湾の日」で<天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した>とあるように、戦争支持のもう一つの柱は天皇崇拝だった。「山林」では<おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容(い)れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく>と吐露した。
 これに収めなかった詩で、中国の抗日戦争の指導者だった蒋介石に対する「蒋先生に慙謝(ざんしゃ)す」では<天皇の名に於(お)いて強引に軍が始めた東亜経営の夢はつひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、国力つきて破れ果てた。わが同胞の暴逆むざんな行動を仔細(しさい)に知つて驚きあきれ、わたくしは言葉も無いほど慙(は)ぢおそれた>。そして「ブランデンブルグ」で<岩手の山におれは棲(す)む。おれは自己流謫のこの山に根を張つて>と言い切った。
 鋳金家で弟の豊周(とよちか)は著書で「本気でむきになって、自分を島流しにした。国家に協力し、いかにうかつだったかを思い、自分の暗愚を感じていた」と振り返った。光太郎は50年発表の詩集「典型」の序文でも「私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、愚劣の典型を見るに至つて戦慄(せんりつ)をおぼえずにゐられなかつた。詩は悪罵せられ、軽侮せられ、処罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみ」と、嫌悪感を繰り返し表した。
 本職は彫刻だが、岩手にいる間は彫塑、木彫とも1点の作品も発表しなかった。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」事務局長補佐の高橋卓也さん(46)は「一般に、自ら与えた罰は流謫と言われるが、実はそれより重い罰を彫刻の封印という形で科し、苦しんだ」と指摘する。
 だが、彫刻刀はよく研ぎ、材料の木も乾燥させていた。それでもだ。モチーフを欲する「人体飢餓」で<渇望は胸を衝(つ)く。氷を噛(か)んで暗夜の空に訴へる。雪女出ろ。この彫刻家をとつて食へ。とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。その時彫刻家は雪でつくる。汝(なんじ)のしなやかな胴体を>ともだえた。
 知人の手記によると、「岩手山の肩の強さに魅力があり、粘土で手の上で作ってみた」と話していた。高橋さんは「手慰みだろう」と推察する。弟は、光太郎が晩年「気もちが楽しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」とつぶやいたエピソードを紹介し「兄が好んで試みた木彫の小品は、心が豊かな時でなければ、また心に他念が混入してゐる時などでは出来るものではない」と振り返った。
 光太郎が彫刻の封印を解いたのは52年。10月に帰京し、青森県の依頼で十和田湖畔に建立する像の制作に取りかかった。仕事が終われば戻るつもりで、「小屋はそのままに」と言い残したが、53年10月の「乙女の像」除幕後に急に体が弱り、帰れないまま2年半後に死去した。死後、いろりの灰の中から土で作ったウサギの頭が出てきた。小屋は「高村山荘」として保存されている。
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◇亡き妻に思いはせ
  戦後、小屋で独居の高村光太郎は、寂しくないかと心配されたが、1938年に他界した妻の「智恵子がいるから大丈夫」と答えていた。<智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。私の肉に居る智恵子は、そのままわたくしの精神の極北>と、50年の詩文集「智恵子抄その後」の「元素智恵子」で書いた。
 小屋から西へ徒歩5分に、高さ約30メートルの小さい山がある。東京方面の南側に景色が開け、光太郎はここに登っては妻の名を呼んでいたと、地元住民に語り継がれてきた。花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さんは「絶叫していたという人もいれば、ほがらかな感じだったという人もいる」と話す。 同書の「裸形(らぎょう)」で<つつましくて満ちてゐて、星宿のやうに森厳で山脈のやうに波うつていつでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙(めのう)質に奥の知れないつやがあつた。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう>と予言した。そこへ、十和田湖畔の像制作の依頼が舞い込んだ。現地視察に同行した建築家は「『智恵子を作ろう』と、ひとりごとのようにいわれた」と書いている。モデルを頼んで裸像を作ったが、出来上がった顔は智恵子だった。 智恵子は紙絵を多数残し、高橋さんは「光太郎先生は死期が近付くと、作品を預けていた知人に『返してほしい』とお手伝いさんに電報を打ってもらい、永眠に間に合った」と話す。
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なかなかよくまとまっていますね。

光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。

冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。

昭和20年(1945)5月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎63歳

実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

毎年この時期はそうですが「芸術の秋」ということで、紹介すべき事項が山積しています。日程的なことを考えつつ紹介する順番を勘案しているのですが、時に失念したりもしまして申し訳なく存じます。

また、ある程度共通性のある事項はまとめてご紹介しています。ネタのない時期は1件ずつご紹介するところですが……。

今日は地方紙記事から。

まず、もうすぐ閉幕の展覧会の評。10月25日(水)に共同通信さんが配信し、全国の多くの地方紙さん等に掲載されました。

【3分間の聴・読・観!(15)】芸術に命吹き込む瞬間を捉える 意志ある表現と緊迫感

 アーティゾン美術館(東京都中央区)の「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で、作品を生み出す芸術家たちの強い個性と人間味に感じ入った。作家その人と制作現場を目にすることで理解も楽しみも広がる。
 展示の「第1章」は同美術館の前身であるブリヂストン美術館が1950~60年代に製作した「美術映画シリーズ」と、絵画やブロンズ像など作品の展示で構成されている。登場するのは梅原龍三郎、前田青邨、鏑木清方、高村光太郎、川合玉堂、坂本繁二郎ら、そうそうたる顔ぶれだ。
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 制作現場の映像に、一人一人の手指の滑らかさや力の強弱が見て取れた。創造に向かうまなざしだけでなく、合間にお茶を口に含んだり近所の人と道であいさつを交わしたりする姿、アトリエ内外の景観も収められている。記録映画プロデューサー高場隆史らによる貴重な映像記録と言っていい。
 梅原たち6人それぞれを主役にした映画は1本当たり10分前後から最長で約17分間。会場では繰り返し上映されており、私は2度、3度と鑑賞した。6、7人ほどの美術家を数分間にまとめた「美術家訪問」シリーズも見ることができる。
 とりわけ鏑木清方の絵筆にフォーカスした映像の緊迫感に引きつけられた。しならせた筆先から描線がほどき出る感覚と言えばいいだろうか。清方が引く糸のように細い線が人物に命を吹き込んでいく。芸術は人間の意志と五感を掛け合わせて生まれるものだと得心した。
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 方や、能舞台で「石橋(しゃっきょう)」を舞う喜多六平太を前に、素早く手を動かして何枚もスケッチをする前田青邨の姿も映画らしい捉え方だろう。作品の誕生をカラーで追っている。
 同展では写真家安齊重男が撮影した猪熊弦一郎、堂本尚郎ら現代美術家の制作風景、パフォーマンスなどの写真を「第2章」として展示している。「現代美術の伴走者」を自任した安齊がシャープに切り取った個性は皆、鮮やかだ。同展は11月19日まで。

9月9日(土)に始まった、京橋のアーティゾン美術館さんでの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」。昨日も前を通ったのですが、当方は9月10日(日)に拝見して参りました。そのレポートはこちら。先月は『朝日新聞』さんに、やはり光太郎の名を出しつつの展評が出ています。

続いて、青森の『東奥日報』さん。一面コラムに、上記アーティゾン美術館さんの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で創作風景動画が公開されている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」70周年をご紹介下さっています。

東奥春秋 1000年の大計

 「円錐(えんすい)空間にはまりこんで(中略)立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。詩人・彫刻家の高村光太郎がそう思いを込めたブロンズ像。傍らの碑に刻まれた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を久しぶりに読み、像を見上げ、改めて新鮮な感動を覚えた。「幾千年でもか」と。
 ブロンズ像はもちろん、乙女の像のこと。先日、除幕から70周年を迎えた。その日の朝、像が建つ御前ヶ浜には、清掃に精を出す地域住民の姿があった。「除幕式の日も雨だった」と、あいにくの雨も意に介さず。やや前傾姿勢で向かい合う2体の像と、像を慕う住民の思いが湖畔の風景に溶け込んでいた。
 十和田湖地域の未来像を描く官民合同の検討が始まった。宿泊施設を誘致し、国立公園ならではの感動体験を提供するモデル事業への採択を目指す。同湖の国立公園指定から今年で87年。「十和田湖1000年会議」という名称に、湖畔再生の大計を建てる意気込みが漂う。
 「ここでしかできない暮らしを築いた上で、観光で人がくる体制をつくりたい」。初回の会議ではそんな声があったという。「幾千年でも」は、十和田湖の美しさに魅せられた彫刻家から会議に与えられた課題かもしれない。カルデラ湖の円錐空間の秋は深まりゆく。


像の清掃が行われたのは、70年前に除幕式が行われた当日の10月21日(土)でした。
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最後に、光太郎と交流があった臼井吉見が執筆し、光太郎も登場する大河小説『安曇野』関連で。

『中日新聞』さん。

臼井吉見「安曇野」知って 「大河に」市がパンフ1万部作成

 安曇野市は、同市堀金出身の作家臼井吉見(1905〜87年)の小説「安曇野」(筑摩書房)の概要を紹介するパンフレットを1万部作り、26日に市役所で配布を始めた。現在絶版のこの小説の魅力を市民に伝え、市が目指す「安曇野」を原作としたNHK大河ドラマ化への機運を高める。
 この小説は、東京で中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、彫刻家荻原守衛(碌山)、教育者井口喜源治、社会運動家木下尚江という郷土ゆかりの5人の群像を中心に明治30年代から昭和までの社会、文化、思想を描く長編大河の全5部作。現在は図書館などでしか読めないが「市と筑摩書房で復刻版を検討している」(太田寛市長)という。
 小説の知名度向上のために初めて作ったパンフはA4判8ページ。「NHK大河ドラマ化実現へ奮闘中」「完結まで10年 原稿用紙5600枚」「登場人物はなんと総勢2000人」など目を引くキャッチコピーが表紙を飾る。あらすじ、主要な登場人物の相関図のほか、中村屋サロン美術館(東京・新宿)や碌山美術館、臼井吉見文学館など関連施設の案内も載る。裏表紙も面白い。板垣退助、森鷗外、太宰治、バーナード・リーチ…と登場人物の一部の名前がずらーっと並ぶ。
 大小の字ばかりの表紙、裏表紙という思わず手にしたくなる装丁や、キャッチコピーも自ら考えた政策経営課の寺島直樹さん(37)は「難解ともされる小説の中身を分かりやすくまとめた。郷土にこれだけの先人が居て、時代を生きたことをより多くの皆さんに知ってもらえたら」と話している。
 支所や市内外の美術館、博物館、イベントでも順次配布する。本年度内に小説を紹介するホームページも公開する。(問)同課=0263(71)2401
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『信濃毎日新聞』さん。

“安曇野”の名を広めた小説「安曇野」 パンフレット完成

 安曇野市は26日、市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」を紹介するパンフレットが完成したと発表した。完結から約50年がたち入手が難しくなる中、安曇野の地名を普及させるきっかけとなった同小説に光を当てる。市役所や市内外の美術館、博物館などで配る。
 同小説は、全5部作(原稿用紙約5600枚)で1974(昭和49)年に完結した。明治から昭和にかけて活躍した、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))や新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描き、登場人物は2千人を超える。
 パンフレットはA4判、8ページ。小説のあらすじや主要な登場人物の相関図、市内ゆかりの施設を紹介している。市は同小説のNHK大河ドラマ化を目指しており、来年3月までに小説の紹介サイトを開設予定。太田寛市長は「安曇野という言葉を広めた小説を知ってほしい」としている。
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問題の(別に問題はないのですが(笑))パンフレットがこちら。『中日』さん、『信毎』さん、ともに光太郎の名がありませんが、パンフにはしっかり載っています。
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大河ドラマ誘致の一環ですね。実現するといいのですが……。というか、大河ドラマ「高村光太郎」も見てみたい気もします(笑)。

他に11月1日(水)の「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件も報道されていますが、そちらはまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

いよいよ緊迫して来ましたが、これからこそ国民の力の真価が出るわけです、夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり、各自十全に戦ふ時です、

昭和20年(1945)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

敗戦のおよそ半年前。「夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり」……。真剣にそう考えていたのでしょうか……。

3件ご紹介します。

まず、昨日もお伝えした青森県十和田市の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について。地方紙『東奥日報』さんが報じて下さいました。

十和田湖・乙女の像70歳、感謝込めきれいに

003 十和田湖畔休屋(青森県十和田市)の御前ケ浜に立つ乙女の像の除幕式から70周年を迎えた21日、湖のシンボルに感謝の意を表そうと、地元の休屋町内会が像や周辺の清掃活動を行った。
 地域住民のほか、十和田湖を世に広く紹介した文人・大町桂月や乙女の像の研究に携わる市民団体有志ら約20人が参加。観光客でにぎわう前の午前7時半から30分余り、像や台座などを雑巾で水拭きし周辺の敷石にブラシをかけた。
 雨の中の作業となったが、同町内会の金村金作会長(74)は「乙女の像は十和田湖一番の名物なので、末永く大事にしたい」と話した。
 都内在住で、夫と観光に訪れた小田奈緒子さん(70)は清掃活動のことを知り「像は力強いという印象。地元の方は誇りを持っているのでしょうね」と話していた。
 乙女の像は、大町桂月、県知事・武田千代三郎、法奥沢村長・小笠原耕一ら十和田湖の「三恩人」の功績をたたえ、湖の国立公園指定15周年を記念し建てられた。1953年10月21日、制作者の彫刻家高村光太郎らが参加して除幕式が行われた。

あと30年経てば、100周年なのですね。光太郎自身は像を題材にした詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」で、「いさぎよい非情の金属が青くさびて/地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と謳いましたが。

続いて、智恵子の故郷・福島県の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」というコラム的な連載です。

福島県 今日は何の日 10月19日 2002(平成14)年10月20日 ねんりんピック開幕 福島市で開会式

002 第15回全国健康福祉祭ふくしま大会(うつくしまねんりんピック2002)が開幕した。総合開会式は福島市の県営あづま陸上競技場で常陸宮ご夫妻をお迎えして行われた。
 テーマは「ほんとうの空に響け ねんりんの輪」。全国47都道府県と12政令指定都市選手団が入場行進、ウエルカムコンサート、マーチングバンドなどが行われた。
 全国から60歳以上の約9800人が参加、3日間にわたって県内10市13町1村を会場にスポーツや文化の23種目で熟年の力と技を競った。 

『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとうの空」(正確には「ほんとの空」ですが)の語、福島では折あるごとに使われていますが、同じ「福島県 今日は何の日」によれば、県と県観光連盟が「観光ふくしま」のキャッチフレーズとして「“ほんとの空”があるふくしま」を制定したのが昭和54年(1979)。意外と古い話でした。

その後、平成2年(1990)には、5年後に開催された第50回国民体育大会のスローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」となっています。その流れでねんりんピックでも「ほんとうの空に響け」としたのでしょう。

今後も使い続けていただきたいところですが、出来れば正確に「ほんとの空」の方で、と存じます。

最後にテレビのローカルニュース。FNN系の福テレさん、10月15日(日)の放映でした。

安達太良山の雄大な自然に抱かれ”ととのう” 絶景サウナと極上水風呂<岳温泉 陽日の郷 あづま館>

 2022年10月には客室がリニューアルした、福島県二本松市にある岳温泉「陽日の郷あづま館」 洋室の「東扇」は、木のぬくもりあふれる、広々としたスタイリッシュな空間。窓からは、安達太良山を望むことができる。この「あづま館」に、日々の疲れを癒してくれるサウナがリニューアルオープンした。
 施設最上階の7階に、サウナフロアがリニューアル。サウナプラン利用者限定で、特別なサウナを楽しむことができるという。サウナは「空サウナ」と「山サウナ」の2タイプで、貸し切りもできるという。
◆一日最大4組限定・朝夕付ビュッフェプラン 一泊24200円~
 昼も夜も景色を楽しめる「山サウナ」は、被災地で採れた木材を使用。樽型のバレるサウナで、森を眺める1台と空間を楽しむ1台、計2台を完備。自然を存分に感じることができる。
 「空サウナ」では、全面ガラス張りの開放的な空間が広がり、“ほんとうの空”を見渡すことができる。サウナヒーターは東北初導入のikiヒーター。選べるアロマオイルをかけロウリュウを満喫。
 火照った体のクールダウンは「インフィニティ水風呂」へ。自然と一体化したような気分で、絶景を眺めながらととのうことができる。
 サウナを出た後には、ラウンジでレモンサワーやビールが飲み放題。
 この極上のサウナが利用できる一日一組限定の日帰りプランや宿泊プランなど、詳しくは「陽日の郷 あづま館」のホームページをご覧ください。
<陽日の郷 あづま館> 二本松市岳温泉1-5 https://azumakan.com/
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「空サウナ」、いい感じですね。

十和田湖、そして岳温泉、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御著“生ける魂”を拝受、忝く存じましたが、昨夜何げなく繙読いたしましたところ、身につまされるやうな事ばかりにて、貴下の衷情に思をはせ、殆ど涙を流しながら読了しました。 殊に最後の章に至つて同感に堪へず、巻をふせて長大息いたしました、小説をよんでこんなに感動したのはめづらしい事でした、

昭和18年(1943)5月24日 中山義秀宛書簡より 光太郎61歳

中山義秀は智恵子と同じ福島中通りの西白河郡大屋村(現・白河市)出身の小説家。『生ける魂』はこの年刊行された中山の小説で、『智恵子抄』から詩篇を引用しつつ、亡妻との思い出にふれています。そういう内容だから、ということもあるのでしょうが、光太郎が小説をこれほど賞めたのは珍しいことでした。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

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美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
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劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
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円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
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『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
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光太郎の揮毫は題字のみです。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
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高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
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直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

まず、8月19日(土)、『東スポ(東京スポーツ)』さんの配信記事から。紙面にも載ったのでしょうか。

泉房穂氏 還暦迎え〝岸田政治〟にズバリ「異次元なんて言葉遊び」「まやかしだ」

000  元兵庫県明石市長の泉房穂氏が19日、自身の「X」(旧ツイッター)を更新し、自身の誕生日に〝決意表明〟を行った。
 この日X(旧ツイッター)で誕生日を祝う風船が飛んだことについて「日付が変わり『風船』がいっぱい上がってきた。素直に嬉しい」と喜ぶと「昨日までの60年間、自分なりには精一杯生きてきた。〝人生1周目〟が終わり、いよいよ今日から〝人生2周目〟が始まる。皆さん、これからも引き続き、よろしくお願いいたします」とつづった。
 また誕生日を祝うコメントが多く届けられていることに「皆さん、「『お誕生日おめでとう』と『お祝い』をしていただき、ありがとうございます」と感謝の気持ちを明かすと「『明石の街を、やさしくしてみせる』との10歳の誓いを、人生1周目をフルに使ってやってきた。今日から人生2周目。『国の政治も、やさしく変える』との60歳の誓い。さて、変えるまでに何年必要なんだろう…」と投稿。60歳という節目に新たな誓いを立てたようだ。
 さらに、〝やさしく変える〟と誓った「国の政治」について「私は日本に政治がないと思う。ほんとの政治をしてほしいと思う。みんなは驚いて総理を見る。今の総理を選んだのは、昔ながらの汚い派閥政治だ。異次元なんて言葉遊びも、やってるフリのまやかしだ。私は国民の負担を気にしながら思う。国民のために、官僚や業界の反対を押し切ってでも決断して実行するのがほんとの政治だと思う」と自身の見解を示すと、ユーザーから大きな反響が寄せられている。

問題のポスト(「ツイート」という語はマスク氏によって滅ぼされましたね)がこちら
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言わずもがなですが、『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)のリメイク。GB(グッジョブ)ですね(笑)。

しかし、『東スポ』さんに光太郎の名がなかったので、他の方から「東スポのこの記事書いた人、高村光太郎はおろか『智恵子抄』も読んだこともない、知らないんじゃないかと思ってしまった」という指摘。まさかそんなことはあるまい、とは思うのですが……。

泉氏も後追いのポストで……
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まぁ、以前には、歌手のサンプラザ中野くん氏が、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)オマージュで新社会人となる若者へのエールを送ったところ、氏のオリジナルだと思われて報道されたりネット上で絶賛されたりといったこともありましたが……。

ちなみに泉氏、もう1件「あどけない話」インスパイアを投稿なさいました。
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これもいいですね。

さて、とりとめのないこのブログ記事にオチを付けるため、智恵子の文章を。大正13年(1924)5月、雑誌『女性』に載った「総選挙に誰れを選ぶか?」の問いに対するアンケートの回答です。

もしあったら……リンカーンのやうな政治家を選びませう。日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。

もしあったら」は投票権。戦前には女性の参政権がありませんでしたので。

ところが、この後は消極的な内容。

しかしうまくその時までに、私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。

現代でもこのような考えでの棄権が多いのではないでしょうか。なんとかこの現状を変えていきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生は七日には参上出来るでせう。それまでに嘉納治五郎先生の肖像を作つてしまふつもりでゐます。

昭和9年(1934)7月3日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

大正期にはしっかりした意見を雑誌に寄せていた智恵子も、心を病んで九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。

嘉納治五郎先生」は、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範。「肖像」は光太郎の父・光雲の代作として光太郎が作ったレリーフです。光雲は実在の人物の肖像や、カービングではないモデリング制作を苦手としていましたので、同様の例がいくつもあります。
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左端は、髙村家に残っていた原形からブロンズに鋳造したもの。10年前の「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の際にお借りして出品しました。

中央と右は当方が入手したもの。おそらく頒布(販売?)用に量産されたもので、あまりいい出来ではありません。いわゆる「抜きが甘い」状態です。素材もブロンズではなく、もっと軽い金属。裏面のラベルを見ると、ニセモノでないことはわかるのですが……。

掲載日順にまず『毎日新聞』さん。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラム、8月11日(金)掲載分です。

季語刻々 立山の秋に腰掛けかりんとう 鶴濱節子

「立山の秋に腰掛け」が雄大でいいなあ。かりんとうが実にうまそう。句集「始祖鳥」(2012年)から。この作者、私の近所に住むが、かつていっしょに立山に登った。俳句仲間に山好きがいて彼に先導されての登山だった。以来、節子さんは山ガールだ。「安達太良(あだたら)の智恵子の空へ登山道」も彼女の作。今日は山の日。

メインは立山連峰の句ですが、最後に智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の句。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語が使われた光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュですね。

続いて『山形新聞』さん。8月13日(日)の一面コラムです。

談話室

▼▽「新鮮なものになるとまったくうまい」。明治生まれの詩人・高村光太郎はこう綴(つづ)る。果物や野菜、肉魚ではなくビールの話である。注ぎたてのグラスをぐっと干す。酷暑で、夜ごと欲しくなるという方は多いだろう。▼▽いつ飲んでもうまいが最初の一杯の喉越しは格別だ。高村は一口目の感動を「いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」と記す。そんな爽快感を大勢で味わえるイベントが先日、山形市で開かれた。山形一小旧校舎が会場の「ビアナイト」だ。▼▽こだわりグルメの店もあったが、この日の主役は県内にある複数の醸造所が手がけるクラフトビール。中には県の花・紅花を使った山形らしさ満開の地ビールもあった。若い人のビール離れが言われているが、会場では友人同士や会社の同僚といった感じの若者が多かった。▼▽大量生産とは異なる個性的な味や香りがクラフトビールの魅力だろう。加えて多彩なラベルが目を引く。「取りあえずビール」ではない楽しさがいい。高村は1、2本でやめておくのが良さそうとも書いている。味わいを追求するには度を超えないこと。助言は今に通じる。

引用元は昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表された随筆「ビールの味」。以前も抜粋でご紹介しましたが、再掲します。

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。(略)何でもさうだがビールも器物で味が違ふ。錫の蓋のついたいはゆるシユタインで飲むとコクが出る。薄手の大きいギヤマンもよし、キリコもいい。いつも無色透明なのがいい。一番飲み心地のいいコツプの大きさは四分の一リツトルくらゐであらう。ビールはうまいが、本当の味は一二本で止めて置く所にあり相だ。(略)
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全文を読みたい方は、令和3年(2021)、平凡社さん刊行のアンソロジー『作家と酒』をどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は一時よくなりかけたのに最近の陽気のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送つて来ました。小生の三年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねをしてゐるちゑ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。


昭和9年(1934)5月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎52歳

昨日ご紹介した書簡と前後してしまいました。

九十九里浜に預けられた智恵子、その当日から「千鳥と遊ぶ智恵子」だったとは驚きです。

『朝日新聞』さん岩手版、8月10日(木)掲載の記事です。

(賢治を語る 没後90年)湯あみや自炊、昔の風情を 大沢温泉・高田貞一社長/岩手県

 花巻市の山あいにある秘湯「大沢温泉」は、北東北の詩人・宮沢賢治が通い詰めた温泉としても有名だ。賢治と温泉の関わりについて、同温泉の高田貞一社長(67)に聞いた。

――大沢温泉の歴史は?
 今から約1200年前、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)軍の毒矢に負傷した際、現在の大沢温泉のお湯につかったところ、ほどなく傷が癒えた、と伝えられています。
――映画化された門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」にも、大沢温泉が出てきます。
 賢治は少年のころ、信仰心のあつい父に連れられて、仏教会の講習会場だった大沢温泉に何度も足を運んでいます。学生時代は悪ふざけをして、湯をくみ上げる水車を止めてしまい、風呂場が大騒ぎになったという逸話も残っています。花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯あみにも来ていたようです。
 また、賢治の死後になりますが、詩人の高村光太郎も1945年、空襲で東京のアトリエを焼失し、賢治の親類を頼って花巻に疎開しています。以後7年間、花巻を愛し、大沢温泉を「本当の温泉の味がする」と言って喜んで頂きました。
――温泉が賢治の作品にも影響したと思いますか?
 それはどうでしょうね。ただ、賢治の作品は岩手の大自然や生活などを題材にしたものが多いです。大沢温泉は山あいにあり、豊かな自然に恵まれています。あるいはそういうこともあったかもしれません。
――賢治の写真は今も、昔ながらの雰囲気が味わえる「湯治屋」に飾られています。
 宮沢家から頂いた集合写真はパンフレットに使わせて頂いたり、館内に飾らせて頂いたりしています。
 約200年前の建物で、賢治ゆかりの自炊部がある「湯治屋」も、賢治の時代から徐々に変わってきています。例えばトイレなどは水洗になり、自炊部で自分で料理して食事を取っている人は全体の1~2割程度。多くの方が館内の食堂でご飯を食べていらっしゃいます。
 かやぶきの屋根を含め、古い建物を維持していくのは大変ですが、賢治が通った場所でもあり、「昔ながらの雰囲気が好きだ」というお客さんもたくさんいるので、今後も維持していきたいと考えています。

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上記集合写真、明治39年(1906)の撮影だそうです。豊沢川にかかる「曲り橋」の上と思われます。手前のガス燈(?)が何ともいい感じです。
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というわけで、賢治や光太郎の息吹が今も確かに感じられる大沢温泉さん、花巻にお泊まりの際にはぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

先程申すのを忘れましたが、ボール紙の菓子折の中にちゑさんのよく喰べるアツプルパイがありますから出して下さい。出さないと二三日で腐ります。今日は乗合が無くてタクシで来ました。


昭和9年5月12日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

千葉九十九里に移り住んでいた母と妹夫婦の元に預けた智恵子を見舞っての帰り、途中の大網停車場から。現代ならスマホで電話をかけるか、LINEを送るか、という内容ですね。「乗合」は乗合馬車かと思われます。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず『宮崎日日新聞』さん、一昨日の一面コラム。

くろしお    コメ愛着

 1924年5月、医学留学の途中でドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉は「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて歌を詠んでいる。「イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや」。
 連日の洋食に飽き、ようやく手に入れたコメ。しかし「?(か)みあてし砂さびしくぞおもふ」と続けて詠んでおり味や食感は日本と少し違ったのではないか。「コメを選んだ日本の歴史」(原田信男著)によると、望郷のさびしさはコメによってさらに増幅したようだ。
 また米国を経てロンドン・パリに留学した経験を持つ詩人の高村光太郎は肉食を謳歌(おうか)した。しかし56歳となった1939年「米のめしの歌」という詩で「米のめしくひ 味噌汁食べて、われらが鍛えた土性骨(どしょうぼね)。われらのいのち 米のめし」とうたい、コメを絶賛している。
 確かに今も外国を旅した人から「苦労したのは食事。日本のコメが恋しかった」という話はよく聞く。パンや肉食を好む人も年齢を重ねてコメ食になったという話も珍しくない。長年培われた食習慣は食の志向を決定づける。食が多様化した現在も日本人のコメへの愛着は信仰に近いといえそうだ。
 ただ2022年度の食料自給率がカロリーベースで前年度と同じ38%、生産額ベースで5ポイント低下の58%と聞くと、コメを中心とする日本の食が危ういと心配する。先進国では最低水準。輸入に頼らず食を守るには本県のような生産基盤の強化が求められよう。

引用されている「米のめしの歌」は、光太郎生前には活字になったことが確認できていない作品です。『高村光太郎全集』には、残された草稿から採録されました。
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   米のめしの歌004

      一
  茶わんもつのは  ひだりの手。
  箸をもつのは   みぎの手。
  米のめしくひ   味噌汁たべて、
  われらが鍛へた  土性骨。
  低きに居り    高きに住む。
  われらのいのち  米のめし。

      二
  朝日出るのは   野のひがし。
  夕日しづむは   山のにし。
  田植 草とり   稲こきをへて、
  りつぱに仕上げた 倉の米。
  粒々なほ     辛苦のあと。
  われらのいのち  米のめし。

      三
  秤もつのは    みぎの手。
  枡をもつのは   ひだりの手。
  神代ながらの   瑞穂の国は、
  八千万石     民の汗。
  たのむに足り   くへど飽かぬ。
  われらのいのち  米のめし。

草稿の欄外には、「国民歌第二試作」の文字が見えます。「国民歌」は、「文部省撰定日本国民歌」。日中戦争がすでに激化していた昭和13年(1938)、当時の文部省が「日本国民歌運動」の展開を開始しました。

これに先立つ昭和11年(1936)には、日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれ、ヒットします。国としても同様の運動に本腰を入れ始めたのでしょう。文部省社会教育局による「日本国民歌運動」の主旨は、次のようなものでした。

 文部省に於きましては今般日本国民歌六篇を制定して之を公にすることになりました。我国に於ては現在遺憾乍ら国民の各層を通じて唱和すべき国民の歌と称すべきものが乏しいのでありまして、一段と国民的意識を振起す可き此の国運の大躍進期に際しては殊に其の思ひを深くするのであります。国民歌は一切の国民生活の基調をなす清純雄渾な国民的感情の表現でなければなりません。かゝる歌曲こそ国民の心を一に融和せしめその情操を高め志気を鼓舞するものであります。此度予定せられたる六篇はかゝる趣旨に基き我が国伝統の精神、理想、風物、生活等に取材して制作せられたるものでありまして之に携られた作詞家、作曲家の努力により何れも私共の希望を満たすものを得ました事は喜びに堪へぬ処であります。之が国民の凡てに唱和せられるに至る事を願ふ次第であります。尚文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもりでありますが、之が我が国の音楽文化を向上し、国民的情操の涵養に資する所とならば幸せあります。
  (『青年と教育』第四巻第三号 昭和14年(1939)3月)
 
携られた作詞家」の一人、斎藤茂吉が昭和13年(1938)12月2日に書いた日記には、以下の記述があります。

文部省ノ池崎参与官ノ所ニ行クト、「国民歌」ノ歌詞ヲ作ツテクレ、北原白秋、佐藤春夫、高村光太郎、茅野雅子、土岐善麿ノ諸君と一シヨ也。

おそらく光太郎にもほぼ同じ頃に依頼があったものと考えていいでしょう。これに応え、光太郎はおそらく二篇の詩を書き上げ、光太郎と組むことになった相棒の作曲家・箕作秋吉に送りました。一篇は「こどもの報告」。そしてもう一篇が「米のめしの歌」です。

このうち、「こどもの報告」の方が採用され、箕作が作曲。楽譜が出版されたり、レコード化されたりしました。
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    こどもの報告

      一
  めがさめる、とびおきる。
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こゝろも、からだも、はつらつ。
  お父さまお早うございます。
  お母さまお早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。
  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。

      二001
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ジヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。
  こゝろも、からだも、のびのび。
  お父さまおやすみなさいませ。
  お母さまおやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。

で、「米のめしの歌」の方はボツ。先述の文部省の趣意では「文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもり」とあったのが、「こどもの報告」を含む第一弾がどれも不評だったためではないかと推定されます。

太平洋戦争開戦前から、既にこうした翼賛詩を書いていた光太郎ですが、まだ真珠湾攻撃以前は国民の心を荒廃から救う、的な意図がメインでした。

『読売新聞』さんから。このところ、同紙では「わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ」として、戦前戦後の投書欄に載った読者投稿を時折再掲しています。下記は6月に紙面に掲載されたようですが、最近、ネット上にもアップされました。終戦翌月の投稿ですね。

進駐軍から貰った煙草の包装に魅入られる…日米の力の差痛感(1945年9月)

 道案内をしてやった進駐軍の兵士からアメリカ煙草を貰った。家に帰って秋窓の灯の下でその外装を眺めている中、次第に私はその豪奢な色彩に魅入られ、何か永い間の飢涸が醫されてゆくような感慨に浸った。それから改めて復員の友人に貰った「ほまれ」の袋をとり出し、これとそれとを引きくらべながら、ここにも懸絶する日米物力の差を見て、今さら愁然たる吐息をついた。
   忘れもせぬ昭和十六年十二月八日。その日開催された中央協力会議の席上で、詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言し「健康や精神生活は身辺日常の美の力に培れることを看過すべからず。この美を欠くとき人心は荒廃する」と、いみじくも喝破されたのであったが、やんぬる哉、この提案は、美の何たるかを解せる官僚共によって、全面的な実現を封じられてしまった。
 「無用の用」を抹殺し、美を蔑ろにした結果は、戦時中、恐るべき人心の荒廃となって覿面に現われ、今なほ満目の焦土はこの世の飢餓地獄と化しつつある。この痛烈な現実的証跡を省るなら、せめて専売局よ、殺伐たる「みのり」の袋に色彩を点ぜよ。せめて運輸省よ、客車を明るうして標語ならぬ本格的美術ポスターを掲げてくれ。然らずんば、煙草の外装ひとつからも無批判的な外国文化心酔の傾向が、不幸な劣等感を助長しつつ、やがて滔々と始まるであろうかも知れぬのである。(1945年9月30日)

「中央協力会議」は、大政翼賛会の主催で、地方代表、各界代表の議員を選定、それらを一堂に集め、とりあえず下意上達の姿勢を見せ、国民の士気を高揚しようと始めたものです。光太郎も各界代表の議員(岸田国士の推薦で就任)として、昭和15年(1940)12月の臨時協力会議、翌年の第一回会議に出席し、発言しています。しかし、投稿にある昭和16年(1941)12月8日の第二回会議は、ちょうど開戦の日と重なったため、議員が集められたものの、それどころではなく流会となりました。

したがって、投稿の「詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言」は実際には行われなかったのですが、そのあたりの経緯は戦中戦後の混乱期なので、投稿者もわからなかったのでしょう。実際には行われなかった提言ですが、会議に先立ち、こんな提言をするというのは報道されており、投稿者はそれを読んだのだと思われます。

工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す

 国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない、しかも戦ひが長期になれば人心がともすれば荒廃するからこれを緩和し同時に工場に働く産業戦士の頭を精神的な方向に向けるために美術家を総動員して大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院などの設計に合理的な美を与へるばかりでなく壁面彫刻や■■をどしどし活用すべきである、一方いまのやうな時局は絵だけかいてゐてよいのだらうかとの美術家たちの気迷ひを一掃して明確な方向を示すことにもなると考へてゐる

昭和16年(1941)12月5日の『大阪毎日新聞』から採りました。「■」は活字が潰れ、判読不可能でした。

やがて太平洋戦争の敗色が濃厚となるにつれ、「国民の心を荒廃から救う」的な光太郎の意図は、変容していきます。すなわち、「滅私奉公」→「尽忠報国」→「挙国一致」→「七生報国」。

下記は大戦末期の、特攻隊を讃美する詩。『高村光太郎全集』では、やはり初出掲載誌不詳で残された草稿から採録していましたが、数年前、初出誌『陸軍画報』第13巻第2号(昭和20年=1945 2月1日)を入手しました。
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同誌、「特輯・全軍特攻」と銘打ち、特攻各隊の戦果や、散華した隊員達の遺詠なども載せています。
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粛然とした気持にさせられます。しかし、彼らを無条件に「英霊」と讃えるのでもなく、逆に「犬死に」とディスるのでもなく、こうした悲劇がくり返されることの無いように、と考えて行動していくのが、現代に生きる我々の使命なのではないかと存じます。

【折々のことば・光太郎】

昨日午后二時に無事帰宅しました。今度はいろいろ御世話様に相成り御礼の申様もありません、斎藤さん御夫婦にも何卒よろしくお伝へ下さい。 長い間ちゑ子を中心に生活してゐたため、今ちゑ子の居ない此の家に居るとまるで空家に居るやうな気がします。病気のちゑ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護願ひ上げます。


昭和9年(1934)5月9日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子、もはや自宅での看護は不可能、と、千葉九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センの元に預けます。智恵子がかつて「空が無い」と評した東京ではなく、自然豊かな九十九里浜で、母親や妹夫妻(斎藤さん御夫婦)に囲まれて暮らすことで、恢復を願ったのでしょう。

シニカルな見方をすれば、智恵子を棄てた、とも云えるかも知れませんが、そこまでは云いたくないところです。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

まずは7月8日(土)に行われた、川内村さんの第58回天山祭りについて。

『福島民報』さん。当方の名も出して下さいました。

福島県いわき市出身の詩人草野心平さんしのび献花や朗読 川内村で天山祭り 児童生徒が自作の詩披露

 福島県いわき市出身で、川内村名誉村民の詩人草野心平さんをしのぶ第58回天山祭りは8日、村内の村民体育センターで開かれ、村民やファン、現代詩誌「歴程」の同人らが心平さんに思いをはせた。
 実行員会の主催。村、村観光協会などの共催。福島民報社などの後援。村内外から100人以上が参加した。井出茂実行委員長、遠藤雄幸村長があいさつした後、歴程同人の斎藤貢さんと渡辺一夫村議会議長が祝辞を述べた。
 献花に続き、心平さん自身が朗読する「富士山 作品第肆」と「青イ花」のCDが流れた。川内小中学園6、7年生が歴程同人から指導を受けてつくった詩を披露した。歴程同人による朗読では、参加者が心平さんの詩の世界に浸った。
 心平さんの生誕120周年を記念し、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して講演した。アトラクションでは、村に伝わる西郷獅子や紙芝居が披露された。
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同じ件で『福島民友』さん。

草野心平しのび詩朗読 生誕120周年、川内で天山祭り

 福島県川内村の名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平(いわき市出身)を顕彰する「天山祭り」が8日、同村で開かれた。今年は心平の生誕120周年に当たることから、関係者が詩の朗読などを通じて心平をしのんだ。
 雨模様だったため、会場を心平の蔵書を収めた「天山文庫」から、村民体育センターに移して開催した。会場には村民に加え、心平らが創刊した同人詩誌「歴程」の同人が集まり、実行委員会の井出茂委員長らが心平の写真に献花した。
 祭りでは、川内小中学園6、7年生による連詩「川内村の未来を創る」が朗読された。「か」から「る」までの文字を最初の一文字に、児童生徒14人が作詩したもので、川内での生活をみずみずしい言葉で詠み上げた。
 このほか、伝統芸能の西郷獅子や紙芝居なども披露された。
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続いて、『福島民報』さんの連載「福島県 今日は何の日」。

7月9日 1991年(平成3年)7月9日 智恵子の生家修復 仮オープン

001 二本松市の高村智恵子の生家が修復され仮オープンした。
 旧国道4号沿いにある智恵子の生家は造り酒屋で、1883(明治16)年に建てられた。木造2階建て延べ300平方㍍。智恵子は1886年に生まれ、女学校に進むまでこの家で生活した。
 しかし、智恵子の生家の長沼家は大正末期に没落し建物は人手に渡っていた。前年、ふるさと事業の一環として建物の永久保存を決定。建物を買い取るなどし修復していた。
 外観は全面的に化粧直しされ、醸造していた清酒「花霞」の大看板を設け、新酒のできたことを知らせる直径70㌢の杉の玉「酒林」も軒下に下げた。

ただし、民報さん、ネットに出た記事の見出しで1年間違えています。「1991年」は合っているのですが、カッコして「平成2年」。1991年は正しくは平成3年です。
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カッコの位置も変ですし、担当された記者? の方、かなりテンパッていたようですね(笑)。

調べてみましたところ、翌月の8月14日、当方、初めて智恵子生家を訪れていました。
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翌年4月には生家裏手に智恵子記念館がオープン。

まだ二本松市と合併する前の旧安達町の時代で、一連の事業には当時の竹下内閣の「ふるさと創成事業」で全国各市町村に配られた1億円が使われました。平成7年(1995)には、旧建設省が主催し、その1億円の使い方がナイスだったという自治体などに贈られた「手づくり郷土(ふるさと)賞」が安達町に授与されてもいます。
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バブル景気真っ盛りとはいえ、1億円をドブに捨てるような(死語ですかね(笑))使い方をした自治体も少なくない中、旧安達町の英断には頭が下がりました。それまで長沼家に関しては、初代の次助が流れ者だったこと、智恵子を含めた一家の悲惨な末路等もあり、この地域ではタブー扱いされていた面がありましたし……。

川内村さんの心平顕彰を含め、今後とも、継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

用事でちゑ子の帰京が二十日頃迠のびたため友の会の小旅行が月末まで出来なくなりました。 残念ながら此事ご報告まで。


昭和3年(1928)6月7日 今井武夫宛書簡より 光太郎46歳
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智恵子実家の長沼酒造は智恵子の弟・啓助があとを嗣いでいましたが、経営がどんどん傾き、この年にはどうしようもない状態になっていました。「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」が書かれたのが5月11日ですが、長沼酒造は不動産登記簿によれば、前日の5月10日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。

友の会」は「ロマンロラン友の会」。「東方」の文字は、この年刊行された「友の会」メンバーによる雑誌『東方』の題字と同一の木版です。「あどけない話」も『東方』に掲載されました。

昨日は都内に出て、「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」及び「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」と、ハシゴして参りました。レポートしたいところですが、本日は福島県川内村にて「第58回天山祭り」があり、もう出かけねばなりません。

それぞれのレポートは明日以降ゆっくり書くこととし、本日はサクッと書けるところで地方紙記事系のネタを2本。

まずは『岩手日報』さん。花巻高村光太郎記念館さんでのテーマ展『山のスケッチ』について報じて下さいました。

高村光太郎が見た自然美体感 花巻・記念館でテーマ展

 花巻市太田の高村光太郎記念館でテーマ展「山のスケッチ」が開かれている。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が花巻疎開の際に目にした花や山菜のスケッチ複製のほか、詩の直筆原稿も初公開。展示品を通して、光太郎が目にした自然の美しさを感じることができる。
 直筆原稿と水彩画、スケッチの精密複製など計11点と写真パネルを展示。スケッチは、散文「山の春」に登場する草花が中心で、ショウジョウバカマなど柔らかなタッチの作品だ。ゼンマイは繊細な筆遣いで、創作活動に生かすための精緻さが見て取れる。
 8月31日まで。午前8時半から午後4時半。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは0198・28・3012へ。
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もう1件、『福島民報』さんから。

論説 【トクヨと智恵子】顕彰・交流の広がりを

  「日本女子体育の母」と呼ばれる二階堂トクヨは若いころに本県で学び、教え、二本松市出身の洋画家高村智恵子の少女時代に師弟の絆を結んだ。トクヨが創立した日本女子体育大学は今年10月、100周年の記念式典を催す。出身地の宮城県大崎市では顕彰する取り組みが進んでいる。改めて2人の歩みに光を当て、交流拡大につなげたい。
 トクヨは1880(明治13)年に生まれ、福島民報社初代社長の小笠原貞信の養女となって本県尋常師範学校(現福島大)で勉学に励んだ。卒業後、油井小の教員を務め、在籍していた6歳下の智恵子と親交を深めた。後年、トクヨが英国留学に旅立つ際、智恵子は夫となる高村光太郎と港で見送り、留学中の恩師に着物を送ったという。
 英国で女性の健康と体育の重要性を深く学び、日本の女子体育の道を切り開いていく。1922(大正11)年、東京に二階堂体操塾を創設し、女性の体育指導者の育成に努める。門下から陸上女子800メートルで日本女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝が羽ばたいた。塾は専門学校、短大を経て日本女子体育大学となり、著名な選手と多くの指導者を輩出している。
 故郷の大崎市三本木地区で2016(平成28)年、有志らが「日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会」を発足させた。収集資料や研究成果を会報などで紹介し、生家のあった場所に案内板を設置した。地元の小学校で「二階堂トクヨ杯」のなわとび大会を開くなどして、功績を伝えている。
 本県でも智恵子との絆を入り口に、時代の先駆者となった生き方や思いを広く知ってほしい。二本松市智恵子記念館には智恵子が福島高等女学校(現橘高)時代に書いた手紙が展示されている。達筆の文面に「小笠原先生」としてトクヨが登場する。若き智恵子のユーモアと親しみがにじみ、ほほえましい。
 二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」をはじめ、郷土の偉人に熱い思いを寄せる人々がそれぞれの地元にいる。今年は高村光太郎の生誕140年にも当たり、関連する企画が各地で催されている。トクヨと智恵子への関心が高まり、ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい。

旧安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校で智恵子の恩師だった、二階堂トクヨの顕彰活動が起こっているそうで。

トクヨと智恵子についてはこちら。
福島民報あぶくま抄「女子体育の母」。
大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」第二章。

ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい」。まさにそのとおりですね。

【折々のことば・光太郎】

いつぞやわざわざあなたが来て下さつて御話をきいてゐるうちに自然とその気になつて御承諾いたし、承諾した以上はどうしてもやらうと存じ、あれから一度「大調和」主催の講演会といふものに試みに出てみましたが、十分間位話すのがやつとの事にて、それも意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬し、結局小生はとても講演は出来ない人間と思ひきめてしまひました。幸ひ今の処演説する必要の無い仕事を職業としてゐるわけで、此点大いに安心してゐる次第なのです。


昭和2年(1927)6月9日 石井鶴三宛書簡より 光太郎45歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と親しかった画家の石井柏亭の実弟です。この頃、自由学園さんで美術教師を務めていました。そこで、同校で光太郎に講演をしてくれるよう依頼、光太郎も一旦は引き受けたものの、結局、断っています。

当方も、あちこちで講演や市民講座講師等をする機会が多く(今日もこれから川内村で講演ですが)、いつも「意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬」しているな、と感じています。人前でしゃべるのに抵抗はありませんが、自信もない、という感じです。光太郎もそうだったのではないかと思われます。

ただ、それが戦時中になると一転、かなり積極的に講演に取り組むようになっていきます。

嬉しい悲鳴ですが、またぞろ取り上げるべき事項が目白押しとなってきましたので、新刊の雑誌系、3冊まとめてご紹介します。

まず、新刊書店さんで平積みになっています、月刊の『文藝春秋』さん7月号。
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「総力特集 一〇〇年の恋の物語 一つの恋が時代を変えることもある」。
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まず新聞広告で知りました。かつてはこの手の特集を組んだ雑誌や、こうした内容をメインにした書籍等で光太郎智恵子が取り上げられることが多かったので、今回も光太郎智恵子の項はあるかな、と思ったのですが、項目としてはありませんでした。

しかしまだ諦めきれず(笑)、書店で立ち読みもしたのですが、光太郎智恵子の名は見つからず。

ところが、今年の第67回連翹忌にご参加下さった詩人の方からメールが来て、「光太郎智恵子が取り上げられてますよ」。

何とまぁ、冒頭の総論的な田原総一郎氏と下重暁子氏の対談「恋のない人生なんて!」の中で、ちらりとですが確かに触れられていました。一部分、載せます。
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立ち読みした際にここはスルーしていました。考えてみれば、下重氏、今年3月の『週刊朝日』さんでもちらりと光太郎を引き合いに出して下さっていましたので、「怪しい」と思うべきでした。

続いて同人誌。

やはり第67回連翹忌にご参加下さった詩人の谷口ちかえ氏がご送付下さいました、詩誌『ここから』16号。
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「テーマエッセイ 記憶に残る詩の一行」という項で、存じ上げない方ですが、斉藤なつみ氏という方が光太郎詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)の最終行「一生を棒にふつて人生に関与せよと」を紹介して下さいました。多謝。

「冬の言葉」全文はこちら。

    冬の言葉
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 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が洗ひ出すのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思ひきつて潔らかだ。

 虫は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。

 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躪する。

 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。

 金銭はむかし貴族を滅却した。002
 君達は更に金銭を泥土に委せよと。

 君等のいぢらしい誇りをすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。

 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。

ちなみにこの詩の直前に書かれた「或る墓碑銘」という詩も、最終行が「一生を棒に振りし男此処に眠る」となっており、呼応している感があります。

奥付的な部分の画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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最後に一般には流通していない雑誌ですが……。

地銀の千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号。年2回の発行だそうで。
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表紙が当会会友・渡辺えりさん。特集記事がえりさんによる「さんぶの里紀行」。千葉県の九十九里浜を含む一帯が「山武」といわれる地域で、そちらのレポートです。ちなみに九十九里町も属する「山武郡」は「さんぶぐん」なのですが、旧山武郡山武町、同蓮沼村などが合併してできた「山武市」は「さんむし」と、「武」の字の読み方が異なります。元々「さんむ」だったものが、いつの間にか「さんぶ」と読まれるようになり、合併の際には本来の読み方である「さんむ」に戻そう、ということで「さんむし」となりましたが、合併に入らなかった九十九里町などは「さんぶぐん」で通しています。複雑ですね。

で、えりさんの旅レポ(ご執筆はライターの方)は13ページにもわたり、全体の半分以上です。元々の企画では、山武地域中の山武市と東金市とを廻るというもので、そのように予告もされていたようですが、そこはえりさん、強引に「九十九里町も入れてちょうだい」(笑)。九十九里町は昭和9年(1934)に半年あまり、心を病んだ智恵子が療養し、光太郎がほぼ毎週見舞いに訪れた地です。詳しくはこちら。山形ご在住だったえりさんの亡きお父さまが生前の光太郎と交流があり、いつか九十九里町を訪ねたいとおっしゃっていたのが果たせず、えりさんご自身も行かれたことがなかったそうで。

3月半ばのことでした。自宅兼事務所でPCのキーボードを打っていると、突然、スマホにえりさんから電話。

「九十九里浜の智恵子が療養していたあたりに行きたいんだけど。光太郎の石碑とかあるのよね」
「そうっすね。そんならうちから1時間ちょっとのとこなんで、ご案内しますよ。で、いつごろですか?」
「いやいや、もう近くまで来てるのよ、千葉の銀行の雑誌の取材で」
「えっ?」
「でも智恵子が居たところの詳しい場所が分からないから」
「って、今、どちらにいらっしゃるんすか? 市町村の区分で云うと」
「えーと、山武市」
「ああ、だったらそこよりちょい南下したあたりです。九十九里町ってとこに「サンライズ九十九里」つう保養施設があるので、そこのフロントで訊いて下さい。石碑とか智恵子が居た家の跡とかはそこのすぐ近くです」
「「サンライズ九十九里」ね。わかった」
「そこの2階のエレベータホールに光太郎智恵子の銅像のミニチュアがありますから、そちらもご覧下さい」
「了解、ありがと」

とまぁ、こんなようなやりとりがありました。

その後、えりさんのフェイスブックに上がった画像。
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その後、こちらで拾ったハマグリの貝殻を、お父さまのご仏前に供えられたそうで。

そして『ひまわり倶楽部』さんの該当箇所。
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また数日前にえりさんからメールで「銀行の雑誌、出たよ」。で、当方、裏ルートで入手した次第です(笑)。

この手の情報ご提供、ありがたいかぎりです。お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

ロダン翁の事についてはおたづねいたし度き事まだまだ沢山有之 又折を見て推参拝聴いたし度事に存居候へば何卒よろしく願上候 余寒きびしき折柄御自愛専一に可被遊 尚ほ御家中皆々様にもよろしく被下処願上候 あなた様の居らるゝ為め岐阜といふ町までなつかしき心地いたされ 又参上いたす時をたのしみに致し居候


昭和2年(1927)2月10日 太田花子宛書簡より 光太郎45歳

太田花子は女優。確認できている限り、ロダンのモデルを務めた唯一の日本人です。光太郎はこの年刊行される予定の評伝『ロダン』執筆のため、引退して岐阜に隠棲していた花子を訪ね、ロダンとの思い出をインタビューしました。その礼状です。
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もう一度岐阜に行って話を聞きたい、とのことでしたが、それは果たせませんでした。

今年2月、平凡社さん刊行、和田博文氏著の『日本人美術家のパリ 1878-1942』に関し、6月17日(土)、『東京新聞』さんから。

<土曜訪問>時代の風景 読み解く 1次資料駆使し日本モダニズム探る 和田博文さん(東京女子大特任教授)

000 近代日本の美術家は“芸術の都”パリにどう迎えられ、何を学んだのか。東京女子大特任教授の和田博文さん(69)の『日本人美術家のパリ1878−1942』(平凡社)は、明治から昭和戦前期の美術家たちのパリ体験に焦点を絞った最新の単著だ。高村光太郎、佐伯祐三、藤田嗣治らが、言葉や習慣の違いに戸惑いながらも新しい表現を求めて苦闘する日々を、彼らの手記や当時の紙誌の記事の資料をもとに丹念に跡付けた。
 「私は美術の専門家ではないですが」と前置きして「戦前の美術雑誌に載っているパリ関係の資料を、一度全部洗ってみようと。これはたいへんな作業で、誰もやったことがないんです」と大部の自著に達成感をにじませた。
 文化史、比較文化が専門で、とくに「モダニズム」研究の分野のトップランナーだ。モダニズムは、十九世紀末から二十世紀初めに世界で起きた文芸変革の潮流であり、和田さんはその時代のさまざまな資料の収集と調査、復刻を通じて、日本でのモダニズムの実相を明らかにしてきた。
 作家の宇野千代が一九三〇年代に創刊した雑誌『スタイル』は、女性の映画俳優を採用して洋装和装を問わず最先端の流行を発信。ファッション以外の趣味の文化を取り込む中で、食器の専門家として登場させたのが、シュールレアリスム詩誌『リアン』を創刊、マルクス主義にも傾倒した竹中久七だったことを突き止めた。
 また、そのころ文学雑誌に文学者の顔写真が掲載されるようになり、それが文学の読まれ方にどう影響したのかを考察した。「中原中也の瞳のぱっちり開いた、いかにも無垢(むく)な印象の写真が、彼の詩の読まれ方と連動した」。「モダンガール」の実像に迫るため、写真雑誌『アサヒカメラ』を端から端まで読んだ。
 和田さんは「モダニズムとは、最も新しいものに価値を見いだすという意味」と定義する。モダニズム期の一次資料(本、雑誌、詩集、写真、ポスターなど)からは、西洋のハイカラな文化や技術が、時間をかけて日本化されていく過程を読み取ることができる。「一次資料と向き合っていると、つくられた時代の風景がよみがえってくる」
 詩を研究していた三十代前半のころに転機があった。学生時代の友人が開いた古書店、石神井書林(東京都練馬区)との出会いだ。短詩系文学の専門で、有数の目録を誇っていた。「店主が古書つまり一次資料の話をしても、私は何も分からなかった」。全集と、誰かが書いた評論を机に置いて論文を書いても、それらを通り道に同じような論を再生産していくしかない。一次資料を徹底的に集めて論文を書くという研究スタイルに方針を転換した。
 ただ、戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ。当時勤めていた大学とは別に非常勤で勤めたりもして、一次資料の購入を続けた。その額は計約四千万円にも。この膨大な蓄積が、全百巻のシリーズ「コレクション・モダン都市文化」(ゆまに書房)の監修などに実を結んだ。
 「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる。だから私は、特定の専門の研究者ではなく、ジャンルをクロスする研究者になった」
 肩書は「人文学科日本文学専攻特任教授」だが、作家個人の名前を冠して書いた本は、宮沢賢治についての一冊だけという。
 六〇年代に日本近代文学館ができて資料を集め、出版社と大学の研究者と協力して個人全集を刊行する「作家主義」が隆盛したが、それも八〇年代終わりに終了したとみる。岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない。「全集を通して見えてくる風景が目新しくなくなった」
 かといって、近代文学が全く読まれないかというとそうではない。二〇一七年に編んだ二巻の『猫の文学館』(ちくま文庫)は多くの読者を獲得した。寺田寅彦、太宰治、佐藤春夫らの作品から、猫が生き生きと描かれる短編やエッセーを集めた。猫がいかに豊かなインスピレーションを作家に授けたかを知る、ユニークなアンソロジー。「作家主義は終わったが、文学はまだ面白い可能性を秘めていることを、いろいろな切り口で伝えたい」
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『日本人美術家のパリ 1878-1942』。好著だな、と感じつつ拝読したのですが、その舞台裏というか、制作秘話というか、なるほど、こういうことだったか、と思いました。

和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。

また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。

それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。

光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。

ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。

大正14年(1925)5月11日 田内静三宛書簡より 光太郎43歳

「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。

詩人の若松英輔氏。これまでのご著書オンラインラジオでの講座などで、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。

最近また2件ほど。

6月10日(土)の『日本経済新聞』さん。

言葉のちから 書くとは〜高村光太郎と内村鑑三 若松英輔

 本を世に送ると「作者」という呼び名が与えられ、本に記されていることを何でも知っているように遇される。だが、実感は違う。作品名や本の題名は覚えていたとしても何を書いたのか、その本質はよく分かっていない。人は意識だけでなく、いわゆる無意識を活発に働かせながら書くからである。さらにいえば、意識が無意識とつながったとき、真の意味で「書く」ことが始まるとすらいえるように思う。
 部屋は本で埋まっているが、自分の本はない。
 最初の本を手にしたとき、奇妙というより、いわく言い難いという意味で妙な気分に包まれた。自分の名前が記されているのだが、自分のものではない心地が強くしたのだった。本はたしかに手のなかにある。しかし、本の本質というべきものは、すでに翼を得て、未知なる読者にむかって飛び立っていったように感じた。気が付かないうちに大人になった子どもが、自分の道を見つけて親に後ろ姿を見せながら前に進んでいくような光景が胸に広がったのである。
 書くことは手放すことである。書くことは言葉を育むことでもあるのだろうが、それは手放すことで完成する。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎に「首の座」という詩がある。この詩を読んだとき、自らの実感を裏打ちされたように感じ、創作の真義をかいまみたようにも思った。
 「麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら、/私は今山雀を彫つてゐる。/これが出来上ると木で彫つた山雀が/あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。/その不思議をこの世に生むのが/私の首をかけての地上の仕事だ。」(『高村光太郎詩集』)
 光太郎の彫刻に魅了されるのは、彫刻の形や姿が美しいからだけでなく、そこに生じた不可視ないのちの実在にふれるからなのではないか。彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。
 こうしたことは、本や彫刻にだけ起こるのではない。自分以外の人に対して行ったよいことや、成し遂げたと思えるようなものすべてにおいて留意すべきことなのだろう。意味あるもの、真の意味で善き出来事にするためには「手放す」さらには「忘れる」という営みの門をくぐらなければならない。
 経歴や過去の実績の話を得意げにされると興ざめになる。そこに立ち顕われるのは、影のようなもので、今、生きているその人ではない。過去を誇る人は、もっとも魅力があるのはかつて行ったことではなく、それらを昇華させ今、ここに存在しているその人自身であるのを忘れている。
 過去に失敗を経験した人は、簡単に過去を語らない。それを昇華させ、行動しようとする。そうした人が語り、あるいは語らずとも体現する何かに異様なまでのちからがあるのは、今を生きることの重みを無意識に実感しているからだろう。
 何かに執着し、誇ろうとするとき、人はそれを強く意識している。そのようなとき無意識はあまり活発に働いていない。人生もまた、一つの創作である。むしろ、今を生きるということ以上に、創造性を求められることはないのである。
 どう生きるかばかりに気をとられている人の言動が表現しているのは、ほとんどの場合、方法である。しかし、生きるとは何か、その本質を問う人は、生の本質を無言のうちに体現する。人は求めているものを全身で物語っている。
 人生の隠された意味、人生の秘義を体現する人は、必ずしも世にいう成功者ではない。ひたむきに生きる市井の人たちのなかにも賢者は存在する。
 無教会のキリスト教を説いた内村鑑三に『代表的日本人』という著作がある。原文は英語で内村はこの本を世界に向けて書いた。その試みは成就し、ケネディ大統領が愛読したという話もある。日本に陽明学をもたらした中江藤樹の章で内村は「真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう」と書いたあとこう続けた。
 「バラの花が、自分の香を知らぬと同じく、藤樹も自分の影響を知りませんでした」(鈴木範久訳)。美しい香りを身にまとい生きている人でも自らが放つ香りに気が付かず、うつむき加減でいることもある。その人自身が見過ごしているよきもの、そうした何かを見いだすのは他者の役割である。見過ごされがちな善きことに何を学ぶか。ここに人生の行き先を決定する重大な鍵があるように思われる。

引用されている光太郎詩は「首の座」(昭和4年=1929)。
無題
    首の座

 麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら
 私は今山雀を彫つてゐる。
 これが出来上ると木で彫つた山雀が
 あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。
 その不思議をこの世に生むのが
 私の首をかけての地上の仕事だ。
 そんな不思議が何になると、
 幾世紀の血を浴びた、君、忍辱(にんじよく)の友よ、
 君の巨大な不可抗の手をさしのべるか。
 おお否み難い親愛の友よ、
 君はむしろ私を二つに引裂け。
 このささやかな創造の技は
 今私の全存在を要求する。
 この山雀が翼をひろげて空を飛ぶまで
 首の座に私は坐つて天日に答へるのだ。


「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという山雀の木彫は写真すら確認できていません。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。同じ野鳥の木彫でも「うそ」(大正14年=1925)は現存しています。

「首の座」は罪人が斬首される際に座らせられる場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。そういうところにいるつもりで造型芸術に取り組んでいるのだよ、ということでしょう。

若松氏、この詩の引用後、「彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。」と述べられていますが、これは「智恵子抄」所収の「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)を下敷きになさっているのだと思われます。


    美の監禁に手渡す者無題2

 納税告知書の赤い手触りが袂にある、
 やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

 売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

 両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
 両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

 がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
 ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い立ち位置だった光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは資本家など、光太郎の大嫌いな俗世間での成功者――に支えられていました。そのあたりの苦悩が謳われています。

若松氏、もう1件、『中央公論』さんの今月号では光太郎の父・光雲に触れて下さっています。
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AI時代のことば力」の総題で数名の方が寄稿されている内の一篇、「沈黙のすすめ 好奇心を疑い、問う力を養う」と云う記事です。

曰く、

 詩人・高村光太郎の父である彫刻家・高村光雲の自伝『幕末維新懐古談』に「ノミが仕事させてくれない」というような言葉が出てきます。「ノミはただの道具ではない」「ノミが俺を連れて行く」と言いたくなることがあるのだと。
 私がものを書くときも、自分で書こうとしているときは上手くいかず、言葉が自分を連れて行ってくれたと感じるときほどよい仕事ができているように感じています。人との対話も同じで、人と人との間に関係ができれば、言葉が私を導いてくれる。


およそ文学でも造形芸術でも、それから音楽や舞台芸術等も含め、クリエイティブな仕事をする人間には、「ノミが俺を連れて行く」という感覚は「あるある」ではないでしょうか。もっとも、そうなるまでの修業というか、その境地に至るまでの努力というか、それが無ければ無理なのでしょうが。

そういった観点も含め「AI時代のことば力」、様々な分野の方がいろいろ論じられています。ぜひお買い求めを。

ところでAIと云えば、時事通信さんの配信記事でこんなのが出ました。

高村光太郎やミケランジェロをAI学習、像展示 スウェーデン

【AFP=時事】スウェーデンの首都ストックホルム国立科学技術博物館で現在、ミケランジェロ(Michelangelo)や高村光太郎(Kotaro Takamura)ら、彫刻界の巨匠5人の作品を人工知能(AI)に学習させてつくり上げられた彫刻「不可能な像」が展示されている。
 創造性とアートについての従来の概念に揺さぶりをかけるステンレス鋼製の像は、高さ1.5メートル、重さ500キロ。下半身を金属に覆われた中性的な人物が、片手でブロンズ製の地球をつかんでいる。
 コンセプトは、それぞれの時代に足跡を残した5人の著名な彫刻家の作風をミックスさせた作品をつくり出すことにあった。
 選ばれたのは、イタリアのミケランジェロ(1475-1564)、フランスのオーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840-1917)、ドイツのケーテ・コルビッツ(Kathe Kollwitz、1867-1945)、日本の高村光太郎(1883-1956)、米国のオーガスタ・サベージ(Augusta Savage、1892-1962)。AIに5人の彫刻作品の画像を大量に学習させたという。
 三つのAIソフトを駆使して作品をつくり上げたスウェーデンの機械工学グループ「サンドビク(Sandvik)」の広報は、「現実には共同作業があり得なかった5人の巨匠による像」だと説明している。
 だが果たしてこれは芸術なのか、それとも技術の成果なのだろうか。
 同館で企画を担当しているジュリア・オルデリウス氏はAFPに、「これは人間がつくったものとは思えない」と指摘した上で、「芸術とは何かを定義することはできない。これは芸術だ、これは違うと考えるのは、人によって異なる。判断するのは作品を鑑賞する人それぞれだ」と語った。
 アート界におけるAIの役割について議論が行われる中、AIをめぐる未来については悲観していないと話す。
 「AIが創造性やコンセプト、アートやデザインについて行うことを不安に思う必要はない」「テクノロジーがコンセプトやアートを生み出す方法の一部になる新しい未来に適応していく必要があると思う」と話した。
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「何だかなぁ」という感じでしたので、今日まで取り上げずに来ました。

結局、AIには「首の座」に坐って物事を成し遂げる、という覚悟など持ちようがないわけで、そうなると光太郎が不可欠とした「生(ラ・ヴィ)」など、そこには存在し得ないわけです。

といって、人間が造ればこれ以上のものが必ず出来るかというと、そうでもありませんね。結局、「ノミが俺を連れて行く」という境地に達していない者の作で、「AI以下」と云われても仕方のないようなものもまかり通っているような気がしますし……。

「クリエイト」、実に難しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日「天上の炎」の印税貳百円たしかにおうけとりしました。こんなにもらつてはすまないやうな気もしますが又思ひがけない時にもらつて大変たすかります、

大正14年(1925)3月23日 木村荘五宛書簡より 光太郎43歳

「天上の炎」はベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの訳詩集。新しき村出版部から刊行されました。
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彫刻が寡作だった光太郎、こうした翻訳での収入がかなり大きかったようです。

新刊雑誌2件、ご紹介します。

まず、集英社さんで発行している文芸誌『kotoba』2023年夏号 。
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文芸誌と言っても、そう堅苦しいものではありません。新しい時代の表現や言葉のあり方をさまざまな切り口から論じたりといった文章が中心ですが、軽妙なエッセイや対談等も載り、読みやすいものです。扱われているモチーフも、メタバースやブルース・リー、漫画の『攻殻機動隊』、プロ野球にJリーグ、そうかと思うと憲法や原発など、硬派の話題も。4月に信州安曇野の碌山美術館さんでお会いした、東京藝大の布施英利氏の玉稿も載っていました。

その中で、英米文学者・阿部公彦氏の連載「日本語「深読み」のススメ」で、光太郎や谷川俊太郎氏の作品を引きつつ、詩が論じられています。サブタイトルは「詩の命」。

梗概的に「なぜ、詩は「形が命」といわれるのか。詩の「形」でとくに大事なのは何か。改行と繰り返しという、詩の形式の中でもごく地味な要素に注目すると私たちの言葉との付き合いの本質が見えてくる。」とあり、そのとおり、主に口語自由詩における改行とリフレインについて論じられています。

例として上げられているのが、光太郎詩代表作の一つ「道程」(大正3年=1914)。9行に分かち書きされている詩ですが、これを改行しないで書くとどうなるか、ということで……
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恐ろしく違和感がありますね。

では、その違和感の原因はどこにあるのか……といった話が一つ。

それから、末尾二行の「この遠い道程のため」を例に、リフレインの持つ効果についても論じられています。

他に、谷川俊太郎氏の「生きる」(有名な「生きる」が二種類ありますが、昭和31年=1956発表のソネットの方)も例としてあげられています。

口語自由詩の「改行」については、昔から論争の種です。古くは大正期、北原白秋と白鳥省吾・福田正夫らの間で、丁々発止のやりとりがありました。「改行がなかったらただの散文だろ」みたいな。

白秋は白鳥の「森林帯」という詩を槍玉に挙げています。その冒頭部分。

 萱や蕨の繁り合つてゐる
 山を越え山を越え
 一だんと高い山から望めば、
 遠い麓の広土は
 青たたみ数枚のやうに小さい、
 哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

阿部氏がやったように、白秋はこれの改行をなくし、読点を補って……

萱や蕨の繁り合つてゐる、山を越え山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

白秋曰く

 これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為めと思つて許していただきたい。
 読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文で無い、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか、詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか、それを感覚的に当つてゐただきたい。


この背景には、ざっくり云えば芸術至上主義的な白秋は「いかに」詩にするかを大切にし、後のプロレタリア文学に連なる白鳥ら民衆詩派は「何を」詩で表すかに軸足を置いていた、という立場の相違もあるようです。

「道程」の改行を取っ払うと非常に違和感があるのは、白秋曰くの「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」が、白鳥のそれには無く(ファンの方、すいません)、「道程」には厳然としてそれが込められているからのような気がします。阿部氏、やはりそういったことを指摘されていますし、リフレインの効果についても、実に的確に論じられています。

まぁ、700余篇確認できている光太郎詩の全てが「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」を持っているかというと、答は否、でしょう。特に戦後の自伝的な連作詩「暗愚小伝」などは、その点を諸家に批判されています。

さて、詩を作る方々、ぜひこちらをご購入なさり、お読みいただきたいものです。

雑誌ということで、ついでにもう1件。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんのPR誌的な『とんぼ』。第十六号が届きました。
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今年1月に亡くなった、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの所有者にして、生前の光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の追悼文(文治堂書店社主・勝畑耕一氏と、当方)が載っています。

それから当方の連載「連翹忌通信」。今号は一昨年、茨城取手で発見した光太郎揮毫の墓標について。この連載、そうそうネタがあるわけでもなく、このブログでご紹介したような事柄を改めてまとめ直して使わせていただいております。前号では花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫「天鈿女命像」と、鋳銅製「准胝(じゅんてい)観音像」について書きました。

そういう意味ではある種、手抜きとも云えるような執筆なのですが、巻末にこんなことを書かれては、いい加減には書けないな、と思う今日この頃です。
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奥付画像を載せておきます。ご入用の方、版元まで。

【折々のことば・光太郎】

どうも何かするのがのろいので自分ながら困ります。


大正13年(1924)5月11日 木村荘五宛書簡より 光太郎42才

原稿が遅れるという言い訳の葉書から。自身を「牛」に例えることもあった光太郎ですので……(笑)。

こちらも当方手持ちの葉書です。
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毛筆で書かれています。墨をすっている暇があったら原稿書けよ、と言いたくなりますが(笑)。

智恵子の故郷・福島二本松系の新聞記事を3件ご紹介します。

まず、『福島民報』さん、一昨日の一面コラム。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

あぶくま抄 百年桜

足早な春に、小さなエドヒガンザクラが数輪の花を付け、やがて若葉に変わった。二本松市の安達高の正門横で大切に育てられている。今年の学校創立100周年に合わせて記念事業実行委員会が植え、生徒会が「百年桜」と名付けた▼安達高は1923(大正12)年に県立安達中として開校し、地元の若者が志を抱いて勉学に励んだ。1、2回生が卒業を記念して植えた桜が風霜に老いて今回、代替わりした。二本松藩主に目をかけられ、開校時から生徒を見守る「三顧の松」、放射線医学の世界的権威で文化勲章を受けた高橋信次博士の像が近くに立つ▼「入学の日、坂を上り学校へ向かう私を、母はいつまでも見送ってくれた。涙で私のセーラー服姿が見えなくなったとよく話していた」。同窓会長の五輪美智子さんは、10日の入学式で思い出を明かした。娘の成長を喜ぶ母の思いを重ね、当時と同じセーラー服と学生服に身を包む150人の新入生を祝福した▼百年桜のお披露目を兼ねた吹奏楽のスプリングコンサートがきょう13日に催される。伝統の校歌や若い世代に人気の曲を奏でる。ほんとの空に響く澄んだ音色を、100年先も桜が覚えているといい。

記事を読む前、「百年桜」というので、樹齢百年を超える大木の桜が見頃、的な話かと思ったらさにあらず。もとの古木が枯れてしまい、同校の創立百周年を期して新たな桜が植えられ、花を咲かせたそうで。

ネットで調べたところ同校の『創立100周年記念事業実行委員会だより』がヒットしまして、下記の記事が出ていました。昨年のもののようです。
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「ほんとの空」のもと、この木、そして生徒さんたちも逞しく成長してほしいものです。

続いて『福島民友』さん。やはり桜がらみで、過日ご紹介した市内循環バス「春さがし号」の件。

二本松の名所循環バス 16日まで6便、9カ所停車

000 二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」が始まり、16日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある県立霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の墓がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除き9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小児90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小児250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の7日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(同0243・24・5085)へ。

多くの乗客の方々で賑わっているといいのですが。

最後に『朝日新聞』さん。今日の土曜版から。朝食を食べながら、これが掲載されていることに気付き、読み進めて吹きました(笑)。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載「マイ走馬灯」です。

マイ走馬灯 ひらパーの菊人形

 幼い頃、大阪のひらかたパークで見た(いや、見せられた)菊人形がとても怖かった。まわりの大人たちがそれを「綺麗(きれい)やなァー」と絶賛しているのもまた、ホラー。そんなトラウマがいつしか面白さに変化して、40代後半のマイブームとなったのである。
 絵の左下にあるのは福島県で見た高村光太郎(丸メガネ)の菊人形。中央下のカエル(これは僕の漫画キャラ。走馬灯画には必ずどこかに登場する)は、実際にオリジナルで作った菊人形だ。白い犬は映画にもなった青森の『わさお』。飼い主のおばさんから、わさおの抜け毛をプレゼントされた思い出もある。
 右端は京都、三十三間堂のグッとくるルックスの婆藪(ばす)仙人像。耳にハイビスカスは歌手の日野てる子さん。今でも『夏の日の思い出』を口ずさむ。その隣は僕の青春アイドル、栗田ひろみさんで、映画『犬神家の一族』のスケキヨと、プロレスラーのミル・マスカラスはマスク繋(つな)がりだ。そして中央には、5年前からグッズを買い続けているワニ。きっとみなさん、マイ走馬灯に出てくれるはず!

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みうら氏、幼少期に見たある意味無気味な菊人形に対するトラウマが相当に強いようで、令和元年(2019)には『産経新聞』さんの連載コラムでも、その件に触れられていました。そこでは「二本松の菊人形」に並んだ光太郎の菊人形を写真入りで紹介なさっていました。ちなみにまだ先の話ですが、今年の「二本松の菊人形」のテーマ、「徳川家康」だそうです。

二本松では今月末から恒例の「高村智恵子生誕祭」として、通常非公開となっている智恵子生家の2階部分の限定公開や、智恵子記念館では智恵子紙絵実物の展示もありますし、来月には安達太良山の山開き、さらに地元で智恵子顕彰をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント等も計画されています。また後ほど詳しくご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又お遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから


大正元年(1912)10月5日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、最近分かったのですが、さらに東京女子高等師範学校に入学し直し、この年7月に卒業しています。この後、智恵子の郷里の父母らは光太郎との交際にいい顔をしませんでしたが、セキだけは光太郎と直接面識を持ち、二人の後押しをいろいろしてくれたようです。前月に智恵子が光太郎を追って銚子犬吠埼を訪れた際も、同行していました。

書簡に書かれたセキの光太郎訪問については、智恵子も一緒だったのかなど、詳細が不明です。

福島発の報道を2件。

まずは智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山関連で、『福島民報』さん。3月31日(金)掲載分です。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

くろがね小屋 またね 建て替え、4月から休業 福島県二本松市の安達太良山 築59年 登山客 感謝

 福島県二本松市の安達太良山(1700㍍)中腹にある「くろがね小屋」は、建て替えのため4月から休業する。60年近く登山客に親しまれてきた現施設は30日、最後の宿泊客を迎えた。なじみの客が大勢訪れ、施設に思い出を刻むとともに、感謝と別れを告げた。ほんとの空の下で登山者の安全を守ってきた山小屋は、2025(令和7)年度内に生まれ変わる。登山者は「心のよりどころとなる施設として在り続けてほしい」と願う。
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 安達太良山の奥岳登山口から2時間ほど歩くと、くろがね小屋に着く。玄関を開けると歴史を感じる造りで、室内にはゆったりとした時間が流れる。冬期も含め年間を通して営業している山小屋は、寒さの厳しい東北、北海道地方では珍しい。源泉掛け流しの温泉もあり、秘伝のレシピで作るカレーも人気だ。ここで1泊し、翌朝に山頂を目指す客は多い。
 4月1日から休業するため、宿泊者を受け入れるのは30日が最後だった。午後になると、客が続々と到着する。昔ながらのダルマストーブがリュックサックを下ろした人たちの体を温める。1階の談話室では、なじみの客が車座になって談笑し始めた。スマートフォンを向けて室内を写真に収めたり、持ち寄った手料理を囲んで杯を交わしたりして思い思いに過ごす。にぎやかで温かな雰囲気に包まれる。
 施設の建て直しに、登山客からは惜しむ声が上がる。3年ほど前に山登りを始めた青森県の会社員矢田圭吾さん(37)は、テレビでくろがね小屋を知り、初めて訪れた。「最初で最後の訪問。趣があって、一目ぼれしている」と話す。郡山市の無職八木沼トモ子さん(69)は、50年以上前から年に2回ほど通う。なじんだ建物がなくなるのはさみしい。「新しい山小屋を楽しみにしている。休業の間も登り続け、再開を待ちたい」と気持ちを切り替える。
 管理人の田畠翔さん(35)は「年間の3分の2の時間をここで過ごしてきた。当たり前にあったものが無くなってしまうが、まだ実感がない」と言う。再開後も仲間と共に管理人の務めを果たしたいと気を引き締める。
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■年間3千人超 宿泊利用
 くろがね小屋の現施設は、1964(昭和39)年に営業を始めた。県が所有し、管理や運営を県観光物産交流協会が担う。県によると、年間3千人以上の宿泊利用がある。
 築59年となり、雨漏りや床の腐食など老朽化が目立ってきたため建て替える。トイレの排水を地中に浸透させて処理しており、環境への影響も課題となっていた。
 新たな建物は現施設の跡地に建てる。排水を処理する浄化槽を設けるほか、2014年の御嶽山(長野、岐阜両県)の噴火災害を教訓に、屋根の強度を高めるという。当初は2019年度に着工する予定だったが、環境影響調査や資材の運搬計画、建設費の見積もりに時間がかかっていた。
 4月からは、電源の引き込みや登山道の補修工事を進める。

くろがね小屋さん、登山系のテレビ番組などで安達太良山が取り上げられる際には、必ずと言っていいほど登場しました。

ドキュメント72時間「福島 真冬の山小屋にて」/宮川一朗太のおっ!さんぽ #42 花巻。
テレビ再放送情報 「ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬」/「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」。
日本の名峰・絶景探訪▼紅葉色めく湯の山 安達太良山 福島。
『日本の名峰 DVD付きマガジン44 雪煙舞う厳冬の安達太良山』。
にっぽん百名山「安達太良山」/にほんごであそぼ 道程。
「小さな旅 シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」。
にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。

長い間、お疲れさまでした、という感じですね。

もう1件、当会の祖・草野心平関連で、光太郎の名も出して下さいました。『いわき民報』さん、こちらも3月31日(金)掲載分です。

73歳の草野心平は飲みすぎ!? 福島高専・村上さんの日記分析に学会評価

 数え年で73歳の心平が1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍!?
 今年生誕120年を迎える小川出身の詩人・草野心平の飲酒量を、心平自身の日記の一部からデータベース化し、集計・分析した研究発表が、先ごろ開催された情報処理学会の第85回全国大会で高評価を受けた。
 まとめたのは、福島高専ビジネスコミュニケーション学科4年生の村上紗彩さん(19)。高村光太郎ら文人仲間が集う居酒屋「火の車」を経営するなど、無類の酒好きとして知られる郷土の偉人、心平の人間味あふれる一面を数値でつまびらかにし、研究者たちを驚かせている。
 世代の名だたる文豪たちの酒好きエピソードは数あれど、どんな酒をどれだけ飲んだか、事細かく日記に記した文人は草野心平しかいない。
 村上さんが強い関心を持ち、研究材料と決めたのは、心平作詞の校歌をライフワークとして調べ続けるなど、〝心平愛〟の深い恩師、島村浩同校情報処理教育センター長・指導教員(63)から聞いた逸話がきっかけだった。幼いころに教科書で〝蛙の詩人〟を知り、進学した高専の校歌を作詞した偉人が実は食通で、無類の酒好きだったことを知った。
 日本酒、ビール、ウイスキー、ぶどう酒、焼酎にシャンパン……。日本酒は1合180ml、ビールは1本633ml、ウイスキーは1杯30mlなど、日記の記述をもとに合理的と考えられる単位を考え、飲んだ記録はあるが量の記録がない場合は0に。
 一方、特にたくさんの酒を飲んだ様子のある日は記憶がなくなり、飲酒量の記録がないため、「最低でもこれ以上は飲んでいるだろう」という数値を積み重ねた。
 村上さんは「正直、最初は『ぐうたらな人』かと思っていたが、日記を読み進めるうちに、積極的に運動に取り組むなど健康意識は高く、仕事もたくさんする凄い人と分かった」と、心平の人間性に心奪われている。
 今回のデータは膨大な日記のうちのほんの一部で、もっとデータを蓄積する必要性に駆られており、オンライン化を視野に研究を継続して、豪放と評される心平の人となりや凄みを数値化していく考えだ。
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そこまで分析されてしまった心平、雲の上で苦笑しているような気がします。

光太郎とちょうど20歳違いの心平。今年、光太郎が生誕140周年ですが、心平は生誕120周年です。そういうわけで、心平にも大きくスポットがあたってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生転居仕候


明治45年(1912)6月8日 島村盛助宛書簡より 光太郎30歳
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駒込林町25番地のアトリエ兼住居が落成し、実家からこちらに移ったという通知です。「手製の木版は如斯きたなく候」とあり、2色刷りの版画で刷って、あちこちに送ったと推定されます。他に生田葵山に宛てたものの存在も確認できています。

このアトリエの新築祝いに、前年末に知り合った智恵子がグロキシニアの鉢をかかえてやってきました。おそらくこの前後でしょう。

『週刊朝日』さんの3月17日号、作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」の中に、光太郎の名。
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ときめきは前ぶれもなく 岩手に惹かれる

 二月二十七日の朝日新聞夕刊によれば、NYタイムズ「今年行くべき五十二カ所」で、日本の盛岡市がイギリスのロンドンに次いで二番目に紹介されているという。ロンドンは首都で、今年はチャールズ国王の戴冠式などで注目度が高いことはわかる。
 では、盛岡はなぜ? 人口三十万人弱、みちのくの地方都市なのに。日本ではこれまで東京・京都・大阪などが選ばれたのは当然として、なぜ今年選ばれたのか。
 名物のわんこそばに挑戦する楽しさが一つ。「盛岡は人が良く、自然もきれい。ごはんもおいしい」とオーストラリアから来た若い観光客は言う。
 NYタイムズは、盛岡が選ばれた理由をいくつも挙げている。混雑を避けて歩いて楽しめる場所。山に囲まれていくつもの川が流れる豊かな自然がある。盛岡城跡や赤レンガの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的建物が並ぶ。東京から新幹線で約二時間と近い……など。
 盛岡駅そばのジャズ喫茶「開運橋のジョニー」など秋吉敏子さんも演奏する「和ジャズの聖地」。岩手大学近くの「ナガサワコーヒー」。生豆の仕入れと焙煎で評判だ。
 盛岡の魅力を私がつけ加えるとしたら、手織りのホームスパンの生地を織る工房。日本古来のものを受け継ぐ伝統工芸品はあるが、ホームスパンという羊の毛で織った西洋の生地はなんとも手ざわりが良く素朴で暖かい。注文してから時間のかかる生地を、白黒の縦縞模様と濃紫の無地、二着分を織ってもらい、つれあいのジャケットと私のツーピースに仕立てた。四十年前なのに、今も大切に着ている。
 わんこそばでいえば、量で勝負出来ぬ私は、そばに酒をかけて楽しむ酒そばを食べる。講演会の会場の隣にあった不来方城(盛岡城)跡の丘に寝そべった春の日ののどけさ。街はなぜか西洋の香りがしておしゃれである。ここで東京から移り住み、木馬を作っている友人にも出会った。
 JTBが出していた「旅」という雑誌があった。戸塚文子という女性の名物編集長がいて、ある時グラビアと読み物で、母娘旅をして欲しいと言われた。照れ屋の私は母と二人旅などしたくなかったが、母にいちおう聞いてみた。「どこへ行きたい?」
 すると即座に「岩手県」という返事。理由は、宮沢賢治と石川啄木、それに高村光太郎であった。若い頃文学少女だった母は短歌を作り、賢治の詩が大好きだった。
 「参ったなあ」と思いながら賢治の故郷へ。なぜ賢治の作品が西洋風の不思議な世界なのか、その謎が少し解けた。
 欧米の人々が岩手県に惹かれる理由もわかる気がする。光太郎が智恵子なき晩年を過ごした雪深い小屋にも光太郎の詩のノートや、彫刻家として作ったトルソーなどがあった。ここにはどこにもない不思議な世界が広がっている。
 そういえばコロナの初期の頃、陽性者が毎日増え続ける中で、岩手県だけが0を続けていた。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

NYタイムズさんの「今年行くべき五十二カ所」に盛岡が選ばれた件、ある意味、衝撃的でしたね(笑)。しかし、記事にもあるとおり、わんこそばホームスパンなどの名物、赤レンガ伝統館などのたたずまいなど、たしかに素晴らしいものがあります。岩手を「イーハトーブ」とした賢治や、「岩手は日本の背骨」と言い切った光太郎にしてみれば、当然だという感覚かもしれません。

ただ、下重氏、記憶違いをなさっているようで、光太郎にはトルソの作品は現存しませんし、「詩のノート」というのも花巻には無いはずです。一応、指摘しておきます。

ところで、岩手といえば、今号の表紙は女優ののんさんで、東日本大震災にからめた「3.11被災地の歩み 「あまちゃん」放送10周年 のん “私は太陽”自分の魅力を発掘し続ける」という記事がトップでした。言わずもがなですが、「あまちゃん」の主要な舞台の一つが岩手県だったわけで、それに伴い、達増知事へのインタビュー記事「岩手県は自信をもらった」なども掲載されています。
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また、「あまちゃん」や舞台「私の恋人」で共演された、当会会友・渡辺えりさん(来る4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにもご参加予定です)に関する記述も。のんさん曰く「尊敬する大先輩なのに、同じ目線で接してくれる。私がツッコミを入れると、「のんちゃんのバカ!」なんて言う。一緒に映画「レ・ミゼラブル」を見たときには隣で号泣しちゃう。無邪気なところがすてきです

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

先夜木曜のパンの会につひ行きはぐれ大きに残念いたし候。


明治43年(1910)1月15日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

パンの会」は雑誌『方寸』、『スバル』の同人らを中心に起こった芸術至上主義的運動で、石井柏亭、北原白秋、木下杢太郎、そしてこの書簡の宛先である長田秀雄らが中心メンバーでした。光太郎の海外留学中に始められ、帰朝後の光太郎も早速参加しています。

淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。

昨年10月末、『日刊スポーツ』さんに載った記事です。光太郎の父・光雲に言及されています。「何だかなぁ……」という内容ですので、これまで紹介してこなかったのですが、このところネタ不足なもので……。

「政治家と銅像」 森元首相、菅前首相の建立計画に微妙な違和感…なぜ?

 この秋、森喜朗元首相(85)と菅義偉前首相(73)の銅像の建立計画が相次いで明らかになりました。森氏は「スポーツ界における偉大な功績を顕彰しよう」と政財界、スポーツ界の15人が発起人となって募金活動が行われ、菅氏は600件、2100万円の寄付が集まり、胸像と台座は完成。来春、除幕式が行われる予定です。2人が健在のためでしょうか。銅像となることに微妙に違和感があります。政治家と銅像について考えてみました。

 東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件が拡大し、組織委員会会長だった森氏も参考人として任意の聴取を受ける事態となっているためか、森氏の胸像建立計画の詳細は明かされていません。一口5000円の募金活動は5月にスタートし、案内状は「先生が残された多くの功績、そのお教えは、スポーツ界のみにとどまりません。多くの方々から尊敬され慕われている先生の顕彰事業を行うため」とうたっています。

 菅氏の銅像は、郷里の秋田県湯沢市の有志が進め、既に高さ1・2メートルの胸像、同じく1・2メートルの台座が完成しています。湯沢高校の同級生で事務局長を務める伊藤陽悦さん(元市議会議長)は「普通は実物の1・2〜1・3倍くらいの大きさにするそうですが、小柄な方(165センチ)なので1・5倍にしました」と、大きな胸像にした理由を明かします。この秋に台座を設置し、胸像は来年4月に菅氏を招いて行う除幕式でお披露目となる予定です。「胸像だけで800万円。台座と整地費用など合わせ、1500万円です」と伊藤さんは打ち明けます。

 銅像は、その功績をたたえ、後世に伝えるため、建立されます。失言は数知れず、組織委員会会長もその発言により辞任した森氏と、わずか1年で退陣に追い込まれた菅氏。違和感を覚えるのは、2人が健在で、記憶がまだ生々しいからでしょうか。「銅像には、死後、つくられる遺像と、生前につくられる寿像があります。顕彰を目的とした銅像の建立が行われるようになった明治時代から寿像はつくられており、別におかしくはありません」と話すのは「銅像時代 もうひとつの日本彫刻史」の著者・木下直之静岡県立美術館館長(東大名誉教授=日本美術史)です。

 伊藤博文、大隈重信、板垣退助ら寿像は多く、板垣は夫妻で除幕式に参列しています。近年でも田中角栄元首相、渡辺美智雄元蔵相、原健三郎元衆院議長らの銅像は寿像です。政治家に限らず、渋谷の忠犬ハチ公像も初代は寿像で、ハチは除幕式に参列しました。
000
 では、もやもやとした違和感の正体は何なのでしょうか。全国の個人顕彰銅像のデータベース化を目指している「日本の銅像探偵団」の遠藤寛之団長によると、政治家の銅像は少なくなっているそうです。歴代首相では1980年代までの首相は中曽根康弘氏を除き、就任早々の女性スキャンダルで参院選に大敗し、69日で退陣した宇野宗佑氏を含めて銅像になっています。しかし、90年代以降は在職中に病に倒れ、宿願の沖縄サミットを前に死去した小渕恵三氏だけです。
002
 国会議員は在職が50年を超えると、特別表彰され、引退時または死亡時に名誉議員の称号が贈られ、国会内に胸像が設置されるのが慣例とされてきました。88年に死去した三木武夫氏の胸像は慣例通り90年に衆院正面玄関ホールに建てられましたが、その後、有資格者となった桜内義雄氏(00年引退、03年死去)原健三郎氏(00年引退、04年死去)中曽根康弘氏(03年引退、19年死去)の胸像はつくられていません。衆院事務局は「機運があれば、議院運営委員会で協議することになるが、今のところ、ありません」と話します。国会改革の一環として2000万円かかるとされる胸像の制作には異論が出るようになり、与野党合意が得られなくなったためです。
001
 個人顕彰の銅像の減少と、日本経済の「失われた20年」は重なっているようです。「バブル期までは寿像を自分の会社の中に建てる社長がいましたが、少なくなりました。銅像制作会社から個人の銅像の受注は減っていると聞いています。増えているのは町おこしのキャラクター銅像で、個人顕彰から町おこしにシフトしている。偉人像でも握手ができる坂本龍馬とか、町おこしにつながるつくりが多くなっています」(遠藤団長)。

 木下館長は「昔と一番違うのは場所です。昔は駅前や公園に建てることが許されましたが、今は公有地、公的な空間に建てることに批判が起こる。政治家の評価の問題も絡み、一番難しい問題です。アニメや漫画のキャラクターは、公共空間の中に立って、まだ多くの国民に共有されますが、個人の銅像は居場所がなくなっている。銅像は除幕式のときに一番光が当たり、後は基本的に放置される存在です。そんな物を建てる必要性はどんどん小さくなっている。今どき個人を顕彰するのに、銅像という形を取ることはひどく時代遅れで、銅像の時代はもう終わっているんじゃないかと思います」と話します。

 菅氏の胸像は当初、湯沢駅前の公園に設置する計画でしたが、「公的な場所は難しい」(伊藤さん)として、公園に隣接する私有地16平方メートルを購入しました。森氏の胸像はどこに建立されるか明かされていませんが、うわさに上る新秩父宮ラグビー場など公的な空間の場合、反対の声が広がりそうです。

◆中最も身近な銅像といえば、二宮金次郎です。二宮尊徳を祭る報徳二宮神社によると、金次郎像は今、少子化による小学校の統廃合で、再びピンチを迎えているそうです。勉強熱心で、手伝いをいとわない金次郎は小学生が目指すべき人物として、1924年(大13)から小学校に建つようになりました。しかし、戦争で供出され、残ったのは2体だけ(報徳二宮神社と明星学苑)という悲しい歴史があります。わが母校も来年4月、統合されます。電話したところ、「経年劣化しており、撤去することになりました」と言っていました。
003
■伊藤博文、台座だけの像も
 首相経験者ではトップの伊藤博文(10体)には、ほかに台座だけが残る受難の像もあります。1904年(明37)、神戸・湊川神社に建立された銅像で、05年、日露戦争で日本が勝ったにもかかわらず、講和条約で賠償金が得られないことが判明すると、民衆の不満が爆発。「女遊びが好きな伊藤には(遊郭がある)福原がふさわしい」と、像を引き倒し、福原まで引きずり回して小便をかけるという事件が起こりました。伊藤は「神戸には2度と行かない」と激怒したといいます。09年に伊藤が暗殺されると、同情の声が高まり、11年に神戸・大倉山公園に再建されました。しかし、戦争で物資が窮乏した43年、金属供出で銅像は姿を消しました。9・15メートル四方、高さ5・7メートルの巨大な台座だけが残っています。
005
■1位は坂本龍馬
 「日本の銅像探偵団」の調べでは、二宮金次郎、空海、日蓮の銅像は集計し切れないほど多く、全国に1000体以上あると推定されています。このため、探偵団では、この3人は「殿堂入り」とし、「銅像建立数ランキング」の1位は銅像33体、FRP(繊維強化プラスチック)像9体、計42体の坂本龍馬としています。2位の松尾芭蕉は銅像37体、FRP像1体で、銅像に限定すると、芭蕉が上回ります。龍馬は2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送前後に制作されたFRP像が多く、芭蕉を超えました。探偵団では高知・桂浜の龍馬像、仙台城跡の伊達政宗像、東京・上野の西郷隆盛像、東京・渋谷のハチ公像、札幌・羊ケ丘のクラーク像を「日本5大銅像」(銅像ファイブ)と名付けています。
004
■「サザエさん」「こち亀」は富山・高岡製
 銅像はかつて高村光雲、朝倉文夫、北村西望ら近代日本を代表する彫刻家も手掛けましたが、現在はほとんど銅像会社の制作です。特に富山県高岡市が盛んで、9割は高岡製といわれています。菅氏の胸像も高岡で創業したメーカーの制作です。高岡は前田利長が1609年(慶長14)に鋳物師を移住させて以降、鋳造が盛んで、明治時代に入ると、銅像制作が始まりました。屋外銅像第1号の金沢・兼六園の日本武尊像(1880年建立)も高岡製です。鳥取県境港市の水木しげるロード、東京・桜新町のサザエさん一家、亀有の「こち亀」ファミリー、四つ木の「キャプテン翼」、鳥取県北栄町のコナン通り、新潟市の水島新司まんがストリート、熊本県の「ワンピース」麦わらの一味など、高岡生まれです。
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詩人の皆さんには申し訳ありませんが、「ポエム」という語が「脳内お花畑」とほぼ同義に使われるようになってしまったのと同様に、「銅像」という存在が「ヒヒオヤジの自己顕示欲、ないしは取り巻きのゴマスリの象徴」という意味に近くなってしまっているようで、嘆かわしい限りです。

かつては光太郎や光雲、海外ではロダンなどが、造形的にも優れたあまたの像を制作したのも、「今は昔」という感がありますね。現代でもまだ芸術的良心、対象へのリスペクトのこもったすばらしい銅像も無くはないのですが……。

【折々のことば・光太郎】

亜米利加といふ国は一大怪物なりとか申候へど、美術上より考へても一の大きな?に候。この蕨の手が広がつたらどうなる事やら。


明治39年(1906)7月9日 川崎安宛(推定)書簡より 光太郎24歳

アンディ・ウォーホルら、いわゆるアメリカンアートの旗手が世界を席巻するのは半世紀以上後。当時のアメリカはまだまだ芸術的には後進国でした。それでも旧態依然の日本よりはだいぶ進んでいたようですが。官費留学でないものの常として、まずアメリカで経済的にめどを付けてから欧州へ、というのがお決まりのコースで、光太郎もそれに倣いましたが、次第にアメリカにいる意味に疑問を感じてきたようです。

『智恵子抄』初版の版元・龍星閣さんの創業者・澤田伊四郎に関わる企画展が開催中です。企画展自体は光太郎と直接関わらないと思いますが、関連行事が気になります。

追記:光太郎智恵子コーナーもあるそうです。

龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―

期 日 : 2023年1月7日(土)~2月28日(火)
会 場 : 日比谷図書文化館 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 午前10~午後7時
休 館 : 1月16日(月) 2月20日(月)
料 金 : 無料

 現在千代田区が所蔵する「龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクション」は、元々区内にある出版社・龍星閣(りゅうせいかく)が収集した竹久 夢二に関する作品群です。龍星閣の澤田 伊四郎さんは、「埋もれたもの、独自なものを掘り出して世に送ること」を出版理念に掲げ、精力的に夢二の作品を収集し、作品集にまとめて次々と世に送り出しました。そうした澤田の取り組みが、一時下火となっていた夢二を復活させ、現在にもつながる夢二ブームを生み出しました。
 本展では、夢二ブーム再燃のきっかけを作った龍星閣の取り組みとともに、その原点となった龍星閣が築き上げた「竹久 夢二コレクション」を紹介します。コレクションの目玉である夢二の肉筆作品のほか、最初期の作品とされる「揺籃」や夢二の自伝的小説「出版」の挿絵原画なども公開予定です。また本コレクションの中から、「女性」「子ども」「植物」「船」の描かれた4つのモチーフをもとに、「大正ロマン」の象徴とされる夢二作品の面白さも紹介します。

関連講座

「龍星閣創業者 澤田 伊四郎:出版にかける情熱」
 日時:2月4日(土曜日)午後2時
 会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
 講師:安田隼人さん(秋田県小坂町立総合博物館郷土館)
 参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
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関連講座のうち、2月4日(土)開催のもの。澤田の出身地である秋田県小坂町の総合博物館郷土館さんの学芸員・安田隼人氏が講師を務められます。

平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈されました。『高村光太郎全集』に漏れていたものも含む光太郎から澤田宛の書簡、光太郎が贈った署名本などなど。それらを拝見するために、同館を二度訪れましたが、その際に大変お世話になりました。
東北レポートその1 秋田小坂。
東北レポートその2 青森十和田湖。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。

また、その後、岩手花巻の高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)、高村光太郎記念館さんを訪れた際、たまたま同氏も小坂町の一般の方々を引率なさって訪れられていたのにも遭遇しました。

講座の副題が「出版にかける情熱」ということですので、『智恵子抄』その他の光太郎著書についても触れられるのではないでしょうか。現物は無理としても、光太郎署名本の画像等、講座内で提示されるかも知れません。

実は申込期限が過ぎているのですが、まだ定員に達していない可能性、キャンセル等があることも考えられますので、ご紹介しておく次第です。

ちなみに企画展自体は、上記プレスリリースの通り、竹久夢二がメインです。光太郎関連は小坂町さんに寄贈されましたが、夢二関連は平成27年(2015)、千代田区さんに寄贈され、これまでも東京ステーションギャラリーさんなどで展示が為されています。

死蔵とならないようこうして機会を設けて展示する千代田区さんの姿勢にも、頭が下がりますね。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷 看護婦変る、 孟彦くる 新潮田中女史くる 原稿渡し 草野さんくる、 藤間節子さんくる


昭和31年(1956)3月28日の日記より 光太郎74歳

その死の5日前です。「孟彦」は実弟の藤岡孟彦、「藤間節子さん」は「智恵子抄」を舞踊化した人物。

原稿」は雑誌『新潮』に載った「アトリエにて」という連載の第10回にして最終回「焼失作品おぼえ書」です。当会の祖・草野心平の日記から。

高村さん新潮の原稿一枚書く。(アトリエにてを八枚書いてあつたが、一枚書き足す)ビツクリする。新潮社田中さんきたり原稿をもつてかへる。今日は可成り元気。NHKから来た果物を食べるといはれる。

しかし、いわゆる蠟燭の炎が消える前の一瞬の輝きだったようでした。

年末年始の新聞から、光太郎智恵子の名が載った記事、3件ご紹介します。

まず青森県の地方紙『陸奥新報』さん。俳句を紹介するミニコラムで、12月25日(日)の掲載でした。

冬野ゆく歩幅を父の鼓動とし(泉 風信子)

「歩幅」は目標へ向う意志である。父への共鳴でもある。冬野という厳しい世界を生きていく男の宿命でもある。高村光太郎の詩のフレーズが思い浮かんでくる。
 句集『遠花火』より。

句の作者、故・泉風信子(いずみ・ふうしんし)氏は、元同社常務取締役。青森県現代俳句協会会長などを歴任されたそうです。少年時代にはかの寺山修二と親交が深かったとのこと。

言わずもがなですが、「高村光太郎の詩のフレーズ」は、詩「道程」の「ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ」でしょう。

続いて『読売新聞』さん。12月28日(水)夕刊の一面コラム。

よみうり抄

高村光太郎の「花のひらくやうに」という詩にある。<ねむり足りて/めざめる人/その顔幸(さいはひ)にみち…>◆100年余り前に書かれた一節に現代人の理想が重なる。睡眠の質の向上をうたう乳酸菌飲料、スマホのアプリを使った睡眠改善プログラム…今年の話題に「睡眠市場」の活況があった◆高齢者の不眠を取り上げた数年前の記事で、専門家が語っていたのを思い出す。「治ることをあきらめることで、治ることもある」。現状を受け入れることで辛(つら)さから解放される不眠もある、と◆この1年の集大成として今がある。老化に孤独、意に沿わぬ待遇、子供の成績不振――仕事納めの職場を後にした道すがら、身辺の諸事に思いをめぐらせた方もあろう。こんなとき、先の言葉は役に立つ◆心の中の耳朶(じだ)に響く異論もある。努力と工夫で眠りが足りるに越したことはないではないか。万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。頷(うなず)きつつ思う。詮ないこだわりの「仕分け」を進め、新鮮な気分で年を越してみたい。
004
引用されている「花のひらくやうに」は、大正6年(1917)元日発行の雑誌『感情』に掲載されたものです。

   花のひらくやうに

 花のひらくやうに
 おのづから、ほのぼのと
 ねむり足りて
 めざめる人
 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち
 理性にかがやき
 まことに生きた光を放つ
 ああ痩せいがんだこの魂よ
 お前の第一の為事(しごと)は
 何を措いてもようく眠る事だ
 眠つて眠りぬく事だ
 自分を大切にせよ
 さあようく
 お眠り、お眠り

前半の睡眠の質云々はともかく、最後のあたり「万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。」が、この詩とどう結びつくのか、魯鈍な当方の頭脳ではさっぱり理解出来ません。

「万民よ、現状を受け入れて、政治家が不要な世の中にしようじゃないか」ということでしょうか? それとも、「万民よ、四の五の言わずに政治家の言うことに従いなさい」ということでしょうか。

最後に『毎日新聞』さん。1月4日(水)の掲載でした。

「東京には屋根がある」小池知事、太陽光推進呼びかけへ

000 小池百合子都知事は2022年12月28日、毎日新聞のインタビューに応じ、戸建て住宅への太陽光パネル設置について「機運の醸成に努めていく」と、他の道府県にも推進を呼びかけていく考えを示した。主な一問一答は以下の通り。
◇「見える化」で行動変える
 ――太陽光発電の推進は、他県にもノウハウを広げる考えはあるか。
◆10年くらい前に自宅に太陽光パネルを付けた。面白いのは、(電力消費の)「見える化」をすると生活が変わる。どの部屋の明かりを消すと、どのくらい(消費電力量が)下がるかと(考えるようになる)。大きく行動を変える。
 実は1970年代のオイルショックの頃、太陽光パネルは日本がリードして進めた技術だった。環境相の頃に補助金を予算要望したが、認めてもらえなかった。今振り返ると、気候変動についてはまさにあの時が分かれ目で、もっとやるべきだったと思う。
 なぜこの国が無理して南進して戦争に陥ったかというと、エネルギーがなかったからじゃないですか。それから状況は変わっていない。再生エネルギーは一つの選択肢。ましてや原発の問題がある中で。
 「智恵子抄」で「東京に空が無い」という言葉が有名だけれども、「東京には屋根があって、空いてるじゃないか」と強く言いたい。
 太陽光発電を付けることは防災の観点からも有効だ。近隣県との共同メッセージや、全国知事会での呼びかけなどで機運の醸成に努めていく。

◇気候変動、一気にギアを
 ――これまで知事として脱炭素化に取り組んできた。改めて、どういう東京にしたいか。
◆今、強めるところは何かというと、やはり気候変動とエネルギー不足。一気にギアを(上げて)ふかす。意志を持ってやらないといけない。その意志の源泉は何かというと、安心・安全で、世界から選ばれる街を作るということだ。
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このインタビューに対し、ツィッター上などでは、得意の論点ずらしやご飯論法を駆使し、ネトウヨが噛みついています。政府が「原発ありき」の原子力村の片棒を担いでいる現状ですから、ネットサポーターたるネトウヨにとって反原発、再生可能エネルギー推進派は国賊に同じ、という理屈ですね。

やはりツイッター上で、「本来、これは国がやるべき施策なのでは?」という至極まっとうな書き込みもありました。太陽光、こうした場合には無害で、しかも膨大なエネルギー量がほぼ無限に降り注いでいるのに、それを有効活用しない手は無いように思われますが、原子力村の村民たちには認めがたいのでしょう。

原子力に関しては、光太郎存命中の1950年代からすでに「平和利用」という「神話」が提唱され、太平洋戦争中に大本営発表にまんまと乗せられた光太郎、性懲りもなくまたうかうかとそれに乗ってしまいました。最晩年の詩「新しい天の火」、「生命の大河」(下記参照)などでそうした発言が見られます。そうした点は当方も絶対に許せません。

莫大な費用を費やしての、原子力船むつや高速増殖炉もんじゅの大失敗、東海原発での臨界事故、そしていまだ解決のめどすら立たない福島第一原発のメルトダウン、それを「アンダーコントロール」と言い放つ無節操……何度過ちを繰り返せば気が済むのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの人玄関まで、詩稿を渡す、


昭和30年(1955)12月20日の日記より 光太郎73歳

「詩稿」は、上にも書いた「生命の大河」。前日に書かれたもので、NHKさんの依頼による「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩となりました。

  生命の大河

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。006
 時間の果つるところ即ちねはん。
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り、
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の「物」ことごとく光る。

 人類の文化いまだ幼く
 源始の事態をいくらも出ない。
 人は人に勝とうとし、
 すぐれようとし、
 すぐれるために自己否定も辞せず、
 自己保存の本能のつつましさは
 この亡霊に魅入られてすさまじく
 億千万の知能とたたかい、
 原子にいどんで
 人類破滅の寸前にまで到清した。

 科学は後退をゆるさない。007
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。

 そういう世紀のさきぶれが
 この正月にちらりと見える。
 それを見ながらとそをのむのは
 落語のようにおもしろい。
 学問芸術倫理の如きは
 うづまく生命の大河に一度は没して
 そういう世紀の要素となるのが
 解脱ねはんの大本道だ。

智恵子がらみの最近の地方紙記事を2件。

まずは共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載された記事です。

東京舞台さんぽ 「レモン哀歌」詩碑のある大井町

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956年)の「レモン哀歌」は、妻智恵子をしのんで編んだ詩集「智恵子抄」の中の1編。国語の教科書に取り上げられるなど、広く知られた近代詩の一つだ。東京都品川区のJR大井町駅近くにある詩碑を訪ねた。(共同通信=近藤誠)
 駅の東口から出て、北東にゆるゆると下るゼームス坂通りをしばらく進み、小道で左折すると、レモン哀歌の碑に出合う。晩年の智恵子はこの地にあったゼームス坂病院で療養生活を送り、38年に52歳で死去した。
006
 「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で」。智恵子の臨終を詠んだ詩が刻まれた碑は、推定される智恵子の背丈に合わせ、地元有志によって建てられた。手向けられたレモンが、晩秋の陽光を受けて輝いていた。
007 010
 病院の名前にも関連するゼームス坂は、幕末に来日し、明治維新後はお雇い外国人として旧日本海軍の指導に尽力したという英国人J・M・ゼームスが暮らしたことから名付けられた。
 もとは浅間坂と呼ばれる急坂で地元の人々が大変苦労して歩いていたが、坂の途中に住んでいたゼームスが私財を投じて緩やかな坂に改修した。いつとなく、親しみと感謝を込めてゼームス坂と呼ばれるようになったという。現在ゼームス邸跡にはマンションが立っている。
 JR大井町駅の西側に店を構える「お江戸鎧せんべい岩本米菓」では、2019年からレモン哀歌にあやかったおかき「品川浪漫 レモン愛菓」を販売している。一口頬張ると香ばしい米のおいしさと、爽やかなレモンの風味が広がる。
009 005
 【メモ】詩人の萩原朔太郎(1886〜1942年)は25年に群馬県から上京、大井町で生活を始めた。大井町緑地児童遊園には詩集「青猫」をモチーフとした「花子と太郎」像が設置されている。
008
訪れたことのない方、ぜひ一度、足をお運びいただき、智恵子に思いを馳せていただきたいものです。

続いて智恵子の故郷・福島県の『福島民友』さんから。

ほんとの空...古里の情景たっぷり 来春開校・二本松実業高の校歌

 県教委が8日発表した二本松実業高(二本松市)の校歌には、豊かな歴史と文化があり、美しい自然を持つ二本松市の風景が表現されている。同校は県立高校改革の一環で二本松工と安達東が統合して来春開校する。
 校歌は、両校の伝統を受け継ぎながら、機械システム科や生活文化科など専門的な知識を学ぶ学校の生徒として、地域社会と共に未来へ向けて歩んでいく生徒を表現した。
 歌詞は校歌制作委員会が決定し、「安達太良山」「阿武隈川」「睡蓮(すいれん)」など、二本松市の景色をイメージさせる言葉が登場する。4番まであり、「現在(いま)を生きる これからの人」、「創ろう未来 つなごう心」など前向きな言葉を共通の歌詞に仕上げた。
003 作曲は、富岡小、富岡中の校歌の作詞作曲などを担当した福島市ゆかりの音楽家・大友良英氏が手がける。
 ◇二本松実高校歌◇
  1番
 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

  2番
 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に
000
  3番
 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

  4番
 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

4番まである校歌歌詞、すべての結びに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を配して下さいました。現在の二本松工業高校さん、安達東高校さん両校の生徒さんから校歌に入れてほしい言葉を募り、両校の先生方で作る校歌制作委員会が作詞されたそうです。

そして作曲が何と「あまちゃん」や「いだてん」の大友良英氏。スカ調のにぎやかな校歌になるんじゃないかと、余計な心配をしてしまいます(笑)。是非とも野球の甲子園に出場していただき、この校歌を全国に響かせていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

「家の光」の人くる、「青年」を盤に吹込むとのこと、


昭和30年(1955)8月26日の日記より 光太郎73歳

『家の光』は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌。版元の家の光協会は全国農業協同組合、現在のJAグループさんの関連団体でした。

そこで校歌ならぬ団体歌のような「家の光つどいの歌」のレコードを制作、そちらには光太郎は関わっていませんが、B面に光太郎詩「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)と、竹内てるよの「わたくし」の朗読をプレスしました。
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上記画像、当方が入手した現物なのですが、ジャケット、歌詞カード的なものがついておらず、詳細が不明です。発行年月日、朗読者、「家の光つどいの歌」の方の作詞者、作曲者、歌手などなど。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

当時流行っていた「ピクチャーレコード」という種類のSP盤ですが、レトロな感じが実にいいですね。

先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。

12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

河北春秋

PXL_20221215_001147173 葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。

このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。

続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。

筆洗

 「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。

まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。

さて、もう1件。

過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。

詩人・尾崎喜八回顧展、写真家側面も 東京の杉並区立郷土博物館

 009 山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
 尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
 本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
 尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
 関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
 担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
 観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

転出証明書瀬川さんより届く、


昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳

「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。

元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。

また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。

智恵子の故郷・福島二本松から光太郎智恵子がらみの報道を2件。

まずは11月13日(日)に行われた、朗読劇「智恵子抄」二本松公演の模様を伝えた記事。『福島民報』さんから。

智恵子と光太郎の夫婦愛、朗読劇で熱演 俳優一色さんら 福島県二本松市で公演

  詩集「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎と芸術家の智恵子の夫婦愛を描く朗読劇「智恵子抄」は13日、福島県二本松市安達文化ホールで上演された。葛藤に苦しみながらも光太郎への愛を貫く智恵子の魂を表現する一色采子さんらの熱演に、大きな拍手がわいた。
 昨年に続き、智恵子の古里で催す2度目の公演。二本松市出身の日本画家・大山忠作さんの長女で俳優の一色さんが再び智恵子を演じ、光太郎役の松村雄基さんら新たなキャストと共に臨んだ。
 芸術の探究や生活の困窮の中で苦悩を深め「二本松に行きたい」と願う智恵子の心、美のきらめきを切り絵に表す様子、妻を思い続ける光太郎の姿を「あどけない話」「樹下の二人」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」などの朗読と演技、音楽でつづった。多くのファンや文学愛好者らが詰め掛け、痛切な愛の世界に見入った。
 新派アトリエの会の主催・製作、松竹、二本松市教委の協力。アフタートークでは一色さんらが舞台のエピソードや二本松の印象などを披露した。
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続いて、『朝日新聞』さん。十日ほど前の夕刊に載った記事です。少し長いのですが、全文を。

「ほんとの空」の下の若者たち 農業と発電両立し福島産守る

 その取材に向かう前、私は11年前の取材ノートを読み返した。
 「2011年10月12日」のページを探す。東京電力福島第一原発の事故が起きて初めて、福島県庁が県産米の放射能検査の結果を発表した日だ。
 安全基準ぎりぎりのコメもあったが、基準はすべてクリアした。次のやり取りが残っていた。
 佐藤雄平知事(当時)「農水省が決めた倍の地点で調査した。安全性が確認され、安堵(あんど)している」
 私「安全宣言ですか?」
 知事「まあ、安全宣言といえば、安全宣言だなあ」
 その後、基準を超えたコメが、県内の複数の田んぼで見つかった。地区単位でコメの出荷が制限される。今のような風評被害ではなく、「実害」だ。将来を絶望し、自ら命を絶つ農家もいた。

 被害を受けた地域の一つが、福島県の北中部にある二本松市だった。原発から50㌔余り離れていても、放射線量は高かった。
 10月中旬、その二本松を久しぶりに訪れた。
 自然豊かな二本松を代表する「安達太良山」。「東京には空が無い」で有名な詩集「智恵子抄」で、作者の高村光太郎の妻智恵子の話として、この山の上を「ほんとの空」とつづった。
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 その空の下では今、若者たちが発電と農業を両立させる「ソーラーシェアリング」(営農型太陽光発電)を手がけている。農作物を育てながら同じ土地で発電して電気を売り、収入を増やす手法だ。
 長さ70㍍の「壁」が3列半。壁の材料は230枚の太陽光パネルだ。耕作放棄地だった農地は今年3月、日本初という「垂直型ソーラーの農場」に変わった。
 運営は「二本松ご当地エネルギーをみんなで考える株式会社」(略称ゴチカン)。社長兼社員の近藤恵(けい)さん(42)を、自然エネルギーで著名な飯田哲也さんや二本松市、地元農家らが支える。
 パネルの壁と壁は10㍍空いており、トラクターが余裕で通れる。50㌔㍗の電気をつくりながら地面では牧草を育てている。
 「実験ですか?」と私が尋ねると、近藤さんは「経済的になりたっているので、すでに実用です」と胸を張った。
 「垂直に立てても受ける光のロスはわずかです」。土地を効率的に利用するなら、斜めに置くよりも、垂直のほうがよさそうだ。
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 東京都出身の近藤さんは、筑波大で農林業を学び、一般社団法人「二本松有機農業研究会」で修行を積んだ。原発事故の前まで、農薬や化学肥料をほとんど使わない有機農法で、コメや野菜を得意客に直接販売していた。
 11年もコメは作った。「お客さんは『近藤さんのコメだから安心です』と言ってくれたが、心苦しかった。基準内の玄米からは放射能が多少検出されても、白米にするとゼロになることや、うちの子どもにも食べさせていると添え書きを入れて、コメを送りました」
 農業を諦め、二本松の農協に勤めた。与えられた仕事は、東電に損害賠償請求する農家の手伝いだった。知らない農家から「お前は国側か!」と怒鳴られた。
 さらに心が痛む仕事が待っていた。収穫されたものの、出荷停止になったコメの処分だ。
 「米袋には顔見知りの農家の名前も書いてあって……。捨てるのが、つらかったですよ」
 農業から話はそれるが、二本松市は原発周辺の避難者を大量に受け入れた。市民にはさらに遠くへ避難する人もいた。12年には市内で放射能に汚染されたマンションが見つかった。原発周辺の砕石が土台に使われていたためだった。
 私は当時の混乱ぶりを取材していた。なので、二本松の印象は極めて暗い。当時のノートを見返したのも、それを忘れちゃいけないと思ったからだ。

 近藤さんは農協を2年半で辞めた。有機農業研究会に「エネルギー部会」をつくり、再生可能エネルギーと農業の両立を学び始める。避難指示が出た福島県飯舘村で営農型太陽光発電が先行していると知るや、事業主体の飯舘電力に頼み働かせてもらった。
 垂直ソーラーがある牧草地から車で約10分、6㌶の畑の地上3㍍に、9500枚のパネルが並ぶ。
 頭上にはブドウ棚の鉄線が張り巡らされている。近藤さんと働く塚田晴(はる)さん(20)、菅野雄貴さん(38)が4ヶ月かけ作業した。4月にはシャインマスカットなど100本のブドウの苗を植えた。
 パネル下でも通常の75%の日照を確保できる。塚田さんは「再来年には味見ができるくらいに成長しているでしょう」と話す。
 塚田さんは原発事故のとき、小学3年だった。それまでは家族5人で、近藤さんのいた有機農業研究会の有機野菜を食べ、稲刈り体験にも参加していた。
 11年3月17日。母の実家の神戸に避難する。二本松からタクシーに乗り、新幹線が通っていた栃木県のJR那須塩原駅へ向かった。父は運転手に心付けも含め3万円を渡した。
 以来、塚田家ではこの日を「避難の日」とし、毎年3万円で外食する。事故の恐怖や故郷を去る悔しさを忘れないためだ。
 塚田さんが小学5年のとき、研究会の当時の代表、大内信一さん(81)が、福島の農家の現状を話すため、消費者団体の招きで大阪に講演にきた。
 母と聴きに行った。会場から大内さんに厳しい質問が飛んだ。「福島産は危険だ」「子どもに食べさせていいのか」――。
 聞いていて、ムッとした。「何だよ。消費者って、こんなに簡単に生産者から離れていくんだ」
 毎年お盆に福島へ帰省すると、二本松の大内さんの田んぼをのぞきにいくようになっていた。
 高校は三重県の農業学校に進み、果樹を専攻した。3年生のとき、二本松から近藤さんがスカウトにきた。太陽光発電の下で、専門をいかすチャンスだった。
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 塚田さんは自分のためにブドウ栽培を用意してくれたと思っている。が、近藤さんの本当の狙いは違ったようだ。
 「『シャインマスカットォ~』とか『ソーラーシェアリングゥ~』とか、ほかとあまりくらべるものがない果物や農法で攻めないと、放射能の問題は突き抜けられないと思ったのです」
 消費者庁の調査では、原発事故後、福島のコメや野菜を敬遠し続ける消費者は今も1割弱いる。
 生産する側も、作付けなどが一時制限された二本松や福島、伊達、相馬の4市では、計3割の田畑が営農を休止したままだ。
 ありきたりの品種や手法では新たな道はひらけない。本当の空の下、そんな切実さが、近藤さんたちの闘いから伝わった。

「再稼働ありき」で、こうした再生可能エネルギーの普及を妨害すらしているのではないかと思われる「原発村」の魑魅魍魎どもは、こうした記事を「くだらん」と一蹴するのではないでしょうか。「(笑)」とつけたいところですが、「(怒)」ですね。

【折々のことば・光太郎】

平熱、少〻息切れする、シヤベリ過ぎらし、


昭和30年(1955)1月2日の日記より 光太郎73歳

この日は、当会の祖・草野心平をはじめ、年始の挨拶的な訪問者が多く、会話が弾んだようです。それはそれで嬉しかったのでしょうが、肺結核にはあまりよろしくなかったようで……。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

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