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智恵子の故郷・福島二本松系の新聞記事を3件ご紹介します。

まず、『福島民報』さん、一昨日の一面コラム。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

あぶくま抄 百年桜

足早な春に、小さなエドヒガンザクラが数輪の花を付け、やがて若葉に変わった。二本松市の安達高の正門横で大切に育てられている。今年の学校創立100周年に合わせて記念事業実行委員会が植え、生徒会が「百年桜」と名付けた▼安達高は1923(大正12)年に県立安達中として開校し、地元の若者が志を抱いて勉学に励んだ。1、2回生が卒業を記念して植えた桜が風霜に老いて今回、代替わりした。二本松藩主に目をかけられ、開校時から生徒を見守る「三顧の松」、放射線医学の世界的権威で文化勲章を受けた高橋信次博士の像が近くに立つ▼「入学の日、坂を上り学校へ向かう私を、母はいつまでも見送ってくれた。涙で私のセーラー服姿が見えなくなったとよく話していた」。同窓会長の五輪美智子さんは、10日の入学式で思い出を明かした。娘の成長を喜ぶ母の思いを重ね、当時と同じセーラー服と学生服に身を包む150人の新入生を祝福した▼百年桜のお披露目を兼ねた吹奏楽のスプリングコンサートがきょう13日に催される。伝統の校歌や若い世代に人気の曲を奏でる。ほんとの空に響く澄んだ音色を、100年先も桜が覚えているといい。

記事を読む前、「百年桜」というので、樹齢百年を超える大木の桜が見頃、的な話かと思ったらさにあらず。もとの古木が枯れてしまい、同校の創立百周年を期して新たな桜が植えられ、花を咲かせたそうで。

ネットで調べたところ同校の『創立100周年記念事業実行委員会だより』がヒットしまして、下記の記事が出ていました。昨年のもののようです。
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「ほんとの空」のもと、この木、そして生徒さんたちも逞しく成長してほしいものです。

続いて『福島民友』さん。やはり桜がらみで、過日ご紹介した市内循環バス「春さがし号」の件。

二本松の名所循環バス 16日まで6便、9カ所停車

000 二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」が始まり、16日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある県立霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の墓がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除き9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小児90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小児250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の7日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(同0243・24・5085)へ。

多くの乗客の方々で賑わっているといいのですが。

最後に『朝日新聞』さん。今日の土曜版から。朝食を食べながら、これが掲載されていることに気付き、読み進めて吹きました(笑)。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載「マイ走馬灯」です。

マイ走馬灯 ひらパーの菊人形

 幼い頃、大阪のひらかたパークで見た(いや、見せられた)菊人形がとても怖かった。まわりの大人たちがそれを「綺麗(きれい)やなァー」と絶賛しているのもまた、ホラー。そんなトラウマがいつしか面白さに変化して、40代後半のマイブームとなったのである。
 絵の左下にあるのは福島県で見た高村光太郎(丸メガネ)の菊人形。中央下のカエル(これは僕の漫画キャラ。走馬灯画には必ずどこかに登場する)は、実際にオリジナルで作った菊人形だ。白い犬は映画にもなった青森の『わさお』。飼い主のおばさんから、わさおの抜け毛をプレゼントされた思い出もある。
 右端は京都、三十三間堂のグッとくるルックスの婆藪(ばす)仙人像。耳にハイビスカスは歌手の日野てる子さん。今でも『夏の日の思い出』を口ずさむ。その隣は僕の青春アイドル、栗田ひろみさんで、映画『犬神家の一族』のスケキヨと、プロレスラーのミル・マスカラスはマスク繋(つな)がりだ。そして中央には、5年前からグッズを買い続けているワニ。きっとみなさん、マイ走馬灯に出てくれるはず!

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みうら氏、幼少期に見たある意味無気味な菊人形に対するトラウマが相当に強いようで、令和元年(2019)には『産経新聞』さんの連載コラムでも、その件に触れられていました。そこでは「二本松の菊人形」に並んだ光太郎の菊人形を写真入りで紹介なさっていました。ちなみにまだ先の話ですが、今年の「二本松の菊人形」のテーマ、「徳川家康」だそうです。

二本松では今月末から恒例の「高村智恵子生誕祭」として、通常非公開となっている智恵子生家の2階部分の限定公開や、智恵子記念館では智恵子紙絵実物の展示もありますし、来月には安達太良山の山開き、さらに地元で智恵子顕彰をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント等も計画されています。また後ほど詳しくご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又お遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから


大正元年(1912)10月5日(年代推定) 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、最近分かったのですが、さらに東京女子高等師範学校に入学し直し、この年7月に卒業しています。この後、智恵子の郷里の父母らは光太郎との交際にいい顔をしませんでしたが、セキだけは光太郎と直接面識を持ち、二人の後押しをいろいろしてくれたようです。前月に智恵子が光太郎を追って銚子犬吠埼を訪れた際も、同行していました。

書簡に書かれたセキの光太郎訪問については、智恵子も一緒だったのかなど、詳細が不明です。

福島発の報道を2件。

まずは智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山関連で、『福島民報』さん。3月31日(金)掲載分です。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

くろがね小屋 またね 建て替え、4月から休業 福島県二本松市の安達太良山 築59年 登山客 感謝

 福島県二本松市の安達太良山(1700㍍)中腹にある「くろがね小屋」は、建て替えのため4月から休業する。60年近く登山客に親しまれてきた現施設は30日、最後の宿泊客を迎えた。なじみの客が大勢訪れ、施設に思い出を刻むとともに、感謝と別れを告げた。ほんとの空の下で登山者の安全を守ってきた山小屋は、2025(令和7)年度内に生まれ変わる。登山者は「心のよりどころとなる施設として在り続けてほしい」と願う。
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 安達太良山の奥岳登山口から2時間ほど歩くと、くろがね小屋に着く。玄関を開けると歴史を感じる造りで、室内にはゆったりとした時間が流れる。冬期も含め年間を通して営業している山小屋は、寒さの厳しい東北、北海道地方では珍しい。源泉掛け流しの温泉もあり、秘伝のレシピで作るカレーも人気だ。ここで1泊し、翌朝に山頂を目指す客は多い。
 4月1日から休業するため、宿泊者を受け入れるのは30日が最後だった。午後になると、客が続々と到着する。昔ながらのダルマストーブがリュックサックを下ろした人たちの体を温める。1階の談話室では、なじみの客が車座になって談笑し始めた。スマートフォンを向けて室内を写真に収めたり、持ち寄った手料理を囲んで杯を交わしたりして思い思いに過ごす。にぎやかで温かな雰囲気に包まれる。
 施設の建て直しに、登山客からは惜しむ声が上がる。3年ほど前に山登りを始めた青森県の会社員矢田圭吾さん(37)は、テレビでくろがね小屋を知り、初めて訪れた。「最初で最後の訪問。趣があって、一目ぼれしている」と話す。郡山市の無職八木沼トモ子さん(69)は、50年以上前から年に2回ほど通う。なじんだ建物がなくなるのはさみしい。「新しい山小屋を楽しみにしている。休業の間も登り続け、再開を待ちたい」と気持ちを切り替える。
 管理人の田畠翔さん(35)は「年間の3分の2の時間をここで過ごしてきた。当たり前にあったものが無くなってしまうが、まだ実感がない」と言う。再開後も仲間と共に管理人の務めを果たしたいと気を引き締める。
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■年間3千人超 宿泊利用
 くろがね小屋の現施設は、1964(昭和39)年に営業を始めた。県が所有し、管理や運営を県観光物産交流協会が担う。県によると、年間3千人以上の宿泊利用がある。
 築59年となり、雨漏りや床の腐食など老朽化が目立ってきたため建て替える。トイレの排水を地中に浸透させて処理しており、環境への影響も課題となっていた。
 新たな建物は現施設の跡地に建てる。排水を処理する浄化槽を設けるほか、2014年の御嶽山(長野、岐阜両県)の噴火災害を教訓に、屋根の強度を高めるという。当初は2019年度に着工する予定だったが、環境影響調査や資材の運搬計画、建設費の見積もりに時間がかかっていた。
 4月からは、電源の引き込みや登山道の補修工事を進める。

くろがね小屋さん、登山系のテレビ番組などで安達太良山が取り上げられる際には、必ずと言っていいほど登場しました。

ドキュメント72時間「福島 真冬の山小屋にて」/宮川一朗太のおっ!さんぽ #42 花巻。
テレビ再放送情報 「ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬」/「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」。
日本の名峰・絶景探訪▼紅葉色めく湯の山 安達太良山 福島。
『日本の名峰 DVD付きマガジン44 雪煙舞う厳冬の安達太良山』。
にっぽん百名山「安達太良山」/にほんごであそぼ 道程。
「小さな旅 シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」。
にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。

長い間、お疲れさまでした、という感じですね。

もう1件、当会の祖・草野心平関連で、光太郎の名も出して下さいました。『いわき民報』さん、こちらも3月31日(金)掲載分です。

73歳の草野心平は飲みすぎ!? 福島高専・村上さんの日記分析に学会評価

 数え年で73歳の心平が1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍!?
 今年生誕120年を迎える小川出身の詩人・草野心平の飲酒量を、心平自身の日記の一部からデータベース化し、集計・分析した研究発表が、先ごろ開催された情報処理学会の第85回全国大会で高評価を受けた。
 まとめたのは、福島高専ビジネスコミュニケーション学科4年生の村上紗彩さん(19)。高村光太郎ら文人仲間が集う居酒屋「火の車」を経営するなど、無類の酒好きとして知られる郷土の偉人、心平の人間味あふれる一面を数値でつまびらかにし、研究者たちを驚かせている。
 世代の名だたる文豪たちの酒好きエピソードは数あれど、どんな酒をどれだけ飲んだか、事細かく日記に記した文人は草野心平しかいない。
 村上さんが強い関心を持ち、研究材料と決めたのは、心平作詞の校歌をライフワークとして調べ続けるなど、〝心平愛〟の深い恩師、島村浩同校情報処理教育センター長・指導教員(63)から聞いた逸話がきっかけだった。幼いころに教科書で〝蛙の詩人〟を知り、進学した高専の校歌を作詞した偉人が実は食通で、無類の酒好きだったことを知った。
 日本酒、ビール、ウイスキー、ぶどう酒、焼酎にシャンパン……。日本酒は1合180ml、ビールは1本633ml、ウイスキーは1杯30mlなど、日記の記述をもとに合理的と考えられる単位を考え、飲んだ記録はあるが量の記録がない場合は0に。
 一方、特にたくさんの酒を飲んだ様子のある日は記憶がなくなり、飲酒量の記録がないため、「最低でもこれ以上は飲んでいるだろう」という数値を積み重ねた。
 村上さんは「正直、最初は『ぐうたらな人』かと思っていたが、日記を読み進めるうちに、積極的に運動に取り組むなど健康意識は高く、仕事もたくさんする凄い人と分かった」と、心平の人間性に心奪われている。
 今回のデータは膨大な日記のうちのほんの一部で、もっとデータを蓄積する必要性に駆られており、オンライン化を視野に研究を継続して、豪放と評される心平の人となりや凄みを数値化していく考えだ。
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そこまで分析されてしまった心平、雲の上で苦笑しているような気がします。

光太郎とちょうど20歳違いの心平。今年、光太郎が生誕140周年ですが、心平は生誕120周年です。そういうわけで、心平にも大きくスポットがあたってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生転居仕候


明治45年(1912)6月8日 島村盛助宛書簡より 光太郎30歳
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駒込林町25番地のアトリエ兼住居が落成し、実家からこちらに移ったという通知です。「手製の木版は如斯きたなく候」とあり、2色刷りの版画で刷って、あちこちに送ったと推定されます。他に生田葵山に宛てたものの存在も確認できています。

このアトリエの新築祝いに、前年末に知り合った智恵子がグロキシニアの鉢をかかえてやってきました。おそらくこの前後でしょう。

『週刊朝日』さんの3月17日号、作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」の中に、光太郎の名。
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ときめきは前ぶれもなく 岩手に惹かれる

 二月二十七日の朝日新聞夕刊によれば、NYタイムズ「今年行くべき五十二カ所」で、日本の盛岡市がイギリスのロンドンに次いで二番目に紹介されているという。ロンドンは首都で、今年はチャールズ国王の戴冠式などで注目度が高いことはわかる。
 では、盛岡はなぜ? 人口三十万人弱、みちのくの地方都市なのに。日本ではこれまで東京・京都・大阪などが選ばれたのは当然として、なぜ今年選ばれたのか。
 名物のわんこそばに挑戦する楽しさが一つ。「盛岡は人が良く、自然もきれい。ごはんもおいしい」とオーストラリアから来た若い観光客は言う。
 NYタイムズは、盛岡が選ばれた理由をいくつも挙げている。混雑を避けて歩いて楽しめる場所。山に囲まれていくつもの川が流れる豊かな自然がある。盛岡城跡や赤レンガの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的建物が並ぶ。東京から新幹線で約二時間と近い……など。
 盛岡駅そばのジャズ喫茶「開運橋のジョニー」など秋吉敏子さんも演奏する「和ジャズの聖地」。岩手大学近くの「ナガサワコーヒー」。生豆の仕入れと焙煎で評判だ。
 盛岡の魅力を私がつけ加えるとしたら、手織りのホームスパンの生地を織る工房。日本古来のものを受け継ぐ伝統工芸品はあるが、ホームスパンという羊の毛で織った西洋の生地はなんとも手ざわりが良く素朴で暖かい。注文してから時間のかかる生地を、白黒の縦縞模様と濃紫の無地、二着分を織ってもらい、つれあいのジャケットと私のツーピースに仕立てた。四十年前なのに、今も大切に着ている。
 わんこそばでいえば、量で勝負出来ぬ私は、そばに酒をかけて楽しむ酒そばを食べる。講演会の会場の隣にあった不来方城(盛岡城)跡の丘に寝そべった春の日ののどけさ。街はなぜか西洋の香りがしておしゃれである。ここで東京から移り住み、木馬を作っている友人にも出会った。
 JTBが出していた「旅」という雑誌があった。戸塚文子という女性の名物編集長がいて、ある時グラビアと読み物で、母娘旅をして欲しいと言われた。照れ屋の私は母と二人旅などしたくなかったが、母にいちおう聞いてみた。「どこへ行きたい?」
 すると即座に「岩手県」という返事。理由は、宮沢賢治と石川啄木、それに高村光太郎であった。若い頃文学少女だった母は短歌を作り、賢治の詩が大好きだった。
 「参ったなあ」と思いながら賢治の故郷へ。なぜ賢治の作品が西洋風の不思議な世界なのか、その謎が少し解けた。
 欧米の人々が岩手県に惹かれる理由もわかる気がする。光太郎が智恵子なき晩年を過ごした雪深い小屋にも光太郎の詩のノートや、彫刻家として作ったトルソーなどがあった。ここにはどこにもない不思議な世界が広がっている。
 そういえばコロナの初期の頃、陽性者が毎日増え続ける中で、岩手県だけが0を続けていた。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

NYタイムズさんの「今年行くべき五十二カ所」に盛岡が選ばれた件、ある意味、衝撃的でしたね(笑)。しかし、記事にもあるとおり、わんこそばホームスパンなどの名物、赤レンガ伝統館などのたたずまいなど、たしかに素晴らしいものがあります。岩手を「イーハトーブ」とした賢治や、「岩手は日本の背骨」と言い切った光太郎にしてみれば、当然だという感覚かもしれません。

ただ、下重氏、記憶違いをなさっているようで、光太郎にはトルソの作品は現存しませんし、「詩のノート」というのも花巻には無いはずです。一応、指摘しておきます。

ところで、岩手といえば、今号の表紙は女優ののんさんで、東日本大震災にからめた「3.11被災地の歩み 「あまちゃん」放送10周年 のん “私は太陽”自分の魅力を発掘し続ける」という記事がトップでした。言わずもがなですが、「あまちゃん」の主要な舞台の一つが岩手県だったわけで、それに伴い、達増知事へのインタビュー記事「岩手県は自信をもらった」なども掲載されています。
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また、「あまちゃん」や舞台「私の恋人」で共演された、当会会友・渡辺えりさん(来る4月2日(日)の第67回連翹忌の集いにもご参加予定です)に関する記述も。のんさん曰く「尊敬する大先輩なのに、同じ目線で接してくれる。私がツッコミを入れると、「のんちゃんのバカ!」なんて言う。一緒に映画「レ・ミゼラブル」を見たときには隣で号泣しちゃう。無邪気なところがすてきです

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

先夜木曜のパンの会につひ行きはぐれ大きに残念いたし候。


明治43年(1910)1月15日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

パンの会」は雑誌『方寸』、『スバル』の同人らを中心に起こった芸術至上主義的運動で、石井柏亭、北原白秋、木下杢太郎、そしてこの書簡の宛先である長田秀雄らが中心メンバーでした。光太郎の海外留学中に始められ、帰朝後の光太郎も早速参加しています。

淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。

昨年10月末、『日刊スポーツ』さんに載った記事です。光太郎の父・光雲に言及されています。「何だかなぁ……」という内容ですので、これまで紹介してこなかったのですが、このところネタ不足なもので……。

「政治家と銅像」 森元首相、菅前首相の建立計画に微妙な違和感…なぜ?

 この秋、森喜朗元首相(85)と菅義偉前首相(73)の銅像の建立計画が相次いで明らかになりました。森氏は「スポーツ界における偉大な功績を顕彰しよう」と政財界、スポーツ界の15人が発起人となって募金活動が行われ、菅氏は600件、2100万円の寄付が集まり、胸像と台座は完成。来春、除幕式が行われる予定です。2人が健在のためでしょうか。銅像となることに微妙に違和感があります。政治家と銅像について考えてみました。

 東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件が拡大し、組織委員会会長だった森氏も参考人として任意の聴取を受ける事態となっているためか、森氏の胸像建立計画の詳細は明かされていません。一口5000円の募金活動は5月にスタートし、案内状は「先生が残された多くの功績、そのお教えは、スポーツ界のみにとどまりません。多くの方々から尊敬され慕われている先生の顕彰事業を行うため」とうたっています。

 菅氏の銅像は、郷里の秋田県湯沢市の有志が進め、既に高さ1・2メートルの胸像、同じく1・2メートルの台座が完成しています。湯沢高校の同級生で事務局長を務める伊藤陽悦さん(元市議会議長)は「普通は実物の1・2〜1・3倍くらいの大きさにするそうですが、小柄な方(165センチ)なので1・5倍にしました」と、大きな胸像にした理由を明かします。この秋に台座を設置し、胸像は来年4月に菅氏を招いて行う除幕式でお披露目となる予定です。「胸像だけで800万円。台座と整地費用など合わせ、1500万円です」と伊藤さんは打ち明けます。

 銅像は、その功績をたたえ、後世に伝えるため、建立されます。失言は数知れず、組織委員会会長もその発言により辞任した森氏と、わずか1年で退陣に追い込まれた菅氏。違和感を覚えるのは、2人が健在で、記憶がまだ生々しいからでしょうか。「銅像には、死後、つくられる遺像と、生前につくられる寿像があります。顕彰を目的とした銅像の建立が行われるようになった明治時代から寿像はつくられており、別におかしくはありません」と話すのは「銅像時代 もうひとつの日本彫刻史」の著者・木下直之静岡県立美術館館長(東大名誉教授=日本美術史)です。

 伊藤博文、大隈重信、板垣退助ら寿像は多く、板垣は夫妻で除幕式に参列しています。近年でも田中角栄元首相、渡辺美智雄元蔵相、原健三郎元衆院議長らの銅像は寿像です。政治家に限らず、渋谷の忠犬ハチ公像も初代は寿像で、ハチは除幕式に参列しました。
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 では、もやもやとした違和感の正体は何なのでしょうか。全国の個人顕彰銅像のデータベース化を目指している「日本の銅像探偵団」の遠藤寛之団長によると、政治家の銅像は少なくなっているそうです。歴代首相では1980年代までの首相は中曽根康弘氏を除き、就任早々の女性スキャンダルで参院選に大敗し、69日で退陣した宇野宗佑氏を含めて銅像になっています。しかし、90年代以降は在職中に病に倒れ、宿願の沖縄サミットを前に死去した小渕恵三氏だけです。
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 国会議員は在職が50年を超えると、特別表彰され、引退時または死亡時に名誉議員の称号が贈られ、国会内に胸像が設置されるのが慣例とされてきました。88年に死去した三木武夫氏の胸像は慣例通り90年に衆院正面玄関ホールに建てられましたが、その後、有資格者となった桜内義雄氏(00年引退、03年死去)原健三郎氏(00年引退、04年死去)中曽根康弘氏(03年引退、19年死去)の胸像はつくられていません。衆院事務局は「機運があれば、議院運営委員会で協議することになるが、今のところ、ありません」と話します。国会改革の一環として2000万円かかるとされる胸像の制作には異論が出るようになり、与野党合意が得られなくなったためです。
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 個人顕彰の銅像の減少と、日本経済の「失われた20年」は重なっているようです。「バブル期までは寿像を自分の会社の中に建てる社長がいましたが、少なくなりました。銅像制作会社から個人の銅像の受注は減っていると聞いています。増えているのは町おこしのキャラクター銅像で、個人顕彰から町おこしにシフトしている。偉人像でも握手ができる坂本龍馬とか、町おこしにつながるつくりが多くなっています」(遠藤団長)。

 木下館長は「昔と一番違うのは場所です。昔は駅前や公園に建てることが許されましたが、今は公有地、公的な空間に建てることに批判が起こる。政治家の評価の問題も絡み、一番難しい問題です。アニメや漫画のキャラクターは、公共空間の中に立って、まだ多くの国民に共有されますが、個人の銅像は居場所がなくなっている。銅像は除幕式のときに一番光が当たり、後は基本的に放置される存在です。そんな物を建てる必要性はどんどん小さくなっている。今どき個人を顕彰するのに、銅像という形を取ることはひどく時代遅れで、銅像の時代はもう終わっているんじゃないかと思います」と話します。

 菅氏の胸像は当初、湯沢駅前の公園に設置する計画でしたが、「公的な場所は難しい」(伊藤さん)として、公園に隣接する私有地16平方メートルを購入しました。森氏の胸像はどこに建立されるか明かされていませんが、うわさに上る新秩父宮ラグビー場など公的な空間の場合、反対の声が広がりそうです。

◆中最も身近な銅像といえば、二宮金次郎です。二宮尊徳を祭る報徳二宮神社によると、金次郎像は今、少子化による小学校の統廃合で、再びピンチを迎えているそうです。勉強熱心で、手伝いをいとわない金次郎は小学生が目指すべき人物として、1924年(大13)から小学校に建つようになりました。しかし、戦争で供出され、残ったのは2体だけ(報徳二宮神社と明星学苑)という悲しい歴史があります。わが母校も来年4月、統合されます。電話したところ、「経年劣化しており、撤去することになりました」と言っていました。
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■伊藤博文、台座だけの像も
 首相経験者ではトップの伊藤博文(10体)には、ほかに台座だけが残る受難の像もあります。1904年(明37)、神戸・湊川神社に建立された銅像で、05年、日露戦争で日本が勝ったにもかかわらず、講和条約で賠償金が得られないことが判明すると、民衆の不満が爆発。「女遊びが好きな伊藤には(遊郭がある)福原がふさわしい」と、像を引き倒し、福原まで引きずり回して小便をかけるという事件が起こりました。伊藤は「神戸には2度と行かない」と激怒したといいます。09年に伊藤が暗殺されると、同情の声が高まり、11年に神戸・大倉山公園に再建されました。しかし、戦争で物資が窮乏した43年、金属供出で銅像は姿を消しました。9・15メートル四方、高さ5・7メートルの巨大な台座だけが残っています。
005
■1位は坂本龍馬
 「日本の銅像探偵団」の調べでは、二宮金次郎、空海、日蓮の銅像は集計し切れないほど多く、全国に1000体以上あると推定されています。このため、探偵団では、この3人は「殿堂入り」とし、「銅像建立数ランキング」の1位は銅像33体、FRP(繊維強化プラスチック)像9体、計42体の坂本龍馬としています。2位の松尾芭蕉は銅像37体、FRP像1体で、銅像に限定すると、芭蕉が上回ります。龍馬は2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送前後に制作されたFRP像が多く、芭蕉を超えました。探偵団では高知・桂浜の龍馬像、仙台城跡の伊達政宗像、東京・上野の西郷隆盛像、東京・渋谷のハチ公像、札幌・羊ケ丘のクラーク像を「日本5大銅像」(銅像ファイブ)と名付けています。
004
■「サザエさん」「こち亀」は富山・高岡製
 銅像はかつて高村光雲、朝倉文夫、北村西望ら近代日本を代表する彫刻家も手掛けましたが、現在はほとんど銅像会社の制作です。特に富山県高岡市が盛んで、9割は高岡製といわれています。菅氏の胸像も高岡で創業したメーカーの制作です。高岡は前田利長が1609年(慶長14)に鋳物師を移住させて以降、鋳造が盛んで、明治時代に入ると、銅像制作が始まりました。屋外銅像第1号の金沢・兼六園の日本武尊像(1880年建立)も高岡製です。鳥取県境港市の水木しげるロード、東京・桜新町のサザエさん一家、亀有の「こち亀」ファミリー、四つ木の「キャプテン翼」、鳥取県北栄町のコナン通り、新潟市の水島新司まんがストリート、熊本県の「ワンピース」麦わらの一味など、高岡生まれです。
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詩人の皆さんには申し訳ありませんが、「ポエム」という語が「脳内お花畑」とほぼ同義に使われるようになってしまったのと同様に、「銅像」という存在が「ヒヒオヤジの自己顕示欲、ないしは取り巻きのゴマスリの象徴」という意味に近くなってしまっているようで、嘆かわしい限りです。

かつては光太郎や光雲、海外ではロダンなどが、造形的にも優れたあまたの像を制作したのも、「今は昔」という感がありますね。現代でもまだ芸術的良心、対象へのリスペクトのこもったすばらしい銅像も無くはないのですが……。

【折々のことば・光太郎】

亜米利加といふ国は一大怪物なりとか申候へど、美術上より考へても一の大きな?に候。この蕨の手が広がつたらどうなる事やら。


明治39年(1906)7月9日 川崎安宛(推定)書簡より 光太郎24歳

アンディ・ウォーホルら、いわゆるアメリカンアートの旗手が世界を席巻するのは半世紀以上後。当時のアメリカはまだまだ芸術的には後進国でした。それでも旧態依然の日本よりはだいぶ進んでいたようですが。官費留学でないものの常として、まずアメリカで経済的にめどを付けてから欧州へ、というのがお決まりのコースで、光太郎もそれに倣いましたが、次第にアメリカにいる意味に疑問を感じてきたようです。

『智恵子抄』初版の版元・龍星閣さんの創業者・澤田伊四郎に関わる企画展が開催中です。企画展自体は光太郎と直接関わらないと思いますが、関連行事が気になります。

追記:光太郎智恵子コーナーもあるそうです。

龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―

期 日 : 2023年1月7日(土)~2月28日(火)
会 場 : 日比谷図書文化館 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 午前10~午後7時
休 館 : 1月16日(月) 2月20日(月)
料 金 : 無料

 現在千代田区が所蔵する「龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクション」は、元々区内にある出版社・龍星閣(りゅうせいかく)が収集した竹久 夢二に関する作品群です。龍星閣の澤田 伊四郎さんは、「埋もれたもの、独自なものを掘り出して世に送ること」を出版理念に掲げ、精力的に夢二の作品を収集し、作品集にまとめて次々と世に送り出しました。そうした澤田の取り組みが、一時下火となっていた夢二を復活させ、現在にもつながる夢二ブームを生み出しました。
 本展では、夢二ブーム再燃のきっかけを作った龍星閣の取り組みとともに、その原点となった龍星閣が築き上げた「竹久 夢二コレクション」を紹介します。コレクションの目玉である夢二の肉筆作品のほか、最初期の作品とされる「揺籃」や夢二の自伝的小説「出版」の挿絵原画なども公開予定です。また本コレクションの中から、「女性」「子ども」「植物」「船」の描かれた4つのモチーフをもとに、「大正ロマン」の象徴とされる夢二作品の面白さも紹介します。

関連講座

「龍星閣創業者 澤田 伊四郎:出版にかける情熱」
 日時:2月4日(土曜日)午後2時
 会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
 講師:安田隼人さん(秋田県小坂町立総合博物館郷土館)
 参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
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関連講座のうち、2月4日(土)開催のもの。澤田の出身地である秋田県小坂町の総合博物館郷土館さんの学芸員・安田隼人氏が講師を務められます。

平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈されました。『高村光太郎全集』に漏れていたものも含む光太郎から澤田宛の書簡、光太郎が贈った署名本などなど。それらを拝見するために、同館を二度訪れましたが、その際に大変お世話になりました。
東北レポートその1 秋田小坂。
東北レポートその2 青森十和田湖。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。

また、その後、岩手花巻の高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)、高村光太郎記念館さんを訪れた際、たまたま同氏も小坂町の一般の方々を引率なさって訪れられていたのにも遭遇しました。

講座の副題が「出版にかける情熱」ということですので、『智恵子抄』その他の光太郎著書についても触れられるのではないでしょうか。現物は無理としても、光太郎署名本の画像等、講座内で提示されるかも知れません。

実は申込期限が過ぎているのですが、まだ定員に達していない可能性、キャンセル等があることも考えられますので、ご紹介しておく次第です。

ちなみに企画展自体は、上記プレスリリースの通り、竹久夢二がメインです。光太郎関連は小坂町さんに寄贈されましたが、夢二関連は平成27年(2015)、千代田区さんに寄贈され、これまでも東京ステーションギャラリーさんなどで展示が為されています。

死蔵とならないようこうして機会を設けて展示する千代田区さんの姿勢にも、頭が下がりますね。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷 看護婦変る、 孟彦くる 新潮田中女史くる 原稿渡し 草野さんくる、 藤間節子さんくる


昭和31年(1956)3月28日の日記より 光太郎74歳

その死の5日前です。「孟彦」は実弟の藤岡孟彦、「藤間節子さん」は「智恵子抄」を舞踊化した人物。

原稿」は雑誌『新潮』に載った「アトリエにて」という連載の第10回にして最終回「焼失作品おぼえ書」です。当会の祖・草野心平の日記から。

高村さん新潮の原稿一枚書く。(アトリエにてを八枚書いてあつたが、一枚書き足す)ビツクリする。新潮社田中さんきたり原稿をもつてかへる。今日は可成り元気。NHKから来た果物を食べるといはれる。

しかし、いわゆる蠟燭の炎が消える前の一瞬の輝きだったようでした。

年末年始の新聞から、光太郎智恵子の名が載った記事、3件ご紹介します。

まず青森県の地方紙『陸奥新報』さん。俳句を紹介するミニコラムで、12月25日(日)の掲載でした。

冬野ゆく歩幅を父の鼓動とし(泉 風信子)

「歩幅」は目標へ向う意志である。父への共鳴でもある。冬野という厳しい世界を生きていく男の宿命でもある。高村光太郎の詩のフレーズが思い浮かんでくる。
 句集『遠花火』より。

句の作者、故・泉風信子(いずみ・ふうしんし)氏は、元同社常務取締役。青森県現代俳句協会会長などを歴任されたそうです。少年時代にはかの寺山修二と親交が深かったとのこと。

言わずもがなですが、「高村光太郎の詩のフレーズ」は、詩「道程」の「ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ」でしょう。

続いて『読売新聞』さん。12月28日(水)夕刊の一面コラム。

よみうり抄

高村光太郎の「花のひらくやうに」という詩にある。<ねむり足りて/めざめる人/その顔幸(さいはひ)にみち…>◆100年余り前に書かれた一節に現代人の理想が重なる。睡眠の質の向上をうたう乳酸菌飲料、スマホのアプリを使った睡眠改善プログラム…今年の話題に「睡眠市場」の活況があった◆高齢者の不眠を取り上げた数年前の記事で、専門家が語っていたのを思い出す。「治ることをあきらめることで、治ることもある」。現状を受け入れることで辛(つら)さから解放される不眠もある、と◆この1年の集大成として今がある。老化に孤独、意に沿わぬ待遇、子供の成績不振――仕事納めの職場を後にした道すがら、身辺の諸事に思いをめぐらせた方もあろう。こんなとき、先の言葉は役に立つ◆心の中の耳朶(じだ)に響く異論もある。努力と工夫で眠りが足りるに越したことはないではないか。万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。頷(うなず)きつつ思う。詮ないこだわりの「仕分け」を進め、新鮮な気分で年を越してみたい。
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引用されている「花のひらくやうに」は、大正6年(1917)元日発行の雑誌『感情』に掲載されたものです。

   花のひらくやうに

 花のひらくやうに
 おのづから、ほのぼのと
 ねむり足りて
 めざめる人
 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち
 理性にかがやき
 まことに生きた光を放つ
 ああ痩せいがんだこの魂よ
 お前の第一の為事(しごと)は
 何を措いてもようく眠る事だ
 眠つて眠りぬく事だ
 自分を大切にせよ
 さあようく
 お眠り、お眠り

前半の睡眠の質云々はともかく、最後のあたり「万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。」が、この詩とどう結びつくのか、魯鈍な当方の頭脳ではさっぱり理解出来ません。

「万民よ、現状を受け入れて、政治家が不要な世の中にしようじゃないか」ということでしょうか? それとも、「万民よ、四の五の言わずに政治家の言うことに従いなさい」ということでしょうか。

最後に『毎日新聞』さん。1月4日(水)の掲載でした。

「東京には屋根がある」小池知事、太陽光推進呼びかけへ

000 小池百合子都知事は2022年12月28日、毎日新聞のインタビューに応じ、戸建て住宅への太陽光パネル設置について「機運の醸成に努めていく」と、他の道府県にも推進を呼びかけていく考えを示した。主な一問一答は以下の通り。
◇「見える化」で行動変える
 ――太陽光発電の推進は、他県にもノウハウを広げる考えはあるか。
◆10年くらい前に自宅に太陽光パネルを付けた。面白いのは、(電力消費の)「見える化」をすると生活が変わる。どの部屋の明かりを消すと、どのくらい(消費電力量が)下がるかと(考えるようになる)。大きく行動を変える。
 実は1970年代のオイルショックの頃、太陽光パネルは日本がリードして進めた技術だった。環境相の頃に補助金を予算要望したが、認めてもらえなかった。今振り返ると、気候変動についてはまさにあの時が分かれ目で、もっとやるべきだったと思う。
 なぜこの国が無理して南進して戦争に陥ったかというと、エネルギーがなかったからじゃないですか。それから状況は変わっていない。再生エネルギーは一つの選択肢。ましてや原発の問題がある中で。
 「智恵子抄」で「東京に空が無い」という言葉が有名だけれども、「東京には屋根があって、空いてるじゃないか」と強く言いたい。
 太陽光発電を付けることは防災の観点からも有効だ。近隣県との共同メッセージや、全国知事会での呼びかけなどで機運の醸成に努めていく。

◇気候変動、一気にギアを
 ――これまで知事として脱炭素化に取り組んできた。改めて、どういう東京にしたいか。
◆今、強めるところは何かというと、やはり気候変動とエネルギー不足。一気にギアを(上げて)ふかす。意志を持ってやらないといけない。その意志の源泉は何かというと、安心・安全で、世界から選ばれる街を作るということだ。
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このインタビューに対し、ツィッター上などでは、得意の論点ずらしやご飯論法を駆使し、ネトウヨが噛みついています。政府が「原発ありき」の原子力村の片棒を担いでいる現状ですから、ネットサポーターたるネトウヨにとって反原発、再生可能エネルギー推進派は国賊に同じ、という理屈ですね。

やはりツイッター上で、「本来、これは国がやるべき施策なのでは?」という至極まっとうな書き込みもありました。太陽光、こうした場合には無害で、しかも膨大なエネルギー量がほぼ無限に降り注いでいるのに、それを有効活用しない手は無いように思われますが、原子力村の村民たちには認めがたいのでしょう。

原子力に関しては、光太郎存命中の1950年代からすでに「平和利用」という「神話」が提唱され、太平洋戦争中に大本営発表にまんまと乗せられた光太郎、性懲りもなくまたうかうかとそれに乗ってしまいました。最晩年の詩「新しい天の火」、「生命の大河」(下記参照)などでそうした発言が見られます。そうした点は当方も絶対に許せません。

莫大な費用を費やしての、原子力船むつや高速増殖炉もんじゅの大失敗、東海原発での臨界事故、そしていまだ解決のめどすら立たない福島第一原発のメルトダウン、それを「アンダーコントロール」と言い放つ無節操……何度過ちを繰り返せば気が済むのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの人玄関まで、詩稿を渡す、


昭和30年(1955)12月20日の日記より 光太郎73歳

「詩稿」は、上にも書いた「生命の大河」。前日に書かれたもので、NHKさんの依頼による「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩となりました。

  生命の大河

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。006
 時間の果つるところ即ちねはん。
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り、
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の「物」ことごとく光る。

 人類の文化いまだ幼く
 源始の事態をいくらも出ない。
 人は人に勝とうとし、
 すぐれようとし、
 すぐれるために自己否定も辞せず、
 自己保存の本能のつつましさは
 この亡霊に魅入られてすさまじく
 億千万の知能とたたかい、
 原子にいどんで
 人類破滅の寸前にまで到清した。

 科学は後退をゆるさない。007
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。

 そういう世紀のさきぶれが
 この正月にちらりと見える。
 それを見ながらとそをのむのは
 落語のようにおもしろい。
 学問芸術倫理の如きは
 うづまく生命の大河に一度は没して
 そういう世紀の要素となるのが
 解脱ねはんの大本道だ。

智恵子がらみの最近の地方紙記事を2件。

まずは共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載された記事です。

東京舞台さんぽ 「レモン哀歌」詩碑のある大井町

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956年)の「レモン哀歌」は、妻智恵子をしのんで編んだ詩集「智恵子抄」の中の1編。国語の教科書に取り上げられるなど、広く知られた近代詩の一つだ。東京都品川区のJR大井町駅近くにある詩碑を訪ねた。(共同通信=近藤誠)
 駅の東口から出て、北東にゆるゆると下るゼームス坂通りをしばらく進み、小道で左折すると、レモン哀歌の碑に出合う。晩年の智恵子はこの地にあったゼームス坂病院で療養生活を送り、38年に52歳で死去した。
006
 「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で」。智恵子の臨終を詠んだ詩が刻まれた碑は、推定される智恵子の背丈に合わせ、地元有志によって建てられた。手向けられたレモンが、晩秋の陽光を受けて輝いていた。
007 010
 病院の名前にも関連するゼームス坂は、幕末に来日し、明治維新後はお雇い外国人として旧日本海軍の指導に尽力したという英国人J・M・ゼームスが暮らしたことから名付けられた。
 もとは浅間坂と呼ばれる急坂で地元の人々が大変苦労して歩いていたが、坂の途中に住んでいたゼームスが私財を投じて緩やかな坂に改修した。いつとなく、親しみと感謝を込めてゼームス坂と呼ばれるようになったという。現在ゼームス邸跡にはマンションが立っている。
 JR大井町駅の西側に店を構える「お江戸鎧せんべい岩本米菓」では、2019年からレモン哀歌にあやかったおかき「品川浪漫 レモン愛菓」を販売している。一口頬張ると香ばしい米のおいしさと、爽やかなレモンの風味が広がる。
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 【メモ】詩人の萩原朔太郎(1886〜1942年)は25年に群馬県から上京、大井町で生活を始めた。大井町緑地児童遊園には詩集「青猫」をモチーフとした「花子と太郎」像が設置されている。
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訪れたことのない方、ぜひ一度、足をお運びいただき、智恵子に思いを馳せていただきたいものです。

続いて智恵子の故郷・福島県の『福島民友』さんから。

ほんとの空...古里の情景たっぷり 来春開校・二本松実業高の校歌

 県教委が8日発表した二本松実業高(二本松市)の校歌には、豊かな歴史と文化があり、美しい自然を持つ二本松市の風景が表現されている。同校は県立高校改革の一環で二本松工と安達東が統合して来春開校する。
 校歌は、両校の伝統を受け継ぎながら、機械システム科や生活文化科など専門的な知識を学ぶ学校の生徒として、地域社会と共に未来へ向けて歩んでいく生徒を表現した。
 歌詞は校歌制作委員会が決定し、「安達太良山」「阿武隈川」「睡蓮(すいれん)」など、二本松市の景色をイメージさせる言葉が登場する。4番まであり、「現在(いま)を生きる これからの人」、「創ろう未来 つなごう心」など前向きな言葉を共通の歌詞に仕上げた。
003 作曲は、富岡小、富岡中の校歌の作詞作曲などを担当した福島市ゆかりの音楽家・大友良英氏が手がける。
 ◇二本松実高校歌◇
  1番
 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

  2番
 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に
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  3番
 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

  4番
 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

4番まである校歌歌詞、すべての結びに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を配して下さいました。現在の二本松工業高校さん、安達東高校さん両校の生徒さんから校歌に入れてほしい言葉を募り、両校の先生方で作る校歌制作委員会が作詞されたそうです。

そして作曲が何と「あまちゃん」や「いだてん」の大友良英氏。スカ調のにぎやかな校歌になるんじゃないかと、余計な心配をしてしまいます(笑)。是非とも野球の甲子園に出場していただき、この校歌を全国に響かせていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

「家の光」の人くる、「青年」を盤に吹込むとのこと、


昭和30年(1955)8月26日の日記より 光太郎73歳

『家の光』は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌。版元の家の光協会は全国農業協同組合、現在のJAグループさんの関連団体でした。

そこで校歌ならぬ団体歌のような「家の光つどいの歌」のレコードを制作、そちらには光太郎は関わっていませんが、B面に光太郎詩「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)と、竹内てるよの「わたくし」の朗読をプレスしました。
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上記画像、当方が入手した現物なのですが、ジャケット、歌詞カード的なものがついておらず、詳細が不明です。発行年月日、朗読者、「家の光つどいの歌」の方の作詞者、作曲者、歌手などなど。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

当時流行っていた「ピクチャーレコード」という種類のSP盤ですが、レトロな感じが実にいいですね。

先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。

12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

河北春秋

PXL_20221215_001147173 葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。

このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。

続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。

筆洗

 「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。

まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。

さて、もう1件。

過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。

詩人・尾崎喜八回顧展、写真家側面も 東京の杉並区立郷土博物館

 009 山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
 尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
 本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
 尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
 関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
 担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
 観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

転出証明書瀬川さんより届く、


昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳

「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。

元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。

また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。

智恵子の故郷・福島二本松から光太郎智恵子がらみの報道を2件。

まずは11月13日(日)に行われた、朗読劇「智恵子抄」二本松公演の模様を伝えた記事。『福島民報』さんから。

智恵子と光太郎の夫婦愛、朗読劇で熱演 俳優一色さんら 福島県二本松市で公演

  詩集「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎と芸術家の智恵子の夫婦愛を描く朗読劇「智恵子抄」は13日、福島県二本松市安達文化ホールで上演された。葛藤に苦しみながらも光太郎への愛を貫く智恵子の魂を表現する一色采子さんらの熱演に、大きな拍手がわいた。
 昨年に続き、智恵子の古里で催す2度目の公演。二本松市出身の日本画家・大山忠作さんの長女で俳優の一色さんが再び智恵子を演じ、光太郎役の松村雄基さんら新たなキャストと共に臨んだ。
 芸術の探究や生活の困窮の中で苦悩を深め「二本松に行きたい」と願う智恵子の心、美のきらめきを切り絵に表す様子、妻を思い続ける光太郎の姿を「あどけない話」「樹下の二人」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」などの朗読と演技、音楽でつづった。多くのファンや文学愛好者らが詰め掛け、痛切な愛の世界に見入った。
 新派アトリエの会の主催・製作、松竹、二本松市教委の協力。アフタートークでは一色さんらが舞台のエピソードや二本松の印象などを披露した。
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続いて、『朝日新聞』さん。十日ほど前の夕刊に載った記事です。少し長いのですが、全文を。

「ほんとの空」の下の若者たち 農業と発電両立し福島産守る

 その取材に向かう前、私は11年前の取材ノートを読み返した。
 「2011年10月12日」のページを探す。東京電力福島第一原発の事故が起きて初めて、福島県庁が県産米の放射能検査の結果を発表した日だ。
 安全基準ぎりぎりのコメもあったが、基準はすべてクリアした。次のやり取りが残っていた。
 佐藤雄平知事(当時)「農水省が決めた倍の地点で調査した。安全性が確認され、安堵(あんど)している」
 私「安全宣言ですか?」
 知事「まあ、安全宣言といえば、安全宣言だなあ」
 その後、基準を超えたコメが、県内の複数の田んぼで見つかった。地区単位でコメの出荷が制限される。今のような風評被害ではなく、「実害」だ。将来を絶望し、自ら命を絶つ農家もいた。

 被害を受けた地域の一つが、福島県の北中部にある二本松市だった。原発から50㌔余り離れていても、放射線量は高かった。
 10月中旬、その二本松を久しぶりに訪れた。
 自然豊かな二本松を代表する「安達太良山」。「東京には空が無い」で有名な詩集「智恵子抄」で、作者の高村光太郎の妻智恵子の話として、この山の上を「ほんとの空」とつづった。
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 その空の下では今、若者たちが発電と農業を両立させる「ソーラーシェアリング」(営農型太陽光発電)を手がけている。農作物を育てながら同じ土地で発電して電気を売り、収入を増やす手法だ。
 長さ70㍍の「壁」が3列半。壁の材料は230枚の太陽光パネルだ。耕作放棄地だった農地は今年3月、日本初という「垂直型ソーラーの農場」に変わった。
 運営は「二本松ご当地エネルギーをみんなで考える株式会社」(略称ゴチカン)。社長兼社員の近藤恵(けい)さん(42)を、自然エネルギーで著名な飯田哲也さんや二本松市、地元農家らが支える。
 パネルの壁と壁は10㍍空いており、トラクターが余裕で通れる。50㌔㍗の電気をつくりながら地面では牧草を育てている。
 「実験ですか?」と私が尋ねると、近藤さんは「経済的になりたっているので、すでに実用です」と胸を張った。
 「垂直に立てても受ける光のロスはわずかです」。土地を効率的に利用するなら、斜めに置くよりも、垂直のほうがよさそうだ。
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 東京都出身の近藤さんは、筑波大で農林業を学び、一般社団法人「二本松有機農業研究会」で修行を積んだ。原発事故の前まで、農薬や化学肥料をほとんど使わない有機農法で、コメや野菜を得意客に直接販売していた。
 11年もコメは作った。「お客さんは『近藤さんのコメだから安心です』と言ってくれたが、心苦しかった。基準内の玄米からは放射能が多少検出されても、白米にするとゼロになることや、うちの子どもにも食べさせていると添え書きを入れて、コメを送りました」
 農業を諦め、二本松の農協に勤めた。与えられた仕事は、東電に損害賠償請求する農家の手伝いだった。知らない農家から「お前は国側か!」と怒鳴られた。
 さらに心が痛む仕事が待っていた。収穫されたものの、出荷停止になったコメの処分だ。
 「米袋には顔見知りの農家の名前も書いてあって……。捨てるのが、つらかったですよ」
 農業から話はそれるが、二本松市は原発周辺の避難者を大量に受け入れた。市民にはさらに遠くへ避難する人もいた。12年には市内で放射能に汚染されたマンションが見つかった。原発周辺の砕石が土台に使われていたためだった。
 私は当時の混乱ぶりを取材していた。なので、二本松の印象は極めて暗い。当時のノートを見返したのも、それを忘れちゃいけないと思ったからだ。

 近藤さんは農協を2年半で辞めた。有機農業研究会に「エネルギー部会」をつくり、再生可能エネルギーと農業の両立を学び始める。避難指示が出た福島県飯舘村で営農型太陽光発電が先行していると知るや、事業主体の飯舘電力に頼み働かせてもらった。
 垂直ソーラーがある牧草地から車で約10分、6㌶の畑の地上3㍍に、9500枚のパネルが並ぶ。
 頭上にはブドウ棚の鉄線が張り巡らされている。近藤さんと働く塚田晴(はる)さん(20)、菅野雄貴さん(38)が4ヶ月かけ作業した。4月にはシャインマスカットなど100本のブドウの苗を植えた。
 パネル下でも通常の75%の日照を確保できる。塚田さんは「再来年には味見ができるくらいに成長しているでしょう」と話す。
 塚田さんは原発事故のとき、小学3年だった。それまでは家族5人で、近藤さんのいた有機農業研究会の有機野菜を食べ、稲刈り体験にも参加していた。
 11年3月17日。母の実家の神戸に避難する。二本松からタクシーに乗り、新幹線が通っていた栃木県のJR那須塩原駅へ向かった。父は運転手に心付けも含め3万円を渡した。
 以来、塚田家ではこの日を「避難の日」とし、毎年3万円で外食する。事故の恐怖や故郷を去る悔しさを忘れないためだ。
 塚田さんが小学5年のとき、研究会の当時の代表、大内信一さん(81)が、福島の農家の現状を話すため、消費者団体の招きで大阪に講演にきた。
 母と聴きに行った。会場から大内さんに厳しい質問が飛んだ。「福島産は危険だ」「子どもに食べさせていいのか」――。
 聞いていて、ムッとした。「何だよ。消費者って、こんなに簡単に生産者から離れていくんだ」
 毎年お盆に福島へ帰省すると、二本松の大内さんの田んぼをのぞきにいくようになっていた。
 高校は三重県の農業学校に進み、果樹を専攻した。3年生のとき、二本松から近藤さんがスカウトにきた。太陽光発電の下で、専門をいかすチャンスだった。
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 塚田さんは自分のためにブドウ栽培を用意してくれたと思っている。が、近藤さんの本当の狙いは違ったようだ。
 「『シャインマスカットォ~』とか『ソーラーシェアリングゥ~』とか、ほかとあまりくらべるものがない果物や農法で攻めないと、放射能の問題は突き抜けられないと思ったのです」
 消費者庁の調査では、原発事故後、福島のコメや野菜を敬遠し続ける消費者は今も1割弱いる。
 生産する側も、作付けなどが一時制限された二本松や福島、伊達、相馬の4市では、計3割の田畑が営農を休止したままだ。
 ありきたりの品種や手法では新たな道はひらけない。本当の空の下、そんな切実さが、近藤さんたちの闘いから伝わった。

「再稼働ありき」で、こうした再生可能エネルギーの普及を妨害すらしているのではないかと思われる「原発村」の魑魅魍魎どもは、こうした記事を「くだらん」と一蹴するのではないでしょうか。「(笑)」とつけたいところですが、「(怒)」ですね。

【折々のことば・光太郎】

平熱、少〻息切れする、シヤベリ過ぎらし、


昭和30年(1955)1月2日の日記より 光太郎73歳

この日は、当会の祖・草野心平をはじめ、年始の挨拶的な訪問者が多く、会話が弾んだようです。それはそれで嬉しかったのでしょうが、肺結核にはあまりよろしくなかったようで……。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻がらみで、光太郎に関わる雑誌記事を2件ご紹介します。

まず、『日本古書通信』さん9月号。稀覯本コレクターにして秀明大学さん学長であらせられる、川島幸希氏の寄稿『近代作家の資料⑦ 宮沢賢治の詩稿付特製本』が掲載されています。
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題名にある「宮沢賢治の詩稿付特製本」は、宮城県で開かれた古書入札会に出たもので、昭和14年(1934)刊行の十字屋書店版『宮沢賢治全集』第三巻。それに先立つ昭和9年(1934)に文圃堂から出た最初の『宮沢賢治全集』(光太郎も編者の一人として名を連ねました)の紙型を転用したものです。題字も文圃堂版のために書かれた光太郎の揮毫が使い廻されています。
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こちらの見返しに、賢治の草稿の一部が貼り付けてあるというのです。そして、全集編纂に協力したという菊池暁輝宛の献呈署名。賢治は既に歿しており、実弟の清六の筆跡です。
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表紙には宮沢家の家紋。奥付には「宮沢家蔵版」と印刷され、検印の下には「特製第9号」の文字とゴム印。

川島氏、以前に同じ本の中島健蔵宛、やはり賢治の草稿が貼られたものをご覧になったことがあったそうです。また、谷川徹三(谷川俊太郎氏父君)宛のものも存在したとのこと。中島、谷川とも『宮沢賢治全集』編纂者です。そこで、これらの特製本は全集完成の礼として、清六が編纂者等に贈ったものではないか、というわけです。

編纂者としてクレジットされているのは中島、谷川以外に、清六、当会の祖・草野心平、光太郎、賢治の親友・藤原嘉藤治、森荘已池、横光利一の計8人。第1~8号はそれらの人びとに贈られ、菊池は編纂者ではありませんが、協力者ということで、「第9号」という推理です。有り得ますね。

その通りだとすれば、光太郎の手許にもあったはずなのですが、たとえそうだったとしても、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエと共に灰燼に帰してしまった可能性が高いように思われます。もし残っているとすれば、とんでもないものですが……。光太郎が誰かに貸し、その人物がいわゆる「借りパク」でもしていたら、残っているかもしれませんが……。光太郎の周辺で、一番借りパクをしそうなのは当会の祖・心平ですが(笑)、心平にも同じものが贈られたのであれば、その必要はありませんし。

しかし、ロマンのある話です。

もう1件。今年から季刊になった(以前は隔月刊)『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さん。通巻第32号です。
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平成29年(2017)の創刊号以来の連載「光太郎レシピ」。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」同様、メニューの考案、調理等に当たられているのはやつかの森LLCさんです。

今号は「そば粉のガレットロール」。
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料理好きな方、ぜひ挑戦してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

昭和29年(1954)3月4日の日記より 光太郎72歳

この木彫「魴鮄(ほうぼう)」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展、昭和4年(1929)の荻生会主催美術展覧会に出品されたりもしました。その後、買い手がついて光太郎の手から離れました。

昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」を持ち込んだ宮崎丈二は、光太郎と交流のあった詩人。光太郎歿後の昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

  蘭と魴鮄

花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める010
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

宮崎と親しく、光太郎アトリエにも出入りしていた北海道の材木商・浅野直也がこの後、「魴鮄」を入手、光太郎歿後の各種展覧会に出品されました。しかし、昭和41年(1966)、西武百貨店SSSホールで開催された「高村光太郎と智恵子展――詩情に生きる〈美と愛〉」以後、出品の記録が見あたりません。未だ現存しているのでしょうか。そうとすればぜひ見てみたいものです。

一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
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原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。

7月15日(金)、花巻高村光太郎記念館さん、そして高村山荘を後に、再び花巻市街へ。今回は、宿泊する大沢温泉さんにチェックインする前に、少し調べ物を、という計画を立てておりました(直前になってそう決めたのですが)。

そこで、花巻市立図書館さんへ。
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まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。

続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。

しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。

すると……
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まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。

そして、花巻駅に下り立ったという記事。
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続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
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さらに、再上京についても。
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光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。

意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。

それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。

この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
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直近2回(昨年12月今年3月)は、一人旅ではなかったため、ちょっと高級な山水閣さんに泊まりましたが、今回はホームグラウンド的な自炊部さんに。
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ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの狭さ風情がたまりません(笑)。

現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
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現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。

そして露天風呂。
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KIMG6508何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。

ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。

翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。

盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。

すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
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「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。

また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
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太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。

それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。

また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
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この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。

上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。

上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。

さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。

以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、


昭和28年(1953)7月12日の日記より 光太郎71歳

佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。

誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。

地方紙『福島民友』さんと、ローカルラジオ局・ふくしまFMさんの番組「福島をあなたと知りたい3時間・福空間~フクスペース~」(金曜午後1時~)とのコラボ企画で、「これって福島だけ?」の投稿募集が行われました。

「福島に住んで当たり前のように思っていたけれど、もしかしてこれは福島だけのこと?と思うことはありませんか? 食べ物、風習、自然、言葉などジャンルは問いません。ずっと県内在住の方も、引っ越してきた方も、あなたの「福島で見つけたもの」「福島ならでは」を教えてください。」だそうで。

その報告的な記事。先月末の掲載でした。

【これって県内だけ?】行事や風景、魅力再確認

 県内では当然だと思っていた、あんなことやこんなこと、実は当たり前じゃなかった!? そんな「もしかして、これって福島だけ?」と思ったことを、読者やラジオ番組のリスナーに聞いた。
 まず、多く寄せられたのが食べ物に関するものだ。正月には欠かせない「いかにんじん」や、会津若松市では給食に出るほどポピュラーな「まんじゅうの天ぷら」、郷土料理の「ひきないり」「みそかんぷら」など、慣れ親しんだあの料理が、ここだけのものだったなんて、という驚きの声が続々と届いた。
 また、最近では県外でも知名度を上げている郡山市の「クリームボックス」や「酪王カフェオレ」などの"ニューフェース"も、県内だけのものとは思わなかったという回答が寄せられた。

児童の鼓笛行進
 同じテーマでメッセージを募集したラジオ番組で盛り上がりを見せたのが、小学校の鼓笛パレードの話題だ。
 鼓笛パレードとは、児童が楽器を演奏しながら市街地などを行進する華やかなイベントだ。福島市では新型コロナウイルス感染拡大を受け中止していたが、今年5月、3年ぶりに開催し、市内の小学校から約3000人の児童が参加した。例年は市街地をパレードしていたが、今年は感染防止のため、同市のとうほう・みんなのスタジアムで行われた。
 福島市以外にも県内各地で同様のパレードが行われており、交通安全啓発運動の一環として開催されることも多い。音楽活動に強い本県ならではの行事といえそうだ。
 同じく学校ネタでは、「福島県の小学校の出席番号は生年月日順」という回答が複数あった。調査を進めると、中学校以降は五十音順のところが多いが、小学校は生年月日順だったという人が多いようだ。本県独自のルールなのだろうか? 県教育委員会に問い合わせると、出席番号順について県では特に規定していないという。順番は学校単位で決めているようだ。また、過去には生年月日に加えて男女別だったという学校も少なくないようだ。
 そして、福島ならではといえば、外せないのが豊かな自然と美しい風景だろう。
 「安達太良山に『ほんとの空』がある」(南相馬市、ばぬらさん)をはじめ、「城や城跡が多い」(匿名希望)、「山に囲まれていると安心感を覚えます。都会だとビルだらけでとても不安になります」(福島市、フィヨンカさん)などの意見が集まった。
 記者の経験だが、東京の友人が福島に遊びに来た時「どの方向を見ても、突き当たりには山がある!」と感激していたことを思い出した。盆地に住んでいると当たり前の風景だが、遠くを見渡しても山がない都会の景色に不安を覚える気持ちはよく分かる。
 そして、最後にこんな意見も。
 「田舎だけど新聞社が2社あること。メディアが多いことで情報量が増え、1社独占ではなくけん制し合って良い情報が入ってくる」(ゆうすけさん)
 たくさんの情報をお届けできるよう、頑張ります!
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」を挙げて下さって、ありがとうございます。これからも福島を象徴する代名詞の一つとして、末永く使われてほしい言葉です。

それにしても前半の「福島あるある」的な部分、笑わせていただきました。

いかにんじん」は何となく存じていましたが、「「ひきないり」「みそかんぷら」など、慣れ親しんだあの料理」。はっきり言って「何じゃ、そりゃ?」です(笑)。「まんじゅうの天ぷら」は、当方父方のルーツである信州でも、精進料理的に饗される一品ですが、「会津若松市では給食に出るほどポピュラー」というのには驚きました。

酪王カフェオレ」は、高速道路のサービスエリアなどでも販売されていて存じていましたが、「クリームボックス」は「?」でした。調べてみると「郡山市民のソウルフード」だそうで。今度、探してみます。

鼓笛パレード」。そういえば智恵子の母校・二本松の油井小学校さんでも「智恵子記念マーチングパレード」を行っていました。これは健在なのでしょうか? 逆に、福島県内各地で広く行われ、ラジオ番組が盛り上がるほどのネタだったというのは意外でした。

小学校の出席番号は生年月日順」。これは当方自宅兼事務所のある千葉県であるあるネタとしてよく使われますが、福島もそうだったのですね(笑)。

残すべき地方文化は残し、それを誇りとして発信できるようであれば、どんどん広めていっていただきたいものです。「小学校の出席番号は生年月日順」はどうでもいいような気がしますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后上野アンデパンダン見学、館内で梅原龍三郎氏にあふ、久闊、


昭和28年(1953)2月19日の日記より 光太郎71歳

遠く明治42年(1909)、3年半におよぶ海外留学を切り上げて帰国の途に就く際、最後に滞在したパリ・モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエを、光太郎から受け継いだのが梅原でした。

地方紙『信濃毎日新聞』さん。4月から「上高地の1世紀 歩みとこれから」という連載が断続的に為されています。その中で、光太郎の名も。

【上高地の1世紀 歩みとこれから】⑧ 近代登山の礎「守る人々」 かつての表玄関 災害で荒廃進む「徳本峠」 第1部 観光地・上高地の軌跡② 

 かつて上高地へのメインルートだった徳本(とくごう)峠(松本市安曇)を通る登山道。5月16日、崩れた土砂が道を覆い、行く手を阻んでいた。有志の会「古道徳本峠道を守る人々」の会員ら10人が整備に汗を流し、倒木を切るチェーンソーの音が峡谷に響く。「われわれがやらなければ、本当の廃道になってしまう」。代表の高山良則さん(77)=松本市=は言葉を強めた。
 登山道は松本市安曇の島々地区から標高約2100メートルの峠を越え、上高地・明神に至る。釜トンネルが開通する昭和初期まで林業者や登山者が盛んに行き来した。明治期に上高地を訪れ「日本アルプス」の呼び名を広めた英国人宣教師ウォルター・ウェストン(1861~1940年)をはじめ、文豪芥川龍之介や詩人高村光太郎が歩いたクラシックルートとして知られる。
 登山道は現在、県が管理するが、大雨のたびに道や橋が流されてきた。2006年の豪雨では被害が大きく、約3年間通行止めに。徳本峠小屋の経営を長年手伝った高山さんらの呼びかけで11年に「守る人々」が発足し、整備を続けてきた。だが、20年、21年と続けて大雨に見舞われた古道は復旧が追い付かず、通行止めが続く。
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 「橋場(松本市安曇の橋場地区)から谷をのぼる途中、(中略)怪我(けが)をした例の調査官が災難の後で休養しているのに出会った」
 ウェストンが徳本峠越えの途中で出会い、著書「日本アルプス」の中でつづった調査官とは、日本陸軍参謀本部陸地測量部の館潔彦(たてきよひこ)(1849~1927年)。館は測量のため1893(明治26)年、山案内人の上條嘉門次(1847~1917年)とともに地図の空白域だった前穂高岳に登頂。一等三角点の位置を決めたが、山頂近くで転落して大けがを負ったとされる。
 測量の成果は1913(大正2)年、5万分の1地形図「焼岳」として日の目を見る。山行の際に手掛かりとなり、北アルプス登山が大衆化する契機ともなった。15年には焼岳が噴火し、大正池を形成。31(昭和6)年改訂の地形図には「大正池」「釜隧道(トンネル)」の表記が登場する。地形図の名称も「焼岳」から「上高地」に変わった。
 国土地理院広報広聴室主任指導官の中島最郎さん(62)=松本市出身=は、図名(地形図の名称)は、一般に広く知られた場所や山などの名称から選ばれるとし「図名の変化は、この時期に上高地が全国的に著名な場所になったことがうかがえる」と話す。
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 「道が寂しがってるよ」。松本市職員時代から登山道整備に携わり、「守る人々」副代表を務める奥原仁作(にさく)さん(72)は16日の作業後、そうつぶやいた。県自然保護課によると、市や環境省などを交えて復旧工事に向けた調整を進めているが、現時点で開通時期のめどは立っていない。
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 林業の終焉(しゅうえん)と釜トンネルの開通で、上高地の「表玄関」は移り変わった。利用しなくなった道は人の手が入らなければ荒廃が一層進む。「江戸時代から地元の人々が使い続け、近代登山の礎となった道。歩いてもらうことで後世につなげたい」。奥原さんらは先人に思いをはせ、登山文化を築いた道を将来に残そうと地道な作業を続けている。

大正2年(1913)、光太郎、そして智恵子も歩いた上高地のクラシックルート。現在は通行止めなのですね。存じませんでした。現在は上高地までバスで行けてしまうため、元々、歩いて通る人は少なかった道ですので、通行止めになっていることが大きく報道されて来なかったのでしょうか。

以前、NHK BSプレミアムさんが不定期に放映している「にっぽんトレッキング100」で「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」という回があり、光太郎智恵子にも触れられ、興味深く拝見しましたが、そちらは通行止めとなる前の平成29年(2017)の放映でした。

山道の場合、豪雨等による土砂崩れや倒木、さらに笹などの繁茂で、道が道でなくなってしまうことは往々にしてありますね。それが自然の姿だと言ってしまえばそれまでですが、文化史的な部分からも、古道保全というのは意義のあることだと思われます。画像にもある「古道徳本峠道を守る人々」の会員諸氏のご努力、頭が下がります。

さりとて大規模な林道を開鑿、というのでは自然保護の観点から矛盾しますし……。人間の叡智の見せ所のような気がします。

【折々のことば・光太郎】

村田勝四郎氏、土方久功氏くる、丸善に月曜午后ゆき陳列を見て何か書くこと約束、

昭和28年(1953)1月17日の日記より 光太郎71歳

村田勝四郎」、「土方久功」、共に東京美術学校での後輩彫刻家です。「丸善」は日本橋の丸善画廊、「陳列」は翌日始まった土方の個展です。土方は昭和初期から戦局が烈しくなるまで、日本統治下にあったパラオで勤務していました。帰国後、南方の民俗、風俗を題材とした彫刻を手がけています。

何か」は1月21日の『朝日新聞』に載った「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という散文。のち、龍星閣刊行の土方著『文化の果にて』序文として転用されました。

この日は土曜で、光太郎が個展を見に行くと言ったのは月曜。しかし、土方は勘違いしたようで、翌日(日曜)に来ると思いこんでいて、光太郎が現れないのでやきもきしていたそうです。

福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラム、先週土曜の掲載分です。

春秋 マスクの「心配り」は外さずに

「青葉若葉に野山のかげろふ時、/ああ植物は清いと思ふ。」。高村光太郎の「新緑の頃」である。山々の粧(よそお)いもぐっと明るくなって、今年もこの詩のような季節が到来した▼今日は二十四節気の一つ「小満」。万物が成長し、生命力がみなぎる時期という。そんなおめでたい時節なら「大満」とすべきなのに、なぜ「小」なのか▼言葉が生まれた中国では、最大限まで行き着くのは慎むべきと考えられた。ピークに達したら後は欠けて、衰えるしかない。完成に向かい進歩する「小」にあえてとどめた、との説がある。昔の中国人は随分と謙虚だったのだろう▼若葉が萌え出でるとともに、マスクがつらい季節になってきた。欧州では、交通機関での着用義務を解除した国もある。世界は「脱マスク」の流れが加速しているようだ▼国内でも「屋外では、会話をしない場合に」などの条件で、不要とする議論も起きている。統一ルールを求める声も出始めた。ただ他国はどうあれ私たちは「和」を重んじる国民性だ。他者へ着用を強いる圧力にならないように、同時に非着用が周囲への不快感を与えないように、心配りだけは外さずにいたい▼冒頭の詩はこう続く。「植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭。」周りの状況が許せばマスクを取り、さわやかな光に、空気に、緑の祭りを楽しみたい。

引用されている詩「新緑の頃」は、昭和15年(1940)5月6日の作。光太郎詩の中では意外と有名な一篇で、特にこの季節、このように時折、各種朗読や新聞一面コラム等で取り上げられます。

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 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れればかがやき、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

美しい初夏の自然を謳っている詩ではありますが、やはり昭和15年(1940)。日中戦争は泥沼化の様相を呈し、その打開のため、翌年には無謀な太平洋戦争に突入する時期です。そこで「日本の美」を高らかに謳い上げることで、国民の結束をはかろうという意図も見え隠れします。そういう部分を差っ引いて読めば、いい詩ですが。

上の画像は自宅兼事務所の桜の木です。ついでに自宅兼事務所の「新緑」を何枚か。

秋には真っ赤になるコキア。
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過日、碌山美術館さんで購入してきた蕎麦の種がわっと芽を出し、蕾もつけていました。
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植えた覚えもないのに何故か生えている(笑)桑の木。実がなっています。
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紫陽花も蕾が出てきています。
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光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫。かつて毎年、連翹忌の集いには剪って持参していましたが、ここ3年はそれも中止で、伸び放題です。
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そして「新緑の頃」にも謳われた楓。
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植物にはコロナもマスクも関係なく、季節を謳歌していますね。

それにしてもマスク。この国は同調圧力の国ですが、本当に「心配りだけは外さずに」うまく付き合いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、

昭和27年(1952)12月22日の日記より 光太郎70歳

彫刻経過」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の進捗状況。

『東奥日報』では、翌年の元日の紙面で記事になりました。
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小見出しにもなっていますが、この中で光太郎が十和田湖の印象を「乙女」と表しています。それが像の通称「乙女の像」の遠因の一つとなった部分もあるような気がします。

2件ご紹介します。

まずは、諏訪・上伊那地域で発行されている『長野日報』さん。少し前ですが、4月5日(火)の一面コラム。

八面観 2022年4月5日付

 星の数はどれほどある?。ものの本によると太陽系を含む銀河系には太陽のような恒星が1千億~2千億あると推定され、全宇宙にはこうした銀河が1千億個はある。つまり星の数は1千億個の1千億倍以上…読んでいて目がくらんだ▼江戸時代の僧で歌人良寛さんの歌が浮かぶ。〈淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中に沫雪ぞ降る〉。三千大千世界とは仏教の世界観で、須弥山を中心とした一つの世界を千倍し、また千倍し、さらに千倍した広大無辺の宇宙を表すという▼無数にあっても見上げる空の星はまばらで、夜は暗い。途方もない空間の広がりを考えると、宇宙を測る物差しはスケールが違う。そんなことを思わせる報道が1月にあった。直径1キロの小惑星が地球に約200万キロメートルの距離まで最接近したというニュースである▼200万キロと聞いてもピンとこないが、地球と月の距離の5倍以上離れていると聞くとそれほど近いとも思えない。宇宙的な尺度からすると軒先をかすめるような近さなのか、地球に衝突する可能性もある「潜在的に危険な小惑星」に分類されると聞いてただ驚く▼トンガ沖での海底火山噴火があったころで、自然と向き合う人間の尊さを思い、高村光太郎の詩「火星が出てゐる」を読んだ。〈おれは思ふ、人間が天然の一片であり得る事を。おれは感ずる、人間が無に等しいが故に大である事を〉

詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926作)、全文はこちら

続いて『週刊長野』さん。『信濃毎日新聞』さんと提携し、土曜日に折り込まれているタウン紙のようです。長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」について。

県立美術館「善光寺と高村光雲」展 仁王像の制作過程紹介

 県立美術館で「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が開かれています。大正時代に高村光雲らが手掛けた善光寺仁王門の仁王像の制作過程などを紹介しています。
 現在ある仁王門は1918(大正7)年に再建。仁王像と裏側に安置されている三宝荒神、三面大黒天の計4像は、依頼を受けた高村光雲と弟子の米原雲海が作りました。
 光雲らは、粘土の原型から石こう像を作り、そこから実物より小ぶりな木造のひな形を制作。それを3〜4倍に拡大して高さ6メートルある仁王像などにしました。学芸課長の霜田英子さんは「当時最先端の西洋の塑像の技術と、伝統的な寄せ木造りの技法を融合して作られた」と話します。
 会場には、善光寺史料館が所蔵する4像のひな形=写真上、制作工程を伝える光雲の制作日誌やスケッチなどを展示しています。
  ほかに仏像制作の技術革新について、東京芸術大の研究室による最新の研究成果も紹介。会場内では、AR(拡張現実)技術を使い、スマートフォンなどでQRコードを読み取ると仁王像の3D画像データ=写真=が見られるようにしています。
 水曜日(5月4日除く)と5月6日(金)は休館。観覧料は一般500円、高校生以下または18歳未満無料。
 関連企画として「善光寺如来絵伝」などの絵解き(口演・小林玲子さん)が4月16日、5月14日、6月4日の土曜日14時から行われる予定です。
 (問)同館☎︎232・0052
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当方、今週末には拝見に伺います。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夜新潮社座談会にて星ヶ岡茶寮、草野心平氏、三好達治氏、新潮社平野健一氏と談話、夜八時頃かへる、


昭和27年(1952)10月18日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために帰京し、初めての座談会でした。12月1日発行の雑誌『新潮』第49巻第12号に掲載され、のち、文治堂書店刊『高村光太郎資料』第三集(昭和47年=1972)に収められています。同書でちょうど40ページの長い座談でした。

このところ、光太郎の父・光雲の作品が展示されている企画展示が各地で相次いで開催されています。それらを報じた報道等をご紹介します。

最初に、長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」。地元紙『信濃毎日』さんが主催に名を連ねており、詳しく報道してくださっています。

まず、開幕直前、内覧会を受けての報道。

仁王像の迫力、AR技術で実感 企画展「善光寺さんと高村光雲」、2日から県立美術館で

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まる。善光寺の仏像調査を重ね、修復にも携わってきた東京芸術大(東京都)の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。AR(拡張現実)技術で表現した仁王門の仁王像も見ることができる。
 大正時代に制作された仁王像や三面大黒天像、三宝荒神像などについて、同大大学院の保存修復彫刻研究室が行った近年の調査内容をパネルなどで紹介。それぞれひな型を作ってから当時の最新技術を用いて3~4倍の大きさの像を作る技法などを伝えている。制作に関わった高村光雲の画帳なども並ぶ。
 制作技法を解明するため、同研究室は仁王像の3D(3次元)計測も実施。展示ではこのデータを活用し、会場に掲示したQRコードをスマートフォンで読み取ると、画面に仁王像が立体的に再現され、迫力のあるたたずまいを実感できる。
 1日、同館で関係者向けの内覧会が開かれ、霜田英子学芸員(56)は「善光寺の仏像を巡る制作技術の継承と解明は連綿と続いてきた。善光寺の仏像を身近に感じてもらう機会にしたい」と話した。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下・18歳未満は無料。
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さらに開幕後の報道。

仏師・光雲と西洋彫刻の技術、関係性を解説 長野県立美術館で記念展「善光寺さんと高村光雲」始まる

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが仁王門の金剛力士像などを制作するために作ったひな型を、東京芸術大(東京都)の調査研究などと合わせて紹介している。
 仁王門の金剛力士像や三面大黒天像、三宝荒神像は光雲や弟子の米原雲海(1869~1925年)らが大正時代に制作。展示では明治期に伝わった西洋彫刻の技法で、ひな型から3~4倍の大きさの像を作る「星取り法」が用いられたことを解説している。仏像の調査、修復を手掛けた東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の研究も紹介。AR(拡張現実)技術で表現した金剛力士像はスマートフォンで見られる。
 この日の開会式には関係者約20人が出席。同研究室の岡田靖准教授は「善光寺の各仏像を通じ、日本古来の仏師であった光雲が西洋芸術を柔軟に受容して制作した歴史を感じてほしい」と述べた。将来に向けた保存につながる研究の重要性にも触れた。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下と18歳未満は無料。
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同展、善光寺史料館さんに収蔵されている、仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の各原型の他、光雲令曾孫の写真家・髙村達氏が、2月に都内で開催なさった「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」に出品された写真も展示されています。

御開帳に行かれる方、ぜひこちらにも足をお運び下さい。

続いて、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。一昨日の放映で、京都清水三年坂美術館さんで開催中の「明治・大正時代の木彫」展が取り上げられました。
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トップが光雲作のレリーフ「江口の遊君図額」(明治32年=1899)。
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ただ、残念ながら現地ロケはなく、画像を提供してもらっての紹介でした。他に13点、光雲作品が出ていますが、そちらは映りませんでした。

光雲以外に、光雲の盟友・石川光明の木彫、それから超絶技巧の自在置物が取り上げられました。
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こちらは5月29日(日)までの会期です。

最後に、花巻高村光太郎記念館さん。2月に始まった「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」につき、先月末に『岩手日報』さんが報じて下さいました。

光雲の木彫像「鈿女命」公開 花巻・高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作した木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を公開している。
 日本神話の「天鈿女命」が題材。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもり世界が暗闇になったとき、岩戸の前で踊りを披露した天鈿女命の姿を表現している。揺れる服のしわや、しなやかな指先などが繊細に作られている。
 公開は5月15日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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会期は5月15日(日)まで。先月の地震の被害を受けた東北新幹線、仙台以北は復旧しましたし、郡山-仙台間も20日頃には復旧の見通しだそうです。

上記三展以外に、上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催されている「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」でも、光雲作品、というか、光雲と橋本雅邦、濤川惣助ら18名の合作「綵観」(明治38年=1905)が展示中です。

4月2日(土)の連翹忌当日、光太郎、そして当会顧問であらせられた北川太一先生の墓参の帰り、立ち寄って拝見して参りました。
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あくまで「天平」がメインで、「綵観」は、「ついでに出しました」感がにじみ出ていましたが(笑)、いいものでした。

珍しく写真撮影も可でした。ただ、作品保護のためでしょう、照明がかなり落とされていて、明瞭に撮影出来ませんでした。光雲木彫作品「猗子」は上の画像、右から二面めです。その下の画像は裏面になります。
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さらに今後、今月中に光雲木彫の出る展覧会が、確認出来ている限り各地であと二つ、始まる予定です。何だかここに来て、光雲人気がまた高まっているのかな、という感じです。また追ってご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

朝教材社の人、外山卯三郎氏の名刺を持ちて来訪、出版物の推薦文をかき与へる、

昭和27年(1952)10月4日の日記より 光太郎70歳

外山卯三郎」は美術評論家。「出版物」は、外山が刊行に関わった『児童の図画教育』。推薦文自体は草稿が残っていて、そこから採録したものが『高村光太郎全集』に掲載されていますが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

山口県で発行されている地方紙『長周新聞』さんに載った、東京大学大学院農学生命科学研究科教授・鈴木宣弘氏の寄稿。

【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題

001食料争奪戦を激化させるウクライナ危機
 ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格、原油価格、化学肥料の原料価格などの高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
 最近顕著になってきたのは、中国などの新興国の食料需要の想定以上の伸びである。コロナ禍からの中国経済回復による需要増だけではとても説明できない。例えば、中国はすでに大豆を1億300万トン輸入しているが、日本が大豆消費量の94%を輸入しているとはいえ、中国の「端数」の300万トンだ。
 中国がもう少し買うと言えば、輸出国は日本に大豆を売ってくれなくなるかもしれない。今や、中国などのほうが高い価格で大量に買う力がある。現に、輸入大豆価格と国産価格とは接近してきている。コンテナ船も日本経由を敬遠しつつあり、日本に運んでもらうための海上運賃が高騰している。日本はすでに「買い負け」ている。化学肥料原料のリン酸、カリウムが100%輸入依存で、その調達も困難になりつつある。
 一方、「異常」気象が「通常」気象になり、世界的に供給が不安定さを増しており、需給ひっ迫要因が高まって価格が上がりやすくなっている。原油高がその代替品となる穀物のバイオ燃料需要も押し上げ、暴騰を増幅する。国際紛争などの不測の事態は、一気に事態を悪化させるが、ウクライナ危機で今まさにそれが起こってしまった。

輸入前提の「経済安全保障」は危機感の欠如
 お金を出しても買えない事態が現実化している中で、お金で買えることを前提にした「経済安全保障」を議論している場合ではない。貿易自由化を進めて食料は輸入に頼るのが「経済安全保障」かのような議論には、根幹となる長期的・総合的視点が欠落している。
 国内の食料生産を維持することは、短期的には輸入農産物より高コストであっても、「お金を出しても食料が買えない」不測の事態のコストを考慮すれば、実は、国内生産を維持するほうが長期的なコストは低いのである。

日本は独立国と言えるのか
 「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家、革命家。1853 – 1895年)は述べ、高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
 はたして、2020年度の食料自給率が37.17%(カロリーベース)と、1965年の統計開始以降の最低を更新した日本は独立国といえるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の使命である。
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すずき・のぶひろ 1958年三重県生まれ。東京大学農学部卒業。農学博士。農林水産省、九州大学教授を経て、2006年より東京大学大学院農学生命科学研究科教授。専門は農業経済学。日韓、日チリ、日モンゴル、日中韓、日コロンビアFTA産官学共同研究会委員などを歴任。『岩盤規制の大義』(農文協)、『悪夢の食卓 TPP批准・農協解体がもたらす未来』(KADOKAWA)、『亡国の漁業権開放 資源・地域・国境の崩壊』(筑波書房ブックレット・暮らしのなかの食と農)、『農業消滅』(平凡社新書)など著書多数。

ロシアによるウクライナ侵攻は、言語道断としか云いようのない蛮行・愚挙ですが、遠い国の出来事と片付ける訳にはいきません。かつてわが国も傀儡国家満州国の建国をはじめ、周辺諸国に同様の行為を行い、「皇民化教育」などとほざいていたのですから。

そして、鈴木教授も指摘するように、じわじわと現在の我々の生活にも影響が及んできています。当方のように自家用車での移動が欠かせない田舎に住んでいますと、このところの原油高は実に困ります。さらにそれが進む可能性もあるわけで……。そして鈴木教授がメインで訴える食糧自給の問題……。不耕貪食の生活を送っている当方には、実に耳の痛い話ですが……。

1011引用されている光太郎の言葉「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」は、最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節です。全文はこちら

光太郎、この詩を書いた時点ではもはや病床に就いていて、農耕は出来なくなっていましたが、昭和21年(1946)からの7年間は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、狭いながらも畑を耕し、野菜類はほぼ自給していた光太郎の言葉だけに、重みがありますね。

ちなみに鈴木教授、同じ『長周新聞』さんに昨年寄稿なさった「 日本の食と農が危ない!―私たちの未来は守れるのか」という記事でも、同じ一節を引用されています。

ウクライナ問題、原油高や食料輸入のからみだけでなく、人道的に許されざる問題であることは、論を待ちません。一刻も早い、平和裡の解決を望みます。

【折々のことば・光太郎】

今週はじめてカツコーの声、ツツドリの声、セミの声をきく、夜ヨタカの声をきく、

昭和27年(1952)5月24日の日記から 光太郎70歳

当方は今朝、今年初めてウグイスの声を聞きました。鳴き始めの頃はまだうまく「ホーホケキョ」と鳴けず、変な鳴き方になっているのが笑えます。

長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さん、昨日の1面コラムです。

2022.1.31みすず野

 詩人の草野心平は48歳のとき、6畳間ほどの居酒屋〈火の車〉を開いた。狭い店では客同士のけんかが絶えなかったという。稼ぎのほどは分からないが、心平が28歳で始めた屋台の台所事情は本当に火の車だった◆素人商売だから、翌日の酒を仕入れる金が手元に残らない。酒が無い焼き鳥屋に客は来ない。1年で店じまいしている。高村光太郎が屋台の様子を見に来た。心平は詩誌を通して宮沢賢治と手紙のやり取りがあった。彼らの交流は、北条常久さんが綿密な取材を基に著した心平の伝記『詩友/国境を越えて』に詳しい◆火の車だろう。本県にも「まん延防止等重点措置」が適用され、飲食店の苦境が続く。店の存続を見据えて休業したり、酒類の提供を控えたり。現状の施策や、先が見えない状況へのいら立ちが紙面から伝わる。春までには感染が落ち着いてほしい―観光事業者の談話は祈りのよう◆賢治の遺稿を詰めたトランクから手帳が取り出され、心平と光太郎が〈雨ニモマケズ〉に感歎の声を上げる。〈火の車〉は4年で畳まれた。作家の島田雅彦さんは『空想居酒屋』に〈屋号はよくよく考えなければ〉と書いている。

居酒屋・火の車についてはこちら。「心平が28歳で始めた屋台」については、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説として心平が書いた「悲しみは光と化す」に記述があります。

新宿の紀伊國屋裏に古びた家があつて、人の住んでゐないやうな大きな門前の石畳のところが空(あ)いてゐた。麻布十番で半年程やつたあと、屋台をそこにひつぱつてきて据ゑおきにした。或る晩、よしず張りののれんの間から鳥打帽がぬうつと出て高村さんが現はれた。続いて智恵子さん。油のしみた紺のごつい前垂れをしめて私はコンロを渋団扇であふいでゐた。高村さんは度々だつたが、智恵子さんはその時が初めてだつた。不意に現はれたので吃驚してゐる私に、智恵子さんはただ微笑んだだけだつた。五六本あがると、無口な智恵子さんとしては珍らしくきつぱりと
「タレを見せて下さい」
といつた。私はカメを斜めにした。智恵子さんはのぞきこむやうにして見てゐたが
「ほう、おいしさう」
と、また感心したやうな声でいつた。
この時が、それまでと変りのない智恵子さんを見た最後だつた。

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北条常久さんが綿密な取材を基に著した心平の伝記『詩友/国境を越えて』」についてはこちら

さらに「賢治の遺稿を詰めたトランクから手帳が取り出され……」についてはこちら

それにしても、本当にいつまでコロナ禍が続くのか、と、黯然とした想いにさせられます。このままの感染状況が続けば、今年の連翹忌の集いも中止せざるを得ないような……。もう少し、様子を見てから決めようとは思っていますが……。

【折々のことば・光太郎】

昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。


昭和26年(1951)12月26日の日記より 光太郎69歳

数ある光太郎の笑えるエピソード中、かなり高位にランクされます(笑)。

光太郎の推測通り、犬かもしれませんし、キツネかタヌキかもしれません。熊は冬眠中でしたが。

まず、一昨日の『朝日新聞』さん。

天声人語

雨の擬音語は、ざあざあ、しとしと、ぴちぴちなど色々あるが、雪はそういうわけにはいかない。自ら音を発せず、むしろ音を吸い込む。それを「しんしん」の語が言い表している▼いつも以上に雪の多さが伝わってくる冬である。湿った重い雪に悩まされているという札幌市の話が、本紙北海道版にあった。雪が解けないこの地では、除雪だけでなく、その雪をダンプで運び出す「排雪」という作業が欠かせない。この冬は重い雪ゆえに除雪に労力がかかり、排雪になかなか手が回らないという▼のけられた雪が道路脇に積み上がり、車の通行が滞っているらしい。大寒のきょうも、日本列島の広い地域で雪になりそうだ。雪かきや車の運転では、事故のないよう十分な注意を▼詩人の高村光太郎は、岩手県の山あいの小屋に一人で暮らしていた時期がある。冬の日のことを「雪白く積めり」の詩にした。〈雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝(ひざ)を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す〉▼〈十歩にして息をやすめ/二十歩にして雪中に坐(ざ)す〉。雪の美しさと過酷さを伝える詩は、自分と向き合う生活から生まれた。もう6度目になる感染拡大により、雪のある地域もそうでない地域も家にこもる時間がまた増えそうだ▼手元の辞書では「しんしん」は漢字で「深深」あるいは「沈沈」と書く。雪以外に使うなら「しんしんと冷える」あたりか。いかにも冬型という天気図をながめながら、寒波に身を構える。

引用されている「雪白く積めり」は、昭和20年(1945)12月の作。花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を始めて間もない頃の詩です。全文はこちら
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光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周によるブロンズパネルの詩碑が作られ、山小屋近くに設置、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、花巻高村祭が開催されていました。
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今年こそは復活を望みます。

それにしても、排雪の大変さ。過日行って参りました青森でもそんな感じでした。道路脇は随所で人間の背丈以上に雪が積まれている状態でしたので。

続いて、少し前ですが、『静岡新聞』さん。1月14日(金)の掲載分。

大自在

〈八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。〉で始まる高村光太郎の詩「米久の晩餐[ばんさん]」(1922年)は、東京・浅草に明治時代初めに開業した牛鍋店のにぎわいを活写する。牛鍋は文明開化の申し子だった。
 作者は友人と〈いかにも身になる山盛牛肉をほめたたへ…不思議な溌剌[はつらつ]の力を心に育み…〉。米久創業者で時之栖会長の庄司清和さんが82歳で旅立った。65年に沼津市で物置を借りて焼き豚製造を始めた商店の屋号のルーツは、大学卒業後に1年半勤めた東京の食肉卸会社「米久食品」や牛鍋の老舗にさかのぼれる。
 大消費地で食文化の変化や食肉業界の伸びしろを確信したのだろう。明治以来の「米久」ブランドを使わせてもらえれば商売がしやすいと考えたと語っている。創業4年目には肉のブロックの形をそのままハムにした達磨[だるま]ハムで業績を飛躍的に伸ばした。
 富士山の伏流水を生かしたいと考えていた94年にビールの年間最低生産量の規制が緩和されると地ビール醸造に乗り出した。先見性と臨機応変に時代も追い風を吹かせた。
 誕生の舞台裏を取材した相原恭子さんは、庄司さんの起業の原動力は「ワクワクするような衝動」だろうと書いている。経営者とスタッフに「マンツーマンの意識ができている」のが強みとも(「あ! ビールだ‼ やってみるか―。御殿場高原ビール」)。
 「醸す」には醸造のほか、気分や雰囲気を徐々につくりだす、物事を起こす・もたらすという意味がある。経営者として、地域経済のリーダーとして、庄司さんは多くを醸してくれた。

一面コラムにその訃報が取り上げられるくらいなので、庄司清和氏という方、静岡では有名だったのでしょう。「時之栖」さんというのは、静岡県内でリゾート施設などを運営する会社だそうです。また、光太郎が詩に詠んだ浅草の牛鍋屋「米久」さんからブランド名をもらって、スモークハムなどの販売も手がけたとのこと。

詩「米久の晩餐」、全文はこちら

最後に昨日の『福島民友』さん。光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平がらみです。

編集日記

いわき市出身の詩人草野心平に、川内村から手紙が届いたのは、終戦から4年たったころだった。手紙の主は同村・長福寺の和尚。「モリアオガエルが見たい」と随筆で書いた心平を「村の平伏(へぶす)沼にいる。いらっしゃい」と招待した▼これがきっかけで心平の川内村通いが始まった。心平が贈った本を収蔵するため、村が建てた天山文庫は彼と友人、住民たちが集う場になった。この交流は、詩人没後の今も続いている▼その川内村で以前会った若者が、地元で古民家カフェの開業を計画し、浜通り復興を後押しする財団の支援も決まった。もちろん、多くの人々を村へ招くためだ。頼もしい。ただ人の往来が難しいコロナ下での起業は大変だろう▼正直そう思っていると、心平の詩集「蛙(かえる)」に、こんな一節を見つけた。「素直なこと。/夢をみること。/地上の動物のなかで最も永い歴史をわれわれがもっているということは平凡ではあるが偉大である。」(「ごびらっふの独白」より)▼心平が川内を初訪問したのは、和尚の手紙から4年後。天山文庫完成は、さらに13年後だった。しかし詩人と村の付き合いは形を変え今も続く。気長に夢みて平凡に。そんな声が、聞こえる気がする。

やはりコロナ禍前は、心平の関係で川内村にもたびたびお邪魔していましたが、そちらもとんとご無沙汰となっています。今年こそは、と思っております。

平伏沼に関してはこちら、天山文庫はこちらをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜より雪、今日終日降り二尺ほどつもる、風なし、


昭和26年(1951)11月27日の日記より 光太郎69歳

この冬初の本格的な雪だったようですが、いきなり二尺も積もったのですね。それもまだ11月に。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋が、如何に過酷な環境だったかが垣間見えます。

『毎日新聞』さん東京版で、昨年12月から今年の1月8日(土)にかけ、3回に分けて連載された記事です。少し前には東北版にも掲載されたようです。

ぐるっと東日本・くつろぎの宿 青根温泉 湯元不忘閣

伊達政宗がつかった石風呂でゆったり 文人も愛した名湯の宿
000 温泉につかれば、名将政宗の気分――。東北きっての武将といえば伊達政宗である。政宗ら仙台藩主御用達の温泉宿が宮城県にある。青根温泉の湯元不忘閣だ。幾多の歴史を刻み、文化財級の建物が林立する名宿はかつて文人にも愛された。政宗もつかった名湯の宿とは――。
  ◇一番の自慢は「歴史と温泉」
 伊達政宗をこれほどまでに身近に感じたことがあっただろうか。「政宗も入った石組みの湯船」で温泉につかると、ゆったりとした気分とともに「政宗と裸の付き合いに……」と変な感慨が増してくる。
 青根温泉は、宮城と山形にまたがる蔵王山麓(さんろく)に位置し、湯元不忘閣は歴代仙台藩主の保養所だった。1606年に滞在した政宗が「この感激と喜びを忘れないように」と「不忘」と名付けたことがその名の由来とされる。008
 湯守(ゆもり)と関守を務めた不忘閣当主は代々、佐藤仁右衛門(にうえもん)を襲名してきた。訪れると、現在の21代当主に代わり、妻でおかみの真由美さん(57)が対応してくれた。
 おかみによると一番の自慢は「歴史と温泉」だという。
 初代・佐藤掃部(そうぶ)(後に仁右衛門を名乗る)が青根温泉の発見者の一人とされる。1528年の発見当初から「手付かずの天然温泉」と言われるのは、湧き出た源泉がそのまま注がれ続けてきたからだ。
 風呂は全部で六つある。
 その一つ「大湯 金泉堂(きんせんどう)」が「政宗の湯」の看板を掲げる。薄暗い建物内にある細長い石風呂だ。
 共同浴場としても使われてきたが、建物の老朽化で2006年に閉鎖。伝統工法を用い、青森ヒバと土壁で造った建物が08年に完成した。002
 1546年に石工30人が組み上げた湯船はそのままで、かすかに温泉臭のする透明な湯が、「ざばざば」と絶え間なく注がれる。水面に反射した光が、屋根裏に架けられた青森ヒバの丸太に揺らめく。
 また、「蔵湯浴司(よくす)」は、三の蔵のうち穀蔵の2階の床を取り払い、ヒノキ風呂を置いた。「蔵の前の石畳のたたずまいをお客さんにも楽しんでほしい」。真由美さんが発案し、仁右衛門さんの設計で2006年に完成した。
 豪華旅館と思われがちだが、歴史を刻み昭和をほうふつとさせる古い木造建築の温泉旅館だ。「秘湯」と呼ばれることについて、おかみが言う。
 「大好き。ひなびたイメージがいい」

◇タイミング、94段の階段…
 大湯は時間制で男女入れ替えだが、蔵湯は貸し切りだ。建物から草履に履き替えて石畳を歩く。三つの蔵の間に大崎八幡宮の小さなほこらがあった。一番奥の蔵の重たい引き戸を開けると、吹き抜けの空間にヒノキ風呂が置かれ、脱衣場がある。蔵の静けさの中で湯の注がれる音だけが響く。荘厳な雰囲気だ。
 ただ、蔵湯に入るのは、なかなか難儀する。旅館の受付脇に置かれた青森ヒバ製の「蔵湯 貸切札」だけが「空き」の目印だからだ。30センチほどの札を持って蔵湯へ行き、「30分以内の入浴」を終えたら札を元の場所に戻す。タイミングが合わず、一度も蔵湯に入れない客もいるらしいが、おかみの真由美さんはこう説明する。004
 「空きを電光掲示板で表示することもできますが、秘湯の温泉らしく、あえて木札にした」
 また、受付を真ん中にして、六つの風呂が点在している。
 「風呂を行ったり来たりしていれば、いつかは札に出合えます」
 「御殿湯」の大と小(時間制で男女入れ替え)、共同浴場としても使われた「新湯」(同)、先々代の当主の幼名をつけた「亥之輔(いのすけ)の湯」(貸し切り風呂)――。風呂巡りが楽しい。
 新湯は石組みの湯船が大湯に次いで古い。11年完成の亥之輔の湯は、茶室のような入り口をかがみながら入ると、小さな石風呂がある。半露天で、江戸時代の石垣を見ながら湯船につかれる。
 風呂を堪能したら、もう一つ難儀なことが待っていた。山の斜面に造られた客室の最上階に泊まると、受付から数えて94段の階段を上り切らなければならない。風呂はすべて1階にあり、蔵湯の木札を「ちょっと見に行く」などとても無理で、息が切れてしまう。
 でも、天気がいい日には仙台の街明かりが展望できる。1階には風呂の合間の休憩所「喫茶去(こ)」があって地酒の振る舞いもあり、難儀なことも報われる。
 「客室を造るか、蔵湯と大湯を造るか、どちらにお金をかけるか迷いました。豪華なお風呂は家にはありませんので」
 温泉旅館の誇りに懸けて蔵湯と大湯に資金をつぎ込んだ選択は正しかったようだ。

 ◇国登録の文化財が目白押し
007 「ひなびたイメージ」とおかみが謙遜する秘湯の名宿だが、伊達政宗ら仙台藩主の御殿湯だった490年超の足跡は確かに残る。
 離れの建物や門、1896年ごろに建造された蔵湯の建物を含む蔵三つ、会食室として使われている1907年建造の木造2階建て本館、そして、仙台藩主が泊まった建物を32年に復元した木造2階建て入り母屋造りの青根御殿――。2014年にこれらの建造物が国登録の有形文化財となった。
 うち、青根御殿には、仙台藩ゆかりの書画骨董(こっとう)と江戸時代の古文書が展示されている。3000点もの古文書があり、東北大学の寄付研究部門による解読文書も一部添えられている。
 おかみは毎朝、館内歴史ツアーのガイド役も務める。
 政宗の父輝宗が着用したとされる鎧兜(よろいかぶと)、仙台藩主が狩りで使った弓矢、お姫様の鏡台、弁当箱、狩野探幽の掛け軸、欄間には伊達家の三引(みつびき)両紋と竹に雀(すずめ)紋……。「お殿様が置いていったものがほとんど」だという。蔵王の山麓にあって交通の便も良くないが、文人にも愛された。003
 与謝野鉄幹・晶子夫妻は2度訪れ、歌を詠んだ。芥川龍之介は菊池寛のすすめで1カ月間、座敷蔵に滞在したという。斎藤茂吉、高村光太郎・智恵子夫妻、吉川英治、川端康成、古賀政男が宿泊した記録も残る。
 山本周五郎が歴史小説「樅(もみ)ノ木は残った」を完成させたのは青根御殿の部屋で、窓からは今もモミの木が見える。
 同小説が70年にNHKの大河ドラマになった際に「樅ノ木ブーム」が起き、宿泊客からの要望で始まったのがこの館内歴史ツアーだという。
 ただ、文化財にもなった貴重な古建築を維持するのは苦労も多い。「ご先祖様がここまで守ってきたのだから、自分の代で消したくはない」。次代に向けて政宗ゆかりの名宿は歩みをとどめることはない。005

 ◇メモ
 東北新幹線の白石蔵王駅からミヤコー路線バスで約50分、仙台駅からはミヤコー高速バスで約60分。どちらも「遠刈田温泉、アクティブリゾーツ宮城蔵王」行きで終点まで。アクティブリゾーツ宮城蔵王からは宿の車で送迎してくれる。駐車場あり。予約は湯元不忘閣のホームページから。 電話0224・87・2011。
001
光太郎は、昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子の療養のため、各地の温泉巡りに智恵子を連れ歩きます。初夏には草津、そして8月24日から9月上旬にかけ、東北と北関東の温泉地。裏磐梯川上温泉を皮切りに、青根温泉、再び福島に戻り土湯温泉の奥にある不動湯、最後は栃木の塩原温泉

当方、このうち、草津にはだいぶ前に2度訪れました。裏磐梯川上温泉は近くを通ったことはありますが、ここが光太郎智恵子の泊まったところだ、という場所は未踏です。不動湯は、平成25年(2015)に焼失する前に1度、それから焼失直後、さらに日帰り温泉施設として復活してからも訪れました。塩原にも1度足を運びました。

そして、青根温泉。もう5年近く経つか、という感じですが、その際のレポートがこちら。宿泊させていただきましたので、記事にある各湯にゆったりつかり、不忘閣の館内歴史ツアーも体験しました。またぜひ泊まってみたい宿の一つです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。


昭和26年(1951)11月11日の日記より 光太郎69歳

宮静枝は詩人。光太郎とは戦前から交流があり、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会(この席上で、有名な「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が「発見」されました)に、光太郎ともども参加しています。下の画像、前列左から二人目が宮、四人目が光太郎、その隣が賢治実弟の清六です。
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宮は平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、日記にある「ライカにて撮影いろいろ」という写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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珍しい光太郎の後ろ姿も。
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まずは12月1日(水)の『読売新聞』さん夕刊。一面コラムです。

よみうり寸評

高村光太郎は冬という季節に格別の感情を抱いていたらしい。詩を読んで思う。◆たとえば〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉(『冬が来た』)。あるいは、〈冬の寒さに肌をさらせ/冬は未来を包み、未来をはぐくむ/冬よ、冬よ/躍れ、叫べ、とどろかせ〉(『冬の詩』)◆凡俗の身には同じく縁遠いと思わせる言葉に、「歳寒(さいかん)の松柏(しょうはく)」がある。どんな苦境にも節操を失わないさまをいうが、由来は松などの常緑樹が厳寒にも色を変えないことにある◆田中修著『植物のすさまじい生存競争』によれば、常緑樹でも夏の葉をそのまま低温下に置くと凍って枯れる。そうならぬよう葉は冬に向けて糖分などを蓄え、凍るのを防ぐという。12月、気象庁の季節区分でいえば冬がその幕を開けた◆餌食にするのは無理にしても、葉っぱに倣い、やり過ごせるだけの体力気力を秋の名残のあるうちに養っておきたい。原油高に新しい変異株ときて、降雪量多しの予報もある。この冬、結構な難物かもしれない。

おおむね毎年、この時期になると、各紙の一面コラムなどで光太郎の冬の詩からの引用が為されますが、今年もお約束で。寒さに弱い身としては、冬の寒さは暗鬱な気分にさせられるのですが……(笑)。

同じく一面コラムで、『山陰中央新報』さん。昨日の掲載分です。昨日も同様の件をご紹介した、太平洋戦争開戦の12月8日にからめてですね。

明窓・日米開戦から80年

早朝の臨時ニュースに続いて、午後に戦況が伝えられると、国民の多くが狂喜したという。当時、大学生だった作家の故阿川弘之さんは、下宿でラジオを聞いて「涙がポロポロ出て来て困った」と振り返っている。この日、開会中だった島根県議会も議長の発声で万歳の後、「県民の覚悟の決議」を満場一致で採択したそうだ▼1941年12月8日、日米開戦の口火となる真珠湾攻撃当日の出来事だ。日中戦争のこう着状態が続く中、経済制裁の影響も重なり、国民の反米感情は高まっていた。2日後には当時の松江市公会堂で、日露戦争開始以来となる「必勝祈願県民大会」が開かれた▼緒戦勝利の感激は当時の作家たちも同じ。阿川さんによると、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、吉川英治、高村光太郎らも、その感激を文章や詩歌にしたという。街中には「屠(ほふ)れ米英我等の敵だ 進め一億火の玉だ」の言葉があふれた▼一方で、庶民の暮らしには既に大きな影響が出ていた。生活必需品の配給制に加え、金属製品の供出が始まり、バスの燃料も木炭や薪(まき)に。「産めよ殖やせよ」の国策に沿い島根県が、男子25歳、女子19歳の「結婚適齢者登録」を始めた、との記事も残る▼日米開戦から80年。スローガンで敵視された「米英」も「贅沢(ぜいたく)(は敵だ)」も、今では敵ではなくなった。時代の流れとはいえ、変わり身の早さに複雑な思いがする。

「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」という格言があります。元々は中国原産で「皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正したりすることができないという」意味ですが、皇帝に限らず、特に社会的地位のある人の発言には、そういう面がつきまといます。80年経っても、光太郎の翼賛詩がやり玉に挙がるのも仕方がないでしょう。逆に現代において「これぞ皇国臣民の鑑」と、大音量で軍歌を流す街宣車よろしく、SNS上にアップして悦ぶのは愚の骨頂ですが。

ちなみに阿川弘之が挙げたという光太郎以外の4人の文学者の中に、光太郎同様、翼賛作品を大量に発表しながら、後に刊行された『全集』に、そうした作品が一切載せられていない人物がいます。「あれは無かったことにしよう」という意図がありありと見え、呆れます。『選集』ならともかく、それを『全集』と称していいのでしょうか? それが本人の意志なのか、取り巻きの「忖度」なのか、そこまでは存じませんが、「綸言汗の如し」の言葉を贈りたいと思います(笑)。同様に「誤解を与えたとすれば訂正し、取り消します」とのうのうと発言する現代の政治屋にも、ですが(笑)。

「負」の部分で、もう1件。『東奥日報』さんから。

店舗撤去、明け渡しを/十和田湖畔・休屋/国が景観改善へ提訴

 青森県十和田市の十和田湖畔・休屋地区の国有地にある休廃業施設が景観を損ねている問題で、国が、同地区で休憩所などを営業していた会社に対し建物の撤去と土地の明け渡しを求め、青森地裁十和田支部に提訴したことが3日分かった。国による同様の訴訟は4件目。第1回口頭弁論は来年2月25日。
 明け渡しを求められたのは、十和田湖畔で「ひめます商店」「ギャラリーぶなの森」を経営していた「有限会社えびすや」。訴状によると、2019年6月に破産手続き開始の決定を受けていた。
 えびすやの旧店舗は国が管理する十和田八幡平国立公園内にある。
 国は訴状で、えびすやが今年3月末までに土地の使用許可を更新しなかったため、現在は権限もないのに国有地を占有していると主張している。
 環境省十和田八幡平国立公園管理事務所の深谷雪雄所長は取材に、「旧店舗は十和田神社や乙女の像に近い場所にあるため、観光を盛り上げるためにも景観改善に優先的に着手した」と述べた。
 休屋地区を含む十和田八幡平国立公園は、国の「国立公園満喫プロジェクト」のモデル対象。同地区では休廃業施設が廃れた印象を与えかねないとの懸念があり、景観向上に向けた対策実施を掲げていた。

現在、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」が開催されている、十和田湖畔休屋地区。バブルがはじけた頃から空き店舗等が目立つようになり、やがてシャッター街、さらに廃墟となってゴーストタウンに近くなっている区画もあります。それを「経営努力が足りない」と叱責するつもりもありませんが、果たすべき責任はきちんと果たして欲しいものですね。

暗い話題で終わるのも何ですので、もう1件。『福島民報』さんから。

一色采子さん、朗読劇「智恵子抄」アピール 12日に福島県二本松市で 

008  女優の一色采子さんは8日、福島民報社の取材に応じ、12日に福島県二本松市で出演する朗読劇「智恵子抄」に向け「感動を味わっていただきたい」と意気込みを語った。
 高村光太郎と智恵子の夫婦愛を描く作品。「演技もあり、朗読が立体的に伝わると思う。来て良かったと思っていただけるようにしたい」と話した。
 二本松市の安斎文彦にほんまつ観光協会長、国田屋醸造代表の大松佳子さんが同席した。
 一色さんは同日、福島県庁に内堀雅雄知事も訪ねた。
 朗読劇「智恵子抄」は12日午後2時からと午後4時30分からの2回、安達文化ホールで開かれる。松竹の主催、市教委の共催。前売り券は3000円、当日券は3500円(全席指定)。午後2時からの回は完売した。問い合わせは二本松市教委文化課へ。

12月12日(日)に開催される「朗読劇 智恵子抄」二本松公演に関してです。先週行われた銀座公演とは異なり、ネットや電話等でチケットが購入できないとのことで、「販売に苦労しているらしい」と、一色さんがこぼしてらっしゃいましたが、午後2時からの部は完売だそうで、喜ばしく存じます。午後4時からの部も満席となって欲しいものですね。

お近くの方、ぜひどうそ。

【折々のことば・光太郎】

午后小憩、「文化の諸様式」をよむ、「源氏」をよむ、


昭和26年(1951)7月31日の日記より 光太郎69歳

午前中は洗濯にいそしみ、午後は読書。「文化の諸様式」は、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの評論、「源氏」は谷崎潤一郎訳の「源氏物語」で、共に中央公論社から、この年に再刊されました。

70近くになって、こういった書物を愛読していた光太郎。教養人の鑑ですね。

80年前の今日、昭和16年12月8日は、日本時間で真珠湾攻撃がなされた日、すなわち太平洋戦争開戦の日です。80年というきりの良さもあり、今年は例年に較べ、メディア等で大きく扱われているように感じます。

それに触発されているのでしょうか、幼稚なネトウヨは、ツィッター上などで光太郎の翼賛詩を引用し、喜んでいます。まるで大音量で軍歌を流す街宣車のようだと感じます。これも、例年そうなのですが、今年は特に目立ちます。

光太郎の翼賛詩、張作霖爆殺のあった昭和3年(1928)には既に書かれ始めていますが、目立つようになるのはやはり日中戦争開戦後の昭和12年(1937)以後、心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で、紙絵を作っていた頃からです。智恵子はその翌年には結核のため歿します。

芸術家あるあるで、俗世間とは極力交渉を持たず、芸術のためにはさまざまなことを犠牲にし、貧しい生活も厭わないという、「孤高の境地」を気取っていたそのスタイルが、同居する智恵子を追い詰めたという反省、そして最愛の妻・智恵子を喪った空虚感を埋めるためにも、光太郎はそれまでとは一変し、積極的に世の中と関わろうとします。ところが、その世の中は、皮肉なことに十五年戦争の泥沼の中でした。

意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた

「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「山麓の二人」(昭和13年=1938)の終末部分です。「二人をつつむこの天地」=「十五年戦争の泥沼」ですね。

泣くも笑ふもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。

最低にして最高の道」(昭和15年=1940)の、やはり終末部分です。

さらに翌昭和16年(1941)になると、さらに具体的に……。「百合がにほふ」から。

私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。

それでもまだ、「山麓の二人」にあった、「二つに裂け」た心の片方は、かつて健康だった頃の智恵子との思い出の中に生きていました。

亡き智恵子が遺した梅酒を見つけ、一人味わうという内容の「梅酒」(昭和15年=1940)から。

狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。

ところが、やがて「世界はただこれを遠巻」にしなくなります。

きっかけは、80年前の今日の、真珠湾攻撃でした。

  真珠湾の日009

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あえぐ意識は眩めくるめいた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。

戦後に蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の一篇です。

自分自身、これから先に書くであろう詩は「詩ではない」というのです。言い換えれば、「芸術至上的な部分は捨てる」ということにもなりましょうか。または「甘美な情調、情感、そういったものは謳わない」という宣言ともとれます。

実際、詩の中で智恵子が謳われることは、開戦前の8月に刊行された『智恵子抄』のために書き下ろされた「荒涼たる帰宅」を最後に、無くなりました。再び詩の中に智恵子が現れるのは、戦後の「松庵寺」(昭和20年=1945)です。おそらく、最愛の妻の死を謳うことで、それまでの自分と完全に訣別し、「泣くも笑ふもみんなと一緒に/最低にして最高の道をゆかう。」と決心したのでしょう。

戦後になって、このように「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」として書かれた詩については、やはり「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」という詩の中で、「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」としています。

作者自身がのちに「変な方角の詩」とした翼賛詩の数々を、現代において「これぞ大東亜臣民の真髄!」と有り難がり、大音量で軍歌を流す街宣車のようにSNSにアップして悦に入る神経は、とても理解できません。また、何だかよく分かりませんが「詩をすてて詩を書かう。」が大好きな頓珍漢も見うけられます。その姿勢はのちに光太郎自身が「あれは誤りだった」と否定しているのに、です。無論、戦時の極限状態下で「詩をすてて詩を書かう。」と考えてしまったのは、ある意味、仕方がなかったのかも知れませんが。

それにしても、「詩をすてて詩を書」き、多くの前途有為な若者を死地に追いやったということを恥じ、反省し、悔やみ、懺悔し、戦後、岩手の寒村で7年間もの蟄居生活を送った光太郎の心境がまるでわかっていないと言わざるを得ません。

さて、前置きが長くなりましたが(ここまでは前置きだったのです(笑))、今朝の『毎日新聞』さんから。

余録 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである…

 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」。「智恵子抄」の詩人、高村光太郎(たかむら・こうたろう)は対米英戦開戦の日の感慨をこう書いた。日中戦争の泥沼化で鬱屈した空気を吹き飛ばすような強大国への挑戦だった▲もちろんまったく異なる受け止め方をした人々もいる。当時、米映画の配給会社にいた淀川長治(よどがわ・ながはる)は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁(なんばら・しげる)が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿(このえ・ふみまろ)だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右(まつおか・ようすけ)である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという▲緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言……。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。

なるほど。

さらに『東京新聞』さん(系列の『中日新聞』さんも)。作家の澤地久枝さんへのインタビューです。

日米開戦から80年

008 開戦当時、満州(今の中国東北部)の吉林にいました。十一歳、国民学校の五年生です。その日は朝起きてすぐにラジオの臨時放送があって、開戦を知りました。私は精神的に早熟だったと思いますが、どう考えたらいいか分からなかった。実は米国のことも英国のこともよく知らなかったのです。
 戦争はそれから四年続くわけですが、当時の私は本当にばかな軍国少女でした。この戦争に勝つと素直に信じていた。昭和十九(一九四四)年、特攻に行く若者たちの最後の言葉がラジオで放送されました。ドラマだったはずなのに、実際に死んでいった若者の肉声だと信じてしまった。皆が死んでいくなら自分も死ななければならないと思い込むようになりました。
 死ぬためには飛行機に乗るしかない、予科練(海軍飛行予科練習生)に行きたいと思ったんです。予科練の検査を通るために体を軟らかくする体操までしていましたよ。もちろん海軍は女を取らないわけで、同じ思いの友人と「残念だ」といつも話していました。
 やがて兵器などの材料用に金属の回収が始まり、街頭の赤い郵便ポストも消えました。母が「ポストまで持って行くようじゃ、この戦争は負けね」と言ったことがあります。「反戦主義者」か「非国民」か、そんな言葉でなじりましたよ。母は何も言わず黙った。
 私のように、よく考えない、でも熱中する女の子は国家には都合のいい人間だったでしょうね。戦場を知らない、空襲などの攻撃も受けたことのない思春期の少女の夢物語は、敗戦であっさり消えました。
 つくづくばかな子でしたね。本当に恥ずかしい。でも、それがなければ今の私もないんです。ばかなことを言ったり、したりしたことの責任を問う人は誰もいませんが、私はあの時の自分を許せない。間違いから逃げまいと思って生きてきた。それが戦争に関して調べ、書いてきた理由です。
 当時を知らない人たちは、どうして無謀な戦争を始めたのかと思いますよね。私の実感でいうと、国民が戦争を選んだんじゃないんです。ある日突然、降ってきたのよね。高村光太郎や斎藤茂吉のように熱狂した人もいましたが、それは一握り。黙って「そうか」と思っている人たちの方が多かった。
 ただ、軍人の独断専行だけでは歴史が動かなかったことは確かです。彼らを支持して同調する、もっといえば彼らに先立って動くような人たちがいて、こうなった。
 今、私は同じ空気を感じるのです。憲法を守ろうという人は少数派になったといわれ、変えようという人たちが声高になってきている。それに対して、今の国民はどうか。国の運命は偉い人が考えることと思っていないでしょうか。世の中は皆が知らない間に変わってしまうのに。そういう意味では、日本は八十年前と変わっていない。
 今の北朝鮮や中国の動向について不安を感じる人がいるのは分かります。私のように「憲法を守る」「自民党に反対」と言うと孤立することは自覚しています。でも、声高に言う人たちの意見が本当に多数派なのか。
 安倍(晋三元首相)さんの言うことを支持すれば、日本は憲法を変えて戦争できる国になる。戦争って遠くの出来事じゃない。日常的なことなんですよ。食べるものがなくなり、愛している人が殺される。それに耐えられますか? そう尋ねると、皆「嫌だ」と言いますね。
 こういう私の意見が真っすぐ受け止めてもらえたら心配はしませんが、今はそうじゃない。頑張って生きて、言い続けなければと思っています。 (聞き手・大森雅弥)
<さわち・ひさえ> 1930年、東京都生まれ。菊池寛賞の『記録 ミッドウェー海戦』など著書多数。近著は中村哲氏との共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波現代文庫)。

当時を知る人の、貴重な証言ですね。

光太郎同様、戦時中は翼賛作品を書きまくっていた、光太郎より一つ年上の斎藤茂吉の名も挙げられています。そこで、光太郎とセットで論じられることも結構あります。その部分での好著が、昭和54年(1979)、清水弘文堂から刊行された大島徳丸氏著『茂吉・光太郎の戦後――明治人に於ける天皇と国家――』。絶版ですが、古書市場では容易に入手できます。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后大村服飾学校の生徒十名ほど来訪、新小屋にて休憩、一時間位にて辞去。皆井戸水にたかる。食パンバタをもらふ。


昭和26年(1951)7月29日の日記より 光太郎69歳

大村服飾学校」は、盛岡で「オームラ洋裁教室」として健在です。この年1月には、光太郎が花巻町の佐藤隆房邸に滞在していた時に、創始者の大村次信が、やはり生徒を連れて訪問しています。

まずは地方紙『福島民友』さん。10月7日(木)の記事です。智恵子記念館での紙絵実物の公開と、智恵子生家の二階部分特別公開について。

高村智恵子の紙絵実物展示 二本松の記念館、生家居室も公開

 二本松市出身の洋画家高村智恵子を顕彰する同市智恵子記念館と智恵子の生家は2日、秋の特別公開を始めた。普段展示していない紙絵の実物などを通し、来場者が智恵子に理解を深めている。
 記念館では11月14日まで、智恵子が病床で制作した紙絵の実物が展示されている。紙絵は紙質が悪く、照明などで劣化しやすいため通常、複製を展示する。このため本物に触れる機会を―と年2回、実物を展示していて、今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」「ぶどう」など10点を選んだ。
 生家では、非公開の智恵子の居室が特別公開されている。智恵子は、福島高等女学校を卒業するまでと、詩人で彫刻家の高村光太郎と結婚後に帰省すると居室で過ごしたという。公開は11月14日までの土、日曜日と祝日の午前9時~午後4時。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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続いて、FNN系のニュース番組から。トピックニュース的に、経済的な部分での新たな取り組みの紹介ということで、岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんが取り上げられました。10月9日(土)に放映されたようです。

後継者不足解消へ...個人版M&Aマッチング

働く人に役立つプラスαな考え方に注目する「αism」。後継者を探したい人と、あとを継ぎたい人。その両者を結ぶ新たなプラットホーム。
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天然温泉100%の源泉かけ流し。
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情緒あふれる和風旅館のオーナーは、飲食業を本業とする男性。今、トレンドになりつつある、個人による新たな事業承継の形とは。

福島・二本松市にある名湯「岳温泉」。メインストリートにある「扇や」は、天正2年創業の400年以上続く老舗の旅館。
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歴史に裏打ちされたおもてなしが魅力のこちらの旅館だが、東日本大震災をきっかけに経営は苦境に立たされていた。
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「扇や」女将・鈴木亜矢さん「(従業員)みんなの生活が成り立たなくなってしまったら本当に申し訳ないことですし、そちらはすごく最後まで悩んでいた」
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この旅館の存続の危機に手を挙げたのが、新たにオーナーに就任した菅又信也さん。
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「扇や」をM&Aで取得・菅又信也オーナー「元々、自分が旅館が好きだったのもあるが、この扇やが閉じてしまうと、この温泉街にとっても非常にダメージですし、1つのめぐり合わせかなと」
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菅又さんと旅館をめぐり合わせたのは、ネット上で事業の後継を探したい人と、あとを継ぎたい人をM&Aで結ぶプラットホーム「BATONS(バトンズ)」。

菅又さんの場合、飲食業を経営しながらセカンドキャリアの充実のため、この旅館をM&Aした。

菅又オーナー「安達太良山の中腹にある温泉街なんで、(高村)光太郎さんの書であったり、高村智恵子さんの紙絵、切り絵、この土地を感じてもらえるところに、力を置いてやってきています」
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この事業承継により、おかみさんはじめ22人の雇用はそのまま維持され、温泉街の空洞化回避にもつながった。
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バトンズが扱う事業承継の案件、およそ3,670件のうち、970件余りは500万円以下。

これまでの経験を生かし、起業を考えていた人や夢だった仕事への手掛かりとして、個人による小規模の事業買収のケースが増えているという。

「バトンズ」大山敬義CEO「地元のいいもの、それを生かしたものは、やろうと思っても、東京にいて始められるものでもない。あるいは、それを知る機会さえない。多くのやる気のある若者が、地方に行くことで地域の活性化にもなる。それが1つのネット時代のM&A事業承継の形なのかなと思います」

「なるほど」という感じでした。実際、岳温泉さんでも、東日本大震災後、廃業を余儀なくされた旅館が複数あります。また、コロナ禍の影響もあるのでしょう、全国で有名旅館等が閉鎖、というニュースも耳にします。都内でも、数年前に鳴り物入りでオープンした、ある文豪の名を冠した高級旅館も暖簾を下ろすそうで……。

これはもしかすると、私設美術館、私立文学館などの文化施設にも適用できるのかな、などとも感じました。行政が支援に入ったり、第3セクター化したりするだけでは、根本的な解決にはならないような気もしています。公設の館も、逆にこうしたシステムを使って民間に譲渡するなどもありのような気がします。

今後、こうした取り組みがどんどん広がっていくことを期待します。

【折々のことば・光太郎】

やぶやにて(すきやき)少々たべ、ハイヤーでかへる。


昭和26年(1951)1月20日の日記より 光太郎69歳

やぶや」は、現在も花巻中心街で営業を続ける老舗の蕎麦屋さんです。宮沢賢治の御用達でもありました。

ハイヤーで帰ったのは、滞在していた花巻病院長・佐藤隆房宅。普段、数㌔㍍の距離なら歩く光太郎でしたが、この時期、結核性の肋間神経痛などでかなり体調を崩していました。

全国の地方紙さんの一面コラムから、3件。

まず、鹿児島の『南日本新聞』さん。昨日の掲載でした。

南風録

 何が面白くて駝鳥(だちょう)を飼うのだ-。詩人高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」は、印象的な問い掛けで始まる。小学校の教科書で読んだ覚えがある人もいるかもしれない。
 そのダチョウは動物園の「四坪半のぬかるみ」で飼育されている。「遠くばかり見てゐるぢゃないか」「小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか」。畳み掛けるように、野生動物の自由を奪う不条理を問う。
 鹿児島市の平川動物公園では、4羽のダチョウが入り口正面の広々とした「アフリカの草原ゾーン」にキリンやシマウマたちと暮らしている。自然の広大な大地とは比べようもないが、閉じ込められた感じはしないし、羽もぼろぼろではない。
 平川をはじめ国内の意欲的な動物園は飼育環境の向上に努めてきた。光太郎が詩を作った60年以上前と状況が違うのは当然だろう。ただ10年後、今と変わらず世界中の多種多様な動物が見られるとは限らない。
 ワシントン条約などで規制が強化され、希少な動物の国際取引が年々難しくなっているからだ。同じ問題に悩む国内の施設と連携し、個体の交換や繁殖に力を合わせてはいるが、動物が高齢化すればこれも限界がある。
 平川では今いるインドゾウやシロサイが死んだら、新たに入手できそうにない。あすまで動物愛護週間。全国の施設が直面する問題は、動物園の在り方を問うているのかもしれない。

今後を視野に入れた動物園のあり方、難しい問題ですね……。

続いて、少し前ですが、9月20日(月)付の『北海道新聞』さん。

卓上四季 人生の錦秋

書家篠田桃紅さんが育った家の本棚には、洋の東西を問わず多彩な書籍がぎっしり収められていた。とりわけ影響を受けたのが近代文学だったという▼国粋主義の台頭で大正デモクラシーが影を潜めたころである。体制的な思考を常識とする世の中に対してそれは違うと勇敢に立ち上がり、自分の判断をはっきりと出す。その批評精神に触れて育ったと、遺作「これでおしまい」(講談社)で回顧していた▼漢学者でもあった父の手ほどきで5歳から始めた書の経験を生かし、墨を用いた抽象表現という新たな芸術を切り開いた。1956年、43歳で単身渡米。ニューヨークの一流ギャラリーの個展で世界的評価を得た▼「価値観なんて相対的なもの。客観的な幸福などありません」と言う。女学校を出たら結婚という世の「常識」にとらわれることがなかったのも健全な批判精神が宿る心眼ゆえだろうか▼自由とは自らに由(よ)る(因る、依る)と書く。自分の責任で自分を生かすことだと。空襲、疎開、結核と死を意識しながら封建意識も強い社会を生き延びた言葉には説得力があった▼今春107歳で天寿を全うした。「春の風は一色なのに、花はそれぞれの色に咲く」。漢詩を引用した禅句集にあるそうだ。多彩なのは花に限るまい。錦秋の山の色づきもまた多様である。きょうは敬老の日。人生のたそがれにも、人それぞれの色味があっていい。

今年3月に107歳で亡くなった篠田桃紅さんが取り上げられています。複数のエッセイ集で、光太郎詩「道程」を引いて下さった篠田さん、「とりわけ影響を受けた」「近代文学」には、光太郎の著作も入っていたのではないかと存じます。

最後に、智恵子の故郷、福島の『福島民報』さん。9月21日(火)。

あぶくま抄

澄んだ夜空に、月が一年で最も美しく輝く。きょうは旧暦八月十五日に当たる「中秋の名月」。「竹取物語」のかぐや姫が月の都へと帰った日でもある。平安時代に記された日本最古の物語は、まるでSF小説のような不思議な魅力を放つ▼月での生活-。空想のような話が現実味を帯びてきた。日本は、月での長期滞在を念頭に置く米国主導の「アルテミス計画」に参加を表明している。農林水産省は今月、月面での食料自給システムの開発に向けて研究機関の公募を始めた。人類の営みが宇宙へと広がろうとしている▼宇宙産業は百兆円規模に成長するといわれ、各国の政府、企業が技術開発を競う。県内には惑星探査に尽力した大学や企業があり、福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想は航空宇宙を重点分野に掲げる。本県発の技術が、新たな一歩を踏み出す宇宙開発に貢献する日が待ち遠しい▼今年の十五夜は八年ぶりの満月となる。地球から三十八万キロ離れた星は、どのような場所なのだろう。物語の主人公のように月へと昇り、暮らす日に思いをはせる。地球上でかつてない困難に直面している今こそ、未来への挑戦は希望になる。

仲秋(中秋)の名月は、旧暦8月15日。旧暦と新暦は、年により、一ヶ月から一ヶ月半ほどずれていますので、毎年、この時期ではありますが、新暦での日付はまちまちです。智恵子が亡くなった昭和13年(1938)は、ちょうど智恵子の葬儀が行われた10月8日だったそうで、光太郎は、『智恵子抄』所収の詩「荒涼たる帰宅」にそう書きました。
1010
   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

本日開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の中で、「荒涼たる帰宅」も、朗読担当の北原久仁香さんに朗読していただきます。で、朗読の際には、題名とイメージ画像を、パワーポイントで投影しますが、「荒涼たる帰宅」では、二人が暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ(智恵子葬儀の会場でもありました)と、満月。
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この画面を制作しつつ、『福島民報』さんにもあるように、『竹取物語』を想起しました。そして、何だか智恵子=なよ竹のかぐや姫のような気がしました。光太郎を残して月の都に帰ってしまったかのような……。無理くりですが(笑)。

忘れないうちに書いておきますが、智恵子忌日「レモンの日」は、10月5日(火)となります。その日は智恵子を偲んでやってくださいませ。

【折々のことば・光太郎】

旧暦のこよみ入手せず、旧暦が分らず、一寸不自由。


昭和24年(1949)1月16日の日記より 光太郎67歳

おそらく農作業の関係かと思われますが、何とも言えません。

過日ご紹介した、花巻でのイベントの報道が出ていますので、ご紹介。

まずは、花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」。『岩手日日』さんの記事です。

発展支えた“大動脈” 郷土の近代鉄道史に焦点 花巻市博物館テーマ展

 東北本線開通から新花巻駅開業までの花巻の近代鉄道史に焦点を当てた、花巻市博物館(高橋信雄館長)の2021年度テーマ展「鉄道と花巻―近代のクロスロード―」は、同市高松の同館で開かれている。鉄道の発展に伴い栄えるまちの様子、発展に携わった人物なども関連資料を通して紹介し、現在の充実した交通網に至るまでの歩みを振り返っている。8月29日まで。
  花巻に鉄道が延伸したのは、1890(明治23)年。東北本線開通(上野―盛岡間)や花巻駅開業に始まり、同駅を起点とした岩手軽便鉄道、花巻電鉄が誕生し、交通網が発達。本県初のターミナルへと成長した。
 今展は「花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」「内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」「温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」など5章構成。写真や絵、図、絵はがき、切符など多様な資料176点が並ぶ。
 このうち「花巻近代鉄道史―」では、同館所蔵の「花巻駅長舎之図」(明治22、23年)や「花巻駅停車場図面」(明治30年代)のほか、個人所蔵の東北本線時刻表(明治時代)などを公開。同駅舎や停車場の設計を手掛けた宮澤猪太朗(1848~1912年)についても伝えている。
 序章では、鉄道が導入される前に物資の主要な輸送手段だった「舟運」の歴史にも触れている。
 テーマ展に合わせて同館では、同市の材木町公園に保存、展示されている花巻電鉄の車両「デハ3」の一部を、ほぼ実物大に再現した模型を設置。市内の児童(10)は「花巻電鉄については、4年生の時に社会科で習った。模型は本物みたい。幾多の苦労や困難があって今の鉄道まで発展したのだと知ることができた」と、興味深げに見入っていた。
 同館学芸員の小田島智恵さんは「現在は当たり前のように交通の便が良い花巻だが、その歴史まで理解している人は少ないのではないか。花巻は実はすごい所なのだと知ってもらいたい」と来館を呼び掛ける。
 関連行事として、17日午後1時30分から講演会が行われる予定で、釜石市世界遺産課の森一欽課長補佐が「釜石鐵の鉄道~内陸から海へつなぐ鉄路~」と題して話す。31日には、小田島さんによる講座「岩手軽便鉄道と花巻」も開催する。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(32)1030=へ。
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光太郎も、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から、花巻町中心街や大沢温泉などの温泉郷への足として使っていた花巻電鉄。画像にあるデハ3型車輌の模型は、ぜひ今後も活用していただきたいと存じます。

ちなみにこちらが、現役当時のおそらくデハ3型。当方手持ちの古絵葉書です。ぜひ乗ってみたかったと思いました。
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続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」。『岩手日報』さんから。

池捍邸を26日から一般公開 花巻、宮沢賢治作品の舞台モデル

 宮沢賢治作品の舞台とされ、大正ロマンを象徴する建築の花巻市御田屋町の「菊池捍(まもる)邸」は26日から一般公開される。市民有志による保存・活用委員会(木村清且(きよかつ)会長)が、菊池捍(1870~1944年)や、市ゆかりの人物を顕彰する場とした。公開は1カ月間だが、将来的にはまち中心部に活気を呼び込む常設の施設を目指す。
 26日のオープニングセレモニー後は、7月18日まで毎週土日に開館。午前10時~午後4時。入館料(協力金)は500円。問い合わせは同委員会事務局の北山公路さん(090・2884・0466)へ。
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さらに、IBC岩手放送さんのローカルニュース的な……。

池捍(まもる)さんのお家…!

 花巻市御田屋町・上町商店街の東側にある「菊池捍邸」におじゃましました(#^^#) 菊池捍さんは、花巻出身。国内外で農業技術の発展に従事した方です!
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 7年かけてじっくり建てられた家で、まもなく築100年!
 「花巻瓦」の屋根が美しい洋館… 加えて、館内には武家屋敷の構造が見られるという、後世に残したい貴重な建物です。
 この通りは数えきれないほど来ていますが… 知りませんでした<(_ _)>
 先週末から、来月18日までの土日に開館しています。今日は特別に館内から中継しました!
 「菊池捍邸 保存・活用委員会」会長 木村清且さん(写真左)にご紹介いただきました(^^)
 邸宅を毎日綺麗に管理している 佐藤吉雄さん(写真右)は、本日見守り隊です(#^^#)
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 宮沢賢治の物語が読み取れ、かつ様々な先人が訪れた邸宅… ワクワクします!
 そして、ここを守ろうとたくさんの方が活動を続けていることも、素敵ですね( ˘ω˘ )
 応援していきたいです(^^)/
 襖の柄もオシャレ…!
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 土日の日中は、委員会の皆さんに様々お話が聞けますし、じっくり見学ももちろん可能!
 夕方には、朗読会・観劇会・音楽鑑賞会などが開催されています(^^♪
 入場料(運営協力金) 500円(小学生以下は無料)
 お問い合わせ 090-2884-0466
 ありがとうございました\(^o^)/
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当方、明日から1泊で、それぞれを拝見に行って参ります。帰りましたらレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

駒込のアトリエ焼失の日。


昭和23年(1948)4月13日の日記より 光太郎66歳

さすがに、この日付は忘れがたいものだったのでしょう。昭和20年(1945)、3月10日の東京大空襲では難を逃れたものの、その後も断続的に空襲が続き、4月13日の空襲で、智恵子と暮らした思いで深いアトリエ兼住居は、灰燼に帰しました。
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日記では、この日、北海道弟子屈から詩人の更科源蔵、また、それとは別に盛岡から岩手県立美術工芸学校の佐々木一郎、森口多里が訪ねてきたことが記されています。おそらくアトリエ焼失の際の話題にもなったのではないでしょうか。

しかし、アトリエの焼失がなければ、花巻に行くこともなかったわけで、人の縁というのはつくづく不思議なものですね。

3件ご紹介します

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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6月3日(木)に放映のあった回の再放送です。

新コーナー「博士と助詞」で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。
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「助詞」ということで、「に」が、次々と……
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なるほど、こうやって助詞による文脈全体の意味の違いを表そうと、そういう意図なのですね。しかし、「僕の前だけ道はない」は、ちょっと嫌ですね(笑)。

続いて、智恵子の故郷・福島二本松から。

ふるカフェ系 ハルさんの休日「福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 22:30〜22:55 再放送6月20日(日) 18:3018:55

古い建物のカフェがあれば全国どこへでも。ふだんはうだつの上がらない青年・真田ハルは実は人気のカフェブロガー!ゆったり流れる時間、地元の人たちとの出会い、全国の“ふるカフェ”の魅力を描きます。

福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!

明治初期、戊辰戦争の激戦地と知られた二本松城。広い敷地の中に立つ、謎の洋館付き住宅のカフェ。入ってみれば古代ギリシャの建築と装飾が随所に散りばめられている。アカンサスなど見事な室内装飾と美しいギャンブレラ屋根、そしてドイツ壁。ヨーロッパ中のおしゃれな建築様式を活かしたこの建物、一体、誰が建てたのか?店主からの依頼で、ハルが洋館を調査。果たして、謎は解き明かされるのか?探偵ハルのカフェ探検はいかに?

【出演】渡部豪太
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こんなシャレオツなカフェが、二本松にあったのか? と思って調べたところ、今年3月オープンだそうで、存じませんでした。

その名も「8月カフェ」さんだそうです。「築100年」とのことで、ぴったり100年なら大正10年(1921)竣工ということになります。

場所的には、JR二本松駅から霞ヶ城方面へ続く「久保丁坂」の途中。平成28年(2016)に開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の会場となった、二本松市歴史資料館さんのすぐ近くです。したがって、愛車で何度もこの道を通りましたが、こんな建物があったとは気づきませんでした。
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智恵子生家/智恵子記念館も近いといえば近いところです(歩くとなるとちょっとありますが)。大正10年(1921)というと、智恵子は光太郎と既に結婚し、東京駒込林町のアトリエ兼住居で暮らしていた時期ですが、光太郎曰く「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)ということでしたので、この建物を目にしていた可能性もあると思います。

また、上記地図で、2本東側の亀谷坂(竹田坂)には、智恵子の母・センの生まれた安斎家がありました。

今度、二本松に行く際には立ち寄ってみようと思います。

もう1件。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

地上波テレビ東京 2021年6月20日(日) 12:5414:00

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?


出演者044

【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会 
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

初回放映は今年2月、その後、系列のBSテレ東さんで先月放映がありました。光太郎の父・光雲作の聖徳太子孝養像が出ます。
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ネタバレで申し訳ありませんが、鑑定価格は堂々の1,500万円。
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光雲を紹介するVが、素晴らしい出来でした。
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息子の光太郎にも触れて下さいました。
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関東地方ご在住で、まだ御覧になっていない方、ぜひどうぞ。

上記の「にほんごであそぼ」と「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は、全国放映だと思いますので、皆ざま、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

正午に日影さしたるにより障子に日時計を改め記す。


昭和22年(1947)12月15日の日記より 光太郎65歳

日時計は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の、南側の障子に書かれていました。外側に紐で縛った石をつるし、その紐の影が障子に映る仕組みです。紐を吊す位置を前後させたりしながら、季節の変化に対応していたと思われます。
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昭和24年(1949)になって、電線が引かれ、ラジオを山小屋で聴けるようになるまで、この日時計がメインでした。

長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、昨日の一面コラムで光太郎智恵子に触れて下さいました。

2021.5.12みすず野005

先週のゴールデンウイークとその延長の週末、案の定、北アルプスなどでの登山者の遭難事故が起きた。春山と言っても、風雪は冬山同様である。まれに軽装で登って行って動けなくなり、助けを求める人がいるけれど、山はまさに大自然、常に険しく、厳しい◇「人はなぜ山に登るのか」の哲学的な問いはさておき、古今東西、人はそこにある山に分け入り、登り、祈り、ルートを切り開いてきた。岳人のみならず、文人もかつてはよく登り、小説、詩、エッセーなどに残した。山と対峙することで、自己再生を期し、創作意欲をかき立てたのだ◇高村光太郎もその一人。光太郎は東京生まれで、彫刻家を志し、ニューヨーク、ロンドン、パリに留学するなど、極めて都会的、先進的な若者だったにもかからわず、心に屈託を抱え、73年の生涯で3度、山に向かい、自分を見つめ、生きる力を得た。最初はかの智恵子を知った後の上高地滞在である◇次は智恵子が発症してからの東北めぐり。そして最後は敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活。これは晩年の7年に及んだ。人と山を考える一つの典型がここに。

73年の生涯で3度、山に向かい」というのがちょっと引っかかります。光太郎は山好きで、ここにあげられた3度以外にも、いろいろ山歩きをしていますので。

たとえば上州赤城山。留学前の明治37年(1904)には5月から6月と、いったん帰京した後の7月から8月、つごう2ヶ月間も滞在しましたし、留学から帰った年の明治42年(1909)、それから昭和4年(1929)には当会の祖・草野心平らと、さらに昭和6年(1931)には父・光雲と訪れています。
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また、同じ上州山中のいわゆる秘湯と呼ばれる温泉を、大正から戦時中にかけ、かなり踏破しており、それも「山歩き」です。今で言うトレッキングに近い形だったようですが。

信州も大正2年(1913)の上高地滞在だけではありませんでした。数え19歳の明治34年(1901)8月から9月には、戸隠、野尻、松本、木曽福島、御嶽山、さらに新潟にも足を伸ばし、赤倉や妙高山も訪れています。

遡って明治32年(1899)には、祖父・中島兼吉(通称・兼松)と共に富士山にも登っています。

ただ、それらは人生の転機という時期ではなかった部分もあり、その意味では、『市民タイムス』さんが取り上げた「3度」とは、確かに意味合いが異なるかも知れません。

ちなみに2度目として位置づけられている「次は智恵子が発症してからの東北めぐり」。昭和8年(1933)の話ですが、その中で訪れた福島の土湯温泉の外れにある不動湯温泉さんが、昨夜、BS TBSさんで放映された「美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒」で取り上げられました。

一昨年、初回放映があったものの再放送でしたが、初回放映の際には気づきませんで、昨夜、初めて拝見。事前に出た番組説明の中に「山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!」というくだりがあって、もしかすると不動湯さんかな、と思いましたら、ビンゴでした。残念ながら、「光太郎智恵子ゆかりの温泉」という紹介は為されませんでしたが。

5/14追記 土湯温泉さんの紹介の中で、光太郎智恵子に触れて下さっていました。
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ただ、「何度も」は訪れていませんが……。
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そして3度目、「敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活」。昨日も書きましたが、今週末の5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエ兼住居を空襲により焼け出され、疎開のため花巻へ向かった日ということで、例年であれば花卷高村祭が行われるはずでした。山小屋のあった花巻郊外旧太田村に移ったのは、終戦後の10月ですが、ぜひ、この機会に光太郎の山小屋生活に思いを馳せていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子祥月命日。線香をたく。


昭和22年(1947)10月5日の日記より 光太郎65歳

南品川ゼームス坂病院で、粟粒性肺結核のため智恵子が亡くなったのは、昭和13年(1938)10月5日でした。

地方紙の記事から3件ご紹介します。

まず一昨日の『福島民報』さん。

智恵子の居室特別公開 30日まで二本松

 高村智恵子生誕祭は二本松市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で三十日まで開かれている。生家二階の「智恵子の居室」を特別公開し、繊細な美しさの紙絵の実物を展示している。
 五月二十日の智恵子の誕生日に合わせた事業。居室は光太郎と結婚後の帰郷の際などにも過ごしたとされ、当時の状態で保存されている。公開は一~五日、八、九、十五、十六、二十、二十二、二十三、二十九、三十日。
 紙絵は智恵子がゼームズ坂病院での闘病中に制作した「青い魚と花」などの実物十点を二十五日まで公開している。紙絵をモチーフとするカード、しおり作りを十五、十六、二十二、二十三、二十九、三十日に実施する。
 入館料は高校生以上四百十円、小中学生二百十円。
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少し前にご紹介した、智恵子生家の2階部分の特別公開、それから紙絵の実物展示と制作体験を紹介して下さいました。

続いて、ちょっと前になってしまいましたが、4月22日(木)付けの『中日新聞』さん。

蓮如像包む八重桜 あわらで満開

 浄土真宗の中興の祖・蓮如上人が道場を開いたとされる、あわら市の吉崎御坊跡(吉崎御山)で、八重桜が満開を迎えている。蓮如上人の肖像画「御影(ごえい)」が京都市の東本願寺とあわら市の真宗大谷派吉崎別院(吉崎東別院)を往復する御影道中が県内入りした二十一日も、美しいピンクの花々が咲き誇っていた。
 八重桜は毎年四月中旬から下旬にかけて見頃を迎えている。地元住民が植樹し、敷地内にはカンヒザクラやソメイヨシノも植えられている。
 蓮如像は、彫刻家の高村光雲(一八五二〜一九三四年)が造ったもので、一九三四(昭和九)年に完成。高さは台座部分も含め約十二メートルある。
 今年は吉崎御坊開山五百五十年の記念の年。二十三日には御影道中が吉崎東別院に到着し、法要が営まれる。 
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 光太郎の父・光雲作という蓮如上人像。福井県あわら市の吉崎御坊跡に建っています。

この像は、彼の地の観光情報等にいろいろ記述があって、名所の一つとなっているようなのですが、その成り立ち等、当方、寡聞にして存じません。

平成11年(1999)中教出版さん刊行の『髙村規全撮影 木彫 髙村光雲』、平成14年(2002)三重県立美術館さん他刊行の『高村光雲とその時代展』図録に掲載された光雲の年譜を見ても、一切、記述がありません。

福井の観光情報的なサイトでは「光雲四大傑作の一つとして有名」的な記述が目立つのですが、「光雲四大傑作」というのも、他では一切見たことがありません。「誰が決めたんだ?」という感じです(笑)。

また、像の除幕は昭和9年(1934)10月となっていますが、まさに光雲が亡くなったのがこの年、この月。2月には既に東京帝国大学病院に入院しています。まぁ、それ以前に原型を完成させていたとも考えられますが。それから、光雲最晩年は、高野山金剛峯寺さんから依頼のあった本尊薬師如来(阿閦如来(あしゅくにょらい)とも)の制作にかかっていました。同時にそんな大作の仕事を受けるものでしょうか?

さらに言うなら、福井の観光情報的なサイトには、蓮如像の除幕は大谷光暢が導師となって執り行われた的な記述がありますが、この時大谷は満で言うと30歳そこそこ。これも変ですね。

まぁ、ガセとは言いませんが、どうにもわからないことだらけです。ただ、高野山の如来像についても上記光雲年譜には記述が無く、どうも光雲の事績、まだまだ細かな点の調査が為されていないという感じです。

蓮如上人像と光雲の関わりについて、詳細情報をご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

最後に一昨日の『神戸新聞』さんから。直接、光太郎智恵子光雲には関わりませんが……。

街のモニュメントなぜ女性の裸体?「公共の場にこれほど多いのは日本だけ」

006 街角で目にするモニュメントについて、「中には理解できないものや、不気味なものもあるけど、誰がどのように決めて設置するの?」という疑問が、神戸新聞の双方向型報道「スクープラボ」に寄せられた。特に神戸の街には女性の裸体彫刻が多く、改めて考えると不思議だ。なぜ、公共空間に女性の裸体を置きたがるのか。取材を進めると、戦後日本の歩みに深く関わっていることが分かった。
 神戸・三宮のフラワーロード。三宮駅北側から東遊園地東側にかけて、35の彫刻作品が点在する。うち女性裸体像は13点で4割近い。男性裸体像は1点なので、明らかに多い。
 帽子をかぶり体をくねらせる女性、直立してこちらを見つめる女性、座って体を洗っているように見える女性…。いずれも全裸だ。
 神戸市文化交流課によると、市内にある銅像やモニュメントは500点以上。多くは1960年代後半以降の一時期に集中して設置されたという。戦災から復興し、「彫刻の街」を目指した同市は大規模な彫刻展を何度か開いて入選作を買い取り、神戸ゆかりの彫刻家からも寄贈を受けた。
 しかし、なぜ裸の女性なのか。担当者は「裸婦像には平和の象徴のような意味合いがあったと聞いています」と話した。どういうことなのか。専門家に取材することにした。
     ◇
 インターネットで「裸婦像 平和」を検索し、たどり着いたのが亜細亜大国際関係学部の高山陽子教授(文化人類学)だ。専門の記念碑研究の傍ら、15年ほど世界各地の銅像を見て回っている。
 「公共の場に、これほど若い女性の裸体像が多いのは日本だけ」と高山教授。数年前に「国内でも多いと聞いた」神戸も実地調査した。公共空間の女性彫像についての考察を2019年にまとめた。
 高山教授によると、いわゆる「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと軍人像が増えたが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去された。代わって登場したのが、歴史性、政治性の薄い「乙女の像」だという。
 日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像は東京・三宅坂の「平和の群像」(1951年)で、以前は陸軍出身の首相寺内正毅の像があった場所。高山教授は「ここで平和の意味付けがなされた」と指摘する。
 70年前後には地方自治体が都市整備事業の一環で設置を進め、高山教授は「駅前などに脈絡なく女性裸体像が立つことが増えたのではないか」と説明する。
 ちなみに、欧州では少女の裸体像は美術館などの屋内や庭園など私的空間に限られるというが、日本では少女と分かる像も公共の場にある。こうしたことから、90年代には公共空間への設置を批判する運動も起きた。
 高山教授は「裸体像は性的ないたずらで触られたり壊されたりすることが多く、そういう様子が見る人に嫌悪感を抱かせることもある。裸体だけに、清掃などの手入れも地域住民などに委ねづらい面もあり、厄介な存在になっている」としている。
 神戸市では銅像へのいたずらはあまり把握していないという。同市文化交流課は「数年前にTシャツを着せられた程度。手入れも、彫刻を学んだ女性たちがボランティアで磨いている」としている。

ここで言う「乙女の像」は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ではなく、「騎馬像」「仁王像」といったレベルでの普通名詞としての「乙女の像」ですね。

たしかに裸婦像の屋外彫刻、各地で見かけます。そしてそのほとんどが、記事にあるように「理解できないもの」、「駅前などに脈絡なく」立つもの、ですね。

光太郎の「乙女の像」は、十和田湖の荒々しい大自然の中に置かれ、人間の持つ原始の力の象徴として、必然的に着衣でなく裸体が選択されてます。あの場所に着衣像では、却って「脈絡」がありません。
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しかし、コンクリートとアスファルトに固められた空間に、突如として現れる裸婦像、たしかに違和感がありますね。元首相の女性蔑視発言への反発のうねりなど、ジェンダー格差を問題視する声が高まっている昨今(昨年は「美術館女子」とかいう頓珍漢なプロジェクトも立ち上がりましたが、早々にSNSで炎上し撤退に追い込まれましたね)、その点でも今後、批判が起きそうな気がします。

ちなみに記事にある「日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像」である「東京・三宅坂の「平和の群像」」の作者は菊池一雄。病を抱えていた光太郎が、「乙女の像」制作に際し、自分が途中で制作不能になった場合の代わりの作者として指名していた彫刻家です。光太郎は、菊池が都心に裸婦群像を作ったという情報を得ていたはずで、それも「乙女の像」制作の後押しになったと思われます。

また、裸婦像に限らず、公共の場に意味不明の彫刻(彫刻もどき)が多いのも、遺憾ながらこの国の現状ですね。「現代アート」という言葉が免罪符になってしまっているような……。「その場所にはそれしかありえない」ものの設置を望みます。すると、国民全体の審美眼の向上、といったことが求められるわけで、こうなると、100年前に光太郎があちこちで提言していたことでもあります。残念ながら、それがまだ果たされていないわけで……。

皆様は如何思われますか?

【折々のことば・光太郎】

仁太郎さん細君配給酒四合持つて来てくれる。(三五円六〇也札なく四〇円六〇さし上げる)

昭和22年(1947)8月26日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、蟄居とは言う条、酒好きの光太郎、禁酒まではしていませんでした。

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