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個人でも自分の好きなイラストや写真を使って作成できる「フレーム切手」。各地の自治体の外郭団体さんなどがこぞって「ご当地もの」的に発行なさっています。

今年3月には、光太郎第二の故郷・岩手花巻で「高村光太郎と花巻」が発行されましたし、それ以外にも光太郎智恵子、光太郎の父・光雲にかかわるものがぽつりぽつり発行されてきました。

で、今月、新たに発売のものを2種、ご紹介します。

まずは光雲がらみ。

オリジナル フレーム切手「上野恩賜公園 開園150周年記念」の販売開始

日本郵便株式会社東京支社(東京都江東区、支社長 木下 範子)は、オリジナル フレーム切手「上野恩賜公園 開園150周年記念」を販売します。

商品名 上野恩賜公園 開園150周年記念
販売/受付開始日   2023年10月19日(木)
販売/受付開始日(Web) 2023年10月25日(水)午前 0時15分
申込受付数 2,200シート
販売郵便局 東京都内一部の郵便局(計17局)

10月19日(木)から、上野恩賜公園にて開催される「上野恩賜公園開園150周年 総合文化祭」に合わせ、10月21日(土)及び10月22日(日)の午前10時より上野恩賜公園内のパンダポスト付近にて、郵便局特設ブースを開設して販売を行います。
※開設時間は、状況に応じて変更となる場合がございます。

商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚)
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,330円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算
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まず、台紙の部分に、パンダのシャンシャンと共に、光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」がどーんと。さらに84円切手としても西郷像のものが1枚。
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いい感じですね。光雲作品があしらわれているという意味では、信州善光寺さんご開帳記念のそれと似ています。

ところで、販売告知中に「10月19日(木)から、上野恩賜公園にて開催される「上野恩賜公園開園150周年 総合文化祭」」という文言があり、「へー、そんなのやるんだ」と思い、調べてみました。

公式サイトによると、公園内でさまざまなコンテンツやイベント。中にはやはり西郷像に関わると思われるガイドツアーなども。
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お近くの方、ぜひどうぞ。

オリジナルフレーム切手、もう一種。

オリジナル フレーム切手「自然を愛し水と緑が薫るまち 信州 安曇野」 の販売開始

日本郵便株式会社信越支社(長野県長野市、支社長 菊地 元)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。このオリジナル フレーム切手は、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

長野県安曇野市を題材に、安曇野市の四季折々の美しい自然や風景を表現したフレーム切手を作成しました。

商品名 自然を愛し水と緑が薫るまち 信州 安曇野
販売/受付開始日 2023年10月16日(月)
販売/受付開始日(Web) 2023年10月25日(水)午前 0時15分
申込受付数 600
販売郵便局 長野県松本市、安曇野市、大町市、北安曇郡の全郵便局および東筑摩郡の一部の郵便局(計76局) 一部の簡易郵便局は除きます。

商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚)
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,330円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算
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安曇野、ということで、同地のランドマークの一つ、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さん。
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本館的なロマネスク様式の碌山館。内壁には「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した新宿中村屋相馬黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁、そして光太郎の四人の名が刻まれています。

ちなみに碌山館、11月5日(日)に一夜限りのライトアップが為されるそうです。
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さて、オリジナル フレーム切手二種、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今晩は智恵子の命日で智恵子と一緒に配給のビールをのんだところです。静かなさびしい晩です。物音一つしません。おけらもまだ鳴きません。寝たくないやうな晩です。

昭和17年(1942)5月5日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎60歳

「命日」といっても月命日ですね。「智恵子に配給のビールを供へた」ではなく「智恵子と一緒に配給のビールをのんだ」。なにげな表現に光太郎の切ない心情が見て取れます。

以前にも書きましたが、陰膳のようにビールをコップ二つに注いでおくと、いつのまにかそちらも無くなっているという回想を残しています。絶対、自分で飲んで居るんですけれど(笑)。

それにしてもまだビールの配給も為されていたのですね。

今日、3月13日は光太郎の誕生日です。満140年ということになります。

それを記念して、岩手県内の一部郵便局で今日販売が始まるオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」が、花巻市に贈呈されました。

地方紙『岩手日日』さん。

光太郎生誕140年を記念 フレーム切手13日から販売 花巻

 日本郵便東北支社は、生誕140年を迎える花巻ゆかりの先人・高村光太郎を題材としたオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を作製した。切手には光太郎の写真をはじめ、高村山荘、詩碑や彫刻などの写真がデザインされ、花巻市内や近隣市町の郵便局で、光太郎が誕生した13日に販売を開始する。  
 生誕140年の節目に、光太郎と花巻を広くPRしようと制作。日本郵便が、市と高村光太郎記念会、光太郎の顕彰団体「やつかのもりLLC」と協力してデザインした。
 表題には光太郎が長年過ごした高村山荘の写真と、光太郎と妻智恵子のキャラクターを使用。切手は光太郎本人がトマトを手入れする姿や冬の高村山荘、山荘で初めて迎えた冬に生まれた作品「雪白く積めり」の詩碑などの写真を採用した。
 台紙には、光太郎がデザインした山口小学校の校章や同校に贈った校訓「正直親切」、地元の子供たちと写真を撮るサンタクロースに扮(ふん)した光太郎の写真など、花巻で過ごした日々が紹介されている。
 10日には市役所でフレーム切手の完成披露が行われ、上田東一市長は「素晴らしい切手を発行してもらい市民も喜ぶと思う。改めて注目する機会になる。ありがたい」と感謝。日本郵便県西部地区連絡会統括局長の齋藤一志水沢大町郵便局長は「光太郎は宮沢賢治が世に広まるきっかけとなった人物。切手の発行に合わせて光太郎の人柄などにも触れるきっかけになれば」と述べた。 フレーム切手は1シート1690円(税込み、84円切手×10枚)で、計700シートを発行。13日から花巻、北上、奥州、西和賀、金ケ崎各市町の70局、15日からインターネットで販売する。
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同じく『岩手日報』さん。

高村光太郎との縁、切手に 日本郵便東北支社、生誕140年で発売

 日本郵便東北支社(仙台市、小野木喜恵子支社長)は13日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念したオリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」を発売する。
 花巻市役所で10日に贈呈式を行い、同市や奥州市の郵便局長らが出席。県西部地区連絡会統括局長の斎藤一志(ひとし)水沢大町郵便局長が上田東一花巻市長に切手シートを手渡した。
 1シート1690円で、84円切手10枚がセットになっている。同市で7年間過ごした高村の農作業姿や暮らした山小屋(高村山荘)、自筆の詩などの写真を用いた。
 花巻、北上、奥州、金ケ崎、西和賀の5市町の70郵便局、日本郵便のウェブサイトで700シート限定で販売する。
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オンラインでの販売は明後日からだそうです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

例の彫刻は出来た相だな。つひ忙がしいので御無沙汰してゐる。僕は四月の中旬に関西へ出懸る。 店はまだ出来ぬ。いつかの子供の首を鋳金にして呉れないか。鋳金料は報知次第早速御届けする。 その内、君の画や何か借りに出懸ける。

明治43年(1910)3月27日 荻原守衛宛書簡より 光太郎28歳

留学仲間で親友だった碌山荻原守衛に宛てた葉書から。
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例の彫刻」は守衛の絶作にして代表作「女」、「いつかの子供の首」は、前年に守衛が制作した塑像「小児の首」。「店」は翌月開店した神田淡路町の画廊・琅玕洞。光太郎は実弟の道利を名目上の店主にします。当初予定では守衛の個展を開いたり、そうでない時にも守衛作品をバンバン売る予定でした。

ところが光太郎が「四月の中旬に関西へ出懸」けているうちに(4月22日)、守衛は急逝してしまいます。

明日、お披露目です。

オリジナル フレーム切手「高村光太郎と花巻」の販売開始および完成披露のお知らせ

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 小野木 喜惠子)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。

このオリジナル フレーム切手は、生誕140年を迎える高村光太郎を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。

商品名 高村光太郎と花巻 
販売/受付開始日 2023年3月13日(月)
販売/受付開始日(Web) 2023年3月15日(水)午前 0時15分
申込受付数 400セット
販売郵便局
 岩手県の花巻市,北上市,奥州市,和賀郡西和賀町,胆沢郡金ケ崎町内の郵便局(70局)
 ※上記地域内の簡易郵便局でも販売する場合があります。
商品内容 フレーム切手 1シート(84円切手×10枚) B5台紙 1枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 セット単位で販売します。
販売価格(税込) 1セット 1,690円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、
   販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

贈呈式
 日 時 : 2023年3月10日(金)午後 1時30分~
 場 所 : 花巻市役所 本庁舎本館2階 応接室
 受贈者 : 花巻市長 上田東一(うえだ とういち )様
 贈呈者 : 水沢大町郵便局長 齋藤一志(さいとう ひとし)
 備 考 : 当日は「完成披露」として実施いたします。
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光太郎肖像が切手になるのは、平成12年(2000)に発行された「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集以来です。
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なお、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。あくまで参加者限定ということで、この切手だけ買いに来るというのはお断り申し上げます。

明日には花巻市役所で上田市長に贈呈式が挙行されるとのこと。報道されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞へ登つたのだ。


明治42年(1909)8月28日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

前月には3年半の欧米留学を終えて帰国した光太郎。留学前に何度も登った懐かしい赤城山に早速行きました。

信州善光寺さん、今年は御開帳です。数え七年に一度ということで、本来は昨年の予定でしたが、コロナ禍のため一年延期されました。4月3日(日)~6月29日(水)の予定だそうです。

そこで、御開帳に合わせ、昨日ご紹介した長野県立美術館さんの企画展「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」が開催されるわけです。

また、日本郵政さんでは、御開帳記念ということで、 ご当地フレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」を発売しました。信越支社さんのプレスリリースから。

オリジナルフレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」の販売開始

日本郵便株式会社信越支社(長野県長野市、支社長 菊地 元)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。このオリジナル フレーム切手は、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

商品名 七年に一度の盛儀 善光寺御開帳
販売/受付開始日 2022年3月25日(金)
販売/受付開始日(Web) 2022年3月25日(金)午前 0時15分
申込受付数 14,000シート
販売郵便局 長野県の全郵便局(440局) ※一部の簡易郵便局は除きます。
商品内容 フレーム切手 1シート 84円切手×5枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,000円
 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

切手デザイン
善光寺御開帳は、本堂に安置される秘仏の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として鎌倉時代に造られた前立本尊(まえだちほんぞん)を、数えで7 年に一度開扉(かいひ)する盛儀(せいぎ)です。本商品は、善光寺御開帳の魅力を盛り込んだデザインとしています。
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光太郎の父・光雲と、その高弟米原雲海による仁王像(大正8年=1919)、それを納める仁王門もデザインされています。
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基本、長野県内の郵便局さんでの販売ですが、日本郵政さんのサイト内の「郵便局のネットショップ」から通販も可(会員登録が必要ですが)。早速注文しました。

善光寺さん御開帳のフレーム切手、前々回(平成21年=2009)、前回(平成27年=2015)の際にも発行されました。それぞれ、仁王門の写真があしらわれた切手も含まれていまして、タイミングを失っていたので、このブログではご紹介していませんでしたが、入手しました。

前々回(平成21年=2009)のもの。当時の封筒の郵便料金は80円だったのですね。
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前回(平成27年=2015)のものはこちら。82円バージョンです。
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上記2点は入手しておりましたが、今回、改めて調べてみますと、前回(平成27年=2015)にはハガキ用の52円バージョンもありました。
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こちらは未入手でして、探してみます。

それにしても、こういう光太郎智恵子・光雲がらみの郵便関係(切手・はがきなど)、コツコツ集めているうちに、ミニ展示ができるくらい溜まってきました。ご要望があれば貸し出しいたしますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち山口部落の老婆といふ人、青年をつれてきて何かをたのむ、言葉まるで分らず、断りてかへす、


昭和27年(1952)8月1日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も丸7年が経とうとしていた時期で、かなり彼の地の方言等にも通じていた光太郎ですが、時にはこういうこともあったようで……。訪ねてきた老婆がたまたま言語不明瞭だったのかも知れませんが……。

またもやネタ不足となりまして、最近手に入れた古いものシリーズです。

先だって、昭和30年代はじめの花巻絵葉書セットをご紹介しましたが、その後、およそ10年後の昭和40年代はじめの花巻絵葉書セットを入手しました。

まず、カバー。昭和39年(1964)に開港した花巻空港です。飛行機は懐かしの双発プロペラ機YS-11ですね。

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題字の「はなまき」の文字は、何と、光太郎の花巻疎開に尽力し、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房花巻病院長の揮毫です。

カバー裏側に解説文。光太郎の名も。

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イラストマップもカバーの裏に。

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昭和43年(1968)に廃線となった花巻電鉄鉛線が描かれていますし、下記の高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)のキャプションには「昭和41年10月ここに高村記念館を建立して遺作を保存しております」とあるので、昭和41年(1966)~昭和43年(1968)の間の発行ということになります。発行元は「花巻市観光協会」となっていました。

葉書宛名面の切手貼付欄は「7円」と印刷されています。葉書の料金が7円だったのは昭和41年(1966)~昭和47年(1972)、年代的に合いますね。金魚のデザインの7円切手、記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか(歳がバレますね(笑))。

さて、絵葉書本体。8枚セットでした。

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縦長で、上半分が光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑、下半分が高村山荘です。現在は二重の套屋に蔽われていますが、この当時は第一套屋のみ。第二套屋の竣工は昭和52年(1977)です。

昭和30年代の絵葉書セットもそうでしたが、あとは温泉地が中心です。

花巻温泉佳松園。昭和40年(1965)、建築業協会賞を受賞したとあります。

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左下は台温泉。過日も書きましたが、小規模な温泉宿が多数軒を連ね、その中の松田屋旅館さんに光太郎、それから当会の祖・草野心平が泊まっています。まだ道路が舗装されていないようです。

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右上はこれのみ戦前の絵葉書の画像ですが、花巻南温泉峡の西鉛温泉秀清館。昭和20年(1945)、花巻疎開直後に結核性の肺炎で1ヶ月臥床した光太郎が、予後を養うために6月に1週間滞在しました。昭和47年(1972)に閉館となったそうですが、下記にはまだ健在で写っています。

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奥に写っている愛隣館さんが昭和35年(1960)に創業し、「西鉛温泉」という呼称は「新鉛温泉」と改められ、絵葉書キャプションもそうなっています。

鉛温泉藤三旅館さん。中央の古い建物、三階の一番奥が光太郎の泊まった31号室です。

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それから温泉ではありませんが、鉛温泉スキー場。なぜかスーツにネクタイでスキー板を履いている人が居るのですが(笑)。

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大沢温泉さん。立て替えられる前の山水閣さんのようです。

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志戸平温泉さん。現在の姿にだいぶ近くなっています。

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各温泉さん、緊急事態宣言の解除を受け、徐々に再開しているようです。連休明けには既に再開したところ、宿泊はまだでも日帰り入浴のみ再開しているところもあり、大半は今月末や来月初めから全面的に再開するようです。ちなみに高村山荘・高村光太郎記念館さんも6月1日(月)から再開の予定だそうです。まだ油断は禁物ですが、早く元の状態に戻って欲しいものですね。

特に急ぎの情報が入らなければ、明日も最近手に入れた古いものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

もう六年です。すっかり住みなれて、都会へ出る気はしません。僕はもう都会を信用しません。都会は腐りかけている。

対談「高村さんと語る」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

ところが翌年には「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、帰京します。まあ、花巻郊外太田村ではあれだけの大作を制作することが不可能だったためですが、帰京したら帰京したで、ぶつぶつ言いながらも東京の生活も楽しんでいた部分もありますが……。しかし、住民票は本当に身体が動かなくなり、死を予感するようになった昭和30年(1955)まで太田村に残していました。

今日、5月20日は明治19年(1886)に生まれた智恵子134回目の誕生日です。そこで微かに智恵子がらみで。

「ご当地フレーム切手」。全国各地域の記念品として、それぞれの地域内の郵便局限定、JP日本郵便さんのサイトで販売されている切手シートです。昔ほど切手収集家は多くなくなったと思われますが、こうした限定品的なものはまだまだ人気のようです。

先月、下記が青森県内で発売されました。 

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 古屋 正昭)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。
このオリジナル フレーム切手は、青森県十和田市にある十和田湖・奥入瀬渓流の美しい景色を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。


商品名 十和田湖・奥入瀬渓流~四季のひとこま~
販売/受付開始日 2020年4月14日(火)
販売/受付開始日(Web) 2020年4月15日(水)0時15分
申込受付数 1,070シート
販売郵便局
青森県の八戸市、十和田市、三沢市、むつ市、上北郡野辺地町、七戸町、六戸町、横浜町、東北町、六ヶ所村、おいらせ町、下北郡大間町、東通村、風間浦村、佐井村、三戸郡三戸町、五戸町、田子町、南部町、階上町、新郷村の全郵便局(合計113局) ※一部の簡易郵便局でも販売する場合がございます。
商品内容 フレーム切手 1シート 63円切手×5枚、84円切手×5枚
販売価格(税込)1シート 1,275円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。


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光太郎最後の大作にして、智恵子の顔を持つとも言われる「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をあしらった63円切手も含まれまています。

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最初に「こうした限定品的なものはまだまだ人気のようです。」と書きましたが、その通り、すでにJP日本郵便さんのサイトでは売り切れとなっています。当方、手に入ってラッキーでした。同じ「ご当地フレーム切手」でも、なかなか売れないものもあるようですが、ポピュラーな観光地などの美しい景観等を題材にしたものは人気が高いのでしょう。

ちなみに光太郎智恵子がらみの「ご当地フレーム切手」、これまでも何種類かゲットできています。今回同様、「乙女の像」関連で「十和田八幡平国立公園」と「十和田湖畔「乙女の像」建立60 周年記念」(もう1種類「十和田湖・奥入瀬渓流~四季彩~」というのがあるのですが未入手です)、智恵子のふるさと二本松の「あだたら桜回廊」、光太郎が碑文を揮毫した花巻の「雨ニモマケズ」碑をあしらった「宮沢賢治生誕120 年」。


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目白にある切手の博物館さんに行くと、過去の「ご当地フレーム切手」もけっこう販売しています。今後も注意して探してみようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

商人には商人の妻、百姓には百姓の妻、ぼくには智恵子が、一ばんありがたかった。その気持をこめて、智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもえいです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。

対談「自然と芸術」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

この構想が具現化したのが、2年後に制作を始めた「乙女の像」です。ただし、十和田湖は全く想定外で、この頃は智恵子が療養していた九十九里に置きたいという希望でした。

最近手に入れたものシリーズです。

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昭和26年(1951)10月30日、花巻から送られた葉書で、『高村光太郎全集』に漏れていたものです。例によって味わい深い筆跡です。

同便速達第四種で原稿お送りします、
一日で書けるものでありながらその一日が中々得られない次第で遅れました。
        十月卅日


宛先は、「平凡社編集部 関博」。

当日の日記です。

 十月三十日 火
くもり、晴れてくる、 花巻行、 十二時の電車でゆく、平凡社へ電報、郵便局でいろいろ発送、しんばしでうな丼、三時半の電車でかへる、(略)

原稿」とあるのは、この年11月30日発行の『世界美術全集 第25巻 日本Ⅳ』のためのものです。そちらは20年ほど前に現物を手に入れました。

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この中で、光太郎は図版の解説文を4本執筆しています。

まず、長沼守敬の「老夫」(明治33年=1900)。

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続いて、父・光雲の「老猿」(明治26年=1893)。

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親友、荻原守衛の「銀盤(柳敬助像)」(明治43年=1910)。

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同じく、「北條虎吉肖像」(明治42年=1909)。

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『世界美術全集』への同様の寄稿は前年から始まっており、他の巻ではロダン、ミケランジェロ、江戸期の彫刻、エジプト彫刻について執筆しています。

「物書きあるある」として、当方もそうなのですが、自分で書きたくて勝手に書く原稿は、思い立ったらすぐに書くことが多く、それに対し、依頼されて書くものは手を付けるまでに意外と時間を要します。書き始めてさえしまえばけっこう早く書き上がるのですが、書き始めるまでが長いのです。あるいは逆に、そうなることが分かっているので、頼まれたら即書いてしまうとか。物書き全員がそうだというわけではないのでしょうが。

まぁ、この年の光太郎は結核性の肋間神経痛がひどく、ペンを持つのも苦痛で、農作業は思い切って放棄した状態だったので、当方のような単なる怠惰とは違うとも思いますが(笑)。

光太郎、この原稿を送り、電報を打ち、さらに当方が入手した葉書(日記に「いろいろ発送」とあるうちの一つということですね)も送ったわけで、念入りです。

日記に出て来る「しんばし」は、花巻市役所近くに今も健在の食堂です。建物は建て替わっているようです。

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電車」は廃線となった花巻電鉄です。

当方、美術系古書専門店さんの目録から註文し、入手しましたが、他店の目録にも同じ関博宛の葉書(これも『高村光太郎全集』未収録)が出ました。そちらも註文したのですが、抽選に負けたようで、駄目でした。また、1月には『日本古書通信』さん巻末に載っている古書店さんの新入荷品目録に、誰宛か、いつのものかは不明でしたが、やはり「高村光太郎葉書」。これが破格の値段でたったの5,000円。「一桁間違ったんじゃないのか」と思いつつ註文しましたが、こちらも抽選に負けました。

当方、基本的に『高村光太郎全集』未収録のもののみ購入しています。それらを集成して「光太郎遺珠」として世に出しているわけです(5,000円の葉書はもしかすると既知のものだったかも知れませんが、「5,000円ならそれでもいいや」と思って註文しました)。

比較的長命だった上に、筆まめだった光太郎。上記葉書は『高村光太郎全集』からの通しナンバーで3,457通目です(諸般の事情により、通しナンバー外のものが49通ありますが)。しかし、まだまだ書簡類は各地に眠っていることと思われます。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

   ひかりをつつむ  短句揮毫  戦後期?

書簡類と同じように、こうした短句を揮毫した色紙類なども、ぽつりぽつりと市場に出て来たり、「こういうものを持っている」という情報のご提供を受けたりします。既知の詩や散文などの一節を抜き書きしたものでない、オリジナルのものであれば(その見極めが難しいのですが、これについてはまた改めて書きます)、これも「光太郎遺珠」収録対象です。こちらも情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事です。

岩手)高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が戦後、高橋光枝岩手県花巻市の山荘で蟄居(ちっきょ)していた約70年前に、ファンの中学生から来た手紙に返信したはがきが、受け取った本人から同市の高村光太郎記念館に寄贈された。戦争賛美したことへの自責の念から彫刻を封印していたとされる当時の光太郎だが、詩作や彫刻への思いを記しており、心境を伝える貴重な新発見だという。
 「おてがみが こんな山の中へまで来ました」。こんな書き出しで始まるはがきを、寄贈者である神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が受け取ったのは、終戦から5年後の1950(昭和25)年9月のことだ。
 高橋さんは当時、横浜市在住の中学3年生。光太郎の詩集「智恵子抄」のファンで、彫刻展で見た光太郎のセミの彫刻に感激して太田村山口(現花巻市)の光太郎に宛てて手紙を送ったところ、この返信が来たという。

「書いた手紙の内容は忘れたが、お返事をくれた優しさがうれしく、生涯の宝としてずっと大切に保管してきた」と高橋さん。今年8月、親類の法事で岩手県奥州市を訪れた際、約50年ぶりに花巻市の光太郎の山荘を訪れて立派な記念館ができているのに感激し、「わかる人に見てもらいたい」と寄贈の意向を伝え、9月に正式に寄贈した。
 返信のはがきを送った当時の光太郎は、東京大空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁を頼って花巻に疎開、そのまま粗末な山荘に蟄居して5年目だった。戦時中に戦争賛美したことなどを悔いた光太郎は当時、彫刻を封印していたとされるが、はがきには、自作が若い人の心に触れたことに「大変はげまされます」と感謝を伝えたうえで「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居(お)ります」と記しており、彫刻への意欲もうかがえる。
 「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」の制作依頼が来て、光太郎が山荘を離れるのはその2年後。はがきを読んだ光太郎研究者の小山弘明さん(55)=千葉県香取市=は「ファンレター的な手紙に返信した例はほとんどなく、若い世代への期待も見て取れる。山荘時代も手すさびで小さなセミなどを作っていたという目撃談もあり、創作再開への意欲は当時からあった。十和田湖の像の依頼が来る前は、死ぬまで太田村にいるつもりだったことが再確認できるという意味でも貴重な資料だ」と話している。
 はがきは12月7日から来年1月27日まで光太郎記念館で開かれる冬季企画展「光太郎からの手紙」に展示される。(溝口太郎)


花巻高村光太郎記念館さんに、横須賀在住の高橋さんという女性が光太郎から受け取ったはがきを寄贈されたというニュース。

先月、市民講座の講師を仰せつかって花巻を訪れた際、市役所の担当の方から「こういうものの寄贈があったのですが」とコピーを渡され、調査いたしました。当初、消印の年月日ががなかなか判読できず、何年のものかを特定するのに手間取りましたが、光太郎が郵便物等の授受を記録した「通信事項」というノートがあり、昭和25年(1950)9月、確かに高橋さんから手紙を受け取り、返信をしたという記録がありました。

文面は以下の通り。

おてがみがこんな山の中へまで来ました、
小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、
おてがみに感謝します、
この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、


上野で光太郎の木彫「蝉」をご覧になって感動した高橋さんが、光太郎にその気持ちを伝えたことに対する返信だそうです。戦後、光太郎存命中にその作品がまとめて展覧会等に出たのは3回しかなく、そのうち2回は昭和27年(1952)の帰京後。すると、高橋さんがご覧になったのは昭和23年(1948)、上野の東博さんで開催された「近代日本美術綜合展覧会」か、と思いましたが、2年もたっていますし、その際には「蝉」は並びませんでした。となると、やはり東博さんで常設展示のような形で出していたのかもしれません。

若い人達」云々。戦後の光太郎は、若い世代に対して、新生日本を作っていってほしいという期待をかけ、あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行ったりもしていました。そうした気持の一つの表れのような気がします。

最後の一文中の、「この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもり」。昭和25年(1950)当時、光太郎は確かにこう考えていました。昭和27年(1952)に帰京したのは、岩手の山小屋では不可能な「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためで、それが終われば山に帰るつもりでいました。実際、「乙女の像」除幕後の昭和28年(1953)には一度、山に帰ったのですが、健康状態がもはや山での生活に耐えられず、やむなく再上京(それでも住民票は昭和30年=1955まで移しませんでした)、結局、東京で歿することになります。

とまあ、そういったお話も電話取材に対してしたのですが、紙幅の都合でそこまでは載せられなかったようですので、補足します。

というわけで、貴重なはがきのご寄贈、ありがたい限りです。

その他、新聞各紙でやはり光太郎の名が出ているコラム、記事等がまたいろいろありまして、明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

先生方が別に美について説明したり教えたりする必要はない。ただ身体の中に持つていてもらいたいのです。自然にそれがにじみ出してくる。それでいいのです。人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります。

談話筆記「美の日本的源泉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

光太郎が暮らしていた山小屋近くの山口分教場で行われた講話の筆記から。昭和17年(1942)の『婦人公論』に連載した「日本美の源泉」をもとにした連続講話ですが、上記の「あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行った」一つの例です。

それにしても「人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります」。昨今の「ナントカを見る会」の報道に接すると、その通りだなあ、と思います。

一昨日、文京シビックセンターさんでの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を拝見した後、次なる目的地、豊島区目白に向かいました。

目指すは切手の博物館さん。11/3~6の4日間、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されているという情報を得たためでした。

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観覧料200円(安!)を払い、3階の会場へ。

室内に入ると、周囲の壁には、<著名人の切手原画>というわけで、切手のデザインに使われた著名人の肖像画、それから<風景印の中の有名人>という題で、いわゆる「初日カバー」という、その切手の発行日当日の消印が押された封筒が並んでいます。著名人をあしらった切手、そして押されている消印が風景印――地方局などのオリジナル――というわけです。

展示室中央に平台型のガラスケースが配され、そこに<著名人の手紙>というわけで、10通あまりの書簡が展示されていました。敬称略で高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治、棟方志功、岸田劉生、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎、そして光太郎。

拝見に伺う前、、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性があると思っていましたが、今回もまさにその通りでした。

比較的長命だった上、筆まめだった光太郎ゆえ、こういうことがよくあります。以前にも展示会場に行ってみて、これは新発見だ、ということが何度もありました。


今回展示されていたのは、高崎正男という人物に宛てた、昭和21年(1946)3月のハガキでした。高崎正男という人物については明らかに出来ませんでした。『高村光太郎全集』には名前が見えません。画家の長谷川利行のパトロンだった同名の人物が居ましたが、同一人物とは考えにくいところです。というのは、展示されていた葉書が光太郎の短歌をまとめた歌集出版の提案を却下する内容だったためです。

光太郎、郵便物の授受をかなり克明に記録した「通信事項」というノートが現存しており、昭和21年(1946)の項を見ると、3月20日に「高崎正男氏へ返ハカキ」の記述があります。まさに展示されていたハガキです。ところが遡って見ても、高崎からの受信記録がありません。受信の記録がないのに返信の記録だけ、というのも奇妙な話です。

さらに調べてみると、3月18日に「六都書房からテカミ」という記録がありました。「六都書房」という出版社は存在せず、「六都書店」の誤りのようで、ここはこの年に、光太郎とも交流のあった竹内てるよの歌集『永遠の花』を刊行している版元です。短歌をキーワードとして捉えると、高崎はこの六都書店の編集者なのでは、と推定できます。確定ではありませんが。

こういうところで色々と推理を働かせるのも、光太郎研究の醍醐味の一つです。

ちなみにハガキの文面に「先日も、養徳社といふところから同様の事を申してまゐりましたが、やはりお断りしました。」という一節がありました。「養徳社」は奈良に本社を置く出版社で、前年に吉井勇編『現代名歌選』を上梓、光太郎短歌「海にして……」も収録されています。この年2月には、養徳社の喜田聿衛にあて、同書受贈の 礼と、やはり歌集出版申し出に対する断りがしたためられています。こちらは『高村光太郎全集』収録済みです。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。吉井勇さんの「現代名歌選」は忝く拝受しました。

短歌に対する光太郎のスタンスはこういうことでした。

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ところが、翌年には詩人の宮崎稔(智恵子の最期を看取った姪・春子の夫)が、光太郎の承諾を得ず、半ば強引に光太郎の歌集『白斧』を刊行してしまっています。これにはさすがに光太郎も怒ったようですね。


さて、切手の博物館さんでは、今回の展示とリンクした書籍を刊行されました。

著名人の切手と手紙

2016年11月20日 平林健史他編 一般財団法人切手の博物館発行 ㈱郵趣サービス社発売 定価926円+税

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第一章 著名人の手紙
高峰秀子、三船敏郎、大河内傳次郎、森雅之、芥川比呂志、円谷英二、棟方志功、岸田劉生、上村松園、前田青邨、竹内栖鳳、高村光太郎、川端康成、高浜虚子、司馬遼太郎、著名人似顔絵館

第二章 日本うたよみ紀行
宮沢賢治、竹久夢二、夏目漱石、芥川龍之介、岡本かの子、正岡子規、川上音二郎、南方熊楠、白瀬矗、日本切手のなかの著名外国人

第三章 文化人切手ゆかりの地を往く
樋口一葉・森鷗外、九代目団十郎・野口英世、坪内逍遙・木村栄、寺田寅彦・内村鑑三

第四章 切手人名録 著名人226名の横顔
芸能人、文学者、芸術家、学者・思想家ほか、切手に最も多く登場する著名人・前島密、政治家・軍人ほか、アスリート、歴史上の人物(江戸時代以前)

第五章 切手の博物館ガイド

展示されていた光太郎のハガキについても紹介されています。また、光太郎肖像が使われた平成12年(2000)発行の「20世紀デザイン切手」についても。

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同館で販売していますし、Amazonにもアップされていました。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

今にして弱くねぢけしわかき日のおぞのすがたを見ておどろかず

昭和18年(1943) 光太郎61歳

009光太郎の歌集は、上記『白斧』以外にも、遠く大正4年(1915)に与謝野晶子とのセットで刊行されています。

前年に刊行された第一詩集『道程』と同じ版元、抒情詩社からで、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』。

社主で詩人でもあった内藤鋠策が、やはり半ば強引に出版したものですが、光太郎の窮乏を救う意味合いで、売れっ子の晶子とセットにしたそうです。

時を経て昭和18年(1943)、詩人の風間光作から、この旧著にサインを求められ、扉に上記短歌を揮毫しました。

「おぞ」は「おぞましい」の「おぞ」。ただし、「おどろおどろしい」という意味よりは、古語「おぞし」としての「強情だ・気が強い」「ずるがしこい」的なニュアンスではなかろうかと思われます。

気付くのが遅れ、もう始まっています。

切手の博物館開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」

期  日 : 2016年11月3日(木・祝)~11月6日(日) 
会  場 : 切手の博物館 東京都豊島区目白1-4-23
時  間 : 10:30~17:00
料  金 : 大人:200円、小中学生:100円   障がい者の方は無料

著名人たちの直筆の手紙や、切手原画が大集合。名優や大作家、歴史の偉人たちと郵便にまつわる貴重な展示です。

<著名人の切手原画> 著名人の切手原画を展示予定です。所蔵先、郵政博物館。
 野口英世、夏目漱石、福沢諭吉、正岡子規、岡倉天心、宮沢賢治ほか

著名人の手紙>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 映画・・・高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治
 画家・作家・・・棟方志功、岸田劉生、高村光太郎、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎

<風景印の中の有名人>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 石川啄木、福沢諭吉、野口英世、徳川光圀、小野小町、宮本武蔵ほか

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というわけで、光太郎の書簡も展示されているようです。誰に宛てたいつのものかなど、詳細は不明ですが、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性もあります。

4日間だけの開催、もったいないような気がしますが……。

たまたま11/6は、隣接する文京区、文京シビックセンターさんの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を見に行く予定でしたので、こちらにも廻ってみます。

レポートはのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

金あらば金をかへしてあなにやしこんな仕事は止さましものを
大正15年(1926) 光太郎44歳

このところ続けてご紹介してきた「腹が減る」シリーズの亜流ですね。「~ば~まし」は反実仮想。「あなにやし」は「ああ、なんと すばらしいことよ」。

「充分な金さえあれば、もらった金を叩き返し、こんな仕事はやめて、すっきりするものを……」といったところでしょうか。

この頃、俗物と蔑むような成金からの肖像彫刻の依頼があったりし、そのあたりに関わりそうです。

宮沢賢治の生誕120周年記念事業の一環として、日本郵便株式会社東北支社さんから、オリジナルフレーム切手「宮沢賢治生誕120 年」が発売されました。

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82 円切手×10 枚で、うち1枚、光太郎がその碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑をあしらったものが含まれています。

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定価1,500円。一部の簡易郵便局を除く、岩手県奥州市、北上市、花巻市、西和賀町、金ヶ崎町の全郵便局(計70 局)で販売する他、明日からは日本郵便さんのサイトで通販が開始されます。

ぜひお買い求めを。


それから、岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」、21日(日)に、光太郎と親しかった賢治の実弟・清六氏の令孫・宮沢和樹氏によるギャラリートークが開催されました。『毎日新聞』さんで、光太郎にからめて取り上げて下さいました。 

宮沢賢治記念館で40人が聴き入る 弟の孫・和樹さん /岩手

 宮沢賢治記念館では21日、賢治の弟清六さん(1904〜2001年)の孫、宮沢和樹さん(52)が講演会を開いた。生前に清六さんが宮沢さんに語った「雨ニモマケズ」の魅力について、参加した約40人が聴き入った。
 手帳の51〜60ページにある「雨ニモマケズ」の詩。祖父の清六さんは「東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ」から続く54〜57ページが最も大切な部分だと、強調していたという。困っている人がいれば、東西南北どこにでも駆け付けて助けたいと思う、賢治の心が表現されている。
 宮沢さんは「この『行ッテ』が重要なんです」と説明。「賢治は、知識や知恵をもてあそぶのではなく、実際に行動して物事を変えていく姿勢が大事だと考えていた」と解説した。
 清六さんは、花巻に私塾を開設して農民に技術を講義するなどした賢治の人柄を慕っていた。賢治の死後、彫刻家の高村光太郎らと作品の編集に奔走したという。宮沢さんは「周りの支えがあってこそ、今の賢治があることも忘れないでほしい」と話した。【二村祐士朗】


和樹氏、こうした機会には、必ずと言っていいほど光太郎に言及して下さるので、ありがたい限りです。


【折々の歌と句・光太郎】

かの雲を我は好むと書き終へしボオドレエルが酔ひざめの顔
明治42年(1909) 光太郎27歳

「ボオドレエル」は、フランスの詩人、シャルル・ボードレール。光太郎は留学中に詩の心を彼の作品から学んだといいます。

台風9号が通過した関東地方、昨日も激しい夕立がありました。やんだ後に日が差してきたので、虹でも見えるかなと思って自宅兼事務所の一番高い部屋(なんちゃって三階)から東の空を見ると、虹ならぬ彩雲(環水平アーク)が見えました。デジカメで写真も撮ったのですが、色がうまく写りませんでした。残念。

日本郵便東北支社さんから、智恵子の故郷、二本松のオリジナル切手に関するプレスリリースが出ました。 

オリジナル フレーム切手「ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅 あだたら桜回廊」の販売開始

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 本間 幸仁)は、下記のオリジナルフレーム切手の販売を開始します。
このオリジナル フレーム切手は、約4,500 本もの桜が咲き競う「霞ヶ城公園」や福島県緑の文化財に登録されている「合戦場のしだれ桜」など福島県二本松市の桜を題材としたもので、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

1  切手の概要
 名   称
 : ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅 あだたら桜回廊
 販売開始日 : 2016 年4 月1 日(金)
 販 売 数 : 1,200 シート
 販売郵便局 : 福島県福島市 二本松市 本宮市 伊達市 川俣町 桑折町 国見町
         大玉村の全郵便局
 計90 局
         一部の簡易郵便局、震災の影響で営業を休止している郵便局を除きます
 シート構成  :  1 シート 82 円切手×10 枚
 販   価  :  1 シート 1,300 円 シート単位で販売します。

2  切手デザイン 
別紙のとおり 二本松市を代表する桜の名所や、二本松観光協会が主催している「二本松の四季」観光フォトコンテストの入選作品などを切手の題材として選定しました。

3 その他
4月5日(火)から日本郵便株式会社Webサイト郵便局のネットショップでもお取扱いします。
http://www.shop.post.japanpost.jp/)販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

【お客さまのお問い合わせ先】
〔商品内容に関すること〕 
 日本郵便株式会社 東北支社 郵便・物流営業部(物販・広告担当) 022-267-7666
 月~金9:00~17:00(土日祝日を除く)
〔販売に関すること〕上記に記載の「販売郵便局」窓口

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調べてみましたところ、「あだたら桜回廊」シリーズのフレーム切手は、平成22年(2010)からほぼ年1回のペースで発行されていました。

平成24年(2012)に発行された「あだたら桜回廊Ⅲ」では、智恵子の母校・油井小学校の桜が用いられていました。今日の今日まで知りませんでした。

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一昨年に発行されたものから、バックシート(台紙)部分に「ほんとの空に 咲き誇る 桜をめぐり ぶらり旅」のコピー文が入りました。こちらは当方、以前に「二本松の菊人形」を観に行った際に購入しました。

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昨年のものにも同じコピー文。こちらも存じませんでした。

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「ほんとの空」の語が入っているとなると、手に入れなければ気が済みません(笑)。通販等で探してみようと思っております。

皆様もぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

一枝のさくら手折りて肩になどかざすをとめを見ればたふとし

大正10年(1921) 光太郎39歳

駒込林町の光太郎智恵子が暮らしたアトリエに面した本郷保健所通りにも、桜が植わっていたそうです。「ほんとの空」の語が出て来る詩「あどけない話」にも、「桜若葉の間に在るのは、/切つても切れない/むかしなじみのきれいな空だ。」というフレーズがあります。

アトリエ近くの丸善インキ工場で働く女工達を謳った「小娘」、「丸善工場の女工達」という詩が、少し前に書かれています。短歌の「をとめ」は、その辺りなのかな、とも思われます。

今月17日に、以下の切手が発行されました。

特殊切手「日本の山岳シリーズ 第6集」

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日本郵便株式会社(東京都千代田区、代表取締役社長 髙橋 亨)は、日本各地の様々な名山を題材としたシリーズの第6弾として、特殊切手「日本の山岳シリーズ 第6集」を発行します。
今回の切手デザインは、春・夏の山を題材としています。

発行する郵便切手の内容

名  称 日本の山岳シリーズ 第6集
発行日 2015(平成27)年4月17日(金)
種 類 82円郵便切手

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1シート10枚(縦2枚×横5枚) イメージ 4

(1) 利尻山(りしりざん)・北海道 009
(2) 安達太良山(あだたらやま)・福島県
(3) 至仏山(しぶつさん)・群馬県

(4) 白馬三山(しろうまさんざん)・長野県
(5) 立山・富山県
(6) 槍ヶ岳(やりがたけ)・長野県

(7) 八ヶ岳・山梨県
(8) 富士山・山梨県
(9) 北岳・山梨県
(10) 宮之浦岳(みやのうらだけ)・鹿児島県
 シート余白:シバザクラのイメージ
 ※県名は山を撮影した場所です。

売 価 1シート820円
版式刷色 オフセット6色
発行枚数 1,000万枚(100万シート)

切手デザイナー 丸山 智
助言・監修 日本山岳協会顧問(前会長) 田中 文男
写真撮影・提供
 (1) 後藤昌美 (2) 田中正秋 (3)、(7) 縄手英樹 (4) 宮本孝廣 (5) 溝口けんじ  (6) 鈴木克洋
 (8) 西垣良次 (9) 深澤武 (10) 日下田紀三 


販売場所 全国の郵便局等 日本郵便株式会社Webサイト内「切手SHOP」のほか郵便振替による通信販売も行います。


というわけで、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山がデザインされた切手も含まれています。

日本郵便株式会社さんのサイトでの説明は以下の通り。

(2)安達太良山(あだたらやま)・福島県
安達太良山は福島県中北部にある火山です。更新世(約200万年前~約1万年前)末期の火山活動で東斜面に僧悟台(そうごだい)、勢至平(せいしだいら)などの溶岩台地、西斜面に沼の平(ぬまのひら)火口がつくられました。磐梯(ばんだい)朝日国立公園に含まれ、緩やかな山容のため登山・トレッキングに人気があります。

「高村光太郎の詩集『智恵子抄』で有名」の一言が入っていれば、完璧ですね(笑)。

昨日、他の用事もあって郵便局に行った際、購入してきました。皆様もぜひどうぞ。

ちなみに今日は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の命日、碌山忌ということで、上記切手の(6) 槍ヶ岳(やりがたけ)の麓、信州安曇野の碌山美術館さんに行って参ります。今日は全国的に晴れ間が広がるそうなので、上記切手の(7) 八ヶ岳・山梨県 (8) 富士山・山梨県 (9) 北岳・山梨県もよく見えると思います。また、信州の桜もまだ見頃のはず。楽しみです。

碌山忌関連行事は同館において、以下の時間で行われます。

10:30 ミュージアム・トーク
11:00 墓参
13:00~15:00 碌山忌コンサート
15:00 ミュージアム・トーク
15:30~16:50 碌山忌記念講演会 「荻原守衛の書簡をめぐって」 
         講師・仁科惇 信州大学名誉教授 美術史家 当館顧問
17:00~17:35 碌山研究発表    「新井奥邃と荻原守衛」 講師:武井敏 当館学芸員
18:00~ 碌山を偲ぶ会 会場:グズベリーハウス(会費1,000円)


さらに春期企画展ということで、以下も始まりました。

光太郎荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-

会  期:4月21日(火)~5月24日(日) 会期中休館日 4月27日(月)
会  場:第二展示棟

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こちらも楽しみです。010

さらに、毎年、碌山忌に行った際には、この地域にある光太郎と交流のあった人物に関わる美術館、文学館等も訪ねることにしており、今年は下諏訪町の今井邦子文学館に寄ろうと考えています。

詳しくは帰ってからレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月22日

昭和33年(1958)の今日、信州穂高町(現・安曇野市)に碌山美術館が開館しました。

やはり碌山忌に合わせての開館だったのですね。

右はメインの建物の「碌山館」。入り口脇の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、光太郎の名も刻まれています。

戦国武将・最上義光(もがみよしあき)を顕彰する最上義光歴史館さん。平成元年(1989)、義光の居城であった出羽山形城の近くに建てられました。
 
その最上義光歴史館さんで、以下の企画展が開催中です。 
 
期 日 : 平成26年1月16日(木)~平成26年4月6日(日)
会 場 : 最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース
時 間 : 午前9時から午後4時30分まで
休 館 : 月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)
料 金 : 無 料

 
公式サイトより
さあさあお立会い!!今年も山形市民の「宝モノ」を紹介します!!
この展覧会は、山形市民を対象に、所蔵する「宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しました。今年で6回目になります。
宝モノの名前と解説やコメントはすべて出品者にお願いしています!!
自慢の宝モノとそれにまつわる楽しいエピソードをご覧ください!!
 
現在出品中の「宝モノ」たち 件数40件 点数132点 出品者25名 ※宝モノの名称は出品者によります。
「上村松篁画伯干支飾扇」「鞍馬天狗(第1巻~第10巻)」「文政・天保 國郡全圖並大名武鑑」「蔵王高速電鉄(未成線)」「日本遊覧旅行地圖」高村光太郎(詩人・彫刻家)の葉書「縄文土器」「刀剱 脇指(拵付) 丹波守吉道」「刀剱 脇指(拵付) 近江守忠吉」「陸運会社看板」「連歌」「書状 文政年代 嘉永年代」「御手本(嘉永年代)」「集書」「掛軸(堀田備中守像)」「山水図 沈周」「山水図 狩野山楽」「山水図 岡田半江」「山水図 菱田春草」「蓮池図 富岡鉄齋」「壺」「贈答用掛け袱紗」「鶴松・梅・桜それぞれ図」「懐中手信号器」「茶の湯茶碗」「高嶋祥光 木版画」「一期一会」「拓本(中国名山八景)」「風鎮」「読売巨人選手 寄書扇子」「戦後50年メモリアルアルバム シリーズ切手第1~5集のうち 第5集私の選んだ懐かしのスター切手6種及びメロディアルバム(台紙)」「佐藤朝山(号)玄々 軸『仏頭』」「蓄音機2台(大小) SPレコード数枚」「焼き物」「銅製品」「鋳鉄製釣り灯籠」「リモコン怪獣バラゴン」「イコン」「70年前頃の霞城公園南門からの風景(西方向)」「富士山の掛軸」
 
というわけで、光太郎の葉書が展示されているとのこと。『高村光太郎全集』等に未収録の可能性もあると思い、問い合わせてみました。
 
すると、過日、ご丁寧に電話を頂き、光太郎晩年の昭和30年(1955)8月1日付けで、花巻税務署に送った葉書である旨、ご教示いただきました。調べてみましたところ、やはり『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。

また、この日の日記を調べてみると、<第一期納税、中野署へ払ズミ 花巻署へ通知>とありました。まさしくこの花巻署への通知というのが今回展示されているものでしょう。
 
昭和27年(1952)、光太郎は十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、花巻郊外太田村から東京中野に出てきましたが、住民票はそのまま太田村に残していました。そのため税金は太田村に納めていたのですが、もはや健康状態が山での生活を許さず、さらに同29年(1954)には太田村が花巻町などと合併、花巻市となったこともあり、翌30年には中野に転出の手続きをとっています。そのあたりの事情が記されているのでは、と思われます。
 
さて、当方、明後日9日に盛岡てがみ館での企画展「高村光太郎と岩手の人」を観に行くので、明日は山形に寄り、問題の葉書を観てきます。詳しくは帰ってから。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月7日

平成14年(2002)の今日、山梨県増穂町(現・富士川町)の町立文化会館で、「『智恵子抄』を謳う」集いが開催されました。
 
ふじかわ文化倶楽部の主催で、県内若手音楽家が歌と朗読による「智恵子抄」を披露しました。
 
同町高下(たかおり)地区には、昭和17年(1942)、日本文学報国会の企画「日本の母」顕彰のため、光太郎が訪れています。また、それを記念して昭和62年(1987)には、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の短句を刻んだ碑も建立されました。

昨日、お年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されました。まだ家族に来た分は調べておりませんが、当方宛で4枚、4等(下2けた-お年玉切手シート)が当たりました。うち1枚は、花巻の財団法人高村記念会からいただいたもの、2枚は高村光太郎研究会でご一緒させていただいている方々からのものでした。ありがとうございます。
 
お年玉付き年賀はがきといえば、当方、光太郎が出したお年玉付き年賀はがきを1枚所有しています。
 
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 昭和26年(1951)のもので、花巻郊外太田村の山小屋から岩手県立美術工芸学校長だった美術史家の森口多里にあてたものです。ただし、3月10日の日付となっており、年賀状ではなく、あまった年賀はがきを使ったものでしょう。
 
文面は以下の通りです。
 
おてがみにより別封でお祝のことばをお送りいたしました。
今冬は小生肋間神経痛のため外出不能で引籠つてゐますが、昨年は今頃黒沢尻の貴邸で誕生祝のたのしい御馳走をいただいた事を思ひ出します。ああいふことは思ひ出してもたのしいです。
今年はここの炉辺でじつとしてゐる外ありませんが、ビタミンやホルモンのせいだらうと思ふので春になればなほるに違ひないと考へてゐます。
 
お祝のことば」は、『高村光太郎全集』第11巻所収の「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」。このころの日記に関連する記述があります。光太郎は既にこの時点では結核に冒されています(本人は対外的には頑強に否定していましたが)。そのための「肋間神経痛」や「引籠」です。「誕生祝のたのしい御馳走」についても、近年の調査で詳細がわかりました。長くなりますので、いずれ光太郎の誕生日の頃のブログで御紹介します。しかし、3月10日でも「春になれば」と書いているあたり、厳しい北国の環境がうかがえます。
 
調べてみましたところ、初のお年玉付き年賀はがきは、この前年の昭和25年(1950)用として発売されたそうです。当時の1等商品は足踏みミシン。時代を感じますね。
 
ところで、今年の当たり番号を確認していて思ったのですが、年々、賞品は豪華になっているものの、当たる本数が減っているようです。以前は下2けたも3本あったはずですが、今は2本。いつから2本になったのでしょうか?下3けたの当たりがなくなって久しいし、下4けたも以前は2本だったと思いますが、今は1本だけ。豪華賞品でなくてよいので、もっと本数が多く当たってほしいと思うのは当方だけでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】1月21日

明治45年(1912)の今日、大森の料亭富士川で開かれた青鞜社新年会に智恵子も参加しました。
 
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中央・智恵子 右から二人目・平塚らいてう

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