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まず、来週開催されるものから。 

遊友塾 『日本の文学作品を読む』

期 日 : 2020年1月29日(水)
会 場 : 
当仁公民館 福岡市中央区唐人町3丁目1-11
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料
講 師 : 船津正明(元九州大学非常勤講師)

 古文『今昔物語』(池の禅智内供鼻語第二十)  現代文 芥川龍之介『鼻』
 現代詩 高村光太郎『道程』

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光太郎詩の代表作「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さる由、ありがたいところです。


続いて、昨年行われた講座系の報告的な。

千葉県文化振興財団さん発行の『千葉県文化振興財団NEWS』から。 

舞台芸術の前に美術作品を 千葉県文化会館

11月9日(土)、いのはな山秋祭りにて千葉県文化会館美術品散策ツアーを開催しました。いのはな亭、千葉市立郷土博物館と協力して行われ、約40分ほどの行程で、千葉県文化会館内外の彫刻や歌碑、絵画などの作品をご鑑賞いただきました。 普段、なにげなく通り過ぎてしまいがちですが、日本を代表する彫刻家の手による作品や、千葉県の美術界の発展に大きく寄与された方の作品など、価値の高い作品ばかりです。そのひとつ、荻原守衛の「女」という作品は、近代彫刻史上、最高傑作とも言われていて、原型となる石膏像は明治以降の彫刻として初めて重要文化財に指定されました。また、作品の中には、実は悲しき恋の由縁を持っているものもあり、作品を解説する中で、「そうなんだ!」と思わずリアクションをとられた参加者の方もいらっしゃいました。 ツアーの最後には、公共建築百選にも選ばれた千葉県文化会館についての解説も行い、参加者の方々には、美術作品のほかに、建築物の魅力にもふれていただきました。千葉県文化会館の周辺には17点の作品があり、会館の受付にてアートマップも配布しておりますので、ご興味のある方は鑑賞されてみてはいかがでしょうか。

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光太郎ではありませんが、その親友だった碌山荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)が紹介されています。以前にも書きましたが、千葉県文化会館さんや千葉県立図書館さんのある亥鼻山の一角に、「女」が野外展示されています。昭和43年(1968)の建立で、千葉大学さんの教育学部がもともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。

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光太郎の「手」(大正7年=1918)などにしてもそうですが、有名なブロンズ彫刻となると、「うちでも欲しい」ということで、同一の型から鋳造されたものが各地に存在します。「女」も、当方が実際に見た限りでも10点ほどはありました。

意外と皆さんの身近にもあるかも知れません。そうしたものの価値を、やはり各地域でしっかり受け止めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

僕は仏蘭西へ来て、世界で最も進んだ国はフランスだといふ事を了解した。人間の如何にしても行かざるべからざる地に、他国よりは一歩先じて行つて居る。よくフランスを堕落した国、退歩した国といふ人があるが、此れ皮相の観察であると思はれる。
散文「巴里より――荻原守衛への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

その荻原へ宛てた手紙、ということで雑誌『新声』に発表されました。手紙そのままなのか、手が入っているのか、そこは判然としません。

本日午後6時から、当会顧問にして、生前の光太郎に親炙された、北川太一先生のお通夜が、文京区向丘の浄心寺さんにて行われます。ご葬儀は明日です。一昨日、昨日と、その関連の内容でこのブログを書きましたが、そうしている間にも、注文しておいた光太郎がらみの記事が載った雑誌が届いたり、光太郎にも関わる新たなニュースが出たり、今年行われる光太郎に関する某美術館さんの企画展示に関する連絡のメールが来たりと、世間は普通に動いています。

「僕のことはいいから、そのあたりを紹介しなさい。あなたはあなたの仕事をするように」と、北川先生のお声が聞こえてくるようで、そうさせていただきます。お通夜、ご葬儀については、終わりましてから、また。

さて、注文しておいた雑誌。 

月刊致知 2020年2月号

2020年1月1日(水) 致知出版社 定価1,100円


存じ上げない方ですが、国際コミュニオン学会名誉会長・鈴木秀子氏という方が、「人生を照らす言葉」と題する連載で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さっています。

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他に、三好達治の「雪」、永井荷風のこれもまた「雪」、それから堀口大学の「葦」という詩も紹介され、最後の締めに「道程」です。

鈴木氏曰く

人それぞれいろいろな生き方があるにせよ、その後ろでは大きな力が働いて見守ってくれている。そして進むべき道を整えてくれている。そういう存在に深い信頼を置いて力強く人生を歩んでいけたら、こんなに安心な事はありません。

なるほど。

見守ってくれ、道を教えてくれる大きな力、亡くなった北川先生にとっては、ご自身が親炙された光太郎がそうだったのでしょう。光太郎が亡くなってから生まれた当方は、光太郎自身というより、北川先生がそういう存在だなのだと、勝手に思い定めております。

さて、『月刊致知』さん。正規ルートで入手しようとすると、定期購読せねばなりません。そこで当方、いつもの闇ルート(笑)。ネットオークションで手に入れました。ご参考までに。


【折々のことば・光太郎】

此人が自己の魂から遊離した詩を決して書かない詩人だといふ事を感じました。
散文「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

基本的に、光太郎自身もそうでした。戦時の熱に浮かされた如き空虚な翼賛詩オンパレードの時期を除いて、ですが。

田中清一は明治33年(1900)生まれの詩人です。自身で詩神社という出版社も経営していました。

岡山市に本社を置く地方紙『山陽新聞』さん。昨日の一面コラムで光太郎を取り上げて下さいました。 

滴一滴

高村光太郎の「冬が来た」(詩集「道程」)は凛(りん)としてすがすがしい。〈きりきりともみ込むやうな冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉▼そして続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。立ち向かう強い意志。寒い、寒いと縮こまるわが身に熱い芯が通りそうである▼嫌がられる冬ではあるが、ただ厳しい寒さがなければ春の生命の躍動もない。桜が夏に花芽をつくって休眠し、冬の寒さで目覚める「休眠打破」はよく知られる▼同様に、秋にサナギとなったアゲハチョウが羽化するには、休眠して冬の寒さを経験する必要があるという。地面に葉が放射状にはりつく「ロゼット」状態で北風をやりすごすタンポポなども、震えているように見えて実はせっせと内部に養分を蓄えて春を待つ▼逆境やつらい時期はいつまでも続かない。「冬来たりなば春遠からじ」の言葉通り、やがては春を迎える大切な準備期間である。そう思えば最後のひと踏ん張り。今月半ばには大学入試センター試験が始まり、受験シーズンはいよいよ本番入りする▼きょうは寒の入りの「小寒」。7日は七草がゆの「人日の節句」。若菜の生命力をいただき成就を願う家庭もあるだろう。ほのかな野の香りや緑が、もうすぐだよと言ってくれそうである。


引用されている「冬が来た」は、大正2年(1913)12月の作です。

   冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
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きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た



画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカード。写っている建物は、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした山小屋(高村山荘)です。ただし、小屋はむき出しではなく、中尊寺さんの金色堂のように、建物全体にカバーのような套屋(とうおく)をかぶせてあり、外から見えるのは套屋です。それも近在の農家の納屋風に設計したということで、レトロな感じが醸し出されています。

この季節に何度かお邪魔しましたが、ちょうど今頃はこんな感じなのではないかと思います(今シーズンは雪が少ないやに聞いていますが)。光太郎も「冬が来た」を書いた大正年代には、まさか後に岩手の山懐でこんな暮らしをすることになるとは思っていなかったことでしょう。もっとも、明治末には北海道移住を企てたりしていたのですが。

「滴一滴」子さん、話の展開が巧みですね。枕に光太郎詩を使い、チョウやらタンポポやらの自然界に話題を広げ、冬の寒さが無いと実は駄目なんだ、と。そこまで読んで、この後、人生訓に行くかな、と思ったらその通りでした。この手の文章のお手本のような見事な構成です。

光太郎も、その74年の生涯に於いて、何度も厳しい「冬」の時代を経て生きていました。「冬」のような厳しい状況に、時に自分の意志と関係なく見舞われたり、時に自らそうした状況を選び取ったり……。

欧米留学で最先端の芸術を見聞きして帰朝した青年期には、旧態依然の日本美術界(そのピラミッドの一つの頂点に、父・光雲が居ました)との対立を余儀なくされ、壮年期を迎えると、妻・智恵子の心の病、そして、死。老年期に入る頃には泥沼の戦争に歯車として荷担することになります。そして戦後、上記画像のような環境に身を置き、自分自身の来し方と向き合う日々……。

そうした峻烈な「冬」を何度も体験したからこそ、光太郎芸術は磨かれていったのでしょう。

比較的温暖な房総の地に暮らし、それでも寒い寒いと騒いでいるのが、ある意味、申し訳ないような気もします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

峯あり谿あり河あり、山巓に日はかがやき、山峡に雲は湧く。人その間に住み、つぶさに隠密な人情の深みに生きる。

散文「山田岩三郎詩集『国の紋章』序」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


結局、自然と人間の付き合いは、そういうことなのでしょう。

元日の『中日新聞』さん。一面コラムで、当会の祖・草野心平に触れて下さいました。 

中日春秋

 冷たい風に葉を落とされた木々も近づいてみれば、新たな芽が001枝先に生まれていて生命の気が伝わる。冬芽の時節である。柔毛に覆われたモクレン、丸みを帯びたハナミズキ…。花の姿を思ってながめるのは季節のちょっとした楽しみでもある
▼あけましておめでとうございます。俗説に「めでたい」の語源は「芽出たし」といわれ、「芽出度(めでた)し」などと当てられてきた。寒さの中でその身を小さく、固くしつつ、花や葉となるのを待つ冬芽は、一年の吉事を願う正月の「めでたさ」に通じていようか
▼人の営みは、相変わらず先行きおぼつかないけれど、めでたさをいつにも増して覚えるのは五輪という花を咲かせる冬芽がそこにあるからであろう。東京五輪とパラリンピックが迫っている
▼「勇気と夢と青春の年」。前回の東京五輪があった年、元日の新聞に詩人草野心平が、そう題した詩を寄せている。<新鮮で若いエネルギーがこの秋/極東の島に集ってくる…よき哉(かな)/一九六四年>。青春期のまっただ中にある若い国の熱が伝わる
▼再び東京に五輪を迎える日本は青春期をとうに過ぎ、枯れたと思える時季も経験している。どんな花になるだろうか。派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい
▼<真直(まっす)ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり>金箱戈止夫。冬芽の成長を思う二度目の青春の年である。


オリンピックイヤーということで、各種マスコミ、やはり五輪関連の話題が目立ちます。「派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい」そのとおりですね。

ちなみに最初に触れられているハナミズキ。自宅兼事務所の庭ではこんな感じです。キノコではありません(笑)。

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モクレンは自宅兼事務所には植えていませんで、代わりに……。

当会の象徴、連翹(レンギョウ)。元々、光太郎終焉の地、中野アトリエの庭に咲き、光太郎がそれを愛(め)で(ちなみに「中日春秋」子さん、俗説ということで「めでたし」=「芽出たし」説を紹介されていますが、俗説ではない一般的な解釈は古語の「愛でたし」が由来です)、昭和31年(1956)の葬儀には棺の上に置かれたコップに一枝が挿された、その連翹から株分けしたものです。

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その際に、弔辞として詩の朗読をしたのが、やはり心平でした。

こちらはミモザ。近々花が咲き始めます。

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桜も芽がふくらんできました。

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春遠からじ、ですね。

春になる頃、第64回連翹忌(4月2日(木))のご案内を致します。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

この些かの飾り気をも持たぬ詩人の心が、同じく妻を失つた悲しみのまだ消えやらぬ私の心をうつ。悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである。

散文「伊波南哲詩集『麗しき国土』序」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳


伊波は石垣島出身の詩人。『麗しき国土』は、基本、翼賛詩集ですが、光太郎同様、妻に先立たれ、亡き妻への思いを謳った詩篇も含まれるため、このような一節が含まれています。

逆に言うと、伊波は『智恵子抄』を念頭に置いていたのではないでしょうか。


さらに言うなら、上記光太郎葬儀で詩を朗読した心平も、「悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである」的なことを考えていたような気がします。

当会顧問・北川太一先生のご著書など、光太郎がらみの出版物を数多く手がけられている文治堂書店さん。そちらのPR誌2種が届きました。

まず、PR誌というより同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第9号。


拙稿が「連翹忌通信」の題で連載されております。かつてこのブログに書いたことをもとに、その後の調査等によって新たに判明した点などを踏まえて、さらにふくらませています。

それから、今号には詩人の佐相憲一氏による書評「野沢一「木葉童子」復刻版に寄せて 木葉童子がいま 微笑んだ」が掲載されています。野沢一は、光太郎と交流のあった詩人。山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その野沢生前唯一の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)の復刻版が、佐相氏と縁の深いコールサック社さんから昨年刊行され、その関係です。ちなみに同書はかつて文治堂さんでも2回、復刻版を出しています。


それから、PR誌というか、パンフレットというか、おそらく月報のように、販売する書籍に挟み込む広告的な冊子だと思うのですが、『トンボの眼玉』という題名の無綴のもの。

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今年4月に刊行された北川太一先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』の宣伝になっています。

やはり今年、『高村光太郎の戦後』を青土社さんから上梓された中村稔氏、吉本に詳しい評論家の久保隆氏、同じく芹沢俊介氏の玉稿、そしてこちらにも拙稿が載っています。

なぜここにそういうものを載せる必要があるのか、今ひとつ理解に苦しんだのですが、文治堂さんからの指示で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』全21巻別巻1の刊行終了後に見つかった光太郎文筆作品(「光太郎遺珠」として当方がまとめ続けています)の一覧表。

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010「『高村光太郎全集』未収録作品集成」という題にしました。

詩が1篇、短歌11首、俳句で6句、散文は50篇くらいでしょうか。それから翻訳も3篇、新聞記事等に附された短い談話などの「雑纂」が30篇ほど。アンケートも多く10数篇、対談・座談が4篇、色紙等に揮毫した短句も10数篇。

それから文筆作品以外にも、他人の著書の題字揮毫や装幀が8点、絵画が4点。さらに書簡は新たに200名近くの人物に送った400通ほどが見つかっています。

さらに、『高村光太郎全集』刊行の時点で、初出掲載紙等が不明・不詳だったのが判明したものなどについても載せました。

画像、クリックで拡大します。

まぁ、『全集』刊行終了から20年。ここらで一覧表的にまとめておくのもいいかな、と思い、引き受けました。

ご入用の方は、文治堂さんまでご連絡を。


【折々のことば・光太郎】

いささかの詩的まぎらしや、やけな自己放漫無くはつきり、まともに現実に対する此のやうなギリギリな魂の眼を持ち、又其に相当する表現を平気でする勇気のある人の居てくれる事は心強い。

散文「てるよさんの詩をよんで――詩集『叛く』について――」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

「てるよさん」は竹内てるよ。女流としては光太郎が最も高く評価し、交流の深かった詩人です。 

昨日に引き続き、雑誌系のご紹介をと思っていましたが、開催中の企画展示の情報が入ってきましたので、そちらを。


まず状況をわかりやすくするため、『朝日新聞』さんの京都版の記事。 

京都)戦時中のプロパガンダを紹介 中京区で28日まで

 戦時中の国威高揚のためのポスターや雑誌を展示した「戦争プロパガンダ展」が、京都市中京区壬生馬場町のおもちゃ映画ミュージアムで開かれている。元高校教諭の河田隆史さん(60)=大阪府高槻市=が、歴史の授業で使う平和教育の教材として約30年かけて集めたものだ。28日まで。
 国が発行していた週刊誌「写真週報」やアサヒグラフ(朝日新聞社発行、2000年休刊)、国の情報局などが作製したポスター(複製品)、国策宣伝のための映画作品のDVDなど約100点が展示されている。詩人・高村光太郎が詩を寄せている記事も紹介し、文学者を含む芸術家も戦争協力をしていた様子を伝える。河田さんは「国も民間も危機感をあおって、日本全体で戦争反対と言えない雰囲気をつくっていたことが分かる」と解説する。
 河田さんは現代も似た風潮を感じるという。「SNSでは自分が好む情報しか入ってこないし、世の中に反対意見は許さないという空気が漂っている。戦争はだめだというのは簡単だが、どうやったら本当に防げるのかを考えるきっかけになれば」と話している。
 午前10時半~午後5時。24日休館。入館料一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。問い合わせは同ミュージアム(075・803・0033)へ。(向井大輔)


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調べてみましたところ、詳細は以下の通りでした。 

戦争プロパガンダ展 ポスター・雑誌・映画

期  日 : 2019年12月4日(水)~12月28日(土)
会  場 : 
おもちゃ映画ミュージアム 京都市中京区壬生馬場町29-1
時  間 : 10:30~17:00
料  金 : 一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。
休館日 : 月曜、火曜


12月8日は太平洋戦争開戦記念日です。1941(昭和16)年12月8日早朝、日本軍がハワイのオワフ島真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年半に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発しました。それから、日本が辿った歴史はよくご存じだと思います。
この記念日に合わせて、再び同じ過ちを繰り返すことがないよう、当団体理事でもある河田隆史さんのご協力で、「戦争プロパガンダ展」をします。


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似たような趣旨で開催されたのが、平成26年(2014)の「ヨコハマトリエンナーレ2014」中の「大谷芳久コレクション」。こちらは光太郎を含む10名ほどの有名詩人の翼賛詩集、多数の詩人達による翼賛詩アンソロジーなどが出品されました。

今回はポスターなどが多数出ているということで、ヴィジュアル的に非常なインパクトがありますね。この時代を批判するのはたやすいのですが、単に批判するだけでなく、なぜそうなってしまったのかを考える一助としたいものです。この時代をこそ範とするような輩が政権中枢に居座っている現在こそ、必要なことだと思われます。

光太郎がらみは具体的に何が出ているのかわかりませんが、光太郎は生涯に書いた詩およそ700篇中の200篇弱が翼賛詩といえるものですし(何を以て翼賛詩とするかの基準にも左右されますが)、生涯に刊行した詩集6冊(選詩集的なものを除きます)のうち、半数の3冊が翼賛詩集でした。詩以外でも、講演や散文などで国民を煽る発言のオンパレード。そういう意味では光太郎の翼賛活動に関わる展示物、いくらでも存在します。

そうした負の遺産も、次代への教訓、反面教師としての役割という点では、ひた隠しにされるべきものではありません。一部の詩人については、取り巻きや後の時代の狂信的なファンが「あれはなかったことにしよう」と隠蔽する動きがあるのですが……。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私はあまりほめたりけなしたりするのを重要に思はない。ただ事実だけを見る。
散文「佐野嶽夫『棕梠の木』序」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「ただ事実だけを見る」。意外と難しいことですね。

ネット検索でヒットしました。 

2019年度第4回開架フロア展示『元号ごとの有名作品』

期  日 : 2019年12月1日(日)~2020年2月29日(土)
場  所 : 
法政大学市ヶ谷図書館 東京都千代田区富士見2-17-1
休館日 : 12/27~1/4 1/18・19 2/8・9・11・14・16

2019年度第4回開架フロア展示のテーマは、『元号ごとの有名作品』です。
明治から平成までのそれぞれの時代を代表する日本の作品を揃えました。
令和元年の暮れに過去の有名作品に親しんでみてはいかがでしょうか。
展示場所は、市ケ谷図書館1F開架フロア、ブックトラックです。ご来館をお待ちしています。



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昭和の部に光太郎の『智恵子抄』を入れて下さいました。ありがとうございます。新潮文庫版での展示となっているようです。その他の作品等、上記リスト画像、クリックすると拡大表示されます。

少し前にも書きましたが、新潮文庫版『智恵子抄』、令和に入っても増刷されています。このまま絶版ということがないよう、末永く愛され続けて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

かかる純粋な詩人が自国から生れたといふ事が弘く明かにされるのはわれわれのよろこびである。

散文「『萩原朔太郎全集』推薦文」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎は朔太郎に関してそう述べていますが、当方など、光太郎に関してそういいたいところです(笑)。

朗読CDのシリーズもの、新しくリリースされました。 

【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作

2019年12月10日 株式会社トゥーヴァージンズ CD13枚組 定価27,000円+税

本商品は、芥川龍之介『羅生門』や太宰治『走れメロス』、夏目漱石『夢十夜』といった誰もが知る文豪の名作中の名作を収録した総収録時間約823分、全13巻の完全新規朗読の保存版CD集。

風間杜夫さん、寺田農さん、長塚京三さん、橋爪功さん、広瀬修子さん(50音順)の豪華名優と文化人が語り手として熱演。それぞれの語りが作品を彩り、物語の情景が自然と浮かんできます。

耳から聴くことでより作品の理解も深まり、改めて作品の素晴らしさに気付くと同時に、また読んだことのない作品でも朗読者の声のみが収録されているので息遣いや間の取り方などが感じられ、より物語の世界へ入り込むことができます。

日本近代文学作品の名作の中から文豪、俳人の短編を選り抜きました。

CD13枚、全21作品を収録し、詩集2作品(『若菜集』と『智恵子抄』)で一部の詩を割愛した以外、小説19作品はすべて原文全てを朗読しております。また、特製の小冊子には作品解説の他、朗読者の方々のコメントも掲載。

日本近代文学史に残る文豪の名作が今、朗読で甦ります。朗読で味わう物語の世界を是非お楽しみ下さい。


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CD全13巻(総収録時間約823分) 特製冊子(P92)、特製ケース

第1巻 「夢十夜」 夏目漱石(70:11) 朗読・寺田農
第2巻 「高瀬舟/寒山拾得」 森鷗外(59:47) 
朗読・長塚京三
第3巻 「刺青」 谷崎潤一郎(25:19) 朗読・寺田農
第4巻 「秘密」 谷崎潤一郎(59:02) 朗読・寺田農
第5巻 「蜘蛛の糸/杜子春/羅生門」 芥川龍之介(74:31) 朗読・橋爪功
第6巻 「十三夜」 樋口一葉(56:46)
  朗読・広瀬修子
第7巻 「山月記/名人伝/牛人」 中島敦(77:08) 朗読・橋爪功
第8巻 「檸檬/ある崖上の感情」 梶井基次郎(60:03) 朗読・長塚京三
第9巻 「注文の多い料理店/セロ弾きのゴーシュ」 宮沢賢治(61:48) 朗読・風間杜夫
第10巻 「人間椅子」 江戸川乱歩(68:53) 朗読・橋爪功
第11巻 「走れメロス/桜桃」 太宰治(59:28) 朗読・風間杜夫
第12巻 「若菜集」より 島崎藤村(77:10) 朗読・広瀬修子
第13巻 「智恵子抄」より 高村光太郎(73:15) 朗読・寺田農


というわけで、俳優・寺田農さんによる「智恵子抄」朗読がラインナップに入っています。

寺田さん、平成6年(1994)にクレオハウスという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」という作品で、ナレーション、朗読を務められていました。

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およそ25年ぶりの「智恵子抄」。どんな感じなのだろうと思います。


ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

百パーセントの童心。此は学んで得られるところではない。

散文「非凡の詩的偉観」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

朋友・北原白秋を評する中での一節です。同じ文章では、白秋をして「巨大に成長し、微細に鍛錬せられた稀代の童子」とも定義しています。自らには欠けていたそうした部分で、光太郎は白秋を高く評価していました。

山口県の中原中也記念館さんで開催中の開館25周年記念展(文学表現の可能性 後期)「清家雪子展――『月に吠えらんねえ』の世界」等について、報道がなされ、光太郎にも触れられていますのでご紹介します。

まず、地方紙『中国新聞』さん。 

中也の詩、漫画と共により深く

中原中也たち日本近代の詩人の詩をモチーフにした漫画「月に吠(ほ)えらんねえ」を詩と共に紹介する企画展が山口市湯田温泉の中原中也記念館で開かれている。来年4月12日まで。 漫画の登場人物「チューヤ」(中也)や「朔」(萩原朔太郎)たち8人のモデルとなった人物の詩集や作品が載った雑誌など28点を展示。漫画のワンシーンや扉絵をパネルで紹介し、基になった詩との関連性を説明している。戦争と文学との関連もテーマの一つで、「コタロー」(高村光太郎)や「白」(北原白秋)の戦時中の愛国詩や苦悩なども解説する。  「月に吠えらんねえ」は「月刊アフタヌーン」で9月号で完結。(以下略)

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続いて、tysテレビ山口さんのローカルニュースから。「清家雪子展」以外に、『山羊の歌』に関してがメインですが、やはり光太郎にからみます。 

中也初の詩集「山羊の歌」

12月10日は85年前に山口市出身の詩人、中原中也の初めての詩集「山羊の歌」が出版された日です。ふるさとの記念館では中也の署名入りの初版本が期間限定で展示されています。中原中也の初めての詩集「山羊の歌」は1934年、12月10日に200部が出版されました。展示は中也が友人の高森文夫に宛てて署名を書き入れたもので、特に貴重とされています。装丁は詩人で彫刻家の高村光太郎によるものです。中也は出版直後に東京から山口に戻り、長男の文也に初めて対面したことを書き残しています。30年の短い人生で、最も充実した時期だったことがうかがえます。会場では中也をキャラクターにした漫画、「月に吠えらんねえ」を紹介する企画展も行われています。「山羊の歌」署名入り初版本は、今月15日まで山口市の中原中也記念館で展示されています。
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『山羊の歌』、装幀を手がけた光太郎宛の署名本もあったと考えられます。しかし、それがあったとしても、昭和20年(1945)4月の空襲で、駒込林町のアトリエもろとも灰になったのでしょう。もし何処かに残っているとしたら、誰かに貸すかしていて奇跡的に難を逃れた、というところですか。それもほとんどあり得ない確率ですが。そんなネタで短編小説が一本書けそうです(笑)。

さて、中原中也記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。

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【折々のことば・光太郎】

秀抜な此の若さは果断である。進歩、弾力、将来性を語る。

散文「黄秀才の首」より
 昭和5年(1930) 光太郎48歳


「黄秀才」は黄瀛。光太郎と交流の深かった詩人です。中也にしてもそうですが、光太郎、若い世代の有望な詩人に対しては讃辞を惜しみませんでした。

右は光太郎の手になる黄瀛肖像彫刻。これもおそらく戦災で焼失してしまいました。

花巻高村光太郎記念館さんも参加している「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」。花巻市内5つの文化施設で統一テーマの元に行われる共同企画展です。高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」という展示が行われています。

以前にもご紹介しましたが、参加館五つのうちのひとつ、花巻市総合文化財センターさんでの展示「ぶどう作りにかけた人々―北上山地はボルドーに似たり―」でも、光太郎がらみの展示が為されています。 

ぶどう作りにかけた人々―北上山地はボルドーに似たり―

 日 : 2019年12月7日(土)~2020年2月2日(日)
会 場 : 花巻市総合文化財センター  岩手県花巻市大迫町大迫3-39-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 一般 200円 小中学生 100円
休館日 : 12月28日~1月3日


大迫地域の「ぶどう作り」は、昭和22年のカスリン台風、同23年のアイオン台風の被害による復興施策をきっかけとし、当時の県知事・国分謙吉の勧めにより動き出しました。国分謙吉が「北上山地はボルドーに似たり」と語って勧めた「ぶどう作り」は70年を経過し、今では、地域の代表的な産業となっています。また、「ワイン造り」という大きな実りにも繋がりました。その取り組みの様子を、国分謙吉や村田柴太などの先人とともに辿り、「ぶどう作り」と「ワイン造り」の歩みについて展示・紹介します。

展示構成
(1)大迫の風土と産業
大迫の歴史・地理的な特徴などから、「ぶどう作り」以前の主な産業である馬産、養蚕、葉タバコの生産について紹介します。
(2)台風の襲来
戦後間もない1947(昭和22)年とその翌年のカスリン・アイオン台風による大迫地域の被害の様子をたどります。
(3)ぶどう栽培の夢
1947(昭和22)年秋、当時岩手県知事だった国分謙吉は大迫地区の有志を前にぶどう栽培を力説しました。そこから岩手県立農業試験場大迫葡萄試験地の設置し、ぶどう栽培の夢は始まりました。
(4)ワインの誕生
大迫のぶどうは1951(昭和26)年に初出荷を迎えました。そして、1962(昭和37)年9月、念願のワインが誕生します。
(5)新しいぶどうとワインへ
大迫ぶどうは、大粒品種の栽培やワイン専用種の栽培へと飛躍しました。「ぶどう作り」と「ワイン作り」の現在について紹介します。

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戦後、初の民選知事だった国分謙吉が大きく取り上げられ、その関係で、国分と交流のあった光太郎にも言及されています。

ちなみに民選知事、というと、青森県では、光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼した津島文治(太宰治の実兄)がそうでした。

過日、同館の方からメールを頂きまして、展示風景画像やキャプション、配付資料等につき、添付ファイルがありました。

展示の様子。

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国分と光太郎に関するキャプション。


昭和25年(1950)、国分と光太郎の対談が行われ、翌年の『朝日新聞』岩手版に掲載されたという情報を提供したのですが、そのあたりを紹介して下さっています。

それから、国分と交流があり、ぶどう作りに貢献した高橋繁造旧蔵の光太郎資料。

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詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の、光太郎自筆草稿を印刷したもので、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されました。これについてもどういうものなのかをレファレンスさせていただきました。

その他の展示リスト。

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高村光太郎記念館さんの「光太郎からの手紙」と併せ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は彼の顔を憶ふ度に素朴日本の顔を見る思がする。彼こそ天成の民族詩人であると言へよう。
散文「素朴日本の顔――『牧水全集に』――」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

確かに奇を衒わない牧水の短歌には、光太郎詩にも通じるところがあるような気がします。

新刊紹介です。 

恥ずかしながら、詩歌が好きです 近現代詩を味わい、学ぶ

2019年11月30日 長山靖生著 光文社(光文社新書) 定価940円+税

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今どき「詩歌が好きです」と告白するのはかなり恥ずかしい。勇気がいります。殊におじさんにとってはカミングアウトに近い。しかし、詩を口ずさみたくなるのは若者だけではないのです。歳を重ねているからこそ、若々しい詩も、達観した歌も、共にわがこととして胸に沁みるのではないか――。
評論家として数々の受賞歴もある著者が、ついに詩歌好きをカミングアウト。近現代詩歌を時代順に引きながら、喜びや悲しみを、詩人たちの実人生と共にしみじみと味わいます。現代日本語や時代を作ってきた詩人たちの心のやりとり、生き様に注目!


長山靖生(ながやまやすお)
1962年茨城県生まれ。評論家。歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。歯科医のかたわら、執筆活動を行なう。主に明治から戦前までの文芸作品や科学者などの著作を、新たな視点で読み直す論評を一貫して行なっている。1996年、『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学研究賞受賞。2010年、『日本SF精神史』(河出ブックス)で第41回星雲賞、第31回日本SF大賞を受賞。2019年、『日本SF精神史【完全版】』(河出書房新社)で第72回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)受賞。主な著書に『「人間嫌い」の言い分』『不勉強が身にしみる』(以上、光文社新書)、『人はなぜ歴史を偽造するのか』(光文社知恵の森文庫)、『鷗外のオカルト、漱石の科学』(新潮社)、『「吾輩は猫である」の謎』(文春新書)、『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書)、『千里眼事件』(平凡社新書)など多数。


目次


 はじめに
 第一章 大食いは師友の絆
   ――正岡子規、伊藤左千夫、長塚節――
 第二章 日清・日露の戦争詩
   ――与謝野鉄幹、夏目漱石、森鷗外、大塚楠緒子、与謝野晶子、乃木希典――
 第三章 江戸趣味と西洋憧憬
   ――上田敏、北原白秋、木下杢太郎、佐藤春夫、萩原朔太郎――
 第四章 酒のつまみは何ですか
   ――吉井勇、若山牧水、中村憲吉、萩原朔太郎、中原中也――
 第五章 詩歌と革命
   ――石川啄木、百田宗治、萩原恭次郎、小熊秀雄――
 第六章 恋する詩人たち
   ――与謝野鉄幹、与謝野晶子、北原白秋、片山廣子、芥川龍之介――
 第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界
   ――萩原朔太郎、高村光太郎、山村暮鳥、千家元麿、三好達治、佐藤惣之助――

 第八章 抒情派の季節、あるいはロマネスクすぎる詩人たち
   ――中原中也、立原道造、堀辰雄――
 第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌
   ――北原白秋、三好達治、高村光太郎、折口信夫――

 第十章 戦中戦後食糧事情 
   ――斎藤茂吉、山之口貘、片山廣子――
 あとがき


一般向けの近代詩歌史概論です。平易な語り口で書かれ、読みやすいのが特徴ですが、押さえるべきポイントはしっかり押さえられ、また、「流れ」として明治―大正―昭和戦後を捉えるかたわら、時に時系列を超えて謳われている対象によっての概括を図ったりもし、工夫に富んでいます。取り上げられている詩歌人が、一般には有名どころばかりでないのも好感が持てるところです。また、上記目次には名がありませんが、宮澤賢治、安斎冬衛、日夏耿之介、田山花袋らにも触れられています。さらに、目次に光太郎の名がない章にも、光太郎が登場します。

光太郎が大きく取り上げられているのは、まず「第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界」。生涯最後の詩の一つ「生命の大河」(昭和30年=1955)が引用されています。翌年元日の『読売新聞』に発表された長詩ですが、原子力の平和利用的な部分もある詩で、長山氏、その部分に注目されています。

007 (2) 科学ほ後退をゆるさない。
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。


この一節に関しての長山氏の評が以下のとおり。

 原発問題で「けっきょく金だろ」みたいな下品な本音を露呈するエライ人は心を入れ替え、せめてこれくらいの品位ある言葉を使って、正々堂々と「科学が拓く未来」を語って欲しいものです。
 原発は反対派・推進派の双方がこれらの詩句に学んで、礼節と品格と機知のある言葉で応酬してくれれば、少なくとも耳の生活環境は向上します。だからといって両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが(光太郎の詩はアイロニーです。念のため)。

「生命の大河」が「アイロニー」とする部分には疑念を感じます。同時期の他の詩を併せて読むと、ある意味、光太郎、原子力による明るい未来、的な部分を信じていたふしがあります(無邪気に、というわけでもなかったようですが)。これは当時の世相がそうだったわけで(だから「鉄腕アトム」ですし、アトムの妹は「ウラン」ちゃんです)、一人光太郎をのみ批判するには当たらないとは思いますが、それにしても光太郎の社会認識の不得手さ(戦時にしてもそうでしたが、安易に流される部分)が見て取れます。

しかし、「品位ある言葉」云々は、その通りですね。ところが、今年発覚したF県T町と電力会社のズブズブの癒着問題などにふれると、やはり「原子力ムラ」の連中には「正々堂々と「科学が拓く未来」を語」ることはできないのでは、と思わされます。長山氏もそうした思いから「両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが」としているような気がします(違っていたらごめんなさい)。

逆に当方が心配するのは、「原子力村」の連中が「生命の大河」の上記の一節を持ち出し、「かの高村光太郎もこう語っているから、原発を推進しよう」と、プロパガンダに悪用しないかということです。まるで戦時中の翼賛詩のように、です。もっとも、品格に欠ける輩は、詩歌など読みませんか(笑)。

「翼賛詩」といえば、本書の「第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌」で、やはり光太郎詩が取り上げられています。

取り上げられている翼賛詩は、昭和16年(1941)の「十二月八日」、「新しき日に」、翌年の「沈思せよ蒋先生」、「」シンガポール陥落」、「夜を寝ざりし暁に書く」、「特別攻撃隊の方々に」、同18年(1943)の「ぼくも飛ぶ」。

長山氏、公平公正な観点から当時の光太郎を評して下さっています。曰く、

 高村光太郎は、この戦争は東アジア太平洋地域を欧米の植民地支配から解放する聖戦だというスローガンを単純に信じたのでした。
 いや、単純ではなかったのかも知れませんが、自身、留学中の差別体験があり、疑いながらも、「信じる」ことが心情にもかなっていたのでしょう。現に戦いが始まってしまっている以上、それ以外の選択肢はありませんし。
(略)
 それでも高村光太郎は、品性を重んじ、美を讃え続けました。彼の目には死地に赴(おもむ)く人々の決意、虜囚(りょしゅう)の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢が、とても高潔なものと映っていたのでした。おそらくこれは本当だと思います。戦地に行き死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるでしょう。讃えねばならぬ、彼らの尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。


さらに戦後の光太郎に触れられます。連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、しかし結局ボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」を引いて、「戦後になると、自身の「戦争協力」を深く悔いることになります。そしてその想いもまた、詩になる。それが詩人の業というものです。」と結ばれます。

本書を購入する前、光太郎の翼賛詩が取り上げられている情報を得ていまして、それを「これぞ大和魂の顕現」と涙を流してありがたがる内容の書籍だったら困るな、と思っていたのですが、杞憂でした。

ぜひ、お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

恐らく尾崎君は寸時も孤独に堪へられない本性を持つてゐて、其が尾崎君に人間への強い愛慕の心を与へ、従つて否応なしに、「人間を信じ」させるのであらう。

散文「「渝らぬ友」――尾崎喜八――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「渝らぬ」は「かわらぬ」と読みます。

尾崎喜八は光太郎と家族ぐるみで交流のあった詩人です。光太郎より12歳年少でした。

光太郎自身は「孤独が何で珍しい」(昭和4年=1929)などという詩も書き、その後半生、智恵子亡き後は独居自炊のある意味孤独な生活を続けましたが、しかし、深層心理では「寸時も孤独に堪へられない本性」をやはり持っていたのではないと思われます。それが誤った方向に作用し、世の中と積極的に関わろうとして、大量の翼賛詩を書き殴ることにもつながったような……。それとて「人間への強い愛慕」が背景にあったのでしょうが……。

駒場の日本近代文学館さんから届いた館報『日本近代文学館』第292号。


かわじもとたか氏による寄稿「えっ!古本屋で展示会?「個人名のついた研究会会誌の世界」展」という記事が載っていました。

かわじ氏、本業は「細胞検査士」とのことですが、筋金入りの古本マニアのようで、さまざまな調査をなさり、成果をまとめられています。当方、少しばかり協力させていただき、返礼にご著書を頂いたりもしています。氏については以下をご参照ください。

 「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。
 古書目録の落とし穴。
 『北方人』第19号。
 『続装丁家で探す本 追補・訂正版』。

で、そのかわじ氏プロデュースの展示会についての記事です。調べてみましたところ、以下の通りでした。 

「個人名のついた研究会会誌の世界」展000

期 日 : 2019年12月2日(月)~12月22日(日)
会 場 : 
西荻モンガ堂 杉並区桃井4-5-3
       ライオンズマンション西荻102
時 間 : 12:00~20:00
定休日 : 水曜日

おそらく観覧は無料なのでしょう。『日本近代文学館』の記事に拠れば、「出品資料は会期後に購入できるようになっている」とのことです。

さらに「廃業に追い込まれる古書店も多い昨今、古本屋さんを勝手に応援するというスタンスでやっているのである」だそうで。会場の西荻モンガ堂さんは、西荻窪の古書店です。

で、『日本近代文学館』の記事に載った画像、当会で継続刊行中の『光太郎資料』を載せていただいております。ただ、当方が名跡をお譲りいただいた平成24年(2012)以前に、当会顧問・北川太一先生がガリ版刷り出だされていた頃のもの。

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ガリ版刷りというのが味があってよい、的な紹介ですね。

その他の出品物、こちらこちらである程度紹介されています。

都合が付けば、期間中に行ってこようと思っております。皆様もぜひどうぞ。


ついでに、と言うと何ですが、『日本近代文学館』、「図書・資料受入れ報告」というページに、光太郎の親友・水野葉舟関連で、以下の記述がありました。

水野葉舟令孫の水野通雄氏から高村光太郎「水野葉舟君のこと」原稿(初出「月明」昭和22・3)を受託した。併せて、『水野清回想録』(京葉産業研究協会 '98)、佐藤浩美編『葉舟小品』(三恵社 '18)など図書雑誌五点をいただいた。

今年7月、葉舟子息で光太郎とも交流のあった水野清元総務庁長官が亡くなった関係でしょう。光太郎の「水野葉舟君のこと」は、この年に歿した葉舟追悼文です。


【折々のことば・光太郎】

すべて物と一つになる心はわれわれ日本人の特質であつて、対者を冷たく対者としてのみ見過し得ないこの心は、詩の基底をなすものであるから、日本人は悉くみな詩人の素質を持つ者であるといへるのである。

散文「『職場の光』詩選評 一」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

雑誌『職場の光』は、戦時中「産業戦士」と呼ばれた工場労働者向けの雑誌。大日本産業報国会の発行でした。「産報文芸」という、読者の投稿ページがあり、詩の項の選者を光太郎が務めました。選評でありながら、光太郎の詩論が色濃く表されています。

戦時中ということで、きな臭い部分もありますが、愛国心の発露もこの程度であれば許されるでしょう。ところが昨今のネトウヨどもは、こうした日本人礼賛にとどまらず、「だから中韓のやつらは駄目だ」という方向にすぐ話を持って行きます。自分自身に何ら誇るべき業績も特技もなく、そういったものを身につける努力も出来ず能力もないネトウヨどもが、自分にとって誇れることは自分が「日本人」であることのみ。それであれば努力も要せず能力が無くとも手に入れられる「称号」ですから。しかし、その「称号」を価値あるものにするために、自らを磨くのではなく、他者(近隣諸国民)を貶めることで、相対的に自己の位置を高めようとしているわけです。何かというと「自分の先祖は、かの○○で……」と、言う輩も同じ穴の狢でしょう。

その幼稚なネトウヨが12月8日前後になると、光太郎の翼賛詩を持ち出して、涙を流して有り難がる風潮、実に嘆かわしいことです。

山口県から企画展情報です。 

清家雪子展――『月に吠えらんねえ』の世界

期 日 : 2019年11月27日(水)~2020年4月12日(日)
会 場 : 
中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉1-11-21
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料(要証明書)
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 毎週最終火曜日 12/29~1/3,2/12・13


中原中也記念館は、平成6年2月18日の開館から、この2月で25周年を迎えます。

開館25周年となります本年におきましては、様々な分野とのコラボレーション企画を中心といたしまして、新たな中原中也の魅力を市内外へ発信いたし、多くの皆様に中原中也への興味・関心の拡大を図ってまいります。

後期は、漫画家・清家雪子氏とその作品「月に吠えらんねえ」を御紹介する、「清家雪子展 『月に吠えらんねえ』の世界」を開催いたします。漫画「月に吠えらんねえ」は、日本の近代詩人たちが住む □街(しかくがい)を中心に、萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、中原中也など、それぞれの詩人の作品世界をイメージ化したキャラクターが登場し、それぞれの作品自体や文学史上の出来事などが融合された世界が展開する作品でございます。中原中也をモチーフといたしました「チューヤ」を中心に、文学表現と清家氏独自の作品世界の造形との関わりを御覧いただくことができます。

こうした、中原中也記念館開館25周年記念事業を通じまして、これまでの展示の歩みや文学館として培ってまいりました資料収集・修復保存の実績を、全国の文学ファンや市民にわかりやすくまとまった形で伝えてまいりますとともに、新たな文学表現の可能性を探る展示やイベントを行い、中原中也ファンの更なる拡大を図ってまいります。

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関連行事

中原中也記念館×山口市立中央図書館 『月に吠えらんねえ』ファントーク

期 日 : 1回目:12月15日(日)14:00~15:30 チューヤ篇
      2回目:3月21日(土)14:00~15:30 朔、その他のキャラクター篇

場 所 : 山口市立中央図書館 共同利用スペース 山口県山口市中園町7番7号
定 員 : 各回20名(要事前申込 先着順)  ※ファントークは定員に達しました
料 金 : 無料

というわけで、先頃完結した清家雪子さん作のコミック『月に吠えらんねえ』関連です。

フライヤー裏面の「展示で紹介する主なキャラクター」に、光太郎からのインスパイア「コタローくん」も。それから当会の祖・草野心平をモデルとした「ぐうるさん」はじめ、ここに挙げられているキャラクターの元ネタ的人物は、全員が光太郎と交流のあった面々です。

関連行事のファントーク、すでに来年3月の分も満席だそうですが、キャンセル等有るかも知れませんので、とりあえずご紹介しておきます。

さらに市立中央図書館さん、その他、「まちじゅう図書館」ということで、市内のカフェやら歯医者さんやらで、「サテライトライブラリー」と称するミニ図書館的なコーナーが設けられているそうですが、そちらでも関連書籍の閲覧が出来るようにするなど、面白い取り組みが為されるようです。

会期が長いので、何とか都合を付けて行ってみたいと思っております。当方、山口県は学生時代に訪れたことがありますが、その頃、同館はまだ開館していませんでした。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩は何もせつかちに考るものぢやない。十年二十年三十年のことを考へねばならぬ。土台人一生のことであり、一時代のことである。

談話筆記「昭和二年詩壇概観」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、朔太郎、中也、心平らは、それぞれどんなことを考えて詩作に取り組んでいたのか、上記企画展、その一端にでも触れられるような内容であってほしいものです。

昨日は第64回高村光太郎研究会でした。KIMG3431

会場は江東区の東大島文化センターさん。生憎の雨でしたが、稀代の雨男だった光太郎の魂がやってきているのかな、という感じでした。まったくいつもいつも、不思議とと光太郎がらみのイベントは雨に見舞われます。

研究会は、会としてはHPなどもなく、こぢんまりと行っている催しで、少ない時は参加者が発表者を含めて5~6人だった年もありましたが、昨日は20名超のご参加。元々の会員の方が光太郎に興味があるという皆さんを誘ってお連れになったり、ご発表の方が発表するから、ということでお仲間にお声がけなさったりで、盛況となりました。

ご発表はお三方。

まず初めに、元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏。現在は定年退職なさり、群馬県立女子大学さんで非常勤講師をなさっているそうです。

発表題は「心平から見た光太郎・賢治・黄瀛」。大正から昭和にかけ、戦争やら中国の文革やらの影響で、断続的になりつつも深い絆で結ばれていた光太郎、当会の祖・草野心平、それから心平を光太郎に紹介した黄瀛。そこに宮澤賢治がどう絡んだか、的な内容でした。

KIMG34334人全員が、心平主宰の雑誌『銅鑼』同人でした。そのうち光太郎と黄瀛は、それぞれ一度ずつ、早世した賢治と会っています。光太郎は大正15年(1926)、駒込林町のアトリエ兼住居に賢治の訪問を受け、黄瀛は昭和4年(1929)、花巻の賢治の元を訪れています。それに対し、心平が直接賢治と会うことは、生涯、叶いませんでした。しかし、賢治に会った光太郎や黄瀛以上に、賢治の精神を深く理解し、共鳴し、たとえ顔を合わせることはなくとも、それぞれの魂で結ばれていたと言えるかも知れません。

小野氏のご発表は、特に心平が花巻の賢治訪問を思い立って赤羽駅のホームに立ちながら、結局、行き先を新潟に変更してしまった昭和2年(1927)1月の話が中心でした。当方、寡聞にしてその件は存じませんで、興味深く拝聴しました。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご子息、北川光彦氏。父君の介添KIMG3434え的にずっと研究会にはご参加下さっていましたが、ご発表なさるのは初めてでした。題して「高村光太郎の哲学・思想・科学 高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは――画竜点睛、造型に命が宿るとき――」。

光太郎の美術評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)などに表された思想が、同時代の世界的な哲学の潮流――ウィトゲンシュタイン、ユクスキュル、西田幾多郎など――と比較しても非常な先進性を持っていたというお話など。

そして光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった結論でした。そうした見方をしたことがなかったので、これも新鮮でした。光彦氏、ご本業は半導体などのご研究をなさる技術者でして、そうした観点から見ると、違った光太郎像が見えるものなのだなと感じました。

KIMG3436最後に、書家の菊地雪渓氏。光太郎の詩句を題材にした作品も多く書かれている方です。過日もご紹介いたしましたが、今年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさいました(そちらの作は光太郎ではなく白居易でしたが)。

何と実演を交え、光太郎の書がどのようなことを意識して書かれているかの分析。特に仮名の書が、それぞれの字母(「安」→「あ」、「以」→「い」、「宇」→「う」といった)の草書体をかなり残している、というお話。参加者一同、「ほーーーー」という感じでした。

また、光太郎が範とした、黄山谷(庭堅)についてのお話なども。山谷は、中国北宋の進士。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は山谷の書を好み、最晩年には、終焉の地となった中野の貸しアトリエの壁に山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

今回のお三方のご発表、おそらく来春刊行される会の機関詩的な雑誌『高村光太郎研究』に、それを元にした論考等の形で掲載されると思われます。刊行されたらまたご紹介します。

終了後は、近くの居酒屋で懇親会。和気藹々と楽しいひとときでした。「高村光太郎研究会」、学会は学会なのですが、肩のこらない集いです。特に事前の参加申し込み等も必要なく、入会せず聴講のみも可。多くの皆様の来年以降のご参加をお待ちしております。


【折々のことば・光太郎】

之等の画幅を熟覧しながら、まことに画は人をあざむかないと思つた。

散文「所感――『宅野田夫画集』――」より
昭和15年(1940) 光太郎58歳

宅野田夫は、初め岡田三郎助に洋画を学び、のち、南画なども描いた画家です。ここでいう画幅は南画系のものと思われます。

よく「書は人なり」と言いますが、光太郎にとっては「画も人なり」だったようです。そうした話は、研究会での菊地氏(書)、北川氏(「レンマ」知性といったお話)のご発表にもあり、納得させられました。

注文しておいたCDが届きました。 

日本の詩(うた)

2019年11月20日 日本コロムビア 定価3,000円+税

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演 奏 小林沙羅(ソプラノ)  河野紘子(ピアノ) 澤村祐司(箏)  見澤太基(尺八)
曲 目 
 1 . 小さな空  作詩・作曲/武満徹 編曲:轟千尋
 2 . うみ  作詩/林柳波 作曲/井上武士
 3 . この道  作詩/北原白秋 作曲/山田耕筰
 4 . 故郷(ふるさと)  作詩/高野辰之 作曲/岡野貞一
 5 . 早春賦  作詩/吉丸一昌 作曲/中田章
 6 . 赤とんぼ  作詩/三木露風 作曲/山田耕筰
 7 . お六娘  作詩/林柳波 作曲/橋本国彦
 8 . うぐひす ―春夫の詩に據(よ)る四つの無伴奏の歌―  作詩/佐藤春夫 作曲/早坂文雄
 9 . せきれい  作詩/北原白秋 作曲/宮城道雄
 10. 浜木綿(はまゆふ)   作詩・作曲/宮城道雄
 11. 初恋  作詩/石川啄木 作曲/越谷達之助
 12. 荒城の月  作詩/土井晩翠 作曲/瀧廉太郎
 13. ペチカ  作詩/北原白秋 作曲/山田耕筰
 14. 或る夜のこころ ―『智恵子抄』より  作詩/高村光太郎 作曲/中村裕美
 15. 死んだ男の残したものは  作詩/谷川俊太郎 作曲/武満徹 編曲:轟千尋
 16. ひとりから  作詩/谷川俊太郎 作曲/小林沙羅 編曲:相澤直人

公式サイトより)
クラシック声楽界のトップランナー小林沙羅にとって身近にあった歌と詩(うた)。
幼少時から詩集を声に出して読むことを好み、オペラ歌手として日本語の新作オペラ『万葉集』『KAMIKAZE』『狂おしき真夏の一日』等に積極的にも出演している。そして現在も詩と音楽のコラボレーション集団「VOICE SPACE」の一員として谷川俊太郎や佐々木幹郎、小室等などと共演し、近・現代詩と音楽の新たな融合を目指して活動している小林沙羅。
そんな小林が3年ぶりとなる3rdアルバムで選んだのは、曾祖父にあたり大正・昭和時代の有名詩人:林柳波の「うみ」をはじめとした「故郷」「荒城の月」等の童謡唱歌を収録した。林柳波は「うみ」「おうま」、そして今作にも収録した「お六娘(おろくむすめ)」などを作詩。また、小林の曾祖母は、狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫を父にもつ日本舞踊家(林流創始者)・林きむ子。日本の詩や歌に心惹かれてきた小林のルーツはここにもあったのだ。
武満徹の作品や、作曲家・箏曲家でもある宮城道雄の作品を箏・尺八と共演し、高村光太郎の『智恵子抄』から生まれた新曲「或る夜のこころ」、そして現代を代表する詩人・谷川俊太郎による小林に向けて書きおろした詩に、小林が作曲した新曲「ひとりから」も収録。
日本語の発音にこだわり表現を大切にしてきた小林沙羅が、古き良き作品から、今を生きる表現者として生み出していく作品を未来へと導いていく。


ソプラノ歌手の小林沙羅さん。平成27年(2015)には、「ライフサイクルコンサート 雄大と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」、昨年は「浜離宮ランチタイムコンサートvol.175 小林沙羅ソプラノ・リサイタル」で、今回のCDに収録されている「或る夜のこころ」を演奏なさいました。「ライフ……」の方は拝聴にうかがいまして、改めてCDを聴き、ああ、こういう曲だったっけな、と思いだしました。単なる歌曲、というよりオペラのアリアのような、ドラマチックな曲想です。

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また、個人的には1曲目の「小さな空」、混声合唱で歌ったことがあり、懐かしく感じました。

Amazonさん等でも取り扱っています。ぜひお買い求め下さい。

また、先の話になりますが、小林さん、来春には今回のCDのリリース記念リサイタルをなさるそうです。近くなりましたらまた改めてご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

知力によつて幾何学的正確を期するならば学生にも出来る。正しく見るといふのはそんな軽率な事ではない。自然を正々堂々と正面から押してゆく事だ。又受け入れる事だ。小さな主観で自然を歪めない事だ。面白い処に随はせない事だ。微妙な処にひつかからない事だ。小さな自己を殺して大きな自然と合一する事だ。「所謂」自己表現で無くて純真表現の事だ。

散文「大森商二君の木炭画」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

光太郎の芸術感がよく表された一節だと思います。

「幾何学的正確を期するならば学生にも出来る。正しく見るといふのはそんな軽率な事ではない」。これは、造型芸術に限らず、音楽にもいえることです。楽譜通り、さらに平均律的な演奏をするなら、コンピュータでも可能ですが、小林さんのような優れた音楽家の演奏にはかないません。

また、造型芸術の分野でも、おそらく近いうちにAI(人工知能)による造型作品などというものが出てくるでしょうが(或いは既に実現しているのでしょうか)、それとて光太郎のような優れた造形作家の作には到底およばないでしょう。

またまた溜まってしまっています(笑)。2日に分けてご紹介します。

まず、先月30日、『読売新聞』さんの北海道版。

伊藤整の青春時代 特別展 小樽 写真や詩など200点

 小説、詩、評論に幅広く活躍した小樽ゆかりの文学者・伊藤整の青春時代にスポットを当てた特別展が、市立小樽文学館(小樽市色内)で開かれている。
 没後50年を記念した展示「伊藤整と北海道」で、旧塩谷村(小樽市塩谷)で育ち、上京するまでの歩みを伝える写真や詩の草稿、創作ノートなど約200点が並ぶ。
 小樽高等商業学校(現・小樽商科大)時代の演劇大会の写真には、羊に扮(ふん)した先輩の小林多喜二と伊藤が舞台の隅に並んで写っている。
 初の詩集「雪明りの路」(1926年)は、後半部分の直筆原稿などが展示されている。小樽市の中学校教諭だった21歳の時に自費出版したこの作品は伊藤の飛躍の契機となり、小樽の名物行事に今も名を残す。
 会場には文学誌に載ったこの詩集の広告も展示され、詩人・彫刻家の高村光太郎は推薦文で伊藤の詩を「(ロシアの作家)チェホフの様な響」と評した。
 展示は11月24日まで。同9日には作品の解説講座とミニ文学散歩(ともに無料)も行う。問い合わせは同文学館(0134・32・2388)へ。


というわけで、小樽文学館さんで開催中の特別展「歿後50年 伊藤整と北海道展」の紹介です。

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記事にある光太郎の評とは、昭和2年(1927)3月の雑誌『椎の木』に載ったもので、「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」の題で、『高村光太郎全集』別巻に掲載されています。おそらく、伊藤宛の礼状そのままを引用したと思われる文章です。

 あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。


続いて、11月12日(火)、『信濃毎日新聞』さん。一面コラムです。

斜面(11月12日)

教科書で出合った高村光太郎の「道程」は不安定な思春期を勇気づけた詩だ。<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>。周りの反対を押し切って智恵子と結婚した年の発表である。わが道を行く強い決意と高揚感が感じられる

   ◆

きのうの信毎選賞贈呈式の若い受賞者に、この9行の詩が重なった。女子柔道の出口クリスタさんとピアニストの藤田真央さん。ともに3歳から始めた道を力強く歩んでいる。出口さんの転機は父の母国カナダの代表として東京五輪を目指す決断だった

   ◆

迷いが吹っ切れたのか自信を持って戦えるようになり、8月の世界選手権初優勝。来夏の「金」へ突き進む。藤田さんもやはり果てしない音楽の道に真摯(しんし)に向かう決意をした。ベートーベンの曲演奏で、自らを信じ歩み続ける強さを感じる作品で自分の気持ちと同じ―と紹介した

   ◆

原点は県ピアノコンクールという。2歳上の兄に負けた悔しさが6月のチャイコフスキー国際コンクール2位につながった。団体受賞の日本ジビエ振興協会も道を切り開く。イノシシやシカの肉を活用するシステム作りは農業の存亡にもかかわる問題だ

   ◆

現地に出向いて新鮮なうちに処理する車を開発するなど数々の工夫を重ねる。信州発の先進的な試みに全国が注目する。飯田OIDE長姫高校原動機部は電気自動車の製作に取り組んで10年目。全国大会の高校部門で8連覇した。飽くなき向上心と積み重ねが頼もしい技術者を育てている。


信毎選賞」というのは、同社の主催で、県内在住、または長野県に関わりが深く、文化、スポーツ活動などを通じて社会に貢献し、将来なお一層の活躍が期待できる個人、団体を顕彰するものだそうです。

女子柔道の出口クリスタ選手。当方、柔道有段者ですのでよく存じていますが、ご存じない方のために解説しますと、長野県の松商学園さんから山梨学院大さんに進み、現在は日本生命さん所属の選手です。以前は全日本の強化指定選手でしたが、お父さんがカナダ人ということで、カナダ代表の道を選びました。やはりオリンピックでは各階級一人しか代表に選ばれませんので、ある意味苦渋の決断だったと思われます。来年の東京五輪での活躍が期待されます。

藤田真央さんという方は、当方存じませんでしたが、今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞されたそうです。「真央」さんなのでてっきり女性だと思いこんでいましたが、男性でした。すみません。

さらに団体受賞の方々も。

みなさん、<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>という「わが道を行く強い決意と高揚感」を持って、今後もご活躍いただきたいものです。


最後に同日の『岩手日報』さん。やはり一面コラムです。

風土計

 「(賢治は)将来、啄木ほど有名になる可能性がありますか」。そんな質問に、詩人の草野心平は困った。宮沢賢治の没後に発刊した全集を何とか売りたい、と在京岩手の人々に相談した時のことだ
▼「あります」と答えたものの内心、確信はない。「可能性があるなら、応援してもいいだろうけど…」と質問者。全く無名の作家の本を売る。その支援を、同じ岩手出身の人から得るのさえ楽ではなかったらしい
▼心平の命日のきょう、全集発刊の労を思う。賢治を世に出した功績者だが、当時は売れる見込みはない。出版社の命取りにもなりかねない。それでも諦めなかったのは、「いつか必ず読まれる」の一念だったろう
▼そういう話を新鮮に感じるのは、あまりに目先の利を追う時代だからかもしれない。企業や大学では基礎研究より「実利」が重んじられる。高校の国語教育も、3年後は教養より「実用」に重きを置くという
▼今は何の富も生まないが、いつか必ず役に立つ。そう考える余裕が社会から失われて久しい。目先の利を追う時代だったら、賢治が世に現れることもなかったのだが
▼「同時代には、近すぎて全貌が目に入らない。でも100年、200年後には拝まれる人だろう」。金田一京助はそう賢治を評した。100年の時を経て、本当の価値が光を放ち始めるものもある。

光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平が、光太郎ともども手がけた『宮澤賢治全集』に関してです。心平らの「目先の利」を追わない姿勢があったからこそ、今日、賢治が世界的に有名になりました。考え指させられる内容です。

あと4件ほどご紹介すべき記事等がありまして、明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

美というものはだんだん進んで行くのであつて、三段跳びのようにとぶものではない。その進み方は面白い。

講演筆録「美の源泉」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

自ら「美」を創出すると共に、先人達の残した「美」にも関心が高く、美術史についても一家言持っていた光太郎ならではの発言です。

学会情報です。

第64回高村光太郎研究会

期 日 : 2019年11月23日(土)
会 場 : 江東区立東大島文化センター 東京都江東区大島8-33-9
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「黄瀛から見た光太郎・賢治・心平」  
   元いわき市立草野心平記念文学館 小野浩氏

 「高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは」
   当会顧問北川太一氏子息 北川光彦氏

 「光太郎の書について―普遍と寛容―」
   書家 菊地雪渓氏

終了後懇親会有り

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、年に一度開催されています。

今年の研究発表はお三方(例年、お二方なのですが)。皆さん連翹忌ご常連で、さらに連翹忌以外にも、あちこちのイベント等でお会いしています。当方としては気心の知れた方々です。

小野浩氏は元いわき市立草野心平記念文学館さんの学芸員。「いわき賢治の会」等でも活動されています。そこで、宮沢賢治、当会の祖・心平、そして花巻まで賢治を訪ねていった黄瀛らと光太郎との関わり、といった内容のようです。

北川光彦氏。当会顧問・北川太一先生のご子息です。ご本人は「門前の小僧で……」とおっしゃっていますが、最近は文治堂書店さんのPR誌『トンボ』にも寄稿されるなど、精力的に活動されています。

書家の菊地雪渓氏は、光太郎詩文による書作品で、昨年の第38回日本教育書道藝術院同人書作展会長賞や第40回東京書作展特選といった栄冠に輝いています。さらに今年の第41回東京書作展では内閣総理大臣賞(大賞)だそうです。


研究会への入会は年会費3,000円の納入で、どなたでも可。年刊機関誌『高村光太郎研究』が送られ、そちらへの寄稿が出来ます。入会しなくとも年に1回の研究会のみ聴講も可能です。


ぜひご参加を。


【折々のことば・光太郎】

このつつましく、ほつそりと何気なく立つてゐる仏弟子の美しさは彫刻的要約の一典型であり、かういふ美は他に比類が無いやうだ。

散文「興福寺十大弟子」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

奈良興福寺さんの十大弟子像は、有名な阿修羅像と同じく天平期の乾漆像です。やはり光太郎の範とする彫刻のあり方の一つの典型例なのでしょう。

下記はこの文章の掲載誌『日本美術の鑑賞 古代篇』(帝国教育界出版部 北川桃夫・奥平英雄共編)より。


11月7日(木)、ぽっと時間が出来ましたので、群馬県に行っておりました。


前橋市の前橋文学館さん、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんをハシゴ。現在、両館で共同企画展「萩原恭次郎生誕120年記念展」を開催中です。

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両館のフライヤーを並べると、一枚につながるというなかなかのアイディアです。

萩原恭次郎は、明治32年(1899)、群馬県勢多郡南橘村(現・前橋市)生まれの詩人。萩原朔太郎とは血縁は無いそうですが、10代の頃から朔太郎の元に出入りし、影響を受けていました。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』には恭次郎の名は出て来ませんが、『全集』完結後に見つけたアンケート「上州とし聞けば思ひ出すもの、事、人物」(『上州詩人』第17号 昭和10年=1935)に、その名が記されていました。

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曰く「上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎」。「高橋成重」は「高橋成直」の誤植と思われます。「高橋成直」は、前橋出身の詩人・高橋元吉のペンネームです。

「上州とし聞けば」の問いに、朔太郎や山村暮鳥の名をあげず、恭次郎の名を出している光太郎。あまり深い交流はなかったものの、作品から受けるインパクトが余程強かったのではないかと思われます。ちなみに光太郎と恭次郎、同じ雑誌やアンソロジーで、共に作品が掲載されているというケースが結構ありました。

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そんなわけで、群馬の二館をハシゴした次第です。

まず向かったのは、前橋文学館さん。こちらに伺うのは初めてでした。

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こちらでの展示に関しては、以下の通り。

萩原恭次郎生誕120年記念展「何物も無し!進むのみ!」

期  日 : 2019年11月2日(土)~2020年1月26日(日)
会  場 : 前橋文学館 群馬県前橋市千代田町三丁目12-10
時  間 : 9:00~17:00
休館日 : 水曜日 年末年始(12/29~1/3)

料  金 : 400円
      11月9日(土) 12月7日(土) 1月9日(木) 1月11日(土)は無料


多くの近代詩人を輩出してきた前橋。その中にあって、大正末期から昭和初期にかけて、きわめて先鋭的な活動を展開した詩人・萩原恭次郎――。
初期の抒情詩を経て、未来派、ダダイズム、構成主義といった前衛芸術の波に身を投じ、1925(大正14)年には、日本におけるアヴァンギャルド芸術運動の記念碑的詩集『死刑宣告』を刊行。アナキズム、農民詩へとスタイルを変え、美術や音楽、舞踊、演劇など、他ジャンルとの往還的な活動を繰り広げ、39歳で早逝した詩人は、常に時代の先端を疾走し続けました。
本展では、生誕120年にあたって、その前衛性や革新性を中心に、萩原恭次郎の詩作品と活動の軌跡を紹介します。

 
また、萩原恭次郎生誕120年記念展は群馬県立土屋文明記念文学館においても開催されます。
コラボ企画も複数ありますので、是非両館に足をお運びください!


[コラボ企画]
群馬県立土屋文明記念文学館×前橋文学館両館の展示をご覧いただいた方に、『月に吠えらんねえ』オリジナルグッズを差し上げます。
※両館の観覧券の半券を、どちらかの館の受付にご提示ください。
他にも様々な連動企画を予定しています。お楽しみに!


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関連行事

学芸員による展示解説
2019年11月9日(土)、12月7日(土)、2020年1月11日(土)
*各日とも13時00分〜14時00分

詩集『死刑宣告』を踊る
期 間 : 2019年11月16日(土)
会 場 : 前橋文学館 3階ホール
内 容 :
舞踏家・奥山ばらばさんが萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』をイメージした舞踊を群馬交響楽団・片倉宏樹さんのコントラバスに合わせて、オリジナルの振付で踊ります。公演後は舞踊評論家・鈴木晶さんと萩原朔美館長も交え、萩原恭次郎と舞踊の関係性を紐解くアフタートークを行います。
〈出演〉
舞踊 奥山ばらば(舞踏家)
コントラバス演奏 片倉宏樹(群馬交響楽団)
アフタートーク 鈴木 晶(舞踊評論家)×奥山ばらば×萩原朔美(前橋文学館館長)

 
「孤児の処置」(村山知義作)リーディングシアターVol.10
期 間 : 2019年12月14日(土)
会 場 : 前橋文学館 3階ホール
内 容 :
創作上で互いに深く関係しあっていた村山知義と萩原恭次郎。恭次郎の第一詩集『死刑宣告』には前衛的な文芸美術雑誌「マヴォ」を主宰した村山らの写真が挿入され、日本近代詩に視覚的な変革をもたらした作品として高い評価を得ました。また、村山が手掛けた戯曲作品「孤児の処置」の中には、登場人物が「最近の詩人の詩」として恭次郎の詩「何物も無し!進むのみ!=小さき行進の曲=」を絶叫するシーンがあります。この作品に荒井正人さんが演出を加え、オリジナルリーディングシアターとして上演いたします。
〈演出〉荒井正人
〈音楽〉荒木聡志
〈出演〉手島実優、萩原朔美(前橋文学館館長)ほか 

アフタートーク
やなぎみわ(美術作家・演出家)×荒井正人(演出家)×萩原朔美



こちらは恭次郎遺稿、遺品、作品掲載誌などの展示が中心でした。先ほど、「光太郎と恭次郎、同じ雑誌やアンソロジーで、共に作品が掲載されているというケースが結構ありました」と書きましたが、この展示を見てそう感じた次第です。

また、同館、4階まであり、4階では萩原朔太郎を主人公のイメージとし、光太郎も登場する、清家雪子さん作『月に吠えらんねえ』関連のミニ展示も行われていました。

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左上は窓に提げられたタペストリー。第4巻の表紙原画を元にしたもので、アッコさん(与謝野晶子)とチエコ(智恵子)があしらわれています。これは欲しい、と思いました。

右上は、ミュージアムショップで購入した缶バッヂ。コタローくん(光太郎)とチエコさん(ロボット)です。

さらに清家さん筆、物語の舞台である□街(しかくがい・詩歌句街)地図。


左下にコタローくんが。


続いて、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんへ。意外と近かったので、驚きました。

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こちらの展示情報です。

萩原恭次郎生誕120年記念展「詩とは?詩人とは?ー大正詩壇展望ー」

期  日 : 2019年10月5日(土)~12月15日(日)
会  場 : 
群馬県立土屋文明祈念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時  間 : 9:30~17:00
休館日 : 火曜日
料  金 : 一般410円 大高生200円

詩人萩原恭次郎の生誕120年を記念した企画展です。
萩原恭次郎は、大正時代を通じて詩壇の中心に在った民衆詩派に対抗するように、詩集『死刑宣告』によって既存の詩を否定、芸術の改革を叫びました。
本展では、当時の時代背景に着目しながら、大正詩壇の様相及び日本近代詩の変遷に迫ります。草野心平、中原中也らの貴重資料も展示予定です。

同時期開催
前橋文学館 萩原恭次郎生誕120年記念展 「何事も無し!進むのみ!」
前橋文学館と連携し、両館で切り口を変えた展覧会を同時期に開催します。コラボレーションした企画を展開し、広報物も両館で一つのデザインになっています。両館観覧特典として、漫画「月に吠えらんねえ」オリジナルグッズも用意しています。


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関連行事

(1)記念講演会
各日14時00分~15時30分 定員150名 無料
• 11月17日(日) 「萩原恭次郎と大正という踊り場」
講師:佐々木幹郎氏(詩人)
• 11月30日(土) 「萩原恭次郎とダダ・未来派・アナーキズム―『死刑宣告』を中心に―」
講師:塚原史氏(早稲田大学名誉教授)
※電話または当館受付カウンターにて事前にお申し込みください。(申込順)
※定員に達しない場合は、当日も受け付けます。

(2)朗読イベント
• 11月4日(月・休) 14時00分~15時30分 定員150名 無料
「詩を声に翻訳する―歌い、叫び、演じ 萩原恭次郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、草野心平、中原中也」
演出:萩原朔美(前橋文学館長) 出演:手島実優、磯干彩香(あかぎ団)ほか
※電話または当館受付カウンターにて事前にお申し込みください。(申込順)
※定員に達しない場合は、当日も受け付けます。

(3)展示解説
10月5日(土)、11月3日(日・祝)、12月7日(土) 各日 13時30分~(30分間程度)
※申込不要、参加には企画展観覧券が必要


こちらの展示は、恭次郎をひときわ大きく紹介しつつ、全体としては大正詩壇を概観するというコンセプトで、したがって、光太郎に関してもそれなりに大きく取り上げられていました。代表作「道程」(大正3年=1914)がパネルに大きくプリントされ、詩集『道程』(同)が展示されています。

見返しに「人間の心の影のあらゆる隅々を尊重しよう 高村光太郎」と、詩「カフエにて」(大正2年=1913)の一節の識語署名が入っています。

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ちなみに詩集『道程』は200部ほど自費出版で作られ、50部ほ011どにはこの手の識語署名が入っているとのこと。嘘かまことか、書店を通じてきちんと売れたのは七冊だけだったそうで、現在残っているものは、光太郎が友人知己に献呈したものがほとんどと考えられます(当方も一冊持っていますが)。それでも残本が多く、中身はそのままに奥付と外装を換えて何度か刊行されました。国会図書館さんのデジタルデータで公開されているものは、大正4年(1915)の改装本です。

その他、当会の祖・草野心平や、宮澤賢治、中原中也といった、光太郎と交流のあった人物についてもそれなりに大きく取り上げられており、こちらの図録は購入せざるを得ませんでした(笑)。

それから、こちらでもロビーに『月に吠えらんねえ』の展示。ちなみに両館の半券をコンプリートすると、オリジナルグッズがもらえるということで、いただいて参りました。群馬ということで、朔(朔太郎)、ブンメイ(土屋文明)、恭くん(恭次郎)があしらわれたコースターでした。

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プレミアがつくかも知れません(笑)。

というわけで、両館ハシゴ、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

せめて一度日本に来て奈良あたりの古芸術を見て貰ひたかつた。そして今日翁を信ずる者のある事を知つて貰ひたかつた。

談話筆記「ロダン追悼談話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

ジャポニスムの影響もあったでしょうが、ロダンは日本贔屓でもありました。確かにロダンに白鳳、天平の仏像などを見せたらどう言っただろうか、興味深いところです。

朗読系イベント情報です

月の映像詩と朗読の夕べ つきおもふこころ

期 日 : 2019年10月26日(土)
時 間 : 19:00~
会 場 : 3丁目カフェ 神奈川県横浜市青葉区美しが丘1丁目10−1
料 金 : 3,500円 ワンドリンク付き

月を撮り続けているカメラマン河戸浩一郎による作品(月の映像詩)の上映会。
今回は、短編作品を数本と月への想いをより深くさせてくれる文章の朗読を交えた映像作品を上演します。
戦時中に書かれたあるお手紙と高村光太郎の詩集「智恵子抄」を題材にした朗読作品。
みのもかおりさんの朗読と合わせて、月の映像を味わっていただきたいと思います。
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映像作家の河戸浩一郎氏。今年6月にも「月の映像詩上映会 ツキミチルノコトvol.8」で、「智恵子抄」を取り上げて下さっています。

その際、朗読なさった方が「蓑毛かおり」さんとなっていましたが、今回告知されている「みのもかおり」さんと同一人物でしょう。

御都合の付く方、ぜひどうぞ。

このブログで同じ趣旨のことを繰り返し書いていますが、光太郎詩、意外と朗読に向いています。もっともっと多くの方に取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

ところが、人間が一度美しいと見たもの、これだけは永遠に「美」なのです。歴史というものは、権威に対する人間の奉仕を記録したものですから、絶えず変化していますが、その中にあつて、どんなに時代が変つても、美しいものは美しいものとして変ることがないのです。

講演会筆録「芸術と農業」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

河戸氏が取り上げられている月の美しさもそうなのでしょうし、当方など、光太郎の芸術世界(造型/文筆)などもそうだと思えます。

台風19号、列島各地に大きな爪痕を残しました。亡くなられた方には深く哀悼の意を表させていただきます。

千葉県北東部に位置する自宅兼事務所周辺、先月の台風15号の際と比べ、風雨は強くありませんでしたし、停電にもなりませんでした(先月の停電は54時間続きました)ので、胸をなで下ろしましたが、市内を流れる利根川が氾濫危険水域を超えたということで、予断を許しません。ただ、自宅兼事務所は利根川から数キロ離れている高台ですので、とりあえず大丈夫だろうとは思っています。

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光太郎・智恵子・光雲ゆかりの全国各地を廻っている身としては、被害報道に接し、「ああ、あの場所ら辺、こないだ通ったよな」「えっ、あそこの近くのあんなところもか」「うわー、××川もか」という感じです。

しかし、我々は繰り返される災害を乗り越えてきた国民です。昨夜、我々を勇気づけてくれる素晴らしい闘いを見せてくれ、W杯決勝トーナメント進出を決めたラグビー日本代表のように、がんばりましょう。


さて、新刊書籍をご紹介します。

危険な「美学」

2019年10月12日 津上英輔著 集英社(インターナショナル新書) 定価820円+税

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「美」を感じる感性そのものに潜む危険

芸術が政治に利用されるという話は数多くありますが、本書は人間にとっての三大価値である真・善・美の「美」そのものに実は危険が潜むことについて著者独自の理論で指摘した、画期的な一冊です。
 高村光太郎の戦意高揚の詩やジブリアニメの「風立ちぬ」で描かれた「美しい飛行機作り」という行為に潜む危険。トーマス・マンの『魔の山』における結核患者の描写や、特攻隊の「散華」を例に、イメージを負から正へ転換させてしまう感性の驚くべき反転作用について解説します。
 「美」を感じるとはどういうことなのか? 誰もが有する「感性」がもたらす危険を解き明かします。


目次

 まえがき
  序章 美と感性についての基礎理論
   第一節 真善美の思想
   第二節 「十大」ならざる「三大」
   第三節 「一大」ならざる「三大」
   第四節 真・善・美と知性・理性・感性
   第五節 美と芸術の自律性
   第六節 美とは何か
   第七節 美の恵みと危険
 第一部 美は眩惑する
  
第一章 「美に生きる」(高村光太郎)ことの危険
   第一節 戦争賛美の詩「必死の時」
   第二節 詩の分析
   第三節 光太郎の戦後
   第四節 「美に生きる」こと
   第五節 「悪かつたら直せばいい」
   第六節 光太郎を越えて
   第七節 眩惑作用がもたらす美への閉じこもり
   第八節 高村山荘
   第九節 光太郎の戦争賛美と智恵子

  第二章 アニメ『風立ちぬ』の「美しい飛行機」
   第一節 『風立ちぬ』における「美しい」の用法
   第二節 美の働き
   第三節 戦闘機と美
   第四節 夢
   第五節 「美しい夢」の危険
   第六節 美の眩惑作用
 第二部 感性は悪を美にする
  第三章 結核の美的表象
   第一節 健康と美
   第二節 非健康の感性化
   第三節 小説『魔の山』
   第四節 文豪が描いた結核患者像
   第五節 隠喩理論
   第六節 美的カテゴリー論
   第七節 感性の統合反転作用理論
   第八節 感性の特異な働き
   第九節 感性の危険
  第四章 「散華」の比喩と軍歌〈同期の桜〉
   第一節 「散華」の比喩
   第二節 美化と美的変貌
   第三節 特攻と「散華」
   第四節 軍歌〈同期の桜〉
   第五節 自ら歌うということ
   第六節 音楽は他人ごとを我がこととする
   第七節 「散華」と感性の統合反転作用
   第八節 メコネサンス理論
   第九節 美と感性の危険性
 あとがき
 参考文献


著者の津上氏は、成城大学さんで教授をお務めの美学者。目次を概観すればある程度の方向性が見えると思いますが、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを、光太郎を含め、さまざま例を挙げながら実証しようとする試みです。

まだ「まえがき」と、光太郎の章しか読んでいないのですが、他の章との関連性も踏まえないといけない感じですので、なるべく早く読了しようと思っております。

その光太郎の章、メインで取り上げられているのは詩「必死の時」(昭和16年=1941)。津上氏、「文学には疎い」と謙遜されつつも、その他の詩や講演等を含め、丁寧にかつ説得力溢れるおおむね妥当な分析が為されています。どうでもいい枝葉末節に拘泥しない姿勢、それから光太郎に対するリスペクトがきちんと表明されており、好感が持てます。何より美学者として、「美」とは何かという命題への挑戦が根底にあり、そういった部分ではなるほど、と唸らせられました。

後半、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)及び隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられてのレポート的な内容にもなっています。津上氏、何度も訪問されたそうで、ありがとうございます。光太郎を語る上で、あの地を実際に見ていないというのは、その資格を放棄しているようなものだと思うのですが、そう考えないエラいセンセイもいるようで(というか、いるんです(笑))、堂々と「私はまだ彼の地を訪れていないが」と臆面もなく断った上で机上の空論を展開している人もいます。

津上氏、山荘の保存のために建設された套屋について、この地の先人の思いなど、正しく考察されています。ただ、ちょっと勘違いがありましたので、指摘させていただきます。套屋内部の説明パネルについてです。「光太郎がこの地にたどり着いた経緯が説明されていない」と、まぁ、その通りなのですが、あのパネルは元々同じ花巻市内の宮澤賢治記念館さんで、10年ほど前でしたでしょうか、光太郎展的なものを開催した際の説明パネルを終了後に貰ってきたものでして、山荘そのものの説明パネルとして作ったものではないのです。その光太郎展で山荘に入った経緯があまり語られなかったという瑕疵はありますが。ちなみにそちらの展示には当方、関わっておりません。

そう思っておりましたところ、さらに読み進めると、バリバリ当方が書いた高村光太郎記念館さんの展示説明パネルにも言及(笑)。「戦時の光太郎についての追求が甘い」とのことで。この点は「その通りです」としか言いようがありません。まぁ、はっきり言うと、当方、「忖度」しました。右翼の街宣車に押しかけられても困りますし、先般の「表現の不自由展」のような事態は避けたかったので。それを甘いと云われればその通りです。

それにしても、一般の方のブログ等では拝見したことがありましたが、きちんとした書籍であの説明パネルについて言及されたのはおそらく初めてで、驚きました。

さて、『危険な「美学」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

芸術心と云ふものは物を味はふ所からはじまるので、物を味はひ生活を味はひ――と云ふことは何かと云ふとどんな物の中からでも良さを見付け出してどんな詰まらない所からでも意味を見付け出し、美しさを見付け出す、そこが芸術と云ふものが人の考へて居る程唯付け足りの装飾や見て呉ればかりでない根本の力となる性質だらうと思ふのであります。

談話筆記「現下芸術政策の根本目標並当面の緊急事項等に就いて」より
                   昭和15年(1940) 光太郎58歳


この年開催された、大政翼賛会臨時中央協力会議第四委員会での発言速記から。

正論ではありますが、実にきな臭い。こういう所にも、津上氏の指摘する「危険」さが表れています。

このブログ、どこかへ出かける際には出かける前の未明のうちに書いて投稿しています。今日はどこに出かける予定もないのですが、過日の台風15号による千葉大停電の例もあるので、やはり未明のうちに投稿してしまいます。

3件ほど。

まず、NHKさんのローカルニュースから。

近代~現代彫刻の代表作集め展示

明治から昭和初期にかけての近代彫刻から現代彫刻までの日本の立体造形の代表作を集めた展覧会が、熊本市の美術館で開かれています。

熊本市現代美術館で開催中の「きっかけは「彫刻」。」と題された展覧会は、日本で彫刻が誕生した明治から昭和初期までの近代彫刻と、それらが発展していった現代彫刻までの代表作あわせて60点が集められ、それぞれの時代を象徴する作品が楽しめます。

このうち、大正7年に制作された高村光太郎の「手」は、「考える人」で知られる彫刻家ロダンの手法を取り入れたもので、体全体ではなく、体の一部分だけで生命の躍動感を表現していて、当時としては画期的な作品です。

また、昭和13年に制作された平櫛田中の「鏡獅子試作頭」は、当時としては珍しく、ブロンズに彩色を施した作品で、歌舞伎役者をモチーフにしています。

このほかにも、ブロンズや木材といった伝統的な素材ではなく、不用品や鉄といった日常の生活で使用するもので作品を構成する現代彫刻も並べられています。

熊本市現代美術館の学芸事業班の冨澤治子主査は「時代を代表する彫刻を、360度さまざまな角度から見ることができるので、時代ごとの題材や素材の変化を楽しんでもらいたいです」と話していました。

展覧会は、来月24日まで開かれています。


熊本市現代美術館さんで開催中の企画展「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」についてです。

やはり目玉の一つということで、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が大きく取り上げられました。上記文章はWEB上で換骨奪胎してのものなのですが、動画を見るとさらに詳しく解説が為されています。

他に木彫「鯰」(大正15年=1926)も出ていますし、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

その「鯰」からの連想で、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん。一面コラムです。

2019/10/10【三山春秋】〈鯰よ、/お前は氷の下で...

 ▼詩人、彫刻家、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「鯰」(1926年)である。光太郎がこの詩とともに制作した生命感あふれる木彫小品「鯰」もまた、見るたびに強い感銘を受けてきた

 ▼伊勢崎市出身の鋳金工芸家、森村酉三(1897~1949年)の鋳金によるその作品を前にして浮かんだのは、光太郎の詩だった。県立近代美術館の企画展「没後70年 森村酉三とその時代」に展示されている最晩年の「鯰」だ。愛嬌あいきょうたっぷりの表情、伸びやかな尾の表現力に驚かされた

 ▼帝展で入選を重ね、本県の美術界の基礎を築いた功績を持ち、高崎の白衣大観音の原型を制作、前橋市の水道共用栓のデザイン、名士の胸像などを手掛けた人物として知られていた。しかし、それはごく一部だという

 ▼森村の全体像を紹介する同展では、県内外の施設や個人所有だった鳥や動物の置物などの 小品も多数集められた。小さな生き物に寄せる、温かみのある眼差しから、光太郎と重なる「詩魂」が伝わってくる

 ▼52歳という若さで亡くなったことなど、さまざまな理由で埋もれてきた森村の業績が正当に評価されるきっかけになればと願う。

執筆者氏、光太郎実弟の髙村豊周の作品が出品されていることに気付いているのかいないのか、群馬県立近代美術館さんで開催中の「没後70年 森村酉三とその時代」展の話で、光太郎を引き合いに出して下さいました。

最後に地方紙『伊豆新聞』さん。こちらは長いので引用はしません。

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「新・埋もれ火を訪ねて」という、忘れられかけている郷土の先人を紹介する連載のようです。紹介されているのは、下田出身の詩人・鈴木白羊子。光太郎と交流のあった詩人で、そのあたりも記述して下さいました。

確認できている鈴木と光太郎の関わりは、3点。

まず、記事にある詩誌『向日葵』。光太郎は大正13年(1924)の複数の号に、ベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記はヹルハアラン)の訳詩を寄せています。中にはヴェルハーレンが妻マルト・マッサンとの愛の日々を謳い『智恵子抄』所収の詩篇成立にも影響を及ぼしたと考えられる「午後の時」の一部も。

それから、やはり記事にもありますが、昭和17年(1942)、鈴木の詩集『太陽花』に、光太郎が序文を寄せています。

そして、こちらは光太郎の名は寄稿者としては割愛されていますが、詩誌『太陽花』(詩集『太陽花』があって詩誌『太陽花』もあり、ややこしいのですが)。確認できている光太郎の寄稿は2回、そのうち昭和2年(1927)9月の第10号に掲載された「ブレエクのイマジネエシヨン」という散文は、『高村光太郎全集』に掲載されています。ところが、それに先立つ同じ年1月発行の第2巻第1号に発表された「栗色の顔をした野の若者よ」(ホイットマン詩の翻訳)、これが幻の作品です。当該の号が神奈川近代文学館さんに所蔵されているのですが、その掲載ページだけ破り取られています。このブログを開設した頃、平成24年(2012)にその件を書きました

情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

ムーヴマンといふのは、文字通り、「動き」の事。動きの無い生物の無いやうに、ムーヴマンの無い、生きた絵画彫刻も無い。

散文「ムーヴマンとは何か?」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「ムーヴマン」は仏語の「 Mouvement」。光太郎が考えた「動勢」の語が訳語として広くあてられています。静物画でも、風景画でも、優れた作品にはそこにそれが感じられるとのこと。逆にどんなに激しいポーズを取っていても、それが感じられない死んだ彫刻もあるとも。

わかるような、わからないような、ですが(笑)。

講談社さんの月刊コミック誌『アフタヌーン』に、平成25年(2013)から連載され、ある意味、「文豪」ブームの火付け役となったとも言える、清家雪子さんの「月に吠えらんねえ」。今年の9月号で最終回を迎え、コミックスの最終巻である第11巻が発売されました。

月に吠えらんねえ(11)

2019年9月20日 清家雪子著 講談社 定価648円+税

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萩原朔太郎作品から生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた「犀」など、詩人本人ではなく作品のイメージをキャラクター化。詩人たちが暮らす近代市□(シカク/詩歌句)街に住む詩人の朔くんは、本人は自覚なく□街の神として町を詩人の理想の土地として管理していたが、知らずにその神の力で詩壇の師匠の白さんに強く働きかけ、自分の男性・詩人としての理想を白さんに具現化してしまっていた。ある時、□街に出現した愛国心の一表出である「縊死体」は朔くんに取り憑くが、それは戦争を悔いるあまりに愛国心までも否定しようとする戦後の日本の総意識に対抗するためであった。縊死体に侵食され一体化した朔くんは変質した白さんと複雑に影響を与え合い、神としての力が白さんにも流れ込み、白さんは二体に分裂。ひとりは新しい神として□街を守り、ひとりは男性として女性化した朔くんと結ばれるが、縊死体、戦争翼賛文学までも愛国心として認める白さんが守る□街を責める「戦後の日本の総意識」の攻撃は激化する。朔くん、白さん、戦場巡りで戦争の悲惨さを経験させられた犀の選択とは。第20回文化庁メディア芸術祭マンガ部門・新人賞を受賞した近代詩歌俳句ファンタジー、ついに完結!


光太郎と智恵子をそれぞれイメージ化した「コタローくん」「チエさん」、第2巻第4巻で大活躍でしたが、その後、ちょい役ばかりでした。このまま作者にも忘れ去られたまま終わってしまうのかな(長編小説などでよくあるケースですが)と思いきや、最終巻で復活し、再び大きな役割を担わせて下さいました。

この作品、「結局、近代詩歌句とは何だったのか」という命題の元に、特に翼賛詩を書かざるを得なかった文士たちの姿を描いてきました。となると、やはり光太郎は外せませんね。

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戦後の連作詩「暗愚小伝」などを引用し、かなり的確に光太郎の内面が、リスペクトを保ちながら剔抉されています。

そして「チエさん」亡き後、「コタローくん」が作ったロボット「チエコさん」。

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ある意味、形而上的な詩歌に対する、実体を持つ形而下的なものの象徴とも捉えられるような気がします。最終巻では「コタローくん」たちが異世界から脱出する際に、「言葉」では為し得なかった大きな役割を果たします。


さて、『月に吠えらんねえ』、これを持って全巻完結。ぜひお取りそろえ下さい。今後、完結記念のなにがしかがありそうな気がしますので、注意しておきたいと思います。

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【折々のことば・光太郎】

あゝ綺麗だと言ふのは眼に訴へた感じ、穿つた所と言ふのは理知に訴へた感じ、また哀れつぽいなどゝ言ふのは情緒に引き入れられるので、この三つは真実(ほんたう)に芸術を鑑賞しようとする人には大きな妨げとなるものであります。
散文「絵を見る人の為めに」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

同じ文章で「すべて作品を見て何かしら強く感じられるもの――夫れは色彩の如く眼から来るものでもないし、理知に訴へた意味から来るものでもない、また情緒から来るものでもない、言はゞ一つの気魂が自分の精神も肉体もおびやかすといふやうな感じ、自分を何処か広やかな世界に誘ひ行くやうに思はせる、其様(そん)な感じを起こさせるものが宜(い)い」とも書いています。

光太郎がらみの雑誌系、3件ご紹介します。

美術の窓 2019年10月号

2019年10月20日 生活の友社 定価1,500円+税

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「平櫛田中、荻原守衛から現代まで 凄いぞ!にっぽんの彫刻」という特集が70ページほどで組まれています。サブタイトル通り、光太郎の父・光雲の高弟の一人である平櫛田中、光太郎の親友だった碌山荻原守衛がメインです。

田中の方は、小平市平櫛田中彫刻美術館長・平櫛弘子氏、同館学芸員で当方もお世話になっている藤井明氏、田中の弟子の彫刻家・橋本堅太郎氏による鼎談「ここが凄い‼ 平櫛田中」、守衛に関しては、中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」展ににからめ、学芸員の太田美喜子氏へのインタビュー「内なる生命を表現する 日本近代彫刻の父、荻原守衛」。

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また、「全国おすすめ彫刻美術館」という項では、花巻市の高村光太郎記念館さんを取り上げて下さっています。

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上記で奥付に従って発行日が10月20日としましたが、実際には9月19日発売で、既に店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


2件め、毎月ご紹介していますが。

月刊絵手紙 2019年10月号

2019年10月1日 日本絵手紙協会 定価773円+税
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2017年6月号から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載をなさっていて、今号は詩「美しき落葉」(昭和19年=1944)から。太平洋戦争中で、「鬼畜米英殲滅すべし」的な詩ばかり書いていた時期に、ふとエアポケットのようにそうした内容でなく書かれた詩です。もっとも、落葉を燃やして家庭菜園の肥料に的な記述もあって、まったく戦争と無関係ではありませんが。

絵手紙協会さんのサイトから注文可能です。


最後に、雑誌というわけではないのですが、光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手花巻市さんの広報誌『広報はなまき』9月15日号。

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「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という記事で、花巻高村光太郎記念館さんが所蔵する光太郎の硯と筆が紹介されています。

この項、以前にも光太郎のブロンズ彫刻「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)や、遺品の鉄兜と鳶口などを紹介して下さっています。

来週には花巻に参りますので、ゲットしてこようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

芸術の目から見れば、日本婦人の足の短いのも、仏蘭西人の腕が細くつても、それでいゝのです。自然の形には、それぞれに無量の面白さがある。完全なものばかりが美しいのではないと思ひます。

談話筆記「彫刻家のみた女の姿」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

留学からの帰国(明治42年=1909)には、日本女性の貧弱な体格を嘆く発言が多かったのですが、この頃になると少し考えを改めたとのこと。

市民講座系の情報を2件。

まずはカルチャースクールでの講座。東京北千住での開催です。

大正モダンの詩を読む

期 日 : 事前体験 2019年9月21日(土)
      本講座 2019年10月5日 10月19日 11月2日 11月16日 12月7日 12月21日
      (第一・第三土曜)

会 場 : よみうりカルチャー北千住 東京都足立区千住旭町42-2北千住駅ビル ルミネ9F
時 間 : 
15:30~16:40
講 師 : 詩人 評論家 吉川 睦彦氏
料 金 : 3か月 6回 15,180円(うち消費税額1,380円)

 大正ロマン・大正モダニズムなど、大正期の文化が見直されています。萩原朔太郎・高村光太郎・山村暮鳥・中原中也など、大正から昭和初期にかけて活躍した詩人たちの名作を、初めて詩作品に接する人にも親しんでいただけるように、その面白味をわかりやすくていねいに解説しながら、皆さんとともに楽しく味わってゆく講座です。
 人生100年時代といわれて、今後は「生」の質を問われる時代になってゆくだろうと考えます。名作は時に生きる意味や不条理を問いかけ、ときに慰めや生きる勇気を与えてくれます。詩を通してより豊かな生活を送れるようなってくだされば、これに勝る喜びはありません。
  事前よみカル体験9/21(土)15:30~16:40受講料1080円

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続いて、立川市から単発の講座。

アイム市民企画活動事業「詩と歌詞で読む出会いと別れ 第2弾~作者の心・日本の四季~」

期 日 : 2019年9月26日(木)
会 場 : 立川市女性総合センター・アイム 東京都
立川市曙町2-36-2
時 間 : 13:30~15:00
講 師 : 伊藤眞理子氏(コミュニケーションスキルアップ講師)
料 金 : 無料

詩と歌詞の朗読力を学び、楽しく鑑賞しましょう!! 作品の背景・時代・作者の想いを学びます。
 詩「私が一番きれいだった時」 茨木のり子  「朝は来る」・「秘密」 柴田トヨ 
  「さよなら」 谷川俊太郎         「レモン哀歌」 高村光太郎
  「私と小鳥と鈴」 金子みすゞ       「悲しめる友よ」 永瀬清子 等


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それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人の魂をそのままぶちまけ、 身を以てせまり砕けたベルリオ。 天然の筋骨をそのまま捉へた鉄腕のベルリオ。 天の火を下界にまきちらし、 ひくめられた人情の窖(あなぐら)をふみ破つて、 崇高の青空をあらゆる人に再び得させたベルリオ。

詩「ベルリオの一片」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「ベルリオ」はフランスの作曲家、ベルリオーズ(1803~1869)。この詩はのちに「ラコツチイ マアチ」と改題され、内容も大幅に改訂されました。「ラコツチイ マアチ」はハンガリーの民謡をモチーフにしたもので、歌劇「ファウストの劫罰」(1846初演)中の一片として作曲されています。

光太郎びいきの当方としては、上記引用部分の「ベルリオ」を「光太郎」と読み替えたいところです。

3件ほど。

まずは『日本経済新聞』さんで先週の記事です。長いので抜粋で。

〈詩人の肖像〉(7)中村稔 曇りなく歴史を見つめる

弁護士でもある中村稔が、学生時代に詩を発表003してから、すでに70年以上がたった。自然の表情に自らの心情を投影させる端正な叙情詩で、独自の世界を築いた詩人は、近代の詩人や作家の評論にも、多くの筆を割いてきた。92歳になった今も、執筆意欲に衰えはない。

この夏には、3冊の新刊を出した。評論『高村光太郎の戦後』、エッセー『回想の伊達得夫』、それに詩集『むすび・言葉について 30章』(いずれも青土社)である。
「弁護士の仕事の負担が減ってきたので、執筆に費やす時間がとれるようになりました」と言うが、気力がなければ、到底続けられる仕事ではない。今回の高村光太郎論は原稿用紙にして860枚。昨年刊行した大著『高村光太郎論』(青土社)に続く光太郎論で、前著にはなかった見方を打ち出している。
(略)
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「高村光太郎は、萩原朔太郎とともに現代詩の父であり、母でもある詩人。どうしても改めて論じ直しておきたかった」。その思い入れは深い。中学時代に初めて光太郎の詩に触れ、1941年に龍星閣から出た詩集『智恵子抄』は、新刊で読み、感銘を受けた。戦後は、弁護士としても思わぬ形で光太郎に関わった。『智恵子抄』の著作権登録をめぐって争われたいわゆる『智恵子抄』裁判に、73年以来20年間携わった。編集著作権があると主張した龍星閣主人に対し、
光太郎自身が編集したとする高村家側の代理人弁護士として、勝訴の判決をもたらした。「亡き光太郎のため」を思って奮闘した20年だった。
2冊の評論では、光太郎の詩を丁寧に読み解きながら、その生涯を厳しく見つめている。たとえば、『智恵子抄』は精神を病み、肺結核で亡くなった智恵子への純粋な愛の詩集として長く読み継がれてきたが、前著で中村は、夫婦生活でも芸術第一に考え、智恵子へのいたわりが足りない光太郎の姿勢を問題にした。真の画家をめざした智恵子が精神を病んだのは、光太郎のそんな態度にも原因があったと見る。さらに戦時中に書いた光太郎の戦意高揚の詩編には、「高村光太郎の罪責は重い」と仮借無く批判している。
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一方、新刊の『高村光太郎の戦後』で、変わった点もある。光太郎が戦後書いた詩集『典型』の詩の評価について、これまでの考えを改めたのである。愚かな自分の半生を振り返る「暗愚小伝」を含むこの詩集について、前著までは「弁解の詩ばかりではないか」と厳しい見方を示していたが、後者では、弁解は多いものの「心をうつ作品がいくつか確実に存在する」と変わった。「『典型』の読み方が浅かったんです。1年ほどで考えを変えるのは、恥ずかしいけれど、書かなくてはならないと思った」と話す。92歳にしてこれまで自分の考えが至らなかったことを率直に認めている。
(略)

同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。調べてみましたところ、宮川氏、平成28年(2016)にも同紙で中村氏の近況レポート的な記事を書かれていました。そのアンサー報告的な感じです。

中村氏が昨年刊行された『高村光太郎論』、今年5月に出された『高村光太郎の戦後』について述べられています。


続いて昨日の『毎日新聞』さん。こちらも長いので抜粋で。

わくわく山歩き 徳本峠 いにしえの道たどる 柏澄子

 徳本峠と書いて、「とくごうとうげ」と読む。日本有数の山001岳観光地となった風光明媚(めいび)な上高地にある峠。上高地へ向かう自動車道は、上高地を流れる梓川沿いに走る国道158号。それがやがて、上高地公園線へと続いていく。1933年に開通した。現在は、通年マイカー規制をしているので、その区間は、特定のバスやタクシーなどに乗車しアプローチするが、この道が開通する以前は、徳本峠を越えて、上高地へ入っていた。
(略)
 明治に入ると、山に登る者たちも、徳本峠を越えるようになった。なかには、イギリスの宣教師であり幾つもの日本の山を登ったウォルター・ウェストンや、志賀重昂、高村光太郎・智恵子夫妻、芥川龍之介といった、上高地を愛した文豪たちもいた。そして、大正12
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(1923)年、徳本峠小屋が登山者に向けた山小屋として営業を始めた。 上高地や槍・穂高連峰が、登山者でにぎわい始めたころである。
(略)
 明神岳のたもとにある
明神池と穂高神社奥宮、誰よりも上高地を知り尽くした猟師であり山案内人だった嘉門次の小屋。上高地の歴史と自然を知るビジターセンター、文豪たちが愛した上高地温泉やウェストンのレリーフなど、知的好奇心も満足させてくれる。

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山岳ライターの柏澄子氏による上高地の紹介です。大正2年(1913)、光太郎智恵子がこの地で婚約を果たしました。

当方、残念ながら未踏の地です(そのくせ山岳雑誌『岳人』さんに
高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただきました(笑))。河童橋やらのバスで行けるエリアであればあまり苦もなく行けるのでしょうが、光太郎智恵子の歩いた徳本峠のクラシックルートとなると、不案内な身ではなかなか足が向きません。いずれは、と思っております。


最後に『宮崎日日新聞』さん。少し前ですが、先月23日の「ことば巡礼」というコラムです。ご執筆は
文芸評論家・細谷正充氏。

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」 「道程」

 高村光太郎(1883〜1956年)には、有名な詩が二つある。一つは、「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる「あどけない話」。そしてもう一つが、標記の文章で始まる「道程」だ。
 この詩は「ああ、自然よ父よ」と続き、自然を父親になぞらえているように読める。周知の事実だが、光太郎の父は、上野公園の西郷隆盛像の制作者として知られる彫刻家の高村光雲だ。自身も彫刻家であった光太郎にとって、父が大きな存在であったことは、容易に察せられる。そのような思いが、この詩には込められている。
 というのは私の勝手な解釈だが、それほど外れてはいないと思う。高名な父を持った息子の人生には、それゆえに厳しいこと、つらいことがあったはずだ。だが、誰だって生きることは厳しくつらい。標記の文章が真理だからだ。
 この地球に生きるすべての人間が、明日、自分がどうなるかを知らずにいる。未来は常に不定形だ。最期の瞬間に、人生という道程を振り返り、歩いてきた道を確認した時、初めて自分の選択が正しかったか、間違っていたのか判明する。そのことをみんな分かっているから、この詩は多くの人の心を、引きつけるのだろう。


講演等で「道程」に触れる際にはいつも申し上げていますが、この詩は大正3年(1914)の作、つまり100年以上前の作品です。しかし、現代に生きる我々の心の琴線にしっかり響いてくるものです。未来永劫語り継がれてほしい作品です。


【折々のことば・光太郎】

行く末とほき若人(わかひと)の ここにもひとりうらぶれて 室(へや)に散り布(し)く鑿の屑 噛みては苦(にが)き世を嘆くかな

詩「なやみ(若き彫刻家のうたへる)」より
 明治35年(1902) 光太郎20歳

現在のところ確認できている最も早い詩作品です。文語定型の習作的なもので、いい出来とは言えませんが、彫刻制作を題材にしている点、「道程」にも謳われている父・光雲との彫刻観の相違から来る齟齬などが背景にあることなどが注目に値します。


定期購読している雑誌から。

まずは毎月ご紹介しております『月刊絵手紙』さん。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は昭和28年(1953)に書かれた評論『書の深淵』の一節です。


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曰く、

われわれは書の意味を忘れることが出来ない。天と書いてあれば、まずスカイとよむが、外国人ならただ四本の線の面白い組み合わせ、書かれた線と空白との織り成す比例均衡の美だけを見るだろう。書の制限から解放せられて、自分でも自由自在な抽象美を創り出すことの出来る芸術境に進むことが無理なく行われるであろう。その点われわれにとっては相当の無理と抵抗とに悩むことになるであろう。

晩年、書に並々ならぬ関心を寄せ、書の個展を開くことまで夢想していた光太郎ならではの書論です。書は書かれている文字の意味抜きには成立せず、さりとて造型性ももちろん重要。詩での言葉による芸術と、彫刻で造形芸術とを極めようとした光太郎、その二つを融合させたところに「書」のありようを見ていたのかもしれません。


続いて『日本古書通信』さん。

元慶應義塾大学教授の田坂憲二氏による「古田晁記念館のことなど JR五
路線で巡る信州路」という記事が載っています。

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光太郎や、当会の祖・草野心平と交流の深かった、筑摩書房さんの元社長の故・古田晁を顕彰する古田晁記念館さん(長野県塩尻市)、そして安曇野市の碌山美術館さんのレポートです。

古田晁記念館さんには、筑摩さんの社長室に永らく飾られていたという高田博厚作の光太郎像(昭和34年=1959)や、心平の書画(昨年、山梨県立文学館さんで開催された企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士山をうたう。」にも展示されました)などが並んでいます。残念ながらそのあたりの記述がありませんでしたが。

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碌山美術館さんの方は、現在開催中の企画展「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」についてでした。こちらでも光太郎についての記述がなかったのが少々不満ですが(笑)。


『月刊絵手紙』さん、『日本古書通信』さん、よく言えばいずれも派手さのない堅実な、悪く言えば地味な雑誌ですが、末永く続いていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

私は此の哄笑の中に含まれるもの、又此の含まれるものから起る哄笑のひびきに対する同感から敢て此の翻訳を世に送るのである。

雑纂「訳書『リリユリ』序文」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

『リリユリ』は、大正8年(1919)に刊行されたロマン・ロランの短い戯曲です。ロランの作の中ではあまり有名な作品ではなく、なぜわざわざこれを翻訳し、単行本化までしたのかというと、例え短いマイナーな作品であっても、そこに見るべきものがちゃんとあり、有名か否か、大作かどうかを判断の基準にすべきでないという光太郎の姿勢が反映されているからです。

同じ文章での『リリユリ』評。

「リリユリ」はむしろロマン ロランの主要な著作には属せないものである。偉大な交響楽にも比すべき小説「ジヤン クリストフ」、「ラアム アンシヤンテ」などの間に挟まつて、あの快活極まりなき「コラ ブリユニヨン」と共に、そのゴオル精神の奥底から迸出した気魄に満ちた好個の小さな一中間曲である。

なるほど、音楽に例えるとわかりやすいかもしれません。




都内からイベント情報です。

宮澤賢治123生誕前夜祭 宮澤和樹氏講演会

期    日 : 2019年8月26日(月)
時    間 : 19:00~20:30
会    場 : 紀伊國屋ホール 東京都新宿区新宿3丁目17-7
料    金 : 1000円(消費税含む)

今もなお語り継がれ、愛され続ける宮澤賢治。今年の8月27日には生誕123歳を迎えます。人形劇団プーク創立90周年記念公演「オッペルと象」に先立ち、前夜祭を開催いたします。賢治の実弟、宮澤清六さんのお孫さんである宮澤和樹さんをお招きし、清六さんから聞いた賢治の素顔をお話頂きます。賢治に想いを馳せながら、和やかなひとときを一緒に過ごしましょう!

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当方、和樹氏のご講演は、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれました。そこで、和樹氏、宮澤家に疎開していた頃の光太郎のエピソードもご紹介下さいました。


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左端が政次郎、隣が光太郎、その隣は賢治の主治医にしてやはり光太郎を寄寓させてくれた佐藤隆房、後ろで立て膝の状態にいるのが清六です。

和樹氏、あちこちでご講演をなさっていますが、それらの報道等を読むと、どうもご講演の内容、おおむねフォーマットが定まっているようで、今回も宮澤家で厄介になっていた頃の光太郎に触れていただけるような気がします。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

自分自身のことは、やはり自分のそのときやりたいことを目茶苦茶にやる以外に、それがどういうふうな形で現れてくるか、その場にならんとわからん。だから、却つて自分ではこういうふうにしてゆくだろうということは考えられない。また考えちや面白くない。

対談「芸術について」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

余命4ヶ月という時点での発言です。

確かに光太郎、詩「道程」にあるように、自らの道を切りひらいていこうという姿勢は常に持ち続けていましたが、その道がどこにどういう風に続いている、と、長いスパンで物事を考えることは苦手だったようです。その結果、俗世間と極力交わらない芸術精進の生活を強いて智恵子の心の病を引き起こしたり、戦時には翼賛詩文を大量に書き殴って多くの前途有為な若者を死地に追いやったりしたということなのでしょう。

しかし、その都度、しっかりと反省し、再び立ち上がって方向転換をしたという意味では、精神力の強さを感じます。

しばらくこの系列、ご紹介しないでいたら溜まってしまいました。2回に分けてご紹介いたします。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。8月9日(金)に行われた第28回女川光太郎祭について報じて下さいました。系列の『石巻かほく』さんでは既報ですが、同じ記事ではありませんでした。

高村光太郎しのび詩を朗読 戦前に訪れた女川で祭り

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ光太郎祭が、同町のまちなか交流館であり、県内外から約60人が参加した。
 「女川・光太郎の会」が主催。朗読の部では、光太郎が女川漁港の様子を記した紀行文や詩集「道程」などの詩を、女川小の児童ら15人が読み上げた。
 朗読に先立つ講演では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の晩年の姿を紹介。終戦直後から7年にわたって花巻市の山荘に暮らした光太郎の心理を解説した。
 小山代表は一連の戦争を賛美する詩を書き連ねたことに罪の償いの思いがあったと説明し「(あえて)不自由な山奥を選んだ。彫刻家の自負もあったが、行いへの反省から一度も彫刻を作らなかった」と述べた。
 光太郎は1931年に時事新報社の依頼を受け、石巻から宮古までを旅した。91年には女川港近くに、光太郎来訪を記念する文学碑が建立された。光太郎祭は92年に始まり、今年は9日に開催された。

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当方の講演についても的確にご紹介下さり、ありがたいがきりです。


続いて、『日本経済新聞』さん。終戦の日の掲載でした。

「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった

8月は「戦争」がメディアにあふれる季節であ000る。いわゆる「8月ジャーナリズム」だが、あの惨禍と過ちを記憶する記号として、やはり「8.15」の意味は大きい。令和の時代にも、決してゆるがせにはできぬ日付だ。
もっとも、そこには落とし穴もある。この日付だけで戦争を振り返ると、軍部や政治家が暴走して続けた戦争に、多くの日本人が「巻き込まれた」という被害者イメージが強まるのである。
前線での玉砕と餓死。本土空襲。沖縄戦。原爆投下。人々は戦争に疲れ果て、食糧を求め、死におびえた……。太平洋戦争末期は、たしかに国民は過酷な運命に従うほかなかっただろう。
しかし、前史を忘れてはいけない。別ののぞき窓から戦争を眺めるとき、相貌は大きく異なるのだ。たとえば、37年に日中戦争が起きた当時はどうだっただろう。
北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突したのは7月7日。戦火は上海にも移り、本格的な戦争が始まった。政府は8月15日に「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明を出す。暴虐な中国を懲らしめるという意味だ。のちの敗戦の8年前の「8.15」である。
このときの世論の沸騰ぶりはただならぬものだった。
「もはや躊躇(ちゅうちょ)する猶予なしに徹底的にガンとやってもらうことです」「徹底的に支那軍を膺懲の要あり」「この際、行くところまで行ってもらわぬと困る」「皇軍の精鋭よ、徹底的に東亜の禍根を一掃せられよ」
文芸春秋社が発行していた雑誌「話」の同年10月号の記事「日支事変に際し政府に望む」に並んだ読者の声である。「膺懲」という言葉が世に躍り、さかんに国民大会
が開かれ、戦勝の報が届くたびに提灯行列が街を埋めた。
文化人も積極的に戦争に加わっている。例を挙げれば林芙美子の従軍記「戦線」は、歌い上げるような戦争礼賛ぶりだ。かつての「放浪記」の作家は時局に大いに感じ入って従軍し、中国の国民政府が逃れていた新首都、漢口への「一番乗り」をやってのけた。
「戦線は美しい」と芙美子は称揚する。敵兵を「堂々たる一刀のもとに」斬り殺す場面にも「こんなことは少しも残酷なことだとは思いません」とつづる。従軍は朝日新聞社が全面的にバックアップ、芙美子は帰国するや講演に飛び回った。大ベストセラーになった「戦線」は戦後、封印された。
庶民も文化人も、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、なんと熱狂しやすい国民性だろう。もちろん、それをあおったメディアの責任もきわめて大きい。前線と銃後それぞれの、おびただしい数の「美談」が紹介され、人々は物語に酔ったのである。
この当時は戦時体制下とはいえ、物資はまだ十分に出回り、大衆娯楽も息づいていた。
「街には『露営の歌』だの『上海だより』だの軍歌調の歌謡がながれていたが、同時に『忘れちゃイヤよ』だの、『とんがらかっちゃダメよ』だのという歌も決してすたれたわけではなかった」。安岡章太郎は「僕の昭和史」でこう回想している。001
実際に、漢口が陥落した38年秋の雑誌をひもといてみても、消費を楽しむムードは消えていない。旅行雑誌「旅」の同年11月号には「旅は満州へ」「台湾へ」と読者をいざなう広告が載り、洋酒「ジョニー・オーカー」や「さくらフヰルム」が宣伝に努めている。
こんな日常のなかで、戦争は泥沼化していった。戦争とはある日突然始まるのではなく、日常と重なりつつ進んでいくものだということがわかる。行きづまりを打開しようと日本は対米英戦に突入し、またも世間は大いに留飲を下げるのである。
「この日世界の歴史あらたまる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる」。開戦を知り、高村光太郎が残した詩だ。ほとんどの国民が大本営発表に浮き立ち、勝った勝ったと興奮した。
そして、やがて迎えた「8.15」。こちらののぞき窓から眺める戦争は、ただただ悲しい。「暴支膺懲」の熱狂から8年、無一物となった日本人はようやく正気に戻るのである。熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない。
当時も、冷静な人はいた。日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎は「暴支膺懲」声明について、「独りよがりの声明。日本人以外には誰も尤(もっと)もと云ふものはあるまい」と日記に書きとめた。近衛文麿首相を指していわく「彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ。彼はダメダ」。
熱狂と歓呼は、しかし、そういう思いを押し流していった。さまざまなのぞき窓から歴史を眺めることで、教訓を深く胸に刻まなければならない。

引用されている詩はずばり「十二月八日」という詩です。毎年、12月8日になるとこの詩を引っ張り出してドヤ顔をする愚か者が者がいて閉口しています(笑)。逆に、明治松の留学から帰朝直後に書かれた、日本社会の旧態依然を批判する「根付の国」(明治43年=1910)をして「非国民の妄言」などと言う輩が今もいて、開いた口がふさがりませんでした(笑)。そういうやつばらこそ無言館さんに行って欲しいものです。


お次は『朝日新聞』さん。先月ご紹介した喜国雅彦氏著『今宵は誰と -小説の中の女たち-』が書評欄で取り上げられています。

(コミック)『今宵は誰と 小説の中の女たち』 喜国雅彦〈著〉 「妙にそそる」ヒロインが誘う読書

 登場人物が実在の本について語る“書評マンガ”とでも呼ぶべきジャンルがある。その主人公たちは基本的に読書家だ。しかし、本作の主人公の場合はちょっと違う。
 転勤で引っ越した日の夜、先住者が残していった文庫本を暇つぶしに読み始める。「小説なんて読むのは何年ぶりだっただろう」という非読書家の彼が、そこから読書にハマるのだ。その運命の一冊は、安部公房『砂の女』。シュールなストーリーもさることながら、「妙にそそる」ヒロインが彼を虜(とりこ)にしたのだった。
 以降、川端康成『眠れる美女』、三島由紀夫『潮騒』、ツルゲーネフ『はつ恋』、S・キング『ミザリー』など内外の名作を読(よ)み漁(あさ)る。共通点は印象的な女性が登場すること。彼女らが読後の夢にも登場し、もうひとつの物語を描き出す。その妄想力は、フェティッシュな男女関係描写に長(た)けた作者ならでは。主人公が居酒屋で出会った本好きの女との関係も絶妙だ。
「これは……エロ小説じゃないか!!」といった主人公のピュアな感想、身もフタもないツッコミに苦笑する一方、太宰治『女生徒』をツイッターになぞらえるなど鋭い分析も。権威や世評に囚(とら)われない偏愛的読書ガイドである。
 南信長(マンガ解説者)

評では触れて下さいませんでしたが、光太郎の『智恵子抄』も取り上げられています。

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明日は『福島民報』さん、『山形新聞』さんなどからご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

別に運動するのなんのつていうのでなく毎日ただ気をつけるだけで、無理しないこと、それから睡眠をよくとること、それから食物で、自分の体に肥料を与えること。あとは日光にあたり水を吸い込んで植物とおんなじ生活をすりや人間はいいんです。

対談「芸術と生活」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎流の健康法です(笑)。

長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さん。000今月、一面コラムで立て続けに光太郎の名を出して下さっています。

まず、8月9日(金)。

2019.8.9 みすず野

山が好き、本が好き、音楽が好き、映画が好き、野球が好き、旅行が好き...何が好きかは本当に人それぞれだと感じるが、好きになる原点のようなものは、大概少年少女期にあるのでは◆山が好きというか、高い山に登りたかった。少年時代、中央アルプスの山稜と、南アルプスの遙かな山並みを眺めて育ったので、いつかあの山の頂に立ってみたい、と思った。それは北アルプスにも通じる思いで、北アには学生のころと、本紙で連載を企てた40代前半に登り歩いた。北アの玄関口はご存じ上高地。上高地の魅力は幅が広く、奥が深く、自然景観にとどまらない◆新刊『名作で楽しむ上高地』(大森久雄編、ヤマケイ文庫)を紹介され、いま手元にある。かのウェストンから小島烏水、辻村伊助、窪田空穂、芥川龍之介、若山牧水、高村光太郎、尾崎喜八、北杜夫、串田孫一、穂苅三寿雄・貞雄、松本市在住の三井嘉雄さんまで、おのおの上高地をつづった"佳作"ぞろい◆以前読んだり、触れたりしたものが多く、懐かしい。上高地や北アを登り歩く機会は失われたが、山好きは変わらない。この夏、本で楽しみ、味わうことにしよう。


6月に刊行された大森久雄氏編、山と渓谷社さん刊のヤマケイ文庫『名作で楽しむ上高地』が紹介されています。


続いて、昨日。

2019.8.15 みすず野

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくも御自ら(中略)玉音をお送り申し上げます」。このあと、戦争の終結を告げる天皇の声が、独特の抑揚を伴って流れ、ラジオの前に集まった国民は、太平洋戦争が終わったことを知らされた◆昭和20(1945)年8月15日の正午過ぎ。悲喜こもごも、国民の受け止め方は立場、年代によってさまざまだった。作家の高見順は「遂に敗けたのだ。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」と「敗戦日記」に記している。詩人で彫刻家の高村光太郎は、岩手・花巻にいた。故宮沢賢治の縁で、賢治の弟宅に疎開していた◆戦後、ほとんどの文化人が東京に戻るが、光太郎は花巻郊外の山小屋に引きこもり、孤独でつましい農耕自炊生活を69歳まで7年間続けた。戦時中、戦争詩をたくさん作り、国民を鼓舞し続けたことに痛く責任を感じ、自身にその生活を課した。「小屋にいるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。」◆敗戦から74年。時代は昭和から平成、そして令和に。いかんともしがたい時の流れとはいえ、きょうという日は必ずめぐり来る。不戦の誓い新た。


令和となって初の終戦記念日ということで、各種メディア、例年より取り上げ方に熱が入っているように思われました。『週刊朝日』さんでも「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事で、光太郎に触れて下さいました。

終戦の日の光太郎についてはこちら008

不戦の誓い新た。」まさにその通りですね。

【折々のことば・光太郎】

白髪三千丈ビールによつてかくの如く美し

短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

現在も続くビアホール、ニユートーキヨーさんのために書かれた色紙から。

「白髪三千丈」は、中国唐代の詩人・李白の詩からの引用です。

現在発売中の『週刊朝日』さん。

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2ページの短いものですが「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事が載っています。

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写真は載っていませんが、小見出し的に「五体をうたれるショックを受けた高村光太郎」。

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8月17日、『朝日新聞』や『岩手日報』に掲載された、詩「一億の号泣」に関し、光太郎の動向。その後の7年間の蟄居生活にも触れられています。

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「市内の鳥谷崎神社」とありますが、昭和20年(1945)当時はまだ花巻に市制が施行されていませんので、正しくは「町内」ですが。鳥谷崎(とやがさき)神社、「一億の号泣」についてはこちら

光太郎以外に取り上げられているのは、永井荷風、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、高見順、武者小路実篤、井伏鱒二、三島由紀夫、川端康成、太宰治、佐藤春夫、吉村昭。
いかにもその人らしい、と思われるエピソードもあれば、意外な感のするそれもあり、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩とは不可避なり  短句揮毫  戦後

画像は昭和23年(1948)、詩人の真壁仁に贈った書。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書いた光太郎。「不可避」の語は他にも好んで使用していました。会話の中では口ぐせ的に「やみがたい」という語をよく使っていたそうですが、「不可避」と通じる部分が在るように思われます。

「不可避」一語の揮毫も存在しますが、『高村光太郎全集』の「短句」の項では、基本的に一語のみのものは登録されていません。

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光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 

コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」

期 日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時 間 : 午前10時~午後6時
場 所 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
料 金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?

右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。
 
現在も複数の揮毫が遺されています。
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