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少し前ですが、今月7日『読売新聞』さんの高知版から

岡本弥太しのぶ朗読 香南で児童ら 一絃琴の演奏も

 香南市香我美町出身で、「南海の宮沢賢治」とも評される詩人・岡本弥太(1899~1942年)をしのぶ行事が6日、出身地近くの峯本神社であり、児童や住民ら約30人が、詩を朗読するなどして功績をたたえた。
 地元で教職に就きながら詩作を続け、生前に発表した詩集「瀧(たき)」が注目された。 同神社には、高村光太郎揮毫(きごう)の詩碑があり、命日(2日)に近いこの日の式典には、四女の藤田泰子さん(85)や孫の岡本龍太さん(62)らが参列した。
 龍太さんは、弥太をみとった弟子の随想を紹介。地元の香我美小児童が、代表作「白牡丹図」「ふゆの月」を一絃(げん)琴の演奏や朗読で披露した。高知高専の佐藤元紀講師(37)は、両作品について、時の流れを客観的に見ていることや、苦しい生活の中でも無邪気な幼子への哀切が表現されていることなどを解説した。
 実行委の松山繁副委員長(84)は「短い生涯に残した多くの功績を、若い人に継承したい」と話した。
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3年前にも同じイベントの記事が『読売』さんに出て、ご紹介しました。毎年開催されているようですが、光太郎の名が出ないとなかなかこちらも気付きません。

岡本は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、記事にもある生前唯一の詩集『瀧』を贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。その記憶があったのかどうか、没後5年経った昭和22年(1947)、高知に岡本の詩碑が建立されることとなり、光太郎がその代表作「白牡丹図」を揮毫しました。
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上記は20数年前、この碑を見るためだけに羽田から高知へ飛び、撮ってきた画像です。ちなみに帰路は高知から伊丹空港へ。大阪市の御堂筋に寄って光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像の為の中型試作」(「みちのく」と題されています)を新幹線で見て帰りましたが。

光太郎が他者の作品を揮毫し、碑になったものは、この碑と花巻の宮沢賢治詩碑(「雨ニモマケズ」碑)しか現存が確認できていません。その他、かつて栃木県に佐藤隆房の短歌を刻んだ歌碑がありましたが、地元の無理解のため撤去されてしまいました。白牡丹図碑は地元でも大切にされているようで、ありがたいことです。

碑のある峯本神社さんでのイベント以外に、「岡本弥太詩賞」の表彰式も、同じ日に行われていました。こちらは『高知新聞』さんから

岡本弥太詩賞 吉岡さん(福岡市)峯本神社で弥太祭も 香南市

003 香南市香我美町岸本生まれの詩人、岡本弥太(1899~1942年)をたたえる「岡本弥太詩賞」の表彰式が6日、岸本防災コミュニティセンターで行われた。特選には吉岡幸一さん(55)=福岡市=の「砂浜」が選ばれた。
 岡本弥太は教職の傍ら詩を詠み、32年に出版した生前唯一の詩集「瀧」は中央詩壇で高い評価を受けた。詩賞は2017年に創設され、今回は全国から244作品の応募があった。
 表彰式では、受賞者が作品を朗読。特選作は、一人の男が海岸で砂粒を一粒ずつ、いとおしい人の骨を拾うように拾っては透明な瓶に落とす情景を描写。吉岡さんが静かに詠み上げた。
 この日は近くの峯本神社で弥太の命日(2日)に合わせた「弥太祭」もあり、約30人が参加。地元児童による詩の朗読や、一絃琴の演奏で弥太をしのんだ。弥太の孫の岡本龍太さん(62)=高知市=は「地元の方々も毎年よくしてくれてありがたい。これからも弥太の研究を続けたい」と話していた。
 その他の主な受賞者は次の皆さん。
▽一般の部奨励賞=空見タイガ(大阪府)▽学生の部奨励賞=河渕真菜(高知市)

各地で行われているこうした先人の顕彰を旨とするイベント、当会主催の連翹忌にしてもそうですが、マンネリとの戦いという部分もありますし、さりとて途切れさせるわけにも行かずですし、頭の痛いところですね。特にコロナ禍の昨今、もはや会食を伴う形での開催は難しくなっています。連翹忌のありかたも考え直す時期なのかも知れません。皆様のご意見を賜りたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢家、院長さん等皆して見送り。


昭和20年(1945)10月17日の日記より 光太郎63歳

佐藤隆房邸に約1ヶ月厄介になったあと、いよいよ郊外太田村に移った記述です。ここからまた1ヶ月は山口分教場に寝泊まりし、鉱山の飯場小屋を移築してもらった山小屋(高村山荘)の整備にかかりました。
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フェイスブックで広告が出ていまして……

レモン哀歌 ロングスリーブTシャツ

突っ込みどころ満載のワンフレーズシリーズです。

アイテム本体 ロングスリーブTシャツ 5.6オンス
素材・材質  綿100%(ミックスグレーのみ:綿90%・ポリエステル10%)

定価2,340円+税(一部カラーでは、発色をよくするために下地に白インクを用いるので価格が高くなります。)
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ロングスリーブTシャツの他に、パーカー、半袖Tシャツなども。また、「ガリリと噛んだ」レモン哀歌以外にも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」シリーズも。
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こちらは「SUZURI」さんというサイトでの提供商品。少し前にご紹介したサコッシュなどもそのようですが、個人でデザインし、作成・販売が出来る「無料オリジナルグッズ」的なもののようです。

突っ込みどころ満載」、確かにその通りですね(笑)。突っ込まれる勇気のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后二時花巻病院の災害時に敢闘せし職員の表彰式に出席 昨日書きたる詩を朗読す。

昭和20年(1945)9月5日の日記より 光太郎63歳

災害」は8月10日の花巻空襲、「昨日書きたる詩」は「非常の時」です。

光太郎の疎開に一役買った佐藤隆房が院長を務めていた総合花巻病院では、医療従事者達が自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たり、のちにその話を聞いた光太郎はその奮闘を讃え、詩「非常の時」を贈りました。今年、その内容がコロナ禍に立ち向かう医療従事者にかぶるということで、今年また注目を集めました。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』。月2回の発行です。今月15日号で、8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

賢治さんのまちづくり 第93回 宮沢賢治と高村光太郎

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、宮沢賢治と深いつながりを持つ人物です。今回は二人の縁について紹介します。
 賢治の作品で生前に発刊されたのは詩『春と修羅』と童話『注文の多い料理店の』2作品。このうち『春と修羅』を詩人・草野心平から薦められた光太郎は、その世界観に魅了され、以降文通により賢治や心平と交流を深めました。光太郎は、賢治の死後も「賢治全集」の編集や装丁のほか、花南地区にある「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫(きごう)などを行っています。
 昭和20(1945年)、東京の自宅兼アトリエを空襲で失った光太郎は、賢治の父・政次郎や弟の清六を頼って花巻の宮沢家に疎開しました。しかし疎開先の宮沢家も空襲で焼失。その後、光太郎は太田の小屋(高村山荘)で7年間過ごし、その間には地域の人々との交流もありました。
 道の駅はなまき西南は、高村山荘がある花巻西南地域に建てられ、8月7日にオープンしました。多くの人が立ち寄り、西南地域に新たなにぎわいを創出しています。
 一般公募により「賢治と光太郎の郷(さと)」という愛称が付けられた同施設。休憩スペースには、賢治と光太郎とのつながりが記されたパネルが展示されています。皆さんもぜひ立ち寄ってご覧ください。

【問い合わせ】本館賢治まちづくり課 (☎ 41-3890)
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また、今年一年の回顧的なページでも

▲道の駅「はなまき西南」がオープン

 西南地域に道の駅「はなまき西南」がオープンしました。同施設は道路利用者への安全で快適な道路環境を提供するほか、地域を支える拠点としての役割を担います。
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花巻方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。

花巻といえば、昨夜、花巻高村光太郎記念館の方から届いたメールに、昨日の同館周辺の画像が添付されていました。
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すごいことになっていますね(笑)。80㌢ほど積もっているそうですし、雪の重みで倒れた木も一本あるとのこと。「きっと光太郎は喜んでいるでしょう」ということですが、「冬の詩人」と言われる光太郎、その通りかもしれません。

【折々のことば・光太郎】

松庵寺にて一枚起請文をもらふ。

昭和20年(1945)8月23日の日記より 光太郎63歳

004松庵寺」は花巻市街にある浄土宗の寺院です。ほぼ毎年、光太郎はこちらで智恵子や父・光雲の法要を営んでもらっていました。そうした縁から、今年はコロナ禍で中止となりましたが、4月2日には花巻としての連翹忌を開催して下さってもいます。

この年にはずばり「松庵寺」という題名の詩も書かれました。

   松庵寺

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


境内には、佐藤隆房の揮毫によるこの詩の碑も建っています。

光太郎の手元に残された控えの詩稿欄外のメモ書きによれば、執筆は「昭和二十年十月五日下書、二十二年六月清書」。ところが、この年の松庵寺での法要は日記によると10月10日。そこで『高村光太郎全集』のこの詩の解題では、「制作の日付には疑問が残る」となっています。

しかし、謳われている情景が10月10日の法要ではなく、上記の8月23日のことであれば、10月5日執筆でも矛盾はありません。ただ、そうなると詩の中の「秋の村雨ふりしきるあなたの命日」と一致しません。智恵子命日(レモンの日)は10月5日です。8月23日では月命日とかにもなりませんし……。

やはり光太郎が日付を書き間違えたということなのでしょうか。または下書きと清書の間で、かなりの変更があったのかもしれません。8月23日、10月10日双方の出来事を一篇にまとめてしまったというようなことも考えられます。


福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です

「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは

000 木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
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 一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
 「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
 感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
 一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
 2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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 戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
 「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
 ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
 「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
 オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
 「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
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 今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
 一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
 <僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
 自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
 「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
 焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。

確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。

【折々のことば・光太郎】

太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。

昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳

この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。

「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さんのPR誌、第11号が届きました。
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これまでカタカナで「トンボ」だった題名が、ひらがなで「とんぼ」に変更。題字揮毫は堀津節子さん。月刊書道誌『不二』、『ペンの力』で手本を書かれているそうです。ご主人の故・堀津省二氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の教え子で、東大図書館さんにお勤めでした。当方が刊行を引き継がせていただいた『光太郎資料』の初期の頃、掲載記事の一部をご執筆なさったり、ガリ版印刷のガリ切りをなさったりした方です。

題字下の装画は、北川太一先生がご趣味として取り組まれていた版画。かつて先生は版画の個展も開かれていました。

内容的には、「特集 賢治童話と詩について」だそうで、宮沢賢治が大きく取り上げられています。
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賢治は光太郎とも交流があり、光太郎は戦時には宮沢家を頼って花巻に疎開した経緯もあり、北川先生のご子息・光彦氏は「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」という一文を寄せられています。
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さらに前号が北川先生追悼特集だったため、その感想等。
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当方も拙文「連翹忌通信」を連載させていただいております。ただ、当方は気まま勝手な内容で(笑)。今号は4月のこのブログでご紹介した、ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見について。美術史上、大変な発見ですので、少しでも機会があれば広めねば、と思ってこの件を書きました。
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ご入用の方は、文治堂書店さんまでご連絡下さい。一応、頒価500円+税ということになっています。

【折々のことば・光太郎】

日本の衣食住の今日の吾人の生活状態及心理状態に対して如何にも不合理なのを強く感じた。社会一般が皆不安定に見えるのも、日々此矛盾を各個人が忍んでゐるからだ。知らずに忍んでゐるのだ。人が物事を「間に合せて我慢」してゐる間は日本の真の文明は期し難い。


明治43年(1910)9月14日の日記より 光太郎28歳

いわゆる大逆事件での幸徳秋水や管野スガらの不当検挙、韓国併合などを念頭に置いての発言と思われますが、何だかコロナ禍の現代のことを言っているようにも読めます。

この年4月には、共に手を携えて日本に新しい彫刻を根付かせようと約していた、碌山荻原守衛が急逝したりもしています。

レジ袋有料化に伴い、マイバッグ持参の習慣がついた方も多いのではないでしょうか。

そこでおそらく新製品と思われるバッグ系。もちろんここで紹介するので光太郎がらみです(笑)。

まずエコバッグ

文学作品エコバッグ 道程モチーフ

高村光太郎の詩集『道程』の一節、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」をイメージしたデザインです🚶🏻‍♂️🛤 シンプルで使いやすさ抜群🌟

サイズは、縦33㎝×横28㎝。ファッション誌3冊程度が楽々入るサイズです📚 持ち手も肩にかけられる便利な長さ♪お値段は書店様によって異なりますが、約100円〜150円のお得な価格で多く販売いただいております!是非シリーズコンプしてください♡

発売元/文学の雑貨  
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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を英訳した「No way before me./A way behind me.」という文字がプリントされています。

他に、「ウォールデン 森の生活モチーフ」、「赤毛のアンモチーフ」、「銀河鉄道の夜モチーフ」、「ハムレットモチーフ」、「こころモチーフ」。それぞれかなりシャレオツですね。
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取り扱い店舗の一覧はこちら

続いて、一回り小さく、肩に斜めがけするタイプのサコッシュ

高村光太郎/智恵子抄/山麓の二人/わたしもうぢき駄目になる/サコッシュ

素材:綿100% キャンバス 280g/㎡
本体サイズ(mm) 300 × 230 紐の長さ(mm)  1,050 容量  0.7L
価格 ナチュラル/ライトグレー ¥2,530  ブラック ¥2,770
発売元/イニミニマニモ
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発売元のイニミニマニモさん、以前にもTシャツでご紹介していました。

その後も新商品を色々出されているようで、「山麓の二人」バージョン以外に「文学者ボックスロゴ 高村光太郎」バージョン、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る-座右の銘-」バージョンで、サコッシュ、トートバッグ、Tシャツ、パーカーなど、多くのラインナップが用意されています。中には持ち歩いたり身につけたりするにはちょっと勇気が要るかな、というものも(笑)。
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勇気のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

仕事しつつ自ら己れを見るにいかにしても天才とは見がたきのみか器用ともゆるしがたし。是非もなき事なれど口惜しからでやは。さもあらばあれ、勉めて止まず、倦まず撓まずすゝみゆかば遂には彼岸に達し得ん。否達せしめからざるべからず。

明治36年(1903)4月11日の日記より 光太郎21歳

光太郎の自己に厳しい性分は若い頃から如実だったのですね。

福島がらみで2件。

まずはイベント情報、当会の祖・草野心平を偲ぶ集いです。心平が亡くなったのは昭和63年(1988)の今日ですが、イベントは日曜日開催ということです。

没後33回忌 心平忌/第26回 心平を語る会

期 日 : 2020年11月15日(日)
会 場 : 草野心平生家(いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)・常慶寺
時 間 : 13時00分~15時00分
料 金 : 無料

⑴13時〜 墓前祭  読経後、常慶寺の心平墓前にて香華、焼香
⑵14時10分〜15時 心平詩の朗読と卓話

①朗読 緑川明日香氏   いわき市生まれ。幼少の頃を小川町で過ごす。高校時代に「放送劇」と出会い、声による表現に魅せられる。現在、地元いわき市を拠点に、朗読、ナレーションなど、声による表現活動を行っている。朗読講座講師。2018年、2019年、草野心平記念文学館にてサマーナイト朗読会出演。同年11月いわきゲリゲ祭りオープニングにて心平氏の詩を朗読。

②卓話 齋藤貢氏  いわき市在住。詩人、H氏賞選考委員、歴程同人。1954年福島県生まれ。茨城大学卒。1979年に教員となり、福島県立小高商業高等学校、福島県立郡山東高等学校の校長を歴任。詩集『奇妙な容器』(1987年 詩学社)で第40回福島県文学賞。詩集『夕焼け売り』(2018年 思潮社)で第37回現代詩人賞。他の詩集には『竜宮岬』(2010年 思潮社)『汝は、塵なれば』(2013年 思潮社)など。詩誌「歴程」「白亜紀」「孔雀船」「雛罌粟(こくりこ)」同人。現在はいわき短期大学非常勤講師、福島県現代詩人会理事長、福島県文学賞審査委員。
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詩の朗読が緑川明日香さん。以前から心平詩などの朗読に取り組まれていましたし、平成30年(2018)に二本松で開催された高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会にもご出場、優秀賞を受賞なさった方です。

「卓話」は「歴程」同人の齋藤貢氏。ちなみに平成28年(2016)には当方が務めさせていただきました。

今年もお伺いしたいところですがブッキング。二本松で開催される「智恵子講座2020」の講師を拝命しており、同日でした。残念です。

もう1件、テレビ放映情報。再放送ですがよく出来たドラマです

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件』

BSフジ・181 2020年11月13日(金) 12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
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初回放映は平成18年(2006)、繰り返し再放送されていますが、昨年9月以来のようです。原作は故・内田康夫氏

「ほんとの空」のある安達太良山麓・岳温泉が事件の現場の一つという設定になっていますし、ほど近い智恵子生家や岩手花巻の旧高村記念館でもロケが敢行されました。
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ご覧になったことがない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】008

美もつともつよし


短句揮毫 昭和20年(1945) 光太郎63歳

本郷区駒込林町のアトリエ兼自宅が空襲で焼失後、宮沢賢治実家の招きで岩手花巻に疎開する前日、近所に住んでいた画家・池田永治の求めに応じ、池田のチョッキの背に揮毫した文言です。

池田についてはこちら

バイデン氏優位と伝えられていますが、まだまだ予断を許さない米国大統領選挙。5日付の『東京新聞』さんが、一面コラムで光太郎詩にからめて論評なさっています

筆洗

米国大統領選挙を書こうと思うのだが、浮かぶのは高村光太郎の有名な詩である。<きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になつた>(「冬が来た」)▼長い選挙戦を振り返れば、かの国の「現在」の苦悩と悲しみをのぞかせた闘いだったといえるだろう。思い出すのは醜悪なテレビ討論会か。トランプ大統領が民主党のバイデン前副大統領の発言を何度もさえぎり、持論をまくしたてる、あの場面である▼思いやりはおろか敬意もない。あったのは意見を異にする者への憎しみと怒りだけである▼それ以上にうめいた光景は投票の前日である。商店がショーウインドーや店の入り口をバリケードでふさいでいる。選挙の結果によっては起きかねない暴動や略奪をおそれての準備らしい▼分断の時代と言われて久しいが、もはや、分断を超え、選挙戦の結果さえ受け入れられぬ敵意の時代に入ったのか。それはあまりに厳しい冬である。<きつぱりと冬が来た>。あのバリケードがひどい時代を迎えた人々の冬ごもりのように見えてしかたがない▼選挙戦は大接戦となった。小欄の締め切り時間までには、明確な勝敗は定まらなかった。<冬よ/僕に来い、僕に来い>。あの詩は冬を堂々と受け止める決意の詩だった。どちらが当選するにせよ、分断の冬をどう受け止めるか。悲しいことに春の予感はしない。
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光太郎と米国大統領といえば、リンカーン。光太郎はだいぶシンパシーを抱いていたようで、随筆等で繰り返し彼の名や事績をあげていますし、ずばり「エブラハム リンコン」という詩(大正12年=1923)も書いています。

初出は雑誌『RÔMA-JI』。当時流行っていたローマ字表記運動の雑誌で、したがって、ローマ字で発表されましたが、漢字仮名交じりの異稿も存在しますので、そちらを引用します。

  エブラハム リンコン

己(おれ)はとうとう大統領になつてしまつた。
今日は三月四日だが、
まだ少し寒い。
今かうやつて坐つてゐるのが、
小さい時から、お伽噺の御城でも見る様に、003
新聞の挿画でよく見た
あのホワイト ハウスだから驚く。
己は大統領になりたかつたのだらう。
候補者になつて、あんなに演説をして、
あんなに此の位置をのぞんでゐた
シワアドを追ひ越してまで、
とうとう此の椅子に坐つたのだからな。
だが、己は本当に大統領になる事を、
こんな立派な処に坐る事を、
こんなまぶしいGloriusな目にあふのを、
曾て心から望んだか。
NO! NEVER!
此に似たものを望んだが、
此は望まなかつた。
己が望んだものは、其では何だ。
己にも、今になると、よく分らない。
余り現実の形がはつきり迫つて来ると、
名のつけられない心の影が何処かへ、
一寸した処へ隠れてしまつて、
その癖、
この現実を本当と思ふにしては、
どうも、その影の方が本当すぎる。
見えない様で見えて、
捉まうとすれば捉めない。
別の事を熱望しながら、
うかうか上を見てゐたうちに、
いつのまにか、こんな着物を、
自分でも望んで着せられた事になる。
ああ、己は変にさびしい。

ケンタツキイの材木割り。004
帽子の中をオフイスにしてゐた
ニユウ サレムの郵便局長。
スプリングフヰルドの弁護士。
己は、其間に、何をした。
あたり前過ぎる事をしただけだ。
バイブルに書いてある事の中で、
己にわかるところ、
成程と思ふところを、
むしように欲しただけの事だ。
人間は誰でも同じ様に、太陽の
日を受けて生く可きものだといふだけだ。
あとは神様次第。
己が奴隷制度に反対するのが、
何で己の手柄であらう。
誰でも心に感じてゐる事を、
己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。
いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、
ただ良心を欲しがるだけだ。

南の人達が起す内乱はもう避け難い。
己のまはりに居るのは日和見(ひよりみ)ばかり。
軍人はみな弱い。
ただ頼みになるのは、
己と同じ様な、
あの、野山や町に居る只の人間。
まだ力と火とを心の中に持つ、
あの、己があんなに沢山会つた事のある人達だ。
己を「アンクル エエブ」といつてくれる
あの無邪気な兄弟達だ。005

ああ、演説の時間が来た。
それではみんなにしやべらう。
己のしやべる事にうそは無いが、
いつでも、しやべつてゐる事とまつたく違つた、
もつと奥の事がしやべりたくて、
そのくせ、しやべるとあれだけになつてしまふ。
今日はどうか、みんなに己の心が伝へたい、
この寂しい「アンクル エエブ」の平凡な決心が。


光太郎がリンカーンに心酔、とまではいかないのでしょうが、シンパシーを感じていたのがよくわかりますね。

画像は米国サウスダコタ州の「マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル」。明治39年(1906)に渡米した光太郎を助手として雇ってくれた彫刻家、ガットソン・ボーグラムの手になる巨大彫刻で、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンの4人の大統領の肖像です。

今年7月3日(金)の米国独立記念日に、トランプ大統領はここで演説をしました。その中で、コロナ禍拡大を抑えられなかったことには言及せず、昨今、南北戦争時代の南部連合(奴隷制度推進派)の人物の彫像が各地で撤去されている現状に対し、非難したそうです。刻まれている4人のうち、ワシントンとジェファーソンは、個人で多数の奴隷を所有していたことを踏まえての発言ですね。では、リンカーンに対してはどう申し開きをするのか、興味深い所です。
006
ところでトランプ氏、仮に再選したら、もしかするとこの画像のように、自分の肖像を5人目としてこの岩壁に刻ませるのではないかとさえ思えてきます。まるで、それが問題視されて追究を受けるまで平気で進めようとしていた、何処かの国の「○○○○記念小学校」のようですね(笑)。

さて、米国大統領選挙、どうなりますことやら……。

【折々のことば・光太郎】

国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない


散文「工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

昭和16年12月5日の『大阪毎日新聞』に載った、おそらく談話筆記。同月8日に予定されていた第二回中央協力会議での提案「工場施設への美術家の動員」の骨子です。結局この日は太平洋戦争開戦の日と重なったため、日程が大幅に変更され、光太郎の提案は為されずに終わりました。

昨日に引き続き、少し前に出た書籍を

140字の文豪たち

2020年7月20日 川島幸希著 秀明大学出版会 定価909円+税

漱石、鏡花、谷崎、芥川、太宰など文豪の魅力を、史実にもとづく知られざる言葉やエピソードによって紹介するツイッターの人気アカウント「初版道」。
その文学ツイートを作家別に再構成し、解説を書き加えた。巻頭には珍しい自筆原稿や署名本のカラー画像16ページを収録する。  
近代文学研究者で古書コレクターの著者にしか書けない空前の本。
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目次
 まえがき 太宰治ツイート 中原中也・宮沢賢治ツイート 梶井基次郎・川端康成ツイート
 芥川龍之介ツイート 佐藤春夫・菊池寛ツイート 萩原朔太郎・室生犀星ツイート
 志賀直哉・武者小路実篤ツイート 谷崎潤一郎・永井荷風ツイート 泉鏡花ツイート
 夏目漱石ツイート その他の文豪ツイート 文豪のいないツイート

川島氏は千葉県八千代市にある秀明大学さんの学長。近代文学初版本のコレクターとして知られ、『日本古書通信』さんに連載をお持ちだったり、こうして初版本などに関するご著書を出されたりしています。

また、かつては同大の学祭「飛翔祭」で、ご自慢のコレクションを公開。平成26年(2014)には『道程』の特装本が展示され、拝見して参りました。その後、同大近代文学展示館が開館、そちらでもコレクションの一部が閲覧可能です。

ツイッター上では「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したもので、最近、静かなブームの各種「文豪もの」とはまた異なる趣の内容です。

「初版道」では、時折光太郎に関するツイートがあり、本書にも載っているだろうと推理して購入したところ、「その他の文豪ツイート」で、やはり光太郎を取り上げて下さっていました。
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三好達治ともども、「イタ過ぎる」翼賛詩について。まさにお説ごもっともですね。
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『道程』について。ちなみに以前にも書いた記憶がありますが、国会図書館さんのデジタルデータに登録されている『道程』は、ここにある残部の改装版です。初版は大正3年(1914)ですが、国会図書館さんのものはその翌年。奥付にその旨が記載されていないので、そうと知らなければこれが初版と思いこんでしまうかもしれません。実際、ネット上などで『道程』の発行年を「大正4年(1915)」としてしまっている記述も眼にしたことがあります。注意が必要ですね。下の画像、左は当方手持ちの初版、右は国会図書館さんのものです。
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それにしても、賢治の『注文の多い料理店』が運動会の景品だったというのは驚きでした(笑)。

『道程』に関しては、巻頭のグラビアに画像も。
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表紙に「道程」の文字が見えないのでわかりにくいのですが、上から二段目、左から四冊目の、装画のない本がそれです。ちなみに一番手前の中原中也『山羊の歌』題字は光太郎揮毫です。

他の文豪の第一詩歌集ともども、「たとえ思想的に、あるいは技巧的に未熟であっても、その1冊に青春のすべてを賭けた著者の思いが、読者の胸に響く」。けだし、その通りでしょう。

その他、光太郎と交流の深かった文学者に関する「ツイート」がてんこ盛りで、興味深く拝読。目次にない「その他の文豪」の中には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子や、盟友・北原白秋も取り上げられています。

オンライン書店で販売中。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又、彫刻其のものよりも彫刻した図題そのものを貴ぶ様な傾きある今日の日本彫刻界の有様から考へてみると、其の自然に対する態度に於いて学ぶべき所がありはせぬかと思はれる。


雑纂「翻訳「ロダンといふ人(JUDITH CLADEL)」前書き」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

原典は、ロダンの秘書を務めたジュディト・クラデルによる『Auguste Rodin : l'oeuvre et l'Homme』で、明治41年(1908)にベルギーのブリュッセルで刊行されています。

ロダン語録という点では、のちの『ロダンの言葉』(大正5年=1916)に通じますが、なぜかこの訳は『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』(大正9年=1920)に組み込まれませんでした。

全国の新聞各紙から、掲載順に4件。

まず『岩手日報』さん。10月28日(水)の掲載でした。

光太郎夫妻 思い出の毛布公開 花巻でホームスパン展

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、2016年11月に見つかったホームスパンの毛布を企画展で展示している。光太郎(1883~1956年)が妻智恵子に懇願されて購入し、妻亡き後も愛用していた。2人の大切な思い出も包み込まれた毛布に、来場者はぬくもりを感じ取っている。
 11月23日まで。会期中無休。午前8時半~午後4時半。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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10/5に始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」に関してです。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。

会期半分ほど終わったところでこうして記事を出していただけると、これまで知らなかった皆さんが「こんなのやっていたのか」と足を運んで下さるケースがあるそうで、ありがたいところです。

続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。同じく10月28日(水)、短歌に関するコラムです

うたの泉(1391)

東京に<ほんとの空>はないといふ 今はほんとの夜ももうない/矢澤靖江(やざわ・やすえ)(1941年~)

 東京には<ほんとの空>がないといったのは高村智恵子。詩人高村光太郎の妻です。『智恵子抄』の中にある詩「あどけない話」を踏まえた一首は、「今はほんとの夜ももうない」と切々と歌います。コンビニエンスストアの24時間営業をはじめ、東京に限らず、全国各地から静かで真っ暗な「夜」がなくなってしまいました。便利な世の中にはなりましたが、何か大切なものを失ってしまったような気がします。歌集『音惑星』より。
(本田一弘)

矢澤靖江氏、現在もご活躍中の歌人です。解説を書かれた本多氏は佐佐木幸綱に師事された歌人だそうです。

真っ暗な「夜」」、たしかに街中では無くなりました。しかしまだまだ田舎では一歩街から外れると、まだ健在のように思われますが……。現に自宅兼事務所周辺がそうでして(笑)。

ちなみにこのコーナー、昨年は他の方の選により、光太郎本人の短歌もご紹介下さいました。

お次は全国紙で『読売新聞』さん。やはり10月28日(水)、夕刊の一面コラムです

よみうり寸評

都会を離れるか否か。葛藤する胸で二つの声がぶつかる。一方は<平原に来い>と呼びかけてくる。<透きとほつた空気の味を食べてみろ/そして静かに人間の生活といふものを考へろ>◆他方がいう。<絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ/命の糧は地面からばかり出るのぢやない>。高村光太郎の「声」という詩である◆東京でこの3か月、転出者数が転入者数を上回る転出超過が続いている。地方の呼び声がやっと人々の胸に響き始めたようにも映る◆とはいえ、転出先には東京近県や他の大都市が目立つ。「コロナの影響で移動が減り、出ていく人が少なくなっている状況」とは島根県の担当者の分析だ。牛馬に親しむ暮らしを選ぶ人が増えたという話ではないらしい◆とはいえ、と再び書かせていただく。転出入を巡る2013年の調査からこの春まで、東京の転出超過は一度もなかった。一極集中是正のまたとない好機に今があるのは疑いなかろう。そこかしこで葛藤が始まるといい。

引用されている「声」は、明治44年(1911)の作。世界最先端の芸術を目の当たりにして、3年半に亘る欧米留学から帰朝、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、絶縁することを考え、北海道移住を企てたことに関わる詩です。全文はこちら。経緯についてはこちら

光太郎はこの時点では北海道まで実際に渡ったものの、少しの資本では牧畜など出来ないと悟り、また、頻発していた大火にも追い立てられ、すごすごと帰京しています。以後、昭和20年(1945)の空襲でアトリエ兼自宅を失うまで、東京暮らしでした。そして花巻に疎開、戦後は戦時中の翼賛活動への反省から、花巻郊外旧太田村で7年間の蟄居生活を送ります。

最晩年は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京、完成除幕後に短期間太田村に帰ったものの、宿痾の肺結核は山村での生活を許さず、また上京。そして、中野の貸しアトリエでその一生を終えました。結局、光太郎のトポス、アイデンティティーといったものは、いったいどこにあったのだろうと思わされます。

最後に『宮崎日日新聞』さん。こちらも一面コラムで、コロナがらみです

くろしお 正月休みの分散取得 2020年10月30日

 「冬の詩人」といわれた高村光太郎の作品に「冬が来た」というのがある。その書き出しはこうだ。「きっぱりと冬が来た」―。厳しい冬が訪れたさまを「きっぱり」という言葉が、見事に言い表している。
 冬も比較的暖かい本県は「きっぱり来る」という感じではない。ただ、年の瀬の到来はおそらくいずこも同じで「日々の生活に追われていたら、いつの間にかもうそこまで来ていた」といった具合ではないか。きのう、年賀はがきが発売され、改めてそう感じた。
 1年の大半を新型コロナウイルスの感染拡大という非常時の中で過ごした2020年。当然、年末や来年の年始も例年とは違う。西村康稔経済再生担当相が先日、年始の休暇を1月11日まで延ばすよう企業や自治体に要請すると表明。人の移動を分散させる措置だという。
 当初は「休暇の延長」と受け取られ、経済界には期待の一方で困惑の声も上がった。通常国会の召集時期など政治日程に影響するため、足元の自民党にも動揺が広がった。結果、党は火消しに走り、西村大臣は「休みを機械的に11日までとせず分散して取ってほしいということ」と釈明する事態に。
 この問題は、これで幕引きとなるのか。突然出てきた政策が二転三転するのはコロナ禍の中のデジャビュ(既視感)だ。正月休みがどういう形になるかで、予定が大きく変わる人は多かろう。「こういう方針です」と、初めから示すべきだった。きっぱりと。

これからの季節、「冬が来た」(大正3年=1914発表)などの光太郎の冬に題材を採った詩がいろいろ引用されるように思われます。というか、引用して下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

われわれは彼にこそ日本に於ける預言者的詩人の風骨を見るのである。

散文「預言者的詩人 野口米次郎氏」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳

野口米次郎は光太郎より8歳年長の詩人。慶應義塾大学で英米文学を学び、明治26年(1893)、中退して渡米、英語で詩作品を発表。イギリスを経て同37年(1904)に帰国後は、慶応義塾で教鞭を執りました。彫刻家のイサム・ノグチは滞米中に現地の女性との間に出来た子供で、光太郎が借りる前に、中野の貸しアトリエを借りていました。

無理くりですが、当方など、光太郎にこそ「預言者的詩人」という姿を見ます。「預言者」はキリスト教などで神の言葉を人々に伝える者。ノストラダムスなどの「予言者」ではありません。

コロナ禍のため、不要不急の外出はまだ避けていますし、公共交通機関を使っての遠出も少なくなりましたので、そのお供として持参する頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等を購入しなくなり、新刊書店に行く機会がめっきり減りまして、出版事情に疎くなっている部分があります。

で、近々、花卷に参りますので、お供の書籍を探そうと久々に行った新刊書店で見つけた新刊……といっても発売から3ヵ月経っていました 

2020年7月3日 中川越著 海竜社 定価1,400円+税
001
夏目漱石、太宰治、宮沢賢治、与謝野晶子、ドストエフスキーなどの文豪や、ダーウィン、ゴーギャン、良寛、渥美清などの世界・日本の偉人たち。彼らは、親しい人に手紙でどんな言葉を書き送ったのでしょうか?
本書では、恋人、妻や夫、家族、弟子や師匠などに宛てた愛情あふれる手紙を紹介。「さすが!」と驚嘆する卓越した表現があるかと思うと、ときには率直で心を射貫く言葉があったり、やきもちや未練がバレバレの憎めないセリフがあったりと、引き込まれる文章が満載です。
本書で「相手の心をつかむ言葉」を学ぶもよし、文豪・偉人の意外な素顔を楽しむもよし、手紙を通じて彼らの人生を共有し、励まされるもよし! 楽しみ方はいろいろです。

目次
 はじめに
 第一章 恋愛の決めゼリフ
  パズルの最後のワン・ピースを手に入れた島崎藤村
  ピュアーにまっすぐプロポーズした芥川龍之介
  ラブレターの最高傑作を欄外に書いた太宰治
  いたずらなお願いで楽しく困らせた立原道造
  斬新な理由で恋文の筆を止めた内田百閒
  いつになく遠回しな言い方を避けた竹久夢二
  愛の楽章を文章で奏でたベートーヴェン
  箇条書きの質問形式で求愛した平塚らいてう
 第二章 夫婦愛の決めゼリフ
  二人称代名詞一語を名詩に変えた南極越冬隊員の妻
  身勝手な言い訳で呆れさせたゴーギャン
  惚れた弱みを隠すぞぶりでたっぷり甘えた国木田独歩
  遠隔愛撫の方法を知っていた徳富蘆花
  届きにくい反省を努めて届けたドストエフスキー
  空白の十年を美しく諦めた九条武子
  一日千秋の思いを笑話に託した和辻照(和辻哲郎夫人)
 第三章 友愛の決めゼリフ
  哀切な近況報告を美しく通知した梶井基次郎
  友情色に恋愛色が混ざる言葉を告白した武者小路実篤
  失礼なあいさつで親愛を深めた夏目漱石
  傷心への寄り添い方を知っていた宮沢賢治
  言葉の霊力を信じた「日本語の番人」新村出
  嫉妬と祝福を同時に感じ苦悶した若山牧水
  友と恋人を等価値と知らせた永井荷風
 第四章 家族愛の決めゼリフ
  〈母宛〉いちばん大事なことしか書かなかった渥美清
  〈子宛〉千尋の谷に突き落とす覚悟を報知した福沢諭吉
  〈子宛〉たどたどしく詩的に懇願した野口シカ(野口英世の母)
  〈父宛〉興奮を伝え元気を証明したダーウィン
  〈妻宛〉不機嫌を報告し溺愛をあらわにした森鷗外
  〈甥宛〉大愚をやさしく説き処世訓とした会津八一
  〈弟宛〉放蕩は死を招く凶器と警告した良寛
 第五章 師弟愛の決めゼリフ
  高らかに女々しく恋慕した萩原朔太郎
  貶めて紹介し優遇を求めた芥川龍之介
  ビスケット話で親愛をたっぷり送った夏目漱石
  太宰に厳しく弟子には優しかった志賀直哉
  けなされた人の心理に優しく寄り添った正岡子規
  詩作の秘密をていねいに詩的に説いたリルケ
  軽妙な俳味を披露し心中を食い止めた夏目漱石
 第六章 別離の決めゼリフ
  別れた妻の再婚と幸福を願った伝四郎
  別れたくて別れたくなかった北原白秋
  愉快な悪口で鬱憤を晴らした八重次(永井荷風の元妻)
  あっさりと謝り肩すかしを食らわせた与謝野晶子
  冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎
 人物一覧/引用・参考資料

著者の中川越氏、昨年刊行された『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』も書かれていて、装幀や構成がよく似ているので同じシリーズかと思っていましたが、『言い訳』は新潮社さん、こちらは海竜社さんと、版元が違っていました。

店頭で見つけた時、「あ、中川さんの新著か、光太郎に触れてくれているだろうな」と思いつつ、手に取りました。光太郎で「愛の手紙」となると、大正2年(1913)の、結婚前の智恵子に送った手紙か、昭和9年(1934)、九十九里浜で療養していた智恵子に送ったハガキが紹介されているだろうと予想していました。しかし、目次を見ても「第一章 恋愛の決めゼリフ」に光太郎の名が無く、「第二章 夫婦愛の決めゼリフ」にもありません。第三章以下は「友愛」「家族愛」「師弟愛」……あまり光太郎には関係がなさそうで、実際やはり光太郎の名は見えず。「あれっ、今回は光太郎はスルーか?」と思ったところ、最後の最後、大トリが光太郎でした。

002「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」。目次を見て、「おお、これを持ってくるか」という感じでした。

「手紙」ではなく、昭和29年1月に雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」です。

  十和田湖畔の裸像に与ふ

 銅とスズとの合金が立つてゐる。
 どんな造型が行はれようと
 無機質の図形にはちがひがない。
 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
 きたならしさはここにない。
 すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
 天然四元の平手打をまともにうける
 銅とスズとの合金で出来た
 女の裸像が二人
 影と形のやうに立つてゐる。
 いさぎよい非情の金属が青くさびて
 地上に割れてくづれるまで
 この原始林の圧力に堪へて
 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにした詩で、像が亡き智恵子の顔を持つことから、亡き智恵子への「別離」の「手紙」とも読めますね。


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光太郎と交流のあった詩人・伊藤信吉は、その著書『詩のふるさと』(昭和43年=1968 新潮社)の中で、「投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。」としています。言い得て妙、ですね。

この詩を引用する前の部分で、智恵子との日々についても、『智恵子抄』所収の詩を引用しつつ、アウトラインが紹介されています。

『愛の手紙の決めゼリフ』、こうした書籍の通例ですが、光太郎智恵子と交流の深かった面々も多数登場します。平塚らいてう、武者小路実篤、宮沢賢治、森鷗外、与謝野晶子など。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人をよく知り、世界をよく知ると、自分の国ばかりほめたりしません。心の広い立派な人になります。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二七」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で行われた、稗貫郡PTA講演会で語った一節です。かつて自らもその愚に囚われていた自国第一主義、国粋主義への警句ですね。

最近手に入れた古いものシリーズです。

講談社さんで2000年代はじめまで発行されていた雑誌というかムックというか、『きものと着つけ』。「'96」となっていますが、平成7年(1995)の発行です。どうも年刊だったようですね。

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女優の故・池内淳子さん監修ということで、「「智恵子抄」の詩を加賀友禅に」というコーナーが11ページにわたって掲載されています。加賀友禅の作家さん6名が、「智恵子抄」所収の詩からインスパイアされた着物を制作、池内さんがそれを見て回るというコンセプトです。

作家さん6名が2点ずつ、うち1点は共通課題で詩「人に」をお題に「いのち」と題する作品、そして6名それぞれが別々の詩をテーマに制作。特にコンテストとかいうわけではありませんが、ある意味、競演ですね。

柿本市郎氏で「ゆき(「深夜の雪」より)、浅野富治男氏は「裾野(「山麓の二人」より)。
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中町博志氏が「桜若葉(「あどけない話」より)」、白坂幸蔵氏の「松風(樹下の二人)より」。
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由水煌人氏作「やすらぎ(「郊外の人に」より)、毎田健治氏による「千鳥(「風にのる智恵子」より)」。
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画像は省略しますが、それぞれの詩も載せて下さっています。

華やかな中にも漂う気品、凛々しさ、清楚な感じ、優美さ、しかしどことなく感じられる哀愁、透明感、清澄さ……すみません、ボキャブラリーが貧弱でうまく表現できません(笑)。

同じようなコンセプトで行われたであろう展覧会と思われるものの図録も持っています。こちらは数年前に入手しました。題して「智恵子のきもの」。

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こちらは京友禅の作家さんたちのグループ「彩遊」さん8名によるもので、会場は高島屋百貨店。ただ、奥付が無く、いつのものかわかりません。写真(光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影)の感じから、やはり80から90年代のように思われますが。また、高島屋さんも何処の店舗だったのか不明です。ネットで調べても情報が出て来ませんでした。

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特定の詩をイメージしたものではなく、「智恵子抄」全体へのオマージュ、ということのようです。智恵子の紙絵ふうのデザインが採られている作品もあります。図録には作家で『智恵子飛ぶ』という小説も書かれている津村節子さんによる解説文[「智恵子の紙絵」も掲載されています。

こちらの作も、それぞれにあでやかに、たおやかに、そしてきりりと上品な風合いがエレガント、さらには天真爛漫な感じも受けますし、京友禅ということで雅やかとも言えるような気がします。

この手の二次創作、最近はあまり見かけないように思われ、残念です。まぁ、景気の動向等にも左右されましょうし、今後の日本経済の動向にも期待したいところですね。

【折々のことば・光太郎】

日本固有の服装と、西洋服との両方があれば、それで二重の喜びになる。西洋婦人の持たない喜びになる。

散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

雑誌『婦人くらぶ』に掲載された文章の一節です。明治末、ようやく婦人たちが洋装をはじめた頃のもので、和装を捨て去る必要はないし、逆に和装にこだわるべきでもなく、併用しましょうという提言です。

和装が廃れつつある現代、「二重の喜び」「西洋婦人の持たない喜び」、多くの皆さんに味わってほしいものです。といっても、なかなか和装はハードルが高くなってしまった感は否めませんが……。当方もしばらく着物に袖を通していません。

コロナ禍いまだ収まらぬ中、「リモート○○」や「オンライン××」、「テレ△△」が普及せざるを得ない状況でしたが、市民講座等にもそうした流れが出て来ています。

2件、ご紹介します。 

期 日 : 2020年9月3日(木)
時 間 : 13:00~16:10
講 師 : 津上英輔先生

主 催 : 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻

講義概要:
『智恵子抄』、「道程」などの詩で知られる高村光太郎は(1883-1956)は、太平洋戦争中戦争を賛美する詩を多く書いた.彼は戦後これを反省し、岩手県花巻市郊外で独居自耕の生活の7年を過ごした。戦中の彼の過ちはどこにあったのか、そして戦後の反省点はどこにあったのか。美と芸術に本質的に潜む危険性を論じたい。

申し込み:
本講義は枝川明敬研究室の特別講義として行われますが、聴講希望を受け付けています。
聴講に関するお問い合わせは以下のアドレスへお願いいたします。
edagawa(at)ms.geidai.ac.jp(枝川明敏教授)

講師の津上氏、昨年刊行された『危険な「美学」』で、「美に生きることの危険」として、光太郎の、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを論じていらっしゃいました。


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もう1件。 

期 日 : 第一夜 前編「心平というひと」2020年9月17日(木)001
      第二夜 後編「心平の作品世界」2020年9月18日(金)
時 間 : 19:00~20:20(約80分)
講 師 : 小野浩氏
主 催 : みのおてならい

蛙の詩人・草野心平さんをご存知ですか。まだその存在を世間に知られていない頃、宮沢賢治さんの才能を見い出し、彫刻家の高村光太郎さんとともに、その作品の紹介に力を尽くした功績はよく知られているところですが、では、草野心平さん自身はいったいどんなひとなのでしょう。身分の上下もなく、人間よりもずっと長く地球に存在し続けている蛙を謳いあげる「蛙の詩人」と呼ばれる心平さんは、破天荒なひととしても興味のつきない逸話がたくさん。職を転々としながら、ジグザグロードを進み続け、たとえば、居酒屋「火の車」ではお客よりも酒をあおって酔いつぶれる始末。一方、花を散らした食を粋に味わう、おしゃれな “口福人”であったり。草野心平さんとは、いったいどんなひとだったのでしょう。そして、作品を通して何を伝えたかったのでしょうか。
秋のはじまりのオンライン特別体験会では、福島はいわきのひと、心平さんと同郷の研究者小野浩さんによる、深い共感をこめた夜話を二夜わたって催します。東北、福島へ旅するように、お飲み物片手にゆるりとご参加ください。


準備物:
・Wi-Fiなどの通信環境
・インターネットで動画閲覧できる機器(パソコン、スマホ、タブレットなど)

参加費:各回500円 ※1回だけでもご参加いただけます。

<オンラインで参加について>
・開催にあたってはオンライン動画通信アプリZoomを使用します。
・Zoomで閲覧するだけなら、アカウント設定・登録は必要ありません。 
・入金確認後にお送りするメール記載の招待URLをクリックするか、ZoomアプリにてミーティングIDとパスワードを入力してご参加いただけます。
・Zoomのテスト配信を予定しています。接続に不安のある方はご参加ください。詳細はご希望の方に追ってご案内いたします。  

このブログにもたびたびご登場いただいている、群馬県立女子大学非常勤講師にして元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏が講師を務められます。

サブタイトルがいいですね。「死んだら死んだで生きていくのだ」。こんなことが大まじめに言えてしまうのは心平かバカボンのパパくらいではないでしょうか(笑)。心平には「犬だってニンゲンだ!」という名言(迷言?)もあります(笑)。

今後、こういう形の講座等も普及していくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

私の気持ちはいままるで瀧がどっと流れているように思う。

談話筆記「瀧の流れと同じ気持」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村からの上京を決意したことを報じる『読売新聞』の記事に附された談話から。

太田村での生活は、単に蟄居というだけでなく、自ら天職と考えていた彫刻を封印する生活でもありました。その封印を解き、悲願でもあった智恵子像の制作にかかるというわけで、光太郎、齢七十にして「瀧の流れ」のような激情を抑えきれなかったようです。

ゲットしました。

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先月発売の「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン。詩「道程」のあまりに有名な一節「僕の前に道はない 僕の後に道は出来る」が印刷されています。

よく行くスーパーにはこの商品を置いておらず、なかなかゲットできていないでいたのですが、ふと思い立ち、普段行かないスーパーに行ったらありました。その店は、先月の発売当初の頃は3月に出たシリーズが並んでいたので、そろそろ新しいシリーズに切り替わっているかな、と思って行ったところ、ビンゴでした。

自宅兼事務所に戻って「yeah!」とか叫んでいたら、ツチノコに「アホですかニャ?」という目で見られました(笑)。

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皆様もぜひお探し下さい。


【折々のことば・光太郎】

一軒の家の前が際立つて美しく清潔に掃き清められ、歩道にあたるところまで涼しげに水が打つてある。店のあとのガラス戸もきれいに磨かれてゐるし、鉢の植木が健康に青々としてゐる。たつたこれだけのことだが、これだけのことが人の心を、こんなに爽かにするするのに驚いた。

散文「街の健康さ」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

平時であれば別になんということのない風景ですが、戦時でおおかたの商店は休業、疎開で空き家となった世帯も多く、家々の窓の手すりなども金属供出で無くなっているという状況下、こういう家があることが心の救いとなっている、というのです。

さらに同じ文章の終末は「私は今出て来た自分の家の埃つぽい入口を思ひ出して恥かしくなつた」と結んでいます。非常時こそ身辺を美しく、という心がけ、たしかになかなか出来そうで出来ませんね。

明朝は当方も自宅兼事務所の周り、桜や紫陽花の落葉が散っていますので、掃き清めようと思いました(笑)。

静岡は伊東で発行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号を戴きました。深謝。

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主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。

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木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。

それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。

さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。

しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。

その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。

さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。

散文「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳

上記「愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っ」ていたうちの一篇(こうした作品こそ光太郎文学の真骨頂だ、と、涙を流して有り難がる愚物がいて困るのですが)ですが、部分的には首肯できる部分もあるにはあります。それにしてもキナ臭い匂いがしますが……。

昨今流行の「文豪」ものの新刊です。 

2020年8月20日 板野博行著 三笠書房(王様文庫) 定価780円+税

いくら天才作家だからって、ここまでやっていいものか――? 
誰もが知る文豪の「やばすぎる素顔」に迫る本。

酒も女も、挫折も借金も……全部、「小説のネタ」だった!?
「あの名作」は、こうして生まれた!

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目次
 はじめに――酒も女も、挫折も借金も……全部「小説のネタ」だった!?
 1章 「天才」って、ホントつらいんですよ……「ブッ飛んだ感性&行状」にもほどがある!
  ハチャメチャな生き方で女にもてまくり! 太宰治
  滅びの美学を表明! 「憂国」の天才作家 三島由紀夫
  ギョロ目のノーベル賞作家はちょっとロリコン
!? 川端康成
  「狂気」に飲み込まれる前に死んでしまいたい 芥川龍之介
  ケンカ上等
!! 神童、かくして悪童になる 中原中也
  知の巨人は「痴の巨人」でもあった? 森鷗外
  元祖ニート! 結婚後も親にたかりまくる 萩原朔太郎
  ソドム(背徳)の徒が仕込んだ「檸檬」爆弾 梶井基次郎
 2章 「愛欲生活」すなわち「文章修業」
!?
……先生方、それはちょっとハッチャケすぎでは
  性的倒錯のめくるめく世界へ! 谷崎潤一郎
  ストリップ劇場と私娼街に通い詰めた男 永井荷風
  あつすぎる血潮! ブッ飛んだ情熱歌人 与謝野晶子
  姦通罪で「名声ドボン!」のエキゾチック詩人 北原白秋
  女弟子の「蒲団」の残り香を涙ながらに嗅ぐ男 田山花袋
  「家族計画」ゼロ! 血縁の呪縛に懊悩した 島崎藤村
  「純愛一筋」から「火宅の人」に大豹変! 檀一雄
  ブッ飛びの「お嬢様ワールド」全開! 岡本かの子
 3章 「金の苦労」があの名作を生んだ! 
……「追い詰められる」ほどに冴えわたる才能!?
  なぞの自信で短歌連発! 天才的たかり魔 石川啄木
  金の使い道の最善は「女へやる事」と豪語 直木三十五
  「東大教授の椅子」を蹴った理由は年俸額 夏目漱石
  匹婦の腹に生まれた「ザ・苦労人」 室生犀星
  生活力なし! ヒロポン中毒の大阪人 織田作之助
  十七歳で一家の大黒柱!「薄幸の天才」 樋口一葉
  酒びたり放浪生活で「パンクな句」を連発! 種田山頭火
 4章 「ピュアすぎる」のも考えもの……どうしても“突き詰めず”にはいられない!
  ハンサムが台無し! 心中して腐乱死体で発見 有島武郎
  日本酒すら煮立てて飲む「潔癖症」 泉鏡花
  智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎
  ゴッホ同様、生前まったく売れず! 宮沢賢治
  お目出たき人人すぎる「上流階級の坊っちゃん」 武者小路実篤
  「知識人の懊悩」に精通した大秀才 中島敦
  「生きよ、墜ちよ」と煽った文壇の寵児 坂口安吾
 5章 「変人たちのボス」はやっぱり変人
……「君臨する」気持ちよさって、癖になっちゃう!
  文壇のドンは日本一の食道楽 尾崎紅葉
  「文春砲」を作った男 菊池寛
  「小説の神様」は「情事も神業」 志賀直哉
  谷崎から妻を譲り受けた「門弟三千人」の男 佐藤春夫
  生きるために「猛烈に食った」男 正岡子規
  「伝説の劇団」を主宰! 言葉の錬金術師 寺山修司
 コラム 作家の子供たち/キラキラネームの元祖!?/文士と薬物
     国木田独歩と有島武郎/言文一致運動

特に目新しいことが書いてあるわけではないのですが、肩のこらない「文豪」たちの入門編としてはなかなかよくできています。

光太郎の項は、智恵子との生活が中心(戦中戦後、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にも触れられています)。

その中で、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)からエピソードが引かれています。すなわち、「裸の光太郎の背中の上に、同じく裸の智恵子が乗って、「お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた」というもの。たしかに犀星、このように書き残していますが、これが事実なのかどうか、眉唾の部分もあります。犀星は話の出所を明記していませんし、当方、寡聞にしてこれ以外にこのエピソードが書かれたものを知りません。演劇などではこのシーンを使う場合がありますが。

しかし、板野氏による「小さなアトリエの中は二人だけの世界であり、一つの宇宙だった。世間から遮断されたその生活は、貧しくとも芸術のために捧げられた美しさがあった」という指摘はその通りだと思いました。

他に光太郎と交流の深かった面々もいろいろと紹介されています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

家屋なるものは衣食住の住のみを以て能事終れりとしては居られない。只住むといふ以外に何等か求むる処がなければならぬと云ふ事が感付かれる。

散文「曽遊紀念帖」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『旅行』に載った散文で、留学で滞在したパリ市内の建築や公園などの様子が紹介されています。

J-POPアーティスト・米津玄師さんのニューアルバム「STRAY SHEEP」を購入しました。

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ブルーレイ/DVD、アートブックなどの付録がいろいろ選べるさまざまな「○○盤」が出ていますが、CDのみの通常盤を買いました。

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米津さんご自身が、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっている「Lemon」をはじめ、「カムパネルラ」、そして表題作の「迷える羊」など、近代文学の香りがプンプンします。

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念のため書いておきますが、「カムパネルラ」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の登場人物、「迷える羊(STRAY SHEEP)」は夏目漱石の「三四郎」で、ヒロインの美禰子が口にするセリフです。さらに遡れば元ネタは「聖書」ですが。また、蛇足ながら美禰子のモデルは、智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した日本女子大学校の先輩・平塚らいてうとも言われています。

その他、ドラマやCMのタイアップソングが多いので、いつの間にか耳にしていた曲がいろいろ収録されており、コアなファンの皆さんにとっては「何を今さら」なのでしょうが、当方など、「ああ、この曲も米津さんだったか」というものが複数ありました。

 01. カムパネルラ
 02. Flamingo  ソニーワイヤレスヘッドホンCM
 03. 感電  TBS系金曜ドラマ「MIU404」主題歌
 04. PLACEBO + 野田洋次郎
 05. パプリカ
 06. 馬と鹿  TBS系日曜劇場「ノーサイド・ゲーム」主題歌
 07. 優しい人
 08. Lemon TBS系金曜ドラマ「アンナチュラル」主題歌
 09. まちがいさがし
 10. ひまわり
 11. 迷える羊  カロリーメイトCM
 12. Décolleté
 13. TEENAGE RIOT  ギャツビーCM
 14. 海の幽霊  映画「海獣の子供」主題歌
 15. カナリヤ

アルバム全体を貫く一本の芯のようなものと、それぞれ違った彩りを見せる各曲のテイストと、そのあたりのバランスが絶妙だな、と感じます。そういう意味では、優れた詩人の「詩集」にも通じるところがあるのではないでしょうか。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

このさき、どうして金をとつて勉強していゝか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思ひ、止度(とめど)なく涙の出たのを忘れません。

アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答」より
大正11年(1922) 光太郎40歳

雑誌『主婦之友』第六巻第十二号掲載。アンケート全体の題名以外に、各回答者の回答に小題が別に付けられています。光太郎の項は「紐育の満月」。明治38年(1905)、3年半にわたる海外留学の、最初に落ち着いたニューヨークでの思い出です。

無理くりですが、米津さんの歌の歌詞になりそうなシチュエーションですね(笑)。

ハードカバーの文庫化です。今朝の『朝日新聞』さんには大きく広告も出ていました。 

2020年8月7日 伊集院静著 双葉社(双葉文庫) 定価800円+税

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郷里の山口から上京した青年・詩人美。中原中也、高村光太郎などを詩を愛する心優しい青年は、新宿・歌舞伎町で暮らす叔父の無塁のもとに身を寄せた。詩人美は叔父のもとで様々な人と出逢い、恋をしたり、勝負の厳しさを味わったり人として成長していく。伊集院静でなければ描けない極上の青春物語。

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元版は平成30年(2018)に同じ双葉社さんからハードカバーで出ていました。その時点では光太郎がらみとは存じませんで、文庫化されて初めて購入した次第です。

当方、伊集院さんの小説はこれまで読んだことがありませんで、こういう小説を書かれる方なのか、と思いました。ただ、小説ではない、古今の「書」を紹介する『文字に美はありや』(平成30年=2018 文藝春秋)という書籍は拝読しており、その軽妙かつ奥深い内容には僭越ながら感心致しておりました。

さて、双葉社さんのサイトには「極上の青春物語」とありますが、健全な青少年には薦めにくい一冊ですね。主人公の詩人美(しじみ)、18歳で上京し、破天荒な叔父の無累(むーる)の元に身を寄せつつ、競馬、麻雀、丁半博打、競輪等のさまざまなギャンブルや、風俗嬢との恋などを通して成長して行く、というストーリーです。途中、詳細は略されつつ、3年ほどアジア各地を放浪、という設定にもなっています。そういうわけで健全な青少年は決して真似をしないように(笑)、です。ただ、そうした自分では決して歩まないような山あり谷ありの人生を追体験できるというのが、小説を読む醍醐味の一つではありますので、そういう意味ではよろしいか、と。

同じくギャンブル狂の天衣無縫な叔父や周辺人物のセリフにも、人生訓が散りばめられています(かなり強引ですが(笑))。

さて、主人公が詩人美(しじみ)という名前ですので、さまざまな近代詩がモチーフとして現れます。最も多く引用されるのは、中原中也の「ポツカリ月が出ましたら/舟を浮べて出掛けませう。」の「湖上」(昭和5年=1930)。その他、萩原朔太郎や石川啄木、そして光太郎。

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お約束の(笑)「道程」(大正3年=1914)が使われています。

しかし、どうもこの1カ所だけかな、という感じです。ただ、500ページ超の分厚いもので、まだ5分の3ほどしか読了していませんので、終盤にまた出てくるようなことがあったらすみません(笑)。

とにもかくにもお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私のやうな無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。

散文「探してゐるもの」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

『東京朝日新聞』に載った文章の一節ですが、アンケートに近いものがあるようで、同じ題で吉野作造の文章も掲載されています。また「もでる」と平仮名表記になっているあたり、談話筆記なのかな、という気もします。

で、「もでる」は彫刻のモデルです。大正時代、まだ美術家たちはモデルを雇うのに苦労していました。竹久夢二や伊藤晴雨が使った佐々木カネヨ(お葉)のような職業的なモデルもいましたが、光太郎、そういうモデルには食指が動かなかったようです。そこでモデル募集の新聞広告を出したりもしたのですが、うまく行きませんでした。

昨日、8月9日(日)は、本来、宮城県女川町で第29回女川光太郎祭が開かれているはずでした。

例年であれば、県内外の方々による光太郎詩文の朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌やギタリスト・宮川菊佳さんの演奏、当方の連続講演など。

過去の様子はこちら。

平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)

今年は、コロナ禍のため、地元の皆さんで、朗読等も割愛し、光太郎文学碑に献花のみ、という予定で、本宮さんと当方も参列させていただく予定でしたが、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が、ということで、それも中止となってしまいました。

あの東日本大震災のあった平成23年(2011)でさえ、細々とながら途絶えさせることのなかった女川光太郎祭が、このような形で中止となったのは、非常に残念です。

ことに今年は、かつて連続講演をなさっていた当会顧問であらせられた北川太一先生がお亡くなりになった年でもありますし、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑再建のお披露目も兼ねるということでしたので、二重、三重に残念です。

元々、女川光太郎祭が開かれるようになった契機は、平成3年(1991)に、当時の女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられたこと。昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が女川にも滞在した事を記念しての事業でした。

建立費用は大口スポンサーに頼らない「百円募金」で集め、その精神が同じ女川の「いのちの石碑」に受け継がれました。
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同じ年に碑のお披露目記念ということで、仙道作三氏作曲・北川先生監修のオペラ「智恵子抄」が女川で上演され(智恵子役は本宮さんでした)、翌年から碑の前で光太郎祭が開かれることとなったわけです。

建立当時の碑がこちら。

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しかし、先述の通り、平成23年(2011)、東日本大震災の津波で碑は倒壊、4基あったうち2基は流失し、碑の建立や光太郎祭の開催に尽力されていた、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣氏も、還らぬ人となってしまいました。しかし、奥様の英子さんがその遺志を継がれました。

残った二基の碑、震災の翌年には、まだ半分水没している状態でした。これでも干潮時です。

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平成26年(2014)、陸に引き上げられ……。

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その後、昨年まではこんな感じでした。

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メインの碑は100㌧だかあるそうで、これを起こすだけでもものすごい労力だそうで……。

それが、一帯をメモリアルゾーンとして整備する中で、すぐ近くの津波で横倒しになった旧女川交番が、今年3月に整備完了。

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それに続き、春には光太郎文学碑も引き起こされたそうです。

コミュニティーラジオ局・OnagawaFM(女川さいがいFM)さんの先月のツイートから。

今朝の女川町は湿気多めの曇り空です。
最近、公園地区がかなり出来てきました。
長い間倒れていた高村光太郎さんの詩碑もしっかり立ち上がりました。

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本来なら、昨日、第29回女川光太郎祭で、この碑に献花だったわけです。

コロナ禍収束・終息後、訪れるつもりで居ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人は可愛らしい、可憐のような、愛すべきやうな即ちジヨリイの方が多くて、本当に美しい人、つまりしつかりして頼母しいやうな美しさ、即ちベルな人、フランスといふとローラン夫人、そんな風の美しさが、日本にはないのではないかと思ふ。

座談会筆録「現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

朝日新聞社の主催で開催されたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による講評座談会の一節です。審査員は光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史家)、杉田直樹(医学博士)、西成甫(解剖学者)、村山知義(劇作家)、鏑木清方。ミスコンといっても、写真審査のみでした。

ちなみに光太郎の父・光雲は、日本初のミスコンといわれる明治41年(1908)の「令嬢美人写真募集」で審査員を務めました。親子二代で何をやってるんだか感がありますが(笑)。

「ローラン夫人」はフランス革命後の混乱時に断頭台で処刑されたジロンド派党員かと推定されます。「ジヨリイ」、「ベル」は共に仏語で、「joli=かわいい」、「belle=美しい」。現代でも女性を評するのにこうした基準で語られることが多いように感じます。昭和初期の日本には、真の意味で「belle=美しい」の女性が居ないと、光太郎は嘆きました。現代ではそんなことは無いように思われますが……。

昨日に続き、岩手県花巻市、花巻高村光太郎記念館さんにほどちかい場所にオーピンした「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷(さと)」についてです。

岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでは、賢治・光太郎コーナーについても触れて下さいました。 

新しい道の駅に地元で人気の焼き肉店 花巻市にオープン

岩手県内では34駅目となる新しい道の駅が花巻市に8月7日オープンした。地元で30年以上愛されている焼き肉店が、この施設の中に移転し、おいしいホルモンを楽しめる。
7日オープンしたのは花巻南インターチェンジから車で約7分ほどの所に出来た道の駅「はなまき西南」。愛称は「賢治と光太郎の郷」。休憩所には花巻市にゆかりのある宮沢賢治と高村光太郎の資料が展示されている。
道の駅には3つのテナントが入っていて、産直ではその日地元でとれたばかりの新鮮な野菜が並んでいる。
買い物に来ていた女性
「うれしいですよ。地元の物も出るし盛り上げていきたい」
なかでも30年以上前から地元で愛されている焼き肉食堂「味楽苑」は移転オープンし、人気メニューの「ささまホルモン」が注目を集めている。
報告:森尾 絵美里 アナ
「ホルモン大好きなんです。いただきます。噛めば噛むほどあぶらがしっかり出てきます」
他にも近隣の高齢者へお弁当の配達をするなど「地域を支える拠点」としての役割を担っている。
産直は9時から。味楽苑は11時からオープンし、年中無休で営業する予定だという。

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他の報道は賢治・光太郎コーナーには触れられませんでしたが、一応。

岩手朝日テレビさん。 

道の駅はなまき西南 開所式

花巻市に新しい道の駅がオープンしました。
施設には県内の道の駅としては初出店となるある店舗も!花巻市轟木の県道13号沿いにオープンしたのは、道の駅「はなまき西南」です。
店が少ないこの地域の活性化につなげたいという住民の要望により整備されました。
産直には開店と同時に多くの人が訪れ地元でとれたおよそ30種類の新鮮野菜が並びます。
また、オープンを記念して、一般的に流通していないワインの搾カスをブレンドした特別なエサで育った花巻産の黒毛和牛が販売されているほか、先着でもちのお振る舞いもありました。
弁当やお惣菜を販売するこちらの店では、地域の高齢者世帯に弁当を配達するとともに、声かけや見守りをする活動にも取り組むということです。
市内の店舗で30年あまりに渡り営業してきた味楽苑が道の駅に移転しました。
県内34の道の駅で焼肉店の出店は初めてで、訪れた人たちは店自慢のホルモンをさっそく味わっていました。
地元の期待に応えオープンした道の駅「はなまき西南」。地域のにぎわいの拠点となることが期待されます。

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さらに地方紙。

『岩手日日』さん。 

地域支える拠点に 道の駅「はなまき西南開業」

014 県内34ヶ所、花巻市内4カ所目となる道の駅「はなまき西南」は7日、同市轟木にオープンし、開所式が行われた。休憩所や産直、焼き肉レストランなどを備える地域特性を生かした駅で、式後は多くの買い物客らが待望のオープンを喜び合った。
 式には上田東一市長や国交省岩手河川国道事務所の平井康幸所長、地元選出県議、地権者ら約30人が出席。上田市長が「地域の特性を生かした個性豊かな玄関口として、地域活性化に大きな効果をもたらすと期待している。地域を支える拠点として末永く愛され、利用されることを願う」と式辞を寄せた。
 神事に続いてテープカット、くす玉開きを行い営業開始。長い行列をつくった市民らが次々に入店し、産直「すぎの樹」で買い物などを楽しんでいた。レジ先着200人には記念の紅白餅が手渡され、店内に笑顔が広がっていた。
 主要地方道森岡和賀線笹間バイパス利用者の利便性向上、地域特性を生かしたにぎわいの場創出を狙った整備内容は来店者にも大好評。仕事で同道を走行する機会が多いという北上市常盤台の自営業八重樫實さん(75)は「今までの産直(すぎの樹)も利用していたが、こちらの道路沿いにある方が利用しやすい。車を運転する者にとっては休憩も出来て便利。近くに食堂がない場所なので(焼き肉などを提供する)レストランが入ったのもいい」と歓迎していた。
 道路管理者の県と花巻市による一体型整備で、敷地面積は8,219平方メートル。建物は鉄骨平屋建ての床面積951.60平方メートルで敷地内に大型12台、小型36台、身障者用1台、二輪4台の駐車場を備える。管理運営は西南地域住民や市、JAいわて花巻などが出資する「はなまき西南」で、駅長を務める同社の安藤功一さん(62)は「地元の小中学生らとも連携を深め、地域の人たちが気軽に立ち寄れる施設にしていきたい。全国から訪れる観光客の案内も上手にできるようにしなければ」と気を引き締めていた。
 道路利用者の休憩や買い物などの利便性向上のほか、弁当宅配サービスなどで地域の高齢者見守り機能を果たすのも特徴的。加工施設には地域の女性でつくる加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入り、地元農産物を使った弁当や総菜などを販売する。

『岩手日報』さん。 

道の駅オープン 産直や焼き肉店が入居

024 花巻市轟木の道の駅はなまき西南(安藤功一駅長)は7日、オープンした。県道盛岡和賀線沿いで交通アクセスが良く、初日から多くの人でにぎわった。産直や焼き肉店などが入居し、地域振興の拠点として役割が期待される。
 花巻農協直営の産直「すぎの樹」は、レタスやキャベツ、ズッキーニなどの野菜を通常30~40品目販売する。
 焼き肉店の味楽苑(鈴木貫(とおる)店長)では多くの家族連れらがテーブルを囲み、名物の「笹間ホルモン」を焼いたり、冷麺などを味わった。


当方自宅兼事務所のある千葉県香取市近隣、道の駅は3カ所あります。どこも他にはない特色を打ち出し、それなりに繁昌しています。

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しかし、少し離れたところにある道の駅の中には、閑散としているところも。そういうところは立地条件も確かに良くないのかもしれませんが、やはりあまり特徴らしい特徴が見えず、魅力に乏しいように思われます。

「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷」、そうならないようになってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩とは気である 気の実である 短句揮毫 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎は「詩魂」という言葉も好んで使いました。その人間の根幹をなすものがそれで、そこから外部に出てくるものが詩なり造形芸術なりの、その人にとっての「実」なのだというわけですね。

というわけで、何度かご紹介して参りました、花巻高村光太郎記念館さんにほど近い、道の駅「はなまき西南」(愛称「賢治と光太郎の郷」)が、昨日、オープンしました。2回に分けてご紹介します。

テレビ岩手さんローカルニュースから。 

岩手県花巻市 道の駅「はなまき西南」オープン

岩手県花巻市に市内4か所目となる道の駅が7日オープンし、記念のセレモニーが行われた。セレモニーでは、関係者がくす玉とテープカットで新しい道の駅のオープンを祝った。花巻市内としては18年振り、4か所目の整備となった道の駅『はなまき西南』は、延べ床面積約950平方メートルで、地元の朝採れ野菜が並ぶ産直コーナーのほか、道の駅には珍しい焼肉店がある。こちらの店は地元で30年以上営業していた人気店だが、今回の道の駅オープンに合わせて運営会社から依頼を受け、地域のためになるならと移転を決めたという。県道13号線沿いに整備された道の駅『はなまき西南』は、地域の賑わいの場としても期待されている。

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続いてIBC岩手放送さん。ちなみにキャスターは先日の「わが町バンザイ」でレポーターをルロメられた奥村奈穂美アナでした。 

県内34か所目の道の駅「道の駅はなまき西南」オープン/岩手・花巻市

岩手県内34か所目となる道の駅が花巻市に誕生し、開所式が行われました。地域の食を支える拠点として、地元住民から大きな期待が寄せられています。
花巻市轟木に新たにオープンしたのは「道の駅はなまき西南」で、7日は開所式が行われ関係者がテープカットでオープンを祝いました。道の駅はなまき西南は総事業費およそ8億4000万円で整備され、鉄骨平屋建の施設は産直コーナー、惣菜コーナー、焼肉店、休憩所の4つのコーナーに分かれています。
オープン前には200人を超える人たちが、行列を作るほどの盛況ぶり。オープンとともに地元で採れた新鮮な野菜や、果物などを買い求めていました。道の駅はなまき西南は土産品も充実していて、地域の人たちと観光客の交流の場として貢献しそうです。

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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということですが、そのあたりに触れられて居らず、残念でした。

愛称のとおり、2人の紹介コーナーも設けられています。花巻高村光太郎記念会さんのブログサイト「森のたより」から画像を拝借。


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説明板、地元の方が書かれたものですが、原稿がこちらに廻って参りまして、憚りながら校訂、加筆させていただきました。


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グッズコーナーも。

地域活性化に大きな効果をもたらすことが期待されます。その拠点として末永く愛されてほしいものです。

明日もこの項続けます。


【折々のことば・光太郎】

自国の国民性を自覚する事は、自己の血を洗ふ事である。自国の国民性を知る事は、自己の天然を知る事である。此の意味に於てのみ、自国々民性の考察が私に強い執着を持つて来る。

翻訳「日本の国民性に就いて考ふ」前書きより
 大正4年(1915) 光太郎33歳

中国に滞在していた親友の陶芸家バーナード・リーチからの長い手紙を翻訳し、雑誌『智仁勇』に発表、その前書きの部分からの抜粋です。

幼稚なネトウヨのように、いたずらに自国の国民性の優越を誇るのではなく、自己のアイデンティティーの特性をとらえるために、自国の国民性を考えるべきとの言です。

昨日に引き続き、地方紙『福島民友』さんに載った、当会の祖・草野心平顕彰の記事を。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(中)】平伏沼「月夜」 水辺に実る『奇妙な果実』

003  森を甘く見ていた。平伏(へぶす)沼は、県道から林道へそれ10キロ弱先の山奥にあった。車で進めど進めど森の中である。日暮れが近い。焦り始めた頃ようやく着いた。
 草野心平が川内村の南西部にある平伏沼を初めて訪れたのは1953(昭和28)年9月2日。
 そもそも心平が川内村を初めて訪れた目的は、平伏沼探訪だった。きっかけは、49年2月1日付読売新聞に掲載された心平の随筆「背戸峨廊」。その中で心平は「カエルの詩人」らしく、モリアオガエルを見る機会がない―と記し、これに対し、川内村・長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルがすむ沼が村にあるので来てほしいと手紙を出したのだった。
 それから4年後、心平は53年8月29日から9月3日まで川内村に滞在し、平伏沼へは村をたつ前日訪れたらしい。車が少ない時代、心平は森をかき分け進んだのだろう。

深い森...奥に沼
 現在、森は変わらず深いが、道は舗装され、沼の手前には駐車場もある。沼は、モリアオガエルの生息地として国の天然記念物に指定された名所で、自然観察会も開かれるという。しかし今年はコロナ禍で観察会は軒並み中止だそうだ。梅雨時はモリアオガエルの産卵期と重なるため、例年は見学者も多そうだが、今は人けがない。
 駐車場から沼へ約120メートル、静かな森の中を歩く。小雨が降り始めたが、頭上を木々が厚く覆っているため、雨音はしても、体は雨粒を感じない。ささやかな幸運を感謝していると、行く手にぽっかり空間が開けた。
 平伏沼の周りは、なんとも不思議な雰囲気が漂う。
 雨で少しけぶった沼は、そう大きくはない。枝を広げた広葉樹が水際を覆い、中央だけが、ほんのり明るい。聴こえるのは、かすかな雨音と、時折遠くで鳴くウグイスの声だけ。水面に広がる同心円に見とれた。
 ふと視線を上げると、沼にせり出した枝から下がる灰色の物体に気付いた。モリアオガエルが産み付けた卵塊だ。想像以上に大きい。大きめのメロンほどか。まさに奇妙な果実。よく見ると、方々にぶら下がっている。
 この世の光景ではない。何というか...神話の世界である。
 しかしカエルの姿は、目を凝らしても見つからなかった。
 辺りが暗くなり、慌てて山を下りた。そんな調子だから、後から気付いたのだが、沼のほとりには心平の歌碑がある。刻まれている歌は
 〈うまわるや森の蛙は阿武隈の平伏の沼べ水楢のかげ〉
 「うまわる」は「生まれて、増える」の意。情景を切り取りつつ、葉裏にひそむ森の蛙(かえる)たちの、たくましい生命力をたたえている。豊穣(ほうじょう)を意味する古い言葉からは「古事記」的な世界を連想する。やはり心平も、沼べで神話の舞台を見たのかな、などと我田引水し悦に入る。
 ただ、気になるのは、平伏沼について書いた心平の作品が、この歌以外に見当たらないことだ。なぜだろうと考えていると、一つ思い当たった。天山文庫の「十三夜の池」である。

光景写した庭
 天山文庫は、建物も庭も村を挙げての勤労奉仕で建設された。このうち庭造りでは「心平先生が、庭の真ん中の石に腰掛け『それはここに植えっか』など、人々が持ち寄った草木の移植場所などを指示していた」と川内村の副村長、猪狩貢(みつぎ)さん(70)は振り返る。
 こうして整えられた庭の中で、十三夜の池は建物の真正面に配置された。そして「木々が大きくなっても、先生は伐採せず自然のままで置きたいと考えていた」と猪狩さんが話すように現在、池の周りは草木が生い茂り、森のようになっている。
 つまり心平は、平伏沼の光景を写し庭を造り、これで十分と、平伏沼の詩は詠まなかったのではないか...。まあ、それは強引だが、森の沼の光景が彼と共鳴したのは確かなことだろう。
 心平の詩「月夜」。〈空と沼と。/十日の月は二つ浮び。/そのセロファンの水底の。/もやもやの藻も透いてみえる。(後略)〉(表記はハルキ文庫「草野心平詩集」による)。平伏沼訪問前の作で、心平の中には以前から、月夜の沼のイメージがあったことが分かる。
 彼は、川内村を訪れ自身の心象風景と出合ってしまったのかなと思う。

高校野球を応援、気さくな人柄
 川内村副村長の猪狩貢さんが、草野心平と出会ったのは、猪狩さんが村役場に就職した1968(昭和43)年。天山文庫の庭造りが行われていた。「庭に植える木は、心平先生が村民に呼び掛けて、山から持ってきてもらっていた。われわれ村の職員も、ヤマツツジを持って行ったりした。そんな(自分で直接人に頼む)ところが、先生の人柄でした」
 心平の野球好きを伝える逸話も多い。「村に滞在中の7、8月は高校野球の県大会を見に、いわきや郡山、福島に出掛けていた。多分母校の磐城高を応援してたのでしょう」
 村恒例の盆野球大会でも心平は必ず始球式に出て、試合も熱心に観戦したという。役場チームで投手だった猪狩さんは「私は左投げなので、先生から『ぎっちょ(左利き)頑張れ』と声を掛けられた」と振り返る。
 心平は川内のどこに引かれたのだろう。そう聞くと猪狩さんは「村民の人柄と自然だったと思います。村民は訪れた人に最初は遠慮します。しかし天山祭りや野球を通じ知った先生の人柄がとても気さくで、村民も近づきやすかった。それで互いに打ち解けたのでしょうね」と話していた。
          ◇
平伏沼 川内村上川内の平伏山頂(842メートル)にある楕円(だえん)形の沼。面積12アール。自然のたまり水で水量は一定していない。6月下旬から7月上旬、モリアオガエルが沼べの樹上に多数の泡状の卵塊を懸け繁殖する。卵塊は昔「延命小袋」と称し珍重された。現在は平伏沼が、モリアオガエル繁殖地として国の天然記念物に指定されている。
          ◇
002アクセス 平伏沼へは、県道36号(小野富岡線)の子安川バス停から林道に入り10キロ弱。または同県道の平伏沼口バス停から林道に入り約6キロ。通行止めに注意。
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モリアオガエル 森にすみ、樹上で集団産卵する。体色が周囲の木の葉と同じ緑色のため、識別が難しい。指の先端に吸盤があり、木の枝や葉に張り付き産卵する。
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天山文庫 草野心平が川内村に贈った書籍類を収める施設。設立に際しては川端康成ら多くの文学者が発起人となり、詩人や作家、出版社も本を寄贈した。現在約3000冊を収蔵。本館の近くには酒樽(さかだる)を使い作った「第2文庫」「第3文庫」が立つ。名称は、心平が故郷の小川に開いた貸本屋と同じ名を付けた。月曜休館。問い合わせはかわうち草野心平記念館(電話0240・38・2076)へ。

中編では、心平と川内村との縁を取り持ったモリアオガエル繁殖地の平伏沼(へぶすぬま)、それから昨日もご紹介した天山文庫がメインです。

平伏沼には当方、平成25年(2013)に訪れました。当時はシャコタンにしたスポーツタイプの旧車でしたので、記事に有るようにたどり着くまでが大変でした。天山文庫の庭に作られた池(十三夜の池)が、平伏沼を模したものかもしれないという説、なるほどね、と思いました。

心平と野球についてはこちら。心平母校の磐城高校さん、今春開催予定だったセンバツ甲子園に出場予定でしたが大会はコロナ禍で中止。残念に思っておりましたが、夏の甲子園も中止となり、センバツの代替として、交流試合が開催されることになり、8月15日(土)に国士舘高校さん(東京)との対戦が決まりました。奇しくもお盆。川内村の「盆野球」を思い起こしました。


さて、今秋月曜掲載の後編も。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(下)】噛む・少年思慕調 悪童を詩人にした...故郷

006 川内村から山越えの県道を南へ車で走る。いわき市に入り約30キロ。夏井川渓谷沿いの県道を下っていくと、左右の視界が開けた辺りに、詩人草野心平の故郷、いわき市小川町がある。

とがった行動
 小川では確かめたいことがあった。心平は人生の後半、川内の人と自然を愛した。一方、故郷との関係は、足を運んだ回数から見て淡泊に思える。この差は何だろう。思いつく理由は、故郷への愛憎入り交じった感情だ。心平の友人、中原中也も詩「帰郷」で「ああ おまえはなにをして来たのだと......吹き来る風が私に云う」と詠んだ、あの苦い思いである。
 山に囲まれた田園の一隅に、心平の生家がある。厳密には生家跡に復元された木造平屋の建物。そんな昔ながらの民家で1903(明治36)年、心平は地主の家の次男として生まれた。
 家族は祖父母と両親、兄と姉。しかし、4年後の妹が生まれた年、両親と3人のきょうだいは上京し、心平だけが生家で祖父母に育てられた。ここだけ見ると線の細い少年像が思い浮かぶが、彼の年譜などを読むと、それが見当外れだと分かる。
 まず、祖父母に溺愛され、わがままのし放題。癇(かん)も強く、誰彼となくかみついたり、小学校では授業中に鉛筆や教科書の縁をかみちぎったり...。
 当時の鬱屈(うっくつ)を振り返った心平の詩が「噛(か)む 少年思慕調」だ。
〈阿武隈山脈はなだらかだった。/(1行あき)だのに自分は。/よく噛んだ。/鉛筆の軸も。/鉛色の芯も。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠ながれてゐた。(後略)〉
 旧制磐城中に入学すると、文学とはほぼ無縁で、女学校の生徒に片思いするが、教室では教師をいびり、応援団長になった双葉中との野球の試合では大げんか。立派な悪童ぶりで4年生の秋、同校を中退、16歳で故郷を飛び出すように上京した。
 心平の「とがった」行動の背景には、家族の病気と死もあった。心平が小学6年の冬から中学1年の夏、東京の兄民平(16歳)、小川で療養中だった母トメヨ(46歳)が結核で死去し、姉綾子(22歳)も療養先で腸チフスのため亡くなった。
 故郷を飛び出した心平に、地元の人々も冷淡だったようだ。心平生家でボランティアをしているKさん(72)とYさん(71)は「『あの(心平の)家は、働かない(田畑に出ない)ので没落した』とか大人たちが言っていた。『すごい』となったのは、心平さんが文化勲章を受章してから。小川にはあまり来なかったのでは」と言う。
 散々な言われように、心平も足が向かなかったのかなと思いつつ、生家内を見学するとパネルに書かれた詩が目に留まった。詩「上小川村」は〈ブリキ屋のとなりは下駄屋。〉など、心平が記憶の中の故郷の情景をつづった一編。鬱屈を振り払うように飛び出た故郷への思慕が、なんだか切ない。

愛着強かった
 しかし、次に訪れたいわき市立草野心平記念文学館では、そんなセンチメンタルな思い込みは一蹴された。
 同館の馬目聖子学芸員いわく。まず、心平は最初の詩集「廃園の喇叭(らっぱ)」を帰郷し小川小で印刷した。仕事のない24歳の時は小川に戻り農業をしようとした。戦後、中国から引き揚げて来たのも小川で、この時、地元の名勝に「背戸峨廊」と命名した。そして晩年、川内村で倒れた時、運ばれたのも、いわき市の病院だった―など。心平さん、実は度々故郷を頼り里帰りしていたのだ。
 「心平にとって故郷は、戻りたくない場所ではなかったと思う。むしろ愛着は強かった。川内は理想の田舎で、小川は自分を知っている人が多すぎて居づらかったのだろう、と話す人もいます」
 馬目さんによると、心平は戦後、自分が「天」という言葉を多用していることに気付いたという。詩「噛む」にもあった。
〈(前略)その二箭山(フタツヤサン)のガギガギザラザラが。/少年の頃の自分だった。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠流れてゐたのに。〉
 二箭山は小川から見える山。屈託を抱えた少年を詩人にしたのは、故郷の空だったのだろう。(岩波文庫版「草野心平詩集」、「草野心平 わが青春の記」など参考)

007草野心平記念文学館 常設展示で心平の生涯と作品を紹介するほか、心平やゆかりの文学者などの企画展を開催している=写真。ガラス張りの壁面からは、心平が詩にも詠んだ二ツ箭山(約710メートル)が一望できる。月曜と年末年始休館。(電話)0246・83・0005
          ◇
草野心平生家 戦後の草野家の居宅を基に復元された。心平の詩や写真、朗読(音声ガイド)などで心平と故郷のかかわりを紹介している。敷地の蔵跡には、心平の弟で詩人の草野天平の詩碑が立つ。月曜と年末年始休館。観覧無料。(電話)0246・83・2901
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小川郷駅 心平も旧制磐城中への通学で利用した磐越東線の駅。当時運行本数が少なく心平は2年生ぐらいまで徒歩で登校した。心平と二ツ箭山に登ったことのある作家串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話がある。
          ◇
アクセス いわき市小川町は、常磐線いわき駅から車で約20分。常磐道いわき中央インターチェンジ(IC)からは約20分。磐越東線小川郷駅前からは、文学館、生家とも車で約5分。タクシーは要予約。

当方何度もお邪魔しているいわき市の草野心平記念文学館さん、そこからほど近い心平生家などが取り上げられました。

串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話」。郷土愛に溢れていますね(笑)。おそらく串田の用意していた正解は、特にローマ字とは言わなかったとすれば「田端(たばた)」、ローマ字を想定していたのなら「赤坂(AKASAKA)」ではないかと思うのですが(それぞれけっこう有名なので)。

さて、平伏沼、心平記念館さん、心平生家などなど、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

「少しでも得な道を歩こう」「一代のうちに安楽な道を選ぼう」……これでは駄目です。自分は、どうなってもいいから……最善をつくしてですね……子孫のことを思うようにならなければ……将来のことを。

講演会筆録「高村光太郎講演会」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

最近また依頼がありまして、今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼文を書いています。復員後、「後半生」というにはあまりに長い時間を、光太郎の書き残したものや、周辺人物の証言など、「資料」の収集に当たられたその業績は、まさに「子孫」=「次の世代」を思ってのお仕事だったのだな、と改めて感じています。

光太郎晩年や没後、心平も北川先生ともどもそうした仕事にあたっていました。重ねて感謝の意を表したいと存じます。

当会の祖・草野心平に関し、出身地・福島の地方紙『福島民友』さんで、先月から一昨日にかけ、3回にわたって大きく取り上げて下さっています。2回に分けてご紹介します。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(上)】天山文庫「誕生祭」 命あふれる森を愛して

 自然豊かな福島県では昔から、叙情に富んだ多彩な物語が紡がれてきた。表現の形も、詩歌や芸能、映画や音楽、アニメなどと多様化し、フィールドを広げている。今、世の中では『新しい生活様式』が求められ、時代は大きな曲がり角にある。しかし、どんな時代にも古びることのないドラマが、私たちの身近に息づいている。福島県の魅力に満ちた物語の舞台を訪ねる。

 草野心平という詩人は、とらえどころがない、と思う。
 カエルを詠(うた)った詩が多く、「カエルの詩人」と呼ばれる。出身地いわきの人々に言わせれば、詩「上小川村」(詩集『牡丹園』)などで故郷を詠った叙情の人であるかもしれない。
 個人的には、男声合唱組曲となった詩集「富士山」の印象が強烈だ。叙情の中で、硬くドライな言葉がきらめく。
 いずれにせよ、草野心平とその詩には親しみはあるが、実はあまり知らない。そんなことを考えながら阿武隈山地の東端にある山里、川内村へ向かった。

005木炭が100俵?
 川内村は、心平が人生の後半で深く関わった土地だ。
 心平の年譜では、彼が村を初めて訪れたのは1953(昭和28)年、50歳の年。モリアオガエルのすむ沼がある―という、村の僧侶からの手紙がきっかけだった。それから数年、心平が度々訪れ、村と詩人の仲は深まっていったらしい。そして63歳から85歳で亡くなる直前まで、毎年のように村を訪れ滞在した。この頻繁な来訪の契機となり、彼が村での住み家としたのが「天山文庫」だった。
 なんだか詩人の草庵のようだが、どんな山奥にあるのだろう。そう思っていたら、村の中心部、農協が立つ交差点の近くで「かわうち草野心平記念館 天山文庫」の看板を見つけた。
 向山という小山の緑の中に天山文庫はあった。その手前の草野心平資料館で、天山文庫管理人の志賀風夏さんに話を聞いた。志賀さんは地元出身の25歳。管理人3年目だが、母校の川内一小、川内中では心平作詞の校歌を歌い、天山文庫には遠足で来ていた。その地元っ子に「そもそも天山文庫って何ですか」とおずおずと尋ねた。
 天山文庫は、心平から寄贈された書籍類を収蔵する図書施設「心平文庫」として村が計画し66年、現在地に完成した。その発端の逸話が愉快だ。
 心平作詞の小学校歌が発表された60年、川内村は心平に名誉村民の称号を贈ることを決め、本人も「本当は断るが『名誉村民』は面白い」と承諾した。その翌年1月、村は1年目の褒賞として、村で焼いた木炭を東京・新宿の心平宅にトラックで届けた。心平も返礼に自宅に山積みにしていた蔵書の一部を贈り、木炭を積んできたトラックが本を載せ村へ帰った。
 ただ、木炭は100俵あった。燃料の大量保管には法的規制があり、それ以前に置く場所がない。「心平さんは木炭を学校など方々に配ったり、大変だったらしく『もう木炭はやめてくれ』となりました。それで村も一生分の木炭を贈る経費で、本を収める仮称『心平文庫』の建設を決めたんです」と志賀さん。
 村も心平も、少し滑稽だが粋だ。何より楽しそうだ。そう言うと志賀さんも「だから心平さんも、村に居着いたんでしょうね」と笑った。

酒宴引き継ぐ
 資料館から坂道を上って行くと、青ガエルが足元を横切った。森にあふれる命を感じる。途中、酒樽(さかだる)を改造した二つの書庫を見学し、少し行くと木立の間に、かやぶき屋根が現れた。
 天山文庫のそう大きくない建物は結構モダンだ。60年近く前の木造建築とは思えない清明さがある。玄関を入るとすぐに小さな図書室。2階には6畳の寝室があり、ふすまに「い、ろ、は」と書いた心平の筆字が残る。
 1階の広々した居間からは、庭と森、山里の風景も見える。磨き込まれた板張りの床は、秋には紅葉を映すという。片隅の囲炉裏(いろり)と鉄瓶も気になる。志賀さんが「心平さんと村の人たちは、一緒にお酒を飲むことが多かったようです。地元のどぶろくや魚、山菜を持ち寄って」と話していた。この居間で心平は詩を書き、板画家の棟方志功ら友人らと語り合ったというが、当然酒盛りになったのだろう。
 彼らの酒宴は、毎年7月16日の文庫の落成記念日前後に開かれる「天山祭り」によって引き継がれたようだ。心平没後も、池のある文庫の庭で村内外の人々が杯を酌み交わすという。その光景を想像すると、心平の詩「誕生祭」の一節と結び付いた。生命があふれ歓喜する光景だ。
〈飲めや歌へだ。ともうじやぼじやぼじやぼじやぼのひかりの渦。/泥鰌(どぢやう)はきらつとはねあがり。/無数無数の蛍はながれもつれあふ。〉(表記は岩波文庫版「草野心平詩集」による)
 今年の天山祭りは、コロナ禍で中止になった。こんな時、心平なら、どんな詩を詠んだだろう。

川内村 浜通り中部に位置し、人口約2600人。平均標高456メートルで大部分を山林が占める。モリアオガエルの生息地平伏(へぶす)沼、サラサドウダンが咲く高塚高原、イワナの生息地千翁川などの名所が知られる。特産品はそば、凍(し)み餅、乾燥シイタケなど。イワナ料理などが楽しめる「いわなの郷」、温泉施設「かわうちの湯」がある。詳しくは川内村公式ホームページか同村観光協会(電話0240・38・2346)へ。
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004アクセス 川内村へは車なら磐越道・小野インターチェンジ(IC)か船引三春ICから約40分、常磐道・常磐富岡ICから約20分。JR利用の場合は磐越東線の船引、夏井、小野新町、神俣各駅、常磐線・富岡駅それぞれの近くから川内方面への路線バスが出ている。
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草野心平 1903(明治36)年、石城郡上小川村(現いわき市小川町)で誕生。磐城中を4年で中退後、上京。18歳で中国・広州の嶺南大に入学し、在学中詩作を始める。戦前から昭和末期まで「第百階級」「定本 蛙」「マンモスの牙」、年1冊刊行した年次詩集など多数の詩集を残し、中原中也らと創刊した「歴程」など多くの同人誌を刊行した。84年いわき市名誉市民、87年文化勲章。88年没。
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かわうち草野心平記念館 天山文庫と草野心平資料館(阿武隈民芸館)の総称。観覧料は一般300円、学生250円、小中学生150円。月曜休館。問い合わせは同記念館(電話0240・38・2076)へ。


当方も何度か訪れさせていただいた、川内村での心平別邸・天山文庫が取り上げられています。生前の心平が愛し、現在は心平を偲ぶよすがとなっている「天山祭」会場ともなっています。設立準備委員には16名の錚々たる顔ぶれが名を連ねました。井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、古田晁、松方三郎、武者小路実篤、村野四郎、山本健吉、そして光太郎実弟の豊周。

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喧噪とは無縁の、とてもいい場所です。コロナ禍収束・終息後、ぜひ足をお運び下さい。

第2回、3回の中編・後編は明日紹介します。

その前に、テレビ番組で川内村が取り上げられますので、そのご紹介を。 

東北推し!ココに福あり fMAP「#18 ふくしま“美し水”巡り」

NHK BS1 2020年8月6日(木)24時27分~24時55分=8月7日(金)0時27分~0時55分

豊かな水をたたえる福島。そこには、水を生かす暮らしがある。食べ物をおいしくする湧き水や開拓者によって守られてきた疎水、清流の里の幻の魚など福島の水の恵みを描く。

無数に流れる川に大きな湖や沼、そして豊富な雪解け水。福島は、水をたたえる地だ。そこには、水の恵みを生かす人々の暮らしがある。磐梯山麓の懐、数千年枯れたことがない湧水は食べ物をおいしくするという。また、郡山にはふるさとを築いた“命の水”を守り続ける開拓者の末えいたちがいる。そして、清流の里・川内村には、原発事故からふるさとのシンボルを守ろうと奮闘する男性がいた。福島の人々の水にまつわる物語を紡ぐ。

出演 語り・池津祥子 秋山美和さん(磐梯町) 渡辺秀朗さん(川内村) 武田幸夫さん(郡山市)


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NHKさんの福島放送局制作の番組で(以前に智恵子の故郷・二本松の岳温泉も取り上げられました)、県内では既に7月17日(金)に放映されたとのこと。それによれば「ふるさとのシンボル」というのは、イワナだそうです。そう言えば、天山祭りの際に饗されるお昼の弁当には必ず付いています。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

どんな愉しみがあるかとの御質問ですが、あまりいろいろあつて返事に困ります。畑の栽培でも第一に挙げませう。天候や蟲や病気とたたかひながらいろんな蔬菜類を育て、研究するのがなんとも言へずたのしみです。毎日自然に足が畑の方へ出ます。あとは読書、山野の跋渉でもあげませう。

アンケート「近頃の私の愉しみ 葉書回答」全文
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活です。

普段は都内で生活していた心平も、天山文庫を訪れた際には同じようなことを考えたのではないでしょうか。

『毎日新聞』さんに月1回のペースで連載されている、詩人の和合亮一さんの「詩の橋を渡って」。5月に「智恵子抄」の「あどけない話」を引用下さいましたが、7月の掲載分にも光太郎詩を引き合いに出して下さいました。 

詩の橋を渡って 一瞬で消えてしまう発想

 あなたは真っすぐな視線を

 僕に向けて

 どう生きたらいいのでしょうか?

 と、突然

 「五十年ぶりに詩を書いてみました」との小さなお便りが挟まれていて、興味が湧いて矢澤準二の『チョロス』(思潮社)を読み始めた。「あなたは真っすぐな視線を/僕に向けて/どう生きたらいいのでしょうか?/と、突然」「檸檬(れもん)を切るみたいに/そんなこと急に訊(き)かないでほしい/金色の靄(もや)がたちこめて」。かんきつ類を切った後にたちこめる香気を思い浮かべて新鮮さを感じた。高村光太郎の詩「レモン哀歌」を連想させる詩句である。
 詩の発想は一瞬にして現れてすっと香りが引くように消えてしまうものである。例えば私は毎日のように詩を考えたり書いたりしてきて三十数年程なのだが、一向にその瞬きを捕まえるコツがつかめず悔しい限りだ。「今まで生きてきた中で/一番うれしかったのは/中学一年のころ/母が/狭い家の六畳間を/半分カーテンでしきって/僕の部屋を作ってくれたこと」。なるほど、記憶の引き出しを開けて探すことも一つの方法かもしれない。 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見が生まれてくることがある。その偶然の瞬きを信じて日々を見つめる。詩人は五十年の間、気づかないうちにもそれを集めて、再び書き始めたのかもしれない。詩作とはそのような不意の出会いを待ち続けるようにして、長い人生をかけて書き留めていくことなのかもしれない。 宙に浮いている不思議な詩。「地平線まで砂の海で/太陽の落ちるあたりに/小さくシルエットがあって//目を凝らしてみると/それは夕陽(ゆうひ)の中の/ピラミッドの影/つまりそこはお墓で//そうか/そういうことかと」。イメージ遊びの印象だが読後にひらめきの感触がある。何への「そうか」なのか、 はっきりしなくて正しく空に飛ばされた感覚にもさせられるが、しだいにとらえがたい生死の深い実感がユニークに伝わってくる気がした。 末尾の詩にも独特の面白さがある。自分や飼い犬の死をめぐる作品。「自分の終期と犬の終期を/ゆるーく認識して共に生きるというのは/(いい加減じゃなく)/いい湯加減みたいで/いいんじゃないか」。言葉遊びによる無作為な発見が、全体に妙な味わいをもたらしている。思いがけない詩の<一瞬>を求めながらも、暮らしの中で見つけてきた心の「加減」のようなもので、 人生をありのままにとらえていこうとする姿がある。
 杉本真維子の散文集『三日間の石』(響文社)。実力派の書き手の詩に通ずる研ぎ澄まされた言葉が並ぶ。そして随所にユーモアの妙味も。菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれたという話にひかれた。「人を慌てさせるような『野蛮』の出現。そのイビツさのなかに、いまは思い出のなかにしかいない、私の家族が棲(す)んでいる」。日常に顔出す「野蛮」。そこに詩の歯応えがある。  

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紹介されている矢澤準二氏『チョロス』はこちら。「「チョロス」って何?」と思ったのですが、「「チョロスではなくチュロスよ」という妻の声を背に、人生の七十年分を、とぼけた足どりで描く。飄々と、淡々と。」だそうで(笑)。自分も最近、「「ラン・ド・グシャ」ではなく「ラング・ド・シャ」」と娘に指摘されて恥ずかしい思いをしましたが(笑)。まぁ、「竜雷太さん」を「雷竜太さん」と思い込んでいた人よりましかも、と思いますが(笑)。

閑話休題、もう一冊の杉本真維子さん『三日間の石』はこちら

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それぞれご興味のある方、どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此処の分教場には生徒が三十八人ばかり居り、皆逞しい、いい少年達です。人に会ふと「左様なら」と挨拶します。

散文「若鮎短評」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『水脈』第一巻第一号に掲載されました。『若鮎』は祝算之介による散文集。おそらく受贈の礼状がそのまま(あるいは抜粋で)「短評」として載せられたようです。祝は本名・堀越正雄。『水脈』の編集に当たっていました。

人に会ふと「左様なら」と挨拶します。」、和合さん曰くの「詩の発想」「 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見」に通じるのではないでしょうか。または、分教場の少年達が長じてから「「左様なら」と挨拶」し、そういう習慣のない人に怪訝な顔をされた時、杉本さんの「菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれた」時と似たような感覚になったのでは、とも思います。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。今年の女川光太郎祭は、残念ながらコロナ禍の影響で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます

詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~

期 日 : 2020年8月7日(金)~8月13日(木)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

女川町とゆかりの深い詩人・彫刻家・歌人・画家であった高村光太郎氏とお互いに影響を受けあった宮沢賢治氏を取り上げ、光太郎と賢治の詩作や生き方を通して、心のふれあいを中心に展示いたします。

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同館では、昨年は「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」と題し、同様の展示をなさって下さいました。レポートはこちら

大々的なものではないようですが、こうした地道な工夫が必要なのだと存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もう東京へ帰る気持はありません。却つて東京の友人達をこつちに呼んで、大いに新しい地方文化の建設をやりたいと思つてゐますよ。

談話筆記「高村光太郎氏の疎開生活」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『雄鶏通信』に載ったもので、花巻郊外旧太田村の山小屋での、もっとも早い時期のレポートの一つです。この時期には帰京するつもりは無かったのですね。

コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた炙り出されていますが、文化方面であれば地方分散もそう難しくないように思われます。ただ、受け入れ先の地方に、それなりの「底力」がなければ不可能なのでしょうが……。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。一面コラムの「河北春秋」、一昨日掲載分に光太郎の名が。 

河北春秋 2020.7.14

見上げる参道に人影はない。マスクを取り、石段を踏みしめる。仙台市太白区の愛宕神社。2体のてんぐ像がにらみを利かせる山門の脇に、その詩碑は立っている▼『化石を拾ふ』。石川善助(1901~32年)の絶唱が刻まれている。善助は仙台の裕福な商家に生まれたが、少年期に家産が傾き、いばらの道から抜け出せないまま事故死した。詩友には恵まれ、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平らが早すぎる死を惜しんだ▼脚に障害があり、雪道などでよく転んだという。そのせいか、恋愛には臆病で、勤めていた呉服店の同僚や、詩作を指導した文学少女に思いを寄せたらしいが、実ることはなかった。後者の女性は親族の勧めで歯科医の小澤開作氏に嫁ぎ、4男を生んだ。第3子の名は征爾。かの世界的指揮者である▼善助は、上京を果たして5年目の梅雨時に、泥酔して大森駅(大田区)近くの溝に落ち、溺死した。仙台で葬儀が営まれたのは7月13日。その日を覚えているせいで、この時季になると、詩碑を訪ねたくなる▼昭和歌謡に、彼の作品が隠れているといわれる。いわゆるゴーストライター。善助が書いた詞を買い、名曲の作者として名を残した人もいることになる。詩碑の向こうのビル群を眺めつつ、人の運、不運にふと思いを巡らす。

石川善助は、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』にも寄稿していました。そこで心平や、同人だった賢治・光太郎の名が出ているわけです。

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画像は戦後の昭和27年(1952)に刊行された『現代詩集 歴程篇』。角川文庫です。編者は「歴程同人」となっていますが、ほぼほぼ心平が行ったと見ていいでしょう。

この詩集では、光太郎ら存命だった同人はもちろん、賢治や中原中也、八木重吉など物故同人の作品も収録され、石川のそれも載っています。

数え32歳で亡くなった石川、生前に詩集は刊行されませんでした。没後、遺構詩集として『亜寒帯』が刊行(昭和11年=1936)され、光太郎が序文を書いています。名文ですので、全文引用します。

 ぐつと若い頃、漁船に乗り込んで鯨000油をふんだんに飲んだので、石川善助は寒さといふものを知らなかつた。アスフアルトがかんかん音を立てる大寒の夜にかたびらのやうな着物を着てよく新宿の焼鳥屋に来た。寒さを知らない石川善助の詩に、しかも寒さが充満してゐた。寒さを知らないのは、自身寒さの太極に外ならなかつたからだ。彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。彼はレオン ドウベルのやうな貧と、勤王の志士のやうな情操とに生きた。事実、彼は宮城の前を通る度に電車の中でも必ず敬礼するのを忘れなかつた。彼には祖先の血が多分に流れてゐた。彼の詩のイデオロギイにはそれ故一種特別な日本的、国土的の要素が盲管状に縦横に馳駆してゐた。その整備された形式の触感は鉱石の切断面に似、途轍もないあの癇高い爆笑の響が、金属性の詩語の間に潜められてゐた。彼は恰も風狂の徒のやうに路傍で死んで発見された。この痛ましい純情の詩人がどういふ位置を我が詩の歴史の上に持つか、其はもう少し歴史の上に持つか、其はもう少し歴史そのものが進展してから考へねばなるまい。彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。

「新宿の焼鳥屋」は、心平が経営(といっても屋台ですが)していた「いわき」です。椅子は智恵子が提供したリンゴ箱でした。

「河北春秋」に紹介されている詩碑は、広瀬川の段丘上、太白区の愛宕神社さんにあるそうで、これは存じませんでした。折を見て行ってみようと思いました。

それから、ゴーストライター云々。調べてみましたところ、石川はニットーレコードから昭和7年(1932)にリリースされた「再生の港」という歌の作詞者として記録が残っていました。作曲は高峰龍雄、歌唱は貝塚正、それぞれ当方、寡聞にして存じません。これ以外にも、何か有名な曲の作詞をひそかに手がけていたということなのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

いずれにせよ、『河北新報』さん、石川のような、まぁ、失礼ながらはっきり言えば忘れられつつある文学者に光を当てているわけで、こうした取り組みも地方紙の使命として大切なことと存じます。こうした動きが全国に広まってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

ヱツチングは小生もリーチ以来常に試作を志してゐるものゝ未だ機会なくしてとりかゝりませんが今に積年の希望を一度に果し、多くの素描を片端から、ヱツチングしたいと思つてゐます。

散文「『画工志願』読後感」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

雑誌『ヱツチング』第6号に掲載された文章から。『画工志願』は同誌の編輯・発行に当たっていた西田武雄の著書です。

「リーチ」は、留学中のロンドンで知り合い、それが縁で来日した陶芸家のバーナード・リーチです。リーチは元々は陶芸を志していたわけではなく、来日当初はエッチングを教えて生活の糧とする計画でした。

ところで光太郎、意外と「有言不実行」的な部分があります。おそらくこの後もエッチングに取り組んだ形跡は確認できていません。もっとも、智恵子の心の病がのっぴきならぬところまで進んでいた時期ですし、その後は泥沼の戦争、それどころではなかったのかも知れませんが。

ただ、これ以外にも、「戯曲を執筆するつもり」「小説を書きたい」など、発言したあとに実現しなかった事柄がけっこうあります。まあ、そういう人間臭さも光太郎の魅力の一つではありますが。

日本コカ・コーラさんの人気商品の一つ、リアルゴールド。当方、缶入りはたまにいただきますが、ペットボトルもあったそうで……。さらに、ラベルに「「やる気」をアップする、“あの人”の金言つき」が新発売だとのこと。同社のサイトから。 

 コカ・コーラシステムは、エナジードリンクブランド「リアルゴールド」から、働く人の「やる気」をアップする「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」の「金言」つきデザインボトル第2弾として、著名人の金言がついたボトルを7月6日(月)より全国で発売します。

 「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」は、ビタミンCやローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合した持続系エナジー炭酸です。すっきりとしたレモンフレーバーのリアルゴールドの味わいとエナジー・栄養成分に加え、元気をチャージしてくれる “あの人”の金言が、心身ともにリフレッシュしやる気のスイッチを入れてくれます。

製品特徴
 レモンフレーバーの爽快な味わいで、ごくごく飲める持続系エナジードリンク
 ビタミンC、ローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合
ターゲット/飲用シーン
 20代~40代男性
 仕事中、休憩中、移動中などで心身をリフレッシュして気持ちを切り替えたい時
パッケージ
 働く人のやる気をアップする、16種の著名人「金言」つきデザイン
 やる気がでる「金言」動画が楽しめるQRコードつき。
 その場で LINEポイントが当たるキャンペーンにも参加可能

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ラベル側面に、近代から現代まで16名の”あの人”(架空の人物を含む)の「金言」が印刷されており、光太郎も選んでくださいました。

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お馴染み、詩「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。

ちなみに同社と光太郎の因縁は深く、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。

下記はすべてのラインナップです。

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確かに「やる気」が喚起されるような言葉の数々。ただ、当方のごときヘタレは、これだけポジティブな言葉をズラリと並べられると、逆にプレッシャーを感じざるを得ないような気もしますが(笑)。

そうなると、「それでも男ですか、軟弱者!」(『機動戦士ガンダム』 セイラ・マス)などが入っているとなお良いのかな、と言う気もします(笑)。

ついでに言うなら「逃げちゃ駄目だ 、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ」(『新世紀エヴァンゲリオン』 碇シンジ)、「ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』 中島みゆき)、「燃えたよ‥‥まっ白に‥‥燃えつきた‥‥まっ白な灰に‥‥‥‥」(『あしたのジョー』 矢吹丈)などもでしょうか。あ、燃えつきてはいけませんか(笑)。

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ところで、「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン、早速、店頭で探してみました。近くのコンビニと最初に行ったスーパーには当該商品自体が置いて居らず、2軒目に廻ったスーパーには並んでいたものの、こちらの新シリーズではなく、3月発売の旧シリーズでした。「田舎ではこんなものか」と思いましたが、あきらめずに探査にあたります。

皆様もぜひ探してみてください。


【折々のことば・光太郎】

高村光太郎 明16・3 東京、東京美術、彫刻、詩、洋画 昭和二十年戦災後移転、山小屋で半農生活に入つた、 岩手県稗貫郡太田村山口

雑纂「日本人名録」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

『毎日年鑑昭和二十五年版』から。凡例には「本社の照会に対する回答及び本社調査の資料を基として衆参議院議員、中央官庁主要職員、都道府県知事、日本芸術院会員、日本学士院会員をはじめ現在各界で活躍の文化人、実業家、政治家等より収録した」とあります。

同じ『毎日年鑑』の、前後の年の版では単に住所等のみの記載となっており、この年の版だけ若干詳しい記載があるため採録しました。

先週金曜日、それから昨日と、隣町の成田市立図書館さんに行っておりました。同館では今月からほぼすべてのサービスが復旧、国会図書館さんのデジタルデータ閲覧が可能となったためです。同データ、「図書館送信資料」ということで、自宅のPCでは見られない資料も、提携しているこうした大きめの公立図書館さん等で閲覧が可能です。国会図書館さん自体も再開はしましたが、入館は事前に抽選などと面倒な状態ですし、何より都内はまだコロナが怖いので、成田に行きました。

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デジタルデータでは、『高村光太郎全集』及びその補遺たる「光太郎遺珠」未収録だった戦前の光太郎短歌について、さらに光太郎に関する回想文(今秋発行予定の『光太郎資料』掲載のため)などについて閲覧、コピーをとってきました(そのあたり、おいおい紹介していきます)。

ついでに、新聞のコピーも。少し前の話になりますが、『毎日新聞』さん夕刊に詩人の和合亮一氏が月イチで連載されている「詩の橋を渡って」。5月28日(木)掲載分です。『毎日新聞』さん、当方、購読はしていません。こうした場合、朝刊なら市内のファミレスに行って購入(なぜかコンビニには置いてありませんで)、夕刊はそちらでも販売していないので、翌日以降、当方居住地の市立図書館さんでコピーをしていました。しかし、居住地の市立図書館さんは未だに閲覧やコピー等のサービスが再開して居らず、これも成田頼みとなりました。ちなみに毎日さんのサイトでは有料会員限定閲覧可です。

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詩の橋を渡って 生の喜び 真っすぐに

 東京の空はいつもこまぎれ

 それでもお前は 生きてる喜びつげる
 この小さな空は私だけの空

 世界を襲った新型コロナウイルスの猛威により、社会や命の意味をすぐ隣にあるものとして考えざるを得なくなった気がする。不要不急の外出は避けて、人と交わらない努力をして暮らしていった日々。「3密」や「ステイホーム」「巣ごもり」などのキーワードが頻出してそれに示されるかのようにして、お互いに警戒しながらじっと耐える日々を送った。緊急事態宣言が全面的に解除となっても、油断は許されない。
 家の中でずっと本を開いていた。読書に没頭することで支えられる何かを追い求めたいと思った。思えば九年前の東日本大震災の折に、原発が爆発した後で放射能の心配からやはり外出は出来なかったが、その時と同じような静けさと寂しさを強く感じた。人間が恋しいという感情に似ている。ブッシュ孝子の詩集『暗やみの中で一人枕をぬらす夜は』(新泉社)を読み、毎日に緊張し続けていた心が揺すぶられた思いがした。

 「素直なことばで/本当のことだけを語りたい」。このフレーズは初めて詩を書いた日に記したものである。詩人は二八歳でがんで亡くなった。これは闘病中に記された唯一の詩集である。逝去する五カ月前から書き始められた詩が収められている。一つ一つに生き様を教えられるかのような気がした。この詩句も初めの日に記している。「美しい言葉が次々と浮かび出て/眠れぬ夜がある/新しい詩が次々と生れでて/ 眠れぬ夜がある」。
 病の進行の不安にさいなまれながらも、こんなふうに創作の泉と出合っている姿がある。詩を書く人のみならず言葉を文学を愛する者の原点を見た思いである。読み耽(ふけ)りながら、心の中にせせらぎが生まれているような気がした。ウイルスに脅(おび)える日常に心がすっかりと渇いてしまっていることに初めて気づかされたのである。問いたくなった。詩を書くこと、生きることを願う気持ちが真っすぐに伝わる詩を、私は今書いているだろうか。

 「東京の空はいつもこまぎれ」。病室から見える都会の空の印象。高村光太郎の「 智恵子抄」の詩の一節「智恵子は東京に空が無いという」を思わせる。「 それでもお前は 生きてる喜びつげる/この小さな空は私だけの空」。室内に籠もる暮らしの中で窓が映す建物の影の間の空に生の喜びを見つけるまなざしがある。小さな風景と共に限られた歳月を生きる。「この空だけは誰にもあげない」。 真っすぐな眼(め)の先に詩と命の宿りを信じた。
 「かかえきれない歳月が/春の嵐に吹きつけられ/ きょうもまた傷口をひろげる」。たかとう匡子の新詩集『耳凪(な)ぎ目凪ぎ』(思潮社)。それでありそれではない何かを描き出すかのようにして日々の光景が独特の技法で描かれる。コロナ禍、東日本大震災、熊本の地震……、春の訪れと共に近年に経験した厄災。神戸の詩人がとらえた今が見える気がした。「鳥が石になり魚が砂になった過酷な時代/ といった詩人がいた」。言葉の警鐘が鳴る。=和合亮一(詩人)=毎月第4木曜掲載

ブッシュ孝子さん。懐かしい名前を目にしたな、という007のが第一印象でした。学生時代にその唯一の著書にして遺稿詩集の『白い木馬』(サンリオ出版 昭和49年=1974)を古本屋で購入、拝読したからです。ブッシュさんと言っても、元々日本の方で、「ブッシュ」はドイツ人の旦那さんの姓です。やはり昭和49年(1974)、ガンのため28才の若さで亡くなっています。

購入したきっかけは、萩原英彦氏という作曲家の方が、ブッシュさんの詩に曲をつけた合唱組曲「白い木馬」を作られ、それを聴いて「ああ、これ、いいな」と、そういうわけでした。

しかしなぜ、今、ブッシュ孝子さん? と思ったら、『白い木馬』が再刊、というか、未発表の作品も収録、『暗やみの中で一人枕をぬらす夜は ブッシュ孝子全詩集』として新たに刊行されていました。今000年4月のことです。寡聞にして存じませんでした。解説は若松英輔さんだそうで。

’70年代に注目された詩人が、21世紀に入って20年経とうとする現在、こうして再評価されるというのも稀有な例かと存じます。まぁ、それだけいいものだというのは有るのですが、やはり、優れた作品を次の世代に受け継ごうという、関係者の皆さんや、作品に惚れ込んだ方々のご努力の賜といえましょう。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、「どんなにすぐれた芸術家の作品であっても、次の世代の者がそれを後世に受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と、いつも語られ、当方もその受け売りをあちこちで話したり書いたりしていますが、まさにそういうことなんだな、と、改めて思いました。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はむずかしいもので、中にあるものが出て来なければ、おみやげ人形と同じだ。
座談会「高村先生を囲んで」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を打ち切り、上京する直前に、親しかった村人たちと送別会を兼ねた酒宴が行われ、その席上での発言です。

「中にあるものが出て来なければ」。造形芸術に限らず、詩でも同じですね。

新型コロナの影響で、各種イベント等の中止や延期が相次ぎ、またしてもネタ不足に陥っています。

そこで、少し前にもこれでしのぎましたが、「最近手に入れた古いもの」シリーズ。特に急ぎの情報が入らなければ、しばらく続けます。

今日ご紹介するのは、昭和6年(1931)5月1日発行『童謡詩人』(大分市大道町五丁目  童仙房内 新興日本童謡詩人会 編輯兼発行者後藤楢根)復刊第一号通巻第二十五冊。


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こちらに、筑摩書房さん『高村光太郎全集』、その補遺たる「光太郎遺珠」ともに未掲載の光太郎の文章が載っていました。題して「藻汐帖所感」。過日ご紹介したブロンズ彫刻の代表作「手」に関する散文「手紙」(大正8年=1919)と同様のケースです。


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若干長いのですが、全文をご紹介します。

 童謡は深く到つた詩人であつてはじめて書ける。童子の無心の作に、時に魂をうつものゝある事は事実であるが、此は問題外とせねばならぬ。此は自然に於ける風の声、水の音と等しい芸術以外の神韻である。童子は間も無くその天籟を失ふ。地上に落ちる。落ちる事が即ちわれわれの問題圏内に突入する事である。

われわれ」は繰り返し記号「〱」を使用していますが、横書きのこのブログでは表記できません。

ここにあるように、子供が時折、大人をはっとさせるような言語表現をすることがありますが、それを「天才詩人」としてしまうのは危険です。まだ言語体系がしっかり身についていない子供だからこそ、大人が思いつかないような比喩やオノマトペなどを自然と口にするのであって、意識してのものではないからです。光太郎、その点、よくわかっていますね。

 天性的に、生涯、童子の性情を失ひ切らぬ者がある。かゝる種類の詩人こそ、天成の童謡詩人で、童謡とは本来斯の如き詩人にのみ許された詩の一ジヤンルであつて、斯の如き詩人以外の詩人の筆のすさびに成る、童子の発想法を模倣した片言まじりの詩の如きは、極言すれば童謡の冒涜に過ぎない。

ここで具体名は書かれていませんが、他の文章では「童子の性情を失ひ切らぬ」詩人の例として、光太郎は盟友・北原白秋の名を挙げています。

 元来童子は成人しようとする猛烈な意慾を持つて居り、決して単なる甘やかされた言葉に真の満足を感ずるものではない。常に年齢以上の智慧と知識と情感とにあこがれ、一日も早く人生の全幅にその視野をさらさうとしてゐるものである。その全力を傾けて自然と人生とに間断無き探求をつゞけてゐるのが、あの童子特有の「なぜ」であり、「それから、それから」である。この張り切つた力の間からこそ童子の天籟たるあの自作童謡も生れる。
 童子は決して、詩人が童子の稚態を模倣揣摩したやうな、力をぬいた童謡をありがたいとは思はない。さういふものを弄ぶ事はあらう。けれどしんから其に喜を感じはしない。全力をあげて詩人自身が詩人自身の生活を生きる時、その裸心から生れたやうな詩にのみ真の満足を得る。尠くともさういふ童子のみがたのもしい。
 詩人の境地も亦一度天籟を失ふ。落ちる。落ちてから詩人の真の鍛錬がはじまる。心と技との鍛錬である。この鍛錬に耐えた詩人はつひに再び童子の前に恥ぢなくてもいゝ境涯を獲得する。転落以前の天籟に比して、この以後の境涯こそ人間にとつて一層親密であり一層喜の大なるものである。

当方、子供の頃、子供におもねるような易しい絵本は嫌いでした。子供心に「子供と思ってなめるなよ!」という反発心があったのです。まさに光太郎の言う通り「決して単なる甘やかされた言葉に真の満足を感ずるものではない。」というわけで、少し難しくても、しっかりと内容のあるものが好きでした。今でもよく覚えているのは、4、5歳の頃好きだったスサノオとヤマタノオロチの神話の絵本です。

それから、文章ではありませんが、ミニカー。子供向けにデフォルメされたそれには見向きもしませんで、精巧な何十分の一スケールといった本物そっくりのものを好んでいました。

これら、異論はありましょうが。

 平木二六君の「藻汐帖」を通読して感ずるものは、其が徒に童子の言葉をかりて童子の心を迎阿するやうな詩でない事である。此は確に平木君のつきつめた詩であり、しかも其が同時に童子の心を含むものである事である。童子は此等の詩によつて甘やかしてもらへないであらう。けれど童子は此等の詩によつて叡智の満足を得るであらう。又は叡智に滴る詩情への促歩を感ずるであらう。平木君の此等の詩の謡はれてゐるミリユウは平木君独特の俳諧的風趣、田園侘住居的情趣に満ちてゐる。此は平木君の生活自身から必然に生れたのであつて、容易く第三者の容喙し得ないところである。平木君は更に廣い人生に果敢の歩を進めてゐる。「藻汐帖」一巻は此気稟高き詩人の或る期間に於ける好個の記念となるに違ひない。私はかゝる境涯を既に持ち得た者の今後の前進をたのしく見守つてゐる者である。

ここからが本題で、題名にある『藻汐帖』。平木二六(じろう 本名は同じ字で「にろく」)という詩人の詩集です。その名は『高村光太郎全集』にありませんで、当方、寡聞にして存じませんでしたが、室生犀星に師事した詩人だそうです。『藻汐帖』は、『童謡詩人』巻末に広告が載っており、それによれば『童謡詩人』とおなじ童仙房から昭和5年(1930)に刊行されています。副題的には「平木二六童謡集」とのこと。

ミリユウ」は「環境」を意味する仏語「milieu」です。

(作品について一言すると、材題のひろく感情移入の強い第一部のものも面白いが、第二部の日常茶飯詩に深い、巧みな表現があり、更に第三部の幽遠な俳諧に至つてはまつたくユニツクな境地を拓いてゐる。
   霜に割れる
   谺
   月に
   届く
 といふ「寒村餅搗図」の如きその好適例である。)

これで全文です。

この手の光太郎の評論、実によく対象の本質を捉え、的確に表しています。書評とはかくあるべし、ですね。

『童謡詩人』、主宰していたのは後藤楢根なる人物。こちらも『高村光太郎全集』人名索引にはその名が無く、未知の人物でした。大分で教師の傍ら児童文学作家としても活躍していたそうです。同誌には三木露風、与田準一らも寄稿していたとのこと。

光太郎の寄稿もこの「藻汐帖所感」のみではなく、昭和4年(1929)11月20日号にも「佐藤実遺稿童謡集『茱萸原』読後」なる短評を寄せていました。そちらは『高村光太郎全集』第20巻に既収です。もしかすると、まだ未知の文章が『童謡詩人』の他の号に載っているかも知れません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

無二無三の道  短句揮毫 昭和15年(1940)頃 光太郎58歳頃

言い換えれば、唯一の道、でしょう。己の進むべきベクトルをこう表現できるというのも、ある意味、凄いことかなと思います。ただ、この後は太平洋戦争という魔物が口を開けて待っていたのですが……。

『毎日新聞』さんで昭和29年(1954年)3月から続く読者投稿コラム。「日常の出来事やうれしかったこと、悩みや願い。「時代の心を映す鏡」が読者の高い支持を集めています」だそうです。

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6月17日(水)の掲載分に光太郎の名が。

女の気持ち 道程 山口県下松市・濱田道子(78歳)

 コロナ禍の中で最近亡き父のことをよく思い出す。父は田舎の寺に生まれた。7歳前後の時にスペイン風邪が流行し、病人を寺で看病していたらしく、まず父の父親が、そして1週間後に母親も亡くなった。両親を亡くした父のその後の苦労は想像もできない。
 父は分校の教師の頃、理科の授業で芋あめをなめさせてくれたり、星座を教えてくれたりした。本校に勤める頃は、おんぼろ自転車で1里半の道を通っていた。小学5年生の私は、学校に遅れそうになっては毎日のように途中で父の自転車に乗せてもらっていた。同級生との写真を見せると私が一番素直な顔をしていると母に言ってくれた。 父の弟は海軍の軍人だったが、父は高齢の祖父母の介護をしていて赤紙は来なかった。産めよ増やせよの時代で、8人の子供に赤貧の中で教育を受けさせ、すべて結婚させた。寺があったので、平教師のままで定年を迎えた。
 退職金でしたことは念願の本を何十万円も買うこと。仏教書が多かった。あの時のうれしそうな父の顔は忘れられない。後に母に全部目は通したよと話していた。一生に一度のぜいたく。しかし間もなく、がんを患って亡くなった。 私は端正でありながら、生気のある父の字が大好きである。長男が小学校入学の時に書いてくれた高村光太郎の「道程」の額を見上げながら、コロナ禍が収まる日を祈るように待っている。

このように、光太郎詩は、市井の人々の何気ない日常を支える役割も担ってきたのだな、と、感懐を覚えました。また、改めて、光太郎顕彰への使命感的なことも感じております。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科出身。与謝野寛氏に就き短歌を学ぶ。一九〇六年三月より一九一〇年迄、紐育巴里等に滞在す。詩集『道程』訳詩集『明るい時』及『ロダンの言葉』等の訳著がある。

雑纂「略歴」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

改造社発行の『現代日本文学全集第三十七篇 現代日本詩集 現代日本漢詩集』の「現代日本詩家年譜」収録。序文には「著者八十五人の略伝は故人以外その自記を請うたが、編輯の都合上止むを得ず添削案配するところがあつた。記して諸家の寛恕を乞ふ次第である。」と記されています。

光太郎も自分自身を市井の一芸術家と捉えていたようです。「一九一〇年」は明治42年(1909)の誤りです。

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NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。時折、光太郎の詩文を取り上げて下さいますが、今週金曜日にも。 

にほんごであそぼ「草にすわる」

NHK Eテレ 2020年6月26日(金) 6時35分~6時45分 再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

今日のひこうき山陽は「草にすわる」です。各コーナーの内容は…文楽/いやなんです…「人に」高村光太郎、うた「どすこい!すもうの決まり手」、ひこうき山陽たんけん隊/わたしのまちがいだった「草にすわる」八木重吉、名文を言ってみよう!「いろは」、うた「日本全国むかし歩き」

出演 美輪明宏 神田山陽(三代目) 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉
    おおたか静流 
白A 中尾隆聖 ラッキィ池田 ほか

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「人に」は、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)の冒頭を飾った詩。元々は大正元年(1912)の雑誌『劇と詩』に「N―女史に」の題で発表されたものです。

「にほんごであそぼ」では、これまでにも何度か取り上げて下さっています。

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このあたりの過去の映像の再編なのか、新作なのか、何とも不明ですが、とりあえず。

過去の映像の再編、といいますと、テレビ東京さん系列の「新美の巨人たち」。やはり新型コロナの影響で、新作の制作が難しい中、「今こそアートのチカラを」と銘打ったシリーズで、過去の映像から再編して放映しています。6月13日(土)に地上波テレビ東京さん(系列のBSテレ東さんでは6月20日(土))で放映された「希望を与え続けてきた『ノートルダム大聖堂』復活への祈り」、昨年、火災に遭ったノートルダム・ド・パリが取りあげられました。

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今回はすべて過去の映像というわけではなく、新しい映像も。まずは昨年の火災。

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ノートルダム大聖堂が被災するのはこれが初めてではなく、過去にもペストやフランス革命などで大きな被害を受け、しかし、その都度、人々の手で復活を果たしてきたという話の流れ。今回の火災、それから新型コロナによる復旧工事の中断も乗り越え……。番組最後では……。

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中間部分では、火災前のアーカイブ映像をふんだんに使い、大聖堂の魅力が様々な角度から紹介されました。
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そして終盤近く、40秒ほど、光太郎の話題に。ありがたし。

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13日の地上波本放送を見逃し、21日のBS再放送で気がつきました。本放送を見ていれば、21日のBSをご覧下さい、と、事前に紹介できたのですが……。面目ありません。

見逃した、といえば、先月10日(日)の日本テレビさん系「笑点」。小遊三さんが光太郎の名を出して下さったそうで……。これも見逃したのですが、いろいろ情報をご提供して下さる方がメールでご教示下さいました。

【司会/春風亭昇太】005
大喜利二問目です。昨年、美空ひばりさんがAIでよみがえり大変話題となりましたが、こんな人がAIでよみがえったら何を言うか、「笑点」流にお答えください。

【回答者/林家木久扇】
もし宮沢賢治がAIでよみがえったら・・・雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケず、コロナニモ負ケズ 、ケバケバパパーヤ。

【回答者/三遊亭小遊三】
もし高村光太郎がAIでよみがえったら・・・君になんかこうたろう(買ってやろう)

ありがとうございます(笑)。

いつも書いていますが、「高村光太郎? 誰、それ?」ということにならないよう、今後も顕彰活動に努めて参りたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

美はもともと健康であることを正常とします。健康であることに対する人間の讃歎(さんたん)が美の感覚として意識に上つて来るに過ぎません。これが一番根本的な美の性質であります。ひねくれたやうな美や、裏道(うらみち)のやうな美や、装飾(さうしよく)だくさんな俗つぽい美はみな正常とはいへない変形の美と目すべきであります。

散文「新しい女性美」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎の「美」に対する考えが端的に表されています。ただ、戦時中の文章なので、この後の部分で、「だから健康的な女性のモンペ姿も実に美しい」的な話になり、「何だかなぁ」という感じではありますが。

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