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当会の祖・草野心平の関連です。

まず、7月3日(土)、『福島民友』さんの一面コラム。

編集日記 かわうちワイナリー

 詩人草野心平は酒をこよなく愛した。自らは、味よりも酔いを好む方だからと「学生飲み」を自称していた。酒にまつわる逸話にも、事欠かなかったようだ
 ▼経営していた居酒屋「火の車」では、酒のつまみ作りに腕を振るい、文豪や文化人らでにぎわった。心平が好きだったものの一つにイワナがある。創作の場だった川内村でも、釣れたばかりのイワナのワタを串に刺して焼き、いろりばたで味わっていた(「酒味酒菜」中公文庫)
 ▼村はいま、ワイン用のブドウの産地づくりを進めている。山あいに広がるブドウ畑には7品種、約1万1000本が栽培され、醸造施設「かわうちワイナリー」も先月下旬に開所した
 ▼秋の収穫を待ち、来春には待望の村産ワインが誕生する見通しだ。村の特産品を活用し、ワインに合う料理の開発にも知恵を絞っていこうとしている。心平がほれ込んだイワナも、村自慢の産品の一つだ
 ▼心平は焼酎をベースにしたブドウ酒を造ったことがある。ある名産地のブドウ酒試飲会に誘われたとき新しいヒントが得られるのではないか―と思ったものの、つい行きそびれてしまい未練が残った話も書いている。村のワインを飲んだら、どんな感想を漏らすだろう。

双葉郡川内村は、モリアオガエルの生息地・平伏(へぶす)沼を抱え、その縁で、隣接するいわき出身の「蛙の詩人」・心平が同村にたびたび滞在、村民と深く交流を持ちました。そこで、同村では心平を名誉村民に認定して下さいました。

その川内村で、ワイナリー。元は、東日本大震災による福島第一原発の事故の被害からの復興、ということで構想されました。ブドウは放射線に強いそうで。

『福島民報』さん、先月末の記事。

「かわうちワイナリー」開所式 福島県川内村 年間1万本以上生産目指す

 福島県川内村のワイン醸造施設「かわうちワイナリー」は26日、村内上川内の高田島ヴィンヤード内に完成し、開所式が行われた。関係者が東京電力福島第一原発事故からの農業再生の柱になる施設の完成を祝った。今秋に収穫するブドウから醸造を始め、年間1万本以上を生産予定。「かわうちワイン」の販売を通して国内外に村の魅力を発信する。
 開所式には約60人が出席した。遠藤雄幸村長が「川内村の元気な姿を広く見せていきたい」とあいさつ。ワイナリーを運営する、かわうちワイン社長の猪狩貢副村長が開所までの経緯を紹介した。
 内堀雅雄知事が「村の魅力が高まり、交流人口の拡大につながることを期待している」とあいさつし、横山信一復興副大臣、葉梨康弘農林水産副大臣、江島潔経済産業副大臣兼原子力災害現地対策本部長らが祝辞を述べた。遠藤村長らがテープカットし、開所を祝った。
 施設は鉄骨造りで建築面積は561平方メートル。醸造用のタンクのあるタンク室や貯蔵庫、ブドウを搾る機械などを備える。一般向けに不定期で見学会を開くほか、将来的にはワインの試飲や販売も行い、交流やにぎわいの拠点にする。
 高田島ヴィンヤードは阿武隈高地の最高峰・大滝根山を望む標高約700メートルにある。約3ヘクタールの畑で1万1000本のブドウを栽培。昨年秋には初収穫を行い、初のワインが完成した。
 昨年末に村に移住し、ブドウ栽培の責任者を務めている同社の安達貴さん(34)が醸造も担当する。出席者にタンク室などを案内した安達さんは「ブドウはおおむね順調に育っている。魅力的で特徴のあるワインを造りたい」と決意を語った。
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仙台に本社を置く『河北新報』さん。

川内村にワイナリー 地元でブドウ栽培、避難解除5年、産業化目指す

 東京電力福島第1原発事故で一時全村避難を強いられた福島県川内村に26日、ワイン醸造所「かわうちワイナリー」が開所した。村内で収穫したブドウを原料にしたワイン開発事業に、官民一体で約6年前から取り組んでいて、村は「かわうちワイン」を核とした新たなまちづくりを進める。
 現地であった記念式典には関係者ら55人が出席し、完成を祝った。ワイナリーは村北部の小高い丘の大平地区に建設され、栽培や醸造、瓶詰めを一貫して行う。750ミリリットル換算で1万9000本の生産が可能で、今秋収穫分から醸造を始める。
 標高約750メートルの周囲には約3アールのブドウ畑があり、シャルドネなど数種類のブドウの木約1万1000本が植えられている。ワインの味を左右するとされる土壌にはミネラル分を含む花こう岩の成分が含まれているため、良質なブドウが育つという。今年3月には昨秋に収穫されたブドウを山梨の工場に委託醸造した「シャルドネ2020」が披露された。
 2015年からワイン造りの構想が練られ、翌年に地元住民らによるブドウ栽培が始まった。17年には村も出資する醸造会社「かわうちワイン」が設立された。同社はレストランや宿泊施設などの経営も検討している。栽培・醸造責任者の安達貴さんは「まだ準備ができた段階。選ばれ続けるワインを造りたい」と話す。
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確かに心平に飲ませたかったところですね(笑)。

その川内村で、2年ぶりに、心平をたたえる「天山祭り」が今週末に開催されます。

第56回 天山祭り開催のお知らせ

今年度の天山祭りは、新型コロナウイルス感染拡大予防のため、参加者を福島県在住の方100名程度に限らせて開催いたします。また、会場での飲食物の提供及び飲食も控えさせていただきます。

日 時 令和3年7月10日(土) 午前10時から正午まで
場 所 天山文庫前庭(雨天時は川内村村民体育センター)
参加者 福島県在住の方 100名程度
参加費 1人500円
※ 来場者にはお土産を配付させていただきます。

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当方、4回ほど参加させていただきました。生前の心平が愛し、心平没後は心平を偲ぶ意味合いを持たせ、さらに東日本大震災後は、村の復興祈願も兼ねたイベントとなりました。

会場の天山文庫(上記画像イラスト)は、心平の別荘的な建物で、心平から寄贈された書籍が所狭しと置かれているため「文庫」の名が冠されています。建設委員には光太郎実弟にして心平と親しかった、髙村豊周も名を連ねました。

例年ですと、かつて心平が主宰した『歴程』同人の皆さんなどによる、心平詩の朗読等が盛り込まれていましたが、今年は規模を縮小しての開催のようで、どうなりますことやら。

福島ご在住の方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」再版のため検印紙一〇〇〇枚捺印。


昭和23年(1948)3月26日の日記より 光太郎66歳

「光太郎詩集」は、鎌倉書房版『高村光太郎詩集』。前年7月に初版が出た、光太郎初の単独選詩集で、『道程』時代の明治末から、『智恵子抄』所収の「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)まで、70篇余の詩が収められています。編集・装幀・跋文は心平でした。

跋文から。

現代日本最高の詩人が岩手の山奥の藁と泥とがたぴしの板とでできた小さな小屋で独り貧寒の自炊をしながら、むしろ伝説的な精進に昼と夜とを過ごしてゐることを一応私は報告しておきたい。
私の家の竹藪ではもう鶯もなきはじめたが、あの掘立小屋の界隈は陣陣さむく、まだまだレントゲン色の吹雪もやつてくるだらう。超人的な貪婪な、六十五歳の美のかたまりがそこにゐる。


「検印紙」は、奥付に貼る紙片。印税を計算するためのもので、著者が捺印することになっていました。現在は廃止されています。

頼んでおいた新刊が届きました。

1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄

2021年6月30日 岡本勝人著 左右社 定価2,400円+税

関東大震災に揺られる日本の〈世紀末〉を文学者たちはどう生きたのか?

やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。

モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。
高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。
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目次
はじめに
Ⅰ 一九二〇年代とはいかなる時代か
 1大正の大震災 2モダニズムのあけぼの 3四季』と新しい文学運動 
 4中原中也と小林秀雄
Ⅱ 大震災と改元
 1関東大震災 2中川一政と古賀春江 3大正文学考 4震災からの復興
 5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
 8一九二〇年代東京 
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼

 1「パンの会」と一九二〇年代 2谷崎潤一郎の文体
 3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
 4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
 5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉 
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
 1新帰朝者としての光太郎 2
一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
 4光太郎の戦後へ
 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
Ⅴ 横光利一のモダニズム
 1横光利一とその出発 2上海 3横光利一の詩と散文 4横光利一と北川冬彦、宮沢賢治 
 5横光利一の悲劇とその解読
Ⅵ 堀辰雄の文学空間
 1一九二〇年代の堀辰雄 2
軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄 
 3堀辰雄の『幼年時代』と下町 4カロッサとリルケ 5再び堀辰雄の下町
 6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄の
フローラ 8日本的深化と大和路の旅
 9堀辰雄の表現主義
Ⅶ 萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向
 1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
 4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
 6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「
」の詩人 
 8「垂直性」と「水平性」
Ⅷ 一九二〇年代という世紀末
 1混沌とする文化状況のなかで 2歴史と文学 3パウンドとフェノロサ
 4一九二〇年代という世紀末
おわりに

著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。

「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。

一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)

一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)

取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。

光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。

また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。

ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。

そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。

昭和23年(1948)3月17日の日記より 光太郎66歳

セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。

昨日の『朝日新聞』さん、投書欄から。

(声)若い世代 詩を通して考える大切さ実感

 学校の「いじめ問題を考える週間」は有意義なものだった。私は図書委員として、詩の朗読を校内放送で行った。私が選んだのは高村光太郎さんの「最低にして最高の道」。
 一見すると、いじめ問題と関係ないように感じるかもしれない。しかしこの詩は、人間が生じさせる怒りや憎しみなどにとらわれず、楽しく幸せに生きよう、という意味が込められていると思っている。
 詩を選ぶにあたり、「いじめ、友情って何なんだろう」と様々なことを考えた。いじめは、人間のわずかな感情のもつれから引き起こされる。つらいことがあるけど、他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になると、高村光太郎は言っているような気がする。そんな気持ちがあれば、いじめも解決できると思う。今回、詩を通して深く考えることの大切さを実感した。
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真っ直ぐで初々しい、いい文章ですね。

「最低にして最高の道」、昭和15年(1940)の詩です。003

   最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

光太郎詩の中では意外と有名、というか、コアなファンの多い詩といえるかもしれません。二次創作等で扱われるケースも少なくありません。

例えば、沖縄出身のJ-POPシンガーMATSURIさん。テレビ東京さん系で今春放映された連続ドラマ「私の夫は冷凍庫に眠っている」の主題歌「金魚すくい」で注目されたシンガーです。昨年、KAITOさんのという方の作曲になる「最低にして最高の道」をリリースされ、琉球放送(RBC)さんのバラエティー番組「Aランチ」のエンディング曲に採用されたそうです。


クラシック系でも、土屋光彦氏という方が曲を付けられ、平成27年(2015)、「新しい歌を求めて ~大久保豊典が歌う土屋光彦歌曲の夕べ~」というコンサートで披露されています。

エッセイストの松浦弥太郎氏には、『最低で最高の本屋』という御著書があります。タイトルからして「最低にして……」オマージュですね。松浦氏、平成16年(2004)の雑誌『ku:nel』には、この詩にからめたエッセイ「岩手・花巻の高村山荘を訪ねる」も書かれています。
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それから、平成29年(2017)テレビ朝日さんで放映の5分間番組「気づきの扉」では、松浦氏と「最低にして……」のエピソードが紹介されました。

その他、さまざまな朗読系CD等にも、けっこう採られています。

……という、「最低にして最高の道」ですが、元々は昭和15年(1940)9月の雑誌『家の光』第16巻第9号、「国のために私利を捨てん」という欄に掲載されました。

最愛の妻、智恵子を喪くして約2年。かつて智恵子と二人で実践していた、俗世間とは極力交わらず、芸術精進に明け暮れる生活が、智恵子の心の病を引き起こした一因となり、さらにそれを続けていては自分もおかしくなってしまうという危機感から、一転して社会と関わりを持とうと「改心」したことが宣言されています。しかし、その社会は泥沼の戦時体制に入っており、日中戦争は膠着状態、局面打破をはかって翌年には太平洋戦争に突入する、その前夜です。

したがって、「みんなと一緒に」挙国一致体制を支持し、神国日本に勝利をもたらそう、と、そうしたキナ臭い背景のある詩でして、当方、あまり好きになれません。そういった裏の作詩事情を抜きにして読めば、それなりによい詩だとは思うのですが……。

後に昭和17年(1942)には、光太郎の第三詩集『大いなる日に』に収録されました。
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第一詩集が、自らの道を進むことを高らかに謳った『道程』(大正3年=1914)、第二詩集が、かの『智恵子抄』(昭和16年=1941)、そして第三詩集が、すべて翼賛詩の『大いなる日に』。ちなみに第四詩集は光太郎詩集の中で最も陰惨というか、愚劣というか、年少者向けの翼賛詩を集めた『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)、第五詩集も翼賛詩のみの『記録』(昭和19年=1944)。

こうして見ると、「最低にして最高の道」が、一つの大きなターニングポイントとなったことがよくわかります。『智恵子抄』末尾に近い「梅酒」(昭和15年=1940)では、「狂瀾怒濤の世界の叫も/この一瞬を犯しがたい。/あはれな一個の生命を正視する時、/世界はただこれを遠巻にする。」と謳っていたのが、やがてそうならなくなり、「狂瀾怒濤の世界の叫」にどっぷりはまっていくわけです。

「最低にして最高の道」。「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」といった文言を使わなくても、そういった内容を表せてしまう、光太郎の詩才には舌を巻かざるを得ませんし、こうした作詩背景を無視すれば、確かに現代にも通じる詩ではありますね。上記の投書にあるように「他者を認め、まっすぐな気持ちで受け止めれば最高の道になる」というわけで。

文学作品は、自分なりの読解の仕方があっていいのだ、という論の、一つの証左となるような気もします。

【折々のことば・光太郎】

夕方佐藤弘さん花巻より帰途立寄らる。酢一升ミカキニシン三袋買つてきてくれる。酢は五十円にあがり居れり。秋には二十円なりき。


昭和23年(1948)2月28日の日記より 光太郎66歳

「佐藤弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入った青年。光太郎がパシリにしていました(笑)。

終戦から2年半経ちましたが、まだまだ物価のインフレーションなどでの混乱は、収まっていませんでした。

6週連続の放映です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子

地上波日本テレビ 2021年6月30日(水)~8月4日(水) 
毎週水曜 21:54~23:00(6月30日(水)は野球中継のため22:54
23:00)

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#1 舞台(二本松)

高村光太郎・智恵子夫妻の愛が綴られた詩集「智恵子抄」。
妻・智恵子は明治19年、裕福な作り酒屋の長女として誕生。
活動的で、自由を愛した女性だった。
まだ女性に学問が不要と いわれた時代に成績優秀。
そして当時では珍しい東京の女子大学に行くことを決め、明治36年、上京する。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#1 福島・二本松 6月30日(水)
智恵子は東京に空が無いといふ 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ

#2 フランス・パリ 7月7日(水)
私はパリで大人になった パリの魅力は人をつかむ

#3 千葉・犬吠埼 7月14日(水)
いやなんです あなたのいってしまふのが よその男のこころのままになるなんて

#4 東京・日比谷松本楼 7月21日(水)
あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

#5 栃木・塩原温泉 7月28日(水)
泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

#6 岩手・花巻高村山荘 8月4日(水)
 (オリンピック中継のためこの日は放映なし)
智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ

6分間の放送枠ですが、CMが入るので、実質2分程の番組です。一人、乃至は二人の人物にスポットを当て、ゆかりの地数カ所を紹介しながら、それぞれの人物の生き様に迫ります。二人になる場合は、与謝野鉄幹・晶子、白洲次郎・正子など、夫婦でした。昨日まで越路吹雪が取り上げられていましたが、次回から光太郎智恵子です。

一昨年、宮沢賢治が取り上げられた際に拝見し、「光太郎智恵子も扱ってほしいな」と思っておりましたところ、4月でしたか、担当ディレクターの方から連絡を頂き、協力要請がありました。まぁ、たいしたことはしませんでしたが、光太郎智恵子についての質問にお答えしたり、番組内でのナレーション等の内容チェック・校訂などをさせていただいたりしました。

したがって、まだ映像としては拝見していませんが、ナレーション原稿等見た限り、勘どころは押さえ、よくまとまっています。

ネット上の番組ガイド的なサイトでは、一部、来週の放映を「犬吠埼」としていますが、誤りで、まずは智恵子の故郷・二本松からです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

裏の山にて先日熊狩りありし由。一頭、及笹熊をとりたりといふ。


昭和23年(1948)1月16日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、「裏山」といっても、そのまま奥羽山脈に突入し、およそ20㌔㍍先まで民家など1軒もない状態でした。現在でも熊のメッカです。
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「笹熊」はアナグマのことだそうで。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第12号が届きました。
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当方の連載「連翹忌通信」が掲載されています。

そうそうネタがあるわけでもなく、これまでの光太郎智恵子らに関する新しい発見等で、このブログでご紹介してきたことを再編して書かせていただいております。ブログとPR誌と、どうも読者層も異なる部分があるようですので、それもありかな、と、勝手に決めております(笑)。

拙稿は、前号から継続で、光太郎塑像彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)に関して。前号では、昨年発見しました、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載された、光太郎の「手紙」という文章について。彫刻「手」制作時、リアルタイムで自作について述べた文章でした。

今号では、さらに同じく昨年、やはり「手」について書かれた、昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号掲載の「手」という文章について書こうかとも思ったのですが、そちらは次号に回し、『白樺』での仲間だった有島武郎と「手」について書きました。有島は「手」を入手、自殺(大正12年=1923)直前にはそれをことのほか愛でていました。この「手」は、有島没後は親しかった秋田雨雀の手に渡り、さらに現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収められ、時折、常設展示で出ています(今日現在も)。有島と「手」について、くわしくはこちら

他に、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だそうです。

【折々のことば・光太郎】

昨夜も雪、朝小雪時々日影さし、又吹雪のやうになる。 穴掘りむつかしく思はれるにつき阿部弘さんにハガキを書き、林檎苗移植は来年にのばしてくれるやうたのむ。

昭和22年(1947)11月27日の日記より 光太郎65歳

「阿部弘」は「阿部博」の誤りです。阿部は宮沢賢治の教え子で、花巻での林檎栽培普及に大きく貢献た人物です。光太郎の山小屋前に、林檎の苗を植えたらどうか、と、提言していました。

NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。「日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。」というコンセプトです。時折、光太郎詩を取り上げて下さっていますが、来週の放映でも。

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月3日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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「道程」(大正3年=1914)は、これまで、子役さんたちの朗読や、坂本龍一さん作曲の歌で取り上げられてきましたが、どんな感じになるのでしょうか。

ところで、同じ番組で少し前に当会の祖・草野心平の詩「誕生祭」に、尺八奏者の藤原道山さんが作曲した歌が取り上げられました。


7:27頃から。

この歌について、『山形新聞』さんが一面コラムで紹介しています。

談話室

▼▽〈びがんく/びがんく〉〈があんびやん/があんびやん〉―。NHK・Eテレの子ども向け番組でオノマトペだらけの一風変わった歌を耳にした。草野心平の詩「誕生祭」の後段にある擬音部に曲を付けたものだった。▼▽草野は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれるほど蛙の世界をテーマにした作品を作り続けた。この詩もその一つだ。金だらいのような月が昇る頃、生まれたことを祝う蛙たちの歓喜の合唱が水辺に響き渡る場面を表現したとされる。詩人は交錯する鳴き声を独特の感性で言葉に変換した。▼▽26日夜、3年ぶりに日本で皆既月食が観測された。夜空に目を凝らした方も多かろう。筆者も自宅近くの田中でその時を待った。薄い雲が広がり、おぼろな月影が食によるものかどうか判然としない時間が続いたが、雲が切れると田の水鏡にも赤銅色の月が小さく浮かんだ。▼▽〈蛙よ/口笛をふいて/寂しい月蝕(しょく)をよべ/花火をかこんで/青い冷や酒を傾けよう〉。草野はこんな詩も書いている。騒々しい蛙の声に囲まれての観測は約30分で終了。〈びがんく〉とも〈があんびやん〉とも聞こえなかったが、天体ショーを喜んでいるふうではあった。

ありがとうございます。

皆既月食の件にも触れられていますが、都内ではほぼ見えなかったようです。すると、Facebookやtwitterでは、「東京に空が無い」と、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)にかけた投稿が散見されました。喜んでいいのかどうか(笑)。

さて、「祭りのかけごえ」の回、ぜひご覧下さい。それにしても、「3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。」だったのですね。以前は平日の毎朝夕、2回放送だったのですが。

001【折々のことば・光太郎】

岩田豊蔵氏の息来訪。(自転車)、「雑草社」の看板の字を持参の朴の板に書く。草といふ字を間違へしにより、も一度削つて持参の事をたのむ。


昭和22年(1947)11月9日の日記より 光太郎65歳

「岩田豊蔵氏」は、宮沢賢治の妹・シゲの夫。アマチュア洋画グループ「雑草社」を結成し、光太郎にその看板の揮毫を頼みました。しかし、光太郎、「草」の字の最後の縦棒を「日」の部分から突き抜けさせてしまい、「また書くから削って消してきてくれ」。

翌年、もう一度書いたのですが、やはり「草」の字を書き誤りました。結局、「これはこれでおもしろい」と、開き直り(笑)。現物は現在、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を起こしたのではないかと思われます。




当会顧問であらせられ、昨年1月に亡くなった、故・北川太一先生最後の御著書『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』を前面に押し出すチラシが完成したそうで、版元の文治堂書店さんからメールでPDFファイルが添付されてきました。
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もう1冊、一昨年刊行の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』も紹介されています。

裏面下部が注文用紙となっており、「郵送かFAX又は電子メールでお送り下さい。◆本ご注文用紙でご注文の場合に限り、送料弊社負担とさせていただきます。」だそうです。上記画像、プリントアウトしてお使い下さい。電子メールの場合はスキャンするなりしてくれということでしょうか。

ついでに云うなら、「◉上記①②以外の書籍をご希望の場合は下記に書籍タイトル及び注文冊数をご記入の上、お送り下さい。」とのことです。それぞれ平成27年(2015)刊行の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』も、北川先生のご著書。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

途中紅葉の山々美し。山口山の雑木の紅葉殊にめざまし。早池峰も遠くかすんでゐる。

昭和22年(1947)11月4日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、片道4㌔㍍ほどの隣村の郵便局に歩いて行った際の記述です。「山口山」は、山小屋裏手の低山群の総称です。
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昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の夕刊のコラムから。

河北抄(5/12)

 終戦直前の花巻空襲。宮沢賢治の実家に疎開していた高村光太郎は、負傷者の救護に当たった医師や看護学生たちの奮闘をたたえ、詩を贈った。
 <非常の時 人安きをすてて人を救ふは難きかな。非常の時 人危うきを冒して人を護るは貴いかな>。どこかコロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる。
 労災による医療・介護従事者の感染は4234件(4月23日時点)。全体の約8割に上る。それでも「戦線」は病棟のみならず、ワクチン接種や五輪・パラリンピックへの協力へと広がる一方だ。
 仙台市は高齢者へのワクチン接種の完了目標を当初より1カ月早い7月末に前倒しし、人材確保を急ぐ。国は接種の加速や五輪会場の医療スタッフに「潜在看護師」を活用する方針だという。さながら「総動員」といった様相に、当事者たちはどんな思いを抱いているだろう。
 どうか、忘れないでほしい。「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。近代看護の礎を築いたナイチンゲールの言葉にある。
 きょう12日は「看護の日」。彼女の誕生日にちなんで定められている。

昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲に際し、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」を引用して下さっています。

ほぼ一年前、『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、岩手では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。

手作り光太郎マスク寄贈。
「「非常の時」に将来重ね 花巻高看 高村光太郎学ぶ」。
「非常の時」/「雲」 『岩手日日』さんから。
IBC岩手放送「わが町バンザイ」。

今回、地元岩手ではなく、宮城発のメディアで光太郎詩を取り上げて下さったのはありがたいのですが、こうしてみると一年前と何ら状況が変わっていない気がして、複雑な思いです。

とりわけ、医療従事者の皆さんの一年以上にわたる奮闘ぶりには、まったくもって頭が下がります。本当に、少しでも早く、この状態の収束・終息することをねがってやみません。

ちなみに、もう少し後で詳しくご紹介しようと思っておりますが、光太郎が歿した昭和31年(1956)に発行された、花巻病院さんの絵葉書セットを入手しました。

その中に、昭和20年(1945)に光太郎から贈られた「非常の時」が書かれた書の写真を使ったものも含まれていました。
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詩を活字で記した紙片も同封。誤植が多いのが残念ですが。
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この書は現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されています。コロナ終息・収束後、ゆっくり落ち着いてご高覧いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

午前九時松庵寺にゆく。院長さん奥様も一緒に来らる。寺に宮沢老人あり。余と三人。読経十一時頃終る。母二十三回忌法事。母の事をいろいろ思出す。暫時寺にて談話。

昭和22年(1947)10月9日の日記より 光太郎65歳

母・わか、大正14年(1925)9月10日。父・光雲、昭和9年(1934)10月10日。妻・智恵子、昭和13年(1938)10月5日。最も近しい三人の命日が9月、10月に固まっていたため、毎年、三人を供養する法事の類はこの時期にまとめておこなってもらっていました。この年は、特に母・わかの23回忌ということで、それがメインでした。

花巻中心街の松庵寺さんには、この際に光太郎が詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれた碑が立っています。

「院長さん」は、「非常の時」を贈られた佐藤隆房医師、「宮沢老人」は賢治の父・政次郎です。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
       ◇
 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
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 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
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メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
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かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
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003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍が刊行されました。

遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集

2021年4月30日 北川太一著 小山弘明/北川光彦監修 文治堂書店 定価1,500円+税

高村光太郎研究の第一人者、北川太一の遺稿。賢治「デクノバウ」と光太郎「暗愚」の思想的背景、両者の心の葛藤を独自の視点で書き留め、この文が絶筆となった。
太一ゆかりの人々による追悼・回想文も収める。
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目次
Ⅰ 遺稿をめぐって
 「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)  北川太一
  はじめに/光太郎と賢治「玄米四合の問題」/賢治――コスモスの所持者――
  光太郎、三陸の旅/「記録」の思想/心平と光太郎と賢治と智恵子
  「注文の多い料理店」/光太郎の「人の首」/「第二次大戦下の光太郎」
  花巻、そして太田村山口へ/「暗愚小伝」/「雨ニモマケズ」の反語性
  光太郎 その後 死

 「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一  
                小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「雨ニモマケズ」の評価と受容について  
佐藤映二 (元宮沢賢治研究会会長)

Ⅱ 追悼 北川太一
 北川太一先生を偲んで         大島俊克(花卷高村光太郎記念会会長)
 あの日の言葉――北川太一先生への感謝の手紙――       服部剛(詩人)
 北川太一先生と父と光太郎             渡辺えり(劇作家・女優)
 「道しるべの恩」~北川太一先生を偲んで~   佐藤雅彦(文京区浄心寺住職)
 北川太一先生ご逝去の報に涙して         野澤俊之(詩人野澤一子息)
 月の人                          市川恵子(詩人)
 私の北川太一印象記                   前木久里子(詩人)
 うしよあゆめいのちもやし                 曽我貢誠(詩人)

Ⅲ 回想 北川太一
 先生に牽かれて――想い残るいくつか――   高原二郎(元都立向丘高校教諭)
 出逢いと別れ                     竹鼻倭久子(北斗会)
 北川太一先生の思い出             大島裕子(高村光太郎研究会)
 やがて光と――北川太一氏の思い出――     佐藤浩美
(高村光太郎研究会)
 北川太一先生から学んだこと           野末明
(高村光太郎研究会)
 出会いの頃             高松源一郎(美術企画「晴耕雨読」主宰)
 悲しみは光と化す―北川太一は生きている―わが北川太一先生のご逝去に際して
                           佐々木憲三(美術史家)
 北川先生を悼む                   本宮寛子(藤原歌劇団)
 北川様と私                  福田悠子(香川県丸亀市在住)

あとがき ――父、太一が伝えたかったこと――  北川光彦
 

北川先生、ご生前最後の著作集となった『光太郎ルーツ そして吉本隆明ほか』(平成31年=2019 文治堂書店)の「あとがきのごときもの」で、以下のように記されていました。

 それでも、まだ書き残したいくつものことが心に残る。その一番大きな残念は、宮沢賢治の「デクノボー」(「雨ニモマケズ」)と光太郎の「暗愚」(「暗愚小伝」)のかかわり方だ。賢治が「デクノボートヨバレ」たいと書いたのは昭和十二年、中国との戦争が始まったそんな時代だ。
 『雨ニモマケズ』を流布することによって、ここに表むきかたち作られたのは、そんな政治体制のなかで、とりあえず利用できる最も都合のいい人間像としての解釈だ。しかし賢治は、大正十二年の最初の童話集『注文の多い料理店』にそえた解説のパンフレットで、これらがその頃の政治体制にもっとも叛逆するはげしい社会思想に貫かれていることを自ら書き記している。そんな賢治が、死さえ予感しながら、このときにあえて「デクノボートヨバレ」たいと書いた意味は、なんだったのだろうか。
 光太郎が戦後、自らの生涯を、あえて「暗愚」と要約したのは昭和二十二年のことだった。しかしそこで光太郎は賢治没後の宮沢家を訪ね、はじめて「雨ニモマケズ」の草稿を見、筆写し、賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」て生きる生活を痛切に批判して語った。その両者の関わりについても、どうしても書いておかなければならない、と思いながら、その時間がまだあるかどうか。九十四年近く使い古した肉体が、いま、このこのあとがきに近いものを、わずかに書かせる。


先生が亡くなった時、この一節を思い出し、「ああ、結局、これは果たされないまま終わってしまったんだなぁ」と思いました。

しかし、あにはからんや、その後、文治堂書店さんから、「賢治と光太郎に関する北川先生の遺稿を預かっている。そのまま一冊にして刊行するには短いので、解説のようなものを書き足してくれないか」との連絡。仰天しました。

ほどなく送られてきたのが、本書冒頭三分の一ほどの「「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)」。最後に附されたメモによると、「令和元年五月一日二十四時 初稿 擱筆 九十五枚 太一、数え年九十五歳也 前著『光太郎ルーツ そして吉本隆明』(平成三十年三月刊)「あとがき」に記した公約として。」。「先生、書いてらしたんだ……」と、万感の思いがこみ上げました。ちなみに「令和元年五月一日」、ちょうど2年前ですね。奇縁を感じます。

そこで依頼された「解説のようなもの」を書いて送りましたが、「まだ一冊にするには足りないから、ゆかりの人たちに自由に書いて貰う。それから、PR誌の『トンボ』に載せた各界からの追悼文も載せる。ついては史実などの明らかな誤り等を正して欲しい」とのこと。そんなこんなで当方、「監修」としてクレジットされています。表紙にある当方の名は帯に隠れて見えませんが(笑)。

「史実などの明らかな誤りの訂正」、意外と大変でした。何だかんだで一年近く関わったように記憶しています。実は、北川先生のご遺稿の中にもそれがあり、「先生、ここ、一年ずれてますよ(笑)」と、心の中で呟きながら朱筆を入れたり……。しかし、北川先生最後のご著書に、こんな形でがっつり関わらせていただけたのは、望外の喜びです。

ところで、「Ⅱ 追悼 北川太一」中の「北川太一先生ご逝去の報に涙して」を書かれた野澤俊之氏。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、連翹忌にはほぼ毎回ご参加いただいていましたが、今年2月に亡くなったと、奥様よりご連絡を頂きました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、文治堂書店さんのサイトから注文できると思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小屋前の胡瓜一本生にてくふ。

昭和22年(1947)8月21日の日記より 光太郎65歳

念のため書いておきますが、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の自分の山小屋で栽培していた胡瓜です。泥棒ではありません(笑)。

当方、基本的に生野菜がダメで、特に胡瓜はその匂いからしてまったく苦手です。昨日の昼食、途方はカルボナーラ、妻は冷やし中華。その胡瓜の匂いが気になり、別々の部屋で食べました(笑)。

詩人の宮尾壽里子さんから近著を頂きました。多謝。

詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer

2021年3月31日 宮尾壽里子著 夢月堂発行 定価2,000円+税

目次 
序詩 海から生まれしもの
Ⅰ 誰かが啄んだ夢のように
 片夢/午後/氷雨の記憶/水空/水の時間/遠雷/花闇/花刑/薔薇によせて/夜の魚
Ⅱ 風花のように 消えて
 絵の記憶/ピアノの時間/庭/楽茶碗/幼い日のオルゴール/そのうた/伴侶
 夢見坂ケアハウス/空の家/風鈴
Ⅲ どこかで砂の零れる音がする
 どこへ/羊の行方/蛾/残蝉/無題 あるいはオメガという猫
 無題 あるいはカーリーという小鳥/無題 あるいはマッキーという鼠/静かなとき
 そのとき/海からきた猫
あとがき

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「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。

   水空002

 夕立のあとの 水溜り
 空を映して雲がゆっくりと流れていく
 水面から外れれば
 行き場を失い消える

 都会の片隅 刹那を映して
 水を囲う

 未来の形を映しても
 切り取られた時間のなかで漂白する
 行きつく先も知らぬまま

 早足に通り過ぎる命の切れ端に似て
 場所を失くすとまた音もなく消える

 果てなく彷徨う雲を千切り 千切り
  *智恵子は東京に空がないという
   ほんとの空が見たいという

 ほんとの空はどこにあるのだろう

 みあげても みあげても
 ビルの透き間の空ばかり

 乾くまでのひととき
 水溜まりに浮かぶ霞んだ空を抱きしめる

 水を掬えば 欠片のように壊れて
 指の透き間から乾いた今日が零れていく

   *高村光太郎『智恵子抄』より「あどけない話」部分


PV的な動画がYouTubeにアップされています。


各詩篇は、カバーデザインと同じように、透明感に溢れたセルリアンブルーのイメージ。失礼ながら、年輪を重ねられてきた中でのさまざまなご遍歴を両の手で掬い取り、「指の透き間」からこぼれ落ちた感情を、みずみずしい感性で宝石のように輝く言葉にし、紡いでいらっしゃる感じでした。

ちなみに、表題作が「海からきた猫」ですが、宮尾さんのフェイスブックを拝見しますと、時折、飼われている複数の猫ちゃんたちが登場します。

宮尾さん、詩人の他にもいろいろなお顔をお持ちです。

文芸同人誌『青い花』の同人として、同書に詩やエッセイを寄稿され、特にエッセイでは連翹忌のレポートや、光太郎が暮らしたパリの街の紀行などを書かれ、当会宛贈って下さっています。

それから朗読。都内等でたびたび朗読の公演に出演されているほか、平成30年(2018)には、福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に出場され、みごと大賞に輝かれました。動画でもご自身で朗読されていますね。

さらには、女優として舞台にも立たれているそうで、そのマルチぶりには脱帽です。上記動画も、マルチなご活動の中でのお仲間を巻き込んで(笑)作られたもののようで。

上記、夢月堂さんサイトから連絡が取れそうです。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

南瓜追〻に出る、ジヤガイモもたんたん出てくる。

昭和22年(1947)5月26日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋前の畑の様子です。

当方自宅兼事務所のベランダでも、プランターにジャガイモの芽が出始めました。収穫して食べようという気もあまりないので(肥料などもほとんどやらないので大きく育ちません)、専ら薄紫の花の観賞用になってしまっています。光太郎に怒られそうです(笑)。
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お世話になっている福島県いわき市の草野心平記念文学館さんから、年報の第21号が届きました。多謝。発行が2020年3月31日ということで、1年前のものですが、なぜか毎年、この時期に1年遅れで届きます。
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内容的には平成30年度(2018年度)の事業報告的なところがメインです。そこで、当方も拝見に伺った、光太郎にも関わった企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」、「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」等について、詳述されていました。
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また、「火の車……」の関連事業として開催された、料理研究家の中野由貴さんによる「居酒屋「火の車」一日開店」について、4ページ。
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さらに、当方は欠礼しましたが、企画展の関連行事等ではなく単独で開催された、当会会友・渡辺えりさんによる「文芸トーク 東北の文学 光太郎・賢治・心平」の筆記録も、5ページにわたって掲載されています。
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渡辺さん、これまでも各地でのご講演や、テレビ番組等で、お父様の正治氏と光太郎の交流について語られてきまして、ここでもそうした内容の部分があります。ところが、ある程度の長さが活字になっているものはこれが初かな、という感じです。その他、スペイン・ゲルニカ平和博物館のレポート的な内容や、東京や花巻でのご体験、心平や賢治へのまなざしなど、興味深く拝読しました。

その他、栗原敦氏(実践女子大学名誉教授)、牛崎敏哉氏(宮沢賢治記念館学芸員)、和合亮一氏(詩人)、安斉重夫氏(彫刻家)のご講演や対談等も活字になっています。

ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝八時頃阿部弘さんと瀬川孝蔵氏と同道来訪、クキの生きてゐるのを数尾持参。此所で料理されて朝食。生の石たたき。酢みそつけ。塩焼。ヰロリの火にかざしてやく。二尾生かしておく。クキの鱗に霰縞あり、美し。


昭和22年(1947)5月21日の日記より 光太郎65歳

「クキ」は川魚の「ウグイ」のことです。当方は「塩焼」が非常に美味しそうに感じます。

鱗の模様に美を見いだすあたり、光太郎の本領発揮ですね。

今年、2021年は詩集『智恵子抄』発刊80周年ということになり、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で、さまざまな記念事業が計画されています。そのうちの「「智恵子抄」総選挙」について、今月3日の『読売新聞』さん福島版の記事。

「智恵子抄」推し作品求む 詩集出版80年を記念 二本松の団体

 詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子への思いをつづった詩集「智恵子抄」出版から今年で80年となるのを記念し、智恵子が生まれた二本松市の団体「智恵子のまち夢くらぶ」が、詩集の中から最も心に残った作品を決める「総選挙」を開催する。光太郎の命日の2日、募集を始めた。同団体代表の熊谷健一さん(70)は「多くの人に楽しんで応募してほしい」と呼びかけている。
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 同団体は、市内や関東圏などに住む50~80歳代の男女25人で活動。智恵子ゆかりの地を観光客に案内するツアーや、高村夫妻についての勉強会を開くなど顕彰活動に取り組んでいる。智恵子の生誕120年や没後70年といった節目には、朗読会やコンサートといったイベントも企画してきた。
 今年は「智恵子抄」出版から80年だが、コロナ禍で大勢の人が集まる活動は難しく、全国に投票を呼びかける「総選挙」を計画した。「おうち時間で詩集をゆっくり読んで、2人の波乱万丈の人生から、それぞれの生き方のヒントを得る機会にしてもらいたい」という。
 募集対象は、出版社・龍星閣の「智恵子抄」と続編「智恵子抄その後」の36作品。最も印象に残った1作品を選び、郵便はがきに〈1〉作品名〈2〉選んだ理由(100文字以内)〈3〉氏名〈4〉住所〈5〉電話番号〈6〉年齢――を書き、「智恵子記念館」(〒969・1404 二本松市油井漆原町36)に送る。二本松市本町の市民交流センターには、手作りの投票箱と用紙が置かれており、直接応募できる。締め切りは10月31日(消印有効)で、応募は1人1回まで。抽選で80人に、光太郎と智恵子の記念品を贈る。
   開票結果は、同団体が11月21日に開く予定の第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表される。熊谷さんは「応募してくれる方々がどのような作品を選ぶのか興味深い。まだ読んだことがない方にも、この企画をきっかけに作品のファンになってもらえたらうれしい」と話している。
 問い合わせは、熊谷さん(090・7075・6743)へ。
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龍星閣版の『智恵子抄』、それから『智恵子抄その後』の詩篇が対象で、新潮文庫版などには掲載されているものの、龍星閣版にはない「涙」、「からくりうた」、「松庵寺」などはエントリーされていません。

どの詩が第1位になるか、興味深いところです。何となく、「これかな、いや、こっちも有り得るな、待てよ、こいつも捨てがたい」という予想はできますが、明言は避けましょう。また、福島の団体が主催というのも、カギになるような気もしています。

夢くらぶさん主催の「「智恵子抄」出版80周年記念事業」、他にもいろいろ計画されています。
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また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、10月には「「智恵子抄」安達太良キャンプ」(当方、パネルディスカッションのパネラーをを頼まれております)、11月には「第2回全国「智恵子抄」朗読大会」だそうです。

ともあれ、まずは総選挙。「投票された方から抽選で80名様に記念品をプレゼントいたします」だそうで、おそらく、結果如何に関わらない抽選でしょう(当方、勝手に便乗して胴元となり「3連単」とか「オッズ何倍」とかやりたくなってしまいますが(笑))。ふるってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前八時頃定見さん宅にゆき、ホームスパン見学。土沢の及川善三氏方に居らるる福田春子さんといふ女の人講師なり。織り終りあり。仕上げの縮絨といふ工作の見学、手伝ひ。
昭和22年(1947)5月20日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」「福田春子」は、それぞれ正しくは「及川全三」「福田ハレ」。それぞれホームスパン作家として活躍しました。光太郎愛用の猟人服は、のちに福田が織った生地を使って作られています。

この日、光太郎が蟄居生活を送っていた太田村山口地区に、福田が講師として来、村人にホームスパン制作の講習を行ったとのこと。光太郎の興味深く見学、さらには「手伝ひ」とまで書かれていますね。

さらに講習終了後、福田に、智恵子遺品にして、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布を見せてあげています。

4月2日(金)、第65回連翹忌の日の『岩手日報』さん。連翹忌に触れてくださいました。

風土計 2021.4.2

〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎「道程」は、旅立ちの季節が似合う。9行の口語自由詩が、初めの一歩を後押しする▼新たな学校、新たな職場。期待と不安が入り交じる中、「初めまして」もマスク越し。人の顔を覚えづらいのは厄介だ。会釈され知り合いと気づくこともあろう。まずは挨拶から。少しずつ心を通わせ、もどかしさを補いたい▼疎開した花巻で7年間を過ごした光太郎。「岩手の人」では〈沈思牛の如し。/地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す〉と県民性をたたえた。丑(うし)年の今年、きょうが命日だ▼生前好んだ花にちなむ「連翹(れんぎょう)忌」法要は、新型コロナウイルスの影響で昨年に続き中止となった。高村記念会山口支部(照井康徳支部長)は、ささやかな集いで遺徳をしのぶという▼71歳の照井支部長は今も、幼少時に見かけた大柄な姿を忘れない。「先生のおかげで地域が活性化した」と感謝。「正直親切」「心はいつでも新しく、毎日何かを発見する」の金言を胸に刻む▼コロナ禍、東京五輪・パラリンピックの行方等、震災10年を経てなお、先の見通せない日々。こんな時こそ、自ら道を切り開く光太郎の精神に学ぶところは大きい。「希望」はレンギョウの花言葉。困難が待ち受けていても、決して失わずにいたい。

紹介されている「連翹忌法要」は、都内での当会が主催する集いではなく、やはり4月2日の光太郎忌日に、花巻市の松庵寺さんで開催してくださっている、花巻としての法要です。こちらも昨年に引き続き、中止のやむなきに至ったそうで……。

連翹の花言葉が「希望」とは存じませんでした。もっとも、「花言葉」というのは随分いろいろ種類があるようですが……。なぜなのでしょうね。

続いて、『朝日新聞』さん。「マダニャイ とことこ散歩旅」という夕刊の連載、3月23日(火)の掲載分です。

マダニャイ とことこ散歩旅:568 清洲橋通り:18 赤玉石

■「名石の庭」で輝く緋色
 清澄庭園(東京都江東区清澄3丁目)には、三菱財閥が集めた全国の有名な石があり、「名石の庭」「石の博物館」とも評される。正門左手奥の大正記念館近くに緋色(ひいろ)の石がある。雨にぬれるとルビー色に輝く石がずっと気になっていた。
  佐渡赤玉石で、高さ60センチ、横120センチ、幅80センチ。いつから庭園に置かれているかはっきりしていない。
 赤玉石は掘り尽くされてしまい、産地だった新潟県佐渡市赤玉地区で1982年に採掘を終えた。かつて赤玉石を一手に扱っていた立脇隆彦さん(68)は「もう二度と手に入らない名石です」と語る。
 歌人で彫刻家の高村光太郎は、大戦末期の空襲で東京・駒込のアトリエとともに彫刻など数多くの作品を失った。「石くれの歌」と題した、こんな詩がある。
 《石くれは動かない/不思議なので/しやがんで/いつまでも見てゐた/あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある/これひとつだけが/この林泉の俗をうけない》
 研究者に尋ねたが、「あかい佐渡石」と庭園の赤玉石の関連は分からなかった。ただ、石を見つめていると、不思議と、すべてを失った光太郎の気持ちが分かる気がする。
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引用されている「石くれの歌」は、光太郎生前には活字になった記録がなく、残された草稿も「原稿」とも言えないメモ書きのようなものです。
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制作年も不明。昭和20年(1945)の太平洋戦争末期に、筑摩書房から『石くれの歌』という詩集の刊行を希望していたことがわかっており、その頃の作かもしれません。また、戦後の昭和22年(1947)に書かれた他の詩の原稿用紙の裏面にもこれが書かれており、この時期の作の可能性もあります。

従って、光太郎が見た「あかい佐渡石」、昭和20年(1945)頃の作であれば、東京で見たもの。戦後の作ならば、花巻で見た可能性もあります。光太郎の日記や書簡、エッセイ等、あるいは周辺人物の回想等に、もしかするとモチーフになった石のことが書かれているかもしれませんが、とりあえず、ぱっと思いつくものはありません。当会顧問であらせられた北川太一先生の書かれた、『高村光太郎全集』や『高村光太郎全詩稿』の解題にも、そうした記述は見当たりません。

記事にある「研究者に尋ねたが」の「研究者」は当方でして(笑)、この記事を書いた記者氏から電話での取材で、「清澄庭園に立派な佐渡の赤玉石があるんだが、光太郎の「石くれの歌」に出てくる石はこれなのではないか?」という趣旨でした。そこで、上記のように、この詩の制作状況が不詳であることをお伝えし、「江東区なら、光太郎のホームグラウンドの下町なので、可能性はありますが、清澄庭園のものがこの詩に謳われているとは断言できませんね」とお答えしました。

それにしても、赤玉の佐渡石というのが、そんなに稀少価値のあるものとは存じませんでした。調べてみましたところ、佐渡のものはもう採掘禁止、最近は津軽産のものが出回っているようです。昔採掘されたものは、ホテルニューオータニさんの庭園にもあるそうで、こちらは日本一の大きさと言われているとか。

しかし、「石くれの歌」の詩句「あかい佐渡石が棄(す)てたやうに/小径(こみち)のわきに置いてある」からすると、それほどの巨石でもなさそうな感じはしますね。

文京区千駄木やら、花巻市中心街やらの光太郎ゆかりの場所で、昔からここに佐渡赤玉石がある、という情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃分教場行、芝林の畑山氏、田頭さん等校庭に来る。花見宴をはじめられ、招かれる。畑山氏湯口村の上田氏といふ人、その弟さん工藤さんといふ人をつれてくる。

昭和22年(1947)5月9日の日記より 光太郎65歳

岩手の山村、5月はじめに花見なのですね。「湯口村の上田氏」は、おそらく現花巻市長の上田東一氏の父君か、ご縁者だと思います。

この後、他の村人や、たまたま光太郎を訪ねて北海道からやって来た詩人の更科源蔵も加わり、宴も酣(たけなわ)となりました。酔って人に絡み出す人が出てきた頃、光太郎はこっそり退散しています(笑)。

昨日に続き、朗読系で。

一昨年、CD「【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作」全13巻がリリースされ、光太郎の「智恵子抄」もラインナップに入っていましたが、今月初めに「普及版」ということで、分売が開始され、入手しました。

【近代文學の泉】 普及版 朗読で味わう文豪の名作4(CD3枚組)太宰治・島崎藤村・高村光太郎

2021年3月1日 株式会社トゥーヴァージンズ CD3枚組 定価1,980円

時代を超えて愛されてきた日本文学を代表する作家作品を完全新規録りおろしで収録。
文学作品に精通した、朗読の名手といわれている俳優たちによって読みあげられている。

収録作品
太宰 治 「走れメロス/桜桃」 朗読・風間杜夫(59:28)
島崎藤村「若菜集」より 朗読・広瀬修子(77:10)
高村光太郎「智恵子抄」より 朗読・寺田農(73:15)

朗読者コメントより
「彼の自伝に近い「桜桃」を朗読することで改めて太宰の心を覗いたような気がしました」
(風間杜夫)
「この機会に“新しき詩歌の時”を切り拓いた藤村の、瑞々しい抒情詩の数々を、耳から味わっていただければ…と思います」(広瀬修子)
「現在の自分の歳になると作品の感じ方が変わってきて、自分の表現としての変化もわかりました」(寺田農)
俳優たちが朗読で作り出す世界観が読者の創造性を掻き立てる見事な朗読作品。
また収録作品は物語を省略せず完全朗読。(※完全朗読は小説に限る)
作家の書いた文章が余すことなく表現されている。
書籍で読んだ経験の有無に関わらず、耳から聴くことによって新たな角度から作品への理解が深まるはず。
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というわけで、光太郎の部は、寺田農さんの朗読です。詩は35篇。

人に(いやなんです)/或る夜のこころ/涙/おそれ/からくりうた/ある宵/梟の族/郊外の人に/冬の朝のめざめ/深夜の雪/人に(遊びぢやない)/人類の泉/僕等/愛の嘆美/晩餐/淫心/樹下の二人/狂奔する牛/金/鯰/夜の二人/あなたはだんだんきれいになる/あどけない話/同棲同類/美の監禁に手渡す者/人生遠視/風にのる智恵子/千鳥と遊ぶ智恵子/値ひがたき智恵子/山麓の二人/在る日の記/レモン哀歌/亡き人に/梅酒/荒涼たる帰宅

基本、昭和42年(1967)の新潮文庫改版を元にしています。ただし、戦後の「智恵子抄その後」等の詩篇や散文、短歌は入っていません。逆に、昭和16年(1941)刊行のオリジナル龍星閣版にない「涙」、「からくりうた」、「梟の族」、「人に(あそびぢやない)」、「淫心」、「金」が収められています。

009朗読されている寺田農さん、以前にも書きましたが、平成6年(1994)にクレオハウスさんという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」という作品でも、ナレーション、朗読を務められていました。その際と比べると、寺田さん、年齢を重ねられた分、お声に渋みがさらに加わっているように思われます。

上記「朗読者コメント」にある寺田さんのお言葉、「現在の自分の歳になると作品の感じ方が変わってきて、自分の表現としての変化もわかりました」というのが、「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」で朗読をされたことを表しているのでしょう。

今回の「普及版」、「普及版」ですので、最初の13枚組の附録だった、作品の解説や朗読者コメントの載った冊子が付いていませんが、それにしてもお手頃価格です。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田氏より「智恵子抄」出版の事 宮崎稔氏に「歌集」は氏に呈上の旨書き送る。氏の編にしてもらふ事言ひ送る。


昭和22年(1947)4月10日の日記より 光太郎65歳

「鎌田氏」は鎌田敬止、出版社・白玉書房の主でした。「智恵子抄」は、龍星閣版と新潮文庫版の間に刊行された白玉書房版です。龍星閣版に、戦後の「松庵寺」「報告」を加えて出版されました。

「歌集」は『白斧』。光太郎姻族となった宮崎稔が、明治以来の光太郎短歌を集めて出版することを提案、光太郎は拒否しましたが、宮崎は上梓を強行しました。そこで光太郎は、あくまで自分とは関わりのないところでの出版である旨を明記せよ、と書き送りました。

のちに、白玉書房版『智恵子抄』も、版権の問題やらで、龍星閣からきちんとした同意を得ていたとは言えないままの刊行だったことが分かり、廃刊に追い込まれます。

この時期、出版を巡るこうしたトラブルが多く、光太郎にとっては受難の日々でした。

今年は東日本大震災から10年。改めて今月書いた記事を読み返してみますと、ほぼ毎日、3.11がらみでした。それだけいろいろな機会で「震災から10年」が取り上げられているということなのですが。

まだ関連情報がいくつかあるのですが、一旦、まとめを付けたく存じます。

3月12日(金)、地方紙『福島民報』さんの一面コラムから。

あぶくま抄 道

 十度目の特別な三月十一日、県内は鎮魂の祈りに包まれた。ある人は式典の会場で、ある人は自宅の遺影の前で、ある人は海岸沿いでこうべを垂れた。震災と原発事故から十一年目の歩みがきょう十二日、始まる。
 〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の詩「道程」の一節が、県民一人一人の姿に重なる。先など見えなかった「あの日」から、自らの足で復興へ向かって歩み始めた。真っすぐな道、曲がりくねった道、細い道-。振り向けば、さまざまな道のりがあり、それぞれに違う足跡がある。
 心ならずも、道を共にできなかった人たちがいる。関連死を含めると県内だけで四千人を超える命が失われた。津波で家族を亡くした南相馬市の男性は言った。「後戻りはしていない。ゆっくりと、自分たちの歩幅で歩いてきた」。大切な人の思いを抱え、ここまで来た。
 「道程」は九行詩が有名だが、初出時は百行を超える作品だった。その中でつづられた言葉が心にしみる。〈むざんな此[こ]の光景を見て 誰がこれを 生命[いのち]の道と信ずるだらう それだのに やつぱり此が生命に導く道だつた〉。悲しみも道を形作った。決して忘れずに、前へ、歩む。
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詩「道程」(大正3年=1914)の、雑誌『美の廃墟』に載った初出形はこちら。時折、ネット上で「「道程」の全文」という紹介の仕方をされていて、閉口しています。102行の形は「初出形」または「初出発表形」。詩集『道程』に収められた9行の形が「最終形」乃至は「最終詩形」。「全文」という語は使わないでいただきたいものです。

閑話休題。「あぶくま抄」、福島の地方紙ですので、福島県民限定のような書き方になっていますが、広く震災被災地全てにあてはまる提言として読みたいものです。「悲しみも道を形作った。決して忘れずに、前へ、歩む。」、まさに、そのとおりですね。

【折々のことば・光太郎】

勝治さん雪の上に熊の足あとらしきものありといふにつき一緒に出てみる。小屋の傍也。余の見るところにてはスルガさんの子供のツマゴの足あとなり。

昭和22年(1947)3月1日の日記より 光太郎65歳

「勝治さん」は、光太郎に花巻郊外旧太田村移住を勧めた分教場の教師、「スルガさん」は光太郎に山小屋の土地を提供した村の顔役です。「ツマゴ」は藁靴、たしかに熊の足跡に見えるかも知れませんね。実際、現代でも山小屋周辺は熊がうろうろしています。

3.11系の話題に戻ります。本日は、新刊書籍のご紹介。

千年後のあなたへ ―福島・広島・長崎・沖縄・アジアの水辺から

2021年2月26日 鈴木比佐雄著 コールサック社 定価1,620円(税込)

伝えねばならない 二〇一一年三月十一日を 人々に津波の襲来を伝え海に消えた勇敢な人々を 福島原発の放射能で遺体も捜せない人や避難民を 死者行方不明二万名もの固有名と復興の日々を 千年後のあなたへ

この詩集の中で最も古いものは一九九五年の詩「桃源郷と核兵器」だが、南太平洋でフランスが核実験したことに対して感じたことが記されている。そのあたりから私は原爆と原発について自らの最も重要なテーマとして考え始めた。その二十五年の歩みがこの詩集で一つの形になったようにも感じている。ただⅣ章には海を通して東北やアジアとの水辺のつながりを感じたこともあり、七篇ほど沖縄本島・石垣島に関する詩を収録した。(あとがきより)

目次
序詩「ほんとの空」へ 
Ⅰ 海を流れる灯籠 桃源郷と核兵器 相生橋にもたれて
  被爆手水鉢(ちょうずばち)の面影 広島・鶴見橋のしだれ柳
  少年は今日も焼き場に立ち続けている 
Ⅱ 東海村の悲劇(きょうくん) 一九九九年九月三十日午前十時三十五分 
  二十世紀のみどりご 一九九九年十二月二十一日未明 大内久さん被曝死
  カクノシリヌグイ シュラウドからの手紙 日のゆらぎ 牡丹雪と「青い光」兼六園にて 
Ⅲ 薄磯の木片 ―3・11小さな港町の記憶
  塩屋埼灯台の下で ―二〇一二年三月十六日 薄磯海岸にて
  〈本当は大人たちは予想がついていたんじゃない〉
  朝露のエネルギー ―北柏ふるさと公園にて
  請戸小学校の白藤 福島の祈り ―原発再稼働の近未来 薄磯の疼きとドングリ林 
Ⅳ 生きているアマミキヨ 残波岬のハマゴウ 読谷村からの手弁当 
  辺野古を引き裂くもの サバニと月桃(げっとう) 福木とサンゴの石垣 
  生物多様性の亀と詩人 
Ⅴ タイアン村の海亀 己を知っている国、己を知らない国 月城(ウォルソン)  
  モンスーンの霊水 元総理と現総理を鞭打ちたくなった 千年後のあなたへ
初出一覧
あとがきに代えて ―福島・広島・長崎・沖縄の経験からなぜ学ばないのか 
略歴 
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著者の鈴木氏、版元のコールサック社さんの代表です。平成28年(2016)に、連翹忌にもご参加下さいました。そのご縁で本書を頂いてしまいました。多謝。

副題の「―福島・広島・長崎・沖縄・アジアの水辺から」でわかるように、詩人の若松丈太郎氏の唱える「核災」に苦しめられた人々への思い、それを引き起こした輩への痛烈な批判(副題には含まれていませんが、茨城県東海村での臨界事故も含みます)、虐げられ続ける沖縄、さらにはベトナムや韓国などにもその眼が向けられています。

「序詩」が、「「ほんとの空」へ」。平成30年(2018)元日の『福島民報』さんが初出だそうですが、存じませんでした。

    「ほんとの空」へ

 少し肌寒くなった秋の陽に誘われ
 智恵子の言う「ほんとの空」が見たくなり
 乳首山(ちちくびやま)を頂く安達太良山(あだたらやま)連峰に分け入った

 いろは紅葉(もみじ)、ナナカマド、ブナなどを眺め、003
 下界から見れば私は紅葉の獣道をさまよう
 地上を追放された一人の巡礼者だろうか

 前を行く多くの巡礼者たちの頭越しに
 「ほんとの空」が果たして現れるだろうか
 紅葉はますます赤く私を染めている

 紅葉の切れ間から渓谷を見下ろすと
 智恵子の「切抜絵」のような色彩が広がる
 そんな温かな絶景を光太郎も慈しんだだろうか

 歩き続けていると紅葉が途切れて岩場となり
 磐梯山をかすめた偏西風が強くなって
 私達の地上の虚飾を全て吹き飛ばしてくれる

 真っ裸になった心や身体が揺らぎながら
 明日へと続く鎖を握って山頂に登り始める
 智恵子の「ほんとの空」へ少し近づくために
 光太郎の愛し続けた人の空を取り戻すために

鈴木氏、都内のお生まれだそうですが、ルーツはいわき市の平薄磯地区だとのことで、3.11の際には、津波やその後の関連死を含め、複数のご親族を亡くされているそうです。

そして福島浜通りで延々と続く原発の被害。その遠因は広島、長崎に遡る部分がありますし、東海村の事故など、転換点はあったはずなのに、教訓が生かされなかったわけで……。そういった意味では、日本からの協力(半分押しつけ?)で一度は原発建設を計画しながら、撤回をしたベトナムの方針などにも触れられ、なるほどなぁ、という感じでした。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后二時文化劇場にてアメリカ映画(肉体と幻想)を見る。中にて三田さんにあふ。事務室にて暫時談話。


昭和22年(1947)2月17日の日記より 光太郎65歳

「肉体と幻想」は、昭和18年(1943)のアメリカ映画。昨日ご紹介した「うたかたの恋」同様、シャルル・ボワイエの主演です。

「三田さん」は三田悊。太宰治と親交のあった詩人、三田循司の弟です。

智恵子の故郷、福島二本松からイベント情報です。

にほんまつ空飛ぶランタンフェスティバル ほんとの空へ、あなたの夢飛ばそう

期 日 : 2021年3月11日(木)
会 場 : ⼆本松城跡 天守台 福島県二本松市郭内
時 間 : 18:00~19:30

2011年3月11日に発生した東日本大震災。あの日から10年。悲しかったこと、頑張ってきたこと、うれしかったこと、悲しかったこと。思い巡らす10年目、そしてこれからの夢、未来の自分に向けたメッセージを、二本松の「ほんとの空」へ飛ばしてみませんか? ランタンの灯りを、花火で彩るにほんまつ空飛ぶランタンフェスティバル。

2021年3月11日(木)、二本松市内の中学生から集めたメッセージカードを、ランタンと共に空へ放つ「にほんまつ空⾶ぶランタンフェスティバル」を開催します。⼀般社団法⼈にほんまつ DMO と公益社団法⼈⼆本松⻘年会議所が共同主催。

東⽇本⼤震災から10年⽬の節⽬を迎える本年に、これまでの想いやこれからの夢など、未来の⾃分に向けたメッセージを二本松の「ほんとの空」へ飛ばします。二本松の四季花火も同時開催!

今回はコロナ禍を鑑み、会場への⼊場を規制し、オンラインでの開催となります。当日は、会場の⼆本松城跡 天守台から、ランタンと花⽕が打ち上がる姿をオンラインで⽣配信いたします。YouTubeにてご覧いただけますので、ぜひご視聴ください。

当日、時間となりましたら、下記URLよりご覧いただけます。

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二本松では、昨秋もランタン打ち上げのイベントが行われました。その際は、安達太良山中腹の奥岳登山口での開催でしたが、今回は市街の二本松城(霞ヶ城)天守台での実施。

ただし、コロナ禍のため、会場への入場は制限。その代わり、YouTubeでのライブ配信だそうです。上記にリンク等貼り付けておきました。

お近くにお住まいの方は、ご自宅周辺からも見えるかもしれませんね。そうでない方はオンラインでお楽しみ下さい。そして、それぞれの思いをかみしめて下さい。

【折々のことば・光太郎】

廿九日最低気温〇下一七度八分を示した由、新聞にて見る。勝治さんの話にては分教場玄関の寒暖計は〇下二〇度にさがりし由。


昭和22年1月30日の日記より 光太郎65歳

「勝治さん」は、光太郎を花巻郊外旧太田村へ誘った、山小屋近くの分教場の教師です。「新聞」もおそらく分教場で見せて貰ったのでしょう。

零下二十度、なかなか想像ができません……。

まず、『山陽新聞』さんの記事から。

永瀬清子さんの逸話すごろくに 赤磐市教委作成、功績をアピール

 赤磐市教委は、市出身の詩人・永瀬清子さん(1906~95年)の誕生月(2 月)に合わせ、生前に交流があった詩人とのエピソードをたどるすごろくを作成した。ゆかりの詩人の詩集や著作を紹介するコーナーも市立中央図書館(下市)と熊山図書館(松木)に設け、永瀬さんの功績をアピールしている。
 すごろくはA3判で、都道府県名が書かれたマスを北海道から沖縄まで順番に配置。それぞれのマスには、地元出身の詩人と永瀬さんとの逸話が記されており、永瀬さんの交流の広さがうかがえる内容となっている。
 福島県のマスでは、永瀬さんの詩作に多大な影響を与えたとされる詩集「春と修羅」(宮沢賢治)を草野心平が贈ったエピソードを記載。広島県では、書画工芸展で井伏鱒二(福山市出身)に色紙を出してもらおうと、依頼しに上京したことを紹介している。ほかに「与謝野晶子のお見舞いに行く」(大阪府)、「萩原朔太郎にほめられる」(群馬県)といった話も載せている。中央、熊山図書館で無料配布している。
 一方、両図書館の特設コーナーには永瀬さんゆかりの詩人の著作を14冊ずつ展示した。親交が深かった谷川俊太郎さんが永瀬さんの追悼詩を収録した詩集「 夜のミッキー・マウス」をはじめ、永瀬さん主宰の詩誌・黄薔薇(ばら)に同人として参加したなんば・みちこさんの詩集「伏流水」、評伝「永瀬清子論」が掲載された飯島耕一さんのエッセー集「鳩の薄闇」などを並べている。
 永瀬さんを研究する市教委の白根直子学芸員が、生前に交流や接点があった詩人158人を取り上げ、すごろくのエピソードや本を選定した。本はいずれも貸し出している。コーナーは21日まで。
 白根学芸員は「永瀬さんと旅に出るイメージで多彩な詩人の作品に触れ、言葉の豊かさを楽しんでほしい」と話している。 永瀬さんは東京で詩人として活躍し、終戦直前に帰郷。岡山市に転居するまでの約20年間を赤磐市松木の生家で暮らし、 数多くの作品を生み出した。
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004永瀬清子(明治39年=1906~平成7年=1995)、光太郎とも交流のあった、岡山・赤磐出身の詩人です。昭和15年(1940)刊行の永瀬の詩集『諸国の天女』の序文は、光太郎が書きました。その一節に曰く「書く事以外に何の求めるところもない竹林の清さが其処にある。それは又竹林のやうな根の強さを思はせる。

この詩集、スタジオジブリの故・高畑勲氏は、アニメーション映画「かぐや姫の物語」に影響を与えたとおっしゃっていました。

記事にある白根氏にはお世話になっており、お世話になりついでに「すごろく、送って下さい」とお願いしたところ、届きました。多謝。

題して「本をめぐる旅へ 永瀬清子ゆかりの詩人に会うすごろく」。

47都道府県、1マスずつとなっており、それぞれのマスにゆかりの詩人と永瀬のエピソード。永瀬の交友範囲の広さが一目で分かります。別紙ですごろく用のコマもついていました。
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記事に有るとおり、福島のマスでは、当会の祖・草野心平、さらに光太郎を敬愛していた宮沢賢治がらみ。
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心平は賢治詩集『春と修羅』(大正13年=1924)の凄さを光太郎にも紹介しましたが、永瀬に対してもだったのですね。

永瀬と賢治は生前に会う機会はなかったようですが、光太郎や心平も参加した賢治没後の追悼会の席上、遺品の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の「発見」の現場に永瀬が居て、詳細な回想を残してくれました。

過日ご紹介した魚乃目三太氏著のコミック『続 宮沢賢治の食卓』にも、このシーンが描かれています。残念ながら永瀬の名は書かれていませんでしたが。
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さて、すごろく。残念ながら光太郎の名はありませんでした。『諸国の天女』序文の執筆、賢治追悼会等での同席以外にも、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋から、赤磐に戻っていた永瀬にたびたび書簡を送ったり(昭和20年代の永瀬は、故郷の赤磐で詩作を続けながら農婦として生活しており、シンパシーを感じていたのでしょう)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として参加した永瀬にはなむけの言葉を贈ったりしています。

光太郎と縁のある東京と岩手のマスは以下の通り。
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谷川俊太郎氏はご存命で、赤磐で行われている永瀬顕彰活動にもいろいろとご協力なさっていますので、東京のマスは谷川氏にゆずっても仕方がないかな、と思いました(笑)。

しかし、だったら岩手のマスで光太郎を取り上げてくれれば、と思ったのですが、岩手のマスは及川均。「高村光太郎が清子のアジア諸国会議歓送の辞を贈る」でいいじゃん、と思ったところ……。
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光太郎、岩手は第二の故郷ともいえますが、岩手生まれではないので対象外でした(笑)。

ちなみに及川、光太郎とも僅かに交流があったようです。昭和27年(1952)4月11日の日記に「揮毫6枚、時間グループ杉本氏、及川氏、千葉氏、富澤氏宛」とあり、「及川氏」がおそらく及川均でしょう。

というわけで、すごろくに光太郎の名はありませんでしたが、心平、賢治、及川、それから谷川氏も光太郎と交流がありましたし、他にも光太郎がらみの人物が多数。

北海道・小熊秀雄、青森・菊岡久利、山形・神保光太郎、栃木・逸見猶吉、群馬・萩原朔太郎、神奈川・佐藤惣之助、福井・高見順、滋賀・北川冬彦、大阪・与謝野晶子、兵庫・深尾須磨子、徳島・富士正晴、長崎・伊東静雄、大分・丸山薫、沖縄・伊波南哲……。

全国の図書館関係、社会教育関係の皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。ただ、かなり、というか、とんでもない手間がかかった労作ですので、おいそれとできるものではなさそうですが。

【折々のことば・光太郎】

終日「春と修羅」の覚書をかくについて参考書をよむ。まだ書けず。


昭和21年(1946)9月15日の日記より 光太郎64歳

「覚書」は、賢治実弟の清六と共に編んだ日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』のためのものです。

地方紙『いわき民報』さんの、おそらく一面コラムなのでしょう。ネットで見つけました 

片隅抄

詩人草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展に足を運んだ。中でも目を引いたのは、高村光太郎賞のブロンズ賞牌(はい)。天平は没後、昭和34年に詩部門を受賞している▼同賞はわずか10年で終えるが、概要や背景を調べる中で彫刻部門に日本を代表する偉大な具象彫刻家、佐藤忠良と舟越保武を見つけ心を躍らせた。両名とも数々の門弟を輩出。本市を代表する北郷悟氏も2人に師事したことは、多くが知るところだ▼小川にアトリエを置き、国内外で活動する湯川隆氏も舟越に師事したひとり。東京五輪を前に、都内のJOC会館にクーベルタン男爵銅像を置くなど年々活躍の舞台を広げている▼豊間に開設する木村眼科クリニックの研修センター「兎渡路(とどろ)の家」では30日、舟越と湯川氏をはじめ国内外の作家たちのグループ展が始まる。それも実際に手で触れていいという貴重な展示。コロナで人数を限るため事前連絡が必要だが、これを機に足を運んでみては。観覧無料。

草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展」は、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中です。

011草野天平は、当会の祖・草野心平の実弟。明治43年(1910)生まれで、心平とは7歳、光太郎とは27歳差です。昭和27年(1952)、42歳の若さで病没しています。右は天平と、妻の梅乃。夫婦ともども光太郎と交流がありました。

そして記事にある通り、没後の昭和34年(1959)、『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞を受賞しました。同賞は、筑摩書房さんから刊行された第一次『高村光太郎全集』の印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和33年(1958)から同42年(1967)まで、10年間限定で実施されました。光太郎が彫刻、そして詩、二つの面で大きな足跡を残したことから、同賞も造形と詩二部門で受賞者を選定することになりました。その第二回の詩部門受賞者が天平だったわけです。ちなみに同じ年の造型部門は、一昨年亡くなった彫刻家の豊福知徳氏でした。

天平のスポット展示が行われているの情報は耳に入っていましたが、光太郎賞の賞牌が展示されているのは存じませんでした。というか、賞牌が同館に所蔵されていたというのも初耳でした。以前にも天平に関するスポット展示がありましたが、その際には賞牌の展示はありませんでした。

こちらが賞牌。
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光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」という短句を刻んだ木皿を原型に、豊周がブロンズに鋳造したものです。

第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞した詩人の田中冬二が授かった賞牌が、山梨県立文学館さんに寄贈されており、閲覧も可能ですが、こちらにもあったのか、という感じでした。探せば他にも公共施設等での所蔵があるのでしょう。逆に、売りに出ていたのをネットで見たことがあり、残念な思いも抱きましたが……。

歴代受賞者は、造形が『いわき民報』さんに記述があった佐藤忠良、舟越保武をはじめ、柳原義達、黒川紀章、建畠覚造、加守田章二、そして先述の豊福知徳など。詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一、金井直、中桐雅夫ら、錚々たる顔ぶれでした。審査員も高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

さて、いわき市立草野心平記念文学館さんでのスポット展示「草野天平」、3月28日(日)までです。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后分教場行。郵便とけとり。勝治さん今日盛岡にゆかれし由。奥さんに日をきく。廿一日、日曜といふ事はつきりする。

昭和21年(1946)4月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、昭和24年(1949)まで電気をひいておらず、ラジオも聴けなかった生活で、時折、日付や曜日の感覚がおかしくなっていたようです。しかし、日付や曜日に追い立てられない生活というのも、一興かも知れません。「勝治さん」は、光太郎を太田村に招いた分教場の教師です。

とけとり」は「うけとり」の誤記と思われます。光太郎の日記には誤字脱字が散見されます。

1月4日(月)のこのブログでご紹介しました岩手県としての「いわてモー!モー!プロジェクト2021」。その時点ではまだだった詳細が、1月7日(木)に発表されていました

「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」について 

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令和3年(2021 年)の丑年に合わせ、「うし」で岩手を盛り上げながら各種事業を総合的に展開する「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」のプロジェクト全体概要やPRキャラクターについて、お知らせします。 

1 プロジェクト全体概要
 モー!っと育てよう/産地支援プロジェクト
  本県畜産業の産地力強化に向けた取組を支援します。
   ゲノム評価に優れる県有種雄牛の造成
   県有種雄牛の魅力を全国の生産者へPR
   全国和牛能力共進会鹿児島大会に向けた生産者の取組支援
 モー!っと食べよう/消費拡大プロジェクト
  トップセールスや、いわて牛・いわて短角牛、乳製品などの消費拡大イベント等を実施し
  ます。
   民間企業との連携による、全国的な乳製品イベント開催
   トップセールスや有名シェフとの連携等によるPRの実施
   民間企業との協働による、いわて牛商品開発や販売支援
   いわて牛取扱推奨店との協働によるフェア開催
   県内小中学校を対象とした「いわて牛・いわて短角牛学校給食の日」実施
 モー!っと楽しもう/体験・交流プロジェクト
  観光等との連携による牛と親しむ体験・交流事業等を促進します。
   東北DC※を契機とした、体験型産地ツアー等開催
   旅行会社との連携による、牛関連施設を巡るコース提案(くずまき高原牧場、小岩井農
    場、牛の博物館など)
   「塩の道」「闘牛大会」等との連携によるフードツーリズムの促進
   ※東北デスティネーションキャンペーン(2021.4.1~9.30)
 モー!っと伝えよう/ブランド強化プロジェクト
  県産牛や乳製品の美味しさや、プロジェクトの取組等の情報を国内外へ発信します。
   アジア・北米・豪州等に向けた、いわて牛PR
   県内外百貨店におけるいわて牛や県産品のPR
   県内スポーツプロチームとの協働による、いわて牛等のPRや牛肉・乳製品販売
   公式サイトの開設
   応援ソング制作・配信、オリジナルピンバッチ等PRグッズ制作

 ※ 県が中心となって、JA全農いわて等の関係団体や民間企業との連携により実施します。
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2 PRキャラクター 
 チャンプくんとそばっち
[説明]
・ 「チャンプくん」は、第 7 回全国和牛能力共進会のPRキャラクターとして平成 9 年に誕生し、以来、いわて牛普及推進協議会のPRキャラクターとして活躍
・ 今回、岩手県イメージキャラクター「そばっち」との異色のコンビとして起用
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やはり今回も光太郎がらみで発表がありました。ありがたく存じます。
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1月7日(木)の達増岩手県知事の定例記者会見で、事業の詳細が発表され、その中でも光太郎について触れて下さいました(9分03秒くらいから)。
曰く、

そして、やはり今年はうし年ということから話を始めたいと思います。岩手ゆかりの詩人、高村光太郎さんが「岩手の人」という詩を書いています。岩手の人は牛の如しということで、いろいろ慎重に歩んで、ついに成すべきを成すというふうに結ばれています。新型コロナウイルス対策もあります、慎重に歩みを進めて、しかしやるべきことはやると、ついに成すべきを成すというような、そういう年にしたいと思います。

なるほど。

今後も光太郎がらみで推進していただければ、と存じます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

〈朝山鳩の声をきく〉〈(雪解水の流れる音が一面にきこえる。)〉


昭和21年4月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、ようやく遅い春がやって来た、という感じですね。

3件ほど。

まず、当会会友・渡辺えりさんご出演の番組

ハートネットTV リハビリ・介護を生きる「心を届けたい 渡辺えり」

NHK Eテレ 2021年1月27日(水)  20時00分~20時30分

劇作家・演出家・女優として活躍する渡辺えりさん。山形の両親が認知症で、月に1回は地元に帰り、会うようにしてきた。自分を励まし続けてくれた両親への思いをうかがう。

番組内容
渡辺えりさんを招く。山形に暮らす母に異変が起きたのは15年ほど前。その後、父も認知症と診断された。今では二人とも施設にいるが、どんなに忙しくても月に1回は山形に帰り、会うようにしてきた。幼いころ、母が話す昔話や、父が読んでくれる宮沢賢治の童話が好きで、それが演劇人生の原点になったという。自分の舞台を楽しみにして、励まし続けてくれた両親への思いと、新型コロナにより思うように会えない苦労について語る。

出演者 ゲスト 渡辺えり 松島トモ子
司会  中野淳
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お父さまの渡辺正治氏は、戦時中、中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤務していらっしゃいました。昭和20年(1945)3月13日の東京大空襲の後、光太郎に心酔していた先輩の頼みで、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が無事かどうか確認にいかれたとのこと。幸い、3月の空襲では光太郎アトリエは無事で(4月の空襲で全焼)、光太郎にも会えたそうです。

さらにご自身の工場が空襲の危機にさらされた時は、光太郎詩「必死の時」(昭和16年=1941)を口ずさんで恐怖を紛らわせたとのこと。

戦後、山形に帰られた正治氏、光太郎が山形で講演をするというので、入院なさっていたえりさんのお母さま・京子さんを無理くり連れ出して、講演会場に。光太郎と再会を果たしました。昭和25年(1950)のことです。

その後、えりさんがご誕生。幼い頃から光太郎詩や、同じく東北出身の宮沢賢治の童話などを聞かされて育ったそうで、そのあたりはこれまでもたびたび語られています。

お父さまが戦時中に光太郎から直接貰った署名本(『詩集道程再訂版』昭和20年=1945)、戦後に光太郎から送られた葉書は、えりさんを通じて花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されています。

現在はご両親共々施設に入所されているそうですが、コロナ禍のため面会もできないそうで、えりさん、先月放映されたNHK短歌で、そうしたお話をなさっていました。また、先週の『朝日新聞』さんでも、「他県からの来県者は14日間現地に滞在し、検査を受けて陰性と判定されなければ面会出来ない」状況だと語られていました。これはつらいですね。

今回もそういったお話が出るのでしょう。ぜひ光太郎とお父さまのエピソードもご紹介いただきたいところですが。

ちなみにえりさん、2本同時収録だったようで、前日(1月26日(火))の同じ「ハートネットTV」にもご出演されますが、予告に依れば、この日の放映は松島トモ子さんのお話がメインのようです。

続いては、光太郎と交流のあった宮沢賢治がらみで

映像詩 宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り~

NHKBSプレミアム 2021年1月23日(土)
前編 23時52分~25時22分
後編 25時22分~26時53分(=1/24午前1時22分~2時53分)

「宮沢賢治には、恋焦がれるように慕った同い年の男性がいた」。「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの代表作誕生の背景に、一人の男性との深い交流が明らかになる。残された賢治の手紙、ノート、資料を改めて読み解き、新たな宮沢賢治像を浮き彫りにする意欲的なドキュメンタリー作品。案内役に俳優・向井理を迎え、賢治の思索の行程を追体験する。岩手の美しい景色やドラマを織り交ぜ、賢治の心の風景に迫った。

【ナビゲーター】向井 理        
【出演】中川光男 鹿野宗健 太田いず帆 岩崎鬼剣舞保存会        
【語り】斉藤茂一                               
【朗読】松下由樹  
【音楽】加古 隆 
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平成30年(2018)12月、NHK BS4K開局記念に制作された番組が、通常のBS放送で放映されます。

恋焦がれるように慕った同い年の男性」は、山梨出身の保阪嘉内。賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間でもあり、賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されたりもしています。

賢治から保阪宛の書簡は、山梨県立文学館さんに所蔵されており、平成28年(2016)には「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」が同館で開催されました。その際の関連行事の一つが、えりさんの講演でした。お父さまに光太郎の様子を見てきてくれと頼んだ同僚の方が、保阪と同じ山梨ご出身だったそうで。

えりさんのお父さま同様、光太郎を敬愛していた賢治ですが、そのあたりの話が出るかどうか……といったところです。

最後に、1月14日(木)に初回放映のあった「にほんごであそぼ」の再放送

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」

NHK Eテレ 2021年1月28日(木)  6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。
今週は、日本全国いいとこコンサート 新潟・村上!曲「ドゥーララ」作詞:千晴 作曲:千晴・木下航志・三浦大知、「汽車」作曲:大和田愛羅、「ベベンの冬が来た」詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン、「たまげた駒下駄東下駄」作詞・作曲:国本武春


出演 神田山陽(三代目),おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか

うなりやベベンこと、故・国本武春さんによる「ベベンの冬が来た」。音楽は昔のものの使い回しでしたが、映像は新たなテイクのようでした。
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それから、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が登場。やけに可愛らしい晶子でした(笑)。それも3人(笑)。
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新潟で詠まれた晶子の短歌などが紹介されました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ雪かき。附近の雪からあらはれた田の畔などを見てあるきたるに蕗の薹を発見五、六個とり来る。一個試みに刻みて一寸塩もみして醤油かけてたべてみる。香気芳烈、味にがみ強けれどよろし。

昭和21年(1946)3月25日の日記より 光太郎64歳

初めて自分でフキノトウを収穫。この後、フキノトウは光太郎の好物の一つとなっていきます。岩手の山中では3月末なのですね。当方自宅兼事務所のあるあたりでは、そろそろ出てくるかな、という感じですが。

少し前の記事ですが、『毎日新聞』さんで先月24日の掲載。詩人の和合亮一さんの連載(月イチ)です

詩の橋を渡って 寒さに研ぎ澄まされる心=和合亮一(詩人)

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わたしはといえばあの頃
心の闇にちいさな灯をともすために
詩を書きはじめたけれど

 師走の候。激しい寒波が押し寄せた。氷点下の雪道を進む大変さを感じつつも、白く化粧が施されたかのような、見慣れた野山の景色に見とれる。「冬よ/僕に来い、僕に来い」と呼びかけている詩句が浮かぶ。寒気を疎むのではなくむしろ好ましく思って描き続けた「冬の詩人」と称される高村光太郎の詩のいくつかを思い浮かべた。凍(しば)れる風の中で研ぎ澄まされていくような心の先を光太郎は詩にとらえていったのだろう。

 鈴木ユリイカ「群青くんと自転車に乗った白い花」(書肆侃侃房)。「オラ家捨てたっぺ。そいからよ。青空とお天道さまがオラのともだちよ。」。ある浮浪者の女性の声がある。「犬はきれえだな。オラ見ると吠(ほ)えあがる。こどしの冬はきつかったな。」。厳しい寒さで仲間が何人も亡くなってしまったことも続けて語る。春にほっとする人々の姿がここでは描かれている。「ゆらゆら揺れる歯の中で歯のないその花は笑う」。しかしまた冬が来た。
 他にも行き場のない街の若者や、病に苦しむ家族、認知症の友人、津波でさらわれてしまった子どもなど、誰かに寄り添うようにして記されてある。 エピソードだけに終わらない何かが一つひとつに宿る。過ぎゆく歳月の実感とまなざしの強さが芯のようになって残る。二十九年ぶりの新詩集だが、長い時の間にもこつこつと詩を作って心をいつも磨き続けるようにして、かき消えてしまいそうな命の生々しさと向き合ってきたのではあるまいか。
 「長いこと海の様子を眺めてから/おにぎりを一個ぽーんと投げてよこした/ぼくは海のなかで母さんにおはようと言う」。来年で震災から十年を迎えるのであるが、こんなふうに書きついでいくべきことが、年月が過ぎたからこそたくさんあるのだということを教えられた気がする。 私たちが受けたあの日からの心の傷と記憶とをたどり直して、丹念に育てていくようにして綴(つづ)っている筆先に、祈りが込められている。
 詩と共に生きてきた人生を振り返っているフレーズが随所にある。「わたしはといえばあの頃/心の闇にちいさな灯をともすために/詩を書きはじめたけれど」。昨今の詩人たちはインターネットなど活動の幅を広げ、層も増えているように感ずる。こんなふうに創作にまつわる話を、あらためて熱心にするべきなのではあるまいか。「いまでは詩の光が照らすことのできるものと/てらすことのできないものについて悩んではいるけれど」. 「蝶(ちょう)をおぼえている雪 が/ふる」。

 柏木麻里「蝶」(思潮社)は空間に書き手の心がそのままあるようにして簡潔な言葉が頁(ページ)に置かれている。余白の白さが目に飛び込んでくる。凜( りん)とした空気に包まれながら何かが舞い降りる瞬間を味わう。詩集であり美術作品でもある一冊。「雪のうえに蝶のおもいで」。しずかな純白に包まれていく感触。コロナ禍による苦境の一年だった。新しい雪に祈りを。「 まだいない春を/蝶たちは/抱きしめている」


紹介されている『詩集 群青くんと自転車に乗った白い花』の詳細情報はこちら。『蝶』に関してはこちら
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和合氏、この連載では枕の部分などでよく光太郎を取り上げて下さっており、ありがたく存じます。昨年の5月分7月分でもそうでした。ご自身も詩集『QQQ』で、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)からインスパイアされた作品なども発表なさっていますし、感謝です。

【折々のことば・光太郎】

午前ひげそり、洗顔、湯を沸す事が一度に多く出来ぬため、幾度にもやるので面倒なり。ずゐぶん頭や顔が汚れてゐる。


昭和21年(1946)3月20日の日記より 光太郎64歳

確かに山小屋の囲炉裏では、大量の湯を沸かすのは大変ですね。そんなわけで、この頃の光太郎写真は無精ヒゲが目立ちます。

無精ヒゲと言えば、当方、幼稚園児の頃、「無精ヒゲ」を「武将ヒゲ」と思いこみ、戦国武将のような立派なヒゲと勘違いしていました。しかし、「無精ヒゲ」はマイナスイメージに使われる語で、おかしいな、と思っていました(笑)。
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ついでに言うなら、「東名高速道路」は「透明高速道路」だと思いこみ、そのころ東京多摩地区に住んでいたのですが、都心では手塚治虫の漫画にでてくる未来都市のように、ガラスのチューブみたいな道路が走っているのだ、人類の叡智は素晴らしい!と信じていました(笑)。
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コロナ禍のためでしょう、いわゆるカルチャースクールの講座等にもオンライン化が進んでいるようです。よみうりカルチャーさん、北千住校の発信です。

【オンライン】大正モダンの詩をよむ 008

期 日 : 2021年1月16日 2月6日 2月20日 
       3月6日 3月20日 
(第一・第三土曜)
時 間 : 15:30~16:40
講 師 : 詩人 評論家 吉川(きっかわ)睦彦氏
料 金 : 3か月 5回 12,650円
      (うち消費税額1,150円)

 大正ロマン・大正モダニズムなど、大正期の文化が見直されています。萩原朔太郎・高村光太郎・山村暮鳥・中原中也など、大正から昭和初期にかけて活躍した詩人たちの名作を、朗読し味わいます。 詩を通してより豊かな生活を送れるよう、これから詩作に挑戦してみたい方には過去の名作を通じてアドバイスもします。

【注意事項】
・ホームページからのお申し込みは、受講日の3日前までとなります。
・お申込後に講座視聴URLとパスワードをメールでお知らせいたします。メールが届かない場合は03-3642-4301(オンライン担当)か online@ync.ne.jp までご連絡ください。
・受講者のお名前や映像・音声(※ミュートも可能)などがクラス内で共有されます。予めご了承ください。受講者の映像は表示でご参加ください。承認の際にお名前を確認しますので本名でご登録ください。
・当日は講座時間の15分前から入室できます。
・Zoomのソフトウェアを必ず最新版にアップデートの上ご覧ください。
・ネット環境による切断やその他アプリの障害が起きた場合には、当社は責任を負いかねます。 主催・講師側のやむを得ない事情により実施できなかった場合は、受講料の全額をお返しいたします。
・第三者との講座URLの共有や貸与、SNSを含む他の媒体への転載、また、講座で配布した教材を受講目的以外で使用することは著作権の侵害になりますので、固くお断りします。
事前にZOOMをダウンロードし、接続テストを済ませてください。
受講する前に準備すること【Zoom編】https://www.ync.ne.jp/zoom-way.phpご不明な点は online@ync.ne.jp か03-3642-4301へ
・当日の参加人数によって講座時間の短縮、延長の場合があります。
・希望や状況によっては、よみうりカルチャー北千住で座学の場合があります

講師の吉川氏、以前もよみうりカルチャー北千住さんで講座を持たれ(その際はコロナ禍前で通常の開催方式でした)、このブログでご紹介したところ、ご丁寧にコメントをお寄せ下さいました。

ところで、当方も講師をしたことがありますが、カルチャースクールというと、受講生に年配の方が多く、となるとZoomなどへの対応はどうなのだろうと、他人事ながら心配してしまうのですが……。

かく言う当方もZoom等への対応はしておらず、今後、そういう形で講師依頼等が来た場合、どうするかと悩みの種です。といって、まだ対面式の講座は難しい状況でしょうし……。

結局昨年の当方講師の講座(対面式)は、一時、感染状況が落ち着いた秋に2回行っただけでした。協力していた大きな展覧会も中止となり、参っています。

愚痴はさておき、上記講座、ご興味があって環境が整う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

進駐軍より「ポラーノの広場」を二部至急送れといふテガミ届く。

昭和21年(1946)2月28日の日記より 光太郎64歳

「ポラーノの広場」は、光太郎を太田村に招いた分教場教師・佐藤勝治が中心になって編んでいた手作りの宮沢賢治研究誌で、光太郎も寄稿していました。

「進駐軍」云々は、検閲のため。戦後しばらく、国内の刊行物はGHQへの提出が義務づけられていました。田舎の教員が手作りで出していたものにまで徹底して検閲が行われていたというのが驚きです。

こうして集められた刊行物は、検閲終了後、GHQの戦史室長であったゴードン・ウィリアム・プランゲ博士が、その歴史的価値に注目し、米国機関で一括所蔵・保存することに努め、現在は博士の希望通りメリーランド大学さんに寄贈されています。日本の国会図書館さんでも「プランゲ文庫」として閲覧可。ここにしかない、という光太郎作品も多く含まれています。ただ、こちらもまだその全貌が掴めていません。少しずつは進めているのですが……。

地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から、掲載順に2本

まずは元日の紙面から。

困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙

 文学者や芸術家、政治家らが後輩に宛てた手紙、若い日をつづった手紙…。明治以降の盛岡ゆかりの著名人の書簡、原稿などを収集する盛岡てがみ館(及川政己館長、盛岡市中ノ橋通)の資料から、コロナ禍を乗り越えようとしている中高生ら若い世代に触れてもらいたい手紙を紹介する。先人たちの自筆の手紙には、それぞれの時代の息遣いとともに、困難の中から見いだした希望も感じさせる。

高村光太郎【「岩手山の肩」の原稿 昭和22(1947)年作、同23年発表】
 「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ。あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
 終戦後に花巻市に疎開し、農民のような暮らしをしながら、多くの作品を生んだ詩人・彫刻家の高村光太郎(1883-1956)。「岩手山の肩」は、稗貫郡太田村(現花巻市)で過ごした7年間のうち、2度目の冬を迎えた1947(昭和22)年の12月に書き上げられた。岩手山をのぞむ、岩手人への力強いメッセージとして、翌48年1月1日付けの「新岩手日報」に発表された。
 20年4月の空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、花巻の宮沢家に疎開。同年11月から「山口」という集落の山小屋をすまいとし、山口小学校(当初山口分教場)に自ら寄贈した幻灯機で幻灯会を開くなど、子供たちとも積極的に交流した。同小において、盛岡市にあった県立美術工芸学校の生徒に講話をしたり、同校の卒業式に祝辞を寄せたりと、岩手の教育にも心を傾けていた。
 「岩手山の肩」について、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんは「戦後の復興の意味も込めて書かれた詩と思われるが、『も一度天地に立て』と、コロナ禍のいまも響くものがある」と話す。
 光太郎は十和田湖畔のモニュメント制作のため岩手を離れてからも、1955年までは太田村に住民票を残した。「制作が終わったら山口に帰るつもりでいた。岩手に強いシンパシーを感じていたのだろう」と語った。
003
この後、金田一京助、田子一民、舟越保武・道子夫妻、そして石川啄木が紹介されていますが、そちらは割愛します。

当方のコメントが載っていますが、先月はじめに盛岡に行った際に取材を受けました。詩「岩手山の肩」の原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、盛岡にお立ち寄りの際には是非ご覧頂きたく存じます。

続いてもう1件、1月7日(木)掲載の記事。

「高村光太郎と共に」自費出版 盛岡市小杉山の加藤千晴さん 24歳時の肖像など紹介 哲学の視点交え生き方つづる

000 盛岡市小杉山の加藤千晴さん(72)は、本県ゆかりの彫刻家・詩人の高村光太郎(1883―1956)の生き方、父・高村光雲や縁のある人々について、哲学の視点を交えてつづった「高村光太郎と共に」(B6判、41㌻)を自費出版した。光太郎が米国ニューヨークに留学中、幼なじみである加藤さんの祖母・金谷ふゆ(60年に82歳で逝去)に送った24歳のポートレートなどを紹介し、青年期の心についても解説。「驚きは芸術の始まり。若い人たちに光太郎の心意気も知ってもらいたい」と話す。
 加藤さんは、ふゆの娘の照さん(104)=樺太・豊原生まれ、旧姓金谷=の長男。静岡大学大学院を修了し、東京芝浦電気の半導体プロセス開発に従事。定年退職後に盛岡市に帰郷し、照さんの話や光太郎に関する資料を少しずつまとめた。
 「あまり知られていない光太郎さんの姿を知ってもらいたい」と、金谷家の女性たちやゆかりの人々についてつづった「光太郎と女神たち」(花巻高村光太郎記念会発行)を2017年に発行。併せて、県立盛岡短大(現県立大盛岡短期大学部)教授などを務めた父の故・千代司さんの残した講義ノートなどを通じて、哲学にも関心を持つようになった。
 本書は「光太郎と女神たち」の姉妹版ともいえ、Facebook(フェイスブック)に投稿した光太郎の話題を再編集。彫刻家の父・光雲が師事した高村東雲のエピソードや光太郎の言葉から考える「美の力」、戦後に花巻に疎開した光太郎と照さんとの交流などについて、書簡などの資料も合わせて紹介した。
 加藤さんが「若い人たちに伝えたい」と取り上げたのが、「紐育(ニューヨーク)の光太郎」のエピソード。
 1906(明治39)年、留学先のニューヨークで撮影したと思われる若き光太郎の肖像を「若さのエネルギー、ここには夢があります」と紹介する。
 一方で、世界を見て帰国した光太郎は日本の芸術界に受け入れられず、アイデンティティー崩壊の危機にあったと解説。「認められない寂しさのはけ口の一つが詩で、後にそれらをまとめたのが『道程』」と話す。
 同詩集は、後に芸術院賞受賞。自己崩壊の危機から救い出してくれたのが(後に妻となる)智恵子だったと光太郎が回想録に記していることにも触れた。
 「アイデンティティーの崩壊という青年期に直面する問題から、どのようにして自分を救っていくのか、光太郎の姿からも見ることもできる。若い人たちの勇気にもなるといい」と願う。

光太郎の従妹(いとこ)に当たる加藤照さんの子息・千晴氏による『高村光太郎と共に』が11月に自費出版され、その紹介です。

照さんには平成28年(2016)に一度お会いしましたが、104歳になられ、まだお元気のようで、何よりです。

「岩手山の肩」、そして光太郎自身の生き様、そういったものが若い人たちの生きる指針と成るようでしたら、望外の喜びですね。

【折々のことば・光太郎】

風もなし。湯のたぎる音しづかなり。


昭和21年(1946)1月30日の日記より 光太郎64歳

雪に覆われた太田村の山小屋、おとなう人もない時には、まさしく静寂に包まれていたのでしょう。

今年に入ってから、「牛」(大正2年=1913)、「冬が来た」(同)、「冬の詩」(大正3年=1914)が、各地の地方紙等の一面コラムに取り上げられていますが、『岩手日報』さんでも一面コラムで「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)を引用して下さいました。掲載は1月5日(火)でした

風土計

〈冬が又来て天と地を清楚にする。/冬が洗ひだすのは万物の木地。〉。高村光太郎の「冬の言葉」は、そう始まる。詩人にとって冬は、天と地のあらゆるものを浄化してくれる季節らしい▼だから新年を愛した。〈新年が冬来るのはいい。〉〈ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。〉(「冬」)。きりりと冷たい風が汚れを洗ってくれるのが新年だという。「冬の詩人」と称されるゆえんだろう▼冬の寒さが万物を清浄にするものならば、迎えた2021年ほどその霊力を請い願う年はない。しんしんとした寒空が続いた新年、仕事始めの日に大きな動きがあった。今週にも首都圏に緊急事態宣言が出される▼医療を崩壊させられない、との苦渋の判断だろう。冬によって地上が清められる祈りとは逆に、感染の広がりはとどまるところを知らない。それにしても、再び最後の切り札を出す前に、打つ手はなかったか▼きょうは小寒、長い寒の季節に入る。きのう首相はワクチン接種を2月下旬に始めたいと語った。すると光が見え始めるのは、とうに寒も明けた啓蟄(けいちつ)か、春分の頃か▼〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。〉。滅菌された風が吹くのを今は待つほかない。胸いっぱいに吸い込める日を。

引用されている「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)の全文は以下の通りです。
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それぞれ「冬の詩人」の面目躍如の詩で、こうなってくると、歳時記の冬の季語として「高村光太郎」という単語が登録されてもおかしくないかもしれませんね(笑)。
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冗談はさておき、まさに「天と地を清楚」に、そして「雪と霙と氷と霜と、かかる極寒の一族に滅菌され」という状態になってほしいものです。そのためには、「この世の少しばかりの擬勢とおめかし」のような「人間手製の価値をすて」ること、「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、一切をアルカリ性の昨日に投げこむ」ことが必要なのかもしれません。

ところで、最近になって気がついたのですが、青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラムでも、元日掲載分で「牛」を取り上げて下さっていました

天地人

1年前には予想しなかったコロナ禍の中での年明けだ。例年なら初詣や宴会といった行事が目白押しで、あちこち出歩いたりするのも楽しみだった。残念ながら今年は、手放しで正月を満喫できない。それでも感染予防に留意して工夫を凝らせば、家族や友人らと新年の喜びを分かち合うことができるはずだ。▼干支(えと)は子(ね)(ネズミ)から丑(ウシ)に。すばしっこいイメージのネズミに対して、ウシは「牛歩」という言葉もあるように、おっとりしているとされる。ただし、それが欠点であるとは限らない。▼<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。「牛」と題した高村光太郎の詩の冒頭である。「のろのろと」でも、<ふみ出す足は必然だ/うはの空の事ではない/是でも非でも/出さないではゐられない足を出す>のだ。▼一斉休校を突然要請したり、布マスク配布が不評を買ったり、菅義偉首相が旗振り役の「Go To トラベル」が一時停止を余儀なくされたり…。ちくはぐな政府のコロナ対応は、しっかりとした牛の足取りと対照的に見える。▼「牛の歩みも千里」ということわざがある。怠らず努力すれば、大きな成果を上げることができることのたとえだ。急がず落ち着いて、コロナに負けない安心できる暮らしを取り戻す道筋を見いだす新年としたい。

年明けから1週間程で、すでに全国の地方紙一面コラムに光太郎が5件ほども大きく取り上げられていまして、こんな年は記憶にありません。「丑年」と、「冬の詩人」とが重なっているというのもあるのでしょうが、やはりコロナ禍の今、光太郎のポジティブで力強い詩句に、人々の心の琴線へ訴えかけるものがある、ということなのだと思います。ありがたいことです。

ちなみに『千葉日報』さんでも、元日の一面コラム「忙人寸語」に光太郎の名を出して下さいましたが、「高村光太郎、宮沢賢治、田村隆一に石垣りん。感銘を受けた詩人は数え切れないが、昭和初期に活動した中原中也は別格だ。」ということなので割愛します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

名古屋の石田岳堂氏より大国主命を作つてくれとのテガミあり。檜材は木曽に近きところ故入手出来る筈と思ひ、返事の中に檜が入手出来たら彫刻の希望の大きさの檜材を小包で送つてくれれば大に助かると書く。


昭和21年(1946)1月23日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での生活の中で、後には手すさび程度のものを除いて、完全に「作品」としての彫刻制作を封印する光太郎ですが、山暮らしを始めた当初はまだ作品制作の意志があったようです。

昨日まで、さまざまな場面で取り上げられた詩「牛」(大正2年=1913)について書きましたが、今日は別の詩で。1月4日(月)、『神奈川新聞』さんがやはり一面コラムで光太郎詩「冬が来た」を取り上げて下さいました

照明灯 厳しい冬 1月4日(月)

きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉。この季節を愛し、好んで題材に選んだ高村光太郎は冬 の詩人とも呼ばれる▽凜(りん)としてすがすがしい「冬が来た」という詩はこう続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。自らを、そして人を鼓舞する言葉の連なり。苦難に立ち向かう力強い意志の力が一句一句にみなぎっている
 ▼光と気温の季節変化は冬至を過ぎて逆行が始まっている。太陽はすでに春に向かってUターン中だ。ただ、気温はなお冬の道を歩み続ける。あすは小寒。寒さがより深まっていく
 ▼〈こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね〉。「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。いやがられる冬ではあるが、草木や虫も、厳しい寒さが春への目覚めのスイッチになっていることはよく知られる
 ▼センター試験に代わる大学入学共通テストがまもなく始まる。今年の受験生は新テストとコロナ禍の両方に神経を使わねばならない。万全の体調で努力を結実させてほしい。冬の詩人の詩に、こんな一節がある。〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉。厳しい冬は、すでに春を内包しているのだ。

なるほど、コロナ禍の中、光太郎詩が人々へのエールとなるなら、実に嬉しい限りです。

最初に引用されている「冬が来た」の全文は下記の通り。短い詩です。

  冬が来た
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きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た

光太郎詩の中ではよく知られている方で、この詩もいろいろな場面で取り上げられますが、驚くべきことに、初出発表誌が「牛」と同じ『我等』創刊号(大正3年1月1日発行)でした。ついでに言うなら、昨日ご紹介した「狂奔する牛」(大正14年=1925)同様、『智恵子抄』に収められた「僕等」(「僕はあなたをおもふたびに/一ばんぢかに永遠を感じる」で始まる、これも有名な作品です)も、同時に発表されています。少し後の3月5日には「道程」の初出発表形(102行もある長大なもの)も発表されており、ある意味、光太郎詩業の一つのピークがこの時期だったといえるでしょう。

『神奈川新聞』さん、最後に引いている〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉は、「冬の詩」から。やはり大正3年(1914)3月1日、雑誌『創作』に発表されました。

さて、「冬が来た」に戻りますが、NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。来週の放映で「冬が来た」が取り上げられます

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」

NHK Eテレ 2021年1月14日(木)  6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。
今週は、日本全国いいとこコンサート 新潟・村上!曲「ドゥーララ」作詞:千晴 作曲:千晴・木下航志・三浦大知、「汽車」作曲:大和田愛羅、「ベベンの冬が来た」詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン、「たまげた駒下駄東下駄」作詞・作曲:国本武春


出演 神田山陽(三代目),おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか

「うなりやベベン」はこの番組のキャラクターのお一人で、その実体は平成27年(2015)に亡くなった浪曲師の国本武春さん。番組ではその功績を讃える意味でも、ビデオ出演が続いています。

新潟でのコンサートで、亡くなった方がどうご出演? と思って調べてみましたところ、公式サイトに以下の文言。

日本全国いいとこコンサート、今回は新潟の魅力をたっぷりとお伝えします! 残念ながら新潟でコンサートを開催することはできませんでしたが、村上市のお友達が「新潟のいいところ」を送ってくれました。ゲストに太鼓の田代誠さんをお迎えし、元気いっぱいにお届けします。

おそらくやはり過去の映像でのご出演なのでしょう。

追記・音楽は過去のものでしたが、背景の映像は新たなテイクのようでした。
003 001
「冬が来た」、子供たちにも親しんでほしい詩ですので、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

万年筆使用中に凍りてインキ出なくなる。息をかけると出る。


昭和21年(1946)1月11日の日記より

室内でインクが凍る生活……「自虐」に近いような気もします……。

このブログでこれまでもご紹介しました通り、丑年となり、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)が、さまざまな場面で取り上げられています。

まだご紹介していない件を。

まず、学校さん。『神戸新聞』さんから。

気持ち新たにきょうから3学期 兵庫県内の小中学校で始業式

000 兵庫県内の多くの公立小中学校で6日、冬休みが明け、3学期の始業式があった。新型コロナウイルスの感染拡大による長期休校の影響で、多くの学校が冬休み期間を短縮。元気な姿で登校した子どもたちは新年の目標を決め、気持ちを新たにした。
  神戸市西区の市立美賀多台小学校では、例年のような全校児童による始業式ではなく、校内放送を通じて各教室で実施。藤坂裕子校長(60)は高村光太郎の詩「牛」を紹介し、「この詩の牛のように、一度決めたら目標に向けてしっかり歩いて行きましょう」と呼び掛けた。5年を代表して児童2人が「積極的に発表したい」「国語と算数を頑張りたい」など目標を述べた。
 式の後、6年の教室では児童それぞれが今年の目標を二つ決めて、紙に書き上げた。「友達にかける言葉を選ぶ」と書いた女児(12)は「冬休みはコロナがはやっていて、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいけなくて残念だった。健康に気を付けて、元気に毎日学校に通いたい」と話していた。

報道はなされなくとも、全国の学校さんで同じような「訓話」があったのではないかと察せられます。実際、いろいろな学校さんのブログサイトなどでやはり「牛」が引かれた記述をあちこちに見かけました。

地方自治体さんの広報誌でも。佐賀県玄海町さんの『広報玄海』。教育長さんによる連載のようです。

牛のように  ゆっくりと力強く  教育長 中島安行

 明けましておめでとうございます。新しい年、令和 3 年(2021年)を迎えました 。
昨年はコロナで始まり、コロナで終わった1年でした。「不要不急の外出はやめよう」「三密を避けよう」と言われ、一方では「GoToトラベル」「GoToイート」とさかんに旅行や外食を勧められ、まるでブレーキを踏みながらアクセルを踏むような、納得のいかない気持ちをいだきながら過ごした1年でした。毎日知らされる県内や全国の感染者数と死亡数に一喜一憂し、出口の見合えないトンネルに入ってしまったかのような不安な日々を過ごした1年でした。
 今年の干支(えと)は丑(うし)。そこで牛年にちなんで、高村光太郎(たかむらこうたろう)の「牛」という詩を紹介します。
 ほんとうは115行もある大変長い詩ですが、一部だけ抜粋して掲載します。

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも001
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く

がちり、がちりと自然につつ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く

牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

 作者の高村光太郎は日本を代表する詩人・彫刻家・画家。『道程』『智恵子抄』などの詩が有名で、教科書にも多くの作品が掲載されています。
  115行におよぶ詩の中に、何度も「牛はのろのろと歩く」や「がちり、がちり」が繰り返し出てきます。まさに牛がゆったりと力強く歩んでいる様子がよく表れている詩です。
 一歩一歩あゆみは遅くとも着実に前に進んでゆく牛の姿に、作者自身の生き方の理想を重ねているようにも思います。
 また、優しさとたくましさのある一語一語からは、作者の人柄をも感じることができます。
 さて、牛年の今年はどんな年になるのでしょうか? まだまだコロナウイルスの猛威は収まりそうにありませんが、モ~コロナは、けっこう‼ 令和3年が牛の歩みのようにゆっくりと、しかし確実に明るい希望に向かうことを願っています。
 「遅れても、先になっても、自分の道を自分で行く」。この詩に登場する「牛」のように私も、急がず、人に振り回されず、自分が決めた道をのろのろと力強く歩んでいきたいと思います。

ありがとうございます。

ところで、昨日は「牛」以外にも、牛をモチーフとした詩ということで、戦後の「鈍牛の言葉」をご紹介しましたが、もう一篇、牛がらみの詩を。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められた作品です。

  狂奔する牛
005
ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまきの林をとどろかして、
この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました。
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊(はくやう)が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

「牛」が書かれた大正2年(1913)、光太郎は智恵子と一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしましたが、その際の想い出を大正14年(1925)になってつづった詩です。

二人が訪れた頃の上高地では牛の放牧なども行われており、発情した牡牛が雌牛を追いかけている光景を「露骨な獣性」と表しています。おそらく、やはり光太郎自身の姿がそこに仮託されているのでしょう。光太郎はかなり性欲も強かったようで……。
004
詩の右の画像は、古い話で恐縮ですが、平成27年(2015)の山岳雑誌『岳人』さんで「高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただいた時、「この詩全文を載せておいて下さい」とお願いして載せてもらったページから。上の画像は、編集の方が「こんなものを見つけました」ということで載せて下さった上高地の古絵葉書です。

ところで、この詩の書かれた大正14年(1925)がやはり丑年。ちなみに昨年亡くなった、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお生まれになった年です。またのちほど詳しくご紹介しますが、今年の仕事始めは、今年出版される予定の北川先生の遺稿の校正でした。赤ペンを握りつつ、「あ、そういえば北川先生、丑年だったっけ」と思い出しました。ご存命なら今年3月の御誕生日で満96歳、8回目の年男だったわけですね。

ついでに言えば「牛」が書かれた大正2年(1913)、昨日ご紹介した「鈍牛の言葉」の書かれた昭和24年(1949)も丑年でした。偶然なのでしょうか?

【折々のことば・光太郎】

おだやかなよい日和となる。雪の上にさす日かげうつくし。樹々の影横さまに青く白雪の上に落つ。


昭和21年(1946)1月8日の日記より 光太郎64歳

温暖な房総半島に住んでいる身には、ほとんど縁のない光景です。画像は花巻高村光太郎記念館さんのサイトから拝借しました。光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺です。
007

このところブログの訪問者数が1日300件を超え、このブログとしてはバズっている方の部類です。どうも、あちこちで光太郎詩「牛」(大正2年=1913)や、「岩手の人」(昭和24年=1949)が取り上げられ、その余波のようです。

1月3日(日)の『中日新聞』さんの一面コラム(系列の『東京新聞』さんも同一)でも「牛」

筆洗

<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。新年はウシ年。高村光太郎の有名な「牛」を連れてくるとする▼<牛は急ぐ事をしない><ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。この牛は急がないが、着実に前へと進んでいく。<遅れても、先になつても/自分の道を自分で行く>である。<ひとをうらやましいとも思はない/牛は自分の孤独をちやんと知つている>。力強くまわりにも振り回されず、道を行く牛が生きる上でのお手本のように思えてくる▼光太郎の詩に子どもの時に教わった牛の話を思い出す。牛が十二支に選ばれたいきさつである。競走で決めるというが、足の遅い牛は間に合わないので前の晩から出発することにした。それを牛小屋で見たネズミ。ちゃっかり牛の背に飛び乗った▼牛は夜通し歩き続けた。背中ではネズミが眠っている。ゴールの直前にネズミは牛から飛び降りて一着入賞。結果、干支(えと)は子(ね)、丑(うし)の順となった▼憎らしいネズミだが、光太郎の詩や、牛の優しい顔を思えば、牛は気にせず、ただ自分の歩みに満足したかもしれぬと勝手な想像をしたくなる▼ウイルスとの闘いは今年も続く。日常を取り戻すための歩みは遅くとも焦らず、牛のがまん強さで一歩ずつ前に進むしかあるまい。<見よ/牛の眼は叡智(えいち)にかがやく>−。

さらに昨日の『神戸新聞』さんも一面コラムで

正平調

食べてすぐ寝ると、牛になる。親から子へと伝えられてきた行儀作法の戒めにある。自宅で過ごす時間が長くなったこの三が日は、牛になった人間の最多記録を更新したかもしれない◆〈牛飼(うしかい)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる〉。世は明治のころ、歌の作者である伊藤左千夫は牛乳搾取業を営んでいた。自分のような庶民でさえ歌を詠む時代になったのだ、と高らかに宣言している◆今はインターネットの世界がさまざまな創作発表の舞台として万人に開かれ、流行はたいていここから火が付く。今年は何がはやるだろう。下火になった時分に追いつく牛後となれど、頑張ってついていきたい◆高村光太郎に「牛」という長い詩があった。〈牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く〉。しかも〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない〉そうだ◆あたふた急ぐ者には目もくれず、ゆうゆうとわが道を歩き、粘り強く、悔いることなく、争いを好まず、優しくて洞察力のある目を持つ-。何とすてきな牛賛歌だろう。読めばいっぺんに牛のことが好きになる◆さあ、丑(うし)年である。多難の時代ゆえか、これも何かの巡り合わせに違いない。「ゆっくり行け」と牛が言う。

以前にも「牛」全文をご紹介しましたが、この際ですので(笑)もう一度掲載します。

   牛

牛はのろのろと歩く004
牛は野でも山でも道でも川でも
自分のきたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない005
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。

画像は昭和14年(1939)になって光太郎自身が「牛」全文をしたためた書です。本来なら、昨年、富山県水墨美術館さんにおいて開催予定で、当方も協力していた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品予定だったのですが、コロナ禍で中止。仕切り直して開催の方向で検討して下さっているというお話は聞きましたが、どうなりますやら……。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

さて、詩「牛」。新聞一面コラム以外でもいろいろ取り上げられており、ありがたいかぎりです。意外と皆さん、この詩をご存じだったんだな、という感じで、もっと知られていない詩なのかなと思っていたため、想定外でした。

他の紹介例についてはまた明日以降、このブログで書かせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

鼠天井に巣をつくる様子なり。天井板なき屋根うらの何処に巣をつくる場所あるか不思議なり。此家たのむべしと思へるか。

昭和21年(1946)1月5日の日記より 光太郎64歳

「牛」ならぬ、『中日新聞』さんで取り上げられていたネズミに関してです。ネズミは冬眠しないのですね(笑)。

光太郎、かわいそうと思いつつも毒をしかけたりして退治しようとしますが、敵もさる者(笑)、なかなか絶滅には至らず、しばらく奇妙な同居人(人ではありませんが(笑))として、時に短歌に詠まれたりもしています。

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり(昭和22年=1947)




状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
003
県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
000
ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


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