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朗読CDの新盤です。

朗読喫茶 噺の籠~あらすじで聴く文学全集~あらくれ/詩集「永訣の朝」/金色夜叉

2022年5月18日 噺RECORD 定価2,200円(税込み)

「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~」シリーズは人気・実力を兼ね備える豪華声優陣が、日本近現代の名作文学を原作に、本作の為に書き下ろされたオリジナルあらすじ台本を朗読します。1人の声優が1作品を朗読。1タイトルあたり3作品収録し、一期あたり、6タイトルで全18話の作品を制作します。

あらくれ/徳田秋声       朗読:永塚拓馬
詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他 朗読:森川智之
金色夜叉/ 尾崎紅葉      朗読:葉山翔太
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詩集「永訣の朝」/宮沢賢治 他」の「」が光太郎です(笑)。その他はラインナップに入っていません。だったら「宮沢賢治/高村光太郎」としていただきたかったのですが(笑)。

賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」に続き、光太郎詩は「樹下の二人」、「あどけない話」、「風にのる智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」。

朗読なさっているのは、声優の森川智之さん。森川さんの言葉がジャケットに印刷されています。

宮沢賢治の詩といえば、私が思い出すのは有名な「雨ニモマケズ」ですが、今回は「永訣の朝」「無声慟哭」となかなかにヘビーなラインナップで、宮沢賢治の魂の叫びを感じながら味わいました。「永訣の朝」の「あめゆじゆとてちてけんじゃ」の方言のところがなかなか難しかったです。宮沢賢治らしい表現が斬新で好きです。また高村光太郎の詩も読ませていただきましたが、智恵子抄の愛の詩がとても切なく、愛情たっぷりな言葉たちが心の中に流れ込みました。芸術家であり、詩人でもある高村光太郎の「智恵子抄」は夫婦の叙事詩的な趣きで、どれだけ強く愛していたのかを思い、その当時に想いを馳せつつ読ませていただきました。是非、この名作を私の朗読で楽しんでください。

気負わず、衒わずの、いい朗読でした。ある意味淡々とした読み方ですが、それが却って自然ですし、余計な色がついておらず、言葉がすんなり入ってきます。

最近、YouTube等に光太郎詩の朗読が続々アップされているのですが、それはそれでありがたいものの、玉石混淆の状態です。「それはあんまりだろ」というものも少なくありません。まずは朗読より漢字の読み方を勉強しようよ、みたいな。そして余計な気負い、衒いがたっぷりで、「さあ! 感動して下さい!」みたいなものも多いのが現状です。

ちなみに昨年には同じシリーズで「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」」がリリースされ、光太郎詩「道程」と「冬が来た」が含まれていました。併せてお買い上げ下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏やさん娘さんを助手にしてくる、夕方ちかく終り、先日とつた分を一体持参、

昭和27年(1952)12月14日の日記より 光太郎70歳

「石膏やさん」は牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。この日とその前に取った石膏は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための小型試作のものでした。小型試作は2体作り、位置関係等を確かめるのにも使ったようです。

昨日は沖縄県の復帰50周年ということで、県と政府による記念式典等が開催されました。

当方、沖縄と光太郎といえば、3篇の詩(うち2篇は光太郎以外の詩人の作品)を思い浮かべます。

まずは光太郎。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月1日に書かれ、翌日の『朝日新聞』に掲載された詩です。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が新機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ
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米軍が沖縄に上陸したのは、まさにこの詩が書かれた4月1日午後4時06分。翌日の『朝日新聞』一面には「沖縄本島に敵上陸」の記事を載せ、社説も「沖縄決戦」のタイトルで書かれました。

その直後の4月7日、連合艦隊旗艦だった戦艦大和以下6隻の艦艇は、沖縄への海上特攻中、鹿児島県枕崎沖の東シナ海で米艦隊と遭遇、撃沈されています。沖縄では非戦闘員を巻き込んだ地上戦は6月23日まで続き、沖縄県民4人に1人が亡くなりました(日本軍の戦死者は11万人)。ただ、その詳細は「本土」で報じられることはあまりなかったようです。

こうした翼賛詩などを恥じ、戦後の光太郎が岩手花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居したことは、これまでもこのブログで触れて参りました。光太郎の胸中に、沖縄の人々などに対する鎮魂の意があったことを信じたいものです。

光太郎、沖縄出身の詩人とも交流がありました。そこで、当方が思い起こす2篇目の詩は、そのうちの一人、伊波南哲(いばなんてつ)が書いた作品、昭和18年(1943)3月作です。

  讃 ・与那国島
    001
 荒潮の息吹にぬれて
 千古の伝説をはらみ
 美と力を兼ね備えた
 南海の防壁与那国島。
 行雲流水
 己の美と力を信じ
 無限の情熱を秘めて
 太平洋の怒濤に拮抗する
 南海の防波堤与那国島。
 宇良部岳の霊峰
 田原川の尽きせぬ流れ
 麗しき人情の花を咲かせて
 巍然とそそり立つ与那国島よ。
 おゝ汝は
 黙々として
 皇国南海の鎮護に挺身する
 沈まざる二十五万噸の航空母艦だ。

伊波は明治35年(1902)、石垣島出身。ただ、大正12年(1923)、数え22歳で上京し、近衛兵となりました。除隊後は警視庁に勤務、そのかたわら詩作に励み、光太郎も寄稿したり題字を書いたりした雑誌『詩之家』(佐藤惣之助主宰)同人となり、光太郎の知遇を得たようです。昭和17年(1942)には光太郎の序文、棟方志功の装幀で『麗しき国土』という詩集を刊行しています。時期が時期だけに、やはり翼賛詩集です。

そしてその翌年に書かれたのが上記の「讃・与那国島」。この詩は早速その年のうちに与那国島に詩碑が作られ、県民の戦意高揚に資することが期されました。意外といえば意外、当然といえば当然ですが、沖縄県民自身もこうした翼賛詩を書いていたわけで……。ちなみに詩碑文を揮毫した人物は、戦後、碑文から自分の名前を削り取ってしまったそうです。

その伊波と同郷で親しかった詩人・山之口貘。伊波より一つ年下の明治36年(1903)生まれです。伊波同様、若いうちに故郷の沖縄を出て上京、ただ、「官」に軸足を置いていた伊波と異なり、ボヘミアン的な詩人でした。ついた職業は数知れず、「貧乏暮らしあるある」が売りでもありました。当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人にも名を連ね、光太郎と共に写っている写真も残っています。下の方に載せておきます。後列左端が山之口、前列中央が光太郎です。

しかし、『高村光太郎全集』に山之口の名は出て来ません。ただ、光太郎歿後になりますが、昭和34年(1959)、『定本山之口貘詩集』が第2回高村光太郎賞(詩部門)を受賞しています。同時受賞が草野天平(心平実弟・故人)、造型部門は豊福知徳でした。

山之口の詩で思い出すのが、以下です。高村光太郎賞受賞前年の昭和33年(1958)、まだ米軍統治下だった沖縄に、33年ぶりで帰郷した際の情景が歌われています。

   弾を浴びた島
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 島の土を踏んだとたんに
 ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですとか言って
 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって
 ウチナーグチマディン ムル
 イクサニ サッタルバスイと言うと
 島の人は苦笑したのだが
 沖縄語は上手ですねと来たのだ

ガンジューイ」は「お元気でしたか」、「ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ」が「沖縄弁まで みんな 戦争に やられたのか」。当時の沖縄の状況の一面が象徴されています。この「ウチナーグチ」の衰微は、50年前の復帰により、さらに加速することになるのですが……。

伊波南哲、山之口貘ときて、さらに言うなら、沖縄ではありませんが同じく南西諸島、昭和28年(1953)まで米軍統治下にあった奄美大島出身の泉芳朗の件も思い出します。

そんなこんなで、復帰50年。ロシアによるウクライナ侵攻もあり、実に色々考えさせられました。

再び「琉球決戦」。

珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、/万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)」。「さんばる」のルビは「やんばる」の誤りだと思われますが、この風景描写、伊波や山之口から聞いたものなのかもしれません。

そして「全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、/起つて琉球に血液を送れ。」は、基地問題等の解決していない現代の視点から見て、まさにその通りですね。無論、戦争当時の大和のように軍艦を送り込め、という意味ではなく、です。

【折々のことば・光太郎】

午后谷口さんより岡といふ人来り、床下検分、補強方依頼す、 尚床下に人のねてゐたあとあり、中西夫人パトロールに告げ巡査来て調べる、


昭和27年(1952)12月1日の日記より 光太郎70歳

谷口さん」は谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む設置場所一帯の設計を任された建築家です。「谷口さんより」は「谷口さんの事務所より」という意味でしょう。

床下の補強云々は、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエが、元々、水彩画家の中西利雄が建てたもので、「乙女の像」のような巨大彫刻の重量を想定していないと判断されたためです。

その床下に入り込んで寝ていたというのは、現代で言うところのホームレスのような感じでしょうか。

まず『産経新聞』さんの関西版コラムから。

浪速風 言論の自由を考える

ウクライナ侵略でロシアの言論統制・封殺が行われている今だからこそ、注目したい催しがある。「古都・京の記憶に残すべき戦時の日仏交流」。15日にロマン・ロラン研究所(京都市左京区)が、アンスティチュ・フランセ関西稲畑ホール(同)で行うトークと詩の朗読会である
▶ロランは、反ファシズムを貫いたフランスの作家で、高村光太郎、倉田百三らと交友があり、昭和46年、仏文学者の宮本正清(故人)が同研究所を設立した。宮本がロランに共鳴したのは、立命館大教授だった20年6月、京都府警に突然連行され、終戦まで拘束された経験があるからだ
▶反戦思想を持っている疑いだけで拷問され、食事は1日握り飯1個。牢獄では虱(しらみ)による出血でシャツが真っ赤に染まった。そんな日本に二度としないという思いを宮本は詩集『焼き殺されたいとし子らへ』に込めた。会では、その朗読やヱイ子夫人らによるトークが行われる。午後2時から。入場自由。

『産経』さんらしからぬイベントの紹介ですが、詳細は以下の通り。

財団法人ロマン・ロラン研究所設立50周年記念 古都・京の記憶に残すべき 戦時の日仏交流―関西日仏学館―〈トークと詩の朗読〉 

期 日 : 2022年5月15日(日)
会 場 : アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール 京都市左京区吉田泉殿町8
時 間 : 午後2時~4時
料 金 : 無料

戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いから冷めやらぬ揺れ動く幕末京都、外国人立ち入り禁止の長い眠りから慌ただしく覚めようとしている。時は1868年(慶応4)3月、舞台は京都御所、フランス公使レオン・ロッシュは、じりじりするほど待たされ漸く紫宸殿に招じられた。先帝の急死から即位したばかりの若干16歳、直衣姿の天皇の前にオランダ公使とともに進み出た。これが京都とフランスの交わりの第一歩である。政変混乱のなか、ミヤコにフランスの一粒の種が撒かれ、やがてそのシンボル「関西日仏学館」が誕生。点から線へのタイムトンネルに入ってみませんか。

<トーク>
パネリスト
 加賀美幸子氏 元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)
 ジュール・イルマン氏 在京都フランス総領事、 アンスチティチュ・フランセ関西 館長
 宮本ヱイ子 『京都ふらんす事始め』著者(当研究所理事)
 西成勝好 大阪市大名誉教授(当研究所理事長)
 コーディネーター:和田義之 弁護士(当研究所理事)

<詩の朗読> 
戦時下、関西日仏学館でフランス人教授オーシュコルヌと主事の宮本正清は突然理由なく拘束された。劣悪な警察署で61日間、拷問と生命の危機に晒され敗戦の日を迎え自由の身となる。苦難の歴史が刻まれたフランスのシンボル関西日仏学館の戦時の混乱を記憶すべきであろう。宮本正清(関西日仏学館主事(当時)、ロマン・ロラン研究・翻訳者、研究所設立者)の“戦時のつぶやき”詩集『焼き殺されたいとし子らへ』を読む。
朗読:*加賀美幸子(元NHK 理事待遇のエグゼクティブアナウンサー)
加賀美氏は1963年NHK入局。「女性手帳」「夜7時のテレビニュース」「バラエティー、テレビファソラシド」大河ドラマ「峠の群像」「風林火山」「ラジオ深夜便」「列島縦断 短歌・俳句スペシャル」など報道、教育、教養、情報その他多くの番組を担当。現在も「古典講読」「漢詩を読む」「悩み相談・渋護寺」「ドキュメンタリー」などを担当。「古典講読」は『万葉集』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『徒然草』『奥の細道』など、長年にわたって原文朗読を続けている。著書『こころを動かす言葉』『言葉の心・言葉の力』ほか。高校・中学の国語教科書にエッセイが取りあげられている。NHK会長賞、ダイヤモンドレディー賞、前島(密)賞、徳川夢声市民賞など受賞。「千葉市男女共同参画センター名誉館長」「NPO日本朗読文化協会朗読名誉会長」「放送人の会」理事「公益財団法人長寿科学振興財団」理事「日本文藝家協会員」「NHK文化センター」講師ほか。
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宮本正清。光太郎の朋友だった片山敏彦との関係、さらに光太郎も敬愛していたロマン・ロランとのからみで、何となくは存じておりましたが、光太郎とは直接の交流はなかったようで、改めてこういう人物だったんだ、と知りました。

戦前から戦時中にかけての文学者等への弾圧の歴史、逆に光太郎ら大多数の文学者等が翼賛体制に飲み込まれていった黒歴史、そのあたりは「臭いものに蓋」の感があり、一般にはよく知られていませんね。大杉栄・伊藤野枝夫妻、小林多喜二の虐殺などは比較的有名ですが、それでもまだ多くの謎に包まれています。

そしてロシアによるウクライナ侵攻。当方、非常に気になっているのが、ロシアの一文化人たちの動向です。国営テレビの女性スタッフが番組に乱入、「プロパガンダを信じないで」とのメッセージを出したりしましたが、それ以外の部分での動きが伝わってきません。戦前、戦中の日本よろしく、危険分子は投獄されたりしているのか、光太郎のようにプロパガンダを垂れ流す存在に成り下がっているのか……。

そして恐ろしいのはわが国での動き。「露助や支那が攻めてくるぞ! だから憲法改正だ! 再軍備だ! 核武装だ!」そういう世の中になって欲しくないものです。

【折々のことば・光太郎】

新宿米久にて六人牛鍋、タキシでかへる、十時


昭和27年(1952)11月28日の日記より

新宿米久」は、光太郎が戦前によく行っていた浅草米久の支店でしょう。

今年3月リリースのCDです。

シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集

2022年3月23日 Octavia Records Inc 定価3,200円+税

宮本益光(バリトン) 加藤昌則(ピアノ) 崎谷直人(ヴァイオリン)

このようなタイトルのアルバムを発表する日が来るなんて、舞台に立ち始めたころは考えもしませんでした。クラシックというジャンルで、作詞・作曲を演奏家本人が担当すること自体、かなり珍しいことだと思います。二人が出会って、もう30年近くなります。がむしゃらに突っ走った20代、少しずつ認められてきた30代、自分のことが少しだけわかってきた40代、私たちはそれぞれの領域で活動を積み重ねつつ、知らぬ間に二人の世界を拡げてきたのだと思います。これは二人の日記帳のようなもの。二人にしか描けない魂の記録です。
宮本益光

作曲家・加藤昌則と歌っている宮本益光は東京藝大の同期だ。加えて、ここで作曲家はピアニストでもあり、歌手は詩人でもある。(中略)
加藤昌則という仲介者を経て自作を声に乗せることができている宮本益光は、まことに稀有な演奏家だ。「もしも歌がなかったら ゲーテは詩なんて書かなかっただろう」という自身の言葉(「もしも歌がなかったら」)の「ゲーテ」は、「私」と置換してもいいのである。微妙な音色の変化を含ませつつ、すべての曲に真正面から取り組む「詩人の歌唱」には、ただ感嘆。見事というほか、ない。
池辺 晋一郎(ライナーノーツより)
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曲目
 魔女の住む街 (詩・宮本益光)
 祈りの街 (詩・宮本益光)
 城壁となって (詩・宮本益光)
 落葉 (詩・千家元麿)
 俺らの町の数え歌 (詩・宮本益光)
 桜の背丈を追い越して (詩・宮本益光)
 詩がある (詩・宮本益光)
 そこにある歌 (詩・宮本益光)
 彦星哀歌 (詩・宮本益光)
 ここで歌うだけ (詩・宮本益光)
 レモン哀歌 (詩・高村光太郎)
 さくら (詩・たかはしけいすけ)
 「ME」より 恋歌 (詩・たかはしけいすけ)
 「花と鳥のエスキス」より ぼくの空 あたらしい日がくるたびに(詩・たかはしけいすけ)
 「名もなき祈り」より 空に 今、歌をうたうのは (詩・宮本益光)
 もしも歌がなかったら (詩・宮本益光)
 平和へのソネット (詩・宮本益光)
 またね、またね (詩・宮本益光)
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アルバムタイトルが「シンガーソングライター」ですが、「自分で作詞作曲し、歌う」という通常の意味のそれではありません。まず作詞は全20曲中、大半が歌唱担当の宮本益光氏。氏はバリトン歌手でありながら、詩集も出版なさっているそうです。そして全20曲、作曲はピアノを担当なさっている加藤昌則氏。というわけで、いわばお二人の合作。いうなれば「シンガーソングライターズ」とでも言うべきかと存じます。

宮本氏作詞でないものは、氏の詩の師・たかはしけいすけ氏の手になるものが5曲、光太郎とも交流のあった千家元麿のテキストで1曲、そして光太郎の「レモン哀歌」。

この「レモン哀歌」がプログラムに入っていたコンサート等は、当方が把握している限り、令和元年(2019)に加耒徹氏の歌唱で「歌道Ⅱ」と題した公演が福岡と東京で行われた他、同年の「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」でも加耒氏が歌われました。また、今回のCDで歌われている宮本氏で、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」。こちらは今年の2月、横浜での公演でした。それから情報を把握しておらずご紹介出来ませんでしたが、先月末に愛媛県八幡浜市で開催された「宮本益光バリトンリサイタル SINGER SONGWRITER 加藤昌則歌曲集」でも演奏されています。CDの発売記念的なコンセプトでしょう。宮本氏は八幡浜ご出身だそうです。
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「レモン哀歌」、これまでも様々な作曲家の方々などが曲を付けて下さっていますが、解釈がそれぞれですね。今回のように単発の場合と、組曲や歌曲集の中の一篇という場合では扱い方が異なってきますし、独唱の場合と合唱の場合とでも違います。バックボーンがシャンソンというモンデンモモさん、歌唱なしのインストゥルメンタルでピアノの荒野愛子さんなどはさらに毛色が変わっていますし。ちなみに演歌の坂本冬美さんにも「レモン哀歌」という曲があります。ただし、こちらは光太郎詩ではなく作詞家・たかたかし氏の詞ですが。
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「レモン哀歌」だけでなく、他の詩まで範囲を広げれば、「道程」には、かの坂本龍一氏が曲を付けて下さいましたし、その他箏曲などの純邦楽、'70年代にはフォークソング調、さらには詩吟的なものや浪曲風まであります。それらを聴き較べてみるのも一興です。

さて、CD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

うどんをとる、余は全部嘔吐す、 夕食とらず、


昭和27年11月24日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に当たり、以前の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中に悩まされていた結核性の肋間神経痛はかなりおさまったものの、それでも万全の体調とは言えない日々でした。光太郎の命ものこりあと3年半ほどです。

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本の文庫化です。

すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―

2022年5月1日 中川越著 新潮社(新潮文庫) 定価693円

原稿が書けない。生活費が底をついた。追い詰められた文豪たちが記す、弁明の書簡集。

言い訳――窮地を脱するための説明で、自分をよく見せようとする心理が働くので、大方軽蔑の対象になる。しかし文豪たちにかかれば浅ましい言い訳も味わい深いものとなる。二股疑惑をかけられ必死に否定した芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税額を誤魔化そうとした夏目漱石。浮気をなかった事にする林芙美子等、苦しく図々しい、その言い訳の奥義を学ぶ。
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目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 おわりに
 参考・引用文献一覧

 解説 郷原宏

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本は、『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。サブタイトルが変更されていますが、内容的には同一のようです。文庫化に当たり、郷原宏氏の解説が新たに添えられましたが。

われらが光太郎については、「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項を設けて下さいました。読んでその通りの内容で、菊池正という詩人からの序文を書いてくれ、という依頼に対して送られた断りの書簡を根幹としています。

光太郎曰く「ところで序文といふ事をもう一度考へませう。一体序文などいるでせうか。何だか蛇足のやうに思へます。」「他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。

著者・中川氏によれば、

 これは一つのいい方法です。頼み事を断りたいときには、光太郎のように、頼み事自体が不要なのではと、疑問を投げかけます。もし相手がなるほど不要かもと納得すれば儲けものです。依頼事は消滅し、罪悪感を覚える必要も消えます。自己責任を回避するための完璧な言い訳の完成です。結構いろいろと使えそうです。

なるほど。

ただ、以前にも書きましたが、光太郎はこれより前に菊池の詩集に序文を書いてやっていますし、当会の祖・草野心平はじめ、確認できている限り60篇ほどの序跋文を様々な人物の著書に寄せています。その意味ではちょっと説得力に欠ける「言い訳」かもしれません(笑)。

ところで光太郎の「序文」。注意が必要です。光太郎歿後に刊行された、ある詩人の詩集(それも二種類、まったく別の人物のもの)に付されている光太郎署名の「序文」で、どうも怪しいものがあります。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていません。『全集』編纂にあたられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、その二人の詩人に「草稿を見せて欲しい」と言ったところ、「ない」との返答。さらに、「どういうやりとりがあって書いてもらったのか」との問いにも、まともに答えられず。光太郎が確かにその「序文」を書いたという裏付けになる書簡等も存在せず。文体も光太郎の文体っぽくない部分が目につきます。こういう例は、他の作家にもあるのでしょうか?

閑話休題。『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』、他の作家達の「言い訳」も、それぞれに笑えたり、参考になったりと、有益な書物です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

電話871番は既に誰かが横取りせし事わかる、24年の由、


昭和27年(1952)11月22日の日記より 光太郎70歳

871番」は、戦前から戦時中にかけ、焼失した駒込林町のアトリエ兼住居にひかれていた電話の番号です。戦時中の葉書などには、この番号が入ったゴム印が使われていました。
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固定電話の加入権というのは、一つの財産といった意味合いがあり、それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

ところが戦後のドサクサで、光太郎が持っていた権利が横取りされてしまっていたらしいそうで(笑)。これより前、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃も、この加入権について実弟の豊周に問い合わせたりしていましたが、不明だったようです。

土地などに関しても、そういうことがけっこうあったようですね。焦土と化した場所に杭を打ち、「ここは自分の土地だった」と言ってしまった者勝ち、のような。

楽譜の新刊です。

朝岡真木子歌曲集2

2022年4月15日 朝岡真木子作曲 全音楽譜出版社 定価2,800円+税
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朝岡真木子の珠玉の歌曲作品集。


収録曲
 祈りのように  作詞 : 貞松瑩子
 口笛  作詞 : 西岡光秋
 君死にたもうことなかれ  作詞 : 与謝野 晶子
 さくらの はなびら  作詞 : まど・みちお
 風のこころ  作詞 : 大竹典子
 さんまのうた  作詞 : 大竹典子
 そのとき 十八の春  作詞 : 岡崎カズヱ
 今をしむ  作詞 : 岡崎 カズヱ
 梅干し  作詞 : 岡崎 カズヱ
 メヌエツト  作詞 : 立原道造
 灯台への道  作詞 : 柏木隆雄
 おにぎりのうた  作詞 : 柏木隆雄
 黒豆のなっとう  作詞 : 中野惠子
 ながれ星  作詞 : 星乃 ミミナ
 水たまり  作詞 : 星乃 ミミナ
 吹抜保  作詞 : 茨木 のり子
 春のとおりゃんせ  作詞 : 宮中雲子
 対処  作詞 : 宮田滋子
 まど・みちおの詩による組曲「りんごを ひとつ」  作詞 : まど・みちお
  あめ/ことり/貝のふえ/ちいさな ゆき/はっぱと りんかく/一ばん星/リンゴ
 組曲「智惠子抄」  作詞 : 高村 光太郎
  人に/あどけない話/千鳥と遊ぶ智惠子/値ひがたき智惠子/レモン哀歌

朝岡真木子さんという方の作曲された、独唱歌曲の作品集です。大トリの位置に「組曲「智恵子抄」」全5曲が収録されています。

当方が把握している限り、昨年今年と、この中から抜粋でプログラムに入った演奏会が開催されましたし、令和元年(2019)には全5曲が演奏された演奏会「伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~」もありました。ただ、この時のプログラムと今回出版された楽譜集とで、構成が違っています。演奏会では今回の楽譜集に無い「風にのる智恵子」が入っていて、逆に楽譜集に掲載されている「値ひがたき智恵子」がありませんでした。「風にのる智恵子」は、結局、ボツにしてお蔵入り、ということでしょうか。楽譜集に載っていた初演記録では、「人に」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の全4曲という扱いで、平成13年(2001)に初演されていました。

楽譜集が手元に届きまして、早速、キーボードでメロディーを追ってみました。割と素直に作曲されていて、意外といえば意外でした。独唱歌曲だから、というためかもしれません。合唱だと、各声部の掛け合いやら和音やらで、これでもか、これでもかと、非常に複雑な作りになっている曲が多いのですが、独唱は伴奏としてのピアノがあるものの、基本的にメロディーライン一本での勝負、すると、衒う必要もないのかな、と思いました。

それでも単純明快というわけでもなく、転調や拍子の変更などもあり(多用、というほどではないのでそれが煩わしくありません)、さらに組曲全体での構成の妙に感心しました。

楽譜集巻頭の朝岡さんによる「はじめに」から。

 歌曲を作曲します時は、まず最初に詩を何度も朗読して、そのイメージや色合いを味わい、大切な言葉、空気感、言葉のリズム感などを受け取っています。

当然といえば当然ですが、これが出来ていない「何でこの詩にこういうメロディーなんだ?」という作品も少なからずあるように思えてなりません。それがその作曲者の解釈なんだといわれればそれまでですが……。その点、今回の「組曲「智恵子抄」」、いい感じです。

「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」と、智恵子への抑えられない想いを謳った「人に」。しかし、その想いも高らかな愛のほめ歌というわけではなく、「おずおずと」という側面があり、そうした部分がよく表されていると思います。

「あどけない話」。智恵子の心を病む前段階の、「あどけない」といいつつ「あどけなくない」内容。その不安感、しかしまだここで踏みとどまれれば……という感じ、そういったものが上手く表現されているように感じます。思い切ってピアノ伴奏を単純化し(途中まで右手一本です)、この後の曲想との違いを明確にしてもいるようです。

「千鳥と遊ぶ智恵子」。アレグロ→アダージョ→モデラート、最後はレントまでテンポを落とし、不安を煽るような半音進行が見事です。終末部分はメロディー無しの朗読という指定です。

部分的な変更を除いて8分の5拍子、アレグレットの「値ひがたき智恵子」。毀れてしまった智恵子、それをなすすべもなく見つめる光太郎の姿が浮かびます。

そして終曲「レモン哀歌」。これまでと一転して静謐な世界。うまいまとめ方です。

楽譜集が出ると、CDも欲しくなってしまいます。どこかのレーベルさんでおねがいしたいところですね。また、楽譜集が出たことにより、演奏会等で取り上げられる機会が増えることも期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

不在中朝日社会部の人来て飛行機にのれといひをりし由、


昭和27年(1952)11月18日の日記より 光太郎70歳

戦前は、新聞社がまだ珍しかった飛行機に文士を乗せてレポート等を書いてもらうという企画がよくありました。昭和4年(1929)には斎藤茂吉ら4人の歌人がやはり朝日さんの飛行機に搭乗し、機上で短歌を詠んだり、昭和10年(1935)には読売さんが「流行作家リレー飛行」なる企画を立ち上げ、林芙美子が「飛行機の旅」というエッセイを書いたりしました。

戦後もまだこういう企画があったのですね。残念なことに光太郎は断りましたが。

都内から朗読系公演の情報です。

My Favorite Story ~美しき詩の世界~

期 日 : 2022年4月19日(火)
会 場 : 日暮里サニーホール・コンサートサロン 東京都荒川区東日暮里5-50-5
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 2,500円(全席自由・税込)

プログラム ※出演順ではありません。
 岩井奈美<朗読>  ジャン・コクトー 「オペラ」より 抜粋
 倉地ひとみ<朗読> ギョーム・アポリネール 
  ミラボー橋 クロチルド 犬サフラン マリー わかれ
 宮尾壽里子<朗読> 電子ピアノ:Yoshi 
  高村光太郎・高村智恵子 翻案構成 宮尾壽里子
  「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード
 桜さゆり<朗読・ピアノ> 室生犀星 「愛の詩集」より 抜粋
 優木ももか Yuuki Momoca<ハープ弾き語り>
  ファン・ラモン・ヒメネス 「プラテーロとわたし」より 子守娘
 島映子 Shima Eiko<朗読> 
  大岡信 石の囁きを聴く~安田侃に~ 詩 名づけ得ぬものへの讃歌
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。

また、文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、今回のチケットと共に昨年暮れに発行された第97号をご送付下さいました。
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他の同人の方による『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』書評、そして光太郎智恵子にも触れられた宮尾さんのエッセイ「東京・TOKYO・とうきょう」等が掲載されています。ご入用の方、奥付画像を載せましたのでそちらまで。

「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

かたづけを終る、あとの事をスルガ重次郎翁にたのむ。カギは同翁にあづける、

昭和27年(1952)10月9日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための帰京に関連します。翌10日、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋を後にし、花巻町中心街で壮行会、その夜は大沢温泉に宿泊、東京に向けて夜汽車に乗ったのは、11日のことでした。

スルガ重次郎翁」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた、太田村の顔役です。
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芸能関係で2件。

まずは3月27日(日)の『サンケイスポーツ』さん。

伊藤健太郎、1年5カ月前の事故「死ぬまで背負っていく」 ファン500人の前で約束 今の目標は地上波ドラマ復帰

 俳優、伊藤健太郎(24)が26日、東京都内で自身初のファンミーティングを開催し、約500人と交流した。2020年10月に自動車運転死傷行為処罰法違反などの疑いで逮捕され、不起訴処分となったが、本紙の取材に「事故のことは死ぬまで背負っていく」と真摯に表明。6月3日に主演映画「冬薔薇(ふゆそうび)」(阪本順治監督)の公開を控え、今後は「地上波ドラマに戻りたい」と前向きに目標を掲げた。
 ファンの温かい拍手に迎えられ、緊張気味だった伊藤の表情が和らぐ。事故から1年5カ月。ステージを360度囲んだ客席を見渡し、感謝の思いがあふれた。
 「こんなにたくさんの方々に来ていただけるとは…。支え続けてくださり、本当にありがとうございます」
 昨年6月に初めてファンクラブを開設。恩返しのために初開催した2部制のファンミーティングでは、主演ドラマ「東京ラブストーリー」の告白シーンをファン相手に再現し、「皆さんに向けて読むのにぴったり」と高村光太郎が妻への愛を歌った詩集「智恵子抄」を朗読。主演映画「冬薔薇」でメガホンを執った阪本監督らゲストとのトークでも盛り上げた。
 1時間強の時間はあっという間に過ぎ、〝再会〟に涙するファンも。伊藤は「これからも温かく、時には厳しく見守っていただけたら。お芝居している姿をたくさん見せられるように頑張っていきます」と約束した。
 昨年10月に主演舞台「SOULFUL SOUL」で俳優業に復帰。「冬薔薇」ではろくでなしな男役で新たな顔を見せ、本紙の取材に「自分が主演だと違う見え方がするけど作品として見てもらえたら」と願った。
 14歳でモデルとして芸能界に入り、14年にフジテレビ系「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で俳優デビュー。「バイトをしたことがなく、この世界しか知らない。1年間休んだ間、生業にできる他の職業を探したけど見つからなかった」と役者として生涯を全うする覚悟が決まった。
 20年公開の主演映画「十二単衣を着た悪魔」は平安時代にタイムスリップする内容だが、「僕は未来に行きたい。40年後もこの仕事をやれているのか気になる。過去に戻って事故をなかったことにしたいとは思わない」と全てを背負って前を向く。
 「地上波ドラマでスタートした役者人生。簡単ではないけど、戻れるように取り組みたい」。恩返しの〝第2の役者人生〟を地に足をつけて歩んでいく。
◆阪本監督がエール「また次の仕事へ」
 阪本監督は「『事故でけがをさせた人たちとは、ずっとつながっていてください』と(伊藤に)言っている」と明かし、「また次の仕事へ向かってほしい」とエール。伊藤はミュージックビデオに出演した「丁寧な暮らし」を歌うラッパー、gbもゲストに迎え、「作品に愛を持って取り組む姿に学ぶべきものがたくさんある」と刺激を受けていた。
■伊藤 健太郎(いとう・けんたろう)
 1997(平成9)年6月30日生まれ、24歳。東京都出身。2017年に映画「デメキン」で初主演。18年に日本テレビ系「今日から俺は!!」でブレークし、役名の「健太郎」から本名に改名した。19年に「コーヒーが冷めないうちに」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。179センチ。
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光太郎も、順風満帆とは決して言えず、つまづきの多い生涯でした。自分がつまづいて転ぶだけならまだしも、他者を巻き込むことも多く……。ある種のモラハラといわれても仕方がないような態度で、妻・智恵子を追い込んでしまったのは事実ですし、戦時中にはプロパガンダ的に戦意高揚の詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に追いやりました。しかし、その都度、それを反省し、再び立ち上がりました。

伊藤さんの今後にも期待したいところです。

続いて、Yahoo!さんのニュースサイトから。

『となりのチカラ』松本潤のまっすぐな“告白”が胸に刺さる 10分間の見事な長ゼリフ

 松本潤が主演を務める『となりのチカラ』(テレビ朝日系)第8話は最終回前のセミファイナル。注目は前回、灯(上戸彩)から出された宿題にチカラ(松本潤)がどのような答えを出すのか。そして、オンエア前から話題になっていた松本による、10分に及ぶ問題に対する長ゼリフである。
  改めてだが、灯が出した中越家についての課題は、「灯は仕事を辞めていいのか」「愛理(鎌田英怜奈)を怒鳴ったり叩いたりしていいのか」「高太郎(大平洋介)を塾に行かせていもいいのか」の3つ。テーブルを囲み、チカラは高太郎に、愛理に、灯にゆっくりと自分が出した答えを語りかけていく。
 テストの点数が低く、学校でも「バカ」とイジメられている高太郎。彼の取り柄はポジティブな性格と自分のことが好きなことだ。「お前にもそのうち好きなものがきっとできる。それについてもっともっと知りたくなる。そしたら自然と勉強したくなるんだ、人間は」ーー知りたいと思う知的好奇心は、子供を机に向かわせる一番の原動力である。そのことをきっかけに、きっと高太郎を好きと言ってくれる人は増えるはず。チカラや灯、愛理が高太郎を好きなように。そうチカラは高太郎に伝える。
 そのひねくれた性格から将来つらい目に遭うじゃないかと心配な愛理。彼女の数字で表現する口癖をチカラは「嘘をつきたくないからだもんな」と肯定する。「いつも正直でいて、誰に対しても分け隔てなくしたいっていうお前の意思だもんな」と話す性格は、灯とそっくりだ。チカラは高太郎と愛理に対して両膝をついて、2人と同じ目線になって話している。そして、共通しているのは子供多たちの名前の由来を明かしていることだ。高太郎は『道程』を書いた詩人・高村光太郎から、愛理はチカラの好きなレゲエで用いられる掛け声「アイリー!」から。光太郎ではなく間違えて高太郎にしてしまったこと、「アイリー!」が「最高に楽しい」を意味する言葉であることをプラスに転換しながら、ありったけの愛を注いでいく。
 そして、ラストは灯の仕事について。チカラが出した「したいようにすればいいと思う」は、灯のリアクションの通りに少々人任せに聞こえるかもしれないが、それは灯がすでにこれからの道を決断していることをチカラが察しているからだ。今の灯に足りないのは背中をポンッと押してくれる愛する人の言葉。いつも全力投球な灯にチカラは「そんなあなたを僕は大好きです。心から尊敬してます。一生そばにいたいです」とまっすぐな愛を涙ながらに伝える。それは前回、灯の実家であと一歩勇気が出ず口に出せなかった言葉でもあった。
 中越家の課題はこれで一旦の解決となったが、チカラにはまだ4つ目の問題が残されていた。それはマンションの住人、つまりはお隣さんたちの数々の問題だ。これまで散々人の家の問題に首を突っ込んできたチカラだったが、彼が出した結論は「もう何もしない」というまさかの発想。第8話はトラブルメイカーと噂されていた小日向(藤本隆宏)のボヤ騒ぎでラストを迎える。
 最終回は多くがまだ手つかずの住人の問題にチカラが向き合うのかが見どころとなる。第8話にて清江(風吹ジュン)がチカラに向けて言った「あなたに会えて良かった」という感謝の一言。現実から目を背けるチカラのヒントになるのは、きっとこの言葉だ。

当方、このドラマは拝見していませんでしたが、番組公式サイト内に、見逃し配信の項があり、視聴してみました。

問題の(別に問題があるわけではありませんが(笑))シーンは番組終盤。

チカラ そうだ、お前の名前は「高村光太郎」っていう有名な人から採ったんだ。パパが大好きな「道程」っていう詩を書いた人で……。
高太郎 「どうてい」?
チカラ あ、変な想像するな。「道のり」って意味だ。でも、「高村光太郎」は「光る」っていう字に「太郎」なのに、うっかりして「高い」っていう字にしちゃったんだ。「高村」の「高」に引っ張られてさ……。へへ、バカだろ、パパ?
高太郎 うん。
チカラ でも、こんなパパでも、ママと結婚できたんだ。だから、心配するな。これからきっと、高太郎のことを「バカ」って言う人より、お前を「好き」って言う人がどんどん増えてくる。今だって、パパはお前が大好きだし、ママも愛理も大好きだから。

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光太郎から名前を採ったという設定。やはり光太郎詩の持つポジティブ性ということで、光太郎なのでしょう。萩原朔太郎から採って「昨太郎」では成りたちません(朔太郎ファンの皆さん、すみません(笑))。

それにしても、「高太郎」。そう誤植されるケースが実際にかなりあるのには閉口します。ついでに言うと、「幸太郎」や「千恵子」「知恵子」なども。最も呆れたのは「高山光太郎」でしたが(笑)。
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閑話休題。

こうしたイベントやドラマ等で、「『智恵子抄』って何?」「高村光太郎って誰?」とならないよう、今後も啓発・顕彰を続けていこうと思いました。皆様方もご協力よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

藤根村の高橋峰次郎といふ人来訪、観音堂への揮毫依頼

昭和27年(1952)9月3日の日記より 光太郎70歳

藤根村」は現在の北上市。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の近くです。「高橋峰次郎」は正しくは「高橋峯次郎」。詳しくはこちら

新刊コミックスです。

ミカコ72歳 1

2022年3月5日 新久千映著 株式会社コアミックス 定価580円+税

72歳のミカコさんは夫を亡くしたばかり。今後は夫と暮らした家にこだわって一人暮らしをするつもり。心配な子や孫にスマホを持たされたところ、死んだおじいさんのアカウントと偶然繋がってしまい…。 読めば老後も悪くない、人生100年時代のおひとり様術(ライフハック)!
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『コミックゼノン』という月刊青年漫画誌に、昨年から連載されているもので、第1話などはWeb上で無料公開されています。

上記解説文にもありますが、夫を亡くした広島在住ミカコさんがスマホデビュー。すると、亡き夫のLINEアカウントがまだ残っており、既読にならないことを承知で、日記代わりにいろいろ書き込みをするように……という展開です。

第5話「気づかなかった自分が情けないわ」が、『智恵子抄』がらみの内容になっています。

ミカコさん、亡夫の蔵書を処分しようと、古書店さんに来てもらいます。ミカコさん自身は、あまり読書に縁がないようで……。
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意外にいい本が多くあることに驚く店主。すると、崩れた本の山から、ミカコさんが目をとめたのが……。

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紙絵と詩 智恵子抄』(昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫)。ミカコさん、あるページに釘付けになります。
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そして……
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そのココロは……
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おそらく半世紀程も前でしょう、ミカコさんが亡夫から貰った手紙の文面が、そのままそこに載っていたというわけで(笑)。

ちなみにそれは詩「人類の泉」(大正2年=1913)だったようです。

   人類の泉

 世界がわかわかしい緑になつて008
 青い雨がまた降つて来ます
 この雨の音が
 むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
 いつも私を堪らなくおびやかすのです
 そして私のいきり立つ魂は
 私を乗り超え私を脱(のが)れて
 づんづんと私を作つてゆくのです
 いま死んで いま生れるのです
 二時が三時になり
 青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
 今日もこの魂の加速度を
 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
 そして極度の静寂をたもつて
 ぢつと坐つてゐました
 自然と涙が流れ
 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
 あなたは本当に私の半身です
 あなたが一番たしかに私の信を握り
 あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
 おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
 私の生(いのち)を根から見てくれるのは
 私を全部に解してくれるのは
 ただあなたです
 私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
 私の正しさは草木の正しさです
 ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
 もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
 あなたは海水の流動する力をもつてゐます
 あなたが私にある事は
 微笑が私にある事です
 あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
 そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
 私は今生きてゐる社会で
 もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
 もう共に手を取る友達はありません
 ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
 私はこの孤独を悲しまなくなりました
 此は自然であり 又必然であるのですから
 そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
 けれども
 私にあなたが無いとしたら――
 ああ それは想像も出来ません
 想像するのも愚かです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
 私は人から離れて孤独になりながら
 あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
 ヒユウマニテイの中に活躍します
 すべてから脱却して
 ただあなたに向ふのです
 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
 あなたは私の為めに生れたのだ
 私にはあなたがある
 あなたがある あなたがある

そこで、サブタイトルが「気づかなかった自分が情けないわ」。しかしミカコさん、これを機に、読書にも興味を持つように……。

その他にも、日々の何気ない出来事や、その時々の思いを、亡夫のアカウントに書き続けるミカコさん。それに気付き、はじめは認知症にでもなったかと心配していた娘や孫、職場(ミカコさんは医療事務の仕事をしています)の同僚たちも、「それもありか」と思うようになり、さらに少なからず影響を受けるようになり……という感じです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

美校にて生徒に一言話す、校長や教員諸氏に今度の仕事の事を話し、十月東京行きを告げる、 うなぎ屋にて一同より御馳走になり、バスにて花巻、タキシにて小屋、

昭和27年(1952)7月9日の日記より 光太郎70歳

美校」は岩手県立美術工芸学校。「校長」は森口多里、「教員諸氏」には深沢省三・紅子夫妻舟越保武佐々木一郎らがいました。「今度の仕事」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。

他の日の日記等でほとんど見かけたことがなく、おやっと思ったのが「バスにて花巻」の記述。当時、盛岡~花巻間の路線バスがあったのですね。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

掲載日順に、まず『毎日新聞』さん長野版。先日も触れた光太郎の親友・碌山荻原守衛とその支援者・相馬黒光について。光太郎にも触れてくださいました。

山は博物館 黒光が越えた保福寺峠 碌山との愛と苦悩の始まり

 パンや菓子の製造販売で知られる中村屋(東京都新宿区)を起こした女性、相馬黒光(こっこう)(本名・りょう、1876~1955年)は1897年3月、長野県東穂高村(現安曇野市)に嫁ぐため、東京方面から保福寺峠(1345メートル)を越えた。行く手に見えたのは壁のような北アルプス。後の苦難を暗示した。悩める黒光と言われる彫刻「女」(国指定重要文化財)を生んだ荻原碌山(ろくざん)(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)との出会いの入り口でもあった。
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 仙台生まれの黒光は、先進的な教育に取り組んでいた東京の明治女学校を卒業すると、縁談があった養蚕家・愛蔵と結婚。その村に碌山がいた。黒光が持ってきた長尾杢太郎の「亀戸風景」で油絵に目覚めた。木が立ち並ぶ川べりに牛1頭が立つ美しい絵だ。
 黒光の随筆などによると、「相馬家には湧き水があって、私が野菜洗いや洗濯に出てゆくので、碌山は心惹(ひ)かれたのか、よくきてスケッチをしていた」と振り返った。碌山は1899年5月の日記に「良子の君と対談数刻(アア、才智ある婦女子の会話は実に嬉(うれ)しき)」と親近感を表している。画家修業のため99年10月東京へ。1901年3月に渡米した。
 一方、利発な黒光は田舎暮らしを「長話にふける村の人にお茶を出したり、この沈滞、人間の自滅に至るみち」と思った。「田園生活の実世相は私を幻滅に導きました。農民が素朴と見えるのは外形にのみ眼(め)を止めるからで、生活が質素というよりみじめで、野生の姿。不倫も、草の伸びる如(ごと)く野獣の生ける如く存在し、心を暗くしました」。やがて体を壊し、夫婦で01年9月、東京に移り住んだ。本郷のパン屋「中村屋」を買い上げ、そのままの名前で開業した。
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 碌山の大きな転機は04年5月に訪れた。パリでオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」を見て、モデルをかたどるだけではない精神性に圧倒された。彫刻に転じ、07年にロダンの教えも受けた。安曇野市にある碌山美術館の学芸員、武井敏さん(48)は「碌山の作品は07年後半から劇的に変わる。モチーフの内面からにじみ出るものを感じられるようになった」と話す。
  碌山は08年3月、7年ぶりに帰国。中村屋の新宿支店近くにアトリエを構え、制作に励んだ。芸術仲間の高村光太郎は、伝習に縛られた日本の彫刻界で「(西洋の)彫刻界の大勢やロダンの意義を説き、愚蒙(ぐもう)状態に光明を放射した。現代日本の彫刻は荻原守衛からはじまった」と評価した。
 このころ黒光は「自分の悩みをじっと押さえ、悶々(もんもん)の裡(うち)にありました」。武井さんによると、夫の不倫が原因が原因で、黒光は「碌山は私に同情するようになり、性が違う者同士ですから生じた愛情に互いに苦しむようになりました。手をたずさえて走ることは訳はない。しかし家庭は事情があり、どうやらこうやら壊さないで、主人をも許してきた」と明かしている。
 武井さんは「黒光はその間、愛蔵の子供(四男と三女)を宿した。碌山は戸惑い、嫉妬したのではないか」と話す。碌山は光太郎ら友人への手紙で「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「見(み)っともない敗(まけ)をとっている。無為の人間となるかも知れぬ」「僕は惨めだ。僕は失ってしまった。―いやまだ失っていないが―」と書き送った。
 苦しみの中、09年に女性の絶望を表した「デスペア」を制作。10年3月には絶作となる「女」が完成した。黒光の子供は顔を見て「かあさんだ」と叫んだ。別のモデルがいるが、誰もが紛れもなく黒光と感じた。
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 翌月、30歳の碌山は中村屋で雑談中に血をはいた。黒光は「やがて大喀血(かっけつ)した(2日後の)同時刻が来ると、碌山は軽く噎(む)せた。また、大量の喀血があった。数分の後には呼吸が止まった」と記す。1カ月近く前、次男を亡くしたばかりで「再度の打撃は私を狂死させるばかり。信州へ行く碌山の柩(ひつぎ)にすがって狂態を演じ、(自室で)泣きつづけました」。
 アトリエには「女」が残った。「生々しい土のまま、女性の悩みを象徴しておりました。高い所に面を向けて繋縛(けいばく)から脱しようともがくような表情。肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、私自身だと直覚されるものがありました」

 「重畳として連なる山」
 1902年に東京から鉄道がつながるまで、安曇野やその南の松本に入るには、長野県の上田駅で降り、西側に連なる標高1500メートル前後の山のどこかの峠を、徒歩や馬で越えた。その一つが保福寺峠。さらに西の北アルプスの眺望が良く、社会活動家の木下尚江は1886年に松本から初めて東京に出た時を「保福寺峠に立ちて故(ふる)さとの山の偉大をはじめて見たり」と振り返った。
 近代登山初期の日本に足跡を残したイギリス人、ウォルター・ウェストンも91年に通り、「雪しまの山稜(さんりょう)や崇高な峰々が、落日に映えた空を背景に、輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルン槍ケ岳や優美な常念岳、どっしりした乗鞍岳が特徴ある横顔を示している」と描写した。峠にはウェストンの「日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。
 97年に越えた相馬黒光の感慨は逆で「人生行路難を暗示する如く、重畳として連なる高山大嶽(たいがく)ばかり。行く手を遮るように身構え、身がすくむようでした」と回顧した。山で隔絶された安曇野の暮らしは「ただ平穏無事、とり巻くのは退屈。太陽が昇る。保福寺峠が東にある。峠を越えて出ることはないのか、毎朝思う」と嘆いた。
 1964年に周辺4町村による林道が完成。67年に県道になり、現在は舗装した車道が走っている。
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いつも思うのですが、守衛と黒光、我らが光太郎智恵子とはまた違った、しかしある部分では共通する哀しい愛の物語を紡いだんだな、と感じます。

明日以降も紹介すべき事項が溜まっていますので、もう1件。一昨日の『世界日報』さんの一面コラム。一昨日が誕生日だった光太郎に触れてくださいました。

【上昇気流】小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した

 小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した。と書くと気恥ずかしいが、気流子が読書をするきっかけは、そうだった。学校の授業は、その意味で多くの作家と作品を教えてくれた▼夏目漱石や芥川龍之介などだが、逆に森鴎外などはその文章になじめずに長い間読むのを敬遠していた。文章の魅力を理解するには、時間が必要だったのだろうと今では思う▼俳句や短歌、詩の世界を開いてくれたのも、教科書だった。特に、春を詠んだ三好達治の「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ」と始まる「甃(いし)のうへ」は典雅な古文調の言葉がリズミカルな響きで心に染みた。桜の開花時期には、この詩が絵画のように浮かんでくる教科書の詩には、教訓的と感じたものもある。例えば、高村光太郎の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という言葉に始まる短い詩「道程」▼教訓的に感じたのは、その一節がよく教室の壁に額装されて掛けられていたためである。青年の野心に満ちた宣言のような詩は、青少年には共感しやすい。「道程」の原詩は100行を超えるものだったが、それを縮めたのが現在の詩。元の詩を読むと、自然という宇宙の理(ことわり)と超えなければならない彫刻の大家だった父との葛藤がつづられているのが分かる▼最近、ウクライナの「人道回廊」という言葉に触れて「道程」が思い浮かんだ。光太郎は、1883(明治16)年のきょうが誕生日である。

「人道回廊」と「道程」を結びつけるあたり、なるほど、という感じです。

触れられている「「道程」の原詩」はこちら。大正3年(1914)3月の雑誌『美の廃墟』に発表された初出形です。同じ年の10月、詩集『道程』に収めるにあたってばっさりと削り、現在流布している9行の形に改変されました。何度も書きましたが、ネット上などで初出形を「ほとんど知られていない「道程」の全文」などと紹介する記事が多く、辟易しています。「全文」ではなく「初出形」もしくは「原型」、あるいは『世界日報』さんにあるように「原詩」です。しかも「全文」と誤って書く輩に限って、「お前ら、知らなかったろ? 教えてやるわ」的なドヤ顔が浮かぶ書き方です(笑)。そのわりに引用部分が誤字脱字だらけだったり、勝手なところで連を分けたり。こういうのを「有害情報」と云います。

「有害情報」と言えば、各種SNS上で、一昨日、「今日は高村光太郎の誕生日」的な書き込みが多数。特に誤りもなくそう書いていただくのは有り難いのですが、中には光太郎と父・光雲を混同し、光雲の代表作「老猿」の画像を添えているものなども(これは一昨日に限らず、ですが)。一般の方々の認知度はそういうものなのでしょうか……。

ところで今年の誕生日で、光太郎は生誕139年となりました。で、これも以前に書きましたが、来年は生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

酸か湯より車にて青森県庁ににて知事にあふ、 中食、 後浅虫温泉行、東奥館、 夕方又青森、坂井家にて晩餐招待、あいさつす。民謡をきく、 後浅虫まで、

昭和27年(1952)6月20日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見を終え、青森市へ。仕掛け人の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)と面会しました。

「浅虫温泉」については、こちら

下記は光太郎が泊まった「東奥館」の、当方手持ち古絵葉書。残念ながら建物は現存しません。
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山口県で発行されている地方紙『長周新聞』さんに載った、東京大学大学院農学生命科学研究科教授・鈴木宣弘氏の寄稿。

【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題

001食料争奪戦を激化させるウクライナ危機
 ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格、原油価格、化学肥料の原料価格などの高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
 最近顕著になってきたのは、中国などの新興国の食料需要の想定以上の伸びである。コロナ禍からの中国経済回復による需要増だけではとても説明できない。例えば、中国はすでに大豆を1億300万トン輸入しているが、日本が大豆消費量の94%を輸入しているとはいえ、中国の「端数」の300万トンだ。
 中国がもう少し買うと言えば、輸出国は日本に大豆を売ってくれなくなるかもしれない。今や、中国などのほうが高い価格で大量に買う力がある。現に、輸入大豆価格と国産価格とは接近してきている。コンテナ船も日本経由を敬遠しつつあり、日本に運んでもらうための海上運賃が高騰している。日本はすでに「買い負け」ている。化学肥料原料のリン酸、カリウムが100%輸入依存で、その調達も困難になりつつある。
 一方、「異常」気象が「通常」気象になり、世界的に供給が不安定さを増しており、需給ひっ迫要因が高まって価格が上がりやすくなっている。原油高がその代替品となる穀物のバイオ燃料需要も押し上げ、暴騰を増幅する。国際紛争などの不測の事態は、一気に事態を悪化させるが、ウクライナ危機で今まさにそれが起こってしまった。

輸入前提の「経済安全保障」は危機感の欠如
 お金を出しても買えない事態が現実化している中で、お金で買えることを前提にした「経済安全保障」を議論している場合ではない。貿易自由化を進めて食料は輸入に頼るのが「経済安全保障」かのような議論には、根幹となる長期的・総合的視点が欠落している。
 国内の食料生産を維持することは、短期的には輸入農産物より高コストであっても、「お金を出しても食料が買えない」不測の事態のコストを考慮すれば、実は、国内生産を維持するほうが長期的なコストは低いのである。

日本は独立国と言えるのか
 「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家、革命家。1853 – 1895年)は述べ、高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
 はたして、2020年度の食料自給率が37.17%(カロリーベース)と、1965年の統計開始以降の最低を更新した日本は独立国といえるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の使命である。
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すずき・のぶひろ 1958年三重県生まれ。東京大学農学部卒業。農学博士。農林水産省、九州大学教授を経て、2006年より東京大学大学院農学生命科学研究科教授。専門は農業経済学。日韓、日チリ、日モンゴル、日中韓、日コロンビアFTA産官学共同研究会委員などを歴任。『岩盤規制の大義』(農文協)、『悪夢の食卓 TPP批准・農協解体がもたらす未来』(KADOKAWA)、『亡国の漁業権開放 資源・地域・国境の崩壊』(筑波書房ブックレット・暮らしのなかの食と農)、『農業消滅』(平凡社新書)など著書多数。

ロシアによるウクライナ侵攻は、言語道断としか云いようのない蛮行・愚挙ですが、遠い国の出来事と片付ける訳にはいきません。かつてわが国も傀儡国家満州国の建国をはじめ、周辺諸国に同様の行為を行い、「皇民化教育」などとほざいていたのですから。

そして、鈴木教授も指摘するように、じわじわと現在の我々の生活にも影響が及んできています。当方のように自家用車での移動が欠かせない田舎に住んでいますと、このところの原油高は実に困ります。さらにそれが進む可能性もあるわけで……。そして鈴木教授がメインで訴える食糧自給の問題……。不耕貪食の生活を送っている当方には、実に耳の痛い話ですが……。

1011引用されている光太郎の言葉「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」は、最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節です。全文はこちら

光太郎、この詩を書いた時点ではもはや病床に就いていて、農耕は出来なくなっていましたが、昭和21年(1946)からの7年間は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、狭いながらも畑を耕し、野菜類はほぼ自給していた光太郎の言葉だけに、重みがありますね。

ちなみに鈴木教授、同じ『長周新聞』さんに昨年寄稿なさった「 日本の食と農が危ない!―私たちの未来は守れるのか」という記事でも、同じ一節を引用されています。

ウクライナ問題、原油高や食料輸入のからみだけでなく、人道的に許されざる問題であることは、論を待ちません。一刻も早い、平和裡の解決を望みます。

【折々のことば・光太郎】

今週はじめてカツコーの声、ツツドリの声、セミの声をきく、夜ヨタカの声をきく、

昭和27年(1952)5月24日の日記から 光太郎70歳

当方は今朝、今年初めてウグイスの声を聞きました。鳴き始めの頃はまだうまく「ホーホケキョ」と鳴けず、変な鳴き方になっているのが笑えます。

作家が紡いだ言葉が、まさしく食べ物が如ごとく体を構築する感覚を、もっとダイレクトに感じることが出来るイメージティー」だそうで。

YOU+MORE!×フェリシモミュージアム部 日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティーの会

心震わす言葉を飲み干して

大正から昭和、近現代日本で生まれた文豪の作品に着想を得て作り上げたイメージティー。本を読んで作品の魅力を知る。その先に進んでみたくて、嗅覚や味覚から作中に登場するモチーフを感じられるのはもちろん、一部は視覚でも楽しめるよう、作品を象徴する色に着目したお茶をご用意しました。
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月1セット ¥1,800(+10% ¥1,980) 1セットだけ(1ヵ月だけ)の購入も可能です。

■セット内容 / 1gまたは2g入りテトラティーバッグ17個、箱
■サイズ / 箱:縦約15cm、横約10.5cm、厚さ約3.5cm
※この商品は書籍ではありません。 ※箱に直接食品を入れないでください。 ※写真は作品をより楽しむための調理例です。
●毎月1回、4種類の中から、1種類ずつお届けします。(全種類届くと、以降はストップします)
(原産国名:ドイツまたは日本〔原料原産地名(茶葉):中国〕)

※2022年4月分(2022年3月下旬~2022年4月下旬)からのお届けになります。2022年3月分でお申し込みの場合、2022年4月分のご予約として承ります。
※各種キャンペーン・送料計算の対象はお届け月分になります。ご注意ください。
※各種W便・追加便などのお申し込みはできません。

※この商品は特性上、不良品・お届け間違い以外の交換・返品はお受けできません。不良品・お届け間違いの交換・返品は、期限内(商品到着後10日以内)にご返送ください。

■ マークの数字の回数だけ届くと、自動的にお届けが終了します。
■ 掲載画像の中から、毎月1種類をお届けします。
■ お届けする順番はフェリシモにおまかせください。
■ 1回だけのご注文も可能です。
ストップする場合は、お届け後にストップの連絡が必要です。

〈高村光太郎著『智恵子抄』× 天のものなるレモンの紅茶〉
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ 「智恵子抄」より
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高村光太郎著の詩集『智恵子抄』に綴られた一編・レモン哀歌よりイメージした、「わたしの手からとったひとつのレモン」をモチーフにした紅茶です。

表紙側には高村光太郎の妻・智恵子が恋焦がれた、彼女の故郷にある「阿多多羅山」と、その上に広がる「ほんとの空」を。また、トパアズの香りを漂わせるレモンをデザインに取り入れ、思わずはっと目が覚めるような爽やかな色合いにまとめました。
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裏表紙側は病床の智恵子が作った「切り絵」をテーマに、二人の出会いを象徴する花・グロキシニヤで飾りました。光太郎のアトリエを訪ねる際に、智恵子がグロキシニヤの大鉢を持ってきたと光太郎は書き残しています。

《作品をもっと楽しむために…》
香りがはじけるように立ち上る、新鮮なレモンをトッピングして。まるで自身の半身のようにも思える大事な人と、一緒の時間を過ごしたい。そんな時におすすめなアレンジです。
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イメージティーを納めた本型パッケージは文庫本と同じサイズで、本好きのこころをくすぐります。

なるほど、いい感じですね。

他のラインナップは〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉だそうです。

で、こちらのセットは「パート2」だそうで、既に「パート1」が出ていました。そちらは〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉だそうです。
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ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

白瀧幾之助氏よりヘラ十数本送り来る、


昭和27年(1952)4月10日の日記より 光太郎70歳

白瀧幾之助は光太郎より10歳上の画家。東京美術学校西洋画科出身で、光太郎の先輩です。遠く明治38年(1905)、ニューヨークに留学。翌年、やはり渡米してきた光太郎を迎え、いろいろ世話を焼いてくれました。さらに光太郎より一足早くロンドンに移り、ここでもあとを追ってきた光太郎の面倒を見てくれました。ロンドンではもう一人、画家の南薫造を交え、3人でつるんでいたそうです。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていました。光太郎はどんなあだ名だったか不明ですが。

その後、白瀧はパリへ。当方、その頃、ロンドンの光太郎からパリの白瀧へ送ったハガキをたまたま入手しました。

そして、またまた光太郎も白瀧に続いてパリ入りします。ただ、帰国は光太郎の方が早く、白瀧は明治44年(1911)までパリにとどまっていました。

しばらく途絶えていた二人の交流が、戦後のこの時期になって突如、復活。さらに光太郎帰京後の昭和29年(1954)には、白瀧が光太郎のアトリエを訪問しています。






新刊紹介です。

齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版

2022年1月20日 齋藤孝著 致知出版社 定価2,600円+税

子供たちに一生の宝となる日本語力を身につけ、知性を身につけてもらう。それこそが次の世代にできる最高の贈り物である――。

そんな信念のもと、著者が渾身の思いを込めて作った理想の小学国語教科書。手に取られた方はその分厚さに驚かれ、子供には難しいのではと感じられるかもしれません。しかし子供が難しく感じないようにという大人の一方的な配慮で作られた教科書からは、古典などの硬い読み物が減り、子供の国語力もどんどん低下してしまっているのが現状です。

一方、「国語力を向上させる最も効果的な学習は名文に親しむこと」という方針に沿い本書に収録したのは、夏目漱石や芥川龍之介、シェイクスピアなど文豪の名作、『源氏物語』『徒然草』などの古典、宮沢賢治や金子みすゞの詩歌、坂本龍馬が姉に綴った手紙、松任谷由実、米津玄師などの歌詞まで約百三十作品。すべての漢字に読み仮名を振り、語彙力や漢字力を鍛えるとともに、設問や丁寧なポイント解説を加えることで、読解力や考える力が身につく内容になっています。

約五百五十頁もある教科書を小学校六年間で読み切ったという体験はその後の人生を歩んでいく支えともなることでしょう。大人の学び直しにもおすすめしたい、全国民に贈る教科書です。
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目次

 音読力をつけよう
  「いろはにほへと ちりぬるを」−いろは歌
  「あめんぼ あかいな アイウエオ」−五十音 北原白秋
  「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように」−星とたんぽぽ 金子みすゞ
  「私は不思議でたまらない」−不思議 金子みすゞ
  「われは草なり 伸びんとす」−われは草なり 高見順
  「どっどど どどうど どどうど どどう」−風の又三郎 宮沢賢治
  「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く」−枕草子 清少納言
  「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」−道程 高村光太郎
 速音読トレーニング
  「つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが…」−注文の多い料理店 宮沢賢治
  「めんどなさいばんしますから、おいでんなさい」−どんぐりと山猫 宮沢賢治
  「眼や額からぱちぱち火花を出しました」−セロ弾きのゴーシュ 宮沢賢治
  「百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中」−名人伝 中島敦
  「一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」−羅生門 芥川龍之介
  「ではおれがいいことを一つ教えてやろう」−杜子春 芥川龍之介
  「知らざあ言って聞かせやしょう」−白浪五人男 河竹黙阿弥
  「月日は百代の過客にして」−おくのほそ道 松尾芭蕉
  「山路来て 何やらゆかし すみれ草」−俳句松尾芭蕉
  「瘦蛙 まけるな一茶 是に有」−俳句小林一茶
  「菜の花や 月は東に 日は西に」−俳句与謝蕪村
  「ふるさとの 訛なつかし 停車場の」−短歌石川啄木
 感性を磨こう詩・歌
  「蜂と神さま」 金子みすゞ
  「リンゴ」 まど・みちお
  「ひばりのす」 木下夕爾
  「倚りかからず」 茨木のり子
  「表札」 石垣りん
  「母音−ある寂しい日私に与えて」 新川和江
  「糸」 中島みゆき
  「やさしさに包まれたなら」松任谷由実
  「秋桜」 さだまさし
  「ヨイトマケの唄」 美輪明宏
  「猫」 萩原朔太郎
  「およぐひと」 萩原朔太郎
  「月夜の浜辺」 中原中也
  「汚れつちまつた悲しみに…」 中原中也
  「生徒諸君に寄せる」 宮沢賢治
  「あすこの田はねえ」 宮沢賢治
  「落葉」 新美南吉
  「初恋」 島崎藤村
  「初恋」 村下孝蔵
  「百年後」 タゴール
 国語の世界を味わおう(1)日本文学・歌・評論
  「野ばら」 小川未明000
  「鼻」 芥川龍之介
  「女生徒」 太宰治
  「駈込み訴え」 太宰治
  「銀の匙」 中勘助
  「風琴と魚の町」 林芙美子
  「檸檬」 梶井基次郎
  「レモン哀歌」 高村光太郎
  「檸檬」 さだまさし
  「Lemon」 米津玄師
  「渋江抽斎」 森鷗外
  「歴史」 宮本浩次
  「草枕」 夏目漱石
  「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎
  「四規七則」 千利休
  「茶の本」 岡倉覚三
  「新茶」 岡本かの子
  「画」 正岡子規
  「子規の画」 夏目漱石
  「平家物語」
  「耳なし芳一」 小泉八雲
  「怪談牡丹灯籠」 三遊亭圓朝
  「余が言文一致の由来」 二葉亭四迷
  「福翁自伝」 福沢諭吉
  「氷川清話」 勝海舟
  「夢酔独言」 勝小吉
  「論語物語」 下村湖人
  「論語」
  「論語と算盤」 渋沢栄一
  「おもろさうし」 沖縄古代民謡
  「アイヌ語のおもしろさ」 知里真志保
  「梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』」作者不詳 知里幸恵・訳
  「方言」 ありがとう/おめでとう/がんばる/さようなら
 国語の世界を味わおう(2)世界の名作文学
  「赤毛のアン」 L・M・モンゴメリ
  「シャネル−人生を語る」 ポール・モラン
  「変身」 カフカ
  「ドン・キホーテ」 セルバンテス
  「レ・ミゼラブル」 ヴィクトル・ユーゴー
  「ファウスト」 ゲーテ
  「ベートーヴェンの生涯」 ロマン・ロラン
  「オイディプス王」 ソポクレス
  「罪と罰」 ドストエフスキー
  「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキー
  「真夏の夜の夢」 シェイクスピア
  「ヴェニスの商人」 シェイクスピア
  「ロミオとヂュリエット」 シェイクスピア
  「ハムレット」 シェイクスピア
  「オセロー」 シェイクスピア
  「マクベス」 シェイクスピア
  「リヤ王」 シェイクスピア
  「第一之書 ガルガンチュワ物語」ラブレー
  「百年の孤独」 ガルシア=マルケス
  「真の独立への道」M・K・ガーンディー
 自分の気持ちを伝えよう(1)手紙・日記
  「にあんちゃん」 安本末子
  「字のない葉書」 向田邦子
  「息子・野口英世あての手紙」 野口シカ
  「ゴッホの手紙」
  「姉・坂本乙女あての手紙」坂本龍馬
  「わがいのち月明に燃ゆ」 林尹夫
  自分の気持ちを伝えよう(2)演説・宣言
  「ジュリアス・シーザー」シェイクスピア
  「北条政子の詞−『吾妻鏡』より」 北条政子
  「ゲティズバーグ演説」 リンカーン
  「我々の自由への行進は後戻りできない」 ネルソン・マンデラ
  「国連本部でのスピーチ」 マララ・ユスフザイ
  「そぞろごと」 与謝野晶子
  「元始女性は太陽であった。−青鞜発刊に際して」 平塚らいてう
 言葉の魅力を味わおう 和歌・漢詩
  「百人一首」
  「古今和歌集仮名序」 紀貫之
  「万葉集」
  「独楽吟」 橘曙覧
  「静夜思」 李白
  「春暁」 孟浩然
  「偶成」 西郷隆盛
  「春望」 杜甫
  「将に東遊せんとして壁に題す」 釈月性
  「雑詩 十二首(其の一)」 陶淵明001
 考える力をつけよう哲学
  「ソクラテスの弁明」 プラトン
  「方法序説」 デカルト
  「善の研究」 西田幾多郎
  「ツァラトゥストラ」 ニーチェ
  「パンセ」 パスカル
 もう一段上の日本語力
  「あさきゆめみし」 大和和紀
  「源氏物語」 紫式部
  「簡潔の美」 上村松園
  「葵上」 三島由紀夫
  「貧窮問答歌」 山上憶良
  「枕草子」 清少納言
  「徒然草」 兼好法師
  「土佐日記」 紀貫之
  「更級日記」 菅原孝標女
  「風姿花伝」 世阿弥
  「うひ山ぶみ」 本居宣長
  「独行道」 宮本武蔵
  「五輪書」 宮本武蔵
  「柴五郎の遺書」 石光真人・編
  「直訴状」 田中正造
  「国語の自在性」 西田幾多郎
 おわりに
 主要参考・引用文献
 コラム
  聞き上手になろう
  説明上手になるには
  新聞って面白いよ
  コメント力をつけよう

NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」の監修もなさっている齋藤氏、類著も多いのですが、「決定版」と謳われています。

光太郎作品は2篇、ともに詩で「道程」(大正3年=1914)、「レモン哀歌」(昭和14年=1914)。「レモン哀歌」に関しては、前後にレモンをモチーフにした他の作品を配しています。 梶井基次郎の小説「檸檬」(大正14年=1925)の全文、続いて「レモン哀歌」が挟まり、さだまさしさんの「檸檬」(昭和53年=1978)と来て、米津玄師さんの「Lemon」(平成30年=2018) 。

その意図はこういうことだそうで……
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確かにレモンという果実には「人間の情緒に深く訴えかける不思議な魅力」がありますね。同じ柑橘系でも「蜜柑哀歌」や「ゆず哀歌」ではさまになりませんし、ましてや他の果物では……。林檎あたりはまだポエムになりそうですが、例えばスイカ。「かなしく白くあかるい死の床で」智恵子がスイカにかぶりついたらギャグでしかありませんし、スイカを丸善の棚に置いたり、聖橋から投げたりしたら、超迷惑です(笑)。意味が解らない方は、ぜひ本書をお読み下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

松雲閣別館。 昨夜はビールの御馳走になる。 ひる頃真壁氏との対談(朝の訪問三十日)録音をすます。放送局より謝礼をもらふ。


昭和27年(1952)3月27日の日記より 光太郎70歳

松雲閣別館」は、花巻温泉に現存します。「真壁氏」は詩人の真壁仁。「朝の訪問」は当時、NHKラジオで放送されていた番組です。この際の録音がNHKさんに残っており、市販CD化もされましたし、平成28年(2016)には「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス」という番組でオンエアされました。

今日はSt.Valentine's Dayだそうで……。

昨日の『東京新聞』さんから。

亡き夫へのバレンタイン 書家・根岸君子さん 思いつづった詩集出版

005 国内外で高い評価を受ける足利市在住の書家、根岸君子さん(85)が亡夫への愛情を切々とつづった詩集「半夏生(はんげしょう)−受取人のない八十歳のラブレター−」を今月、出版した。闘病、死別、その後の五年間に感じた失意、孤独、寂寥(せきりょう)の思いを飾らない言葉で紡ぐ。三年前の展覧会で詩の一部を紹介したところ、「現代の智恵子抄のよう」と圧倒的な共感を得、多数の支援者に背中を押された。
 「誰(た)が為(ため)に生きるのかこの空虚(むなし)さ」「チョコレート供えて食べてと言う我に黙せし君のヴァレンタインデー」−。収録された二百五点の詩。九百点を超える作品の中から支援する編集者とともに厳選した。
 時間を追って詩が並び、微妙な心情の変化も伝わる。最後は「追憶の人とは言わせじわが胸の君は永遠なる我が恋人ぞ」で終わっている。題名の半夏生は夏場に白い花を付ける雑草。根岸さんは「静かに凜(りん)と生きる姿にひかれて」と言う。
 根岸さんは公務員などを経て五十五歳の時、前衛書家の茂木良作さんに師事。同市を拠点に心象風景を毛筆で表現する「墨象」で、フランスの国際公募展「ル・サロン」「サロン・ド・トーヌ」などに数多く入選している。夫の会社員の英次さんとは一九六三年に結婚。二〇一六年に死別した。
 二〇一九年六月、足利市内で開いた展覧会の際、「受取人のないラブレター」コーナーとして一部の詩を紹介したところ、二日間で約八百人が訪れる人気になった。連れ合いを亡くした高齢者や若いカップルが涙を流していたという。
 「心を整理して一歩を踏み出すために言葉をつづっただけ。本にするのはためらった」という根岸さん。「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と願った。
 千三百二十円(税込み)。同市の岩下書店(通二)で販売している。郵送購入希望者は渡良瀬通信=電0284(72)6867=へ。

残された奥様の立場から、ということで、「逆・智恵子抄」とでも云うべきかと思いますが……。

本にするのはためらった」というくだり、光太郎の本家『智恵子抄』にも通じますね。

初版『智恵子抄』刊行を光太郎に進言した、出版社龍星閣主・澤田伊四郎の息女・城子氏の『智恵子抄の五十年』(平成3年=1991)から。

 こうして一冊にまとめたものを澤田が光太郎に届けたのは、『彼女の半生』を読んで一週間とたたぬうちであった。(略)光太郎は、一瞬「ギョッとした」表情を見せ、「明らかに好意を持たぬ顔つき」だった。(略)それから「内容順序表」を見て、感心したような、たまげたような感じで「ほうっ」という表情を見せた。澤田は「いけるな」と思った。
 光太郎は「預かっておきましょう」というような言葉を返した。すぐに許諾が得られるなどと思っていない澤田は、ひるまずに、このリストに洩れているような詩篇、未発表作品をいただきたいこと、制作年月日も教示してほしいことを申出て、その日は帰った。
(略)
 十日に一遍ぐらい 、様子を見ることを兼ねながらの澤田の訪問は続けられた。光太郎は「こういうものは今の時局に出せない」とか「愛情を売りものにしたくない」などと、しきりに拒絶をくりかえした。日中戦争は五年目に入り、太平洋戦争突入を控えて、国家総動員法のもとで日本全土は緊迫していた。一方、戦地と銃後、引き裂かれている夫と妻たちの関係など、道徳的な乱れもあらわれていた。
 この時こそ「男女の拠り所」「五臓六腑をさらけ出した愛情」の書物、「一般女性に対する男性のバイブル」、「女の一生の愛されている聖書」として、読む人をして感動にまきこまずにはおかぬ長篇詩集であると、澤田は自分がまとめた詩集の持つ意義とその不変の価値を光太郎に「百の言葉で説得した」。光太郎の心は澤田の説得にゆれながらも、いつもの拒絶に戻る日が続いた。
 ある時は「あれを出そうじゃないか」と許諾の電話が入って、澤田があわてて駈けつけて行くと、「君が団子坂をのぼってくるころいやになった。智恵子が可哀そうになった。やめようじゃないか」ということだった。

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この場面、平成9年(1997)刊行の『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』(杉原めぐみ氏シナリオ/村野守美氏作画)ではこのように描いています。
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この後、結局は、澤田の提案を受け入れ、『智恵子抄』出版に踏み切ります。その裏側には、同書に収められた「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」 昭和15年=1940)にある、次のような考えがあったのではないでしょうか。

大正昭和の年代に人知れず斯ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞する事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。

ちなみに、『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。

その北川先生による解説「詩集『智恵子抄』が語るもの」の一節。

 当時の日本は、中国大陸で始めた長い戦争のさなかにあって、すべてのものがその目的のために向けられていた時代でした。
 自由なものの考え方はおさえられ、素直な愛の表現すら、はばかられる日びのなかで、たくさんの若者たちが大陸で戦い、そして死んでゆきました。
 この年の十二月には、アメリカやイギリスを相手に、新しい戦争が始まろうとしていました。
 そんな若者たちが思いがけず手にしたこの詩集は、はじめ、くらべようもない愛の詩集として受けとられました。
 たしかにこれは一組の男女が生涯をかけ、さまざまな障害を越えてつらぬいた、そのいちずな愛の姿によって、戦いにあけくれた毎日に強い希望を与えたのです。
 しかし、いつか若者たちは、この詩集がただの愛の詩集であることの意味をはるかにこえて、もっと深く重い意味をもつことを感じ始めていました。
 私は卒業も近い旧制中学校の五年生でした。この国を守るために二十歳(はたち)になったら戦場に行くに違いないと信じこんでいた、私たち十代後半の若者は、この詩集をよみながら人間の意味について、生きること、死ぬことについて真剣に考え始めたものです。
 戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句より、人と人との大きな愛のやりとりの大切さを語り、人間へのたしかな信頼をうたうこの詩集は、思想や風俗についての、ますます厳しい取りしまりにもかかわらず、戦争の時代をたえず読みつがれて、一九四四年までのわずか三年の間に、十三回も印刷されています。


北川先生は、この後、入学した東京物理学校を昭和19年(1944)に繰り上げ卒業、海軍省から技術見習尉官に任官され、浜名湖海兵団を経て、四国の松山海軍航空隊宇和島分遣隊に配属。本土決戦に備えてご自分より若い予科練の少年たちと共に、山中に塹壕掘りをしつつ敗戦を迎えられました。終戦時の位階は海軍技術少尉でした。

『智恵子抄』の出版は、澤田や光太郎の思惑も超えて、当時の若者たちに多大な影響を及ぼしたことがわかります。

しかし、その一方で光太郎は、「戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句」のような詩文(それこそが光太郎詩の真髄、と、涙を流して有り難がる愚か者が現代でもいて、辟易しますが)も大量に書き殴りました。戦後になって、それを真摯に反省し、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送ったわけです。

さて、いろいろ書きましたが、泉下の光太郎も、もはや今となっては、冒頭『東京新聞』さんで紹介された根岸さんのように「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と思っているのでは、と感じました。

【折々のことば・光太郎】

宮澤清六氏内村皓一氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩手川をのむ。

昭和27年(1952)3月2日の日記より 光太郎70歳

寒い時には鍋パーティー(笑)。賢治実弟の清六、気鋭の写真家・内村皓一、そして光太郎。何とも面白いメンバーです。

J-pop系の新盤LPレコードです。

Love Logic<Clear Pink Vinyl/限定盤>

発売日 2022年2月16日005
アーティスト Minuano
レーベル Be Thankful Records
収録曲
 レモン哀歌
 春宵の哀しみ
 果てるともなく続く宙
 それいゆ
 午后の翼
 恋人たちの雨
 裸足のシルエット
 雨色日記
 恋、咲き初めり
 陽だまりの午後に


昨今、アナログレコードの人気が再燃しているとのこと。音楽はデータ配信で購入するのが当たり前、CDの市場もどんどん先細り、という時代なのに、です。価値観が多様化していることの表れの一つなのでしょうが、「データ配信では得られない、手で触れられる“新しい”価値」「デジタルにはない柔らかな音質」「インテリアとしても美しいジャケット」といった点で、若い世代にも浸透してきているそうです。
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最近は、あえてアナログレコードでしか新譜をリリースしないアーティストまでいるそうですし、過去の作品のリマスターなどもCDではなくアナログレコードで、というケースも目立ちます。

そうした流れの中での発売なのでしょう。「Minuano」というユニットの「Love Logic」というアルバム。平成21年(2009)にCDが発売されていましたが、限定版としてLPレコードが海外で生産され、逆輸入の形で販売されるとのこと。YouTubeにもアップされているのに販売するあたり、コアなファンの存在を見越してのことなのでしょうか。

「Minuano」に関しては、令和元年(2019)の『CDジャーナル』に以下の紹介。

パーカッショニストの尾方伯郎が主宰するプロジェクト。Lampの榊原香保里をヴォーカルにフィーチャーし、MPB、ジャズ、シティポップ、ソフトロック、クロスオーヴァーなどを現代的に再解釈したポップスを追求。2009年に1stアルバム『Love Logic』、翌2010年に2ndアルバム『ある春の恋人』を発表。2012年のデジタルEP『夏の幻影 EP』を経て、2019年に3rdアルバム『蝶になる夢を見た』をリリース。

ここに記述はありませんが、ボサノバ的なテイストも盛り込んでいるようです。1曲目、「レモン哀歌」。イントロのフルートがそんな感じです。



歌詞は光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)そのままではなく、それからのインスパイア。

 トパァズ色の香気 哀しくとろけて007
 囓りかけた愛を追いやる夕闇
 なまぬるい風が 辺りに一面
 窓硝子越しの季節がふるえた

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 手招きするように 二人を誘う

 夜に揶揄われて 二人は有耶無耶な儘
 時間だけが過ぎてゆく 蝕むように

 空想に耽る 遠い日々を想って
 嗚呼、溜め息一つ 静かな遊泳

 月あかり照らす 老頭児たちの群れ
 懐かしい音楽に 縺れて踊る


「智恵子抄」インスパイアの楽曲、米津玄師さんの「Lemon」などもそうだそうですが、過去にもさまざまなアーティストの方々が取り組んで下さっています。こうして復刻されることも喜ばしいことですし、さらにいろいろと新作が出ることも期待します。

【折々のことば・光太郎】

終日雪ふつてゐる、風なし、夜より朝にかけますます厳寒、0下15度、 ひる頃更科源蔵氏来訪、一時頃辞去。ヰスキー、チーズ等もらふ。


昭和27年(1952)2月5日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、断熱材などの防寒設備などまったくないあばら屋でした。昭和20年(1945)から数えて7度目の冬とはいえ、老躯にはこたえたことでしょう。

更科源蔵は、北海道弟子屈在住だった詩人。同じ北国の更科も、光太郎の暮らしには驚いたのではないでしょうか。

新刊詩集、ご紹介します。

詩集 美しいとき

2022年2月5日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,800円+税

悲しみとは 何かを愛した証し

悲しみ、祈り、愛すること。暗闇で手探りするように、一語一語、つむがれた言葉の捧げ物。
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著者の詩人・若松氏、これまでも『詩と出会う 詩と生きる』(令和元年=2019 NHK出版)、『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』(平成30年=2018 同)などで光太郎に触れて下さっていますが、今回は詩集です。

ただ、詩本体では明確に光太郎智恵子の名などは出て来ません。問題は(別に問題でもないのですが(笑))、「あとがき」。今回の詩集のコンセプト、ご自身の詩作態度の根源的なことがらが語られており、その中に光太郎。

 若い頃から彫刻を見るのが好きだった。詩を書くようになって発見したのは、詩と彫刻の関係が著しいまでに近いことだった。高村光太郎は、自分はどこまでも彫刻家であり、彫刻を純化するために詩を書くとも述べているが、後世の人は、彼をまず、詩人として記憶し、彫刻もまた、愛するのではないだろうか。
 詩とは、言葉によって世に目には見えない、意味の彫刻を生むことである。この詩集を編みながら、そんなことを感じていた。
 光太郎に魅せられ、彫刻の道を歩き始めた舟越保武は、彫刻とは石で、何かを表現するというより、石に眠っている何かを彫りだすことであると述べているが、同様の手応えは詩を書いているときにも存在する。言葉を彫琢する、という表現もあるように、書くと彫るという営みには、単に似ているという以上の共振がある。
 だからこそ、高村光太郎が訳した『ロダンの言葉』も、彫刻という領域を超え、文学を含めて広く芸術を愛する人たちに、熱く受け入れられたのだろう。
 舟越は、石工に弟子入りしたこともある、石彫りの名手だった。粘土から作るブロンズとは違って、石に彫る場合、一度、誤って鑿を入れるだけで、その作品をだめにしてしまうことがある。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、詩を直しているときにも、同様のことを経験する。不用意に一つの言葉を書いたために、どうあがいても仕上がらない、という場合がある。途中まではこれまでに感じたことのない手応えを覚えていたはずなのに、世に送り出すという地点には至らない。そうした作品が手元に、詩集数冊分ある。
(以下略)


若松氏、「詩とは、言葉によって世に目には見えない、意味の彫刻を生むこと」と定義し、「書くと彫るという営み」に「単に似ているという以上の共振」を感じ、「言葉を彫琢する」ことを目指されているというわけですね。

蓋し、光太郎も似たようなことを感じていたのではないかと思われます。そこで、若松氏がシンパシーを感じ、さらに後世の評者の多くが光太郎詩をして「彫刻的である」としているのではないでしょうか。

ところで若松氏、オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座「若松ゼミ」を主宰されています。その中で、「あとがき」でも触れられている光太郎訳の『ロダンの言葉』も扱われるそうです。また期日が近くなりましたら、詳しくご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

仙台から資福寺の坊さんといふ人来訪、五月に晩翠の観音画を石碑にするにつき、余に平和の詩碑を並べて作つてくれとの事、返事を保留す。父の木彫釈迦を本尊とする寺の由、

昭和27年(1952)1月4日の日記より 光太郎70歳

仙台の資福寺さんについてはこちら。当方、光太郎日記にこの記述があったことを失念したまま訪れていました(笑)。

1ヵ月以上経っていますが、昨年12月、『朝日新聞』さんの鹿児島県版に載った記事。志學館大学の原口泉教授の寄稿です。

(維新、それから 歴史新発見:29)泉芳朗、未発表の遺稿発見

001 1953年12月25日、奄美群島が日本に復帰した。20万余の島民の悲願が達成された日である。復帰運動を主導したのは当時の名瀬市(現奄美市)の泉芳朗市長。詩人でもあった泉は、復帰の悲願を詩につづり続けていた。その多くは『泉芳朗詩集』(59年)に収められている。
 今年、おいの宏比古氏が神奈川県内の自宅にあった泉の遺稿を、NHKの記者と私に見せてくださった。多くの未発表の詩と日記があり、全国ニュースとなった。泉の復帰運動は、署名活動や断食祈願を世界世論に訴えたように、非暴力と不服従に貫かれていた。「奄美のガンジー」と呼ばれるゆえんである。
 05年、現在の伊仙町の生まれ。24年に鹿児島県立第二師範学校を卒業し、大島郡赤木名小学校を振り出しに教職の道を歩み始めた。詩作への思いもだしがたく、28年に上京、詩文学活動へと羽ばたいた。11年後、病のため徳之島に帰郷を余儀なくされ、小学校教育に携わっていた。46年2月、奄美群島が本土から分離され、米軍施政下になった5年後、奄美大島日本復帰協議会議長となった。
 大学ノートに「牛歩」と題した日記は、名瀬市長になった52年9月16日~11月上旬の約2ヶ月間ある。
 「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まつすぐに行く」
 泉が一時親交のあった高村光太郎の詩「牛」の書き出しである。この時期、奄美全島が国連の信託統治下に置かれるとか、沖永良部島と与論島が分離されて返還されるとか、様々な臆測が飛び交っていた。国連の信託統治になると、返還には国連加盟国の多数の承認が必要で、米ソ冷戦下にあっては事実上不可能のおそれがあった。しかし高村の詩に「牛の眼は叡智(えいち)にかがやく」とあるように泉の眼は不屈の精神で輝いていた。

 泉の代表作に「島」がある。
 「わたしは島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を 一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない」で始まり、「わたしはここに生きつがなくてはならない人間の灯台を探ねて」で終わる有名な詩である(『詩集』P18~20)。
 自筆原稿とは表現が違っているので、刊行に当たって推敲したと思われる。最大の相違点は7行抜けていること。「かつてイギリス海峡のゲルンシーで 人類の悲哀を絞り切って書きつづられたレ・ミゼラブルを 敗戦国民ビクトル・ユーゴーが ぼろぼろの余命を託して探ねあぐんだものは何であったろうか」
 復帰運動を詩によって進めた泉の詩に圧倒的に多い言葉は「民族・歴史・世界史」である。奄美が米軍施政下にある現実を世界史の悲劇ととらえていた。
 遺稿には「蕃衣を着て」と題する短編小説の原稿もある。30年に日本統治時代の台湾で起こった「霧社事件」がモチーフ。なぜ泉は台湾の先住民に対する弾圧の実情を知っていたのか? 「民族詩人」「民衆詩人」にとって、芸術と生活とは切り離せないものだった。敗戦直後の詩「名瀬町風景」には、生活派の詩人の姿が見える。


『高村光太郎全集』には、泉の名は昭和27年(1952)12月14日の日記で一度だけ出てきます。

田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長

「芳郎」は「芳朗」の、「俺美大島」は「奄美大島」、「村長」は「市長」の誤りです。

昭和27年12月といえば、光太郎は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、終焉の地となった中野の貸しアトリエに入って間もない頃。今回見つかった泉の日記は、その前月までのものだそうで、この日の会見の部分は入っていないのでしょう。

また、たまたま手元にあった白鳥省吾主宰の詩誌『地上楽園』の第3巻第29号(昭和3年=1928)に、光太郎と泉、双方が寄稿していました。光太郎は詩、泉は評論。こういう例は他にもありそうです。
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奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

くもり、夜はれる、少し寒くなる、 朝の年賀ハカキ放送をきく、 雑煮、


昭和27年(1952)1月3日の日記より 光太郎70歳

「朝の年賀ハカキ放送」は、おそらく前月に盛岡で録音した、光太郎自身が出演した番組でしょう。この際のテープなども未確認です。

合唱曲楽譜の新刊です。

愛のうた―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために[ピアノ・リダクション(四手連弾)版]

2022年1月15日 高村光太郎作詞 新実徳英作曲001
 全音楽譜出版社 定価2,700円+税


高村 光太郎の詩集「智恵子抄」より5篇を選び作曲。
委嘱:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー 
初演:2022年1月10日 東京藝術劇場 
指揮:佐藤正浩 管弦楽:ザ・オペラ・バンド 
合唱:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー

I. 山麓の二人          7’10”
II. 千鳥と遊ぶ智恵子      7’20”
III. 値(あ)ひがたき智恵子  2’30”
間奏曲 ー哀しみの淵へー   5’30”
IV. レモン哀歌        7’40”
V. 元素智恵子         4’50” 

トータル 35’00”

商品説明にあるとおり、慶應義塾ワグネル・ソサィエティーさんの委嘱作品で、今月10日の同団第146回定期演奏会において初演が為されました。

その際はオケ伴でしたが、発売されている楽譜の伴奏譜(最近は「伴奏」という言い方もあまりしなくなってきましたが)はピアノ2台の設定です。練習の際、あるいは本番でも、オーケストラを雇う予算など無い、という場合にはこの構成で十分可能です。ちなみにオケ譜は全音さんでレンタルして下さるそうです。

合唱でピアノ2台という楽譜、おそらく初めて目にしましたが、1段(ホモホニックな部分)ないしは2段(ポリフェニー的な部分)で4パートが押し込んであるので、歌う方としてはちょっと見にくい感じです。その分、ユニゾンの部分も結構あったりしますが。
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といって、T1、T2,バリトン、ベースで4段にすると(歌う方としてはその方がありがたいのですが)、ページ数が倍増以上となり、とんでもないことになるでしょう。現状でも100ページ超と、この手の楽譜としては厚めです。

もっとも、1段に押し込んである方が、自分のパートと他パートとの関係性がよりわかりやすい、という声もありましょうが。

ところで、どんな感じかな、と、各曲の主旋律的なパートやヤマ場と思われる箇所では和音をキーボードで弾いてみました(初演のDVDを注文してあるのですが、まだ届きませんで)。智恵子の心の病を強調した部分では不安を煽るような半音進行など、いかにも、という感じでしたし、そうかと思うと素直なメロディーラインの部分もあったり、不協和音の連続からきれいに解決していく過程に妙味があったりと、唸らされました。

リズム的にも複雑(8分の6拍子で4連符と2連符に分けてあるなどの箇所が平気で出てきます(笑))、全体に音域が高め(T1にH音!)だったりもし、ある程度ハイレベルの合唱団でないと歌いこなせないような気がしますが、抜粋してコンクールの自由曲などにはいいのかも、という感じです。ただ、7分程の演奏時間の曲はギリギリかな、と思いますし、四手連弾を伴うため、少人数の団では無理でしょう。

巻頭に作曲者、新実氏の言葉。

 男声合唱ファンの皆さんが「一生に一度は歌いたい」と思ってくださるような曲をものしたい、そんな不遜な思いを心に暖めながらこの曲を書き続けたのでした。
 男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラ、という夢のような編成、そこにどうのような世界が誕生するのか。書き手にとっては想像の翼がどこまでも広がっていくチャレンジングで楽しい時間を過ごしたのです。
 指揮者の佐藤正浩さんからいくつかのテキストを提案いただいたのですが、最終的に高村光太郎の詩集『智恵子抄』にしよう、と考えが一致し、2020年後半にその詩集から5篇を選び、構想を練りました。
 2021年2月くらいから作曲に取りかかり足かけ半年、7月末にやっと全体が出来上がりました。全体とはすなわちオーケストラ版、それとピアノ連弾伴奏版の二つのヴァージョンで、実はこの2種のヴァージョンをほぼ同時に作り上げるのが、なかなかに手のかかる仕事でもあったのです。連弾版を作っておけば、練習の時に便利ですし、オーケストラ版ではできない時に使うこともできる、そう考えたのです。
 時間がかかったもう一つの理由は、光太郎の智恵子への想いをできるだけ深く読み取り音化したかった、言葉の背後にあるものを感じ取り自分のものにしたかった、そんなこともあったのでした。
 人間は誰しも青春を生きている、僕はそう思う。ましてや青春そのものを生きている大学生や若者たちは『智恵子抄』から大きなものを受け取ることになるだろうし、そうあって欲しい。
 この作品は決して易しくはない。が、歌うことを通じ、聴くことを通じ、「青春」にあるすべての方々に届くものでありますよう、願って止まない。
 最後にこの貴重な機会を下さった佐藤正浩さんはじめ、OBや大学の関係各位の皆さま方、そして初演に取り組んでくださる大学生の皆さんにこの場をお借りして心よりの謝意を表します。


青春そのものを生きている大学生や若者たちは『智恵子抄』から大きなものを受け取ることになるだろうし、そうあって欲しい。」まさにその通りですね。そういう考えからの二次創作は大歓迎です。音楽に限らず、演劇、文芸作品、造形作品、映像作品などなどでも。ただし、健全なリスペクトとある程度妥当な解釈に基づいてもらわないと困りますが……。

さて、興味のある方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前東京より横田正治、佐藤文治といふ二人の青年学徒来訪、 そのうち草野心平氏来訪、昨夜関登久也氏宅泊りの由、いろいろのもらひもの、ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にて四人でビール等、草野氏と共にタキシで台温泉松田家にゆき一泊、ビール等〈(あんま)〉
昭和26年(1951)12月7日の日記より 光太郎69歳

横田正治」は、正しくは「横田正知」。のち、宮沢賢治や若山牧水らについての書籍を執筆しています。「伊藤屋」は、建物は建て替わっていますがJR東北本線花巻駅前に健在です。

台温泉松田家」は「松田屋」の誤り。松田屋旅館さんは当時の建物のまま健在です。

まず、一昨日の『朝日新聞』さん。

天声人語

雨の擬音語は、ざあざあ、しとしと、ぴちぴちなど色々あるが、雪はそういうわけにはいかない。自ら音を発せず、むしろ音を吸い込む。それを「しんしん」の語が言い表している▼いつも以上に雪の多さが伝わってくる冬である。湿った重い雪に悩まされているという札幌市の話が、本紙北海道版にあった。雪が解けないこの地では、除雪だけでなく、その雪をダンプで運び出す「排雪」という作業が欠かせない。この冬は重い雪ゆえに除雪に労力がかかり、排雪になかなか手が回らないという▼のけられた雪が道路脇に積み上がり、車の通行が滞っているらしい。大寒のきょうも、日本列島の広い地域で雪になりそうだ。雪かきや車の運転では、事故のないよう十分な注意を▼詩人の高村光太郎は、岩手県の山あいの小屋に一人で暮らしていた時期がある。冬の日のことを「雪白く積めり」の詩にした。〈雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝(ひざ)を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す〉▼〈十歩にして息をやすめ/二十歩にして雪中に坐(ざ)す〉。雪の美しさと過酷さを伝える詩は、自分と向き合う生活から生まれた。もう6度目になる感染拡大により、雪のある地域もそうでない地域も家にこもる時間がまた増えそうだ▼手元の辞書では「しんしん」は漢字で「深深」あるいは「沈沈」と書く。雪以外に使うなら「しんしんと冷える」あたりか。いかにも冬型という天気図をながめながら、寒波に身を構える。

引用されている「雪白く積めり」は、昭和20年(1945)12月の作。花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を始めて間もない頃の詩です。全文はこちら
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この詩は光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周によるブロンズパネルの詩碑が作られ、山小屋近くに設置、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、花巻高村祭が開催されていました。
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今年こそは復活を望みます。

それにしても、排雪の大変さ。過日行って参りました青森でもそんな感じでした。道路脇は随所で人間の背丈以上に雪が積まれている状態でしたので。

続いて、少し前ですが、『静岡新聞』さん。1月14日(金)の掲載分。

大自在

〈八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。〉で始まる高村光太郎の詩「米久の晩餐[ばんさん]」(1922年)は、東京・浅草に明治時代初めに開業した牛鍋店のにぎわいを活写する。牛鍋は文明開化の申し子だった。
 作者は友人と〈いかにも身になる山盛牛肉をほめたたへ…不思議な溌剌[はつらつ]の力を心に育み…〉。米久創業者で時之栖会長の庄司清和さんが82歳で旅立った。65年に沼津市で物置を借りて焼き豚製造を始めた商店の屋号のルーツは、大学卒業後に1年半勤めた東京の食肉卸会社「米久食品」や牛鍋の老舗にさかのぼれる。
 大消費地で食文化の変化や食肉業界の伸びしろを確信したのだろう。明治以来の「米久」ブランドを使わせてもらえれば商売がしやすいと考えたと語っている。創業4年目には肉のブロックの形をそのままハムにした達磨[だるま]ハムで業績を飛躍的に伸ばした。
 富士山の伏流水を生かしたいと考えていた94年にビールの年間最低生産量の規制が緩和されると地ビール醸造に乗り出した。先見性と臨機応変に時代も追い風を吹かせた。
 誕生の舞台裏を取材した相原恭子さんは、庄司さんの起業の原動力は「ワクワクするような衝動」だろうと書いている。経営者とスタッフに「マンツーマンの意識ができている」のが強みとも(「あ! ビールだ‼ やってみるか―。御殿場高原ビール」)。
 「醸す」には醸造のほか、気分や雰囲気を徐々につくりだす、物事を起こす・もたらすという意味がある。経営者として、地域経済のリーダーとして、庄司さんは多くを醸してくれた。

一面コラムにその訃報が取り上げられるくらいなので、庄司清和氏という方、静岡では有名だったのでしょう。「時之栖」さんというのは、静岡県内でリゾート施設などを運営する会社だそうです。また、光太郎が詩に詠んだ浅草の牛鍋屋「米久」さんからブランド名をもらって、スモークハムなどの販売も手がけたとのこと。

詩「米久の晩餐」、全文はこちら

最後に昨日の『福島民友』さん。光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平がらみです。

編集日記

いわき市出身の詩人草野心平に、川内村から手紙が届いたのは、終戦から4年たったころだった。手紙の主は同村・長福寺の和尚。「モリアオガエルが見たい」と随筆で書いた心平を「村の平伏(へぶす)沼にいる。いらっしゃい」と招待した▼これがきっかけで心平の川内村通いが始まった。心平が贈った本を収蔵するため、村が建てた天山文庫は彼と友人、住民たちが集う場になった。この交流は、詩人没後の今も続いている▼その川内村で以前会った若者が、地元で古民家カフェの開業を計画し、浜通り復興を後押しする財団の支援も決まった。もちろん、多くの人々を村へ招くためだ。頼もしい。ただ人の往来が難しいコロナ下での起業は大変だろう▼正直そう思っていると、心平の詩集「蛙(かえる)」に、こんな一節を見つけた。「素直なこと。/夢をみること。/地上の動物のなかで最も永い歴史をわれわれがもっているということは平凡ではあるが偉大である。」(「ごびらっふの独白」より)▼心平が川内を初訪問したのは、和尚の手紙から4年後。天山文庫完成は、さらに13年後だった。しかし詩人と村の付き合いは形を変え今も続く。気長に夢みて平凡に。そんな声が、聞こえる気がする。

やはりコロナ禍前は、心平の関係で川内村にもたびたびお邪魔していましたが、そちらもとんとご無沙汰となっています。今年こそは、と思っております。

平伏沼に関してはこちら、天山文庫はこちらをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜より雪、今日終日降り二尺ほどつもる、風なし、


昭和26年(1951)11月27日の日記より 光太郎69歳

この冬初の本格的な雪だったようですが、いきなり二尺も積もったのですね。それもまだ11月に。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋が、如何に過酷な環境だったかが垣間見えます。

先月刊行された児童向け書籍です。

日本の文学者36人の肖像(上)

2021年12月20日 宮川健郎編 あすなろ書房 定価3,500円+税

明治・大正・昭和・平成の150年間に活躍した、日本の文豪の生涯とその代表作をぎゅっと凝縮した近代文学入門書です。教科書に登場する作家を中心に大きな肖像写真で紹介します。
印象的な写真から、その人の人生も文学も、生きた時代の空気まで感じられることでしょう。

目次000
 はじめに
 森鷗外   医学でも文学でも大きな仕事を残す
 二葉亭四迷 言文一致体で近代文学を創り出す
 樋口一葉  近代女性作家の誕生
 島崎藤村  近代詩のはじまりの詩人
 上田敏   翻訳で近代詩の世界をひらいた
 正岡子規  俳句と短歌の改革者
 夏目漱石  江戸の文化が育んだ明治の文豪
 与謝野晶子 情熱の歌人
 北原白秋  永遠の童心をうたった
 石川啄木  早熟・夭折の天才
 志賀直哉  「小説の神様」と呼ばれた作家
 有島武郎  「近代」と向き合い続けた作家
 芥川龍之介 エゴイズムの追求
 高浜虚子  俳句の伝統を守り、後進を育てた

 高村光太郎 近代詩の父
 萩原朔太郎 革新者であり続けた詩人
 小川未明  日本児童文学の父
 浜田広介  善意の文学


各人、4ページずつ。最初のページは略年譜、見開きで2ページ目が、紹介文にもある「大きな肖像写真」、めくって3ページ目に代表作の抜粋(光太郎は「レモン哀歌」)、最終ページで「作品解説」およびちょっとしたエピソードを紹介するコラム(光太郎の項では「光太郎と宮沢賢治」)。
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版元の想定では「対象:小学校高学年」ということですが、中学生くらいでも十分使えそうです。

ちなみに上下巻で、下巻で扱われているのは以下の通りです。当方、購入していませんが。

宮沢賢治/江戸川乱歩/草野心平/金子みすゞ/井伏鱒二/梶井基次郎/川端康成/中原中也/新美南吉/椋鳩十/中島敦/太宰治/三島由紀夫/寺山修司/まど・みちお/茨木のり子/吉野弘/井上ひさし

教育関係の方、お子様をお持ちの皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

毛皮に腰のひもをつける、 下水吸込を拡大の為穴掘、北の窓をふさぐ。


昭和26年(1951)11月19日の日記より 光太郎69歳

「〽ふーゆーがー、来っるっ前っにー」ですね(笑)。

都内から朗読系の公演情報です。

第2回 JILA朗読芸術祭

期 日 : 2022年1月21日(金)
会 場 : すみだトリフォニーホール 小ホール 東京都墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 開演18:30(開場18:00)
料 金 : 3,500円(全席自由・税込)

出演/曲目
 レディー・マクベス
  原作:W.シェークスピア/音楽:安藤由布樹 
  作詞:W.シェークスピア、橘麗  脚本:橘麗  ピアノ:野嶋さやか
  朗読・歌:橘麗(マクベス夫人) 朗読:小島裕史(マクベス)
 おたよの恋
  作:宇野千代/音楽:服部和彦  朗読:桜さゆり  ピアノ:樋口真千子
 藤壺
  作:紫式部/音楽:服部和彦  朗読:杉浦貴子  フルート:片切葉子
 智恵子抄 より
  作:高村光太郎
  荒涼たる帰宅 ほか 朗読:小林己恵子  梅酒 ほか 朗読:鈴木裕美
 衝立の女
  作:小泉八雲  朗読:岩井奈美
 赤いろうそくと人魚
  作:小川未明/音楽:服部和彦  朗読:倉地ひとみ  ピアノ:森本理奈
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

集配人くる、新年ハガキ100枚引受、払ひズミ、


昭和26年(1951)11月15日の日記より 光太郎69歳

いわゆるお年玉付き年賀葉書のようです。翌年、昭和27年(1952)の新年用ですね。当方、この前年、昭和26年(1951)用のお年玉付き年賀葉書で光太郎が送ったものを持っています。ただし3月の発送で、余った年賀葉書を使ったという感じですが。
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今年は、明日、1月16日(日)が当選番号の発表ですね。当方、亡父の喪中だったため、今年は個人の方々には年賀状を出しませんでした。その分、届いた年賀葉書も例年の半分以下。切手シートの1枚でも当たればいいかな、と思っております。

2件ご紹介します。

まず、一昨日の『茨城新聞』さんの一面コラム。

いばらき春秋

連日氷点下の厳しい朝が続く県内。6日に降り積もった雪がなかなか解け切らず、いまだに日陰で残っている所も多いだろう▼下館駅前のビルにある筑西支社からは関東平野の眺めが素晴らしい。快晴の日には冠雪した富士山や日光連山、時には浅間山もよく見え、真冬ならではの景色が楽しめる▼この時季にふさわしいのは高村光太郎の「冬が来た」という詩である。「きつぱりと冬が来た」という勇ましい書き出しで始まり「きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」と厳しさを描く▼草木に背かれ、と詩人は表現しているが、この寒さが春の桜の開花には大事な条件だという。冬に入る前に休眠状態に入った花芽は一定期間低温にさらされることで目を覚まし、開花の準備を始める。それを「休眠打破」と呼ぶのだそうだ▼作品の主人公は前向きだ。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と力強い。真正面から受け止め、立ち向かう覚悟を示す▼寒さがなければ春は来ない。それは分かっているけれど寝床からなかなか抜け出せない。そんなとき、休眠を打破するために詩の一節をつぶやいてみよう。春はもうすぐだ。(飯)

温暖な千葉県に住んでいますと、冬の寒さには弱くなります。1月も半ばとなると、もう冬はいいから、早く春になってくれ、という感じです(笑)。「冬よ/僕に来い、僕に来い」という光太郎の気が知れません(笑)。

しかし、「休眠打破」だそうで、この寒さが植物の生育には欠かせないとのこと。まぁ、それも頭では分かっているのですが……(笑)。

ちなみに「6日に降り積もった雪」とありますが、千葉でも積雪となりました。降り始めた6日の昼頃。
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翌朝、裏山の中腹から。ここまで積もったのは数年ぶりでした。
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昨年4月に17歳で逝ってしまった愛犬と毎日行っていた公園。
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愛犬が生きて元気だったら、転げ回って喜んでいたでしょう。
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もう1件、『産経新聞』さんの読書面、1月8日(土)の掲載でした。

本ナビ+1 詩人・和合亮一 『写文集 我が愛する詩人の伝記』 心突き動かす詩人の「生気」

009 新しい年に、ふと…。そもそも詩人とは、どんな人間なのだろうと考え込んでしまった(私も一応、詩人ではあるのだが)。それはあらためて、自分自身を知りたいという気持ちと似ている。だからなのかもしれない。この本を手に取ったとき、一瞬にしてこみあがるものを感じた。簡単には言明できない何かを。
 本書は北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、立原道造…。12の詩人をめぐる室生犀星による伝記である。例えば朔太郎は前橋、立原は軽井沢…、故郷や生活した土地とそれぞれの人物のエピソードと、地の風土を鮮明にとらえた濱谷浩の写真が並ぶ。深い親交のあった犀星にしか語れない挿話の数々は、人物をあらゆる角度から、新しく、時には丸裸にしていて面白い。
 生々しい逸話に垣間見える横顔にくすりと、そしてほろりとさせられる。伝説の詩人たちもただの人間だったんだなあと呟(つぶや)きたくなる。あとがきに「若(も)し少しでも生気が溜(た)まっていたら嬉(うれ)しい、その生気のみがこの書物のたすけになるからである」と。なるほど。詩人のもたらす「生気」に初めから私は突き動かされたのかもしれない。本の中の息づかいに耳を澄ますようにして読み進めると近代詩と詩人の全景が立体的に見えた気がした。
 そして生ばかりではなく死の場面にも触れている。どの詩友よりも生きのびてこれを書いていると語る犀星の切ない姿が随所に見受けられる。
 「詩というものは先(ま)ずまねをしなければ伸びない、まねをしていても、まねの屑(くず)を棄(す)てなければならない」という一節に詩作の秘訣(ひけつ)を教えられた思いがした。日本の詩の礎を築いたいわば開拓者たちの言葉と人生をあらためて堂々と真似(まね)てみたいと思った。

詩人の和合亮一氏が、先月刊行された『我が愛する詩人の伝記』(室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社)の書評を寄せられています。さすがに和合氏、的確な評ですね。

これ以外にも、まだ各紙で光太郎の名を出して下さっています。明日のこのブログも、その辺で。

【折々のことば・光太郎】

笹間の猟師が青猪の毛皮を持つてくる、スルガさんに見てもらふやうにいふ。スルガさん毛皮持参、6000円の分を求める事にする。中々よろし。スルガさんに托して背中に着られるやうにしてもらふことをたのむ。


昭和26年(1951)11月10日の日記より 光太郎69歳

笹間」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の隣村。「青猪」は「あおしし」と読み、カモシカのことです。光太郎の山小屋付近にも時々現れました。

スルガさん」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎、あるいはその子息。猟師から直接買うのではなく、いったん、詳しい地元民に相場等を聞いて購入したのでしょう。
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上記画像がおそらくこの時の毛皮です。翌年の詩「山のともだち」に、「角の小さいカモシカは/かわいそうにも毛皮となつて/わたしの背中に冬はのる。」という一節があります。

詩人の高良留美子さんの訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。

高良留美子さん死去

002 高良留美子さん(こうら・るみこ=詩人、評論家、本名竹内留美子〈たけうち・るみこ〉)12日、膵臓(すいぞう)がんで死去、88歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長女小松美穂子さん。
 詩人としてH氏賞、現代詩人賞を受賞。97年に女性文化賞を創設し、私費で賞金を授与。17年に女性史研究者の米田佐代子さんに賞の運営を引き継いだ。

『読売新聞』さん。

詩人の高良留美子さん死去…女性史研究にも力注ぐ

001 詩人で、女性史研究者としても知られた高良留美子(こうら・るみこ、本名・竹内留美子=たけうち・るみこ)さんが12日、膵臓(すいぞう)がんで死去した。88歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、小松美穂子さん。
 東京都出身。大学時代から文化総合雑誌「希望」に参加し、1963年に詩集「場所」でH氏賞、88年に詩集「仮面の声」で現代詩人賞を受賞。女性史研究にも力を注ぎ、97年には、女性の文化向上に貢献した人に贈る「女性文化賞」を個人で創設した。アジア・アフリカの詩人とも交流し、翻訳にも取り組んだ。また、本紙で83年から98年まで、詩の投稿欄「女の詩・女のうた」の選者を務めた。

『読売』さんの見出しに「女性史研究にも力注ぐ」とありますが、当方、その関係の御著書を一冊、所蔵しております。

平成21年(2009)、學藝書林さん刊行の『恋する女 一葉・晶子・らいてうの時代と文学』。
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サブタイトルが「一葉・晶子・らいてうの時代と文学」で、その3人がメインですが、帯文にある通り、智恵子の章も設けられています。

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久しぶりに読み返してみました。

黒澤亜里子氏の先行研究などを踏まえ、基本、ジェンダー論に立脚されたものですが、ヒステリックに光太郎の悪行を糾弾する、というスタンスではなく、新しい男女の姿を追い求めながら、刀折れ矢尽きていく二人の姿を追っています。そこに、智恵子の親友だった田村俊子とのからみも。

当時の一般的な男性と較べ、ジェンダー平等の観念の部分では進んでいた光太郎も、所詮は「良妻賢母」を無意識に求める部分があったという指摘、絵画については才能溢れる、とまではいかなかった智恵子が、画業に見切りをつけ「偉大な芸術家の妻」という道を選択したこと、そしてそれに伴う悲劇として、心の病は必然的に訪れた、といった論は、うなずけるものがありました。

曰く

彼女は絵を描きつづけながらも、〈我をすて〉ようとしていたのだ。しかしひとたび自我に目覚めた人間にとって、それは衰弱へ向かう道であり、とくに智恵子のような強烈な自我意識をもっていた人間にとって自己破滅へ向かう道であった。

もう一冊、部分的なご執筆で『『青鞜』を読む』。平成10年(1998)、やはり學藝書林さんの刊行で、「新・フェミニズム批評の会」の編著です。
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高良さん、こちらでは、「成瀬仁蔵の女子教育思想と平塚らいてう」の題で、30ページ程。

智恵子が創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』。発起人や社員の中に、らいてうをはじめ、日本女子大学校出身者が多数いたことから、同校創立者の成瀬仁蔵の思想が彼女たちにどう影響を及ぼしたか、という趣旨です。

2冊とも、Amazonさん等で入手可能です。

さて、改めまして、高良さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

たえ子さん立ちよる、コーヒー御馳走。


昭和26年(1951)9月13日の日記より 光太郎69歳

たえ子さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の婦人。

光太郎がふるまった「コーヒー」は、おそらくインスタントでしょう。過日、久々に光太郎の山小屋に入れていただいた際、作り付けの棚にネスカフェの瓶がありました。
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まずは12月1日(水)の『読売新聞』さん夕刊。一面コラムです。

よみうり寸評

高村光太郎は冬という季節に格別の感情を抱いていたらしい。詩を読んで思う。◆たとえば〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉(『冬が来た』)。あるいは、〈冬の寒さに肌をさらせ/冬は未来を包み、未来をはぐくむ/冬よ、冬よ/躍れ、叫べ、とどろかせ〉(『冬の詩』)◆凡俗の身には同じく縁遠いと思わせる言葉に、「歳寒(さいかん)の松柏(しょうはく)」がある。どんな苦境にも節操を失わないさまをいうが、由来は松などの常緑樹が厳寒にも色を変えないことにある◆田中修著『植物のすさまじい生存競争』によれば、常緑樹でも夏の葉をそのまま低温下に置くと凍って枯れる。そうならぬよう葉は冬に向けて糖分などを蓄え、凍るのを防ぐという。12月、気象庁の季節区分でいえば冬がその幕を開けた◆餌食にするのは無理にしても、葉っぱに倣い、やり過ごせるだけの体力気力を秋の名残のあるうちに養っておきたい。原油高に新しい変異株ときて、降雪量多しの予報もある。この冬、結構な難物かもしれない。

おおむね毎年、この時期になると、各紙の一面コラムなどで光太郎の冬の詩からの引用が為されますが、今年もお約束で。寒さに弱い身としては、冬の寒さは暗鬱な気分にさせられるのですが……(笑)。

同じく一面コラムで、『山陰中央新報』さん。昨日の掲載分です。昨日も同様の件をご紹介した、太平洋戦争開戦の12月8日にからめてですね。

明窓・日米開戦から80年

早朝の臨時ニュースに続いて、午後に戦況が伝えられると、国民の多くが狂喜したという。当時、大学生だった作家の故阿川弘之さんは、下宿でラジオを聞いて「涙がポロポロ出て来て困った」と振り返っている。この日、開会中だった島根県議会も議長の発声で万歳の後、「県民の覚悟の決議」を満場一致で採択したそうだ▼1941年12月8日、日米開戦の口火となる真珠湾攻撃当日の出来事だ。日中戦争のこう着状態が続く中、経済制裁の影響も重なり、国民の反米感情は高まっていた。2日後には当時の松江市公会堂で、日露戦争開始以来となる「必勝祈願県民大会」が開かれた▼緒戦勝利の感激は当時の作家たちも同じ。阿川さんによると、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、吉川英治、高村光太郎らも、その感激を文章や詩歌にしたという。街中には「屠(ほふ)れ米英我等の敵だ 進め一億火の玉だ」の言葉があふれた▼一方で、庶民の暮らしには既に大きな影響が出ていた。生活必需品の配給制に加え、金属製品の供出が始まり、バスの燃料も木炭や薪(まき)に。「産めよ殖やせよ」の国策に沿い島根県が、男子25歳、女子19歳の「結婚適齢者登録」を始めた、との記事も残る▼日米開戦から80年。スローガンで敵視された「米英」も「贅沢(ぜいたく)(は敵だ)」も、今では敵ではなくなった。時代の流れとはいえ、変わり身の早さに複雑な思いがする。

「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」という格言があります。元々は中国原産で「皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正したりすることができないという」意味ですが、皇帝に限らず、特に社会的地位のある人の発言には、そういう面がつきまといます。80年経っても、光太郎の翼賛詩がやり玉に挙がるのも仕方がないでしょう。逆に現代において「これぞ皇国臣民の鑑」と、大音量で軍歌を流す街宣車よろしく、SNS上にアップして悦ぶのは愚の骨頂ですが。

ちなみに阿川弘之が挙げたという光太郎以外の4人の文学者の中に、光太郎同様、翼賛作品を大量に発表しながら、後に刊行された『全集』に、そうした作品が一切載せられていない人物がいます。「あれは無かったことにしよう」という意図がありありと見え、呆れます。『選集』ならともかく、それを『全集』と称していいのでしょうか? それが本人の意志なのか、取り巻きの「忖度」なのか、そこまでは存じませんが、「綸言汗の如し」の言葉を贈りたいと思います(笑)。同様に「誤解を与えたとすれば訂正し、取り消します」とのうのうと発言する現代の政治屋にも、ですが(笑)。

「負」の部分で、もう1件。『東奥日報』さんから。

店舗撤去、明け渡しを/十和田湖畔・休屋/国が景観改善へ提訴

 青森県十和田市の十和田湖畔・休屋地区の国有地にある休廃業施設が景観を損ねている問題で、国が、同地区で休憩所などを営業していた会社に対し建物の撤去と土地の明け渡しを求め、青森地裁十和田支部に提訴したことが3日分かった。国による同様の訴訟は4件目。第1回口頭弁論は来年2月25日。
 明け渡しを求められたのは、十和田湖畔で「ひめます商店」「ギャラリーぶなの森」を経営していた「有限会社えびすや」。訴状によると、2019年6月に破産手続き開始の決定を受けていた。
 えびすやの旧店舗は国が管理する十和田八幡平国立公園内にある。
 国は訴状で、えびすやが今年3月末までに土地の使用許可を更新しなかったため、現在は権限もないのに国有地を占有していると主張している。
 環境省十和田八幡平国立公園管理事務所の深谷雪雄所長は取材に、「旧店舗は十和田神社や乙女の像に近い場所にあるため、観光を盛り上げるためにも景観改善に優先的に着手した」と述べた。
 休屋地区を含む十和田八幡平国立公園は、国の「国立公園満喫プロジェクト」のモデル対象。同地区では休廃業施設が廃れた印象を与えかねないとの懸念があり、景観向上に向けた対策実施を掲げていた。

現在、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」が開催されている、十和田湖畔休屋地区。バブルがはじけた頃から空き店舗等が目立つようになり、やがてシャッター街、さらに廃墟となってゴーストタウンに近くなっている区画もあります。それを「経営努力が足りない」と叱責するつもりもありませんが、果たすべき責任はきちんと果たして欲しいものですね。

暗い話題で終わるのも何ですので、もう1件。『福島民報』さんから。

一色采子さん、朗読劇「智恵子抄」アピール 12日に福島県二本松市で 

008  女優の一色采子さんは8日、福島民報社の取材に応じ、12日に福島県二本松市で出演する朗読劇「智恵子抄」に向け「感動を味わっていただきたい」と意気込みを語った。
 高村光太郎と智恵子の夫婦愛を描く作品。「演技もあり、朗読が立体的に伝わると思う。来て良かったと思っていただけるようにしたい」と話した。
 二本松市の安斎文彦にほんまつ観光協会長、国田屋醸造代表の大松佳子さんが同席した。
 一色さんは同日、福島県庁に内堀雅雄知事も訪ねた。
 朗読劇「智恵子抄」は12日午後2時からと午後4時30分からの2回、安達文化ホールで開かれる。松竹の主催、市教委の共催。前売り券は3000円、当日券は3500円(全席指定)。午後2時からの回は完売した。問い合わせは二本松市教委文化課へ。

12月12日(日)に開催される「朗読劇 智恵子抄」二本松公演に関してです。先週行われた銀座公演とは異なり、ネットや電話等でチケットが購入できないとのことで、「販売に苦労しているらしい」と、一色さんがこぼしてらっしゃいましたが、午後2時からの部は完売だそうで、喜ばしく存じます。午後4時からの部も満席となって欲しいものですね。

お近くの方、ぜひどうそ。

【折々のことば・光太郎】

午后小憩、「文化の諸様式」をよむ、「源氏」をよむ、


昭和26年(1951)7月31日の日記より 光太郎69歳

午前中は洗濯にいそしみ、午後は読書。「文化の諸様式」は、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの評論、「源氏」は谷崎潤一郎訳の「源氏物語」で、共に中央公論社から、この年に再刊されました。

70近くになって、こういった書物を愛読していた光太郎。教養人の鑑ですね。

80年前の今日、昭和16年12月8日は、日本時間で真珠湾攻撃がなされた日、すなわち太平洋戦争開戦の日です。80年というきりの良さもあり、今年は例年に較べ、メディア等で大きく扱われているように感じます。

それに触発されているのでしょうか、幼稚なネトウヨは、ツィッター上などで光太郎の翼賛詩を引用し、喜んでいます。まるで大音量で軍歌を流す街宣車のようだと感じます。これも、例年そうなのですが、今年は特に目立ちます。

光太郎の翼賛詩、張作霖爆殺のあった昭和3年(1928)には既に書かれ始めていますが、目立つようになるのはやはり日中戦争開戦後の昭和12年(1937)以後、心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で、紙絵を作っていた頃からです。智恵子はその翌年には結核のため歿します。

芸術家あるあるで、俗世間とは極力交渉を持たず、芸術のためにはさまざまなことを犠牲にし、貧しい生活も厭わないという、「孤高の境地」を気取っていたそのスタイルが、同居する智恵子を追い詰めたという反省、そして最愛の妻・智恵子を喪った空虚感を埋めるためにも、光太郎はそれまでとは一変し、積極的に世の中と関わろうとします。ところが、その世の中は、皮肉なことに十五年戦争の泥沼の中でした。

意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた

「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「山麓の二人」(昭和13年=1938)の終末部分です。「二人をつつむこの天地」=「十五年戦争の泥沼」ですね。

泣くも笑ふもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。

最低にして最高の道」(昭和15年=1940)の、やはり終末部分です。

さらに翌昭和16年(1941)になると、さらに具体的に……。「百合がにほふ」から。

私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。

それでもまだ、「山麓の二人」にあった、「二つに裂け」た心の片方は、かつて健康だった頃の智恵子との思い出の中に生きていました。

亡き智恵子が遺した梅酒を見つけ、一人味わうという内容の「梅酒」(昭和15年=1940)から。

狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。

ところが、やがて「世界はただこれを遠巻」にしなくなります。

きっかけは、80年前の今日の、真珠湾攻撃でした。

  真珠湾の日009

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あえぐ意識は眩めくるめいた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。

戦後に蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の一篇です。

自分自身、これから先に書くであろう詩は「詩ではない」というのです。言い換えれば、「芸術至上的な部分は捨てる」ということにもなりましょうか。または「甘美な情調、情感、そういったものは謳わない」という宣言ともとれます。

実際、詩の中で智恵子が謳われることは、開戦前の8月に刊行された『智恵子抄』のために書き下ろされた「荒涼たる帰宅」を最後に、無くなりました。再び詩の中に智恵子が現れるのは、戦後の「松庵寺」(昭和20年=1945)です。おそらく、最愛の妻の死を謳うことで、それまでの自分と完全に訣別し、「泣くも笑ふもみんなと一緒に/最低にして最高の道をゆかう。」と決心したのでしょう。

戦後になって、このように「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」として書かれた詩については、やはり「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」という詩の中で、「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」としています。

作者自身がのちに「変な方角の詩」とした翼賛詩の数々を、現代において「これぞ大東亜臣民の真髄!」と有り難がり、大音量で軍歌を流す街宣車のようにSNSにアップして悦に入る神経は、とても理解できません。また、何だかよく分かりませんが「詩をすてて詩を書かう。」が大好きな頓珍漢も見うけられます。その姿勢はのちに光太郎自身が「あれは誤りだった」と否定しているのに、です。無論、戦時の極限状態下で「詩をすてて詩を書かう。」と考えてしまったのは、ある意味、仕方がなかったのかも知れませんが。

それにしても、「詩をすてて詩を書」き、多くの前途有為な若者を死地に追いやったということを恥じ、反省し、悔やみ、懺悔し、戦後、岩手の寒村で7年間もの蟄居生活を送った光太郎の心境がまるでわかっていないと言わざるを得ません。

さて、前置きが長くなりましたが(ここまでは前置きだったのです(笑))、今朝の『毎日新聞』さんから。

余録 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである…

 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」。「智恵子抄」の詩人、高村光太郎(たかむら・こうたろう)は対米英戦開戦の日の感慨をこう書いた。日中戦争の泥沼化で鬱屈した空気を吹き飛ばすような強大国への挑戦だった▲もちろんまったく異なる受け止め方をした人々もいる。当時、米映画の配給会社にいた淀川長治(よどがわ・ながはる)は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁(なんばら・しげる)が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿(このえ・ふみまろ)だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右(まつおか・ようすけ)である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという▲緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言……。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。

なるほど。

さらに『東京新聞』さん(系列の『中日新聞』さんも)。作家の澤地久枝さんへのインタビューです。

日米開戦から80年

008 開戦当時、満州(今の中国東北部)の吉林にいました。十一歳、国民学校の五年生です。その日は朝起きてすぐにラジオの臨時放送があって、開戦を知りました。私は精神的に早熟だったと思いますが、どう考えたらいいか分からなかった。実は米国のことも英国のこともよく知らなかったのです。
 戦争はそれから四年続くわけですが、当時の私は本当にばかな軍国少女でした。この戦争に勝つと素直に信じていた。昭和十九(一九四四)年、特攻に行く若者たちの最後の言葉がラジオで放送されました。ドラマだったはずなのに、実際に死んでいった若者の肉声だと信じてしまった。皆が死んでいくなら自分も死ななければならないと思い込むようになりました。
 死ぬためには飛行機に乗るしかない、予科練(海軍飛行予科練習生)に行きたいと思ったんです。予科練の検査を通るために体を軟らかくする体操までしていましたよ。もちろん海軍は女を取らないわけで、同じ思いの友人と「残念だ」といつも話していました。
 やがて兵器などの材料用に金属の回収が始まり、街頭の赤い郵便ポストも消えました。母が「ポストまで持って行くようじゃ、この戦争は負けね」と言ったことがあります。「反戦主義者」か「非国民」か、そんな言葉でなじりましたよ。母は何も言わず黙った。
 私のように、よく考えない、でも熱中する女の子は国家には都合のいい人間だったでしょうね。戦場を知らない、空襲などの攻撃も受けたことのない思春期の少女の夢物語は、敗戦であっさり消えました。
 つくづくばかな子でしたね。本当に恥ずかしい。でも、それがなければ今の私もないんです。ばかなことを言ったり、したりしたことの責任を問う人は誰もいませんが、私はあの時の自分を許せない。間違いから逃げまいと思って生きてきた。それが戦争に関して調べ、書いてきた理由です。
 当時を知らない人たちは、どうして無謀な戦争を始めたのかと思いますよね。私の実感でいうと、国民が戦争を選んだんじゃないんです。ある日突然、降ってきたのよね。高村光太郎や斎藤茂吉のように熱狂した人もいましたが、それは一握り。黙って「そうか」と思っている人たちの方が多かった。
 ただ、軍人の独断専行だけでは歴史が動かなかったことは確かです。彼らを支持して同調する、もっといえば彼らに先立って動くような人たちがいて、こうなった。
 今、私は同じ空気を感じるのです。憲法を守ろうという人は少数派になったといわれ、変えようという人たちが声高になってきている。それに対して、今の国民はどうか。国の運命は偉い人が考えることと思っていないでしょうか。世の中は皆が知らない間に変わってしまうのに。そういう意味では、日本は八十年前と変わっていない。
 今の北朝鮮や中国の動向について不安を感じる人がいるのは分かります。私のように「憲法を守る」「自民党に反対」と言うと孤立することは自覚しています。でも、声高に言う人たちの意見が本当に多数派なのか。
 安倍(晋三元首相)さんの言うことを支持すれば、日本は憲法を変えて戦争できる国になる。戦争って遠くの出来事じゃない。日常的なことなんですよ。食べるものがなくなり、愛している人が殺される。それに耐えられますか? そう尋ねると、皆「嫌だ」と言いますね。
 こういう私の意見が真っすぐ受け止めてもらえたら心配はしませんが、今はそうじゃない。頑張って生きて、言い続けなければと思っています。 (聞き手・大森雅弥)
<さわち・ひさえ> 1930年、東京都生まれ。菊池寛賞の『記録 ミッドウェー海戦』など著書多数。近著は中村哲氏との共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波現代文庫)。

当時を知る人の、貴重な証言ですね。

光太郎同様、戦時中は翼賛作品を書きまくっていた、光太郎より一つ年上の斎藤茂吉の名も挙げられています。そこで、光太郎とセットで論じられることも結構あります。その部分での好著が、昭和54年(1979)、清水弘文堂から刊行された大島徳丸氏著『茂吉・光太郎の戦後――明治人に於ける天皇と国家――』。絶版ですが、古書市場では容易に入手できます。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后大村服飾学校の生徒十名ほど来訪、新小屋にて休憩、一時間位にて辞去。皆井戸水にたかる。食パンバタをもらふ。


昭和26年(1951)7月29日の日記より 光太郎69歳

大村服飾学校」は、盛岡で「オームラ洋裁教室」として健在です。この年1月には、光太郎が花巻町の佐藤隆房邸に滞在していた時に、創始者の大村次信が、やはり生徒を連れて訪問しています。

朗読CDのニューリリースです。

朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」

2021年11月3日 ハピネット・メディアマーケティング 定価2,200円(税込み)

人気・実力派声優による声の演技プロの技による朗読を堪能!日本近現代の名作小説や詩を、人気・実力ともに兼ね備えた豪華声優人たちの朗読で味わうシリーズ第二期スタート!教科書で読んだことがある、長く愛され続ける日本の名作文学を厳選収録。本作の朗読用に書き下ろされたオリジナルあらすじ台本。花を添えるのは、人気・実力を兼ね備える、ベテランから新進気鋭の若手まで、バラエティに富んだ豪華声優陣! 1巻に3作の作品を収録しました。

坊ちゃん/夏目漱石          朗読:白井悠介
耳なし芳一・雪女/小泉八雲 朗読:浅沼晋太郎
詩集「生きる」/中原中也・高村光太郎・萩原朔太郎 朗読:豊永利行
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トラック3「詩集「生きる」」の中に、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(同)が含まれています。他には中原中也で「生い立ちの歌」、「汚れつちまつた悲しみに」、「頑是ない歌」、萩原朔太郎の「帰郷」、室生犀星による「第二の故郷」、山村暮鳥が「自分はいまこそ言はう」、そして宮沢賢治「風がおもてで呼んでゐる」、「雨ニモマケズ」。

朗読なさっているのは、声優の豊永利行さん。さすがにプロの声優さんだけあって、いい感じです。あまり気負わず、意外と淡々と読んでいるようにも聞こえますが、それが却って耳に心地よく感じました。

最近、YouTubeなどで光太郎詩等の朗読が続々アップされていますが、「さぁ皆さん! 私の朗読で心を洗われて下さい!」とでも云わんばかりに、妙な抑揚ををこれでもかこれでもかこれでもかとつけまくるものが多く、辟易しています。また、朗読以前にまずは漢字の読み方を勉強しなさい、と、云いたくなるものも……。もちろん、これはいい、と思えるものもあるのですが……。こういうと何ですが、YouTubeなどは厳しい校閲を経なくても、誰でも手軽にアップロードできてしまうので、玉石混淆(それも「石」の比率が高い状態)ですね。

その点、このCDはそういうこともなく、きちんと作られていて感心しました。

「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 」というシリーズで、今年2月から順次発行されはじめ、今月は3枚が出まして、そのうちの1枚です。バラ売りになっており、助かります。他のCDが不要、というわけではないのですが……。

ちなみにシリーズの他の作品は以下の通りです。

第1巻
 銀河鉄道の夜 (宮沢賢治) 朗読:斉藤壮馬000
 走れメロス (太宰治) 朗読:下野紘
 吾輩は猫である (夏目漱石) 朗読:杉田智和
第2巻
 風立ちぬ (堀辰雄) 朗読:伊東健人
 野菊の墓 (伊藤左千夫) 朗読:松岡禎丞
 舞姫 (森鴎外) 朗読:鈴木達央
第3巻
 山月記 (中島敦) 朗読:八代拓
 御伽草子 (太宰治) 朗読:蒼井翔太
 杜子春・蜘蛛の糸 (芥川龍之介) 朗読:井上和彦
第4巻
 檸檬 (梶井基次郎) 朗読:福山潤
 人間失格 (太宰治) 朗読:緑川光
 桜の森の満開の下 (坂口安吾) 朗読:津田健次郎
第5巻
 蒲団 (田山花袋) 朗読:寺島惇太
 春琴抄 (谷崎潤一郎) 朗読:石川界人
 こころ (夏目漱石) 朗読:古川慎
第6巻
 人間椅子 (江戸川乱歩) 朗読:石田彰
 注文の多い料理店 (宮沢賢治) 朗読:中島ヨシキ
 羅生門 (芥川龍之介) 朗読:森川智之
第7巻
 D坂の殺人事件(江戸川乱歩) 朗読:榎木淳弥
 河童(芥川龍之介) 朗読:武内駿輔
 セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)
  朗読:斉藤壮馬
第8巻
 斜陽(太宰治) 朗読:日野聡
 五重塔(幸田露伴) 朗読:寺島拓篤
 武蔵野(国木田独歩) 朗読:入野自由
第9巻
  痴人の愛(谷崎潤一郎) 朗読:吉野裕行
 墨東綺譚(永井荷風) 朗読:三木眞一郎
 破戒(島崎藤村) 朗読:天﨑滉平
第10巻
 よだかの星(宮沢賢治) 朗読:伊東健人
 天守物語(泉鏡花) 朗読:置鮎龍太郎
 十三夜(樋口一葉) 朗読:佐藤拓也
第11巻
 藪の中(芥川龍之介) 朗読:内山昂輝
 あにいもうと(室生犀星) 朗読:江口拓也
 高瀬舟(森鷗外) 朗読:田丸篤志

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前湯口小学校の二年生等大勢先生に引率されて山に遠足にくる、先生等立ちよる。

昭和26年(1951)5月24日の日記より 光太郎69歳

湯口小学校さん、当時の行政区分としては、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に隣接する湯口村です。現在も同じ校名で存続しています。光太郎の山小屋まで、およそ5㌔㍍。往復10㌔となると、2年生にはちょっときつかったような気もしますが……。

『智恵子抄』発刊80周年を記念して、智恵子の故郷・福島二本松の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんが投票を募っていた「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」。このほど、その結果が発表されました。

地方紙『福島民報』さん。

「智恵子抄」収録作のファン投票1位は「レモン哀歌」 出版80周年企画 福島県二本松市

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念して全国のファンが好きな作品に投票する「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」は8日、福島県二本松市の市民交流センターで開票され、「レモン哀歌」が1位となった。2位は「あどけない話」、3位は「樹下の二人」だった。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年に出版された。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子への愛をつづった。顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」は80周年に当たり、「東日本大震災から10年、新型コロナウイルス禍の今こそ、2人の純愛の意味を問いたい」と総選挙を企画した。福島民報社などの後援。
 「智恵子抄」「智恵子抄その後」に収録された36作品を投票候補として4月から10月まで募集。県内はじめ東北、関東、近畿、中国地方など全国から584票の投票があり、地元の安達高は全校生が参加した。
 最多得票の「レモン哀歌」は「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で」―と、智恵子の最期をうたう。命のはかなさと輝き、深い愛、生きる意味を伝えてくれるなどの言葉が投票者から寄せられた。
 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」で始まる「あどけない話」には、「二本松に嫁いで結婚祝いに『智恵子抄』をいただき、ほんとの空を見上げた日を思い出す」と思い出を記す人もあった。
 「樹下の二人」には「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」と繰り返す言葉の響きが美しい、二本松が誇る景色の中で愛を育んだ2人の姿が浮かぶ、などの声が寄せられた。
 夢くらぶの熊谷健一代表は「どの作品も素晴らしいが、『レモン哀歌』には2人の純愛が象徴的に表れ、皆さんの心に響いたのではないか」と語った。投票結果は近く発刊予定の「『智恵子抄』出版80周年記念文集」に掲載する。投票者の中から抽選で120人に龍星閣刊の「智恵子抄」を贈る。
 上位10作品は次の通り。
(1)レモン哀歌140票(2)あどけない話127票(3)樹下の二人112票(4)人に66票(5)風にのる智恵子18票(6)僕等9票、千鳥と遊ぶ智恵子9票、亡き人に9票(9)深夜の雪8票、あなたはだんだんきれいになる8票
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同じく『福島民友』さん。

「レモン哀歌」1位 詩集「智恵子抄」出版80周年で総選挙

 二本松市出身の洋画家高村智恵子と、彫刻家で詩人の夫光太郎の顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶ(二本松市)は8日、詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念した「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」の開票結果を発表し、1位には「レモン哀歌」が輝いた。
 総選挙では、智恵子抄と「智恵子抄その後」から選んだ36の候補作品で、一番好きな詩1編を投票してもらった。4月2日~10月31日に投票を受け付け、県内を中心に全国から584票が投じられた。県内では安達高の全校生徒も投票した。
 8日には、熊谷健一代表らが同市で開票作業を行った。候補36編のうち30編に投票があり、最愛の智恵子が亡くなる時のことを歌った1位のレモン哀歌が140票を獲得した。2位は「あどけない話」(127票)、3位は「樹下の二人」(112票)だった。また候補外の「もしも智恵子が」にも2票投票があった。
記念文集に結果掲載 投票結果は、夢くらぶが編集する智恵子抄出版80周年記念文集に掲載される。また、両詩集を出版した龍星閣の協力で、投票者のうち抽選で決めた120人に「智恵子抄」が贈られる。
 総選挙は、光太郎が智恵子への思いをつづった智恵子抄を後世に引き継ぎ、2人の人生や生き方を再認識してもらうのが狙い。二本松市、市教委、福島民友新聞社などの後援。
005
「レモン哀歌」(昭和14年=1939)が1位。ちょっと意外でした。福島の団体が主催し、やはり福島の皆さんが多く投票しただろうということで、安達太良山を詠み込んだ「あどけない話」(昭和3年=1928)や、さらに阿武隈川も出てくる「樹下の二人」(大正12年=1923)が本命◎、対抗○だと思っていました。「レモン哀歌」は、『智恵子抄』冒頭の「人に(いやなんです)」(大正元年=1912)とともに、3,4番手▲△と予想していました。

ところが蓋を開けてみると、「レモン哀歌」が13票差で1位。鼻差の勝利、というところでしょうか。昨今のレモンブームも追い風になったかも知れません。

5位以下、まあ、妥当かなという気がしました。ただ、個人的には、智恵子没後の「梅酒」(昭和15年=1940)―死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は―や、『智恵子抄その後』から「案内」(昭和24年=1949)―三畳あれば寝られますね。これが水屋。これが井戸。―などがもっと得票するかと思っていましたが。

ところで、先月初め頃でしたか、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表からお手紙を頂いた際には、「投票数がぜんぜん少なくて……」的なお話でした。しかし、最終的には結構な投票数となっていて、「ほう」と思ったのですが、記事を読むと、地元の安達高校さんのご協力があったそうで、なるほど、考えたな、と感じました。こういう際に学校さんにお願いするというのも一つの手ですね。同様の企画を考えてらっしゃる皆さん、ご参考までに。

さて、記事にあるように「総選挙は、光太郎が智恵子への思いをつづった智恵子抄を後世に引き継ぎ、2人の人生や生き方を再認識してもらうのが狙い。」80周年を機に、そういう方向で進んでいってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

胸痛弱まりたれども、まだ全癒せず。呼吸の度に痛むやうな事はなくなりたれど、異常感覚まだつよし。

昭和26年(1951)5月5日の日記より 光太郎69歳

少し快方に向かったようですが、宿痾の肺結核(おそらく智恵子と同根)は、確実に光太郎の身体を蝕んでいました。

まずは『福井新聞』さんの記事から。

日本の地名を込めた詩集発刊 「後世伝える」福井の詩人・金田久璋さん発起人、142人が作品

005 地名は土地の風土や歴史、文化を色濃く映すとされる。市町村合併やほ場整備によって古来の地名が失われゆく中、津々浦々の地名が入った詩のアンソロジー「日本の地名詩集―地名に織り込まれた風土・文化・歴史」が発刊された。日本地名研究所(川崎市)所長の民俗学者で詩人の金田久璋さん(78)=福井県美浜町=が発起人となり、福井県の13人を含む全国142人の詩人が作品を寄せた。
 山や谷、川、田畑など土地の形状に由来する地名は多く、田の神や山の神を敬う自然崇拝の習俗に関わる地名もある。日本人の名字の8割方は地名にちなむといわれる。
 「地名は歴史や文化、民俗、地理学のインデックス(索引)で、地域風土のアイデンティティー」と金田さん。自由な感性で詩に織り込まれた地名を「“現代の歌枕”の形で後世に伝えたい」と考え、地名詩集を発案。沖縄・奄美から北海道まで地域別に章立てして編集した。
 福井県関係では、妙金島や坂東島など九頭竜川沿いの地名を少年期の思い出と交錯させた黒田不二夫さんの「紫の稜線」、父の転勤などで住まいを転々とした先の地名や最寄りの駅名を連ねて人生の履歴書とした千葉晃弘さんの「住所」、JR北鯖江駅に行き交う人の哀歓をつづった上坂千枝美さんの「夕暮れのタウントレイン」など、地名や駅名を人生模様と重ねた詩が並ぶ。
 朝倉氏一族の盛衰に思いをはせた渡辺本爾さんの「一乗谷に在りし」、漁師町の暮らしや「ぼてさん」の商いを描いた龍野篤朗さんの「四か浦の道」、三株田や千株田、楔(くさび)田など農耕に由来する土地の呼び名を織り交ぜた山田清吉さんの「だんだんたんぼ」からは歴史や地勢、人の営みが目に浮かぶ。
 岩手の五輪峠の風景をつづった宮沢賢治の詩や、戦禍から立ち上がる沖縄の姿を描いた山之口貘の詩をはじめ、高村光太郎や谷川俊太郎、西脇順三郎ら日本を代表する詩人の作品も収録。古里やゆかりの地の地名がふんだんに盛り込まれている。
 金田さんは「詩作において地名は記憶に残るトポス(主題)。集まった詩は実に多彩で、地名の豊穣(じょう)さを示している。地名に親しみ、長く伝えるためにぜひ読んでほしい」と話す。
 金田さんと共に編者を務めた出版社コールサック社代表で詩人の鈴木比佐雄さんは後書きで「地名を入れた詩作は、地名に秘められた先祖や民衆の歴史と文化の深層を呼び起こす」と述べている。
 216ページ。コールサック社刊、1980円。

続いて『毎日新聞』さん福井版。

日本地名研究所所長 金田久璋さん(78) 類似に着目、民俗学で活用 /福井

無題 地域での信仰の代表的な聖地とされるおおい町大島の「ニソの杜(もり)」などを調査、研究してきた民俗学者であり、詩人でもある。特に地名は、民衆の信仰をひもとくかぎとなることが多く、注目し続けてきた。
 そんな中、142人の詩人による地名にまつわる詩の編者を務めた「日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史」(コールサック社)が9月、出版された。「詩の世界は曖昧模糊(あいまいもこ)となりやすいが、具体的な地名が出てくることによって、ひとつの作品としてリアリティーが出てくる。地名に寄せる思いも表れてくる」と話す。
 この詩集には、宮沢賢治、高村光太郎、谷川俊太郎らの作品を盛り込んだほか、北陸の詩人らが九頭竜川、一乗谷(以上福井県)、手取湖、男川、女川(以上石川県)、刀利(とうり)(富山県)など地元の地名を読み込んだ詩も掲載した。
 金田さんは研究で、「田の神」を祭る石川・奥能登の「アエノコト」と福井・越前平野の「アイノコト」は、越前側を先行事例として共通性を見いだした。饗之事神田(あえのことしんでん)という関連の地名が越前町にあったことや、この地名と同じ文字が朝倉氏の文書にも出てくることから、どちらも民俗学者の柳田国男氏が考えたように酒食でもてなす饗応(きょうおう)の行事であることを裏付けた。
 金田さんは9歳で父を亡くし、高校卒業後すぐに家族を支えるため就職した。その中で、周囲が認める民俗学の実績を積んできた。民俗学で重要なのは、伝承者から証言を得たり、資料を入手したりする「採訪(さいほう)」という。「私の場合、郵便局で働き、接客するなど人間関係で苦労してもまれ、まず先にあいさつをすることなど、コミュニケーション能力が身についた。大事なのは、伝承者のお年寄りに、相づちをうつなどして話を引き出すこと。いかにいい恩師や友人らと出会えるかも大切なことで、自分は恵まれた」と振り返る。
 詩など文学の世界と民俗学は関連すると考えている。「詩は、比喩などダブルイメージを大切にする。まったく結びつかないように見えるものを結びつける 。民俗学で論文を書くときは、文学的なことは極力、排除するが、詩を書くことで、一見すると無関係な二つのものに類似や法則を見いだす『類化性能』が養われると思う。普通の人が関心がなかったことに着目し、気付かなかったことに気付くことがとても大事なのです」と民俗学の研究に臨む姿勢を語った。
人物略歴 金田久璋さん. 美浜町生まれ・在住。敦賀高卒業後、郵政職員。民俗学者の谷川健一氏に師事。国立歴史民俗博物館共同研究員、日本国際文化研究センター共同研究員など歴任。著書に「森の神々と民俗」など。2019年5月から日本地名研究所所長。


というわけで、光太郎作品を含むアンソロジー『日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史』。版元のコールサック社さんから刊行されている雑誌『コールサック』に、広告が大きく出ていました。
001

日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史

2021年8月25日 金田久璋・鈴木比佐雄編 コールサック社 定価1,980円(税込)

地名にはその地域の風土・文化・歴史や古代からの重層的な世界を喚起させる重要な役割がある。詩人はこだわりのある場所から「地霊」又は「地の精霊」(ゲニウス・ロキ)を感受してそれを手掛かりに実は魅力的な詩を生み出す。(略)故郷にまつわる地名の様々な記憶や伝承や山里の暮らしなどは、その土地や場所で生きるものたちにとって、地域社会を持続するための真の智恵の宝庫になりうるはずだ。(鈴木比佐雄 解説文より)無題2

目次
第一章 沖縄・奄美の地名  第二章 九州の地名
第三章 中国・四国の地名  第四章 関西の地名
第五章 中部の地名     第六章 関東の地名
第七章 東北・北海道の地名


光太郎詩は、「第七章 東北・北海道の地名」中に、「樹下の二人」(大正12年=1923)が掲載されています。「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで、確かに「地名」が詠み込まれていますね。

上記新聞記事にもあるように、単に詩集としてのみでなく、民俗学的なアプローチもなされているようです。

興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

午后藤島宇内氏来訪、ラジオ機をかついでくる。創元社よりのもの。食品いろいろもらふ。尚出版の事もきく。

昭和26年(1951)5月4日の日記より
 光太郎69歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』などに依った詩人です。翌年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際しては、青森県とのパイプ役の一人となり、さらに光太郎上京後には、中野のアトリエに足繁く通って、身の回りの世話等をしてくれました。

光太郎のこの前後の創元社との関わりは、2点ほど。前年に『現代詩講座』の一部を執筆した他、この年9月には選詩集『高村光太郎詩集』を心平の編集で出版しています。

かつぐほど大きかったらしいラジオ、それらの稿料、印税的な意味合いだったのでしょうか。パシリにされた(笑)藤島に同情します。

本日も新刊紹介です。

孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり

2021年9月30日 谷川渥著 月曜社 定価2,600円+税

覗き見る想像力ーー西洋美術の視覚的イメージに触発された日本近代文学の巨匠たちの作品から、〈見ること〉の諸相を、分析する。夏目漱石、高村光太郎、村山槐多、森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、江戸川乱歩、夢野久作、川端康成、横光利一などの作品から、文学を美学から照射する試み。

目次
まえがき
【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学(1:夏目漱石、2:高村光太郎、3:村山槐多)/森鴎外の『花子』
【Ⅱ】日本近代文学とデカダンス/「表現」をめぐる断章
【Ⅲ】孤独な窃視者の夢想――江戸川乱歩と萩原朔太郎/夢野久作のエロ・グロ・ナンセンス/谷崎潤一郎――女の図像学/映画『狂った一頁』と新感覚派――覚書
あとがき
001
「【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」の中で、光太郎の項が設けられています。この章全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチという存在が日本近代文学にどのような影を落としているかという一点に焦点を絞って外観を試み」るもので、他に夏目漱石村山槐多が取り上げられています。

光太郎の項では、大正3年(1914)刊行の第一詩集『道程』冒頭に置かれた詩「失はれたるモナ・リザ」(明治44年=1911)に着目されています。

  失はれたるモナ・リザ002

モナ・リザは歩み去れり
かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の将軍の夫人が偸見(ぬすみみ)の如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
しづやかに、つつましやかに
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
はれやかに解かれたれ
ながく画堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の涙をたたへて
画布(トワアル)にむかひたる
迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
ああ、画家こそははかなけれ
モナ・リザは歩み去れり006

モナ・リザは歩み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に権謀の力つよき
昼みれば淡緑に
夜みれば真紅(しんく)なる
かのアレキサンドルの青玉(せいぎよく)の如き
モナ・リザは歩み去れり

モリ・リザは歩み去れり003
我が魂を脅し
我が生の燃焼に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは涙をながさず
ただ東洋の真珠の如き
うるみある淡碧(うすあを)の歯をみせて微笑せり
額ぶちを離れたる
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
かつてその不可思議に心をののき
逃亡を企てし我なれど
ああ、あやしきかな
歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
消えなば、いかに悲しからむ
ああ、記念すべき霜月しもつきの末の日よ
モナ・リザは歩み去れり

「モナ・リザ」は、欧米留学からの帰朝後、まだ智恵子と出会う前に、光太郎が通っていた吉原の遊郭・河内楼の娼妓、若太夫です。

『孤独な窃視者の夢想』では、「この「モナ・リザ」は、吉原河内楼の娼妓「若太夫」のことだと一般に指摘されている。」とあります。「一般に指摘」ではなく、光太郎自身がそう書いているのですが……。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

上の方に『新よし原細見』(明治42年=1909)の画像を載せておきましたが、若太夫は本名・真野しま、名古屋の出身でした。「細見」でサバ読みがなされていなければ、光太郎と出会った明治43年(1910)当時、23歳だったことになります。

木村荘太の名が出て来ますが、木村荘太(艸太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。昭和25年(1950)には、自伝的小説『魔の宴』を刊行し、光太郎、若太夫との三角関係にも触れています。

結局、若太夫は光太郎より木村を選びますが、木村とてはなから本気の付き合いではありませんでした。若太夫は吉原大火(明治44年=1911、映画「吉原炎上」で描かれました)の後、年季が明けて郷里に帰り、以後、消息不明。当方、写真がないかと探してはいるのですが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

『孤独な窃視者の夢想』では触れられていませんが、光太郎にはもう一遍、モナ・リザ=若太夫をモチーフにした詩があります。やはり明治44年(1911)に書かれた「地上のモナ・リザ」。

  地上のモナ・リザ008

モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
世の人々のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮ふかき古への画聖もかくは描きたりき
現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
モナ・リザの不可思議は007
仮象に入りて美しく輝き
咫尺に現じて痛ましく貴し
選択の運命はすでにすでに世を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永しへに地を歩むことなかれ

のちに智恵子と出会った後、縁談が持ち上がっていると語った(らしい)智恵子に向けて「チシアンの画いた絵が/鶴巻町へ買物に出るのです」(「人に」)と書いたのを彷彿させられます。ちなみにこの一節、大正元年(1912)雑誌初出時(題名も「N――女史に」でした)では「チシアンの画いた画が/鶴巻町へ買喰ひに出るのです」でした。

ところで、若太夫。光太郎は「モナ・リザ」以外にも、古典の名作になぞらえていました。昭和25年(1950)に書かれたアンケート回答「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」

ゴヤのマハ
この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をもすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。


ゴヤの「マハ」にはいろいろなバージョンがあり、具体的にどれを指しているのか不明ですが……。「モナ・リザ」にも「マハ」にも似ていたという若太夫。先ほども書きましたが、ぜひ写真を見てみたいものです。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

水沢より女性二人来る、成人の日の礼といふ、樋口氏より抹茶十匁、羊かん一折、成人の有志より日本酒一升(天瓢)もらふ、写真などとり、辞去。


昭和26年(1951)4月1日の日記より 光太郎69歳

「成人の日」については、この10月6日(水)10月9日(土)のこのコーナーをご参照下さい。

天瓢」は、岩手銘醸さんで現在も造り続けられている地酒です。光太郎、市販の日本酒を貰うと、ほぼほぼ必ずといっていいくらい、その銘柄を記録しています。なぜなのでしょうか?

まずは『毎日新聞』さん福島版の記事から。

県内入賞作品 福島・山形・秋田3県、入賞作など800点 20日開幕 /福島

 第72回毎日書道展東北山形展(毎日新聞社・毎日書道会主催)が20~24日、山形市大手町の山形美術館で開かれる。全国巡回の上位入賞作や福島、山形、秋田3県からの入賞、入選作など約800点が展示される。入場料は一般600円、大学生400円、高校生以下は無料。
 県内からは、公募と会友を対象とした最高賞の毎日賞に2点が選ばれたほか、秀作賞に7点、佳作賞に14点、U23奨励賞に1点が選ばれた。県内在住の同展参与会員と審査会員に、これらの作品を講評してもらった。

<秀作賞>近代詩文書 深倉光雪(福島市) 一見して、元気が飛び込んできた。自由闊達な筆さばきや構成、強さ、大きさ、広がりが印象的だ。テーマである「無窮(むきゅう)の生命をたたえろ 私は山だ、私は空だ」という高村光太郎の詩への共感、感動が伝わってくる。ご自分でも創作意欲を遺憾なく表現できたであろうと思われる。すばらしくスケールの大きい、余裕ある作品だ。
004
他にも、光太郎詩文の一節を書かれて入選された方がいらっしゃるのかもしれませんが……。

009書かれているのは、光太郎詩「山」(大正2年=1913)の一節です。この年の夏、光太郎智恵子は信州上高地で一夏を過ごし、二人の間で結婚の約束が交わされました。

    
 
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向かつた
 
山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ

 又あの狂つた種牛だ
 又あの流れる水だ
 私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
 其処に満ちた
 みちはじけた
 山はからだをのして波うち
 際限のない虚空の中へはるかに
 又ほがらかに
 ひびき渡つた
 秋の日光は一ぱいにかがやき
 私は耳に天空のカの勝鬨をきいた
 山にあふれた血と肉のよろこび!
 底にほほゑむ自然の慈愛!
 私はすべてを抱いた
 涙がながれた

婚約を果たした光太郎の高揚感が伝わってきますね。画像は大正末から昭和初めの頃の絵葉書です。

さて、書道展自体の情報を。

第72回毎日書道展東北山形展010

期 日 : 2021年10月20日(水)~10月24日(日)
会 場 : 山形美術館 山形県山形市大手町1-63
時 間 : 午前10時~午後5時/最終日は午後4時閉会
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般600円、大学生400円、高校生以下は無料

全国の書家の皆さん、「光太郎詩文を書いて××展に入選し、展覧会が開かれるよ」的な情報があれば、コメント欄等から御教示下さい。

【折々のことば・光太郎】

コタツにてあたたまり居り、 午后下の湯の方にいつてみる、階段多く息切れす。

昭和26年(1951)1月31日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉での記述です。「下の湯」は、名物の露天風呂「大沢の湯」。光太郎が泊まっていた山水閣からは距離も結構あり、最後に長めの階段があって、たしかに結核性の肋間神経痛に悩んでいた光太郎には、大変だったかも知れません。
011

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