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クラシック系の演奏会情報です。横浜、広島それぞれで、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っています。

藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ(昼公演)

期 日 : 2023年2月16日(木)
会 場 : 横浜みなとみらいホール 小ホール 神奈川県横浜市西区みなとみらい2-3-6
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 単独券 3,500円 夜公演との通し券 6,000円

昼と夜でメンバーチェンジ! 歌手藤木大地のもとに豪華なソリストが集い妙技を競う白熱のコンサート

男性がファルセット(裏声)によって女性の声域を歌う。それが、カウンターテナーです。世界を代表するカウンターテナー藤木大地と名手ぞろいのピアノ五重奏による室内楽コンサート。ソリストたちの輝く音色が藤木の柔らかな声と響き合う極上の1時間をお届けします。昼と夜のコンサートでは曲目も出演者も入れ替わります。ぜひ、2公演通してお楽しみください。

横浜みなとみらいホールという音響の優れた室内空間を活かし、濃密なソロリサイタルのような瞬間も、合奏の響きとともに透き通るようなうたが染み渡る瞬間も楽しめる魅力的な編成です。

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op. 44より 第3楽章
 シューベルト:魔王 D 328
 マーラー:私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ:ヴォカリーズ Op. 34 No. 14
 J. S. バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
 ヴュータン:アメリカの思い出《ヤンキー・ドゥードゥル》Op.17
 加藤昌則:レモン哀歌
 木下牧子:鴎
 モリコーネ:ネッラ・ファンタジア
 平井夏美:瑠璃色の地球
 村松崇継:いのちの歌
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昼夜2公演だそうですが、夜公演は編成も曲目も異なり、「レモン哀歌」は曲目に入っていません。

昼の部と同じ編成、ほぼ同じ曲目で、広島県三原市での公演も。

藤木大地&みなとみらいクインテット 「藤木大地&みなとみらいクインテット」ネットワーク・プロジェクト

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 三原市芸術文化センター ポポロ 広島県三原市宮浦2丁目1-1
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 一般 3,800円(ポポロクラブ会員3,300円)  ペア(2枚)7,000円
      25歳以下 1,000円

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン/ピアノ五重奏曲 第3楽章
 シューベルト/魔王
 マーラー/私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ/ヴォカリーズ
 バッハ/主よ人の望みの喜びよ
 ブラームス/聖なる子守唄
 木下牧子/鴎
 モリコーネ/ネッラ・ファンタジア
 平井夏美/瑠璃色の地球
 村松崇継/いのちの歌
 神ともにいまして(讃美歌)
 加藤昌則/レモン哀歌  他
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ちなみに5/3新潟県新潟市、5/21奈良県大和高田市、8/6神奈川県横須賀市での公演も予定されているとのこと。「レモン哀歌」がプログラムにはいるかどうか、不明ですが。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「子供連へ」みんな達者で勉強してゐるだらうね。日本国は此から万歳で、進歩する許りだ。みんなも盛んにやる可し。御父さんや御母さんに世話を焼かせてはいけない。 僕も勉強して今にみんなを驚かせるよ。待つておいで。

明治39年(1906)4月13日 高村光雲様一同宛書簡より 光太郎24歳

欧米留学最初の目的地、ニューヨークからの書簡。「光雲様一同」となっていますが、弟妹に宛てた内容です。この後、世界最先端の芸術に触れる中で、日本の芸術的後進性を嫌と云うほど思い知らされ、日本人であることを恥じ入るようになりますが、未だその境地には至っておらず、「日本国は此から万歳で、進歩する許り」などと書いています。

プロ野球のキャンプが始まり、「球春」到来といった感があります。一昨日の『日刊スポーツ』さんから。

【ソフトバンク】王貞治会長「今年は3倍返し」リベンジへ誰よりも燃える男、待ちに待った2・1

000 球春を告げる2・1キャンプイン。グラウンドに響く打球音に心が高鳴って来る。3年ぶりのV奪回を目指すソフトバンクで、最も「この日」を心待ちにしていたのは、王球団会長ではなかったか。ジャージー姿に球団帽をかぶり、手にはバットを持ってアイビースタジアムのグラウンドに元気な姿を見せた。
 宮崎入りした前日(1月31日)の全体ミーティングでは約15分間の訓示。「10日間で野球がやれる状態になること」と訴え、実戦的なメニューとなる第3クールからは「勝負ということを常に意識して取り組んで欲しい」と言った。この投手に勝つには、この打者を抑えるには…。「練習」ではなく、とにかく徹底して「勝負」を意識しろ、と繰り返した。
 あの悔しさは、王会長の野球人生でも初体験だった。昨年は優勝マジックを「1」としながら、最終戦で敗戦。同率で並んだオリックスにペナントを奪われた。現役時代はV9も達成した王会長だが、予想もしなかった幕切れに悔しさを拭いさることはできなかった。
 言葉は熱を帯びた。「勝負というのは表か裏なんだよ。勝負、勝負、勝負に勝つ! そのことだけを考えてほしいんだよ」。藤本監督以下、A組、B組の全選手、コーチ、スタッフも息をのんで王会長の訓示に聞き入った。昨秋のキャンプ。やはり前日ミーティングで王会長は熱く語った。約25分ものスピーチ。だが、翌日に新型コロナに罹患(りかん)し、リスタートへ向けたキャンプを見守ることはできなかった。
 有終の秋へ向け、長いシーズンが始まる。キャンプはその序章だが、戦う前から戦いは始まっている―。そう王会長はチームに言いたかったはずだ。詩人・高村光太郎の「道程(どうてい)」の一節も持ち出し「誰かが言ったけど『自分の前に道はない。自分の歩いた後に道はできる』とね。誰でもない自分の道。自分で開拓して切り開かないと」。最後は「今年は(3年ぶりVで)3倍返ししような!」と締めくくった。

確かにソフトバンクさんにしてみれば、昨シーズンのパ・リーグタイトルはオリックスさんにかっさらわれたという感覚でしょうね。東北楽天ファンの当方としては、CS出場権を西武さんにかっさらわれたことの方がショックでしたが(笑)。4月、5月はウハウハだったのに、です。
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それにしても王会長、「誰か」ではなく「高村光太郎」ですのでよろしく(笑)。

さて、今年のペナントはどうなることやら、ですね。

【折々のことば・光太郎】

此度は数ならぬ小生の渡航につき御餞別を贈られ候御芳志の段ありがたくあつく御礼申上候


明治39年(1906)2月2日 平櫛田中宛書簡より 光太郎24歳

この書簡の書かれた翌日(117年前の昨日ですね)、光太郎は横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船・アゼニアン号に乗って太平洋を渡ります。3年半にわたる海外留学の始まりでした。

御餞別」は禅宗の教義書『無門関』。光太郎生涯の愛読書となりました。

手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか

期 日 : 2023年2月14日(火)
会 場 : なはんプラザ COMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(先着200名限定)

高村光太郎が花巻に来て、78年。光太郎生誕140年。そして、「道の駅はなまき西南」が愛称「賢治と光太郎の郷」としてオープンしたこと等をきっかけに、改めて、果たしてなぜ光太郎は花巻に来たのか? 大きな理由は宮沢賢治の育った土地であるから? そのことだけなのか?一体どのような誘引力が働いたのか? おおまかな話は知っているつもりだが、真相は? もう少し掘り下げたイキサツを探ってみたいという地域の皆さん方の素朴な疑問を解明するべく、対談を企画したところです。

講 師 : 宮沢和樹氏 株式会社林風舎代表取締役 宮沢家当主
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
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宮沢家と光太郎のつながりを軸に、賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏と当方で対談を行います。

昨年、事前打ち合わせを行いまして、その後主催の太田地区振興会さんから「こんな項目で」と提示されているのが以下のような感じです。

・賢治と光太郎、そもそもの接点 ・お互いのお互いへの評 ・光太郎の北方志向
・光太郎の「三陸廻り」 ・宮沢政次郎/宮沢清六から見た光太郎
・佐藤隆房/草野心平/黄瀛の役割 ・大正15年、賢治と光太郎最初で最後の会見


細かくシナリオを決めているわけではないので、これらからさらに話があちこちに飛ぶこともあろうかと思われますが、こんな流れです。

現地は雪深い時期、さらに平日ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫塑室と其中に候ひし小生の書斎昨暁全焼いたし、書類は固より筆一本紙一枚も残らず焼け失せ申し候。……父上のも小生のも製作品皆灰燼、未だ初雪も無之内から、ちと大きなる焚火にて候ひき、その夜の凄さ、之も材料に候、

明治35年(1902)12月22日『明星』掲載の書簡より 光太郎20歳

光太郎がまだ実家に居た頃、祖父の隠居所を改装してアトリエとして使っていましたが、木彫制作で出たおが屑や木っ端に、不始末だったストーブの火が燃え移って火事になってしまいました。

この季節、皆様も火の要心を。

昨日は都内に出ておりました。

まずは「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」を拝見。『智恵子抄』初版版元の龍星閣主・澤田伊四郎と竹久夢二にスポットを当てた展示で、『智恵子抄』関連の展示はないだろうと思いこんでおりましたところ、「いや、あるよ」という情報をご提供いただきまして、伺った次第です。

会場の日比谷図書文化館さん。
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連翹忌の集いの会場としてお借りしている日比谷松本楼さんと同じく、日比谷公園内にあり、松本楼さんを横目に見ながら参りました。ちなみに今年4月2日(日)には、4年ぶりに連翹忌の集いを開催する予定で、会場は押さえてあります。詳細はまた後ほど。
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会場内、撮影可でした。

メインは龍星閣さんから千代田区さんへ寄贈された夢二作品でしたが、その前段的に、出版人としての澤田の紹介がなされ、『智恵子抄』を世に出したことにも触れられていました。
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『智恵子抄』の各種の版とともに、光太郎から澤田宛書簡も。
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平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈された中に含まれるものでした。

図録も販売されており、このあたりも記述があります。1,500円也です。
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その後、メインの夢二関連。
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大正期に人気を博した夢二ですが、昭和に入って、戦中・戦後すぐまでは一旦、忘れられかけていたとのこと。その夢二を再発掘したのが澤田だそうで、「夢二をやる。ブームにしてみせる。見ているがいい」と、語り、画集の出版などでそれを実現させました。

それにしても、出品点数が実に多く、入場無料なのでもっと小規模な展示かと思っていたのですが、あにはからんや、でした。

ぜひ足をお運び下さい。

さて、その足で東京メトロを乗り継ぎ、高円寺へ。昨日の上京はこちらがメインで、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ大家さんの子息で、光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の通夜参列のためでした。
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会場は、高円寺駅近くの公益社高円寺会館さん。
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氏のお父さまにして、アトリエを建てた中西利雄画伯の作品。画伯が早世したため、空いたアトリエが貸し出され、光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために借りることとなったというわけです。

劇作家で女優の渡辺えりさん。昨年逝去されたお父さまが、戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流がおありで、その関係で平成23年(2011)には光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」を書かれ、その年と翌年に上演なさいました。その前に共演者の方々やスタッフの皆さんなどと、中西家アトリエを訪問され、利一郎氏にさまざまなお話をお聞きになったり、光太郎遺品の数々等をご覧になったりなさったそうです。
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上記は「月にぬれた手」パンフレットから。そういえば、その時の光太郎役だった金内喜久夫氏も既に鬼籍に入られています。
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そんなわけでしたので、えりさんに中西氏逝去をお伝えしたところ、前日まで京都南座で舞台「喜劇 老後の資金がありません」にご出演、さらに千秋楽後、山形の施設に入られているお母さま(お母さまもお父さま共々、昭和25年=1950に山形で開催された光太郎の講演をお聴きになったそうです)のお見舞いに等で郷里の山形に行かれるとのことで「私の名前で供花を出してくれ」との依頼。そこで早めに会館さんに行き、そのように手配させていただきました。

その後、メールのやりとりの中で、えりさん曰く「色々もっとお話聞きたかった」「みんな亡くなってしまいます」……。そのとおりだなあ、と思いました。

個人的なことですが、当方も今月初めに母を亡くしましたし……。

というわけで、皆様、長生きなさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

またまた老大家諸先生の御勉励には実に小生ら感憤いたさんずれば無之候。評判の象評判の如くにて候 小生らは偏に感心仕候


明治33年(1900)9月25日 加藤景雲宛書簡より 光太郎18歳

加藤景雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。後にこうした先輩やアカデミズム系の彫刻家の作品をけちょんけちょんにディするようになる光太郎ですが、この頃はまだ筆鋒おだやかです。

「象」は「像」の誤りでしょう。あるいはこの頃は「像」という表記がまだ確立していなかったのかも知れません。

この書簡、現在、売りに出ています。値段は88万円也です。
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宮沢賢治研究家としても有名であらせられた、詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事から。

詩人の天沢退二郎さん死去 宮沢賢治研究、バタイユ翻訳

  フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日午後7時35分、千葉市稲毛区の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻でイラストレーターのマリ林(まりりん)さん。
 幼い頃から宮沢賢治の作品に親しみ、「校本宮沢賢治全集」の編著に関わった。宮沢賢治学会の代表理事も務め、少年少女のための小説「オレンジ党」シリーズなども執筆した。
 詩集で藤村記念歴程賞、高見順賞などを受賞。ジョルジュ・バタイユやアンリ・ボスコの翻訳も手がけた。

天沢氏、賢治と光太郎についても言及していらっしゃいました。

昭和44年(1969)筑摩書房発行の『現代日本文学大系』第27巻の月報に「光太郎対賢治」と題し、大正15年(1926)の光太郎賢治の最初にして最後の出会いについて等。こちらはのち「《出会い》のななめ背後に」と解題・加筆されて、昭和53年(1978)、思潮社発行の『現代詩読本 高村光太郎』に収められました。
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また、平成8年(1996)にはやはり筑摩書房から出た増補決定版『高村光太郎全集』第19巻の月報に「《光賢太治郎》論のこころみ」と題する一文も寄せられました。題名は光太郎と賢治の名前をアナグラムにしたもので、二人の詩に共通して通底する位相について述べられています。
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『東京新聞』さんには氏の追悼記事も出ました。

【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」

000 フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。
 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、本紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。
 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほしい」
 以来、大半が生前未発表で書き直しも多く、本文が定まらない賢治の作品を「決定稿」にすべく、仏文学者の先輩である入沢康夫さん(故人)らと上野発夜行列車で花巻間を何往復もして、生原稿を分析し、校本全集を完成。その後も改訂を続けた。
 賢治に労力を注ぐ理由を尋ねると、天沢さんは事もなげに答えた。「いずれ宇宙人も賢治を読むようになると思うから、宇宙人にも感動してもらえるように」。自らも独特の作品で人々を魅了してきた詩人の言葉だと受け止めた。今は少年のような笑顔で、銀河鉄道に乗って天駆けていると思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山中にて狼の糞はじめて見申候。


明治34年(1901)8月末 高村光雲宛書簡より 光太郎19歳

信州の戸隠より留守宅の父・光雲に宛てた長い書簡から。この旅では一人、野尻、上越の赤倉、また信州に戻って松本、木曽方面まで足を伸ばしました。

ニホンオオカミは明治38年(1905)、奈良の吉野で捕獲されたものを最後に絶滅したとされていますが、信州や武州秩父山塊などには未だに生息しているのではないかともいわれています。ロマンがありますね。

昭和44年(1969)開始の国民的アニメ「サザエさん」。次回放映で光太郎が取り上げられます。

サザエさん【カツオの行く道/サイフに優しいお楽しみ ほか】

地上波フジテレビ 2023年1月29日(日) 18:30~19:00
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【マスオさんにおまかせ】
マスオが突然、洗濯の手伝いをすると言い出す。「色柄物は別に洗う」「ポケットの中は確認する」「干す時にはシワをしっかり伸ばす」等、サザエから洗濯の注意点を教わる。家族は、急に家事にやる気を出すマスオに驚く。どうやら共働きの同僚に「夫婦で家事をやるのは当然のことだ」と言われ、影響されたらしい。

【サイフに優しいお楽しみ】
サザエは近所の主婦から「お金のかからない趣味は、家計に優しくて楽しい」と勧められ、手始めに野草摘みに挑戦する。空地の茂みで食用に出来る野草を探していると、たまたま野球をやっていたカツオたちに大型犬に間違えられてしまう。野草摘みをカツオから迷惑がられたサザエは、別のお金のかからない趣味を見つけると言う。

【カツオの行く道】
カツオは、高村光太郎の詩『道程』の中の一節「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」を聞き「道路工事のおじさんの詩だと思った」と言い出す。波平から「この詩中の道は、道路ではなく人生の道だ」とあきれられる。ワカメはカツオの勘違いがおかしく、笑いが止まらない。「絶対人に言うなよ」とカツオに念を押される。
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出演者
サザエ:加藤みどり カツオ:冨永みーな ワカメ:津村まこと タラオ:貴家堂子 
フネ:寺内よりえ マスオ:田中秀幸 波平:茶風林 ほか

【原作】 長谷川町子
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ちなみに、オープニングテーマソングのバックは、昭和49年(1974)から続く「サザエさんの旅」ですが、現在は北海道(冬編)です。

冒頭が、札幌大通公園。
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光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家の一人・本郷新の彫刻「泉の像」(昭和34年=1959)が。

もしかして以前に「青森編」があって、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」とかも取り上げられたのかな、と思って調べてみました。すると、平成10年(1998)に「青森・岩手・宮城」だったそうですが、細かな内容は確認できませんでした。実現していないということであれば、ぜひサザエさんに像の前で左手を掲げる像のポーズを取っていただきたいものです(笑)。

閑話休題、ぜひ「カツオの行く道」、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

くもり晴、冷 春子さん、あけみさんくる 澤田伊四郎氏くる 44800 豊周夫妻さん子さんくる 北川太一さんくる


昭和31年(1956)3月27日の日記より 光太郎74歳

その死の6日前です。この日も危篤の報を受けて多くの見舞客。「くる」と名が挙げられていませんが、当会の祖・草野心平も。その心平の日記から。

中西夫人結婚式に行かれ、あとをあづかる。北川太一君きたる。一緒に高村さんに会ふ。三日ぶり也。(略)高村豊周夫妻、令嬢きたる。「苦しいですか」「息苦しいね、息がとまりさうになることがある。八分程とまれば楽になるね。永久に」などといふ。まぶたが少しむくんでゐる。(略)関先生大気先生岡本先生来診。レントゲン写真を見せらる。健康な肺で呼吸してゐる部分なしとの由。

過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。

まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。

犬吠埼・老舗旅館 あす終了 明治7年創業 伊藤博文、島崎藤村も滞在

 創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
 同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
 同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
 コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。


続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。

ぎょうけい館 伊藤博文らも宿泊 149年の歴史に幕 銚子・犬吠埼、観光客減り

 銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
 北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
 同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
 旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
 市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
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3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。

光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。

光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。

以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。

光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
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宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。

ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
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写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。

智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。

暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。

ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。

さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、

昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳

「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。

昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。

千葉県佐倉市の志津図書館さん。毎月、佐倉市近隣エリアへの「マイクロツーリズム」と題し、館内の一角で近隣地域の歴史的スポット等をパネルや映像、関連図書等で紹介なさっています。

昨年10月が富里市七栄の「国登録有形文化財 旧岩崎邸末廣別邸」、11月で佐倉市下志津原と四街道市内に残る「旧軍施設の遺構」、12月には総武本線の駅でありながら秘境感漂う「JR南酒々井駅」を起点に、地酒・甲子正宗の醸造元である「飯沼本家」がそれぞれ紹介されました。

そして今月は「日本一短い鉄道 芝山鉄道「芝山千代田駅」を起点に、成田市三里塚記念公園」。

明治の初めから三里塚の地にあって、〝桜と馬の牧場〟として長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁「下総御料牧場」は、成田空港の建設に伴い昭和44年に栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
園内には、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、旧御料牧場事務所を模して建設した「三里塚御料牧場記念館」があり、御料牧場の歴史、皇室と御料牧場の関わりについての資料、御料牧場の畜産機材などが保存・展示されています。
また、各国の大公使を招待する園遊会場、皇族の宿舎として使用された「三里塚貴賓館」、大平洋戦争開戦時に、皇族〈東宮:現在の上皇〉の使用を想定して建設された「防空壕(御文庫)」があります。
広い敷地にはマロニエの並木道が続き、三里塚ゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。
000
三里塚記念公園は、宮内庁の旧御料牧場があった場所に整備されています。そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。昭和52年(1977)には公園内に光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。

また、昨年には公園近くの三里塚コミュニティーセンターさんで、「春駒」の一節を冠した「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』」展も開催されました。

御料牧場だけあって、貴賓館や、戦時中にはやんごとなき方々のための防空壕も建設。そのあたりについても紹介されているとのこと。

こちらの展示、さらには三里塚公園さん自体も、ぜひ足をお運び下さい。

それにしても志津図書館さん、こうした地域の歴史をを掘り起こすミニ展示を毎月なさっているその姿勢には頭が下がります。全国の類似施設の方々、ご参考になさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后自由国民社の人くる、花巻温泉のこと談話筆記七枚位、


昭和31年(1956)2月15日の日記より 光太郎74歳

花巻温泉のこと」は、「ここで浮かれ台で泊る/花巻」の題で、4月発行の『旅行の手帖』第26号に掲載され、9月には『ポケット四季の温泉旅行』に転載されました。

「花巻温泉」といいつつ、花巻温泉さんだけでなく、鉛温泉さん、大沢温泉さん、台温泉さんなどにも触れ、かつて花巻郊外旧太田村に蟄居していた際にたびたび訪れた各温泉の魅力や思い出を、楽しげに語っています。

この手の談話筆記、光太郎生涯最後のものとなりました。

新刊です。

名著入門 日本近代文学50選

2022年12月30日 平田オリザ著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価850円+税

何を読むか、どう読むか――。日本近代文学の名作にこそ現代人の原型あり。50人の名著を魅力的に読み解く第一級の指南書!
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日本近代文学は、まだ百数十年の歴史しかない。本書を通じて、そこに関わった者たちの懊悩、青臭い苦悩を感じ取っていただければ幸いだ。(「はじめに」より)
001
目次
 はじめに
 【第一章】 日本近代文学の黎明  
  『たけくらべ』樋口一葉002
  『舞姫』森鷗外
  『金色夜叉』尾崎紅葉
  『内部性名論』北村透谷
  『浮雲』二葉亭四迷
  『小説神髄』坪内逍遥
 【第二章】 「文学」の誕生  
  『武蔵野』国木田独歩
  『病牀六尺』正岡子規
  『三酔人経綸問答』中江兆民
  『破戒』島崎藤村
  『坊っちゃん』夏目漱石
  『みだれ髪』与謝野晶子
 【第三章】 先駆者たち、それぞれの苦悩  
  『一握の砂』石川啄木
  『蒲団』田山花袋
  『若山牧水歌集』若山牧水
  『兆民先生』『兆民先生行状記』幸徳秋水
  『高野聖』泉鏡花
  『邪宗門』北原白秋
 【第四章】 大正文学の爛熟  
  『河童』芥川龍之介
  『城の崎にて』志賀直哉
  『雪国』川端康成
  『細雪』谷崎潤一郎
  『小さき者へ』有島武郎
  『月に吠える』萩原朔太郎
  『紙風船』岸田國士  
 【第五章】 戦争と向き合う文学者たち  
  『蟹工船』小林多喜二
  『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
  『風立ちぬ』堀辰雄
  『智恵子抄』高村光太郎
  『怪人二十面相』江戸川乱歩
  『山椒魚』井伏鱒二003
  『浮雲』林芙美子
  『麦と兵隊』火野葦平
  『濹東綺譚』永井荷風
  『山月記』中島敦
  『落下傘』金子光晴 
 【第六章】 花開く戦後文学  
  『津軽』太宰治
  『堕落論』坂口安吾
  『夫婦善哉』織田作之助
  『俘虜記』大岡昇平
  『火宅の人』檀一雄
  『悲の器』高橋和巳
  『砂の女』安部公房
  『金閣寺』三島由紀夫  
 【第七章】 文学は続く  
  『裸の王様』開高健
  『楡家の人びと』北杜夫
  『坂の上の雲』司馬遼太郎
  『父と暮らせば』井上ひさし
  『苦海浄土』石牟礼道子
  『ジョバンニの父への旅』別役実
 おわりに
 作家索引/略歴

光太郎も登場人物の一人として名を連ねる演劇、「日本文学盛衰史」の脚本を書かれた平田オリザ氏の新著です。

元々は『朝日新聞』さんの読書面に「古典百名山」の題で連載されていたものに加筆なさったそうで。なるほど、「『智恵子抄』高村光太郎」の章、一昨年の『朝日新聞』さん掲載時より、引用部分等長くなっています。

『朝日新聞』さんに、紹介の記事も出ました。

選び抜いた古典、いまを照らす 平田オリザさん「名著入門 日本近代文学50選」

000 劇作家の平田オリザさんが、本紙読書面のコラム「古典百名山」を元にした『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)を出版した。明治の樋口一葉や夏目漱石から戦後の別役実まで、小説に留(とど)まらず詩歌や戯曲まで。50人を一人1作ずつ平易な語り口で紹介すると同時に、通読すると近代文学史の流れもつかめる指南書に仕立てた。
 文学に造詣が深く、「日本文学盛衰史」(高橋源一郎さん原作)などの演出もある平田さんは、2019~22年にかけて「古典百名山」を連載。本書では大幅に加筆し、取り上げる作家も増やした。
(略)
 平田さんは「制度は変わって国家は新しくなったけれど、社会は旧態依然として差別や貧困が渦巻いていて自由も制約されている。こうした中で生まれた近代文学は、現代でも共通する様々な悩みがちりばめられた私たちの原典ともいえる」と話す。
 豊富な引用と、「非専門家の特権として」(平田さん)の、思い切った表現も魅力的。たとえば「漱石たちが発明した文体で私たち日本人は、一つの言葉で政治を語り、裁判を行い大学の授業を受け、喧嘩をしラブレターを書くことができるようになった」といった具合だ。
 平田さんは、情報化が進んだいまこそ、古典を読むことが重要だと考えている。
 「検索すれば多くが分かる社会にあって、事柄同士をつないでストーリーを作る『コネクティング・ザ・ドッツ』の能力が、入試やビジネスでも重要になっている。その能力は、野球の素振りと同じで、古典などの名作にどのくらい触れたかにかかってくると思う」
 劇団、教育機関、行政と様々な役職に就いてきた経験に裏打ちされた言葉だ。


タイトル通り、「入門」としては的確な書と思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中西夫人余を見て顔のむくみに気づく、


昭和31年2月14日(火)の日記より 光太郎74歳

「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さん。光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとひと月半。そろそろ死相が現れ始めたのかも知れません……。

成人年齢が18歳へと引き下げられたのに伴い、「成人式」という呼称が使われなくなりつつあるようですね。

地方紙『岩手日日』さんから。

感謝と決意胸に 花巻市 20歳のつどい 新たな門出晴れやか

  花巻市の2022年度20歳(はたち)のつどい(市主催)は7日、同市若葉町の市文化会館で開かれた。成人年齢の引き下げを受け、成人式から名称を変更して行われ、スーツや色鮮やかな振り袖に身を包んだ今年度20歳になる市民が、記念撮影をするなどして新たな門出を祝った。
 対象者950人のうち686人(男性360人、女性326人)が出席。式典の部では国歌斉唱と対象者代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が式辞、藤原伸市議会議長が祝辞を述べた。
 上田市長は式辞で高村光太郎の代表作「道程」の一節「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」を贈り、「一歩一歩進むことで道ができる。新たな未来を切り開く出発点に立つ今、目指す自分を思い描き、信念と決意を持って苦難に負けず、自分の道を進んでほしい」と前途を期待した。
 対象者を代表して2人が決意を述べ、記念事業実行委員会の金野渉真委員長(矢沢中出身)は「今の目標は花巻のために自分自身がプレーヤーとして活躍し、未来を創造すること。目標をかなえるために来年度から岩手の大学に編入し、より実践に近い形で花巻と向き合いたい。そして支えてくれた家族や友人、恩師、花巻に恩返しをしていきたい」と誓った。藤原千咲副委員長(西南中出身)は「実行委員会の活動を通して楽しませる喜び、達成感を知ることができた。この経験から誰かを楽しませたいという人生の目標が見えてきた気がする。一歩踏み出し挑戦すればきっかけをつかめる」と力を込めた。
 式終了後は「咲かせよう~最幸(さいこう)の未来の花巻を~」をテーマに記念行事が行われたほか、出身中学校ごとに記念写真を撮影した。
000
おそらく全国でおこなわれた同様の催しに於いて、首長さんなり来賓の方なりのご挨拶等で、「道程」などの光太郎詩の引用が他にもあったのではないかと思われますが、やはり光太郎第二の故郷ともいうべき花巻で、というところに大きな意味があると思います。

上田市長、平成31年(2019)の成人式でもやはり「道程」を引用されてご挨拶なさいましたが、お父さまが光太郎と交流がおありだった方のそれは、ずしりと来るような気がしますね。また、参加された20歳の方々の曾祖父母、祖父母のみなさんの中には、やはり光太郎と交流があったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

何にせよ、これからの花巻を背負って立つ皆さんの門出ですし、全国に目を向ければ、この国の将来を託す皆さんの門出でもあります。

幸多からんことを!

【折々のことば・光太郎】

后「地上」の人くる、丸山義二氏筆記、談話一時間、


昭和31年(1956)1月16日の日記より 光太郎74歳

地上」は雑誌名、「丸山義二」は兵庫県生まれの農民作家です。3月発行の『地上』第10巻第3号に「春を告げるバツケ」の題で、この日の二人の対談が掲載されました。「バツケ」は「バッケ」、岩手の方言でフキノトウのことです。その題の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)までの、花巻郊外旧太田村での独居自炊の生活について語られています。丸山も農民作家だけあって、話の引き出し方が的確でした。

活字になった数ある対談のうち、これが光太郎生涯最後のものとなりました。

年末年始の新聞から、光太郎智恵子の名が載った記事、3件ご紹介します。

まず青森県の地方紙『陸奥新報』さん。俳句を紹介するミニコラムで、12月25日(日)の掲載でした。

冬野ゆく歩幅を父の鼓動とし(泉 風信子)

「歩幅」は目標へ向う意志である。父への共鳴でもある。冬野という厳しい世界を生きていく男の宿命でもある。高村光太郎の詩のフレーズが思い浮かんでくる。
 句集『遠花火』より。

句の作者、故・泉風信子(いずみ・ふうしんし)氏は、元同社常務取締役。青森県現代俳句協会会長などを歴任されたそうです。少年時代にはかの寺山修二と親交が深かったとのこと。

言わずもがなですが、「高村光太郎の詩のフレーズ」は、詩「道程」の「ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ」でしょう。

続いて『読売新聞』さん。12月28日(水)夕刊の一面コラム。

よみうり抄

高村光太郎の「花のひらくやうに」という詩にある。<ねむり足りて/めざめる人/その顔幸(さいはひ)にみち…>◆100年余り前に書かれた一節に現代人の理想が重なる。睡眠の質の向上をうたう乳酸菌飲料、スマホのアプリを使った睡眠改善プログラム…今年の話題に「睡眠市場」の活況があった◆高齢者の不眠を取り上げた数年前の記事で、専門家が語っていたのを思い出す。「治ることをあきらめることで、治ることもある」。現状を受け入れることで辛(つら)さから解放される不眠もある、と◆この1年の集大成として今がある。老化に孤独、意に沿わぬ待遇、子供の成績不振――仕事納めの職場を後にした道すがら、身辺の諸事に思いをめぐらせた方もあろう。こんなとき、先の言葉は役に立つ◆心の中の耳朶(じだ)に響く異論もある。努力と工夫で眠りが足りるに越したことはないではないか。万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。頷(うなず)きつつ思う。詮ないこだわりの「仕分け」を進め、新鮮な気分で年を越してみたい。
004
引用されている「花のひらくやうに」は、大正6年(1917)元日発行の雑誌『感情』に掲載されたものです。

   花のひらくやうに

 花のひらくやうに
 おのづから、ほのぼのと
 ねむり足りて
 めざめる人
 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち
 理性にかがやき
 まことに生きた光を放つ
 ああ痩せいがんだこの魂よ
 お前の第一の為事(しごと)は
 何を措いてもようく眠る事だ
 眠つて眠りぬく事だ
 自分を大切にせよ
 さあようく
 お眠り、お眠り

前半の睡眠の質云々はともかく、最後のあたり「万民が現状を受け入れるなら、政治家は要らなくなる。」が、この詩とどう結びつくのか、魯鈍な当方の頭脳ではさっぱり理解出来ません。

「万民よ、現状を受け入れて、政治家が不要な世の中にしようじゃないか」ということでしょうか? それとも、「万民よ、四の五の言わずに政治家の言うことに従いなさい」ということでしょうか。

最後に『毎日新聞』さん。1月4日(水)の掲載でした。

「東京には屋根がある」小池知事、太陽光推進呼びかけへ

000 小池百合子都知事は2022年12月28日、毎日新聞のインタビューに応じ、戸建て住宅への太陽光パネル設置について「機運の醸成に努めていく」と、他の道府県にも推進を呼びかけていく考えを示した。主な一問一答は以下の通り。
◇「見える化」で行動変える
 ――太陽光発電の推進は、他県にもノウハウを広げる考えはあるか。
◆10年くらい前に自宅に太陽光パネルを付けた。面白いのは、(電力消費の)「見える化」をすると生活が変わる。どの部屋の明かりを消すと、どのくらい(消費電力量が)下がるかと(考えるようになる)。大きく行動を変える。
 実は1970年代のオイルショックの頃、太陽光パネルは日本がリードして進めた技術だった。環境相の頃に補助金を予算要望したが、認めてもらえなかった。今振り返ると、気候変動についてはまさにあの時が分かれ目で、もっとやるべきだったと思う。
 なぜこの国が無理して南進して戦争に陥ったかというと、エネルギーがなかったからじゃないですか。それから状況は変わっていない。再生エネルギーは一つの選択肢。ましてや原発の問題がある中で。
 「智恵子抄」で「東京に空が無い」という言葉が有名だけれども、「東京には屋根があって、空いてるじゃないか」と強く言いたい。
 太陽光発電を付けることは防災の観点からも有効だ。近隣県との共同メッセージや、全国知事会での呼びかけなどで機運の醸成に努めていく。

◇気候変動、一気にギアを
 ――これまで知事として脱炭素化に取り組んできた。改めて、どういう東京にしたいか。
◆今、強めるところは何かというと、やはり気候変動とエネルギー不足。一気にギアを(上げて)ふかす。意志を持ってやらないといけない。その意志の源泉は何かというと、安心・安全で、世界から選ばれる街を作るということだ。
001
003
このインタビューに対し、ツィッター上などでは、得意の論点ずらしやご飯論法を駆使し、ネトウヨが噛みついています。政府が「原発ありき」の原子力村の片棒を担いでいる現状ですから、ネットサポーターたるネトウヨにとって反原発、再生可能エネルギー推進派は国賊に同じ、という理屈ですね。

やはりツイッター上で、「本来、これは国がやるべき施策なのでは?」という至極まっとうな書き込みもありました。太陽光、こうした場合には無害で、しかも膨大なエネルギー量がほぼ無限に降り注いでいるのに、それを有効活用しない手は無いように思われますが、原子力村の村民たちには認めがたいのでしょう。

原子力に関しては、光太郎存命中の1950年代からすでに「平和利用」という「神話」が提唱され、太平洋戦争中に大本営発表にまんまと乗せられた光太郎、性懲りもなくまたうかうかとそれに乗ってしまいました。最晩年の詩「新しい天の火」、「生命の大河」(下記参照)などでそうした発言が見られます。そうした点は当方も絶対に許せません。

莫大な費用を費やしての、原子力船むつや高速増殖炉もんじゅの大失敗、東海原発での臨界事故、そしていまだ解決のめどすら立たない福島第一原発のメルトダウン、それを「アンダーコントロール」と言い放つ無節操……何度過ちを繰り返せば気が済むのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

よみうりの人玄関まで、詩稿を渡す、


昭和30年(1955)12月20日の日記より 光太郎73歳

「詩稿」は、上にも書いた「生命の大河」。前日に書かれたもので、NHKさんの依頼による「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩となりました。

  生命の大河

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つる処へいそぐ。006
 時間の果つるところ即ちねはん。
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り、
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の「物」ことごとく光る。

 人類の文化いまだ幼く
 源始の事態をいくらも出ない。
 人は人に勝とうとし、
 すぐれようとし、
 すぐれるために自己否定も辞せず、
 自己保存の本能のつつましさは
 この亡霊に魅入られてすさまじく
 億千万の知能とたたかい、
 原子にいどんで
 人類破滅の寸前にまで到清した。

 科学は後退をゆるさない。007
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。

 そういう世紀のさきぶれが
 この正月にちらりと見える。
 それを見ながらとそをのむのは
 落語のようにおもしろい。
 学問芸術倫理の如きは
 うづまく生命の大河に一度は没して
 そういう世紀の要素となるのが
 解脱ねはんの大本道だ。

大阪・堺から、昨日始まった展示情報です。

伊東静雄没後70年記念展示「手紙にみる伊東静雄」

期 日 : 2023年1月5日(木)~3月30日(木)
会 場 : 堺市立美原図書館 大阪府堺市美原区黒山167-14
時 間 : 火曜日から金曜日 午前10時から午後8時
      土曜日・日曜日・祝日 午前10時から午後6時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

美原区に住んでいた浪漫派の詩人・伊東静雄の没後70年を記念して、中原中也や高村光太郎から送られた手紙の写真などを展示します。展示内容は途中で入替を行います。
004
伊東静雄は光太郎より一世代後の明治39年(1906)生まれの詩人。わずかながら光太郎と交流があったようです。

今回の展示では光太郎から伊東宛の葉書の写真が展示されているようで、この一通が、伊東宛の唯一確認出来ているものです。筑摩書房さん『高村光太郎全集』には洩れていましたが、全集完結後に当会顧問であらせられた北川太一先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に収めました。所蔵は伊東の故郷・長崎県の諫早市立図書館さんでした。

今回の開催案内には、他に萩原朔太郎、中原中也から伊東宛の葉書画像も出ていました。
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光太郎からのものは、伊東の詩集『夏花』の受贈礼状。昭和15年(1940)3月29日付けです。宛名面の伊東の住所が「堺市三国ヶ丘町」となっており、案内文の「美原区に住んでいた」というまさにその時期だったわけですね。

『夏花』に関しては、全く同じ日に詩人の富士正晴に送った葉書でも言及が見られます。曰く「昨日伊東氏より「夏花」をいただき喜びました、本も美しいと思ひました」。富士も大阪在住で、伊東と親しかったようです。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

后高見順氏文芸編集委員4人来訪、談話、筆記、


昭和30年(1955)11月15日の日記より 光太郎73歳

高見順は伊東と同世代の詩人。光太郎は高見のためにその詩集『樹木派』(昭和25年=1950)の題字揮毫をしてやったことがありました。

談話」は高見との対談ということで、翌年元日発行の雑誌『文芸』に「対談現代文学史(8)その頃を語る」の題で掲載されました。

新刊です。

「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-

2023年1月7日 鳥居万由実著 青土社刊 定価3,600円+税

動物になる、人間になる、機械になる——
大正末から昭和初期、社会構造の変動と戦争の到来によって危機を迎えつつあった人間という「主体」は、モダニズムの時代と表現を作り出した。やがて詩人たちが謳いあげる人間の像も変貌していくこととなる。ときに昆虫として、工場の機械として、戦地を飛ぶ鳥として、動物園の猛獣として、おっとせいとして、「人間ではないもの」が跋扈しはじめていた。左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴……。時代に浚われていった詩人たちの作品を渉猟し、プレヒューマンとポストヒューマンを架橋していく新たな批評がここに芽生える。卓越した詩人でもある著者による画期となる決定的著作。
001
[目次]
凡例
序章
 1 人間の「主体」とイデオロギーの関係
 2 本書の構成
 3 モダニズムとは何か
 第一部 モダニズム詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 ジェンダー規範と昆虫――左川ちか
   はじめに
   1 「何者でもないわたし」
   2 永遠なる他者「詩のミューズ」
   3 「詩のミューズ」の殺害
   4 人間ではないものに内面を託すこと
  第二章 人間主体を抹消する機械――上田敏雄
   はじめに
   1 人間を詩から抹消する
   2 分裂する自我
   3 大衆消費社会と自己意識
    3―1 広告の影響
    3―2 劇場としての都市空間
    3―3 劇場空間への風刺
   4 『仮説の運動』
   5 「燃焼する水族館」
  第三章 主体の解体と創造――萩原恭次郎
   はじめに
   1 農村に安らう身体
   2 都市環境における身体の変化
    2―1 人工空間
    2―2 交換価値のない魂
    2―3 無用の機械としての肉体
    2―4 枯れていく自然
   3 規律を離れた無用の身体
   4 新しい主体への創造と破壊
    4―1 首のない身体――全体に従わない部分
    4―2 機械による感覚の解体
    4―3 メディアによる存在感覚の変容
   5 結び直される主体
 第二部 戦争詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 戦時下の理想的な人間主体
   はじめに
   1 空間軸に位置付けられる主体
   2 時間軸に位置付けられる主体
   3 個人の集合体への溶融
   4 そして沈黙が支配する
  第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎
   はじめに
   1 清らか・純潔であろうとする傾向
   2 「純粋な」動物に託される自己
   3 動物園における「見る/見られる」
   4 戦争詩における動物性の反転
  第三章 戦争の中の機械と神――大江満雄
   はじめに
   1 プロレタリア詩人時代
    1―1 機械の肉体
    1―2 機械の精神
   2 転向後の変化
    2―1 故郷という原点への回帰
    2―2 「鷲」の登場
    2―3 みずから狂気を選ぶこと
    2―4 国の滅びと個人の発見
    2―5 肉体の抽象化
    2―6 機械と神が残したもの
  第四章 「人間ではないもの」として生きる――金子光晴
   はじめに
   1 抵抗詩以前の動物
   2 戦時下における権力構造と動物
    2―1 流民/苦力
    2―2 犬/天使
    2―3 おっとせい
    2―4 鮫
   3 自画像としての「人間ではないもの」
    3―1 アブジェクトとしての自画像
    3―2 へべれけの神
    3―3 「大腐爛頌」
  終章
   1 動物と機械表象が登場する詩
   2 現代とこれからの展望
参考文献一覧
初出一覧
あとがき
索引

[著者]鳥居万由実(とりい・まゆみ)
1980年東京都生まれ。文学研究者、詩人、英日翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。論文に、「金子光晴の詩集『鮫』におけるヒエロニムス・ボッシュの影響」(『言語態』2018年3月)などがある。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。

奥付は1月7日発行となっていますが、旧臘中には届きました。

詩のモチーフとしての「人間ではないもの」(動物やら機械やら)と、詩を書く主体である「人間」とが、どう交叉し、何が仮託され、また一人の詩人の中でそれらがなぜ、どのように変容していったのか,そして「戦争」とのからみなど、鋭い視点で読み解く評論集です。

000光太郎に関しては、「第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎」で詳述されている他、随所にその名が見えます。

「光太郎」「動物」とくれば、連作詩「猛獣篇」。光太郎生前に「猛獣篇」として出版されることはありませんでしたが、雑誌発表時など題名に「猛獣篇より」といった付記が添えられた詩群です。それらの中から詩篇を選択し、光太郎歿後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

著者の鳥居氏、「猛獣篇」構成詩を中心に、「智恵子抄」収録詩を含むそれ以外の詩篇や散文等も引きつつ、光太郎の内面を剔抉しようとなさっています。

氏が取り上げられた「猛獣篇」構成詩は引用順に「清廉」(大正14年=1925)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、「森のゴリラ」(昭和13年=1938)、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「白熊」(〃)、「象の銀行」(大正15年=1926)、「苛察」(〃)、「マント狒々」(昭和12年=1937)、「象」(〃)。

これらの詩篇だけでも光太郎と「猛獣」の関係性がいろいろ変化していますし、「猛獣」に仮託される内容も激変しています。さらに「猛獣篇」と並行し、或いは前後して作られた詩でも、「猛獣篇」と同趣旨のものが見られ、そのあたりに関しても考察が試みられています。戦時中の翼賛詩にも「猛獣篇」の残滓が見られるという指摘にはなるほど、と思わされました。

ところで「猛獣篇」、謎の多い詩群です。

比較的有名な作で鳥居氏も引用されていた「象の銀行」は、未だに初出掲載紙が不明のままですし(情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いですが)、「猛獣篇」の指定があるものとそうでないものとの線引きが曖昧だったりもします。

そして「猛獣篇」最後の詩。現在確認出来ている光太郎自身の指定では、昭和14年(1934)、河出書房から刊行された『現代詩集 第一巻 高村光太郎 草野心平 中原中也 蔵原伸二郎 神保光太郎』で、「猛獣篇より」という項が設けられ、その最後の詩は「北冥の魚」。同年、雑誌『鵲』に発表されたもので、モチーフは何と動物ではなく潜水艦です。発表誌や遺された草稿には「猛獣篇」の指定はありませんが、なぜこれがここに置かれたのか、何とも不明です。今後の諸氏の考察を待ちたいところです。

さて、『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

装幀全部終る、 午后横臥、


昭和30年(1955)11月4日の日記より 光太郎73歳

装幀」は、翌年筑摩書房で刊行が始まった『宮沢賢治全集』の装幀です。中原中也『山羊の歌』など文学史に残る数々の書籍・雑誌等の装幀を手がけた光太郎でしたが、その最後の仕事がこれでした。

昨日開幕した杉並区立郷土博物館さんの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」を拝見して参りました。尾崎喜八は杉並に暮らしたこともあり、光太郎と交流の深かった詩人です。

同館には平成29年(2017)、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡を拝見するため訪れましたので、2度目でした。

最寄りの光太郎京王井の頭線永福町駅。光太郎のDNAを受け継いだ彫刻家・佐藤忠良の作品。
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徒歩十数分で同館に到着。
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豪農の家だったところに建てられており、長屋門は昔のまま、裏手には母屋も。
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敷地内の本館は近代的な建築です。
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観覧料100円を払って、早速拝見。
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当然、尾崎の生涯についての展示がメインで、著書や草稿、遺品、尾崎の写った写真パネル、写真が趣味だった尾崎が写した写真パネルなどなど。著書も数十冊をずらっと並べると圧巻の見映えでした。

そして交流のあった人々ということで、光太郎との関わり。光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったミケランジェロの模刻「聖母子像」、光太郎から尾崎宛の葉書(昭和21年=1946)も展示されていました。驚いたことに、帰ってから調べましたところ、この葉書は『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。尾崎宛書簡は全集に10通ほど掲載されており、そのうちの1通だろうとたかをくくっていたのですが、違いました。

それから、尾崎が撮影した光太郎写真、尾崎一家(妻・實子――光太郎の親友・水野葉舟の息女、長女・榮子)と光太郎の写真(いずれも駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で撮影)。集合写真は4人が写っている部分を引き伸ばした形でよく拝見しますが、元版は背景の光太郎アトリエの窓や二階の出窓などがしっかり写っていて、驚きました。最近、建築としての光太郎アトリエに興味を惹かれているもので。
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他に光太郎とも交流のあった人々についての展示も興味深く拝見しました。尾崎岳父にして光太郎の親友・水野葉舟、思想家の江渡狄嶺、彫刻家の高田博厚、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦、当会の祖・草野心平など。

意外だったのは、上井草にホームグラウンドがあったプロ野球の球団「東京セネタース」との関わり。球団歌の作詞をしたり、選手や監督とも個人的な交流があったりしたとのこと。これは存じませんでした。

図録が刊行されていました。A4判48ページで600円。入館料100円といい、実に良心的です(笑)。しかし600円と侮るなかれ、充実の内容です。
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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。会期は来年2月19日(日)となっています。

【折々のことば・光太郎】

午后四時半中西夫人くる、桑原さん澤田さん草野さんくる、支度して五時過退院、ハイヤー2台、 伊藤信吉氏奥平さんアトリエにくる、 無事に過ごす、横臥 玉ずしの夕食、

昭和30年(1955)7月8日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるより、自宅療養に切り替えることにしました。この後は「チーム光太郎」ともいうべき医師団が代わる代わる往診に訪れます。

先週になりますが、地方紙二紙の一面コラムで光太郎に触れて下さいました。

12月6日(火)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

河北春秋

PXL_20221215_001147173 葉を落とし「箒(ほうき)」になった姿に、詩人高村光太郎は<きつぱりと冬が来た>と詠んだ。イチョウが季節の移ろいを告げている。葉がカモの水かきに似ていることに由来する中国の「鴨脚」の発音が語源とされる▼仙台藩出身で日本初の近代的国語辞書『言海』を編んだ大槻文彦(1847~1928年)はイチョウの語源に「脳を悩まし」「満腹の疑い」を抱き続けていた。増訂版となる『大言海』では「鴨脚の字の、支那、宋代の音なり」と示し、記す▼「此語原は、予が三四十年間、苦心して得たるものなり」。永島道男著『言葉の大海へ「大言海」を愉しむ』に詳しい。「辞書の中に筆者が顔を出すなんて」信じられないけれど、「苦心の、苦心の、苦心の末に解明したのですからわかってあげたい」とも▼文彦、祖父の蘭(らん)学者玄沢、父の儒学者磐渓。「三賢人」を輩出した大槻家関係資料(一関市博物館所蔵)が国の重要文化財に決まった。『大言海』草稿など4000点を超える▼文彦は玄沢の遺戒「遂げずばやまじ、の精神」で編さんしたと、『言海』の巻末「ことばのうみのおくがき」に書く。必ず最後までやり遂げよ。求められるのは決意、責の重さへの自覚と覚悟か。職を去った閣僚たちを他山の石に、遺戒を心にきっぱりと刻もう。

このところの気候は、いかにも「きつぱりと冬が来た」ですね。画像は自宅兼事務所近くのイチョウの古木です。こちらもまさしく「箒」になってしまいました。

続いて、『東京新聞』さん。12月8日(木)付けです。

筆洗

 「記憶せよ、十二月八日/この日世界の歴史あらたまる/アングロ・サクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」−。高村光太郎の詩である。一九四一年、真珠湾攻撃への興奮が伝わってくる▼真珠湾攻撃の日である。光太郎に限らず、その日、日本人は熱狂した。長年の米英による圧力。その閉塞(へいそく)感を打ち破る奇襲に対し、国民は胸のすくような思いとなった。分からないでもない。しかし、それが国民に塗炭の苦しみを与える悲劇の入り口であった▼あの時代にむしろ近づいてはいないか。弾道ミサイルなどの発射拠点を攻撃する敵基地攻撃能力の保有をめぐる議論が進む▼共同通信の世論調査によると約六割が敵基地攻撃能力の保有を容認している。弾道ミサイルが発射される前に基地を攻撃することができれば、国民はより安全になるはず。そう考えるのも理解できる。自衛のためと言われれば、反対もしにくい▼それでも身構えるべきはそれが専守防衛の枠組みを超え、国際法の禁じる先制攻撃と結果的に何も変わらぬ危険性があることだろう▼ミサイル発射の動きを見て敵基地を攻撃したとする。それで敵国がわが国への攻撃を断念してくれるとは考えにくく、待っているのはわが国の敵基地攻撃に端を発した長きにわたる戦争状態ではないのか。臆病か。されど、悲劇の入り口に二度と近づきたくないのである。

まさにわが意を得たり、という内容でした。そこで、12月10日(土)に行われた日本詩人クラブさんの12月例会での講演で紹介させていただきました。

さて、もう1件。

過日ご紹介した杉並区立郷土博物館さんでの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」。明後日開幕ですが、その予告報道が共同通信さんから配信され、全国の地方紙に載ったようです。

詩人・尾崎喜八回顧展、写真家側面も 東京の杉並区立郷土博物館

 009 山と自然を題材にした詩や散文で知られた尾崎喜八(1892~1974年)の回顧展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が17日から、東京・杉並区立郷土博物館で開かれる。2023年2月19日まで。尾崎の子孫から寄贈された多数の資料を公開する。
 尾崎はクラシック音楽を巡る随想、外国文学の翻訳も手がけた他、写真にも関心を寄せ、山野の植物、雲、長く住んだ杉並の農村風景などを数多く撮影した。
 本展は自ら撮影した写真約60点、著書約50点、詩人で彫刻家の高村光太郎から贈られた彫刻や、詩人でドイツ・フランス文学者の片山敏彦、詩人・歌人で野鳥研究家の中西悟堂らとの交遊を示す写真やはがき、フランスの作家ロマン・ロランからの手紙などで構成する。
 尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で生まれ、商業学校を卒業した後、会社勤めをしながら文学活動を始めた。代表作に詩集「花咲ける孤独」(55年)、随筆集「山の絵本」(35年)、随筆「音楽への愛と感謝」(73年)がある。
 関東大震災後から終戦前年まで、実家へ戻った間を除いて現在の杉並区に在住。戦後は長野県富士見村(現富士見町)で足かけ7年過ごし、数々の作品を書いた。その後東京に戻り、晩年は神奈川県鎌倉市で暮らした。
 担当の学芸員は「尾崎の業績全般を知ってもらいたい。地元杉並の人や詩に関心のある人はもちろん、写真関係の方にも見ていただけるとうれしい」と話している。
 観覧料100円。休館日は月曜と第3木曜(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

転出証明書瀬川さんより届く、


昭和30年(1955)6月4日の日記より 光太郎73歳

「転出」は、戦後7年間の蟄居生活を送った岩手から東京中野へ、です。

元々、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は、岩手に帰るつもりでいた光太郎、実際、像除幕後の昭和28年(1953)初冬に10日間ほど帰ったのですが、宿痾の肺結核の悪化が山での暮らしを許さず、再々上京していました。それでも住民票を移動させずにいましたが、もはや身体の状況が山へ帰ることは不可能なほど悪化しているという自覚があったのでしょう、岩手の知人を介し、とうとう転出届けを出しました。届けの日付は6月1日だったことが、『高村光太郎全集』に漏れていた葉書の発見により、10年ほど前に明らかに出来ました。

また、かつて光太郎が暮らしていた稗貫郡太田村は前年に周辺の村とともに花巻町に合併、花巻市となったことも転出の一因と思われます。もはや太田村が無い、というのは光太郎にとって淋しかったのではないでしょうか。

都内で光太郎にもからむ内容の企画展です。

企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」

期 日 : 2022年12月17日(土)~2023年2月19日(日)
会 場 : 杉並区立郷土博物館 東京都杉並区大宮1丁目20番8号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日・毎月第3木曜日(祝日と重なった場合は開館、翌日休館)
      12月28日~1月4日
料 金 : 100円(中学生以下、障害者手帳を提示する方および付き添いの方は無料)

詩人・尾崎喜八(1892年~1974年)は、白樺派から出発し、杉並で「自然と文学」の金字塔となる作品を多く遺しました。大正12年(1923年)の関東大震災後に作家・水野葉舟(みずのようしゅう)の親友であった農業思想家・江渡狄嶺(えどてきれい)の導きで現在の高井戸東に新居を構えた尾崎は、翌春、水野の娘・實子(みつこ)と結婚してそこに暮らしました。のち、昭和19年(1944年)まで、現在の南荻窪、善福寺と戦前の杉並に住み、野鳥研究家・中西悟堂(なかにしごどう)とは自然・野鳥を、詩人・片山敏彦(かたやまとしひこ)とは海外の新しい文学を探求して、『山の絵本』などの博物誌を書きました。また、ノーベル賞作家ロマン・ロランと交友してその文化使節を杉並に迎えるなど、世界文学とのつながりを持ちました。

本展では、寄贈を受けた資料の中から、尾崎がガラス乾板・写真に残した100年近く前の杉並の農村風景や生態系の様子とともに、深い交流のあった高村光太郎ら文学者とのかかわりなどを紹介します。
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関連行事 石黒敦彦氏講演会 
 第1回 「詩人・尾崎喜八」 令和4年12月18日(日曜日)
 第2回 「口語自由詩と昭和の杉並・武蔵野」 令和5年1月15日(日曜日)
 時 間 午後2時 から 午後4時 まで
 対 象 中学生以上の方
 場 所 郷土博物館
 講 師 石黒敦彦氏(尾崎喜八孫・東京工芸大学講師)

詩人・尾崎喜八はおそらく『白樺』を通じて光太郎の知遇を得たのではないかと思われますが、光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚し、さらに光太郎と深く交流するようになったようです。光太郎は結婚祝いにミケランジェロの模刻「聖母子像」を夫妻に贈りました。

令嬢の故・榮子さん。当方、2度ほどお会いしましたが、生前の智恵子をご存じでした。令孫の石黒敦彦氏はご健在で、連翹忌の集いにもたびたびご参加下さっています。

石黒氏の依頼で、少しだけ協力させていただきました。尾崎一家を高井戸に招いた思想家・江渡狄嶺と光太郎のからみについて。光太郎は江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」の設計を担っていまして、そのあたりについて資料を提供しました。

光太郎、葉舟、尾崎、江渡、さらにそこにロマン・ロランつながりで片山敏彦や渡仏前の高田博厚なども加わった人脈が形成されており、非常に興味深いところです。

当方、初日の12月17日(土)に伺う予定です。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃理髪くる、350円払、


昭和30年(1955)5月20日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。入院はしたものの、危篤状態というわけでもなく、調子のいい時には床屋さんを呼んで理髪してもらったりもしていたようです。

昨日は、日本詩人クラブさんという団体の2022年12月例会にお招きいただき、都内に出ておりました。基本、クローズドのイベントでしたので、このブログではご紹介していませんでしたが。

会場は新宿区の早稲田奉仕園さん。
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キリスト教系の施設ですが、この中にリバティホールというスペースがあり、そちらで。下記は開会前です。
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講演を仰せつかりまして、約60分、喋らせていただきました。
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日本詩人クラブさんでは、ほぼ毎月、「例会」を催され、その都度さまざまなテーマを設定なさっています。今年5月は西条八十を取り上げ、9月には「国際交流」とのことでインドの詩人の方をお招きしたということでした。

で、12月例会は光太郎。会員であらせられる曽我貢誠氏、宮尾壽里子氏がご推挙下さって、当方が講演をすることに。以前からそういうお話があったのですが、コロナ禍の関係で延び延びとなって、本来は『智恵子抄』発刊80周年に当たる昨年のはずだったようですが。

まぁ1年遅れではありましたが『智恵子抄』、そして太平洋戦争開戦の12月8日の翌々日ということもあり、さらに今年起こって今も続くロシアによるウクライナ侵攻にもからめまして、演題を「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」とさせていただきました。初版『智恵子抄』の刊行が太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、収録詩の最後のあたりは泥沼化していた日中戦争との絡みも語られており、『智恵子抄』と戦争は切っても切り離せない関係にあります。

自分ではあまり見たくないのですが(笑)、YouTubeにアップされています。以前も書きましたが、人前でしゃべるのは抵抗はありませんがさりとて自信もありません。

後半は「高村光太郎「智恵子抄」朗読ドラマ――発刊80周年を過ぎて振り返る」。会員の皆さん、すなわち詩人の方々が演じられました。
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脚本は宮尾氏(上記画像左端)。以前から朗読のお仲間と同様の公演を何度かなさっていて、それをアレンジしたという感じでした。

プロの役者さんや朗読家の方ではなく、詩人の皆さんが演じられたわけですが、日頃から「言葉」に対して鋭敏な感覚を持たれているご一同、なるほどねと思わされるステージでした。こちらもYouTube動画に当方の講演の後に収録されています。当方の講演よりそちらをご覧下さい(笑)。

それにしても、詩人の皆さんがこういう団体を結成され、詩作だけでなくいろいろな活動を行われているということを、当方、お話を頂くまでよく存じませんでした。2月24日(木)に始まったロシアによるウクライナ侵攻に対しても、翌3月には早速反対声明を発表なさっていますし。そのあたりを踏まえ、日中戦争・太平洋戦争中に、光太郎はじめ、殆ど全てといっていい詩人達が犯した戦争推進協力の過ちを繰り返さないよう、まぁ、それ以前にそういう状況にしないためにも、詩人の皆さんの出来ることをなさって下さいとお願いして参りました。言わずもがな、かも知れませんが。

戦争と光太郎については、また近々、このブログで取り上げます。以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

からだのいたみまだあり、中腰の位置の時痛し、


昭和30年(1955)5月5日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核による赤坂山王病院への入院が前月30日。入院はしても積極的な治療ができるわけでもなく、こういう状況でした。光太郎余命あと1年足らずです。

12月3日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの、企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説動画撮影を終え、市街に戻りました。

宿泊先は在来線花巻駅前の商人宿。なんだかんだでここに泊まるのも7、8回目でしょうか。このブログを始めてからも5回目です。
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チェックインし、一休みした後、道路を挟んで向かいのグランシェール花巻さんへ。
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改装中ということで、シートに覆われていました。

来年2月14日(火)、こちらに隣接するなはんプラザさんでのイベントの打ち合わせ。詳細はまた後ほどご紹介いたしますが、主催は太田地区振興会さん。「太田地区」というのは、光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った旧太田村です。宮沢賢治実弟の清六の令孫・和樹氏と当方で、賢治と光太郎の接点、光太郎の花巻疎開の経緯などについて、2時間近くの公開対談。そこで、太田地区振興会の役員の方々、和樹氏も交え、夕食を頂きながら打ち合わせでした。

翌朝チェックアウトし、あいにくの雨の中、レンタカーを北に向けました。目指すは盛岡の西に位置する雫石町です。

花巻高村光太郎記念館さんでは、開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」と並行して、花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」で、『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、光太郎と開拓農民たちとの交流などをテーマにしたミニ展示を行います。

メイン展示物は、最近寄贈された、昭和25年(1950)に旧太田村で蟄居中だった光太郎が作った詩「開拓に寄す」の光太郎直筆高を精密印刷したもの。光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭で参会者に配付されました。当時としてはなかなかの出来で、直筆と見まごうものです。そこで、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出たことがあります。依頼人は直筆と信じていたようで……。しかし、印刷ということで1万円ほどでした。また、以前に寄贈されたものは令和元年(2019)から翌年にかけ、花巻市総合文化財センターさんで展示されました。

で、雫石町に、やはり同じ書をブロンズパネルに写して嵌め込んだ石碑があるという情報を得まして、この際だから見ておこうと思った次第です。

東北自動車道を盛岡ICで降り、北西方向へ。目指すは長山地区の開拓記念公苑というところ。岩手山の山麓というか中腹というか、そんな感じです。

途中に有名な小岩井農場さんがありました。そういえば、賢治ゆかりの地です。
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当方、学生時代に訪れたことがあり、懐かしく思いました。もっとも、今回は立ち寄りはしませんでしたが。

このあたりから雨は霙まじりとなりまして、やがて……。
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さらに北上して開拓記念公苑に近づくと完全に雪。それも大雪となりましたが、ともかく到着。
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一帯は民家もほとんどありません。なぜこんなところに公園的なスペースを造ったのか、という感じでした。

公苑内には多くの石碑や石仏が。
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目指す碑は、「戦後開拓50周年記念」という名称でした。
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平成7年(1995)の竣工のようです。

光太郎詩「開拓に寄す」のブロンズパネル。
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「おお」という感じでした。

この詩の中の一節を写した碑は、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村にも建てられています。前日に撮っておいた写真。
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「太田開拓十周年記念」碑。昭和51年(1976)の建立です。

さて、開拓記念公苑には「拓魂」碑という碑もありまして、昭和45年(1970)にこの碑が造られたのがこの公苑の始まり的な……。こちらは開拓25周年記念だそうで。
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碑の裏面に、やはり光太郎詩「開拓十周年」のブロンズパネル。
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「開拓十周年」は、昭和30年(1955)の作。やはり盛岡で開催された記念式典に寄せて作られた詩で、5周年の「開拓に寄す」同様に光太郎筆跡を写した印刷物が配布されたそうです。そこからさらにこの碑面を作ったのでしょう。

この詩の印刷物は県外の開拓関係者にも配付されたそうで、現在の福島県南相馬市小高地区には、この詩を読んで感激した平田良衛という人物によって、配付されたその年(昭和30年=1955)にこの詩の全文を刻んだ碑が建てられました。ただ、筆跡は地元の書家のもので、おそらく碑に写すことも光太郎の許可を得ていなかったのではないかと思われます。まぁ、それでも光太郎生前に建てられた数少ない光太郎詩碑の一つということにはなるのですが。

二つの詩とも、「開拓」とまでは行かないものの、太田村の山小屋前に畑を開墾し、まがりなりにも農業に取り組んで野菜類はほぼ自給していた光太郎の作だけあって、実体験に基づいた具体的な記述がなされています。光太郎が蟄居生活を始めた後、山小屋近くに開拓地がひらかれ、そこの住民とも親しく接した光太郎は、彼らから聞かされたの体験談も盛り込んだのでしょうし。決して机上で生まれた詩ではないということです。そこで開拓関係者たちの心を揺り動かしたのでしょう。

そういえば、光太郎と親しく交流していた画家の深沢省三・紅子夫妻子息の故・竜一氏が開拓に携わり、昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。その際には好物の牛乳を一升も飲んだそうで(笑)。場所的には旧西山村、この公苑のある長山地区もかぶります。光太郎もこの辺に来たんだなぁ、と、感慨深く思いました。

雪の開拓記念公苑を後に、下山。やはり小岩井農場近くで霙、さらに下ると雨。岩手山、おそるべしでした(笑)。

盛岡駅前でレンタカーを返却、帰途に就きました。
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さて、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は12月10日(土)から。並行しての企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は開催中です。ぜひ、花巻高村光太郎記念館さんまで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来食事は中西夫人が作りくれる、 ひるワラサ切身2 ヒジキ、


昭和30年(1955)4月17日の日記より 光太郎73歳

昭和27年(1952)の帰京後も、基本的に自炊していた光太郎ですが、宿痾の肺結核のため、そろそろ自炊も不可能になりつつありました。「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さんです。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展です。コロナ禍により、2年ぶりの開催となります。

令和4年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市博物館、花巻市総合文化財センター、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年12月10日(土)~2023年1月22日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館  テーマ「新渡戸稲造の父・十次郎」
 新渡戸稲造の父であり、十和田市の開拓などに貢献するも、若くしてこの世を去った新渡戸十次郎の生涯を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館  テーマ「歌人・小田島孤舟展」
 花巻市東和町出身の歌人・小田島孤舟は石川硺木らと共に活躍した「岩手歌壇の父」であり、同級生であった萬鉄五郎とも生涯を通じて交友がありました。本展では、孤舟の作品と生涯を巡るほか、萬鉄五郎との関わりにも焦点を当てて紹介します。

花巻市博物館  テーマ「山の暮らし」
 総面積の半分以上を山林が占める花巻市には、山を生業の場とし、山と暮らしてきた人々がいます。
本展では、その人々が使用した様々な道具やかつての写真などから、花巻での山の暮らしに迫ります。

花巻市総合文化財センター  テーマ「早池峰の花を紹介した人々-早池峰植物研究小史-」
 幕末に植物採集の指導や学術発表を行ったロシア人植物学者マキシモビッチや、その指導を受け早池峰山の植物採集を行った須川長之助など、早池峰山の植物研究に関わってきた先人の足跡をたどります。

高村光太郎記念館  テーマ『高村光太郎の「開拓に寄す」』
 「開拓に寄す」は、高村光太郎が昭和25年に盛岡市で行われた岩手開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩です。今回の企画展は寄贈資料「開拓に寄す」とともに、関係資料の展示を行います。

協賛館
宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、
石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館すべてといすれかの協賛館1館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。

 今回の開催館5館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。
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高村光太郎記念館さんでは、『高村光太郎の「開拓に寄す」』。

「開拓に寄す」は、昭和25年(1950)、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が作った詩の題名です。11月9日作で、翌日から3日間の日程で、光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭に寄せて作られた詩です。当時、岩手県開拓者連盟の仕事をしていた紫波町出身の藤原嘉藤治(生前の宮沢賢治の親友)を通じ、光太郎に依頼があったと推定されます。

光太郎の詩稿を写真製版し、凸版印刷にしたものが参会者に配付され、光太郎生前には全文が活字になった記録が見あたりませんが、光太郎没後の昭和31年(1956)、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、後に鋳金分野の人間国宝となった豊周(とよちか)の編集になる詩集『典型以後』に収められました。

その凸版印刷にしたものは、令和元年(2019)に花巻市総合文化財センターさんで展示されましたが、また新たに寄贈され、それを中心に、他の開拓関係資料等も出すとのこと。例によって当方が説明パネルを執筆させていただきました。

高村光太郎記念館さんでは、11月23日(水)から他の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」も開催されており、今回の『高村光太郎の「開拓に寄す」』は、それほどスペースを使わず、常設展示室の一角で行うのではないかと思われます。

今日から1泊2日で、当方、花巻に赴きます。「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説を動画配信するというので、その収録です。ついでに開拓関係で、雫石町まで足を伸ばして調査をして参ります。既に花巻でも初雪が観測されており、気合いを入れていかねばなりません(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ラジオ東京の人くる、KRの今夕の智恵子抄放送のこと、夕方奥平さんくる、七時辞去、 ストーブ、 七時20分放送をきく 便 <放送は東山千栄子、可不可なし、>

昭和30年(1955)4月4日の日記より 光太郎73歳

「ラジオ東京」「KR」は、現在のTBSラジオさんです。女優の故・東山千栄子さんの「智恵子抄」朗読があったとのこと。

過日ご紹介した、福岡県の北原白秋生家・記念館さんでの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」について、『毎日新聞』さんが報じて下さいました。

ゲーム「文豪とアルケミスト」題材、白秋展始まる 福岡・柳川

 福岡県柳川市出身の詩人、北原白秋(1885~1942)の命日(2日)にちなみ、同市沖端町の白秋生家・記念館で1日、白秋らが登場するオンラインゲームを題材にした企画展「白秋と若き文士たち」が始まった。
 ゲームは2016年から配信されている「文豪とアルケミスト」。文豪が残した文学書が次々と黒く染まってしまう現象が起き、人々の記憶から文学が消えていく中、それを阻止しようと白秋ら文士が登場するという趣向だ。
 企画展はゲームで描かれた白秋ら文士の等身大パネルを展示し、直筆手紙など約30点の史料で高村光太郎(1883~1956)、室生犀星(1889~1962)らゲームに登場する他の文士との交流を紹介する。初めての詩集「邪宗門」など20代の時の白秋を知るコーナーも設けた。
 高田杏子館長は「青春時代の白秋ら、若き文士の自由で光り輝く作品を楽しんでほしい」と鑑賞を呼び掛けている。入場料一般600円、小中学生250円。鑑賞者に白秋をデザインしたしおりを贈る。2023年3月31日までの開催だ。
 1日夜は市内の掘割にどんこ舟が連なる「白秋祭水上パレード」もあった。パレードは2、3日夜もあり、2日午前10時からは同市矢留本町の白秋詩碑苑で白秋にささげる献詩もある。
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同じくゲーム「文豪とアルケミスト」のコラボ企画として、岩手花巻で行われ、花巻高村光太郎記念館さんもチェックポイントとなっていた「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」は、先月一杯で終了。その関係で多くの若い方々がいらして下さったと同館の方から連絡があり、ありがたい限りです。中には花巻市街から自転車で、という強者(つわもの)もいらしたそうで。

それぞれの文豪に深く親しむための入り口としては、こうしたタイアップもありだと存じます。全国の関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、十七回忌にあたる、 「心」の婦人記者玄関まで、 夕方椛澤さん玄関まで、智恵子の墓参してくれた由、菊をもらふ、


昭和29年(1954)10月5日の日記より 光太郎72歳

昭和20年(1945)からの岩手蟄居中は、花巻市街の松庵寺さんで、ほぼ毎年智恵子の法要を営んでもらっていた光太郎ですが、もはや外出もままならず……。

このところ、紹介すべき事項等が多く、3件まとめてご紹介します。

まず、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」を取り上げた、『産経新聞』さんの記事。

初出展続々 没後100年「鷗外遺産」展

 森鷗外記念館(東京都文京区)で、特別展「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」が始まった。今年生誕160年、没後100年の文豪・森鷗外に、さまざまなアプローチで光をあててきた同館が「記念事業のハイライト」という展示。今年明らかになった新資料など、出品総数80点のうち21点が「展覧会初出展」とあって注目されそうだ。
 同展は「書簡篇」「原稿篇」の2部構成。書簡篇の19通のうち、18通は今夏、島根県津和野町の森鷗外記念館への寄託で明らかになった鷗外宛て書簡400通の一部で、もちろんすべて展覧会初登場。
 発信者は、夏目漱石・鏡子、正岡子規、永井荷風、与謝野晶子、小山内薫、高村光太郎、高浜虚子、中村不折ら15人。たとえば、鷗外の推薦で慶應義塾大学教授になった荷風は、雑誌「三田文学」を創刊する際の意気込みなどを報告。虚子は、陶芸家・書家の北大路魯山人から相談を受け、鷗外に紹介する内容(12月1日から展示)。
 原稿篇では大正5年、鷗外が54歳のときの新聞連載「渋江抽斎」の49、50回の原稿や、同作などの史伝出版に向けた広告原稿も今年の新資料。作品執筆の経緯や新聞連載時から出版までの変遷もわかる。
 一方、16歳の鷗外が東大医学部でドイツ語の講義を書き取り、日本語に訳して冊子にした、初めての〝著作〟ともいわれる「筋肉通論」も初出展となった。
 同展監修の須田喜代次大妻女子大名誉教授は「書簡を見ていくと、鷗外を包み込んでいた文化の広がり、鷗外文化圏が浮かび上がる。16歳と54歳のときの原稿も同時に見られる。いずれも丁寧な推敲、修正など、ものを書くときの姿勢が16歳の森林太郎からもうかがえる」と話している。
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同展レポートはこちら。光太郎から鷗外宛書簡について考察しております。

続いて『毎日新聞』さんに月イチで連載の、和合亮一氏による「詩の橋を渡って」。氏が新刊の現代詩集を紹介するというコンセプトですが、光太郎を引き合いに出して下さっています。

野村喜和夫氏の『美しい人生』(港の人)と『シュルレアリスムへの旅』(水声社)、それから谷元益男氏の『越冬する馬』(思潮社)の三冊が取り上げられ、そのうち『越冬する馬』の評で、光太郎の名。

004 谷元益男の『越冬する馬』(思潮社)のタイトルに早くも次の季節の到来を。「老いた男は 何百匹ものサカナを/釣り上げただろう」。高村光太郎は詩を言葉の彫刻であると語ったが、研ぎ澄まされた筆先が心の中の風景や記憶を鮮明に彫り上げる。山や田に囲まれた土地で暮らしている人々の生き様が足し引きなく描かれている。「ダムは ゆらゆらと水を湛(たた)え/山深い色を映して/巨大な一枚の絵のように/静かに 男の前に立っていた」

和合氏、この連載では時折光太郎に触れて下さっています。ありがたし。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月

最後は雑誌です。平成29年(2019)の朝ドラ「とと姉ちゃん」ヒロインのモデルとなった大橋鎭子が創刊した『暮しの手帖』2022年10-11月号
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元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビュー「こころざしって何だろう?」中に、やはり光太郎。

 飾り立てた言葉でなくていい。心のこもった、正直な言葉。地に足のついた、人間の言葉を交わしたいと切実に思って。
 「インターネットでは、瞬間の反応でやりとりする言葉があぶくのように生まれていて、それに慣れると、ゆっくり、じっくりとものを考える時間がなくなっていく。思考力が弱っていくのを、私自身も感じています」
 そんななかで折々に思い出すのが、高村光太郎がある小学校に書いて贈った、「正直親切」という言葉だという。
 「若い頃はわからなかったけれど、最近は、人間にとって大切なことだと思うの。ある年齢になった高村光太郎が、本気で気がついて、小学生たちに『覚えておいてね』という気持ちをこめたのではないかしら。熟考された言葉は、短くて簡潔でも、打つ力があるわね」


「正直親切」は、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈った言葉です。残念ながら同校は廃校となりましたが、その跡地にその書を使ったモニュメントが残るほか、光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんに、それぞれ同じ書を刻んだ石碑が設置されています。

記事では山根さんが力を入れられている朗読の勉強会についても触れられています。

それから、光太郎には触れられていませんでしたが、当会会友・渡辺えりさんが連載をお持ちで、これは存じませんでした。題して「あの時のわたし」。もう第23回だそうで。これまでの連載の中で、亡きお父さまと交流のあった光太郎に触れられているのかな、という気がしました。あるいはこれからかもしれません。今度お会いした時に訊いてみます。

というわけで、『暮しの手帖』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房より全集の印税3分の1くる、小切手(230,018円、)冷蔵庫の前借80,000円引らし、

昭和29年(1954)9月12日の日記より 光太郎72歳

全集」は『日本文学全集』第24巻「高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集」。「冷蔵庫」についてはこちら。それにしても、当時の23万円というのは破格ですね。しかもそれで3分の1。それだけ売れたということなのでしょうが。確かにこの時期からあと、この手の文学全集ものは大流行していきます。

ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画、現在、光太郎がらみでは花巻市で「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が10月30日(日)まで開催されています。Twitterの投稿などでは、若い方々が花巻高村光太郎記念館さんを訪れ、「いいところだ」的なつぶやきをなさっていて、ありがたく存じます。

来月からは福岡で、光太郎の朋友・北原白秋がメインですが。

北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~

期 日 : 2022年11月1日(火)~2023年3月31日(木)
会 場 : 北原白秋生家・記念館 福岡県柳川市沖端町55-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 12月29日(木)~2023年1月3日(火)
料 金 : 大人 600円 高・大生 450円 小・中生 250円

北原白秋生家・記念館では、柳河出身の詩人・北原白秋没後80年を記念して、DMM GAMESより配信中のオンラインゲーム『文豪とアルケミスト』とタイアップした企画展を開催いたします。本展時では白秋の青春時代にスポットを当て、白秋を中心とした文士や芸術家たちが芸術と自由と享楽の権利を謳歌した文藝運動や交流などを①新詩社『明星』時代、②「パンの会」時代、③「朱欒」時代と3つの時代に分けて紹介。また、今回初公開となる「室生犀星宛白秋書簡2通」や、白秋を取り巻く若き文士たちのキャラクターパネルの展示、グッズの販売も併せておこないます。

期間中、来館者限定オリジナル栞(非売品)を差し上げます。※なくなり次第終了いたします。

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「白秋を取り巻く若き文士たち」が、萩原朔太郎、室生犀星、吉井勇、そして我らが光太郎。

朔太郎といえば、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」が開催中ですが、こちらの企画はそれには含まれていません。しかし、「同時開催」として「特別展示 白秋と朔太郎の世界~朱欒から朱欒へ」も行われるそうです。こちらは来年1月10日(火)までです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻の菅原女史玄関まで、豆銀糖をもらふ、

昭和29年(1954)8月8日の日記より 光太郎72歳

「菅原女史」は光太郎が終戦後、昭和27年(1952)まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で小学校教諭をしていた女性です。

「豆銀糖」は岩手の銘菓。といっても高級なものではなく、大豆と水飴、きな粉を使った庶民的なお菓子です。光太郎は昭和24年(1949)のラジオ放送用の対談で、豆銀糖と南部煎餅を激賞していました。

昨日は北鎌倉にある、光太郎ご親族経営のカフェ兼ギャラリー・笛さんにお邪魔しておりました。こちらでご所蔵の資料等を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催中、さらに昨日は関連イベントとしての朗読会がありまして。
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こちらに伺う時は、たいがい自家用車なのですが、駐車スペースはぎりぎり一台分しかなく、昨日はイベントで人が多いだろうと予想し、電車で参りました。

北鎌倉駅から徒歩10数分。明月院さんの裏手です。
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途中には、鎌倉時代のものと思われる「やぐら」(横穴墓)も。あまり観光客も訪れない一角ですので、閑静な感じです。
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昨日は若干蒸し暑く、結構長い坂を歩いて上って汗だくになってしまい、まずはアイスコーヒーを美味しく頂きました。

その後、展示を拝見。こちらに伝わる光太郎関係の品々と、すぐ近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と交流の深かった詩人)令孫のお宅のものと、所狭しと並んでいます。
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ほぼ毎年出して下さっていますが、目玉は光太郎ブロンズの「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻で、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもの。石膏原型は既に失われ、鋳造されたものもこれ1点しか確認できていません。尾崎は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚しました。像の背後の写真は、昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』でこの像が紹介された際の實子です。

尾崎がこの像と共に写っている写真もありました。こちらは当方、初見でした。
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その他の展示。
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駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で。後の白いブルーズ姿が光太郎、前列左から尾崎夫妻の長女の故・榮子さん、尾崎、そして實子。当方、榮子さんとは笛さんと、連翹忌の集いの会場とでお会いしましたが、まだ健康だった頃の智恵子に抱っこしてもらったお話などをお聞かせいただきました。

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複製ではない光太郎直筆や、生写真なども。
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福島二本松の智恵子実家・長沼酒造の銘酒の名「花霞」を受け継ぐ地酒(その辺の権利関係、どうなっているのかよく分からないのですが)。のちほど、朗読会のあとにご参集の皆さんに饗されました。

さて、午後3時。この場で朗読会です。
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はじめにおしどり夫婦の店主御夫妻のごあいさつ。奥様は光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お祖母様の思い出等も語られて、興味深く拝聴いたしました。

朗読は、主にお近くにお住まいの常連客的な皆さんだったのでしょう、店主御夫妻を含め、9人の方が光太郎、尾崎の詩を朗読なさいました。最高齢の方は何と、おん年91歳だそうで。

尾崎令孫の石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)も。
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おおむね1時間弱で終わり、その後、参会の皆さんとしばし歓談させていただきました。また、石黒氏から、杉並区で開催される尾崎喜八展的なものへの協力要請。そんなこんなで夕刻となり、鎌倉をあとにしました。

朗読会は今回初めての試みということでしたが、来年以降も継続してやっていこう、ということだそうです。今回いらっしゃれなかった方、来年以降、ぜひどうぞ。また、展示の方は11月8日(火)までの火・金・土・日曜日にご覧いただけます。こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃牛越さん七尺像を運送し来る、支払スル、2500運送、1000別に


昭和29年(1954)7月5日の日記より 光太郎72歳

七尺像」は、前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は東京藝術大学さんに寄贈されていますが、光太郎の手元にあったのですね。

「牛越さん」は牛越誠夫。石膏取り職人で、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿です。

新刊というか、ニューリリースというか、CDブックです。

心とカラダを整える おとなのための1分音読CDブック

2022年10月11日 自由国民社 定価1,800円+税

 おうち時間が増え、人との会話や声を出す時間が減ってしまった、という方も多いのではないでしょうか。
 文章を声に出して読む「音読」は、「気持ちが落ち着く」「やる気が出る」「ストレスが解消し、抵抗力がアップする」「脳が活性化する」「誤嚥性肺炎の予防に役立つ」といった健康効果があるといわれています。
 累計28万部突破の1分音読シリーズが「CD付ブック」になって登場!声の出演は平田満さん&宮崎美子さん。
 累計28万部突破の「おとなのための1分音読」シリーズは、おなじみの名作の中から1分程度で音読できる名文を多数収録。
 本作では、俳優の平田満さん、宮崎美子さんが音読するCDと冊子がセットになって発売されます。「手袋を買いに」「走れメロス」「ごんぎつね」ほか、気軽に楽しく読める44作品を収録しています。
 CDを真似して読んでみるのもよし、自分なりに工夫して読むのもよし。毎日の健康のために、音読を習慣にしてみませんか?

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CDには、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の朗読も含まれています。

担当されているのは俳優の平田満さん。
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平田さんと言えば、平成29年(2017)にWOWOWプライムさんで放映された「連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」で、賢治の父にして、戦禍に遭った光太郎を花巻の自邸に疎開させてくれた政次郎役を好演なさっていました。

その賢治の代表作の一つであり、没後、光太郎が石碑の碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」も、宮崎美子さんの朗読で収録されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃モデルさん玄関まで、結婚せし由、品川の方にゐるとの事、


昭和29年(1954)7月4日の日記より 光太郎72歳

「モデルさん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めた藤井照子。「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していましたが、結婚を機にモデル業はやめたようです。
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まだご存命なのかも知れませんが、その後の消息が分かりません。情報をお持ちの方はコメント欄等から御教示いただけると幸いです。

詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

安水稔和さん死去004

 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

宮城県から生涯教育系講座の情報です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年10月8日(土) 11月12日(土) 12月10日(土)
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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内容的には7月から9月まで行われていたものが再度開催されるようです。それだけ人気が高かった講座なのでしょう。

詩人・茨木のり子を中心に、茨木が評論等で取り上げた金子光晴山之口貘、石垣りん、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋、そしてわれらが光太郎についても触れて下さるそうです。

ところで、探し方が悪いからなのかもしれませんが、以前はもっとたくさん各地で行われていたこの手のカルチャー講座が少なくなったように感じます。コロナ禍も影響しているのかもしれません。教室閉鎖といった記述も見られますし……。

それだけに貴重な機会です。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方細田明子さん婚約者(医師)と同道くる、五月廿五日披露会によばれる、諾、

昭和29年(1954)4月18日の日記より 光太郎72歳

細田明子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた荒川区三河島のトンカツ屋「東方亭」の息女です。光太郎は彼女が幼い頃から娘のようにかわいがり、詩「少女に」(昭和16年=1941)、「女医になった少女」(昭和24年=1949)などの詩のモデルとしました。
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詩の題名通り女医となった明子さん、この年、結婚なさり、光太郎披露宴に招待しました。光太郎、一度は承諾したものの、結局、体調がすぐれず欠席することとし、6月8日には記念帖を進呈しました。
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曰く

心臓をわるくしてゐてお祝に出られなかつた お二人は殊に心臓がおつよいといふ事だし それにあやかりたかつたが是非もなかつた たゞ新郎が心臓専門なのは心づよい 光太郎

ゲームとのタイアップ企画です。

宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー(「賢治フェスティバル×文豪とアルケミスト」タイアップ)

期 日 : 2022年10月1日(土)~10月30日(日)
会 場 : 
 宮沢賢治童話村(メイン会場) 花巻市高松26-19
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  (ライトアップ開催日は「賢治の学校」の閉館時間を7時まで延長します)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治記念館 花巻市矢沢1-1-36
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治イーハトーブ館 花巻市高松第1地割1-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 無料

 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

「文豪とアルケミスト」のキャラクターとして宮沢賢治・高村光太郎が登場している縁で、賢治フェスティバルと「文豪とアルケミスト」のタイアップ企画が実現。宮沢賢治関連施設と高村光太郎記念館を巡って、描き下ろしポストカードと童話村の森ライトアップ缶バッジをゲットしよう! 各館には等身大スタンディも!ぜひ全館巡ってみてください。スタンプラリーを通して、賢治と光太郎の郷「花巻」を再発見してみませんか?
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【企画1】宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー

(1)はじめに入館した施設の受付でスタンプカードを入手
(2)対象4館のうち、メイン会場「宮沢賢治童話村」と、サブ会場3館のうち2館のスタンプを集めて景品と交換
(3)残り1館も回って、スタンプカードを完成させよう!

  注)高村光太郎記念館には、公共交通機関で行くことはできません。
  往復タクシー&光太郎記念館入館券セットのお得なプランで、目指せコンプリート!
  申込先 花巻観光協会(電話:0198-29-4522)
  料金 6.000円

・花巻市内の温泉施設や花巻駅周辺にお泊まりの方は、観光タクシープラン「どんぐりとやまねこ号」午前コースのご利用もおすすめです。

・スタンプカードは、宮沢賢治童話村「賢治の学校」・宮沢賢治記念館・高村光太郎記念館ではチケット購入の際、受付にてお渡しいたします。イーハトーブ館は入館料無料のため、売店に申し出てください。
・景品の交換も各館の受付(イーハトーブ館は売店)にて行います。
・景品交換には、宮沢賢治童話村のスタンプが必須となります。童話村を除いた3館のみのスタンプでは景品交換の対象となりませんのでご注意ください。
・景品の在庫が無くなった場合は、住所・氏名をお伺いし、後日郵送いたします。
・各館ごとに検温・記帳をお願いしております。ご協力をお願いいたします。
・新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、会場・内容・期間等が変更となる可能性があります。

【企画2】「文豪とアルケミスト」パネル展
スタンプラリーのメイン会場「宮沢賢治童話村」では文豪とアルケミストのパネル展を行います。スタンプラリーと合わせてお楽しみください。

【企画3】「文豪とアルケミスト」描き下ろしクリアファイル販売
賢治フェスティバル×文豪とアルケミストのタイアップを記念して、描き下ろしイラストを使用したオリジナルクリアファイルを販売します!
賢治と光太郎が童話村の森ライトアップを楽しんでいる描き下ろしイラストは、文アルファンの方だけでなく、童話村の森ライトアップのお土産品としてもぴったりです。ぜひお買い求めください!

販売場所 宮沢賢治童話村「賢治の学校」、高村光太郎記念館
価格:400円 (1人5枚まで)

というわけで、ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画です。

これまでも全国の文学館さん等で同様の企画がありました。こういうと何ですが、花巻市さんは意外と保守的で、この手のイベントにはあまり乗り気ではないだろうと感じておりました(そこで当方もお勧めはしてきませんでした)が、実現しました。

メイン企画はスタンプラリー。賢治系の3館はほぼかたまって存在していますので、その気になれば東北新幹線新花巻駅から歩いてでも廻れます。
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ただ、高村光太郎記念館さんだけは、3館とは市街地を挟んで真逆の位置。かつてあった路線バスも途中までしか行けなくなってしまいましたし、本数も多くありません。だからといって、賢治系3館のみではなく、光太郎記念館にもぜひ足を運んでいただきたいところです。
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最寄りのバス停は岩手県交通さん「太田線」の「清風支援学校前」。ここから光太郎記念館まで徒歩1時間位です(笑)。しかも1日2往復、さらに土日・祝日は運行なし(笑)。まぁ、何と言っても旧太田村、光太郎が戦時中の翼賛活動を反省して蟄居のため自らを幽閉した場所ですから。
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または同じく岩手県交通さんの「湯口線」(昔の花巻電鉄の名残です)。「神明前」か「クレー射撃場前」が最寄りで、記念館までは徒歩1時間ほど。平日土日休日でダイヤが異なります。こちらの方が太田線より本数はありますが、歩く距離は長いような気がします。
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いずれも在来の東北本線花巻駅発。東北新幹線の新花巻駅ではありませんのでご注意を。新花巻から花巻までは、JR釜石線(こちらも本数が少ないのですが)でつながっています。

また、各バス停から歩くとしたら、熊に注意です(笑)。冗談ではありません。

ちなみに花巻駅から光太郎記念館までは、通常のタクシーだと片道3,000円台だったような記憶があります。そう考えると上記のタクシープランの方がお得ですね。

当方はほとんどレンタカーです(1度だけ自家用車で千葉から行ったことがありましたし、時折、地元のお世話になっている皆さんに泣きついて車を出していただいたり、公務の際には花巻市さんで車を出して下さったりすることもありますが)。レンタカー営業所は東北新幹線新花巻駅前に、ニッポンレンタカーさんとトヨタレンタリースさんがあります(在来線花巻駅周辺にはありません)。「私、ペーパードライバーで運転が怖い」という方もいらっしゃるかも知れませんが、花巻は大都会のように車も走っていませんので(笑)大丈夫です(別に花巻をディスっているわけではありませんのでよろしく)。

というわけで、ぜひ足をお運びください。また、スタンプラリーのポイントにはなっていませんが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどにもお立ち寄り下さると、なお幸いです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の美校卒業式に祝電を送る、「岩手の美世界の美となれ」


昭和29年(1954)3月5日の日記より 光太郎72歳

「盛岡の美校」は岩手県立美術工芸学校。校長の森口多里をはじめ、深沢省三・紅子夫妻舟越保武など、旧知の面々が教員として在籍していたため、旧太田村の山小屋に蟄居中(昭和20年=1945~昭和27年=1952)は、実際に時折訪れて生徒に講話をしたりしていました。光太郎自身も名誉教授就任を打診されましたが断っています。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京後も、節目節目には祝電等を寄せました。前年の祝電についてはこちら

昨日の続きで、高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』(2022年8月30日 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税)についてです。
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ちなみに同書、二重カバーとなっており、昨日は外側カバーの画像をあげましたが、こちらは内側のカバーです。

光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』。殆どの収録作品が高橋氏曰くの「大きなことば」(人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われる)で書かれています。

それに対し「小さなことば」(個人が個人的なことを書いて伝える)で書かれたアンソロジーも取り上げられています。山本和夫編『野戦詩集』(昭和16年=1941)。『詩集 大東亜』と異なり、実際に応召して日中戦争の戦闘に参加した詩人-それもマイナーな-6人による作品集です。6人は加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫。このうち西村は昭和19年(1944)に戦死しました。また、光太郎と交流のあった長島は、迫撃砲弾を受け、左目を失明しました。

6人の詩はいずれも戦闘の様子をを勇ましく謳ったものではなく、野戦病院での一コマや、炎熱下の行軍の苦しさなどを題材にしています。中には厭戦的ともとれるものも。「翼賛」思想の殆ど見られないこれらの「小さなことば」にこそ、芸術としての真価があると、高橋氏。なるほど、と思わされました。

ところで、『野戦詩集』、その帯には光太郎の推薦文が印刷されていたそうです。当方も現物は確認出来ていませんが。同一の(と思われる)文は昭和16年(1941)2月26日の『読売新聞』に掲載されました。

 支那事変に出征してつぶさに実戦の労苦に身を委ねた詩人の数も多いので、その詩人達の声をききたいとは誰しも思ふところであるが、丁度その希望に応へるやうにこの詩集が刊行せられた。集められたのは加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫の六氏の戦場詩である。大方は或は無事に、或は負傷して今は故国に帰還せられたのであるが、西村、風木の両氏はいまだに任務につかれて戦場にゐる。いづれの詩も皆戦闘の合間に野戦手帳や紙きれに書き付けられたものであつて、雨にぬれ汗によごれたものの中から抜書きされたものも多いやうである。さすがに詩人の個性は歴然として明かで同じやうな苦痛と死との中からも六氏それぞれの詩の世界は同様でなく、同じ緊張の中にもその人間観世界観の向き方によつてそれぞれの表現内容と発想形式とに特殊性を持つてゐて、決して一様の類型を示してゐない。かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出てその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。殆ど吃つてゐるやうな言葉遣さへあるがそれが又逆にその奥の実感を伝へてゐる。これを見ても人間の言葉はやはり信頼し得べきものだと思はずにゐられなかつた。こんな苦しい中で詩を書きおほせたこれらの詩人の精神に打たれた。

「大きなことば」で翼賛詩を書かざるを得ない立場にあった光太郎も、「小さなことば」で書かれたこのアンソロジーの本質を鋭く見抜いていることが分かります。

残念ながら『ぼくらの戦争なんだぜ』では、この光太郎の評について言及されていません。高橋氏が入手されたという『野戦詩集』、帯が無くなっていたのでしょう。高橋氏によるこの評の「評」を読みたいものだと思いましたが。

その後、高橋氏の筆は、大岡昇平、林芙美子ら、そして太宰治へと続いていきます。特に太宰の項には力が入っており、さらに今後も書き継がれるおつもりだとのこと。

ところで、『東京新聞』さんに同書の書評的な記事が出ていました。

<土曜訪問>知る努力を絶えず 「戦争」を考える新著を刊行 高橋源一郎さん(作家)

takahasi 終戦から七十七年の今年、戦争は決して過去のものではないのだとあらためて突き付けられたのが、ロシアによるウクライナ侵攻だった。いま、戦争について何を知り、どう考えればいいのか。作家の高橋源一郎さん(71)は、先月刊行した新著『ぼくらの戦争なんだぜ』(朝日新書)を、こうした問いへの「一つの回答」と位置付ける。
 「中途半端な知識ではなく、戦争についてちゃんと語れるようにするために必要な知識は何だろう、と。無垢(むく)な疑問を発するのが一番大切なことじゃないか、という考え方です」と高橋さんは説く。
 四百七十ページ超の本書は、書かれた言葉を通して昭和の戦争を考えていく。戦時下の日本の教科書、戦後のドイツやフランス、韓国の歴史教科書。戦中の詩、戦争を扱った小説などを取り上げ、丁寧に読み進めながら、思索を重ねる。
 例えば、戦中の対照的な詩集を示して考えるのは、「大きなことば」と「小さなことば」。<人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」>だとして例に挙げるのは、太平洋戦争末期の一九四四年に刊行され、高村光太郎ら有名詩人の作品を収めた『詩集 大東亜』(日本文学報国会編)。戦争協力詩が並ぶ。
 <彼らと同じことが起こりうる、とぼくは思う。というか、起こっているのかも、とぼくは思う>と高橋さんは書く。社会の中で「大きなことば」が人々をとらえて破壊していく、いわば「見えない戦争」はずっと続いているのではないか−というかねての問題意識からだ。
 「大きなことばって、思考停止を誘う、議論が起きない言葉でしょ。言葉ですらない、空気、雰囲気かもしれない。そういうものはずっとこの国にある、ということですよね」
 対して、<個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」>であるとして、中国に出征した兵士六人の詩を集めた『野戦詩集』(山本和夫編、四一年)を見る。取り上げた約二十編は、進軍にうつむく現地の人の姿を見逃さなかったり、戦場のあちこちに倒れた馬にまなざしを向けたり、<戦争は/何でこんなにものを忘れさせるんだらう>とつぶやいたり。作者の実感を伴う言葉が胸に迫る。偶然手に入れたという同詩集の書き手に、有名な詩人はいない。しかし、「奇跡のような優れた詩集」と高橋さんは絶賛する。
 同様に着目した一人が、太宰治(一九〇九〜四八年)だ。ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、創作期間がほぼ戦時下と重なる太宰の作品をあらためて読んだ。「戦時下で作家はどう書くべきか、考えて書いていたと思うんですよね」。太平洋戦争開戦の日を主婦の日記という形でつづった短編「十二月八日」などを挙げて、太宰の意図を読み解く。
 「あの時代、大きいものに巻き込まれないことは難しい。でも、それぞれのやり方を模索していた人たちがいたことは、勇気づけられました」と高橋さんは言う。では、いかなる時も、言葉に支配されないための手だてとは何か。「自分で自分の疑問を解決していくということと、何かを知る努力を絶えず続けるということですよね」
 十四年間、教壇に立った明治学院大を二〇一九年三月に退官。「僕が勉強になりましたよね。人に教えるっていうのは、作家と読者の関係みたいだなあとか思って」と振り返る。二〇年からは、毎週金曜にNHKラジオ第一の番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」を持ち、自身で選んだ一冊やゲストとの対話を通して社会を考える。
 近ごろ、気になっているのは社会的な検閲。以前より書きにくさを実感しているという。「絶えず考えてなきゃいけない、ということですよね。思考停止することなく」。言って、ふとにっこり笑って「でも、考えたらさ」と続ける。
 「小説って、細かい、ほんのちょっとした人の気持ちのずれみたいなものを描いているんだよね。世界の本当にささやかな違いみたいなものを、絶えず念頭に置くのが作家の仕事だから」 

さて、同書、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

平凡社の中島洋典といふ人くる、書道全集推せん文のこと、


昭和29年(1954)2月16日の日記より 光太郎72歳

推せん文」は、「書を見るたのしさ」の題で、平凡社の「書道全集」の内容見本に掲載されました。同全集には、のちに第7巻「中国 隋、唐Ⅰ」の月報にも「黄山谷について」の一文を寄せています。

戦時中の翼賛詩文を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送っていた頃、自らへの罰として封印していた彫刻の代わりに、数多くの優れた書を光太郎が残したことは広く知られていたようで、こうした依頼があったのでしょう。

新刊、といっても1ヶ月近く経ってしまいましたが……。

ぼくらの戦争なんだぜ

2022年8月30日 高橋源一郎著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税

◯戦場なんか知らなくても、ぼくたちはほんとうの「戦争」にふれられる。そう思って、この本を書いた。
◯教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。
◯古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。 太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。
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目次
まえがき
第1章 戦争の教科書
 1・ニッポンの教科書
  あたらしいこくご 教科書なんかつまらないとずっと思っていた
   教科書の中にある、もうひとつのことば、戦争のことば
   ぼくたちの父や祖父は、子どもの頃、こんな教科書を読んでいた
 2・ドイツの教科書、フランスの教科書
  人の心を萎えさせるような、断固とした「声」 歴史をためらいがちに語る「声」
 3・その壁を越える日
   植民地からの「声」 ぼくたちがたどり着く場所
第2章 「大きなことば」と「小さなことば」  
  戦争と記憶、庶民の戦争 『この世界の片隅に』の語り方 戦争なんか知らない
  「大きなことば」と「小さなことば」 「大東亜」なことば 「ひとすぢのもの」
  「小松菜つむ指の露深き黒土に濡れ」 「こつこつと歩いて行く」
  ぼくたちは戦場へ行った 幻の詩集 加藤さんのことば 西村さんのことば
  長島さんのことば  佐川さんのことば 風木さんのことば
  最後に、山本さんのことば
第3章 ほんとうの戦争の話をしよう  
 1・正しい戦争の描き方
   ほんとうの戦争の話をしよう 死の国にて
 2・彼らの戦争なんだぜ
   「遠い」ということ  統合失調症とされた作家たちのことば すべてが「遠い」小説
  『野火』がたどり着いた場所
第4章 ぼくらの戦争なんだぜ  
 その1・ごはんなんか食べてる場合じゃない
 その2・女たちも戦争に行った
   「平時」の思想 彼女は戦争に行った
 その3・ぼくたちが仮に「戦場」に行ったとして、最後まで「正常」でいるためには
   「私」は撃たない
 その4・戦場から遠く離れて
   ふたつの「国」と「ことば」の間に生まれて 夢の世界をさまよって
第5章 「戦争小説家」太宰治
  加害の国の作家 ずっと戦争だった 小さな二つの小説 「真の闇」の中を歩く
  文学のために死んでください 純情多感の一清国留学生「周さん」のこと
あとがき

光太郎をはじめ、あまたの文学者たちが、十五年戦争下でどのような作品を書き、その裏側にはどんな思いがあったのかを考えることで、この時代を生きる一助とすべし、というコンセプト。

 「悪」が、過去の一点に留まっている限りは、「声」は冷厳であることができる。それに近づくよう、学生たちに示唆することができる。その「悪」というものを注視するように、と。けれども、「悪」が、いまも生まれつつあるとしたら? それが、克服すべき「過去」であるというより、たえず、自分たちの身体からにじみ出す膿のようなものだとしたら、どうすればいい? 「たえず攻め寄せる影の力」と戦うためには、彼らは、いや、ぼくたちはどうすればいいのだろうか。
(第1章 戦争の教科書)

そのためには「ことば」に注意することが必要だと、高橋氏。

 「大きなことば」は、「民主主義」とか「天皇」とか「神」といったことばだ。そのことばだけで、数百万、数千万の人たちを一瞬のうちにあやつることができるようなことばだ。そういったことばは「強い」。そして「強い」ことばは、人を支配することができる。
 それに対して「小さなことば」あある。それは、個人的な経験を、「大きなことば」を使わずに書き記したときに現れる。だから、多くの人たちに興味を持たれないことも多い。気づかれないことだってある。たいしたものだとも思われない。
 ヒットラーのような独裁者は「大きなことば」を使うのが好きだ。その「大きなことば」の中には、民俗や歴史に関する「大きな記憶」も出てくる。「戦争」を産み出し、継続させ、そこに人々を動員してゆくのは、こういった「大きなことば」だ。
(略)
 個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」だ。それに対して、人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」だ。
(第2章 「大きなことば」と「小さなことば」)


「ウクライナをネオナチから解放する」などは、「大きなことば」の典型例ですね。少し前にほざかれていた「美しい国、日本」「一億総活躍社会」なども。

高橋氏、この「大きなことば」と「小さなことば」の例として、光太郎作品を挙げています。智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)は「小さなことば」、逆にステレオタイプの「大きなことば」として、光太郎が序文を書いたアンソロジー『詩集 大東亜』(昭和19年=1944)の、その光太郎による序文。

 ただ是れ利のゆゑに吾が神国を窘(たしな)めんとする米英等醜(しこ)のともがらを悉く打ち祓ひ、吾が神ながらの道と力と徳とによつて世界をすすぎ清めんとする此の聖戦のみ旨を、われら臣民一人として知らざるはない。(略)願はくはわれら皇国の詩人が心をこめた此の一巻のささげものに、われらが神と人との善きいつくしびあらんことを。

馬鹿馬鹿しくて全文を引用する気になれませんが、この三倍ほどの分量です。それこそAIでも書けるような(笑)。

なぜ『智恵子抄』の詩人が、こんな「大きなことば」を振りかざす軍部のメガフォンと化してしまったのか……。余談になりますが、当方、今年の12月、日本詩人クラブさんの12月例会で、このあたりを根幹とする講演をさせていただくことになっております。
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閑話休題。高橋氏、『詩集 大東亜』に収められた諸詩人の作を引きつつ、一刀両断。その中には光太郎詩「軍人精神」も含まれます。

 高村さんの詩には、高村さんがいない感じがする。そういうと、変に聞こえるかもしれない。これは、確かに、高村さんが書いた詩じゃないか、って。
 いや、ぼくがいいたいのは、そういうことじゃない。
 高村さんという個人、きちんと、なんでも自分の責任で考えることができる、主体をもっていることを、個人というのなら、高村さんという詩人は、ここにはいない。
 詩を書くのが上手で、有名な詩人で、日本の詩人オールスターズの代表格で、『智恵子抄』の作者で、そういう高村さんはいて、その高村さんは、詩を書いた。
 その高村さんが書いた詩は、空っぽな感じがする。空っぽ、というのはm心ここにあらず、という状態で書いている感じがする、ということだ。
 きちんと考えたら、あんな詩、書かないでしょう。


このあたり、今年8月15日(月)にオンエアされたNHKラジオ第1さんの「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」2022」でも、同様の試みをなさっていました。

『詩集 大東亜』、当方も持っていますが、あまりに馬鹿馬鹿しくて全篇は読んでいません。今回、『ぼくらの戦争なんだぜ』を読んで、「こんな詩も載っていたのか」と思った詩も載っていた次第です。特にひどいと思ったのは、光太郎とも親しかった堀口大学の「あとひと息だ」という詩。

国運賭けたみいくさに/しこのみ楯と戦つて/命ささげた増荒男の/不滅のてがら忘れまい//東亜を興す大使命/いまの痛みは生みの苦だ/鬼畜米英ないあとは/民十億の楽園だ//敵もさるものさればとて/邪は正に勝ちがたい/勝つときまつたみいくさだ/あとひと息だ頑張らう

高橋氏曰く、

 それにしても、この詩を、堀口さんは、「本気」で書いたのだろうか。現実の戦争で連戦連敗、国内では、連日の空襲に、食べるものにも事欠く日々。それなのに、「敵もさるものさればとて 邪は正に勝ちがたい 勝つときまつたみいくさだ あとひと息だ頑張らう」って、めちゃくちゃじゃないだろうか。こんな詩を読んだら、まともな人は、「もうダメだ、やっぱり負けるんだな」と思うはずなんだけど。けれども、堀口さんは、平気でこんな詩を書き、みんなは、平気で読んだのだ。大丈夫か、昭和十九年のニッポンの詩人たち、読者たち。

激しく同意します。もっとも、堀口には堀口の事情があったのかもしれませんが……。

『詩集 大東亜』に作品を寄せた多くの有名詩人たちは、ほぼみんなこんな感じでした。他にも同様のアンソロジーは数多く存在し(手許に40冊ばかりあります)、また、アンソロジー以外でも新聞雑誌はこぞってこうした愚にもつかない翼賛詩を掲載し続けました。

『詩集 大東亜』収録作ではありませんが、こんな詩もありました。

  ビルマ独立をうたふ002

アジヤは一つの家族。
いたいけな妹ビルマは
永らく別れて他人の家で
つらい 悲しい日を送つた。
待ち焦れた晴れの日、
独立の日がビルマにも来た。
燦たる孔雀の旗が
瑠璃の空を飛翔する日が。
ビルマの娘たちは、茴香(ういきやう)や
睡蓮の花をつんで捧げる。
みほとけの前に、又、たよる肉親
ををしい日本の兄の胸に。


「ビルマ」は現・ミャンマー。イギリス統治下にあったため、日本軍が進攻、昭和18年(1943)に名ばかりの「独立」を宣言しました(実体は日本軍の傀儡政権)。その「独立」を言祝ぐ詩ですが、作者は金子光晴です。この年10月の雑誌『日本少女』第23巻第7号に掲載されました。

一般に、金子光晴というと、翼賛詩を書かなかった抵抗の詩人と言われています。『ぼくらの戦争なんだぜ』でも、高橋氏、「ニッポン中の詩人たちが「戦争」に向かって雪崩(なだ)れ落ちていった中で、たとえば、たくさんの詩人が『詩集 大東亜』に参加していった中で、金子は、戦争詩を書かず、息子を戦地に送らぬためにあらゆる智恵をふりしぼった」としています。ちなみに「あらゆる智恵」は、息子を部屋に閉じこめて松葉を燃やして燻し、肺炎にかからせて徴兵を免れさせたことなどを指します。それはともかく、残念でした。書いてますから。

金子の翼賛詩は他にも。「抒情小曲 湾」(『文芸』昭和12年=1937)から。

戦はねばならない 必然のために、 勝たねばならない 信念のために、 一そよぎの草も 動員されねばならないのだ。 ここにある時間も 刻々の対峙なのだ。 なんといふそれは すさまじい壮観!

散文でも。昭和17年(1942)11月の『日本学芸新聞』、「大東亜文学者大会号」から。

  大東亜文学者大会に就て

 大東亜の文学者を一堂に聚(あつ)めるといふ日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与へるといふ本質的な意義がのこることになるとおもふ。少なくともこの挙を機会に、大東亜の国々の文学者は、日本に糧をえやうとして大きな期待を持つだらう。
(略)
 今日、我々は糧を与へねばならない幼弱な国々を周囲に持つことになつた。
(略)
 殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与へるべき糧について慎重に考へて欲しい。与へる方法にも相当技術を必要とするやうに思ふ。衝にあたる日本の文学者は、先づ共栄圏内の他民族を出来うる限り知つてほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんたうの糧となるものを考へてほしい。
(略)


何という「上から目線」でしょうか。金子をディスるのが目的ではありませんので、この辺りで止めますが。まさに高橋氏曰くの「大きなことば」ですね。

この後、高橋氏の筆は、「小さなことば」で書かれた兵士の詩作品などに及んでいきます。が、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

雪ふる、一寸余つもる、 終日人来ず、 揮毫(奥平さんの帖)、銀粉で地に雨をかき、リンゴの詩を書く、


昭和29年(1954)2月14日の日記より 光太郎72歳

東京には珍しい雪。おかげで来訪者もなく、集中して揮毫に取り組めました。「奥平さんの帖」は「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。
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平成5年(1993)にアメリカで創刊されたICT系の雑誌『WIRED』さん。日本版も発行されています。9月14日(水)発行のVOL.46、クリエーター・川田十夢氏による連載「Way Passed Future 川田十夢の「とっくの未来」」が、「第23回 プロンプトエンジニアリングと『智恵子抄』」。
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「プロンプトエンジニアリング」とは、AI(人工知能)の思考を人間が補助すること。18世紀・明治前半生まれの光太郎と最新テクノロジーのAIがどう結びつくのか、と思って拝読しましたが、なるほど、と思わされました。ちなみに言わずもがなですが、記事に添えられた右上イラストでゴーグルを装着しているのが光太郎、見つめる先はブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)です。

日進月歩のAI技術ですが、まだまだ、という部分が多いようです。川田氏、いわゆる「お絵描きAI」を例に挙げられています。数年前には元になる画像を与え、それをアレンジするのが限界だった「お絵描きAI」。最近は任意の言葉を与えればグラフィックを生成してくれるまでに進化しているそうです。

しかし、そうして作られるグラフィックは、川田氏いわく「クリシェ」。仏語で「 cliché」、「常套句、決まり文句」の意です。誰もがイメージするような当たり前のグラフィックしか書けない、ということですね。ちょっとしたカットなどに使う程度ならそれでいいのでしょうが、それを芸術作品として世に出せるかと問われれば、否、というわけです。

そこで、「それがAIの限界だからそこまででいい」としてしまうのでなく、「プロンプトエンジニアリング」のスキル向上が必要だ、という論旨です。

例に挙げられるのが光太郎。「緑色の太陽」(明治44年=1911)、「触覚の世界」(昭和3年=1928)などの美術評論、文学評論の「詩について語らず」(昭和25年=1950)、さらには詩「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを引用しつつ、光太郎の為し得た対象認識を良しとしています。視覚、触覚を通しての物体に対する把握、そして様々な事象を言語によって表現すること、そのどちらにも光太郎は並外れた能力を持っていて、今後、「プロンプトエンジニアリング」にはそうしたスキルが必要だというのです。

川田氏曰く「最新テクノロジーを駆使するために人間側に改めて求められてくる能力は何だろう。卓越された言語能力、そして空間把握能力にほかならない。その手本になる人物が日本には存在した。高村光太郎である」。光太郎の歩んだ道程、残した業績の数々を思う時、この文言は決してほめすぎとは言えないでしょう。

もっとも、川田氏、元々光太郎ファン的な部分がおありのようで、やはり『WIRED』誌の4月号(VOL.44)の同じ連載でも光太郎に触れて下さっていました。そちらは「能と拡張現実」というサブタイトルで、光太郎の評論「能の彫刻美」(昭和19年=1944)が引かれています。他に高浜虚子、夢野久作なども。
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こうした過去の範とすべき人物や事象に学ぶ姿勢-「温故知新」とでも申しましょうか-こそ、かえって最新のテクノロジーには欠かせないのではないかと、改めて考えさせられました。

というわけで、『WIRED』誌、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

胸像の骨つくり、鉛管、  昭和29年(1954)2月6日の日記より 光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。この日から本格的に制作を開始しました。

新刊、というより稀覯書の覆刻、さらに2ヶ月ほど経ってしまっていますが……。

石川善助詩集『亜寒帯』復刻版

2022年6月27日 石川善助著 モリナカヒデキ編 あるきみ屋 定価990円(税込み)

詩集『亜寒帯』は1936年に刊行された石川善助の唯一の詩集であり遺稿詩集です。編纂は逸見猶吉、草野心平、宍戸儀一。装幀は亀山巖。1970年に名著刊行会から再刊されて以来、52年ぶりに北海道の小さな版元から復刻されました。

石川善助は1901年仙台市国分町の生まれ。さまざまな職業に就きながら詩作や民話研究に励んだ後、27歳の時に上京しました。小森 盛、高村光太郎、草野心平、尾形亀之助、佐藤惣之助ら多くの詩人と知り合い、とくに草野心平とは自宅に居候するほど親交がありました。また、宮沢賢治とはお互いに才能を認め合う仲で、善助の死後、追慕を綴った賢治の手紙が残されています。

善助は1932年に酒に酔った帰り道に誤って線路脇の側溝に転落し、31歳の若さで生涯をとじました。生前に詩集は刊行されませんでしたが、友人たちによって没後4年目に詩集『亜寒帯』が刊行されました。序文は高村光太郎。

<彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。〜詩集『亜寒帯』序文より〜>

本書は北海道根室市のあるきみ屋によって原本に近い形で、2022年、善助の命日である6月27日に復刻されました。合わせて、宮沢賢治「石川善助に」、「宮沢賢治と児童文学」編者執筆、郡山弘史「亜寒帯の詩人」、「石川善助と草野心平」編者執筆を収録。さらに別冊で詩集「亜寒帯」用語の手引きと、石川善助作・童話「海豹と市長」が付いています。

仙台市太白区の愛宕神社の山門脇には詩碑「化石を拾ふ」が広瀬川を見下ろすように今も立っています。
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石川善助(明34=1901~昭7=1932)。当方は光太郎との絡みで存じていましたが、一般にはほとんど忘れられつつある名ではないかと存じます。

光太郎が序文を書き、没後に刊行された唯一の詩集『亜寒帯』が覆刻されました。おそらく商業ベースでは採算が取れるかどうかと云う出版と存じますが、敢行なさった版元の英断には敬意を表します。

死後、地元の友人が編集・発行した随筆集『 鴉射亭随筆 』に寄稿された宮沢賢治の「石川善助に」を収録、さらに編者・モリナカヒデキ氏による、石川と賢治や当会の祖・草野心平との関係に触れた解説つきだそうです。

また、附録として石川の童話「海豹と市長」、用語解説集が付いているとのこと。
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ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午前九時35分常盤線花巻行、 みちのく号、草野君、難波田君同車、食堂にてビール、 夕方七時花巻着、清六さん等出迎にゐる、

昭和28年(1953)11月25日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに岩手に帰りました。このあと、12月5日まで滞在します。

当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで過ごし、気候のいい時期には花巻郊外旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

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