カテゴリ:文学 > 短歌

5月29日、大阪府堺市の覚応寺にて執り行われた第32回白桜忌。当日は報道関係者がいらしていたので、ニュース等になっていないかと検索したところ、翌日朝のNHKさんのローカルニュースで報道されたらしいことがわかりました。  

与謝野晶子 命日に法要

明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子の命日のきのう、出身地の堺市にある寺で法要が営まれました。
与謝野晶子は明治11年に現在の堺市堺区の菓子店を営む家に生まれ、当時の代表的な歌人として歌集「みだれ髪」など数々の作品を残しました。
ことしは没後72年にあたり、命日のきのう、晶子ゆかりの寺として知られる堺区の覚応寺で法要が営まれました。
晶子のファンなどおよそ80人が参列し、晶子に思いを寄せて詠んだ短歌や俳句を披露しました。
ことしは晶子が日露戦争に従軍する弟を思って作ったとされる詩「君死にたまふことなかれ」が詠まれて110年の節目で、地元のコーラス隊がこの詩を合唱しました。
このあと晶子の研究を続けている元大学教授の女性が講演し、「この寺には晶子が書いた手紙が残されており、晶子が若いころから情熱的な恋愛をしていたことがうかがえる」などと人物像について語りました。
法要の実行委員会の代表の阿部恵子さんは「晶子は堺が生んだ財産です。2度と現れないようなスケールの大きな自立した女性でした。
晶子のすばらしさを伝えていきたいです」と話していました。
 
 
暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、花巻の高村祭などもそうですが、こうした文化活動、地域の地道な取り組みなどにももっともっと光を当てていただきたいものですね。
 
ちなみに本日発行の花巻市の広報紙『広報はなまき』に、高村祭の模様が報じられています。  

光太郎への思い いつまでも

本市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第57回高村祭」が5月15日、太田の高村山荘詩碑前で開かれました。
光太郎の遺影に献花と献茶が行われた後、参加者全員で詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読。続いて地元小中学生や高校生などが楽器演奏や合唱、詩の朗読を披露し、訪れた市民など約700人とともに光太郎の生涯に思いをはせました。
特別講演では、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、光太郎との縁、命名のエピソードなどを語りました。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月1日
 
明治45年(1912)の今日、雑誌『青鞜』に、智恵子の散文、「マグダに就て」が掲載されました。
 
『青鞜』において、智恵子が描いた2種類の表紙絵が繰り返し使われましたが、意外なことに文章はこの1篇のみです。
 
「マグダ」とは、ズーダーマン作・島村抱月訳の戯曲「故郷」の主人公。文芸協会の第三回公演として、松井須磨子により演じられました。

5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。
 
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昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
 
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。
 
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しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
 
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
 
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

来月開催される音楽イベントを二つご紹介します。 

第九回 邦楽器とともに 新しい日本歌曲の夕べ ~再演作品を揃えて

日時 2014年6月2日(月) 18:30~
料金 3,500円
曲目 出演 
 「冬の雅歌」〜句集「途上」より〜  高原桐[詩] 松村百合[曲]
     伊藤香代子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛] 三森未來子[チェロ] 大上茜[琵琶]
 「七夜月」「花のみちゆき」-「恋ひ歌」三章より-  伊豆裕子[詩] 小山順子[曲]
    山本有希子[ソプラノ] 福永千恵子[十七絃] 野澤徹也[三絃]
 「天女」  太田眞紗子[詩] 小室美穂[曲]
    林廣子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛]
 「宵待人」 木下宣子[詩] 池上眞吾[曲]
    武田正雄[テノール] 池上眞吾[筝] 平野裕子[十七絃] 田嶋謙一[尺八]
 「荒涼たる帰宅」 高村光太郎[詩] 田丸彩和子[曲]
    福嶋勲[バリトン] 設楽瞬山[篠笛・尺八] 岩佐鶴丈[薩摩琵琶]
 「アダジオ」 齋藤磯雄[詩](フランソワ・コペ原詩)千秋次郎[曲]
    関根恵理子[ソプラノ] 重成礼子、木村麻耶[筝]
 「しだれ桜ー紫の上ー」 藤井慶子[詩] 高橋久美子[曲]
    百合道子[メゾソプラノ] 松尾慧[篠笛] 久保田晶子[琵琶]
 「鑿(のみ)と桜」 山根研一[詩] 中島はる[曲] 
  
  森田澄夫[テノール] 砂崎知子[筝] 田辺頌山[尺八]
 
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同じ波の会さん主催で昨年も「荒涼たる帰宅」が演奏されたコンサートがありました。
 
 
もう一件、直接は光太郎と関わりませんが、連翹忌ご常連の作曲家・仙道作三氏によるものです。 

ひとりオペラ「与謝野晶子みだれ髪」(全2幕8場)

日時 2014年6月7日(土)昼:午後3時30分開演・夜:午後7時開演(各30分前開場)
主催 命と愛のメッセージ委員会 センドー・オペラ・ミュージカル・カンパニー
料金 前売4,000円、当日4,500円
出演 山口佳子(ソプラノ) 矢島祐果(朗読) 水村浩司(Vn) 白佐武史(Vc)
   菊地邦茂(Pf) 斉藤裕子(Perc)
作曲・演出・指揮 仙道作三
台本 持谷靖子

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作曲の仙道氏は、オペラ「智恵子抄」も作曲なさっています。この「与謝野晶子みだれ髪」は平成20年(2008)の初演だそうです。
 

与謝野晶子は光太郎と縁が深く、当方、このところ晶子に対する関心も高まってきており、聴きに行くことにしました。
 
それぞれ上記主催団体リンクから申し込めますので、001よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月21日
平成9年(1997)の今日、日本コロムビアからCD「ボニージャックスの日本の唱歌」がリリースされました。
 
光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩くうた」が収録されています。
 

光太郎と深い関わりのあった与謝野晶子の忌日・白桜忌が開催されます。

第32回 白桜忌

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
逸見久美氏による講演、堺市更生保護女性会コーラス部による合唱を予定しています。

【日 時】5月29日(木曜)午後1時30分から
【場 所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ約100メートル 堺市堺区九間町東3-1-49)
【参加費】1,000円
【主 催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
◇講演会「想い出すままに -与謝野晶子・寛の研究より-」
〈講師〉逸見 久美
◇合唱「君死にたまふことなかれ」他
〈出演〉堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会 電話:072-258-0948
 
白桜忌には昨年、はじめて参加させていただきました。今年はどうしようかと思っていたところ、記念講演の講師が、今年の連翹忌にご参加下さった逸見久美先生とのことで、これは行くしかない、と思っております。
 
昨年は京都嵯峨野大覚寺新たに見つかった光雲の木彫を観るのを兼ねての強行日程でしたが、今年は他用がないので、堺で晶子生家跡などを見て回ろうと思います。
 
白桜忌、特に事前申し込み等は不要です。ぜひ足をお運びください。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月13日
 
平成18年(2006)の今日、仙台文学館で開催されていた「高村光太郎智恵子展―その芸術と愛の道程―」の関連イベントとして、北川太一先生の記念講演「高村光太郎のみちのく」が行われました。
 
おまけ
当ブログ、閲覧数40,000件を超えました。ありがとうございます。

昨日、長野県の碌山美術館さんの館報をご紹介しましたが、お隣山梨県立文学館さんからも最新の館報を頂きました。ありがとうございます。
 
昨秋開催された企画展「与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ」の報告が掲載されています。
 
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4/2(水)の連翹忌には、同館の三枝昻之館長と、同展担当学芸員の保坂雅子さんがご参加の予定です。
 
それから4/12(土)から開催される企画展「村岡花子展 ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ~」について詳しく紹介されています。
 
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NHKの朝ドラ、来週から「花子とアン」の放映が始まりますから、非常にタイムリーですね。
 
村岡花子は甲府出身。日本で初めて「赤毛のアン」を翻訳紹介しています。
 
年齢的には光太郎のちょうど10歳下です。残念ながら『高村光太郎全集』には村岡の名は出てきません。しかし、光太郎が詩部会長だった戦時中の日本文学報国会で、村岡も女流文学者委員会の委員を務めていますし、昭和17年(1942)11月に開催された大東亜文学者会議には、二人とも参加しています。おそらく面識はあったでしょう。また、詩人の永瀬清子、編集者の前田晁など共通の知人も多く、そういった部分での接点もありました。
 
NHKの朝ドラ「花子とアン」、戦時中の村岡をどのように描くか、非常に興味があります。別に戦争協力を糾弾するわけではありません。日本文学報国会にしても、加入していなかった文学者を捜す方が難しい状態で、当時としては、ある意味しかたのないことです。
 
先月亡くなった「ぞうさん」のまど・みちお氏にしても、戦時中には戦争協力の詩を書いています。まどさん自身、それを隠さず平成4年(1992)に刊行された『まど・みちお全詩集』にそれらを収録、さらに「あとがき」ではその点や、戦後には一転して反戦運動に関わるようになったことを、流される自分のなさけなさとして述懐しているそうです。
 
光太郎も戦後は花巻郊外太田村での隠遁生活を「自己流謫(=流刑)」と位置づけ、あえて不自由な生活を続けました。
 
そのあたり、村岡がどうだったかというのが興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和27年(1952)の今日、NHKラジオ放送「朝の訪問」のため、花巻温泉松雲閣で、詩人の真壁仁と対談しました。

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松雲閣 戦前絵葉書

昨日、山梨県に行って参りました。
 
山梨県立文学館さんで開催中の「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」観覧のためです。
 
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同館は平成19年(2007)には企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催、今度は光太郎と関連の深い晶子の企画展ということで、馳せ参じました。
 
昼食時間帯に現地に着き、文学館の目の前にある「小作」さんに入りました。当方、山梨に行くことも多く、そのたびにここで山梨の郷土料理・ほうとうを食べています。
 
偶然にも文治堂書店さんの勝畑耕一氏が友人の方とお二人で食事に見えられ、驚きました。勝畑氏、今春、『二本松と智恵子』というジュブナイルを上梓されています。やはり晶子展を観にいらしたとのこと。
 
他にも文治堂さんでは光太郎に関わる書籍を何点か刊行して下さっており、ありがたい限りです。
 
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さて、いざ会場へ。
 
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晶子の生まれ育った大阪堺の菓子商・駿河屋関連に始まり、女学校時代、『明星』時代、『みだれ髪』前後、渡欧、古典研究、そして晩年と、ドラマチックな晶子の生涯が俯瞰できる数々の資料が並んでいました。
 
短歌以外にもその才能を遺憾なく発揮した詩(日露戦争に出征した実弟に対して語りかける「君死にたまふこと勿かれ」など)、小説、童話、評論などの活動もテーマ別に紹介されていました。
 
やはり実物を見ることで、晶子なら晶子の「息吹」のようなものを感じます。画像で見るのとは違いますね。
 
そして「晶子と「明星」の人々」ということで、光太郎、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎に関する展示も。
 
光太郎関連は初めて光太郎の短歌が載った明治33年(1900)の『明星』(先日の【今日は何の日・光太郎】でご紹介しました。)、光太郎の書いた晶子の戯画が載った明治43年(1910)の『スバル』(巳年ということで、当方、今年の年賀状に使いました。晶子が口から蛇を吹いています。)、光太郎が装幀した鉄幹の歌集『相聞』(明治43年=1910)などが展示されていました。
 
光太郎のコーナー以外にも、光太郎に関わる資料が点々とあり、光太郎と与謝野夫妻の縁の深さを改めて実感しました。晶子の歌集『流星の道』(大正13年=1924)には「高村光太郎様に捧ぐ」の献辞がありますし、遺作となった歌集『白桜集』(昭和17年=1942)の序は光太郎が執筆しています(雑誌『冬柏』に載ったものの転載ですが)。それから光太郎が扉の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)も展示されていました。
 
また、晶子の短歌も載った合同作品集『白すみれ』(明治39年=1906)も展示されていましたが、この装幀も光太郎だという情報があり、こちらは調査中です。確定すれば光太郎が手がけた最初の装幀ということになるのですが、はっきりしません。この件については稿を改めて書きます。
 
さらに、晶子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号の巻頭を飾った詩「そぞろごと」を執筆しており、こちらも展示されていました(復刻版でしたが)。この詩は「山の動く日来る」で始まるもので、『青鞜』主宰の平塚らいてうはこの詩にいたく感動したそうです。ただ、のちにらいてうと晶子はいわゆる「母性保護論争」で論敵同士となりますが。
 
展示をざっと見終わった後、担当学芸員の保坂雅子様による講座「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」を拝聴しました。晶子は10回ほど山梨県を訪れており、その経緯や作品の紹介でした。光太郎とも親交のあった山梨出身の詩人、中込純次が絡んでおり、興味深いものでした。
 
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講座修了後は保坂様によるギャラリートークもあり、もう一度展示室へ。先ほどはざっと見たたででしたので、今度は詳しい解説付きで観られ、ラッキーでした。
 
展示の後半は講座にもあった晶子と山梨関連の資料の数々でしたが、「百首屏風」などの自筆の書、写真など、関係者の方々がよくぞ散逸させずに遺しておいてくれた、という感じでした。
 
そして保坂様は今回の企画展全体を担当され(当然、図録の編集もでしょうし)、昨日は講座にギャラリートークと、八面六臂の大活躍です。ご苦労様です。
 
というわけで、なかなか立派な企画展です。会期は11/24まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月25日

大正3年(1914)の今日、第一詩集『道程』が刊行されました。
 
『明星』時代には秀抜な「歌人」であった光太郎ですが、海外留学を経て、明治42年(1909)頃から「詩人」へと変貌します。後に「短歌では到底表現し尽くせない内容をもてあまし、初めて自分でも本気で詩を書く衝動に駆られた。」(「詩の勉強」昭和14年=1939)と語っています。
 
社会的には大逆事件や日韓併合、光太郎の身辺でも盟友・荻原守衛の死やパンの会の狂騒といった出来事があり、光太郎自身、自己の目指す新しい彫刻と、光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界の隔たりに悩み、吉原の娼妓や浅草の女給との恋愛、画廊琅玕洞の経営とその失敗、北海道移住の夢とその挫折など、まさに混沌とした時代でした。
 
そして智恵子との出会いをきっかけに転機が訪れ、とにかく自分の道を自分で切り開くベクトルが定まります。
 
おそらくは2ヶ月後の智恵子との結婚披露を控え、それまでの自己の「道程」を振り返り、一つのしめくくりとして、この『道程』刊行が思い立たれたのでしょう。
 
回想に依れば、光雲から200円を貰って、刊行部数200部ほどの自費出版。まだ口語自由詩が一般的でなかったこの時代を突き抜けた詩集は、一部の人々からは強い関心を持って受け止められましたが、ビジネスライクの部分では散々でした。後に残本を奥付だけ換えて改装し、何度か再生品を刊行しています。国会図書館の近代デジタルデータに登録されているのはこれです。のちに近代文学史上の金字塔となるとは、誰も思っていなかったことでしょう。 
 
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画像は当方所蔵の初版『013道程』です。残念ながら刊行時に着いていたカバーは欠落しています。
 
ちなみに大正3年(1914)は99年前。つまり、来年は『道程』刊行100周年ということになります。
 
表題作「道程」もこの年の発表ですし(雑誌発表形は102行にも及ぶ大作でしたが、詩集収録の段階でバッサリ9行に削られました。)、来年は「「道程」100周年」というコンセプトで企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。当方所蔵のものは喜んでお貸しします。
 
詩集『道程』はその後、昭和に入り、「改訂版」(昭和15年=1940)、「改訂普及版」(同16年=1941)、「再訂版」(同20年=1945)、「復元版」(同22年=1947)、「復元版文庫版」(同26年=1951)、「復刻版」(同43年=1968)、「復元版文庫版リバイバルコレクション版」(平成元年=1984)などが刊行されています。このあたりの変遷を追うだけでも面白いと思います。
 
ついでに言うなら、後ほどこの項で紹介しますが、智恵子との結婚披露も同じ大正3年ですので、やはり来年は「光太郎智恵子結婚100周年」と言えます。企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。

山梨県からイベント情報です。 

与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ

与謝野晶子(18781942)は、歌人として知られていますが、短歌だけでなく詩・童話・小説・評論・古典研究など幅広い創作活動を行っています。山梨とのゆかりも深く、富士北麓、富士川町、上野原市などを訪れ、豊かな自然や風物を詠んだ歌を残しています。63歳の生涯を華麗に生きた晶子の人生と作品とともに、山梨での足跡を約150点の資料で紹介します。
(公式サイトより)
  
会 場:山梨県立文学館 甲府市貢川一丁目5-35
会 期:2013年9月28日(土)~11月24日(日)
観覧料:一般310円 大高生210円 小中生100円
 
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関連行事
◎講演会
 ○金井 景子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 「「自立」を問う人―与謝野晶子の評論を読む―」
 日 時:11月4日(月・振休) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
  
 ○三枝 昻之(当館館長)
 「星君なりき―晶子晩年の魅力」
 日 時:11月14日(木) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
 ○今野寿美(歌人)
 「あらためて読む『みだれ髪』」
 日 時:11月23日(土・祝日) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
◎講座
 ○保坂 雅子(学芸員)
 「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」
 日 時:10月24日(木)午後2:00~3:10   場 所:山梨県立文学館 研修室
 
実はうっかりご紹介するのを失念しており、初日の9/28(土)には作家の林真理子さんの講演もあったそうです。終わってしまいました。
 
また、うっかりご紹介するのが遅くなり、11/14(木)以外の講演、講座は定員に達してしまったそうです。
 
当方はちゃっかり10/24の講座に申し込みました。すみません。担当なさる学芸員の保坂女史は連翹忌のご常連なので、どうせ行くならこの日と決めておりました。
 
先ほど、保坂女史と電話で話させていただき、展示内容についていろいろ教えて下さいました。予想していましたが、『明星』同人に関する展示もあり、光太郎に関する展示も少しあるとのことでした。
 
例を挙げますと、明治44年(1911)、雑誌『スバル』に掲載された詩「ビフテキの皿」の草稿、光太郎が扉や表紙の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)・夫の鉄幹歌集『相聞』、光太郎が晶子を戯画化した「SALAMANDRA」が掲載された『スバル』(明43=1910)、など。他にも光太郎がらみの出品物があるかもしれません。観るのが楽しみです。
 
山梨県立文学館さんは、平成19年(2007)に企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催なさった他、各種の資料・情報等も快く提供して下さり、また、保坂女史や近藤信行前館長には毎年のように連翹忌に駆けつけて下さるなど、当方、大変お世話になっております。
 
企画展以外の常設展でも、山梨出身やゆかりの文学者――樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、芥川龍之介、飯田蛇骨、村岡花子(来年のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で吉高由里子さんが演じられます)など――についての展示も充実しています。
 
さらに言うなら、お隣はミレーの「種まく人」を所蔵していることで有名な山梨県立美術館。一帯は公園となっており、ロダンやブールデル、マイヨールの野外彫刻などもあります。まさに「芸術の秋」を堪能するにはもってこいです。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月5日

昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院にて智恵子が歿しました。享年、数えで53歳でした。
 
というわけで、智恵子のいまわの際を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、今日は「レモンの日」とされています。
 
さらにというわけで、当方、今日は染井霊園の高村家の墓所にお参りに行って参ります。その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台「チエコ」を観てきます。

京都・大阪レポートの2回目です。
 
午前中、京都大覚寺の「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展を観て、一路、大阪は堺に向かいました。京都から新大阪まで新幹線、その後、地下鉄と路面電車を乗り継ぎ、堺市の覚応寺さんというお寺に向かいました。こちらで昨日、与謝野晶子の命日・白桜忌が行われました。
 
 
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左の画像はパンダ顔の路面電車、阪堺電気軌道阪堺線。歴史は古く、明治末には走っていたとのことで、晶子も使ったのではないでしょうか。当方、天王寺から乗りましたが、どこまで乗っても200円。これにはちょっと驚きました。
 
会場の覚応寺さんに行くには神明町という駅で降りましたが、あと3駅行くと、晶子生家跡のある大小路駅でした。昨日は強行日程だったので行きませんでしたが、また日を改めて周辺を散策してみようと思っています。
 
右上の画像は白桜忌会場となった覚応寺さんと道をはさんだ向かいにある西本願寺堺別院さん。味のある建物だな、と思っていたら、案の定、明治の昔に堺県庁として使われていたとのこと。
 
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さて、覚応寺さん。明治期のここの住職が晶子と鉄幹を引き合わせたということで、ここで白桜忌が開かれているそうです。境内には有名な晶子短歌「その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」を刻んだ碑がありました。
 
会場は本堂。大阪在住の高村光太郎研究会会員・西浦氏も到着。受付を済ませて入ると、正面に晶子遺影、サイドには与謝野夫妻直筆の短冊や晶子肖像画などが飾られていました。
 
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午後1時半の開会。お寺での開催ということで、覚応寺院主さんの読経や晶子実家鳳家の方による代表焼香があったりと、宗教色の強いものでした。ただ、それだけでなく、地元の方々による献茶、献歌、献句、そしてコーラスもありました。曲は晶子に関わるもの3曲。「茅渟の海」「ミュンヘンの宿」そして「君死にたまふことなかれ」。堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。
 
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その後、国立台湾大学日本語文学系教授にして与謝野晶子倶楽部副会長の太田登氏による講演「晶子における現在的意味を考える-堺の晶子から世界の晶子へ-」と続きました。
 
現在の近隣諸国とのぎくしゃくした国際情勢をふまえ、主に大正期の著述から世界平和を訴えていた晶子の姿、その思想的水脈としてのトルストイとの関連などのお話でした。
 
下の画像は太田氏の新刊「与謝野晶子論考-寛の才気・晶子の天分-」。白桜忌に合わせて昨日の刊行で、版元の八木書店出版部さんが会場内で販売していましたので購入しました。与謝野夫妻と光太郎との関わりについてはまだまだ調べなければならないことがあるので、その手引きとしたいと思います。
 
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その後、西浦氏に車で南海電鉄の堺東駅まで送っていただき、帰途につきました。強行日程でしたが実りの多い京阪訪問でした。
 
しかし、来月にはもう一度京都に行く用事が出来てしまいました。詳細はまた後ほど。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月30日

昭和21年の今日、農民芸術社から雑誌『農民芸術』が刊行されました。

光太郎は宮沢賢治に関する散文「第四次元の願望」を寄せています。

昨日、神田の古書店八木書店様からメールマガジンが届きました。
 
その中に光太郎とも縁の深かった与謝野晶子の忌日、白桜忌(はくおうき)の案内が書かれていました。八木書店様には出版部もあり、逸見久美氏、太田登氏などの鉄幹・晶子論を刊行されている関係だと思いますが、後援として名前を連ねています。 

白桜忌002

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
【日時】5月29日(水曜)午後1時30分
【場所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ徒歩約1分)
【参加費】1,000円
【主催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
〈講演〉「晶子における現代的意味を考える -堺の晶子から世界の晶子へ-」
(講師)太田 登(天理大学名誉教授・国立台湾大学日本語文学系教授)
〈合唱〉「君死にたまふことなかれ」他
(出演)堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会  電話 072-258-0948
 
「白桜忌」という名は、昭和17年(1942)に刊行された晶子の遺稿歌集『白桜集』に由来するのだと思います。この『白桜集』、光太郎が序文を書いています。

追記・逆でした。晶子の戒名が「白桜院鳳翔晶燿大姉」が先にありきで、それにちなんで『白桜集』だそうで。
 
さて、5月29日。たまたまですが、少し前からこの日は大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫三点を観ようと、京都に行く計画を立てていました。
 
もう一件、こちらは先方の都合でどうなるかわかりませんが(返答待ち)、京都で別件の調査が入るかもしれません。ただ、京都と堺ならそれほど離れていないと思うので、余裕があれば白桜忌にも行ってみようかと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月23日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で「高村光太郎の芸術」展が開幕しました。

週に1~2冊、古書店から目録が届きます。通販用の在庫カタログといった位置づけです。今ほどインターネットが普及していなかった時代には、地方在住者としては非常にありがたいものでした。昨今は古書店もネット販売を取り入れているところがほとんどですが、紙の目録もまだまだ役に立つものです。
 
先日、本郷の森井書店様から届いた目録。80ページ中の約50ページがカラー版で、近代作家の肉筆ものなどが多数載っており、見ているだけでも楽しいものです。
 
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ちなみに上の画像は表紙ですが、上から順に横光利一の草稿、岡本かの子・一平合作の短冊とかの子の草稿、永井荷風の書簡です。
 
残念ながら、どうしても必要なものは載っていなかったので注文しませんが、「ほう」と思ったものが何点かありました。
 
まず、識語署名入りの龍星閣版『智恵子抄』。

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見返しに短歌「わが為事(しごと)いのちかたむけて成るきはを智恵子はしりき知りていたみき」がペン書きで書かれています。「光」の署名も。この短歌は『智恵子抄』に収められた「うた六首」の中の一つ、有名な作品です。筆跡的に光太郎のもので間違いありません。
 
本自体は、函がしっかりついていますが、重版なので、この識語署名がなかったら1,000円ぐらいのものです。しかし、この識語署名があることによって売価380,000円。妥当な値段かな、と思います。ここまでしっかり有名な短歌が書かれているという点では、識語署名というより、一つの書作品に近いといえるでしょう。美術館や文学館の企画展などで展示されてもおかしくないものです。
 
有り余るほどの資産があれば購入するのですが、そうもいきません。どなたか心ある方の手元に行ってほしいものです。
 
他にも数点、「ほう」と思うものがありましたが、ブログのネタかせぎのため、明日に回します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月30日

昭和30年(1955)の今日、結核のため、赤坂山王病院に入院しました。
 
7月には小康状態となり、退院していますが、もはや手の施しようはなかったようです。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
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光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
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この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

一昨日、新春恒例の「歌会始の儀」が皇居・宮殿「松の間」で開かれました。今年のお題は「立」。天皇、皇后両陛下や皇族方に加え、国内外から寄せられた1万8399首から選ばれた入選者10人、選者らの歌が披露されました。
 
入選者の中で、福島県郡山市の郵便事業社員・金沢憲仁さんの作品は、光太郎の『智恵子抄』に関係するものでした。
 
 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む
 
金沢さんのコメントです。
 
「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。
 
こういうところでも光太郎作品のオマージュがなされるのは嬉しいことですが、原発事故による「ほんとの空」の消失が題材であるわけで、手放しでは喜べません。複雑な気持です。
 
歌会始といえば、昭和39年(1964)、光太郎の実弟、豊周が「召人」として参加しています。「召人」は広く各分野で活躍し貢献している人々から選ばれ、今年は歌人の岡野弘彦氏でした。豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、『清虚集』(同48=1973)の四冊の歌集を上梓するなど、短歌の分野でも大きな足跡を残しています。血は争えませんね。
 
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 『露光集』 扉(左)      口絵(右)
 
 
短歌といえば、光太郎も明治末の『明星』時代から、晩年まで断続的に多くの短歌を作りました。いずれ、光太郎と短歌に関しても折を見てこのブログで書こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月18日

明治44年(1911)の今日、上野精養軒で開かれた雑誌『スバル』と『白樺』の関係者会合に出席しています。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

神田の古書店、八木書店様より少し前に送られてきた講演会の案内です。光太郎がメインではありませんが、ご紹介します。 

晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-

講師 逸見久美氏
日時 平成24年9月29日(土) 15:00~
会場 東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール
入場無料

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光太郎と親交のあった与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻研究の第一人者であらせられる逸見氏のご講演です。氏の編まれた『与謝野寛晶子書簡集成』には光太郎の名が散見され、「光太郎遺珠」編集に際して大いに参考にさせていただきました。
 
今月末に八木書店様の出版部から『新版 与謝野寛晶子評伝昭和篇』という氏の新著が刊行されるので、その関連と思われます。
 
講演会自体はまだ先なのですが、「先着80名」だそうですので、早めにご紹介いたします。
 
ここ数年、与謝野夫妻と光太郎がらみでの新資料をいくつか見つけていますので、当方も聴きに行ってみようと思っております。

今日は第67回千葉県合唱祭に参加してきました。これは、千葉県合唱連盟に加盟している合唱団が、6/3、6/10、6/17の3日間、3会場に分かれて発表し合うというものです。コンクール形式ではないので、コンクールでは全国大会常連の団から、結成して日の浅い団まで、老若男女、混声・男声・女声、それぞれの持ち味を生かした合唱が聴けます。
 
当方の所属する合唱団は、光太郎の朋友・吉井勇作詞の「ゴンドラの歌」他1曲を歌いました。なぜか客席から「bravo!」の声が。それなりに存在感を示せたのではないかと思っています。
 
さて、当方の所属する合唱団の3つ後は、船橋を拠点とする歴史ある男声合唱団、HGメンネルコールさんの演奏でした。曲目は先日のブログで紹介した清水脩作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」。男声合唱では定番の曲の一つなのですが、当方、生演奏で聞くのは初めてで、ラッキーでした。詩集「智恵子抄」に収められた短歌六首を無伴奏合唱曲にしたものです。

 ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子
 気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり
 いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
 わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
 この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず
 光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき
 
一時期、それがあまり作られず不満に思っていたのですが、このところ、光太郎作詞、というか光太郎の詩に曲を付けた合唱曲がまた少しずつ世に出ています。
 
智恵子の母校、福島高等女学校の後継校である福島県立橘高等学校合唱団さんは、光太郎の詩に曲を付けた鈴木輝昭氏の作品(委嘱作品だと思われます)で、ここ3年間、全日本合唱コンクール全国大会入賞を続けています。平成21年が「レモン哀歌」(金賞)、22年が「裸形」(銀賞)、昨年が「亡き人に」(銀賞)。橘さんの入賞自体はその前からですが、光太郎作品で、というのが嬉しいですね。智恵子の後輩達、頑張っています! ちなみにCDも発売されています。

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それから別の鈴木氏ですが、昨年から今年にかけ、鈴木憲夫氏作曲の合唱曲「レモン哀歌」の女声版混声版がカワイ出版から相次いで出版されましたし、合唱ではありませんが同じ鈴木憲夫氏の「歌曲集レモン哀歌」も出版されています。

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こうした分野でももっともっと光太郎が取り上げられ、それを演奏する人、聴く人が、光太郎・智恵子の世界に興味を持ってくれれば、と思っております。

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