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いわゆるカルチャースクールでの市民講座。教室での対面受講とオンライン受講が選べるそうです。

続・文学者の短歌 in 大阪

期 日 : 2022年12月3日(土)
会 場 : 毎日文化センター 大阪市北区梅田3-4-5毎日新聞ビル2階 
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 2,750円
講 師 : 松村正直(歌人)
1970年生まれ。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』『午前3時を過ぎて』『風のおとうと』『紫のひと』、評論集 『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』、評伝 『高安国世の手紙』、時評集『踊り場からの眺め』、同人誌「パンの耳」。現在「角川短歌」に「啄木ごっこ」を連載中。

 今年2月に実施した「文学者の短歌」が好評につき、第二弾の続編を開催します! 近代以降、短歌は多くの人々に親しまれてきました。歌人として知られる人物だけでなく、さまざまな文学者たちも歌を詠んできたのです。短歌は若き日の彼らの文学の出発点となり、また終生愛する詩型ともなりました。
 本講座では、柳田国男(民俗学者)、高村光太郎(詩人、彫刻家)、加藤楸邨(俳人)、中原中也(詩人)、三浦綾子(小説家)らの短歌を紹介しつつ、その時代背景や人生をたどります。その上で、短歌という詩型の持つ特徴や魅力に迫りたいと思います。

オンライン受講について
・事前にZoom公式サイトから最新Zoomアプリをインストールしてください。
・講座当日の10:30までに視聴URL(ウェビナーIDとパスコード)をお知らせします。
・開講当日の開始15分前から入室可能です。
・「Zoom」ウェビナーは受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。ウェブカメラやマイクは不要です。
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今年2月に「文学者の短歌」というオンライン講座があり、その続編だそうです。2月に取り上げられたのは、森鷗外、芥川龍之介、村岡花子、宮沢賢治、中島敦、北杜夫、石牟礼道子など。今回取り上げられる人々と併せ、いわゆる「歌人」ではなかった人々の短歌、ということですね。

光太郎の場合、本格的な文学活動の出発点が短歌でした。東京美術学校在学中の明治33年(1900)、与謝野夫妻の新詩社に加わり、機関誌『明星』に「砕雨」と号して多くの短歌を発表しています。それ以前に俳句が『読売新聞』に掲載されたりもしましたが、そちらはあくまで投稿の域を出ませんでした。

その後、大正期の第二次『明星』にも多くの短歌を寄せたり、木彫を作るとその袋や袱紗(智恵子の手縫い)に短歌をしたためたりもしました。そして晩年まで折に触れて歌作を続け、結局、『高村光太郎全集』には800首ほどが掲載されていますし、平成10年(1998)の『全集』完結後も10首あまり見つかっています。短歌は詩と異なり、手元に控えの原稿を残さなかったので、今後も見つかる可能性が高いと思われます。

やはり詩であれだけの(どれだけだ(笑))世界を構築した光太郎、短歌でも素晴らしいものをたくさん残しています。初期のものは、鉄幹による添削が激しく入っているとのことですし、また、いわゆる「歌人風」に逆らった、巫山戯た短歌も目につきますが。

講座はオンラインでも配信されるとのこと。この対面式とオンラインとの併用(特にアーカイブ配信まである場合)は、コロナ禍によるいい意味での副産物といえるでしょう。コロナ禍以前は対面式の講座等は一度その場でやったらそれで終わり、という感じでしたから、遠方だったり、その日に都合がつかなかったりの場合に対応できませんでした。

当方も12月10日(土)、都内で開催される日本詩人クラブさんの例会で講演をしますが、そちらのオンライン配信があるそうです。例会自体はクローズドで、配信も欠席会員のためのライブ配信だと聞いていますが、もしかすると一般の方も試聴可能かも知れません。

また、それに先立つ12月3日(土)には、花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の解説等を収録します。こちらは期間限定配信のようです。

それぞれ詳細が分かりましたらまたご紹介します。

閑話休題、「続・文学者の短歌 in 大阪」、ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜の原稿清書、 午后「書道全集」の人くる、原稿渡し、4枚、


昭和30年(1955)2月15日の日記より 光太郎73歳

「原稿」は、平凡社から翌月刊行された『書道全集 第七巻 隋・唐Ⅰ』の月報のためのもの。「黄山谷について」と題し、光太郎が愛した黄山谷(庭堅)の書の魅力を綴っています。
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日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

昨日に続き、明日、没後80周年となる与謝野晶子関連で。

『産経新聞』さんのおそらく関西版で、「火に燃えて動きし 与謝野晶子」という特集記事が3回にわたって掲載されました。その第1回では光太郎についても触れて下さっています。

火に燃えて動きし 与謝野晶子  (上)国を愛し家族を愛し まことの心歌い上げ

  激しい恋心を大胆に表現した第1歌集「みだれ髪」で文壇に衝撃を与え、詩や評論、源氏物語の現代語訳など多彩な足跡を残した堺市出身の歌人、与謝野晶子。感じたことを感じたままに、刺激的な表現も辞さなかった創作や言動はときに物議をかもした。文学でも家庭でも、情熱の火を燃やし続けた歌人は、今年が没後80年。命日の29日を前にその足跡をたどってみたい。
※火に燃えて動きし…晶子の代表的な詩「山の動く日」の一節。自立に向け動き出す女性たちを火山にたとえた
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挑戦的な言葉
〈あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ〉
多作だった晶子の作品のなかで、夫の与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表された「君死にたまふこと勿れ」は、最もなじみのある作品といえるだろう。日露戦争に出征した弟・鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)への思いを詠んだ長詩だ。
  晶子は、堺の実家の和菓子商「駿河屋」を継ぐ立場にあった籌三郎の身を案じる肉親の情をストレートに歌い上げる。
〈旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か〉など、国を挙げて戦争に協力する風潮が支配的だった当時の社会に挑戦的ともとれる言葉を重ね、論争を巻き起こしたことは有名だ。
 明治・大正期の詩人で評論家の大町桂月(1869~1925年)は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。危険思想と評して晶子を攻撃した。
 これに対し、晶子は明星で発表した反論文「ひらきぶみ」の中で、戦地に赴く兵士を駅で見送る親兄弟たちが大声で万歳を叫ぶ一方で、気を付けて無事帰るよう伝える場面も見られることを挙げ「彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とした。
 論争は鉄幹らが桂月宅に直接出向いて会見し、桂月が攻撃の矛を収めたことで決着した。出征していた籌三郎は帰還し、のちに家業を継いでいる。

思いを率直に
 反戦・非戦の詩として語られることの多い「君死にたまふこと勿れ」。ただ、与謝野晶子記念館(堺市)の矢内一磨学芸員は「戦争賛成か反対かといった単純な色分けでは理解できない」と指摘する。
 晶子と交流のあった文学者たちも「反戦でも何でもない。ただ弟に生きて帰れと言っただけなんだ」(高村光太郎)、「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があつたのと同様に読む者の勝手であらう。しかしそのどちらも同じやうに作者晶子にとつては恐らく迷惑な事であらう」(佐藤春夫)など、懐疑的な見方を示していた。
 「ひらきぶみ」では「この国に生れ候私は、(中略)この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と愛国の心を強調。明治天皇の崩御の際には嘆き悲しむ心情を詠み、太平洋戦争中の昭和17年、四男の出征では「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍(いくさ)に往く 猛く戦へ」と鼓舞する短歌を歌っている。
  矢内氏は「戦争肯定か反対か、でわける考え方は一見わかりやすいが、そこで思考停止に陥ってしまい、晶子の本質をとらえられなくなる恐れがある。そのときどきに感じた思いを率直に表現するのが晶子の作風」と話す。その心を晶子はこう表現する。「歌は歌に候。(中略)まことの心を歌ひおきたく候」(ひらきぶみ)

認め合った2人
 論争では敵役に回った桂月だが、晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった。
 民俗学者で歌人・釈迢空としても知られた折口信夫(1887~1953年)は、晶子への追悼文で「晶子さんをあれだけの人として(中略)相当早い時期に認めたのは大町桂月さんでした」と寄せている。
 旅と酒を愛し、多くの紀行文を残した桂月は大正14年に死去。晶子は新聞「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)でその死を深く悼んだ。
 「今思ひ出すと、当時私のやうな者を眼中に置いて下さつた先生の厚意を感謝したい。猶お目に掛るたびに先生が私の歌を褒めて激励して下さつたことも永く忘れることが出来ない」。桂月は晶子の才能を愛し、晶子もその恩を忘れることはなかった。

堺に残る歌碑の数々
 明治34年6月、与謝野晶子は生まれ育った堺を後に上京し、恋心を募らせていた歌の師、鉄幹のもとへ走った。歌集「みだれ髪」にそのときの心情を伝える一首がある。
  〈狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅〉(恋に狂った私は炎でできた羽をつけ百三十里を飛んでいく。あわただしい旅…)
 その後、鉄幹との新生活をスタートさせた晶子だが、結婚に反対していた兄、鳳秀太郎とは絶縁状態になるなど、失ったものも大きかった。晶子の長男、光の回想によれば晶子の父、鳳宗七が死去した際、喪主だった秀太郎は葬儀のために堺に戻ってきた晶子の参列を拒否したという。
〈古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ〉(故郷で私の歌は碑に彫られ、100年後にもあり続けるでしょう)
 自分を歓迎しない故郷への複雑な感情が詠ませた歌だろうか。しかし、ふるさとは晶子の歌をたたえる。与謝野晶子記念館によると、晶子の歌碑は堺市内だけで26基を数えるという。自分の心情に忠実に生きた晶子の文学が持つ魅力ゆえなのかもしれない。

よさの・あきこ 1878~1942年。堺県堺区甲斐町(現・堺市)に生まれる。明治31年、与謝野鉄幹の短歌に刺激を受け、本格的に歌作に開眼。33年、鉄幹の東京新詩社に参加し「明星」で短歌を発表した。34年、歌集「みだれ髪」を出し、鉄幹と結婚。近代日本の浪漫主義を代表する歌人として多くの作品を残した。婦人問題・教育問題など時事評論の分野でも積極的な発言を続けた。

  君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ000
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事か
 君知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりけり

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君死にたまふことなかれ
    「明星」明治37年9月号

君死にたまふこと勿れ」。記事にあるとおり、発表時に大町桂月らによってバッシングにあったことは有名ですが、桂月が「晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった」というのは存じませんでした。

桂月といえば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の観光開発等に功績のあった桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元の村長だった・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして作られたものでした。

そこで光太郎、「君死にたまふこと勿れ」バッシングを念頭に、

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

と発言しています。

どういうシチュエーションで光太郎が桂月に怒鳴られたのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の生意気な弟分、という感覚があったのかも知れません。

それにしても「君死にたまふこと勿れ」、現代のロシアの女性たちも同じようなことを考えている、と信じたいものです。「すめらみこと」ならぬ「大統領」は「戦ひに おほみづからは出でまさね」ですから。

「火に燃えて動きし 与謝野晶子」、この後、「(中)コロナの〝失政〟100年前に見通していた晶子」「(下)「源氏物語」現代語訳の先駆け 小林一三ら財界人が支援」と続きます。長いので割愛しますが、晶子のエネルギッシュな活動ぶりに改めて感心させられました。

【折々のことば・光太郎】

花巻の阿部博氏よりリンゴ一箱届く


昭和27年(1927)12月27日の日記より 光太郎70歳

阿部博氏」は花巻の林檎農家。宮沢賢治の教え子でもあります。かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも足繁く通っていました。帰京後もリンゴを送ってくれ、東京の店頭で売られているリンゴが不味いと感じていた光太郎は感謝していました。


明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

過日届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の書(軸装された歌幅)が写真入りで紹介されています。
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書かれているのは、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で詠まれた短歌で、「太田村やまく(ぐ)ちやまの山かけ(げ)にひえをくらひて蝉彫る吾は」。

001光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、複数の揮毫例が存在しますし、日記にも「誰々のために蝉の歌を揮毫」的な記述が散見されます。

駒場の日本近代文学館さんには、色紙に書かれたものが所蔵されており、10月から先月末にかけ、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示されました。

えびな書店さんの方では平仮名だった「やまく(ぐ)ちやま」が、こちらでは「山口山」と漢字表記です。

おそらく、ですが、用紙の縦横のバランスを考え、そうしたのではないかと考えられます。基本は「山口山」と漢字表記にするところを、えびな書店さんの方では、色紙より横に長い用紙のため、平仮名を使って字数を増やしているように思われますが、どうでしょうか。書家の方々のご意見を伺いたいものです。

ところで、近代文学館さんの色紙も載っている「画壇の三筆展」の図録、会期終了後に、まだ残部があればお分け下さい、とお願いし、15部入手しました。来春開催予定の第66回連翹忌にて販売予定ですが、どうしても早く手に入れたい、という方、当ブログコメント欄(非表示設定可)、当方フェイスブック、ツイッター等からご連絡下さい。代金+送料で2,570円となります。また、富山県水墨美術館さんに直接申し込まれても入手できるのではないでしょうか。
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【折々のことば・光太郎】

中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。

昭和26年(1951)9月15日の日記より 光太郎69歳

中原さん」は、昨日もこの項で紹介た、歌人の中原綾子。光太郎とは智恵子存命中からの知り合いでした。

一年の間に」ということは、前年にも、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に中原が訪ねてきたということになります。ところが、昭和24年(1949)、25年(1950)の日記はそのほとんどが失われており、光太郎側の資料では詳細不明です。

平成14年(2002)、中央公論事業出版さん発行、松本和雄編著の『歌人 中原綾子』には、以下の記述があります。

 綾子は昭和二四年(一九四九)、五一歳の一一月二六、二七日、「スバル」創刊号への題字依頼を兼ねてこの山小屋を訪ねた。
 宿泊は太田村村長宅。「雪の中に埋っている小さい、小さい小舎に泊めて下さるとばかり思っていたのに、夜通しお話がしたかったのに、先生は提灯さげて私を村長さんの家につれてゆかれました。」


そして、その折に詠まれた綾子の短歌。
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そして、光太郎日記に残っている昭和26年(1951)の再訪時。
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光太郎、ストイックもいいのですが……。やはり亡き智恵子に対する想いは強かったのでしょうし、数え69歳の身では、もはや「据え膳喰わぬは……」という感じでもなかったのかも知れません。

それにしても、日記。公開を前提としていない日記とはいえ、「大層年よりじみ、皺など目立つ」まで書くか、と思いますね。綾子は満で53歳、まだまだ十分に「女」だったはずですが。

基本、自然科学系の企画展示なのですが……。

身近な海のベントス展

期 日 : 2021年10月12日(火)~12月26日(日)
会 場 : 兵庫県立人と自然の博物館 兵庫県三田市弥生が丘6
時 間 : 10時~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200(150)円 大学生150(100)円 70歳以上100(50)円
      ( )内団体料金 高校生以下無料 

水の底に生息する生物を総称してベントス(底生生物)といいます。私たちの生活圏のすぐそばにある沿岸海洋には、カニ、貝類、海藻などの多種多様なベントスが生息しています。本展示企画では、兵庫県を中心とした日本沿岸で見られるベントスと人の生活、文化、歴史との関わりについて紹介します。標本や展示を見て少しでもベントスに興味を持っていただければ幸いです。

身近な海には驚くほど多様な生物が生息しています。海の生物多様性、そして人と海、人とベントスの関係を標本、地形模型、映像、水槽展示を通してお伝えします。
・美しいカニ類、貝類、海藻類などの標本を約100点展示(予定)
・地味で不思議なベントス「フジツボ」を10種類以上水槽展示(予定)
・超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊も公開
・ダイバーが25年に渡って撮影した神戸の海洋生物を大迫力の画面でスライドショー上映
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005超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊」は、当方所蔵のものです。揮毫されている短歌は明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌。翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されました。

光太郎にとって、初めての長い船旅で、季節風の影響もあり、海は大荒れ。しかも乗った船、アセニアンが総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては小さなもので、大揺れだったそうです。そのワイルドな海に乗り出した感覚を、まるで太古の民が初めて丸木舟で外洋に漕ぎ出した時に感じた驚きのようだとしています。

その時点では「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には、初句が「海にして」と改められており、以後、その形で流布しました。

短冊の初句は「海をみて」。従って、明治43年(1910)以前の揮毫と推定できます。

この短冊、元々光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で、小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。富山県水墨美術館さんで今週から始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にお貸しすることも考えていたのですが、同展、短冊や色紙などの小さな書はあまり出さず、大幅のものを中心にということで、それは無くなりました。

会場の兵庫県立人と自然の博物館さんの学芸員氏が、平成30年(2018)翌年、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された女川光太郎祭(昨年、今年はコロナ禍のため中止)にご参加、光太郎詩の朗読をなさいまして、その関係で、こちらに貸し出し依頼が来ました。

この他、光太郎智恵子光雲関係のさまざま、依頼があれば展示等のためにお貸ししますし、当方手元に無いものは、仲介できる場合もありますので、ご関係の方、お考え下さい。

さて、「身近な海のベントス展」。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる、豚鍋をつくりて食事。ジン酒一本もらふ。皆「典型」持参。署名。


昭和26年(1951)1月8日の日記より 光太郎69歳


「斎藤充司氏」に関しては、こちら。日記が失われている前年の昭和25年(1950)にも、少なくとも2回、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問し、写真を撮影しています。

「典型」は、やはり前年に刊行された、光太郎生前最後の詩集(選詩集等を除く)です。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
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今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
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弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

『朝日新聞』さんの投稿短歌欄。全国での入選作は、毎週日曜日に「朝日歌壇」として、俳句の「朝日俳壇」とともに掲載されています。かつては石川啄木、窪田空穂、島木赤彦、佐佐木信綱、斎藤茂吉らもその選に当たっていた、伝統あるコーナーです。

全国の選に漏れたものなのか、それとも別口で募集しているのか、寡聞にして存じませんが、地方版にも「歌壇」欄が掲載されています。

少し前ですが、1月15日(金)、当方自宅兼事務所のある千葉県版のもの。
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智恵子の名を詠み込んだ歌が一首。曰く

 福島の旅に見上げるあかね雲智恵子の愛でし空に続くか

いい歌ですね。

「福島の旅」ということですが、智恵子の故郷・二本松で詠まれたものではないのでしょう。二本松での詠歌であれば、そこに広がる空が「智恵子の愛でし空」そのものです。少し離れた場所、しかし同じ福島県内ということで、「智恵子の愛でし空に続くか」とされているのだと思われます。

それを言ったら、空は地球上、何処へでも繋がっていますが、そうすると「続く」とはならないわけで、そのあたりが巧いと思う所以です。

言わずもがなかも知れませんが、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」へのオマージュですね。

ところで、欄外に編集部よりの「おことわり」の文言。

「歌壇」「俳壇」は、新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言に伴う編集作業の都合により、しばらく休載します。投稿の受付も休みます。再開の時期については改めて紙面でお伝えします。

とのこと。「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いましたが、考えてみればさもありなん、です。

例年11月頃、当会として、皆様からお送りいただいた郵便物に貼られていた切手を切り取り、JOCS日本キリスト教海外医療協力会さんに送っていたのですが、昨年はやはりコロナ禍のため、切手等を整理するボランティアさんの活動を休止せざるを得なくなり、現在、受付を停止中とのこと。似たような例ですね。

また、短歌ということになると、これも例年1月に開催されていた「宮中歌会始」。こちらもコロナ禍のため延期だそうで、「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いました。

歌会始といえば、平成25年(2013)の歌会始では、福島郡山の方が詠んだ下記の歌が入選しました。

 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

上記「朝日歌壇」の歌同様、『智恵子抄』からのインスパイアが入っているという作です。

光太郎が「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳ったことが、人々の記憶から無くなってしまうと、特に「朝日歌壇」の歌などは成立しなくなってしまいます。「智恵子って誰?」、「何で空を愛でるの?」ということになってしまいます。
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そうならないためにも、光太郎智恵子の顕彰活動、心して続けていかねばと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

昨日の川鍋東策氏よりのテガミにより、草野心平君の消息わかり、又黄瀛の生きてゐた事もわかる。
昭和21年(1946)4月6日の日記より 光太郎64歳

心平は戦時中、中華民国中央政府(汪兆銘政権)顧問として中国に居り、この年3月末に帰還。黄瀛は対立する国民政府軍の将校でした。交流の深かった二人の健在を知って、安堵したのでしょう。ただし、黄瀛はのちの文化大革命で投獄。生前、光太郎と再び相まみえることは叶いませんでした。

昨日放映の「NHK短歌」を拝見しました。司会は女優の有森也実さん、選者・講師は歌人の寺井龍哉さん。
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ゲストに当会会友の渡辺えりさん。
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渡辺さん、高校時代の演劇部で寺山修司の短歌に触れ、その後も現代歌人の方々と親交がおありだそうで。

光太郎と交流をお持ちだったお父さま・渡辺正治氏のお話も。ただ、光太郎の名は出ませんでしたが。
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トークを伴う番組に出演されると、とかく暴走される(笑)渡辺さんですが、昨日も案の定……。
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『万葉集』の恋歌を解釈するというコーナーの中で。静止画面にしてもブレています(笑)。

お父さま同様、光太郎と交流のあった宮沢賢治には触れて下さいました。
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またご出演なさりたいとのことですので、次はぜひ光太郎の短歌についても語っていただきたいものです。
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明日、再放送があります

NHK短歌 題「たとえば」004

NHK Eテレ 2020年12月22日(火) 15時00分~15時25分

選者は寺井龍哉さん。ゲストは演出家、女優の渡辺えりさん。題は「たとえば」。「万葉恋の歌」のコーナーでは大伴旅人を見送った児島という女性の歌を紹介する。

司会 有森也実  ゲスト 渡辺えり  出演 寺井龍哉

画像は渡辺さんのフェイスブックから採らせていただきました。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

ところで、短歌といえば、都内の古美術商、田島美術店さんで、光太郎が短歌をしたためた書を売りに出しているのに気付きました。

天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」。大正9年(1920)、『明星』の歌人、渡辺湖畔に贈った十首ほどのうちの一首です。湖畔に贈った書そのものではないのでしょうが、「人におくれる」の詞書が附されています。


【折々のことば・光太郎】

秋涼、十六夜、 賢治さん十三回忌、午前九時過宮沢老人等と共に賢治さん忌につき日蓮宗の寺に参詣、経料五円つつむ。十一時一旦帰宅。十二時過宮沢邸にて中食、二時頃詩碑にゆく、三十余人あつまる、


昭和20年(1945)9月21日の日記より 光太郎63歳

賢治忌日の賢治祭に、光太郎が初めて参加した記述です。この後、昭和27年(1952)まで毎年参加し、ほぼ必ず講話、講演等を行いました。

新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しら)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。

昨日、朝刊を開きましたら社会面にテノール歌手・永田峰雄氏の訃報。

『朝日新聞』さんから。

テノール歌手、永田峰雄さん死去 欧州を拠点に活躍

 永田峰雄さん(ながた・みねお=テノール歌手)が8日死去した。66歳だった。葬儀は近親者で営む。
 91年にザルツブルク音楽祭に出演し、欧州を拠点に国際的に活躍。モーツァルトを得意とした。東京芸大、愛知県立芸大、洗足学園音大などで指導した。


氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。 

弊社所属声楽家 永田峰雄(ながた みねお)が7月8日000に逝去しました 享年66歳でした
ここに故人の数々の名演を胸に 哀悼の意をもってお知らせします

永田峰雄は新潟県長岡市に生まれ 東京芸術大学卒業 同大学院修了しました 1991年ザルツブルク音楽祭『サティリコン』に出演して以来 ドイツを拠点にヨーロッパで活躍しました ヴュルツブルク トリーア ギーセン ボン ミュンスター等の歌劇場と専属契約を結びモーツァルト歌手として様式感ある端正な歌唱と柔軟なベルカント唱法が絶賛されたことは広く知られています 日本においても新国立劇場 びわ湖ホール等で数々のオペラ公演 オーケストラとの共演で高い評価を得てまいりました 近年は東京藝術大学 愛知県立芸術大学 洗足学園音楽大学等で後進の指導にも情熱を注いでいました


当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。

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氏の訃報を受けて、昨日、久しぶりに聴いてみましたが、20年ほど前の録音で、そろそろ円熟期に入ろうかという氏の伸びやかな歌声、いい感じでした。

まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。


今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。 

岡井隆さん死去 歌人、現代歌壇を牽引

 前衛的な短歌の詠み手として知られ001、現代歌壇を牽引(けんいん)し、皇族の和歌の相談役も務めた歌人の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。
 1928年、名古屋市生まれ。46年に結社「アララギ」に入会。慶応大学医学部卒業後、内科医として病院に勤務する傍ら、歌を詠んだ。
 終戦直後、短歌や俳句を格下の文学と見なす「第二芸術論」が起こると、それに応答する形で50年代半ばから、寺山修司や塚本邦雄とともに前衛短歌運動を展開。60年安保闘争といった社会の動きを、極めて実験的な表現で詠んだ。
 70年には医師としての立場や歌壇での名声を捨てて九州へ出奔。5年間の沈黙を経て歌壇に復帰した。その後は、和歌のように韻律の美しさを重んじる作品や、口語と文語を自由に交ぜた歌など、短歌の可能性を極限まで追究した。
 92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに、選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった。07~18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛(ごようがかり)も務めた。
 歌集「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞。評論・エッセーなどを含む「岡井隆コレクション」で現代短歌大賞。詩人でもあり、「注解する者」で高見順賞を受けた。16年には文化功労者に選ばれた。文芸評論家としても活躍した。
 代表歌に〈父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を〉「天河庭園集」、〈キシヲタオ……しその後(のち)に来んもの思えば夏曙(あけぼの)のerectio penis〉「土地よ、痛みを負え」などがある。
 歌誌「未来」編集・発行人を最期まで務めた。
 <歌人・細胞生物学者 永田和宏さんの話> 政治的なことも巧みな比喩で表現し、前衛短歌運動の一番の立役者。それまで「私」と言えば作者を指したが、その縛りから「私」を解放し、暗喩や口語文体を駆使して表現方法を広げ、一つの時代をつくった。医師でもあり、私がサイエンスの道との両立に悩んだ時、相談に乗ってもらったこともある。

一面コラム「天声人語」でも。 

(天声人語)岡井隆さん逝く

 歌集『現代百人一首』が刊行されたのは25年前のこと。〈みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ〉。テレビで耳にしたCM短歌が、斎藤茂吉や釈迢空の歌と同格に扱われ、新鮮な驚きを覚えた▼その選者で、戦後歌壇を牽引(けんいん)した岡井隆さんが亡くなった。92歳。内科医にして歌会始の選者、皇族の和歌御用掛を務めたという経歴からは想像できないほど、その歩みは波乱に満ちている▼〈一時期を党に近づきゆきしかな処女(おとめ)に寄るがごとく息づき〉。慶応大学の医学生だったころ、マルクス主義にひかれた。共産党系の診療所に詰めていた一夜、警察の家宅捜索を受ける。「歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず、九州の病院で働くことに。〈女(をみな)とは幾重(いくへ)にも線状(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉。後にそんな官能的な歌を詠んでいる▼「短歌は危機の時を通り越し、廃墟の残骸の中にある」と歌壇の行く末を案じた。「私自身は選歌・添削・講師としてその廃墟に立ち、わずかに再建を夢みている」と繰り返し語っている▼功成り名を遂げたあとも、円熟の歌境に安住することはなかった。ナンセンスなCMから独創的、実験的な作品にまで光を当て、歌の可能性を極限まで広げる。破格、破調の堂々たる生き方であった。

氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。

岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

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それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。

ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

悠ゝ無一物満喫荒涼美  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

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元ネタがありまして、連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」(昭和22年=1947)に書かれた、「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節です。他に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と書いた揮毫も存在します。こちらはそれらを漢文風にしたものですね。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の厳しい自然環境を「荒涼の美」ととらえたわけですか。

昭和23年(1948)6月22日の日記には、「終日揮毫。有賀氏のため色紙に書く。「悠ゝ無一物満喫荒涼美」」の記述があります。有賀剛は、光太郎と交渉のあった彫刻家・笹村草家人の友人で、神田小川町に汁粉屋を営んでいました。

広島に本社を置く『中国新聞』さん。昨日のデジタル版から。紙面にも載ったのでしょうか。

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広島ご出身の歌人・作家の東直子さんによる短歌を中心とした連載エッセイです。写真撮影も東さんだそうで。

言ノ葉ノ箱 丘の上から

 ≪稲は刈り取られた寒い田甫(たんぼ)を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴(あめ)で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、「おたべや。」と言ってそれを余に勧(すす)めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇(くちびる)の動くのを待っていた。≫
 「居士」は正岡子規、「余」は作者である高浜虚子を指す。「子規居士と余」というタイトルで、俳句の師であった子規についての高浜虚子による回想記である。ここに出てくる道灌山は、現在は東京都の荒川区、JR西日暮里駅あたりにある高台で、駅のある低地の道から急な階段を上ってたどりつく、山というより丘のような場所である。

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 虚子は、葉書で子規の住む根岸に呼び出され、「うちよりは他(よそ)の方がよかろう」と言われて道灌山まで二人で歩いて行った。大人の足で20分ほどで到着する距離だが、子規が結核療養中だったことを考えると、もう少し時間をかけたかもしれない。わざわざ出かけたのは、虚子が自分の後継者になってくれるかどうか、改めて確認するためである。虚子の快諾を期待していたが、21歳とまだ若い虚子は、「私(あし)は学問をする気はない」とすげなく断ってしまう。俳句史では「道灌山事件」と呼ばれるエピソードである。子規はさぞかし落胆したことだろう。

村つづき青田を走る氣車(きしや)見えて諏訪(すは)の茶店はすずしかりけり
                    正岡子規

 道灌山の諏方神社の茶屋から見えた風景を詠んでいる。虚子と話した茶屋だろう。諏方神社は今も存在するが、茶屋はない。青田を走る「氣車」は、隣接する田端から伸びていた日本鉄道の車両だろう。田端駅ができたのが、明治29年4月。この歌が作られたのが明治31年初夏。氣車が青田を走り抜ける景色は、とても新鮮だっただろう。「道灌山事件」は明治28年の冬なので、そのときまだ「氣車」は走っていなかったのだ。道灌山でいったん決裂した二人だが、諸事情で仕事を失った虚子は、子規の協力を得て、明治31年から俳誌「ホトトギス」の編集に携わることになる。虚子が自分の所に戻ってきた嬉(うれ)しさが「すずしかりけり」に込められている気がする。

 現在、諏方神社の高台からは、山手線、京浜東北線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、京成線などの車両が行き交うのが見える。
 神社のそばに荒川区立第一日暮里小学校があり、校門前にふくろうの石像が首をかしげている。高村光太郎の記念碑で、「正直親切」という揮毫(きごう)と「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩も刻まれている。

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 道灌山から続く高台から、田端駅北口に続く坂道は、新海誠監督のアニメーション映画「天気の子」の舞台として印象深く描写されていた。
 見晴らしのよい丘の上に、様々な人の時間が繋(つな)がり続けている。

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光太郎直筆の文字を写した「正直親切」を校訓として下さっている荒川区立第一日暮里小学校さんに触れられています。同校は明治25年(1892)、光太郎が尋常小学校の課程を卒(お)えた、日暮里小学校の後身です。「「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩」は光太郎の詩ではなく、現代のものです。

近くには智恵子も通った太平洋美術会研究所さん、子規庵朝倉彫塑館さんなどがあり、当方も大好きなエリアです。コロナ禍が収まったら、またのんびり歩きたいものです。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

乾坤美にみつ  短句揮毫  昭和14年(1939)頃 光太郎57歳頃

「乾坤(けんこん)」は「天地」とほぼイコールです。

『日本農業新聞』さんの一面コラムに、光太郎の短歌。6月25日(木)の掲載です。 

四季 厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか 000

厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか。岩波文庫別冊『声でたのしむ 美しい日本の詩』で、改めて実感した▽編者は最高の“ 目利き”の大岡信、谷川俊太郎ご両人で、肝は〈声でたのしむ〉。谷川さんは末尾で「つい百年前まで詩は吟じるのが当たり前だった」と説く。確かに声を出すのと、ただ字面を目で追うのとは感じ方、体感する言の葉の響きが違う▽和歌から近・現代詩まで幅広い。珠玉作をいくつか。〈うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情悲しも独りおもへば〉( 大伴家持)。〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉(高村光太郎) 。〈マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや〉(寺山修司)。既に万葉の時代に情を〈こころ〉と読む。光太郎の歌は青年の大志と不安を指す。寺山の〈身捨つる祖国〉の大胆な表現に驚く▽ちょうど「青嵐(せいらん)」の時分で詩は茨木のり子「六月」がいい。〈どこかに美しい人と人との力はないか〉と問い〈したしさとおかしさとそうして怒りが鋭い力となってたちあらわれる〉と結ぶ。与謝野晶子の〈君死にたまふことなかれ〉。副題は「 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎(なげ)きて」。代表的な反戦歌でもある▽朗読こそが詠み人の魂に近づく道かもしれない。

引用されている光太郎の短歌は、明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学の旅立ちに際し、横浜港から乗船したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアン船上で詠んだものです。引用元の『声でたのしむ 美しい日本の詩』の編者のお一人・故大岡信氏が、『朝日新聞』さん紙上で連載されていた「折々のうた」の、記念すべき第一回に取り上げられもしました。

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の001間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929と書いていますが、なかなかどうしてやはり「秀歌」といっていいものだと思います。

ちなみに『声でたのしむ 美しい日本の詩』、このブログではご紹介しませんでしたが、岩波書店さんから今年初めに刊行されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎

アンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」全文
 昭和10年(1935) 光太郎53歳

雑誌『上州詩人』第17号に掲載されました。「高橋成重」は、高橋元吉が一時期使っていた筆名「高橋成直」の誤植です。

昨日ご紹介したアンケート「山と海」でも、山としては何度も訪れた赤城山を挙げ、海ではアセニアン船上での太平洋航海を語っています。

雑誌の新刊です。

2020年4月25日 角川文化振興財団 定価950円(税込)

角川『短歌』は、1954年創刊の短歌総合誌。「自分だけのこの想い」を伝える究極の定型韻文詩・短歌の奥深さと楽しさをご堪能ください。

目次
グラビア うたの館めぐり さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館 今野寿美
     「明星」のビジュアルデ・ザイン
特集 日常・社会はどう歌うか
特集 「明星」創刊120年
なぜ「明星」はうまれたか? 明治のロマンの豊饒を形象した「明星」……松平盟子
「明星」の意義と対外的評価 一世紀の後……内藤 明
プロデューサー鉄幹の思想とメディア戦略〈星の子〉は「太陽」とたたかうために生まれた……太田 登
与謝野鉄幹と正岡子規 わがままな自我への反感……大辻隆弘
浪漫主義と自然主義とは何だったのか 「明星」における「浪漫主義」と「自然主義」……田口道昭
女うたの夜明けと現在へのつながり 「暗示の、ひらめきだつたのです」……今野寿美
「明星」が輩出した歌人たち
《与謝野晶子》 「身体」と「恋」と「京」……米川千嘉子
《石川啄木》 「血に染めし」から「はたらけど」へ―「明星」と石川啄木……池田 功
《吉井勇、北原白秋》 北原白秋、吉井勇―歌つくりと歌よみと……細川光洋
《森鷗外、上田敏》 「明星」の魂の父と母 森鷗外と上田敏……渡 英子
《山川登美子》 山川登美子―「明星」というるつぼで……古谷 円

「短歌を語る」 尾崎左永子 聞き手:中川佐和子
季節の歌 五月 さいとうなおこ 選
コラム うたの名言……佐佐木幸綱
エッセイ
「みじかすぎるうた」第5回…上野 誠
「かなしみの歌びとたち ―近代の感傷、現代の苦悩―」 第五回 与謝野寛と自然主義…坂井修一
「啄木ごっこ」第19回……松村正直

 

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お目当ては、「特集 「明星」創刊120年」。松平盟子様はじめ、明星研究会の皆さんがご執筆なさっています。

光太郎の本格的な文学活動の出発点となった雑誌『明星』、ということで、光太郎の名も挙げて下さっています。ただ、光太郎はその後、軸足を短歌ではなくしてしまったので、晶子や啄木、吉井勇らと異なり、「「明星」が輩出した歌人たち」の章では、項目とはなっていませんが。

グラビアページは、大阪の「さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館」さん。平成27年(2015)のリニューアルオープンで、当方、旧与謝野晶子記念館の時代には行ったことがありますが、新装後は未踏。いずれそのうち、と思っております。

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それから、「「明星」のビジュアル・デザイン」というグラビアも。

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上記リンクの公式サイトから注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。

雑纂「歓送の辞――永瀬清子の「アジア諸国会議」行に―― 」全文
昭和30年(1955) 光太郎73歳

永瀬清子岡山赤磐出身の女流詩人。光太郎は詩集「諸国の天女」(昭和15年=1940)に序文を書いてやるなどしています。

「アジア諸国会議」は、正確には「アジア諸国民会議」。インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だったそうです。永瀬は「詩人」としてではなく、「婦人団体代表」ということでの参加でした。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

昨日の『毎日新聞』さん朝刊、「歌壇/俳壇」のページから。明星研究会等でお世話になっている、歌人の松平盟子氏の玉稿です。

「「明星」創刊120年 理想の火、俊秀集め=松平盟子002

 もし与謝野鉄幹という詩人が出現しなかったら。もし「明星」という文芸美術誌が鉄幹によって創刊されなかったら。歴史に「もし」はないが、そう仮定したくなるのは、二十世紀初頭を彩るこの雑誌から優れた詩人・歌人を多く輩出したからだ。与謝野晶子、石川啄木、北原白秋、吉井勇、高村光太郎。名を列挙するだけで納得されよう。
 では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。

 創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
 まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
 次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
 ・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
 鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
 重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
 二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)


新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。

光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。

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本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。

光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。

この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。

下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。

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後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。

松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。

これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。


【折々のことば・光太郎】

三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。

アンケート「名士の飲酒所感」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「三」は「酒が身体に齎(もたら)す御体験について。」、「四」が「飲酒或は節酒に対して何か御自身で御実行になつてゐらるゝことはございませんか。」という問いへの回答です。

当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。

東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。

こういう刊行物があったとは存じませんでしたが、うたごえ新聞社さん発行の『うたごえ新聞』。「にほんのうたごえ全国協議会機関誌」だそうで、昭和30年(1955)創刊とのこと。

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タブロイド判8ページ、週刊だそうで、上記は同社サイトから採らせていただきましたが、現物はモノクロ印刷です。合唱系をメインに、全国の演奏会情報や講習会などのイベント紹介、また、合唱に限らず、独唱歌曲系、器楽系、そしてうたごえ喫茶などに関する記事も載っています。

で、その3月16日号に「私とこの歌 「智恵子抄巻末のうた六首」」という記事が載っているという情報を得まして、取り寄せてみました。

「私とこの歌」は、アマチュア合唱団等で歌われている方からの寄稿のようで、今回は宮城県の医療のうたごえ合唱団セデスさんに所属されている、横田渉氏が書かれています。

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「智恵子抄巻末のうた六首」は、故・清水脩氏により、昭和39年(1964)、愛知の合唱団・東海メールクワイヤーさんの委嘱で、男声合唱曲として作曲されました。のちに混声版も出ています。題名の通り、詩集『智恵子抄』に収められた短歌六首がテキストです。

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子
気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり
いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき


当方、レコードやCD、それから平成24年(2012)、千葉県合唱祭で、船橋の合唱団・HGメンネルコールさんが演奏されたのを聴いたことがあります。

最近も、ぽつりぽつりと取り上げられています。
 所沢メンネルコール 第30回記念演奏会~歌は心のよろこび。
 コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート/米津玄師さん「Lemon」。
 北海道教育大学札幌校グリークラブ・混声合唱団 OB・OG演奏会。

今後も歌い継がれていってほしいものです。

また、故・清水氏、これ以外にも、昭和30年代から、光太郎詩をテキストとしてさまざまな楽曲を作曲して下さいました。合唱(混声、男声)、独唱歌曲、箏曲など。こうした傾向も現代の作曲家さんたちに、受け継いでいっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

沢山あつて困ります。日本のを一人だけお答へしませう。
一、弟橘比売命。
二、姫の御歌をよめば理由は申上げるまでもないと思ひます。
「真嶺(さね)さし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」

アンケート「私の好きなロマンス中の女性」全文
 大正9年(1920) 光太郎38歳

アンケート設問の「一」は、「好きなロマンス中の女性」、「二」は「その好きな理由」です。

弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神話上の人物ですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻です。夫の東征に際し、現在の東京湾・馳水(はしりみず)で、暴風雨を鎮めるために、自ら生け贄となって海中に身を投じました。引用されているのはその際の辞世の歌です。

のちに光太郎芸術世界の構築のため、自ら「生け贄」となった智恵子を彷彿とさせる、というと、牽強付会に過ぎましょうか?

2本ご紹介します。まず、再放送ですが。 

偉人たちの健康診断「与謝野晶子 悩める乙女と恋の病」

NHK BSプレミアム 2020年2月13日(木) 8:00~9:00

自らの恋心を赤裸々に官能的につづり、世間を騒がせた歌人・与謝野晶子。その素顔は引っ込み思案で内気な文学少女だった。何が晶子を「情熱の歌人」に変貌させたのか?それは晶子を襲った深刻な病…「恋の病」だった。恋は人の脳にどのような影響を与えるのか?脳科学と心理学から恋の病の症状を診断。さらに鉄幹と結婚後、破綻の危機に直面した夫婦関係を劇的に改善した晶子の秘策にも迫る。愛に生きた人生を健康面から読み解く。

【出演】関根勤 カンニング竹山 光浦靖子  【解説】森下明穂 植田美津恵  【司会】渡邊あゆみ

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2月6日(木)の本放送、北原白秋や石川啄木には触れられたものの、残念ながら光太郎の名は出ませんでしたが、興味深く拝見しました。お世話になっている明星研究会の松平盟子氏もご出演。

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晶子の生涯をひもときながら、その時々の「病」を「診断」。まずは……

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妻子ある寛(鉄幹)との道ならぬ恋について。光太郎智恵子につながる部分もあるな、と思いながら観ていました。

結婚後、しばらく経つと、寛の方が……

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『みだれ髪』で時代の寵児となった晶子に対し、古くさいと言われるようになった寛。これも立場を変えると光太郎に対する智恵子の苦悩にも似ているように感じました。

そして晶子も……

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これまた智恵子にもあてはまるような。「感情を表に出すのが苦手」という部分はもろにそうでしたし、光太郎の彫刻制作を優先させるため、自分の油絵制作の時間を削っていたエピソードは「いい妻」であろうとしたということに思えます。次の「仕事や家事に手が抜けない」。油絵は完璧な作を目指し、結局、うまくいかずに完成させることができなくなってしまった智恵子。家事の部分では、それを放棄して1年のうち数ヶ月は福島の実家に帰っていたこともありました。そう考えると、自分の油絵制作の時間を削ってまで率先して家事に取り組んだ時と、大きな振幅がありますね。それがそのまま智恵子の心理状態のアンバランスさを表しているような……。

そして「弱音」。有名な「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節「東京に空が無い」「ほんとの空が見たい」「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だ」あたりは、智恵子の遠回しの「弱音」だったように思われます。それを光太郎がどの程度、理解していたのか……。

しかし、寛と晶子、こちらは智恵子のように心の病となることはありませんでした。その契機となったのは……

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不安定になった寛をパリへと送り出し、のちに自らもその後を追った晶子。帰国後も、国内各地に旅を重ねることで、夫婦の絆が再構築されたというのです。

たしかに光太郎智恵子も、与謝野夫妻のようにしていれば、また違った結末になったでしょう。

そして寛に先立たれ、自らも死の床についた晶子。

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ここでも昭和13年(1938)、南品川ゼームス坂病院で、「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つ」(昭和14年=1939 「レモン哀歌」)し、その生を終えた智恵子の姿がダブりました。しかし、晶子は数え65歳でそれなりに幸福な天寿を全うし、智恵子は同じく53歳で「七年の狂気は死んで終つた」(昭和15年=1940 「梅酒」)。ある意味、対照的でもあります。

というわけで、「偉人たちの健康診断」、与謝野夫妻専門の方に言わせれば突っ込みどころがいろいろあるのでしょうが、そうでもない当方、興味深く拝見しました。見逃した方、ぜひ再放送をご覧下さい。


テレビ放映情報ということになりますと、もう1件。 

聖火ロード5min.「青森 巨大ねぷたでリレーを彩る!」

NHK BS1 2020年2月10日(月)24時00分~24時05分=2月11日(火)午前0時00分~0時05分

3 月 26 日、福島県をスタートする“東京 2020 オリンピック聖火リレー”。121 日間をかけて全国 857市区町村を巡る。聖火が駆け抜ける地域は、各地を代表する魅力あふれる場所。歴史あふれる街道や、地域の営みを感じる街並み…。そんな地域色豊かな“聖火ロード”を、聖火を迎える各地の動きとともに、47都道府県ごとに5分間で紹介。

スタートは弘前城▽東北で唯一の江戸時代から残る天守閣▽ブナの原生林が広がる白神山地の玄関口の西目屋村も▽五所川原では立佞武多の館で歓迎式典▽高校生もお囃子でお出迎え▽さらに十和田湖湖畔を巡り▽八戸市館鼻漁港の朝市にも!

出演 泉浩  語り 満仲由紀子

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昨秋から断続的に放映されている5分間番組です。

東京オリンピックの聖火リレー、青森県内では十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」から、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」までもコースに入っています。まぁ、5分間番組ですし、サブタイトルが「ねぷた」ですので、十和田湖がどの程度紹介されるか、というところですが、ぜひご覧下さい。ちなみに2月12日(水)24:00~(=2月13日(木)午前0時00分~)は岩手編だそうです。


【折々のことば・光太郎】

通俗的に云つて「職人気質」と云つた気風を極度に持つてゐたやうで、その気分からの潔白さが父の人格に漲つて居るやうに思ひます。今の芸術家に見出せないやうな神経質な潔白さです。

談話筆記「恵まれたる優生遺伝の名家」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、作品の芸術性といった点に於いてはあまり高い評価ができないと感じていた父・光雲に対し、その人格という部分ではこのように捉えていました。

都内から書道展の情報です。 

幕末・明治 偉人の書展

期 日 : 2020年2月12日(水)~2月18日(火)
会 場 : 小田急百貨店新宿店 本館10階 美術画廊・アートサロン
       東京都新宿区西新宿1丁目1番3号
時 間 : 朝10時→夜8時 最終日は午後4時30分まで
料 金 : 無料

幕末・明治期にスポットを当て、墨蹟の中でも大変人気が高く入手困難な西郷隆盛をはじめ、いま話題の渋澤栄一や、激動の時代を駆け抜けた維新の志士たちの遺墨を一堂に展示販売いたします。
また、夏目漱石、樋口一葉など同時代の文士の書も併せて展覧いたします。
歴史上の偉人たちの人柄そのものといえる書の魅力を、より身近に感じていただける、またとない機会となります。

《出品予定作家》
西郷隆盛、徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、福澤諭吉、伊藤博文、渋澤栄一、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、高村光太郎、与謝野晶子 他(順不同・敬称略)


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問い合わせたところ、光太郎の作品は、明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」をしたためた色紙(?)とのことでした。当会の祖・草野心平の鑑がついているそうです。

短歌自体は明治39年(1906)の作で、翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されましたが、この短歌、のちのちまで求められて揮毫した例が多く、この情報だけだといつ頃書かれたものかは不明です。

昭和4年(1929)9月1日発行の雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社)第5巻第9号には、「ある日の日記(抄)」という文章が載っており(『高村光太郎全集』には漏れていたものです)、この短歌に関し、次のように述べています。

 某社の依頼により自作短歌の中より五十首を選む。二十年来詠みすてし短歌の数はかなりの量に上るべきなれど、その都度書きとめもせざれば多く忘れ果てたり。記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。
 海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
といふ単純幼稚なる感慨歌は一九〇七年渡米の際、太平洋上の暴風雨中に作りし歌なれば完全に二十年前のものなり。此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。


一九〇七」とあるのは光太郎の記憶違いです。「某社」は改造社。この月発行された『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に関わります。同書には「海にして…」を筆頭に、明治末から大正13年(1924)までの短歌44首と、簡略な自伝が掲載されています。

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此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮007毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」そう言ってしまったら、身も蓋もないような気がしますが(笑)、実際、この歌の揮毫は多数現存します。当方も短冊を一点持っています(右画像)。

『明星』での発表形、初句は「海にして」ではなく「海を観て」となっていました。当方の短冊もそうなっています(ひらがなで「みて」ですが)。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には「海にして」と改められており、明治42年(1909)に留学から帰国した後、改訂するまでの間の揮毫と思われます。光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。


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ちなみにこちらが光太郎が乗り、船上でこの短歌を詠んだアセニアン。香港~バンクーバーをつないでいた貨客船で、光太郎は横浜から乗船しました。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては、小さなものでした。

さて、小田急百貨店さんの「幕末・明治 偉人の書展」。光太郎以外にも、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の書なども展示されます。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が一番求めてゐる事は清らかな美であつて、さまざまな望みが満たされた上にも、結局は此処に来るのだと思ふ。

談話筆記「令嬢の美しさと女優の美しさ」より
大正8年(1919) 光太郎37歳

ゴテゴテと塗りつけた化粧はNG、という話の流れからの発言です。いかにも「自然」を尊ぶ光太郎、ですね。

光太郎の本格的な文学活動の出発点、『明星』における光太郎の師・与謝野晶子をメインとしたテレビ番組です。 

偉人たちの健康診断「与謝野晶子 悩める乙女と恋の病」

NHK BSプレミアム 2020年2月6日(木) 20:00~21:00  再放送 2月13日(木) 8:00~9:00

自らの恋心を赤裸々に官能的につづり、世間を騒がせた歌人・与謝野晶子。その素顔は引っ込み思案で内気な文学少女だった。何が晶子を「情熱の歌人」に変貌させたのか?それは晶子を襲った深刻な病…「恋の病」だった。恋は人の脳にどのような影響を与えるのか?脳科学と心理学から恋の病の症状を診断。さらに鉄幹と結婚後、破綻の危機に直面した夫婦関係を劇的に改善した晶子の秘策にも迫る。愛に生きた人生を健康面から読み解く。

【出演】関根勤 カンニング竹山 光浦靖子  【解説】森下明穂 植田美津恵  【司会】渡邊あゆみ


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この番組では、昨年、「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、光太郎智恵子を取り上げて下さいました。智恵子が色覚異常だったと断定してしまった部分は納得が行きませんでしたが、それ以外はおおむね首肯できる内容でした。

今回は、「恋の病」に苦しんだ晶子だそうで、これもまた面白そうです。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の世にはいつの時でも水底に立つ者と、水面に動く者とが居た様です。水の意味を真に感ずる者は、言ふ迄もなく水底に立脚地を持つ者のみの事であります。水面に動く者の喜怒哀楽はすべて泡沫のように無駄です。水底に立つ者の心は直ちに水の本体と関係します。

散文「〔イェルゲンセン「癩病患者に与へる接吻」訳にそへて〕」より 
大正5年(1916) 光太郎34歳

「水面に動く者」=「目立つ場所、スポットライトの当たる場所で軽佻浮薄な活動にうつつを抜かし、世間の評価に一喜一憂する者」、「水底に立つ者」=「目立たぬ場所で己を空しゅうし、全体の利益を考えて慎重に行動する者」といったところでしょうか。

光太郎自身は自分を「水底に立つ者」と定義し、経営的にはまるで成り立たなかった画廊「琅玕洞」などの活動がそれに当たるとしています。

学会情報です。

明星研究会 第13回<シンポジウム> 「明治の恋」~すべては『みだれ髪』から始まった!

期 日 : 2019年11月30日(土)
会 場 : 日比谷コンベンションホール 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 13時40分~16時40分
会 費 : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)

内 容 
  第1部 対談「鉄幹と晶子 ~陶酔から現実へ」  13:45 ~14:45
      内藤明(歌人・早稲田大学教授) 松平盟子(歌人)

  第2部 鼎談「恋はどう歌われたか ~一葉・晶子・登美子・白秋」  15:00 ~16:40
      米川千嘉子(歌人) 古谷円(歌人) 渡英子(歌人) 


1901年6月、堺の鳳志ようは奔騰する恋に促されて上京し、与謝野鉄幹のもとで歌集『みだれ髪』を編みます。刊行は8月。ここに歌人・与謝野晶子は誕生し、絢爛たる恋歌は多くの青年たちの心を震わせるとともに、明治浪漫主義を一気に押し上げます。
晶子の恋歌は表現においてそれ以前をどう一新し、青年たちに何を与えたのでしょう。20世紀初年に登場した『みだれ髪』は、恋を表す言葉としてどう時代に機能したのでしょう。晶子に先んじる樋口一葉、のちに晶子の夫となる詩歌の旗手・鉄幹、恋と歌のライバル山川登美子、人妻との恋愛により人生の激変した北原白秋……。彼らの作品を通して明らかにします。
来春は「明星」創刊120年。その前夜とも言うべきこの秋に晶子の恋を考えてみましょう。


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光太郎の本格的な文学的活動の出発点となった、雑誌『明星』を中心とした、明星研究会さんの研究発表会です。

一昨年、昨年の様子はこちら。

都内レポートその1 第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎。
都内レポート その4 「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」。

11月10日(日)、「事前勉強会」なるものが開催されました。発表者の皆さん、研究会の事務局的な方々など十数名がお集まりになり、まあ、一種のリハーサル。当方も参加させていただきました。

それによると、今年の内容は直接的には光太郎には関わりませんが、「明治の恋」ということで、「恋愛」という語の成立、使用例などなど、後の光太郎智恵子にもつながるなと思いつつ、拝聴していました。

そういえば、『智恵子抄』所収の詩で「郊外の人に」(大正元年=1912)という詩があります。千葉銚子犬吠埼で愛を確かめ合った後、発表された詩です。


     郊外の人に

 わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり003
 愛人よ
 いまは青き魚(さかな)の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
 されば安らかに郊外の家に眠れかし
 をさな児のまことこそ君のすべてなれ
 あまり清く透きとほりたれば
 これを見るもの皆あしきこころをすてけり
 また善きと悪しきとは被ふ所なくその前にあらはれたり
 君こそは実(げ)にこよなき審判官(さばきのつかさ)なれ
 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
 をさな児のまこともて
 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
 君の見いでつるものをわれは知らず
 ただ我は君をこよなき審判官(さばきのつかさ)とすれば
 君によりてこころよろこび
 わがしらぬわれの
 わがあたたかき肉のうちに籠れるを信ずるなり
 冬なれば欅の葉も落ちつくしたり
 音もなき夜なり
 わがこころはいま大風の如く君に向へり
 そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき温泉(いでゆ)にして
 君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり
 わがこころは君の動くがままに
 はね をどり 飛びさわげども
 つねに君をまもることを忘れず
 愛人よ
 こは比(たぐ)ひなき命の霊泉なり
 されば君は安らかに眠れかし
 悪人のごとき寒き冬の夜なれば
 いまは安らかに郊外の家に眠れかし
 をさな児の如く眠れかし


この詩で、光太郎は智恵子に「愛人」と呼び掛けています。現代では「愛人」というと、背徳の匂いしかしませんが(笑)、この場合、文字通り「愛する人」または「愛(いと)しい人」という意味で使っているわけですね。そもそもが「恋愛」という概念もまだ一般的ではなかったというのがよくわかります。

ちなみにこの詩、題名の「郊外」を、智恵子が福島二本松の出身だから、と勘違いしている方がいらっしゃるようですが、違います。当時、智恵子が住んでいたのが雑司ヶ谷。この頃の雑司ヶ谷は「都心」とは言えぬ「郊外」でした。

閑話休題。「明星研究会 第13回<シンポジウム>」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美術家に完成は恐ろしいと言ふ。此は完成が恐ろしいのでなくして、完成の堕し易い陥穽(おとしあな)が恐ろしいのである。殊に技巧の問題になつて自縄自縛の完成の幽閉が恐ろしいのである。

散文「石井柏亭君を送る」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

なるほど、一度、自己のスタイルを確立させてしまうと、いつまでもそれを続けていては、やがて飽きられるでしょうし、進歩がないことにもなります。進歩に関しては、アスリートの皆さんも同じような発言をすることがあります。

「ここだ!」と思って到達した地点に安住できないというのも、しんどい話ですね。しかし、がらりとスタイルを変えるというのも大変でしょうし、それがそれまでの自己の全否定を伴うとなると、なかなかそれも出来ないのでしょう。




やっちまいました。

このブログ、元々、平成24年(2012)にyahoo!ブログでスタートしたのですが、yahooさんがブログサービスを廃止することになり、今年8月にライブドアさんに引っ越しました。

とりあえず過去の記事が無くなってしまうなどの大きなエラーはなく、無事に移転できたのですが、過去の記事は画像や文字のサイズ、表示位置などがおかしかったり、一部では文字化けもあったり、さらにはyahooブログ内にリンクを貼っている箇所は今年いっぱいでリンク切れになったりと、そのあたりを訂正せねばなりません。ほぼ毎日こつこつその作業をやっているのですが(1日に20日分が限界です。集中力がちません)、昨日、作業中に誤って(勘違いして)、消してはいけない画像をけっこう消してしまいました。まだライブドアさんのブログの機能がよく分かっていませんで……。その結果、先月から今月に書けての記事で、画像がまったくないという状態が生じています。途中で気がついたのでまだよかったのですが……。

PCに画像が残っているものなどは少しずつ復元していますが、もともとの過去記事の訂正もあり、余計な仕事を増やしてしまいました。今年中に終わるかどうか、というところです。

そうこうしているうちにも新着情報が続々。書籍をご寄贈下さったり、イベントのご案内を下さったりした方で、「まだ載っていないぞ」という方、済みません。順番待ちです。特にこの時期、「芸術の秋」ということでいろいろありますので……。

さて、本日の情報は、富山県から。

令和元年度文学講座「ゆかりの文学者」シリーズ

期 日 : 2019年11月2日(土) 11月9日(土) 11月16日(土) 12月1日(日)
会 場 : 
高志の国文学館 富山県富山市舟橋南町2-22
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料


【開催日及び講師】
 第1回 青鞜の10代社員、尾竹紅吉の天真爛漫な生き方
 開催日 11月2日(土)
 講 師 作家、エッセイスト 森まゆみ 氏
 
 第2回 田部重治の自然観と現代アメリカハイキング文化
 開催日 11月9日(土)
 講 師 ハイカーズデポオーナー 土屋智哉 氏
 
 第3回 山田孝雄先生に学ぶ-あゆみ・連歌・文法など-
 開催日 11月16日(土)
 講 師 「熱血あるものゝ黙視しうべき秋ならむや 山田孝雄」著者 神島達郎 氏
 
 第4回 吉井勇と高志びとたち-疎開日記をもとに
 開催日 12月1日(日)
 講 師 静岡県立大学国際関係学部教授 細川光洋 氏


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光太郎智恵子のその人ではありませんが、関連人物について取り上げられます。

まず、11月2日(土)の森まゆみさんによる尾竹紅吉。智恵子同様、『青鞜』の表紙絵を描いていました。富山の出身ということで、取り上げられるようですが、同じく富山で今年の8月、「とやま学遊ネット男女共同参画サテライト講座 「尾竹紅吉と『青鞜』」」という市民講座があり、その紹介をこのブログで致しました。紅吉についてはそちらをご参照下さい。

講師の森さん、『青鞜』についてのご研究もなかなかのもので、光太郎智恵子にも言及して下さった『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書がおありの他、『青鞜』がらみのご講演などよくなさっているようです。

それから、12月1日(日)、細川光洋氏で吉井勇。吉井は『明星』、「パンの会」などで光太郎と親しかった歌人です。代表作「酒ほがひ」(初版・明治43年=1910、二版・昭和21年=1946)は光太郎の装幀です。そんなこんなで戦後も光太郎との交流は続きました。富山への疎開経験があるそうで。

細川氏には、「明星研究会」や「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」などでお世話になっております。

それぞれご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

若い魂のこれほど揃つてむきになつてゐる集団は、きつと公けの或る特殊の意味を作り出すであらう。途中でいゝ加減に利口になつて世渡りに眼がくらみさへしなければ、世間によくある小遣いかせぎに終る小展覧会とは違つた発達を遂げるであらう。
散文「「童顔社」を観た日の日記 下」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

「童顔社」は、帝展に対抗し、伊藤廉、野間仁根、山本稚彦ら二十代前半の若者が無料で開いた在野展です。山本(父は光太郎の父・光雲の高弟であった山本瑞雲)と伊藤は、しばしば光太郎アトリエを訪れて議論したそうです。

仙台から市民講座の情報です。光太郎の師・与謝野晶子と、智恵子の先輩・平塚らいてうのコラボです。

仙台文学館ゼミナール2019 ■■近代文学を読み解くコース■■ □与謝野晶子と平塚らいてうを読む□

期 日 : 2019年 9/18・10/2・10/16・10/30・11/13(各水曜日・全5回)
時 間 : 13:30~15:00
会 場 : 仙台文学館 仙台市青葉区北根2-7-1

料 金 : 1回500円
講 師 : 小嶋翔(吉野作造記念館主任研究員)


□『明星』で活躍した歌人・与謝野晶子。『青鞜』を創刊した思想家・平塚らいてう。ともに女性の地位向上に努めた2人ですが、実際には対立することもしばしば…。2人が思い描いた人間のあり方、女性のあり方とはどのようなものだったのでしょうか。「みだれ髪」「元始、女性は太陽であった」といった代表作品を中心に読み解きます。

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講師の小嶋氏、昨秋、日比谷図書館さんで開催された「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」でも、歌人の松平盟子氏との対談のパネラーを務められました。お題は「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」でした。

締め切りが過ぎてはいますが、まだ定員に達していない可能性もありますので、仙台文学館さんまでお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間劣性のありたけを根こそげ見たので あれの度胸も自然にすわつた。 二度とあへない歴史の割れ目に 人間性のまつぱだかが待つてゐた。

詩断片「(人間劣性の)」全文 昭和23年(1948)頃 光太郎66歳頃

構想のまま発表されずに終わった詩の断片と思われます。光太郎遺品の中から出て来た原稿用紙に罫を無視してメモ風に書き付けられていました。「人間劣性のありたけを根こそげ見た」「二度とあへない歴史の割れ目」は、おそらく、戦時にかかわると思われます。

手前味噌で恐縮ですが、拙稿の載った雑誌が出ましたのでご紹介します。

歌壇 2019年9月号

2019年8月16日 本阿弥書店 定価800円(税込み)

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今年3月に開催された、明星研究会さん主催の公開講座的イベント「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で発表を仰せつかり、光太郎の「食」について語らせていただきまして、それを元に書きました。題して「苦しい中でも工夫して」。25字×240行=6,000字=400字詰め原稿用紙15枚。掲載誌には6頁で載っています。

廃仏毀釈のあおりで、仏師だった父・光雲への仕事の注文が激減し、どん底だった幼少年期――光雲が東京美術学校に奉職し、少し生活が好転した学生時代――3年半にわたる欧米留学――極力俗世間と交流を絶った智恵子との芸術精進の生活――智恵子没後の戦時中――戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活――そして最晩年の再上京後と、順を追って、光太郎本人や周辺人物の回想などを紹介しつつ、光太郎の「食」をまとめてみました。

同じ『歌壇』さんの7月号には、静岡県立大学さんの細川光洋氏による「極道に生れて河豚のうまさかな——健啖家・吉井勇」、8月号で歌人・伊東市立木下杢太郎記念館館長丸井重孝氏による「木下杢太郎 割烹は芸術の一種であり、美食は最高の贅沢である」が掲載されています。お二人ともやはり3月の講座で発表された方々です。

それぞれぜひご購入下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

【折々のことば・光太郎】

まあ僕は性質としてあんなオーソリテイに対しては意識的に「好かれようとする態度」をとらないで、わざとぶつかつて行くやうな事ばかりしたもので、そんな事ではよく鷗外先生にやられましたよ。

対談「鷗外先生の思出」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

当方、光太郎のこういうところも大好きです(笑)。

題名の気仙沼レポートに行く前に、地方紙『石巻かほく』さんが、9日の第28回女川光太郎祭を記事にして下さいましたので、ご紹介します。 

女川で高村光太郎しのぶ会 生演奏に合わせ朗読、小学生も

 女川町とゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第28回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館ホールであった。
 町内外から光太郎ファンら約60人が出席。講演や紀行文、詩碑、詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れた。
 朗読では、子どもから大人までの15人がステージに登場。詩の朗読ではギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)の奏でるギターの生演奏に合わせ、女川小6年の内村有佑さん、4年の有生七さん兄妹や東松島市の加藤慶太副市長らが「道程」「あどけない話」「或(あ)る夜のこころ」を感情を込めて披露した。
 講演では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって(7)」の題で講演し、出席者は熱心に耳を傾けた。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅で女川を訪れ、海とそこに生きる人々のたくましい生活に心を打たれ、数々の詩歌や散文などの作品を残した。
 光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催。91年には女川港を臨む海岸公園に文学碑を建立したが、東日本大震災の津波で流された。

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さて、その翌朝、宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんを後に、愛車を駆って北上しました。今年の2月に三陸自動車道が気仙沼市の小泉海岸ICまで延伸されたとのことで、女川同様やはり光太郎の足跡の残る気仙沼も訪れてみようと思った次第です。

光太郎の気仙沼訪問は、やはり新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」の一環でした。紀行文に記された順番では女川のすぐ後、船で気仙沼入りしています。

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ただ、紀行文で起点となっている石巻までどうやっていったのかが不明です。で、以前にも書きましたが、光太郎が乗った三陸汽船、月に二便、東京芝浦港から出ている便があり、新幹線などなかった陸路より便利なのでこれを利用したのかも、と考えるようになりました。その場合、最初の寄港地は気仙沼。すると、光太郎、一度気仙沼に降り立ち、そこから石巻まで戻って改めて北上し、東京への帰りは宮古からの東京便に乗ったのかも知れません。あくまで推測ですが、可能性は高いと思われます。

さて、当方の気仙沼紀行に戻ります。

三陸自動車道を、現在の終点となっている気仙沼市の南端・小泉海岸ICで降り(復興支援のため、通行料金無料です。ありがたし)、まずは市街を迂回して唐桑半島へ。その突端に、平成5年(1993)に建てられた、光太郎の歌碑が建っています。約20年前、一度拝見に伺いまして、2度目です。最初の時は新幹線、在来線、そして路線バスを乗り継いでの訪問でした。

こちらが歌碑。

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紀行文「三陸廻り」の直後、雑誌『磁場』に発表された詩「霧の中の決意」(こちらも女川の光太郎文学碑に刻まれています)に添えられた短歌で、光太郎自筆を拡大したものです。曰く、

 黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり  光

光太郎、この唐桑半島には降り立っていないのですが、ここの沖合を船で通過したということで、この碑が建てられたわけです。

紀行文「三陸廻り」では、船中の様子としてこう書かれています。

夜の十時に気仙沼を出た小柄な東華丸は何処へも寄らずに釜石までゆく。夜の海は私を寝かさない。私は舷側に立つて珍しいものを見るやうにいつまでも海の闇黒を見てゐる。むしろ寒い。船員は交替時間にどしどし船底へ行つて眠るのが本務だ。客の好奇心などに構つてゐられない。五六人の船客も皆ねた。私は一人で露地裏のやうに狭い左舷右舷の無言のレエヴリイを楽しむ。十一時半。船が気仙沼湾の大嶋の瀬戸をぬけて御崎を出はづれ、漁火のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆と無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒で、ガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。船は眼そのもの、耳そのものとなる。ちんちんちんと低い鐘が三つ鳴る。又一つ。機関の音がぱたりと止み、船はうねりの横波の中で停る。急に静になつた舷側をぱちやぱちやと水がうち、盥のやうに船はゆれる。針路の漂蹰をなほす爲か、舵の鎖が重く強く長くずるずると音を立てる。船首の燈火が闇黒の世界にぼやけた暈をつくる。十分、二十分。依然たる寂寞。やがて三点鐘。又一点。機関は再び呼吸を始める。微速前進。船は幾度か考へなづむやうに又停り又進む。

御崎(おさき)というのが、この唐桑半島の突端です。

その、光太郎が通過した海。


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この日はあいにくの雨で、雷も鳴っていました。気温も19℃しかありませんでした。

せっかくですので、傘をさしつつ周囲を散策。

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御崎(おさき)神社さん。平安時代から続く古社です。例によってこの地の平安、道中安全、そして東日本大震災による津波等で亡くなった方々の鎮魂を祈願して参りました。

その後、舗装されていない遊歩道を歩いていましたら、灯台の手前の道の真ん中に何やら黒っぽい塊。はじめは切り株が転がっているのかと思ったのですが、近づいてみると……。

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とっさのことでしたし、肉薄までは出来なかったため画像が不鮮明で申し訳ありませんが、何とまあ、ニホンカモシカの親子でした。久々に野生のそれと遭遇し、さすがに驚きました。こんな海辺にも生息しているのですね。熊でなくて良かったとも思いました(笑)。

その後、愛車を気仙沼市街に向けました。

紀行文「三陸廻り」、気仙沼の項で、光太郎が訪れた場所が何ヶ所か挙げられており、この際、そちらも見ておこうと思った次第です。20年前に唐桑の歌碑を見に来た際には、市街は廻りませんでしたので。

光太郎が降り立った気仙沼港。やはり津波の爪痕が少し残っています。

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近くに、光太郎が訪れた前年の昭和5年(1940)、大阪毎日新聞、東京日日新聞主催 、鉄道省後援で選定された全国百ヵ所の景勝地・日本百景の碑があるはずですが、雨でしたし、パス。光太郎は「海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり」と書いています。

右上は市街三日町にある少林寺さん。やはり「三陸廻り」で「少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り」の記述があります。「焼けあと」とあるのは、昭和4年(1929)に、約1,000戸が焼失したという気仙沼大火によると思われます。

北野神社さん。気仙沼駅にほど近い、新町(あらまち)という地区です。

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ここの一角に、自在庵という庵があったそうで、光太郎はこう書き記しています。

此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の西蔵チベツト仏などを見せてくれた。「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。

「慧海師」は河口慧海、光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流のあった僧です。

その自在庵の跡地。北野神社さんの宮司さんとおぼしき方が、ご案内下さいました。その方によれば一昨年くらいまで建物が現存していたそうなのですが、惜しいことをしました。

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こうして気仙沼を後にし、千葉の自宅兼事務所へ。気仙沼から自宅近くまで高速道路で帰れてしまうようになり、便利な世の中になったものだと思いました。

紀行文「三陸廻り」は、気仙沼の後、釜石、宮古と続きます。釜石も20年ほど前にお邪魔しましたが、改めて、また、宮古には行ったことがないので、それぞれ機会を見て、光太郎の足跡をたどってみようと思っております。

以上、宮城レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人は野をおもひ山をおもふ    短句揮毫 戦後

花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、佐藤隆房医師筆の画に対する画讃です。「海をおもひ」の一語も付け加えたいものです(笑)。

いよいよ今日で「平成」の幕が閉じます。そこで、それっぽい内容の新刊書籍をご紹介します。

宮中歌会始全歌集 歌がつむぐ平成の時代

2019年4月19日  宮内庁編  東京書籍  定価1,700円+税

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新年を祝う宮中の伝統行事「歌会始」。去る1月16日、平成最後の歌会始が開かれた。
つねに平和を願い、国民の心に寄り添ってこられた天皇・皇后両陛下。平成時代の歌会始のすべての和歌をとおして、両陛下のお気持ち、国民の思いをたどります。


毎年、1月10日前後に皇居宮殿松の間で行われる宮中歌会始の儀。天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方、毎年選ばれる召人(広く各分野で活躍しつつ短歌に親炙している人々から選出)、一般からの詠進歌を選ぶ選者の皆さん、詠進歌で入選された一般の方々などが集い、それぞれの作歌が披講されます。

平成の間の宮中歌会始の儀で披講された全ての短歌を集めた一冊です。といっても、平成元年(1989)は昭和天皇の服喪のため中止、同2年(1990)は、宮中歌会始としてではなく、「昭和天皇を偲ぶ歌会」として2月の開催だったため、それも除かれ、同3年(1991)から今年までのものとなっています。

平成25年(2013)の宮中歌会始の儀、一般からの詠進歌入選作で、福島県郡山市の金澤憲仁さんの作歌が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をモチーフにしたものでした。

安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

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当時報じられた金澤さんのコメント。

「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。

これ以外には光太郎智恵子を直接のモチーフとした作歌は含まれていないようですが、通読してみて改めて平成という一つの時代がうかがい知れるな、と思いました。

昨今はやりの平成回顧ものの中でよく指摘されていますが、やはり大きな自然災害の多かった30余年で、そうした内容の作歌が目立ちます。

火をふきて五年(いつとせ)すぎし普賢岳人ら植ゑたる苗みどりなす
常陸宮正仁親王 平成8年(1996)

大地震(おほなゐ)のかなしみ耐へて立ちなほりはげむ人らの姿あかるし
東宮妃雅子殿下 平成9年(1997)

「げんきです やまこし」といふ人文字を作りし人ら健やかであれ
憲仁親王妃久子さま 平成28年(2016)

津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
 御製 平成24年(2012)

難(かた)き日々の思ひわかちて沿岸と内陸の人らたづさへ生くる
秋篠宮文仁親王妃紀子さま 平成24年(2012)

巻き戻すことのできない現実がずつしり重き海岸通り
選歌 福島県 沢辺裕栄子さん 平成24年(2012)

「あつたよねこの本うちに」流された家の子が言ふ移動図書館
選歌 千葉県 平井敬子さん 平成27年(2015)

らふそくの光が頼りと友の言ふ北の大地を思ひ夜更けぬ
寛仁親王長女彬子さま 平成31年(2019)


それから、やはり平成史が凝縮された歌の数々。冷戦終結、少子高齢化、戦後五十年、ミレニアム、IT時代の到来、イチロー、そして御退位……。歌会始は新年を言祝(ことほ)ぐものですので、基本的に政治の混迷や重大犯罪などは題材にはなりませんが。

人々をへだてし壁はくづれたりベルリンに響く歓びの歌
皇太子殿下 平成7年(1995)

卒業のうたはひとりのために流れ今日限り閉づ島の学校
選歌 長崎県 溝口みどりさん 平成7年(1995)

被爆せる樟青々と天に伸び半世紀経し夏を輝く
選歌 千葉県 山之内俊一さん 平成11年(1999)

あたらしき時世(ときよ)のごとくひとむらのあしたの雲をながくみまもる
選者 島田修二氏 平成12年(2000) 

山川も草木も人も共生のいのち輝け新しき世に
召人 上田正昭氏 平成13年(2001)

いとけなき日のマドンナの幸(さつ)ちやんも孫三(み)たりとぞe(イー)メイル来る
召人 大岡信氏 平成16年(2004)

大記録なししイチローのその知らせ希望の光を子らにあたへむ
正仁親王妃華子さま 平成22年(2010)

今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく
皇后宮御歌 平成31年(2019)


さらには召人や選者の皆さんの変遷にも、感懐を覚えました。召人では、故・大岡信氏(平成16年=2004)、選者では岡井隆氏(平成5年=1993~平成26年=2014)、三枝昂之氏(平成20年=2008~)など、光太郎に関する御著書等おありの方がいらっしゃるもので。山梨県立文学館館長であらせられる三枝氏は、連翹忌にもご参加下さっています。

また、平成9年(1997)の召人だった女流歌人の故・斎藤史氏は、昭和4年(1929)、光太郎が審査員の一人として参加、朝日新聞社において開催されたミスコンテスト「現代女性美」審査会で「女性美代表」に選ばれた8名のうちの一人でした。


そんなこんなで「平成」も今日で終わり。明日からの「令和」、どんな時代となっていくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコオピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。

散文「みちのく便り 一」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

7年間の蟄居生活を送っていた、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋で見る星空。「オライアン」はオリオン座、「ソコオピオン」は蠍座です。いわゆる光害とは無縁のそれは、まさにこのようなものだったのでしょう。

3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。
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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お
   米でも
でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所には
   いゝやつ
がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。

第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎

期    日 : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」
   丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」
   細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」
   小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」  
   松平盟子(歌人)
 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

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『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。

11月24日(土)、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんを後に、光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった楠木正成像を経由、日比谷公園へ。

連翹忌会場の松本楼さん脇の、首かけイチョウ。すっかり色づいていました。公園の設計者・本多静六が自らの首を賭けて移植させたことから付いた名です。

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そして、日比谷図書館さんへ。こちらで 「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」が開催されました。

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2部構成で、前半は慶應義塾大学教授・片山杜秀氏のご講演。題して「天皇・戦争・文学 ――与謝野晶子と天皇や戦争のことについて考えるための幾つかの前提――」。

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日露戦争期から第二次世界大戦時の文学者等を取り巻く世の中の趨勢について、熱く語られました。


第2部は、吉野作造記念館研究員の小嶋翔氏、明星研究会の中心人物にして歌人の松平盟子氏による対談「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」。

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叙情的な部分のみが注目されがちな与謝野晶子の、天皇や戦争への視点を問題としたもので、短歌以外にも評論や自由詩などにも着目。智恵子の心の病が昂進し、さらに亡くなった昭和10年代はじめころから、大政翼賛の方向へとはまっていった光太郎と重ね、興味深く拝聴しました。

有名な「君死にたまふことなかれ」にしても、単なる反戦詩と片付けられない部分があること、その他の著作を通じても、晶子は天皇制批判などには向いていないこと、デモクラシーの思想と大日本帝国憲法の理念は決して矛盾しないと考えられていたことなどなど。

ただ、残念なことに、会場の使用時間の都合で対談は途中で打ち切りとなってしまいました。


終了後、近くのドイツ居酒屋で懇親会。こちらでお二人から「この後こんな話をする予定だった」というお話を伺えたので、それはよかったと思いました。

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懇親会には斯界の泰斗・逸見久美先生もご参加下さいました。それから、たまたま偶然でしたが、当方の目の前に座られた方が、文化学院の創立者にして、光太郎とも交流のあった西村伊作のお孫さんで、驚きました。


配布されたレジュメ等、希望者には代価1,000円で頒布するそうです。主催の明星研究会あてにお申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

永遠性の無い芸術は真に世界の塵埃である。騒音である。邪魔である。紛擾である。永遠性は何処から来るか。永遠性は人間の実感から来る。

散文「水野葉舟小品選集「草と人」序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

水野葉舟は、光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。光太郎はその突然の死に際し「水野葉舟君は私のたつた一人の生涯かけての友達だつた」(「水野葉舟君のこと」より 昭和22年=1947)としています。「蝶郎」と号し、やはり歌人として初期『明星』に依った時期があり、そこで光太郎と知り合っています。その頃、晶子との間にロマンス的なことがあったとかなかったとか……。

そしてその葉舟の作品には、「永遠性」がある、というわけですね。

明治33年(1900)、光太郎の本格的な文学活動の出発点となった、与謝野寛・晶子夫妻の『明星』の研究会です。
会    場  : 日比谷コンベンションホール 千代田区日比谷公園1番4号
            千代田区立日比谷図書館B1
時    間  : 13時40分~16時40分
参 加 費  : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
主    催  : 明星研究会

Ⅰ 13:40  開会挨拶
Ⅱ 13:45 ~14:45 
第1部 講演「天皇・戦争・文学」 片山杜秀(慶應義塾大学教授)
Ⅲ 14:45 ~15:00 ―休憩―
Ⅳ 15:00 ~16:40 
第2部 対談
「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」
      小嶋 翔 (吉野作造記念館研究員)  松平盟子(歌人):高村光太郎
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 前田宏(歌人)

申し込み●「明星研究会」事務局あて。
ネット上での受付は11月23日(金)まで(先着順)。 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
申し込みの送信をされる際には、
 (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
 (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
 (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
 (二)ご家族ご友人同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
終了後懇親会 4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)

 今年は、与謝野晶子の生誕140年目に当たります。明治11年12月7日、大阪・堺に生まれた晶子は、維新後という新時代に少女期を過ごしました。長じて「明星」主宰者・与謝野鉄幹と出逢い、恋愛・結婚を経て、歌人・詩人・評論家・古典評釈者として大成したのは周知の通りです。
 日露戦争中に出征した弟を思って詠んだ詩「君死にたまふこと勿れ」は、太平洋戦争後、晶子像を「反戦詩人」として印象付けました。戦争の惨禍に疲弊した多くの日本人は、戦後の平和思想の理想をこの詩に託したのです。しかし晶子は、生涯をとおして明治天皇を深く崇敬し、「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」「教育勅語」を精神の根本に置いた女性でした。一方で、社会における男女の対等、教育の機会均等、女性の普通選挙権の確立など先進的な発言を続けたのです。今あらためて晶子の天皇観を検証したいと思います。

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当方、昨年の第11回研究会に、初めて出席させていただき、今年は8月に、今回のシンポジウムの「事前勉強会」なるものにも参加、光太郎の天皇観について簡単に発表させていただきました。

第二部の対談の中で、非常にお世話になっております歌人の松平盟子氏が、光太郎にからめたお話をして下さるそうで、多少は当方の発表もご参考にされるのかな、と思われます。


『明星』、与謝野晶子、松平盟子氏、といいますと、短歌研究社さんから発行されている月刊誌『短歌研究』の11月号が、「生誕百四十年「与謝野晶子」大研究」という特集を組まれています。

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そちらの「座談会 「全身・与謝野晶子」という生き方」が、松平氏、やはり歌人の松村由利子氏、早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授であらせられる内藤明氏のお三方によるものです。

明星研究会さんにはぜひ足をお運びいただき、『短歌研究』さんはぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その一生に物された短歌の数は恐らく数万首の多きに上るであらうが、その表現の本質は、よく芸術精神本来の深い、幅びろな地下泉から出てゐて、決してただ地上水の濾過滲透による一区域的湧水のやうなものではない。

散文「与謝野晶子歌集「白櫻集」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

『白櫻集』は、この年亡くなった晶子の遺詠集。光太郎は同じ文章で、「女史の歌といへば初期青春時代のものばかりを思出す如きは鑑賞者の怠慢である。未結集の晩年の短歌をのみ収めたといふ此の「白櫻集」こそ心をひそめて読み味ふ者にその稀有の美をおもむろに示すであらう。」と記しています。

確かに最晩年、その人生の到達点において書かれたものこそ、その人物の歩んできた道のりを色濃く反映しているといえるでしょう。

初期青春時代のものばかり」というのは、光太郎詩にしても同様で、『道程』所収のものなどがよく取り上げられ、戦後の詩は殆ど顧みられません。出発点、そして軌道に乗るまでのものとして論じるのなら良いのですが、どうもエラいセンセイ方、それが光太郎のすべて的な論調にもなり、首をかしげざるを得ません。もっとも、光太郎自身が後に「変な方角の詩」と表現した、戦時中の翼賛詩を「これぞ大東亜の魂!」と涙を流してありがたがる愚か者も居るくらいですが……。

特に智恵子の関連で、新聞雑誌各紙誌にいろいろ出ていますので、ご紹介します。

まずは9月20日(木)、『朝日新聞』さんの北海道版。「歌壇」という欄で、読者の方々からの投稿短歌欄です。

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函館の作山宗邦さんという方の作。

妻持ちし文学全集抜きだして智恵子抄読む新盆の朝

「持ちし」と過去形ですから、「新盆」は奥様のそれだったのでしょう。「智恵子抄」をご生前に好まれていたのでしょうか。切ない歌ですが、厨(くりや)で智恵子の遺した梅酒を見つけた光太郎のような、リアル「智恵子抄」短歌ですね。


続いて、『しんぶん赤旗』さん。9月23日(日)の日曜版で、「智恵子の生家と「ほんとの空」」ということで、智恵子の故郷、二本松の紹介が載りました。

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智恵子生家・記念館を大きく扱って下さいました。同紙では、今年6月にも智恵子がらみで安達太良山を取り上げて下さっています。


それから、日本古書通信社さん発行の雑誌『日本古書通信』9月号。巻末に全国の古書店さんの在庫目録的なページがついていますが、その中で、神田の八木書店さんのページに、光太郎の書簡が。

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出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てたもので、筑摩書房の『高村光太郎全集』に漏れているものです。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)のものと推定され、智恵子にも触れています。

拝復 先日はおてがみ忝く拝見しました、一寸いそぎの事がありました為め御返事失礼しました、
今年の暑は殊にからだにこたへ毎日閉口して居ります、やむを得ず仕事はして居りますがはかどりません、
あなたの方はお変りなく御健勝で居られますか、 おてがみによれば何か御用との事ですが、若しお急ぎの事でなければ秋涼の頃まで待つて頂ければありがたく存じます、この暑さで半病人の有様で居ますので殆と人にも会はずに暮して居ます、全く夏ばかりは一切をすてたく思ひます、 智恵子がまだ悪かつたりしますので尚更小生は腐つて居ます、早く秋風高く吹いてくれればいいとそれのみ望んで居る次第です、
御見舞の御礼かたがた御返事まで    艸々
   七月十五日
       高村光太郎
  森下文一郎様
  二伸 若しお急ぎの事でしたらおてがみでおきかせ下されば早速御返事いたします、

何げなく書かれた一言が、やはり切なく感じられます。


最後に、智恵子は絡みませんが、『月刊絵手紙』さん10月号。花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和29年(1954)に書かれた「書をみるたのしさ」の一節が取り上げられています。

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併せて紹介しておきます。


さらに、雑誌というわけではありませんが、智恵子の故郷・二本松市の広報紙『広報にほんまつ』さんで、今月の様々なイベント等が紹介されています。そちらは明日。


【折々のことば・光太郎】

私はかかる意味のフランスに感謝してゐる。「感謝」といふ詩にも書いた通り其は黙つてゐても物のわかるといふ、あの人間精神文化の最尖端を鷹揚に持つところの一種の気質である。

散文「熱情と理解の人――川路柳虹の印象――」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「美」や「芸術」が人々の生活に深く根付き、無意識に文化的な生活を送っているフランス国民への讃仰です。光太郎の朋友だった詩人・川路柳虹もそうした気質を備えていたと言っています。

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