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昨日は信州上田方面に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的である、「没後100年 村山槐多展」。光太郎と交流のあった村山槐多は、大正8年(1919)数え24歳で夭折した鬼才の画家です。今年が没後100年、さらに近年、100点以上の作品が新たに見つかるなどし、また注目を集めています。


会場は上田市のサントミューゼ上田市立美術館さん。

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圧倒されました。

ほぼ生涯を追っての展示構成で、初めは最近見つかった少年時代のパステル画がメイン。その頃暮らしていた京都の風景が中心で、穏健な作風ながら天才の片鱗がまざまざと感じられました。

青年期になるとその才が一気に爆発/炸裂したかのようで、生き急ぎ、死に急いだ強烈な個性が咲かせた狂い咲きのあだ花、という感がありました。槐多の作品自体は以前にも見たことが何度かありましたが、まとめて多数の作品を見たのは初めてで、打ちのめされました。

こちらは図録というわけではないのですが、ときどきある「公式ガイドブック」という位置づけで刊行されている書籍。著者は、本展開催に尽力なさったおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏です。

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光太郎にも触れて下さっています。

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ただ、光太郎と槐多の交流がどのようなものだったのか、実はよく分かりません。

槐多の年譜には、大正3年(1914)の事項として、「この頃、高村光太郎の工房に出入りする」とあるのですが、光太郎側の資料としては、詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文、それから岸田劉生の追悼文の中で槐多に少し触れている程度です。今後の課題としておきます。


槐多展を見終わって、昼食を摂ろうとロビーに降りたところ、驚いたことに、渡辺えりさんが。といっても、ご本人でなく等身大パネルでしたが(笑)。


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まったく存じ上げていなかったのですが、同じサントミューゼさん内の大ホールその他を会場に、「日本劇作家大会」というイベントが開催中でした。渡辺さん、一般社団法人日本劇作家協会の会長さんだそうで。

いらしているのならご挨拶せねばと思い(笑)、スタッフの方に訊いたところ、今日はいらっしゃらないとのこと。渡されたチラシを見ると、19日(月)、ご講演でお見えになるそうでした。

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そういえば、槐多展会場でいただいたサントミューゼさんのフリーペーパーにも渡辺さんが載っていて、おやっと思ったのですが、そういうことだったのかと納得しました。

こういうこともあるのですね。えりさんには槐多展、お時間ありましたらご覧下さいとメールしておきました。

明日は周辺でのいろいろをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

指導理念といふことが言はれてゐますが、さういふものは美術家自身、つまり現にそれをやつてゐる人が自分で樹てるべきで、政府から方針を樹てて貰ふといふやうなことは、抑々間違つてゐると思ひます。

対談「東亜新文化と美術の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時中の光太郎、詩や文章では大政翼賛の方向にどっぷりでしたが、美術方面では美術報国会にも入らず(実弟の豊周が事務局長でしたが)、いわゆる戦争画や兵士を題材にした彫刻などには批判的でした。この差異には興味深いものがあります。

長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さん。000今月、一面コラムで立て続けに光太郎の名を出して下さっています。

まず、8月9日(金)。

2019.8.9 みすず野

山が好き、本が好き、音楽が好き、映画が好き、野球が好き、旅行が好き...何が好きかは本当に人それぞれだと感じるが、好きになる原点のようなものは、大概少年少女期にあるのでは◆山が好きというか、高い山に登りたかった。少年時代、中央アルプスの山稜と、南アルプスの遙かな山並みを眺めて育ったので、いつかあの山の頂に立ってみたい、と思った。それは北アルプスにも通じる思いで、北アには学生のころと、本紙で連載を企てた40代前半に登り歩いた。北アの玄関口はご存じ上高地。上高地の魅力は幅が広く、奥が深く、自然景観にとどまらない◆新刊『名作で楽しむ上高地』(大森久雄編、ヤマケイ文庫)を紹介され、いま手元にある。かのウェストンから小島烏水、辻村伊助、窪田空穂、芥川龍之介、若山牧水、高村光太郎、尾崎喜八、北杜夫、串田孫一、穂苅三寿雄・貞雄、松本市在住の三井嘉雄さんまで、おのおの上高地をつづった"佳作"ぞろい◆以前読んだり、触れたりしたものが多く、懐かしい。上高地や北アを登り歩く機会は失われたが、山好きは変わらない。この夏、本で楽しみ、味わうことにしよう。


6月に刊行された大森久雄氏編、山と渓谷社さん刊のヤマケイ文庫『名作で楽しむ上高地』が紹介されています。


続いて、昨日。

2019.8.15 みすず野

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくも御自ら(中略)玉音をお送り申し上げます」。このあと、戦争の終結を告げる天皇の声が、独特の抑揚を伴って流れ、ラジオの前に集まった国民は、太平洋戦争が終わったことを知らされた◆昭和20(1945)年8月15日の正午過ぎ。悲喜こもごも、国民の受け止め方は立場、年代によってさまざまだった。作家の高見順は「遂に敗けたのだ。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」と「敗戦日記」に記している。詩人で彫刻家の高村光太郎は、岩手・花巻にいた。故宮沢賢治の縁で、賢治の弟宅に疎開していた◆戦後、ほとんどの文化人が東京に戻るが、光太郎は花巻郊外の山小屋に引きこもり、孤独でつましい農耕自炊生活を69歳まで7年間続けた。戦時中、戦争詩をたくさん作り、国民を鼓舞し続けたことに痛く責任を感じ、自身にその生活を課した。「小屋にいるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。」◆敗戦から74年。時代は昭和から平成、そして令和に。いかんともしがたい時の流れとはいえ、きょうという日は必ずめぐり来る。不戦の誓い新た。


令和となって初の終戦記念日ということで、各種メディア、例年より取り上げ方に熱が入っているように思われました。『週刊朝日』さんでも「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事で、光太郎に触れて下さいました。

終戦の日の光太郎についてはこちら008

不戦の誓い新た。」まさにその通りですね。

【折々のことば・光太郎】

白髪三千丈ビールによつてかくの如く美し

短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

現在も続くビアホール、ニユートーキヨーさんのために書かれた色紙から。

「白髪三千丈」は、中国唐代の詩人・李白の詩からの引用です。

紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
                   ◇
 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
                   ◇
 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


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当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像。今年が開眼百周年ということで、このところいろいろと動きがありました。


で、さらに先月。

まずはSBC信越放送さんのローカルニュースから。

善光寺の仁王像をPR・僧侶が事前研修

長野市の善光寺にある仁王像を参拝客にPRしようと、案内役を務める僧侶の事前研修が行われました。
善光寺の仁王門で勇ましく構える仁王像。
高村光雲と米原雲海が手がけ、1919年に登場してから今年で100年を迎えます。
きょう長野市の善光寺事務局で開かれた研修会には善光寺の僧侶などおよそ40人が参加しました。
講師を務めたのは東京芸術大学大学院の非常勤講師・藤曲隆哉さんで東大寺の仁王像を参考につくられていることや台座に固定されずに背中にある支えのみで立っているなどと解説していました。
善光寺の僧侶たちによる案内は来月13日から9月まで土曜と日曜を中心に行われる予定です。

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続いて地方紙『信濃毎日』さん。

開眼100年 保ち続ける絶妙バランス善光寺仁王像 実は自立構造

010 善光寺(長野市)の仁王門に納められた仁王像2体が、台座に突起などで固定されず、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが26日、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査で分かった。全国の仁王像でも見当たらない構造だといい、1919(大正8)年の開眼から100年間、絶妙なバランスで倒れずに立ってきたことになる。
 7~9月に同寺一山の僧侶たちが参拝者に仁王像や仁王門を案内する取り組みに向け、26日に同寺で研修会を開催。この場で講師を務めた同研究室非常勤講師の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(36)が、1月に実施した現地調査の分析結果を明らかにした。
 藤曲さんによると、一般的に仏像の足には「ほぞ」と呼ばれる突起状の部材があり、それを台座の穴に差し込んで固定している。しかし、善光寺の仁王像の足にはほぞがなく、金具で像の背中と壁をつなげているものの、壁の板に大きな負荷がかかっている跡はないという。
 像は重さ300キロ以上とみられ、藤曲さんは「均整の取れたプロポーションで、バランスを取って自立している状態」と指摘。ただ、設置当初と比べると台座上で10センチほど動いたことも分かったとし、「100年間立っているものの、このままで倒れることはないか検討が必要」とした。
 仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)で、ともに高さ5・3メートル前後と分かった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らが関わって制作。ほぞを使わない構造について藤曲さんは「西洋の先進的な制作技法を取り入れており、今までにない造形を目指した表れかもしれない」と推測した。
 このほかエックス線調査では、複数の部材をかすがいやくぎを使って内部で接合していること、頭部や足、指先などに空洞があり、軽量化を図っていることも判明。像全体について「虫食いなどはなく、良い状態」としつつ、「もう修理を計画してもいい時期に来ている」と指摘した。
(6月27日) 


像高5メートルを超える仁王像に「ほぞ」が採られて居らず、ほぼほぼ自立しているというのは驚きでした。光雲とその一派の高い技倆がこんなところにも表れているわけで。

仁王像開眼百周年の特別法要は9月だそうです。その件で、また別件でも情報が入りましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

別に感想もありませんが、新年号の満艦飾を見ると、如何にも田舎田舎した野暮くささを感じるだけです。

アンケート「雑誌新年号観」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「雑誌の新年号なるものに対する感想」という問いに対しての答えです。ここでいう「雑誌」は、どちらかというと商業資本の総合誌を指しているのでしょう。現代でもそうですが、新年号というと、通常よりも派手な装幀を施してめでたさを強調し、売り上げ増を狙うもので、それに対するアイロニーですね。

本日は合唱系で。

まず、長野県から演奏会情報。

コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート

期 日   : 2019年6月23日(日)
会 場 : 松本市音楽文化ホール 長野県松本市島内4351
時 間 : 14:00開演
料 金 : 一般1,000円  高校生以下500円
曲 目 : 
 清水脩 高村光太郎の世界   亡き人に 智恵子抄巻末のうた六首 私は青年が好きだ
 アラカルト~生きること 歌うこと VITA DE LA MIA VITA (W.HAWLEY)
  あなたの心のなかに(松下耕) 他
 Missa brevis (G-dur)  V.Miškinis

昭和の名曲、南アフリカの結婚歌、トルミス作品、現代日本の作品などのアラカルト、そしてメインはミシュキニスと、バラエティに富んだ曲目となっております。

6/23(日)、松本市音楽文化ホールでお待ちしています!


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故・清水脩氏の作曲になる光太郎詩をテキストとした作品で1ステージ。このうち「智恵子抄巻末のうた六首」、『智恵子抄』中の「亡き人に」(昭和14年=1939)に曲をつけたものは、楽譜やレコード、CD等で広く知られていますが、「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)にも清水氏が曲をつけていたのは存じませんでした。調べてみましたら、カワイさんから昭和44年(1969)に刊行された『清水脩合唱曲選集』に収められているようです。この手の古い作品を取り上げてくださるのはありがたいところです。
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合唱といえば、当方も数十年混声合唱に取り組んでいますが、先々週には所属する団で千葉県合唱祭に出演して参りました。

わが団は、指揮者が故・大中恩氏の弟子筋に当たる方で、昨年暮に亡くなった氏の追悼的な意味合いも兼ね、氏の作品などを演奏しました(そうでなくても氏の作品をよくとりあげているのですが……)。

毎年、光太郎詩に曲をつけた作品が演奏されないかな、と思っているのですが、なかなか取り上げられません。さまざまな作曲家さんが作られてはいるのですが。同じことはコンクール系でも同様です。ただ、まだコンクール系の方がよく取り上げられているかな、という感じですね。合唱祭というと、たしか6分間だかの時間制限があって、そのあたりもネックになって居るような気がします。

で、千葉県合唱祭。出演団体が多いので、3日間、それぞれ午前・午後に分け、計6ブロックでの実施です。わが団と同じブロックに出演された千葉県立松戸高校合唱部さんが、昨年ヒットした米津玄師さんの「Lemon」を演奏なさいました。若々しく真面目ないい演奏でした。

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「Lemon」、米津さんご自身、光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっています。J-POP系もヒットすればすぐ合唱編曲が出るっけな、と、それは失念していました。

プログラムをめくってみますと、異なるブロックでも複数の出演団体が「Lemon」を演奏なさっていました。

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たまたまでしょうが、すべて松戸市の高校さん。松戸と「Lemon」には直接関係はないと思います。アレンジは2種類で、吉田宏さんという方と、西條太貴さんという方ですね。西條さんのヴァージョンは混声3部、主に吹奏楽の楽譜を扱っているウインズスコアさんという会社から出版されています。

全国の合唱団さん等で取り上げていただき、元ネタである「レモン哀歌」にも関心を寄せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

平日研究のモデル費にあてる為、斯ういふ会を又催します。今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。

雑纂「木彫小品鳥蟲魚介蔬菜果蓏を頒つ」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫の頒布会広告です。少し前に同趣旨で絵画やブロンズ彫刻の頒布会を立ち上げ、スポンサーを募りましたが、作品を換金することに抵抗を感じ、どちらも長続きしませんでした。しかし、前年の関東大震災を受けて、ブロンズの入手が困難だったという部分もあり、ふと回帰した木彫が意外に好評で、それなら本格的に売り出すか、という感じでした。やはり智恵子は作品を手放すことに難色を示し、懐に入れて持ち歩いたそうです。

複数の「蝉」や「鯰」などがこれによって作られ、さらに別個に百貨店での即売会にも出品(「栄螺」昭和5年=1930など)、多作ではなかったものの、光太郎自身、本当に「今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。」というつもりだったようですが、顕在化した智恵子の心の病のため、それもできなくなってしまいます。

昨日に引き続き、新刊情報です。今回はアンソロジー的な……。 

名作で楽しむ上高地

2019年6月7日  大森久雄編  山と渓谷社(ヤマケイ文庫)  定価1,000円+税

上高地再発見!
登山家、文学者の紀行・エッセーと歴史エピソードの名作集。
文政9(1826)年の播隆、明治24(1891)年のウェストンに始まり、上高地は常に日本の登山の中心にあり、幾多の登山者、文学者たちが訪れてきた。
彼らの残した名作で、上高地の魅力を再発見し、さらに興味深い上高地の歴史やそこに生きた山人たちの姿をしのぶアンソロジー。
登山家は小島烏水、辻村伊助、田部重治ほか、文学者は窪田空穂、高村光太郎、若山牧水、芥川龍之介ほか、読んでおきたい本当の名作が一冊に。
上高地の魅力、歴史、上高地に生きた人々など、上高地を深く知るためにも役立ちます。

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 第一部 エッセーで味わう上高地
       穂高・徳沢・梓川  浦松佐美太郎
  神河内  松方三郎
  小梨の花咲く上高地  尾崎喜八
  初夏の上河内  串田孫一
  花の百名山より  田中澄江
 第二部 早期登山者たちの見た上高地
  日本アルプスの登山と探検(抄) W・ウェストン 青木枝朗訳
  梓川の上流  小島烏水
  上高地渓谷  田部重治
 第三部 青春の上高地、槍・穂高
  夏休みの日記/山と雪の日記(抄)  板倉勝宣
  穂高星夜  書上喜太郎
  涸沢の岩小舎を中心としての穂高連峰(抄) 三田幸夫
  穂高の雪  今井喜美子
  アルプス讃歌  北杜夫
 第四部 上高地を訪れた文人たち
  明神の池  窪田空穂
  山路  若山牧水
  槍ヶ岳紀行  芥川龍之介
  芥川龍之介の槍ヶ岳登山  山崎安治
  智恵子の半生(抄)/狂奔する牛 高村光太郎
  日本高嶺の高嶺(抄) 大町桂月
 第五部 上高地と槍・穂高連峰の歴史
  槍・穂高連峰登山略史(抄)  山崎安治
  かみこうち宛字の詮索  岡茂雄
  播隆の槍ヶ岳登山(抄)  穂苅三寿雄・穂苅貞雄
  槍ガ岳と共に四十年(抄) 穂苅三寿雄
  焼岳の噴煙  三井嘉雄 

同じ山と渓谷社さんのヤマケイ文庫で、一昨年には『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が刊行されており、こちらは全国の名山に関し、やはり光太郎を含む多くの文人たちのアンソロジーでした。今回は上高地に特化したものです。

光太郎の掲載作品のうち、「智恵子の半生」は、智恵子歿後の昭和15年(1940)、雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年、詩集『智恵子抄』に収められた長い文章です。恋愛時代、結婚生活、そして心を病んで結局結核で亡くなるまでの智恵子の姿が描かれています。

光太郎と智恵子が婚約したというのが大正2年(1913)の上高地に於いてで、滞在中のできごとやその前後の経緯なども記されています。『名作で楽しむ上高地』では、そのあたりを抜き出して「(抄)」としているのでしょう。

詩「狂奔する牛」は大正14年(1925)の作。やはり『智恵子抄』収録作で、上高地での見聞をモチーフとしています。上高地ではかつて徳沢周辺を中心に牧場があり、牛も上高地を代表する風景の一つでした。

ちなみに当方、平成27年(2015)、『山と渓谷』さんのライバル誌『岳人』さんに、「高村光太郎と智恵子の上高地」という文章を書かせていただきました。そちらでも「智恵子の半生」、「狂奔する牛」ともに引用、紹介しています。2015年3月号で、「特集 言葉の山旅 山と詩人上高地編」。まだバックナンバーの在庫があるようです。

併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

おまけに担任の先生というのが、どこかの国の訛の強い先生で、東京以外を知らない江戸つ子のわたしには、その先生の言葉が分からなかつた。「アルタの数が……」 もう分からなかつた。アルタの数、とはなんだろうか。分らない。後になつてわかつたことだが、これは「或る他の数が……」ということであつた。

談話筆記「わたしの青銅時代」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

高等小学校を卒業し、本郷森川町にあった共立美術学館予備科に編入し、旧制中学の課程を学ぶこととなった明治29年(1896)、数え14歳当時の回想です。この学校はもともと東京美術学校の予備校として同窓生たちが作ったもので、横山大観が館長でした。光太郎、編入ということで、特に数学ではかなり苦労したようです。

いわゆる右脳型だったらしい光太郎、数学でも幾何の分野はましでしたが、代数の領域はお手上げだったとのこと(ちなみに当方もそのようで、その気持ちはよく分かります(笑))。他の機会には「高村の家には理系の地は一滴も流れていない」と負け惜しみ的な発言もしています(笑)。実弟の藤岡孟彦は植物学者になったのですが(笑)。

溜まってしまう前に……。

まずは3日(金)の『日本経済新聞』さん……というより共同通信さんの配信記事です。信州善光寺さんでのもろもろをご紹介して下さいました。

善光寺、あうんの呼吸1世紀 仁王像の節目祝う企画

長野市の善光寺で国宝の本堂に向かう参拝客らを仁王門の両脇から出迎える2体の仁王像・阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が今年9月に開眼100年を迎えるのを記念し、ライトアップや写真コンテストなどの企画が相次いでいる。善光寺の事務局は節目の年に「より多くの方に善光寺を訪れてほしい」と期待を寄せる。
1752年に建立された当初の仁王門と仁王像は1847年の地震に伴う火災で焼失。いったん再建された後も火災に見舞われ、仮の門を代用した時代を経て1918年3月に現在の高さ約14メートルの仁王門が建立された。
高さ約5メートルの仁王像2体が復活したのは翌19年9月。彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が木曽ヒノキを使い、完成までに4年の歳月を要したという。
昨年は仁王門再建から、今年は仁王像開眼からそれぞれ100年に当たるのを記念し、善光寺は昨年9月から仁王門に貼られた約1200枚の千社札を剥がしたり、仁王像のすす払いを造立後初めて実施したりして、装いも新たにした。
また、仁王像の姿や造形美を際立たせるために午前6時から午後8時までオレンジ色にライトアップし、門の脇を5色の吹き流しで彩る。仁王門や仁王像の写真コンテストとして6月14日まで作品を受け付けているほか、保存や管理を目的に明治、大正期や昭和20年代までの古い写真も募っている。節目となる9月ごろには大規模な記念法要も予定されている。
4月下旬、善光寺を初めて訪れたという甲府市の無職、山下広明さん(71)は「災害など苦難を乗り越えた力強い仁王門、仁王像だと感じた。100年という記念の年に来られて、パワーをもらえた」と話していた。〔共同〕

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続いて、4日(土)、『読売新聞』さんの一面コラム。

編集手帳

陽光に輝く綠の濃淡が心を弾ませる。咲き競うツツジやシャクナゲも生命力にあふれる。 〈植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭〉。高村光太郎は詩『新緑の頃』で青葉若葉の季節を讃美する◆誰もが幸福そうに見える。山が人を幸福にするのはなぜだろう-----。奥秩父の山小屋が舞台の笹本稜平さんの小説『春を背負って』で、主人公の小屋主が登山客の姿に思う。山小屋を訪れる人々は自然の中で癒やされていく◆大型連休中に山歩きやキャンプを楽しむ方も多かろう。今日は「みどりの日」、新緑のエネルギーを吸収し、英気を養うにふさわしい◆この春、社会に出た若者は、緊張続きのひと月を経て、ほっと一息というところか。抑え込まれていた疲れが噴き出して、虚脱感に覆われがちな時期でもある◆〈悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののためにめiに/ああ みどりは輝く〉。室生犀星の『五月』と題された四行詩は悩める心を優しく励ます。薫る風に憂いを払い、心機一転、次なる一歩を踏み出したい。

まさに青葉若葉の季節です。それだけに自宅兼事務所の庭の雑草取りも大変ですが(笑)。


そして今朝の『毎日新聞』さん。俳壇・歌壇面に載ったコラムです。

出会いの季語 北上へ花を追い=高田正子009

 今年は思いのほか長く花時を楽しむことができた。関東圏では卒業式のころには咲き始めていたが、その後の冷え込みによって、めでたく入学式までもちこたえたのだ。そのうえ、花を追って北上するという贅沢(ぜいたく)をしてしまった。標高の高い所へ赴き、はからずも花の時を遡(さかのぼ)ることは日常的にもあり得るが、桜前線を追って自ら動くのは、日々の飯炊きを担う者にとっては目くるめく体験である。
 最終目的地は岩手・北上(きたかみ)の雑草園。俳人山口青邨(せいそん)(1892~1988年)の旧居である。元は東京・杉並にあったが、北上市の詩歌の森公園内に移築されているのだ。
 身ほとりの花が大方散り、遅咲きの桜はまだ固い蕾(つぼみ)であった四月後半、いつもの吟行メンバーが東京駅に集合した。朝からコートが要らないほどの陽気である。<もうひとり待つて始まる花の旅 正子>。とはいえアラ還以上の世代に遅刻は無い。
 みちのく(道の奥)へも今や新幹線でぴゅーっと一走りである。永久(とわ)の別れになることをも覚悟して芭蕉と曽良が旅立ったのは、たった三百年前のことだというのに。 車窓の景色は川を越えるたびに季節を巻き戻してゆく。あら辛夷(こぶし)が、と思うころには仙台に着いていた。芭蕉が「心もとなき日数(ひかず)重なるままに」差し掛かった白河の関も、気づかぬままに通過した模様。<居眠りて過ぐ白河の花の関 正子>。両岸が緑に潤む川を渡ると北上駅である。コートのライナーを外してきたことをコートのライナーを外してきたことを心から悔やみつつ、初日は花巻へ。宮澤賢治の里から、翌日高村光太郎山荘を経て北上へ戻り、雑草園へ。
 わが書屋落花一片づつ降れり 山口青邨
青邨は旅の一行の先生の先生である。桜は一片だに散らさぬ完璧な佇(たたず)まいで、ちょうど花弁を散らしていたのは門の白梅であった。以前訪れたときには庭に居た石の蛙の姿が見えず。冬眠中? そんなわけはないと思うが、また夏に来てみようか。(たかだ・まさこ=俳人)

桜前線をトレースする行程、「東北新幹線あるある」です(笑)。

ぜひ高村山荘のレポートも書いていただきたいところですが……。


【折々のことば・光太郎】

人間の生活は網の目のように引つぱり合つてできているので、文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて悪いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような気がする。
散文「山の人々」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

高村山荘のある花巻郊外旧太田村山口地区を評しての一言です。たしかに「地方創成」といいながら、プチ東京をあちこちに作っても仕方がありませんね。

甲信地域には、光太郎ゆかりの人々の記念館さんや、それらの人物の作品などを収めた美術館さんなどが多く(その代表が碌山美術館さんですが)、時間に余裕がない場合を除き、碌山美術館さんに行く際には、必ず他にも立ち寄ることにしています。

一昨日は、月曜日でした。記念館さん、美術館さんの類は、ほぼほぼ月曜休館なので、どうしようかと考えた結果、長野市の信州善光寺さんに参拝することにいたしました。

こちらの仁王門には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像が納められ、仁王門は昨年、仁王像は今年が、それぞれ100周年のメモリアルイヤーとなります。9月には100周年を記念しての特別法要があるそうで、それに向けて、昨年から今年にかけ、さまざまな動きがありました。


9月の特別法要にも足を運ぶつもりでおりますが、予定が狂うことも考えられますし、下見も兼ねてと考え、今回参拝しておくことにしました。

ちなみに善光寺さんを訪れるのは3回目でした。最初は幼かった頃、2度目はこのブログを始める直前の10年ほど前の家族旅行でした。

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善光寺さん、駐車場は裏手の方でした。そこで、本来なら上記画像でいうと下の方にあたるゾーンから、仁王門、山門をくぐり、本堂へというのが正しい経路になりますが、裏口から入ったので、それとは逆のコースをたどりました。

最初に本堂裏の日本忠霊殿・善光寺史料館。三重塔の形をした建造物です。

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こちらには、仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像のひな型が展示されています。

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ひな型といっても、仁王像は像高1メートル50センチ余ですし、三面大黒天像、三宝荒神像も同じく1メートル余で、それなりの大きさです。

4体とも、平成14年(2002)に、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代」展に出品された時に拝見しまして、17年ぶりでした(10年前の家族旅行の折にはパスしましたので)。「高村光雲とその時代」展の際は、とにかく出品点数が多く、一つ一つの作品を仔細に観る余裕が無かったのですが、今回改めて4体を細かに拝見、興味深く感じました。

像高150㌢余ということで、考えてみれば当然なのですが、仁王像は寄木造りでした。有名な光雲の木彫というとそれほど大きなものは無く、一木造りのものがほとんどですから、意外に感じました。ただ、寄木といっても、ボーッと見たのでは継ぎ目がわからないほどに処理されています。

それにしても今にも動き出しそうな躍動感が実に見事でした。

三面大黒天像、三宝荒神像は、平成27年(2015)に東京藝術大学さんによる修復が行われており、くすみの見えていた彩色が色鮮やかに復活し、まるで最近作られたもののようでした。


その後、本堂→山門→仁王門と、逆コースで歩き、再び仁王門から山門、本堂へ。

随所で桜が見事でした。平日にもかかわらず、やはり多くの参拝客の皆さんでにぎわっていました。

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さて、仁王門。

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こちらの仁王像は丈六(約 4.85m)です。

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大正時代、これを運ぶために特別に無蓋貨車をしつらえたという話もあります。

それぞれの背面に、三面大黒天像、三宝荒神像。

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おそらく10年前には無かった説明版が設置されていました。「像高約二メートル」となっていますが、七尺五寸のはずなので、換算すると約2㍍85㌢となります。台座部分を入れずれに約2㍍としているのでしょう。

続いて山門。

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そして本堂。

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この地の安寧を祈願し、さらにちょっとだけ個人的に「道中安全御加護」と唱えさせていただきました。

本堂の斜め前に、「授与品所」があり、最近はやりの御朱印などもこちらでいただけるようになっています。さらにお札やお守り、数珠やお香、その他さまざまなグッズも販売されています。

仁王尊グッズはないかと思って覗いてみましたところ、ありました。それもかなり。

まず交通安全のお守り。赤、白、黒と三種類ありましたが、さすがに3枚買うのも何ですので、黒のみ購入。

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続いてエンボスステッカーセット。

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さらに手ぬぐい。

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仁王尊、ここまで行くと、ゆるキャラ化しています(笑)。


その後、駐車場に戻り、愛車を駆って安曇野市碌山美術館さんを目指しまして、昨日のレポートに戻ります。


というわけで、信州レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

時鳥は暗いうちから啼いてゐて一日中実にせつかちに、つづけざまに啼く。よくも続くものだと思ふほど休みなしに「ホンゾンカケタカ、ホンゾンカケタカ」をくり返す。こんなに切なく友を求める鳥も珍らしく、蝉のせつかちに似てゐる。
散文「七月一日」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「時鳥」は「ホトトギス」。自宅兼事務所周辺でも、そろそろその特徴ある鳴き声が聞こえてくると思われます。

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。気ままな一人暮らしという面もありましたが、「こんなに切なく友を求める」あたりに光太郎の一抹の寂しさを読み取るのは考えすぎでしょうか。

昨日は愛車を駆り、日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的であった、安曇野市の碌山美術館さん。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する個人美術館ですが、昨日が守衛の命日、「碌山忌」でして、いろいろと催しもあり、駆けつけた次第です。

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平成25年(2013)の碌山忌にお伺いした際には雪が降り、一時吹雪いたりして驚きましたが、昨日はもう春爛漫という感じ。同じ吹雪でも桜の花吹雪でした。

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守衛が亡くなったのは明治43年(1910)、昨日は第109回という扱いでした。

午後4時から墓参ということで、それに間に合うように行きましたが、少し早く着いたので、先週土曜から始まった企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」を拝見。会場は第二展示棟です。

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直上の画像は、閉館後に許可を得て撮りました。

守衛の絶作にして、その石膏原型が近代彫刻として初めて重要文化財に指定された「女」(明治43年=1910)。同郷の先輩で、新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の妻だった良(黒光)の面影を遺しています。

同じく良との関わりが指摘される「文覚」(明治41年=1908)、「デスペア」(明治42年=1909)と合わせ、石膏複製3体が展示されています。周囲の壁とガラスケースにはそれらに関するパネル展示や、守衛自筆の構想スケッチ、光太郎から守衛宛の書簡など。実に興味深く拝見しました。


その後、現荻原家ご当主の荻原義重氏の車に乗せていただき、墓参。歩いて行くには遠い場所です。

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太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折の揮毫による守衛墓碑に香華を手向けました。明治43年(1910)、守衛が亡くなった直後、関西旅行に行っていた光太郎も急ぎ墓参に訪れています。

荻原氏に相馬家(当時の建物が現存)なども案内していただき、再び館へ。

午後5時20分から、武井敏学芸員による研究発表。

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題して「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。こちらも興味深く拝聴しました。メインは昨秋、同館から刊行された『荻原守衛日記・論説集』を編んでみて、改めて見えてきた守衛像、的なお話でした。

それから「おまけ」として、「Ogihara」と「Rokuzan」。一般には「荻原守衛」は、「おぎらもりえ」と読んでしまっていますが、正しくは「おぎら」だそうで、守衛がローマ字表記で書いた書簡などに、「Ogihara」と記されている実例が挙げられました。ところが、どこかで混乱が生じたようで、先述の義重氏、パスポートを申請する際に「おぎら」と書いたところ、不可。なぜか住民票では「おぎら」となっていたそうで。しかし正しくはあくまで「おぎら」だとのこと。ただし、守衛自身も「Ogiwara」と署名している場合もあるそうですが。

それから、「Rokuzan」。「碌山」の号は、夏目漱石の小説「二百十日」(明治32年=1899)の登場人物「碌さん」から採られたものですが、となると、「ろくん」ではなく「ろくん」と読むべき、という説がありました。しかし、こちらも守衛留学中に買い求めた蔵書に「Rokuzan」の署名がみつかり、やはり「ろくん」で良かったのだ、と確認できたとのこと。

くわしくは割愛しますが、実は「光(こう)太郎」、「智恵子」も本名ではありませんし、意外と名前はくせ者です。


研究発表終了後、懇親会的な「碌山を偲ぶ会」。

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会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所としての(平時は休憩コーナー的な)使用法になっています。


毎回恒例となりました、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読に始まり、同館元館長にして代表理事の所賛太氏のご挨拶、高野現館長による報告、そして碌山友の会会長・幅谷啓子さんの音頭で献杯。

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その後、ほぼほぼ手作りのお料理をいただきながら、スピーチ。

いの一番に当方に振られてしまいました。で、同館には非常にお世話になっておりながら、経済的な部分での援助が出来ず(それをやってしまいますと、光太郎と関連する人物の顕彰団体等全てに平等にやらねばなりませんので)申し訳なく思っておりましたので、罪滅ぼしに下記を寄贈する旨、お話しさせていただきました。

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昭和55年(1980)に発行された50円切手、「近代美術シリーズ第8集 荻原守衛 女」の関連です。

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20枚つづりの1シートと、解説書。

それから、切手コレクターの方々が作成されたFDCとその解説書。「FDC」は「ファースト・デイズ・カバー」の略だとのことで、それぞれの切手と関連する図柄の封筒などを作成し、当該切手の発売日に郵便局の窓口で購入した切手を貼り、発行日の消印を押してもらうというものだそうです。当方、切手マニアではありませんので詳しいことはよくわかりません。間違っていたらごめんなさい(笑)。

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同じ近代美術シリーズの第16集では、光太郎の父・光雲の「老猿」も取り上げられており、そちらを集めている中で、「守衛の「女」もあるんだ」というわけで、「では碌山美術館さんに寄贈しよう」と思い立ち、ネットオークションなどでコツコツ集めた次第です。

さっそくグズベリーハウス内に飾って下さいました。足を運ばれる方、ご覧下さい。

逆にいただきもの。

守衛と関わりの深かった新宿中村屋さんから。

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開けてみると……

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中村屋さん名物の一つ、月餅でしたが、通常のものではなく、碌山美術館さんの本館と、「女」をあしらった特別バージョン。平成27年(2015)、新宿の中村屋サロン美術館さんで、開館1周年記念に配られたものと同一のようです。

何だかもったいなくて食べられません(笑)。


午後8時を過ぎたところで、散会。愛車を駆って帰りました。

碌山美術館さんに参上する前に、長野市の善光寺さんに参拝してまいりましたので、明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間として当りまへに行動しさへすれば、別に努力しなくともそんな不愉快な車中の空気を醸し出さずにすむはずなのだが、不思議に汽車の中では多くのプチブルが動物性を発揮して、平素の家庭生活の野蛮さを曝露し、お里の知れる振舞を平気でやるのを目撃せねばならなかつた。

散文「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」は光太郎自身の自称です。汽車そのものや旅行自体が嫌いというわけではなく、行く先々で眼にする人々のマナーの悪さが気になって、出不精になったというのです。

公共交通機関や安い宿で、傍若無人な振る舞いに閉口させられる、というのはまったく同感です。

昨日に引き続き、信州安曇野の碌山美術館さん関連で。

過日、同館から贈っていただいた『碌山美術館報 第39号』。

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毎年、年度末に刊行される年刊ですが、毎号50ページを超える分厚いものです。今号は68ページもあります。ただ厚いというだけでなく、内容も充実。頭が下がります。

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過去の号でもそうでしたが、同館が顕彰する碌山荻原守衛の親友だった光太郎、そして智恵子についても言及されています。

ちなみにここ数年の号で、光太郎がらみを大きく取り上げて下さったもの → 第34号(平成26年=2014)第37号(平成29年=2017)第38号(平成30年=2018)

今号では、まず上記の表紙が守衛の代表作の一つ「坑夫」(明治40年=1907)の紹介。パリ留学中の習作で、これを見せられた光太郎が感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯の説明が為されています。ご執筆は前館長の五十嵐久雄氏です。

それから同館の開館に奔走した荻原碌山研究委員会委員長 横沢正彦関連の記事で、昭和29年(1954)に東京芸術大学石井鶴三研究室から刊行された『彫刻家 荻原碌山』(光太郎が寄稿し、題字も揮毫)などに触れられています。

また、同館で昨秋行われた武井敏学芸員による美術講座「新しい女」の筆録。物心両面で守衛を助けた新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の妻・黒光がメインですが、同じく明治から大正にかけに「新しい女」と称された平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子らと並んで、智恵子についても詳しく言及されています。黒光や智恵子との関連で光太郎にも。

さらに、やはり昨秋の同館開館60周年記念行事の一環として開催された建築家・藤森照信氏によるご講演「碌山美術館の建築と建築家について」の筆録。講演で使われたスライドショーの図版も豊富に掲載されています。


ご入用の方は、同館まで。


【折々のことば・光太郎】

この小屋の中にはいろいろの有象無象が充満してゐますが、それらが消え去つたあとに、昔の人たちが出て来ていろいろ咡きます。最後に智恵子が出て来ます。食事の時でも執筆の時でも、僕はいつでも智恵子と二人ゐます。人間は死ねば普遍的になります。生きてゐる間は、対ひ合つてゐるだけの二人ですが、死ねばどこへでも現れます。

談話筆記「(今日はうららかな)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

戦後の7年間、逼塞していた花巻郊外旧太田村の山小屋。そこに現れる「昔の人たち」の幻影。その中にはかつての親友、碌山荻原守衛の姿もあったのではないでしょうか。

光太郎の親友で、早世した碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野市の碌山美術館さん関連です。

まずはイベント情報。

第109回碌山忌

期   日 : 2019年4月22日(月)
会   場 : 碌山美術館  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 10:30~
料   金 : 無料

プログラム
 10時半~     ミュージアムトーク(碌山館)
 1時     ミュージアムトーク(第二展示棟)
 1時半~3時    碌山忌コンサート
 4時~      墓参
 5時20分~50分 碌山研究発表「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」
          講師 武井敏学芸員
 6時~7時45分   碌山を偲ぶ会 会場 グズベリーハウス(会費1,000円)

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明治43年(1910)に、数え32歳で亡くなった守衛を追悼する碌山忌。109回めとなるそうです。

毎年、研究発表が行われており、今年は同館学芸員の武井敏氏による「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。『荻原守衛日記・論説集』は、昨秋、同館から刊行されたA4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

同館では平成21年(2009)にカタログレゾンネ的な『荻原守衛作品集』、同27年には『荻原守衛書簡集』を刊行し、この『荻原守衛日記・論説集』をもって、守衛の作品、資料を網羅する三部作の完結と位置づけているとのこと。

ある意味、同書のプロモーション的な発表になるのでは、と思われます。

当方、昨年は雑用に紛れ、行けませんでしたが、今年は参上つかまつります。


もう1点、明日から開催の企画展。 

荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る

期   日 : 2019年4月20日(土)~9月29日(日) 会期中無休
会   場 : 碌山美術館第二展示棟  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 9:00~17:00
料   金 : 一般700円  高校生300円  小中生150円 
         障がい者手帳をお持ちの方は半額
         20名様以上団体料金 大人600円/高校生250円/小中生100円

1910年(明治43)年、荻原守衛(碌山)が亡くなる直前に完成させた《女》は、明治以降の彫刻では第1号となる重要文化財指定を受け、今日においても日本近代彫刻の傑作として評価されています。
腕を後ろ手に組みながら上体は天空に向うポーズの表現は、相克を象徴するかのように浪漫性に溢れ、膝から頭頂部へ繋がる螺旋状の上昇感は、荻原が求めていた彫刻の生命を余すことなく伝えています。
《女》には、荻原が思いを寄せた女性、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(本名:良)の面影が心象のモデルとなって表れています。苦難の姿とその先にある穏やかな表情は、悲恋の絶望と苦しみを克服し、美の境地へと昇華した荻原自身の心の姿でもあります。
本展では、黒光への想いが制作背景にある《文覚》、《デスペア》の二作品にも触れ、傑作《女》に見る荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの時代における新しさについて迫ります。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし私は今、希望に満ちてゐます。山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤座黙念、胸のふくらむ思です。

散文「消息 二」より 昭和21年(1946) 光太郎65歳

空襲による二度の罹災で、数多くのものを失った光太郎。しかしかえってさばさばした思いでした。裸一貫やり直そう、みたいな。

まずは『福島民友』さん。当会の祖・草野心平を祀る同市立草野心平記念文学館さんで開催中の、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」について。 

【いわき】草野心平、居酒屋の逸話いわき・記念文学館企画展007 (2)

 いわき市草野心平記念文学館は3月24日まで、同市小川町の同館で企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開いている。
 草野心平は家族を養うために、詩を書く以外にさまざまな仕事をしていた。居酒屋もその一つで、1952(昭和27)年3月に東京都文京区で開店、約5年間継続し、文学仲間との議論が繰り広げられていた。
 企画展では、居酒屋の開店から閉店までの逸話がうかがえる原稿や草野心平が高村光太郎に宛てた手紙など24点を展示した。3月10日には「火の車」ゆかりのメニューを試食できるイベントも行う。居酒屋の店舗を再現した常設展示も行っている。
 開館時間は午前9時~午後5時。月曜日は休館。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。


続いて『読売新聞』さん。信州善光寺さんで開催中の「第十六回長野灯明まつり」に関して。

山門に浮かぶ平和への願い…善光寺ライトアップ

 長野市の善光寺をライトアップする「長野灯明まつり」007が6日、始まった。本堂や山門などが赤、黄、緑、青、紫の5色に染め上げられ、多くの来場者が見入っていた。
  平和への願いを込めて、2004年から毎年開催。今年は、オーストリア、ハンガリー両国が日本と外交関係を結んで150周年の節目となるため、山門には「平和」の文字やバレエやワルツを踊る様子がレーザー光線で映し出された。
  演出を担当した照明デザイナー石井幹子さん(80)は「ゆっくり光を眺めて、平和のありがたさを感じてほしい」と話した。11日まで。


同じ件で、共同通信さん

長野・善光寺が5色に輝く 平和願いライトアップ

 長野市の善光寺を赤、黄など5色にライトアッ008プする光のイベント「長野灯明まつり」が6日から始まった。1998年の長野冬季五輪の「平和を願う精神」を後世に継承するのが目的で、今年で16回目。11日までの夜間に開催する。
  国宝の本堂や、鐘楼が、五輪をイメージした赤、黄、緑、青、紫の5色に照らされると、観客から「きれい」と歓声が上がった。クラシック音楽が流れる中、本堂手前の山門に平和を意味する文字が日本語や英語、ドイツ語など4カ国語で映し出される演出も会場を沸かせた。
  川崎市の大学生佐藤絵莉香さん(22)は「写真をたくさん撮れて良かった」と笑顔を見せた。


こちらでは、光太郎の父・高村光雲と、高弟の米原雲海による仁王像のライトアップも為されています。


それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はまだ零下四〇度などといふ極寒の地を踏んだ経験がなく、パミイル高原のやうな塩白み果てた展望を見た体験がないから、冬の季節の究極感を語る資格を持たないやうにも思ふが、又考へると、さういふ強力な冬の姿に当面したら、なほさら平常の感懐を倍加するのではあるまいかといふやうな気がする。
散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この項、一つの作品から一節ずつというのを基本としていますが、例外的に昨日と同じ「満目蕭條の美」から。此の文章、あまりにも光太郎という人物を端的に物語っていますので……。

昨日に引き続き信州善光寺さんネタです。

第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」

開催期間 : 平成31年2月6日(水)~2月11日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 長野駅前西口、善光寺表参道
入場料金 : 無料
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

1998年長野冬季オリンピックが開催されました。感動と躍動、そして恒久の 平和への願いを、オリンピック精神のもと世界に届けました。2004年オリン ピックレガシーの継承と、弛まぬ平和への願いを込めて開催されたまつりこそ 「長野灯明まつり」です。国宝善光寺を五色に彩る「善光寺ライトアップ」、善光 寺表参道に灯された800基の灯篭アート「ゆめ灯り絵展」、毎年趣向を凝らし て開催される各種イベントが、訪れる50万人の人々を魅了します。 我々日本人は戦後、アジアの先進国の代表として常に経済をリードし、豊かな生 活と思想、優れた教育を享受して参りました。しかし、広い地球のどこかでは未 だ人と人が争い、誰かの心が傷つけられています。 第十六回長野灯明まつりでは「共鳴する平和への祈り」をテーマに、性別、人 種、国籍を超え、人と人の想いがつながり響きあい、共に灯す平和への祈りを世 界に向けて発信します。

実施する事業
・仁王門再建·仁王像造立100年長野灯明まつりスカイランタン・平和の灯り
開催日時:2/10(日) 集合場所:善光寺大本願 明照殿 開催場所:仁王門前 
受付 17:00~19:30  スカイランタン制作 17:30~18:30  打ち上げ開始 19:00~ 
参加費:1セット2,000円 ※受付時現金にて 事前申し込み公式サイトから 販売個数:限定100基
スカイランタン打ち上げイベント及び製作体験は、参加者1人につき、1基の製作となります。製作、打ち上げスペースの関係で、複数人で1基の申込は下記の場合を除き、ご遠慮をお願い申し上げます。
※小さなお子様がいらっしゃる方、16歳未満の保護者の付き添いは可能です。
タイや台湾を中心に元宵節にスカイランタンを放ち、無病息災を祈る民族習慣として定着している熱気球の一種です。長野灯明まつりでは、善光寺大本願にて祈祷したスカイランタンに平和の祈りや願いを書き入れて夜空に打ち上げ祈るとともに、仁王門再建100年・仁王像造立100年をスカイランタンの平和の灯りで祝います。

・ オープニング特別ライトアップ
日本との友好150周年を迎えるオーストリア、ハンガリー両国より大使をお招きし、平和の祈りを込めた善光寺のライトアップ点灯式にご参加いただきます。 また、善光寺山門では、石井リーサ明理氏によるレーザー演出で、長野灯明まつりのオープニングを華やかに彩ります。
日時:2月6日(水)18:00~21:00 場所:善光寺山門

・ 「ゆめ常夜灯」
灯明まつりの伝統に則り、善光寺の本堂をはじめとした主要な建物をカラーでライトアップ。本堂と山門はそれぞれ30分に1回、5色の色変化をする演出を行います。9年ぶりに修復を終え、一般公開された国の重要文化財である経蔵をライトアップ。主要な照明機材をLEDとし、省エネルギー化を実現。排気ガスを排出する燃料式発電機の使用を廃止し、クリーンで静かな空間を創出。企画・照明デザイン 石井幹子/石井リーサ明理

・ 「ゆめ灯り絵展」
「ゆめ灯り絵展」は「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、応募者がデザインした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベントです。長野灯明まつり開催中、柳沢京子氏をはじめとする審査員の方々や、一般投票によるコンテストを実施。 善光寺表参道の石畳に展示され、情緒あふれる景色を彩ります。
テーマ 一般部門:「未来」「平和」「感謝」 キッズ部門:「将来の夢」「スポーツ」
<作品展示> 善光寺表参道大門石畳通り 2月6日(水)から2月11日(月)まで

他に宿坊・ゆめ茶会(毎日)、ゆめ演奏会(2/6)、平和のコンサート(2/9)、プロジェクションマッピング(2/10)、謎解きゲーム「妖怪探偵と封印の扉」、灯明バルなど


昨日お伝えした、光太郎の父・高村光雲らによって制作された仁王像の調査は、この「灯明まつり」に向けてのすす払いの意味もあったようで、この時期だったのでしょう。

SBS信越放送さんで昨日放送されたローカルニュースから。

善光寺仁王像が完成から100年・文化財指定に向けた動き始まる

 長野市の善光寺の仁王像が完成から100年の節目を迎え、仁王像や仁王門の文化財指定を目指す動きが始まりました。
 仁王門ではきょう、中に納められている仁王像の「おすす払い」が行われました。高さおよそ4.5メートルの仁王像は彫刻家の高村光雲や松本出身の太田南海などが手がけたもので、1919年・大正8年の完成から今年で100年となります。
 きょうは専門の業者が毛先が柔らかい刷毛などを使って長い年月の間にたまったほこりや汚れを落とし、善光寺事務局の小林順彦寺務総長は「100年間ここに来られている方を見届てきた仁王様なので、体を軽くしていただきたい」と話していました。
 また仁王像が安置されている仁王門も、去年再建から100年を迎えました。善光寺では今年1年間を仁王門と仁王像の「記念イヤー」と位置づけ、将来的に文化財指定を目指す取り組みに乗り出しました。
 去年9月には門に貼られていた「千社札」と呼ばれる参拝者の札をはがす作業を初めて行い、高所作業車も使いながらおよそ2週間かけて1200枚ほどをはがしました。
 さらに仁王像の作品的価値の再評価に向けて、東京芸術大学大学院などでつくる調査チームがきのうまでの4日間現地調査を行いました。
 善光寺ではこうした取り組みを通して文化財の登録を目指していくとしていて、小林寺務総長は「これだけ注目する機会はまた100年後になると思うので、このチャンスを生かして仁王門と仁王様を文化財指定にもっていってくれればありがたい」と話していました。
 善光寺では今年9月に100周年の記念法要などを行う予定です。

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ちなみに、光雲の曾孫であらせられる髙村朋美さんのブログに現地レポートが掲載されています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

飛行機と無線電信とは地球の表面距離を小さくした。しかし人は地球のうすい表皮の中でのみ活動する。人はまだ此厖大な球体に深達する事を許されない。上空無限の未知の気層が私の意識を喪失せしめる。

散文「三陸廻り 三 金華山」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行が行われるまであと30年。さすがの光太郎も地球が青いことを想像できなかったでしょう。

善光寺さんの仁王門前から打ち上げられるスカイランタン、そこに込められる平和への祈りが、地球全体を覆うことを願ってやみません。

昨日の『信濃毎日新聞』さんの記事から。 

善光寺仁王像 初の本格調査 東京芸大大学院などのチーム

013 善光寺(長野市)の仁王門に納められている仁王など4体について、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査チームが現地調査を始めた。同寺によると、制作から今年100年となる仁王像の本格的な調査は初めてで、将来的に文化財指定を目指す第一歩。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが手掛けた4体は作品的価値が高いとされ、再評価する上で必要な基礎資料を7月ごろまでにまとめる。
  仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)でともに高さ約4・5メートル。制作は、光雲と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らも関わり、1919(大正8)年に完成。北側には、同時期に光雲らが手掛けた三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像も安置されている。いずれもこれまで文化財指定はされていなかった。
  調査は30日までの4日間、同研究室の研究者や大学院生を中心に、光雲のひ孫の写真家高村達(とおる)さん(51)=東京=を含め11人が参加。像の周囲に足場を組み、像をコンピューター上で立体的に再現するための写真撮影や、内部構造を把握するためにエックス線撮影などをしている。
  仁王門は昨年再建から100年を迎え、さらに仁王像などの開眼法要が19年9月に営まれてからも100年となることから、善光寺は今秋までの1年間を仁王門と仁王像の「記念イヤー」と位置付けている。昨年9月には、仁王門に貼られていた参拝者の名前などが記された「千社札(せんじゃふだ)」を建物を守るために剥がすなど、再評価に向けた取り組みを進めており、今回の調査もその一環。
  調査チームに加わる田中修二・大分大教授(50)=近代日本彫刻史=は4体の像について「構造や制作過程を踏まえ、美術史や作家のキャリアの中でどう位置付けられるか考えたい」と意気込んでいる。


光雲作の木彫、代表作の「老猿」(明治26年=1893)は、かなり早く平成11年(1999)に重要文化財に指定されましたが、それ以外にはそういった指定は受けていないようです。皇室に納められているさまざまな作品なども同様です。100年を経ている作品については、そういった指定ももっと視野に入れていただきたいものですね。まずは地方自治体さんの指定文化財といったあたりから、という気がします。

ただ、光雲の作品は、決して少なくはない上に、善光寺さんのものもそうですが、光雲単独ではなく弟子の手が入っている場合が多く、なかなか難しいのかもしれません。今回の調査が、そういった方面の基準作りにおいて役立っていくことを願います。

明日も善光寺さん系のネタで。


【折々のことば・光太郎】

私は既成宗教のどの信者でもないが医し難い底ぬけの自然讃美者だ。自然の微塵にも心は躍る。万物の美は私を救ふ。強力なニヒルの深淵から私を引き上げたのは却て単純な自然への眼であつた。

散文「三陸廻り 二 牡鹿(をじか)半島に沿ひて」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

そういうわけで、光太郎は仏像らしい仏像は作りませんでした。東京美術学校時代におそらく手本を与えられての習作として作った、羅漢像のレリーフが残っているくらいです。ただ、ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)や、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などは、観音像の施無畏印をモチーフとしてはいますが。

代わって光太郎を貫いたのは、文中にもある「自然讃美」の精神でした。動植物の木彫だけでなく、おそらく塑像での肖像彫刻などにも、その精神が生かされているように思われます。

一昨日、昨日と光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像について書きましたが、西郷像と同様に、光雲の手になる大作、信州善光寺さんの仁王像に関して、イベント情報です。 

善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』

期   日 : 2018年12月22日(土)
会   場 : 信州善光寺 長野県長野市大字長野元善町491
時   間 : 朝 午前6時50分受付   夕 午後3時受付
料   金 : 無料

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています。なぜなのでしょうか?
太陽が一番低くなる冬至の日に、物事の始まりを表す阿形像に朝日が、終わりを意味する吽形像に夕日が当たるように仁王像を配置したといわれております。この現象を見るため、『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』を行います。
※天候次第で、やむを得ず中止の場合がございます。

講師: 相原文哉先生(第24回善光寺寺子屋文化講座・講師)
定員: 朝・夕 各30名
 
お申込み方法
12月1日(土)より、電話にて下記までお申込み願います。先着各30名様まで。
善光寺事務局(026-234-3591)


大正8年(1919)に開眼供養が行われた、善光寺さんの仁王像。光雲とその高弟・米原雲海の作です。100周年の記念イベントの一環で、同様に、仁王門の裏側に安置されたやはり、光雲・雲海作の「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップも先月から行われています。

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています」とありますが、通常は向かって右が口を開いた「阿形(あぎょう)」、左に口を閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的だそうです。

確かに、光雲作でもそうなっている仁王像が残っています。

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下は善光寺さんの仁王像の約3分の1大の試作ですが、確かに逆になっています。

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光雲・雲海は、奈良東大寺さんの金剛力士像を参照したらしく、そちらは善光寺さん同様に「左・阿、右・吽」です。そこで、古い時代はそうだったのかと思いきや、同じ奈良の法隆寺さんでは、通常とされる「右・阿、左・吽」
となっています。厳格なルールはなかったということなのでしょうか。

冬至の日光云々は後付の解釈のような気がしますが、それでも冬至の頃に朝日が阿形に、夕陽が吽形に当たるというのは、確かに神秘的ですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

中にも、余の心を顫慄せしめたのは、あの名高いジヨツトの壁画、基督の一代記であつた。小さな物置小屋の様な「マドンナ デ ラレナ」の寺の扉を押して、その薄暗い室へ足を踏み入れた時のセンセエシヨンは、殆と大きな危険に臨んだ時の様なものであつた。

散文「伊太利亜遍歴」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

遡ること3年前の、欧米留学末期、スイス経由でイタリアを約1ヶ月間旅した回想の一節です。

場所はパドヴァ。イタリア北部、ベネツィア郊外の町で、コペルニクスやガリレオ・ガリレイ、ダンテなどとのゆかりがあります。「ジヨツトの壁画」は、スクロヴェーニ礼拝堂に残るフレスコ画。ルネサンス期のジョット・ディ・ボンドーネの手になるものです。「マドンナ デ ラレナ」は、スクロヴェーニ礼拝堂の別名「アレーナ礼拝堂」ということでしょう。キリスト教系の施設に「」の訳を当てるケースは当時、一般的でした。

善光寺さんもそうですが、やはり宗教的な施設で古い芸術作品に触れる際、敬虔な気持ちにさせられるものですね。

明治24年(1891)の大火で焼失した信濃善光寺さんの仁王門が再建されたのが、100年前の大正7年(1918)。落慶法要は3月に行われたそうです。ただ、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海による阿吽の仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像はそれには間に合わず、翌大正8年(1919)に開眼法要が営まれました。

そのあたりの100周年を記念するイベントが開かれています。

SBC信越放送さん発のローカルニュースから。 

善光寺仁王門再建100年を記念・北側の像のライトアップ開始

 長野市の善光寺の仁王門で、再建100年を記念した北側の像のライトアップがはじまりました。
ライトアップされたのは善光寺仁王門の北側に安置されている「三宝荒神像」と「三面大黒天像」です。
 仁王門の像は南を向いた仁王像が有名ですが、仁王像と同じく高村光雲と米原雲海が制作した北側の高さ2メートルほどの木像の存在はあまり知られていませんでした。
 通りかかった女性は「よく通るが、これまでぜんぜん気付かなかった。すごくきれいだと思った」と話していました。
 ライトアップは仁王門の再建100年にあわせて行われ、参拝客などが闇に浮かび上がる木像をカメラで写していました。
 ライトアップは朝6時から夜8時まで毎日行われます。

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地方紙『信濃毎日』さん。 

善光寺 再建100年 北側の2像、照明で光を

 長野市の善光寺仁王門で、仁王像の北側に安置されている三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像を照らし出す照明設備が設けられ、5日夜に初点灯された。仁王門が今年、再建100年の節目を迎えたのに合わせた。門の北側にあり、南側の仁王像に比べて目立たない両像をアピールする目的で、6日以降は午前6時~午後8時に照らす。
  同寺事務局によると、両像は木造で彩色され、高さは3メートル弱。三宝荒神は火よけの神として祭られ、三面大黒天は、参拝者が豊かで心安らかにいられるよう願いが込められている。1919(大正8)年、仁王像2体と併せ、彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)が制作した。
  門の北側にあるため日中も日が当たらず、のぞき込まないとよく見えない状態だった。同寺は来秋までの1年間を、仁王門再建100年・仁王像造立100年の「記念イヤー」と位置付けており、照明整備はその取り組みの一環。像の名称や由来も近く掲示する。
  この日は現地で点灯式があり、読経した小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)は「記念の年に改めて像の価値を見つめ直したい。参拝の際には手を合わせてほしい」と願っていた。

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こちらが北側二像の古絵葉書。

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たしかに、参道正面の仁王像に比べれば、目立たない存在ではありますが、いずれも優品です。その試作(ひな形)も善光寺さんに納められていますが、平成27年(2015)には、東京芸術大学保存修復彫刻研究室さんにおいて補修も行われました。本堂西側の日本忠霊殿1階・善光寺史料館さんで観ることができます。

『信毎』さんの記事によれば「来秋までの1年間を、仁王門再建100年・仁王像造立100年の「記念イヤー」と位置付けており」とのことですので、今後もいろいろありそうですので、注意しておこうと思います。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは世に已み難いものにのみ心を動かす。

散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

「已み難い」は、光太郎の口癖でもあったそうです。

昨日は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの開館60周年記念行事にお招きいただき、信州安曇野に行っておりました。

記念行事は、近くの穂高神社さんで開催されましたが、その前に同館に参りまして、展示を拝見。「開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」というタイトルでの展示となっています。

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光太郎彫刻作品も7点、並んでいました。

そちらを拝見後、穂高神社さんへ。

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参拝後、境内の一角にある参集殿という施設に。こちらで記念行事が開催されました。

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まずは建築家の藤森照信氏による記念講演「碌山美術館の建築と建築家について」。非常に興味深い内容でした。

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当方、寡聞にして存じませんでしたが、碌山美術館さんの本館(碌山館)は、スペイン・バルセロナのサグラダファミリアで有名なガウディを日本に紹介した、今井兼次という建築家の設計だそうで、様式的にはロマネスク様式建築の範疇に入るとのこと。

ギリシャ建築を範とする重厚で権威的な石造りの古典主義建築に対し、教会などに多用されたバロック様式、さらにそれより古い様式がロマネスク建築。11~12世紀頃にやはり教会などを造る際に流行った様式で、手作り感溢れる素朴なスタイルです。当時の農民が、畑から出てきた石などを持ち寄り、手作業で積んだとのこと。

碌山館は石ではなく焼過煉瓦ですが、中世ヨーロッパと同様に、隣接する穂高中学校の生徒などが煉瓦を積む作業を手伝ったりしたそうで、教会風の外観といい、まさにロマネスクの精神を顕現した建物と言えるそうです。

講演の後は、同じ会場で記念祝賀会。

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同館代表理事にして、元館長の所賛太氏のごあいさつ、現荻原家ご当主の荻原義重氏をはじめ、来賓の方々の祝辞。

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アトラクションとして、松本ご在住の桂聰子さんによるフルート演奏。

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その後、乾杯、そして祝宴。美味しい料理を頂きました。

最後は、万歳三唱。

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今でこそ、個人美術館は当たり前のように全国に存在しますが、同館の開館当時はその嚆矢といえるものだったわけで、しかも、以来60年間、安曇野地域の文化推進に果たしてきた役割も非常に大きかったことと思われます。

同館建設に骨折った、彫刻家の笹村草家人、石井鶴三らは、晩年の光太郎に何かと相談を持ちかけ、光太郎も同館開館を心待ちにしていましたが、その日を待つことなく他界。生前の光太郎が同館を訪れることができたら、さぞや喜んだだろう、などと思いました。

祝賀会参加の引き出物的に、またまた書籍を頂いてしまいました。『荻原守衛日記・論説集』。題名の通り、現存する守衛の日記と、雑誌等に発表した美術評論などの集成です。

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A4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

ただ、守衛帰国後の日記は相馬黒光によって守衛没後に焼かれてしまって現存しませんし、留学中の日記もすべてが残っているわけではなく、残念ながら日記の部分には光太郎は登場しません。しかし、索引を見た限りでは「論説」の部分に、光太郎、そして光雲の名が頻出しているようで、この後、熟読いたします。


今後とも、同館が末永く愛され続けることを願ってやみません。紅葉も美しい季節、皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ブラボオ! と叫びたい事がある。最近、長沼重隆訳ホヰツトマンの「草の葉」の出来た事だ。
散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

ホヰツトマン」は、光太郎が私淑した19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン。光太郎はホイットマンの日記を翻訳し、『白樺』などに寄稿した他、『自選日記』(大正10年=1921)として刊行もしました。

草の葉」は1855年に刊行されたホイットマンの代表作で、それまでに富田砕花、有島武郎らによって断片的に翻訳されていましたが、あくまで断片的なものでしかありませんでした。それが、英文学者・長沼重隆により、ほぼ完全な訳が行われたことを、光太郎は「ブラボオ!」と言っているわけです。これを機に長沼と光太郎は交流を持つことになったようです。

ちなみに当方、上記『荻原守衛日記・論説集』の刊行に「ブラボオ!」と叫びたくなりました。病のため任期半ばで退任なさった前碌山美術館長・五十嵐久雄氏のご功績大なりと承り、昨日、車椅子ながら祝賀会にご参加の五十嵐氏に久々にお目に掛かることもでき、望外の喜びでした。

全日本合唱連盟さん主催の平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール。今月末に中学校・高等学校部門(会場・長野県県民文化会館)、来月末には大学職場一般部門(同・札幌コンサートホールkitara)が開催されます。

このうち、中学校・高等学校部門の全出場校と001演奏曲目が発表されました。楽譜販売を手がけるパナムジカさんのサイトです。

それによりますと、高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場する九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、光太郎作詞、西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」から、「レモン哀歌」を自由曲として演奏なさいます。他の学校さんでも光太郎作詞の曲を取り上げて下さっているかと期待しておりましたが、残念ながら鹿児島高校さんだけでした。

鹿児島高校さんに関しては、コンクールの主催者である『朝日新聞』さんで記事になっています。

まず、鹿児島版、先月8日の記事から。 

鹿児島)鹿児島・松陽が全国へ 九州合唱コン高校の部

 宮崎市で7日にあった九州合唱コンクールの高校の部に県内からは3団体が出場。鹿児島、松陽が金賞に輝き、いずれも全国大会への出場権を得た。鹿児島女子は銀賞だった。 高村光太郎が作詩した「レモン哀歌」を自由曲に選んだ鹿児島は、大所帯ながら一体感のある歌声をホール内に響かせた。部長の高岡未侑さん(3年)は「今まで練習してきたことを出せて楽しかった。やりきりました」とほほえみながら話した。(以下略)

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さらに今月12日には、コンクール全体を特集する全国版の記事でも紹介されました。 

歌う喜びのせて 第71回全日本合唱コンクール全国大会

 第71回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)は、中学校・高校部門が27、28日に長野市のホクト文化ホールであり、その様子が全国31カ所で同時中継されます。また大学職場一般部門は11月24、25日に札幌市の札幌コンサートホールKitaraで開かれます。今回、全国の切符をつかんだ約120団体の中から、4団体の意気込みを紹介します。

■高校B 鹿児島高 互いに信頼「一唱懸鳴」
 合言葉は「天歌統一」「一唱懸鳴」。一人一人の声を一つに合わせて響かせ、頂点を目指す。全国大会出場は実に23年ぶり。顧問の片倉淳教諭(54)は、その原動力について「生徒たちの自主性と信頼関係の深さ」と話す。
 練習スケジュールなどは3年生が中心になり計画。自ら決めた日程やルールを守ることで、自主的に取り組む姿勢と責任感が育まれた。また、音程の悪さなど気づいた点を部員同士が自由に指摘し合う。互いへの信頼に支えられている。
 自由曲は、詩人で彫刻家の高村光太郎の詩に曲がついた「レモン哀歌」。光太郎の智恵子への思いを新鮮なレモンのようにみずみずしく描く。部長の高岡未侑さん(3年)は、「歌いたいのはふたりの悲哀ではなく生の喜び。智恵子を失った悲しみの深さを、確かに生きた喜びで表現したい」と話す。(町田正聡)
 
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西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」は、平成20年(2008)、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で委嘱初演され、翌年には全音楽譜出版社さんから刊行されました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」「レモン哀歌」の全3曲で、鹿児島高校さんが演奏する終曲「レモン哀歌」は7分にもなる大作です。楽譜冒頭に西村氏による「新鮮なレモンのようにみずみずしく、すっぱく清らかにそして哀切に、ノスタルジックに」という指示が書き込まれています。鹿児島高校さんには、その指示が実現できる演奏を期待します。

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大会日程等は以下の通り。 

2018年度 第71回全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門

期 日 : 2018年10月27日(土)・28日(日)
会 場 : ホクト文化ホール(長野県県民文化会館)大ホール 長野市若里1丁目1-3
時 間 : 27日(土) 9:45開演(予定)  ◇高等学校部門 A・Bグループ
      28日(日) 9:45開演(予定)  ◇中学校部門 混声合唱の部・同声合唱の部
料 金 : 一般者用入場券 1日 3,600円


さらに今年から、全国各地のイオンシネマさんで、パブリックビューイングが行われるとのこと。会場は北海道、岩手、宮城、福島、群馬、埼玉、千葉、神奈川、東京、長野、愛知、三重、石川、京都、大阪、兵庫、岡山、山口、徳島、香川、愛媛、福岡、熊本の23都道府県の計31カ所。中学校・高校部門とも演奏順に五つの時間帯に分け、各映画館の地元校が出場する時間帯を中心に上映するそうです。

ちなみに、曲目は光太郎智恵子に関わりありませんが、智恵子の故郷・福島二本松の市立二本松第一中学校合唱部さんが、中学校部門 同声合唱の部に出場なさいます。
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このコンクールで、光太郎詩に曲を付けた合唱曲が演奏されるのは、平成27年(2015)以来です。今年に関しては、大学職場一般部門の演奏曲がまだ発表されていませんが、どこかの合唱団さんで取り上げて下さっていることを祈ります。また、来年以降も、ですね。


【折々のことば・光太郎】

埴輪はどれを見ても一律であるが、どれを見ても新鮮で深みのあるものである。単純だから深みがあるのである。武者さんの人間的な美も丁度これに似て、一律さが覗かせる新鮮と深淵の美しさなのである。

談話筆記「埴輪の美と武者小路氏」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、共に雑誌『白樺』に依り、その後も断続的に彼の主宰する雑誌に寄稿を続けた武者小路実篤への讃辞です。日本古来の美を表象する埴輪との類似点を見いだしています。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館として、昭和33年(1958)に開館し、今年、60周年を迎えました。

そこで、記念行事のご案内をいただいております。

まずは記念講演会。 

碌山美術館の建築と建築家について

期 日 : 2018年10月20日(土)
場 所 : 穂高神社参集殿 長野県安曇野市穂高6079
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料
講 師 : 藤森照信(建築史家・建築家)

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その後、同じ会場で60周年記念祝賀会に突入します。こちらは参加費5,000円だそうで。

同館の開館には、最晩年の光太郎も多大な関心を寄せ、協力を惜しみませんでした。残念ながら開館前に光太郎の生命の火は燃え尽きてしまいましたが、その功績を讃え、本館である煉瓦造りの碌山館入口のプレートには、光太郎の名も刻まれています。

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また、同館に隣接する穂高東中学校さんに立つ守衛のブロンズ彫刻「坑夫」の題字は光太郎が揮毫し、光太郎が亡くなる前年(昭和30年=1955)に除幕されました。

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その縁の深い同館の60周年記念式典ですので、行かざあなるめいというわけで、参上します。光太郎の代参のつもりで行って参ります。

ちなみに現在開催中の企画展は、こちら。 

開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-

期 日 : 2018年9月22日(土)~11月4日(日) 会期中無休
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : AM9:00~PM5:10 (11月はAM9:00~PM4:10)
料 金 : 大人 700(600)円  高校生 300(250)円  小中学生 150(100)円
       ( )内は、20人以上の団体料金

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このたび碌山美術館では開館60周年記念企画、「荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」を開催致します。春季、夏季に続く本展は、荻原守衛(碌山)の系譜に連なる彫刻家と造形の展開を紹介するものです。
荻原はパリを立つ際に、師と仰いだロダンから「自然を師とせよ」という言葉を受け取ります。自然への観照、「真実」の追求によって荻原は生命感あふれる作品を示し、若い芸術家たちの心を捉えました。戸張孤雁は、荻原亡きあとの粘土を貰い受け彫刻家となり、当時画家を志していた中原悌二郎も、彫刻家へと歩みを進めます。戸張と中原が活躍する日本美術院彫刻部には荻原の「生命の芸術」が伝わり、石井鶴三や喜多武四郎など俊英の輩出を導きます。荻原の系譜は、「生命の芸術」を変容しながら、明治末から大正、昭和、そして日本美術院最後の同人となる基俊太郎の平成へと繋がります。
本展では明治大正期を第一展示棟に、昭和以降を第二展示棟に配置することで、時代とともに移り変わる造形の展開をご覧いただけます。
明治大正期の彫刻には、モデルから抽出した生命感が彫刻に表れています。これは、自然(真実)の獲得に全霊を尽くし、生命の写実に挑んだ成果とみてとれます。昭和以降の彫刻には、石井鶴三の「立体感動」や基俊太郎の空間への意識のように、造形そのものに思考が表れ、新たな造形の展開が示されます。
荻原守衛の登場によって目覚めた日本の近代彫刻は、自然への観照、造形への意識化をそれぞれの個性のなかに育みながら展開してきました。本展を通じて、荻原守衛の系譜における造形の展開をご覧いただければ幸いです。

夏期企画展が、「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」で、光太郎と柳敬助、戸張孤雁に斎藤与里が大きく取り上げられましたが、今回も光太郎に関わると思われます。ただ、メインは次の世代の彫刻家たちのようです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。

散文「逸見猶吉の死」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

逸見猶吉は、明治40年(1907)生まれ。草野心平の『歴程』に依り、光太郎とも交流がありました。戦時中は関東軍報道隊員として満州に派遣され、終戦後の昭和21年(1946)、帰国できずに現地で病死しています。

高祖保を紹介する中でも書きましたが、こうした報に接するたび、戦争推進に加担した自らへの慙愧の思いが、光太郎を捉えたことでしょう。

6月に福島県南相馬市をメイン会場に行われた「第69回全国植樹祭」。その福島県実行委員会事務局さんで発行している『第69回全国植樹祭だより キビタンの森林(もり)』の最終号が発行されました。

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光太郎智恵子をモチーフとしたメインアトラクション「あどけない話のその向こう」の紹介。

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当方も行きました、サテライト会場(福島県大玉村)などの紹介も。

平成最後の植樹祭、関係者の皆さんには、格別な思い出として残ることでしょう。


もう1件、長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽地域で発行されている『市民タイムス』さん、今日の一面コラム。 

2018.8.18 みすず野

 徳本峠を越えた。島々の林道入口に獣害よけの柵があったのを除けば、営業していた頃から時が止まったかのような岩魚留小屋のたたずまいも、力水から取り付く最後のささやぶのつづら折りも十数年前と少しも変わっていない◆峠まで16キロ。登りのつらさをウォルター・ウェストンは「奮闘の末に」勝ち得た快い昼寝と書き記し、芥川龍之介は小品「槍ヶ嶽紀行」で、案内人との距離が隔たり「とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた」と語る◆大正2(1913)年9月、上高地に滞在していた高村光太郎は徳本峠を越え、後に結婚する智恵子を岩魚留まで迎えに行った。その翌年に訪れた英文学者で登山家の田部重治は峠道から見る穂高連峰の姿を、山への観念を打破するほど「気高い」と随筆に書いて、読者をいざなった◆沢を渡り返す木橋の中には近年架け替えられたものもあった。古道を守ろうと汗する人たちがいる。岳沢から急な登山道をたどって前穂高岳のてっぺんに立った69歳の女性が、小紙の投稿欄に感激をつづっていた。当方は涸沢から奥穂、つり尾根を経て、その重太郎新道を岳沢へ下った。


光太郎智恵子にふれていただき、ありがたいかぎりです。


【折々のことば・光太郎】

ともかく私は今いはゆる刀刃上をゆく者の境地にゐて自分だけの詩を体当り的に書いてゐますが、その方式については全く暗中摸索といふ外ありません。いつになつたらはつきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的の意味で人に語り得るか、正直のところ分りません。
散文「詩について語らず――編集子への手紙――」より
 
昭和25年(1950) 光太郎68歳

もはや晩年にさしかかった光太郎にして、この言です。「百尺竿頭に一歩を進む」の感があります。

7/29(日)、安曇野市の碌山美術館さんにて、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」を拝見した後、愛車を次なる目的地、諏訪方面に走らせました。目指すはサンリツ服部美術館さん。安曇野ICから乗った長野道を岡谷ICで下り、走ること十数分。諏訪湖の湖畔にありました。

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諏訪で服部と言えば、やはりそうなのかな、と思っていましたら、やはりそうでした。服部セイコー創業者・服部金太郎の孫にして、元セイコーエプソン社長の故・服部一郎氏のコレクションと、株式会社サンリツさんが集めた美術品を展示する私設美術館です。

こちらでは、7月15日(日)から、企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」が開催中。光太郎の父・高村光雲作の木彫「鍾馗像」が出ているというので、拝見に伺った次第です。

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展示室は二つあり、奥の方の広い展示室がその会場でした。

光雲の「鍾馗像」は目玉の一つと位置づけて下さっているようで、壁際のショーウィンドウ的なケースではなく、会場ほぼ中央のガラスケースに展示され、おかげでぐるっと360°から見ることができました。銘を見れば、光雲個人の作なのか、弟子の手が入っているのか、ほぼわかるのですが、残念ながら、銘は確認できませんでした。おそらくひょいと持ち上げると、底に刻まれているのではないかと思われます。ただ、若干、粗い彫りなのかな、という気もしました。しかし、秀逸だなと思ったのは、ポージング。以前に見た他の「鍾馗像」は、どれも直立不動の仁王立ち(鍾馗様が仁王立ちというのもおかしな話ですが(笑))でしたが、こちらは左足を岩に乗せていて、その分、躍動感が感じられます。像高は50㌢ほどだったでしょうか。

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他に、平櫛田中、富本憲吉、柴田是真ら、光雲・光太郎親子と関わりの深かった作家の作も展示されており、興味深く拝見しました。光太郎の朋友・岸田劉生の絵は、8月21日(火)からの後期での展示だそうで、そちらは見られなかったのが残念でしたが。

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光雲の「鍾馗像」は、前後期通じての展示だそうです。

もう一つの展示室では、同時開催として「憧憬の西洋」。ブラマンクやキスリングなどの西欧画家と、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生・藤田嗣治などの日本人画家が描いた西洋の風景画の展示でした。藤田の絵(大正6年=1917)は、光太郎も見たであろうモンマルトルの風景。「光太郎に見せたかったな」と思いました。

長野県は、美術館の数では日本一の県だそうです。今回も、道すがら、多くの美術館さんがありました。ただし、維持していくのは大変なようで、やはり光太郎と交流のあった村山槐多の作品などを展示していた上田市の信濃デッサン館さんは事実上閉館、それから、光太郎とは関わりませんが、小布施の池田満寿夫美術館さんなども閉館してしまいました。

いろいろ難しい問題もあるとは思いますが、どこの美術館さんも盛況であるような、そういう世の中であってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

衣を剥げば日常語即詩語である。詩は言葉の裸身である。

散文「詩について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

いわゆる美辞麗句を避け、口語自由詩の確立に功績のあった光太郎ならではの言ですね。

一昨日から昨日にかけ、信州に行き、安曇野の碌山美術館さん、諏訪のサンリツ服部美術館さんと、2箇所廻っておりました。

一昨日の土曜、夕食を採ったあと仮眠し、深夜(日付が変わる前に)、台風12号をやり過ごしてから千葉の自宅兼事務所を出発。しかし、中央道八王子あたりで台風のシッポに追いついてしまいました。その後は雨の中を進み、塩尻の健康センターで入浴、仮眠、起きてまた入浴。昨日朝一番で、碌山美術館さんに向かいました。朝には台風も行ってしまっていて、雲は多めでしたが時折雨がぱらつく程度でした。

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北アルプスの山々。

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碌山美術館さん。

21日(土)から、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」が始まっています。

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お世話になっている濱田学芸員、それから今年度新任の高野館長にご挨拶(ほぼ毎年お邪魔している4月の碌山忌を今年は欠礼しましたので)。その後、展示を拝見しました。

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左の碌山館は、荻原守衛の彫刻の展示棟で、こちらの展示内容は不変です。手前にはおそらく女郎花(オミナエシ)。いい感じでした。企画展は第一展示棟、第二展示棟を使っていました。もう一棟、杜江館という建物もあり、一昨年の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」ではそちらも使っていましたが、今回は2棟のみでした。「―萩原守衛の親友たち―」というサブタイトルで、第一展示棟が光太郎と柳敬助、第二展示棟に戸張孤雁と斎藤与里というラインナップでした。

第一展示棟は、もともと彼等の作品を常設展示している棟ですが、普段は収蔵作品のすべてが出ているわけではありません。今回は4人の作家の収蔵作品のおそらく全て、プラス他からの借り受け品も展示されていました。

光太郎彫刻は全てブロンズで、同館所蔵のもの。年代順に浅草の玉乗り芸人の幼い兄妹をモデルにした彫刻の部分的な残存「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、光太郎初の注文による肖像彫刻「園田孝吉像」(大正4年=1915)、事情があってかくまった横浜の少女をモデルとした「裸婦坐像」(大正6年=1917)、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)、その力感がすばらしい「腕」(同)、零落した元旗本の花売り老人がモデルの「老人の首」(大正14年=1925)、同型のものが東京芸術大学の庭に立つ「高村光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型詩作(一体のみ・昭和27年=1952)、中型試作(一対・昭和28年=1953)、そして未完の絶作「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。碌山美術館さんでは、買い足し買い足しで、10点もの光太郎ブロンズを購入して下さっています。花巻高村光太郎記念館さんを除けば、これだけ集まっているのはここだけです。

他の三人の作品も、改めて見るといいもので、特に斎藤与里の絵は、郷里・埼玉県加須市教育委員会からの借り受け品など、非常に華やかでした。

それから、同館で今年の4月に刊行された新刊書籍を頂いてしまいました。題して『彫刻家 荻原守衛―芸術と生涯―』。300ページ近くある大判の厚冊で、守衛の彫刻と絵画のカタログ・レゾンネ的なものプラス、かなり詳細な評伝も付されています。さらに光太郎を初めとする周辺人物の紹介なども。これで定価3,000円は掛け値無しにお買い得です。

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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。企画展は9月2日(日)までの会期です。


【折々のことば・光太郎】

真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。

散文「詩そのもの」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎が使う「詩人」の語は、単に詩を作る者、というだけでなく、「芸術家」そのものを指すこともあるように思われます。たとえ言葉で詩を作らなくても、守衛のように優れた彫刻を作る者は「詩人」だ、みたいな。あらゆる芸術の根幹には「詩魂」が不可欠であるとの考えがその背後にあります。といって、自らはまだまだ、という謙虚さも持ちあわせているのが光太郎でした。

信州安曇野の碌山美術館さんの企画展情報です。

美に生きる―萩原守衛の親友たち―

期 日 : 2018年7月21日(土)~9月2日(日
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9時~17時10分
料 金 : 大人700円 高校生300円 小中学生150円
休館日 : 会期中無休

荻原守衛は彫刻家としての資質にも恵まれ、才能あふれる友人にも恵まれました。

彫刻家、詩人として多くの影響を与えた高村光太郎。
彫刻・挿絵・版画などのジャンルを手掛けて繊細な作品を制作した戸張孤雁。
肖像画家として活躍した柳敬助。
日本の洋画界に大きな足跡を残した斎藤与里。

美に生きた四人のそれぞれの芸術をご覧ください。

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同館では、常設で光太郎作品を複数展示して下さっているのですが、改めて企画展として取り上げるということです。

同じ地域のサンリツ服部美術館さんでは、企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」が開催されており、光太郎の父・高村光雲の木彫が出ています。

当方、今週末に併せて行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

絵画なら絵具や筆のタツチ、彫刻なら線の波動や表面の触感、詩歌なら言葉の節奏(リズム)や文字の音色(ねいろ)が直接に人に其の表さうとした情調を与へなければならぬ。画かれたもの、刻まれたもの、歌はれたものの当体に重きを置き過ぎると間違つて来る。

散文「詩歌と音楽」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

青年期の光太郎、「何を」より「いかに」を重視していたことがわかります。といっても、「何を」の部分も何でも良いと思っていたわけではないのでしょうが。

長野県から企画展情報です

明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし

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期 日 : 2018年7月15日(日)~9月17日(月・祝)
会 場 : サンリツ服部美術館  長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9時30分~16時30分
料 金 : 大人1,000(900)円 小中学生400(350)円
      
 ( )内は団体20名様以上の料金
休 館 : 祝日を除く月曜日(ただし、8月6日、13日、27日は開館)

 今から150年前、明治という新たな時代が訪れます。新政府主導のもと、政治、産業、教育、文化などあらゆるものが日々発展し、日本は急速な近代化を成し遂げていきました。
 このような激動の時代の中、芸術家たちは伝統的な美意識と新たな時代の表現を模索しながら、多くの名品を世に生み出していきました。また、武家や町衆などによって支えられていた茶の湯では、明治期に入ると政財界の人々が嗜むようになり、近代数寄者たちによる豪華な茶の湯文化が花ひらきます。
 この度、サンリツ服部美術館では明治維新150年を記念し、幕末から昭和にかけて制作された絵画や工芸作品、近代数寄者ゆかりの茶道具などをご紹介いたします。目まぐるしく移り変わる時代の中で、芸術家や数寄者たちが求めた美の世界をお楽しみください。

主な出品作品
 ・冷泉為恭「養老勅使図」 江戸時代19世紀
 ・久保田桃水「山吹鮎図」 江戸―明治時代20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「鮮魚」 昭和時代 20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「夏木野雀」 昭和時代 20世紀(前期出品)
 ・高村光雲「鍾馗像」 明治時代 19世紀
 ・富本憲吉「白磁壺」 昭和11年(1936)
 ・長次郎「黒楽茶碗 銘 雁取」 桃山時代 16世紀

関連行事
 第2回美術講座
 日時:2018年7月23日(月) 13時30分から(受付開始13時)
 講師:山盛弥生氏(実践女子大学香雪記念資料館客員研究員)
 演題:近代の日本画を知る―新旧と東西
 会場:サンリツ服部美術館 2階喫茶室  定員:60名  参加費:入館料のみ 
 申込方法:電話、受付にて予約(電話0266-57-3311)
 *当日は休館日ですが、参加される方は13時から13時30分、講座終了後から15時30分
 まで展覧会をご覧い
ただけます。講座中は展示はご覧いただけません。


というわけで、光太郎の父002・高村光雲の「鍾馗像」が出品されます。

「鍾馗」は光雲が好んで取り上げた題材の一つで、複数の作品の現存が確認できています。右は平成14年(2002)、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。この時だけでも2体の鍾馗像が展示されました。


また後ほど紹介いたしますが、サンリツ服部美術館さんのある諏訪からほど近い安曇野の碌山美術館さんでは、企画展「荻原守衛の人と芸術Ⅱ 【夏期】 美に生きる ―荻原守衛の親友たち―」が開催され、光太郎も取り上げて下さいます。

併せて拝見に行こうと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

この本を見ると、なるほどギリシア彫刻は、彫刻の本源だなと納得させられる。
散文「富永惣一著「ギリシア彫刻」推薦文」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

ミケランジェロ、ロダン等、光太郎の敬愛した彫刻家たちの系譜を辿っていくと、その行き着く先はギリシャ彫刻。光太郎にとっては、ある意味、自らのルーツというわけです。

実は光雲もそうでした。江戸期の仏師の流れを汲む光雲ですが、守旧にとどまることなく、文明開化で流入してきた西洋の文献等にも目を通し、自らの骨肉としています。

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こちらは、光雲が描いたもの。「写」とありますので、おそらく西洋の解剖学的な分野の文献から書き写したものでしょう。この骸骨や筋肉に肉付けをすれば、そのままあたかもギリシャ彫刻のようです。

『日経』さん、2日の夕刊文化面に西郷隆盛に関する記事が出、光太郎の父・光雲の名も出ていました。 

遠みち近みち 西郷 そのとらえがたい像

 高村光雲の手になる東京・上野公園の西郷隆盛像。右手で綱を引かれる犬の名をご存じだろうか。「ツン」というらしい。
 西郷の犬好きは、よく知られ、猟犬として飼いつつも座敷に上げてかわいがったらしい。魚肉や卵を与えられ、ひどく肥満してしまい、猟に向かなくなったものもいたという。
 歴史学者の家近良樹さんが昨年、ミネルヴァ書房から出した500ページを超える西郷の評伝には、49年の激動の人生を彩った数多くのエピソードが盛られ、多面的な人物像を存分に知ることができる。
 知略に優れ、事に当たっては綿密な計画を立てて行動する。まじめで、ぜいたくを嫌う禁欲さも備え、「この人のためなら」と接した人を揺り動かす包容力もある。
 一方で、人の好き嫌いもかなり激しく、多情な面もあったという。
 自ら采配をふるって旧体制を破壊しながら、結局、新政府の方針にあらがい、慕う者らとともに西南戦争に打って出て、敗れ去ってしまった。波乱そのものの一生だが、歴史家の目は冷徹だ。
 別の著書で家近さんは、こんなことを書いている。
 西郷は極めて「男ぶり」がよく、数々の試練で人間力を磨き、たぐいまれな人望を得た。しかし、逆にその人望ゆえに身を滅ぼすことになった――。
 一方で、西郷のライバルだった徳川慶喜については、こう評価した。リーダーに不可欠な人望がなく、政権返上(大政奉還)を独断で行い、結果として日本を内乱の危機から救った――。
 慶喜にリーダーの資質がなかったゆえ、近代日本は思わぬ幸運に恵まれたのだという。
 明治維新から150年。数々の国難に直面する現在、往時の指導者らの全貌に迫るのは諸改革へ向けた指針ともなるにちがいない。
(編集委員 毛糠秀樹)

『日経』さんらしく、組織論、リーダー論でまとめています。

記事本文はネットの電子版で読めたのですが、地元の図書館さんでコピーを取っておこうと思い、拝見。すると、隣には「文学周遊」という連載。 光太郎も登場する、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』についてで、驚きました。ただ、光太郎の名は出ていなかったので、電子版での検索の網に漏れていました。 

室生犀星「我が愛する詩人の伝記」 長野・軽井沢町 先きに死んで行った人はみな人がらが善すぎる

 室生犀星は、長野県の軽井沢を深く愛した詩人である。初めての軽井沢滞在は、31歳になる夏、奥信濃への旅の帰りだった。旧軽井沢にある旧中山道沿いの「つるや」旅館に宿泊した。以来、亡くなるまで40年余り、夏の軽井沢滞在を欠かしたことがない。
 初の滞在から6年後の1926年(大正15年)からは、別荘を借り、31年には「つるや」旅館からほど近い雑木林の中に、木造平屋の別荘を新築した。44年夏には、東京から疎開し、49年までの5年間、厳寒の冬も過ごしている。
 「犀星は多くの文人を軽井沢に招き、結びつけた軽井沢文学の恩人だった」と軽井沢高原文庫副館長の大藤敏行さんは話す。芥川龍之介を軽井沢に誘い、「つるや」で襖(ふすま)一枚隔てた部屋で同宿したのも犀星だったし、後に軽井沢文学の象徴となる堀辰雄が、23年初めてこの地を訪れたのも、犀星の誘いからだった。
 11人の詩人の肖像を描く評伝「我が愛する詩人の伝記」の中でもとりわけ精彩に富むのが、親友、萩原朔太郎や、堀辰雄、立原道造、津村信夫といった年少の詩人の記述だろう。軽井沢の犀星の別荘での描写は中でも印象深い。
 近隣の追分から午前中にやってきた立原は、犀星が原稿を書いていると、庭にあった木の椅子に腰を下ろして、「大概の日は、眼をつむって憩(やす)んでいた」。立原道造が、夏の日の差す庭の椅子に痩躯(そうく)を任せて眠る姿は、何とも魅力的だ。「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に」。立原の夢のような詩を愛する読者は、犀星が描く立原の生々しい面影に、ハッとするはずだ。多くの年若い詩人に先立たれた犀星は、本書で愛惜の思いを隠さない。
 犀星の旧居は、純和風の建物をほぼそのまま残して軽井沢町が19年前に室生犀星記念館として公開した。現在、老朽化した建物の補修のため閉館中だが、来年4月末には再オープンする。旧軽井沢の商店街からも近い旧居は、洋館の点在する別荘地の中にあり、犀星が丹精して植えた苔(こけ)が新緑に輝いている。
 北陸新幹線開業で、夏の旧軽井沢はにぎわいを増した。しかし、最晩年の犀星が自ら文学碑を建てた矢ケ崎川の河畔は今も静かだ。清流の自然に包まれた小さな詩碑からはこの避暑地とともに歩んだ詩人の深い愛が見えてくる。
(編集委員 宮川匡司)

むろう・さいせい(1889~1962) 金沢市生まれ。詩人・小説家。高等小学校を中退後、金沢地方裁判所に給仕として就職。20歳で上京。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎と親交を結ぶ。18年、第1詩集「愛の詩集」を刊行。翌年、自伝的短編小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表。20年、長野旅行の際、軽井沢に宿泊。31年に新築した軽井沢の別荘で夏を過ごし、多くの作家、詩人を招いた。代表作に詩集「抒情小曲集」、小説「杏つ子」「かげろふの日記遺文」。
 58年刊の「我が愛する詩人の伝記」は、雑誌「婦人公論」連載後に刊行された評伝で、親交のあった詩人11人の生身の人間像を豊富な逸話で描く。

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親交のあった詩人11人」のうちの一人が光太郎というわけで、このブログでも何度か同書がらみの記事を載せました。


犀星記念館さん、記事にあるとおり、来春リニューアルオープンだそうで、折を見て行ってこようと思いました。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局どんな人間の姿態でも美でないものはないといふことを納得させられる。人間は一個の豊麗な美のかたまりであるといふことを。

散文「ロダンの作品 素描」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

かつてパリ郊外ムードンのアトリエで、内妻・ローズに見せてもらったロダンの素描についてです。「人間賛歌」的な部分で、ロダンの血脈を継いだ光太郎ならではの感想です。

紙面にも載ったのかどうか不明なのですが、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんのサイトに、昨日アップされた記事から。長野県上田市でのイベント情報です。

芸術の自由さ触れて 上田で二つの催し企画

 上田市を中心に詩の創作活動な003どに取り組み、同人詩誌「樹氷」を発行する「『樹氷』の会」が、市民が広く芸術に触れる機会にしてもらおうと二つの催しを企画している。20日は同市天神のサントミューゼで、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(上田市古安曽)館主の窪島誠一郎さんの講演会を開催。8月5日には集まった参加者と共にマイクロバスで同館を訪れ、絵画を鑑賞する。同会はそれぞれ参加者を募っている。

 同会代表の小林光子さん(75)=緑が丘=が、夭折(ようせつ)の画家・村山槐多(かいた)(1896〜1919年)についてのエッセーを、別の同人詩誌に寄稿。執筆の際に目にした槐多の短歌に感銘を受け、槐多の作品を多く所蔵、展示してきた同市の「信濃デッサン館」(3月閉館)の館主でもある窪島さんに依頼し、催しを企画した。

 20日の講演会は2部構成で、前段は槐多の絵画、短歌などの芸術作品や、詩人・彫刻家の高村光太郎や洋画家・版画家山本鼎(かなえ)との関係について説明する。後段は座談会形式で、槐多や信濃デッサン館の今後について参加者と語り合う場にする。

 8月5日の絵画鑑賞は、無言館に展示されている戦没画学生の作品を見学し、学生たちの生涯について触れながら、平和と芸術について考える機会にしたいという。

 催しはともに市のわがまち魅力アップ応援事業を活用している。小林さんは「信濃デッサン館は上田市だけでなく、長野県の大事な財産」と存続を願う一人。また、槐多を「自分自身の思いや情緒をストレートに表現している」と評し、企画を通じて参加者には「芸術は心の中を自由に表現していいものだと伝えたい」と話している。

 20日は午後1時半〜4時。入場無料。8月5日は午前9時〜午後1時。先着50人まで。参加費は無料だが、無言館への入館料は自己負担。ともに中学生以上が対象。申し込みなどの問い合わせは小林さん(電話0268・24・3176)へ。


今のところ、ネット上にイベント自体の情報が見あたりませんで、上記記事から読み解くしかありませんが、同市の交流文化芸術センター・サントミューゼにおいて、やはり同市塩田地区にある戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏によるご講演があるとのこと。無言館さんの姉妹館で、やはり窪島氏が館長の信濃デッサン館さんに作品が多数収蔵されている夭折の天才画家・村山槐多についてがメインで、槐多と交流のあった光太郎にも触れられるようです。

ところで、信濃デッサン館さん、今年3月をもって無期限休館――事実上、閉館――となったそうです。この件は存じませんでしたので、驚いております。今後は無言館さんの運営に集中されるとのことですが、やはり残念です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

女性はますます美しかれ。ますますやさしかれ。ますますうるほひあれ。ますます此世の母性たれ。戦う男子の支柱たれ。男子の心は剛直にして折れ易い。すさび易い。その時、女性の美はこれを救ふ。

散文「扉のことば」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

少女雑誌『新女苑』に発表された文章の一節です。銃後の少女たちに呼び掛けるこの文言、女性を讃美しつつも、一種のモラハラ的な要素を含むでしょう。裏を返せば戦場へ赴く兵士達をしっかり送り出せ、ということにもなりましょうし。

こうして送り出された中には、無言館さんに作品が収められている、戦場で露と消えた画学生達も含まれていたわけです。東京美術学校の学生の中には、大先輩・光太郎のアトリエを訪れ、激励してもらったという、今年亡くなられた深沢竜一氏(光太郎詩「四人の学生」のモデル)のような方もいらっしゃいました。深沢氏は無事復員されましたが、帰って来られなかった学生も多くいたのではないでしょうか。もしかすると、無言館さんに作品が展示されている戦没画学生の中にも、光太郎の元を訪れたという学生もいたかもしれません。

信州安曇野の碌山美術館さんでのイベント及び企画展情報です。

まずは光太郎の盟友・碌山荻原守衛の忌日、碌山忌。

第108回碌山忌

期  日 : 2018年4月22日(日)
会  場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
内  容 :
  8:15~     開館60周年記念企画展オープニング
  10:30/13:00 ミュージアムトーク
  13:30~15:30 碌山忌コンサート
  16:00      墓参
  18:00~     碌山を偲ぶ会


明治43年(1910)、数え32歳の若さで逝った守衛を偲ぶ記念日です。入館料は無料、18:00~の「碌山を偲ぶ会」のみ、食事が饗されますのでその分で参加費1,000円です。例年、記念講演等が行われているのですが、今年は割愛だそうです。


前日から、春の企画展が始まります。

開館60周年記念企画展 荻原守衛の人と芸術 Ⅰ 【春季】  彫刻家 荻原守衛 -石膏原型に彫刻の生命を観る-

期 日 : 2018年4月21日(土)~5月27日(日) 
時 間 : AM9:00~PM5:10
料 金 : 大人 700円 (600円)  高校生 300円 (250円)  小中学生 150円 (100円)
       ( )内20名以上の団体
休館日 : 4/23のみ

日本に近代彫刻の息吹をもたらした荻原守衛(1879-1910年号:碌山)の「生命の芸術」はいまなお私たちの心に響き続けています。本展は、開館60周年を記念して、普段は展示していない石膏原型、デッサン、スケッチブックなど全てを展示して、荻原の芸術の全貌をご覧いただくものです。
明治以降に制作された彫刻のうち重要文化財の指定を受けているものは全国にわずか6点しかありませんが、そのうち2点が荻原の《女》と《北條虎吉像》です。このたびは、約20年ぶりに肖像彫刻の傑作と讃えられる《北條虎吉像》を展示いたします。是非この機会にご覧ください。

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このところ、あえてブロンズ彫刻の石膏原型が展示される企画展が見られるようになってきました。昨年は、光太郎の母校・東京藝術大学大学美術館さんでの特別展 「藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」で、光太郎卒業制作「獅子吼」の石膏原型とブロンズを並べて比較するという試みがあったりしました。

塑像彫刻は、はじめに粘土で原型を作ったあと、それを石膏に取り、さらにそこから型を作ってブロンズで鋳造、というのが通常の手順ですが、そうした段階を踏むごとに細部がぼやっと甘くなっていきます。したがって、石膏の段階の方が、作者の指遣い等がより生々しく残り、作者の意図も表されています。

今回の目玉は「北條虎吉像」の石膏原型。この原型が重要文化財に指定されています。この像は、明治42年(1909)の文部省美術展覧会に出品され、光太郎が「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」と絶賛したものです。

また、チラシには「坑夫」の石膏原型002も。これは守衛パリ滞在中の作品で、光太郎がぜひとも石膏に取って、日本に持ち帰るようにと勧めたそうです。


ちなみに夏期企画展は7月21日(土)からで、「美に生きる ――荻原守衛の親友たち――」だそうで、光太郎や、新たに寄贈された斎藤与里の絵画も取り上げられます。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻性といふものを的確に説明する事は甚だ困難であるが、それは洋の東西を問はず、古往今来の相当な彫刻に共通な、あの一種の手に触れてみたくなるやうな、たとへば水に濡れた岩や石のやうな、樹幹のやうな、貝殻のやうな、不可言の面白味ある魅力、又たとへば山嶽や圓い海のやうな、実有の悠遠感を抱かせる大きさと、安定感と流動感とを同時に備へた釣合ある実体の起伏を持つ特殊の性質を指すのである。

散文「文展第三部所感」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

この年の文展評の中から。こういう作品が見られないことを嘆いています。遠く明治末には、守衛の「北條虎吉像」にそれがあったのに、というところでしょう。

信州安曇野の碌山美術館さんから、館報第38号が発行されました。光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館ということで、毎年、光太郎がらみの企画を開催して下さっており、館報にそれが反映されています。

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表紙は最近同館が寄贈を受けた斎藤与里の絵画。斎藤は守衛や光太郎ともども、中村屋サロンに出入りしていた画家です。のちにはやはり光太郎ともども、ヒユウザン会(のちフユウザン会)に参加しています。

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手前味噌で恐縮ですが、昨年12月2日に同館で開催された、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」の筆録が掲載されています。同館学芸員の武井敏氏と、当方の対談形式でした。

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それから、やはり昨年4月22日の第107回碌山忌での研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」でのご発表を元にされた、彫刻家・酒井良氏の「ロダンと荻原守衛」。

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さらに、これもやはり昨年7月から9月にかけて開催された夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」にからめ、同館館長・五十嵐久雄氏の論考「荻原守衛のロダン訪問の考察」。 明治44年(1911)の、与謝野寛・晶子夫妻のロダン訪問にも触れられています。

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その他、今年が同館の開館60周年にあたるということで、その関連記事と、来年度の予定表。

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また近くなりましたらご紹介しますが、やはり企画展で軽く光太郎に関わるようです。

毎号充実の内容で、今号は52ページ、カラーを含め、図版も多数収録されています(当方のまずい顔も(笑))。4月2日の第62回連翹忌にご参加下さる方には、館のご厚意で無料配布いたします。そうでない方は、館の方にお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

作の力といふのは生(ラ ヸイ)の力の事だ。作つた像が力のあるべき形をして居てもこの力が無ければカルメラが膨れ上つて居る様なものになつてしまふのだ。
散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

前年秋に開催された文展の評です。「生(ラ ヸイ)」の有無が、光太郎にとっての彫刻の善し悪しとして語られるようになります。非常に観念的、主観的な見方ですが。

それがある作品として紹介されているのが、守衛の「北條虎吉氏像」でした。曰く「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」。

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ついでですので、上記の碌山美術館さん館報から画像をお借りしました。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている、信州善光寺からイベント情報です。

第十五回長野灯明まつり 「未来へ繋ぐ平和の灯り」

開催期間 : 平成30年2月7日(水)~2月12日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー 
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 
       長野駅前西口・東口広場、善光寺表参道
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会
共  催 : 公益社団法人長野青年会議所   

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

2004年2月、長野冬季オリンピック記念イベントが発展した形として生まれた長野灯明まつりも、2018年同月、第十五回を迎えることとなりました。平和の象徴である善光寺を五輪カラーの五色でライトアップする「ゆめ常夜灯」、平和への想いがカタチになった「ゆめ灯り絵」、これらの「灯り」を通じて「世界に対し平和の灯りの発信」という、変わらぬメッセージを送り続けて参りました。
第十五回のテーマは「未来へ繋ぐ平和の灯り」とし、日本のみならず世界中が平和の灯りを取り戻せるように、「変わらぬ平和への想い」を、そして「あきらめない心」を、より一層強く発信し、ご参加いただく皆様に平和を考える機会をご提供いたします。
「長野灯明まつり」は、善光寺のまちである「信都・長野」オリンピック開催都市である「国際都市・NAGANO」この2つを融合した「まつり」として、世界平和という「ゆめの灯り」を灯していきます。
そして、現在でも世界各地で行われている戦争やテロに対し、我々はオリンピックの精神でもある「平和」の精神を繋ぐ都市として、長野の未来、日本の未来、そして世界の未来へ繋ぐためにも地域に住まう若者たちにこの精神を広く伝えていく必要があると考えます。長野灯明まつりを通じて、平和の灯りを未来へ繋ぐべく第十五回も盛大に開催します。

実施する事業
①「善光寺・五色のライトアップ」
 市照明から建築照明、ライトパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナー石井幹子先生をはじめとした有名デザイナーの皆様の企画・デザインで「国宝・善光寺」をライトアップ。
②「ゆめ灯り絵展」
 「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、小学生から大人まで想い想いのデザインをした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベント。
③「宿坊・ゆめ茶会」
 善光寺の各宿坊による長野灯明まつりオリジナルの企画・サービスのご提供。
④「ゆめ演奏会」
 善光寺本堂に特設ステージを組み、連日アーティストを入れ替えて演奏会を実施。ライトアップをした幻想的な善光寺本堂の下で聴く音楽で来場者をおもてなしします。
⑤「スキー&スノボ ワンメイクジャンプ台」
 オリンピックにちなんだスポーツの祭典。中央通りにジャンプ台を設置し、プロのスキーヤースノーボーダーによるジャンプの競演。街中で行うジャンプで来場者を魅了します。
⑥「長野灯明まつり謎解き周遊イベント」
 オリンピックと善光寺にまつわる謎を各箇所に散りばめられたヒントを頼りに謎を解いていきます。正解者には先着でオリジナルのピンバッジをプレゼントします。
⑦灯明バル
 長野駅前、権堂地区の飲食店と協力をして、灯明まつりオリジナルのメニューやサービスを提供し、来場者のおもてなしをします。事前に販売されるチケットを購入するとお得です。


十五年前から行われていたそうですが、当方、存じませんでした。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている仁王門もライトアップされるとのこと。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな銅像や壁画や建築が出来ても喜びも悲しみもしない国民はあはれな美の冷感症患者である。

散文「展覧会偏重の弊」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

直接には、文部省主催の展覧会シーズンの秋だけ、美術が話題になることへの警句です。

ラジオ、テレビの放送情報です。

まずは長野県限定ですが、光太郎詩の朗読があります。 

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NHKラジオ第一長野 2018年1月10日(水) 16:55~18:00

ワンダフル信州「信州を読む」 読み手:関根太朗アナウンサー
作品:高村光太郎『智恵子抄』より「レモン哀歌」「狂奔する牛」「人類の泉」

「Wonderful 信州!」は、この1年、NHK長野放送局が取り組むテーマです。 信州には 、雄大な自然をはじめ、歴史や文化、地域に暮らす人々など、魅力的で誇るべきものが たくさんあります。 そうした「Wonderful(ワンダフル)」なものを、県内だけでなく、全国、 世界に向けて発信していこうというのが、 この取り組みの目指すところです。

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というわけで、信州を見直し、その魅力を発信する活動をなさっているそうで、その一環として、「信州を読む」と題し、信州にゆかりのある文学作品の朗読がオンエアされます。

先月、長野放送局のロビーで公開収録が行われたそうです。リスナーの方々からのリクエストも受け付け、朗読作品が選ばれたとのこと。光太郎にもリクエストを寄せていただき、ありがたいかぎりです。

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光太郎智恵子と信州といえば、大正2年(1913)、婚前旅行で上高地を訪れたことが有名です。今回朗読される「狂奔する牛」(大正14年=1925)は、のちにその時のことを謳った詩です。「人類の泉」(大正2年=1913)は、上高地を訪れる直前の作で、智恵子への愛を高らかにうたいあげたもの。そして智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。有名なフレーズ「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつたの「山巓」は、上高地の山々を指すと思われます。

他に、津村信夫『戸隠の絵本』より(1/9)、はまみつを『わが母の肖像』より(1/11)、宮口しづえ『弟』(1/12といったラインナップで、同局アナウンサーの方以外にも、軽井沢朗読館長・青木裕子さんも朗読なさるそうです。

こうした取り組み、全国の放送局でもっと広まってほしいものです。


もう1件、光太郎に触れられるかどうか微妙ですが、テレビ放映情報です。 

美しい日本に出会う旅▼初夢温泉 名湯の旅~日本一の岩風呂とご利益いっぱい湯めぐり

BS-TBS 2018年1月10日(水) 19時00分~19時54分

高橋一生さんが案内する、2018年選りすぐり!4つの名湯旅。長野・渋温泉ではご利益抜群の九湯めぐりと、あの映画を思わせる、木造4階建ての湯宿へ。宿の看板猫は幸運のしるしでした。関西屈指の名湯・城崎では、お坊さんが教える入湯作法に、松葉蟹づくしを堪能。九州では神様が舞い降りた地、霧島へ。ありがたい地に湧いたありがたい湯を、茅葺き屋根の隠れ宿でひたります。日本一の深さを誇る岩手の湯は、宮沢賢治が愛した湯でした。

旅の案内人 高橋一生、瀬戸康史、井上芳雄

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「日本一の深さを誇る岩手の湯」は、鉛温泉さん。花巻南温泉峡に位置し、賢治の「なめとこ山の熊」に登場、光太郎も泊まりました。深さ約130センチの「白猿の湯」が有名です。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

生命の戦慄が無いものは、如何なる時にもいけない。此だけは動かせない。
散文「雑記帳より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

彫刻に関しての発言ですが、「生命」を重視する姿勢は、すべての光太郎芸術に当てはまります。

昨日まで1泊2日で甲信地域を歩いておりました。例によってレポートいたします。

まずは一昨日。それがメインの目的でしたが、一昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。

たまたま同級生の結婚披露宴が甲府で行われるというので、娘を愛車に乗せ、正午頃、千葉県の自宅兼事務所を出発。甲府南ICで中央高速を下り、甲府駅近くで娘を下ろして、甲府昭和ICから再び中央高速、岡谷ジャンクションから長野道へ。長野道を下りた頃には日が暮れて参りました。北アルプスの山々はすでに冠雪。気温は2℃ほどでした。

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美術館近くのビジネスホテルにチェックインし、館に到着。教会風の煉瓦建築・碌山館のたたずまいが幻想的でした。

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すでに閉館時間は過ぎており、展示棟は無人です。窓の外から光太郎の作品群を拝見。

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事務室で、ナビゲーター役の学芸員・武井敏氏と打ち合わせをし、いざ、会場へ。会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所のみの(平常時は休憩コーナー的な)使用法になったそうです。

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「ストーブを囲んで」のタイトルにも謳われている、薪ストーブ。大活躍です。

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午後6時、開会。

武井学芸員の作成したレジュメを元に、守衛、碌山、それぞれの生い立ちや彫刻家を志した動機、渡米の顛末、そして知り合ってからの交友などについて、二人で語りました。

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当方も資料編的にレジュメを作成。

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今回、新たに光太郎が日記や書簡を除く文筆作品(対談を含む)で、守衛に触れたものの一覧表を作ってみました。明治末、一足先に留学から帰国した守衛にあてた書簡形式で書かれたものに始まり、守衛が文展に作品を出品しそれを激賞したもの、明治43年(1910)の守衛の死に際しての追悼文的なもの、そしてその後も光太郎最晩年まで、生涯、折に触れて守衛の名を出し、その早すぎる死を悼んでいます。

それらの中から、そして、光太郎の親友だった作家・水野葉舟による二人の交友の描写も抜粋しておきました。

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それから、守衛の死に際し、光太郎がやはり親友だったバーナード・リーチに送った英文の葉書。

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddnly. I am here by his tonb. You cannot imagine how I am sad !  Apile 26th
(私の友人の荻原氏が突然亡くなった。私は彼の墓のそばに来ている。君には私がどれほど悲しんでいるか想像できまい! 4月26日)

達筆だった光太郎が、殴り書きのような荒々しい筆跡です。それだけ悲しみの深さが解ります。

さらに、光太郎最晩年の昭和29年(1954)、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに建てられた守衛の「坑夫」のために書いた題字。50年近くが経っても、光太郎の守衛に対する親愛の情に変化がなかったことが伺われます。

当方が存じなかった話も武井学芸員から出てきて、勉強させていただきました。守衛の「坑夫」は、パリ滞在中の粘土原型を光太郎が見、ぜひ日本に持ち帰るようにと勧め、残ったということは存じていましたが、絶作の「女」も、モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところをやはり光太郎が残すように進言したそうです。

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最近、一人での講演が多く、対談形式で行ったのは久しぶりでしたが、こちらの方が楽だな、という感じでした。武井学芸員がしゃべっている間に、次に何を言おうかと考えがまとめられますし、予定にはなかった方向転換も容易でした。武井学芸員のリードがみごとだったということもありますが。

対談の筆録は、来春刊行の同館館報に掲載される予定です。また改めてご紹介します。

終了後、事務棟の和室でストーブならぬ炬燵を囲んで、荻原家の方、館の皆さん、それから姉妹館的な東京新宿中村屋サロン美術館さんの方々10名あまりで打ち上げ。地元で取れた食材を使った料理に舌鼓。ありがたや。

宿に戻り、大浴場で疲れを癒し、就寝。

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翌朝、宿から見えた北アルプスの山々です。

一路、甲州へ。山梨県内の光太郎ゆかりの地を3ヶ所廻りました。碌山美術館さんに行く際にはいつもそうしていますが、甲信地域の光太郎ゆかりの人物に関わる施設、光太郎が訪れた場所などに足を運ぶことにしています。今回は、夕方、結婚披露宴出席を終える娘を拾う都合がありますので、山梨県内を攻めました(攻めてどうする(笑))。

そのあたりはまた明日以降。


【折々のことば・光太郎】

人間は感覚の力に依るの外、生の強度な充実を得る道はない。感覚の存在が「自己」の存在である。感覚は自然の生んだものである。あらゆる人間の思索は此の感覚の上に立つてゐる。感覚は実在である。思索は実在の影である。
散文「静物画の新意義」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

思索より、まずは自分の五感で得た感覚から入る造形作家の本質がよく表されています。これが書かれた前年に亡くなった守衛も、この部分を読んだら「そうそう」と首肯したのではないでしょうか。

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