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信州安曇野の碌山美術館さんでのイベント及び企画展情報です。

まずは光太郎の盟友・碌山荻原守衛の忌日、碌山忌。

第108回碌山忌

期  日 : 2018年4月22日(日)
会  場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
内  容 :
  8:15~     開館60周年記念企画展オープニング
  10:30/13:00 ミュージアムトーク
  13:30~15:30 碌山忌コンサート
  16:00      墓参
  18:00~     碌山を偲ぶ会


明治43年(1910)、数え32歳の若さで逝った守衛を偲ぶ記念日です。入館料は無料、18:00~の「碌山を偲ぶ会」のみ、食事が饗されますのでその分で参加費1,000円です。例年、記念講演等が行われているのですが、今年は割愛だそうです。


前日から、春の企画展が始まります。

開館60周年記念企画展 荻原守衛の人と芸術 Ⅰ 【春季】  彫刻家 荻原守衛 -石膏原型に彫刻の生命を観る-

期 日 : 2018年4月21日(土)~5月27日(日) 
時 間 : AM9:00~PM5:10
料 金 : 大人 700円 (600円)  高校生 300円 (250円)  小中学生 150円 (100円)
       ( )内20名以上の団体
休館日 : 4/23のみ

日本に近代彫刻の息吹をもたらした荻原守衛(1879-1910年号:碌山)の「生命の芸術」はいまなお私たちの心に響き続けています。本展は、開館60周年を記念して、普段は展示していない石膏原型、デッサン、スケッチブックなど全てを展示して、荻原の芸術の全貌をご覧いただくものです。
明治以降に制作された彫刻のうち重要文化財の指定を受けているものは全国にわずか6点しかありませんが、そのうち2点が荻原の《女》と《北條虎吉像》です。このたびは、約20年ぶりに肖像彫刻の傑作と讃えられる《北條虎吉像》を展示いたします。是非この機会にご覧ください。

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このところ、あえてブロンズ彫刻の石膏原型が展示される企画展が見られるようになってきました。昨年は、光太郎の母校・東京藝術大学大学美術館さんでの特別展 「藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」で、光太郎卒業制作「獅子吼」の石膏原型とブロンズを並べて比較するという試みがあったりしました。

塑像彫刻は、はじめに粘土で原型を作ったあと、それを石膏に取り、さらにそこから型を作ってブロンズで鋳造、というのが通常の手順ですが、そうした段階を踏むごとに細部がぼやっと甘くなっていきます。したがって、石膏の段階の方が、作者の指遣い等がより生々しく残り、作者の意図も表されています。

今回の目玉は「北條虎吉像」の石膏原型。この原型が重要文化財に指定されています。この像は、明治42年(1909)の文部省美術展覧会に出品され、光太郎が「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」と絶賛したものです。

また、チラシには「坑夫」の石膏原型002も。これは守衛パリ滞在中の作品で、光太郎がぜひとも石膏に取って、日本に持ち帰るようにと勧めたそうです。


ちなみに夏期企画展は7月21日(土)からで、「美に生きる ――荻原守衛の親友たち――」だそうで、光太郎や、新たに寄贈された斎藤与里の絵画も取り上げられます。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻性といふものを的確に説明する事は甚だ困難であるが、それは洋の東西を問はず、古往今来の相当な彫刻に共通な、あの一種の手に触れてみたくなるやうな、たとへば水に濡れた岩や石のやうな、樹幹のやうな、貝殻のやうな、不可言の面白味ある魅力、又たとへば山嶽や圓い海のやうな、実有の悠遠感を抱かせる大きさと、安定感と流動感とを同時に備へた釣合ある実体の起伏を持つ特殊の性質を指すのである。

散文「文展第三部所感」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

この年の文展評の中から。こういう作品が見られないことを嘆いています。遠く明治末には、守衛の「北條虎吉像」にそれがあったのに、というところでしょう。

信州安曇野の碌山美術館さんから、館報第38号が発行されました。光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館ということで、毎年、光太郎がらみの企画を開催して下さっており、館報にそれが反映されています。

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表紙は最近同館が寄贈を受けた斎藤与里の絵画。斎藤は守衛や光太郎ともども、中村屋サロンに出入りしていた画家です。のちにはやはり光太郎ともども、ヒユウザン会(のちフユウザン会)に参加しています。

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手前味噌で恐縮ですが、昨年12月2日に同館で開催された、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」の筆録が掲載されています。同館学芸員の武井敏氏と、当方の対談形式でした。

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それから、やはり昨年4月22日の第107回碌山忌での研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」でのご発表を元にされた、彫刻家・酒井良氏の「ロダンと荻原守衛」。

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さらに、これもやはり昨年7月から9月にかけて開催された夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」にからめ、同館館長・五十嵐久雄氏の論考「荻原守衛のロダン訪問の考察」。 明治44年(1911)の、与謝野寛・晶子夫妻のロダン訪問にも触れられています。

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その他、今年が同館の開館60周年にあたるということで、その関連記事と、来年度の予定表。

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また近くなりましたらご紹介しますが、やはり企画展で軽く光太郎に関わるようです。

毎号充実の内容で、今号は52ページ、カラーを含め、図版も多数収録されています(当方のまずい顔も(笑))。4月2日の第62回連翹忌にご参加下さる方には、館のご厚意で無料配布いたします。そうでない方は、館の方にお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

作の力といふのは生(ラ ヸイ)の力の事だ。作つた像が力のあるべき形をして居てもこの力が無ければカルメラが膨れ上つて居る様なものになつてしまふのだ。
散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

前年秋に開催された文展の評です。「生(ラ ヸイ)」の有無が、光太郎にとっての彫刻の善し悪しとして語られるようになります。非常に観念的、主観的な見方ですが。

それがある作品として紹介されているのが、守衛の「北條虎吉氏像」でした。曰く「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」。

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ついでですので、上記の碌山美術館さん館報から画像をお借りしました。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている、信州善光寺からイベント情報です。

第十五回長野灯明まつり 「未来へ繋ぐ平和の灯り」

開催期間 : 平成30年2月7日(水)~2月12日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー 
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 
       長野駅前西口・東口広場、善光寺表参道
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会
共  催 : 公益社団法人長野青年会議所   

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

2004年2月、長野冬季オリンピック記念イベントが発展した形として生まれた長野灯明まつりも、2018年同月、第十五回を迎えることとなりました。平和の象徴である善光寺を五輪カラーの五色でライトアップする「ゆめ常夜灯」、平和への想いがカタチになった「ゆめ灯り絵」、これらの「灯り」を通じて「世界に対し平和の灯りの発信」という、変わらぬメッセージを送り続けて参りました。
第十五回のテーマは「未来へ繋ぐ平和の灯り」とし、日本のみならず世界中が平和の灯りを取り戻せるように、「変わらぬ平和への想い」を、そして「あきらめない心」を、より一層強く発信し、ご参加いただく皆様に平和を考える機会をご提供いたします。
「長野灯明まつり」は、善光寺のまちである「信都・長野」オリンピック開催都市である「国際都市・NAGANO」この2つを融合した「まつり」として、世界平和という「ゆめの灯り」を灯していきます。
そして、現在でも世界各地で行われている戦争やテロに対し、我々はオリンピックの精神でもある「平和」の精神を繋ぐ都市として、長野の未来、日本の未来、そして世界の未来へ繋ぐためにも地域に住まう若者たちにこの精神を広く伝えていく必要があると考えます。長野灯明まつりを通じて、平和の灯りを未来へ繋ぐべく第十五回も盛大に開催します。

実施する事業
①「善光寺・五色のライトアップ」
 市照明から建築照明、ライトパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナー石井幹子先生をはじめとした有名デザイナーの皆様の企画・デザインで「国宝・善光寺」をライトアップ。
②「ゆめ灯り絵展」
 「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、小学生から大人まで想い想いのデザインをした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベント。
③「宿坊・ゆめ茶会」
 善光寺の各宿坊による長野灯明まつりオリジナルの企画・サービスのご提供。
④「ゆめ演奏会」
 善光寺本堂に特設ステージを組み、連日アーティストを入れ替えて演奏会を実施。ライトアップをした幻想的な善光寺本堂の下で聴く音楽で来場者をおもてなしします。
⑤「スキー&スノボ ワンメイクジャンプ台」
 オリンピックにちなんだスポーツの祭典。中央通りにジャンプ台を設置し、プロのスキーヤースノーボーダーによるジャンプの競演。街中で行うジャンプで来場者を魅了します。
⑥「長野灯明まつり謎解き周遊イベント」
 オリンピックと善光寺にまつわる謎を各箇所に散りばめられたヒントを頼りに謎を解いていきます。正解者には先着でオリジナルのピンバッジをプレゼントします。
⑦灯明バル
 長野駅前、権堂地区の飲食店と協力をして、灯明まつりオリジナルのメニューやサービスを提供し、来場者のおもてなしをします。事前に販売されるチケットを購入するとお得です。


十五年前から行われていたそうですが、当方、存じませんでした。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている仁王門もライトアップされるとのこと。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな銅像や壁画や建築が出来ても喜びも悲しみもしない国民はあはれな美の冷感症患者である。

散文「展覧会偏重の弊」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

直接には、文部省主催の展覧会シーズンの秋だけ、美術が話題になることへの警句です。

ラジオ、テレビの放送情報です。

まずは長野県限定ですが、光太郎詩の朗読があります。 

ゆる〜り信州9584f024

NHKラジオ第一長野 2018年1月10日(水) 16:55~18:00

ワンダフル信州「信州を読む」 読み手:関根太朗アナウンサー
作品:高村光太郎『智恵子抄』より「レモン哀歌」「狂奔する牛」「人類の泉」

「Wonderful 信州!」は、この1年、NHK長野放送局が取り組むテーマです。 信州には 、雄大な自然をはじめ、歴史や文化、地域に暮らす人々など、魅力的で誇るべきものが たくさんあります。 そうした「Wonderful(ワンダフル)」なものを、県内だけでなく、全国、 世界に向けて発信していこうというのが、 この取り組みの目指すところです。

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というわけで、信州を見直し、その魅力を発信する活動をなさっているそうで、その一環として、「信州を読む」と題し、信州にゆかりのある文学作品の朗読がオンエアされます。

先月、長野放送局のロビーで公開収録が行われたそうです。リスナーの方々からのリクエストも受け付け、朗読作品が選ばれたとのこと。光太郎にもリクエストを寄せていただき、ありがたいかぎりです。

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光太郎智恵子と信州といえば、大正2年(1913)、婚前旅行で上高地を訪れたことが有名です。今回朗読される「狂奔する牛」(大正14年=1925)は、のちにその時のことを謳った詩です。「人類の泉」(大正2年=1913)は、上高地を訪れる直前の作で、智恵子への愛を高らかにうたいあげたもの。そして智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。有名なフレーズ「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつたの「山巓」は、上高地の山々を指すと思われます。

他に、津村信夫『戸隠の絵本』より(1/9)、はまみつを『わが母の肖像』より(1/11)、宮口しづえ『弟』(1/12といったラインナップで、同局アナウンサーの方以外にも、軽井沢朗読館長・青木裕子さんも朗読なさるそうです。

こうした取り組み、全国の放送局でもっと広まってほしいものです。


もう1件、光太郎に触れられるかどうか微妙ですが、テレビ放映情報です。 

美しい日本に出会う旅▼初夢温泉 名湯の旅~日本一の岩風呂とご利益いっぱい湯めぐり

BS-TBS 2018年1月10日(水) 19時00分~19時54分

高橋一生さんが案内する、2018年選りすぐり!4つの名湯旅。長野・渋温泉ではご利益抜群の九湯めぐりと、あの映画を思わせる、木造4階建ての湯宿へ。宿の看板猫は幸運のしるしでした。関西屈指の名湯・城崎では、お坊さんが教える入湯作法に、松葉蟹づくしを堪能。九州では神様が舞い降りた地、霧島へ。ありがたい地に湧いたありがたい湯を、茅葺き屋根の隠れ宿でひたります。日本一の深さを誇る岩手の湯は、宮沢賢治が愛した湯でした。

旅の案内人 高橋一生、瀬戸康史、井上芳雄

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「日本一の深さを誇る岩手の湯」は、鉛温泉さん。花巻南温泉峡に位置し、賢治の「なめとこ山の熊」に登場、光太郎も泊まりました。深さ約130センチの「白猿の湯」が有名です。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

生命の戦慄が無いものは、如何なる時にもいけない。此だけは動かせない。
散文「雑記帳より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

彫刻に関しての発言ですが、「生命」を重視する姿勢は、すべての光太郎芸術に当てはまります。

昨日まで1泊2日で甲信地域を歩いておりました。例によってレポートいたします。

まずは一昨日。それがメインの目的でしたが、一昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。

たまたま同級生の結婚披露宴が甲府で行われるというので、娘を愛車に乗せ、正午頃、千葉県の自宅兼事務所を出発。甲府南ICで中央高速を下り、甲府駅近くで娘を下ろして、甲府昭和ICから再び中央高速、岡谷ジャンクションから長野道へ。長野道を下りた頃には日が暮れて参りました。北アルプスの山々はすでに冠雪。気温は2℃ほどでした。

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美術館近くのビジネスホテルにチェックインし、館に到着。教会風の煉瓦建築・碌山館のたたずまいが幻想的でした。

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すでに閉館時間は過ぎており、展示棟は無人です。窓の外から光太郎の作品群を拝見。

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事務室で、ナビゲーター役の学芸員・武井敏氏と打ち合わせをし、いざ、会場へ。会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所のみの(平常時は休憩コーナー的な)使用法になったそうです。

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「ストーブを囲んで」のタイトルにも謳われている、薪ストーブ。大活躍です。

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午後6時、開会。

武井学芸員の作成したレジュメを元に、守衛、碌山、それぞれの生い立ちや彫刻家を志した動機、渡米の顛末、そして知り合ってからの交友などについて、二人で語りました。

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当方も資料編的にレジュメを作成。

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今回、新たに光太郎が日記や書簡を除く文筆作品(対談を含む)で、守衛に触れたものの一覧表を作ってみました。明治末、一足先に留学から帰国した守衛にあてた書簡形式で書かれたものに始まり、守衛が文展に作品を出品しそれを激賞したもの、明治43年(1910)の守衛の死に際しての追悼文的なもの、そしてその後も光太郎最晩年まで、生涯、折に触れて守衛の名を出し、その早すぎる死を悼んでいます。

それらの中から、そして、光太郎の親友だった作家・水野葉舟による二人の交友の描写も抜粋しておきました。

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それから、守衛の死に際し、光太郎がやはり親友だったバーナード・リーチに送った英文の葉書。

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddnly. I am here by his tonb. You cannot imagine how I am sad !  Apile 26th
(私の友人の荻原氏が突然亡くなった。私は彼の墓のそばに来ている。君には私がどれほど悲しんでいるか想像できまい! 4月26日)

達筆だった光太郎が、殴り書きのような荒々しい筆跡です。それだけ悲しみの深さが解ります。

さらに、光太郎最晩年の昭和29年(1954)、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに建てられた守衛の「坑夫」のために書いた題字。50年近くが経っても、光太郎の守衛に対する親愛の情に変化がなかったことが伺われます。

当方が存じなかった話も武井学芸員から出てきて、勉強させていただきました。守衛の「坑夫」は、パリ滞在中の粘土原型を光太郎が見、ぜひ日本に持ち帰るようにと勧め、残ったということは存じていましたが、絶作の「女」も、モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところをやはり光太郎が残すように進言したそうです。

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最近、一人での講演が多く、対談形式で行ったのは久しぶりでしたが、こちらの方が楽だな、という感じでした。武井学芸員がしゃべっている間に、次に何を言おうかと考えがまとめられますし、予定にはなかった方向転換も容易でした。武井学芸員のリードがみごとだったということもありますが。

対談の筆録は、来春刊行の同館館報に掲載される予定です。また改めてご紹介します。

終了後、事務棟の和室でストーブならぬ炬燵を囲んで、荻原家の方、館の皆さん、それから姉妹館的な東京新宿中村屋サロン美術館さんの方々10名あまりで打ち上げ。地元で取れた食材を使った料理に舌鼓。ありがたや。

宿に戻り、大浴場で疲れを癒し、就寝。

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翌朝、宿から見えた北アルプスの山々です。

一路、甲州へ。山梨県内の光太郎ゆかりの地を3ヶ所廻りました。碌山美術館さんに行く際にはいつもそうしていますが、甲信地域の光太郎ゆかりの人物に関わる施設、光太郎が訪れた場所などに足を運ぶことにしています。今回は、夕方、結婚披露宴出席を終える娘を拾う都合がありますので、山梨県内を攻めました(攻めてどうする(笑))。

そのあたりはまた明日以降。


【折々のことば・光太郎】

人間は感覚の力に依るの外、生の強度な充実を得る道はない。感覚の存在が「自己」の存在である。感覚は自然の生んだものである。あらゆる人間の思索は此の感覚の上に立つてゐる。感覚は実在である。思索は実在の影である。
散文「静物画の新意義」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

思索より、まずは自分の五感で得た感覚から入る造形作家の本質がよく表されています。これが書かれた前年に亡くなった守衛も、この部分を読んだら「そうそう」と首肯したのではないでしょうか。

彫刻界では唯一といっていい、光太郎同年配の親友・碌山荻原守衛の個人美術館、信州安曇野の碌山美術館さんで来週開催される美術講座です。

美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る

期    日 : 2017年12月2日(土)
会    場 : 碌山美術館  グズベリーハウス 長野県安曇野市穂高5095-1
時    間 : 18:00~19:30
料    金 : 無料

明治末、日本の彫刻に新しい展開をもたらした荻原守衛。明治、大正、昭和と彫刻家の憧れの的であり続けた高村光太郎。高村光太郎は「この世で荻原守衛に遭った深い因縁に感謝している」と述べています。そんな二人の交友を振り返ります!

パネリスト  : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
ナビゲーター :  武井敏 (碌山美術館学芸員)

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というわけで、同館学芸員の武井敏氏と、当方による対談です。

会場は館内のグズベリーハウス。毎年、4月22日の碌山忌の最後に「碌山を偲ぶ会」が開催される棟です。

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屋根の中央に見える煙突は棟内にある大きな薪ストーブにつながっており、このストーブがグズベリーハウスの象徴的存在。そのため、毎年この時期に行われる講座に「ストーブを囲んで」という題名が付されています。現地ではもう既に初雪が観測されていますので、光太郎とは真逆に寒さに弱い当方、ストーブが無ければ活動不能に陥ります(笑)。

同館では昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」、今年は夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を開催して下さり、それぞれお手伝いさせていただきました。そうしたご縁で今回もお声がけ下さいまして、ありがたい限りです。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

生命の大河ながれてやまず、 一切の矛盾と逆と無駄と悪を容れて ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。 時間の果つるところ即ちねはん。 ねはんは無窮の奥にあり、 またここに在り、 生命の大河この世に二なく美しく、 一切の「物」ことごとく光る。

詩「生命の大河」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

002昨日ご紹介した「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩篇です。青年期から追い求め続けた「命(ラ・ヴィ)」、「美ならざるなし」「うつくしきものみつ」、そうした考え方の集大成といえるでしょう。

「ねはん」は「涅槃」。仏教でいうところの生死を超えた悟りの世界、さらには「極楽」とほぼ同義に使われる場合もあります。余命3ヶ月半の光太郎、既にその境地に至っていたようです。

それでもその最期まで書の展覧会開催に意欲を燃やし、亡くなる5日前まで散文の原稿を断続的に書き続けていました。

そしてその死の3日前には、その生涯の歩みを草野心平が編んだ『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを校閲、「That's the endか」とつぶやいたそうです。

その終焉は昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を作り上げた、中野の貸しアトリエでのことでした。前日から東京は季節外れの大雪にすっぽり包まれ、終生、「冬」を愛した光太郎の最期を飾りました。

一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊から。

舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も

 毎年夏から秋にかけて大勢の観光客でにぎわ001う長野県・上高地。1933(昭和8)年にバスの乗り入れが始まるまで、旅行者や登山客は、徒歩で徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入った。日本アルプスの魅力を初めて国内外に広く知らせたウェストン(1861~1940)の著書など、多くの紀行文に登場する峠を訪ねた。【関雄輔】

 「峠の最高点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで、円い形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山の風景とは、全くその趣を異にしている」
 
 英国出身のウェストンは宣教師として日本を訪れ、1891年(明治24年)の夏、徳本峠を経て槍ケ岳を目指した。悪天で断念したが翌年、登頂に成功。その後も繰り返し徳本峠を越え、周辺の魅力を「日本アルプスの登山と探検」などの著書に記した。ウェストンだけでなく、上高地を舞台に「河童(かっぱ)」を書いた芥川龍之介や、詩人の高村光太郎もこの峠を歩いたという。
 
 今月1日の早朝、松本市の安曇支所前でバスを降り、徳本峠への道を歩き始めた。上高地までは約20キロ。2時間ほど歩くと、道ばたに炭焼き窯の跡があった。上高地が観光地化される以前から、この峠道は狩猟や炭焼きなどに従事する人々の生活の道だったのだろう。今は利用する登山客も少なく、ハイシーズンの北アルプスとは思えない静かな山道が気持ちいい。
 
 さらに歩くこと1時間、現在は営業休止中の岩魚留(いわなどめ)小屋にたどり着いた。道沿いの沢が、岩魚を足止めするほどの急流に変わることからこの名が付いたという。

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 小屋の前で休憩中、この日初めて他の登山者と出会った。神奈川県藤沢市から来たという小川武士さん(53)。「多くの人が行き来した歴史あるルートで、以前から
一度歩いてみたいと思っていた」。互いの疲れをいたわり合い、峠への急坂に取りかかった。
 
 息を切らしながら3時間ほど登ると、峠の広場に出た。標高2135メートル。あいにくの曇り空で、ウェストンが「日本で一番雄大な眺望」と賞した穂高岳の姿は見えない。翌日に期待をかけ、今夜の宿である徳本峠小屋に荷物を下ろした。
 
 1923(大正12)年に営業を始めた徳本峠小屋は、2010年に建てられた新館に隣接して旧館がそのまま残されている。国の登録有形文化財に指定されており、内部の柱や梁(はり)は建てられた当時のままという。
 古い落書きがいくつも残されていた。ほとんどが名前と日付で、特に多いのが「昭和二十年八月」。「八日」もあれば「二十日」もある。終戦の前後、彼らはどんな思いでここに来たのだろう。
 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴だった。峠の木々004の間から穂高岳が見えた。峠から尾根伝いに霞沢岳(2646メートル)まで往復し、昼過ぎに上高地へと下山。梓川沿いの散策路は大勢の観光客でにぎわっていた。
 大正時代末から昭和の初めにかけ、上高地は観光地として大きく姿を変えた。商店や旅館が増え、バス路線の開通で峠道は使われなくなった。豊かな自然は今も変わらないが、人の流れは100年あまりで大きく変化した。英語や中国語の会話が聞こえてくる現代の上高地を歩きながら、ウェストンらが歩いた往時の風景を思った。

徳本峠登山ルート(長野県松本市)
アクセス
 徳本峠へは、安曇支所前から徒歩で約7時間半。峠から上高地への下りは約1時間半。霞沢岳へは峠から往復約7時間。所要時間は個人差が大きいため要注意。徳本峠小屋(090・2767・2545)は予約が必要。


記事にある、光太郎が徳本峠を越えて上高地に入ったのは、大正2年(1913)の夏。あとから結婚前の智恵子も追いかけてきて合流、1ヶ月ほどを過ごしました。智恵子も健脚で、徳本峠を歩いて越えました。光太郎は上高地で描いた油絵を、この年開かれた生活社展に出品しています。

上高地についてはこちら。



白状いたしますと、当方、上高地には行ったことがありません。いずれ、とは思っております。


【折々のことば・光太郎】

夫人一生を美に貫く。 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず、 夫人おんみづからめでさせ給いし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ。

詩「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎の本格的な文学活動の出発点といえる新詩社を主宰していた与謝野鉄幹・晶子夫妻。いわば光太郎の師にあたります。

その晶子が亡くなったのは、昭和17年(1942)5月29日。晶子は光太郎より5歳年長でしたので、数え65歳。早いといえば早い逝去でした。光太郎のこの詩、智恵子へのそれとはまた趣を異にした、味わい深い挽歌です。

しかし、こう言っては何ですが、晶子はこの時点で亡くなったのは、ある意味、幸せだったかも知れません。

かつて日露戦争の際に、出生する弟に「君死に給ふことなかれ」と謳いかけた晶子も、この年にはこんな短歌を詠んでいます。

  戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
  水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

「四郎」は「四男」の意で、大正2年(1913)生まれのアウギユスト(本名です。ロダンのファーストネームから採りました)。

この時期、ほとんどすべての文学者は、こうした戦意高揚の作品を書くことが求められていました。変な言い方ですが、晶子ももう少し生きながらえてしまっていたら、この手の歌をもっとたくさん遺してしまうことになったでしょう。そうならなかったのがせめてもの救い、というわけです。

新刊、といっても気づくのが遅れ、5ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

紀行とエッセーで読む 作家の山旅

2017年2月17日 山と渓谷社編刊 ヤマケイ文庫 定価930円+税

明治、大正、昭和の著名な文学者が山に登り、あるいは山を望み著したエッセー、紀行、詩歌を紹介するアンソロジー。だれもが知っている著名な文学者も山に憧れ、山に登り、作品を残していた。意外な作家の登山紀行やエッセーを集め、文学者の目に映った山と自然から、新たな山の魅力を探り、いままで紹介されることの少なかった山を愛した文学者の姿を紹介する。

目次
 小泉八雲 富士山(抄) 落合貞三郎訳000
 幸田露伴 穂高岳
 田山花袋 山水小記(抄
 河東碧梧桐 登山は冒険なり
 伊藤左千夫 信州数日(抄
 高浜虚子 富士登山
 河井酔茗 武甲山に登る
 島木赤彦 女子霧ヶ峰登山記
 窪田空穂 烏帽子岳の頂上
 与謝野晶子 高きヘ憧れる心
 正宗白鳥 登山趣味
 永井荷風 夕陽 附 富士眺望
 (『日和下駄』第十一)
 斎藤茂吉 蔵王山/故郷。瀬上。吾妻山
 志賀直哉 赤城にて或日
 高村光太郎 山/狂奔する牛/岩手山の肩
 竹久夢二 山の話
 飯田蛇笏 山岳と俳句
 若山牧水 或る旅と絵葉書001
 石川啄木 一握の砂より
 谷崎潤一郎 旅のいろいろ
 萩原朔太郎 山に登る/山頂
 折口信夫 古事記の空 古事記
 室生犀星 冠松次郎氏におくる詩
 宇野浩二 それからそれ 書斎山岳文断片
 芥川龍之介 槍ヶ岳紀行
 佐藤春夫 戸隠
 堀口大學 山腹の暁/富士山 この山
 水原秋桜子 残雪(抄
 結城哀草果 蔵王山ほか
 大佛次郎 山と私
 井伏鱒二 新宿(抄
 川端康成 神津牧場行(抄)
 尾崎一雄 岩壁
 三好達治 新雪遠望
 小林秀雄 エヴェレスト
 中島健蔵 美ヶ原 ・深田久彌に・
 草野心平 鬼色の夜のなかで
 林芙美子 戸隠山
 堀辰雄 雪斑(抄)
 加藤楸邨 秋の上高地
 臼井吉見 上高地の大将
 坂口安吾 日本の山と文学
 亀井勝一郎 八ガ岳登山記
 太宰治 富士に就いて
 津村信夫 戸隠姫/戸隠びと
 梅崎春生 八ガ岳に追いかえされる
 辻邦生 雲にうそぶく槍穂高
 北杜夫 山登りのこと
 解説 大森久雄


というわけで、光太郎作品は詩が三篇。

「山」(大正2年=1913)は、この年、智恵子との婚前旅行で1ヶ月滞在した上高地での感興、激情を謳ったもの。その12年後に書かれた「狂奔する牛」(同14年=1925)も、上高地旅行に題材を採っています。「岩手山の肩」は、戦後の花巻郊外太田村での作。昭和23年(1948)元日の『新岩手日報』紙面を飾りました。さらに約1ページを費やす光太郎のプロフィール欄には、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から、上高地に関わる部分の一部が抜粋されています。

他に与謝野晶子、佐藤春夫、草野心平ら、光太郎と親しく交わった面々の作も収められています。

編集にも関わった大森久雄氏が、解説の中で曰く、「いきなり手前味噌の言い方で恐縮だが、この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。山の文章のアンソロジーはいろいろ刊行されているが、いずれも山の文人、というか、実際に活発に山登りをしているひとの書いた文章が主体で、いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのものは、地域を限ってのものを除けば見当たらない。

なるほど、そういうコンセプトか、と思いました。

ただ、「この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。」というところに違和感を覚え、書架から一冊の書籍を取り出しました。

同じ山と渓谷社さんから、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『岳(たけ)』。やはり光太郎作品(短歌12首)が掲載されているので、20年ほど前に購入したものです。

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これも同じようなコンセプトだったよな、と思いながら、久しぶりに開いてみました。すると、確かに光太郎ら文人の作品が多く採録されていますが、それと同程度に各方面の学者が書いたものが多く、また、バリバリの登山家の作品も含まれていました。また、美術家や造園家のものも。下記画像、クリックで拡大します。

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そういう意味では、「いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのもの」ではなかったかと、納得しました。それにしても、こちらの執筆陣も錚々たるメンバーです。

時折古書市場に出ています。併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

為して争はぬ事の出来る世は来ないか ああそれは遠い未来の文化の世だらう 人の世の波瀾は乗り切るのみだ 黄河の水もまだ幾度か干戈の影を映すがいい
詩「老耼、道を行く」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

「老耼」は春秋戦国時代の思想家・老子です。この詩は老子の独白スタイルで書かれています。「人の世の波瀾」、「干戈の影」、いずれも日中戦争を意識していることは言わずもがなです。

一昨日、塩尻市古田晁記念館さんを後に、安曇野市の碌山美術館さんを目指しました。

途中の車窓からの風景。北アルプスの山々です。

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周辺に観光に訪れている方も多かったようで、意外と車が混雑していましたが、午後3時近くなって到着。

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まずは一通り、展示を拝見。

最初は、碌山荻原守衛に敬意を表し、本館であるレンガ造りの碌山館へ。重要文化財の「女」、光太郎がパリで粘土原型を見て、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた「坑夫」など、守衛の彫刻作品が並んでいます。

裏手には光太郎詩碑。傍らに植えてくださった連翹がまだきれいに咲いていました。

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種類によっては、桜もまだ残っていました。

杜江館では、守衛の絵画がずらっと並んでいました。自分では意外なところでしたが、守衛の絵画をまとめて観たのは初めてだったかもしれません。

第一展示棟には、光太郎や中原悌二郎、戸張孤雁ら、周辺人物の作品。光太郎の作品はいずれもブロンズですが、数が増えていました。ありがたいことです。

第二展示棟は、春季企画展 「美の概念 -具象の中の抽象性-」展を開催中。石井鶴三、喜多武四郎、基俊太郎といった、後の世代の彫刻家の作品が並んでいました。

午後3時半から、杜江館2階で研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」が開催されました。

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3名の方から発表がありました。まずは同館学芸員の濱田卓二氏。文献から推定される、守衛のロダン訪問の時期、内容等について。続いて、碌山友の会会長を務められている幅谷啓子氏から、近代日本でのロダン受容史について。最後は、地元ご出身の彫刻家・酒井良氏が、実作者の立場から。それぞれ、光太郎にも触れる発表をしていただき、興味深く拝聴しました。

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午後6時からは、グズベリーハウスにおいて、「碌山を偲ぶ会」。30名ほどが集まりました。

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しばらく前から恒例となっている、光太郎詩「荻原守衛」の全員での朗読に続き、献杯。ビュッフェ形式で(連翹忌に倣ってだそうです)料理をいただきつつ、スピーチに花を咲かせ、交流を深めました。参会の皆様の、守衛への熱い敬愛の思いが感じられました。

名残を惜しみつつ、午後8時に閉会。一路、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

光太郎ともども、日本近代彫刻の礎を作った碌山荻原守衛。その業績が、末永く語り継がれて行ってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

人情ぽいものよ、 願はくはおれの彫刻から去れ。 無ざんなまでに平然たるもの、 それが欲しい。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ロダンへの崇敬から自らの彫刻の道筋を定めた光太郎ですが、単なる模倣に留まることを良しとしませんでした。また、師と仰ぐロダンの作品も、そのすべてを無条件に良しとはしませんでした。特に引っかかったのが、「人情ぽいもの」。いわくありげなポーズなどを指すのではないかと思われます。

昨日は、日帰りで信州に行っておりました。目的は、安曇野の碌山美術館さんで開催された、第107回碌山忌。光太郎の朋友・碌山荻原守衛の忌日の集いでした。

同館にお邪魔する際には、同じ方向にある、光太郎ゆかりの人物関わりの文学館や美術館にも立ち寄ることにしておりまして、昨日は、塩尻市古田晁記念館さんを訪れました。

朝、7時30分に愛車を駆って自宅兼事務所を出発。そちら方面に行く際、これまでは東関道、首都高、中央道、長野道と乗り継ぐパターンでしたが、少し違うルートを通ってみました。土曜日でしたので、首都高から中央道に入ってしばらくは渋滞していることが予想されましたし、先月、圏央道の北関東部分がすべてつながりましたので、そちらを走ってみました。

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距離的には大回りになりますが、首都高から中央道に入ってしばらくの渋滞を考えると、時間的にはそう変わらないかな、と思った次第です。同じくらいの時間なら、距離が長くても渋滞していない方を採りたいと思いました。案の定、八王子JCTから中央道に入り、山梨県に入るまでは順調でした。ところが、勝沼インター手前で、大型トラックが炎上したとのことで、大月あたりから15㎞ほど渋滞、通過に1時間半くらいかかりました。

遠出の際に時折あるのですが、こうなると手も足も出ません。改めて自分がそういう原因を作らないよう、運転には注意しようと思いました。

双葉SAで昼食後、岡谷JCTから長野道に入り、目指す古田晃記念館さん最寄りの塩尻インターで下車。まだ桜が満開でしたし、趣のある大きな神社などもあって、余裕があればぶらぶら散策したかったのですが、予想外の時間ロスがあったため、そうもいきませんで、残念でした。

ほどなく古田晃記念館さんに到着。

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『高村光太郎全集』を刊行した、筑摩書房さんの創業者・古田晃の旧宅です。昭和初期の建築だそうですが、国の登録有形文化財の指定を受けています。

『高村光太郎全集』は、光太郎没後の刊行ですが、生前から光太郎の選詩集的なものが同社から刊行されています。昭和28年(1953)には、中山義秀解説による『道程・典型 現代日本名詩選』。同29年(1954)には『現代日本文学全集24 高村光太郎集 萩原朔太郎集 宮澤賢治集』。また、『展望』など、同社刊行の雑誌に光太郎はたびたび寄稿していました。

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そうした関係があり、古田はたびたび光太郎終焉の地・中野のアトリエを訪れ、光太郎日記にその名が記されています。また、光太郎と交流の深かった、当会の祖・草野心平とはさらに縁が深く、心平が経営していた居酒屋「火の車」の常連で、心平や、「火の車」の板前だった橋本千代吉の回想に、その破天荒な酒豪ぶりが詳述されています。

さて、記念館。

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土蔵の1階部分が展示スペースになっていました。古田自身の書き残したもの、交流の深かった人物からの書簡や原稿、そしてそれぞれの肖像写真などが展示されています。

太宰治、川端康成、宮本百合子、島崎藤村、井伏鱒二、渡辺一夫などなど、錚々たるメンバーです。


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当会の祖・草野心平の油絵や原稿、書簡なども。

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太宰の葬儀に際し、古田が読んだ弔辞の原稿。

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高田博厚作の光太郎胸像。

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同一の型から取ったものは、岩手の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の豊科近代美術館さんなどに収蔵、展示されています。

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こちらのものは、古田が社長室に飾っていたものだそうで、そのエピソードは存じませんでした。

もしかすると、光太郎からの書簡や書の揮毫などがあるかと期待していたのですが、それはありませんでした。

二階は三間続きの座敷。

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窓から見える、母屋へと続く渡り廊下。

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母屋の方が低い位置にあり、斜めになっています。した003がって、窓は平行四辺形。時代はまるで違いますが、奈良の春日大社さんの回廊などもそうなっています。匠の技ですね。

こちらは土・日・祝日のみの開館。ただし雪深い冬期は閉鎖です。ありがたいことに入館無料。ぜひ足をお運びください。


こちらを後に、再び愛車を駆って、安曇野碌山美術館さんへ。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

どうせ死ぬ首の中に死なないものがある。 どうせ死ぬものがそのまま、 死なないものに見えてくる。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ここでの「首」は、光太郎が肖像彫刻としてあつかった人々のことでしょう。彫刻作品になることで、永遠の命が吹き込まれ、死なない首への変貌がおこります。古田晃記念館さんで見た光太郎の首、それから明日レポートしますが、碌山美術館さんで見たさまざまな首から、そう思いました。

まずはすでに始まっている展覧会の情報から。

コレクション選 新収蔵品展 ひびき合うコレクション【前期】

会 期 : 2017年4月8日(土)~5月28日(日)
会 場 : 札幌芸術の森美術館 札幌市南区芸術の森2丁目75番地
時 間 : 9:45~17:00
料 金 : 無料
休館日 : 月曜日

 札幌芸術の森美術館では、1990年の開館以来、寄贈や購入を通じてコレクションを着実に充実させ、現在では1,551点の作品を所蔵するにいたっています。そのコレクションをふりかえれば、彫刻、油彩、日本画、水彩、素描、版画、写真、工芸、写真、部族芸術と幅広いジャンルの作品を収集しています。なかでも、日本の近代彫刻をたどることのできる彫刻のコレクション、そして札幌出身の個人コレクターの寄贈による北海道絵画史を一望できるコレクションは特筆に値します。こうしたコレクションは、絶え間ない作品収集によって形作られています。美術館にとってコレクションはかけがえのない基礎資源であり、また美術館の歴史はコレクションを形成してきた歴史であるともいえるでしょう。
 
 これまで「札幌芸術の森美術館コレクション選」では、当館が収蔵する作品を継続的にご紹介してきましたが、その一方で、近年収蔵された作品をまとめて展示する機会はほとんどありませんでした。本展では、近年新しく収蔵された作品を中心に、また、師と弟子、盟友との切磋琢磨などが感じられる新収蔵作品とつながりの深い既存の収蔵作品とあわせて展示いたします。コレクションの共演をお楽しみください。

【出品作品】
 1. 鈴木武右衛門《シルバーペンダントのAisha》 砂岩、赤御影石、銀 2011年
 2. 佐藤忠良《智恵子抄のオリエ》 ブロンズ 1971年 [既収蔵作品]
 3. 笠井誠一《ボトルとミルク缶のある風景》 油彩、キャンヴァス 2012年
 4. 笠井誠一《ふいごのある卓上静物》 油彩、キャンヴァス 2008年
 5. 吉田芳夫《演技者Y(本田明二氏)》 ブロンズ 1982年
 6. 本田明二《けものを背負う男》 木(カツラ) 1982年 [既収蔵作品]
 7. 阿部国利《体内のリズム》 水彩、素描 2002年
 8. 阿部国利《崩壊するマスク》 油彩、キャンヴァス 1995年
 9. 矢崎勝美《愛のシリーズ2》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年
 10.矢崎勝美《愛のシリーズ3》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年


館蔵品のコレクション展です。収蔵品が多い館では、こういった形でローテーション的に展示品の入れ替えを行うことがよくあります。同館では光太郎の「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)を所蔵しており、それらもこうした形で出す機会があるのだと思われます。

今回、当方の注目は、光太郎を敬愛していた彫刻家、佐藤忠良の「智恵子抄のオリエ」。

「オリエ」は佐藤の息女で、女優の佐藤オリエさんです。佐藤はたびたびオリエさんをモデルに彫刻を制作していました。


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左はずばり「オリエ」(昭和24年=1949)、右は「冬のオリエ」(同41年=1966)。

「智恵子抄の」というのは、昭和45年(1970)に、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、オリエさんが智恵子役を演じたためです。ちなみに光太郎役は故・木村功さんでした。

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佐藤としては、自分が敬愛していた光太郎の妻をお嬢さんが演じたということで、感慨深いものがあったのではないでしょうか。

首都圏であれば観に行きたいところですが……。


美術館がらみでもう一点。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を偲ぶ会です。 

第107回碌山忌 

期 日 : 2017年4月22日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 10:30~
料 金 : 無料 (18:00からの「碌山を偲ぶ会」のみ参加費1,000円)
日 程 :
 10:30~     ミュージアム・トーク(碌山館)
 11:00~     墓参
 13:00~     ミュージアム・トーク(企画展・第二展示棟) 
 13:30~15:00 碌山忌コンサート(グズベリーハウス)
 15:30~17:15 研究発表フォーラム・ディスカッション 
          「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」(杜江館)
 18:00~     碌山を偲ぶ会(グズベリーハウス)

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昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催してくださり、関連行事の講演会では当方に講師を務めさせてくださった碌山美術館さんの主催行事です。

毎年行っていたのですが、昨年は地域の会議と重なってしまい、欠礼。今年からまたお邪魔いたします。同館では、7/1(土)~9/3(日)には、夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」、12/2(土)に美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」を開催してくださいますので、情報収集もかねていって参ります。

また、ネット上で詳細な情報が出ていないので全容が不明ですが、光太郎とも関わるはずですので、研究発表フォーラム・ディスカッションが非常に興味深く感じております。


それぞれお近くの方、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

護る者から詩は逃げて、 振りはらふ者に詩はまつはる。 こんなあまのじやくにはお構無(かまひな)しに、 おれはどしどし道をゆかう。

詩「「詩」」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

後に光太郎は、「詩は日記のようなもの」と発言しています。つまりは原稿用紙に向かって呻吟しながら作るものではなく、自然にできてしまうということでしょう。「振りはらふ者に詩はまつはる。」とは、そうした意味だと思われます。

だからといって、光太郎の詩が稚拙で無技巧というわけでもなく、発表する詩に対しては、かなり推敲を施した跡がみられます。


信州安曇野にある、光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さんから、館報第37号が発行されました。

館のご厚意で、4/2の第61回連翹忌にて、ご参会の皆様に無料で配布するため、昨日、当方自宅兼事務所に宅急便でどさっと届きまして、早速拝読。

毎号充実の内容で(今号も全60ページ)、感心しきりなのですが、特に今回は光太郎がらみの記事が多く、ありがたいかぎりでした。

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いきなり表紙が光太郎のブロンズ「薄命児頭部」(明治38年=1905)。同館顧問の仁科惇氏の解説「高村光太郎の詩魂を見る」という解説の短文がついています。

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目玉の記事は、「新資料紹介 荻原守衛書簡発見報告」。学芸員の武井敏氏の筆になります。

昨秋、当方の手元に送られてきた古書店の合同目録に、画家の白瀧幾之助にあてた荻原守衛の書簡が掲載されており、同館に情報を提供したところ、同館で購入の運びとなりました。同時に販売されていた光太郎から白瀧宛の書簡は当方が購入しました。

さらに同館では光太郎、守衛と親しかった戸張孤雁から白瀧宛の書簡も購入、その他、個人や台東区立書道博物館さん蔵の、これまで知られていなかった守衛書簡の情報も得(そちらの情報も一部、当方が提供しました)、それについても記述されています。

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このうち、明治40年(1907)8月2日消印で、パリ在住だった守衛が訪れたロンドンから送られた絵葉書には、光太郎の名も記されていました。当時、光太郎もロンドン在住でしたが、守衛はロンドンに着いたばかりで「高村兄にはまだ会はぬ」としています。この後、二人は再会し、一緒に大英博物館を訪れるなどしています。

また、従来、「碌山」の号の使用は、この年の秋頃からと推定されていたとのことですが、8月の時点で既に使われていたことも判明したそうです。


その他、同館五十嵐久雄館長の「ロダン没後百年に思う」、昨年12月に同館で開催された「美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛 パリ時代の交友」を語る」の記録でも、光太郎に触れてくださっています。


そして巻末に、昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録。9ページもいただいてしまいまして、恐縮です。
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筆記録といいながら、実際にはかなり手を入れさせていただきました。というのは、当初、スタッフの方が録音された当方の講演をそのまま文字に起こしたものが送られてきたのですが、読んでみて「こりゃだめだ」(笑)。自分は普段、こんな滅茶苦茶なしゃべり方をしているのか、とショックでした。

とにかく、ずらずらずらずらと区切れが無く、主語述語ははっきりぜず、「てにをは」も滅茶苦茶(笑)。内容的にも、時間配分を誤り、前半はどうでもいいような余談ばかりで、後半に配した本題の「乙女の像」関連が駆け足の消化不良となっていました。

そこで、徹底的に手を入れて、「こういうことをしゃべりたかったんだよ」という形にまとめさせていただきました。


さらに最終ページには、同館の来年度の予定が載っていました。またまた光太郎関連をいろいろ取り上げてくださるとのことで、感謝です。

7/1(土)~9/3(日) 夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」

12/2(土) 美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」

それぞれまた近くなりましたら詳しくご紹介いたします。


さて、館報第37号、4/2の連翹忌ご参会の方々には、館のご厚意で無料配布いたします。その他の皆様、ご入用とあらば、同館までお問い合わせください。


【折々のことば・光太郎】

雷獣は何処に居る。 雷獣は天に居る。風の生れる処に居る。 山に轟くハツパの音の中に居る。 弾道を描く砲弾の中に居る。 鼠花火の中に居る。 牡丹の中に、柳の中に、薄の中に居る。 若い女の糸切歯のさきに居る。 さうして、どうかすると、 ほんとの詩人の額の皺の中に居る。

詩「雷獣」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一編。「雷獣」は落雷とともに現れるという、架空の妖怪です。詩「清廉」では、同じく架空の妖怪「かまいたち」をモチーフとしていましたが、こうしたモンスター系も、光太郎にとっては「猛獣」の範疇に入るものでした。

「牡丹」「柳」「薄(すすき)」は、線香花火の様態変化を表します。その他様々なシチュエーションで、激しく火花や轟音を発する「雷獣」。「ほんとの詩人」でありたい自分の額にもいてほしい、というところでしょうか。

昨夜、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽんトレッキング100」を拝見しました。

昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映され、そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

昨日は「「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」。

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かつてバスがなかった時代、麓の新島々から上高地までは、徒歩で登るしかなかったわけで、そのルートを2日かけて改めて歩く、というコンセプトでした。

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ナビゲーター役は、ファッションモデルの仲川希良さん。登山ガイドの方と一緒に歩かれました。

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このルートは、大正2年(1913)、翌年に結婚する光太郎智恵子も歩いたルートということで、途中の岩魚留小屋に着いたあたりで、その話が出ました。

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小屋の傍らに聳える推定樹齢数百年という桂の巨木。

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後に、光太郎智恵子それぞれが、この木の思い出を書き残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)
「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

智恵子の言葉は番組で引用されました。ただ、「晩年」と紹介されていましたが、そう言うにはちょっと早いのですが……。

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その他、日本アルプスの魅力を海外に発信し、さらに国内に近代登山を広めたウォルター・ウェストンのエピソードがふんだんに紹介されました。ちなみに光太郎智恵子もウェストンと会っています。

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予定では来月はじめまで、各地の紅葉風景を紹介されます。

また紅葉の季節が近づいた頃、再放送していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私の苦しみはこれから本当にしん身の苦しみになるに違ひない 私の悩みは私に死力を出さないでは置かないに違ひない 私の悲しみは私をしばしば濡れしぼませるに違ひない しかし、私の喜は私の生(いのち)を意識する時たちまち強大な力となつてあらはれるに違ひない 

詩「よろこびを告ぐ ――TO B.LEACH――」より
 
大正2年(1913) 光太郎31歳

上高地で智恵子と夢のような日々を過ごし、新機軸の団体展「ヒユウザン会展」を無事に終え、ますます意気軒昂だった時期の言葉です。

「B.LEACH」は陶芸家のバーナード・リーチ。ロンドンで光太郎と知り合って、光太郎より一足早く来日し、奮闘していました。同じリーチに宛て、2年前には「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」という詩を贈った光太郎。その頃はデカダン生活からの脱却はまだ不完全でしたが、智恵子との邂逅を経て、ようやく自分の道を見つけたという「よろこび」を語っています。

テレビ放映情報です。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」

NHK BSプレミアム 2017年1月25日(水)  19時00分~19時30分 

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓

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昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映されました。その中でも、大正2年(1913)に婚前旅行で上高地を訪れた光太郎智恵子にちらっと触れられました。そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

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そして上高地クラシックルート編が、来週水曜日の放映。

事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。そのあたりは一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。尺の都合などでカットされなければ、そういった話が出るものと思われます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれの魂をつかんでくれ おれの有り様(やう)を見つめてくれ 「夜目遠目笠のうち」 そればつかりは真平(まつぴら)だ

詩「カフエにて」 大正元年(1912) 光太郎30歳

「夜目遠目笠のうち」は、よく見えないものを、実際よりずっと美しいものに仕立ててしまうものだということ。買いかぶらずに、醜さや汚さも内包した生身の「高村光太郎」を見てくれ、という内容です。

誰に? やはり、智恵子に、でしょう。

今朝、犬の散歩から帰ると、妻が「今、「乙女の像」がテレビで紹介されていたよ」とのたまいました。光太郎の名も紹介されていたとのこと。

テレビ朝日さん系列の「朝だ!生です旅サラダ」でした。サブタイトルが「女優・手塚理美が冬の青森で感激!!香港最新(秘)グルメ初公開 !?」。

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時折あるのですが、前日までネットにも詳細な内容が紹介されず、放映当日を迎えるパターンだったようで、まったく情報をえていませんでした。残念……。


今日は、午後からNHK BSプレミアムさんで先月放映された「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」の再放送があります。来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年12月10日(土)  13時30分~15時00分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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本編は来年1月25日(水)ですが、今回もちらっと光太郎智恵子が紹介されます。


もう1件。

あらすじ名作劇場 「銀河の詩人・宮沢賢治「風の又三郎」「雨ニモマケズ」」

BS朝日1 2016年12月14日(水) 22時00分~23時00分 

名前は聞いたことあるけど、実は読んだことがない…
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そんなアナタに!
「読むヒマないなら、観ればいい!」
新感覚の番組が誕生!王道・定番・世界の名作文学の“あらすじ”を、オリジナル「再現ドラマ」でわかりやすく超解説!あの有名な物語が伝えたかったこと、隠された裏話、作者にまつわる秘話も紹介。時にはゆかりの地を、ぶらりと歩くことも。
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「観て学ぶ。名作は、あらすじだけでも面白い」をコンセプトに、文学・落語・歌舞伎・童話…あらゆる“名作"の「あらすじ」をオリジナルの超訳ドラマや朗読でわかりやすく解説!作者の知られざるエピソードや、その作品が生まれた時代背景など、裏話・秘話もあわせて紹介!

ストーリーテラー:平泉成  MC:本仮屋ユイカ

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「雨ニモマケズ」は、その「発見」の現場に光太郎が立ち会い、その後半部分を刻んだ石碑が、賢治の最初の詩碑として光太郎の揮毫により花巻に立てられました。現在も賢治の命日・9月21日に、その碑の前で「賢治祭」が開催されています。今年は当方もスピーチを仰せつかりました。

そのあたりの、光太郎と賢治の交流に関するエピソードが紹介されればいいのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ
明治44年(1911) 光太郎29歳

そろそろ忘年会シーズンということでこの歌を。

漢字平仮名交じりで表記すれば「僕(やつがれ)は 少し遅れて 参ずべし ずぶろくぐでんの 高村砕雨」。

『高村光太郎全集』に漏れていた短歌で、『短歌研究』第十三巻第五号(短歌研究社 昭和31年=1956 5月)に所収の、堀口大学「白い手の記憶 ――高村光太郎の思い出――」に載っていたのを今年、見つけました。

堀口曰く、
 
  それは初夏の頃だったと記憶するが、一夜百首の徹夜の歌会が新詩社で催された。常に待たれる人、高村さんは、その夜もみんなに待たれたが、仲々姿は現われなかった。十時頃に電報が来た。鉄幹先生が披露された。《ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ》――
  「高村君は今夜もヨカロウらしい。」鉄幹先生がぽつんと言われた。誰やらが発信局を尋ねた。――「浅草本局です。」 ヨカロウも浅草本局も、二つながら雷門の近くにあった。その夜、会者十数人の中、百首の結字が全部出詠出来たのは晶子先生ただお一人だった。待たるる人、高村さんは遂に翌朝になっても見えずにしまった。鉄幹先生ばかりか私もがっかりしたことを覚えている。

この年の暮れに長沼智恵子と運命的な邂逅を果たす光太郎は、前年に吉原河内楼の娼妓・若太夫(真野しま)に失恋、この頃は浅草のカフェ・よか楼の女給だった「お梅」に入れあげていました。

 「ずぶろく」も「ぐでん」も泥酔状態を表す語で、「ぐでん」は現代でも「ぐでんぐでんに酔っぱらう」などと使われますね。「ずぶろく」の方は、当方、存じませんでした。

「砕雨(さいう)」は新詩社に於ける光太郎の雅号。欧米留学からの帰朝(明治42年=1909)以降も使用例が見られ、矛盾しません。

昨日ご紹介したカキの歌にしてもそうですが、巫山戯た歌を詠んで完全に師・与謝野鉄幹をないがしろにしていますね(笑)。しかしそんな光太郎を鉄幹はかわいがっていました。

昨日、NHK BSプレミアムさんで放映の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」を拝見しました。

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大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れ、二人で歩いた島々から岩魚留、徳本峠を越える「クラシックルート」が扱われました。

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レポーターはモデルの中川希良さん。

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事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。

ところがその話が出ず、「あれっ?」と思っていたところ、今回の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」は、来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組で、「上高地クラシックルート」として改めて1月25日に放映があるそうです。その中で、詳しく扱われるのでしょう。

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今回の番組の中でも、ちらっと光太郎智恵子に触れられはしました。

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また、上高地で光太郎智恵子とも宿を共にした、日本近代登山の父、ウォルター・ウエストンについては、今回からある程度詳しく紹介されていました。1月の放映ではさらに詳しい話が出るものと期待します。

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また近くなりまして、詳細な情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は湧きてあふるる
大正9年(1920) 光太郎38歳

昨日の放映では、各地の温泉も紹介されていました。

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温泉の恩恵を受けられる日本に生まれて、本当に良かったと思います。

光太郎もやはり日本人(笑)、温泉は大好きで、温泉を詠んだ短歌も多く残しています。

テレビ放映情報です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年11月26日(土)  21時00分~22時30分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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上記紹介にあるとおり、信州上高地が扱われます。しかも、トレッキングということで、車の通れない、島々から岩魚止、徳本峠を越える昔のルート。

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ここは、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れた場所。先に上高地に滞在していた光太郎が、後から追ってきた智恵子を迎えに岩魚留まで下りていきました。岩魚留には有名な桂の巨木があり、光太郎智恵子共々、後にこの木の思い出を語っています。

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そのあたり、昨年発行された山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。上記桂の写真も『岳人』さんから。そこでキャプションに「件(くだん)の」とあります。

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さて、花巻高村光太郎光太郎記念会さんを通し、今回放送される番組の制作会社さんから問い合わせがあり、件の桂の木についてレクチャーいたしました。尺の関係などでカットされなければ、そういう話が出るはずです。

ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君は思ふか
大正9年(1920) 光太郎38歳

土曜日放映の「ザ・プレミアム」、テーマは「紅葉」と「温泉」だそうです。寒くなってきましたので、ゆっくり温泉に浸かりたいものです。

日本女子大学校での智恵子の一級上で、卒業後に雑誌『青鞜』を創005刊、その表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。学年は一つ上ですが、早生まれということもあって、智恵子と同じく今年が生誕130年にあたり、記念イベント等がいろいろ組まれています。

まずは信州上田から。 
期 日 : 2016年9月12日(月)
時 間 : 13:30~
会 場 : らいてうの家 長野県上田市真田町長字十の原1278-720
講 師 : 米田佐代子(女性史研究者・らいてうの家館長)
参加費 : 500円(含資料代)

ことしは「平塚らいてう生誕130年」です。NHKの朝ドラで004は『あさが来た』に続き、『とと姉ちゃん』で『青鞜』創刊号に載った「元始、女性は実に太陽であった」がリフレインされ、8月9日には真野響子ふんする戦後のらいてうも登場しました。でも、らいてうが戦前戦後を通じてどう生きたかは意外に知られていません。らいてう研究ひとすじの米田佐代子(らいてうの家館長)が新発見の資料も披露しながら語る「現在(いま)を生きるらいてう」秘話を、ぜひお聞きください。


NHKさんの大河ドラマ「真田丸」で注目されている真田家ゆかりの地・旧真田町にある「らいてうの家」。以前に一度、寄せていただいたことがあります。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。スタッフの方々も親切ご丁寧な対応をして下さり、いきなり訪ねて行ったにもかかわらず、手料理の昼食をご相伴にあずかったことを今でもよく覚えています。


続いて皇居北の丸公園の国立公文書館さんでの展示及び関連行事としての講演。 
期  日 : 平成28年9月17日(土)〜10月16日(日)
時  間 : 月~水、土、日曜日、祝日 午前9時45分~午後5時30分
        木・金曜日(9/22を除く)  午前9時45分~午後8時
会  場 : 国立公文書館 本館 東京都千代田区北の丸公園3番2号
料  金 : 無料

平成28年秋の特別展では、明治時代から現代まで、様々な分野で活躍した女性をとりあげます。明治維新後の日本では、近代化とともに、女性が社会進出を果たしました。大正、昭和を経て、女性が女性らしく生きる社会をめざす取り組みは現在も続き、昨年8月には女性活躍推進法が成立しました。女性の活躍が期待される今、当館所蔵資料等から、時代を超えて今も輝きを放つ女性たちをご紹介します。

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関連行事     記念講演会

 期  日 : 平成28年9月25日(日)
 時  間 : 14時開場 14時30分開演
 会  場 : 一橋講堂(千代田区一ツ橋2-1-2学術総合センター内)
 料  金 : 無料
 定  員 : 500名(事前予約制)
 演  題 : 赤松良子氏「均等法施行から30年をむかえて」
        森まゆみ氏「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」

『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書のある、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演では、らいてうにスポットが当たります。


それぞれ、智恵子にも触れていただきたいものです。

この他にもらいてう顕彰のイベント等、まだいろいろあるようですが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

秋立つと音する風はふるさとに似たる空より来てさむきかな
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎、留学でニューヨークに滞在中の詠草です。

内容的には一昨日、昨日の記事と前後しますが、碌山美術館さんでの講演の前、8月7日(日)午前中に訪れた豊科近代美術館さんをレポートします。

前夜から宿泊していたのは、青木湖畔のホテルブルーレイク&リゾートさん。例によってさっさと就寝したので、朝は早く目が覚め、湖畔を散策。

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こんな看板がありました。

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「鹿に注意」。鹿なら見てみたいな、と思いましたが遭遇できず。「しか」し、同じ看板の裏は……

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熊はさすがにパスしたいところでした。遭遇せずに済みましたが。

朝食後、ホテルをあとに、愛車を駆って安曇野へ。1時間ほどで豊科近代美術館に到着。

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なかなか瀟洒な建物です。いきなり目的の一つ、高田博厚の彫刻がお出迎え。

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同館の通常展示は、それぞれ光太郎と縁のあった、彫刻家の高田博厚と、画家の宮芳平の作品が中心です。以前から、碌山美術館さんに足を運ぶ際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家の記念館なども訪れる習慣となっており、今回はこちらにお邪魔しました。

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高田の彫刻は展示室に入りきれず、中庭や廊下などにも。

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そして、光太郎の胸像。下記は同館のミュージアムショップで売っているポストカードです。

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同一の型から取ったものは、岩手花巻の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の塩尻市にある古田晃記念館さんなどにも収蔵されています。

豊科近代美術館さんの光太郎胸像は、高田が他の日本人芸術家をモデルにした胸像とともに展示されていました。森鷗外、中原中也、佐藤春夫、宮沢賢治、岩波茂雄、岸田劉生、梅原龍三郎、高橋元吉などなど。その人々はそれぞれ光太郎と縁のあった人物でもあり、同窓会というかサロンというか、そんな感じを受けました。

他のジャンルの作品を含め、同時代の彫刻家の中で、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎が最も高く評価した高田の作品は、やはり光太郎のそれにも通じる精神性を感じるものでした。

宮芳平の絵、当方、現物は初めて観ました。鷗外が認めたという、特異な才能を感じました。

そして、高田、それぞれに宛てた光太郎書簡のコピーが展示してあり、興味深く拝見。コピーは以前から観ていましたが、こういう場で観ることで、違った見え方がしました。


他にも信州には、光太郎と縁のあった芸術家の記念館などで、訪れたことのない場所がまだまだあり、来年以降、4月の碌山忌などを使って訪れようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの
明治37年(1904) 光太郎22歳

昨日は今年から「山の日」。北アルプスの山々は、やはり素晴らしいビジュアルでした。

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4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。
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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

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時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました(汗)。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする

明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

信州安曇野の碌山美術館さんで先週末から開催中の 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の図録が届きました。

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B5判111ページ、立派な図録です。

同館館長・五十嵐久雄氏の「ごあいさつ」、島根県立美術館長・長谷川三郎氏の論考「彫刻家高村光太郎」、同館学芸員・武井敏氏の論考「高村光太郎の彫刻と詩―桃と乙女、そしてレモン―」、光太郎智恵子略年譜、彫刻に関わる光太郎の詩文、そして豊富な図版から成ります。図版は出展作品はもちろん、それ以外の参考図版も充実しています。

図版を見て、改めて思いました。それほど大規模な展覧会ではありませんが、光太郎智恵子芸術の精髄を集めており、二人の芸術世界を概観するには充分すぎる展示内容です。

光太郎の木彫が7点。「蝉」、「白文鳥」、「桃」、「柘榴」、「蓮根」、そして「鯰」が2種類。 ブロンズが12点。「獅子吼」、「薄命児男子頭部」、「園田孝吉胸像」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「老人の首」、「黒田清輝胸像」、「光雲一周忌記念胸像」、「倉田雲平胸像」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」。このうち、「白文鳥」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」は、それぞれ2体で一対です。

さらに光太郎の作品としては、油絵の「自画像」、鉛筆書きの「乙女の像構想スケッチ」、肉筆詩稿(主に彫刻に関わる詩篇をセレクト)が18点、詩集が7冊(うち5冊は当方がお貸ししました)。

そして智恵子の紙絵の実物が40点。

22:35追記 山梨県の清春白樺美術館さんで所蔵の智恵子油絵「樟」も出品されています。書き落としました。

これほど充実した企画展ですが、それほど報道されておらず、残念です。地方紙のサイトでも開催予告的な記事は見つかりましたが、開幕した、という記事が見あたりません。今後に期待したいところです。

今後といえば、8月7日(日)、午後1時30分から当方の記念講演があります。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

羽を彫り眼だまをほれば木の蝉もじつと息して夕闇にはふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんで展示されているのが、この短歌で詠まれている「蝉」です。

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今月末から始まる信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展です。
期  日 : 2016年7月23日(土)~8月28日(日) 会期中無休
場  所 : 碌山美術館 杜江館・第Ⅰ/Ⅱ展示棟  長野県安曇野市穂高5095-1
時  間 : 9:00~17:10
料  金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円)  小中学生 150円(100円) 
       ( )内団体:20名以上)
後  援 : 安曇野市 安曇野市教育委員会 安曇野市教育会 信濃毎日新聞社 市民タイムス
協  賛 : 清水建設株式会社 株式会社中村屋 医療法人仁雄会穂高病院
       株式会社とをしや薬局 
株式会社アイダエナジー

高村光太郎(1883~1956)の没後60年、高村智恵子(1886~1938)の生誕130年を記念して企画展を開催いたします。
木彫家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、幼少期より木彫の手ほどきを受け、東京美術学校や海外での研鑽を積むことでその資質を開花し、木彫・塑像に傑作を残しています。
また合わせ持っていた文学的資質は、評論・翻訳・詩作などに結実しています。「緑色の太陽」(1910)のような啓発的な評論、『ロダンの言葉』(1916)の翻訳等は、日本近代美術界を大いに刺激しました。のみならず、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)等の詩作は現在もなお広く知られています。
高村自身は「私は何を措いても彫刻家である」「自分の彫刻を護るために詩を書く」と述べる一方で「詩精神(事物の中心に直入する精神)が言葉にあらわれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となる」とも言っています。
彫刻と詩を通して、高村光太郎の制作の根源へ思いを馳せていただければ幸いです。

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関連行事

特別企画展記念講演会 「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」

期  日 : 2016年8月7日(日)
場  所 : 碌山美術館 杜江館二階 
                          7/28追記 会場が美術館向かいの研成ホールに変更になりました。
時  間 : 13:30~
料  金 : 無料 (ただし入館料が必要です)
講  師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


というわけで、当方の講演があります。昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連などについても述べる予定です。


さて、展示の方ですが、光太郎の木彫がひさびさにある程度まとめて並びます。まだ出品目録を頂いていないので、詳細は不明ですが(いずれ続報を出します)、平成25年(2013)に千葉市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、岡山井原市田中美術館さんを巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来です。

その他、もちろんブロンズ彫刻、絵画、詩稿などの光太郎作品、そして智恵子紙絵の現物も出ます。さらに当方の蔵書から、光太郎の詩集をお貸ししました。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は碌山美術館さんで持っているというので、それ以外の生前の単行詩集、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)、さらに没後の刊行ですが、当会の祖・草野心平が鉄筆を執ってガリ版刷りで作った光太郎七回忌記念の『猛獣篇』(同37年=1962)もお貸ししました。

そうした意味では、かなり幅広い光太郎智恵子の総合展のような企画展です。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、日本女性に失望シリーズ(笑)の一作です。

新宿の中村屋サロン美術館さん発のイベント情報です。 
5月29日(日)  旅行代金(おひとり様)9,800円 ※大人・子ども同額

新緑と水が煌めき、雪解けの山が美しく映える5月の安曇野。パワースポットの穂高神社で安曇野の歴史に触れ、新宿中村屋ゆかりの彫刻家 荻原守衛(碌山)の作品を展示する碌山美術館で、芸術と自然を堪能するバスツアーです。

芸術と自然に囲まれた、豊かな時間を過ごしませんか?

特典付きで大満足!
・碌山美術館学芸員によるミニレクチャー付!
・荻原家ご当主のご案内による碌山の墓参付!(希望者)
・安曇野市と中村屋から素敵なプレゼント付!

新宿(8:00)=大王わさび農場(昼食・買い物・見学)=安曇野着 穂高神社参拝(解説付)=碌山美術館(ミニレクチャー・見学)=現ご当主のご案内による碌山の墓参(希望者)=新宿(20:00予定)
※行程は道路状況等により、入れ替わる可能性がございます

添乗員:同行  受付最少人数:1名 最少催行人員:30名 バスガイド:なし 食事:1回昼食
※5月9日までに最少催行人員に達しない場合は中止とさせていただきますこと、ご了承ください
※詳しい旅行条件説明書面をお渡しいたしますので、事前にご確認の上、お申し込みください

お問い合わせ・お申し込みは
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社
東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階 03-3354-4021 受付時間11:00~19:00 (土日祝18:30)

旅行企画・実施
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社 新宿プレミアム旅行サロン 東京都新宿区新宿3-26-13

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お申込期限はまだ先でしょうが、明日までに30名に達しないと催行中止だそうで、とりあえず早めにご紹介しておきますが、それが杞憂に終わることを祈念いたします。

中村屋サロン美術館さん、昨年も同様の企画を開催されました。おそらくそれが好評だったので、二匹目のドジョウでと思われます(笑)。こういう場合には、バスツアーというのは非常に楽ですね。しかもいろいろお土産もあるようですし(笑)。

碌山美術館さんは、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎をはじめ、碌山と縁の深かった作家の作品も収蔵、光太郎ブロンズ作品も多数お持ちです。複数の光太郎彫刻を一度に見られるのは、こちらと花巻高村光太郎記念館だけです。

7月から8月にかけては、当方も関わる企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」が開催されます。そちらはそちらとして、こちらにもぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

たらちねの母は死ねども死にまさずそこにもをるよかしこにも居るよ

昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日からの続きで、「母の日」がらみで。

母・わかの三回忌を前に作られました。昨日ご紹介した短歌と共に、雑誌『炬火』に発表した詩「母をおもふ」に反歌のように添えられたものです。

   母をおもふ

夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
000
鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。


「死ねども死にまさず」、「そこにもをる」「かしこにも居る」。後に妻・智恵子が亡くなった後にも、智恵子は元素となって私の周りに常に居る、と光太郎は繰り返し発言しています。そうした考えの源流がここにありそうです。

長野県安曇野市の豊科近代美術館の学芸員さんから、同館友の会という組織の会報を戴きました。同館は、それぞれ光太郎と親交のあった彫刻家・高田博厚、画家の宮芳平の作品を柱としています。

そんなわけで、連翹忌関連の資料、当方編集の『光太郎資料』などをお送りしており、その添え状に「当方、高村光太郎文筆作品、彫刻・絵画作品等の資料集成をライフワークとしており、光太郎に関する稀少資料(書簡、草稿、揮毫、稀覯雑誌他)を所蔵されている個人、団体等の情報がございましたら、御一報いただければ幸甚に存じます。」と書きましたところ、応えて下さいました。

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送って下さった学芸員さんによる「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事が載っており、未知の光太郎書簡が紹介されていました。宛先は滞仏中の高田博厚。高田に宛てた光太郎書簡はこれまで確認できていなかったので、驚きました。さらに戦前、それからフランスに送った外信用はがきというのも驚きです。

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内容的には身辺近状の報告といったところですが、面疔を病み半強制的に入院させられたこと、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦や、パリで客死した平林初之輔などに触れており、興味深いものでした。

「僕も仕事に精進してゐます」という一節があります。しかし、この直後、智恵子の心の病が顕在化し、その看病のため、光太郎はしばらく彫刻不可能の状態に陥ります。そうした史実を踏まえて読むと、心が痛みます。

以前にも書きましたが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っています。しかし、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。人知れず眠っているものの発掘をライフワークの一環として続けて参りますので、ご協力をよろしくお願いします。


【折々の歌と句・光太郎】

春風やアルプスの雪遠く白し     明治42年(1909) 光太郎27歳

スイス経由イタリア旅行中の吟で、ここでいう「アルプス」は本物のヨーロッパアルプスのことです。

日本の中部地方には日本アルプスがあり、毎年、4月22日には、その麓の安曇野市碌山美術館さんで、光太郎の盟友・荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」が開催されています。毎年、寄せていただき、今年も行く予定でした。さらに近くにあるいろいろな美術館さん、文学館さんに立ち寄るのも楽しみで、今年は豊科近代美術館さんに寄ろうと心に決めていました。

しかし今年は碌山忌当日に当方居住地の自治会長の集まりがあり(今年度、町内会長をやっております)、泣く泣く欠礼することにしました。

夏には碌山美術館さんで「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」があり、関連行事としての講演を頼まれておりますので、その機会に伺いますが、残念です。

テレビ放映情報です。 

15分でにっぽん百名山 安達太良山

NHKBS1 2016年2月29日(月)  18時30分~18時45分
 再放送 3月7日(月) 午前4時30分~ 午前4時48分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉から、ブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。

出演 林千明   語り 三浦祥朗


NHK BSさんでは「にっぽん百名山」という30分番組を放映しています。そこで取り上げた山をさらに15分間のダイジェスト版にしたのが「15分でにっぽん百名山」。

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智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山は、昨年2月に30分の「にっぽん百名山」で取り上げられました

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その際には、光太郎智恵子についても紹介して下さいました。

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今回は15分のダイジェスト版ですが、この部分が含まれるかどうか……。期待はしていますが……。


もう1件。 

みつけよう、美 荻原守衛“女”(長野・碌山美術館)

NHKEテレ1 2016年3月2日(水)  23時50分~23時55分

「日曜美術館」40年目を機に掘り起こした映像記録を、全国の美術館の大切な所蔵作品を中心に再構成。全都道府県分47本を制作し、美術館情報とともに5分のミニ番組として放送します。あの美術館の知られざる美の宝物について、作者本人やゆかりのある人物から、とっておきのエピソードが語られます。今回は1997年の番組から彫刻家荻原守衛の「女」。守衛を励まし支えた、パトロン・相馬黒光との恋と制作を解き明かす。

語り 石澤典夫
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光太郎の盟友にしてロダンの愛弟子、碌山荻原守衛の絶作「女」が取り上げられます。元ネタは平成9年(1997)の「新日曜美術館 荻原守衛の女 〜彫刻に秘められた情念〜」。


公式サイトを見ると、他にも守衛の「坑夫」もラインナップに入っています。また、他にも光太郎と縁の深い作家の作品が。彫刻ではロダン、舟越保武、佐藤忠良、平櫛田中など。絵画では藤田嗣治、村山槐多、松本竣介など。すでに取り上げられたものもあるかも知れません。

ぜひご覧下さい。



【折々の歌と句・光太郎】


髯そつてスヰスの春の寒きかな     明治42年(1909) 光太郎27歳


3年余の欧米留学の最後近く、スイス経由でイタリア旅行をした際の作です。日本の春もまだまだ寒いですね。

光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日 000

昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。

追記 平成30年(2018)、ぶんか社さんから、『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が刊行され、夏木美香さんの画による「首の女……」が収録されました。

一昨日のことです。

昨日ご紹介した篠田桃紅さんの書籍を買いに、新刊書店に行きました。すると、毎年この時期に行われている、夏の文庫本フェア的な特設コーナーが目に付きました。「新潮文庫の100冊」、集英社文庫「ナツイチ」、「発見!角川文庫」など。

「そういえば、新潮文庫版の『智恵子抄』は、最初の頃は「新潮文庫の100冊」に入ってたんだよな……。」と思い浮かびました。この手のキャンペーンの嚆矢である「新潮文庫の100冊」は昭和51年(1976)に始まり、永らく『智恵子抄』がラインナップに入っていました。しかし、いつの間にか選から外れてしまっており、非常に残念です。復活を期待します。

また、集英社文庫さんには林静一氏の装幀による『レモン哀歌 高村光太郎詩集』、角川文庫さんには『校本 智恵子抄』があり、この辺も入れてほしいものです。

そんなことを考えながら、並んだ文庫本を見ていて、ふと、目にとまったのがこちら。

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深田久弥の名著『日本百名山』です。「あ、これも「新潮文庫の100冊」に入ったんだ。」と思いながら手に取りました。

調べてみると、一昨年くらいからラインナップに組み込まれていました(ついでに調べてみると、『智恵子抄』が入っていたのは平成21年(2009)まででした)。中高年の登山ブームを意識しての選定でしょうか。

初刊は昭和39年(1964)。以来、「なぜこの山が選ばれていないんだ」とかいった批判や、他の個人や団体の選定した「百名山」なども乱立する中、深田久弥選定の「百名山」が、確固たる地位を得ているように思われます。

やはり中高年の登山ブームを背景にしていると思われますが、「百名山」を冠したテレビ番組もいろいろと制作されており、このブログでもご紹介してきました。

TV放映情報。  絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」。  にっぽん百名山「安達太良山」。  にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。


光太郎智恵子が大正2年(1913)に婚前旅行に行った上高地に近い穂高岳、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が「百名山」に選定されている関係です。


さて、新潮文庫の『日本百名山』。安達太良山の項で、光太郎智恵子に触れています。一部分を抜粋します。

二本松から眺めた安達太良山、それを歌った高村光太郎の詩が、この山の名を不朽にした。この詩人と絶対愛に結ばれた妻の智恵子は、二本松の作り酒屋に生れた。彼女は東京にいると病気になり、故郷の実家に帰ると健康を回復するのが常であった。その妻のあどけない言葉を、詩人はうたった。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

(略)

 そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の崖に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。

 この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」っている秋の末、私もその丘へ上ってみた。

その後、実際に深田は安達太良山に登っていきます。

この他にも、『日本百名山』には、光太郎が詩に詠んだり、実際に登ったりした山がいくつか含まれています。岩手山、早池峰、磐梯山、赤城山、富士山、そして北アルプスの山々。そういうことを考えて手にとっていたら、結局、この本もレジに持って行ってしまいました(笑)。

ところで、『高村光太郎全集』には、深田の名が1回だけですが、出てきます。昭和21年(1946)3月、養徳社という出版社で編集にあたっていた喜田聿衛に宛てた書簡の一節です。

おてがミ及小包忝く拝受、深田さんの「津軽の野づら」にはリーチなど出て来るらしいのでよむのがたのしみに思へます。

『津軽の野づら』は昭和4年(1929)に深田の名で発表された小説です。初刊は同10年(1935)で、のちに養徳社から再刊されています。喜田はこの他にも亀井勝一郎の『大和古寺巡礼』などの自社刊行物を光太郎に贈呈しています。

さて、「津軽の野づら」、実際にはのちに深田と結婚する北畠八穂の作。八穂は青森出身。標準語で文章を書くことに難があったそうで、いわば深田との合作です。他にもそうした作品があり、深田と八穂が離婚したことにより、問題がややこしくなって、深田はいったん文壇から消えざるを得なくなります。その深田が復権したのは、『日本百名山』の執筆においてでした。

そのあたり、平成19年(2007)に朝日新聞社から刊行された『愛の旅人Ⅱ』という書籍に記述があります。

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この書籍には当会顧問・北川太一先生もご登場の「『智恵子抄』 高村光太郎と智恵子」も載っており、非常にいい本ですが、残念ながら絶版です。ただしamazonさんなどでは入手可能です。また、元は『朝日新聞』さんの土曜版の連載なので、記事としてはネット上に残っています。深田に関してはこちら。光太郎智恵子はこちら

というわけで、『日本百名山』、『愛の旅人Ⅱ』、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月17日

平成13年(2001)の今日、東京オペラシティリサイタルホールで国際芸術連盟主催のコンサート「語りと音楽の世界」が開催されました。

岡野富士夫作曲、竹内知子語り、磯野鉄雄のギターで「組詩 智恵子抄 ~ギターと朗読のための~」がプログラムに入っていました。

ライヴ録音のCDがリリースされています。

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今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山007牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。

メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。

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昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。

続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。

ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。

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さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。

企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。

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同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。 

荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放

 安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。

 学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。

 書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。

 碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。

 同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。

報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。

同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。

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その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。

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講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。

続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。

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新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。

ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。

余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます

しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。


講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。

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昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。

参加者の方のスピーチもあり、今月2日の第59回連翹忌にご参加いただいた新宿中村屋サロン美術館さんの河野女史のスピーチも。

当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。

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その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。

以上、長野レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日

昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。

像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。

他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。

昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。

今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。

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こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。

釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。

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行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。

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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。

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2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。

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時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。

さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。

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場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。

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入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。

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邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。

その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。

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こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。

桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。

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門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。

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山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。


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さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日

大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。

銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。

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