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まず、信州から開催中の企画展示情報を。

昭和ノスタルジー展

期 日 : 2021年9月18日(土)~12月28日(火)
会 場 : 朝日美術館 長野県東筑摩郡朝日村大字古見1308
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般200円 高校・大学生100円 小中学生50円

あの頃に思いを馳せて…

朝日美術館収蔵品より懐かしい昭和の時代にいざなう品々をご紹介します。

オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンなど外国映画の主演女優たちが表紙を飾った『キネマ旬報』74点を初公開するほか、国鉄時代のディスカバー・ジャパン(個人旅行拡大キャンペーン)のため入江泰吉(写真家)らが撮影した迫力ある仏像写真を使った「奈良 大和路」ポスターなどを展示します。 

また、『智恵子抄』や『道程』を著した詩人で彫刻家の高村光太郎研究の第一人者として知られ、2020年に逝去された文芸評論家の北川太一氏が研究の傍らに取り組んだ版画作品16点もご紹介します。

このほか、昭和の時代から活躍されていた作家の絵画・彫刻・書もご覧いただけます。

どうぞノスタルジックな雰囲気をじっくり味わってください。
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当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生が、ご生前、趣味として取り組まれていた版画が展示されています。
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公式サイトにて紹介されているこちらの版画、今年4月刊行の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の表紙を飾った作品ですね。

かつて安曇野の碌山美術館さんにお勤めだった千田敬一氏が、北川先生とご懇意で、現在も朝日美術館さんにいらっしゃるのでは、と思われます(違っていたらごめんなさい)。同館では、平成18年(2006)に「北川太一の世界」展として、やはり先生の版画、書などを根幹とした企画展をなさって下さいました。
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もう15年経ったか、と、感慨深いものがあります。

北川先生の版画といえば、当会で会報的に発行している『光太郎資料』。こちらの表紙も北川先生作の木版を写したものです。そもそも北川先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十回 音楽・映画・舞台芸術(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、昭和期のものを集成しました。001
 書簡 太田花子宛 昭和2年(1927)
 アンケート 本年(昭和三年)の計画・希望など
  昭和3年(1928)
 詩 カジノ・フオリイはいいな 昭和5年(1930)
 散文 藻汐帖所感 昭和6年(1931)
 書簡 新井克輔宛 昭和25年(1950)
 雑纂 高村光太郎氏の話 昭和25年(1950)
 書簡 野末亀治宛 昭和27年(1952)頃


・光太郎回想・訪問記  座談会三人の智恵子 水谷八重子 原節子 新珠三千代 武智鉄二
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、光太郎の歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。

司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原節子さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

・光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/聖徳太子御像に就いて 
光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、明治36年(1903)、雑誌『応用美術』第二巻第二十七号所収の「牙彫の趣味」、大正10年(1921)、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収の「聖徳太子御像に就いて」。聖徳太子像についてはこちら

昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 草津温泉(群馬県)
確認できている限り、光太郎は三回、草津を訪れています。その辺りの経緯をまとめました。右下の写真は、昭和8年(1933)、最後の草津訪問の際に泊まった望雲閣(建物は建て替わりましたが現存するホテルです)。心を病んだ智恵子の療養のためでした。
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・音楽・レコードに見る光太郎  「鳩」箕作秋吉
詩「鳩」は、明治44年(1911)の作。もともと歌曲の歌詞として作られたものではありませんが、作曲家・箕作秋吉が、昭和7年(1932)にこの詩に作曲し、翌年刊行の『世界音楽全集 第三十九巻 日本新歌曲集』(箕作秋吉編 春秋社)に発表しています。現在確認できている限り、光太郎詩に曲が付けられて発表された最も古い例で、そのあたりをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順)

・編集後記


B5判、全47ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(37集以降のバックナンバーも)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大村次信氏夫妻及服飾学院生徒15,6人ほど来訪 院長さん宅洋間にて談話。ひる頃まで、

昭和26年1月21日の日記より 光太郎69歳

滞在していた花巻病院長・佐藤隆房宅でのことです。

大村次信は、盛岡で現在も続く「オームラ洋裁教室」の創始者。「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子の弟です。

昨日レポートしました通り、9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。今日明日と、そちらのレポートを、と思っていたのですが、昨日、新情報を得まして、そちらを先に御紹介します。

長野県から、企画展示の情報です。

THE EXPO 善光寺2021~甲信越戦国物語~特別展

期 日 : 2021年9月14日(火)~9月26日(日)
会 場 : 長野市立博物館 長野市小島田町1414 川中島古戦場史跡公園内
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休 館 : 9月21日(火) 24日(金)
料 金 : 一般300円、高校生150円、小・中学生100円
      9/20(月),9/23(木)は入館無料
      土曜日は子どもウェルカムデーにつき小・中学生無料

 2022年4月、善光寺御開帳が開催されます。善光寺は全国から多くの参拝者が訪れる庶民信仰の寺として知られています。戦国時代におこった川中島の戦いにあっては、武田信玄・上杉謙信が自国に善光寺本尊を迎えようとし、争奪戦となりました。
 今回の展示では、川中島の戦いにおける善光寺や、そのほかの神や仏との関係をみることで、川中島の戦いの一面を描き出します。そして、川中島古戦場の首塚に代表されるような戦死者の供養についても、やはり神と仏の関係から扱います。
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概要説明やチラシに記述がありませんが(そこで、これまで気づかなかったのですが)、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる、善光寺さん仁王像の試作(ひな形)が展示されています。
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こちらは通常、善光寺史料館さんで常設展示されているものですが、いわば出開帳です。

NHKさんのローカルニュースで、展示について報じられました。こちらでも仁王像については言及されませんでしたが。

善光寺と川中島の戦いにゆかりの品集めた特別展 長野 

 善光寺と川中島の戦いにどのようなつながりがあるのでしょうか。双方にゆかりがある、よろいや錦絵などが集められた特別展が長野市で開かれています。
 長野市立博物館で開かれている特別展は、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いと善光寺にゆかりがある、かぶとや木像などおよそ100点が展示されています。
 このうち、魂が宿るともされる武田信玄と上杉謙信のそれぞれの位はいは、ともに高さおよそ115センチ、横およそ30センチとほぼ同じサイズで、いずれも善光寺に所蔵されています。
 また、江戸時代の作品とされる川中島の戦いの錦絵では、千曲川を挟んで武田信玄と上杉謙信が対陣している様子が描かれています。
 長野市立博物館の北澤瑞希研究員は「川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が善光寺の本尊を奪うためだったとも言われている。両雄の位はいがいずれも戦場近くの善光寺にあり、両者の因縁の深さを知ってほしい」と話していました。
 この特別展は、長野市立博物館で今月26日まで開かれています。
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最後の画像に、仁王像が写っています。

ところで、やけに会期が短いな、と思ったのですが、コロナ禍のため、当初予定では9月3日(金)開幕予定だったのが、遅らせての始まりとなったためだそうです。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝ゆつくり。 雑煮を祝ふ。 門松一本、紙製国旗をかかぐ。 雑煮は豚肉入大根、里芋、餅、あわ餅。


昭和24年(1949)1月1日の日記より 光太郎67歳

昭和24年(1949)の年明けです。

この年は、NATO発足、中華人民共和国建国、ドイツは東西に分断、ソ連が初の核実験に成功、明るいニュースとしては、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞(日本人初のノーベル賞)などがありました。

過日ご紹介した日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵日本女子大学校でのテニス仲間だった智恵子に依頼した平塚らいてうの日記について、共同通信さんの配信記事。3日ほど前、複数の地方紙等に掲載されたようです。光太郎智恵子にも軽く触れて下さいました。

元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

003 女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。

▽授業ボイコット
 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。
 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。
 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。
 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。
 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。
 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

004▽孫が見たらいてう
 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。
 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」
 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

005▽目線は世界に
 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。
 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。
 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。
 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。
006 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。
 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。
 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

007当方もそう感じてこのブログに書きましたが、やはり「元祖「#わきまえない女」」ということで。そもそも、『青鞜』という雑誌名自体が、18世紀、イギリスのエリザベス・モンタギューのサロンに集まり、芸術や科学を自由に論じた女性たちが、一般的な黒いストッキングではなく、青いストッキングを穿いて「ブルー・ストッキング・ソサエティ」として世間を挑発したことに由来します(そちらが「元祖#わきまえない女」のような気もしますが)。そのエピソードが日本に紹介された当初は「紺足袋党」などと訳されていました。『青鞜』の「鞜」の字義は、厳密には「ストッキング」ではなく「くつ」なのですが、何しろ明治末、うまい漢字の当て方がなかったのでしょう。雑誌名が『青鞜』ではなく『紺足袋』にならなくて良かったと思います(笑)。

ちなみに現在のNPB北海道日本ハムファイターズさん。球団史をさかのぼると、戦後すぐ創設された球団「セネタース」に行きつきます。このセネタース、ユニフォームが青色だ008ったため、正式名称ではありませんが「青鞜セネタース」「青鞜軍」と表記される場合があったとのこと。ジャイアンツのみ現在でも「東京読売巨人軍」ですが、タイガースが「猛虎軍」、他にも「西鉄軍」、「金鯱軍」などの球団名があったそうです。「猛虎」対「青鞜」、どう考えても「猛虎」が勝つような気がします(笑)。しかし「セネタース」、かの青バットの大下弘選手が所属しており、決して弱小球団ではなかったようです。

閑話休題。らいてう没後50年のこの2021年、「#元祖わきまえない女」としての業績の数々、さらに注目されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日くもり、時々小雪。昨夜の積雪のとけざる上にふる。恐らく根雪とならん。

昭和22年(1947)12月3日の日記より 光太郎65歳

「根雪」。温暖な房総に暮らしている身には、無縁の単語です(笑)。

日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。

そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。

まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。

没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
 日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
 戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
 女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
 こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
 らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
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同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。

長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。 
 日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
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見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。

同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。

らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。

『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。

小社会 110年前の主張

 平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
 明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
 女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
 世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
 ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
 らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。

『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。

四季 「元始、女性は太陽であった」

「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。

元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。

五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。

らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。

【折々のことば・光太郎】

古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。

昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳

何気ない自然の描写も実に詩的ですね。

長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、昨日の一面コラムで光太郎智恵子に触れて下さいました。

2021.5.12みすず野005

先週のゴールデンウイークとその延長の週末、案の定、北アルプスなどでの登山者の遭難事故が起きた。春山と言っても、風雪は冬山同様である。まれに軽装で登って行って動けなくなり、助けを求める人がいるけれど、山はまさに大自然、常に険しく、厳しい◇「人はなぜ山に登るのか」の哲学的な問いはさておき、古今東西、人はそこにある山に分け入り、登り、祈り、ルートを切り開いてきた。岳人のみならず、文人もかつてはよく登り、小説、詩、エッセーなどに残した。山と対峙することで、自己再生を期し、創作意欲をかき立てたのだ◇高村光太郎もその一人。光太郎は東京生まれで、彫刻家を志し、ニューヨーク、ロンドン、パリに留学するなど、極めて都会的、先進的な若者だったにもかからわず、心に屈託を抱え、73年の生涯で3度、山に向かい、自分を見つめ、生きる力を得た。最初はかの智恵子を知った後の上高地滞在である◇次は智恵子が発症してからの東北めぐり。そして最後は敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活。これは晩年の7年に及んだ。人と山を考える一つの典型がここに。

73年の生涯で3度、山に向かい」というのがちょっと引っかかります。光太郎は山好きで、ここにあげられた3度以外にも、いろいろ山歩きをしていますので。

たとえば上州赤城山。留学前の明治37年(1904)には5月から6月と、いったん帰京した後の7月から8月、つごう2ヶ月間も滞在しましたし、留学から帰った年の明治42年(1909)、それから昭和4年(1929)には当会の祖・草野心平らと、さらに昭和6年(1931)には父・光雲と訪れています。
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また、同じ上州山中のいわゆる秘湯と呼ばれる温泉を、大正から戦時中にかけ、かなり踏破しており、それも「山歩き」です。今で言うトレッキングに近い形だったようですが。

信州も大正2年(1913)の上高地滞在だけではありませんでした。数え19歳の明治34年(1901)8月から9月には、戸隠、野尻、松本、木曽福島、御嶽山、さらに新潟にも足を伸ばし、赤倉や妙高山も訪れています。

遡って明治32年(1899)には、祖父・中島兼吉(通称・兼松)と共に富士山にも登っています。

ただ、それらは人生の転機という時期ではなかった部分もあり、その意味では、『市民タイムス』さんが取り上げた「3度」とは、確かに意味合いが異なるかも知れません。

ちなみに2度目として位置づけられている「次は智恵子が発症してからの東北めぐり」。昭和8年(1933)の話ですが、その中で訪れた福島の土湯温泉の外れにある不動湯温泉さんが、昨夜、BS TBSさんで放映された「美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒」で取り上げられました。

一昨年、初回放映があったものの再放送でしたが、初回放映の際には気づきませんで、昨夜、初めて拝見。事前に出た番組説明の中に「山道をゆけば、土日限定の日帰り湯を発見!」というくだりがあって、もしかすると不動湯さんかな、と思いましたら、ビンゴでした。残念ながら、「光太郎智恵子ゆかりの温泉」という紹介は為されませんでしたが。

5/14追記 土湯温泉さんの紹介の中で、光太郎智恵子に触れて下さっていました。
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ただ、「何度も」は訪れていませんが……。
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そして3度目、「敗戦後、戦争責任を痛感しての岩手・花巻郊外の山小屋独居生活」。昨日も書きましたが、今週末の5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエ兼住居を空襲により焼け出され、疎開のため花巻へ向かった日ということで、例年であれば花卷高村祭が行われるはずでした。山小屋のあった花巻郊外旧太田村に移ったのは、終戦後の10月ですが、ぜひ、この機会に光太郎の山小屋生活に思いを馳せていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子祥月命日。線香をたく。


昭和22年(1947)10月5日の日記より 光太郎65歳

南品川ゼームス坂病院で、粟粒性肺結核のため智恵子が亡くなったのは、昭和13年(1938)10月5日でした。

8月23日(日)、安曇野市豊科近代美術館さんでの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」を拝見後、次なる目的地へ。長野県は光太郎ゆかりの人物の記念館等が多く、これまでも何かあって長野に行った際には、ほぼ必ずメインの目的地以外にもう1カ所廻ることにしてきました。

今回は諏訪市の信州風樹文庫さん。

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基本的には図書館的な施設なのですが、「岩波茂雄記念室」が併設されています。

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岩波茂雄は岩波書店の創業者。同社と光太郎の縁は深く、昭和8年(1933)に「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』を書き下ろしで単独執筆し、同シリーズ中の『近代作家論』(6人による共著)ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。また、昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄の編集で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。さらに、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。

そんな縁から、昭和8年(1933)には、ミレーの「種まく人」をあしらった同社のロゴマークの制作を、岩波が光太郎に依頼しています。ところが光太郎作のものは不採用。しかし、そのあたりの経緯が不分明となっているようで、同社では光太郎作ということで通しています。

また、昭和17年(1942)には、岩波書店店歌「われら文化を」の作詞を光太郎が手がけました。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔でした。各地の学校の校歌作詞を何度依頼されても、その都度かたくなに拒んだ光太郎ですが、岩波の店歌は例外だったようです。ちなみにもう一つの例外が、戦後の昭和26年(1951)に作った「初夢まりつきうた」。こちらは岩手花巻の商店街の歌的なものです。

記念室では「われら文化を」の紹介もありました。ただ、光太郎自身の筆跡ではありませんでしたが。

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ただ、抜粋でした。作詞が戦時下ということもあり、上記以外に「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、 かのいにしへの みことのり。」「おほきみかど のりましし かの五箇条の ちかひぶみ。」といったキナ臭い文言が並んでいるのですが、そこはカットされています。

その他、記念室には岩波の遺品類、書簡類、岩波書店の資料などもいろいろ並んでおり、興味深く拝見しました。特に「おっ」と思ったのは、岩波文庫の巻末に必ず載っている「読書子に寄す」の紙型。

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紙型というより、金属活字の版というべきでしょうか、並べた活字を木枠に収めた状態で展示されていました。

000ところで、高田博厚と岩波の縁も深いものがあります。高田がまだ若造だった大正11年(1922)、岩波書店から『ミケランジエロ伝』の翻訳を上梓しました。原典著者はアスカニオ・コンディヴィ。この翻訳依頼は、はじめ光太郎にもたらされたのですが、光太郎は「ミケランジェロなら、高田という若者が詳しい」と、高田を岩波に紹介しました。もっとも、光太郎、英語や仏語と異なり、イタリア語にまでは通じていなかったためということも考えられますが。

その他にも、高田の著書が岩波書店から複数出版されています。そんなこんなで、高田は岩波の肖像も作っています。「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」でも展示されていました。

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さらにいうなら、戦後の昭和35年(1960)、岩波文庫のラインナップに入った光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。編集は高田、それから高田同様に光太郎を敬愛していた彫刻家の菊地一雄です。いろいろ不思議な因縁があるものですね。

さて、風樹文庫さんをあとに、すぐ近くの小泉寺さんという寺院へ。

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こちらの一角に、岩波の生家があったそうで。

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建物はもはやありませんが、やはり岩波と縁の深かった安倍能成の筆になる石碑が建っていました。

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曰く「低処高思」。ワーズワースの詩集から採られた岩波の座右の銘の一つだそうです。原文は「Plain living and high thinking」、「質素なる生活、高遠なる思索」といった意味だとのこと。そういえば、光太郎にも「低きに居む」などの言葉があります。

それにしても信州のこの地域、他にも筑摩書房の古田晁臼井吉見など、光太郎と縁の深かった気骨の出版人を多く輩出しています。そういった土地柄なのでしょうかね。ちなみに当方も父方のルーツは信州ですが。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

さういふ人情をのり越えて必死のことを行ふといふのは、ただわきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者だけにできることである。

散文「神風」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

岩波、そして高田博厚など、「わきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者」と言えるのではなかろうかと思いました。

昨日は日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

メインの目的は、安曇野市の豊科近代美術館さんで開催中の「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」拝観。高田は、早世した碌山荻原守衛を除き、ほぼ唯一、光太郎が心の底から認めていた同時代の日本人彫刻家です。

企画展は6月から始まっており、早々に招待券を戴いていたのですが、やはりコロナ禍の動向を見極めつつ、と思っておりましたところ、終幕ギリギリとなってしまいました。

朝8時過ぎ、愛車を駆って出発。梅雨明け以来、ほとんど雨が無かった南関東も、昨日はところどころでゲリラ豪雨。湾岸線を走っている頃はけっこうな雨でした。当方、稀代の雨男だった光太郎の魂を背負って移動していますので、むべなるかな、です(笑)。

途中、長野道の梓川SAで昼食を摂りました。同SAの展望台から見た上高地方面。

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大正2年(1913)の今頃、光太郎智恵子があの山上で青春を謳歌していたかと思うと、感慨深いものがありました。

到着は12時過ぎ。現地はピーカン(死語ですね(笑))でした。

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4年ぶり2回目の訪問でした。前回もオリンピックイヤーで、カーナビのテレビで水泳競技の様子を見ながら来たっけな、と思い出しました。

入館し、さて、拝見を始めたところ、当方をご存じの学芸員の方がやって来られました。当方が講師を務めた市民講座を2回、お聴き下さっていたそうで。その後は当方一人に対するギャラリートークという何とも贅沢な状態になりました(笑)。

光太郎はその無名時代から高田の才を認め、昭和6年(1931)の渡仏に際しても「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成。こうした点も光太郎の審美眼の正しさを証明しているのでしょう。

現物の展示はありませんでしたが、パネル(というかタペストリー)展示で、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」の一節、さらに光太郎から在仏の高田宛の書簡二通カラーコピーの展示が為されていました。ありがたし。

高田は高田で光太郎への敬愛の念は終始持ち続けていたようです。その一つの表れが、今回の展示の目玉の一つである、パリ時代に制作されたトルソ。「カテドラル」と題され、パリ郊外ランスのノートルダム大聖堂からのインスパイアだそうです。ランスのカテドラルといえば、光太郎が敬愛していたロダンが激賞し、光太郎が訳した『ロダンの言葉』にも記述があるもので、ロダン・光太郎への高田からのオマージュと言えるのではないでしょうか。

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そしてもう一つ、昭和34年(1959)、光太郎没後の作ですが、光太郎胸像。高田は光太郎が歿した後に帰国したので、昭和6年(1931)以来、光太郎には会っていません。そこで、立体写真的に「よく似ている」というわけではありませんが、何といいますか、作品の内側から溢れ出る精神性とでもいいますか、そういったものはまさしく光太郎そのものです。

ちなみに上記画像、平成4年(1992)の開館記念に発行された図録から採らせていただきました。その図録も頂戴してしまいまして、恐縮しきりです。200ページ近い大冊で、光太郎との関わりなどについても言及されています。

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右上はおそらく新しく作られたものでしょう、A4サイズのクリアファイル。やはり光太郎像があしらわれています。こちらはちゃんと買いました(笑)。

常設展も拝見。常設でも高田作品がズラッと並んでいる他、森鷗外や高田同様光太郎と交流のあった画家・宮芳平の作品なども展示されています。

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代表作の「椿」、久しぶりに拝見して、その不思議な世界観、やはりいいなと思いました。

「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」は、8月30日(日)までです。

こちら方面へ行った際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家等の記念館なども訪れることにしております。昨日は帰りがけ、諏訪市の信州風樹文庫さんに立ち寄らせていただきました。こちらには岩波書店の創業者・岩波茂雄の記念室が併設されています。そちらに関しては、また明日。

【折々のことば・光太郎】

一生を棒に振る覚悟がなくては偉大な芸術は生れない。

散文「人事を越ゆ神事 日本精神の極致顕現」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

文章全体は、関行雄海軍大尉(戦死後二階級特進で中佐)率いる神風特別攻撃隊敷島隊所属の五名による、レイテ沖での体当たり特攻に関する内容です。

この時期、批判的なことを書けるはずもなく、仕方がないといえばそれまでかもしれませんが、「五勇士の壮挙に深い感動」「ヤンキーどもには理解できない五勇士の精神」などと、肯定的に記しています。

それにしても「特攻」と「芸術」を同列に論じるとは、何をか言わんや、という感じですが……。

主要紙地方版記事シリーズです。今回は『朝日新聞』さんの長野県版から。 

偉人・文人、出会いの彫像 高田博厚・生誕120年展 安曇野で/長野県

 ロマン・ロラン、マハトマ・ガンジー、ジャン・コクトー、高村光太郎、武者小路実篤――。直接会ったり交流したりした著名人の肖像彫刻知られる高田博厚(ひろあつ)(1900~87)の生誕120年記念展が、安曇野市の豊科近代美術館で開かれている。語学が堪能で文筆・翻訳家でもあった多才な彫刻家。その生涯を振り返りつつ、約200点の全彫刻作品のうち約150点を紹介している。

 高田は石川県七尾で生まれ、福井市で育った。父は司法官、母は女学校出のクリスチャンという家柄で、15歳ごろには、シェークスピア原文で読むほど英語力が非凡だった。 画学生だった先輩の影響で18歳で上京し、倍ほど年齢差のあった高村光太郎を訪ねて芸術論を交わした。イタリア語も学び、雑誌「白樺」でミケランジェロに関する翻訳を発表。出会った岩波茂雄(岩波書店の創業者、諏訪市出身)から翻訳を任された。このころ独学で彫刻を始めた。
 5人の家族を残して30歳で渡仏。ノーベル賞作家のロマン・ロランをはじめとする文化人らと親交を深め、作品制作を続けた。在欧邦人のために謄写版刷りの新聞「日仏通信」を発行。「在仏日本美術家協会」も設立した。
 第2次世界大戦後に収容所で一時過ごした経験もあり、カンヌ映画祭日本代表や新聞社の嘱託などを務め、57年に帰国。62年に朝日新聞社主催で初めて本格的な個展を開くなど、日本を代表する肖像彫刻家として知名度を高めていった。
 修道院を模して1992年に開館した豊科近代美術館の主要収蔵品として、当時の豊科町がほぼ全作品を収集。常設では約80点を展示している。今回の記念展は生誕100年に続く20年ぶりの開催で、彫刻を始めた初期、フランス滞在期、帰国後、の3章に分けて生涯を振り返っている。
 同館学芸員の塩原理絵子さんによると、高田作品は(1)肖像(2)トルソー(胴体)(3)女性像――に分類される。ロダンらの影響を受けながらも、シンプルな作風を好んだ。「肖像は、その性格までもがにじみ出ていると評価されている。直接交流しているからこその表現でしょう」と解説する。
 2年前に神奈川県鎌倉市のアトリエから出てきた男性トルソーの石膏(せっこう)原型も初展示。試作を重ねながら、体のひねり具合を突き詰めていく過程を紹介する。
 高田の作品は出身地の福井市美術館などでも収蔵しているが、ゆかりのない土地でこれだけそろうのは豊科近代美術館だけ。塩原さんは「作品群を見ていると、誰とでも対等に付き合った高田の生き方がうかがえます。北アルプスの山並みや西欧風の建物と一緒に、作品を楽しんでほしい」とPRしている。
 記念展「パリと思索と彫刻」は8月30日まで開催。午前9時~午後4時半入館、月曜と祝日の翌日は休館。入館料は大人520円、大学・高校生310円。新型コロナウイルス対策で入館者にマスク着用と手指消毒を呼びかける。問い合わせは、同館(0263・73・5638)。

というわけで、豊科近代美術館さんで開催005中の「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」に関してです。

高田は著名な彫刻家ですので、おそらく各紙で同展に関する記事が出ているのではないかと思いますが、交流のあった光太郎の名を出してくださったのは、この朝日さんの記事と、信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さんのみ、当方の情報網に引っかかりました。

それにしても、いまだコロナ禍収束にほど遠く、なかなか遠出するには二の足を踏んでしまう状態です。会期末までにはなんとか伺いたいと思っているのですが、まだ不安が残ります。自家用車で都内を避けるルートで行けば、それほど心配はないようにも感じますが、行った先で千葉ナンバーということで、不安を与えてしまうことにも成りかねませんし(まさか石を投げられるようなことはあるまいとは思いますが)……。ちなみに千葉県もそこそこ感染者が毎日出ていますが、当方自宅兼事務所のある地域はほぼゼロです。などと喧伝しながら歩くわけにも行きませんし……。

本当に困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

同じようなものを並べるなんて前例なくロダンの地獄の門の部分だけですが前例はいつか誰かが作るんだし僕が二つのブロンズの前例を作つていけないことはない。

談話筆記「モニユマンの除幕式」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「モニユマン」は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。昭和28年(1953)10月21日、十和田湖畔での除幕式の日に光太郎が語った談話から。

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「同じものを」云々は、「乙女の像」がまったく同型の像を二体向かい合わせに配したことについてです。おそらく日本の彫刻ではそういう前例はないし、西洋での似たような例としても、ロダンが「地獄の門」で同型の「アダム」を三体並べて「三つの影」としたのみ、というわけです。

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前例がなければ前例を作ればいい、そういう考え方、当方は大好きです。

長野県松本平地区で発001行されている地域情報紙『市民タイムス』さん。時折、一面コラムで光太郎に言及して下さいますが、一昨日も。 

2020.7.5みすず野

こんなに静かな上高地は冬期を除けば初めてだった。ニッコウキスゲやレンゲツツジの花が咲き、梓川の向こうに六百山や霞沢岳がそびえていた。河童橋に都会風の二人連れの姿がちらほら。皆マスクを着けている。山の支度をした人はいなかった彫刻家で詩人の高村光太郎が上高地に滞在して展覧会に出す油絵を描いていた大正2 (1913)年9月、翌年に妻となる智恵子が訪ねて来る。もちろんバスなんか無い時代、 知らせを受けた光太郎は徳本峠を越えて岩魚留まで迎えに行った。その道をたどってみたかったのだ◆明神を経て峠まで7キロほど。さらに岩魚留へ4キロ近くある。恋しい人に会うため、山道を跳ぶ気持ちだっただろう。その思いは終生変わらなかった。 おかげで私たちは詩集『智恵子抄』を手に取り、優しい詩句を口ずさむことができる。〈 あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川〉◆明神池のほとりで、幼い男の子がうれしそうにぴょんぴょんと先へ走り、両親が後ろから見守り歩くのを見た。「坊や幾つ?」と尋ねると、得意げに指3本を立てる。「大きくなったら山へおいで」と願い、峠への登りにかかった。

コロナ禍による人出の減少上高地も例外ではないようですね。経済優先で考えれば大打撃でしょうが、本来の静謐な雰囲気が戻ったという意味では悪くないような気もします。ただ、あまりに閑散、ではやはり困りますが……。


【折々のことば・光太郎】

詩はわたしの安全辨  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?


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大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」には、「詩はおれの安全辨」の一節があります。彫刻と詩、二本柱の光太郎芸術でしたが、彫刻は純粋に造形芸術たるべき、喜怒哀楽や思想信条などが反映されてはいかん、と、光太郎は考えていました。そこで、喜怒哀楽や思想信条などは詩で吐露しようとしたのです。

若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。(「自分と詩との関係」 昭和15年=1940)

そういう意味での「安全辨」ですね。

昨日ご紹介した、安曇野市豊科近代美術館さんの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」に関し、報道が為されています。

信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さん。 

高田博厚の思索に触れる 豊科近代美術館で生誕120年展

 世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の作品を常設展示する安曇野市豊科の市豊科近代美術館で、高田の生誕120年を記念した企画展「パリと思索と彫刻」が開かれている。彫刻を中心に収蔵作品の8割に当たる約150点を展示し、平成4(1992)年の開館以来、展示の根幹を担ってきた高田の作品と生涯に光を当てた。8月30日まで。
 高田博厚は石川県生まれ。若い頃から哲学と語学に秀で、18歳で上京後、彫刻家の高村光太郎らと交流を深めつつ独学で彫刻を始めた。30歳の時に単身渡仏し、第2次世界大戦を挟む26年間をパリで過ごして新聞記者、翻訳、著作の執筆の傍ら彫刻を作り続けた。
 企画展では特に、高田に大きな影響を与えたフランス滞在時代に重点を置いている。大展示室にはフランスで出会った人たちの肖像彫刻が並ぶ。どんな立場の人であろうとモデルに対して誠実に向き合った高田の制作姿勢を感じてもらおうと、交流があったフランスの文豪ロマン・ロランや、インド独立の父マハトマ・ガンジーら著名人と高田の恋人や友人を同じ空間に配置した。代表作でもある女性のトルソー「カテドラル」や渡仏前後の作品もあり、制作活動の変遷をたどることができる。
 学芸員の塩原理絵子さんは「高田の彫刻かは、自身や他人の思想や内面に触れようとする深いまなざしが感じられる。久々に展示した作品もあるので、改めて鑑賞してほしい」と呼び掛けている。
 午前9時から午後5時までで月曜休館。入館料は520円(大学生と高校生310円、中学生以下と市内在住の70歳以上は無料)。
 問い合わせは豊科近代美術館(電話0263・73・5638)へ。


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それから、YouTubeには、同館制作のPV的な動画も。

追記 会期終了後、動画は削除されたようです。

バックに流れるピアノ演奏は、高橋在也氏。高田や光太郎とも交流のあった詩人、高橋元吉のご子孫に当たられる方です。

こちらの動画を見て、ますます行きたくなりました。コロナ禍が落ち着いたら、行って参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

また春から秋にかけては茸や木の芽、山草など豊富で、栗など朝、裏山に出ると一升ぐらいは訳なく拾える。こんなふうで配給でやつていけるし東京などで生活のため悶え苦しんでいるよりどんなに恵まれているか分かない。

談話筆記「太田村にて」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

コロナ禍で、東京一極集中に対する批判や反省が、また強くなってきましたね。

光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村ほどではありませんが、当方自宅兼事務所もなかなかの田舎です。慣れてしまえば田舎暮らしもそれはそれでいいものですよ。

信州安曇野で現在開催中の企画展情報です。 

期 日 : 2020年6月2日(火)~8月30日(日)
会 場 : 安曇野市豊科近代美術館 長野県安曇野市豊科5609-3
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日、祝日の翌日
料 金 : 大人520(410)円 大高生310(200)円 ( )内団体料金

 「仕事をする」ことは「生きる」こと。今年生誕120年を迎える彫刻家・高田博厚が生涯貫いた言葉です。高田の彫刻には、著名人の肖像、男女のトルソ、そして女性像があり、そのどれもが高田にとって重要なテーマでした。高田の制作人生は「東京時代」、「フランス滞在時代」、「帰国から晩年」の三期に分けられます。
 18歳で上京し、高村光太郎に出会って彫刻を始め、岩波茂雄などの知識人と交流を深めました。30歳の時、「これ以上貧乏するなら独りで貧乏しよう」と家族を残し彫刻を学ぶためにフランスへ渡ります。パリでは偉大な彫刻家たちに圧倒され、ロマン・ロランらの作家と交流を深めました。第二次世界大戦中、ドイツでの滞留を経て再びパリへ。1957年、日本へ帰国します。帰国後は制作や執筆活動、大学の講師などをし、鎌倉でその生涯を閉じました。
 高田は、渡仏前は翻訳、渡仏後は、語学力と人脈を生かして日本へ情報を発信し、生活の糧を得ていました。しかし彼にとって「仕事」つまり「生きる」とは、どのような環境にあっても彫刻を作り続けることでした。
 本展では、開館以来、収蔵品の充実に努めてきた高田作品のうち、約150点を展示し、作品の魅力をエピソードとともに紹介いたします。

関連企画:10月、元NHKアナウンサー室町澄子氏講演会開催予定


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高田は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。

彫刻家高田君とは私も長い間交つてゐるが、まだ彼が外国語学校伊語科の生徒であつた頃から今日までの発達の為かたを考へると、此の人こそ何処までものびる生命力を内に持つて生れた人だと思はずには居られない。ただの外的衝動や小さな慾で生きてゆく人でなく、独自の、一本立ちの、内からの要求で育つてゆく人である事に間違ひは無い。
(「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より 昭和5年=1930)


高田は高田で、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国すると、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」審査員を務めるなど、光太郎顕彰に取り組んでくれました。

同館では、これまでも常設展示で、光太郎肖像(昭和34年=1959)を含む高田の作品を多数出していましたが、今回、さらにコレクション展的に充実させた展示を図っているようです。光太郎肖像はもちろん目玉の一つとして並んでいますし、2通のみ現存が確認されている、光太郎から高田宛の書簡も、常設ではコピーの展示でしたが、現物が出ているそうです。

高田と光太郎の交流については、こちらをご覧下さい。高田同様、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が永らく教育長を務められた埼玉県東松山市でも、氏のお骨折りにより高田の顕彰活動がいろいろ進められており、その一環として当方が講師を務めさせていただいた市民講座のレポートです。

さて、同館から招待状も頂いてしまいました。会期が長いのが幸い、コロナの状況を見つつ時間を見つけて行って来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十和田湖はお母さんのやうな所で、芸術を包んで余りあると思つたんです。

座談会筆録「自然の中の芸術」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する発言です。富士山の頂上のような荒涼たる景色には彫刻はそぐわないが、十和田湖のような景観なら、という話の流れでした。

ちなみに高田は「乙女の像」について、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」(『思索の遠近』昭和50年=1975)と述べています。やはりわかる人にはわかるのですね。

1週間ほど前、久しぶりに地域の新刊書店さんに行きました。なぜ久しぶりだったかというと、まぁ、外出自粛の要請に応じ、というのが一つ。それから、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、回りまわっての理由で足が遠のいていました。すなわち、「生活圏外で光太郎智恵子がらみのイベントや展覧会等が催される」→「新幹線や高速バスで移動」→「その車中で読むための新刊書籍(頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等)が必要」→「新刊書店に行って購入」というサイクルだったのですが、最初の「生活圏外で光太郎智恵子がらみのイベントや展覧会等が催される」が無くなってしまったため、以下も無くなっていたわけです。

ところが、あまり長く新刊書店さんに行かないでいると、出版界の情報に取り残される、というか、時代小説や推理小説を買うついでに他のコーナーを見ると、意外と光太郎智恵子がらみの新刊が知らずに出ているのに気づけない、というわけで、1週間ほど前、久しぶりに地域の新刊書店さんに行きました。

案の定、知らずに出ていた光太郎智恵子がらみの書籍を発見。まずはムックです。 

2020年3月31日 山と渓谷社編刊 定価1000円+税

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今年こそ、日本一美しい上高地の高原を歩きましょう!
一冊まるごと上高地号。

■特集 「最も美しい上高地へ」
●巻頭グラフ 上高地、折々の景
●上高地周辺登山地図
●上高地誕生のヒミツ
●第1部 上高地を歩く(大正池、河童橋周辺、小梨平、明神、徳沢)
・ルポ 春の愉快な仲間たち
・ルポ 夏の上高地自然散歩
・イラストマップ 大正池・田代池・田代湿原エリア/河童橋エリア/明神エリア/徳沢エリア/横尾エリア
・ルポ  岳沢トレイルへGO!
・コラム 上高地施設案内 上高地郵便局、インフォメーションセンター、ほか
・ビジターセンタースタッフに聞く、上高地の楽しみ
・エッセイ 斎藤由香〈父・北杜夫と訪ねた上高地の思い出〉
・インタビュー 明神館 梨子田満さん
●第2部 上高地の自然
・上高地は自然の宝庫
・上高地の森と生き物(植物・樹木/哺乳類/鳥類)
・フィールド昆虫記
・グラフ 上高地 春を歓ぶ声
●第3 部 上高地周辺の山々へ
・上高地の古き守り人、陰の立役者たち
・ルポ 焼岳ワンデイハイキング(中の湯〜焼岳〜上高地)
・ルポ 蝶ヶ岳、はじめての北アルプス(徳沢〜蝶ヶ岳往復)
・人物 徳本峠道を守る人々
・上高地から歩く登山ガイド
 霞沢岳、蝶ヶ岳、焼岳、徳本峠越え、涸沢、奥穂高岳、北穂高岳、西穂高岳、前穂〜奥穂
・穂高岳の岩壁
・グラフ 70's~80's  あの日、ボクらはあの山で…、誌面でふり返る涸沢・穂高・上高地
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●特別企画
お~い蕎麦だよ 「乗鞍、奈川、稲核」に在来そばの名店を訪ねて


上記目次の色を変えた項に、光太郎智恵子の名が。

まず、「インタビュー 明神館 梨子田満さん

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次に「上高地の古き守り人、陰の立役者たち」。

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それから、「上高地から歩く登山ガイド」中の「徳本峠越え」。

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最後に、「上高地を知るためのブックガイド」。

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このブログでかつてご紹介した書籍が2冊、紹介され011ています。まず、『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』。同じ山と渓谷社さんで出している「ヤマケイ文庫」の一冊で、同社の編とクレジットされています。光太郎作品は、上高地での感興を題材とした詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」(大正14年=1925)、それから戦後の「岩手山の肩」(昭和22年=1947)の三篇の詩、それからエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)からの抜粋が載せられています。

さらに同じ「ヤマケイ文庫」ラインナップ中の『名作で楽しむ上高地』(大森久雄氏編)。こちらにも「狂奔する牛」全文と「智恵子の半生」の抜粋が載っています。

『名作で楽しむ上高地』の方は、巻末の広告ページにも。

ところで、上高地というと、昨夜のNHKさんのニュースで取り上げられていました。  

宣言解除 上高地へ路線バス再開

北アルプスの玄関口、長野県松本市の上高地では、緊急事態宣言が解除されて初めての週末となった16日、運行を休止していた路線バスがおよそ1か月ぶりに再開しました。

緊急事態宣言を受けて長野県は観光地の宿泊施設などに休業への協力を依頼していましたが、16日から緩和されました。
こうした中、先月18日から運休していた上高地に通じる路線バスが運行を再開し、松本市内のバス停では、午前8時40分の始発に登山客とみられる数人が乗車しました。
運行会社によりますと、感染防止のため車内にアルコール消毒液を置いて利用を呼びかけるほか、客席と運転席との間には飛まつを防ぐシートを設置したということです。
また、運行本数は当面、通常の5分の1の1日3往復に減らし、岐阜県側から上高地に入るバスは県をまたぐ移動をともなうため運休を続けることにしています。
例年、いまの時期は多くの観光客で混雑する上高地ですが、16日は午前中から雨が降り、訪れる人の姿はまばらでした。
松本市に隣接する塩尻市から訪れた71歳の男性は「ことしは初めて来ました。いつもより静かな上高地を楽しむことができました」と話していました。
バスを運行するアルピコ交通の辻善弘・新島々営業所長は、「運休の継続も考えましたが、地元で働く人の足を確保するため再開しました。対策を徹底しながら、段階的に運行していきたい」と話していました。


とりあえず上高地に足を踏み入れることはできるようになったようですが、まだまだ油断は禁物。やはりNHKさんのニュースでは、長野県内の宿泊施設で、感染予防にものすごく神経を使っている、という件も報じられていました。

いつもおなじようなことを書いていますが、コロナに関し、何の心配もなく移動ができるような日が、遠からずやってくることを祈念いたしております。

さて、『山と溪谷2020年5月号増刊 「最も美しい上高地へ」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然直伝  短句揮毫  戦後期?

これもどういうシチュエーションで書かれた言葉なのか当方は存じませんが、おそらく、自らの芸術(特に造型)のありようについての言ではないでしょうか。余計なことをして自然の美しさを損なうことなく、そのまま再現すべし、と。

簡単そうでいて実は難しいことのように思われます。対象物の構造から何から、丸ごとに把握しなければならないわけですから。

新型コロナの影響で、関連行事や集いは中止となりましたが、昨日は光太郎の盟友・碌山荻原守衛の第110回碌山忌でした。

守衛の故郷・信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さん、昨日の一面コラムです

みすず野 2020.04.22

いまから110年前に、30歳5カ月の短い生涯を終えた彫刻家・荻原碌山。しかし、彼は力の限り生きて、いくつかの傑作を残した。現在の安曇野市穂高の碌山美術館で、その作品群に接することができる。中でも絶作「女」には、彼の人生のすべてが込められているとされる◆いまだ見る私たちに、さまざまな思念や解釈を呼び起こす。同美術館学芸員の武井敏さんが昨年、冊子『荻原守衛の《女》』を刊行し、実際にモデルを務めた岡田みどりという女性と、碌山が穂高時代に出会い、ずっと恋い焦がれた相馬黒光(新宿中村屋を創業した相馬愛蔵の妻)の顔写真を並べて掲載、考察した◆ことしに入り、ドイツ文学者で、松本歯科大学元教授の山下利昭さん(安曇野市)は、脚本『私の碌山劇場』を出版し、碌山の苦悩の生涯を描きながら「女」に迫った。碌山にこう言わせている。「しかし、段々と、『母』の姿が重なってきたのです。前に伸ばした手が、いつか後ろに廻って、子供を背負っているのです」◆これほど想像力をかきたてる彫刻作品がほかにあるだろうか。碌山のくめども尽きぬ魅力と言えよう。きょうが碌山忌。

例年ですと、碌山美術館さんにおいて、地元の方々による音楽演奏等や、研究発表・講演などが行われ、夜は「碌山を偲ぶ会」が行われ、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で朗読しているはずでした。

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110年という節目の年でもあっただけに、残念です。

光太郎ゆかりの人物を偲ぶ集い、ということになりますと、例年、7月に福島県川内村で開催されている「天山祭り」。当会の祖・草野心平がその祭りを愛し、心平歿後は新兵を偲ぶ集いとしての要素も組み込まれています。やはり今年で55回目という節目の年でしたが、こちらも早々に中止が決定しています。

このままダラダラと感染が続くと、懸念されている医療崩壊はもちろん、日本中で何の催しも出来なくなってしまうのではないかと、ぞっとしています。封じ込めのためには、とにかく出歩かないことなのでしょうか……。


【折々のことば・光太郎】

其の意気をうれしく思ひました。井戸は掘り抜かねばなりません。

雑纂「「同情録」より」全文 大正2年(1913) 光太郎31歳

雑誌『第三帝国』第二号に載った短文です。創刊号の巻頭言「……故に吾人は帝国主義に反対す、故に吾人は個性中心主義を主張す」を受けてのもの。光太郎自身も詩集『道程』後期の詩篇で、個の鍛冶を打ち出していた時期でもあります。

新型コロナの封じ込め、これもまた「井戸を掘り抜」くような、地道な努力の積み重ねなのかも知れません。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんの仁王門が、国指定登録有家文化財に指定される見通しだそうです。

長野県さんのプレスリリース。

長野市、塩尻市、南牧村に所在する計4件が国の登録有形文化財に登録されます

 本日、令和2年3月19日(木)に開催された文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て、下記建造物の登録について、文化審議会から文部科学大臣への答申が行われました。
 今後、官報告示を経て、登録有形文化財に登録されます。

 善光寺鐘楼   1棟 嘉永6年(1853)/大正15年(1926)改修 長野市大字長野字元善町491イ
 善光寺仁王門 1棟 大正7年(1918)/昭和52年(1977)改修 長野市大字長野字元善町469
 島木赤彦寓居 1棟 明治前期/明治後期増築、昭和30年代改修 塩尻市大字広丘原新田字新田148-1
 旧尾張徳川家本邸主屋(八ヶ岳高原ヒュッテ) 1棟 昭和9年(1934)/昭和43年(1968)移築 南佐久郡南牧村大字海ノ口字西牧場2244-3

※本件が登録されますと、県内の登録有形文化財は、558件(建造物 557件、美術工芸品 1件)になります。

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『中日新聞』さん。

善光寺鐘楼など4件、国有形文化財に指定へ

 国の文化審議会は十九日、長野市の善光寺鐘楼(しょうろう)と善光寺仁王門、南牧村の旧尾張徳川家本邸主屋(おもや)(八ケ岳高原ヒュッテ)、塩尻市の島木赤彦寓居(ぐうきょ)の四件を国の登録有形文化財にするよう文部科学相に答申した。登録されれば、県内の登録有形文化財は五百五十八件(うち美術工芸品一件)となる。
 善光寺鐘楼は国宝善光寺本堂の近くにあり、一八五三(嘉永六)年に再建された。「南無阿弥陀仏」の六つの漢字が由来とされる六本の柱で支えられる。つるされる梵鐘(ぼんしょう)は一九九八年長野冬季五輪で開会を告げるために打ち鳴らされた。
 過去数回、火災で焼失した善光寺仁王門は一九一八年に再建。正面側は幅約十三メートル、高さ約十四メートル、奥行き約七メートルで、屋根の銅板は再建百年に合わせてふき替えられた。両脇に、近代彫刻の巨匠、高村光雲と米原雲海の合作による一対の仁王像が配されている。
 八ケ岳高原ヒュッテは、尾張徳川家第十九代当主が三四年に東京・目白に本邸を建て、六八年の南牧村への移築後、ホテルになった。柱やはりを隠さず、装飾として生かしたハーフティンバー様式で造形の模範と評された。村では初めての登録有形文化財となる。

◆塩尻の島木赤彦寓居、街道の景観に寄与
 島木赤彦寓居(ぐうきょ)は木造平屋の四十二平方メートル。太田家住宅の東側に突き出した「角屋(つのや)」と呼ばれる部分で、八畳の座敷がしつらえられている。北側には特別な客人を迎える際の玄関となる「式台」がある。
 明治・大正期に活躍したアララギ派の歌人島木が、広丘村広丘尋常高等小学校(現塩尻市広丘小)に校長として赴任した一九〇九(明治四十二)年三月から二年間、単身で下宿した。島木の関連施設で善光寺街道の景観に寄与している点などが評価された。
 建築は太田家住宅が建てられた明治前期とされる。住宅は昭和三十年代に建て替えられたが、角屋は主屋と分離して残された。屋根の東西両端に「雀(すずめ)踊り」と呼ばれる棟飾りを載せ、全体を本棟造り風に仕上げている。地元では太田家の屋号で「牛屋」と呼ばれる。
 所有する太田寿美さん(91)は「大切に残してきたので登録は本当にうれしい。今後も建物を後世に引き継いでいきたい。短歌愛好者らにも見てもらえるように考えたい」と話した。


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『朝日新聞』さん。

長野)善光寺の鐘楼、仁王門など、国登録有形文化財に

 善光寺(長野市)の鐘楼と仁王門など県内の文化財4点が、国の登録有形文化財に新たに登録されることになった。19日の文化審議会文化財分科会で文部科学相に答申された。
 国宝に指定されている本堂の近くにある鐘楼は、江戸末期の1853(嘉永6)年に建立。「南無阿弥陀仏」の6字にちなみ6本の柱が立っており、鐘は毎日午前10~午後4時に1時間ごとに鳴る。1918(大正7)年に参道入り口に建てられた仁王門は、日本の近代彫刻の第一人者である高村光雲、米原雲海によって作られた一対の仁王像を配する。
 他に、明治、大正時代に活躍した県出身の歌人・島木赤彦が下宿した塩尻市の「島木赤彦寓居」、南牧村では初めての国登録有形文化財となる「旧尾張徳川家本邸主屋(八ケ岳高原ヒュッテ)」が登録される見込み。県内の登録有形文化財はこれで558件となる。


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『毎日新聞』さん。

国の有形文化財、4件指定へ 善光寺鐘楼や仁王門 /長野

 国の文化審議会は、善光寺鐘楼(長野市)▽善光寺仁王門(同)▽島木赤彦寓居(ぐうきょ)(塩尻市)▽旧尾張徳川家本邸主屋(現・八ケ岳高原ヒュッテ、南牧村)――の4件を国の登録有形文化財に指定するよう文部科学相に答申した。登録されれば、県内の国登録有形文化財は558件となる。
 善光寺の本堂近くにある鐘楼は「南無阿弥陀仏(あみだぶつ)」の6文字にちなんで6本の柱で建てられている。境内の一角を構成し、1998年長野五輪の開会を告げたことでも有名。
 善光寺の本堂に延びる参道上にある仁王門は、両脇に一対の仁王像を安置する重厚な門。何度か焼失し、現在の仁王門は1918年に再建された。
 島木赤彦寓居は、アララギ派の歌人、島木赤彦(1876~1926年)がかつて下宿した建物で、善光寺の街道沿いの様相や地域文化を伝えている。答申された3件の建築物はいずれも「国土の歴史的景観に寄与する」として選ばれた。
 旧尾張徳川家本邸主屋は、戦前を代表する建築家の渡辺仁が建てた高尚な造りの邸宅。「造形の模範」として選ばれた。登録されれば、南牧村初の国の有形文化財となる。



昨年が仁王像開眼100周年だったということで、一昨年から今年にかけ、いろいろと動きがありました。

 信濃善光寺仁王門再建100年・仁王像造立100年 仁王門北側2像ライトアップ。
 善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』。
 善光寺仁王像 初の本格調査。
 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
 新聞各紙から。
 信州善光寺仁王門写真コンテスト。
 信州レポート その2 信州善光寺。
 新聞各紙から。
 信州善光寺仁王像関連。
 光雲関連。
 第14回善光寺サミット。
 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
 「善光寺仁王門の改修工事」他。
 信州善光寺仁王門工事見学会。

ニワトリが先か、卵が先か、文化財指定の動きが先か、いろいろとやった結果の文化財指定か、そのあたりは不明ですが、実に良いことだと思います。

ただ、今回は、あくまで建造物としての仁王門の登録ですので、仁王像は含まれていないのでしょう。そちらの文化財指定も待たれるところです。

ちなみに光太郎智恵子がらみの国登録有形文化財、現存するものでは、同じ信州の上高地にある徳本峠小屋(大正2年=1913、光太郎智恵子が立ち寄りました)、やはり長野県の塩尻市古田晁記念館さん(高田博厚作の光太郎胸像などが展示されています)、戦後、光太郎がたびたび宿泊した花巻温泉松雲閣別館などがあります。

ただ、建造物の国登録有形文化財は、文化庁さんのサイトに拠れば現在47都道府県945市区町村で12,000件以上ですので、調べればもっとありそうな気もします。

単に保存のみでなく、有効活用の道も探っていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

紅葉でなくて黄葉ではありますが、信州上高地徳本峠の山ふところに密生する桂の黄葉は確に推薦に値ひします。

アンケート「徳本峠――紅葉郷――」より 大正11年(1922) 光太郎39歳

上記にもちらっと書いた上高地徳本峠。確認できている限り、光太郎がここを訪れたのは大正2年(1913)、智恵子との婚前旅行の一度きりですが、かなり深く印象に残ったのでしょう。その後も繰り返し、その美しさを文章にしたためています。

光太郎の親友にして、ロダンに学んだ碌山荻原守衛関連です。


まずは長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんの記事

穂高柏原の山下さん 碌山の生涯脚本に

 ドイツ文学者で松本歯科大学元教授の山下利009昭さん(71)=安曇野市穂高柏原=はこのほど、穂高出身の彫刻家・荻原守衛(碌山、1879~1910)を主人公にしたオリジナル脚本『私家版(紙上公演) 私の碌山劇場』を出版した。三つの彫刻が制作された背景を追うことで芸術に情熱をささげた苦悩の生涯を描きつつ、謹厳実直なだけでなく自らの気持ちに従って自由に生きようとした碌山の姿に迫った。
 碌山は、新宿中村屋を創業した同郷の先輩・相馬愛蔵の妻・良(黒光)への恋心に苦しんでいた。脚本では、こうした状況の中で碌山が作った彫刻のうち、腕組みをする僧の半身像「文覚」、絶望した女性が身を投げ出す「デスペア」、絶作の「女」を取り上げながら、制作の過程と2人の物語を描き出している。文覚とその愛人の「袈裟」、フランス留学中に碌山が師事した彫刻家・ロダンの弟子で愛人の「 カミーユ」、黒光の次男で病床の「襄二」なども登場しており、さまざまな人とのやり取りを通して新たな碌山像を浮かび上がらせている。
 碌山は第1次世界大戦前のアメリカとパリで学び、自由な考え方に触れた。山下さんは「脚本を通して、当時の日本人としては画期的な考えを持っていた碌山について、思いを巡らせてもらえたら」と話している。
 脚本の一部は、碌山美術館開館60周年記念として昨年1月、館友の会(幅谷啓子会長)が松本市のまつもと市民芸術館で開いた演劇公演の原作となった。出版にあたって加筆、修正し昨年末に完成した。

明治43年(1910)、数え32歳で早世した守衛ですので、比較的長寿だった光太郎とは異なり、もはや直接面識のあった人はすべて亡くなっています。しかし、地元での碌山敬愛度は半端ではなく、毎年4月22日の碌山忌は100回を超えても盛会のうちに執り行われています。

山下氏のご著書、光太郎にふれられているかどうか不明ですが、伝手(つて)を頼って入手できれば、と思っております。


次いで、記事にもある守衛絶作の「女」。ミニチュア複製が新たに販売され始めましたので、ご紹介します。 

藝大×東博 荻原守衛作「女」小品ブロンズ像

東京国立博物館と藝大の共同プロジェクトでよみがえった荻原守衛の重要文化財「女」

 東京国立博物館と東京藝術大学彫刻科塑造研究室の共同研究で、荻原守衛の重要文化財「女」が鋳造再現された。
 東京藝術大学アーカイブセンターの最新鋭の技術でよみがえった、近代彫刻史上の記念碑的作品をご家庭にお届けする。

 ひざまずき腰の後ろで手を組み、体をねじりながら伸び上がる女性。表面的な写実ではなく、内的な生命に重きがおかれた表現は、ロダンの彫刻の本質を理解した作品として、日本彫刻史上で高く評価されている。明治時代以降の彫刻で初めて重要文化財に指定された作品でもある。
 「女」には、荻原守衛没後に鋳造されたブロンズ像が複数種類あるが、本作は守衛が最終段階の石膏取りを行なった、オリジナルの石膏原型を基にしている。その3Dデジタルデータを計測し、東京藝術大学鋳金研究室が1/1スケールのブロンズ像を鋳造。それを縮小し、限定制作(エディション)したのが本作品だ。最新のデジタル技術とアナログ技術の融合で、小品ながら守衛の手の痕跡や息遣いまでもがよみがえっている。

 台座は幅19×奥行き16×高さ5cm。像は最大幅14×奥行き13×高さ25cm。重量3.3kg。台座は木。像はブロンズ。桐箱入り。日本製。

 価格 396,000円


※受注生産品のため返品・キャンセル不可。
※代引き不可。

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像高25㌢だそうで、オリジナルの4分の1くらいでしょうか。こういうのも有りなのですね。

「女」は、守衛が亡くなった際、新宿角筈のアトリエに粘土原型のまま残されていました。モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところを、光太郎が残すように進言したそうです。光太郎、ファインプレイでしたね(笑)。

資金力に余裕のある方、ぜひどうぞ。

ところで、昨年、上田市ご在住の田丸めぐみ様とおっしゃる方が、守衛関連のご著書を刊行されそうです。4月2日(木)の連翹忌にご参加下さり、お持ち下さるとのことですし、4月22日の碌山命日には、上田で朗読会的なイベントをなさるとのこと。また改めて紹介させていただきます。


【折々のことば・光太郎】

俗気に満ちた画家連の写生した上高地近辺の写生画を見て上高地を想像しては間違ひです。あんなヘナチヨコな山や水ではない。悪画家は山水の自然を瀆します。

アンケート「夏の画材を猟りに行く処」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

守衛の生まれ育った信州にある上高地。大正2年(1913)には、智恵子ともどもここを訪れ、結婚の約束を交わしました。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

例年ご紹介しています、信州善光寺さん周辺でのイベントです期 日 : 2020年2月6日(木)~11日(火・祝)
会 場 : 善光寺周辺、長野駅前西口、善光寺表参道
時 間 : 18:00~21:00 ※最終日は 18:00~20:00まで
料 金 : 無料

長野冬季オリンピックを開催した冬の聖地として、オリンピックの平和を願う精神を受け継ぐ長野灯明まつりは、戦後75年にあたる本年、平和への想いを新たに、世界に向けて「平和への灯り」を灯します。また、台風19号激甚災害からの復興の旗印として、サブテーマに「災害復興」を掲げ開催します。

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・ オープニング特別ライトアップ 017
第十七回長野灯明まつりは「平和への灯り」をテーマに開催され、開会初日となる2月6日開会式には、石井リーサ明理氏によるレーザー演出で、長野灯明まつりのオープニングを華やかに彩ります。
日時:2月6日(木)18:00~21:00 場所:善光寺山門

・ 「ゆめ常夜灯」
テーマ「世界へ向けて平和と友好の光を発信」
ジャポニスム2018エッフェル塔特別ライトアップで、世界的規模の照明学会よりIES最優秀賞を受賞した、国際的照明デザイナー石井幹子氏による善光寺ライトアップは、冬の夜空を彩る長野灯明まつりを象徴する情景です。
災害復興支援をサブテーマに特別な開催となる第十七回長野灯明まつりでは、石井幹子先生のご好意により、エッフェル塔特別ライトアップで使用された機材を長野にお持ち込みいただき、善光寺本堂を黄金色にライトアップします。オリンピックイヤーとなる本年、そして長野災害復興元年としての特別なライトアップをお楽しみください。


・ 「ゆめ灯り絵展」
長野灯明まつりを象徴する情景となった「ゆめ灯り絵展」に、小学校の卒業記念制作として子ども達の夢を切り絵に描き、8年後の20歳になる年にまた展示される「未来のゆめ灯り絵展」を新たな試みとしてスタートします。ふるさとの子ども達が健やかに育ち、ゆめを育み大きく成長する姿をまちが一体となって後押しする「未来のゆめ灯り絵展」に、多くのご参加をお待ちしております。
<作品展示> 善光寺表参道大門石畳通り

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他に宿坊・ゆめ茶会(毎日)、復興灯明バル、復興ゆめ福引き、災害復興スノージャンプイベント、特別講話、きり絵展など

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例年ですと、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になり、昨年、開眼100周年を迎え、一昨年からいろいろな取り組みが行われている信州善光寺さんの仁王像が安置される仁王門のライトアップも為されてきましたが、改修工事中ということで、今年はそちらのライトアップは為されないようです。

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昨年の台風による被害からの復興支援という意味合いも込められています。ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

放埒的生活と言ふのは心の遊惰と言ふやうなものばかりを意味するのではなく、物堅く几帳面な所謂良妻賢母にも矢張精神的放埒のある事を意味している。すなわち根本を持つてゐない生活、精神的のその日暮らしを言ふのである。それは堕落したものであり、眠つた状態である。

談話筆記「家庭に於ける真の平和」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

他律的な生き方を送っている者は、たとえきちんきちんと日々の暮らしを構築しているとしても、無自覚という点に於いては「放埒」なのだ、ということでしょう。手厳しいですね。





光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になり、昨年、開眼100周年を迎え、一昨年からいろいろな取り組みが行われている信州善光寺さんの仁王像がらみです。

まず、地元紙『信濃毎日』さん、1月18日(土)の記事から。 

善光寺・仁王門の屋根、改修工事 銅板寄進で願い事

 長野市の善光寺事務局は、再建から100年余を過ぎた仁王門の屋根の改修工事を進めている。屋根にふく銅板の寄進を呼び掛けており、寄進者が銅板に願い事を書き込むことができる。事務局は「周囲の人たちの支えと共に、仁王門を後世に伝えていきたい」としている。

 木造平屋で切り妻造りの仁王門は1918(大正7)年の再建。77(昭和52)年に屋根を瓦ぶきから銅板に変えて以来の改修となる。工事は昨年11月初旬に始まり、今年3月下旬に完成する予定。銅板の寄進は1枚2千円からで、予定の2千枚に達し次第終える。既に受け付けており、埼玉県の会社員野田力さん(47)は「多くのご縁を頂いている大切な場所。何か残すことができたら」と寄進した。

 仁王門は、彫刻家高村光雲(1852〜1934年)や弟子の米原雲海(1869〜1925年)が手掛けたとされる仁王像などを安置。松本市出身の彫刻家太田南海(1888〜1959年)も関わった。東京芸大大学院の研究室などの調査で、仁王像が、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが判明している。

 善光寺は仁王門や仁王像などの調査を進め、指定文化財化を目指す。25日には現地見学会を開く。申し込みが必要で、問い合わせは同寺事務局(電話026・234・3591)へ。

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記事の通り、現地見学会が催されます。 

仁王門屋根改修工事見学会

期 日 : 2020年1月25日(土)
会 場 : 信州善光寺 仁王門
時 間 : 1回目 午後1時 2回目 午後2時 3回目 午後3時
料 金 : 無料

善光寺仁王門では、令和元年11月から令和2年3月中旬までの期間にて、屋根改修工事を行っております。
再建から100年を迎えた歴史ある建造物へのご理解を深めていただくため、「工事見学会」を下記日程にて開催することになりました。日頃より善光寺を支えてくださる方々にご参加いただきたく、ご案内させていただきます。
事務局までお電話にてお問い合わせください。
☎ 026-234-3591(代) 受付時間:午前9時~午後4時30分
 
・定員になり次第、締め切りとさせていただきます。
・工事用の通路、階段を使用します。安全確保のためヘルメットを着用いただきます。
(ヘルメットは当方で用意します)


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昨年暮れには仏教系の業界紙『中外日報』さんでも、改修工事の件を報じていました。それから、屋根の銅板寄進についてはこちら

また、善光寺さんでは、毎年恒例の「灯明まつり」も企画されています。近くなりましたら詳細をご紹介します。ただ、そちらは2月初旬から中旬。仁王門改修工事の終了が3月という予定ですので、例年為されている仁王門のライトアップはどうなるのか、と思っております。

週末の現地見学会、ご都合の付く方はぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

めづらしく透きとほつた雰囲気を感じました、そして又ほんとに生きてゐる一人の人を感じ、進んでゆく人を感じました。

散文「永瀬清子詩集『焔について』」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

永瀬清子については、こちら

長野から演劇公演の情報です。 

thee第13回公演『売り言葉』

期 日 : 2020年1月18日(土)・19日(日)
会 場 : 
ギャラリー花蔵 長野市東町147
時 間 : 1/18 19:00   1/19 14:00
料 金 : 前売2,000円/当日2,300円

彫刻家・高村光太郎と妻・智恵子との純愛を綴った詩集『智恵子抄』。穢れなき澄み切った愛の言葉で溢れ返る詩の数々は、光太郎と智恵子の愛慕の念を、忠実に映し出して………いるのだろうか? 智恵子と女中が表裏一体の存在となり、光太郎の出会いから自身の死までを物語る。智恵子が『智恵子抄』へ突きつけた“売り言葉”とは、果たして。

出演 島崎美樹 ミズタマリ

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平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主演・大竹しのぶさんで初演された、登場人物は智恵子のみの一人芝居「売り言葉」。なぜか昨年は、確認できている限り6つもの劇団/個人の方々が全国各地で上演なさいました。少人数のキャストでできる点が一つの要因なのでしょうか。もっとも、野田氏の脚本のすばらしさ(光太郎ディスり度が半端ないのですが)も当然あるでしょう。

今回の劇団theeさんも10月に同じ会場で公演を行い、その再演です。10月の公演では、長野県内にも甚大な被害をもたらした台風19号の影響で、予定していた公演のうち休止を余儀なくされた回があったそうで、そのために再演ということなのかもしれません。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人にとつて俗臭ほど風上に置けぬものはない。随分立派な詩も書き立派な見識も持つてゐる詩人でありながらその詩人全体としては一個の俗物に過ぎないといふことがいくらもある。一見高尚な詩誌でありながら俗な底意地の隠し難いものも少くなかつた。

散文「所感――『詩と詩人』第五十輯記念号――」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

ここでの「俗」は、「低俗」ということですね。「品がない」とか、「悪趣味」とかの。

仏教系のタブロイド紙『中外日報』さんの記事から。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になり、今年、開眼100周年を迎え、昨年からいろいろな取り組みが行われている信州善光寺さんの仁王像がらみです。 

善光寺仁王門の改修工事 中村建築研究所

長野市の善光寺は現在、仁王門の改修工事を進めている=写真(善光寺提供)。小屋裏の修理と屋根を葺き替える工事で、来年3月に完了する予定。11月末に仁王門をすっぽり覆う「上屋」が完成し、屋根の銅板を剥がして木部の修理に掛かる。設計は中村建築研究所、施工は北野建設(いずれも長野市)。
仁王門は100年前の1919年に本瓦葺き、総ヒノキ造りで建立され、約50年前に銅屋根に葺き替えられている。
同寺の松田信光営繕部長は「『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』を機に北野建設に門の調査を依頼したところ、屋根と小屋裏が雨漏りしていた。善光寺顧問建築士の高橋賢二・中村建築研究所会長に相談し、令和の改修工事をすることになった」と話す。
仁王像は高村光雲とその弟子・米原雲海による作品で、門の工事中も透明パネル越しに拝観できるという。



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先週のこのブログで、改修工事に伴う屋根の銅板寄進についてご紹介しましたが、なるほど、現在はこういう状態になっているのですね。仁王像、「門の工事中も透明パネル越しに拝観できるという」というのが粋な計らいです。

また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、来年2月初旬からは例年行われている「長野灯明まつり」。おそらく、それに間に合うように進めているのでしょう。


ちなみに、仁王門とは直接関わりませんが最近の善光寺さんの様子を少しご紹介します。

12月9日(月)、NBS長野放送さん。 

正月の縁起物に魂入れる『開眼法要』 善光寺で新年への準備進む 「来年は穏やかな年になるように…」

長野市の善光寺では、正月の縁起物などに魂を入れる開眼法要が行われました。

新年への準備が進む長野市の善光寺。
本堂では、9日朝、正月の縁起物の開眼法要が行われました。
住職ら8人がお経を唱え、だるまや守護矢など50種類に魂入れを行いました。

善光寺・小林順彦寺務総長:「全国各地で台風が猛威を振るい、長野でも多くの方が被災した。心が詰まる思いがしている。(来年は)穏やかな年であるように、それだけを願っております。」

正月用の縁起物は、きょう9日から授与が始まるということです。


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SBC信越放送さん、12月10日(火)。 

冬のもてなし映像を外壁に投影 JR長野駅

JR長野駅で壁に映像を映し出し冬のイベントなどを紹介する演出が始まりました。
長野駅の善光寺口の壁に昨夜から映し出されたのは、長野市街地で行われる表参道イルミネーションや長野灯明まつりなどの映像です。
長野市とJR東日本長野支社が始めたもので、駅前広場のクリスマスツリーと合わせて楽しむことができます。
映像には、県のPRキャラクターアルクマも登場し、金沢まで新幹線が延びて5年となる北陸新幹線も紹介しています。
映像は来年2月16日まで映し出されています。



というわけで、善光寺さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

「佐藤惣之助」「萩原朔太郎」「北原白秋」と日本が誇る詩人が次々とみまかつてゆくことは、哀しいとか惜しいとかいつたものを通り越して、自分は何かかう怒つてみたい様な激動を覚えてならぬのです。

談話筆記「天性の詩人白秋」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

この年、朔太郎は5月11日、佐藤がその4日後の同月15日、そして白秋は11月2日に亡くなりました。ちなみに詩人ではありませんが、光太郎や白秋の姉貴分・与謝野晶子も同年5月29日に亡くなっています。

昨日、光太郎の父・高村光雲関係をご紹介しましたので、その流れで。

光雲とその高弟・米原雲海の手になり、今年、開眼100周年を迎え、昨年からいろいろな取り組みが行われている信州善光寺さんの仁王像がらみです。以下、善光寺さんのサイトから。 

仁王門屋根改修銅板ご寄進について

~ あなたの願いを書き込んだ銅板が、末永く仁王門の屋根に残ります ~

「善光寺仁王門」は、大正7年(1918年)に再建され、平成30年(2018年) に100年となる節目を迎えました。建物には高村光雲、米原雲海の合作による「仁王 像」及び「三宝荒神・三面大黒天立像」が安置され、今日まで護り引き継がれております。 善光寺では、この貴重な文化遺産を後世に伝えていくため、この度関係各位のご理解を いただき屋根改修工事に取り組むことになりました。 葺き替えにあたり、「屋根銅板」のご寄進を賜りたくお願い申し上げる次第です。

【銅板寄進】
願文・お名前をご記入いただいた銅板が、仁王門の屋根瓦として 末永く残ります。
奉納銅板 : 1 枚 2,000円~
頒  布  数 : 2,000枚 (予定数に達した場合は、終了となります)
受付期間 : 令和元年11月15日~令和2年1月中旬

※ お電話及び郵送での受付は行っておりません。お申し込みは、善光寺境内の寄進所にてお願い申し上げます。

 ■お問い合わせ■ 善光寺事務局  電話:026-234-3591 (代)午前 9 時 00 分~午後 4 時 30 分、年中無休

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善光寺さんの仁王像についての昨年からの動きに関しては、以下をご参照下さい。

信濃善光寺仁王門再建100年・仁王像造立100年 仁王門北側2像ライトアップ。
新聞各紙から(その1)。
善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』。
善光寺仁王像 初の本格調査。
第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
新聞各紙から。
信州善光寺仁王門写真コンテスト。
信州レポート その2 信州善光寺。
新聞各紙から。
信州善光寺仁王像関連。
光雲関連。
第14回善光寺サミット。


初詣等に行かれる方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

どんな巧者な、立派に見えるものでも、誠実なこころから出てゐないものは取るに足らない。まことの思ひをつきつめたところから出て来る言葉は、どんなに平俗に見える時でも、俗悪ではない。思ひ上つた技巧ばかりの言葉は却つて俗なものである。

散文「『職場の光』詩選評 九」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「責任を痛感しております」、「国民の皆様の信頼を回復していきたいと思います」、「私の不徳の致すところ」、「真摯に受け止めなければならないと思います」、「全力を挙げていきます」(笑)。

まずは、これからの紅葉シーズンを見越して、一昨年に放映された番組の再放送です。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地」

NHKBSプレミアム 2019年10月17日(木) 午前6時00分~6時30分

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓
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信州上高地、大正2年(1913)に、光太郎と智恵子が結婚の約束を交わした地です。麓の新島々から上高地までの、岩魚止小屋、徳本峠を越えるかつてのメインルートを、モデルの仲川希良さんが2日間かけて歩くというコンセプトです。途中、光太郎智恵子のエピソードにも時間を割いて下さっています。

続いて、やはり光太郎智恵子が訪れ、光太郎詩碑などが建っている草津

ブラタモリ#146「草津温泉~最強の湯力とは?~」

NHK総合 2019年10月19日(土) 19時30分~20時15分
追記 台風関連の報道のため、11月2日(土)に放送日が変更になりました。


人気の秘密は「たっぷり・アツアツ・ピリピリ」!三拍子そろった最強の「湯力」にあり!草津温泉の謎をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽草津伝統の「湯もみ」を体験

「ブラタモリ#146」で訪れたのは群馬県の草津温泉。「草津温泉が誇る最強の湯力とは?」という旅のお題にタモリさんが迫る▽100%源泉かけ流しを実現する豊富な湯量「たっぷりの湯」。そして湯畑の源泉は52度!さらに強酸性の「アツアツ・ピリピリの湯」を生み出す本白根山のメカニズムを探る▽豊かな泉質へのこだわりが「湯もみ」を生んだ!?▽湯力が強すぎて困る!?草津の人々の悩みとは▽湯畑のデザインは岡本太郎!

出演 タモリ/林田理沙アナウンサー  ナレーション 草彅剛  テーマソング 井上陽水
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まず光太郎には触れられないとは思いますが、左の画像、タモリさんと林田アナの背後に写っている石柵に、草津に歩みし百人」ということで、記録に残る来訪者100人の名と来訪年等が刻まれ、光太郎の名も刻まれています。それが写るかもしれません。

同じ柵に、光太郎の師・与謝野鉄幹/晶子夫妻の名も刻まれています。

その晶子系でもう1件。

朝の!さんぽ道 「秋に行きたい街!勝浦(2)」旅人:中山エミリ

テレビ東京 2019年10月22日(火)  7時35分~8時00分

“新鮮伊勢海老”に“獲れたてサザエ”「秋に旬の食材」や季節の絶景を求めて、「秋に行きたい街」千葉県・勝浦を歩きます!

『秋に行きたい街』さんぽ!2日目も港町・勝浦を歩きます▼早朝の漁港さんぽで発見!大漁の伊勢海老にBIGサザエ、更には…リアルハトヤ!?▼朝獲れ伊勢海老…丸ごと使った絶品うどん、そのお値段に驚き!?▼江戸時代に活躍した名工「波の伊八」の彫刻に影響を受けた「超有名人」とは?▼与謝野晶子ら多くの文豪に愛された景勝地…その絶景に感動!

出演者 中山エミリ

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今はすべてが根源から起る。素朴原始に平然たれ。

散文「新しき美について」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

太平洋戦争中の文章で、全体の趣旨は日本の伝統文化に顕現せる精神で非常事態にあたるべし、的なきな臭い内容なのですが、部分的に見ればいいことを書いている箇所も散見されます。

長野県から演劇公演の情報です。

thee第13回公演『売り言葉』

期  日 : 2019年10月5日(土)・6日(日)・12日(土)・13日(日)
会  場 : ギャラリー花蔵 長野市東町147
時  間 : 10/5 19:00~ 10/6 14:00~ 19:00~ 10/12 14:00~ 19:00~ 10/13 14:00~
料  金 : 前売2,000円/当日2,300円
出  演 : 島崎美樹/ミズタマリ
演  出 : 長峯亘

thee13回目の、2019年最初で最後の公演は、初めて非オリジナル作品に挑戦します。野田秀樹の戯曲『売り言葉』を、ふたり芝居で。

〈あらすじ〉
彫刻家・高村光太郎と妻・智恵子との純愛を綴った詩集『智恵子抄』。穢れなき澄み切った愛の言葉で溢れ返る詩の数々は、光太郎と智恵子の愛慕の念を、忠実に映し出して………いるのだろうか?智恵子と女中が表裏一体の存在となり、光太郎の出会いから自身の死までを物語る。智恵子が『智恵子抄』へ突きつけた“売り言葉”とは、果たして。

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平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主演・大竹しのぶさんで初演さた、登場人物は智恵子のみの一人芝居「売り言葉」。今年はその当たり年のようで、先月には池袋で劇団evkk(エレベーター企画)さんによる公演、今月は新宿でサキクサ創刊号公演・大塚由祈子ひとり芝居『売り言葉』として、それぞれ上演されましたし、また近くなりましたらご紹介しますが、12月には岡山で公演があります。

「モラハラ」という言葉がまだ無かった(有ったかも知れませんが一般的ではなかったでしょう)平成14年(2002)に、光太郎からのモラハラが主因で壊れていく智恵子を描いた野田氏の脚本・演出は、なかなか秀逸でしたし、当方、テレビ放映で見たのですが、大竹さんしのぶさんの鬼気迫る演技も忘れられません。ただ、実際にどの程度光太郎からのモラハラがあったかは闇の中ですが。

その「大御所」二人がやったそのままを再現するのではなく、今回のtheeさんもそうですが、本来一人芝居であるものを二人芝居にしてみたり、近代的で大きな会場ではなく古民家的な場所を使ったりするなど、最近、この作品を取り上げられる皆さんは、それぞれに工夫をなさっているようです。

御都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

無識(イグノランス)は一種の罪悪である。無識に甘んずる心は一種の破廉恥である。識らずして無識に安住する者は世に最も醜悪なものである。識らうとする心の無くなつた時、人は死に一歩を踏み入れたのである。

散文「真に鑑賞する心」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「無識」は「探求心・知的好奇心を持たない状態」といったところでしょう。ある意味正論です。

ただ「正論」も時と場合によりけりで、智恵子にこうした考えを押しつけていたとすれば、そうした行為は「ロジカルハラスメント」(略して「ロジハラ」)または「正論ハラスメント」と言うそうです。

また、「正論」も、当人が「正論」と思っているだけで、はたから見ればへそで茶を沸かすような内容だったりすることもあります。光太郎に限ってはそういうことはなかったように思われますが。

今年、開眼百周年を迎える信州善光寺さんの仁王像。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になるものです。百周年を記念し、昨年からいろいろとイベント等が組まれていました。

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 新聞各紙から。
  

の集大成的なイベントが近々行われます。

状況をわかりやすくするために、『信濃毎日新聞』さんの記事から。

ゆかりの寺社集い「善光寺サミット」 10月3・4日

 全国各地の善光寺ゆかりの寺社が集まる「第14回善光寺サミット」が10月3、4日、長野市内で開かれる。同市の善光寺とゆかりの231寺社でつくる「全国善光寺会」が主催。3日にホテルメトロポリタン長野で開く記念講演会(午後1時〜3時半)には、イラストレーターのみうらじゅんさんが登壇。1919(大正8)年の仁王像開眼から100年の節目を迎え、像を調査した研究者が結果を報告する。
 講演会は2部構成。第1部は「善光寺仁王門諸像の魅力について」と題し、大分大教育学部教授の田中修二さん、東京芸大大学院非常勤講師の藤曲隆哉さんが話す。これまでの調査で、仁王像の足が台座に固定されず、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることなどが分かっている。第2部はみうらさんが「マイ仏教」をテーマに語る。
 4日は、全国29カ寺の住職らによる善光寺本堂での記念法要(午前9時半)の後、住職らが参拝者に御朱印を授け、交流する「全国善光寺朱印めぐり」(午前10時半〜午後3時半)がある。甲府市の甲斐善光寺、岐阜県の昼飯(ひるい)善光寺(如来寺)、兵庫県の相生善光寺など、宗派を超えた18寺院(現時点)の住職らが参加する。
 サミットは善光寺ゆかりの寺社の親睦を目的に、1993年から隔年で開いている。講演会は聴講無料で、申し込みは9月25日までに善光寺事務局(電話026・234・3591)へ。


というわけで、要項的には以下の通りとなります。

第14回善光寺サミット

期 日 : 2019年10月3日(木)・4日(金)
会 場 : 10/3 ホテルメトロポリタン長野  長野県長野市南石堂町1346
      10/4 信州善光寺  長野県長野市大字長野元善町491
料 金 : 無料
日 程 : 
 10月3日(木) 
  13:15~  記念講演 『善光寺仁王諸像の魅力について』
         講師 田中修二氏(大分大学教授)
            藤曲隆哉氏(東京藝術大学大学院非常勤講師)
  14:30~  記念講演 『マイ仏教』
         講師 みうらじゅん氏(漫画家、イラストレーター)
 10月4日(金)
  9:30~   記念法要 善光寺本堂内
  10:30~15:30 全国善光寺朱印巡り


講演の講師を務められるお三方のうち、田中氏と藤曲氏は、昨年から行われていた仁王像の本格調査に加わられていました。田中氏は光雲や光太郎に触れた『近代日本最初の彫刻家』(平成6年=1994、吉川弘文館)、『近代日本彫刻史』(平成30年=2018、国書刊行会)、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(平成30年=2018、トポフィル、共著)などのご著書があり、藤曲氏は平成27年(2015)に行われた仁王門北側の二像(三面大黒天・三宝荒神)の補修にも関わられています。みうら氏は、互いを仏友(ぶつゆう)と認め合ういとうせいこう氏との共著で『見仏記』シリーズ(平成5年=1993~、中央公論社他)を著され、平成13年(2001)にはテレビ番組にもなりました。このシリーズは碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人 宗教と美の近現代』(平成30年=2018)でも取り上げられています。

こうしたディープな講師陣による講演が為されるので、ぜひ参加しようと思っていたのですが、この前後に別件での遠出が重なっており、非常に残念ながら断念いたしました。そうなると、今年4月に善光寺さんに参拝しておいて正解だったな、という感じです。

皆様、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

比重の低いほど感情は清潔だ 0度に「至ればたとへば神だ

詩「提要」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

翌年の雑誌『スバル』に「冷熱」と改題、内容も改訂されて発表された詩の初稿から。

光太郎詩には珍しく、難解で象徴的な詩句ですが、それだけに色々な読み取り方ができそうです。

8月17日(土)、信州上田市のサントミューゼ上田市立美術館さんに「没後100年村山槐多展」を拝見に行きましたが、その前後のレポートを。

盆明けのUターンラッシュの時期ということで、それを避けるため未明のうちに千葉の自宅兼事務所を出ました。2時間ほど愛車を走らせたところで、休憩兼仮眠。そして早朝のうちに長野県に入りました。

上田に行く前に、思い立って上信越道を小諸で下車。有名な懐古園を目指しました。こちらには、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝となった、髙村豊周の手になる島崎藤村詩碑があります。詩は「小諸なる古城のほとり」(明治38年=1905)です。

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約35年ぶりに拝見。さすがに35年前より苔むしているようで、傍らの標柱的な碑に刻まれた豊周の名も判読しにくくなっていました。

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建立は昭和2年(1927)。豊周が母校・東京美術学校の鋳金科で教壇に立っていた頃の作です。

豊周の回想『自画像』(中央公論美術出版・昭和43年=1968)に拠れば、有島生馬を通じて依頼があり、藤村ファンでもあった豊周、快く引き受けたとのこと。今でこそ珍しくなくなりましたが、ブロンズに蠟型鋳金で鋳造した詩碑というのは、日本初だったということです。有島はせっかくの藤村碑、ありきたりのものにしたくないとの思いから、豊周の鋳金技術に白羽の矢を立てたそうで。

除幕式には有島や、この詩に曲を付けた作曲家の弘田龍太郎、さらに村山槐多の従兄・山本鼎らも出席したそうです。

その後、一般道で上田市へ。

ところで、帰ってきてから、「しまった」と思いました。「小諸」、「豊周」といえば、「疎開」というのを失念しておりまして。豊周の一家、昭和20年(1945)に、現在の長野県中野市に疎開しましたが、中野に落ち着く前の半月ほど、小諸にいたのです。それをすっかり忘れていました。

調べてみましたところ、豊周一家が滞在していたのは「粂屋」という旅館とのこと。何と、健在でした。しかも、江戸時代に脇本陣だった昔の建物をリノベーションしたシャレオツな宿として、実にいい感じに残っています。またあちら方面に行く機会もあろうかと思いますので、その際には見てこようと思いました。

さて、上田。まだサントミューゼさんは開館前の時間でしたので、郊外の塩田平方面に愛車を向けました。こちらには、疎遠になってしまいましたが、父親の実家があります。申し訳ありませんがそちらには寄らず、祖父母・伯父・叔母らの眠る墓に参りました。平成25年(2013)以来、6年ぶりでした。

その後、ほど近い別所温泉へ。

子供の頃からよく入った共同浴場・石湯さん。入湯料たったの150円です。長距離運転の疲れを癒しました。

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池波正太郎の『真田太平記』に何度か登場し、かの真田幸村公がここで「男」になったという設定になっています。

上田電鉄別所線・別所温泉駅。レトロ感あふれるいい感じです。

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静態保存されている車両・モハ5250。

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この丸窓が特徴です。

昭和2年(1927)建造の車両ということですが、この年、光太郎も別所温泉に来ています(宿泊先等は不明)。もしかするとこの車両に乗ったかもしれません。また、昭和2年というと、当方の父はまだ生まれていませんが、祖父母・曾祖父母あたりがもしかすると光太郎と遭遇しているかも知れないな、などと想像をふくらませました(笑)。


その後、塩田平に戻り、父親の実家にほど近い無言館さんへ。


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かつて近くにあって、村山槐多の作品などを展示していた信濃デッサン館さんの姉妹館で、こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

信濃デッサン館さんにはやはり6年前に参りましたが、こちらは約15年ぶりでした。

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遺作が展示されている戦没画学生、多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科卒業後に西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろに光太郎の後輩となる彫刻科、さらに豊周の教え子になるであろう鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません。

画学生というわけでは有りませんでしたが、元埼玉県東松山市の教育長だった故・田口弘氏もそうでした。田口氏はバシー海峡で乗っていた輸送船が撃沈され、九死に一生を得たそうですが、出征前に光太郎に書いて貰った書や署名本などは海の藻屑となったそうです。田口氏は何とか無事に復員されましたが、無言館さんに作品が展示されている人々は、帰って来られなかったわけで……。キャプションを見ると、田口氏と同じようにバシー海峡で船を沈められ、亡くなったという画学生もいました。

まだ美術家の卵の時期に戦地に送られ、そのまま帰ってこなかった画学生達。卵ですのでまだまだ技巧的には稚拙だったりするものもあるのですが、そうしたことを超え、訴えかけてくるものがあります。粛然とした思いにさせられました。

この時期だったからでしょうか、意外に多くの来場者がいらしていて、驚きました。中には若い方々も。その方々も熱心に展示をご覧になっていて、まだまだこの国も捨てたものではないと感じました。


その後、市街へ戻り、サントミューゼ上田市立美術館さんへ。昨日のレポートにつながります。

村山槐多展拝観後は、さらに上田に隣接する東御市の健康センターさんで日帰り入浴・仮眠。何とか高速道路の大渋滞も避けながら帰りました。

こうやって呑気に出歩いたりレポートを書いたりしていると、紹介すべき事項がどんどんたまります(笑)。明日以降、また新着情報の紹介に戻ります。

【折々のことば・光太郎】

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入つているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。
対談「心境を語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活についてです。「悪いこと」=大量の翼賛詩文を書いたこと、です。

昨日は信州上田方面に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的である、「没後100年 村山槐多展」。光太郎と交流のあった村山槐多は、大正8年(1919)数え24歳で夭折した鬼才の画家です。今年が没後100年、さらに近年、100点以上の作品が新たに見つかるなどし、また注目を集めています。


会場は上田市のサントミューゼ上田市立美術館さん。

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圧倒されました。

ほぼ生涯を追っての展示構成で、初めは最近見つかった少年時代のパステル画がメイン。その頃暮らしていた京都の風景が中心で、穏健な作風ながら天才の片鱗がまざまざと感じられました。

青年期になるとその才が一気に爆発/炸裂したかのようで、生き急ぎ、死に急いだ強烈な個性が咲かせた狂い咲きのあだ花、という感がありました。槐多の作品自体は以前にも見たことが何度かありましたが、まとめて多数の作品を見たのは初めてで、打ちのめされました。

こちらは図録というわけではないのですが、ときどきある「公式ガイドブック」という位置づけで刊行されている書籍。著者は、本展開催に尽力なさったおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏です。

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光太郎にも触れて下さっています。

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ただ、光太郎と槐多の交流がどのようなものだったのか、実はよく分かりません。

槐多の年譜には、大正3年(1914)の事項として、「この頃、高村光太郎の工房に出入りする」とあるのですが、光太郎側の資料としては、詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文、それから岸田劉生の追悼文の中で槐多に少し触れている程度です。今後の課題としておきます。


槐多展を見終わって、昼食を摂ろうとロビーに降りたところ、驚いたことに、渡辺えりさんが。といっても、ご本人でなく等身大パネルでしたが(笑)。


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まったく存じ上げていなかったのですが、同じサントミューゼさん内の大ホールその他を会場に、「日本劇作家大会」というイベントが開催中でした。渡辺さん、一般社団法人日本劇作家協会の会長さんだそうで。

いらしているのならご挨拶せねばと思い(笑)、スタッフの方に訊いたところ、今日はいらっしゃらないとのこと。渡されたチラシを見ると、19日(月)、ご講演でお見えになるそうでした。

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そういえば、槐多展会場でいただいたサントミューゼさんのフリーペーパーにも渡辺さんが載っていて、おやっと思ったのですが、そういうことだったのかと納得しました。

こういうこともあるのですね。えりさんには槐多展、お時間ありましたらご覧下さいとメールしておきました。

明日は周辺でのいろいろをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

指導理念といふことが言はれてゐますが、さういふものは美術家自身、つまり現にそれをやつてゐる人が自分で樹てるべきで、政府から方針を樹てて貰ふといふやうなことは、抑々間違つてゐると思ひます。

対談「東亜新文化と美術の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時中の光太郎、詩や文章では大政翼賛の方向にどっぷりでしたが、美術方面では美術報国会にも入らず(実弟の豊周が事務局長でしたが)、いわゆる戦争画や兵士を題材にした彫刻などには批判的でした。この差異には興味深いものがあります。

長野県松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さん。000今月、一面コラムで立て続けに光太郎の名を出して下さっています。

まず、8月9日(金)。

2019.8.9 みすず野

山が好き、本が好き、音楽が好き、映画が好き、野球が好き、旅行が好き...何が好きかは本当に人それぞれだと感じるが、好きになる原点のようなものは、大概少年少女期にあるのでは◆山が好きというか、高い山に登りたかった。少年時代、中央アルプスの山稜と、南アルプスの遙かな山並みを眺めて育ったので、いつかあの山の頂に立ってみたい、と思った。それは北アルプスにも通じる思いで、北アには学生のころと、本紙で連載を企てた40代前半に登り歩いた。北アの玄関口はご存じ上高地。上高地の魅力は幅が広く、奥が深く、自然景観にとどまらない◆新刊『名作で楽しむ上高地』(大森久雄編、ヤマケイ文庫)を紹介され、いま手元にある。かのウェストンから小島烏水、辻村伊助、窪田空穂、芥川龍之介、若山牧水、高村光太郎、尾崎喜八、北杜夫、串田孫一、穂苅三寿雄・貞雄、松本市在住の三井嘉雄さんまで、おのおの上高地をつづった"佳作"ぞろい◆以前読んだり、触れたりしたものが多く、懐かしい。上高地や北アを登り歩く機会は失われたが、山好きは変わらない。この夏、本で楽しみ、味わうことにしよう。


6月に刊行された大森久雄氏編、山と渓谷社さん刊のヤマケイ文庫『名作で楽しむ上高地』が紹介されています。


続いて、昨日。

2019.8.15 みすず野

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくも御自ら(中略)玉音をお送り申し上げます」。このあと、戦争の終結を告げる天皇の声が、独特の抑揚を伴って流れ、ラジオの前に集まった国民は、太平洋戦争が終わったことを知らされた◆昭和20(1945)年8月15日の正午過ぎ。悲喜こもごも、国民の受け止め方は立場、年代によってさまざまだった。作家の高見順は「遂に敗けたのだ。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」と「敗戦日記」に記している。詩人で彫刻家の高村光太郎は、岩手・花巻にいた。故宮沢賢治の縁で、賢治の弟宅に疎開していた◆戦後、ほとんどの文化人が東京に戻るが、光太郎は花巻郊外の山小屋に引きこもり、孤独でつましい農耕自炊生活を69歳まで7年間続けた。戦時中、戦争詩をたくさん作り、国民を鼓舞し続けたことに痛く責任を感じ、自身にその生活を課した。「小屋にいるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。」◆敗戦から74年。時代は昭和から平成、そして令和に。いかんともしがたい時の流れとはいえ、きょうという日は必ずめぐり来る。不戦の誓い新た。


令和となって初の終戦記念日ということで、各種メディア、例年より取り上げ方に熱が入っているように思われました。『週刊朝日』さんでも「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事で、光太郎に触れて下さいました。

終戦の日の光太郎についてはこちら008

不戦の誓い新た。」まさにその通りですね。

【折々のことば・光太郎】

白髪三千丈ビールによつてかくの如く美し

短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

現在も続くビアホール、ニユートーキヨーさんのために書かれた色紙から。

「白髪三千丈」は、中国唐代の詩人・李白の詩からの引用です。

紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
                   ◇
 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
                   ◇
 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


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当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像。今年が開眼百周年ということで、このところいろいろと動きがありました。


で、さらに先月。

まずはSBC信越放送さんのローカルニュースから。

善光寺の仁王像をPR・僧侶が事前研修

長野市の善光寺にある仁王像を参拝客にPRしようと、案内役を務める僧侶の事前研修が行われました。
善光寺の仁王門で勇ましく構える仁王像。
高村光雲と米原雲海が手がけ、1919年に登場してから今年で100年を迎えます。
きょう長野市の善光寺事務局で開かれた研修会には善光寺の僧侶などおよそ40人が参加しました。
講師を務めたのは東京芸術大学大学院の非常勤講師・藤曲隆哉さんで東大寺の仁王像を参考につくられていることや台座に固定されずに背中にある支えのみで立っているなどと解説していました。
善光寺の僧侶たちによる案内は来月13日から9月まで土曜と日曜を中心に行われる予定です。

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続いて地方紙『信濃毎日』さん。

開眼100年 保ち続ける絶妙バランス善光寺仁王像 実は自立構造

010 善光寺(長野市)の仁王門に納められた仁王像2体が、台座に突起などで固定されず、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが26日、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査で分かった。全国の仁王像でも見当たらない構造だといい、1919(大正8)年の開眼から100年間、絶妙なバランスで倒れずに立ってきたことになる。
 7~9月に同寺一山の僧侶たちが参拝者に仁王像や仁王門を案内する取り組みに向け、26日に同寺で研修会を開催。この場で講師を務めた同研究室非常勤講師の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(36)が、1月に実施した現地調査の分析結果を明らかにした。
 藤曲さんによると、一般的に仏像の足には「ほぞ」と呼ばれる突起状の部材があり、それを台座の穴に差し込んで固定している。しかし、善光寺の仁王像の足にはほぞがなく、金具で像の背中と壁をつなげているものの、壁の板に大きな負荷がかかっている跡はないという。
 像は重さ300キロ以上とみられ、藤曲さんは「均整の取れたプロポーションで、バランスを取って自立している状態」と指摘。ただ、設置当初と比べると台座上で10センチほど動いたことも分かったとし、「100年間立っているものの、このままで倒れることはないか検討が必要」とした。
 仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)で、ともに高さ5・3メートル前後と分かった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らが関わって制作。ほぞを使わない構造について藤曲さんは「西洋の先進的な制作技法を取り入れており、今までにない造形を目指した表れかもしれない」と推測した。
 このほかエックス線調査では、複数の部材をかすがいやくぎを使って内部で接合していること、頭部や足、指先などに空洞があり、軽量化を図っていることも判明。像全体について「虫食いなどはなく、良い状態」としつつ、「もう修理を計画してもいい時期に来ている」と指摘した。
(6月27日) 


像高5メートルを超える仁王像に「ほぞ」が採られて居らず、ほぼほぼ自立しているというのは驚きでした。光雲とその一派の高い技倆がこんなところにも表れているわけで。

仁王像開眼百周年の特別法要は9月だそうです。その件で、また別件でも情報が入りましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

別に感想もありませんが、新年号の満艦飾を見ると、如何にも田舎田舎した野暮くささを感じるだけです。

アンケート「雑誌新年号観」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「雑誌の新年号なるものに対する感想」という問いに対しての答えです。ここでいう「雑誌」は、どちらかというと商業資本の総合誌を指しているのでしょう。現代でもそうですが、新年号というと、通常よりも派手な装幀を施してめでたさを強調し、売り上げ増を狙うもので、それに対するアイロニーですね。

本日は合唱系で。

まず、長野県から演奏会情報。

コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート

期 日   : 2019年6月23日(日)
会 場 : 松本市音楽文化ホール 長野県松本市島内4351
時 間 : 14:00開演
料 金 : 一般1,000円  高校生以下500円
曲 目 : 
 清水脩 高村光太郎の世界   亡き人に 智恵子抄巻末のうた六首 私は青年が好きだ
 アラカルト~生きること 歌うこと VITA DE LA MIA VITA (W.HAWLEY)
  あなたの心のなかに(松下耕) 他
 Missa brevis (G-dur)  V.Miškinis

昭和の名曲、南アフリカの結婚歌、トルミス作品、現代日本の作品などのアラカルト、そしてメインはミシュキニスと、バラエティに富んだ曲目となっております。

6/23(日)、松本市音楽文化ホールでお待ちしています!


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故・清水脩氏の作曲になる光太郎詩をテキストとした作品で1ステージ。このうち「智恵子抄巻末のうた六首」、『智恵子抄』中の「亡き人に」(昭和14年=1939)に曲をつけたものは、楽譜やレコード、CD等で広く知られていますが、「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)にも清水氏が曲をつけていたのは存じませんでした。調べてみましたら、カワイさんから昭和44年(1969)に刊行された『清水脩合唱曲選集』に収められているようです。この手の古い作品を取り上げてくださるのはありがたいところです。
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合唱といえば、当方も数十年混声合唱に取り組んでいますが、先々週には所属する団で千葉県合唱祭に出演して参りました。

わが団は、指揮者が故・大中恩氏の弟子筋に当たる方で、昨年暮に亡くなった氏の追悼的な意味合いも兼ね、氏の作品などを演奏しました(そうでなくても氏の作品をよくとりあげているのですが……)。

毎年、光太郎詩に曲をつけた作品が演奏されないかな、と思っているのですが、なかなか取り上げられません。さまざまな作曲家さんが作られてはいるのですが。同じことはコンクール系でも同様です。ただ、まだコンクール系の方がよく取り上げられているかな、という感じですね。合唱祭というと、たしか6分間だかの時間制限があって、そのあたりもネックになって居るような気がします。

で、千葉県合唱祭。出演団体が多いので、3日間、それぞれ午前・午後に分け、計6ブロックでの実施です。わが団と同じブロックに出演された千葉県立松戸高校合唱部さんが、昨年ヒットした米津玄師さんの「Lemon」を演奏なさいました。若々しく真面目ないい演奏でした。

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「Lemon」、米津さんご自身、光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっています。J-POP系もヒットすればすぐ合唱編曲が出るっけな、と、それは失念していました。

プログラムをめくってみますと、異なるブロックでも複数の出演団体が「Lemon」を演奏なさっていました。

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たまたまでしょうが、すべて松戸市の高校さん。松戸と「Lemon」には直接関係はないと思います。アレンジは2種類で、吉田宏さんという方と、西條太貴さんという方ですね。西條さんのヴァージョンは混声3部、主に吹奏楽の楽譜を扱っているウインズスコアさんという会社から出版されています。

全国の合唱団さん等で取り上げていただき、元ネタである「レモン哀歌」にも関心を寄せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

平日研究のモデル費にあてる為、斯ういふ会を又催します。今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。

雑纂「木彫小品鳥蟲魚介蔬菜果蓏を頒つ」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫の頒布会広告です。少し前に同趣旨で絵画やブロンズ彫刻の頒布会を立ち上げ、スポンサーを募りましたが、作品を換金することに抵抗を感じ、どちらも長続きしませんでした。しかし、前年の関東大震災を受けて、ブロンズの入手が困難だったという部分もあり、ふと回帰した木彫が意外に好評で、それなら本格的に売り出すか、という感じでした。やはり智恵子は作品を手放すことに難色を示し、懐に入れて持ち歩いたそうです。

複数の「蝉」や「鯰」などがこれによって作られ、さらに別個に百貨店での即売会にも出品(「栄螺」昭和5年=1930など)、多作ではなかったものの、光太郎自身、本当に「今度は途中でお断りするやうな事をしません。そして永く続けます。」というつもりだったようですが、顕在化した智恵子の心の病のため、それもできなくなってしまいます。

昨日に引き続き、新刊情報です。今回はアンソロジー的な……。 

名作で楽しむ上高地

2019年6月7日  大森久雄編  山と渓谷社(ヤマケイ文庫)  定価1,000円+税

上高地再発見!
登山家、文学者の紀行・エッセーと歴史エピソードの名作集。
文政9(1826)年の播隆、明治24(1891)年のウェストンに始まり、上高地は常に日本の登山の中心にあり、幾多の登山者、文学者たちが訪れてきた。
彼らの残した名作で、上高地の魅力を再発見し、さらに興味深い上高地の歴史やそこに生きた山人たちの姿をしのぶアンソロジー。
登山家は小島烏水、辻村伊助、田部重治ほか、文学者は窪田空穂、高村光太郎、若山牧水、芥川龍之介ほか、読んでおきたい本当の名作が一冊に。
上高地の魅力、歴史、上高地に生きた人々など、上高地を深く知るためにも役立ちます。

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 第一部 エッセーで味わう上高地
       穂高・徳沢・梓川  浦松佐美太郎
  神河内  松方三郎
  小梨の花咲く上高地  尾崎喜八
  初夏の上河内  串田孫一
  花の百名山より  田中澄江
 第二部 早期登山者たちの見た上高地
  日本アルプスの登山と探検(抄) W・ウェストン 青木枝朗訳
  梓川の上流  小島烏水
  上高地渓谷  田部重治
 第三部 青春の上高地、槍・穂高
  夏休みの日記/山と雪の日記(抄)  板倉勝宣
  穂高星夜  書上喜太郎
  涸沢の岩小舎を中心としての穂高連峰(抄) 三田幸夫
  穂高の雪  今井喜美子
  アルプス讃歌  北杜夫
 第四部 上高地を訪れた文人たち
  明神の池  窪田空穂
  山路  若山牧水
  槍ヶ岳紀行  芥川龍之介
  芥川龍之介の槍ヶ岳登山  山崎安治
  智恵子の半生(抄)/狂奔する牛 高村光太郎
  日本高嶺の高嶺(抄) 大町桂月
 第五部 上高地と槍・穂高連峰の歴史
  槍・穂高連峰登山略史(抄)  山崎安治
  かみこうち宛字の詮索  岡茂雄
  播隆の槍ヶ岳登山(抄)  穂苅三寿雄・穂苅貞雄
  槍ガ岳と共に四十年(抄) 穂苅三寿雄
  焼岳の噴煙  三井嘉雄 

同じ山と渓谷社さんのヤマケイ文庫で、一昨年には『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が刊行されており、こちらは全国の名山に関し、やはり光太郎を含む多くの文人たちのアンソロジーでした。今回は上高地に特化したものです。

光太郎の掲載作品のうち、「智恵子の半生」は、智恵子歿後の昭和15年(1940)、雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年、詩集『智恵子抄』に収められた長い文章です。恋愛時代、結婚生活、そして心を病んで結局結核で亡くなるまでの智恵子の姿が描かれています。

光太郎と智恵子が婚約したというのが大正2年(1913)の上高地に於いてで、滞在中のできごとやその前後の経緯なども記されています。『名作で楽しむ上高地』では、そのあたりを抜き出して「(抄)」としているのでしょう。

詩「狂奔する牛」は大正14年(1925)の作。やはり『智恵子抄』収録作で、上高地での見聞をモチーフとしています。上高地ではかつて徳沢周辺を中心に牧場があり、牛も上高地を代表する風景の一つでした。

ちなみに当方、平成27年(2015)、『山と渓谷』さんのライバル誌『岳人』さんに、「高村光太郎と智恵子の上高地」という文章を書かせていただきました。そちらでも「智恵子の半生」、「狂奔する牛」ともに引用、紹介しています。2015年3月号で、「特集 言葉の山旅 山と詩人上高地編」。まだバックナンバーの在庫があるようです。

併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

おまけに担任の先生というのが、どこかの国の訛の強い先生で、東京以外を知らない江戸つ子のわたしには、その先生の言葉が分からなかつた。「アルタの数が……」 もう分からなかつた。アルタの数、とはなんだろうか。分らない。後になつてわかつたことだが、これは「或る他の数が……」ということであつた。

談話筆記「わたしの青銅時代」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

高等小学校を卒業し、本郷森川町にあった共立美術学館予備科に編入し、旧制中学の課程を学ぶこととなった明治29年(1896)、数え14歳当時の回想です。この学校はもともと東京美術学校の予備校として同窓生たちが作ったもので、横山大観が館長でした。光太郎、編入ということで、特に数学ではかなり苦労したようです。

いわゆる右脳型だったらしい光太郎、数学でも幾何の分野はましでしたが、代数の領域はお手上げだったとのこと(ちなみに当方もそのようで、その気持ちはよく分かります(笑))。他の機会には「高村の家には理系の地は一滴も流れていない」と負け惜しみ的な発言もしています(笑)。実弟の藤岡孟彦は植物学者になったのですが(笑)。

溜まってしまう前に……。

まずは3日(金)の『日本経済新聞』さん……というより共同通信さんの配信記事です。信州善光寺さんでのもろもろをご紹介して下さいました。

善光寺、あうんの呼吸1世紀 仁王像の節目祝う企画

長野市の善光寺で国宝の本堂に向かう参拝客らを仁王門の両脇から出迎える2体の仁王像・阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が今年9月に開眼100年を迎えるのを記念し、ライトアップや写真コンテストなどの企画が相次いでいる。善光寺の事務局は節目の年に「より多くの方に善光寺を訪れてほしい」と期待を寄せる。
1752年に建立された当初の仁王門と仁王像は1847年の地震に伴う火災で焼失。いったん再建された後も火災に見舞われ、仮の門を代用した時代を経て1918年3月に現在の高さ約14メートルの仁王門が建立された。
高さ約5メートルの仁王像2体が復活したのは翌19年9月。彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が木曽ヒノキを使い、完成までに4年の歳月を要したという。
昨年は仁王門再建から、今年は仁王像開眼からそれぞれ100年に当たるのを記念し、善光寺は昨年9月から仁王門に貼られた約1200枚の千社札を剥がしたり、仁王像のすす払いを造立後初めて実施したりして、装いも新たにした。
また、仁王像の姿や造形美を際立たせるために午前6時から午後8時までオレンジ色にライトアップし、門の脇を5色の吹き流しで彩る。仁王門や仁王像の写真コンテストとして6月14日まで作品を受け付けているほか、保存や管理を目的に明治、大正期や昭和20年代までの古い写真も募っている。節目となる9月ごろには大規模な記念法要も予定されている。
4月下旬、善光寺を初めて訪れたという甲府市の無職、山下広明さん(71)は「災害など苦難を乗り越えた力強い仁王門、仁王像だと感じた。100年という記念の年に来られて、パワーをもらえた」と話していた。〔共同〕

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続いて、4日(土)、『読売新聞』さんの一面コラム。

編集手帳

陽光に輝く綠の濃淡が心を弾ませる。咲き競うツツジやシャクナゲも生命力にあふれる。 〈植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭〉。高村光太郎は詩『新緑の頃』で青葉若葉の季節を讃美する◆誰もが幸福そうに見える。山が人を幸福にするのはなぜだろう-----。奥秩父の山小屋が舞台の笹本稜平さんの小説『春を背負って』で、主人公の小屋主が登山客の姿に思う。山小屋を訪れる人々は自然の中で癒やされていく◆大型連休中に山歩きやキャンプを楽しむ方も多かろう。今日は「みどりの日」、新緑のエネルギーを吸収し、英気を養うにふさわしい◆この春、社会に出た若者は、緊張続きのひと月を経て、ほっと一息というところか。抑え込まれていた疲れが噴き出して、虚脱感に覆われがちな時期でもある◆〈悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののためにめiに/ああ みどりは輝く〉。室生犀星の『五月』と題された四行詩は悩める心を優しく励ます。薫る風に憂いを払い、心機一転、次なる一歩を踏み出したい。

まさに青葉若葉の季節です。それだけに自宅兼事務所の庭の雑草取りも大変ですが(笑)。


そして今朝の『毎日新聞』さん。俳壇・歌壇面に載ったコラムです。

出会いの季語 北上へ花を追い=高田正子009

 今年は思いのほか長く花時を楽しむことができた。関東圏では卒業式のころには咲き始めていたが、その後の冷え込みによって、めでたく入学式までもちこたえたのだ。そのうえ、花を追って北上するという贅沢(ぜいたく)をしてしまった。標高の高い所へ赴き、はからずも花の時を遡(さかのぼ)ることは日常的にもあり得るが、桜前線を追って自ら動くのは、日々の飯炊きを担う者にとっては目くるめく体験である。
 最終目的地は岩手・北上(きたかみ)の雑草園。俳人山口青邨(せいそん)(1892~1988年)の旧居である。元は東京・杉並にあったが、北上市の詩歌の森公園内に移築されているのだ。
 身ほとりの花が大方散り、遅咲きの桜はまだ固い蕾(つぼみ)であった四月後半、いつもの吟行メンバーが東京駅に集合した。朝からコートが要らないほどの陽気である。<もうひとり待つて始まる花の旅 正子>。とはいえアラ還以上の世代に遅刻は無い。
 みちのく(道の奥)へも今や新幹線でぴゅーっと一走りである。永久(とわ)の別れになることをも覚悟して芭蕉と曽良が旅立ったのは、たった三百年前のことだというのに。 車窓の景色は川を越えるたびに季節を巻き戻してゆく。あら辛夷(こぶし)が、と思うころには仙台に着いていた。芭蕉が「心もとなき日数(ひかず)重なるままに」差し掛かった白河の関も、気づかぬままに通過した模様。<居眠りて過ぐ白河の花の関 正子>。両岸が緑に潤む川を渡ると北上駅である。コートのライナーを外してきたことをコートのライナーを外してきたことを心から悔やみつつ、初日は花巻へ。宮澤賢治の里から、翌日高村光太郎山荘を経て北上へ戻り、雑草園へ。
 わが書屋落花一片づつ降れり 山口青邨
青邨は旅の一行の先生の先生である。桜は一片だに散らさぬ完璧な佇(たたず)まいで、ちょうど花弁を散らしていたのは門の白梅であった。以前訪れたときには庭に居た石の蛙の姿が見えず。冬眠中? そんなわけはないと思うが、また夏に来てみようか。(たかだ・まさこ=俳人)

桜前線をトレースする行程、「東北新幹線あるある」です(笑)。

ぜひ高村山荘のレポートも書いていただきたいところですが……。


【折々のことば・光太郎】

人間の生活は網の目のように引つぱり合つてできているので、文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて悪いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような気がする。
散文「山の人々」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

高村山荘のある花巻郊外旧太田村山口地区を評しての一言です。たしかに「地方創成」といいながら、プチ東京をあちこちに作っても仕方がありませんね。

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