カテゴリ: 東北以外

過日ご紹介した、福岡県の北原白秋生家・記念館さんでの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」について、『毎日新聞』さんが報じて下さいました。

ゲーム「文豪とアルケミスト」題材、白秋展始まる 福岡・柳川

 福岡県柳川市出身の詩人、北原白秋(1885~1942)の命日(2日)にちなみ、同市沖端町の白秋生家・記念館で1日、白秋らが登場するオンラインゲームを題材にした企画展「白秋と若き文士たち」が始まった。
 ゲームは2016年から配信されている「文豪とアルケミスト」。文豪が残した文学書が次々と黒く染まってしまう現象が起き、人々の記憶から文学が消えていく中、それを阻止しようと白秋ら文士が登場するという趣向だ。
 企画展はゲームで描かれた白秋ら文士の等身大パネルを展示し、直筆手紙など約30点の史料で高村光太郎(1883~1956)、室生犀星(1889~1962)らゲームに登場する他の文士との交流を紹介する。初めての詩集「邪宗門」など20代の時の白秋を知るコーナーも設けた。
 高田杏子館長は「青春時代の白秋ら、若き文士の自由で光り輝く作品を楽しんでほしい」と鑑賞を呼び掛けている。入場料一般600円、小中学生250円。鑑賞者に白秋をデザインしたしおりを贈る。2023年3月31日までの開催だ。
 1日夜は市内の掘割にどんこ舟が連なる「白秋祭水上パレード」もあった。パレードは2、3日夜もあり、2日午前10時からは同市矢留本町の白秋詩碑苑で白秋にささげる献詩もある。
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同じくゲーム「文豪とアルケミスト」のコラボ企画として、岩手花巻で行われ、花巻高村光太郎記念館さんもチェックポイントとなっていた「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」は、先月一杯で終了。その関係で多くの若い方々がいらして下さったと同館の方から連絡があり、ありがたい限りです。中には花巻市街から自転車で、という強者(つわもの)もいらしたそうで。

それぞれの文豪に深く親しむための入り口としては、こうしたタイアップもありだと存じます。全国の関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、十七回忌にあたる、 「心」の婦人記者玄関まで、 夕方椛澤さん玄関まで、智恵子の墓参してくれた由、菊をもらふ、


昭和29年(1954)10月5日の日記より 光太郎72歳

昭和20年(1945)からの岩手蟄居中は、花巻市街の松庵寺さんで、ほぼ毎年智恵子の法要を営んでもらっていた光太郎ですが、もはや外出もままならず……。

昨日は都内に出ておりました。

まずは中目黒。めぐろ歴史資料館さんで昨日から始まった特別展「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」を拝見。
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明治生まれで既に故人となった目黒ゆかりの名工二人(道具鍛冶・千代鶴是秀と蒔絵筆師・小宮又兵衛)、昭和生まれで現在も目黒でご活躍中の刀装師・髙山一之氏の三人にスポットを当てたものです。

このうち、千代鶴是秀は光太郎と直接交流があり、光太郎は是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。

今回の展示、是秀は朝倉文夫と交流が深かったため、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵の是秀作品が数多く、さらに、平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされた土田昇氏(土田刃物店さん)所蔵のものなどが展示されていました。

図録(700円)から。
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以前に朝倉彫塑館さんで拝見した記憶があるのですが、何度見ても素晴らしいものです。

昭和15年(1940)に土門券が撮影した光太郎の写真には、これとよく似た彫刻刀が映っています。
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もしかすると、これも是秀作かな、と思っております。

ただ、同じ日に撮影された別のショットでは、是秀っぽくない道具を使っています。まぁ、一つの彫刻を制作するにも色々な道具を使うのでしょうが。
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その他、是秀から朝倉宛の書簡なども多数展示されており、興味深く拝見しました。他の二人の「名工」の作も。

続いて、地下鉄を乗り継いで文京区千駄木へ。旧駒込林町の、光太郎アトリエにほど近い旧安田楠雄邸庭園さんが次なる目的地でした。こちらでは一昨日から「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催中。
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こちらは、入り口の向きは逆なのですが、まさに髙村家(光太郎実家)の隣です。当方、昨年「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で講話をさせていただいて以来、約1年ぶりでした。

2階建ての1階では、髙村家所蔵の光雲作品や古写真など。
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2回の座敷では、昨年から今年にかけての、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展東京藝大さん)、「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」(日本写真会館さん)、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」(長野県立美術館さん)などに展示された、光雲作品の写真タペストリー等(光雲令曾孫・髙村達氏撮影)が中心でした。
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達氏がいらしていて、久しぶりにお目にかかりました。コロナ禍前の令和元年(2019)の連翹忌以来だったでしょうか、久闊を除しました。この写真類をお借りして、当方が関わっている花巻の高村光太郎記念館さんあたりで企画展示が行えないものかと、そんな提案をしておきました。

安田邸をあとに、ここまで来たついでなので(笑)、指呼の距離にある光太郎旧居址。今は一般の住宅になってしまっています。
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その中間には、過日ご紹介した洋画家・近藤洋二が厄介になっていた、宮本百合子の実家。
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この案内板の前を通って、細い路地をくねくね行き、突き当たりを左折すれば光雲邸(光太郎実家)のあった現・髙村邸。さらに安田邸の裏門となります。

さて、「目黒の名工」は12月11日(日)まで、「となりの髙村さん展」は会期が短く11月6日(日)までです。さらに安田邸にほど近い文京区立森鷗外記念館さんでは、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」も開催中です。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后山端静子くる、果物をもらふ、丈夫のやうなり、155番地にゆきたる由、筆談、

昭和29年(1954)9月29日の日記より 光太郎72歳

山端静子」は光太郎のすぐ下の妹。現在、令孫が北鎌倉でカフェ兼ギャラリー笛を経営なさっています。この兄妹が会ったのは戦後2回目、そしておそらく光太郎生前最後だったようです。

155番地」は先述の光太郎実家。光太郎、しづ(静子)兄妹のさらに下の豊周が跡を継いで居住していました。

詩人で、朗読の活動もなさっている宮尾壽里子氏からご案内を頂きました。朗読系のイベントのようです。

満ちてゆく秋の午後 IN BON ART & 霜月 満月 一日遅れの誕生日

期 日 : 2022年11月8日(火)
会 場 : BON ART 東京都文京区本郷5-25-17
時 間 : 15:00~18:00
料 金 : 無料

軽食を頂きながら、みんなで歌って踊って語って楽しく過ごしませんか。一芸をプレゼントして下さい ♪
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昨年、フランスで刊行された仏訳『智恵子抄』・『Poèmes à Chieko』(当方が宮尾氏にお貸ししました)から、「山麓の二人」を朗読される方がいらっしゃるとのこと。

その他「詩人、役者、朗読者と賑やかな会」だそうです。また、「一芸をプレゼントして下さい ♪」だとのことですので、飛び入りも可なのでしょうか。

残念ながら、今月はあちこち顔を出す機会委が多く、当方は欠礼いたしますが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生くる、診察、血圧をはかる、二度はかりしが、115度くらゐとの事、かなり低し、今夕死んだ水爆患者、久保山氏は85度とのこと、 平熱、

昭和29年(1954)9月23日の日記より 光太郎72歳

水爆患者、久保山氏」は、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の無線長です。被爆から約半年後のこの日、亡くなったとのこと。

血圧の「115」とか「85」は、最高血圧でしょうが、「115」で「かなり低し」……「うーむ」という感じです。当方、最近測っていませんが、最高は100ちょっと、下手すると2桁、最低は70くらいです。

直接は光太郎らに関わらないのではないかと思われますが……。

令和4年度めぐろ歴史資料館特別展 「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」

期 日 : 2022年11月3日(木・祝)~12月11日(日)
会 場 : めぐろ歴史資料館 東京都目黒区中目黒三丁目6番10号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

大正から昭和前期にかけての目黒地域は、目黒川沿いを中心に工場地帯を形成していて、当時は、ものづくりの音の響く街でした。工業化が進む中でも伝統的な技術を継承し、ひたむきにその姿勢を貫き、現在でも名工として語り継がれている技術者もいました。本展では、目黒の2人の名工「千代鶴是秀(大工道具鍛冶)」と「小宮又兵衛(蒔絵筆製作)」に再注目してその業績を紹介します。また併せて、平成30年に国の「選定保存技術」保持者に認定された高山一之氏を現在の目黒区内で活躍中の名工として紹介します。

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関連行事 特別展「目黒の名工千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」記念講演会
現在、目黒区内の活躍中の名工で、国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」に認定されている高山一之氏、千代鶴是秀研究の第一人者である土田昇氏(土田刃物店店主)のお二人をお迎えして、令和4年度めぐろ歴史資料館特別展の記念講演会を開催します。また、当館蔵の小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について当館学芸員が解説いたします。

 開催日 令和4年11月26日(土曜日)
 時 間 午後1時から
 場 所 めぐろ学校サポートセンター第1研修室(めぐろ歴史資料館と同じ建物です)
 講 師
  高山一之(国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」)
  土田昇(有限会社土田刃物店 店主 「千代鶴是秀研究の第一人者」)
  当館学芸員(当館蔵 小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について)
 定 員 40名(応募多数の場合は抽選)
 申 込 ハガキ・ファックス・電子申請のいずれかでお申し込みください。
     令和4年9月30日(金曜日)から11月3日(木曜日・祝日)まで(必着)

取り上げられる三人のうち、千代鶴是秀は、伝説的道具鍛冶。光太郎と直接の交流があり、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展では、光太郎が使っていた是秀作の彫刻刀が展示されました。他に平櫛田中や朝倉文夫などが是秀の作品を愛用していました。

また、是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を石膏に取っています。

関連行事の講演会講師に名を連ねられている土田昇氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

腫、猛暑、36.3 今年最高といふ、 来訪者なし、


昭和29年(1954)8月23日の日記より 光太郎72歳

地球温暖化が進行した現今、真夏の36℃ちょっとは当たり前になってしまいましたが……。

都内での演奏会情報2件、ご紹介します。

開催順に、まずクラシック系で、銀座。

えつ子とまき子のコンサート 2022秋

期 日 : 2022年11月6日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 全自由席 一般¥4,500(当日¥5,000)

出 演 : 前澤悦子(ソプラノ) 朝岡真木子(作曲家・ピアノ)
ゲスト : 清水邦子(メゾソプラノ)、加賀清孝(バリトン)

演奏予定曲:
 朝岡真木子歌曲より
  歩こうよ(詩・戸張みち子)  ガラスのオルゴール(詩・今村佳枝)
  追憶の風(詩・木下宣子)   風といっしょに〔二重唱〕(詩・高木あきこ)
  黒豆のなっとう〔二重唱〕(詩・中野惠子)  組曲「あなたへ」(詩・星乃ミミナ)
  「智惠子抄」より あどけない話・レモン哀歌(詩・高村光太郎)
 〈初演〉ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」(詩・岡崎カズヱ)
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作曲家・朝岡真木子さんによる歌曲のコンサートです。

先月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」が演奏されます。歌唱は同じく清水邦子さん、ピアノは朝岡さんご本人です。

今回は、メインの歌い手さんは前澤悦子さんという方で、さらにバリトンの方も参加なさり、さまざまな朝岡さんの作品が演奏されます。

もう1件、原宿からシャンソン系で。

新・智恵子抄 智恵子飛ぶ

期 日 : 2022年11月7日(月) 11月8日(火)
会 場 : アコスタディオ 東京都渋谷区神宮前1丁目23-27 赤星ビル
時 間 : 11/7 19:00~  11/8 15:00~  19:00~
料 金 : 前売り4,000円 当日4,500円

出 演 : モンデンモモ(歌・舞踊) 田中知子(ピアノ) 伊藤耕司(チェロ)

本当に自分として 『これがわたしです!』という作品ができましたので、ぜひみなさまにご高覧頂きたくご案内を出させていただきました!!

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「智恵子抄」をはじめとした様々な光太郎詩に、ご自分でオリジナルの曲をつけて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。他にミュージカルの監督的なこともやられたりなさっていて、そのあたりがお忙しかったのでしょう、ひさびさに智恵子抄系に特化したコンサートです。今回は舞踊系の要素も取り入れつつ、だそうで。


それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后山口村の田頭さん奥さんと難波田さん夫人とくる、レモンスカツシ風にソーダ水をつくりて進ずる、


昭和29年(1954)8月22日の日記より 光太郎72歳

山口村」は誤りで正しくは「太田村」、光太郎が昭和20年(1945)から同27年(1952)まで蟄居生活を送っていた岩手の寒村です。「田頭(たがしら)さん」は屋号で、当主は高橋雅郎元太田村長。「奥さん」はアサヨといい、夫妻で何くれとなく光太郎の世話を焼いてくれていました。息女の故・愛子さんは最近まで光太郎の語り部を務められていました。

難波田さん」は洋画家の難波田龍起。かつてあった駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいました。その夫人と高橋アサヨがどういう伝手(つて)で知り合ったのかは不明です。たまたま同時刻に光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れただけかも知れませんが。

レモンスカッシ風にソーダ水」、遠く大正初めの智恵子との結婚直後、既に光太郎がこれと同じか、似たようなものを作って来客をもてなしていたことが、詩人・歌人の上田静栄の回想に語られています。

10月23日(日)、『東京新聞』さんの埼玉版から。

「浦和画家」近藤洋二に脚光 遺族所有4作品、うらわ美術館に収蔵 川越の藤井さん「魅力、再び伝えたい」

002 昭和の初め、芸術の都パリに憧れて、妻子を連れて日本を飛び出した埼玉の画家がいた−。川越出身で「浦和画家」としても名が残る近藤洋二(一八九八〜一九六四年)。地元の縁で画家を知った川越市の女性が「こんな面白い人生があったとは」と関係者を訪ね歩き、長年遺族が所有していた四作品が、うらわ美術館(さいたま市浦和区)に収蔵されることになった。
  「お金もないのに、妻と生後十一カ月の長男を連れて上海行きの船に乗り込んだ。金が尽きると絵を描いて稼ぎ、さらに先へ進んだ。それでパリまで行っちゃったんですよ」。そう語るのは、川越市の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人の藤井美登利さんだ。
 藤井さんは、地元で「旧制川越中学を卒業した絵描きがいた」という話を聞いて興味を持ち、調べ始めた。資料を読み込む過程で、長男の近藤乃耶(のや)さん(故人)が書いた評伝「『偉い人』にならなかった絵描きの生涯」(東宣出版、現在は絶版)を手にした。画家の魅力的な逸話や数多くの著名人との交流が記され、ぐいぐいと引き込まれた。
 明治生まれの近藤洋二は、医大に進むはずだったが父が急死し、家計を助けるために働きながら画家を目指すように。パリで絵を描きたいと二八年、上海までの片道切符を手に親子三人で船に乗り込んだ。詩人の金子光晴夫妻とも一時同道。近藤一家の姿は、金子の「どくろ杯」という小説に登場する。上海からインド、イタリアなどを経て翌年、フランスへ到着した。
   当時のパリ画壇ではピカソや藤田嗣治らが活躍していた。だが、近藤は生活が厳しく美術学校に入れず、毎月三十枚以上、ひたすら絵を描き続けた。ついに滞在費が尽きて帰国する船で、日本郵船の船長が三等船室だった親子を貴賓室に移してくれた。「当時の外国航路の船長は高給取りで、大勢の若い画家を援助していた」と藤井さん。このとき同じ船に乗っていたのが、作家宮本百合子の実家、中条家の人々だった。その縁で、近藤一家は帰国後、都内の屋敷町にある中条家の離れに住んだ。戦時中、百合子の夫顕治は刑務所に拘留されていた。向かいは詩人の高村光太郎宅。高村は警防団長で、兜(かぶと)をかぶって棒を振り回し、空襲の火を「消せ!消せ!」と怒鳴っていた−と本には書かれている。
 藤井さんは「画家の情熱と、おおらかな時代の空気に魅了された。生前は人気があったが、埋もれてしまったその魅力を、再び伝えたいと思った」と語る。多作だった近藤は、穏やかな風景画を数多く描き、今回収蔵した作品にも、雪に埋もれる集落や、欧州の道を自転車が走るのどかな光景が描かれる。六十六歳の時、散歩中にバイクにはねられて急逝した。「ただ死ぬまで毎日毎日、次々に楽しそうに描いて描いて描きまくっていて、それが父の生きがいであり、喜びであった。およそ賞だとか名誉だとかに無関心だった」と乃耶さんは記す。
 うらわ美術館では、一般公開に向けて修復や調査を進めている。近藤の甥(おい)で川越市在住の近藤繁さん(85)は「いつもパイプをくゆらせ、もの静かな人だった」と生前を振り返り「生きていたころの記憶がある人はどんどんいなくなる。作品が収蔵され、これからも見てくださる方がいると思うと、うれしいです」と話している。
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近藤洋二という画家、『高村光太郎全集』の二箇所に名前が出て来ます。

まず、「式場莞爾詩集「海の星座」序」(昭和30年=1955)。

 昔の隣組仲間の近藤洋二画伯のむすこさんは立派な海員になつて今休暇で東京にきている。そのむすこさんの友達だという式場さんは海員組合の仕事をしている海洋詩人だとの事だ。この三人の人にあつて海員生活の話をしているうちに、海の好きな私は、いつのまにか、式場さんの海の詩集に序文をかくようなきつかけを持つようになつてしまつた。一面識もなかつた人の詩集なんだが、それが海員の助け合い運動の何かになるというだけきいても多分気持ちのよい詩集だろうと思えた。何にもいう事がないので今から丁度五十年前に私が太平洋のまん中でアゼニヤンという船にいて作つた歌を二つ書いておく。

  海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと
  地を去りて七日十二支六宮のあいだに物の威をおもい居り


もう一箇所は、昭和30年(1955)12月9日の日記。

 近藤洋二氏他二人くる、

どちらも同じ年なので、「他二人」が近藤の子息と式場なのでしょう。この日の出来事が『海の星座』序文に書かれていると見て間違い有りますまい。

それにしても、近藤洋二という画家の詳細については、東方、寡聞にして存じませんでした。子息が書かれ、光太郎にも言及されているという『『偉い人』にならなかった絵描きの生涯』も存じませんでした。調べてみましたところ、国会図書館さんに所蔵がありますので、いずれ見てみます。

ちなみに「浦和画家」は、関東大震災後、浦和に居住する画家が多かったことから彼らの総称として生まれた語です。有名どころでは、倉田白羊、須田剋太、瑛九など。「うらわ美術館」さんは、さいたま市立だそうで、こうした地元作家の作品等の収集にも力を入れているようです。大事なことですね。近藤作品、公開されたら観に行ってみようと思いました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんくる、 三時辞去後風呂に入る、三月ぶりの入浴、


昭和29年(1954)8月21日の日記より 光太郎72歳

5月頃からだいぶ体調を崩し、外出もままならなくなって、一日ベッドで過ごす日もありましたので、入浴もしていませんでした。もっとも、昭和20年(1945)から7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中も、村人らの好意で鉄砲風呂を贈られたものの、薪を大量に使わねばならず、そのため入浴をほとんどしませんでした。その分、温泉に足を運ぶ機会が多かったのですが、上京後は近くに温泉もなく、また、銭湯に行ったという記述も見当たりません。当然、タオルで身体を拭いたりはしていたとは思うのですが……。

光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ鋳金家で人間国宝の豊周の作品が出ます。

教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展

期 日 : 2022年10月27日(木)~11月1日(火)
会 場 : 金沢市文化ホ-ル展示ギャラリー 石川県金沢市高岡町15番1号
時 間 : 10:00~17:00 最終日は13:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 金沢美術工芸大学は、令和 5 年(2023)10 月 1 日より、更なる飛躍を期して新キャンパスでの歩みを始めます。地域に開かれた大学をめざす新キャンパスでは、市民のみなさまをはじめ学外の方々が気軽に訪れることのできる展示施設を整備し、絵画・彫刻・工芸・デザイン・その他の分野にわたる貴重な芸術資料の公開の拡充を予定しています。
 本学は、昭和 21 年(1946)の開学以来、教育研究用の資料として、また、優れた芸術に接する機会を市民に提供するために、世界的に著名な芸術家の作品を含む約 6,700 点の芸術資料を収集してきました。この展覧会は、キャンパス移転に先立ち、日々の〝教材〟として活用してきた芸術資料を身近に感じていただくために、学内ではなく、まちなかで開催する〝出開帳〟です。
 第三弾である今回は、所蔵品の中から工芸の優品を中心に展示いたします。芸術資料の鑑賞を通して、本学の教育研究に関するご理解を深めていただければ幸いです。
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豊周は東京美術学校鋳金科を卒業し、母校の教授を務めていましたが、戦時中に退官。戦後になって昭和24年(1949)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授に就任しました。のち、教壇から下り名誉教授となりましたが、その肩書きは昭和47年(1972)に歿するまで継続していたと思われます。

そんな関係で、同校には豊周作品が現存、富本憲吉ら他の工芸家の作品ともども「教材としての芸術資料」という扱いで、今回展示されるわけです。
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豊周作品は「朧銀花入 雨」。正確な制作年代は不明のようですが、いずれ戦後のものでしょう。「朧銀」は銅と銀の比率を3:1とした合金で、豊周も好んで使った材の一つでした。

意外と豊周作品を見られる機会は多くありません。会期が短いのが残念ですが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

むしあつく、しう雨あり、今日は殊に暑気を感ず、 ビール一本、夕、オムレツ等、 〈ヘチマに肥料〉


昭和29年(1954)8月16日の日記より 光太郎72歳

終戦の年から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋では、野菜類は畑でほぼ自給していた光太郎。終の棲家となった中野の貸しアトリエでも、ヘチマ程度は栽培していたようです。

ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画、現在、光太郎がらみでは花巻市で「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が10月30日(日)まで開催されています。Twitterの投稿などでは、若い方々が花巻高村光太郎記念館さんを訪れ、「いいところだ」的なつぶやきをなさっていて、ありがたく存じます。

来月からは福岡で、光太郎の朋友・北原白秋がメインですが。

北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~

期 日 : 2022年11月1日(火)~2023年3月31日(木)
会 場 : 北原白秋生家・記念館 福岡県柳川市沖端町55-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 12月29日(木)~2023年1月3日(火)
料 金 : 大人 600円 高・大生 450円 小・中生 250円

北原白秋生家・記念館では、柳河出身の詩人・北原白秋没後80年を記念して、DMM GAMESより配信中のオンラインゲーム『文豪とアルケミスト』とタイアップした企画展を開催いたします。本展時では白秋の青春時代にスポットを当て、白秋を中心とした文士や芸術家たちが芸術と自由と享楽の権利を謳歌した文藝運動や交流などを①新詩社『明星』時代、②「パンの会」時代、③「朱欒」時代と3つの時代に分けて紹介。また、今回初公開となる「室生犀星宛白秋書簡2通」や、白秋を取り巻く若き文士たちのキャラクターパネルの展示、グッズの販売も併せておこないます。

期間中、来館者限定オリジナル栞(非売品)を差し上げます。※なくなり次第終了いたします。

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「白秋を取り巻く若き文士たち」が、萩原朔太郎、室生犀星、吉井勇、そして我らが光太郎。

朔太郎といえば、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」が開催中ですが、こちらの企画はそれには含まれていません。しかし、「同時開催」として「特別展示 白秋と朔太郎の世界~朱欒から朱欒へ」も行われるそうです。こちらは来年1月10日(火)までです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻の菅原女史玄関まで、豆銀糖をもらふ、

昭和29年(1954)8月8日の日記より 光太郎72歳

「菅原女史」は光太郎が終戦後、昭和27年(1952)まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で小学校教諭をしていた女性です。

「豆銀糖」は岩手の銘菓。といっても高級なものではなく、大豆と水飴、きな粉を使った庶民的なお菓子です。光太郎は昭和24年(1949)のラジオ放送用の対談で、豆銀糖と南部煎餅を激賞していました。

昨日は都内に出、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」に行っておりました。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されているということで、拝見に伺った次第です。

東京メトロ千代田線の千駄木駅で下車、団子坂を上がりきると同館ですが、一旦通り過ぎ、そのまま歩きました。本郷通りにぶつかって左折すると、当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生の菩提寺である浄心寺さんがあります。
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浄心寺さんには4月の連翹忌の日にも伺いましたが、その後、8月に奥様の節子様(やはり生前の光太郎をご存じでした)がお亡くなりになったので、墓参させていただきました。墓石側面には、北川先生と奥様の名が並んで刻まれ、それを見て改めてもうお二人ともこの世にいらっしゃらないのだなぁと、しみじみさせられました。

さて、改めて鷗外記念館さんで展示を拝見しました。
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光太郎から鷗外宛の書簡、一昨日に図録の一部をtwitterでご紹介されていた方がいらっしゃり、そういう関係というのは存じていましたが、実際に全文を読んで驚きました。「軍服着せれば鷗外だ事件」に関する長いものだったからです。

大正6年(1917)、光太郎数えで35歳、鷗外は同じく56歳。光太郎がかつて美校生時代の恩師であり文壇の重鎮だった鷗外をこき下ろしたというのです。後に昭和になってから光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)

立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売。まぁ、まっとうな職業ではないという例です。他にも最晩年の高見順との対談でも、同様の発言をしています。

この中の「手紙であやまったり」の「手紙」が、新たに発見され、展示されているのです。

同展図録に画像と全文が引用されています。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧になったうえでこちらもお買い求め下さい。
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書簡は便箋に2枚、びっちりと、これこれこういうことを自分が言っていると噂が立っているようだが、それはまったくのデタラメだし、自分は鷗外先生を心から敬愛しているので、そんなことを考えたこともありません、といった、まさに平身低頭(笑)。これが大正6年(1917)の10月7日付けでした。

噂が立っている、というのは、10月1日発行と奥付にある雑誌『帝国文学』に載った鷗外の「観潮楼閑話」というエッセイ中の次の一節によります。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。

今回の光太郎書簡の中に、「今度出た『帝国文学』にこんなことが書かれているぞ」と、劇作家の小山内薫が教えてくれ、早速取り寄せて読んだとありました。「げっ!」と思った光太郎、急ぎ鷗外に弁明の手紙を送ったのでしょう。

これに対し、翌日の10月8日付で鷗外は以下の返信を送りました。

御書状拝見仕候 帝国文学談話中ノ貴君ノ言ハイツドコデ見タカ知ラズ候ヘ共アマリ奇抜ニ面白ク覚エシユヱ記憶シ居リフト口上ニ上シモノニ有之候 ソレ以上御書中御示被下候貴君ノ心事ニ付テハ長クノミナリテ詳悉シ難ク面談ナラバ小生ノ意中モ申上グルヿ(こと)出来可申カト存候 シカシ貴君ニ於テハ御聞ナサレ候モ無益ト御考へナサレ候哉モ不知候 果シテ然ラバソレマデノ事ニ可有之候 万一御聞被下候トナラバイツデモ可申上候 丁巳十月八日 森林太郎 高村光太郎様

漢文調で若干わかりにくいかと存じますが、先述の北川太一先生、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』(平成21年=2009 北斗会出版部)中で、一言で要約されています。「いつでも会って話は聞くよ、君が聞いても仕方がないというのならそれはそれまでだけど」。ナイスな翻訳です(笑)。

この手紙を受け取った光太郎、自宅兼アトリエから彼我の距離にあった鷗外邸(観潮楼、現在、記念館の建つ場所)に走りました(たぶん(笑))。
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そして手紙にしたためたのと同様の弁明をしたようです。その件は翌年1月の「観潮楼閑話」に載りました。

 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。高村さんは又書中自分とわたくしとの間に多少の誤解があるらしく思ふと云ふ事をわたくしに告げたのである。わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。高村氏は初対面の人ではない。只今久しく打絶えてゐただけの事である。
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。そして高村氏とわたくしとの間には、将来に於て接近し得べき端緒が開かれた。是は帝国文学が閑話を采録してくれた賜である。

どうやらこれで一件落着(笑)。

それにしても、今回の光太郎書簡には笑いました。これまで確認出来ていた光太郎から鷗外宛書簡5通は、どれも葉書一枚の簡略なもの、中には偉そうに「森林太郎殿」と表書きにしたためたものさえあったのに、一転してへいこらしている内容だったためです。

一つ残念だったのは、亡くなった北川太一先生に、この書状をご覧になっていただきたかったということ。先述の『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』中に次の一節があります。

釈明の手紙がただちに認(したた)められ、その手紙は現存しませんが、鷗外はこれもまたすぐ光太郎に、私なんかが見ると実に愛情深い返事を出していて、光太郎はその返事をもらった翌日に、すぐここ観潮楼を訪ねるのです。

その手紙が現存したわけですから。

ところで、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』刊行の際に、北川先生から、全ての原因となった「「新潮」か何かのゴシツプ欄」の記事を探せ、という宿題を出されましたが、果たせませんでしたし、その後も見つかっていません。今度はそれを見つけて先生の墓前に報告させていただきたいものです。

さて、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。他にも夏目漱石、夏目鏡子(漱石の妻)、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、坪内逍遙、高浜虚子、中村不折、藤島武二、永井荷風ら、錚々たるメンバーから鷗外宛の新発見書簡等が出ています。また、これも新発見の鷗外直筆原稿の数々も。ぜひ足をお運び下さい。

展示を拝見後、関連行事的に行われました「朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ」を拝聴しました。
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北原さんは、昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をないました(講話は当方が担当させていただきました)。

驚いたことに、「朗読」といいつつ、それなりに長い「高瀬舟」を、暗誦なさったこと。素晴らしい!

同展、来年1月29日(土)と長い会期ですし、今後も関連行事が続きます。また、近くの旧安田楠雄邸では、過日もご紹介しましたが、「となりの髙村さん展 第3弾「髙村光雲の仕事場」」も予定されています(11月2日(水)~11月6日(日))。あわせてぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日活の人くる、智恵子抄映画化のこと、断る、音楽映画の人四人くる、八田氏、早川氏其他、映画化のこと、断る、


昭和29年(1954)8月5日の日記より 光太郎72歳

『智恵子抄』の映画化。実現したのは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、熊谷久虎監督、原節子さん、山村聰さん主演による東宝映画でしたが、光太郎生前から映画化の話はたびたびありました。

この日の「日活」と「音楽映画」はそれぞれ別口で依頼に訪れています。「音楽映画」は新東宝で、前月末にも光太郎の許を訪れていました。いずれも実現しませんでしたが。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、市民文化センターさんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2022」の拝観。さらに昨日は関連行事として、同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんのご講演があり、どうせ行くならこの日に合わせようと思った次第です。

いつも書いていますが、高田博厚は光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎はいち早くその才を認めて高田のフランス留学を支援しました。光太郎歿後、帰国した高田は光太郎顕彰に協力し、その縁でやはり生前の光太郎をご存じだった同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏と親しくなりました。そして同市で高田の個展や講演会を開催するなどし、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて、東武東上線高坂駅前から伸びる道路に「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品が野外展示されています。

昨日の絵子猫さんのお話、それから展示自体も彫刻プロムナードに関係しますので、まず、彫刻プロムナードに立ち寄りました。

当方、初めてプロムナードを歩いたのは平成25年(2013)。その後、光太郎像だけは、今年1月にもすぐ近くのレストランで食事をした際に拝見しましたが、昨日は久々に全作品を見つつ歩きました。
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まずは光太郎像。
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これがクリソツかというと、そうではありません。それもそのはず、高田がこれを制作したのは光太郎歿後、しかも昭和6年(1931)に日本を離れて以来、光太郎には会っておらず、記憶の中の光太郎と、晩年の写真とを頼りに作られたものだからです。それでも、この像から立ち上るオーラは、まぎれもなく光太郎のものです。

その他、全作品は撮りませんでしたが、光太郎とも交流のあった人々を作ったもの。

詩人の高橋元吉。
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さらに宮沢賢治。
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どうも当方、この賢治の顔が、お世話になっている某美術館さんのキュレーター氏に似ていると感じる、というか「ああ、××さん!」と呼び掛けたくなります(笑)。どなたのことか、関係の方はご想像下さい(笑)。

その後、昼食を摂って、市民文化センターさんへ。
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高田の彫刻群。
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一昨年の同展で、やはり関連行事のご講演をなさった元NHKアナウンサー・室町澄子氏の像。
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そして、昨日、ご講演なさった絵子猫さんとのコラボ。
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ブロンズ彫刻がずらっと並んでいると、それはそれで迫力があってよいのですが、いかんせん色彩がありません。その点、今年は実に色鮮やかでした。

同時開催で、「探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~」。光太郎を含む、彫刻プロムナードでモデルとなった人物たちを題材にした紙芝居を、地元の小中高生の皆さんが制作、元になった彫刻の写真と共に展示されていました。
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光太郎。
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制作は東京農大三高美術部の皆さん。ありがとうございます!
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高橋元吉。
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宮沢賢治。
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そして、彫刻は無いものの、プロムナード整備の功労者、故・田口弘氏についても。これは意外でした。
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光太郎との交流から始まり、戦時中の九死に一生を得られた体験、戦後の高田との交流。
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うるっときてしまいました(笑)。

さて、時間となり、絵子猫さんの講演会。
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冒頭、森田市長のご挨拶。
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この後は、絵子猫さんご自身の希望により、講演というより、インタビュー形式で。インタビュアーは市職員の方でした。

いかにして独自のイラストレーションの世界が作られたか、これまでの歩み的なお話。
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そして、彫刻プロムナード。お近くにお住まいだそうで。
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美大時代、裸婦デッサンがお好きだったという絵子猫さん、最近は個人でモデルを雇うわけにも行かず、しばらくそちらから離れていたところ、ある日、「あ、これも裸婦じゃん」と、高田の裸婦像を描くことを思いつかれたそうです。なるほど。

そうして生まれたのが、こちら。
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デジタルとアナログの融合的な手法で描かれているとのこと。

お土産はこちらのポストカード、さらにモノクロ版A4サイズ。塗り絵になりそうです。
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光太郎像は描かれていないようですが、マハトマ・ガンディーはありました。絵子猫さん曰く、「初めてオジサンを描きました」(笑)。
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何だかガンディー、「スターウォーズ」のヨーダみたいです(笑)。

閑話休題、こういう形で地域の人材を活用するのは非常に理想的ですね。他の市町村の関係の皆さん、ご参考までに。

というわけで、「彫刻家 高田博厚展2022」。11月10日(木)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

平熱、セキもタンもさっぱり出ず、 午后奥平さんくる、ビール、余もビール少〻のむ、岡本先生くる、診察だけ、容態よき由、 夜食に玉ずしをとる、

昭和29年(1954)7月30日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核、病状は一進一退でした。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

大阪から書道展の情報です。

第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界

期 日 : 2022年10月25日(火)~10月30日(日)
会 場 : 日本民家集落博物館 大阪府豊中市服部緑地1-2
時 間 : 9:30 ~ 17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 博物館としての入館料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円

恒例の書道作品を中心とした展覧会。今年のテーマは「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」。
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会場の日本民家集落博物館さんは、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示するために昭和31年(1956)に、日本で最初に設置された野外博物館だそうです。
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この中の4棟を使って、地元の書道会・游心会さんの方々の作品展で、軸装を中心に約50点だそうです。代表の畑中弄石氏は、毎日書道展審査会員を務められているとのこと。

各人、てんでバラバラに書題を選ぶのでなく、会として「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」だそうで、なるほど、そういうやり方もあるんだな、と感心しました。同会、過去には宮沢賢治や石川啄木の詩歌文などで同様の試みをやられているそうです。

古民家を会場にというのもいいですね。

是非足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日ベッド上、 近所の電気屋さん来てベッドと中西さん宅とに呼鈴をつける、

昭和29年(1954)7月13日の日記より 光太郎72歳

「中西さん」は、光太郎終の棲家となった中野の貸しアトリエと同じ敷地内の大家(おおや)さんです。今で言うナースコールのようなものでしょう。

明日開幕、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品展示ですが、光太郎も関連します。

彫刻家 高田博厚展2022

期 日 : 2022年10月19日(水)~11月10日(木)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 無料

東松山市では高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品やデッサン等を、2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は高田作品の展示に加え、市内在住の人気イラストレーター絵子猫さんと高坂彫刻プロムナードのコラボ企画をご用意しました。ぜひこの機会に「東松山市の芸術の秋」をご堪能ください。

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過去の同展の様子はこちら。

  平成30年(2018)  令和2年(2020)  

関連行事等

同時開催 探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~

高坂彫刻プロムナードに立つ、高田博厚ゆかりの著名人たちのエピソードをもとに市内中学生、高校生が紙芝居を制作しました。この紙芝居をご覧いただき、その後、その銅像をスケッチをしました。描いていただいた絵は、東松山市民文化センターで展示します。
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高坂彫刻プロムナード」は、高田の作品群が屋外展示されている、東武東上線高坂駅前から延びる通りです。同市の元教育長であらせられ、生前の光太郎と交流のおありだったた故・田口弘氏が、昭和40年(1965)に、当会主催の連翹忌の集いで高田と意気投合。以後、高田の個展や講演会を同市で開催するなど親交を深め、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品から成ります。

その「高坂彫刻プロムナード」を市民の皆さんが描くというイベントが9月24日(土)に開催され、作品の展示が行われます。光太郎胸像を描いたものもあるんじゃないかな、と思い、拝見に伺うことにしました。

もう1件。

特別講演会「絵子猫さんと高坂彫刻プロムナード」

イラストレーターとして第一線で活躍する絵子猫さんに、幼少時代のお話や幻想的で夢のような作品はどうやって生まれるのかなどを伺います。また、身近なアートの楽しみ方についても教えていただきます。
日時:令和4年10月22日(土曜日)午後2時から午後3時30分まで
会場:市民文化センター 大会議室
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)市内外問わず
定員:80名
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫(エコネコ)さんの講演会。こちらも「高坂彫刻プロムナード」がらみです。

どうせ東松山まで行くならこの日に合わせようと思い、講演会に申し込みました。定員80名、抽選だそうで、外れたとしても裏技で伝手(つて)を頼れば(当方、毎年、同市で市民講座の講師を務めさせていただいたりしておりますので)関係者枠で入れてくれるだろうと思っておりました。ズルですが(笑)。で、昨日、当選の通知、というか「当講演会は定員80人に達しなかったため、抽選は実施しませんでした。そのため、お申込みいただきました皆さまは当選となります。」とのこと。裏口入学ならぬ裏口入場をしなくて済みました(笑)。さらに「なお、講演会には空きがまだございますので、お近くにご興味がある方がいましたら、お声がけいただければ幸いです。」だそうですでので、この場を借りてご紹介いたします。お申し込みはこちら

案内に使われている絵子猫さんのイラスト、「高坂彫刻プロムナード」の高田彫刻をお描きになったものです。
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共に女性像ですからそんなでもありませんが、ブロンズ彫刻にはどうしても「武骨さ」が伴います。しかし、こうしてキラキラのイラストになると、なんともイメージが変わりますね。

このタッチで光太郎胸像をお描きになったとしたらどうなるんだろう、と興味深いものがあります。既に描かれているのかも知れませんが。
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となると、光太郎彫刻の数々も、ぜひ描いていただきたいものです。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などはいい感じになりそうですし、同じくブロンズの「裸婦坐像」や木彫の「白文鳥」なども面白く出来そうです。しかし、光太郎の父・光雲の「老猿」や「仁王像」などだとどうなってしまうのだろうなどとも思いました。

というわけで、東松山市高田博厚展2022、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方大川先生くる、ストマイ注射、脈高し、 夜に入りて高熱出らしく、せきもつよく、呼吸困難、悪寒手足のふるへくる、クロロマイセチン3錠、ネオフイリン2のみ、ややおさまる、


昭和29年(1954)7月7日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は、確実に光太郎の命を削っています。ただし、この後、かなり持ち直しては行きますが。

こんな状態で日記を書いてる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなりますが、亡くなる3日前の昭和31年(1956)3月30日まで、日記は続けられます。よほど具合の悪かった日は書かなかったようですが、それでも小康状態になると、遡って書いています。この日の分もそうかもしれません。

大川」は誤記で、正しくは「大気」。「チーム光太郎医師団」の一人、大気(おおき)寿郎医師のことですが、名前を誤記したり「高熱出たらしく」の「た」が脱字になったり、痛ましさを感じます。

昨日は北鎌倉にある、光太郎ご親族経営のカフェ兼ギャラリー・笛さんにお邪魔しておりました。こちらでご所蔵の資料等を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催中、さらに昨日は関連イベントとしての朗読会がありまして。
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こちらに伺う時は、たいがい自家用車なのですが、駐車スペースはぎりぎり一台分しかなく、昨日はイベントで人が多いだろうと予想し、電車で参りました。

北鎌倉駅から徒歩10数分。明月院さんの裏手です。
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途中には、鎌倉時代のものと思われる「やぐら」(横穴墓)も。あまり観光客も訪れない一角ですので、閑静な感じです。
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昨日は若干蒸し暑く、結構長い坂を歩いて上って汗だくになってしまい、まずはアイスコーヒーを美味しく頂きました。

その後、展示を拝見。こちらに伝わる光太郎関係の品々と、すぐ近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と交流の深かった詩人)令孫のお宅のものと、所狭しと並んでいます。
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ほぼ毎年出して下さっていますが、目玉は光太郎ブロンズの「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻で、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもの。石膏原型は既に失われ、鋳造されたものもこれ1点しか確認できていません。尾崎は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚しました。像の背後の写真は、昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』でこの像が紹介された際の實子です。

尾崎がこの像と共に写っている写真もありました。こちらは当方、初見でした。
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その他の展示。
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駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で。後の白いブルーズ姿が光太郎、前列左から尾崎夫妻の長女の故・榮子さん、尾崎、そして實子。当方、榮子さんとは笛さんと、連翹忌の集いの会場とでお会いしましたが、まだ健康だった頃の智恵子に抱っこしてもらったお話などをお聞かせいただきました。

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複製ではない光太郎直筆や、生写真なども。
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福島二本松の智恵子実家・長沼酒造の銘酒の名「花霞」を受け継ぐ地酒(その辺の権利関係、どうなっているのかよく分からないのですが)。のちほど、朗読会のあとにご参集の皆さんに饗されました。

さて、午後3時。この場で朗読会です。
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はじめにおしどり夫婦の店主御夫妻のごあいさつ。奥様は光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お祖母様の思い出等も語られて、興味深く拝聴いたしました。

朗読は、主にお近くにお住まいの常連客的な皆さんだったのでしょう、店主御夫妻を含め、9人の方が光太郎、尾崎の詩を朗読なさいました。最高齢の方は何と、おん年91歳だそうで。

尾崎令孫の石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)も。
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おおむね1時間弱で終わり、その後、参会の皆さんとしばし歓談させていただきました。また、石黒氏から、杉並区で開催される尾崎喜八展的なものへの協力要請。そんなこんなで夕刻となり、鎌倉をあとにしました。

朗読会は今回初めての試みということでしたが、来年以降も継続してやっていこう、ということだそうです。今回いらっしゃれなかった方、来年以降、ぜひどうぞ。また、展示の方は11月8日(火)までの火・金・土・日曜日にご覧いただけます。こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃牛越さん七尺像を運送し来る、支払スル、2500運送、1000別に


昭和29年(1954)7月5日の日記より 光太郎72歳

七尺像」は、前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は東京藝術大学さんに寄贈されていますが、光太郎の手元にあったのですね。

「牛越さん」は牛越誠夫。石膏取り職人で、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿です。

光太郎旧居址にほど近い、文京区千駄木は団子坂上の区立森鷗外記念館さんでの企画展示です。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されます。

特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡

期 日 : 2022年10月22日(土)~2023年1月29日(土)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 10月25日(火) 11月22日(火) 12月27日(火)~1月4日(水)
      1月23日(月) 24日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

  文学、美術、演劇…森鴎外(1862~1922)は、陸軍軍医をつとめながら学芸においてジャンルを超えて活躍した知の巨人です。
 文京区立森鴎外記念館(2012~)では、前身の鴎外記念本郷図書館、本郷図書館鴎外記念室と受け継いできた、原稿や書簡、愛用品、初版本など文学的にも歴史的にも貴重な“鴎外遺産”を収集・保存してきました。
 開館10周年を迎えた本年、鴎外文学最高峰とも称される『渋江抽斎(その四十九、その五十)』の直筆原稿が“鴎外遺産”に加わりました。本展では、この『渋江抽斎』をはじめとする貴重な鴎外直筆原稿を紹介するとともに、近年発見され、森鴎外記念館(津和野)に寄託された鴎外宛書簡の一部を初公開いたします。
 直筆原稿には推敲の跡も残り、出版された作品からは知り得ない創作過程を見ることができ、執筆時の鴎外を目撃しているような感動につつまれます。鴎外宛書簡では、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎など文学や美術などの分野で活躍した著名人の書簡を紹介します。各人の筆跡や文面からは、その人となりや鴎外との関係性が読み取れ、思いがけず親近感が湧いてきます。
 書き癖や文字の勢いなど手書きだからこそ視覚に訴える心情や、活字では見ることができない躍動――直筆資料が伝える心の軌跡をぜひご体感ください。
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関連行事等

「森鴎外~ゆかりの地文学フォーラム」
 基調講演:須田喜代次氏(大妻女子大学名誉教授、森鴎外記念会副会長)
 鼎談:須田喜代次氏、今川英子氏(北九州市立文学館館長)、
    山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:11月26日(土)14時~16時
 会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
 定員:90名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:無料(参加票が必要)

「渋江抽斎の魅力~直筆原稿と作品と」
 講師:山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:12月18日(日)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:(参加票と本展の観覧券(半券可)が必要)003

朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ
 朗読:北原久仁香氏
 日時:10月23日(日) 14:00~15:30
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(定員を超えた場合は抽選)
 参加費用:1000円

最後の朗読会のみ申込期限を過ぎており、満席だそうです。当方も申し込みまして、当選しましました。すみません(笑)。昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をなさった北原久仁香さんがご出演なさいます。余談ですが、「語りと講話……」の講話は当方が担当させていただきました。

ちなみに旧安田楠雄邸では、来月初めから写真展「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されます。もう少し近くなりましたら詳細をご紹介します。

展示の話に戻りますが、光太郎からの書簡、非常に気になっております。これまでに鷗外に宛てた光太郎書簡は5通しか確認出来ておらず、どれも簡略なものでした。『高村光太郎全集』に収録されているものは4通、明治42年(1909)とその翌年のものです。すべて鷗外が自宅(現在、記念館のある場所)で主宰していた観潮楼歌会への欠席連絡。どうも意図的に逃げ回っていたようです(笑)。光太郎、東京美術学校時代に同校非常勤講師だった鷗外の講義を受けましたが、その権威的な授業態度に親しめず、その後も敬して遠ざける感じでした。また、鷗外の陰口をたたき、それを知った鷗外に呼び出されてネチネチと叱責されたことも(笑)。

もう1通は島根の森鷗外記念館さん所蔵のもので、明治44年(1911)の年賀状。「賀正」一言と「光」のサインのみです。同一の意匠の年賀状は、この年、方々に出されたようで、その後、続々見つかりました。左上が鷗外宛、右上は木下杢太郎宛、左下で佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の元ネタを提供した人物)。
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右下は、川崎安宛。『高村光太郎全集』では大正4年(1915)となっていますが、全く同じデザインなので、これもおそらく明治44年(1911)でしょう。全集編集に当たられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生、多分、消印から年代を判断されたのでしょうが、その消印が不鮮明だったのだと思われます。

最初は木版かと思ったのですが、そうではなく「籠書き」という白黒反転の特殊な筆法で書いたものですね。光太郎、この技を得意とし、与謝野夫妻の新詩社歌会で短冊に短歌をしたためる際や、自著の題字などにも使いました。

ところで、この年賀状、表の宛名は「森林太郎殿」。普通、目下から上の者に「殿」は使いませんね。また、歌会への欠席連絡の葉書に書かれた宛名にも「森林太郎様侍史」となっているものがあり、何だかなぁという感じです。「侍史」は秘書やお付きの人のことで、「身分の高い人に直接手紙を出すのは失礼なので、秘書やお付きの方にお渡しする」という意味になります。「直接出してるだろ」と突っ込みたくなります(笑)。また、「森林太郎先生」となっているものも、文字通りの「先生」ではなく、軽薄に「センセ」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

こんな感じですので、今回見つかった書簡、どういう内容、表書きなのか、非常に興味深いところです。

閑話休題。鷗外記念館さん特別展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜七時過ブリツヂストンより映画班くる、映画映写、


昭和29年(1954)7月3日の日記より 光太郎72歳

映画」はブリヂストン美術館制作の「美術映画 高村光太郎」。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作風景や、前年に花巻郊外旧太田村へ一時的に帰った光太郎を撮ったものです。他に彫刻作品の映像をまじえ、光太郎の生涯を紹介しています。
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結核が進行し、外出もままならなくなりつつあった光太郎のため、終の棲家となった貸しアトリエで、光太郎一人のために上映会が行われたというわけです。

昨日は千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんに行っておりました。自宅兼事務所からは、同じ千葉県内ですので車で1時間弱。
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こちらでは以下の企画展が開催中です。

月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>

期 日 : 2022年10月8日(土)~12月11日(日)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 10月28日(金) 11月30日(水)
料 金 : 一般 500(400)円 65歳以上 400(300)円 高大生 250(200)円
      中学生以下無料 ( )内は25名以上の団体料金

『月に吠えらんねえ』は□(詩歌句)街で暮らす主人公【朔くん】をはじめ、近代日本の様々な文学作品から造形された人物たちが織りなす、人間模様の機微や狂気、幻想が混じり合う世界を描いた作品です。本展では、登場人物に関する作品やエピソード、萩原朔太郎と文士の交流にスポットをあててご紹介いたします。また、市川市ゆかりの文士の作品からイメージされたキャラクターたちが登場する清家雪子氏による描き下ろし漫画も展示いたします。
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「月に吠えらんねえ」は、平成25年(2013)、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画。単行本化され、令和元年(2019)に完結しました。

近代の文豪たちの作品からイメージされたキャラクターを登場人物とし(文豪たちそのものというわけではなく)、不思議な世界観で彩られています。主人公は萩原朔太郎由来の「朔」ですが、光太郎作品から擬人化された「コタローくん」、コタローくんが作ったロボットの「チエコさん」が第1巻から登場します。
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さらに第4巻では、コタローくんの回想として、生前の「チエコさん」も登場します。

さて、今回の展示。「月に吠えらんねえ」のキャラクターのうち、主人公の「朔」の元となった萩原朔太郎以外にも、市川市に在住したことがある文豪から創出された登場人物、その元となった4人の文豪を大きく取り上げています。「白さん」で北原白秋、「ぐうるさん」の草野心平(当会の祖)、「ヨッシー」は吉井勇、「カフー先生」が永井荷風。くどいようですが、文豪たちそのものというわけではなく、彼らの作品からイメージされたキャラクターということですが。

で、元になった文豪たちの資料が多数。
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その他、室生犀星、与謝野晶子、芥川龍之介、若山牧水なども。その合間合間に、光太郎の名が各種キャプション等に。光太郎が装幀・序文を担った書籍が展示されていたり、光太郎も写っている写真がパネルになったりもしていました。朔太郎年譜の最後にも「1942(昭和17) 5月11日 肺炎のため死去(享年55) 犀星・高村光太郎・谷崎潤一郎らに見送られる」との記述(光太郎、死に目に会ったわけではありませんが)。さらに「月に吠えらんねえ」の漫画そのものがパネルに拡大して展示されていましたが、その中にも「コタローくん」や「チエコさん」の姿。

こちらは図録(500円也)。同展監修の栗原飛宇馬氏らの考察が「鋭い」と思いました。
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今回の展示のために書き下ろされたスピンオフ「イチカワで吠えらんねえ」も掲載されています(会場内にもパネルで展示)。「朔」以外に上記の市川市に在住したことのある文豪由来のキャラクターたちのイチカワ散策記的な。残念ながらこちらには「コタローくん」と「チエコさん」は登場しませんが。

上記フライヤーとは別の、年間予定、開館カレンダーを兼ねたフライヤー。
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ここだけ写真撮影可の、企画展示室入り口。
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ミュージアムショップでゲットした缶バッヂ。「チエコさん」もいます(笑)。
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ところで、今回の展示、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」の一環です。

過日、お世話になっておるいわき市立草野心平記念文学館さんから、やはり「萩原朔太郎大全2022」参加の企画展「詩の岬」の招待状、ポスター、フライヤーが届きました。同館のような個人を顕彰する文学館では、その文豪と朔太郎との交流など、市川市文学ミュージアムさんのようなところでは、その地域と朔太郎とのからみといった切り口で、また他にも色々なアイディアで企画されているようです。「月に吠えらんねえ」にスポットを当てているのは市川のみのようですが。うらやましいかぎりです。ぜひ「高村光太郎大全」も企画していただきたいと存じます。

さて、それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神田の関院長さんくる、ストレプトマイシンの注射第1回、尻の筋肉注射、


昭和29年(1954)6月6日の日記より 光太郎72歳

戦前には不治の死病に近かった結核も、戦後には抗生物質の普及でその脅威は減退しました。ほぼ同時に罹患した智恵子が早々に亡くなったのに対し、光太郎がその後も生きながらえたのは、光太郎自身が頑健だったこともあるでしょうが、薬学の進展が大きかったように思われます。














神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2022年10月9日(日)~11月8日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 10月16日(日) 15:00~
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会場の笛ギャラリーさん。光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんにあたられる山端御夫妻が経営なさっている、カフェ兼ギャラリーです。

すぐお近くに、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫もお住まいで、両家に伝わる光太郎・喜八関係のさまざまな資料等を展示なさいます。昨年の様子はこちら

笛ギャラリーさんといえば、今年5月、NHKさんで放映された「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問。
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本当にアポ無しだそうで。まずはご主人。
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そこへ奥様も。
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そりゃ、いきなり鶴瓶さんがいらしたら驚きますわな(笑)。
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お世辞でなく、ここのコーヒーは本当に美味です(笑)。

近所の小学生が来店。
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子供たちが帰ったあと、御夫妻のなれそめ的なお話になり、その中で光太郎も。
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照れるご主人がとてもかわらいしく(笑)。
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これは存じませんでした。素敵ですね。

別の日の映像。先ほどの小学生も。
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こうした流れで、今回初めて、光太郎と喜八の詩の朗読会をやってみようということになったそうです。上記の通り、10月16日(日)です。4日前の時点で既に7名の出演申し込みがあったそうで。当日は当方、拝聴に参ります。
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まさにその通り。足を踏み入れるだけでほっこりさせられる空間です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。北鎌倉・明月院さんから徒歩365歩です。
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【折々のことば・光太郎】

NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、


昭和29年(1954)5月4日の日記より 光太郎72歳

平成28年(2016)に亡くなった、伝説的ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子さん。この当時はNHKラジオで「私の見たこと、聞いたこと」という番組を担当なさっていました。どんな話題が出たのか、残念ながら録音が残っていないようで不明です。秋山さんの回想などにこの件が触れられていれば、と思うのですが……。

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

大正元年(1912)夏、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉県犬吠埼でのイベントです。

駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~

期 日 : 2022年10月1日(土)~12月25日(日)
会 場 : 千葉県銚子電鉄笠上黒生駅~同犬吠駅
時 間 : 受付時間  9:00~12:00
      ゴール時間 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料 金 : 無料

JR 東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」。四季折々の絶景ポイントを味わいながら気軽に参加できる日帰りイベントです。参加無料!

【銚子電鉄共同開催】銚子を愛した文人墨客たちの足跡をめぐろう。ゴールは犬吠埼温泉でリラックス。犬吠埼灯台や銚子ジオパークの森など銚子の見どころ満載のコースです。
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駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベント。様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート!同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてドリンクなどが当たるプレゼント抽選に参加できるそうです。

さて、「関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ」。銚子電気鉄道(銚子電鉄)さんとの共同開催で、スタート、ゴール共に同鉄道の駅となっています。
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銚電さんのサイトはこちら。「ハイキング、ウォーキングが好きな方はもちろん、国木田独歩や高村光太郎などの多くの文学碑がありますので、「文豪ストレイドッグス」がお好きな方や「文豪とアルケミスト」の特務司書の皆様にもおすすめです」とあり、当方の検索網に引っかかった次第です。ただし、光太郎文学碑はありませんのでよろしく。ぜひ建立されてほしいものなのですが……。

まぁ、それでも地球の丸く見える丘展望館さん、光太郎智恵子が宿泊したぎょうけい館さんなどの内部に光太郎智恵子に関する案内板等は設置されています。

また、今回のフライヤーにも光太郎智恵子の名。
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ちなみにトリビア的に紹介されている他の2件、東映さんのオープニング「荒波に磯」が犬吠埼だというのは存じていましたが、三越さんの包装紙も犬吠由来というのは今回初めて知りました。学生時代、三越さんでがっつりバイトをさせていただき、この包装紙でお歳暮の包装などもさんざんやったのですが(笑)。それから猪熊弦一郎デザインというのは存じておりましたが、やなせたかし氏の手も入っていたというのも初耳でした。

参加には、銚電さんの1日乗車券「弧廻手形(こまわりてがた)」(大人700円、小児350円)があると便利ですね。「ハーブガーデンポケットに設置してあるチラシとセットで、犬吠駅売店でお見せいただくと、ぬれ煎餅1枚をプレゼント!」だそうです。
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ところで銚電さんのサイトでは、上記の通りアニメ「文豪ストレイドッグス」やゲーム「文豪とアルケミスト」も持ち出されていますが、今回はそれらとは公式のタイアップではないようです。また別の機会にでもそれらときちんと提携し、「文豪列車」など運行してみるのもいいかもしれない、と思いました。これまでにアイドルグループとのタイアップや、お化け屋敷的なホラー列車などは実現していますので。

というわけでコロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜在宅、 〈机上の春蘭よく匂ふ、夜、〉


昭和29年(1954)4月2日の日記より 光太郎72歳

「春蘭」は銚子出身の詩人・宮崎丈二から贈られたものです。このちょうど2年後が、光太郎の命の尽きる日でした。

昨日は、久々に都内に出ておりました。上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」拝聴のためです。
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奏楽堂さん、藝大美術館さん等に行く際に前を通過したことは数知れずでしたが、初めて中に入りました。
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昨日の演奏会では使われませんでしたが、ステージにはパイプオルガン。ほう、と思いました。

コロナ禍以来、各種演奏会自体減りましたし(だいぶ元に戻りつつありますが)、やはりコロナ禍ということもあって外出をできるだけ避けていたため、当方、この手の演奏会は久しぶりでした。
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ソプラノ歌手の清水邦子さんという方が、作曲家・朝岡真木子さんの作品を歌われるというコンセプト。ピアノ伴奏は朝岡さんご自身でした。
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二部構成で、第一部は各種組曲等からの抜粋。爽やかなイメージの曲、かわいらしい曲などが多めでしたが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に曲を付けた作品のみは、内容が内容だけに重厚で厳粛な感じでした。

終演後にご紹介がありましたが、作詞された星野ミミナさん、こわせ・たまみさん、それから岡崎カズヱさんも会場にいらしていました。与謝野晶子さんはいらしていませんでしたが(笑)。

第二部が「組曲 智恵子抄」全5曲。30分弱でしたが、光太郎智恵子の世界観が実によく表されていました。「智恵子抄」の詩にメロディーをつけたものは、クラシック系で独唱歌曲や合唱曲、オペラもありますし、他に伝統邦楽系やシャンソン系、J-POP系など、実に多くの方々がそれぞれの解釈で作曲なさっていまして、二番煎じにならず独自性を出すのも難しくなってきているように思われますが、朝岡さんの曲作りにはオリジナリティーが発揮されていたと思われます。

全体的には歌曲というよりオペラのアリアのような。そしてそれが清水さんの確かな歌唱力に裏付けられて、ぐいぐい引き込まれました。また、朝岡さんご自身が弾かれていたピアノ伴奏も実に効果的でした。

第1曲「人に」(大正元年=1912)。「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」で始まる、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾る詩。この詩の書かれた前年に二人は知り合いました。「――それでも恋とはちがひます」などと言いつつ、抑えきれない智恵子への思い。十六分音符の連続、5連符や6連符も交じりで、一種早口言葉のような部分もあったりでした。しかし、光太郎の熱情のほとばしりが頂点に達した部分では長いフレーズで「サンターーーマリーアーー」。なるほど、と思いました。

続いて「あどけない話」(昭和3年=1928)。結婚し、それなりに充実した生活を送っていた光太郎智恵子。しかし、智恵子の実家の造り酒屋が傾きはじめ(不動産登記簿によれば、この詩が書かれた前日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で、仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべき故郷を失います)、さらに生涯の道と思い定めたはずの油絵制作もうまくゆかず、「東京には空が無い」という心境に。触れれば崩れそうな不安定な智恵子の内面がよく表現されていました。

そして毀れてしまった智恵子を謳った「千鳥と遊ぶ智恵子」。Aモール、アレグロ、センプレスタッカートで「タタッタ タタッタ タタッタ タタッタ」と、ピアノの左手。緊迫した情景です。そこにタイトル通りに千鳥と遊ぶ智恵子、「ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声が被さっていきます。終末近く、「人間商売さらりとやめて……」では、一転、バラード調。そうかと思うと、最後のフレーズ「二丁も離れた防風林の……」以下はメロディー無しのセリフ。そしてレントで静かに終わります。

第4曲「値(あ)ひがたき智恵子」。基本、8分の5拍子です。調和のとれた3拍子、4拍子、または8分の6拍子などでは夢幻界に彷徨(さまよ)う智恵子が表現できないということでしょうか。

ここで、4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』には収録されていない、インストゥルメンタルの「間奏曲」。「あれっ」と思いました。もの哀しくも、メロディアス。この曲だけでも「智恵子抄」の世界観がよく表されていました。

そしてアタッカで終曲「レモン哀歌」に突入。一転してドゥア。予定調和的な。「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた」……。うるっと来てしまいました。ちなみに昨日の都内は台風のため、開演前は雨でしたが、この「レモン哀歌」の演奏中くらいに、窓から陽光が差し込みはじめました。智恵子の魂が天上へと誘(いざな)われていくようなイメージでした。

終演後のお二人。
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やりきった感が溢れていますね。

さらに全てハネたあとの入り口付近。お二人がお見送り。
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朝岡さんが当方の知り合いの知り合いだったため招待券を頂いて伺ったので、お礼かたがたお二人とお話をさせていただきました。来春にはコロナ禍も収まっていることを改めて願いつつ、連翹忌の集いへのお誘いも。

今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんの帖に揮毫、リンゴの画を切紙でつくる、洋モク、ペルメルの赤い包紙でつくる、

昭和29年(1954)2月18日の日記より 光太郎72歳

奥平さんの帖」は、「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。「ペルメル」は「ポールモール(PALL MALL)」。赤いパッケージが特徴的なアメリカのタバコで、現在でも日本で販売されているでしょう。「洋モク」という語は、現代の若者には通じないかもしれませんね(笑)。当方、若い頃、ジタン(庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」にも登場します)やらゴロワーズやらを気取って吸っていた時期もありました(笑)。
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そして千疋屋の包装紙なども使って紙絵を作った智恵子へのオマージュ。泣けますね(笑)。

いずれも先週掲載された新聞記事、2件ご紹介します。

まずは長野県発。『毎日新聞』さん。

碌山美術館、修繕へ 目標の3倍以上の寄付集まる 長野・安曇野

 日本近代彫刻の先駆け、荻原碌山(ろくざん)の作品を展示する「碌山美術館」(長野県安曇野市穂高)は11月から、クラウドファンディング(CF)で集めた資金を利用して修繕工事に入る。中心施設の「碌山館」(建築面積約110平方メートル)は、国の登録有形文化財。1958年の開館から64年たち、老朽化が目立っていた。資金が課題だったが目標の3倍以上の寄付が集まり、由緒ある建物と貴重な収蔵品を守るめどがたった。
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   ◇余剰は「喜ばれる形で活用」
 碌山館は壁はレンガ、屋根は瓦ぶきで、屋根上の尖塔が印象的だ。側面は上部が丸いアーチ型の窓が横に並ぶ。キリスト教の洗礼を受けていた碌山のため、教会ふうのデザインが採用されている。設計者は日本を代表する建築家の今井兼次(1895~1987年)。自身もキリスト教徒で、早稲田大で教授を務め、多数の建築家を育てた。作品には、長野県の燕(つばくろ)岳に建つ山小屋「燕山(えんざん)荘本館」、千葉県の大多喜(おおたき)町庁舎、キリスト教迫害による殉教者を紹介する長崎市の「日本二十六聖人記念館」などが知られる。
 碌山館の傷みは、雨漏りのほか、外装のレンガや屋根の縁のコンクリートの亀裂、ドアの色あせもある。見積もりでは修繕費は500万円。これに諸経費などを足して700万円をCFの目標にした。7月15日に開始すると、碌山美術館に愛着を持つ人らから寄付が相次ぎ、8月31日の締め切りまでに1088人から3・3倍の2370万円が集まった。
 収入を支えてきた入館者は新型コロナウイルスの影響で、感染拡大前だった2019年の約2万7000人から、21年は約1万5000人に減り、22年も同程度か上向いてもわずかの予測。そのためCFに頼った。
 工事は11月8日から1カ月を予定している。予想以上の資金が集まったため、碌山と親交があった高村光太郎らの作品を集めた第1展示棟(1982年開館、約160平方メートル)の床なども直すことにしたが、時期は未定だ。
 それでも資金の余剰が出るとみられ、武井敏学芸員は「応援コメントもたくさんいただいた。その気持ちに寄り添い、残りは来館者が喜ぶ形で有効活用したい」と話した。

 ◇設計者「心の結集で建った」
 設計者の今井兼次は、碌山館の設計前、現地を訪れた時の感慨を雑誌に書いている。「雪降りしきる中に(背後にある北アルプスの)常念岳のきびしい山肌を間近に見て、その環境下に置かれるであろう建築の将来についてあれこれと思いめぐらした」。さらに、「碌山先生の精神的な人間像を心に求めながら働いた。降雪の中に立ちつづける美術館への想念のみが、私の設計意図を最後まで導いてくれた」。
 「碌山美術館誌」によると、太平洋戦争を挟んで地元に碌山顕彰の機運が高まり、「碌山美術館設立委員会」ができた。建設資金は企業や団体、小中高生ら個人の寄付を中心に、30万人もの人から700万円以上を集めた。これに県と旧穂高町の補助金を足して総額は837万円になった。敷地は穂高中(現穂高東中)の土地660平方メートルの無償提供を受け、私有地545平方メートルを買い足した。
 1957年に着工し、穂高中の生徒がレンガや瓦の運搬などで協力。碌山の親族が保管していた作品を運び込み、碌山の49回忌に当たる1958年4月22日に開館した。
 今井は別の雑誌に「心の結集で建った碌山美術館」と題し、「資金といい、労力奉仕といい、多数の人々の力の結集で出来たという点で最大の価値がある」と書いた。武井敏学芸員は「設立当初から周囲の人々に支えられてきた美術館だ」と感謝する。
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 ■人物略歴 ◇荻原碌山
1879~1910年。長野県東穂高村(現安曇野市)の農家に生まれ、本名は守衛(もりえ)。17歳ごろに油絵に目覚め、21歳で渡米して絵画を学んだ。渡仏していた24歳の時、オーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」に出会い、感動。彫刻を志すようになった。28歳で帰国し、東京で次々と制作。30歳の時に突然吐血し、死亡した。死因は不明で、持病だった皮膚病の薬の影響で内臓を害していたとも言われる。作品のうち「北條虎吉像」と「女」は国の重要文化財。

このブログでも何度かご紹介しましたが、碌山美術館さんのクラウドファンディング。わずかな期間で目標額の3.3倍も集まったそうで、まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと実感させられます。かたやまったく必要とは思われない事項に対し、湯水の如く税金が投入される事態、何とかならないものでしょうか……。

もう1件。9月16日(金)の『朝日新聞』さん山梨版から。

外国人を支援するスリランカ人・インディカ・トシさん

 来日して14年になるスリランカ人の男性が、日本の暮らしで困っている外国人を支援している。自分自身、肌の色で差別され、日本を離れようと思った時、思いとどまるきっかけになったのは、ある詩だった。
 甲府市の人材会社「アンサーノックス」で、管理マネジャーとして様々な外国人の相談に乗る。日本語、英語、ヒンディー語、シンハラ語、ドイツ語を操る。
 日本語に興味を持ったのは中学生の時に、夏目漱石の「こころ」を読んだのがきっかけだった。原書に触れたいと、高校生の頃から学び始めた。スリランカの大学で言語学と日本語を学び、公務員として辞書編纂(へんさん)の仕事をした。
 さらに学びたいと、2008年に来日した。富士山があってきれいかな、とネットで見て思い、山梨を選んだ。だが、一緒に来た友達が、2週間でホームシックで帰国。知り合いもおらず不安になった。
 この年はリーマン・ショックで、アルバイトも見つからなかった。やっとコンビニの求人を見つけて面接に行くと、「肌の黒い外国人が店員だと、怖くて客が来なくなる」と断られた。
 びっくりした。日本の何もかもが嫌になった。信号で流れてくるアナウンスの音も嫌で、山に囲まれた甲府盆地も、刑務所のようで息苦しく感じた。
 ある夜、散歩をしていると、古本屋からジャズのレコードが流れてくるのが聞こえた。音に誘われるように中に入った。立っている場所もないほど、本がぎっしりあった。
 「どんなものに興味があるの?」と店主が声をかけてくれた。「近代文学」というと、本の山を紹介された。手に取ったのは、高村光太郎の詩「道程」だった。
 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
 言葉が心に染み渡った。誰かが作った道を行くのではなく、「自分で道を切り開くしかない」と思った。せっかく日本に来たのだから、ここに残ろう。
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 古本屋に通うようになり、心が落ち着いた。文学が好きな日本語学校の先生の家も頻繁に訪れ、夏目漱石や国木田独歩、森鷗外の本も読みあさった。
 山梨英和大学で言語学を学び、スリランカのシンハラ語と日本語の電子辞書のソフトも作った。奨学金を受けながら、山梨大学教育学部の修士課程も終え、その後、山梨学院大学大学院で国際政治学を学んだ。
 その後、進路で悩んだ。このまま博士課程までいき、研究を続けるのか、就職をするのか。
 たまたま、ペルー人の友達から、いまの会社を紹介された。代表と面接をした時、スリランカの駄菓子を出された。「私の地元のものを出してくれた」と感激した。こまやかな気遣いで、外国人も大事にしてくれている会社だと思った。
 「私でよければ働かせてほしい」
 会社にはこれまで50カ国以上の外国人が相談に来たり働いたりしてきた。管理マネジャーの仕事とは別に、外国人が診断書などを読めない時に翻訳や通訳をしたり、入国管理局とのやりとりをしたりなどボランティアで世話をする。「甲府まちゼミ」では、無料でヨガを教える。
 留学生だった時、自分も悩んだ。「外国人の気持ちはよく分かる。なんとかしてあげたい」
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インディカさんが手にされているのは、昭和16年(1941)発行の『詩集 道程 改訂版』の普及版です。やはりすぐれた詩は、国境を超えて人の心の琴線に触れるのですね。

「国境を超えて」と言えば、先述の碌山美術館さんのクラウドファンディング。支援なさった方のお名前が載ったサイトを見ると、海外からの支援もあったようです。ありがたい限りですね。

【折々のことば・光太郎】

車で日比谷 ブダペスト四重奏をきく、

昭和29年(1954)2月3日の日記より 光太郎72歳

日比谷」は日比谷公会堂、「ブダペスト四重奏」は、ブダペスト弦楽四重奏団。大正6年(1917)に結成され、メンバーを入れ替えつつ昭和42年(1967)まで活動しました。

当時のメンバーは全員ロシア出身。しかし活動の拠点はアメリカだったそうです。東西冷戦も既に始まっていた時期ですが、やはり優れた芸術は国境を超えるということでしょう。

光太郎、この夜の模様を詩にしています。001

   弦楽四重奏

外套のえりを立てて
バルトークにくるまつている。
ストールをなびかせて
ミローがささやく。
日比谷公会堂のホールやポーチに
人があふれて動いている。
演奏がすんだばかりの
超現実の時間がながれ、
どこにいるのか、どこにゆくのか、
ともかく生きているものの大群団が
階段の方へ向いている。
バルトークの悲しみや怒りが
第三の天で鳴つている。
冬の夜風は現世を吹くが、
あの四重奏がもっと底から悲しくて痛くて。

この夜の演奏曲目は、バーバーの「弦楽四重奏曲 Op.11」、バルトークの「弦楽四重奏曲第6番」、ミヨーの「弦楽四重奏曲第12番」でした。

028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

京都から演劇の公演情報です。

演劇ビギナーズユニット2022(#28)修了公演XX文士(ハロゲンブンシ)「日本文学盛衰史」

期 日 : 2022年9月24日(土)・9月25日(日)
会 場 : 京都市東山青少年活動センター
時 間 : 9月24日(土)①13:30/②18:00 9月25日(日)③13:00
料 金 : 前売900円(日時指定でのご予約になります) 当日1,200円

6月から始まった初心者対象の演劇セミナーの修了公演です。今年で28回目の公演。演出を担当する岡本昌也さん(安住の地)と、演出補の中村彩乃さん(安住の地/劇団飛び道具)と初めて出会った17人の仲間が一緒に創作しました。ぜひご来場ください。
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「日本文学盛衰史」は、高橋源一郎氏の原作、平田オリザ氏が脚本を書かれ、平成30年(2018)に劇団・青年団さんによって初演されました。夏目漱石、島崎藤村、田山花袋、石川啄木、芥川龍之介、北原白秋ら、近代の文豪達の群像劇だそうで、光太郎も登場人物の一人に名を連ねています。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、お近くの方(遠くの方でも)、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんの帖にウエルハアランの詩をペンでかきかける、


昭和29年(1954)1月2日の日記より 光太郎72歳
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奥平さん」は美術史家の奥平英雄。「」は、奥平に請われて書くことにした書画帖で、光太郎自ら「有機無機帖」と名付けました。全18面、途中で入院等もあり完成には2年以上かかりました。
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現在、目黒区駒場の日本近代文学館さんに所蔵されています。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。

福岡から演劇公演の情報です。

椿エンタープライズ『百花繚乱』

期 日 : 2022年9月25日(日)
会 場 : シアターカフェ 愛と青春のふる~れ 福岡市東区箱崎1-33-9 ウインドウビル3F
時 間 : 14:00~
料 金 : 観劇¥3000【軽食&ワンドリンク付き】
      観劇+交流会¥6000【料理付き2時間飲み放題】 学生は¥1000引き

第一部 「朗読ミュージカル」和香奈/Ash/MIZUKI
第二部 「パントマイム」TEN—SHO
第三部 「智恵子抄」玄海椿ひとり芝居(朗読/長澤昭)
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福岡を拠点に演劇活動を行っていらっしゃる玄海椿さんによる一人芝居「智恵子抄」がプログラムに入っています。同作、玄海さんのレパートリーの一つで、時折、上演されています。『百花繚乱』は「マンスリー公演」だそうで、地元に根を張って毎月上演されている点は素晴らしいと存じます。

もう10年前になりますが、当方、福岡まで拝見に伺いました。黒子(くろこ)のような朗読の方がいらっしゃり、それ以外は玄海さんの一人芝居です。その意味では野田秀樹さん脚本の「売り言葉」に近い部分があるのですが、「売り言葉」は智恵子を追い詰めた光太郎を糾弾する要素がかなり強いのに対し、こちらはさまざまな行き違いから智恵子が壊れていく、という感じ。光太郎ディスり度は「売り言葉」ほど高くないように感じました。

お近くの方(遠くの方も都合がつけば)、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

モチ切り(取手のもち)、 (入浴)夜在宅、 川鍋ラジオ店より受信機返却し来る、あまりこわれすぎてゐる由、 ラジオなどきく、 十一時頃ねる、

昭和28年(1953)12月31日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を完成させ、除幕まで行われた昭和28年(1953)もこの日で終わり。

取手」は茨城県取手町(現・取手市)。智恵子の最期を看取った智恵子姪の春子が嫁いだ先で、餅は春子からの贈り物でした。ラジオは複数台持っており、そのうちの一台。1週間前に修理を頼んでいましたが、無理とのことで、壊れていないラジオの方を聴いたようです。

都内から演奏会情報です。

清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界

期 日 : 2022年9月24日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 13:30~
料 金 : 全席自由 4,000円

清水邦子が朝岡真木子の組曲『智恵子抄』全曲に挑みます。

曲 目 : 高村光太郎 組曲「智恵子抄」
       1.人に  2.あどけない話  3.千鳥と遊ぶ智恵子
       4.値ひがたき智恵子  5.レモン哀歌
      与謝野晶子 君死にたもうことなかれ
      茨木のり子 一人は賑やか
      星乃ミミナ 生命の彩り
      岡崎カズヱ 私に歌があればこそ
      こわせ・たまみ 秋風の中で
      矢崎節夫 しゃなりと あるく
      他

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朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲を、清水邦子さんという方が歌われるコンサート。

組曲「智恵子抄」は、令和元年(2019)に全曲の改訂初演が行われましたが、その後、今年4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』に収められています。その他、ぽつりぽつりと抜粋で各種演奏会のプログラムに入っていました。

名古屋二期会 日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~
朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回。

上記、あくまで当方の把握していた限りのもので、他にも演奏される機会があったかもしれません。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】001

午后五時万安にゆく、十和田委員会解散の会、谷口、草野、土方、菊池、藤島、余の六人、十時過ぎ終り、「好きな場所」に皆で立より、十二時かへる、


昭和28年(1953)12月28日の日記より 光太郎71歳

万安」は「万安楼」。現在は銀座タワーとなっている場所です。「十和田委員会」は、この年10月に除幕された光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員会。その解散式という名目でしたが、気の置けないメンバーでもあり、忘年会的な要素が強かったように思われます。一応、これで「乙女の像」がらみの諸々は全て終了、ということにはなりましたが。

好きな場所」は、小説家武田麟太郎の未亡人・とめが経営していた酒場。武田は昭和14年(1939)に、「好きな場所」という短編小説で光太郎を登場させています。

「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルのメロディーを附けて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。先月から西日本を中心に「ありがとうコンサート」と題するツアーを展開なさっています。
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会場ごとにコンセプトやコラボ出演者等いろいろのようで、詳細な曲目等発表されていませんでしたので、これまで紹介せずにいました。

ただ、今週行われる京都でのステージで、「智恵子抄」が前面に押し出されるという情報を得ましたのでご紹介します。何と、生け花とのコラボだそうで。

モンデンモモありがとうコンサート 「はじまりは 花に溢れ」

期 日 : 2022年9月15日(木)
会 場 : 池坊学園こころホール 京都市下京区四条室町鶏鉾町491
時 間 : 15:00~
料 金 : 無料

花と言葉が舞ふ そこに はじまる みち  ある秋の1日 智恵子は かえってきた そしてレモンと歩んでいく  あなたの こころへ

出 演 : モンデンモモ(Vo) 小室弥須彦(Pf) ロザリア(生け花)
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お近くの方(遠くの方でも(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんくる、電通ラジオの人五人くる、奥平さんとの対談30分ほど録音、

昭和28年(1953)12月27日の日記より 光太郎71歳

奥平さん」は美術史家の奥平英雄。光太郎とは戦時中からのつきあいで、昭和19年(1944)には光太郎の評論「天平彫刻の技法について」を含む『天平彫刻』の刊行に奔走した他、この後、昭和30年(1955)に岩波文庫の一冊として現在も版を重ねる『高村光太郎詩集』の編集等にあたりました。

対談」は翌年、文化放送でオンエアされたもので、その一部は「新潮カセットブック 高村光太郎詩集」(平成2年=1990)に収められている他、奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(昭和51年=1976 瑠璃書房)に付録としてカセットテープが添えられています。こちらはノーカットです。
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対談を文字起こししたものは、『高村光太郎全集』第11巻に収められていますが、なぜか次の一節が脱漏していました。

奥平 良寛なんてものには、やっぱり好意をお持ちなんですか。
高村 まあ、やっぱり、素晴らしいと思うんですよ。
奥平 いや、私はねえ、やっぱり、先生が「昭和の良寛」のような気がするんですけどね、字から受ける感じが。
高村 それは大違いだな。僕はもっと悪党坊主だから(笑)。
奥平 いや、やっぱり良寛の書っていうのは、非常に私が好きなのは、清潔なっていうのか、ああいう、その、清らかさなんですけどね。そういう意味で先生の書もやっぱり……。
高村 ただ、良寛の方が書が上手い。実によくあれはね、古来の書を、筆で習ってはいないだろうが、習っているんですよ。これは、ねえ、もう、唐あたりの墨跡の、いや、唐あたりの、あの、あれはあれでしょうかな、刷り物でしょうか。実によく見ているんですね。そして羲之あたりの筆法をちゃんと取り入れて。
奥平 そうそう、ずいぶん勉強したそうですね。
高村 ええ。だから、あの馬鹿げたまずいような字ではちっとも、そうじゃないんですよ、本当は。それで良寛を真似てる奴のは本当にまずいけれども。
奥平 そうですね。
高村 良寛自身のはね、あの仮名の、仮名なんてきたら実に巧みだな。あんなこと僕らにはとっても出来ない。あれは暇があったから出来たんですよ。
奥平 いや、だけど先生の書は、ここ数年ますます良くなるばかりですね。
高村 いや、僕は知らない。責任持たない。

光太郎がその人生の大半を過ごした地・東京市本郷区(現・東京都文京区)。

そちらに本部を置く文京建築会さんで、平成23年(2011)から「文京・見どころ絵はがき大賞」を開催していらっしゃいます。当方、寡聞にして存じませんでした。

まず、過去11年間の優秀作品を展示している受賞作品展が、盛岡市の深沢紅子野の花美術館さんで、先月から開催中です。文京区さんと盛岡市さん、そういえば友好都市的な関係でした。

文京・見どころ絵はがき大賞 2011-2021 受賞作品展

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
会 場 : 深沢紅子 野の花 美術館 1階ロビー 盛岡市紺屋町4-8
時 間 : 10:00~17:00 (最終日は15時迄)
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合はその翌日)
料 金 : 無料(他展示は有料)

盛岡市と友好都市でつながる東京都文京区で、“あなたが見つけた文京の見どころ”をテーマに毎年開催の人気コンテストです。今回は、その「文京・見どころ絵はがき大賞」(主催:文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会)のこれまでの歴代受賞作品を展示。はがきの中に、それぞれの方の思い出が詰まっています。力作多数。入場無料となっております。どうぞお気軽にお立ちよりください。

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今年度の大賞展作品募集も行われています。

第11回 文京・見どころ絵はがき大賞

大募集中です! ふるってご応募ください!

「文京・見どころ絵はがき」を作って送ってください。今回の締め切りは9月30日(金)当日消印有効です。文京区長賞、郵便局長賞、林丈二賞、(友好都市)盛岡市長賞、テーマ賞など様々な賞を予定しております!!

※今年のテーマ部門は「文京の樹」

【応募期間】  ~ 9月30日(金)消印有効
【応募方法】 官製はがき大サイズ(10cm×14.8cm) 
       スケッチ・イラスト・写真など表現は自由
       100字以内の文章をはがきの表または裏にそえてください。
       文京区に興味のある方ならどなたでも年齢を問わず応募できます。
【表彰対象】 文京区内の見どころを発見し、その価値が十分に表現された絵はがき作品
【応募先】  〒112-0003 東京都文京区関口1丁目43番5号B1F
         文京春日郵便局留 文京建築会行
       住所、氏名、年令を明記ください。
【表彰式】  2022年12月17日(土)13:00~16:00
       文京シビックセンター26階 スカイホール
【展覧会】  2022年12月17日(土)~20日(火)10:00~18:00
       文京シビックセンター1階 ギャラリーシビック
       ※最終日は17:00まで
【問合せ先】 文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会
       email:ehagaki@bunkyo-arch.org
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残念ながら旧駒込林町光太郎(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居は戦災で焼失してしまいましたが、光太郎実家隣の旧安田楠雄邸など、光太郎がいた当時の俤はまだまだ残っています。

絵心のある方、文京区愛に溢れる方、ぜひご応募を。

【折々のことば・光太郎】

西山勇太郎氏風間氏と同道くる、写真撮影、 椛澤さんくる、 藤島さんくる、廿八日午后五時築地万安にて委員会解散式をやること、会費2000円のこと藤島さんより話、

昭和28年(1953)12月23日の日記より 光太郎71歳

西山勇太郎氏」は詩人。辻潤や萩原朔太郎とも交流がありました。光太郎歿後には光太郎若き日のスケッチ帖『赤城画帖』を編集、『智恵子抄』版元の龍星閣から出版しています。

風間氏」は風間光作。やはり詩人で、光太郎に自著の題字揮毫をしてもらったりした他、光太郎歿後には「高村光太郎詩の会」を立ち上げ、顕彰活動にあたりました。

椛澤さん」は椛沢佳乃子(ふみ子)。茶道家で、戦時中からの光太郎ファン。駒込林町のアトリエ兼住居、戦後の花巻郊外太田村の山小屋などもたびたび訪れていました。

藤島さん」は藤島宇内。当会の祖・草野心平の『歴程』に依った詩人でしたが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際し、「在京建設委員」として青森県との交渉役等を精力的にこなしました。「委員会解散式」もこれに関わります。

この日の写真が、風間が発行していた『高村光太郎詩の会会報 第66号』(昭和44年3月)に掲載されています。
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左から椛沢、風間、光太郎、藤島です。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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先月6日から上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催中の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」展。先月末、一部作品の展示替えが行われ、後期展示となりました。
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光太郎の父・光雲作品。前期では「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ていましたが、後期に入って「鹿置物」(大正9年=1920)にバトンタッチ。こちらも逸品です。
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公式サイト上で「出品目録」を見つけました。
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国宝に指定された「蒙古襲来絵詞」、高橋由一の「鮭」などは通期展示。それから目玉の一つ、伊藤若冲の「動植綵絵」なども後期からの展示です。

前期展示のレポートですが、主催に入っている読売新聞社さん発行の『読売中高生新聞』に関連記事が出ていましたのでご紹介します。

日本の風土を記録

004 日本美術の奥深にふれる特別展「日本美術をひも解く― 皇室、美の玉手箱」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開催されています。宮内庁三の丸尚蔵館の名品と、東京芸術大学の収蔵品が結集した同展の魅力を、同美術館の黒川廣子館長に聞きました。
 本展は、皇室ゆかりの品が収蔵されている宮内庁三の丸尚蔵館と、近代以降の日本で芸術の教育・研究 機関として重要な役割を担ってきた東京芸術大学のコレクションを合わせて、日本美術の魅力を紹介するものです。タイトルにある「玉手箱」には、「様々なジャンルや作品に出会える」(黒川館長)という意味が込められています。
 時代ごとではなく「生き物」や「物語」「風景」などのテーマごとに作品が区分されていて、所々に「蒔絵・螺鈿」「やまと絵」「障壁画」などの伝統技法や形式の解説もあります。小さい子どもも楽しめるワークシートも用意されていて、与えられたミッションをもとに、楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 会場に入るとまず、黄金の蒔絵とオーロラのような螺鈿が調和しながら 輝きを放つ「 菊蒔絵螺鈿棚」が来場者を迎えます。明治天皇の許可のもと、東京美術学校(現・東京芸大)と、宮内省(現・宮内庁)が 制作した、 記念的な作品です。
 文字をテーマとしたコーナーでは、 伝藤原行成「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」などが目をひきます。 雲母(きら)とよばれる鉱物を粉末状にして 描かれた文様がある料紙など、素材と文字の美しさのかけ合わせが印象的です。
 また、だれもが一度は教科書などで見たことがあるであろう、鎌倉時代の元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」も、物語をテーマとしたコーナーに展示されています。「当時は写真がない時代なので、絵で表現して現在に伝えているところに 歴史的な 価値があります」と、黒川館長。多くの画家が模写を行った作品だそうです。
 「蒙古襲来絵詞」を 含め、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品として 昨年初めて国宝指定された5件が展示されるのが、本展の見所のひとつです。この中で、桃山時代の武士のように力強い獅子が描かれた狩野永徳の「唐獅子図屏風」は生き物を集めたコーナーに展示され、会場に威風を放っていました。
  豪華絢爛な屏風絵から、月ごとに咲く花と鳥や虫を合わせた 酒井抱一「 花鳥十二ヶ月図」のような繊細な掛け軸まで、バラエティー豊か。重要文化財となっている、明治時代の高橋由一「鮭」は油絵です。「身近な画題を描くことで、洋画を受け入れてもらおうと一生懸命でした」という黒川館長の説明に、当時の洋画家たちの挑戦に思いをはせました。雌雄のつがいで展示されている 高村光雲のかわいらしい木製彫刻「矮鶏(ちゃぼ)置物」は、元々雄のみだったのが、明治天皇が気に入って購入され、それに合わせて雌を急きょ制作したそうです。
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 黒川館長によると、貴重な作品を守るために、作品ごとに当てる光を変えたり、温度も作品にとってちょうどいい温度にしたりと、気をつけているそうです。美術館が少し肌寒く感じたのはそのせいだったのかと納得しました。
 日本美術の特徴がぎゅっと詰まった展覧会。「日本で起きる全てを大切に記録するのが美術。日本ならではの表現で、日本という風土を記録しているのが魅力です」という、黒川館長の言葉が心に残りました。これからは作品の背景にも気を配って、作品を見ていきたいと思いました。
 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は、東京芸術大学、宮内庁、読売新聞社主催。9月25日まで、会期中、一部展示替えあり。詳細はホームページ 。

編集後記
 国宝級の美術品は、何度鑑賞しても飽きませんでした。美術や歴史の教科書に載っている実物を、目の前で見られるのは感動します。特に同世代には、日本人として、世界に 誇る日本美術の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。ぜひ足を運んでみてください。(岡島)
 ★企画者・ 岡島花蓮記者(中3)、 児玉龍之介記者(高2)、 飯島記者(高2)、 池上颯記者(中2)、 那須祐香記者(小5)

9月の金・土は午後7時30分まで開館だそうです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前志戸平より車で花巻温泉松雲閣別館に移る。 再び出て理髪等、


昭和28年(1953)12月2日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。かつてたびたび宿泊した松雲閣別館に宿を移し、5日の朝、再上京するまで逗留しました。

都内から現代アートの展覧会情報です。

緑色の太陽とレンコン状の月

期 日 : 2022年9月10日(土)~10月8日(土)
会 場 : タカ・イシイギャラリー 東京都港区六本木6-5-24 complex665 3F
時 間 : 12:00~18:00
休 廊 : 日・月・祝祭日
料 金 : 無料

「人は案外下らぬところで行き悩むものである。いわゆる日本画家は日本画という名に中てられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。」という書き出しから始まる高村光太郎のエッセイ《緑色の太陽》は、僕が近年ずっと抱えていた問題意識と共振するような内容で驚いた。100 年以上も前に書かれたこのテキストはたんに芸術論であるばかりか、現在わたしたちが直面しているコロナ禍、そして不安定な世界情勢の中でどう生きるべきかを示唆しているように思う。「人は、そして芸術家は国家に規定されるのか?」という根本的な問いを造形言語のレベルから検討し可視化したい。
梅津庸一

タカ・イシイギャラリーでは、9 月 10 日(土)から 10 月 8 日(土)まで、梅津庸一「緑色の太陽とレンコン状の月」を開催いたします。梅津のタカ・イシイギャラリーでの初個展となる本展では、梅津が近年新たに制作に打ち込んでいる陶作品を中心に、30 点以上の大小様々なドローイングと、大塚オーミ陶業株式会社の協力のもと制作された陶板作品を展示いたします。

梅津は、「美術とはなにか」、「人がものをつくるとはなにか」という根本的な問いについて、様々な角度から思考、実践してきました。日本における美術の受容史を自らの身を以て体現した代表的な自画像シリーズや、パフォーマンスを記録した映像作品で知られてきましたが、自身が主宰するアートコレクティブ「パープルーム」や、非営利のギャラリーの運営、展覧会のキュレーション、テキストの執筆、そして、一昨年より新たに加わった陶作品の制作など、その活動領域は、近年より一層の多面性を見せています。2021 年にワタリウム美術館にて開催された個展「ポリネーター」では、これまであまり知られていなかった梅津の活動の全貌が明らかになりました。なかでも、140 点もの陶作品により構成された「黄昏の街」は、SF的な想像力と、粘菌の増殖に見られるような秩序とが同居したメルクマール的作品と言えるでしょう。 

2021 年、梅津は、六古窯のひとつである信楽の製陶所を間借りして作陶を始めます。明治時代から日本を下支えしてきた産業のひとつである「窯業」を起点に、現代アートにおける「ものづくり」について考察を深めています。今年 7 月には、信楽の複数会場にて「一人芸術祭」の様相を呈した「窯業と芸術」展を企画・開催し、作家による「やきもの」だけではなく、それを下支えするインフラにもスポットを当てました。また、梅津は現代アートで近年注目の高まる陶芸を単なる「オーガニックなもの」や「手仕事への回帰」としては捉えておらず、陶芸における柳宗悦や河井寛次郎らによる民藝運動と、それに付随する「オリエンタリズムの功罪」を積極的に見出すことで、一連の作品を編み上げているのです。 

梅津のドローイング作品は、ひとつの表現様式に一元化しない複雑さを有しています。ポエジーと物理法則、私小説的な感受性、フォーマリズム絵画の原理が互いに作用しながら編まれる作品は、1 点 1 点が独立した作品でありながらも、それぞれが有機的な結びつきをみせています。本展では、陶芸とドローイング、窯業と芸術、モダニズムと図画工作の間を行ったり来たりしながら練り上げられた、およそ 100 点に及ぶ作品群を展示いたします。決してひとつの結論に回収されることのない梅津の複合的なアプローチは、その作品や活動の全体を介して私たちに「美術とはなにか」という疑問を投げかけているようです。梅津の思考の基盤と、次なる展開をこの機会に是非ご高覧ください。 

梅津庸一は 1982 年山形県生まれ。相模原在住。東京造形大学絵画科卒業。絵画作品、ドローイング作品、自身を題材とした映像作品、セラミック作品、陶板作品と多様なメディアを介して制作を行うほか、自身が主宰する「パープルーム予備校」(2014 年~)および「パープルームギャラリー」の運営、美術手帖 特集「絵画の見かた」(2020 年 12 月号)の監修、テキストの執筆など活動領域は多岐にわたる。主な個展に「未遂の花粉」愛知県美術館(愛知、2017 年)。「ポリネーター」ワタリウム美術館(東京、2021 年)。 作品集に『ラムからマトン』(アートダイバー、2015 年)。 
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光太郎の評論「緑色の太陽」からのインスパイアだそうで。

「緑色の太陽」は、光太郎帰朝後の明治44年(1911)、雑誌『スバル』に発表された「日本初の印象派宣言」とも呼ばれるもので、同時代の美術家たちに多大な影響を及ぼしました。のちに妻となる長沼智恵子も、これを読んで目からウロコだったようです。

題名の「緑色の太陽」は、次の一節に象徴的に使用されています。

人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。(略)「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。

さらに、

僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。

PERSOENLICHKEIT」は独語で「個性」。まさに印象派宣言といえましょう。

梅津氏、存じ上げない方ですが、絵画、陶芸などの作品を作られているとのこと。そこで今回の個展では、大塚オーミ陶業株式会社さんの協力のもと制作された陶板作品も並ぶそうです。大塚オーミ陶業さんといえば、埼玉県比企郡ときがわ町の正法寺さんに寄進された光太郎筆の「般若心経」を写した陶板を制作なさった会社です。不思議な縁を感じました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻病院長さん夫妻車でくる、そのうち「わんこそば」などの催あるとの事、
昭和28年(1953)11月28日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻ですが、郊外旧太田村の山小屋には起居せず、大沢温泉さん、志戸平温泉さん(この日も)、花巻温泉さんなどを泊まり歩いていました。宿痾の肺結核は既に老体を長く蝕んでおり、また初冬とはいえ岩手の寒さは厳しく(この日も雪が舞っていました)、むべなるかな、です。

花巻病院長さん」は佐藤隆房。「「わんこそば」などの催」は不分明です。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎、柳敬助ら、守衛の周辺にいた作家の作品も収蔵、展示なさっています。

現在、コレクション展的な「中村屋サロンの芸術家たち」が開催されていて、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916頃)、「十和田湖裸婦像のための小型試作」(昭和27年=1952)も展示されています。
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出品目録的には以下の通りです。

彫刻11点
 戸張孤雁 《をなご》1910年  《足芸》1914年
 中原悌二郎 《老人》1910年 《若きカフカス人》1919年 《憩える女》1919年
 高村光太郎 《裸婦坐像》1916年頃  《十和田湖裸婦像のための小型試作》1952年
 保田龍門 《臥女》1924年 《裸婦立像》1927年
 堀進二 《中原悌二郎像》1916年 《中村彝氏頭像》1969年
平面(デッサン、油彩等)(12点)
 荻原守衛 《こたつ十題其一》1910年頃 《こたつ十題其二(複製)》1910年頃
  ※会期中入れ替えます
 戸張孤雁 《荒川堤》1910年《橋を渡る農婦》制作年不詳
 柳敬助 《荻原守衛肖像》1910年頃 《千香》1910年頃 《婦人》1910年
 齋藤与里 《花あそび》1950年 《山峡秋色》1957年
 鶴田吾郎 《窓辺》制作年不詳 《ネパール国境のヒマラヤ》制作年不詳
      《リガ》制作年不詳

そちらの関連行事として、市民講座が開かれます。

美術講座「中村屋サロン展の作家たち」

期 日 : 2022年9月10日(土)
会 場 : 碌山美術館 杜江館2階 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:30~20:00
料 金 : 無料
講 師 : 武井敏氏(碌山美術館学芸員)


ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

ところで碌山美術館さんというと、本館に当たる碌山館修繕のためのクラウドファンディングが、明日まで実施されています。

当初目標額は700万円でしたが、あっという間にそれを達成、その後も寄附の勢いとどまらず、「セカンドゴール」に設定されていた1,000万円、「サードゴール」の1,800万円もクリア。今朝の段階で2,100万円を突破しています。

世の中、まだまだ捨てたものではないなと実感させられました。繰り返しますが、明日までの実施です。さらなる支援をよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋の中ゐろりでいろいろ撮影、井戸水くみ、大根きざみ、スルガさん宅でそば食を皆でやる。

昭和28年(1953)11月27日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。

前日に続き、この日もブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
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光太郎帰村についての報道については、こちら

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