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9/17のブログで御紹介した和歌山県田辺市立美術館の「詩人たちの絵画」展。
 
連翹忌に御参加くださっている学芸員の三谷氏から、図録、チラシ、招待券まで戴いてしまいました。誠に恐縮です。

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図録
 
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 チラシ
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図録に関しては「稚拙なものでお恥ずかしい」などとお手紙にありましたが、どうしてどうして美しい出来です。信濃デッサン館長の窪島誠一郎氏の巻頭言も読みごたえがありますし、全体にコンパクトながら要所要所がよくまとまっています。
 
出品されているのは以下の人々の作品です。
 
高村光太郎   木下杢太郎  佐藤春夫 中川一政 西脇順三郎 村山槐多 片山敏彦 富永太郎 小熊秀雄 難波田龍起 立原道造 
 
光太郎作品は、「庭」(油絵・明治43年=1910)、「室内」(同・明治末)、十和田湖畔の裸婦像のためのデッサン(昭和27年=1952)、そして彫刻の「手」(大正7年=1918)です。

光太郎は明治42年(1909)に海外留学から帰ってしばらくの間、父・光雲を中心とする旧態依然の彫刻界との対立から、彫刻制作より絵画の方に情熱を傾けていました。「庭」「室内」ともにその時期の作品です。彫刻制作から離れての代償行為とか余技といったレベルではなく、西洋で学んだ美の表現の在り方がきちんと反映されており、いい絵だと思います。
 
他の出品作家の作品も、図録で見て、それぞれに個性的で面白いと思いました。村山槐多や難波田龍起は絵画が本職ですので当然ですが、西脇順三郎や立原道造が、ここまで玄人はだしの絵を描いているとは知りませんでした。
 
お近くの方、是非お越しください。
 
当方、今回はパスするつもりでしたが、今、予定表を見ながら、かつて紀伊田辺駅前で食べたマグロ海鮮丼を思い出し、非常に心が動いています(笑)。

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

先週、成田市立図書館さんに行き、昔の銅像写真集『偉人の俤』を調べたことを書きました。
 
その際、ついでに開架の棚を見たところ、書誌情報関連の書籍や古い雑誌の復刻版などがそれなりに充実しているのがわかりました。しかし、その時には光太郎書誌に関するリストを持って行かなかったので、昨日、また行ってきました。
 
書誌情報関連の書籍というのは、簡単にいえば「何々という書籍/雑誌に誰々の書いた文章が掲載されている」という類のものです。
 
以前にも書きましたが、当方、まだ世に知られていない光太郎文筆作品の集成をライフワークとしています。そうして見つけたものは、「光太郎遺珠」の題名のもと、年一回公表しています。現在は高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』の中の連載とさせていただいております。
 
さて、昨日の調査、やはりそう簡単には未知のものは見つ000かりません。「ああ、これはリストに載っている」「この復刻版は時期がずれてて光太郎作品は載ってないな」という連続です。しかし、あきらめかけた頃、書架の片隅である書籍を見つけました。かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち杉並けやき出版発行。題名を見ただけで「これは使える!」、ピンときました。
 
古書目録というのは、古書店が発行している在庫目録です。デパートなどで行われる古書市の出品目録として、何軒かの古書店が合同で発行する場合もあります。この手のもの、当方の自宅には月に10冊位が送られてきます。詳しい記述があるものは、書籍の題名や著者、刊行年、価格などの基本情報以外に、「誰が序文を書いている」とか「誰が装幀した」といったことまで書かれており、貴重なデータベースです。
 
たとえば最近届いた府中の古書かつらぎさんの目録。有島生馬の小説集ですが、島崎藤村が序文を書いているという情報が載せられています。

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この手の情報は非常にありがたいものです。実際、こういう記述が決めてで購入し、新たに発見した光太郎の文章なども少なくありません。
 
余談になりますが、売り上げが伸びなくて困っている、という古書店様。基本的なことしか書いていない目録では限界がありますよ。面倒でもこういう工夫が必要だと思います。
 
さて、「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。こうした古書目録に載った「誰が何という本に序文を書いている」という情報の集成です。500ページ近い大著で、約1,600人・約12,000冊の書籍がリストアップされています。素晴らしい! 編集には気の遠くなるような労力が必要だったことでしょう。
 
光太郎に関しても、70冊以上の書籍が紹介されていました。大半はすでに知られているものでしたが、数冊、未知のものが含まれていました。今後、各地の図書館や古書店のサイトにあたり、どんなものか突き止めたいと思っています。確実に未知のものであれば「光太郎遺珠」に登録していきます(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)。
 
ちなみに帰宅してから調べたところ、同じシリーズで「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」という書籍もあり、やはり成田市立図書館さんに所蔵されているとのこと。こちらも期待できます。
 
光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨に至るまで、できうる限り収集し、次の世代へと引き継いでいきたいとというのが当方の基本スタンスです。今後も草の根を分けてでも探し出すつもりでおります。

少し前に戦時中の金属供出で失われてしまった光太郎、光雲作の銅像について書きました。
 
そもそも上野の西郷さんの原型(木型)が鹿児島に運ばれ、そこで空襲により焼失した、という話の流れからそちらに行ったもので、あまり下調べもせずに書きました。
 
書きながら、光雲作の以前にご紹介した長岡護全像以外の光雲作の銅像の数々はどうなっているんだろう、と疑問がわき、そこで、調べてみました。ネットで調査してみると、昭和3年に刊行された『偉人の俤(おもかげ)』という書物があることを知りました。これは、明治から昭和初年に国内に建造された銅像700基余りを、ほぼ網羅した写真集です(すべて、ではありません。大正7年(1918)の浅見与一右衛門像などは漏れています)。そして、平成21年に復刻版が刊行されており、さらに「資料編」もついているとのこと。この本にあたればかなり詳しいことがわかりそうだと気付きました。
 
当方生活圏の図書館に所蔵されていればと思い、まず成田市立図書館のHPを調べました。成田市立図書館はこれまでもけっこうマニアックな(笑)書籍が収蔵されていて、非常に助けられています。案の定、ありました。
 
そこで早速、昨日、行って調べて参りました。その結果、やはり光雲作の銅像もかなり戦時供出されていることが判明しましたので紹介します。
 
① 西村勝三像 明治39年(1906)
 
西村勝三(天保7年(1837)~明治40年(1907))は、日本で初めて本格的な靴を製造した実業家です。その功績をたたえ、向島の西村家別邸に建てられました。

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当方所蔵の古い絵葉書です。
 
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こちらは『偉人の俤』から。
 
 
② 坂本東嶽像 大正12年(1923)
 
東嶽坂本理一郎(文久元年=1861~大正6年=1917)は秋田県選出の代議士。郷里の秋田県仙北郡美郷町千屋に建てられた像です。
 
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以前に地元の方から送っていただいた資料のコピーです。
 
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こちらはやはり『偉人の俤』から。
 
この2体は『偉人の俤』資料編によれば、やはり戦時供出で現存せず、ということになっています。
 
ただ、坂本東嶽像は現在、秋田の仙北に現存しています。岐阜の浅見与一右衛門像のように、戦後に新たに別人が作ったのでしょうか。または、やはり光雲作・愛媛の広瀬宰平像は、供出されたものの、原型が保存されており、それを使って復刻されています。そのパターンでしょうか。情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。
 
その他、無くなった理由が不明ながら無くなった銅像もあります。

 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年
 
さらに、残っているかどうかも不明、というものも。

 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年
 
このあたりに関しても情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

同じブロンズでも、寺院に寄進され、露座として境内にある光雲作の仏像類は、かなりの程度こちらで情報を把握しています。それらは現存するものも多く、いずれ見て歩こうと思っております。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

光雲の彫刻にも、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しないものがあります。
 
長岡護全銅像
 
明治39年、熊本の水前寺公園に建てられた像です。画像は当方手持ちの古絵葉書です。

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 長岡護全(もりまさ)は熊本の名門、細川家の出で、日露戦争遼陽の会戦で戦死。名門の出ですので、軍神的な扱いを受けたのでしょう。光雲が中心となり、白井雨山、水谷鉄也ら光太郎とも関わる彫刻家が手がけています。
 
この像も戦時中に供出、現存していません。ただ、ネットで調べたところ、跡地に写真が展示されているとのことです。

他にも光雲作で供出されてしまい、現存しないものがあると思われます。光太郎のものはかなりわかっているのですが、光雲のものは消息不明のものが少なくありません。情報をお持ちの方はお知らせ願います。

戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介、最後です。
 
赤星朝暉胸像
 
昭和10年(1935)の作。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられました。赤星朝暉は同校の初代校長です。
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『高村光太郎 造型』春秋社 より
 
例によって光太郎の言から。
 
 松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵へやが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやつてみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。
(「回想録」昭和20年(1945)『高村光太郎全集』第10巻)

 翁は偶然の因縁で、私と同番地の地所内に住居を持つて居られ、そこから松戸の園芸学校へ通つて居られたらしく、あとで思へば、この特色ある面貌には時々往来であつてゐたやうに思ふ。翁が松戸の高等園芸学校の校長さんをやめられたので、学校の校庭に記念の胸像がたてられたわけである。幾年頃であつたか、今忘れてしまつたが、これは学校へ行つて調べればすぐ分ることである。
 翁は近所に居られることとて、よくポーズに通つてくれた。もう七十歳を超えて居られたと見えたが、頑丈な体格を持ち、色の浅黒い、いかにも土に関係の深さうな、特異な相貌をしてゐた。かん骨が高く、眼は凹んでまろく、大きく、鼻がとがり、口も大きく、あごは四角に張つて肉がついてゐた。その二重まぶちのまろい大きな眼が奥の方で光つてゐるさまは、ちよつと戦国時代の野武士をおもはせて愉快だつた。私はこの顔の食ひ入るやうな皺の線條にドナテロ風の食慾を感じて、徹底的にその実在性に肉薄した。これまで作つてゐた都会の文化人等とはまるで違つた人間族の代表がそこに出来上つたやうに感じた。像が出来上がる少し前に翁は物故せられたやうであつたが、この像のきびしさを松戸の学校のお弟子さん達はどう見たか、少々突つこみ過ぎたやうにも感じた。しかし気持は悪くないので、後年、朝鮮徳寿宮の美術館で毎年行はれる日本美術の展観の時、一年間の契約で原型の石膏型をかしたことがある。それでその年の館の図録の写真にこの胸像が出てゐる。今ではそれもこの作品のかたみとなつたわけである。校庭にあつたブロンズの胸像を軍へ献納する時、学校から問合せがあつて、原型が保存されてゐるなら、献納する。原型がもはや無くて、かけがへがないなら、献納しないといつて来た。その時には、まさかアトリエが焼けると思はなかつたので、原型は現存してゐるから献納せられよと返事を出した。それで皆なくなつた。
(「焼失作品おぼえ書き」昭和31年(1956)『高村光太郎全集』第10巻)
 
 この像も、岐阜の浅見与一右衛門像同様、戦後になって再建されています。

 再建は昭和26年(1951)ということで、光太郎存命中ですが、光太郎の書いたものの中に、再建云々の記述は見当たりません。昭和26年といえば、光太郎は花巻郊外太田村山口の山小屋で隠棲中。光太郎と無関係に進められたのではないかと思われますが、詳しいことがわかりません。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
 
2014/03/03追記 再建された像は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使ったものでした。
 
 松戸は同じ千葉県内で、それほど遠くありませんので、そのうちに調査にも行ってみようかとも思っています。
 
 さて、もう一篇、この像に関する光太郎の言を。
 
間もなく、智恵子の頭脳が変調になつた。それからは長い苦闘生活の連続であつた。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作つた。これも精神異状者を抱へながらの製作だつたので思つたよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思ひ出しても戦慄を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になつてしまつた。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。
(「回想録」昭和15年(1940)『高村光太郎全集』第9巻)
 
 なんとまあ、この像を作っている時はこういう状態だったわけです。その意味でも、光太郎にとっては思い出深いものだったのでしょうが、現存しないということで、非常に残念ですね。
 
 明日は同じく戦時供出でなくなった光雲の彫刻を紹介します。

昨日、光雲が制作主任であった上野の西郷さんの銅像について書きました。
 
西郷さんの銅像は戦時供出をまぬがれ、上野公園に現存しています。しかし、光雲作、光太郎作の銅像の類のうち、残念ながら供出されてしまったものも少なくありません。
 
それらについて御紹介すると同時に、情報等ございましたらご提供のお願いです。
 
まずは光太郎作品から。
 
浅見与一右衛門銅像
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『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』より
 
大正7年(1918)、光雲の代作ということで、光太郎が制作。現在の岐阜県恵那郡岩村町に立てられました。浅見与一右衛門は天保14年(1843)の生まれ。岩村で酒造業と庄屋を兼ねた素封家で、維新後は岐阜県議会議長、衆議院議員などを務めました。また、岩村電車を開通させるなど、地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、喜寿の記念に銅像建立を発願しました。除幕式は大正8年(1919)4月27日。浅見翁はまだ存命中でした(大正13年=1924歿)。
 
後年、光太郎はこの像について「銅像の代作では、木曽川のへりの村の村長さんのものがある。有徳な村長さんで、村中の人が金を出して作つたものだが、それがとても猫背のフロツクコートを着て膝のとび出したズボンをはき、シルクハツトを持つているところをこさえたものである。モデルのとおりにこさえたけれど、そんなに悪くない作のはずだ。だが村では不評判だつたことだと思う。父は、もう少しおまけした方がいいなどと言つたものだ。なにこういうところがかえつておもしろいのです、と言つてそのまま鋳金した。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。
 
「村長さん」というのは光太郎の勘違いなのではないかと思われます。上記の浅見翁経歴は、平成19年、地元で刊行された『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』に依りましたが、県議会議長、衆議院議員という記述はあっても村長という記述はありません。ネットで調べても同様です。

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このあたり、詳しくご存知の方は情報をいただければ幸いです。
 
この像が、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。

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また、やはり「有徳の人」だったということで、地元で像を再建しようという運動が起こり、昭和60年(1985)、岩村町出身の彫刻家、永井浩氏によって新たな像が創られました。おそらく元々の像の写真等を参考にしたのでしょう、同じポーズで創られています。

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当方、3年前の夏に岩村を訪れました。旧中山道の宿場町、恵那から山中に入ったところで、浅見家をはじめ古い街並みが残り、風情のある場所でした。当方の住む千葉県香取市同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 
他に岩村城跡や歴史資料館など、見どころも多いので、一度行かれる事をお勧めします。
 
次回も同じように供出されて現存しない光太郎彫刻について御紹介します。

昨日、俳優・内藤武敏さんの訃報にからめて昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」に触れました。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念館の企画展「智恵子抄という詩集」の関連行事での上映を観たことも書きましたが、この松竹の「智恵子抄」、もちろん、光太郎・智恵子を描いた作品だから観たかったのですが、もう一つ、どうしても観たかった理由があります。それは、ロケ地の問題です。
 
下の画像は、この映画のパンフレットからスキャンしました(パンフレットはかなり前に入手しました)。この写真を見て、「これ、佐原じゃん」と思ったのです。

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「佐原」は当方の住む街です(平成の大合併で「香取市」となってしまいましたが)。以前のブログにも書きましたが、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
そのおかげで最近は観光客も多く、さらに、テレビや映画などの撮影がよく行われています。平成9年(1997)の役所広司さん主演、今村昌平監督の映画「うなぎ」で、一気にメジャーになりました。旅番組的なもので紹介されることもよくありますし、古い町並みを使って、映画やドラマ、CMのロケ地になることが多いのです。つい4,5日前も、おせんべいのCM撮影が行われていました。その他にも、当方、犬の散歩中にロケの現場に行き会わせたことが数回あります。果てはAKB48のプロモーションビデオまで佐原で撮影されています。
 
特によくロケが行われるのが、旧市街中心を流れる小野川べり。古い商家や、江戸時代に作られた石積みの船着き場などがたくさん残り、いい感じです。下の画像をご覧下さい。

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昨日、撮影したものです。どうでしょう、上の「智恵子抄」の画像と似ていると思いませんか?
 
しかし、「智恵子抄」パンフレットのキャプションでは、「遂に探し当てた千葉県佐倉市」となっています。この部分、「佐倉市」ではなく「佐原市」の誤りなのではないかと思います。
 
「佐原」と「佐倉」、字面も発音も似ていますし、地理的にも比較的近いので、よく間違われます。どちらも古い街であるというのも共通しており、よけいに間違われやすい原因になっています。佐倉にもところどころ江戸時代の古い町並みが残っています。いろいろな方のブログなどで「『佐原』と『佐倉』って紛らわしい」という記述も見かけます。
 
そこで、「佐原」と「佐倉」、お互いライバル意識を持っている部分があります。そう言うと、佐倉の人は、
佐倉は由緒正しい城下町だ。佐原はしょせん商都じゃないか。一緒にするな!
と言います。それに対し佐原の人は、
てやんでぇ、こっちは伊能忠敬(ちゅうけい)先生のお膝元だ。そっちにゃ歴史上の有名人がいねえだろうが。
と反論します(ちなみに佐原の住民は伊能忠敬を「ただたか」と呼ばず、「ちゅうけい」と呼びます)。
すると、佐倉の住民は
何言ってんだ、こっちにはミスタージャイアンツ・長嶋茂雄がいるぞ!
と反駁してきます。すると、
ミスターは歴史上の人物じゃねえ!
……くだらない論争ですが、地元では真剣です(笑)。
 
だから、というわけではありませんが、上の画像は、川べりの石積みの感じ、柳並木の風情、どう見ても佐原です。それを確かめたくて松竹「智恵子抄」、ずっと観たいと思っていました。
 
昨年、実際に観てみても、結局よくわかりませんでした。DVD等であれば当該シーンで一時停止して詳しく観られるのですが、ノンストップで見ただけでは確証を見つけられませんでした。しかし、自分ではこれは「佐原」だ、と確信しています。
 
ただ、佐原がロケ地として有名になったのは昭和60年(1985)のNHK銀河テレビ小説「たけしくん、ハイ」(ビートたけし氏の少年時代を描いた作品)の頃から。その前はロケ地として使われていたという話はほとんど聞きません。しかし、古いところでは昭和9年にすでに松竹映画「利根の朝霧」が撮影されています。同じ松竹ですし、でも、30年以上経っているし……
 
「佐原」か「佐倉」か、確実な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報いただければ幸いです。
 
と、たった今、テレビ東京さんのCMで、明日の「出没!アド街ック天国」のCMが流れました。光太郎の実家である千駄木の光雲、豊周旧宅が写ったような気がしました。「駒込」を扱うそうです。 

出没!アド街ック天国~駒込~

 テレビ東京 2012年9月1日(土) 21時00分~21時54分 の放送内容

街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンタテイメント!お馴染みの街から「えっ、こんな街あったの?」という意外な街まで、あらゆる街に出没する情報バラエティ番組です。

番組内容
今回のアド街は、「駒込」に出没します。 名勝「六義園」を擁し、緑に彩られた山の手の街。 閑静な住宅街と昔ながらの人情商店街、2つの顔をあわせ持っています。 知る人ぞ知る名店や、職人の技が光る銘品に出会える老舗も…。 この秋は、情緒ある風景、山の手らしさに触れる散策に出かけましょう!

出演者
司会者 愛川欽也、大江麻理子(テレビ東京アナウンサー)
レギュラー出演者 峰竜太、薬丸裕英、山田五郎
ゲスト モト冬樹、山口もえ、勝俣州和


ぜひご覧下さい

昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。

今朝の『朝日新聞』さんを広げて知りました。 

東と西の出会い 生誕125年バーナード・リーチ展

会期情報000
東京・日本橋高島屋:2012年8月29日~9月10日
横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

バーナード・リーチは、イギリスの陶芸家です。元々、香港の生まれで、幼い頃には京都に暮らしていたこともありました。明治41年、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、日本熱が高まって来日します。その後、たびたび来日、長期の滞在もあり、白樺派の面々、富本憲吉、浜田庄司らと親しく交わり、陶磁器の作成に独自の境地を展開しました。光太郎との交流も後々まで続いています。
 
さて、今回の展覧会では光太郎と直接関わる出品物があるかどうかわかりませんが、関東で開催中に1度行ってみようと思っています。

昨日、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の阿波丸の絵葉書を紹介しました。
 
ついでに同じ店から同時に購入した古い絵はがきを紹介しましょう。
 
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東京・上野の写真です。人力車が走っているところがすごいですね。左の建物が、大正3年(1914)に光太郎・智恵子が結婚披露宴を行った精養軒です。現在も老舗の西洋料理店として健在ですね。
 
ちなみに一見カラー写真に見えますが、「手彩色」といって、モノクロの写真に手作業で着色してあります。
 
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もう一枚、昭和3年(1928)、有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」に歌われた上野動物園の駝鳥です。といっても、この個体を見て作られたのかどうかは不明ですが。こちらは手彩色ではなく、ちゃんとしたカラー写真です。したがって比較的新しいものかと思いますが、それでも「東京市発行」となっていますし、横書きで右から左に「(鳥駝)うてだ」と歴史的仮名遣いになっています。戦前のものでしょう。
 
以前のブログにも書きましたが、光太郎・智恵子ゆかりの地などの古い絵葉書を結構入手しました。二人が見たであろう風景に近い時代のもの、というわけで、それなりに貴重な資料だと思っています。

最近入手した昔の絵葉書です。

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恐らく明治、大正の頃のものでしょう。写っているのは日本郵船の「阿波丸」という船です。戦時中に米軍潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。

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この船が何なのかというと、明治42年(1909)、光太郎が欧米留学から帰る時に乗った船なのです。留学の最終滞在地はパリでしたが、そちらから一旦ロンドンに渡り、阿波丸に乗り込みました。下船場所は神戸。光太郎の父・光雲が迎えに来ており、神戸からの汽車の中で、光太郎を中心に銅像を制作する会社を興す計画が語られましたが、光太郎は取り合いませんでした。
 
ところで、少し前に昭和17年(1942)の『海運報国』という雑誌に載った「海の思出」という少し長い光太郎の随筆を見つけました。今まで知られていなかった文章です。この中で、幼少年期の海の思い出-小学校の遠足で見た品川の海、14歳頃に一人旅で訪れた江の島、16歳で富士山頂から見た太平洋-、欧米留学で乗った船の思い出が語られています。
 
どうも今まで知られていた文章には載っていなかったと思われる事実がかなり語られており、現在、鋭意調査中です。秋に高村光太郎研究会という会合があるのですが、そこで発表を頼まれており、この件で発表するつもりで居ります。
 
そのためついこの前も国会図書館に調査に行きましたし、この絵はがきも購入しました。
 
後ほど調査した内容はこのブログでも紹介しましょう。

あまり光太郎と関係ないかも知れませんが、yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

GRACE of JAPAN~自然の中の神々【文豪の町 根津神社・白山神社】

BSジャパン 2012年8月16日(木) 21時00分~21時54分
 
日本全国の約8万の神社の中から、その季節、全国で最も美しいとされる神社と周りに広がる美しく神秘的な風景を、静かな感動とともにお楽しみいただけます。
 
東京の東側、文京区の鎮座するお宮「根津神社」「白山神社」の2つのお宮。古き良き下町情緒を残す街並み、迷路のように細い路地が入り組み昔の面影を今だに残す町。この地域は多くの文豪が愛した文化香る町として知られています。森鴎外、夏目漱石、高村光太郎、与謝野鉄幹、石川啄木、川端康成など日本を代表する文豪たちが住み、その文豪たちの小説にもたびたび登場する「根津神社」「白山神社」をご紹介します。
 
◆ナビゲーター 堤真一
 
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yahoo!のニュース検索で1件、ヒットがありましたのでご紹介します。光雲の代表作の一つ、有名な「老猿」に関してです。
 
画像は平成14年に開催された展覧会のチラシです。「老猿」が大きく載っているので使わせていただきます。 
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にほんご鹿沼市:高村光雲「老猿」生んだトチノキで「木彫りのまち」PRへ 第1弾、26日に国立博物館見学ツアー /栃木

 ◇若手林業者ら乗り出す
日本近代彫刻の重鎮・高村光雲(1852~1934)の代表作「老猿」の素材が、鹿沼市産のトチノキだったことに、同市の若手林業者のグループ「森のなかま」(福田勝美代表)が着目。「木彫のまち鹿沼」のPRに乗り出した。26日には第1弾として東京国立博物館に展示されている「老猿」見学ツアーを計画。国の重要文化財である作品を味方につけ、イメージアップに努める。【浅見茂晴】
木工業が盛んな同市には、鹿沼産材の使用拡大を目指し、森林組合や製材所、建具店など木工関係者でつくる鹿沼地区木材需要拡大協議会がある。「森のなかま」は協議会の企画を実行するグループで、チェーンソーアーティストによる松尾芭蕉像をまちの駅「新・鹿沼宿」に設置した。
また、彫刻屋台や木版画の「川上澄生美術館」もあることから、森のなかまでは「木のまち、木工のまち鹿沼」に続く第三のキャッチコピーとして「木彫のまち」を考案した。
高村は東京生まれ。仏師の弟子として木彫を学び、同時に西洋の写実主義を取り入れて、新しい時代を切りひらいた。「老猿」のほか東京・上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠公像などで知られる。
「老猿」(高さ90・9センチ)は1893(明治26)年のシカゴ万博出品のため制作。大ワシとの格闘直後の気迫あふれる姿を描写した。材料のトチノキは、鹿沼に来て買い付けた。その際のエピソードを「栃の木で老猿を彫ったはなし」に書き残している。同市の上粕尾地区にあった、幹の直径が約2メートルの大木を切り出したという。その後、切り株から新たな芽が出て、現在は3代目と伝えられる木が、幹の周囲約3メートルにまで成長している。
現地は林道の終点から徒歩約30分上った斜面にあり、雑草が生い茂っている。整備が必要な状態だ。「森のなかま」は11月、現地確認に訪れる予定で、このトチノキをそのシンボルの一つと位置づけ、イメージアップを図っていくと同時に木彫に関するエピソードの掘り起こし作業も進める。代表の福田さんは「老猿に使われた木にあやかって、いろいろな方法でPRし、木工業の発展に寄与したい」と話している。
見学日程は26日、市民を対象に定員25人を募集する。8月10日までに申し込む。問い合わせは、協議会事務局(電話0289・62・5171)。

毎日新聞 8月7日朝刊

光雲、この「老猿」の制作には非常に苦労したそうです。彫刻そのものに関してもそうでしたし、ニュースで取り上げられている材料の買い付けも予想外の出来事が重なったため苦労しています。また、ちょうどこの時期に長女(光太郎にとっては姉)さくが急逝するという悲しい出来事もありました。
 
そのあたりは光雲自身の回想録『光雲懐古談』(昭和4年)に詳しく書かれています。サイト「青空文庫」に掲載されていますので、リンクを貼ります。
 
それにしても100年以上前に一度伐採された栃の木がまた芽を吹いて生き延びている、というのもすごいですね。
 
花巻や二本松、女川、そして今回の鹿沼など、光太郎・智恵子・光雲ゆかりの地は全国にたくさんあります。それぞれの地域で町おこしに活用してほしいものですね。そういうことが顕彰活動にもつながりますから。
 
明日は宮城県女川光太郎祭に行って参ります。

昨日8月6日は広島原爆の日でした。001
 
そこで、昨日のブログでは光太郎が原爆に言及した文章を一篇、紹介しました。
 
昭和24年3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文が書いた広島での被爆体験記、『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。
 
その後、調べてみましたところ、小倉宛の書簡で『絶後の記録』に触れたものがいくつか見つかりましたので、関連する部分のみ抜粋して紹介します。
 
書簡三〇九一 昭和23年(1948)10月2日(『高村光太郎全集』別巻)
 「原爆手記」は期待されます。
 
書簡一五〇八 昭和23年(1948)12月10日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
 
書簡一五一二 昭和23年(1948)12月15日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
 
ここまでが初版の『絶後の記録』に関する内容でしょう。光太郎、若い詩人達から詩集などを贈られると律儀に返礼を書いていますが、ここまで手放しで礼賛している例は非常に珍しいことです。
 
 
書簡三〇九三 昭和24年(1949)1月5日(『高村光太郎全集』別巻)
 おてがみをよんで感動しました。
 「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
 
この時期におそらく海外輸出版の企図を伝えられたのでないかと推測されます。
 
書簡二八八六 昭和24年(1949)1月27日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
 
書簡二八九六 昭和24年(1949)2月20日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
 
これが海外輸出版の序文を書いたことに関わるのでしょう。
 
 
書簡三〇九四 昭和24年(1949)3月29日(『高村光太郎全集』別巻)
 中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
 
そして光太郎の序が載った海外輸出版が届いた、というわけですね。
 
小倉本人に宛てたものではありませんが、宮澤賢治の父・政次郎に宛てた書簡では、このように語っています。もともと小倉は宮澤賢治の研究者で、その関連で光太郎や政次郎と面識があった人物です。
 
書簡一五五四 昭和24年(1949)3月18日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 小倉豊文氏の「絶後の記録」が大変ひろく読まれるやうでよろこんで居ります。同氏の悲願がかなへられるやうにとおもひ居ります。
 
今年はオリンピックイヤーということで、昨日のニュースでは原爆の日の扱いが例年より少なかったように感じました。もちろん、ロンドンでの日本人選手の目をみはる活躍を報じることも大切でしょうが、やはり、日本人として、この日を風化させてはならないと思います。

今日は8月6日、広島原爆の日です。
 
光太郎が原爆に言及した文章を一篇思い出しましたので、紹介します。
 
昭和24年(1949)3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文著『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。また、その後中央公論社から覆刻された文庫版等にも掲載されています。画像は文庫版です。

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これもあまり長いものではありませんので全文を紹介しましょう。
 
豆ランプの光の下で小倉豊文氏の「絶後の記録」を読みをはつて私は何だか頭の中がきな臭いやうになり、自分がこんな静かな山の中の小屋に住んでゐるのをむしろ夢幻のやうにさへ感じた。翌日の夜また読みかへし、その後また読みなほして、しんから此の実感のあふれた記事の真相に心をゆすぶられた。甚だ素朴な書き方で氏自身の体験が端からつぎつぎと記録されてゆくうちに、此の火薬庫の爆発かと思つたものが、世界に於ける前代未聞の原子爆弾の爆裂である事がわかつて来る物凄さはまつたく私を戦慄させた。所謂原子爆弾症に仆れた夫人の事に筆が及ぶと殆と卒読に堪へない思がした。此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。此の記録を読んだらどんな政治家でも軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであらう。今後せめて所謂冷たい戦争程度だけで戦争は終るやうになつてくれなければ此の沢山の日本人は犬死にになる。此本を読んで世界の人々に考へてもらひたい。
   一九四九年二月
 
戦時中には国民を鼓舞する戦争詩を書きまくっていた光太郎にとって、広島の惨状を記録したこの書は、ある意味峻烈な刃となって突きつけられたものです。
 
こうしたものを読むだにつけ、自らの戦争責任への反省の意は強くなったと思われます。
 
本当に地球上から戦争というものが無くなる日が来てほしいものです。

ロンドンでは「熱い夏」が繰り広げられていますが、日本では「暑い夏」ですね。
 
光太郎は生涯冬をこよなく愛した詩人でした。詩「冬が来た」(大正2年)では、「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と謳っています。
 
逆に夏は大の苦手だと、いろいろな文章などで語っています。
 
下の画像は当方が持っている葉書です。昭和24年(1949)9月、花巻の山小屋から詩人で編集者でもあった八森虎太郎に宛てたもの。八森は北海道の札幌青磁社に勤務していました。

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おてがみと小包と忝くいただきました。中々乏しい品をお送り下され恐縮至極です。
今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。今は恢復しましたが、用心して静養してゐます。
秋冷の候がくれば相変らず元気になることと思つてそれを待つてゐます。
そのため諸方に御無沙汰を重ねてゐます。

「四度高熱を発し」はおそらく今でいう熱中症だったと思われます。
 
今と違って冷房もなかった時代でしたが、逆に今のように地球温暖化などと騒がれることもなかった時代でした。それでも光太郎は夏の暑さを大の苦手としていました。
 
当方、光太郎と違い、どちらかというと寒さの方が苦手です。しかし、このところの暑さには閉口しています。特に昼間の暑さは尋常ではありませんね。といって、冷房に長時間当たるのもあまり好きではありませんし、節電ということもありますので、ほとんど冷房なしで頑張っています。ただ、暦の上ではもうすぐ立秋。朝夕は少ししのぎやすくなってきたかなという感じです。
 
朝、四時頃からヒグラシやホトトギス、カラスが鳴き始めます。この時間帯は過ごしやすい。しかし、六時頃になってミンミンゼミが鳴き始めると同時に暑くなり始め、今(午後三時)、アブラゼミが鳴いている時間帯は炎熱地獄です。
 
みなさんもくれぐれも体調にお気をつけ下さい。

またオリンピック関連に戻ります。「またか」と思われるかも知れませんが、四年に一度のことですのでご寛恕の程。
 
『高村光太郎全集』の頁を繰っていて、光太郎がオリンピックに言及した箇所をまた発見しましたので、紹介します。
 
2篇あり、どちらも少し前に紹介した座談「新女性美の創造」と同じく、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックに関係するものです。
 
まず、第二十巻に掲載されている「「美の祭典」を観る」という散文。座談「新女性美の創造」を紹介した時にも書きましたが、「美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年。のんびりした話ですね。もっとも、純粋な記録映画ではなく、後から選手にもう一度演技してもらっての撮影、今で言う「やらせ」が多用されているとのことで、クランクアウトまでに時間がかかったようです。
 
初出は昭和15年12月1日発行の『科学知識』第20巻第12号。かなり畑違いの雑誌ですが、光太郎、本当にいろいろな分野の雑誌に寄稿しています。そのあたりについても後ほど書いてみようと思っています。
 
長い文章ではありませんので全文を紹介しましょう。「いかにも彫刻家」という視点が窺えます。
 
「美の祭典」の全体に叙情性の濃厚なのを認めた。闘争のスリルよりも均衡の美を求める努力と意志が著しい。体操と飛込とに一番多く時間を与へてゐるのでもわかる。
 編輯に於ける全体的構成の雄大なことと、撮影途上の細かい注意とは相変らず見のがし難い。常に個々の競技そのものよりも、その競技のうしろにある力と美とを表現しようとしてゐるし、又馬の蹄の先とか、日本女性の足の指とか、各国人の表情の相違とか、雲と帆、雲と人とか、さういふ数々の挿話のおもしろさを長からず短からず取り入れてゐる緻密さがある。
 体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。女学生の集団体操の撮影の順序には微笑した。
 最後の飛込の天と水と人体との感覚は圧巻である。尚ほ水泳の葉室君の顔がこの上もなく美しくて嬉しかつた。
 
「葉室君」は葉室鐵夫。005子200㍍平泳ぎの金メダリストです。

女子200㍍平泳ぎの金メダリストは前畑選手ですから、アベック優勝だったのですね。

もう一篇、その前畑選手の名前が、昭和30年(1955)、光太郎最晩年の日記の巻末余白に記されたメモ書きに現れます(『高村光太郎全集』第十三巻)。
 
ベルリンオリムピツクで前畑秀子が二百米平泳で優勝したのは一九三六年。(浅草のカフエでその放送をきいたので年代おぼえの為書抜)
 
なぜ突然この時期に前畑選手の名前が出て来るのか不思議でしたが、8月5日~14日にかけての日記に、断続的に「夜日米水泳をラジオできく」といった記述があるので、その関係で思い出したのだと思います。
 
例の「前畑がんばれ!」を光太郎は浅草のカフェで聞いていたのですね。この時、智恵子はその終焉の地となった品川のゼームス坂病院で、有名な紙絵の制作にかかっていました。
 
ざっと調べた限りでは、光太郎とオリンピックの関連はこんなところでした。ロンドン五輪も後半戦に突入。会期中にまた何か見つけたら紹介したいと思います。

さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」。ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。
 
私は二十五、六歳のころ、ニューヨークのある美術研究所の教室で一人の米国人と喧嘩したことがある。彼は実に猛烈な力を揮つて一気に私を慴伏せしめようとした。級友をまはりに見物させて堂々とかかつて来たが、私に腕を握られることを嫌つて、いはゆるメリケンを濫発し、又は逆に私の上半身を抱きすくめようとした。その勢は実に圧倒的であつたが、恐らく彼はボクシングも、レスリングも妙手ではなかつたと見えて、幾度か私のやうなものにも投げつけられた。最後の力を出しきるまで彼は頑強に立上つて向かつて来たが、最後には彼は急に弱くなつた。私がうろおぼえの怪しげな逆手を取つた時、つひに「お前の勝だ」といつた。そして握手した。それ以後彼は現金なほど教室で威張らなくなり私の彫刻にいたづらもしなくなつた。
 
ここまでは、先の二篇とほぼ同じです。しかし、この後、話が意外な方向に進みます。
 
米国人は最大の力をまづ正面に出すのが好きである。いくらやられても出す。最後の力を出しきるまでははでに出す。その代り弱る時は急に弱くなる。米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでやらなければならない。とても駄目だと思ふに至るまでこちらが頑ばると最後に急にへこたれる。
 
やはり戦時中ということで、対米戦争の方に話が進むのです。この文章の題名は「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」(昭和19年7月 『高村光太郎全集』第二十巻)。題名だけでも痛々しいと思います。
 
もはや日本軍はマリアナ沖海戦にも負け、サイパン島を失い、敗色は誰の目にも明らかな時期、さらにはこのころから大本営発表に「特攻」の文字が目立つようになります。

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光太郎も題名に「神性」の語を使っていますが、日本全体「今に神風が吹く」という神頼みの状態でした。そして翌昭和20年(1945)には「米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでや」った結果の、広島、長崎への原爆投下。そして敗戦……。
 
来週には広島、長崎の原爆の日、再来週には終戦記念日です。いずれ光太郎と戦争とのからみを載せたいと思っています。

閲覧数が2,500を超えました。有り難うございます。
 
さて、光太郎自身が異種格闘技戦を行ったという事件。時は明治39年か40年、所はニューヨークの美術学校であるアメリカン・アート・スチューデント・リーグ。対戦相手は同じ学校に通う米国人の若者です。ここからは、光太郎自身の言葉を引用しましょう。
 
クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけの彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になつていた頃だから、タツク(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がつて、レスリングをやつたことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやつたわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝つた。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だつたのである。それから、皆余り僕に悪戯をしないようになつたのは有難かつた。
(「青春の日」昭和26年 『高村光太郎全集』第十巻)
 
高村 (前略)それから夜学へ通つてたけれども、向うの生徒の茶目つてないんですね。みんなモデル写生をやつて、帰りに布で包んでね、明日の晩また来るまで、そうやつとくんですよ。それが開けてみるとね、首がうしろ向きになつてたりする。誰かがいたずらして、知らん顔してるんですよ。みんなの顔見ると、黙つているんだけど、マネージャーがいるんです、そいつがどうも怪しいから、とうとう白状させちやつてね。そうしたら、みんなが仕事台を方附ちやつて、まん中へ広場をこさえちやつて、そこで二人でやれつて言うんですよ。

高見 日米対抗競技ですね(笑声)

高村 向こうはボクシングでやる。こつちは柔道。柔道なんか全然知らないんですよ。そうすると、ぼく
の手がちよつとさわると、ビリビリッてふるえて、手をひつこめるんですよ。

高見 強いと思つて、向うじや恐れたんでしよう。

高村 グッとひつぱると、向うは退くでしよう。ドーンと突くとね、思いきり、ぶつ倒れちやう。そうして二つ
三つ逆手か何かで押えちやうとね、とても大袈裟に参るんです。とうとうしまいにはいたずらしなくなつた、うん。
(対談「わが生涯」昭和三十年 『高村光太郎全集』第十一巻)
 
微妙にディテールの違いがありますが、大筋は同じですね。光太郎、見事に米国学生から、怪しげなサブミッション(関節技)でギブアップを取っています。
 
その秘訣は光太郎自身も語って001いる「サンドー体操」。「サンドー」というのはドイツ人ボディビルダーのユージン・サンドウ。明治30年代に鉄アレイを使っての筋肉トレーニングを考案、これがボディビルの祖となったそうです。「シャーロック・ホームズ」のシリーズで人気を博したコナン・ドイルもこれにはまったとのこと。日本にも伝わっていたのですね。
 
ちなみに、光太郎は身長180㌢以上、当時の日本人としては規格外の体格でした。手足も異常に大きく、手の大きさに関しては色々な人が印象に残っていると語っていますし、足も光太郎自身曰く「13文半」=約32㌢。この体格があって、さらに筋肉も鍛えていたからこその勝利ですね。
 
さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。明日はその辺を。

ロンドンでは熱い闘いが繰り広げられています。いろいろな競技がありますが、当方、一応黒帯を持っている関係で、特に柔道を興味深く見ています。以前から言われていることですが、国内の試合とは全く異なるといっても過言ではなく、正直、戸惑う部分もあります。松本薫選手以外金を取れないというのも、ある意味仕方がないのかなと思います。それにしても、連日遅くまで見ているので昼間眠くて仕方ありません。
 
さて、柔道。光太郎とも無関係ではありません。
 
光太郎と親交のあった歌人、大悟法利雄氏の回想『文壇詩壇歌壇の巨星たち』という書籍があります。平成10年(1998)6月、短歌新聞社さんの発行です。元は平成2年(1990)~4年(1992)、『短歌現代』という雑誌に連載されたものですが、この中に「高村光太郎」の項があります(今年4月に当方が作成した冊子『光太郎資料37』に掲載させていただきました)。

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この中に以下の記述があります。
 
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
 
この時の座談が実現されていれば、とても面白いものになっただろうと、残念に思います。ちなみにこの当時、東京オリンピックの前ですから、まだ日本武道館は造られていませんので、柔道全日本選手権は旧両国国技館で開催されていました。
 
「前田光世」は講道館黎明期の柔道家。光太郎より一足早く柔道使節団の一員として渡米しています(前田、明治37年(1904) 光太郎、明治39年(1906))。親日家でもあったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスで柔道の試合を披露したりもしています。それ以外にも、滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
 
ちなみにその後、前田はブラジルにも渡り、柔道の種をまきました。今回のロンドン五輪にもブラジル選手がけっこう出場していますが、こういった背景があるのです。また、前田の教えを受けた現地人が作り出したのが有名なグレーシー柔術です。
 
光太郎自身の語った内容としては、『高村光太郎全集』第11巻に掲載されている高見順との対談「わが生涯」に以下の部分があります。これは昭和30年(1955)に行われた対談です。
 
高見 日露戦争の直後ですな。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いた
んです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
 
ここでは光太郎、柔道家の名前を006ど忘れしているようですが、「四段の人」という点から、おそらく前田光世のことだと思われます。講道館四天王の一人、富田常次郎や佐竹信四郎という可能性もありますが。
 
「ルーズベルトの言う事を聞いた」というのは、彼の斡旋でポーツマス条約が締結された事を指しています。
 
さて、前田の活躍でアメリカでも「日本の柔道は凄い」という認識が広まります。すると、現代でもそう思われている部分があるようですが「日本人はみんな柔道ができる」との勘違いが生じていたようで、光太郎自身が異種格闘技戦を行う、という事件が起こります(史実です!)。その辺りは明日のこのブログで。

ロンドンオリンピックが盛り上がっています。柔道の松本薫選手の金をはじめ、日本選手のメダル獲得数がじわじわと増えてきていますね。
 
さて、オリンピックと光太郎の3回目。
 
『高村光太郎全集』の第13巻に載っている昭和27年(1952)7月19日(土)の光太郎日記には、「夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく」の記述があります。その後も何回か同様の記述が続いています。現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。
 
昭和27年(1952)の夏季オリンピックはフィンランドのヘルシンキでの開催。昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。レスリングフリースタイルバンタム級で石井庄八選手が金メダルを獲得しています。当時は「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。
 
この前年、昭和26年(1951)にはサンフランシスコ講和条約の調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中でのヘルシンキ五輪。自らの戦争犯罪を自ら断罪する意味合いもあって、花巻の山小屋生活を続けていた光太郎は、どのような思いでラジオを聴いていたのでしょうか。
 
この頃の光太郎の動静を見てみましょう。この年3月には、青森県から十和田湖畔に建てるモニュメントの制作を依頼され、6月には現地を視察、7月には東京中野の中西利雄アトリエを借りて制作にあたることが決定、10月には7年ぶりの帰京。そして完成するのが十和田湖畔の裸婦像です。

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(十和田湖畔の裸婦像……最近入手した昔の絵葉書です)
 
日本の国際社会への復帰と時を同じくし、光太郎自身も彫刻界に復帰するのです。講和条約の締結・発効、オリンピックへの復帰などの世相と無関係ではないでしょう。
 
裸婦像完成後は、また花巻に帰るつもりでいた光太郎(家財道具も住民票もしばらくは花巻に残したままでした)ですが、宿痾(しゅくあ)の肺結核がそれを許しません。中野のアトリエで静かに息を引き取ったのは上京から4年後の昭和31年(1956)4月2日。この日を「連翹忌」として現在まで光太郎・智恵子を偲ぶよすがとし、集まりが続けられています。
 
ちなみに4年といえば、オリンピック。つまり光太郎の没した昭和31年(1956)も、オリンピックイヤーですね。この年は11月から12月にかけ(南半球ですから)メルボルンでオリンピックが開催されました。光太郎、空の上から日本人選手の活躍を一喜一憂しながら見守っていたのかも知れません。

昨日、ベルリンオリンピック関連の光太郎の発言を紹介しました。
 
その後、気になって調べてみましたところ、オリンピックと光太郎の関連がいくつか出てきました。
 
まず、現在、ロンドンオリンピックが開000催中ですが、ロンドンでのオリンピックは3回目。前回は終戦後の昭和23年(1948)。そして、最初にロンドンでオリンピックが開催されたのは明治41年(1908)。短期集中型でやっている今のオリンピックとは違い、会期が半年にも及んでいました。開会式が4月27日、閉会式が10月31日です。半年も続いていたというのは、どんなものだったのか、ちょっと想像がつきません。 
 
さて、明治41年といえば、光太郎はちょうどロンドン滞在中でした。
 
光太郎は、明治35年(1902)に東京美術学校彫刻科を卒業した後も研究科に残り、明治37年(1904)にはロダンの「考える人」を写真で見て激しい衝撃を受けます。根底から勉強し直そうと、翌38年(1905)には東京美術学校西洋画科に再入学(教授に黒田清輝や藤島武二、同級生に藤田嗣治や岡本一平。すごいメンバーです)。しかし「君は彫刻に専念すべきだ」という、彫刻科教授岩村透の勧めで、明治39年(1906)から、3年あまりにわたる留学に出ます。
 
まず目指したのはニューヨーク。1年あまりの滞在の後、大西洋を渡ってロンドンに向かったのが明治40年(1907)6月。ちなみに最近見つけた「海の思出」という散文があるのですが、それによればこの時の航海は、後にかのタイタニック号を保有するホワイトスターライン社の船、おそらくオーシアニック号での航海でした。
 
それから翌41年(1908)6月、パリに移るまでのまる1年、ロンドンに滞在します。最初のロンドンオリンピックはこの年4月27日が開会式。まさに光太郎がいた時期です。
 
ただ、この当時書かれた作品、後に往時を回想して書かれた作品等をざっと調べましたが、残念ながらオリンピック関連の内容は発見できませんでした(細かく探せばあるかも知れません)。光太郎の住んでいたチェルシーと、メイン会場だったホワイトシティ・スタジアムは直線距離にして2㎞ほどだったのですが。
 
もっとも、日本人選手の参加もありませんでしたし(日本人選手の参加は大正元年=1912のストックホルム大会から)、この時点ではまだオリンピックというもの自体が一般的でなかったのかも知れません。
 
光太郎とオリンピックの関わり、まだあります。明日も続けます。

ロンドンオリンピックが開幕しました。日本選手の活躍に期待したいものです。
 
オリンピックと言うことで、光太郎にもオリンピックがらみの発言があったことを思い出しました。
 
昭和16年(1941)1月24日から2月14日にかけ、『読売新聞』の婦人欄に連載された座談会「新女性美の創造」です。

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光太郎や宮本百合子など、出席者は総勢七名。上の画像では左から三人目が光太郎です。
 
この中で昭和11年(1936)に行われたベルリンオリンピックに関する話題が出ています。その部分のみ抜粋してみましょう。
 
高村「僕はこの間の「美の祭典」を非常に喜んで見ました。やはりあゝいふのは僕らの参考になります。さつき体操の話が出ましたがこれも勿論よいものですが、あの飛込みは素晴らしいものだ。第一水泳の人の身体は違ふ。」
吉田「水泳の人は非常に調和の取れた身体ですね。」
高村「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにいはれるけれども、僕などの立場から見ると実に美しいものですね。」
竹内「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎてはをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に私、宿舎へ行き、身体測定をしました。すると前畑さんに戦いを挑んだドイツのゲネンゲル女史と同じ格好をしてゐる。寸法でいひますと身長が一六〇糎(センチ)、胸の周りが九〇.二糎、これを身長との割合にすると五六.五になります。それから目方はあの人は五八瓩(キログラム)です。」
 
光太郎が見たという「美の祭典」は、ベルリンオリンピックの模様を記録した映画です。まだテレビがなかった時代、動画でオリンピックの様子を知るには、映画で見るしかなかったのですね。
 
ちなみに当方、昨夜はテレビでBS放送の柔道と地上波の女子サッカーを行ったり来たりしながら観ていました。さしもの光太郎も70年後にこんな便利な時代になっているとは思いもよらないでしょう。
 
「前畑さん」は、「前畑がんばれ!」の連呼で有名な水泳の前畑秀子選手です。昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200㍍平泳ぎで銀、4年後のベルリンオリンピックの同じ200㍍平泳ぎで、日本女性初の金メダルを獲得しました。同じ座談会によれば当時の日本女性の平均は身長150センチ、体重53キロだったそうですから、やはりかなり立派な体格だったようです。
 
「ゲネンゲル女史」は、ベルリンで前畑と死闘を演じたマルタ・ゲネンゲルです。
 
この部分の光太郎以外の発言者「吉田」は体育研究所技師・文部省体育官を務めていた吉田章信。「竹内」は竹内茂代。女医です。
 
この「新女性美の創造」、一昨年刊行の『高村光太郎研究(32)』所収の「光太郎遺珠⑥」に掲載しました。
 
オリンピックの歴史をひもとくと、この座談会が開かれた前年の昭和15年(1940)は第二次世界大戦のあおりで東京オリンピックが幻と化し、次の昭和19年(1944)もロンドン大会の予定だったのが中止。戦後になってようやく仕切り直しのロンドン大会が昭和23年(1948)に開かれました。ただし敗戦国である日本の復帰はさらに後、昭和27年(1952)のヘルシンキ大会からでした。
 
明日はその辺りを書こうと思っています。

閲覧数が2,000を超えました。ありがとうございます。
 
ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

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第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

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画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

昨日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車を見に行ってきました。
 
まずこちらは「寺宿」という町内の山車に施された彫刻です。これが光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の家系の仕事です。

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こちらは「荒久(あらく)」という町内の山車で、山車の上部に据え付けられる巨大な人形。活人形(いきにんぎょう 「生人形」とも表記)という種類のもので、作者は三代目安本亀八。同じ亀八の作品、「下中宿」の菅原道真は、光雲に激賞されたという話も。その菅原道真をいただいた「下中宿」の山車、今日は行き会えませんでした。夜8:45~のNHK総合の関東甲信越ニュースではばっちり映っていました。

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他の山車にも幕末から明治、大正、昭和初めの職人達の精魂込めた仕事が為されています。
 
こうした木彫や人形をじっくり見たいという方のために、「水郷佐原山車会館」という博物館があります。山車の実物が展示されている他、祭りの歴史を紹介するコーナーや古い写真パネルなど、興味深い展示になっています。彫刻や工芸の歴史に興味のある方は、必見です。
 
また、周辺の古い街並みも非常に風情があります。是非一度お越しあれ。

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