カテゴリ: 東北以外

展覧会情報、2件ご紹介します。

まずは今日開幕、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて

期 日 : 2023年4月22日(土)~6月11日(日)
会 場 : サンリツ服部美術館 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人1,100(1,000)円 小中学生400(350)円
      ( )は団体20名様以上の料金

 この度サンリツ服部美術館では、明治期から昭和期の画家たちの作品を、木彫や陶磁器などの立体作品も交えながらご紹介します。
 明治期に本格的に欧米の国々と接するようになった日本では、海外からもたらされた新しい制度や文化にふれ、政治や産業など様々な分野で近代化が進みました。芸術の分野でも、絵画などを学ぶための美術学校が開校され、さらに政府主催の公募展も開かれるようになります。芸術家たちは互いに対抗したり協調したりしながら、新しい時代の息吹のなかで活発に制作を行うようになったのです。
 大正期から昭和初期にかけて、個性や自由を尊ぶ風潮が強まりましたが、東洋の古典的な作品に立ち返り、理想美を追いもとめて創作に取り入れる画家があらわれたのもこの時期です。 
 彼ら芸術家たちが、自分の生きる時代にふさわしい美術をもとめて作り出した多彩な作品をお楽しみください。

主な出品作品
・山元春挙 《若竹図》 明治から昭和期 20世紀
・橋本雅邦 《蓬莱山》 明治期 19から20世紀
・竹内栖鳳 《梅園日暖》 大正から昭和期 20世紀
・伊藤小坡 《虫売図》 昭和期 20世紀
・川合玉堂 《田家早春》 明治から昭和期 20世紀
・横山大観 《蘭図扇子》 明治から昭和期 20世紀
・富本憲吉 《白磁壺》 1936(昭和11)年
・奥村土牛 《スペインの壺》 昭和期 20世紀
・小倉遊亀 《枝椿》 大正から昭和期 20世紀
・岸田劉生 《蕪》 1926(大正15)年         
・高村光雲 《端午(鍾馗像)》 1894(明治27)年 ほか
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サンリツ服部美術館さん、セイコーグループの服部一郎氏のコレクションを元にした美術館です。

光雲の「鍾馗像」は平成30年(2018)に同館で催された「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」展にも出品され、拝見して参りました。
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工房作か、光雲単独制作か不分明ですが、なかなかの佳品でした。

もう1件、既に始まっていますが岡山から。

リニューアルオープン記念 所蔵名品展「平櫛田中美術館の精華ー平櫛田中全館展示ー」

期 日 : 2023年4月18日(火)~7月9日(日)
会 場 : 井原市立平櫛田中美術館 岡山県井原市井原町315
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 500円(15人以上の団体400円)
      高校生以下、市内在住の65歳以上、身体障害者手帳等をお持ちの方は無料

 井原市出身の彫刻家・平櫛田中が故郷のために寄贈した作品をコレクションの基盤とし、昭和44年に開館した当館は令和5年4月18日にリニューアルオープンします。
 リニューアル後第1弾の展覧会では、リニューアルオープンを記念して、当館の1,000点を超えるコレクションの中から選りすぐりの平櫛田中作品を一堂に展示します。平櫛田中(1872-1969)は、現在の井原市西江原町に生まれ、大阪で人形師・中谷省古に師事しました。その後、上京した田中は、彫刻家・高村光雲の門戸を叩き、彫刻家の道を歩み始めます。日本に近代化の波が押し寄せる中、日本美術の再興を目指す岡倉天心の感化も受けながら近代と伝統が融合した独自の芸術表現を探求します。
 当館のコレクションの中でも人気の高い《試作鏡獅子》や《幼児狗張子》など展示総数約90点の作品を、新たに生まれ変わった展示室で存分にお楽しみください。
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光雲や光太郎の作品が出ているわけではなさそうなのですが、光雲高弟の一人ということで、ご紹介しておきます。

一昨年からリニューアル工事が始まり、2年がかりでとうとう落成したか、という感じですね。当方、10年前に同館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の際にお邪魔しました。どんな感じに建て替わったのか、気になるところです。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お姉様からもしばらくお消息がありませんので心配して居りますがやはりご無事なのでせうね


大正2年(1913)1月16日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

セキは智恵子のすぐ下の妹です。

智恵子はこの月から翌月にかけ、日本女子大学校での後輩・旗野スミの実家(新潟県東蒲原郡三川村)に逗留していました。スミの姉・ヤヱが智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続いていました。ここで智恵子は、日本に伝わってまだ間もないスキーに興じたりしていたそうです。

神戸から演奏会情報です。

合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~

期 日 : 2023年4月23日(日)
会 場 : 神戸文化ホール 大ホール 兵庫県神戸市中央区楠町4-2-2
時 間 : 14:00開演
料 金 : [全席指定]一般:2,000円 U25(25歳以下):500円

プログラム
 2023年度NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2023)課題曲
  ♪ 小学校の部「緑の虎」 廣嶋玲子 詞/村松崇継 曲
  ♪ 中学校の部「Chessboard」 Official髭男dism 制作/横山潤子 編曲
  ♪ 高等学校の部「鳥よ空へ」 劇団ひとり 詞/信長貴富 曲

 2023年度全日本合唱コンクール 課題曲より
  ♪ 花々と木々(「光に寄す」から)サンサーンス 詩・曲
  ♪ Ⅰ―空と涙について― (「恋の色彩」から)古今和歌集より/田畠佑一 曲
  ♪ Salut, Dame Sainte(「アッシジの聖フランチェスコの四つの小さな祈り」から)
    プーランク曲
  ♪ 街路灯(「街路灯」から)北岡淳子 詩/三善晃 曲
 藤木大地独唱ステージ
  ♪ シャガールと木の葉(2022委嘱初演)木下牧子 曲/谷川俊太郎 詩
  ♪ 日々草 加羽沢美濃 曲/星野富弘 詩
  ♪ ぼくが死んでも 信長貴富 曲/寺山修司 詩
  ♪ レモン哀歌 加藤昌則 曲/高村光太郎 詩
 過去のNHK全国学校音楽コンクールより
  ♪ 気球に乗ってどこまでも(1974年度)東龍男 詩 平吉毅州 曲
  ♪ 生きる(1995年度)谷川俊太郎 詩 新実徳英 曲
  ♪ 手紙  ~拝啓 十五の君へ~(2008年度)アンジェラ・アキ  詩・曲
  ♪ ひとつの朝(1978年度)片岡輝 詩 平吉毅州 曲

出演
 指揮・ピアノ 佐藤正浩   ゲスト 藤木大地(カウンターテナー)
 合唱 神戸市混声合唱団
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合唱の二大コンクール、Nコン(NHK全国学校音楽コンクール)と、全日本合唱連盟さん主催の全日本合唱コンクール、それぞれの今年の課題曲が演奏されるコンサートです。

それだけでなく、ゲストにカウンターテナーの藤木大地氏を迎え、独唱のステージも。その中で、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が演奏される予定です。

藤木氏、同じ「レモン哀歌」を、横浜と広島で開催された演奏会「藤木大地&みなとみらいクインテットコンサート」で歌われましたし、同コンサートは来月、新潟市民芸術文化会館さん、奈良県大和高田市さざんかホールさんでも開催予定で、「レモン哀歌」も予定曲目に入っています。詳細は追ってご紹介します。

加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」は、バリトンの宮本益光氏の歌唱で、何度かコンサートで演奏されたりCDに収録されたりもしています。

ちなみに今回の会場は神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工で、外壁には智恵子紙絵をあしらった神戸市民の花・紫陽花の巨大壁画が。そのホールで「レモン哀歌」。いいですね。
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ところで、全日本合唱コンクール課題曲のうちの一曲が三善晃氏作曲の女声三部「街路灯」。作詞者が北岡淳子氏で、「ありゃま」と思いました。北岡氏、日本詩人クラブさんの会長を務められていて、昨年行われた同会12月例会では当方が「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」と題して講演をさせていただき、非常にお世話になりました。また、過日の第67回連翹の集いにもご出席下さっています。

音楽方面でも光太郎、さらにいろいろと取り上げ続けていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

気候のよろしき為めか彫刻の感興抑へがたくいつぞやちよつと御覧に入れたるお姉様の肖像をいぢり始めてつひ半日又半日と重なりて意外の我儘をいたしあなたの御心配のほどに今日思ひ及びまことに恐縮 ひたすら恥ぢ入り候


大正元年(1912) 3日(年代推定 月不詳) 
長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子のすぐ下の妹。したがって「お姉様の肖像」は智恵子像です。光太郎、複数の智恵子像を制作しましたが、残念ながら、すべて現存が確認できていません。例外は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ですが、純粋に「智恵子像」というわけでもありません。

写真だけ残されている智恵子像、左は大正5年(1916)、右は昭和2年(1927)です。
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昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。

見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】

 花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
 研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
 参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
 このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
 研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
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毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。

新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。

続いて『上毛新聞』さん。

《ぐんまヒストリー》赤城山 信仰の山が人気行楽地に

 季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
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 富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
 当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
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 大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
 戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
 大沼にはスケート場が最大8面作られ、団体客でにぎわった。夏はカップルが湖面にボートを浮かべ、氷室に保管しておいた大沼の氷で作ったかき氷も好評だったという。
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 スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
 入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
 赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。

歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
 大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
 県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
 釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。

上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。

昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。

明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。

平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
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どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね


大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生木村荘八斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。

都内のホテル2軒の実にユニークな宿泊プランです。

浅草で東京発祥のお菓子「たい焼き」作りの体験はいかがですか。

 江戸時代、神田今川橋付近(現在の東京都千代田区鍛冶町)で売り出されていた「今川焼」をルーツに持つ「たい焼き」は、東京発祥のお菓子と言われています(諸説あります)。江戸時代から、その場で食べられる庶民のおやつは大変人気があり、明治時代に作られた「たい焼き」もその流れの一つとして好まれていました。泉鏡花や高村光太郎などの多くの文豪が作品の中に登場させています。また、当時の俳句や新聞記事にも「たい焼き」の記述があります。

 鯛の焼き型になったのは、大阪から東京にやってきて商売を始めた神戸清次郎が、お店の今川焼きが売れないことに悩み、試行錯誤ののち、お祝いごとの時に食べられる縁起物の「鯛」(めでたい)の形にすると飛ぶように売れ、そこから「たい焼き」として広まったと言われています。

 東京下町にある「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」では、「浅草たい焼き工房求楽(ぐらく)」とのコラボレーションプラン「浅草でたい焼きづくり体験プラン」をご用意しております。求楽では、業務用のたい焼き機材を使って、生地から手作りする本格的なたい焼き作りを体験していただけます。

 エプロンや必要な材料はお店で用意してくれるので手ぶらでOK。「たい焼き」に使用する具材を持ち込むこともできますので、自分だけのオリジナル「たい焼き」を作って楽しむこともできます。ぜひこの機会に、食べるだけでなく「たい焼き」作りを体験してみてはいかがですか。「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」は、東京下町の浅草など、東京観光に最適なホテルです。「たい焼き」体験の他にも、浅草ならではの体験プランもたくさん!東京旅行の拠点として、ぜひご利用ください。
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【浅草×体験】浅草でたい焼きづくり体験プラン(朝食ビュッフェ付き)
ホテルグレイスリー浅草 東京都台東区雷門2丁目10番2号
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気分は和菓子職人!? たい焼き体験プラン >゜)))彡
ホテルタビノス浅草 東京都台東区浅草2丁目18番8号
“MANGA(マンガ)”の世界に 飛び込んだような気分になれるユニークなゲストルームがあなたの旅に彩りを添えます。ホテルタビノス浅草は、浅草のランドマークの「雷門」「浅草寺」「花やしき」へも徒歩圏内にあり、浅草観光にぴったりな立地です。
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たい焼き制作体験のついた宿泊プラン。それだけならこのブログでご紹介しませんが、光太郎の名を出されてしまっては、取り上げないわけには参りません(笑)。

光太郎作品でたい焼きが登場するのは、「智恵子抄」にも収められた詩「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)。

   美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

ことは木彫作品の売買に関わります。大正末から取り組み始めた「蟬」や「鯰」などの木彫。父・光雲から受け継いだ伝統的な技法に、ロダンなどから学んだ西洋彫塑のエッセンスを盛り込んだまったく新しい作風で、世間からは好評を以て受け入れられました。ただし、光雲のように彫って彫って彫りまくるということはせず(「出来ず」というべきでしょうか)、同一のモチーフを彫るにしてもそれぞれに形を変え、あくまで自分で納得のいくものだけ作品として世に出す、というスタンスでした。

しかし、光太郎の木彫作品を購入できるのは、プロレタリア・アナーキズム詩人たちに近い位置にいた当時の光太郎が嫌っていた富裕層が多く、そしてそれらの人々は掌中の宝として仕舞い込みます。そのあたりが「所有は隔離」、「美の監禁」というわけです。中には光太郎作品の真の価値が解って買っているのかどうかあやしいと思われる人物も含まれていたのではないでしょうか。そうかと言って、作品を売らなければ生計が立たないわけで、「美の監禁に手渡」さざるを得ないのです。

智恵子も光太郎木彫をこよなく愛し、懐に入れて持ち歩いたこともあったそうです。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、「又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。」とあります。数ある木彫のうちのどの作品、というのは書かれていません。従って、エラいセンセイの「論文」などで具体的な作品名を出し、これを智恵子が懐に入れて愛した、的な記述をよく見かけますが、全て想像です。

そして光太郎、詩「美の監禁に手渡す者」の舞台設定は、智恵子が懐に入れて持ち歩いた木彫を売りに行った帰りなのでしょうか、代わりに自分の懐に入っているのは、その代金で買った「鯛焼」。そう考えると、甘い甘い鯛焼きも、光太郎にとってはほろ苦い味なわけです。と、まぁ、これも想像ですが(笑)。

何はともあれ、「たい焼き」作りの体験つき宿泊プラン、スイーツ好きの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

海が荒れて居る 銚子にて


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼の暁鶏館に泊まり、絵を描きに来た光太郎。それを追って智恵子も現れます。
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この葉書が書かれたのは、智恵子が来る前なのか、来た後なのか、判然としませんが、後だとすると、もはや智恵子への思いは抑えきれぬ、荒れた太平洋の波濤のようだ、という意味にも取れますね。

まずは昨日の『福井新聞』さん。

【論説】津村さん原稿、県に寄贈 代表作が持つ圧倒的な力

 福井市出身の芥川賞作家で文化功労者の津村節子さん(94)の製本手書き原稿6点が福井県ふるさと文学館に寄贈された。自伝的小説、伝記小説、歴史小説と多岐にわたり、いずれも代表作。文学賞受賞作も含まれる。万年筆の手書きには力があり、推敲(すいこう)の様子が手に取るように分かる。加筆修正が重ねられた原稿は、作家が世に問おうとした思いの結実であり気迫が伝わってくる。
 6点は、高村智恵子の伝記小説で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「智恵子飛ぶ」、戊辰戦争を会津藩士の娘の視点から描いた歴史小説で女流文学賞受賞の「流星雨」、自伝的小説3部作の「茜色の戦記」「星祭りの町」「瑠璃色の石」と、八丈島に流刑された遊女を描いた歴史小説「黒い潮」。県ふるさと文学館で開催中の「新収蔵 津村節子展~津村節子という生き方~」(~6月4日)で公開。2015年の同館開館記念特別展に寄せた自筆原稿はじめ約120点の資料が並ぶ。
 「智恵子飛ぶ」は、画家として活躍した智恵子が彫刻家・高村光太郎と出会い、結婚後は夫の圧倒的な才能に押しつぶされていく芸術家夫婦の葛藤を描いた。吉村昭さん(1927~2006年)と夫婦作家であった津村さんは、光太郎という天才と暮らす智恵子の心情を推し量ることができたのだろう。夫というライバルに対して智恵子が抱えた羨望(せんぼう)や屈辱といった感情のせめぎ合いが圧倒的な熱量をもって表現される。自筆原稿はほぼ全編を通して加筆修正され、智恵子が死に向かう終盤はより修正が多くなる。物語をどう結ぶか、津村さんが考え抜いた様子がうかがえる。
 津村さんにはふるさと5部作といわれる福井の女性を主人公にした作品「炎の舞い」「遅咲きの梅」「白百合の崖」「花がたみ」「絹扇」がある。「遅咲きの梅」と「花がたみ」(越前市所蔵)以外は、県が自筆原稿を所蔵。ふるさとを丹念に取材した5部作を津村文学として親しんでいる県民は多いだろう。代表作の自筆原稿が県に寄贈されたのを機に、改めて6作品に向き合いたい。
 半世紀以上、第一線で執筆を続ける津村さんは非常に限られた作家だ。20代のころから作家を「いのちをかける仕事」と語ってきた。6作品はどれも、懸命に生きる女性の姿に光を当てている。心の内を丁寧にすくい上げた物語は強い力を持って読み手を引きつける。津村さんが命をかけて世に出した作品世界をいま一度味わいたい。

福井県ふるさと文学館さんに、『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)のそれを含む津村氏自筆原稿等が寄贈され、展示されているとのこと。まったく存じませんで、調べてみましたところ、先月から始まっていました。

コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方

期 日 : 2023年3月1日(水)~6月4日(日)
会 場 : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日 4月11日(火)~4月14日(金) 5月25日(木)
料 金 : 無料

 津村節子は、1928年福井市に生まれました。1965年に小説「玩具」で芥川賞受賞を機に福井を訪れた津村は、『花がたみ』『絹扇』などで故郷・福井の女性を描きました。その後も、夫の死と向き合った『紅梅』で2011年に菊池寛賞を受賞。2016年には文化功労者に顕彰されています。
 このたび、当館は、津村節子氏の代表作である『流星雨』(女流文学賞受賞作)や『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞受賞作)など自筆原稿6点をご寄贈いただきました。本展では、新収蔵資料を中心に、半世紀以上にわたり、書くことに向き合い続ける作家・津村節子の軌跡と作品世界に迫ります。
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『智恵子飛ぶ』の原稿、複製は荒川区の吉村昭記念文学館さんでの「津村節子展 生きること、書くこと」、三鷹図書館さんでの「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展でそれぞれ拝見しましたが、複製でない現物が寄贈され、展示されているのですね。

その他、『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞に輝いた際の賞状、二本松市教育委員会さんご提供の智恵子関連のパネル、津村氏旧蔵の光太郎複製原稿なども展示されています。

以前にも書きましたが、故・吉村昭氏との夫婦ご同業ということで、光太郎智恵子夫婦にも通じる余人には伺い知れぬご苦労がいろいろおありで、そのあたりが『智恵子飛ぶ』にも反映されています。

お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

建築は来月の初旬には出来相だ。君の旅行以前に今度の家で一緒に「めし」でも喰ひたいと思つてゐる。今度の家は僕の生活上に一線を画す筈だと思ふ。愈々一人の生活が始められると思つてゐる。


明治45年(1912)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でも触れましたが、「建築」は駒込林町25番地の住居兼アトリエ。光太郎自身の設計です。ここに移るまでは、指呼の距離にある実家の庭にあった祖父の隠居所を改装してアトリエとしていました。前年12月に智恵子と初めて会ったのもこちらです。

愈々一人の生活が始められる」とありますが、明治43年(1910)末から翌年にかけ、2ヶ月ほど日本橋浜町の松葉館という下宿屋に居たので、その際は独り暮らしだったはずです。ただ、当時の下宿屋では食事は自室で摂るのではなく、下宿人が座敷で一堂に会して饗されるというスタイルのところが多かったため、その意味では純粋な独り暮らしとは言えなかったということでしょうか。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
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戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

大阪から演奏会情報です。

Raffiné 春の音楽祭 in Osaka~心に響く名曲の調べ~

期 日 : 2023年4月5日(水)
会 場 : 豊中市立文化芸術センター小ホール 大阪府豊中市曽根東町3-7-2
時 間 : 18:30開演
料 金 : 全席自由 2,800円

出演/曲目 :
 八幡 達<ヴァイオリン> ピアノ:林 典子
  C.サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 作品61 より 第1楽章
  F.クライスラー:プレリュードとアレグロ
 永井樹奈<フルート> ピアノ:仲本和香奈
  尾高尚忠:フルート協奏曲 より 第2、第3楽章
 宮口 愛<ピアノ>
  F.リスト:メフィスト・ワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」S.514
 中尾千聡<ピアノ>
  F.ショパン:ノクターン第2番  平井康三郎:幻想曲「さくらさくら」
 板谷優希奈<ピアノ>
  マルグリット・モノー:愛の讃歌  F.リスト:愛の夢 第3番
  ピアノDuo ~Largo~ (中村明日香 & 山田華子)
  W.A.モーツァルト:オペラ「フィガロの結婚」序曲
  W.A.モーツァルト:恋とはどんなものかしら
 宇田津典子<ピアノ>
  F.ショパン:スケルツォ 第2番 変ロ短調 op.31
  R.シューマン – F.リスト:『リートによる15のピアノ小品集』より “献呈” op.25-1
 北野由紀子<ピアノ>
  北野由紀子:咲来羅(さくら)
 宮尾壽里子<朗読> ピアノ:Yoshi
  高村光太郎(翻案・構成/宮尾壽里子)「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」
  挿入曲/
カッチーニ「アベ・マリア」
 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> ピアノ:尾崎克典
  中田喜直:ひなの日は たんぽぽ  G.ロッシーニ:もしも粉屋の娘をお望みなら
  G.ロッシーニ:オペラ「セビリアの理髪師」より “今の歌声は”
  P.チマ-ラ:郷愁 海の歌  O.レスピーギ:バッラ-タ 最後の陶酔
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌  S.カルディッロ:つれない心(カタリ・カタリ)
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌(マッティナータ)
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詩人で朗読もなさっている宮尾壽里子氏による「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」がプログラムに入っています。哀愁漂う伝・カッチーニのアヴェ・マリアをピアノで弾かれるのは息子さんですね。

宮尾氏はかなり以前から「智恵子抄」系の朗読等に取り組まれており、最近ですと、昨年4月に都内荒川区の日暮里サニーホールさんで開催された「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」が入っていて拝聴にうかがいましたし、12月に都内早稲田奉仕園さんで行われた「日本詩人クラブ2022年12月例会」では、詩人の方々が光太郎智恵子等に扮し、朗読ドラマとして上演されました。

宮尾氏、明日の第67回連翹忌にもご参加下さり、その後すぐに大阪での公演と、お忙しいスケジュールのようです。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい秋になりましたね。写生が出来ますか。マロニエーの並木が目先にちらつく。

明治44年(1911)11月5日 津田青楓宛書簡より 光太郎29歳

津田青楓は留学仲間の画家。したがって、「マロニエーの並木」はパリでしょう。

翌月には、やはり留学仲間だった画家の柳敬助と、その夫人で日本女子大学校での智恵子の先輩・八重のとりなしにより、光太郎智恵子が運命の出会いを果たします。

紹介すべき事項が多く、美術展関連で2件まとめて。

まずはテレビ放映情報。竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が大きく取り上げられます。

日曜美術館 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月2日(日) 09:00〜09:45  再放送 4月23日(日) 09:00〜09:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
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予告編、最後の締めは光太郎の父・光雲作の「老猿」。本編をぜひご覧下さい。

同展、主催に入っている毎日新聞社さんでCMも作って下さっています。3月17日(金)、BSイレブンさんで放映された「アートミステリー 国立西洋美術館誕生秘話 ~モネを救え~」を拝見していたところ、流れました。こちらはつかみが「老猿」。
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もう1件、今日開幕の展覧会情報です。

「買上展」藝大コレクション展2023

期 日 : 2023年3月31日(金)~5月7日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、5/1は開館)
料 金 : 一般1,200円(1,100円)、大学生500円(400円)
       ( )は前売り料金 高校生以下及び18歳未満は無料

「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。

第1部 巨匠たちの学生制作
 明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作が一堂に会します。

第2部 各科が選ぶ買上作品
 東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。

出展作家
第1部
 横山大観   児島虎次郎  萬鉄五郎  下村観山   和田三造   高村豊周
 板谷波山   橋口五葉   金観鎬   白浜徴    山本鼎    吉村忠夫
 菱田春草   南薫造    松田権六  西郷孤月   朝倉文夫   伊原宇三郎
 和田英作   小村雪岱   山口蓬春  小林万吾   富本憲吉   吉田五十八
 北蓮蔵    岡本一平   山本丘人  平福百穂   近藤浩一路  山崎覚太郎
 津田信夫   藤田嗣治   東山魁夷  石田英一   建畠大夢   小磯良平
 中沢弘光   小絲源太郎  赤松麟作  李叔同    吉村順三   高村光太郎
 中村岳陵   高山辰雄   松岡映丘  広島新太郎  六角大壌   青木繁
 北村西望   平山郁夫   熊谷守一  今和次郎

光太郎彫刻は、日蓮像の「獅子吼」。明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科をいったん卒業した際の卒業制作です。
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「いったん卒業」は、この後も研究科に残り、さらに留学前年の明治38年(1905)には、根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したためです。西洋画科ではやはり買い上げ作品が展示される岡本一平や藤田嗣治などが同級生でした。ただし、こちらは中退の扱いで、翌年には留学に出ています。

さらに光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の作品も出ます。豊周は同校鋳金科を卒業し、母校で永らく教壇に立ちました。

「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」と併せ、こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

About the matter of your letter of the other day, I must think over them a little more. For my HOKKAIDO affairs do not finish all yet. I hurried back to Tokio at that time because of the fire. Perhaps, I go round there once more this summer.


明治44年(1911)7月3日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎29歳

邦訳は以下の通り。

いつかの君の手紙のことはもう少し考える必要がある。僕の北海道の件はまだ終わったわけではないからだ。あの時は火事のため急いで東京に帰って来たので、恐らく、この夏もう一度行くだろう。

酪農で生計を立てつつ、彫刻や絵を制作する夢を抱いて北海道に渡り、札幌郊外月寒の牧場まで行ったものの、1ヶ月足らずですごすごと東京に舞い戻りました。
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火事」は道内20数カ所で起こった山火事や大火。確かに現地の人々は大変だったのでしょうが、光太郎はどうもそれを言い訳にしている部分があるように感じます。結局、少しの資本ではどうにもならず夢は夢でしかないというわけで。

リーチにはこの夏もう一度北海道へ、と語っていましたが、この後、確認できている限り、光太郎が北海道の土を踏むことは二度とありませんでした。

今日開幕です。光太郎の父・光雲が主任となって制作された鋳銅聖観音像のライトアップも為されます。
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上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。

春のライトアップ2023

期 間 : 2023年3月24日(金)~4月2日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門楼上、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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国宝 三門 回廊公開は春季9年ぶり
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」の三解脱門を表すことから三門といいます。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『機をはからう』~その身そのまま、あなたのままで~

正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?

開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「鴬張りの廊下」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:1時間半程度
 定員:各回25名様程度
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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特別展示 Tradition : Redefined
3月25日(土) / 26日(日)
『千代紙 色とデザイン』RE:KAO
「椿柄」を十四色という多色で手摺りされた千代紙。今回は屏風に仕立てました。
3月31日(金) / 4月1日(土) / 4月2日(日)
『花明 Ceramic × Scissors』林侑子・陶芸家
「白磁」をハサミで切る独自の技法土鋏(つちばさみ)。磁器と鋏で「花明かり」を作り出す。

『鬼より強い守り神』吉田瑞希・陶芸家
「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。

場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・茶室「華麓庵」
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。

明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。

さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。

3月21日(火)、竹橋の東京国立近代美術館さんをあとに、銀座に向かいました。午後2時開演の「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴のためです。

会場は王子ホールさん。昨秋開催された「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」と同じでした。
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作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品を、7人の歌手の皆さんが歌われるというコンセプトで、基本、独唱ですが、二重唱あり、合唱ありと、飽きさせない構成になっていました。
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今回は「第6回」と冠されており、継続的に行うには、やはりアップデートが必要なのでしょう。初演の新作を含むプログラムでした。

歌詞は現役の詩人の皆様から提供を受けたものが多く、絵本作家としても活躍されているこわせたまみ氏、金子みすゞ顕彰でも名高い矢崎節夫氏など、作詞者の方々がほとんどいらしていまして、終演後に紹介されていました。詩の選択は書き下ろしなのか、朝岡氏が旧作からセレクトして使わせてもらっているのかまでは寡聞にして存じませんが。

というわけで、新作もあれば、二重唱や合唱なども盛り込まれていたため、歌い手さんたちはそれなりに練習が大変だったでしょう。それを言えば、ピアノは全て朝岡氏ご本人で、幕開けからカーテンコールまで出ずっぱり。そのあたりの大変さをお客様に気取られないようにされるあたり、プロですね。

で、プログラム中に、組曲「智惠子抄」から2曲、「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」。こちらは最近、メゾソプラノの清水邦子氏の持ち歌的な感じになっており、やはり清水氏の歌唱でした。

過日、ご紹介いたしましたが、清水氏、組曲「智惠子抄」CDをリリースされ、公的にはこの日が発売日でした。そこで、受付でコンサート自体のプログラムとともにフライヤーも配付されていました。
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清水氏と親しい、映画監督の水谷俊之氏(一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさった方)、それから当方が書いたライナーノートの抜粋も印刷されています。恐縮至極。

オンライン販売も為されていますし、フライヤー裏面はFAXでの注文書になっていまして、必要な方は下記画像を印刷してお使い下さい。
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PXL_20230321_060411330開演前、第1部と第2部の間の休憩時間、それから終演後、ロビーに物販コーナーが設けられ、このCDも並びました。

わずかながら制作に協力させていただいた身としましては、売れ行き等気にかかるもの。少し離れた場所からチラ見しておりました(笑)。そこそこ売れていたようです。ただ、他の歌手の方がリリースされたCDも多数並んでいたため、「智惠子抄」のみが飛ぶように売れるというわけにはいかなかったようですが。「智惠子抄」を買われた方には「えらい!」と、心の中で賛辞を送らせていただきました(笑)。

日比谷松本楼さんで4月2日(日)開催の第67回連翹忌の集い会場内でCDの販売も致しますし、朝岡氏、清水氏には「智惠子抄」から抜粋で演奏していただく予定です。

ご参加なさる方、お楽しみに。また、これから参加したいという方、まだ受付中です。コメント欄(非公開設定可)からお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

濱田葆光氏作画展覧会 自二月十一日 至二月二十日
濱田葆光氏は、所謂「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」を蔵する画家にして、熱心なる自然の真の探求者に御座候。今回、品川海岸の研究画を主として、氏の油画十数点の展覧会を弊堂に於て相催し候間幸に御抂駕御一覧の程偏に願上候 神田区淡路町一丁目一番地 琅玕洞

明治44年(1911)2月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎29歳

葉舟宛、というより広く送られた案内状と推定されます。

琅玕洞」は、前年、光太郎が開店した画廊。日本の画廊の中では最初期のものです。名目上の店主は、実弟の道利でした。ここでは正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里、濱田葆光ら親しかった新進美術家の個展をたびたび開きました。濱田葆光は太平洋画会研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事した画家です。「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」は、「無垢な凄み」とでもいった感じでしょう。
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昨日は都内に出ておりました。

主たる目的は、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴でしたが、その前に竹橋の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見。
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名品の数々がこれでもかこれでもかと並んでおり、予想通り、クラクラしました(笑)。

やはり当方にとって一番の目玉は、光太郎の父・光雲の「老猿」。トーハクさんその他で何度も見ている作品ですが、何度見ても見飽きることがありません。
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マルチアーティスト・井上涼さんが「黙すれど語る背中」と評されましたが、その通りですね。

トーハクさんでの展示より、間近で観ることができました。毛並みの一筋一筋、手に持った猛禽の羽根など、それを彫る光雲の息づかいも聞こえてきそうです。
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台座にあたる岩の部分は仏像彫刻の様式が色濃く残っており、やはり仏師なんだなぁと。

材はトチノキ。当初、光雲はもっと白いと思っていて、白猿を彫るつもりでいましたが、栃木鹿沼の山から入手したあとに意外と赤いことに気付き、年老いた猿に変更したとのこと。ちなみに当初は「老猿」ではなく、「猿」一文字でした。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」。碌山美術館さん蔵の石膏原型です。ブロンズ彫刻の場合、文化財指定は鋳造されたものではなく、原型で指定されることがありますので。
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そのあたりで「大人の事情」があるのでしょう、同じ守衛の「女」は今回の展示には出ないそうです。

その他の作品、特に光太郎や光雲とつながりの深かった作家の作品、光太郎や光雲とのつながりなどについても紹介したいところですが、それを書き始めると10日ぐらいかかりそうなので、割愛します。

続いて常設的な「MOMATコレクション」を拝見。こちらには重要文化財指定はされていないものの、負けず劣らずの逸品がズラリ。

光太郎の「手」
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光太郎生前に鋳造された3点のうちの一つ。有島武郎旧蔵のもので、木彫の台座は光太郎の手になるもの。有島や、有島から受け継いだ秋田雨雀の名が記されています。仮に今後、「手」が文化財指定されるとしたら、これが指定されるような気がしています。「北条虎吉像」や「女」のように石膏原型が、ということになると、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏旧蔵の石膏原型があるにはあるのですが、それがいつどのように取られた型なのかなど、当方、寡聞にして不分明です。
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さらに光太郎が敬愛してやまなかったロダンの「トルソ」、そして守衛の「女」(鋳造)。
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さらに守衛の「坑夫」。パリ留学中、光太郎がこれを見せられ、ぜひ石膏にとって日本に持ち帰るようにと進言した作品です。光太郎、グッジョブ(笑)。
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「重要文化財の秘密」の図録をゲット。この手の図録には珍しくハードカバーでした。それだけに3,300円とお高め(笑)。重量が1.3㎏を超えていました(笑)。昼食はコンビニのパンで済ませても、迷わずこれを買うのが当方です(笑)。
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展示入れ替えのため、昨日の時点では出ていなかった作品(黒田清輝「湖畔」など)、「大人の事情」で今回は展示されない作品(「女」の石膏原型や竹内栖鳳「斑猫」など)の図版もしっかり掲載されていますし、詳細な作品解説、論考も3本(大谷省吾氏「重要文化財の「指定」の「秘密」」、同じく「東京国立近代美術館における近代日本美術展をふりかえる」、花井久穂氏「「唯一」と「複数」――近代の美術/工芸)の重要文化財指定をめぐって」)。

ぜひ足をお運びいただき、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

浜町の下宿は馬鹿に気持が可い。大工の神さんの内職の様だ。生活に秩序がついた様な気がする。

明治43年(1910)12月(推定) 水野葉舟宛初刊より 光太郎28歳

この月から翌月にかけ、わずか2ヶ月足らずですが、日本橋浜町31番地の「松葉館」という下宿で独り暮らしをしました。

本日開幕、銀座の画廊での展示です。

高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜・祝日休廊  土曜不定休
料 金 : 無料

日本の近代彫刻の歴史はロダンの影響をうけた荻原守衛と高村光太郎からはじまる。高村光太郎訳「ロダンの言葉」(1916年)は当時の若い芸術家に多大な影響をあたえた。ロダンから出発し独自の造形を確立することになる3人の彫刻家を紹介します。

高村光太郎 1883 - 1956
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佐藤忠良 1912 – 2011

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舟越保武 1912 - 2002
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柳原義達 1910 - 2004
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光太郎のブロンズが数点。画像で見えるのは、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型習作」(昭和28年=1953)。他にも出ているかもしれません。

そして、光太郎のDNAを受け継ぐ、次世代の彫刻家である佐藤忠良舟越保武柳原義達の作品も。それぞれの個性、逆に4人に通底して流れる普遍的な「生命へのオード」的なものなどに注目して観ると面白いでしょう。

当方、明日、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」を拝聴に上がりますので、こちらも廻ろうかと思いましたが、残念ながら日曜・祝日休廊とのこと。

代わりに、というわけでもありませんが、竹橋の国立近代美術館さんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見してこようと思っております。時間があれば常設の「MOMATコレクション」も。こちらでは光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)や、なぜか「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に出ていない、荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も展示されています。

【折々のことば・光太郎】

僕は何も為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。


明治43年(1910)10月16日 津田青楓宛書簡より 光太郎28歳
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留学仲間だった画家で京都在住の津田青楓に宛てた、自画像入りの葉書。

昨日も書きましたが、前年に欧米留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、彫刻を作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

昨日ご紹介した、竹橋の東京国立近代美術館さんで明日から始まる「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展につき、主催に名を連ねている『毎日新聞』さんに予告報道が出ています。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密 東京で17日から 問題作が傑作へ、変遷たどる

 「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が17日から東京国立近代美術館(東京都千代田区)で始まる。重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸51点による豪華な展覧会だ。本展を企画した同館の大谷省吾副館長が見どころを解説する。
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 東京国立近代美術館は1952(昭和27)年12月1日に開館し、さきごろ開館70周年を迎えた。本展はこれを記念し、ほぼ同時期の55年から近代美術の指定が始まった重要文化財に焦点を当てるものである。2023年3月現在、重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸は全部で68件だが、本展はそのうち51点を集めた、これまでに類のない展覧会である。とはいえ、ただの名品展ではない。本展は重要文化財イコール名品として手放しで礼賛するのではなく、「なぜ、これが重要文化財なの?」と考えてもらうことを真のねらいとしている。
 重要文化財の指定基準のひとつに「各時代の遺品のうち製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの」というのがある。だが「優秀」で「貴重」とする評価の基準は何だろう? 明治以降の美術は、それ以前からの伝統的な美意識と、新たに西洋から伝えられた美術との間でさまざまな葛藤を経ながら展開してきたし、近代美術とは本質的に、それ以前のものの見方を批判的に乗り越えようとしながら新しいものを作り出そうとしてきたから、評価の基準も単純ではないのだ。だから本展のキャッチコピーに“「問題作」が「傑作」になるまで”とあるように、重要文化財に指定された個々の作品が、発表当時はどのような批評を受け、それが時代の変遷とともにどのように評価を変え、そしてどのような理由で重要文化財に指定されるに至ったのかを検証していくと、さまざまな面白いことがわかってくる。以下、主要な作品をいくつかご紹介したい。
  横山大観「生々流転」は、描かれてから今年でちょうど100年になる。発表された展覧会の初日に関東大震災が起きたが、作品は幸いに救い出された。全長40メートルに及ぶ大作で、重要文化財に指定されたのは67年。描かれてから44年後のことで、史上最速の重要文化財指定作品である。
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 この作品と同じ年に、洋画で最初に重要文化財に指定されたのが高橋由一の「鮭」である。この67年とは、翌年が明治100年にあたり、日本中で明治文化の見直しが行われていた時期だった。日本の伝統的な画法では表現できなかった立体感や質感の描写が、西洋からもたらされた技法によって可能となったことへの素直な驚きと喜びが見てとれる。
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 この年、やはり明治時代の名品として指定の候補に挙げられながら、選に漏れて保留となったのが黒田清輝「湖畔」と高村光雲「老猿」だった。
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この2点が重要文化財に指定されるのは、意外にもごく最近、99年のことである。どうして67年当時、選に漏れたのか。99年に指定されたときは、どんな理由だったのか。それらを調べていくと、近代日本美術の評価の基準が時代とともに更新されてきたことが見えてくる。そしてその背景には、近代日本美術史研究の深まりがあることも理解できるだろう。 さまざまな価値観が交錯しているからこそ、近代日本美術は面白い。その魅力をぜひご堪能いただきたい。

音声ガイド、新井さんが初挑戦
 音声ガイドナビゲーターは、ナビゲーター初挑戦のフリーアナウンサー・新井恵理那さんと、声優・小野大輔さんが務める。貸出料金650円(税込み)。
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図録 通販サイトでも
 会場特設ショップのほか、本日より通販サイト「まいにち書房」(https://www.mainichi.store/)でも公式図録を予約販売する。出品作品はもちろん本展不出品の重文指定品を含む全68件のカラー図版と作品解説を収録した充実の一冊。発送は22日以降。送料別。図録はA4変型判。1冊3300円(税込み)

「老猿」の重文指定についての裏話は存じませんでした。そのあたり、図録所収の論考等で触れられているのではないかと思われます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!


明治43年(1910)5月12日 南薫造宛書簡より 光太郎28歳

旧態依然の日本美術界(その頂点の一つが、父・光雲)と距離を置き、独自の道を行こうとする意志の表出です。しかしそれは、茨の道でした。

都内から企画展情報です。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密

期 日 : 2023年3月17日(金)~5月14日(日)
会 場 : 東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 9:30-17:00(金曜・土曜は9:30-20:00)
休 館 : 月曜日(ただし3月27日、5月1日、8日は開館)
料 金 : 一般 1,800円(1,600円) 大学生 1,200円(1,000円)
      高校生 700円(500円) ( )内は20名以上の団体料金

東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。

重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。

1.史上初、展示作品すべてが重要文化財
明治以降の絵画・彫刻・工芸の重要文化財のみで構成される展覧会は今回が初となります。明治以降の絵画・彫刻・工芸については、2022年11月現在で68件が重要文化財に指定されていますが、まだ国宝はありません。本展ではそのうち51点を展示します。

2.「問題作」が「傑作」になるまで 指定の歩みから浮かび上がる近代日本美術史
明治以降の作品が最初に重要文化財に指定されたのは1955年。以降、いつ、何が指定されたかをたどっていくと、評価のポイントが少しずつ変わってきているように見えます。それはすなわち、近代日本美術史の研究の深まりの反映でもあるでしょう。

3.東京国立近代美術館所蔵の重要文化財全17件を公開
10年前の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」展では当館の所蔵品・寄託作品計13点の重要文化財をまとめて展示しましたが、今回はその後に指定された作品や国立工芸館の鈴木長吉《十二の鷹》、そして2022年11月に新たに指定された鏑木清方《築地明石町》《新富町》《浜町河岸》三部作も加えた17件を、初めてまとめて公開します(会期中展示替えがあります。鏑木清方三部作の展示期間は3月17日~4月16日です)。作品保護のため、会期中一部展示替えがあります。
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関連イベント(講演会)

本展出品作品の所蔵館の方および日本近代の絵画・彫刻・工芸の専門家による講演会です。各美術館・博物館のコレクション形成史をメインに、本展の出品作品にも触れながらお話しいただきます。

3月25日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:伊藤嘉章(愛知県陶磁美術館総長、町田市立博物館長)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:貝塚健(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館 特命事項担当学芸員)
4月8日(土)
 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:大谷省吾(東京国立近代美術館副館長)
   UDトーク対応(字幕表示あり) 協力:国立アートリサーチセンター
4月15日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:古田亮(東京藝術大学大学美術館教授)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:舟串彩(公益財団法人永青文庫学芸員)
■会場 東京国立近代美術館 地下1階講堂
■定員 各回140名(先着順)
■参加方法
各日12:00より、1階インフォメーションカウンターにて整理券を配布します。
3月25日、4月15日は一部のみ、二部のみの参加も可能です。一部と二部どちらも参加希望の方は、それぞれの参加券をお受け取りください。

というわけで、現在68件が重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、51点が展示される展覧会です。

そこで、光太郎の父・光雲作の「老猿」(東京国立博物館所蔵)も出ます。
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「老猿」を所蔵しているトーハクさんでは、昨年、「国宝 東京国立博物館のすべて」展が開催され、こちらでは膨大な所蔵品の中から国宝89件すべてが展示されました。同時開催の常設展示ではこの「老猿」も展示されており、SNS上では「国宝も素晴らしいが、常設の「老猿」も超インパクト」的なコメントが目立ちました。

他にも教科書や何かでお馴染みの作品がズラリ。出品目録はこちら

それぞれ、様々な機会に別個に見ることはあっても、まとめて見られる機会はめったにありませんね。当方、拝見に伺う予定ですが、おそらく頭がクラクラしそうです(笑)。
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ところで、素朴な疑問。上記画像にもある岸田劉生の「麗子微笑」など、一連の「麗子像」のタイトルを「智恵子抄」と勘違いしている人が実に多いのです。
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なぜなんでしょうね?

閑話休題、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddenly. I am here by by his tomb. You cannot imagine how I am sad! April 26th


明治43年(1910)4月26日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎28歳

昨日のこの項でも書きましたが、親友だった碌山荻原守衛が突然没したのが4月22日。旅行中の奈良でそれを知らせる電報を受け取った光太郎、信州穂高の守衛の墓に馳せ参じました。

それを知らせるバーナード・リーチ宛の葉書。普段、端正な文字を書く光太郎が、この時はまるで殴り書きのような筆跡。大文字と小文字が入り乱れ、むちゃくちゃです。それだけに激しい動揺が伝わってきます。文言的にも「君には僕がどれほど悲しんでいるか解るまい!」。まるで八つ当たりです。
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昨日も引用した、水野葉舟の「日記の中より(故荻原守衛氏に対する記憶)」から。

 その高村君が留守に寄られた時にこのやうな挿話があつた。これはほんの一つの挿話に過ぎぬが自分はそれを聞くと鋭く胸に映るものがあつた。
 その挿話といふのは斯うである。丁度二十二日の午前一時か二時の頃高村君が宿屋の室で寝て居た。すると誰かがそつと障子を開けて入つて来た。と思ふと床(とこ)の上から非常な力で圧されて苦しくつてたまらなかつた。と思ふと目が覚めた。深更であつたが両側の室にはまだ燈火がついて居た。
 丁度その時刻に荻原氏は死んだのであつた。後になつて考へると実に恐くつてたまらぬ、実に今度こそ非常な経験をしたものだと言つたさうだ。
 奈良から帰つた高村君は信州に行つた。その途から自分に当てられた端書及び帰つて来てからの端書にも、非常に興奮して居る様子であつた。自分は平常沈んだ心の静かなこの友人が、このやうに興奮したので自分にも重いものを負つて居るやうに心を動かされた。


奈良の宿屋でのエピソード、現在確認できている限り、光太郎自身は書き残していません。それを自ら公表するのも不謹慎だと思ったのでしょうか。

ところで、守衛の「北条虎吉像」も重要文化財指定を受けていますので、上記「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に展示されます。

京都と岡山から音楽公演の情報を。

まず京都。

東日本大震災復興支援ライブ「琵琶もの語り」

期 日 : 2023年3月4日(土)
会 場 : Caffe flook 京都市西京区大枝西長町7-21
時 間 : 15:00~
料 金 : ワンオーダー&投げ銭(義援金)

演 奏 : 宇佐美周子(筑前琵琶)

演目は本曲より「関ヶ原」、高村光太郎詩「雪白く積めり」。

演奏は3月で京都は梅が咲き陽光も春っぽい頃ですが、今年の1月に京都(にしては)も大雪に見舞われました。冬が好きで花巻に関連のある高村光太郎を紹介するなら今回!という思いです。

皆様のお越しをお待ちしております。
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筑前琵琶の演奏で、光太郎詩「雪白く積めり」。原詩は昭和20年(1945)、光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移った最初の冬に書かれた作品です。オリジナルの曲が付けられているのでしょう。
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奏者の宇佐美周子さんという方、花巻の宮野目地区ご出身だそうで、彼の地で市民講座講師などもなさったことがおありとのこと。そういう関係もあって「東日本大震災復興支援」と冠されているのだと思われます。

右は『広報はなまき』令和元年(2019)10月号より。

当方、琵琶の生演奏は一度だけ拝聴したことがあります。もう6年前になりますが、千葉県の柏市で開催された「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」でのことでした。

偶然ですが、その際に大久保光哉氏という方が歌われた「智恵子抄三章」という歌曲がプログラムに入った演奏会が岡山で開催されます。

佐々木英代の日本のうた講座【最終話】第30話 岡山の作曲家と歌手の選んだ名曲編

期 日 : 2023年3月5日(日)
会 場 : 天神山文化プラザ 岡山市北区天神町8-54 
時 間 : 13:30~
料 金 : 一般1,000円 中学生以上、学生500円 小学生以下無料

「日本のうた」の隠れた名曲や、知らなかった秘密を解き明かすおはなしを楽しむレクチャーコンサート。2008年から始まったシリーズの最終話となる今回は、岡山の作曲家から、米倉由起、青木省三、上岡洋一の3人をご紹介します。聴きどころや、作曲家の身近なエピソードを交えながら生演奏でお届けします。音楽が好きな方はもちろん、どなたでもお気軽にご参加ください!

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フライヤー等に演奏曲目が入っていないのですが、中国二期会理事長でテノール歌手の松本敏雄氏が「智恵子抄三章」を歌われるそうです。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ダンテ、ヸンチ等の曾て吸ひし空気の中に来りたる事を思ひて嬉しきこと限りなく候。 フイレンツエは美しき街、なつかしき街に候。街ゆく女の美しさはヹニスとは又異りて、風俗の都めきたるが心を惹き申し候。女の美しき街ならでは世に美しき街は有之まじく候。


明治42年(1909)4月1日 与謝野寛宛(推定)書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行。ダンテやダ・ヴィンチが居た街としてフィレンツェをほめ、さらに道行く女性の美しさに鼻の下を伸ばした光太郎でした(笑)。一転、3ヶ月後に帰国した日本では、日本女性に失望させられます。

10日前に始まっていました。光太郎の父・光雲作の木彫観音像が出品されています。

身延山霊宝展

期 日 : 2023年2月18日(土)~4月25日(火)
会 場 : 身延山久遠寺宝物館 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 木曜日 
料 金 : 一般300円 大・高200円 中・小100円(20名以上で団体割引)
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今回の展示では身延文庫に収蔵される日蓮宗寺院にて信仰される菩薩や守護神の絵画や仏像を中心に紹介しています。

主な展示作品
・聖観音菩薩像 高村光雲 作  ・鬼子母神画像 伝 加藤清正 筆  ・観音鷹図 宮崎重政 筆
・観音図 萩尾九皐 筆  ・開運妙力大善神像  ・仁王尊像 林如水 作 等
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右の御手は観世音菩薩の定印の一つにして、光太郎がブロンズの「手」、さらに生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」で表した「施無畏印」となっていますね。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

フイレンツェほど美しき町は世に少かるべし。僕は今フイレンツェにあり。数年以前より書物に見、写真にて見たるフイレンツェにあり。夢の如し。


明治42年3月31日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行。ヴェネツィアからパドヴァを経由してフィレンツェに入りました。

昨日も都内に出ておりました。行く先は初台の東京オペラシティさん。こちらのリサイタルホールにて、テノール歌手紀野洋孝氏のテノール・リサイタルを拝聴。
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ご本人がコロナ感染のため、昨年12月に予定されていながら延期となったもの。こういうと何ですが、逆に延期になったため日程の都合がつきまして、伺った次第です。ネットでチケットの予約をさせていただき、受付で当日精算しようとしたところ、「ご招待」扱いになっていて恐縮してしまいました。

前半はイタリアのトスティ、そして山田耕筰。
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久々にテノールの方の独唱を拝聴しましたが、やはり生で聴く演奏はいいですね。会場も大ホールではなく、さりとてこぢんまりというわけでもなく、適度な広さで、お一人で歌われるには丁度良いと思われました。あまりに狭い会場だと声や伴奏だけがストレートに飛んできますが、適正な広さのホールですと、しっかり残響がありますし、何というか、空間全体がある種の楽器のような感じがします。もちろん、紀野氏の確かな歌唱力あってのことですが。

後半が故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄(改訂新版)」全9曲。
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楽譜を以前に入手、それを見ながらCDでは拝聴したことがありましたが、生演奏で聴くのは初めてで、興味深く感じました。

今回の演奏会パンフレットに引用されていた別宮氏の言葉によれば「高村光太郎のこの詩集は私の青春の愛読書のひとつ、いつかは作曲したいと思っていたのだが、周知のように、各篇長大で詩句も長く、扱いかねていた。しかしオペラ作曲の経験をへて、なんとかできるのではないかとおもうにいたり、一九八二年夏、三ヶ月ばかりかけて作った」とのこと。なるほど、確かにオペラ的要素が色濃く感じられました。

それはまず構成の妙。第1曲「人に」(「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」で始まる「智恵子抄」巻頭の詩、大正元年(1912)の作)から第4曲「晩餐」までは、光太郎智恵子恋愛時代の詩。いわばまだ幸福だった時代。第5曲「あどけない話」(「智恵子は東京に空が無いといふ」のフレーズで有名な昭和3年(1928)の作)がターニングポイントとなって、後半は心を病んだ智恵子と、その死が謳われます。まぁ、この点は「組曲」として作曲されている多くの方々が同じようなことを考えられてはいるのでしょうが、中には後から後からどんどん曲を追加、というスタイルでやられている方もいらっしゃるもので……。

それから、昨年リリースされた紀野氏のCDのライナーノートに「オペラ作曲で得た、能の謡などを応用して日本語と西洋音楽を融合させる技術を用いた」とあり、なるほど、確かに「和」のテイストもふんだんに盛られているな、と感じました。

そういったもろもろを、紀野氏があますところなく表現され、聴いている方としては、至福の時間でした。

終演後のMCで、紀野氏、「日本人として日本語の歌曲をしっかり歌えるようでありたい」的なお話をなさいました。実は外国語の方が歌いやすかったりするもので、子音が立たず、アクセント等も平板な日本語はドラマチックな表現には不向きです。そこで昨今のJ-POP系の皆さんは、あえてそうしているのでしょう、鼻濁音という美しい日本語の伝統を捨て、がっつりと濁音の「ガギグゲゴ」。まぁ、これは音楽に限らずで、テレビ等、アナウンサー諸氏までもで、憂うべき事態だと思っています。もっとも、広い日本国内には鼻濁音というものがほぼ存在しない地域もあるそうですが……。

さて、紀野氏のリサイタル、3月6日(月)には紀野氏の故郷、大分での公演もあるそうです。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

多分四月頃スペインへ参りませう。グレコとヹラスケスとゴヤを見に参るのです。和蘭太や白耳義や独乙へは多分参りますまい。伊太利へも参れますまい。希朧も同様、埃及もポチポチ。

明治42年(1909)1月26日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

ロンドンで一緒だった留学仲間・南薫造にあてたパリからの書簡の一節。光太郎、スペイン旅行を企てていたことが記されています。しかし、これは実現せず、逆に「参れますまい」と書いているイタリアへ約1ヶ月の旅行に出、ルネサンス期の逸品の数々を眼にします。

埃及(エジプト)は、おそらく親友・荻原守衛が盛んにそのプリミティブな美を褒めそやしていた影響で興味を持ったものと思われます。光太郎、晩年には平凡社刊行の『世界美術全集』のエジプトの巻で実に的確かつ詳細な解説を書いています。

新刊、400ページ超の労作です。

日本人美術家のパリ 1878-1942

2023年2月8日 和田博文著 平凡社 定価5,000円+税

19世紀後半から20世紀前半にかけ、黒田清輝や藤田嗣治など多くの日本人美術家がパリを訪れた。彼らの活動の記録から、当時の美術界の動向や異国の地での葛藤を明らかにする。

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目次

プロローグ 「芸術の都」パリへ
Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会
 1 洋画の曙――黒田清輝と久米桂一郎
 2 ラファエル・コラン――印象派の陰に隠れた外光派
 3 天真道場から東京美術学校西洋画科・白馬会へ
 4 日清戦争後の帝国意識と、美術に要請された競争力
 5 一九〇〇年パリ万国博覧会が開幕する
 6 鏡としてのナショナル・ギャラリー――和田英作の「素人」意識
 7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術
 8 オテル・スフローのパンテオン会、グレの巴会
 9 カンパーニュ・プルミエール街、マダム・ルロワの下宿
 10 模写で行う名画展覧会、裏返される裸体画
 11 ルノワールと山下新太郎、ロダンと荻原守衛
 12 イタリアの教会芸術、イギリスの水彩画
Ⅱ ポスト・インプレッショニスムと第一次世界大戦
 1 パリの白樺派と、幻に終わったロダン展覧会
 2 ルノワールとポスト・インプレッショニスム
 3 マティス、セザンヌ、ゴッホ、モネと、アヴァンギャルドの擡頭
 4 アカデミーからアトリエへ――満谷国四郎と安井曾太郎
 5 クローズリー・デ・リラ、シテ・ファルギエール、テアトル街
 6 ルーヴル美術館の採光、カモンド・コレクションの開場式
 7 ブルターニュで追体験するゴーギャン、ヴェトイユで想起するモネ
 8 ヨーロッパの美術館――イタリア、イギリス、スペイン
 9 東京の美術館建設問題と裸体画問題
 10 第一次世界大戦勃発とパリからの避難者
 11 戦時ヨーロッパからの通信――黒田重太郎・長谷川昇・寺崎武男
 12 リヨンで模写した青山熊治、赤十字に志願した川島理一郎
Ⅲ 「黄金の二〇年代」と日本人のコレクション
 1 第一次世界大戦後のパリと、日本人美術家数の増加
 2 公文書が語る美術家数の変化、クラマールの中山巍と小島善太郎
 3 サロン・ドートンヌで日本部が開設される
 4 カモンド・コレクションの印象派、ペルラン・コレクションのセザンヌ
 5 模写で探る画家の秘密、模写が可能にした展覧会
 6 オテル・ドルーオの競売、松方幸次郎のコレクション
 7 児島虎次郎が蒐集した大原美術館の収蔵品
 8 遠ざかる印象派と、晩年のモネを訪ねた正宗得三郎・黒田清
 9 フォービズムの波と、マティスの深い色彩
 10 佐伯祐三、愛娘と共にフランスに死す
 11 石黒敬七が日本語新聞を創刊する――『巴里週報』『巴里新報』Ⅰ
Ⅳ エコール・ド・パリ、モンパルナスの狂騒、日本人社会
 1 エコール・ド・パリと、その周縁の美術家たち
 2 モンマルトルからモンパルナスへ――「芸術の都」の中心地
 3 単独者への道――パリの美術家・美術学生七万人の中で
 4 ルーヴル美術館が藤田嗣治の作品を所蔵する
 5 日本人美術家数の増加と、日本人同士の交流
 6 在巴日本美術家展覧会――『巴里週報』『巴里週報』Ⅱ
 7 ツーリズムの季節と、日本イメージ――『巴里週報』『巴里新報』Ⅲ
 8 福島コレクションのピカソ、ドラン、マティス
 9 内紛と分裂――巴里日本美術協会(福島派)と仏蘭西日本美術家協会(薩摩派)
 10 ブルターニュの長谷川路可、プロヴァンスの林倭衛
 11 ヴェネツィアとフィレンツェ――中世のルネサンス美術
Ⅴ 世界恐慌から一九三〇年代へ
 1 恐慌前夜――好景気と   絵画価格の高騰
 2 ロマン・ロランの胸像を制作した高田博厚、ドランと画架を並べた佐分真
 3 システィーナ礼拝堂で大の字になった佐伯祐三、列車に乗り遅れた岡田三郎助
 4 モンパルナスから日本人美術家の姿が消えた
 5 異郷の日本人の光と闇――貧困と客死
 6 ローマとベルリンの日本美術展覧会――横山大観・速水御舟・平福百穂
 7 パリの日本現代版画展――ジャポニスム脱却の試み
 8 ルオーがパリの福島繁太郎宅で、自作に筆を入れる
 9 フランスの個人コレクション、日本の個人コレクション
 10 美術館問題、西洋近代絵画展覧会、模写の活用
 11 日本の美術界の衝撃――エポック・メーキングな福島コレクション展
 12 シュールレアリスム、巴里・東京新興美術同盟、巴里新興美術展覧会
Ⅵ 戦争の跫音とパリ脱出
 1 スペイン内戦、ドイツ軍の無差別爆撃、ピカソの「ゲルニカ」
 2 武者小路実篤の絵行脚、伊原宇三郎のゴッホ所縁のイーゼル
 3 欧州旅行の発着点ナポリ、有島生馬が見た日伊文化交流
 4 一九三〇年代末の巴里日本美術家展覧会と長期滞在者
 5 ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア
 6 第二次世界大戦勃発と、ルーヴル美術館の美術品避難
 7 パリ陥落と日本人の脱出、パリに留まった日本人
エピローグ 二〇一二年のパリから
パリ在留日本人数と日本人美術家等数(1907~1940年)
関連年表
主要参考文献
人名索引

Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会」中に「7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という項がある他、随所で光太郎に言及されています。

また、光太郎と同時期に留学していた面々や、日本で光太郎と交流の深かった美術家たちにも触れられています。

パリというトポスにおける編年体的な俯瞰の方法で、流れがつかめますし、流れの中での光太郎の位置づけという意味では、眼からウロコの部分もありました。一人の作家を「点」で捉えるのではなく、その作家を含む「線」を意識することの重要さを改めて感じています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのににも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。


明治42年(1909)1月(推定) 水野葉舟書簡より 光太郎27歳

光太郎のフランス、パリへの認識がよく表されています。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

イベント等が少なくネタ不足の状態ですので、昨日から、逆にネタが多すぎて書く余裕が無かった昨秋のレポートをまとめています。

今日は昨年11月10日(木)、中央区日本橋の三越さん本店内にある三越劇場さんで、一色采子さん、松村雄基さん主演の「朗読劇 智恵子抄」を拝見した前後。周辺の光太郎・光雲ゆかりの場所についてです。

千葉の田舎にある自宅兼事務所から都心までは、高速バスで行くことが多いのですが、本数も限られていますし、時折、高速道路の渋滞に巻き込まれ、遅延が生じます。そこで余裕を持って出て、早く着いたら着いたで目的地周辺で時間を潰すというのが習い性となっています。

この日はまず、小網町方面へ。八重洲地下街のバスターミナルからてくてく歩き、10分少々。日本橋川にかかる鎧橋に到達。
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橋のすぐ近く、現在の小網町安田ビルさんのある場所が、かつて「メイゾン鴻乃巣」というカフェでした。光太郎も主要メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の集いがたびたび開かれた店です。ただ、「パンの会」は広く招待状を発送し、大々的に行う「大会」と、中心メンバーのみが集う「例会」があり、こちらでは「大会」はなかったようです。
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ビルの前に説明板。光太郎の名も記されています。
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以前にもこの場所を訪れたことがありましたが、やはり感慨深いものがあります。

ちなみに智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』のメンバーだった尾竹紅吉は、ここでカクテル「五色の酒」をあおり、それを『青鞜』誌上にレポートしたところ、「女だてらに!」と、今で言う「炎上」状態。そういう時代でした。

近くには、都心にもかかわらず、空襲の被害を免れたと思われる建物もちらほら。
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その後、三越本店さんへ。三越さんも関東大震災後の昭和2年(1927)建築の部分が残っており、現役の百貨店でありながら重要文化財に認定されています。以前にも書きましたが、当方、学生時代の4年間、三越さんで配送のアルバイトをしていましたので、親しみを感じます。

「朗読劇 智恵子抄」開演までまだ時間がありましたので、屋上へ。こちらには喫煙コーナーがあるので、煙草吸いには貴重なスポットです(笑)。

どうも知る人ぞ知る、のようですが、屋上には庭園も。
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そしてその一角に、三井家ゆかりの三囲(みめぐり)神社さん。
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通常、非公開でこの日も見ることは叶いませんでしたが、光雲作の「活動大黒天」が安置されています。
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戦時中に建立された石碑には光雲の名が。
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「活動大黒天」、いつかはこの目で見たいものです。

この後、館内の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」を拝見しました。その際のレポートがこちら

帰りがけ、中央ホールも廻りました。こちらには佐藤玄々作の木彫「天女(まごころ)像」。佐藤は光雲の高弟・山崎朝雲に師事していましたので光雲の孫弟子にあたり、光太郎とも交流がありましたが、師の元を離れ、「朝山」の号を「玄々」と改めました。
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毀誉褒貶いろいろある像ですが、ど迫力、という意味では他の追随を許さないと思います。

というわけで、都心での光太郎・光雲ゆかりの地廻り。皆様もお時間のあるときにぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

I am sorry i cannot write you in full pages; but you may write me in the same way again; it is as you said, very good idea for studying English. Now, I hope you will be strong, energetic, faithful and noble every day, Your Brother Mitsutaro.


明治39年(1906)12月24日 高村豊周宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、実弟にして当時旧制中学校生だった豊周にあてた書簡から。

英語のよい勉強になるから、お互いに英文で手紙をやりとりしようというわけで、いい兄貴ですね。「 I hope you will be strong, energetic, faithful and noble」、自分自身に言い聞かせているようにも感じられます。














どうもこの時期は関連するイベント等が少なく、ネタ不足です。まぁ10年以上このブログを続けていますと、この時期そうなることはわかっていますので、そうなった場合に備えてストックしておいたネタを、今日明日で使います。

今日は光太郎の父・光雲ゆかりの千葉県市川市の中山法華経寺さんを訪れたレポート。訪れたのは昨年10月、同じ市川市の市川市文学ミュージアムさんで開催されていた「月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>」を拝観した後でした。その季節は逆に紹介すべきネタが多すぎて、特に速報性の必要ないネタはネタ不足になった際に使おうと、ストックしていたわけです。

こちらには、光雲原型の日蓮上人銅像が平成25年(2013)に奉納されており、そちらを拝見しようと伺いました。ちなみに同型の像は鎌倉の長勝寺さん、石川県の実相寺さんにも納められていまして、探せばさらに他にもありそうです。

中山法華経寺さんには自家用車で参りまして、駐車場は境内裏手でした。三門(山門)脇に目指す日蓮上人像が見えたのですが、それを横目に通り過ぎ、駐車場へ。裏から参拝するというのも何ですが、仕方がありません。

「中山」といえば「中山競馬場」。指呼の距離なので、このあたり一帯、もっとごみごみしているのかなと想像していたのですが、あにはからんや静謐な一角でした。
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国指定重要文化財の五重塔などを見つつ、広い境内を進みました。

本堂にあたる祖師堂は改修工事中でした。
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境内に茶店などが軒を連ねており、いずれかのお店で飼われているのでしょうか、丸々としたにゃんこ(笑)。
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やけに友好的でしたので、なでてあげました(笑)。

さて、裏から三門をくぐり、改めて正面から撮影。大正15年(1926)の建築だそうで、それほど古いわけではありませんが実に立派です。
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そのかたわらに、目指す日蓮上人像。なかなかの迫力です。
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台座正面のプレートには「光雲原作」の文字。「高村」の文字が無いのが何だかなぁという感じでした。裏手の碑陰記的なプレートにも「高村」の文字は入っていません。そのあたり、権利関係などどうなっているのかなと思いました。

再び三門をくぐり、祖師堂に参拝して帰りました。

銅像フェチの方、古刹マニアの方、光雲ファンの方、日蓮信奉者の方、その他、ぜひ足をお運び下さい。

明日は、急ぎ紹介すべき事項がなければ、都内中央区日本橋付近のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

君は「ホームシツク」を起しちやいけないと言ふけれど、いけないと言つても起つて来れば仕方がないが人間の弱みですよ。何ぼ僕でもメソメソしてゐるのでは無いが、時々シンから底からぼんやりして、何事も思はず、時間と空間とを忘れて、東京にゐて僕の家にゐて、親や兄弟の声の聞える自分の室にゐて、君なんかと話をしたり、油土をいぢつたりした事を、想ひ出すのではない、其の時になつて仕舞ふ事があります。恁ういふ時が又何とも言はれない程楽しいので、言はば眼の覚めてゐる夢ですね、確に父や母の声が聞えますし、面影が眼に浮んで来て、丁度其時の衣服の縞柄、色工合まで間違つてゐないと思はれる。こんな心の状態は僕は今まで知らなかつた。


明治39年(1906) 月日不明 水野葉舟宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、日本にいた親友の水野葉舟に送った書簡の一節です。明治末期には既に「ホームシック」という言葉、概念があったのですね。

キーワード「智恵子抄」で検索していてヒットしました。

まずJAZZ系のライヴだそうで。

Summer Time Valentine Live 

期 日 : 2023年2月11日(祝・土)
会 場 : ライブ居酒屋キンのツボ 東京都世田谷区用賀2-36-13
時 間 : 19:00~ 3ステージ
料 金 : ライブチャージ:3,000円

出 演 : ジャズ<Summer Time> Nalmi (vo)  奥吉聡子 (pf)  多田和弘 (b)  戸村幹 (ds)

用賀 キンのツボにてサマータイムのLiveです♪ 毎回、文Jazzの新作を披露させて頂いておりまして、この度は、あたためている、智恵子抄を…と思っております。バレンタインLiveなので、愛する気持ちをテーマに演奏できたらと思っております。
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ヴォーカルのNalmiさんを中心に、「文JAZZ」と称し「文学作品とジャズとを融合させて、朗読と歌と生演奏で表現。」だそうです。これまでにも宮澤賢治作品等を取り上げられたとのこと。

光太郎とジャズ、意外と面白い化学反応が起こりそうな気がします。「歌物語」でたびたび「智恵子抄」を取り上げて下さっている潮見佳世乃さんも、バックボーンはジャズの方ですし。

もう1件、打って変わって市民講座です。

高村光太郎 智恵子抄を中心に

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 御国野公民館 兵庫県姫路市御国野町御着1142-8
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
講 師 : 森本穫先生(元賢明女子学院短期大学教授 生涯学習大学講師 文学博士)

作者が妻智恵子への愛をつづった詩集『智恵子抄』。テレビドラマや映画化もされた有名な作品です。定員:25人(公民館窓口・お電話にて受付中)。マスク着用でお越しください。 
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姫路というと、光太郎智恵子とはゆかりの薄い土地(光太郎の父・光雲とは多少のゆかりが)ですが、こうして「智恵子抄」がらみの講座を開催してくださるとはありがたいところです。

今日ご紹介した2つのイベントの間に挟まる日程で、クラシック系のコンサートもあるのですが、また改めて取り上げさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

調べ始め候処中々大仕事にて迚も一寸とはまゐらず此の夏の休暇頃出来得べくは又来りたしと存ずる程に候。


明治38年(1905)5月11日 高村光雲宛書簡より 光太郎23歳

旅行先の奈良から実家に送った書簡より。この際には興福寺の諸仏を熱心に見せてもらいました。光太郎、飛鳥時代や奈良時代の仏像にはかなり心酔し、のちの自作にもそのテイストを盛り込んだようです。

ところで、この項、少し前から書簡から抜き出していますが、膨大な光太郎書簡、あちこちに掲載されているためまだ慣れず、時系列が多少前後しています。すみません。


昨日は都内に出ておりました。

まずは「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」を拝見。『智恵子抄』初版版元の龍星閣主・澤田伊四郎と竹久夢二にスポットを当てた展示で、『智恵子抄』関連の展示はないだろうと思いこんでおりましたところ、「いや、あるよ」という情報をご提供いただきまして、伺った次第です。

会場の日比谷図書文化館さん。
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連翹忌の集いの会場としてお借りしている日比谷松本楼さんと同じく、日比谷公園内にあり、松本楼さんを横目に見ながら参りました。ちなみに今年4月2日(日)には、4年ぶりに連翹忌の集いを開催する予定で、会場は押さえてあります。詳細はまた後ほど。
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会場内、撮影可でした。

メインは龍星閣さんから千代田区さんへ寄贈された夢二作品でしたが、その前段的に、出版人としての澤田の紹介がなされ、『智恵子抄』を世に出したことにも触れられていました。
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『智恵子抄』の各種の版とともに、光太郎から澤田宛書簡も。
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平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈された中に含まれるものでした。

図録も販売されており、このあたりも記述があります。1,500円也です。
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その後、メインの夢二関連。
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大正期に人気を博した夢二ですが、昭和に入って、戦中・戦後すぐまでは一旦、忘れられかけていたとのこと。その夢二を再発掘したのが澤田だそうで、「夢二をやる。ブームにしてみせる。見ているがいい」と、語り、画集の出版などでそれを実現させました。

それにしても、出品点数が実に多く、入場無料なのでもっと小規模な展示かと思っていたのですが、あにはからんや、でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

またまた老大家諸先生の御勉励には実に小生ら感憤いたさんずれば無之候。評判の象評判の如くにて候 小生らは偏に感心仕候


明治33年(1900)9月25日 加藤景雲宛書簡より 光太郎18歳

加藤景雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。後にこうした先輩やアカデミズム系の彫刻家の作品をけちょんけちょんにディするようになる光太郎ですが、この頃はまだ筆鋒おだやかです。

「象」は「像」の誤りでしょう。あるいはこの頃は「像」という表記がまだ確立していなかったのかも知れません。

この書簡、現在、売りに出ています。値段は88万円也です。
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003またお一人、生前の光太郎をご存じだった方が亡くなりました。

中西利一郎氏。光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの大家さんだった中西家の子息です。昭和12年(1937)のお生まれでしたので、今年のお誕生日で満86歳になられるはずでした。

元々アトリエは氏のお父さまにして新制作派の画家だった中西利雄画伯が自宅敷地内に建てたものでしたが、画伯が急逝し、その後、貸しアトリエとなりました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチが使っていたとのこと。

光太郎がこちらに入ったのは、昭和27年(1952)10月。青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためでした。以後、昭和31年(1956)に亡くなるまで基本的にこちらで過ごした光太郎と、氏は3年半、同じ敷地内で生活されたわけです。光太郎一周忌だった昭和32年(1957)4月2日の第一回連翹忌もこちらで行われました。そもそも連翹忌の「連翹」は、光太郎が歿した時にもここの庭に咲いていて、光太郎が愛した連翹に由来します。

そうした関係で、氏には連翹忌の集いにたびたびご参加いただきましたし、当方も三回、中野のご自宅にお伺いしました。そして、光太郎遺品の数々などを拝見。

氏が光太郎からもらったお年玉の熨斗袋(熨斗袋といいつつ、原稿用紙を折りたたんで作ったものです)それから外出もままならなくなった最晩年の光太郎が氏のお母さまに買い物を頼んだ際の膨大なメモ。

アトリエを借りることが決まった際に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村から氏のお母さまに宛てた葉書、氏のお母さまと光太郎の2ショット写真。

これらは光太郎に関わる企画展や、ATV青森テレビさんで放映された「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組などで紹介されたこともあります。

同番組から。
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中西氏、平成13年(2001)5月15日には花巻の高村山荘敷地内で行われた第44回高村祭で「高村光太郎先生の思い出」と題し記念講演もなさいました。

その抜粋。

 昭和27年10月13日、予定通り、光太郎先生は中野においでになりました。
 レインコートにリックサックを背負って、長靴をはき、登山帽をかぶって…私は、当時、中学三年生、子供心に、大きな体の飾りけのない、えらい先生が見えたと今でも記憶に残っております。「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」の宮沢賢治は知っていても国語で習っていないせいか、高村光太郎先生が、彫刻家で、詩人で、日本のえらい先生とは深く知りませんでした。
 ただ、えらい先生が、アトリエへ見えて、彫刻をおつくりになるのだと聞かされていました。のちに教科書や新聞、本などで知るようになったのですが、一人、家の人が増え、おじいちゃんが出来たぐらいの認識でした。
(略)
 昭和29年春頃から光太郎先生は体調のことを気にされ、肋間神経痛で痛むことを耳にするようになりました。それまでは、先生もお元気で、中野桃園通り商店街で、先生の買い物のお姿を見かけたり、肉屋さん、八百屋さん、果物屋さん、お寿司屋さんでも有名になっていました。後日談で先生にお手洗いを貸して、先生の体をささえてあげたという自転車屋さんの話を今でも聞きます。登山帽をかぶり、長靴をはいて、レインコートを着て、カゴを持った先生のお姿は体が大きいだけに、やはりめだってみえたのでしょう。
(略)
 ところが、昭和30年5月にはベッドをもとめられて、アトリエの中二階から階下で休まれるようになさいました。母がベッドの購入のお手伝いをしたようです。
(略)
 その頃から買い物は母が先生からメモ書きをお受けしてやっていたようで、そのメモが残っていて、先生の生活の一片がわかります。
 母から聞いたエピソードをちょっとお話ししてみます。「先生はお肉がお好きで、歯がないのに、じょうずにひれ肉を焼いて、きれいに食べられるのよ」とか智恵子さんの御命日には「今日は智恵子の命日だから」と言って、二人分の夕食を用意して、会話しながら食べるのだという話を母から聞いて、私は、先生の御気持ち、やさしさが充分すぎる位にわかりました。
(略)
 昭和31年三月下旬に入ると、容態が急変して、看護婦さんもつけることになりました。3月22日だったと思います。私は学校が春休みに入ること、大学受験、卒業式とでガタガタしておりましたが、心配でたまりませんでした。
 アトリエには面会謝絶の紙が貼られて、母屋には心配する見舞いの方々で大変でした。光太郎先生は何度となく喀血をくり返して、衰弱がひどくなってゆかれました。
(略)
 そして、四月一日は、寒く、午後から雪が降り出し、夜になっても牡丹雪となって、しんしんと降り続いた。夜になって草野心平先生が「酸素吸入をしている」ということで、会合を抜けて、雪の中を駆けつけてこられました。

(略)
 深夜十一時半頃、アトリエから母屋へ戻られた草野心平先生は「今夜は落ちついて、休まれているから、だいじょうぶだろう」とおっしゃって帰られて行きました。
(略)
 うとうとする一時が経ったでしょうか。アトリエからのブザーが鳴りました。
(略)
 そのブザーの音を聞いて、私たちも飛び起きました。「これは大変だ。容態が急変したのだ」と……。あとは、言いつけられるままに、私は弟と中野駅へ雪の中を走りました。
 中野駅に出ても、タクシーが思うようでなく、ガードをくぐった北口の方で、やっと一台をつかまえることが出来ました。運転手さんにすかさず、行先大久保の地図を示し、事情を告げて、急いでもらいました。
 「草野先生、草野先生、光太郎先生が……」と戸をたたいて、呼びかけました。「あぶないから」と。
 草野先生は帰られて、数時間もたたないうちに起こされたのですから、意を察して、準備され、すぐに中野アトリエへと急行です。時間は3時30分頃だったと思います。四時頃、中野に着いた時にはあれだけ降っていた雪もやんでいました。
 我が家の表門には車が一台とまっていて、降り立ったのは高村豊周先生御夫妻でした。
 光太郎先生永眠は3時45分、臨終に居合わせたのは、私の母と看護婦二人だったと聞いています。
(略)
 亡くなられた二日は、にわかに弔問客で、わけもわからず、我が家も忙しくなった。
 私達は居場所もないほど、ゴッタ返し、葬儀の準備に入り、三日を通夜、四日の告別式は青山斎場に決まった。
(略)
 私は事務進行の北川太一先生を御案内して、近くの長谷川葬儀社へ出向いて、葬儀の依頼をしたことを覚えています。いまだにその葬儀社の息子さんから、その時のことを聞かされており、オヤジさんは、それこそ、一世一代のお棺を徹夜で作ったそうです。
(略)
 葬儀の日の祭壇は建築家の谷口吉郎先生の設計で、実にシンプルに、大谷石の台の上に、白木のひつぎが安置され、そのひつぎの上に高村規氏の撮影による光太郎先生の微笑むチャンチャンコを着た写真、コップに入った連翹の花一枝がかざられたものでした。
 葬儀も悲しみの中でとどこおりなく終わり、沢山の人におくられて、落合火葬場で、荼毘に附されました。
 私は火葬場の片隅で、煙突から出る煙をみながら、しばし、先生のお姿と、創られた詩を思い浮かべながら、偲んでいました。
(略)
 光太郎先生は旅立たれたのだ。
 私達に素晴らしい作品を、詩や文を、そして思い出を残して。私は立ちつくし、ただ空を眺めて涙をこらえていました。
 私にとって、光太郎先生との出会いは、深い思い出となって、今も残っています。

中西氏、同様のお話を連翹忌の集いなどでお話し下さったこともおありでした。そうした際に良きおじいちゃんのようだった光太郎を偲ばれながら語られていた氏のお顔が忘れられません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷、 朝出血あり。 后岡本先生くる、注射 土方定一氏くる ハマクリ 斎藤新吉さんくる 玉子 〈中西夫人に三井通帳托〉


昭和31年(1956)3月30日の日記より 光太郎74歳

土方定一氏」は美術史家にして心平主宰の『歴程』同人、「斎藤新吉さん」は智恵子の妹・セツの夫です。

その死の3日前、これが光太郎の絶筆となりました。

翌日にはまだ意識があり、訪れた心平から心平編集、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを見せられ、「That's the endか、人の一生なんか妙なもんだな」とつぶやいたそうです。

それにしても、光太郎の絶筆を紹介する日に、中西氏の訃報をお伝えすることになるとは、その奇縁に驚いております……。

横浜から能楽の公演情報です。

企画公演「能役者 鵜澤久」

期 日 : 2023年2月5日(日)
会 場 : 横浜能楽堂 神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘27-2
時 間 : 14:00~
料 金 : S席7,000円 A席 6,000円 B席 5,000円 全席指定

能役者・鵜澤久。女流という枠にとどまらず、確かな技術と曲に対する深い洞察力で、古典作品の上演だけでなく、現代演劇に参加するなど新しい試みにも積極的に取り組み続ける姿勢は、師である観世寿夫が追及した能役者の在り方というものを大いに感じさせます。本公演では、鵜澤久の身体を通じ、能の表現とは、そして能役者とは何かを問います。

演目
「プラティヤハラ・イヴェント」 鵜澤久 一噌幸弘 藤原道山
ジョン・ケージによってはじめられたチャンス・オペレーションの流れの中で、能の持つ不確定性に着目し、演奏家の「呼吸」の時間が演奏の速度や、間の長さを決めていくかたちで書かれた作品。1963年に一柳慧、高橋悠治、小杉武久、観世寿夫らにより演奏されました。

舞囃子「智恵子抄」
高村光太郎の詩集「智恵子抄」から10編の詩と一首の短歌を製作年代順に配列し、光太郎にとっての永遠の女性像としての智恵子と現実の狂気した智恵子、それを見守る光太郎を描いた新作能。1957年4月に構成・演出:武智鉄二、作曲・作舞:観世寿夫、出演:観世寿夫ほかにより初演され、その後は「千鳥と遊ぶ智恵子」を中心に舞囃子として繰り返し上演されています。
 智恵子:鵜澤光  光太郎:梅若紀彰
 笛:松田弘之  小鼓:田邊恭資  大鼓:佃良太郎
 地謡:山本順之 清水寛二 西村高夫 長山桂三 川口晃平

能「卒都婆小町」(観世流)
高野山に住む僧が都へと向かう途中、一人の老女と出会います。老女が卒都婆に腰を掛けていたため、僧たちはそれを咎め、立ち去らせようとしますが、老女は僧と卒都婆についての問答を交わし、ついには言い負かせてしまいます。実は老女は、小野小町でした。かつては美貌を誇り、歌を詠む優雅な生活を送っていましたが、今は老女となって零落し、物乞いをして歩く毎日。そのようなことを語るうち、小町の声が変わり、「小町のもとに通おう」と言い出します。どうやら、かつて小町に恋をした四位少将の霊が憑依した様子。小町に憑いた少将の霊は、生前、小町のもとに九十九夜まで通い、思いを遂げる百夜を前に死んだ「百夜通い」の有り様を再現します。これも小町の驕慢が生んだ報いなのでした。
 シテ(小野小町)鵜澤久  ワキ(僧)森常好  ワキツレ(従僧)舘田善博
 笛:一噌庸二  小鼓:鵜澤洋太郎  大鼓:國川純
 後見:梅若紀彰 清水寛二 谷本健吾
 地謡:観世銕之丞  観世淳夫  西村高夫  柴田稔  馬野正基  浅見慈一  長山桂三  安藤貴康
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解説にあるとおり、ダイジェスト版の舞囃子として、武智鉄二作の新作能「智恵子抄」が演じられます。

一昨年には、今回、地謡で出演なさる山本順之氏、清水寛二氏、西村高夫氏がやはり吟じられた「連吟 智恵子抄」を含む「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」がありましたし、さらに清水氏は現代アートのイベント「もやい展2021 東京」中のステージパフォーマンスでも「智恵子抄」朗誦をなさいました。

今回は舞囃子ということで、より原型に近いのではないでしょうか。

ちなみに「智恵子抄」の語が含まれていませんでしたが、『東京新聞』さんに鵜沢久氏の紹介を兼ねた予告記事が出ました。

<土曜訪問>捨て石よりダイヤに 性別超え評価 来月 横浜能楽堂で公演 鵜澤久(うざわ・ひさ)さん(能楽師)

002 長らく「男性の芸能」として発展してきた能の世界で、性差を超えて評価されているのがシテ方観世流(かたかんぜりゅう)の鵜澤久さん(73)だ。女性が初めてプロの能楽師と認められたのは一九四八年。今も女性の能楽師は少なく、「宗家」を継いでいるのは男性だけ。そんな男性中心の能楽界で、二月五日に横浜市で行われる横浜能楽堂企画公演「能役者 鵜澤久」は、「女流という枠にとどまらない」一人の能役者としてスポットライトを当てる。ここに至るまでにどのような日々があったのか、聞きたくなった。
 「能は男の人がやるものという概念が、いっぱいいっぱいいっぱいいっぱいあって、闘うつもりはないけど、精神的には闘わないとやっていけなかったんです」。自宅にある舞台の端に座り、居住まいを正して淡々と語り始めた。
 シテ方は「シテ」と呼ばれる主役のほかツレ(シテに付き従って出てくる役)、地謡、後見、演出、舞台のプロデュースなどを幅広く担う。二十五歳で演能団体「銕仙会(てっせんかい)」に入り「性差は単なる個性の一つ。能という表現芸術に、男性も女性もない」と信じて研さんしてきたが、男性の能楽師がどんどん会の舞台に関わって経験を積むのに対し、自身は初めて研究公演に出るまでに十年以上かかった。「地謡や後見など、シテ方の男性が若い時から当然経験していることも、ずっとできなかった」。それならばと自身で、女性の地謡の会を開いたこともある。
 女性の能楽師を下に見る空気を感じ続け「ふらふらと片足立ちで生きてきたようだった」と振り返るが、目の前の壁を押し続けるつもりで進むうちに、二〇一八年、観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞。外部からの確固たる評価を得て「やっと両足を大地に着けて、能役者ですと言えるようになった」とほほ笑む。
 能に惹(ひ)かれたのは、自分にとって自然な流れだった。父はシテ方観世流の鵜澤雅(まさし)。謡の稽古の声を子守歌に育った。三歳で初舞台を踏み、十三歳で初シテ。父は稽古をつけてくれることもあったが「女なんかだめだ」と能楽師になることに反対し続けた。それでも「逆境ほど力が湧いてくる人間なので」。小学五年の作文で「男になりたい。能楽師になりたいから」と書いた。中学生のころ、父が弟子の発表会に女性能楽師を呼び、黒紋付きで舞台に上がる女性を間近に見た。「いくら反対されたって、憧れないわけないですよ」
 東京芸大邦楽科に進み、大学院も出ると、当時能楽堂を立ち見でいっぱいに埋めていた能楽界の寵児(ちょうじ)、観世寿夫(ひさお)さん(一九二五〜七八年)に習うことを切望。寿夫さんのいる銕仙会に入りたいと、反対する父をかわして何度も会の稽古能を見に行った。あるときいきなり父に襟首をつかまれ、会の中心である観世銕之丞(てつのじょう)家の座敷に連れて行かれた。「こいつを今日から銕仙会に入れますから。ほら、あいさつしろ!」。うれしいよりも、急展開に驚くばかりだった。「そこまでやりたいなら、と父も思ったんじゃないかな」
 そのまま寿夫さんに面接され、かけられた言葉は「能は伝統の厳しい世界。入っても一生舞台に立てないと思いなさい。捨て石になる覚悟でやりなさい」。当時は寿夫さんに習いたい一心で、深く考えずに飛び込んだ。「後になってから、どうせ石ならただの石ころでは終わらない、金剛石(ダイヤモンド)になってやると思いました」
 年を重ねた今、感じるのは、自由な自分だ。「重力にそって力が下に落ちてきて、上の方が自由になったというか」。体に余計な力を入れずに気力を充実させられるようになった。二月の横浜能楽堂では即興的な現代音楽の演奏に全身で挑むほか、高い技術と精神性が必要な「老女物」の一曲「卒塔婆小町(そとわこまち)」を演じる。同じく能楽師として活躍する長女、光(ひかる)も舞囃子(まいばやし)で出演。「光は、私がやらなかった内弟子も経験し、多くの舞台に出ている」と頼もしげなまなざしを送る。根が男性社会であることはそう簡単には変わらないだろうと思うが「秩序を保って良い能をつくる、それだけ考えていればいい」。 

智恵子役の方がお嬢さんなのですね。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝おき上り食事、 夕方近く喀血、草野氏、関先生、大気先生 岡本先生くる

昭和31年(1956)3月29日の日記より 光太郎74歳

光太郎の命、あと4日です。

『智恵子抄』初版の版元・龍星閣さんの創業者・澤田伊四郎に関わる企画展が開催中です。企画展自体は光太郎と直接関わらないと思いますが、関連行事が気になります。

追記:光太郎智恵子コーナーもあるそうです。

龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―

期 日 : 2023年1月7日(土)~2月28日(火)
会 場 : 日比谷図書文化館 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 午前10~午後7時
休 館 : 1月16日(月) 2月20日(月)
料 金 : 無料

 現在千代田区が所蔵する「龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクション」は、元々区内にある出版社・龍星閣(りゅうせいかく)が収集した竹久 夢二に関する作品群です。龍星閣の澤田 伊四郎さんは、「埋もれたもの、独自なものを掘り出して世に送ること」を出版理念に掲げ、精力的に夢二の作品を収集し、作品集にまとめて次々と世に送り出しました。そうした澤田の取り組みが、一時下火となっていた夢二を復活させ、現在にもつながる夢二ブームを生み出しました。
 本展では、夢二ブーム再燃のきっかけを作った龍星閣の取り組みとともに、その原点となった龍星閣が築き上げた「竹久 夢二コレクション」を紹介します。コレクションの目玉である夢二の肉筆作品のほか、最初期の作品とされる「揺籃」や夢二の自伝的小説「出版」の挿絵原画なども公開予定です。また本コレクションの中から、「女性」「子ども」「植物」「船」の描かれた4つのモチーフをもとに、「大正ロマン」の象徴とされる夢二作品の面白さも紹介します。

関連講座

「龍星閣創業者 澤田 伊四郎:出版にかける情熱」
 日時:2月4日(土曜日)午後2時
 会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
 講師:安田隼人さん(秋田県小坂町立総合博物館郷土館)
 参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
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関連講座のうち、2月4日(土)開催のもの。澤田の出身地である秋田県小坂町の総合博物館郷土館さんの学芸員・安田隼人氏が講師を務められます。

平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈されました。『高村光太郎全集』に漏れていたものも含む光太郎から澤田宛の書簡、光太郎が贈った署名本などなど。それらを拝見するために、同館を二度訪れましたが、その際に大変お世話になりました。
東北レポートその1 秋田小坂。
東北レポートその2 青森十和田湖。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。

また、その後、岩手花巻の高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)、高村光太郎記念館さんを訪れた際、たまたま同氏も小坂町の一般の方々を引率なさって訪れられていたのにも遭遇しました。

講座の副題が「出版にかける情熱」ということですので、『智恵子抄』その他の光太郎著書についても触れられるのではないでしょうか。現物は無理としても、光太郎署名本の画像等、講座内で提示されるかも知れません。

実は申込期限が過ぎているのですが、まだ定員に達していない可能性、キャンセル等があることも考えられますので、ご紹介しておく次第です。

ちなみに企画展自体は、上記プレスリリースの通り、竹久夢二がメインです。光太郎関連は小坂町さんに寄贈されましたが、夢二関連は平成27年(2015)、千代田区さんに寄贈され、これまでも東京ステーションギャラリーさんなどで展示が為されています。

死蔵とならないようこうして機会を設けて展示する千代田区さんの姿勢にも、頭が下がりますね。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷 看護婦変る、 孟彦くる 新潮田中女史くる 原稿渡し 草野さんくる、 藤間節子さんくる


昭和31年(1956)3月28日の日記より 光太郎74歳

その死の5日前です。「孟彦」は実弟の藤岡孟彦、「藤間節子さん」は「智恵子抄」を舞踊化した人物。

原稿」は雑誌『新潮』に載った「アトリエにて」という連載の第10回にして最終回「焼失作品おぼえ書」です。当会の祖・草野心平の日記から。

高村さん新潮の原稿一枚書く。(アトリエにてを八枚書いてあつたが、一枚書き足す)ビツクリする。新潮社田中さんきたり原稿をもつてかへる。今日は可成り元気。NHKから来た果物を食べるといはれる。

しかし、いわゆる蠟燭の炎が消える前の一瞬の輝きだったようでした。

昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
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夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。

会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
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受付で出品目録を頂きました。
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思っていたより展示点数が多いので、驚きました。

まずは肖像彫刻群。
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武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。

続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
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ともに360°から鑑賞可能。

光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
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昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。

何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
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その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
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なかなか充実した展示でした。

昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。

彫刻家 高田博厚 没後35年記念し展示会 鎌倉

 日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家、高田博厚の没後35年を記念した展示会が、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市で開かれています。
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 高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
 鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
 このうち、代表作の「カテドラル」は、戦争の砲弾で傷ついたフランスの大聖堂を女性の胴体として表現した、高さおよそ55センチの彫刻作品です。
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 また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
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 訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
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 鎌倉市文化課の竹下歩実さんは、「高田作品を一堂に会して展示していますので、作品のポーズの違いなどさまざまな差異を楽しんでもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。

ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。

会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、

昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳

宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。

過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。

まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。

犬吠埼・老舗旅館 あす終了 明治7年創業 伊藤博文、島崎藤村も滞在

 創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
 同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
 同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
 コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。


続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。

ぎょうけい館 伊藤博文らも宿泊 149年の歴史に幕 銚子・犬吠埼、観光客減り

 銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
 北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
 同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
 旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
 市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
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3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。

光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。

光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。

以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。

光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
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宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。

ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
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写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。

智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。

暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。

ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。

さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、

昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳

「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。

昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。

千葉県佐倉市の志津図書館さん。毎月、佐倉市近隣エリアへの「マイクロツーリズム」と題し、館内の一角で近隣地域の歴史的スポット等をパネルや映像、関連図書等で紹介なさっています。

昨年10月が富里市七栄の「国登録有形文化財 旧岩崎邸末廣別邸」、11月で佐倉市下志津原と四街道市内に残る「旧軍施設の遺構」、12月には総武本線の駅でありながら秘境感漂う「JR南酒々井駅」を起点に、地酒・甲子正宗の醸造元である「飯沼本家」がそれぞれ紹介されました。

そして今月は「日本一短い鉄道 芝山鉄道「芝山千代田駅」を起点に、成田市三里塚記念公園」。

明治の初めから三里塚の地にあって、〝桜と馬の牧場〟として長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁「下総御料牧場」は、成田空港の建設に伴い昭和44年に栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
園内には、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、旧御料牧場事務所を模して建設した「三里塚御料牧場記念館」があり、御料牧場の歴史、皇室と御料牧場の関わりについての資料、御料牧場の畜産機材などが保存・展示されています。
また、各国の大公使を招待する園遊会場、皇族の宿舎として使用された「三里塚貴賓館」、大平洋戦争開戦時に、皇族〈東宮:現在の上皇〉の使用を想定して建設された「防空壕(御文庫)」があります。
広い敷地にはマロニエの並木道が続き、三里塚ゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。
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三里塚記念公園は、宮内庁の旧御料牧場があった場所に整備されています。そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。昭和52年(1977)には公園内に光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。

また、昨年には公園近くの三里塚コミュニティーセンターさんで、「春駒」の一節を冠した「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』」展も開催されました。

御料牧場だけあって、貴賓館や、戦時中にはやんごとなき方々のための防空壕も建設。そのあたりについても紹介されているとのこと。

こちらの展示、さらには三里塚公園さん自体も、ぜひ足をお運び下さい。

それにしても志津図書館さん、こうした地域の歴史をを掘り起こすミニ展示を毎月なさっているその姿勢には頭が下がります。全国の類似施設の方々、ご参考になさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后自由国民社の人くる、花巻温泉のこと談話筆記七枚位、


昭和31年(1956)2月15日の日記より 光太郎74歳

花巻温泉のこと」は、「ここで浮かれ台で泊る/花巻」の題で、4月発行の『旅行の手帖』第26号に掲載され、9月には『ポケット四季の温泉旅行』に転載されました。

「花巻温泉」といいつつ、花巻温泉さんだけでなく、鉛温泉さん、大沢温泉さん、台温泉さんなどにも触れ、かつて花巻郊外旧太田村に蟄居していた際にたびたび訪れた各温泉の魅力や思い出を、楽しげに語っています。

この手の談話筆記、光太郎生涯最後のものとなりました。

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