カテゴリ: 東北以外

昨日は隣町にあります千葉県立東部図書館さん主催の文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」で、講師を務めさせていただきました。レポートいたします。
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館内に入って直ぐ左、以前にもご紹介しましたが、光太郎コーナーを作って下さっています(今月いっぱい)。
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会場は3階研修室。定員30名ということで募集をかけ、集まらないんじゃないかと危惧していましたが、杞憂でした。地元の方々はもちろん、遠くは柏市や茨城県土浦市の方もいらしてくださいました。ありがたし。

約2時間与えられましたので、前半50分程は予備知識的に光太郎智恵子の生涯のアウトラインを、休憩を挟み後半50分程でメインとも云うべき光太郎智恵子と房総との関わりを、それぞれ紹介させていただきました。

スライドショー画面を何枚か。
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まずは大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼。二人が泊まった暁鶏館(後、ぎょうけい館)の廃業の件、詩「犬吠の太郎」の話他。続いて、大正12年(1923)に光太郎の親友・水野葉舟が移り住み、光太郎も何度か訪れた成田三里塚、そして昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養生活を送った九十九里。この3箇所については詳しく取り上げました。

その他、館山にも二人の足跡が残っていること、千葉市の千葉県立美術館さんには光太郎ブロンズが8点収蔵されていること、市川の中山法華経寺さんには光雲原型の日蓮上人銅像が据えられていることなどなど。

やはり地元の話題ですので、皆さん、熱心に聴かれ、非常に有り難く存じました。終了後の質問もかなり出ましたし。

今回も取り上げた、九十九里で智恵子が暮らしていた家屋、田村別荘の間取り等も詳細に研究なさった千葉県職員の安藤仁隆氏もいらしてくださいましたし、お名前だけは存じていた意外な方もいらっしゃり、驚きました。一昨年になりますが、茨城県取手市のたまたま入った蕎麦屋さんで見た地元紙『茨城新聞』さんの投稿俳句欄に光太郎を呼んだ句が掲載されていまして、このブログでご紹介させていただきました。その句を詠まれた方がお見えで(先述の茨城土浦からの方)、しかも2年前のブログの記事も御覧になっていたとのこと。驚きました。

この方、『茨城新聞』さん投稿俳句欄入選のご常連で、他にも光太郎智恵子がらみの句が何度も掲載されているそうで、わざわざそのコピーも御持参下さいました。多謝。
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こういうこともあるのですね。

だいたい月に一度、こうした市民講座や講演の講師を仰せつかっている感じです。来月は福島県川内村、再来月は宮城県女川町。秋以降、花巻でもありそうです。交通費程度を支弁していただければどちらにでも参りますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

槐多は私も好きでした、殊に居なくなつてから思ひ出すとその生命をはつきり感じます、彼は消えません。


大正14年(1925)9月3日 八束清宛書簡より 光太郎43歳

「槐多」は村山槐多、光太郎を慕っていた画家です。大正8年(1919)、猛威をふるっていたスペイン風邪のため、数え24歳の若さで没しました。

光太郎には詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文(大正9年=1920)などがあり、槐多には光太郎が高く評価した画家という評がついてまわっていますが、この他には槐多に触れたものは実は多くなく、書簡でも確認できているものはこれ一通のみです。

三重県の紀北民俗研究会さん発行の雑誌『奥熊野の民俗』第16号。

『毎日新聞』さんの三重版で紹介されており、その中で光太郎の名が出ていました。ネットで記事全文が読めない状況でして、「紀北町の元学校職員で、趣味でカメラや俳句に親しんだ故東正佳さんが72年ごろ発行した句集に、詩人で彫刻家の高村光太郎と47年に交わした往復書簡が ...」とのこと。

『高村光太郎全集』には「東正佳」の名は出て来ません。ただ、三重県在住で「東正巳」という人物は、日記の巻に名がある他、書簡を収めた第21巻に「東正巳」宛て書簡が29通(昭和18年=1943~昭和26年=1951のもの)収録されています。三重で同人誌的な雑誌と思われる『海原』を発行し、自身でも詩歌の創作をしていた人物のようでした。そこで「東正佳」じゃなくて「東正巳」の間違いなんじゃないの? またはよく似た名前の別人? などと思いつつ、取り寄せました。

『毎日新聞』さんの記事は読めませんでしたが、『紀北町ニュース』の記事が読めまして、そちらに入用の際の連絡先が載っていました。こちらには光太郎の名は出て来ませんでしたが。

「奥熊野の民俗16号」発刊

 東紀州地域の元教員らでつくる紀北民俗研究会(田中稔昭会長)は、12年ぶりに機関誌「奥熊野(おくまの)の民俗16号」をこのほど発刊した。B5判98㌻。
 今回は17人が地域の歴史や文化、随想、民話などを寄稿。150部を作製し、会員や執筆者、県内外の図書館などに配分し、残り約70部を希望者に実費(700円+送料250円)で販売している。
 同研究会は、元紀北町教育長の故小倉肇氏が創設し、年1回発刊していたが、2010年から12月の15号から中断していた。
 購入申し込みは同研究会事務局の海山郷土資料館(紀北町中里 ☎0597-36-1948)で受け付けている。

で、届いたのがこちら。フライヤー的なものも同封されていました。
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頁を繰ってみると、「詩人 東正佳さんを知る」という記事がありました。太田豊治氏という元中学校の校長先生のご執筆です。

早速、拝読。1ページめで疑問が氷解しました。「東正佳」はペンネーム、本名が「東正巳」だというのです。さらに本業は公立学校の事務職員だったそうで、それも存じませんでした。

その他、東の人となり、業績等がいろいろ紹介されていました。中央の雑誌や新聞に句歌を投稿し、たびたび入選していたこと、単独で自身の句歌集も出版したこと、カメラも趣味で『アサヒグラフ』に写真が掲載されたことなど。

そして、光太郎との交流についても。

これまでに見つかっている光太郎から東宛の書簡では、東へ花巻郊外旧太田村の山小屋にクマゼミを送ってくれるよう依頼していたり、それ以外にも東から生活物資、書籍などが送られていたりといったことは分かっていました。特に興味深かったのは、「ヤギ」という珊瑚の一種を東から贈られ、それを使って蟬を彫ろうとしていたという書簡。ただし、その蟬の現物は確認できていません。

太田氏の玉稿を拝読し、驚いたのは、東の句歌集『海虹集』に光太郎からの書簡が三通転載されていたというくだり。そのうち一通は『高村光太郎全集』未収録で、全集完結後に後見つけた4通とも異なり、当方も未知のものでした。昭和22年(1947)11月23日付けだそうで。

『フランス放浪記』をまだ繙読中のところ、ワグナルの『ベートーベン』をお送り下され何とも忝く存じます。此の冬籠中のよい読書となります。今度書きおくられた貴下の俳句甚だ秀逸のやうに存ぜられ、三誦いたします。小生元気、大根の穴埋めなどいそがしくやつて居ます。御礼まで

『フランス放浪記』は松尾邦之助著、鱒書房から、『ベートーベン』はリヒャルト・ワーグナー著、谷友幸訳で養徳社より、それぞれこの年に刊行された書籍で、確かに光太郎の山小屋に残っていました。

未知の書簡が掲載されているのは、冷静に考えればあり得る話です。光太郎から東宛の書簡、散逸してしまっていますので。『高村光太郎全集』掲載のもののうち、東が発行していた『海原』に載ったものからの転載が9通、それを含め、平成21年(2009)には21通がまとめて市場に出ました。
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令和3年(2021)には、おそらくそのまま明治古典会七夕古書大入札会2021に出品。
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その際にはどうやら業者さんが買い取ったようで、その業者さんはネットオークションで1通ずつ小出しにして分売。

まぁ、内容さえ分かっていれば、売れてしまうのは仕方がないと思っております。怖いのは、未知のものがわけのわからない人に買われて結局死蔵になってしまうことですが。

太田氏の玉稿に依れば、東は生涯独身。現在、住んでいた家は草深い空き家となり、表札の字はかすかに読み取れる、という状況だそうです。

東の句歌集『海虹集』。国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、昭和47年(1972)の刊行でした。そのものは見つかりませんでしたが、『紀伊長島町史』という書籍に書影が掲載されていました。

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こういう形で光太郎の未知の書簡が見つかることも結構あり、今後もそれらの発見に努めます。

【折々のことば・光太郎】

だしぬけにあなたから「秋の瞳」といふ詩集をもらつたのはうれしかつた。丁度房州へゆく時なので、ふところへ入れて、方々歩きながら、海だの、林だの、旅舎の二階だのでよみました。あなたの心を細かに感じられたやうでうれしかつた。純粋な感情の吐息はどこにでも生きてゐて、詩と自分の感じとがぴつたりあふ時はうれしかつた。御礼まで。

大正14年(1925)8月28日 八木重吉宛書簡より 光太郎43歳

確認できている限り唯一の八木宛書簡です。

先程の新発見の東宛書簡からも感じられますが、光太郎、どうも活字中毒に近かったのではないかと思われます。当方もそうなので、わかるなぁ、という感じなのですが。

昨日は三越百貨店日本橋本店さんに行っておりました。主目的は、渡辺えりさんご出演の舞台「三婆」の拝見。
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特に光太郎智恵子らと関わる内容ではないのですが、渡辺さんからの「観に来なさい」圧が凄く、さらに、妻が「チケット取って!」。どうも当方と共にえりさんご出演のテレビ番組をいろいろ観ているうちに、あろうことか(笑)渡辺さんのファンになってしまったようです。

ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
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そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
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当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。

その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
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残念ながら通常非公開で、当方も現物は拝見したことがありません。

この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。

それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。

そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
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ところが、これ以前にも三越さんがらみの大黒天像が、光雲によって制作されていました。

先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
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『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。

生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。

三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
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恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。

「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。

ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。

箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。

ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。


大正14年(1925)1月28日 川西英雄宛書簡より 光太郎43歳

川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。

光太郎の父・光雲と、その師・東雲系の情報です。

まず、昨日の『北海道新聞』さんから。

小さな工芸美術館、乙部の街かどに 鋳金造形家が築130年の蔵に開設

【乙部】栄浜地区在住の鋳金造形家、中川真一郎さん(84)が10日、同地区の国道沿いに小さな私設美術館を開いた。自らの作品のほか15人の工芸作家の陶芸や彫刻、レリーフなどを紹介している。「街かどの小さな工藝(こうげい)美術館」と命名した。予約制だが「特に、子どもたちに見にきてほしい」と話している。
 約130年前に建てられた約20平方メートルの木造の蔵を、地元事業者の協力を受けながら手作業で2年がかりで改装した。現在は約40点の作品を展示しており、今後も未整理の作品を随時紹介していくという。「子どもたちにも分かる工芸美術館」をコンセプトとし、各作品に「子ども達へ」と題した解説文を添えている。
 美術館の入り口には地元の指物師による120年前の欄間を縦にして展示。中川さんの作品では日展で特選を受賞した「蝕」や、館浦温泉公園にあるモニュメントの原型になった鋳金作品、聖武天皇の法要で使われた風鐸(ふうたく)(鐘形の鈴)を再現した「風を待つ鎮鐸」などが目を引く。風鐸は実際に鳴らすことができ、解説にも「そっと触れて千年前の音を聞いてみて」と記した。また、後志管内黒松内町出身の工芸家、阿部憲司さんの複雑なやじろべえなども触って遊ぶことができる。
 明治期から昭和初期に活躍した彫刻家高村光雲のレリーフや昭和期の洋画家小磯良平の陶器の飾り皿など、貴重な作品も紹介している。中川さんは「大人と違い、子どもたちはみんな目を輝かせて工芸作品を見てくれる。多くの子どもたちにさまざまな作品に接してほしい」と話している。
 開館は土、日、祝日の午前10時~午後4時半で、事前予約が必要。予約、問い合わせは中川さん、電話0139・62・3783へ。
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この手のミニ美術館、なかなか運営していくのは大変とは存じますが、頑張っていただきたいものです。

続いて京都から、展覧会情報。先週始まりました。

超細密工芸

期 日 : 2023年6月10日(土)~9月3日(日)
会 場 : 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入三丁目337-1
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月・火曜日(但し、祝日は開館)
料 金 : 一般:1000円 大学・高校・中学生:600円 小学生:300円

 江戸から明治期の日本においては、金工、漆芸、彫刻といった手工芸の分野が技法的にも芸術的にも頂点に達した時代といわれています。戦のない泰平の江戸時代に大名や町人らが身の回りの調度品や刀装具などに趣向を凝らすようになったことで、多様で豪華な細工を施す職人たちが現れ、技術が発展していったのです。度重なる奢侈禁止令を潜り抜け、写実表現を取り入れた精緻なもの、更には原寸よりずっと小さく作られたミニチュア工芸といったものも制作され、人々の目を楽しませました。
 本展では、当館の所蔵品の中でもひときわ細密で精緻な作品の数々を展覧します。刀装具、印籠、根付やミニチュア作品など、極小の世界に施された超細密な技の数々をどうぞご高覧ください。
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主に明治期の「超絶技巧」系の作品を数多く所蔵されている清水三年坂美術館さん。光雲作品も多数お持ちで、昨年開催された「明治・大正時代の木彫」では、光雲作品を14点も出されました。

今回、出品目録に「高村東雲」の名。「十一面観音菩薩像」が出品されています。
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「高村東雲」を名乗った彫刻家は三人。初代東雲(文政9年=1829~明治12年=1879)は、光雲の師匠です。光雲は元々中島姓でしたが、徴兵遁れのため師匠の姉・悦の養子となり(最初期の徴兵制では長男は免除)、高村姓となりました。

初代の子息が二代東雲を名乗ったのですが、残念ながら大した腕ではなかったようです。

そしてさらにその子息が三代目。はじめ、「晴雲」と号していましたが、戦後、三代目を襲名しました。晴雲時代に光雲に師事し、こちらはなかなかの作を遺しています。

007今回出ている「十一面観音菩薩像」が何代目の作なのか不明ですが、通常、「東雲」と云えば初代を指します。しかし、厨子の制作者である伊藤銕石は明治後半から大正期にかけての木彫家で、初代とは時期的にずれています。ただ、厨子は後から作られて添えられた可能性もあり、何とも云えませんが……。

追記:清水三年坂美術館さんのツイッターに画像が出ました。初代の作、厨子は後からだそうです。

それから同館、一階では常設展示も為されており、そちらでは光雲の「法師狸」が展示中。こちらは平成26年(2014)から翌年にかけ、日本橋の三井記念美術館さん他を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」に出たもので、併せてご覧頂きたいところです。

さて、北海道乙部町・街かどの小さな工藝(こうげい)美術館さん、清水三年坂美術館さん、それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

いつぞやの木彫小品は詮衡の上、貴下にお送りするのは「蟬」と定めました。只今桐箱を造らせて居ります故、不日御送付いたし得る事と存じます。 蟬は小生の愛着深きもの、最初の入会者たる貴下にお送りするのを喜びます。

大正13年(1924)10月7日 平野源蔵宛書簡より 光太郎42歳

平野源蔵」は富山県八尾の呉服商。「最初の入会者」は光太郎が入会者を募って木彫を頒布する「木彫小品を頒つ会」。関東大震災後、ブロンズの胸像等は世の中がそれどころではなく、注文が途絶えましたが、ふと再開した木彫は世間からも受け入れられ、「蟬」をはじめ、「柘榴」「鯰」「白文鳥」などの優品が次々生み出されました。

平野に送られた「蟬」は、5点確認されている「蟬」のうち、「蟬 1」のナンバリングで登録されているもの。現存します。

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光太郎歿後の昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」(原節子さん、山村聰さん主演)では、この現物が映画の中で使われました。

東雲、光雲と続いてきた木彫の伝統、新しいエッセンスも加えながらしっかりと光太郎にも受け継がれていました。

光太郎智恵子ゆかりのお店ということで、当会主催の連翹忌の集いで使わせていただいている日比谷松本楼さん。今年が創立120周年だそうです。

以前に紹介したつもりでいたのですが、忘れていた件がありました。

日比谷松本楼120周年記念特別プラン

期 間 : 令和5年4月1日から令和6年3月31日
会 場 : 日比谷松本楼本店2F/3F 個室・宴会場
料 金 : おひとりさま ¥12,000(4名様より)

お祝いのお席・同窓会・同期会・OB会・ご卒業記念・社内懇親会などさまざまなお楽しみのお席に、今年で120周年を迎える松本楼のあゆみをお料理でご堪能いただける特別なプランをご用意いたしました。

MENU
 ジャルダン・ドゥ・レギューム 季節野菜の菜園風 5代目シェフ六川スタイル
 八丈島うみかぜ椎茸のポタージュカプチーノ仕立て
 松本楼初代出身地より 
  信州サーモンの温かいキッシュ 東京ビーフの生ハムとセップ茸のコンフィ
 夏目漱石 小説「野分」の牛フィレ肉のステーキ 松本楼伝統のデミグラスソースとともに
 〆のハイカラ カレーライス または ハヤシライス
 詩集「智恵子抄」より 光太郎と智恵子のアイスクリームサンデー
 ⻑崎県そのぎ茶のパン・まつもとロール
 珈琲
※ 食材の仕入れ状況などによりメニューの内容が変更になる場合があります。

★ 特典 ★
 1: 乾杯用スパークリングワイン付
 2: フリードリンク(2時間)追加おひとりさま ¥3,000
 3: お祝いのホールケーキを特別価格でご提供
 4: 松本楼のレトルト食品を特別価格でご提供
 5: 花束・卓上装花をフローリストよりご提案いたします。(別途料金)

ご利用案内
料金にはお料理・乾杯酒・お部屋代・サービス料・消費税が含まれています。
ご利用時間は2時間を基本として、延⻑は30分ごとにおひとりさま ¥1,500のご負担となります。

お電話でのお問い合わせ
tel 03-3503-1453(日比谷松本楼本店 宴会営業部)
受付時間 10:00~20:00
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新潮文庫版『智恵子抄』所収の詩「涙」(大正元年=1912)に登場する「氷菓」=アイスクリームサンデーをメニューに入れていただきました。ありがたし。

ついでにと云うと何ですが、テレビ放映情報も

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

BSテレ東 2023年6月17日(土) 23:30~00:00

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」

系列の地上波テレビ東京さん系で、6月3日(土)に放映された回です。

日比谷公園さん自体も120周年だそうで、園内のさまざまな施設等が紹介されました。その中で、松本楼さんも。

当時の東京市のコンセプトが、「三つの洋」を取り入れることだったそうで……
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一つ目は、西洋の花卉。同園、現在も色とりどりのお花でいっぱいですね。
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二つ目で、野音や日比谷公会堂などによる、洋楽の普及。
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そして三つ目が……
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そこで、松本楼さん。
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日露戦争後の日比谷焼き討ち事件などがありましたので、現在の建物は昭和48年(1973)竣工の3代目だそうです。勝手にもう少し新しいと思い込んでいましたが、実はもうちょうど50周年なのですね。意外でした。
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そして……
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「来た来たぁ、光太郎、出るかぁ」と思ったのですが……
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残念、漱石にしてやられました(笑)。
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松本楼さんとしても、コスパを考えれば氷菓よりフィレステーキを推してほしいでしょうし(笑)。このステーキも上記「120周年記念特別プラン」に入っていますね。

さて、番組をご覧の上、「120周年記念特別プラン」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻もお返却しようと思ひながら一日一日と見てゐるのでのびて、此も大変長くなりました。近くお返しいたします。


大正13年(1924)6月8日 木村荘五宛書簡より 光太郎42歳

「ロダンの彫刻」は、明治44年(1911)、ロダンから白樺同人一同に贈られた三点のうちのどれか、または全部と思われます。またはその後、武者小路実篤や安達峰一郎(外交官)らがロダン作品を入手しており、そのあたりかもしれません。
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同人中の誰よりもロダンを敬愛していた光太郎ですので、なかなか手放せなかったようです。さすがに借りパクはしなかったようですが(笑)。
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この葉書も当方手元にあります。

昨日、6月24日(土)に都内で開催される演奏会等をご紹介しましたが、同日、愛知県でも。

歌とピアノとヴァイオリン ~そよ風にのせて vol.17~

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 熱田文化小劇場 名古屋市熱田区神宮三丁目1番15号
時 間 : 14:00~
料 金 : <全自由席> 1,000円

出 演 : Sop. 加川文子 野瀬洋子 真野一技 山本みのり 兼子いのり
      Pf. 善利彩加 梶田奈津希 井上美帆 Vn. 加川由梨
曲 目 : 
【歌】朝岡真木子/組曲「智恵子抄」 高橋晴美/海よりも空よりも 小林秀雄/うつぎの花
   ヴェルディ/オペラ「ドン・カルロ」より エリザベッタのアリア“世の空しさを知る神”
   他
【ピアノ】ベートーヴェン/ピアノソナタ第31番 Op.110 第一楽章
     ドヴォルザーク/スラブ舞曲より(連弾)
【ヴァイオリン】ブラームス/ヴァイオリンソナタ第1番ト長調『雨の歌』作品78より第一楽章

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朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲、組曲「智恵子抄」がプログラムに入っています。

昨年、清水邦子氏の歌唱で全曲、それから同じく清水氏によって何度か抜粋でも演奏され(今年4月2日(日)の第67回連翹の集いでも)、さらに清水氏によってCD化(当方、ライナーノートを書かせていただきました)もされた作品です。

調べてみましたところ、今回同様、名古屋で一昨年に開催された「日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~」でも抜粋での演奏がありまして、出演者の方がその際と一部かぶっています。おそらく同じ方が歌われるのでは、と思われます。フライヤーを見た限りでは、全曲なのか抜粋なのか明記されていませんが、特に「より」「から」などの但し書きがないので全曲でしょうか。まぁ、全曲でも30分弱なので。

今後とも全国の演奏会でどんどん取り上げていただきたいところです。

さて、お近くの方(遠くの方もですが)、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日はわざわざ来て下さつたのに、昨夜徹宵したのと、今夜の夜警勤務の支度とのため、丁度寝たところで、とてもねむくてねむくて起きられなかったので、知りながら其のまま睡つてしまひ、失敬しました。


大正13年(1924)2月22日 龍田秀吉宛書簡より 光太郎42歳

夜警勤務」、おそらく前年9月の関東大震災に関わると思われます。同じ書簡の末尾には「今夜は此から明朝まで夜警小屋に出るのです」とあります。

都内から同日開催の演奏会系情報を2件。

まずは練馬、クラシック系です。

齊藤恵ソロコンサート にほんのうた

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 光が丘美術館 東京都練馬区田柄5-27-25
時 間 : 14:00~
料 金 : 一般3,000円 小学生以下1,000円

「にほんのうた」と題しまして、前半は童謡・唱歌に素敵な伴奏を付けたもの、後半は高村光太郎の詩に別宮貞雄が曲を付けた歌曲集「智恵子抄」を全曲歌います。
「智恵子抄」は数年前に抜粋で演奏したことがあり、いつか全曲をやりたいと思っていたものです。Ⅰ 人に Ⅱ 深夜の雪 Ⅲ 僕等 Ⅳ 晩餐 Ⅴ あどけない話 Ⅵ 人生遠視 Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子 Ⅷ 山麓の二人 Ⅸ レモン哀歌 の9曲から成り、光太郎の智恵子への愛が存分に感じられる曲集です。
「50歳を過ぎたら日本歌曲をしっかり勉強しよう」と思っていたのですが、その歳を過ぎても遅々として進まない状況ですが、今回思い切って企画しました。まだまだ拙い演奏ですが、ぜひご来場いただき、ご高評をいただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

出 演 : 齊藤恵(ソプラノ) 野入葉子(ピアノ)
曲 目 : 
 どこかで春が 百田宗治作詞 草川信作曲 伊藤康英編曲
 うみ~唱歌ファンタジー~
  われは海の子 文部省唱歌
  うみ 林柳波作詞 井上武士作曲 伊藤康英編曲
 村祭 文部省唱歌 伊藤康英編曲
 冬景色 文部省唱歌 伊藤康英編曲
 赤とんぼ 三木露風作詞 山田耕筰作曲 伊藤康英編曲
 あわて床屋 北原白秋作詞 山田耕筰作曲 伊藤康英編曲
 宵待草 竹久夢二作詞 多忠亮作曲 伊藤康英編曲
 歌曲集『智恵子抄』 高村光太郎作詞 別宮貞雄作曲
  Ⅰ 人に Ⅱ 深夜の雪 Ⅲ 僕等 Ⅳ 晩餐 Ⅴ あどけない話 Ⅵ 人生遠視
  Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子 Ⅷ 山麓の二人 Ⅸ レモン哀歌
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「智恵子抄」は数年前に抜粋で演奏したことがあり」というので調べてみましたところ、平成27年(2015)に、青山の草月ホールさんで開催された「日本の音楽展(XXXVII)」で、確かに4曲抜粋で歌われていました。今回ピアノを担当される野入さんという方も、同じ演奏会で別の曲の伴奏をなさっていました。

故・別宮貞雄氏の「智恵子抄」、テノールの紀野洋孝氏が積極的に取り上げられ、他にもぽつりぽつり色々な方が歌って下さっています。非常に抒情的かつ、日本語のフレーズを大切にした作曲です。

今回は美術館さんでコンサート。何とも優雅ですね。

もう1件。一転してジャズ系です。

ノスタルジックな世界

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 名曲喫茶ヴィオロン 東京都杉並区阿佐谷北2-9-5
時 間 : 19:00~
料 金 : 1,000円(1ドリンク付)

出 演 : MIHOE(朗読/歌) 藤澤由二(ピアノ)
      中山ふじ枝(クロマチック・ハーモニカ)

中原中也 寺山修司 智恵子抄 そしてオリジナル ノスタルジックな世界をJAZZ演奏と朗読で綴る小さな時間
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昨年8月にも同じ会場で、「智恵子抄」を扱って下さいました。それからツィッター投稿に「智恵子抄」の文字が無くて気づかなかったのですが、今年3月にも演(や)られていました。

継続して取り上げて下さるのは非常に有り難いところです。

それぞれ是非お伺いしたかったのですが(ハシゴも可能かな、と)、自分の市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」がまさにその日でして(ちなみにおかげさまで定員に達したそうです。多謝)、残念ながら欠礼致します。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。

大正12年(1923)10月23日 柳八重宛書簡より 光太郎41歳

「今度の災厄」は、関東大震災。柳八重は画家の柳敬助夫人。柳夫妻は明治末、智恵子を光太郎に紹介するのに一役買ってくれました。

敬助はこの年5月に急逝。その遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに具体的な作品名は不明ですが光太郎作品を含む、賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

昨日は都内に出ておりました。

まずはよく行く国立国会図書館さん。例によって調べものです。
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昨年12月の、同館デジタルデータリニューアルに伴い、閲覧できる件数が飛躍的に増え、自宅兼事務所のPCでも見られるデータからも続々、これまで知られていなかった光太郎文筆作品等を見つけ続けています。が、「館内限定」ということで、同館まで足を運ばないと見られないデータも多く、先月も調査に赴きましたが、今月も行って参りました。

その結果、書籍の短評、それからアンケート回答で『高村光太郎全集』未収録のものを発見しました。来年4月発行の雑誌『高村光太郎研究』内の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

ただ、昨日はその方面の調査より、別件の調べものがメインでした。雑誌『婦人之友』に関してです。同誌、今年で創刊120年を迎える我が国婦人雑誌の最古参の一つ。過日も新刊書店の店頭で立ち読みして参りましたが、森まゆみ氏らによる創刊120周年キャンペーン的な連載も為されています。

同誌、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が始めたもので、光太郎は明治期の創刊間もない頃から亡くなる直前まで、断続的に寄稿を続けました。雑誌としての光太郎寄稿数の多さはおそらく十指(ことによると五指)に入るのではと思われます。また、その数だけでなく、寄稿していた期間の長さも特異です。下記は当方作成の資料から。
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その羽仁夫妻が創設し、これまた健在、都下東久留米市の自由学園さんの出身で、『婦人之友』にも関係していた盛岡出身の吉田幾世。自由学園さんの精神を引き継ぐ新制の「向中野学園高校」を昭和23年(1948)に創立(前身は昭和8年=1933創立の私塾的な「盛岡友の会生活学校」)しました。こちらは「盛岡生活学校」「向中野学園高等学校」そして「盛岡スコーレ高等学校」と名を改め、やはり現在も続いています。

吉田は光太郎と交流があり、盛岡生活学校時代に、生徒たちを花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に引率していったりしましたし、光太郎も同校の卒業式に参列したり、カリキュラムについてさまざまなアドバイスをしたりしていました。そのため、同校には光太郎関連の書や写真等が残っているそうです。下の画像は昭和31年(1956)刊行の『日本文学アルバム高村光太郎』(筑摩書房)から。光太郎、ウハウハですね(笑)。
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そこで今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、花巻市の主催で吉田や盛岡生活学校と光太郎の交流をメインとした企画展示を行うとのこと。当方、そのための事前調査で、花巻市の職員の方々などと共に今月末に同校へ伺うことになりました。

そのため、『婦人之友』の調査です。同誌には光太郎の寄稿以外にも、吉田その他による複数の光太郎訪問記や、光太郎の消息の紹介などがたくさん載っており、それらは国会図書館さんまで行かないと閲覧できないため、足を運んだ次第です。ごっそりコピーを取ってきました。今後、精査し、今秋の展示に生かしたいと存じます。

調査終了後、同館最寄りの永田町駅から東京メトロ半蔵門線で2駅、表参道駅で下車。北青山に向かいました。絵画の個展の拝見です。
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描かれたのは加藤真夢さん。やはり光太郎や吉田と交流の深かった画家・深沢省三、紅子夫妻の令孫です。また、お父さまの竜一氏は光太郎の後輩で詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデル。お母さまのトシ様との新婚時代、現在の雫石町にお住まいで、昭和25年(1950)にはそちらに光太郎が逗留したこともありました。そして真夢さんご自身も自由学園さんの卒業生です。

会場はギャラリーコンセプト21さん。
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お隣は青山セントグレース大聖堂さん。
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ちょうど御夫妻で在廊なさっていて、いろいろお話をさせていただきました。御夫妻、それからお母さま、息子さんと、4名様で今年の第67回連翹忌の集いにご参加して下さいました。

油彩、水彩で花を描かれた作品が中心。
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その色彩の鮮やかさに眼を奪われました。

お祖父さま、お祖母さまが手がけられていたような、挿画等の作品の載った子供向けの書籍も展示されていました。
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001さらに真夢様、吉田幾世をよく御存じだそうで、驚きました。お祖父様が岩手大学に奉職なさっていた頃、さらに退官なさって上京、練馬に居を移されてからもたびたびお宅でお会いになったそうです。吉田の著書『忘れ得ぬ人々』には、深沢家を訪れたエピソードも書かれていましたので、考えてみれば不思議はないのですが。ちなみに同書には、光太郎の項も設けられています。

それから、先述の国会図書館での『婦人之友』調査で、お祖母様と吉田、さらに羽仁夫妻の令嬢・説子らによる座談会の記事「新しき農村工芸を語る」(昭和26年=1951)もコピーを取ってきました。この中で光太郎も話題に上がっています。

「そういうことでしたら、吉田の関係で公開するに差し支えのないものがお宅にありましたら、お貸しいただけますか」と、お願いして参りました。

というわけで、来月初めには盛岡での調査の報告も載せさせていただきます。ちなみに花巻高村光太郎記念さんでは、今秋の吉田がらみの展示以前に、光太郎が太田村で残したスケッチに関わる展示をされるそうです。来週末からと聞いていますがまだ詳細が発表されていません。わかりましたら改めてご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

そのうち自由学園の建物を拝見させて頂きにまゐりたいと思つております。


大正12年(1923)3月10日 龍田秀吉宛書簡より 光太郎41歳

龍田はこの当時の『婦人之友』編集長。のち三上姓となりますが、やはり戦後まで光太郎との交流が続きます。

「自由学園の建物」は、おそらくフランク・ロイド・ライト設計の「明日館(みょうにちかん)」と思われます。光太郎、建築にも造詣が深く、自身で建築設計も行っていました。
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先述の『婦人之友』記事中に、翌大正13年(1924)、羽仁もと子によるもので、光太郎が同校を訪れたことが記されているものもありました。

昨日、テレビ朝日さんで放映された5分間番組「東京サイト」を拝見しました。今週は「TOKYO霊園さんぽ」ということで、昨日放映分は光雲、光太郎智恵子らが眠る染井霊園。
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東京都さんがスポンサーというか、都としてのお知らせなどを扱う番組で、関東圏しか放映がありませんが、放映終了回は一定期間、一部を除いて公式サイトで動画として公開されています。

まずは染井霊園の概要。開園は明治7年(1874)、園内にはソメイヨシノの古木が約100本だそうです。二葉亭四迷もここに眠っています。
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そしてわれらが光雲光太郎。
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「髙村」と「高村」をきちんと書き分けていて、感心しました。その点の詳細はこちら
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お参りに訪れる人が多いとのことで、有り難く存じます。
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その後、都からのお知らせということで、今年度の申し込み受付等。「分譲」というと語弊があるでしょうか。
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わずか半坪ほどで250万円超、それでも昨年は5倍近い倍率だったそうで……。

とても無理、という方などには、納骨堂的な……。
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しかしこれでも60万円オーバー。
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さらに倍率は一般の墓所より高く……。
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都民の皆さんには格段驚くことでもないのかもしれませんが、田舎者には「ひょえー!!!!」というか「じぇじぇじぇ!!!!」というか(笑)。

何はともあれ、オンラインでの動画、ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一般楽壇の事もさる事ながら、 たちのよい、小ぢんまりしたcafé-concertが欲しいと思ひます。 さういふものは今日まだ経営がむつかしいでせうか。

大正11年(1922)11月28日 吉村幸夫宛書簡より 光太郎40歳
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宛先の吉村幸夫の住所が「誠之堂編輯部」となっており、おそらく何らかの雑誌へのアンケート回答と思われますが、掲載誌等不明です。

café-concert」はカフェ・コンセール。フランスなどのワンドリンクで歌やショーを見せる店です。たしかに当時の日本には無かったようですね。

この葉書、当方手持ちのものです。

手前味噌で恐縮ですが……。

文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料

日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。 本講座では、光太郎と妻・智恵子の波乱に満ちた生涯に触れ、二人が訪れた銚子・犬吠埼、成田・三里塚、九十九里浜を資料とともに辿ります。(聴講無料)  チラシはこちら(PDF:1.5MB)

講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定 員 : 30名
募集方法 
 6月1日(木)より、電話・FAX・E-mail・来館にて先着順に受け付けます。

※手話通訳や車いす等の配慮が必要な方は、6月10日までにお申し出ください。なお、ご希望に沿えない場合もありますので、あらかじめご承知おきください。

問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課
〒289-2521 旭市ハの349 TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466
E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp

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若干先の話ですが、どうもあまり応募が多くなさそうなので……。

案内文にあるように、光太郎智恵子と房総各地の関わり――二人が愛を確かめ合った銚子犬吠埼、光太郎親友の水野葉舟が移り住み光太郎もたびたび訪れた成田市三里塚、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里浜など――について、語らせていただきます。

ちなみに東部図書館さん、住所は「旭市ハ」ですが「はち」ではありません。カタカナの「ハ」です。カーナビ等使われる方、御注意下さい。千葉県では住所に「イロハ」が用いられるケースが少なくありません。当方自宅兼事務所のある香取市(東部図書館さんのある旭市の隣町)にも「佐原イ」から「佐原ホ」が存在します。現在住んでいる場所は別ですが、生まれは「佐原ロ」。「さわらぐち」ではありません。「さわら・ろ」です(笑)。このように「地区名」+「イロハ」が多いのですが、旭市は地区名そのものが「イロハ」。千葉県立旭農業高校さん(昔、親戚が勤務していました)の住所は「千葉県旭市ロ1番地」。これが不動産登記簿に登記されている日本で最短の地名だそうです(笑)。

閑話休題、お近くの方(首都圏からですとけっこうな距離なので、お薦めするのが心苦しいところです(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

新潮社からの刺繍の名はまだきめてありません。多分「猛獣篇」かと思ひます。期日もわかりませんが十一月頃でせうか。


大正11年(1922)6月25日
 野田守雄宛書簡より
 光太郎40歳

猛獣篇」の連作詩は2年後の大正13年(1924)から書かれ始めます。さまざまな動物や架空の生き物に仮託して、自己の荒ぶる魂を謳うものです。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども含まれています。まだ具体的な詩篇が書かれていないうちに、新潮社から出版の話があったようです。しかし、結局、「猛獣篇」としての単独出版は光太郎生前には実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

対面式およびオンラインでの講座です。

憧れ本読書会 #29 高村光太郎『智恵子抄』

期 日 : 2023年6月17日(土)
会 場 : 三鷹古典サロン裕泉堂 東京都武蔵野市御殿山2丁目21−9
      オンライン会議アプリzoomによるリモート参加
時 間 : 10:30~12:30
料 金 : 800円

「いつかは読んでみたかったあの本に挑戦してみよう!」という趣旨の読書会の29回目です(単発参加も可)。年度当初の3か月は詩歌を読む三ヶ月です(4月山頭火、5月啄木『一握の砂』、6月光太郎『智恵子抄』)。続けて参加するもよし、興味のある回だけで出るもよし、一緒に楽しんで行けたら嬉しいです。

この6月に取り上げるのは、高村光太郎が夭折の妻をうたった『智恵子抄』です。印象に残った作品に目印などを付けてきていただき、感想などをシェアし合い、読みを広げたり深めたりできればと思います。
 ※どの版でも構いません。
 (例)・智恵子抄 (新潮文庫) ・高村光太郎詩集 (岩波文庫)  など
 ※青空文庫(WEB・無料)で読むことも可能です。
  https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html

正しく読む、深く読む、といったことは考えなくとも構いません。お一人お一人がそれぞれのやり方で、その本と出合う経験を大切にしたいと思います。「読書会がある!」となると、「〆切効果」が生じますので、この読書会が、前々から憧れていた本を実際に読んでみよう、という機会となれば幸いです。

当日のファシリテーターは、国語講師で『10分読書』(集英社)著者の吉田裕子(よしだゆうこ)です。

ご参加いただくにあたっての条件(偉そうでスミマセン……)は以下の通り。
①参加条件を整えられること
 (特にオンライン参加の場合、zoomでの参加が技術的に可能であること。
  (ハンドルネーム等での参加可、発言参加は必須、顔出しはできれば))
②当日までにその本を読み終えること
  (どの出版社の、どの版で読んでいただいても構いません。電子書籍や青空文庫でも可)
③3つの質問に答えを用意すること
です。

ぜひご参加お待ちしております。

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ご参加の皆様に3つの質問(当日の話のネタに使います)
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①参加したきっかけ、この本を読んでみようと思ったきっかけは?
②印象に残った部分は?
③よく分からなかった部分は?
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講師の吉田裕子氏、平成25年(2013)にも「”大人向け古典講座” 朗読 耳から味わう日本文学の傑作」という講座で智恵子抄を扱って下さっています。多謝。

以前も書きましたが、会場での対面式、ZOOMによるオンライン、双方が用意されるというのは、元はコロナ禍によって広まったといえる慣習ですが、今後、さらに拡大していってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

ゴツホの写真を長らく拝借して居てすみません。あまり立派な写真だつたのでとうと印刷所へ廻しかねてしまひました。「回想のゴツホ」が出来ました故別封で一冊お贈りいたしました。


大正10年(1921)中川一政宛書簡より 光太郎39歳

『回想のゴツホ』は、叢文閣から出版された光太郎の訳書。原著はフィンセントの妹、エリザベット・ゴッホによるフィンセントの評伝です。

当方手持ちのものはカバー欠の裸本(左下)。この書籍、カバー付きで市場に出ることがめったにありません。カバーは光太郎自身の装幀、題字です(右下)。
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同書にはゴッホ油絵の図版はたくさん載っていますが、確かにゴッホ肖像写真はありません。光太郎、やっちゃった感がありますね(笑)。「やっちゃった」といえば、光太郎、癖なのか何なのか、この書簡でもそうですが「とうとう」と書くべきところを「とうと」とする例が複数見受けられます。

兵庫県から演劇公演情報です。

武庫川KCスタジオ オープニングプログラム EVKK6月公演『売り言葉』

期 日 : 2023年6月16日(金)~6月18日(日)
会 場 : 武庫川KCスタジオ 兵庫県尼崎市大庄西町2丁目2−24
時 間 : 6月16日(金) 20:00~[A]
      6月17日(土) 12:00~[B](アフタートーク) 16:00~[A] 20:00~[B]
      6月18日(日) 12:00~[A](アフタートーク) 16:00~[B]
料 金 : 前売 3,000円 当日 3,500円
出 演 : 新まおり [A] 中谷桜 [B] 澤井里依(EVKK) [A][B]
      アフタートークゲスト 三名刺繡(劇団レトルト内閣の作・演出家)

2017年に大阪、2019年に東京、三度目の『売り言葉』を、兵庫・武庫川にオープンした「武庫川KCスタジオ」で上演します。よくいえば芸術的、はっきりいえばよく分からない、といわれるEVKKですが、過去2回の上演ではたくさんの方にご好評をいただきました。本作は、女優の実力が試されるとともに、魅力を最大限に発揮できる作品であり、これに新まおりと中谷桜が初挑戦します。新しい劇場・新しい女優、それに応じた新演出にもご期待ください。

【あらすじ】
高村光太郎の妻・智恵子の物語。裕福な家庭に生まれた彼女は、東京で高村光太郎と出会い、結婚。才気煥発な智恵子だったが、ふたりの関係は少しずつ変わってゆく。光太郎が芸術家として前進する一方、自分の絵は認められることはなかった。更に裕福だった実家も破産。『智恵子抄』に描かれた「あなた」であらんとするため、必死でもがく智恵子、ついに彼女は、精神に破綻をきたしてしまう……。――本当に、私はこんなにも綺麗に死ぬことが出来るのかしら。
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平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主演・大竹しのぶさんで、南青山スパイラルホールさんを会場に初演された、登場人物は智恵子のみの一人芝居「売り言葉」。平成15年(2003)、野田氏の脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後、さまざまな団体/個人が上演なさっています。

今回のEVKKさんも、平成29年(2017)令和元年(2019)に続く3回目の公演です。過去2回は、野田氏の脚本通りの一人芝居バージョンと、二人芝居バージョンを混在させていましたが、今回はどういう演出なのか、という感じです。澤井里依さんという方は、過去2回の公演にもご出演、新まおり さん、中谷桜さんは公募で選ばれた方のようです。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

口絵には自作の彫刻をペン画に写し候故 此を網目版にして入れたく存居候。 このペン画は後に貴下に献上いたす筈に御座候。表紙の題字は与謝野先生にお願ひいたし、箱の背の文字だけは小生が書き申候。


大正9年(1920)11月18日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎38歳

『明星』同人だった佐渡島在住の渡辺湖畔の歌集『若き日の祈祷』に関してです。光太郎が装幀・装画を担当し、それについて述べています。
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装画のモチーフはブロンズ彫刻「裸婦坐像」。「手」とともにある程度の自信作だったようです。
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関東圏限定の5分間番組です。

東京サイト「染井霊園」

地上波テレビ朝日 2023年6月8日(木) 13:45〜13:49

今後ますますの進化が期待される日本の首都・東京。この世界屈指の巨大都市の知られざる魅力を発見し、暮らしに役立つ最新情報をお届けします。

ソメイヨシノの古木が100本ほどあり、歴史を感じさせる「都立染井霊園」は1874年に開園。明治期の小説家・二葉亭四迷や、彫刻家・髙村光雲と息子の光太郎も眠っています。

ナビゲーター 林家きく姫
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都立染井霊園が取り上げられ、髙村家の墓所がある、という番組説明ですから、動画が流れるのでしょう。意外とテレビで髙村家の墓所が写される機会はありません。

今回の放映に関し、「たかむら」の「たか」をいわゆる「はしごだか」の「髙」で表記しているサイトと、一般的な「高」で表記しているサイトが混在しています。墓石に「髙村氏」と刻まれており、制作サイドで現当主にして光太郎実弟令孫の達氏あたりに確認したところ、「うちは確かに『髙村』だ」という回答で、ではそうしよう、ということのような気がします。

下の画像は平成17年(2005)10月発行の雑誌『散歩の達人』から。
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以前にも書きましたが、元々髙村家は、達氏曰く、昔から慣習として「髙」を使っているとのこと。しかし、おそらく明治期、戸籍の登録の際に、光雲が弟子の誰だかを手続きに行かせたところ、「高村」と書いてしまったので戸籍上は「高村」となったと伝わっているそうです。このあたり、5月26日(金)にNHKさんで放映された「チコちゃんに叱られる」で、「なぜ“さいとう”にはいろいろな漢字がある?」というコーナーがあり、明治期の戸籍登録の際にいろいろあった申請の通り(中にはむちゃくちゃな字も)受け付けてしまったため……という話で、似たような事例だな、と思いました。

ちなみに「髙」を「高」の「旧字体」と思い込んでいる方が多くいらっしゃいますが、誤りです。「髙」は「俗字」。手書きの場合等に慣習的に用いられてきたものの、正格な字体ではないものです。左下は当方が常用している漢和中辞典から。
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また、光太郎は幼少期には「髙村」と書いていたものの(右上画像参照)、長じてからは「戸籍が『高村』ならそう書くべきだろう」と、「髙」を使わなくなったとも聞いたとのこと。光太郎にしてみれば、自分は家督相続を放棄した分家だから、というのもあるかもしれません。「豊周が嗣いだ本家は「髙村」と名乗れ、俺は分家で「高村」とする」というわけでしょう。

ところが「髙」の字は先述の通り俗字の扱いで、活版印刷の頃は活字がほとんど存在しなかったようです。そこで、生前の豊周の著書等はほぼ「高村」、パソコン等が普及してきて、「髙」が使えるようになると「髙村」となってきた感があります。豊周子息の故・規氏も、かつては出版社等から「うちでは『髙』の字は出せない」と言われていたのでしょうが、後年になってそれが可能になると、「髙村」で通すようになりました。
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1990年代頃がその境だったようで、右上画像は平成4年(1992)、下画像は平成7年(1995)のものです。
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それぞれの家や個人でこだわりもありましょうし、いろいろ難しいところですね。

さて、「東京サイト」、ぜひご覧下さい。ちなみに同番組、月から金の平日5日間の放映で、明日からのラインナップは「TOKYO霊園さんぽ」だそうです。染井霊園以外の詳細は以下の通りです。
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6月5日(月) 青山霊園 
6月15日〜7月3日に使用者の募集を行う8カ所の都立霊園のひとつ、「都立青山霊園」をご紹介。忠犬ハチ公の碑がある農学者・上野英三郎のお墓には多くの外国人も訪れます。

6月6日(火) 雑司ヶ谷霊園
木々に囲まれ自然豊かな「雑司ケ谷霊園」は明治時代の1874年開園。文豪・夏目漱石のお墓は安楽椅子を模したといわれる墓石が特徴です。小説家・永井荷風のお墓もあります。

6月7日(水) 八王子霊園
山に囲まれる自然景観を生かし、全て芝生墓地の「都立八王子霊園」には大正から昭和期に活躍した小説家・若杉鳥子や、1973年に直木賞を受賞した藤沢周平も眠っています。

6月9日(金) 八柱霊園
都内の墓地不足に対応する郊外墓地として、1935年に千葉県松戸市に開園した「八柱霊園」。昭和を代表する写真家・土門拳や講道館柔道の創始者・嘉納治五郎も眠っています。


関東圏以外では放映がありませんが、放映終了後、公式サイトで動画として公開されるはずです。ただ、大人の事情で公開されない回(4月27日(木)放映の「重要文化財の秘密」がそうでした)もありますが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は小生十数年来の親友リーチ君が英国へ出発いたし 横浜埠頭にて彼と別れてより 雨にうたれて帰り来り、椅子にもたれて終日憂愁にとざされ居り候 生きながら友と遠く別るるより悲しきは無之候


大正9年(1920)6月29日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎38歳

「リーチ君」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末の英国留学中に知り合い、それが縁で来日しましたが、故国イギリスに窯を作り、英国伝統の陶芸と日本のそれを融合させるため、やはり陶芸家の濱田庄司を伴って帰国しました。ただ、その後も何度か来日し、光太郎と旧交を温めています。

大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。

テレビ放映情報、2件です。

じゅん散歩 「千駄木」

地上波テレビ朝日 2023年5月30日(火) 09:55~10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)”をテーマに自由気ままに街を歩きます!

三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

【出演】高田純次  【通販コーナー】新山千春、愛華みれ

◇音楽
◆テーマ曲:斉藤和義 『純風』  ◆エンディング曲:アルステイク 『わんちゃん』
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「千駄木」ということで、光太郎自宅兼アトリエのあった、旧本郷区駒込林町です。光太郎自宅兼アトリエのあった保健所通りも歩かれ、光太郎自宅兼アトリエ跡も紹介されるようです。というのも、1ヶ月以上前ですが、廻り巡ってテレ朝さんだか制作会社さんだかから、光太郎自宅兼アトリエの古写真画像を使いたいが、どうすれば……という問い合わせがありまして……。

こういう場合に使える写真を所蔵していらっしゃる、尾崎喜八関係の方をご紹介したのですが、その後、連絡が取れたのかどうか等は不明ですが。

また、番組説明にある「文人ゆかりの街の老舗せんべい店」は、団子坂下の菊見せんべいさんですね。光太郎、実家の駒込林町155番地から東京美術学校に通学していた頃の思い出として、「私の青銅時代」(昭和29年=1954)という散文で、菊見せんべいさんについて記述しています。

 塩せんべい屋は店先でせんべいを押し、刷毛で醤油を付けながら焼く。そこの娘がちゃんとしたきりっとした娘で、子供の時から店に出ていて私も知っていたが、美術学校に行く途中でその煎餅屋の前に来ると、私は顔が赤くなる。それが自分で分かる。何故か分からぬがそうなる。はじめは気がつかなかったけれど、毎日毎日そうなるので何だか恥ずかしくなってきた。店の処まで歩いてくると胸がどきどきして顔がほてって困った。しまいにはどうしてもその通りが通れなくなった。だから根津の方を遠回りして学校に行ったけれども、後で考えると、その娘に思し召しがあって、娘の顔を見ると顔がほてったのだと知った。むこうでも真っ赤になっていた。あれがむかしの純情な子供の気持ちなんだろう。

「思し召しがあって」というのは、「何か気になるところがあって」といった意味でしょう。何とも微笑ましい、光太郎初恋の思い出です。問題の娘さんは、先代の奥様のいとこだったそうで、たまたま偶然なのですが「智恵子」という名前だったそうです。

「菊見」は、かつて団子坂で菊人形が催されていたことに由来するのでしょう。下は当方手持ちの古写真です。
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夏目漱石の「三四郎」などにも描かれています。そのあたりも紹介されるのかどうか、というところですね。

ちなみにこの番組、5月22日(月)と23日(火)の2回にわたり、渡辺えりさんがゲスト出演なさり、高田さんとご一緒に池袋を歩かれていまして、23日放映分では、えりさん、光太郎の名も出して下さいました。ありがとうございました。
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編集の関係か、今一つ脈絡が分かりにくかったと思うのですが、えりさんが高校を卒業されて上京なさった際、お母さまが買って下さった強力な目覚まし時計を、光太郎と交流のあったお父さまが、昭和61年(1986)4月2日、パリのカフェで開かれた第30回連翹忌の集いにご参加の際、フランスまで持って行かれた、というお話です。

「じゅん散歩」、明日以降のラインナップは以下の通り。

5月29日(月) 三代目散歩人・高田純次が「田端」を散策▽4年ぶりの再会…パン職人が絵本作家に▽山手線&新幹線が一望できる絶景鉄道カフェ▽形も音も様々!自転車ベルの世界

5月30日(火) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

5月31日(水) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽北島康介や寺川綾が学んだ名門スイミングセンター▽マスターズ日本記録を10個もつ女性スイマー▽生徒も作る!製菓学校のケーキ店

6月1日(木) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽看板ネコが鎮座!呉服店のアイデア小物入れ▽蒸して焼いて揚げて…変わり種シュウマイ▽中国にも無い「水シュウマイ」とは?

6月2日(金) 三代目散歩人・高田純次が「西日暮里」を散策▽紅茶専門店で味わう世界三大銘茶▽アートな壁画が目印!街の名物酒店▽線路沿いで発見!壁を登る人々


高田さん、千駄木とその周辺を歩き回られるようです。

もう1件。

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

地上波テレビ東京 2023年6月3日(土) 22:00~22:30

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」
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かつて光太郎智恵子が「氷菓」を食し、また光太郎も中心メンバーの一人だった芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われ、そして現代、光太郎偲ぶ連翹忌の集い会場とさせていただいてる日比谷松本楼さんも取り上げられます。
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現在の松本楼さんの建物自体は新しいものですが、かつての姿など、古写真等で紹介されるのでしょう。また、日比谷公会堂も光太郎所縁の建物。戦後には各種コンサートに何度も足を運びましたし、戦時中には光太郎が詩部会長を務めた日本文学報国会の発会式も行われました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先週十四日は誕生日だつたので 心ばかりの野の花を写真に供へて其日を祝福しました。

大正8年(1919)11月17日 一志茂樹宛書簡より 光太郎37歳

「誕生日」はロダンの誕生日です。ただ、正確にはロダンの誕生日は11月12日、14日は洗礼の日です。ロダンは前年に没し、光太郎は翌年には叢文閣から『続ロダンの言葉』を上梓、そういった時期ですので、感慨一入だったようです。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

兵庫県から演奏会の案内です。

初夏にうたう ~日本歌曲の夕べ~

期 日 : 2023年6月3日(土)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 14:00~
料 金 : 全席自由 2,500円

出演(50音順)・主な曲目
 歌唱
  新井俊稀  あどけない話(野村朗「智恵子抄」より)
  石津雅恵  思い出すために(信長貴富)
  門林裕佳子 しあわせよカタツムリにのって(信長貴富)
  喜多美幸  はっか草(千原英喜)
  鈴木萌   六月の歌(前田佳世子)
  辰田由紀子 はなやぐ朝(中田喜直)
  長太優子  赤いかんざし(貴志康一)
  速海ちひろ すずらんの祭(高田三郎)
  藤井友子  サルビア(中田喜直)
  藤島一子  夢みたものは……(木下牧子)
  松浦優   花の春告鳥(小林秀雄)
  吉村ひろ子 澄月集(山田耕筰)
 ピアノ 
  石田瑞枝 前川裕介

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名古屋ご在住の野村朗氏が作曲された「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」から、第2曲「あどけない話」がプログラムに入っています。

歌唱担当は新井俊稀氏。平成29年(2017)には「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」全曲を含むCD「日本の抒情歌 赤い花 白い花」をリリースされていますし、同じ年にドイツのハイデルベルグで同曲のコンサート「liederabend mit schauspiel 智恵子抄 Für CHIEKO」もなさった方です。他に都内でも

その他、個人的には自分が以前に合唱で歌ったことのある信長貴富氏作曲「思い出すために」(寺山修司作詞)、木下牧子氏作曲「夢みたものは……」(立原道造作詞)が入っていて、「独唱版もあるんだ」という感じでした。もっとも、独唱版が先で後から合唱に編曲されたのかも知れません。そのあたりは詳しくありませんで……。

閑話休題、お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました 先達て頂戴した一週一信をよんで はじめて刀自の真生活を知つたばかりの時 此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません


大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛書簡より 光太郎37歳

広岡浅子は、智恵子の母校・日本女子大学校の設立にも協力した女性実業家。平成27年(2015)に放映された朝ドラ「あさが来た」(今週月曜までBSトゥエルビさんで再放送が為されていました)の主人公のモデルですね。

智恵子と浅子は面識がありました。智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会で智恵子が自らの絵画修行について発表し、その智恵子の発表の前に浅子が講話をしていました。
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また、遡って明治40年(1907)の智恵子卒業時の集合写真には、浅子も写っています。
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「一週一信」は、大正7年(1918)に刊行された浅子の随筆集。日本女子大学校同窓会の仕事もしていた小橋の編集です。
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千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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昨日は都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは上野の森美術館さんで昨日始まった「第4回日本木彫刻協会展」。
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仏師の関侊雲氏が会長を務められている一般社団法人「日本木彫刻協会」さんの主催です。
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受付でいただいたフライヤーに、「事業内容」の一つとして、こんな記述。
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なるほど、大切なことですね。

そこで、積極的に入門者等を募集されているようです。
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木彫のみでなく、仏画も。
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素晴らしい!

さて、展示作品を拝見。
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こじんまりした会場で、さほど展示点数も多くなく、ちょうどいい感じです。大規模な公募展等で「これでもか、これでもか、いやいや、まだまだぁ!」というスタイルだと、申し訳ありませんが食傷気味になってしまいますので。
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関氏、それから高弟とおぼしき方の作品。
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こういう作を前にすると、同じ日本人として誇らしくなりますね。

それから、名誉会員のテノール歌手・秋川雅史氏の作。光太郎の父・光雲が主任となって皇居前広場に据えられた「楠木正成銅像」の模刻。申し訳ありませんが、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として、こちらを拝見するのがメインの目的でした。
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外連も衒いも韜晦もなく、実に真摯に作られているのがよく分かります。こちらが出品された一昨年の二科展、昨年の秋川氏個展ともに見逃していましたので、ようやく拝見できて満足でした。

同じく秋川氏、昨年の二科展入選作。
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さらに金剛力士像。群馬県前橋市の天明寺さんに納められる予定の像の下絵だそうで。
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秋川氏、いつのまにかテノール歌手としてではなく、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げられていました。かなり本気ですね。今後ともそれぞれの分野でご活躍されることを祈念いたします。

ところでこんな展示も。
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関氏、今年の大河ドラマ「どうする家康」のお仕事もされているそうで。

当方、同番組は拝見していませんので存じませんでしたが、毎週書かさず見ている妻にこの画像を見せたところ、「ああ、これ!」。かなり重要なモチーフのようでした。

会場の上野の森美術館さんを後に、すぐそばの、やはり光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」にご挨拶。
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その後、永田町の国会図書館さんへ。
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昨年12月のデジタルデータリニューアルに伴い、自宅兼事務所のPCで閲覧できるデータ数が飛躍的に増大。その結果、『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品などが続々見つかっています。ただ、大人の事情で自宅兼事務所のPCで閲覧できず、館内限定閲覧可のデータも多く、そちらを調べに行った次第です。

集中力が保てませんので2時間ちょっと、明治末から昭和初めまでのデータを調べ、やはり『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品を見つけてきました。散文と、書簡(雑誌に転載されたもの)のそれぞれ複数です。高村光太郎研究会さんから来春発行予定の年刊誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。それから本日誕生日の智恵子がらみでも実に面白い婦人雑誌記事を見つけました。大正末のものですが、いずれこのブログで紹介します。

しかし、まだまだ調べるべきデータが山のようにあり、これから何度も通うことになりそうです。「浜の真砂は尽きるとも世に光太郎智恵子の種は尽きまじ」という感じです(笑)。

さて、「第4回日本木彫刻協会展」。会期が短く5月23日(火)までですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

此間お話の御尊父の肖像製作の事は大変たのしみに思つて居ります それに佐渡ははじめての処故秋の風景などいろいろ想像してみて居ます


大正7年(1918)6月13日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。のちに光太郎はその歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀、装画を手がけます。

「御尊父の肖像製作」は結局実現せず、代わりに、というわけでもないのでしょうが、木彫の「蟬」が贈られましたし、湖畔の愛娘で夭折した道子の肖像画を描きました。また、この年の10月に佐渡島を訪れた際には、書幅も残しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さん。守衛作品を純錫製のミニチュアにしたもの5種を発売なさいました。

純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種

新しいミュージアムグッズ 錫製品に荻原守衛彫刻シリーズが、ついに登場。作品を3Dスキャンし、3Dプリンターで出力した像の修整を経て型取りした、精巧なミニチュアです。木台座、桐箱付、各4,600円。 別途送料とお振込手数料がかかります。 ※ご注文頂いてからの製造につき、お手元届くまで半月ほどお時間をいただくことがございます。ご了承くださいませ。
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《女》高さ 約6.5cm 《坑夫》高さ 約5cm 
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《宮内氏像》高さ 約5cm 《文覚》高さ 約5cm 《女の胴》高さ 約5.5cm

いい感じですね。

5点中、守衛絶作の「女」と留学中の作品「坑夫」は、光太郎がその保存に関わったものです。
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「女」は、令和2年(2020)にトーハクさんと藝大さんの協力の下、ブロンズで像高25㌢ほどの縮小模刻が発売されましたが、今回のものはさらに小さいサイズで価格もお手頃です。しかも小さいからといって侮る勿れ、ちゃんと3Dスキャンによる制作です。

光太郎作品もこんな感じでのミニチュア化があってもいいように感じました。ブロンズの「手」とか、木彫の「蟬」「鯰」「白文鳥」など。ただ、大人の事情で難しいでしょうね。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、地元の土産物店などで昔からミニチュアが作られていますが、しょせんお土産品ですので……。

ちなみに光太郎の父・光雲の「老猿」は、平成27年(2015)にポリストーン(石粉、合成樹脂混合)製のレプリカ(像高20㌢)がトーハクさんから出ていますし、「西郷隆盛像」も3D彫刻複製といううたい文句で販売されています(像高37㌢)。

閑話休題、碌山美術館さんのシリーズ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子への御葉書は直ぐ転送いたします ちゑ子は医者の言葉によつて今年は海へ行く事にして 福島県相馬郡原釜 金波館に滞在して居ります いつでもあなたからのお便りを大変うれしがつて居りますから 時々御葉書をやつて下さい

大正6年(1917)8月9日 旗野すみ子宛書簡より 光太郎35歳

旗野すみ子(スミ)は、日本女子大学校での智恵子の後輩。新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に住んでいました。スミの姉・ヤヱがやはり日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。スミは後に結婚して再上京、立川の農事試験場付近に住み、光太郎智恵子夫婦と交流が続きます。
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こちらは大正2年(1913)の『読売新聞』。

さらに大正5年(1916)、旗野家で撮られた写真。左端が智恵子、後列中央がスミです。
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福島県相馬郡原釜 金波館」は、結婚前の少女時代から智恵子が家族共々何度も訪れていた定宿。現在の南相馬市原釜尾花海水浴場です。

対面式およびオンラインでの講演会です。

春の特別展関連講演会「関東大震災と武者小路実篤」

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 13:00~15:00 
料 金 : 無料

大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、10万人以上の犠牲を出した国内最悪の自然災害と言われます。巨大地震を体験した里見弴、高村光太郎、地震の知らせを聞いて東京へ駆けつけた志賀直哉、そして武者小路実篤。白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。

講師
石井正己氏(日本文学研究者・東京学芸大学名誉教授)
東京学芸大学名誉教授。著書に「文豪たちの関東大震災体験記」(小学館)、「感染症文学論序説」(河出書房新社)、「震災は語り継げるか」(三弥井書店)などがある。

申し込み
往復はがきの往信面に、講座名・応募者全員(1枚につき2名まで)の氏名(ふりがな)・年代・郵便番号・住所・電話番号を、返信面にご自身の宛先を明記し、5月9日(火曜日)必着で実篤記念館まで。

注意事項
応募者多数の場合は抽選を行います。
はがき締切後、定員に余裕がある場合は5月10日(水曜日)午前9時から5月19日(金曜日)午後5時まで先着順で電話受付。詳細は実篤記念館までお問い合わせください。
はがきの到着に時間がかかることがあります。余裕をもってご投函ください。
都合により、内容が変更される場合がございます。最新の情報は当館ホームページやツイッターをご覧いただくか、お電話でお問い合わせください。

配信視聴
会場参加に加え、オンライン配信も行います(ライブのみ)。
5月12日(金曜日)午後5時までオンライン配信専用の申込みフォームを開設します。
講座の詳しい内容や対面での応募方法については次のリンクをご確認ください。

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同館で開催中の特別展「武者小路実篤の1923年」の関連行事という位置づけです。
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大正12年(1923)9月1日の関東大震災からちょうど100年という節目の年ですので、このような企画になっているのでしょう。

南関東ではどこも甚大な被害だったわけで、個々の芸術家かどういう状況になったかまでは当方もそれほど存じません。武者にしても。同展の案内文に依れば、武者自身は地震発生当時、宮崎の新しき村に居たそうですが「東京の実家に住む母と甥らが被災し、一時は安否が分かりませんでした。家族は無事だったものの、実篤が生まれ育った家は全焼しました。」ということだったそうで、それは初めて知りました。ありゃま、という感じですね。

光太郎は、というと、駒込林町の住居兼アトリエは大きな損傷もなく、光太郎や近くに住んでいた父・光雲らに怪我もありませんでした。智恵子も二本松の実家に帰っていたため無事。しかし27畳のアトリエは被害の大きかった下町からの避難者に開放し、光太郎自身は何ヶ月かを四畳半の和室で過ごすこととなりました。その間、智恵子の実家の長沼酒造から酒を取り寄せ、引札も自作し、にわか酒屋を始めています。

今回の講演では、「白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。」とのことで、では、光太郎はどんな文章を書いていたか、調べてみました。

すると、震災に関わるものとして公表されたものは、11月に雑誌『女性』に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同じく『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」がありました。

「アメリカ……」の方は短いので全文を引き写してみます。

 大東京の築造については、自分が六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」の中の意見と今でも大体に於て同じ意見を持してゐます。何よりも日本の東京にしたいものです。アメリカ趣味の流入を殊に出来るだけ防ぎたいものです。質素で確かで優美な都が造りたい。末梢は後にせよ。市民にとつて、また殊に建築家にとつて、何といふ天啓に満ちた時機でせう。
 鉄腕ある者よ、出てくれ。


六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」」は、国会議事堂の建築(現在の議事堂は昭和11年(1936)の竣工ですが、それ以前に大正7年(1918)にコンペが行われました)についての内容を根幹としつつ、都市計画を論じた長い連載でした。一部、抜粋します。

 芸術の中で人間の心に一番影響を与へるものは建築であると思ふ。一番直接といふよりは一番手近と言ふ方がいいかも知れない。建築が恐ろしく因縁の深い感化を人間に与へるのは、建築が幼年少年の生活を支配して、外の芸術よりも早く人間の精神肉体に影響を及ぼすからである。

 国民の性格を天日の下に麗々と暴露してゐるのは建築である。倫敦、巴里、紐育其他いづこの市街乃至村落に足を踏み入れたとしても、いきなり観察者の心に襲ひかかつて来るのは其家屋の列の持つ不可言の気魄である。何の説明を聞くまでもなく、ははあ、と思ふ。

 建築の事を世人は今余り考へなさ過ぎる。自分たちの住んでゐる市町の街路に聳え立つ怪しげな建築にも眉を寄せず、喜ぶ可き建物にも感謝しない。そして其が次の時代を形づくる自分たちの子孫にどんな関係を持つかといふ事を心配しない。何をされても平気で、善いものも悪いものも無差別に受取つてゐる。東京の市街は今建築の百鬼夜行である。


明治末の欧米留学中に都市計画にも興味を持ち、ニューヨークではセントラルパークについてかなり研究した光太郎ならではの言ですね。ちなみに駒込林町の住居兼アトリエは光太郎自身の設計です。

さらに「美の立場から」。こちらも長い連載でしたので、一部抜粋。

 人は帝都の復興といふ。けれどもどんなものを復興しようといふのか。焼けて無くなつたものを取りかへして、其上この機会に多年の宿望であつた都市計画を遂行しようといふ。けれども其は一体どんな種類の都市を予想しての事であるか。都市の品格、傾向、風貌等に就てどんな好みを以ての事であるか。どんな性格の都市を実現させようと「欲」するのであるか。どんな統一をその都市性格の上におかうとするのであるか。ただ聯絡ある市街の集団であるに止まらせて満足しようとするのか。それとも是非ともミヤコを築造しようとすののであるか。この最初の覚悟によつて、今後の当事者と市民との責任も負担も忍耐も根本的の相違を来たすであらう。この覚悟を一定せしめておかなければ諸人の計画に対する態度、心構へに異同が出来て、無駄な水掛論が百出するに違ひない。

 東京は救はれなければならない。東京は健康な、正直な、清朗な、大丈夫な都にならなければならない。見かけ倒しと、無定見と、紛雑と、悪趣味と、お先走りとはもう沢山である。もうこりごりである。そしてあの無作法に四方に這ひ出す市街の集合に過ぎないものを其のまま復活される事は心苦しい。是非ともミヤコにした。日本の性格を立派に左右する「築造」されたミヤコにしたい。幾十年かかつても。幾遍壊されても。


これが100年前の文章なわけですが、100年経って、光太郎の至極まっとうな提言は果たして実現しているのでしょうか。そうでないと言わざるを得ないような気もしますが……。

ところで、散文以外に、震災直後の書簡等も調べてみました。すると、光太郎に智恵子を紹介してくれた画家の柳敬助夫人・八重に送った書簡が目に留まりました。やはり一部抜粋します。

 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。


柳は震災前の5月16日(まさに100年前の今日)に急逝。そしてその遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに光太郎のそれ(具体的な作品名は不明ですが 追記:人体を描いたデッサンでした)を含む賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

八重にとっては5月に夫を亡くし、さらにその遺作の多くも9月に失うという、踏んだり蹴ったりだったわけで、その心痛はいかばかりか、というところですね。

ちなみに無事だった柳の作品、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで「没後100年 柳敬助展」ということで多数展示中です。

さて、講演会「関東大震災と武者小路実篤」。オンラインでの聴講も可能です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例の大理石はあれから毎日仕事に掛り居り既に職人の手を離れて小生自ら鑿を取つて居ります

大正6年(1917)4月28日 図師尚武宛書簡より 光太郎35歳

図師尚武は実業家・図師民嘉の子息。「仕事」は図師に依頼された石彫です。「職人の手を離れて」は、元の石材から大まかな形を切り出すまでを石工にやってもらったということでしょう。

003この作品、仮題が「婦人像」。現存が確認できて居らず、写真だけ残っています。それから最晩年に光太郎が語った制作の経緯。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

どこかにひっそりと現存していてほしいものですが……。

都内から邦楽系の演奏会情報です。

東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 中目黒GTプラザホール 東京都目黒区上目黒2-1-3
時 間 : 14:00~ 17:00~
料 金 : 一般 4,000円 学生(小中高校生)1,000円 親子ペア券(一般+小中高校生)4,500円

邦楽と洋楽のコラボレーションコンサート。朗読付き作品やミニレクチャーコーナーもあります。

曲目
 三宅一徳:祝宴 組曲「竹取物語」より  F.シューベルト: アヴェ・マリア
 宮城道雄:春の海  平岡吟舟:猩々   琴古流本曲:巣鶴鈴慕
 中島はる:智恵子抄 人に 樹下の二人 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
 間・かけ声・所作:魅力の宝庫 邦楽囃子の世界 ゲスト島村聖香さんを迎えて
 宮田耕八:豊年太鼓

出演
牧原くみ子(箏)、寺井奈美(箏)、富緒清律(箏・三絃)、大江美恵(箏・17絃)
武松洋子(朗読)、芦垣皋盟(尺八)、野村浩子(ソプラノ)、金井由里子(ピアノ)
高橋章子(フルート) 【ゲスト】島村聖香(邦楽囃子)
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故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っています。

同曲、平成4年(1992)に初演が為されています。歌唱はテノールの森田澄夫氏、ピアノが渡辺一史氏、箏で砂崎知子氏、尺八に山本邦山氏というラインナップでした。当日のパンフレットには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のお言葉。
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作曲者、中島氏のお言葉も。
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当方、これは聴いたことがなく(上記パンフレットは北川先生から頂きました)、楽譜も未見です。どんな感じかぜひ聴いてみたいもので、日程的に都合がつけば拝聴に伺いたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今までこんなに全体の抱和した芸術を日本でみたことのない気がします、私はまだ詩について何事も公けに言はない時に居ますが後に詩の事について書く時、この集が実に重要なものである事を感じます。


大正6年(1917)3月(推定)『感情』第2年第4号所収書簡より 光太郎35歳

この集」は、萩原朔太郎の『月に吠える』。我が国の口語自由詩の確立における功績という意味では、光太郎の『道程』(大正3年=1914)と双璧を為すものですね。

そしてどちらかというと「述志」の詩篇で成り立つ『道程』、白秋系の芸術至上的な色合いの『月に吠える』と、ベクトルが異なる二つの巨峰がこの時期に相次いで上梓されたことは、非常に興味深いところです。

現代の仏師の方々などの作品展です。

第4回日本木彫刻協会展

期 日 : 2023年5月19日(金)~5月23日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園 1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

展示物 現代仏師・木彫刻作家による仏像・パネル・置物などの木彫刻 約30点
出展者 協会会員、準会員を中心とした、プロ及びプロを目指す木彫刻作家数名
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画像に使われている作品は、テノール歌手にして同会準会員の秋川雅史氏の作。一昨年の第105回二科展入選作です。

秋川氏、同会会長の関侊雲氏に師事なさり、木彫に取り組まれています。元々は光太郎の父・光雲の木彫に魅せられてのことだそうで、上記作品も光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻です。
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同作、先述の第105回二科展の他、昨年開催された秋川氏の個展にも出品されました。一昨年には『毎日新聞』さんで同作について語られています。

また、令和元年(2019)には、光雲作の木彫「寿老舞」を引っ提げて、テレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」にご出演。1,200万円という高額鑑定となりました。その後、同作は平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に貸し出されました。また、同展の図録には秋川氏と現代の作家さんたちの対談も収録されています。

会期が短いのが残念ですが、日程的に都合がつけば拝見に伺おうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう

大正6年(1917)3月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎35歳

「こんな所」は福島・いわき。大理石は石灰岩の一種で、関東や福島の山地でも産出します。注文のあった石彫の制作のため、大理石を入手する目的での旅でした。光太郎、生涯に何点か石彫作品も制作しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。

『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。

重文が語る 近代美術評価の変遷 東京国立近代美術館で51点展示

 全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
 明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
 本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
 会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
 岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
 5月14日まで。展示替えあり。

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4月25日(火)、『朝日新聞』さん。

なぜ重要文化財に? たどってみたら 東京国立近代美術館に51点集結 

 「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
 高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
 主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
 しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
 確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
 しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
 大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
 そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
 こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
 評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
 黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。

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今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。

会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
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「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。

評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。

彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。

それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。

言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。

今後の議論を待ちたいところです。

ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
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ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。

さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)


大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。

田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。

4月24日(月)、『毎日新聞』さんの滋賀県版に載った記事。

<名品手鑑Ⅱ(めいひんてかがみ2)> 滋賀の博物館・美術館探訪/62 醒井木彫美術館 森大造の多彩な作品群 今にも跳ねそうな「卯」 仏像、干支にちなむ動物信楽焼のレリーフまで/滋賀

 醒井木彫(さめがいもくちょう)美術館のそもそもの発端は、木彫の里出身の森大造(もりたいぞう)(1900~88)の遺作を里帰りして故郷に納める倉庫を探していたことに始まりました。木彫の里は醒井から3キロさかのぼった川筋に、田畑もなく山にかかわる暮らしをした、江戸末期より宮大工に始まる木彫が今日にも伝わるところです。たまたま醒井在住の岩嵜家が、倉庫ではなく木彫の里の現役・物故作家の作品も一緒に森大造の遺作と一般公開する美術館に、という展開が現実になりました。美術館正面の扉は、木彫の里現役作家による天女のレリーフ像でにぎわいます。
  世界の彫刻史はギリシャの代理石像と近世記念碑に見るブロンズ像の流れが主流で、木彫は天災人災で保存が難しく、幸い日本には仏像の形で寺院に多く残されました。木彫の里では、寺院建築の内外を飾る彫刻と仏壇の内陣に見る精緻な伝承の紋様を彫り続け、高村光雲(たかむらこううん)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に見る人形師系列のリアルな作風を踏襲しています。
 森大造はその流れをくみつつ創意を重ね、個性豊かな一刀彫りの表現による、多彩なモチーフの作品を制作しました。大別すると、祈りの造形である仏像、必ずしも古仏の再現ではなく図象学に基礎を置く昭和の仏像を、微笑薬師やにっこり地蔵など親しい仏像を心がけました。また日本独特の文化を探り、俳句に見る人間模様の造形、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)、蕪村(ぶそん)、特に奥の細道と題した美術館にある馬上の芭蕉像は定評の作品でした。一方で究極の動と静を窮めた能彫を、竹生島・小鍛冶・石橋・松風など極彩色のものも多く制作しました。
 最後に木彫を超えて、素材は多岐にわたり、展覧会制作による空間構成を意図した造形です。美術館裏にあるセメントの「楯(たて)」は、戦争中の制作で醒井小学校の国旗掲揚塔に設置されたものでした。なお、彦根城内金亀公園には井伊直弼(いいなおすけ)像、彦根駅前には初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)の馬上像、また米原市役所の屋外に見る壁面には信楽焼の陶によるレリーフの家族像が残ります。他に、醒井駅前には霊山三蔵(りょうせんさんぞう)像と居醒(いさめ)の清水には日本武尊(やまとたけるのみこと)の像も。木彫だけでなく造形家の顔も見ることができる作品群です。
 ここでは生活の場にみる動物、今年は干支(えと)の卯(う)年にあたり兎(うさぎ)を掲載しました。ただの兎ですが単純なものほど想をねる作業の繰り返しで、ふくよかでうずくまったポーズの次の瞬間はどこに跳ぶのか、静かな中に動きのある親しい作品です。来年の辰(たつ)は、唯一実在の動物ではなく雲から湧き上がった形になりました。
  森大造発想の原点は日常生活にあり、夜寝ている時と健康を害して臥(ふ)せている時以外は彫刻が頭から離れず、正に彫刻することしか能のない、大は屋外に見る銅像から小は白檀(びゃくだん)の切れ端で女性と子供の装身具までと、一貫した彫刻人生でした。材木屋さんが建築材にならず誰も使わない木材を運び込むと、その中に何かを発想して彫り出すことを楽しみました。神代檜(じんだいひのき)というボソボソの木材で霊山三蔵を、美術館にもレリーフ状の彫刻が二、三収まりました。
 動きも音もなく、昨今のテレビや動画にみるにぎやかで騒々しい趣向から遠く離れて、清流のほとりにある静謐(せいひつ)を極めたたたずまい。そこに、名もなくお金もなくひたすら木を彫り続けた大造さんの作品に囲まれて、こよない平和な時を過ごすことができる空間になりました。

一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
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森と光太郎の関わり、その一。

昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
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こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。

森と光太郎の関わり、その二。

光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
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しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。

当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。

それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。

昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
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境内左手の森の中に観音堂。
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扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
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かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。

どちらもいいお顔をしていますね。

ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
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面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。

というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。


大正5年(1916)8月25日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。

映画の上映情報です。

昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻 智恵子抄

期 日 : 2023年5月14日(日) 5月18日(木)~5月23日(火)
会 場 : ラピュタ阿佐ヶ谷 東京都杉並区阿佐谷北2-12-21 ラピュタビル
時 間 : 朝10時30分より1回のみ上映 
料 金 : 一般 1,300円 / シニア・学生 1,100円 / 会員 900円
      水曜サービスデー 1,100円均一
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智恵子抄 1967年(S42)/松竹/カラー/125分
 監督・脚本:中村登  原作:高村光太郎、佐藤春夫  脚本:広瀬襄
 撮影:竹村博     美術:浜田辰雄        音楽:佐藤勝
 出演:丹波哲郎、平幹二朗、中山仁、南田洋子、岡田英次、佐々木孝丸

原作は高村光太郎の詩集『智恵子抄』と佐藤春夫の『小説智恵子抄』。岩下志麻が光太郎の妻・智恵子に扮し、出逢いから結婚、発狂から死までを中村登監督の叙情的演出に包まれ好演、代表作の一つとした。
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昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」。光太郎役が故・丹波哲郎さん、智恵子は岩下志麻さんが演じられました。

やはり映画版は、東宝さんで昭和32年(1957)に故・原節子さんと故・山村聰さんで制作され、そちらはVHSビデオが販売、この手の上映会にかかる回数も松竹版より多くあります。
東宝映画智恵子抄
その点、この松竹版は市販の映像ソフト化がされておらず、上映される回数もそう多くありません。ご覧になったことのない方(ある方も)、この機会をお見逃しなく。

ちなみに「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」自体は先月から始まっており、既に上映が終了したものを含め、ラインナップは以下の通りとなっています。

わが恋の旅路 / 山の讃歌 燃ゆる若者たち / 100万人の娘たち / あねといもうと / 素敵な今晩わ / 暖流 / 智恵子抄 / あかね雲 / 女の一生 / 日も月も / 婉という女 / 心中天網島

【折々のことば・光太郎】

荻原君の胸像は僕が同君に対する敬愛のしるしとして是非とも(御依頼の有無に拘らず)作る意志を持つて居て先年来種々研究いたして居るのですが最近になつて どうもまだ今の僕の想像力の強さでは十分に頭の中にある荻原君を構成する事が出来兼ねるといふ事を確実に知りました


大正5年(1916)2月20日 山本安曇宛書簡より 光太郎34歳

「荻原君」は明治43年(1910)に亡くなった親友・荻原守衛、山本安曇は守衛と同郷の鋳金家で、光太郎実弟の豊周とともに、守衛絶作の「女」の鋳造を手がけました。

この年は守衛七回忌に当たり、浅草橋で帽子商を営んでいた守衛実兄の本十から、光太郎に守衛胸像の制作が依頼されていました。しかし光太郎、今の自分の実力では、モチーフがモチーフだけに不可能、というわけです。謙虚といえば謙虚ですが……。

結局この後も、光太郎による守衛胸像の制作は実現しませんでした。残念です。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

演奏会情報です。2月に横浜と広島で公演をなさった「藤木大地&みなとみらいクインテット」の皆さんが、新潟と奈良で。

まずは新潟。

りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月3日(水・祝)
会 場 : りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 新潟市中央区一番堀通町3-2
時 間 : 14:00~ 
料 金 : S : 4,500円 A : 3,500円

日本が世界に誇る国際的カウンターテナーの藤木大地と5人の名手による珠玉の室内楽コンサート 唯一無二の歌声を持つカウンターテナーの藤木大地が名手5人と共に創り上げる極上の時間

りゅーとぴあには2018年「りゅーとぴあ・オルガン・リサイタルシリーズNo.25」のゲスト出演以来の登場となる藤木大地。完璧にコントロールされた柔らかな美声と表現力に魅了された方も多くいらっしゃることでしょう。今回は往古来今、その歌声の魅力を余すことなく味わえる贅沢なプログラム。各界で活躍中の個性あふれる名ソリストたちが放つ輝かしい音色と、丁々発止のやり取りが楽しめる特別なアンサンブルは必聴必見です。この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-23」に就任した藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトの第一弾として開催します(他、神奈川県横浜市・横須賀市、奈良県大和高田市、広島県三原市、福岡県福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲より 第3楽章(ショスタコーヴィチ)
 お客を招くのが好き(J.シュトラウス2世)
 アヴェ・マリア(マスカーニ)
 ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
 魔王(シューベルト)
 私はこの世に忘れられた(マーラー)
 鎮められたあこがれ(ブラームス)
 ピアノ五重奏曲より 第4楽章(シューマン)
 静かな真昼(ヴォーン=ウィリアムズ)
 ネッラ・ファンタジア(モリコーネ)
 ヤンキー・ドゥードゥル(ヴュータン)
 レモン哀歌(加藤昌則)
 鴎(木下牧子)
 瑠璃色の地球(平井夏美)
 いのちの歌(村松崇継)

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 山根一仁(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 遠藤真理(チェロ) 松本和将(ピアノ)
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続いて、奈良。

ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 大和高田さざんかホール 奈良県大和高田市本郷町6-36
時 間 : 15:00~
料 金 : 一般3,000円 高校生以下500円(当日各500円増)

初夏の大和路に響く 奇跡の歌声と心に染み入る極上のハーモニー
唯一無二の歌声を持つカウンター藤木大地が、今望みうる最高のクインテットと共に再びさざんかホールに登場! この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023」を務める藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトとして開催します(当館他、神奈川県横浜市・横須賀市、新潟市、広島県三原市、福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲 第3楽章 / ブラームス
 アデライーデ / ベートーヴェン
 魔王 / シューベルト
 リディア / フォーレ
 愛の讃歌 / モノ―
 静かな真昼 / ヴォーン=ウィリアムズ
 遠く、遠く、お互いから / ブリッジ
 ピアノ五重奏曲 第4楽章 / ショスタコーヴィチ
 I Dreamed a Dream / レ・ミゼラブル
 サンクタ・マリア / 加藤昌則
 アメリカの思い出 「ヤンキー・ドゥードゥル」Op.17 / ヴュータン
 レモン哀歌 / 加藤昌則
 鷗 / 木下牧子
 いのちの歌 / 村松崇継
 満ち足れる安らい、うれしき魂の悦びよ / バッハ

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 周防亮介(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 上村文乃(チェロ) 加藤昌則(ピアノ)
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新潟公演と奈良公演で、プログラムがだいぶ異なっていますが、双方に加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が入っています。光太郎詩句を反映し、切なくも爽やかな印象の曲です。また奈良公演では加藤氏がピアノ担当です。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来ました。葉書も見ました。山では少しは画いた。まだ荷をといたばかり、東京の様子更にわからず。会ひたいと思つて居るから二三日うちに行くかも知れない。山の画でみてもらひたいのもある。 いろんな話すことがどつさりある様だ。


大正2年(1913)10月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎31歳

002」は智恵子と過ごし、結婚の約束を果たした信州上高地。「いろんな話すことがどつさりある」のは「智恵子がらみでしょうか。

少しは画いた」のは油絵。10月12日から神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開催された生活社主催油絵展覧会に、上高地での油絵21点と彫刻1点、素描3点が出品されました。

油絵21点のうちの1枚の現存が確認できており、時折、光太郎展などに出ます。この1枚のみ、葉舟が入手し、現在は某美術館に寄託されているはずです。

他は生活社展のパンフレットにモノクロの画像が載っているものが2点、それ以外はどんなものか不明ですし、現存が確認できていません。何処かからひょっこり出てこないかな、と思っているのですが……。

生活社は、前年に結成されたフユウザン会が早くも方針の相違から分裂し、光太郎、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一の四人で興したグループです。

4月23日(日)の朝、前日行われた第113回碌山忌のため訪れていた信州を後に、千葉の自宅兼事務所へ向かいました。その帰り道、都内で高速を下り、連翹忌の集い会場の日比谷松本楼さん地下にある駐車場に車を置いて、銀座まで歩きました。

目指すは五丁目の大黒屋さん。こちらの6・7階ギャラリーで開催されていた染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」最終日でした。
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五月のウナ電」は、昭和7年(1932)、雑誌『スバル』に発表された詩で、当時の電報のスタイルを使って書かれています。
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ヘラクレス座の電報局から地球の鳥獣草木に届いた電報という設定で、差出人はヘラクレス神なのでしょうか。初夏5月、それぞれの生命を謳歌せよ、的な文面です。

一見、のどかな詩に見えますが、この詩の書かれた当時の光太郎、大変な時期でした。前年あたりから智恵子の心の病が誰の目にも明らかになり、この詩の書かれた直後には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂を起こします。また、世相も風雲急。やはり前年には柳条湖事件、満州事変、この年に入ると上海事変、血盟団事件、傀儡国家の満州国建国、そして五・一五事件。翌年には日本が国際連盟から脱退、ドイツではナチス政権樹立……。

志村ふくみ氏による詩の解説がこちら。
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ふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)には、この詩に強く惹かれ、和紙を貼ったパネルに詩を写し、裂を貼ってみたお話や、詩の解釈等をめぐって交わされた、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とのやりとりなどが詳しく語られていますし、智恵子の心の病や世相などにも触れられています。

そのパネルが会場内に展示されていました。許可を頂いて撮影。
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照明の関係で、横に縞模様のように線が走っていますが、実際の作品にはこうしたむらはありません。

また、今回の展示に合わせて新たに作られた複製パネルも。
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文字の部分は印刷だそうですが、貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

こちらを和綴じの装幀で製本したもの。
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それぞれオンデマンドで販売されているそうで。
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また、会場内には、お弟子さんたちの遊び心あふれる「ウナ電」。
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この現物を1枚、戴いてしまいました。多謝。
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やはり貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

その他、着物や小物、大小様々な裂などの展示。実に見応えがありました。

ふくみ氏は東京会場にはいらしていませんでしたが、令嬢の洋子氏、令孫にしてアトリエシムラさん代表取締役の昌司氏、お弟子さんたちと、しばしお話をさせて戴きました。単なる光太郎ファンの当方が予想外に歓待されてしまい、戸惑いつつも(笑)。

ところで、染織工芸と光太郎智恵子、浅からぬ縁があります。

油絵制作に自信が持てず断念した智恵子は、機織りや草木染めにも挑戦し、光太郎ともども、「草木染」の命名者でもある染織工芸家・山崎斌(あきら)と交流がありました。昭和13年(1938)に智恵子が歿した際、山崎は光太郎に弔電を送っています。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ
(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)

ある種、奇抜ともいえる柄の着物を着て歩いていた智恵子の追憶です。

再び山崎曰く「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」。

また、「草木染」といえば、イギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン。戦前に智恵子がメレの個展で見て欲しがり、東京と花巻、二度の戦災をくぐり抜けて奇跡的に残ったものです。これを通して光太郎は岩手のホームスパンの祖・及川全三とも親しくなりました。
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当方、そのあたりは詳しくないのですが、山崎、及川、エセル・メレ、志村ふくみ氏、それぞれ何処かで繋がっているのではないでしょうか。そんなことを考えつつ、花巻高村光太郎記念館でも「五月のウナ電」展ができれば面白いな、などと思った次第です。

さて、同展、東京展示は会期終了ですが、来月、京都での展示があります。会場は岡崎のものがらさん。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

きのふ青踏の講演会にいつてみました。母と妹をひつぱつてゆきました。 あまり外形にかゝづらはつた議論ばかり多くて何にもなりませんでした。


大正2年(1913)2月16日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎31歳

前年からこの年にかけ、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』(光太郎、「青踏」と誤記しています(笑))発行元の平塚らいてう率いる青鞜社の講演会。東京基督教青年会館で開催された「青鞜社第一回公開講演会」ですが、何と1,000人もの聴衆が詰めかけたとのこと。演壇に立ったのは、らいてう、生田長江、岩野泡鳴、馬場孤蝶、岩野清子、そして伊藤野枝(ちなみに村山由佳氏による野枝の評伝小説『風よ あらしよ』、集英社さんが文庫化なさいました。光太郎智恵子も登場します。お買い求め下さい)。

母と妹をひつぱつて」行ったのは、青鞜社の予告で、野次馬的な男性を排除するため、必ず女子同伴で来るよう指示されていたためです。智恵子はまだ新潟旅行中だったのかもしれません。

それにしても光太郎の評、手厳しいものですね。

4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

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