カテゴリ: 東北以外

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

大正元年(1912)夏、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉県犬吠埼でのイベントです。

駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~

期 日 : 2022年10月1日(土)~12月25日(日)
会 場 : 千葉県銚子電鉄笠上黒生駅~同犬吠駅
時 間 : 受付時間  9:00~12:00
      ゴール時間 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料 金 : 無料

JR 東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」。四季折々の絶景ポイントを味わいながら気軽に参加できる日帰りイベントです。参加無料!

【銚子電鉄共同開催】銚子を愛した文人墨客たちの足跡をめぐろう。ゴールは犬吠埼温泉でリラックス。犬吠埼灯台や銚子ジオパークの森など銚子の見どころ満載のコースです。
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駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベント。様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート!同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてドリンクなどが当たるプレゼント抽選に参加できるそうです。

さて、「関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ」。銚子電気鉄道(銚子電鉄)さんとの共同開催で、スタート、ゴール共に同鉄道の駅となっています。
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銚電さんのサイトはこちら。「ハイキング、ウォーキングが好きな方はもちろん、国木田独歩や高村光太郎などの多くの文学碑がありますので、「文豪ストレイドッグス」がお好きな方や「文豪とアルケミスト」の特務司書の皆様にもおすすめです」とあり、当方の検索網に引っかかった次第です。ただし、光太郎文学碑はありませんのでよろしく。ぜひ建立されてほしいものなのですが……。

まぁ、それでも地球の丸く見える丘展望館さん、光太郎智恵子が宿泊したぎょうけい館さんなどの内部に光太郎智恵子に関する案内板等は設置されています。

また、今回のフライヤーにも光太郎智恵子の名。
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ちなみにトリビア的に紹介されている他の2件、東映さんのオープニング「荒波に磯」が犬吠埼だというのは存じていましたが、三越さんの包装紙も犬吠由来というのは今回初めて知りました。学生時代、三越さんでがっつりバイトをさせていただき、この包装紙でお歳暮の包装などもさんざんやったのですが(笑)。それから猪熊弦一郎デザインというのは存じておりましたが、やなせたかし氏の手も入っていたというのも初耳でした。

参加には、銚電さんの1日乗車券「弧廻手形(こまわりてがた)」(大人700円、小児350円)があると便利ですね。「ハーブガーデンポケットに設置してあるチラシとセットで、犬吠駅売店でお見せいただくと、ぬれ煎餅1枚をプレゼント!」だそうです。
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ところで銚電さんのサイトでは、上記の通りアニメ「文豪ストレイドッグス」やゲーム「文豪とアルケミスト」も持ち出されていますが、今回はそれらとは公式のタイアップではないようです。また別の機会にでもそれらときちんと提携し、「文豪列車」など運行してみるのもいいかもしれない、と思いました。これまでにアイドルグループとのタイアップや、お化け屋敷的なホラー列車などは実現していますので。

というわけでコロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜在宅、 〈机上の春蘭よく匂ふ、夜、〉


昭和29年(1954)4月2日の日記より 光太郎72歳

「春蘭」は銚子出身の詩人・宮崎丈二から贈られたものです。このちょうど2年後が、光太郎の命の尽きる日でした。

昨日は、久々に都内に出ておりました。上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」拝聴のためです。
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奏楽堂さん、藝大美術館さん等に行く際に前を通過したことは数知れずでしたが、初めて中に入りました。
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昨日の演奏会では使われませんでしたが、ステージにはパイプオルガン。ほう、と思いました。

コロナ禍以来、各種演奏会自体減りましたし(だいぶ元に戻りつつありますが)、やはりコロナ禍ということもあって外出をできるだけ避けていたため、当方、この手の演奏会は久しぶりでした。
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ソプラノ歌手の清水邦子さんという方が、作曲家・朝岡真木子さんの作品を歌われるというコンセプト。ピアノ伴奏は朝岡さんご自身でした。
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二部構成で、第一部は各種組曲等からの抜粋。爽やかなイメージの曲、かわいらしい曲などが多めでしたが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に曲を付けた作品のみは、内容が内容だけに重厚で厳粛な感じでした。

終演後にご紹介がありましたが、作詞された星野ミミナさん、こわせ・たまみさん、それから岡崎カズヱさんも会場にいらしていました。与謝野晶子さんはいらしていませんでしたが(笑)。

第二部が「組曲 智恵子抄」全5曲。30分弱でしたが、光太郎智恵子の世界観が実によく表されていました。「智恵子抄」の詩にメロディーをつけたものは、クラシック系で独唱歌曲や合唱曲、オペラもありますし、他に伝統邦楽系やシャンソン系、J-POP系など、実に多くの方々がそれぞれの解釈で作曲なさっていまして、二番煎じにならず独自性を出すのも難しくなってきているように思われますが、朝岡さんの曲作りにはオリジナリティーが発揮されていたと思われます。

全体的には歌曲というよりオペラのアリアのような。そしてそれが清水さんの確かな歌唱力に裏付けられて、ぐいぐい引き込まれました。また、朝岡さんご自身が弾かれていたピアノ伴奏も実に効果的でした。

第1曲「人に」(大正元年=1912)。「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」で始まる、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾る詩。この詩の書かれた前年に二人は知り合いました。「――それでも恋とはちがひます」などと言いつつ、抑えきれない智恵子への思い。十六分音符の連続、5連符や6連符も交じりで、一種早口言葉のような部分もあったりでした。しかし、光太郎の熱情のほとばしりが頂点に達した部分では長いフレーズで「サンターーーマリーアーー」。なるほど、と思いました。

続いて「あどけない話」(昭和3年=1928)。結婚し、それなりに充実した生活を送っていた光太郎智恵子。しかし、智恵子の実家の造り酒屋が傾きはじめ(不動産登記簿によれば、この詩が書かれた前日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で、仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべき故郷を失います)、さらに生涯の道と思い定めたはずの油絵制作もうまくゆかず、「東京には空が無い」という心境に。触れれば崩れそうな不安定な智恵子の内面がよく表現されていました。

そして毀れてしまった智恵子を謳った「千鳥と遊ぶ智恵子」。Aモール、アレグロ、センプレスタッカートで「タタッタ タタッタ タタッタ タタッタ」と、ピアノの左手。緊迫した情景です。そこにタイトル通りに千鳥と遊ぶ智恵子、「ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声が被さっていきます。終末近く、「人間商売さらりとやめて……」では、一点、バラード調。そうかと思うと、最後のフレーズ「二丁も離れた防風林の……」以下はメロディー無しのセリフ。そしてレントで静かに終わります。

第4曲「値(あ)ひがたき智恵子」。基本、8分の5拍子です。調和のとれた3拍子、4拍子、または8分の6拍子などでは夢幻界に彷徨(さまよ)う智恵子が表現できないということでしょうか。

ここで、4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』には収録されていない、インストゥルメンタルの「間奏曲」。「あれっ」と思いました。もの哀しくも、メロディアス。この曲だけでも「智恵子抄」の世界観がよく表されていました。

そしてアタッカで終曲「レモン哀歌」に突入。一転してドゥア。予定調和的な。「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた」……。うるっと来てしまいました。ちなみに昨日の都内は台風のため、開演前は雨でしたが、この「レモン哀歌」の演奏中くらいに、窓から陽光が差し込みはじめました。智恵子の魂が天上へと誘(いざな)われていくようなイメージでした。

終演後のお二人。
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やりきった感が溢れていますね。

さらに全てハネたあとの入り口付近。お二人がお見送り。
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朝岡さんが当方の知り合いの知り合いだったため招待券を頂いて伺ったので、お礼かたがたお二人とお話をさせていただきました。来春にはコロナ禍も収まっていることを改めて願いつつ、連翹忌の集いへのお誘いも。

今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんの帖に揮毫、リンゴの画を切紙でつくる、洋モク、ペルメルの赤い包紙でつくる、

昭和29年(1954)2月18日の日記より 光太郎72歳

奥平さんの帖」は、「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。「ペルメル」は「ポールモール(PALL MALL)」。赤いパッケージが特徴的なアメリカのタバコで、現在でも日本で販売されているでしょう。「洋モク」という語は、現代の若者には通じないかもしれませんね(笑)。当方、若い頃、ジタン(庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」にも登場します)やらゴロワーズやらを気取って吸っていた時期もありました(笑)。
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そして千疋屋の包装紙なども使って紙絵を作った智恵子へのオマージュ。泣けますね(笑)。

いずれも先週掲載された新聞記事、2件ご紹介します。

まずは長野県発。『毎日新聞』さん。

碌山美術館、修繕へ 目標の3倍以上の寄付集まる 長野・安曇野

 日本近代彫刻の先駆け、荻原碌山(ろくざん)の作品を展示する「碌山美術館」(長野県安曇野市穂高)は11月から、クラウドファンディング(CF)で集めた資金を利用して修繕工事に入る。中心施設の「碌山館」(建築面積約110平方メートル)は、国の登録有形文化財。1958年の開館から64年たち、老朽化が目立っていた。資金が課題だったが目標の3倍以上の寄付が集まり、由緒ある建物と貴重な収蔵品を守るめどがたった。
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   ◇余剰は「喜ばれる形で活用」
 碌山館は壁はレンガ、屋根は瓦ぶきで、屋根上の尖塔が印象的だ。側面は上部が丸いアーチ型の窓が横に並ぶ。キリスト教の洗礼を受けていた碌山のため、教会ふうのデザインが採用されている。設計者は日本を代表する建築家の今井兼次(1895~1987年)。自身もキリスト教徒で、早稲田大で教授を務め、多数の建築家を育てた。作品には、長野県の燕(つばくろ)岳に建つ山小屋「燕山(えんざん)荘本館」、千葉県の大多喜(おおたき)町庁舎、キリスト教迫害による殉教者を紹介する長崎市の「日本二十六聖人記念館」などが知られる。
 碌山館の傷みは、雨漏りのほか、外装のレンガや屋根の縁のコンクリートの亀裂、ドアの色あせもある。見積もりでは修繕費は500万円。これに諸経費などを足して700万円をCFの目標にした。7月15日に開始すると、碌山美術館に愛着を持つ人らから寄付が相次ぎ、8月31日の締め切りまでに1088人から3・3倍の2370万円が集まった。
 収入を支えてきた入館者は新型コロナウイルスの影響で、感染拡大前だった2019年の約2万7000人から、21年は約1万5000人に減り、22年も同程度か上向いてもわずかの予測。そのためCFに頼った。
 工事は11月8日から1カ月を予定している。予想以上の資金が集まったため、碌山と親交があった高村光太郎らの作品を集めた第1展示棟(1982年開館、約160平方メートル)の床なども直すことにしたが、時期は未定だ。
 それでも資金の余剰が出るとみられ、武井敏学芸員は「応援コメントもたくさんいただいた。その気持ちに寄り添い、残りは来館者が喜ぶ形で有効活用したい」と話した。

 ◇設計者「心の結集で建った」
 設計者の今井兼次は、碌山館の設計前、現地を訪れた時の感慨を雑誌に書いている。「雪降りしきる中に(背後にある北アルプスの)常念岳のきびしい山肌を間近に見て、その環境下に置かれるであろう建築の将来についてあれこれと思いめぐらした」。さらに、「碌山先生の精神的な人間像を心に求めながら働いた。降雪の中に立ちつづける美術館への想念のみが、私の設計意図を最後まで導いてくれた」。
 「碌山美術館誌」によると、太平洋戦争を挟んで地元に碌山顕彰の機運が高まり、「碌山美術館設立委員会」ができた。建設資金は企業や団体、小中高生ら個人の寄付を中心に、30万人もの人から700万円以上を集めた。これに県と旧穂高町の補助金を足して総額は837万円になった。敷地は穂高中(現穂高東中)の土地660平方メートルの無償提供を受け、私有地545平方メートルを買い足した。
 1957年に着工し、穂高中の生徒がレンガや瓦の運搬などで協力。碌山の親族が保管していた作品を運び込み、碌山の49回忌に当たる1958年4月22日に開館した。
 今井は別の雑誌に「心の結集で建った碌山美術館」と題し、「資金といい、労力奉仕といい、多数の人々の力の結集で出来たという点で最大の価値がある」と書いた。武井敏学芸員は「設立当初から周囲の人々に支えられてきた美術館だ」と感謝する。
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 ■人物略歴 ◇荻原碌山
1879~1910年。長野県東穂高村(現安曇野市)の農家に生まれ、本名は守衛(もりえ)。17歳ごろに油絵に目覚め、21歳で渡米して絵画を学んだ。渡仏していた24歳の時、オーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」に出会い、感動。彫刻を志すようになった。28歳で帰国し、東京で次々と制作。30歳の時に突然吐血し、死亡した。死因は不明で、持病だった皮膚病の薬の影響で内臓を害していたとも言われる。作品のうち「北條虎吉像」と「女」は国の重要文化財。

このブログでも何度かご紹介しましたが、碌山美術館さんのクラウドファンディング。わずかな期間で目標額の3.3倍も集まったそうで、まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと実感させられます。かたやまったく必要とは思われない事項に対し、湯水の如く税金が投入される事態、何とかならないものでしょうか……。

もう1件。9月16日(金)の『朝日新聞』さん山梨版から。

外国人を支援するスリランカ人・インディカ・トシさん

 来日して14年になるスリランカ人の男性が、日本の暮らしで困っている外国人を支援している。自分自身、肌の色で差別され、日本を離れようと思った時、思いとどまるきっかけになったのは、ある詩だった。
 甲府市の人材会社「アンサーノックス」で、管理マネジャーとして様々な外国人の相談に乗る。日本語、英語、ヒンディー語、シンハラ語、ドイツ語を操る。
 日本語に興味を持ったのは中学生の時に、夏目漱石の「こころ」を読んだのがきっかけだった。原書に触れたいと、高校生の頃から学び始めた。スリランカの大学で言語学と日本語を学び、公務員として辞書編纂(へんさん)の仕事をした。
 さらに学びたいと、2008年に来日した。富士山があってきれいかな、とネットで見て思い、山梨を選んだ。だが、一緒に来た友達が、2週間でホームシックで帰国。知り合いもおらず不安になった。
 この年はリーマン・ショックで、アルバイトも見つからなかった。やっとコンビニの求人を見つけて面接に行くと、「肌の黒い外国人が店員だと、怖くて客が来なくなる」と断られた。
 びっくりした。日本の何もかもが嫌になった。信号で流れてくるアナウンスの音も嫌で、山に囲まれた甲府盆地も、刑務所のようで息苦しく感じた。
 ある夜、散歩をしていると、古本屋からジャズのレコードが流れてくるのが聞こえた。音に誘われるように中に入った。立っている場所もないほど、本がぎっしりあった。
 「どんなものに興味があるの?」と店主が声をかけてくれた。「近代文学」というと、本の山を紹介された。手に取ったのは、高村光太郎の詩「道程」だった。
 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
 言葉が心に染み渡った。誰かが作った道を行くのではなく、「自分で道を切り開くしかない」と思った。せっかく日本に来たのだから、ここに残ろう。
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 古本屋に通うようになり、心が落ち着いた。文学が好きな日本語学校の先生の家も頻繁に訪れ、夏目漱石や国木田独歩、森鷗外の本も読みあさった。
 山梨英和大学で言語学を学び、スリランカのシンハラ語と日本語の電子辞書のソフトも作った。奨学金を受けながら、山梨大学教育学部の修士課程も終え、その後、山梨学院大学大学院で国際政治学を学んだ。
 その後、進路で悩んだ。このまま博士課程までいき、研究を続けるのか、就職をするのか。
 たまたま、ペルー人の友達から、いまの会社を紹介された。代表と面接をした時、スリランカの駄菓子を出された。「私の地元のものを出してくれた」と感激した。こまやかな気遣いで、外国人も大事にしてくれている会社だと思った。
 「私でよければ働かせてほしい」
 会社にはこれまで50カ国以上の外国人が相談に来たり働いたりしてきた。管理マネジャーの仕事とは別に、外国人が診断書などを読めない時に翻訳や通訳をしたり、入国管理局とのやりとりをしたりなどボランティアで世話をする。「甲府まちゼミ」では、無料でヨガを教える。
 留学生だった時、自分も悩んだ。「外国人の気持ちはよく分かる。なんとかしてあげたい」
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インディカさんが手にされているのは、昭和16年(1941)発行の『詩集 道程 改訂版』の普及版です。やはりすぐれた詩は、国境を超えて人の心の琴線に触れるのですね。

「国境を超えて」と言えば、先述の碌山美術館さんのクラウドファンディング。支援なさった方のお名前が載ったサイトを見ると、海外からの支援もあったようです。ありがたい限りですね。

【折々のことば・光太郎】

車で日比谷 ブダペスト四重奏をきく、

昭和29年(1954)2月3日の日記より 光太郎72歳

日比谷」は日比谷公会堂、「ブダペスト四重奏」は、ブダペスト弦楽四重奏団。大正6年(1917)に結成され、メンバーを入れ替えつつ昭和42年(1967)まで活動しました。

当時のメンバーは全員ロシア出身。しかし活動の拠点はアメリカだったそうです。東西冷戦も既に始まっていた時期ですが、やはり優れた芸術は国境を超えるということでしょう。

光太郎、この夜の模様を詩にしています。001

   弦楽四重奏

外套のえりを立てて
バルトークにくるまつている。
ストールをなびかせて
ミローがささやく。
日比谷公会堂のホールやポーチに
人があふれて動いている。
演奏がすんだばかりの
超現実の時間がながれ、
どこにいるのか、どこにゆくのか、
ともかく生きているものの大群団が
階段の方へ向いている。
バルトークの悲しみや怒りが
第三の天で鳴つている。
冬の夜風は現世を吹くが、
あの四重奏がもっと底から悲しくて痛くて。

この夜の演奏曲目は、バーバーの「弦楽四重奏曲 Op.11」、バルトークの「弦楽四重奏曲第6番」、ミヨーの「弦楽四重奏曲第12番」でした。

028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

京都から演劇の公演情報です。

演劇ビギナーズユニット2022(#28)修了公演XX文士(ハロゲンブンシ)「日本文学盛衰史」

期 日 : 2022年9月24日(土)・9月25日(日)
会 場 : 京都市東山青少年活動センター
時 間 : 9月24日(土)①13:30/②18:00 9月25日(日)③13:00
料 金 : 前売900円(日時指定でのご予約になります) 当日1,200円

6月から始まった初心者対象の演劇セミナーの修了公演です。今年で28回目の公演。演出を担当する岡本昌也さん(安住の地)と、演出補の中村彩乃さん(安住の地/劇団飛び道具)と初めて出会った17人の仲間が一緒に創作しました。ぜひご来場ください。
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「日本文学盛衰史」は、高橋源一郎氏の原作、平田オリザ氏が脚本を書かれ、平成30年(2018)に劇団・青年団さんによって初演されました。夏目漱石、島崎藤村、田山花袋、石川啄木、芥川龍之介、北原白秋ら、近代の文豪達の群像劇だそうで、光太郎も登場人物の一人に名を連ねています。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、お近くの方(遠くの方でも)、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんの帖にウエルハアランの詩をペンでかきかける、


昭和29年(1954)1月2日の日記より 光太郎72歳
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奥平さん」は美術史家の奥平英雄。「」は、奥平に請われて書くことにした書画帖で、光太郎自ら「有機無機帖」と名付けました。全18面、途中で入院等もあり完成には2年以上かかりました。
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現在、目黒区駒場の日本近代文学館さんに所蔵されています。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。

福岡から演劇公演の情報です。

椿エンタープライズ『百花繚乱』

期 日 : 2022年9月25日(日)
会 場 : シアターカフェ 愛と青春のふる~れ 福岡市東区箱崎1-33-9 ウインドウビル3F
時 間 : 14:00~
料 金 : 観劇¥3000【軽食&ワンドリンク付き】
      観劇+交流会¥6000【料理付き2時間飲み放題】 学生は¥1000引き

第一部 「朗読ミュージカル」和香奈/Ash/MIZUKI
第二部 「パントマイム」TEN—SHO
第三部 「智恵子抄」玄海椿ひとり芝居(朗読/長澤昭)
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福岡を拠点に演劇活動を行っていらっしゃる玄海椿さんによる一人芝居「智恵子抄」がプログラムに入っています。同作、玄海さんのレパートリーの一つで、時折、上演されています。『百花繚乱』は「マンスリー公演」だそうで、地元に根を張って毎月上演されている点は素晴らしいと存じます。

もう10年前になりますが、当方、福岡まで拝見に伺いました。黒子(くろこ)のような朗読の方がいらっしゃり、それ以外は玄海さんの一人芝居です。その意味では野田秀樹さん脚本の「売り言葉」に近い部分があるのですが、「売り言葉」は智恵子を追い詰めた光太郎を糾弾する要素がかなり強いのに対し、こちらはさまざまな行き違いから智恵子が壊れていく、という感じ。光太郎ディスり度は「売り言葉」ほど高くないように感じました。

お近くの方(遠くの方も都合がつけば)、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

モチ切り(取手のもち)、 (入浴)夜在宅、 川鍋ラジオ店より受信機返却し来る、あまりこわれすぎてゐる由、 ラジオなどきく、 十一時頃ねる、

昭和28年(1953)12月31日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を完成させ、除幕まで行われた昭和28年(1953)もこの日で終わり。

取手」は茨城県取手町(現・取手市)。智恵子の最期を看取った智恵子姪の春子が嫁いだ先で、餅は春子からの贈り物でした。ラジオは複数台持っており、そのうちの一台。1週間前に修理を頼んでいましたが、無理とのことで、壊れていないラジオの方を聴いたようです。

都内から演奏会情報です。

清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界

期 日 : 2022年9月24日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 13:30~
料 金 : 全席自由 4,000円

清水邦子が朝岡真木子の組曲『智恵子抄』全曲に挑みます。

曲 目 : 高村光太郎 組曲「智恵子抄」
       1.人に  2.あどけない話  3.千鳥と遊ぶ智恵子
       4.値ひがたき智恵子  5.レモン哀歌
      与謝野晶子 君死にたもうことなかれ
      茨木のり子 一人は賑やか
      星乃ミミナ 生命の彩り
      岡崎カズヱ 私に歌があればこそ
      こわせ・たまみ 秋風の中で
      矢崎節夫 しゃなりと あるく
      他

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朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲を、清水邦子さんという方が歌われるコンサート。

組曲「智恵子抄」は、令和元年(2019)に全曲の改訂初演が行われましたが、その後、今年4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』に収められています。その他、ぽつりぽつりと抜粋で各種演奏会のプログラムに入っていました。

名古屋二期会 日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~
朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回。

上記、あくまで当方の把握していた限りのもので、他にも演奏される機会があったかもしれません。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】001

午后五時万安にゆく、十和田委員会解散の会、谷口、草野、土方、菊池、藤島、余の六人、十時過ぎ終り、「好きな場所」に皆で立より、十二時かへる、


昭和28年(1953)12月28日の日記より 光太郎71歳

万安」は「万安楼」。現在は銀座タワーとなっている場所です。「十和田委員会」は、この年10月に除幕された光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員会。その解散式という名目でしたが、気の置けないメンバーでもあり、忘年会的な要素が強かったように思われます。一応、これで「乙女の像」がらみの諸々は全て終了、ということにはなりましたが。

好きな場所」は、小説家武田麟太郎の未亡人・とめが経営していた酒場。武田は昭和14年(1939)に、「好きな場所」という短編小説で光太郎を登場させています。

「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルのメロディーを附けて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。先月から西日本を中心に「ありがとうコンサート」と題するツアーを展開なさっています。
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会場ごとにコンセプトやコラボ出演者等いろいろのようで、詳細な曲目等発表されていませんでしたので、これまで紹介せずにいました。

ただ、今週行われる京都でのステージで、「智恵子抄」が前面に押し出されるという情報を得ましたのでご紹介します。何と、生け花とのコラボだそうで。

モンデンモモありがとうコンサート 「はじまりは 花に溢れ」

期 日 : 2022年9月15日(木)
会 場 : 池坊学園こころホール 京都市下京区四条室町鶏鉾町491
時 間 : 15:00~
料 金 : 無料

花と言葉が舞ふ そこに はじまる みち  ある秋の1日 智恵子は かえってきた そしてレモンと歩んでいく  あなたの こころへ

出 演 : モンデンモモ(Vo) 小室弥須彦(Pf) ロザリア(生け花)
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お近くの方(遠くの方でも(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんくる、電通ラジオの人五人くる、奥平さんとの対談30分ほど録音、

昭和28年(1953)12月27日の日記より 光太郎71歳

奥平さん」は美術史家の奥平英雄。光太郎とは戦時中からのつきあいで、昭和19年(1944)には光太郎の評論「天平彫刻の技法について」を含む『天平彫刻』の刊行に奔走した他、この後、昭和30年(1955)に岩波文庫の一冊として現在も版を重ねる『高村光太郎詩集』の編集等にあたりました。

対談」は翌年、文化放送でオンエアされたもので、その一部は「新潮カセットブック 高村光太郎詩集」(平成2年=1990)に収められている他、奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(昭和51年=1976 瑠璃書房)に付録としてカセットテープが添えられています。こちらはノーカットです。
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対談を文字起こししたものは、『高村光太郎全集』第11巻に収められていますが、なぜか次の一節が脱漏していました。

奥平 良寛なんてものには、やっぱり好意をお持ちなんですか。
高村 まあ、やっぱり、素晴らしいと思うんですよ。
奥平 いや、私はねえ、やっぱり、先生が「昭和の良寛」のような気がするんですけどね、字から受ける感じが。
高村 それは大違いだな。僕はもっと悪党坊主だから(笑)。
奥平 いや、やっぱり良寛の書っていうのは、非常に私が好きなのは、清潔なっていうのか、ああいう、その、清らかさなんですけどね。そういう意味で先生の書もやっぱり……。
高村 ただ、良寛の方が書が上手い。実によくあれはね、古来の書を、筆で習ってはいないだろうが、習っているんですよ。これは、ねえ、もう、唐あたりの墨跡の、いや、唐あたりの、あの、あれはあれでしょうかな、刷り物でしょうか。実によく見ているんですね。そして羲之あたりの筆法をちゃんと取り入れて。
奥平 そうそう、ずいぶん勉強したそうですね。
高村 ええ。だから、あの馬鹿げたまずいような字ではちっとも、そうじゃないんですよ、本当は。それで良寛を真似てる奴のは本当にまずいけれども。
奥平 そうですね。
高村 良寛自身のはね、あの仮名の、仮名なんてきたら実に巧みだな。あんなこと僕らにはとっても出来ない。あれは暇があったから出来たんですよ。
奥平 いや、だけど先生の書は、ここ数年ますます良くなるばかりですね。
高村 いや、僕は知らない。責任持たない。

光太郎がその人生の大半を過ごした地・東京市本郷区(現・東京都文京区)。

そちらに本部を置く文京建築会さんで、平成23年(2011)から「文京・見どころ絵はがき大賞」を開催していらっしゃいます。当方、寡聞にして存じませんでした。

まず、過去11年間の優秀作品を展示している受賞作品展が、盛岡市の深沢紅子野の花美術館さんで、先月から開催中です。文京区さんと盛岡市さん、そういえば友好都市的な関係でした。

文京・見どころ絵はがき大賞 2011-2021 受賞作品展

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
会 場 : 深沢紅子 野の花 美術館 1階ロビー 盛岡市紺屋町4-8
時 間 : 10:00~17:00 (最終日は15時迄)
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合はその翌日)
料 金 : 無料(他展示は有料)

盛岡市と友好都市でつながる東京都文京区で、“あなたが見つけた文京の見どころ”をテーマに毎年開催の人気コンテストです。今回は、その「文京・見どころ絵はがき大賞」(主催:文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会)のこれまでの歴代受賞作品を展示。はがきの中に、それぞれの方の思い出が詰まっています。力作多数。入場無料となっております。どうぞお気軽にお立ちよりください。

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今年度の大賞展作品募集も行われています。

第11回 文京・見どころ絵はがき大賞

大募集中です! ふるってご応募ください!

「文京・見どころ絵はがき」を作って送ってください。今回の締め切りは9月30日(金)当日消印有効です。文京区長賞、郵便局長賞、林丈二賞、(友好都市)盛岡市長賞、テーマ賞など様々な賞を予定しております!!

※今年のテーマ部門は「文京の樹」

【応募期間】  ~ 9月30日(金)消印有効
【応募方法】 官製はがき大サイズ(10cm×14.8cm) 
       スケッチ・イラスト・写真など表現は自由
       100字以内の文章をはがきの表または裏にそえてください。
       文京区に興味のある方ならどなたでも年齢を問わず応募できます。
【表彰対象】 文京区内の見どころを発見し、その価値が十分に表現された絵はがき作品
【応募先】  〒112-0003 東京都文京区関口1丁目43番5号B1F
         文京春日郵便局留 文京建築会行
       住所、氏名、年令を明記ください。
【表彰式】  2022年12月17日(土)13:00~16:00
       文京シビックセンター26階 スカイホール
【展覧会】  2022年12月17日(土)~20日(火)10:00~18:00
       文京シビックセンター1階 ギャラリーシビック
       ※最終日は17:00まで
【問合せ先】 文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会
       email:ehagaki@bunkyo-arch.org
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残念ながら旧駒込林町光太郎(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居は戦災で焼失してしまいましたが、光太郎実家隣の旧安田楠雄邸など、光太郎がいた当時の俤はまだまだ残っています。

絵心のある方、文京区愛に溢れる方、ぜひご応募を。

【折々のことば・光太郎】

西山勇太郎氏風間氏と同道くる、写真撮影、 椛澤さんくる、 藤島さんくる、廿八日午后五時築地万安にて委員会解散式をやること、会費2000円のこと藤島さんより話、

昭和28年(1953)12月23日の日記より 光太郎71歳

西山勇太郎氏」は詩人。辻潤や萩原朔太郎とも交流がありました。光太郎歿後には光太郎若き日のスケッチ帖『赤城画帖』を編集、『智恵子抄』版元の龍星閣から出版しています。

風間氏」は風間光作。やはり詩人で、光太郎に自著の題字揮毫をしてもらったりした他、光太郎歿後には「高村光太郎詩の会」を立ち上げ、顕彰活動にあたりました。

椛澤さん」は椛沢佳乃子(ふみ子)。茶道家で、戦時中からの光太郎ファン。駒込林町のアトリエ兼住居、戦後の花巻郊外太田村の山小屋などもたびたび訪れていました。

藤島さん」は藤島宇内。当会の祖・草野心平の『歴程』に依った詩人でしたが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際し、「在京建設委員」として青森県との交渉役等を精力的にこなしました。「委員会解散式」もこれに関わります。

この日の写真が、風間が発行していた『高村光太郎詩の会会報 第66号』(昭和44年3月)に掲載されています。
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左から椛沢、風間、光太郎、藤島です。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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先月6日から上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催中の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」展。先月末、一部作品の展示替えが行われ、後期展示となりました。
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光太郎の父・光雲作品。前期では「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ていましたが、後期に入って「鹿置物」(大正9年=1920)にバトンタッチ。こちらも逸品です。
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公式サイト上で「出品目録」を見つけました。
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国宝に指定された「蒙古襲来絵詞」、高橋由一の「鮭」などは通期展示。それから目玉の一つ、伊藤若冲の「動植綵絵」なども後期からの展示です。

前期展示のレポートですが、主催に入っている読売新聞社さん発行の『読売中高生新聞』に関連記事が出ていましたのでご紹介します。

日本の風土を記録

004 日本美術の奥深にふれる特別展「日本美術をひも解く― 皇室、美の玉手箱」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開催されています。宮内庁三の丸尚蔵館の名品と、東京芸術大学の収蔵品が結集した同展の魅力を、同美術館の黒川廣子館長に聞きました。
 本展は、皇室ゆかりの品が収蔵されている宮内庁三の丸尚蔵館と、近代以降の日本で芸術の教育・研究 機関として重要な役割を担ってきた東京芸術大学のコレクションを合わせて、日本美術の魅力を紹介するものです。タイトルにある「玉手箱」には、「様々なジャンルや作品に出会える」(黒川館長)という意味が込められています。
 時代ごとではなく「生き物」や「物語」「風景」などのテーマごとに作品が区分されていて、所々に「蒔絵・螺鈿」「やまと絵」「障壁画」などの伝統技法や形式の解説もあります。小さい子どもも楽しめるワークシートも用意されていて、与えられたミッションをもとに、楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 会場に入るとまず、黄金の蒔絵とオーロラのような螺鈿が調和しながら 輝きを放つ「 菊蒔絵螺鈿棚」が来場者を迎えます。明治天皇の許可のもと、東京美術学校(現・東京芸大)と、宮内省(現・宮内庁)が 制作した、 記念的な作品です。
 文字をテーマとしたコーナーでは、 伝藤原行成「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」などが目をひきます。 雲母(きら)とよばれる鉱物を粉末状にして 描かれた文様がある料紙など、素材と文字の美しさのかけ合わせが印象的です。
 また、だれもが一度は教科書などで見たことがあるであろう、鎌倉時代の元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」も、物語をテーマとしたコーナーに展示されています。「当時は写真がない時代なので、絵で表現して現在に伝えているところに 歴史的な 価値があります」と、黒川館長。多くの画家が模写を行った作品だそうです。
 「蒙古襲来絵詞」を 含め、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品として 昨年初めて国宝指定された5件が展示されるのが、本展の見所のひとつです。この中で、桃山時代の武士のように力強い獅子が描かれた狩野永徳の「唐獅子図屏風」は生き物を集めたコーナーに展示され、会場に威風を放っていました。
  豪華絢爛な屏風絵から、月ごとに咲く花と鳥や虫を合わせた 酒井抱一「 花鳥十二ヶ月図」のような繊細な掛け軸まで、バラエティー豊か。重要文化財となっている、明治時代の高橋由一「鮭」は油絵です。「身近な画題を描くことで、洋画を受け入れてもらおうと一生懸命でした」という黒川館長の説明に、当時の洋画家たちの挑戦に思いをはせました。雌雄のつがいで展示されている 高村光雲のかわいらしい木製彫刻「矮鶏(ちゃぼ)置物」は、元々雄のみだったのが、明治天皇が気に入って購入され、それに合わせて雌を急きょ制作したそうです。
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 黒川館長によると、貴重な作品を守るために、作品ごとに当てる光を変えたり、温度も作品にとってちょうどいい温度にしたりと、気をつけているそうです。美術館が少し肌寒く感じたのはそのせいだったのかと納得しました。
 日本美術の特徴がぎゅっと詰まった展覧会。「日本で起きる全てを大切に記録するのが美術。日本ならではの表現で、日本という風土を記録しているのが魅力です」という、黒川館長の言葉が心に残りました。これからは作品の背景にも気を配って、作品を見ていきたいと思いました。
 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は、東京芸術大学、宮内庁、読売新聞社主催。9月25日まで、会期中、一部展示替えあり。詳細はホームページ 。

編集後記
 国宝級の美術品は、何度鑑賞しても飽きませんでした。美術や歴史の教科書に載っている実物を、目の前で見られるのは感動します。特に同世代には、日本人として、世界に 誇る日本美術の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。ぜひ足を運んでみてください。(岡島)
 ★企画者・ 岡島花蓮記者(中3)、 児玉龍之介記者(高2)、 飯島記者(高2)、 池上颯記者(中2)、 那須祐香記者(小5)

9月の金・土は午後7時30分まで開館だそうです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前志戸平より車で花巻温泉松雲閣別館に移る。 再び出て理髪等、


昭和28年(1953)12月2日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。かつてたびたび宿泊した松雲閣別館に宿を移し、5日の朝、再上京するまで逗留しました。

都内から現代アートの展覧会情報です。

緑色の太陽とレンコン状の月

期 日 : 2022年9月10日(土)~10月8日(土)
会 場 : タカ・イシイギャラリー 東京都港区六本木6-5-24 complex665 3F
時 間 : 12:00~18:00
休 廊 : 日・月・祝祭日
料 金 : 無料

「人は案外下らぬところで行き悩むものである。いわゆる日本画家は日本画という名に中てられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。」という書き出しから始まる高村光太郎のエッセイ《緑色の太陽》は、僕が近年ずっと抱えていた問題意識と共振するような内容で驚いた。100 年以上も前に書かれたこのテキストはたんに芸術論であるばかりか、現在わたしたちが直面しているコロナ禍、そして不安定な世界情勢の中でどう生きるべきかを示唆しているように思う。「人は、そして芸術家は国家に規定されるのか?」という根本的な問いを造形言語のレベルから検討し可視化したい。
梅津庸一

タカ・イシイギャラリーでは、9 月 10 日(土)から 10 月 8 日(土)まで、梅津庸一「緑色の太陽とレンコン状の月」を開催いたします。梅津のタカ・イシイギャラリーでの初個展となる本展では、梅津が近年新たに制作に打ち込んでいる陶作品を中心に、30 点以上の大小様々なドローイングと、大塚オーミ陶業株式会社の協力のもと制作された陶板作品を展示いたします。

梅津は、「美術とはなにか」、「人がものをつくるとはなにか」という根本的な問いについて、様々な角度から思考、実践してきました。日本における美術の受容史を自らの身を以て体現した代表的な自画像シリーズや、パフォーマンスを記録した映像作品で知られてきましたが、自身が主宰するアートコレクティブ「パープルーム」や、非営利のギャラリーの運営、展覧会のキュレーション、テキストの執筆、そして、一昨年より新たに加わった陶作品の制作など、その活動領域は、近年より一層の多面性を見せています。2021 年にワタリウム美術館にて開催された個展「ポリネーター」では、これまであまり知られていなかった梅津の活動の全貌が明らかになりました。なかでも、140 点もの陶作品により構成された「黄昏の街」は、SF的な想像力と、粘菌の増殖に見られるような秩序とが同居したメルクマール的作品と言えるでしょう。 

2021 年、梅津は、六古窯のひとつである信楽の製陶所を間借りして作陶を始めます。明治時代から日本を下支えしてきた産業のひとつである「窯業」を起点に、現代アートにおける「ものづくり」について考察を深めています。今年 7 月には、信楽の複数会場にて「一人芸術祭」の様相を呈した「窯業と芸術」展を企画・開催し、作家による「やきもの」だけではなく、それを下支えするインフラにもスポットを当てました。また、梅津は現代アートで近年注目の高まる陶芸を単なる「オーガニックなもの」や「手仕事への回帰」としては捉えておらず、陶芸における柳宗悦や河井寛次郎らによる民藝運動と、それに付随する「オリエンタリズムの功罪」を積極的に見出すことで、一連の作品を編み上げているのです。 

梅津のドローイング作品は、ひとつの表現様式に一元化しない複雑さを有しています。ポエジーと物理法則、私小説的な感受性、フォーマリズム絵画の原理が互いに作用しながら編まれる作品は、1 点 1 点が独立した作品でありながらも、それぞれが有機的な結びつきをみせています。本展では、陶芸とドローイング、窯業と芸術、モダニズムと図画工作の間を行ったり来たりしながら練り上げられた、およそ 100 点に及ぶ作品群を展示いたします。決してひとつの結論に回収されることのない梅津の複合的なアプローチは、その作品や活動の全体を介して私たちに「美術とはなにか」という疑問を投げかけているようです。梅津の思考の基盤と、次なる展開をこの機会に是非ご高覧ください。 

梅津庸一は 1982 年山形県生まれ。相模原在住。東京造形大学絵画科卒業。絵画作品、ドローイング作品、自身を題材とした映像作品、セラミック作品、陶板作品と多様なメディアを介して制作を行うほか、自身が主宰する「パープルーム予備校」(2014 年~)および「パープルームギャラリー」の運営、美術手帖 特集「絵画の見かた」(2020 年 12 月号)の監修、テキストの執筆など活動領域は多岐にわたる。主な個展に「未遂の花粉」愛知県美術館(愛知、2017 年)。「ポリネーター」ワタリウム美術館(東京、2021 年)。 作品集に『ラムからマトン』(アートダイバー、2015 年)。 
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光太郎の評論「緑色の太陽」からのインスパイアだそうで。

「緑色の太陽」は、光太郎帰朝後の明治44年(1911)、雑誌『スバル』に発表された「日本初の印象派宣言」とも呼ばれるもので、同時代の美術家たちに多大な影響を及ぼしました。のちに妻となる長沼智恵子も、これを読んで目からウロコだったようです。

題名の「緑色の太陽」は、次の一節に象徴的に使用されています。

人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。(略)「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。

さらに、

僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。

PERSOENLICHKEIT」は独語で「個性」。まさに印象派宣言といえましょう。

梅津氏、存じ上げない方ですが、絵画、陶芸などの作品を作られているとのこと。そこで今回の個展では、大塚オーミ陶業株式会社さんの協力のもと制作された陶板作品も並ぶそうです。大塚オーミ陶業さんといえば、埼玉県比企郡ときがわ町の正法寺さんに寄進された光太郎筆の「般若心経」を写した陶板を制作なさった会社です。不思議な縁を感じました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻病院長さん夫妻車でくる、そのうち「わんこそば」などの催あるとの事、
昭和28年(1953)11月28日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻ですが、郊外旧太田村の山小屋には起居せず、大沢温泉さん、志戸平温泉さん(この日も)、花巻温泉さんなどを泊まり歩いていました。宿痾の肺結核は既に老体を長く蝕んでおり、また初冬とはいえ岩手の寒さは厳しく(この日も雪が舞っていました)、むべなるかな、です。

花巻病院長さん」は佐藤隆房。「「わんこそば」などの催」は不分明です。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎、柳敬助ら、守衛の周辺にいた作家の作品も収蔵、展示なさっています。

現在、コレクション展的な「中村屋サロンの芸術家たち」が開催されていて、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916頃)、「十和田湖裸婦像のための小型試作」(昭和27年=1952)も展示されています。
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出品目録的には以下の通りです。

彫刻11点
 戸張孤雁 《をなご》1910年  《足芸》1914年
 中原悌二郎 《老人》1910年 《若きカフカス人》1919年 《憩える女》1919年
 高村光太郎 《裸婦坐像》1916年頃  《十和田湖裸婦像のための小型試作》1952年
 保田龍門 《臥女》1924年 《裸婦立像》1927年
 堀進二 《中原悌二郎像》1916年 《中村彝氏頭像》1969年
平面(デッサン、油彩等)(12点)
 荻原守衛 《こたつ十題其一》1910年頃 《こたつ十題其二(複製)》1910年頃
  ※会期中入れ替えます
 戸張孤雁 《荒川堤》1910年《橋を渡る農婦》制作年不詳
 柳敬助 《荻原守衛肖像》1910年頃 《千香》1910年頃 《婦人》1910年
 齋藤与里 《花あそび》1950年 《山峡秋色》1957年
 鶴田吾郎 《窓辺》制作年不詳 《ネパール国境のヒマラヤ》制作年不詳
      《リガ》制作年不詳

そちらの関連行事として、市民講座が開かれます。

美術講座「中村屋サロン展の作家たち」

期 日 : 2022年9月10日(土)
会 場 : 碌山美術館 杜江館2階 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:30~20:00
料 金 : 無料
講 師 : 武井敏氏(碌山美術館学芸員)


ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

ところで碌山美術館さんというと、本館に当たる碌山館修繕のためのクラウドファンディングが、明日まで実施されています。

当初目標額は700万円でしたが、あっという間にそれを達成、その後も寄附の勢いとどまらず、「セカンドゴール」に設定されていた1,000万円、「サードゴール」の1,800万円もクリア。今朝の段階で2,100万円を突破しています。

世の中、まだまだ捨てたものではないなと実感させられました。繰り返しますが、明日までの実施です。さらなる支援をよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋の中ゐろりでいろいろ撮影、井戸水くみ、大根きざみ、スルガさん宅でそば食を皆でやる。

昭和28年(1953)11月27日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。

前日に続き、この日もブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
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光太郎帰村についての報道については、こちら

晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様・北川節子様が、8月16日(火)に亡くなられました。享年94歳だったそうです。ご葬儀は御家族と近親者のみで、北川先生の時と同じく菩提寺の文京区浄心寺さんにて執り行われたとのこと。

昨日、ご子息光彦氏から通知の葉書が届き、驚いた次第です。そちらによれば、「亡くなる直前まで比較的元気で家族と共に自宅で過ごし、最後も家族に見守られながら静かに亡くなりました」。
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千駄木のお宅にお邪魔するたび、優しい笑顔で迎えて下さった節子様。連翹忌の集いや女川光太郎祭北川先生を囲む新年会等、いつも北川先生の傍らで、その優しい笑顔をふりまかれ、どんな場でもたちまち和ませてしまうという特技をお持ちでした。

節子様、光太郎最晩年の日記に登場されています。

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、(昭和30年(1955)10月27日)

北川先生は昭和27年(1952)には光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問され、以後、何度も足を運ばれていましたが、この月20日に、当時勤務されていた定時制高校でのご同僚であらせられた節子様とご結婚なさり、初めてお二人でのご訪問でした。

二本松訪問」は、御夫妻の新婚旅行。その際の写真がこちらです。
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翌昭和31年(1956)、光太郎の亡くなった年にも。

后北川太一夫妻くる、メドツクもらふ、三時半辞去、新年詩の新聞贈呈、(昭和31年(1956)1月24日)

「メドツク」はワインと思われます。「新年詩の新聞」はおそらくこの年元日の『中部日本新聞』。詩「開びやく以来の新年」が掲載されていました。

節子様、この2回の会見の際の印象として、「光太郎先生はとても大きい人だった」と語られました。小柄だった御夫妻と較べての体格、という意味もありましょうが、それよりも光太郎の人格的な大きさということをおっしゃっていたのだと存じます。

節子先生(かつての教え子の皆さんがそうお呼びでしたので、当方もうつってしまいました)の笑顔に接することがもうできないのかと思うと、実に淋しい限りですが、北川先生の元に旅立たれたのだと考えれば、心が安らぎます。彼岸にてまた仲睦まじく、そして光太郎とも再会していただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

鼠穴ふさぎ、 夜在宅、うどん玉子等、 ネズミまだ出る、


昭和28年(1953)11月23日の日記より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋でも、ネズミは奇妙な同居人でしたが、北川御夫妻が訪問された中野の貸しアトリエでもネズミが出没。昭和20年代には珍しくなかったのかもしれません。

徳島から演奏会情報です。

第9回 松岡貴史&みち子作品展 小川明子、加耒徹が歌う 新作日本歌曲コンサート

期 日 : 2022年8月30日(火)
会 場 : 北島町立図書館 創世ホール 徳島県板野郡北島町新喜来字南古田91
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 全席自由 3,000円

プログラム(順不同):
  松岡貴史作曲   音楽昔噺『たの久』(初演) 他
  松岡みち子作曲  
   新作『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~
    「人に」
    「あどけない話」
    「山麓の二人」
    「千鳥と遊ぶ智恵子」
    「レモン哀歌」
  松岡あさひ作曲  新作(初演) 他

演 奏 : 小川明子(アルト) 加耒徹(バリトン)
      松岡あさひ(ピアノ) 松岡貴史(ピアノ)
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鳴門教育大学講師の作曲家・松岡みち子氏という方の「『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~」が演奏される予定です。

過日、東京公演が行われ、基本的には同一のプログラムのようです。そちらの模様、松岡氏のフェイスブック、出演された加耒徹氏のツィッター、リンクを貼っておきますのでご覧下さい。

東京公演は拝聴に伺いたかったのですが、同日、宮城県女川町での女川光太郎祭で講演を仰せつかっており、欠礼いたしました。しかし、女川光太郎祭はコロナ禍のため中止。結局、どちらにも行けず残念でした。またの機会があることを期待いたします。

徳島公演、お近くの方はぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

難波田さんブリツヂストンの人くる、撮影について山口行の打合、


昭和28年(1953)11月11日の日記より 光太郎71歳

難波田さん」は難波田龍起。かつて駒込林町にあった光太郎アトリエ兼住居の近所に住み、光太郎に私淑していた画家です。「ブリツヂストンの人」はブリヂストン美術館の映画班。「撮影」は、翌年公開された美術映画「高村光太郎」の撮影。

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエで、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景が撮られた他、前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口集落に、この月の末から帰る光太郎の密着撮影が行われることとなり、その打ち合わせでした。

まず、8月15日(月)の『日本経済新聞』さん。

森鷗外の新資料相次ぎ発見 自筆の「渋江抽斎」や広告文

 没後100年を迎えた文豪・森鷗外(1862~1922年)の新資料発見が相次いでいる。鷗外が晩年に著した史伝小説第1作で、江戸末期の医師を主人公とする「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかった。加筆修正の跡から入念な推敲(すいこう)の様子が読み取れる。同作を含む史伝三部作についての自筆広告文や、鷗外宛ての書簡約400通も確認された。一連の新発見からは文章の細部にまで目を配り、仕上がりにも自信を持っていた作家の姿が浮かび上がる。
 鑑定に携わった鷗外研究の第一人者、山崎一穎・跡見学園女子大学名誉教授によると「自筆原稿が発見されるのは極めて珍しい」。事例は「舞姫」などわずかで、「渋江抽斎」は初めて。東京の文京区立森鷗外記念館が購入した同作の原稿は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に全119回連載されたうちの第49回と50回にあたる。新聞社が活字を組む目的のためか裁断されており、49回は13枚、50回は11枚に分かれている。
 現在読める「鷗外全集」(岩波書店)所収の「渋江抽斎」は、新聞連載された原稿を基に鷗外が修正したもの。今回の発見で、連載中も鷗外が直前まで手を加えていたことが分かった。「鷗外作品誕生の瞬間に立ち会ったようである」(山崎氏)
  広告文は春陽堂書店(東京・中央)の倉庫で見つかった。史伝「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」「北条霞亭」を宣伝するために鷗外自らが書いた。文章自体は文芸誌「新小説」の鷗外追悼号や「鷗外全集」に掲載されているが、自筆原稿の確認は初めて。作品の出来に関して「著者自らが保証する」と書くなど、強い自信がうかがえる。
 約400通に上る鷗外宛て書簡は島根県津和野町の森鷗外記念館が寄託を受けた。夏目漱石や与謝野晶子といった文学者のほか、高村光太郎や西園寺公望ら美術界、政界の大物からのものもある。鷗外宛て書簡は既に800通ほど見つかっているが、今回ほどの量がまとまって見つかるのは珍しいという。
 「渋江抽斎」の自筆原稿と書簡の一部は、文京区立森鷗外記念館の特別展「鷗外遺産」(10月22日~23年1月29日)で一般公開される。
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『日経』さんの記事は後追いでして、「渋江抽斎」原稿の件は7月に、書簡400通の件は今月初めに、それぞれすでに報じられていました。ただ、他紙の既報では光太郎の名が出ていませんでした。

『朝日新聞』さん。8月5日(金)掲載分です。

鷗外へ、各界書簡400点 漱石・啄木・与謝野晶子・岡倉天心・西園寺公望…広い交友示す発見

005 今年で没後100年になる文豪、森鷗外(1862~1922)あての書簡約400点が、まとまった形で見つかった。出身地の島根県津和野町にある町立森鷗外記念館が4日発表した。差出人は夏目漱石や与謝野晶子、石川啄木、岡倉天心ら、明治・大正期に活躍したそうそうたる面々。鷗外の交友関係の幅広さを物語る貴重な発見という。
 鷗外の娘婿で仏文学者だった山田珠樹(たまき)さんらが保存していたのを遺族が見つけた。差出人には文学・演劇・美術界で名をはせていた人たちだけでなく、山県有朋や西園寺公望ら政治家の名前もあった。少なくとも60人以上から送られた書簡という。1896~1922年の日付が確認できたが、日付のないものも多い。現在、漱石や啄木からの書簡は専門家が調査中だが、内容がはっきりしたものの中から4点を報道陣に公開した。
 夏目漱石の妻・鏡子からの書簡は、漱石が伊豆・修善寺で大量に吐血した「修善寺の大患」(1910年)の際、軍医でもあった鷗外が部下を遣わして見舞ったことへの礼状。漱石の日記にのみ記されている内容だった。
 与謝野晶子からの書簡は、晶子が夫の鉄幹を追って1912年にパリに渡ったときのもの。旅費の工面を鷗外が手助けしたことが裏付けられるという。
 鷗外の研究者で、町立森鷗外記念館の館長を務める山崎一穎(かずひで)・跡見学園理事長は「これだけの量の書簡がまとまって出てきたことがまず驚きだ。鷗外の面倒見の良さや気配りがうかがえる手紙で、著名な差出人の方の研究も一層進むことになるだろう」と話す。
 同記念館は年度内に翻刻(活字化)の作業を終え、内容や背景を分析、精査したうえで、成果を書簡集として出版する予定という。
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さらに同日の地元紙『山陰中央新報』さん。

鴎外の書簡400点見つかる 差出人は夏目漱石や与謝野晶子など著名人ぞろい

 島根県津和野町出身の文豪・森鴎外(1862~1922年)の幅広い交遊関係を物語る鴎外宛ての書簡約400点が見つかった。差出人には夏目漱石や与謝野晶子、島村抱月など、明治-大正期を彩った文学界、演劇界の著名人や政治家らがずらりと並ぶ。森鴎外記念館(津和野町町田)が4日発表した。
 400点は1896(明治29)年から、鴎外が亡くなる1922(大正11)年にかけて送られ、夏目漱石らのほか、正岡子規、石川啄木、山県有朋、北原白秋、黒田清輝、岡倉天心など約60人の差出人が確認できる。この日は与謝野晶子、西園寺公望、夏目漱石夫人の夏目鏡子(きょうこ)、樋口一葉の妹くにが送った計4点を公開した。
 与謝野晶子の書簡は12年3月2日付で、夫の与謝野鉄幹が11年にパリに向かったのちの12年5月、晶子が後を追った際、洋行費用を鴎外が贈ったことがうかがえる内容。晶子は「夢のやうに(ように)存じました。(中略)誠にお禮(れい)の申し上げやう(よう)も御座(ござ)いません」と感謝の言葉をつづっている。
 山崎一穎(かずひで)館長(83)は会見で「洋行費用の捻出については鴎外自身の日記からも確認できるが、晶子側からの資料はこれまでなかったので貴重だ」と説明。400点の書簡について「差出人は作家や歌人、詩人、俳人、政治家と多岐にわたり、鴎外の多彩な交遊関係が分かる。それぞれの差出人の研究者にとっても第一級の資料となる」と価値を強調した。
 書簡は鴎外の長女・森茉莉の夫で、フランス文学者の山田珠樹(1893~1943年)の遺族や、東京帝国大学(現東京大学)図書館で山田の同僚だった国文学者の土井重義(1904~67年)の遺族から、2020年3月~21年12月にかけて同館に寄託された。大学教授や古文書愛好家ら町内外の13人でつくる「山田珠樹氏所蔵鴎外宛書簡解読プロジェクト」が翻刻、研究に当たっており、開館30周年を迎える25年3月に書簡集として刊行する。
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これらには光太郎の名が無かったのですが、「60人以上から送られた書簡」とあるので、光太郎からのものも含まれているんじゃないかな、と思っていましたが、『日経』さんの記事でビンゴだったことがわかりました。

光太郎から鷗外宛の書簡は、これまで5通しか確認できていません。鷗外は東京美術学校で光太郎在学中に「美学」の講義を受け持って教壇に立ち、光太郎は美校卒業後、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』で中心メンバーの一人となりました。また、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊「琅玕洞」の店名は、鷗外の訳書から採ったものです。この時期、軍医総監だった鷗外は、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

そうかと思うと、「軍服着せれば鷗外だ」事件。どうも当方と同じで権威的なものには反発しないでは気が済まない光太郎、うっかり漏らした鷗外を茶化す発言が鷗外の耳に入り、鷗外は光太郎を自宅に呼びつけて「何か文句あんのか? 」的なオラオラ状態(笑)。さすがにボコッたり、文壇から抹殺したりといった大人げない対応はしませんでしたが(笑)。

どうも光太郎は鷗外を敬して遠ざけ(鷗外主催の観潮楼歌会も何のかんのと理由を付けて逃げました)、一方の鷗外は光太郎を「しょうもないやつだ」と苦笑しながらもその才を認めてかわいがっていた、という感じのようです。

今回見つかった書簡群でまた、知られざる二人の関係がわかるかもしれません。来春出版される予定とのことで、今から楽しみです。

【折々のことば・光太郎】

神経痛まだ痛む、 夜新宿にて夕食、丸井にて本棚をかふ、


昭和28年(1953)10月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式のため訪れた青森から帰り、しばらくは大人しくしていました。

「丸井」は現在の「新宿マルイ」さんでしょう。戦前の創業で、戦争を挟んで昭和23年(1948)には新宿駅前店、昭和25年(1950)には新宿三光町店が開業しています。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。午後1時に天心記念五浦美術館さんに伺う予定で、時間が早かったので、野口雨情記念館さん、野口雨情生家、天心遺跡(六角堂)などに立ち寄りましたが、午後1時近くになりましたので、満を持して同館へ。
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少し前、同館刊行の『新納忠之介旧蔵資料目録Ⅰ 「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年=2016)という厚冊の書籍を、自宅兼事務所の隣町の図書館で見つけ、頁を繰ってみたところ、光太郎の父・光雲、光太郎、そして光太郎実弟・豊周から新納忠之介に宛てた書簡類がリストに載っていました。
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001新納は明治元年(1868)鹿児島生まれ、東京美術学校の彫刻科第3回卒業生で光太郎の大先輩です(光太郎は第11回卒業)。光太郎在学時には同校助教授を務めていましたが、いわゆる美術学校事件で天心らとともに連袂辞職、日本美術院に加わりました。

ちなみに同期卒業生のうち、「本山辰吉」は本山白雲。高知桂浜の坂本龍馬像、国会議事堂前庭の伊藤博文像などで有名ですね。

それから「板谷嘉七」は陶芸家となった板谷波山です。「黒岩倉吉」は黒岩淡哉。そこそこ有名な彫刻家です。

新納はその後奈良に移り住み、主に仏像修復の分野で活躍しました。奈良東大寺さんの不空羂索観音像、京都三十三間堂さんの千手観音像などは新納の手により修復されています。また、光雲は信州善光寺さんの仁王像を制作するにあたって、東大寺さんの金剛力士像も参考にしていますが、その調査にも協力しています。今年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」には、新納から光雲に送られた、東大寺さん金剛力士像のレポートも展示されていました。

さて、新納宛書簡。調べたところ、『高村光太郎全集』及びその補遺として当方が編集を続けている「光太郎遺珠」に未掲載でした。

そもそも新納の名は、『高村光太郎全集』には4回しか出て来ていませんでした。光太郎の後輩で、仏像修復の分野で新納の右腕となった明珍恒男の追悼文(昭和15年=1940)の中に一箇所、明治38年(1905)、光太郎から光雲に宛てた書簡二通に。奈良を訪れた光太郎が新納の世話になったという記述でした。それから、明治42年(1909)、来日直前のバーナード・リーチ宛の英文書簡。日本でリーチの世話をしてくれそうな人物をリストアップする中で、新納は英語もしゃべれるし、日本彫刻に関する知識も半端ない、的なことが書かれています。

そんなわけで、光太郎から新納宛書簡、ぜひ拝見したいと存じ、同館に閲覧許可の申請をして伺った次第です。ついでというと何ですが、光雲、豊周からのそれも拝見させていただくことに致しました。

リストに「年賀状」とありましたが、本当に年賀状でした(笑)。文面は「賀正 大正十二年一月 駒込林町二十五 高村光太郎」のみ。それでもこの時期に光太郎と新納が年賀状のやりとりをする間柄だったということがわかります。豊周からのものもほぼ同じような感じでした。

元同僚だった光雲からの書簡は、さすがに数も多く、長文のものがほとんどでした。丁寧な時候の挨拶に始まり、美校の近状、東京の美術界の動向等々。時には愚痴も(笑)。光太郎が欧米留学後、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞に関する記述もありました。こちらでは光太郎の仲間の新しい芸術作品も販売していましたが、伝統的な漆器なども扱っており(そちらの方がよく売れたようです(笑))、その手配を頼むような内容でした。

閲覧に際しては、学芸員の方に大変お世話になりました。百年以上前の史料と言うことで、机の上には大きな中性紙を敷き、その上に三人がかりで一通一通広げてくださったり、撮影も許可して下さったり……。恐縮してしまいました。

閲覧後、展示を拝見。そちらも学芸員さんのご配慮で、無料でした。

常設展は天心の関係。
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企画展は「並河靖之の雅な技――世界を魅了した明治の京都七宝――」。並河の有線七宝の作品は、超絶技巧系の展覧会や、京都の清水三年坂美術館さんの常設展示などで何度か拝見していましたが、何度見ても舌を巻かされます。並河と共に「二人のナミカワ」と称される無線七宝の濤川惣助の作品も並び、眼福でした。
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まだまだ全国のこうした施設に光太郎書簡等、眠っているかと存じます(島根で新たな発見があったそうですし、北海道にあるという情報は既に得ておりまして、来年あたり拝見に伺おうと思っていますが)。光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨にいたるまで埋もれさてはならない、というのが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のスタンスでした。当方もそれを引き継いで、今後ともやっていこうと思っております。

以上、北茨城レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

三時過ぎ副知事来る、小型像其他につき協定、尚礼として500,000円もらふ(小切手)夜八時青森駅より上車、しん台車、津島知事、横山副知事等見送りにくる、

昭和28年(1953)10月24日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のための青森行、最終日です。宿泊していた浅虫温泉東奥館に横山武夫副知事が訪れ、最後の事務手続きが行われました。「小型像」は、「乙女の像」の小型試作。「乙女の像」本体と同じく伊藤忠雄による鋳造で、青森県に寄贈されました。現在、青森県立郷土館に所蔵され、昨年から今年にかけて開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」で展示されました。

上車」は「乗車」の誤りですね。

8月10日(水)、茨城県北茨城市レポートの2回目です。

野口雨情記念館さん等を後に、『高村光太郎全集』等未収録の光太郎書簡を閲覧するため、市内北部の天心記念五浦美術館さん方面へ。まだ時間がありましたので、近くの六角堂に立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲を東京美術学校に招聘し、光太郎入学時に同校校長だった天心岡倉覚三が、明治39年(1906)、日本美術院を移した地です。当方、30年近く前、学生時代の友人の結婚披露宴がすぐ近くのホテルで行われ、その際に訪ねて以来でした。

その時には気づかずスルーしていましたが、六角堂入り口前に天心の墓がありました。天心は光雲、光太郎等と同じ都立染井霊園に墓所がありますが、こちらは分骨だそうで。光雲、光太郎の代参のつもりで香を手向けて参りました(こういう機会が多いので、愛車には線香を常備しています)。
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光太郎同様、天心の薫陶を受けた平櫛田中お手植えの椿がかたわらに。天心の墓は円墳のようでした。
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裏手には天心の娘のそれも。
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さて、六角堂。正式には周辺の建物等を併せて「天心遺跡」と称しています。敷地内には天心邸や小規模な天心記念館などがあり、また、茨城大学さんの五浦美術文化研究所も併設。
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自生していたヤマユリが見事でした。

天心記念館内。特に撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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天心像や「活人箭」などの田中作品。
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天心と共にこの地にやってきた横山大観による表札(左)と、六角堂の棟札(右)。
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この地で釣りに興じていた天心の舟。

天心の教え子の一人で、アメリカの美術史家、ラングドン・ウォーナーの像。こちらも田中作です。ウォーナーは太平洋戦争中、日本の文化財を空襲しないよう提言した人物の一人という説があります。
海が見えてきました。
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そして、六角堂。
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東日本大震災による津波でさらわれてしまったのですが、復元されました。
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前日に行くはずだった宮城県女川町でも、行くたびに感じますが、あの日、この海が牙を剥いたのかと思うと、粛然とさせられます。
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天心邸。
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かたわらの「亜細亜ハ一なり」碑。
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天心のグローバル思想すら、「八紘一宇」の亜流に韜晦されてしまっていたのですね。そういえば、揮毫した横山大観は戦時中、日本美術報国会の会長でした。ちなみに実務に当たっていた事務局長は、光太郎の実弟にして鋳金家の豊周でした。

さて、満を持して天心記念五浦美術館さんへ。以下、明日レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

四時図書館行、ここに一同集まる、知事等の案内で夜文芸講演会、


昭和28年(1953)10月23日の日記より 光太郎71歳

会場が明記されていませんが、青森市の野脇中学校でした。光太郎以外に、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎、佐藤春夫が登壇し、講演を行いました。
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十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されている光太郎胸像「冷暖自知」の作者、田村進氏はこの講演をお聴きになったそうです。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。目的地は同市にある茨城県立天心記念五浦美術館さん。こちらに『高村光太郎全集』等に漏れていた光太郎書簡の所蔵があるということを知り、閲覧に伺った次第です。

当初、前日が宮城県女川町での女川光太郎祭の予定でしたので、そちらへ参加後の帰途に立ち寄ろうと考え、この日に閲覧する申請を出したのですが、女川光太郎祭が今年もコロナ禍のため中止となり(須田義明町長も感染されたそうで)、北茨城市単独の訪問となりました。

申請した時刻に遅れてはいけないので、早めに自宅兼事務所を出発。途中の高速道路で事故渋滞にでも嵌ったらアウトです。幸い、何事もなく北茨城に。そこで、天心記念五浦美術館さんに行く前に、手前の野口雨情記念館さんに立ち寄りました。

正確には「北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館」。雨情以外の郷土資料等の展示も充実していました。
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童謡詩人として名を馳せた雨情ですが、明治15年(1882)の生まれで、光太郎より1歳年長。光太郎は早生まれですので学年は同じです。石川啄木、北原白秋など、共通の友人がいました。しかし、『高村光太郎全集』に雨情の名はありませんで、直接の交流は無かったようです。

まずは雨情の銅像(現代のもの)と、代表作の一つ「シャボン玉」(大正11年=1922)関係のオブジェがお出迎え。
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近づくとセンサーが反応し、「シャボン玉」の歌が流れます。さらに本当にシャボン玉が噴出される仕組み。
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エントランス脇には作曲家・故高木東六氏関連の碑。高木氏は鳥取生まれですが、北茨城で育ったそうで。
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館内、雨情のコーナー。
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興味深く拝見しました。

一昨年の連続テレビ小説「エール」に広岡由里子さん演じる「ベルトーマス羽生」の名で登場した歌手・ベルトラメリ能子も北茨城出身で、雨情と縁があったと知り、驚きました。北茨城、恐るべし(笑)。

雨情以外の郷土資料的コーナー。太平洋戦争がらみの展示が充実していました。
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日本軍の機密兵器「風船爆弾」。ここ北茨城からも飛ばされたそうで。そのバルーン部分に使われたのが、智恵子の故郷・福島二本松の上川崎和紙だったらしく、そのため上川崎地区も空襲に遭ったそうです。

人間魚雷「震洋」。こちらも北茨城に配備されていたとのこと。光太郎と交流があり、詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏は、同様の特攻兵器「海龍」の基地に配属され、出撃直前に終戦となり命拾いしたそうです。
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右上は東日本大震災関係。東北の被害はかなり報じられましたが、茨城、千葉でも津波が発生、多くの犠牲が出ています。

さらにすぐ近くに雨情の生家があるというので、そちらへも足を運びました。
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こちらにもいろいろな展示が。最も驚いたのは、啄木から雨情宛の葉書。おそらく現物と思われましたが、結構無造作に展示されていました。
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それにしても不思議なのは、雨情と戦争の関係。雨情は昭和20年(1945)まで存命でしたが、日本文学報国会の名簿に名が無いようです。同学年の光太郎は同会の詩部会長を務め、大量に翼賛詩を書き殴っていました。雨情は昭和18年(1943)に脳出血を起こし、療養生活を送っていたというのですが、それ以前にも翼賛詩的なものは作らなかったのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

この後、北上して天心記念五浦美術館さん方面へ。続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

宇樽部、より県の車で浅蟲東奥館まで、途中酸ヶ湯にて中食、 くもりなれど雨はふらず、 疲れをやすめるため部屋にひきこもり皆にあはず、


昭和28年(1953)10月22日の日記より 光太郎71歳

前日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式等で、かなり疲弊したようです。もともと肺病を患っている老体に鞭打っていたわけですし……。

こういうのもありかな、と。

3D彫刻複製 「西郷隆盛像」高村光雲【大】

¥500,000 税込  送料無料でお届けします000
受付開始:2022年8月6日(土)
原型:上野公園 西郷隆盛像
彫刻:高村光雲
高さ:37cm(台座含む)
横:14.5cm
奥行11cm
技法:STH方式(3D計測・3D出力)
材質:pla

3D彫刻複製の主な特徴
すべての形情報をそのまま取り込める世界唯一の技術、3Dスキャン。独自の3D計測プロセスがもたらす圧倒的な正確さ。豊かな凹凸と、立ち上がるような立体感あふれる像質は、まさに「ハイパー複製」。原型の再現にどこまでも応えうる忠実性を提供すること。3D計測、3D出力、大きさ、質感などあらゆる要素をこの観点から徹底的に考え、一から開発いたしました。そして、3D彫刻複製の哲学である「彫刻研究のための複製」としての方向性を先鋭化させ、本格的な芸術表現をより身近にするための本質だけに特化して生まれたのが、この新世代の3D彫刻複製です。
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3D複製技術を彫刻等に応用する試みは、徐々に広がっているようです。

美術館さんの貴重な収蔵品の3Dコピーを作り、来館者が手にとることができるようにしたり、磨崖仏など現地から動かせないものの縮小コピーを作って研究に使用したり。

また、平成31年(2019)、火災で大きな被害を受けたパリ・ノートルダム大聖堂の再建においても、火災前に採ってあった内部の3Dデータを使うの使わないのという報道も目にしました。その後どうなったか存じませんが。

そう考えると、活用の幅はいくらでもありそうな気がしますね。

そして「西郷隆盛像」。権利的な部分はどうなっているのかな、と思うのですが、どうなのでしょう? 今回発売されたものは【大】だそうで、価格は50万円。やがて【中】とか【小】とかも出るのでしょうか?

この手の情報、今後も気を付けてみていこうと思います。

【折々のことば・光太郎】

夜去年上京の記念につき藤島さんと外でビフテキ、ビール、リオにてカクテル、夜十時かへる、

昭和28年(1953)10月13日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋をあとに上京して、丸1年が経ちました。

先月末の『中国新聞』さんから。

「売れない」ものを作る【いかさミュージアム散歩】井原市立田中美術館

001 1907年、横山大観や菱田春草を育て上げて日本画の革新にめどがついた岡倉天心は、次に木彫(もくちょう)の振興を目指した。天心の依頼により、高村光雲が選抜した6人の中に平櫛田中の名があった。
 6人は天心の待つ上野の寺に集う。ある者が宮内省御買い上げ品以外に彫刻の需要がないことへの苦しさを訴えると、天心は即座に「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と一言だけ言った。
 売りたいという心で人にこびたものを作ることは、自分の心を裏切っている。言下に田中は、売れないものを作るのは造作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感得した。この言葉をもって、名作「活人箭(かつじんせん)」が生まれた。坊さんを作れば、誰も買わないだろうと。000
 田中は、上京翌年の26歳から参禅し、禅を精神の支柱にしていた。自分の好む禅など作品にしたところで需要はありはしないと思っていた。「一生の早い時期に偉い人に会うという事は、人間の第一の幸福です」。この幸福な時期は13年、天心が50歳で世を去ることで終わる。「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。誠に恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」
 07年の年齢を列記しよう。光雲55歳、天心45歳、大観39歳、田中35歳、春草33歳。美術界は風雲児天心の下、硬骨漢たちがこれまでの常識を打ち破って「売れない」ものを作り、芸術上の大革新が行われる。そして、当時、理解し難かった作品は今、傑作として人々の称賛を得ている。(田中美術館学芸員・青木寛明)
 <メモ>新館建設のため休館中。来年4月にリニューアルオープンする。住所は井原市井原町315。グッズは、井原市民会館内の仮事務所で販売中。通信販売もある。☎0866(62)8787 http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/

題名の「いかさ」って何だ? と思い、調べたところ、「井笠」。岡山県井原市、笠岡市を中心とした地域の略称でした。青森県の「三八上北(さんぱちかみきた……三戸郡・八戸市・上北郡)」などと同じ伝ですね。当方、東北によく行くので、現地で見るテレビのローカル天気予報などで使われる「三八上北」は、その語呂の良さから耳に残っています(笑)。

その井原市にあり、現在新館建設のため休館している田中(でんちゅう)美術館さん、というよりそちらで作品がまとめて収蔵されている平櫛田中の紹介です。

記事冒頭の、明治40年(1907)に岡倉天心、光太郎の父・光雲により6人の彫刻家が集められた、というのは日本彫刻会の結成を指します。田中以外の5人は、米原雲海、山崎朝雲、加藤景雲、森鳳聲、滝澤天友。とりあえず全員、光雲の高弟といって良いかと思われます。

田中の「活人箭(かつじんせん)」画像は制作直後のもの。田中がこれを天心に見せたところ、天心は「なぜ余計な弓矢を作った?」と一喝したそうです。実際に弓矢を手にしていなくとも、見た人にその存在を感じさせるような彫刻でなければ駄目なんだ、というわけです。「余白の美」と申しましょうか、「象徴的技法」と申しましょうか、確かにその通りですね。
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そして田中は上記のように改作します。田中が傾倒した禅の精神にも通じるところがあるのでしょう。

同じことは天心の「売れないものを作れ」という一語にも表されているような気がします。世の中に迎合するな、という意味と、判ってもらおうとして説明しすぎるな、といった意味もあるように感じます。光太郎なども、こうした精神を持って彫刻制作に当たっていたのではないでしょうか。光太郎も、一時、親しかった田中の影響もあって禅に親しんでいました。そうした制作態度を「気取っている」と評する向きもありますが……。

ちなみに最初の田中の写真、元になったのはこちら。
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東京美術学校での光雲門下生の集合写真です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』口絵に使われているもので、光太郎も写っていまして、明治35年(1902)頃の撮影と推定されます。これが田中の若い頃唯一の写真だそうです。上記記事を書かれた学芸員の青木氏から、「写真のオリジナルプリントがどこに所蔵されているか知らないか」と問い合わせがあったのですが、当方も存じませんで、役に立てませんでした。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

さて、井原市立田中美術館さん、建設中の新館は10月に竣工予定、来年4月にリニューアルオープンだそうです。まだ先の話になりますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后一時メダル150個全部出来、内山氏持参、青森県事務所に届けてもらふ、

昭和28年(1953)10月10日の日記より 光太郎71歳

「メダル」は、生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。正式なものは内山嘉一郎により150個鋳造されたということで、時折、ネットオークションに出ます。2度ほど、10万円ちょっとまで粘って入札したのですが、負けました(笑)。



2件ご紹介します。

日本一やかましい祭り「石取祭」〜鉦や太鼓がふたたび鳴り響く、桑名の夏〜

BSイレブン 2022年8月7日(日) 19:00~20:00

「桑名っ子」たちが待ちに待った、絢爛豪華な祭車の曳き回しが3年ぶりに復活!けたたましく鉦や太鼓が鳴り響く、日本一やかましい祭り「石取祭」を生中継!

鉦や太鼓の音色が、3年ぶりに桑名のまちに鳴り響く。地元の人が「日本一やかましい祭り」と呼ぶ、三重県桑名市の「石取祭」。神様に五穀豊穣の願いを届ける為、3日3晩、鉦や太鼓を叩き続け、けたたましい音を響かせながら、絢爛豪華な祭車が街を練り歩く「天下の奇祭」。その起源は江戸時代初期に神社に石を奉納する儀式から始まったと言われ、何世代もの「桑名っ子」にとって1年で最も心が躍る夏の一大行事。
しかしコロナ禍により、2年も過ごした「静かな夏」。幼い頃から鉦と太鼓の音を聴いて育ってきた「桑名っ子」たち。今夏、待ちに待った祭車の曳き回しが復活!鉦と太鼓の爆音が桑名の夜を埋め尽くす―「国指定の重要無形民俗文化財」指定、ユネスコ無形文化遺産に登録された石取祭の渡祭の一部を生中継!

出演者
 中久木大力(三重テレビアナウンサー) 奥村莉子(三重テレビアナウンサー)
 小川雅生(桑名石取祭保存会 研究員) 大西礼芳(俳優/三重県度会町出身)


三重県桑名市の「石取祭」。春日神社さんに石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。太鼓と鉦の囃子にのって「祭車」と呼ばれる山車が曳き廻され、「日本一やかましい祭り」を名乗っています。40台あまり出る祭車の中に、光太郎の父・光雲とその弟子たちの手になる彫刻を施した祭車が2台。平成28年(2016)には、全国33件の同様の祭りと一括でユネスコ世界文化遺産に指定されました。

その石取祭の生中継だそうで、テレビ的にはなかなかのチャレンジャーですね。雨天の場合など、どうするのでしょうか。多少の雨ならやってしまうのでしょうが、このところ、各地で豪雨災害が頻発していますし……。まぁ、とりあえず拝見してみます。

もう1件。

プレミアムステージ「僕は歌う、青空とコーラと君のために/私たちは何も知らない」

NHK BSプレミアム 2022年8月7日(日) 23:20~4:11

8月のプレミアムステージは、<前半>に、ヒトハダ公演「僕は歌う、青空とコーラと君のために」。 <後半>は、二兎社公演「私たちは何も知らない」のアンコール放送。

23:20〜 ヒトハダの旗揚げ公演、鄭義信・作・演出の「僕は歌う、青空とコーラと君のために」。昭和25年、朝鮮戦争勃発当時。東京郊外にある進駐軍専用のキャバレーで営業する男性コーラスグループの笑いあり、涙ありの青春と友情の物語。【出演】大鶴佐助 浅野雅博 尾上寛之 櫻井章喜 梅沢昌代 /翌1:36:15〜 二兎社公演「私たちは何も知らない」のアンコール放送。【作・演出】永井愛【出演】朝倉あき ほか


演劇公演2本が放映され、そのうち後半が二兎社公演「私たちは何も知らない」。令和元年(2019)から翌年にかけ、全国を巡回したもので、平塚らいてう、伊藤野枝ら、青鞜同人の群像劇です。テレビ放映は令和2年(2020)に続き、二度目。そこで「アンコール放送」と謳われています。創刊号の表紙を描いた智恵子は登場しませんが、セリフの中には名が出て来ました。
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ところで、岩野清(いわのきよ)役は、大西礼芳さん。偶然ですが、上記「日本一やかましい祭り「石取祭」〜鉦や太鼓がふたたび鳴り響く、桑名の夏〜」でも、三重県ご出身ということで、ゲスト出演なさいます。
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ありゃま、という感じでした(笑)。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

一時雨の中を迎の車で上十條伊藤忠雄氏宅にゆく、谷口藤島、筏氏と同道、鋳金裸像七尺のもの2体の位置をきめる、


昭和28年(1953)10月9日の日記より 光太郎71歳

「鋳金裸像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。伊藤忠雄による鋳造が終了し、細かな位置決めが「行われました。下記の写真はこの日、撮影されたものと思われます。
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当方が監修、一部執筆した『十和田湖乙女の像のものがたり』(平成27年=2015 十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会編)から採りました。キャプションが「6月23日」となっていますが、誤りです。その日も伊藤の工房に行っていますが、6月の時点では石膏原型1体のみで、2体揃っているのは鋳造後です。

この後、延々十和田湖まで運ばれ、現地に設置されることになります。『十和田湖乙女の像のものがたり』には、設置工事の監督だった元青森県技師・小山義孝氏の証言、工事中の写真等も掲載されています。ただ、輸送がどのように行われたのか、今のところ関係資料が見つかっていません。
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都内から演奏会情報です。

第9回 松岡貴史&みち子作品展 小川明子、加耒徹が歌う 新作日本歌曲コンサート

期 日 : 2022年8月9日(火)
会 場 : オーキッドミュージックサロン  
      東京都世田谷区玉川2-2-1 二子玉川ライズバーズモールB-1
時 間 : 第1回 13:30開場 14:00開演
      第2回 18:00開場 18:30開演
料 金 : 全席自由 3,000円

プログラム(順不同):
  松岡貴史作曲   音楽昔噺『たの久』(初演) 他
  松岡みち子作曲  
   新作(初演)
『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~
    「人に」
    「あどけない話」
    「山麓の二人」
    「千鳥と遊ぶ智恵子」
    「レモン哀歌」
  松岡あさひ作曲  新作(初演) 他

演 奏 : 小川明子(アルト) 加耒徹(バリトン)
      松岡あさひ(ピアノ) 松岡貴史(ピアノ)
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鳴門教育大学講師の作曲家・松岡みち子氏という方の「『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~」が初演されるとのことです。

令和元年(2019)に、徳島県郷土文化会館さんで開催された「平成31年度 東京藝術大学音楽学部同声会 徳島県支部主催演奏会」で、松岡氏の「「智恵子抄」より」がプログラムに入っていました。おそらくその際のものと思われる動画がYouTubeにアップされています。曲目は「あどけない話」「山麓の二人」「レモン哀歌」。今回の演奏会にも出演されるアルト・小川明子さんという方の歌唱です。


今回の演奏会では「人に」「千鳥と遊ぶ智恵子」が増えており、それで組曲として完成、初演ということなのでしょう。

フライヤー裏面の松岡氏のお言葉。

「智恵子抄」は、あの偉大な彫刻家、画家、詩人であった高村光太郎が、同じく芸術家であった妻を綴った詩集で、これまでもたくさんの作曲家によって作曲されています。
私は、女性の立場から、智恵子の立場から「智恵子抄」を読み解き、光太郎と共に理想の芸術を求めて歩こうとした智恵子のひたむきな姿、光太郎を支えた優しさ、光太郎の才能に圧倒されて行く苦しみなど、精一杯に生きた智恵子を、共感を持って描きたいと思いました。

なるほど。

今月末には徳島公演もあるそうです。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

椛澤さん菊の花、青果物持参、置いてゆかる、 今日智恵子の命日、その供物といふ、

昭和28年(1953)10月5日の日記より 光太郎71歳

南品川ゼームス坂病院で智恵子が亡くなったのは、昭和13年(1938)10月5日。この日で満15年でした。「椛澤さん」は椛澤佳乃子。お茶の水女子大で教壇に立っていました。

ネット上などで、けっこう鳴り物入りの紹介が為されています。

 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
 前期展示①:8月6日(土)~8月28日(日)
 前期展示②:8月6日(土)~9月4日(日)
 後期展示①:8月30日(火)~9月25日(日)
 後期展示②:9月6日(火)~9月25日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、9月19日(祝)は開館)
料 金 : 一般2,000円(1,800円)、高・大学生1,200円(1,000円)
       ( )は前売り料金 
   

じっと見る そっと見る うつくしい 宝もの

本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の珠玉の名品に、東京藝術大学のコレクションを加えた82件の多種多様な作品を通じて、「美の玉手箱」をひも解き、日本美術の豊かな世界をご覧いただくものです。代々日本の文化の中心に位置して美術を保護、奨励してきた皇室に伝わる優品の数々は、特筆すべき重要な存在です。

また、本展が開催される東京藝術大学は、前身である東京美術学校で岡倉天心が1890年に初めて体系的に日本美術史の講義を行った場所でもあり、以降、芸術の教育・研究機関として重要な役割を担います。本展は、このような歴史的背景をもつ両者共同ならではのアプローチで、貴重な美術品の数々の魅力をわかりやすくご紹介します。
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展覧会のみどころ
1 日本美術を分かりやすく「ひも解く」
 「文字からはじまる日本の美」「人と物語の共演」「生き物わくわく」「風景に心を寄せる」のテーマごとに、日本美術の世界をたどります。
2 三の丸尚蔵館所蔵の国宝全5件公開
 昨年、三の丸尚蔵館の収蔵品として初めて国宝に指定された5作品を、まとめて公開する初の機会になります。
 春日権現験記絵 やまと絵の集大成として名高い絵巻/通期展示
 蒙古襲来絵詞 元寇の様子を描いた絵巻/通期展示
 唐獅子図屏風 桃山時代を代表する狩野永徳筆/前期展示①
 動植綵絵 伊藤若冲の代表作/後期展示①
 屏風土代 平安時代三跡の一人・小野道風の書/後期展示②
3 若冲「動植綵絵(どうしょくさいえ)」10幅公開
 さまざまな生き物や植物を緻密に描いた傑作「動植綵絵」。あらゆる生き物の尊い生命、生きているからこその美しさを描き表わそうと、約10年をかけて若冲が制作した全30幅の大作。動植物の構図を熟慮し、自身が学んだ絵具の使い方や描き方を駆使して独特の世界観を表わしています。色鮮やかに表現された雄鶏が圧巻の〈向日葵雄鶏図〉や、70種類近くの虫が画面いっぱいに描かれた〈池辺群虫図〉など、本展では10幅を一堂に公開します。本展で公開される10幅は以下の通りです。
芍薬群蝶図、梅花小禽図、向日葵雄鶏図、紫陽花双鶏図、老松白鶏図、芦鵞図、蓮池遊魚図、桃花小禽図、池辺群虫図、芦雁図/後期展示①

序章 美の玉手箱を開けましょう
 「美術」を学問的にとらえた近代。岡倉天心は、未来の美術を作るための基礎となるように初めて日本美術史を教えました。そして、宮内省と東京美術学校によって後世に伝えるべき名品が作られます。
1章 文字からはじまる日本の美
 平安時代、日本人の感性によって生み出された優美な仮名は、物語や和歌を発展させ、さらにそれらによる様々なモチーフが豊かな美術意匠へと展開していく土壌を築きました。
2章 人と物語の共演
 人々の日常生活、信仰、回想や幻想などから創出された様々な物語は、折々の日本の四季の風景や人々の有り様を豊かに描き表わし、深遠な日本美の世界に我々を誘います。
3章 生き物わくわく
 人は様々な生き物と共存する中で、生き物への愛おしみや尊崇、感謝などの様々な想いを、美術造形に表現してきました。生命(いのち)あるものへの多彩な眼差しによる表現のかたちを見つめます。
4章 風景に心を寄せる
 豊かな自然は人々の心を動かし、古くから文学や絵画に表現されてきました。身近な風景や自然現象に対する素直な感動や畏怖の表現は、美の世界を広げ、さらなる感動をもたらします。

「3章 生き物わくわく」で、光太郎の父・光雲作の「矮鶏置物(ちゃぼおきもの)」(明治22年=1889)が展示されます。前期展示①ということで、8月6日(土)~8月28日(日)。
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他にも、日本美術史上に燦然と輝く優品の数々が出品されます。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

夕方アイスショーにゆきしが満員、火の車にゆく、草野君ゐる、


昭和28年(1953)10月4日の日記より
 光太郎71歳

「アイスショー」は「世界一アイス・ショウ アメリカン・ホリデイ・オン・アイス 日本公演」。昭和17年(1942)にアメリカで始まったフィギュアスケートの興行で、東京では後楽園で開催されました。

「ホリデイ・オン・アイス」といえば、当方の幼い頃、テレビCMなども放映されていました。

しかし満員で入れず、仕方なく当会の祖・草野心平の経営する居酒屋「火の車」へ。笑えます。

正直、これほど早く達成するとは思っていませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。64年前に建てられた煉瓦造りの本館「碌山館」の損傷が激しく、コロナ禍による入館者激減などもあり、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われていますが、昨日、目標額の700万円に到達したとのこと。まだまだ世の中捨てたもんじゃないなと思いました。

受付の始まった7月15日(金)にこのブログでご紹介し、「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、たった2週間での目標額到達。いかに同館が地域に、さらに全国的に愛されてきたかがわかりますね。

「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、このブログでもう一押しするか、と思っていた矢先で、そのためのネタも見つけてありました。当方、クラウドファンディングには詳しくありませんが、目標額をクリアしても終わりでなく、さらに支援を受け付けるようなので、ご紹介します。SBC信越放送さんのローカルニュース、7月21日(木)のオンエアでした。

雨漏り…レンガに亀裂…「碌山美術館」ピンチ! 修繕費は500万円超…どうする? 館長 長野・安曇野市

長野県内有数の観光地・安曇野のシンボルのひとつに碌山(ろくざん)美術館があります。教会をイメージさせるレンガ造りの趣きのある建物。この建物がピンチとなっています。館長が美術館を守るため選んだ方法とは?
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安曇野市穂高にある碌山美術館。

(幅谷啓子館長)「坑夫っていうのは、パリで作ったのを持ち帰った作品、高村光太郎が絶賛して持ち帰るようにすすめてくれた作品」
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美術館には明治時代の彫刻家・荻原碌山(おぎはら・ろくざん)の代表作の彫刻15点が、展示されています。碌山は、現在の安曇野市の出身、近代彫刻の礎を築きました。
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作品が展示される「碌山館(ろくざんかん)」。
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教会をイメージさせるレンガづくりが特徴の美術館は、住民の力で造られました。建設されたのは、今から64年前の1958年のこと。「碌山の美術館を作ろう」と、地元の教員たちが呼びかけ、賛同した人々、およそ30万人からの寄付金で、誕生しました。
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その証は、今も美術館に残っています。「開館に携わって頂いた方約30万人の方たちの力で生まれましたっていうプレート」
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幅谷館長が、美術館の異変に気づいたのは、2021年の夏のことでした。「風とか雨が強い時は雨が流れ落ちる状態、こういう跡があるんですけどずっと流れたような跡があります」美術館を襲った雨漏り。
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外の壁のコンクリートやレンガにも亀裂が入っていました。「これをこのまま放置しとくとどんどんひどくなるし」
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美術館の修繕は、待ったなしの状態。ですが、500万円以上かかる費用を捻出できる状況にないのです。
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「入館者の方が減ってまして、運営面も大変になりまして預貯金を取り崩して今運営をしている状態」新型コロナの感染拡大で、来館者が激減。コロナ前は、年間、2万7千人ほどが訪れていましたが、2021年はおよそ1万5千人にまで減りました。

美術館をどう守っていけばいいのか? 幅谷館長が、7月ある挑戦を始めました。インターネットで寄付を募る「クラウドファンディング」です。
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住民の寄付で誕生した美術館。もう一度、住民の力に美術館のこれからをゆだねることに決めました。「皆さんの力で修理を始めたいと思って、碌山の彫刻をこれからもずっと長く皆さんに親しんでもらいたい、この碌山館を作品とともに長く後世に伝えたい」目標金額は700万円。
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住民の力で誕生した美術館、幅谷館長の思いは届くのでしょうか? 寄付の募集期間は、8月31日までです。
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8月31日(水)まで、寄附の受付は継続されるようです。目標金額以上、いくら集まっても困ることはないでしょう。こうなったら大台突破も有りうるかもしれませんし、ぜひよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

夜熊谷氏(AK)来訪せし由、 九時半「九十九里」放送の中に余のもの引用の由。

昭和28年(1953)9月24日の日記より 光太郎71歳

AK」はJOAK、NHKさんの東京放送ですね。昭和9年(1934)、半年あまり智恵子が療養した千葉の九十九里浜を紹介する番組内で、光太郎作品を引用するその許諾ということでしょう。当該番組、録画放映の技術はまだ確立されておらず、おそらくテレビではなくラジオだったと思われます。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、書簡が届きました。

何かと思えばこういう内容で……。
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同館のフェイスブックにこの件が出ていました。

【予告】7月15日(金)からクラウドファンディングに挑戦します!

碌山美術館はこれまで、施設の拡大とともに碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品コレクションを充実させ、 日本近代彫刻の展開をご覧いただけるよう努めてきました。

しかし64年の月日による傷みが「碌山館」を侵食しています。当館の本館にあたる荻原守衛の作品を展示する「碌山館」には雨漏りが見られ、修繕は早急の課題です。本来であれば補助金や自己資金で賄うところですが、昨年から続く新型コロナウイルス感染症の影響で、収入が大幅に減少し、今はなんとか積立金を取り崩しながら運営しているのが現状です。

この状況を打破し、貴重な作品を守り未来へとつなぐ為に、クラウドファンディングに挑戦することといたしました。目標金額は700万円。目標に届かなければいただいたご支援は全て返金になってしまう「All or Nothing」というルールです。クラウドファンディングでは、公開直後の5日間でどれだけ支援を集められるかが成功のポイントだといわれております。

そこで、今回の取り組みに少しでも共感していただけましたら、公開直後のタイミングで、ぜひご支援をいただけないでしょうか?

今回皆様からいただいた資金は、碌山館の修繕費に充てさせていただき、雨漏りの修繕、扉の再塗装などもあわせておこない、美しい姿で皆様をお迎えいたします。長い歴史の中でたくさんの方々のお力をお借りしてここまでつないできた想いを後世へつないでいきたい。そのために一生懸命取り組んでまいります。

是非、ご支援ください。

▼詳細・ご支援方法は7月15日(金)以降下記からご覧いただけます。
第一目標金額:700万円
支援募集期間:7月15日(金)9時〜8月31日(水)23時

申込書を兼ねたフライヤーも同封されていました。
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同館は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎ブロンズも複数所蔵されており、第1展示棟で入れ替えながら常設展示して下さっています。

そしてメインの建物が、碌山館。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風。安曇野のシンボル的な建造物でもありますね。
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入り口の内壁には、守衛を支えた人物ということで、光太郎の名も刻まれています。
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内部には、国指定重要文化財の「女」をはじめ、現存する守衛彫刻の全作品。

その碌山館が、ピンチです。こんなところにもコロナ禍の影響か、という感じですが。

当会としまして、早速、3万円コースで申し込み、入金を致しました。皆様方におかれましても、是非とも御支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半出かけ車で浴風園、レントゲン検査、結局結核性と分る、静脈瘤ではないらし、いろいろ注意をきいてかへる、


昭和28年(1958)7月6日の日記より 光太郎71歳

「浴風園」は、現在の浴風会病院さん。こちらの医師・尼子富士郎に診てもらい、正式に結核と診断されました。自覚症状もあって自分ではわかっていたはずですが、これまで対外的には認めていませんでしたが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型も完成し、一区切り、ということだったのでしょう。

京都精華大学ギャラリーさんで開催中のリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」の展覧会評が、7月6日(水)、『毎日新聞』さんの大阪夕刊に載りました。

今、11作家が問う「越境」 京都精華大ギャラリーでリニューアル記念展

 人やモノが日常的に国境を越えるグローバル化社会の風景を、新型コロナウイルス禍は一変させた。ロシアによるウクライナ侵攻は、今この瞬間も新たな悲劇を生んでいる。人類の歴史の中で繰り返されてきた「越境」だが、個人の人生に目をやれば、解放や成長をもたらす行為でもある。誰もが経験し直面する「越境」をテーマに据えた展覧会が、京都精華大学(京都市左京区)で開かれている。
 今年2月にリニューアルされた「ギャラリーTerra-S(テラス)」の開館記念展。大学が収蔵するコレクションの中から塩田千春ら6人のアーティストと、2000年代以降に活動を開始した若手ゲスト作家5人の作品を展示する。

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 前身の「フロール」から1・5倍の広さになったギャラリー中央のスペースには、「個と社会(ジェンダー/アイデンティティ/歴史/身体(からだ))」のサブテーマのもと、女性作家4人の作品が並ぶ。陶芸や切り紙のインスタレーションを手がける谷澤紗和子(1982年生まれ)による「はいけいちえこさま」(2021年)は、近年取り組んでいる高村智恵子へのオマージュ作だ。
 高村光太郎の「智恵子抄」で知られる智恵子だが、谷澤は、夫の目を通した智恵子像ではなく、切り紙作家としての智恵子個人に光を当てる。「はいけい―」は谷澤の智恵子への手紙などを切り絵にした6枚の連作。智恵子作品のモチーフを取り入れた1枚は、中央部分に目や口が表現されている。谷澤が、自身の言葉で語る智恵子を想像したという。6枚とも、額には解体された家屋の建材を利用。「家」に縛られてきた女性にとっての越えがたい境界が浮かび上がってくるようだ。
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谷澤紗和子「はいけいちえこさま」(2021年、部分)

 さまざまな角度から越境について考える展示を締めくくるのは、潘逸舟(はんいしゅ)(87年生まれ)によるユニークな作品だ。タイトルは「あなたと私の間にある重さ―京都」。円形に並べられたカラフルなはかりには食器が置かれ、箸やしゃもじで隣のはかりとつながれている。目盛りはそれぞれ数値を示しているが、果たしてそれは何のどの部分の重さなのか。
 上海出身で幼少期に青森に移住したというバックグラウンドを持つ潘は、体を使ったパフォーマンスで、社会と個の関係に感じた疑問や自身のアイデンティティーの揺らぎを表現してきた。今回もサブテーマ「身体/アイデンティティ」のコーナーに、自分と同じ重さの石をテーマにした映像作品「呼吸―蘇州号」(13年)が展示されている。「人間の重さは、自分だけの重さなのかと考えるようになった」。潘は同展の公開トークイベントで、「呼吸―」から「あなたと私の―」に至る数年の変化について語った。「自分の中には量れない重さ、どこかとつながっている部分がある。はかりが示しているのは、フィクションでもあると考えるようになった」
 展覧会を企画したのは、芸術学部の吉岡恵美子教授とギャラリーの伊藤まゆみキュレーター。準備中にウクライナ侵攻が始まり、期せずして「越境」はさらなる注目を集めることになった。「人類にとって、良い意味でも悪い意味でも重要なテーマであり続けてきた。一方で、潘さんの作品からもわかるように、境界はあると思えばあるし、ないと思えばない、曖昧なものでもあると思う」と吉岡教授。
 ギャラリーは同大明窓館3階。23日まで(075・702・5263)。日曜休館。入場無料。教員ら総勢22人が「『越境』を考えるためのおすすめ情報」として書籍や映画、音楽などを紹介する大学ならではの試みも。詳しくは展覧会特設サイト(https://gallery.kyoto−seika.ac.jp/exhibition/220617/)。

谷澤紗和子氏の「はいけいちえこさま」に関しては、以下もご覧下さい。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。

京都精華大学さんでの展示は7月23日(土)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后五時半千光園ほととぎす行、 青森県副知事、佐藤春夫夫妻、土方定一氏、小坂氏、藤島氏、草野心平氏、谷口吉郎氏集る、


昭和28年(1953)6月16日の日記より 光太郎71歳

千光園ほととぎす」は、当時中野区にあった「黄檗流普茶料理」と掲げる料亭。現在、中野区産業振興センターのある場所です。

この日は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型完成記念報告会が催されました。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんでの「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」、神保町の東京古書会館さんでの「七夕古書大入札会一般下見展観」に向かう前、まず最初に訪れたのが台東区の谷中霊園さんでした。最近、こちらに光太郎の父・光雲作の、当方が知らない銅像があるという情報を得まして、拝見に、というわけです。

この日は公共交通機関での移動で、JR日暮里駅にて下車、紅葉坂を上って園内へ。目指す銅像は徳川慶喜の墓所近くということで、そちら方面を目指しました。

途中には、谷中の五重塔跡。
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徳川慶喜墓所。
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さて、目指す銅像はこの近く、ということなのですが、なかなか見つかりません。というのも、慶喜の墓所敷地がかなり広大で、「近く」の範囲も相当なものだからです。

関係ない渋沢栄一の墓所などが見つかりました。
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それでも、ようやく発見。
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2体並んでいるうちの、左の方です。
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「初代 小川源兵衛之像」というキャプション。背面には「高村光雲作」の銘。

小川源兵衛は、嘉永三年(1850)年生まれ(光雲より2歳年長)。日本橋で「近江屋」という店を構えていた織物商です。屋号は出身地の近江に由来します。光雲は、この手の実業家等の銅像を全国でいくつか手がけており、不思議ではありません。ただ、どちらかというと、光雲個人の作というより工房作かな、という感じです。それにしても愚劣な立体写真的な像とは一線を画していますね。

中には原型を光太郎が代作したものも2体。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。いずれも戦時の金属供出で像本体は失われてしまいました。この「小川源兵衛之像」は、それらとは異なり、光太郎イズムは感じられませんし、光太郎が描き残した文章にもこの像の話は出て来ません。

さらに言うなら、この像の建立の経緯はまったくわかりません。その人物の追悼録的な書籍が刊行されていれば、そこに詳細が記されることが多いのですが、そうした書籍も見つけられていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

また、こんな都心にあって戦前の作であるにもかかわらず、金属供出を免れている点も謎です。同じ谷中霊園内の「川上音二郎像」は、おそらく供出されたのでしょう。現在は台座だけが空しく残っています(左下画像)。
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ちなみに2体並んでいる右の方は、「二代目小川源兵衛」の像。背面の銘(右上画像)によると、山本稚彦による昭和48年(1973)の作だそうです。山本稚彦は、光雲の高弟の一人・山本瑞雲の子息。光太郎とも交流がありました。

昭和48年(1973)であれば、もはや金属供出は関係ないわけで、もしかすると左の初代の像も、一旦は金属供出に遭ったものの、戦後になってから保存されていた原型を元に新たに鋳造されたのかも知れません。やはり原型光雲作で、愛媛県新居浜市の広瀬公園にある「広瀬宰平像」などはそのパターンです。あるいは金属供出を免れるため、遺族が像本体を戦後になるまで秘匿していたという例(光太郎の親友・碌山荻原守衛作の「宮内良助像」など)もあり、そういうケースも考えられます。

さて、「小川源兵衛之像」、谷中霊園、正確にはその中の東京都ではなく寛永寺さんが管理している一角にあります。そのため「甲の何々」「乙のいくついくつ」という表示のないエリアです。
無題
ご興味のおありの方、ぜひ探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏とりつづき午后終、小坂さん粘土かたつけ、二時過運送屋三輪車で牛越さん等と一緒に石膏型を持ち去る、牛越さんの家までの由、


昭和28年(1953)6月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、石膏取りも終わり、石膏型が中野の貸しアトリエから運び出されました。これで、光太郎の手を離れた、ということになるわけです。それにしてもオート三輪で、というのが時代を感じさせますね(笑)。この光景、見てみたかったものです(笑)。

小坂さん」は制作のため雇った助手・小坂圭二。「粘土かたつけ」は、石膏型を取り終わった後、中から原型の粘土を掻き出したりする作業で、七尺もの巨像となると、光太郎一人では不可能だったでしょう。

牛越さん」は石膏取り師の牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」に向かう前、久々に神田の古書街を歩きました。

まず向かったのは東京古書会館さん。こちらでは7月8日(金)、9日(土)の二日間、明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会一般下見展観」が開催されていました。
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国内最大規模の古書市で、出品物を手にとって観ることができる催しです。コロナ禍のため、一昨年は中止、昨年は勝手に「今年も中止だろう」と思いこんでいたら、実は規模を大幅に縮小して開催されていました。そんなわけで、3年ぶりでした。

今年も昨年並みに縮小しての開催だったようです。以前は4フロアぐらい使って出品物を所狭しと並べていたのですが、今年は2フロアのみ。「文学」カテゴリと「美術」カテゴリ(一部)が同じフロアという、以前では考えられない寂しさでした。昨年もこんな感じだったのでしょう。目録も昨年同様、以前の半分以下の薄さでした。

今回は光太郎メインの出品物はなし。目録掲載品以外の「追加出品」があった年もあり、会場の方に訊いてみましたが、今年はそれも無し。

間接的に光太郎智恵子に関わるものとして、光太郎が題字を揮毫した中原中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)、篠田桃紅さんの書で松竹映画「智恵子抄」の題字等。
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『山羊の歌』はガラスケースに入っていました。係の方にお願いすればケースの鍵を開けて出して下さるのですが、まぁいいや、と思い、ケースの外から拝観。

篠田さんの書は、額に入って壁に掛けられていました。入札最低価格が80万円、ネームバリューの割に安いな、と思っていたのですが、見て納得。ちょっと状態が良くありませんでした。それでも大きな書で、いかにも篠田さんという素晴らしい墨痕。軸装にでもして、二本松の智恵子記念館さんあたりに収蔵展示されればいいのにな、と思いました。

その他、大正から昭和初期のマイナーな映画雑誌などがまとめて出ており、もしかすると光太郎の寄稿があるかも、と、一冊ずつ目次を確認しましたが、残念ながら有りませんでした。

余談になりますが、昨年の七夕古書大入札会で出品された、光太郎から和歌山の編集者・東正巳という人物に送られた葉書21通、個人の収集家ではなく、業者さんが落札したようです。
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そしてその業者さん、ネットオークションで1通ずつ小出しにして分売しています。光太郎の直筆葉書なら欲しい、しかし個人では数十万円で数十通という出品物には手が出ない、という方々のニーズに合致しているようで、一通数万円程度で落札されているようです。昨年の入札最低価格は20万円、それでは落ちなかったと思いますが、そのでもこのように分売して1通数万円で売り続けられれば、業者さんは大もうけでしょう。参考までに。ちなみに当方、『高村光太郎全集』等に掲載済みで、内容が分かっているものは入手しない方針でいます。

古書会館さんを後に、靖国通りの古書街へ。
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光太郎をメインに扱った書籍はほとんど入手済みですし、そうでないものも図書館さん、文学館さん等でデジタル資料なり紙の実物なりをコピーして、必要な部分を入手するのが主流となっており、以前より足を向けなくなっていましたが、時折、面白いものが手に入ります。

この日、入手したのは下記の2冊。

まずは『《挨拶》草野天平の手紙』(昭和44年=1969 弥生書房)。
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当会の祖・草野心平の実弟にして、やはり詩人だったものの、数え43歳で早世した草野天平の書簡集です。大部分は心平ら家族・親族、当方の知らなかった友人宛のものでしたが、戦後、光太郎に宛てた書簡も3通掲載されていました。うち1通(昭和22年=1947)は巻頭口絵として画像も。
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この時期の光太郎への来翰は、ほぼすべて当会顧問であらせられた故・北川太一先生が保管されていたはず、と思っておりましたところ、案の定、後記的な箇所に、北川先生から提供を受けて掲載した旨の記述がありました。

天平、兄の心平よりマトモな人物(笑)というイメージでしたし、実際そうだったのでしょうが、意外と歯に衣着せぬ物言いもしていたんだな、という感じでした。特に光太郎が自らの戦争責任を自省して書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)への感想など、光太郎を思う余り、かなり手厳しい文言も。曰く「先生、何故このやうな詩をお書きになつたのですか。あれは詩ではありません。」「戦争中、皆立派ではありませんでした。たとへ先生がどんなことを戦争中に書かれたにしろ、戦争中にこの国の米を食つたものは、又はこの地に足をつけてゐた者は、一言たりとも何も言へない筈です」云々。

その他、心平や、天平の妻・梅乃による回想等もなかなか興味深く、これは一冊丸ごと読んでもいいなと思い、購入いたしました。

さらにこちら。
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山梨県立文学観さんで、平成4年(1992)に開催された企画展「与謝野晶子と「明星」」の図録です。同館では晶子メインで平成25年(2013)にも「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催していまして、拝見して参りましたが、それ以前にも晶子展をやっていたとは存じませんでした。

「「明星」の人々」ということで、光太郎に関しても出品物があり、図録でも5ページ、光太郎に割いて下さっていました。特に目新しいものは有りませんでしたが、一点だけ、「おっ」と思ったのが、明治33年(1900)、光太郎数え18歳のスケッチ。父・光雲を描いたものです。
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『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 春秋社)に、小さくモノクロの画像が載っていましたが、こちらはそれより大きく、細かな部分が観察出来ます。

北川先生による『高村光太郎 造型』の解題から。

 明治三十三年五月の日付を含むスケッチブックが現存する。表紙裏を含めて一二〇頁ほどのものだが、主として鉛筆、時に墨、色鉛筆、水彩着色等で、人物、風景、フランス語の断片等が書き込まれている。数え年十八歳、美術学校二年、まさに歌人砕雨が誕生するあたりの習作

砕雨」(さいう)は、『明星』に短歌を寄稿の際、光太郎が使った号です。

このスケッチブックは、平成2年(1990)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展に出品され、一部は拝見しましたが、全貌は当方も未見です。他にも光太郎のスケッチ類はいろいろ残っており、全体を複製して出版するなり、スケッチや絵画に特化した企画展なりが開催されてもいいような気もします。

この手のちょっとした掘り出しものがあるので、やはり神田古書街あなどりがたし、ですね。

この日はさらに、神田古書街へ向かう前に谷中霊園を訪れました。そちらについては、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小雨つつく、 奥平さんくる、午前石膏屋さん2人くる、


昭和28年(1953)6月7日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏による型取りが始まりました。「奥平さん」は親しくしていた美術史家の奥平英雄です。見物というか見学というかに来たのでしょう。

昨日は都内に出、3件ほど用件を済ませて参りました。

メインは新宿区の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」拝聴でした。

若干早く最寄りの神楽坂駅に着いてしまったので、駅近くでたまたま見つけた書店兼ギャラリー兼カフェに。中に入ると、「あれっ、ここ、来たことあるな」と思い出しました。平成26年(2014)、こちらで開催されていた「えがく展 7人の絵描きと10冊の本」で、『智恵子抄』も取り上げられていたので拝見に来ていました。こういうこともあるのですね。

とにかく暑かったので、アイスコーヒーを頂き、汗を引かせてから会場へ。
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まず楽屋に寄り、和編鐘奏者の有機音(ゆきね)さんにご挨拶。さらに客席へ。今回、「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」がプログラムに入っていて、その演奏前に「高村光太郎連翹忌運営委員会代表の方が会場にいらして下さっています」的な紹介をするというので、司会の方などと打ち合わせ。そんな大した者ではないのですが(笑)。

舞台には既に和編鐘がセッティングされていました。
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鋳金製の鐘が39個。音域的には3オクターブですね。これをマレットで叩いて音を鳴らす仕組みです。昨秋、代々木能舞台さんでの「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」の際に初めて拝聴しましたが、楽器でありながら自然の音に近いような感もありましたし、かなりの音量になりながら耳に優しいという不思議な楽器です。

その後、受付でパンフレットを拝受。
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さらに今回の演奏会が「CD発売記念コンサート」と銘打っていまして、チケットが「CD付」と「CDなし」の2種。当方は「CD付」を購入していましたので、下記のCDを拝受しました。
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こちらには「智恵子抄」系は収められていませんが。キングレコードさんから先月のリリースです。

さて、開演。2部構成で、第Ⅰ部は「鐘(和編鐘)シンフォニー」。昨秋の代々木でのステージにも出演された河崎卓也氏の朗読で、古典や近現代の短歌、そしてそれらからインスパイアされた和編鐘の調べ。鐘の音が時に風のように、また川のせせらぎのように、さらには海の波のようにという感じでした。
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休憩を挟んで第Ⅱ部。こちらでは3曲演奏され、冒頭が「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」でした。
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語りは菜月ひとみさん。光太郎詩の朗読は「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)一篇で、それ以外は光太郎智恵子の半生的な説明調。彼らについてあまりご存じない方には親切だなと思いました。

さらに「額田王歌物語より「煌めく歌人」」。第Ⅰ部にも登場された河崎さんが朗読、そこにまつながまきさんという方の舞。飛鳥時代ということで、高松塚古墳の壁画のような衣装が印象的でした。最後は「呂律の調べ」。はし本はるえさんという方の十七絃箏とのコラボ。いろいろバリエーションに富んだ構成でした。

終演後。
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左からまつながまきさん、河崎卓也さん、菜月ひとみさん、有機音(ゆきね)さん、はし本はるえさん。皆さんの今後のご活躍にも期待いたします。

今後といえば、有機音さん、今秋にも神戸で智恵子抄系をプログラムに入れた演奏会をなさって下さるそうで、ありがたいところです。詳細がわかりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后「毎日グラフ」の人3人くる、撮影、談話、

昭和28年(1953)6月6日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成したという話を聞きつけて来たようです。7月1日発行号に大きく写真が載りました。除幕前にネタバレ的に出してしまってよかったのかな、という感じですが。
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