カテゴリ: 東北以外

たまたまですが、演劇の公演情報、3連発となりました。

夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】

期 日 : 2024年6月19日(水)~6月23日(日)
会 場 : テアトルBONBON 東京都中野区中野3丁目22-8
時 間 : 6月19日(水) 19:00~      6月20日(木) 19:00~
      6月21日(金) 14:00~/19:00~   6月22日(土) 13:00~/18:00~
      6月23日(日) 12:00~/16:00~
料 金 : 4,500円 学割・リピーター割 3,500円

脚 本 : 清水邦夫
演 出 : 大谷恭代

昭和11年5月上旬。南品川ゼームス坂教会、集会室。この約二ヶ月前に二・二六事件が起こった…
教会の隣にはゼームス坂病院があり、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子をはじめ、多くの精神病患者が入院している。智恵子は夫の光太郎がすでに死んでいると思い込み、目の前に現れる光太郎を受け入れない。智恵子は自ら狂気の世界へ逃げたのか、光太郎の過剰とも言える愛が彼女を追い詰めたのか…
ドイツからやってきた飛行船ツェッペリンのように、しなやかで、気まぐれで、愛すべきキラキラした不良少年・少女たちが闊歩していた東京の街に、軍靴の音が響き始めてきた…


「智恵子抄」の高村智恵子とその夫 高村光太郎 愛の物語です。かなり昔に打診したのですが生前の作者の希望により、外部上演の許可が下りませんでした。今回、元木冬社の方々や各方面の皆様に確認・協力をいただき上演の運びとなりました🙇‍♀️ まだまだ未熟な主宰・演出ですが清水作品の世界観を舞台上に広げられるよう誠心誠意、丁寧に創り上げます❗️
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オリジナルは故・清水邦夫氏作・演出の、ある意味伝説の舞台です。初演は平成3年(1991)、再演が同5年(1993)。いずれも木冬社さんとしての公演で、光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典さんが演じられました。再演の際は地方巡回も行われました。当方、平成29年(2017)にたまたま泊まった十和田市のビジネスホテルで十和田公演の際に書かれた松本さん、小林さんらの色紙が飾られているのを見つけ、驚きました。
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004その後、木冬社さんは平成13年(2001)に解散、清水氏も松本さんも亡くなり、再演されることはないのだろうと半ば諦めていましたが、さにあらずでした。

オリジナルの舞台は拝見出来ず、パンフレットは古書店で入手、脚本は河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』(絶版)で拝読いたしました。光太郎智恵子以外のキャストはすべて架空の人物と思われ、今回のフライヤーにも使われている昭和4年(1929)に飛来した飛行船・ツェッペリン号が一つのモチーフとなった、不思議な世界観です。

当方、6月21日(金)の回を予約いたしました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の歌集の広告を見られたさうですが、あれは小生の意に反して十字屋と編者とが強引に出版するもので、書名の「白斧」といふのも誰がつけたか、小生の認知せぬものです。小生は生前歌集は出さぬ主張を持つてゐたのでこの出版には閉口してゐます。内容も小生の校閲を経てゐません。


昭和22年(1947)12月5日 和田豊彦宛書簡より 光太郎65歳

005明治末からの光太郎短歌を集めた歌集『白斧』に関わります。光太郎姻族となった宮崎稔が、光太郎短歌を集めて出版することを提案、光太郎は拒否しましたが、宮崎は上梓を強行しました。そこで光太郎は、あくまで自分とは関わりのないところでの出版である旨を明記せよ、と書き送りました。

タイトルの『白斧』は、明治37年(1904)の第一期『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛で、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しらは)に涙ながれぬ」。自分で総題を付けたわけではないので記憶になかったのでしょう。「「白斧」といふのも誰がつけたか」というのはそういうわけです。

ちなみに光太郎、詩とは異なり、短歌は手控えの原稿を残しませんでした。そこで現在でもこれまで知られていなかった短歌の発見が相次いでいます。平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後に見つかった光太郎短歌は20首ほどにもなります。

都内から演劇公演の情報です。

葵の会第二十三回公演 青鞜の女たち

期 日 : 2024年6月15日(土)
会 場 : 府中市中央文化センター ひばりホール 東京都府中市府中町2丁目25
時 間 : 1回目13時〜  2回目16時半〜
料 金 : 無料

明治末期に雑誌「青鞜」を創刊した平塚雷鳥を中心に集う女性たちの物語

脚 本 : 高垣葵     脚 色 : 瀧田千聰
演 出 : 吉澤佳代子   出 演 : 葵の会

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令和3年(2021)に、同じ脚本で、町田市の市民劇団・ひなた村劇団さんが町田市で上演なさいました。また、同じひなた村劇団さんで「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の中でもプログラムに入りました。当方、町田での公演を拝見に伺いました

今回のフライヤー裏面を見るとわかりますが、登場人物がとにかく多く、史実として伝えられる『青鞜』周辺のさまざまなエピソード(それ以外も)がてんこ盛りです。

光太郎智恵子も登場し(フライヤーでは「千恵子」と誤植されていますが)、『青鞜』とは直接関わらない、犬吠埼やずっと後の九十九里での場面なども含まれています。

今回演じられるのは「葵の会」さん。脚本を書かれた故・高垣葵氏と関係があるのでしょうか。ちなみに高垣氏、黒柳徹子さんもご出演なさった伝説的ラジオドラマ「一丁目一番地」(昭和32年=1957)などを手がけられた脚本家で、父君はかの高垣眸です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見、あなたの精進のありさまをよんで、大変うれしく感じました。宮澤賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます。


昭和22年(1947)11月30日 渡辺正治宛書簡より 光太郎65歳

故・渡辺正治氏は、劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さまです。

光太郎との出会いは太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲により全焼する3日前でした。当時、中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場で働いていた渡辺氏、戦後は郷里・山形に帰られ山形大学に入学、教職の道に進まれます。

おそらく大学在学中、「昭和20年4月に東京でお会いした者ですが、大学に入り直して……」的な書簡を光太郎に送ったのでしょう。それに対する返答の一節です。

このハガキと、最初の出会いの時に光太郎に贈られた『道程 再訂版』は、えりさんを通じて花巻高村記念館さんに寄贈されました。

講座的なイベントを2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

移住者交流会・花巻めぐりバスツアー 花巻エリア編

期  日 : 2024年6月8日(土)
集合場所 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時  間 : 9時45分   受付開始 
       10時00分 まなび学園出発
       15時00分 アンケート記入・解散
料  金 : 昼食代:1,000円程度
対  象 : 花巻市へ移住希望の方 花巻市外からの移住者(時期は問いません)
       移住者と交流したい市民
見学場所 : まなび学園、こどもセンター、母ちゃんハウスだぁすこ
       高村光太郎記念館、花巻図書館、花巻市文化会館
       また、バス車内から花巻エリアのマストスポットを眺めます。
昼  食 : マルカンビル大食堂(各自注文・支払いをお願いします。)
       移住の先輩トーク&交流タイム
〆  切 : 6月5日(水)

 花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向けに交流会・バスツアーを開催します。「ここはおさえておきたい!花巻マストスポット」を中型バス・フラワーロール号で巡ります。
 6月は花巻エリア編と東和エリア編を実施します。また、年度内に石鳥谷エリア編と大迫エリア編も実施予定です。花巻市の魅力を知り、交流を楽しみましょう。
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なるほどね、という感じですね。高村光太郎記念館さんも廻って下さるということで、ありがたいところです。

他の自治体等のこの手の事業の関係者さん、ご参考までに。

もう1件、福岡から市民講座の情報です。

遊友塾 日本の文学作品を読む 第3回

期 日 : 2024年6月12日(水)
会 場 : ふくふくプラザ6階 601号室 福岡市中央区荒戸3丁目3番39号
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料

講 師 : 船津正明先生(元九州大学非常勤講師)
内 容 : 『平家物語』~小督~  高村光太郎『道程』
申 込 : 6/5までに当仁公民館まで(電話可)092-751-6824
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講師の船津氏、幅広く日本文学全般に関する講座をなさっているようで、今回は「平家物語」と光太郎「道程」。

「道程」に関しては、令和2年(2020)に開催された同じ遊友塾さんの講座でも扱われていました。

こちらも主体は自治体さんのようです。そうでないとなかなか「無料」というわけにはいかないでしょう。

当方もあちこちで市民講座講師を務めさせて頂いておりますが、やはり自治体さん等が主体で「無料」の際にはそこそこ集まるものの、民間の運営で「有料」となると人集めに苦労する場合があるようです。

過日ご紹介した6月9日(日)にやはり花巻で行われる「五感で楽しむ光太郎ライフ」、「有料」の、しかも1,000円(ほぼ昼食代ですが)ということで、どうなのかなと思っていたのですが、定員を上回る103名もの申込があったと言うことで、胸をなで下ろしております。

閑話休題、上記2件、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】[]

今日は青年達が集つて小屋のまはりにヤトヂを造つてくれました。此の風除けが出来ると城砦のやうになり、まつたく冬らしくなります。其後雨がふつて雪は消えました。

昭和22年(1947)11月14日
宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は「家閉じ」なのでしょう。茅(かや)の束で家屋の周りを囲み、雪よけとするものです。この年は11月12日に初雪、さっそく3㌢ほど積もったそうです。

本日開幕です。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月29日(水)~6月4日(火)
会 場 : 大和百貨店富山店 5階コミュニティギャラリー 富山市総曲輪3丁目8番6号
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

今展は、大仏師松本明慶先生の仏像彫刻作品を中心とした木彫作品約40点の展観です。

《出品予定作家》
 松本明慶 高橋勇二 高村光雲 平櫛田中 他

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フライヤーに光太郎の父・光雲の「太子像」。光雲が得意としたモチーフの一つで、複数の作例が確認できています。ただ、画像だけでは、弟子の手が入った「工房作」なのか、光雲単独の作なのかは判然としません。

おそらく5月8日(水)~18日(土)、そごう大宮店さんで開催された同名の展観の巡回的な、同じ業者さんによるものだと思われます。

光雲の木彫、間近に見られる機会はそう多くありません。

ところで「光雲」「弟子」といえば、昨夜、地上波テレビ東京さん系でオンエアされた「開運!なんでも鑑定団」。番組予告欄に「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像」とあったので、てっきり光雲だと思って紹介したのですが、光雲ではなく、上野公園の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠正成像の馬を手がけ、「馬の後藤」と呼ばれた後藤貞行の作でした。「ウマすぎる像」の「ウマ」は「馬の後藤」に引っかけていたのですね。気づきませんで、「そうだったのか、やられた!」という感じでした。

依頼品はその後藤作という馬の丸彫り。
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以前に同じ番組で、レリーフが出たことがありましたが、丸彫りは初めてではないでしょうか。

作者紹介のVはいつもどおり秀逸な出来でした。光雲にも触れて下さいました。
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この「ツン」の部分は後藤の手になるものだ、と。

西郷像より前に楠公像制作の依頼があった際(いろいろあって除幕は西郷像の方が先でしたが)は、後藤は東京美術学校に勤務しておらず……しかし、馬の部分にはどうしても後藤の手を借りたい光雲は校長・岡倉天心に直談判。このエピソードは『光雲懐古談』に語られています。
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そうして美校に雇ってもらった後藤ですが、だからといって妙な忖度はせず、光雲ともやり合いました。このあたり、気骨を感じますね。
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「なるほど、そういうものか」と、後藤の方が折れましたが。

依頼品は、明治天皇に献上された南部馬「金華山号」に関わるもののようでしたが、そうだと断定できない、また、「おそらく後藤の作」としか言えないという点で金額は差っ引かれました。それでも高額の鑑定がつきました。

後藤貞行、もっともっと注目されていい彫刻家だと思います。

さて、富山大和さんの「近代木彫秀作展」。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花巻滞在中にはレコードコンサートであのバツハの「ブランデンブルグ」をきいて感動したり、「モロツコ」の映画再演を見たりしました。十数年前見たデイトリヒを久しぶりで又見て、昔の映画情趣を味ひました。今日のアメリカのスリラアなどに比べると随分テムポののろいものですがやはりいいものがあります。芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。

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昭和22年(1947)10月24日 椛沢ふみ子宛書簡より
 光太郎65歳

隠棲していた旧太田村から花巻町に出ると、賢治実弟の清六らとともに映画を観ることもしばしばでした。この際は、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演の「モロッコ」。昭和5年(1930)公開のアメリカ映画でした。

芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。」そのとおりですね。

都内から演奏会情報です。

コール淡水・東京(CTT)第11回定期演奏会

期 日 : 2024年6月2日(日)
会 場 : トッパンホール 東京都文京区水道1-3-3
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 無料

出 演 : 永原恵三(指揮) 鈴木ゆか(pf) コール淡水・東京(合唱)
曲 目 :
    第1ステージ 男声合唱とピアノのための『土佐日記による前奏曲集』
                          作:紀貫之 作曲:次郎丸智希 
    第2ステージ 『The Best of THE BEATLES』
                          編曲:次郎丸智希
    第3ステージ 『雨にうたるるカテドラル』(委嘱作品・初演)
                          詩:高村光太郎 作曲:次郎丸智希

第11回定期演奏会を永原恵三氏の全曲指揮で開催する運びとなりました。コロナ禍を何とか凌いで5年振りです。今回も次郎丸智希氏の委嘱作品の初演をいたしますが、3ステージ全て次郎丸作品としました。是非ご来場くださいませ。
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「淡水会」さんというのは、兵庫県立神戸高等商業学校さん・兵庫県立神戸経済専門学校さん・神戸商科大学さん・兵庫県立大学(神戸商科キャンパス)さんの同窓会だそうで、「コール淡水・東京」さんは神戸商科大学グリークラブさんの都内在住OBの方々が立ち上げられた男声合唱団だとのことです。30名ほどの編成のようです。

全ステージ、次郎丸智希氏という方の作品(編曲を含む)で、最終ステージが光太郎詩に曲を付けられた「雨にうたるるカテドラル」。ありがたし。

雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、110行にもなる長大な詩ですので、これまで日本でこの詩をテキストにした合唱曲、独唱歌曲とも、当方は寡聞にして存じません(寡聞なので存じ上げないだけで作曲が為されていることがあるやもしれませんが)。

ただ、アメリカの作曲家スティーブン・ハートキ(Stephe Hartke)氏が、「Cathedral in the Thrashing Rain」という男声合唱曲を発表なさっていて、手許にCD(平成15年=2003)があります。
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歌詞は基本、英語です。しかし、数ヶ所「O mata fukitsunoru ame kaze」「O nanto iu ame kaze no shuuchuu」などと、日本語を配していまして(ところどころ間違っているのですが(笑))、日本人・光太郎へのオマージュなのかな、という感じです。
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ヒリヤード・アンサンブルという合唱団のア・カペラで、そうと知らねばラテン語によるルネサンス期の教会音楽のようにも聞こえます。

閑話休題、おそらく日本語としては初の「雨にうたるるカテドラル」、ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

上野の表慶館にあるといふ西洋画展は飛行機でもあれば一日いつてみたい気がいたします、日本の油画は、もう一度本当に苦しまねば本当にならないと存ぜられます。梅原安井にしてもあんまり早く、小さく日本化してしまひました。もつと「大きさ」が画格になくてはなりません。


昭和22年(1947)10月24日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

花巻空港が開港したのは17年後の昭和39年(1964)でした。

油絵に関してのひと言、辛辣ではありますが、ある意味その通りかも知れません。かつての留学仲間・梅原龍三郎や安井曾太郎に対しても斟酌なしですね。

京都の和菓子店・一夢庵さん。主力はようかんマカロン。それぞれに『源氏物語』などの古典文学や「文豪」ということで近代文学、そして流行りの刀剣などをからめ、様々な商品を販売なさっています。

光太郎がらみもラインナップに入れて下さっていて、いつ頃商品化されたのかよくわからないのですが、最近気が付いて早速2点取り寄せしました。

まず「文豪ようかん 高村光太郎 智恵子抄 柚子味」。
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パッケージを剥くと、こんな感じ。一口サイズ的な。
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白あんベースにレモンならぬ同じ柑橘系ということで柚子ジャムが練り込まれています。

それから「文豪マカロン 高村光太郎 道程 塩キャラメル味」。
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こちらも一口サイズで、周りをキャラメルソースで固めています。どこに光太郎との関連が、という感じではありますが(笑)。まぁ。遊び心あふれる品々、ということで。

他に食品でない雑貨類もいろいろ販売されており、ようかんを切るナイフなども、絶大な人気を誇る「三日月宗近」や新選組鬼の副長・土方歳三の愛刀「和泉守兼定」だったりします(笑)。

ちなみに文豪は以下の通り。

芥川龍之介 有島武郎 泉鏡花 井伏鱒二  江戸川乱歩  尾崎紅葉 織田作之助 梶井基次郎  川端康成  河東碧梧桐 菊池寛 北原白秋 国木田独歩 久米正雄 小林多喜二  坂口安吾   佐藤春夫 志賀直哉 島崎藤村 高浜虚子 高村光太郎 太宰治  谷崎潤一郎 田山花袋 檀一雄 坪内逍遙 徳田秋聲 永井荷風 中島敦 中野重治 中原中也 夏目漱石 新美南吉 萩原朔太郎 樋口一葉 二葉亭四迷 正岡子規 宮沢賢治 武者小路実篤 室生犀星 森鷗外 山本有三   夢野久作 与謝野晶子

ようかんとマカロン、双方がある者と、片方だけの者とに分かれているようで、光太郎は双方あってありがたいところでした。

代金、送料等は以下の通り。
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クール宅急便での配送となり、その分、送料がちょっとかさみます。

ちなみに自宅兼事務所には悪い奴がいて、油断するとこうなります。過日、九州に行っていた妻の土産。
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犯猫(はんにゃん)。
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マカロンはまだ食べていないので、気をつけます(笑)。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小屋につきますと文部省から手紙が来てゐまして、帝国芸術院会員に推せんするから承諾しろといふ事でした。あのよぼよぼな敬老院は閉口なので謝絶するつもりですが御意見如何でせう。


昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

結局、断りました。また、のちに昭和28年(1953)にも芸術院会員への推薦があったのですが、こちらも受けませんでした。

富山県から市民講座の案内です。

高村光太郎『智恵子抄』講座

期 日 : 2024年5月26日(日)、6月9日(日) 、7月28日(日) 、8月25日(日) 、9月22日(日) 
会 場 : 高岡市生涯学習センタースタジオ405A 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 運営費1,800円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,300円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏 

孤高の詩人・高村光太郎と智恵子の魂の軌跡ともいえる『智恵子抄』を深く読み理解し、語り合いましょう💕

5月26日(日) 随筆『智恵子の半生』朗読
6月9日(日) 『智恵子抄』より「人に」「涙」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「人類の泉」
7月28日(日) 「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」「金」「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」
8月25日(日) 「山麓の二人」「風にのる智恵子」「人生遠視」「千鳥と遊ぶ智恵子」
9月22日(日) 「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「案内」「うた六首」
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講師の茶山さん、これまでも生涯学習組織・たかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

ちなみに上記講座一覧の№13「いつも生き活き自分で出来るリンパマッサージ講座」講師も茶山氏です。

また、昨年、今年と連翹忌にご参加下さいましたし、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。さらに今年11月には「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうです。

申込締め切りが過ぎてしまっているのですが、まだ空きがあるかも知れません。ご興味おありの方、問い合わせてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

水で畑が不成績ですが、トマトとキヤベツはすばらしくよく出来ました。トマトは毎日たべてもたべきれません。ゴールデン ポンテローザ種が美しく日に輝いてゐるのはいいです。キヤベツも中々上等です。今冬は此のキヤベツで「シユークルート」式漬ものをつくる気です。今大根が育つてゐます。


昭和22年(1947)10月3日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この後、シュークルートは光太郎の得意料理の一つとなりました。

また紹介すべき事項が山積しつつあり、2件まとめてご紹介します。

まず、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」について、地方紙『岩手日日』さん。

山菜味わい推敲重ね 光太郎直筆原稿「七月一日」初公開  高村記念館・花巻

000  東京から疎開し花巻の山口集落で過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が山の暮らしの様子を記した散文の直筆原稿が、花巻市太田の高村光太郎記念館で初公開されている。村人として生活を送っていたことがうかがえる内容で、光太郎の原稿では珍しい推敲(すいこう)の跡もそのまま残っている。
 光太郎は、1945年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開し、8月に山口集落(現同市太田)で暮らし始めた。散文は翌年に執筆され、50年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載された。題名は「七月一日」。200字詰め原稿用紙4枚にブルーインクで書かれている。
 散文には地域で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓に上がる様子が山菜の描写と共に詳細につづられている。東北に来て初めて知った山菜「ミヅ」について山奥の谷川の水場にしげり、おひたしや塩漬け、汁の実にして食べると、「ワラビのようなぬめりがあって歯切れが良く、味に癖がなくてさっぱりしている」「ミヅのぬめりとニシンの脂とがよく調和する」などと記し、村人と同じ食生活を送っていたことが読み取れると同時に、東京では絶対に口にすることのないものへの感動が伝わる。
 テーマ展は7月7日まで。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

記事にあるエッセイ的な「七月一日」、全文はこちら。
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『智恵子抄その後』が刊行されたのは昭和25年(1950)11月20日。太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に『智恵子抄』を上梓した澤田伊四郎の龍星閣が、ある意味、二匹目のドジョウを狙って出版しました。「詩集」と冠されていますが、詩は同年1月に雑誌『新女苑』に発表した「智恵子抄その後」の総題を持つ6篇の連作詩、同じ『新女苑』や他の雑誌に発表されたものが5篇。その他は散文で、散文の方が圧倒的に分量が多いものです。

この「七月一日」は、それまでに他の雑誌や新聞等に発表された形跡が無く、初出と推測されます。というか、光太郎本人による「あとがき」に、「澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を校正してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。」とあり、「山小屋日記に類する文章」として、澤田が光太郎から借りた日記の一部なのではないかと推定されます。

目次の「七月一日」下部には「昭和二一・七・一」の文字。実際、この年の5月16日から7月16日までの日記が失われています。同様にやはり『智恵子抄その後』には昭和25年(1950)に書かれた「九月三十日」というエッセイも掲載されており、こちらも他の新聞雑誌等に掲載が見あたらず、そして当該日前後の日記が失われています。「物色」のひと言から澤田による借りパクと断定は出来ませんが……。

閑話休題、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件は、『毎日新聞』さんの千葉版から。

君津出身 不運の画家、柳敬助に光 渡辺茂男さんが評伝出版 /千葉

  明治・大正期に渋沢栄一や北原白秋の肖像画を描くなどして活躍した君津市出身の洋画家、柳敬助(1881~1923年)の評伝が出版された。執筆したのは同市の文化財審議会委員を務める渡辺茂男さん(73)。柳が42歳で没した年に関東大震災が発生、多くの作品が失われた。歴史に埋もれた画家の人生を丹念に掘り起こした。
 本のタイトルは「不運の画家―柳敬助の評伝」(東京図書出版)。「西洋画黎明(れいめい)期に生きた一人の画家の生涯」のサブタイトルが付けられている。
  柳は現在の君津市小糸地区で医師の子として生まれた。通っていた籾山尋常小の佐藤善治郎校長に才能を見いだされ、絵描きになることを勧められたと伝わる。後年、柳が描いた佐藤校長の肖像画が小糸小に残されている。
 東京美術学校(東京芸大の前身)で西洋画を学んだ後、米欧に留学。帰国後は渋沢や北原、思想家の三宅雪嶺、政治家の野田卯太郎ら各界で活躍する人物を描き、肖像画家としての地位を確立した。
 だが、1923年5月に42歳の若さで病死。その年の9月1日から日本橋三越で遺作展が開かれる予定だったが、関東大震災が起き、代表作を含む約40点を焼失してしまった。残された作品の多くは現在、柳が終生の友とした彫刻家の荻原守衛(もりえ)を記念した碌山(ろくざん)美術館(長野県安曇野市)に所蔵されている。
 君津市出身の渡辺さんは昨年、柳の没後100年を迎えたのを機に執筆を始めた。「郷土が生んだ洋画家が、どんな絵を描き、どんな人生を送ったのか、記さないといけない」と使命を感じたという。数点の手紙を除き、柳の日記や手記などは見つかっていない。関わった周辺の人物の書籍などから、その歩みを探った。昨年には柳の作品などをまとめたパネル展示も小糸公民館で開いた。
 柳は詩人で画家の高村光太郎らと親交を深め、多くの芸術家が集った「中村屋」(現在の新宿中村屋)の支援を受けて創作活動に打ち込んだ。「多くの作品が焼失し、その絵を見ることはできない。現在の私たちには不運なことではあるが、柳本人の人生は幸せだっただろうと思う」と話す。
 <小糸川の水一滴は七つの海につうじる>。同市の君津高校上総キャンパスに建つ石碑に刻まれている言葉だ。小糸川流域で生まれた人々が「七つの海」、すなわち世界で活躍することを願った言葉とされる。渡辺さんは「柳の人生は、この言葉を正に体現していたと思う。小糸から羽ばたいた青年の人生を広く知ってほしい」と願う。
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君津市出身の画家、柳敬助の評伝「不運の画家」を出版した渡辺茂男さん。
手前は小糸公民館での展示で使用したパネルの原本=君津市

過日ご紹介した『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』についてです。

柳の名は光太郎顕彰に携わる身としてはマストなのですが、やはり一般にはあまり知られていない名前なんだな、と感じさせる書きぶりでした。まぁ、当方も渡邉氏のご講演拝聴するまで、柳の生涯をそれほど詳しく知っていたわけでもありませんが。

ところで「詩人で画家の高村光太郎」とありますが、「詩人で彫刻家の高村光太郎」としていただきたかったところです(さらに云うなら、光太郎自身の優先順位としては「彫刻家で詩人の高村光太郎」でしたが)。おそらく書いた記者さん、光太郎についてもあまりご存じないようで……。

何はともあれ、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。Amazonさん等でも入手可能です。

さらに、記事にある安曇野の碌山美術館さんに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

稚拙の美は無意識にして始めて価値あり、世上に往々あるやうな意識的な稚拙のものは甚だ厭味になります。又いい気になつた稚拙のものは棄てる外なし。無技巧といふ事は本来芸術には存在せず。一見無技巧と見えるものには別個の技巧があるものと思ひます。


昭和22年(1947)9月17日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の芸術論の一端が、端的に表されています。光太郎はいわゆる「ヘタうま」的なものに価値を認めていませんでした。

「始めて」は原文のまま。「初めて」とすべきですが、「始」と「初」の使い分け、光太郎は意外といい加減でした。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

先月30日の『朝日新聞』さん新潟版から。

(ぷらっと甲信越)山梨・市川三郷「四尾連湖」 豊かな自然の中、命の洗濯 /新潟県

004 「四本の尾を連ねた竜がすむ」のがその名の由来という、山上にたたずむ神秘の湖。かつて、湖畔の丸太小屋で自炊生活をしながら詩を作り続けた男がいた。
 山梨県旧一宮村(現・笛吹市)に生まれた野沢一(1904~45)は「森の生活 ウォールデン」を著して自然の一部として生きることを説いた米国の思想家ヘンリー・ソロー(1847~62)に感化され、卒業直前だった法政大学を中退。1929(昭和4)年に四尾連湖(しびれこ)畔に移り住み、約5年暮らした。作品は007詩集「木葉童子(こっぱどうじ)詩経」にまとめられ、詩人・高村光太郎が序文を寄せている。湖畔の森の中で詩作し、自然との合一を志向する作風から「森の詩人」と呼ばれている。
 湖畔から、エメラルドグリーンの湖水のきらめきを左手の樹間に見ながら登山道を15分ほど歩くと、野沢の文学碑に着く。
 「とこしえに しびれ湖と たたえられてあれよ」。碑に刻まれた詩を詠じた頃と、湖の姿はそんなに変わってはいないだろう。
 東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)は、10年以上前から年に1度は、湖畔の山荘「水明荘」に投宿するのを楽しみにしている。
 「火薬の臭いが漂っていた時代にあって、現代を先取りしたかのような詩を思い、野沢も過ごした自然の中で命の洗濯をする」と話す。
 水明荘は、曽祖父から4代目となる北島水絵子さん(51)と、慎介さん(47)の夫婦が営む。
005 水明荘が湖の対岸で運営するキャンプ場へテントなどの荷物を運ぶには、手押しの一輪車などを使って湖を約10分かけて半周するか、人力のボートで横断するしかない。だが「その不便さを含め、『豊かに何もない場所』を提供しています。それを大事にしていきたい」と水絵子さんは話す。
 このキャンプ場に年に8~10回は訪れるという、東京の50代の自営業男性は、たった1人での「ソロキャンプ」を楽しむ。火をたいて作った食事を食べたり、色鉛筆で風景をスケッチしたり、後はボーッと過ごす。「静かなんだけど、無音じゃない。鳥の鳴き声や魚のはねる水音など、豊かな自然の発する音が、ストレートに感じられるのがいい」
 時間が止まっているかのような湖畔だが、新しい時代の波紋も伝わってきた。
006 数年前、キャンプをテーマにした人気アニメ『ゆるキャン△』で、四尾連湖がモデルになった。
 それ以来、アニメのモデル地を訪れる「聖地巡礼」として、キャンプ場を利用したり、水明荘の湖に臨むテラスで「ホットチャイ」を飲んだりするアニメファンが、外国人もまじえて増えているという。
〈アクセス〉中央道甲府南インターチェンジから車で約40分、JR身延線市川大門駅からタクシーで約30分。標高850メートルにある周囲1.2キロの山上湖。周辺は1959年に県立自然後援に指定された。水明荘(055・272・1030)が湖畔で宿泊施設とキャンプ場を運営している。


一時、光太郎と僅かな関わりのあった詩人・野沢一に関して、山梨県市川三郷町の四尾連湖が取り上げられました。

ちなみに記事に登場する「東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)」は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の言い出しっぺなので「ありゃま」という感じでした。

ただ、記事中で野沢の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)に「詩人・高村光太郎が序文を寄せている」とあるのは誤りです。平成17年(2005)に文治堂書店さんから覆刻された『木葉童子詩経』で光太郎の「木葉童子の手紙」が序文的に巻頭に配されています(昭和51年=1976にも文治堂さんから覆刻が出ましたが、そちらは確認していません)が、これは昭和15年(1940)の雑誌『歴程』(草野心平主宰)に載った半連載的な「某月某日」の一篇で、序文というわけではありません。

『木葉童子詩経』に野沢は光太郎に触れた詩も収録しました。
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   長すぎるこの世に生きて

 確かに何処かにはずつと高いものがゐる
 霧の中に射して来る夕陽の様なものがある
 然しそれは私には解らない
 解らないが居る様な気はする
 案外の人が黙つて持つてゐるかも知れない
 寺田寅彦氏、芥川氏、直哉氏、漱石氏、節氏、子規氏、
  百穂氏、かう言ふ人は芸術的なものをもつて私にせまる
 そして高村光太郎と言ふ人は
 小さい様に冷たく匂ふ

 けれどもこう言ふ人を離れて
 私はしばし しびれの山にこもつてみる
 其処には何があつたか
 色は匂へど散りぬるを――
 (以下略)


野沢は『木葉童子詩経』を送り、光太郎は礼状を認(したた)めました。

その他、光太郎と野沢の関わりは、野沢が昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送ったこと。その件を「某月某日」に書いています。光太郎も何度か返信はしました。確認できているのは先の1通を含めて2通のみで、いずれも山梨県立文学観さんに所蔵されています。
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二人に直接の面識はおそらく無かったのではないかと思われます。しかし、『木葉童子詩経』に記された四尾連湖での生活ぶりは、光太郎の心に深く刻まれたように思われます。それが戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしをするという決断に影響を与えたような。もっとも、光太郎周辺には、辺境で活動していた人物は野沢以外にも水野葉舟、更科源蔵ら、複数居ましたが。

四尾連湖、当方は平成29年(2017)に足を運びました。その際のレポートがこちら。その頃はまだアニメ「ゆるキャン△」は放映されて居らず(原作の漫画は既に出ていましたが)、「聖地巡礼」的な人も見かけませんでした。現在はインバウンドの人々も訪れているのですね。

山梨県に於ける「ゆるキャン△」の経済効果はかなりのものだそうですし、過日訪れた中野区の三岸アトリエ/アトリエMさんも、吉高由里子さん、横浜流星さん主演の映画「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)のロケで使われたため「聖地巡礼」で訪れる方もいらっしゃるとのこと。

それらが一過性のもので終わらないように、と願う次第です。

【折々のことば・光太郎】

北海道旅行の件、ゆきたいのは今でも山々なのですが、一番大きな故障は身体的な不安です。 少しつめて仕事したり、畑が過ぎると血をはく習慣が出来たやうで、此処其上汽車に長くのると肺炎を起す懸念が濃厚です。


昭和22年(1947)8月12日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

更科は戦前には弟子屈で開墾に取り組みながら文学活動を行っていました。この頃は札幌在住で、花巻郊外旧太田村の光太郎の元も訪れ、逆に光太郎に北海道へ来ませんか的な誘いをしばしばかけていました。

信州レポート最終回です。

4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。

信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。

その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。

この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。

残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
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改修工事中でしたが、拝観は可能でした。

入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
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刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。

作品の収集や同館の開館に協力された、画家の野見山暁治氏が昨年亡くなりましたので、その意味でも感慨深いものがありました。

さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
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何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。

以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。

そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。

こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。

一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
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しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。

実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
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墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。

茅葺きの本堂。
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室町時代建立の三重塔。
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今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
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南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
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その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。

そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生は青年が好きです。青年のムキな気持は愛すべきです。

昭和22年(1947)7月3日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

美術学校彫刻科の後輩達が、学校改革のために校長に進言してくれという手紙を寄越したそうで、その顛末を語った後に添えられたひと言です。結局いろいろ差し障りがあって進言は実現しなかったようですが。

特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。

4月21日(日)、22日(月)と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりましたが、メインの目的は安曇野市の碌山美術館さんで開催の「第114回碌山忌」および関連行事としての「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」への参加でした。

「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」が4月21日(日)の午後1:30から。休日の中央高速下り線、特に首都高から抜けた後しばらくの片側二車線区間は行楽等の皆さんで非常に混みますし、事故渋滞等も怖いので(一度、事故渋滞の影響で片道6時間以上かかったことがありました)早めに千葉の自宅兼事務所を出発しました。

そのおかげでスイスイ行けてしまい、そのままだとやけに早く着いてしまう状況に。そこで当初予定にはなかったのですが、寄り道していくことにしました。中央道岡谷ジャンクションで安曇野方面の長野道に入らず、そのまま直進し飯田市へ。

飯田市美術博物館さん内に、日夏耿之介記念館さんが併設されており、一度行ってみたいと思っていました。

日夏耿之介は、明治23年(1890)、現在の飯田市出身の詩人です。光太郎より7歳年下で、深い交流はなかったものの、おそらく直接の面識はあったと思われます。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、日夏の名が2回。

まず大正13年(1924)3月1日付の、雑誌『婦人之友』編集部にいた龍田秀吉宛書簡。同誌の読者投稿詩欄の選者をお願いしたいという龍田からの依頼を断る内容です。抜粋します。

詩の選といふ事は余程厄介な事の上に兎に角感じやすい若い魂から出たものをあれこれと取捨するやうな仕事はおよそ私などには向かないのです。それのみならず私は一種の野蛮人ですから自分の趣味なり傾向なりがさういふ巣の中の小鳥のやうなやさしいものの上に何等かの意味ではたらきかけるやうな冒涜の結果がありでもしたらといふ事もおそれます。とにかく女性の詩の選を私にさせるのは世の中で不つり合の頂上でせう。(略)どうか私に私らしくない事をさせないで下さい。 その詩のやさしさに私も心ひかれる西條さんが渡欧の為め選をやめられるのは本当に適任者を失ふ事です。しかし川路柳虹氏も居られるし、又日夏耿之介氏のやうな立派な詩人も居られます。

それまで選者を務めていた西条八十が渡欧するため退任、その後釜というわけですが、光太郎は固辞し、代わりに川路柳虹や日夏の名を挙げています(実際に誰が後任になったのかまでは未だ調べていませんが)。それだけ日夏を高く評価していたことがしのばれます。

ちなみに光太郎、この後、昭和14年(1939)から同16年(1941)にかけては『新女苑』、同17年(1942)から18年(1943)の『職場の光』で投稿詩の選者を務めました。これらの際には断り切れなかったということでしょう。

他にも昭和14年(1939)に書かれた「詩の勉強」というエッセイで、やはり日夏を賞めています。

私は概して時代の老大家よりも真摯な青年層の方から良い教訓を受ける。其頃も日本詩壇の老大家とは殆ど没交渉だつたが、青年詩人からは多くの刺激をうけた。葉舟、犀星、朔太郎、耿之介、柳虹等の諸氏は常に尊敬してゐた。

「其頃」は大正初め頃をさします。「老大家」はおそらく北村透谷やら島崎藤村やら土井晩翠やらの一世代前の人々でしょう。

『高村光太郎全集』に日夏の名が出て来るのはこの2箇所だけですが、おそらく詩話会などの詩人の会合等で光太郎と日夏が顔を合わせる機会はいろいろあったと思われます。実際、昭和17年(1942)の第一回大東亜文学者大会には、光太郎、日夏共に出席しています。

b7b6af5e日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

透谷以下の十四人をこゝに選出したのは、偶まの十四人であるが、明治の八人大正の六人を厳しく選んで獲たる数であつて、近代情趣の形成の上に正統の抒情詩的寄与をなした新旧十四個のピラアズの作品を、この篇冊にアンソロジイにして抄出したところに編者は史的意味を認めるとなすものである。

まぁ、光太郎は外せないよ、ということでしょう。ちなみに日夏、ちゃっかり自分も十四人に入れていますが、これは本人の意図というより、版元の意向でしょう。

これは日夏の編集ですが、他者の編によるこの手のアンソロジーで、光太郎、日夏の作品が共に掲載されているものは、軽く30冊はあります。

さて、前置きが長くなりましたが、飯田市の日夏耿之介記念館さん。
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一見すると普通の古民家のようです。それもそのはず、「日夏が余生を送った飯田の邸宅を復元したもの」だそうで。
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調べてみましたところ、光太郎が亡くなった昭和31年(1951)から昭和46年(1971)まで暮らした家のようです。元は数百㍍離れた稲荷神社境内に建てられ、平成元年(1989)、この地に復元されたとのこと。内部も民家の体裁を生かし、展示が為されていました。
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光太郎と交流の深かった佐藤春夫からの書簡。
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江戸川乱歩からの来翰も。
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この手の来翰をまとめた書籍が置いてあり、光太郎からのそれはないかと調べましたが、残念ながら見あたらずでした。それをもっとも期待していたのですが……。

しかし、展示されていた古写真を見て、仰天しました。
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日夏の詩集『転身の頌』出版記念会の際に撮られた集合写真だそうで、大正7年(1918)のものです。ちなみに下記のキャプションは「1916」となっていますが、誤りです。
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北原白秋、堀口大学、室生犀星、森口多里など、光太郎と交流のあった面々が写っていますが、光太郎は居ません。ではなぜ驚き桃の木山椒の木(死語ですね(笑))だったかというと、バックに写っている、壁に掛けられた絵のためです。
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光太郎の絵です。

大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごした上高地で描かれ、その年の10月、岸田劉生らと興した生活社主催の油絵展覧会に出品された作品群の内の一枚で、その際の題が「焼岳」。下記は『高村光太郎 造型』(春秋社 昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)に載った画像。
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なぜこの写真にこれが? と思ったのですが、キャプションを詳しく見て納得しました。撮影場所が京橋の「鴻ノ巣」となっていたためです。

「鴻ノ巣」は「メイゾン鴻乃巣」。明治43年(1910)、奥田駒蔵という人物が日本橋小網町に開店した西洋料理店です。光太郎も中心メンバーだったパンの会で使われたり、光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるったメニューが作られたりしました。また、智恵子が創刊号の表紙を描いた『青鞜』社員の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたりした店でした。

同店はその後、日本橋通一丁目、さらに京橋に移転。駒蔵の令孫夫人に当たる奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』所収の年表によれば、京橋への移転は大正5年(1916)、そして大正7年(1918)の項に「1月 日夏耿之介『転身の頌』出版記念会(13日)」「『文章世界』13巻2号に『転身の頌』の会写真掲載」の記述がありました。

しかしその京橋の店も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。おそらく懸かっていた光太郎の絵も灰燼に帰したのでしょう。

光太郎自身も昭和21年(1946)、美術史家の土方定一に宛てた書簡で「『霞沢の三本槍』は京橋の『鴻巣』の店にかけて置きましたが大震災の時焼失した事でせう」と書き残しています。絵のタイトルが「焼岳」ではありませんが。

この写真を見られたのは大きな収穫でした。

さて、館外へ。
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左は日夏の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む」。「狗賓の山」は「天狗の住む山」の意で、飯田市の風越山を指すそうです。右は日夏の肖像レリーフ。「T.NISI」とサインが入っており、光太郎実弟の鋳金人間国宝・豊周の弟子筋にあたり、光太郎詩碑のブロンズパネルを複数鋳造した西大由の作かな、と思ったのですが、詳細不明です。
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追記・小杉放菴記念日光美術館さんの学芸員・迫内祐司氏より、「西常雄の作ではないか」とご教示いただきました。

日夏耿之介記念館さんに隣接して柳田國男館さんもありました。事前に調べていかなかったので、「へー」という感じでした。
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こちらは成城にあった柳田の書斎兼住居をここに移築したものだそうでした。柳田は飯田に居住したことはないそうですが、柳田の養父にして妻の父・柳田直平が旧飯田藩士だった縁とのこと。
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ちなみに光太郎と柳田も、軽く面識がありました。なんと共に同じミスコンの審査員を務めたのです。
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昭和4年(1929)、朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」で、写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。この年8月7日『アサヒグラフ』に、鏑木清方を除く審査員一同による座談会の筆録が掲載されています。

これ以外に柳田と光太郎が直接会った記録は見あたらないのですが、光太郎はエッセイ等の中で柳田を「柳田先生」と書き、それなりに尊敬していたようです。

愛車に戻ろうと飯田市美術博物館さん敷地内を歩いていると、何やら石碑や胸像。見てやはり驚きました。

石碑は「菱田春草誕生之地」。横山大観の揮毫でした。春草が飯田出身とは存じませんでした。
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胸像は「田中芳男像」。
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田中は明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた人物で、朝ドラ「らんまん」でいとうせいこうさんが演じた里中教授のモデルです。
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光太郎の父・光雲が登場し、田中を主人公とした小説『博覧男爵』を読んで、田中も飯田出身だったことは存じていましたが、失念していました。

そんなこんなで「飯田、どんだけだよ? 恐るべし!」という感想の飯田行でした(笑)。

この後、愛車で北上し、「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」へ。さらに翌日、第114回碌山忌参列の前に、上田まで足を延ばしました。長くなりましたので、そのあたりは明日。

【折々のことば・光太郎】

今日小包拝受、砒酸鉛、展着剤まことに忝く存じました。毎日素手で虫と格闘してゐましたが、これで大に助かります。雨が多くて虫も勢よく中々大変です。

昭和22年(1947)7月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

砒酸鉛」はかつて農薬として使われていましたが、現在は使用禁止。「展着剤」は農薬を作物に付着させるためのもの。いずれも蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での畑で使いました。

当方、化学はまるでだめなのでよく分かりませんが「砒酸鉛」の「砒」は「砒素」と関係があるのでしょうか。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の死因、最近は皮膚病の治療に使っていた薬剤に含まれていた砒素によるものとする説を、碌山美術館さんでは提唱なさっているようで、気になります。

信州安曇野レポートを続けます。

4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日「第114回碌山忌」が碌山美術館さんで行われました。前日に関連行事として行われたマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」の際に続き、この日も同館にお邪魔しました。
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午前中は地元の方々などによるコンサートが開催されてましたが、そちらは欠礼。安曇野を離れ、他へ行っておりました。そちらのアリバイ(笑)は明日以降レポートいたします。

午後1時頃、同館に到着。2時から薩摩琵琶奏者・坂麗水氏による演奏があるというので、それは聴いておこう、と。
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PXL_20240421_070610947会場は同館グズベリーハウス。演目は「文覚発心」「文覚と頼朝」そして「耳なし芳一」。

文覚は平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶で、源頼朝に平家打倒を焚きつけた人物として知られています。、元々は遠藤盛遠という北面の武士で、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って手にかけてしまい、それが元で出家しました。

そのあたりを守衛は自らに重ね合わせ、塑像「文覚」を制作。右画像の一番手前の腕組みしている像です。守衛が像にした人物ということで、文覚がらみが演目に選ばれたようです。

それから一般の方々にもわかりやすい「耳なし芳一」。当方、琵琶の演奏を生で聴くのは2度目でしたが、平成29年(2017)に千葉の柏で初めて聴いた時(「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」という演奏会でした)も「耳なし芳一」でした。

その後、守衛の墓参。館から車で10分程の共同墓地に、智恵子の師でもあった中村不折揮毫の守衛の墓があります。当方は荻原家当主・荻原義重氏の車に乗せていただきました。
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明治43年(1910)4月22日に守衛が新宿中村屋で亡くなった際、光太郎は奈良旅行中でした。知らせを受けて慌てて東京に舞い戻り、さらにこの墓地に駆けつけました。その際にはまだこの墓石は出来ていませんでしたが、それにしても光太郎もここに額づいたかと思うと、毎年のことながら感慨深いものがありました。こうした場合にいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで香を手向けました。

館に戻り、午後6時からグズベリーハウスで「碌山を偲ぶ会・サポートメンバーシップ交流会」。当会主催の連翹忌の集い同様、和気あいあいと会食しつつの懇談です。
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毎年そうで、開会宣言の後、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で群読します。光太郎の愛惜の思いが込められた寂しい詩なのですが、おめでたい集まりではないんだという意味では、ふさわしいといえるでしょうか。
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今年はご指名で、マイクを握って音頭を取ることになってしまいました。そこで「じゃあ、題名と一行目のみ、自分がソロで読みますので、二行目から皆さんでご唱和願います」。
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朗読しながら撮りました(笑)。

ご挨拶、ご報告、ご祝辞等。
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左から碌山美術館長・幅谷啓子氏。同館理事も務められている安曇野市長・太田寛氏。荻原家ご当主・荻原義重氏。

その後は料理に舌鼓をうちつつ、歓談。合間にスピーチ。
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当方の隣には琵琶の坂氏が座られ、いろいろお話しさせていただきました。坂氏、鎌倉にお住まいだそうで、当方、「毎年秋には北鎌倉のカフェ兼ギャラリー笛さんにお邪魔してるんですよ」と申し上げたところ、「そのお店、よく知ってます」。驚きました。しかし、以前にも同様のことがあり、笛さんをご存じない鎌倉市民はモグリなのかな、などと思いました(笑)。

それから、ちゃっかり光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動のための署名を皆さんにお書き頂きました(実は今日もその会合があるのですが)。

そんなこんなで8時閉会。片付けの後、愛車を駆って千葉に帰りました。

最後に、同館でゲットした今年のカレンダーをご紹介します。
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A4判横の冊子型、表紙は守衛の絶作「女」です。上下見開きで1ヶ月ごとになっています。

これが発行されたことは気付いていましたが、同館所蔵の光太郎彫刻もあしらわれていまして、その件は存じませんでした。

いきなり1月が「腕」(大正7年=1918)、4月は「十和田裸婦像のための中型試作」、10月で「手」。
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井上涼氏のトークセッションの後でしたか、グズベリーハウス内に貼ってあり、4月ですから「十和田裸婦像のための中型試作」のページで、「ありゃま」。急いでミュージアムショップに行き、「カレンダー、まだありますか?」と訊いたところ、「つい最近、完売してしまいまして……」。残念……。

ところが、「これでよろしければ」と、壁に貼ってあった見本をなんとタダで下さいました。「見本」とシールが貼ってあったり、ピン穴が空いていたりでしたが、全然OKです。ありがたく頂戴して参りました。

さて、明日は碌山美術館さん以外で廻った信州各地のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

お茶は先日の玉露はまだありますが大切なのでめつたにいれません。今度のお茶も新鮮でとてもいいです。目がさめるばかりです。

昭和22年(1947)7月9日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

若い頃からお茶好きだった光太郎ですが、蟄居生活を送っていた岩手では茶が栽培されて居らず、戦後の混乱もまだ続いていた折、茶葉の入手には苦労していました。そんな中、光太郎の茶好きを知っていた友人等が送ってくれる茶葉は非常にありがたかったようです。

一昨日、昨日と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛命日に合わせ、安曇野市の碌山美術館さんで開催された「第114回碌山忌」への出席でした。
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そちらが昨日でしたが、一昨日には関連行事として、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」があり、まずそちらから。

会場の研成ホール。道を挟んで美術館さんの向かいです。
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開場15分前くらい。すでに長蛇の列。
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キャパ120名でしたが、ほぼ満員でした。日曜日というのも大きかったようです。

お話は、井上氏と、碌山美術館さん学芸員の濱田卓二氏によるもので、濱田氏が聞き役でいろいろと水を向けられ、井上氏が詳しく語るという形式でした。お二人はかつて金沢美術工芸大学さんで同級生だったとのことで、井上氏は濱田氏を「濱ちゃん」と呼んでいたそうです(笑)。当方、濱田氏とけっこう長い付き合いですが、その件はまったく存じませんでしたので驚きでした。

内容的には井上氏のアーティストとしての来し方、「びじゅチューン」などの作品についての舞台裏、そしてご自身カミングアウトされているLGBTQをからめたお話。そちらはやはり井上氏がアニメーションを制作され、NHKさんの「みんなのうた」で流れたYOASOBI with ミドリーズさんの「ツバメ~レインボーバージョン」のお話をメインに。

井上氏、テレビで拝見するとおり、否、それ以上にユニークなキャラクターで、会場の笑いを誘われていました。聴衆の中には井上時の追っかけ的な方もけっこういらしたようでした。

「びじゅチューン」のお話の中では、平成30年(2018)に初回放映があった、なんと光太郎のブロンズ「手」をモチーフとした「指揮者が手」を、動画に合わせて井上氏が熱唱して下さいました。
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同番組でなにがしかの碌山作品が取り上げられていたらそちらだったのでしょうが、まだ取り上げられて居らず、そこで碌山美術館さんで展示されている「手」に白羽の矢が立ったようですが、ありがたいかぎりでした。

トーク終了後の質問タイム。当方も手を挙げて質問。「荻原守衛作品をご覧になって、どういう感想を持たれましたか」的な。当方は「とても素晴らしいと思いました」的な答えを期待しておりました。そこで、返す刀で「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」と言うつもりでした。ところが井上氏、「いやぁ、あまり何も感じなかったというか……」。いや、正直ですね(笑)。こういう場合、たとえそう思っていなくても空気を読んで社交辞令的に「とても素晴らしいと思いました」と返すものだと思いますが、そう思っていないことはそう思っていないと、包み隠さないところに芸術家としての矜恃を感じました。

そこで当方としても「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」という二の矢が継げませんでした(笑)。すると、あとで濱田氏らに「言って下さいよー」と怒られてしまいました(笑)。

ちなみに終演後等も含めて「撮影禁止」と厳しく出ていましたので当方撮影の画像はありませんが、井上氏のX(旧ツイッター)投稿から画像をお借りします。
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集合写真の方は井上上氏の「聴衆の皆さんと一緒に」という自撮りです。右手後方に当方も写っています(笑)。

この日はこの後、ゆっくり碌山美術館さんを拝観して退散し、市街地で早めの夕食を摂った後、宿泊先の「guest room ガーデンあずみ野」さんへ。
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フロントにはドイツのスタインベルグ社製のヴィンテージピアノが置かれたりし、なかなか瀟洒なお宿でした。
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この日は(翌日もでしたが)長時間の運転でしたので、けっこう疲労困憊。温泉にゆっくり浸かり、「おやすみなさい」。

急ぎ紹介すべき事項が何もなければ、あと2回程、信州レポートを続けさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

「高村光太郎詩集」(鎌倉書房)を東京の本屋で見たといふ人あり、小生方にはまるで音沙汰ありません。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後を通じて初の選詩集です。編集、題字揮毫は当会の祖・草野心平でした。
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奥付に依ればこの年7月5日刊行。しかし既に前月には出ていたようです。当然、こういうものを出すという連絡等は心平から入っていましたが、「出た」という連絡が入らなかったようです。

都内から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演

期 日 : 2024年4月29日(月・祝)
会 場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時 間 : 午後2:30開演(午後2:00開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,500 A席 ¥4,500 B席 ¥3,000
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)
      ライブ配信チケット料金 2,000円 + システム利用料220円

こころ通う仲間がいる こころ動く音がある
大阪の地に育まれて49年。音楽と、人との出会いに導かれて演奏を続けています。今回は、木下氏、昨年惜しくも亡くなられた西村氏の人気の合唱作品に加え、ベートーヴェンの名曲の“本歌取り”が驚きと感動を呼ぶ千原氏の最近作をご紹介します。指揮者・當間修一とともに時を重ね、互いを信頼し合うメンバーが音楽の力を信じて奏でるアンサンブルが、どうか皆さまのこころに届きますように。

指 揮 : 當間 修一
ピアノ : 木下 亜子
室内楽 : シンフォニア・コレギウムOSAKA

曲 目

 木下牧子 珠玉のア・カペラ コーラス セレクション
  女声合唱曲「めばえ」〔詩:みずかみかずよ〕
  男声合唱曲「恋のない日」〔詩:堀口大学〕
  混声合唱曲「44わのべにすずめ」〔原詩:ダニエル・ハルムス 訳詩:羽仁協子〕
  混声合唱曲「祝福」〔詩:池澤夏樹〕  ほか
 千原英喜
  ピアノと7楽器のためのコンチェルティーノ
   ベートヴェニアーナ“明けない夜はない”【関東初演】
    ピアノ:木下亜子 ヴァイオリン:森田玲子・中前晴美 
    ヴィオラ:神谷将輝・澤井杏
 チェロ:大木愛一・柳瀬史佳 
    クラリネット:鈴木祐子 ホルン:椋橋基博
    ファゴット:渡邊悦朗 ティンパニ:高鍋歩
 西村朗
  混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」〔詩:高村光太郎〕
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昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」がプログラムに入っています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「道程復元版」の事で更科君と真壁君と同道で来られました。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

002詩集『道程』は、大正3年(1914)に初版が抒情詩社から刊行された後、売れ残りの残本を改装し奥付だけ変えた再版(国会図書館さんのデジタルデータで見られるのはこれです)が数回出されました。その後、昭和15年(1940)に山雅房から「改訂版」が三種(百五十部限定版/書店版/普及版)、戦時中の昭和20年(1945)1月には青磁社から「再訂版」が上梓されました。

それらも書店の店頭から消えていたこの時期、青磁社の札幌支社的な札幌青磁社から「復元版」が刊行。「改訂版」「再訂版」が初版と詩の選択が異なっていたのに対し、こちらは初版の内容の復元を図ったものでした。奥付では6月の発行となっていますが、東京本社と札幌青磁社との間でのゴタゴタもあったらしく、実際にはずれ込んだようです。そのため札幌青磁社に勤務していた更科源蔵が、友人の真壁仁を伴って弁明に訪れたと思われます。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
(略)
 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
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今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
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おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

稀覯詩集の覆刻です。

黄瀛 詩集『瑞枝』復刻版

2024年3月5日 黄瀛著 あるきみ屋刊 定価990円(税込み)

 1906(明治39)年、重慶にて、中国人の父と日本人の母の間に生まれ、3歳で父を亡くすと中国各地を転々とした後、日本に渡り、両国の間で育った詩人・黄瀛。
 青島日本人中学時代には「日本詩人」で彼の詩が第一席に選ばれ、大正の日本詩壇で一躍注目を浴びます。再来日し、文化学院や陸軍士官学校で学ぶ一方で、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平、井伏鱒二らと交流をもち、昭和9年『瑞枝』(ボン書店)を上梓し、評価が高まります。
 中国に帰国後、魯迅とも交流しますが、日中戦争が勃発すると将校として活動し、戦後は解放軍に転じ、文化大革命中は捕虜となり11年以上勾留されたため、消息不明となり、幻の詩人と呼ばれたことも。
 62歳から重慶市の四川外語学院日本語学科教授として日本文学を教え、1984年以降、複数回に渡り来日を果たし、2005年98歳で没しました。

 本書は、黄瀛の若き日の詩集で、昭和57(1982)年に復刻された「瑞枝」を底本に復刻された文庫版で、70以上の詩と、当時の肖像写真と高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録しています。
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光太郎の周辺にいた詩人の一人、黄瀛(こうえい)。大正14年(1925)8月には、当会の祖・草野心平を光太郎に引き合わせました。また、昭和4年(1929)には花巻を訪れ、宮沢賢治とも会っています。光太郎周辺詩人の中で、実際に賢治と会ったことがあるのは光太郎本人、尾崎喜八、そして黄瀛くらいではないかと思われます。心平は結局、生前の賢治に会えずじまいでした。

『瑞枝』は黄瀛の第二詩集で、元版は昭和9年(1934)の刊行。光太郎が序文を書いています。原題は「黄秀才」でした。
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これまでも何度か覆刻されてきましたが、その覆刻すらあまり見かけない稀覯本です。

版元のあるきみ屋さん、北海道釧路の書肆ですが、これまでもやはり光太郎と交流のあった石川善助の詩集『亜寒帯』の復刻版などを出されています。なかなか商業ベースでは難しいと思うのですが、頭が下がりますね。

今回のものに光太郎の序文も掲載されているかは不明ですが、「高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録」となっています。

問題の彫刻は大正15年(1926)作の塑像「黄瀛の首」です。残念ながら彫刻そのものの現存は確認できていません。おそらく戦災で焼失したと思われます。
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心平が主宰し、黄瀛や光太郎も同人だった詩誌『歴程』の表紙にも使われました。スペースが余るので載せますが、右下は黄瀛の肖像写真です。
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というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

悩むといふ事は結局情熱の一つの形であり、若さの特権とさへ思はれますから、必ずしも悪い事ではありません。しかもそれを通過したあとの爽やかさは全く雨過天青の気持に違ひありません。人は幾度かさういふところを通り越さねばならぬものと思はれます。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

その生涯で何度もけつまずいては転び、また起き上がり、しかしやっぱり転倒しを繰り返してきた光太郎の言だけに、説得力がありますね。

昨日も上京しておりました。目的地は台東区上野の落語協会さん。
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こちらで開催された「彌生・初演の会」拝聴のためです。
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「初演の会」は毎月開かれているようで、「初演」ですから古典ではなく創作落語。昨日は鈴々舎馬桜師匠による「高村光雲」が初演されました。
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光太郎の父・光雲の談話筆記になる『光雲懐古談』を読まれた馬桜師匠が、その落語的面白さや光雲の江戸っ子的テイストなどを創作落語に出来ないか? と考えられての試みでした。

前半は『光雲懐古談』にある、光雲少年時代(まだ幕末)、ひょんなことから当代一の仏師・高村東雲の元に弟子入りすることになったくだり、修業時代に端材で彫った鼠の木彫が高僧の目にとまり、思いがけず買い上げて貰ったエピソードなど。

後半は上野ということで、光雲が主任となって東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像について。『光雲懐古談』には西郷像の話は出て来ませんので、他の資料をベースに、馬桜師匠が「こんなこともあったんじゃないか」という想像です。岡倉天心、勝海舟、伊藤博文、岩崎久弥、果ては明治天皇まで登場し、歴史好きにはたまらないでしょう。

ちなみに『光雲懐古談』では西郷像の件は語られていませんが大正12年(1923)に刊行された『南洲手抄言志録解』(馬場禄郎編・一指園)、昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に光雲の苦心談が語られています。共に当会発行・当方編集の『光太郎資料』第59集に載せておきました。

他の演目は、以下の通り。

やはり馬桜師匠による「宿題三題噺」。毎月の「初演の会」で、その時のお客さんから「題」を預かり、翌月までに一つの噺にまとめて披露するというもの。お題は「①大谷翔平」「②金持ち喧嘩せず」「③花見酒」。当初予定では他の噺家さんの担当だったそうですが、急遽、馬桜師匠が代役を務められました。来月分の「題」もこの日のお客さんから募り、当方以外は皆常連さんやご同業の方だったようで、いろいろ無茶振りが提案されていました(笑)。

林家たたみさんによる上方古典落語「花筏」。まだ前座の方だそうでしたが、かえってその初々しい感じに好感が持てました。

桂右團治さんで「心眼」。右團治さん、現代の落語界に詳しくない当方、そのお名前から当然男性だろうと勝手に思い込んでいましたが、囃子とともに出ていらしたのが女性だったので驚きました。落語芸術協会さんで初の女性真打だそうでした。「心眼」は光雲が(息子の光太郎も)ファンだった三遊亭圓朝が明治期に作ったものだそうで、奇縁に驚きました。

さて、馬桜師匠の「高村光雲」。来月、また高座にかかります。

山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会

期 日 : 2024年4月5日(金)
会 場 : ヤマノミュージックサロン池袋 東京都豊島区南池袋1-19-5
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 2,000円

番組
 |、牛ほめ     台所おさん
 |、高村光雲    鈴々舎馬桜
 |、饅頭怖い    林家たこ蔵
 |、百年目     鈴々舎馬るこ

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

予定の彫刻はまづ潺湲楼の額を彫り、次に椿材で帯留を一ツ彫り、これは院長さんの夫人に献ずるつもり。それから小木彫と粘土の裸像、これは智恵子観音の原型。

昭和22年(1947)2月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、まだこの頃は戦争協力を恥じ、自らに罰を与える彫刻封印という考えには至っていなかったようです。

「潺湲楼」は山小屋に移る前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸離れ。光太郎が命名し、佐藤が「ではその文字を彫って下さい」と板を用意し、制作を始めましたました。しかし、結局途中で放棄してしまいます。
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「帯留」も佐藤家には見あたらないとのこと。ところが昨年、宮沢賢治実弟の清六夫人に送られていたことが判明し、仰天しました。しかし、戦後のドサクサで現物は残っていないということでした。

「智恵子観音」は形を変え、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として昭和28年(1953)に結実します。

昨日は都内に出ておりました。メインの目的は銀座王子ホールさんで開催された「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」

そちらが午後2時開演でしたので、その前に駒場の日本近代文学館さんで調べもの。
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国立国会図書館さんのデジタルコレクションリニューアルに伴い、自宅兼事務所に居ながらにして、未知の光太郎作品等の発見が相次ぎました。ただ、新たに公開されたデータの数が膨大なので、未だ調査中です。しかも自宅兼事務所のPCでは見られない「国会図書館内限定」というデータも多く、同館に出向いての閲覧も行っていますが、昨日は祝日で同館が休館。そこで、目星を付けておいた資料のうち、日本近代文学館さんにも所蔵があるものを閲覧させていただこうというわけです。

しかし、ほとんどは空振りでした。

たとえば国会図書館さんのデジコレ検索画面でこういう情報が。
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雑誌『少年倶楽部』。同誌に載った既知のものは大正15年(1926)の詩「路ばた」しかありません。そこへ来てこういう情報が出て来ると、それ以前の大正8年(1919)に「我美術界の将来」と題する文章が掲載されているかも、と思うわけです。当方作成の光太郎文筆作品等リストに「我美術界の将来」という作品はありません。期待が高まります。

ところが、実際に『少年倶楽部』の当該ページを見ると、同じ講談社発行の雑誌『雄弁』の広告。では『雄弁』に「我美術界の将来」という文章が掲載されているかというと、当該号に載っているのは「戦後の我が芸術界」。既知の作品です。広告と実際のものとで題名が変わっているわけです。よくある話ではあります。ちなみに「戦後」は「第一次世界大戦後」の意です。

それからこんなケース。
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これは当初から広告だろうとわかりましたが、「高村光太郎氏曰く」とあるので、その後に光太郎の文章が続いているはず。たしかに以下の通り、光太郎の文章がありました。
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この手の広告に載った短評で、未知のものの発見が昨年相次ぎましたので、「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、これは雑誌『詩神』に載った既知の「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」からの転載でした。

こんな感じばかりでしたが、こんなことでめげていられません。今後も鋭意調査を継続します。

さて、その後、銀座王子ホールさんに移動。
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メインの目的、「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」を拝聴。
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートで、ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」が、バリトンの馬場眞二氏の歌唱で演奏されました。女声による演奏もいいのですが、硬質な「冬」を謳い上げた詩ですので、男声の響きが非常にマッチしていた感じでした。

   冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

その他、現代詩人の皆さんの作品に曲を付けられた作品など。かつて「組曲 智惠子抄」をリサイタルで取り上げられたり、CD化なさったりした清水邦子氏もご登場。毎回そうですが、その詩人の皆さんの何人かもご来場なさっていました。

終演後のホワイエ。

朝岡氏。
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清水氏、馬場氏。
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今後とも皆様がご活躍されることをを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

人から貰つた青竹の火吹竹を割つて茶杓をつくるつもりです。畳目十三本の長さにして火だめにしませう。銘を「火ふき」とつけます。火ふきは火吹きでもあり、又火噴きでもあります。光太郎好みの形にします。


昭和22年(1947)2月4日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での7年間の蟄居生活中、作品として発表した彫刻は1点も作りませんでしたが、こうした身の回りのものは自作していたようです。

そろそろ桜便りも届き始めていますね。それに合わせて全国各地で夜間ライトアップ等が催されます。光雲、光太郎ゆかりの場所でのそれをご紹介します。

まず京都。光太郎の父・光雲が主任となって原型を制作した鋳銅の聖観音像(露座)もライトアップされます。

春のライトアップ2024

期 間 : 2024年3月23日(土)~4月3日(水)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『一心に専(もっぱ)ら』~開宗850年への思い~
手の正しい合わせ方が分からない。仏教の話は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。正座じゃなくて大丈夫です。椅子席もありますよ! お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験の時間があります。日常を忘れ、心静かなひとときを味わってみませんか?
開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「忘れ傘」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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ライトアップ同時開催企画展示
 「鬼より強い守り神」 3月23日(土) ~ 3月27日(水)
  吉田瑞希・陶芸家
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。
  友禅苑 茶室「白寿庵」(23日(土)・24日(日)のみ)、茶室「華麓庵」
 「千代紙の色とデザイン」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  REKAO 桜柄の千代紙の屏風や、14枚の型で染め上げられた椿柄の屏風等を展示。
  友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を御朱印所にて販売します。
  販売日:3月23日(土)、24日(日)、29日(金)、30日(土)、31日(日)
 「花明 Ceramic × Scissors Vol.2」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  林侑子・陶芸家
  土をハサミで切る、新しい装飾技法から生まれる土鋏作品を展示します。
  友禅苑 茶室「白寿庵」
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関連行事等も充実していますね。

もう1件、光雲、光太郎、そして智恵子らが眠る髙村家墓所のある、駒込染井霊園です。

染井霊園ライトアップ

期 日 : 2024年3月23日(土)~4月7日(日)
会 場 : 都立染井霊園 東京都豊島区駒込5-5-1
時 間 : 17:30~20:00
料 金 : 無料

園内には約100万本ものソメイヨシノが植えられ、高村光太郎、智恵子をはじめ、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内が一部ライトアップされ幻想的な夜桜を楽しめます。
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このブログでご紹介するのは今年が初めてですが、「染井よしの桜まつり」の一環としてかなり前から行われていたようです。今年は案内に「高村光太郎、智恵子」とあったのでこちらの検索網に引っかかりました。

夜の霊園で、というとちょっと怖いかなと思われる向きもいらっしゃるかもしれませんが、染井霊園、きれいに整備され、いわゆる「墓場」という感じではありません。

そして何と言ってもこの辺り一帯、ソメイヨシノの発祥の地です。そう思って見ると、また格別なのではないでしょうか。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

入口の戸は夜になると凍りついて中々開きません。急須の蓋も凍りついて、湯を上からかけないととれません。


昭和22年(1947)2月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、前年の冬よりは寒くなかったそうですが、それでもこういうありさまでした。

落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

先週、埼玉県越生(おごせ)町に行って参りました。県中央部やや西寄り、秩父山塊の麓です。

基本、光太郎とは関係なく、日頃さんざん世話になっている妻に女房孝行と申しますか、ご機嫌取りと申しますか、でした(笑)。

メインの目的地は、それなりに花好きの妻のために、越生梅林さん。梅といえば昨年は水戸偕楽園さんに行ったのですが、若干盛りには早く三分咲きといったところでしたので、リベンジの意味も兼ねて(笑)。

今回の越生梅林さんでは、ほぼ満開でした。
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やけに風の強い日でしたが、それだけに快晴、青空をバックにした梅花がいい感じでした。

それから温泉好きの妻のために(当方もですが)、日帰り温泉へ。さらに妻は御朱印マニアですので、寺社めぐりも。

事前にネットで調べたところ、大慈山正法寺さんという鎌倉時代開山の古刹に、複製ながら、光太郎の父・光雲作の大黒天像がおわすという情報を得まして、そちらに。

町の中心街から少し山に入ったところで、落ちついたたたずまいでした。
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よくある「七福神巡り」の一箇所で、御本尊は聖観音菩薩ですが、大正期の職人による大黒天像も鎮座ましましています。
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閻魔様もいらっしゃり、いつもそうしていますが、「後々お世話になりに行きますのでよろしくお願い申し上げます」と念じて参りました(笑)。

お寺の方にお話を伺うと、光雲原型の大黒天像、てっきり大きめの露座と思い込んでいましたが、そうではなく、像高一尺ほど、庫裡的な一角に納められているということで、わざわざ式台まで運んできて下さいました。七福神巡り大黒天のお寺ということで、寄進されたものでしょう。
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やさしいお顔をなさっていました。

御朱印もゲット。
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越生梅林さん、昨夕、NHKさんの関東甲信越ローカルニュースでも「見頃を迎えています」的な紹介が為されていました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

空の美しさ、殊に夜の星空のうつくしさは言語を絶してゐます。夜明け未明の東の空に北上連山が暗碧に浮き出して来る刻々の変化には思はず見とれて朝の食事の事を忘れるほどです。


昭和21年(1946)10月25日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、光害などとは無縁の地で、明け方の空の美しさはまさに絶景だったことでしょう。

3月となり、そろそろ受験シーズンも終わりに近づきつつありますね。

そんな中、先月25・26日に行われた国公立大学の2次試験のうち、京都大学さんの前期日程文系国語の問題に光太郎の文章が出題されました。

昭和15年(1940)11月に書かれ、翌年元日発行の雑誌『知性』第4巻第1号に発表された「永遠の感覚」の全文です。
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小問が5問設定され、全て記述式。字数制限はありませんが、解答欄のスペースから適度な長さで書け、ということですね。

大手予備校河合塾さんによる解答例。

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同じく代々木ゼミナールさん。
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駿台予備校さん。
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来年度以降の受験生向けでしょうか、「問題分析」も。

駿台予備校さん。
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河合塾さん。
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ちなみにこの問題、随筆扱いで、文学的文章としての出題でした。筑摩書房さん『高村光太郎全集』では第5巻、すなわち美術評論の巻、それから光太郎生前にはやはり評論集的な位置づけの『美について』(昭和16年=1941、道統社)に収められているのですが。しかし同じくこの文章を収めた『高村光太郎選集 第Ⅴ巻』(昭和26年=1951)は副題が「随想 上」で、まぁ、どちらとも取れるかなというところです。

それにしても、泉下の光太郎、このような形で自分が書いた文章が俎上に乗せられていることに苦笑しているかもしれません(笑)。

【折々のことば・光太郎】

何か揮毫する事はいつでもしますが、紙が乏しいです。和紙が不自由ですから紙さへお送りあれば書きます。


昭和21年(1946)10月18日 寺神戸誠一宛書簡より 光太郎64歳

自身では書家を名乗ったことはありませんが、特に戦後になって花巻郊外旧太田村に移ってから、頼まれて書を揮毫する機会が大幅に増えました。そして書けば書くほど、その腕前が上がっていったようです。

しかし戦後の物資不足が解消していなかったこの時期、やはりきちんとした紙は不足していまして、時に粗悪なボール紙や障子紙に揮毫することもありました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

既に始まっている展示です。

状況をわかりやすくするため、『北海道新聞』さん記事から。

賢治、有島の初版本 100年の時超えて 道立文学館 特別展に200冊

015 道立文学館(札幌)で特別展「100年の時を超える」が開かれている。宮沢賢治の詩集「春と修羅」(1924年=大正13年)、有島武郎の訳した「ホヰットマン詩集」(2冊、21、23年)初版本など主に明治、大正期に出版された約200点を、外国文学、詩集、歌集・句集・川柳、小説など6項目に分けて展示している。
 すべて道立文学館の所蔵。ケースに入って手にすることはできないが、主な作者や本の概要、装丁などについて解説文を付けている。
 このうち外国文学では、米国の詩人ウォルト・ホイットマンの「ホヰットマン詩集」は、有島が翻訳と装丁を手がけた。表紙はホイットマンの手書きの原稿の写しの上に、表題を記した紙を斜めに貼っている。
 貴重なのは宮沢賢治の「春と修羅」で、賢治の生前に刊行された唯一の詩集。萩原朔太郎の初詩集「月に吠える」(17年)は54編を収録し、病的で奇怪な感覚を描いて反響を呼び、日本の近代詩を代表する詩集となった。高村光太郎の第1詩集「道程」(14年)は初版本と白布装の「異本」があり、異本には高村直筆の書き込みがある。
 このほか画家竹久夢二が装丁した吉井勇「源氏物語情話」(18年)、坪内逍遥の「新曲 浦島」(04年)、芥川龍之介の名作童話「杜子春」などを収めた豪華本「三つの宝」(28年)もある。
 苫名直子副館長は「100年前の本に込められた作り手の思いとともに、200点を超える書籍を見て日本の近代文学のバリエーションの豊かさを感じ取ってほしい」と話している。
 3月24日まで。月曜休館。一般500円、高大生250円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは同館、電話011・511・7655へ。

開催情報を。

特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」

期 日 : 2024年2月3日(土)~3月24日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日等の場合は開館)
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料
      ( )内は10名以上の団体料金

 明治・大正――この時代、西洋の制度や文化を取り入れて世の中が大きく変わり、今の我々の社会や生活の基盤がつくられます。多くの混乱を伴いながら急速な近代化への道を進む中で、本の世界にも当時の文学の新潮流や社会情勢が反映され、多種多様な書籍が出版されました。併せて装幀も抒情的な感性を示すもの、色鮮やかでモダンなものなどが次々と登場し、魅力が尽きません。
 北海道立文学館では、貴重な初版本も含め、この時期に刊行された本を多数所蔵しています。1926年に大正が幕を閉じてから、100年が経とうとする今、近代日本の息吹を感じさせる本の数々によって、明治・大正という時代に思いを馳せていただければ幸いです。
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フライヤーには画像がありませんが、光太郎第一詩集『道程』の通常版と「異本」と、二種類が出ているとのこと。

通常版は当方の書架にも一冊ありますが、紺色の紙の表紙です。
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こちらと、さらに白い布装だという「異本」。おそらく献本として少部数作られた私家版と思われます。

この私家版『道程』に関しては、稀覯本研究家であらせられる秀明大学さん学長・川島幸希氏が、平成24年(2012)4月の『日本古書通信』さんの連載「私がこだわった初版本」で紹介され、さらに平成26年(2014)には同大の学祭・飛翔祭の際に展示なさいました。

今回展示されているという「異本」、これと同一のものか、あるいは川島氏が所蔵されていたものか(氏は入手なさったものも手許に置いておかないことが多いようなので)、という感じです。

ちなみに文語定型詩全盛だった当時の「詩集」という概念を突き抜けていた『道程』、売れ行きはさんざんで、光太郎曰く、きちんと版元から売れたのは七冊だけだったとのこと。現在残っているもののほとんどは光太郎から友人知己等に贈られたものと推定されます。

刊行翌年の大正4年(1915)以降、残本を改装して奥付を変えたものが何度か刊行され、国会図書館さんでデジタルデータとして公開されているものもこちらです。道立文学館さんで今回展示されているものは、同館の所蔵リストに依れば大正3年(1914)刊とのことですので、これではないでしょう。

他に宮沢賢治の『春と修羅』、北原白秋が『思ひ出』、薄田泣菫の『白羊宮』、吉井勇著・竹久夢二装幀『源氏物語情話』、萩原朔太郎『月に吠える』などが並んでいます。

文豪マニアの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四日の朝山を降りて花巻に来ました、智恵子の祥月命日と亡父の十三回忌の法要を五日に当地の松庵寺といふ浄土宗のお寺で営みました。


昭和21年(946)10月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではなかったのですが、この手の法要はほとんど欠かしませんでした。 

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