カテゴリ: 東北以外

千葉県印西市で、古民家を改装し、「印西書道塾」を運営なさっている書家の菊地雪渓氏が、光太郎の言葉を揮毫された作品です。
008
菊地氏からご案内のメールを賜り、早速、購入させていただきました。
007
006
001
書かれている光太郎の言葉は、「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。昭和24年(1949)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近辺を学区とした太田中学校に、校訓として贈った言葉です。

太田中学校は統合のため、現在は花巻市立西南中学校さんとなっています。同校の生徒さん達は、コロナ禍前、毎年5月15日(光太郎が疎開のため東京を発った日)に行われていた高村祭にご出席下さり、この言葉を歌詞に盛り込んだ「精神歌」を演奏して下さっていました。
010
こちらが光太郎の書。
009
前半部分は翌年、盛岡少年刑務所さんにも贈りました。光太郎自身、気に入った言葉だったのでしょう。

菊地氏、他にも智恵子の言葉を含む、さまざまな扇を取り揃えていらっしゃいます。オンラインで注文可。ぜひ皆様もご購入下さい。

【折々のことば・光太郎】

静かにしてゐる、肋間神経痛まだあり、 昨夜つもる 夜ドローランをのむ。

昭和26年(1951)2月9日の日記より 光太郎69歳

「ドローラン」は鎮痛剤です。中上健次の小説「灰色のコカコーラ」では、ドローランを大量に服用してラリっている若者が描かれています。

文豪と薬物といえば、太宰治のパピナール、坂口安吾でヒロポンなどがすぐ思い浮かびます。光太郎はジャンキーにはならずに済んだようですが、上記の日記、体調の話になったり、雪の件を書いたり、すぐまた薬のことに戻ったりと、話題があちこちに飛んでいます。少しヤバかったのではないかと、心配になりました(笑)。

富山県から企画展示情報ですが、まず、地方紙『北日本新聞』さんの記事から。

高峰の別邸と接点か 高岡出身の彫刻家 本保義太郎 市美術館、情報提供呼び掛け

 高岡市美術館は、開催中の国立美術館巡回展「高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」で紹介している市出身の彫刻家、本保(ほんぼ)義太郎(ぎたろう)(1875~1907年)について、同郷の化学者、高峰譲吉(1854~1922年)ゆかりの建物「松楓殿(しょうふうでん)」と接点があった可能性があるとして、裏付ける資料を探している。高峰の別邸として知られる同建物は、元々は米セントルイス万国博覧会で日本のメインパビリオンとして建設され、本保が万博を視察しているためだ。同館は市民らに情報提供を呼び掛けている。(牧野陽子)
 1904年開催のセントルイス万博で日本のパビリオンだった建物は高峰が譲り受けてニューヨークに移設し、松楓殿として日米親善の社交場に活用した。昨年、建物の一部が高岡商工ビルに再現され、常設展示されている。
 本保は高岡市源平町の仏師の家に生まれた。東京美術学校(現東京芸術大)に進み、卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。フランスに留学し、ロダンが彫塑のトップを務めた展覧会で入選した。
 本保は32歳で病死。市美術館の村上隆館長は「偉大な芸術家へと歩み始めた矢先に亡くなり残念」と話す。早世で市民に存在があまり知られておらず、巡回展を企画した国立西洋美術館関係者は「高岡の宝が知られていないのはもったいない」と言う。
 同展では本保が手掛けたブロンズ像「若菜売」や裸婦立像、デッサンをはじめ、肖像写真や所有していた美術雑誌など資料を含め約20点を展示。本人が入手したセントルイス万博の図録も並ぶ。本保は万博に出品し、県などの委嘱で現地を視察しており、松楓殿や高峰と直接つながりがあった可能性がある。
 村上館長は「松楓殿、本保さんの存在は高岡にとっても大きな財産。きちんとした資料で調べていきたい」と話している。
006
007
本保義太郎。東京美術学校彫刻科で、光太郎の一級上でした。明治37年(1904)3月31日の光太郎日記に「やがて本保君来られ会談三十分許にして帰らる」という記述があります。『高村光太郎全集』では、本保の名は唯一、ここだけですが。

記事に「卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。」とありますが、当方が資料を持っているところでは、明治34年(1901)に美術学校校友会倶楽部で開催された「彫塑会第二回展覧会」。図録がこちら。
001 006
光太郎と本保の作品が連番になっています。本保の作はこちら。
005 004
改めて引っ張り出して見て、「あれっ」と思いました。上記記事の画像に写っている「若菜売」は上半身のみですが、こちらは全身像です。別の作なのか、鋳造する際に上半身だけとしたのか、何とも不明ですが。

前年の第一回展にも光太郎、本保、ともに作品を出しているようです。

本保と光太郎、他にも縁があります。

光太郎は、明治39年(1906)から欧米留学に出、初め、1年余りニューヨークに滞在しました。その間、現地の彫刻家、ガッツオン・ボーグラムの助手を短期間務めました。それに先立つ明治37年(1904)、本保も渡米し、ボーグラムの助手となっていました。ただ、翌年に本保はパリに渡り、明治40年(1907)には彼の地で客死しており、同41年(1908)に渡仏した光太郎とは、直接会えなかったようです。本保がボーグラムを光太郎に紹介した、というわけでもなさそうです。

パリでの本保は、ロダンに認められ、サロン出品も果たしたそうですが、その半年後、32歳の若さで結核のため没したとのこと。やはり光太郎より先にパリに渡っていた荻原守衛が、その最期を看取ったそうです。

その本保の作がまとまって出品されているということで。

令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

期 日 : 2021年9月14日(火)~10月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1-30
時 間 : 9:30〜17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,200円(団体・シニア 900円) 高校・大学生 600円(団体 480円)
      小・中生 300円 親子券 1,400円(大人 1名、小・中生迄 2名のセット券)

2021年(令和3年)9月10日(金)から10月31日(日)の間、令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術 -〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき が開催されます。臨時休館に伴い、会期は10月31日(日)まで、延長されました。

国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に開館以来、松方コレクションをはじめとする良質な西洋美術の作品及び資料を収集・展示し、調査研究・保存修復・教育普及等の活動を行っています。

本展では、国立西洋美術館のコレクション形成史に触れつつ、西洋のルネサンスから20世紀初頭までの優品を紹介するとともに、異なる地域の背景をもちながら1951年(昭和26年)に創立された高岡市美術館のコレクションと並べて展示し、これらを双方向的に照らし合わせる新たな試みによって、歴史あるそれぞれのコレクションの意義、地域と美術の関係性をあらためて問い直します。

日本が西洋への扉を開いた明治時代、高岡は二人の先駆者を輩出しました。1900年パリ万国博覧会の事務局長を務めた林 忠正と、留学先で彫刻家・ロダンにめぐりあった本保義太郎。彼らを手掛かりに、近代以降の日本に流入した西洋美術の源流を探ります。
無題
無題2
ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

原稿終り、清書、丁度10枚になる、「婦人之友」宛のもの。


昭和26年(1951)1月29日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉さんでの一コマです。「原稿」はエッセイ「山の春」。温泉旅館で執筆、「文豪あるある」ですね。当方もやってみたいものですが(笑)。

石川県から朗読系イベント情報です。元々8月に予定されていたものが、コロナの関係で延期となっていたものです。

金沢ナイトミュージアム 秋色探し朗読会

期 日 : 2021年10月23日(土)
会 場 : NigiwaiSpace新保屋 石川県金沢市安江町1-15
時 間 : 14:00~ / 17:00~
料 金 : 500円(学生以下無料)

「色」をテーマにしたカラフルなアート展と詩の朗読会を開催!
オリジナル詩と高村光太郎「智恵子抄」の朗読や、青春座談会「自分の色を出す生き方」も実施します。
美しい会場装花や詩の制作ワークショップも楽しめます。当日の様子は映像作品としても公開予定なので、お楽しみに!

【14時の部】007
・詩の制作ワークショップ
・即興で詩を作るパフォーマンス
・オリジナル詩の朗読
・「智恵子抄」朗読
・青春座談会

【17時の部】
・詩の制作ワークショップ
・出演者によるオリジナル詩の朗読
・「智恵子抄」朗読
・青春座談会

出演|ラジオパーソナリティ画家 松岡理恵(絵、映像、朗読)、金沢大学放送局web-KURS 河端陽菜乃(朗読)、吉田美和(朗読、メイク)
展示|はさたに和美(花)、金沢学院大学 芸術学部 荒川研究室(映像)

会場のNigiwaiSpace新保屋さん、明治時代に建てられた元履物卸問屋の建物をリノベーションし、各種イベントで使っているようです。
006
先日、当方も出演させていただいた「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」が行われた、文京区の旧安田楠雄邸などもそうですが、こういうところで「智恵子抄」というのも、いい雰囲気ですね。

金沢ナイトミュージアム」は、今年7月から11月にかけて行われているイベントで、「夜のまちのユニークべニューで起こる様々な出来事の集まり。音楽、舞踊、演劇、映像、美術など、様々なアートが市内の文化施設、町家、広場などを会場に展開します。人々が集い、体験を共有し、新しい文化・価値を未来へつなげていくプラットフォームを目指しています。」だそうです。この朗読会もその一環ということですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

2時頃発車、大沢着三時頃、前に宿泊せし室に通さる、 入浴。


昭和26年1月23日の日記より 光太郎69歳

「大沢」は大沢温泉さん。光太郎が好んだ湯宿です。「前に宿泊せし室」は、おそらく、現在「ぼたんの間」として貴賓室的に使われている部屋でしょう。この時は、翌月2日まで、10泊しています。持病の結核のため、かなり体調が良くなかったようで……。

「発車」とありますが、当時は花巻町中心街から花巻電鉄が通じていました。
008

まず、信州から開催中の企画展示情報を。

昭和ノスタルジー展

期 日 : 2021年9月18日(土)~12月28日(火)
会 場 : 朝日美術館 長野県東筑摩郡朝日村大字古見1308
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般200円 高校・大学生100円 小中学生50円

あの頃に思いを馳せて…

朝日美術館収蔵品より懐かしい昭和の時代にいざなう品々をご紹介します。

オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンなど外国映画の主演女優たちが表紙を飾った『キネマ旬報』74点を初公開するほか、国鉄時代のディスカバー・ジャパン(個人旅行拡大キャンペーン)のため入江泰吉(写真家)らが撮影した迫力ある仏像写真を使った「奈良 大和路」ポスターなどを展示します。 

また、『智恵子抄』や『道程』を著した詩人で彫刻家の高村光太郎研究の第一人者として知られ、2020年に逝去された文芸評論家の北川太一氏が研究の傍らに取り組んだ版画作品16点もご紹介します。

このほか、昭和の時代から活躍されていた作家の絵画・彫刻・書もご覧いただけます。

どうぞノスタルジックな雰囲気をじっくり味わってください。
007
当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生が、ご生前、趣味として取り組まれていた版画が展示されています。
008 009
公式サイトにて紹介されているこちらの版画、今年4月刊行の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の表紙を飾った作品ですね。

かつて安曇野の碌山美術館さんにお勤めだった千田敬一氏が、北川先生とご懇意で、現在も朝日美術館さんにいらっしゃるのでは、と思われます(違っていたらごめんなさい)。同館では、平成18年(2006)に「北川太一の世界」展として、やはり先生の版画、書などを根幹とした企画展をなさって下さいました。
002
003
もう15年経ったか、と、感慨深いものがあります。

北川先生の版画といえば、当会で会報的に発行している『光太郎資料』。こちらの表紙も北川先生作の木版を写したものです。そもそも北川先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十回 音楽・映画・舞台芸術(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、昭和期のものを集成しました。001
 書簡 太田花子宛 昭和2年(1927)
 アンケート 本年(昭和三年)の計画・希望など
  昭和3年(1928)
 詩 カジノ・フオリイはいいな 昭和5年(1930)
 散文 藻汐帖所感 昭和6年(1931)
 書簡 新井克輔宛 昭和25年(1950)
 雑纂 高村光太郎氏の話 昭和25年(1950)
 書簡 野末亀治宛 昭和27年(1952)頃


・光太郎回想・訪問記  座談会三人の智恵子 水谷八重子 原節子 新珠三千代 武智鉄二
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、光太郎の歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。

司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原節子さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

・光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/聖徳太子御像に就いて 
光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、明治36年(1903)、雑誌『応用美術』第二巻第二十七号所収の「牙彫の趣味」、大正10年(1921)、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収の「聖徳太子御像に就いて」。聖徳太子像についてはこちら

昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 草津温泉(群馬県)
確認できている限り、光太郎は三回、草津を訪れています。その辺りの経緯をまとめました。右下の写真は、昭和8年(1933)、最後の草津訪問の際に泊まった望雲閣(建物は建て替わりましたが現存するホテルです)。心を病んだ智恵子の療養のためでした。
006
・音楽・レコードに見る光太郎  「鳩」箕作秋吉
詩「鳩」は、明治44年(1911)の作。もともと歌曲の歌詞として作られたものではありませんが、作曲家・箕作秋吉が、昭和7年(1932)にこの詩に作曲し、翌年刊行の『世界音楽全集 第三十九巻 日本新歌曲集』(箕作秋吉編 春秋社)に発表しています。現在確認できている限り、光太郎詩に曲が付けられて発表された最も古い例で、そのあたりをまとめました。
010
・高村光太郎初出索引(年代順)

・編集後記


B5判、全47ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(37集以降のバックナンバーも)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大村次信氏夫妻及服飾学院生徒15,6人ほど来訪 院長さん宅洋間にて談話。ひる頃まで、

昭和26年1月21日の日記より 光太郎69歳

滞在していた花巻病院長・佐藤隆房宅でのことです。

大村次信は、盛岡で現在も続く「オームラ洋裁教室」の創始者。「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子の弟です。

昨日は北鎌倉に行っておりました。

目的地はあじさい寺として有名な明月院さんの近く(徒歩365歩だそうで)、「笛」さんというカフェ兼ギャラリー。光太郎のすぐ下の妹の令孫夫妻が経営なさっています。
KIMG5418
毎年この時期、こちらに伝わる光太郎遺品や、すぐ近くにお住まいの、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫のお宅所蔵の喜八遺品などを展示しています。ただ、喜八をからめず「想い出 高村光太郎」とした年もあり、二人に関わる「詩と友情」展としては3年ぶり8回目です。
001
002
山小屋風のこぢんまりした店内に、ずらりといろいろな展示。
KIMG5425
KIMG5433
肉筆、複製、拓本が混在していますが、二人の筆跡。
KIMG5431
KIMG5427
KIMG5434
喜八の代表作の一つ、「田舎のモーツァルト」。
008
 中学の音楽室でピアノが鳴っている。
 生徒たちは、男も女も
 両手を膝に、目をすえて、
 きらめくような、流れるような、
 音の造形に聴き入っている。
 そとは秋晴れの安曇平(あずみだいら)。
 青い常念と黄ばんだアカシヤ。
 自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
 新任の若い女の先生が孜々(しし)として
 モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

舞台は信州安曇野の碌山美術館さんに隣接する穂高中学校さん。こちらではこの詩にちなみ「田舎のモーツァルト音楽祭」というイベントも開催されています。同校にはこの詩の詩碑も現存。さらにいうなら、昭和30年(1955)に光太郎が題字を揮毫した碌山荻原守衛のブロンズ「坑夫」も設置されています。こんなところにも喜八と光太郎の縁があったんだなと思って拝見しました。

この詩は昭和41年(1966)、同名の詩集に収められました。その詩集『田舎のモーツァルト』の草稿ノート。
KIMG5423
喜八は、光太郎の親友だった水野葉舟の息女で、光太郎が実の娘のようにかわいがっていた實子と結婚。尾崎一家と光太郎の写真も展示されていました。
KIMG5424
左から尾崎夫妻の息女・榮子(まだご健在だったころ、智恵子にだっこされたこともある、というお話をご本人からお聞きしました)、光太郎、喜八、そして實子。場所は駒込林町の光太郎アトリエです。

写真といえば、大正8年(1919)、雑誌『白樺』10周年記念の会が催された芝公園三縁亭での写真。
KIMG5430
後列左端に喜八、同じく右端に光太郎。

展示の目玉がこちら。光太郎作の「聖母子像」。
KIMG5421 KIMG5422
ミケランジェロ作品の模刻ですが、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもので、石膏原型は既に失われ、鋳造はこれ1点しか確認できていません。「手」(大正8年=1919)などは日本全国に何十点あるんだ?という感じですが……。
KIMG5420
右が實子です。

その他、光太郎、喜八それぞれの著書や関連書籍類。
KIMG5419
KIMG5428
KIMG5429
「ついでにこれも」と、富山県水墨美術館さんで始まった「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録を進呈して参りました。

一通り撮影させていただいた後は、美味しいアイスコーヒーを頂きつつ、オーナーご夫妻と光太郎智恵子、喜八についていろいろとお話させていただきました。

ちなみに昨日10月10日は、昭和9年(1934)に亡くなった、光太郎の父・光雲の命日でした。狙っていた訳ではありませんが、その日に光雲の曾孫に当たる方とお話しできたのも奇縁かな、と思いました。

会期は11月23日(火・祝)まで。ただし、火・金・土日のみの開店です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、中食、夜食を共にし、夜まで談話、智恵子抄の事、随筆集の事。

昭和26年(1951)1月19日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の昭和20年(1945)、1ヵ月暮らしていた花巻町の佐藤隆房宅に滞在中のことでした。

澤田伊四郎は、『智恵子抄』版元の龍星閣主。戦時中には休業を余儀なくされましたが、前年に業務を再開し、『智恵子抄その後』を刊行しました。続いて、『智恵子抄』の戦後新版、さらに光太郎のエッセイ集『独居自炊』を刊行したい、という相談のために来花したようです。

10月8日(金)、富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」開会式を終え、一路、東京都内へ。東京駅から地下鉄を乗り継ぎ、六本木に向かいました。

六本木駅からほど近いCLEAR GALLERY TOKYOさんで開催中の「あどけない空#2 The artless sky #2」展を拝観して参りました。
KIMG5403
KIMG5416 001
KIMG5415
チョークを画材として使う、現代アート作家・来田広大さんの個展です。

本展は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節「あどけない話」に着想を得て福島の空を描いた「あどけない空」(2020)の連動した作品として、来田が2021年夏に屋上で東京の空をトレースしていくところを記録した映像作品と、平面作品を発表いたします。」とのこと。
002
まず、映像作品。今年の夏、ビル屋上で東京の空をトレースしていく様子を記録したもの、だそうで。
KIMG5406
KIMG5407
KIMG5414
そのための構想スケッチでしょうか、スマホの動画と共に展示。
KIMG5412
KIMG5409
そして、来田氏の本領(なのでしょう)、チョークによる作品群。
KIMG5413
KIMG5408
KIMG5410
雲のような、波のような、はたまた沙漠、あるいは山脈にも見え、不思議な世界観です。これがチョークによるものとは、そうだと知らないとわかりません。油絵と聞いてもうなずけますし、日本画だと言われれば、「ああ、そうか」と思うでしょう。鉱物顔料という意味では、日本画に近いのかも知れません。来田氏は藝大さんで油絵専攻だったそうですが。

拝見し終わり、外に出て見た「東京の空」。
KIMG5417
つい先ほどまで、富山の青空が映っていた眼には、やはり「ほんとの空」には見えませんでした。都民の皆さん、すみません(笑)。

会期は今月30日までです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに今日は、北鎌倉に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃水沢より花巻温泉松雲閣別館にゆき、一泊、 ゆつくり入浴、


昭和26年(1951)1月16日の日記より 光太郎69歳

花巻温泉旧松雲閣別館、現存します。現在は使用されていないようですが、平成30年(2018)には国の登録有形文化財指定を受けました。下記は戦前の絵葉書です。
007

一昨日、昨日と、富山県富山市に行って参りました。富山県水墨美術館「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にうかがうためでした。
KIMG5356
KIMG5385
まずは10月7日(木)、最終準備の最中にお邪魔しました(といっても本当に邪魔はしていません(笑))。
KIMG5386 KIMG5389
KIMG5387
主催に名を連ねるチューリップテレビさんの取材が入っていました。

その報道がこちら。一昨日のローカルニュースですね。

「画壇の三筆」展 開幕に備え準備進む/富山

 明治から昭和にかけて活躍した同世代3人の芸術家の作品を集めた展覧会「画壇の三筆」展が8日から県水墨美術館で開かれるのを前に会場では準備が進められています。
 チューリップテレビ開局30周年を記念して開かれる「画壇の三筆」展は明治・大正・昭和と連なる日本の近代美術のなかで同じ時代を生きた3人の芸術家にスポットをあてています。
 絵画や詩のほかに書も手がける高村光太郎、97歳まで絵筆を握り続けた画家の熊谷守一、そして自由奔放な色彩と筆をもつ画家の中川一政の足跡を辿る三人展は前例のない企画です。
 県水墨美術館・中川美彩緒館長「今何かと世の中緊張する出来事や気を使うことが多い中で本当の意味で心安らかにして遊ばせる、素直に見ていただけると大変楽しめる展覧会だと思う」。
 書作品に加え墨彩画や彫刻など3人の力作114点が並ぶ「画壇の三筆」展は8日から来月28日まで富山市の県水墨美術館で開催されます。
004
まだ無観客の状態でしたので、出品作品をゆっくり鑑賞。
KIMG5365
KIMG5366
KIMG5367
KIMG5369
KIMG5371
KIMG5372
KIMG5373
KIMG5379
書作品は、初めて拝見したものもありますが、大半は全国各地で単品で見たもので、そのうちのかなりの部分、当方が関わって出品にこぎ着けました。それらが一堂に会し、感無量でした。

光太郎に関しては、ブロンズや木彫も出品。
KIMG5381 KIMG5388
KIMG5363
KIMG5364
KIMG5357
ブロンズはともかく、木彫は複数まとめて見るのは久々で、涙が出そうになりました。書にしてもそうですが、旧友たちに再会したような(笑)。

このうち、新発見の「蝉」については、雑誌『美術の窓』さんの11月号に拙稿が載る予定ですので、その折にまた。

熊谷と中川。彼らの作品をまとめて見るのは初めてでした。
KIMG5380
KIMG5383
KIMG5382
出品目録がこちら。
004
002
かなり点数が多いのですが、光太郎、熊谷、中川と、三者三様ですので、飽きの来ない構成になっています。

その夜は富山駅前のビジネスホテルに宿泊。夕食は、館長さん、企画会社の高松氏と三人で。主に美術の話で盛り上がりました。これまでステイホーム期間が長く、そうした話をする機会がほぼありませんでしたので、新鮮でした。

昨日、10月8日(金)は開会式。県知事さんたちと一緒に、ひな壇に座らされてしまいました(笑)。
KIMG5399
KIMG5400
テープカットの後、一般公開開始でした。
KIMG5401
地方紙『北日本新聞』さんから。

画壇の三筆展が開幕 県水墨美術館

 明治から昭和期にかけて画家や詩人として活動した3人の足跡をたどる「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が8日、県水墨美術館で始まり、来館者は自由奔放で飾らない美の世界を堪能した。11月28日まで。
 3人の作品を一堂に集めた企画展は今回が初めてとなる。西洋美術の波が押し寄せる中、日本の心を求め、独自の作風を追求した画家たちの多彩な活動を伝える。
 同展では会場を3章に分け、画家ごとに書や油彩画、陶芸、彫刻作品など約120点を展示。柔らかなにじみが目を引く熊谷守一の書「無一物」や、木彫家の父光雲を表現した高村光太郎のブロンズ像「光雲一周忌記念胸像」、鮮やかな色彩が印象的な中川一政の油彩画「向日葵(ひまわり)」などが並ぶ。
003
014
015
図録がこちら。
003
出品全作品の画像と、論考等の文章など。総論的に、東京学芸大学の萱のり子教授の「「ありのまま」を味わう」、光太郎に関しては、当会会友の渡辺えりさんによる「光太郎と父」、鳥取大学の住川英明教授で「光太郎書とその変遷」。定価2,200円はお買い得です。

会期は11月28日(日)までと、長めです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

樋口文正氏青年一人と迎へに来る、一緒に水沢行。文化ホールにて成人の日の講演(夜になる)後料亭にて座談会、 公民館長さん自宅に宿泊 夜二時になる。

昭和26年(1951)1月15日(金)の日記より 光太郎69歳

「樋口文正氏」は正しくは「樋口正文氏」。水沢町は現・奥州市。大谷翔平選手の故郷です。

成人の日は昭和23年(1948)の制定。光太郎の講演を聴いたこの年の新成人、ある意味、贅沢ですね(笑)。

昨日から、富山県富山市に来ております。
KIMG5395
KIMG5396
KIMG5398
富山県水墨美術館さんで今日始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の最終準備にお邪魔。
KIMG5386
KIMG5380
KIMG5365
KIMG5357
KIMG5377
書の数々や、「白文鳥」、新発見の「蝉」などの彫刻などをじっくり拝見しました。今日はこれから同展の開会式に行って参ります。

詳しくは帰りましてから。

基本、自然科学系の企画展示なのですが……。

身近な海のベントス展

期 日 : 2021年10月12日(火)~12月26日(日)
会 場 : 兵庫県立人と自然の博物館 兵庫県三田市弥生が丘6
時 間 : 10時~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200(150)円 大学生150(100)円 70歳以上100(50)円
      ( )内団体料金 高校生以下無料 

水の底に生息する生物を総称してベントス(底生生物)といいます。私たちの生活圏のすぐそばにある沿岸海洋には、カニ、貝類、海藻などの多種多様なベントスが生息しています。本展示企画では、兵庫県を中心とした日本沿岸で見られるベントスと人の生活、文化、歴史との関わりについて紹介します。標本や展示を見て少しでもベントスに興味を持っていただければ幸いです。

身近な海には驚くほど多様な生物が生息しています。海の生物多様性、そして人と海、人とベントスの関係を標本、地形模型、映像、水槽展示を通してお伝えします。
・美しいカニ類、貝類、海藻類などの標本を約100点展示(予定)
・地味で不思議なベントス「フジツボ」を10種類以上水槽展示(予定)
・超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊も公開
・ダイバーが25年に渡って撮影した神戸の海洋生物を大迫力の画面でスライドショー上映
003
004
005超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊」は、当方所蔵のものです。揮毫されている短歌は明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌。翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されました。

光太郎にとって、初めての長い船旅で、季節風の影響もあり、海は大荒れ。しかも乗った船、アセニアンが総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては小さなもので、大揺れだったそうです。そのワイルドな海に乗り出した感覚を、まるで太古の民が初めて丸木舟で外洋に漕ぎ出した時に感じた驚きのようだとしています。

その時点では「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には、初句が「海にして」と改められており、以後、その形で流布しました。

短冊の初句は「海をみて」。従って、明治43年(1910)以前の揮毫と推定できます。

この短冊、元々光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で、小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。富山県水墨美術館さんで今週から始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にお貸しすることも考えていたのですが、同展、短冊や色紙などの小さな書はあまり出さず、大幅のものを中心にということで、それは無くなりました。

会場の兵庫県立人と自然の博物館さんの学芸員氏が、平成30年(2018)翌年、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された女川光太郎祭(昨年、今年はコロナ禍のため中止)にご参加、光太郎詩の朗読をなさいまして、その関係で、こちらに貸し出し依頼が来ました。

この他、光太郎智恵子光雲関係のさまざま、依頼があれば展示等のためにお貸ししますし、当方手元に無いものは、仲介できる場合もありますので、ご関係の方、お考え下さい。

さて、「身近な海のベントス展」。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる、豚鍋をつくりて食事。ジン酒一本もらふ。皆「典型」持参。署名。


昭和26年(1951)1月8日の日記より 光太郎69歳


「斎藤充司氏」に関しては、こちら。日記が失われている前年の昭和25年(1950)にも、少なくとも2回、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問し、写真を撮影しています。

「典型」は、やはり前年に刊行された、光太郎生前最後の詩集(選詩集等を除く)です。

まず、宮崎県から企画展情報です。

皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~

期 日 : 前期 2021年10月9日(土)~11月3日(水)
      後期 2021年11月5日(金)~12月5日(日)
会 場 : 宮崎県立美術館 宮崎市船塚3丁目210番地
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 月曜日 11月4日(木) 11月24日(水)
料 金 : 無料

宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品の中から、優美な皇室御慶事の品々や宮崎県ゆかりの作品などを特別展示します。国文祭・芸文祭を契機として開催する、全国初となる展覧会として、貴重な美術工芸品約30点を前・後期日程で入れ替えて紹介いたします。

宮内庁三の丸尚蔵館は、皇居東御苑内において皇室ゆかりの美術工芸品を収蔵・公開する施設です。その中から、優美な皇室御慶事の品々をはじめ、宮崎の名所が描かれた絵巻や本県とゆかりのある巨匠の名品などを紹介します。国文祭・芸文祭を契機として開催される全国初の展覧会です。
003
004
006光太郎の父・光雲の木彫「文使」(明治33年=1900)が展示予定です(前期のみ)。

当方、この作品は2回拝見しました。最初は平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際。2度目は平成30年(2018)、所蔵元の宮内庁三の丸尚蔵館さんでの第80回展覧会「明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み」で。

後者の際のレポートからコピペします。

画像には写っていませんが、文使の背部の帯の結び目など、どうやったら一木から彫り上げられるのだろうという感じです。それから文使いのかしこまった表情。人形のようなそらぞらしさは無く、確かに血の通った人間の描写です。全体のシルエットというか、モデリングというか、そういった点でも守旧にとどまることなく、西洋美術のエスキスもちゃんと取り入れた光雲ならではのしっかりしたもので、作り物感がありません。

また、台座の部分には、蒔絵と螺鈿細工が施されています。おそらくそれぞれ専門の職人の手によるものと思われますが、これまた精緻な作りとなっていました。

明治33年(1900)の作で、当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し、逓信省から献上されたということです。献上当時、文使が手にしている柳筺には、このご成婚に際して発行された記念切手17枚(妃殿下の年齢に合わせて)が入れられていたとの事。何とも粋な計らいですね。

以上、コピペです。

ただ、この作品がなぜ宮崎県ゆかりなのかは分かりかねます。すみません。

このところ、三の丸尚蔵館さんが積極的に作品貸し出しを行っての企画展が多く(それも地方で)、喜ばしい傾向だと思われます。

宮城県美術館「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」。
九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」。

もう1件。こちらは市民講座です。

第6回太宰府学講座 日本近代木彫史と山崎朝雲、冨永朝堂

期 日 : 2021年10月16日(土) 
会 場 : 太宰府市文化ふれあい館 福岡県太宰府市国分四丁目9番1号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 500円
講 師 : 田鍋隆男さん(元福岡市博物館学芸課長)

明治時代になって木彫界に新しく西洋の技法が取り入れられました。その過程を高村光雲、その弟子山崎朝雲、さらにその弟子冨永朝堂の作品に見てみます。写真は延寿王院前の『御神牛』です。(太宰府天満宮提供)

005
うっかりしておりまして、申込期日を過ぎてしまっていますが、ご希望の方、問い合わせてみて下さい。

コロナ緊急事態宣言が解除され、徐々にこうしたイベント類も旧に復してきたようです。まだまだ油断は禁物ですが。

【折々のことば・光太郎】

夜「山の人々」全部で16枚ほど書き終る。 二時にねる。


昭和26年(1951)1月5日の日記より 光太郎69歳

「山の人々」は、この年2月の『婦人公論』に載ったエッセイです。花巻郊外旧太田村の山小屋生活も5年以上が過ぎ、光太郎自身も「山の人々」の一員となっていました。

















現代アートのインスタレーションです。

あどけない空#2 The artless sky #2

期 日 : 2021年10月8日(金)~10月30日(土)
会 場 : CLEAR GALLERY TOKYO 東京都港区六本木7-18-8
時 間 : 12:00~18:00
料 金 : 無料
休 館 : 日曜日、月曜日

この度CLEAR GALLERY TOKYOでは、来田広大による「あどけない空 #2」展を開催いたします。

来田広大は、国内外各地でのフィールドワークをもとに、絵画やインスタレーション、野外ドローイングなどを展開し、身体的経験を通じた作品を制作・発表しています。来田は定着のしないチョークを主要な画材として使用し、手/指で描いていきます。描かれているモチーフは実際に訪れた風景であったり具象的なイメージでありながら、ためらいや、恐怖、興奮といった作家の感情の形跡を伴った躍動感のあるストロークが、遠い距離にあった鑑賞者の視点を、画面の近くまで引き寄せ、「来田の見ていた風景」を観ていたはずの意識を、描いている作家側へとフォーカスしてさせていきます。

本展は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節「あどけない話」に着想を得て福島の空を描いた「あどけない空」(2020)の連動した作品として、来田が2021年夏に屋上で東京の空をトレースしていくところを記録した映像作品と、平面作品を発表いたします。この機会にぜひご覧いただけましたら幸いです。

作者の言葉

本作は、高村光太郎の詩「あどけない話」(詩集「智恵子抄」に掲載)をもとに制作している。
精神病を患い闘病中であった智恵子が夫の光太郎に向かって、「東京には空がない」、「あたたら山の『ほんとの空』が見たい」と語ったという詩である。(智恵子は安達太良山がある福島県二本松市出身)

2020年の夏、私は智恵子のいう『ほんとの空』をこの目で確かめるために安達太良山に登り、そこで見た空や自身の登山の経験をもとに作品を制作した。(同年いわき市内のギャラリーにて発表)
そして、東京での開催となる本展では、東京の街でフィールドワークをおこない、東京の空と安達太良山の空を対比することを試みる。

私たちを取りまく環境において、場所との関わりや場所に対する記憶は曖昧で不確かなものであり、それは各々が持つアイデンティティにも起因する。移動や外出が制限され、人との距離や場所との関わりに変化が生じつつある現代において、『ほんとの空』とはどのような意味を持ち、何を表象しているのだろうか。

雲のように移り変わり、消え去っては立ち上がる風景の記憶の断片を、対象に直接触れるように画面上に重ねていく。
この詩を読む人がそれぞれの空を想像するように、それぞれが想いを馳せることのできる空が描ければと思う。 

来田広大
005
006
来田氏、昨年12月から今年1月にかけ、いわき市のギャラリー昨明(caru)さんで、「来田広大個展「あどけない空」KITA Kodai Solo Exhibition “Candid Sky”」を開催されていたそうで、それに続くチャプター2、ということだそうです。いわきでの告知には「高村光太郎」「智恵子」「ほんとの空」といったワードが入っていませんでしたので、こちらの検索の網に引っかかりませんでした。
012
008 009
010 011
昨日ご紹介した演劇「金魚鉢の夜」にしてもそうですが、若い方々が光太郎智恵子の世界観にインスパイアされている現状を喜ばしく存じます。

当方もうかがうつもりでおりますが、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝弘さん栗もち持参、雪ふかき由、明日花巻よりペニシリンを買つてきてくれる由につき2000円渡し。


昭和26年(1951)1月2日の日記より 光太郎69歳

「弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓団の青年。この頃になると、抗生物質も入手しやすくなっていたのですね。おそらく智恵子と同時期に結核に罹患したはずの光太郎も、元々身体頑健ということもあったでしょうが、医薬品類の普及で永らえた部分があったように思われます。

都内から演劇公演の情報です

小夜なら×表現集団蘭舞 あの夕暮れをもう一度

期 日 : 2021年10月8日(金)~10月10日(日)
会 場 : 北とぴあ ドームホール 東京都北区王子1丁目11−1
時 間 : 8日(金)18時30分~(公開ゲネ) 9日(土)12時~ 15時30分~ 18時30分~
      10日(日)13時~ 17時~
料 金 : 通常チケット 3,500円 ゲネプロ見学チケット 3,500円 
      特別チケット4,000円(キャストからのメッセージ付き)
      動画配信チケット3,000円

演出・脚本 
仲野 識(小夜なら)ダーハナ(表現集団蘭舞)

今回は〈夕暮れ〉をテーマに、4作品のオムニバス朗読劇を上演します!
007
008
金魚鉢の夜
あなたを愛した、それが私の罪ならば、私、罪だってきっと受け入れるわ。
時は大正。一人の女詩人が、夫になるはずだった男を亡くした。彼女は仲の良かった女性教師に話をする。その後、女は何故か子供を遺し自殺してしまった。そして、時は現代。詩人の九条穂波は、祖母の遺品の中から金魚鉢と日記を見つけた。穂波は長らく会っていなかった、親友の間嶋夕里江と再会する。過一夕、高村光太郎の詩と共に4人の女が金魚鉢の謎に沈んでいく。
片山 小夜子:橋本 佳奈子 会津 しづか:杉宮 加奈 九条 穂波:沖村 彩花
間嶋 夕里江:清水 こまき 語り:伊冬 ともこ
009
途上
舞台は大正時代の東京。十二月も押し詰まったある日の夕暮れのこと。サラリーマンの湯河勝太郎は金杉橋の電車通りを新橋の方へ散歩していた。湯河が振り向くと、そこには面識の無い立派な風采の紳士が立っていて― 近代日本の探偵小説として完全犯罪を描いた谷崎潤一郎小説を朗読化。
湯河 勝太郎:森山 幸央 安藤 一郎:木下 章嗣 語り:上野山 航
010
優等生と不良は交わらない
優等生の如月真奈、不良の神田千草。平日の昼間。学校をさぼった二人の女子高生が、心を交流させる。いつも遠くから眺めているだけだった。
如月 真奈:柊 みさ都 神田 千草:ハラグチ リサ
011 012
オレンジ色のふたり
翌日に結婚式を控えた一条陸と美弥。しかし数日前から美弥は妹の元に家出中。陸は一人、夕焼け空を眺めていた。特別なような日常のようなそんな結婚式前夜の夕暮れ時。
泰野 碧:水星 七星 一条 陸:寺島 八雲 平井 七海:角掛 みなみ 一条 美弥:佐藤 茜

うかがいたいところですが、その前後、富山県水墨美術館さんの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」開会式、さらに帰ってきてからすぐ鎌倉他に行かねばならず、うかがえません。

皆様は、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后学校よりスキーにて富澤先生郵便物持参、スキーでなくては歩けさうもなし、婦人之友正月号など届く。


昭和26年(1951)1月1日の日記より 光太郎69歳

前年、前々年の日記は、その大半が失われていますが、この年以降、亡くなる昭和31年(1956)までの日記は、ほぼ全て残っています。

婦人之友正月号」には、光太郎のエッセイ「山の雪」が掲載されました。

ちなみにこの年は、前年に勃発した朝鮮戦争が継続中、9月にはサンフランシスコ講和条約と日米安保条約がセットで締結されるなどした年でした。

沖縄から演奏会情報です。

沖縄県立芸術大学音楽学部第32回洋楽定期公演~沖縄から発信する現代の音楽~

期 日 : 2021年10月2日(土)
会 場 : 沖縄県立芸術大学奏楽堂ホール 
       沖縄県那覇市首里当蔵町1-4 首里当蔵キャンパス内
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 無料(要整理券)

演目・演奏
 柴 佑:Rondo for Violin and Piano
  Violin 古藤 千晶 Piano 玉木 日菜
 油田 燿:Endless Cycle
  Marimba 宮里 凛花 Horn 仲尾 蘭 Piano 名護 茉里奈
 金城 亜美: "If the doors open someday" for string quartet
  Violin I 阿波根 由紀 Violin II 田場 尚子 Viola 佐渡山 安哉 Cello 城間 恵
 江幡 侑奈:《冬が來た》高村光太郎の詩による
  Soprano 山本 奏美 Piano 坂田 歩
 杉山 湧生:《線香花火》―弦楽四重奏のための―
  Violin I 阿波根 由紀 Violin II 田場 尚子 Viola 佐渡山 安哉 Cello 城間 恵
 安元 麦:《光の道》 ―ピアノとヴァイオリン、チェロのための―(2020/2021年改訂)
  Violin 田場 尚子 Cello 城間 恵 Piano 上田 勇貴
 土井 智恵子:HAJICHI BLUE (委嘱新作・世界初演)
  歌三線 新垣 俊道 琉球笛 入嵩西 諭 Violin 岡田 光樹 Cello 林 裕 Piano 新崎 誠実
 塚本 一実:Increasing lights 〜for solo flute〜
  Flute 飯島 諒
 ヤニス・クセナキス (1922-2001/アニバーサリー作曲家没後20年)
  :Psappha pour Percussion Solo(1975)
  Percussion 屋比久 理夏
005
沖縄で「冬が来た」。まぁ、土地柄はあまり関係ないのかもしれませんが。当方、20年近く前、12月の暮れに沖縄に行きましたが、チョウチョが舞っていましたし、石垣島の海でダイビングをしました。海に入ると、海水温が冷たいと感じ、思わず「冷てっ!」と言ったら、インストラクターさんに「気のせいです、ここは沖縄ですから」と返されました(笑)。

ちなみに光太郎には「琉球決戦」(昭和20年=1945)という実に陰惨な翼賛詩がありますが……。

閑話休題。今回の演奏会、主催は沖縄県立芸術大学さん、企画は同大音楽学部音楽表現専攻 作曲理論コースさんだそうで、そちらの教職員の方々、学生の皆さんによる演奏会のようです。

公式サイトには「本公演の実施方法については、検討中です。決定後は本ページにてお知らせします。」とあり、やはりコロナ禍の影響なのでしょう。9月25日(土)に同じ会場で行われた別の演奏会は無観客で実施、後日、動画配信だったそうで。

今回の演奏会、有観客だったとしても、動画配信していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

胸から脇腹にかけての赤はれとぶつぶつは寄生虫か、腫物か、丹毒類か不明。わるくもならず、よくもならず、 天気になり次第花巻にゆきて院長さんに見てもらふつもり、ともかく三年前かひたるサルゾールをつづけてのむ。

昭和25年(1950)12月31日の日記より 光太郎68歳

昨日も書きましたが、光太郎日記、前年1月22日から、この年12月30日までの分が失われています。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。

「ぶつぶつ」は帯状疱疹だったようです。

一昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、その合間等に、会場周辺をぶらぶら散歩。ご来場いただいた方々に、この地が光太郎智恵子、そして光雲らのゆかりの地であることから、当方作成の「光太郎智恵子光雲関連マップ」をお配りしました。ところが、自分自身、ゆかりのスポットとして挙げておきながらそこに行ったことがないという場所もありまして、時間もあったので歩いた次第です。

こちらがマップの「千駄木版」。地図上の番号は、だいたいの位置です。
千駄木マップ
まず、午後1時の部の始まる前、会場の旧安田邸から100㍍程の、光太郎アトリエ跡に。「光太郎先生、智恵子さん、これからお二人のお話をさせていただきますよ」という意味で。
KIMG5327
現在は一般の方の住宅となっており、当時を偲ぶよすがは文京区教育委員会さんの設置したこの案内板しかありませんが。

ここに昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで、これが建っていたわけです。
アトリエ
その後、午後1時の部終了後、須藤公園へ。この周辺は光太郎詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の舞台とされています。光太郎が詩に謳った頃には、まだ公園として整備されていませんでした。
KIMG5332
KIMG5333
道すがら、戦災に遭わなかったと見られる建造物がいろいろありまして、古建築好きの当方、テンションが上がりました(笑)。
KIMG5336
KIMG5334
KIMG5335
この一角、元々お屋敷町でしたので、さもありなん、です。

それにしても、旧安田邸や、隣接する光太郎実家(旧髙村光雲邸)もそうですが、空襲の被害を免れた家もあれば、光太郎アトリエや、団子坂の観潮楼(森鷗外邸)のように、焼失してしまったところもあり、紙一重の差だったんだなぁと思いました。

歴史に「たられば」は禁物ですが、もし光太郎アトリエも燃えずに残っていたら、光太郎もわざわざ花巻まで疎開することもなかったでしょうし、その後の光太郎の人生も大きく変わったように思われます。

ちなみにマップは裏表両面印刷になっておりまして、もう片面には「広域版」ということで、千駄木を中心に半径3㌔㍍ほどの広域バージョンも作りました。ご参考までに。
広域マップ
これ以上広げて、浅草や日本橋、神田方面等まで入れますと、さらにゆかりの場所が倍増して、説明を書ききれませんので、この範囲でやめておきました。

さて、昨日、愛車に積んで置いた機材やら展示した資料やらの荷物を下ろしたところ、紙包みが。安田邸スタッフの方に「聴きにいらした方から差し入れだそうです」と渡されたものでした。開けてみると……
KIMG5340
どなたか存じませんが、ありがとうございました。この場をお借りして(自分のサイトですが(笑))御礼申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

学校までの往復の雪みちもかたまりて歩きよくなれり。 兎や狐の足あと此頃ふえる。


昭和24年(1949)1月21日の日記より 光太郎67歳

この年の日記は、翌日以降、翌年12月30日までの、約2年間分の現存が確認できていません。そのため、昭和24年(1949)、25年(1950)と、光太郎の細かな行動で不明の部分が多くあり、残念です。

光太郎自身が処分したとも考えにくく、誰かが持ち出してしまったのかという気もします。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。

昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。
KIMG5326
KIMG5331 KIMG5325
KIMG5322
会場の旧安田楠雄邸は、大正8年(1919)の竣工。光太郎の実家・旧髙村光雲邸はすぐ隣ですし、光太郎智恵子が暮らしたアトリエとも100㍍ほどしか離れていません。当然、光太郎智恵子もこの前を通っていたところです。
KIMG5324
KIMG5339
古建築好きの当方には、たまりません(笑)。

髙村家の御厚意で、智恵子紙絵の細密複製をお借りすることができ、一階に展示されていました。
KIMG5320
KIMG5321
イベント会場は二階。開場前の様子。
KIMG5330
自宅兼事務所から、7冊ばかり関連書籍を持参して展示しました。
KIMG5337
左から、詩集『道程』初版(大正3年=1914)。雑誌『青鞜』第二巻第六号( 明治45年=1912)、前年の創刊号と同じ智恵子による表紙絵が使われ、智恵子唯一の寄稿「マグダに就て」が掲載されています。それから詩集『智恵子抄』初版(昭和16年=1941)、今年はこちらの発刊80周年ということで、今回のイベントに繋がりました。さらに詩集『智恵子抄』限定特装版(昭和27年=1952)、「乙女の像」制作のため光太郎が帰京した記念出版で、表紙は羊皮、170部しか出回らなかったものです。そして、詩集『智恵子抄』戦後新版第一刷(昭和26年=1951)、詩集『智恵子抄』皇太子殿下(現・上皇陛下)ご成婚記念紅白版、詩文集『智恵子抄その後』初版(昭和25年=1950)。

最終リハーサル時。
KIMG5323
このように、上手(かみて)に北原さんが立たれて朗読、当方はスクリーンを挟んで下手(しもて)に陣取り、パワーポイントのスライドショーを操作しながら補足説明。全体で1時間半あまりと、尺も充分でした。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、おかげさまで2回とも満席。当方も事前にお近くにお住まいの方などへチラシをお送りしたところ、旧知の方々数人がいらして下さいました。ありがたし。

当方、各種講座や講演等、やれと云われれば全国どちらでも参上しますが、やはりこの地で出来たというのは感慨深いものがありました。また、北原さんの朗読が素晴らしく、ご一緒させていただき光栄でした。

コロナ禍も終息しつつあり、まだまだ油断は禁物ですが、この手のイベントがまた広く行われるよう、願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

確定申告書を花巻税務署に標準申告書を太田村役場宛に発送す。確定額による第三期税を払込む。去年とは大した相違にて少額也。税率も小さくなつてゐるやう也。

昭和24年(1949)1月20日の日記より 光太郎67歳

終戦に伴うハイパーインフレの余波がまだ残っていたようで、経済的な混乱は山奥での蟄居生活にも影響があったようです。

昨年開催予定だったのですが、コロナ禍とのため中止となり、改めて開催される運びとなりました。

チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展

期 日 : 2021年10月8日(金)~11月28日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777
時 間 : 午前9時30分から午後6時まで
休 館 : 毎週月曜日、11月4日(木)
料 金 : 一般:1,200円(1,000円)/大学生:1,000円(700円)
       ( )内は20人以上の団体料金 


 「書は最後の芸術である」――高村光太郎晩年のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。
 明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、〈西洋〉化する日本の美術と〈東洋〉的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術観がよくあらわれています。
 本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご覧ください。
000
001
関連行事

映像で見る三巨人 会場:映像ホール 各日①11:00~ ②14:00~ 各回先着50名
 Ⅰ.「モリのいる場所」          10月9日(土)  11月7日(日)
     熊谷守一夫妻の日常を描いた傑作。 出演:山崎努 樹木希林
 Ⅱ.「高村光太郎」               10月10日(日) 11月13日(土) 
     ブリヂストン美術映画シリーズより
 Ⅲ.「中川一政生誕百年 記念番組」     10月17日(日) 11月6日(土)
     制作:北陸放送・北陸スタッフ

ギャラリートーク 会場:展示室1.2 要観覧券
 ① 10月16日(土)   講師:徳井静華氏(白山市立松任中川一政記念美術館学芸員)
 ② 11月3日(水)   講師:高松源一郎氏(ギャラリー晴耕雨読代表)
 ③ 11月21日(日)   講師:富山県水墨美術館学芸員

美術界の中で「書」もよくした三人の芸術家の、「書」を中心とした展覧会です。他にも「書」で有名な美術家は少なからず存在しますが、まぁ、とりあえずこの三人ということで。

1年半前にも書きましたが、展示すべき作品の選定、その貸借の交渉等に当方が協力させていただきました。最初に話があってから、足かけ3年程になるでしょうか。おかげさまで様々な機関や個人の方々にご協力いただき、本邦初公開を含む、いいものが集まりました。

しかし、苦労の連続でした。熊谷、中川の書は、大きい作品が中心ということで、光太郎もそうせざるを得ず、色紙等の小さなものはあまり出しません。そうなると、対象の絶対数が減ります。また、せっかくいいものをお持ちの団体さん等でも、他への貸し出しは行っていないとか、提示した貸借料で折り合いが付かなかったりとかで、借りられなかった作品が少なからずありました。また、昨年の段階では出品に応じていただける承諾を頂いていたのに、その後、所有者が手放してしまったという作品もあり、残念でした。

さらに云うなら、物理的に作品を運ぶ上で、所蔵先までの交通の問題で断念したケースもありました。作品の運搬には、ヤマト運輸さんの美専(美術品専門輸送)を使いますが、たった1点のために何百㌔㍍も距離を伸ばせない、ということで……。逆に、「××を貸して下さい」と交渉したところ、「こんなものも持ってますよ、一緒にお貸ししましょう」「おお、それは凄い、ありがたい!」というケースがありました。捨てる神あれば拾う神ありですね。こういう裏事情に詳しくなりますと、企画展もまた見る眼が変わってくるものです(笑)。

また、「書」以外にも、三人それぞれの「本業」、熊谷と中川に関しては絵画、光太郎は彫刻も出品されます。

これも一年半前に書きましたが、光太郎は新発見の「蝉」を含みます。他に、光太郎木彫の中で最も人気の高いうちの一つ、「白文鳥」なども。
002
003
会期が結構長いというのもありがたい点です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

デンキ会社関係の人三人来る、電燈布設の由にて請負の人と何課長とかいふ老人と世話人のやうな人となり。


昭和24年(1949)1月12日の日記より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、光太郎が入居したのは昭和20年(1945)10月でしたが、3年以上ずーっと電気のない生活でした。山小屋が村の一番奥にあり、そこから先には一軒も民家が無かったせいもあります。で、この時期、光太郎を敬愛していた村人たちが、見るに見かねて電線を引いてあげようということになりました。

この年の光太郎日記は1月途中までしか現存が確認できておらず、残念ながら電気が通じた2月の記述が見られません。





9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。

まず訪れた、小平市
平櫛田中彫刻美術館さんを後に、続いて向かったのは、新宿中村屋サロン美術館さん。こちらでは企画展「自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait」が開催中です。
  KIMG5307 edf7f6c6
光太郎のそれを含む、約40点の自画像が、おおむね時代順に展示されています。順路に従って、年代別に拝見。

まずは「第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及-」。それまで「自画像」という概念がほぼ無かった日本の画家達が、西洋絵画の本格的流入と共に取り組んだ、鹿子木孟郎ら、草創期の作品群です。したがって、極めて写実的、アカデミックな作風から始まり、徐々に白馬会系などが、印象派風の技法を取り入れる、といった流れです。
001
002
続いて、「第2章 明治中期・後期の画家たち -自己の内面の表現-」。ここに光太郎の自画像(大正2年=1913)も含まれます。単なる外形描写にとどまらず、自己の内面を掘りさげる、という方向に。技法的にはポスト印象派の影響も色濃く見られるようになります。光太郎の自画像も、明らかにフォービズム系です。

そして、この第2章では、岸田劉生、斎藤与里、藤田嗣治ら、光太郎と交流の深かった面々の作が並び、興味深く拝見しました。テレ東さんの「新美の巨人たち」で、よくそういう描写がありますが、閉館後の館内で、絵から抜け出した彼らが、昔話に花を咲かせていそうな気がします(笑)。

最後が「第3章 大正・昭和の画家たち -公と個の間、関係性の中の自己認識-」。ここまで来ると、かなり現代風だな、という感じです。

図録が販売されていましたが、購入せずに帰りました。光太郎の自画像は掲載されていませんでしたので。元々この展覧会、日動美術財団さんの所蔵品を中心としたもので、図録も同財団発行。それに対し、光太郎の自画像は中村屋さんの所蔵で、そのあたりの大人の事情があるのではないかと思われます。

コロナ禍ということもあるのでしょうか、ギャラリートーク的なことは行われず、オンラインでの紹介となっています。先述の3章での章立てにしたがい、現在は「第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及-」。今後、2章と3章についてもアップされる予定です。


同展、12月5日(日)まで。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十一時半学校行。雪ふかくつもり、長靴を没す。炭俵の曲木(丸型)にてカンジキを作りたれど、途中で靴が外れたり。


昭和24年(1949)1月6日の日記より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、この時期が最も雪深い時期です。

9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。

後ほど詳しく御紹介しますが、10月8日(金)から富山県水墨美術館さんで開催される企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に協力させていただいておりまして、そのポスターやチラシを置いていただこうと、まぁ、いわば営業。それから、2館で開催中の企画展を拝見するのも目的でした。

まず、小平市の平櫛田中彫刻美術館さん。
KIMG5282
KIMG5283
こちらでは、光太郎の父・光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた「橋本堅太郎展-無分別」が開催中です。

2体の智恵子像は、橋本市のお父さまで、やはり彫刻家だった橋本高昇が二本松出身という縁もあって制作されました。そして「今ここから」の方は、橋本市の遺作となった作品です。
000
002
001
残念ながら、今回、2体の智恵子像に関する展示はありませんでした(石膏原型か習作でも出ていれば、と思ったのですが)。ただ、氏の得意とした数々の女性像が並び、2体の智恵子像と相通じるテイストを感じました。
001
002
橋本作品は一部を除き、撮影可でした。

左下は代表作「竹園生」の雛形。星取の赤い点が残っています。右下は「まとう」と題された作品。
KIMG5298竹園生(雛形) KIMG5300まとう
続いて「希№2」(左下)、「無題」(右下)。
KIMG5305希№2 KIMG5302無題
地下展示室では、「つたえあい」(左下)、「Largo」(右下)。
KIMG5284つたえあい KIMG5286Largo
「渓流」(左下)、ステンレスを使った「風をきく」(右下)。
KIMG5288渓流 KIMG5290風をきく
「流木 その四」(左下)、そしてこれも代表作「清冽」(右下)。
KIMG5292流木 その四 KIMG5296清冽
「日ざしを追う」。
KIMG5294日ざしを追う
きれいなだけの作ではなく、時に、荒々しい彫り跡が残っていたりもします。しかし、それが却って生命感を醸すのに役立っているようにも見えました。そして、人体構造を熟知した上で、さらに確かなデッサン。止まっているポーズでも躍動感を感じられるところは、ロダンなどの影響も見て取れるような気がします。

光太郎とも親しかった平櫛田中に師事した橋本氏、もちろん、氏なりの個性も持ちつつ、系譜的にはやはり相通じるものがあるのかな、と思いました。

その田中の作品群も久々に拝見し、眼福の思いでした。

それにしても、コロナ禍ということもあり、きちんとした彫刻をまとめて観たのは、実に久しぶりでした。まだ油断は禁物ですが、ぼちぼちコロナ禍も収束・終息に向かいつつあるようで、以前のように気軽に展覧会を堪能できる日も遠くないのかな、という気がし、喜ばしく思います。

今回の企画展としての図録は発行されていませんでした。代わりに、橋本氏の作品写真集の豪華本が販売されていました。見本を手にとってめくると、平成23年(2011)の出版で、当然、遺作の「今ここから」は載っていません。「ほんとの空」も見あたりませんでした。

ところが、別の作品を発見し、びっくり仰天。当方、何度か実物を目にしていたのに、それが橋本氏の作品と知らなかった(アホですね(笑))彫刻がありました。

こちらです。
003
光太郎と縁の深い、宮沢賢治の像。花巻農業高校さんの敷地内に移転されて建っている、羅須地人協会(賢治の旧居)の前に設置されています。平成18年(2006)の作ということでした。橋本氏が亡くなった時の報道に「宮沢賢治像」の語があったのですが、これだとは思いませんでした。

さて、「橋本堅太郎展-無分別」、11月23日(火・祝)までの予定です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ボールペンで書いてみる。スルスルすべるやうな感じなれど、面白味なし。インキが油のやうなり。

昭和24年(1949)1月4日の日記より 光太郎67歳

ボールペン、意外と歴史は新しいのですね。調べてみたところ、昭和18年(1943)、ハンガリーで発明され、日本には戦後になって入ってきたようです。

光太郎のボールペン、この日、交流のあった編集者から届いた小包に入っていたものです。おそらく、初めて手にしたのでしょう。

昨日レポートしました通り、9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。今日明日と、そちらのレポートを、と思っていたのですが、昨日、新情報を得まして、そちらを先に御紹介します。

長野県から、企画展示の情報です。

THE EXPO 善光寺2021~甲信越戦国物語~特別展

期 日 : 2021年9月14日(火)~9月26日(日)
会 場 : 長野市立博物館 長野市小島田町1414 川中島古戦場史跡公園内
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休 館 : 9月21日(火) 24日(金)
料 金 : 一般300円、高校生150円、小・中学生100円
      9/20(月),9/23(木)は入館無料
      土曜日は子どもウェルカムデーにつき小・中学生無料

 2022年4月、善光寺御開帳が開催されます。善光寺は全国から多くの参拝者が訪れる庶民信仰の寺として知られています。戦国時代におこった川中島の戦いにあっては、武田信玄・上杉謙信が自国に善光寺本尊を迎えようとし、争奪戦となりました。
 今回の展示では、川中島の戦いにおける善光寺や、そのほかの神や仏との関係をみることで、川中島の戦いの一面を描き出します。そして、川中島古戦場の首塚に代表されるような戦死者の供養についても、やはり神と仏の関係から扱います。
004
概要説明やチラシに記述がありませんが(そこで、これまで気づかなかったのですが)、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる、善光寺さん仁王像の試作(ひな形)が展示されています。
005
こちらは通常、善光寺史料館さんで常設展示されているものですが、いわば出開帳です。

NHKさんのローカルニュースで、展示について報じられました。こちらでも仁王像については言及されませんでしたが。

善光寺と川中島の戦いにゆかりの品集めた特別展 長野 

 善光寺と川中島の戦いにどのようなつながりがあるのでしょうか。双方にゆかりがある、よろいや錦絵などが集められた特別展が長野市で開かれています。
 長野市立博物館で開かれている特別展は、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いと善光寺にゆかりがある、かぶとや木像などおよそ100点が展示されています。
 このうち、魂が宿るともされる武田信玄と上杉謙信のそれぞれの位はいは、ともに高さおよそ115センチ、横およそ30センチとほぼ同じサイズで、いずれも善光寺に所蔵されています。
 また、江戸時代の作品とされる川中島の戦いの錦絵では、千曲川を挟んで武田信玄と上杉謙信が対陣している様子が描かれています。
 長野市立博物館の北澤瑞希研究員は「川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が善光寺の本尊を奪うためだったとも言われている。両雄の位はいがいずれも戦場近くの善光寺にあり、両者の因縁の深さを知ってほしい」と話していました。
 この特別展は、長野市立博物館で今月26日まで開かれています。
000
001
002
003
最後の画像に、仁王像が写っています。

ところで、やけに会期が短いな、と思ったのですが、コロナ禍のため、当初予定では9月3日(金)開幕予定だったのが、遅らせての始まりとなったためだそうです。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝ゆつくり。 雑煮を祝ふ。 門松一本、紙製国旗をかかぐ。 雑煮は豚肉入大根、里芋、餅、あわ餅。


昭和24年(1949)1月1日の日記より 光太郎67歳

昭和24年(1949)の年明けです。

この年は、NATO発足、中華人民共和国建国、ドイツは東西に分断、ソ連が初の核実験に成功、明るいニュースとしては、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞(日本人初のノーベル賞)などがありました。

昨日は、久々に都内に出ておりました。9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせというか、リハーサルというか、ゲネプロというか、そのためです。
004
005
会場は、文京区千駄木の旧安田楠雄邸。光太郎実家の旧髙村光雲邸の隣です。光太郎一家は明治25年(1892)に一家で谷中からこの地に移ってきました。明治45年(1912)竣工の光太郎アトリエ(昭和20年=1945、空襲で焼失)も、指呼の距離でした。
001
002
都心とは思えない、緑溢れる、いわば異空間です。
001
004
こちらの2階2部屋をぶち抜きにして会場とし、朗読の北原久仁香さん、補足説明の当方で、「智恵子抄」の世界を御紹介します。
000
002
003
スクリーンにパワーポイントのスライドショーを投影しつつ、進めます。スライドショーはステイホーム期間が長く、暇だったので(笑)、気合いを入れて作りました。おかげで、「パワーポイントにこんな機能があったんだ」というのにいくつも気がつきました(笑)。

以前にも書きましたが、朗読の北原久仁香さんは、「語りと和楽の芸人衆 かたりと」の一員として、また、ピンでも、精力的に活動されている方で、YouTubeに「智恵子抄」12篇の朗読、当方執筆の「聴く読書 乙女の像ものがたり」8篇をアップされたりなさっています。オンラインもいいのですが、やはり肉声で聴くのはまったく違いますね。

隣接する髙村家のご当主にして、光太郎実弟・髙村豊周令孫の写真家・髙村達氏のご厚意で、智恵子紙絵の細密複製の展示、当方手持ちの各種『智恵子抄』や雑誌『青鞜』などの展示も行いますし、当日いらして下さった方には、さまざまな「お土産」も用意してあります。

13:00からと、16:00から、2回公演です。おかげさまで13:00の会はほぼ満席となりましたが、16:00からのほうはまだ空席があるそうです。最上部、チラシ画像に申込先等印刷されています。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

松の枝を入り口にうちつける。門松のしるし。


昭和23年(1948)12月31日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋ですので、松の枝はその辺から拾ってきたか、折ってきたか、そんなところでしょう。

都内から映画上映会の情報です。

第 43 期江東シネマプラザ「智恵子抄」

期 日 : 2021年9月25日(土)
会 場 : 古石場文化センター 東京都江東区古石場2丁目13−2
時 間 : 午前の部 11時開演  午後の部15時開演
料 金 : 500円

名監督・小津安二郎は深川で生まれ、深川の風景を愛しました。古石場文化センターでは小津監督作品の上映機会や紹介展示コーナーを設けています。「江東シネマプラザ」は名画を楽しむ会員制の上映会です。
000
智恵子抄

詩人・彫刻家の高村光太郎が愛妻 智恵子を偲んでうたった詩集『智恵子抄』の映画化。夫を深く敬愛しながら、芸術の才能の限界や身内の度重なる不幸により傷つき、智恵子は精神を病み、衰弱していく。主演の原節子が小津監督作品とは異なった表情を魅せる。

監督 / 熊谷久虎 出演 / 山村聡、原節子 1957 年/ 97 分/モノクロ

001
基本、年間会員を募り、月1回、名画系の上映会を行っている一貫での実施です。したがって、年間会員が優先で、1回のみの鑑賞も受け付けているとのこと。また、空席がある場合、当日受付も可だそうです。

光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られた、原節子さん主演の「智恵子抄」。コロナ禍前は、何だかんだで、年に1,2回、全国のどこかしらで上映があった感じですが、久しぶりだな、という気がします。

ところで、当会で年2回発行している冊子、『光太郎資料』。「光太郎回想・訪問記」という項を設け、生前の光太郎と交流のあった人々の回想などのうち、光太郎関連の書籍にまとめられていないものを載せています。10月発行予定の第56集では、「座談会 三人の智恵子」。光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
002
司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

その中の一節、原さんの発言から。

私は自分の力を知ってますから、自分でしたいとは思わなかったんです。ですから、五年ほど前会社で企画が出たとき、私は自信がないからとお断りしたんです。じゃ五年後の今は自信が出たのかというと、そういうわけじゃないのですが、ただ美しい映画が出来ればいいと思って、ですから私じゃなくてもいいと思うけれど、たまたまそういうお話になって……。今度は私が一番まずいんです、ハイ。ですけれども光太郎さんをやられる山村さんという方が、雰囲気をもっていらっしゃる方ですし、それに映画は、一人まずくても大分まわりでカバーしてくれますから。(笑)

「山村さん」は、光太郎役の山村聰さん。戦時中にはラジオで光太郎の翼賛詩朗読にあたったりもされました。

原さん、だいぶ謙遜されていますが、それなりに見応えのある作品です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十時過学校行。山口小学校開校式落成式。盛大。余もお祝のことばをよむ。

昭和23年(1948)12月3日の日記より 光太郎66歳

昨日に引き続き、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校関係。分教場から小学校に昇格し、新校舎の落成式と開校式がセットで行われ、光太郎も招かれました。

「お祝のことば」。詩として『高村光太郎全集』第3巻に収録されています。全集刊行時点では、光太郎生前に活字になった記録がなかったのですが、地方紙『花巻新報』の、山口小学校落成式を報じた記事に掲載れていたのを確認しました。
002




光太郎智恵子がその人生の永い時間を過ごした東京文京区から、写真コンクールの情報です。

第59回文京区観光写真コンクール

文京区内の観光スポットや催しで賑わう様子、今も残る昔の情景、花の五大まつりの賑わいなど、見た人が足を運びたくなるような観光写真を募集します。

主催:文京区観光協会   共催:文京区

募集期間  2021年8月1日(日曜日)~9月30日(木曜日)※当日必着

各賞一覧
 推薦(1点) 文京区観光協会会長賞 賞状・賞金2万・賞品
 特選(1点) 文京区長賞 賞状・賞金1万・賞品
 審査員特別賞(若干点) 賞状・賞金5千円・賞品
 準特選(10点) 文京区議会議長賞、文京区教育委員会賞ほか 賞状・賞金・賞品
 入選(10点)  賞状・賞品
 佳作(10点)  賞状・賞品
 ジュニア賞(4点)  賞状・賞品 ・図書カード

審査結果
 11月下旬までに応募者全員に発送します。表彰式は12月12日(日曜日)に行います。
 入賞作品は写真展に展示されます 。

応募規定
 カラープリント四切り(ワイド四切り・サービス判四切りを含む)、またはA4サイズ 。
 小・中学生対象のジュニア賞に限り2Lサイズ(127mm×178mm)可 。
 デジタル写真可。ただし、画像修正・加工は不可。
 色調補正(色調、コントラスト、明度調整など)は審査対象外となる場合があります。
 銀塩印画紙にプリントしたもの。インクジェットプリントでの応募も可。
 2019年4月以降に文京区内を撮影した作品。 
   ※規定にあてはまらない作品は審査対象外となります。

応募細則
 応募はアマチュアに限ります。
 応募作品はお一人につき5点までとし(複数の部門で応募の場合も合計で5点まで)、
 応募者本人が撮影した未発表のものに限ります。 
 不正な二重応募と主催者が判断した場合には入賞等を取消すことがあります。
 個人を特定できる写真で応募する場合、その肖像権について、
  必ず応募者が本人に許可を得てください。
 万一、第三者と紛争が生じた際は、応募者自身の責任と費用負担によって
  解決していただきます。
 立ち入り禁止区域からの撮影や無許可での私有地からの撮影など、
  モラルに著しく反した場合、第三者に不利益を与える場合は審査対象外となります。
 新規で写真撮影する際には、三密を避ける・ソーシャルディスタンスの確保等、
  新型コロナウイルス感染症対策を行ったうえでの撮影をお願いします。
 
応募方法
 所定の応募票(コピー可)を作品ごとに貼付のうえ、
文京区観光協会へ持参または郵送してください。

応募票 
 PDF ファイルをプリントアウトしてご利用ください

応募先
 〒112-0003 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター1階 文京区観光協会 

お問い合わせ先 
 文京区観光協会 電話番号:03-3811-3321
000
第59回ということで、伝統あるコンテストですね。昨年まで、このブログでは御紹介していませんでしたが、存じ上げませんでした。今年になって気がつきましたのは、審査委員長が髙村達氏だということで、検索の網に引っかかったためです。これまでも委員長をなさっていたかもしれませんが、今年、初めて気づきました。
001
達氏、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝・髙村豊周の令孫に当たられます。したがって、光太郎の父・光雲の令曾孫。

お父さまの故・髙村規氏も写真家で、高村光太郎記念会理事長を務められ、光雲、光太郎、豊周、そして智恵子の作品を高精細の写真データで遺されました。

文京区内、いわゆる「映(ば)える」スポットも少なからず存在するでしょうし、そうでなくとも、ありきたりの風景の中にも美が見いだせるはずですね。光太郎も「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」 昭和4年=1929)と云っています。だからといって瓦礫の写真で応募しろ、という訳ではありませんが(笑)。

腕に覚えのある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方山口小学校の門標をかく。


昭和23年(1948)12月2日の日記より 光太郎66歳

「山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1㌔近くありましたが)にあった小学校です。
001
この年4月、分教場から小学校に昇格し、新しい校舎も完成。その落成式が翌日と云うことで、門標の揮毫を頼まれていました。
002
こちらは翌年行われた学芸会の日に撮影された写真ですが、サンタ姿で乱入した(笑)光太郎の右側に、門標が写っています。いい字ですね。

現物は、当方、拝見したことがありません。現存するのでしょうか。

以前にもちらっと御紹介しましたが、光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた展覧会が開催されます。

橋本堅太郎展-無分別

期 日 : 2021年9月17日(金)~11月23日(火・祝)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般300円(220円)・小中学生150円(110円)
       ※( )20名以上団体料金

東京藝術大学で平櫛田中に彫刻を学び、2021年1月31日に他界した橋本堅太郎(文化功労者)は、戦後ながく具象彫刻の第一人者として活躍しました。本展では、数多くの温和で美しい女性像を創り出した橋本堅太郎の彫刻世界を紹介します。
001
001
代表作の一つ「竹園生」の画像が案内に使われています。

できれば来週末には拝見に伺う予定でおります。コロナ感染にはお気を付けつつ、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝、岡崎市の石屋さんといふ鈴木政夫といふ人来訪。バタ、サツマイモ等もらふ。愛読者。石彫希望の由。


昭和23年(1948)11月24日の日記より 光太郎66歳

鈴木政夫(大正5=1916~平14=2002)は、のち、木内克に学び、石彫の彫刻家となります。太平洋戦争に出征、復員後、家業の石材店を手伝ったりしていたのですが、彫刻への思い断ちがたく、敬愛していた光太郎を岩手の山中に訪ねました。30歳を過ぎて、彫刻家として立っていけるかどうか、専門の教育も受けて居らず、家族も反対している中、光太郎に相談に来たのです。

ちなみに鈴木の兄・基弘は、東京美術学校で学んだ彫刻家でしたが、鈴木は兄のアカデミックな作風を嫌っていました。

鈴木の著書『高村光太郎先生訪問始末記』(平成2年=1990 私刊)より。

「私はこのままでは駄目になってしまいます。先生、彫刻とは一体何なのでしょうか。彫刻とは人生にとって何なのでしょうか。今の私には基礎となるものを持っていません。でも私の兄のような彫刻が、どうしても本当の彫刻とは思われません。すでに私は三十歳半ばの年齢です。今から彫刻などして、果たしてものになるでしょうか。仕事には年齢のタイミングというものがあると聞いています。しかし、石が叩けるということ。身体がなんとか丈夫である、ということ。そして彫刻がしたいという情熱、この三つだけは持っているつもりです」
 先生はじっと私の話を聞き終わり、しばらくお考えになっていた。
「君は何を言っている。何を心配しているのかね。明治から今日まで、日本の彫刻家で、石の自由に叩けた彫刻家がいたというのかね。それに彫刻の仕事だけは身体が丈夫でなくては駄目だ。あのミケランジェロを見たまえ。それに君は何よりも彫刻を作りたいという情熱に燃えているではないか。こんなにまで三拍子揃った財産を、すでに君は持っているではないか。それだけで、君はもう立派に彫刻家となれる資格を持っているのだよ。あせることはない。遅いということはそれだけ大きくなるということなのだ。ゆっくり、ゆっくりやりたまえ」
 私はみるみるうちに目頭が熱くなり、一筋二筋と涙が頬に伝わった。やがてとめどもなく流れてきた。今までの思いつめていた力が一度に抜けた。思えば長い長い道のりであった。これだけの言葉を聞きたいばかりに、なんと私は大きな犠牲を青春に支払ったことか。しかし今まさにその支払いも、私にとって決して無駄使いではなかったことが、こうして先生に証明していただけた。

ただし、光太郎、太田村で光太郎の元、修業をしたいという鈴木の申し出は断っています。

開催期日が迫ってきたので、さて、紹介しよう、とすると、実は申込期限が過ぎていたということが往々にしてあります。これからは開催期日ではなく申込期日でメモしておこうと思いました。

で、今回もそのケースですが、とりあえず。まだキャパに余裕があるかもしれませんし……。

9月田端ひととき講座 平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~

期 日 : 2021年9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館ホール 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午後1時開演(0時30分開場)
料 金 : 無料(事前申し込み)

田端で新婦人協会を創設するなど、女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう。本年はらいてう没後50年の節目を迎えたことから、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、戦前までの活動について、同館研究員が講義をおこなう。講座参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力した、らいてうの軌跡を知ることができる。

明治時代、産業革命とともに女性の社会進出が進んだ一方、その地位は一向に低いままであった。平塚らいてうは女性解放運動が活発になり始めた明治末期に、女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性が抑圧されて輝けない状況をなげき、「元始女性は太陽であった」と女性の本来あるべき姿を訴えた。

1918年(大正7年)、平塚らいてうは田端へ転入し、自宅を事務所として市川房枝らと新婦人協会を創設。彼女たちは田端を拠点に婦人運動に尽力し、女性の政治活動を禁じていた「治安警察法第5条」の一部改正を実現させ、女性の政治活動の自由を獲得するという偉業を成し遂げた。同協会は女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の団体であり、その活動の拠点となった田端は、女性運動の聖地と言える。らいてうの田端時代は、朝も昼も夜もなく働き、家庭を顧みられない生活と自身で語るほど、人生で最も忙しい日々となった。

本年は、日本の女性運動の草分け的存在である平塚らいてうの没後50年の節目となる。本講座では、青鞜から新婦人協会時代までを中心とした軌跡を辿り、その活動を同館研究員が紹介する。参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力したらいてうの若き日の活躍を知るとともに、その信条に思いを馳せることができる。

また、同館常設展示スペースでは「平塚らいてう没後50年特別展 ~らいてうの軌跡~」が開催中。らいてうが田端で過ごした時代を中心に、女性たちの力で創刊した文芸雑誌『青鞜』から、女性運動を展開した新婦人協会までの軌跡を辿り、らいてうの家庭生活を交えながら紹介している。9月19日(日曜日)まで。
001
明治末、日本女子大学校における智恵子の1年先輩にしてテニス仲間でもあった平塚らいてう。卒業後、雑誌『青鞜』を立ち上げ、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼しました。

そのらいてうの軌跡を追う講座ということで、おそらく智恵子にも言及されるのではないかと存じます。

また、解説にあるように、ミニ展示では「平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~」、メイン展示が「心豊かな田端の芸術家たち」。

先述の通り、申込期限が過ぎてしまっていますが、ご希望の方、とりあえずフライヤー画像一番下の問い合わせ先までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后八森氏の義父君地主久太郎氏来訪。ヰスキー2本等もらふ。標札2枚を書き進ぜる。「道程」署名。


昭和23年(1948)11月4日の日記より 光太郎66歳

「八森氏」は八森虎太郎。北海道在住だった詩人・編集者です。その義父という「地主久太郎」なる人物については詳細不明ですが、翌日に書かれた八森宛の葉書には、八森から頼まれて、ウイスキー等を届けに来てくれたとのこと。八森が元々花巻出身なので、地主も花巻在住だったかもしれません。

「標札」は「表札」でしょうか。もしかすると、現在もどこかに現存しているか、あるいは現役で使われているかもしれませんね。「道程」はおそらく前年に札幌青磁社から刊行された復元版と思われます。

若干先の話ですし、手前味噌で恐縮なのですが、当方が出演するイベントの告知を。

語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄

期 日 : 2021年9月26日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 1回目:13時~(開場12時30分)2回目:16時~(開場15時30分)
      ※上演は1時間40分程度です。
料 金 : 一般3000円、中高生1700円

高村光太郎、智恵子が芸術とともに暮らした地で、詩を語り、作品や二人のエピソード等をお話します。智恵子の命日レモン忌(10月5日)を前に、高村家のお隣、旧安田邸でお楽しみください。

【出演】
 語り 北原久仁香(語りと和楽の芸人衆 かたりと)
 講話 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
004
005
というわけで、朗読と講話(解説)で綴る「智恵子抄」です。

朗読は北原久仁香さん。「語りと和楽の芸人衆 かたりと」の一員として、また、ピンでも、精力的に活動されている素敵な方です。昨年は「智恵子抄」12篇の朗読をYouTubeにアップされ、今年は「聴く読書 乙女の像ものがたり」8篇を、やはりYouTubeに。こちらは平成27年(2015)、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』に載せていただいた、当方執筆のジュブナイルです。なぜかいたく気に入っていただいて、「朗読して公開したい」とのことでした。

当日は、発刊80周年を迎えた龍星閣版『智恵子抄』(昭和16年=1941)から、詩15篇と短歌の朗読をしていただきます。従って、戦後の詩篇は入りません。

合間に当方のべしゃくりが入ります。光太郎智恵子の生涯をダイジェストで、パワーポイントのスライドショーを上映しつつ、です。

会場の旧安田楠雄邸庭園さんは、大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や各種イベントなどに活用されています。

光太郎の実家である旧髙村光雲・豊周邸に隣接しています。旧住居表記では本郷区駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏に引き継がれ、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。ただ、こちらは改築されています。

そんなわけで、安田邸を会場に、平成21年(2009)に規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されるなどしています。

また、光太郎智恵子が永らく暮らしたアトリエ跡も指呼の距離。当方、各種講座や講演等、やれと云われれば全国どちらでも参上しますが、やはりこの地で出来るというのは感慨深いものがありますね。

13時からと16時からの2回公演で、現在、13時からの方はかなり埋まっているようですが、16時からの方はまだまだ余裕があるとのことでした。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方瀧清水へ散歩。  昭和23年(1948)10月10日の日記より 光太郎66歳

「瀧清水」は、「瀧清水神社」。現在の花巻市桜町、光太郎が花巻町に出て来た際によく宿泊していた佐藤隆房花巻病院長宅の近くにある小さな神社です。

前日に光雲や智恵子の法要を花巻町中心街の松庵寺さんで営んでもらうため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から出て来ていました。

岡山県から展覧会情報です。 

浜口陽三とパリの芸術家たち展

期 日 : 2021年9月1日(水)~9月13日(月)
会 場 : 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリー 岡山市北区表町1-5-1 
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

浜口陽三は20世紀を代表する世界的な版画家です。さくらんぼ、てんとう虫や蝶々など身近なテーマを、深みのある銅版画(一部リトグラフ)の内に表しました。その作品を20数点、他に同時代にパリで活躍した内外の作家たちの作品を合わせて、100点余りを展示即売いたします。ご高覧をお待ち申し上げます。

<出品予定作家>
梅原龍三郎、高村光太郎、岡鹿之助、荻須高徳、棟方志功、高田博厚、佐伯祐三、ピカソ、
シャガール、ミロ、モディリアニ、ロートレック、ユトリロ、ヴラマンク、ミ
ュシャ、
ターナー その他
001
画像は平成30年(2018)に開催された同名の展覧会のものですが、まぁ、似たような感じなのでしょう。

光太郎の名がありましたので、問い合わせてみました。すると、書と版画、2点が出ているとのこと。

まず書は、大正9年(1920)、『明星』の歌人で佐渡島在住だった、渡辺湖畔に贈った短歌十首ほどのうちの一首、「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」を書いた色紙。

下の画像が同じ短歌を揮毫したものですが、これそのものなのか、同じ歌が書かれた別物なのか、ちょっと判断できません。
155 与謝野寛相聞挿画1
もう1点は、右上の画像。明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作されたもので、同書の後記に引用されている光太郎から鉄幹宛の書簡によれば『幼き QLAUAPATRAT』と題されています。

木版の方は、恥かしながら『幼き QLAUAPATRAT』と申したく候。『クラウアパトラ』は通称クレオパトラの本名に候。女王の位につきたるが十七歳の時。此は其よりづつと以前、アントニイが始めて会ひたる幼年の頃のつもりに候。

昨年もこの時期、丸善岡山シンフォニービル店さんのギャラリーで「高田博厚とパリの仲間たち展」が開催され、『幼き QLAUAPATRAT』の方は、その際にも出品されました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子祥月命日なり。 雨。終日くらくふる。風はなし。


昭和23年(1948)10月5日の日記より 光太郎66歳

ちょうど10年の節目でした。その感懐やいかばかり、と思います。

新宿中村屋サロン美術館さんでの企画展示です。

自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait

期 日 : 2021年9月15日(水)~12月5日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~18:00
料 金 : 300円 ※高校生以下無料 障がい者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料
休 館 : 毎週火曜日 11/23は祝日のため開館し、翌24日を振替え休館

「自画像」は、画家が自分自身の肖像を描いたものです。伝統である日本画にはもともと「自画像」というテーマはありませんでした。自分を描くという明確な意図をもって描かれ始めるのは、幕末以降になります。明治に入ると美術学校の誕生によって西洋式の人体デッサンを学べるようになり、次第に画家たちが自己の内面を追求し、表現する手段として自画像が多く描かれるようになりました。

本展では、明治から昭和にかけて活躍した画家たちの自画像約40点を一堂に会します。それらを「明治初期の画家たち-再現描写の追及-」、「明治中期・後期の画家たち-自己の内面の表現-」、「大正・昭和の画家たち-公と個の間、関係性の中の自己認識-」と、時代ごとに3つの章に分け、画家と「自画像」の関係性が時代とともにどのように変容していったのかを追及していきます。

主な出品作家
鹿子木孟郎 満谷国四郎 南薫造 辻永 斎藤与里 高村光太郎 中村彝 萬鉄五郎 安井曾太郎 
岸田劉生 木村荘八 北川民次 長谷部英一 佐伯祐三 宮本三郎 古沢岩美 木村忠太 鴨居玲
深澤孝哉 渡辺榮一 パブロ・ピカソ レオナール・フジタ モイーズ・キスリング 他

001
002
関連イベント
明治から昭和にかけて活躍した画家たちの自画像約40点を、時代ごとに3つのセクションに分け、画家と「自画像」の関係性が時代とともにどのように変容していったのかを、当館学芸員 太田美喜子が解説致します。当館ホームページよりアクセスし、ぜひご覧下さい。

<動画配信>
第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及- 
 配信日時:2021.9/18(土) AM10:30~
第2章 明治中期・後期の画家たち -自己の内面の表現-
 配信日時:2021.10/9(土) AM10:30~
第3章 大正・昭和の画家たち -公と個の間、関係性の中の自己認識-
 配信日時:2021.10/30(土) AM10:30~

f734d725日動美術財団さんのご協力だそうで、そんな関係で、錚々たるメンバーの自画像が集まるようです。ただ、光太郎の自画像は、元々、同館の所蔵品で、現在開催中のコレクション展示にも出ていまして、そのまま継続しての展示となります(中村彝も)。

ラインナップを見ると、光太郎と交流のあった面々も多く、彼らの自画像と共に並ぶことで、また違った見え方がするのかな、という気がします。南薫造斎藤与里安井曾太郎岸田劉生木村荘八藤田嗣治(レオナール・フジタ)など。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明方鼠が頭の毛をかぢり、めざめる。


昭和23年(1948)10月3日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、ネズミは奇妙な同居人(「人」ではありませんが(笑))として、退治しても退治しても巣を作り続けました。それにしても、寝ている時に、残り少なくなった頭髪をかじられるとは……(笑)。

ちなみに当方は、ほぼ毎朝5時頃、こいつが起こしに来ます。
KIMG3873
寝ていると、手足や顔にスリスリしながら(一日の中ですり寄ってくるのはこの時だけです(笑))、「ニャオニャオ! ニャーニャー!(起きろ、下僕! とっとと朝ごはんよこせ!)」(笑)。妻や娘には行きません。誰が根負けして起きるか、わかっていやがるのですね(笑)。

地方紙『宇部日報』さん、先週の記事です。山口市の中原中也記念館さんの企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」について。

中原中也記念館で企画展「中也詩集とブックデザイン」 装丁家や出版の背景などを紹介

 中原中也(1907~37年)の詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」と3冊の翻訳詩集を中心に、装丁家や出版の背景などを紹介する企画展「書物の在る処―中也詩集とブックデザイン」が、山口市湯田温泉1丁目の中原中也記念館で開かれている。9月26日まで。
 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が装丁した「山羊の歌」の校正刷りや紙型、大正~昭和初期に刊行された個性豊かな詩集のブックデザインなど約100点が展示されている。
 中也の第2詩集「在りし日の歌」のブックデザインは、中也の友人で美術評論家、装丁家の青山二郎(1901~79年)が手掛けた。柳のカットと手書きの文字を生かした大胆なデザインが特徴で、青山の装丁作品の中でも傑作とされている。会場には、色彩豊かな額縁文様、愛らしい木彫りのはんこを使ったパターンなど独特の手法を用いて生み出された青山の装丁作品が多数飾られているほか、青山の日記や中也が青山に贈った詩を通じて2人の交流を紹介している。
 特別コーナーには、現代に生きる詩人やアーティストが中也の2冊の詩集をそれぞれの視点で捉えてデザインした詩集が展示されている。
 学芸員の菅原真由美さんは「電子書籍が普及する中、本の持つ存在感やたたずまいを感じてもらい、デザインを楽しむ中で詩への興味を広げてもらえたら」と話していた。
 時間は午前9時~午後6時。月曜休館。一般330円、学生220円、70歳以上、18歳以下無料。
000
ところが、この記事が出た直後、コロナ禍のため9月13日(月)までの休館が発表されました。ただ、同展、会期は9月26日(日)までの予定ですので、再開後も観覧可能でしょう。

似たような件ですが、岩手花巻の高村光太郎記念館さん、8月14日(土)から休館となり、当初予定では今日までのはずでしたが、休館期間が9月12日(日)まで延長、と発表されています。休館前に開催されていた企画展「光太郎の三陸廻り」は、最初の計画では昨日までの予定でしたが、そのまま終了なのか、期間を延長するのか、未定のようです。

本当に、早いところコロナ禍の収束・終息することを願わずにはいられません。

【折々のことば・光太郎】

弘さんはマヒタケを昨日とり、それを町に売りにゆきたるものといふ。百匁30円の割でうれりとの事。一個一貫目のマヒタケあり。300円になりしといふ。

昭和23年(1948)10月2日の日記より 光太郎66歳

「弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に住んでいた青年です。

「一貫目」といえば、約4㎏。そんな巨大な舞茸が採れていたとは、うらやましい限りです(笑)。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん。2021年9月号に光雲の作品が紹介されていました。
001 004
古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆で「高村光雲 聖徳太子像」。全4ページです。
002
003
紹介されているのは、上野の東京国立博物館さん所蔵の聖徳太子像。大正元年(1912)、鋳銅の作品です。

前年に制作された木彫の原型は、同じく上野の東京藝術大学大学美術館さんの所蔵。ここから型を取って、鋳金家の安部胤齋により61体が鋳造され、光雲の帝室技芸員任命記念として配付されたそうです。

木彫原型については、光雲の談話筆記「聖徳太子御像に就いて」(大正10年=1921、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収)に、次の一節があります。

 聖徳太子の御像の話としては、いま国華倶楽部の本尊たる太子像に就いて物語るのが一番に相応しい気がします、作家としての私にとつては。
 明治四十一二年頃に国華倶楽部でとまれ一つの本尊を建立する議案が出て、それが聖徳太子御像と定められたのでしたが、自分が彫刻家であり、また倶楽部の理事でもある関係上、総べてに出しやばるやう想はれてもと思ひまして、種々と差控へてをりましたら、また他に適当な木彫家の方を推してもおきましたが、どうしても遣らねばならぬやうな羽目になりましたので、断然製作する決心をしたのでした、丁度その時は六十一歳に相当しましたので、その御礼にもと想ひまして、太子様の御像を一つ建立する事に依つて、せめても今日まで報恩の一部だに尽すことが出来たならと思ひまして、その紀念に歓びを献ずる意りで寄附する事を約しまして、六十歳の時に懸りまして六十一歳で製作を了り自分の気持ちを献しました、それは聖霊殿の木像の形でした、

美術家の社交団体であった国華倶楽部の主催で、明治末から「聖徳太子祭」が行われていました。その際に太子像がなければ盛り上がりに欠ける、みたいな感じだったのでしょう。光雲に白羽の矢が立ち、みんなで拝むための太子像を作れ、ということになったようです。

そこで光雲、法隆寺聖霊殿所蔵の太子像を手本に、坐像を制作しました。おそらくこれが太子像をきちんと制作した最初なのではないかと思われます。この後、法隆寺や橘寺所蔵の他の太子像をモデルにしたり、新たな図案を取り入れたりしながら、光雲は複数の太子像を制作しました。昭和2年(1927)には、国華倶楽部の像とよく似た図題の「聖徳太子摂政像」を制作、法隆寺に納めています。

光雲の太子像諸作については、下記をご参照下さい。
京都大覚寺光雲作木彫。
京都・大阪レポート その1。「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展。
東北レポートその2(仙台編)。
第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻。
テレビ放映情報。

ところで、談話筆記「聖徳太子御像に就いて」。当会で会報的に刊行を続けている『光太郎資料』中の「光雲談話筆記集成」、次回発行分(10月5日予定)に載せるつもりで文字起こしをしているところでした。そこで『小さな蕾』さんにこの記事が出たので、驚いている次第です。

さて、『小さな蕾』さん9月号。実は最新号は10月号ですが、9月号もオンライン等で入手可能。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方五時過村長さん宅より子供等迎へにくる。一緒にゆく。晩餐に六七人集まる。酒肴。馬喰茸の煮つけをめづらしくくふ。小豆餅、クルミ餅。十時半辞去。サダミさんがアセチリン燈を持ちて小屋まで送つてくれる。


昭和23年(1948)9月29日の日記より 光太郎66歳

「村長さん」は高橋雅郎、光太郎が援助を惜しまなかった山口小学校近くに住まいがありました。お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です。

「アセチリン燈」。通常、「アセチレン」と表記しますが、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド) と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるもの。昔は寺社の縁日の夜店などで見かけたものです。

『東京新聞』さんの記事から。

103歳 絵に託す希望 横浜の画家・井上寛子さん 北区の母校に新作寄贈「未完成な自分 高めたい」

002 ことし百三歳を迎える現役の女性画家がいる。横浜市に住む井上寛子(ひろこ)さん。新型コロナウイルス禍の世界の「希望」を描いた新作が先月、東京都北区中里にある母校の女子聖学院に寄贈された。井上さんは「これからも人として未完成な自分を少しでも高めていきたい」と話す。
 昇りゆく太陽が日食のように大きく欠け、小枝に止まる一羽の小鳥が向き合う−。作品は「朝陽はまた昇る」と題した油彩画だ。
 寛子さんは自宅二階にあるアトリエの窓に立ちながら「日光浴がてら太陽を肉眼で見ていたら、ぐらっと黒くなった瞬間があったの」と制作の動機を語る。
 「若い絵描きをはじめ、みんな苦しんでいるでしょ。先が見えないけど、希望は持ちたいと思ってね」
 小鳥は小さな人間、緑の葉っぱは生命の源のシンボルという。この新作を世田谷区内のギャラリーで四月に開いた個展「満103歳の挑戦」に出品すると、思わぬ展開をたどる。
 寛子さんは一九一八(大正七)年十二月生まれ。北区西ケ原で育ち、文京区本駒込にあった理化学研究所のマネジャーだった父の勧めで女子聖学院に入学。〇五(明治三十八)年に創立されたプロテスタント系の女子中高一貫校だ。
 病院で見た西欧の中世画に絵心を抱き、高卒後は女性では珍しい画家の道へ。印象派を学び、四一年、文部省美術展に初入選。四三年、彫刻家で詩人の高村光太郎を本郷の私邸に訪ねると、「日本の藍の色を研究したら」と励まされた。
 同年、彫刻家の井上信道氏と結婚。四五年五月の横浜大空襲で夫は大やけどを負い、疎開先の伊豆・湯ケ島で長女の静子さんを出産し終戦を迎えた。いまも米軍機の焼夷(しょうい)弾の痕跡が残る木造住宅で現代アート作家の静子さん夫婦と暮らす。
 寛子さんは二〇一九年、母校の同窓会報「翠耀(すいよう)」に寄稿した。それが縁となり母親が同窓生だった鈴木貴子さん(54)が個展での新作に感動し、亡き母の遺志として寄贈を申し出た。
 寄贈の集いは七月二十日。寛子さんは卒業から八十六年ぶりに母校を訪れ、山口博校長や翠耀会の大塚明子会長らが出迎えた。
 鈴木さんは「コロナ禍で学校生活もままならない。そんな生徒の心に寄り添い、明るい未来へのメッセージを感じます」と作品を紹介。寛子さんは「再び誰もが立ち上がることのできる広々とした明るい前途があることでしょう」と掲額へのお礼を述べた。
 実は、太陽の黒は高村光太郎が助言した「藍」の到達点とも言える。十七世紀のオランダの巨匠レンブラントの「無限の黒(闇)」を意識し、藍に近い多くの暗い色を重ねて、あの重厚な漆黒を創作したのだ。
 再び自宅アトリエ。寛子さんに次回作を尋ねると、照れ隠しか文字にしたためた。「存在するものをかきます」。古代ギリシャの哲学者アリストテレスを口にして、百四歳を見据える。
 さらにいまの心境を伺うと「倖(しあわ)せに気づきました」。戦火の時代を生き抜いたつらい日々の記憶は年を重ねて鮮明になるらしい。平和のありがたさに感謝して一日一日を生きる。
◆井上さんの1日 しっかり食べ 家事・体操も
   「朝陽は〜」を制作中の2月24日の「103歳の1日」の記録によると−。
 5時半、起床。朝焼けを眺めキャンバスに向かう。8時、朝食は牛乳を泡立てたカプチーノ、野菜と001果物のスムージー、パン、ハム、チーズ。同40分、キャンバスへ。10時15分、仮眠。正午、昼食はダッチオーブンで焼いたサツマイモ。13時、絵を描く。14時半、横浜駅地下街の画材屋にバスで出かける。アサリのつくだ煮と煮豆を買う。15時半、帰宅。煮豆を食べる。
 16時、夏ミカンのマーマレードを煮込む。18時、夕食はごはん、ブイヤベース、豪州産牛肉。肉が大好き。19時、テレビニュースを見る。20時、就寝。
 毎日、娘夫婦と一緒に食事し、掃除や洗濯の家事をこなす。制作に集中するときは5時間近く描く。天野式リトミック体操を行う。
 静子さんは「絵に向かわないときも常に何かやっている。耳は遠いが自立して行動しています」と話す。

井上さん、平成27年(2015)、97歳の折に開いた個展の報道(『朝日新聞』さん神奈川版)でも、光太郎とのご縁が紹介されており、「ああ、あの井上さんか。まだお元気だったんだ」と、嬉しくなりました。

まだまだお元気で、画業に邁進されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午后雑用、畑少々、 「噴霧的な夢」といふ一枚ばかりの詩を書く。「女性線」へ送るつもり。

昭和23年(1948)9月21日の日記より 光太郎66歳

「噴霧的な夢」は、前年に発表された連作詩「暗愚小伝」以来、久しぶりに智恵子を謳った詩です。「女性線」は、その掲載紙。

現代では「荒唐無稽」「恣意的」と退けられている「精神分析」の分野の人々が、喜びいさんで勝手な解釈を加えたがった作品でした(笑)。

  噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。
006

001当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が、かつて都立高校教諭をなさっていた頃に教え子だった皆さんの会・北斗会さんの会長を永らく務められた、都内ご在住の小川義夫さんが亡くなりました。

小川さん、新潟の旧山古志村のご出身。北川先生の一回り下の丑年とおっしゃっていましたので、今年、誕生日を迎えられていたとすれば満84歳ということになります。

北斗会さんとして、北川先生の御著書や、北川先生を顕彰する書籍の編集、刊行の中心にいらっしゃり、当方も大変お世話になりました。右画像は、北斗会さん編集の『北川太一とその仲間達』(平成23年=2011)。小川さんもご執筆なさり、さらに小川さんも御出席された北川先生を囲んでの座談会の様子も収録されています。

毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の集い(昨年・今年はコロナ禍のため中止)、そして8月には、女川光太郎祭(こちらも昨年・今年はコロナ禍のため中止)にもよく参加されていました。
006
こちらは東日本大震災の翌年(平成24年=2012)、当時まだ遺されていた、女川港近くの横倒しになったビルを御覧になっている北川先生ご夫妻、そして右は小川さんの後ろ姿です。

また、1月には北川先生ご夫妻を囲む新年会を企画され、当方も参加させていただいておりました。こちらは平成28年(2016)の新年会、開会の挨拶をされている小川さんです。
002
さらに、昨年1月の、北川先生ご葬儀では、葬儀委員長を務められたりもなさいました。その折が、当方、小川さんにお会いした最後となってしまいました……。

さて、小川さん。ご本業は、印刷会社の社長さんでしたが、演歌歌手としても活動されていました。70歳を過ぎてから、心臓病の予後のリハビリのためお医者様の勧めでカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよという間にプロデビューとなったそうです。
001
BS放送の歌謡番組にもご出演され、当方、「ぶっちゃけ、ギャラとかって、どんなもんなんですか?」などと失礼ながらお訊きしたところ、「いや、こっちがプロモーションさせて貰う立場なので、逆にこっちから「出演料」を払うんだよ。いわゆる大御所でもそうなんだ」などと教えていただきました。そんなことも、今となっては懐かしい思い出です……。
007


今頃は、空の上で、北川先生と久闊を叙されているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

食事中、東京角川書店主角川源義氏来訪。小山書店の高村昭氏と知合の由。濃茶、チーズ等もらふ。いろいろの談話。出版会の消息等もきく。


昭和23年(1948)9月7日の日記より 光太郎66歳

角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。

↑このページのトップヘ