カテゴリ: 東北以外

大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。

テレビ放映情報、2件です。

じゅん散歩 「千駄木」

地上波テレビ朝日 2023年5月30日(火) 09:55~10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)”をテーマに自由気ままに街を歩きます!

三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

【出演】高田純次  【通販コーナー】新山千春、愛華みれ

◇音楽
◆テーマ曲:斉藤和義 『純風』  ◆エンディング曲:アルステイク 『わんちゃん』
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「千駄木」ということで、光太郎自宅兼アトリエのあった、旧本郷区駒込林町です。光太郎自宅兼アトリエのあった保健所通りも歩かれ、光太郎自宅兼アトリエ跡も紹介されるようです。というのも、1ヶ月以上前ですが、廻り巡ってテレ朝さんだか制作会社さんだかから、光太郎自宅兼アトリエの古写真画像を使いたいが、どうすれば……という問い合わせがありまして……。

こういう場合に使える写真を所蔵していらっしゃる、尾崎喜八関係の方をご紹介したのですが、その後、連絡が取れたのかどうか等は不明ですが。

また、番組説明にある「文人ゆかりの街の老舗せんべい店」は、団子坂下の菊見せんべいさんですね。光太郎、実家の駒込林町155番地から東京美術学校に通学していた頃の思い出として、「私の青銅時代」(昭和29年=1954)という散文で、菊見せんべいさんについて記述しています。

 塩せんべい屋は店先でせんべいを押し、刷毛で醤油を付けながら焼く。そこの娘がちゃんとしたきりっとした娘で、子供の時から店に出ていて私も知っていたが、美術学校に行く途中でその煎餅屋の前に来ると、私は顔が赤くなる。それが自分で分かる。何故か分からぬがそうなる。はじめは気がつかなかったけれど、毎日毎日そうなるので何だか恥ずかしくなってきた。店の処まで歩いてくると胸がどきどきして顔がほてって困った。しまいにはどうしてもその通りが通れなくなった。だから根津の方を遠回りして学校に行ったけれども、後で考えると、その娘に思し召しがあって、娘の顔を見ると顔がほてったのだと知った。むこうでも真っ赤になっていた。あれがむかしの純情な子供の気持ちなんだろう。

「思し召しがあって」というのは、「何か気になるところがあって」といった意味でしょう。何とも微笑ましい、光太郎初恋の思い出です。問題の娘さんは、先代の奥様のいとこだったそうで、たまたま偶然なのですが「智恵子」という名前だったそうです。

「菊見」は、かつて団子坂で菊人形が催されていたことに由来するのでしょう。下は当方手持ちの古写真です。
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夏目漱石の「三四郎」などにも描かれています。そのあたりも紹介されるのかどうか、というところですね。

ちなみにこの番組、5月22日(月)と23日(火)の2回にわたり、渡辺えりさんがゲスト出演なさり、高田さんとご一緒に池袋を歩かれていまして、23日放映分では、えりさん、光太郎の名も出して下さいました。ありがとうございました。
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編集の関係か、今一つ脈絡が分かりにくかったと思うのですが、えりさんが高校を卒業されて上京なさった際、お母さまが買って下さった強力な目覚まし時計を、光太郎と交流のあったお父さまが、昭和61年(1986)4月2日、パリのカフェで開かれた第30回連翹忌の集いにご参加の際、フランスまで持って行かれた、というお話です。

「じゅん散歩」、明日以降のラインナップは以下の通り。

5月29日(月) 三代目散歩人・高田純次が「田端」を散策▽4年ぶりの再会…パン職人が絵本作家に▽山手線&新幹線が一望できる絶景鉄道カフェ▽形も音も様々!自転車ベルの世界

5月30日(火) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

5月31日(水) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽北島康介や寺川綾が学んだ名門スイミングセンター▽マスターズ日本記録を10個もつ女性スイマー▽生徒も作る!製菓学校のケーキ店

6月1日(木) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽看板ネコが鎮座!呉服店のアイデア小物入れ▽蒸して焼いて揚げて…変わり種シュウマイ▽中国にも無い「水シュウマイ」とは?

6月2日(金) 三代目散歩人・高田純次が「西日暮里」を散策▽紅茶専門店で味わう世界三大銘茶▽アートな壁画が目印!街の名物酒店▽線路沿いで発見!壁を登る人々


高田さん、千駄木とその周辺を歩き回られるようです。

もう1件。

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

地上波テレビ東京 2023年6月3日(土) 22:00~22:30

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」
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かつて光太郎智恵子が「氷菓」を食し、また光太郎も中心メンバーの一人だった芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われ、そして現代、光太郎偲ぶ連翹忌の集い会場とさせていただいてる日比谷松本楼さんも取り上げられます。
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現在の松本楼さんの建物自体は新しいものですが、かつての姿など、古写真等で紹介されるのでしょう。また、日比谷公会堂も光太郎所縁の建物。戦後には各種コンサートに何度も足を運びましたし、戦時中には光太郎が詩部会長を務めた日本文学報国会の発会式も行われました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先週十四日は誕生日だつたので 心ばかりの野の花を写真に供へて其日を祝福しました。

大正8年(1919)11月17日 一志茂樹宛書簡より 光太郎37歳

「誕生日」はロダンの誕生日です。ただ、正確にはロダンの誕生日は11月12日、14日は洗礼の日です。ロダンは前年に没し、光太郎は翌年には叢文閣から『続ロダンの言葉』を上梓、そういった時期ですので、感慨一入だったようです。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

兵庫県から演奏会の案内です。

初夏にうたう ~日本歌曲の夕べ~

期 日 : 2023年6月3日(土)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 14:00~
料 金 : 全席自由 2,500円

出演(50音順)・主な曲目
 歌唱
  新井俊稀  あどけない話(野村朗「智恵子抄」より)
  石津雅恵  思い出すために(信長貴富)
  門林裕佳子 しあわせよカタツムリにのって(信長貴富)
  喜多美幸  はっか草(千原英喜)
  鈴木萌   六月の歌(前田佳世子)
  辰田由紀子 はなやぐ朝(中田喜直)
  長太優子  赤いかんざし(貴志康一)
  速海ちひろ すずらんの祭(高田三郎)
  藤井友子  サルビア(中田喜直)
  藤島一子  夢みたものは……(木下牧子)
  松浦優   花の春告鳥(小林秀雄)
  吉村ひろ子 澄月集(山田耕筰)
 ピアノ 
  石田瑞枝 前川裕介

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名古屋ご在住の野村朗氏が作曲された「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」から、第2曲「あどけない話」がプログラムに入っています。

歌唱担当は新井俊稀氏。平成29年(2017)には「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」全曲を含むCD「日本の抒情歌 赤い花 白い花」をリリースされていますし、同じ年にドイツのハイデルベルグで同曲のコンサート「liederabend mit schauspiel 智恵子抄 Für CHIEKO」もなさった方です。他に都内でも

その他、個人的には自分が以前に合唱で歌ったことのある信長貴富氏作曲「思い出すために」(寺山修司作詞)、木下牧子氏作曲「夢みたものは……」(立原道造作詞)が入っていて、「独唱版もあるんだ」という感じでした。もっとも、独唱版が先で後から合唱に編曲されたのかも知れません。そのあたりは詳しくありませんで……。

閑話休題、お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました 先達て頂戴した一週一信をよんで はじめて刀自の真生活を知つたばかりの時 此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません


大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛書簡より 光太郎37歳

広岡浅子は、智恵子の母校・日本女子大学校の設立にも協力した女性実業家。平成27年(2015)に放映された朝ドラ「あさが来た」(今週月曜までBSトゥエルビさんで再放送が為されていました)の主人公のモデルですね。

智恵子と浅子は面識がありました。智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会で智恵子が自らの絵画修行について発表し、その智恵子の発表の前に浅子が講話をしていました。
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また、遡って明治40年(1907)の智恵子卒業時の集合写真には、浅子も写っています。
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「一週一信」は、大正7年(1918)に刊行された浅子の随筆集。日本女子大学校同窓会の仕事もしていた小橋の編集です。
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千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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昨日は都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは上野の森美術館さんで昨日始まった「第4回日本木彫刻協会展」。
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仏師の関侊雲氏が会長を務められている一般社団法人「日本木彫刻協会」さんの主催です。
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受付でいただいたフライヤーに、「事業内容」の一つとして、こんな記述。
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なるほど、大切なことですね。

そこで、積極的に入門者等を募集されているようです。
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木彫のみでなく、仏画も。
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素晴らしい!

さて、展示作品を拝見。
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こじんまりした会場で、さほど展示点数も多くなく、ちょうどいい感じです。大規模な公募展等で「これでもか、これでもか、いやいや、まだまだぁ!」というスタイルだと、申し訳ありませんが食傷気味になってしまいますので。
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関氏、それから高弟とおぼしき方の作品。
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こういう作を前にすると、同じ日本人として誇らしくなりますね。

それから、名誉会員のテノール歌手・秋川雅史氏の作。光太郎の父・光雲が主任となって皇居前広場に据えられた「楠木正成銅像」の模刻。申し訳ありませんが、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として、こちらを拝見するのがメインの目的でした。
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外連も衒いも韜晦もなく、実に真摯に作られているのがよく分かります。こちらが出品された一昨年の二科展、昨年の秋川氏個展ともに見逃していましたので、ようやく拝見できて満足でした。

同じく秋川氏、昨年の二科展入選作。
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さらに金剛力士像。群馬県前橋市の天明寺さんに納められる予定の像の下絵だそうで。
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秋川氏、いつのまにかテノール歌手としてではなく、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げられていました。かなり本気ですね。今後ともそれぞれの分野でご活躍されることを祈念いたします。

ところでこんな展示も。
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関氏、今年の大河ドラマ「どうする家康」のお仕事もされているそうで。

当方、同番組は拝見していませんので存じませんでしたが、毎週書かさず見ている妻にこの画像を見せたところ、「ああ、これ!」。かなり重要なモチーフのようでした。

会場の上野の森美術館さんを後に、すぐそばの、やはり光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」にご挨拶。
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その後、永田町の国会図書館さんへ。
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昨年12月のデジタルデータリニューアルに伴い、自宅兼事務所のPCで閲覧できるデータ数が飛躍的に増大。その結果、『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品などが続々見つかっています。ただ、大人の事情で自宅兼事務所のPCで閲覧できず、館内限定閲覧可のデータも多く、そちらを調べに行った次第です。

集中力が保てませんので2時間ちょっと、明治末から昭和初めまでのデータを調べ、やはり『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品を見つけてきました。散文と、書簡(雑誌に転載されたもの)のそれぞれ複数です。高村光太郎研究会さんから来春発行予定の年刊誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。それから本日誕生日の智恵子がらみでも実に面白い婦人雑誌記事を見つけました。大正末のものですが、いずれこのブログで紹介します。

しかし、まだまだ調べるべきデータが山のようにあり、これから何度も通うことになりそうです。「浜の真砂は尽きるとも世に光太郎智恵子の種は尽きまじ」という感じです(笑)。

さて、「第4回日本木彫刻協会展」。会期が短く5月23日(火)までですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

此間お話の御尊父の肖像製作の事は大変たのしみに思つて居ります それに佐渡ははじめての処故秋の風景などいろいろ想像してみて居ます


大正7年(1918)6月13日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。のちに光太郎はその歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀、装画を手がけます。

「御尊父の肖像製作」は結局実現せず、代わりに、というわけでもないのでしょうが、木彫の「蟬」が贈られましたし、湖畔の愛娘で夭折した道子の肖像画を描きました。また、この年の10月に佐渡島を訪れた際には、書幅も残しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さん。守衛作品を純錫製のミニチュアにしたもの5種を発売なさいました。

純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種

新しいミュージアムグッズ 錫製品に荻原守衛彫刻シリーズが、ついに登場。作品を3Dスキャンし、3Dプリンターで出力した像の修整を経て型取りした、精巧なミニチュアです。木台座、桐箱付、各4,600円。 別途送料とお振込手数料がかかります。 ※ご注文頂いてからの製造につき、お手元届くまで半月ほどお時間をいただくことがございます。ご了承くださいませ。
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《女》高さ 約6.5cm 《坑夫》高さ 約5cm 
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《宮内氏像》高さ 約5cm 《文覚》高さ 約5cm 《女の胴》高さ 約5.5cm

いい感じですね。

5点中、守衛絶作の「女」と留学中の作品「坑夫」は、光太郎がその保存に関わったものです。
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「女」は、令和2年(2020)にトーハクさんと藝大さんの協力の下、ブロンズで像高25㌢ほどの縮小模刻が発売されましたが、今回のものはさらに小さいサイズで価格もお手頃です。しかも小さいからといって侮る勿れ、ちゃんと3Dスキャンによる制作です。

光太郎作品もこんな感じでのミニチュア化があってもいいように感じました。ブロンズの「手」とか、木彫の「蟬」「鯰」「白文鳥」など。ただ、大人の事情で難しいでしょうね。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、地元の土産物店などで昔からミニチュアが作られていますが、しょせんお土産品ですので……。

ちなみに光太郎の父・光雲の「老猿」は、平成27年(2015)にポリストーン(石粉、合成樹脂混合)製のレプリカ(像高20㌢)がトーハクさんから出ていますし、「西郷隆盛像」も3D彫刻複製といううたい文句で販売されています(像高37㌢)。

閑話休題、碌山美術館さんのシリーズ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子への御葉書は直ぐ転送いたします ちゑ子は医者の言葉によつて今年は海へ行く事にして 福島県相馬郡原釜 金波館に滞在して居ります いつでもあなたからのお便りを大変うれしがつて居りますから 時々御葉書をやつて下さい

大正6年(1917)8月9日 旗野すみ子宛書簡より 光太郎35歳

旗野すみ子(スミ)は、日本女子大学校での智恵子の後輩。新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に住んでいました。スミの姉・ヤヱがやはり日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。スミは後に結婚して再上京、立川の農事試験場付近に住み、光太郎智恵子夫婦と交流が続きます。
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こちらは大正2年(1913)の『読売新聞』。

さらに大正5年(1916)、旗野家で撮られた写真。左端が智恵子、後列中央がスミです。
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福島県相馬郡原釜 金波館」は、結婚前の少女時代から智恵子が家族共々何度も訪れていた定宿。現在の南相馬市原釜尾花海水浴場です。

対面式およびオンラインでの講演会です。

春の特別展関連講演会「関東大震災と武者小路実篤」

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 13:00~15:00 
料 金 : 無料

大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、10万人以上の犠牲を出した国内最悪の自然災害と言われます。巨大地震を体験した里見弴、高村光太郎、地震の知らせを聞いて東京へ駆けつけた志賀直哉、そして武者小路実篤。白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。

講師
石井正己氏(日本文学研究者・東京学芸大学名誉教授)
東京学芸大学名誉教授。著書に「文豪たちの関東大震災体験記」(小学館)、「感染症文学論序説」(河出書房新社)、「震災は語り継げるか」(三弥井書店)などがある。

申し込み
往復はがきの往信面に、講座名・応募者全員(1枚につき2名まで)の氏名(ふりがな)・年代・郵便番号・住所・電話番号を、返信面にご自身の宛先を明記し、5月9日(火曜日)必着で実篤記念館まで。

注意事項
応募者多数の場合は抽選を行います。
はがき締切後、定員に余裕がある場合は5月10日(水曜日)午前9時から5月19日(金曜日)午後5時まで先着順で電話受付。詳細は実篤記念館までお問い合わせください。
はがきの到着に時間がかかることがあります。余裕をもってご投函ください。
都合により、内容が変更される場合がございます。最新の情報は当館ホームページやツイッターをご覧いただくか、お電話でお問い合わせください。

配信視聴
会場参加に加え、オンライン配信も行います(ライブのみ)。
5月12日(金曜日)午後5時までオンライン配信専用の申込みフォームを開設します。
講座の詳しい内容や対面での応募方法については次のリンクをご確認ください。

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同館で開催中の特別展「武者小路実篤の1923年」の関連行事という位置づけです。
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大正12年(1923)9月1日の関東大震災からちょうど100年という節目の年ですので、このような企画になっているのでしょう。

南関東ではどこも甚大な被害だったわけで、個々の芸術家かどういう状況になったかまでは当方もそれほど存じません。武者にしても。同展の案内文に依れば、武者自身は地震発生当時、宮崎の新しき村に居たそうですが「東京の実家に住む母と甥らが被災し、一時は安否が分かりませんでした。家族は無事だったものの、実篤が生まれ育った家は全焼しました。」ということだったそうで、それは初めて知りました。ありゃま、という感じですね。

光太郎は、というと、駒込林町の住居兼アトリエは大きな損傷もなく、光太郎や近くに住んでいた父・光雲らに怪我もありませんでした。智恵子も二本松の実家に帰っていたため無事。しかし27畳のアトリエは被害の大きかった下町からの避難者に開放し、光太郎自身は何ヶ月かを四畳半の和室で過ごすこととなりました。その間、智恵子の実家の長沼酒造から酒を取り寄せ、引札も自作し、にわか酒屋を始めています。

今回の講演では、「白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。」とのことで、では、光太郎はどんな文章を書いていたか、調べてみました。

すると、震災に関わるものとして公表されたものは、11月に雑誌『女性』に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同じく『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」がありました。

「アメリカ……」の方は短いので全文を引き写してみます。

 大東京の築造については、自分が六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」の中の意見と今でも大体に於て同じ意見を持してゐます。何よりも日本の東京にしたいものです。アメリカ趣味の流入を殊に出来るだけ防ぎたいものです。質素で確かで優美な都が造りたい。末梢は後にせよ。市民にとつて、また殊に建築家にとつて、何といふ天啓に満ちた時機でせう。
 鉄腕ある者よ、出てくれ。


六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」」は、国会議事堂の建築(現在の議事堂は昭和11年(1936)の竣工ですが、それ以前に大正7年(1918)にコンペが行われました)についての内容を根幹としつつ、都市計画を論じた長い連載でした。一部、抜粋します。

 芸術の中で人間の心に一番影響を与へるものは建築であると思ふ。一番直接といふよりは一番手近と言ふ方がいいかも知れない。建築が恐ろしく因縁の深い感化を人間に与へるのは、建築が幼年少年の生活を支配して、外の芸術よりも早く人間の精神肉体に影響を及ぼすからである。

 国民の性格を天日の下に麗々と暴露してゐるのは建築である。倫敦、巴里、紐育其他いづこの市街乃至村落に足を踏み入れたとしても、いきなり観察者の心に襲ひかかつて来るのは其家屋の列の持つ不可言の気魄である。何の説明を聞くまでもなく、ははあ、と思ふ。

 建築の事を世人は今余り考へなさ過ぎる。自分たちの住んでゐる市町の街路に聳え立つ怪しげな建築にも眉を寄せず、喜ぶ可き建物にも感謝しない。そして其が次の時代を形づくる自分たちの子孫にどんな関係を持つかといふ事を心配しない。何をされても平気で、善いものも悪いものも無差別に受取つてゐる。東京の市街は今建築の百鬼夜行である。


明治末の欧米留学中に都市計画にも興味を持ち、ニューヨークではセントラルパークについてかなり研究した光太郎ならではの言ですね。ちなみに駒込林町の住居兼アトリエは光太郎自身の設計です。

さらに「美の立場から」。こちらも長い連載でしたので、一部抜粋。

 人は帝都の復興といふ。けれどもどんなものを復興しようといふのか。焼けて無くなつたものを取りかへして、其上この機会に多年の宿望であつた都市計画を遂行しようといふ。けれども其は一体どんな種類の都市を予想しての事であるか。都市の品格、傾向、風貌等に就てどんな好みを以ての事であるか。どんな性格の都市を実現させようと「欲」するのであるか。どんな統一をその都市性格の上におかうとするのであるか。ただ聯絡ある市街の集団であるに止まらせて満足しようとするのか。それとも是非ともミヤコを築造しようとすののであるか。この最初の覚悟によつて、今後の当事者と市民との責任も負担も忍耐も根本的の相違を来たすであらう。この覚悟を一定せしめておかなければ諸人の計画に対する態度、心構へに異同が出来て、無駄な水掛論が百出するに違ひない。

 東京は救はれなければならない。東京は健康な、正直な、清朗な、大丈夫な都にならなければならない。見かけ倒しと、無定見と、紛雑と、悪趣味と、お先走りとはもう沢山である。もうこりごりである。そしてあの無作法に四方に這ひ出す市街の集合に過ぎないものを其のまま復活される事は心苦しい。是非ともミヤコにした。日本の性格を立派に左右する「築造」されたミヤコにしたい。幾十年かかつても。幾遍壊されても。


これが100年前の文章なわけですが、100年経って、光太郎の至極まっとうな提言は果たして実現しているのでしょうか。そうでないと言わざるを得ないような気もしますが……。

ところで、散文以外に、震災直後の書簡等も調べてみました。すると、光太郎に智恵子を紹介してくれた画家の柳敬助夫人・八重に送った書簡が目に留まりました。やはり一部抜粋します。

 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。


柳は震災前の5月16日(まさに100年前の今日)に急逝。そしてその遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに光太郎のそれ(具体的な作品名は不明ですが)を含む賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

八重にとっては5月に夫を亡くし、さらにその遺作の多くも9月に失うという、踏んだり蹴ったりだったわけで、その心痛はいかばかりか、というところですね。

ちなみに無事だった柳の作品、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで「没後100年 柳敬助展」ということで多数展示中です。

さて、講演会「関東大震災と武者小路実篤」。オンラインでの聴講も可能です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例の大理石はあれから毎日仕事に掛り居り既に職人の手を離れて小生自ら鑿を取つて居ります

大正6年(1917)4月28日 図師尚武宛書簡より 光太郎35歳

図師尚武は実業家・図師民嘉の子息。「仕事」は図師に依頼された石彫です。「職人の手を離れて」は、元の石材から大まかな形を切り出すまでを石工にやってもらったということでしょう。

003この作品、仮題が「婦人像」。現存が確認できて居らず、写真だけ残っています。それから最晩年に光太郎が語った制作の経緯。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

どこかにひっそりと現存していてほしいものですが……。

都内から邦楽系の演奏会情報です。

東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 中目黒GTプラザホール 東京都目黒区上目黒2-1-3
時 間 : 14:00~ 17:00~
料 金 : 一般 4,000円 学生(小中高校生)1,000円 親子ペア券(一般+小中高校生)4,500円

邦楽と洋楽のコラボレーションコンサート。朗読付き作品やミニレクチャーコーナーもあります。

曲目
 三宅一徳:祝宴 組曲「竹取物語」より  F.シューベルト: アヴェ・マリア
 宮城道雄:春の海  平岡吟舟:猩々   琴古流本曲:巣鶴鈴慕
 中島はる:智恵子抄 人に 樹下の二人 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
 間・かけ声・所作:魅力の宝庫 邦楽囃子の世界 ゲスト島村聖香さんを迎えて
 宮田耕八:豊年太鼓

出演
牧原くみ子(箏)、寺井奈美(箏)、富緒清律(箏・三絃)、大江美恵(箏・17絃)
武松洋子(朗読)、芦垣皋盟(尺八)、野村浩子(ソプラノ)、金井由里子(ピアノ)
高橋章子(フルート) 【ゲスト】島村聖香(邦楽囃子)
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故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っています。

同曲、平成4年(1992)に初演が為されています。歌唱はテノールの森田澄夫氏、ピアノが渡辺一史氏、箏で砂崎知子氏、尺八に山本邦山氏というラインナップでした。当日のパンフレットには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のお言葉。
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作曲者、中島氏のお言葉も。
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当方、これは聴いたことがなく(上記パンフレットは北川先生から頂きました)、楽譜も未見です。どんな感じかぜひ聴いてみたいもので、日程的に都合がつけば拝聴に伺いたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今までこんなに全体の抱和した芸術を日本でみたことのない気がします、私はまだ詩について何事も公けに言はない時に居ますが後に詩の事について書く時、この集が実に重要なものである事を感じます。


大正6年(1917)3月(推定)『感情』第2年第4号所収書簡より 光太郎35歳

この集」は、萩原朔太郎の『月に吠える』。我が国の口語自由詩の確立における功績という意味では、光太郎の『道程』(大正3年=1914)と双璧を為すものですね。

そしてどちらかというと「述志」の詩篇で成り立つ『道程』、白秋系の芸術至上的な色合いの『月に吠える』と、ベクトルが異なる二つの巨峰がこの時期に相次いで上梓されたことは、非常に興味深いところです。

現代の仏師の方々などの作品展です。

第4回日本木彫刻協会展

期 日 : 2023年5月19日(金)~5月23日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園 1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

展示物 現代仏師・木彫刻作家による仏像・パネル・置物などの木彫刻 約30点
出展者 協会会員、準会員を中心とした、プロ及びプロを目指す木彫刻作家数名
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画像に使われている作品は、テノール歌手にして同会準会員の秋川雅史氏の作。一昨年の第105回二科展入選作です。

秋川氏、同会会長の関侊雲氏に師事なさり、木彫に取り組まれています。元々は光太郎の父・光雲の木彫に魅せられてのことだそうで、上記作品も光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻です。
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同作、先述の第105回二科展の他、昨年開催された秋川氏の個展にも出品されました。一昨年には『毎日新聞』さんで同作について語られています。

また、令和元年(2019)には、光雲作の木彫「寿老舞」を引っ提げて、テレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」にご出演。1,200万円という高額鑑定となりました。その後、同作は平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に貸し出されました。また、同展の図録には秋川氏と現代の作家さんたちの対談も収録されています。

会期が短いのが残念ですが、日程的に都合がつけば拝見に伺おうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう

大正6年(1917)3月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎35歳

「こんな所」は福島・いわき。大理石は石灰岩の一種で、関東や福島の山地でも産出します。注文のあった石彫の制作のため、大理石を入手する目的での旅でした。光太郎、生涯に何点か石彫作品も制作しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。

『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。

重文が語る 近代美術評価の変遷 東京国立近代美術館で51点展示

 全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
 明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
 本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
 会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
 岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
 5月14日まで。展示替えあり。

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4月25日(火)、『朝日新聞』さん。

なぜ重要文化財に? たどってみたら 東京国立近代美術館に51点集結 

 「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
 高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
 主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
 しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
 確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
 しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
 大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
 そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
 こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
 評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
 黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。

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今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。

会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
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「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。

評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。

彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。

それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。

言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。

今後の議論を待ちたいところです。

ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
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ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。

さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)


大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。

田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。

4月24日(月)、『毎日新聞』さんの滋賀県版に載った記事。

<名品手鑑Ⅱ(めいひんてかがみ2)> 滋賀の博物館・美術館探訪/62 醒井木彫美術館 森大造の多彩な作品群 今にも跳ねそうな「卯」 仏像、干支にちなむ動物信楽焼のレリーフまで/滋賀

 醒井木彫(さめがいもくちょう)美術館のそもそもの発端は、木彫の里出身の森大造(もりたいぞう)(1900~88)の遺作を里帰りして故郷に納める倉庫を探していたことに始まりました。木彫の里は醒井から3キロさかのぼった川筋に、田畑もなく山にかかわる暮らしをした、江戸末期より宮大工に始まる木彫が今日にも伝わるところです。たまたま醒井在住の岩嵜家が、倉庫ではなく木彫の里の現役・物故作家の作品も一緒に森大造の遺作と一般公開する美術館に、という展開が現実になりました。美術館正面の扉は、木彫の里現役作家による天女のレリーフ像でにぎわいます。
  世界の彫刻史はギリシャの代理石像と近世記念碑に見るブロンズ像の流れが主流で、木彫は天災人災で保存が難しく、幸い日本には仏像の形で寺院に多く残されました。木彫の里では、寺院建築の内外を飾る彫刻と仏壇の内陣に見る精緻な伝承の紋様を彫り続け、高村光雲(たかむらこううん)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に見る人形師系列のリアルな作風を踏襲しています。
 森大造はその流れをくみつつ創意を重ね、個性豊かな一刀彫りの表現による、多彩なモチーフの作品を制作しました。大別すると、祈りの造形である仏像、必ずしも古仏の再現ではなく図象学に基礎を置く昭和の仏像を、微笑薬師やにっこり地蔵など親しい仏像を心がけました。また日本独特の文化を探り、俳句に見る人間模様の造形、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)、蕪村(ぶそん)、特に奥の細道と題した美術館にある馬上の芭蕉像は定評の作品でした。一方で究極の動と静を窮めた能彫を、竹生島・小鍛冶・石橋・松風など極彩色のものも多く制作しました。
 最後に木彫を超えて、素材は多岐にわたり、展覧会制作による空間構成を意図した造形です。美術館裏にあるセメントの「楯(たて)」は、戦争中の制作で醒井小学校の国旗掲揚塔に設置されたものでした。なお、彦根城内金亀公園には井伊直弼(いいなおすけ)像、彦根駅前には初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)の馬上像、また米原市役所の屋外に見る壁面には信楽焼の陶によるレリーフの家族像が残ります。他に、醒井駅前には霊山三蔵(りょうせんさんぞう)像と居醒(いさめ)の清水には日本武尊(やまとたけるのみこと)の像も。木彫だけでなく造形家の顔も見ることができる作品群です。
 ここでは生活の場にみる動物、今年は干支(えと)の卯(う)年にあたり兎(うさぎ)を掲載しました。ただの兎ですが単純なものほど想をねる作業の繰り返しで、ふくよかでうずくまったポーズの次の瞬間はどこに跳ぶのか、静かな中に動きのある親しい作品です。来年の辰(たつ)は、唯一実在の動物ではなく雲から湧き上がった形になりました。
  森大造発想の原点は日常生活にあり、夜寝ている時と健康を害して臥(ふ)せている時以外は彫刻が頭から離れず、正に彫刻することしか能のない、大は屋外に見る銅像から小は白檀(びゃくだん)の切れ端で女性と子供の装身具までと、一貫した彫刻人生でした。材木屋さんが建築材にならず誰も使わない木材を運び込むと、その中に何かを発想して彫り出すことを楽しみました。神代檜(じんだいひのき)というボソボソの木材で霊山三蔵を、美術館にもレリーフ状の彫刻が二、三収まりました。
 動きも音もなく、昨今のテレビや動画にみるにぎやかで騒々しい趣向から遠く離れて、清流のほとりにある静謐(せいひつ)を極めたたたずまい。そこに、名もなくお金もなくひたすら木を彫り続けた大造さんの作品に囲まれて、こよない平和な時を過ごすことができる空間になりました。

一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
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森と光太郎の関わり、その一。

昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
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こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。

森と光太郎の関わり、その二。

光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
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しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。

当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。

それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。

昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
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境内左手の森の中に観音堂。
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扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
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かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。

どちらもいいお顔をしていますね。

ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
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面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。

というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。


大正5年(1916)8月25日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。

映画の上映情報です。

昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻 智恵子抄

期 日 : 2023年5月14日(日) 5月18日(木)~5月23日(火)
会 場 : ラピュタ阿佐ヶ谷 東京都杉並区阿佐谷北2-12-21 ラピュタビル
時 間 : 朝10時30分より1回のみ上映 
料 金 : 一般 1,300円 / シニア・学生 1,100円 / 会員 900円
      水曜サービスデー 1,100円均一
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智恵子抄 1967年(S42)/松竹/カラー/125分
 監督・脚本:中村登  原作:高村光太郎、佐藤春夫  脚本:広瀬襄
 撮影:竹村博     美術:浜田辰雄        音楽:佐藤勝
 出演:丹波哲郎、平幹二朗、中山仁、南田洋子、岡田英次、佐々木孝丸

原作は高村光太郎の詩集『智恵子抄』と佐藤春夫の『小説智恵子抄』。岩下志麻が光太郎の妻・智恵子に扮し、出逢いから結婚、発狂から死までを中村登監督の叙情的演出に包まれ好演、代表作の一つとした。
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昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」。光太郎役が故・丹波哲郎さん、智恵子は岩下志麻さんが演じられました。

やはり映画版は、東宝さんで昭和32年(1957)に故・原節子さんと故・山村聰さんで制作され、そちらはVHSビデオが販売、この手の上映会にかかる回数も松竹版より多くあります。
東宝映画智恵子抄
その点、この松竹版は市販の映像ソフト化がされておらず、上映される回数もそう多くありません。ご覧になったことのない方(ある方も)、この機会をお見逃しなく。

ちなみに「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」自体は先月から始まっており、既に上映が終了したものを含め、ラインナップは以下の通りとなっています。

わが恋の旅路 / 山の讃歌 燃ゆる若者たち / 100万人の娘たち / あねといもうと / 素敵な今晩わ / 暖流 / 智恵子抄 / あかね雲 / 女の一生 / 日も月も / 婉という女 / 心中天網島

【折々のことば・光太郎】

荻原君の胸像は僕が同君に対する敬愛のしるしとして是非とも(御依頼の有無に拘らず)作る意志を持つて居て先年来種々研究いたして居るのですが最近になつて どうもまだ今の僕の想像力の強さでは十分に頭の中にある荻原君を構成する事が出来兼ねるといふ事を確実に知りました


大正5年(1916)2月20日 山本安曇宛書簡より 光太郎34歳

「荻原君」は明治43年(1910)に亡くなった親友・荻原守衛、山本安曇は守衛と同郷の鋳金家で、光太郎実弟の豊周とともに、守衛絶作の「女」の鋳造を手がけました。

この年は守衛七回忌に当たり、浅草橋で帽子商を営んでいた守衛実兄の本十から、光太郎に守衛胸像の制作が依頼されていました。しかし光太郎、今の自分の実力では、モチーフがモチーフだけに不可能、というわけです。謙虚といえば謙虚ですが……。

結局この後も、光太郎による守衛胸像の制作は実現しませんでした。残念です。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

演奏会情報です。2月に横浜と広島で公演をなさった「藤木大地&みなとみらいクインテット」の皆さんが、新潟と奈良で。

まずは新潟。

りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月3日(水・祝)
会 場 : りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 新潟市中央区一番堀通町3-2
時 間 : 14:00~ 
料 金 : S : 4,500円 A : 3,500円

日本が世界に誇る国際的カウンターテナーの藤木大地と5人の名手による珠玉の室内楽コンサート 唯一無二の歌声を持つカウンターテナーの藤木大地が名手5人と共に創り上げる極上の時間

りゅーとぴあには2018年「りゅーとぴあ・オルガン・リサイタルシリーズNo.25」のゲスト出演以来の登場となる藤木大地。完璧にコントロールされた柔らかな美声と表現力に魅了された方も多くいらっしゃることでしょう。今回は往古来今、その歌声の魅力を余すことなく味わえる贅沢なプログラム。各界で活躍中の個性あふれる名ソリストたちが放つ輝かしい音色と、丁々発止のやり取りが楽しめる特別なアンサンブルは必聴必見です。この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-23」に就任した藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトの第一弾として開催します(他、神奈川県横浜市・横須賀市、奈良県大和高田市、広島県三原市、福岡県福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲より 第3楽章(ショスタコーヴィチ)
 お客を招くのが好き(J.シュトラウス2世)
 アヴェ・マリア(マスカーニ)
 ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
 魔王(シューベルト)
 私はこの世に忘れられた(マーラー)
 鎮められたあこがれ(ブラームス)
 ピアノ五重奏曲より 第4楽章(シューマン)
 静かな真昼(ヴォーン=ウィリアムズ)
 ネッラ・ファンタジア(モリコーネ)
 ヤンキー・ドゥードゥル(ヴュータン)
 レモン哀歌(加藤昌則)
 鴎(木下牧子)
 瑠璃色の地球(平井夏美)
 いのちの歌(村松崇継)

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 山根一仁(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 遠藤真理(チェロ) 松本和将(ピアノ)
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続いて、奈良。

ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 大和高田さざんかホール 奈良県大和高田市本郷町6-36
時 間 : 15:00~
料 金 : 一般3,000円 高校生以下500円(当日各500円増)

初夏の大和路に響く 奇跡の歌声と心に染み入る極上のハーモニー
唯一無二の歌声を持つカウンター藤木大地が、今望みうる最高のクインテットと共に再びさざんかホールに登場! この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023」を務める藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトとして開催します(当館他、神奈川県横浜市・横須賀市、新潟市、広島県三原市、福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲 第3楽章 / ブラームス
 アデライーデ / ベートーヴェン
 魔王 / シューベルト
 リディア / フォーレ
 愛の讃歌 / モノ―
 静かな真昼 / ヴォーン=ウィリアムズ
 遠く、遠く、お互いから / ブリッジ
 ピアノ五重奏曲 第4楽章 / ショスタコーヴィチ
 I Dreamed a Dream / レ・ミゼラブル
 サンクタ・マリア / 加藤昌則
 アメリカの思い出 「ヤンキー・ドゥードゥル」Op.17 / ヴュータン
 レモン哀歌 / 加藤昌則
 鷗 / 木下牧子
 いのちの歌 / 村松崇継
 満ち足れる安らい、うれしき魂の悦びよ / バッハ

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 周防亮介(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 上村文乃(チェロ) 加藤昌則(ピアノ)
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新潟公演と奈良公演で、プログラムがだいぶ異なっていますが、双方に加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が入っています。光太郎詩句を反映し、切なくも爽やかな印象の曲です。また奈良公演では加藤氏がピアノ担当です。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来ました。葉書も見ました。山では少しは画いた。まだ荷をといたばかり、東京の様子更にわからず。会ひたいと思つて居るから二三日うちに行くかも知れない。山の画でみてもらひたいのもある。 いろんな話すことがどつさりある様だ。


大正2年(1913)10月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎31歳

002」は智恵子と過ごし、結婚の約束を果たした信州上高地。「いろんな話すことがどつさりある」のは「智恵子がらみでしょうか。

少しは画いた」のは油絵。10月12日から神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開催された生活社主催油絵展覧会に、上高地での油絵21点と彫刻1点、素描3点が出品されました。

油絵21点のうちの1枚の現存が確認できており、時折、光太郎展などに出ます。この1枚のみ、葉舟が入手し、現在は某美術館に寄託されているはずです。

他は生活社展のパンフレットにモノクロの画像が載っているものが2点、それ以外はどんなものか不明ですし、現存が確認できていません。何処かからひょっこり出てこないかな、と思っているのですが……。

生活社は、前年に結成されたフユウザン会が早くも方針の相違から分裂し、光太郎、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一の四人で興したグループです。

4月23日(日)の朝、前日行われた第113回碌山忌のため訪れていた信州を後に、千葉の自宅兼事務所へ向かいました。その帰り道、都内で高速を下り、連翹忌の集い会場の日比谷松本楼さん地下にある駐車場に車を置いて、銀座まで歩きました。

目指すは五丁目の大黒屋さん。こちらの6・7階ギャラリーで開催されていた染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」最終日でした。
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五月のウナ電」は、昭和7年(1932)、雑誌『スバル』に発表された詩で、当時の電報のスタイルを使って書かれています。
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ヘラクレス座の電報局から地球の鳥獣草木に届いた電報という設定で、差出人はヘラクレス神なのでしょうか。初夏5月、それぞれの生命を謳歌せよ、的な文面です。

一見、のどかな詩に見えますが、この詩の書かれた当時の光太郎、大変な時期でした。前年あたりから智恵子の心の病が誰の目にも明らかになり、この詩の書かれた直後には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂を起こします。また、世相も風雲急。やはり前年には柳条湖事件、満州事変、この年に入ると上海事変、血盟団事件、傀儡国家の満州国建国、そして五・一五事件。翌年には日本が国際連盟から脱退、ドイツではナチス政権樹立……。

志村ふくみ氏による詩の解説がこちら。
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ふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)には、この詩に強く惹かれ、和紙を貼ったパネルに詩を写し、裂を貼ってみたお話や、詩の解釈等をめぐって交わされた、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とのやりとりなどが詳しく語られていますし、智恵子の心の病や世相などにも触れられています。

そのパネルが会場内に展示されていました。許可を頂いて撮影。
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照明の関係で、横に縞模様のように線が走っていますが、実際の作品にはこうしたむらはありません。

また、今回の展示に合わせて新たに作られた複製パネルも。
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文字の部分は印刷だそうですが、貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

こちらを和綴じの装幀で製本したもの。
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それぞれオンデマンドで販売されているそうで。
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また、会場内には、お弟子さんたちの遊び心あふれる「ウナ電」。
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この現物を1枚、戴いてしまいました。多謝。
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やはり貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

その他、着物や小物、大小様々な裂などの展示。実に見応えがありました。

ふくみ氏は東京会場にはいらしていませんでしたが、令嬢の洋子氏、令孫にしてアトリエシムラさん代表取締役の昌司氏、お弟子さんたちと、しばしお話をさせて戴きました。単なる光太郎ファンの当方が予想外に歓待されてしまい、戸惑いつつも(笑)。

ところで、染織工芸と光太郎智恵子、浅からぬ縁があります。

油絵制作に自信が持てず断念した智恵子は、機織りや草木染めにも挑戦し、光太郎ともども、「草木染」の命名者でもある染織工芸家・山崎斌(あきら)と交流がありました。昭和13年(1938)に智恵子が歿した際、山崎は光太郎に弔電を送っています。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ
(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)

ある種、奇抜ともいえる柄の着物を着て歩いていた智恵子の追憶です。

再び山崎曰く「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」。

また、「草木染」といえば、イギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン。戦前に智恵子がメレの個展で見て欲しがり、東京と花巻、二度の戦災をくぐり抜けて奇跡的に残ったものです。これを通して光太郎は岩手のホームスパンの祖・及川全三とも親しくなりました。
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当方、そのあたりは詳しくないのですが、山崎、及川、エセル・メレ、志村ふくみ氏、それぞれ何処かで繋がっているのではないでしょうか。そんなことを考えつつ、花巻高村光太郎記念館でも「五月のウナ電」展ができれば面白いな、などと思った次第です。

さて、同展、東京展示は会期終了ですが、来月、京都での展示があります。会場は岡崎のものがらさん。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

きのふ青踏の講演会にいつてみました。母と妹をひつぱつてゆきました。 あまり外形にかゝづらはつた議論ばかり多くて何にもなりませんでした。


大正2年(1913)2月16日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎31歳

前年からこの年にかけ、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』(光太郎、「青踏」と誤記しています(笑))発行元の平塚らいてう率いる青鞜社の講演会。東京基督教青年会館で開催された「青鞜社第一回公開講演会」ですが、何と1,000人もの聴衆が詰めかけたとのこと。演壇に立ったのは、らいてう、生田長江、岩野泡鳴、馬場孤蝶、岩野清子、そして伊藤野枝(ちなみに村山由佳氏による野枝の評伝小説『風よ あらしよ』、集英社さんが文庫化なさいました。光太郎智恵子も登場します。お買い求め下さい)。

母と妹をひつぱつて」行ったのは、青鞜社の予告で、野次馬的な男性を排除するため、必ず女子同伴で来るよう指示されていたためです。智恵子はまだ新潟旅行中だったのかもしれません。

それにしても光太郎の評、手厳しいものですね。

4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

展覧会情報、2件ご紹介します。

まずは今日開幕、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて

期 日 : 2023年4月22日(土)~6月11日(日)
会 場 : サンリツ服部美術館 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人1,100(1,000)円 小中学生400(350)円
      ( )は団体20名様以上の料金

 この度サンリツ服部美術館では、明治期から昭和期の画家たちの作品を、木彫や陶磁器などの立体作品も交えながらご紹介します。
 明治期に本格的に欧米の国々と接するようになった日本では、海外からもたらされた新しい制度や文化にふれ、政治や産業など様々な分野で近代化が進みました。芸術の分野でも、絵画などを学ぶための美術学校が開校され、さらに政府主催の公募展も開かれるようになります。芸術家たちは互いに対抗したり協調したりしながら、新しい時代の息吹のなかで活発に制作を行うようになったのです。
 大正期から昭和初期にかけて、個性や自由を尊ぶ風潮が強まりましたが、東洋の古典的な作品に立ち返り、理想美を追いもとめて創作に取り入れる画家があらわれたのもこの時期です。 
 彼ら芸術家たちが、自分の生きる時代にふさわしい美術をもとめて作り出した多彩な作品をお楽しみください。

主な出品作品
・山元春挙 《若竹図》 明治から昭和期 20世紀
・橋本雅邦 《蓬莱山》 明治期 19から20世紀
・竹内栖鳳 《梅園日暖》 大正から昭和期 20世紀
・伊藤小坡 《虫売図》 昭和期 20世紀
・川合玉堂 《田家早春》 明治から昭和期 20世紀
・横山大観 《蘭図扇子》 明治から昭和期 20世紀
・富本憲吉 《白磁壺》 1936(昭和11)年
・奥村土牛 《スペインの壺》 昭和期 20世紀
・小倉遊亀 《枝椿》 大正から昭和期 20世紀
・岸田劉生 《蕪》 1926(大正15)年         
・高村光雲 《端午(鍾馗像)》 1894(明治27)年 ほか
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サンリツ服部美術館さん、セイコーグループの服部一郎氏のコレクションを元にした美術館です。

光雲の「鍾馗像」は平成30年(2018)に同館で催された「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」展にも出品され、拝見して参りました。
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工房作か、光雲単独制作か不分明ですが、なかなかの佳品でした。

もう1件、既に始まっていますが岡山から。

リニューアルオープン記念 所蔵名品展「平櫛田中美術館の精華ー平櫛田中全館展示ー」

期 日 : 2023年4月18日(火)~7月9日(日)
会 場 : 井原市立平櫛田中美術館 岡山県井原市井原町315
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 500円(15人以上の団体400円)
      高校生以下、市内在住の65歳以上、身体障害者手帳等をお持ちの方は無料

 井原市出身の彫刻家・平櫛田中が故郷のために寄贈した作品をコレクションの基盤とし、昭和44年に開館した当館は令和5年4月18日にリニューアルオープンします。
 リニューアル後第1弾の展覧会では、リニューアルオープンを記念して、当館の1,000点を超えるコレクションの中から選りすぐりの平櫛田中作品を一堂に展示します。平櫛田中(1872-1969)は、現在の井原市西江原町に生まれ、大阪で人形師・中谷省古に師事しました。その後、上京した田中は、彫刻家・高村光雲の門戸を叩き、彫刻家の道を歩み始めます。日本に近代化の波が押し寄せる中、日本美術の再興を目指す岡倉天心の感化も受けながら近代と伝統が融合した独自の芸術表現を探求します。
 当館のコレクションの中でも人気の高い《試作鏡獅子》や《幼児狗張子》など展示総数約90点の作品を、新たに生まれ変わった展示室で存分にお楽しみください。
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光雲や光太郎の作品が出ているわけではなさそうなのですが、光雲高弟の一人ということで、ご紹介しておきます。

一昨年からリニューアル工事が始まり、2年がかりでとうとう落成したか、という感じですね。当方、10年前に同館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の際にお邪魔しました。どんな感じに建て替わったのか、気になるところです。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お姉様からもしばらくお消息がありませんので心配して居りますがやはりご無事なのでせうね


大正2年(1913)1月16日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

セキは智恵子のすぐ下の妹です。

智恵子はこの月から翌月にかけ、日本女子大学校での後輩・旗野スミの実家(新潟県東蒲原郡三川村)に逗留していました。スミの姉・ヤヱが智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続いていました。ここで智恵子は、日本に伝わってまだ間もないスキーに興じたりしていたそうです。

神戸から演奏会情報です。

合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~

期 日 : 2023年4月23日(日)
会 場 : 神戸文化ホール 大ホール 兵庫県神戸市中央区楠町4-2-2
時 間 : 14:00開演
料 金 : [全席指定]一般:2,000円 U25(25歳以下):500円

プログラム
 2023年度NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2023)課題曲
  ♪ 小学校の部「緑の虎」 廣嶋玲子 詞/村松崇継 曲
  ♪ 中学校の部「Chessboard」 Official髭男dism 制作/横山潤子 編曲
  ♪ 高等学校の部「鳥よ空へ」 劇団ひとり 詞/信長貴富 曲

 2023年度全日本合唱コンクール 課題曲より
  ♪ 花々と木々(「光に寄す」から)サンサーンス 詩・曲
  ♪ Ⅰ―空と涙について― (「恋の色彩」から)古今和歌集より/田畠佑一 曲
  ♪ Salut, Dame Sainte(「アッシジの聖フランチェスコの四つの小さな祈り」から)
    プーランク曲
  ♪ 街路灯(「街路灯」から)北岡淳子 詩/三善晃 曲
 藤木大地独唱ステージ
  ♪ シャガールと木の葉(2022委嘱初演)木下牧子 曲/谷川俊太郎 詩
  ♪ 日々草 加羽沢美濃 曲/星野富弘 詩
  ♪ ぼくが死んでも 信長貴富 曲/寺山修司 詩
  ♪ レモン哀歌 加藤昌則 曲/高村光太郎 詩
 過去のNHK全国学校音楽コンクールより
  ♪ 気球に乗ってどこまでも(1974年度)東龍男 詩 平吉毅州 曲
  ♪ 生きる(1995年度)谷川俊太郎 詩 新実徳英 曲
  ♪ 手紙  ~拝啓 十五の君へ~(2008年度)アンジェラ・アキ  詩・曲
  ♪ ひとつの朝(1978年度)片岡輝 詩 平吉毅州 曲

出演
 指揮・ピアノ 佐藤正浩   ゲスト 藤木大地(カウンターテナー)
 合唱 神戸市混声合唱団
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合唱の二大コンクール、Nコン(NHK全国学校音楽コンクール)と、全日本合唱連盟さん主催の全日本合唱コンクール、それぞれの今年の課題曲が演奏されるコンサートです。

それだけでなく、ゲストにカウンターテナーの藤木大地氏を迎え、独唱のステージも。その中で、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が演奏される予定です。

藤木氏、同じ「レモン哀歌」を、横浜と広島で開催された演奏会「藤木大地&みなとみらいクインテットコンサート」で歌われましたし、同コンサートは来月、新潟市民芸術文化会館さん、奈良県大和高田市さざんかホールさんでも開催予定で、「レモン哀歌」も予定曲目に入っています。詳細は追ってご紹介します。

加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」は、バリトンの宮本益光氏の歌唱で、何度かコンサートで演奏されたりCDに収録されたりもしています。

ちなみに今回の会場は神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工で、外壁には智恵子紙絵をあしらった神戸市民の花・紫陽花の巨大壁画が。そのホールで「レモン哀歌」。いいですね。
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ところで、全日本合唱コンクール課題曲のうちの一曲が三善晃氏作曲の女声三部「街路灯」。作詞者が北岡淳子氏で、「ありゃま」と思いました。北岡氏、日本詩人クラブさんの会長を務められていて、昨年行われた同会12月例会では当方が「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」と題して講演をさせていただき、非常にお世話になりました。また、過日の第67回連翹の集いにもご出席下さっています。

音楽方面でも光太郎、さらにいろいろと取り上げ続けていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

気候のよろしき為めか彫刻の感興抑へがたくいつぞやちよつと御覧に入れたるお姉様の肖像をいぢり始めてつひ半日又半日と重なりて意外の我儘をいたしあなたの御心配のほどに今日思ひ及びまことに恐縮 ひたすら恥ぢ入り候


大正元年(1912) 3日(年代推定 月不詳) 
長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子のすぐ下の妹。したがって「お姉様の肖像」は智恵子像です。光太郎、複数の智恵子像を制作しましたが、残念ながら、すべて現存が確認できていません。例外は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ですが、純粋に「智恵子像」というわけでもありません。

写真だけ残されている智恵子像、左は大正5年(1916)、右は昭和2年(1927)です。
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昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。

見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】

 花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
 研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
 参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
 このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
 研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
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毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。

新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。

続いて『上毛新聞』さん。

《ぐんまヒストリー》赤城山 信仰の山が人気行楽地に

 季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
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 富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
 当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
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 大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
 戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
 大沼にはスケート場が最大8面作られ、団体客でにぎわった。夏はカップルが湖面にボートを浮かべ、氷室に保管しておいた大沼の氷で作ったかき氷も好評だったという。
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 スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
 入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
 赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。

歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
 大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
 県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
 釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。

上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。

昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。

明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。

平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
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どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね


大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生木村荘八斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。

都内のホテル2軒の実にユニークな宿泊プランです。

浅草で東京発祥のお菓子「たい焼き」作りの体験はいかがですか。

 江戸時代、神田今川橋付近(現在の東京都千代田区鍛冶町)で売り出されていた「今川焼」をルーツに持つ「たい焼き」は、東京発祥のお菓子と言われています(諸説あります)。江戸時代から、その場で食べられる庶民のおやつは大変人気があり、明治時代に作られた「たい焼き」もその流れの一つとして好まれていました。泉鏡花や高村光太郎などの多くの文豪が作品の中に登場させています。また、当時の俳句や新聞記事にも「たい焼き」の記述があります。

 鯛の焼き型になったのは、大阪から東京にやってきて商売を始めた神戸清次郎が、お店の今川焼きが売れないことに悩み、試行錯誤ののち、お祝いごとの時に食べられる縁起物の「鯛」(めでたい)の形にすると飛ぶように売れ、そこから「たい焼き」として広まったと言われています。

 東京下町にある「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」では、「浅草たい焼き工房求楽(ぐらく)」とのコラボレーションプラン「浅草でたい焼きづくり体験プラン」をご用意しております。求楽では、業務用のたい焼き機材を使って、生地から手作りする本格的なたい焼き作りを体験していただけます。

 エプロンや必要な材料はお店で用意してくれるので手ぶらでOK。「たい焼き」に使用する具材を持ち込むこともできますので、自分だけのオリジナル「たい焼き」を作って楽しむこともできます。ぜひこの機会に、食べるだけでなく「たい焼き」作りを体験してみてはいかがですか。「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」は、東京下町の浅草など、東京観光に最適なホテルです。「たい焼き」体験の他にも、浅草ならではの体験プランもたくさん!東京旅行の拠点として、ぜひご利用ください。
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【浅草×体験】浅草でたい焼きづくり体験プラン(朝食ビュッフェ付き)
ホテルグレイスリー浅草 東京都台東区雷門2丁目10番2号
雷門から徒歩1~2分に位置し、都営浅草線浅草駅にも徒歩約3分と、国内外のお客様の観光・レジャーの拠点として最適な立地です。客室面積はダブルルーム約18㎡、ツインルーム約24㎡となり、「独立型バスルーム」を全室(※ユニバーサルツインルームを除く)に導入し、お客様にゆったりとお寛ぎいただける時間をご提供いたします。
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気分は和菓子職人!? たい焼き体験プラン >゜)))彡
ホテルタビノス浅草 東京都台東区浅草2丁目18番8号
“MANGA(マンガ)”の世界に 飛び込んだような気分になれるユニークなゲストルームがあなたの旅に彩りを添えます。ホテルタビノス浅草は、浅草のランドマークの「雷門」「浅草寺」「花やしき」へも徒歩圏内にあり、浅草観光にぴったりな立地です。
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たい焼き制作体験のついた宿泊プラン。それだけならこのブログでご紹介しませんが、光太郎の名を出されてしまっては、取り上げないわけには参りません(笑)。

光太郎作品でたい焼きが登場するのは、「智恵子抄」にも収められた詩「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)。

   美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

ことは木彫作品の売買に関わります。大正末から取り組み始めた「蟬」や「鯰」などの木彫。父・光雲から受け継いだ伝統的な技法に、ロダンなどから学んだ西洋彫塑のエッセンスを盛り込んだまったく新しい作風で、世間からは好評を以て受け入れられました。ただし、光雲のように彫って彫って彫りまくるということはせず(「出来ず」というべきでしょうか)、同一のモチーフを彫るにしてもそれぞれに形を変え、あくまで自分で納得のいくものだけ作品として世に出す、というスタンスでした。

しかし、光太郎の木彫作品を購入できるのは、プロレタリア・アナーキズム詩人たちに近い位置にいた当時の光太郎が嫌っていた富裕層が多く、そしてそれらの人々は掌中の宝として仕舞い込みます。そのあたりが「所有は隔離」、「美の監禁」というわけです。中には光太郎作品の真の価値が解って買っているのかどうかあやしいと思われる人物も含まれていたのではないでしょうか。そうかと言って、作品を売らなければ生計が立たないわけで、「美の監禁に手渡」さざるを得ないのです。

智恵子も光太郎木彫をこよなく愛し、懐に入れて持ち歩いたこともあったそうです。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、「又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。」とあります。数ある木彫のうちのどの作品、というのは書かれていません。従って、エラいセンセイの「論文」などで具体的な作品名を出し、これを智恵子が懐に入れて愛した、的な記述をよく見かけますが、全て想像です。

そして光太郎、詩「美の監禁に手渡す者」の舞台設定は、智恵子が懐に入れて持ち歩いた木彫を売りに行った帰りなのでしょうか、代わりに自分の懐に入っているのは、その代金で買った「鯛焼」。そう考えると、甘い甘い鯛焼きも、光太郎にとってはほろ苦い味なわけです。と、まぁ、これも想像ですが(笑)。

何はともあれ、「たい焼き」作りの体験つき宿泊プラン、スイーツ好きの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

海が荒れて居る 銚子にて


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼の暁鶏館に泊まり、絵を描きに来た光太郎。それを追って智恵子も現れます。
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この葉書が書かれたのは、智恵子が来る前なのか、来た後なのか、判然としませんが、後だとすると、もはや智恵子への思いは抑えきれぬ、荒れた太平洋の波濤のようだ、という意味にも取れますね。

まずは昨日の『福井新聞』さん。

【論説】津村さん原稿、県に寄贈 代表作が持つ圧倒的な力

 福井市出身の芥川賞作家で文化功労者の津村節子さん(94)の製本手書き原稿6点が福井県ふるさと文学館に寄贈された。自伝的小説、伝記小説、歴史小説と多岐にわたり、いずれも代表作。文学賞受賞作も含まれる。万年筆の手書きには力があり、推敲(すいこう)の様子が手に取るように分かる。加筆修正が重ねられた原稿は、作家が世に問おうとした思いの結実であり気迫が伝わってくる。
 6点は、高村智恵子の伝記小説で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「智恵子飛ぶ」、戊辰戦争を会津藩士の娘の視点から描いた歴史小説で女流文学賞受賞の「流星雨」、自伝的小説3部作の「茜色の戦記」「星祭りの町」「瑠璃色の石」と、八丈島に流刑された遊女を描いた歴史小説「黒い潮」。県ふるさと文学館で開催中の「新収蔵 津村節子展~津村節子という生き方~」(~6月4日)で公開。2015年の同館開館記念特別展に寄せた自筆原稿はじめ約120点の資料が並ぶ。
 「智恵子飛ぶ」は、画家として活躍した智恵子が彫刻家・高村光太郎と出会い、結婚後は夫の圧倒的な才能に押しつぶされていく芸術家夫婦の葛藤を描いた。吉村昭さん(1927~2006年)と夫婦作家であった津村さんは、光太郎という天才と暮らす智恵子の心情を推し量ることができたのだろう。夫というライバルに対して智恵子が抱えた羨望(せんぼう)や屈辱といった感情のせめぎ合いが圧倒的な熱量をもって表現される。自筆原稿はほぼ全編を通して加筆修正され、智恵子が死に向かう終盤はより修正が多くなる。物語をどう結ぶか、津村さんが考え抜いた様子がうかがえる。
 津村さんにはふるさと5部作といわれる福井の女性を主人公にした作品「炎の舞い」「遅咲きの梅」「白百合の崖」「花がたみ」「絹扇」がある。「遅咲きの梅」と「花がたみ」(越前市所蔵)以外は、県が自筆原稿を所蔵。ふるさとを丹念に取材した5部作を津村文学として親しんでいる県民は多いだろう。代表作の自筆原稿が県に寄贈されたのを機に、改めて6作品に向き合いたい。
 半世紀以上、第一線で執筆を続ける津村さんは非常に限られた作家だ。20代のころから作家を「いのちをかける仕事」と語ってきた。6作品はどれも、懸命に生きる女性の姿に光を当てている。心の内を丁寧にすくい上げた物語は強い力を持って読み手を引きつける。津村さんが命をかけて世に出した作品世界をいま一度味わいたい。

福井県ふるさと文学館さんに、『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)のそれを含む津村氏自筆原稿等が寄贈され、展示されているとのこと。まったく存じませんで、調べてみましたところ、先月から始まっていました。

コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方

期 日 : 2023年3月1日(水)~6月4日(日)
会 場 : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日 4月11日(火)~4月14日(金) 5月25日(木)
料 金 : 無料

 津村節子は、1928年福井市に生まれました。1965年に小説「玩具」で芥川賞受賞を機に福井を訪れた津村は、『花がたみ』『絹扇』などで故郷・福井の女性を描きました。その後も、夫の死と向き合った『紅梅』で2011年に菊池寛賞を受賞。2016年には文化功労者に顕彰されています。
 このたび、当館は、津村節子氏の代表作である『流星雨』(女流文学賞受賞作)や『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞受賞作)など自筆原稿6点をご寄贈いただきました。本展では、新収蔵資料を中心に、半世紀以上にわたり、書くことに向き合い続ける作家・津村節子の軌跡と作品世界に迫ります。
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『智恵子飛ぶ』の原稿、複製は荒川区の吉村昭記念文学館さんでの「津村節子展 生きること、書くこと」、三鷹図書館さんでの「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展でそれぞれ拝見しましたが、複製でない現物が寄贈され、展示されているのですね。

その他、『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞に輝いた際の賞状、二本松市教育委員会さんご提供の智恵子関連のパネル、津村氏旧蔵の光太郎複製原稿なども展示されています。

以前にも書きましたが、故・吉村昭氏との夫婦ご同業ということで、光太郎智恵子夫婦にも通じる余人には伺い知れぬご苦労がいろいろおありで、そのあたりが『智恵子飛ぶ』にも反映されています。

お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

建築は来月の初旬には出来相だ。君の旅行以前に今度の家で一緒に「めし」でも喰ひたいと思つてゐる。今度の家は僕の生活上に一線を画す筈だと思ふ。愈々一人の生活が始められると思つてゐる。


明治45年(1912)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でも触れましたが、「建築」は駒込林町25番地の住居兼アトリエ。光太郎自身の設計です。ここに移るまでは、指呼の距離にある実家の庭にあった祖父の隠居所を改装してアトリエとしていました。前年12月に智恵子と初めて会ったのもこちらです。

愈々一人の生活が始められる」とありますが、明治43年(1910)末から翌年にかけ、2ヶ月ほど日本橋浜町の松葉館という下宿屋に居たので、その際は独り暮らしだったはずです。ただ、当時の下宿屋では食事は自室で摂るのではなく、下宿人が座敷で一堂に会して饗されるというスタイルのところが多かったため、その意味では純粋な独り暮らしとは言えなかったということでしょうか。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
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戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

大阪から演奏会情報です。

Raffiné 春の音楽祭 in Osaka~心に響く名曲の調べ~

期 日 : 2023年4月5日(水)
会 場 : 豊中市立文化芸術センター小ホール 大阪府豊中市曽根東町3-7-2
時 間 : 18:30開演
料 金 : 全席自由 2,800円

出演/曲目 :
 八幡 達<ヴァイオリン> ピアノ:林 典子
  C.サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 作品61 より 第1楽章
  F.クライスラー:プレリュードとアレグロ
 永井樹奈<フルート> ピアノ:仲本和香奈
  尾高尚忠:フルート協奏曲 より 第2、第3楽章
 宮口 愛<ピアノ>
  F.リスト:メフィスト・ワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」S.514
 中尾千聡<ピアノ>
  F.ショパン:ノクターン第2番  平井康三郎:幻想曲「さくらさくら」
 板谷優希奈<ピアノ>
  マルグリット・モノー:愛の讃歌  F.リスト:愛の夢 第3番
  ピアノDuo ~Largo~ (中村明日香 & 山田華子)
  W.A.モーツァルト:オペラ「フィガロの結婚」序曲
  W.A.モーツァルト:恋とはどんなものかしら
 宇田津典子<ピアノ>
  F.ショパン:スケルツォ 第2番 変ロ短調 op.31
  R.シューマン – F.リスト:『リートによる15のピアノ小品集』より “献呈” op.25-1
 北野由紀子<ピアノ>
  北野由紀子:咲来羅(さくら)
 宮尾壽里子<朗読> ピアノ:Yoshi
  高村光太郎(翻案・構成/宮尾壽里子)「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」
  挿入曲/
カッチーニ「アベ・マリア」
 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> ピアノ:尾崎克典
  中田喜直:ひなの日は たんぽぽ  G.ロッシーニ:もしも粉屋の娘をお望みなら
  G.ロッシーニ:オペラ「セビリアの理髪師」より “今の歌声は”
  P.チマ-ラ:郷愁 海の歌  O.レスピーギ:バッラ-タ 最後の陶酔
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌  S.カルディッロ:つれない心(カタリ・カタリ)
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌(マッティナータ)
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詩人で朗読もなさっている宮尾壽里子氏による「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」がプログラムに入っています。哀愁漂う伝・カッチーニのアヴェ・マリアをピアノで弾かれるのは息子さんですね。

宮尾氏はかなり以前から「智恵子抄」系の朗読等に取り組まれており、最近ですと、昨年4月に都内荒川区の日暮里サニーホールさんで開催された「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」が入っていて拝聴にうかがいましたし、12月に都内早稲田奉仕園さんで行われた「日本詩人クラブ2022年12月例会」では、詩人の方々が光太郎智恵子等に扮し、朗読ドラマとして上演されました。

宮尾氏、明日の第67回連翹忌にもご参加下さり、その後すぐに大阪での公演と、お忙しいスケジュールのようです。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい秋になりましたね。写生が出来ますか。マロニエーの並木が目先にちらつく。

明治44年(1911)11月5日 津田青楓宛書簡より 光太郎29歳

津田青楓は留学仲間の画家。したがって、「マロニエーの並木」はパリでしょう。

翌月には、やはり留学仲間だった画家の柳敬助と、その夫人で日本女子大学校での智恵子の先輩・八重のとりなしにより、光太郎智恵子が運命の出会いを果たします。

紹介すべき事項が多く、美術展関連で2件まとめて。

まずはテレビ放映情報。竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が大きく取り上げられます。

日曜美術館 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月2日(日) 09:00〜09:45  再放送 4月23日(日) 09:00〜09:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
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予告編、最後の締めは光太郎の父・光雲作の「老猿」。本編をぜひご覧下さい。

同展、主催に入っている毎日新聞社さんでCMも作って下さっています。3月17日(金)、BSイレブンさんで放映された「アートミステリー 国立西洋美術館誕生秘話 ~モネを救え~」を拝見していたところ、流れました。こちらはつかみが「老猿」。
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もう1件、今日開幕の展覧会情報です。

「買上展」藝大コレクション展2023

期 日 : 2023年3月31日(金)~5月7日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、5/1は開館)
料 金 : 一般1,200円(1,100円)、大学生500円(400円)
       ( )は前売り料金 高校生以下及び18歳未満は無料

「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。

第1部 巨匠たちの学生制作
 明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作が一堂に会します。

第2部 各科が選ぶ買上作品
 東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。

出展作家
第1部
 横山大観   児島虎次郎  萬鉄五郎  下村観山   和田三造   高村豊周
 板谷波山   橋口五葉   金観鎬   白浜徴    山本鼎    吉村忠夫
 菱田春草   南薫造    松田権六  西郷孤月   朝倉文夫   伊原宇三郎
 和田英作   小村雪岱   山口蓬春  小林万吾   富本憲吉   吉田五十八
 北蓮蔵    岡本一平   山本丘人  平福百穂   近藤浩一路  山崎覚太郎
 津田信夫   藤田嗣治   東山魁夷  石田英一   建畠大夢   小磯良平
 中沢弘光   小絲源太郎  赤松麟作  李叔同    吉村順三   高村光太郎
 中村岳陵   高山辰雄   松岡映丘  広島新太郎  六角大壌   青木繁
 北村西望   平山郁夫   熊谷守一  今和次郎

光太郎彫刻は、日蓮像の「獅子吼」。明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科をいったん卒業した際の卒業制作です。
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「いったん卒業」は、この後も研究科に残り、さらに留学前年の明治38年(1905)には、根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したためです。西洋画科ではやはり買い上げ作品が展示される岡本一平や藤田嗣治などが同級生でした。ただし、こちらは中退の扱いで、翌年には留学に出ています。

さらに光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の作品も出ます。豊周は同校鋳金科を卒業し、母校で永らく教壇に立ちました。

「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」と併せ、こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

About the matter of your letter of the other day, I must think over them a little more. For my HOKKAIDO affairs do not finish all yet. I hurried back to Tokio at that time because of the fire. Perhaps, I go round there once more this summer.


明治44年(1911)7月3日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎29歳

邦訳は以下の通り。

いつかの君の手紙のことはもう少し考える必要がある。僕の北海道の件はまだ終わったわけではないからだ。あの時は火事のため急いで東京に帰って来たので、恐らく、この夏もう一度行くだろう。

酪農で生計を立てつつ、彫刻や絵を制作する夢を抱いて北海道に渡り、札幌郊外月寒の牧場まで行ったものの、1ヶ月足らずですごすごと東京に舞い戻りました。
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火事」は道内20数カ所で起こった山火事や大火。確かに現地の人々は大変だったのでしょうが、光太郎はどうもそれを言い訳にしている部分があるように感じます。結局、少しの資本ではどうにもならず夢は夢でしかないというわけで。

リーチにはこの夏もう一度北海道へ、と語っていましたが、この後、確認できている限り、光太郎が北海道の土を踏むことは二度とありませんでした。

今日開幕です。光太郎の父・光雲が主任となって制作された鋳銅聖観音像のライトアップも為されます。
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上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。

春のライトアップ2023

期 間 : 2023年3月24日(金)~4月2日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門楼上、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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国宝 三門 回廊公開は春季9年ぶり
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」の三解脱門を表すことから三門といいます。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『機をはからう』~その身そのまま、あなたのままで~

正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?

開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「鴬張りの廊下」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:1時間半程度
 定員:各回25名様程度
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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特別展示 Tradition : Redefined
3月25日(土) / 26日(日)
『千代紙 色とデザイン』RE:KAO
「椿柄」を十四色という多色で手摺りされた千代紙。今回は屏風に仕立てました。
3月31日(金) / 4月1日(土) / 4月2日(日)
『花明 Ceramic × Scissors』林侑子・陶芸家
「白磁」をハサミで切る独自の技法土鋏(つちばさみ)。磁器と鋏で「花明かり」を作り出す。

『鬼より強い守り神』吉田瑞希・陶芸家
「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。

場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・茶室「華麓庵」
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。

明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。

さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。

3月21日(火)、竹橋の東京国立近代美術館さんをあとに、銀座に向かいました。午後2時開演の「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴のためです。

会場は王子ホールさん。昨秋開催された「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」と同じでした。
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作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品を、7人の歌手の皆さんが歌われるというコンセプトで、基本、独唱ですが、二重唱あり、合唱ありと、飽きさせない構成になっていました。
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今回は「第6回」と冠されており、継続的に行うには、やはりアップデートが必要なのでしょう。初演の新作を含むプログラムでした。

歌詞は現役の詩人の皆様から提供を受けたものが多く、絵本作家としても活躍されているこわせたまみ氏、金子みすゞ顕彰でも名高い矢崎節夫氏など、作詞者の方々がほとんどいらしていまして、終演後に紹介されていました。詩の選択は書き下ろしなのか、朝岡氏が旧作からセレクトして使わせてもらっているのかまでは寡聞にして存じませんが。

というわけで、新作もあれば、二重唱や合唱なども盛り込まれていたため、歌い手さんたちはそれなりに練習が大変だったでしょう。それを言えば、ピアノは全て朝岡氏ご本人で、幕開けからカーテンコールまで出ずっぱり。そのあたりの大変さをお客様に気取られないようにされるあたり、プロですね。

で、プログラム中に、組曲「智惠子抄」から2曲、「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」。こちらは最近、メゾソプラノの清水邦子氏の持ち歌的な感じになっており、やはり清水氏の歌唱でした。

過日、ご紹介いたしましたが、清水氏、組曲「智惠子抄」CDをリリースされ、公的にはこの日が発売日でした。そこで、受付でコンサート自体のプログラムとともにフライヤーも配付されていました。
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清水氏と親しい、映画監督の水谷俊之氏(一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさった方)、それから当方が書いたライナーノートの抜粋も印刷されています。恐縮至極。

オンライン販売も為されていますし、フライヤー裏面はFAXでの注文書になっていまして、必要な方は下記画像を印刷してお使い下さい。
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PXL_20230321_060411330開演前、第1部と第2部の間の休憩時間、それから終演後、ロビーに物販コーナーが設けられ、このCDも並びました。

わずかながら制作に協力させていただいた身としましては、売れ行き等気にかかるもの。少し離れた場所からチラ見しておりました(笑)。そこそこ売れていたようです。ただ、他の歌手の方がリリースされたCDも多数並んでいたため、「智惠子抄」のみが飛ぶように売れるというわけにはいかなかったようですが。「智惠子抄」を買われた方には「えらい!」と、心の中で賛辞を送らせていただきました(笑)。

日比谷松本楼さんで4月2日(日)開催の第67回連翹忌の集い会場内でCDの販売も致しますし、朝岡氏、清水氏には「智惠子抄」から抜粋で演奏していただく予定です。

ご参加なさる方、お楽しみに。また、これから参加したいという方、まだ受付中です。コメント欄(非公開設定可)からお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

濱田葆光氏作画展覧会 自二月十一日 至二月二十日
濱田葆光氏は、所謂「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」を蔵する画家にして、熱心なる自然の真の探求者に御座候。今回、品川海岸の研究画を主として、氏の油画十数点の展覧会を弊堂に於て相催し候間幸に御抂駕御一覧の程偏に願上候 神田区淡路町一丁目一番地 琅玕洞

明治44年(1911)2月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎29歳

葉舟宛、というより広く送られた案内状と推定されます。

琅玕洞」は、前年、光太郎が開店した画廊。日本の画廊の中では最初期のものです。名目上の店主は、実弟の道利でした。ここでは正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里、濱田葆光ら親しかった新進美術家の個展をたびたび開きました。濱田葆光は太平洋画会研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事した画家です。「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」は、「無垢な凄み」とでもいった感じでしょう。
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昨日は都内に出ておりました。

主たる目的は、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴でしたが、その前に竹橋の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見。
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名品の数々がこれでもかこれでもかと並んでおり、予想通り、クラクラしました(笑)。

やはり当方にとって一番の目玉は、光太郎の父・光雲の「老猿」。トーハクさんその他で何度も見ている作品ですが、何度見ても見飽きることがありません。
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マルチアーティスト・井上涼さんが「黙すれど語る背中」と評されましたが、その通りですね。

トーハクさんでの展示より、間近で観ることができました。毛並みの一筋一筋、手に持った猛禽の羽根など、それを彫る光雲の息づかいも聞こえてきそうです。
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台座にあたる岩の部分は仏像彫刻の様式が色濃く残っており、やはり仏師なんだなぁと。

材はトチノキ。当初、光雲はもっと白いと思っていて、白猿を彫るつもりでいましたが、栃木鹿沼の山から入手したあとに意外と赤いことに気付き、年老いた猿に変更したとのこと。ちなみに当初は「老猿」ではなく、「猿」一文字でした。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」。碌山美術館さん蔵の石膏原型です。ブロンズ彫刻の場合、文化財指定は鋳造されたものではなく、原型で指定されることがありますので。
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そのあたりで「大人の事情」があるのでしょう、同じ守衛の「女」は今回の展示には出ないそうです。

その他の作品、特に光太郎や光雲とつながりの深かった作家の作品、光太郎や光雲とのつながりなどについても紹介したいところですが、それを書き始めると10日ぐらいかかりそうなので、割愛します。

続いて常設的な「MOMATコレクション」を拝見。こちらには重要文化財指定はされていないものの、負けず劣らずの逸品がズラリ。

光太郎の「手」
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光太郎生前に鋳造された3点のうちの一つ。有島武郎旧蔵のもので、木彫の台座は光太郎の手になるもの。有島や、有島から受け継いだ秋田雨雀の名が記されています。仮に今後、「手」が文化財指定されるとしたら、これが指定されるような気がしています。「北条虎吉像」や「女」のように石膏原型が、ということになると、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏旧蔵の石膏原型があるにはあるのですが、それがいつどのように取られた型なのかなど、当方、寡聞にして不分明です。
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さらに光太郎が敬愛してやまなかったロダンの「トルソ」、そして守衛の「女」(鋳造)。
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さらに守衛の「坑夫」。パリ留学中、光太郎がこれを見せられ、ぜひ石膏にとって日本に持ち帰るようにと進言した作品です。光太郎、グッジョブ(笑)。
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「重要文化財の秘密」の図録をゲット。この手の図録には珍しくハードカバーでした。それだけに3,300円とお高め(笑)。重量が1.3㎏を超えていました(笑)。昼食はコンビニのパンで済ませても、迷わずこれを買うのが当方です(笑)。
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展示入れ替えのため、昨日の時点では出ていなかった作品(黒田清輝「湖畔」など)、「大人の事情」で今回は展示されない作品(「女」の石膏原型や竹内栖鳳「斑猫」など)の図版もしっかり掲載されていますし、詳細な作品解説、論考も3本(大谷省吾氏「重要文化財の「指定」の「秘密」」、同じく「東京国立近代美術館における近代日本美術展をふりかえる」、花井久穂氏「「唯一」と「複数」――近代の美術/工芸)の重要文化財指定をめぐって」)。

ぜひ足をお運びいただき、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

浜町の下宿は馬鹿に気持が可い。大工の神さんの内職の様だ。生活に秩序がついた様な気がする。

明治43年(1910)12月(推定) 水野葉舟宛初刊より 光太郎28歳

この月から翌月にかけ、わずか2ヶ月足らずですが、日本橋浜町31番地の「松葉館」という下宿で独り暮らしをしました。

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