カテゴリ: 東北以外

000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

   犬吠の太郎KIMG4680
 
 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。

「最近手に入れた古いものシリーズ」を、もうすこし続けようかとも思っていましたが、3日間それを書いているうちに新着情報がいろいろ入ってきましたので、またそちらの紹介に戻ります。

京都から、展覧会情報、既に始まっています。

黒田 大スケ「未然のライシテ、どげざの目線」

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月4日(日)
会 場 : 京都芸術センター 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2
時 間 : 10:00~20:00
休 館 : 3月1日(月)
料 金 : 無料

京都芸術センターが実施する Co-program カテゴリー B では、アーティストと京都芸術センターが共同で展覧会を実施しています。今年度は黒田大スケと共同で、展示『未然のライシテ、どげざの目線』を開催します。

日本において銅像をはじめとする公共彫刻は、ただの彫刻というよりも、そのモデルとなった人物と同一視したり、あるいは服を着せ食事を供えたり、最近でいえばマスクをつけたりと、人格を持った人間のように扱われることがしばしばあります。例えば此処京都芸術センターの入り口にある二宮金次郎像にマスクがつけられているように、(最近は靴も履いています。)ごく自然な振る舞いとして日常に溶け込んでいます。ところでこうした感覚は何処からやってきたのでしょうか?

本展は、京都市内にある有名な公共彫刻を起点に、彫刻が帯びる霊性、言い換えれば、彫刻が人格を持った人間であるかのように感じる感覚を、あらゆる実験的芸術的アプローチによって創造的に視覚化し、彫刻の持つ意味や背景を捉え直す試みを展示しています。また、会場内では黒田のこれまでのリサーチ等の資料も併せてご覧いただけます。その彫刻はなぜ作られたのか?彫刻家は何を目指したのか?彫刻とは何か?彫刻を改めて捉え直し、公共と彫刻の関係について再考する機会となれば幸いです。

黒田大スケ / 美術家
1982 年京都府生まれ。2013 年広島市立大学大学院総合造形芸術専攻(彫刻)修了。橋本平八「石に就て」の研究で博士号取得。2019 年文化庁新進芸術家海外研修制度で渡米。帰国後、関西を中心に活動している。歴史、環境、身体の間にある「幽霊」のように目に見えないが認識されているものをテーマに作品を制作している。最近の展覧会に「本のキリヌキ」(瑞雲庵、2020)、「ギャラリートラック」(京都市街地、2020)等がある。
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関連企画
【作家によるギャラリーツアー】
出展作家の黒田大スケが、館内を巡って展示作品について話をします。
日時:2021年2月23日(火・祝)11:00~12:00頃 3月20日(土・祝)14:00~15:00頃
集合場所:京都芸術センター エントランス
申込方法:公式サイトより申込
定員:10名

基本、ビデオインスタレーション(映像作品による展示)のようです。

核となるのは《地獄のためのプラクティス》 という作品。

パンフレットによると、

 《地獄のためのプラクティス》 は黒田が学び手本としてきた彫刻についての作品です。黒田は自分に身についた彫刻の技術や考え方が、どのようなものなのかを知るために様々なリサーチを重ねてきました。この映像作品は作者の身体化された彫刻、あるいは無意識の造形感覚としての彫刻を取り出すために、黒田が複数の彫刻家を演じるパフォーマンスを記録したものです。台本などはなく、その内容は、これまでの彫刻体験と彫刻に関するリサーチに基づいたもので、即興的に演じられています。作中に登
場する動物は全て実在の彫刻家をモデルにしたもので、彫刻家の魂があの世で彫刻を作り続けている様子が表現されています。具体的には、多くの日本の近代の彫刻家が手本としたオーギュスト・ロダンが日本の近代彫刻の概観を偲ぶ様子を起点にしたビデオインスタレーションで構成されています。そして、個別の物語については地獄めぐりならぬ、日本の近代の彫刻の歴史をなぞるように館内各所に展示しています。芸術センターの建物も非常に趣のある見応えあるものです。各ビデオは 5 分~10 分となっています。ごゆっくりお楽しみください。

多くの日本の近代の彫刻家が手本としたオーギュスト・ロダンが日本の近代彫刻の概観を偲ぶ様子」は、かの「考える人」が、京都国立博物館さんで屋外展示されていることと無縁ではないのでしょう。
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日本の近代の彫刻の歴史をなぞる」「個別の物語」の中に、光太郎も。

6.《高村光太郎のためのプラクティス》 ビデオ、2021
高村 光太郎(1883-1956)
詩人、彫刻家。高村光雲の長男として生まれ幼少期より彫刻に親しむ。彼が編集し翻訳した「ロダンの言葉」は多くの彫刻家のバイブルとして読まれた。また新聞雑誌などで彫刻の批評も旺盛に繰り広げた。彼の批評に一喜一憂する彫刻家は多く、良くも悪くも彼が近代の彫刻表現に与えた影響は大きい。一方で高村自身の作品は他の彫刻家に比べて決して多いとは言えない。また渡仏時にロダンに感化されたはずが、残された作品のほとんどは彼が遠ざけようとした高村光雲的な江戸から続く木彫作品である。卓抜な詩人の才能を駆使し言葉で彫刻を作ったとも言えるだろう。

残された作品のほとんどは彼が遠ざけようとした高村光雲的な江戸から続く木彫作品である。」という部分には疑問が残りますが……。現存が確認できている作品は、ブロンズの方が多いもので……。

光太郎以外のラインナップは以下の通りです。

1.《オーギュス・ロダンのためのプラクティス》 ビデオ、2021
2.《建畠大夢のためのプラクティス》 ビデオ、2021
3.《佐藤忠良のためのプラクティス》 ビデオ、2021
4.《金学成のためのプラクティス》 ビデオ、2021 
5. 小倉右一郎(1881 - 1962)
7.《金景承のためのプラクティス》 ビデオ、2021
8.《本郷新のためのプラクティス》 ビデオ、2021
9.《渡辺長男のためのプラクティス》 ビデオ、2021 
10.《北村西望のためのプラクティス》 ビデオ、2021 


なぜか「オーギュスト」の「ト」が抜けています。また、「小倉右一郎」のみ「~のためのプラクティス」となっていません。何らかの意味があるのでしょうか?

他に、《どげざの目線》《青年の目線》《子供の目線》と題した作品も。制作には「カメラオブスタチュー」を使用したとのこと。

カメラオブスタチューとは、カメラ・オブ・スクラ(現代のカメラの原型となったピンホールカメラのような光学機械)の箱や部屋に当たる部分に彫刻(銅像など)を用いた風変りなカメラのこと。銅像の内に潜むあるいは像の下敷きになっているような霊性を視覚化しようと考案された。
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展示されている映像はすべて「カメラオブスタチュー」で撮影した京都市内の風景で、像の大きさに応じてトラックや自転車などで運び撮影したものです。今回モチーフとしたのは、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)、京都府立図書館横の「二宮尊徳先生像」(作者:小倉右一郎、上田貴九丸の合作)、「わだつみ像」(作者:本郷新)

だそうで……。「カメラ・オブ・スクラ」は、ヨハネス・フェルメールも使っていただろうと推測されていることが有名ですね。それを彫刻に仕込んで軽トラや自転車に乗せて……これだけでもアートですね(笑)。

コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】004

父の十三回忌。朝小屋の西側に栗の実(院長さんよりもらひしもの)四顆を捲く。十三回忌記念のため。昨日棒杭を樹ててその旨墨書し置けり。


昭和21年(1946)10月10日の日記より
 光太郎64歳

昭和26年(1951)7月の『文藝春秋』第29巻第9号の巻頭グラビアページに右の画像が掲載されています。写真家・田村茂の撮影です。昭和21年の日記は9月21日から10月9日までの間のものが欠けており、墨書したという10月9日の詳細がわかりません。写真がこの日に撮影されたのか、のちに書き直したりした時のものなのか……。

まいた栗の実は芽を出し、巨木に成長しました。のちに標柱は石にコピーされてそちらが立てられ、光太郎自筆のものは花巻高村光太郎記念館さんで保存しているはずです。
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ところが、残念なことに、平成29年(2017)頃にこの栗の木が枯死してしまい、倒壊の危険があるということで、やむなく伐採されてしまいました。石の標柱は現存しています。
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まず、『山陽新聞』さんの記事から。

永瀬清子さんの逸話すごろくに 赤磐市教委作成、功績をアピール

 赤磐市教委は、市出身の詩人・永瀬清子さん(1906~95年)の誕生月(2 月)に合わせ、生前に交流があった詩人とのエピソードをたどるすごろくを作成した。ゆかりの詩人の詩集や著作を紹介するコーナーも市立中央図書館(下市)と熊山図書館(松木)に設け、永瀬さんの功績をアピールしている。
 すごろくはA3判で、都道府県名が書かれたマスを北海道から沖縄まで順番に配置。それぞれのマスには、地元出身の詩人と永瀬さんとの逸話が記されており、永瀬さんの交流の広さがうかがえる内容となっている。
 福島県のマスでは、永瀬さんの詩作に多大な影響を与えたとされる詩集「春と修羅」(宮沢賢治)を草野心平が贈ったエピソードを記載。広島県では、書画工芸展で井伏鱒二(福山市出身)に色紙を出してもらおうと、依頼しに上京したことを紹介している。ほかに「与謝野晶子のお見舞いに行く」(大阪府)、「萩原朔太郎にほめられる」(群馬県)といった話も載せている。中央、熊山図書館で無料配布している。
 一方、両図書館の特設コーナーには永瀬さんゆかりの詩人の著作を14冊ずつ展示した。親交が深かった谷川俊太郎さんが永瀬さんの追悼詩を収録した詩集「 夜のミッキー・マウス」をはじめ、永瀬さん主宰の詩誌・黄薔薇(ばら)に同人として参加したなんば・みちこさんの詩集「伏流水」、評伝「永瀬清子論」が掲載された飯島耕一さんのエッセー集「鳩の薄闇」などを並べている。
 永瀬さんを研究する市教委の白根直子学芸員が、生前に交流や接点があった詩人158人を取り上げ、すごろくのエピソードや本を選定した。本はいずれも貸し出している。コーナーは21日まで。
 白根学芸員は「永瀬さんと旅に出るイメージで多彩な詩人の作品に触れ、言葉の豊かさを楽しんでほしい」と話している。 永瀬さんは東京で詩人として活躍し、終戦直前に帰郷。岡山市に転居するまでの約20年間を赤磐市松木の生家で暮らし、 数多くの作品を生み出した。
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004永瀬清子(明治39年=1906~平成7年=1995)、光太郎とも交流のあった、岡山・赤磐出身の詩人です。昭和15年(1940)刊行の永瀬の詩集『諸国の天女』の序文は、光太郎が書きました。その一節に曰く「書く事以外に何の求めるところもない竹林の清さが其処にある。それは又竹林のやうな根の強さを思はせる。

この詩集、スタジオジブリの故・高畑勲氏は、アニメーション映画「かぐや姫の物語」に影響を与えたとおっしゃっていました。

記事にある白根氏にはお世話になっており、お世話になりついでに「すごろく、送って下さい」とお願いしたところ、届きました。多謝。

題して「本をめぐる旅へ 永瀬清子ゆかりの詩人に会うすごろく」。

47都道府県、1マスずつとなっており、それぞれのマスにゆかりの詩人と永瀬のエピソード。永瀬の交友範囲の広さが一目で分かります。別紙ですごろく用のコマもついていました。
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記事に有るとおり、福島のマスでは、当会の祖・草野心平、さらに光太郎を敬愛していた宮沢賢治がらみ。
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心平は賢治詩集『春と修羅』(大正13年=1924)の凄さを光太郎にも紹介しましたが、永瀬に対してもだったのですね。

永瀬と賢治は生前に会う機会はなかったようですが、光太郎や心平も参加した賢治没後の追悼会の席上、遺品の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の「発見」の現場に永瀬が居て、詳細な回想を残してくれました。

過日ご紹介した魚乃目三太氏著のコミック『続 宮沢賢治の食卓』にも、このシーンが描かれています。残念ながら永瀬の名は書かれていませんでしたが。
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さて、すごろく。残念ながら光太郎の名はありませんでした。『諸国の天女』序文の執筆、賢治追悼会等での同席以外にも、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋から、赤磐に戻っていた永瀬にたびたび書簡を送ったり(昭和20年代の永瀬は、故郷の赤磐で詩作を続けながら農婦として生活しており、シンパシーを感じていたのでしょう)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として参加した永瀬にはなむけの言葉を贈ったりしています。

光太郎と縁のある東京と岩手のマスは以下の通り。
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谷川俊太郎氏はご存命で、赤磐で行われている永瀬顕彰活動にもいろいろとご協力なさっていますので、東京のマスは谷川氏にゆずっても仕方がないかな、と思いました(笑)。

しかし、だったら岩手のマスで光太郎を取り上げてくれれば、と思ったのですが、岩手のマスは及川均。「高村光太郎が清子のアジア諸国会議歓送の辞を贈る」でいいじゃん、と思ったところ……。
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光太郎、岩手は第二の故郷ともいえますが、岩手生まれではないので対象外でした(笑)。

ちなみに及川、光太郎とも僅かに交流があったようです。昭和27年(1952)4月11日の日記に「揮毫6枚、時間グループ杉本氏、及川氏、千葉氏、富澤氏宛」とあり、「及川氏」がおそらく及川均でしょう。

というわけで、すごろくに光太郎の名はありませんでしたが、心平、賢治、及川、それから谷川氏も光太郎と交流がありましたし、他にも光太郎がらみの人物が多数。

北海道・小熊秀雄、青森・菊岡久利、山形・神保光太郎、栃木・逸見猶吉、群馬・萩原朔太郎、神奈川・佐藤惣之助、福井・高見順、滋賀・北川冬彦、大阪・与謝野晶子、兵庫・深尾須磨子、徳島・富士正晴、長崎・伊東静雄、大分・丸山薫、沖縄・伊波南哲……。

全国の図書館関係、社会教育関係の皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。ただ、かなり、というか、とんでもない手間がかかった労作ですので、おいそれとできるものではなさそうですが。

【折々のことば・光太郎】

終日「春と修羅」の覚書をかくについて参考書をよむ。まだ書けず。


昭和21年(1946)9月15日の日記より 光太郎64歳

「覚書」は、賢治実弟の清六と共に編んだ日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』のためのものです。

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
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4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

東京都中央区観光協会さんのサイトから。

日本橋から青空を取り戻せ。国と都の合同プロジェクト、高速道路地下化計画が始動!

 今から約400年前、江戸開幕とともに架けられた日本橋。五街道の起点と定められて以来、日本の中心であり、繁栄を象徴してきました。現在の橋は石橋になって3代目。明治44年に完成したアーチ型の美しい花崗岩の橋で、翼が生えた大きな麒麟と獅子のブロンズ像が見事です。橋のふもとには観光船乗り場、魚河岸記念碑、高札場レリーフ、徳川慶喜の筆による橋銘板、日本国道路元標や日本橋由来記など見所一杯。訪れる人が絶えません。

 1964東京オリンピックの開催が決まっていた日本は高度成長期の真っ最中。当時の交通事情は極端に悪く、羽田空港からメイン会場の代々木まで2時間以上かかっていました。特に日本橋付近の渋滞はひどくて平均時速は15~20キロのノロノロ運転。とても外国からゲストを迎えられる状態ではありません。新たに高速道路が必要。でも工期は5年だけ。用地を買収していては、とてもオリンピックに間に合いません。そこで、考えられたのが全体の85%以上を川や道路の上を通すという「空中道路」です。こうして日本の中心、日本橋の上を無粋な高速道路が走ってしまいます。皇居の前にも高速道路を通そうとしたそうですが、さすがにこれは却下されました。本当に、なんでもありだったんですね。

 そして、57年後、奇しくも次の東京オリンピック・パラリンピックの開催年に日本橋に青空を取り戻そうという計画、別名、智恵子プロジェクトが動き出しました(東京には空がないという。ほんとの空が見たいという。あたたら山に毎日出ている青い空がほんとうの空だという。「智恵子抄」 高村光太郎)
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赤線の部分、江戸橋から神田橋出入り口まで日本橋川上の約1.1キロの高速道路を地下化。
 2021年1月26日、首都高速道路(株)は江戸橋と常盤橋出入り口を廃止すると発表しました。廃止日時は5月10日。首都高速道路日本橋地区地下化事業の実施に伴う廃止で、2035年までに地下トンネルが開通し、2040年までに現高架橋が撤去されて、日本橋に青空を回復する予定です。
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日本橋川を活かした「東洋のヴェネチア」を目指したことがありました。
  明治時代に入ると、日本橋は巨大な東京港を臨む水運都市の核に位置付けられました。そのリード役を果たしたのが渋沢栄一と三井財閥で、今も日本橋に建つ三越と三井本館がそのシンボルです。イタリアのヴェネチアを手本に日本橋川沿いには多くの洋風建築物が建てられ、特に第一国立銀行、三井銀行など独特の味わいを持った和洋折衷の疑洋風建築の人気は高く、多くの錦絵に描かれています。

明治の文化人たちは鎧橋にパリのセーヌ河を感じました
 前方に見える鎧橋(日本橋より数百M隅田川寄り)の左側たもとに開業した西洋料理屋、メイゾン鴻の巣にパリのセーヌ河の香りを感じた作家や詩人たちが集います(パンの会:小山内薫、北原白秋、永井荷風、谷崎潤一郎、武者小路実篤、島崎藤村他そうそうたるメンバー多数)。あまりの喧騒に警官が出動したこともあったそうです。高村光太郎が智恵子に出会ったのはこのメイゾン鴻の巣でした。
 かっては水都の景観が眺められた日本橋。関東大震災、空襲、それに続く高度成長期と1964東京オリンピック前の交通インフラ工事でほとんどの川や建物が消滅してしまったため、今では東洋のヴェネチアの片りんも残っていません。
 日本橋1丁目再開発と日本橋青空化プロジェクトがきっかけとなって、日本橋は水辺と親しむ街に変わっていくことでしょう。
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なるほど、という感じですね。

引用部分、最後のあたりに「パンの会」会場となったメイゾン鴻乃巣についての記述がありますが、「高村光太郎が智恵子に出会ったのはこのメイゾン鴻の巣でした」というのは大間違いですのでよろしく。ついでにいうなら、上の方で「あどけない話」(昭和3年=1928)が引用されている中の「ほんとうの空」という部分は「ほんとの空」です。

首都高速道路株式会社さんのサイトも確認してみました。すると、「START」というプロジェクト名で概要が説明されていました。「Safety(安全・安心) 未来にも走り続けられる安心・安全」の「S」、「Technology(技術) 交通機能を確保しながら地下化する技術」で「T」、「Activation(活性化) 景観形成・都市再生による日本橋エリア活性化」から「A」、「Renewal(更新事業)道路構造物を長期にわたり健全に保つ」ということで「R」、そして最後の「T」は「Tunnel(トンネル) 神田橋・江戸橋JCTの地下をつなぐ」だそうです。動画もアップされていました。
こちらには「智恵子プロジェクト」の語は見つかりませんで、正式名称ではないようです。

当方、都心に出る際は高速バスを利用することが多く、この地下化計画が為されている区間を通る路線です。いつも「なんだかなぁ」と思いつつ、日本橋の上を通過していました。
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ちなみに麒麟や獅子などの日本橋の装飾彫刻は、光太郎の父・光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を手がけた岡崎雪声の娘婿・渡辺長男の作品(明治44年=1911)です。鋳造は岡崎が担当しました。

光太郎、留学中に都市計画にも興味を持ち、その分野にも一家言ありました。もし存命なら、どう考えたでしょうね。

【折々のことば・光太郎】

朝晴れ、後曇り、涼、 暁方は毛布にては冷えるので掛蒲団をかける。

昭和21年(1946)9月2日の日記より 光太郎64歳

岩手の山懐では、9月ともなるとそうなのですね。

昨日は、隣町の千葉県立東部図書館さんに行っておりました。国会図書館さんのデジタルデータベースの閲覧が目的でした。過日レポートいたしました、茨城県取手市の大鹿山長禅寺さんに立つ、地元の名士・蛯原萬吉の銅像について調べるためです。
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蛯原萬吉像。かいつまみますと、昭和8年(1933)に立てられた最初の銅像が、戦時中に金属供出にあって亡失。昭和50年に、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏が原型を制作して再建されました。新たに付けられた銘板に、初代の銅像作者が光太郎だったと記されていました。しかし、『高村光太郎全集』等に蛯原の名は一切出て来ず、この像についても全く記述がありません。
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そこで閲覧したのが、昭和15年(1940)刊行の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』。この中に「翁の寿像と頌徳碑」という項があり、像の作者についても記述があるのでは、と、期待したわけです。

ところが、その項、像が建てられた経緯が簡潔に記され、最初の銘板の銘文が引用されているだけで、作者については何も書かれていませんでした。

 是迄述べた如き、翁数々の徳行を讃し、且又稀に見る翁の大成功を喜ぶ郷党の有志は、郷党の亀鑑並に誇りとして永世に伝ふべく、昭和八年春翁と縁故深き取手長禅寺境内に寿像を、又一万余円の巨資を寄付して改築せる郷村井野小学校々庭に巨大なる頌徳碑が建てられた。
 斯くして翁の英名は青史と共に永遠に輝くであらう。
 寿像の文に曰く、
 蛯原家ハ世々下総ニ住ミ、萬吉翁ハ先考亀吉ノ三男トシテ文久元年八月二十一日井野村ニ生ル、少壮志ヲ立テテ東都ニ上リ精励維レ努メ以テ正金商事株式会社ヲ創立シ之カ社長トナル、今ヤ古稀ヲ過ギ帝都財界ノ覇者トシテ矍鑠壮者ヲ凌グ、翁平素ヨリ事業報国ヲ晶ヘ無駄排除ヲ説キ躬行ヨク後進ヲ扶掖シ巨資ヲ育英事業ニ投ジテ惜ム所ナシ、取手農学校、井野小学校ノ建設ハ翁ノ寄附ニ俟ツ所多ク、官紺綬褒章ヲ賜ヒ之カ徳行ヲ彰ス、蓋シ翁ノ如キ身ヲ窮乏ニ起シ奮闘遂ニ東京多額納税者中ノ首班ニ列セルガ如キ洵ニ郷人ノ軌範タリ、乃チ有志茲ニ議リ徳ヲ讃シ、信仰厚キ長禅寺境内ニ寿像ヲ建テ功ヲ不朽ニ伝フ。
  昭和八年四月十三日之ヲ建ツ

結局、像の作者が誰なのかはわからずじまいでした。

光太郎、昭和8年(1933)というと、智恵子の心の病が進行し、前年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂、翌年には九十九里浜の妹の元に預けるなどしていた時期で、危険だからと、木彫用の鑿や彫刻刀は仕舞いこんでいた時期です。ただ、塑像は少ないながらも制作しており、前年には「黒田清輝胸像」、レリーフの「徳富蘇峰古稀記念像」(光雲代作)、この年には「成瀬仁蔵胸像」、「輪王寺四十一世福定無外の首」(光雲代作)、レリーフ「種蒔く人」(岩波書店社章原案)、翌年にはレリーフ「嘉納治五郎像」(光雲代作)を手がけています。

そこで、この時期にこうした像を作らなかったとはいえません。しかし、やはり『蛯原萬吉伝』に光太郎の名がないというのも妙です。ちなみに他の部分も斜め読みしましたが、光太郎の名は見えませんでした。

ちなみに巻頭のグラビア(といってもモノクロですが)ページに、金属供出間の前の最初の像の写真もありました。
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ここにも作者名等、記載がありません。

謎は深まるばかりですね……。

ただ、これであきらめることなく、調査を継続したく存じます。取手の市立図書館さんには『蛯原萬吉伝』以外の蛯原に関する資料がありそうですし、長禅寺さんに問い合わせるという手もありますし……。

ただ、情報をお持ちの方は、コメント欄等からご連絡いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

朝食、冷飯、みそ汁(大根葉、いんげん、煮干、畑のとりたて長茄子)トマトとりたて一個、つけもの胡瓜ぬかみそ、とりたて蔕紫茄子の足跡塩づけ。ヘタムラサキは真壁さんから種子をもらひ、苗から育てたもの、今朝はじめて収穫。

昭和21年(1946)8月29日の日記より 光太郎64歳

春に始めた農作業も実を結び、自作の野菜が食卓に並ぶようになってきました。嬉しかったことでしょう。

光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周関連です。

まず、『中日新聞』さんの記事。

家持歌碑 高岡市に保管依頼 尾竹睦子さんの遺志継ぐ 長男・正達さん「肩の荷が下りた」

 万葉集を編さんしたとされる歌人大伴家持を顕彰して戦前に高岡市伏木で結成された「伏木家持会」が建立した歌碑の碑文銅板が、同市万葉歴史館で保存展示されることになった。万葉集愛好家の故尾竹睦子さんが保管していたが、長男正達さん(68)=同市宝町=が遺志を引き継ぎたいと10日、市に保管を依頼した。 (武田寛史)
 銅板は、太平洋戦争の金属供出を恐れ、建立を予定していた石雲寺喜笛庵(きてきあん)の縁側に隠し、1963年に銅板をはめ込んだ歌碑が完成した。しかし、風化した歌碑が倒れる恐れが生じ、会員だった万葉集研究家の田辺武松氏の三女睦子さんが銅板を家で保管していた。
 銅板は縦108センチ、横68センチで、揮毫(きごう)者は金沢市出身の国文学者(歌人)の尾山篤二郎。木彫家・高村光雲の三男で、詩人・高村光太郎の弟の鋳金家・高村豊周(とよちか)が制作した。
 碑文の歌は、家持が越中国守として赴任し伏木の地で詠んだ「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ」(訳・海に行くなら水に漬かる屍となり、山に行くなら草の生える屍となっても天皇の側で死ぬならば後悔はしない)。
 奈良時代に聖武天皇が大伴氏に期待する言葉に感動した家持が詠んだ長歌の一節。これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた。
 正達さんは「肩の荷が下りた」と安堵(あんど)。高橋正樹市長は「銅板を大事にされたことに感謝したい」と話した。
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この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。

家持の歌碑 万葉歴史館に 高岡・伏木で詠まれた「海ゆかば」 尾竹さんが保管依頼

  高岡市伏木国分の石雲寺に設置されていた昭和初期の「万葉歌碑」銅板が市万葉歴史館で保管されることになった。大伴家持(おおとものやかもち)が伏木で詠んだ「海ゆかば」で始まる長歌が記され、自宅で大切に保管していた市内の万葉愛好家が「碑を通じ家持が地元で詠んだ歌を広く知ってほしい」と望んでいた歌碑だ。10日に市役所で引き渡され、愛好家の願いがかなった。
 歌碑銅板を保管していた尾竹正達(まさたつ)さん(68)=宝町=が市役所に高橋正樹市長を訪ね、歌碑を引き渡した。縦108センチ、横68センチの銅板で、家持の「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」が記されている。
 1940(昭和15)年、石雲寺の住職らが中心となり結成した「伏木家持会」が、地域住民の寄付を募って制作した。鋳金家の高村豊周(とよちか)が蝋(ろう)型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎(とくじろう)が碑文を揮毫(きごう)した。戦時中は寺の縁の下に隠されていたが、63(昭和38)年に境内に建立された。
 2015年に亡くなった尾竹さんの母・睦子さんが万葉集の普及に尽力しており、歌碑の劣化により倒壊の恐れがあったため、銅板を設置場所から取り外し、自宅で保管していた。長男の正達さんが受け継ぎ、歌碑の存在を知らしめたいとの生前の睦子さんの思いに応えるため、市に管理を依頼した。寄付者名を記した名板や伏木家持会の趣意綱領も引き渡された。
 歌碑銅板は10日から21日まで万葉歴史館で展示される。尾竹さんは「伏木で誕生した有名な万葉歌をあらためて知ってもらうきっかけにしたい」と話した。
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こちらの記事で、制作年が昭和15年(1940)だったとわかりました。

しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。

碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。

『詩歌
』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。

おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、

先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。

揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。

家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。

こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。

それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。

【折々のことば・光太郎】002

夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。

昭和21年(1946)7月23日の日記より 光太郎64歳

この日の日記はイラスト入りでした。

「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。

都内から企画展情報です。光太郎と親しかった画家・南薫造の作品が集められました。

没後70年 南薫造

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月11日(日)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(4/5は開館)
料 金 : 一般 1100円 / 大学・高校生 900円 / 中学生以下無料
      入館券はローソンチケットで販売、日時指定・事前購入制。
      詳細は公式ウェブサイトへ

日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
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南薫造は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。東京美術学校西洋画科で学び、在学期間は光太郎とかぶっています。本格的な交流は明治40年(1907)、ともに留学でロンドンに滞在していた際からと思われます。もう一人、二人の先輩に当たる白瀧幾之助を交え、すき焼きパーティーなどにも興じたそうです。

光太郎の南評。

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。
(散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910))

そんな南ですが、上記案内に「これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。」とあります。なるほど、そうなんだという感じです。確かに昨年も南の作品を集めた展覧会がありましたが、広島県呉市での開催でした。

また、古書店で入手した当方手持ちの図録も広島県立美術館さんでのもの(平成10年=1998の「南薫造展―イギリス留学時代を中心に―」)ですし、実際、多数の作家の作品を集めた展覧会でしか南の絵を見たことがありません。
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ちなみに広島県美さんの図録に、南、白瀧、光太郎のスリーショットとキャプションの付けられた写真が載っていますが、光太郎とされる人物は光太郎ではありません。似ているといえば似ているのですが……。これが誰なのかおわかりの方、ご教示いただければ幸いです。

さて、新型コロナの影響で、今回の展覧会は事前予約制となっています。いたしかたありますまい。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切りぬき、小まいは残す。風ぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風も入るやうになる。


昭和21年(1946)7月21日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、当初は北側に窓がありませんでした。そこを自分で刳り抜いて、無理くり窓にしてしまったというわけです。窓と言っても、ガラスではなく障子紙でふさぐ形でした。

とにかくこの小屋は山の麓にあるため湿気が多く、そうなると大して気温が高くなくとも熱中症の危険が増します。実際、後の昭和24年(1949)の夏には、熱中症とみられる症状のため4回も臥床し、村人の世話になっています。当方も一度、7月頃でしたか、隣接する旧高村記念館(現・森のギャラリー)で数時間かけて寄贈された資料のリスト作成をしていた際に、ひどい眩暈(めまい)に襲われました。外気温は30℃に届いていなかったと思うのですが……。

都内から企画展情報ですが、まず『高田馬場経済新聞』さんの記事から 

早稲田の「漱石山房記念館」で特別展 漱石山房に集う文人たち生き生きと

000 明治の文豪 夏目漱石晩年の住居後地に新宿区が設置した漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7、TEL 03-3205-0209)で現在、漱石の著書「道草」の装丁などで知られる津田青楓と漱石山房に集った人々との交流に焦点を当てた特別展「漱石山房の津田青楓」が開催されている。
 同館は、漱石が亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれた家の跡地に新宿区が2017 (平成29)年9月に開設した施設。この山房では「木曜会」と呼ばれた漱石のサロン的な会合が開かれ多くの文化人が集った。同展は、そのうちの一人である津田青楓の生誕140年の年が2020年であることから企画された。青楓の手による漱石とその門下生たちの著書の装丁、漱石山房を描いた絵画などに加えて文章にも着目。青楓の仕事や書簡は、当時の漱石および門下生らの交友をみずみずしく伝える。
 同館の客間や書斎、ベランダ式回廊など在りし日の漱石山房を復元したフロアと、青楓が描いたその客間や書斎、回廊を同時に観賞できる展覧会は同館ならでは。

001 同展を担当した学芸員の鈴木希帆さんは「青楓といえば、装丁家、画家としての評価が一般的だが、『ホトトギス』や『白樺』などの文芸誌に小説を発表するなど『書く』仕事も手がけている。本展では、青楓の『描く(えがく)』『書く(かく)』の2つの仕事を紹介する。青楓は97歳まで存命したが、特に漱石および漱石没後の門下生との交流に焦点を当てた。このコロナ禍の中で、青楓にゆかりのある個人、文学館、美術館などから多くの貴重な資料提供や協力を得られたことでこの展示が充実した」と説明する。
 鈴木さんは「青楓は漱石を父のように慕っていた時期があり、漱石の死に際しては慟哭したと聞く。漱石山房の中でも重要な人物だったのだと感じる。青楓の文や描いたものから、ここ早稲田南町の漱石山房での青楓と漱石および門下生との心の交流までも感じとることができる。ここでこの展覧会を行うことの意義を、この土地に来てぜひ感じていただきたい」と呼び掛ける。
 関連イベントとして、講師に柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)、大野淳一(武蔵大学名誉教授)による「対談 津田青楓のデザインと文章」(要予約)も3月7日に同館で開催予定。
 開館時間は10時~18時(入館は17時30分まで)。月曜休館。観覧料は、一般=500円、小・中学生=100円。3月21日まで。
 

《特別展》漱石山房の津田青楓

期 日 : 2021年1月26日(火)~3月21日(日)
会 場 : 新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
料 金 : 一般500円、小中学生100円 
      ※団体(20名以上・要事前連絡)は個人の観覧料の半額
      ※小中学生は土日祝日は無料

夏目漱石の『道草』を装幀した画家・津田青楓は、2020年に生誕140年を迎えました。
染色図案やプロレタリア美術運動への関与など、青楓の画業についてはこれまでにも検証が行われていますが、その文筆活動についてはまとまった研究は行われていません。
青楓は『ホトトギス』や『白樺』などの文芸雑誌に小説を発表し、生涯に20冊以上もの単著を刊行しています。
画家青楓のみずみずしい文章は、「翻訳ものを読むような新しさ」で漱石山房の門下生たちをも唸らせ、漱石山房への青楓の出入りもパリで書かれた青楓の小説を読んだ小宮豊隆による紹介で始まりました。
青楓は描くだけでなく、「書く」画家でもありました。
本展示では、漱石や漱石の門下生たちの本の装幀、漱石山房を描いた絵画に加えて、青楓の文章に着目して、漱石に最も愛された画家・津田青楓に迫ります。
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関連行事
特別展記念講演会「対談 津田青楓のデザインと文章」
日時:3月7日(日)14時~15時30分
講師:柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)・大野淳一(武蔵大学名誉教授)
申込:2月15日(月)必着
会場:漱石山房記念館地下1階講座室・多目的スペース
定員:40名(申込多数の場合は抽選)
料金:500円(特別展招待券付)

津田青楓は光太郎より3歳年上の画家。光太郎とは留学仲間で、俳句仲間でもありました。明治42年(1909)、光太郎は留学の終わり近くに約1ヶ月、イタリアを旅行しますが、その旅先からパリの津田に送った俳句が50句以上知られています。

双方の帰国後も、しばらくは交遊が続いていましたが、やがて疎遠になりました。どちらかというと光太郎が嫌っていた(光太郎も嫌われていた)漱石の関係かも知れません。津田は漱石の著書の装幀を多く手がけ、漱石に絵の手ほどきをしています(結局、ものにならなかったようですが(笑))。

また、津田は光太郎と知り合う前の智恵子とも、絵画つながりで交流がありました。智恵子の言葉として現代でもよく引用される「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。」は、津田が書き残したものです。

昨年、練馬区立美術館さんで、津田の大規模な回顧展がありましたが、コロナ禍のため、結局、行かずじまいでした。今回は行ってこようと思っております。皆様も感染対策に配慮しつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝食の頃雪囲ひを取り外しに青年達来る。又恭三さんかんとくに来る。お礼をのべる。皆はづし、萱と丸太とを始末してかへつてゆく。萱はそれぞれ背負つてゆく。

昭和21年5月13日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、冬場は村人達が小屋の回りに雪囲いを作ってくれていました。「恭三さん」は戸来恭三。光太郎と親しかった村人の一人です。
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右は当会の祖・草野心平。昭和26年(1951)の写真です。後に光太郎の山小屋と雪囲いが写っています。

それにしても、これを外すのが5月中旬とは……。

昨日の続きで、茨城取手レポートです。

父の葬儀のため、2月4日(木)は通夜終了後、都内から来た息子と2人で、取手駅近くのビジネスホテルに宿泊しました。

翌朝、ホテルから徒歩数分のところにある大鹿山長禅寺さんへ。昨日もちらっと書きましたが、こちらは光太郎が講話を行ったり、光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基建っていたりするゆかりの寺院です。

下の画像は門前にある、取手ゆかりの著名人を紹介する説明板。
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智恵子を『青鞜』に引き込み、その表紙絵を依頼した平塚らいてうも。
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臘梅が見事でした。
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光太郎ゆかりの寺院ですので、何度もここは訪れていますが、改めて伺ったのは、これまで気がつかずにいた銅像を見るためでした。

昨秋、「日本の銅像探偵団」というサイトに、長禅寺さんにある銅像についての情報がアップされました。蛯原萬吉という人物の像で、制作者の名が光太郎となっていました。戦時の金属供出により現在の像は2代目、的な記述も。

調べてみましたところ、蛯原は、昨日も名を挙げた宮崎仁十郎や中村金左衛門同様、取手の名士でした。ところが、『高村光太郎全集』にその名が無く、光太郎が蛯原の像を作ったという記録も確認できていません。そこで、サイトの記述は何かの間違いなのでは、と思いつつ、像そのものを見てみないことには何とも言えないなと思い、見に行った次第です。

こちらが問題の像。
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台座の向かって左側に、建立当時のプレート。
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これによると、像の最初の建立は昭和8年(1933)とのこと。ただ、ここに光太郎の名はありませんでした。

像の裏側には、再建時(昭和50年=1975)のプレート。
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こちらに確かに光太郎の名。「蛯原萬吉像(作者 高村光太郎)は 第二次世界大戦末期 国策に殉じて之を供出」。そして現在の像は、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏の作とのこと。

この記述をそのまま信じれば、最初の像は光太郎の作だったということになります。しかし、先述のように『高村光太郎全集』に、この像に関する記述は一切ありませんし、蛯原の名も出て来ません。

考えられるケースは二つ。

一つは、父・光雲の代作であったというケース。岐阜県恵那郡岩村町に建てられた「浅見与一右衛門銅像」、宮城県大崎市に建てられた「青沼彦治像」がこのケースですが、ともに光雲の代作として光太郎が制作しました。光太郎、この二つは完全な自分の作とは言えないと考えていたようです。そこで、やはり『高村光太郎全集』には、浅見、青沼、二人のフルネームが出て来ません。浅見は「木曽川のへりの村の村長さん」、青沼は「青柳とかいふ人」(名前すら間違っています)として、随筆「遍歴の日」(昭和26年=1951)に語られている程度です。

また、光太郎遺品の中に、誰を作ったのか、また誰が作ったのかも判らない(しかし光太郎風の)胸像の写真なども残っており、知られざる光太郎彫刻というものも存在する可能性は大いにあります。
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ところで、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、『青沼彦治翁遺功録』(昭和11年=1936)という書籍に光太郎は短い文章を寄せており、その中で像の制作について語られています。蛯原に関しても、蛯原の立志伝や追悼録的な書籍が刊行されているようですので、その中にもしかすると像の由来等、記述があるのではないかとも思っております。

もう一つは、何かの間違いで、像の作者が光太郎ということになってしまったというケース。それほど詳しくは語らなかったものの、浅見、青沼については「遍歴の日」で一応書き残しているわけで、そこに蛯原の名が無いというのは不思議です。

こうしたケースも皆無ではなく、伊東忠太・新海竹蔵作の靖国神社の狛犬が、なぜか光太郎作だとまことしやかに伝わっている例などもあり、閉口しています。

蛯原萬吉像については、もう少し調べてみますが、情報をお持ちの方、コメント欄等からご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

「余の詩をよみて人死に就けり」を書かんと思ふ。


昭和21年(1946)5月11日の日記より 

自らの来し方と、戦争責任について省察した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」。翌年7月の雑誌『展望』に発表されましたが、その構想を初めて記した一節です。

1009「余の詩をよみて人死に就けり」は、「わが詩をよみて人死に就けり」と改題され、「暗愚小伝」に組み込まれるはずでしたが、光太郎自らボツしました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

私事で恐縮ですが、去る1月31日(日)、当方の父親が亡くなりまして、一昨日、昨日と、通夜・葬儀のため父親が暮らしていた茨城県取手市に行っておりました。

父は元々信州上田の生まれですが、次男だったため、家は長男(当方から見れば伯父)に任せ、上京。公務員となりました。ノンキャリアでしたから地方局回りで、3年ごとくらいに関東と中部の各所を転々、一時住んでいた取手がいろいろ都合がいいということで土地を購入し、退職間際から退職後、そちらで暮らしていました。ただ、ここ数年は施設暮らしでしたが。当方も次男で、取手の家は兄に任せ、家を出た次第です。父は享年87歳。まぁ、天寿といえば天寿でしょう。

取手というと、光太郎の足跡が残っていますし、意外と縁の深い土地です。

昭和19年(1944)、取手中心部の長禅寺さんという寺院で、講話を行っています。
無題
長禅寺さんは戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたため会場となり、聴衆は40名程。女性が多かったのでしょうか、「母」に関する話などがあったそうです。

長禅寺さんには、光太郎の筆跡が刻まれた碑が二つ、現存しています。

まず昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。題字のみ光太郎の揮毫です。小川芋銭は茨城出身の日本画家です。もう一つは「開闡(かいせん)郷土」碑。こちらも題字のみの揮毫で、昭和23年(1948)に建立されています。そのあたりは明日またご紹介します。

講話や二つの碑、ともに、取手の有力者だった宮崎仁十郎が介在し、実現しました。宮崎の子息が詩人の宮崎稔。昭和8年(1933)頃、稔経由で光太郎と仁十郎がつながり、仁十郎が光太郎にいろいろと依頼をしたという感じです。光太郎は光太郎で、昭和20年(1945)、智恵子遺作の紙絵千点以上を三ヶ所に分け疎開させましたが、そのうちの1ヶ所が取手の宮崎家でした。また、光太郎自身の花巻疎開の際にも、稔が荷物の配送や、光太郎の付き添いなどで奔走しました。花巻の宮沢賢治実家に送る荷物は稔が都内からリヤカーで取手まで運び(ものすごい苦労だったことでしょう)、取手から花巻に鉄道で送られました。

そうした点で恩義を感じていたこともあったのでしょう、終戦の年、暮れも押し詰まった12月、稔と、智恵子の最期を看取った看護婦であった姪の長沼春子が、光太郎の紹介で結婚しています。ただ、稔は同28年(1953)には胃潰瘍のため亡くなっています。春子は昭和63年(1988)まで存命でした。
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仁十郎・稔父子の仲介で為された事柄がもう一つ。昭和22年(1947)10月21日の光太郎日記から。

中村金左衛門氏の為、(故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓)を用紙に書く。別に「死を超えて人大なり」と書く。

中村金左衛門明治22年=1889~昭和52年=1977)は、元の取手町長(市制施行後の初代市長)。「義一」と「恒二」は、おそらく金左衛門の子息、あるいは孫なのではないでしょうか。

この件に関し、光太郎日記や書簡に何度か記述があります。

分教場で郵便物をうけとると中に貴下からの小包があり、中村金左衛門氏からの揮毫用紙と御恵贈の木綿布地とを落手しました。数日中に揮毫いたします。(昭和22年=1947 10月19日付 稔宛書簡より)

多分今日中村氏の分の揮毫が出来るでせう。できたらお送りします。(同21日付 稔宛書簡より)

この葉書と同便で別封中村氏のお墓の文字をお送りしました。墨が余つたので墓標の外に一枚書き添へました。墓標の文字には昔から署名はしないやうですから書きませんでした。 いただいた黒の木綿地はよく見ると実に立派な木地なので何に作らうかといろいろ考へてゐます。(同24日付 稔宛書簡より  注・「木地」は「生地」の誤りですね)

中村氏の墓標の揮毫も宮崎稔氏宛に出す(書留)(同26日の日記より)

中村金左衛門氏からいただいた黒の木綿は袷のキモノにしようかと思ひます。裏はあの白の麻にしたらどんなものでせう。目下考へ中です。(同11月4日付 稔宛書簡より)

食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。(昭和23年=1948 7月3日の日記より)

取手町片町の石材商藤巻佐平といふ名刺を持つて昨七月三日朝、その娘さんといふ人が来訪、中村氏令息等の墓石の文字の縮小揮毫を申入れました。紙を持参、急ぐ次第との事ゆゑ即刻揮毫してさし上げました。お礼の紙包を出されましたが、石屋さんから礼をもらふいはれは無いので断り、持ち帰つてもらひました。本来貴下か中村氏の添書が無ければ書かないわけなのですが、事情を察してやかましい事をいはずに揮毫した次第です。(同4日付 稔宛書簡より)


この墓標が、取手の何処かにあるはずと、永らく探していました。取手中心街の寺院をくまなく歩いたり、日記や書簡に出て来る石材店らしきところに手紙を送ったりしたのですが、結局、見つけられずじまいでした。もしかすると新しく「先祖累代之墓」的なものを作って合祀し、古い墓石は撤去されてしまったのかな、などとも思っていました。

さて、昨日、父の葬儀の後、愛車を駆って自宅兼事務所に帰る途中、ふと道ばたの寺院の看板に目が留まりました。場所的には取手市の東のはずれ、もう少しで隣接する龍ヶ崎市というあたりでした。

当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的ですが、今考えても、実に不思議です。看板を見た瞬間、「あ、ここにある」と、何故かひらめいたのです。

車を駐めて、少し歩きました。広大な霊園があり、その奥に、そこを管理しているであろう深雪山明星院さんという寺院。
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ところが、手前の霊園は見るからに新しく、境内にもそれ以外の墓地はありませんでした。そこで「やっぱ勘違いだったか、そもそもそんなことあるわけないよな……」と思ったところ、少し離れた場所にいかにも古めかしい墓地が見えました。入り口の石柱には「共同墓地」と書いてあり、もしかすると明星院さんの管轄ではないのかも知れませんが、入ってみました。

すると、あったのです!
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まごうかたなき光太郎の筆跡、書かれた文字も日記や書簡の通り、そして光太郎の署名と落款まで彫られていました。最初に揮毫した時には署名はしなかったとありましたが、二度目には署名したのですね。

失礼とは存じつつ、手を合わせたのち、「すみません、撮らせていただきます」と念じながら撮影しました。

以前もその道を通ったことがあり、その際には新しい霊園だけ見えて、「ここではないな」と思って通り過ぎていた場所でした。まさか奥の方にあったとは……。

繰り返しますが、当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的です。しかし、父の葬儀の帰りに、父の暮らしていた取手でこれを見つけたというのも、実に不思議な因縁を感じざるを得ませんでした。まるで父の魂が導いてくれたかのような……。父は彫刻だの詩だの、そういったものとは全く無縁の人でしたが……。

この日の朝、父の葬儀の前にも、別の場所で発見がありました。その件については明日。

【折々のことば・光太郎】

野原の朝日美しく、空美しく、草木美し。

昭和21年(1946)5月7日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村内の昌歓寺さんという寺院まで、歩いていった際の記述です。当時はまだ開拓が進んで居らず、ほぼ原野でした。





『静岡新聞』さん。先週15日(金)の掲載でした

「女伊達直人」から図書カード 磐田市に1万円分 昨年に続き

 磐田市は14日、漫画「タイガーマスク」の主人公にちなんだとみられる「女 伊達直人」を名乗る差出人から渡部修市長宛てに、図書カード計1万円分が届いたと発表した。
 封筒には5千円分の図書カード2枚と、詩人高村光太郎の詩「牛」の一節と共に「厳しい年になりましたが、頑張っている母子の家庭に少しの光を」などと書かれた手紙が入っていた。
 具体的な使い道は今後検討する。渡部市長は「新型コロナウイルスに対して多くの市民が不安を抱いているなか、善意の輪が広がっていることに感謝申し上げます」とコメントした。
 磐田市には昨年1月上旬にも「女 伊達直人」から図書カードが届いていて、筆跡などから同一人物とみられるという。
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寄贈された図書カードと共に、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節だそうで、おそらく差出人の「女伊達直人」さんが、「牛」に感じるところが何かあったのでしょう。あるいはもともと光太郎ファンの方なのか。

さて、一定以上の年代の方には解説不要でしょうが、「タイガーマスク」、「伊達直人」について。

漫画「タイガーマスク」は、梶原一騎原作、辻なおき作画で、昭和44年(1969)に『週刊ぼくらマガジン』で連載が始まり、同誌の廃刊後『週刊少年マガジン』に掲載誌を移し、同46年(1971)まで続いた人気漫画でした。連載とほぼ並行してテレビアニメ化され、テーマソングはアニソン史上の傑作の一つとの呼び声が高いものですね。
「伊達直人」は、主人公。漫画でもアニメでも詳細は語られませんでしたが、おそらく太平洋戦争に伴う戦災孤児です。自らが育った孤児院の解散にともなって日本を出、スカウトされた悪役プロレスラー専門の養成機関「虎の穴」に入り、素性を隠して「タイガーマスク」としてデビュー。全米を恐怖の渦に陥れます。

伊達は突如来日。孤児院が「ちびっこハウス」として再建されたものの、慢性的な経営難に陥っていることを知り、その援助のためでした。そこで「虎の穴」へ納めなければならない上納金を流用し、結果、「虎の穴」が送り込む刺客と死闘を繰り広げることになります。

アニメ版では、最後の刺客との試合中にマスクが外れて素性がばれ、日本を去るという終わり方でしたが、原作の漫画版では、「虎の穴」を壊滅させた後……
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ショッキングな結末です。

平成22年(2010)、群馬県前橋市の児童養護施設に「伊達直人」名義でランドセルが贈られ、それをきっかけに、全国の施設で寄付行為が連鎖、その流れが今も続いているわけですね。

戦後、光太郎もこうした寄付行為を行っていました。ただ、匿名ではありませんでしたが。昭和26年(1951)、詩集『典型』が第二回読売文学賞に選ばれると、その賞金をそっくり、蟄居生活を送っていた山小屋近くの山口小学校や地区の青年会などに寄付してしまいました。小学校ではそれで舞台用の幔幕を新注しました。
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その後も、ことあるごとに小学校へ楽器や幻灯機、書籍などを寄贈しています。その流れを受け、山口小学校が統合された太田小学校さんでは、毎年5月15日(昨年はコロナ禍で中止)の花卷高村祭で、児童さんたちが楽器演奏を披露してくれています。もちろん現在は光太郎から寄贈された楽器ではありませんが、同祭の始まった昭和30年代には、光太郎から送られた楽器が使用されていました。
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逆に光太郎が「女伊達直人」的な人の世話になったことも。

まったく面識もなかった、紀尾井町の料亭福田家(ふくだや)の女将・福田マチが、光太郎の蟄居生活を報道で知り、さまざまな食料などを送ってくれました。当会の祖・草野心平ら知り合いが食料等を贈ることはあっても、未知の人からの援助は珍しい例でした。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎、たまたま雑誌の対談企画で会場となった福田家を初めて訪れました。その際、山にいた頃に食料を贈ってくれたのはこの店の女将だったのでは? と問うと、果たしてその通りだったため、その場にいた一堂が奇縁に驚いたというエピソードが残っています。

「女伊達直人」。こうした心温まるニュースが、もっと増えて欲しいものです。同じ「寄付」でも「賄賂」では困りますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午後テガミ書き、詩稿を送り来りて天分の有無を問合わせくる青年が時々あるには閉口。詩とはかかるものにあらざる旨を書きおくる。弟子に置れといふテガミも少からず、事情を書いて断る。

昭和21年(1946)3月24日の日記より 光太郎64歳

逆にあつかましい依頼の例ですね。「弟子に置れ」は原文の通りで「弟子として置いてくれ」といった意味でしょう。

演劇公演の情報です 

チエコ

期 日 : 2021年1月28日(木)~2月1日(月) 1月31日(日)は生配信
会 場 : 両国・エアースタジオ   墨田区両国2丁目18-7ハイツ両国駅前地下1階
時 間 : 1/28 18:00~ 1/29 15:00~ 18:00~ 1/30~2/1 13:00~ 15:00~ 18:00~
料 金 : 公演チケット¥3,000 配信チケット¥2,500 
出 演 : 坂口実成夢 雛衣 山端零 宇木達哉 霧嶋あさと 砂浜みまれ 林田葵 阿部優華
      神野祥 二木将 早川真矢 楓明堂ふみたろう 三上夏生 渡辺広大
脚 本 : 野口麻衣子
演 出 : 野地伸吾
主 催 : 劇団空感エンジン
協 力 : RMP アミティープロモーション WESSAP オムニア
      サンミュージックアカデミー 
ゆーりんプロ

詩人・高村光太郎とその妻智恵子の愛の物語。智恵子の死後、智恵子抄を作ろうと、友人の草野心平と中原綾子を呼び、智恵子の思い出を振り返る。
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同じ脚本の公演が平成25年(2013)平成30年(2018)にも同じ会場であり、それぞれ拝見して参りました。奇を衒わない正統派の脚本で、非常にわかりやすい舞台でした。

登場人物は7人。光太郎、智恵子、光太郎実弟の豊周、智恵子を看取った姪の春子、当会の祖・草野心平、光太郎に心酔していた歌人の中原綾子、智恵子の親友・田村俊子。それぞれがそれぞれの立場で喜怒哀楽し、結局、ハッピーエンドにはならないのですが、さりとてお涙頂戴の安っぽいメロドラマでもなく、ある意味爽やかな印象でした。

主催者側で対策は講じているようですが、移動中も含め、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、1月31日(日)には生配信もあるそうで、そちらもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鼻緒をつくつてゐる。布をさきて三ツあみにして芯をつくり、新聞紙で巻き、之に色の布をかぶせて縫ひ、下駄にすげる。

昭和21年(1946)3月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活では、こんなものも自作していたのですね。

岐阜県から展覧会情報です

第82回企画展「どうぶつ集合!」

期 日 : 2021年1月7日(木)~3月14日(日)
会 場 : 大垣市守屋多々志美術館 岐阜県大垣市郭町2丁目12番地
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日(2月23日(祝)は開館)、1月13日(水)、2月12日(金)、2月24日(水)
料 金 : 一般 300円(団体20人以上 半額150円) 18歳未満 無料

 市の栄誉市民であり、文化勲章受章者として郷土が誇る日本画家守屋多々志は、歴史画の第一人者として活躍しました。大垣市守屋多々志美術館は、守屋画伯の作品や資料を紹介する美術館として、平成13年7月28日に開館しました。
 この美術館は、守屋家と株式会社大垣共立銀行の協力によって、同銀行郭町ビルの改修後、市が無償で借り受け暫定的に整備したものです。
 作品保存の難しい日本画作品のため、常設展示は行っておりませんが、3,300点の作品と資料を整理しつつ、2ヶ月ごとに入れ替えて展示し、多くの作品をご覧いただけるように企画展や特別展でご紹介しています。
 美術館は、大垣駅南口から徒歩10分の市の中心地にあります。多くの皆様に守屋多々志の作品を鑑賞していただき、美術に親しんでいただければ幸いです。

「馬を描くことは誰にも負けぬ」と守屋が自負したとおり勇壮でいきいきとした駆ける馬、異国に嫁ぐ王女を背に誇らしげな《繭の傳説》のラクダ、《萩の宿》の夜の静寂を表す猫、《桃太郎》のお供に加わり得意顔の猿や忠心の犬など、名脇役となった動物が描かれた作品を集め展示します。
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日本画家の守屋多々志(大正元年=1912~平成15年=2003)。当方、寡聞にして存じませんでした。調べてみましたところ、東京美術学校卒ですので、科は違えど光太郎の後輩に当たります。日本美術院に属し、法隆寺の金堂壁画、高松塚古墳の壁画模写などにも加わっています。平成13年(2001)には文化勲章も授与されていました。

で、今回の展覧会の出品作に「智恵子と光太郎」と題した絵が含まれています。
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昭和9年(1934)、千葉県九十九里浜での光太郎と智恵子ですね。なぜ「どうぶつ集合!」に光太郎智恵子? と思ったところ、主な展示品解説のページに答えがありました。

《智恵子と光太郎》(1993年、大垣市蔵)
 こちらは1993年、守屋が81歳の時に描いた《智恵子と光太郎》という作品です。日本近代詩の礎を築いた高村光太郎と、その妻で画家の高村智恵子を描いています。
 智恵子は大学を卒業後、女性洋画家として活躍する中で光太郎と出会い、創作活動にますます打ち込むようになります。しかし、昭和6~7年ごろに酒造業を営む実家が破産し、家族が散り散りになってしまいました。その頃、智恵子自身も画家としてスランプに陥るなど、精神的に弱り切ってしまったことから健康を害してしまい、その後の闘病も虚しく昭和13年に亡くなりました。智恵子の死後、光太郎はふさぎこんだ生活を送りますが、昭和16年に妻に関する詩集『智恵子抄』を刊行します。
 この作品の場面は、智恵子が昭和9年5月から12月にかけ療養した九十九里浜の真亀海岸だといいます。この地で「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風に乗る智恵子」などが詠まれました。初夏の日差しが、やわらかい色調で二人を包んで降り注いでいます。精神を病んだ智恵子はまるで幼女のように無邪気な様子で描かれています。光太郎も足元の小さな蟹を見つめ、智恵子と過ごす時間を穏やかに見守っているようです。

「足元の小さな蟹」だそうで。また、よく見ると左上の方には千鳥の足跡らしき点々も。

守屋は歴史画を得意としたということで、智恵子の九十九里浜療養も、ある意味、歴史の一コマといえるかも知れませんね。ちなみにこの作、平成5年(1993)に開催された第48回春の院展出品作だそうです。

近くでの開催でしたら飛んでいく所ですが……。お近くの方、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

勝治さんの話では昨朝は零下20度なりし由。今朝は零下十度との事。

昭和21年(1946)1月31日の日記より 光太郎64歳

「勝治さん」は、光太郎を花巻郊外太田村に招いた、分教場の教師です。

何気に書いてありますが、「零下20度」……トホホです(笑)。

『朝日新聞』さんの北海道版で、大晦日にご紹介した札幌南高校書道部さんの作品について報じて下さっています

「一歩ずつ前へ」丑の書に思い込め チ・カ・ホで展示

【北海道】コロナ禍でも明るく新年を迎えてもらおうと、札幌駅前地下歩行空間「チ・カ・ホ」で、今年の干支(えと)「丑(うし)」にちなんだ書道作品と門松が展示された。
 中央を飾ったのは、札幌南高校書道部の作品。高村光太郎の詩の一節「牛は大地をふみしめて歩く」を引用し、今年1年を一歩ずつ前へ進んでいこうという思いを込めた。
 昨年12月28日から始まった展示は3日が最終日。札幌市の女性(40)は通りがかりに作品が目にとまり、家族4人で記念撮影をした。「今年はコロナが終息して、家族が笑顔で健康に過ごせる1年にしたい」
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展示が1月3日(日)までということで、ちょっと短かったのが残念ですが、光太郎詩によって北海道の皆さんが元気づけられたとすれば、喜ばしいことです。

このところ、詩「牛」(大正2年=1913)がらみをいろいろとご紹介していますが、光太郎には「鈍牛の言葉」という詩(昭和24年=1949)もあります。「牛」同様、自らを牛に仮託して作った詩です。
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  鈍牛の言葉

二重底の内生活はなくなつた。
思索のつきあたりにいつでも頑として
一隅におれを閉ぢこめてゐたあの壁が
今度こそ崩壊した。
その壁のかけらはまだ
思ひもかけず足にひつかかつる事もあるが、
結局かけらは蹴とばすだけだ。
物心ついて以来のおれの世界の開闢で
どうやら胸がせいせいしてきた。
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上つた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思索の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
天命のやうにあらがひ難い
思惟以前の邪魔は消えた。
今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。
随分高い代価だつたが、003
今は一切を失つて一切を得た。
裸で孤独で営養不良で年とつたが、
おれは今までになく心ゆたかで、
おれと同じ下積みの連中と同格で、
痩せさらばへても二本の角がまだあるし、
余命いくばくもないのがおれを緊張させる。
おれの一刻は一年にあたり、
時間の密度はプラチナだ。
おれはもともと楽天家だから
どんな時にもめそめそしない。
いま民族は一つの條件の下にあるから
勝手な歩みの許されないのは当前だ。
思索と批評と反省とは
天上天下誰がはばまう。
日本産のおれは日本産の声を出す。
それが世界共通の声なのだ。
おれはのろまな牛(べこ)こだが
じりじりまつすぐにやるばかりだ。
一九五〇年といふ年に
こんな事を言はねばならない牛こがゐる。

戦時中のコテコテの翼賛思想からの脱却、といったことが語られています。

二重底の内生活」は、戦時中でもロマン・ロランらの人道思想に共鳴しつつ、しかし一方では「鬼畜米英覆滅すべし」と語らざるを得なかった矛盾を指すのでしょう。少し前に書かれた自らの半生を省みる連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩には、そのあたりに具体的に触れられています。

「牛」同様、この「鈍牛の言葉」もいい詩ですので、ぜひ広めていただきたいものです。

明日も「のろのろと」(笑)、「牛」ネタで。

【折々のことば・光太郎】

細かい雪が風なく静かに降つてゐる。樹々の枝につもりて花咲ける如し。

昭和21年(1946)1月7日の日記より 光太郎64歳

『古今和歌集』にでも出て来そうな、「雪」→「花」の見立てのようにも読めますね。

下の画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカードですが、なるほど、左手前の木々など、まさに花が咲いているようです。

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光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
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この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
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昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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いろいろあった2020年も、今日で終わりです。明日から2021年、丑年です。そこで『北海道新聞』さん、12月24日(木)の記事から。

良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信

 札幌南高の生徒は28日から来年1月4日まで、書道パフォーマンスをオンラインで配信する。毎年、札幌駅前通地下歩行空間(チカホ)で公開してきたが、今年は新型コロナウイルス感染拡大を受け中止し、パフォーマンスの様子を事前に同高で収録した。生徒たちが幅4~5メートルの特大和紙に、来年のえとの丑(うし)や人気漫画「鬼滅の刃」に出てくるせりふを力強く揮毫(きごう)する様子を見ることができる。
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 今年で10回目。書道と美術、吹奏楽の3部と放送局の生徒計35人が同高で数日に分けて収録し、15分の動画に編集した。はかま姿の生徒たちは「はい」とかけ声をかけながら、高村光太郎の詩の一節「牛は大地をふみしめて歩く」や、「鬼滅の刃」の作中のせりふ「一緒に頑張ろうよ 戦おう」などの言葉を書き上げた。動画には吹奏楽部が演奏した「鬼滅」のテーマ曲も合わせて流す。
 書道部長の2年三木優奈さん(17)は「コロナで大変な日々ですが、牛のようにゆっくりとでも前に歩こうとの思いを込めた」と話した。

 28日から、同高のホームページで無料視聴できる。チカホ北3条交差点広場では同日、同じ動画を上映するほか、29日~4日に高村の詩の一節を書いた作品を展示する。
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記事にある「同高のホームページで無料視聴」というので見つけられませんでしたが、YouTubeにはあがっていましたので、貼り付けておきます。「牛」は7分58秒頃から。


「コロナに負けず」ということで、若い人たちが光太郎詩を揮毫して下さっている姿を観て、不覚にも涙が出そうになりました(笑)。
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001詩「牛」全文はこちら。大正2年(1913)の作で、全115行の大作です。旧態依然の日本彫刻界と訣別し、この年、婚約を果たした智恵子と共に、新しい芸術を日本に根付かせようという決意を固めた頃のものです。しかし、それは決して容易なことではないとわかっており、それでも「牛」のように一歩ずつ、というところでしょうか。

光太郎、自らを牛にたとえた例は他にもあり、戦後の昭和24年(1949)には、「おれはのろまな牛(べこ)こだが じりじりまつすぐにやるばかりだ。」という一節を含む「鈍牛の言葉」を書いていますし、同じ年には「岩手の人」という詩で「岩手の人沈深牛の如し。」としています。自らもそうありたいという願いが裏側にあるようにも読めます。光太郎自身は未(ひつじ)年の生まれですが(笑)。

コロナ対策にしても、そしてこの世の全ての事柄も、「牛」のように一歩ずつ、ということになりましょう。2021年、皆様にとって、一歩ずつでも進んでいく、良い年でありますように。

【折々のことば・光太郎】

今日もシラミ退治ツヅキ。下着全部とりかへる、数百匹を捕獲す。シヤツ類はコンロへバケツをかけてにる。


昭和20年(1945)12月24日の日記より 光太郎63歳

真冬、雪で覆われた山小屋でもシラミ禍に悩まされていました。こうして花巻郊外旧太田村での昭和20年が暮れてゆきました。

下の画像は、花巻高村光太郎記念会さんのサイトから。2週間ほど前の高村山荘です。
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少し前ですが、今月7日『読売新聞』さんの高知版から

岡本弥太しのぶ朗読 香南で児童ら 一絃琴の演奏も

 香南市香我美町出身で、「南海の宮沢賢治」とも評される詩人・岡本弥太(1899~1942年)をしのぶ行事が6日、出身地近くの峯本神社であり、児童や住民ら約30人が、詩を朗読するなどして功績をたたえた。
 地元で教職に就きながら詩作を続け、生前に発表した詩集「瀧(たき)」が注目された。 同神社には、高村光太郎揮毫(きごう)の詩碑があり、命日(2日)に近いこの日の式典には、四女の藤田泰子さん(85)や孫の岡本龍太さん(62)らが参列した。
 龍太さんは、弥太をみとった弟子の随想を紹介。地元の香我美小児童が、代表作「白牡丹図」「ふゆの月」を一絃(げん)琴の演奏や朗読で披露した。高知高専の佐藤元紀講師(37)は、両作品について、時の流れを客観的に見ていることや、苦しい生活の中でも無邪気な幼子への哀切が表現されていることなどを解説した。
 実行委の松山繁副委員長(84)は「短い生涯に残した多くの功績を、若い人に継承したい」と話した。
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3年前にも同じイベントの記事が『読売』さんに出て、ご紹介しました。毎年開催されているようですが、光太郎の名が出ないとなかなかこちらも気付きません。

岡本は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、記事にもある生前唯一の詩集『瀧』を贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。その記憶があったのかどうか、没後5年経った昭和22年(1947)、高知に岡本の詩碑が建立されることとなり、光太郎がその代表作「白牡丹図」を揮毫しました。
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上記は20数年前、この碑を見るためだけに羽田から高知へ飛び、撮ってきた画像です。ちなみに帰路は高知から伊丹空港へ。大阪市の御堂筋に寄って光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像の為の中型試作」(「みちのく」と題されています)を新幹線で見て帰りましたが。

光太郎が他者の作品を揮毫し、碑になったものは、この碑と花巻の宮沢賢治詩碑(「雨ニモマケズ」碑)しか現存が確認できていません。その他、かつて栃木県に佐藤隆房の短歌を刻んだ歌碑がありましたが、地元の無理解のため撤去されてしまいました。白牡丹図碑は地元でも大切にされているようで、ありがたいことです。

碑のある峯本神社さんでのイベント以外に、「岡本弥太詩賞」の表彰式も、同じ日に行われていました。こちらは『高知新聞』さんから

岡本弥太詩賞 吉岡さん(福岡市)峯本神社で弥太祭も 香南市

003 香南市香我美町岸本生まれの詩人、岡本弥太(1899~1942年)をたたえる「岡本弥太詩賞」の表彰式が6日、岸本防災コミュニティセンターで行われた。特選には吉岡幸一さん(55)=福岡市=の「砂浜」が選ばれた。
 岡本弥太は教職の傍ら詩を詠み、32年に出版した生前唯一の詩集「瀧」は中央詩壇で高い評価を受けた。詩賞は2017年に創設され、今回は全国から244作品の応募があった。
 表彰式では、受賞者が作品を朗読。特選作は、一人の男が海岸で砂粒を一粒ずつ、いとおしい人の骨を拾うように拾っては透明な瓶に落とす情景を描写。吉岡さんが静かに詠み上げた。
 この日は近くの峯本神社で弥太の命日(2日)に合わせた「弥太祭」もあり、約30人が参加。地元児童による詩の朗読や、一絃琴の演奏で弥太をしのんだ。弥太の孫の岡本龍太さん(62)=高知市=は「地元の方々も毎年よくしてくれてありがたい。これからも弥太の研究を続けたい」と話していた。
 その他の主な受賞者は次の皆さん。
▽一般の部奨励賞=空見タイガ(大阪府)▽学生の部奨励賞=河渕真菜(高知市)

各地で行われているこうした先人の顕彰を旨とするイベント、当会主催の連翹忌にしてもそうですが、マンネリとの戦いという部分もありますし、さりとて途切れさせるわけにも行かずですし、頭の痛いところですね。特にコロナ禍の昨今、もはや会食を伴う形での開催は難しくなっています。連翹忌のありかたも考え直す時期なのかも知れません。皆様のご意見を賜りたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢家、院長さん等皆して見送り。


昭和20年(1945)10月17日の日記より 光太郎63歳

佐藤隆房邸に約1ヶ月厄介になったあと、いよいよ郊外太田村に移った記述です。ここからまた1ヶ月は山口分教場に寝泊まりし、鉱山の飯場小屋を移築してもらった山小屋(高村山荘)の整備にかかりました。
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福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です

「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは

000 木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
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 一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
 「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
 感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
 一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
 2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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 戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
 「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
 ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
 「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
 オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
 「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
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 今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
 一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
 <僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
 自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
 「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
 焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。

確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。

【折々のことば・光太郎】

太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。

昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳

この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。

「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。

情報を得るのが遅れまして、もう会期も終盤ですが……。

コレクションの50年

期 日 : 2020年9月19日(土)~12月20日
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生無料

和歌山県立近代美術館は、1963年、和歌山城内に開館した和歌山県立美術館を前身として、1970年、和歌山県民文化会館1階に開館しました。「近代」を冠した国公立の美術館としては、日本で5番目の館となります。同会館で23年間の活動を続けたのち、1994年に現在の場所へ新築移転し、今年開館50年を迎えました。それを記念して開催する本展は、和歌山県立美術館時代に収蔵した作品83点を引き継ぎ、その後半世紀にわたる活動のなかで、約13000点の作品を収蔵するまでになった当館のコレクションの歩みを、選りすぐりの作品を通してたどります。当館のコレクションは、郷土の美術家を掘り起こすことから始まり、関西から日本、さらに世界へと目を広げるとともに、版画という専門分野の開拓から世界的なコンクールとなった和歌山版画ビエンナーレ展の開催を含め、地域を基礎とする活動を継続するなかで形づくられました。多くの人に支えられながら築かれたコレクションの豊かさを、改めてご覧いただきたいと思います。

そして会期後半からは「美術館を展示する 和歌山県立近代美術館のサステイナビリティ」を開催し、作品収集にとどまらない美術館活動を振り返ります。展覧会、教育普及など、幅広くもそれぞれが関連した多面的な美術館活動と、それらを支える地域とのつながりにも目を向け、これからの50年、さらに100年を見据えた美術館を考えるための機会といたします。
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001光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出ています。若き日の佐藤が光太郎に依頼して描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。一時疎遠になったものの、光太郎晩年には最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作者として、佐藤が光太郎を推薦したことなどもあり、交流が復活しました。佐藤は当会の祖・草野心平ともども「連翹忌」の名付け親の一人ともなりました。

この絵を描いてもらった経緯、モデルを務めていた間の光太郎とのやりとりなどは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)に詳細が語られています。

光太郎が油彩で描いた自画像ではない他者の肖像画は5点ほどしか現存が確認出来ていません。そのうちの1点。貴重なものです。

ちなみに他の油絵による肖像画は以下。
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左は「松岡玉治郎像」(大正2年=1913)。松岡は上高地の案内人です。右は「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。新潟佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女で、3歳で夭折した道子の肖像。こちらは写真から描かれました。
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親友だった水野葉舟の両親、水野勝興・実枝夫妻(大正6年=1917)。

005それから近所に住んでいた美術評論家・関如来の著書『五色の酒』(大正3年=1914)の口絵に使われた関の肖像画。キャンバスではなくスケッチ板に短時間で描かれたそうです。

こちらは当方、現物を見た記憶がありません。手元の書籍類にカラー画像も見当たらず、現存しているのかどうか不明です。ただ、サイズが「43×31.3㌢」と明記されていて、亡失作品であればそれも変な話ですし、どこかに現存しているのかも知れません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

佐藤春夫像を含め、これらすべて大正前半の作です。この頃、光太郎が油絵の頒布会を行っていたことにも関わるのでしょう。

さて、和歌山の「コレクションの50年」。今週いっぱいですが、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

佐藤勝治氏来訪、山口へ小屋を建つる事を依頼、


昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

昨日ご紹介した玉音放送を聴いた件の前に、この一節があります。

佐藤勝治は花巻郊外太田村山口地区の山口分教場の教師でした。太田村移住は佐藤の薦めによるところが大きかったようですが、終戦と同時に、東京へは帰らないという決断をしていた点が興味深いところです。

12月7日(月)、『朝日新聞』さんの夕刊に掲載された記事をご紹介します。執筆された記者さんからちらっと電話取材を受けまして、掲載紙を送って下さいました。自宅兼事務所でも同紙を購読しているのですが、夕刊は契約していませんので、ありがたく存じました

品川区の大井町を紹介する、まるまる1ページとった大きな記事です。大井町といえばゼームス坂病院。智恵子終焉の地で、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を刻んだ碑が建っています。
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(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点

 交差点の歩道橋を、日傘を差した若い女が軽やかに渡っていく。らせん階段を下り、目の前のさびれた古道具屋の中へ。女はガラス製の舶来骨董(こっとう)「なみだ壺(つぼ)」を手に取り、自分の目元に近づけ、店主の中年男にほほ笑む――。
 1983年公開の映画「時代屋の女房」は、早世した夏目雅子の美しさと演技力が際立つ作品だ。原作者で、82年の直木賞に輝いた村松友視さん(80)は当時42歳。小説の舞台に、出版社員だった30歳前後の時に暮らした東京都品川区の大井町を選んだ。
 「隣の駅の大森がしゃれた屋敷街なら、大井町はパチンコ屋とか映画館とかが軒を連ねて雑然としていた。僕のアパートも、洋館風なのに壁一面が鏡張りの和室があって魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲家(すみか)の気配(笑)。物語の一つでも書かなきゃと思わせる街でした」
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 時代屋は、大井町駅から徒歩数分の「三ツ又」交差点に実在した古道具屋で、村松さんも通勤の際はその前を行き来していた。映画製作ではロケ現場になったが、しばらくして取り壊され、現在の駐車場になって久しい。
 一方、道を隔てた向かいにあり、映画にも映り込む「三ツ又地蔵尊」はいまも健在だ。小さな三角地帯には病魔や難産の「身代わり地蔵」がまつられ、通りすがりに拝む人々は多い。品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史さんは「三ツ又は、740年近い歴史を持つ池上本門寺の参拝客が行き交った『池上通り』など、さまざまな方面への交差点。地域の信仰の中心になっていたはず」と語る。
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 三ツ又から沿岸部へ向かって国道15号を越え、京浜急行線を過ぎると旧東海道にぶつかる。一番宿としてにぎわった品川宿から川崎へ向かう途中、現在の南大井にあるのが「鈴ケ森刑場跡」だ。1651(慶安4)年から約220年間に、膨大な罪人が処刑された。みせしめに残忍な刑が執行された一方、悲恋のヒロイン八百屋お七を題材とした歌舞伎など、芸術作品を生み出した場でもあった。
 村松さんも、刑場近くの土地に生きる人々の心情に迫る小説を書いた。1981年の直木賞候補作「泪(なみだ)橋」。刑場まで数百メートルの、立会川にかかる「浜川橋」の別名で、罪人はこの橋で、見送りに来た家族との今生の別れに涙した。
 小説は橋の近くで長年暮らす老人2人が、偽名の男女をかくまう物語。村松さんも大井町にいたころ、過激派の学生を1週間ほど泊めたことがある。追われる身となった人々に、理由も聞かず手を差し伸べる老人たちの「不思議なやさしさ」が描かれる。
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 ■刑場跡地、無縁仏が夢枕に
 江戸時代の死刑囚がはりつけや火あぶりなどに処せられた鈴ケ森刑場。その跡地は旧東海道と第一京浜が交わる三角地「大経寺」の境内にあり、史跡巡りの人気スポットだ。ただし敷地は大正期以降の国道建設で縮小、無縁仏が眠る一帯ならではの逸話が残る。
 1954年夏、第一京浜の拡幅工事の際、たくさんの人骨が出土した。作業員が形をとどめる二つの頭蓋骨(ずがいこつ)=写真=をその場に放っておくと、住職の妻の夢枕に2人の男が立ち、「暑いので水をかけて」と頼んできた。妻が応じた3日後、2人は再び夢にあらわれ、2羽の鳳凰(ほうおう)と化して天高く舞い上がったという。その後、頭蓋骨は手厚く回向され、一連の物語が広く伝えられたと当時の新聞は報じる。「そのころに、大きな供養が催されたと聞く。立ち寄られる際は、ぜひ手を合わせてお参りを」と現住職の狩野豊明さん(39)。
 ◆品川区立品川歴史館(03・3777・4060)には水琴窟がある。JR大森駅徒歩10分、大井町駅からバス「鹿島神社前」下車1分。開館状況はホームページで。
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 創作意欲をかき立てる街の力は、病んだ心にも作用したのだろうか。
 詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻、智恵子は1935(昭和10)年2月に大井町駅北東のゼームス坂病院へ入院した。38年10月、肺結核により52歳で亡くなるまで、色紙を切り貼りする「紙絵」作りに没頭し、千点以上を残した。食事に出たアジの干物や病室に届いた果物などをモチーフにはさみで直接切り出し、完成すると見舞いにくる光太郎だけに見せた。
 智恵子は若き日、油絵に打ち込んだが、現存するのは3点。生家の破産などを経て自殺を図った40代半ば以降、統合失調症を悪化させていく。出身地の福島県二本松市で活動する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(70)は「病気で普通に暮らせなくなっても創作技術や美意識は衰えず、素晴らしい紙絵として実を結んだ。真の芸術家と仰ぐ光太郎に高く評価され、人生最大の喜びを感じていたはず」と語る。
 故郷から遠く離れた大井町で智恵子が逝った縁を後世に伝える碑が95年、地元住民で作る「品川郷土の会」の尽力で病院跡地に完成した。黒い御影石には光太郎が妻の臨終をうたった「レモン哀歌」が刻まれ、今も足元に黄色いレモンが供えられている。
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■昭和の姿、ジオラマで再現
 幼いころに綱渡りの曲芸を見た駅前広場、親に「行くな」と固く禁じられた闇市の跡、初めてドライカレーを食べた喫茶店――。
 品川区二葉1丁目に住む元学習塾経営者の石井彰英さん(65)が、生まれ育った大井町駅付近の昭和30~50年代をジオラマで再現したのは3年前のことだ=写真は夜の大井町駅前。それまでも神奈川の江ノ島電鉄沿線や北鎌倉駅周辺などを、趣味で製作してきた。大井町の再現に挑んだのは「今は治安が良くなり、便利で暮らしやすくなったが、あのころの猥雑(わいざつ)さが失われて面白みがなくなった」と思うからだ。そこで古い町並みの写真を集め、90代の人から直接話を聴き、参考にした。「懐かしんでもらうのと同時に、ジオラマの中に溶け込んで一緒に遊んでほしい」と臨場感あふれる動画を編集し、同世代の音楽仲間の協力を仰いでオリジナルの曲もつけた。ホームページ「大井町の語り部」の中で公開している(http://oikataribe.jpn.org/diorama別ウインドウで開きます)。
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一昨年、花卷高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした頃の花巻とその周辺のジオラマを作成された石井彰英氏についても書かれています。元々、花巻ジオラマをお願いしたのは、先に作成された大井町のジオラマでゼームス坂病院を取り上げて下さったいたためです。

どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。そのために、こうした記事や、石井氏のジオラマなど、好個の取り組みかと存じます。

明日は花巻に関し、同様の内容で。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸焼けあとの壕より余のもの大半出る。リユツクもある。馬車にて桜の農家に持ちゆけり、蔵の火きえる。


昭和20年(1945)8月12日の日記より 光太郎63歳

花巻空襲から2日後です。「蔵」は疎開していた宮沢家の蔵です。「余のもの大半」の中には、先頃、花巻高村光太郎記念館さんで展示されたホームスパンの毛布なども含まれていました。在りし日の智恵子にせがまれて購入したもので、不思議な縁を感じます。

昨日は上野の東京都美術館さんへ、第42回東京書作展を拝見に伺いました。
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右上は図録表紙です。

総評。
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今回は上位10点中7点が漢文系でしたが、その他3点が漢字仮名交じりで、すべて光太郎詩を書かれたものということで、実に驚きました。

まず最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文を書かれました。
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中村さんが会場にいらしていて、お話をさせていただきました。現在は川崎にお住まいだそうですが、元々は福島市のご出身、ご実家のそばには阿武隈川が流れ、ご自身、智恵子の母校である福島高等女学校の後身・福島女子高校(現・橘高校)さんを出られているとのこと。そこで、光太郎愛にあふれられているそうで、ありがたく存じました。

大書されている「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、/一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。」という一節、さらにそれに続く「わたしは又無一物の目あたらしさと/すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、/雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。」あたり、コロナ禍による閉塞感からの脱出といった願いをオーバーラップさせて書かれたそうです。

昨年の大賞を受賞された菊地雪渓氏もいらしていて、菊地氏が中村さんをご紹介くださり、3人でひとしきりこうした光太郎話に花を咲かせました。

菊地氏、昨年は第64回高村光太郎研究会で「光太郎の書について―普遍と寛容―」と題され、実演を交えながら光太郎自身の書の特徴などを語られました。また、連翹忌レモン忌にもご参加下さっています。中村さんもぜひこちらの世界に引きずり込みたいものです(笑)。

その菊池氏の書。昨年の大賞受賞者ということで、審査対象ではない「依嘱」作品です。
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書かれているのはやはり光太郎詩で「案内」(昭和25年=1950)。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を亡き智恵子に案内するという内容の、意外とファンの多い詩です。

続いて「東京新聞賞」。まずは長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。
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さらに田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。
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ここまでは報道や菊地氏からのメール等で存じていましたが、これ以外にもやはり光太郎詩を題材にされた方が予想通り複数いらっしゃいました。やはりこのコロナ禍の中で、ポジティブな光太郎詩が書家の方々の琴線に触れたのでしょうか。

「特選」で、野嶋謳花さんという方。「冬の言葉」(昭和2年=1927)の全文です。
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さらに審査会員の方々の作。「失はれたるモナ・リザ」(明治43年=1910)の一節を、千葉凌虹さんという方。これは大正3年(1914)の第一詩集『道程』の冒頭を飾った詩です。
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同じく岩田青波さんという方が、「後庭のロダン」(大正14年=1925)の一節を。赤い紙が鮮烈ですね。
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それから、菊地氏と同じ「依嘱」出品で山口香風さん。長大な詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の一節です。
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そういえば、上野公園、ケヤキやイチョウの落葉がいい感じでした。
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コロナ禍なかりせば、台東区立中央図書館さんの企画展「上野公園~近代の歩み~」など、このあともゆっくり見て回りたかったのですが、やはり第三波のただ中ですので、残念ながら早々に撤収しました。

何らの軛もなく普通に歩ける日がはやく戻ることを切に願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

朝 味噌汁 昼、おから、晩 焼豆腐の煮附。

明治37年(1904)5月2日の日記より 光太郎22歳

戦後の日記にも、その日食べたものを記録していた光太郎ですが、その習慣は青年期から既にあったようです。ただ、さすがにこれだけでは無かったと思いますが(笑)。

下記は、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際のレジュメから。
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けっこう前に始まっていたのですが……

企画展「上野公園~近代の歩み~」

期 日 : 前期 2020年 9月18日(金曜日)~10月14日(水曜日)
      中期 2020年10月16日(金曜日)~11月18日(水曜日) 
      後期 2020年11月20日(金曜日)~12月13日(日曜日)
会 場 : 台東区立中央図書館 台東区西浅草3丁目25番16号
時 間 : 月~土 9:00〜20:00 日 9:00~17:00
休 館 : 第3木曜日
料 金 : 無料

上野の山は、江戸時代、天海により寛永寺が建てられ、将軍家の菩提寺がある桜や蓮の名所として、一大行楽地となりました。上野戦争を経て、日本初の公園になると、博物館、美術館などが建てられ、現在の文化施設が集まる地域として整備されていきました。

本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
みなさまのご来場をお待ちしております。
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上野といえば、東京美術学校の教授と生徒だった、光雲・光太郎父子のホームグラウンドのひとつですね。

そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
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遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
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光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。

下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
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そうした近代の上野を、当時の資料を基に紹介する展示、おもしろそうですね。

ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。

コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。

明治36年(1903)7月7日の日記より 光太郎21歳

セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。

光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。

しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。

そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。

来年の丑年を前に、光太郎の父・光雲による牛の木彫が出品される(されている)企画展を2件ご紹介します。

まず、埼玉で来週からのもの

遠山記念館 コレクション展 2

期 日 : 2020年12月5日(土)~2021年1月24日(日)
会 場 : 遠山記念館 埼玉県比企郡川島町白井沼675
時 間 : 10:00〜16:30
休 館 : 月曜日 祝祭日の場合は開館、翌日休館
      年末年始(12月22日(火)~1月5日(火))
料 金 : 大人 800円(640円) 学生(高校・大学)600円(480円)
      ※中学生以下は無料  ( )内は20名以上の団体料金
      ※障害者手帳をお持ちの方は200円割引

遠山記念館の所蔵品の中から、狩野晴川院養信「源氏物語子の日図」、仁阿弥道八「黒楽銀彩猫手焙」をはじめとし、干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示します。

また大河ドラマの主人公である明智光秀が所持したと伝えられる、「青磁香炉 銘 浦千鳥」を公開します。
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光雲木彫は、ずばり「牛」。大正2年(1913)の作だそうですが、当方、見たことがありません。画像も初めて見ました。

遠山記念館さん、たまたま先月に行ったのですが、光雲作品も所蔵しているというのも存じませんでした。ぜひ見に行かねばと思っております。

木目の紋様が牛の筋肉のようで、見事な表現です。それから、おそらく台座から本体まで同じ材で繋がっている一木造りでしょう。

他に仁阿弥道八の陶製の猫や、香川勝慶の金工による鼠など、愛らしい作品群。猫は13番目に神様の所に行ったので、干支には入れてもらえなかったはずなのですが(笑)。
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ロビーには、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「女」も展示されています。

もう1件、栃木から。上記の展覧会の情報を得て、「あ、そういえば、あそこでも出すかも」と思って調べたらそのとおりでした。というか、すでに始まっていました

第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」

期 日 : 2020年10月19日(月)~12月20日(日)
会 場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 大人 700円 ペアチケット 1,000円 小・中・高生 300円
      団体(15名以上)の団体料金 大人 400円 小・中・高生 150円
休 館 : 色が塗りつぶされている日が休館日です。

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初代館長菊池登の愛した木彫を中心に、二代館長菊池義明、三代館長菊池宏行の蒐集した三代にわたる木彫コレクションを一堂に展示いたします。近世の円空仏から近現代の高村光雲、石川光明、山崎朝雲、佐藤玄々(朝山)、平櫛田中、澤田政廣、圓鍔勝三、長谷川昂、橋本堅太郎、現在活躍中の神保雅など選りすぐりの作品をご覧いただけます。人と自然の共生の中で生まれた芸術、木彫の美をどうぞご高覧ください。

こちらで所蔵されていて、時折、出品されている「牧童」(大正9年=1920)が展示されています。
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一度拝見して参りましたが、これまた見事な作ですね。まさしく超絶技巧。

同館では光雲の盟友、直弟子、孫弟子らの作も所蔵しており、併せて見ることで近代木彫の系譜の一端を知ることが出来ます。

コロナ禍にはお気をつけつつ、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

尚工風あるべし。

明治36年(1903)6月11日の日記より 光太郎21歳

「なおくふうあるべし」と読みます。「まだ工夫すべき点がある」といった意味で、数ヶ月取り組んできた自作の彫刻に対する評。適当なところで「ま、いいか」としない姿勢は、若い頃からのものでした。

11月16日(月)、福島二本松から帰ったところ、注文した書籍が届いておりました。

井原市立田中美術館さんで開催中の特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」図録です。
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題名の通り、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を中心に据えた展覧会ですが、親友ということで、光太郎ブロンズも展示されています。

代表作「手」。台東区の朝倉彫塑館さん所蔵のもので、数少ない光太郎生前の鋳造にして、台座も光太郎が自身で彫ったものです。
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光太郎が東京美術学校彫刻科を出た際の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)、父・光雲像を別として、初めてきちんと依頼されて造った肖像「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」。
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横浜から逃げてきた水商売の少女をかくまい、代わりにモデルになってもらって造られた「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)、「手」とほぼ同じ頃造られた「」(大正7年=1918 碌山美術館蔵)。
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造花を売り歩いて糊口をしのいでた元旗本の老人をモデルにした「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)。東京美術学校での恩師を造った「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)。
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その他、守衛はもちろん、「同時代の作家」ということで、ロダン、ブールデル、マイヨール、長尾杢太郎、中村不折、小山正太郎、柳敬助、齋藤与里、朝倉文夫、戸張孤雁、中村彝、鶴田吾郎、堀進二、中原悌二郎、石井鶴三、藤川勇造。それぞれの出品作画像と作品解説、略歴。

そして「生誕130年彫刻家高村光太郎」展でお世話になった同館学芸員・青木寛明氏による長文の解説「荻原守衛の生涯」が掲載されています。

届いた封筒を手にして「おっ」と思ったのですが、この手の図録には珍しい、コンパクトなA5サイズです。それで十分だな、と感じました。同館サイトに案内が出ていますが、現金書留で手配し、入手可能。定価1,000円+送料370円です。ぜひどうぞ。

また、展覧会としては今月29日(日)までの会期となっています。

【折々のことば・光太郎】

われの短歌に題して「馬盥」といふ。最もわが意を得たり。鉄幹先生のかゝる才は驚くべきものあり。

明治36年(1903)4月1日の日記より 光太郎21歳

自身の短歌が20首が掲載された雑誌『明星』を見ての感想です。20首の総題が「馬盥(ばだらい)」。日記に有る通り、与謝野鉄幹がその題を付けたとのこと。

「馬盥」は二種類の意味があり、まず字面通りに「馬を洗う大きな盥」、それから、それに似た大きな花器を指します。ここでは後者。20首中に「馬盥」の語は使われていないのですが、20首が「馬盥」に挿された花々のようだ、という連想から鉄幹が題したわけで、光太郎はそのセンスに感服しています。

「真に実力があり、研鑚を怠らない全国の篤学の人々のため」と標榜する全国公募の「東京書作展」。今年の選考結果が発表され、最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」をはじめ、光太郎詩に題を採った作品が3点、上位入賞を果たしました。

上位10点中、漢文系を書かれたものが7点、その他が3点。その3点がすべて光太郎詩ということで、非常に驚いております。

まず、「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文。
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当方、書としての評は出来ませんので、上記の審査員評をご覧下さい。

詩は以下の通り。001


    冬

 新年が冬来るのはいい。
 時間の切りかへは縦に空間を裂き
 切面(せつめん)は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
 精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
 一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
 わたしは又無一物の目あたらしさと
 すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、
 雪と霙と氷と霜と、
 かかる極寒の一族に滅菌され、
 ねがはくは新しい世代といふに値する
 清潔な風を天から吸はう。
 最も低きに居て高きを見よう。
 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
 ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。

最も低きに居て高きを見よう。/最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。」あたりは、同じ時期に書かれた詩「最低にして最高の道」にも響き合います。昭和15年(1940)ということで、既に多くの翼賛詩が発表されていた時期にあたり、それらとも通じるところがありますが、そうした点を抜きにすれば、「冬の詩人」の面目躍如、力強い詩ですね。

この「冬」、一昨年の第40回東京書作展でも、第3位に当たる「東京都知事賞」に選ばれています。中原麗祥さんという方の作でした。

続いて「東京新聞賞」。7点中の2点が光太郎詩。
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左が田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。大正元年(1912)に智恵子と共に過ごした千葉銚子犬吠埼で出会った「馬鹿の太郎」こと阿部清助を思い出して書かれた詩です。

右は長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。群馬県みなかみ市の川古温泉を訪れてものにした詩で、山奥にまで資本主義が浸蝕していた現状を憂えるものです。

お二方とも全文を書いて下さっています。

この他にも、委嘱作品で、昨年の内閣総理大臣賞を受賞された菊地雪渓氏が、光太郎詩「案内」(昭和25年=1950)を出されるそうですし、おそらく他の委嘱作品や入選作の中にも光太郎詩を取り上げて下さった方がいらっしゃるように思われます。

展覧会自体は今月末から。詳細は以下の通りです

第42回 東京書作展003

期 日 : 2020年11月26日(木)~12月2日(水)
会 場 : 東京都美術館 東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 午前9時30分~午後5時30分
      最終日(12月2日)は午後2時30分まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 500円
主 催 : 東京書作展 東京新聞
後 援 : 文化庁 東京都

コロナ禍には十分にお気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。


散文「手」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

つい最近発見した随筆「手」
から。

稀代の悪筆である当方にしてみれば、上記の書家の皆さんの「手」は、どういう「手」なのか、非常に興味ひかれるところです。

都内から展覧会情報です

第87回展覧会「名作を伝える-明治天皇と美術 後期展示 明治天皇のまなざし

期 日 : 2020年11月14日(土)~12月13日(日)
会 場 : 三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1
休 館 : 毎週月・金曜日 11月23日(月・祝)は開館、翌24日(火)休館
時 間 : 午前9時~午後3時45分
料 金 : 無料 

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明治天皇は、その御世を通して、博覧会や美術展覧会に度重ねて行幸され、美術の振興に深く心を寄せられました。このような行幸に際しては、多くの作品の御買上げが行われています。その一方で御下命による美術品製作も行われ、様々な作家たちが活躍の場を得ることにもなりました。御買上げや御下命の品々には、伝統的な様式と技法による作品のほか、西洋から取り入れた表現技法である写真や油彩画も含まれ、新しい技術、表現の試みにも広く関心を寄せられた明治天皇の眼差しを感じとることができます。
また、明治21年(1888)には明治宮殿が完成、翌年には大日本帝国憲法が発布されるなど、国家の体制が確立していく中、美術の奨励と保護のため、明治23年には帝室技芸員の任命が始まります。その後、明治30年代にかけて、天皇の勅裁のもと、宮内省が製作を主導することで明治期を代表する記念碑的な名作が幾つか生み出されました。これらの御下命製作が行われた背景には、明治の優れた技を次の時代に伝えようとした意図がうかがえます。皇室は、美術品製作に直接に関わることで、その伝統を繋ぐ、大きな役割を果たされてきたのです。
本展では当館に引き継がれた作品の中から、明治10年代から30年代にかけての御下命による作品や博覧会等での御買上げ品を中心に紹介します。皇室が護り育み、伝えてきたこれらの名作の数々から、明治美術の多彩な魅力を楽しんでいただければ幸いです。

出品作品
水晶玉蟠龍置物    精工社 明治12年(1879)
稲穂に群雀図花瓶       濤川惣助、泉梅一 明治14年(1881)
行書七言絶句「金闕暁開晴日紅」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
草書七言絶句「王家楷則定何如」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
塩瀬友禅に刺繍海棠に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治14年(1881)
塩瀬友禅に刺繍薔薇に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治15年(1882)
磐梯山破裂之図    山本芳翠 明治21年(1888)
琉球東城旧跡之眺望    山本芳翠 明治21年(1888)
熊坂長範          森川杜園 明治26年(1893)
還城楽       森川杜園 明治26年(1893)
矮鶏置物          高村光雲 明治22年(1889)
百布袋之図       河鍋暁雲 明治27年(1894)
岩倉公画傳草稿絵巻 第14・17巻    田中有美 明治23年(1890)頃
三條実美公事蹟絵巻 第24巻       田中有美 明治34年(1901)
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族 大臣 参議』大蔵省印刷局 明治13年(1880)頃
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族』『諸官省』大蔵省印刷局  明治13年(1880)頃

というわけで、光太郎の父・光雲の木彫「矮鶏置物」が出ます。こちらは一昨年に同じ会場で開催された 第82回展覧会 「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」でも展示されました。制作やお買い上げの経緯等、その際のブログに書きましたのでご一読を。
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光雲木彫を見られる機会はあまり多くありません。ぜひこの機会にどうぞ。ただし、コロナ感染には十分ご注意を。

【折々のことば・光太郎】

まことに母の尊(たふと)さはかぎり知れない。母の愛こそ一切(いつさい)の子たるものの故巣(ふるす)である。即ち人たるものの故巣(ふるす)である。

散文「母」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

これで終わっていれば、「なるほど」なのですが、書かれた時期が時期だけに、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」といった一節もあり、残念です。

バイデン氏優位と伝えられていますが、まだまだ予断を許さない米国大統領選挙。5日付の『東京新聞』さんが、一面コラムで光太郎詩にからめて論評なさっています

筆洗

米国大統領選挙を書こうと思うのだが、浮かぶのは高村光太郎の有名な詩である。<きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になつた>(「冬が来た」)▼長い選挙戦を振り返れば、かの国の「現在」の苦悩と悲しみをのぞかせた闘いだったといえるだろう。思い出すのは醜悪なテレビ討論会か。トランプ大統領が民主党のバイデン前副大統領の発言を何度もさえぎり、持論をまくしたてる、あの場面である▼思いやりはおろか敬意もない。あったのは意見を異にする者への憎しみと怒りだけである▼それ以上にうめいた光景は投票の前日である。商店がショーウインドーや店の入り口をバリケードでふさいでいる。選挙の結果によっては起きかねない暴動や略奪をおそれての準備らしい▼分断の時代と言われて久しいが、もはや、分断を超え、選挙戦の結果さえ受け入れられぬ敵意の時代に入ったのか。それはあまりに厳しい冬である。<きつぱりと冬が来た>。あのバリケードがひどい時代を迎えた人々の冬ごもりのように見えてしかたがない▼選挙戦は大接戦となった。小欄の締め切り時間までには、明確な勝敗は定まらなかった。<冬よ/僕に来い、僕に来い>。あの詩は冬を堂々と受け止める決意の詩だった。どちらが当選するにせよ、分断の冬をどう受け止めるか。悲しいことに春の予感はしない。
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光太郎と米国大統領といえば、リンカーン。光太郎はだいぶシンパシーを抱いていたようで、随筆等で繰り返し彼の名や事績をあげていますし、ずばり「エブラハム リンコン」という詩(大正12年=1923)も書いています。

初出は雑誌『RÔMA-JI』。当時流行っていたローマ字表記運動の雑誌で、したがって、ローマ字で発表されましたが、漢字仮名交じりの異稿も存在しますので、そちらを引用します。

  エブラハム リンコン

己(おれ)はとうとう大統領になつてしまつた。
今日は三月四日だが、
まだ少し寒い。
今かうやつて坐つてゐるのが、
小さい時から、お伽噺の御城でも見る様に、003
新聞の挿画でよく見た
あのホワイト ハウスだから驚く。
己は大統領になりたかつたのだらう。
候補者になつて、あんなに演説をして、
あんなに此の位置をのぞんでゐた
シワアドを追ひ越してまで、
とうとう此の椅子に坐つたのだからな。
だが、己は本当に大統領になる事を、
こんな立派な処に坐る事を、
こんなまぶしいGloriusな目にあふのを、
曾て心から望んだか。
NO! NEVER!
此に似たものを望んだが、
此は望まなかつた。
己が望んだものは、其では何だ。
己にも、今になると、よく分らない。
余り現実の形がはつきり迫つて来ると、
名のつけられない心の影が何処かへ、
一寸した処へ隠れてしまつて、
その癖、
この現実を本当と思ふにしては、
どうも、その影の方が本当すぎる。
見えない様で見えて、
捉まうとすれば捉めない。
別の事を熱望しながら、
うかうか上を見てゐたうちに、
いつのまにか、こんな着物を、
自分でも望んで着せられた事になる。
ああ、己は変にさびしい。

ケンタツキイの材木割り。004
帽子の中をオフイスにしてゐた
ニユウ サレムの郵便局長。
スプリングフヰルドの弁護士。
己は、其間に、何をした。
あたり前過ぎる事をしただけだ。
バイブルに書いてある事の中で、
己にわかるところ、
成程と思ふところを、
むしように欲しただけの事だ。
人間は誰でも同じ様に、太陽の
日を受けて生く可きものだといふだけだ。
あとは神様次第。
己が奴隷制度に反対するのが、
何で己の手柄であらう。
誰でも心に感じてゐる事を、
己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。
いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、
ただ良心を欲しがるだけだ。

南の人達が起す内乱はもう避け難い。
己のまはりに居るのは日和見(ひよりみ)ばかり。
軍人はみな弱い。
ただ頼みになるのは、
己と同じ様な、
あの、野山や町に居る只の人間。
まだ力と火とを心の中に持つ、
あの、己があんなに沢山会つた事のある人達だ。
己を「アンクル エエブ」といつてくれる
あの無邪気な兄弟達だ。005

ああ、演説の時間が来た。
それではみんなにしやべらう。
己のしやべる事にうそは無いが、
いつでも、しやべつてゐる事とまつたく違つた、
もつと奥の事がしやべりたくて、
そのくせ、しやべるとあれだけになつてしまふ。
今日はどうか、みんなに己の心が伝へたい、
この寂しい「アンクル エエブ」の平凡な決心が。


光太郎がリンカーンに心酔、とまではいかないのでしょうが、シンパシーを感じていたのがよくわかりますね。

画像は米国サウスダコタ州の「マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル」。明治39年(1906)に渡米した光太郎を助手として雇ってくれた彫刻家、ガットソン・ボーグラムの手になる巨大彫刻で、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンの4人の大統領の肖像です。

今年7月3日(金)の米国独立記念日に、トランプ大統領はここで演説をしました。その中で、コロナ禍拡大を抑えられなかったことには言及せず、昨今、南北戦争時代の南部連合(奴隷制度推進派)の人物の彫像が各地で撤去されている現状に対し、非難したそうです。刻まれている4人のうち、ワシントンとジェファーソンは、個人で多数の奴隷を所有していたことを踏まえての発言ですね。では、リンカーンに対してはどう申し開きをするのか、興味深い所です。
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ところでトランプ氏、仮に再選したら、もしかするとこの画像のように、自分の肖像を5人目としてこの岩壁に刻ませるのではないかとさえ思えてきます。まるで、それが問題視されて追究を受けるまで平気で進めようとしていた、何処かの国の「○○○○記念小学校」のようですね(笑)。

さて、米国大統領選挙、どうなりますことやら……。

【折々のことば・光太郎】

国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない


散文「工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

昭和16年12月5日の『大阪毎日新聞』に載った、おそらく談話筆記。同月8日に予定されていた第二回中央協力会議での提案「工場施設への美術家の動員」の骨子です。結局この日は太平洋戦争開戦の日と重なったため、日程が大幅に変更され、光太郎の提案は為されずに終わりました。

京都知恩院さんのライトアップ。光太郎の父・光雲原型制作の聖観音像もライトアップされます。毎年、春秋2回行われていたのですが、今春はコロナ禍のため中止。一年ぶりの開催となります

秋のライトアップ二〇二〇

期 間 : 2020年11月7日(土)~11月29日(日)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門下周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂
料 金 : 大人500円(高校生以上) 小人300円(小・中学生)

この世の苦しみにあえぐあらゆる人々に寄り添いたい。阿弥陀如来は修行時代にそう願ったと『無量寿経』に記されています。浄土宗では八百年以上にわたりこの願いを語り継いできました。
ライトアップの煌めきは未来を照らす祈りの灯火。御影堂に響くお念仏の声は日々を粛然と生きる願い。
知恩院で過ごすひとときがコロナ禍の心にやすらぎをもたらすよう祈念いたします。
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主な見どころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
御影堂の夜間の内部拝観は平成23 年以来9年ぶり。
御影堂の落慶後、初めてのライトアップとなります。

国宝 三門
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した 高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」(三解脱門)を 表すことから三門といいます。※楼上には上がれません。

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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001※ライトアップ期間中、白寿庵にて笙の音色を聞くことができる日があります。(不定期で5日間ほど)

聖観音菩薩像、明治25年(1892)の作で、東京美術学校として依頼を受けたものです。木造原型は美校の後身・東京藝術大学さんに収蔵されています。

関連行事として、法話「“今”だからこそ伝えたい仏教(こと)」、限定御朱印「円光大師」授与、フォトコンテスト、川柳コンテスト等が企画されています。例年ですと、さらにコンサートなども開催されていたのですが、やはりコロナ禍を意識してそのあたりは自粛なのでしょう。

例年と異なるといえば、入場料。「御影堂落慶の喜びをより多くの方に感じていただきたく、本年は特別料金となっております」だそうで、調べてみましたところ、昨年までは大人800円、子供400円だったのが、それぞれ500円、300円とのこと。

コロナ禍といえば、今回のライトアップ開催にあたって、いろいろ意見もあったようですが、コロナ禍の今だからこそ、多くの方々を癒やしたいと考え、実施に踏み切られたそうです。詳しくは下の動画をご覧下さい。


というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

人間には自己表現の本能があり、青少年期に達し自己表現の道を与へないと自己を破壊する

散文「工場の美化運動」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時下の荒んだ世相の中、光太郎は人心が荒廃することを懸念していました。多くの翼賛詩も、それを防ごうと書かれたものです(中には鬼畜米英殲滅すべし、的なものもありますが)。

コロナ禍の現在にも通じるところがありますね。「自己破壊」の最たるもの、自ら死を選ぶ芸能人の皆さんのニュースが多く、心が痛みます。コロナ禍と無縁ではないでしょう。

そして、こんな時だからこそ、寺門を開くという知恩院さんの取り組み、評価したいと思います。

昨日は埼玉県に行っておりました。2回にわけてレポートいたします。

メインの目的は、東松山市で開催中の「高田博厚展2020」拝観及び関連行事としての講演会拝聴でした。

彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭和62年=1987)は、夭逝した碌山荻原守衛を別として、光太郎がほぼ唯一認めていた同時代の彫刻家でした。それもまだ海のものとも山のものともつかぬ本格的デビュー前からその才を見抜き、昭和6年(1931)の高田渡仏に際しては、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成しました。
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光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国した高田は、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた故・北川太一先生らと手を携え、光太郎顕彰活動にも取り組みました。そして光太郎を偲ぶ連翹忌会場で、やはり光太郎と交流があり、同市の元教育長を永らく努められた故・田口弘氏と意気投合。同市で展覧会を開いたり、彫刻を寄贈したりしました。それが現在の東武東上線高坂駅前の光太郎胸像(昭和34年=1959)を含む「彫刻プロムナード」として結実しています。

そうした縁から、鎌倉のアトリエにあった高田の遺作、遺品類などが同市に寄贈され、そのコレクションを根幹とした企画展示が毎年為されています。ただ、昨年は同市では台風19号による浸水被害等が深刻な状況で、中止となりました。

メイン会場は市役所向かいの総合会館1階。2年ぶりにお邪魔しました。
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鎌倉のアトリエから譲り受けた作品が中心。一角にはアトリエの一部を再現したコーナーも。
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具象彫刻の王道、といった感があります。

光太郎胸像は寄贈された中に含まれていませんで、高坂駅前の彫刻プロムナードに関するパネル展示で触れられていました。
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その後、第二会場的な「ギャラリー&カフェ亜露麻」さんへ。車で5分ほどでした。こちらでは高田の素描が展示されています。
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亜露麻さん、1階はおしゃれなカフェ、2階がギャラリーとなっていました。
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光太郎にしても、ロダンにしてもそうですが、卓越した彫刻家で素描が下手、ということはあり得ませんね。高田も例外ではありませんでした。

メイン会場の市総合会館に戻り、午後2時から、4階のホールで関連行事としての講演会。講師は高田の彫刻のモデルを務められた元NHKアナウンサー・室町澄子さんでした。本来、昨年行われるはずでしたが、先述の通り台風19号により中止となっていました。
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中止といえば、10月2日(金)には、同じく関連行事で、やはり室町さんや当方がパネリストのシンポジウムも開かれる予定でしたが、こちらはコロナ禍のため中止。来年に期待したいところです。

ちなみに室町さんは昨年、ご自身がモデルを務められた高田の彫刻と素描、それ以外にもアトリエでご覧になって気に入った素描、計7点を同市に寄贈なさいました。平時は1階で展示されていますが、昨日は講演会場の4階に運び上げられていました。
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森田市長のご挨拶に続いて、最初の60分ほど、室町さんがピンで、モデルを務められたきっかけとなった高田の番組出演や、その後の高田との交流などについて。
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その後、寄贈に対する表彰状の贈呈。
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さらに、森田市長と対談形式で30分ほど。
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印象的だったのは、ご自身の彫刻が、初めは「私にそっくりだ」と感じられたのに、制作が進むにつれて、だんだん自分に似なくなっていったというご感想。それに対し高田は、「10年後、20年後のあなたの顔と比べてご覧なさい」的なことを言ったそうです。光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いていまして、それを連想させられました。似ているか似ていないかは問題ではないのだ、ということです。ただ、だからといって何でもありというわけではなく、対象とした人物の精神性、内面、そういったものをきちんと表現すべしということでもありましょう。

同じことは高田作の光太郎胸像にも言えるようにも感じています。8月末に安曇野市の豊科近代美術館さんで拝見してきましたが、写真のように似ているわけでなくとも、光太郎そのもの、という感をあらためて抱かされました。

オフィシャルなプログラムは、ここまで。

この後、関係者のみにクローズド的に声がけがなされた、ノンフィクション作家・神山典士氏のトークイベントがありました。
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さらに会場を移して夕食を兼ねた懇親会。思いがけず旧知の方々にお会いできたり(特に今年は連翹忌の集いもコロナ禍で中止しましたのでなおさらでした)、新たに色々な方とつながりが出来たりと、実に有意義でした。

明日は、東松山に行く前に立ち寄った場所についてレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

天文学者が空をのぞいて計算を行ひ物理学者が原子を砕いて物質を変へ、彫刻家が木石を刻んで形象を起し、画家が絵具を費消して幻像をゑがく。いづれも一歩でも未知の世界に踏み入りたいばかりの人間の行状と思ひます。

アンケート「a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳


設問「a」に対する回答です。設問「b」へは「従つて画家に要求するところはやはり一歩でも未知の世界をひらいてくれる事です。」となっています。

設問が画家を指定してのものなので、画家が中心となっていますが、彫刻家は彫刻家で同じように木石を刻みつつ「一歩でも未知の世界」を追求すべしということですね。

高田博厚もこうした光太郎の精神を受け継いだと言えるのではないでしょうか。

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