カテゴリ:

昨日に続き、光太郎に関わる各種の講座のご案内です。

朝日カルチャーセンター/朝日JTB・交流文化塾講座 総合書道Ⅳ-漢字かな交じり文の研究

書道の添削講座です。
 
楷・行・草書、かなの基礎から始め、古典の臨書、創作、漢字かな交じり文まで学ぶ総合書道講座です。毎月1回2作品を、ベテラン講師陣が丁寧に添削指導します。
ご経験にあわせて、各レベルの1期目からご受講いただけます。
 総合書道Ⅳ:第1~4期(全2年) 楷・行・草書、かなの基礎を学んだ方、原則として総合書道Ⅲを修了した方が対象。和漢の代表的な古典作品を臨書し、運筆と自在性、和文を美しく書く力を身につけます。

【第1期】 王羲之の草書「淳化閣帖」001
【第2期】 古典かな「藍紙本万葉集」
【第3期】 俳句(芭蕉) 短歌(万葉集)
【第4期】 文章と詩(吉田兼好 高村光太郎)

Ⅳ:第1~4期とも 各6ヵ月(6回添削) 18,600円
 
<監修講師>
東京学芸大学名誉教授 吉田 鷹村(よしだ ようそん)

<添削講師>
都留文科大学講師 栗原 天路(くりはら てんろ)
琇苑書道会主宰 藤井 琇苑(ふじい しゅうえん)
 
臨書の手本に、吉田鷹村氏の書いた光太郎の詩句が使われるということです。添削は添削講師のお二方が行うとのこと。
 
ちなみに当方の手元に昭和60年(1985)、埼玉東松山で開催された「高村光太郎 「智恵子抄」詩句書展図録」という冊子があります。当時の東松山市教育長で光太郎と交流のあった田口弘氏のお骨折りで実現した展覧会の図録ですが、田口氏所蔵の光太郎の書、埼玉出身の書家・成田歴景氏の書いた光太郎詩句の書、そして賛助出品と言うことで吉田氏の書も展示されたらしく、収録されています。
 
吉田氏、この時点では既に光太郎詩句の書に取り組んでらしたわけですね。
 
書に興味のある方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】3月17日

昭和2年(1925)の今日、読売新聞社講堂で開かれた、雑誌『大調和』創刊記念文芸講演会で「五分間」と題して講演をしました。
 
佐藤春夫、岸田劉生、武者小路実篤も演壇に立ったそうです。
 
4月2日(火) 第57回連翹忌、参加申し込み締め切りが近づいて参りました。光太郎・智恵子を敬愛する方のご参加をお待ちしております。

あちこちの美術館、文学館等での企画展。ちょぼちょぼと光太郎作品も展示されています(またはこれからされます)。いくつかご紹介します。

 

期 日 : 平成25年2月23日(土)~4月14日(日) 
会 場 : 兵庫県丹波市立植野記念美術館 兵庫県丹波市氷上町西中615番地4
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)
料 金 : 一般 300円 大学・高校生 200円 小学生100円
 
 
イメージ 1
 
「ある銀行家の日本画コレクション」というのは、「長谷川コレクション」ということで、調べてみましたところ、山形銀行、殖産銀行の関連のようです。山形美術館に300点近くが寄贈され、同館の常設展示で入れ替えをしながら並べられているようです。
 
丹波の企画展はその中からのセレクトのようで、001光太郎の色紙「牛」が含まれています。
 
昭和12年(1937)10月31日に、山形の長谷川吉三郎(元山形銀行頭取)に宛てた書簡(『高村光太郎全集』第14巻)にこの作品について書かれています。
 
拝啓、其後御無沙汰に打過ぎ居りました。夏の暑さなどに遮られ、のびのびとなつて居りました色紙を今日の日曜日に書きましたゆゑ不出来ながら明朝小包にてお送りいたします。文字の方は拙詩“牛”の中の一行に有之、デツサンの方はコンテにて描きました。彫刻の方も追々着手の運びといたします。
 
詩「牛」は有名な「道程」と同じ大正3年(1914)の作。115行もある大作で、これも意外と有名な作ですね。
 
「コンテ」は素描用の画材で、クレヨンに近いものです。したがって厳密には日本画ではありません。他の出品作は富岡鉄斎、川合玉堂、川端龍子などのバリバリの日本画で、その中でこの光太郎色紙は異彩を放っています。チラシによれば夏目漱石の画も出品されるようです。
 
3/19を境に出品作の入れ替えだそうで、「牛」がその前なのか後なのか、それとも全会期通しで並ぶのか、わかりかねます。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】2月21日

昭和28年(1953)の今日、来日した陶芸家バーナード・リーチと久しぶりに再会、旧交を温めました。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

今年も年賀状をたくさんいただきました。ありがとうございます。特に昨年から肩書きが変わったもので、昨年までいただいていなかった方々から新たにいただくようになり、感謝しております。
 
当方からの年賀状は、ここ数年、干支と光太郎がらみの画像を使用しています。初めてそうしたのは3年前。寅年だったので、光太郎の塑像「虎の首」(明治38年=1905)の画像を使いました。一昨年の卯年は同じく光太郎の木彫「兎」(明治32年=1899)、昨年の辰年は光雲作の「沙竭羅(さがら)竜王像」(明治36年=1903)。こちらは現在でも浅草寺で見ることが出来ます。
 
そして今年は巳年ということで、蛇に関わるものを探したのですがなかなか見つからず、結局、明治43年(1910)の『スバル』2年2号に掲載された与謝野晶子を描いた戯画「SALAMANDRA」を使いました。古代エジプトの女神風の晶子が口から蛇を吹き出しています。画像は1/1のブログに載せました。
 
「年賀状」。一般に広く行われるようになったのは、やはり郵便制度の普及による明治以降のようですが、古くは平安時代にすでに貴族階級の間に行われていたとのこと。大手町の逓信総合博物館さんのページです。
 
ちなみに同館には光太郎の葉書も所蔵されており、以前に調査させていただきました。
 
さて、光太郎が書いた年賀状。『高村光太郎全集』や「光太郎遺珠」に何通か掲載されていますし、当方、実物も何度か拝見しました。
 
下の画像は『高村光太郎全集』第21巻に掲載されている、大正4年に鋳金家の川崎安に宛てたものです。
 
イメージ 1
 
はじめは木版かと思っていましたが、『スバル』の仲間だった木下杢太郎に宛てた同じデザインの物を神奈川近代文学館で拝見したところ、版画ではなく墨書でした。文字の周りを墨で黒く塗りつぶす「籠書き」と言われる筆法です。短歌を書いた短冊などでもこの手法を用いた物が残っています。光太郎の並々ならぬ造形感覚が見て取れますね。
 
その後、同じデザインの年賀状が続々見つかりました。宛先は森鷗外、前田晃(編集者)、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)。木下宛も含め、それらはすべて明治44年(1911)のものです。そこで、『全集』所収の川崎安宛も消印の見誤りで、やはり明治44年のものなのではないかと思っております。
 
それにしても、100年以上前の年賀状がしっかり残っている、というのも考えてみればすごい話です。よくぞ保存しておいてくれた、と思います。
 
さて、当方からの年賀状。来年以降も干支と光太郎がらみで行きたいと思っています。お楽しみに。
 
【今日は何の日・光太郎】1月4日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエに詩人の宮崎稔親子が年始の挨拶に来ました。

宮崎の妻・春子は智恵子の姪。看護婦の資格を持ち、品川のゼームス坂病院で智恵子の身の回りの世話をし、その最期を看取りました。その後、光太郎が間に入って宮崎と結婚しました。

【今日は何の日・光太郎】1月2日010

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外の山小屋で書き初め。「清浄光明」「平等施一切」「満目蕭條」などの言葉を書きました。
 
光太郎は明治16年(1883)の生まれ。当然のように、現代の我々よりも筆と硯に親しんだ世代です。
 
特に戦後、花巻郊外大田村山口の山小屋に籠もってからは彫刻を封印し、書の世界にその造型美の表現者としてのエネルギーを傾けました。
 
日記によれば1月2日の書き初めは恒例の習慣となったようです。その他、折に触れて書いた書は、今も花巻近辺にたくさん残っています。
 
「満目蕭條」。「見渡す限り、物さびしいさま」という意味の四字熟語ですが、光太郎はマイナスのイメージで捉えません。
 
昭和7年に書かれた「冬二題」という散文(『高村光太郎全集』第9巻)には、「満目蕭條の美」という一節があります。
 
 冬の季節ほど私に底知れぬ力と、光をつつんだ美しさを感じさせるものはない。満目蕭條といふ形容詞が昔からよく冬の風景を前にして使はれるが、私はその満目蕭條たる風景にこそ実にいきいきした生活力を感じ、心がうたれ、はげまされ、限りない自然の美を見る。私はまだ零下四〇度などといふ極寒の地を踏んだ経験がなく、パミイル高原のやうな塩白み果てた展望を見た経験がないから、冬の季節の究極感を語る資格を持たないやうにも思ふが、又考へると、さういふ強力な冬の姿に当面したら、なほさら平常の感懐を倍加するのではあるまいかといふやうな気がする。木枯の吹きすさぶ山麓の曠野を行く時、たちまち私の心を満たして来るのは、その静まりかへつた大地のあたたかい厚みの感じと、洗ひつくしたやうな風物の限りないきれいさと、空間に充満するものの濃厚な密度の美とである。風雪の為すがままにまかせて、しかも必然の理法にたがはず、内から営々と仕事してゐる大地の底知れぬ力にあふと、私の心はどんな時にもふるひ立つ。百の説法を聴くよりも私の心は勇気をとりかへす。自然のやうに、と思はずにゐられなくなる。葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に微妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるのは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中での美であらう。彼らは香水を持たない。ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。私はいつも最も突き進んだ芸術の究極境は此の冬の美にある事を心ひそかに感じてゐる。満目蕭條たる芸術を生み得るやうになるまで人間が進み得るかどうか、それはわからない。此は所詮人間自身の審美の鍛錬に待つ外はないにきまつてゐる。ただ物寂びた芸術、ただ渋い芸術、ただ厳しい芸術、さういふ程度の階段に位するものなら求めるに難くない。古来、真に冬たり得た芸術が一体何処にあるだらう。
 
冬の厳しさに、自己の進むべき芸術精進の道の厳しさを重ね合わせています。こういうところも光太郎の魅力の一つだと思います。

↑このページのトップヘ