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例年ですと、この時期に古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会が行われています。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)など数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観もあり、ここのところ毎年お邪魔していました。

 「明治古典会七夕古書大入札会2019」レポート。

ところが今年は、例の新型コロナの影響で中止です。主催者サイトから。

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むべなるかな、という感じですね。

代わりといっては何ですが、最近、自宅兼事務所に届いた各古書店さんの目録から。

まずは美術専門店のえびな書店さん。小金井の在です。

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表紙にドーンと光太郎の色紙。

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戦後の筆跡ですね。光太郎が好んで揮毫した文言で、花巻高村光太郎記念館さんには軸装された他の作品が所蔵されています。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書きました。その頃からの「持論」なのですね。

続いて、本郷の森井書店さん。近代文学、山岳系の古書を扱っているお店です。

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こちらも表紙に「高村光太郎書簡」の文字。画像は井原西鶴ですが。

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大正11年(1922)、日本女子大学校の智恵子の先輩・小橋三四子にあてた長い書簡です。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第21巻に収録されていますが、画像で見るのは初めてで(全部は載っていませんが)、興味深く拝見しました。

上記色紙ともども、味のある字です。

それから、先月、神保町の近代文学系専門古書店さんから届いた目録にも、光太郎筆という短冊が掲載されていましたが、そちらはどうもいけません。はっきり言えば、光太郎筆ではないだろうと思われます。似せて書こう、だまくらかしてやろう、という匂いが、写真でも伝わってきます。「××堂さん、こんなもの扱っちゃうのか」と、残念でした。

もっとも、上記の七夕古書大入札会でもそういうものが出品された年もありまして、わかっていて出しているのか、鑑定する力がないのか、何ともいえないところですが……。

それはともかく、来年以降、また七夕古書大入札会、復活することえお願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

画の話は一体、作品を目にせずしては聞くものが途方に迷ふものである。けれども、自由を貴んで大抵の極端なことには驚かぬ巴里のまんなかで、此程世人を騒がしてゐる画だと思へば、およそ其の極端さ加減も想像ができよう。

雑纂「HENRI-MATISSE(アンリイ、マチス)の画論㈠[前書き]」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

雑誌『スバル』に掲載されたマチスによる画論翻訳の序文から。

マチス(マティス)は、確認できている限り唯一、光太郎と手紙のやりとりがあった当時の一流フランス人画家です。

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定期購読しております日本古書通信社さん発行の『日本古書通信』今月号が届きました。

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同誌編集長の樽見博氏による「感謝 北川太一さん」が掲載されています。今年1月に逝去された、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼記事的な。

同誌と北川先生は因縁浅からぬものがありました。先生の玉稿が紙面を飾ったこともしばしば。当方が同誌を定期購読するようになってからのものですと、以下がありました。

「高村光太郎凝視五十年(上)ガリ版「高村光太郎年譜」作製まで」平成11年(1999) 12月号
「      〃        (中) 全集の編纂」       平成12年(2000) 1月号
「      〃        (下) 次の時代へ」                     〃      2月号
「さらば東京古書会館」      平成13年(2001) 10月号
「無知の罪を知った『展望』」   平成17年(2005) 4月号
「『連翹忌五十年――挨拶の解説――』 平成18年(2006) 5月号
「『古書通信』の六十年」       平成24年(2012) 11月号  


このうち、「さらば東京古書会館」、「無知の罪を知った『展望』」、「『古書通信』の六十年」は、平成27年(2015)に文治堂書店さんから刊行された、北川先生の著作集『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に転載されています。

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それから、平成6年(1994)には、同社から当時刊行されていた「こつう豆本」シリーズの一冊として『光太郎凝視』がラインナップに入りました。「こつう」は『日本古書通信』の略称「古通」、「豆本」ですので、実際にてのひらにおさまるサイズで、10㌢×7.5㌢です。内容的には既刊の書籍に発表されたものの転載ですが、「あとがき」は書き下ろし。改めて読んでみますと、樽見氏に触れられていました。こうした関係もあって、樽見氏、1月のお通夜にご参列下さいました。

樽見氏、追悼文の中で、北川先生のご著書『愛語集』に触れられています。こちらは平成11年(1999)、先生が都立向丘高校さんに勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの発行です。

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布装角背の上製本で、扉にはおそらく北川先生がご趣味で取り組まれていた版画。それを表紙では二分割して空押しに使っています。

内容的には、北川先生の「座右の銘」ともいうべき、先人のさまざまな言葉とその解説等。見開き2頁ずつ、右頁には先生のペン書き、左頁が解説等となっています。

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もちろん光太郎智恵子の「言葉」も収録されていますが、それは少なく、他に聖書や仏典、ゲーテ、ロダン、白居易、柳宗悦、尾崎喜八、立原道造、はては民謡など、その幅は実に広く設定されています。

先生のお人柄そのままのような、柔らかな、味わい深いペン字、そして選び抜かれた言葉の数々。樽見氏、数ある先生のご著書の中から、これを特に取り上げるあたり、「なるほど」と思わされました。

限定300部の非売品でしたので、今となってはなかなか入手困難だろうと思いましたが、東京都古書籍商業協同組合さんのサイト「日本の古本屋」で、昨日の段階で2冊、出ていました。早い者勝ちです(笑)、ぜひどうぞ。

また、『日本古書通信』さんは、日本古書通信社さんのサイトから注文可能です。


【折々のことば・光太郎】

不幸にして一つもありません、出版所が註文通りに造りません。

アンケート「装幀について」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問は「既刊御自著中、装幀のお気に入つた本」。昭和10年(1935)の時点では、訳書や共著を含め、光太郎の著書は10数冊。しかし、どれもこれも光太郎のお眼鏡にはかなわなかったようです。当時の日本に於ける印刷や造本の技術の問題もあったような気もしますが……。

その点、上記『愛語集』などを手がけられた北斗会さんは、会長の小川氏が特殊印刷の会社を経営されていた関係で、他の北川先生のご著書を含め、美しい装幀、造本ばかりです。

昨日、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(41)』についてご紹介しました。

今日は同誌の連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」について。こちらは当方のライフワークでして、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。

面白いものが多数見つかりました。

まず、評論「教育圏外から観た現時の小学校」。大正5年(1916)、『初等教育雑誌 小学校』に掲載された長いもので、手本を丸写しにさせる図画教育のありかたを徹底批判したり、子供特有の物体の捉え方(キュビスム的な)を尊重すべしといった論が展開されたりしています。面白いのは、駒込林町の光太郎住居兼アトリエの石段をめぐるエピソード。近所の子供達の格好の遊び場となっていたそうで、さすがに泥がおちて困るので「遊んだら掃除してくれ」的な張り紙と箒を用意したところ、こまっしゃくれたガキが「これは、ここで遊ぶなという意味なんだ」と、曲解したそうです。このようなひねくれた裏読みをする子供を育てる学校教育はけしからん、だそうで(笑)。

こちらは国会図書館さんのデジタルデータに新たにアップされたもので、同データの日進月歩ぶりもありがたいかぎりです。

それから、昭和20年(1945)の終戦直後、盛岡で開催された「物を聴く会」の談話筆記。これまで、そういう会があったことは知られていましたが、どんな話をしたのかは不明でした。それが地方紙『新岩手日報』に掲載されていたのを見つけました。終戦直後、花巻郊外太田村の山小屋に移る直前の光太郎の心境がよくわかります。


談話筆記としては、他に昭和28年(1953)、芸術院会員に推されたのを辞退した際のもの、同年、東京中野から一時的に花巻郊外旧太田村に帰ったときのものなど、それぞれ短いものですが、節目節目の重要な時期のものです。


また散文に戻りますが、戦時中のものも2篇。こちらはやはり「痛い」内容で……。

昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日に予定されていた、大政翼賛会第二回中央協力会議での提案の骨子、「工場に“美”を吹込め」。こちらはまだ前向きな提言ではありますが、敗色濃厚となった昭和19年(1944)の「母」になると、いけません。「まことに母の尊さはかぎり知れない。母の愛こそ一切の子たるものの故巣(ふるす)である。」、と、まあ、このあたりは首肯できますが、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」となると、「何だかなぁ」という感じですね……。もっとも、翌年に書かれた「皇国日本の母」という既知の散文では「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いていて、それに較べれば、まだしもですが……。

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書簡類も多数。昨年から今年の初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎からの手紙」に出品された、当時中学生だった女性からの「ファンレター」への返信(昭和25年=1950)、亡くなる6日前の、現在確認できている光太郎最後の書簡(ただし代筆ですが)など。

さらに短句揮毫。昨年このブログでご紹介した、智恵子とも旧知の画家・漫画家、池田永治に贈った「美もつともつよし」。昭和20年(1945)5月14日、疎開のため花巻に発つ前日、おそらく池田の着ていたチョッキの背に書いたものです。また、昭和27年(1952)、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙。「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。このあたりは、書作品としても貴重なものです。

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他にもいろいろありますが、割愛します。

こちらの載った『高村光太郎研究(41)』、頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。

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【折々のことば・光太郎】

思ひ出せばいろいろの場合にさう感じたことが沢山ありますが、初めてアメリカに渡つて苦学してゐる頃、時たま母から届いたカナクギ流の手紙ほど私の心を慰め、勇気を出させてくれたものはありません。

アンケート「カナクギ流の母の手紙――私がほんたうに有り難く思つたこと――」より  昭和6年(1931) 光太郎49歳


光太郎の母・わかは、大正14年(1925)、数え69歳で歿しました。わかは、決して光太郎に「死ねと教へる」ような「皇国の母」ではなかったはずだと思います。

当方も加入しております高村光太郎研究会発行の、機関誌的な年刊誌『高村光太郎研究』の41号が届きました。

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内容的には上記画像の通りですが、一応、文字に起こします。

高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「生命(いのち)」とは―画竜点睛、造型に命が宿るとき― 北川光彦
高村光太郎の書について「普遍と寛容」 菊地雪渓
光太郎遺珠⑮ 令和元年 小山弘明
高村光太郎没後年譜 平成31年1月~令和元年12月  〃
高村光太郎文献目録 平成31年1月~令和元年12月 野末明
研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき  〃

北川氏、菊地氏の稿は、昨秋開催された第64回高村光太郎研究会でのご発表を元にされたもの。

北川氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご子息で、ご本業は理系の技術者です。そうした観点から、光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった内容となっています。いわば彫刻、詩、書など、総合的芸術家であった光太郎のバックボーン、「思想家」としての光太郎に光を当てるといった意味合いもあるように感じました。

菊地氏は、昨年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさったりしていらっしゃる書家。光太郎詩文も多く書かれている方です。図版を多用し、光太郎書の特徴を的確に論じられています。光太郎の書はこれまでも高い評価を得ていますが、ただ「味がある」とかではなく、どこがどういいのか、それが技法的な面からも詳細に語られ、眼を開かれる思いでした。当方、富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関わらせていただいているため、特に興味深く拝読しました。

拙稿2本のうち、「光太郎遺珠」は当方のライフワーク。平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。詳細は長くなりますので、明日、紹介します。「没後年譜」は、このブログで昨年末に「回顧2019年」として4回にわたってまとめたのを骨子としています。

研究会主宰の野末氏による、「文献目録」はこの1年間に刊行された書籍、雑誌等の紹介、「研究会記録」は昨秋の第64回高村光太郎研究会に関わります。

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。


【折々のことば・光太郎】

小生は歌を日本ソネツトと目してゐます。従つてその形式を尊重します。

アンケート「新年に当り歌壇に与ふる言葉」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「歌」は短歌です。「ソネツト」は「ソネット」、14行で書かれる欧州の伝統的定型詩です。短歌でも独特の秀作をかなり残した光太郎。古臭いものとして排除しなかった裏には、こうした考えがありました。

東京駒場の日本近代文学館さん。「所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。」とのことで、館蔵資料の紹介、各氏論考、エッセイなどが掲載されている厚冊のものです。その15号が刊行されました。 2020年3月20日 公益財団法人日本近代文学館編刊 定価1,040円(税込) B5判 236頁

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2020年3月、年誌15号を刊行いたしました。
文学館の所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。
文学者の書下ろしエッセイ、館蔵資料を用いた論考、未発表資料の翻刻と解説を収録。お申し込みは文学館まで(一般1040円/会員880円)。

目次

エッセイ
ひかりの在処 三角みづ紀
与謝野夫妻の書簡と祖父古澤幸吉のこと 古澤陽子
一人の両性具有者の手記――南方熊楠とミシェル・フーコーの共振 安藤礼二
北関東のその土地へ 宮沢章夫
高村光太郎と「書」 古谷稔

論考
春のや主人/二葉亭四迷合作「新編浮雲 上篇」の書誌について 飛田良文
お縫の将来への想像力――樋口一葉「ゆく雲」精読―― 戸松泉
太宰治『お伽草紙』の本文研究――新出原稿を中心に―― 安藤宏
ひと・地域・コレクションをつなぐ――文学展「浅草文芸、戻る場所」から考える―― 金井景子
伊藤整『発掘』の原稿について――人間認識の転回―― 飯島洋
井上満 獄中の記(1936―1938) 郡司良
初期春陽堂の研究――東京芝新橋書林の時代まで 山田俊治

資料紹介
資料翻刻1 片山敏彦宛諸氏書簡(2) 石川賢・小川桃 他
資料翻刻2 内海信之宛諸氏書簡 石川賢・小川桃 他


書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏002による「高村光太郎と「書」」。同館所蔵の光太郎の書作品のうち、3点について専門家のお立場から解説なさっています。

3点中2点は、平成11年(1999)、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご著書『高村光太郎 書の深淵』にも図版入りで取り上げられています。

戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居中の昭和24年(1949)に書かれた色紙が2点。まず、短歌「太田村山口山の山かけにひえをくらひてせみ彫る吾は」。「山かけ」は濁点が省略されていますが「山かげ(山陰)」です。「くらひて」の「ひ」は変体仮名的に「「比」、「せみ」の「み」と「吾は」の「は」も同様に「ミ」、「ハ」と書かれています。こうした部分もアクセントになっているように当方には思えます。

「せみ」は木彫の「蝉」。大正末から昭和初めにかけ、光太郎が好んで彫った題材です。従来、4点の現存が確認されていましたが、このたび5点目が出てきまして、5月22日(金)から富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。


では、戦後の太田村でも「蝉」を彫っていたのか、というと、きちんとした作000品として彫っていたわけではないようですが、手すさび、または腕を鈍らせないための修練といった意味合いで彫っていたようです。光太郎の山小屋を訪ねた詩人の竹内てるよ、地元在住の浅沼隆氏などの目撃談があります。

北川先生、『書の深淵』を書かれた当時はその目撃談の存在をご存じなかったようで、同書では「だが、「蝉」は願望の象徴にすぎず、この時点でもその後も、作品として彫られることはなかった」と解説されていましたが、その後、目撃談に気づかれ、「やはり本当に太田村でも「蝉」を彫っていたんですね」とおっしゃっていました。ただし、戦後の「蝉」の現存は確認できていません。

ちなみに古谷氏は「「蝉」は光太郎の代表作で、この時期にも数多く制作されたようである」と書かれていますが、「数多く」というのは絶対にありませんので、よろしくお願いいたします。

2点めも色紙で、光太郎が好んで揮毫した短句「うつくし001きもの満つ」。先述の「太田村……」の短歌色紙とほぼ同時に書かれたものです。

「満つ」を、やはり片仮名で変体仮名的に「ミつ」と書いたバージョンも存在しますが、こちらは漢字で「満つ」となっています。山梨県富士川町の光太郎文学碑は「ミつ」と書かれた揮毫から写されたもので、「ミつ」を「みつ」ではなく「三つ」と読んでしまい、「高村光太郎は三つの「美しいもの」を愛した。一つは何々で……二つ目は何それで……」といったトンデモ解釈が流布しており、閉口しています。

3点目は、書画帖『有機無機帖』。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京したあと、昭和28年(1953)頃から書かれはじめました。光太郎と親しく、岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集に当たった美術史家・奥平英雄が光太郎に乞うて書いて貰ったものです。ちなみに先述の色紙2点も奥平に贈られたものです。

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詩や短歌、「ロダンの言葉」やヴェルハーランの詩の訳、さらには智恵子の紙絵を模して光太郎が作った紙絵まで、全20面ほどの書画帖です。006

古谷氏、このうちの紙絵が附された詩「リンゴばたけに」の面について解説されています。

古谷氏は、かつて東京国立博物館さんで奥平と同僚だったそうで、奥平の歿後、日本近代文学館さんに寄贈された光太郎の書を同館でご覧になり、この稿を書かれたとのこと。同館では、光太郎書作品、展示されているわけではなく、収蔵庫に仕舞われています。ただ、事前に申請をすれば収蔵庫から出して下さって観られるというシステムになっています。

上記以外にも、光太郎の書がたくさん収蔵されていて、先ほども「蝉」の件で触れましたが、5月22日(金)から開催予定の富山県水墨美術館さんの「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。上記3点はすべて出る他、短歌を大書した幅、宮沢賢治の詩の一節を書いたもの、短句揮毫の色紙など、日本近代文学館さん所蔵のものは10点並ぶ予定です。

大半は「奥平コレクション」に含まれるものです。奥平がそれらについて語った記録は、以下の書籍等に詳述されています。ご参考までに。

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『晩年の高村光太郎』 奥平英雄著  二玄社  昭和37年(1962) 
『晩年の高村光太郎 特装版』 〃   瑠璃書房 昭和51年(1976) (光太郎と奥平の対談を収録したカセットテープつき)
『忘れ得ぬ人々 一美術史家の回想』 〃 瑠璃書房 平成5年(1993)
雑誌『書画船』№1 二玄社 平成9年(1997) 

富山では、他にも、他館や個人の方所蔵の優品を、まだまだたくさん展示予定でして(また折を見てご紹介いたします)、新型コロナによる緊急事態宣言が出ましたが、始まるころにはこの騒ぎも治まり、予定通り開催されることを祈念いたしております。

4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

『日本近代文学館年誌 資料探索 15』は、日本近代文学館さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私には子供がありません。

アンケート「児童と映画」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

『いとし児』という雑誌が実施したアンケートで、質問は「一、お子様に映画をお見せになりますか、否や、その理由。 二、月に何回ぐらゐ。 三、種類の御選択は。」。光太郎に子供がいないということも調べずに、アンケートを依頼したようです。

で、回答が上記の一言のみ。かなりムッとしている光太郎の顔が思い浮かびますが、それをそのまま載せる方も載せる方だと思います(笑)。

結局、光太郎智恵子夫妻に子供は生まれませんでしたが、単にできなかったのか、それとも、あえて作らなかったのか、何とも言えません。光雲との芸術上の確執に悩み、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。」(「出さずにしまつた手紙の一束」明治43年=1910)とまで書いた光太郎ですが、真相は闇の中です。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。


富山県から企画展情報です。チケット販売会社さん等のサイトには、既に今月初めくらいから記述がありましたし、ポスターやフライヤー(チラシ)は既にこちらに届いていたのですが、正式な館のHPに昨日アップされましたので、解禁かな、というわけで。新型コロナの関係で延期とか中止とか、そうならないかと思っていたところ、とりあえず予告が出まして、ほっとしています。

チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展

期 日 : 2020年5月22日(金)~7月12日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
時 間 : 午前9時30分~午後6時00分
休 館 : 月曜日
料 金 : 前売り一般1,000円 当日一般1,200(1,000)円 大学生1,000(700)円 ( )内20人以上の団体


「書は最後の芸術である」――高村光太郎のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、<西洋>化する日本の美術と<東洋>的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術感がよくあらわれています。本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご鑑賞ください。

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関連行事

映像で見る三巨人 会場:映像ホール 各日①11:00~ ②14:00~ 各回先着100名

 Ⅰ.「モリのいる場所」          5月23日(土)  6月21日(日)
     熊谷守一夫妻の日常を描いた傑作。 出演:山崎努 樹木希林
 Ⅱ.「高村光太郎」             5月24日(日)  6月27日(土)
     ブリヂストン美術映画シリーズより
 Ⅲ.「中川一政生誕百年 記念番組」 5月31日(日)  6月20日(土)
     制作:北陸放送・北陸スタッフ

ギャラリートーク 会場:展示室1.2 要観覧券
 ① 5月30日(土) 講師:徳井静華氏(白山市立松任中川一政記念美術館学芸員)
 ② 6月14日(日) 講師:高松源一郎氏(ギャラリー晴耕雨読代表)
 ③ 7月5日(日)   講師:富山県水墨美術館学芸員 


光太郎、熊谷守一、中川一政、三人の書作品を軸とする展覧会です。

このうち熊谷と中川の書は、ほぼほぼまとめて所蔵されているところからの借り受けだそうでしたが、問題は光太郎。駒場の日本近代文学館さん、花巻高村光太郎記念館さん、そして今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生宅以外は、どこにどういう書作品が所蔵されているのか、よくわからないとのことでした。

そこで当方の出番となりました。全国のめぼしい光太郎書作品、それから彫刻や絵画も出したいというので、そうしたものの所蔵先(団体・個人)を紹介したり、ところによっては借り受けの交渉に同行したりしました。

これがなかなか大変でした。まず、熊谷、中川の書は、大きい作品をたくさん出すということで、光太郎についても基本的には大きな書、という制約(結局は色紙や短冊も出しますが)。次に、せっかく素晴らしい大きな書を持っている館さんでも「うちでは他館さんへの貸し出しは行っていませんので……」と断られることも。そして、やはり現実的な問題として、借り受け金額の問題。それで折り合いが付かず、断念したケースもありました。

そうしたハードルを何とか乗り越え、かなりの優品が集まりました。関係各位には大感謝です。また改めて詳細をご紹介しようと思っておりますが、本邦初公開(つまりは世界初公開)のものも複数ありますし、通常は各所蔵先の収蔵庫に入っていて、滅多に見られないものも数多く出ます。

というわけで、目玉だらけなのですが(笑)、まず1点だけ超目玉を挙げろ、と言われたら、その存在自体ほとんど知られていない、とんでもないものということで、下記でしょうか。

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書単体ではなく、木彫の蝉に書がついている形です。これまで、木彫の蝉は4点の現存が確認できていましたが、これは新発見の5点目です。実は4点のうちの1点が所在不明になっていまして、それがまた出てきたのかと最初は思ったのですが、違いました。

所蔵されているのは京都の古美術商さん。当方、平成27年(2015)に、拝見に伺いました。木箱、それから袋もついていまして、それぞれにまごうかたなき光太郎の筆跡と印(箱と袋も展示されます)。箱書きによれば、昭和6年(1931)作ということで、驚きました。これまで確認されていた蝉は、すべて大正末のものだったからです。もっとも、同じ木彫の「白文鳥」や「蓮根」も同じ頃の作なので、不思議ではありません。

そして袋(おそらく智恵子手縫いのものです)にしたためられているのは、他の木彫作品にもそうしたように、短歌――これもこれまで知られていなかった歌です。

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くして蝉なきしきる

「とど崎」は、岩手県宮古市の魹ヶ崎(とどがさき)です。この蝉の作られた昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため、まさに蝉鳴きしきる8月から9月にかけ、約一ヶ月の行程で三陸海岸一帯を旅した折の作でしょう。「三陸廻り」の「宮古行」の回(全十回連載の最終回)には、「やがて海が暮れかかる頃、新聞の写真で見たトド崎の灯台を通過する。灯台で赤ランプを出す。船が答へる。」とあります。

この三陸旅行中、智恵子の心の病が顕在化、危険回避のため、光太郎は木彫用の彫刻刀類をすべてしまい込み、以後、きちんとした木彫作品は作られなくなりました。したがって、もしかすると、現存が確認できている光太郎最後の木彫作品、ということになります。「白文鳥」、「蓮根」との前後関係が不明ですが(ちなみに「白文鳥」、「蓮根」も今回の展示に並びます)。だめもとでご紹介し、借り受けを依頼していただいたところ、他の所蔵作も一緒に貸して下さることになり、喜んでおります。

その他、単体の書でも、本邦初公開のもの等、しつこいようですが目玉だらけです。また折を見て、ご紹介します。

一部の方には、昨日ご紹介した『光太郎資料53』などとともに、フライヤー(チラシ)、それから招待券をお送りします。新型コロナ騒ぎが早く終息して、皆様に足をお運びいただきたく存じます。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

【折々のことば・光太郎】

花は何でも好きですが、桜の花の明けつぱなしの趣は又他に類が無くて好きです。

アンケート「京都御室のさくら」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の公園のソメイヨシノ。3月21日(土)の撮影で、昨日あたりはもう満開でした。

4月2日(木)、連翹忌の集いを開催するはずだった松本楼さんがある日比谷公園の桜も、今頃さぞ美しかろうと思います。来年以降、また皆様と桜を愛でたいものです。

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昨日は都内に出て、書道展を2つハシゴいたしました。レポートします。

まずは、銀座の東京銀座画廊美術館さんで開催中の「東京書作展2020 選抜作家展」。昨秋、第64回高村光太郎研究会でご発表なさった、書家の菊地雪渓氏からご案内を頂きまして、参じました。

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菊地氏、一昨年の第38回日本教育書道藝術院同人書作展では「智恵子抄」の詩句を書かれた作品で最優秀にあたる「会長賞」を受賞、昨年の第41回東京書作展では、大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさいました(そちらの作は光太郎ではなく白居易でしたが)。

今回は、杜甫の漢詩でした。

枯淡の味わいといいますか、実にいいですね。

他に、光太郎詩「道程」(大正3年=1914、雑誌『美の廃墟』に発表された際の102行あった原型から抜粋)を書かれた方がいらっしゃり、ありがたく存じました。


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こちら、会期は本日までです。

続いて、新宿へ。目指すは小田急百貨店さん。

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こちらでは、本館10階の美術画廊・アートサロンさんで「幕末・明治 偉人の書展」を開催中。

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光太郎の書も1点、出ています。現物は撮影不可でしたが、入り口のポスターから撮ったものがこちら。

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小さめの色紙で、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」が揮毫されています。短歌自体は明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだものですが、筆跡の感じからして、昭和戦前の揮毫ではないかと思われました。先日も書きましたが、光太郎、この短歌を書いてくれと求められることが多かったそうで、かなり後になっても作例が確認できます。

ちなみにこの展覧会、即売会も兼ねており、こちらは約50万円。まぁ、妥当な価格ですね。

他に、光太郎の師・与謝野晶子や、光太郎と論争もした夏目漱石などの書も。興味深く拝見しました。

こちらは18日(火)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一々認識する事も出来ない、無数の原因から出来上つた自己性情の傾き、自己内心の要求、そお原始的な根源に立つてこそ、人の社会行動は確実な意味を持つて来る。
散文「天」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

題名の「天」に関しては、同じ文章の冒頭で「人間社会の歴史を貫く、超個人的な、社会そのものゝ数理的必然性」と定義しています。

上記短歌では「太古」と言い、ここでは「原始的」と言い、光太郎、どうも光太郎、自らを含む人間はそのDNAレベルで「なるようになる」ようにプログラミングされている、的な考えも持っていたようです。

先頃亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生は、この文章を「戦争期から戦後に至るその行動を解き明かす、一つの鍵が隠されているように思われる」としていました。

都内から書道展の情報です。 

幕末・明治 偉人の書展

期 日 : 2020年2月12日(水)~2月18日(火)
会 場 : 小田急百貨店新宿店 本館10階 美術画廊・アートサロン
       東京都新宿区西新宿1丁目1番3号
時 間 : 朝10時→夜8時 最終日は午後4時30分まで
料 金 : 無料

幕末・明治期にスポットを当て、墨蹟の中でも大変人気が高く入手困難な西郷隆盛をはじめ、いま話題の渋澤栄一や、激動の時代を駆け抜けた維新の志士たちの遺墨を一堂に展示販売いたします。
また、夏目漱石、樋口一葉など同時代の文士の書も併せて展覧いたします。
歴史上の偉人たちの人柄そのものといえる書の魅力を、より身近に感じていただける、またとない機会となります。

《出品予定作家》
西郷隆盛、徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、福澤諭吉、伊藤博文、渋澤栄一、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、高村光太郎、与謝野晶子 他(順不同・敬称略)


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問い合わせたところ、光太郎の作品は、明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」をしたためた色紙(?)とのことでした。当会の祖・草野心平の鑑がついているそうです。

短歌自体は明治39年(1906)の作で、翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されましたが、この短歌、のちのちまで求められて揮毫した例が多く、この情報だけだといつ頃書かれたものかは不明です。

昭和4年(1929)9月1日発行の雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社)第5巻第9号には、「ある日の日記(抄)」という文章が載っており(『高村光太郎全集』には漏れていたものです)、この短歌に関し、次のように述べています。

 某社の依頼により自作短歌の中より五十首を選む。二十年来詠みすてし短歌の数はかなりの量に上るべきなれど、その都度書きとめもせざれば多く忘れ果てたり。記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。
 海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
といふ単純幼稚なる感慨歌は一九〇七年渡米の際、太平洋上の暴風雨中に作りし歌なれば完全に二十年前のものなり。此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。


一九〇七」とあるのは光太郎の記憶違いです。「某社」は改造社。この月発行された『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に関わります。同書には「海にして…」を筆頭に、明治末から大正13年(1924)までの短歌44首と、簡略な自伝が掲載されています。

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此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮007毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」そう言ってしまったら、身も蓋もないような気がしますが(笑)、実際、この歌の揮毫は多数現存します。当方も短冊を一点持っています(右画像)。

『明星』での発表形、初句は「海にして」ではなく「海を観て」となっていました。当方の短冊もそうなっています(ひらがなで「みて」ですが)。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には「海にして」と改められており、明治42年(1909)に留学から帰国した後、改訂するまでの間の揮毫と思われます。光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。


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ちなみにこちらが光太郎が乗り、船上でこの短歌を詠んだアセニアン。香港~バンクーバーをつないでいた貨客船で、光太郎は横浜から乗船しました。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては、小さなものでした。

さて、小田急百貨店さんの「幕末・明治 偉人の書展」。光太郎以外にも、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の書なども展示されます。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が一番求めてゐる事は清らかな美であつて、さまざまな望みが満たされた上にも、結局は此処に来るのだと思ふ。

談話筆記「令嬢の美しさと女優の美しさ」より
大正8年(1919) 光太郎37歳

ゴテゴテと塗りつけた化粧はNG、という話の流れからの発言です。いかにも「自然」を尊ぶ光太郎、ですね。

当会顧問・北川太一先生が亡くなる前からそういう予定だったもので、19日(日)、20日(月)と、一泊で花巻に行っておりました。レポートいたします。

今年はあちこちで雪が少ないという報道には接していましたが、まさにそうでした。例年ですとこの時期、新幹線で仙台を過ぎると銀世界となるという感じですが、今回はまるで春先のような風景が広がっていました。

左は奥州市付近を通過中の車窓から。右は新花巻駅のホームから。その分、レンタカーの運転は楽でしたが。

まずレンタカーを向けましたのは、花巻市総合文化財センターさん。市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、「ぶどう作りにかけた人々」を開催中で、光太郎に関わる展示もしてくださっています。


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総合文化財センターさんのある大迫地区では、戦後、ぶどう作りに取り組み、現在でもエーデルワインさんというワイナリーがあります。その推進に一役買ったのが、昭和22年(1947)から知事を務めた国分謙吉。国分は昭和25年(1950)に光太郎と対談をしたこともあり、その対談の中でもぶどう作り、ワインについて言及していました。そのあたりを展示では紹介してくださっています。

また、この地で実際にぶどう栽培等にあたった高橋繁造旧蔵の、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)書も展示されています。ただし印刷で、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたものです。しかし印刷ではありますが、精巧な作りで自筆と見まごうもの。平成21年(2009)には、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出ました。依頼人は亡父の遺品で、光太郎自筆のものかと思っていたそうですが、残念ながら印刷ということで¥10,000ほどの鑑定。それでも現存数は多いものではなく、当方、入手したいと思いつつ果たせていないものです。

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こちらは2月2日(日)までの開催です。

続いて、花巻高村光太郎記念館さんにレンタカーを向けました。こちらも例年より少ない積雪。この時期、1メートル以上積もっていることも珍しくないのですが。

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こちらでは、やはり「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環で、「光太郎からの手紙」が開催中です。

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同館所蔵の光太郎書簡のうち、初代花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤隆房夫妻に宛てたものが中心でした。


中には『高村光太郎全集』未収録の、現在確認されている中では最後の光太郎書簡も。先月『朝日新聞』さんがこれについて言及してくださいました。

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光太郎が歿する6日前、昭和31年(1956)3月27日のもので、この日は自分でペンを取ることが出来ず、世話になっていた中野の貸しアトリエの大家さんであった、中西富江に代筆して貰っています。

また、昨年、その寄贈が報道された、当時中学生だった横浜在住の女性にあてた葉書。

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どの手紙も、内容的にもさることながら、味わい深い光太郎の筆跡。書の揮毫ほどに力をこめてはいないのですが、その肩の力が抜けた具合、実に絶妙です。

さらに、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展の際に発行された冊子も。表紙は、画家の夏目利政の手になる智恵子の肖像。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。

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このあたり、亡くなった北川太一先生にも見ていただきたかった、と思いつつ拝見しました。

すると、隣の常設展示室から、北川先生のお声が。「ああ、そうだった」と、思い出しました。

すっかり失念していましたが、平成25年(2013)、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の折に、各会場で流したビデオをこちらでも放映させてもらっていまして、その中に北川先生がご登場されていたのでした。

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ちなみに同じビデオには、平成26年(2014)に亡くなった、光太郎令甥・髙村規氏もご出演。そう考えると、このビデオ、今となってはお二人を偲ぶよすがとしても貴重なものとなりました。

その後、隣接する光太郎の山小屋(高村山荘)へ。やはりこの時期としては異例の雪の少なさです。例年ですと、積雪のためこの小屋に近づくことが出来ません。

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久しぶりに中にも入れていただきました。

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雪は少ないとはいえ、冷蔵庫のような寒さでした。改めてここで厳しい生活を送った光太郎に思いを馳せました。

こちらを後に、宿泊先の大沢温泉さんへ。

かつて定宿としていた菊水館さんは、一昨年の台風による道の崩落のため、いまだ休業中。今回も自炊部さんでした。

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障子を開けると、その菊水館さん。

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ゆっくり温泉に浸かり、このところのいろいろあった中での疲れを癒しました。夕食は自炊部さん併設の食堂で摂りました。

本来、自炊部ですので、湯治客用の調理場もあります。下記はガスの自販機的な。いい感じですね。

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当方、使ったことはありませんが。

その晩は、雪でした。翌朝、目覚めると……

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やはりこうでなくては駄目ですね(笑)。ただし、朝の時点では雪というより霙(みぞれ)でした。

上の方に書き忘れましたが、花巻高村光太郎記念館さんでの「光太郎からの手紙」は、1月27日(月)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本語の質を緻密にさせてゐる点でも大いに教はるところがあります。

散文「中村草田男句集『火の島』に寄せる」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳


中村は明治34年(1901)生まれの俳人。

「言葉」の使い方に、実に神経を配っていた光太郎。同じような人々にはこうして共感を示していました。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から、企画展示の情報です。 

令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 「光太郎からの手紙」

期 日 : 2019年12月7日(土)~2020年1月26日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 一般 350円(300円) 小中学生 150円(100円)
      高等学校生徒及び学生 250円(200円) ( )は20名以上の団体
休館日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

光太郎が差し出した手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

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他館開催内容

花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰~生誕130年~」
「リンゴの神様」と言われリンゴ研究の第一人者。後に、北海道大学長となった島善鄰について紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「阿部芳太郎展」
宮沢賢治の詩集『春と修羅』の外箱装丁に携わり、彼が推し進めた農民劇の背景画を担当した花巻の画家として知られています。賢治との交友はもとより萬鉄五郎と交流し、同地域の美術運動をけん引し続けました。今展は、阿部芳太郎の画業を紹介するとともに、賢治や萬との関わりにも光を当てていきます。

花巻市総合文化財センター テーマ「ぶどう作りにかけた人々 ―北上山地はボルドーに似たり―」
昭和22・23年に襲ったカスリン・アイオン台風被害は、現在のぶどう作りのきっかけとなりました。その取り組みに関わった人々やぶどう、ワイン作りの歩みについて紹介します。

花巻市博物館 テーマ「松川滋安と揆奮場」
文武の藩学「揆奮場」を設立するため奔走した、松川滋安。苦難を乗り越えたその生涯を明らかにします。

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関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:2019年12月12日(木) 午前9時から午後3時10分
 2回目:2020年1月9日(木)  午前9時から午後3時10分


花巻市内5つの文化施設で「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」という統一テーマの元に行われる共同企画展。高村光太郎記念館さんが参加するのは今年で3回目となります。一昨年が「高村光太郎 書の世界」、昨年は「光太郎の食卓」でした。

で、今年は「光太郎の手紙」。同館所蔵の光太郎書簡の展示になります。書簡類は、内容もさることながら、光太郎の味わい深い文字も魅力の一つです。リスト等まだ送られてきてませんので、具体的にどういう手紙が展示されるか不明ですが、わかり次第ご紹介します。ただ、先頃報じられた神奈川の女性から寄贈を受けたハガキは出ると思われます。


また、当方の把握している限り、総合文化財センターさんの展示で、光太郎がらみの展示品が出ます。

詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の、光太郎自筆草稿を印刷したものです。

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同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたもの。平成21年(2009)頃、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、これ(または昭和30年=1955作の「開拓十周年」を同じように印刷したものだったかもしれません)が出ました。鑑定依頼人(亡父の遺品、的な感じだったと思います)は直筆だと思っていたようですが、印刷ということで1万円くらいの鑑定結果だったと記憶しております。ただ、印刷ではありますが、現存数もそう多くなく、貴重なものではあります。当方、入手したいと思いつつ果たせていません。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一億の生活そのものが生きた詩である。

散文「戦争と詩」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

それはそうなのでしょう。そうなのでしょうが、この後に続く一文はいただけません。曰く「一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。」捨て身の覚悟で聖戦完遂にのぞむべし、ということですね。

また、この後の部分にはこんな一節も。「皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最後にのぞんで心安らかに、大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。」

同じ文章で「一億の生活そのものが詩である」といいながら、将兵たちの「このまことを措いて詩を何処に求めよう」。矛盾しています。或いはすべての日本人が前線の将兵の如き心構えをもって事に当たれ(いわば「国民皆兵」)ということでしょうか。

今年ももうすぐ12月8日、太平洋戦争開戦の日となります。毎年のように自称“愛国者”が光太郎の翼賛詩をネットで紹介し、「これぞ大和魂の顕現」とありがたがる憂鬱な時期です。

昨日は都内に出ておりました。

先日の第64回高村光太郎研究会でご発表なさった書家の菊地雪渓氏が、大賞に当たる内閣総理大臣賞を受賞された「第41回東京書作展」を拝見のため、上野の東京都美術館さんに。

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受付で菊地氏から頂いた招待券を提出、会場内へ。

菊地氏もいらしていて、女性ファンに囲まれ、ウハウハでした(笑)。

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菊地氏、昨年の同展では光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)を書かれた作品で「特選」。今年は白居易(楽天)の漢詩で臨まれました。

以下、『東京新聞』さんに載った氏の談話。

令和元年東京書作展において、念願であった大賞を拝受し大変嬉しく思います。受賞作は、白居易の「題詩屏風絶句并序」です。本文は七言絶句ですが、先に百三十六文字からなる序文があります。両者の対比を考慮し、大小、太細、潤渇を駆使し、相互に濃淡が映える工夫をしました。制作直前に、白居易ゆかりの地、洛陽を訪れ、大きな感銘を受けた事は作品制作に於いて精神的な支えとなりました。この受賞を励みとし、普遍性を持った自身の書を追求し、書の文化とその魅力を後世に伝えて行くという使命を持って書に取り組んで行きたいと思っております。

菊地氏、白居易のあまり知られていない七言絶句を書かれたそうですが、ちなみに光太郎、白居易に関しては、明治36年(1903)の『明星』に寄せた「口あいて山の通草(あけび)の愚(ぐ)は避けねもとより居易(きよい)の下司を願はぬ」という短歌(今ひとつ意味不明なのですが)で取り上げた他、散文「芸術上の良知」(昭和15年=1940)でも触れています。曰く、

此の俳句を読んでこの閑寂の美を味ひ得るためには、われわれはこの俳句の背後に千百年の歳月の連綿たるものがある事にも気づかねばならぬ。この俳句が美である為には、そのうしろに宋因があり、西行があり、新古今集があり、更に方丈記があり、平家物語があり、紫式部があり、往生要集があり、水にすむかはずの古今集があり、又杜甫があり、白楽天があることを要する。

此の俳句」は松尾芭蕉の「古池や……」を指します。


さて、他の出品作も拝見。光太郎の詩を題材にした書もあるだろう、と思って見てまわりましたところ、果たしてありました。

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左から、「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)。この三作は光太郎詩の中でも、人口に膾炙しているものですね。

あまり有名でない、というかほとんど知られていない光太郎詩を取り上げて下さった方もいらっしゃいました。

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昭和2年(1927)の「平和時代」という詩です。なぜか1行目と最終行が書かれていないのですが。

ざっと見た限り、見落としがなければ上記4点で、近代詩文書では藤村などと並び、光太郎の詩がもっとも多かったのではないかという感じでした。

書家の皆様には、これからも光太郎詩を取り上げ続けていただきたいものです。


こちらに伺う前に、国立国会図書館さんにも行っておりました。例によって調べものです。光太郎と交流のあった岩手出身の画家について調べるのと、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎文筆作品の調査。

国会図書館さん、その蔵書検索の機能やデジタル化など少しずつ進化していますし、古い時代の蔵書の数も増えているようです。

昨日は、昭和20年(1945)8月25日、盛岡の岩手県公会堂内の食堂で行われた「ものを聴く会」という催しで、光太郎が語った長い談話を見つけました。掲載紙は当時の『新岩手日報』です。

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終戦後すぐ、光太郎はほうぼうの友人等に、花巻郊外太田村に移住し農耕自炊の生活に入ることを知らせる書簡を送りました。その中で、彼の地を本阿弥光悦の鷹峯のような文化村にする、的な意図が語られており、研究者の方々は当時の光太郎の心境をよく表しているとして、それらの書簡群を引用されています。それと同様の発言がさらに詳しく為されている他、終戦の玉音放送に題を採った詩「一億の号泣」で、「鋼鉄の武器を失へる時/精神の威力おのづから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と記した真意なども語られており、非常に興味深い内容でした。

ただ、終戦直後の混乱期のため、印刷の事情などもよくなかったようで、活字がかすれていたり、逆に真っ黒につぶれていたりしていて判読が困難な箇所もあります。何とか翻字し、高村光太郎研究会から来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」でご紹介したいと思っております。

ちなみに短めの談話は他にも3点見つけました。戦時中の工場等の環境に関する件、昭和28年(1953)、日本芸術院会員推薦を拒否した件、そして同年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕後に、一時的に花巻郊外旧太田村へ帰った際のものです。『高村光太郎研究』が刊行されましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

詩の世界では、表現が方法の位置を取らない。詩は直接に表現に拠り、表現そのものが詩に憑かれる。

散文「詩と表現」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

要するに、詩は心境の自然な発露、ということでしょうか。

昨日は第64回高村光太郎研究会でした。KIMG3431

会場は江東区の東大島文化センターさん。生憎の雨でしたが、稀代の雨男だった光太郎の魂がやってきているのかな、という感じでした。まったくいつもいつも、不思議とと光太郎がらみのイベントは雨に見舞われます。

研究会は、会としてはHPなどもなく、こぢんまりと行っている催しで、少ない時は参加者が発表者を含めて5~6人だった年もありましたが、昨日は20名超のご参加。元々の会員の方が光太郎に興味があるという皆さんを誘ってお連れになったり、ご発表の方が発表するから、ということでお仲間にお声がけなさったりで、盛況となりました。

ご発表はお三方。

まず初めに、元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏。現在は定年退職なさり、群馬県立女子大学さんで非常勤講師をなさっているそうです。

発表題は「心平から見た光太郎・賢治・黄瀛」。大正から昭和にかけ、戦争やら中国の文革やらの影響で、断続的になりつつも深い絆で結ばれていた光太郎、当会の祖・草野心平、それから心平を光太郎に紹介した黄瀛。そこに宮澤賢治がどう絡んだか、的な内容でした。

KIMG34334人全員が、心平主宰の雑誌『銅鑼』同人でした。そのうち光太郎と黄瀛は、それぞれ一度ずつ、早世した賢治と会っています。光太郎は大正15年(1926)、駒込林町のアトリエ兼住居に賢治の訪問を受け、黄瀛は昭和4年(1929)、花巻の賢治の元を訪れています。それに対し、心平が直接賢治と会うことは、生涯、叶いませんでした。しかし、賢治に会った光太郎や黄瀛以上に、賢治の精神を深く理解し、共鳴し、たとえ顔を合わせることはなくとも、それぞれの魂で結ばれていたと言えるかも知れません。

小野氏のご発表は、特に心平が花巻の賢治訪問を思い立って赤羽駅のホームに立ちながら、結局、行き先を新潟に変更してしまった昭和2年(1927)1月の話が中心でした。当方、寡聞にしてその件は存じませんで、興味深く拝聴しました。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご子息、北川光彦氏。父君の介添KIMG3434え的にずっと研究会にはご参加下さっていましたが、ご発表なさるのは初めてでした。題して「高村光太郎の哲学・思想・科学 高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは――画竜点睛、造型に命が宿るとき――」。

光太郎の美術評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)などに表された思想が、同時代の世界的な哲学の潮流――ウィトゲンシュタイン、ユクスキュル、西田幾多郎など――と比較しても非常な先進性を持っていたというお話など。

そして光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった結論でした。そうした見方をしたことがなかったので、これも新鮮でした。光彦氏、ご本業は半導体などのご研究をなさる技術者でして、そうした観点から見ると、違った光太郎像が見えるものなのだなと感じました。

KIMG3436最後に、書家の菊地雪渓氏。光太郎の詩句を題材にした作品も多く書かれている方です。過日もご紹介いたしましたが、今年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさいました(そちらの作は光太郎ではなく白居易でしたが)。

何と実演を交え、光太郎の書がどのようなことを意識して書かれているかの分析。特に仮名の書が、それぞれの字母(「安」→「あ」、「以」→「い」、「宇」→「う」といった)の草書体をかなり残している、というお話。参加者一同、「ほーーーー」という感じでした。

また、光太郎が範とした、黄山谷(庭堅)についてのお話なども。山谷は、中国北宋の進士。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は山谷の書を好み、最晩年には、終焉の地となった中野の貸しアトリエの壁に山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

今回のお三方のご発表、おそらく来春刊行される会の機関詩的な雑誌『高村光太郎研究』に、それを元にした論考等の形で掲載されると思われます。刊行されたらまたご紹介します。

終了後は、近くの居酒屋で懇親会。和気藹々と楽しいひとときでした。「高村光太郎研究会」、学会は学会なのですが、肩のこらない集いです。特に事前の参加申し込み等も必要なく、入会せず聴講のみも可。多くの皆様の来年以降のご参加をお待ちしております。


【折々のことば・光太郎】

之等の画幅を熟覧しながら、まことに画は人をあざむかないと思つた。

散文「所感――『宅野田夫画集』――」より
昭和15年(1940) 光太郎58歳

宅野田夫は、初め岡田三郎助に洋画を学び、のち、南画なども描いた画家です。ここでいう画幅は南画系のものと思われます。

よく「書は人なり」と言いますが、光太郎にとっては「画も人なり」だったようです。そうした話は、研究会での菊地氏(書)、北川氏(「レンマ」知性といったお話)のご発表にもあり、納得させられました。

学会情報です。

第64回高村光太郎研究会

期 日 : 2019年11月23日(土)
会 場 : 江東区立東大島文化センター 東京都江東区大島8-33-9
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「黄瀛から見た光太郎・賢治・心平」  
   元いわき市立草野心平記念文学館 小野浩氏

 「高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは」
   当会顧問北川太一氏子息 北川光彦氏

 「光太郎の書について―普遍と寛容―」
   書家 菊地雪渓氏

終了後懇親会有り

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、年に一度開催されています。

今年の研究発表はお三方(例年、お二方なのですが)。皆さん連翹忌ご常連で、さらに連翹忌以外にも、あちこちのイベント等でお会いしています。当方としては気心の知れた方々です。

小野浩氏は元いわき市立草野心平記念文学館さんの学芸員。「いわき賢治の会」等でも活動されています。そこで、宮沢賢治、当会の祖・心平、そして花巻まで賢治を訪ねていった黄瀛らと光太郎との関わり、といった内容のようです。

北川光彦氏。当会顧問・北川太一先生のご子息です。ご本人は「門前の小僧で……」とおっしゃっていますが、最近は文治堂書店さんのPR誌『トンボ』にも寄稿されるなど、精力的に活動されています。

書家の菊地雪渓氏は、光太郎詩文による書作品で、昨年の第38回日本教育書道藝術院同人書作展会長賞や第40回東京書作展特選といった栄冠に輝いています。さらに今年の第41回東京書作展では内閣総理大臣賞(大賞)だそうです。


研究会への入会は年会費3,000円の納入で、どなたでも可。年刊機関誌『高村光太郎研究』が送られ、そちらへの寄稿が出来ます。入会しなくとも年に1回の研究会のみ聴講も可能です。


ぜひご参加を。


【折々のことば・光太郎】

このつつましく、ほつそりと何気なく立つてゐる仏弟子の美しさは彫刻的要約の一典型であり、かういふ美は他に比類が無いやうだ。

散文「興福寺十大弟子」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

奈良興福寺さんの十大弟子像は、有名な阿修羅像と同じく天平期の乾漆像です。やはり光太郎の範とする彫刻のあり方の一つの典型例なのでしょう。

下記はこの文章の掲載誌『日本美術の鑑賞 古代篇』(帝国教育界出版部 北川桃夫・奥平英雄共編)より。


11月2日(土)、盛岡を後に、レンタカーで一路、花巻へ。宿泊先である在来線花巻駅前のかほる旅館さんにチェックイン。かほる旅館さんは、先月の市民講座「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際に引き続いてです。初めて泊めていただいたのが20数年前、それ以来、何だかんだで10回近くはお世話になったでしょうか。

一泊素泊まり5,000円也。夕食は外で。

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徒歩数分の、いとう屋さんへ。戦後の光太郎日記にたびたび記述があり、当時の花巻町中心部で光太郎が最も多く利用したと思われる食堂です。建物はリニューアルされていますが。

腹を満たしたところでかほる旅館さんに帰り、入浴、就寝。翌朝は7時に出ました。

まずレンタカーを向けたのが、大沢温泉さん。

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出来ればこちらに泊まりたかったのですが、紅葉シーズンの土曜日で、頼もうとした時にはもう満室でした。しかし、意地でもここの露天風呂につかりたいと思い(笑)、日帰り入浴600円也で入湯。

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紅葉が見頃でした。


露天風呂だけが目的ではなく、メインの目的は、休業中の菊水館さんを使っての「昔ギャラリー茅(ちがや)」の拝見でした。

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花巻で宿泊予約する際、まず菊水館さんに当たるのが習慣で、年に数回泊めていただいていましたが、昨年8月の台風で、こちらにつながる道路の法面(のりめん)が崩れ、食材やらの物資搬入等が困難ということで、昨年9月いっぱいで一時休業となってしまいました。そこで、今年6月から「昔ギャラリー茅」として、いろいろな展示を行っています。

先月、花巻に伺った際には立ち寄る時間が無く、今回、お邪魔した次第です。

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建物は築170年近いもので、やはり戦後の光太郎日記に、光太郎もこちらに泊まったことが記されています。

展示も入れ替えがあるようで、現在は「大沢温泉×岩手大学 学生 コラボレーション企画 今昔の彼方へ」ということで、現代アート的な作品の展示もありました。

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上記は当方、一度泊まった部屋。ただ、よく泊めていただいていた梅の間の棟は使っていませんでした。

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こちらは菊水館さんの内湯・南部の湯の女風呂。当方、初めて足を踏み入れました(笑)。

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他に、宮澤賢治関連、南部のお殿様関連、昔の品々などの展示も。エンドレスで流れていたアナウンスでは光太郎関連も、という内容でしたが、今回は見あたりませんでした。

こちらは元の食堂。ここに泊めていただいた時には、朝夕、素朴ながらも美味しい料理に舌鼓を打っていたことを思い出し、涙が出そうになりました。

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ギャラリーとしての活用もいいと思いますし、皆様にもぜひ足をお運びいただきたいのですが、やはり宿泊施設として、一日も早い再開を希望します。


大沢温泉さんをあとに、花巻高村光太郎記念館さんへ。

先月、ダッシュでしか見られなかった企画展示「高村光太郎 書の世界」をゆっくり拝見。


額の裏に、当会の祖・草野心平の揮毫のある作品も。

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昨年の企画展示「光太郎と花巻電鉄」の際に、ジオラマ作家・石井彰英氏に制作をお願いしたジオラマは、常設展示室に移動していました。広い部屋に置くと、この大きさがさらに際だつなと思いました。

その後、事務室で今後の企画展等についての相談やらを受け、さらに隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)へ。

こちらも紅葉がいい感じでした。最近はキツネが出没するそうです。

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内部の照明に手を入れたそうで、確かに以前より見やすくなっていました。

お土産に当方大好物のリンゴをたくさんいただき、大感激のうちにこちらを後にし、最後の目的地へ。市街桜町の、故・佐藤進氏邸です。

先月11日に亡くなられた進氏、父君の佐藤隆房は賢治の主治医で、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏ご自身も、光太郎と交流がおありで、父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

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こちらは高村山荘套屋内部に飾られている写真。前列中央が光太郎、後列右端が進氏、一人おいて父君です。

先月のご葬儀には参列適わず、弔電は送らせていただいたのですが、やはり四十九日前にはご焼香を、と思い、参じました。奥様がいらしていて、対応して下さいました。

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改めてご冥福をお祈り申し上げます。


その後、東北新幹線新花巻駅でレンタカーを返却、帰途に就きました。以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人間以上の人間がそこにいるように見える。美はここに至つて真に高い。われわれの魂はもろもろの附属物を洗い去られて、ただ根源のものこそ貴重だということを悟らせられる。

散文「ロンダニーニのピエタ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダン同様、光太郎が終生敬愛して已まなかったミケランジェロの有名な作品の一つ、「ロンダニーニのピエタ」に関してです。

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当方、光太郎の彫刻に関して、同じようなことを感じます。

明治から昭和にかけて活躍した画家・挿絵画家・漫画家、池田永治(いけだえいじ)。光太郎より6歳年下の明治22年(1889)、京都の生まれです。亡くなったのは光太郎より早く、昭和25年(1950)。歴史上の人物ということで、申し訳ありませんが呼び捨てにさせていただきます。

今年の夏、子息の辰彦氏からご連絡を頂きました。永治が光太郎に書いて貰った「書」が現存するのだが、どんなものだろうか、というお話でした。そこで、メールで画像を送っていただき、拝見。驚愕しました。他に類例のない大珍品だったためです。

他の人物等に光太郎が書いてあげた書は、現存数、決して少なくありません。各地にかなり残っています。そのほとんどがそうした場合の通例である色紙や著書の見返しなどに書かれたもの。しかし、件(くだん)の「書」は、なんとチョッキの背部に書かれたものだったのです。

文言は、「美もつともつよし」、無理くり書き003下せば「美最も強し」。為書(ためがき)的に「池田永一治画伯に献ず 光太郎」。「永一治」は、昭和3年(1928)以後の池田の号です。早世した妹の死を悼み、奮起しようと「永」と「治」の間に「一」を挿入し、「一つ増やす」という意味を込めたそうです。ただ、読み方は「えいじ」のままだったとのことですが。筆跡は間違いなく光太郎のもの。文言の「美最も強し」も、いかにも光太郎という感じです。同趣旨の「美ならざるなし」とか「美しきもの満つ」といった文言の書は複数現存していますが、「美最も強し」という文言は初めて見ました。

そして、揮毫の日付を見て、二度驚愕。「昭和二十年五月十四日」と書かれています。なんとまあ、光太郎が疎開のために岩手花巻の宮澤賢治の実家に発つ前日です。4月13日の空襲で、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居は全焼、しばらくは近所にあって消失を免れた妹・喜子の婚家に身を寄せていた光太郎ですが、以前から賢治の父・政次郎や賢治の主治医・佐藤隆房らから、花巻への疎開を勧められており、5月15日には上野駅から花巻に向かいました。

池田も昭和12年(1937)から駒込林町に住んでいたそうで、古地図で調べてみましたところ、直線距離で200㍍ほどの、本当に近所でした。さらに光太郎アトリエ兼住居と池田邸のちょうど中間あたりが光太郎実家の現髙村家(旧光雲邸)でした。『高村光太郎全集』には池田の名は記されていませんが、おそらく以前から交流があったか、少なくとも顔見知り程度ではあったと思われます。

ちなみにやはり近所の森鷗外邸(観潮楼)は、それ以前にやはり空襲で焼けています。近くでありながら旧光雲邸は焼けず、池田邸も無事でした。しかし、あちこちで火がくすぶっていた極限状況下で書かれた「書」。どこでどういうシチュエーションで書かれたのか詳細は分からないそうですが、おそらく光太郎が「明日、花巻へ発つ」という話を池田にし、池田が「ではお別れに何か書いて下さい」となり、といっても色紙など用意できようはずもなく、着ていたチョッキの背に書いて貰ったと推定できます。そして同じく「美」に携わる者同士、がんばろう、ということで「美もつともつよし」と書いたのではないでしょうか。凄いドラマだと思います。

で、子息の辰彦氏から、4冊の書籍を頂きました。

左上から、チョッキの写真も載っている『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』、池田は俳句、俳画も多く残したということで、『俳画家 池田永一治俳句集』、『新理念 俳画の技法 復刻版』、そして昭和5年(1930)から翌年にかけ、『読売新聞』に連載されたという『こども漫画 ピチベ 第二版』。すべて神戸新聞総合出版センターさんから辰彦氏らご遺族の私刊という形で、今月刊行されたものです。永治の業績をまとめておこうという意図だそうで、頭が下がります。

これらを拝読し、またまた驚愕(笑)。

まず、池田が太平洋画会の中心メンバーだったということ。当方、存じませんでした。太平洋画会といえば、光太郎と結婚披露前の智恵子が、日本女子大学校卒業後に通っていました。そこで調べてみましたところ……

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明治45年(1912)の同会第10回展で、智恵子と池田の作品が並んで出品されていました。当然、池田と智恵子、交流があったでしょうし、のちに光太郎と池田の間でも、智恵子の話題になったでしょう。これにも本当に驚きました。

それから、池田は同じく挿絵画家・漫画家だった岡本一平とも交流がありました。一平は岡本太郎の父。妻のかの子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』メンバーでしたし、一平自身、東京美術学校西洋画科で、彫刻科を卒(お)えて再入学した光太郎と同級生でした。

また、これも当方存じませんでしたが、中原中也に「ピチベの哲学」という詩があるそうで、これは上記の『こども漫画 ピチベ 』からのインスパイアではないかという説があるそうです。中也といえば、当会の祖・草野心平を介して光太郎と知り合い、その第一詩集『山羊の歌』の装幀、題字を光太郎が手がけました。

現在と異なり、芸術界が狭かった時代ではありますが、こういう部分であやなされる人間関係には、実に驚かされます。

さて、池田永治、明治大正昭和の文化史の、貴重な一面を担った人物であると改めて感じ入りました。これを機に、もっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

そして自分の作らうとする胸像に、若し此の内から迸出する活発な内面生活の発露がなかつたら、其は無意味な製作に終る事を痛感しました。思想を持ち、信念を持ち、愛を持つ人格が出なかつたら、それきりだと思ひました。
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散文「成瀬先生胸像の製作に従事して」より
大正9年(1920) 光太郎38歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」につき、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さっています。

書でたどる創作の日々 光太郎記念館企画展 初公開資料も【花巻】 

 高村光太郎記念館の企画000展「高村光太郎 書の世界」は、花巻市太田の同館で開かれている。書額や原稿など花巻で生み出された作品を通し、光太郎の創作の日々をたどる企画。初公開資料もあり、多くの光太郎ファンでにぎわっている。11月25日まで。
 同館企画展示室に特設コーナーを設け、詩人の草野心平に贈られた色紙額「不可避」や旧山口小学校の依頼を受け揮毫(きごう)した書額「正直親切」など26点を展示。1950年に旧太田村役場改築記念として制作された「大地麗(だいちうるわし)」は7年ぶりの実物展示とあり、来館者の関心が高い。
 このうち光太郎晩年の芸術評論「書についての漫談」原稿は初めて公開される資料。「その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかわらず必ず書ける。その代り、いくら骨折っても自分以上の書はかけない。(中略)卑しい根性の出ている書がいちばんいやだ」などの主張が印象的な直筆資料で、読みやすい文字と少ない訂正箇所、著名書作家にも言及した評論の鋭さなどが興味深い。
 各資料には制作時期や当時の逸話を記した説明書きもあり、花巻での小太郎の生活や交遊などもうかがい知れる企画展。同館では「(光太郎の)花巻時代の物がまとまって外に出る貴重な機会。作品だけでなく当時のエピソードも紹介できることが(同市)太田で開く企画展の意義」と話し、多くの来館に期待を寄せる。
 午前8:30~午後4時30分。期間中無休。一般入場料550円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012まで。



「大地麗」の書については、花巻市さんの広報紙『広報』はなまきの10月15日号でも取り上げられています。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」というコーナーです。
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この書を書いてもらうにあたって、そうホイホイと書を書いてくれるわけではなかった光太郎に対し、当時の高橋雅郎村長ら、村の中心人物たちは一計を案じました。「女性の頼みなら、無礙に断ることもあるまい」と、村長夫人のアサヨさんを依頼に派遣したのです。ちなみに彼の地で永らく光太郎の語り部を務められた高橋愛子さんはそのご令嬢です。その作戦が当たり、光太郎はこの書を書いてくれました。


もう1件。花巻市さんでは季刊で冊子体の広報誌『花日和』も刊行していますが、その2019年秋号。光太郎も足繁く通った大沢温泉さんが大きく取り上げられています。

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大沢温泉さん、昨年8月の台風13号で、別館的な菊水館につながる道路の法面(のりめん)が崩落、食材などの物資を搬入するのが困難となったため、宿泊棟としては休業せざるを得なくなりました。が、建物自体に被害はほとんど無く、今年6月から、ギャラリーとしての活用を始めたそうです。その名も「昔ギャラリー茅(ちがや)」。

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いずれ宿泊棟としても再開されるはずですが、当分はこういう活用のようです。やはり建物は利用されないでいると、何というか、生命力みたいなものがどんどん失われるわけで、なかなかいいアイディアですね。

来月初めにまた東北に行く予定があり、宿泊は花巻でと考え、大沢温泉さんで営業中の湯治屋さん(自炊部)、通常の温泉旅館的な山水閣さんを当たりましたら、既に満室でした。まぁ、紅葉シーズンですし、菊水館さんの分のキャパが減っているので仕方がありません。ただ、日帰り入浴を兼ねて、拝見してこようと思っております。

記念館さんも含め、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて美の発見には眼を新にするといふ事が必要である。唯ひたすらに在来の物の見方にのみ拘泥して其の美の基準からばかり物をうけ入れてゐると、知らぬまに感覚が麻痺して、眼前に呈出された美を見損ふ事がある

散文「服飾について」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

光太郎、伝統的な美の尊重も大事だと考えていましたが、新しい美の創出にも貪欲でした。

ただ、この文章、戦時下でもんぺ姿の女性達にも美を見出すべきだ、というのが趣旨で、何だかなぁ、という感じではあります。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻旧太田村の山小屋(高村山荘)と隣接する、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2019年9月27日(金) ~11月25日(日) 会期中無休
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。
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同館では、一昨年にも同名の展示を行いました。その際は花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環でしたが、今回は単独開催のようです。

10月7日(月)、花巻市・北上市で行われた市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の最中、トイレ休憩で同館駐車場に立ち寄った間隙に、急いで写真を撮らせていただきました。
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展示品の目録がこちら。
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一昨年の展示とだいたいかぶっていますが、そうでないものも出ています。いずれにしても優品揃いです。

「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で見て回った石碑類に刻まれた碑文の元となった書も多く、同講座参加者の方にはぜひ併せて見ていただきたいものですし、その他の皆さんもぜひ足を運んで下さい。

当方、来月初めにまた改めて拝見に伺います。


【折々のことば・光太郎】

僕等が一番望みを掛けて居るのは、次の世代を形造る今の少年である。今の人はこの子供を自分達より大事にしなければならぬ。さうしてそれに自分達が教育して欲しかつたことを教育してやつて、次の代を立派にしなければ駄目である。
談話筆記「戦後の我が芸術界」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「戦後」といっても太平洋戦争ではなく、第一次世界大戦を指しています。師・与謝野夫妻や光太郎も関わった、文化学院さんなどの大正自由教育運動などを念頭に置いた発言でしょう。

過日、同じ時期に書かれた「教育圏外から観た現時の小学校」という散文を見つけました。光太郎の教育論が端的に示されています。高村光太郎研究会さんから来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』にてご紹介するつもりでおります。

東北レポートの2回目です。

10月6日(日)、智恵子を偲ぶレモン忌が催された福島二本松をあとにして、その日のうちに岩手花巻まで移動しました。翌日朝から夕方まで、市民講座の講師を仰せつかっていたためです。
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講座のタイトルが「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」。わざわざ当方の名なぞタイトルに入れる必要もないのですが、知らぬ間にそういうことになっていました(笑)。花巻市内と隣接する北上市で、光太郎ゆかりの石碑等をバスに乗って見て歩き、それぞれの石碑等の解説を当方が行うというツアーです。

花巻に着いたのが午後9時頃。もともとそのくらいの予定でしたし、集合場所である市の施設・まなび学園さんが市街地中心部ということで、宿泊は普段の温泉峡ではなく、在来線花巻駅前のかほる旅館さん。昔ながらの商人宿といったたたずまいです。講話を仰せつかった3年前の賢治祭の時などもかほる旅館さんでした。
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市役所の方がかほる旅館さんまで車で迎えに来て下さり、集合場所のまなび学園さんへ。ここから参加者の皆さんとバスに乗り込み、いざ、ツアー開始。
 
走り出してすぐの当方挨拶では、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、これから巡るそれぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたい、的な話をさせていただきました。

さて、最初の目的地、花巻北高校さん。旧制花巻中学校の後身です。有名な卒業生は元NHKさんの名物アナ、故・高橋圭三さん、それからご卒業はされていないということですが、ミュージシャンの故・大瀧詠一さんなどなど。高校さんと光太郎に直接の関わりはありませんが、光太郎の精神に学んでほしいという昭和51年度(1976年度)の卒業生保護者の皆さんにより、高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)、台座に光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)の一節が刻まれています。
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続いて、花巻温泉の「金田一国士頌碑」。昨年、国の登録有形文化財に指定された旧松雲閣別館の、道をはさんだ向かいにひっそり建っています。
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グループ企業としての花巻温泉社長だった金田一国士の業績を称える碑で、金田一の没後10年の昭和25年(1950)に建立。碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下記は除幕式の集合写真。左の方に光太郎も居ます。ガタイがいいのですぐわかります(笑)。
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その後、豊沢川にかかるかつて光太郎も渡ったであろうことから命名された「高村橋」を渡り、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある旧太田村へ。ここで高村山荘、そして隣接する高村光太郎記念館さんの駐車場にまずバスを駐め、10分のトイレ休憩。

その10分間に当方はダッシュで高村光太郎記念館さんへ。
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また来月初めにゆっくり見に行きますし、明日、詳しくご紹介しますが、企画展「高村光太郎書の世界」が開催中です。

さて、山荘敷地内にも光太郎関連の碑が4つあるのですが、時間の関係で割愛。山荘の土地を提供してくれた駿河重次郎が、戦死した子息の追善供養のため、かつて光太郎に貰った書を昭和32年(1957)になって石に写して建てた「金剛心」碑を見学。
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この日初めて、光太郎筆跡による碑ということになります。

続いて、山荘入り口の旧山口小学校。石ではなくコンクリート的な素材ですが、「正直親切」碑。かつてここにあった山口分教場が小学校に昇格した際に書いてあげた校訓です。同じ筆跡を使った碑が、光太郎の母校・東京都荒川区立第一日暮里小学校さん、それから光太郎を敬愛していた故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにもあり、そういう部分ではちょっと珍しいのではないかと思います。
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さらにこの地区の共同墓地。「金剛心」碑同様に駿河翁の肝いりで、光太郎の書を写した「皆共成仏道」碑。訓読すれば「皆共に仏道と成る」。「金剛心」ともども仏典由来の言葉です。昭和34年(1959)の建立です。
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この周辺が林檎畑。講座のタイトル「詩と林檎のかおりを求めて」の通りでした。
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旧山口小学校跡地の向かいにある「太田開拓三十周年記念碑」。昭和51年(1976)の建立で、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。曰く「開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる」云々。まがりなりにも農作業に従事していた光太郎の言葉だからこそ、重みがありますね。

バスに乗り込み、北上市へ。午前中最後の見学地・後藤地区の平和観音堂さん。
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当地で教師をしていた高橋峯次郎という人物が、戦没者供養のために建てたもので、ここの一角に光太郎碑が建っています。高橋は自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、昭和27年(1952)、光太郎に本尊の彫刻を依頼しました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりに観音讃仰の詩を書いた書を高橋に贈り、高橋が石碑にしたというわけです。くわしくはこちら

こちらの一行が着いた時、地元小学生の一団がやはり見学に訪れていました。ただし、光太郎碑というより、高橋の事績の学習のようでした。ついでで結構ですので(笑)、光太郎との関わりなども教えていただきたいものです。

ちなみにこちらは個人が建てたものではありますが、光太郎生前唯一の、光太郎の筆跡になる光太郎詩碑です。

その後、北上駅近くのホテルで昼食。お腹もふくれたところで午後の部に突入。同じ北上市の飛勢城趾に向かいました。

平成3年(1991)、竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。その内の一つがここにある光太郎詩碑です。刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」(昭和22年=1947)の一節。昭和25年(1950)に光太郎がこの近くで講演をした際にこの詩を朗読したというゆかりがありますし、「北上平野」の語も使われています。

ただ、以前も書きましたが、建立当初は碑のある場所からも非常に素晴らしい展望だったのが、30年近く経って繁茂した草木が展望を妨げ、碑のある場所からは何も見えなくなり、碑自体も埋もれる寸前です。下記は碑の前の展望台から撮影しました。
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続いて花巻市に戻り、文化センターでトイレ休憩。ここで、予定を変更し、急遽、ぎんどろ公園の宮澤賢治の「早春」詩碑も見学しました。
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この日、二番目に訪れた花巻温泉の「金田一国士頌」碑と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑、という話を「金田一国士頌」碑の前でしたところ、時間もあるし、ついでに見ておきましょうということになった次第です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

次の目的地はそこからほど近い石神地区の林檎園。当地の林檎栽培先駆者の一人、阿部博を顕彰する碑が建っています。
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刻まれているのは光太郎の筆跡で、阿部のために光太郎が即興で作った詩「酔中吟」。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス


七・七基調の俗謡調ですので、最後は「デリシャス」と読まず「デリシヤス」と五音で読めば調子がいいようです。「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう称したわけですね。阿部は盛岡高等農林学校で賢治の教えを受け、のち、賢治の主治医で太田村に移る直前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房医師の家で、宮沢家を通じて光太郎と知り合いました。

当方、この碑を見るのは25年ぶりくらいで、懐かしく感じました。25年前、碑の詳しい場所も分からないまま花巻駅からタクシーに乗り、「石神でリンゴやってる阿部さん」と言い、運転手さんが苦労して阿部さん宅を見つけて下さいました。さらに博氏の子息と思われる方が、「石碑はここではないんだ」と、ご自宅から少し離れたこの畑まで自家用車に乗せて下さいました。

同様に、25年ぶりに訪れたのが、次の岩手雪運株式会社花巻物流センター敷地内の「牛」碑。
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元々、雪印乳業さんの花巻工場だった昭和43年(1968)、「牛」つながりで光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。

傍らには、ここが雪印さんの工場だったという碑。平成21年(2009)の建立です。『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん今年の4月号に紹介が載っており、「こんな碑が建ったんだ」と思っていまして、初めて目にしました。
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表面には光太郎肖像写真、裏面には光太郎の事績が刻まれています。ありがたし。

さて、いよいよ最後の訪問地、花巻市街の松庵寺さん。

こちらには光太郎碑が三基建っています。
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建立順に、右が昭和48年(1973)の建立で、昭和22年(1947)、光太郎がここで二十三回忌の法要をしてもらった母・わかを偲んで詠んだ短歌「花巻の 松庵寺にて 母に会ふ はははりんごを たべたまひけり」が刻まれています。わかは大正14年(1925)に亡くなっていますが、リンゴをお供えした母に再会出来たような気がする、といった歌ですね。

左は詩「松庵寺」(昭和20年=1945)が、佐藤隆房の筆跡でブロンズパネルになっています。「松庵寺」は、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)以来、4年ぶりに、また、戦後初めて書かれた智恵子を題材とした詩です。碑の建立は昭和62年(1987)。

中央がその「松庵寺」英訳の碑です。花巻北高校さんなどで英語の先生をなさっていた平賀六郎氏が、日本を訪れる外国の方に日本文化を知って欲しいと英訳されたもので、碑は平成20年(2008)に建てられました。

この三基の碑の前で、当方最後のご挨拶。最初と同じように、光太郎という人物の人となりの一端に触れていただくとともに、それぞれの石碑等の建てられた背景、それぞれの建立に関わった人々の胸の内にも思いを馳せていただきたかったのですが、いかがだったでしょうか、的に話をまとめました。それから、堅牢な石碑といえども永遠のものではなく、やがては地上に割れてくずおれる日も来ようかと思われますが、そうなる日が少しでもあとのばしになって欲しい、そして、光太郎の名や業績や、次の世代へと語り継ぐ責務が我々にはあるんだよ、的な話も。

そしてまなび学園さんに戻り、午後3時、解散。

一日がかりの行程でしたが、それでも割愛した石碑もかなりありました。前述の高村山荘敷地内、それから、市街地なので参加者の方々もいつでも行けるでしょうということで、市役所近くの鳥谷崎神社さんにある「一億の号泣」(昭和20年=1945)詩碑、桜町の光太郎が揮毫した賢治の「雨ニモマケズ」碑。それから、東北新幹線の新花巻駅方面に、個人の方が個人の敷地に建てた光太郎からの書簡を写した碑もあります。当方が知らない他の碑もあるかも知れません。

しかし、この日廻っただけでも、高村光太郎記念館さんのスタッフの方、市役所の方が綿密にルートや昼食場所等考えて下さったお蔭でスムーズに回れました。大感謝です。

どこかの団体さん、学校さんなどで、こうした光太郎ゆかりの地を巡る的な研修旅行等お考えでしたら、このような形で添乗致します。花巻に限らず都内でも、それから十和田湖や智恵子のゆかりの二本松、九十九里やら犬吠埼やらの房総各地などなど。お声がけ下さい。


【折々のことば・光太郎】

が、兎に角、彫刻といふものは芸術と名づくべきものゝ中(うち)で、最も原始的な自然に近いもので、野蕃人が天地の間に受けた美の観念を現す時には、先づ石や樹に何か彫刻するといつた風なことをしたもので、従つて彫刻は最も神秘的なものとも云へませう。

談話筆記「彫刻の話」より 大正7年(1918) 光太郎35歳

ただ単に手頃な素材だからというだけでなく、太古の昔から人類は石や樹木に霊性を認め、さらに新たな生命を吹き込むために彫刻を施したとも考えられます。

石碑にも似た部分が有るようにも感じます。

光太郎の書が出ます。

種徳美術館名品展後期展示

期 日 : 2019年9月4日(水)~10月27日(日)
時 間 : 9:00~17:00
会 場 : 種徳美術館 福島県伊達郡桑折町字陣屋12番地
料 金 : 一般・大学生 200円 高校生 100円 小中学生 50円 (団体 20名以上で2割引)
休館日 : 月曜日(月曜日が祝祭日の場合は火曜日)

7月からは、企画展【名品展】と題し、前期と後期に分けて、当館所蔵作品の中から選りすぐりの名品の数々を展示いたします。

前期後期共通して展示されるおすすめ作品には、
●江戸時代にはどんな仕事があったのか??
当時の職人たちのはたらく姿が12職種、12枚の画帖に生き生きと描かれた(伝)狩野吉信(かのうよしのぶ)「職人尽絵」画帖(一帖十二図)や、
●宮城県出身で仙台藩御用絵師だった東 東洋(あずまとうよう)が、君主・伊達斉宗の命を受け、2年の歳月をかけて描かれた色彩鮮やかな金屏風の大作「羅人物舞楽図」屏風(六曲一双)など。楽隊一人一人の表情も個性豊かに描かれており、もしかすると自分や家族、友人に似ている人がいるかも?!ぜひ間近でこの迫力を体感してください。
ほかにも……●蠣崎波響-熊坂適山-菅原白龍 ●田崎早雲-小室翠雲 ●田能村竹田-田能村直入などの師弟作品も並ぶので、それらを見比べるのもまた一興です。

後期のみどころ
亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)【作品名】七里ヶ浜 (洋画額装 県指定文化財)
勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟、幕末三舟の書作品
他にも、明治期に半田銀山の経営に携わった五代友厚の書画、明治から昭和期に活躍した高村光太郎や高浜虚子の作品がならぶ。

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光太郎書作品は、短歌「吾山に 流れてやまぬ 山水の やみがたくして 道はゆくなり」が揮毫されたものとのこと。色紙なのか幅なのか短冊なのか、不明です。

短歌自体は昭和24年(1949)頃の作。花巻郊外太田村での山居生活に題を採っています。複数の揮毫が存在することが確認されているので、そのうちの一点なのでしょう。また、歌句の文言も、「道はゆくなり」が「この道はゆく」、「あしき詩を書く」などとなっている異稿も存在します。

会期中に智恵子の故郷・二本松に行く機会がありますので、こちらにも足を伸ばすつもりでおります。観て参りましたらレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

此を読んで詩的でないと言つてくれた人もあつたが、其の非難はむしろ私の喜とするところである。所謂詩的な詩や文章ほど私の嫌忌するものはないからである。ロダンの書いたものも、内に詩は溢れてゐるが詩的な外装は持つてゐないと思ふ。

雑纂「『続ロダンの言葉』序」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

確かに空疎な美辞麗句の羅列は光太郎の忌避するところでした。翻訳に於いてもそれは同様で、一見、ぶっきらぼうな訳です。しかし、生硬というわけでもなく、原著者の意をよく汲んだ上で、口語体の持つ自然な感じを生かした訳となっています。

昨日は都内に出、神保町で開催の「明治古典会七夕古書大入札会2019」、一般下見展観を拝見して参りました。年に一度の古書業界最大の市(いち)で、出品物を手に取って見ることができます。

会場は東京古書会館さん。開場の午前10時少し前に到着しましたところ、入場待ちの方々で、既に長蛇の列。関心の高さが伺えます。

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入り口で手荷物を預け、まずは4F、文学関連のコーナーへ。出品目録に出ていた光太郎関連の2点を手に取って拝見しました。

まず出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てた昭和12年(1937)の書簡1通。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

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画像は昨年の『日本古書通信』さんにも掲載され、内容も把握していましたが、やはり光太郎が手づから書いた封筒と便箋を手にし、その息吹が感じられました。想像していたより便箋が薄く小さいのが意外でした。


もう1点、詩稿。こちらはガラスケースに収められていましたが、係員の方に開けていただき、チェック。

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昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、「突端に立つ」(昭和17年=1942)、「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇でした。他に「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)もあったはずですが、無くなっています。

こちらも光太郎一流の味のある文字でした。


続いて2Fへ。文学関係でなく、「近代文献資料」というコーナーに、光太郎の筆跡を含む出品物。こちら、目録に載っていましたが、文学、美術関連の項でなかったので見落としていました。

戦時中の日章旗です。

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光太郎の筆跡は左上、短歌一首が揮毫されています。

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも」と読みます。昭和19年(1944)の雑誌『富士』に他の揮毫の画像が載ったのが、確認できている初出です。もしかすると作歌時期、そしてこの日章旗自体、時期的にもう少し遡るかもしれません。

この手の日章旗のお約束で、寄せ書きとなっています。光太郎以外には、横山大観、若槻礼次郎、そして野口英世と交流の深かった政治家・石塚三郎の筆跡。

石塚は新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市)の出身で、同村の素封家・旗野家(政治学者・吉田東伍の生家)とも縁が深い人物でした。旗野家といえば、光太郎智恵子ともいろいろ関連がありました。

まず、吉田東伍の姪に当たる旗野八重が、日本女子大学校で同じ年に入学した智恵子と親しかったそうですが、卒業直後の明治40年(1907)に病没しています。その妹・スミも日本女子大学校に進み、智恵子から絵の手ほどきを受けました。智恵子は卒業後、画家・松井昇の助手として母校に勤務していた時期があります。大正2年(1913)には、智恵子が新潟の旗野家に滞在、共にスキーに興じたりもしたそうです。

その旗野家に逗留していた智恵子に宛てて送った結婚前の光太郎からの封書が奇跡的に現存しており(当会顧問・北川太一先生がお持ちです)、時折取り上げられます。

ちなみに今月25日、NHK BSプレミアムさんで放映予定の「偉人たちの健康診断」が「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、この手紙も取り上げられるかも知れません。5月に番組制作会社の方から連絡があり、その際は北川先生ご所蔵の智恵子から母・セン宛の書簡を取り上げたいというお話でした。のちほどまたご紹介いたします。

スミはのちに立川の農事試験場長を務めた佐藤信哉と結婚、光太郎夫妻に農作物などを贈ります。大正14年(1925)の光太郎詩「葱」は、佐藤夫妻から贈られたネギを題材にした詩です。

その旗野家と縁が深かった光太郎と石塚が同じ日章旗に揮毫しているわけで、何か匂います。日章旗を贈られた人物が誰なのか不明でして、何とも言えませんが……。

で、日章旗、額に入れられて展示されていました。タテヨコ1メートル前後、保存状態も良好でした。こちらは平成22年(2010)の七夕古書大入札会にも出品されましたが、現物を見るのは初めてでした。その前年だったかの連翹忌で、光太郎令甥の故・髙村規氏に、「こんなものが出て来て鑑定を頼まれたんだけど……」と、写真を見せられまして、在りし日の規氏を思い起こしました。


さらに今年は、2Fの一角に、出品目録には掲載されなかった追加出品の品々。そちらにも光太郎書簡が出ていました。智恵子の最期を看取った元看護師で姪の宮崎春子と、その夫で光太郎と交流の深かった宮崎稔にあてたもので、三十五通。おそらく全て『高村光太郎全集』に収録されているものだと思われます。

それぞれの出品物、光太郎以外のものも含め、収まるべきところに収まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

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十三文半甲高。馬の糞をふんづけたのでのつぽとなる。神経過敏のやうな遅鈍のやうな、年寄のやうな、若いやうな、在るやうな無いやうな顔。

アンケート「自画像」全文 昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に、画像がそのまま載りました。

「十三文半」は足のサイズ。一文が約2.5㌢ですので、33.75㌢となります。ちなみに故・ジャイアント馬場さんの「十六文キック」は40㌢というわけですね。

当方よく存じませんが、馬糞を踏むとのっぽになるという迷信というか俗信というか、そういうものがあったのでしょうか。実際、光太郎の身長は180㌢以上だったようです。当時としては大男です。

昨日は高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんに行っておりました。

1月から開催されていた第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」が最終日で、書家の石川九楊氏による関連行事としての記念講演会「文学者の書―その魅力を味わう」が行われ、拝聴して参りました。

1月に同展を拝見に伺った際は裏口から入りましたが、昨日は堂々と正面玄関から(笑)。

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45名の文学者の書が展示されていますが、看板には、目玉となる人物の書に関する一言。光太郎のそれも。

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まずは展示会場へ。真っ先に光太郎の作品を拝見。同館所蔵の短冊で、何度も観たものですが、何度観てもいいものです。

展示全体は1月に拝見しましたので、今回は光太郎と関わりの深かった人々のもののみを改めて観ました。当会の祖・草野心平や、光太郎の師・与謝野夫妻の書など。

その後、閲覧室で調べ物。事前にネット上の蔵書検索を使い、キーワード「高村光太郎」でヒットしたもののうち、どういうものだかすぐにわからなかったものを閲覧させていただきました。

大半は、他の人物が光太郎について語った文章などで、既知のものでしたが、1点だけ、実に面白いと思ったのが、昭和24年(1949)に盛岡の新岩手社というところから発行された『友達 FRIEND』という児童向け雑誌。児童詩の投稿コーナーがあり、ずばり「高村光太郎先生」という詩が入選していました。作者は、光太郎が戦後の7年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口小学校の児童です。

選者は光太郎や宮沢賢治と交流のあった森荘已池。「詩人の詩を書いたので面白いと思いました」との評。

同じ号の巻頭カラーページには、やはり森が解説を書き、昭和2年(1927)の雑誌『大調和』に載った光太郎詩「偶作十五篇」から2篇が転載されていました。


その後、いったん駐車場に戻り、途中のコンビニで買って置いた昼食を車内で食べ、いざ、同館2階の講演会場へ。定員150名とのことでしたが、おそらくそれを上回る人数でした。

講師の石川氏。

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平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門」で、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書を扱って下さり、同番組のテキストでは当方もお手伝いさせていただいたもので、その関係で、一度電話でお話しした記憶があるのですが、お目にかかるのは初めてでした。

書の実作以外にも、書論書道史のご研究でも実績を積まれている石川氏、書とはどういう芸術なのかということを、わかりやすく、時にユーモアを交え、語られました。

例として挙げられたのが、今回の企画展出品作。同じ「山」という字でも、人ぞれぞれに異なる書きぶりで、その人が「山」という字をどう書いているかで、その人のいろいろな部分が見えてくる、というお話でした。光太郎の「山」もピックアップして下さいました。

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右上の有島武郎などは、かなり速いスピードですっと書いているのに対し、ここに挙げた中で最もゆっくり書いているのが光太郎だとのこと。よく言われる光太郎の彫刻刀で刻みつけるような書法が表れているとおっしゃっていました。

左は光太郎の「山」をホワイトボードに臨書されているところです。

また、当会の祖・草野心平の書も非常に特徴的だということで例に挙げられました。

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終了後、少しお話をさせていただき、さらにあつかましくも持参したご著書にサインしていただきました。家宝にします(笑)。


花巻郊外旧太田村での7年間、戦時中の翼賛活動を恥じて自らに与えた罰として、彫刻を封印した光太郎。代わりに、というわけではないのですが、この時期には書の優品を数多く産み出しました(それ以前から味のある書をたくさん書いては居ましたが)。そして再上京した最晩年には、書の個展を開く強い希望を持っていました。或る意味、書は光太郎にとって、究極の芸術だったようにも思われます。

今後も、光太郎の書に注目していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

亡妻智恵子の背中にかなり大きなほくろが一つあつて、私はその魅力のために、よく智恵子の背中をスケツチした。陰影を少しもつけずに背中を描いて、そこへほくろを一つ入れるとぐつと肉体の円みが出て来るのが面白かつた。
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散文「ほくろ」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

右は昭和11年(1936)の雑誌『歴程』(心平の主宰です)第2号に載ったもの。同12年(1937)の『現代素描全集』第8巻に転載されました。残念ながら、現物は残存が確認出来ていません。

光太郎のデッサン、或る意味、「書」にも通じるような気がします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新刊書籍です。 

川端康成と書―文人たちの墨跡

2019年2月27日 水原園博 求龍堂 定価3,000円+税

川端生誕120年 川端が愛蔵した書、一挙公開 ― 生命(いのち)を宿した文人たちの書 ―

文豪川端康成が美術品の大コレクターであったことは、近年知られるところとなった。しかしその全貌は完璧に把握されていない。 2016年、膨大な書が発見された。 晩年、書に魅入られた川端康成は、自ら多くの書を書き残している。同時に、かつての大家たち(一山一寧、隠元隆琦、池大雅、高橋泥舟など)、同時代の文豪たち(夏目漱石、高浜虚子、田山花袋、林芙美子、横光利一、高村光太郎、齋藤茂吉、生方たつゑなど)の書を蒐集し、愛眼してきた。
本書は、書、その書についての川端の言葉、その作家と川端との交流など、多方面からの解説がついた川端康成の書のコレクション本。

目次

 まえがき 001

 第一章 歴史に名を残す名筆家の書
   如意輪観音像 伝・藤原定家 一山一寧 宗峰妙超
   寂室元光 隠元隆琦 石渓 池大雅 良寛 高橋泥舟

 第二章 文豪たちの書
   夏目漱石 尾崎紅葉 高浜虚子 芥川龍之介 
   永井荷風 若山牧水 田山花袋 本因坊秀哉
   岡本かの子 北原白秋 与謝野晶子 島崎藤村
   徳田秋声 島木健作 横光利一 林芙美子
   武者小路実篤 高村光太郎 斎藤茂吉 久米正雄
   吉井勇 久保田万太郎 室生犀星 吉野秀雄 辰野隆
   中谷宇吉郎 宗般玄芳 保田與重郎 草野心平
   生方たつゑ 遊記山人

 第三章 川端康成の書

 第四章 川端康成宛の書簡
   菊池寛 太宰治 坂口安吾 谷崎潤一郎 三島由紀夫
   
 あとがき



一昨年、その発見が報じられ、大きな話題となった川端のコレクションおよび、川端自身の書を、ほぼ全ページオールカラーで紹介するものです。

著者の水原園博氏は、公益財団法人川端康成記念会理事。雑誌『中央公論』さんに連載されていたものの単行本化かと思っていましたが、あにはからんや、書き下ろしでした。

光太郎の書は、扇面に揮毫された『智恵子抄』中の「樹下の二人」(大正12年=1923)でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。これを含めた新発見のほとんどが、やはり一昨年、岩手県立美術館さんで開催された「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品され、拝見して参りました

ところで、「あとがき」によれば、水原氏、最後まで判読に苦しんだのが、当会の祖・草野心平の書だったそうです(笑)。心平一流、独特の書体であることも一因のようですが、書かれた文言が琉球古典舞踊の一節という特殊なものだったためとのことでした。

錚々たる面々の書跡の数々、見応えがあります。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

今の世上の彫刻家と称するものは殆ど悉く立体写真の職人に過ぎない。彫刻的解釈と彫刻的感覚とを持たない立体像の氾濫を見よ。彼等作るところの人物像と、資生堂作るところの立体写真と何処に根本的の相違がある。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

それを一概に否定できるものではありませんが、現在でも「立体写真」といわれる技術が残っています。少し前までは新聞などでも広告を見かけました。多方面から通常の写真を撮影し、それを元に立体化する技術で、それにより比較的容易に銅像が作れるというものです。いわば3Dプリンタ的な。その最初期には、かの資生堂さんがそれを事業化していました。

そういうものだと割り切ってしまえばそういうものですが、光太郎にとって、それは「彫刻」の範疇に入らざるもの。そして、世上の多くの彫刻家が普通に作る肖像彫刻も、それと何ら変わらない魂のこもっていないものだ、というわけです。

ちなみに光太郎の書にも、彫刻的感覚が溢れている、というのが大方の評価です。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

一昨年から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされているので定期購読させていただいている、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』3月号が届きました。

それとは別に、「みんなの活動報告」というページがあります。

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協会員の皆さんからのお便りのコーナーです。

昨夏、成田市のなごみの米屋總本店さん2階の成田生涯学習市民ギャラリーで、「二人でひとつの展覧会」を開催された大泉さと子さんから、同展に関するお便りが掲載されています。

成田ということで、光太郎がたびたび訪れた宮内庁の御料牧場がかつてあった三里塚記念公園内に立つ、光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されました。

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当方、隣町なもので、初日の一番にお邪魔しました。その際、作者の大泉さんとお話しさせていただきました。

先月末、大泉さん、それから同誌の編集部さんからお電話があり、「みんなの活動報告」に、成田での展覧会のレポ-トを載せること、そこに当方の名前を出していいかというお話でした。別にお忍びで行ったわけでもなく(笑)、承諾いたしました。

そして、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」は、その「春駒」。ここに「春駒」が載るというのは聞いておりませんで、「ほう」という感じでした。

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光太郎の草稿を大きく載せて下さっています。つくづく味のある字です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

八百屋に出てる三州ものでは話にならぬがもぎたての近在のものが笊に盛られた溌剌さは、まるで地引網で引き上げた雑魚のやうにはね返りさうだ。艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児だ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

何が? というと、さやえんどうです。智恵子は既に南品川ゼームス坂病院に入院しているため、光太郎は自ら塩水で茹で、オリーヴオイル、モルトベニガー、胡椒で味をつけ、食べています。

何気なく書かれた「まるで地引網で引き上げた雑魚のやう」の直喩、「艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児」という暗喩、さすがですね。

しかし、地引網云々は、おそらく智恵子が療養していた九十九里浜で見た光景だろうと思うと、複雑な思いにかられます。

絵手紙を趣味にされている方などは、こういうものも題材にするのでしょうね。ちなみに『月刊絵手紙』、上記今月号の表紙には、ふきのとうの写真も載っています。たまたまですが、我が家の今夜の夕食はふきのうの天ぷらでした。春ももうすぐそこです。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日は、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんにて開催中の、第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」を拝見して参りました。

自宅兼事務所のある千葉県北東部では、出がけに今冬初めての雪。一時的には吹雪に近い感じでした。しかし、局所的な通り雨ならぬ通り雪だったようで、圏央道で県境を越え、茨城県内に入るとやみました。埼玉に入り、関越道に乗り換えて高崎へ。土屋文明記念文学館さんに足を運ぶのは、何やかやで10回目くらいでしたが、おそらく初めて駐車場が満杯でした。しかたなく隣接するかみつけの里博物館さんの駐車場に駐めました。


こちらには野外施設的に、巨大な前方後円墳が。埴輪や葺石などが復元整備されています。

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こちらの後円部の頂上に登ると、上州の山々がきれいに見えます。名物のからっ風が情け容赦なく吹き付けてくる状態でしたが(笑)。

赤城山。

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榛名山(ピンぼけ)。

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草津白根山方面。

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それぞれ光太郎の足跡の残る山々です。

そして裏口から土屋文明記念文学館さんに入館。勝手知ったる館ですので(笑)。

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企画展会場は、正面玄関から入ると左、裏口からだと右手です。

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観覧料410円也を支払って、会場へ。

順路通りに進むと、いきなり当会の祖・草野心平と、やはり光太郎と交流のあった高橋元吉の書。心平の方は2点で、うち1点が色紙で「上州の風」と、独特の書体で書かれています。まさしくこの季節にぴったりです。

続いて、大きめのパネルに光太郎の散文「書をみるたのしさ 」の全文。昭和29年(1954)、平凡社さんから刊行された『書道全集』の内容見本に寄せた短文です。

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。六朝碑碣の法帖もいいし、日本のかなもすばらしい。直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい。書はごまかしがきかないから実に愉快だ。

このパネルが、いわば書物における序文、あるいはシンポジウム等における基調講演のような位置づけで、展示全体のコンセプトを表しています。

光太郎自身の書は、一点のみでした。同館所蔵の短冊で、明治37年(1904)の『明星』に掲載された短歌「ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの」がしたためられています。ただ、『明星』での掲載型とは細かな表記の違いがありますが。

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上記は同展の図録から採らせていただきました。後半、「書についての漫談」(昭和30年=1955)、「書について」(昭和4年=1929)の一節が掲載されていますが、各展示作家ごとに、それぞれの書作品の脇に、本人が書に関して書き残した文章の一節や、友人知己などがその人物の書を評した文章の一節などがパネルで付されており、そういうわけです。

先述の草野心平、高橋元吉以外にも、光太郎と交流の深かった様々な人物の書が多数並んでおり、興味深く拝見しました。与謝野夫妻、吉井勇、北原白秋、有島武郎、菊池寛、武者小路実篤、吉野秀雄、室生犀星……。そして、パネルによる言葉も。

白秋など、公開中の映画「この道」にも描かれたとおり、かなり破天荒な人物、というイメージがありますが、書を見ると意外と穏健ですし、有島などは、その凄絶な最期はともかくとして、やはり育ちの良さがにじみ出ている書に感じられました。

ちなみに図録には、書家の石川九楊氏の「近代文学者の書について」という一文が寄せられており、主な人物についてはそれぞれ一言ずつ的確に評されています。光太郎に関しては「彫刻用の鑿で木を彫り削っているかのような書」。

それ以外にも、石川氏の文章は非常に示唆に富むものです。3月17日(日)に関連行事で講演をなさることになっており、当方、そちらの申し込みもいたしました。

皆様もぜひ、足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

造形美術は思想の地下工事の上に立つ建築。言葉による芸術は思想を骨組とする建築。造形美術個々の表面に一々思想を求める者は迂であり、言葉による芸術に一々思想の影を嫌ふ者は愚である。魚は囀らず、鳥は黙せず。

散文「魚と鳥」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自身の芸術の二本柱であった造形美術(彫刻)と言葉による芸術(詩)について、その差異を語っています。

どうも最晩年の光太郎は、「書」によってこの二つを融合させ、究極の芸術を生み出そうとしていたように思われます。

昨日に引き続き、最近の新聞各紙から。

まず、1月21日(月)の『東京新聞』さん群馬版。群馬県立土屋文明記念文学館さんの第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」に関して。 

文学者 書に込めた思い 3月17日まで企画展 晩年の子規の書簡、特別公開も

 近代の文学者が筆で書いた俳句や書簡などを展示する企画展「文学者の書 筆に込められた思い」が高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で開かれている。俳人の正岡子規(一八六七~一九〇二年)が晩年に友人に宛てた書簡は、所蔵する子規庵(東京都台東区)以外では初公開となる。三月十七日まで。 (市川勘太郎)
 書簡は、正岡子規が脊椎カリエスや結核で亡くなる四カ月前に、新聞「日本」の編集主任で親しい間柄だった古島一雄に送ったもので、昨年発見された。新聞での連載を知らせる手紙に対して礼を述べた上で「覚えず活気が出た」と喜びの心境をつづっている。
 弟子の歌人岡麓(ふもと)は晩年の子規の手紙について「大病人のような弱々しさのない筆勢と生き生きした濃い墨色とが遺されている」と書いていて、書簡からも病床でありながら力強い筆跡で手紙を書いていたことがわかる。
 他にもノーベル文学賞を受賞した小説家川端康成や芥川龍之介の書簡、群馬県ゆかりの詩人萩原朔太郎が書いた封筒など、明治から大正時代の詩人や歌人四十五人の書約百点が展示されている。
 会場には書に造詣が深かった高村光太郎が書いた「書をみるたのしさ」をパネルで紹介。書について「直接書いた人にあうような気がしていつでも新しい」と評している。
 同館学芸係の佐藤直樹主幹(43)は「文学者によって受け継がれてきた書の歴史の一部分を展示している。難しく考えずに見て楽しんでもらえたら」と話している。
 開館時間は午前九時半から午後五時まで。観覧料は一般四百十円、大学・高校生二百円で中学生以下は無料。火曜日休館。
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光太郎、書の作品自体も出品されているはずですが、パネル展示も為されているのですね。当方、明日、現地で拝見して参ります。



次に、『読売新聞』さん。1月19日(月)の夕刊。光太郎の朋友・北原白秋を主人公とした映画「この道」に関し、作曲家の池辺晋一郎氏が寄稿されています。不定期連載の「耳の渚」というコーナーです。

童謡100年 「この道」を想う

 今年は、日本で初めて童謡が作曲されてちょうど100年というアニヴァーサリーである。少し詳しく話そう。
 もちろん、子どもの歌は昔からあったにちがいない。世界中のどんな地域でも、どんな時代でも、子どもは歌う。日本でも「わらべ唄」は自然発生的に流布していた。
 意図的に子どもの歌が作られるようになったのは、明治以降だ。最初の教材は1881~84年刊で、大半が欧米の民謡、一部にわらべ唄などを転用したものだったが、1911年から14年にかけて、文部省による「尋常小学唱歌」が作られる。作詞と作曲者名は伏せられ、本人も口外を禁じられたという。個人の創作ではなく、詞も曲も合議のうえで編纂(へんさん)され、国が作った歌という形をとったのである。その中で「故郷(ふるさと)」「朧(おぼろ)月夜」「春の小川」などについて、高野辰之(1876~1947年)の作詞、岡野貞一(1878~1941年)の作曲であることが公表されたのは、1970年前後になってからであった。

 今も親しまれる前記のような例外はあったにせよ、多くは歌詞が硬く教訓的で、子どもの自然な感情にそぐわないと考えた鈴木三重吉(1882~1936年)が童話童謡誌「赤い鳥」を創刊したのは1918年。芥川龍之介、有島武郎、小山内薫、久保田万太郎らそうそうたる文学者がこの雑誌に寄稿した。創刊の年の11月号に発表された西條八十(やそ)の詩に、翌19年5月号で成田為三作曲による歌が付いて掲載されたのが「かなりや」。これはさらに翌年レコード化されて広く歌われた。「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は~」という童謡である。これが、日本の童謡の嚆矢(こうし)とされる。すなわち今年で100年というわけだ。
 「子ども向けだからそれなりに」から「子ども向けだからこそ質の高いものを」という理念に添った詩人は西條八十のほか野口雨情、北原白秋ら。それらに成田為三、本居長世、弘田龍太郎、山田耕筰(こうさく)らが作曲して、すばらしい童謡が次々に生まれた。

 それら名コンビの中の白眉――北原白秋(1885~1942年)と山田耕筰(1886~1965年)の創作の葛藤と軌跡を描く映画「この道」(監督・佐々部清、主演・大森南朋、AKIRA)が公開されている。鈴木三重吉はもちろんのこと与謝野鉄幹・晶子、萩原朔太郎、室生犀星、石川啄木、高村光太郎らも登場することが興味深い。日本人なら誰でも知っているであろう「この道」という歌は、映画のタイトルのみならずキイワードだ。白秋の詩に描かれた風景にとどまることなく、どんな人の心の中にもある、それぞれの「この道」について想(おも)いを馳(は)せることになるだろう。
 「北原白秋 言葉の魔術師」(今野真二著、岩波新書)という本が2年前に出た。僕はかねて「邪宗門」「思ひ出」など白秋の詩集が大好きで、そのふるさと、福岡県柳川を何度も訪れている。この書も当然読み、この映画にも駆けつけた。いっぽう山田耕筰は、日本のオーケストラあるいはオペラの黎明(れいめい)期の立役者として、たびたび触れる機会がある。しかし白秋も耕筰も、もっぱら童謡という視座で語られることは、そう多いとはいえないだろう。そもそも童謡という言葉が、もはや死語かもしれないのだ。

 僕の子ども時代には「童謡歌手」がいた。童謡はすべての子どもに共通の歌で、子ども雑誌の表紙はたいてい彼女らだった。だが童謡は消え、数十人もの集団アイドルが歌う「どれも似たような歌」が、かつての童謡にとって代わっている。
 これはこれでいいのかもしれない。ポップソングの専門家でない僕に、そのあたりの判断はできないが、もし現代に鈴木三重吉がいたら、何を、どう主張するかな、と考えてしまうのである。
(いけべ・しんいちろう 作曲家)

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「この道はいつか来た道」……現在のきな臭い世の中の動きに対しても、そう思わざるを得ません。おそらく、映画「この道」の佐々部清監督も、白秋やその姉貴分の与謝野晶子すら巻き込まれていった泥沼の戦時を描くことで、こうしたメッセージを込められたのだと思います。

昭和6年(1931)満州事変勃発、同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、同13年(1938)国家総動員法施行、同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

こんな「この道」を繰り返してはなりませんね。


【折々のことば・光太郎】

特別の場合を除く外、児童の未熟な演奏を放送するのを止めたい。人情から言へば子供等の声楽はあどけないから調子外れも無内容も大して気にならない。気にならないから尚更いけないのだ。大衆の耳の調整が攪乱される。一番悪い事には聴いてゐる子供等の耳が害される。おまけに放送してゐる子供等自身にもそんな事でよいやうな錯覚を起させる。

散文「ラヂオの児童音楽」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

童謡を子供の演奏で流していた当時のラジオ放送に対しての苦言です。たとえ童謡であっても、ちゃんとしたプロの歌手に演奏させ、きちんとした音楽で人々の耳を慣らさなければならない、というわけで、正論ですね。

群馬県から企画展情報です。情報を得るのが遅れ、既に始まっています。 

第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」

期    日 : 2019年1月12日(土)~3月17日(日)
会    場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000番地
時    間 : 9:30~17:00
料    金 : 一般410円(320円) 大高生200円(160円) 
        ( )内は20名以上の団体割引料金
休 館 日 : 火曜日

日本では長い間、文字を記すのに毛筆を用いてきました。近代になり、ペンや万年筆、鉛筆等が普及すると、次第に毛筆は日常の筆記具ではなくなっていきます。印刷技術の発達も、人々の筆記への意識を変えていきました。そうした過渡期を含め、近代を生きた文学者達の書に対する思いは、たとえば生年、生育環境、文学ジャンルなどによってもさまざまでした。
本展では、文学者それぞれの書への向き合い方や、周囲からの評価などとともに、各人がしたためた短歌、俳句、書簡等を紹介し、文学者の書の魅力に多面的に迫ります。
また、一般財団法人子規庵保存会の協力により、『子規随筆』(弘文館、明治35年)で公表されたのちに所在不明となり、115年の時を経て発見された正岡子規書簡を、今回、特別に展示いたします。

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関連行事

記念講演会 「文学者の書―その魅力を味わう」
 講師:石川九楊氏(書家・京都精華大学客員教授)
 日時:3月17日(日)14:00~15:30  定員150名(無料・要申込)

ギャラリートーク(担当職員による展示解説)
 日時:1月12日(土) 2月9日(土) 3月3日(日)13:30~14:00(要観覧料・申込不要)


同館では平成27年(2015)にも第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」を開催し、その際にも光太郎の書が展示されました。今回も光太郎がラインナップに入っています。また、与謝野夫妻や武者小路、白秋や草野心平など、光太郎と交流の深かった面々も。これは見に行かざあなるめえ、と思い、早速今週末に行って参ります。

また、最終日には書家の石川九楊氏のご講演。氏は書道史のご研究でも大きな業績を残され、光太郎の書を高く評価して下さっています。平成27年(2015)には、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」でナビゲーターを務められ、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している光太郎書を細かく解説して下さいました。その頃、一度、電話でお話しさせていただいた記憶があるのですが、直接お会いしたことは無いもので、今回のご講演も申し込ませていただきました。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

銀座のネオンライトは、初期のトオキイに似ている。しやべれる事が珍らしいかのやうに、みんなが有りつたけ、しやべつている。棒立ちのまんまで。

散文「銀座の夜」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

智恵子が「空が無い」と言った東京、そのど真ん中、銀座のけばけばしい夜の灯り、そのどぎつい自己主張を皮肉っています。

この文章が書かれたおよそ3ヶ月後、智恵子の心の病が顕在化します。

先月末から今月にかけての、光太郎智恵子光雲にちらっと触れて下さっている新聞記事等、2回に分けてご紹介します。

まず11月28日(水)、『毎日新聞』さん北海道版。 

国際高校生選抜書展 札幌北高が3年連続V 道地区大会、67校から1280点 /北海道

 「書の甲子園」の愛称で知ら001れる第27回国際高校生選抜書展(毎日新聞社、毎日書道会主催)の審査結果が27日、発表された。北海道地区は67校から1280点の出品があり、団体部門は札幌北高が3年連続4回目の地区優勝に輝いた。個人部門は札幌北高3年、阿部穂乃加さんと旭川商高3年、小清水琢人さんの2人が大賞を受賞したのをはじめ優秀賞6人、秀作賞10人の計18人が入賞し、162人が入選を果たした。
(略)
◆大賞
◇「詩の力強さ表現」 札幌北高3年・阿部穂乃加さん
 高村光太郎の詩から「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」との一節を作品に仕上げた。濃墨をたっぷりと2 本の筆に含ませ、紙面からはみ出すほどの勢いで一気に書き上げ。 「線の強弱のバランスや空間の取り方が難しかった。詩の意味を考えて、力強さを表現しようと心がけた」と振り返る。出来栄えには、自分なりに手応えはあったが「大賞をいただけるとは予想していなかった」。 本格的に書道を始めたのは、高校で書道部に入部してから。選抜書展では1、2年時に連続で入選し、昨年夏には長野県松本市で開催された全国高校総合文化祭に道代表として作品が展示された。 大学入試が間近に迫っており、 受験勉強の日々が続く。将来、医療関係の仕事を目指しており、「進学後も書道は続けていきたい」と抱負を語った。


札幌北高校さんのサイト中の書道部さんのページに作品の写真が出ていました。同じ作品が今夏に松本市で開催された第42回全国高等学校総合文化祭(信州総文祭2018)でも出品されたようです。力強い作品ですね。

取り上げて下さった「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」は、大正5年(1916)の詩「歩いても」の一節です。


続いて11月26日(月)、『読売新聞』さんの投稿俳句欄。

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「智恵子像ゆるき着物に秋の風」。なるほど、いい句ですね。おそらく智恵子生家の縁側で、明治末に撮られたと推定される右の写真からのインスパイアのようです。


さらに12月1日(土)の『日本経済新聞』さん読書面。「リーダーの本棚」というコーナーで、お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏。昭和42年(1967)、童心社さんから刊行されたアンソロジー『<詩集>こころのうた』を、真っ先にご紹介下さっています。

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 小さい頃か002ら読書に親しんだ。
 父親が元文学青年で、仕事のかたわら詩も書く人でした。 家には本があふれていました。
 美しい絵は、本を読む楽しみの一つです。幼稚園児のころから好きだったのが、初山滋さんです。詩集『こころのうた』は、初山さんが装画を担当しました。高村光太郎、三好達治、立原道造、 八木重吉さんら、自分が大好きな詩人の詩が収められています。

同書には『智恵子抄』中の三篇、「人に」(大正元年=1912)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「案内」(昭和24年=1949)が掲載されています。


最後に『朝日新聞』さんの千葉版。12月5日(水)に掲載されました。

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光太郎の父・光雲と、高弟の米原雲海による信濃善光寺の仁王さまのおみ足です。なるほど面白い写真ですね。

ちなみに記事を読む前に、写真だけ見て「おっ、善光寺の仁王さまだ」とわかった自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

今の公衆と芸術批評家との間に、何の差別を見出さんか。芸術と言ふものに対しては、全く同類の盲目なるは無残な事に候。BOURGEOIS+0+0=CRITIQUE+0+0に候。

散文「琅玕洞より」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

当時の新聞に載った美術批評の頓珍漢さを嘆き、一般人の芸術理解のレベルが低いことをも嘆く文章の一節です。「BOURGEOIS」はブルジョア、中産階級の市民、「CRITIQUE」は批評家、共に仏語です。それぞれ鑑賞眼ゼロだと、厳しく切り捨てています。

昨日、上野の東京都美術館さんに行って参りました。

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「ムンク展」が開催中ですが、お目当ては「第40回東京書作展」。

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『東京新聞』さん主催の公募展です。

第3位に当たる東京都知事賞を、存じ上げない方ですが、中原麗祥さんという方が光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれてご受賞。

11月14日(水)の『東京新聞』さんから。 

東京書作展-第40回結果- 東京都知事賞 光太郎の世界観を表現 中原麗祥さん

 このたびは、栄誉ある賞を賜り至福の極みと共に、身の引き締まる思いでいっぱいでございます。この場を借りて、諸先生方、書友、家族に感謝申し上げます。
 ここ数年、淡墨の奥深い美の魅力に惹きつけられ、日々模索し作品づくりに努めてまいりました。今回の作品は、高村光太郎の世界観を、淡墨と紙質、筆でいかに響き合い、調和のある表現ができるかに力を注いできました。今後、この受賞に驕ることなく日々学ぶ姿勢を持ち続け、精進していく所存でございます。
 ◇六十三歳。養護教諭。過去、部門特別賞一回、特選一回、優秀賞一回、奨励賞三回、入選十回。
 <評>「冬の詩人」と言われる高村光太郎の「冬」を題材とした作品。詩意を汲み取りそれに合った表現を追求した事であろう。丁寧に言葉を紡ぐかの様な書きぶりである。兎髭筆(としひつ)を使用と聞くが、この筆触が独特な線を生み、芯の強さを感じさせる。その細くも強靱な線と随所に置かれた墨の滲みとが共鳴し合い、視覚的効果を上げ、革新的な世界観を創り上げた。
 歴史の浅い漢字かなまじり文の書において、その魅力を十分にアピールし得る作品である。 (今出搖泉)


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新年が冬来るのはいい。
時間の切りかへは縦に空間を裂き
切面(せつめん)は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
わたしは又無一物の目あたらしさと
すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、
雪と霙と氷と霜と、
かかる極寒の一族に滅菌され、
ねがはくは新しい世代といふに値する
清楚な風を天から吸はう。
最も低きに居て高きを見よう。
最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。


漢字仮名交じりの書でありながら、仮名の部分も非常に硬質な感じのする書です。光太郎が詩句で表現した「冬の硬質感」といったものも表現されているのではないでしょうか。

「兎髭筆」は読んで字の如し。毛筆としてはかなり古い時代から使用されていたものとのこと。


それから、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方ですが、今夏に開催された「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれ、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった菊地雪渓氏。今回も光太郎詩で臨まれ、「特選」を受賞されました。

今回扱われたのは、「東北の秋」(昭和25年=1950)。花巻郊外太田村に蟄居中の作品です。


  東北の秋002

 芭蕉もここまでは来なかつた
 南部、津軽のうす暗い北限地帯の
 大草原と鉱山(かなやま)つづきが
 今では陸羽何々号の稲穂にかはり、
 紅玉、国光のリンゴ畑にひらかれて、
 明るい幾万町歩が見わたすかぎり、
 わけても今年は豊年満作。
 三陸沖から日本海まで
 ずつとつづいた秋空が
 いかにも緯度の高いやうに
 少々硬質の透明な純コバルト性に晴れる。
 東北の秋は晴れるとなると
 ほんとに晴れてまぎれがない。
 金(きん)の牛(べこ)こが坑(あな)の中から
 地鳴りをさせて鳴くやうな
 秋のひびきが天地にみちる。


やはりさすが、という感じでした。


他にも、光太郎詩を取り上げて下さった方が複数いらっしゃいました。

畠山雪楊さんという方で、「あどけない話」(昭和3年=1928)。桜色の紙が使われています。

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田平湖春さんという方が、「鉄を愛す」(大正12年=1923)。あまり有名な詩ではありませんが、よくぞ取り上げて下さいました。

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その他、北原白秋や中原中也など、光太郎と交流のあった詩人の作も。特に中也の詩を扱った作が意外と多かったなと感じました。当会の祖・草野心平による「蛙語」の詩もぜひ取り上げていただきたいのですが、「ぎゃわろッ ぎゃわろろろろりッ」や「ケルルン クック」には書家の方々も触手を伸ばさないのでしょうか(笑)、あまりみかけません。


「第40回東京書作展」、12月2日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

それぞれの作に如何にも年齢そのものの匂がただよつてゐる事に興味がある。

散文「三上慶子著「照らす太陽」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

三上慶子氏は作家・能楽評論家。まだご存命のようです。光太郎と交流があった父君でやはり作家の三上秀吉が、愛嬢の8歳から14歳までの詩文・素描を一冊にまとめ、光太郎に序文を依頼しました。おそらく光太郎が序跋文を書いてあげた最年少の相手でしょう。

「第40回東京書作展」を拝見し、「これは人生の年輪を重ねた人だろう」、「この作は若い人っぽい」などと勝手なことを考えながら拝見しました。どの程度当たっているか、何とも言えませんが(笑)。

10月8日(月・祝)、宿泊した福島二本松を後に、愛車を北に向け、東北道、山形道と乗り継いで、山形県天童市に参りました。

目指すは出羽桜美術館さん。こちらで「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」が開催中です。当方、見逃しましたが、10月7日(日)、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で取り上げられました。

蔵王の山懐を抜け、2時間程で到着しました。

美術館母体の酒造メーカー、出羽桜酒造さん。

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その一角に美術館さん。瓦葺きの大きな屋敷と蔵を改装して美術館したそうで、実に趣のある佇まいです。

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元々、亡くなった先代の社長さんが集めた、李朝陶磁や、「瞽女・明治吉原細見記」シリーズで有名な画家・斎藤真一の絵を中心にして設立されたそうです。それ以外にも書画の類もたくさん収蔵されており、今回はその展示です。

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まず順路通りに行くと「画」の方から。チラシにも使われている宮本武蔵の「葡萄栗鼠図」(山形県指定有形文化財)が目玉でしたが、その他に竹久夢二の作品も複数展示されていて、「おっ」と思いました。

そして「書」。失礼ながら、実際に眼にするまで高をくくっていましたが、ビッグネームの優品揃いで、目を剥きました。すなわち、夏目漱石、正岡子規、芥川龍之介、會津八一、土井晩翠、斎藤茂吉、与謝野夫妻、尾崎紅葉、島崎藤村、幸田露伴、川端康成、吉井勇、北原白秋、高浜虚子、島木赤彦、堀口大学……。

そして光太郎。特に「撮影禁止」という表示がなかったので、撮らせていただきました。

「智恵子抄」に収められた詩「郊外の人に」(大正元年=1912)冒頭のワンフレーズで、「わがこころは今 大風の如く君に向へり」。智恵子と二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、自分のパートナーとなるべきはこの女性しかいない、と思い定めての「宣言」です。

筆跡的には戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた時期のものと思われますが、「智恵子抄」の詩句を大きく書いたものは他に類例が確認できて居らず、貴重なものです。

書籍の見返しや扉に書いたものは以前から知られていました。それらを元に複製の色紙が作られたりもしています。また、昨年、川端康成のコレクションの中から扇面に揮毫したものも見つかっています。しかし、こちらは半切の紙で、大作といっていいでしょう。

おそらく戦後、あの太田村の山小屋で、何を思ってこの書の筆をふるったのか、興味深いところです。


「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」、10月21日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近代日本に天成の詩人があるか、近代日本に純粋と称し得る詩人があるか、近代日本に性情そのものに根ざす詩人らしい尖鋭の詩人があるかと人にきかれたら、即座に萩原朔太郎があると答へよう。

散文「希代の純粋詩人――萩原朔太郎追悼――」より
 
昭和17年(1942) 光太郎60歳

「尖鋭」の語が無ければ、当方は勿論「高村光太郎」と答えます。「尖鋭」さでは、やはり朔太郎ですね。

秋田県から企画展情報です。  

特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」

期 日  : 平成30年10月2日(火)~12月27日(木)
場 所  : 
あきた文学資料館 秋田市中通6丁目6-10
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 無料
休館日  : 毎週月曜日

秋田には多くの文人が訪れました。たとえば明治27年、小説『蒲団』の田山花袋は、仙岩峠で足をくじき、地元民に助けられました。大正5年、旅と酒を愛する歌人若山牧水が千秋公園で歌を詠み、料亭で秋田の酒を堪能しました。昭和2年、泉鏡花が日本新八景に選ばれた十和田湖へ旅行し、湖を胡桃の実の割目に青い露を湛えたようだと書きました。昭和20年、武者小路実篤が戦火を避けて家族とともに稲住温泉に疎開し、ここで8月15日を迎えました。昭和26年には坂口安吾が、昔好きだった婦人が生まれた秋田を訪れ、「秋田犬訪問記」を書きました。
なぜ彼らは秋田を訪れたのでしょうか。展示では、秋田ゆかりの人物との交流の様子や秋田を描いた作品を紹介します。

共催展示
本展示を共催する小坂町、五城目町、横手市が所蔵する貴重な資料を、月替わりで展示します。

10月2日(火)~11月4日(日)小坂町立総合博物館郷土館収蔵
稀覯本を出版したことで知られる小坂町出身の澤田伊四郎に届いた高村光太郎からの書簡をすべて展示します。

11月6日(火)~12月2日(日)五城目町教育委員会所蔵
才を惜しまれながら若くして亡くなった矢田津世子に宛てた坂口安吾の書簡をすべて展示します。

12月4日(火)~12月27日(木)
横手市雄物川郷土資料館収蔵
昭和20年、横手市出身の画商旭谷正治郎を頼り稲住温泉に疎開した武者小路実篤。旭谷に宛てた実篤の書簡を展示します。

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関連文学講座

11月4日(日)午後1時30分~
文学講座 龍星閣に集う文化人と秋田 小坂町立総合博物館郷土館学芸員安田隼人氏

12月2日(日)午後1時30分~
文学講座 坂口安吾─矢田津世子との出会いから「秋田犬訪問記」まで
     秋田大学准教授山﨑義光氏


というわけで、詩集『智恵子抄』版元の龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた大量の書簡類が展示されます。昨年、澤田の故郷である小坂町の総合博物館郷土館さんに寄贈されたもので、今年3月から5月にかけ『高村光太郎全集』未収録の分34通が「平成29年度新収蔵資料展」ということで同館に展示されまして、当方、2月GWに現地に伺い拝見して参りました。「高村光太郎からの書簡をすべて展示します。」とあるので、残り30数通も併せて展示されるのではないでしょうか。

11月4日(日)には、同館学芸員の安田氏による講座も予定されています。ちなみに同館では常設展示で光太郎の署名本を並べ始めています。

また、12月に展示予定の横手市雄物川郷土資料館収蔵の武者小路実篤書簡。横手市出身の画商旭谷正治郎に宛てたものだそうですが、同館にはやはり旭谷に宛てた光太郎書簡も寄贈されており、平成27年(2015)には企画展「横手ゆかりの文人展〜あの人はこんな字を書いていました」で展示され、拝見して参りました


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

なほ賢治さんの作品の真価は今後ますますひろく人々の間に知られてゆき、後々には、あまねく世界中の人達にまで愛読せられるやうになることを信じて居るといふことを申添へて置きたいと存じます。
ラジオ放送「宮沢賢治十六回忌に因みて」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

NHK盛岡放送局から、アナウンサーが代読しました。

賢治歿後にその作品群のすばらしさに気づき、『宮沢賢治全集』出版に骨を折った光太郎。その際に数ある出版社がなかなか承諾してくれなかったことなども語られています。

実際、今日では「雨ニモマケズ」などが国際的にも高く評価されるようになっており、そうなることを予言していた光太郎の炯眼には驚くばかりです。

昨日は、都内に出ておりました。メインは筑波大学さんの東京キャンパス文京校舎で開催されたシンポジウム「近代東アジアの書壇」。

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複数の方々のご発表がありましたが、盛岡大学の矢野千載教授が「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」というご発表をされるというので、拝聴して参りました。

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全体のテーマが「近代東アジアの書壇」ということで、他の発表者の方々を含め、中国、朝鮮、そして日本の近代書道史について、様々な切り口からのお話。門外漢の当方としては、知らないことばかりで勉強になりました。

それぞれのご講演、ご発表の終了後は、質疑応答を兼ねての討議。

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最後に司会の筑波大学さんの菅野智明教授がうまくまとめて下さいました。

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古来、東アジアでは「書画」という熟語が定着するなど、「書」と「画」は切り離せないものであったところに、近代になってのウエスタン・インパクト――西洋から「美術」という概念がもたらされた――の結果、ある意味、「書」は「美術」と乖離していったという指摘には、なるほど、と思わされました。美術家でありながら書もよくした光太郎は、その意味では異端だったわけで――矢野氏は、似たような例として、智恵子の師でもあった洋画家の中村不折をあげられていますが――しかし、異端でありながら、逆に「王道」だったのかとも思いました。

会場には、九段下の書道用品店・玉川堂さんもいらしていました。当方、3年前にお店にお邪魔し、光太郎筆の短冊と、智恵子の妹・セキに宛てた光太郎書簡を拝見させていただきました。思いがけず久闊を叙することができました。

ちなみに参加者は50名超。若い方も多く(ご発表なさった皆さんに関係する学生さんが多かったように思われますが)、頼もしく感じました。

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終了後、矢野氏とお話しさせていただき、さらに氏が平成23年(2011)と同26年(2014)、『日本文学会誌』に発表された論文の抜き刷りも頂いてしまいました。

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ともに花巻に建つ、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の碑銘書(先月までいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」に出品されていました)に関しての内容です。まだ熟読しておりませんが、この後、じっくり読みたいと思っております。

ところで、シンポジウムは午後からでした。午前中は、というと、駒場の日本近代文学館さんに行っておりました。

1ヶ月程前でしたでしょうか、とある古書店さんの目録が自宅兼事務所に届き、そちらに載っていた雑誌の表紙画像(題字)に、光太郎の筆跡を発見。誌名は『詩層』、昭和15年(1940)の創刊号でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、当会顧問・北川太一先生による詳細な「造形作品目録(装幀・題字)」が載っており、光太郎が装幀をしたり、題字等を揮毫したりしたもののリストがおよそ100点、リストアップされています。『詩層』の項には「昭和18年 未見」と記されており、以前からいずれ見つけようと思っていました。日本近代文学館さんに『詩層』という雑誌が所蔵されていることは存じておりましたが、昭和15年(1940)のものなので、題名が同じだけの別物だろうと思っていたのです。ところが、古書店目録の画像を見ると、どう見ても光太郎の筆跡。そこで現物を確かめに行った次第です。

すると、ビンゴでした。目録では画像が小さすぎてわからなかった右下に「題字 高村光太郎氏」の文字。

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光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での書は、ある意味「突き抜けた」もの(石川九楊氏曰く、紙に彫りつけた彫刻のような字)になりますが、それ以前の正統な筆法です。しかし、しっかり光太郎の字の特徴が現れている、いい字ですね。

手前味噌になりますが、小さい画像から気が付いた自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


その他、光太郎と書については、まだまだいろいろ考えるべき点が多く残されています。今後も多くの方々に取り上げていただきたいものですし、当方も新発見等に努めます。


【折々のことば・光太郎】

日本語の美しさを生かすことにつとめませう。英語やドイツ語ほどアクセントは強くありませんが、それだけに、最善の場合にはそれらの言語よりも高雅の趣を持つてゐます。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

そして、文字として書くことで、「書」という芸術にもなる日本語。光太郎にとって、書は、詩を通して追究してきた言語の美と、彫刻によって現出させてきた造形美との融合を図る、究極の芸術だったのかも知れません。生前には実現しなかったものの、最晩年、彫刻の個展には興味を示さなかった光太郎が、書のそれには非常に乗り気でした。

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