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新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

お世話になっている書家の菊池雪渓氏から招待状を頂き、「第45回東京書作展」を拝見して参りました。

会場は上野の東京都美術館さん。
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昨年はそれが無かったようなので欠礼しましたが、今年は上位入賞作に光太郎詩を書かれた作品があるとのことで。

こちらがその作品。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居席活を始めた直後の昭和20年(1945)に書かれた詩「雪白く積めり」の一節です。高田月魁氏という方、これではない作の方が最高賞に当たる内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に選ばれていました。

その他の入選作でも光太郎詩文を書かれた方が複数いらっしゃり、有り難く存じました。

散文「満目蕭条の美」(昭和7年=1932)から。
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詩「平和時代」(昭和3年=1928)全文。
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詩「芋銭先生景慕の詩」(昭和14年=1939)より。「芋銭」は日本画家・小川芋銭です。
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見落としがなければ光太郎詩文を題材にしたものは以上でした。

「あれっ」と思ったのが、こちら。
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光太郎の親友・荻原守衛の書簡(片岡当宛・年月日不明)の一節が書かれています。文学系で光太郎と交遊のあった人物の作品から題を採ったものは多く見かけます(今回も北原白秋やら与謝野晶子やらが目立ちました)が、書道展で守衛の名に接する機会は今まで無かったような気がします。

しかし、いい文言です。

蕾ニシテ凋落センモ亦面白シ 天ノ命ナレバ之又セン術ナシ 唯人事ノ限リ尽シテ待タンノミ 事業ノ如何ニアラズ心事ノ高潔ナリ 涙ノ多量ナリ以テ満足ス可キナリ

満30歳で夭折した守衛晩年の書簡と思われますが、自身の運命を予言しているかのような……。

招待券を下さった菊池氏の作。
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菊地氏も令和元年(2019)の同展で内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に輝かれています。

同展、昨日開幕で、11月24日(金)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日花巻の地理踏査、先日は詩碑に詣でました、清六さんが写真をとつてくれましたがまだ出来ません、警戒警報頻発、昨夜も十二時頃サイレンに起されました、

昭和20年(1945)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開、翌日から結核性の肺炎で約1ヶ月臥床した光太郎ですが、この頃には本復。賢治実弟・清六の案内で、自らが昭和11年(1936)に揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑を初めて見に行きました。除幕の際は智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、訪れませんでした。

書道関連でいろいろとご紹介させていただきます。

まず、光太郎直筆の書作品が出ている/出されるもの。

トピック展「岸田劉生とその時代」

期 日 : 2023年9月28日(木)~12月26日(火)
会 場 : 似鳥美術館 北海道小樽市色内1丁目3-1
時 間 :  [5~10月] 9:30〜17:00  [11~4月] 10:00~16:00
休 館 : 毎週水曜日
料 金 : 一般1,500円 大学生1,000円 高校生700円 中学生500円 小学生300円

当館の収蔵作品を紹介する小さな企画展「トピック展」。似鳥美術館3階展示室では、「岸田劉生とその時代」を開催いたします。

大正から昭和にかけて活躍した洋画家、岸田劉生。本展では当館が収蔵する劉生作品のうち、初期の自画像や晩年の文人画風の日本画など4点をご紹介します。あわせて、劉生と同時代に活動した萬鉄五郎、高村光太郎の未公開作品も展示。本フロアの常設作品とともに、岸田劉生とその時代を彩った作品の数々をお楽しみください。
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010メインは岸田劉生ですが、光太郎の彫刻と書も。彫刻「十和田湖畔の裸婦像のための手」は、まさにその通りのもので、十和田湖の「乙女の像」の左手部分の習作です。「制作年不詳」となっていますが、昭和27年(1952)です。同型のブロンズ鋳造はあちこちにあり、当方、千葉県立美術館さん、八戸クリニック街かどミュージアムさんなどで拝見しました。

書の方は、短句「山巓の気」、それから短歌「爪きれば指にふき入る秋風のいとたへがたし朝のおばしま」。短歌の方は、繰り返し同じ歌を揮毫したようで、共に短冊でしたが、七夕古書入札市の一般下見展観で見たことがありますし、美術品オークションにも出品されたことがあります。そのどちらかの時のものかどうか、画像が出ていないので分かりませんが……。

似鳥美術館さん、これ以外にも、光太郎の父・光雲とその一派の作を大量に収蔵なさっていて、常設展示で出ています。一度伺いたいと思いつつ、果たせないでいるのですが……。

もう1件。

京都非公開文化財特別公開(一念寺)

期 日 : 2023年11月12日(日)~11月20日(月)
会 場 : 一念寺 京都市下京区柳町324
時 間 : 午前9時~午後4時
料 金 : 大人 1,000円  中高生 500円

 「京都非公開文化財特別公開」は昭和40年にはじまった文化財愛護の普及啓発事業で、文化財を公開することにより、市民あるいは広く国民的な活用に資し、且つそれに基づいて文化財愛護の関心を高めるという趣旨のもと、社寺や文化財所有者の協力を得て実施してまいりました。
この秋は京都市内15か所の文化財を公開します。公開場所によって公開期間や時間が異なりますので、ご来場いただく前に当ホームページ等にて事前にご確認をお願いします。
  皆様から頂戴しました拝観料は、貴重な文化財を未来に伝えるため、保存修理・維持管理等に役立てられます。
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京都市内15の寺院が参加しての事業で、毎年違った寺宝を出す、ということのようです。

このうち、下京区柳町の一念寺さんという寺院で、光太郎直筆の書を出すと予告されています。『朝日新聞』さん記事から抜粋で。

西本願寺の門前町、三つの寺が堂内初披露 幕末の大火後に再建・移転

 浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺(京都市下京区)の東側に、いくつもの寺や仏具店が軒を連ねる門前町がある。開祖・親鸞(しんらん、1173~1262)の生誕850年を記念し、門前の三つの寺が、秋の「京都非公開文化財特別公開」(京都古文化保存協会主催、朝日新聞社特別協力)で堂内を初披露する。
 門前町は、時が穏やかに流れる。西本願寺との間を幹線道路の堀川通が貫くが、その騒々しさがここにはない。東西300メートル、南北700メートル。碁盤目状の町割りに、約20の寺が点在する。
 起源は、豊臣秀吉による京都改造で、西本願寺がこの地に移ってきたことにさかのぼる。江戸時代になると、広大な境内に80を超す寺院が並び、幕府の力も及ばない独自の自治を行う寺内町をつくった。しかし、幕末に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)による大火で焼け野原に。現在の町並みは、その後再建された。

一念寺 「新選組」に対した重鎮ゆかり
 同じ通りの一念寺は、明治維新の頃に門前町の別の場所から移ってきた。幕末期には西本願寺の重鎮・富島頼母(たのも)の屋敷があった。富島は、西本願寺に屯所(とんしょ)を構えた新選組の退去に努めたことで知られる。
 本堂は、法輪寺と同じ座敷御堂。縁側のような入り口から内陣が見える。文化人との交流が深く、収集品も多い。特別公開では芥川龍之介や高村光太郎、泉鏡花らの書画を展示する。
 「文学や芸術への寺の功績を知ってもらえたら」。町歩きの案内もする谷治暁雲(ぎょううん)住職(50)は話す。
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こちらで所蔵されているという光太郎の書、当方、寡聞にして存じませんが、とりあえず。

その他、「芸術の秋」ということもあるのでしょう、この時期、全国各地で現代の書家の方々による書道展等もたくさん開催されており、中には光太郎詩文を題材にされたものも出品されたりしています。既に終わってしまったものも含め、記録のためご紹介しておきます。

支部蘭蹊~書は言葉なり 言葉は心なり~展

期 日 : 2023年10月14日(土)~10月18日(水)
会 場 : 釜石市民ホールTETTO ギャラリー

『釜石新聞』さんから。

釜石応援ふるさと大使 書家・支部蘭蹊さん TETTOで初個展 復興支援で結ばれた絆強く

 「釜石応援ふるさと大使」を務める宮城県仙台市在住の書家、支部蘭蹊(はせべらんけい=本名・一郎)さん(72)が14日から18日まで、釜石市大町の市民ホールTETTOで個展を開いた。中学、高校時代を釜石市で過ごした支部さんは、東日本大震災後、同期生らと古里へのさまざまな支援活動を展開。被災者らに自らの筆で心を癒やす言葉を贈るなど、明日への希望をつないできた。今回は、被災後に新設された同ホールでの初めての個展。これまでの支援活動で支部さんの作品に魅了されてきた人たちをはじめ、多くの鑑賞者が訪れた。
 「書は言葉なり、言葉は心なり」と題した展示会には100点余りが出品された。支部さんの作品は書道を身近に感じられるよう、日常生活で目にできる形に仕上げているのが特徴。額入りや掛け軸のほか、帯地を利用したタペストリー、硯石に刻字した置物、写真に言葉を添えた作品などさまざまな趣向が凝らされている。書かれているのは心を潤す四文字熟語のほか、宮沢賢治や高村光太郎、金子みすゞらの詩、自由律俳句で有名な種田山頭火の句など。支部さん自らが紡いだ文言の作品もある。
(略)
 今回の個展は、昨年就任した同ふるさと大使としての役割を「活動で示したい」と開催した。年齢を重ねていく中で、自分がやってきたことを次につないでいければとの思いもあった。支部さんは「いろいろな人との出会いが私たちの人生を支える。ここに来て会話をしたり、何か気付きを得て帰ってもらう。そういう場を今後も作っていきたい」と、個展の継続開催に意欲を見せた。

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第21回書道 五月女紫映 社中展

期 日 : 2023年10月15日(日)~10月21日(土)
会 場 : 東京交通会館2Fギャラリー

『産経新聞』さん記事。

第21回「書道 五月女紫映 社中展」が有楽町の東京交通会館で開催

 第21回「書道 五月女紫映 社中展」が有楽町の東京交通会館2Fギャラリーで開催されている。
 五月女主宰は、村野四郎詩「鹿」を出品、生き生きとして抒情を誘う。刻字作品「ありがとう」は、ひらがなと漢字の「日々平凡」を組み合わせ、思いが籠る。会員は、漢字、近代詩文書、臨書、小品の書画と多彩な作品を出陳。漢字作品では、冨永香代子さんの白居易「長恨歌」が、師匠譲りの躍動感あふれる筆致で秀逸だ。淡墨で白居易「仙遊寺獨宿」を変化ある三行にまとめた石向竹霞さんの作品も面白い。近代詩文書は、坂本勝彦さんの高村光太郎「冬が来る」、藤井優子さんの金子みすゞ「私と小鳥とすずと」、福田世英さんの自作「思うがままに」などが印象に残る。いずれも衒いのない平明な作品だが、作者の心が伝わってくる。服部弘さんの黄庭堅「松風閣詩巻」は、やや細身だがしっかりとした臨書で好ましい。多士済々、64作が展示され楽しめる。10月21日まで。
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第8回海游舎書展

期 日 : 2023年10月17日(火)~10月22日(日)
会 場 : 埼玉県立近代美術館

やはり『産経新聞』さんより。

「第8回海游舎書展」が埼玉県立近代美術館で開催

 「第8回海游舎書展」(山下海堂会長=産経国際書会最高顧問)が10月17日から22日(午後3時)まで、さいたま市浦和区(JR北浦和駅下車)の埼玉県立近代美術館で開催されている。書道研究海游舎は、山下会長が柴田侑堂門下より独立して創設、以来埼玉県下の社中を糾合し産経国際書会の有力な団体に成長している。
 山下会長は、雄渾な「和気致祥」、「修羅」などを出品。高木撫松さんは情感漂う「中川一郎の詩」など、青木錦舟さんは花吹雪の情景を切り取る意欲作「花がふってくると思う…」ほか、本橋春景さんは直線的な構成で見せ場を作る高村光太郎詩などを出品。他に布施夏翠さん等、漢字、かな、現代詩文など多彩な作品約100点が展示され見ごたえがあった。会長賞を、行草単体で孟浩然の「洛陽訪才子…」を書した大平美侑さん、若山牧水歌「いく山河…」を淡墨で縦二段に散らした大毛青舟さんが受賞。特別賞を、盛田理泉さん、松井遊舟さん、小西桜吟さん、産経新聞社賞を岩本京子さんがそれぞれ受賞した。
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以上3件、終わってしまったものですが(ご紹介が遅れてすみません)、これから開催されるものも。

第10回 日本美術展覧会

期 日 : 2023年11月3日(金・祝)~11月26日(日)
会 場 : 国立新美術館 東京都港区六本木7-22-2
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 前売券 1,200円 当日券 1,400円 大学生以下無料
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入選者の名簿がネット上に出ていまして、明らかに題名で光太郎詩を書いて下さったのがわかる作が4点(見落としがあったらすみません)。
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この手の公募展で、もう一つ、書家の菊地雪渓氏によれば、11月18日(土) ~ 11月24日(金)、 東京都美術館さんで開催される「第45回東京書作展」の第3次審査まで残った作に光太郎詩「雪白く積めり」を書いた作品が入ったそうです。第4次(最終)審査に進出上位10作品には残らなかったようですが、展示されるのは間違いないでしょう。詳細がわかりましたらまたご紹介します。
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最後に、ちょっと変わったものが出品されている書道展。

特別企画展 郷土の書人・画人・教育者 上田桑鳩展~上田家・飛雲会寄贈品~

期 日 : 2023年10月14日(土)~11月26日(日)
会 場 : 堀光美術館 兵庫県三木市上の丸町4番5号
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 11月24日(金)
料 金 : 一般500円 大学/高校生250円

日本経済新聞の題字を手がけたことでも知られる三木市吉川町出身の書道家上田桑鳩(うえだそうきゅう)の特別企画展

上田錦谷時代(大正後期)から最晩年に至る多彩な桑鳩芸術の全容を公開 ※錦谷(きんこく)とは桑鳩を名乗る以前の雅号

令和3年度に上田啓之氏から寄贈いただいた書作品、スケッチブック、教科書などと令和2年度に飛雲会より寄贈いただいた作品を中心に展示します
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前衛書家として名を成した上田ですが、書作品以外に旧蔵品が出品されており、その中で光太郎の書を集めた『高村光太郎書』(昭和34年=1959 二玄社)も。
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見返しに上田による同書の感想がびっしり書き込まれているそうです。「彫込し如き筆の痕」「深く大きく宇宙刻めり」といった文言が見えます。光太郎の書によほど感銘を受けたのでしょう。

同書、ハードカバーの初版が昭和34年(1959)の刊行。美術史家の奥平英雄、当会顧問であらせられた北川太一先生の編集になる大判の書作品集です。昭和51年(1976)にはソフトカバーの改訂新版も出ていますが、上田の没年が昭和43年(1968)ですので、初版の方でしょう。

手にとって見られるよう、複製したものも展示しているとのこと。面白い試みですね。

ところで、光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」にも、初公開のものを含む書が出ていますし、同館では常設でも光太郎書を多数展示しています。
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ちなみに当方、明日から2泊3日で花巻です。同展関連行事の市民講座の講師、さらに宮沢賢治イーハトーブ館さんでのシンポジウム的な「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」でコーディネーターを務めさせていただきます。

以上、実にいろいろご紹介しましたが、開催中のもの、これから始まるものについては、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生は疎開しません、地方に親戚もなく、又彫刻の仕事は道具類の関係上このままの方がよいと思つてゐます、どんな危険な時でも小生は平気でやつてゐる気です。


昭和19年(1944)3月29日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎62歳

米軍による本土空襲は既に始まっています。結局、翌年4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエは灰燼に帰す事になります。

001当会発行の冊子『光太郎資料』60集、完成しました。今日明日で関係各所に発送いたします。

元は当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められたものです。その後、様々な「資料」を掲載、36集まで不定期に発行されていました。平成24年(2012)から倒壊として誌名を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。1回は光太郎忌日・連翹忌に合わせ4月、1回は明日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせた日付としています。

北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、その点は引き継がせていただいております。表紙の題字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の目次は以下の通り。
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・「光太郎遺珠」から 第二十四回 書(その一)
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今号と次号で「書」に絞って紹介します。

光太郎自身は「書家」を名乗ったことはないのですが、早くから書の優品を数多く残し、日本書道史上に得意な存在感を放っています。今号では戦前、戦時中に書かれた書。昭和17年(1942)、前年の真珠湾攻撃の際に戦功を立てて戦死した「九軍神」の隊長格・岩佐直治中佐の遺族に贈った書(これまで未確認)、詩人・高祖保や漫画家・池田永ー治(永治)に贈った書など。

光太郎回想・訪問記 わが文学半生記 より 江口渙
光太郎と交流のあった人物による光太郎回想。光太郎自身が書き残さなかったエピソードがあったり、記録はあるものの詳細が不明だった事柄の捕捉になったりと、貴重な証言です。

今号では、芥川龍之介と親しかった江口渙の回想。智恵子の印象や、光太郎の書を巡る江口と芥川とのバトルなどが描かれています。

・光雲談話筆記集成 大黒天鋳造苦心談
昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』以外に、様々な雑誌や書籍に発表された光太郎の父・光雲の談話筆記もまとめています。「大黒天鋳造苦心談」は、明治43年(1910)『みつこしタイムス』第8巻第5号より。同誌は日本橋三越呉服店のPR誌です。この年、同店常務取締役の藤村喜七の勤続50年表彰が行われ、その際に同店から藤村に贈られた光雲作の純金製大黒天像に関わります。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十四回  取手(茨城県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は光太郎の筆跡が刻まれた石碑等が複数残る、茨城取手
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十四回  舞踊「智恵子抄」藤間節子/小村三千三
昭和24年(1949)、光太郎と交流のあった舞踊家・藤間節子による舞踊「智恵子抄」公演があり、その後、何度か再演されています。劇伴作曲が「歌の町」(よい子が住んでるよい町は……)などの作曲でも知られている小村三千三。そのあたりについてまとめました。
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・高村光太郎初出索引
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では昭和2年(1927)に初出があったものを掲載しました。この年、一気に寄稿先が増えています。

・第六十七回連翹忌報告
コロナ禍により3回連続で中止としていた4月2日の連翹忌の集いを今年再開させましたので、そのレポートも復活しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】013

右の親指がまだ少し不自由なので字がいく分平常と違つてゐるでせう、


昭和15年(1940)11月5日
 更科源蔵宛書簡より 光太郎58歳

更科の詩集『凍原の歌』の題字を揮毫したことに関わります。この頃、右手の親指に腫れ物ができ、各種執筆に不自由を来していました。確かにこの種の光太郎揮毫としては、あまり上手くない文字です。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。

最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
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記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。

ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。

 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。


その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
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   大地うるはし

 村役場の五十畳敷に
 新築祝の額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。012
 大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合せるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。

『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。

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ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
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光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
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さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。

【折々のことば・光太郎】

今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、


昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。

この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。

    レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

昨日、光太郎自身の書について書きましたが、光太郎詩を書いて下さった作品も含まれる現代の書の展覧会が長野県で開催中でした。気づくのが遅れ、明日までです。

表具師北岡芳仙洞 創作箔アートパネル展

期 日 : 2023年9月2日(土)~9月11日(月)
会 場 : かんてんぱぱガーデン 長野県伊那市西春近広域農道沿い
時 間 : 9:00〜17:00 最終日は13:00まで
料 金 : 無料

染めた和紙と織物に金銀箔をあしらった屏風やパネルなど200点以上。

和紙と織物を染め、金銀箔をあしらった唯一無二の作品を展示販売いたします。新作六曲一双屏風や新作パネル・行燈・花掛・置時計など多種多様です。表具師古来の糊と技法を生かした新しい表現の数々。全ホール使用の展覧会は二回目となります。みなさまのご清遊を心よりお待ち申し上げております。

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長野県北部の中野市にお店を構えられている芳仙洞さんという老舗表具店さんの主催。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を書家の方が書かれた作品も展示されているそうです。
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長野市の書家、久保皐泉さんとの共作。高村光太郎の「道程」。墨染、絹、銅箔。何度も書き直したという久保さん。久保さんの作品の中でも異色ですが、とてもシックな仕上がりではないかと。広い会場でその雰囲気を是非、感じて頂けたらと思います。

横長の作品ですが、なるほど、マクリの状態ではなく、きれいに表装されているようです。茶色っぽい部分が銅の箔なのですね。へーっと思いました。

書の方は詩の内容が内容だけに雄渾な感じで、てっきり男性の作品かと思い込んでいましたが、久保さんという方、女流の書家だそうです。意外といえば意外でした。そういう決めつけがジェンダー平等に反するのかも知れません。

書家の皆さんには、光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日は岡倉先生の珍しき写真一葉お貸し下され難有存じます。團十郎製作後に天心像を作りたく、その時の参考に暫く拝借いたします、


昭和12年3月31日 松下英麿宛書簡より 光太郎55歳

「岡倉先生」は岡倉天心、「団十郎」は九代目市川團十郎。南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させたことによって、彫刻制作の時間が取れるようになりました。しかし團十郎像は九分通り出来上がったものの、未完。天心像は着手したのかどうかも確認できていません。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の一面コラムで光太郎をメインに取り上げて下さいました。

河北春秋(9/7):「いくらまはされても針は天極をさす」。

「いくらまはされても針は天極をさす」。花巻市の高村光太郎記念館に展示される高村光太郎(1883~1956年)の書は言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象を与える。地元の山口小(現太田小)の校訓を揮毫(きごう)した「正直親切」は達筆というより誠実そのもの。児童が書いたようですらある▼光太郎は「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ」とつづった。太平洋戦争中に戦意高揚の詩を作ったことを悔いた光太郎は戦後、最後の作品である十和田湖畔の『乙女の像』(53年)まで彫刻の制作には慎重だった。その分、従前に増して書に意欲を見せた▼光太郎の書を「実に味わいがあり、まさに見ていて飽きない」と愛するのが仙台市の作家伊集院静さん。書にまつわるエッセー集『文字に美はありや。』は、書に伝わる「人の哀しみ」に美を見いだす▼第70回河北書道展があす開幕する。戦争の傷跡がまだ残る54年に産声を上げた。東日本大震災、新型コロナウイルス禍に直面しても中止せず、喜怒哀楽を伝えてきた▼光太郎はこうも記している。「直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい」。古希を迎える書の杜で、困難にも辛抱強く、ぶれずに生きる東北の人々に会いたい。(2023・9・7)

花巻の高村光太郎記念館さんで展示されている光太郎書を取り上げて下さいました。その評もなかなか的確ですね。

言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象」という「いくらまはされても針は天極をさす」。戦後の花巻郊外旧太田村蟄居時代に書いた色紙です。
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「ぶれない自分」というものを表象しようとしたものでしょう。世の中が戦時に突入すると、ぶれる、というか、豹変した光太郎ですが。

この語は揮毫等で好んで使いました。おそらく初出は昭和2年(1927)に書いたたった2行の詩「詩人」。

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
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おそらくそう離れていない時期に、この語を刻んだ木皿も残されています。

木皿は光太郎実弟の鋳金家・豊周により、ブロンズに鋳造されて、戦後の高村光太郎賞牌として受賞者に授与されました。
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また、同じ趣旨の「針は北をさす」と揮毫された書が、岩手県奥州市の人首文庫さんに現存します。

達筆というより誠実そのもの」「児童が書いたようですらある」と評された「正直親切」はこちら。
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昭和23年(1948)に、蟄居していた山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格し、光太郎が校訓として贈ったものです。横書きで現代風に左から右、一年生の児童にも読めるようにと新仮名遣いでルビも書き込みました(拗音を一回り小さいサイズで書くというルールはまだ定着していなかったようです)。

この文字を刻んだ碑が、確認出来ている限り全国に三基。花巻の山口小学校跡地、埼玉県東松山市の新宿小学校さん(同市元教育長の故・田口弘氏肝煎り)、荒川区立第一日暮里小学校さん(光太郎母校)です。
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三基のみならず、日本中の全ての小学校さんに設置していただきたいものです(笑)。あるいは永田町の衆参本会議場とか議員会館とかにも(笑)。

『河北新報』さんん、伊集院静氏の『文字に美はありや。』にもふれられています。こちらでも光太郎書が取り上げられています。

さて、秋となりました。「芸術の秋」とうことで、各地で書道展なども多くなってくることでしょう。今回の『河北新報』さんコラムも同社主催の「河北書道展」にからめての光太郎紹介でした。同展、「近代詩文」部門もあり、光太郎詩を書いた作品が入賞しているかな、と思いましたが、残念ながらネット上で見られる上位入賞作品にはありませんでした。おそらく各種書道展で、光太郎詩文を書いて下さるかたが少なからずいらっしゃると存じますが、ぜひとも光太郎曰くの「あたり前と見える」「無理と無駄との無い」書でお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子も春子さんの看護になつてから前よりもよい様に見うけられます。しきりと手芸をやつて居る様です。


昭和12年(1937)2月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「手芸」は、奇跡と言われた紙絵の制作と思われます。智恵子の生命、あと1年半あまりですが、その間に千数百点の紙絵を作りました。
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2ヶ月近く経ってしまいましたが、新刊です。

ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界

2023年6月18日 佐藤広野編 コスミック出版 定価1,500円+税

 美しいイラストで彩られたガラスペンを愉しむためのなぞり書きBOOK
 
実際にインクで描かれた挿絵で鮮やかに彩られたページでお送りする、ガラスペンとインクを心ゆくまで愉しめる一冊です。宮沢賢治からアンデルセン童話まで、魅力的な文学を幅広く収録。後半ページには本文イラストを使用した&カードつき。切り離してお楽しみいただけます。
 
用紙が途中で変わる仕様となっており、さらっと、ざらっと、つるっと、3種類の用紙が愉しめます。
インク馴染みの良い、書き心地を重視した用紙をセレクトしました。
 
▽イラストレーター
惠/シーナケイ  定岡恵  ハコペン  模様デザイナーmaya
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目次
 本書の使い方
 第一章 星と夜空の文学
  銀河鉄道の夜 宮沢賢治
  夢十夜 夏目漱石
  あのときの王子くん アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
  星とピエロ 中原中也
  湖上 中原中也
  山月記 中島敦
  春夜 萩原朔太郎
 第二章 花と果実の文学
  一握の砂 石川啄木
  桜の樹の下には 梶井基次郎
  桜の森の満開の下 坂口安吾
  檸檬 梶井基次郎
  蜜柑 芥川龍之介
  或阿呆の一生 芥川龍之介
  たけくらべ 樋口一葉
 第三章 恋と罪の文学
  初恋 島崎藤村
  舞姫 森鷗外  
  女生徒 太宰治
  こころ 夏目漱石
  駆け込み訴え 太宰治
  蜜のあはれ 室生犀星
  人に 高村光太郎
  レモン哀歌 高村光太郎

  春琴抄 谷崎潤一郎
 第四章 海の向こうの文学
  赤ずきん グリム兄弟
  幸福の王子 オスカー・ワイルド
  はつ恋 イワン・ツルゲーネフ
  ロミオとジュリエット ウィリアム・シェークスピア
  人魚の姫 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
  不思議の国のアリス ルイス・キャロル
  白雪姫 グリム兄弟
 レター&カード 切り離し付録
 作家紹介


最近流行りのガラスペン――その名の通り、ペン先(多くは本体も)がガラスで出来ているペンです。毛細管現象を利用する漬ペンという意味では、万年筆と似ていますが、ペン先が金属ではなくガラスなので、独特の風合いが醸し出されます。日本発祥で意外と歴史は古く、明治35年(1902)に風鈴職人・佐々木定次郎が発明したとされています。

本書は有名な文学作品の一節を、ガラスペンでなぞって書いてみよう、というコンセプトで、上記作品が1~2ページずつ引用され、薄く印刷されています。ちなみにそのフォントもいろいろです。バックの枠的なイラスト部分も、4人の作家さんがガラスペンで描いたものとのこと。
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光太郎詩が二篇、「人に」(大正元年=1912)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。

X(旧ツィッター)上で、この手の文学作品等の一節(多くは青空文庫さんで公開されているもの)を様々な筆記具で書いて投稿する、という「#○○書写」というハッシュタグが存在し、時折、光太郎作品、光雲作品が取り上げられています。なかなかの力作もあり、「いいね」を押させていただいております。

「書道」とまではいかないのかもしれませんが、新しい「書字」の一つの潮流として、かなり定着しているようですし、こうした流れにも敏感な書家の石川九楊先生あたり、「#○○書写」論を展開していただきたいところです。

さて、『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさん少々ぼんやりしてゐましたがひどく悪くなくて喜びました。あの筆にはまつたく驚きました。かういふところは全く天才的だと思ひます。それだけまた頭のくるふ事もあるのだとおもはれます。ちゑさんの天才を十分に発揮する事ができたら素晴らしいでせう。


昭和9年(1934)7月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子を預かって貰っている、九十九里の智恵子実母宛。「あの筆にはまつたく驚きました」は、智恵子がまた絵でも描いたのかと思ったのですが、『高村光太郎全集』の解題に依れば、黒松の芽で筆を作ったのだそうです。それが驚くような出来だったということでしょう。

「ちゑさんの天才を十分に発揮する事」。まだこの時期の智恵子は有名な「紙絵」は作っていません。

昨日開幕の企画展示です。光太郎の書簡が複数展示されています。

第67回企画展「いわての芸術家の手紙」

期 日 : 2023年2月21日(火)~6月12日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
時 間 : 午前9時から午後6時 まで
休 館 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般200円(160円) 高校生100円(80円) 中学生以下無料
      ( )内20人以上団体料金

 芸術家の手紙は、彼らが創り出した作品とは違った魅力を持っています。 制作の苦労や喜びがつづられた手紙は、 作品への理解を深める手がかりになります。 また、 芸術家の人となりを知ることのできるユーモラスな内容の手紙や、送り手への気遣いを感じる手紙もあります。

 本展では彫刻家の高村光太郎が県立美術工芸学校校長の森口多里に送った手紙をはじめ、深沢紅子、舟越保武といった岩手ゆかりの芸術家の手紙を通して、その業績や作品を紹介します。
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ギャラリートーク
開催日  令和5年3月21日(火曜日) 、令和5年5月23日(火曜日)
開催時間 午後2時から午後2時45分まで
対象   どなたでも
開催場所 盛岡てがみ館 展示室
内容   当館館長と学芸員が展示解説をします。
申し込み 必要
 令和5年3月21日(火曜日)は令和5年3月11日(土曜日)、令和5年5月23日(火曜日)は令和5年5月10日(水曜日)のいずれも午前10時から、電話(019-604-3302)で先着順に受け付けます。
費用   必要 上記企画展と同じ
定員   8人(新型コロナウイルス感染症の状況に応じて変更する場合あり)

同館、『高村光太郎全集』にもれていた光太郎書簡(同館の御厚意により当方編集の「光太郎遺珠」には所収)、多数所蔵されており、これまでもたびたび展示して下さっています。

盛岡てがみ館、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」。
東北レポートその4(盛岡編①)。
盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

また、光太郎詩稿も。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

今回は石川啄木顕彰に功績のあった吉田孤羊、岩手県立美術工芸学校長だった森口多里に宛てた書簡など。いずれもペン書きの気負わない書体ですが、それだけに光太郎の普段着の人柄がにじみ出るようなものです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

外国に参りてより既に三年。しかも業得る所の多くは埃に似たる末技のみ。自らかへりみて深く之を恥ぢ申候。唯以前よりは稍自らを知り得る様になりたるかと存じ、以て心を慰め居る事に御座候。


明治42年(1909)1月25日 平櫛田中宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学も終盤、この年6月には帰国の途に就きます。「業得る所の多くは埃に似たる末技のみ」、謙遜ではなく、実際それに近い感覚だったと思われます。上っ面だけ学んで全てを会得した気になる軽薄な輩と異なり、自分に厳しい光太郎の一面も、大きな魅力の一つです。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんへ。お世話になっている書家の菊地雪渓氏が出品なさっていた「東京書作展 選抜作家展2023」を拝見に。
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いろいろバタバタしていまして、最終日の観覧となってしまいました。
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菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で内閣総理大臣賞等を獲得なさったりしています。


今回の作は光太郎ではなく、漢詩。蘇軾の「漁父」だそうで。
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相変わらずお見事でした。

直接存じ上げない方ですが、「智恵子抄」所収の光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)を書かれて出品なさった方も。
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ありがたし。

続いて、品川区大井町へ。

平成30年(2018)に開催された、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」に際し、光太郎が彼の地にいた頃のジオラマ制作をお願いした石井彰英氏がミュージシャンでもあらせられ、お仲間の方々とご自宅でコンサートを開かれるということで参上しました。

ジオラマは花巻高村光太郎記念館さんで現在も展示中。
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氏のご自宅に伺う前、寄り道を。

大井町といえば、智恵子終焉の地、ゼームス坂病院があった場所。跡地には「レモン哀歌」(昭和14年=1939)詩碑が建っています。当方、何度も訪れた場所ですが、久しぶりに行ってみました。
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大井町駅方面からゼームス坂を下り、下りきる少し前を左に。
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ゼームス坂の由来を記した碑。

そしてその向かいに「レモン哀歌」詩碑。23区内では唯一の光太郎詩碑です。
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いつもレモンが供えられています。多謝。
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この碑、智恵子の推定身長と同じ高さ(150㌢ほど)だそうで。
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右上は、過日発見した光太郎智恵子の立ち姿写真です。智恵子が小柄だったことがよくわかります。

その後、石井氏邸に向かう道すがら、「お江戸鎧せんべい岩本米菓」さんへ。こちらでは智恵子にちなみ、「品川浪漫 レモン愛菓」というおかきを製造販売して下さっていますので、それをゲットしようと思いまして。
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しかし、残念ながら日曜定休でした。
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いずれリベンジを、と心に誓いました(笑)。

ちなみにすぐ近くでは、早咲きの桜もちらほら。
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つい4日前、マイナス9℃の世界にいたのが嘘のようで(笑)。

そして石井氏邸に到着、コンサートを拝聴。
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石井氏が制作された「高村光太郎ジオラマDVD」で、音楽やナレーションを担当なさった方々も多数ご出演。
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石井氏、人脈の広い方で、かの長嶋茂雄氏やファイティング原田氏などともご昵懇ですし、この日聴きにいらした方々も、一流レストランのシェフ氏、国民的アイドルのお母さま、「モンスター」と称されているボクシング選手の関係者の方などなど、実に多士済々でした。

最初の書道展の件を含め、皆様方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

About what you write in your leter on life, I understand quite clealy. Yes, one must conquer oneself first, as you say. But after conquered, one must put oneself at large. Like water, and like wind, free yet not disordered, ruled yet spontaneous, one must be. One must learn everything in life or in Art., and must forget everything. One must go up to the top of the mountain, and must go down again, One must see the sky when one look at the sea.


明治41年(1908)7月20日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎26歳

ロンドンで知り合い、この後、来日して陶芸家となるバーナード・リーチ宛書簡から。

『高村光太郎全集』でのこの部分の翻訳は以下の通りです。

人生について君が手紙に書いていることは、僕にもよくわかる。そう、君の言う通り人はまず自分に勝たなければならない。でもその後で自分を解放することが必要です。水のように、風のように、自由でしかし乱れず、理法の支配は受けるが、しかし自然でなければなりません。あらゆることを人生において、芸術を学び、そしてすべてを忘れること。頂に登り詰めたら、またもう一度山を下るのです。海をながめるときには、空も見なければならないのです。僕はそう信じます。

英文の方は、歌詞にでもできそうな一節ですね。

既知のものですが、光太郎書簡が展示されます。

茨城大学五浦美術文化研究所所員企画展2022 「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」

期 日 : 2022年11月8日(火)~11月21日(月)
会 場 : 茨城大学図書館本館1階展示室 茨城県水戸市文京2-1-1
時 間 : 10:00~16:45
休 館 : 11月13日(日) 11月19日(土) 11月20日(日)
料 金 : 無料

その人らしさが表れる手紙。手紙は当事者間でやり取りするものですから、本来なら本人以外は見ることができないものです。本展は、横山大観、木村武山など五浦ゆかりの画家や大観が認めた小川芋銭、高村光太郎などの手紙に表れる「そのひとらしさ」に触れてみようという企画です。彼らの手紙は草書や変体仮名が使われ、しかも筆を走らせているため、知識がないと「読めない」です。でも、「線」や「書きぶり」を見ることはできます。太さ、細さ、強さ…様々な表現に感じられる「そのひとらしさ」を体験して「読まない」鑑賞をしてみませんか。

ぜひお誘いあわせの上、ご来場ください。

※事前予約が必要です。入場申込 からお申し込みください。)。
※新型コロナウイルス感染症の影響を鑑み、例年より規模を縮小しての開催といたします。
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関連企画

「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」記念講演会
 会  場 : 茨城大学 図書館 本館3階 ライブラリーホール
 会  期 : 令和4年11月12日(土)
 開演時間 : 13:25~15:50
 講演1 「小川芋銭の芸術」 小泉晋弥(茨城大学名誉教授・美術評論家)
  大観はなぜ、芋銭を日本美術院同人に推挙したのか、
  その問いから、明治から大正にかけての日本画の展開を考えてみます。
 講演2 「光太郎と宮崎稔」 安裕明(茨城県立多賀高等学校講師)
  高村光太郎と小川芋銭を繋いだ宮崎稔。取手の宮崎仁十郎、稔父子を通じ、
  芋銭と光太郎の交流についてお話しします。

  ※開場は13:10~となります
  ※事前予約が必要です。参加申込 からお申し込みください。
  ※先着順となりますので、予めご了承ください。

展示される光太郎書簡は、昭和17年(1942)2月28日付のもの。茨城取手の詩人・宮崎稔に送られた葉書です。宮崎は戦後、光太郎の仲介で、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚しています。
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光太郎が落款等に愛用していた、齋白石制作の印について述べられており、興味深い内容です。また、内容のみならず、味わい深いその文字も魅力的ですね。

関連企画の講演会でも、宮崎と光太郎について触れられるようです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

麻布中学生20人相模湖にて遭難のラジオ、


昭和29年(1954)10月8日の日記より

この頃の光太郎日記には、ほとんど社会情勢などに関する記述がないのですが、この日は別でした。後に「内郷丸遭難事件」と呼ばれるようになる事故で、新制麻布中学校の生徒22名が、相模湖で載っていた遊覧船の沈没により亡くなったという痛ましいものです。前途有為な少年たちの死ということで、よほど印象に残ったのでしょう。

大阪から書道展の情報です。

第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界

期 日 : 2022年10月25日(火)~10月30日(日)
会 場 : 日本民家集落博物館 大阪府豊中市服部緑地1-2
時 間 : 9:30 ~ 17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 博物館としての入館料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円

恒例の書道作品を中心とした展覧会。今年のテーマは「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」。
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会場の日本民家集落博物館さんは、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示するために昭和31年(1956)に、日本で最初に設置された野外博物館だそうです。
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この中の4棟を使って、地元の書道会・游心会さんの方々の作品展で、軸装を中心に約50点だそうです。代表の畑中弄石氏は、毎日書道展審査会員を務められているとのこと。

各人、てんでバラバラに書題を選ぶのでなく、会として「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」だそうで、なるほど、そういうやり方もあるんだな、と感心しました。同会、過去には宮沢賢治や石川啄木の詩歌文などで同様の試みをやられているそうです。

古民家を会場にというのもいいですね。

是非足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日ベッド上、 近所の電気屋さん来てベッドと中西さん宅とに呼鈴をつける、

昭和29年(1954)7月13日の日記より 光太郎72歳

「中西さん」は、光太郎終の棲家となった中野の貸しアトリエと同じ敷地内の大家(おおや)さんです。今で言うナースコールのようなものでしょう。

戦前には雑誌『白樺』、戦後には同じく『心』等を通じての、光太郎の盟友であった武者小路実篤を顕彰する調布市武者小路実篤記念館さんでの企画展示です。

秋季展「作家の筆跡(ひっせき)」所蔵原稿名品展

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月10日(月・祝)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜が祝日の場合は直後の平日)
料 金 : 大人 200円 小中学生 100円

当館が所蔵する500点近い原稿資料。本や雑誌に載せられた作品とは違い、残された作家の筆跡、推敲の跡からは、執筆時の悩みがありありと伝わってきます。本展覧会では実篤の代表作と言われる作品の原稿をはじめ、当館が所蔵する実篤以外の作家や画家の原稿も展示します。使われた用紙や、作家本人・編集者からの書込み、作家ごとの字の違いなど、原稿ならではの魅力をお楽しみください。


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実篤以外の作家たちの作品も出展されており、われらが光太郎の書も1点出ています。

短冊で「鐘の鳴るのをきゝに ロオマに行きたい」。光太郎が訳した『ロダンの言葉』の一節です。大正期書かれたもの。関西の方で行われた書の頒布会的な催しのために書かれたと推定されます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。美しく軸装されています。
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さらに光太郎の書ではありませんが、実篤の書いた光太郎追悼文(昭和31年=1956)の原稿も出ているとのこと。実篤は光太郎の逝去に際し、複数の追悼文を頼まれて各紙誌に発表しており、そのうち河出書房刊行の『文藝 臨時増刊 高村光太郎読本』に寄せたものです。掲載紙でのタイトルは「白樺と高村君」と成っていますが、草稿では「高村光太郎君」だそうで。

他にもいろいろ逸品が並んでいることと存じます。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝雪ふる、 車で送られ花巻駅、温泉の重役等、花巻、山口の人等他数見送り、十時半の「みちのく」にて帰京、 夜八時半上野着、直ちにタキシにてアトリエに帰り、後近所にて夜食をとる、


昭和28年(1953)12月5日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻でしたが、11日間の滞在でした。

他数」は「多数」の誤りですね。
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「来春六月にはまた帰るよ」と言い残して岩手を後にした光太郎。リップサービスではなく、実際に寒い時期には東京中野の貸しアトリエで、季候が良くなったら花巻郊外旧太田村の山小屋で、と、二重生活を目論んでいました。しかし、健康状態がそれを許さず、結局、この後東京を離れることはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完のまま絶作となった「倉田雲平像」です。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」に向かう前、久々に神田の古書街を歩きました。

まず向かったのは東京古書会館さん。こちらでは7月8日(金)、9日(土)の二日間、明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会一般下見展観」が開催されていました。
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国内最大規模の古書市で、出品物を手にとって観ることができる催しです。コロナ禍のため、一昨年は中止、昨年は勝手に「今年も中止だろう」と思いこんでいたら、実は規模を大幅に縮小して開催されていました。そんなわけで、3年ぶりでした。

今年も昨年並みに縮小しての開催だったようです。以前は4フロアぐらい使って出品物を所狭しと並べていたのですが、今年は2フロアのみ。「文学」カテゴリと「美術」カテゴリ(一部)が同じフロアという、以前では考えられない寂しさでした。昨年もこんな感じだったのでしょう。目録も昨年同様、以前の半分以下の薄さでした。

今回は光太郎メインの出品物はなし。目録掲載品以外の「追加出品」があった年もあり、会場の方に訊いてみましたが、今年はそれも無し。

間接的に光太郎智恵子に関わるものとして、光太郎が題字を揮毫した中原中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)、篠田桃紅さんの書で松竹映画「智恵子抄」の題字等。
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『山羊の歌』はガラスケースに入っていました。係の方にお願いすればケースの鍵を開けて出して下さるのですが、まぁいいや、と思い、ケースの外から拝観。

篠田さんの書は、額に入って壁に掛けられていました。入札最低価格が80万円、ネームバリューの割に安いな、と思っていたのですが、見て納得。ちょっと状態が良くありませんでした。それでも大きな書で、いかにも篠田さんという素晴らしい墨痕。軸装にでもして、二本松の智恵子記念館さんあたりに収蔵展示されればいいのにな、と思いました。

その他、大正から昭和初期のマイナーな映画雑誌などがまとめて出ており、もしかすると光太郎の寄稿があるかも、と、一冊ずつ目次を確認しましたが、残念ながら有りませんでした。

余談になりますが、昨年の七夕古書大入札会で出品された、光太郎から和歌山の編集者・東正巳という人物に送られた葉書21通、個人の収集家ではなく、業者さんが落札したようです。
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そしてその業者さん、ネットオークションで1通ずつ小出しにして分売しています。光太郎の直筆葉書なら欲しい、しかし個人では数十万円で数十通という出品物には手が出ない、という方々のニーズに合致しているようで、一通数万円程度で落札されているようです。昨年の入札最低価格は20万円、それでは落ちなかったと思いますが、そのでもこのように分売して1通数万円で売り続けられれば、業者さんは大もうけでしょう。参考までに。ちなみに当方、『高村光太郎全集』等に掲載済みで、内容が分かっているものは入手しない方針でいます。

古書会館さんを後に、靖国通りの古書街へ。
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光太郎をメインに扱った書籍はほとんど入手済みですし、そうでないものも図書館さん、文学館さん等でデジタル資料なり紙の実物なりをコピーして、必要な部分を入手するのが主流となっており、以前より足を向けなくなっていましたが、時折、面白いものが手に入ります。

この日、入手したのは下記の2冊。

まずは『《挨拶》草野天平の手紙』(昭和44年=1969 弥生書房)。
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当会の祖・草野心平の実弟にして、やはり詩人だったものの、数え43歳で早世した草野天平の書簡集です。大部分は心平ら家族・親族、当方の知らなかった友人宛のものでしたが、戦後、光太郎に宛てた書簡も3通掲載されていました。うち1通(昭和22年=1947)は巻頭口絵として画像も。
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この時期の光太郎への来翰は、ほぼすべて当会顧問であらせられた故・北川太一先生が保管されていたはず、と思っておりましたところ、案の定、後記的な箇所に、北川先生から提供を受けて掲載した旨の記述がありました。

天平、兄の心平よりマトモな人物(笑)というイメージでしたし、実際そうだったのでしょうが、意外と歯に衣着せぬ物言いもしていたんだな、という感じでした。特に光太郎が自らの戦争責任を自省して書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)への感想など、光太郎を思う余り、かなり手厳しい文言も。曰く「先生、何故このやうな詩をお書きになつたのですか。あれは詩ではありません。」「戦争中、皆立派ではありませんでした。たとへ先生がどんなことを戦争中に書かれたにしろ、戦争中にこの国の米を食つたものは、又はこの地に足をつけてゐた者は、一言たりとも何も言へない筈です」云々。

その他、心平や、天平の妻・梅乃による回想等もなかなか興味深く、これは一冊丸ごと読んでもいいなと思い、購入いたしました。

さらにこちら。
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山梨県立文学観さんで、平成4年(1992)に開催された企画展「与謝野晶子と「明星」」の図録です。同館では晶子メインで平成25年(2013)にも「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催していまして、拝見して参りましたが、それ以前にも晶子展をやっていたとは存じませんでした。

「「明星」の人々」ということで、光太郎に関しても出品物があり、図録でも5ページ、光太郎に割いて下さっていました。特に目新しいものは有りませんでしたが、一点だけ、「おっ」と思ったのが、明治33年(1900)、光太郎数え18歳のスケッチ。父・光雲を描いたものです。
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『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 春秋社)に、小さくモノクロの画像が載っていましたが、こちらはそれより大きく、細かな部分が観察出来ます。

北川先生による『高村光太郎 造型』の解題から。

 明治三十三年五月の日付を含むスケッチブックが現存する。表紙裏を含めて一二〇頁ほどのものだが、主として鉛筆、時に墨、色鉛筆、水彩着色等で、人物、風景、フランス語の断片等が書き込まれている。数え年十八歳、美術学校二年、まさに歌人砕雨が誕生するあたりの習作

砕雨」(さいう)は、『明星』に短歌を寄稿の際、光太郎が使った号です。

このスケッチブックは、平成2年(1990)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展に出品され、一部は拝見しましたが、全貌は当方も未見です。他にも光太郎のスケッチ類はいろいろ残っており、全体を複製して出版するなり、スケッチや絵画に特化した企画展なりが開催されてもいいような気もします。

この手のちょっとした掘り出しものがあるので、やはり神田古書街あなどりがたし、ですね。

この日はさらに、神田古書街へ向かう前に谷中霊園を訪れました。そちらについては、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小雨つつく、 奥平さんくる、午前石膏屋さん2人くる、


昭和28年(1953)6月7日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏による型取りが始まりました。「奥平さん」は親しくしていた美術史家の奥平英雄です。見物というか見学というかに来たのでしょう。

日本最大の古書市、「七夕古書大入札会」。都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっています。一昨年はコロナ禍のため、中止。昨年は規模を大幅に縮小しての開催でした。

出品された品の基本的に全品を手にとって見ることが出来る一般下見展観が行われます。ただ、どうも昨年同様、かつての規模ではないような感じです。

七夕古書大入札会2022 一般下見展観

期 日 : 2022年7月8日(金)・7月9日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/8 10:00~18:00  7/9 10:00~16:00
料 金 : 無料
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一昨日でしたか、ネット上に出品目録が出、拝見。驚きました。今年は光太郎の肉筆等が出品されていません。当方、昭和の終わり頃からの、冊子になった目録をほぼすべて入手していますが、毎年、光太郎の書幅やら書簡やら署名本やら、何かかんかは必ず光太郎の肉筆物が出品されていました。時には『高村光太郎全集』未掲載の書簡等が出ている年も。逆に、以前から古書店さんが在庫として持っていたものだけで、目新しい物はなかったという年もあれば、とんでもないニセモノが掲載されていた年もありましたが、それにしても光太郎の名がないという年はありませんでした。当方が冊子目録を入手していない年もありますので、その中で掲載がなかった年もあったかもしれませんが。

規模が大幅に縮小された昨年ですら、複数の出品があったのですが、まぁ、光太郎の名が忘れられてしまって……というわけではなく、たまたまだと信じたいところです。

その中でも、一応、光太郎に関わるものをご紹介します。

まず、光太郎が題字を揮毫した中原中也の詩集『山羊の歌』。やはり光太郎と交流のあった堀口大学宛ての献呈署名が入っています。ビッグネームからビッグネーム宛てということで、そこそこの価格になっていますね。
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それから、昨年亡くなった篠田桃紅さんの書。
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過日、BS松竹東急さんでテレビ放映して下さった、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん丹波哲郎さん主演)の題字です。
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上記画像は公式パンフから。
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こちらは映画の冒頭。ところが、よく見ると一致しません。篠田さん、横書きのバージョンと、縦書きのそれと、二種類書かれたようです。今回の出品物はパンフレットなどに使われた横書きのもの、映画冒頭のものは、他にポスターなどにも使われたもので、縦書き、というわけです。
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今回の出品物には光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を書かれたものも。こちらの筆跡は初めて拝見しました。

篠田さんの回顧展的な展覧会、すでに複数回開催され(現在も虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館さんで開催されています)が、この「智恵子抄」題字は出品されないなぁ、と思っていたら、まさか売りに出されるとは、という感じでした。

ところで、七夕古書大入札会。存命の人物に関わるものはほとんど出品されません。かつて吉本隆明氏が亡くなった後、草稿やらが結構出るようになり、改めて「ああ、吉本氏も亡くなったんだなぁ」と思いましたが、今回もそんな感じでした。いずれ瀬戸内寂聴さん、高良留美子さん、半藤一利さん、西村賢太さんあたりのものが出て来るようになるのでは、と思っております。

当方、9日(土)に観て参ります。目録に載っていない追加出品で光太郎関連が出ることも有り得ますし、他の文豪のものすごいものの出品はありまして、それが手にとって見られる機会です。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

春子さんより速達にて稔氏胃潰瘍の由、夜十時電報、今日午后八時半死去の由、

昭和28年(1953)4月27日の日記より 光太郎71歳

春子さん」は、看護師の資格を持つ智恵子の姪で、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った宮崎(旧姓・長沼)春子です。「稔氏」は詩人の宮崎稔。光太郎が取り持って春子と結婚しました。その後、光太郎生前最後の詩集『典型』の編集などに当たっています。深酒がたたっての胃潰瘍、そして死でした。

2件ご紹介します。

まず今朝の『朝日新聞』さん。一面コラム「天声人語」、枕の部分に光太郎の名。

(天声人語)ノーヒットノーラン

詩人室生犀星が若かりし頃、高村光太郎はいつも一歩先にいる存在だった。自分では手が届かないような高名な文芸誌に、常に詩が掲載されている高村という若者がいる。名前を見るたび嫉妬を覚えたという▼「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時(いつ)も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる」と『我が愛する詩人の伝記』に書いている。脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。ましてスポーツの世界では▼オリックスの山本由伸投手(23)が四球を一つ許しただけのノーヒットノーランを成し遂げた。きのうの紙面によると、ロッテの佐々木朗希投手(20)が4月に達成した完全試合に刺激された結果でもあるという▼山本投手は国際試合でも日本代表を引っ張る存在で、もともとは佐々木投手の方が刺激や教えをを受ける側だった。シーズンオフに自主トレーニングをともにし、山本投手を質問攻めにしたと本紙デジタル版が伝える。チームを越えた切磋琢磨(せっさたくま)がある▼今期の無安打無得点はこれで4投手目となり、一つのシーズンとしては1943年以来の記録という。1人の偉業が次の呼び水になる。そんな現象は日本陸上界の100㍍走でも数年前に見られた。長年の課題だった「10秒の壁」を破る選手が1人、また1人と続いた▼刺激という言葉を解剖すれば、憧れや驚き、あるいは嫉(ねた)みなど様々な要素があろう。誰かの成功をエネルギーとするためには自分のなかに確かなエンジンがいる。

犀星の『我が愛する詩人の伝記』、元版は昭和33年(1958)の刊行です。元々は雑誌『婦人公論』の連載で、その際に添えられていた濱谷浩の写真(同年、『詩のふるさと』として刊行)を一冊にまとめた『写文集 我が愛する詩人の伝記』が昨年刊行されましたし、平成28年(2016)に出た講談社文芸文庫版も健在のようです。
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「天声人語」にあるとおり、無名時代の犀星は6歳年長の光太郎を過剰に意識し、嫉妬を覚えていたようです。近くの田端に住んでいた犀星が、駒込林町の光太郎アトリエの前を通るたび……

千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。

ただ、以前にも書きましたが、『我が愛する……』では光太郎をディスりまくりの犀星に、光太郎を手放しで称賛する文章もあり、光太郎に対する見方は一筋縄ではいきません。

「天声人語」では、「脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。」としていますが、一方の光太郎の方は、犀星など歯牙にも掛けていなかった、というより、そもそも光太郎は詩でも彫刻でも、誰かをライバル視し、ともに切磋琢磨しようという姿勢はほとんど見られませんでした。「人は人、自分は自分」みたいな。唯一例外的だったのは、彫刻家・碌山荻原守衛。しかし守衛は早世してしまいました。

さて、山本投手と佐々木投手、今後とも活躍を続けていただきたいものです。

も1件、先週の『読売新聞』さん文化面。やはり光太郎が本題ではありませんで、こちらは例えとしての引用のような形でしたが、光太郎の名を出して下さいました。

[書 2022]2氏それぞれの「すごい線」

 コロナ感染が落ち着いてきたからか、4月ころから書道展が活発になり、関西ではトップクラスの書家2人の個展が相次いだ。「書はつまるところ線」とはよく言ったもので、2氏の「すごい線」を堪能した。
(略)
 もうひとつの個展は「吉川蕉仙の書 Ⅱ」(4~5月)で、京都で開かれた。7年前に続く2回目の個展で、前回個展以降、日展、読売書法展、現代書道二十人展などに発表してきた作品群と近作との2部構成。吉川さんは現代を代表する王羲之書法の実践者で、数種類に分けられる羲之書のなかでも芯が強く、無骨な気分のものを好む。蘭亭序ならさまざまな模本のうち欧陽詢(おうようじゅん)が臨模したとされる定武本が好みで、本欄で前回掲載した神龍半印本などは「表情や変化が過ぎる」と敬遠する。
 今回の展示は文字造型を締める羲之ベースの作品と、池大雅に学んだのか、字形を解き放ち、懐を広げてみせるおおらかな書風とに大別できた。ただ双方に共通するのは「すごい線」から生じる「力が内にこもっていて騒がない」(高村光太郎)気分だろう。「だからこそ王羲之を攻める。ごくあたりまえの字を書いて、深さを、あるいは確かさを出していく」と言う。これを本格の書と呼ばずして何だろう。
 ここでは「あたりまえの字」として韓愈(かんゆ)(唐)の詩の一節を書いた作品を掲載する。「朝に出でゝ耕し、夜帰りて古人の書を読む。尽日(じんじつ)息(いこ)うことを得ず」

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引用されている光太郎の言葉は、昭和14年(1939)の雑誌『知性』に寄せた「書について」という文章の一節です。光太郎の書論として、あるいは一人光太郎に限らず、近代を代表する書論として有名なものですね。

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。

この一節、書道に限らずあらゆる芸術の分野にあてはまるような気がします。彫刻や絵画などの美術、いわゆる現代アート、建築、さらには音楽、文芸、演劇、朗読等々……。それから料理でも、「ナントカソース添え」などで、せっかくの素晴らしいであろう素材の味がまったく消されてしまっているものなども。「大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。」その通りですね。

ちなみに同じ「書について」の中で、光太郎、記事にある王羲之についても言及しています。

羲之の書と称せられてゐるものは、なるほど多くの人の言ふ通り清和醇粋である。偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いてゐる。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持つてゐるところを見ると、よほど優れた良識を具へてゐた人物と思はれる。右軍の癖というものが考へられず、実に我は法なりといふ権威と正中性とがある。

偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく」。万事そうありたいものですね。

【折々のことば・光太郎】008

藤島さんきて写真撮影、これは骨組、土つけの順序を参考にのこすため、


昭和28年(1953)3月11日の日記より
 光太郎71歳

藤島さん」は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の詩人・藤島宇内。写真撮影を趣味としており、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作過程をいろいろと撮影してくれていました。

おそらくこの日の前後に撮られたのが右の写真。レントゲン写真のように骨組みが映っていますが、定点にカメラを据え、別々の日に撮影した骨組みと本体の写真を多重露光して撮影したか焼き付けたかしたと考えられます。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

既に始まってしまっていますが、光太郎の書作品が出ている展示即売会の情報です。

【書畫のあるくらし】Exhibition of Calligraphic works

期 日 : 2022年3月3日(木)~3月12日(土)
会 場 : しぶや黒田陶苑京橋店 魯卿あん 東京都中央区京橋2-9-9 ASビルディング1F
時 間 : 11:00~18:00
料 金 : 無料

しぶや黒田陶苑では年間40回以上の展示会を開催しており、その大半は陶芸に関する展示会です。勿論、陶芸の優品を皆様にご紹介したいという思いは第一にございますが、同時に陶芸専門ではなく、美術商としてジャンルや分野を横断して様々な美術品を取り合わせることで、より魅力的な生活をご提案出来ればと常々考えております。

「書畫のあるくらし」。
絵画や書軸などの作品は小品であっても一点で大きく場の印象を変える事が出来ます。今回の展示会ではそんな書画と陶芸作品を取り合わせた展示を行っております。

主な出品作品(ご紹介しております中には、ご売約戴いている作品もございます)
徳岡神泉 水仙/TOKUOKA Shinsen Scroll“Narcissus”
北大路魯山人 唐津湯碗絵/KITAOJI Rosanjin “Karatsu Yunomi”, Framed
福田平八郎  「水」芥表紙絵/FUKUDA Heihachiro “Water”, Framed
石黒宗麿 画賛/ISHIGURO Munemaro Scroll, Painting with poem
松田正平 明恵上人歌/MATSUDA Shohei Calligraphy, a poem of Buddist Myoe
河井寛次郎 画賛/KAWAI Kanjiro Painting with poem, Framed

高村光太郎 平等施一切/TAKAMURA Kotaro  Scroll, a word of Shandao, the Buddhist.
彫刻家、高村光太郎先生。教科書で『道程』『智恵子抄』などの詩作に親しんだという方も多いかも知れませんが、能書家としてもその名を知られています。一筆一筆、情緒に流されるのではなく、思慮深くその筆を進めています。彫刻家として書を造形作品と同等の強度を持ったものとして捉えていたのかもしれません。
 願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 善導大師『観無量寿経疏』より
念仏の功徳を、すべての人々と平等に分かち合い、共に仏を求める心をおこし、極楽浄土へと生まれたい、という仏書からの言葉の一部を書いたもの。その実直な線は真摯に安寧を祈る姿を思い起させます。昭和廿二年(二十二年)とあることから1947年、先生が64歳の頃に書かれたものと分かります。
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この書に関しては他に類例がなく、当方も初めて画像を拝見し、驚いたと同時にほれぼれしました。特に「等」の字。崩しのルールに則っているような、いないような……これは書けそうで、なかなか書けません。また、「施」と「切」との間の「一」の、長すぎず、短すぎずの実に微妙なバランス、それから「切」の字の「刀」の部分の左払いを始める位置、やはり長さなど、心憎いばかりです。

昭和22年(1947)1月2日の日記に、この書に関する記述があります。

午前午后書初を書いてゐる。寺神戸氏よりもらひし紙に「清浄光明」、「平等施一切」、二枚つつ書く、在家勤行集中の文句。

書初」は、送りがなが省略されていまして「書き初め」です。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では(あるいは東京在住時からそうしていたのかも知れませんが)、毎年、1月2日に書き初めを行うのが光太郎のルーティーンでした。

寺神戸氏」は寺神戸誠一、茨城出身の小説家です。前年の10月に、寺神戸から半切の紙を贈られたことも日記に記されていますし、この年の寺神戸宛書簡には、書を送ったことがしたためられています。どうもこの寺神戸に贈られた物が出て来たのかな、という感じです。

しぶや黒田陶苑さん、茶道具が中心ですが、茶掛けという意味もあるのでしょう、書画も広く扱われていて、平成26年(2014)にも光太郎の書を出されていました。

今回の「平等施一切」は、60万円とのこと。妥当な金額、いや、少しお買い得価格かな、という感じも。これが入札形式だと、最終落札価格はもっと上のように思えます。

収まるべき所に収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉より鎌田専務来訪、酒二升、ビール3本、べん当等もらふ、用件は金田一氏の詩碑の英訳をしてくれとの事、ともかく承諾、


昭和27年(1952)6月12日の日記より 光太郎70歳

金田一氏の詩碑」は、昭和25年(1950)、花巻温泉に建立された「金田一国士頌碑」。光太郎詩「金田一国士頌」が刻まれています。碑文の揮毫は光太郎ではありませんが。

昨日の『毎日新聞』さんから。

古稀 北野攝山書展 みなぎる力、渾身の書 あすから東京銀座画廊・美術館

 「古稀(こき) 北野攝山書展」(主催・北野攝山書展実行委員会、後援・毎日新聞社、毎日書道会、全日本書道連盟、日本詩文書作家協会、書団響、太源書道会)が3月1~6日、東京都中央区銀座2の東京銀座画廊・美術館(銀座貿易ビル7階)で開かれる。古希を記念した個展は、選び抜いた言葉を大作にぶつけた意欲がほとばしる構成となっている。
 毎日書道顕彰に輝いた前回の個展は「書の美の本質を求めて」がテーマだった。誠に気宇壮大な試みだったが、書への熱い思いは静かに心の中で流れ続けていたようだ。古希を記念した今回展も「書人が書いておかなければならない」言葉に向かっての真正面からのチャレンジとなった。
 ベートーベンの第9交響曲「合唱」で歌われるシラーの詩、白居易「長恨歌」、高村光太郎「牛」、李白「望廬山瀑布」、聖徳太子「十七条憲法」、空海「性霊集」、諸葛孔明「出師表」、「魏志倭人伝」……古今東西のよく知られた言葉を大紙面に刻んでいる。篆(てん)・隷・楷・行・草の五体を駆使し、書の魅力をまるごと味わってみようとばかりに体力の限界に向かってギリギリまで書き進めていった作品が並ぶ。渾身(こんしん)の力で筆を動かす書人の姿を連想しながら、豊穣(ほうじょう)な言葉とぜひ、対峙(たいじ)したい。
 午前10時~午後6時(最終日は午後4時まで)。入場無料。
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北野攝山(きたの・せつざん)氏 1951年、大阪市生まれ。花園大学文学部国文科卒。森本龍石さん、近藤攝南さんに師事。80年、第1回個展(高麗橋画廊)。86年、第38回毎日書道展会長賞。91年、太源書道会を設立、代表理事に就任。2007年、第5回北野攝山書展―書の美の本質を求めて―。08年、毎日書道顕彰(啓蒙<けいもう>部門)。11年、毎日書道会評議員。書団響を結成し理事長就任。14年、毎日書道会総務。22年、古稀 北野攝山書道展。


というわけで、書家の方の個展です。

古稀 北野攝山書展

期 日 : 2022年3月1日(火)~3月6日(日)
会 場 : 東京銀座画廊・美術館 東京都中央区銀座2-7-18 銀座貿易ビル
時 間 : 10:00~18:00 最終日は16:00まで
料 金 : 無料
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『毎日新聞』さんには、残念ながら光太郎詩「牛」を書かれた作品は載っていませんでした。載っていた作品は以下。

追記:3月3日(木)付夕刊に「牛」の画像が載りました。下部に掲載します。

シラー「歓喜の歌」。

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李白「望廬山瀑布」。
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白居易「長恨歌」。
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追記:そして、「牛」。
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なるほど、記事にある「篆(てん)・隷・楷・行・草の五体を駆使し」という片鱗がこれだけでも見えますね。

ご興味のある方、コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より朗読青年来り、照井栄三についての原稿を求めらる、二枚書き渡す、廿五日が命日の由、

昭和27年(1952)5月21日の日記より 光太郎70歳

照井栄三」は「瓔三」とも表記します。盛岡出身の声楽家・朗読家で、戦前、戦時中にはラジオで光太郎詩の朗読にもあたりました。昭和20年(1945)5月の空襲により、東京で亡くなりました。

光太郎は、昭和11年(1936)に照井の著書『詩の朗読』、同17年(1942)には同じく『国民詩と朗読法』の序文を寄稿しています。また、昭和18年(1943)には、座談会「現代詩の再出発」(雑誌『詩と詩人』第5巻第6号所収)で、光太郎と照井が同席しています。

この日書かれた原稿は、25日、盛岡朗読会主催で開催された「照井瓔三追悼 詩と音楽の夕」で代読されました。会場は県商工館ホールでした。

過日届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の書(軸装された歌幅)が写真入りで紹介されています。
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書かれているのは、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で詠まれた短歌で、「太田村やまく(ぐ)ちやまの山かけ(げ)にひえをくらひて蝉彫る吾は」。

001光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、複数の揮毫例が存在しますし、日記にも「誰々のために蝉の歌を揮毫」的な記述が散見されます。

駒場の日本近代文学館さんには、色紙に書かれたものが所蔵されており、10月から先月末にかけ、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示されました。

えびな書店さんの方では平仮名だった「やまく(ぐ)ちやま」が、こちらでは「山口山」と漢字表記です。

おそらく、ですが、用紙の縦横のバランスを考え、そうしたのではないかと考えられます。基本は「山口山」と漢字表記にするところを、えびな書店さんの方では、色紙より横に長い用紙のため、平仮名を使って字数を増やしているように思われますが、どうでしょうか。書家の方々のご意見を伺いたいものです。

ところで、近代文学館さんの色紙も載っている「画壇の三筆展」の図録、会期終了後に、まだ残部があればお分け下さい、とお願いし、15部入手しました。来春開催予定の第66回連翹忌にて販売予定ですが、どうしても早く手に入れたい、という方、当ブログコメント欄(非表示設定可)、当方フェイスブック、ツイッター等からご連絡下さい。代金+送料で2,570円となります。また、富山県水墨美術館さんに直接申し込まれても入手できるのではないでしょうか。
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【折々のことば・光太郎】

中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。

昭和26年(1951)9月15日の日記より 光太郎69歳

中原さん」は、昨日もこの項で紹介た、歌人の中原綾子。光太郎とは智恵子存命中からの知り合いでした。

一年の間に」ということは、前年にも、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に中原が訪ねてきたということになります。ところが、昭和24年(1949)、25年(1950)の日記はそのほとんどが失われており、光太郎側の資料では詳細不明です。

平成14年(2002)、中央公論事業出版さん発行、松本和雄編著の『歌人 中原綾子』には、以下の記述があります。

 綾子は昭和二四年(一九四九)、五一歳の一一月二六、二七日、「スバル」創刊号への題字依頼を兼ねてこの山小屋を訪ねた。
 宿泊は太田村村長宅。「雪の中に埋っている小さい、小さい小舎に泊めて下さるとばかり思っていたのに、夜通しお話がしたかったのに、先生は提灯さげて私を村長さんの家につれてゆかれました。」


そして、その折に詠まれた綾子の短歌。
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そして、光太郎日記に残っている昭和26年(1951)の再訪時。
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光太郎、ストイックもいいのですが……。やはり亡き智恵子に対する想いは強かったのでしょうし、数え69歳の身では、もはや「据え膳喰わぬは……」という感じでもなかったのかも知れません。

それにしても、日記。公開を前提としていない日記とはいえ、「大層年よりじみ、皺など目立つ」まで書くか、と思いますね。綾子は満で53歳、まだまだ十分に「女」だったはずですが。

仙台から、書道展の情報です。

第68回河北書道展

期 日 : 前期 2021年12月11日(土)~12月14日(火)
      後期 2021年12月17日(金)~12月20日(月)
会 場 : TFUギャラリーミニモリ 仙台市宮城野区榴岡2-5-26 
時 間 : 午前10時~午後5時 (最終日12月20日(月)は午後4時まで)
料 金 : 一般・大学生500円(消費税込み)/高校生以下無料

「河北新報社」主催の東北最大級の公募書道展です。今回、東日本大震災10年の節目に「墨魂 東北の力」を冠として開催します。
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書かれているのは短歌です。

太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは

この短歌の正確な制作年月日は不明ですが、昭和21年(1946)頃には既に詠まれているようです。「太田村」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)。「山口山」は、光太郎の山小屋の裏山一体の俗称です。

光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、人に贈る書などで、この短歌を揮毫することが多くありました。

富山県水墨美術館さんで、先月末まで開催されていた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」でも、日本近代文学館さん所蔵の、この短歌を書いた色紙が展示されました。

ところで、太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡には、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあり、その「板彫とか小さな帯留め程度のもの」も、実作の現存が確認できていません。

ただ、蝉に関しては、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた竹内てるよや、地元在住の浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。

それにしても、あくまできちんとした「作品」というわけではなかったようで……。

ちなみに山小屋での彫刻というと、光太郎歿後に、山小屋の囲炉裏の灰の中から野兎の首を作ったテラコッタが発見されました。これも、作品として発表したものではなく、手すさびに作った、というようなものですが。

さて、「第68回河北書道展」、浅野さんの作が出るのは後期日程で、12月17日(金)からです。また、来年2月9日(水)~13日(日)には、大崎市民ギャラリー緒絶の館で大崎展も開催されるとのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡から、市立第一高女の生徒三人来り、新聞班の訪問記事をとる、ひる辞去。


昭和26年(1951)8月7日の日記より 光太郎69歳

「市立第一高女」は、現在の盛岡市立高校さんです。昭和23年(1948)には学制改革で「盛岡市立女子高等学校」と改称、さらに翌年には盛岡市立女子商業高等学校と合併し、盛岡市立高等学校となっています(共学化はさらに後)。昭和26年(1951)には既に高等女学校ではなくなっていましたが、慣習的に昔の呼称で記したのでしょう。

こうした高校生らの訪問記、意外と数が残されているようですが、その性質上、あまり外部に公開されていることが多く、当方も未見のものがほとんどです。

昨日は上野、銀座を廻っておりました。

まず上野。イチョウが、いい感じに染まっていました。公園内の東京都美術館さんで「第43回東京書作展」(12月2日(木)まで)が開催されており、そちらを拝観。
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一昨年の第41回展で、内閣総理大臣賞を受賞された菊池雪渓氏から招待券をいただきまして、拝見に伺った次第です。

その菊池氏の出品作。光太郎も敬愛した蘇東坡の七言絶句です。見事ですね。
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このところ、光太郎詩が書かれた作品が上位入賞となるケースが続いていたのですが、残念ながら、今回は上位10点ではそれはありませんでした。

こちらが内閣総理大臣賞他、上位入賞作品。
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それらに次ぐ「優秀賞」に、昭和29年(1954)1月の雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を書いた作品が入っていました。
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菊池氏、この作品をかなり推されていたそうですが。

その他の入選作で、光太郎詩を書かれたもの。
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「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。雄渾な筆致が、光太郎詩の世界観をよく表しているような気がしました。

それから、おそらく無鑑査の作品なのでしょう。「審査会員」の方々の作品。

光太郎詩の原点の一つ「根付の国」(明治44年=1911)。
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昭和2年(1927)に訪れた草津温泉を題材にした詩「草津」
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「独り酸素を奪つて」(昭和4年=1929)。
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続いて「依嘱」作品。かつて同展で上位入選されたりした方々の作のようです。

「花下仙人に遭ふ」(昭和2年=1927)。
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連作詩「猛獣篇」中の「苛察」(大正15年=1926)。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)同様、会場の東京都美術館さんのお隣、上野動物園さんで発想を得た詩です。
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おそらく、光太郎詩が書かれた作品は以上でした(もし見落としがあったらすみません)。今回はいつにも増して多かったように思われます。やはり光太郎詩の持つ、ある種の精神性的な部分や、内在律といったものが、書家の方々の創作意欲をくすぐるのではないかと、勝手に想像しております。

同館では、他の書道展も開催されていました。ただ、そちらは光太郎詩文を書かれた作品が出品されているという情報を得ていませんで、パス。

書家の皆さん、書道展主催の方々、その手の情報がありましたらお知らせください。できる限りご紹介いたしますので。

この後、銀座に出まして、「朗読劇 智恵子抄」の稽古を拝見して参りました。明日はそちらのレポートを。

【折々のことば・光太郎】

尚今日午后教員実務(インターンの如きもの)の人十二人ばかり太田校から来る、山口校にて見学、後余を訪問、草原にて談話一時間、


昭和26年(1951)6月29日の日記より 光太郎69歳

今でいう、教育実習生のような人々なのでしょう。この時代から「インターン」という語がすでに使われていたのには、少し驚きました。

昨日は都内2箇所を廻っておりました。廻った順にレポートいたします。

まず、六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、第8回日本美術展覧会(通称・日展)が開催中。
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日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門に分かれており、そのうち第5科・書部門で、光太郎詩文を書いた作品が入選し、展示されているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

第5科は3階でした。
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確認した限り、3点、光太郎詩文を書いて下さった作品が。展示番号順にご紹介します。

まず、照井皓月さんという方の作品。光太郎詩「鯉を彫る」(昭和11年=1936)の一節です。
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この方、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻ご在住だそうです。

続いて、篠原挙秋さんという方で、「智恵子の半生より」。『智恵子抄』にも収録された随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。
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日展さんでは、こういう巻紙の形での出品がありなのですね。
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それから、冨本琇瑩さんという方。「新入選」とありました。初の入選ということでしょうか。作品題は「智恵子抄より」。
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こちらも巻紙で、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)が書かれています。
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KIMG5458おそらく、光太郎詩文が書かれた作品は、この3点でした(もし見落としがあったらすみません)。

雅号では分かりにくいのですが、お三方とも女性の方でした(出品名簿に本名が書かれていました)。

「男性らしく雄渾壮大」、「女性らしく繊細優美」などと書くと、昨今は「ステレオタイプのとらえ方はジェンダー差別に他ならん!」とお叱りを受けそうですが、やはり厳然としてそういう部分はあると思いますし、3点の書からは、たおやかな女性らしさを感じました。

ところで、日展さん、入選者の名簿等に、作品名も併せて公開なさっています。これはいい試みだと存じます。「誰が」というのはもちろんですが、「何を」というのも重要な要素でしょう。当方など、光太郎詩文を書かれた作品が出ているので観に行こう、という気になりましたし。

同じことは、音楽の演奏会等(コンクール等も含め)にも言えるような気がします。やはり「誰(どの団体)が」は、もちろん必須ですが、「どんな曲を」も非常に大切だと思います。「この曲が演奏されるんなら、聴きに行こう」というニーズが結構あるような気がしますが、どうも主催者側はそう考えず、「誰(どの団体)」ばかり前面に出すケースが少なくありません。

閑話休題。日展さん、今月21日までの会期です。ぜひ足をお運びください。

007ちなみに会場の国立新美術館さん、「エヴァンゲリオン」シリーズなどで有名な庵野秀明氏の「庵野秀明展」も開催中で、混み合っています。ご注意下さい。

【折々のことば・光太郎】

随筆集校閲、朱筆入れ、

   昭和26年4月8日の日記より 光太郎69歳

「随筆集」は、この年6月に、『智恵子抄』と同じ龍星閣から刊行された『独居自炊』。若干の加筆訂正がありますが、ほぼほぼ戦時中の『美について』(昭和16年=1941)、『某月某日』(昭和18年=1943)からの再編です。

本日も、新刊紹介です。

思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない

2021年8月30日 石川九楊著 ミネルヴァ書房 定価2,500円+税

あんな書こんな書、珍書奇書

西郷隆盛、副島種臣、徳川綱吉、大塩平八郎、九代目市川團十郎、平塚らいてう、南方熊楠、岡本かの子など書からすべてをよみとおす。

一画一画、一字一字の書の背景には、その人物の思想や生きた時代が宿る。王羲之、顔真卿、副島種臣、そしてこれまであまり取り上げられることのなかった西郷隆盛、大塩平八郎、岡本かの子に至るまで、一話一話読み切りで、古今東アジアの書を巡り、人と思想、時代を読み解く一冊。
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目次
序 書ほどやさしいものはない
Ⅰ 一月一書、季節を楽しむ
   一月 歳(王羲之「蘭亭叙・八柱第一本」) 
   二月 雪(伝嵯峨天皇「李嶠雑詠残巻」)
   三月 陽(褚遂良「雁塔聖教序」)
   四月 花(副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」)
   五月 風(良寛「夢左一覺後彷彿」)
   六月 雨(副島種臣「帰雲飛雨」)
   七月 水(藤原佐理「詩懐紙」)
   八月 遊(藤原行成「白氏詩巻」)
   九月 雲(池大雅「徐文長詩四種」)
   十月 恋(「紙撚切道済集」)
   十一月 清(松花堂昭乗「長恨歌」)
   十二月 酒(伝醍醐天皇「白楽天詩句」)
Ⅱ タテ画、ヨコ画、十字選
   瘦せたところも肥えたところもある描線
   点画の成立
   筆あそび(書)の発生
   石刻文字、「十」字八態
   刻字の虚像
   篆刻の文字から――星光のごとく、光芒のごとく
   権威を写し込んだ「政治文字」
   余計な力を加えず、世界を横切っていく
   呪符か、祝符か
   無意識層まで法華経
   名刀の「十」字
   一幅の水墨画
   古典的(アルカイック)な書法
   自身の哲学を裏切る書
   彫刻的筆画
   革命家の書
   明治新政府と時代への否定と逆転
   「十」字の原風景
   幾何学的、建築的、書的美学の集積
   印刷活字のモデル
   女手(ひらがな)書法の漢字
   左右対称を超える多析法の美学
   書の近代の誕生
   右から左の「十」字
   硬筆の書きぶりから生まれた「十」字
   文学の文体(スタイル)がのぞける
Ⅲ 一人一書、浮世ばなし
   人の短を言わず、己の長を説かず――空海
   天に則り私を去る――夏目漱石
   一日作さざれば一日食わず――西田幾多郎
   過ては則ち改むるに憚ることなかれ――徳川綱吉
   独立自尊新世紀を迎う――福澤諭吉
   簡素――島崎藤村
   敬天愛人――西郷隆盛
   災難に逢う時には災難に逢うがよく候――良寛
   徳は孤ならず――志賀直哉
   為政清明――大久保利通
   やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎
   仰天有始――岡倉天心
   無――白隠慧鶴
   桃花細逐楊花落(とうかさいちくようかおち)――副島種臣
   敏於事而慎於言(ことにびんにしてげんをつつしむ)――犬養毅
   伝国之辞――上杉鷹山
   六十一歳自画自賛像――本居宣長
   無限生成――平塚らいてう
   荀子識語――大塩平八郎
   白楽天詩句――伝醍醐天皇
   寸松庵色紙――筆者不詳
   虹いくたび――川端康成
   神島建立歌碑表面自筆草稿――南方熊楠
   日本美術院院歌――横山大観
   井上馨宛書状――九代目市川團十郎
Ⅳ 珍書奇書、あんな書こんな書
   「古今和歌集」の背景――伝醍醐天皇「白楽天詩句」
   縮織か絞染を思わせる――円珍書状
   連綿がひらがなを生んだ――虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名文書
   天平時代の落書――写経生楽書
   ガリ版文字のような――金農「昔邪之廬詩」
   蛇のような、ツチノコのような――空海「崔子玉座右銘」
   一筆書きの書――呉説「王安石蘇軾三詩巻」
   狂草の逸品――許友「七絶二首」
   骨書きの書――宋・徽宗「夏日詩」
   日本墨蹟のはじまり、やぶれがぶれ――一休「漁父」
   輪舞曲(ロンド)を踊ろう――解縉「文語」
   こんな字、書いてみました。――空海「崔子玉座右銘」
   聖草・韮、雉の舞い――雑書体・鳥毛篆書屛風
   体は金文、心は草書――傅山「七絶十二屛」
   集字聖教序に瓜二つ――唐招提寺木額字
   無法と無茶、そして狂――一休宗純「靈山徹翁和尚示榮衒徒法語」
   逆入法成立以前の「古文」書法――王樹「易経謙卦」・傅山「七絶十二屛」
   巨大な構想――副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」(上)
   巨大な構想――副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」(下)
   書くことの楽しさ――居延出土習字簡
   上へ・下へ・伸ばして伸ばす――張旭「自言帖」
   「右ハライ」こそ書の始まり――嵩山太室石闕銘
   消えた文字の謎を解く――掛字と掛筆(上)「寸松庵色紙」
   溶ける文字、溶ける筆画――掛字と掛筆(下)「香紙切」
あとがき
人名・事項索引

書家の石川九楊氏の新著です。

これまでも数々の御著書の中で、光太郎の書をかなり好意的に評して下さっていた石川氏、今回もそうしてくださいまして、有り難いかぎりです。

まず「Ⅱ タテ画、ヨコ画、十字選」。古今の書作品(中には「作品」とも言い難い個人的な筆跡なども含みますが)中の「十」の一文字にこだわり、いわゆる能書家と言われるような人々、特徴的な書で有名な人々が、どのように「十」の字を書いているのか、といった考察です。

光太郎に関しては、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩「荒涼たる帰宅」の手控え原稿から。「十月の深夜のがらんどうなアトリエ」の「十」。
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石川氏曰く、

 高村の筆跡は全般にガリ版の文字のように明快で、歯切れがよく、韻(ひび)きが高い。
 『智恵子抄』の完結を意味するこの詩の「十」はその一例、ヨコ画は一点のゆるみもなく緊張をもって長くなり、タテ画は起筆部に力をこめて、ヨコ画のちょうど中央を交叉する。「スー・カリ」という規則正しい音が、何とも快い。
 近代の作家や詩人のような書字の崩れ、新聞記者のような角のとれた丸文字化などとは無縁、隔絶している。彫刻家。高村の持つペンは鑿(のみ)。


なるほど。

それからもう一箇所、「Ⅲ 一人一書、浮世ばなし」中の「やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎」。こちらは、光太郎書の代表作の一つ、「吾山に……」の短歌を書いた絹本を俎上にのせています。
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この中で、三行目の「つ」と「の」が、石川氏のお気に入り。

「川(つ)」字の第一筆相当部は、まず、木の表面に薄く斜めに彫刻刀を「スイ」と入れる。その後は、刀の角(かど)で、軽く筋をつけるように終筆部を切り込む。
 そして最終第三筆相当部では力を入れまた抜くリズムを繰り返しながら「グイ・グイ・グイ」と削り込み、最後に「ハラリ」と切り落とす。
 つづく「の」の字の「グリ・グリ・グリ・グリ」と螺旋(らせん)状に深く彫り込む様が圧巻。この二字をなぞるだけで、この作品は書というより彫刻であり、それはすなわち高村光太郎が詩人である以上に彫刻家であったことがはっきり見えてくる。


何だか、長嶋茂雄さんの「球がこうスッと来るだろ。そこをグゥーッと構えて腰をガッとする。あとはバァッといってガーンだ。シャーッときてググッとなったらシュッと振ってバーンだ。」のような感じもしますが(笑)。

ちなみに問題の「吾山に……」の書、現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示中です。

さて、『思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない』、ぜひお買い上げ下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日は山口小学校の卒業式なれど出席せず、まだ出かけられぬ状態にあり、昨年は出かけて祝辞をのべ、又式後御馳走になりたる事を記憶す、


昭和26年(1951)3月24日の日記より 光太郎69歳

以前にも書きましたが、この年のこの時期が、七年間の花巻郊外旧太田村の山小屋蟄居生活で、最も体調が悪かった時期でした。

千葉県印西市で、古民家を改装し、「印西書道塾」を運営なさっている書家の菊地雪渓氏が、光太郎の言葉を揮毫された作品です。
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菊地氏からご案内のメールを賜り、早速、購入させていただきました。
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書かれている光太郎の言葉は、「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。昭和24年(1949)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近辺を学区とした太田中学校に、校訓として贈った言葉です。

太田中学校は統合のため、現在は花巻市立西南中学校さんとなっています。同校の生徒さん達は、コロナ禍前、毎年5月15日(光太郎が疎開のため東京を発った日)に行われていた高村祭にご出席下さり、この言葉を歌詞に盛り込んだ「精神歌」を演奏して下さっていました。
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こちらが光太郎の書。
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前半部分は翌年、盛岡少年刑務所さんにも贈りました。光太郎自身、気に入った言葉だったのでしょう。

菊地氏、他にも智恵子の言葉を含む、さまざまな扇を取り揃えていらっしゃいます。オンラインで注文可。ぜひ皆様もご購入下さい。

【折々のことば・光太郎】

静かにしてゐる、肋間神経痛まだあり、 昨夜つもる 夜ドローランをのむ。

昭和26年(1951)2月9日の日記より 光太郎69歳

「ドローラン」は鎮痛剤です。中上健次の小説「灰色のコカコーラ」では、ドローランを大量に服用してラリっている若者が描かれています。

文豪と薬物といえば、太宰治のパピナール、坂口安吾でヒロポンなどがすぐ思い浮かびます。光太郎はジャンキーにはならずに済んだようですが、上記の日記、体調の話になったり、雪の件を書いたり、すぐまた薬のことに戻ったりと、話題があちこちに飛んでいます。少しヤバかったのではないかと、心配になりました(笑)。

本日発売です。拙稿が載っています。

美術の窓 №458 2021年11月号004

2021年10月20日 生活の友社 定価1,524円+税

このパーツに夢中! 惹き込まれる女性像

色っぽいうなじ、肩のまるみ、なめらかな背中、ふっくらとした胸やお尻……女性の身体にはいつの時代も芸術家たちの創作意欲を搔き立てる、曲線的な造形美が溢れています。本特集では美術史家による名画のパーツごとの魅力の解説、現代作家の厳選グラビア、パーツにこだわる作家へのインタビューで女性の造形美の魅力を紹介。さらにアジアの女神や土偶の形にも注目し、「究極の女性像」を見比べるチャート&グラビアを収録。小誌でも人気の高い女性像特集、2021年版は女性像の造形の魅力を徹底的に掘り下げます!

巻頭特集は古今東西の裸婦像に関してですが、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関し、記事が2本。

まず、同館館長であらせられる中川美彩緒氏が「和魂洋才-書画のススメ」というコーナーで、同展にて展示中の光太郎画帖「有機無機帖」について書かれています。題して「当展必見の一帖 高村光太郎「有機無機帖」より」。

「有機無機帖」は、最晩年の昭和29年(1954)、親しくしていた美術史家の奥平英雄に贈られた画帖で、現在は駒場の日本近代文学館さんに所蔵されています。
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そして、拙稿「五匹目の「蝉」 「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」」。こちらも同展で展示中、というか、本邦初公開となった、新発見の木彫「蝉」についてです。
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光太郎の木彫は、少年時代の習作を含め、20点余りしか現存が確認できていません。そこにさらに1点が加わり、しかも、代表作の一つに数えられる「蝉」の新たなバージョン、さらに言うなら、その最も新しい作例ということで、もっともっと注目されていい物なのです。しかし、どうもその価値があまり注目されていませんで、残念に思い、書いた次第です。

中川氏の玉稿と併せ、詳しくはご購入の上、お読み下さい。また、「有機無機帖」、「蝉」、もちろん他にも書と彫刻の優品が多数展示されています。ぜひ富山まで足をお運び下さり、現物を御覧頂きたく存じます。

ところで『美術の窓』さん、先月号でも紹介すべき記事がありました。巻頭特集の「耳にこだわる」。往古来今の美術作品で、「耳」がどのように表現されているかに注目したもので、興味深く拝読いたしました。その中で、光太郎の父・光雲の代表作の一つ「老猿」(国指定重要文化財)が取り上げられました。
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人間の耳とは明らかに異なり、上端が尖っている、と。光雲は、これを作るに際し、ニホンザルを観察し、詳細なスケッチをしていますので、実際に猿の耳はそうなっているのでしょう。
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さらに、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」の耳、それから、今月号の裸婦像特集では守衛の代表作「女」が取り上げられています。

また、先月号にはチューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の案内も。
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今月号、先月号とも、オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰にて岡田さん出迎へ、手橇に荷と余とのり三人にてひき又押す、岡田さん宅にて中食馳走になる。四時頃小屋着。


昭和26年(1951)2月7日の日記より 光太郎69歳

1月15日に成人式の講演のため、水沢町に出かけて以来、花巻温泉大沢温泉、花巻町の佐藤隆房宅などを転々とし、約3週間ぶりに太田村の山小屋に帰りました。

「二ツ堰」は、当時走っていた花巻電鉄の駅。ここから村人達が光太郎をソリに乗せて運んでくれたそうです。

まずは『毎日新聞』さん福島版の記事から。

県内入賞作品 福島・山形・秋田3県、入賞作など800点 20日開幕 /福島

 第72回毎日書道展東北山形展(毎日新聞社・毎日書道会主催)が20~24日、山形市大手町の山形美術館で開かれる。全国巡回の上位入賞作や福島、山形、秋田3県からの入賞、入選作など約800点が展示される。入場料は一般600円、大学生400円、高校生以下は無料。
 県内からは、公募と会友を対象とした最高賞の毎日賞に2点が選ばれたほか、秀作賞に7点、佳作賞に14点、U23奨励賞に1点が選ばれた。県内在住の同展参与会員と審査会員に、これらの作品を講評してもらった。

<秀作賞>近代詩文書 深倉光雪(福島市) 一見して、元気が飛び込んできた。自由闊達な筆さばきや構成、強さ、大きさ、広がりが印象的だ。テーマである「無窮(むきゅう)の生命をたたえろ 私は山だ、私は空だ」という高村光太郎の詩への共感、感動が伝わってくる。ご自分でも創作意欲を遺憾なく表現できたであろうと思われる。すばらしくスケールの大きい、余裕ある作品だ。
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他にも、光太郎詩文の一節を書かれて入選された方がいらっしゃるのかもしれませんが……。

009書かれているのは、光太郎詩「山」(大正2年=1913)の一節です。この年の夏、光太郎智恵子は信州上高地で一夏を過ごし、二人の間で結婚の約束が交わされました。

    
 
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向かつた
 
山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ

 又あの狂つた種牛だ
 又あの流れる水だ
 私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
 其処に満ちた
 みちはじけた
 山はからだをのして波うち
 際限のない虚空の中へはるかに
 又ほがらかに
 ひびき渡つた
 秋の日光は一ぱいにかがやき
 私は耳に天空のカの勝鬨をきいた
 山にあふれた血と肉のよろこび!
 底にほほゑむ自然の慈愛!
 私はすべてを抱いた
 涙がながれた

婚約を果たした光太郎の高揚感が伝わってきますね。画像は大正末から昭和初めの頃の絵葉書です。

さて、書道展自体の情報を。

第72回毎日書道展東北山形展010

期 日 : 2021年10月20日(水)~10月24日(日)
会 場 : 山形美術館 山形県山形市大手町1-63
時 間 : 午前10時~午後5時/最終日は午後4時閉会
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般600円、大学生400円、高校生以下は無料

全国の書家の皆さん、「光太郎詩文を書いて××展に入選し、展覧会が開かれるよ」的な情報があれば、コメント欄等から御教示下さい。

【折々のことば・光太郎】

コタツにてあたたまり居り、 午后下の湯の方にいつてみる、階段多く息切れす。

昭和26年(1951)1月31日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉での記述です。「下の湯」は、名物の露天風呂「大沢の湯」。光太郎が泊まっていた山水閣からは距離も結構あり、最後に長めの階段があって、たしかに結核性の肋間神経痛に悩んでいた光太郎には、大変だったかも知れません。
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