カテゴリ: 日記

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その41集を脱稿しました。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて5冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、『岩手日日』さんでご紹介いただきました。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている別誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(三) 昭和・戦時」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)から、戦時中のものを紹介しました。
 「文部省へ 美の問題の統一」 (遺珠⑦所収) 昭和16年(1941)
 「書簡三二一八 平櫛田中宛」 (遺珠②所収) 同
 「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」 (遺珠⑤所収) 同
 「飛行機の美」 (遺珠⑤所収) 昭和18年(1943)
 「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひされ」 (遺珠⑦所収) 同
 「火を噴く“神州の怒り” 征け・不退転の道 逞しき素朴美で敵撃滅」 (遺珠⑦所収) 昭和19年(1944)
 「書簡三二五二 内山義郎宛」 (遺珠④所収) 同
 「書簡三一五四 清水房之丞宛」 (遺珠①所収)昭和20年(1945)
 「彫刻について」(遺珠⑨掲載予定) 昭和15年(1940)前号補遺
 
光太郎回想・訪問記 上田静栄歌文集『こころの押花』より
あまり多くない、大正初期の光太郎・智恵子回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(上) 『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第五回 福島高等女学校(福島)
先般、福島に調査に行つた際の成果も記しました。
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(一)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(五) た行(二)
 
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このあと、地元の印刷屋さんで印刷をしていただき、綴じ込みは自分で行います。上記はワープロソフトの画面をプリントスクリーン機能で取り込みましたので、カラーですが、印刷はモノクロです。
 
4/2の連翹忌にご参加いただける方には当日、会場でお渡しします。当会名簿に載っている方で、連翹忌にご欠席の場合はのちほど郵送します。
 
ご希望の方には送料のみ(80円)でお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月4日

昭和2年(1927)の今日、書肆アルスの松本弘二に葉書を書きました。
 
この年4月にアルスから刊行された評伝『ロダン』に関わります。
 
お葉書及ゲラ刷落手、
今度は絶体絶命の気でやつてゐますが、まだ 三四十枚のこつてゐます、
今夜中にあぶない懸念が あります、
少し頭の運転が悪くなりました、毎日殆と徹夜です。
 
ゲラの校正に悪戦苦闘しているという内容ですが、この気持ち、よくわかります。上記の『光太郎資料』、プリントアウトしたものを校正したところ、7割方のページで訂正がありました。
 
「大政翼賛か異」→「大政翼賛」、「日本画経済的にも……」→「日本が経済的にも……」、「航空機による最初の飛行を実施した期待の一つが……」→「航空機による最初の飛行を実施した機体の一つが……」、「一行の部分」→「一行空きの部分」……。
 
まったく「少し頭の運転が悪くなりました」です。

東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

昨日から1泊2日で、福島、岩手を巡って参りまして、先ほど帰宅いたしました。覚悟はしていたものの、積雪がすごく、さらには強行日程でしたが、いつにもまして実りある2日間でした。
 
今回廻ったのは、005
 
① 福島市・福島県立図書館さん
② 福島市・明治病院さん
③ 花巻市・花巻市博物館さん
④ 花巻市・鉛温泉さん
⑤ 花巻市・高村山荘/高村光太郎記念館さん
⑥ 岩手郡岩手町・川口公民館さん
 
です。
 
詳細は明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月19日
 
昭和28年(1953)の今日、丸善で開かれた彫刻家・土方久功(ひさかつ)の展覧会を観ました。
 
土方は、戦前から戦中にかけ、当時日本領だった南洋パラオで暮らした彫刻家です。

昨日は斯界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長であらせられる北川太一先生を囲んでの新年会にお招きいただきまして、参加させていただきました。
 
主催は北川先生が都立向丘高校に勤務されていた頃の教え子の皆さんである「北斗会」さん。何人かの方は連翹忌にもご参加下さっていますし、一昨年、昨年と、8月に宮城・女川で開催されている「女川光太郎祭」にも足を運ばれています。
 
会場は東大前のホテルフォーレスト本郷さん。そちらのレストランを借り切って、30名ほどの参加でした。
 
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今年は北川先生から年賀状が来ず、お加減がよろしくないのでは? と心配しておりましたが、昨日、宴席の名札を兼ねた形で直接いただきました。
 
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「美し国 迅く甦れ うまの年」。「美(うま)し」は万葉の時代から使われている語で、満足すべき状態、十分で申しぶんない、といった意味ですね。今年の干支の「午(うま)」と「うまし」をかけてらして、ウマいと思いました。
 
北斗会の皆さんは、教え子とは言う条、終戦直後、新制高校になってすぐの頃に高校生だった80代の方もいらっしゃり、70代の方がご挨拶の中で「私ごとき若輩者が……」とおっしゃっていました。ある意味凄い世界です。
 
北川先生の奥様、ご子息、また、向丘高に勤務されていた方々もご参加されました。その中のお一人、北川先生の御同僚だった高原二郎氏は、『有島武郎全集』の編者。同時期に有島研究、光太郎研究それぞれの泰斗が机を並べられていたという、これもまたある意味凄い世界です。
 
ちなみに当方の学生時代の恩師も有島研究者ですので、もしやと思ってお訊きしてみたところ、ツーカーの仲だそうで、世間は狭いな、とも思いました。
 
世間は狭い、といえば、昨日、一昨日のこのブログにご登場いただいた高村光太郎研究会主宰の野末明氏も向丘高勤務経験がおありだということで、会に参加されていました。そうとはつゆ知らず、『高村光太郎研究』の原稿を郵送してしまいました(笑)。
 
こちらの新年会は午後1時からでしたので、午前中は会場にほど近い谷根千エリアを歩きました。明日のブログにてレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月12日

昭和10年(1935)の今日、雑誌『上州詩人』第17号にアンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」、書簡が掲載されました。
 
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10年ほど前に群馬県立土屋文明記念文学館様のご協力により見つけました。光太郎、こうした地方の同人誌的なものに作品を発表する機会が多く、なかなかその全貌がつかめません。
 
書簡はこの前年『ボオドレエル詩抄』を刊行した同人の松井好夫に宛てたものです。
 
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昨日の【今日は何の日・光太郎 補遺】でご紹介した「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、当方、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、現在は「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形になっております。
 
年刊誌の連載ですので、ほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成ですが、次から次へと見つかり続け、気がつけば9年目です。
 
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿、昨日、研究会代表の野末明氏にデータとプリントアウトしたものを郵送しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。
 
散文
 「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
   大正六年二月二日『東京日日新聞』
 「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
 「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
 「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
 
書簡
 平櫛田中宛 津田青楓宛  室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛
 伊藤祷一宛(2通) 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
 
翻訳
 「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
 
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2015/1/9追記 この「死者」は訳詩集『天上の炎』の一篇として、『全集』第十八巻に収録されていたため、抹消します。
  
アンケート
 「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
 「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
 「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
 
雑纂
 「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
 「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
 「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
 
座談
 「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
 
短句
 「世界はうつくし」 直筆
 
参考資料
 「東京仮装会」 印刷案内状
 
我ながらよく見つけたものだと思います。しかし、当方一人の力ではここまで見つかりません。「こんなものを見つけた」と教えていただいたり、他の方の書かれたものの中から「光太郎がこんなものを書いている」という記述を見つけたりで、これだけ集まっています。ご協力、ご教示いただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
また、刊行物であれば、それらを所蔵し、閲覧の用に供して下さっている図書館、文学館さまのご協力も欠かせません。こちらにも感謝です。さらには書簡を所蔵され、情報を提供して下さった個人、団体の皆様にも。
 
さて、『高村光太郎研究』。先述の通り、4月2日の光太郎忌日・連翹忌に刊行予定です。ご入用の方はご連絡いただければ仲介いたします。このところ、頒価は税込み1,000円ですので、今年も同じだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月11日

昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
 
戦時中、空襲による焼失を避けるため、亡き智恵子が残した千数百枚の紙絵を、光太郎は3箇所に分けて疎開させました。そのうちの1箇所が真壁の元で、真壁は戦後しばらくの間もそれを預かり、昭和24年(1959)に山形で開催された初の智恵子紙絵展では、この中から作品が選ばれました。

年が改まりました。この時期、テレビでは意外といい番組の放映が続きます。
 
昨日は、暮れのこのブログでご紹介したNHKBSプレミアムさんの「皇室の宝 第1夜 日本の危機を救った男たち」を観ました。
 
現在、京都国立近代美術館さんにて開催中で、光雲の作品も複数出品されている「皇室の名品-近代日本美術の粋」展に関わる番組で、光雲も取り上げられるかな、と思って観ましたが、昨夜に関しては名前のみの紹介でした。
 
メインで紹介されたのは、七宝の並河靖之、織物の川島甚兵衞。この二人は京都出身ということで、「作品が京都に里帰り」的な観点がありました。NHK京都さんの制作ですので、まぁしょうがないかな、と思いました。しかし、殖産興業の国是の中で、外貨獲得や万博で好評を得るといった、明治期工芸の流れがよくまとまっていました。
 
今夜は「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」が放映されます。予告編では、海野勝珉「蘭陵王置物」が大きく取り上げられていました。海野は京都ではなく水戸の出身です。光雲もぜひ取り上げてもらいたいものです。
 
その後、地上波NHK総合さんでオンエアされた「1914 幻の東京~よみがえるモダン都市~」を観ました。以下、NHKさんサイトから。
 
今から100年前の1914年(大正3年)、東京で最新の西洋文化を紹介する「東京大正博覧会」が開かれた。大観衆を集めた博覧会は、明治のエリートが独占していた西洋文化を急速に大衆化させていくきっかけとなる。同年、日本橋に三越新館が誕生し、日本初の常設エスカレーターが登場、大衆消費社会の幕開けに花を添える。東京駅の開業、日本初の流行歌、いずれも1914年に誕生した。浅草の活動写真、銀座ファッション、都市の大衆文化が一斉に開花し、東京は新興のモダン都市へと生まれ変わっていく。しかし、その9年後には関東大震災が襲い、当時の街並みは幻と化した。

 7年後のオリンピック開催が決まり、今もこれからもダイナミックに発展・変容していく東京。現代東京の“ルーツ”ともいえる100年前の東京の街と人々の暮らしをドラマと4Kの高精細VFXを駆使して再現・再発見し、新しい年の始まりに、日本の来し方行く末に思いを馳せる。

 100年前と現代を行き来するサラリーマン夫婦を演じるのは新進俳優・淵上泰史と長澤奈央。主題歌「カチューシャの唄」を歌うのは、実力派のボーカリスト、UA。
 
1914は大正3年。光太郎が第一詩集『道程』を上梓し、智恵子との結婚披露を行った年なので、もしかしたらちらっとでも紹介されるかな、と思ってみました。しかしこちらも空振り。ただし、智恵子が表紙を描いた『青鞜』や、光雲が出品鑑査官、審査員を嘱託された東京大正博覧会が紹介されました。その他、シーメンス事件や第一次世界大戦による好況、モダン都市化した東京の様子など、当時を知るには非常にいい番組でした。
 
今年は東京駅開業100周年にもあたるので、例年より「100年前」が注目されているようです。その流れの中で、詩集『道程』100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年を取り上げてほしいものです。
 

さて、本日夕刻には、BS朝日さんで以下の番組が放映されます。  

BS朝日1 2014年1月2日(木)  16時00分~17時54分
 
日本の歴史的建築物「惜櫟荘(せきれきそう)」を守るため、歴史作家・佐伯泰英が立ち上がった。70年の時を経て、岩波茂雄、吉田五十八という二人の天才の夢が引き継がれる…

番組内容
日本の歴史的建築物を守るために立ち上がった歴史作家・佐伯泰英の情熱の物語。「惜櫟荘」という、日本を代表する数寄屋造りの取り壊しから修復・再建までを追いかけた、2年以上にわたるドキュメンタリー。

出演者 ナビゲーター 三上博史

昨年5月にオンエアされたものの再放送です。その時点で気づかなくて、このブログでは紹介しませんでしたが、番組サイトでは光太郎の名が記されています。
 
昭和16年9月。真珠湾攻撃の3か月前、一軒の小さな別荘が熱海に建てられた。 その名は惜櫟荘(せきれきそう)。ここに、志賀直哉や高村光太郎、幸田露伴、湯川秀樹ら日本の文豪や知識人が集い原稿をしたため、明日の日本を論じた。
 
もとはといえば、岩波書店の創業者・岩波茂雄の別荘だった。 この家を設計したのは、吉田五十八(よしだいそや)。歌舞伎座や吉田茂邸、文学賞の舞台である築地新喜楽などで知られる近代数寄屋建築の名手である。
 
あれから70年。
売却の憂き目に会おうとした惜櫟荘を、一人の作家が救った。時代小説で1500万部という人気を誇る、作家・佐伯泰英。名建築が無くなるのは忍びないと、私財を投じ、番人を買って出た。
 
日本の教養文化を育んだ出版人、岩波茂雄と稀代の建築家、吉田五十八。 二人のぶつかり合いから生まれた惜櫟荘の、解体から復元までの3年間を追いながら この30坪の小さな家に秘められた昭和のドラマを描きます。
 
後でこういう番組があったことを知り、残念に思っていたのですが、再放送されるということで、ありがたいかぎりです。
 
『高村光太郎全集』には岩波茂雄の名も何度か出てきますが、この惜櫟荘に関する記述が見あたりません。番組サイトにある「ここに、志賀直哉や高村光太郎、幸田露伴、湯川秀樹ら日本の文豪や知識人が集い原稿をしたため、明日の日本を論じた。」という事実もこちらでは確認できていません。どういうことなのか、放映をよく見てみようと思っています。

 追記 惜櫟荘で撮影された光太郎の写真を見つけました。

他にも光太郎に絡む、または絡みそうな番組の放映が続きます。そのあたりはまた明日。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月2日

昭和28年(1953)の今日、年下の友人達のために揮毫書き初めをしました。
 
美術史家の奥平英雄に「うつくしきもの」、詩人の宮崎稔が保管していた智恵子紙絵の箱に「高村智恵子遺作紙絵」、北川太一先生所蔵の『智恵子抄』特製本に詩「樹下の二人」の一節(画像参照)、同じく詩「晩餐」の一節をそれぞれ書きました。
 
書、さらに書き初めというのも日本の素晴らしい文化、そして風習ですね。当方は悪筆なのですが、いずれは取り組んでみたいと思っています。
 
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というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
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日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
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雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

平成25年(2013)も、とうとう今日で終わりです。
 
昨日からの続きで、光太郎智恵子をめぐるこの一年を振り返ります。
 
日本各地での顕彰活動も盛んでした。
 
青森十和田。今年は十和田湖畔の裸婦群像建立60周年ということで、来年にかけてもいろいろと動きがあるようです。
 
岩手花巻。昨日もご紹介しましたが、光太郎が暮らした太田地区の山小屋「高村山荘」、その近くの高村光太郎記念館を拠点に、財団法人高村記念会様によって、各種活動が行われています。

 高村記念館仮オープン、第56回高村祭報道。

 
宮城女川では、震災による津波の被害にもめげず、女川光太郎祭。かつて建てられた光太郎文学碑を範として、100円募金による「いのちの石碑」も建てられました。
 
福島二本松では、智恵子命日の「レモン忌」、智恵子のまち夢くらぶさんによる「智恵子講座'13」、「智恵子に扮する有馬稲子像」も展示された「五星山」展。かつて舞台で智恵子を演じられた有馬稲子さんのトークショーもありました。
 
東京では高村光太郎研究会様による活動。
 
荻原守衛草野心平など、周辺人物の顕彰活動の中でも、光太郎に触れていただきました。
 
こうした動きが途絶えることなく、さらに盛り上がって行ってほしいものです。
 
しかし、残念なニュースもいろいろありました。
 
まずは訃報。生前の光太郎を知る方々で、連翹忌にもご参加いただいていた皆さんとしては、3月に詩人の寺田弘氏、6月に鋳金家の西大由氏、11月に同じく鋳金家の齋藤明氏。文筆作品や演劇などの分野で光太郎を取り上げて下さった方々で、西沢利明氏(俳優)、佐野洋氏(作家)、夏八木勲氏(俳優)、やなせたかし氏(詩人)、すまけい氏(俳優)。他に一般の方でも、連翹忌にご参加いただいていた方々の訃報が届いております。
 
昨日は昨日で、仏教学者の紀野一義氏の訃報が出ました。

仏教学者の紀野一義さん死去 真如会を設立(2013/12/29) 

紀野一義さん(きの・かずよし=仏教学者、真如会主幹、元宝仙学園短大学長)が28日、肺炎で死去、91歳。葬儀は親族と近親者のみで行い、お別れの会を後日開く。喪主は長男真輝(まさき)さん。 著書に「生きるのが下手な人へ」、共訳注に「般若心経・金剛般若経」など。在家仏教団体の真如会を設立した。
 
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氏には光太郎に触れたご著書が何冊かありました。
 
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左から『遍歴放浪の世界』 昭和42年 日本放送出版協会、『般若心経の風光 観自在の世界』 昭和57年 実業之日本社、『死にざま生きざま 美しき人になりたく候』 昭和53年 PHP研究所。
 
それから、8月には、昭和8年に光太郎智恵子が滞在し、その当時の部屋がそのまま残っていた、福島の不動湯温泉が全焼、従業員の方が亡くなりました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年一年、お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月31日

昭和45年(1970)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』第47刷が刊行、現在と同じ智恵子紙絵を用いたカバーデザインとなりました。
 
こちらのコーナー【今日は何の日・光太郎】も、365日、つつがなく書き終えました。ご愛読ありがとうございました。

昨日の『山陽新聞』さん掲載のコラムです。『朝日新聞』さんでいえば「天声人語」にあたる欄でしょうか。昭和22年(1947)の、花巻郊外太田村山口の山小屋で書いた光太郎日記が引用されています。

[滴一滴]   

 〈一月七日 午前まだあたたか。朝食、粥(かゆ)。セリを入れる。七草粥のつもり。雪に埋れて青いものなし。芹(せり)だけ入れる……夜又寒くなる。雲あれど月あかるし。時々雪ふるらし…〉
 「智恵子抄」などで知られる高村光太郎が、晩年の60代のときにつづった日記の一部である。無駄のない、詩的な響きが心地よい。特段変わりばえのしない一日が、何ともきれいに記されるものだ
 年が改まるこの時季、日記が書店の売り場で“主役”になっている。5年や10年連用できるもの、学校での大切な日などを書き込める小学生向け、献立付きの主婦向けなどさまざまだ。日本人ほど日記を書くのが好きな民族はいない、という説もうなずける
 本紙ちまた欄にも、日記を習慣にしている人の投稿がしばしば登場する。30年、50年と続けている人もいる。もう立派な「自分史」「家族史」だろう
 流儀はさまざまだ。楽しいこと以外は書かない。あるいは誰にも言えない愚痴を文字に託す。毎日欠かさぬのが目標という人もいれば、何日分かのまとめ書きを勧める声もある。記憶をたどり、出来事を思い出そうとする努力は脳を活性化させるという
 ブログなどを楽しむ「ネット派」も隆盛だが、心を静めて向き合う手書きの日記帳にはぬくもりがある。つづる文字もどこか優しい。
 
いかにもいよいよ年の瀬、という内容ですね。
 
そこで、今日、明日と2回にわたって、今年1年を振り返ってみます。
 
今年、平成25年(2013)は、光太郎生誕130年ということで、色々と大きな動きがありました。
 

早速手前味噌で申し訳ありませんが、0064月2日、第57回連翹忌を当会主催にて開催し、多くの方にお集まりいただきました。
 
 
5月には先の日記が書かれた花巻郊外の高村山荘近くに、元の歴史民俗資料館をリニューアルして、高村光太郎記念館が仮オープンしました。元々、昭和41年(1966)、近くにこじんまりした記念館が建てられましたが、そちらが手狭となり、設備も整っていないための措置でした。仮オープンは例年行っている高村祭の日に合わせ、渡辺えりさんに記念講演をしていただきました。007
おかげさまで入場者数も伸び、さらに今年から通年開館。来年以降も本格整備が続きます。ぜひ足をお運びください。
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6月から12月にかけ、『生誕130年 彫刻家高村光太郎展』が、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんで巡回008開催されました。ひさしぶりの大規模な光太郎展ということで、いろいろなメディアで取り上げて下さり、3館累計でのべ4万人超の方に御来場いただきました。最後の碧南では、会期終了を待たずに図録が完売とのこと。ありがたいやら申し訳ないやらです。

千葉


10月にはNHKさんの「日曜美術館」で光太郎を取り上げて下さいました。題して「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。 なかなか好評だったようです。
日曜美術館、10月6日の放送。
「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。
ネタバレ注意、「日曜美術館」。
レモン忌報道/「日曜美術館」。

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それぞれの関係者の皆様、お疲れ様でした。当方も微力ながらそれぞれに関わらせていただき、望外の喜びです。
 
他にも光太郎智恵子・光雲に関わる展覧会、出版、テレビ放映、公演等、たくさんありました。とりあげてくださり、ありがとうございました。
 
明日もこの項、続けます。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月30日

平成3年(1991)の今日、長く北川太一先生のお手伝いをされていた堀津省二氏が亡くなりました。
 
北川太一先生が刊行されていた頃の『光太郎資料』、そこから生まれた何冊かのご著書、当方も活用させていただいて居ります。

南関東は昨日まで3日ほど雨や雪が続き、都心でも初雪を観測したそうです。が、基本的に冬の関東は乾燥したカラカラ陽気で、火災が発生しやすい状態です。
 
111年前の今日、光太郎も火災に泣かされました。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月21日

明治35年(1902)の今日、駒込林町155番地の光雲宅に作った光太郎アトリエが火災で焼失しました。
 
東京美術学校彫刻科を卒業した年で、まだ光雲宅に同居していた時代の話です。この年の3月に、一部を光雲と共用する形で、自宅敷地内にアトリエを建ててもらったのですが、わずか1年足らずで燃えてしまいました。
 
以下、その直後に光太郎の書いた「工場失火についてのおぼえがき」から。
 
 明治三十五年十二月二十一日午前三時半彫塑室焼失し参考品書籍類及雑具悉皆烏有に帰せり。
 源因は暖炉の落し灰なるべし。
 彫塑室はこの三月の新築に係り、三間に四間の土蔵造りにして北に明取りの窓あり、来年博覧会に出品すべき油土の原型も製作中のこととてまたこの内にありしが皆燃え果てたり。
 
 
以下、「おぼえがき」ということで、火事見舞いに来てくれた人々の名前等が列記されています。
 
光太郎の弟の豊周による『定本光太郎回想』(昭和47年=1972)にも記述があります。
 
 外から火を被っても中の物は安全にして置きたいという配慮から土蔵造りになって居り、天井はガラス張りで明りをとる、当時としては立派ないいアトリエだったのだが、春に出来て十二月には燃えてしまったのだから、ほんのわずかな寿命だったし、家としては莫大な損害だった。
 普請の時に残っていた縁の下のカンナ屑に、ストーブの残り火がうつり、発見した時にはすっかり火の手がまわって、危くて入れない。近所にあった大阪屋という下宿の主人が火事なれている人でよく働いてくれたりして、ようやく火は消しとめたけれど、とうとう中のものは、父や兄の作品をはじめ一物も持ち出さずに灰になってしまった。焼跡の灰を兄はいつまでも掘り返して、未練深く参考写真の使えそうなのを丁寧に探し出していたのだが、いかにも気の毒だった。この失火の時の覚え書が兄の手で残されていて、全集十一巻に入っている。アトリエは取り壊され、そのまま建て直されなかった。
 
現在、写真だけは残っている初期の彫刻「仙」「まぼろし」などは、この時に燃えてしまったと推定されます。画像はこの年3月に発行された美術学校生徒の作品写真集『第弐回彫塑生面』から取りました。
 
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火災には気をつけたいものです。

もう1日、愛知ネタで書かせていただきます。
 
愛知碧南を訪れるのは先週末で3度目でした。以前の2回は日帰りで、目的地の藤井達吉現代美術館以外は立ち寄りませんでした。しかし先週末は、併せて小牧市のメナード美術館の「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ」にも行くので、1泊2日の日程を組みました。日帰りでも不可能ではなかったのですが、途中で電車の遅延等が発生すると困りますし、時間を気にしながら慌ただしく鑑賞するのはよくないと思ったからです。
 
それがやはり正解でした。特に2日目の午前中に歩いた碧南の街並みが非常にいい感じでした。太平洋戦争中に空襲の被害を受けなかったということで、古い街並みがよく残っているのです。その点、当方の暮らす千葉県香取市佐原地区とよく似ており、親近感を抱きました。
 
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カメラ好きの方などには非常におすすめです。
 
ただ、惜しむらくはせっかくのこうした街並みが活用されていないと感じること。ほとんどが現役の住居なので、なかなか内部を公開するというのは難しいのかも知れませんが、中を見られるところが少ないのです。それでも藤井達吉現代美術館のすぐ近くにある清澤満之記念館内の清澤旧宅や九重みりん時代館などは中に入れます。
 
それから電線。こうした街並みを活かそうと考えるなら、地中に埋設すべきですね。
 
手前味噌になりますが、当方の暮らす千葉県香取市佐原地区は、元々が商都だったこともあり、古い街並みの商家がそのまま営業していたり(創業数百年前という店も珍しくありません)、しもた屋もリフォームされてカフェやレストランになったりしていますし、電線の埋設も進んでいます。
 
ただ、逆にそれをやり過ぎると生活臭が薄れ、かえって人工的なテーマパークのようになってしまうので(F県A郡のO宿やS県K市の蔵作りの街並み、G県T市の街並みとG造りの集落などはそういう感じがします。申し訳ありませんが)、そういう意味では碧南の街並みは自然体でいい感じです。特に表通りから入った路地裏の感じは、今にも光太郎智恵子が街角からひょっと現れそうな雰囲気です。
 
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せ、碧南の街並みもぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月26日

昭和28年(1953)の今日、花巻郊外太田村山口でブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケに参加しました。
 
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十和田湖畔の裸婦像の除幕式に参加したのが前月。その後、また東京中野のアトリエに戻りましたが、11月に一時的に花巻郊外太田村山口の小屋に帰っています。そして60年前の今日、太田村でのロケが行われました。
左上は山小屋の囲炉裏端、右上は山小屋近くの道、左下は「馬面電車」と言われた花巻電鉄の内部、右下は山小屋近くの民家の軒先です。
 
光太郎本人には、裸婦像完成後はまた太田村で暮らすつもりもあり、住民票も残していたのですが、健康状態がそれを許さず、結局は中野のアトリエに戻り、そこで終焉を迎えることとなります。

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花巻郊外の高村光太郎記念館で購入したグッズの数々です。クリアフォルダ、ポストカードなどは以前からありましたが、一筆箋、レターセット的なものがごっそり増えており、思わずたくさん買ってしまいました。それ以外にも、タオル、日本手ぬぐい、コースターなどなどいろいろ増えています。
 
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花巻市役所近くにある「やぶ屋」さん。稗貫農学校に勤務していた頃の宮澤賢治が通い、光太郎も行ったことがある店です。賢治は天ぷらそばとサイダーを注文することが多かったとか。ショーウィンドウには、賢治をあしらった三ツ矢サイダーの看板が出ていました。
 
なぜか店内レジのそばに光太郎の「初夢まりつきうた」の詩稿(コピー)が額に入って飾られていました。「初夢まりつきうた」は昭和26年、『花巻新報』に発表された詩で、花巻商人をモチーフにしています。のちに作曲され、SPレコードにもなり、数年前にそのレコードが花巻市内で見つかったことがニュースになりました。
 
なぜその詩稿のコピーがここにあるのか、お店の方に伺おうと思ったのですが、当方が行ったのはちょうど昼の混雑時でお店の方も忙しそう。迷惑かなと思い、出直すことにしました。まだすいているであろう時間帯に夕食を早目に食べに来て、お尋ねするつもりでした。しかし、夕方来てみると、「本日都合により午後3時まで」の貼り紙。また一つ宿題が増えました(笑)。
 
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「花巻市博物館だより」です。先日のブログでご紹介した企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」の記事が2ページ載っています。㈶高村記念会さんでいただいてきました。2ページ目のスナップは佐藤隆房夫妻と光太郎です。
 
高村記念会さんといえば、テレビ朝日さんから協力要請があったそうで、その情報をゲットしました。明後日11/15、テレビ朝日系の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の中で、「誰も知らない紅葉巡り、都電で見つけた小さな秋」という15分のコーナーが放映されるそうです。ただ、その部分は全国放映ではなく、首都圏ローカル枠のように思われます。
 
都電荒川線沿線の「誰も知らない紅葉スポット」ということで、椿山荘近くの水神社、雑司ヶ谷鬼子母神、王子飛鳥山、そして光太郎はじめ高村家の人々も眠る駒込染井霊園が紹介されるそうです。染井霊園の部分で、高村家の墓所、そして高村記念会さんの提供により光太郎の肖像写真が写るとのこと。首都圏の方、ご覧下さい。
 
そして昨日は岩手町での光太郎直筆の看板探訪。現物は見られませんでしたが、所在は確認できました。「佐藤隆房展」とあわせ、また近々行くしかないな、と思っています。 

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おまけ。昨日、盛岡駅で買った駅弁です。ウニが食べたくてこの弁当にしたのですが、偶然にも箸袋の文字と絵は、『白樺』で光太郎と交流のあった武者小路実篤。驚きました。他の方のブログによると、系列のホテルに武者が泊まった時に残した書画を使っているとのことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月13日

昭和50年(1975)の今日、東大地震研究所が創立50周年記念に光太郎木彫「鯰」のレプリカをあしらったペーパーウェイトを作成、関係者に配布しました。
 
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地震といえば鯰ですが、東大さんもなかなか洒落っ気が利いていますね。意外と重宝しています。

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岩手花巻に来ています。

7月以来、久しぶりに郊外太田地区にある、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで暮らした高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館に行って参りました。

予想通りに紅葉がいい感じに色づいていました。

記念館で驚いたのは、グッズがかなり増えていたこと。帰ってから画像入りで紹介します。

市街地に戻って、昼食を宮沢賢治がよく行った「やぶ屋」という蕎麦屋で食べました。ここは光太郎も行ったことがある店です。賢治がよく注文したというてんぷらそばを食べました。なかなか美味でした。こちらについても帰ってからレポートします。

そのうち空模様が怪しくなって来たと思ったら、雨が降り出し、さらに夕方には雪に変わりました。積もるような勢いではありませんが、11月中旬にもう雪とは……。

明日は盛岡方面です。

【今日は何の日・光太郎】 11月11日

昭和31年(1956)の今日、TBS系テレビでドラマ「智恵子抄」が放映されました。
 
映画も含め「智恵子抄」初めての映像化でした。キャストは光太郎役が宮口精二さん、智恵子役で新珠三千代さんでした。

年2回、当方が刊行しております004冊子『光太郎資料』の第40集、当会の名簿に載っている方や、全国の主要な図書館、光太郎智恵子に関わりそうな文学館・美術館等に発送いたしました。
 
以前にも書きましたが、元々は昭和35年から平成5年にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が刊行されていたものの名跡をお譲りいただきました。
 
内容的には以下の通りです。
 
光太郎遺珠から 第4回 造形作家として(二) 昭和戦前
・ 昭和2年(1927) 福田正夫宛書簡
・ 同         八束清宛書簡
・ 昭和4年(1929) 中込純次宛書簡
・ 昭和5年(1930) 木彫「栄螺」短歌
・ 昭和8年(1933) 「『画工志願』読後感」
・ 昭和11年(1936) 「『青沼彦治翁遺行録』序」
・ 昭和13年(1938) 雑纂 高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布
・ 同         森川勇作宛書簡
・ 昭和15年(1940) 雑纂「(私信より)」
・ 同         座談 「第2回研究部座談会」008
・ 同         散文 「仕事場にて」
 
筑摩書房『高村光太郎全集』補遺作品です。テーマ別、時期別にまとめています。 
 
光太郎回想・訪問記 高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり 斎藤明
光太郎の弟で鋳金家の高村豊周の助手を長らく務めた人間国宝の鋳金家・斎藤明氏の回想です。実際に各地に残る光太郎ブロンズ彫刻を鋳造した時の経緯等が語られています。
 
光雲談話筆記集成 『漫談 江戸は過ぎる』より 両国の夕凉み(二)
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三陸海岸(宮城・岩手)
 
音楽・レコードに見る光太郎 松本民之助作曲「わが大空」
 
高村光太郎初出索引 た行(一)
 
第五十七回連翹忌報告

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上記画像は原稿をプリントスクリーン機能で画像化したものです。したがって、カラーになっていますが、実際に印刷製本したものはモノクロです。
 
ホチキス留めの手製のもので(印刷のみ印刷屋さんに依頼)お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも少々残っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月19日

明治33年(1900)の今日、東京美術学校の修学旅行で伊豆修善寺を訪れています。
 
光太郎は東京美術学校本科三年生。同四年生(最終学年)の修学旅行は以前にも紹介しましたが、2週間にわたる奈良・京都方面でした。この年は2泊3日、現代の感覚では「修学旅行」というより「宿泊学習」という感じかも知れません。ちなみに1年生では日光に2泊3日、2年生では箱根に1泊2日。毎年「修学旅行」という名称で行っていました。

昨日のブログで秋に関する光太郎の詩をいくつか紹介しました。昨日紹介したのは大正末から昭和戦前の作で、素直に秋を謳ったもの(部分)でした。
 
「素直」でなく秋にからめた詩も存在します。どうも秋の到来を、それから起こるであろう泥沼の戦争の予感とオーバーラップさせているようです。

   北東の風、雨
 014
 軍艦をならべたやうな
 日本列島の地図の上に、
 見たまへ、陣風線の輪がくづれて、
 たうとう秋がやつて来たのだ。
 北東の風、雨の中を、
 大の字なりに濡れてゐるのは誰だ。
 愚劣な夏の生活を
 思ひ存分洗つてくれと、
 冷冷する砲身に跨つて天を見るのは誰だ。
 右舷左舷にどどんとうつ波は、
 そろそろ荒つぽく、たのもしく、
 どうせ一しけおいでなさいと、
 そんなにきれいな口笛を吹くのは誰だ。
 事件の予望に心はくゆる。
 ウエルカム、秋。

 
昭和2年(1927)の作。
 
その前年、中国では蒋介石の国民党政府による反帝国主義を掲げる「北伐宣言」が出され、昭和2年に入ると、
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃(南京事件・漢口事件)などが起こり、それに対して日本は山東出兵を行っています。さらに翌年には関東軍による張作霖爆殺、国内では主義者弾圧のための特高警察の設置など、時代は確実にきな臭い方向に進んでいました。
 
事件の予望」には、そうした背景が見て取れます。そして、「どうせ一しけおいでなさい」「ウエルカム、秋。」には、それを必然と見る姿勢が読み取れるように思われます。
 

   秋風辞
     秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰
                   -漢武帝-
 秋風起つて白雲は飛ぶが、
 今年南に急ぐのはわが同胞の隊伍である。015
 南に待つのは砲火である。
 街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、
 涙はむしろ胸を洗ひ
 昨日思索の亡羊を嘆いた者、
 日日欠食の悩みに蒼ざめた者、
 巷に浮浪の夢を餘儀なくした者、
 今はただ澎湃たる熱気の列と化した。
 草木黄ばみ落ちる時
 世の隅隅に吹きこむ夜風に変りはないが、
 今年この国を訪れる秋は
 祖先も曾て見たことのない厖大な秋だ。
 遠くかなた雁門関の古生層がはじけ飛ぶ。
 むかし雁門関は西に向つて閉ぢた。
 けふ雁門関は東に向つて砕ける。
 太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし。
 秋風は胡沙と海と島島とを一連に吹く。
 
昭和12年(1937)の作。この年には盧溝橋事件が起こり、日中間は全面戦争状態に突入しています。
 
実は昨日部分的に紹介した「日本の秋」にも、昨日紹介しなかった部分にこうした内容が含まれています。
 
 ああいよいよ秋の厄日がそこに居る。
 来なければならないものなら、
 どんなしけでもあれでも来るがいい。
 
どうやら光太郎、台風の嵐を戦争の嵐にたとえているようです。そして台風一過の状況を、昨日紹介した部分の
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 
で、戦争に勝つこととして表現しているのです。
 
ところがそう簡単に事は運ばず、日中戦争は泥沼化、さらに太平洋戦争へと突入し、昭和20年(1945)には敗戦。
 
この間、光太郎は膨大な数の戦争詩を書き殴ります。それら(「北東の風、雨」「秋風辞」も含め)は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などに収められ、国民を鼓舞する役割を果たしました。
 
敗戦後はそうした自己を反省して、花巻郊外での山小屋生活に入るのです。
 
以上、ざっくりと光太郎の「秋」を見てきましたが、すっきりしませんので、「きな臭い」内容を含まない「素直な」秋の詩をもう一つ紹介して終わります。大正3年(1914)、おそらく詩集『道程』のために書き下ろされた詩です。
 
   秋の祈
 
 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り016
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る
 
【今日は何の日・光太郎】 9月28日

昭和26年(1951)の今日、光太郎が題字を揮毫した草野心平の詩集『天』が刊行されました。
 
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「素直な」心で、秋の「天」を眺めたいものです。

【今日は何の日・光太郎】 9月27日

大正15年(1926)の今日、詩「秋を待つ」を書きました。
 
   秋を待つ017
 
 もう一度水を浴びよう。
 都会に居れば香水くさくなるし、
 山にのぼれば霧くさくなるし、
 たんぼにゆけばこやしくさくなる。
 良心くさいのさへうれしくないのに、
 ああ己はそこら中がべとべとだ。
 太陽や神さまはいつでも軌道のそつちに居てくれ。
 あの西南の空の隅から
 秋がばさりとやがて来る日を
 胸のすくほど奇麗になつて待つ為にも、
 さあもう一度水をあびよう。
 さうしてすつかり拭いた自分の体から、
 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ
 あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、
 生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
 
9月末としては少し季節外れの内容にも思えます。大正15年も残暑が厳しかったのでしょうか。
 
ちなみに右は現在の千葉県北東部の空です。気持ちよく晴れています。ただし、まだ裏山ではツクツクホーシとミンミンゼミが鳴いています(笑)
 
以前にも書きましたが、光太郎は生来、夏の暑さを苦手としていました。逆に冬の寒さは大好きで、冬を謳った詩は数多くあります。また、暑さが去る秋の訪れを懇願したり、喜んだりといった内容の詩もいくつかあります。
 
   秋が来たんだ(部分)
 
 すずしい秋がやつて来たんだ
 星が一つ西の空に光り出して
 天が今宵こそ木犀色に匂ひ016
 往来にさらさら風が流れて
 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる
 さういふ秋がやつて来たんだ
 ……
 すずしい秋がやつて来たんだ
 こんないい空気が落ちて来る秋の夕方がやつて来たんだ
 
 
   日本の秋(部分)
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 風と雨とで一切を洗ひ出してしまつた朝、
 塩でもいいからきりりと口を浄め、
 水を一ぱいぐつとのんで、
 からりと日の照る往来にとび出すのはいい。
 あの日本の秋が又来たな、
 秋はいいなと思ふのはいい。
 
それぞれその通りですね。
 
ただし、光太郎は昭和戦前には「秋」を「大和魂」と結びつけ、日中戦争から太平洋戦争に向かってゆく-というかゆかざるをえない-この国の姿を描いてもいます。明日はそのあたりを書いてみます。
 
「秋」といえば、宮城女川光太郎の会・佐々木英子様が秋の味覚の王様・女川特産のサンマを送って下さいまして、早速いただきました。脂がしっかりのっていて、美味。何より目を見張る大きさです。ありがたいことです。
 
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ところで、パソコンのインターネットのブラウザで、YAHOO!JAPANのページを見ますと、一番下に「復興支援 東日本大震災」というリンクがあります。
 
その中にある「復興デパート」というリンクでは、東北の特産品などがネット販売されています。現在のイチオシはやはり三陸のサンマ。ぜひお買い求め下さい。

 
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「復興支援」といえば、プロ野球パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝を決めましたが、東北を元気づけるという意味でも、非常に喜ばしいことですね。CS、そして日本シリーズとさらに頑張ってほしいものです。

【今日は何の日・光太郎】 8月15日

昭和20年(1945)の今日、花巻の鳥谷ヶ崎神社で終戦の玉音放送を聴きました。
 
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鳥谷ヶ崎神社 戦前絵葉書
 
8月10日の花巻空襲で、逗留していた宮澤家も焼け出された光太郎は、元花巻中学校長の佐藤昌宅に厄介になっていました。その佐藤宅からほど近い鳥谷ヶ崎神社で、敗戦の放送を聴いたのが68年前の今日でした。
 
そしてその時の感興を謳った詩が翌日作られ、翌々日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
  一億の号泣001
 
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
画像は鳥谷ヶ崎神社に、戦後立てられた「一億の号泣」詩碑です。

戦時中には誠意高揚のための詩を大量に書き殴っていた光太郎ですが、この「一億の号泣」も、まだその延長上にあります。
 
その後しばらく経ってから、「日を重ねるに従つて、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ」(「終戦」・昭和22年=1947)、戦時中の自己を「乞はれるままに本を編んだり、/変な方角の詩を書いたり」(「おそろしい空虚」・同)と分析できるようになりました。
 
左に偏った人々はこれを「言い訳」と評します。逆に右に偏った人々は「変節」と捉えます。「不思議なほどの脱卻のあとに/ただ人たるの愛がある。」(「終戦」・「卻」は「却」の正字)という光太郎の言を、もう少し素直に受け止められないものでしょうか。
 
いずれにせよ、今日は終戦記念日。今日行われた全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」を心に刻みつけたいものです。

8月9日、女川光太郎祭が始まる前に、女川と隣接する石巻の街を歩いてみました。
 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』に寄せた紀行文「三陸廻り」は石巻から始まっています。下記はその際の光太郎自筆の挿画です。
 
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市街地の南、北上川河口の脇に立つ日和山から見た風景です。
 
さらにこちらは戦前の絵葉書。
 
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そして8/9に撮影した画像です。
 
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光太郎が82年前にここから同じように風景を見たんだなと思うと感慨深いものがありました。
 
「三陸廻り」の中では、日和山から見た石巻の街をこう記します。
 
 日和山から見下した石巻と湊町と仲の瀬とはぎつしりつまつてまるで空地のない建てこみ方だ。家と倉庫と鰹節工場と造船所と魚市場と檣柱と旗と煙突と、魚類の吐く息と鋼鉄の鳴る音と。坂路に立つて俯瞰図をスケツチしてゐると洋服姿のインテリ百姓らしい若者が通る。
 
上の三枚の画像ともに右手にある島が「仲の瀬」通常は「中瀬」と表記。現在は石ノ森萬画館が建っています。
 
さらに光太郎、日和山にある鹿島御児(かしまみこ)神社に詣でたことを記しています。そこにも行ってみました。
 
 
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震災で被害を受け、本殿を解体するそうです。義援金として賽銭を入れてきました。
 
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その後、山を下りて石ノ森萬画館へ。昨年はまだ閉鎖中でしたが、今年は再開し、家族連れなどでにぎわっていました。「サイボーグ009」の企画展をやっており、懐かしく拝見しました。
 
 
上が昨年、下が今年の写真です。
 
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中瀬に架かる橋も、昨年はまだひどい状態でしたが、今年はきれいになっていました。
 
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着実に復興は進んでいます。
 
しかし、街を歩くと、まだまだこんな建物も残っています。
 
 
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日和山から見た中瀬とは逆側の光景。
 
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元は民家や事業所が立ち並んでいたはずですが、ほとんど更地と化しています。
 
女川同様、石巻もまだまだ復興途上です。具体的な支援もなかなか難しいと思いますが、せめてそういう現状であるということは、頭に留めておいてほしいものです。
 
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千葉蒼玄氏書・復興支援絵葉書
 
【今日は何の日・光太郎】 8月12日

昭和26年(1951)の今日、光雲の師匠・高村東雲の孫に当たる高村晴雲が花巻郊外太田村山口の山小屋を訪れ、旧交を温めました。
 
おそらくこの時に贈られたとみられる晴雲作(?)の観音像が花巻の記念館に保管されています。

去る8/9(金)は、第22回女川光太郎祭でした。
 
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一昨年の大震災で亡くなった方々への黙祷に始まり、前座で当方の記念講演。なぜ女川で光太郎祭が開かれているのか、その経緯をあらためてご紹介し、かように人々を魅了する光太郎の人間像を簡単にお話しさせていただきました。来年以降、連作詩「暗愚小伝」を元に、さらに深く光太郎の人間像について述べようと思っています。
 
その後、女川光太郎の会会長の須田様のごあいさつ。須田様は昨年の『朝日新聞』さんの全国版で大きく取り上げられました。
 
さらに光太郎遺影への献花、地元の方々による紀行文や詩の朗読と続きました。
 
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朗読の際には、女川を愛するギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏をして下さいました。皆さん、すばらしい朗読でした。
 
その後、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生による特別講演「(観自在こそ)-光太郎の底を貫く当方の信仰-」。当方もお手伝いをさせていただきました。長らくこの会の運営に携わってこられ、一昨年の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの無私の精神に絡め、光太郎や高村家のバックボーンだった観音信仰についてのお話しでした。
 
さらにアトラクションで、やはり女川をこよなく愛するオペラ歌手・本宮寛子さんの歌。場所が場所なのでア・カペラですが、「この道」、そして「ある晴れた日に」。こういう手作り感が女川光太郎祭のいいところでもあります。
 
それにて閉会し、その後、きぼうの鐘商店街内の佐々木釣具店にて「貝さんを偲ぶ会」が行われました。東京から駆けつけた北川先生、先生の教え子の北斗会の皆さんもご満悦のご様子でした。
 
来年以降も女川光太郎祭は続きます。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月11日

昭和28年(1953)の今日、『東京新聞』に水谷八重子主演の演劇「智恵子抄」の予告記事が載りました。

先ほど、2泊3日の行程を終え、女川から帰って参りました。
 
詳細は明日からレポートいたします。今日は女川の現状のみ。
 
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もとの繁華街があった海岸一帯は、横倒しになったビルなどまだそのままですが、地盤のかさ上げ工事が始まっていました。
 
半ば海中に水没していた光太郎文学碑二基も陸上に引き上げられ、移動されていました。
 
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やはり碑面は損傷が激しい状態です。特に両端に配してある光太郎筆のイラストは金属板でしたので、傷が目立ちます。
 
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下図は女川町の復興推進課が出した将来構想イメージ図です。

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このような美しい町の姿を取り戻すため、今日も工事関係者の皆さんが忙しく立ち働いていました。当方が訪れた午前8:00には、引き上げられた碑の傍らにて皆さんで準備運動。炎天下、頭の下がる思いです。「よろしくお願いします」と心の中でエールを送りました。
 
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昨年よりも復興の進んだ様子があちこちで見受けられましたが、元の町の姿には遠く及びません。そういう意味では「被災」はまだまだ続いています。
 
微力ながら支援を続けていきたいと考えています。皆さんも、それぞれに出来る形でのご支援をよろしくお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月10日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤賢治生家が空襲で炎上、命からがら助かりました。
 
花巻ではこの終戦5日前の空襲で、47名の尊い命が絶たれました。光太郎と親交の厚かった佐藤隆房医師の総合花巻病院では、病院をあげて怪我人の救護に奮闘、後に光太郎はその敢闘をたたえる「非常の時」という詩を作って、病院に贈りました。

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女川光太郎祭、並びにその後の懇親会・「貝さんを偲ぶ会」、無事終わりました。

女川の皆さんの心の中に、光太郎の、そして光太郎祭を長らく続けて来られ、一昨年の震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの魂が受け継がれていることを実感しました。
詳しくは帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 8月9日

昭和6年(1931)の今日、紀行文「三陸廻り」執筆のため、およそ1ヶ月の旅に出ました。


このことを記念して、平成4年から女川光太郎祭が開かれています。

【今日は何の日・光太郎】 7月26日

大正4年(1915)の今日、天弦堂書房から評論『印象主義の思想と芸術』が刊行されました。
 
光太郎が単独で著したものとしては、その前年に刊行された詩集『道程』に続き、2冊目の書籍です。文庫判250ページほど。当時の定価で50銭です。

当方、カバーなしの裸本を一冊持っています。画像は扉と奥付です。
 
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少し前に古書店のサイトでカバー付きが売りに出ていたのですが、12,000円。そのくらいしてもおかしくありません。というか、相場から考えるとむしろ安いような気がしました。しかし12,000円という金額は、絶対評価としては安い金額ではありません。そう思っているうちに売れてしまいました。
 
目次を見ると、第一章は印象主義の概観。その後、二章から八章まで、代表的な作家一人ずつを論じています。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ。さらに後期印象派―ゴッホ、ゴーギャン、マチス―などについての簡単な記述もあります。
 
光太郎が紹介される際、「彫刻家、詩人」とされることが多くあります。たしかに光太郎は自分では「私は何を措いても彫刻家である」と述べていますし、好むと好まざるとに関わらず、詩人としての名声も高かったのは事実です。
 
しかし、筑摩書房版『高村光太郎全集』を見ると、この「印象主義の思想と芸術」を含む評論の類が非常に多い事に気づきます。その内容も美術や文学など多岐にわたるのですが、それぞれに異彩を放つものです。といって、途方もない論旨を展開しているわけではなく、ある意味、当たり前のことを当たり前に書いていながら、それが当たり前に感じられず、妙に納得させられる、そういう評論が多いのです。
 
もう少し、「評論家」としての光太郎にスポットが当たってもいいのでは、と感じます。
 
さて、『印象主義の思想と芸術』、のちに戦時中の評論集『造形美論』に収められた他、戦後には「筑摩叢書」の一冊として再刊されています。
 
ところがそれ以前に、大正11年に天弦堂版の紙型をそのまま使って、三徳社という出版社から再刊された記録があります。同社からこの年12月刊行の吉江孤雁『近代神秘主義の思想』の巻末広告に、同社の刊行物のラインナップとして『印象主義の思想と芸術』が入っています。
 
ただ、現物が確認できません。実際に刊行されたのか、広告のみ先行し、結局は刊行されなかったのか、不明です。
 
三徳社は、大正6年(1917)に中村徳治郎によって創業、他社の古い紙型によって旧刊書をしばしば再生した出版社だそうです。のちに「白楊社」と改称したということですが、ネットではその時期が大正10年(1921)となっているページがあります。しかし、国会図書館のデジタルデータでは同12年(1923)の刊行物も「三徳社」として登録されています。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

朝と夕方、愛犬(柴犬系雑種・9歳)の散歩をしています。やけに暑い日は涼を求め、雨の日は多少なりとも雨を避けるため、裏山を歩くことがあります。戦国時代には山城があったという小山で、舗装されていない山道があり、ちょっとした森林浴気分が味わえます。
 
裏山の一角にヤマユリが群生している場所が二カ所ほどあり、このところ満開です。香りも強烈です。
 
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さて、例によって……
 
【今日は何の日・光太郎】 7月19日

昭和16年(1941)の今日、詩「百合がにほふ」を書きました。
 
   百合がにほふ
   
どうでもよい事と
どうでもよくない事とある。002
あらぬ事にうろたへたり、
さし置きがたい事にうかつであつたり、
さういふ不明はよさう。
千載の見とほしによる事と
今が今のつとめとがある。
それとこれとのけぢめもつかず、
結局議論に終るのはよさう。
庭前の百合の花がにほつてくる。
私はその小さい芽からの成長を知つてゐる。
いかに営営たる毎日であつたかを知つてゐる。003
私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。
 
この年12月には太平洋戦争が勃発します。すでに中国との戦争は泥沼化しつつある時期。そういう時期であることをうかがわせる内容ですね。
 
さて、この詩は翌年4月に刊行された詩集『大いなる日に』に収録されており、また、草稿も残されているのでこういう詩だというのはわかっています。しかし初出掲載誌が不詳です。残された草稿の欄外には<「皇楯」へ>というメモが書かれています。『皇楯(みたて)』は軍人会館図書部刊行の雑誌。国会図書館には所蔵がなく、日本近代文学館や石川武美記念図書館(旧:お茶の水図書館)などに少部数の所蔵があり、調べてみましたがこの詩が載った号はありませんでした。おそらく昭和16年(1941)夏に刊行された号に載ったと思われます。
 
というわけで、この「百合がにほふ」の載った『皇楯』の情報を求めています。ご存じの方はご教示下さい。

追記 昭和16年(1941)9月1日発行の『皇楯』第2巻第9号に掲載を確認し、現物を入手しました。

先週、隣町・成田でパソコンの楽譜作成ソフトを購入してきました。
 
当方が年2回刊行しています冊子『光太郎資料』の中に、光太郎作詞だったりする歌曲等を紹介する項があり、そのために必要だからです。
 
4月にそれまで使っていたデスクトップのパソコンが壊れ、新しく買い換えたのですが、楽譜作成ソフトなど標準装備されているわけもなく、壊れたパソコンにインストールしていたものをもう一度インストールしようとしたら、OSが異なるので不可。
 
話は変わりますが、デスクトップのパソコンが壊れたため、一部の方のメールアドレスがわからなくなっています。yahoo!さんのメールアドレスに送って下さっている方は大丈夫なのですが、NTTさんのメールアドレスに送っていただいている方で、最近、当方からメールが来ないな、という方、メールいただければ幸いです。
 
閑話休題。楽譜作成ソフトの話でした。この手のアプリケーションソフトはネットからダウンロードすればよい、とお考えの向きもいらっしゃるでしょうが、広く知られたメーカーのごく当たり前のソフトならともかく、特殊なアプリケーションとなると、ウイルス感染の危険性などが気になり、ダウンロードで入手する気になりません。結局買い直しました。
 
それにしても、入手するのに苦労しました。
 
以前使っていたソフトは地元の家電量販店で購入したので、今回も行けばあるだろうと思って行ってみたら売っていません。しかたなく、日を改めて地元より大きい成田の家電量販店2軒を回りましたが、やはりありません。そこでショッピングモールに入っている大きな楽器店に行って、ようやく見つけました。しかし、棚に並んでいる箱をレジに持って行くと「店には在庫がありませんので、メーカーさんから取り寄せになります」とのこと。
 
需要と供給のバランスという経済の原則が働いているのですね。都会ならともかく、地方ではこの手のものの需要がないのでしょう。まぁ、取り寄せ、といっても3日ほどで届いたのでよかったのですが。
 
早速、楽譜作成を始めました。以前使っていたデスクトップが壊れる前に作りかけていたデータが使えたので、助かりました。曲は昭和12年(1937)に作曲された光太郎作詞の二部合唱「わが大空」。松本民之助の作曲です。
 
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いろいろと面白い背景もあり、その辺りの解説を交えて当方刊行の冊子『光太郎資料』に掲載します。次号は10月初めに刊行予定です。
 
せっかくですので、明日はその解説の部分を換骨奪胎してブログに載せようと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月10日

大正11年(1922)の今日、『時事新報』に光太郎の書いた森鷗外の追悼文「頭の良い厳格な人―鷗外追悼―」が掲載されました。
 
鷗外は前日、9日に亡くなっています。数え61歳。6日には有名な遺言を認(したた)めました。曰く「余ハ石見人(いはみじん)森林太郎トシテ死セント欲ス」。「林太郎(りんたろう)」は本名です。遺言に従って、その墓標にはただ「森林太郎墓」とのみ刻まれました。

先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

隣町・成田の家電量販店でプロジェクタとノートパソコンを買ってきました。
 
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プロジェクタはパソコンの画面やDVDの映像などをスクリーンに映写する機械です。企業などではいわゆる「プレゼン」でよく使われますね。
 
光太郎智恵子について、人前で話す機会が多く、今まではせいぜい紙に印刷したレジュメを用意する程度でしたが、やはりこういうものを活用することで発表のクオリティーが上げられると考え、思い切って買ってしまいました。連翹忌などでも活用できるかな、とも思っています。
 
発表する側でなく、聴く方の側もよく体験していますが、やはり画像等が大写しになっていると、理解の助けになります。レジュメの小さい、しかもモノクロの画像で説明されてもわかりにくい、ということが多々あります。或る意味「百聞は一見にしかず」ですね。
 
手始めに来月16日(日)、二本松で行われる智恵子講座。「光太郎に影響を与えた人々」という連続講座の2回目で、岡倉天心と東京美術学校について話してくれとのことですので、早速、パワーポイントを使って資料を作ってみます。
 
しかし、これから先、以下の点に注意しようと思っています。
 
必要もないのに使わないこと
プロジェクタなどを使うと、それを使うことに満足してしまい、それを使う必要があったの? という発表にあたることがあります。しゃべる内容をただ文字にして大写しにしているだけ、または逆にアニメーションとかを駆使し、いろいろな動きがあるけれど、だから? のような。そういう使い方はしないよう心がけたいと思います。
 
画像などに頼らないこと
画像などを大写しにすれば、確かに理解の手助けにはなりますが、そこに頼ってしまう内容の薄い発表では仕方がありません。そうならないよう注意したいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月24日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、PTA主催の講演会を行いました。
 
その中に、こんな一節があります。
 
ありったけの力で最善を尽くせばいいのです。自分を捨ててかかればいいのです。僕はお金も名誉も望みません。世の中の役に立てばいいのです。一日一日、緩みのない生活でありたいのです。何がほんとうであるか、わかるようにと努めることです。あしたのことを考えても、そのとおりにはならないので、その日、そのときに最善を尽くすことだと思います。
 
いいですね。

花巻に行く前、このブログの「ブログ設定」の部分を見ていたところ、下の方に「あなたのブログが本になる ブログを本にしよう」というバナーが貼ってあるのに気がつきました。
 
リンクに入ってみると、どうも製本サービス的な内容でした。
 
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要するにブログの記事をPDFに変換、カラー印刷(モノクロも可)、製本してくれるというサービスです。もちろん有料ですが。
 
いつどんな事を書いたかぱっと見られるのがいいかなと思い、早速、注文してみました。ちょうどブログを始めて1年たちましたし、1年分を一冊にまとめて記録の意味で紙媒体で保存しておくのもいいかなと思いました。
 
しかし、ページ数に上限があり、1年分で設定したら「ページ数の上限を超えています」とのメッセージ。では半年分、と思ったら同じく「ページ数の上限を超えています」。「はぁ?」と思いつつ4ヶ月分に減らしても駄目。結局3ヶ月分が限界でした。
 
試しにそれで申し込んでみたところ、昨日夕刻に届きました。
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3ヶ月分がB6版で360ページ。内容的にはたいしたことのないものですが、画像がカラーで印刷されているのできれいです。しかし1冊で8,845円でした。大量に作れば1冊のコストは下がるのですが、大量に作っても仕方ありません。残り9ヶ月分を作るとなると他に3冊必要となり、ページ数により多少の前後がありますが、約9,000円×3。高いのですが、とりあえず頼んで、来年の連翹忌に展示しようと思っています。
 
ちなみにこのサービス、当方の利用しているYahoo!ブログ以外にもアメブロやエキサイトブログなど、主要なブログにはほとんど対応しています。ご参考までに。
 
明日は原宿でモンデンモモさんのコンサートに出演します。その前に太平洋美術展を見てから行ってきます。
 
【今日は何の日・光太郎】5月18日

昭和19年(1944)の今日、光太郎が序文を書いた清水多嘉示著『巨匠ブルデル』が創芸社から刊行されました。

今日も携帯からの投稿です。001

花巻市文化会館において、渡辺えりさんの講演会があり、先程終わりました。昨日の高村祭での講演に続き、2日連続でしたが、さすがにプロですね。満員の聴衆を飽きさせることなく、光太郎と賢治の魅力や、その他に岩手が舞台ということで、朝ドラ「あまちゃん」の裏話など、大いに楽しめるお話でした。
今後、人前で話す機会が増えますので、見習いたいものです。

光太郎や賢治の愛した大沢温泉に泊まり(渡辺さんも泊まられています――当方とは別の部屋です、念のため(笑))、明日帰ります。

【今日は何の日・光太郎】5月16日

昭和4年(1929)の今日、詩人の尾崎喜八との旅の途上、群馬の中之条に一泊しました。

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【今日は何の日・光太郎】5月15日

昭和20年(1945)の今日、疎開のため花巻に向け、東京を発ちました。


というわけで、毎年今日は花巻で高村祭が開催されており、昨年に続いて今年も参加いたしました。

今年はこの日に合わせ、仮オープンとなる高村記念館開館式がまずありました。花巻市長を始めとする皆さんにより、テープカットが行われ、めでたく一般公開スタートです。関係者の皆様(自分もですが)、お疲れ様でした。

その後、例年の通り、高村祭。昨年は雨のため、屋内での開催でしたが、今年は山荘近くの「雪白く積めり」詩碑前広場で実施できました。

地元小中高生、看護学校生の皆さんによる音楽演奏や朗読の後、渡辺えりさんの講演でした。人気女優、しかも岩手県を舞台にしている朝ドラ「あまちゃん」のレギュラーということで、立ち見もたくさん出る盛況でした。

午後は宮城からいらした朗読の荒井真澄さん、大阪から駆けつけた光太郎研究会の西浦氏とともに山荘付近や新しい記念館、花巻駅近くの林風舎さん(宮澤賢治関連ショップ&カフェ)などを巡りました。

宿で撮ったローカルニュース画像を載せます。

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今日から三泊四日の日程で花巻です。

花巻郊外、旧太田村に今も残る光太郎が7年暮らした小屋「高村山荘」周辺で、明日は光太郎祭があり、それにあわせて近くに高村記念館が仮オープンします。

今日は報道関係向けの内覧会があるということで、1日早く現地入りし、解説をしました。館内の説明ボードの文面を当方が執筆しましたので、そういった関係です。

明日の高村祭では、特別講演として渡辺えりさんが来花、光太郎と交流のあったえりさんのお父様のお話などが聴けると思います。

詳細はまた後ほど。

【今日は何の日・光太郎】5月14日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町で光太郎が経営していた画廊「ろうかん洞」(携帯で漢字が出ません。「ろう」は王へんに良、「かん」は同じく王へんに干です)で、画家の正宗得三郎の個展を開きました。

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