カテゴリ: 日記

4/10、正午過ぎに、当方がアドバイザー的なことをさせていただいている花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんに到着しました。

さすがに雪は消えていましたが、日陰にはまだこのように残っていました。このあたり、花巻市街より標高も高く、気温も低いのです。
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正面入口には大きな新しいタペストリー。写真家の故・内村皓一氏撮影の光太郎スナップで、先頃、花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで開催された「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」の際に作成されたものを譲ってもらったそうです。いい感じです。

受付脇には、山小屋(高村山荘)で暮らしていた頃の光太郎の食事に関する展示。

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館の女性職員の方々が中心となり、昨年あたりからこうした方面もいろいろやられているようで、地元テレビでも紹介されたり、当方も実際にいただいたりしました。また、今月創刊のタウン誌『Machicoco/マチココ』に、「光太郎のレシピ」として連載されるそうです。詳細は後ほど。

さて、関係各所から最近見つかったという、光太郎の遺品などを拝見。昭和20年(1945)の空襲で全焼した東京駒込林町のアトリエから持ち出した、光太郎の日記にもその存在が記されている舶来もののようでした。当方のあまり詳しくない分野のものですが、それが本当に日記に記されているとおりのものであれば(恐らく間違いないと思われます)、その筋の専門家によると、とんでもない逸品だとのこと。いずれ詳細が発表できる段階になりましたらご報告します。

さらに、館の運営を担っている花巻高村光太郎記念会の会長・佐藤進氏が院長をされていた総合花巻病院に保管されていた、光太郎から氏の父君である故・佐藤隆房氏に宛てた書簡類、そして光太郎以外の周辺人物から隆房氏宛の書簡類など。光太郎からのものは、すべて『高村光太郎全集』に収録されているはずですが、もしかすると漏れがあるかもしれません。まだ精査をしていないということで、当方も協力して進めて行きます。また、周辺人物からの書簡類も、ざっと見せていただいただけでも興味深い記述が多く、こちらもいずれ発表できる段階になりましたらご報告します。

そうこうしているうちに、同じ敷地内の高村山荘裏手にある智恵子展望台リニューアルお披露目の時間となりましたので移動。

敷地全体で、かつて無計画に植えられ、手入れもされていなかった杉などの伐採が進み、道も舗装などが進んでいました。
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さりとて、自然を壊すではなく、全体にすっきりしたという感じでした。周辺にはミズバショウやカタクリ、光太郎も好んで食べたバッケ(ふきのうとう)。ようやく春が巡ってきたという感じです。

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池にはなんと、サンショウウオの卵だそうで、これには驚きました。

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急な坂を上り、リニューアルされた智恵子展望台へ。光太郎が夜な夜なここから「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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9㍍四方のデッキが新設され、雑木を伐採したり刈り払ったりで、だいぶ展望がよくなりました。

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足下には昭和41年(1966)に建てられた旧記念館。

地元の皆さんが集まってこられました。光太郎がここに住んでいた頃をご存じの方も多くいらっしゃいます。

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皆さんで、ソロ、或いは群読の形で、この地を舞台にしたさまざまな光太郎詩を朗読。「雪白く積めり」「案内」「メトロポオル」「岩手の人」などなど。
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さらに、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長の横笛を伴奏に、旧山口小学校校歌斉唱。光太郎の作詞ではありませんが、光太郎や草野心平による指導の元に作られたとのこと。

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泉下の光太郎も喜んだことでしょう。


20分ほどで終わり、再び記念館へ。

明日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の展示パネルが業者さんから届いたところで、拝見しました。

上部の画像は、当方手持ちの古絵葉書からスキャンしたもの。光太郎が足繁く通った大沢温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、志戸平温泉さんなどについて、光太郎や周辺人物が書き残した文章、当方執筆の解説などが書かれています。

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それから、温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた風呂桶も展示されます。

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012「鉄砲風呂」という形式で、下から温める「五右衛門風呂」とは違い、桶の中に直接入れられた金属製の筒の中で薪を燃やして湯を沸かす方式です。村人や宮沢家の厚意で、光太郎に贈られました。

桶を作ってくれた大工さんに贈った「木竹諧和」と書かれた書が残っています。「諧和」は「調和」の類義語で、大工さんに贈るにはもってこいの言葉ですね。

しかし、この風呂を沸かすには大量の薪が必要で、ほとんど光太郎は使わないまま、近くの開拓地に入植した青年にあげてしまったそうです。光太郎の没後、おそらくその青年の元から再び戻され、かつては高村光太郎記念館の前身だった歴史民俗資料館に展示されていました。最後の画像にある貼り紙的な説明は、その当時のものです。

一見すると、身長180センチ以上あった大男の光太郎には小さいかな、という感じでした。そのわりに薪が大量に必要となると、たしかに不経済ですね。

その代わりに、光太郎は足繁く温泉に通ったようです。


最後に、受付兼売店で、CDを購入しました。花巻町で結成された児童劇団「花巻賢治子供の会」主宰の照井謹二郎・登久子夫妻のお嬢さんで、ご自身も「花巻賢治子供の会」で演じられていた谷口秀子さんの朗読CD「思い出の高村光太郎先生」。

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2枚組で、光太郎の詩、随筆、日記が収められています。帰ってきて拝聴しましたが、温かみのある朗読でした。

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。やがて谷口さんは東京の大学に進学、時を同じくして光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京し、交流がつづいたとのこと。

そのあたりの思い出が、昨年、当方が監修、一部執筆し、記念館さんで刊行した『光太郎 Kotaro Takamura』に掲載されています。

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また、CDに付いている小冊子にも同様の小文、さらにお母様の登久子さんの回想、光太郎からの書簡、贈られた書、写真などがてんこ盛りで、貴重な資料です。

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013CD自体は平成25年(2013)の発売で、当時の『岩手日報』さんで紹介されており、入手したいと思いつつ果たせなかったものでした。おそらく『光太郎 Kotaro Takamura』刊行の関係で、記念館さんに入荷されたのだと思われます。ラッキーでした。

ちなみにCDを入れていただいた袋がこちら。

光太郎智恵子とおぼしきかわいらしいイラストが入っています。記念館さんも様々なところでご努力されています。

花巻高村光太郎記念館、企画展「光太郎と花巻の湯」。明日からです。常設展示も充実しています。ぜひ足をお運び下さい。

明日は岩手レポート盛岡編をお届けします。


【折々のことば・光太郎】

法をおきかせください、 自分を辱めずに餓死せぬ法を、 あさましい律(おきて)に服せずに生きられる法を。

詩「花下仙人に遇ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

この頃の光太郎、彫刻や詩が徐々に世の中に認められて来てはいましたが、相変わらずの生活不如意。時には生きて行くために、意に沿わない仕事も引き受けざるを得ませんでした。そういうことをせずに生きていける方法を、夢幻の中で出会った仙人に問うているというシチュエーションです。結局は、そんなことが出来ようはずもなかったのですが……。

昨日から岩手に行っておりました。現在、帰りの東北新幹線🚄の車中です。
昨日は、岩手に着いてからレンタカーで動き、北上市内、その後、旧太田村の高村光太郎記念館さんにお邪魔し、盛岡に宿泊しました。

高村光太郎記念館さんでは、14日の金曜日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の準備状況や、最近、関係各所から見つかったさまざまな資料を拝見。

さらに、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台が新たに整備されたため、地元の皆様への、お披露目。

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今日は盛岡で、盛岡地区更正保護女性の会さんの総会にお招きいただき、講演を行って参りました。

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詳しくは、明日以降、レポート致します。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

0014月2日の第61回連翹忌が近づいて参りました。

当方が編集・発行している冊子『光太郎資料』、年2回のうち、1回は連翹忌にあわせて発行しています(もう1回は半年後の智恵子忌日・レモンの日に合わせています)。

元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、当方、5年前にその名跡を譲り受けました。

というわけで、第47集、頼んでおいた印刷が完了し、印刷屋さんから受け取って参りました。印刷のみ印刷屋さんにお願いし、ページ順に並び替える丁合という作業、その後のホチキス留めはすべて手作業でやっております(そこまで頼むと料金がさらにかかりますので)。

当方編集に移行してから11冊目の発行となりました。毎号ほぼ同一の章立てで、後世に残すべき光太郎関連の文字資料を様々な角度から載せております。

今回は

光太郎遺珠から 第11回 詩人として(四) 戦後・晩年
 ・昭和21年(1946) 松本政治宛書簡
 ・同24年(1949) 肥後道子宛書簡
 ・同25年(1950) 池田克己宛書簡 2通
 ・同 三宅正太郎宛書簡 2通
 ・同26年(1951) 雑纂「賞を受けて」
 ・同 川路柳虹宛書簡
 ・同27年(1952) 雑纂「“詩だけはやめぬ”」

筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類をテーマ、時期別にまとめています。

ちなみに上記にお名前のある肥後道子さん、その後ご結婚なさって姓が変わりましたが、十数年ぶりに今年の連翹忌にご参加くださるそうです。この書簡の思い出を語っていただこうと思っております。


光太郎回想・訪問記   白い手の記憶―高村光太郎の思い出― 堀口大学 / 『パアゴラ』より 斎藤玉男

光太郎と同時代の人々が残した光太郎回想も貴重な記録ですので、それらの集成も図っています。今回は詩人の堀口大学と、智恵子の主治医だったゼームス坂病院長・斎藤玉男のもの。それぞれに、これまでこの世界で知られていなかった(と思われる)新事実が語られています。

堀口に関しては、海外生活が長かった堀口が、ロダン関係の文献、逐次刊行物等を日本の光太郎に送っていたということなど。斎藤に関しては、智恵子の診察を引き受けるに至った経緯など。ただ、当人の述懐ですので、鵜呑みにするのも危険ですが。


光雲談話筆記集成 「因縁に感謝」 『仰高』より

光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子から。


昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十一回 花巻電鉄 (岩手)

光太郎ゆかりの地の古絵葉書が少なからず手に入っており、それらの地と光太郎智恵子らの縁を綴っています。今回は、光太郎もよく利用した花巻電鉄を扱いました。

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音楽・レコードに見る光太郎   「新穀感謝の歌」(その三)

昭和16年(1941)、信時潔の作曲で歌曲となった光太郎作詞の「新穀感謝の歌」に関して。歌曲以外にも二世観世喜之節附による謡曲も作られ、同年と翌年に、財団法人日本文化中央聯盟主催の「新穀感謝祭奉献能の会」で演じられたことなどを書きました。

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光太郎詩に曲が附けられた音楽作品は少なからず存在しますが、それらの作曲の経緯、演奏の実態など、従前の研究ではほとんど手がつけられていません。このあたりもライフワークとしていくつもりでおります。


高村光太郎初出索引(十一)

発表された光太郎の文筆作品、装幀・挿画などの作品を、掲載誌の題名50音順に表にまとめています。


B5判、全50ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(連翹忌ご参加の場合は、4月発行分は進呈)。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
詩「鯰」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

木彫の代表作の一つ、「鯰」に関する詩です。下の画像は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

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昨日ご紹介した詩「金」では、粘土の凍結を防ぐため「夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。」としていた光太郎ですが、その石炭も無くなると、では、木彫なら、ということでしょうか。これも危険な考えですね……。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第61回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて002

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

昨日、初日の出を見に九十九里浜に行って参りました。

南北に長い九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝海岸、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた地。当方自宅兼事務所のある香取市から1時間ちょっとのところですが、生活圏ではありません。

一昨年も行きましたが、天気が悪くて見えませんでした。昨年は、今年もダメだったら嫌だな、と思い、自宅近くで済ませてしまいました。

今年は天気予報で大丈夫、と言っていたので、それを信用しました。しかし、移動中のまだ暗いうち、2~3回、雷がピカッと光っていて、「えー、大丈夫かよ?」という感じでした。

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さらに今年は、愛犬を連れて行きました。正確な誕生日が不明で、とりあえず1月1日を誕生日に設定しており、昨日で13歳になった老犬ですが、まだまだ元気ですし、食欲も旺盛です。なぜかこいつは車に乗るのが大好き。乗ったら乗ったで、後部座席でおとなしく座っていて、暴れたりはしません。

さて、片貝海岸。心配していた雷雲は、かなり沖の方だったようでした。しかし、この季節は西高東低の冬型の気圧配置なので、水平線上に雲がかかっていないということはほぼありません。それでもそれほど高い位置まではかかっておらず、まずまずの観測条件でした。

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そして7時頃、雲の上から太陽が顔を覗かせました。

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見にいらした方がかなり集まっていて、歓声や拍手があちこちで沸き上がりました。

それを尻目に、愛犬と共にダッシュ。海岸から少し戻って、昭和36年(1961)に建立された「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑へ。

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慌てて撮って、撮ったあとに確認しなかったので、ピンボケになってしまいました(涙)。

さらに車に乗り、東金九十九里道路の今泉PAへ。こちらには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。

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こちらでは、わりといい写真が撮れたように思えます。

今日は一転して曇りで、今日だったら日の出は見えなかったでしょう。何だか今年一年も、いいことがありそうな、そんな気がいたしました。本当にそうであってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

『君は世に何を欲りして、かく遠き海のあなたにおはするや』

詩「秒刻」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

「欲り」は「ほり」と読み、「欲りす」で「欲(ほっ)する」とほぼ同義です。「海のあなた」は留学で滞在していたニューヨークです。光太郎、ほぼその生涯を通してこのような自問自答を繰り返し、より良き「道」を求める「求道者」でした。

というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。

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【折々のことば・光太郎】

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
詩「道程」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

昨年は、【折々の歌と句・光太郎】ということで、366日間(閏年でしたので)、一日一首、または一句、光太郎作の短歌、俳句などをご紹介して参りました。有り体にいえば、かつて大岡信氏が『朝日新聞』さんに連載なさっていた「折々のうた」のパクリでした(笑)。

数的には、もう一年間続けられるだけの、まだご紹介していない光太郎短歌や俳句が存在しますが、残念ながら取り立てて紹介すべき秀作ばかりではありません。光太郎といえど、駄作や意味不明の作もあります(笑)。

そこで、今年は趣向を変えまして、【折々のことば・光太郎】。これも現在『朝日新聞』さんに連載されている鷲田清一氏の「折々のことば」のパクリですが(笑)、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参ります。おおむね『高村光太郎全集』の掲載順に、一つの作品から一つずつ言葉を拾おうと思っております。そこで、「折々」と言いつつ、あまり時節に関係なくなるでしょう。

昨年の【折々の歌と句・光太郎】は、その点が厄介でした(時折、季節外れのものを紹介いたしましたが)。

さて、記念すべき第1回は、もっとも有名と思われる光太郎の言葉から。この気概で、当方もやっていこうと思っております。

いよいよ大晦日となりました。3日前からこのブログで書き続けている今年1年間の光太郎関連回顧も、最終回となります。

11月1日(火) 産経新聞出版社さんから、手島𣳾六氏著『日本の書』が刊行されました。平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化で、光太郎の項もありました。

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11月3日(木) 『智恵子飛ぶ』などのご著書がある作家の津村節子さんに今年度の文化功労者授賞がありました。

11月3日(木)~6日(日) 豊島区の切手の博物館さんで、、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されました。

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11月6日(日)~14日(月) 文京区の文京シビックセンターで、平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人が開催されました。

11月7日(月) NHKラジオ第二で、カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」がオンエアされ、昭和27年(1952)の、光太郎と真壁仁の対談が放送されました。14日(月)に再放送がありました。

11月9日(水)~17(木) 福岡市総合図書館映像ホールシネラにおいて、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

11月13日(日) 福島県いわき市の草野心平生家で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」が開催され、当方が卓話(講話)をさせていただきました。同日、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、花巻市の高村光太郎記念館さんでの企画展高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」に触れて下さいました。

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11月15日(火)~1/19(木) 静岡県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで」。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示、現在も開催中です。

11月19日(土) 文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会が開催されました。発表は高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関して、さらに当方の「高村光太郎と草野心平 魂の交流」でした。

11月19日(土)~1/15(日) 和歌山県立近代美術館さんで、動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」。現在も開催中で、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

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11月19日(土)~2月12日(日) 京都の清水三年坂美術館さんで、特別展「うた詠むこころ The Composing Mind」。光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。

11月22日(火) みすず書房さんから酒井忠康氏著『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行されました。「高村光太郎と土方定一」の項が設けられました。

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11月28日(月) 光雲が彫刻を手がけた横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が修復を終え、JRAエクセル伊勢佐木さんで披露されました。

12月3日(土)~2月19日(日) 花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで、「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」が開催中。光太郎ポートレートが並んでいます。

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12月10日(土)~3/5(日) 台湾・台北の故宮南院で、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」が開催中です。光雲の「老猿」が出展されています。

12月10日(土) 東京学芸大学さんで開催された「昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会」が開催され、アギー・エヴァマリア氏による研究発表「「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――」がありました。

12月14日(水) 汐留ベヒシュタイン・サロンさんで、朗読系イベント「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」が開催され、宮尾壽里子さん作「智恵子さん」が上演されました。

12月29日(木) ATV青森テレビさんで、特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」が放映されました。


……とまぁ、今年も実に色々なことがありました。まがりなりにも、光太郎・智恵子・光雲の芸術世界が世の中に受け入れられ続けている証左と思われ、ありがたいことだと考えます。こうした状況がいつまでも続くように、今後も努めて参りたいと存じます。

最後に、会としての寄付。

皆様から戴いた郵便物に貼られていた使用済み切手を、例年通り公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。

また、このブログの閲覧数が多いと、Tポイントが加算されるシステムになっています。貯まったポイントを、4月の「熊本地震災害緊急支援募金」、それから先日の「「糸魚川市駅北大火」緊急支援募金」に回させていただきました。今後もこうした活動も続けたいと思いますので、ご協力よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

おほうみのしほのやうにもさいはひはそらのはてよりながれくるかな
制作年不詳

来年も、皆様に「さいはひ(幸い)」が訪れることを念じつつ、このコーナーを終わります。

今日は、8月から10月の光太郎関連の動きを振り返りますが、やはり7月で書き落としていましたので、そちらから。

7月(日付不明) 花巻高村光太郎記念館さんから、『光太郎 1883―1956』が刊行されました。同館展示品などの写真集です。

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8月1日(月) 文京区のケーブルテレビ区民チャンネルさんで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎」の後編が初放映されました。

同日、岩手日日新聞社さんから、観光PR誌『岩手大陸』第3号が発行され、花巻高村光太郎記念館さんが大きく紹介されました。

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8月2日(火) コールサック社さんから、曽我貢誠氏他編『少年少女に希望を届ける詩集』が発行されました。光太郎詩「道程」「冬が来た」も収められています。

8月9日(火) 宮城県女川町のフューチャーセンターcamassを会場に、「第25回女川光太郎祭」が開催されました。当方の記念講演に始まり、地元や遠方の皆さんによる詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話などが行われました。

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8月10日(水) 講談社文芸文庫の一冊として、室生犀星著『我が愛する詩人の伝記』が復刊されました。光太郎アトリエ訪問記も掲載されています。

8月10日(水)~28日(日) 埼玉東松山市立図書館で、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」が開催されました。21日(日)には、田口弘氏によるご講演もありました。

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8月11日(木)~9月11日(日) 美術館「えき」KYOTOにおいて、「世界の巨匠たちが子どもだったころ」展が開催され、光太郎の姉・さく(咲子)の日本画が展示されました。

8月14日(日) 『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、終戦記念日にからめ、光太郎に触れて下さいました。

8月17日(水) 日本ヴォーグ社さん刊行の雑誌『手づくり手帖』第10号に載った、色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられました。

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8月20日(土)~28(日) 花巻市の宮沢賢治記念館で、「「雨ニモマケズ」展」が開催され、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の碑文の書が展示されました。

8月28日(日)~9月2日(金) 千代田区の神保町シアターで、「一周忌追悼企画  伝説の女優・原節子」の一環として、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

9月10日(土)~10月23日(日) 石川県立美術館にて企画展「近代美術の至宝 明治・大正・昭和の巨匠」が開催され、光太郎のブロンズ「手」が出品されました。

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9月11日(日) 福島市子どもの夢を育む施設こむこむ館で、「アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~」が開かれ、「智恵子抄」が取り上げられました。

9月16日(金) 茨城県守谷市の茶房かやの木で、「おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」が開催、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。

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9月17日(土) 岡山県赤磐市中央公民館で、「第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」」が、三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)を講師に開催されました。

9月17日(土)~10月10日(月) 津市の三重県総合博物館において、「新 津市誕生10周年特別展覧会「過去から未来へ~津のあゆみ~」展が開かれ、光雲作の木彫「魚籃観音立像」が出品されました。

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9月17日(土)~11月6日(日) 東京ステーションギャラリーさんで、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 ―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開催され、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されました。

9月18日(日) 福島二本松の智恵子生家近くで、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子純愛通り記念碑第8回建立祭 坂本富江さんの絵で語る智恵子の生涯」が開催されました。

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9月21日(水) 花巻市の宮沢賢治詩碑前広場に於いて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催され、「宮沢賢治と高村光太郎」の題で、当方が講話をさせていただきました。

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9月22日(木)~12月25日(日) 静岡県三島市の大岡信ことば館さんで開催の「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」で、光太郎から谷川氏に宛てられた昭和29年(1954)の葉書が展示されました。

9月24日(土) 福島二本松の安達文化ホールで、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」が実施されました。

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同日、いわき市のいわき芸術文化交流館「アリオス」では、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター (FURE)さん主催の「シンポジウム in いわき ほんとの空が戻る日まで~ふくしま浜通り地方の復興・再生~」が開催されました。

さらに同日、銀座CHEEPA'S CAFEで、テルミン奏者大西ようこさん他による「ぷらイム in チーパズカフェ 2 ~ アトムも来るよ! ~」公演があり、初代鉄腕アトムの声を演じられた清水マリさんによる「智恵子抄」朗読もプログラムに入りました。

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9月25日(日) 『読売新聞』さんの土曜版の連載「名言巡礼」で、岡山赤磐出身の詩人にして光太郎と交流の深かった永瀬清子が取り上げられ、光太郎との関わりについても言及されました。

9月26日(月) 品川郷土の会会長を務められ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院跡の「レモン哀歌」詩碑建立に尽力された、土屋恒行氏が亡くなりました。

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10月1日(土) 株式会社アールビーズさん発行のランニング愛好家向け雑誌『ランナーズ』10月号、「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」という記事で、「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」にふれられました。

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同日、青森県十和田市の『広報とわだ』では、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」を組み、光太郎に言及しました。

さらに同日、荒川区のムーヴ町屋で、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」が、森山孝光氏(Br)、森山康子氏(pf)で演奏されました。

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10月2日(日)~11月27日(日) 二本松市の歴史民俗資料館及び智恵子記念館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が開催されました。関連行事的に、2日(日)には高村光太郎研究会員・大島裕子氏による「記念講演会  『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―」、さらに智恵子を偲ぶ第22回レモン忌も開催されました。

同日、郡山市の市民文化センターで、市制施行90周年・合併50年を記念して同市出身の湯浅譲二氏が作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が初演されました。

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さらに同日から11月1日(火)にかけ、鎌倉市のギャラリー笛さんにおいて、展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」が行われました。

10月5日(水) 二本松市智恵子の生家に於いて、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -。」の一環として、画家・小松美羽さん、詩人・和合亮一氏のコラボによるアクションペインティングと朗読が行われました。

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10月10日(月) 二本松市市民交流センターにおいて、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'16」が始まりました。昨年からのカウントで、第5回が「セザンヌとポスト印象派」、講師は後藤學氏 (喜多方美術館館長)でした。第6回は11月20日(日)、宮川菊佳氏 (ギタリスト)で、「美の同志 高村光太郎~クラシックのギターと共に~」。第7回の「平塚らいてうと青鞜社」(福島大学名誉教授・澤正宏氏)/第8回 「参加者による高村智恵子を語るつどい」(12月18日(日))で終わりました。

10月10日(月)~11月23日(水) 二本松市霞ヶ城公園に於いて、「第62回 菊の祭典 二本松の菊人形」が開催され、光太郎智恵子の人形も展示されました。

10月15日(土) 麗人社さん発行の雑誌『美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol39 岩手県特集』で、「彫刻家・高村 光太郎」10㌻が掲載されました。

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10月20日(木) 響林社さんからwisさんの朗読によるCD、<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 ― 十七編抜粋 ―」がリリースされました。

10月23日(日) 俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。また、平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

10月25日(火)~2017年2月13日(月) 盛岡市の盛岡てがみ館さんで、第51回企画展「文豪たちの原稿展」。現在も開催中、光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」他が展示されています。

10月26日(水)~12月4日(日) 堺市博物館さん他3会場で、「河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」」が開催され、光雲木彫「釈迦牟尼仏」が出品されました。

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10月30日(日) 集英社さんから、原田マハさん著『リーチ先生』が刊行されました。光太郎の親友だった陶芸家、バーナード・リーチを描く小説で、光太郎、光雲、豊周も登場し、活躍します。

明日は、残る11・12月を振り返ります。


【折々の歌と句・光太郎】

吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
昭和24年(1949) 光太郎67歳

個人的に、光太郎短歌・俳句等の中で、最も好きな作品です。晩年となり、「行雲流水」の境地に達し、しかし、流されるのではなく、あくまで求道者たらんとするその姿勢。ここに光太郎の真骨頂があるように思われます。

昨日に引き続き、今年一年の回顧を……と、その前に、後ろを振り返ってばかりもいられません、未来の話を(笑)。

テレビ放映情報です。

のんびりゆったり路線バスの旅スペシャル▽拡大版!ちょっといい景色へ 徳島・福島

NHK総合 2016年12月30日(金)  8時20分~9時34分

大河ドラマ「真田丸」のお局役で話題となった峯村リエさんと、バス旅の常連となった野間口徹さんが東北・福島を!鈴木砂羽さんと浅利陽介さんが四国・徳島を路線バスで巡りました。今回は、その拡大版を放送します!旅のテーマは「ちょっといい景色」。今回は、男性が女性をエスコートして、オススメの景色に案内します。なんと、福島から富士山が見える!?徳島が誇るドキドキの景色とは?そしてゴールで見る感動の景色とは?

出演 鈴木砂羽,浅利陽介,野間口徹,峯村リエ,
語り 高木渉,島本須美

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今月15日の夜、「拡大版」ではない放映があり、その際は当方、用事があって出かけており、愛車を運転中で、カーナビのテレビで流れていました。

「おー、福島かぁ」と思ったら、何と智恵子の故郷二本松。慌てて車を駐めました。その際にスマホでナビ画面を撮影。

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秋の菊人形期間中にロケが行われていて、智恵子人形がばっちり写りました。

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帰ってからネットで調べてみると、番組紹介の欄に「二本松」の文字がなかったので、放映前に気付かなかったと判明しました。当然録画もしておらず、「再放送してくれないかな」と思っていたところ、再放送ではありませんが、「拡大版」の放映があり、ラッキーでした。

さらに、光太郎と縁の深かった草野心平ゆかりの地・川内村も訪れたとのことでした。

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今度はしっかり録画しようと思っております。

それにしても旅人の峯村リエさん、大河ドラマ「真田丸」での大蔵卿局のイメージしかなく、かなりのお歳なのかと思っていました。しかし、失礼ながらこの放映を見ると、かわいらしい感じで、意外でしたが、それもそのはず、実は当方と同い年でした(笑)。

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それはさておき、もう1件。 

ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編・後編)

東京MXテレビ 2017年1月1日(日)  9時30分~10時00分

区内の史跡や名所、ゆかりの人物などについて紹介する歴史番組です。


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ぶんきょう浪漫紀行」。もともと、文京区さんで、区内対象のケーブルテレビの番組として制作され、今年7月(前編)と8月(後編)に初回放映がありました。当会顧問・北川太一先生や、現在の髙村家当主・達氏とお姉様の朋美様などのご出演です。

それが地上波・東京MXテレビさんで放映されます。都内及び隣接県の一部でしか視聴できませんが、該当地域の方、ぜひご覧下さい。


さて、今度こそ、昨日に引き続き、今年一年の回顧を。今日は5月~7月ですが、昨日の分に抜けがあり、その増補から。

4月15日(金) 株式会社ビューティービジネスさんの美容専門雑誌『PROFESSIONAL TOKYO』95号「智恵子抄」が発行されました。同日、ナカニシヤ出版さん刊行の藤田尚志・宮野真生子編『愛・性・家族の哲学① 愛 結婚は愛のあかし?』で、『智恵子抄』にふれてくださいました。

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4月15日(金)~10月13日(木) 岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで、「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」が開催され、光太郎に関わる資料も多数展示されました。

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5月8日(日) 中央区の第一生命ホールにて、合唱団CANTUS ANIMAEさんの第20回定期演奏会があり、安藤寛子さん作曲の「智恵子の手紙」 が委嘱初演されました。

5月12日(木)~6月9日(木) 文京区のアカデミー文京で、生涯学習講座「智恵子はるか―高村光太郎・その愛と美―」全6回が、早稲田大学名誉教授・榎本 隆司氏を講師に開催されました。

5月14日(土) 岩手花巻で高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が行われ、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした佐藤隆房邸の公開などが行われました。

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同日、愛知小牧のメナード美術館さんで、「版画と彫刻コレクション 表現×個性」が開幕しました。7月10日(日)迄の会期で、光太郎の木彫「栄螺」と「鯰」が展示されました。

5月15日(日) 岩手花巻郊外の高村山荘敷地で、第59回高村祭が開催されました。記念講演は、光太郎の従妹のご子息、加藤千晴氏でした。

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同日、福岡県筑後市のサザンクス筑後を会場に、「ぱふぉーまんす集団センゲキ第16回公演「ELEGANCE FIGHT~元始、女性は太陽であった~」の公演がありました。河口智美さんという方が智恵子役を演じられました。

5月20日(金)~22日(日) 福島二本松の智恵子の生家で、「高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子生誕祭 琴の調べ」が開催され、地元愛好家による琴の演奏が披露されました。

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5月21日(土)~27(金) 北九州市小倉北区の小倉昭和館さんで行われた「名画をフィルムで ~原節子特集~」の一環として、昭和32年(1957)制作の東宝映画「智恵子抄」(原節子さん主演)の上映がありました。

5月22日(火) NHKラジオ深夜便の公開収録「公開復興サポート 明日へ」が福島郡山で行われ、「智恵子抄」の朗読がなされました。オンエアは5月30日(月)でした。

5月26日(木) コールサック社さんから佐藤竜一氏著『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』。が刊行されました。平成6年(1994)に日本地域社会研究所さんから刊行された『黄瀛―その詩と数奇な生涯』の増補改訂版です。

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6月4日(土) 横浜市戸塚区のSala MASAKAで、ピアニスト荒野愛子さんらによる「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」があり、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」が演奏されました。

同日、岩手盛岡の姫神ホール(盛岡市渋民公民館)に、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が挙行され、渡辺えりさんによる記念講演「わたしと啄木・賢治・光太郎」がありました。その後、渡辺さんから花巻高村光太郎記念館さんに、光太郎が渡辺さんのお父様に宛てた書簡等が贈呈されました。

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6月2日(木) 『読売新聞』さんに「タイムトラベル 高村智恵子記念詩碑 夫婦愛を刻む「レモン哀歌」という記事が掲載されました。

6月18日(土)~8月7日(日) 北海道立函館美術館さんで、「開館30周年特別展 画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく Poetry of the painter,Paintings of the poet」が開催されました。昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに始まり、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さん、足利市立美術館さんと巡回した展覧会で、こちらが最終開催地でした。

6月24日(金) 生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、同市に光太郎から贈られた書や書簡など約100点を寄贈なさいました。

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7月1日(金) 名古屋市瑞穂文化小劇場で「2016年度 国際芸術連盟作曲賞&音楽賞 受賞記念コンサート」が開かれ、野村朗氏作曲の連作歌曲「智恵子抄」が、バリトン:森山孝光氏、ピアノ:森山康子氏によって演奏されました。

7月11日(月) 上にも書きましたが、文京区のケーブルテレビで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編)」の初回放映がありました。

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7月13日(水) 盛岡少年刑務所で、「第39回高村光太郎祭」が開催され、受刑者による光太郎詩の群読、当方の講演などが行われました。

同日、『朝日新聞』さんの「各駅停話」というコラムが「新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏」でした。

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7月15日(金)~11月23日(水) 高村光太郎記念館さんで、「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」が開催され、智恵子紙絵の実物の展示が行われました。

7月16日(土)~9月19日(月) 群馬県立館林美術館さんで、「再発見!ニッポンの立体」展が開催されました。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示されました。

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7月16日(土)~18日(月) 青森十和田湖畔で、「十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり」が開催され、例年通り「乙女の像」のライトアップが為されました。

7月17日(日) 福井県鯖江市文化の館で、朗読イベント「復刻智恵子抄」が開催されました。同日、福島安達太良山頂で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子抄」朗読会も行われました。

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7月20日(水) 彩流社さんから北野麦酒氏著『永遠なれ! レトロスペース・坂会館』が刊行されました。第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。

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7月23日(土)~8月28日(日) 信州安曇野碌山美術館さんで「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催されました。8月7日(日)には関連行事として当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」が行われました。

7月25日(月) JR東日本企画主催の「交通広告グランプリ2016」で、「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」という題で、光太郎詩「あどけない話」をモチーフに使った「福島県の作品が特別賞に当たる「JR東日本賞」を受賞しました。
 
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7月29日(金) 花巻高村光太郎記念館さんで、テルミン奏者・大西ようこさん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんによるロビーコンサートが行われました。こうした試みは同館初でした。


本当は8月までカバーする予定だったのですが、力尽きました(笑)。明日に回します。


【折々の歌と句・光太郎】

何となく沈みがちなる我胸をわれもえしらず年くれてゆく
明治34年(1901) 光太郎19歳

「え……ず」は「……することが出来ない」という意味です。自分の胸の内を自分でも知ることが出来ない、という煩悶の中、年が暮れて行くというわけですね。若き日にありがちな悩みだと思います。

このブログにて毎年恒例の一年間を振り返るコーナーをはじめます。

1月1日(金) 元旦早々、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」にて、光太郎・光雲に触れて下さいました。3/4(金)の同欄でも光太郎智恵子に触れて下さいました。

同日、文芸評論家の佐伯彰一氏が肺炎のため亡くなりました。『日米関係の中の文学』(昭和59年=1984 文藝春秋社)というご著書で、光太郎に触れて下さっていました。

1月4日(月) 『日本経済新聞』さんの連載コラム、「生きる命 十選 掌編の試み」で、光雲作の重要文化財「老猿」が取り上げられました。

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1月22日(金) 目黒区のライブハウス アピア40で、『智恵子抄』の朗読と音楽のコラボを含むコンサート「言葉と音の交差点」が開催されました。

1月25日(月) 池袋新文芸坐で、昭和32年(1957)公開、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

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1月31日(日) 名古屋の電気文化会館 ザ・コンサートホールで開催された「Gruppo Giglio Vol.8」で、作曲家・野村朗氏の新作、連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」が、バリトン・森山孝光氏、ピアノ・森山康子氏の演奏で初演されました。

2月5日(金)~2月28日(日) 青森県十和田湖畔休屋地区で、「光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016」が開催されました。期間中、例年通り光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされました。

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2月6日(土) 福島県二本松市の智恵子生家で昨年から実施されている、2階の智恵子の部屋限定公開が開始されました。2月、4月、5月、10月、11月の土・日・祝日に実施されました。

2月13 日(土) ~3月27 日(日) 姫路市立美術館さんで、企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催され、光太郎油彩画「日光晩秋」(大正3年=1914)、「静物」(同)、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)が展示されました。

2月15日(月) 名古屋学芸大学教授で、かつて高村光太郎談話会を主宰されていた大島龍彦氏が亡くなりました。ご著書に、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などがありました。

2月17日(水) 月刊『美術手帖』2016年3月号で、特集「超絶技巧!!宮川香山と明治工芸篇」が組まれ、光雲の項も設定されました。

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2月18日(木) 光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の息女で、ご自身も光太郎智恵子にかわいがられたという尾崎実子さんが亡くなりました。

2月24日(水) 平凡社さん刊行の雑誌『こころ vol29』、「特別企画 再録・『心』名作館」という項に、光太郎詩「人体飢餓」が収められました。

2月27日(土) 『岩手日日新聞』さんに、「光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈」という記事が載りました。昭和27年(1952)頃に、花巻郊外太田村で撮影されたと見られる光太郎も写っている写真が、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈された、という内容でした。

3月1日(火)~5月15日(日) 滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんの企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」で、神奈川横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭で街を練り歩く、光雲の手になる「火伏神輿」及び「獅子頭」が展示されました。

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3月5日(土) 愛知大学車道キャンパスコンベンションホールを会場に、国立大学法人福島大学さん、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える―」が開催されました。

3月5日(土)・3月19日(土) 葛飾区のプラネタリーアム銀河座で、「3月のプラネタリウム 智恵子抄と春空」が上映されました。

3月6日(日) 大田区民ホール・アプリコにて、朗読劇「レモン哀歌」が上演されました。

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3月15日(火) 青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」が、光太郎に触れて下さいました。

3月16日(水) 江東区深川江戸資料館において、「朗読人の四季~2016春」が開催され、杉山典子さんによる光太郎『智恵子抄』よりの朗読がありました。

3月18日(金)~7月10日(日) 鎌倉市川喜多映画記念館さんの特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」が開催され、東宝映画「智恵子抄」関連の資料の展示、さらに7/8(金)~10(日)には同作品の上映も行われました。

3月24日(木) 秋田県生涯学習センター講堂で、生涯学習講座「平成27年度あきたスマートカレッジ連携講座 支え合う文学者たち」の第3回「『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛(同人)」が、県生涯学習センター シニアコーディネーター北条常久氏を講師に行われました。

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3月25日(金) 新潮社さんから、光太郎と交流が深かった彫刻家・舟越保武のご息女・末盛千枝子さんの『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』が刊行されました。末盛さんの「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親となってつけられたそうです。同日、武蔵野美術大学さんから、昨年開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture」展(光太郎作「白文鳥」「手」が出品)の関連行事としての「国際シンポジウム The Study of Modern Japanese Sculpture」記録が刊行されました。

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3月26日(土) 千代田区の宮内庁三の丸尚蔵館で、「古典再生――作家たちの挑戦」展が開かれました。光雲作品「猿置物」「養蚕天女」が出品されました。

3月29日(火)・30日(水) 名古屋市でHITOMIホールプリズムステージ「智恵子抄~朗読と音楽が紡ぐ、純愛~」公演が行われました。

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3月29日(火)~31日(木) 東京都北区の北とぴあ カナリアホールにて、劇団東京イボンヌ第3回企画公演「コンサートと無伴奏 ~永遠の愛~」が上演されました。伊達裕子 さん、浅川荘子さんによる「【朗読】~「智恵子抄」より~ 」がプログラムに入っていました。

3月31日(木) 岩手花巻の太田地区振興会さんから、「大地麗(だいちうるわし)」が刊行されました。戦中戦後の光太郎の思い出を、地元の皆さんが記した記録集です。

4月2日(土) 第60回連翹忌を、日比谷松本楼さんで開催いたしました。同日、高村光太郎研究会から雑誌『高村光太郎研究』第37号が刊行されました。また、岩手花巻でも詩碑前祭と、花巻としての連翹忌が開催されました。

4月5日(火) NHK文化センター水戸教室の生涯学習講座「日本の詩をよむ-人と作品の魅力 ~高村光太郎と室生犀星~」が始まりました。9/6(火)までの全6回で、講師は日本文藝家協会会員  成井惠子氏でした。

4月6日(水) 昭和29年(1954)にラジオ番組「私の見たこと、聞いたこと」で、光太郎談話の聞き手を務めたラジオパーソナリティー・秋山ちえ子さんが亡くなりました。


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4月9日(土)~6月12日(日) 「画家の詩、詩人の絵 ―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく―」展が、栃木足利市立美術館さんに巡回になりました。

4月11日(月) 千葉市美浜文化ホールで、第1回「朗読と音楽の刻(とき)・虹」〜朗読とピアノとオカリナのコラボレーション〜が開催され、「智恵子抄」も取り上げられました。

4月16日(土)・17日(日) 青森県十和田市十和田湖観光交流センター「ぷらっと」及び市民交流プラザ「トワーレ」において、劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇」が上演されました。

4月17日(日) 福島二本松で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「第11回好きです智恵子青空ウォーク~桜章~」が開催されました。

4月30日(土) 言視舎さんから、福井次郎氏著『映画「高村光太郎」を提案します 映像化のための謎解き評伝
が刊行されました。

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4月(日付不明) 長野で『豊科近代美術館友の会会報』が刊行されました。幅谷啓子氏による「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事で、光太郎から在仏の高田博厚宛の外信葉書二通が初めて紹介されました。


続きはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

秩父かぜ吹いても枯れし古しきみ御墓(みはか)掃くとてひとりし泣かる
明治35年(1902) 光太郎20歳

「秩父かぜ」は「秩父颪(おろし)」ともいい、秩父山塊から埼玉や東京に吹く木枯らしです。「しきみ」は「樒」、その枝を仏前に供える木ですね。具体的な背景が不明ですが、親しかった人物の墓参を題材にしているようです。

上記で今年1月から4月までの回顧録を記載しましたが、たった4ヶ月でも関係する方々の訃報が多く、改めて残念に思いました。色即是空、諸行無常とは申しますが……。

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三陸女川にての第25回女川光太郎祭、つつがなく終わりました。

晩年の光太郎に私淑された当会顧問・北川太一先生、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である高村達氏なども駆けつけて下さいました。

今年から、震災前の会場だった、光太郎文学碑が立っていた海岸緑地公園に近い、女川駅前の「フューチャーステーション・カマス」という施設で行われました。

前座で当方の講演、地元の方、遠方よりの方などの朗読、プロの音楽家の皆さんの演奏などを通じ、光太郎の遺徳を偲びました。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

山どりの瀬戸波あらし船の上にかぶさりゆるる金華山かな

                                                                      昭和6年(1931) 光太郎49歳


昨日に引き続き、昭和6年(1931)、女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅した折に詠んだ歌です。

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今朝、愛車を駆って信州を出発し、休み休み9時間ほどかけて、三陸女川に到着しました。

テレビの報道や、映画「サンマとカタール」で拝見していましたが、駅前がきれいに整備されていて、驚きました。

明日はその駅前近くの「カマス」さんという施設で、女川光太郎祭です。台風の影響が心配ですが、このイベントの時には台風が来ることがたびたびあり、一種のジンクスです。

今日明日の宿は、以前にも泊めていただいたトレーラーハウスの宿泊施設「エル・ファロ」さん。

詳細は帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮を追ふ親潮はガスまき立てて船にせまれり

                                                             昭和6年(1931) 光太郎49歳


三陸海岸を船で北上しつつ詠んだ歌です。

今朝までは北アルプスの山懐にいたのが、今は荒波打ち寄せる三陸海岸。不思議な感覚です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半    大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】

はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け

                                                       明治34年(1904) 光太郎19歳


草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

先週、娘が迷い猫を拾ってきました。

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猫を拾ってくる娘というと、小学生くらいの女の子をイメージする方が多いかと存じますが、うちの娘は今年24になります。もっとも、中身は小学生とあまり変わらなかったりしますが(笑)。その娘も、それから妻も外で仕事をしていますので、いきおい、昼間は当方が面倒をみるしかありません。まぁ、世話といっても時折餌と猫牛乳をやるくらいで、あとはほとんどほっぽっていますが(笑)。

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光太郎智恵子も駒込林町のアトリエで、猫を飼っていました。

大正15年(1926)、雑誌『詩神』に載った光太郎の談話筆記「生活を語る」に、次の一節があります。

 家畜は犬が大変好きですがよく留守にするので飼わないのです。猫は飼つてゐたことがある。これは自活をしてゐたのです。岡田三郎助さんから黒い猫を貰つてきたので、すばらしくいゝ猫だつたのです。

岡田三郎助は洋画家。光太郎智恵子夫妻と家族ぐるみでつきあいがありました。

また、昭和26年(1951)、『高村光太郎選集』第三巻の附録に載った森田たまの回想。大正5年(1916)頃の話です。

 早春の一日、偶然町角で出会つたいまの夫を、私はふと思ひついて高村家へ連れて行つたのである。高村さんも智恵子夫人も、突然の訪問者をいぶかりもせず、あたたかくもてなして下すつた。(略)つやつやとした黒猫がゐて、それが夫の膝にのつたのを、この猫は他人の膝にのつた事はないのだと、猫に好かれた事が夫の性質の善良さを表はすやうに云つて下すつたりした。

その大正5年(1916)には、光太郎、そのものずばり「猫」という詩も書いています。翌年の雑誌『詩歌』に発表しました。

     猫006

 そんなに鼠が喰べたいか
 黒い猫のせちよ
 どんな貴婦人でも持たない様な贅沢な毛皮を着て
 一晩中
 塵とほこりの屋根裏に
 じつと息をこらしてお前は居る
 生きたものをつかまへるのが
 そんなにもうれしいか
 そんなにも止みがたいか
 ああ、此は何だ
 此は何だ
 黒い猫のせちよ
 お前はそれで美しい
 かぎりなく美しい
 だが私の心にのこる恐ろしい此は何だ


動物をモチーフにしている点、自らの荒ぶる魂を投影している点など、数年後に始まる連作詩「猛獣篇」の序曲ともいえる作品です。

「セチ」というのが高村家の猫の名前でした。奇妙な名前ですが、その由来は智恵子が岡田三郎助の妻、八千代に送った書簡で明らかになりました。大正4年(1915)10月の消印です。

きのふ田村さんが あれをつれて来て下さいました007 (2)
ほんとにきれいなのでよろこんで居ります
厚く御礼申上ます おとなしいひとですね
お宅ぢや惜しかつたでせうつて話して居ります
セチつてつけてやりました あの眼が
そんな気がしたのです セチつて星はセチの
オミクロンていふんですつてね
此度田村さんへ御出の時 どうぞお寄りに
なつて あれの様子を見てやつて下さいまし
いけないとこがあるといけませんから
きのふは少しシヨゲてましたがけふは元気に なれて
しまひました 高村から御主人にくれぐれ
よろしくつて申上ました
どうぞ 御遊びにいらして下さいまし
                御礼まで  艸々
   廿六日夕
 岡田八千代様
                   高村智恵

「田村さん」は作家の田村俊子。智恵子、岡田八千代ともども、初期『青鞜』メンバーです。

「おとなしいひとですね」って、人じゃないぞ、と突っ込みたくなります(笑)。もっとも、光太郎と縁の深かった当会の祖・草野心平は、酒に酔うと、腹を空かせた野犬を前に「犬だってニンゲンだ!」と叫んだといいますので……。この人たちの感覚はやはり違うのかも知れません(笑)。

「セチ」は星座の鯨座のラテン名「Cetus」の所有格「Ceti」から採った名前だということがわかります。「オミクロン」は鯨座を構成する星の一つだそうです。猫の眼がこの星のようだということですが、「セトゥス」や「オミクロン」では呼びにくかったのでしょう。しかし、洒落た名前の付け方ですね。うちの猫は本名「ツナ缶」、通称「ツナ」になってしまいました(笑)。ちなみに雌です。「セチ」は雄雌どちらだったのでしょうか。

「ツナ」嬢、当方がパソコンに向かって椅子に座っていると、脚から膝、さらに肩までよじ登ってきます。迷い猫だったわりに人なつこいというか甘えん坊というか……。さすがにパソコンを打つ時は邪魔ですので、別室で遊ばせていますが、原稿のチェックなど、その別室でもできる仕事の時には、かまってやりながらやっています。

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それにしても、自宅兼事務所には元々柴犬系雑種犬も一頭いて、朝夕それぞれ1時間弱の散歩もしなければならず、すっかり「いきものがかり」です(笑)。まぁ、どちらも癒してくれるのでいいのですが……。

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【折々の歌と句・光太郎】

毒物を置きて鼠にあたへむとしつつきびしき寒夜を感ず
昭和22年(1947) 光太郎65歳

「寒夜」ということで季節外れですが、ご容赦を。

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での作です。光太郎、7年間の山小屋生活は、ずっと鼠との共同生活でした。毒を食べた鼠が井戸に落ちて死んでいたなどということもありました。そんなことから、山小屋生活の後半では、もはやあまり気にしなくもなったようです。もしかすると、黒猫の「セチ」を思い出していたかも知れません。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に、代表して香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。他にも夕方からの日比谷松本楼さんでの集まりに行く前に、墓参をされた方が複数いらっしゃいました。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

晩年の光太郎に親しく接した当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子001さん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。

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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

今日は光太郎の誕生日です。戸籍上は明日、3月14日を誕生日としていますが、家族も光太郎自身も、13日を誕生日と認識していました。

存命であれば、満で言うと133歳。ただ、この時代の人はまだ数え年で数えていましたので、このブログでも光太郎の年令は数え年で表記しています。児童生徒の「1年生」「2年生」のように、出生の時点で「生まれて1年目だから1歳」と数える方式です。学校に「0年生」がいないのと同じで、「0歳」というのは存在しません。

閑話休題。

昨日は、当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市と隣接している旭市に行っておりました。用件自体は光太郎がらみではなく、趣味で取り組んでいる音楽関係の用事でしたが、それが終わった後で、光太郎にからめました。

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旭市の東端に「刑部岬」というところがあります。北の銚子から連なる屏風ヶ浦と、南の九十九里浜との境界で、飯岡灯台も設置されています。

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さらに「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜」という施設があります。

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展望館という名の通り、ここに上がると眺望が開けます。

南に目をやると、弧を描く九十九里浜。

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その中央やや南寄りのあたりが、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた片貝(現・九十九里町)

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ちなみによく晴れた日には、ここから富士山も望めます。

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ただ、当方、ここには5~6回行きましたが、空が霞んでいる時が多く、富士山が見えたのは1度だけでした。

北に目を転じると、銚子の犬吠埼が見えます。

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大正元年(1912)、写生旅行に来ていた光太郎を追って智恵子も来、愛を確かめた場所です。光太郎にはこの年発表された「犬吠の太郎」という詩もあります。

というわけで、今日誕生日を迎える光太郎を偲んで参りました。

高台にある刑部岬を下りると、飯岡漁港です。展望館から漁港が一望できます。

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3.11翌日ということもあり、そちらにも足を運んでみました。

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昨日も書きましたが、この辺りは東日本大震災で津波が押し寄せ、尊い命が奪われています。3.11当日の一昨日は、旭市で県と市による合同慰霊祭が行われました。5年が立ちましたが、ひん曲がった杭などにまだ傷跡が残っています。

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さらに南下すると、九十九里浜に出られます。

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5年前のあの日、この海が牙を剝いたのです。ここ飯岡で亡くなった方々、そしてやはり5年前のあの日、宮城県女川町で津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんを偲び、手を合わせました。下記は当時の旭市の様子。

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帰りがけ、高台の畑作地帯を通りました。たくさんの風車が回っています。

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銚子ウィンドファーム」と言って、大規模な風力発電施設です。他に耕作放棄地に設置されたソーラーパネルもかなり目に付きました。やはり、当方毎年訪れている川内村など、福島第一原発を抱える福島に思いを馳せざるを得ません。これがもっと広まれば、それで充分じゃないか、という気がします。

風力発電、太陽光発電とも、いろいろ課題はあるのでしょうが、少なくとも壊れても放射線を垂れ流すことはありません。いい加減、原子力ムラの利権に群がる人々には目を覚まして欲しいものです。

東北の被災地に光太郎智恵子ゆかりの地が多いということで、当方、復興支援の問題に非常に関心を持っておりますが、これも光太郎智恵子のもたらした縁と考え、今後も活動を続けたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

春の草ふみてあるきたや友おくりたや   昭和20年(1945) 光太郎63歳

駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、宮澤賢治の実家の招きで花巻に疎開、直後に肺炎で臥床していた折の作品です。花巻まで行き添ってくれた年若い友人・宮崎稔の帰京に際しての作と推定されます。

シチュエーションは違えど、当方も昨日、九十九里浜で、志を同じうした亡き友・貝(佐々木)廣さんを偲びました。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

アンケート000
a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。

昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

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改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も高村光太郎・智恵子、光雲の世界を広めるため、さまざまな情報をご提供して参りますので、よろしくお願いいたします。


それ以外の部分では、昨年までの3年間、毎日、【今日は何の日・光太郎】シリーズで、その日にあった光太郎智恵子、光雲関連の出来事をご紹介していました。さすがに3年間でネタが苦しくなりましたので、今年は方向性を変えます。

というわけで、早速。

【折々の歌と句・光太郎】

年ごとに年はむかへつたぐひなき今年の年のいよよまさきく
昭和22年(1947) 光太郎65歳

彫刻家、そして詩人として名高い光太郎ですが、その生涯に数多くの短歌や俳句なども残しています。そこで、かつて『朝日新聞』さんに詩人の大岡信氏が約30年連載した「折々のうた」(第1回が光太郎の短歌でした)に倣い、一日一首・句ずつ、折々の光太郎作品を取り上げていく予定です。

さて、昭和22年(1947)、光太郎は花巻郊外太田村の山小屋で、2度目の新年を迎えました。移住当初は本阿弥光悦へのリスペクトから「昭和の鷹ケ峯」を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えでしたが、山林孤棲、独居自炊の生活の中で、自らの戦争責任を省察する毎日を送るうちに、ある意味ストイックな修行僧のような暮らしへと、その意義が変容していきました。

そうした中で生まれたこの一首。「まさきく」は「真幸く」。「幸せに」の意の副詞です。



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画像は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市、利根川河畔での初日の出です。

ほんとうに今年一年が「まさきく」あってほしいものです。


作品の表記は筑摩書房『高村光太郎全集』、そこに未収のものは当方編集の「光太郎遺珠」に従い、光太郎の年令は数え年で表記いたします。

一昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は9月から12月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


9月2日(水) 名古屋市のメニコンアネックスにおいて、舞踊公演「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート1  あわい 愛~」が開催されました。10月5日(月)、「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート2  あわい 淡~」が追加公演されました。

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9月5日(土) 岐阜県関市中池公園内旧徳山村民家において、語り人あきと弦術師aokiによるユニット梅弦が「梅弦ワンマンコンサート」を開催、「智恵子抄」の朗読を行いました。
 同日、二本松市の現代詩研究会から文芸同人誌『現代詩研究 第75号』が発行されました。智恵子のまち夢くらぶ会長・熊谷健一氏の「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」が収められました。
 さらにこの日、元女優の原節子さんが老衰のため死去しました。95歳。昭和32年、東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で智恵子役を演じました。

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9月8日(火) 女優の宝生あやこさんが老衰で死去、97歳。昭和42年、松竹制作の映画『智恵子抄』で智恵子の母、長沼センを演じました。

9月12日(土) 筑波大学東京キャンパス文京校舎において、国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」が開催されました。第3部・討議で矢野千載氏(盛岡大学教授)による「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」の提言がありました。


9月13日(日) 山形市中央公民館多目的ホールにおいて、「山形大学特別プロジェクト いま、言葉を東北の灯(ともしび)に 第8回山形大学高校生朗読コンクール」が開催されました。課題は「智恵子抄」でした。
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9月18日(金)~22日(火) 福島県いわき市のワタナベ時計店特設ギャラリー「ナオ ナカムラ」において、「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会今日も きこえる」 が開催されました。共に映像作品を主とする現代アート作家で、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を、光太郎詩「あどけない話」にからめたメッセージ性溢れるものでした。

9月18日(金)~12月20日(日) 栃木県佐野市の佐野東石美術館で、「木彫の美―高村光雲と近現代の彫刻―」展が開催され、光雲木彫「牧童」「狛犬」が展示されました。

9月19日(土) 晶文社から『吉本隆明全集10[1965‐1971]』が刊行されました。春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録しています。

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9月19日(土)~11月8日(日) 神奈川県平塚市美術館に於いて企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。光太郎油彩画「静物(瓶と果物)」「渡辺湖畔の娘道子像」が展示されました。

9月19日(土)~11月29日(日) 和歌山県高野山霊宝館において、光雲作の金剛峯寺秘仏本尊薬師如来像の頭部試作品が展示されました。

9月20日(日) 二本松市智恵子の生家近くの智恵子純愛通り石碑前で、智恵子純愛通り記念碑第7回建立祭が開催されました。地元小中高生による朗読等が行われました。

9月26日(土) FTV福島テレビで「いっしょに歩こう―ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか⁉初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」が放映されました。出演、タレント・白鳥久美子さん他。智恵子生家等で撮影が行われました。10月3日、BSフジで全国放映されました。

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10月1日(木) NHK出版より『NHKテレビテキスト 趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門』が刊行されました。11月放映の同名のテレビ番組テキスト。「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×高村智恵子」が収められました。
 同日、無明舎出版から成田健著『「智恵子抄」をたどる』が刊行されました。地方紙『北鹿新聞』に連載されたものの単行本化です。
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10月2日(金) 光太郎詩に自作の曲を附けて歌うモンデンモモの東北ツアー「モンデンモモ日本を歌う!/モンデンモモ 智恵子抄を歌う!」が始まりました。2日(金)、秋田県鹿角市旧関善酒店特設ステージ、3日(土)、二本松市鐵扇屋酒蔵。これに合わせてCD「モンデンモモの智恵子抄」がリリースされました。

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10月3日(土) 『産経新聞』にコラム「日本の書〈37〉近代篇⑨高村光太郎「うつくしきものみつ」」が掲載されました。

10月4日(日) 二本松市らぽーとあだちにて、第21回レモン忌が開催されました。智恵子の里レモン会主催。特別講演は児童文学者・金田和枝さん。

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10月4日(日)~11月1日(日) 和歌山県の高野山金剛峯寺で、 金堂御本尊の秋の特別開帳が行われました。春に続き、秘仏である光雲作の薬師如来坐像の特別公開がありました。

10月9日(金) 京都外国語大学国際交流会館において、「日本ソロー学会創立50周年記念2015年度全国大会」が開催されました。記念シンポジウムで立正大学教授・齊藤昇氏「ソロー・野澤一・高村光太郎」の発表がありました。

10月9日(金)~11月10日(火) 光太郎の実妹・しづの孫にあたる山端通和夫妻が経営する鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」が開催されました。光太郎書作品、書簡等が展示されました。

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10月9日(金) 平成28年2月22日(月)迄の予定で、花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示です。

10月10日(土) 青幻社から『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』が刊行されました。平塚市美術館他で開催された同名の企画展の図録を兼ねています。

10月11日(日) 名古屋市のドルチェ・アートホールNagoyaで「作曲野村朗・フルート吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」が開催されました。

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10月12日(月) 二本松市市民交流センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」が始まりました。第1回は智恵子の里レモン会会長・渡辺秀雄氏「長沼家の家族とふるさと二本松」。

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10月14日(水) 秋田公立美術大学サテライトセンターで、公開講座【明治の彫刻と工芸性】が開催されました。光雲に触れました。講師は同大教授・志邨匠子氏でした。

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10月17日(土) 文治堂書店から、北川太一先生著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』が刊行されました。著者自選の随想集。随所で光太郎に触れています。

10月17日(土) 神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった 1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」がはじまりました。平成28年1月31日(日)まで。同館閉鎖に伴う最後の企画展で、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」、油彩画「上高地風景」が展示されました。

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10月23日(金) 講談社から清家雪子さん著の漫画『月に吠えらんねえ』第4巻が刊行されました。「第十七話 あどけない話」が収められました。

10月24日(土)~12月23日(水) 秋田県横手市の雄物川郷土資料館で、第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編~あの人はこんな字を書いていました~」が開催され、同市出身の画商・旭谷正治郎に宛てた全集等未収録の光太郎書簡が展示されました。

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10月24日(土) 平成28年3月13日(日)迄の予定で、埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館において、「生誕130年記念 斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」が始まりました。光太郎の戯画が描かれた与里書簡など、ヒユウザン会展関連の資料も多数展示されました。

10月27日(火) 平成28年2月15日(月)迄の予定で、盛岡市の盛岡てがみ館で第48回企画展「宮沢賢治を愛した人々」が開催され、同館所蔵の光太郎書簡5通が展示されました。

10月29日(木)・30日(金) 神戸アートビレッジセンター KAVCホールにおいて、舞踊「Tubular Bells」の公演が行われました。「智恵子抄」をイメージし、智恵子と彼女の幻影を対比的に描かれました。

10月29日(木)~31日(土) 世田谷区「劇」小劇場で、「J-Theater日本人作家シリーズ ドナルカ・パッカーン第一回公演2015年秋 「暗愚小伝」」が開催されました。作・平田オリザ氏。

11月2日(月) 女優の加藤治子さんが心不全のため死去しました。92歳。昭和37年、文化放送からオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を演じました。

11月3日(火) NHKEテレで、「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第五回「高村光太郎×高村智恵子」が放映されました。ナビゲーター、書家・石川九楊氏、女優・羽田美智子さん。再放送、11月5日(木)、11月10日(火)。

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11月8日( 一橋大学一橋講堂、シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-が開催されました。

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11月14日(土) 十和田市主催で、友好都市花巻を訪れる「花巻探訪ツアー」が開催され、十和田市民が花巻高村光太郎記念館、高村山荘などを訪れました。
 同日、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった画家・藤田嗣治を描いた映画「FOUJITA」が封切られました。小栗康平氏監督、オダギリジョーさん主演。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中で使用されました。

11月15日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第2回が開催されました。講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭・小島喜一氏、題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

11月17日(火)~12月20日(水) 愛知県碧南市003藤井達吉現代美術館で、企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。9月~11月の平塚市美術館に続いての巡回で、平塚で展示された2点に加え、光太郎油彩画「日光晩秋」も展示されました。

11月21日(土) 文京区アカデミー音羽で第60回高村光太郎研究会が開催されました。発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」、高村光太郎研究会員・西浦基氏「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」。

12月11日(金)~13日(日) 大阪市ABCホールに於いて、劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな―智恵子抄―」が公演されました。作・三名刺繍氏。

12月20日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第3、4回が開催されました。題はそれぞれ「松井昇と太平洋画会研究所」(講師、太平洋美術会員・坂本富江さん)、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」(講師、当方)でした。

12月24日(木) 浪曲師の国本武春さんが亡くなりました。55歳。NHK Eテレで放映中の「にほんごであそぼ」で、「うなりやベベン」として、たびたび光太郎詩に曲をつけた作品を披露なさいました。


というわけで、今年一年、実にいろいろなことがありました。いろいろな方が、いろいろな分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、ありがとうございました。

来年以降も引き続き、この世界がもっともっと広がっていくことを願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月31日

昭和39年(1964)の今日、東京宝塚劇場で開催された「第15回NHK紅白歌合戦」で、二代目コロムビア・ローズさんが「智恵子抄」(作詞・丘灯至夫、作曲・戸塚三博)を歌いました。

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二代目コロムビア・ローズさん。昭和37年に「白ばら紅ばら」でデビュー、「智恵子抄」でブレイクし、紅白歌合戦出場を果たしました。当時は紅白に出る、というのは大変なことでした。現在は米国・ロサンゼルスにお住まいで、時折日本に帰ってきてテレビ出演等をされています。

今年3月には、「コロムビア・ローズ三代そろい踏み」 ということで、中野サンプラザで開かれたコンサート「コロムビア大行進2015」で、初代、三代目のコロムビア・ローズさんと共演なさいました。

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さて、このブログ、一昨年は【今日は何の日・光太郎】、昨年は【今日は何の日・光太郎 補遺】、そして今年は【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、まる3年間、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介して参りました。

どうにもネタが見つからず、周辺人物の話になったり、日常の些細な出来事を取り上げたりもしましたが、365日×3年間=1,095件をご紹介する事ができました。

さすがにこれ以上は無理です。来年以降は別の方向性で行きますので、お楽しみに。

昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は5月から8月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

5月6日(水) 大田区のライブハウス・風に吹かれてに於いて、シンガーソングライター潮見佳世乃さん演奏の「歌物語コンサート 智恵子抄」が開催されました。

5月15日(金) 岩手花巻の高村山荘敷地で第58回高村祭が開催されました。特別講演は当方の「高村光太郎と花巻・山口」でした。

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同日、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(前期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示でした。9月28日(月)まで。

また、花巻高村光太郎記念会より佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』が復刻されました。元版は昭和37年(1962)でした。

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やはり同日、日本古書通信社から月刊で発行されている『日本古書通信』第1030号で、廣畑研二氏「幻の詩誌『南方詩人』」の連載が始まりました。鹿児島の詩誌『南方詩人』に関しての調査で、これまで知られていなかった光太郎の翻訳等が掲載されていたことが報じられました。8月15日発行の第1033号まで連載されました。

5月17日(日) 仙台市Jazz Me Blues Nolaにおいて、「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」」の公演が行われました。ヴァイオリン・佐藤実治氏、朗読・荒井真澄さんでした。

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5月25日(月) 幻戯書房から奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』が刊行されました。「パンの会」会場にもなったメイゾン鴻乃巣店主・奥田駒蔵評伝。随所で光太郎に触れています。

5月25日(月)~8月16日(日) 武蔵野美術大学美術館に於いて「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が開催されました。1月~4月、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにて開催されたものの日本巡回。日本展では、木彫「白文鳥」、東京国立近代美術館及び台東区朝倉彫塑館所蔵の、二種類のブロンズ彫刻「手」(ともに光太郎自身が台座を木彫で制作したもの)が展示されました。ブロンズ部分を取り外して撮影された珍しい写真を含む図録が刊行されました。

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5月27日(水)~31日(日) 千葉県流山市の生涯学習センターで「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」が開催されました。「参考借用陳列敬仰作品」に、明治末と推定できる光太郎の未知の短歌が記された短冊(神田玉川堂さんの所蔵)が出品されました。

5月31日(日) NHKEテレで「日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道」が放映されました。再放送、6月7日(日)。

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6月6日(土) 福島二本松市の智恵子生家で、智恵子の部屋を含む通常非公開の2階部分限定公開が始まりました。8月23日(日)まで、10・11月と平成28年2月の土日祝日に実施されました。

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6月9日(火) 静岡沼津の地方紙『沼津朝日』に「沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す」という記事が掲載されました。坂本富江さんによる沼津での大正年間の智恵子足跡調査を報じています。

6月16日(火) 『朝日新聞』の東北版に「戦争協力、自ら罰した光太郎」と題する記事が掲載されました。同紙北上支局長・石井力氏の執筆でした。

6月17日(水)~21日(日) 東京芸術劇場ギャラリー1に於いて、「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」が開催されました。東京精神科病院協会主催。智恵子の紙絵(複製)、書簡類などの関連資料が展示されました。図録には北川太一先生の「智恵子の場合」が収められました。

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7月1日(水) 青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』に「特集 十和田湖再発見」が組まれ、「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」について詳しく紹介されました。

7月7日(火) 虹の会より文芸同人誌『虹』第6号が刊行されました。豊岡史朗氏「〈高村光太郎論〉晩年」が収められました。

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7月26日(日) 仙台に本社を置く東北の地方紙『河北新報』に「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事が掲載されました。

7月29日(水) 十和田湖畔の観光交流センターぷらっとにおいて、「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」が開催されました。十和田市と花巻市が友好都市交流を行っている縁で、光太郎が戦後の七年間を暮らした旧太田村の太田地区振興会が十和田湖を訪問、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなどがこれを迎えました。

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7月30日(木) 晶文社から、森まゆみ氏著『「谷根千」地図で時間旅行』が刊行されました。古地図や絵図などを読み解くことで、光太郎ら千駄木周辺で生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトでした。
 同日、文芸同人誌『青い花』第四次81号が発行されました。宮尾壽里子氏「「第59回連翹忌」に参加して」を収めています。

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8月3日(月) BSフジで「発掘!歴史に秘めた恋物語〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されました。ゲストコメンテーターは、詩人・郷原宏氏、女優・石田えりさん。北川太一先生、智恵子の里レモン会副会長・根本豊徳氏らがビデオ出演しました。

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8月7日(金) 紅書房から星野晃一編『多田不二来簡集』が刊行されました。詩人・多田不二のもとに寄せられた、光太郎からの5通を含む各界著名人194名からの書簡集です。

8月9日(日) 宮城県女川町きぼうのかね商店街で、第24回女川光太郎祭が開催されました。町内外の人々による朗読、当方による記念講演、北川太一先生の講話などが行われました。

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8月18日(火)~31日(月) 千葉県勝浦市芸術文化交流センター・キュステにおいて、第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」が開催され、千葉県立美術館所蔵の光太郎ブロンズ6点が展示されました。

8月19日(水) 『東京新聞』の千葉中央版に「〈九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年〉智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い」が掲載されました。

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8月24日(月)~10月30日(金) ノエビア銀座ギャラリーにて、銅版画家山本容子さんの「山本容子のアーティスト図鑑」展が開催されました。雑誌『本の話』(文藝春秋)の表紙画として作成されたアーティストの肖像画32点が並び、光太郎と智恵子のそれも展示されました。

8月28日(金) 書肆心水から『異貌の日本近代思想1』が刊行されました。「高村光太郎……美と生命/日本美の源泉」を含みます。


明日は最終回的に、9月から12月篇をお届けします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月30日

平成9年(1997)の今日、元花巻高村記念会事務局長、浅沼政規が交通事故で歿しました。

浅沼は宮澤賢治の教え子で、戦後、光太郎がいた頃の太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。

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ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。

早いもので、今年もあと残すところ3日となってしまいました。

今日から3日間、4ヶ月ずつ区切って、今年あった光太郎智恵子000、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

1月2日(金) 台東区東京国立博物館内の黒田記念館が、約三年間かけての耐震工事を終え、リニューアルオープンしました。二階黒田記念室入り口には、昭和7年、光太郎作の黒田清輝胸像が再び据えられました。

1月10日(土) NHKEテレにて、「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」が放映されました。当会顧問・北川太一先生がビデオ出演し、吉本と光太郎について語りました。再放送、17日(土)。

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1月16日(金)~19日(月) 兵庫県伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて、劇団青年団主催の演劇公演「暗愚小伝」が行われました。作・平田オリザ氏。光太郎が主人公。前年10月の東京公演の地方巡回でした。22日(木)~24日(土)、香川善通寺市四国学院大学ノトススタジオに巡回公演されました。

1月17日(土)~3月22日(日) 福島県いわき市立草野心平記念文学館で、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎往復書簡にみる交友」が開催されました。戦後、光太郎と心平の間に交わされた四十通余りの往復書簡、心平「高村光太郎病床日記」他が展示されました。

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全く同一の日程で、群馬県立土屋文明記念文学館において、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」が開催され、光太郎書も展示されました。2月15日(日)、記念講演会「編集者の仕事とは」。講師・石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員編集本部本部長)。

1月28日(水)~4月19日(日) 英国リーズ市ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて、武蔵野美術大学との共催による「A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。光太郎彫刻「白文鳥」「手」、他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎の作品が展示されました。

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1月31日(土) 東洋出版社から『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』が刊行されました。全国連合退職校長会編。光太郎が卒業生である荒川区第一日暮里小学校の元校長・天野英幸氏「バトンを繋ぐ」を収めます。学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

2月9日(月) NHKBSプレミアムで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、「智恵子抄」に触れられました。再放送、15日(日)、19日(木)。

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2月11日(水) NHK総合テレビで「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されました。北川太一先生、作家・津村節子氏、太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんらがビデオ出演しました。司会、渡邊あゆみさん。再現ドラマの部分は、光太郎役を鈴木一真さん、智恵子役を前田亜希さんが演じました。再放送、2月18日(水)、11月4日(水)。

2月14日(土) ネイチュアエンタープライズから山岳雑誌『岳人』第813号が刊行されました。特集「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」。当方執筆の「高村光太郎と智恵子の上高地」を含む他、草野心平、尾崎喜八等にも触れています。

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2月20日(金) 八木書店から日本近代文学館編『近代文学草稿・原稿研究事典』が刊行されました。「第四部 作家的事例」で、群馬県立女子大学教授・杉本優氏が光太郎の項を担当しました。

2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館で、「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」が開催されました。前年4月から日本橋三井記念美術館他で開催された展覧会の地方巡回。光雲作「西王母」「法師狸」の木彫二点が展示されました。郡山市立美術館(4月21日(火)~6月14日(日))、富山県水墨美術館(6月26日(金)~8月16日(日))、岐阜県現代陶芸美術館(9月12日(土)~12月6日(日))にも巡回しました。

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2月21日(土)〜5月17日(日) 京都市の清水三年坂美術館で、企画展「明治の彫刻」が開催され、光雲木彫「聖観音像」「月宮殿天兎」「老子出関」「西行法師」が展示されました。

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2月25日(水) ハーツ&マインズから品川区の地域情報誌『月刊おとなりさん』第380号が刊行されました。「特集 智恵子 愛と芸術の生涯」を収めています。

3月1日(日) 『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第四十三号』が発行されました。佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の短歌と美術評論 ―留学直後の作品を中心に―」を収めています。

3月10日(火) 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会編刊『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されました。平成25・26年度、十和田市づくり市民活動支援事業の助成により、建立から60年を経た「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の背景を多方面からまとめたもの。当方が監修と一部執筆を担当させていただきました。

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3月12日(木) 現代企画室から『少女は本を読んで大人になる』が刊行されました。クラブヒルサイド+スティルウォーター編。平成25年から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたもの。彫刻家・舟越保武の長女、末盛千枝子さんの「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」を含みます。

3月20日(金) 日本近代文学館から『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』が発行されました。上智大学教授小林幸夫氏「〈軍服着せれば鷗外だ〉事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎」を含みます。

3月21日(土)~6月21日(日) 宮内庁三の丸尚蔵館において、「第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」が開催され、光雲木彫「松樹鷹置物」「矮鶏」が展示されました。

4月1日(水) 東京国際芸術協会から、野村朗氏作曲『連作歌曲智恵子抄~その愛と死と~』楽譜集が刊行されました。森山孝光、康子夫妻演奏による同曲のCDも同日発行されました。

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4月2日(木) 第59回連翹忌が、日比谷松本楼に於いて開催されました。

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この日、『光太郎資料43』が参加者に無料配布されました。当会の刊行です。

また、高村光太郎研究会より『高村光太郎研究36』が刊行されました。北川太一先生「高村光太郎・最後の年 1月⑵」、山田吉郎氏「高村光太郎と雑誌『創作』―自選短歌を中心に」、坂本富江さん「詩人野澤一という人―そして高村光太郎との関係性―」、当方執筆の「光太郎遺珠⑩」「高村光太郎没後年譜」、野末明氏「高村光太郎文献目録」「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

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同日、文治堂書店から、北川太一先生の『ヒユウザン会前後―光太郎伝試稿―』が刊行されました。『高村光太郎研究』連載の単行本化です。

やはり同日、岩手花巻でも、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くで詩碑前祭、松庵寺にて花巻連翹忌が開催されました。

さらに同日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺で、開創千二百年記念大法会が始まりました。これまで開帳された記録が残っていない、高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来像(光雲作)の特別開帳が行われました。5月21日(木)まで。

この日はいろいろ重なり、港区の増上寺でも、新たに宝物展示室がオープンしました。光雲が監修に名を連ね、東京美術学校が制作した英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」(徳川二代将軍・秀忠霊廟)が展示されています。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品されたものです。

4月16日(木) 墨田区すみだトリフォニーホールに於いて「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催され、森山孝光、康子夫妻により、野村朗氏作曲『連作歌曲智 恵子抄~その愛と死と~』が演奏されました。

4月20日(月) 小学館より石川拓治氏著『新宿ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』が刊行されました。中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻、碌山荻原守衛を中心とし、光太郎にも触れています。

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4月22日(水) 碌山美術館より『荻原守衛書簡集』が刊行されました。守衛の書簡約百五十通、光太郎を含む守衛宛の書簡が、原本が残る物は全て写真付で収められています。

4月28日(火) 花巻高村光太郎記念館がリニューアルオープンしました。平成25年5月から、元の花巻市歴史民俗資料館を改装し、暫定オープンしていたものが、全面的な改修工事を行い、展示室面積はおよそ2倍となりました。

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4月30日(木) 邑書林からわたなべじゅんこ氏著『歩けば俳人』が刊行されました。光太郎を含む十五名の文化人の俳句に言及しています。

明日は、5月~8月の出来事を。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月29日

平成16年(2004)の今日、東海テレビ・フジテレビ系で放映されていた昼の帯ドラマ「愛のソレア」が最終回を迎えました。

荻野目慶子さん主演。東海テレビさん制作のいわゆる「ドロドロの昼ドラ」です。昭和30~50年代を舞台とし、随所に光太郎の詩が用いられました。

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昨日から1泊2日で秋田横手、岩手花巻を回って参りました。


花巻では昨夜、光太郎ゆかりの食堂で夕食を摂りながら、花巻高村光太郎記念会の方、花巻市役所の方と、いろいろ打ち合わせ。今日は高村光太郎記念館企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見、さらに急遽、花巻市街の光太郎が山荘に移る直前に暮らした佐藤家の離れを見せていただきました。

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新資料がたくさん見つかったり、新しい情報も続々と入ったり、実に有意義でしたし、これからが楽しみです。

これから、といえば、これからまた光太郎智恵子と全くの別件で、出かけねばなりません。

詳細は明日以降、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月13日

昭和26年(1951)の今日、NHKラジオで放送された「婦人の時間」で光太郎詩が朗読され、光太郎自身も花巻郊外太田村の山小屋でオンエアを聴きました。

草野心平が解説、朗読は俳優の石黒達也でした。

気がつけば10月もそろそろ終わり、今年も残すところあと2ヶ月あまりとなりました。新刊書店では来年用のカレンダーの販売、郵便局さんでは年賀はがきの予約受け付け開始など、徐々に平成28年を迎える準備が始まっています。

そんな関係で、『日本経済新聞』さんの電子版に載った「プレスリリース」――ある種の広告――から。  

田中貴金属ジュエリー、2016年の干支「申」の工芸品「純金製置物」など発売

貴金属ジュエリーの老舗 GINZA TANAKA
2016年の干支「申」の工芸品を10月1日(木)より発売!
~日本を代表する名工たち渾身の逸品、縁起の良い純金製の置物や大判、根付などが登場~

 1892年に創業した貴金属ジュエリーの老舗GINZA TANAKA(田中貴金属ジュエリー株式会社 本社:中央区銀座、代表取締役社長執行役員:田中 和和(まさかず)、以下 GINZA TANAKA)は、2016年の干支である「申」を、純金で製作した置物、根付、大判など、新作の工芸品4点(税込価格39,000円~税込参考価格1,872,000円)を10月1日(木)よりGINZA TANAKA 9店舗とGINZA TANAKAオンラインショップにて発売します。(※参考価格は、金税込小売価格4,800円/gで計算しております。)
 GINZA TANAKAでは毎年、縁起物である干支をテーマにした純金・銀製の工芸品を製作・販売し、開運招福を願うお客様にご好評をいただいております。2016年の干支である「申」は、人間に近い姿から、昔より山神の使いとも言われ、信仰の対象としてもなじみの深い動物です。また、不幸や困難が“さる”とも言われ、縁起が良く、十二支の中でも人気のモチーフです。この度、GINZA TANAKAでは、日本を代表する名工などによる純金の美しい干支の工芸品を、新たに4点製作しました。

<GINZA TANAKA新作工芸品(一部)>
 【発売日】2015年10月1日(水)
 【販売店舗】GINZA TANAKA全国9店舗
       GINZA TANAKAオンラインショップ(
http://shop.ginzatanaka.co.jp/

■純金製置物「申」 高村光雲 原型作
 日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲が、天下泰平、五穀豊穣を祝う伝統芸能「三番叟(さんばそう)」をモチーフに、繊細な表情と躍動感のある動きを純金で表現しました。衣装と烏帽子をまとった猿のなんとも言えない表情が、輝く純金の素材を通して見事に表現されています。
 【税込参考価格】1,872,000円
 【原型作者】高村 光雲 氏
 【素材】K24 約150g(桐箱付)
 【サイズ】
 <本体>高さ約16.8cm 台座 直径約10.8cm
 <ガラスケース>高さ約26×幅約21×奥行約21cm

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元々は大正11年(1922)に彫られた木彫で、正しい題名は「三番叟」。オリジナルは宮内庁の三の丸尚蔵館さんに収められていますが、その複製とは考えにくいところです。光雲は同一の図題で複数の木彫を手がけることもしばしばでしたので、宮内庁のものではない作品からの複製でしょう。

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「三番叟」というのは、狂言師の舞う舞の名前で、その扮装を猿回しの猿が身につけている、という構図です。郷土玩具などで同様の図題がよく見られます。「厄難を去る」という縁起担ぎでしょう。

当方、ブロンズ複製のこの作品を持っています。

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かなり前に安く入手したものですが、どうやらパナソニックさんが昭和の頃にノベルティーグッズとして配布していたもののようです。

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さて、田中貴金属さんの今回の商品、同店オンラインショップのラインナップに入っています。今、このブログを書きながら価格を確認すると、「¥1,921,140」。ところが上記プレスリリースでは「¥1,872,000」。「この差は何だ?」と思ったら、「こちらの商品は金相場により価格が毎日変動いたします。」とのことでした。ある意味、豪壮な話ですね。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

豪壮な話ついでにもう1件。先月、このブログでご紹介した「シンワアートオークション近代美術/木梨憲武」に、光雲の木彫「魚藍観世音」が出品されました。「1,200万円から2,500万円」という落札予想で出品されたのですが、蓋を開けてみると4,200万円での落札でした。

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落札者が個人なのか法人なのかなどは不明ですが、お近づきになりたいような、なりたくないような……といった感じです(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月27日

昭和25年(1950)の今日、山形の渡辺正治氏から葉書を受け取りました。

渡辺正治氏は女優の渡辺えりさんのお父様です。氏と光太郎の関わりについては、以下を御覧下さい。

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