カテゴリ: 日記

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というわけで、平成27年(2015)となりました。今年もよろしくお願い致します。
 
 
今朝は、九十九里浜に行ってきました。もちろん初日の出を見に、です。
 
南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町真亀納屋付近の海岸で、その時を待ちました。81年前に、二人が歩いた浜辺です。
 
波はそこそこ荒く、しかし、その潮騒がかえっていい感じでした。あまり寒くもなく、結構な人出でした。
 
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わんこも(笑)。あとで右のミニチュアダックス君は、当方にじゃれついてきました。
 
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6時30分頃には、見事な茜色の雲。6時48分頃が日の出です。期待が高まります。
 
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ところが、全体的には青空なのですが、ちょうど太陽が出るあたりの海上に、厚い雲。下の画面中央の、雲の切れ間から太陽が見えるかと思い、7時15分位までねばりました。
 
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しかし、結局、浜では日の出を見ることができませんでした。残念。
 
こちらは当方が行った浜辺にほど近いところにある「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。さらに東金 九十九里有料道路今泉PAにある光太郎智恵子の銅像です。
 
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当初予定では、これらの背後に燦然と輝く太陽が写るはずでしたが、仕方がありません。
 
帰り道、横芝光町あたりまで来たところで、ようやく太陽が拝めました。
 
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車を駐め、「今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように」と願いを込め、シャッターを切りました。
 
というわけで、今年1年、またよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月1日000
 
明治40年(1907)の今日、雑誌『明星』未歳第1号に、光太郎の「新詩社詠草」短歌44首が掲載されました。
 
そのうちの1首です。
 
海を観て 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと
 
前年2月、欧米留学に出るため、横浜からカナダ太平洋汽船のアゼニアン号に乗り、船出した時の歌です。
 
のちに「海を観て」は「海にして」と変更されています。
 
九十九里浜の砂丘に腰を下ろし、潮騒に耳を傾けながら、この歌を想い出しました。
 
右の画像は当方の手許にある、光太郎直筆の短冊です。
 
 
ところで、一昨年のこのブログでは【今日は何の日・光太郎】ということで、365日、その日その日の光太郎智恵子、光雲などのエピソードをご紹介しました。すると、たまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛せざるを得ず、悔しかったので、昨年のこのブログでやはり365日、【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで補いました。
 
そして今年。どうももう1年できそうだな、と思い、さらに2年でやめるのも半端かな、という気がしました。そこで【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、また365のエピソードを紹介して行こうと思います。このコーナーがあると、特にネタがない時には書く方も楽でして……(笑)。
 
ただし、最初に宣言しておきますが、この「拾遺」で限界。もうそれ以上は続けません。
 
来年以降はまた新たな企画を考えたいと思います。

とうとう大晦日となりました。今年もいろいろありました。その都度、多くの方々にお世話になりました。今年1年をふりかえってみます。
 
メインイベントは4月2日の第58回連翹忌。光太郎忌日の集いということで、全国からたくさんの方々にお集まりいただきました。ありがとうございました。
 
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光太郎が足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻連翹忌
  
今年は「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年の記念の年で、いろいろなイベントなどで、その件に触れて下さいました。
 
イベントも、ここですべてを振り返るわけにもいきませんので、光太郎智恵子をメインにあつかったもののみ、ご紹介します。
 
盛岡てがみ館さんでは、2月から6月にかけ、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催されました。実際に行って参りましたが、なかなかいい企画展でした。
 
同じ盛岡では、やはり2月に演劇「泣きビッチョ光太郎」が上演されました。見に行けなくて残念でした。再演を希望します。演劇系では10月から、劇団青年団第73回公演 『暗愚小傳』。11月には【じゃがいも村プロデュース公演】麦人じか~ん一人語り『智恵子とゐふ女』。12月には微笑企画第4弾「一人芝居 人に~智恵子抄より~」
 
5月には毎年恒例の花巻光太郎祭。今年の記念講演は、光太郎が名付け親となった絵本作家・編集者の末盛千枝子さんでした。
 
8月には、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭。それに先立つ6月には、福島二本松の智恵子のまち夢くらぶさん一行が、女川をご訪問。『朝日新聞』さんで大きく取り上げていただきました。
 
10月には、二本松で第20回レモン忌。智恵子命日の集いです。今年は当方が記念講演をさせていただきました。同じ10月には、鎌倉の笛ギャラリーさんで、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展。書家・金子大蔵氏の作品展「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」も10月でした。金子氏が、やはり光太郎の詩を題材にしていた金子鴎亭のお孫さんだと、最近まで知りませんでした(汗)。
 
また、10月には十和田湖畔に観光交流センター「ぷらっと」がオープン。光太郎作の「乙女の像」関連の展示に協力させていただきました。
 
音楽系ですと、 「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」が5月にありました。また、テルミン奏者の大西ようこさんが中心となり、9月にはPrhymx(ぷらイム)「もうひとつの智恵子抄」、10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』。大西さんは11月の第59回高村光太郎研究会にもご参加下さいました。
 
その他、光太郎智恵子、光雲に少しだけ関わるイベント、書籍の出版、音楽CDリリース、テレビ放映などなど、細かく紹介出来ませんが、いろいろとありました。ありがたいかぎりです。
 
反面、残念だったのが訃報。光太郎の令甥で、高村光太郎記念会理事長だった写真家の高村規氏、令姪のお嬢さんで、歌手だった高村亜留さんが亡くなりました。また、俳優・高橋昌也さん、女優・松本典子さん、作家・渡辺淳一さん、李香蘭こと山口淑子さんも。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
最後に、一昨年の大晦日にも同じことを書きましたが、今年1年、皆様からいただいた郵便に貼ってあった切手を切り取り、使用済み切手を収集している団体-公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。
 
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昨年も寄贈したのですが、昨年はうっかり差し出し人欄に、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として当方の名前を書いたラベルを貼ってしまい、そうすると個人名は掲載しないという同会サイトの方針で、載せていただけませんでした。
 
さて、今年も残すところあと数時間。来年もよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月31日
 
昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで放映されていた「花王愛の劇場 智恵子抄」が最終回を迎えました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。
 
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上記は番宣用のスチール写真と、角川文庫の佐藤春夫著『小説智恵子抄』カバーです。佐藤さんのお父様は彫刻家・佐藤忠良。光太郎に心酔していた一人でした。
 
さて、昨年は【今日は何の日・光太郎】、今年は【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで、365日×2、のべ730日分のエピソードを紹介して参りました。時には苦し紛れのネタもありましたが、つつがなく2年間書き続けることができました。ご愛読ありがとうございました。

昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。
 
冒頭部分は以下の通りです。000
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。002
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もない
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ001
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、当時住んでいた東京都の多摩川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。

一昨日、福島県南相馬市民文化会館ゆめはっとにて、邦楽奏者、浜根由香さんのコンサート「東北を謳う」を聴いて参りましたが、午前中には隣接する相馬市まで行って来ました。
 
目的地は原釜尾花海水浴場。明治40年(1907)夏、智恵子がここに滞在し、海水浴(当時は「潮湯治」といっていたそうですが)を楽しんだ場所です。父・今朝吉、弟・啓助も同行していました。さらに大正6年(1917)にも智恵子はここに滞在しました。
 
当方の刊行している『光太郎資料』中に、「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」という項があり、過日刊行した第42集で原釜尾花海水浴場を取り上げました。下記が昔の原釜の絵葉書です。
 
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ところが当方、実際にここを訪れたことがなかったので、浜根さんのコンサートが南相馬で開催されるのを幸い、足を伸ばしてみました。
 
『光太郎資料』作製のためにいろいろ調べていた中で、やはりこのあたりも東日本大震災の津波による甚大な被害を受けていたことは知っていましたが、やはり百聞は一見にしかず、です。
 
さて、海岸に到着。目に飛び込んできたのは、いきなりこれです。
 
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かつて宮城の石巻女川で、こうした風景は見ていますが、やはり見慣れるということはありません。
 
慰霊碑も建っていて、手を合わせて参りました。
 
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かたわらには藤棚が。説明板もありました。
 
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波打ち際には海水浴場の展望台。これは震災後によくテレビなどに登場しました。時計台の時計はあの日、止まったままです。ただし、針はずれています。津波が来たのは午後4時頃だそうです。
 
 
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展望台から見た海。この海が、牙をむいたのかと思えないほど、とてもおだやかでした。
 
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原釜海岸をあとに、南相馬に向かいました。途中、「道の駅そうま」があったので寄ってみました。
 
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すると、「震災伝承コーナー」という一角がありました。
 
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パネルやモニターで、津波の被害について説明がなされています。
 
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被害のすさまじさを示す、「現物」の資料も。
 
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その後、南相馬のコンサートに向かいました。
 
さらに終演後、国道6号に出て、常磐富岡インターから高速に乗り帰宅。国道6号も、先月、通行止めが解除されたものの、相馬地区はまだこういう状況です。
 
通行止めは解除になったものの、原発に近い区域では、歩行者、自転車、そして自動二輪でも通行不可です。許可証を持つ地元の方以外は、脇道には一切入れません。
 
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全国の原発を抱える自治体の皆さん。再稼働に賛成なら賛成で、ご自分の街がこういう状況になるかもしれないという覚悟はできていますか?
 
かつて智恵子が滞在した原釜に話を戻しますが、原発事故による海洋汚染も深刻で、漁業も周辺では未だに試験操業の段階、全壊した相馬原釜地方卸売市場の再開も来年になる見込みとのことです。
 
こちらも昔の原釜の絵葉書。こういう光景が復活するのはいつのことになるのでしょうか……。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月21日
 
明治23年(1890)の今日、上野公園桜ヶ岡の日本美術協会列品館で絵画展覧会が開幕し、光太郎の姉・さくの作品も並びました。
 
出品作は絹本堅淡彩の「鍾馗図」。数え16歳で夭折したさくですが、狩野派の絵を学び、将来を嘱望されていました。光雲にとっては期待の娘、光太郎にとっては自慢の姉でした。
 
のちにやはり画家志望の智恵子と結ばれた光太郎、日本画と洋画の違いこそあれ、そこにさくの面影を見ていたのかも知れません。

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その42集が完成しました。以前から寄贈させていただいている団体、個人の皆さんには発送も完了しています。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて6冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、岩手の地方紙『岩手日日』さんでご紹介いただきました。
 
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(四) 岩手にて」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、戦中戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)の、岩手での生活の中で書かれたものを紹介しました。
 
光太郎回想・訪問記 長与善郎「高村光太郎君のこと」/宮芳平「宮芳平自伝(抄)」
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その1  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第六回 原釜海岸(福島)
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(二)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(六) な行
 
第五八回連翹忌報告
 
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ほとんど手製のもので、お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄、またはこちらからご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
逆にこちらから勝手に寄贈しているので、送られている団体・個人の方で「こんなものいらん」という方も、同様にご連絡下さい。また、毎回、「転居先不明」などで戻ってくるものがあります。該当の方もご連絡いただければ再送付いたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月16日
 
明治43年(1910)の今日、画家の津田青楓に絵手紙を書きました。
 
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僕は何にも為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。
一遍東京へ出て来ませんか。展覧会もあるから。 光
C'est moi
 
絵は自画像です。その下の「C'est moi」は仏語で「これは私です」の意。
 
この前年に欧米留学から帰った光太郎は、ロダンを頂点とする彼地の芸術界の様相と、旧態依然とした日本のそれとの、目もくらむばかりの差異にうちのめされ、日本にも新しい芸術を根付かせようと苦闘していた時期です。

一昨日、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場」に行つて参りましたが、ちょうど先週末から「第60回 菊の祭典 二本松の菊人形」も始まっていましたので、早めに行って、観て参りました。
 
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会場は二本松霞ヶ城。台風19号の接近に伴い、生憎の雨でしたが、逆にそのせいでしょうか、駐車場も混んでいませんでした。
 
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会場に入ると、まずは「菊花展ゾーン」。地元の方々が丹誠込めて育てた菊の鉢が並んでいます。
 
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福島では、昔から菊栽培は盛んだったのでしょうか。下の画像は当方手持ちの古絵葉書。智恵子の母校、福島高等女学校、ただし、智恵子卒業後の明治36年(1903)に移転したあとです。やはりずらっと菊の鉢が並んでいます。
 
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続いて「菊人形ゾーン」。今年のテーマは「二本松築城600年 にほんまつヒストリア」。二本松の歴史に題を採っています。昨年まではNHK大河ドラマをテーマに行っていましたが、今年は方向転換です。
 
戊辰戦争の二本松少年隊。
 
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安達ヶ原の鬼婆伝説。
 
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そして、「あどけない話 詩人高村光太郎と智恵子 結婚100周年」。
 
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こちらが光太郎。大村昆さんのようで、ちょっと笑いました。
 
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そして、智恵子。
 
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あれっ? いません。そういえば、智恵子は結婚後も光太郎を残して、1年のうち数ヶ月、二本松(安達)の実家に帰ってしまうこともあったっけ……って、ここは二本松です(笑)。
 
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何と「着せ替え中」だそうで……。
 
ん? まてよ、さっき、作業小屋のようなところにいたのがもしかして……。
 
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ビンゴでした(笑)。
 
あっ! この顔は! 去年の「八重の桜」の時の八重さんではありませんか。去年はスペンサー銃を持っていたのが、今年は折り鶴ですか(笑)。
 
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他にもみごとなしつらえがいろいろありました。
 
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さて、菊人形を堪能002しましたが、まだ「みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場」の開始までに時間があります。そこで、旧安達町の智恵子の生家・智恵子記念館に足を伸ばしました。一年のうち、5月のGWと、この菊人形の時期には、智恵子の紙絵の複製でない実物が展示されているはず。
 
勝手知ったる二本松ですので、地元の人しか通らないような裏道を抜け、10分足らずで到着。
 
入場料410円を払って中に入りました。
 
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複製に混じって、実物の紙絵は10点展示されていました。やはり本物は違いますね。厚さはコンマ何㍉ながら、紙の重なりから立体感が感じられるのです。複製もきれいなのですが、それが感じられません。
 
二本松市では19点の実物を所蔵しています。先ほども書きましたが、一年のうち、5月のGWと、菊人形の時期には、実物が約10点ずつ展示されます。
 
ちなみに駐車場のトイレに寄ったところ、レモン石鹸が。「レモン哀歌」を意識してレモン石鹸を置いてあるとすれば、そのセンスには脱帽です。
 
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というわけで、菊人形、智恵子生家・智恵子記念館、ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月15日
 
大正10年(1921)の今日、芸術社からヴェルハーレンの訳詩集『明るい時』を上梓しました。
 
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文庫判よりさらに小さいサイズのかわいらしい本です。白っぽく写っているのは、パラフィン紙をかけているせいです。左が函、右が本体です。
 
エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)は、ベルギーの詩人。1855年の生まれですから、光太郎より1世代前です。
 
画家だった妻・マルトに贈った「時の三部作」(『明るい時』、『午後の時』、『夕べの時』)のうちの一つで、何やら『智恵子抄』を髣髴とさせますね。
 
この書の序文で、光太郎は以下のように記しています。
 
詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。
 
フランス語を知らない一人の近親者」は、もちろん、智恵子です。
 
内容的にも『智恵子抄』所収の詩との類似点が指摘され、いわば『智恵子抄』のスピンオフ(こちらの方が刊行が早いのですが)とも言えます。

昨日はまた二本松に行って参りました。
 
メインの目的は、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場」。駅前の市民交流センターで開催されました。
 
その他に「二本松の菊人形」や智恵子生家・記念館にも立ち寄りましたが、そのあたりは明日に廻します。
 
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第1部が「私の中の「智恵子抄」~「智恵子抄」や智恵子光太郎への想いを語る~」、第2部が「二本松と智恵子~智恵子生誕の地二本松のこれからを語る~」。
 
市長さんの代理で市の教育長さん、観光協会長さん、にほんまつ未来創造ネットワーク事務局長さん、青年会議所理事長さん、安達中学校の生徒さん、そして夢くらぶの会員・会友の皆様がご参加、いろいろな想いを語られました。
 
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夢くらぶさんとしては、今年も5月に「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」、先月は「第6回 智恵子純愛通り記念碑建立祭プレミアム「音楽で紡ぐ純愛コンサート」」などを行ったものの、今ひとつ人が集まらず、危機感を持っているようです。
 
各団体でもいろいろな取り組みを行っていますが、もっともっと二本松を盛り上げるために、ということで、様々な提言がなされました。
 
当方、日本各地のいろいろな取り組みを見て歩いています。各地域でさまざまな取り組みを地道に行われている様子には、本当に頭が下がります。しかし、それぞれの地元でこぢんまりとやっているだけでは、だんだんとマンネリ化し、やがて消滅してしまうものです。
 
そうならないためにも、「点」での実施でなく、他の地域とのネットワークづくりが必要かと思われます。当方、そのための橋渡し役ができればと思っております。昨日はその想いを新たにさせられました。
 
多少過激なことを言わせていただければ、行政が動くのを待っていては駄目ですね。それぞれの自治体もそれなりに頑張っているのですが、前例のないことにはなかなか腰が上がらない、それまで積み上げてきたものも担当が変わればまた一から、イベント一つとっても、外の人間への発信よりも地元選出国会議員とか県議とかを重視する、そういう傾向があります。
 
まずは草の根の市民が声を上げ、行政を巻き込んで、あるいは行政の力を利用して、他の地域とも連携を深め、どんどん広げて行くといった方向でやっていくべきでしょう。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月14日
 
平成14年(2002)の今日、「鉄道の日」記念行事の一環として「東北の駅100選」が選定され、光太郎詩碑のある二本松駅も選ばれました。
 
全国に光太郎文学碑はかなりありますが、駅に詩碑があるのはここだけです。

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東北新幹線はやぶさ車中です。

昨日から一泊で十和田湖に行って参りました。新しく湖畔に市営の観光交流センター、愛称「ぷらっと」が作られ、今日がオープンでした。

十和田湖を象徴するヒメマスや明治の文豪・大町桂月、そして光太郎に関する展示がなされています。当方、光太郎関連の展示の説明ボードを執筆させていただきました。

なかなか立派な施設です。

詳細は明日以降、レポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 10月8日

大正2年(1913)の今日、智恵子と結婚の約束を交わし、二人でひと月ほど過ごした信州上高地から下山しました。

昨日の第23回女川光太郎祭をつつがなく終え、先程、2泊3日の行程を終え、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。3日間を振り返ってみます。
 
2泊とも、女川町内のEL FARO(エル ファロ)さんに宿を取っていただきました。こちらは一昨年の暮れにオープンした宿泊施設です。50棟ほどのコテージハウスのようなものが並んでいますが、すべて、トレーラーハウスです。
 
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50棟ほどのすべてに車輪と連結のための部品がついており、そのままトレーラーで牽引できるのです。建築物ではないので、基礎を打つ必要もなく、状況によっては移動可能という、画期的なものです。
 
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内部はごく普通のホテルのようです。もちろん、電気も水道も通じています。ユニットバスも各戸についています。
 
一昨日の夜にこちらに着き、翌朝、散歩を兼ねて女川港まで約1.5㌔の道を歩きました。
 
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東日本大震災による大津波で倒壊した光太郎文学碑、女川交番などはまだそのままでした。しかし、確実に復興への槌音が響いていました。
 
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資材置き場に咲く向日葵。なぜか涙が出そうになりました。
 
女川光太郎の会の方に迎えに来ていただき、光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」へ。
 
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今年は商店街の一角に、テントを張って会場を設営しました。
 
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午後2時、震災で犠牲になられた方々への黙祷から始まり、前座として当方の記念講演。この頃から大粒の雨が降り始めました。
 
女川光太郎の会会長須田勘太郎さん、女川町長・須田善明氏のごあいさつ、ギタリスト・宮川菊佳さんの伴奏による、地元の方々の朗読、さらに和太鼓演奏。
 
 
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そして北川太一先生のお話。特にテーマは決めず、「講演」というほど大げさにではなくおしゃべりしたい、とおっしゃったそうで、短いお話でしたが、参会の皆さんは、口々に「一言一言が心に染みた」と感想を述べられていました。当方も同感でした。
 
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朗読をしてくれた皆さんに、北川先生からサイン入りご著書のプレゼント。
 
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女川光太郎の会の中心として活動なさっていて、震災の津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さん夫人、英子さんのごあいさつ。
 
オペラ歌手・本宮寛子さんのアトラクション演奏。
 
以上、こじんまりと行われたイベントですが、それぞれの方が、それぞれの思いを込めて、作り上げたイベントです。
 
地元の方々はもちろん、各地から、故・貝(佐々木)廣さんと親しかった皆さん、東京から北川先生の教え子の北斗会の皆さん、花巻高村光太郎記念会から事務局の高橋さんと、いろいろな方がお集まり下さいました。
 
今後とも、こじんまりとではあるかと思いますが、続く限り続けていってほしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月10日
 
昭和47年(1972)の今日、中央公論美術出版から光太郎著『日本美の源泉』が刊行されました。
 
もともと『婦人公論』に昭和17年(1942)に連載されたものですが、当時の編集者がその草稿を処分するに忍びず、保存しておいたものを、そのまま複製し、和綴じにしたものです。
 
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本日、宮城県女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」において、第23回女川光太郎祭が行われました。

平成の初め、第1回が開催された頃からそうでしたが、女川光太郎祭といえば悪天候がお約束。今日も始まったとたんに雨が降り出しました。会場は屋外のテントの下で、どうなることかと思いましたが、つつがなく終わりました。

ご来場下さった皆様、ありがとうございました。詳細は帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月9日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が九段坂病院を退院しました。


統合失調症が進んだ智恵子は、睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺を図り、幸い、一命は取り留めました。しかし、この後、坂道を転げ落ちるように、心の病は悪化の一途をたどります。

宮城県女川町に来ております。

明日、午後2時から、町内の仮設商店街「きぼうのかね商店街」にて、「第23回女川光太郎祭」が開催されます。
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昭和6年(1931)、「時事新報」に依頼された紀行文執筆のため、光太郎がここ女川を訪れたことを記念してのイベントですが、ここ数年は東日本大震災からの復興の象徴の意味合いも加わっております。

光太郎遺影への献花、小中学生を含む地元の方々による朗読、当会顧問・北川太一先生のお話、ギタリスト宮川菊佳氏、オペラ歌手本宮寛子様の演奏、地元の皆さんの太鼓演奏、当方の記念講演と、盛りだくさんです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【今日は何の日・光太郎 補遺】8月8日

昭和23年(1948)の今日、彫刻家の石井鶴三から信州産のクルミを貰いました。

7/19(土)・20(日)と、青森は十和田方面に出かけて参りました。そのレポート2回目です。
 
7/20(日)早朝、宿泊先の十和田湖山荘さんで目を覚ましました。さっそく24時間入浴可能の温泉に入って、頭をシャッキリさせ、朝食前に、湖畔の通称「乙女の像」まで歩きました。
 
2月に「十和田湖冬物語」で訪れた時も、それから前日の19日も、夕刻を過ぎてからライトアップされた「乙女の像」を見たのですが、朝の自然光の中で観ておきたいと思った次第です。
 
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曇り空でしたが、雨は降っておらず、空気が清涼でした。歩くこと30分程で、「乙女の像」に到着。
 
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久しぶりに細部や、かたわらに建てられた光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与う」を刻んだ碑などもじっくり観て参りました。
 
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この像がここに建てられて、昨年で60周年でしたが、まったく古びたところが感じられません。像自体、何度か補修されているのですが、そういう意味ではなく、造型としてのこの像のもつ力といいますか、何といいますか……。
 
光太郎を敬愛していた彫刻家の高田博厚の、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」という評が、まさしくその通りと思われます。
 
さて、その後、最近、パワースポットとして人気の高い十和田神社に。創建は平安時代初めという、由緒ある神社です。装飾彫刻などもみごとでした。
 
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この地の平安を祈願して参りました。
 
宿に帰る途中、秋田県側の小坂町に入ったところにある「十和田湖開発の碑」、青森県側に戻って石川啄木の歌碑などを見ました。
 
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盛岡中学生だった啄木も、明治34年(1901)頃、十和田湖を訪れているようです。
 
 夕雲に 丹摺はあせぬ 湖ちかき 草舎くさはら 人しつかなり
 
という歌が刻まれています。
 
 
その他、あちこちの標識やら柵やらに、「乙女の像」があしらわれていて、嬉しくなりました。
 
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宿に戻り、朝食を取り、チェックアウト。青森駅行きのJRバスに乗り込みました。バスはほぼ満員で、途中、前日も訪れた奥入瀬渓流や蔦温泉では、乗降する人が多く、いい傾向だと思いました。たくさんの人に、このあたりを訪れていただきたいものです。
 
バスはさらに、やはり昭和27年(1952)6月に光太郎が訪れた酸ヶ湯温泉や、八甲田山を経て、青森駅に着きました。
 
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青森駅からタクシーで青森県立図書館へ。関東の図書館、文学館等ではおめにかかれない資料を探して参りました。
 
長くなりましたので、そのあたりは次回に。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月21日
 
明治39年(1906)の今日、智恵子が、親友の大熊ヤスと共に、富士山に登りました。
 
智恵子は数え21歳。日本女子大学校在学中です。大熊の実家は静岡の沼津です。のちに病気がちになる智恵子ですが、若い頃はテニスや乗馬、自転車にスキー、水泳など、運動好きでした。

昨日から、1泊2日で青森は十和田方面に行って参りましたので、レポートいたします。
 
過日のブログでご紹介しました「十和田湖湖水祭り」、さらに、通称「乙女の像」建立60年を経たということで、記念誌などが刊行されることが本決まりになり、十和田市役所の方、観光ボランティアの方々と、その打ち合わせも兼ねての十和田行きでした。
 
昨日、東北新幹線はやぶさにて、13時53分に七戸十和田駅に着き、十和田市役所の山本氏の車で、十和田方面を目指しました。山本氏のご家族(美人の奥様、元気いっぱいの小6と小1の息子さん、お嬢さん)も一緒でした。山本家の皆様には、非常にお世話になりました。
 
まずは十和田市街で、昨日のブログでご紹介した、「看板アート」を見学。
 
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続いて蔦温泉。明治の文豪、大町桂月ゆかりの地です。十和田湖畔の裸婦群像、通称「乙女の像」は、もともと、十和田の景勝のすばらしさを広く世に紹介した大町桂月、道路整備等に腐心した元青森県知事の武田千代三郎、旧法奥沢村(現・十和田市)村長の小笠原耕一の三氏を顕彰するためのものです。そこで、光太郎も昭和27年(1952)に十和田に制作の下見に来た際に、蔦温泉を訪れ、ここにある桂月の墓に詣でています。
 
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今年2月に十和田に行った際にも、こちらを訪れたのですが、一軒宿の旅館は休業中、大雪で大町桂月の墓はたどりつけないという状況でした。今回はリベンジです。
 
旅館はやはり光太郎が1泊している、その頃の建物で、いい感じでした。
 
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桂月の墓は、苔むした林道を歩いて行った先にありました。
 
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次に、奥入瀬渓流館へ。こちらで1時間ほど、十和田市役所の皆さん、観光ボランティアの皆さんと、打ち合わせを行いました。通称「乙女の像」60周年記念誌、いいものができそうです。
 
館内には、先月、日本テレビ系列でオンエアされた「遠くへ行きたい 旅人 竹下景子「奥入瀬の森と湖に遊ぶ 青森県十和田湖」」ロケの際のスナップ写真なども飾ってありました。
 
その後、奥入瀬渓流を通って、十和田湖へ。当方は、宿泊先の十和田湖山荘さんでいったん降ろしていただき、チェックインと夕食。山本氏一家は先に十和田湖畔の湖水祭り会場に行かれました。
 
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夕食には、最近、B級グルメとして脚光を浴びている「十和田バラ焼き」もつけてもらったので、かなりのボリュームで、大満足でした。もちろん、十和田湖特産のヒメマスも膳に上りました。
 
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1時間後に、再び山本氏が迎えに来て下さり、十和田湖畔へ。綜合案内所で、2月にもお世話になったベテランボランティアの吉崎明子さんと合流、乙女の像目ざして歩きました。午後7時、夕闇の十和田湖に、遊覧船のイルミネーションが幻想的でした。
 
ただ、我々が湖畔にいた間には雨は降りませんでしたが、この日は昼間から降ったり止んだりの天気だったため、例年より人出がかなり少なかったそうです。その分、車の渋滞等には成らずに済みましたが。
 
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午後8時から、花火。ライトアップされた乙女の像の前で、たっぷりと堪能しました。当方のガラケーでも写真は撮りましたが、やはりストロボがついていないため、あまりきれいに撮れませんでした。そこで、この写真のみ、山本氏から戴いたデータを使わせていただきます。
 
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すばらしいですね。
 
花火の終了後、ホタルがいるというので、吉崎さんの案内で、湖畔の原生林に。ところが、残念ながら、この日は遭遇できませんでした。どうも花火の光や音で、おびえているのではないかとのことでした。
 
吉崎さんとは湖畔で、山本氏ご一家とは、十和田湖山荘の前で、それぞれお別れし、ゆっくり温泉につかって休みました。
 
24時間入れる熱めの温泉、こぎれいな部屋、手頃な料金、なかなかでした。
 
明日は2日目(7/20)についてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月20日
 
明治19年(1886)の今日、光雲が龍池会主催第7回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品しました。
 
「光雲」の名での初の展覧会出品でした。このあたりの技倆を買われ、光雲は翌年に皇居造営事務局に白羽の矢を立てられ、皇居内の装飾彫刻を手がけることになります。

一昨日、福島は川内村の第49回天山祭りに行って参りました。昨日に引き続き、川内村レポートです。
 
当方、天山祭り会場の天山文庫は、初の訪問でした。
 
天山文庫は、昭和41年(1966)、それまでもたびたび川内村を訪れていた草野心平の宿泊施設として、村の人々が建ててあげたものです。心平は心平で、蔵書をここに置き、そのまま村に寄付しました。
 
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天山文庫に上がっていく坂の途中に、「下馬」の文字が刻まれた石碑。心平の筆跡です。
 
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酒樽を利用して作られた書庫も2棟ありました。この村で作られたどぶろくを愛し、「白夜」と名づけた心平にぴったりです。こちらは昭和44年(1969)の竣工。
 
内部には、雑誌がぎっしり。
 
さらに、天山文庫本体。
 
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内部には、心平や、川端康成、棟方志功の書がかかっています。そして、やはり書庫。
 
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光太郎の書籍もたくさんありました。また、この建物の設立委員には、光太郎の実弟・豊周も名を連ねています。かつて心平が、ここで過ごしていたと思うと、感慨深いものがありました。
 
小高い山の中腹にある天山文庫より下に、阿武隈民芸館があり、そちらも観て参りました。
 
当方、大きな勘違いをしておりました。「民芸館」という名前なので、よくある、現地の民俗資料などを展示してある施設だと思いこんでいました。たしかにそういう展示もあったのですが、それはほんの少しで、大半は心平に関する展示でした。なぜか、智恵子の実家である二本松の長沼酒造の貧乏徳利が、民俗資料に紛れて展示されていました(笑)。
 
こちらは昭和56年(1981)の完成。看板の揮毫も心平です。
 
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心平の業績を語る上では、光太郎の存在は欠かせません。館内にズラリと並ぶ心平の著書のうち、光太郎が装幀や題字を担当したものがたくさんあります。また、光太郎に関する心平の著書もたくさんあり、さらに、飾られている写真パネルには、光太郎もたびたび写っていて、二人の結びつきの緊密さが見て取れます。
 
その後、秋に行われる心平忌日の集い「かえる忌」会場にもなっている、小松屋旅館さんに移動しました。

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一昨年には、まだ子犬だった黒柴に、子犬が産まれていました。
 
こちらでは、二次会ということで、この春まで、川内草野心平記念館長を務められた晒名昇氏をはじめ、「かえる忌」で顔なじみになった方々が集い、しばし、歓談。
 
地元はもちろん、青森やら神奈川、当方と同じ千葉の方もいらっしゃいました。
 
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心平が歿して約30年。今も多くの人々に敬愛されている様子が、よくわかりました。
 
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帰りがけに撮った一枚。夕日が沈む渓流です。こんなにいいところなのですが、まだまだ原発事故による問題が山積しています。
 
訪れるだけでも、復興支援となります。ぜひ、足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月14日
 
昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』に、エッセイ「装幀について」が掲載されました。
 
一部、抜粋してみます。
 
 今日多く流布する日本の書籍の装幀には遺憾ながら高度の審美を見る事が少い。純粋比例の美による装幀を私は望んでやまない。屢見かける文芸書のやうに、表紙にべたべた絵画を印刷したやうなものは児戯に類する。中には内容とかけ離れた宿場女郎の如き体裁のものさへある。新刊書に例を取つて述べることは遠慮するが、ともかく全体にもう一段抜け出してもらひたい。書店の店頭から無駄な悪趣味を一掃したい。書店の店頭を純粋比例の美で埋めたい。
 
 阿武隈民芸館で、光太郎装幀の心平著書の数々を見ながら、光太郎の言に、首肯させられました。
 
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昨日、草野心平が愛した「天山祭り」参加のため、福島第一原発にほど近い、双葉郡川内村に行って参りました。
 
2回に分けて、レポートいたします。
 
昨日朝、愛車を駆って自宅を出、圏央道、常磐道と進みました。昨年は、原発事故の影響で、常磐道の広野IC~常磐富岡IC間の通行止めが続いていましたが、今年初めにそれも解除されており、終点の常磐富岡ICまで行きました。
 
その意味では、復興も一歩前進です。
 
しかし、常磐富岡IC周辺、行政区分で言うと富岡町は、あまりいい状況ではありませんでした。
 
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もとは田んぼだったと思える場所は、野原と化していました。除染で出たであろう廃棄物も、道ばたに無造作に積んであります。
 
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無人の家屋がつらなり、庭先には、雑草が伸び放題。使用禁止の郵便ポスト。
 
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一山こえて、川内村に入ってから、ようやく人々の営みが見えてきた、という感じでした。それでも、まだまだ被災中だというのがよく判ります。
 
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それでも、がんばろう、という村民の意気込みが伝わってきます。
 
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以前、当方も泊まった仮設のビジネスホテル。
 
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田んぼアートです。「天山 心平」の文字が。天山祭り会場の天山文庫のすぐ近くです。
 
天山祭り、今年で49回目だそうで、生前の草野心平が愛した祭りです。下記は昭和41年(1966)の第1回天山祭りで、村人と共に踊る心平です。
 
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無論、49回目の今回も、心平を偲ぶという趣旨もありますが、やはり震災の被害、原発事故からの復興という意味合いも強く込められていました。
 
さて、会場は、天山文庫。もともとは、昭和41年(1966)、心平が川内村に、蔵書を寄贈するにあたって作られた建物です。
 
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そちらの前庭が、天山祭り会場です。昨年は雨のため、村内の別の施設で行われました。当方、天山文庫で開催される天山祭りは初めてでした。
 
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午前11時30分開会。主催者あいさつは、元003教育長の石井芳信氏。連翹忌にもご参加いただいたことがあります。
 
さらに、遠藤村長。「元の川内に村に戻ることはないだろうが、それでも前に進もう」と、力強くお話しなさいました。
 
この春まで、川内草野心平記念館長を務められた晒名昇氏への感謝状の贈呈に続き、心平の肉声録音による詩の朗読が流れ、その後に心平が創刊した雑誌『歴程』同人の皆さんによる、心平詩の朗読が行われました。
 
復興支援ソング「ときよめぐれ(までいのロンド)」を作詞された伊武トーマ氏も朗読なさいました。やはり心平のスピリットを受け継ぐ方ですので、ひと味違う朗読でした。
 
さらに、川内小学校の5、6年生による朗読。
 
地域の宝として、次の世代にもしっかりと受け継がれているようです。このまま続けていってほしいものです。
 
しかし、「5、6年生」といいながら、6人しかいなかったのですが、これで全部なのか、選抜チームなのか……ちょっと不安でした。
 
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そして、心平も愛した郷土芸能の披露。アトラクションでは、地元の皆さんの歌、などなど。
 
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村内外、多くの人々、テレビ報道のクルーも入り、大いに盛り上がりました。みなさん、ひととき、「被災」という特殊な状況下にあることを忘れたのではないかと思います。
 
遠藤村長の話に戻りますが、「変えていかなければならないこと」と「頑固に変えてはいけないもの」がある、とお話しされていました。村の仕組みや今後の被災対策等々が「変えていかなければならないこと」、「頑固に変えてはいけないもの」が、この天山祭り。そのとおりですね。
 
その後、当方は、天山文庫、さらにすぐ近くの阿武隈民芸館を見学、夕方から「かえる忌」会場ともなっている小松屋旅館さんでの「二次会」に参加しました。
 
そのあたりは、明日、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月13日
 
大正6年(1917)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』第424号に、智恵子のアンケート「海か山かに――今年の夏の計画――」が掲載されました。
 
 先年一度(ひとたび)参りました信州上高地へ参るかもしれません。其の他(た)はまだ確(しか)ときめて居りませんので、申上かねますが、何れ海か山かで夏を過してしまふことかと思ひます。

土日で宮城女川を中心に動き回って参り003ました。昨日はメインの女川についてレポートしましたが、今日はその前後について書きます。
 
6/14(土)、東北へ向かう道すがら、まずは千葉県柏に立ち寄り、NPO法人エアロームかしわさん主催の公開講座 「光太郎と智恵子の愛」に参加して参りました。
 
会員の方々の勉強会的なおもむきで、一般の方も参加自由、というスタンスでしたが、会員外は当方のみ、全員で0057名でした。そのくらいの人数だろうと
ある程度は予想していましたし、そういう中に当方のような者が混ざるのも迷惑かな、とは思っておりましたが、やはり「光太郎智恵子」と冠したイベントがあると引き寄せられてしまいます(笑)。
 
いつも同じようなことをあちこちで言ったり書いたりしていますが、どんなに優れた芸術家、芸術作品でも、後世の人間がその業績なり作品なりをしっかりと正しく受け止め、さらに次の世代へと受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれ、忘れ去られてしまうものです。そういう意味では、こうして市民の方々がこうした講座で光太郎智恵子について勉強されるというのは、ありがたいかぎりです。
 
その後、一路、福島は二本松へ。
 
翌朝7時に旧安達町の智恵子の生家・記念館の駐車場からバスで女川に出発ということで、前泊しました。普段、二本松宿泊の際には安達太良山麓の岳温泉に泊まることが多いのですが、旧安達町までは少し遠く、7時出発ということで、智恵子の生家・記念館にほど近い「かねすい 智恵子の湯」さんに泊まりました。
 
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以前に昼食に立ち寄ったことはありましたが、宿泊は初めてでした。なかなかこぎれいな部屋で、鉄分多めの茶色い鉱泉もいい感じでした。窓を開けると智恵子の母校・油井小学校が見えました。
 
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翌朝、7時に「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんと共にバスに乗り込み、女川へ。女川のレポートは夢くらぶさんのサイト、それから昨日の当ブログをご覧下さい。
 
女川を出たのが正午近く。塩竃の大入寿司さんに寄って昼食。美味でした。
 
その後、仙台へ向かい、まず仙台文学館さんに。現在、企画展「仙台文学館・開館15周年記念特別展 石川啄木の世界~うたの原郷をたずねて」が開催中です。企画展といえば、こちらでは平成18年に「高村光太郎・智恵子展―その芸術と愛の道程―」を開催して下さいました。その時と、その後も調べ物で何度かお邪魔しましたが、久々の訪問でした。
 
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啄木と光太郎は与謝野夫妻の新詩社や『スバル』で顔見知り。ただ、それほど深い交友はなかったようで、直接、光太郎に関わる展示はありませんでしたが、それでも「新詩社同人名簿」「新詩社規則」、それから与謝野夫妻や北原白秋、吉井勇など、光太郎と縁の深い人物の資料も多く、興味深く拝見しました。
 
また、「銭形平次」シリーズの作者・野村胡堂に宛てた書簡類が数多く並んでいました。今年3月に岩手紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」さんに行つたばかりなので、「ほう」と思いました。そのときのレポートにも書きましたが、胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
続いて宮城県美術館さんへ。昨年1月、大雪の中、企画展「生誕100年 追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観に行って以来でした。
 
現在は企画展「手塚治虫 × 石ノ森章太郎 マンガのちから」を開催中でしたが、時間の関係でそちらは割愛、常設展と別館の佐藤忠良記念館のみ観て参りました。
 
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新緑の中で観る忠良彫刻もいいものでした。
 
その後、二本松に戻り、解散。更に当方は愛車を駆って千葉の自宅に戻りました。強行軍でしたが、有意義な旅でした。
 
昨日も書きましたが、まだまだ東北は被災中。足を運ぶことも復興支援になります。よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月17日
 
昭和22年(1947)の今日、連作詩「暗愚小伝」の原稿28枚を小包にし、発送しました。
 
自らの戦争責任に思いを馳せ、生涯を振り返った20篇の連作詩です。花巻郊外太田村の独居生活も、この「暗愚小伝」執筆以前は無邪気に文化村の建設みたいなことを考えていましたが、この頃から「自己流謫(るたく)」―自分で自分を流刑に処する―という方向に転換していきます。

今日は大阪に行っておりました。与謝野晶子の忌日、第32回白桜忌の集いが堺市の覚応寺というところで行われ、そちらに参加、また、その前に堺市を中心にいろいろと廻って参りました。
 
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詳細は明日以降レポートいたします。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】
 5月29日

平成10年(1998)の今日、郡山市民文化センター展示室において、企画展「智恵子 その愛と光彩 高村光太郎の彫刻と智恵子の紙絵展」が開幕しました。
 
この郡山展を皮切りに、翌年にかけ、岩手、広島、東京、北海道、島根を巡回し、好評を博しました。
 
当方、東京展(大丸ミュージアム)を観て参りました。

一昨日、浅草はアミューズミュージアムさんで、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」を聴いて参りました。
 
出演者の中村雅子様塙野ひろ子様須賀雅子様のブログにレポートがありますので、リンクさせていただきます。
 
浅草といえば、光雲・光太郎親子のホームグラウンドです。特に光雲は浅草の生まれです。そこで、朗読会が始まる前、少しだけ二人の足跡をたどってみました。
 
まず、浅草寺観音堂前の手水舎。光雲作の「沙竭羅龍王像」。
 
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明治36年(1906)の建立です。ただし、はじめは観音堂裏手にあった池に噴水があり、その噴水塔の上に鎮座ましましていたもので、のちに移転されています。
 
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こちらは当時の絵葉書。一見カラーですが、「手彩色」といって、色は手で塗ったものです。
 
像の迫真の表情、それから東韻光による天井画の龍も実に迫力があります。
 
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続いて観音堂の前を左折、奥山方面へ。奥山門を出ると「浅草花やしきさんがあります。
 
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光太郎、ここには美術学校時代によく通っていました。
 
動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。(「モデルいろいろ」 昭和30年=1955)
 
そんな無理が通った背景には、光太郎の祖父・中島兼吉がこの辺りの香具師(やし)の組、花又組の親分だったことも無関係ではないでしょう。
 
花やしきの前を過ぎ、少し行ったアーケード街を北上すると、老舗の牛鍋屋「米久さんがあります。
 
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光太郎は大正10年(1921)、この店を舞台に「米久の晩餐」という長大な詩を書きました。
 
    米久の晩餐
 
八月の夜は今米久(よねきう)にもうもうと煮え立つ。
 
鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり坐り込んだ生きものの海。
バツトの黄塵と人間くさい流電とのうづまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六官の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き払つて
遠い海のオゾンを皆(みんな)の團扇(うちは)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら、酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁(とうりやう)、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎよく)にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌溂の力を心に育(はぐく)みながら静かに座を起つた。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 
ここで昼食、と考えていましたが、まだ開店前でした。
 
この界隈にはその他にも光太郎光雲ゆかりの場所がまだまだあります。ただ、花やしきさんや米久さんのように、今も続いているところはそう多くはないのですが。また時間を見つけて、古地図片手に足跡をたどってみようと思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月26日

平成12年(2000)の今日、俳優の山村聰が歿しました。
 
山村さんといえば、昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」で光太郎役を演じられました。その時の智恵子役は原節子さんでした。
 
以前にも書きましたが、山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。
 
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画像は映画「智恵子抄」のパンフレットから。
 
山村さんご自身の言葉も載っています。
 
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昨日は、福島二本松市コンサートホールにて開催された「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」を拝聴して参りました。
 
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午前9時過ぎ、愛車を駆って自宅を出ました。先月、圏央道が自宅近くまで延伸されたので、通ってみたところ、これまでよりだいぶ早く行けるようになりました。
 
圏央道→常磐道→磐越道→東北道と乗り継ぎ、昼食は東北道の安達太良SAでとりました。
 
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安達太良SAから見た安達太良山。昨日は山開きもあり、こちらも多くの人でにぎわったようです。
 
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同SA、下り線2階の蕎麦屋さんには、智恵子に関するミニ展示があります。お立ち寄りの際にはぜひご覧ください。
 
東北道二本松ICで降りて、コンサートホールへ。ここは昭和63年の開館ですが、二本松ゆかりの声楽家・関屋敏子に因んだイタリア風の外観をもつ瀟洒な建物です。館内には関屋敏子のポートレートや肖像画が飾ってありました。関屋は先祖が二本松藩の御殿医だったそうです。
 
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さて、午後2時、開演。二本松在住の河田富士雄さんの語り、連翹忌や女川光太郎祭ご常連の宮川菊佳さんのギターに載せ、ラジオ福島アナウンサー・菅原美智子さんによる光太郎詩朗読。
 
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光太郎智恵子の出会いから、智恵子死後の光太郎の独居生活までを6章に分け、それぞれ3~5篇ずつ、計23篇の朗読で、光太郎智恵子の世界を表現されました。
 
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プロジェクタで関連する画像を映写したりといったビジュアル的な工夫もあり、なんといっても菅原さんの情感たっぷりの朗読が素晴らしいと思いました。当方、菅原さんの朗読を聴くのは初めてでしたが、このイベントの主催団体である「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表から、とてもいいと聞かされており、今回、実際に聴いてみて、納得いたしました。
 
この後も「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベント、また、同じく二本松で活動されている「智恵子の里レモン会」さん主催のイベントなどがいろいろとあります。また近くなりましたらご紹介いたしますが、1件だけ先の話を。
10/5(日)、智恵子忌日の「レモン忌」が「智恵子の里レモン会」さん主催で行われます。今年は当方が記念講演をすることになりましたのでよろしくお願い申し上げます。詳細は後日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月19日

昭和25年(1950)の今日、日本書籍株式会社から1,600円の書留を受けとりました。
 
大正13年(1924)作の詩「春駒」が同社刊行の教科書に掲載されたため、その転載料です。

昨日、岩手花巻で行われた第57回高村祭をレポートします。
 
夜行高速バスで花巻駅前に着いたのが朝6時30分過ぎ。駅の売店で買ったパンとコーヒーで朝食。タクシーで会場の高村山荘―昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が暮らした山小屋―に向かいました。会は10時からなのですが、早めに行って周辺散策、それから敷地内の高村光太郎記念館を観ようと思った次第です。
 
東北北部もようやく新緑の季節となり、昨日は光太郎関連のイベントにしては珍しく雨も降っておらず、いい感じでした。記念館のかたわらの山桜はまだ花を付けていました。
 
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会場の設営を終えて、いったんお帰りになるという花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋氏、山口支部の浅沼さんなどにご挨拶、その後、周辺を歩きました。
 
山荘の向かって右手は光太郎が使用していた便所ですが、「月光殿」という洒落た名前が付けられていたものです。明かり取りのために「光」一字が壁に彫りつけられています。
 
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裏手に回ると、中からの様子が見えるようにしてありました。以前はこうなっていなかったので、興味深く拝見しました。
 
記念館は8時30分開館ですが、少し前に入れていただき、お茶まで戴いてしまいました。ショップでは、復刊された花巻版『高村光太郎詩集』も並んでいました。
 
そうこうしているうちに参会の皆様が集まり始め、当方も会場に移動。会場はやはり敷地内の「雪白く積めり」詩碑前の広場です。もともと第1回の光太郎祭(昭和33年=1958)は、この詩碑と山小屋の套屋(とうおく=建物全体のカバー)落成記念を兼ねて開かれたという経緯があり、ここが伝統的に会場になっています。
 
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さて、開会。献花、献茶、参会者全員による「雪白く積めり」朗読、主催者挨拶と続き、これも伝統的に、地元の小中高生、花巻高等看護専門学校生徒の皆さんによる朗読や器楽合奏、合唱などが行われました。
 
小学生の器楽合奏は、もともと光太郎が旧山口小学校に楽器を寄附したことに由来します。おそらく初期の高村祭ではその光太郎寄附の楽器が使われていたと推定されます。

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その後、特別講演。講師は光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご令嬢、末盛千枝子さん。講師紹介で「ご令嬢」と紹介されると、ご来場の末盛さんのお友達の皆さんが非常にウケていました。
 
当方、昨秋、東京代官山でのイベントで末盛さんのお話を伺いましたが、その折りのお話プラスアルファで、興味深い内容でした。やはり直接光太郎をご存知で、家族ぐるみ光太郎と縁のあった方のお話ですので、そうでない方のお話とは違います。
 
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右上は終了後のサイン会の様子です。
 
その後、お昼の弁当を戴いて、さらに当方は記念会スタッフの方と記念館改修についての打ち合わせ。現在は手前の展示スペースのみを使っていますが、その奥のスペースを使い、倍近い広さになるとのことで、図面を見ながら現場を拝見しました。1年後には新規オープンの予定ですが、今年就任された新市長の方針で、地元の皆さんの声も反映させていくとのことです。当方もまた関わらせていただきます。
 
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その後、末盛さんともども山荘内部に特別に入れていただきました。2年ぶりに中に入りましたが、やはり感慨深いものがありました。
 
そして花巻駅まで送っていただき、千葉へと帰りました。
 
高村山荘、記念館、新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運び下さい。来年には記念館改修完了の予定ですし、また第58回高村祭もあります。そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
昨年運行され、好評だったレトロジャンボタクシー「あったかいなはん花巻号」、今年も運行されています。そちらについてはまた日を改めて書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月16日

昭和25年(1950)の今日、花巻の寿デパートで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち花巻にあったものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはここに保管されている等の情報をお持ちの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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東北新幹線はやぶさ車中にて書いております。

昨夜は池袋から夜行バスに乗り、今朝、花巻に着きました。今日は花巻郊外、旧太田村の光太郎が暮らしていた山小屋・高村山荘敷地内にて、第五十七回高村祭でした。

詳しくは明日、また投稿いたします。

【今日は何の日・光太郎 補遺】5月15日

昭和33年(1958)の今日、花巻で第1回高村祭が行われました。


当時の呼称は「高村記念祭」。記念講演の講師は草野心平、伊藤信吉でした。

岩手花巻の㈶高村記念会さんからご案内をいただきました。 

滴一滴第57回高村祭

日 時 : 平成26年5月15日(木) 午前10時から午後14時30分頃まで
場 所 : 岩手県花巻市太田3-91 高村山荘詩碑前
      (雨天時はスポーツキャンプ村屋内運動場)
主 催 : 一般財団法人花巻高村光太郎記念会 同山口支部
共 催 : 花巻市 花巻市教育委員会 一般社団法人花巻観光協会
内 容 : 式典 地元学生による詩の朗読 器楽演奏 コーラス等
 
特別講演 末盛千枝子先生(編集者) 演題『私にとっての高村光太郎』
 
5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエを空襲で焼け出された光太郎が、宮澤家の招きで花巻に疎開するために東京を発った日です。それを記念して、毎年この日に光太郎がかつて暮らしていた旧太田村山口の山小屋(高村山荘)で、高村祭が行われています。
 
昨年は山荘近くにリニューアルオープンした高村光太郎記念館の仮オープンも兼ね、お父さまが光太郎と交流があった女優の渡辺えりさんによる特別講演があり、多くの方でにぎわいました。
 
今年の特別講演は末盛千枝子さん。やはりお父さまの彫刻家、故・舟越保武氏が光太郎と交流があり、ご自身も光太郎と面識がおありです。昨秋、東京代官山でのイベント、読書会「少女は本を読んで大人になる」にご出演、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は「智恵子」にちなんで光太郎が名づけてくれたというお話、その後、成長なさってから光太郎と実際にお会いになった時のお話など、興味深い内容でした。今回もそのあたりが聴けると思います。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月3日

大正15年(1926)の今日、詩人の尾崎喜八に宛てて、自作木彫「鯰」をプリントした絵葉書を送りました。
 
大正末から昭和初めにかけ、光太郎はこのように自作の彫刻や自分と智恵子の写真を使った絵葉書をよく使用していました。「鯰」はこの時開催されていた「聖徳太子奉賛美術展覧会」に出品したものでした。
 
おまけ
 
このブログ、本日をもって、3年目に突入しました。昨日までまる2年、主に新しい情報を中心に、1日も休まず更新して参りました。時折、ネタに苦しむこともありましたが、探せばネタは結構転がっているものですね。
 
地味なブログですのでなかなか閲覧数が伸びませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことを書きました。というわけで、今日は光太郎の命日です。光太郎の故郷、東京では日比谷松本楼様で「第58回連翹忌」、戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手・花巻の松庵寺様でも、花巻としての連翹忌の集いが開催されます。
 
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全国の光太郎ファンの皆様、特に今日は、光太郎に思いを馳せていただきたく存じます。
 
日比谷松本楼様での第58回連翹忌については、明日以降、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月2日
昭和32年(1957)の今日、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエで第1回連翹忌が開催されました。
 
「連翹忌」の名付け親は、光太郎と親しかった000佐藤春夫、草野心平といった顔ぶれと思われます。昭和31年7月に脱稿した佐藤春夫の『小説高村光太郎像』は、次の一節で終わります。
 
 智恵子のものをもしレモン忌と呼ぶならば光太郎のそれは連翹忌といふべきでもあらうか。二つとも共通にあざやかにすがすがしい黄色なのも一奇である。
 思ふにかの仙女とこの詩人とは、今ころ素中にあつて固く相抱いてゐるであらう。わたくしはこの間、彼等がしばらく同類としてそこに住んでゐた工房の墟を訪れてみたが、そこには壮年の頃の面顔を持つて晩年の口調で語る光太郎を見ただけで智恵子は終に見られなかつた。
 おそらく九十九里の朝あけか、安達原二本松の梢、阿多多羅山や阿武隈川のほとり、往年、光太郎が智恵子の生家を智恵子と並んで見たあたり遠い世の松風の薄みどりに「吹かれ漂ふ夕雲の色がレモンにも連翹にも似たものを見出したならばそれが相抱く素中の光太郎智恵子なのであらう。それとも上高地徳本峠の山ふところの桂の木の霜葉の荘厳なもののそよぎのなかにかくれてゐるのでもあらうか。
 
その佐藤も列席して、光太郎が息を引き取った中野のアトリエで、第1回の連翹忌が開催されました。
 
出席者は以下の通り。
 
高村豊周 高村喜美枝 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊東信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜  小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
 
この中で、58回連翹忌に参加されるのは、光太郎の令甥・高村規氏と、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお二人だけです。おそらく他の方々はほとんど鬼籍に入られていると思われます。ただ、その方々の縁者の皆さんのご参加もあり、そういう意味では第1回の連翹忌の魂は連綿と受け継がれています。
 
さて、第58回連翹忌、つつがなく、そして盛会の中に執り行えることを念じつつ……。

昨日から1泊2日で、山形、宮城、岩手と東北3県を歩いてきました。
 
今回は博物館、文学館、美術館を5ヶ所廻って参りました。我ながらすごいと思いました(笑)。
 
昨日は山形市最上義光歴史館さん、仙台市立博物館さん。今日は岩手紫波町の野村胡堂あらえびす記念館さん、盛岡市の盛岡てがみ館さん、同じく盛岡市の深沢紅子野の花美術館さん
 
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いろいろと新発見等があり、有意義な2日間でした。
 
例によって明日以降詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月9日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光雲が仏師高村東雲に弟子入りする話がまとまりました。

初め、大工に弟子入りするはずが、髪を整えに行った町内の床屋さんの紹介で、急遽そういうことになりました。歴史に「たられば」は禁物ですが、もしそれか無かったら、と考えると、ある意味ぞっとします。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第58回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 
第58回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成26年4月2日(水
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼
     〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 
 
申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 


ごあいさつ

 この一年は、オリンピックなどの世界をつなごうとする人々の真摯な努力もありましたが、猛暑や豪雪など荒々しい天候や、心痛む世情も続きました。いつも連翹忌にお出かけ下さる皆さん、ことにみちのくの被災者の皆さんには、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいましたか。

 その間にも各地で光太郎生誕百三十年を記念するメモリアルな展覧会が開かれ、十和田裸婦像建立から六十年になるという年にも遭遇して、たくさんの彫刻や智恵子の紙絵が展示されました。じかに二人の作品にふれることによって、心うつ創作、新しい感想や解釈も次々に寄せられています。        

 歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。

 今年は更に加えて、最初の詩集『道程』が刊行され、光太郎智恵子が共に棲み始めた大正三年から百年になります。

 運営委員諸君の努力によって、たのしい試みやご報告もたくさんあることでしょう。

 春の一夜を今年も是非お目にかかりたく、お誘い申し上げます。

平成二十六年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一


 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月21日001

昭和28年(1953)の今日、詩人・編集者の池田克己の逝去に際し送る弔電のために短歌を詠みました。
 
ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
 
(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)
 
池田は昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。
 
「ライカ」云々は、昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

十和田レポートの最終回です。
 
2/9(日)、蔦温泉をあとにし、最後の目的地である奥入瀬渓流館さんへ向かいました。
 
同館は、(財)十和田湖ふるさと活性化公社さんによる運営で、十和田湖や奥入瀬渓流のジオラマや年表、マップなどによる名所の紹介、スキーや電動アシスト付き自転車のレンタルなどを行っています。
 
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一番の目的は、大町桂月を紹介するコーナー。ここに光太郎作の彫刻「大町桂月メダル」が展示されています。
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昭和28年(1953)10月21日、「十和田湖畔の001裸婦像」(通称「乙女の像」)除幕式に際し、関係者に配布されたものです。直径は約12㌢。おそらく当時のものと思われるケースも付いています。
 
150個鋳造されましたが、大半は行方不明となっており、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一さん曰く、地元では4個ぐらいしか所在が確認できていないとのこと。
 
昨年、全国3館で巡回開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」では、高村家に保存されている石膏原型が並びましたし、以前に開催された同様の企画展でも、やはり石膏原型が展示されています。当方、鋳造されたものはおそらく初めて見ました。
 
昭和28年(1953)の光太郎日記には、8月にこのメダルの制作を始め、9月には完成したこと、アトリエを訪れた桂月の子息が「亡父によく似ている」と語ったことなどが記されています。

ちなみに当方、青森市の青森県近代文学館さんに所蔵されていることは知っていました。

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この後に取りかかった「倉田雲平胸像」は未完のまま絶作となったため、完成した彫刻としては、このメダルが光太郎最後の彫刻作品です。そう思ってみると、改めて感慨深いものがありました。
 
ただ、光太郎作であるなどのキャプションが特についておらず、「そういう説明があった方がいいですね」と申し上げたところ、当方が書くことになり、早速昨日、メールにて送信しました。そのうちに添えられると思います。
 
その後、館内を見学。
 
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元プロレスラーという、起田高志さんがインストラクターを務めるコケ玉作り体験コーナー。親子連れがチャレンジしていました。起田さんは、昨年、それからつい最近も再放送でオンエアされたNHKBSのテレビ番組「発見!体感!川紀行」で紹介されていました。
 
また、奥入瀬渓流は非常に珍しいコケが群生しているとのことで、最近は「苔ガール」なる女性がたくさん出没しているそうです。
 
さらに館内で土産物を購入。
 
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土産物といえば、前夜、十和田湖冬物語の会場ではこんなものも買いました。
 
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十和田湖限定・乙女の像のご当地キティちゃんストラップです。
 
その後、山一さんの運転する車で七戸十和田駅へ。名残を惜しみつつ帰途に就きました。今回も非常に有意義な旅でした。お世話になりました山一さん、山田さん、吉崎さん、木村さん、小笠原さん、起田さん、山本さん、ありがとうございました。
 
ただ、豪雪のため行けなかった所もあり、また、他の季節の様相もじっくり見てみたいと思っています。また、十和田市としての事業のお手伝いもすることになりそうですので、また近々お邪魔することになりそうです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月13日

昭和28年(1953)の今日、各地に預けていた智恵子の紙絵のほとんどが、光太郎のもとに戻りました。
 
戦時中、空襲による被害を想定し、光太郎は智恵子遺作の紙絵千点余を、知人を頼って山形、花巻、茨城取手の三箇所に分けて疎開させました。中央公論社画廊で開かれた紙絵展に合わせ、各所に寄贈された若干の作品を除き、それらが再び光太郎のもとにもどったというわけです。

十和田レポートの3回目です。
 
一夜明けて2/9(日)朝、前日も御案内くださった十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが、やはり観光ボランティアの木村さんとともに、車で迎えに来てくださいました。
 
この日の目的地は2箇所。まずは蔦温泉さんに向かいました。
 
「十和田湖畔の裸婦像」(通称「乙女の像」)は、十和田湖周辺が国立公園に指定されてから15周年の記念に、当地の景勝を紀行文で広く世に紹介した作家の大町桂月、道路整備等に腐心した元県知事の武田千代三郎、同じく元法奥沢村村長・小笠原耕一の、いわゆる「十和田の三恩人」顕彰のために作られたものです。
 
蔦温泉さんはその「三恩人」と縁が深く、特に大町桂月は蔦温泉さんに長く逗留、その最期も蔦温泉で迎えました。そのため桂月の墓がここ、蔦温泉にあります。また、昭和27年(1952)6月、裸婦像制作のための下見に訪れた光太郎も、蔦温泉さんに宿泊し、桂月の墓に詣でたりしています。
 
この日は前日、東京に45年ぶりの大雪をもたらした低気圧が北上、当地が大雪に見舞われました。たどり着いた蔦温泉さんもすっぽり雪に覆われていました。
 
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旅館は臨時休業中、桂月の墓も豪雪のため行くことができませんでした。
 
旅館に隣接する蔦温泉売店さんは開いていました。後で思えば、もしかすると当方一行のため開けてくださっていたのかもしれません。予定の中に、こちらのご主人・小笠原哲男氏にお話を伺う時間が設けてありましたので。
 
小笠原氏は十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の会長さんで、青森在住の彫刻家・田村進氏のお兄様にあたられます。田村氏は光太郎忌日の連翹忌の集いにもご参加いただいたことがあり、昨年の連翹忌では、氏の近作・光太郎肖像レリーフの巨大画像を会場内に展示させていただきました。
 
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さらに最近は光太郎胸像の制作にもかかられているとのこと。また、氏は北津軽郡小泊村の「小説「津軽」の像記念館」さんにある太宰治と子守のタケの銅像を作られた方です。
 
小笠原氏には往時の蔦温泉さんや、裸婦像建立に関する貴重なお話を伺うことができ、ありがたいかぎりでした。旅館の内部や桂月の墓を見られなかったのが残念でしたが、また陽気のいい時に訪れようと思っています。
 
蔦温泉さんを後に、次なる目的地、奥入瀬渓流館さんへと向かいました。そちらについてはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月12日

昭和24年(1949)の今日、岩手県笹間村の高橋澄子からの手紙を受けとりました。
 
笹間村は花巻市に編入され、「中笹間」「北笹間」といった地区名にその名残をとどめています。光太郎が暮らしていた旧太田村山口ともそう遠くない場所です。
 
昭和24年(1949)の光太郎の日記は、その存在が類推されながら、失われています。ただ、日記とは別に「通信事項」というノートが残されており、『高村光太郎全集』第13巻に収められています。それによると昭和24年2月12日に「高橋澄子といふ人よりテカミ(笹間村)」という記述があります。さらに2月14日には「高橋澄子さんへ返ハカキ(笹間村)」とも。
 
この返信の方が、一昨年でしたか、高橋澄子のご遺族から花巻の財団法人高村記念会に寄贈され、昨年、当方編集の「光太郎遺珠⑧」に掲載させていただきました。
 
おてがみ拝見いたしましたが、どういふわけか大変遅れてつきまして 小生入手は十二日でありましたので、十三日といふお話の日までに御返事出来ず、失礼いたしました。
いつに限らずおいで下されば小生在宅の時にはどなたにでもお目にかかります。
 右おくればせながら御返事まで
            二月十四日
                        高村光太郎
 笹間村
  高橋澄子様
 
「通信事項」には「ハカキ」とありましたが、封書でした。現在、花巻の高村光太郎記念館に展示されています。
 
ただ、光太郎が受けとった方の書簡を見ていないので、どういった事情なのかがわかりません。ご遺族の方もわからないとのこと。
 
情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

十和田レポートの2回目です。
 
2/8(土)、夕刻、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが運転する車で、十和田湖畔・休屋に到着しました。
 
こちらの多目的広場的スペースで、7日(金)から「十和田湖冬物語2014」が開催されています。
 
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一言で言えば、十和田湖の冬を愉しもうというイベントです。
 
この機会に光太郎作の彫刻、十和田湖畔の裸婦群像・通称「乙女の像」を久しぶりに見てみたいと思い、行ってみた次第です。「十和田湖冬物語2014」期間中は、夕方から夜にかけ、ライトアップがされているとのこと。
 
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会場の駐車場に車を駐め、十和田湖自然ガイドクラブ会長の吉崎明子さんと合流、乙女の像目ざして歩きました。
 
湖畔の波打ち際は、雪と氷で幻想的な雰囲気になっていました。
 
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歩くこと10分弱、乙女の像にたどり着きました。
 
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雪を固めて作ったたくさんの灯籠に電球がともされ、像には2方向からスポットライト。すっかり日の暮れた空に浮かびあがっています。
 
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この像と対面するのは約20年ぶり。感動しました。
 
この像には約2分の1スケールの中型試作があり、昨年、全国3ヶ所巡回で開かれた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に展示された他、花巻の高村光太郎記念館、福島二本松の智恵子記念館にも収蔵されており、昨年だけで10回以上見ました。
 
しかし、やはり2分の1スケールの中型試作とは、まったく迫力が違いますね。
 
この像を謳った光太郎の詩に、次の作品があります。
 
   十和田湖畔の裸像に与ふ001

銅とスズとの合金が立つてゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立つてゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。
 
約20年前に初めて見た時も感動しましたが、その時は夏の昼間。今回、冬の黄昏に浮かび上がるその姿は、まさに「天然四元の平手打をまともにうけ」ているように見え、この詩句が実感できました。
 
ちなみに像のかたわらにはこの詩を刻んだ詩碑も建てられていす。
 
名残惜しいと思いつつ、心の中で再訪を誓い、乙女の像をあとにしました。帰りは十和田神社の境内を通って、「十和田湖冬物語」会場へ。
 
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札幌雪祭りと同じように、巨大な雪像が作られています。やはり札幌同様、自衛隊さんによるもので、雪を使っての築城訓練の一環という位置づけだと思います。
 
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会場内にはプレハブの飲食店が軒を並べ、最近、B級グルメとして注目を浴びている「十和田バラ焼き」などが売られています。当方、うどんにおでん、ヒメマスの塩焼き、さらに「乙女餅」なるものを食べました(お代は山一さん、吉崎さんにもって頂いてしまいました。ありがたや。)
 
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さらに天然温泉を引いてきての足湯(100円)もあり、冷えた体にありがたいものでした。
 
この日は7時30から特設ステージで津軽三味線や和太鼓の演奏などがあり、さらに8時からは花火。そのころになると、来場者も数百人、ことによると1000人近く集まっていたのではないかと思われました。

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花火を見終わったところで、吉崎さんに別れを告げ、山一さんの運転で、奥入瀬の宿まで送って頂きました。ゆっくりと温泉につかり、就寝。
 
確かに寒いのは寒いのですが、雪国の人々のエネルギー的なものを感じました。「十和田湖冬物語」、3月2日まで開催されています。ぜひ足をお運び下さい。
 
続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月11日

明治22年(1889)の今日、大日本帝国憲法が発布されました。
 
宮中正殿での発布式のあと、明治天皇は青山練兵場で行われる観兵式に向かうため、馬車で市中に出ました。この日の東京も雪だったそうです。
 
その時のことを謳った光太郎の詩があります。
 
   土下座(憲法発布)007
 
誰かの背なかにおぶさってゐた
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶったまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎兵巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした
――眼がつぶれるぞ――
 
この詩が発表されたのは昭和22年(1947)。太平洋戦争中、空虚な戦意昂揚の詩を大量に書き殴って、多くの前途有望な若者を死地へ追いやったという反省から書いた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」の冒頭を飾る詩です。
 
この時、数え7歳の光太郎の頭を押さえつけ、「眼がつぶれるぞ」と言ったのは誰でしょうか。父・光雲、祖父・兼吉、あるいは光雲の弟子の誰かでしょうか。そうい具体的な人物、というよりは、この頃の光太郎を取り巻いていた「明治」の空気の象徴、と捉えた方がいいのかも知れません。

一昨日、昨日と、1泊2日で青森は十和田方面に行って参りました。今日からそのレポートを致します。
 
東京駅午前11:00発の東北新幹線はやぶさに乗り込み、七戸十和田駅に着いたのは午後14:12。新幹線が新青森まで延伸され、青森もぐっと近くなりました。
 
七戸十和田駅には、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが待っていて下さいました。昨秋、青森テレビの皆さんと一緒に、千駄木の高村家、北川太一先生邸に御案内した際のメンバーのお一人です。
 
事前に、同じく千駄木に同行された十和田市役所民生部まちづくり支援課の山本課長補佐に、十和田に行く旨をお伝えしましたところ、詳細な行動計画を作って下さり、しかも現地での移動は山本氏の四駆のワゴン車、運転は山一さんというVIP待遇でした。当初予定では山本氏の運転で御案内下さるはずでしたが、氏がインフルエンザでダウン、変わって山一氏が案内役を買って出て下さいました。
 
まずは奥州街道沿いに十和田市街へ。
 
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当然と言えば当然なのですが、奥州街道は国道4号線です。国道4号といえば、都内では日光街道。当方の出身大学そばを走っているので、学生時代は車やバイクでうろついていましたし、最近も福島二本松でよく走る道でして、青森の方には怒られそうですが、「こんなところまで4号線がのびているのか」と、変な感動をしてしまいました。
 
さて、最初に寄ったのは、十和田市現代美術館さん。最近、十和田市は、この館を中心に現代アートの街としても徐々に有名になってきました。

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当方、美術館に行くことは多いのですが、やはり光太郎がらみで近代の作品に接することが多く、現代アートは不案内です。そういう意味では現代の作品の数々は新鮮でした。
 
その後、国道102号で奥入瀬方面へ。宿は焼山という地区にある十和田湖温泉郷内で、一旦チェックインし、荷物を置くために立ち寄りました。行くまで気がつかなかったのですが、すぐ近くに十和田湖温泉スキー場というのがありました。それだけに雪はやはり深く、山一さんがスキー場で借りて下さった長靴が役に立ちました。
 
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車は奥入瀬渓流沿いに十和田湖方面へ。途中、銚子大滝に寄っていただきました。ここには、昭和28年(1953)10月21日、光太郎の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)と同じ日に除幕された佐藤春夫の詩碑があります。
 
こちらの除幕式が午前中、午後が乙女の像の除幕式で、光太郎は両方に参加しました。昨秋、その時の映像をお送りいただき、非常に驚いたものです。
 
春夫の詩碑はすっかり雪に埋もれており、そうと教えていただかなければ、どこにあるのかも解らない状況でした。 

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ただ、たとえ雪に埋まっていなくても、現在では碑面がすっかり苔むしていて、ほとんど読めないとのこと。その苔も国立公園内の風物の保護を目的とした自然公園法の規定により、勝手にはがせないそうです。
 
そして車はいよいよ十和田湖畔に。子の口、宇樽部を過ぎ、休屋地区へと向かいます。こちらで先週金曜日から行われている「十和田湖冬物語2014」というイベントが、今回の十和田行きの大きな目的の一つでした。
 
そちらについては、また明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月10日

明治45年(1912)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれた「パンの会」に参加しました。
 
明治42年(1909)に3年余の欧米留学から帰朝した光太郎は、『スバル』執筆者の面々を中心に巻き起こっていた「パンの会」の喧噪に巻き込まれました。
 
「パンの会」とは、フランスのカフェ・ゲルボア(サロンからしめ出されたマネを中心に集まった、若い文学者と美術家達のカフェ文芸運動)を模して始められたもので、東京をパリに、隅田川をセーヌ川に見立て、エキゾチシズムを求めた耽美主義的芸術運動です。その名称はドイツの総合雑誌『パン』を中心にして起こった芸術運動「パンの会」に由来します。「パン」とはギリシャ神話の牧羊神の名ですが、大逆事件で過敏になっていた日本の当局は「麺麭(パン)」を要求する社会主義者の集まりかと警戒したという逸話があるそうです。
 
その狂瀾も長くは続かず、徐々に退屈なものとなって「パンの会」は終焉します。

先程、十和田から帰って参りました。001
 
昨日の東京は45年ぶりの大雪ということで、心配していた「十和田にたどり着けるか?」という懸念はまったくの杞憂に終わり、予定通りに到着。現地では現地の様々な皆さんにお世話になり、非常に有意義な十和田紀行でした。

しかし、問題は帰りでした。東京駅までは東北新幹線、ほぼ時間通りに帰ってくることが出来ましたが、東京駅から普段使っている高速バスが今日は全面運休。しかたなく電車に乗ったのですが、途中で何度も立ち往生し、結局、千葉県香取市の自宅に着くまで、東京駅から5時間かかりました。普通なら往復してもおつりが来る時間です。
 
正直、疲れました。
 
十和田レポートは明日以降、詳しく掲載します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月9日

大正3年(1914)の今日、詩「道程」の原型を執筆しました。
 
原型は翌月刊行された雑誌『美の廃墟』に掲載されました。その段階では、何と102行もある長大な詩でした。それが約7ヶ月後に詩集『道程』に収められる際に、ばっさり削られ、僅か9行に圧縮されました。
 
ここでは、ちょうど100年前の今日執筆された、102行の原型をご紹介します。コピペ等で使うのは結構ですが、勝手に表記を変えないでください。テキトーなところで一行空きを作ったり、書いていない場所にルビを振ったりなどはご遠慮下さい。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよっつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなっつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然は子供達が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め

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