カテゴリ: 日記

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】

はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け

                                                       明治34年(1904) 光太郎19歳


草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

先週、娘が迷い猫を拾ってきました。

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猫を拾ってくる娘というと、小学生くらいの女の子をイメージする方が多いかと存じますが、うちの娘は今年24になります。もっとも、中身は小学生とあまり変わらなかったりしますが(笑)。その娘も、それから妻も外で仕事をしていますので、いきおい、昼間は当方が面倒をみるしかありません。まぁ、世話といっても時折餌と猫牛乳をやるくらいで、あとはほとんどほっぽっていますが(笑)。

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光太郎智恵子も駒込林町のアトリエで、猫を飼っていました。

大正15年(1926)、雑誌『詩神』に載った光太郎の談話筆記「生活を語る」に、次の一節があります。

 家畜は犬が大変好きですがよく留守にするので飼わないのです。猫は飼つてゐたことがある。これは自活をしてゐたのです。岡田三郎助さんから黒い猫を貰つてきたので、すばらしくいゝ猫だつたのです。

岡田三郎助は洋画家。光太郎智恵子夫妻と家族ぐるみでつきあいがありました。

また、昭和26年(1951)、『高村光太郎選集』第三巻の附録に載った森田たまの回想。大正5年(1916)頃の話です。

 早春の一日、偶然町角で出会つたいまの夫を、私はふと思ひついて高村家へ連れて行つたのである。高村さんも智恵子夫人も、突然の訪問者をいぶかりもせず、あたたかくもてなして下すつた。(略)つやつやとした黒猫がゐて、それが夫の膝にのつたのを、この猫は他人の膝にのつた事はないのだと、猫に好かれた事が夫の性質の善良さを表はすやうに云つて下すつたりした。

その大正5年(1916)には、光太郎、そのものずばり「猫」という詩も書いています。翌年の雑誌『詩歌』に発表しました。

     猫006

 そんなに鼠が喰べたいか
 黒い猫のせちよ
 どんな貴婦人でも持たない様な贅沢な毛皮を着て
 一晩中
 塵とほこりの屋根裏に
 じつと息をこらしてお前は居る
 生きたものをつかまへるのが
 そんなにもうれしいか
 そんなにも止みがたいか
 ああ、此は何だ
 此は何だ
 黒い猫のせちよ
 お前はそれで美しい
 かぎりなく美しい
 だが私の心にのこる恐ろしい此は何だ


動物をモチーフにしている点、自らの荒ぶる魂を投影している点など、数年後に始まる連作詩「猛獣篇」の序曲ともいえる作品です。

「セチ」というのが高村家の猫の名前でした。奇妙な名前ですが、その由来は智恵子が岡田三郎助の妻、八千代に送った書簡で明らかになりました。大正4年(1915)10月の消印です。

きのふ田村さんが あれをつれて来て下さいました007 (2)
ほんとにきれいなのでよろこんで居ります
厚く御礼申上ます おとなしいひとですね
お宅ぢや惜しかつたでせうつて話して居ります
セチつてつけてやりました あの眼が
そんな気がしたのです セチつて星はセチの
オミクロンていふんですつてね
此度田村さんへ御出の時 どうぞお寄りに
なつて あれの様子を見てやつて下さいまし
いけないとこがあるといけませんから
きのふは少しシヨゲてましたがけふは元気に なれて
しまひました 高村から御主人にくれぐれ
よろしくつて申上ました
どうぞ 御遊びにいらして下さいまし
                御礼まで  艸々
   廿六日夕
 岡田八千代様
                   高村智恵

「田村さん」は作家の田村俊子。智恵子、岡田八千代ともども、初期『青鞜』メンバーです。

「おとなしいひとですね」って、人じゃないぞ、と突っ込みたくなります(笑)。もっとも、光太郎と縁の深かった当会の祖・草野心平は、酒に酔うと、腹を空かせた野犬を前に「犬だってニンゲンだ!」と叫んだといいますので……。この人たちの感覚はやはり違うのかも知れません(笑)。

「セチ」は星座の鯨座のラテン名「Cetus」の所有格「Ceti」から採った名前だということがわかります。「オミクロン」は鯨座を構成する星の一つだそうです。猫の眼がこの星のようだということですが、「セトゥス」や「オミクロン」では呼びにくかったのでしょう。しかし、洒落た名前の付け方ですね。うちの猫は本名「ツナ缶」、通称「ツナ」になってしまいました(笑)。ちなみに雌です。「セチ」は雄雌どちらだったのでしょうか。

「ツナ」嬢、当方がパソコンに向かって椅子に座っていると、脚から膝、さらに肩までよじ登ってきます。迷い猫だったわりに人なつこいというか甘えん坊というか……。さすがにパソコンを打つ時は邪魔ですので、別室で遊ばせていますが、原稿のチェックなど、その別室でもできる仕事の時には、かまってやりながらやっています。

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それにしても、自宅兼事務所には元々柴犬系雑種犬も一頭いて、朝夕それぞれ1時間弱の散歩もしなければならず、すっかり「いきものがかり」です(笑)。まぁ、どちらも癒してくれるのでいいのですが……。

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【折々の歌と句・光太郎】

毒物を置きて鼠にあたへむとしつつきびしき寒夜を感ず
昭和22年(1947) 光太郎65歳

「寒夜」ということで季節外れですが、ご容赦を。

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での作です。光太郎、7年間の山小屋生活は、ずっと鼠との共同生活でした。毒を食べた鼠が井戸に落ちて死んでいたなどということもありました。そんなことから、山小屋生活の後半では、もはやあまり気にしなくもなったようです。もしかすると、黒猫の「セチ」を思い出していたかも知れません。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に、代表して香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。他にも夕方からの日比谷松本楼さんでの集まりに行く前に、墓参をされた方が複数いらっしゃいました。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

晩年の光太郎に親しく接した当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子001さん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。

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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

今日は光太郎の誕生日です。戸籍上は明日、3月14日を誕生日としていますが、家族も光太郎自身も、13日を誕生日と認識していました。

存命であれば、満で言うと133歳。ただ、この時代の人はまだ数え年で数えていましたので、このブログでも光太郎の年令は数え年で表記しています。児童生徒の「1年生」「2年生」のように、出生の時点で「生まれて1年目だから1歳」と数える方式です。学校に「0年生」がいないのと同じで、「0歳」というのは存在しません。

閑話休題。

昨日は、当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市と隣接している旭市に行っておりました。用件自体は光太郎がらみではなく、趣味で取り組んでいる音楽関係の用事でしたが、それが終わった後で、光太郎にからめました。

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旭市の東端に「刑部岬」というところがあります。北の銚子から連なる屏風ヶ浦と、南の九十九里浜との境界で、飯岡灯台も設置されています。

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さらに「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜」という施設があります。

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展望館という名の通り、ここに上がると眺望が開けます。

南に目をやると、弧を描く九十九里浜。

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その中央やや南寄りのあたりが、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた片貝(現・九十九里町)

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ちなみによく晴れた日には、ここから富士山も望めます。

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ただ、当方、ここには5~6回行きましたが、空が霞んでいる時が多く、富士山が見えたのは1度だけでした。

北に目を転じると、銚子の犬吠埼が見えます。

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大正元年(1912)、写生旅行に来ていた光太郎を追って智恵子も来、愛を確かめた場所です。光太郎にはこの年発表された「犬吠の太郎」という詩もあります。

というわけで、今日誕生日を迎える光太郎を偲んで参りました。

高台にある刑部岬を下りると、飯岡漁港です。展望館から漁港が一望できます。

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3.11翌日ということもあり、そちらにも足を運んでみました。

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昨日も書きましたが、この辺りは東日本大震災で津波が押し寄せ、尊い命が奪われています。3.11当日の一昨日は、旭市で県と市による合同慰霊祭が行われました。5年が立ちましたが、ひん曲がった杭などにまだ傷跡が残っています。

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さらに南下すると、九十九里浜に出られます。

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5年前のあの日、この海が牙を剝いたのです。ここ飯岡で亡くなった方々、そしてやはり5年前のあの日、宮城県女川町で津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんを偲び、手を合わせました。下記は当時の旭市の様子。

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帰りがけ、高台の畑作地帯を通りました。たくさんの風車が回っています。

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銚子ウィンドファーム」と言って、大規模な風力発電施設です。他に耕作放棄地に設置されたソーラーパネルもかなり目に付きました。やはり、当方毎年訪れている川内村など、福島第一原発を抱える福島に思いを馳せざるを得ません。これがもっと広まれば、それで充分じゃないか、という気がします。

風力発電、太陽光発電とも、いろいろ課題はあるのでしょうが、少なくとも壊れても放射線を垂れ流すことはありません。いい加減、原子力ムラの利権に群がる人々には目を覚まして欲しいものです。

東北の被災地に光太郎智恵子ゆかりの地が多いということで、当方、復興支援の問題に非常に関心を持っておりますが、これも光太郎智恵子のもたらした縁と考え、今後も活動を続けたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

春の草ふみてあるきたや友おくりたや   昭和20年(1945) 光太郎63歳

駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、宮澤賢治の実家の招きで花巻に疎開、直後に肺炎で臥床していた折の作品です。花巻まで行き添ってくれた年若い友人・宮崎稔の帰京に際しての作と推定されます。

シチュエーションは違えど、当方も昨日、九十九里浜で、志を同じうした亡き友・貝(佐々木)廣さんを偲びました。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

アンケート000
a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。

昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

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改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も高村光太郎・智恵子、光雲の世界を広めるため、さまざまな情報をご提供して参りますので、よろしくお願いいたします。


それ以外の部分では、昨年までの3年間、毎日、【今日は何の日・光太郎】シリーズで、その日にあった光太郎智恵子、光雲関連の出来事をご紹介していました。さすがに3年間でネタが苦しくなりましたので、今年は方向性を変えます。

というわけで、早速。

【折々の歌と句・光太郎】

年ごとに年はむかへつたぐひなき今年の年のいよよまさきく
昭和22年(1947) 光太郎65歳

彫刻家、そして詩人として名高い光太郎ですが、その生涯に数多くの短歌や俳句なども残しています。そこで、かつて『朝日新聞』さんに詩人の大岡信氏が約30年連載した「折々のうた」(第1回が光太郎の短歌でした)に倣い、一日一首・句ずつ、折々の光太郎作品を取り上げていく予定です。

さて、昭和22年(1947)、光太郎は花巻郊外太田村の山小屋で、2度目の新年を迎えました。移住当初は本阿弥光悦へのリスペクトから「昭和の鷹ケ峯」を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えでしたが、山林孤棲、独居自炊の生活の中で、自らの戦争責任を省察する毎日を送るうちに、ある意味ストイックな修行僧のような暮らしへと、その意義が変容していきました。

そうした中で生まれたこの一首。「まさきく」は「真幸く」。「幸せに」の意の副詞です。



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画像は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市、利根川河畔での初日の出です。

ほんとうに今年一年が「まさきく」あってほしいものです。


作品の表記は筑摩書房『高村光太郎全集』、そこに未収のものは当方編集の「光太郎遺珠」に従い、光太郎の年令は数え年で表記いたします。

一昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は9月から12月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


9月2日(水) 名古屋市のメニコンアネックスにおいて、舞踊公演「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート1  あわい 愛~」が開催されました。10月5日(月)、「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート2  あわい 淡~」が追加公演されました。

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9月5日(土) 岐阜県関市中池公園内旧徳山村民家において、語り人あきと弦術師aokiによるユニット梅弦が「梅弦ワンマンコンサート」を開催、「智恵子抄」の朗読を行いました。
 同日、二本松市の現代詩研究会から文芸同人誌『現代詩研究 第75号』が発行されました。智恵子のまち夢くらぶ会長・熊谷健一氏の「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」が収められました。
 さらにこの日、元女優の原節子さんが老衰のため死去しました。95歳。昭和32年、東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で智恵子役を演じました。

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9月8日(火) 女優の宝生あやこさんが老衰で死去、97歳。昭和42年、松竹制作の映画『智恵子抄』で智恵子の母、長沼センを演じました。

9月12日(土) 筑波大学東京キャンパス文京校舎において、国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」が開催されました。第3部・討議で矢野千載氏(盛岡大学教授)による「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」の提言がありました。


9月13日(日) 山形市中央公民館多目的ホールにおいて、「山形大学特別プロジェクト いま、言葉を東北の灯(ともしび)に 第8回山形大学高校生朗読コンクール」が開催されました。課題は「智恵子抄」でした。
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9月18日(金)~22日(火) 福島県いわき市のワタナベ時計店特設ギャラリー「ナオ ナカムラ」において、「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会今日も きこえる」 が開催されました。共に映像作品を主とする現代アート作家で、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を、光太郎詩「あどけない話」にからめたメッセージ性溢れるものでした。

9月18日(金)~12月20日(日) 栃木県佐野市の佐野東石美術館で、「木彫の美―高村光雲と近現代の彫刻―」展が開催され、光雲木彫「牧童」「狛犬」が展示されました。

9月19日(土) 晶文社から『吉本隆明全集10[1965‐1971]』が刊行されました。春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録しています。

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9月19日(土)~11月8日(日) 神奈川県平塚市美術館に於いて企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。光太郎油彩画「静物(瓶と果物)」「渡辺湖畔の娘道子像」が展示されました。

9月19日(土)~11月29日(日) 和歌山県高野山霊宝館において、光雲作の金剛峯寺秘仏本尊薬師如来像の頭部試作品が展示されました。

9月20日(日) 二本松市智恵子の生家近くの智恵子純愛通り石碑前で、智恵子純愛通り記念碑第7回建立祭が開催されました。地元小中高生による朗読等が行われました。

9月26日(土) FTV福島テレビで「いっしょに歩こう―ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか⁉初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」が放映されました。出演、タレント・白鳥久美子さん他。智恵子生家等で撮影が行われました。10月3日、BSフジで全国放映されました。

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10月1日(木) NHK出版より『NHKテレビテキスト 趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門』が刊行されました。11月放映の同名のテレビ番組テキスト。「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×高村智恵子」が収められました。
 同日、無明舎出版から成田健著『「智恵子抄」をたどる』が刊行されました。地方紙『北鹿新聞』に連載されたものの単行本化です。
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10月2日(金) 光太郎詩に自作の曲を附けて歌うモンデンモモの東北ツアー「モンデンモモ日本を歌う!/モンデンモモ 智恵子抄を歌う!」が始まりました。2日(金)、秋田県鹿角市旧関善酒店特設ステージ、3日(土)、二本松市鐵扇屋酒蔵。これに合わせてCD「モンデンモモの智恵子抄」がリリースされました。

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10月3日(土) 『産経新聞』にコラム「日本の書〈37〉近代篇⑨高村光太郎「うつくしきものみつ」」が掲載されました。

10月4日(日) 二本松市らぽーとあだちにて、第21回レモン忌が開催されました。智恵子の里レモン会主催。特別講演は児童文学者・金田和枝さん。

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10月4日(日)~11月1日(日) 和歌山県の高野山金剛峯寺で、 金堂御本尊の秋の特別開帳が行われました。春に続き、秘仏である光雲作の薬師如来坐像の特別公開がありました。

10月9日(金) 京都外国語大学国際交流会館において、「日本ソロー学会創立50周年記念2015年度全国大会」が開催されました。記念シンポジウムで立正大学教授・齊藤昇氏「ソロー・野澤一・高村光太郎」の発表がありました。

10月9日(金)~11月10日(火) 光太郎の実妹・しづの孫にあたる山端通和夫妻が経営する鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」が開催されました。光太郎書作品、書簡等が展示されました。

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10月9日(金) 平成28年2月22日(月)迄の予定で、花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示です。

10月10日(土) 青幻社から『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』が刊行されました。平塚市美術館他で開催された同名の企画展の図録を兼ねています。

10月11日(日) 名古屋市のドルチェ・アートホールNagoyaで「作曲野村朗・フルート吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」が開催されました。

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10月12日(月) 二本松市市民交流センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」が始まりました。第1回は智恵子の里レモン会会長・渡辺秀雄氏「長沼家の家族とふるさと二本松」。

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10月14日(水) 秋田公立美術大学サテライトセンターで、公開講座【明治の彫刻と工芸性】が開催されました。光雲に触れました。講師は同大教授・志邨匠子氏でした。

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10月17日(土) 文治堂書店から、北川太一先生著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』が刊行されました。著者自選の随想集。随所で光太郎に触れています。

10月17日(土) 神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった 1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」がはじまりました。平成28年1月31日(日)まで。同館閉鎖に伴う最後の企画展で、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」、油彩画「上高地風景」が展示されました。

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10月23日(金) 講談社から清家雪子さん著の漫画『月に吠えらんねえ』第4巻が刊行されました。「第十七話 あどけない話」が収められました。

10月24日(土)~12月23日(水) 秋田県横手市の雄物川郷土資料館で、第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編~あの人はこんな字を書いていました~」が開催され、同市出身の画商・旭谷正治郎に宛てた全集等未収録の光太郎書簡が展示されました。

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10月24日(土) 平成28年3月13日(日)迄の予定で、埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館において、「生誕130年記念 斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」が始まりました。光太郎の戯画が描かれた与里書簡など、ヒユウザン会展関連の資料も多数展示されました。

10月27日(火) 平成28年2月15日(月)迄の予定で、盛岡市の盛岡てがみ館で第48回企画展「宮沢賢治を愛した人々」が開催され、同館所蔵の光太郎書簡5通が展示されました。

10月29日(木)・30日(金) 神戸アートビレッジセンター KAVCホールにおいて、舞踊「Tubular Bells」の公演が行われました。「智恵子抄」をイメージし、智恵子と彼女の幻影を対比的に描かれました。

10月29日(木)~31日(土) 世田谷区「劇」小劇場で、「J-Theater日本人作家シリーズ ドナルカ・パッカーン第一回公演2015年秋 「暗愚小伝」」が開催されました。作・平田オリザ氏。

11月2日(月) 女優の加藤治子さんが心不全のため死去しました。92歳。昭和37年、文化放送からオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を演じました。

11月3日(火) NHKEテレで、「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第五回「高村光太郎×高村智恵子」が放映されました。ナビゲーター、書家・石川九楊氏、女優・羽田美智子さん。再放送、11月5日(木)、11月10日(火)。

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11月8日( 一橋大学一橋講堂、シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-が開催されました。

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11月14日(土) 十和田市主催で、友好都市花巻を訪れる「花巻探訪ツアー」が開催され、十和田市民が花巻高村光太郎記念館、高村山荘などを訪れました。
 同日、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった画家・藤田嗣治を描いた映画「FOUJITA」が封切られました。小栗康平氏監督、オダギリジョーさん主演。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中で使用されました。

11月15日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第2回が開催されました。講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭・小島喜一氏、題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

11月17日(火)~12月20日(水) 愛知県碧南市003藤井達吉現代美術館で、企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。9月~11月の平塚市美術館に続いての巡回で、平塚で展示された2点に加え、光太郎油彩画「日光晩秋」も展示されました。

11月21日(土) 文京区アカデミー音羽で第60回高村光太郎研究会が開催されました。発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」、高村光太郎研究会員・西浦基氏「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」。

12月11日(金)~13日(日) 大阪市ABCホールに於いて、劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな―智恵子抄―」が公演されました。作・三名刺繍氏。

12月20日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第3、4回が開催されました。題はそれぞれ「松井昇と太平洋画会研究所」(講師、太平洋美術会員・坂本富江さん)、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」(講師、当方)でした。

12月24日(木) 浪曲師の国本武春さんが亡くなりました。55歳。NHK Eテレで放映中の「にほんごであそぼ」で、「うなりやベベン」として、たびたび光太郎詩に曲をつけた作品を披露なさいました。


というわけで、今年一年、実にいろいろなことがありました。いろいろな方が、いろいろな分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、ありがとうございました。

来年以降も引き続き、この世界がもっともっと広がっていくことを願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月31日

昭和39年(1964)の今日、東京宝塚劇場で開催された「第15回NHK紅白歌合戦」で、二代目コロムビア・ローズさんが「智恵子抄」(作詞・丘灯至夫、作曲・戸塚三博)を歌いました。

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二代目コロムビア・ローズさん。昭和37年に「白ばら紅ばら」でデビュー、「智恵子抄」でブレイクし、紅白歌合戦出場を果たしました。当時は紅白に出る、というのは大変なことでした。現在は米国・ロサンゼルスにお住まいで、時折日本に帰ってきてテレビ出演等をされています。

今年3月には、「コロムビア・ローズ三代そろい踏み」 ということで、中野サンプラザで開かれたコンサート「コロムビア大行進2015」で、初代、三代目のコロムビア・ローズさんと共演なさいました。

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さて、このブログ、一昨年は【今日は何の日・光太郎】、昨年は【今日は何の日・光太郎 補遺】、そして今年は【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、まる3年間、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介して参りました。

どうにもネタが見つからず、周辺人物の話になったり、日常の些細な出来事を取り上げたりもしましたが、365日×3年間=1,095件をご紹介する事ができました。

さすがにこれ以上は無理です。来年以降は別の方向性で行きますので、お楽しみに。

昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は5月から8月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

5月6日(水) 大田区のライブハウス・風に吹かれてに於いて、シンガーソングライター潮見佳世乃さん演奏の「歌物語コンサート 智恵子抄」が開催されました。

5月15日(金) 岩手花巻の高村山荘敷地で第58回高村祭が開催されました。特別講演は当方の「高村光太郎と花巻・山口」でした。

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同日、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(前期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示でした。9月28日(月)まで。

また、花巻高村光太郎記念会より佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』が復刻されました。元版は昭和37年(1962)でした。

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やはり同日、日本古書通信社から月刊で発行されている『日本古書通信』第1030号で、廣畑研二氏「幻の詩誌『南方詩人』」の連載が始まりました。鹿児島の詩誌『南方詩人』に関しての調査で、これまで知られていなかった光太郎の翻訳等が掲載されていたことが報じられました。8月15日発行の第1033号まで連載されました。

5月17日(日) 仙台市Jazz Me Blues Nolaにおいて、「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」」の公演が行われました。ヴァイオリン・佐藤実治氏、朗読・荒井真澄さんでした。

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5月25日(月) 幻戯書房から奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』が刊行されました。「パンの会」会場にもなったメイゾン鴻乃巣店主・奥田駒蔵評伝。随所で光太郎に触れています。

5月25日(月)~8月16日(日) 武蔵野美術大学美術館に於いて「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が開催されました。1月~4月、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにて開催されたものの日本巡回。日本展では、木彫「白文鳥」、東京国立近代美術館及び台東区朝倉彫塑館所蔵の、二種類のブロンズ彫刻「手」(ともに光太郎自身が台座を木彫で制作したもの)が展示されました。ブロンズ部分を取り外して撮影された珍しい写真を含む図録が刊行されました。

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5月27日(水)~31日(日) 千葉県流山市の生涯学習センターで「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」が開催されました。「参考借用陳列敬仰作品」に、明治末と推定できる光太郎の未知の短歌が記された短冊(神田玉川堂さんの所蔵)が出品されました。

5月31日(日) NHKEテレで「日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道」が放映されました。再放送、6月7日(日)。

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6月6日(土) 福島二本松市の智恵子生家で、智恵子の部屋を含む通常非公開の2階部分限定公開が始まりました。8月23日(日)まで、10・11月と平成28年2月の土日祝日に実施されました。

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6月9日(火) 静岡沼津の地方紙『沼津朝日』に「沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す」という記事が掲載されました。坂本富江さんによる沼津での大正年間の智恵子足跡調査を報じています。

6月16日(火) 『朝日新聞』の東北版に「戦争協力、自ら罰した光太郎」と題する記事が掲載されました。同紙北上支局長・石井力氏の執筆でした。

6月17日(水)~21日(日) 東京芸術劇場ギャラリー1に於いて、「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」が開催されました。東京精神科病院協会主催。智恵子の紙絵(複製)、書簡類などの関連資料が展示されました。図録には北川太一先生の「智恵子の場合」が収められました。

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7月1日(水) 青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』に「特集 十和田湖再発見」が組まれ、「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」について詳しく紹介されました。

7月7日(火) 虹の会より文芸同人誌『虹』第6号が刊行されました。豊岡史朗氏「〈高村光太郎論〉晩年」が収められました。

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7月26日(日) 仙台に本社を置く東北の地方紙『河北新報』に「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事が掲載されました。

7月29日(水) 十和田湖畔の観光交流センターぷらっとにおいて、「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」が開催されました。十和田市と花巻市が友好都市交流を行っている縁で、光太郎が戦後の七年間を暮らした旧太田村の太田地区振興会が十和田湖を訪問、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなどがこれを迎えました。

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7月30日(木) 晶文社から、森まゆみ氏著『「谷根千」地図で時間旅行』が刊行されました。古地図や絵図などを読み解くことで、光太郎ら千駄木周辺で生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトでした。
 同日、文芸同人誌『青い花』第四次81号が発行されました。宮尾壽里子氏「「第59回連翹忌」に参加して」を収めています。

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8月3日(月) BSフジで「発掘!歴史に秘めた恋物語〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されました。ゲストコメンテーターは、詩人・郷原宏氏、女優・石田えりさん。北川太一先生、智恵子の里レモン会副会長・根本豊徳氏らがビデオ出演しました。

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8月7日(金) 紅書房から星野晃一編『多田不二来簡集』が刊行されました。詩人・多田不二のもとに寄せられた、光太郎からの5通を含む各界著名人194名からの書簡集です。

8月9日(日) 宮城県女川町きぼうのかね商店街で、第24回女川光太郎祭が開催されました。町内外の人々による朗読、当方による記念講演、北川太一先生の講話などが行われました。

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8月18日(火)~31日(月) 千葉県勝浦市芸術文化交流センター・キュステにおいて、第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」が開催され、千葉県立美術館所蔵の光太郎ブロンズ6点が展示されました。

8月19日(水) 『東京新聞』の千葉中央版に「〈九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年〉智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い」が掲載されました。

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8月24日(月)~10月30日(金) ノエビア銀座ギャラリーにて、銅版画家山本容子さんの「山本容子のアーティスト図鑑」展が開催されました。雑誌『本の話』(文藝春秋)の表紙画として作成されたアーティストの肖像画32点が並び、光太郎と智恵子のそれも展示されました。

8月28日(金) 書肆心水から『異貌の日本近代思想1』が刊行されました。「高村光太郎……美と生命/日本美の源泉」を含みます。


明日は最終回的に、9月から12月篇をお届けします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月30日

平成9年(1997)の今日、元花巻高村記念会事務局長、浅沼政規が交通事故で歿しました。

浅沼は宮澤賢治の教え子で、戦後、光太郎がいた頃の太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。

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ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。

早いもので、今年もあと残すところ3日となってしまいました。

今日から3日間、4ヶ月ずつ区切って、今年あった光太郎智恵子000、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

1月2日(金) 台東区東京国立博物館内の黒田記念館が、約三年間かけての耐震工事を終え、リニューアルオープンしました。二階黒田記念室入り口には、昭和7年、光太郎作の黒田清輝胸像が再び据えられました。

1月10日(土) NHKEテレにて、「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」が放映されました。当会顧問・北川太一先生がビデオ出演し、吉本と光太郎について語りました。再放送、17日(土)。

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1月16日(金)~19日(月) 兵庫県伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて、劇団青年団主催の演劇公演「暗愚小伝」が行われました。作・平田オリザ氏。光太郎が主人公。前年10月の東京公演の地方巡回でした。22日(木)~24日(土)、香川善通寺市四国学院大学ノトススタジオに巡回公演されました。

1月17日(土)~3月22日(日) 福島県いわき市立草野心平記念文学館で、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎往復書簡にみる交友」が開催されました。戦後、光太郎と心平の間に交わされた四十通余りの往復書簡、心平「高村光太郎病床日記」他が展示されました。

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全く同一の日程で、群馬県立土屋文明記念文学館において、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」が開催され、光太郎書も展示されました。2月15日(日)、記念講演会「編集者の仕事とは」。講師・石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員編集本部本部長)。

1月28日(水)~4月19日(日) 英国リーズ市ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて、武蔵野美術大学との共催による「A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。光太郎彫刻「白文鳥」「手」、他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎の作品が展示されました。

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1月31日(土) 東洋出版社から『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』が刊行されました。全国連合退職校長会編。光太郎が卒業生である荒川区第一日暮里小学校の元校長・天野英幸氏「バトンを繋ぐ」を収めます。学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

2月9日(月) NHKBSプレミアムで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、「智恵子抄」に触れられました。再放送、15日(日)、19日(木)。

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2月11日(水) NHK総合テレビで「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されました。北川太一先生、作家・津村節子氏、太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんらがビデオ出演しました。司会、渡邊あゆみさん。再現ドラマの部分は、光太郎役を鈴木一真さん、智恵子役を前田亜希さんが演じました。再放送、2月18日(水)、11月4日(水)。

2月14日(土) ネイチュアエンタープライズから山岳雑誌『岳人』第813号が刊行されました。特集「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」。当方執筆の「高村光太郎と智恵子の上高地」を含む他、草野心平、尾崎喜八等にも触れています。

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2月20日(金) 八木書店から日本近代文学館編『近代文学草稿・原稿研究事典』が刊行されました。「第四部 作家的事例」で、群馬県立女子大学教授・杉本優氏が光太郎の項を担当しました。

2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館で、「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」が開催されました。前年4月から日本橋三井記念美術館他で開催された展覧会の地方巡回。光雲作「西王母」「法師狸」の木彫二点が展示されました。郡山市立美術館(4月21日(火)~6月14日(日))、富山県水墨美術館(6月26日(金)~8月16日(日))、岐阜県現代陶芸美術館(9月12日(土)~12月6日(日))にも巡回しました。

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2月21日(土)〜5月17日(日) 京都市の清水三年坂美術館で、企画展「明治の彫刻」が開催され、光雲木彫「聖観音像」「月宮殿天兎」「老子出関」「西行法師」が展示されました。

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2月25日(水) ハーツ&マインズから品川区の地域情報誌『月刊おとなりさん』第380号が刊行されました。「特集 智恵子 愛と芸術の生涯」を収めています。

3月1日(日) 『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第四十三号』が発行されました。佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の短歌と美術評論 ―留学直後の作品を中心に―」を収めています。

3月10日(火) 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会編刊『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されました。平成25・26年度、十和田市づくり市民活動支援事業の助成により、建立から60年を経た「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の背景を多方面からまとめたもの。当方が監修と一部執筆を担当させていただきました。

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3月12日(木) 現代企画室から『少女は本を読んで大人になる』が刊行されました。クラブヒルサイド+スティルウォーター編。平成25年から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたもの。彫刻家・舟越保武の長女、末盛千枝子さんの「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」を含みます。

3月20日(金) 日本近代文学館から『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』が発行されました。上智大学教授小林幸夫氏「〈軍服着せれば鷗外だ〉事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎」を含みます。

3月21日(土)~6月21日(日) 宮内庁三の丸尚蔵館において、「第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」が開催され、光雲木彫「松樹鷹置物」「矮鶏」が展示されました。

4月1日(水) 東京国際芸術協会から、野村朗氏作曲『連作歌曲智恵子抄~その愛と死と~』楽譜集が刊行されました。森山孝光、康子夫妻演奏による同曲のCDも同日発行されました。

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4月2日(木) 第59回連翹忌が、日比谷松本楼に於いて開催されました。

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この日、『光太郎資料43』が参加者に無料配布されました。当会の刊行です。

また、高村光太郎研究会より『高村光太郎研究36』が刊行されました。北川太一先生「高村光太郎・最後の年 1月⑵」、山田吉郎氏「高村光太郎と雑誌『創作』―自選短歌を中心に」、坂本富江さん「詩人野澤一という人―そして高村光太郎との関係性―」、当方執筆の「光太郎遺珠⑩」「高村光太郎没後年譜」、野末明氏「高村光太郎文献目録」「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

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同日、文治堂書店から、北川太一先生の『ヒユウザン会前後―光太郎伝試稿―』が刊行されました。『高村光太郎研究』連載の単行本化です。

やはり同日、岩手花巻でも、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くで詩碑前祭、松庵寺にて花巻連翹忌が開催されました。

さらに同日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺で、開創千二百年記念大法会が始まりました。これまで開帳された記録が残っていない、高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来像(光雲作)の特別開帳が行われました。5月21日(木)まで。

この日はいろいろ重なり、港区の増上寺でも、新たに宝物展示室がオープンしました。光雲が監修に名を連ね、東京美術学校が制作した英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」(徳川二代将軍・秀忠霊廟)が展示されています。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品されたものです。

4月16日(木) 墨田区すみだトリフォニーホールに於いて「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催され、森山孝光、康子夫妻により、野村朗氏作曲『連作歌曲智 恵子抄~その愛と死と~』が演奏されました。

4月20日(月) 小学館より石川拓治氏著『新宿ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』が刊行されました。中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻、碌山荻原守衛を中心とし、光太郎にも触れています。

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4月22日(水) 碌山美術館より『荻原守衛書簡集』が刊行されました。守衛の書簡約百五十通、光太郎を含む守衛宛の書簡が、原本が残る物は全て写真付で収められています。

4月28日(火) 花巻高村光太郎記念館がリニューアルオープンしました。平成25年5月から、元の花巻市歴史民俗資料館を改装し、暫定オープンしていたものが、全面的な改修工事を行い、展示室面積はおよそ2倍となりました。

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4月30日(木) 邑書林からわたなべじゅんこ氏著『歩けば俳人』が刊行されました。光太郎を含む十五名の文化人の俳句に言及しています。

明日は、5月~8月の出来事を。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月29日

平成16年(2004)の今日、東海テレビ・フジテレビ系で放映されていた昼の帯ドラマ「愛のソレア」が最終回を迎えました。

荻野目慶子さん主演。東海テレビさん制作のいわゆる「ドロドロの昼ドラ」です。昭和30~50年代を舞台とし、随所に光太郎の詩が用いられました。

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昨日から1泊2日で秋田横手、岩手花巻を回って参りました。


花巻では昨夜、光太郎ゆかりの食堂で夕食を摂りながら、花巻高村光太郎記念会の方、花巻市役所の方と、いろいろ打ち合わせ。今日は高村光太郎記念館企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見、さらに急遽、花巻市街の光太郎が山荘に移る直前に暮らした佐藤家の離れを見せていただきました。

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新資料がたくさん見つかったり、新しい情報も続々と入ったり、実に有意義でしたし、これからが楽しみです。

これから、といえば、これからまた光太郎智恵子と全くの別件で、出かけねばなりません。

詳細は明日以降、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月13日

昭和26年(1951)の今日、NHKラジオで放送された「婦人の時間」で光太郎詩が朗読され、光太郎自身も花巻郊外太田村の山小屋でオンエアを聴きました。

草野心平が解説、朗読は俳優の石黒達也でした。

気がつけば10月もそろそろ終わり、今年も残すところあと2ヶ月あまりとなりました。新刊書店では来年用のカレンダーの販売、郵便局さんでは年賀はがきの予約受け付け開始など、徐々に平成28年を迎える準備が始まっています。

そんな関係で、『日本経済新聞』さんの電子版に載った「プレスリリース」――ある種の広告――から。  

田中貴金属ジュエリー、2016年の干支「申」の工芸品「純金製置物」など発売

貴金属ジュエリーの老舗 GINZA TANAKA
2016年の干支「申」の工芸品を10月1日(木)より発売!
~日本を代表する名工たち渾身の逸品、縁起の良い純金製の置物や大判、根付などが登場~

 1892年に創業した貴金属ジュエリーの老舗GINZA TANAKA(田中貴金属ジュエリー株式会社 本社:中央区銀座、代表取締役社長執行役員:田中 和和(まさかず)、以下 GINZA TANAKA)は、2016年の干支である「申」を、純金で製作した置物、根付、大判など、新作の工芸品4点(税込価格39,000円~税込参考価格1,872,000円)を10月1日(木)よりGINZA TANAKA 9店舗とGINZA TANAKAオンラインショップにて発売します。(※参考価格は、金税込小売価格4,800円/gで計算しております。)
 GINZA TANAKAでは毎年、縁起物である干支をテーマにした純金・銀製の工芸品を製作・販売し、開運招福を願うお客様にご好評をいただいております。2016年の干支である「申」は、人間に近い姿から、昔より山神の使いとも言われ、信仰の対象としてもなじみの深い動物です。また、不幸や困難が“さる”とも言われ、縁起が良く、十二支の中でも人気のモチーフです。この度、GINZA TANAKAでは、日本を代表する名工などによる純金の美しい干支の工芸品を、新たに4点製作しました。

<GINZA TANAKA新作工芸品(一部)>
 【発売日】2015年10月1日(水)
 【販売店舗】GINZA TANAKA全国9店舗
       GINZA TANAKAオンラインショップ(
http://shop.ginzatanaka.co.jp/

■純金製置物「申」 高村光雲 原型作
 日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲が、天下泰平、五穀豊穣を祝う伝統芸能「三番叟(さんばそう)」をモチーフに、繊細な表情と躍動感のある動きを純金で表現しました。衣装と烏帽子をまとった猿のなんとも言えない表情が、輝く純金の素材を通して見事に表現されています。
 【税込参考価格】1,872,000円
 【原型作者】高村 光雲 氏
 【素材】K24 約150g(桐箱付)
 【サイズ】
 <本体>高さ約16.8cm 台座 直径約10.8cm
 <ガラスケース>高さ約26×幅約21×奥行約21cm

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元々は大正11年(1922)に彫られた木彫で、正しい題名は「三番叟」。オリジナルは宮内庁の三の丸尚蔵館さんに収められていますが、その複製とは考えにくいところです。光雲は同一の図題で複数の木彫を手がけることもしばしばでしたので、宮内庁のものではない作品からの複製でしょう。

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「三番叟」というのは、狂言師の舞う舞の名前で、その扮装を猿回しの猿が身につけている、という構図です。郷土玩具などで同様の図題がよく見られます。「厄難を去る」という縁起担ぎでしょう。

当方、ブロンズ複製のこの作品を持っています。

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かなり前に安く入手したものですが、どうやらパナソニックさんが昭和の頃にノベルティーグッズとして配布していたもののようです。

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さて、田中貴金属さんの今回の商品、同店オンラインショップのラインナップに入っています。今、このブログを書きながら価格を確認すると、「¥1,921,140」。ところが上記プレスリリースでは「¥1,872,000」。「この差は何だ?」と思ったら、「こちらの商品は金相場により価格が毎日変動いたします。」とのことでした。ある意味、豪壮な話ですね。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

豪壮な話ついでにもう1件。先月、このブログでご紹介した「シンワアートオークション近代美術/木梨憲武」に、光雲の木彫「魚藍観世音」が出品されました。「1,200万円から2,500万円」という落札予想で出品されたのですが、蓋を開けてみると4,200万円での落札でした。

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落札者が個人なのか法人なのかなどは不明ですが、お近づきになりたいような、なりたくないような……といった感じです(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月27日

昭和25年(1950)の今日、山形の渡辺正治氏から葉書を受け取りました。

渡辺正治氏は女優の渡辺えりさんのお父様です。氏と光太郎の関わりについては、以下を御覧下さい。

8月9日の第24回女川光太郎祭の前後、女川町内を探訪しました。

今回は、3月に常磐自動車道と仙台東部道路がつながり、自宅近くから女川に隣接する石巻まで高速道路で行けるようになったので、自家用車で行きました。そのため、多少離れた場所で、今まで訪れたことのないところにも行ってみました。

まずはやはり3月に新生成ったJR石巻線女川駅。ウミネコをデザインしたという瀟洒な駅舎が出来ていました。

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向かって左側は、温泉入浴施設「ゆぽっぽ」です。朝早かったので、まだオープン前でした。

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こちらはホーム。

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待合室には、震災前の女川駅の写真が。

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20数年前に、はじめて女川を訪れた時のことを思い出しました。小牛田から石巻線に乗り、料金が路線バスのように後払いで、いざ払おうとしたら一万円札しかなく、駅前にあった商店で崩して列車に駆け戻って払った記憶があります。

現在の駅前は、まだまだ造成中でした。

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やはり駅前の地域医療センターにはこんなメッセージが。

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海の方に戻り、光太郎の文学碑を見に行きました。周辺は工事中ですが、日曜でしたので休工でした。元は4基あった碑のうち、詩「よしきり鮫」を刻んだ碑と、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびすおほぞらのもと」を活字で刻んだ小さな碑は津波で流され、紀行文「三陸廻り」と短歌「海にして……」を光太郎自筆で刻んだメインの碑と、詩「霧の中の決意」を刻んだ碑のみが残っています。

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いつの日かまた建てられ、女川名所の一つとなることを切に願います。

近くには横倒しになった旧女川交番。震災遺構として残すそうです。

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あの日、牙を剝いた海。この日は穏やかでした。

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その後、女川港から国道398号で、東の方に行ってみました。そちらの方に行くのは、初めてでした。このブログで何度かご紹介した、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」を見てみようと思ったからです。鷲神浜地区に建てられた碑は、昨年拝見しましたが、他の場所に建てられた碑は未見でした。

桐ヶ崎地区の碑はすぐにわかりました。

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上の画像、2回クリックすると拡大画像が出ます。碑文をお読み下さい。

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こちらが碑の前から見た海。碑はかなり高い場所にありますが、ここまで逃げないと津波にやられるということです。

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竹浦地区にも行ってみましたが、こちらでは碑が見つかりませんでした。昨日書いたとおり、時折雨が激しく降っていて、あまり歩けませんでした。

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また町の中心部に戻り、女川中学校さんに建った最初の碑も見て参りました。

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そうこうしているうちに、女川光太郎祭の準備にかからねば、という時間になり、この日の碑めぐりはここまでにしました。長くなりましたので、続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月11日

昭和2年(1927)の今日、連作詩「名所」を書きました。

「大湧谷」「草津」の二篇から成ります。004

   大湧谷

 岩がとろけてわいてゐるのを
 ひとりでのぞくのは止すがいい。
 千八百度の破壊力が
 たいへんやさしく微笑するから。


   草津

 時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば
 草津の町はただ一心に脱衣する。


大湧谷は神奈川の箱根、草津は群馬の草津温泉です。前月、草津には光太郎一人で、箱根には智恵子と二人でそれぞれ訪れています。このブログの上部、プロフィール欄に使っている光太郎智恵子のこの写真は、この年の大湧谷での一コマです。

また、どちらも他の年に智恵子ともども訪れており、お気に入りの場所だったようです。

先ほど、2泊3日の行程を終えて、宮城県女川町から千葉の自宅兼事務所に戻りました。

今回は、昨日行われた第24回女川光太郎祭についてレポートいたします。

元々は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日を記念して、永く光太郎の精神を受け継ごうと始まったイベントです。平成23年(2011)の東日本大震災で、女川光太郎の会の事務局長だった貝(佐々木)廣氏が津波に呑まれて亡くなり、女川の町自体も激甚な被害を受け、それ以来、復興のためのイベントという側面も加わりました。

さて、一昨日から泊めていただいていた宿、「ステイイン鈴家」さんで目を覚ますと、雨。光太郎自身が稀代の雨男で、生前から光太郎が何かやろうとすると必ず雨、冬なら雪、というのは有名な話です。その力は歿後も衰えることなく、毎年の連翹忌や5月の花巻高村祭、そしてこの女川光太郎祭の日には、必ずといっていいほど雨です。

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鈴家さんで朝食をいただき、まず自家用車を駆って、女川町内をいろいろ見て回りましたが、そちらについては明日レポートします。

光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」には9時頃着きました。当方、毎年、講演を依頼されていますが、それ以外にも肉体労働です。時に激しく降る雨の中、テント設営。さらに机やテーブル、看板、そして自分の講演に使うパソコンやプロジェクタのセッティング。体を使う仕事も大好きなのですが、けっこうずぶ濡れになったのはまいりました(笑)。


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そうこうしているうちに当会顧問・北川太一先生ご一家、北川先生が高校教師をなさっていた頃の教え子である北斗会の皆さんもご到着。

そして午後2時、開会。

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普段は漁船でサンマ漁などをなさっている須田勘太郎会長のご挨拶に続き、当方の講演。一昨年から、昭和22年(1947)に光太郎が自らの来し方を振り返って作った連作詩「暗愚小伝」をひもときながら、光太郎の人となり、業績についてお話しさせていただいています。昨日は主に欧米留学に出かけた青年期についてでした。

その後、光太郎遺影や、津波で被害を受けた光太郎文学碑の写真などに献花。

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続いて、地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩や紀行文「三陸廻り」の朗読。

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途中からギタリスト宮川菊佳氏の伴奏が入り、いい感じでした。

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そして北川太一先生のご講話。やはり震災がらみ、そして戦後70年ということで、ご自身の戦争体験などに基づき、もちろん光太郎の生き方をからめつつ、「命」についての感動的なお話でした。御年90歳になられた先生ですが、「あと10回来たい」とおっしゃっていました。そのとおりになってほしいものです。

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こちらは朗読をして下さった皆さんへの、北川先生からのご著書のプレゼント。

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須田善明女川町長のスピーチ。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えていただきました。

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女川の子供達「女川潮騒太鼓轟会」の演奏。

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こうして盛会の内に終わりました。終了後には雨も上がり、きれいな雲が。

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またまたテントなどの片づけを終え、きぼうのかね商店街集会所での打ち上げ。北川先生も楽しそうです。

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今後とも、息長く続けていって行きたいものです。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月10日

明治29年(1896)の今日、彫刻「兎」を完成させました。

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光太郎数え14歳の作。「手板浮彫」といい、約15㌢四方の板に彫られたレリーフです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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昨日から宮城県は女川町に来ております。本日行われた第24回女川光太郎祭に参加、講演をさせていただきました。

地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話、ギタリスト宮川菊佳氏、オペラ歌手本宮寛子さんの演奏、地元の子供たちによる和太鼓など、盛りだくさんの内容でした。

一年ぶりに訪れた女川は、JR石巻線が女川駅まで復旧。さらに今回は自家用車で来ましたので、これまで行ったことのなかった場所をいろいろ探索してみました。

詳しくは明日、帰ってからレポート致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】8月9日

昭和45年(1970)の今日、大分文化会館にて、演目に「智恵子抄」を含む、「平瀬克美ゆりかご舞踊20周年記念公演」が開催されました。

先ほど、青森方面1泊2日の行程を終えて、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。

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すみません。さすがに疲れました。詳細は明日以降、レポートいたします。

上記画像をご覧の上、内容をご想像下さい(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月29日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、盛岡の大村服飾学校の生徒、10名ほどが訪れました。

山林孤棲の生活を送る光太郎の生きざまに感銘を受けた岩手の教育者達が、たびたび生徒を連れて光太郎の山小屋や、近くの山口小学校を訪問し、光太郎の話を聴かせました。同校以外にも、やはり盛岡の生活学校、美術工芸学校、花巻町近辺の小中高校など。光太郎も若い世代との交流は喜んでいたようです。

大村服飾学校については、先月書いた「豚の頭を食う会」の記事をご覧下さい。

今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。

光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした、岩手県稗貫郡太田村(現・花巻市)の太田地区振興会の皆さん、約40名が、明日、研修旅行的に十和田湖を訪れ、光太郎最後の大作彫刻である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流を図るそうで、それに便乗します。

乙女の像観覧の他、遊覧船でのクルーズ、昨秋開館した「十和田湖観光交流センターぷらっと」の見学などを行うそうで、「ぷらっと」で地元の方々との交流会が行われ、その席上、当方の講演もプログラムに組み込まています。

まぁ、どうしても当方が参加しなければならないというわけでもないのですが、当方、片雲の風に誘われて漂白の思いやまぬ百代の過客を自認しておりまして、自宅兼事務所にくすぶっていると、そぞろ神が心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかない状態になることがしばしばあり、表八句は残しませんが、行って参ります。

冗談はさておき、こういうご縁は大切にせねば、という思いがありますので。

ついでに青森市民図書館さんで調べ物、さらに現地ではレンタカーを借りますので、浅虫温泉やら十和田湖畔の宇樽部やら、光太郎の足跡の残る場所をたどろうと考えています(奥入瀬渓流や蔦温泉、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉などには昨年、足を運びました)。

ところで、十和田といえば、先頃、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、地方紙『デーリー東北』さんのコピーを戴きました。先月の記事ですが、ご紹介します。

高村光太郎の図書貸し出し 蝦名さん、十和田湖畔の喫茶店に

 十和田市のNPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さん(60)=三沢市=が、十和田湖を訪れる観光客に乙女の像の作者高村光太郎に親しんでもらおうと、関連図書約80冊を湖畔休屋の喫茶店「茶房憩」に貸し出した。年末まで同店に置く予定。
 蝦名さんが本を収集するきっかけは6年前、同法人のガイド養成研修を受講し、光太郎の像がなぜここにあるか説明できなければと思ったことから。
 最初は県内の古本屋を回って購入。最近はネット上での収集にも力を入れている。気軽に本を手に取ってもらえるようにと、喫茶店に設置を依頼。和紙が使われた1941年製本の「智恵子抄」の初版本をはじめ、全集や画集も含まれている。
 蝦名さんは「自分の本棚に飾っておくのももったいない。高村光太郎像が近くにあるので、寄ったついでに書に触れてほしい。光太郎のことを知って、好きになってくれればいいな」と十和田湖の活性化に期待を寄せた。

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蝦名氏とは、一昨年の智恵子の命日の集い・「レモン忌」でご一緒させていただきましたが、こういうことをなさったとは存じませんでした。素晴らしいと思います。また、こういう記事を載せて下さる『デーリー東北』さんも素晴らしいと思います。

ちなみに茶房憩さんは「ぷらっと」の向かい、遊覧船の桟橋広場の一角にある喫茶店で、当方も一度、花巻高村記念会の事務局の方とお邪魔したことがあります。今日か明日、余裕があればまた寄ってみたいと思っています。

というわけで、行って参ります!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月28日

昭和23年(1948)の今日、茨城県取手町(現・取手市)の長禅寺に、光太郎が題字を揮毫した「開闡」(かいせん)郷土」碑が除幕されました。

取手には、戦前から光太郎と交流のあった詩人の宮崎稔が住んでおり、その父親で、地元の有力者にして文化人であった仁十郎も光太郎に親炙しました。その関係で、取手随一の古刹である長禅寺に建てられた碑に、光太郎の筆跡が使われました。

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他にも長禅寺には、やはり光太郎が題字を揮毫した「小川芋銭先生景慕之碑」(建立・昭和14年=1939)も現存します。

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当方が訪れた際、どちらも光太郎筆跡が使われていることが大々的に説明されておらず、ひっそりと建っていました。現在はどうなのでしょうか。

昨日に引き続き、先週土曜日に行って参りました福島県川内村関連です。

まず、地方紙『福島民友』さんに、天山祭の記事が出ましたのでご紹介します。

「心平さん、川内は元気ですよ」 50回目の“天山祭り”

 いわき市出身の詩人草野心平が晩年、毎年のように訪れて滞在し、蔵書も保存されている川内村の「天山文庫」で11日、恒例の天山祭りが開かれた。50回の節目に当たり、村内外から集まった参加者が在りし日の心平をしのんだ。
 「蛙(かえる)の詩人」として知られる心平は、村内の平伏(へぶす)沼で繁殖するモリアオガエルを通じ村との交流が始まった。同文庫は、名誉村民となった心平のため村民が協力して1966(昭和41)年に建設し、3000冊を超える蔵書も保存している。
 祭りには村民のほか、心平らが創刊した詩の同人誌「歴程」のメンバーや県内外のファンらが出席。歴程メンバーによる心平の代表的な詩の朗読が行われたほか、村の伝統芸能「三匹獅子」や川内甚句などが披露された。祭りの冒頭にあいさつした遠藤雄幸村長は「出会いを後世につなぐことが、われわれの務め。復興に向かう姿を発信しながら、出会いを大切にしていきたい」と語った。

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その天山祭、そして会場になった天山文庫のすぐ近くにある阿武隈民芸館さんでの企画展「心平が愛したかわうち」を拝観したあと、夕方から打ち上げ的なことがあるので、それまで時間をつぶす必要がありました。

そこで向かったのが、村役場近くにある温泉入浴施設「かわうちの湯」さん。昨年オープンしたばかりのきれいな施設です。

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玄関前のロータリー的なところに、何やら石碑が。

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二代目コロムビア・ローズさんの歌った「智恵子抄」を作詞した故・丘灯至夫氏の歌碑でした。丘氏は川内村にほど近い小野町の出身で、川内村民歌や川内小学校の校歌なども作詞されているとのこと。

さて、館内に入り、ゆっくり温泉を堪能。露天風呂やサウナもあり、いい感じでした。入浴後は大広間の畳で座布団を枕にがっつり昼寝。疲れを癒させていただきました。

その後、打ち上げ会場の小松屋旅館さんへ。秋に行われる心平忌日「かえる忌」の集いでもお邪魔しているところです。築100年ほどの古民家が移築された離れには「蕎麦酒房天山」の看板が掲げられ、こちらが会場です。

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看板犬の黒柴くん。

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レトロな神棚。心平の肖像画も。

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以前にもご紹介しましたが、心平が揮毫した光太郎詩「晩餐」の一節の書。この文字を元に神戸文化ホールさんに光太郎詩碑が建っています。

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打ち上げにはいつものメンバーに加え、一橋大学さんで「自然資源経済論」というプロジェクトを立ち上げられた名誉教授の寺西俊一氏など、20名ほどが参加、盛り上がりました。

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東日本大震災から5年目に入り、まだまだ復興途上の川内村ですが、少しずつ元気を取り戻しつつあります。訪れるだけでも復興支援。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月13日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から墓標の揮毫を発送しました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートが残されており、その中に以下の記述があります。

佐野悌一氏へ墓の文字封入テカミ(「佐野修三墓」二枚)

この年の日記は失われており、名前の出てくる二人の素性、どういった事情なのか、墓の所在地など、一切不明です。

ネットで調べてみると、厚生労働省のホームページの中に、旧ソ連抑留中に亡くなった方々の名簿が載っており、昭和21年(1946)、イルクーツク地方で亡くなった岩手県出身の「佐野修三」という名が記されていますが、この人物なのかどうか何とも言えません。

「佐野悌一」という人物はネット上ではヒットしません。

今もどこかにひっそりと、光太郎が文字を書いた佐野修三氏の墓標が残っているのでしょうか。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

昨日は、当会の祖・草野心平がこよなく愛した「天山祭」ということで、福島浜通りの川内村に行って参りました。昨秋行われた心平の忌日の集い・「かえる忌」以来、約半年ぶりに訪れました。

圏央道、常磐道と順調に抜け、常磐富岡ICで高速を下りました。やはり昨秋、同じ浜通りの相馬方面に行った際もそうでしたが、富岡以北の国道6号は二輪車通行止めの措置が取られており、状況はあまり変わっていないようです。富岡IC付近も「除染作業中」ののぼりが目立ちました。

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ただし、常磐道は今年の3月に全線開通し、仙台と直結しました。来月の女川光太郎祭には、愛車で参上しようと思っております。

富岡町から山道を抜け、会場の天山文庫へ。昨年もそうでしたが、天気が良くて助かりました。第50回の記念の天山祭ですので、やはり雨天の会場変更では残念です。

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受付が混雑しており、着いてみるとちょうど遠藤村長の挨拶でした。

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心なしか、昨年より人出が多いように感じました。よいことです。

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元復興担当大臣・小渕優子氏の姿も。

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戦前に心平が主宰となって創刊し、たびたび光太郎も寄稿していた雑誌『歴程』同人の皆さんによる心平作品の群読。

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川内小学校6年生による心平作品の朗読。

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郷土芸能も披露されました。

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「被災」を忘れてのなごやかなひとときだったと思います。


天山文庫のある小高い丘の麓には、阿武隈民芸館さんがあります。

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天山祭の50回を記念して、企画展「心平が愛したかわ001うち」が開催中です。室内撮影禁止ですので画像はご紹介できませんが、村民の皆さんなどが持ち寄った心平の書、書簡などが展示されています。郵便局の看板や、敬老会で配布された心平揮毫の文字を染めた手ぬぐいなど、ほほえましく拝見しました。温かみのある心平独特の文字ならではの魅力に溢れています。

展示の最後には、心平の著書の数々が並んでいますが、その中には「富士山」(昭和18年=1943)、「天」(同26年=1951)など、光太郎が題字を揮毫したものも含まれています。こうした場合にいつも感じるのですが、いろいろ並んでいる中にふっと光太郎の筆跡を見つけると、旧友に遭ったような感覚になります(笑)。

企画展「心平が愛したかわうち」は8月23日(日)まで。また、稿を改めてご紹介しますが、期間中の土日、さらに旧盆前後には、天山文庫のライトアップ「光のフォレストナイト」も開催されます。ぜひ足をお運びください。

明日も川内村レポートを続けます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月12日

昭和7年(1937)の今日、智恵子が遺書とも取れる書簡を、母・センに宛てて書きました。

ながいあいだの病気が暑さにむかつて急にいけなくなつて来ましたので 毎晩睡眠薬をのんでゐます。あまりこれをつゞけますからきつといけなくなるとおもひます。もしもの事がありましたら、この部屋をかたつけみなさんでよいやうにきもの其他をしまつして下さい 大そう長い間のことですからいろいろたまつてしまひました、押入れや地袋、ぬりたんす、柳こり、ねだいのうへのものなどみなしまつをつけて下さい
  皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやつていつて たのしくこゝろをもつてお暮らし下さい 末ながくこの世の希望をすてずに 難儀ななかにも勇気をもつてお暮らしなさい。
  それではこれで
   母上様
   皆さん
   せきさん 修さん 皆さんへよろしく
    七月十二日


15日朝には、智恵子は目覚めませんでした。部屋には睡眠薬アダリンの空の瓶が残され、壁に真新しいキャンバスが立てかけてありました。現存は確認されていませんが、光太郎への愛と感謝、義父・光雲への謝罪の言葉が書かれた遺書もあったそうです。

一命は取り留めたものの、これを機に、智恵子は夢幻界の人となってしまいます。

昨日ご紹介した花巻高村祭に関しての新聞報道で、各紙とも触れて下さっていましたが、花巻高村光太郎記念館で企画展示「山居七年」が始まりました。

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彫刻を中心とした展示室1、光太郎の業績を幅広く紹介する展示室2は、基本的に常設展として展示替えはあまり行いません。ところが、その2室に並べきれない貴重な資料がまだまだたくさんあり、そういったものを半年~1年のスパンで出していこうというわけです。また、将来的には外部からの資料等も活用する方向です。

最初の企画展「山居七年」は、昭和20年(1945)から27年(1952)までの、この地での光太郎の暮らしにスポットを当てています。9月28日までが前期、10月9日から2016年2月22日を後期とし、展示を入れ替えます。前期は春から秋の生活、後期は冬の暮らしを中心にとのことでした。

そのために、足かけ8年分の詳細な年譜を作成しました。それが壁面にパネルとなって貼られています。下の画像の緑色のパネルです。

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「どこどこに講演に行った」とか、「××温泉に何泊した」とか、「何々の文字を書いた」などです。

その下の白いパネルは、『高村光太郎山居七年』という書籍からの抜粋。こちらは花巻高村光太郎記念会を創設した佐藤隆房の編集になるもので、佐藤自身の回想や、花巻町、太田村、さらに岩手県内の他の地域の人々の証言などをまとめたものです。元版は昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行され、記念会に版権を移して再刊されていましたが、それも品切れとなり、このたび新装版が刊行されました。

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以前は函入りハードカバーでしたが、今度のものはソフトカバーです。その分、定価1,800円+税と、お求めやすくなっています。ぜひお買い求めを。

さて、展示に話を戻します。

現在並んでいるのは、光太郎が佐藤に贈った水彩画「牡丹」、光太郎が文字を書いた山口小学校や絵画サークル雑草社の標札板、光太郎が山口小学校に寄贈した楽器や映写機、当時の写真などです。

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『高村光太郎山居七年』からの抜粋のパネルは、それぞれのものの由来などがわかるような部分を抜き出しています。

また、リニューアル前に流していた、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」も常時上映中。この地での光太郎の姿が写っている貴重なものです。

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ちなみに、こんなものも並んでいます。かなり大007きいので、等身大かと思いきや、これでもまだ小さいということ。ボードの上下幅が最大180㌢しか取れないというので、確かに光太郎の身長ははそれ以上ありました。

企画展示室、狭い部屋ですが、こうした充実した内容になっています。

繰り返しますが、10月からは展示替えです。以後、半年から1年のスパンで内容を変更していきます。当方、アドバイザーとして関わっており、これからの内容を考えると、あれもやりたい、こんなものも並べたい、とワクワクしてきます。
当方自宅兼事務所にも珍しいものがいろいろあり、そういうものも見ていただきたいと考えたりもしています。既に展示室2に当方がお貸ししたものも並んでいますが。

そこで皆様にお願いです。光太郎智恵子に関し「家にこんなものがある」という方、ぜひ記念館にお知らせください。どういうものかよくわからないけれど、という場合でも結構です。また、岩手時代のものでなくてもかまいません。もしかするとものすごいお宝かも知れません。

明日のこのブログでご紹介しますが、まさしくそういうケースで貴重なものが出てきましたので。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月19日

平成8年(1996)の今日、劇作家の北條秀司が歿しました。008

北條は、光太郎が歿した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』に戯曲「智恵子抄」を発表、初代水谷八重子主演で上演されました。光太郎生前から上演の話はありましたが、自身が登場することに光太郎が難色を示していたため実現しませんでした。

その後、この戯曲は藤純子(現・富司純子)さんや有馬稲子さん主演でも上演されています。

光太郎と北條の出会いは戦時中。ともに日本文学報国会に所属し、情報局の命で光太郎に軍歌の作詞を頼みに行ったのが北條だったそうです(ただし断られました)。

そのあたり、北條の著書『演劇太平記(二)』(昭和61年=1986 毎日新聞社)に記述があります。

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3泊4日の旅も終わりに近付き、東京まで戻って参りました。高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所に向かっております。

今日は杜の都仙台にて、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて参りました。

やはり詳細は帰ってからレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  5月17日

平成10年(1998)の今日、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?!」で智恵子がメインで取り上げられました。


司会は関口宏さん、千野志麻アナウンサー。ゲストは俳人の黛まどかさん、俳優の榎木孝明さん、女優の有馬稲子さん、映画監督の大林宣彦さん、沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さん。ナレーションは池田昌子さんでした。

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本日(15日)、花巻郊外旧太田村の光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内にて、第58回高村祭が行われました。

地元小中高生、看護学校生による朗読や演奏、当方の記念講演などがあり、光太郎の遺徳を偲びました。

心配された天気もどうにかもち、つつがなく終了。ほっと胸をなで下ろしております。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月15日

慶応4年(1868)の今日(旧暦ですが)、薩長軍と、彰義隊を中心とする旧幕府軍の間で上野戦争が起こりました。

光太郎の父、光雲は師匠・東雲の元で年季奉公中。砲弾銃弾の飛び交う下を、師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記されています。

昨日は高村光太郎の忌日ということで、日比谷松本楼様におきまして、第59回連翹忌の集いを開催いたしました。

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開会は午後5時半でしたが、当方、その前に、参会者を代表して、駒込染井霊園の高村家墓所に参拝しました。

例年、連翹忌の日は雨です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)の4月2日は前日から季節外れの春の大雪でしたし、その後も雨になる確率が非常に高いのです。昨年も会が終わって外に出るとぽつぽつ雨でしたし、一昨年は春の大嵐でした。しかし、昨日は珍しく快晴。名の由来となった染井、本場のソメイヨシノが見事でした。

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松本楼さんのある日比谷公園も桜が満開、というか少し散り始めており、雨や雪の代わりに桜の花びらが降っていました。「桜吹雪」と云うほどではなく、「桜小雪」の状態でした(笑)。

少し遅れて5時40分、開会。まずは光太郎に、そして、昨年8月に逝去された光太郎の令甥、高村規氏をはじめとする、この一年になくなった関係者の皆さんに、黙祷を捧げました。続いて、当会顧問、北川太一先生のご挨拶、高村規氏令息・高村達氏の御発声による献杯。

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さらに、昨年9月にコンサート もうひとつの智恵子抄」をなさった音楽ユニットPrhymx(ぷらイム)のお二人、テルミン奏者の大西ようこ様(大西様はやはり昨年10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』でも演奏なさいました)、ギターの三谷郁夫様による演奏。

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哀愁漂うカッチーニの「アヴェ・マリア」、さらに大西様の演奏に合わせ、三谷様の朗読「Nー女史に」。会に花を添えて下さいました。

その後は会食、歓談しつつ、多くの方にスピーチを戴きました。

今月28日にグランドオープンとなる花巻高村光太郎記念館がらみで、花巻市長・上田様。


過日ご紹介した、光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一様と、そのお話を聴く際に同道された女優の渡辺えりさん。

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つい最近も福島の地方紙で紹介された、日本画家・大山忠作氏のお嬢さん、女優の一色采子さん。

やはり生前の光太郎を知る、元建設大臣、水野清様。水野様は光太郎の親友・水野葉舟のご子息です。

『歴程』同人の伊武トーマさん

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新宿中村屋サロン美術館の太田様、河野様。太平洋画会の坂本富江様。作曲家の野村朗様。詩人・野沢一の研究者・坂脇秀治様。福島二本松の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん。山岳雑誌『岳人』編集部の加藤様。信州安曇野碌山美術館の五十嵐館長。北川先生のご著書を出版されている二玄社さん、さらに文治堂書店さん(代理で曽我様)、元かわうち草野心平記念館長・晒名様。

最後の締めを、「連翹忌」の名の由来となった、光太郎の愛した連翹が咲いていた、その終焉の地・中野のアトリエの所有者の中西利一郎様。中西様には高校生だった光太郎終焉の時の思い出を語っていただきました。

今更ながらに、たくさんの人々に愛され続けている光太郎の遺徳を、しみじみと感じました。

ご参会の皆様、さらに資料袋詰めやら受付やら物販等でお世話になった皆様、ありがとうございました。

来年は第60回連翹忌となります。したがって、光太郎歿後60年のメモリアルイヤーとなります(メモリアルイヤーといえば、智恵子生誕130年でもあり、いろいろな企画が進むことを期待します)。さらに閏年の関係で、来年の連翹忌は土曜日です。このところ、年度初めの平日と云うことで、なかなか参加したくても不可能だった方も、来年はよろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月3日

昭和37年(1962)の今日、一ツ橋の如水会館で、第6回連翹忌が開催されました。

この年は、4月2日が日曜日。会場の関係で2日に行えず、3日の月曜日に執り行いました。その後も何度かそういうことがありましたが、会場が松本楼様に移ってからは、曜日に関係なく4月2日に挙行しております。

年2007回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その43集、原稿が仕上がり、印刷に廻しました。

以前にもご紹介しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、当会顧問にして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて7冊目の刊行ということになります。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。

「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。

今回は「造形作家として(五) 十和田湖畔の裸婦群像」と題し、最晩年の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)にかかわるものを紹介しています。


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光太郎回想・訪問記 「高村光太郎氏とアトリエと袴と」 高山辰夫」 / 「高村光太郎氏のこと」 近藤憲二
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その2  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第七回 安達(福島)
光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書の画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介しています。

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音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(三)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。

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高村光太郎初出索引(七) は行(一)


4月2日の第59回連翹忌の席上でご参会の皆様には無料で配布いたします。また、当会名簿にお名前のある方で、連翹忌当日ご欠席の方には後ほど郵送いたします。

ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月1日

平成元年(1989)の今日、NTT東北岩手支社より、50度数テレホンカード「小屋の入り口に安らぐ高村光太郎」が発行されました。

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花巻郊外太田村の山小屋での光太郎と、当時の筆跡「人は野をおもひ山をおもふ 光」が印刷されています。

携帯電話の普及により、めっきり見かけなくなったテレホンカードですが、当方、光太郎智恵子、光雲がらみのテレカを50枚程持っています。ネットオークションなどで見かけると、ついつい買ってしまいます(笑)。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第59回連翹忌を開催いたします。
 
昨年の第58回連翹忌の様子はこちら

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。

3月30日追記 申し込みは締め切らせていただきました。

詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第59回連翹忌の御案内                     

記                                                        

                                       
日 時  平成27年4月2日(木
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円


御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

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申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場入りしております。


当会顧問にて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生の玉稿も戴いております。


ご 挨 拶

 草野心平さんが「この日を連翹忌と名づけて今後ひきつづき高村さんの思い出を語りあいたいと存じます。」と最初の案内状に書いてから、今年はもう五十九回目になります。

 その間にたくさんの出来事がありましたが、高村さんや智恵子さんを敬愛する皆さんに支えられて、私たちの心の中のお二人の姿は、ますます強く、ますます大きく生き続けてきました。

 荒々しい自然現象や、異常な世界情勢のなかで、様々な困難を乗りこえて実現し、いまも企てられつつある出来事の詳細は、今年もそれぞれ親しく報告されるでしょう。

 お元気でお目にかかれるのを楽しみにしております。

平成二十七年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一

以上、よろしくお願い致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月14日

昭和29年(1954)の今日、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵が歿しました。

愛蔵は明治34年(1901)に、東大赤門前にてパン屋の中村屋を創業、のち、本店を新宿に構えます。同郷の彫刻家・荻原守衛を援助し、守衛を中心に光太郎を含む若き芸術家達が中村屋に集い、中村屋サロンが形成されました。

昨日は、東京本郷にて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。昨年からお声がけいただくようになり、2度目の参加でした。
 
主催は北川先生が都立向丘高校に勤務されていた頃の教え子の皆さんである「北斗会」さん。「教え子」といっても、80代の方も多く、昨年もそうでしたが、30名程の参加者の中で、当方が最も若いという状況でした。
 
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北川先生は、今年の誕生日が来れば満90歳。しかし、そうとは思えぬほどお元気です。また、結婚記念日が来れば60周年のダイヤモンド婚式。奥様の節子先生もお元気です。
 
昨日戴いた、座席表兼年賀状。北川先生の直筆です。曰く「ひつじ雲もくもく よき春を呼べ 太一卆寿」。
 
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さて、さらに同じく昨日。深夜11:00~12:30、NHK Eテレさんの教養番組「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」の放映がありました。
 
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吉本の思想的源泉の一つが、戦時中の光太郎の戦争協力に対する考察だったことが紹介されました。
  
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その話の流れの中で、東京工業大学等で吉本の同級生だった北川先生がご登場。
 
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二人の光太郎にまつわるエピソードが語られました。
 
節子先生も、ちらりとご登場(笑)。
 
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その後の吉本の活動について、たっぷり90分間の中で、批判的な意見もおりまぜつつ紹介されました。非常に見応えのある内容でした。
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再放送が、やはり深夜ですが、1月17日(土)午前0時00分~午前1時30分にあります。見逃した方、ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月11日

昭和28年(1953)の今日、秩父宮雍仁親王の逝去に際し、『朝日新聞』の取材を受けました。
 
この時の談話は、翌日、同紙に散文「悲しみは光と化す」の題で掲載されました。哀惜の念のよく表された談話です。光太郎は昭和3年(1928)の秩父宮親王ご成婚に際し、詩「或る日」を作っています。
 
のちに草野心平が、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説で、光太郎自身の追悼のために、この「悲しみは光と化す」の題名を拝借しています。

特にいつもそれを眺めているわけではありませんが、当方、部屋ごとにカレンダーがないと落ち着きません。2ヶ所あるトイレにも吊していますし、洗面所兼脱衣場に貼った年もありました。
 
しばらく前は、アート系のカレンダーを愛用していました。その月が終わって破り取ったあと、絵の部分を切り取って額に入れ、手軽な複製画として飾るというふうに。竹久夢二、アルフォンス・ミュシャ、鶴田一郎、葉祥明、藤城清治、川瀬巴水、安野光雅、棟方志功などなど。
 
少し前から、もうそうしたものを飾るスペースもなくなってきたので、販促用にその辺の店でくれるものだけを使うようになりました。後で飾らないのにアート系を買うともったいない、破り取った分を捨てるに忍びない、そういう感覚で、アート系は避けていました。
 
ときどき手に入った光太郎智恵子がらみのカレンダーは、使わずに取ってあります。
 
さて、昨年末。「来年のカレンダーはどうしようか」と考えました。やはり販促用にその辺の店でくれるものではものたりません。まず「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。そこで、ふと、「光太郎智恵子ゆかりの地の風景が載ったものはどうだろう」と思いつき、検索したところ、見つかったので、2点購入しました。
 
まず、小暮真望さんという方のシルクスクリーン版画をあしらったもの。「日本百名山」がモチーフです。
 
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5・6月が安達太良山です。「ほんとの空」を映して広がる水田、その彼方に雪を残す安達太良山。いいですね。
 
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もう一点、こちらは写真ですが、「輝く太陽」というカレンダー。日本各地の日の出を撮った写真が使われています。
 
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2月は銚子犬吠埼。大正元年(1912)に、光太郎智恵子が愛を確かめた故地です。
 
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6月は十和田湖。新緑が鮮やかです。
 
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「日本百名山」は書斎に、「輝く太陽」は寝室に掛けました。
 
もう一点、近所の書店で見つけ、買って来たのがこちら。「季節のパノラマ」という題の、山岳写真を使ったものです。
 
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表紙のページが上高地。大正2年(1913)、ここで光太郎智恵子は婚約を果たしました。さらに6月が奥入瀬渓流です。
 
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こちらはトイレに飾ってあります。
 
ところで、3点とも、現在のページ―つまり1月―は、富士山です。
 
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初夢の「一富士二鷹三茄子」ではありませんが、やはり日本人には、「正月は富士山」というイメージなのでしょうか。ちなみに、お互いに知り合う前に別々にですが、光太郎も智恵子も富士登山の経験があり、その意味では故地ですね。
 
その他、それぞれに日本の美しい自然が取り上げられています。こういうものを見ると、この国に生まれて本当に良かったと思います。無論、諸外国にもそれぞれ美しい風景はあるのでしょうが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月7日
 
昭和26年(1951)の今日、『花巻新報』に詩「初夢まりつきうた」が掲載されました。
 
 
   初夢まりつきうた000
 
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 ねだんがやすくて
 品物たしかで
 なんでもそろえて
 お店はあかるく
 きれいで清潔
 お客の相談こまかに考え
 いつでもにこにこ
 エチケツト身につけ
 しんからしんせつ
 お届けシステム
 きびきびはきはき
 近郷近在遠くは列車で
 なんでも花巻かんでも花巻
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 夢は正夢初笑い
 まずまず一貫かし申した
 
光太郎にしては珍しい作風です。現代仮名遣いによる最初の詩で、はじめ、歴史的仮名遣いで書かれましたが、草稿に新仮名遣いに訂正した跡が残っています。
 
平成21年(2009)、この詩に曲が付けられたSPレコードの発見が報じられました。その発見者の方とコンタクトが取れましたので、いろいろ判りそうだと期待しています。

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というわけで、平成27年(2015)となりました。今年もよろしくお願い致します。
 
 
今朝は、九十九里浜に行ってきました。もちろん初日の出を見に、です。
 
南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町真亀納屋付近の海岸で、その時を待ちました。81年前に、二人が歩いた浜辺です。
 
波はそこそこ荒く、しかし、その潮騒がかえっていい感じでした。あまり寒くもなく、結構な人出でした。
 
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わんこも(笑)。あとで右のミニチュアダックス君は、当方にじゃれついてきました。
 
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6時30分頃には、見事な茜色の雲。6時48分頃が日の出です。期待が高まります。
 
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ところが、全体的には青空なのですが、ちょうど太陽が出るあたりの海上に、厚い雲。下の画面中央の、雲の切れ間から太陽が見えるかと思い、7時15分位までねばりました。
 
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しかし、結局、浜では日の出を見ることができませんでした。残念。
 
こちらは当方が行った浜辺にほど近いところにある「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。さらに東金 九十九里有料道路今泉PAにある光太郎智恵子の銅像です。
 
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当初予定では、これらの背後に燦然と輝く太陽が写るはずでしたが、仕方がありません。
 
帰り道、横芝光町あたりまで来たところで、ようやく太陽が拝めました。
 
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車を駐め、「今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように」と願いを込め、シャッターを切りました。
 
というわけで、今年1年、またよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月1日000
 
明治40年(1907)の今日、雑誌『明星』未歳第1号に、光太郎の「新詩社詠草」短歌44首が掲載されました。
 
そのうちの1首です。
 
海を観て 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと
 
前年2月、欧米留学に出るため、横浜からカナダ太平洋汽船のアゼニアン号に乗り、船出した時の歌です。
 
のちに「海を観て」は「海にして」と変更されています。
 
九十九里浜の砂丘に腰を下ろし、潮騒に耳を傾けながら、この歌を想い出しました。
 
右の画像は当方の手許にある、光太郎直筆の短冊です。
 
 
ところで、一昨年のこのブログでは【今日は何の日・光太郎】ということで、365日、その日その日の光太郎智恵子、光雲などのエピソードをご紹介しました。すると、たまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛せざるを得ず、悔しかったので、昨年のこのブログでやはり365日、【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで補いました。
 
そして今年。どうももう1年できそうだな、と思い、さらに2年でやめるのも半端かな、という気がしました。そこで【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、また365のエピソードを紹介して行こうと思います。このコーナーがあると、特にネタがない時には書く方も楽でして……(笑)。
 
ただし、最初に宣言しておきますが、この「拾遺」で限界。もうそれ以上は続けません。
 
来年以降はまた新たな企画を考えたいと思います。

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