カテゴリ: 日記

今年一年の回顧、2回目です。4~6月を書きます。

4月1日(土)
北海道釧路で刊行されている文芸同人誌『河太郎(かたろう)』の43号が発行されました。光太郎に触れる横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』『 北緯五十度 』『 大熊座 』」が掲載されています。

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4月2日(日)
日比谷松本楼さんにおきまして、
第61回連翹忌を執り行いました。全国からゆかりの方々など、70余名のご参加をいただき、盛会となりました。

同日、光太郎第二の故郷ともういうべき花巻では、詩碑前祭、花巻連翹忌法要が行われました。

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同日、高村光太郎研究会さんより『高村光太郎研究 (38)』、当会から『光太郎資料 47』が刊行されました。

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4月5日(水)
光太郎に触れた御著書等もあった詩人の大岡信氏が亡くなりました

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4月6日(木)
江東区公会堂ティアラこうとうさんで、「第5回 春うららの朗読会」が開催され、宮尾壽里子さん作の「智恵子さん」を、宮尾さん、小川弘子さん、藤田治子さんが上演なさいました。

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4月8日(土)
NHK BS1さんで「実践! にっぽん百名山 「安達太良山」」が放映され、光太郎智恵子に触れられました。4月18日(火)、7月29日(土)に再放送がありました。

4月8日(土)~5月7日(日)
福島県二本松市の智恵子生家で、通常は立ち入り禁止となっている智恵子の居室を含む二階部分の期間限定公開が行われました。30日(日)までは、生家裏手の智恵子記念館で、紙絵の実物展示も行われました。

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4月10日(月)
花巻市の高村山荘裏手の高台の「智恵子展望台」がリニューアル整備されました。

4月11日(火)
盛岡市の盛岡地区更生保護女性の会さんの総会が開催され、その中で当方の講演「心はいつでもあたらしく 高村光太郎 つまずきと反省と求道と」を組み込んで下さいました。

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4月14日(金)~6月26日(月)
花巻市の高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催されました。

4月15日(土)〜6月18日(日)
福島県いわき市の草野心平記念文学館さんで「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開催され、光太郎智恵子の通った焼き鳥「いわき」,、居酒屋「火の車」に関する展示も為されました。

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4月17日(月)
文京シビックホール小ホールで、「新井俊稀クラシカルサロンコンサートVol.14」が開催され、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。

4月20日(木)
隔月刊誌の『花巻まち散歩マガジン「Machicoco(マチココ)」』が創刊されました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で「光太郎のレシピ」が連載されています。

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4月22日(土)
信州安曇野の碌山美術館さんで、「第107回碌山忌」が開催されました。研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」。同館学芸員の濱田卓二氏が、文献から推定される、守衛のロダン訪問の時期、内容等について。碌山友の会会長を務められている幅谷啓子氏から、近代日本でのロダン受容史について。最後は、地元ご出身の彫刻家・酒井良氏が、実作者の立場から。それぞれ、光太郎にも触れる発表をしていただき、興味深く拝聴しました。

4月22日(土)・5月27日(土)・6月24日(土)
秋田県生涯学習センターさんで「【あきたスマートカレッジ】文学リレー講座~戦中・戦後の文学~高村光太郎」が、北条常久氏を講師に行われました。第一回が「青年光太郎『道程』 ~彫刻家父光雲と詩人光太郎~」、第二回は「光太郎と智恵子『智恵子抄』 ~智恵子の愛に清められ~」、第三回に「戦中・戦後の光太郎『暗愚小伝』 ~花巻高村山荘での生活~」でした。

4月23日(日)
コールサック社さんから森三紗さん著『宮沢賢治と森荘已池の絆』が刊行されました。「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池」という章を含みます。

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4月27日(木)
求龍堂さんから酒井忠康氏著『片隅の美術と文学の話』が刊行されました。「高村光太郎―パリで秘密にしたもの」「高村光太郎の留学体験」を含みます。

5月1日(月)
日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の5月号が発行されました。「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という特集を組んで下さいました。

同日、日本聖書協会さんから『聖書を読んだ30人 ~夏目漱石から山本五十六まで~』が刊行されました。「高村光太郎と聖書 美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」を含みます。

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5月3日(水)
墨田区のすみだトリフォニーホール大ホールにおいて、「やまとうたの血脈(けちみゃく)Ⅷ 抒情は詩人の武器であったか?~大正、昭和前期の詩による合唱曲展」が開催され、光太郎作詞、佐藤敏直作曲「猛獣篇」より「傷をなめる獅子」「苛察」が演奏されました。指揮・藤井宏樹氏、合唱・Ensemble PVDさん、ピアノ・浅井道子さんでした。

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5月5日(金・祝)
二本松市の智恵子純愛通り記念碑前(智恵子の生家近く)集合・出発で、「好きです智恵子青空ウオーク」が開催されました。

5月7日(日)
千葉県松戸市の森のホール21さんで、東葛合唱団はるかぜさんの第13回演奏会が開催され、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)が演奏されました。

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5月10日(水) 〜16日(火)
杉並区のラピュタ阿佐ケ谷で、「芳醇:東宝文芸映画へのいざない」が開催され、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子、山村聡主演)が上映されました。

5月11日(木)
NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」で、光太郎詩「人に」を取り上げて下さいました。再放送は5月25日(木)でした。

5月13日(土)~28日(日)
この期間の土、日に、二本松市の智恵子生家奥座敷において、「高村智恵子 生誕祭 上川崎和紙で作ろう切り絵体験」が行われました。

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5月13日(土)
京都コンサートホールさんにおいて、「鈴木憲夫の世界2~女声合唱の響宴」公演があり、光太郎作詞、鈴木憲夫氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。

5月14日(日)
東京都調布市の文化会館たづくりさんで、「第121回 午後のティーサロン ~「映画の中の日本文学」(戦前昭和の文学)~ ~音楽&映画への語らい~」が開催され、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子、山村聡主演)が上映されました。

同日、神奈川県相模原市の相模女子大学さんでオープンキャンパスが開かれ、日本語日本文学科では【高村光太郎『レモン哀歌』を読み解く】の模擬授業が為されました。

5月15日(月)
花巻市の高村山荘前広場で、「第60回高村祭」が開催されました。記念講演は藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長) 演題 『思い出の光太郎先生』でした。

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5月16日(火)
光太郎に関わる数々の書籍を刊行して下さった、文治堂書店元社長の渡辺文治氏が亡くなりました

5月17日(水)、21日(日)、27日(土)
福岡市映像図書館ホールシネラさんで、「特別企画 中村登監督特集 60年代松竹映画を代表する監督・中村登の特集」が行われ、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻、丹波哲郎主演)が上映されました。

5月21日(日)
神奈川県相模原市の津久井湖城山公園で、「森のコンサート マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。

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5月27日(土)
愛知県豊橋市の豊橋市民文化会館ホールにおいて、第5回コーロ・フェリーチェ演奏会が開催され、光太郎作詞、鈴木憲夫氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。

5月31日(水)
第36回新田次郎文学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式があり、光太郎や光雲が登場する小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られました。

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6月1日(木)
日本絵手紙協会さん発001行の雑誌『月刊絵手紙』の6月号が発行されました。この号から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

同日、『毎日新聞』さんの静岡版に静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」さんの境内に再建された「活人剣の碑」の由来を伝える紙芝居の完成が報じられました。同碑は明治33年(1900)、光雲原型によって建立されたものでした。

6月10日(土)
筑摩書房さんから、ちくま文庫の一冊として和田博文氏編『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』が刊行されました。光太郎詩「猫」を収めています。

6月10日~8月20日(日)
北海道立函館美術館さんで、「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展が開催され、光雲木彫、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点も並びました。

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6月11日(日)~6月20日(火)
袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、「YUKIKO」さんによる、可睡斎(かすいさい)さんの活人剣碑の紙芝居原画展が開催されました。

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6月12日(月)
文芸教育研究協議会会長・西郷竹彦氏が亡くなりました。黎明書房さんから平成5年(1993)刊行の『名詩の美学』他で、光太郎に触れて下さっていました。

6月17日(土)
山梨県韮崎市の韮崎市市民交流センターNICORI ニコリにおいて、「大人の為の朗読会・朗読のつどい」が開催され、「智恵子抄」も取り上げられました。

6月21日(水)
千代田区の学士会館さんで「現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」」が開催されました。メインパネリストは歌人の松平盟子さん、染野太朗さんでした。

6月22日(木)
昭和24年(1949)刊行の「宮沢賢治名作選」の編集に関わり、光太郎とも交流のあった吉田コトさんが亡くなりました

6月24日(土)
仙台市のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんで、「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」公演がありました。朗読・荒井真澄さん、テルミン・大西ようこさんでした。

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6月28日(水)、29日(木)、7月12日(水)、13日(木)
NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」で、光太郎詩「あどけない話」を取り上げて下さいました。

6月30日(金)
BSジャパンさんで「武田鉄矢の昭和は輝いていた 昭和のロングセラー蚊取り線香&コカ・コーラ」が放映され、コーラを我が国で最も早く取り上げた詩とされる光太郎の「狂者の詩」(大正元年=1912)が取り上げられました。

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同日、千代田区の東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーの活用方法として美術館巡りなどを提案するPRイベントが開催され、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が「登場」しました。ナビゲーター役は関ジャニ∞の横山裕さんと丸山隆平さんでした。

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さらに同日、河出書房新社さんから中村圭子氏編『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』が刊行されました。『青鞜』がらみで智恵子に触れられています。翌日から文京区の弥生美術館さんで始まった同名の企画展図録を兼ねています。


明日は7、8、9月をふり返ります。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

題名の通り、十ヶ条の条文と、四ヶ条めまでは詳しい解説が付いています。五ヶ条目以降は条文のみ。光太郎彫刻論の集大成的な文章ですので、十ヶ条すべてご紹介します。

「詩魂」とは、物事の本質を十分に見極め、さらに端的に表現する精神とでもいいましょうか、彫刻をはじめとするすべての光太郎芸術の根幹に流れている基調となるものです。

年末恒例、この一年をふり返ってみます。まずは1~3月です。

1月5日(木)
十和田市の劇団「エムズ・パーティー」さんが、光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し、同市の小山田久市長に報告なさいました。

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1月7日(土)
『伊豆新聞』さんで、鎌倉の川端康成邸から光太郎の扇面揮毫「あれが阿多多羅山……」を含む70数点の書画の発見が報じられました。その後、他紙やテレビでも続々報道されました。

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1月15日(日)
BS朝日さんで「暦を歩く #99「冬の詩人」(福島県二本松)」が放映されました。

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同日、幻戯書房さんから、平田俊子氏著『低反発枕草子』が刊行されました。『静岡新聞』さんに、平成26年(2014)から翌年にかけて連載された同名のエッセイの単行本化です。その頃の花巻高村光太郎記念館さん訪問記等を含みます。

  
1月21日(土)・22日(日)
新宿区の絵空箱さんにて、「蒼井まつりひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

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1月21日(土)~3月20日(月)
町田市民文学館ことばらんどさんで企画展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」が開催され、光太郎から野田宛の書簡が展示されました。

1月23日(月)~4月22日(土)
千代田区立千代田図書館さんの9階 展示ウォールで、「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」が開催され、光太郎と交流のあった佐伯郁郎が取り上げられ、光太郎にも触れられました。

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1月24日(火)・25日(水)

1月24日(火)~4月9日(日)
三重県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体」。が開催されました。昨年、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の最終会場で、光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、光雲の木彫も2点、「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されました。

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1月25日(水)
NHKBSプレミアムさんで、「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」が放映され、大正2年(1913)の光太郎智恵子の上高地行が紹介されました。

1月27日(金)
勉誠出版さんから、『平川祐弘決定版著作集7 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯/高村光太郎と西洋』が刊行されました。平成8年(1996)に新潮社さんから刊行されたものの復刊です。

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1月28日(土)
『日本経済新聞』さん夕刊の連載「文学周遊」で「高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。」が掲載されました。

同日、銀座のシンワアートミュージアムさんで、「シンワアートオークション近代美術PartⅡ」が開催され、光太郎のブロンズ「野兎の首」が出品されました。

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1月28日(土)~3月12日(日)
山口県下関市立美術館さんで、「特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が開催されました。昨年、東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会の最終会場でした。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」、さらに『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌、ヒユウザン会展のポスターなどが展示されました。

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1月29日(日)
『しんぶん赤旗』さん日曜版に「この人に聞きたい 生き残った人たちの負い目 父の思い抱き戦争を描く 劇作家・演出家・俳優 渡辺えりさん」が掲載されました。お父様の渡辺正治氏と光太郎との交流に触れられています。


2月3日(金)
『朝日新聞』さんの山梨版。俳優・柳生博さんの子息で、八ケ岳南麓にてレストラン&ギャラリー「八ケ岳倶楽部」を営まれている柳生宗助さんの連載コラム「柳生さんちの八ケ岳日記」の、「野鳥観察も寒いほどお得に」で、光太郎の木彫「うそ鳥」に触れて下さいました。

同日刊行の雑誌『東京人』3月号に「女性解放に奔走した女たち。 雑誌「青鞜」と平塚らいてう」という記事が掲載され、智恵子にも触れられました。

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2月3日(金)~2月26日(日)
青森県十和田湖畔休屋地区で、毎年恒例の「~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。

2月3日(金)~3月12日(日)
小平市平櫛田中彫刻美術館さんで、特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。光太郎ブロンズ「手」「腕」「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が展示されました。

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2月9日(木)
元埼玉県東松山市教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏が亡くなりました。

2月10日(金)
みすず書房さんから土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が刊行されました。光太郎、光雲にも触れられています。

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2月17日(金)
山と渓谷社さんから、同社編・『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が、ヤマケイ文庫の一冊として刊行されました。光太郎の詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」」(同14年=1925)、「岩手山の肩」昭和23年(1948)が掲載されました。

2月22日(水)
『毎日新聞』さんの連載コラム「季語刻々」で、光太郎の俳句「春の水小さき溝を流れけり」が取り上げられました。

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2月24日(金)
千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ  ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演がありました。第二部が「智恵子抄」系で、「歌と朗読とピアノのコラボ」。佐藤直江さん作の「星になった智恵子」―智恵子一人称の独白スタイル―を山田典子さんが朗読され、合間に青木省三さん作曲の「智恵子抄三章」をオペラ歌手・大久保光哉さんが歌われました。

2月26日(日)
小平市の放送大学東京多摩学習センターさんで、平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事として美術講座「ロダンと近代日本彫刻」が開催されました。講師は同館学芸員・藤井明氏でした。

3月3日(金)
仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに「<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙」という記事が掲載され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏、奥様の英子さんが取り上げられました。

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3月3日(金)~12日(日)
京都市の知恩院さんで、「知恩院 春のライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。

3月4日(土)
東京小平市のルネこだいらさんで、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の関連行事「音楽とめぐるロダンの世界」が開催されました。日本大学芸術学部の髙橋幸次教授によるご講演。題して「ロダン歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」、ソプラノの斉藤智恵美さん、ピアノの竹内綾さんのかわいらしいお二人組ユニット「ラ・ペスカ」によるフランス音楽などの演奏が行われました。

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3月5日(日)
新潟市東区プラザ ホールで福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで ―復興を進める福島の経験を共有し将来につなげる―」が開催されました。

3月8日(水)
福島県喜多方市の喜多方プラザホールで「マリンバの響き ~智恵子抄の世界~」公演がありました。マリンバ・松本律子さん、朗読・中村雅子さんでした。

3月14日(火)
盛岡大学文学部日本文学科編・発行の『東北文学の世界 第25号』が刊行されました。高村光太郎研究会主宰の野末明氏による「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されています。

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3月15日(水)
信州安曇野の碌山美術館さんから『碌山美術館報 第37号』が刊行されました。昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録が掲載されています。

3月17日(金)
集英社文庫から森まゆみ氏著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』が刊行されました。同社から平成25年(2013)に刊行されたハードカバーの文庫化です。智恵子にも触れられています。

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3月19日(日)
ドイツ・ハイデルブルグのJakobusgemeinde Neueで、野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。歌・新井俊稀氏、智恵子役・ 北野温子さん、ピアノ・木下敦子さんでした。
3月25日(土) 
テレビ東京さんの「美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い」が放映され、光雲にも触れられました。再放送はBSジャパンさんで4月19日(水)でした。

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3月27日(月)
岩波書店さんから『岩波茂雄文集 第3巻』が刊行されました。光太郎もスピーチをした昭和17年(1942)の「回顧三十年感謝晩餐会」等について触れられています。

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明日は、4~6月です。


【折々のことば・光太郎】

漫画といふやうなうまい名は泰西に無い。さういふのんびりした、達観的な、又無意識的な思想が、ひとり立ちに立つてゐられない程、人種的にせち辛いのであらう。

散文「カリカチユア」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治期には雑誌『スバル』の裏表紙などで光太郎も取り組んでいた、カリカチュアに関する散文です。

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左は与謝野晶子、右は森鷗外。それぞれさんざんお世話になっていた先輩方ですが、光太郎の手にかかるとこうなります(笑)。

同じ文章では、漫画の祖を、「鳥獣人物戯画」の鳥羽僧正としています。今日、それは定説ともいえるものですが、大正末にそうした発言をしていたのは、意外と早い時期の指摘なのではないでしょうか。

昨日から一泊二日で甲信地域をふらふらしております。
メインの目的は、信州安曇野碌山美術館さんで昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」でパネリストを務めさせていただいたことでした。

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その後、安曇野で一泊、今日は山梨県まで戻り、光太郎ゆかりの場所三ヶ所を回りました。

北杜市の清春白樺美術館さん。

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富士川町の光太郎文学碑。

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四尾連湖。市川三郷町です。

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たまたま娘が同級生の結婚披露宴で甲府に行くというので、昨日、甲府で下ろし、今は披露宴会場の駐車場で娘を待っているところです。

帰りまして明日以降、詳しくレポート致します。

昨日から1泊2日で、青森に行っており、さきほど帰宅いたしました。

昨日は八戸で美術館拝観、十和田市街で講演、今日は奥入瀬渓流を通って十和田湖、そして帰りがけに福島二本松に寄りました。

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道中、台風の影響はあまりなかったのですが、帰ってきてから、暴風雨の中、愛犬の散歩(笑)。自宅兼事務所敷地内では、排泄をしませんので……。東北遠征より、それで疲れてしまいました(笑)。

詳しくは明日以降、レポートいたします。

今日から1泊2日で、青森県十和田市に行って参ります。

メインは当方の講演で、十和田市立三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会さんの主催で、題して「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」。

ちょうど64年前の今日、十和田湖畔休屋御前ヶ浜に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されたので、そのメモリアルデーに合わせての開催です。

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現地では、数年前から十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんが、「乙女の像」を見直す活動をいろいろと展開して下さり、同会編集・刊行の『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍で、前半部分を執筆させていただきました。そのうちのジュブナイル「乙女の像のものがたり」を、同市の劇団「エムズ・パーティー」さんが朗読劇として上演して下さったり、DVD化して下さったりもしています。

平成26年(2014)には、十和田湖畔に十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」がオープンし、展示コーナーのうち、光太郎に関わる部分のパネルを執筆させていただいたり、昨年はATV青森テレビさんで製作された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」に出演させていただいたりもしました。

そんなこんなで今回の講演会が実現しました。ありがたいことです。

昨日の地方紙『東奥日報』さんに、告知記事が出たとのこと。

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「定員200人」というのがプレッシャーです(笑)。別に200人を前にしゃべるのは苦痛ではありませんが、果たして何人集まるかと、そっちです(笑)。

間に入っていただいた十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方からのメールに、「乙女の像の誕生日ということで、ケーキを献菓することにしていますが、そのときに乙女の像や光太郎が登場するそうです。」という一節がありました。

堅苦しい話ばかりでなく、こういう楽しい催しも企画されているようですので、お近くの方、ぜひどうぞ。


ついでというと何ですが、十和田湖まで足を伸ばし、「乙女の像」を約2年ぶりに観て参ります。また、「乙女の像」のための手の試作をブロンズに鋳造した作品が展示されている、八戸クリニック街かどミュージアムさんで開催中の「5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで」も拝見して参ります。

詳しくは帰りましてから。


【折々のことば・光太郎】

おれはのろまな牛(べこ)こだが じりじりまつすぐにやるばかりだ。

詩「鈍牛の言葉」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎は、その若き日から自らを牛に例えた詩を作っています。大正2年(1913)には、そのものずばり「牛」という115行にもわたる長大な詩を書きました。「牛はのろのろと歩く」というフレーズがリフレインされ、「じりじりまつすぐにやる」と呼応しています。

時にその道を踏み誤ることもあった光太郎ですが、牛のように「のろのろ」「じりじり」というスタイルは、終生ぶれませんでした。そうありたいものですね。

昨日から光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。光太郎もたびたび宿泊した花巻南温泉郷・大澤温泉菊水館さんにてこの記事を書いています。
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花巻高村光太郎記念館さんでは、昨日から企画展「智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」が開催されていて、そちらを拝見。


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さらに今回は、ジオラマ作家の石井彰英氏と同道、花巻市内の光太郎ゆかりの場所をレンタカー🚙で訪ね歩いております。昨日は光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、郊外の花巻温泉、花巻南温泉郷などを回りました。

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今日はこれから花巻市街を歩きます。

来年、花巻高村光太郎記念館さんの企画展で、石井氏のジオラマを展示する方向で話が進んでいて、そのためのロケハンです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

明日、8月9日は第26回女川光太郎祭です。003これから女川町に向けて出発いたします。迷走台風5号、いったんは日本海側に抜けたようですが、また福島あたりで列島を横断しそうな勢いで、どうも台風を追いかけてゆく行程になりそうです。

帰還は10日の予定で、2泊します。宿泊先は、よく泊めていただいているエル・ファロさん。

去る1日(火)、NHK総合さんで放映された「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」で、エル・ファロさんの女将・佐々木里子さんが紹介されました。

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震災前、もともとご両親が経営されていた旅館を手伝われていた佐々木さん。しかし、ご両親と旅館は津波で流されてしまいました。

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失意の中、ご家族の支えもあり、旅館再開を決意した佐々木さん。

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そして、震災後、いちはやく女川に出来た宿泊施設、エル・ファロさん。

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可動式のトレーラーハウスです。

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震災で壊滅状態となった女川町中心部、茶色とねずみ色の街となりましたが、それなら明るい色にしよう、との佐々木さんの考えで、カラフルなパステルカラー。

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光太郎もこだわっていた、環境と美の関連性の重要さですね。

その後、工事関係者やボランティアの皆さんなどの宿として愛されてきたエル・ファロさん。今年、再開発が一段落した女川駅付近に移転しました。

6月の『日本経済新聞』さんから。

トレーラーハウス大移動 女川・元旅館女将たちの挑戦

 東日本大震災の津波で老舗旅館を流された女将たちが、トレーラーハウスを使った宿泊村を再建させたのが2012年の年末。それから4年半たった今年6月、宿泊村は、新しくできたJR女川駅近くに移設されることになった。日本で初めての規模というトレーラーハウスの「大移動」には、女将たちの第三の創業の願いがこもる。

■津波で旅館と両親を失う
 「ドスン」。長さ13メートル、重さ5トンもあるトレーラーハウスから「馬」が外され、タイヤが接地する。6月6日、トレーラーハウスは牽引(けんいん)車にひかれ、ゆっくりと女川の海岸に向かって動き始めた。行き先は、2015年3月に再建された新しいJR女川駅の近くだ。40台すべてのトレーラーハウスの移動は、9日に終わる予定だ。

 2011年3月11日の大津波で、女川は町の8割が流され、1万人の人口の1割の命が失われた。町の中心部で、両親とともに「奈々美や」という旅館を営んでいた佐々木里子さん(48)も、津波で旅館と両親を一度に失った。
 悲しみにうちひしがれている間にも、町の復興は進んでいく。佐々木さんの目の前では、県内外から作業員が引きも切らずに出入りしている。町内に宿泊施設がないため、仙台市から車で約2時間ほどかけて来ている。
 「もう一度旅館業を復活させなければ」。佐々木さんと同様に旅館を流された計4人の旅館主が集まり、町の商工会や旅館組合にも知恵を借りて、旅館の再建計画が動きだした。ただ、実現には2つのハードルがあった。1つは、建築規制だ。地盤沈下の修正と、土地のかさ上げのため津波跡地に新たな建物は建てられなかったのだ。「建築制限で建物が建てられないのであれば、建物でなければいい」。こうして出てきたのがトレーラーハウス宿泊村の建設計画だった。
 しかしこの妙案にも障害があった。復興補助金の支給の対象は不動産で、トレーラーハウスのように移動できるものは除外されていた。せっかく建てても県外に持ち出されては困るという意見が根強くあったのだ。
 「女川の復興のためなのに、そんなことするわけがないでしょう」。佐々木さんらは熱心に国や県を説得し、ついに2012年5月、補助金の支給がきまり、その年の12月、トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」がオープンした。

■若いホテルマンが救世主に
 オープン当初、エルファロは宿泊施設不足の解決に役立ち、工事関係者や里帰り客に親しまれた。だが、13年の暮れごろから売り上げの減少が目立ってきた。もともと、こぢんまりとした旅館の主たちだ。トレーラーハウス40棟、宿泊63室もの運営には慣れていない。
 さらに、エルファロは津波で壊滅した町域から離れた高台に造られたため、町の中心部である女川駅からは1.5キロほども離れている。「駅から遠い」「繁華街から歩いて帰れない」――。佐々木さんのもとにはこうした苦情も寄せられるようになった。
 「エルファロを助けてやってほしい」。石巻グランドホテルや琵琶湖のリゾートホテルでホテルマンの経験を積んだ田中雄一朗さん(当時28)に声がかかったのは15年の6月。石巻出身で、自身も被災した田中さんはフロントマンとしてエルファロに合流、これまでのホテル経験をいかして接客や集客のノウハウをつぎ込み、支配人としてエルファロを切り盛りするまでになった。
 その結果、16年には黒字化を達成。佐々木さんらは所有するトレーラーハウスの運営業務を田中さんに委託し、田中さんは新たに会社を設立して株式会社エルファロの代表に就任。今回、総費用1億4000万円のうち約5000万円の借り入れを自ら背負って、新女川駅前への移転を決めた。
 「震災後、この町の人たちが本気で町をつくっている姿を常に見てきた。私も覚悟を決めようと思った。もう後戻りはできない」。田中さんはこう決意を見せる。佐々木さんにとっても、流された旅館「奈々美や」から数えて第三の創業となる。「町を明るく照らす存在でありたい」
 エルファロは、スペイン語で「灯台」を意味する言葉だという。「ホテル・エルファロ」はトレーラーハウス40台、全63室。1人1泊素泊りで6018円(税込)から。朝食付きだと7020円(税込)から利用できる。

サイトには動画もアップされていました。

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先週の『石巻日日新聞』さん。

女川町駅前の「エルファロ」 5日から営業再開 地域を照らすホテルに

 東日本大震災後、女川町清水地区に誕生したトレーラーハウスの宿泊施設「ホテル エルファロ」の移設工事が完了し、3日に落成式がJR女川駅西側の現地で開かれた。本設の観光型ホテルとして5日からリニューアルオープン。初年度は1万7千人の利用を目標にしており、関係者らは神事やテープカットで町の滞在人口増加を祈願した。
 エルファロは、災害復旧工事に携わる関係者らの宿泊施設を確保しようと、町内の被災4宿泊事業者による「町宿泊村協同組合」(佐々木里子理事長)が、清水地区の町営住宅跡地に整備した。トレーラーハウスを活用した施設で、平成24年12月から今年5月初旬まで同地で営業を続けてきた。
 清水地区の土地契約が満了を迎えることから、利便性の良い駅前付近の町有地に移転本設することを決定。本格的な観光型ホテルに転換するため、ホテル エルファロ共同事業体(田中雄一朗代表)を立ち上げるなど組織体制も変えた。移転費用は約1億4千万円で、8千万円は県から補助金交付を受けた。
 新施設の客室数は63室。ソファベッドなどを新たに設けたことで収容人数は149人から195人に増えた。ロフト付きタイプもある。食堂機能のトレーラーハウスが集まるバルケをはじめ、敷地内にはたき火やBBQ広場も設けている。
 落成式では、田中代表が「場所の変更だけでなく、施設配置の工夫や観光型ホテルとして経営、運営の見直しも図って来た。エルファロはスペイン語で“灯台”の意味。駅前商業街区と密に連携し、町全体を回遊してもらうプランなどで波及効果を生み出し、町を照らすホテルとしたい」と語った。
 須田善明町長は「トレーラーハウスの宿泊施設は全国で初めての事例。災害発生時に短期間で対応する必要がある場合における選択肢の一つになる。オープン後は、経験を生かして町を盛り上げてほしい」と期待した。
 その後、関係者らがテープカットを行い、5日からの営業再開に向けて心を一つにした。

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こうした皆さんの思いを噛みしめつつ、泊めていただこうと思います。

ところで、女川といえば、もう1件、テレビ放映情報です。

孤独のグルメスペシャル!松重豊主演~真夏の東北・宮城出張編~

BSジャパン 2017年8月9日(水)  17時58分~19時00分  

雑貨輸入商の井之頭五郎が東北出張。仙台名物牛たん、女川町では海鮮料理に出合い、石巻ではシメの○○まで!?孤独のグルメスペシャル!

井之頭五郎(松重豊)は、古くからの友人・岸本(渡辺いっけい)に頼まれた仕事で、宮城に来た。前日入りした仙台で、まずは名物を堪能する。翌日、石巻で借りた軽トラで仕事の舞台の女川に移動、担当者の牧原(向井理)と打ち合わせするが…。一段落すると腹が減った。山道を通って五郎が辿り着いたのは、ひっそりと佇む海鮮の店だった。その店を後にした五郎がさらに辿り着いたお店は…!?

出演者 井之頭五郎…松重豊 牧原達也…向井理  岸本…渡辺いっけい  親方…でんでん  女将…余貴美子

昨年オンエアされたものの再放送です。

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女川編では、駅前の商業施設・シーパルピアに移転する前の「活魚 ニューこのり」さん仮設店舗が舞台でした。

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豊富なメニューの中から、腹具合と相談しながら海鮮丼を選び、堪能する松重さんのコミカルな演技が秀逸です。また、シーパルピアでホヤ入りの焼きそばを食べるシーンも必見です。


さて、そろそろ女川に向けて出発いたします。


【折々のことば・光太郎】

青葉若葉に野山のかげろふ時、 ああ植物は清いと思ふ。

詩「新緑の頃」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

季節外れですが(笑)……。

昨夜は花巻の台温泉、昭和26年(1951)に光太郎が泊まった松田屋旅館さんに泊めていただき、今日は盛岡に移動。岩手県立美術館さんで開催中の「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション」展を拝見しました。

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光太郎が「智恵子抄」中の詩句を記毫した扇が出品されていて、興味深く拝見しました。

その後、多少、光太郎に関わる常設展示がなされている盛岡てがみ館さん、啄木・賢治青春館さんを見まして、帰途に就いております。

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詳しくは帰りましてからレポート致します。

今朝、千葉の自宅兼事務所を出まして、光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
まず、花巻市博物館さんで開催中の企画展「没後50年 多田等観 ーチベットに捧げた人生」を拝見。昭和20年代、光太郎が隠遁生活を送った旧太田村の隣村、湯口村の円万寺の堂守りだったチベット仏教学者にして僧侶の多田等観に関する企画展です。

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等観と光太郎とは、お互いの草庵を行き来しており、今回、等観遺品の中の光太郎から贈られた品も展示されていて、興味深く拝見しました。

ついでに等観が堂守りを務めていた円万寺さんも参拝。

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今夜泊めていただく台温泉♨松田屋旅館さんに荷物を置き、花巻高村光太郎記念館さんに向かう途中です。

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夕方から市民講座「新しくなった智恵子展望台から星を見よう」があり、講師を仰せつかっております。ただ、現在、どんより曇っていて、星は無理そうです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

昨日は、岩手花巻高村光太郎記念会さんのスタッフ氏と一緒に、都内2ヶ所を廻っておりました。

まずは神保町の東京古書会館さんで開催されていた、明治古典会七夕古書大入札会2017の一般下見展観。毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)で、出品物全点を手に取って見ることができるという催しです。

記念会さんでは、特に光太郎が花巻町および郊外旧太田村で暮らしていた昭和20年代の資料でいいものがあれば購入されていて、毎年いらしています。当方も目新しい資料が出ていれば見に行くことにしています。

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今年は出品目録で「高村光太郎○○」という形で登録されていたものは、5点。こちらには目新しいものはありませんでした。

しかし、それ以外に光太郎メインではなく、他の作家などのものとの一括出品的なもので、新たな発見がありました。

「更科源蔵「犀」“種薯”紀念号 草稿及書簡・ハガキ類綴」。北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩作を続けた詩人・更科源蔵の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿、それに関わる書簡などでした。

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光太郎の「更科源蔵詩集「種薯」感想」の草稿も含まれており、画像で見ると原稿用紙欄外に書き込みがあって気になっていたのですが、これがビンゴでした。その感想が載った雑誌『犀』の編集に当たっていた詩人の真壁仁へのメッセージで、〆切に遅れた詫びと、自分の思いの丈をうまく表せなかったけれど、ともかく送る、的な内容がしたためられていました。

雑誌『犀』の該当号は、奥付によると昭和6年(1931)2月1日発行。原稿用紙の書き込みに「今年中にお届けしようと」の一言があり、前年末に送られたと推定できます。さらに『高村光太郎全集』の書簡の巻と照らし合わせてみると、昭和5年(1930)12月17日には、著者の更科源蔵に宛てた『種薯』を贈られた礼と、「“犀”から感想を求められました」の文言のある葉書(書簡№236・これも一緒に出品されていました)。同月19日、真壁に宛てた葉書(同238)では「いろいろの事で感想を送る事が遅れてゐます」、明けて1月2日には「大変遅れて失敬しましたが、二三日前にお送りしました故、もう届いてゐる事と思ひます」(同240)。これにより、暮れも押し詰まった頃に発送したことがわかります。通常、光太郎は原稿を送る際には他に便箋等で添え状をつけることが多かったのですが、よほど急いだのでしょう。原稿用紙欄外にそうした内容を書き込んでいたというわけです。

さらに、「文学者葉書集 七九枚」。宛先も差出人もまちまちで、おそらく個人のコレクター的な方がこつこつ集めたものと推定できました。光太郎の葉書は一通含まれていて、消印は昭和15年(1940)9月、宛先は今も続く創元社さんでした。内容的には、やはり原稿執筆依頼に関するもので、承諾の返答。調べてみましたところ、この年の11月発行の雑誌『創元』に「間違のこと」という散文が載っており、おそらくこれに関するものでしょう。

こういうパズルのピースがぴたっとくっつくようなところが、非常に面白いところです。

年によっては、目録掲載品以外の出品物がある年があったのですが、今年はそれはなし。結局、花巻では今年の入札はなしとのことでした。


続いて、大井町に向かいました。ジオラマ作家の石井彰英氏の工房です。少し前に、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成された石井氏に、花巻高村光太郎記念館での企画展用に昔の花巻周辺のジオラマを作成していただいてはどうかと思いつき、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。そこで昨日、花巻の記念会さんと同道、お伺いした次第です。


大井町のジオラマはもはや廃棄されてしまったとのことですが、最初に作られたという北鎌倉のジオラマを見せていただきました。

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石井氏曰く「牧歌的」ということですが、非常に暖かみのある作で、街に流れる有線放送、車のエンジン音、電車の警笛、そして人々の他愛ない会話や息づかいまで聞こえてきそうな気がいたしました。

3人で2時間ほど、こんな感じで、という打ち合わせをしました。ただ、花巻では記念館が花巻市立となりましたので、行政の承認が必要です。予算等の問題、企画展示終了後の扱いなども絡み、そこはこれから記念会さんで交渉ということになります。幸い、石井氏が商売っ気抜き、原材料費のみで結構とおっしゃって下さり、実現の方向でいけそうな感じではあります。

ぜひとも実現してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

くひちぎる事の快さを知るものは、 君の不思議な魅力ある隠れた口に 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる。

詩「よしきり鮫」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和6年(1931)、夏、新聞『時事005新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。謳われているのは女川港に水揚げされた鮫。

女川町では、光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。そのうちの1基が「よしきり鮫」詩碑でしたが、平成23年(2011)の東日本大震災の大津波で流失してしまいました。当会顧問・北川太一先生曰く「鮫だけに、海へ帰ったのでしょう」。そして、碑の建設に奔走された、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏も……。


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今年も光太郎が三陸に旅立った日(8月9日)に、女川光太郎祭が開催されます。詳細はまたのちほど。

本日、仙台で開催される、朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」拝聴のため、昨日から宮城県入りしております。
現在地は、蔵王山中の青根温泉♨。湯元不忘閣さんという老舗の温泉旅館♨に泊めていただいております。

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こちらは、昭和8 年(1933 )8月末から9月初めにかけて約1週間、光太郎智恵子が逗留した宿です。心を病んだ智恵子の療養のため、ひと月ほど東北南部から北関東の温泉♨巡りをした一環でした。当時の建物が残っており、非常に風情があります。

このあと、宿を出まして仙台方面に向かいます。詳しくは帰ってからレポート致します。

2泊3日の行程を終え、先ほど、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から帰って参りました。順にレポートいたします。

5/14(日)、午前中に花巻に着きました。当初予定していた訪問先が先方の都合でポシャり、予定を変更して、花巻市街に立ち寄りました。レンタカーを借りておりましたので、比較的自由に動けます。

まず、昼食を兼ねて、市役所近くのやぶ屋総本店さんへ。ちなみに朝が早かったので、かなり空腹。そばではなくカツ丼を頂きました。

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宮澤賢治が稗貫農学校に勤務していた頃よく訪れ、天ぷらそばとサイダーを頼んでいたことで有名です。光太郎も戦後、何度かここで食事をとっています。

以前に行ったときに気づいていたのですが、その時はお店の方々があまりに忙しそうだったので、訊くのを遠慮していた件があり、この機会に、と思って寄らせていただきました。

レジの脇に、賢治関連のもろもろに混じって、光太郎の詩稿のコピーがスナップ写真と共に飾られているのです。

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書かれている詩は「初夢まりつきうた」(昭和26年=1951)。花巻商人をモチーフにしています。

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なぜここにコピーが掲げられているのか、コピーでない原本はこちらにあるのか、また、それに付随して光太郎からの書簡、これ以外に書いてもらった書などもあれば、と思っていたわけです。ちょうど年配の店員さんがレジを打って下さったので、訊いてみましたが、残念ながら、ここにコピーが飾られている理由等、わからないそうでした。また、原本や、他の光太郎が書いたものなどはないだろうとのこと。残念でしたが、仕方がありません。


続いて、やぶ屋さんからそう遠くない、松庵寺さんに。当方、こちらに伺うのは5回目ぐらいでしょうか。直近では、このブログを始めた頃、5年前くらいだったと記憶しています。ただ、このブログではその際のことは書いていませんでした。

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こちらは、終戦の年の秋から、毎年のように光太郎が出向き、父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法要を営んでもらっていた寺院です。そういう縁もあり、毎年4月2日の光太郎の命日に、東京日比谷で当会が主催して開いている連翹忌の他に、花巻としての連翹忌法要を開催して下さっています。

まずは本堂左手の光太郎碑へ。3基の光太郎碑が固まって建てられています。

建立順に、まずは昭和48年(1973)、光太郎短歌「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」(昭和22年=1947)を刻んだ歌碑。先述の、母・わかの法要に関わる短歌です。

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続いて、詩「松庵寺」碑。昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」(同20年=1945)全文を、光太郎と親交の深かった総合花巻病院長、故・佐藤隆房の揮毫によって碑にして下さいました。

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その「松庵寺」を、花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さんが英訳したものの碑。平成20年(2008)の建立です。

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その後、庫裡へ。アポイントは取001っていませんでしたし、第一、当方、ご住職と面識がありませんでしたが、毎年、連翹忌の法要を営んで下さっているお寺ですので、無碍に扱われることもあるまいと、図々しくもお邪魔いたしました。やぶ屋さん同様、光太郎の書き残したものの現物などが残っていないかと、その調査です。

対応して下さった小川隆英ご住職、無碍にどころか、歓待して下さいました。ありがたいかぎりでした。

こちらはビンゴでして、先代の故・小川金英ご住職が、光太郎に書いてもらったという書幅(「真実」と揮毫)、それから、お布施の包み紙(原稿用紙を折りたたんで熨斗袋の代わりにしたものだそうで、これは光太郎終焉の地・中野のアトリエを所有されていた中西家ご子息へのお年玉-右の画像-と同じです)が現存しているそうでした。しかし、最近、こちらに工事が入ったため、その際に置き場所が変わり、現在行方不明ということで、現物は見られませんでした。

その代わり、いろいろなお話を伺うことができました。ご住職、最近、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市にいらしたそうで、その話でひとしきり盛り上がりました。ご同輩の方のお寺に行かれたそうで、場所を訊くと、ああ、あのお寺か、というところでした。10時間かけて車でいらしたとのこと、そのバイタリティーには恐れ入りました。当方、千葉から花巻まではさすがに車で行こうとは思いません。

バイタリティーといえば、それもそのはず、このブログでもご紹介しましたが、ご住職、齢74だった一昨年、東日本大震災の犠牲者追悼行脚ということで、花巻・盛岡間往復80㎞を歩かれています。そのあたりのお話もたっぷり伺いました。

その関係の記念碑も建てられたそうで、帰りがけに撮りました。

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また、こちらも一昨年、NHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」についても。ナビゲーター役の書家・石川九楊氏と、女優の羽田美智子さんが、松庵寺さんの庫裡で、実技編のロケをなさったとのことでした。


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この番組、当方も少しだけ制作のお手伝いをさせていただいたのですが、あの部分のロケが松庵寺さんだったというのは存じませんでした。ご住職、光太郎の書法を再現する石川氏の筆の動きを間近でご覧になり、いたく感心されたそうです。

ロケの後、石川氏が記念に、光太郎詩「松庵寺」に出てくる「二畳敷」の語を揮毫されたという書。

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「二畳敷」の後の四角の中に縦棒一本は畳二枚を表し、最後は落款的な石川氏のサインだそうです。

その他、さまざまなお話を賜り、気がつけば2時間近く。旅先でのこういう出会いでご縁を結ばせていただけるというのは、実にいいものです。

おみやげに、ご住職のご著書を頂戴してしまいました。1,000ページを超える大著です。題して「あ そうか」。全体の3分の2ほどは、見開き2ページずつ、「法話」というか「講話」というか「説教」というか、教典や先達のお言葉を一つずつ、さらにその解説のような文章で構成されています。これが面白い。肩のこらない表現でわかりやすく、しかし仏の教え的なところの核心をつくような……。光太郎の『ロダンの言葉』を思い起こしました。

俗臭ぷんぷん・煩悩の固まり的な当方としては、これをありがたく拝読して精神修養をはかりたいと存じます(笑)。

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後書き的な「おわりに」より。

 この本の原稿がほぼ出来、表題を何にしようかなと考えていたときだった。六歳の孫娘サラナちゃんがジジチャン何してるの。と、そばに来た。ウン! ジジチャン いま 本の名前考えているんだよ。 この本読んで「あ そうか」と思ってくれるといいんだけどな。と何の気なしにつぶやいたら、孫はそばにあった筆ペンをとり、無邪気に「あ そうか」と紙の切れっ端に書いた。

その「あ そうか」を題名とし、お孫さんの書いた字を題字になさったそうで、我々凡俗とはやはり違うな、と感じました(笑)。

また、詩「松庵寺」についての記述もあり、資料としても貴重です。


その後、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんへ。周辺ではリンゴの花盛りでした。

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開催中の企画展示「光太郎と花巻の湯」を拝見。当方が他で書いた文章をそのまま説明パネルにしてくださっていました。

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当方がお貸しした資料類。さらにそれを基に作成のパネル。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に据えられた風呂桶。

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なかなか楽しい展示です。ぜひ足をお運びください。


そして、2泊お世話になる、大沢温泉さんへ。今回は、築160年以上という、別館「菊水館」さんに泊まりました。

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明けて5/15(月)、第60回高村祭。こちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

水色の、青磁色の、雨後霽天の、 あくまで透明の、あくまで一途の、 又うつさうと暗いほど青々した あの土用波ののつぴきならない 積極無道の夏がぷんぷん匂つて来た。

詩「夏書十題 (夜明けのかなかなに)」より
 昭和3年(1928) 光太郎46歳

生涯「冬」を愛した光太郎。対極に位置する「夏」を「無道」とまで表現しています。そんなに目の敵にしなくても……と思うのですが(笑)。

昨日から二泊三日の行程で、岩手花巻に来ております。
今日は、光太郎が昭和20年(1945)から七年間を暮らした山小屋(高村山荘)敷地で行われた第60回高村祭。雨🌁☔😭🌁でした。

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詳しくは帰ってからレポート致します。

今日から2泊3日の行程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に行って参ります。

今日は、午後から郊外の高村光太郎記念館さんに。現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催中です。11日の木曜日に、『朝日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

岩手)高村光太郎の風呂おけを初公開 花巻市の記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、企画展「光太郎と花巻の湯」が開かれている。太田の山荘で7年間暮らした彫刻家の光太郎が山荘の風呂小屋で使った「鉄砲風呂」という風呂おけが初めて公開されている。
 1945年、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って戦火の東京から花巻に疎開した光太郎。風呂おけは、山荘に風呂がなくて困っている光太郎を助けようと集落の人々が木材を持ち寄って風呂小屋を建てた際、清六が贈ったものという。
 腕利きの花巻の職人に頼んで作らせたという直径90センチほどの楕円(だえん)形のヒノキのおけには鋳鉄製の筒が組み込んであり、筒でまきを燃やして湯を沸かす仕組み。だが、大量のまきが必要なため、光太郎は「自分だけでたいてはすまない。今都会では不自由をしているので、そのことを考えると気がすすみません」と、あまり入浴しなかったという。
 企画展では、持病の神経痛を癒やすため光太郎が花巻各地の温泉を巡ったエピソードを当時の温泉の絵はがきなどとあわせて紹介している。6月26日まで。(溝口太郎)

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宿は花巻南温泉峡・大沢温泉菊水館さんをとってあります。築160年以上という茅葺きの建物で、非常に風情があります。当方、何度か泊めていただきました。大沢温泉さんは、通常の温泉ホテル的な山水閣、主として湯治客対象の自炊部、そして別館的な菊水館と、三館に分かれています。ここ2、3年、山水閣と自炊部に泊まることが多く、菊水館は久しぶりです。

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かつて光太郎も大沢温泉さんをよく利用しました。山水閣の利用が多かったようですが、菊水館にも泊まっています。はっきり菊水館だとわかるのは、昭和26年(1951)12月23日。当日の日記から。

駅より大沢温泉行、菊水館に泊る。 マッサージをたのむ、風呂よろし。

暮れの時期ですので、この頃は大沢温泉さんも真っ白でしょう。雪見風呂だったと思われます。

翌朝の記述は、こうなっています。

朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、

太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌「いづみ」の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。

はっきり菊水館に宿泊したとわかるのは、この時だけですが、日記に「大沢温泉」とだけ書かれていて、三館のどこだったかが不明な日もあれば、昭和24年(1929)から翌年にかけての日記の大部分が失われているので、もっと機会があったように思われます。

菊水館のどの部屋を利用したのかは不明です。帳場に近い方に「松の間」「竹の間」という二間続きの広い部屋があります。幕末に南部の殿様も泊まったというのは、このどちらかでしょう。当方も松の間に一回だけ泊めていただきました。光太郎も大沢温泉さんでお得意様の部類に入っており、このどちらかのような気はします。あとは6畳または8畳一間の梅の間。当方、今回も含め、普段はこちらです。


15日の月曜日には、第60回高村祭が開催されます。会場は光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内。高村光太郎記念館さんも同じ敷地にあります。

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地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラスの他、特別講演として、当時の光太郎をご存じの藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)による『思い出の光太郎先生』があります。

せっかくですのでもう1泊。今回もそうですが、最近は、現地でレンタカーを借りることが多いので、結構気ままに動けます。余裕があれば周辺のゆかりの地なども回ろうと考えております。

帰ってからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

一生かかつて 自己をジヤスチフアイしようとする。 そいつは何だかいやしい。 そいつは何だかうつたうしい。

詩「夏書十題 (一生かかつて)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

ジヤスチフアイ」は「justify」。「正当化すること」の意です。

「正当たらん」と考えて行動することはいやしいことではないでしょう。しかし、「正当たらんとして行動する」のと「正当化する」のは別ですね。「正当化」は「正当」でないことを、さも「正当」であるかのごとく見せかけることですから。それはたしかに「いやしい」根性のなせるわざですし、はたから見れば「うつたうしい」ことですね。

テレビのニュースなどで国会審議の模様を見ると、まさにそう感じます。

4/10、花巻高村光太郎記念館さんを後に、レンタカー005を北に走らせました。一路、元々の目的地、盛岡へ。翌日に行われる盛岡地区更生保護女性の会さんの総会の中で、講演をさせていただくことになっておりました。昨年7月、盛岡少年刑務所さんで開催された「第39回高村光太郎祭」の中で行った当方の講演を聴かれた同会会長の及川様がいたく感銘して下さり、ぜひ同会の総会でも、ということになって実現しました。恐縮至極です。

レンタカーを盛岡の営業所に返し、宿へ。昨年と同じ、内丸の北ホテルさんを取りました。建物や経営は代わりましたが、かつて菊屋旅館といっていたところで、光太郎が盛岡に行った際に何度か宿泊していました。

確認できている限り、光太郎は7回、盛岡に足を運んでいます。岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執っていた森口多里や舟越保武、深沢省三・紅子夫妻らの要請によることが多かったのですが、その都度、少年刑務所などいろいろなところで講演などを行いました。そうした際の多くは菊屋旅館に宿泊したようです。

チェックイン後、2階のレストラン「窯」さんへ。こちらで夕食を兼ね、更生保護女性の会さんの役員の方々と打ち合わせでした。その後は例によって早めに就寝。

翌朝、少し時間がありましたので、付近を歩きました。

ホテルにほど近い、地方裁判所前の、有名な石割桜。

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本当に岩の裂け目から伸びています。

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花はさすがにまだ咲いていませんでした。満開になるとこうなるようです。近くにあった説明版から。

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ちなみに、千葉の自宅兼事務所から徒歩20秒の公園(隠れた桜の名所)は、こうなっています。

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続いて中津川の方へ。

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去年歩いた時には気づきませんでしたが(というか、そこを歩きませんでした)、岩手テレビさんの庭園に建つ、光太郎を敬愛していた舟越保武の彫刻。舟越の作品は、遠目でもそれと判ります。それが「個性」というものなのでしょう。

川辺では、カモさんたちがお食事中。

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その他、光太郎ゆかりの人物が経営してい003た(おそらく代替わりしているはず)お店があるのですが、さすがに開店前でした。開いていたらお話を伺おうと思っていましたが、次の機会にします。

ホテルへ戻り、荷物を抱えて路線バスに乗って、盛岡駅へ。会場のいわて県民情報交流センターアイーナさんは、駅の反対側でした。

8階に上がり、会場のセッティングをお手伝いし(女性の方ばかりでしたので、皆さん高いところに手が届きません)、こちらもプロジェクタの位置調整などなど。それが終わると暇になりましたので、階下の岩手県立図書館さんへ。この建物の中に県立図書館さんが入っているというのは存じませんでした。知っていれば事前に細かな蔵書検索等で目星をつけていたのですが……。こちらも次の機会にします。

それでも開架の郷土資料コーナーに、岩手出身の光太郎の周辺人物の関連で、興味深い書籍がたくさんありました。宮沢賢治をはじめ、石川啄木、舟越保武、宮静枝、深沢夫妻、野村胡堂などなど。

そうこうしているうちに時間が経ち、さらに階下へ降りて昼食を摂り、8階の会場に戻りました。

午後2時から、更生保護女性の会さんの総会です。来賓の方々を含め、150名近くがご参集。当方の出番は最後ですが、それまで会場の一番後ろで拝聴しました。

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年に一度の総会ですので、前年度の活動報告などがありました。実に様々な活動に取り組まれていて、感心させられました。少年鑑別所、少年院、少年刑務所、保護観察所などでのボランティア活動、その他、地元の祭礼や幼稚園、児童養護施設などでも活動されています。頭の下がる思いでした。

休憩を挟んで、当方の講演。順風満帆とはほど遠く、つまづきの連続だった光太郎の一生をダイジェストでご紹介しました。つまづいて転んでも、道を踏み誤っても、八方ふさがりになっても、そのたびにまた立ち上がり、新たな道を模索し続けた光太郎の生涯が、更生保護に携わる皆さんの、というより、皆さんが関わる保護対象者へのエールとなるように、と考えてお話をさせていただきました。

ついでと言っては何ですが、前日に花巻高村光太郎記念館さんでパンフレットと新しいチラシを150部ずついただき、参会の皆さんに配布。講演の最後に宣伝させてもらいました。お義理かもしれませんが(笑)、ぜひ行ってみたいという声が多く、少しは役だったかなと思いました。

また、今回は盛岡市、滝沢市、雫石町で活動されている方々が対象でしたが、花巻から嫁に来たという方もいらっしゃり、さらに驚いたことに、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの旧山口小学校の卒業生だという方までいらっしゃいました。

さらに、これもお義理かも知れませんが(笑)、宿泊を伴う研修旅行では、九十九里や二本松など、光太郎智恵子ゆかりの地にも行ってみたいという声もあり、嬉しい限りでした。


というわけで、1泊2日の予定を終え、盛岡駅から東北新幹線で帰路につきました。有意義な2日間でした。

以上、岩手レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
詩「詩人」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

たった2行の短い詩です。短い詩ですが、ある意味、すべての光太郎詩の中でも、最もその目指すところが顕現されていると言っても過言ではありますまい。

後半の「いくら廻されても……」、またはその類似の語句は、光太郎自身、好んで揮毫したり、木に彫ったりもしました。

4/10、正午過ぎに、当方がアドバイザー的なことをさせていただいている花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんに到着しました。

さすがに雪は消えていましたが、日陰にはまだこのように残っていました。このあたり、花巻市街より標高も高く、気温も低いのです。
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正面入口には大きな新しいタペストリー。写真家の故・内村皓一氏撮影の光太郎スナップで、先頃、花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで開催された「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」の際に作成されたものを譲ってもらったそうです。いい感じです。

受付脇には、山小屋(高村山荘)で暮らしていた頃の光太郎の食事に関する展示。

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館の女性職員の方々が中心となり、昨年あたりからこうした方面もいろいろやられているようで、地元テレビでも紹介されたり、当方も実際にいただいたりしました。また、今月創刊のタウン誌『Machicoco/マチココ』に、「光太郎のレシピ」として連載されるそうです。詳細は後ほど。

さて、関係各所から最近見つかったという、光太郎の遺品などを拝見。昭和20年(1945)の空襲で全焼した東京駒込林町のアトリエから持ち出した、光太郎の日記にもその存在が記されている舶来もののようでした。当方のあまり詳しくない分野のものですが、それが本当に日記に記されているとおりのものであれば(恐らく間違いないと思われます)、その筋の専門家によると、とんでもない逸品だとのこと。いずれ詳細が発表できる段階になりましたらご報告します。

さらに、館の運営を担っている花巻高村光太郎記念会の会長・佐藤進氏が院長をされていた総合花巻病院に保管されていた、光太郎から氏の父君である故・佐藤隆房氏に宛てた書簡類、そして光太郎以外の周辺人物から隆房氏宛の書簡類など。光太郎からのものは、すべて『高村光太郎全集』に収録されているはずですが、もしかすると漏れがあるかもしれません。まだ精査をしていないということで、当方も協力して進めて行きます。また、周辺人物からの書簡類も、ざっと見せていただいただけでも興味深い記述が多く、こちらもいずれ発表できる段階になりましたらご報告します。

そうこうしているうちに、同じ敷地内の高村山荘裏手にある智恵子展望台リニューアルお披露目の時間となりましたので移動。

敷地全体で、かつて無計画に植えられ、手入れもされていなかった杉などの伐採が進み、道も舗装などが進んでいました。
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さりとて、自然を壊すではなく、全体にすっきりしたという感じでした。周辺にはミズバショウやカタクリ、光太郎も好んで食べたバッケ(ふきのうとう)。ようやく春が巡ってきたという感じです。

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池にはなんと、サンショウウオの卵だそうで、これには驚きました。

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急な坂を上り、リニューアルされた智恵子展望台へ。光太郎が夜な夜なここから「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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9㍍四方のデッキが新設され、雑木を伐採したり刈り払ったりで、だいぶ展望がよくなりました。

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足下には昭和41年(1966)に建てられた旧記念館。

地元の皆さんが集まってこられました。光太郎がここに住んでいた頃をご存じの方も多くいらっしゃいます。

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皆さんで、ソロ、或いは群読の形で、この地を舞台にしたさまざまな光太郎詩を朗読。「雪白く積めり」「案内」「メトロポオル」「岩手の人」などなど。
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さらに、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長の横笛を伴奏に、旧山口小学校校歌斉唱。光太郎の作詞ではありませんが、光太郎や草野心平による指導の元に作られたとのこと。

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泉下の光太郎も喜んだことでしょう。


20分ほどで終わり、再び記念館へ。

明日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の展示パネルが業者さんから届いたところで、拝見しました。

上部の画像は、当方手持ちの古絵葉書からスキャンしたもの。光太郎が足繁く通った大沢温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、志戸平温泉さんなどについて、光太郎や周辺人物が書き残した文章、当方執筆の解説などが書かれています。

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それから、温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた風呂桶も展示されます。

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012「鉄砲風呂」という形式で、下から温める「五右衛門風呂」とは違い、桶の中に直接入れられた金属製の筒の中で薪を燃やして湯を沸かす方式です。村人や宮沢家の厚意で、光太郎に贈られました。

桶を作ってくれた大工さんに贈った「木竹諧和」と書かれた書が残っています。「諧和」は「調和」の類義語で、大工さんに贈るにはもってこいの言葉ですね。

しかし、この風呂を沸かすには大量の薪が必要で、ほとんど光太郎は使わないまま、近くの開拓地に入植した青年にあげてしまったそうです。光太郎の没後、おそらくその青年の元から再び戻され、かつては高村光太郎記念館の前身だった歴史民俗資料館に展示されていました。最後の画像にある貼り紙的な説明は、その当時のものです。

一見すると、身長180センチ以上あった大男の光太郎には小さいかな、という感じでした。そのわりに薪が大量に必要となると、たしかに不経済ですね。

その代わりに、光太郎は足繁く温泉に通ったようです。


最後に、受付兼売店で、CDを購入しました。花巻町で結成された児童劇団「花巻賢治子供の会」主宰の照井謹二郎・登久子夫妻のお嬢さんで、ご自身も「花巻賢治子供の会」で演じられていた谷口秀子さんの朗読CD「思い出の高村光太郎先生」。

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2枚組で、光太郎の詩、随筆、日記が収められています。帰ってきて拝聴しましたが、温かみのある朗読でした。

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。やがて谷口さんは東京の大学に進学、時を同じくして光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京し、交流がつづいたとのこと。

そのあたりの思い出が、昨年、当方が監修、一部執筆し、記念館さんで刊行した『光太郎 Kotaro Takamura』に掲載されています。

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また、CDに付いている小冊子にも同様の小文、さらにお母様の登久子さんの回想、光太郎からの書簡、贈られた書、写真などがてんこ盛りで、貴重な資料です。

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013CD自体は平成25年(2013)の発売で、当時の『岩手日報』さんで紹介されており、入手したいと思いつつ果たせなかったものでした。おそらく『光太郎 Kotaro Takamura』刊行の関係で、記念館さんに入荷されたのだと思われます。ラッキーでした。

ちなみにCDを入れていただいた袋がこちら。

光太郎智恵子とおぼしきかわいらしいイラストが入っています。記念館さんも様々なところでご努力されています。

花巻高村光太郎記念館、企画展「光太郎と花巻の湯」。明日からです。常設展示も充実しています。ぜひ足をお運び下さい。

明日は岩手レポート盛岡編をお届けします。


【折々のことば・光太郎】

法をおきかせください、 自分を辱めずに餓死せぬ法を、 あさましい律(おきて)に服せずに生きられる法を。

詩「花下仙人に遇ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

この頃の光太郎、彫刻や詩が徐々に世の中に認められて来てはいましたが、相変わらずの生活不如意。時には生きて行くために、意に沿わない仕事も引き受けざるを得ませんでした。そういうことをせずに生きていける方法を、夢幻の中で出会った仙人に問うているというシチュエーションです。結局は、そんなことが出来ようはずもなかったのですが……。

昨日から岩手に行っておりました。現在、帰りの東北新幹線🚄の車中です。
昨日は、岩手に着いてからレンタカーで動き、北上市内、その後、旧太田村の高村光太郎記念館さんにお邪魔し、盛岡に宿泊しました。

高村光太郎記念館さんでは、14日の金曜日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の準備状況や、最近、関係各所から見つかったさまざまな資料を拝見。

さらに、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台が新たに整備されたため、地元の皆様への、お披露目。

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今日は盛岡で、盛岡地区更正保護女性の会さんの総会にお招きいただき、講演を行って参りました。

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詳しくは、明日以降、レポート致します。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

0014月2日の第61回連翹忌が近づいて参りました。

当方が編集・発行している冊子『光太郎資料』、年2回のうち、1回は連翹忌にあわせて発行しています(もう1回は半年後の智恵子忌日・レモンの日に合わせています)。

元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、当方、5年前にその名跡を譲り受けました。

というわけで、第47集、頼んでおいた印刷が完了し、印刷屋さんから受け取って参りました。印刷のみ印刷屋さんにお願いし、ページ順に並び替える丁合という作業、その後のホチキス留めはすべて手作業でやっております(そこまで頼むと料金がさらにかかりますので)。

当方編集に移行してから11冊目の発行となりました。毎号ほぼ同一の章立てで、後世に残すべき光太郎関連の文字資料を様々な角度から載せております。

今回は

光太郎遺珠から 第11回 詩人として(四) 戦後・晩年
 ・昭和21年(1946) 松本政治宛書簡
 ・同24年(1949) 肥後道子宛書簡
 ・同25年(1950) 池田克己宛書簡 2通
 ・同 三宅正太郎宛書簡 2通
 ・同26年(1951) 雑纂「賞を受けて」
 ・同 川路柳虹宛書簡
 ・同27年(1952) 雑纂「“詩だけはやめぬ”」

筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類をテーマ、時期別にまとめています。

ちなみに上記にお名前のある肥後道子さん、その後ご結婚なさって姓が変わりましたが、十数年ぶりに今年の連翹忌にご参加くださるそうです。この書簡の思い出を語っていただこうと思っております。


光太郎回想・訪問記   白い手の記憶―高村光太郎の思い出― 堀口大学 / 『パアゴラ』より 斎藤玉男

光太郎と同時代の人々が残した光太郎回想も貴重な記録ですので、それらの集成も図っています。今回は詩人の堀口大学と、智恵子の主治医だったゼームス坂病院長・斎藤玉男のもの。それぞれに、これまでこの世界で知られていなかった(と思われる)新事実が語られています。

堀口に関しては、海外生活が長かった堀口が、ロダン関係の文献、逐次刊行物等を日本の光太郎に送っていたということなど。斎藤に関しては、智恵子の診察を引き受けるに至った経緯など。ただ、当人の述懐ですので、鵜呑みにするのも危険ですが。


光雲談話筆記集成 「因縁に感謝」 『仰高』より

光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子から。


昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十一回 花巻電鉄 (岩手)

光太郎ゆかりの地の古絵葉書が少なからず手に入っており、それらの地と光太郎智恵子らの縁を綴っています。今回は、光太郎もよく利用した花巻電鉄を扱いました。

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音楽・レコードに見る光太郎   「新穀感謝の歌」(その三)

昭和16年(1941)、信時潔の作曲で歌曲となった光太郎作詞の「新穀感謝の歌」に関して。歌曲以外にも二世観世喜之節附による謡曲も作られ、同年と翌年に、財団法人日本文化中央聯盟主催の「新穀感謝祭奉献能の会」で演じられたことなどを書きました。

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光太郎詩に曲が附けられた音楽作品は少なからず存在しますが、それらの作曲の経緯、演奏の実態など、従前の研究ではほとんど手がつけられていません。このあたりもライフワークとしていくつもりでおります。


高村光太郎初出索引(十一)

発表された光太郎の文筆作品、装幀・挿画などの作品を、掲載誌の題名50音順に表にまとめています。


B5判、全50ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(連翹忌ご参加の場合は、4月発行分は進呈)。このブログ左上プロフィール欄に記載の連絡先までご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
詩「鯰」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

木彫の代表作の一つ、「鯰」に関する詩です。下の画像は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

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昨日ご紹介した詩「金」では、粘土の凍結を防ぐため「夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。」としていた光太郎ですが、その石炭も無くなると、では、木彫なら、ということでしょうか。これも危険な考えですね……。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第61回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて002

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

昨日、初日の出を見に九十九里浜に行って参りました。

南北に長い九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝海岸、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた地。当方自宅兼事務所のある香取市から1時間ちょっとのところですが、生活圏ではありません。

一昨年も行きましたが、天気が悪くて見えませんでした。昨年は、今年もダメだったら嫌だな、と思い、自宅近くで済ませてしまいました。

今年は天気予報で大丈夫、と言っていたので、それを信用しました。しかし、移動中のまだ暗いうち、2~3回、雷がピカッと光っていて、「えー、大丈夫かよ?」という感じでした。

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さらに今年は、愛犬を連れて行きました。正確な誕生日が不明で、とりあえず1月1日を誕生日に設定しており、昨日で13歳になった老犬ですが、まだまだ元気ですし、食欲も旺盛です。なぜかこいつは車に乗るのが大好き。乗ったら乗ったで、後部座席でおとなしく座っていて、暴れたりはしません。

さて、片貝海岸。心配していた雷雲は、かなり沖の方だったようでした。しかし、この季節は西高東低の冬型の気圧配置なので、水平線上に雲がかかっていないということはほぼありません。それでもそれほど高い位置まではかかっておらず、まずまずの観測条件でした。

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そして7時頃、雲の上から太陽が顔を覗かせました。

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見にいらした方がかなり集まっていて、歓声や拍手があちこちで沸き上がりました。

それを尻目に、愛犬と共にダッシュ。海岸から少し戻って、昭和36年(1961)に建立された「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑へ。

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慌てて撮って、撮ったあとに確認しなかったので、ピンボケになってしまいました(涙)。

さらに車に乗り、東金九十九里道路の今泉PAへ。こちらには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。

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こちらでは、わりといい写真が撮れたように思えます。

今日は一転して曇りで、今日だったら日の出は見えなかったでしょう。何だか今年一年も、いいことがありそうな、そんな気がいたしました。本当にそうであってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

『君は世に何を欲りして、かく遠き海のあなたにおはするや』

詩「秒刻」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

「欲り」は「ほり」と読み、「欲りす」で「欲(ほっ)する」とほぼ同義です。「海のあなた」は留学で滞在していたニューヨークです。光太郎、ほぼその生涯を通してこのような自問自答を繰り返し、より良き「道」を求める「求道者」でした。

というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。

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【折々のことば・光太郎】

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
詩「道程」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

昨年は、【折々の歌と句・光太郎】ということで、366日間(閏年でしたので)、一日一首、または一句、光太郎作の短歌、俳句などをご紹介して参りました。有り体にいえば、かつて大岡信氏が『朝日新聞』さんに連載なさっていた「折々のうた」のパクリでした(笑)。

数的には、もう一年間続けられるだけの、まだご紹介していない光太郎短歌や俳句が存在しますが、残念ながら取り立てて紹介すべき秀作ばかりではありません。光太郎といえど、駄作や意味不明の作もあります(笑)。

そこで、今年は趣向を変えまして、【折々のことば・光太郎】。これも現在『朝日新聞』さんに連載されている鷲田清一氏の「折々のことば」のパクリですが(笑)、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参ります。おおむね『高村光太郎全集』の掲載順に、一つの作品から一つずつ言葉を拾おうと思っております。そこで、「折々」と言いつつ、あまり時節に関係なくなるでしょう。

昨年の【折々の歌と句・光太郎】は、その点が厄介でした(時折、季節外れのものを紹介いたしましたが)。

さて、記念すべき第1回は、もっとも有名と思われる光太郎の言葉から。この気概で、当方もやっていこうと思っております。

いよいよ大晦日となりました。3日前からこのブログで書き続けている今年1年間の光太郎関連回顧も、最終回となります。

11月1日(火) 産経新聞出版社さんから、手島𣳾六氏著『日本の書』が刊行されました。平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化で、光太郎の項もありました。

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11月3日(木) 『智恵子飛ぶ』などのご著書がある作家の津村節子さんに今年度の文化功労者授賞がありました。

11月3日(木)~6日(日) 豊島区の切手の博物館さんで、、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されました。

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11月6日(日)~14日(月) 文京区の文京シビックセンターで、平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人が開催されました。

11月7日(月) NHKラジオ第二で、カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」がオンエアされ、昭和27年(1952)の、光太郎と真壁仁の対談が放送されました。14日(月)に再放送がありました。

11月9日(水)~17(木) 福岡市総合図書館映像ホールシネラにおいて、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

11月13日(日) 福島県いわき市の草野心平生家で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」が開催され、当方が卓話(講話)をさせていただきました。同日、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、花巻市の高村光太郎記念館さんでの企画展高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」に触れて下さいました。

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11月15日(火)~1/19(木) 静岡県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで」。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示、現在も開催中です。

11月19日(土) 文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会が開催されました。発表は高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関して、さらに当方の「高村光太郎と草野心平 魂の交流」でした。

11月19日(土)~1/15(日) 和歌山県立近代美術館さんで、動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」。現在も開催中で、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

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11月19日(土)~2月12日(日) 京都の清水三年坂美術館さんで、特別展「うた詠むこころ The Composing Mind」。光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。

11月22日(火) みすず書房さんから酒井忠康氏著『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行されました。「高村光太郎と土方定一」の項が設けられました。

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11月28日(月) 光雲が彫刻を手がけた横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が修復を終え、JRAエクセル伊勢佐木さんで披露されました。

12月3日(土)~2月19日(日) 花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで、「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」が開催中。光太郎ポートレートが並んでいます。

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12月10日(土)~3/5(日) 台湾・台北の故宮南院で、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」が開催中です。光雲の「老猿」が出展されています。

12月10日(土) 東京学芸大学さんで開催された「昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会」が開催され、アギー・エヴァマリア氏による研究発表「「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――」がありました。

12月14日(水) 汐留ベヒシュタイン・サロンさんで、朗読系イベント「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」が開催され、宮尾壽里子さん作「智恵子さん」が上演されました。

12月29日(木) ATV青森テレビさんで、特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」が放映されました。


……とまぁ、今年も実に色々なことがありました。まがりなりにも、光太郎・智恵子・光雲の芸術世界が世の中に受け入れられ続けている証左と思われ、ありがたいことだと考えます。こうした状況がいつまでも続くように、今後も努めて参りたいと存じます。

最後に、会としての寄付。

皆様から戴いた郵便物に貼られていた使用済み切手を、例年通り公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。

また、このブログの閲覧数が多いと、Tポイントが加算されるシステムになっています。貯まったポイントを、4月の「熊本地震災害緊急支援募金」、それから先日の「「糸魚川市駅北大火」緊急支援募金」に回させていただきました。今後もこうした活動も続けたいと思いますので、ご協力よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

おほうみのしほのやうにもさいはひはそらのはてよりながれくるかな
制作年不詳

来年も、皆様に「さいはひ(幸い)」が訪れることを念じつつ、このコーナーを終わります。

今日は、8月から10月の光太郎関連の動きを振り返りますが、やはり7月で書き落としていましたので、そちらから。

7月(日付不明) 花巻高村光太郎記念館さんから、『光太郎 1883―1956』が刊行されました。同館展示品などの写真集です。

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8月1日(月) 文京区のケーブルテレビ区民チャンネルさんで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎」の後編が初放映されました。

同日、岩手日日新聞社さんから、観光PR誌『岩手大陸』第3号が発行され、花巻高村光太郎記念館さんが大きく紹介されました。

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8月2日(火) コールサック社さんから、曽我貢誠氏他編『少年少女に希望を届ける詩集』が発行されました。光太郎詩「道程」「冬が来た」も収められています。

8月9日(火) 宮城県女川町のフューチャーセンターcamassを会場に、「第25回女川光太郎祭」が開催されました。当方の記念講演に始まり、地元や遠方の皆さんによる詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話などが行われました。

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8月10日(水) 講談社文芸文庫の一冊として、室生犀星著『我が愛する詩人の伝記』が復刊されました。光太郎アトリエ訪問記も掲載されています。

8月10日(水)~28日(日) 埼玉東松山市立図書館で、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」が開催されました。21日(日)には、田口弘氏によるご講演もありました。

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8月11日(木)~9月11日(日) 美術館「えき」KYOTOにおいて、「世界の巨匠たちが子どもだったころ」展が開催され、光太郎の姉・さく(咲子)の日本画が展示されました。

8月14日(日) 『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、終戦記念日にからめ、光太郎に触れて下さいました。

8月17日(水) 日本ヴォーグ社さん刊行の雑誌『手づくり手帖』第10号に載った、色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられました。

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8月20日(土)~28(日) 花巻市の宮沢賢治記念館で、「「雨ニモマケズ」展」が開催され、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の碑文の書が展示されました。

8月28日(日)~9月2日(金) 千代田区の神保町シアターで、「一周忌追悼企画  伝説の女優・原節子」の一環として、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

9月10日(土)~10月23日(日) 石川県立美術館にて企画展「近代美術の至宝 明治・大正・昭和の巨匠」が開催され、光太郎のブロンズ「手」が出品されました。

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9月11日(日) 福島市子どもの夢を育む施設こむこむ館で、「アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~」が開かれ、「智恵子抄」が取り上げられました。

9月16日(金) 茨城県守谷市の茶房かやの木で、「おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」が開催、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。

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9月17日(土) 岡山県赤磐市中央公民館で、「第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」」が、三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)を講師に開催されました。

9月17日(土)~10月10日(月) 津市の三重県総合博物館において、「新 津市誕生10周年特別展覧会「過去から未来へ~津のあゆみ~」展が開かれ、光雲作の木彫「魚籃観音立像」が出品されました。

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9月17日(土)~11月6日(日) 東京ステーションギャラリーさんで、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 ―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開催され、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されました。

9月18日(日) 福島二本松の智恵子生家近くで、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子純愛通り記念碑第8回建立祭 坂本富江さんの絵で語る智恵子の生涯」が開催されました。

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9月21日(水) 花巻市の宮沢賢治詩碑前広場に於いて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催され、「宮沢賢治と高村光太郎」の題で、当方が講話をさせていただきました。

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9月22日(木)~12月25日(日) 静岡県三島市の大岡信ことば館さんで開催の「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」で、光太郎から谷川氏に宛てられた昭和29年(1954)の葉書が展示されました。

9月24日(土) 福島二本松の安達文化ホールで、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」が実施されました。

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同日、いわき市のいわき芸術文化交流館「アリオス」では、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター (FURE)さん主催の「シンポジウム in いわき ほんとの空が戻る日まで~ふくしま浜通り地方の復興・再生~」が開催されました。

さらに同日、銀座CHEEPA'S CAFEで、テルミン奏者大西ようこさん他による「ぷらイム in チーパズカフェ 2 ~ アトムも来るよ! ~」公演があり、初代鉄腕アトムの声を演じられた清水マリさんによる「智恵子抄」朗読もプログラムに入りました。

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9月25日(日) 『読売新聞』さんの土曜版の連載「名言巡礼」で、岡山赤磐出身の詩人にして光太郎と交流の深かった永瀬清子が取り上げられ、光太郎との関わりについても言及されました。

9月26日(月) 品川郷土の会会長を務められ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院跡の「レモン哀歌」詩碑建立に尽力された、土屋恒行氏が亡くなりました。

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10月1日(土) 株式会社アールビーズさん発行のランニング愛好家向け雑誌『ランナーズ』10月号、「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」という記事で、「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」にふれられました。

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同日、青森県十和田市の『広報とわだ』では、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」を組み、光太郎に言及しました。

さらに同日、荒川区のムーヴ町屋で、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」が、森山孝光氏(Br)、森山康子氏(pf)で演奏されました。

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10月2日(日)~11月27日(日) 二本松市の歴史民俗資料館及び智恵子記念館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が開催されました。関連行事的に、2日(日)には高村光太郎研究会員・大島裕子氏による「記念講演会  『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―」、さらに智恵子を偲ぶ第22回レモン忌も開催されました。

同日、郡山市の市民文化センターで、市制施行90周年・合併50年を記念して同市出身の湯浅譲二氏が作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が初演されました。

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さらに同日から11月1日(火)にかけ、鎌倉市のギャラリー笛さんにおいて、展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」が行われました。

10月5日(水) 二本松市智恵子の生家に於いて、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -。」の一環として、画家・小松美羽さん、詩人・和合亮一氏のコラボによるアクションペインティングと朗読が行われました。

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10月10日(月) 二本松市市民交流センターにおいて、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'16」が始まりました。昨年からのカウントで、第5回が「セザンヌとポスト印象派」、講師は後藤學氏 (喜多方美術館館長)でした。第6回は11月20日(日)、宮川菊佳氏 (ギタリスト)で、「美の同志 高村光太郎~クラシックのギターと共に~」。第7回の「平塚らいてうと青鞜社」(福島大学名誉教授・澤正宏氏)/第8回 「参加者による高村智恵子を語るつどい」(12月18日(日))で終わりました。

10月10日(月)~11月23日(水) 二本松市霞ヶ城公園に於いて、「第62回 菊の祭典 二本松の菊人形」が開催され、光太郎智恵子の人形も展示されました。

10月15日(土) 麗人社さん発行の雑誌『美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol39 岩手県特集』で、「彫刻家・高村 光太郎」10㌻が掲載されました。

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10月20日(木) 響林社さんからwisさんの朗読によるCD、<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 ― 十七編抜粋 ―」がリリースされました。

10月23日(日) 俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。また、平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

10月25日(火)~2017年2月13日(月) 盛岡市の盛岡てがみ館さんで、第51回企画展「文豪たちの原稿展」。現在も開催中、光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」他が展示されています。

10月26日(水)~12月4日(日) 堺市博物館さん他3会場で、「河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」」が開催され、光雲木彫「釈迦牟尼仏」が出品されました。

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10月30日(日) 集英社さんから、原田マハさん著『リーチ先生』が刊行されました。光太郎の親友だった陶芸家、バーナード・リーチを描く小説で、光太郎、光雲、豊周も登場し、活躍します。

明日は、残る11・12月を振り返ります。


【折々の歌と句・光太郎】

吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
昭和24年(1949) 光太郎67歳

個人的に、光太郎短歌・俳句等の中で、最も好きな作品です。晩年となり、「行雲流水」の境地に達し、しかし、流されるのではなく、あくまで求道者たらんとするその姿勢。ここに光太郎の真骨頂があるように思われます。

昨日に引き続き、今年一年の回顧を……と、その前に、後ろを振り返ってばかりもいられません、未来の話を(笑)。

テレビ放映情報です。

のんびりゆったり路線バスの旅スペシャル▽拡大版!ちょっといい景色へ 徳島・福島

NHK総合 2016年12月30日(金)  8時20分~9時34分

大河ドラマ「真田丸」のお局役で話題となった峯村リエさんと、バス旅の常連となった野間口徹さんが東北・福島を!鈴木砂羽さんと浅利陽介さんが四国・徳島を路線バスで巡りました。今回は、その拡大版を放送します!旅のテーマは「ちょっといい景色」。今回は、男性が女性をエスコートして、オススメの景色に案内します。なんと、福島から富士山が見える!?徳島が誇るドキドキの景色とは?そしてゴールで見る感動の景色とは?

出演 鈴木砂羽,浅利陽介,野間口徹,峯村リエ,
語り 高木渉,島本須美

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今月15日の夜、「拡大版」ではない放映があり、その際は当方、用事があって出かけており、愛車を運転中で、カーナビのテレビで流れていました。

「おー、福島かぁ」と思ったら、何と智恵子の故郷二本松。慌てて車を駐めました。その際にスマホでナビ画面を撮影。

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秋の菊人形期間中にロケが行われていて、智恵子人形がばっちり写りました。

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帰ってからネットで調べてみると、番組紹介の欄に「二本松」の文字がなかったので、放映前に気付かなかったと判明しました。当然録画もしておらず、「再放送してくれないかな」と思っていたところ、再放送ではありませんが、「拡大版」の放映があり、ラッキーでした。

さらに、光太郎と縁の深かった草野心平ゆかりの地・川内村も訪れたとのことでした。

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今度はしっかり録画しようと思っております。

それにしても旅人の峯村リエさん、大河ドラマ「真田丸」での大蔵卿局のイメージしかなく、かなりのお歳なのかと思っていました。しかし、失礼ながらこの放映を見ると、かわいらしい感じで、意外でしたが、それもそのはず、実は当方と同い年でした(笑)。

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それはさておき、もう1件。 

ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編・後編)

東京MXテレビ 2017年1月1日(日)  9時30分~10時00分

区内の史跡や名所、ゆかりの人物などについて紹介する歴史番組です。


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ぶんきょう浪漫紀行」。もともと、文京区さんで、区内対象のケーブルテレビの番組として制作され、今年7月(前編)と8月(後編)に初回放映がありました。当会顧問・北川太一先生や、現在の髙村家当主・達氏とお姉様の朋美様などのご出演です。

それが地上波・東京MXテレビさんで放映されます。都内及び隣接県の一部でしか視聴できませんが、該当地域の方、ぜひご覧下さい。


さて、今度こそ、昨日に引き続き、今年一年の回顧を。今日は5月~7月ですが、昨日の分に抜けがあり、その増補から。

4月15日(金) 株式会社ビューティービジネスさんの美容専門雑誌『PROFESSIONAL TOKYO』95号「智恵子抄」が発行されました。同日、ナカニシヤ出版さん刊行の藤田尚志・宮野真生子編『愛・性・家族の哲学① 愛 結婚は愛のあかし?』で、『智恵子抄』にふれてくださいました。

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4月15日(金)~10月13日(木) 岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで、「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」が開催され、光太郎に関わる資料も多数展示されました。

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5月8日(日) 中央区の第一生命ホールにて、合唱団CANTUS ANIMAEさんの第20回定期演奏会があり、安藤寛子さん作曲の「智恵子の手紙」 が委嘱初演されました。

5月12日(木)~6月9日(木) 文京区のアカデミー文京で、生涯学習講座「智恵子はるか―高村光太郎・その愛と美―」全6回が、早稲田大学名誉教授・榎本 隆司氏を講師に開催されました。

5月14日(土) 岩手花巻で高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が行われ、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした佐藤隆房邸の公開などが行われました。

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同日、愛知小牧のメナード美術館さんで、「版画と彫刻コレクション 表現×個性」が開幕しました。7月10日(日)迄の会期で、光太郎の木彫「栄螺」と「鯰」が展示されました。

5月15日(日) 岩手花巻郊外の高村山荘敷地で、第59回高村祭が開催されました。記念講演は、光太郎の従妹のご子息、加藤千晴氏でした。

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同日、福岡県筑後市のサザンクス筑後を会場に、「ぱふぉーまんす集団センゲキ第16回公演「ELEGANCE FIGHT~元始、女性は太陽であった~」の公演がありました。河口智美さんという方が智恵子役を演じられました。

5月20日(金)~22日(日) 福島二本松の智恵子の生家で、「高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子生誕祭 琴の調べ」が開催され、地元愛好家による琴の演奏が披露されました。

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5月21日(土)~27(金) 北九州市小倉北区の小倉昭和館さんで行われた「名画をフィルムで ~原節子特集~」の一環として、昭和32年(1957)制作の東宝映画「智恵子抄」(原節子さん主演)の上映がありました。

5月22日(火) NHKラジオ深夜便の公開収録「公開復興サポート 明日へ」が福島郡山で行われ、「智恵子抄」の朗読がなされました。オンエアは5月30日(月)でした。

5月26日(木) コールサック社さんから佐藤竜一氏著『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』。が刊行されました。平成6年(1994)に日本地域社会研究所さんから刊行された『黄瀛―その詩と数奇な生涯』の増補改訂版です。

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6月4日(土) 横浜市戸塚区のSala MASAKAで、ピアニスト荒野愛子さんらによる「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」があり、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」が演奏されました。

同日、岩手盛岡の姫神ホール(盛岡市渋民公民館)に、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が挙行され、渡辺えりさんによる記念講演「わたしと啄木・賢治・光太郎」がありました。その後、渡辺さんから花巻高村光太郎記念館さんに、光太郎が渡辺さんのお父様に宛てた書簡等が贈呈されました。

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6月2日(木) 『読売新聞』さんに「タイムトラベル 高村智恵子記念詩碑 夫婦愛を刻む「レモン哀歌」という記事が掲載されました。

6月18日(土)~8月7日(日) 北海道立函館美術館さんで、「開館30周年特別展 画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく Poetry of the painter,Paintings of the poet」が開催されました。昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに始まり、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さん、足利市立美術館さんと巡回した展覧会で、こちらが最終開催地でした。

6月24日(金) 生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、同市に光太郎から贈られた書や書簡など約100点を寄贈なさいました。

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7月1日(金) 名古屋市瑞穂文化小劇場で「2016年度 国際芸術連盟作曲賞&音楽賞 受賞記念コンサート」が開かれ、野村朗氏作曲の連作歌曲「智恵子抄」が、バリトン:森山孝光氏、ピアノ:森山康子氏によって演奏されました。

7月11日(月) 上にも書きましたが、文京区のケーブルテレビで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編)」の初回放映がありました。

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7月13日(水) 盛岡少年刑務所で、「第39回高村光太郎祭」が開催され、受刑者による光太郎詩の群読、当方の講演などが行われました。

同日、『朝日新聞』さんの「各駅停話」というコラムが「新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏」でした。

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7月15日(金)~11月23日(水) 高村光太郎記念館さんで、「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」が開催され、智恵子紙絵の実物の展示が行われました。

7月16日(土)~9月19日(月) 群馬県立館林美術館さんで、「再発見!ニッポンの立体」展が開催されました。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示されました。

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7月16日(土)~18日(月) 青森十和田湖畔で、「十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり」が開催され、例年通り「乙女の像」のライトアップが為されました。

7月17日(日) 福井県鯖江市文化の館で、朗読イベント「復刻智恵子抄」が開催されました。同日、福島安達太良山頂で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子抄」朗読会も行われました。

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7月20日(水) 彩流社さんから北野麦酒氏著『永遠なれ! レトロスペース・坂会館』が刊行されました。第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。

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7月23日(土)~8月28日(日) 信州安曇野碌山美術館さんで「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催されました。8月7日(日)には関連行事として当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」が行われました。

7月25日(月) JR東日本企画主催の「交通広告グランプリ2016」で、「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」という題で、光太郎詩「あどけない話」をモチーフに使った「福島県の作品が特別賞に当たる「JR東日本賞」を受賞しました。
 
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7月29日(金) 花巻高村光太郎記念館さんで、テルミン奏者・大西ようこさん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんによるロビーコンサートが行われました。こうした試みは同館初でした。


本当は8月までカバーする予定だったのですが、力尽きました(笑)。明日に回します。


【折々の歌と句・光太郎】

何となく沈みがちなる我胸をわれもえしらず年くれてゆく
明治34年(1901) 光太郎19歳

「え……ず」は「……することが出来ない」という意味です。自分の胸の内を自分でも知ることが出来ない、という煩悶の中、年が暮れて行くというわけですね。若き日にありがちな悩みだと思います。

このブログにて毎年恒例の一年間を振り返るコーナーをはじめます。

1月1日(金) 元旦早々、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」にて、光太郎・光雲に触れて下さいました。3/4(金)の同欄でも光太郎智恵子に触れて下さいました。

同日、文芸評論家の佐伯彰一氏が肺炎のため亡くなりました。『日米関係の中の文学』(昭和59年=1984 文藝春秋社)というご著書で、光太郎に触れて下さっていました。

1月4日(月) 『日本経済新聞』さんの連載コラム、「生きる命 十選 掌編の試み」で、光雲作の重要文化財「老猿」が取り上げられました。

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1月22日(金) 目黒区のライブハウス アピア40で、『智恵子抄』の朗読と音楽のコラボを含むコンサート「言葉と音の交差点」が開催されました。

1月25日(月) 池袋新文芸坐で、昭和32年(1957)公開、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

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1月31日(日) 名古屋の電気文化会館 ザ・コンサートホールで開催された「Gruppo Giglio Vol.8」で、作曲家・野村朗氏の新作、連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」が、バリトン・森山孝光氏、ピアノ・森山康子氏の演奏で初演されました。

2月5日(金)~2月28日(日) 青森県十和田湖畔休屋地区で、「光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016」が開催されました。期間中、例年通り光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされました。

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2月6日(土) 福島県二本松市の智恵子生家で昨年から実施されている、2階の智恵子の部屋限定公開が開始されました。2月、4月、5月、10月、11月の土・日・祝日に実施されました。

2月13 日(土) ~3月27 日(日) 姫路市立美術館さんで、企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催され、光太郎油彩画「日光晩秋」(大正3年=1914)、「静物」(同)、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)が展示されました。

2月15日(月) 名古屋学芸大学教授で、かつて高村光太郎談話会を主宰されていた大島龍彦氏が亡くなりました。ご著書に、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などがありました。

2月17日(水) 月刊『美術手帖』2016年3月号で、特集「超絶技巧!!宮川香山と明治工芸篇」が組まれ、光雲の項も設定されました。

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2月18日(木) 光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の息女で、ご自身も光太郎智恵子にかわいがられたという尾崎実子さんが亡くなりました。

2月24日(水) 平凡社さん刊行の雑誌『こころ vol29』、「特別企画 再録・『心』名作館」という項に、光太郎詩「人体飢餓」が収められました。

2月27日(土) 『岩手日日新聞』さんに、「光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈」という記事が載りました。昭和27年(1952)頃に、花巻郊外太田村で撮影されたと見られる光太郎も写っている写真が、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈された、という内容でした。

3月1日(火)~5月15日(日) 滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんの企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」で、神奈川横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭で街を練り歩く、光雲の手になる「火伏神輿」及び「獅子頭」が展示されました。

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3月5日(土) 愛知大学車道キャンパスコンベンションホールを会場に、国立大学法人福島大学さん、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える―」が開催されました。

3月5日(土)・3月19日(土) 葛飾区のプラネタリーアム銀河座で、「3月のプラネタリウム 智恵子抄と春空」が上映されました。

3月6日(日) 大田区民ホール・アプリコにて、朗読劇「レモン哀歌」が上演されました。

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3月15日(火) 青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」が、光太郎に触れて下さいました。

3月16日(水) 江東区深川江戸資料館において、「朗読人の四季~2016春」が開催され、杉山典子さんによる光太郎『智恵子抄』よりの朗読がありました。

3月18日(金)~7月10日(日) 鎌倉市川喜多映画記念館さんの特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」が開催され、東宝映画「智恵子抄」関連の資料の展示、さらに7/8(金)~10(日)には同作品の上映も行われました。

3月24日(木) 秋田県生涯学習センター講堂で、生涯学習講座「平成27年度あきたスマートカレッジ連携講座 支え合う文学者たち」の第3回「『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛(同人)」が、県生涯学習センター シニアコーディネーター北条常久氏を講師に行われました。

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3月25日(金) 新潮社さんから、光太郎と交流が深かった彫刻家・舟越保武のご息女・末盛千枝子さんの『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』が刊行されました。末盛さんの「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親となってつけられたそうです。同日、武蔵野美術大学さんから、昨年開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture」展(光太郎作「白文鳥」「手」が出品)の関連行事としての「国際シンポジウム The Study of Modern Japanese Sculpture」記録が刊行されました。

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3月26日(土) 千代田区の宮内庁三の丸尚蔵館で、「古典再生――作家たちの挑戦」展が開かれました。光雲作品「猿置物」「養蚕天女」が出品されました。

3月29日(火)・30日(水) 名古屋市でHITOMIホールプリズムステージ「智恵子抄~朗読と音楽が紡ぐ、純愛~」公演が行われました。

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3月29日(火)~31日(木) 東京都北区の北とぴあ カナリアホールにて、劇団東京イボンヌ第3回企画公演「コンサートと無伴奏 ~永遠の愛~」が上演されました。伊達裕子 さん、浅川荘子さんによる「【朗読】~「智恵子抄」より~ 」がプログラムに入っていました。

3月31日(木) 岩手花巻の太田地区振興会さんから、「大地麗(だいちうるわし)」が刊行されました。戦中戦後の光太郎の思い出を、地元の皆さんが記した記録集です。

4月2日(土) 第60回連翹忌を、日比谷松本楼さんで開催いたしました。同日、高村光太郎研究会から雑誌『高村光太郎研究』第37号が刊行されました。また、岩手花巻でも詩碑前祭と、花巻としての連翹忌が開催されました。

4月5日(火) NHK文化センター水戸教室の生涯学習講座「日本の詩をよむ-人と作品の魅力 ~高村光太郎と室生犀星~」が始まりました。9/6(火)までの全6回で、講師は日本文藝家協会会員  成井惠子氏でした。

4月6日(水) 昭和29年(1954)にラジオ番組「私の見たこと、聞いたこと」で、光太郎談話の聞き手を務めたラジオパーソナリティー・秋山ちえ子さんが亡くなりました。


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4月9日(土)~6月12日(日) 「画家の詩、詩人の絵 ―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく―」展が、栃木足利市立美術館さんに巡回になりました。

4月11日(月) 千葉市美浜文化ホールで、第1回「朗読と音楽の刻(とき)・虹」〜朗読とピアノとオカリナのコラボレーション〜が開催され、「智恵子抄」も取り上げられました。

4月16日(土)・17日(日) 青森県十和田市十和田湖観光交流センター「ぷらっと」及び市民交流プラザ「トワーレ」において、劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇」が上演されました。

4月17日(日) 福島二本松で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「第11回好きです智恵子青空ウォーク~桜章~」が開催されました。

4月30日(土) 言視舎さんから、福井次郎氏著『映画「高村光太郎」を提案します 映像化のための謎解き評伝
が刊行されました。

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4月(日付不明) 長野で『豊科近代美術館友の会会報』が刊行されました。幅谷啓子氏による「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事で、光太郎から在仏の高田博厚宛の外信葉書二通が初めて紹介されました。


続きはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

秩父かぜ吹いても枯れし古しきみ御墓(みはか)掃くとてひとりし泣かる
明治35年(1902) 光太郎20歳

「秩父かぜ」は「秩父颪(おろし)」ともいい、秩父山塊から埼玉や東京に吹く木枯らしです。「しきみ」は「樒」、その枝を仏前に供える木ですね。具体的な背景が不明ですが、親しかった人物の墓参を題材にしているようです。

上記で今年1月から4月までの回顧録を記載しましたが、たった4ヶ月でも関係する方々の訃報が多く、改めて残念に思いました。色即是空、諸行無常とは申しますが……。

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三陸女川にての第25回女川光太郎祭、つつがなく終わりました。

晩年の光太郎に私淑された当会顧問・北川太一先生、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった故・高村豊周令孫である高村達氏なども駆けつけて下さいました。

今年から、震災前の会場だった、光太郎文学碑が立っていた海岸緑地公園に近い、女川駅前の「フューチャーステーション・カマス」という施設で行われました。

前座で当方の講演、地元の方、遠方よりの方などの朗読、プロの音楽家の皆さんの演奏などを通じ、光太郎の遺徳を偲びました。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

山どりの瀬戸波あらし船の上にかぶさりゆるる金華山かな

                                                                      昭和6年(1931) 光太郎49歳


昨日に引き続き、昭和6年(1931)、女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅した折に詠んだ歌です。

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今朝、愛車を駆って信州を出発し、休み休み9時間ほどかけて、三陸女川に到着しました。

テレビの報道や、映画「サンマとカタール」で拝見していましたが、駅前がきれいに整備されていて、驚きました。

明日はその駅前近くの「カマス」さんという施設で、女川光太郎祭です。台風の影響が心配ですが、このイベントの時には台風が来ることがたびたびあり、一種のジンクスです。

今日明日の宿は、以前にも泊めていただいたトレーラーハウスの宿泊施設「エル・ファロ」さん。

詳細は帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

黒潮は親潮を追ふ親潮はガスまき立てて船にせまれり

                                                             昭和6年(1931) 光太郎49歳


三陸海岸を船で北上しつつ詠んだ歌です。

今朝までは北アルプスの山懐にいたのが、今は荒波打ち寄せる三陸海岸。不思議な感覚です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半    大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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