カテゴリ: 日記

昨日は、千葉県銚子市のKIMG3181犬吠埼に行っておりました。銚子は生活圏なので犬吠埼にも時折足を運んでいますが、考えてみると久しぶりでした。

犬吠埼は、大正元年(1912)、光太郎が油絵の写生旅行に訪れ、前年、光太郎と知り合った智恵子もそれを追ってすぐ下の妹・セキ、それから智恵子姉妹と同じ日本女子大学校出身の藤井勇(ゆう)を伴い、犬吠に来ています。智恵子一行ははじめ御風館という宿に泊まっていましたが、智恵子はセキと藤井を先に帰し、光太郎が投宿していた暁鶏館という宿に移りました。二人の婚約は約1年後、信州上高地でのことですが、おそらくこの犬吠埼でお互いにその気持は固まったのではないかと思われます。

光太郎の回想文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であった。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

その後、光太郎は暁鶏館の雑用を務めていた、知的障害があった「太郎」こと阿部清助をモデルに、「犬吠の太郎」(大正元年=1912)という詩も書いています。太郎の印象はかなり強烈だったようで、光太郎はのちに油絵でも太郎を描きましたし(現存は確認できていません)、かなり後、昭和3年(1928)に作った詩「何をまだ指してゐるのだ」でも太郎を登場させています。


犬吠埼のシンボルである灯台。明治7年(1874)竣工ですので、光太郎智恵子が訪れた大正元年(1912)にはすでにここにありました。

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灯台の北側は、君ヶ浜。上記「智恵子の半生」で、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた」と記されています。

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灯台の南側。突き出た岬の形状から、「長崎」と呼ばれる地区。太郎も地元では「長崎の太郎」と呼ばれていたそうです。太郎の墓も現存します。

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その手前に、光太郎智恵子が愛を確かめ合ったであろう暁鶏館(中央下の2階建て)。建物は建て替えられ、宿の名も「ぎょうけい館」と変わりましたが、同じ場所で営業中です。創業は灯台と同じ明治7年(1874)です。

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さらに手前は中生代の地層。この辺り一帯、地質学的に貴重な場所だそうで、「銚子ジオパーク」として整備されています。

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ところで、昨日はいつものように一人ではなく、妻と一緒でした。愛想を尽かされる前に、たまには女房孝行ということで(笑)。妻が何かのテレビ番組で紹介されているのを見た、ということで、灯台の並びにある「犬吠テラステラス」さんという、今年出来た商業施設に行ってみました。

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以前はひなびた土産物屋、食堂などがあった記憶があるのですが、それが一変、実にシャレオツな店に様変わりしていました。

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「テラステラス」の名前の通り、2階にはゆったりしたテラス。ハンモックが張られていたりします。上記、長崎地区やぎょうけい館さんなどの画像はここから撮りました。

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灯台を模したオブジェ。顔ハメ的に、ここでKIMG3185写真を撮れということでしょう。台座部分に足形が作られています。


ちなみに昼食はこちらに行く前に、もう少し南の銚子電鉄犬吠駅前にある「島武」さんというところで摂りました。これまで、行列が出来ていて断念したこともあったのですが、昨日は奇跡的にすいていました。基本、回転寿司ですが、チェーンの安い店とは違いそれなりの値段、しかし廻らないお寿司屋さんよりはリーズナブルなので(笑)、当方、時折足を運んでいます。回転寿司コーナー以外にも、海鮮丼系などの魚料理コーナーも設置されています。どちらも銚子港で水揚げされた素材を使っています。

回転寿司は、とにかくネタがでかいことで有名です。タコは「大ダコ」と頼むと、短冊のようなタコが乗ってきます(笑)。他のネタも、ほぼほぼシャリが見えない状態です。


というような犬吠埼。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

因みに「天上の炎」といふ題名は星を意味してゐるのである。

雑纂「訳書『天上の炎』白玉書房版序文」より 昭和25年(1950)

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集。光太郎は大正14年(1925)に単行書としてその翻訳を新しき村出版部から刊行、戦後に白玉書房から復刊されました。上記は復刊版の序文から採りました。

無理くりですが、光太郎にとっての智恵子は「天上の炎」だったようにも思われます。

ちなみに当方もやったことがありますが、時折「天井の炎」と誤植されることがあるのが残念です。

平成24年(2012)5月に開設しましたこの「高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ」、YAHOO!ブログのサービス終了に伴い、移転することと致しました。
新規URL等、以下となります。ライブドアさんのブログです。


yahoo!さんから提供された移行ツールを使って移転しますので、これまでの記事は移転先にも保存されるはずですが、どうもこちらへの新規投稿、投稿済み記事の編集は出来なくなるようです。また、申し訳ありませんが、これまでにお寄せいただいたコメント等は移行できないようです。

こちらの開設時、yahoo!さんを選んだのは、このような事態になることはないだろう、と予想されたことも一因でしたが、残念です。

ライブドアさんのブログ、こちらとはフォーマットや機能等いろいろ異なると思われ、移行後、しばらくは読みづらい状態となるかも知れませんが、引き続きよろしくお願いいたします。

8月9日(金)に行われた、第28回女川光太郎祭の前に、会場のまちなか交流館さん付近あちこちを廻りました。女川町の現状ということで、ご紹介します。

朝6時、起床。宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんでの朝食前に、まず元の海岸公園にある光太郎文学碑を見に行きました。

1年ぶりでしたが、1年前と同じ状況。しかし、その後、昨日も書きましたが、女川光太郎祭の中で、須田善明町長が来年の今頃には再建されているかもしれないとおっしゃって下さいました。

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宿に戻って朝食。続いて宿に隣接するJR石巻線女川駅の駅舎に併設された入浴施設、女川温泉ゆぽっぽさんへ。エルファロさんの部屋にもユニットバスがあるのですが、やはりゆったり足をのばしたいもので。

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ここの2階がゆぽっぽさんです。

展望テラスから見た駅前の街並み。

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昨年は入る機会を逸していましたので、2年ぶりでした。

帰りがけ、1階の売店で、書籍を購入。仙台の株式会社プレスアートさんが今年3月に発行なさった『女川 復幸の教科書』(定価1,000円+税)。A4サイズより一回り大きい、100ページほどのムックです。

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東日本大震災から8年間の、女川町「復幸」(「復興」ではないそうで)の歩みをメインとしていまして、興味深く拝読しました。巻頭近くの「女川ヒストリー」という項では、光太郎の女川訪問に触れて下さっていました。また、光太郎文学碑の精神を受け継いで、100円募金で資金を集め、建立され続けている「いのちの石碑」についての記事、女川光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店、佐々木釣具店の紹介なども。あの津波で亡くなった、元女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんの名も。

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女川駅構内には、新たな碑も建っていました。今年三月の建立だそうで。

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碑陰記に拠れば、周辺の造成工事の完了を記念してのもののようです。

つづいて、新築の町役場へ。

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上の画像でいうと右上、テラス的な一角には、昨年の9月、東日本大震災で亡くなった方々への慰霊碑が建立されています。

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当時の町民の約1割にも達した犠牲者全員の名が刻まれています。貝(佐々木)廣さんの名も。右下は女川光太郎祭会場に飾られた遺影です。

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役場の建物の中に、女川つながる図書館さんがあり、そちらへ。

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こちらでは、ミニ展示「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催中です。光太郎の著書や、当会顧問・北川太一先生のご著書などが並んでいました。

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こちら自体に所蔵のないものは、県立図書館さんから借りてこられたようでした。

光太郎がこの地を訪れた昭和6年(1931)頃の古写真もあり、興味深く拝見しました。

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この魚市場の光景を見て、文学碑にも刻まれた詩「よしきり鮫」(昭和12年=1937)が執筆されたわけです。

    よしきり鮫

 眼をあけて死んでゐる君もうろくづ。
 女川(をながは)の水揚場に真珠いろの腹はぬらりと光る。
 どうしても君の口は女のももをくはへるやうに出来てゐる。
 難破船をかぎつけると君はひらりとからだをひるがへし、
 倒さになつてそれは愛撫に似たすれちがひに018
 やはらかな女のももをぐいともぎる。
 君の鋸歯は骨を切る。
 君は脂肪でぎらぎらする。
 君の鰭は広東港へ高價で売られ、
 君の駄肉はかまぼことなる。
 くひちぎる事の快さを知るものは、
 君の不思議な魅力ある隠れた口に
 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる、
 このコンクリートの水揚場の朝河岸に
 からころとやつて来る浴衣がけのあの餌(えさ)どもを。


「うろくづ」は魚を表す古語です。故・貝(佐々木)廣さん、高校時代にこの詩に出会い、「うろくづ」の意味が分からず、先生に訊いたそうです。すると訊かれた先生もご存じなかったようで「うろつく、の間違いじゃないのか」とのたまったとのこと。貝(佐々木)さん、「そんなわきゃないだろう」とご自分で調べ、それが光太郎にのめり込む一つのきっかけだったと、生前におっしゃっていました。

画像は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された光太郎の紀行文「三陸廻り」に添えられた光太郎自筆のカット。「女川のしミ」と題されています。「しミ」は「しび」で、「鮪」。マグロ類のやはり古称です。

地方紙『石巻かほく』さんに、「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」展の記事が出ています。 

女川と光太郎の関わり紹介 13日まで特別展

 女川町とゆかりが深い高村光太郎(1883~1956)にちなんだ特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川~えにしをつなごう」が7日、町生涯学習センター内にある「女川つながる図書館」で始まった。
 光太郎が1931年に女川を訪れてから今年で88年目を迎える。「光太郎と女川との関わりを多くの人に知ってもらおう」と、今回初めて企画した。
 国語の教科書に掲載されるなど有名な「道程」の復刻版や「智恵子抄」をはじめ、1920年発刊の光太郎訳「續 ロダンの言葉」、光太郎と女川の関わりを分かりやすく知ることができる「光太郎 智恵子 うつくしきもの」(光太郎・北川太一著)など関連著作約40点を展示した。
 来場者には1931年前後の女川の様子を頭に浮かべてもらうため、当時の女川港やカツオ船の水揚げ風景といった白黒写真も飾り、来場者の関心を集めている。希望者がいれば、折り紙でのしおり作りや、「道程」「レモン哀歌」の朗読なども行う。
 図書館で同級生2人と簿記の勉強をしていた石巻商高1年の男子生徒(16)は「高村光太郎という名は正直知らなかった。これから勉強したい」と話し、著作物などを見ていた。
 町教委生涯学習課の社会教育指導員加納純一郎さんは「大人でも光太郎と女川との関わりを知っている人は意外と少ない」と説明。町民のほか、光太郎、文学ファンの来場を呼び掛けている。
 特別展は13日まで。時間は月~金が午前10時から午後8時まで。土日祝日は午後5時まで。入場無料。
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その後、まちなか交流館さんへ移動、第28回女川光太郎祭に参加させていただきまして、昨日のレポートの内容につながります。

明日は、翌日、女川を後に訪れた同じ宮城県の気仙沼レポートをお届けいたします。


【折々のことば・光太郎】

死を超えて人大なり      短句揮毫 戦後

津波に呑み込まれて亡くなり、しかしそのご遺徳を慕って今も女川に人々を集め続ける貝(佐々木)廣さんを思わずにいられない一言です。

今日、8月9日は、昭和6年(1931 )、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日です。それを記念して、毎年8月9日には「女川光太郎祭」が開催されています。
毎年、記念講演を仰せつかっているもので、昨夜から女川に来ております。

宿泊は例年通り、女川駅裏のトレーラーハウス・エルファロさん。

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女川光太郎祭が午後2時からなので、午前中、町役場敷地内の女川つながる図書館さんでのミニ展示を拝見。

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その後、光太郎祭会場のまちなか交流館さんに入りまして、この記事を書いております。

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詳しくは明日、帰りましてからレポートいたします。

智恵子の故郷、福島二本松のレポートに戻ります。

5月18日(土)、智恵子生家/智恵子記念館さんから徒歩数分の鉄扇屋さん蔵で、シャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家増田真也さんのコンサート「モモの智恵子抄」を拝見拝聴したのち、安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊しました。

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宿はマウント・インさん。昨年度までせせらぎ荘という名前でしたが、リニューアル。リーズナブルな料金でしたが、実に快適な宿でした。

翌5月19日(日)が第65回安達太良山山開きということで、行って参りました。毎年このブログで紹介するだけ紹介しておきながら、実際に参加したのは初めてでした。なかなかこれだけの目的では足が向きませんでしたが、前日のモモさんのコンサートがあったので、いっそのこと登ってみようと思った次第です。

岳温泉さんから、8:05発のシャトルバスで奥岳登山口へ。天気が心配でしたが、とりあえず雲間から「ほんとの空」。愛車で登山口まで行くことも出来たのですが、相当の混雑が見込まれ、すると登山口からかなり下の駐車場に駐めねばならないと予想し、シャトルバスにしました。実際、その通りだったので正解でした。

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8:40、ロープウェイで山頂駅めざして出発。当方、登山マニアではありませんので、楽に行けるところまで楽に行きました。ただ、山頂駅といっても、安達太良山頂までは約1時間30分歩くと案内に出ています。

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かつて皇太子時代の今上天皇陛下と雅子さまも登られたそうで、山頂駅にはパネルや記念碑が。

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山頂までの登山道は、けっこう難行苦行でした。時間的には1時間ちょっとで行けましたが、雪がかなり残っており、その雪解け水で泥の河と化している箇所や、がっつり雪原となっている箇所などもあり……。

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そして山頂。着いた時には濃霧でした。霧というより雲の中に居たようなものかもしれません。

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一瞬、霧が晴れたときに撮ったのが下の画像。

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この溶岩ドームが安達太良山最高地点。別名「乳首山」のまさに乳首です。

こちらは中腹からの画像。赤丸の部分が上記なわけで。

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先着3,000名に、記念のペナントがもらえました。

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令和元年ということで、「令和」の出典となった『万葉集』中の安達太良山を詠んだ歌が取り上げられていました。

帰りのシャトルバスの都合などもあり、もらうものをもらい、それから急いでこのブログ5/19の記事をスマホから投稿し、下山。

山頂以外にもう一つの目的地だった薬師岳パノラマパークへ。ロープウェイ山頂駅の近くです。

駅からすぐの分岐点を左に行けば山頂、右に行けば薬師岳パノラマパーク。

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ここには観光案内等でよく使われる「この上の空がほんとの空です」の一文を刻んだ木標があり、これも今まで見たことがなかったもので。

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「ほんとの空」、言わずもがなですが、この語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採られています。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故以来、福島の復興の合い言葉にもなっていますね。 

あそこまでよく登ったなぁ、と思いながら、木標越しに山頂を眺めました。

まぁ、楽な道のりではありませんでしたが、さりとてアイゼンやらザイルやらの本格的な装備は必要ありませんし、わんこ(ビーグル犬)まで登っていたルートですので、それほどでもありません。ただ、雪が残っているうちはストックなり杖なりがあった方が安心だったなと思いました。それから、靴とズボンが雪解けの泥でどろどろになってしまったのには閉口しました。

再びロープウェイで奥岳登山口に。その時点で11時30分ぐらいでしたので、3時間弱で往復できました。帰りのシャトルバスは12:20発。それをのがすと14:00までありません。

比較的余裕を持ってレストハウスで昼食。すると、以前にここまで来た時には気づかなかったのですが、壁に光太郎智恵子の写真などが展示されていました。



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それから、この石碑も観て参りました。

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「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で使われているリフレインです。

この石碑、ネット上などでもあまり紹介されておらず、正確な場所がわからなかったのですが、探し当てました。最初、レストハウスの従業員の方にスマホで画像を見せて訊いたところ不明、次にパトロール事務所の方に同じように訊いても分かりませんでした。半分諦めかけながら周辺をぶらぶら歩いていたところ、なんのことはない、パトロール事務所の隣にあるスキースクールの建物のすぐ脇にありました。ここらで働いている人達にも知られていないのかと少し残念でした。

その後、再びシャトルバスで岳温泉さんに戻りました。さすがに足が疲れていましたので、有名な桜坂の途中にある足湯へGO。

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気持ちよかったです(笑)。

足だけでなく、日帰り温泉にがっつり入浴しようかとも考えましたが、さすがにそこまでやるとバタンキュー(死語ですね(笑))となりそうでやめました。

この後、岳温泉さんに駐めておいた愛車を駆って千葉の自宅兼事務所に。

というわけで、前日の「モモの智恵子抄」と合わせ、有意義な二本松行きでした。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。

談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「皇太子さま」は、さきに退位された現上皇陛下です。この年3月、イギリス女王エリザベス2世の戴冠式出席のため、横浜から船で向かわれたそうです。

「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。光太郎自身、明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンに滞在しており、芸術の部分ではあまり学ぶところはなかったというものの、重厚で歴史ある英国人のライフスタイルには非常に感銘を受けたそうです。

そういえば、日本に近代的登山を紹介し、大正2年(1913)の上高地で光太郎とも交流があったウォルター・ウェストンも英国人ですね。

昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。昨日は智恵子生家・智恵子記念館にほどちかい鉄扇屋さんの蔵で、シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサートを拝聴。岳温泉さんに宿泊しました。

今日は安達太良山の山開きということで、登って参りました。

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けっこうガスっていて分かりにくいと思いますが、山頂です。

このブログ最高地点、標高1,700メートル付近での投稿です(笑)。

このあと下山して千葉の自宅兼事務所に帰ります。

詳しくは帰りましてから。

今日は光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻郊外旧太田村の山口小学校跡地で、第62 回高村祭が行われています。途中で抜けて帰路につき、只今東北新幹線やまびこ号車中でこの記事を書いております。

毎年、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で開催する高村祭ですが、今朝がたまでかなりの雨だったため、山口小学校跡地に建てられた屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。

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詳しくは帰りましてからレポートいたします。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログプロフィール欄のメールアドレスまでご連絡下さい。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

昨日、千葉の自宅兼事務所を発ち、光太郎第二の故郷というべき岩手花巻に来ております。毎年三回ぐらいは来花しておりますが、今年はこれが初めてです。
現在、宿泊させていただきました大沢温泉♨さんでこのブログを書いております。戦後、光太郎がよく泊まった宿です。

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まだオフレコなので詳細は控えますが、来年の初夏、中部地方のある美術館さんで、光太郎とさらに二人の美術家三人にスポットを当てる展覧会が企画されており、こちらに協力要請がありました。その出品物をお借りする交渉のため、花巻に来た次第です。

まず、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さん。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接しています。

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今年はこの時期としては雪が少ない状況です。ただし、昨日は晴れていましたが、奥羽山脈を越えて来る季節風に乗って、風花がしきりに舞っていました。

その後、市街地に戻り、光太郎と交流のあった宮沢賢治の関係の林風舎さんへも足を運びました。

今日は別件で、盛岡まで北上し、過日ご紹介しました岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴して参ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第63回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログプロフィール欄の連絡先までご連絡下さい。郵送いたします。
 

第63回連翹忌御案内


                                       
 日 時  平成31年4月2日(火
) 午後5時30分~午後8時
 
 会 費  10,000円 (ビュッフェ形式での食事代を含みます)

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
       tel 03-3503-1451(代)

 内 容  高村光太郎およびこの1年に亡くなった関係各位への黙祷
      アトラクション(音楽演奏・朗読)/スピーチ
      この1年間に発行された高村光太郎/光雲/智恵子関係資料等展示
      他      

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  ごあいさつ

 今年も第六十三回、平成最後の連翹忌が間もなくやって参ります。

 あしたどんなことが起こるかわからない一年がまたたく間に過ぎようとしていますが、いつものように、日比谷公園松本楼の階上で、運営委員の皆さんのご努力により、たくさんのご報告や催しが予定されております由、お忙しい日々でしょうが、お目にかかれればうれしく存じます。

 わたくしは、この三月で満九十四才になります。

平成三十一年 二月
連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、できるだけ事前にお支払い下さい。


今年の連翹忌は火曜日です。新年度となって間もない平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。

過去6年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨日は、都内に出ておりました。当会顧問・北川太一先生を囲む新年会でした。

会場は、東大前のフォーレスト本郷さん。当方、昨年は同じ日に埼玉県東松山市で講演を仰せつかっており、2年ぶりに参加させていただきました。

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右上は北川先生のご自筆です。

主催は、「北斗会」さん。北川先生が高校の教員をなさっていた頃の教え子の皆さんです。教え子といっても、戦後すぐの話ですので、皆さんだいぶご高齢。最高齢の方は92歳だそうです。何人かの方は、連翹忌や女川光太郎祭にもいらして下さっています。

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北川先生ご自身は、この3月で94歳となられます。

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昨年は白内障やヘルニアの手術をなさったそうですが、奥様ともども、お元気でご参会。数年前は車イスが欠かせなかったのに、現在はご自分のおみ足で歩かれています。例年、子息の光彦氏もいらっしゃるのですが、昨日はご都合によりご欠席。代わりにお孫さんの浩平君がお付きの人としてご参加なさいました。

今年、文治堂書店さんから、新刊を刊行されるとのことで(さまざまな雑誌等にご発表なさった旧稿の再編だそうですが)、まだまだお元気でご活躍。

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上記は文治堂さんからの年賀状の一節です。

旧稿といえば、昨年末にコールサック社さんから刊行された野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版。別冊で「解説」が付いており、北川先生を含む9名の方々の玉稿が掲載されています。北川先生のものは、平成元年(1889)の雑誌『峨眉』に載った「大竜のおとずれ――野沢一と高村光太郎」。光太郎と野沢との交流の様相がまとめられています。

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光太郎を敬愛し、山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)。その後、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。今回のものは、限りなく元版に近い形での復刻だそうです。野沢の子息である、俊之氏から献呈ということでいただいてしまいました。恐縮です。

北川先生の新刊に関しては、また詳細が判りましたらご紹介いたします。併せてご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

今でもはつきり思ひ出すが、その時細かな霰が急に白く降つて来て人力車の泥よけにぱちぱちあたつた。「おしるしがやつて来た。」と私の降り性を諷した父のさそくの言葉が一同を少し笑はせた。

散文「遙にも遠い冬」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

明治39年(1906)の2月、3年半にわたる欧米留学のため、駒込林町の実家を出た時の回想です。

降り性」とありますが、今で言う雨男。光太郎は本当に何か節目の時には必ずといっていいほど、雨や雪、霰を呼ぶ男でした。有名なところでは、大正3年(1914)の智恵子との結婚披露宴、昭和28年(1953)の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式、そして亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、季節外れの大雪でした。

不思議と光太郎没後もそれが続き、当方、光太郎関連のイベント等でどこかに出かけるたび、ほとんど雨や雪です(笑)。昨日も都内で初雪が降りました。

昨日は、例年通りに、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行きました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ光太郎詩碑の前に車を駐め、有料道路をくぐって海岸へ。

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お供はこれも例年通りに愛犬。正確な誕生日が不明なため、1月1日を誕生日としており、昨日で15歳になりました。先月、少し体調を崩したのですが、恢復しましたので連れていきました。あと何回、こいつと初日の出が見られるか、と思っています。

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昨年一昨年と、比較的きれいに見えたのですが、今年はちょうど太陽の出るあたりに雲。西高東低の冬型の気圧配置なもので、このあたりの水平線上は雲がかかりやすいのです。

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残念ながら、片貝海岸では見えませんでした。しばらく待っていれば、雲の上、けっこう高い所に出るかと思いましたが、周辺の道路が混むもので、あきらめて撤収。途中、海岸沿いに10キロメートルほど北上したあたりで、雲の上に日が昇りました。再び車を駐めて、撮影。

愛犬の散歩で、毎日のように日の出は見ているのですが、やはり初日の出は格別ですね。今年一年も、光太郎顕彰の世界が盛り上がりますようにと、願をかけました。


ところで、初日の出といえば、昨年12月29日(土)の『日本経済新聞』さんに、「富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介」という記事が出ました。当方、電子版で読んだのですが、電子版だけでなく紙面にも載ったのか、山梨県の記事なので山梨版だったのか、そのあたりが不明ですが、ご紹介します。

昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区が取り上げられています。 

富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介

平成が終わるのを前に甲府支局長がこの1年間、仕事の合間などに山梨県から撮影した富士山を紹介します。あなたの見る初夢は何月の富士山でしょうか。(三浦秀行)

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1月、富士山から昇る初日の出。撮影した富士川町高下(たかおり)地区は、ダイヤモンド富士を観察するには絶好の地点。元旦は山頂から少しずれた地点からの日の出となる。冬至の前後は山頂から昇る太陽を撮影しようと多くのカメラマンで混み合う。高村光太郎の文学碑があり、町によると、この地を訪れた光太郎は「こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したという。


このあと、12月まであるのですが、割愛します。


初日の出を穏やかな気持ちで見られる、そんな平和な日々が続くこの国であってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

如何なる時代が来ようとも悪趣味のものは許され難い。必ず洗練せれなければ滅びるであらう。これは美の世界の自浄作用である。

散文「二科院展見物」より 大正13年(1924)、光太郎42歳

造形芸術の世界での話ですが、およそ芸術一般にあてはまることでしょう。政治経済の分野には当てはまっていない気がしますが。

あけましておめでとうございます。

また新しい年がやってきました。

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上記は今年の年賀状。

今年は亥年ということで、画像は明治28年(1895)、数え13歳の光太郎、東京美術学校入学前、高等小学校在学中の習作です。年端も行かぬ子供の作とは思えない出来ですが、どうも光雲か、あるいは弟子の誰かによるお手本があったようで、美校の後身・東京藝術大学さんには、同じ図柄の作者不明の作品が残っています。そちらはおそらく彫刻科の授業実習での作品なのでしょう。

ところで、今年は亥年ですが、先月初め、夕方に愛犬の散歩をしていた時の話です。当方自宅兼事務所、裏山がちょっとした山になっておりまして、戦国時代の山城があったような山です。ところどころに土塁や、明らかにそれとわかる堀切の痕なども残っています。

その林道(といっても、民家やアパート、お寺などが見える場所です)を歩いていましたら、何と、正面から1頭の動物が猪突猛進してくるではありませんか! そうです。イノシシです。当方が連れている柴犬系雑種の愛犬よりも一回り大きいくらい、体高50センチ、体長1メートルほどだったでしょうか。それが真っ正面から猛スピードでこちらに向かって来たのです!

愛犬との散歩中にイノシシに遭遇したのは2度目でした。1度目は数年前、その時は、かなり巨大な個体でしたが、こちらはコンクリートの法面(のりめん)の上の道路、敵(笑)は5メートルほど低い冬枯れた田んぼ、しかも直線距離で30メートルほど離れており、何ら危険は感じませんでした。

しかし、今回は、あまり大きくない個体とはいえ、真っ正面から猪突猛進して来やがるのです。「ヤバい!」と思いました。当方、柔道初段です。柔道経験者はおわかりだと思いますが、人間がそのように突っ込んでくるのなら、カモです。襟か袖をつかんで相手の力を利用し、比較的簡単にぶん投げられます。しかし、体高50センチの相手に投技はかけられません。

よくある、「イノシシにはねられてケガ」というニュースや、古い話ですが、北京五輪で柔道100kg級の鈴木桂治選手がモンゴル選手の奇襲とも言える双手刈り(現在の国際ルールでは反則)で一本負けしたのはこういうことだったか、などと、コンマ何秒かの間に考えました(笑)。

あと数メートル、絶体絶命、「こんなことで新聞に載りたくねぇ」、というところで、幸いに、向かってきたイノシシの方で、林道脇の竹林に入っていってくれました。

「助かったぁ」と思って、竹林を見て、二度びっくりしました。何と、向かってきた奴以外に、あと2頭のイノシシがいたのです。親子かきょうだいか、どうも、遅れていた1頭を待っていたらしく、合流したあとは、竹林の中を走り去って行きました。その間、愛犬は「何? 何なの?」という顔でポカンと口を開けていました。役に立ちません(笑)。

自宅兼事務所のある千葉県北東部、まだまだ自然が豊かで、愛犬との散歩中、様々な野生動物と出会います。タヌキ、イタチ、野ウサギなど(近所の方の話では、シカもいるというのですが、当方は見たことがありません)。しかし、さすがにイノシシは勘弁してほしいところです(笑)。

戦後の7年間、光太郎が暮らした花巻郊外の旧太田村山口地区。光太郎は詩「案内」(昭和24年=1949)で、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん斯ういふところ好きでせう。」と謳いました。また、やはり詩の「山のともだち」(昭和27年=1952)では、「兎と狐の常連」なども登場します。現在でも、光太郎の山小屋(高村山荘)周辺は、熊のテリトリー。あちこちに爪を研いだ痕が残っています。

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左は山小屋裏の智恵子展望台のデッキ、右は高村光太郎記念館さんの看板です。下は光太郎の遺品の一つ、熊よけの鈴。

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イノシシは居なかったようです。調べてみましたところ、岩手県のイノシシは明治期に一度絶滅したそうで。しかし、近年、また目撃情報が相次いでいるとのこと。

光太郎は、自然との共存を常に考えていた人でした。21世紀の今日、なかなかに難しい問題ですね。


閑話休題、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

だがロダンの彫刻から直接に喜を感じた者が果してどの位ゐたことであらう。ロダンの彫刻の美を彫刻的に微妙に享け入れた者が果してどの位あつた事であらう。

散文「ロダンとマイヨルの好悪に就て」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎らの努力によって、ロダンの名が日本でも知られるようになった大正時代。しかし、わかったつもりでいてわかっていない人の何と多いことか、という嘆きです。

光太郎という人物も、わかったつもりでいると、こんな面もあったのか、という連続で、計り知れない巨大なブラックホールのような人物です。今年もまた、その巨大なブラックホールに向き合う1年の始まりです(笑)。

例年同じようなことを書いていますが、早いもので今年も今日一日を残すところとなりました。

このブログ、5月には7年目に突入し(ちなみに今日で2,434日目、1日も休んでおりません)、今月初めには「訪問者数」が20万件を超えました。開設当初は1日の訪問者が20人くらいだったのが、このところ、コンスタントに百数十人くらいの方が閲覧して下さり、ありがたく存じます。訪問者数が多いと、YAHOOさんからTポイントがいただけ、知らぬ間にけっこう貯まります。毎年そうしていますが、今年も寄付に廻させていただきました。

記録の残っている5月以降で、以下に寄付いたしました。


雀の涙ほどではありますが。


寄付といえば、これも例年通り、皆様からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイト、12月分の寄付団体一覧が大晦日に間に合わないことがあるので、先月、お送りしましたところ、名前を載せていただいております

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来年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔を丸出しにして往来を歩いてゐる事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまふより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたといふ事が見えるだけである。

散文「顔」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

痛烈ですが、そのとおりですね。

同じ文章で、「仙人じみた風貌をしてゐて内心俗つぽい者は、やはり仙人じみてゐて内心俗つぽい顔をしてゐる。がりがりな慾張でゐながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでゐて人情の厚い顔をしてゐる。まじめな熱誠なやうでゐて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしてゐる。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争はれない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであつたかといふ事だけは想像が出来る。」という一節もあります。

孔子や釈迦やキリストのような顔、とは言いませんが、無理があったり卑屈だったりという顔にならぬようにしていきたいものです。

昨日、花巻の大沢温泉さんから郵便が届きました。角形2号(240㍉×332㍉・A4サイズ対応)の大きな封筒です。

当方、花巻に泊まる際にはよく利用させていただいていて、年に3回ぐらいはお世話になっています。そこで、忘れ物でも送って下さったのか、いや、それにしては、最後に泊まったのは7月だし……、イベントか何かの案内だろうか?……などと思いつつ、開封してみると……

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「菊水館」さんが、今月末で休業とのこと。驚きました。同時に、年三回程度の利用客にまでこの文書を送って下さる姿勢に感激しました。

大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、長期の湯治客など用の「湯治屋(旧・自炊部)」、そして別館的な茅葺きの「菊水館」の三つに分かれています。

戦後の7年間、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎も、ここの湯をこよなく愛し、たびたび訪れています。長い時には2週間も逗留しました。日記によれば、だいたい「山水閣」に宿泊したようですが(そこで「山水閣」には光太郎が泊まった部屋を再現した「ぼたんの間」がスイートルーム的に使われています)、「菊水館」に泊まったという記述もあります。公式サイトで光太郎を紹介して下さっていますし、「山水閣」内には光太郎にかかわる展示も為されています。

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そのうちの「菊水館」に通じる高明橋脇の法面(のりめん)が、8月9日に崩れ、通行ができなくなったそうです。

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8月9日といえば、女川光太郎祭の日。台風13号が日本列島を直撃していました。その影響でしょう。当方、今月初めに花巻に行きましたが、その際は鉛温泉さんに宿泊したので、存じませんでした。

「湯治屋」につながる曲がり橋は健在なため、そちらを使って営業を続けてこられたそうですが、冬になると積雪が半端ではないところなので、宿泊客の食材等の搬入が困難になるため、「菊水館」のみ休館だそうです。再開のめどは立っていないとのことですが、早期再開を目指すそうで、そうあってほしいものです。

当方、大沢温泉さんでは主に「菊水館」に宿泊しています(何度泊まったかもはや思い出せません)。光太郎も泊まった築160年の趣、食事も美味しく、事前に「苦手な食材は?」的な質問もして下さるなど、細やかな対応がなされています。それでいてリーズナブルな料金。曲がり橋を渡って露天風呂に行くというのも風情があります。

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「山水閣」、「湯治屋」は健在ではありますが、当方にとっては、やはり「菊水館」。そういう方も多いのではないでしょうか。一日も早い再開を願ってやみません。

追記 2019年6月末より、宿泊はできないものの、「ギャラリー茅」として再オープンしました。


【折々のことば・光太郎】

現代のむつかしくなやましい社会生活の中にあつて、否応なしに気むつかしくなつているわれわれも、たまには「雅歌」のような古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声をきくと楽しい。馬鹿らしいほど単純だと思いながら、やつぱり読む。
散文「雅歌」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「雅歌」は聖書の一節で、神に対する信仰の告白的な内容ですが、光太郎は男女の恋愛詩としても読めるとしています。特に好んだのが「北風よ起れ、南風よ来れ、我園を吹きてその香りを掲げよ。ねがはくはわが愛する者のおのが園に入りきたりてその佳き果を食はんことを」の句で、書として揮毫したりもしています。

古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声」も、光太郎の目指した一つの境地でしょう。ただ、光太郎詩は「馬鹿らしいほど単純だ」とは思いませんが。

昨日の第27回女川光太郎祭を終え、先ほど、千葉の自宅兼事務所に戻りました。

女川に到着した一昨日は夜10時過ぎ、昨日は台風の影響でほぼ終日雨で、あまり街中を歩けませんでしたので、今朝、出発前に散歩がてらそぞろ歩き。

宿泊させていただいたトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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すぐ隣はJR石巻線女川駅。

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駅近くに建設中の女川町新庁舎。

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駅前の皇后陛下歌碑。「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車出(い)でぬ」。一昨年、天皇皇后両陛下が女川を訪れられた際の御詠です。

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駅前から海へと伸びるプロムナード沿いの、商業施設シーパルピアさん。

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その一番海側の地点に、きぼうの鐘。

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かつての女川駅があったあたりで、駅前のシンボルだったカリヨンの四つの鐘のうち、津波の後に一つだけ見つかったもの。震災後しばらくは、高台の仮設商店街「きぼうの鐘商店街」(かつての女川光太郎祭会場)に置かれていましたが、そちらが閉鎖となり、元の位置に移転しました。


その「きぼうの鐘商店街」にあった佐々木釣具店さん(右)。女川光太郎の会の中心メンバー、佐々木英子さん(津波でなくなった故・貝廣氏夫人)のお店です。

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左はこの3年、女川光太郎祭終了後の懇親会で使われている金華楼さん。


そして、あの日、牙を剥いた海。

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台風の余波でまだ波が高かったのですが、多くの漁船が次々と出航していくところでした。


倒壊した旧女川交番。震災遺構として保存が決まっています。

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そして光太郎文学碑。

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1日も早く、またこの碑が再び建てられることを願ってやみません。


この碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」。帰りがけに撮影しました。

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復興のトップランナーと称され、新しい街として生まれ変わりつつある女川。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩精神とは事物の中心に直入する精神である。事物の関係を極限の単位に追ひつめて、その実相を爬羅剔抉し、更に翻つて新を生む精神である。詩精神が言葉に純粋にあらはれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となり、音波に乗れば音楽となる。およそ詩精神を欠く時、これら諸芸術は碌々たる美の形骸に過ぎない。

散文「詩精神」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

都市計画にも言えることかもしれません。復興進む女川町を見て、そう思いました。ぜひとも女川には詩精神あふれる街となっていってほしいものです。

昨夜、1泊2日の行程を終えて、岩手花巻より帰って参りました。

花巻高村光太郎記念館さんで昨日開幕した企画展「光太郎と花巻電鉄」、早速報道されています。

地元紙『岩手日日』さん。

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『読売新聞』さん。13日(金)が報道陣向け内覧でしたが、『読売』さんは事前に取材されていました。

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昨日は、内覧にもいらした『岩手日報』さんがさらに初日の様子も取材されていました。そのうちにネット上でも記事が出ると思われます。下は初日のお客さん。興味深そうにご覧になっていました。

ネット上と言えば、メインのジオラマを製作された石井彰英氏の「制作日誌」がネット上に出ています。ご覧下さい。

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合間に隣接する高村山荘周辺を散策。東北北部はまだ梅雨明けして居らず、13日(金)は雨模様でした。関東ではとっくに枯れて朽ちているアジサイが、こちらではちょうど見頃でした(右上)。背景は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、光太郎が蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)です。

残念なニュースも。

山荘のすぐわきに、昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った栗の巨木があるのですが、残念ながら枯死してしまいました。右下は光太郎が書いた木標を石に写したコピーです。


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倒壊の危険があるというので、近々伐採されるそうです。色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり残念です。

逆に明るい話題では、こんなニュースも。

高村光太郎記念館「弦楽四重奏スペシャルコンサート」

期 日 : 2018年7月29日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 14:00~15:00
料 金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

光太郎ストリングスは、岩手大学管弦楽団の卒業生によって今回のイベントコンサートをきっかけに結成されました。
クラシック、ポップス、唱歌、演歌まで皆様に楽しんでいただける曲を用意してお待ちしています。

記念館の入館料でどなたでもお聞きいただけます♪
小・中学生の方は「まなびキャンパスカード」か「ふるさとパスポート」持参で入館無料!

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演奏されるのは、花巻や盛岡にご在住の皆さんだそうです。篠笛の達人、花巻高村光太郎記念会の髙橋事務局長も参加なさるとのこと。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

今年もやはりその時刻、裏山に登つて、ホトトギスの声をききながら、南方の空に美しいイメツヂを追いませう。

散文「再び村にて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

舞踊家・藤間節子(黛節子)による「智恵子抄 第二集」プログラムに寄せた一文から。招待を受けたものの、蟄居中の身としては、東京まで見に行けないので、山小屋の裏山の見晴らしのいい高台から東京方面の南の空に向かって藤間や智恵子を偲ぶ、というのです。前年、それから翌年のプログラムにも同じ趣旨の記述があります。

その高台がこちら。ここで夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという故事に因み、「智恵子展望台」と名付けられています。昨春、改修されました。

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そこに至る山道。ちょっとしたハイキングコースです。ふり返ると足下に山小屋。熊が出ます。

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デッキの柱には、生々しい爪痕。いかに過酷な環境かというのがわかりますね。

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昨日から、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。
郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんで、今日から企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まりますが、昨日は報道陣向け内覧でした。

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展示の目玉は、品川ご在住のジオラマ作家・石井彰英氏による昔の花巻のジオラマ。このブログで何度かご紹介して参りましたが、約1年かけて作成された労作です。

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何度か石井氏の工房にお邪魔し、その都度の進捗状況は見せていただきましたが、4分割されたパネルが合体した完成形、そしてNゲージのレール上を実際に電車が走るさまは初めて拝見。企画段階から関わった身としては、感無量でした。

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その他、昔の鳥瞰図や時刻表、絵葉書など、当方がコツコツ集めた資料も展示していただいています。

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昔の花巻を知る方々には懐かしんでいただき、そうでない皆さんにも古きよき花巻を知ってほしいと存じます。

また、開幕には間に合いませんでしたが、石井氏制作のDVD (ジオラマを接写したもの)が、今月末くらいには販売開始だそうです。また後ほどご紹介いたします。

是非、足をお運びください。

昨日は神田の東京古書会館さんで開催された明治古典会七夕古書大入札会2018の一般下見展観に行っておりました。

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今年も光太郎関連の資料が出品され、それぞれ手にとって拝見して参りました。

特に気になっていた書簡類は細かく拝見。

まず、詩人で編集者の井上康文とその妻・淑子に宛てた4通。すべて筑摩書房『高村光太郎全集』未収録のものでした。井上に宛てたものは、光太郎から以外にも出品されており、当会の祖・草野心平からのものなどもありました。

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そして、北海道弟子屈の詩人・更科源蔵にあてたもの。署名本や写真などとともに一括の出品でした。

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封書が9通、葉書が57枚ということで、これらが『高村光太郎全集』未収録のものであったら大変だと思っていたのですが、どうやらすべて収録済みのものでした。最も古いもので昭和3年(1928)、一番最近のものは昭和27年(1952)。『高村光太郎全集』には130通ほど掲載があり、その約半分ということになります。

署名本は、ほぼ署名と「謹呈 更科源蔵雅兄」といった文言のみでしたが、昭和22年(1947)の『道程復元版』のみ、それに関する短歌「わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか」がしたためられていました。それからおそらく署名本が送られてきた際の小包の包装から切り取ったと思われる更科宛の宛名部分なども付いていました。

できれば北海道の文学館さんなどで手に入れておいていただきたい品々です。


それから、やはり短歌をしたためた短冊。他の歌人のそれと220枚で一括の中に、光太郎のものも一枚入っていました。明治43年(1910)の雑誌『スバル』に発表された「爪きれば指にふき入る秋風のいと堪へがたし朝のおばしま」。ただし、揮毫の時期はもう少し後のようでした。


その他、既知のものでしたが、色紙や草稿の類など。ことによると100年の時を経て、光太郎が筆を執った実物を手に取ってみることができ、眼福というか、貴重な経験でした。

今日も午後4時まで、一般下見展観が行われています。


時間に余裕があれば、六本木の国立新美術館さんにまわり、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」をもう一度拝見しようかとも思ったのですが、他の雑用もあり、トンボ返り。

やはり会場にいらして下さった太平洋美術会・高村光太郎研究会の坂本富江さん経由で、「智恵子抄」の詩篇を書かれて会長賞(最優秀賞)に輝かれた菊地雪渓氏から、作品に込めた思いを記した文書を頂き、それを踏まえてもう一度拝見しようと思ったのですが、古書会館さんで時間を使いすぎました。

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書家の方々はこういう苦労をなさっているのだな、と、新鮮でした。

できれば来年の連翹忌にて、展示させていただき、皆様にも見ていただきたいものです。

こちらは明日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

総じてブルデルの芸術の底流をなすものは深い詩的精神の横溢であり、事実彼は自ら詩筆を執つてゐる。むしろ古風な格調を尚んで荘重の趣あるその詩篇を自らゴチツク風の文字で揮灑したのを読むのは、まるで彼の地下窖からほのかに漏れる錬金の硫煙をかぐ思がする。

散文「清水多嘉示著「巨匠ブルデル」序」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

ロダンの後継者たる彫刻家ブールデルの評伝に寄せた一文から。

このブールデルへの評は、現代の光太郎自身への評と置き換えても成り立つような気がします。まさに昨日、光太郎の書の数々を手に取ってみて、改めてそう思います。

昨4月2日は光太郎忌日ということで、第62回連翹002忌の集いを、例年通り、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催いたしました。

それに先立ち、これも例年通りに、参会者を代表して、染井霊園の高村家墓所に参拝。

毎年、当方が行く前に香華を手向けて下さっている方々がいらっしゃり、どなただろうと思っておりましたが、今年はその方々とばったり行き会いました。智恵子の故郷、福島の方が中心になってお声がけ下さって、10名ほどの方々が墓参にいらしていました。ありがたや。

その後、松本楼さんのある日比谷公園へ。例年ですと桜が満開なのですが、今年はもう盛りを過ぎてしまっていました。



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配付資料や受付の準備などをし(太平洋美術会研究所の坂本富江様はじめ、いろいろな方にお手伝いいただきました。ありがとうございました)、午後5時半、開会。

まずは、62年前に亡くなった光太郎本人に、そして、この一年間に亡くなった関係の方々をご紹介し、黙祷。

続いて当会顧問、北川太一先生にご挨拶を賜りました。生前の光太郎をご存じの北川先生、今年に入って白内障の手術をされたそうですし、少しおみ足が弱られていますが、93歳になられてもまだまだお元気です。100歳までは頑張るぞ、と宣言して下さいました。

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その後、献杯。このところ、音頭は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった故・髙村豊周氏令孫の髙村達氏にお願いしていたのですが、達氏、日本写真家協会の集まりで遅れるとのことで、お姉様の朋美様にお願いしました。

しばしの間、ビュッフェ形式での会食。

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例年行っておりますアトラクション003、今年は、朗読家の山田典子様にお願いいたしました。題して 「智恵子から光太郎さんへ」。昨年の2月に、千葉県柏で山田様がご出演なさった朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」を拝見・拝聴し、ぜひ連翹忌でも、とお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

柏での公演では、山田様が智恵子に扮して朗読、オペラ歌手・大久保光哉さんが青木省三氏作曲の歌で光太郎役をなさるという構成でしたが、今回の光太郎役は……。

当方、たまたま昨年の連翹忌に和装で臨みましたところ、山田様、それを見てひらめいたそうで……。まぁ、光太郎役といっても、ほぼ座っているだけでしたので、よかったのですが(笑)。

その後、食事を頂きながら恒例のスピーチをお願いしました。

高村光太郎研究会員・西浦基氏。参会の皆様に無料で配布して下さったご著書を紹介していただきました。埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏には、1月にオープンした同市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のご紹介を。

智恵子の故郷、福島二本松の熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ会長)には、11月に開催予定の全国智恵子抄朗読大会の件など。さらに遠く青森十和田からご参加下さった佐藤やえ様、久しぶりにご参加の、碌山美術館理事・仁科惇様にもスピーチをお願いしました。そして、遅れてご到着の髙村達氏。

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さらに『明星』関連で、明星研究会の小清水裕子さん、いわき市立草野心平記念文学館の渡辺芳一氏、山梨県立文学館の伊藤夏穂様、愛知碧南市藤井達吉現代美術館・木元文平館長、碌山美術館・武井敏学芸員。今後、それぞれの会や館で、光太郎にも関わる企画があります。近くなりましたらこのブログにてご紹介いたします。

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トリは、光太郎第二の故郷・岩手花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋邦広氏。氏は横笛の達人でもあり、光太郎が暮らした花巻太田地区に伝わる神楽の曲などの演奏を披露して下さいました。

名残は尽きねど、時間となりまして、午後8時、来年以降の再会を約し、お開きとさせていただきました。

今年は新年度最初の月曜日ということで、昨年、一昨年より参会者が減少しましたが、今回初めてご参加下さり、来年以降も必ず来ます、とおっしゃって下さった方もいらっしゃいました。

参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。とにかくこの輪を広げてゆきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

    高村光太郎死す002

                   草野心平

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをか
  ぶつて淡い灯をうけ夜は更けます
 フラスコのなかであわだつ酸素。
                   
  《僕もそろそろ死に近づいているね》

    《アダリンを飲もう》
                   

 ガラス窓の曇りをこすると。
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 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   「智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。」
 
 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April fool の雪の夜に。





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今日、4月2日は、光太郎忌日「連翹忌」です。

前日から季節外れの大雪に包まれていた62年前の昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分、東京中野のアトリエで、不世出の巨人・高村光太郎は、宿痾の肺結核のため世を去りました。

上記は当会の祖・草野心平が、翌日の『朝日新聞』さんに寄せた詩です。揮毫は当会顧問・北川太一先生の所蔵で、5日に書かれたものです。冒頭の活字の部分は、昭和41年(1966)刊行の心平詩集『マンモスの牙』から採りました。したがって、揮毫と一致していない箇所があります。


さて、繰り返しご案内申し上げていますとおり、本日午后5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さんで、関係の方々にお集まりいただいての「第62回連翹忌」の集いを執り行います。

また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。

明日は光太郎62回目の命日ということで、第62回連翹忌の集いを、午後5時半から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さん2階で執り行います。

今年は新年度最初の月曜日ということで、土・日だった一昨年、昨年と比べると、大幅に参加者が落ち込むのではないかと危惧しておりました。たしかに減りましたが、大幅な減にはならず、例年に近い約70名の参加申し込みを賜り、胸をなで下ろしております。

高村家とその血縁の皆様、生前の光太郎をご存じの方々、出版・教育・美術館・文学館関係者、音楽や舞台芸術等で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さっている皆さん、光太郎と交流のあった面々のゆかりの方々、そして当方もそうですが、単なる光太郎智恵子ファンも。

また、各地で光太郎智恵子顕彰等に取り組んで腐っている方々なども多数ご参加下さり、遠くは四国愛媛、大阪、青森十和田、岩手は盛岡と花巻、宮城で女川に仙台、さらに新潟や長野などからも駆けつけて下さいます。ありがたいかぎりです。

そうした皆様や、参加は出来ないけれどよろしく頼む002というような方々から、各種イベントのチラシやパンフレット、刊行物(高村光太郎研究会所属の西浦基氏はご著書『高村光太郎小考集』、碌山美術館さんより館報第38号、文治堂書店さんからはPR誌『トンボ』の第4号第5号)などが参会者に配布されます。

そうした中で、当方編集の『光太郎資料』第49集もお配りします。元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十三回 短歌をめぐって(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、昭和期の短歌実作、短歌に関わる書簡や散文をピックアップしました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の抒情詩的エピソード」(抄) 平野威馬雄
詩人、フランス文学者の故・平野威馬雄氏(料理研究家・平野レミさんの父上です)による、戦時中の光太郎回想です。三河島にあった光太郎行きつけのトンカツ屋「東方亭」が一つの舞台です。

・ 光雲談話筆記集成 雑誌『キング』より
総合雑誌『キング』に載った、光雲の談話筆記2篇。「昔の芝居と今日の芝居」、「猫の話 鑿の話」。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十三回  盛岡市
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は昭和20年(1945)から27年(1952)まで、花巻町、そして花巻郊外の太田村に住んでいた光太郎が、確認できている限り8回は足を踏み入れた、花巻から北に40㌔㍍弱の盛岡を扱いました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「われら文化を」(その二)
昭和17年(1942)、信時潔(のぶとききよし)により作曲され、岩波書店店歌として、社章のデザインなどで光太郎と懇意にしていた同店店主・岩波茂雄の依頼で作られた、「われら文化を 岩波書店の歌」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十三)
生前に公表されたと思われる光太郎詩文のうち、初出発表誌不明・不詳等のもののリストとなります。

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B5判、全45ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

幾何学の公理は中学校の生徒にも一応は認められる。けれども、芸術上の公理になると、凡才には少し解らなくなる。一身を芸術に燃やして真に人間の世に生きる非凡な勉強家だけに解る。

散文「文展分評 彫刻」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

さて、いよいよ明日は第62回連翹忌。「一身を芸術に燃やして真に人間の世に生き」た光太郎を偲び、盛会となることを祈念いたしております。

このブログ、なるべく早くご紹介したい件を先にしています。イベントやテレビ放映情報等は時宜を見て、早すぎず遅すぎぬ時期に。新刊情報、新聞雑誌で光太郎智恵子光雲の名が出た場合などもなるべく直後に、という感じで。逆に速報性の必要ない件は後回しにすることがありまして、今回の件がまさにそうです。

ひと月ほど前、埼玉の大宮で大学時代の同窓会があって参加して参りました。大宮ですと、公共交通機関の場合、夜9時過ぎには出ないと千葉の田舎にある自宅兼事務所に帰れません。翌日は朝からまた別件があり、泊まるわけにも行きません。となると、一次会しか参加できない状況で、それも惜しい気がし、自家用車で参りました。当然酒は飲めませんが、当方、もともとあまり酒は好きではありませんし、最近とみに飲酒の習慣が無くなっていますので、それは苦になりません。

そこで、その同窓会の前に、会場の大宮からそう遠くない、同じ埼玉県の北葛飾郡杉戸町に立ち寄りました。前々から一度行ってみたいと思っていたところでしたので。なぜなら、ここが光太郎のルーツに関わる地だからです。

どういうことかというと、光太郎の父・高村光雲の実母(つまり光太郎の祖母)・すぎ(通称・ます)が、かつてこの地にあった東大寺という寺院(ただし、神仏混淆の修験道のそれ)の出なのです。

光雲の父・中島兼吉(通称・兼003松)は、江戸で香具師(やし)を生業としていました。明治32年(1899)に82歳(おそらく数え年)で歿していますので、文化14年(1817)頃の生まれ。最初の妻との間に、巳之助という子がいましたが、程なく離縁、嘉永3年(1850)頃にすぎと再婚し、同5年(1852)に光雲が生まれています。巳之助は光雲より7歳年上だったそうです。後に腕のいい大工となり、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏が作られた際、光雲ともどもこのプロジェクトに参加しています。くわしくはこちら

明治になって徴兵令が布かれた際、長男は徴兵免除だったのですが、光雲は次男。そこで、師匠の高村東雲の姉・悦が独り身で居たそうで、その養子となって長男といういわば免罪符を得ました。そのため、高村姓となったわけです。

閑話休題。兼吉とすぎの結婚については、おそらく、香具師だった兼吉が、各地の神社仏閣などの祭礼、縁日などに関わっていたために知り合ったのではないかと思われますが、いろいろわからないことだらけです。光雲や光太郎、それから光太郎実弟の豊周の回想にいろいろ書かれていますが、どれもあやふやな伝聞にもとづくもののようです。第一、すぎ自体、東大寺住職・菅原氏の血縁であることは確かなようですが、何年何月に誰の子として生まれたのかなど、今ひとつはっきりしません。光雲の回想には「東大寺の菅原道甫という住職の娘」とありますが、年代がまるで合わないのです。菅原氏は明治になって東氏と改姓、その後裔の方の書いたものによれば、すぎは道甫の娘・ますの子となっています。すぎの通称「ます」は、母の名を継いだということでしょう。当会顧問の北川太一先生もこの説を採られ、『高村光太郎全集』別巻収録の家系譜はそうなっています。

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ところが、埼玉の郷土史家の方が書かれたものでは、また違う説が唱えられています。

いずれにせよ、光太郎の祖母・すぎ出生の地ということで、行ってみました。

事前の調査では、東大寺という寺院はもはや残っていないそうでしたが、当時の住職等の墓所が残っているということでした。また、隣接していた永福寺さんという寺院は今も健在とのこと。そちらが東大寺の法燈を嗣いでいるそうです。

さて、永福寺さん。杉戸町の下高野地区です。

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山門やら鐘楼やら、そして本堂も、なかなか立派なたたずまいでした。

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本堂には「高村」の千社札。「まさか、関係ないよな」とは思いましたが……。

敷地の一角に、「西行法師見返りの松」。

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源平の争乱により焼失した奈良東大寺の大仏再建勧進の途上、西行法師がこの地で行き倒れ、村人に手厚く看病されたという伝説が残っています。のちに東大寺の重源上人もここを訪れ、その話を聞きいて感動し、西行が運び込まれたお堂に東大寺の寺号を許したとのこと。

ところがその東大寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。神仏混淆の修験道系だったそうで、そうした寺院は廃寺の憂き目に遭うことが多かったそうです。当時の住職・道貞(ますの甥のようです)が、その措置に逆らったあげく捕縛され、八丈島送りになったとも伝えられています。明治初年にはまだ島流しの刑があったのですね。

ちなみに文久年間と思われますが、高村東雲に弟子入りする前の10歳頃の光雲が、丁稚奉公の予行演習のような形で東大寺に一年ほど預けられていたそうです。

永福寺さんの北側に、広大な墓地があります。その一角に、「東氏累代之奥津城」ということで、東大寺の人々の墓所が。神仏混淆らしく、鳥居も建てられていました。

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右上の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開祖・西行、二世・重源以下、二十七世・道円までの名が刻まれています。すぎの祖父と思われる二十五世・道甫の名もありました。


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左上の画像が、すぎの兄と思われる二十九世・道顕と、その子である三十世・道貞の墓。道貞は八丈島から帰ったあと、東と改姓し、神仏分離ということで、神官となったそうです。

この墓所は、男女で位置が異なり、女性陣の墓石は少し離れた一段低いところにかたまって建てられています(下の画像)。兼吉に嫁いだすぎの墓はありませんが、すぎの母・ますの墓なども含まれているのでしょう。どれがそれかは特定できませんでしたが。

すると、そのかたわらに、一本のソテツの木(右上の画像)。杉戸町内には、道貞が八丈島から持ち帰ったというソテツが遺されているそうで、これもそうなのか、或いはその木から株分けでもしたものかもしれない、と思いました。

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それぞれの墓石に、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。


ちなみにすぎ、そしてその夫・中島兼吉(つまりは光雲の両親・光太郎の祖父母)の墓は、台東区の涼源寺さんというお寺にあるそうで、いずれそちらにも行ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

日本の彫刻は埴輪に帰らなくてはならない。

講話筆録「日本の美」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

棟方志功や岡本太郎などとは異なり、光太郎は縄文の美を認めませんでした。ごてごてしていて日本人の感覚ではない、大陸的だと。それが、古墳時代の埴輪には、簡素な明るさがあってすばらしい、としています。ここにも光太郎の彫刻観の一端が見て取れます。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第62回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第62回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成30年4月2日(月
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第62回連翹忌へのお誘い

 自然現象にも、世界の情勢にも、この数年は、思いがけぬ出来事が続きましたが、お変りなく、お元気でおすごしのことと存じます。委員会の御努力により、連翹忌も今度で六十二回目、またお目にかかれるのが、奇蹟のような気がします。これも皆さんと高村さんの限りない敬愛に外なりません。
 今年も、いつもの日にいつものところで、いつものようにお目にかかり、たくさんのお話を伺えれば幸いに存じます。是非お出かけ下さい。
 私事ですが、私は一月末に、両眼白内障を手術、連翹忌が終ったら、逆さまつげの手術をします。もうすこし仕事もしたく、皆さんともお目にかかりたく、勝手に生存年令を百歳と決めました!

平成三十年 一月末
連翹忌運営委員会顧問 北川太一


御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は月曜日です。新年度最初の平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。


過去5年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨日から一泊二日で、秋田の小坂町、青森で十和田湖、そして岩手花巻を回りました。先ほど帰途につき新幹線🚄車中でこれを書いております。
詳しくは明日以降レポート致しますが、秋田の小坂では、新たに町に寄贈された光太郎から出版社・龍星閣(詩集『智恵子抄』版元)社主の澤田伊四郎に宛てた書簡の調査をして参りました。既に『高村光太郎全集』に掲載されているものが三十数通、そして掲載されていないものも同じくらい。これには驚きました。来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんの企画展で一部が展示されます。

続いて十和田湖へ。「十和田湖冬物語」を拝見。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップなど、拝見しました。

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昨夜は小坂町に宿泊。そして今日は岩手花巻。郊外旧太田村の高村光太郎記念館さん他を回りました。

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どこもさすがに雪深い状況でしたが、行く先々で関係の方々に大変お世話になり、スムーズに動くことができました。感謝。

明日以降、詳しくレポート致します。

昨日、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町の片貝海岸に、今年も初日の出を見に行って参りました。

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予定通り、6時過ぎに到着。6時45分過ぎが日の出時刻です。昨年よりも水平線上の雲が低く、いい感じです。

家から持って行った紙屑を焚き付けに、流木を拾い集めて焚き火。他の方々にありがたがられました。

昨年もそうでしたが、お供は愛犬。14歳になった柴犬系雑種です。自宅兼事務所から片道1時間ほどのドライブ。後部座席でおとなしくしていました。

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社交的なわんこが寄ってきます(笑)。うちのはビビリです(笑)。

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サーファーの皆さんが、初波乗り。

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さて、雲の上に、太陽。

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84年前(ちなみに戌年)、光太郎智恵子も逍遙した同じ浜で見る初日の出は、やはり格別です。今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

しばらく見ていたかったのですが、しばらく見ていると、周辺の道路で大渋滞が起こりますので、すぐに撤収。ここに初日の出を見に来たのは3回目で、ルートなども学習しました。すんなりと抜け出せました。

自宅兼事務所に帰り着き、すぐに近所の公園へ(愛犬、自宅兼事務所敷地内では排泄をしませんので)。そのまま裏山の神社へ初詣。神職もいない小さな神社ですが、裏山一帯が戦国時代の山城跡で、その頃からこの社もあったようです。一度、境内で永楽銭を見つけました。ここでも今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

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自宅兼事務所では、愛猫が鏡餅にいたずらしていました(笑)。

その後はおせちを食べ、届いた年賀状やメール等をチェック。

その中で、今年は光太郎の先輩・与謝野晶子の生誕140年ということを知りました。その流れで、晶子と光太郎的な部分で、どさくさにまぎれて(笑)光太郎にもスポットが当たって欲しいものだと思いました。

ついでに云うなら、今年は九十九里で療養した5年後(昭和13年=1938)に歿した智恵子の歿後80年でもあります。その辺りでの盛り上がりも期待したいところです。



折々のことば・光太郎】

一切の偶然の効果を棄てよ。タツチに惑はさるる勿れ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

彫刻に於いては、思いがけず現出した効果に頼ってはいけない、徹頭徹尾計算ずくでやるべし、ということでしょうか。

というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。


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上記は今年の年賀状。画像は光太郎の父・光雲が若い頃(光太郎生誕以前)に造った習作です。横浜へ行った際に見た洋犬の珍しさ、美しさに打たれ、帰ってから記憶の消えないうちにと、急いで彫ったそうです。習作とはいえ、生き生きとした表情が見事です。

息子の光太郎は、観音像などの光雲作品はあまり高く評価しませんでしたが、この習作は最晩年まで手元に置いていました。そういえば、光太郎の「鯰」や「白文鳥」などの木彫にも通じるところがあるようにも見えますね。


【折々のことば・光太郎】

まるごとにつかめ。或瞬間を捉へ、或表情を捉へ、或側面を捉ふるは彫刻の事にあらず。
散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

昨年一年間は、【折々のことば・光太郎】ということで、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参りました(時折サボりましたが)。現在、第4巻の終わり頃です。今年も継続して参ります。

今年も残すところ、今日一日となりました。

昨日までのこのブログで、今年一年をふり返る「回顧2017年」を4回にわたって書きました。改めてふり返ってみると、実にさまざまな場面で、さまざまな皆さんが、光太郎、智恵子、光雲に関わるさまざまな企画をなさって下さっていたことがわかり、ありがたく存じます。

光太郎、智恵子、光雲の名が忘れ去られてしまうと、なかなかこうは行きません。美術や文学などの一部の専門家の間では、その名が忘れ去られることもないのでしょうが、一般の皆さんが、「高村光太郎といえば○○」、「智恵子って、こんな人」、「○○といえば、高村光雲」といったことがすぐ思い浮かぶように、広く愛されて欲しいものです。


「回顧2017年」を書いている最中にも、地方紙『紀伊民報』さんが、社説「水鉄砲」欄で光太郎、光雲の名を出して下さいました。

水鉄砲 2017/12/26 「製造業の信頼」

 詩人、高村光太郎の父、高村光雲が『幕末維新懐古談』(岩波文庫)で、江戸初期から大いに栄えた京都の仏師が衰退した理由について、次のように語っている。
  ▼「拙速を尚(とうと)んで間に合わせをして、代金を唯一の目的とする……すなわちあまりに商品的に彫刻物を取り扱い過ぎるところの悪習ともいえましょう」。12歳で彫刻師に入門。ひたすら修業を続け、近代木彫の祖と呼ばれた名人の指摘は、そのまま現代日本のものづくりの現場にも当てはまりそうだ。
  ▼今年は日本を代表する製造業で不正が相次いだ。神戸製鋼は品質データを改ざん、日産自動車では無資格者が完成車を検査していたことが発覚した。スバルでも同様の事態が続いていた可能性がある。三菱マテリアル、東レ、東洋ゴムなどでも製造工程での不正が明るみに出ている。
  ▼さらに、先日は新幹線の台車に14センチの亀裂が入った状態でJR西日本と東海が新幹線を運行。国土交通省が新幹線では初めての重大インシデントに認定する事態になった。
  ▼戦後の日本を支えてきた「安全第一」が音を立てて崩れている。「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」、つまりコスト削減と生産性向上に日夜励んできた結果だろう。合理化を最優先し、熟練の技術者たちを大切にしなかったツケが回ってきたともいえよう。
  ▼目先の利益よりも、信頼を最優先に。日本の再生はそこから始まる。 (石)


文化活動にも同じことが言えましょう。「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」ことは避け、腰を据えてやっていきたいと存じます。


それからご報告。

今年一年、関係の皆様などからいただいた郵便物に貼られていた切手、今年も公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイトに寄付団体として名前を載せていただいております。

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それから、このブログの閲覧数に応じ、ほぼ毎日、YahooさんからTポイントが加算されています。貯まったポイント、今年は九州豪雨被災者支援に寄付いたしました。閲覧して下さる方が少ないとできませんので、来年以降もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

肉合(にくあひ)に潜む彫刻の深さ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

「肉合」とは、塑像であればどれだけ粘土を盛るか、木彫であればどれだけ木材を削り落とすか、そういったバランスの感覚です。彫刻にとどまらず、人生万事にあてはまりますね。

上記光雲の「拙速を尚び、間に合わせをして、代金を唯一の目的とする」なかれ、同様、こうしたバランス感覚を持って臨むべし、と、肝に銘じたいと存じます。

この項、最終回です。

10月1日(日)
智恵子の故郷・福島二本松のラポートあだちさんにおいて、智恵子を偲ぶ第23回レモン忌が開催されました。記念講演は福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏で、題して「智恵子の横貌―『青鞜』表紙絵のナゾ―」でした。

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同日、mille booksさんから庄野雄治氏編『コーヒーと随筆』が発行されました。古今の「コーヒーを飲みながら読んで欲しい随筆」を集めたアンソロジーで、光雲の「佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」、「大仏の末路のあわれなはなし」、光太郎の「人の首」を含みます。

10月3日(火)
NHK文化センター仙台教室さんにおいて、宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏による市民講座「東北ゆかりの作家たち」が始まりました。光太郎、太宰、啄木、斎藤茂吉らに触れられ、12月9日(土)まで全6回の開催でした。

10月5日(木)
福島二本松の智恵子生家を会場に、「智恵子・レモン忌 あいのうた」が開催されました。朗読・一色采子さん、電子ピアノ・渕上千里さん、モダンダンス・二瓶野枝さんでした。

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10月9日(月・祝)
二本松市コンサートホールさんにおいて、「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」公演があり、「連作歌曲 智恵子抄」を森山孝光・康子ご夫妻、新作初演「樹下の二人」を星由佳子さん、倉本洋子さんが演奏なさいました。

10月9日(月・祝) 11月9日(木) 12月17日(日)
二本松市の市民交流センターさん、男女共生センターさんを会場に、「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座2017」が開催されました。今年の講座は、昨年亡くなられた二本松の児童文学者・故金田和枝さんの著書(智恵子と光太郎)を熟読するというものでした。

10月12日(木)
愛知県豊川市ジオスペース館さんにおいて定期的に開催されている「市民名画劇場」で、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(原節子・山村聰主演)が上映されました。

10/16(月)
NHK文化センターいわき教室さんにおいて、いわき賢治の会会長/賢治学会会員・小野浩氏による市民講座「宮澤賢治の世界 交友編」が始まりました。光太郎、賢治、草野心平、黄瀛らに触れられ、12月11日(月)まで全3回の開催でした。

10月17日(火)
船橋市市民文化創造館(きららホール)さんにおいて、朗読イベント「「満天星」ライブ第6回」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。

10月21日(土)001
十和田市立東公民館さんにおいて、三本木小地区安全・安心協働活動協議会講演会「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」が開催されました。当方が講師を務めさせていただきました。

10月21日(土)~28日(土)
杉並区のアートスペース煌翔さんを会場に、写真展「高橋昌嗣展 文士の逸品 物から物語へ。」が開催され、光太郎愛用の長靴の写真が展示されました。

10月24日(火)~29日(金)
仙台市青葉区の晩翠画廊さんにおいて、「伊藤康子書展」が開催され、盛岡ご在住の書家の伊藤康子さん、画家の古山拓氏、お二人のコラボで光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に取り組まれました。

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10月25日(水)
江東区の深川江戸資料館さんにおいて、朗読イベント「第4回 JILA朗読コンクール入賞・入選記念 朗読の祭典」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。

同日、不二出版さんから、光太郎も寄稿した昭和戦前の雑誌『冬柏』復刻版全26巻・別冊1の刊行が始まりました。

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10月27日(金)
十和田市民文化センターさんにおいて、「奥入瀬渓流エコツーリズム市民のつどい」が開催され、地元の女性合唱団・コールアゼリアさんによる「湖畔の乙女」(作詞・佐藤春夫、作曲・長谷川芳美)、「出逢いを求めて―十和田湖へ―」(作詞・木下龍太郎、作曲・伊藤薫)が演奏されました。

10月28日(土)
福井市立美術館さんで開催されていた「没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美」の関連行事として、光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた新朗読劇『道程-高村光太郎・智恵子・高田博厚-』が上演されました。

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同日、横浜美術館さんレクチャーホールで、「テルミンと語りで紡ぐ愛の物語り 智恵子抄」公演がありました。ご出演は、ぷらイム(テルミン 大西ようこさん/ギター・歌・その他 三谷郁夫さん)、水沢有美さん(朗読)でした。

10月28日(土)~11月26日(日)
台東区の東京藝術大学美術館さんにおいて、「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」展が開催されました。皇室に献上された、光雲、豊周作品が複数展示されました。

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10月29日(日)
BS朝日さんで、「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」がオンエアされ「湖畔の乙女」が取り上げられました。

10月31日(火)
ドイツフランクフルトのCaffe Martellaさんにて、「秋の宵の朗読会~日本の詩15篇」が開催され、光太郎詩も取り上げられました。

11月1日~29日(水)
この間の水・土に、文京区の旧安田楠雄邸さんで、「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催されました。

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11月2日(木)
NHKBSプレミアムさんで「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」が放映され、光太郎にも触れられました。11月8日(水)に再放送もありました。出演は日本大学芸術学部・髙橋幸次教授他でした。


11月3日(金)
二本松市市民交流センターさんにおいて、「秋の星空講座 月を見上げて in ほんとの空」が開催されました。

11月3日(金)~12月3日(日)
京都市の知恩院さんで、「知恩院 秋の紅葉ライトアップ2017」が行われ、同寺補陀落池に立つ光雲原型の聖観音菩薩立像もライトアップされました。

11月3日(金・祝)~12月24日(日)
栃木県足利市立美術館さんにおいて、「涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展」が開催され、光太郎ブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されました。

11月4日(土)
世田谷区の上用賀アートホールさんで、日本舞踊系の「真理パフェFourth」という公演があり、「あどけない話」、「人に」、「千鳥と遊ぶ智恵子」の朗読がプログラムに入っていました。

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11月7日(火)
千代田区紀尾井ホールさんにおいて、「朝香麻美子 箏・三弦リサイタル ~女性のあり方をよむ~」公演があり、箏曲「樹下の二人(小山清茂 作曲)」が演奏されました。

同日、目黒区の天恩山五百羅漢寺さんで、「第1回らかん仏教文化講座 五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」が開催され、光雲に触れられました。講師は同寺執事/学芸員・堀研心氏でした。

11月8日(水)~12日(日)
杉並区の荻窪小劇場さんで、劇団Dangerous Boxさんによる「実験公演 門ノ月~Aida~/智恵子抄」の公演がありました。

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同じ日程で、豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエアを会場に、「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」が開催され、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節を揮毫した光太郎の書も展示されました。

11月10日(金)
三省堂書店さんから、三浦和尚氏著『高校国語科授業の実践的提案』が刊行されました。「高村光太郎「レモン哀歌」の指導 -詩の「楽しみ方」を求めて-」を含みます。

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11月12日(日)
NHK Eテレさんで「日曜美術館 皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」の放映があり、光雲作品「鹿置物」「養蚕天女」も取り上げられました。再放送は11月19日でした。

同日、中央区の浜離宮朝日ホールさんにおいて、「東京男声合唱フェスティバル」が開催され、会津高校OB合唱団さん(31名)が、清水脩作曲の「梅酒 -智恵子抄より-」を演奏して下さいました。

11月13日(月)
『福島民友』さんで、「智恵子のまち夢くらぶ」が二本松市の智恵子の生家近くに智恵子ゆかりの地などを案内する「智恵子のまちガイドボード」を設置したことを報じました。

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11月15日(水)~21日(火)
中央区の松屋銀座さん7階遊びのギャラリーにおいて、「篠原貴之水墨絵画展-水墨の新境地-」が開催され、「レモン哀歌」という作品も出品されました。

11月17日(金)
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『高知新聞』さんの一面コラム「小社会」で、ロダン没後100年にからめ、光太郎に触れて下さいました。

11月18日(土)
文京区のアカデミー向丘さんで、第62回高村光太郎研究会が開催されました。発表は「吉本隆明「高村光太郎」再訪」(赤崎学氏)、「詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置」(岡田年正氏)でした。

11月23日(木・祝)
奈良県立美術館さんで、「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展が始まりました。2018年1月14日(日)までの会期です。光雲木彫「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点が並んでいます。   

11月25日(土)
目黒区の日本近代文学館さんで、朗読イベント「リーディングライブ2017」が開催され、「智恵子抄」詩篇も取り上げられました。

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11月26日(日)
千代田区の日比谷コンベンションホールさんで、「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」が開催され、第一部で歌人の松平盟子氏のご講演「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」、第二部のシンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」、それぞれで光太郎に触れて下さいました。

11月29日(水)
フロンティアワークスさんから「文豪とアルケミスト 朗読CD第二弾 高村光太郎」が発売されました。光太郎詩14篇を、声優の森田成一さんが朗読なさっています。

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12月1日(金)
雑誌『中央公論』さんの12月号。公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏ご執筆の、川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載「川端康成の眼」で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品された扇面揮毫を紹介してくださいました。題して「高村光太郎とほろびぬ美」。

同日、花巻市さん発行の『広報はなまき』12月号。「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」という連載で光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が紹介されました。

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さらに同日、バリトン歌手・新井俊稀のCD「日本の抒情歌 
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赤い花 白い花」が新井音楽事務所シューベルティアーデ倶楽部から発売されました。野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」を含みます。

12月2日(土)
鎌倉市の光太郎と交流のあった故・高田博厚のアトリエが閉鎖、遺族や知人ら関係者によるお別れの会が開かれ、遺品が、埼玉県東松山市に寄贈されることになりました。光太郎、高田双方と交流のあった、同市元教育長の故・田口弘氏の御遺徳によるものです。

同日、信州安曇野の碌山美術館さんで、「美術講座  ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されました。同館学芸員・武井敏氏と当方による対談形式でした。


12月3日(日)
BSフジさんでオンエアされた『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』で、光太郎智恵子に触れて下さいました。
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12月6日(水)

新宿区の音楽の友ホールさんにおいて、「日本歌曲に求める無限の楽しみ 第27回 似たもの同志・名曲探訪18 愛」が開催され、清水脩作曲「智恵子抄」から抜粋で演奏がなされました。

12月7日(木)
『宮崎日日新聞』さんが、一面コラム「くろしお」で、中東問題に絡め光太郎詩「冬の朝のめざめ」を引いて下さいました。

12月9日(土)
目黒区の天恩山五百羅漢寺さんで、「第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」」が開催され、光雲、光太郎に触れられました。講師は小平市平櫛田中彫刻美術館さん学芸員・藤井明氏でした。


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12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
平塚市美術館さんで「所蔵作品による”なんだろう”展+新収蔵品」が開催されています。大正3年(1914)に描かれた光太郎の静物画が展示されています。

12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
花巻市高村光太郎記念館さんで、「平成29年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として「高村光太郎 書の世界」が開催されています。初公開のものを含め、11点の書が展示されています。

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12月15日(金)
テレビ朝日さんの「気づきの扉」で、詩人の松浦弥太郎氏の光太郎詩「最低にして最高の道」にまつわるエピソードが紹介されました。

12月16日(土)
小学館さんから、カトちゃんの花嫁さん著『歯のマンガ』が刊行されました。「智恵子抄」を含みます。詳しくは年明けにご紹介します。

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 12月27日(水)
 兵庫県西宮市甲東ホールさんにおいて、「新井俊稀 クラシカル・サロン・コンサート」が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」が演奏されました。

12月30日(土)
河出書房新社さんから、『温泉天国 ごきげん文藝』が発行されました。古今の32篇の温泉にまつわるアンソロジーで、光太郎の「花巻温泉」を含みます。

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いろいろあった一年でした。来年もそうであってほしいものです。


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【折々のことば・光太郎】

姿勢は河の如く、動勢は水の流れの如く。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926)
 光太郎44歳


同じ文章で、「姿勢」は「ポオズ」とルビが振ってあります。

詩などの言葉の芸術では表現し得ないものを、彫刻に於けるポーズで、無言のまま表現すべし、との言です。

右は、光太郎直筆の揮毫。この句を書いています。

7月1日(土)~8月20日(日)
盛岡市の岩手県立美術館さんにおいて、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」が開催されました。1月に発見が報じられた、光太郎の扇面揮毫も出品されました。


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まったく同じ日程で、花巻市博物館さんの企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」が開催されました。光太郎が多田等観に贈ったうちわ、書簡、『高村光太郎詩集』が展示されました。

7月1日(土)~9月3日(日)
信州安曇野の碌山美術館さんで、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催されました。
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7月1日(土)~9月24日(日)
文京区の弥生美術館さんで、「命短し恋せよ乙女 ~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~」展が開催されました。『青鞜』にからめ、智恵子にも触れられました。

7月2日(日)
横浜市の横濱エアジンさんで、「~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて」公演がありました。出演は、荒野愛子さん(Piano, Composition)鴻野暁司さん(Bass)、吉島智仁さん(Drums)でした。

7月3日(月)
花巻高村光太郎記念会さんから、光太郎の従妹・加藤照さんの子息の加藤千晴氏著『光太郎と女神たち』が刊行されました。


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7月7日(金)
文芸同人誌『虹』第8号が発行されました。詩人の豊岡史郎氏による「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」、「パリの思い出」が掲載されています。

7月7日(金)、8日(土)
古書業界最大の市(いち)である「七夕古書大入札会」の一般下見展観が、神田の東京古書会館さんで行われました。光太郎の書、書簡等も複数出品されました。


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7月9日(日)
ミネルヴァ書房さんから、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』が発売されました。「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」等の部分で、光太郎に触れて下さっています。

7月11日(火)~31(月)
西武百貨店渋谷店さんにおいて、「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」が開催され、光太郎詩「狂者の詩」が取り上げられました。

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7月11日(火)~8月6日(日)
東京藝術大学大学美術館さんで、企画展「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」が開催されました。光太郎作品で、同校卒業制作の「獅子吼」(明治35年=1902)の石膏原型、ブロンズ鋳造が並んで展示されました。また、同校教授だった光太郎の父・光雲に関するアーカイブ的展示もなされ、いずれもガラス乾板の「楠木正成像制作のための木型」、「高村光雲《松方正義像》制作のために撮影された本人の写真 」も出品されました。


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7月15日(土)
文治堂書店さんからPR誌『トンボ』の第4号が発行されました。当方の連載「連翹忌通信」が始まりました。

7月15日(土)・16日(日)
青森県十和田湖で毎年恒例の「十和田湖湖水まつり」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。


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7月19日(水)~9月30日(土)
竹橋の東京国立近代美術館さんで、「MOMATサマーフェス」が開催されました。光太郎のブロンズ「手」が出品された「所蔵作品展 MOMATコレクション」と連動し、参加型プログラムの対話による所蔵品ガイドが毎日実施された他、毎週金曜の「フライデー・ナイトトーク」や、夏休みにあわせた子ども向けプログラムも実施されたり、金曜・土曜はナイトミュージアムで夜9時まで開館したり、さらに前庭にはガーデンビアバーが出現したりしました。

7月20日(木)
講談社現代新書の一冊として『飛行機の戦争1914-1945 総力体制への道』が刊行されました。一ノ瀬俊也氏著。光太郎の「黒潮は何が好き」(昭和19年=1944)という詩を引用し、太平洋戦争下の民間による航空機、艦艇の献納運動を検証しています。

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7月21日(金)
『週刊朝日』さんの2017/7/21号に、当会会友渡辺えりさんによる「人生の晩餐 高村光太郎と智恵子がデートで食べたハイカラな味」が掲載されました。連翹忌会場の日比谷松本楼さんに関してでした。


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7月29日(土)
花巻高村光太郎記念館さん、高村山荘裏手の智恵子展望台において、「夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」」が開催されました。講師は天文サークル星の喫茶室の伊藤修氏・根本善照氏、それから当方が務めました。

7月29日(土)~11月23日(木)
中野区立中央図書館さんの常設展示「日本の文豪 第7回」で、光太郎、志賀直哉、北原白秋が取り上げられました。


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7月30日(日)
埼玉県越谷市のポルコポルコさんで、朗読イベント「ポルコポルコのブックブックアワー~本を味わい尽くす極上の一日」が行われ、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。語りは和久田み晴さん、フルートで宇高杏那さんのご出演でした。

8月1日(火)
土曜美術出版さんから月刊誌『詩と思想』8月号が発行されました。拙稿「高村光太郎を偲ぶ「連翹忌」」が掲載されました。

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同日、清流出版さんから『月刊清流』9月号が発行されました。「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。

8月1日(火)~31日(木)
日本航空さんが地域プロモーション活動「地域紹介シリーズ」の一環として福島県を取り上げ、機内ビデオでは「ほんとの空」の安達太良山が放映されました。

8月3日(木)
『朝日新聞』さんの夕刊に「(言葉の服)日本人のおしゃれ:下 智恵子の素(しろ)」という記事が載りました。ご執筆はファッションデザイナー・堀畑裕之氏でした。

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8月4日(金)
東京毎日オークションハウスにおいて、「第546回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」が開催され、光雲作の「舞翁」が出品されました。

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8月8日(火)
青森市ご在住の彫刻家で、生前の光太郎を御存知の田村進氏が、自作の光太郎ブロンズ胸像「光太郎山居(さんきょ)」を十和田市に寄贈なさいました。来春から、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にて公開されるそうです。

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8月9日(水)
宮城県女川町のまちなか交流館ホールにおいて、第26回女川光太郎祭が開催されました。光太郎詩文の朗読、アトラクション演奏、当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑤―」などが行われました。

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同日、青森県さん制作の青森県PRムービー「ディス(り002)カバリー青森」第2弾がインターネット上で公開されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も登場します。

8月12日(土)
京都芸術センターさんにおいて、「京の文化絵巻2017 ~文学吟詠舞劇と邦楽の飛翔~」が開催されました。文学吟詠舞劇 「智恵子抄 断章―千鳥と遊ぶ智恵子―」が演目に入っていました。

8月15日(火)
終戦の日にからめ、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で光太郎に触れて下さいました。

8月19日(土)
『毎日新聞』さんの大阪夕刊に、「舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も」という記事が出、大正2年(1913)の光太郎智恵子上高地行が紹介されました。

8月19日(土)・20日(日)
花巻市内で「第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)」が開催されました。「光太郎と賢治出会いのコース」(30㎞)も設定されました。

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8月23日(水)
エイ出版さんから女性向け登山雑誌『ランドネ』10月号が発売されました。「山岳お遍路さん 神様百名山を旅する」という連載があり、智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています。

8月25日(金)~27日(日)
大阪市立芸術創造館さんで、evkk(エレベーター企画)さんによる演劇「売り言葉」が上演されました。「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、大竹しのぶさん出演で初めて上演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

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8月26日(土)
花巻高村光太郎記念館で、旧記念館の建物を「森のギャラリー」としてリニューアル、市民講座等での活用ができるようになりました。

8月26日(土)~11月5日(日)
富山県美術館さんで、「富山県美術館開館記念展 Part 1 生命と美の物語 LIFE - 楽園をもとめて」が開催され、光太郎木彫「蝉」(大正13年=1924)が出品されました。

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8月27日(日)
コールサック社さんから、佐藤竜一氏著『宮沢賢治 出会いの宇宙――賢治が出会い、心を通わせた16人――』が出版され、光太郎も取り上げられました。





8月30日(水)
江東区公会堂ティアラこうとうさんで、「響きあう詩と朗読」公演があり、宮尾壽里子さんによる光太郎「母をおもふ」、清水けいこさんによる「『智恵子抄』より」が上演されました。

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同日、角川書店さんから青少年向け、いわゆるライトノベル系のファミ通文庫の一冊として『詩葉さんは別(ワカレ)ノ詩を詠みはじめる』が刊行されました。樫田レオ氏著。光太郎の「郊外の人に」(大正元年=1912)が重要なモチーフとして扱われています。

9月1日(金)
北海道小樽市に似鳥美術館さんがオープンしました。光雲とその弟子達の木彫が多数展示されています。

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9月2日(土)
NHK総合さんで「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」がオンエアされ、「乙女の像」も映りました。再放送は9月6日(水)でした。

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9月6日(水)
2月8日に亡くなった俳優の土屋嘉男さんの訃報が出ました。原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)にも出演なさっていました。光太郎の若い友人である詩人の「小山」という役で、モデルは尾崎喜八と草野心平でした。

9月9日(土)~11月23日(木)
福島県二本松市内各所を会場に、「重陽の芸術祭2017」が開催されました。智恵子生家の旧長沼酒造も会場となっており、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が行われていました。

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9月12日(火)~12月24日(日)
山梨県北杜市の清春白樺美術館さんで、「白樺派の情熱展 志賀直哉コレクションを中心として」が始まりました。光太郎の「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、さらに画商の後藤真太郎にあてた長い書簡(昭和6年=1931)が展示されました。

9月13日(水)
神奈川県立近大美術館館長・水沢勉氏が、御自身のフェイスブックにて、明治44年(1911)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の有名な表紙絵に元画が存在することを発表されました。元になった作品は、ヨーゼフ・エンゲルハルトというオーストリアの画家が、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」でした。

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9月15日(金)~17日(日)
横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんの例大祭(お三の宮 秋まつり)が開催され、修復を終えた高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」が2年ぶりに出ました。

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9月16日(土)・17日(日)
サンライズもとみや(福島県本宮市)において、「第5回カナリヤ映画祭」が開催されました。「智恵子抄」に触れる昭和40(1965)年に自主制作された映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演)が上映されました。

 9月16日(土)・9月30日(土)・10月22日(日)
 福島県鮫川村のあぶくまエヌエスネットフィールドさんで、自然体験学習「ふくしま ほんとの空プログラム」が開催されました。

9月15日(金)~11月27日(月)
花巻高村光太郎記念館さんで、「秋季企画展  智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」が開催されました。同館所蔵の智恵子の紙絵実物2点、複製の紙絵などが展示されました。

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9月16日(土)~12月3日(日)
日本橋の三井記念美術館さんで「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」展が開催されました。光雲の木彫「布袋」が展示されました。

9月23日(土)~11月12日(日)
青森県八戸市の八戸クリニック街かどミュージアムさんで、「5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで」が開催され、光太郎ブロンズ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために習作として作った手を鋳造したもの、それから同じく「乙女の像」の中型試作の首の部分が展示されました。

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9月24日(日)
千葉県市原市のサンプラザ市原を会場に、「ひだまりコンサートVol2 朗読と歌 ことばをつむいで伝える大切な思い」が開催され、「智恵子抄」が朗読されました。

9月27日(水)
福島県南相馬市小高区の小高生涯学習センターにおいて、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―東日本大震災から7年目を迎えた浜通り地方の今後を考える―」が開催されました。

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9月28日(木)
テレビ朝日さんで、「あなたの駅前物語 【二本松駅前/福島県】提灯祭りの駅前」が放映され、「智恵子抄」にからめて安達太良山、阿武隈川が紹介されました。

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愛知県豊橋市美術博物館さんで「ニッポンの写実 そっくりの魔力」が開催され、光雲木彫「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点も並びました。   


というわけで、今回は7、8、9月をふり返りました。

書いている途中で、「一つの記事に掲載できる画像は50枚までです」というエラーメッセージが出てしまい、複数枚の画像を使おうとしたイベントから削除しました。それだけたくさん紹介すべき事項があったということですね。ありがたいことです。

明日はこのコーナー最終回、10、11、12月のご紹介です。


【折々のことば・光太郎】.

構造を思へ、構造無きところに存在無し。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

人体にも、樹木にも、優れた建築にも、きちんとした構造が在ると光太郎は説きます。そういったことを意識するとしないとでは、やはり世界の見え方が違ってくるのでしょう。

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