カテゴリ: 日記

このブログ、年末恒例の1年間の回顧です。

初めに断っておきますが、出来る限り情報を集めはしましたが、抜けも多いことと存じます。「こんなこともあったけど、書いてない」ということがありましたら、御教示いただけると幸いです。

1月1日(金)
2021年、丑年がスタートしました。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県では、県として「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」を開始し、光太郎にもからめて、様々な事業を展開しました。
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同日、『盛岡タイムス』さんに「困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙」という記事が載り、光太郎が大きく取り上げられました。
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この頃、丑年ということで、新聞各紙等で光太郎詩「牛」(大正2年=1913)などが数多く取り上げられました。

1月7日(木)~3月14日(日)
岐阜県大垣市守屋多々志美術館第82回企画展「どうぶつ集合!」が開催され、日本画家守屋多々志による「智恵子と光太郎」と題した絵も展示されました。
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1月12日(火)
評論家・半藤一利氏が亡くなりました。平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)、平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』などで光太郎智恵子に触れて下さっていました。

1月14日(木)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」が放映され、「ベベンの冬が来た」(詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン)が取り上げられました。再放送は1月28日(木)でした。
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1月28日(木)~2月1日(月)
劇団空感演人の演劇公演「チエコ」が、両国・エアースタジオで行われました。平成25年(2013)、平成30年(2018)にも同じ会場で上演されたものの再演でした。
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1月31日(日)
ソレイユ出版さんから宮沢賢治実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏著『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。
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同日、春陽堂書店さんが根本知氏著『書の風流 近代藝術家の美学』を出版しました。「高村光太郎   書と造型」という章を含みます。

さらに同日、彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました。
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智恵子の故郷・二本松にルーツをお持ちで、二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」を作られました。

2月10日(水)
光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周が、昭和初期に蝋型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎が碑文を揮毫した大伴家持歌碑の碑文銅板が、富山県高岡市の万葉歴史館さんに寄託されました。
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2月20日(土)~4月4日(日)
黒田大スケ氏による現代アートの個展「未然のライシテ、どげざの目線」が、京都芸術センターさんで開催され、《高村光太郎のためのプラクティス》と題された映像作品も出品されました。
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2月20日(土)~4月11日(日)
東京ステーションギャラリーさんで、「没後70年 南薫造」展が開かれました。南は光太郎の留学中間の画家で、光太郎から南宛の書簡も展示されました。その後、4月20日(火)~6月13日(日)に広島県立美術館さん、7月3日(土)~8月29日(日)で久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんを巡回しました。

2月23日(火)
テレビ東京さん系「開運!なんでも鑑定団」に光雲作の聖徳太子孝養像が出品され、1,500万円の鑑定額がつきました。BSテレ東さんでの放映が5月6日(木)、地上波での再放送が6月20日(日)でした。
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2月24日(水)
青森空港で、幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」の完成披露除幕式が挙行されました。三沢市出身のアートディレクター森本千絵氏の作品で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。
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2月26日(金)
コールサック社さんから鈴木比佐雄氏著の詩集『千年後のあなたへ ―福島・広島・長崎・沖縄・アジアの水辺から』が刊行されました。『智恵子抄』オマージュの「「ほんとの空」へ」という詩を含みます。
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2月末
盛岡市の桜城小学校さんに、光太郎の書幅「詩魂萬機」が寄贈され、3月10日(水)まで一般公開されました。
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3月1日(月)
株式会社トゥーヴァージンズさんから3枚組朗読CD「【近代文學の泉】 普及版 朗読で味わう文豪の名作4 太宰治・島崎藤村・高村光太郎」がリリースされました。一昨年、全13巻で発行されたものの分売で、寺田農さんによる「「智恵子抄」より」が収められています。

同日、美術家の篠田桃紅さんが107歳の大往生を遂げられました。エッセイ『百歳の力』(平成26年=2014 集英社新書)、『一〇三歳になってわかったこと』(平成27年=2015 幻冬舎)などで光太郎に触れて下さっていました。
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3月8日(月)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 福島・楢葉(1)」が放映され、坂本龍一氏作曲の「道程」が演奏されました。再放送は3月20日(土)でした。
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3月11日(木)
3月12日(金)~30日(火)
上野の森美術館を会場に、現代アートの展覧会「VOCA展2021 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」が開催され、光雲作「老猿」もモチーフとして使われた、尾花賢一氏による《上野山コスモロジー》も展示されました
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3月17日(水)
NHKさんのラジオAM第1・第2、それからFMの5分間番組「音の風景」で、光太郎詩の朗読がありました。その後、放送時間の異なる地方局を含め、繰り返し放送されました。サブタイトルが「朗読シリーズ うた景色~高村光太郎~」。『智恵子抄』から、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」(昭和13年=1938)が、松重豊さんの朗読で放送されました。
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3月24日(水)~6月13日(日)
新潟県長岡市の駒形十吉記念美術館さんにおいて、「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」が開催され、光太郎から地元の美術愛好家グループ「風羅会」に贈られた短歌揮毫の色紙が展示されました。
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3月26日(金)~4月4日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ二〇二一」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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3月28日(日)
静岡県熱海市の起雲閣さんで「潮見佳世乃起雲閣コンサート「歌物語×JAZZ」」が開催されました。
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同日、1月31日(日)に亡くなった橋本堅太郎氏遺作の智恵子像「今ここから」が、JR東北本線安達駅前に除幕されました。

3月30日(火)
千代田区の紀尾井ホールでコンサート「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」が開催されました。独唱歌曲「智恵子抄 より」中の「樹下の二人」「レモン哀歌」が演奏されました。
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3月31日(水)
夢月堂さんから宮尾壽里子氏の『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』が刊行されました。「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。
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3月31日(水)~4月26日(月)
東京都北区の青猫書房さんで「鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」」が開催されました。絵本作家のノグチクミコさんによる『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。
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1月から3月、この時期はコロナウィルスがまだ猛威を振るっていた時期でしたが、それなりにいろいろとありましたね。
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明日は、4月から6月の事項を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

かたづけ、学校行、創元社の詩集十冊くる、

昭和26年(1951)9月21日の日記より
 光太郎69歳

創元社の詩集」は、9月15日刊行の『高村光太郎詩集』。当会の祖・草野心平の編集です。

心平は戦後、鎌倉書房の『高村光太郎詩集』(昭和22年=1947)を皮切りに、中央公論社の『高村光太郎選集』(昭和26年=1951~)、昭和31年(1956)の角川文庫『高村光太郎詩集』(角川書店)など、たてつづけに光太郎詩集等の編集を手掛け、その作品を後世に残すよすがとしてくれました。

「吉原レポート」と言っても、風俗店の突撃取材ルポではありませんのでよろしく。

過日書いた花巻レポートと前後しますが、12月12日(日)、上野の東京藝術大学さんで「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見した後、方角的に近いので、台東区の千束地区、いわゆる吉原をぶらぶら散歩しました。

欧米留学から帰朝した明治42年(1909)末か、翌年の初めくらいから、光太郎が通い詰めた「河内楼」という妓楼があった場所です。
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 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、といふことになつた。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

光太郎が通っていた「河内楼」のあったあたり、これまで一度も行ったことがないので、この機会に、と思い、行ってみました。10月に、NHKさんの「歴史探偵」で吉原遊郭が取り上げられたのを拝見し、「ほおお」という感じでしたし、谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』を読んだこともきっかけとなりました。

頼りにしたのは、明治27年(1894)の古地図。光太郎が通っていた頃と、ほぼ同じ配置のはずですので。
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上野から地下鉄日比谷線で2駅の、三ノ輪駅で下車、歩きました。

標柱が立っており、いよいよ吉原ゾーン。河内楼のあった「京町通」で、上記地図で言うと左下の方です。
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ほどなく、吉原で一、二を争う規模だった、角海老楼のあった場所。
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そういう場所である、ということで、吉原遊郭全体の説明板が立っていました。
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角海老楼は、明治期に当時としては珍しかった時計塔が据えられていた大店でした。
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その前を通り過ぎ、河内楼があったはずのあたり。
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何だかサイケデリックな(死語ですね(笑))ビルが建っていました。光太郎がここいらに立って、懐からスケッチブックを出し、若太夫を描いたのか、と思うと、感慨深いものがありました。

こちらが明治末の河内楼。角海老楼ほどではありませんでしたが、それなりの格式の店だったようです。
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若太夫は、本名・真野しま。名古屋の出身でした。光太郎はその風貌をモナ・リザに例えています。

光太郎が若太夫に入れあげているのを知った阿部次郎や木村荘太(光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄)などが、あえて若太夫を指名し、通うようになります。

 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(同)

そのため、木村と光太郎は決闘寸前まで行ったとのこと。

しかし、当の若太夫は、やはり誰にも本気だったわけではなかったようで、年季が明けると郷里に帰っていきました。

 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(同)

そして、明治44年(1911)、吉原大火。河内楼も角海老楼も灰燼に帰しました。このあたり、木村の小説『魔の宴』に詳述されています。

さて、河内楼址を後に、ぶらぶら散歩。

メインストリートの仲之町通りを歩き、吉原神社さんへ。
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かつて若太夫ら遊女たちもお参りしたのかな、などと考えながら、参拝。

仲之町通りを逆に歩くと、かつてのメインゲート・大門のあったあたり。
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今も通りには柳の並木があり、風情が感じられます。
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右上は、かつて吉原全体をぐるりと取り囲んでいた、「お歯黒どぶ」だった道。今も周囲より一段低くなっています。

大門のちょっと先には、吉原土手のあった辺り。
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空襲や区画整理を免れたであろう古い町家があって、いい感じでした。

テキトーに歩きながら、三ノ輪駅に戻る途中、偶然にも……。

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吉原ゾーンに入る前、町名が「竜泉」でしたので、一葉が暮らしていたのはこの辺だったはず、とは思っていましたが、こんなふうに道端に碑が立っているとは存じませんでした。

光太郎と一葉、直接の交流はありませんでしたが、光太郎は、明治25年(1892)、肺炎のため数え16歳で早世した長姉・咲(さく)の面差しが、一葉そっくりだったとくり返し書いています。

面差し、といえば、やはり気になるのが、光太郎をしてモナ・リザを彷彿とさせられたという、若太夫。どこかに写真が残っていないか、常に気になっています。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

晴時々小雨、涼、 雨のあと、紙屑四俵を畑でやく、

昭和26年(1951)9月10日の日記より 光太郎69歳

灰は肥料になるとはいえ、「紙屑四俵」……(笑)。

一昨日から昨日にかけ、光太郎第二の故郷・花巻に行っておりました。レポートいたします。

今回は、特に現地で何かのイベント等があるために行ったわけではなく、友人3人を案内するというのがメインの目的でした。あとはついでに花卷高村光太郎記念会さんなどと、事務的な手続き、相談等もありましたが。

18日(日)朝、東京駅に集合し、東北新幹線で一路、花巻へ。雪が心配でしたが、花巻の積雪はほとんどありませんでした。
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今年の花巻のトレンドと言えば……。
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他にも菊池雄星選手ら、花巻東高校さんや富士大学さんの関係で、ゆかりのプロ野球選手がたくさん。新花巻駅の待合室、観光案内所を兼ねた展示スペース「ステップイン・はなまき」です。
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レンタカーを調達し、市街へ。

まずは光太郎ゆかりの松庵寺さん。光太郎歌碑、詩碑が計3基。
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その後、周辺を歩きました。

少し前にこのブログでご紹介した、嘉司屋さんで昼食。
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左上は光太郎揮毫の賢治詩碑拓本の縮小版。右上は店内にあった書籍の一節。そう遠くないところにかつてあった支店の方に、光太郎が訪れていたということでした。ただ、残念ながら「四代目の佐々木喜太郎さん」の名は、『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。またお店がすいている時にでもお邪魔し、何か光太郎ゆかりのものをお持ちでないかどうか訊いてみようと思いました。

続いて、「賢治の広場」。どうも宮沢家の親戚で、さらに賢治の妹のシゲ(光太郎とも交流)が嫁いだ岩田家の関係で作られた施設のようです。
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宮沢家の親戚筋などに保存されていたとおぼしきいろいろなものも展示されていました。

そして、マルカンビル。大食堂で、名物の10段巻きソフトクリームに挑戦。当方、2度目でしたが、作法通りに割り箸を使って(笑)美味しく頂きました。女性陣はお二方で一つをシェア。実はお一人ずつでも食べられそうでしたが(笑)。
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腹もふくれたところで、再びレンタカーで、花巻南温泉峡。宿泊させていただく大沢温泉さんを一旦通り過ぎ、「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使い、昔の商店街を再現し、レトロな昭和グッズを大量に展示しています。
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現役の小学校だった頃、卒業記念として昔の児童さん達が作ったらしい、大きな銅板のプレート。地元ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」がモチーフです。
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南下して、大沢温泉山水閣さん。

当方、大沢温泉さんでは、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風による土砂崩れで物資搬入が不可能となり、現在休業中。その後は自炊部に泊まり続けています。今回、お連れしたのはセレブの方々ですので、さすがに自炊部というわけにはいかず、通常の温泉ホテル形態の山水閣さんにしました。自炊部は自炊部で非常に風情があるのですが、裏を返せば風情しかありません(笑)。自炊部ではこの季節、コタツも有料。コタツの台とコタツ布団は常備ですが、頼んで別途料金を支払わないと、コードを貸してくれません(夏場は扇風機も有料だったはず)。一人旅ならそれがいいのですが……。

ただ、館内でつながっていますので、温泉は自炊部棟の温泉にも入れます。
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自炊部棟にある、大露天風呂「大沢の湯」。当方、ここに入らないと気が済みません(笑)。女性専用の時間帯もあり、同行のレディーたちにも気に入っていただけたようです。

豪華な夕食をいただき、就寝。この夜は10㌢くらいの雪が降ったようでした。

翌朝の窓外の風景。眼下には豊沢川の清流。木々は樹氷のように見えました。
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朝食後、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村(現・花巻市太田地区)の高村光太郎記念館さんへ。
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この周辺は、だいぶ道路にも積雪がありました。レンタカーがセダンタイプで、屋根に積もった雪がずり落ちてトランクの上に溜まり、後ろが見えなくなったりもしました。いつもワンボックスで、雪はすぐ落ちるのためそういうことはなかったのですが、セダンだとそうなるんだ、と初めて知りました。

こちらで、企画展「光太郎の三陸廻り」の際にお貸ししていた鳥瞰図や古絵葉書などを返していただき、ありがたいことにその分のギャラが出て、拝受。さらに事務的な相談を少々。その間に友人達には展示を見て貰いました。

隣接する光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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これでもまだ雪が少ない状態です。来月には1メートル以上積もるでしょう。そうなるとここに近づけません。
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中尊寺金色堂のように、二重の套屋(カバーの建物)の中に、山小屋が保存されています。通常非公開ですが、久しぶりに山小屋内部に入れてもらいました。この季節に中に入ったのは初めてかもしれません。
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光太郎の蟄居生活、それを「単に戦争責任を反省しているポーズにすぎなかった」的な論調を眼にしますが、「そう思うならここでこの季節に一晩でもすごしてみろ」と言いたくなります。

駐車場にはジャンボレトロタクシー、どんぐりとやまねこ号。現在は1日3,000円で、ここや賢治記念館などを廻っているそうです。
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その後、ほど近いところに昨年オープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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光太郎グッズコーナー。新製品も。
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インフォメーションスペースには、いわて花巻空港さんに先月まで展示されていた写真パネルなども。
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こちらで、地元の関係者の皆さんとお会いし、また事務的な話など。
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お土産を大量に頂いてしまいました。多謝。

そして最後の目的地、宮沢賢治記念館に。

と、その前に、予定にはありませんでしたが、花巻駅近くの公民館的な「市民の家」に寄り道。元の花巻町役場を移築したものです。
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敷地内には、光太郎も乗った花巻電鉄デハ3型
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そして、新花巻駅近くの宮沢賢治記念館へ。
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こちらは平成27年(2015)にリニューアルされましたが、新しくなってから初めて足を踏み入れました。リニューアル後の展示については、賛否両論いろいろです。賛否両論いろいろだろうな、というのがわかる感じでした。

敷地内の「注文の多い料理店 山猫軒」さんで昼食。
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レンタカーを返却し、帰途につきました。

細かくレポートする余裕がなく、アバウトに辿っただけでしたが、心も胃袋も満腹の1泊2日でした。コロナ禍も漸く落ち着きつつあり、観光客も戻ってきています。皆様もぜひどうぞ。また、依頼があって、日程的な都合などかみ合えば、今回のようにツアーガイド的なことも致します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

昨日式場から Black & White ヰスキーをもらふ。


昭和26年(1951)9月5日の日記より 光太郎69歳

式場」は式場隆三郎。精神科医でしたが、文学にも関心が強く、戦前には白樺派の面々と親しく交わり、この頃は『日曜日』という雑誌を主宰?していました。同誌には光太郎の山小屋の訪問記も写真入りで掲載されています。

Black & White」は高級ウイスキーですね。

昨日から一泊二日の日程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。
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今回は、普段の単独行ではなく、友人3名と共に、です。
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何やら珍道中ですが(笑)、詳しくは帰りましてからレポート致します。

昨日から、富山県富山市に来ております。
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富山県水墨美術館さんで今日始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の最終準備にお邪魔。
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書の数々や、「白文鳥」、新発見の「蝉」などの彫刻などをじっくり拝見しました。今日はこれから同展の開会式に行って参ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日から一泊二日で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」、続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」を拝見。
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宿泊は例によって、大沢温泉さんにお世話になっております。
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このあと、高村光太郎記念館さん、道の駅花巻西南(愛称・賢治と光太郎の郷)などを回って帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養生活を送っていた、旧片貝町(現・九十九里町)方面に行きました。

もともとそのつもりではなく、調べ物のため、自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市にある、県の東部図書館さんに行ったのですが、調査終了後、足を伸ばしました。旭市は九十九里浜の北端で、旧片貝町辺りは浜のほぼ中央部。旭まで行けば、そこからは車で30分ほどです。毎年の初日の出拝観をはじめ、よく行く場所ですが、気になる情報を新たに得たので、行ってみました。
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一般の方のfacebook投稿で、永らく草木に覆われ埋もれていた光太郎歌碑が、周囲の草刈りが為されて再び見られるようになった、という情報で、今年5月の投稿でした。

歌碑はそう古いものではなく、平成10年(1998)の建立です。下は、その頃撮った写真。
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『智恵子抄』に収められた、光太郎短歌三首が刻まれています。

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

最初の「いちめんに……」の歌は、この地で詠まれたものです。

昭和9年(1934)に、智恵子が療養していた家は、所有者の名を取って「田村別荘」と呼ばれていましたが、空き家となったあと、昭和47年(1972)に、元の場所から500㍍ほど離れた、大網白里町に移築され、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。下は、平成のはじめ頃に撮った写真です。
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ところが、元々があまり立派な家屋でもなく、さらに無人の状態だったため、中に入り込んで悪さをする馬鹿者もいたりで、内部にゴミ等が散乱していた時期もありました。

平成6年(1994)頃には、元の位置に近い所に戻す、という計画もあったのですが、いつの間にかうやむやに。
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そこで、平成10年(1998)、観光資源としての活用を図ろうと、地元有志による保存修復の動きが出、実際、きれいになりました。その際、建物の傍らに、歌碑が建てられたのです。
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ところが、田村別荘、翌平成11年(1999)に、管理を巡る感情的な行き違いから、突如、解体されてしまいました。

歌碑は残されたのですが、その後、敷地全体は草木が繁茂するままとなり、ここ数年は、元の位置もどこだかわからなくなっていました。

それが、先述の通り、今年5月に草刈りが行われ、碑が見えるようになったという情報。そこで、見に行ってみたわけです。

ところが、やはりよくわかりません。ようやく、周囲より草木の少なめの場所を見つけ、「ここか?」と思って、踏み込んでみると、ありました。県道から20㍍ほど、海側に入ったところです。
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5月に草刈をしたはずなのですが、2ヶ月でもうこの状態です。雑草、恐るべし。

足で草をかき分け、撮影。
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ちなみに県道沿いの、入り口に当たる部分はこんな感じです。このままだと、遠からずまた、碑に近づくことも出来なくなりそうだと思いました。
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歌碑自体はきれいに残っているので、どこか適当な場所に移すことは出来ないのでしょうか……。

その後、ちょうど昼時でしたので、川を渡ってすぐの国民宿舎サンライズ九十九里さんへ。
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レストランのある2階のエレベーターホールには、光太郎智恵子像。制作は日展作家の久保田俶通氏。こちらの像はミニチュアで、本体は、東金九十九里有料道路の今泉PAにあります。

ついでだ、と思い、そちらにも足を伸ばしました。
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なぜか、以前はなかったお賽銭が、それも、かなり。
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別に、ご利益は無いように思うのですが(笑)。

ここまで来たら、さらについでだ、と思い、田村別荘が元々建っていた場所にも。サンライズ九十九里さんのすぐ近くのテニスコート付近です。
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以前は、右の木の下に木製の標柱が建っていたのですが、それも無くなっており、ここと知らなければ通り過ぎてしまう所です。

さらにサンライズ九十九里さん裏手の方の、「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
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昭和36年(1961)の建立で、この場所は砂浜だったのですが、碑と海の間に有料道路が造られてしまいました。
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上は、昭和46年(1971)の新聞記事です。「千鳥と遊べぬ智恵子」うまい見出しですね。

さらに現在、有料道路の海側に、巨大防潮堤も建設中。
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波打ち際は、智恵子が千鳥と遊んだ昔のままなのでしょうが……。
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各場所の細かな位置は、最初の画像をご覧下さい。文学散歩的な取り組みで、ガイドが必要、というような場合にはお声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩「人体飢餓」書きかけ。 十時頃ねる。


昭和23年(1948)4月6日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では、戦争責任へ自ら与えた罰として、「天職」とまで考えていた彫刻を封印する日々でした。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、きちんとした「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、それもまだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして、雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめました。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。


「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

003やはりコロナ禍のため、各種イベントの中止/延期、或いは内容変更等が相次いでいます。予定通り実施されれば、「光太郎歿後年譜」に記載となるはずでしたが……。

例を挙げますと……

・ 日経カルチャーツアー「ほんとの空」に咲き誇る桜(福島県二本松市)
 当初予定 2021年4月18日(日) → 中止

智恵子実家の長沼家菩提寺である、二本松市の満福寺さんを会場としたイベントの予定でした。昨年、二本松で開催された「智恵子講座2020」で当方が講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)による「智恵子抄」朗読等が組まれていました。都内出発のツアーで、やはりコロナ禍のためでしょう、最小催行人数に達せず、中止となりました。

・第111回碌山忌(安曇野市碌山美術館)
 当初予定 2021年4月22日(木) → 関連行事等中止、入館料無料措置のみ

光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日イベント。例年であれば、館内グズベリーハウスで懇親会。光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読から始まっていました。

・芸能福島県人会 40周年記念 ふるさと特別公演(福島市とうほう・みんなの文化センター)
 当初予定 2021年4月30日(金) → 延期(詳細日程未定)
福島県出身・ゆかりの芸能人らでつくる芸能県人会の設立40周年記念ふるさと特別公演。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生から10年の節目に、復興への祈りを込めた音楽を県民に届ける。初代会長を務めた作曲家・古関裕而(福島市出身)、二代目会長の作詞家・丘灯至夫(小野町出身)らの名曲を披露する。

昨年亡くなった二代目コロムビア・ローズさんのヒット曲「智恵子抄」がプログラムに入っていました。
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・歌曲集『智恵子抄』独唱会(世田谷区響堂ホール
 当初予定 2021年5月8日(土) → 延期(秋以降) 
清水脩:歌曲集『智恵子抄』他 中村 仁(テノール)/石川奈々歩(ピアノ)

・高村祭(花巻市高村山荘敷地内)
 当初予定 2021年5月15日(土) → 中止

昭和20年(1945)、光太郎が花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念してのイベント。例年通りであれば、記念講演、地元の小中高生、看護学校生による詩朗読等が行われていました。

・安達太良山山開き(福島県二本松市)
 当初予定5月16日(日) → 規模縮小して実施

智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山の登山シーズンオープン。これも例年であれば、山頂で各種イベントが開催されていましたが、登山口で関係者のみ出席の安全祈願祭だけとなりました。
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・ 田端文士村記念館ひととき講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」(北区田端文士村記念館)
 当初予定 2021年5月16日(日) → 中止

智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』がらみの市民講座でしたが……。

それぞれ、企画して下さったことに感謝し、ご紹介いたしました。一度「中止」となったものも、再度復活することを望みますし(富山県水墨美術館さんで、昨年、「中止」と発表された「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は、今年、10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。同様の措置を期待します)、逆に「延期」となったものが、「再延期」や「中止」とならないように祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

豊沢川畔にて院長さん宅よりもらひし弁当をたべる。中島橋の仮橋無事。


前日の賢治祭のため、花巻町中心街に出ていた帰り。中島橋は花巻電鉄の二ツ堰駅があった近くです。その数日前、豪雨で豊沢川が氾濫していました。
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001当会発行の冊子『光太郎資料』55集、完成し、各所には概ね発送し終えました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。

北川先生の時代、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは受け継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。


その手作り感も踏襲し、現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十九回 音楽・映画・舞台芸術
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、明治大正期のものを集成しました。
 アンケート 初めて蓄音機を聞いた時(大正11年=1922)
 アンケート 我が好む演劇と音楽(明治44年=1911)
 散文 辞書を喰ふ女優(大正8年=1919)
 散文 外国映画と思想の輸入(大正9年=1920)
 書簡 田村松魚宛2通(大正8年=1919、大正9年=1920)
 書簡 吉村幸夫宛(大正11年=1922)

光太郎、サブカルチャー的な方面にもいろいろ興味があったようで、蝋管式蓄音機の話や、好きな芸能人の話など。長唄の六代目芳村伊十郎、ロシア人女優アラ・ナジモワ(光太郎はニューヨーク留学中に舞台を見ています)、フランスの女優メアリー・ガーデンとジョーゼット・ルブラン、子役時代の初代水谷八重子、音楽はフランス音楽、戯曲でメーテルリンク等々。

000・光太郎回想・訪問記  「千鳥と遊ぶ智恵子さん」  北条秀司
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、劇作家の北條秀司の文章から。戦時中、駒込林町のアトリエを訪れた際の回想、光太郎最晩年に「智恵子抄」舞台化を企画し、そのために智恵子役の初代水谷八重子が、中野の貸しアトリエに光太郎を訪れた件、結局光太郎が歿した翌年に上演された舞台「智恵子抄」の話などです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 彰義隊
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』昭和4年(1929)1月『江戸文化』第三巻第一号。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。慶応4年(1868)、江戸城無血開城後の上野戦争で、薩長相手に奮戦した彰義隊に関する元隊士の回想等が語られます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十九回  磯部温泉(群馬県)
現在も使われている温泉記号「♨」発祥の地とも言われる、群馬県の磯部温泉を紹介しました。確認できている限り、明治42年(1909)と大正15年(1926)の2回、光太郎がここを訪れています。
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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その三)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についての三回目。昨年、盛岡の岩手県立図書館さんで調査した結果、新発見がいろいろあり、それをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順 三)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では明治44年(1911)から同45年(1912、大正改元前の7月)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

【折々のことば・光太郎】

晴、朝もや美し。 坂上まで散歩。うぐひすしきりなり。アマドコロ、チゴユリなどとつて写生。

昭和22年(1947)5月28日の日記より 光太郎65歳

「坂上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、光太郎歿後「智恵子展望台」と呼ばれるようになったところでしょう。「アマドコロ」は、遠く明治末、智恵子が『青鞜』の表紙にあしらった花です。この絵、以前はスズランと言われていましたが、どうみてもアマドコロですね。

光太郎、智恵子がアマドコロを描いていたのを知っていたのか、知らなかったのか、何ともいえないところですが……。左が智恵子のアマドコロ、右が光太郎のアマドコロです。
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昨日は光太郎65回目の忌日、連翹忌だったため、都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは、豊島区の染井霊園にて、光太郎の墓参。コロナ禍なかりせば、夕方から日比谷松本楼さんでゆかりの方々にご参集いただき、連翹忌の集いでしたが、そちらは昨年に続き、遺憾ながら中止。当方が代表しての墓参で、第65回連翹忌とさせていただきました。

染井霊園一帯は、ソメイヨシノ発祥の地。最近は地球温暖化の影響でしょうか、連翹忌当日には、霊園の桜もほとんど散ってしまっています。
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KIMG4893自宅兼事務所の、光太郎が愛でた連翹の子孫もかなり散ってしまっており、まだ花が多く残っていた別の株(福島の花見山で購入した苗から育ったもの)の連翹を剪って持参し、手向けました。

二本松の友人によると、やはり今年は例年になく桜や連翹が早く咲いたそうで、寒い東北でも散り始めているとのこと。ある意味、無気味です。将来的に、連翹忌の日に連翹が咲いていない、ということにならなければいいのですが……。缶ビールと連翹以外の花は、当方が着く前にどなたかがお供えしたものです。ビールは光太郎の好物でした。
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昨日も自家用車でして、この後、愛車を北区赤羽に向けました。目指すは絵本専門店・青猫書房さん。こちらでは、3月31日(水)から、郡山ご在住の絵本作家・ノグチクミコさんの「鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」」が開催中で、染井とそれほど遠くもないので、行ってみました。
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絵本『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、東日本大震災後、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)と、愛犬のシマを主人公とした実話です。
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40ページあまりの原画、おそらく全てが展示されていました。
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CG全盛のこの時代、鉛筆で描かれた絵は、ノスタルジックな雰囲気とともに、実に温かみを感じさせます。「絵本」というジャンルは、やはりこうであってほしいものだと思いました。

ノグチさんがいらっしゃれば、サインを頂こうと思い、絵本をカバンに入れていったのですが、残念ながらいらっしゃらず。会場内にはサイン本が販売されていますし、4月18日(日)にはノグチさんのトークショーが開催されるそうです。原画展の会期は4月26日(月)までです。

続いて、最終目的地、文京区の浄心寺さん。
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昨年1月に亡くなった、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の菩提寺です。別名「さくら寺」。しかし、やはりソメイヨシノ系はもうほぼ終わっていました。ただ、八重桜系はみごとでした。
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昨年もそうしましたが、今後、4月2日は染井霊園と浄心寺さんと、墓参のハシゴがルーティーンになるのでしょう。北川先生のお墓にも、光太郎にお供えしたのと同じ連翹を一枝。髙村家の墓参はいつも厳粛な気持ちにさせられますが、北川先生のお墓に詣でると、なぜかほっこりしてしまいます。手を合わせつつ「先生、染井にお参りしてきましたよ」、と語りかけ、「今年も連翹忌の集まりは出来ませんでしたが、来年こそ出来るように、お力添え下さい」とお願いして参りました。

繰り言のようになりますが、本当に来年こそ、連翹忌の集いの復活できることを切に願う次第です。

以上、都内レポート、おわります。

【折々のことば・光太郎】

晴、うすぐもり。温くなる。 坂の上まで散歩、草〻の芽を見る、コブシがまだ白く咲いてゐる。

昭和22年(1947)5月4日の日記より 光太郎65歳

「坂の上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の裏手、現在、「智恵子展望台」と呼ばれているところではないでしょうか。

本日、4月2日(金)は、高村光太郎65回目の命日、連翹忌です。

今から65年前、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分、不世出の巨星・高村光太郎は、東京中野桃園町の貸しアトリエ(昭和23年=1948に急逝した水彩画家・中西利雄が建てたもの)で、宿痾の肺結核のため、天然の素中に還りました。

当会の祖・草野心平による「終焉日記」から。挿入されている「註」の部分は、『わが光太郎』(昭和44年=1969)掲載時に補われた部分、(注)は当方が書きました。

四月一日
 十二時中西宅へ電話。コップ一杯またはいた由。二時半電話。呼吸苦しき由、岡本先生、関先生(注・ともに医師)来診の由。二時半からトミーで現代詩人会総会、また幹事長にさせられる。八時頃中西宅へ電話、サンソ吸入ときき、現代詩人会の懇親会をこっそりぬけてかけつける。雪。ななめ、クリーナア(注・車のワイパー)、
 高村さん鼻にゴム管サンソキュウニュウ、(午后七時十五分頃から)八時二十五分に小生到着。今日より看護婦二人、看護婦と堀川さん(注・光太郎が雇っていた家政婦さん)と中西夫人とボクの五人。雪ふりつづける。苦しそう。高村豊周(注・光太郎実弟)夫妻と令息たち、鋳金の伊藤(注・十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の鋳造を担当した伊藤忠雄)、奥平(注・美術史家・奥平英雄)、難波田氏(注・画家・難波田龍起)など見えた由。
 朝、今日は気持ちがよいから早くたべたいとスパゲティとスープとウヰンナアソーセーヂ、木の芽あえをたべたいと言ったが、それを用意して持って行ったら、喀血、その前にスワンのブリのスープ、これは毎日お茶代りにのんでいた。夜はすしとサンドウヰッチを食べる予定だったが、結局朝から夜までスープだけしかのどを入らない。
 豊周氏に今日は苦しいから話ししないと言われた由、
 これを書いているの九時。三十分ほどだが、ずいぶん永い時間の気がする(酸素吸入は、自分でしたいと言われた由)
 アトリエの台所で私独りだけ、しずかにのむ。写真アルバム(注・
前日にはそのゲラを見た筑摩書房刊行『日本文学アルバム19高村光太郎』)「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」
 看護婦(加藤( )さん(注・( )内空欄)、小野瀬鈴子さん)
 十時、電気をくらくする。「そこにいるの草野君?」と看護婦にきく、そうですというと、「今日一日胸が苦しくってね」という「苦しいでしょう。」というと「うん。」
 十時半、「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」眠り薬をのまる。
009註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
 この日はひるまから雪だったが、夜になってもやまなかった。大きな牡丹雪だった。
 運転台のガラス窓にふきかかる雪が、どうしたことか私に思いもよらない聯想を呼びおこさした。ゴッホの最晩年の「鴉のいる麦畑」の、あのむらがる鴉なのだ。そのむらがりをクリーナーが左右にはじく、むらがる、はじく。私はただなんとなくクリーナーだけを信ずるような気持ちだった。
 アトリエのなかは薄暗かった。電気になにかをかぶせたのか普通よりずっと薄暗かった。両方の鼻の穴から二本のゴムのくだがのびフラスコのなかはブクブク泡立っていた。吐く息も吸う息も苦しそうだった。安楽死、ふとそんなことがあたまをかすめた。看護婦が一人ふえているのが無気味だった。元からいた看護婦が冷蔵庫から玉ずし(注・アトリエ近くの寿司屋の折り詰め)を台所に持ってきて
「もう今晩はとてもあがれませんから、あがって下さい。」
 と私に手渡した。私は一つだけつまんだ。
020 写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。
 私は時たま、台所からアトリエをのぞいた。看護婦が椅子にかけてうしろの方に近づくと、その気配で察したのか、
「そこにいるの草野君?」
 と高村さんが看護婦にきいた。
 看護婦がそうですと答えると、高村さんは「今日一日胸が苦しくってね」と喘ぎながら言われた。苦しいでしょうと、私がいうと「うん。」といわれたまま、それっきりまた喘ぎがつづいた。私は二十分ほどつったっていたが、
「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」
 と私に言うとも誰に言うとも独り言とも思えるように言われた。私はギョウ然としたまま何も言えなかった。それからまた十分ほどして「あだりんを飲もう」といわれた。睡眠剤は、どんな場合にも適量以上にはのまれなかったそうである。その時も普通の意味での「アダリン」だったと思うのだが――。けれどもそれから以後、高村さんの口からはなんの言葉も洩れなかった。高村さんが薬をのまれてから私は無言のまま台所にもどり、しばらくいた。そしてしずかにドアをあけて雪のなかにでた。

四月二日
 3時半頃起こされる 中西家の令息たちに、あぶないから――
 3時45分永眠、まにあわず高村豊周夫妻、4時かけつける、関先生岡本先生。
註・夜中の三時半頃ドンドンドアを叩かれた。ハッと思った。起きてみると案の定中西さんの二人の令息がたっている。その頃はもう雪はやんでいたと思う。待たしてある自動車にのって桃園町にかけつけた。
 たばこ屋の角を曲ると、中西家の前に自動車が一台とまっていて、ドアがあくところだった。すぐ高村豊周氏夫妻であることが分った。中西家は母屋からアトリエのドアまで明けっぱなしになっていた。私のすぐ前を豊周氏夫妻がアトリエにはいった。つづいて私。関先生と岡本先生がぼんやりたっていた。誰も最後には間に合わなかった。


感情を表す語を極力廃し、淡々と事実のみを記述していますが、それでも溢れ出る哀惜の念を隠しきれないところが、光太郎に対する草野心平です。

この時、貸しアトリエの庭には連翹の花が咲き誇っていました。まだ少し元気だった頃の光太郎、「連翹」という名を知らず、アトリエの大家だった中西夫人に、「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
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4月4日、青山斎場で執り行われた葬儀の際は、その連翹が一枝、光太郎愛用のビールのコップに挿され、棺の上に飾られました。
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そこからの発想で、光太郎忌日を「連翹忌」と命名したのは、心平と同じく、光太郎と親しかった佐藤春夫。第一回連翹忌は、光太郎の亡くなった中野のアトリエで行われ、光太郎を偲ぶ人々が集い、以後、何度か会場を変えながら、平成11年(1999)から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんに会場が落ち着きまして、現在に至ります。

平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、昨年の第64回はコロナ禍のため、それぞれ集いは中止。そして今年もコロナ禍明けやらず、2年続けての中止といたしました。残念です。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている中野アトリエの連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それを以て第65回連翹忌とさせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

朝食前部落の青年達多勢来てヤトヂをとり除き、萱を背負ひかへる。六時のサイレンが鳴る。茶を出す。前の田で萱の大焚火をたく。


昭和22年(1947)5月3日の日記より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は雪よけのため家屋の回りに巡らす萱(かや)の束です。花巻郊外旧太田村、5月はじめまでそれが必要だったのですね。
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これを燃やせば確かに「大焚火」でしょう。

3.11 女川レポートの2回目です。

10年前、津波に呑まれて還らぬ人となった、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんの奥様・英子さんの元を辞し、女川町総合体育館を目指しました。町主催の追悼式出席のためです。
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午後2時40分開式。初めはNHKさんで放映されていた政府主催追悼式の模様をリモート中継。
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地震発生の午後2時46分、黙祷。その後、菅総理の式辞や、天皇陛下のお言葉なども中継されました。

中継を切って、本会場独自のプログラムに移行。須田善明女川町長の式辞、来賓やご遺族代表の言葉に続き、献花。やはりまず須田町長から。
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ちなみに、この日はとてもお忙しいので話はできないだろうと思っていたのですが、たまたま当方が会場入りした時に入り口にいらしたので、少しお話しをさせていただきました。

代表献花のあと、一般の献花。そのまま流れ解散。
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その後、女川駅方面を散策しました。
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駅に着きましたところ、何やら運動会の万国旗のように、黄色い布。
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一枚一枚にメッセージが書かれていました。
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帰ってから調べてみましたところ……。

復興とコロナ終息願い 宮城・女川町に黄色いハンカチ600枚  KHB東日本放送ニュース

宮城県女川町では、復興などを願って黄色いハンカチを掲げる準備が進められています。

女川町民の有志でつくる女川裏方一座は、2年前から震災の風化を防ごうと、3月11日にJR女川駅で黄色いハンカチを掲げています。

今年は鎮魂や復興への思いのほか、新型コロナウイルスの終息への願いが綴られた約600枚のハンカチが用意され、ロープにつなげていく作業が行われました。

女川裏方一座・加納純一郎代表「見える形で3.11を残しておきたいし、見えることで改めて皆さんが立ち止まる。3.11に立ち止まる目的で始めています」

黄色いハンカチは、11日の午前9時から日没まで掲げられ、当日、会場でメッセージを書くこともできます。
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幸せ願い黄色いハンカチ 女川駅前 石巻かほく

021 JR女川駅前には11日、女川町の復興への願いや古里に対する思いをつづった幸せの象徴・黄色いハンカチ約600枚が掲げられた。
 町民有志らで組織する「女川裏方一座」が企画し、十数人が参加した。
 40センチ四方の黄色いハンカチには、震災後に多く使われた「絆」や「希望」をはじめ、「みんなに感謝」「幸せいっぱいになりますように」「早くコロナが終息して みんなが笑顔で過ごせる日々が戻ってきますように」といった言葉が記された。
 今年で4回目(初回は2018年8月)を数えた。ハンカチの枚数は年々増え、ロープも昨年の4本から5本になった。有志らは笑顔で作業に取り組み、紙ランタンを並べてハートマークも作った。
 加納純一郎座長(70)は「震災からの復興は、まだ道半ば。来年以降も続けていきたい」と話した。

当方が訪れた時は、もう夕方に近かったのですが、それでも黄色いハンカチ、青空をバックに映えていました。
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駅前の商業施設「シーパルピア」さん。
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その一角にある「桜咲く地蔵」。津波で幹の半分を持って行かれたものの、一度は花を咲かせ、その後枯れてしまった桜の木から彫り出したお地蔵様です。
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「きぼうの鐘」。現在の女川光太郎祭の会場「まちなか交流館」さんのすぐそばにあります。

震災前の女川駅があったあたりで、駅前のシンボルだったカリヨンの四つの鐘のうち、津波の後に一つだけ見つかったもの。震災後しばらくは、高台の仮設商店街「きぼうの鐘商店街」(かつての女川光太郎祭会場)に置かれていましたが、そちらが閉鎖となり、元の位置に移転しました。

そして、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。現在、18基が建てられているうちの、町中心部に最も近い場所にある一つです。すぐ下には魚市場があります。
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昨日もちらっとご紹介した、3月11日、テレビ東京さん系で放映の「池上彰の災害サバイバル〜地震・台風…明日から役立つ10ヵ条〜」でも、ここの碑が取り上げられました。
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碑を建てた中心メンバーの、震災当時の中学生だったお二人、それから阿部一彦先生。
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池上さん、この方たちのお話を聞いて、うるうるしていました。

この場所の直ぐ下にある水産加工場で働いていた中国からの研修生20数名が、ここに避難して助かりました。しかし、ここまで誘導してきた女川町民の方は、さらに助けるべき人がいないかと、また下まで戻り、津波に呑まれて亡くなったそうです……。この話、中国のメディアでも大きく取り上げられたとのこと。

その後、宿泊先の、駅裏にあるトレーラーハウスホテル「エル・ファロ」さんへ。
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各棟、車輪がついており、トレーラーで牽引できるというすぐれものです。
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チエックイン後、再び女川駅へ。駅舎2階部分の温泉入浴施設「ゆぽっぽ」さんで疲れを癒やしました。
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内部は震災に関するちょっとしたミュージアム的な展示も。
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それから、以前はなかったのですが、浴場内部には、震災前のなつかしい女川の姿を撮った写真。
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もはや見ることの出来ない風景ですが、新しい町に生まれ変わった女川が、この頃のように、いや、それ以上に賑わうことを願ってやみません。

以上、女川レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

雪ふりつもる。花巻の雪を満喫。


昭和22年(1947)2月15日の日記より 光太郎65歳

前日から、この年初めて郊外旧太田村から、花巻電鉄に乗って花巻町訪問。かつて1ヶ月滞留した佐藤隆房邸離れに4泊させて貰いました。

昨日、1泊2日の行程を終えて宮城県女川町から帰って参りました。レポートいたします。

3月11日(木)、まず最初に訪れたのが、女川駅前の複合商業施設「シーパルピア女川」さんの一角にある佐々木釣具店さん。10年前、津波に呑まれて亡くなった、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんの奥様、英子さんのお店です。
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ところがお留守。ちょうど昼時だったので、昼食でも食べに外に出ているのかと思い、車はここに駐めさせていただいて、海の方へ。道路を渡るとすぐ「メモリアルゾーン」です。

平成3年(1991)に竣工し、10年前の津波で倒壊して、昨年、再建された光太郎文学碑。再建されてから初めて見ました。
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向かって右がメインの碑。かつては海に背を向ける形で建てられていましたが、再建時には海岸線に対し垂直に変えられていました。その方が、また津波が来た際に倒れにくいということのようです。
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中央の赤い石は、光太郎短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」(明治39年=1906)。女川とは直接の関係はない歌ですが、海を詠んでいるということで採用されました。光太郎自筆の揮毫(書かれた時期は不明)を拡大して写したものです。
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その両脇には、光太郎の紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)の一節が2面に分けて。
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こちらは光太郎自筆の原稿用紙が失われており、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がペン書きされたものを写しました。
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懐かしい北川先生の筆跡をここで改めて見て、胸がいっぱいになりました。まぁ、手元には北川先生からのお手紙など、数百通あるのですが……。

碑の一番外側は、光太郎が「三陸廻り」のために描いた挿画が2面。
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「女川のしみ」。「しみ」=「しび」=「鮪」で、マグロのこと。女川港に水揚げされたマグロを描いたものです。
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「船尾におかれた綱の団塊」。三陸海岸一帯を移動するのに使った三陸汽船の船上で見て、面白いと思って描かれたものです。

この2面、建立時には金色でしたが、津波、そしてその後の10年の歳月、風雪を受け続け、色が剥げてしまっています。

下の画像は平成6年(1994)頃、初めて女川を訪れ、当方が撮影したもの。
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津波で倒壊後、しばらくは半分水没した状態でしたし、陸に引き上げられてからもこの面を上にして置かれていたので、雨風を受け続けました。
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碑文を刻んだ面にも、傷が生々しく残っています。そういう意味では、後述の旧女川交番同様、震災遺構としての側面もあるといえるのではないでしょうか。

石碑の裏には、碑陰記(石碑の由来等を記した文章)。倒れたあと、地面に接していた部分ですので、当方、約30年ぶりに拝見しました。
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フジツボがくっついていて、剥がれません。これにも10年の歳月を感じ、涙が出そうになりました。
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碑の建立時に刊行された記念誌から。
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記念誌には、碑の建設を発案し、建立に奔走された若き貝(佐々木)さんの文章も載っていました。
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最後の一節が、刺さります。
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メインの碑の左には、詩「霧の中の決意」(昭和6年=1931)を、光太郎自筆の文字から採った碑。
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震災翌年はこんな感じでした。
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一対で作られた、「よしきり鮫」(同12年=1937)の碑は、今も行方不明です。故・北川先生曰く「鮫だけに、海へ還ったのでしょう」……。

健在だった頃の「よしきり鮫」碑。
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何だか、貝(佐々木)さんの魂が、この碑にまたがって、海へ還っていったようにも思えてなりません……。

ちなみに、地上波テレビ東京さん系で、3月11日(木)当日に放映された「池上彰の災害サバイバル〜地震・台風…明日から役立つ10ヵ条〜」。最後に元河北新報記者であらせられた武田真一氏のインタビューが流れましたが、光太郎文学碑の前での撮影でした。
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残念ながら碑についての説明等はありませんでしたが、いずれ、この碑を巡るさまざまなドラマ等も番組にしていただきたいものです。

碑のすぐぞばには、やはり津波で横倒しになった、旧女川交番。
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周囲がスロープになっており、震災時やその後の復興への取り組みなどがパネルで解説されています。
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ここにも、画家でいらした貝(佐々木)さんの絵が。これは存じませんでした。
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震災前の航空写真も。
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中央やや右の海岸線上、こんもり緑が茂っているところが光太郎文学碑のあった公園、そのすぐ上が交番で、佐々木釣具店もこの一角でした。

釣具店さんに戻りましたが、やはりお留守。そこで英子さんに電話したところ、今日は休業、ということで、ご自宅に車を向けました。高台に建てられた災害公営住宅です。階上のテラスからは光太郎碑も見えました。
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当会主催の連翹忌や、英子さんが仕切られている女川光太郎祭が、昨年はコロナ禍で中止となったため、英子さんにお会いするのは北川先生のご葬儀以来でした。

旧女川交番に勤務なさっていたという、貝さんのお友達だった方などもいらしていましたし、当方のあとから貝さんのお姉様もいらっしゃいました。こうして皆さんが集まられるというのも、お人柄ですね。

仏壇にお焼香。まだお墓は建てられていないということで……。壁には、貝さんの描かれた油絵。
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しばらく貝さんを偲びつつの歓談のあと、当方は町主催の追悼式に出席するため、再会を約してこちらを辞しました。

長くなりましたので、以後のことは明日またレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

コーヒーをいれ、昨日の砂糖をいれてのむ。久しぶりの味がする。


昭和22年(1947)2月13日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、コーヒーはもちろん、砂糖もまだ貴重品でした。

ちなみに本日、3月13日は、光太郎138回目の誕生日です。

000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

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 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
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4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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新しい年がやって参りました。昨年の今頃は、昨年があんな年になるとは予想だにしていませんでしたが、今年は果たしてどんな年になるのやら、です。

願わくは、コロナ禍も終息し、世界中にまた笑顔が戻る年であってほしいものだと、切に願います。

本年も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

画像は当会よりお送りした年賀状です。昭和12年(1937)、丑年生まれの山形の銀行家・長谷川吉三郎の求めに応じて光太郎が描いた牛の絵をあしらいました。何で間違えたか、昭和13年(1938)と書いてしまいましたが、その前年でした(笑)。

【折々のことば・光太郎】

飯盒にて朝食を用意はじめたる時、分教場の佐藤勝治さん来る。小豆餅重箱にひとつ。大根のつけもの二本、キヤベツの煮びたし一壺持参さる。食前に届けんとせられし由。雑煮の代りにそれをいただかんとす。勝治さんと年賀交換、生れてはじめての新年也。


昭和21年(1946)1月1日の日記より 光太郎64歳

「佐藤勝治さん」は、光太郎に太田村移住を勧めた、山口分教場の教師です。

「生れてはじめての新年」。雪深い山小屋で自らの戦争責任と向かい合う生活の中で、初めて迎える新年ということで、「新生」光太郎の初めての新年、ということでしょうか。

今年一年を振り返る企画、最終日です。

9月2日(水)
 『毎日新聞』の夕刊文化面に「大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す」という記事が掲載され、光太郎にも触れられました。

9月4日(金)~9月23日(水)
花巻高村光太郎記念館で企画展「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」が開催され、光雲令孫の藤岡貞彦氏から寄贈された「鈿女命像」が展示されました。9月15日(火) には、関連行事として高村光太郎記念館講座「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」が開催されました。当方が講師を務めさせていただきました。
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9月9日(水)~9月21日(月)
岡山市の丸善岡山シンフォニービル店ギャラリーで、「高田博厚とパリの仲間たち展」が開催され、光太郎作の木版で、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作された『幼き QLAUAPATRAT』が展示されました。

9月11日(金)
BS-TBSで「日本の名峰・絶景探訪 #58  紅葉色めく湯の山 安達太良山」が再放送されました。初回放映は平成26年(2014)、光太郎智恵子にも触れられました。
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9月11日(金)~12月13日(日)
鎌倉市川喜多映画記念館で「特別展 生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」が開催されました。昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子さん主演)に関する展示がなされた他、会期中、「智恵子抄」の上映もありました。

9月17日(木)
『毎日新聞』大阪版が、光太郎作「みちのく(十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作)」を含む御堂筋の野外彫刻群に、何者かの手によって謎の花飾りが付けられていることを報じました。
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9月18日(金)~12月13日(日)
台東区立中央図書館で企画展「上野公園~近代の歩み~」が開催され、光雲が主任となって東京美術学校が制作に当たった西郷隆盛像に関する資料等が展示されました。

9月19日(土)~12月20日(日)
和歌山市の和歌山近代美術館で、「コレクションの50年」展が開催され、光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が展示されました。
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9月20日(日)

こぶし書房から石巻学プロジェクト編『石巻学VOL.5』が刊行されました。古関良行氏「紀行文を旅する」などで、昭和6年(1931)、光太郎が三陸廻りの旅を紀行文にしたためたことなどが紹介されました。

9月26日(土)~10月25日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館で、「藝大コレクション展 2020――藝大年代記(クロニクル)」が開催され、光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年頃=1930頃)が展示されました。
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9月29日(火)~10月11日(日)
千葉県成田市の文化芸術センタースカイタウンギャラリーで第44回千葉県移動美術館~近代日本を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで~」が開催され、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。

10月1日(木)
株式会社ユニプランからユニプラン編集部編『散策&観賞 岩手(南部地域)編 ~修学旅行に行く前に読む本~』が発行されました。「高村光太郎記念館・高村山荘」の項の他、「光太郎の軌跡」というコラムも含みます。
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10月3日(土)~2021年1月31日(日)
北海道函館市の北海道立函館美術館で「ミュージアム・コレクション秋~冬 鷗亭と賢治・光太郎」が開催され、書家の金子鷗亭による光太郎詩文の書が展示されました。関連行事として、11月7日(土)、道立松前高書道部による書道パフォーマンスが行われ、光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)の書が制作されました。

10月4日(日)~11月22日(日)
鎌倉市のカフェ兼ギャラリー・笛で「想い出 高村光太郎」展が開催され、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)や直筆の書などが展示されました。
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10月5日(月) 
智恵子忌日・レモンの日に合わせ、地方紙『福島民友』が
【高村光太郎の詩集】智恵子抄 心にずっと...古里の『ほんとの空』」という記事を掲載しました。

同日、当会に於いて会報的な冊子『光太郎資料54』を発行しました。
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10月5日(月)~11月23日(月・祝)
花巻高村光太郎記念館で、高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」展が開催されました。メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。
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10月7日(水)~11月3日(火・祝)
埼玉県東松山市の市総合会館で「高田博厚展2020」が開催され、高田作の光太郎胸像(昭和33年=1958)に関する展示も行われました。
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10月9日(金)~11月29日(日)
岡山県井原市の井原市立田中美術館で特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」が開催され、「獅子吼」(明治35年=1902)など、光太郎作のブロンズ7点も出品されました。

10月10日(土)~11月23日(月・祝)
福島県二本松市の智恵子の生家で、通常、非公開としている生家2階の一部が公開されました。また、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示が行われました。
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10月15日(木)
8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)で、同駅テナント・ミレットキッチン花 (フラワー)の新メニュー「光太郎ランチ」お披露目会が開催されました。この後、毎月15日に光太郎ランチの限定販売が行われています。

10月19日(月)~12月20日(日)
栃木県佐野市の佐野東石美術館で「第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」」が開催され、光雲作の木彫「牧童」(大正9年=1920)が展示されました。
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10月20日(火)
京都大学学術出版会から、田路貴浩編『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』が刊行されました。神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品を模写したものであることを突き止められ、その件について書かれています。
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11月3日(火)、11月15日(日)、11月23日(月・祝) 
福島県二本松市の男女共生センターに於いて智恵子のまち夢くらぶ主催の市民講座「智恵子講座2020」が開催されました。講師は、11/3・西浦基氏(高村光太郎研究会)、11/15・当方、11/23・熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ代表)でした。

11月7日(土)~11月29日(日)
京都市の浄土宗 総本山知恩院で「秋のライトアップ二〇二〇」が開催され、光雲原型のブロンズ聖観音像のライトアップも為されました。
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11月10日(火)
伊集院静氏著『文字に美はありや。』が文藝春秋から文春文庫の一冊として刊行されました。「猛女と詩人の恋」という項で、光太郎書が取り上げられています。元版のハードカバーは平成30年(2018)に同社から刊行されています。             
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11月14日(土)~12月13日(日)
千代田区の三の丸尚蔵館で「第87回展覧会 名作を伝える-明治天皇と美術 後期展示 明治天皇のまなざし」が開催され、光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が展示されました。

11月16日(月)
短歌研究社から塩川治子氏著『歌人番外列伝|異色歌人逍遥』が刊行されました。「白斧の人──高村光太郎」という章を含みます。
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11月18日(水)~2021年1月31日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe」が開催中です。これまで行われてきた「十和田湖冬物語」に代わるイベントで、イルミネーション、3D、レーザー、ライトアップ、プロジェクションマッピングなどを主体とし、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されています。

11月20日(金)
盛岡ご在住の加藤千晴氏(光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息)が冊子『高村光太郎と共に』を自費出版されました。親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。
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11月26日(木)~12月2日(水)
台東区の東京都立美術館で「第42回 東京書作展」が開催されました。最優秀賞に当たる内閣総理大臣賞、それにつぐ東京新聞賞で2点、光太郎詩を題材にした書が選ばれました。

11月30日(月)
文芸同人誌『青い花』第95号が発行されました。詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子氏のエッセイ「巴里 パリ PARIS(三)」で、光太郎に触れられています。
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12月1日(火)~2021年1月31日(日)
仙台市博物館に於いて「特集展示 福島美術館の優品」が開催中です。かつて同市内にあり、平成30年(2018)に閉館した私立の福島美術館の旧蔵品を展示するもので、光雲作の木彫「聖観音像」が並んでいます。

12月2日(水)
「智恵子抄」を課題に開催された「第13回⼭形⼤学⾼校⽣朗読コンクール」の審査結果が発表されました。例年は山形市内の大ホールでの開催でしたが、今年はコロナ禍のため、録画による審査でした。
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12月5日(土)
岩手県花巻市交流会館に於いて「はなまき通検定」の受検が行われました。一般を対象とした花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、光太郎に関する設問も3問含まれていました。のちにこのブログで問題等、詳述します。

12月5日(土)~2021年1月24日(日)
埼玉県比企郡川島町の遠山記念館で「コレクション展 2」が開催されています。「干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示」というコンセプトで、光雲木彫「牛」(大正2年=1913)が展示されています。
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12月5日(土)~2021年1月24日(日)
岩手県花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマにした共同企画展「令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として、花巻高村光太郎記念館で「光太郎と佐藤隆房」が開催中です。
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5c33331b12月7日(月)
 『朝日新聞』夕刊に「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事が掲載され、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡に建つ「レモン哀歌詩碑」などが紹介されました。

12月10日(木)
文治堂書店からPR誌『とんぼ』第11号が発行されました。表紙に当会顧問であらせられた故・北川太一先生の版画が使われています。子息の北川光彦氏による「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」、当方の「連翹忌通信」などが掲載されています。

12月11日(金)~12月25日(金)
台東区の東京藝術大学大学美術館陳列館で「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」展が開催されました。ロダン、光太郎へのオマージュ的な作品、彫刻家・小田原のどか氏の「《ロダンの言葉/高村光太郎をなぞる》」が出品されました。
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12月19日(土)
明治美術学会から『近代画説』第29号が発行されました。「特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」中に、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏による「今戸精司――趣味人としての彫刻家――」が含まれ、光太郎についても言及されています。この書籍、昨日届きまして、詳細は改めてご紹介いたします。

12月21日(月)
智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2020文集』が発行されました。上記「智恵子講座2020」受講者・当方を含む講師らの寄稿によるものです。
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また、この項で月ごとのご紹介はしませんでしたが、隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんが、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載を続けて下さっています。

以上、3日間にわたって、今年1年を振り返ってみました。情報の収集には努めましたが、見落としは多々あるかと存じます。よろしくご寛恕の程お願い申し上げます。「こういう出版物があった」「こんなイベントもやっていたよ」という情報をお持ちの方は、コメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

今年一年は、コロナ禍を抜きには語れない年となりまして、この世界でも多くの展覧会やイベント、公演等が中止に追い込まれました。それでも出版やテレビ放映などの分野では、ほぼ例年通りに光太郎智恵子、光雲等を取り上げて下さいました。感謝に堪えません。コロナ禍終息後には、またさらに多くの方面で、光太郎智恵子らが取り上げられることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

風にて雪が空をとぶ。壮観なり。


昭和20年(1945)12月11日の日記より 光太郎63歳

いわゆる「地吹雪」。一度、当方も青森に行った際に経験しましたが、それが連日となると……ですね。

今年一年を振り返る2回目で、今日は5月から8月です。

5月14日(木)
地方紙『岩手日報』に、「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事が載りました。昭和20年(1945)の花巻空襲の際に、自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たった花巻病院の関係者に贈った詩「非常の時」が、コロナ禍に立ち向かう現在の医療従事者の皆さんに対するエールとしても読める、ということで話題になっているという内容でした。

5月16日(土)~5月31日(日)
福島二本松の智恵子の生家/智恵子記念館で「高村智恵子 生誕祭」が開催されました。「上川崎和紙で作ろう智恵子の紙絵」、智恵子作「紙絵」実物展示公開、生家二階の特別公開などが行われました。
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6月2日(火)~6月7日(日)3d3c3058-s
神戸市の兵庫県立美術館で「特別展 開館50周年 超・名品展」が開催され、光太郎作のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。コロナ禍のため、会期を大幅に短縮しての開催でした。

6月2日(火)~6月8日(月)
千葉市のそごう千葉店美術画廊で、「近代秀作木彫展」が開催され、光太郎の父・光雲作の「孔子像」、「大国主命」、「瑞雲」、光雲の師・髙村東雲の孫にして光雲の弟子・髙村晴雲の「釈迦如来像」などが展示されました。

6月2日(火)~8月23日(日)
立川市のたましん美術館で、「開館記念展Ⅰたまびらき―たましんの日本近代美術コレクション―」が開催され、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出品されました。
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6月2日(火)~8月30日(日)
長野県安曇野市の豊科近代美術館で、
高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

6月5日(金)~9月6日(日)
愛知県小牧市 のメナード美術館で「所蔵企画展 画家たちの欧羅巴」が開催され、光太郎の木彫「鯰」(昭和6年=1931)が展示されました。
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6月6日(土)
地方紙『岩手日日』に、「手作りマスク人気 一節印字した紙片同封も 高村光太郎記念館」という記事が掲載されました。花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件でした。マスクは光太郎の揮毫「正直親切」をあしらった手ぬぐいを素材とし、「光太郎の食卓カレンダー」もセットで販売されたりもしました。

 6月8日(月)
1月25日(土)~2月2日(日)に新国立劇場小劇場にて公演された鈴木勝秀×る・ひまわり第3弾公演舞台『る・ぽえ』DVDが発売されました。「高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話」を含みます。
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6月13日(土)
地上波テレビ東京の「新美の巨人たち」が「希望を与え続けてきた『ノートルダム大聖堂』復活への祈り」を放映し、昨年、火災に遭ったノートルダム・ド・パリが取りあげられ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が紹介されました。系列のBSテレ東では6月20日(土)に放映がありました。

6月14日(日)
『毎日新聞』に、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「今よみがえる森鷗外15 美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」と言う記事が掲載され、光太郎と鷗外について紹介されました。

6月15日(月)
文治堂書店からPR誌『トンボ』第10号が発行されました。1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼特集が組まれました。
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6月20日(土)
ナカニシヤ出版から渡邊毅氏著『道徳教育における人物伝教材の研究 人は偉人を模倣する』が刊行されました。「第三章 偉人に学び生きた偉人たちの群像」中の「第七節 僕の後ろに道は出来る ―高村光太郎とオーギュスト・ロダン」で光太郎に触れられています。

6月27日(土)・28日(日)
新宿区のパフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』で、「角田佳代ひとり芝居『売り言葉』」の公演がありました。智恵子を主人公とする一人芝居でした。
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6月24日(水)
ローカルテレビ局IBC岩手放送の「わが町バンザイ」のオンエアが「花巻南温泉峡」。花巻高村光太郎記念館・高村山荘が大きく取り上げられました。

6月27日(土)~7月4日(土)
高知県安芸郡安田町の映画館、大心劇場で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さんほかご出演)が上映されました。
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dfa8dbd36月27日(土)~9月13日(日)
石川県七尾市の石川県七尾美術館で、企画展「伝えゆく池田コレクションの魅力 〈第1期〉~日本画・彫刻を中心に~/~美濃焼と漆工を味わう~」が開催され、光太郎の父・光雲の木彫、昭和6年(1931)の「聖観音像」が出品されました。

7月1日(水)
雑誌『群像』2020年7月号に、彫刻家・小田原のどか氏による「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」が掲載されました。

7月3日(金)
海竜社から、中川越氏著『愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ』が刊行されました。「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」という章を含みます。
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7月4日(土)~8月23日(日)
広島県呉市の呉美術館で「令和2年度コレクション展Ⅰ 呉の美術 没後70年 南薫造をしのぶ」が開催され、南と交流のあった光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)が出品されました。

7月6日(月)
日本コカ・コーラ社から、「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」が発売され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の一節「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」も採用されました。
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7月8日(水)
テノール歌手の永田峰雄さんが亡くなりました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんから「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」をリリースされていました。

7月10日(金)
宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏が亡くなりました。光太郎に関する著書もおありでした。

7月11日(土)~9月27日(日)
和歌山県伊都郡高野町の高野山霊宝館で「令和2年度夏期企画展「如来 -NYORAI-」が開催され、光雲作の「仏頭」(昭和8年=1933頃)が展示されました。金剛峯寺さんご本尊の薬師如来坐像のための習作です。
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7月15日(水)
広報はなまき7月15日号に、「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編 高村光太郎『手』」という記事が載りました。

7月18日(土)~9月21日(月)
千葉市の千葉県立美術館で、「コレクション展 高村光太郎の生きた時代」 が開催され、光太郎ブロンズ8点と、交流のあった作家の作品が出品されました。

7月20日(月)
秀明大学出版会から、同大学長の川島幸希氏著『140字の文豪たち』が刊行されました。氏がツイッター上で「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したものです。光太郎にも触れられています。
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8月5日(水)
ソニーミュージックから、J-POPアーティスト・米津玄師さんのニューアルバム「STRAY SHEEP」が発売されました。米津さんご自身、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっている「Lemon」を含みます。

8月7日(金)
岩手県花巻市の花巻高村光太郎記念館近くに、道の駅「はなまき西南」(愛称・賢治と光太郎の郷)がオープンしました。施設内に光太郎、賢治に関する説明板等が展示されています。これにあわせ、花巻高村光太郎記念会で、新商品「智恵子のレモンキャンディー」を発売しました。
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8月7日(金)~13日(木)
宮城県女川町の女川つながる図書館で、「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」展が開催されました。
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8月9日(日)
地上波テレビ朝日の「秘湯ロマン」が、栃木県那須塩原市の「塩の湯温泉柏屋旅館」を取り上げ、昭和8年(1933)に逗留した光太郎智恵子にも触れられました。

8月10日(月)
東京都中央区の浜離宮朝日ホールで、「サードアルバムリリース記念 精緻な歌声でつづる日本の心 小林沙羅 ソプラノ・リサイタル 日本の詩(うた)【3/12振替公演】」が開催され、光太郎詩に曲を付けた「或る夜のこころ」「あなたはだんだんきれいになる」「亡き人に」(中村裕美さん作曲)が演奏されました。
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8月16日(日)
歌手の二代目コロムビア・ローズさんが亡くなりました。昭和39年(1964)、丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲の「智恵子抄」がヒットし、その年の紅白歌合戦に出場されました。

8月17日(月)~8月23日(日)
全国31局のコミュニティFM局でオンエアされているラジオ番組「仮面女子 雪乃しほりのワクワクサワー」という番組で、「智恵子抄」へのオマージュ的な「ほんとうの空・青い空」というラジオドラマが放送されました。
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b6977be8-s8月20日(木)
三笠書房から板野博行氏著『眠れないほどおもしろいやばい文豪 こうして生まれたあの名作』が刊行されました。「智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎」という項を含みます。

同日、静岡は伊東で刊行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号が発行されました。主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されています。

8月22日(土) 
『朝日新聞』さんの岩手版に「光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開」という記事が載りました。

同日、劇作家・女優の渡辺えりさんがご出演なさったテレビ番組「ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ 渡辺えり×石原正康」がBS朝日でオンエアされました。渡辺さんが、光太郎と交流のあったお父様・渡辺正治氏や、ご自身と光太郎詩との思い出などを語られました。
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8月25日(火)
BS-TBSで、「日本の名峰・絶景探訪▼雪煙舞う厳冬の安達太良山 福島」が放映されました。初回放映は平成26年(2014)の再放送でした。

8月29日(土)
岩手のテレビ局・めんこいテレビさんで1時間の特番「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」が放映されました。
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8月30日(日)
地上波TBSで、「東京の空 #ぼくの、わたしの“ほんとの空”。」の放映がありました。さまざまな事情を抱える人々の、「東京の空」への思いを紹介するもので、光太郎詩「あどけない話」(昭和2年=1927)にも触れられました。

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学校までの道にて雪中に兎の足あとを発見す、図の如し この形兎になること亘さんにきけり


昭和20年(1945)12月9日の日記より 光太郎63歳


明治生まれとはいえ、都会育ちの光太郎にとっては珍しかったのでしょう。

横に並んでいる二つが後ろ足 、縦の二つが前足です。 ウサギは前足をついてから後足を広げて前に出るため、後ろ足の足跡が前につきます。

今年も残すところあとわずかとなりました。このブログ恒例の、今年一年を振り返る作業にかかります。今日は1月から4月。主な事項のみ取り上げさせていただきます。書籍等の刊行月日は、奥付等に依りました。

1月1日(水)
『月刊致知』2020年2月号で、国際コミュニオン学会名誉会長・鈴木秀子氏という方が、「人生を照らす言葉」と題する連載で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さいました。
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同日、株式会社ダイアプレスから『レジェンド文豪のありえない話』が刊行されました。コラム「文豪たちがしたためた恋文」で、大正2年(1913)、結婚前の智恵子に宛てた光太郎からの書簡が紹介されています。

1月12日(日)
当会顧問にして、晩年の光太郎に親炙、その没後は常に顕彰活動の先頭に立ってこられた北川太一先生が亡くなりました。葬儀は1月17日(金)でした。
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同日、元映画女優の小林みどりさん(芸名・青山京子さん)が亡くなりました。東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督、智恵子役は故・原節子さん、光太郎役は故・山村聰さん)にも出演され、智恵子の姪にして、看護師の資格を持ち、その最期を看取った長沼春子の役でした。

1月15日(水)
新潮社から信濃川日出雄氏著のコミック『山と食欲と私』第11巻が発売されました。安達太良山が描かれ、光太郎智恵子に触れられてています。
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1月18日(土)・19日(日)
長野市のギャラリー花蔵で、智恵子を主人公とした一人芝居『売り言葉』野田秀樹脚本)の公演がありました。

1月24日(金)
杉並区のソノリウムで、コンサート「中嶋俊晴×白取晃司 いのちの対話 その2」が行われました。出演は中嶋俊晴さん(カウンターテナー)、白取晃司さん(ピアノ)。帯刀菜美さん作曲「 <高村光太郎> レモン哀歌 (委嘱作品)」がプログラムに入っていました。
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1月24日(金)~2月24日(月)
青森県十和田湖畔休屋地区特設会場他で「十和田湖冬物語2020 雪と光とアートの世界」が開催されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されました。

1月25日(土)
名古屋市のウィルホールで、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武の息女にして、絵本作家・編集者としてご活躍の末盛千枝子さんがご出演された「朗読コンサート&講演会 人生に大切なことはすべて絵本から教わった。」が開催され、光太郎にご自身のお名前を付けてもらったエピソードなどが紹介されました。
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同日、福島県・棚倉町文化センター倉美館で「小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル~福島県棚倉町公開収録」が行われました。小林さんの歌唱、河原忠之さんのピアノで、中村裕美さん作曲の「或る夜のこころ」が演奏されています。NHK FMの「ベストオブクラシック」で2月24日(月)、NHK BSプレミアムの「クラシック倶楽部」で3月27日(金)、さらにNHK Eテレの「クラシック音楽館」で5月24日(日)に、それぞれオンエアされました。

1月25日(土)~2月2日(日)51755bf9
渋谷区の新国立劇場小劇場で、演劇公演『る・ぽえ』が開催されました。出演は碓井将大、辻本祐樹、木ノ本嶺浩、林剛史、加藤啓の各氏。「高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話」がプログラムに入っていました。

1月29日(水)
福岡市の当仁公民館で、市民講座、遊友塾 『日本の文学作品を読む』が開催され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。講師は船津正明氏(元九州大学非常勤講師)でした。

2月3日(月)~7日(金)
NHK Eテレの「にほんごであそぼ」で、光太郎特集が組まれました。3日(月)「冬が来た」、4日(火)「人に」、5日(水)「道程」、6日(木)「あどけない話」、7日(金)「牛」が、それぞれ取り上げられました。2月17日(月)~21日(金)で、再放送も為されました。

2月7日(金)
『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、詩「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられました。

2月9日(日)
神奈川県秦野市のクアーズテック秦野カルチャーホールで、郷土芸能の発表や物産展などを行う「ふるさとお国じまん 県人会フェア」が開催され、ステージ発表で「福島(安達ケ原の鬼ばば、智恵子抄)」が披露されました。
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2月11日(火)~2月16日(日)
中央区の東京銀座画廊美術館さんで「東京書作展2020 選抜作家展」が開催され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914、雑誌『美の廃墟』に発表された際の102行あった原型から抜粋)を書かれた作品も出品されました。

2月12日(水)~2月18日(火)
新宿区の小田急百貨店新宿店で、「幕末・明治 偉人の書展」が開催され、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を揮毫した光太郎の書も展示されました。
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2月13日(木)c9a008dc-s
福島県双葉郡富岡町の文化交流センター学びの森で、「福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウムin 富岡 ~ほんとの空が 戻る日まで~」が開催され、当会の祖・草野心平ゆかりの同郡川内村の遠藤雄幸村長がパネラーとして発表なさいました。

2月15日(土)
茨城県守谷市の守谷中央図書館で「梅花の朗読会」が開催され、詩「道程」(大正3年=1914)も取り上げられました。

2月16日(日)
『福島民友』さんの連載「ふくしま湯けむり探訪」が、「【二本松市・岳温泉】 山を遊び尽くす拠点 新風を吹き込む温泉宿」を組み、光太郎智恵子にも言及されました。

2月19日(水)
森まゆみ氏著『谷根千のイロハ』が亜紀書房から刊行されました。光太郎智恵子、光雲に言及されています。
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2月21日(金)~4月12日(日)
練馬区立美術館で、「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展が開催され、光太郎に関する展示も為されました。

2月23日(日)
静岡市の人宿町やどりぎ座で、智恵子を主人公とした一人芝居「売り言葉」(野田秀樹脚本)の公演がありました。演出・大石明世氏、​出演は滝沢麻友さん、山内梓未さんでした。
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2月24日(月)
学研プラスから目黒哲也氏企画・編集『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』が刊行されました。北田ゆきと氏作画「高村光太郎」を含みます。

3月1日(日)
 日本絵手紙協会発行の『月刊絵手紙』で、平成29年(2017)から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されてきた「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が終了しました。
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同日、豊島区の広報誌『広報としま』に「春のぽかぽかさくら散歩」という記事が掲載され、光太郎智恵子に言及されました。

3月9日(月)
小学館から井上涼+NHK びじゅチューン!制作班著『びじゅチューン! DVDBOOK 5』が発行されました。NHK Eテレで放映中の同名番組をまとめたもので、「指揮者が手 高村光太郎「手」」を含みます。
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3月10日(火)
京都市のピアノサロン Atelier Minoyaで、「魂に響く朗読と音楽のle petit boheur reading aloud&piano vocal concert」が開催され、光太郎詩「さびしきみち」(大正元年=1912)が取り上げられました。出演は松本愛子さん(Sop/Pf)、木暮昌子さん(フリーアナウンサー)でした。
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3月11日(水)
小学館から早瀬耕氏著『彼女の知らない空』が刊行されました。七編から成る短編集で、第一作「思い過ごしの空」で、光太郎詩「あどけない話」(昭和2年=1927)がモチーフとして使われています。
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3月12日(木)
『週刊新潮』3月12日号の五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」が「高村光太郎の国民歌」という副題で、光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」(昭和15年=1940)を取り上げました。

3月14日(土)d6d5bd09-s
NHKラジオ第一の「 石丸謙二郎の山カフェ」が「春を感じよう!」という副題で、光太郎随筆「山の春」(昭和26年=1951)を取り上げました。5月30日(土)に再放送がありました。

3月17日(火)
『朝日新聞』に「休校中の子へ、詩集をどうぞ コールサック社、1千冊を無料配布」という記事が掲載されました。出版社コールサック社が、平成28年(2016)刊行の『少年少女に希望を届ける詩集』(光太郎の「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)を含む)を、小中高などの教育関係者、保育園、幼稚園、障害者施設などの従事者、子ども食堂などでボランティアをしている支援者らに無料で配付することの紹介でした。

3月19日(木)
文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て、長野市の信濃善光寺仁王門が国登録有形文化財に登録されました。納められている仁王像二尊、三面大黒天像、三宝荒神像は、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になるものです。
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3月20日(金)
公益財団法人日本近代文学館編刊『日本近代文学館年誌 資料探索 15』が発行されました。書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏による「高村光太郎と「書」」が掲載されています。
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3月31日(火)
山と渓谷社編刊、『山と溪谷2020年5月号増刊 「最も美しい上高地へ」』が発行されました。大正2年(1913)、一夏を上高地で共に過ごした光太郎智恵子に随所で言及されています。

4月1日(水)
アルテヴァンから、柳原義達著『孤独なる彫刻 造形への道標(みちしるべ)』が増補版として改訂発行されました。「高村光太郎」の項、ロダンの項、「私と彫刻」の項などで光太郎に触れています。
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4月2日(木)
コロナ禍のため、千代田区日比谷公園松本楼で開催予定だった第64回連翹忌の集いを中止と致しました。この日発行の当会会報的な『光太郎資料53』は後日、郵送いたしました。同日、高村光太郎研究会から『高村光太郎研究(41)』が発行されました。
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4月10日(金)
勉誠出版から日本近代文学館編『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』が刊行されました。上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎 」を含みます。

4月11日(土)
國學院大學名誉教授で、光太郎についての著作もおありだった傳馬義澄氏が亡くなられました。

4月11日(土)~4月17日(金) 5月21日(木)~6月28日(日) 
コロナ禍による中断をはさみ、福島県いわき市の市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月14日(火)
日本郵便株式会社東北支社からオリジナルフレーム切手「十和田湖・奥入瀬渓流~四季のひとこま~」が発行されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の写真もデザインされました。

4月15日(水)
『日本古書通信』2020年4月号に、同誌編集長の樽見博氏による「感謝 北川太一さん」という記事が掲載されました。
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4月19日(日)
『しんぶん赤旗』日曜版、「たび」という連載で、福島二本松の智恵子生家とその周辺が大きく紹介されました。
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4月22日(水)
一兎舎から田丸めぐみ氏著『荻原碌山伝記小説 我がいのち「女」へ』が刊行されました。光太郎も登場します。
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4月26日(日)c8617d4e-s
岩手の盛岡でシニア世代向けに発行されている情報誌『シニアズ』に、生前の光太郎をご存じで、花巻ご在住の浅沼隆さんの談話筆記「晩年を花巻で過ごした芸術の天才 高村光太郎の人柄」が載りました。 

4月28日(火)
俳優の金内喜久夫さんが亡くなりました。金内さんは平成23年(2011)と翌年、渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」で、主役の光太郎役を演じられました。

3月半ば頃までは、例年通りにいろいろなイベント等も組まれていたんだな、と改めて思いました。その後は、当会主催の連翹忌をはじめ、櫛の歯が抜けるように中止、延期のオンパレード。

例年なら、今日の内容に花卷高村祭(5/15)や碌山忌(4/22)などが入っていたのですが……。

とにかくこのコロナ禍が早く収まることを願って已みません。

明日は5月から8月を。

【折々のことば・光太郎】

日出頃東天の朝焼茜色に美し。雪雲の反映とみゆ、午前中に雪となり、午后やむ。二寸程つもる。 〒来らず 此雪が根雪となるか、一度きえるか分らず。夜中々冷える。流場も凍る、


昭和20年(1945)12月3日の日記より 光太郎63歳

前日から断続的に、この冬初めての雪でした。故・北川太一先生が「生涯で最も鮮烈な冬」と呼んだ、過酷な季節の始まりです。

ほぼ毎年、同様のご紹介をしていますが、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。
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最初に
大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼

2021年銚子市初日の出インフォメーション

初日の出時刻 午前6時46分頃
関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。
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新型コロナウイルス感染拡大防止のため、マスク着用、手指の消毒、3密の回避など感染防止対策のご協力をお願いいたします。また、発熱のある方や体調の優れない方の来銚はお控えください。
元日の未明は、初日の出にお越しになる自動車で相当の混雑が予想されるため、犬吠埼周辺道路において交通規制を行います。詳しくは「2021年銚子市初日の出情報」内の「初日の出マップ」をご覧ください。また、危険防止のため犬吠埼灯台前園地の一部と遊歩道を立入禁止といたします。

今年は、例年実施していた「初日の出ハッピーバルーンリリース」に代わり、元日から3日間、「新型コロナ収束祈念ハッピーバルーンフォトCHOSHI」として、市内6カ所にバルーンオブジェの展示を行います。市内各所を巡り、「CHOSHI」を完成させてください。
展示箇所については「2021年銚子市初日の出情報」内の「2021年年始イベント情報」をご覧ください。また、その他各店舗の情報についても、広告欄に掲載しています。
元日オープン情報
銚子ポートタワー 開館:午前6時から
(注意)午前6時から午前7時の間は、入場先着100名限定となります。
地球の丸く見える丘展望館 開館:午前5時30分から
(注意)午前5時30分から午前7時の間は、入場先着200名限定となります。
犬吠テラステラス 開店:午前7時から

当方はこのところ毎年、銚子より少し南に下った九十九里町真亀で初日の出を拝んでいます。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が約半年間療養し、毎週のように光太郎が見舞いに訪れた地です。例年ですと九十九里町元旦祭が開催されていたのですが、例によってコロナ禍で中止となりましたが……。
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続いて、智恵子の故郷・福島二本松。『広報にほんまつ』の2021年1月1日号(既にネット上にアップされています)から。

二本松城本丸跡で迎える初日の出

1月1日・元旦、初日の出を迎えようと、二本松城本丸跡には毎年市内外からたくさんの人が訪れます。暗闇から一変、東方の阿武隈山地から太陽が姿を現すと、眼下には市街地が広がり、その見晴らしは絶景です。ぜひ一度足を運んでみてください。
※駐車場には限りがあります
※日の出は午前6時45分頃の予定です。
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最後に、この時期、富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」で有名な、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、日本文学報国会の事業「日本の母顕彰」のため光太郎が訪れ、光太郎文学碑も建てられています。
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今月21日のNHKさんのニュースから

冬至 見事なダイヤモンド富士

21日は冬至です。
例年冬至の日の頃から元旦ごろにかけて、富士山の頂上付近に太陽の光が輝いてみえる「ダイヤモンド富士」が見られる富士川町のスポットでは、21日朝、見事なダイヤモンド富士が見られました。
富士川町の高下地区は、例年冬至の日の頃から元旦ごろまで、日の出の太陽の光が富士山頂付近でダイヤモンドのように輝いて見える「ダイヤモンド富士」のスポットとして知られています。
21日朝も、絶景を撮影しようと、夜明け前から県内外の写真愛好家などが訪れました。
午前6時半ごろから東の空が明るくなり、午前7時20分すぎに雲1つない富士山の山頂から朝日が昇ると、まばゆい光が輝いてダイアモンド富士となりました。
カメラを構えていた人たちは一斉にシャッターを切り、一瞬の美しさを切り取っていました。
富士吉田市から来た男性は「初めて来ましたが、自分なりに満足のいくものが撮れました」と話していました。
また、毎年訪れているという新潟県三条市の男性は、写真の出来栄えについて「まだまだです」などと話していました。
富士川町高下地区のダイヤモンド富士は、来年の元旦ごろまで見られるということです。
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こうした場所で見るのも一興、そうでなくても各地で初日の出はあまねく起こります。コロナ禍収束を願う意味でも、ぜひ祈りを込めてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方戸来恭三さんランプを持つてきてくれる。院長さんのたのみの由、石油一瓶針金も持参、贈与の由、 夜ランプをつける。

昭和20年(1945)11月23日の日記より 光太郎63歳

「戸来恭三さん」は山小屋のある旧太田村山口地区の住民。「院長さん」は佐藤隆房です。この日から、昭和24年(1949)までの3年以上、電気のないランプ生活を送りました。
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一昨日、昨日と、1泊2日で花巻、盛岡を廻っておりました。レポートいたします。

12月4日(金)、新幹線を新花巻駅で降り、迎えの車に乗って、まずは花巻市役所さんへ。市の主催で来年度に計画されているイベントや展示の打ち合わせを行いました。市民講座の講師、展示の監修等を仰せつかりまして、ありがたいかぎりです。

再び市の公用車に乗せていただき、花卷高村光太郎記念館さんへ。
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まだ積雪には至っていませんでしたが、気温はかなり低い状態でした。

こちらでは昨日から、花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマとした共同企画展の一環、「光太郎と佐藤隆房」が始まっています。一昨日は内覧ということで、地元紙の取材も入っており、対応しました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、郊外旧太田村に移る前の1ヶ月程、光太郎を自宅離れに住まわせてくれ、その後も援助を惜しまなかった佐藤隆房元総合花巻病院長と光太郎の交流を紹介する展示です。
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隆房は光太郎歿後、財団法人高村記念会を設立、初代理事長となり、それは子息の故・進氏に引き継がれました。
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左上画像は光太郎が1ヶ月暮らした佐藤家離れの2階。ここを光太郎は「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。「潺湲(せんかん)」は「水のせせらぎ」。すぐそばに豊沢川の清流があることに由来します。右画像は佐藤家を訪れた際に光太郎が愛用していたという椅子です。

佐藤が絵を描き、光太郎が賛を書いたものが四点。
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「天しろし」
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「ひかりをつゝむ」
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「孤坐」
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「人は野をおもひ山をおもふ」

いつもながらに味のある書です。

そのうちに地元紙に報道が出るはずですので、またその際にご紹介します。

花巻高村光太郎記念会として来年度に行う企画展示の打ち合わせ等を行い、こちらを後にしました。

その後、車で送っていただき、盛岡へ移動。こちらでは、「ゆかりの盛岡から高村光太郎を知る会」の会合。コロナ禍の為中止となりましたが、今年の5月に岩手県公会堂で、同会主催の講座「光太郎の食卓から」が開かれる予定で、当方も一役買うはずでした。下記は幻の要項です。
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この講座では、盛岡でイタリアンの「アッカトーネ」さん、さらに「光太郎山荘」ならぬ「敲太楼山荘」さんのオーナーソムリエ・松田宰氏にもお話をいただく予定でした。

そこで、この日は松田氏の料理に舌鼓を打ちつつ、会合。当初はお店で開催のはずでしたが、三密を避けるため、農林会館という建物の会議室で行いました。
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テイクアウト的なこういう状態でしたが、実に美味でした。

この日は中の橋地区のホテルブライトイン盛岡さん(アッカトーネさんの向かいです)に宿泊。昨日のブログにも同じ画像を使いましたが、翌朝、部屋の窓から取った岩手山。
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南隣は啄木・賢治青春館さん。
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北隣は盛岡てがみ舘さんの入っているプラザおでってさん。さらに道路を渡ると旧岩手銀行赤レンガ館さん。
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部屋で朝食を摂った後、ロビーで地元紙『盛岡タイムス』さんの取材を受けました。来年元日の同紙で、光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、そのためです。てがみ館さんで直筆原稿が常設展示されている光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)をメインとするとのことでした。その後、連れだっててがみ館さんへ。
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現在、盛岡とその周辺の古絵葉書などを中心とした「なつかしの盛岡」展が開催中です。光太郎も見た風景ということで、興味深く拝見しました。
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「岩手山の肩」原稿はこちら。
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006紙面は来年、送って下さるそうです。ちなみに紙面を送って下さる、と言えば、明日、12月7日(月)だかの『朝日新聞』さんの夕刊でも光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、岩手行きの前に電話取材等に対応しました。品川のレモン哀歌詩碑などに関わるようです。やはり紙面を送って下さるそうで、そのうちにご紹介します。

その後、記者さんと別れ、当方は盛岡駅前の岩手県立図書館さんで調べ物。光太郎が題字を揮毫し、昭和二、三十年代に刊行されていた地方紙『花巻新報』を閲覧してきました。

当会発行の冊子『光太郎資料』で、光太郎が作詞、邦楽奏者の杵屋正邦が作曲し、昭和26年(1951)に花巻で日本舞踊を振り付けて上演された「初夢まりつきうた」について書いたのですが、まだ不分明な点が多く、その補完が主目的でした。すると、やはり当たりで、いろいろと分かりまして、次号の『光太郎資料』にその辺を書こうと思っております。

また、それ以外にも光太郎が昭和25年(1950)に花城農業高校(現・花巻農業高校)で行った講演の長い筆録も掲載されていたのを発見した他、『高村光太郎全集』未収の談話筆記等多数見つかりました。

コロナ禍のため、長時間の滞在が出来ないという制約があり、1時間あまりで撤収しましたが、他にも目星を付けている蔵書がありますので、またいずれ、と思っております。

というわけで、有意義な岩手紀行でした。

おまけ。東京駅から高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所最寄りのバス停・JR佐原駅で降りたところ、田舎の駅で普段はあり得ない人山の黒だかり、もとい黒山の人だかり。何事だ、と思ったら、JR東日本さんの超豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が停車していました。そういえばちょっと前にこっちの方に来ると新聞で予告されてたっけ、と思いあたりました。
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赤いのはお出迎えでやって来た、千葉県のゆるキャラ・チーバくんです。ちょんまげは当地の偉人・伊能忠敬がらみですね。
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ちなみに現在の2泊3日コース、岩手も通るルートで運行されています。こちらは2名で55万円から75万円、1名だと82万5千円から112万5千円だそうで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻着(午前七時過) 宮沢家に入る、 雨、


昭和20年(1945)5月16日の日記より
光太郎63歳

4月13日の空襲で駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居を焼け出され、しばらくは近くにあった妹の婚家で過ごしていましたが、そこも他の被災者で手狭になり、宮沢賢治の実父・政次郎、実弟・清六、そして佐藤隆房等の誘いで花巻へ疎開。上野駅を発ったのが前日の夕方でした。光太郎が「TRAIN SUITE 四季島」などを見たら、腰を抜かすのではないでしょうか(笑)。

究極の雨男・光太郎、花巻に着いた時も雨でした。その魂を背負ってしまった当方も究極の雨男となり、昨日も関東に帰ってきたら雨でした(笑)。

昨日から岩手盛岡に来ております。
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昨日は花巻に立ち寄り、市役所、それから花巻高村光太郎記念館さんへ。同館で今日から始まる企画展示「光太郎と佐藤隆房」を内覧。
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市役所、それから盛岡に移動し、こちらのいろいろな団体さんと、来年度のイベントや展示等の打ち合わせ。

これから地元紙の取材を受けます。

詳細は帰りましてから。





昨日から一泊で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

昨日は都内台東区の東京藝術大学大学美術館さんに寄り、「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見。光太郎木彫「蓮根」を久しぶりに拝観しました。

その後、一路花巻へ。宿泊している花巻南温泉郷大沢温泉さんにチェックイン。
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早速ひとっ風呂浴びた後、8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)へ。花巻高村光太郎記念館さんの方々と、テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで夕食。
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今日は、まず記念館さんに行き、企画展示「高村光太郎とホームスパンー山居に見た夢ー」を拝見します。

その後、再び道の駅に。テナントの「ミレットキッチン花」さんで販売される手作り弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に参加して参ります。

詳細は帰りましてから。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。

メインの目的地は、北鎌倉。「あじさい寺」として有名な名月院さん近く(「徒歩365歩」だそうです(笑))のカフェ兼ギャラリー・笛さん。光太郎のすぐ下の妹・しづの婚家で、令孫の山端夫妻が経営されています。
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こちらでは、毎年この時期に、光太郎に関わる展示をなさってくださっています。昨年は当方がバタバタしており伺えなかったのですが、今年はご案内もいただきまして、昨日の初日にお邪魔して参りました。
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近くに、光太郎と親交の深かった詩人の尾崎喜八が住んでいて、その尾崎の結婚(妻は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子)祝いに光太郎が贈ったブロンズ(大正13年=1924)です。ミケランジェロの「聖母子像」の模刻ですが、石膏原型は既に喪われ、鋳造もこれ一点しか確認できていない貴重なものです。

平成26年(2014)にお邪魔した時には、尾崎夫妻ご息女の故・榮子様がご健在で、ちょうどいらしていて、子供の頃、智恵子に抱っこされた思い出など、貴重なお話を伺うことができました。ちなみに今日、10月5日は智恵子命日「レモンの日」です。

その他、複製が中心ですが、智恵子の紙絵や光太郎デッサンなどなど。書(色紙)は複製でない光太郎肉筆のものが一点飾られていました。
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また、展示されていなかった古写真も拝見。
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昭和18年(1943)、「笛」オーナーの山端夫妻のご両親である敏夫氏(しづ四男)・静江様ご結婚の折の記念写真だそうです。

光太郎も写っています。珍しく(笑)ネクタイ姿です。
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最後列一番右が光太郎(長男)、その前に実弟・豊周(三男)夫妻、豊周の右隣は藤岡家に養子に行った孟彦(四男)と思われます。次男・道利はなぜか写っていないようです。

こんなものも展示されていました。
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東大地震研究所さんで作った光太郎木彫「鯰」のレプリカ。昭和45年(1970)、同所の創立45周年の記念品です。言わずもがなですが、「地震」で「鯰」、洒落が利いています。当方は5年後に作られた同50周年記念のものを持っていますが、そちらは樹脂で周りを固めたペーパーウェイトになっています。
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さて、「笛」さんでの展示、11月22日(日)までです。ただし、火・金・土・日のみですので、ご注意を。

「笛」さんにお邪魔する前、同じ鎌倉の川喜多映画記念館さんで、「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。明日はそのあたりを。


【折々のことば・光太郎】

僕は上等な料理よりも栄養のある料理のほうがいいのです。上等な料理は体裁がよくても、栄養がないということが多いのです。臓物や尾などの捨てるところに栄養があるのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二一」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎、当時は精肉店などで捨てられていた牛のシッポを貰ってきて、オックステールスープを自作していたそうで……。

001当会発行の冊子『光太郎資料』54集、完成しました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十八回 父母弟妹・親族・姻族(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、親族や姻族に宛てた書簡等を載せました。

明治42年(1909)、欧米留学の末期に1ヵ月ほど旅して歩いたイタリアから実弟の道利に送った絵葉書(今年、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されました)、同じく花巻高村光太郎記念館さんに平成26年(2014)に寄贈された、実弟豊周の妻、美和にあてた書簡などを載せています。

・光太郎回想・訪問記  宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる 鈴木重郎
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。平成26年(2014)公開の映画「テルマエ・ロマエⅡ」(阿部寛さん主演)のロケ地にもなった群馬県の宝川温泉を光太郎は2度訪れていますが、その際の思い出を、同温泉主が回想した文章です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。底本には、平成18年(2006)柏書房発行、『大江戸座談会』を使っていますが、同書の監修に当たられた竹内誠氏(元江戸東京博物館館長)が、先月、亡くなっています。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十八回  宝川温泉/湯の小屋温泉(群馬県)
上記「光太郎回想・訪問記」とリンクさせました。宝川温泉は、かつては「熊と一緒に露天風呂に入れる温泉」というのが売りでした。光太郎が泊まった当時の建物、部屋が現存しているようです。
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さらに宝川温泉と同時期に訪れた湯の小屋温泉についても。

・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その二)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。

・高村光太郎初出索引(年代順 二)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号は明治42年(1909)と翌43年(1910)に初出があったもの。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

よく「田舎に住みたい」という人がいます。しかし、ほんとうに田舎の生活が出来る人は少ないと思います。一カ月もしたら耐えられなくなってしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一八」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「田舎」の定義にもよりますが……。光太郎が住んでいた当時の花巻郊外旧太田村、闇屋の買い出しさえ来なかったという場所でしたので……。

花巻レポートの最終回です。

9月14日(月)から1泊させていただいた花巻南温泉峡の大沢温泉さん。かつて光太郎もたびたび宿泊した温泉地です。
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こちらはゴージャスめの温泉旅館「山水閣」、南部藩のお殿様も泊まった(光太郎もですが)築170年近い萱葺きの別館「菊水館」、そして湯治客用の「自炊部(湯治屋)」の三棟に分かれています。経営はグループで同一です。

当方、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、一昨年の台風により、そちらに通じる道が被災したため宿泊棟としては休業中です。

そこで、このところ自炊部さんにお世話になることがほとんどとなっています。
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窓を開けると豊沢川の清流、その対岸に菊水館。
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菊水館の建物は無事でしたし、自炊部からは曲がり橋という橋で歩いていけますので、昨年からは「昔ギャラリー茅(ちがや)」として活用されています。やはり人が出入りしないと建物は死んでしまいますから、いい取り組みだと思います。当方、昨秋以来2度目の訪問となりました。
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まず目にとまったのは、昨秋は無かったと記憶していますが、元のロビーだったところに、大型テレビを縦に置いた液晶ディスプレイ。東北新幹線の新花巻駅待合室にも同じような機器がセットされていましたが、当節、流行なのでしょうか。
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現在の展示内容についての動画などが流れ、さらに「古き良き花巻 昭和35年観光映像」ということで、昭和35年(1960)撮影の映像も。
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ディスプレイ下部は固定で「馬面電車」といわれた花巻電鉄。2系統あったうちの一つが、かつて花巻中心街から南温泉峡の鉛温泉まで通じていて、大沢温泉さんにも駅があり、その画像です。

さて、動画部分。当時としては画期的だったと思われるカラー映像です。
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タイトルの後は東北本線花巻駅ですね。
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ナレーションは花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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こちらでも花巻電鉄。

花巻といえば宮沢賢治。そういえば高橋圭三さん、賢治とは遠縁だそうです。
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市街桜町の賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫しました。
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当時は普通に見られたイギリス海岸(現在は水面が上がり、通常は水底です)。

そして、光太郎。
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まだ記念館は建てられていませんでしたが、光太郎の暮らした山小屋には套屋がかぶせられ、高村山荘として整備されていました。
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「雪白く積めり」詩碑も既に建っていました。

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山荘裏手の高台には智恵子展望台。ここで夜な夜な光太郎が「チエコーッ」と叫んでいたという証言から名付けられました。
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現在はウッドデッキが整備され、きれいになっています。

その他、市内各所の見どころや、年中行事など。なかなか見応えのあるものでした。

その他の展示。昨秋と同じだったところもあれば、変わっていたスペースもありました。
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こんなコーナーも。
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先ほどの映像のナレーター、花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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作家の夢枕獏さん。
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故・西城秀樹さん、そして渡辺えりさん。
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渡辺さんのものは、平成25年(2013)5月、高村祭などでご講演いただいた際のものです。その時は渡辺さんは山水閣さんの牡丹の間、当方は菊水館に泊まりました。一緒ではありませんでしたので、念のため(笑)。

さて、菊水館。こうした利用方法も一つの手ではありますが、やはりまた宿泊棟として復活して欲しいものです。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

古老の天気に関する考えを記録に取ることもあります。これは科学的な予報ではないのですが、長い間の体験から生まれでる感じによって、当たることがあります。人よりも動物のほうが天候や天気に対する感覚が強いと考えられるくらいですから、あながち、でたらめなことでもないと思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 四」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。自然と一体化して暮らすという、光太郎にとっては若い頃からの理想の実現という意味もありました。

一昨日・昨日と1泊2日で、市民講座講師のため岩手花巻に行っておりました。3回にわけてレポート致します。

花巻到着後、まず向かったのは、先月オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。
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あいにくの雨模様でした。

さらに平日の日中でしたが、そこそこお客さんが入っており、胸をなで下ろしました。オープン早々閑古鳥が鳴いていては先行きが心配ですし。

向かって左が産直コーナー的な物産館「すぎの樹」さん。
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地元の農産物、お弁当、加工食品などが並んでいます。

壁には花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた絵。ここにこういう絵があったことに気がつきませんで、後で花巻高村光太郎記念館さんの方に、「こういう絵があったでしょう」と言われ、「?」。そこでスマホの画像を見てみると、ちゃんと写っていました(笑)。拡大すると……。
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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということで、賢治グッズ/光太郎グッズのコーナーも。
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こちらのオープンに合わせて開発された新商品「智恵子のレモンキャンディー」、当方が訪れる頃には売り切れ必至だろうと、今月初めに送って下さったのですが、まだ残っていました。
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当方大好物のリンゴも売られていまして、買わないという選択肢はありませんでした(笑)。購入したのは小さめの品種でしたが4つで230円と激安。少し前には当方地元・千葉のスーパーで1個200円くらいでしたので、嬉しい価格でした。
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産直コーナーの隣は焼き肉レストラン「味楽苑」さん。この日は既に新幹線車内で昼食(駅弁)を済ませていたのでパスしましたが、いずれこちらで食べさせていただこうと思いました。

さらにその奥がコミュニティスペース的になっており、テーブルと椅子。
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壁面には賢治と光太郎に関する説明パネル。地元の方のご執筆ですが、こちらにも原稿が回ってきまして、校閲、加筆させていただきました。
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空いている壁面もありますし、まだまだ工夫の余地はありそうです。市内の賢治/光太郎マップとか、それぞれのスポットの紹介とか。さらに映像機器等を置く構想もあるやに聞いています。

建物の外には海鮮系の移動販売車。
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草花のコーナーも。リンドウが綺麗でした。いかにも、秋。
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全体としては、まだオープンしたばかりなので、まだまだこれからどう発展していくか、という感じですね(同じ敷地内にコンビニも建設中でした)。

今後はここを拠点にいろいろな活動等が展開していくことを望みます。当方地元の道の駅では、地元ラジオ局とのタイアップでコンサートが開かれたり(かつては「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみさんなどもいらっしゃいまして拝聴しました)、日曜日、今回の花巻行きのための手土産を買いに行ったら、フリーマーケットが行われていたりしました(いずれ出店しようかな、などとも思いました(笑))。地元の皆さんで、どんどん良いアイディアを出して行っていただきたく存じます。

みなさまもぜひ花巻にお越しの際はお立ち寄りを。


【折々のことば・光太郎】

子供は先生のいうことはよくききます。しかし、親子で教えることはできません。教えるというのではなくて空気です。耳や目からでなくて、いつとはなしに体で覚えます。いつのまにか染みこみます。染みこんだものはなかなか取れません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた山小屋近くにあった山口小学校の保護者懇談会での発言です。

明日、レポートいたしますが、市民講座で光雲・光太郎親子の彫刻の系譜的なお話しをさせていただきました。それぞれに傑出した彫刻家であった二人、しかし目指す方向性は異なり、いろいろな問題を孕んでいるのだな、と、改めて感じました。

昨日から岩手花巻に来ております。
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先月オープンした「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」を訪れ、さらに花巻高村光太郎記念館さんに。
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開催中の企画展示「光太郎の父高村光雲の鈿女命」を拝見。今日はそちらの関連行事の市民講座で講師を務めます。
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宿泊は大沢温泉♨さん。

詳細は帰ったらレポートいたします。

繰り返し書きますが、新型コロナの影響で、各種イベント等がほとんど行われなくなり、このブログのネタにも困っています。

新着情報系がない時は、最近入手したもののご紹介。少し前に同様の趣旨で「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。」という記事を書きましたところ、意外と反響が大きくて驚きました。

今回は「新発見」というものではないのですが、ちょっと珍しいと思われるものが手に入ったので、そちらをご紹介します。光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻の昭和30年代はじめと思われる絵葉書セットです。

まずはカバー。二つ折りの状態のものを開いてスキャンしました。画像をクリックしていただくと拡大します。

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花巻市さん、花巻市観光協会さんが発行元ということになっています。裏表紙的な方には、アバウトな地図。2系統あって、ともに昭和40年代に廃線となった花巻電鉄(細い弧線)がここでは健在です。右上には光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建てられた十和田湖も。このあたりは縮尺を無視しています。

カバーの裏には手書きの文字で「33.9」とあります。おそらく最初に購入した方が、昭和33年(1958)9月にゲットした、という意味でしょう。その日の体温だとしたら低すぎます(つまりませんね(笑)、すみません)。

中身は8枚入っていました。やはり昭和30年代はじめと思われる写真でした。なぜわかるかというと、こちら。

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昭和20年(1945)から7年間、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)です。中央が元々の小屋(鉱山の飯場小屋を移築したもの)、左の白い建物は昭和26年(1951)、オリジナル『智恵子抄』の版元、龍星閣の肝煎りで増築された二間×三間の別棟、右の方は便所と風呂場です。

光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)には、中央の元の小屋を保存するための套屋(カバーの建物)がかけられ、左の新小屋は50㍍ほど移築されています。しかし写真はそれが行われる前のもの。それから、カバーには先述の通り「花巻市」とあり、花巻に市政が施行されたのが昭和29年(1954)ですから、おそらく昭和30年(1955)前後の撮影でしょう。

右は光太郎の山小屋と同じく旧太田村の音羽山清水寺さん。光太郎も何度か足を運んでいます。

花巻といえば、宮沢賢治。

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昭和11年(1936)建立の、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」碑も取り上げられています。イギリス海岸は2枚にわたって。

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もう一つ、花巻といえば、温泉。有名な温泉5カ所が採用されています。

豊沢川沿いに点在する花巻南温泉峡の一番奥、鉛温泉藤三旅館さん。

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光太郎が泊まった当時の建物で、令和となっても健在です。

光太郎がもっとも多く逗留したと思われる、大沢温泉さん。

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左は「菊水館」となっていますが、本来の菊水館さんは写真左の方、江戸時代竣工の茶色い茅葺きの部分です。赤い屋根の方の建物は、位置関係からして現存しないのではないかと思われます。菊水館さん、一昨年の台風で道路の法面が崩れ、車が通行できないため宿泊棟としては休業し、「昔ギャラリー茅」として活用されています。ここにも光太郎が宿泊しています。

右は山水閣さん。現在は建て替えられて近代的な建物になっていますが、光太郎が居た頃はちょっと高級な温泉旅館的な棟でした。光太郎がよく泊まった部屋が「牡丹の間」という名で再現されています。

続いて、志戸平温泉さん。

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光太郎、ここにも泊まっています。ただ、残念ながら当時の建物は残っていません。おそらく画像は光太郎が泊まった頃の建物なのでしょう。

南温泉峡から一山越えた花巻温泉さん。

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こちらは建物がメインではなく、庭園を前面に押し出しています。松雲閣は、やはり光太郎の定宿の一つ。現在は旅館としては廃業しましたが、建物は健在で、一昨年、国の有形文化財に登録されました。

最後に台温泉さん。南温泉峡とは異なり、小さな温泉旅館がたくさん。その中の松田屋旅館さんに光太郎の足跡が残っています。絵葉書には松田屋さんは写っていないように思われますが、すぐ近くでしょう。

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以上8枚のセットでした。元の購入者の方が、他の何枚かを使ったりしていなければ、これで全部です。

この手の古絵葉書、かえって戦前のものなどの方が、その古さ故の資料的価値などから、市場に多く出回っています。このような昭和30年代位のものだと、中途半端に古い、的な感じなのでしょう、あまり見かけません。ただ、当方としては、光太郎が居た頃とそう離れていない時期のものなので、ありがたいのです。

ところで、気になって各温泉宿のHPを見てみました。案の定、何軒かは新型コロナの影響で休業中のようです。岩手県では感染者ゼロが続いていますが、やはり気をつけるに超したことはありませんね。

昨日のこのブログでは、「世界がもとに戻ったらしたいこと」ということで、「図書館系に行って調べものをしたい」と書きましたが、やはり「温泉に行きたい」も挙げねばなりません(笑)。大手を振って温泉に行ける碑が戻ってくることを念じつつ……。


【折々のことば・光太郎】

秋水かげふかし  短句揮毫  戦後期  光太郎70歳頃

おそらく花巻郊外旧太田村に蟄居していた頃の揮毫です。

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イラストレーター・ただまひろさんのツイート「『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』」が話題になっています。

Yahoo!さんのニュースサイトから。 

飲み会に部活?『世界がもとに戻ったらしたいこと』ツイートに反響、自粛の我慢を希望へ変換

『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』と題した漫画のツイートが、大きな話題となったイラストレーター・ただまひろさん(@mappy_pipipi)。同ツイートは31.1万のいいねを集めたほか、「コロナが終息したら、みんなは何したい?」という問いかけに応えたユーザーから、多くの「したいこと」が寄せられ、1000件以上のコメントが付いた。この漫画に込めた思い、自粛生活を送るユーザーへのメッセージを聞いた。

■31.1万の“いいね”集めた漫画、大反響の裏に「みんなの我慢」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』をツイートしようと考えたきっかけは?

【ただまひろさん】私にできることは、「自粛しよう」と注意喚起するよりも、漫画を読んでくれた方にこの先の楽しいことを想像してもらい、それを実現するために今がんばろうと感じてもらうことだと思い、公開しました。

――漫画の中には11個の「したいこと」が描かれていますが、どんなことを意識して制作したんですか?

【ただまひろさん】「したいこと」はもっといっぱいあると思いますが、自分がしたいことや、周りの人がしたいと言ってることを選びました。またイラストについても、読者の方が自分に当てはめて読めるように、一つのキャラクターを使うのではなく、いろんな人を描きました。

――“いいね”はもちろん、多くの人が自分のしたいことを書いてリプライしています。

【ただまひろさん】想像以上のたくさんの「したいこと」があって、今みんなが我慢してるんだと改めて感じました。みんなのしたいことを絶対できるようにするために、今一人一人ががんばらないといけないと思います。

――ただまひろさんは、イラストレーターのほかにクレープ屋でも働かれているとか。やはり、コロナの影響を感じますか?

【ただまひろさん】そうですね。今何も影響がないという人はいないと思います。いつまで続くのかわからない状態でストレスが溜まりますが、誰かのせいにはしたくないなと思っています。

■バイト先のクレープ屋にもコロナの影響、「誰かのせいにはしたくない」
――今回にしても、クレープ屋のお客さんを描いた漫画にしても、絵や言葉にとても温かみがありますね。描く際に心がけていることは何でしょうか?

【ただまひろさん】ありがとうございます。ちょっと笑えてホッとするものを目指してるので嬉しいです。一人一人思うことは似ていたとしても、まったく同じわけではありません。自分は良かれと思って描いたとしても、誰かを傷つけてしまうかもしれない。そういうことがなるべく無いように心がけています。

――多くの反響がありましたが、SNSで作品を発信することの良い点、また大変だと思うことはありますか?

【ただまひろさん】良い点は、実際に会ったことがない人にも作品を見てもらえたり、自分では想像できなかった考えを知れる点です。誰でも見られて何でも言えるのが良いところですが、それが大変な面でもあると思います。

■嘆いてもどうしようもない、「家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジ」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』の最後には「したいことを楽しみに過ごそう!」とありますが、まさにゴールデンウイークも自粛生活となっています。ユーザーへ何か伝えたいことは?

【ただまひろさん】私も、旅行や帰省など色々と計画を立てていました。もう近場にも行けない状態ですので、家でお菓子作って食べて筋トレしての繰り返し...の予定です。どこにも行けないのを嘆いていてもどうしようもないので、今は家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジするほうがいいと思います。

――ちなみに、ただまひろさんの一番したいことは?

【ただまひろさん】まずは帰省して両親や祖父母に会いたいです。あとは友だちと集まって、ごはんや飲み会をパーッとやりたいです!

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したいことを楽しみに過ごそう!」というポジティブな考え方がいいですね!

当方も、「① 集まって、飲み会したい」、「③ お祭りに行く」、「④スーパー銭湯とサウナに行きたい」、「⑥ 旅行する」、「⑪ 普通の生活を送りたい」あたりはまさに当てはまります。

それ以外に是非やりたいこと、というか、今、やれなくて困っていることなのですが「図書館系で調べものをしたい」と思っています。

少し前に、このブログで紹介すべきネタが不足している、と嘆いたところ、メールで情報提供があったり、ネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報があったりしています。で、その情報について詳しく調べたり、ご教示いただいた資料を閲覧したりしたいのですが、主要な図書館系はどこも休館中……。困っています。

例えば、当方と同じ千葉県ご在住で、連翹忌にもよくご参加いただいている方から、ご自宅近くだという千葉県文書館さんの情報をご提供いただきました。こちらは「県の行政文書や古文書などの資料を収集保存し、その活用を図るとともに、県の行政に関する情報を提供する施設」だそうですが、こちらにローカルテレビ局・チバテレさん制作の「房総プロムナード」という番組がDVDで保存されていて、視聴できるというのです。

同番組、現在は制作は終了しているようですが、'90年代末、'00年代くらいのものは、時折、再放送されています。ご教示いただいたのは、それより古いもので、2本。まず、昭和52年(1977)制作の「文学散歩 九十九里の浜」。こちらに当時存命だった智恵子の妹・斎藤セツが出演しているというのです。セツは昭和4年(1929)の智恵子実家・長沼家の破産後、あちこち転々としたのち、九十九里に夫や子ども、そして母・センと共に落ちつき、昭和9年(1934)には、半年余り、心を病んだ智恵子を引き取っていました。その智恵子の思い出を語っているということで、これはぜひ見てみたいと思っております。写真はいくつかの資料に載っているのですが、動画となると、見たことがありません。ちなみに下記は昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のパンフレットから。

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また、平成2年(1990)制作の「文学散歩 ~九十九里町~」。こちらには、智恵子が療養していた斎藤家(田村別荘)が紹介されているとのこと。やはり「智恵子抄」の故地、という扱いです。この建物は移築・保存されていたのですが、平成11年(1999)、感情的な行き違いが元で、突如、取り壊されてしまって今は見ることが出来ません。


それから、他の方からの情報提供で、どうも『高村光太郎全集』未収録の短歌が載っているらしい雑誌についても教えていただきましたし、先述の通りネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報もあります。

そうした場合、平時であれば国会図書館さん、日本近代文学館さん、神奈川近代文学館さんなどに出向いて調べるのですが、三館とも休館中です。

昨日の政府見解では「図書館や公園の再開は容認」ということですが、個々の館の対応等まだ不透明ですし、たとえ再開しても、そこまで行くためには公共交通機関を利用しなければならず、結局はまだ当分無理でしょう。国会図書館さんのデジタルデータは、自宅兼事務所のPCで見られるものもありますが、当方が必要とする情報はほぼ「国立国会図書館内限定」か「図書館送信資料」。後者であれば隣町の成田市立図書館さんで見られますが、こちらも休館中(GW中、臨時に開館という話でしたが、PCの置いてあるフロアは閉鎖)……。

まったく、困っています。

それから、自分で自分に腹が立っていることが一つ。

当会として年2回発行しております『光太郎資料』、次号(智恵子命日の10月5日発行予定)の執筆にかかっているのですが、そのために必要な資料(光太郎と交流のあった詩人・風間光作執筆の回想)が見あたらなくなってしまっています。読んだ記憶が確かにあるので、書庫の蔵書のどこかに転載されているはずなのですが、いったいどの本に載っていたのか、忘れてしまいました。

言い訳させていただければ、書庫はこういう状況でして……。

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4畳半の部屋ですが、三方が作り付けの書棚(20年ほど前、現在の自宅兼事務所を新築した際に造ってもらいました)、それ以外にも通常の本棚を置いてあります。書棚は天井が吹き抜けですのでやけに高く、9段、天板の上まで使っているので10段です。蔵書がどれだけ冊数があるのか、数えるのは早々にやめてしまいました(笑)。書物以外に、上記の図書館さん系で取ってきたコピーなども多数。何処に何が書いてあるかほぼ頭に入っているのですが、どうしても今探している文章が見つかりません。

元は戦時中の雑誌に載っていたことが分かっていますので、やはり平時であれば、国会図書館さん等に出向いてすぐコピーが取れますが、いかんせん、主要な図書館さん系はこぞって休館中……。まいっています。

そんなわけで、「世界がもとに戻ったらしたいこと」、当方は、まず「図書館系で調べものをしたい」です。やっぱり、変わり者なのでしょうかね(笑)。

さて、皆さんの「世界がもとに戻ったらしたいこと」は何でしょうか? そして、ただまひろさんのツイートにある通り、「「したいことを楽しみに過ごそう!」ですね。


【折々のことば・光太郎】

美しきものをおさむ   短句揮毫  昭和24年(1949) 光太郎67歳

東北大学総長を務めた結核学者・熊谷岱蔵の描いた画帖を収める箱のための箱書きとして揮毫しました。

上記当方書庫、6:4、いや、7:3くらいで古書の方が多いと思います。中には100年以上前のものも。となるとかなりボロボロだったりもしますが、そこに描かれている内容は、光太郎の詩文をはじめこれもまた、まごうかたなき「美」です。

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