カテゴリ: 日記

11月20日(日)、兵庫県神戸市の神戸聖愛教会さんで開催された「やすらぎコンサートin神戸 癒しの響き 鐘シンフォニー(和編鐘)への誘い」というコンサートに応援出演、光太郎智恵子について軽く話させていただきました。レポートいたします。

神戸へは、空路を使いました。自宅兼事務所は千葉県ですが、少し北上すると茨城県。その茨城県の南部に自衛隊さんの百里基地と滑走路等を共有している茨城空港があり、そちらから神戸便が出ています。空港までは車で45分ほど、フライト時間は1時間ちょっと。鉄道で神戸となると、まず自宅兼事務所から東京駅まで出るのが2時間近くかかりますので、空路の方が断然早いわけです。
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駐車場はターミナルビルの目の前、しかも無料! ありがたし!!

自衛隊さんと共用なので、ターミナルビルの脇にはこんな展示も。先月、空港の下見に行きまして、その際に撮ったものですが、空自さんで使っていたF4ファントムです。これで神戸まで飛べれば更に早いのですが(笑)。
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1ヶ月前に航空券の手配をした際、すでに「残席2」。「えっ?」と思ったら、それもそのはず、空港近隣にある公立中学校さん(それも2校)の修学旅行とかち合っていました。最近は公立中でも飛行機の旅なのですね。
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搭乗した機体がこちら。
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あっという間に神戸空港に着きました。

そこから鉄道で市街へ。下記は車窓から撮った神戸港です。
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光太郎、確認出来ている限り、生涯に2度、神戸港を訪れています。

最初は明治42年(1909)、3年半にわたる欧米留学を終え、ロンドンから日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に降り立った時です。

一九〇九年(明治四十二年)七月に阿波丸は神戸についたが、船が波止場に横づけになつたか、はしけで上陸したか、忘れてしまつた。父が一人で迎へに来てゐた。私は船中無一文で、洗濯代も払へずにゐたのを、父に払つてもらつたことをおぼえてゐる。紐育、サザンプトン、テームズ河口等をはじめ、コロンボ、香港等の港を見てきた眼には、神戸港はただ乱雑な、けち臭い船着場にしか見えなかつた。船から上つて薄ぎたない船宿の一室に案内され、一休みしてその晩の夜汽車ですぐ東京に向つたやうに思ふ。(「父との関係」 昭和29年=1954)

神戸港を「ただ乱雑な、けち臭い船着場」とディスっていますが、明治末はまだそんな感じだったのでしょう。下記はその頃と思われる当方手持ちの古絵葉書です。
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2度目に光太郎が神戸を訪れたのは、昭和10年(1935)。神戸港に、すぐ下の弟・道利がフランスから送還されてくるのを迎えに、です。道利は父・光雲に、軍人志望、さらに結婚も反対されて自暴自棄となり、勝手にヨーロッパに渡って音信不通となっていましたが、体調を崩して、フランスの慈善病院に収容されていました。そのころと思われる古絵葉書。瀟洒なビル等も出来ていました。
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コンサート会場に行く前に、寄り道。大倉山の神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工だそうです。
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こちらの側面外壁に、智恵子の紙絵をあしらった巨大壁画が。
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右上は心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で作った紙絵の一つで、これが原画です。紫陽花は神戸市の花だそうで。

ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生。市長から相談を受けた柳原が、それなら、と、この紙絵を原画に使うことを提案したそうです。そこで当時の髙村家当主だった光太郎令甥にして写真家の故・髙村規氏に相談が持ちかけられ、規氏も写真技術を駆使して協力。仲介したのはやはり光太郎と交流のあった美術史家・土方定一でした。さらに土方の推薦した画家・田中岑(たかし)が色彩監督となって、規氏の写真から愛知県の瀬戸で色彩タイルを1,000枚以上焼成し、貼り付けたとのこと。その辺りの経緯は平成21年(2009)の『日本古書通信』に載った規氏の回想「髙村規の語る戦後の写真」に述べられています。阪神淡路大震災でも、この壁画には奇跡的に損傷がなかったことなども。
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壁画の真下の植え込みには、智恵子と田中の名を刻んだプレートと、さらに光太郎詩碑。
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当会の祖にして光太郎智恵子と親しかった詩人・草野心平の筆になる『智恵子抄』中の「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてに 溢れこぼるゝ ものあれ われらつねに みちよ」が刻まれています。心平を担ぎ出したのも、土方なのではないかと思われます。土方は心平主宰の『歴程』に依った詩人でもありましたので。或いは規氏→心平というホットラインも考えられます。

さて、その後、新神戸駅近くの神戸聖愛教会さんへ。さすが神戸、巨大な教会で驚きました。さらに驚いたことに、こちらの牧師さん、光太郎第二の故郷・花巻のご出身だそうで、ひとしきり花巻談義に花が咲きました。
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こちらの2階にある礼拝堂がコンサート会場です。
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有機音(ゆきね)さんの和編鐘、地元の朗読家・大山りえさんの朗読がメインでした。

リハーサル風景。
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有機音さん、様々な事象からインスパイアを受けて曲作りをなさる方で、津田梅子オマージュの曲も作られ、今回のプログラムにも。そこで津田梅子を主人公とした小説『ハドソン河の約束―米国女子留学生による近代女子教育への挑戦―』の御著者、こだまひろこ氏のトークもあり、地元のカリヨン演奏家・則定まりさんとそのお仲間の方々によるリコーダー演奏もありました。カリヨン演奏もあるのかな、と思っていたのですがそれはありませんでした。
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そしてプログラムの最後が、有機音さんの演奏と大山さんの朗読による「組曲 愛はすべてをつつむ」からの抜粋。その前座として、当方のトーク。上の方に書きました光太郎智恵子と神戸との関わりを中心に語りました。

ステージというか、祭壇というか、とにかく正面脇の壁面に大型モニター画面があって、HDMIケーブルで繋げるというので、パソコンを持参、画像を映させていただきました。文化ホールの壁画はその日撮った画像をすぐ取り込みました(笑)。

その後の演奏と朗読の際にも、光太郎智恵子の写真を映しっぱなしにさせていただきました。
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そんなこんなでコンサート終了。

教会独特の音響効果、さらに和編鐘という楽器がものすごく残響時間が長く、実に不思議な空間が現出されたように思われました。

ところで「宣伝せよ」という有機音さんの厳命があったので(笑)、事前にお近くに住まわれている知り合いに片っ端から案内を送ったところ、連翹忌にご参加下さっている大阪市ご在住の女性がお友達とご一緒に聞きに来て下さいましたし、20数年前、当方がまだ勤め人だった頃の親しかった同僚(神戸市ご在住)も駆けつけて下さいました。20数年ぶりに会え、感激でした。

また、やはり神戸ご在住で、令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた料理研究家の中野由貴さんは、他のイベントの先約があって無理、と御返事を頂いていたのですが、なんとそちらに行かれる前、こちらの開演前に会場にいらして下さり、お土産まで頂戴してしまいました。ありがたし。

そんなこんなで、人と人とのご縁、的なものの大切さをしみじみ感じる神戸行でした。

以上、神戸レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

食事後理髪にゆく、 帰宅後太田村の昌歓寺住職神武男氏くる、子息同伴、

昭和30年(1955)2月12日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核も小康状態を見せ、久しぶりに床屋へ。ただし4月末にはまた重症化し、入院することになってしまいます。

昭和20年(1945)から同27年(1952)まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺さんから、親しかった住職・神武男が訪問。久闊を叙しました。

昨日から神戸に来ております。和編鐘奏者・有機音さんを中心とした「やすらぎコンサートin神戸鐘シンフォニーへの誘い」というコンサートで、光太郎智恵子について喋らせていただきました。
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詳しくは帰りましてから。


当会で会報的に発行している冊子『光太郎資料』の第58集が完成し、関係先には発送が終わりました。

元々は当会顧問・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として第36集まで不定期に発行されていて、その後休刊状態だったもの。平成24年(2012)の第37集からその名跡を譲り受けました。題字は北川先生作の木版から採っています。4月の連翹忌、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

B5判ホチキス留め、49ページ。今号の内容は以下の通りです。

・ 「光太郎遺珠」から 第二十二回 「婦人」(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめています。前号から婦人雑誌に載った光太郎作品、「婦人」をテーマに書かれた光太郎作品を載せました。

 座談 新女性美の創造 昭和16年(1941)1月20日~2月14日の『読売新聞』婦人欄に断続的に15回にわたって掲載された座談会筆記録です。
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光太郎以外の出席者は、西田正秋(東京美術学校助教授)、吉田章信(体育研究所技師、文部省体育官、医学博士)、豊島与志雄(フランス文学研究家、作家)、竹内茂代(医学博士)、宮本百合子(作家)でした。

太平洋戦争開戦の年の1月、日中戦争は膠着状態に陥っていた時期でしたので、翼賛的な発言も目立ちますが、女性も旧時代の旧弊に囚われず、健康的な美を身につけるべし、といった内容になっています。

散文 新しい女性美 昭和18年=1943 1月1日発行『青年』第28巻第1号 女子版新年号から。上記「新女性美の創造」ともかぶる(やはり翼賛的な内容も含む)女性美創出への提言です。

少し引用しますと、

 ふるい俗悪な社会意識の滓(かす)は完全に取り去られねばなりません。何でも見た眼に一寸きれいに見えるものを飾り立てて美だと思ふやうな低級な気持ちは棄(す)てねばなりません。流行を追ひ、流行に左右せられて、(つまり営利資本に左右せられて)結局無駄(むだ)な苦心をして天下の資材を空費するやうな愚かな事は止めねばなりません。美が生ずる根源は必要にあります。必要によく適つたものからは必ず美が生まれます。
(略)
 女性の服装や化粧にしても、「必要にして十分」なものが一番美しいのであつて、不必要な無駄なものをたくさん身につけたものは醜なのであります。それゆゑ職場のきりりとした仕事着は見る眼もすがすがしい美であり、野良で働く時の野良着(のらぎ)はこれ亦比類もない美であります。その事に十分自信を持つべきです。遊惰(いうだ)の象徴のやうなぴらぴらした長い袖や、酒樽(さかだる)の箍(たが)のやうな厚い重い帯は決して美ではありません。少くとも眉をひそめさせる類の美であります。それを立派な美だと思つてゐた時代もあつたのはその時代が病的であつたからに過ぎません。
 
なるほど。

縄田林蔵詩集『日本の母』序 昭和18年8月執筆。縄田は岡山県出身の詩人です。詩集『日本の母』は、春陽堂から刊行された『日本の母』(昭和18年=1943 日本文学報国会編)――軍人援護会の49府県支部から推薦された「日本の母」を、光太郎を含む49人の文学者が訪問して書かれたもの――の内容を縄田が叙事詩にしたものですが、結局未完に終わったようです。

・ 光太郎回想・訪問記 桐後亭日録より「高村光太郎の罹災」(抄)野田宇太郎
詩人・評論家・編集者の野田宇太郎が自身の過去の日記を引用し、その前後の様子を捕捉した『桐後亭日録 灰の季節と混沌の季節』(昭和53年=1978 ぺりかん社)から、昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれ、近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎を訪問した際の部分です。その後、光太郎は宮沢家の誘いで花巻に疎開することとなります。

・ 光雲談話筆記集成 たゞ仕事に没頭
光太郎の父・光雲が残した談話筆記は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)などにまとめられていますが、それに収められなかった談話筆記がさまざまな書籍・雑誌等にも載っており、それらを拾い集めています。今号では昭和3年(1928)文海書院発行、田中正雄著『回春長寿生の喜び』より。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた光雲を含む各界著名人の体験談等が掲載されています。他に渋沢栄一、高橋是清など。

他のものもそうですが、光雲の談話はとにかく落語のようで面白いものです。特にこれは、暴飲暴食をやめて健康になった話や、自身のいびきがひどい話など、笑えます。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第二十二回  川治温泉(栃木県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今号は川治温泉。
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記録に残る光太郎の川治温泉訪問は、昭和13年(1938)の11月。前月には最愛の妻・智恵子が南品川ゼームス坂病院において、粟粒性肺結核のため数え53歳でその生涯を閉じています。智恵子の付き添いを務め、ゼームス坂病院で共に起居していたのは、当時の「一等看護婦」の資格を持っていた智恵子の姪・春子。その労苦の慰安を目的に、春子を連れて川治を訪れたことが、春子の回想に書かれています。

005・音楽・レコードに見る光太郎  第二十二回  ぼろぼろな駝鳥 弘田龍太郎
光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)に、弘田龍太郎が曲を付け、昭和18年(1943)にレコード化された歌曲について。弘田は「靴が鳴る」「雀の学校」「春よ来い」などの童謡作品が有名です。弘田の「ぼろぼろな駝鳥」は、正確な作曲年が不明で、公刊された楽譜も見あたらないのですが、情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

・高村光太郎初出索引(年代順)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正10年(1921)から同12年(1923)までに初出があったものを掲載しました。

006ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

午前机の前にてメマヒをつよく感じる、空気の為らしく、窓を明け、ガラス戸をあけたら直る、

昭和29年(1954)5月2日の日記より 光太郎72歳

「メマヒ」は眩暈(めまい)です。いよいよ光太郎の体調が深刻になりつつあります。

昨日まで、1泊2日で岩手県に行っておりました。レポートいたします。

1日目、7月15日(金)。東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りました。まず向かったのは、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。北東北はまだ梅雨明けが発表されていないということで(関東も「戻り梅雨」的様相ですが)、この日も結構降っていました。
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こちらのインフォメーションコーナー的な一角。
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過日、近くにガソリンスタンドをオープンさせた冨士見総業さんが、光太郎賢治関連書籍などをごそっと寄贈なさいました。なかなかできることではありませんね。
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書棚が3つ、約470冊、10万円相当だそうで。書棚にはガラスの戸が付いており、夜間は施錠するそうですが、日中は自由に取り出して読めるようになっています。

光太郎関連。
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図書館さんのように貸し出しをするわけではないので、ここで読むにはどうなのかな、というものもありますが、図版の多い書籍なども含まれ、いいのではないでしょうか。
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書棚の隙間には、光太郎を描いたイラストも(写真を撮り忘れましたが、賢治も)。
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こちらの元ネタは、この写真です。
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宮沢賢治関連の書籍。光太郎関連よりも賢治関連の方が、さまざまな書籍等が出ていますので、やはりスペース的に光太郎関連の倍以上。
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シリーズ物で、光太郎・賢治関連もラインナップに入っているものなども。
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これから学校さんは夏休みに入っていきますし、ぜひ小中学生さんたちにも活用していただきたいものです。

その隣では、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品です。
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食欲をそそられます(笑)。

実物の写真等も。
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この日は15日で、「光太郎ランチ」の販売日でした。そこで、一つ、確保していただいておりました。
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この日のメニューは、「ごま飯・おにぎり」、「赤魚塩麹焼き」・「ズッキーニグラタン」、「野菜サラダ」、「スナップエンドウの卵とじ」、「塩麹卵焼き」、「お新香」、「茹でトウモロコシ」、「梅干し寒」。彩りも鮮やかですし、栄養バランスもしっかり考えられていますね。

と、まぁ、「賢治と光太郎の郷」という愛称通りに、さまざまな取り組みをなさっている道の駅はなまき西南さん。今後も地元の皆さん、さらに市外の方々にも愛されていってほしいものだと思いました。

この後、近くの花巻高村光太郎記念館さん、そして光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)へ。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

鶴千代是秀翁くる、 藤島さんくる、 澤田伊四郎氏土方氏くる、土方氏の出版の序文の事、転載承諾、


昭和28年(1953)7月8日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成し、ほっと一息、と思いきや、千客万来です(笑)。

鶴千代是秀」は「千代鶴是秀」の誤りです。伝説的道具鍛冶で、光太郎とは戦前からの付き合い。かつて光太郎も是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。
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是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを行っています。

藤島さん」は詩人の藤島宇内。再上京後の光太郎の身の回りの世話等をよくしてくれました。

澤田伊四郎氏」は、『智恵子抄』版元・龍星閣主。「土方氏」は彫刻家・土方久功。「転載」は、この年1月の『朝日新聞』に光太郎が寄せた土方の個展評「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」を、龍星閣から出版する土方の著書『文化の果てにて』の序文として転用するということです。

昨日から
の日程で花巻に来ております。

本日から始まる花巻高村光太郎記念館さんの企画展示「光太郎、海を航る」の展示内容確認がメインです。開会前でしたが、昨日の内に確認して参りました。

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その前後、道の駅はなまき西南さん、花巻市立図書館さんにも足を運び、宿泊はいつものように大沢温泉♨さん。

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今日は盛岡まで足を伸ばして、調べものをして帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、埼玉県に行っておりました。

メインの目的は、同県東松山市の生涯教育施設「きらめき市民大学」さんでの講座。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があったため、そのご縁です。田口氏は市内の小学校に光太郎碑を建てられたり、同じく光太郎と交流のあった高田博厚とも親交を深め、光太郎胸像を含む高田の彫刻作品群からなる「高坂彫刻プロムナード」整備にも骨を折られたりしました。また、亡くなる前に光太郎からの書簡や書などを市に寄贈。現在、市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として展示されています。

午前10時半開講ですが、圏央道を使って約1時間半、途中、事故渋滞でもあったらアウトなので、余裕を十分にもって自宅兼事務所を出発。結局、何事もなかったためかなり早く着きました。こうした場合に、東松山市は時間がいくらでもつぶせる街です。

まず市役所さん。ロビーに高田の彫刻を新たに展示し始めたというので、拝見。
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やはり光太郎と交流のあった詩人・中野重治の像でした。高田を紹介する解説版には光太郎の名も。
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高坂彫刻プロムナードの案内。
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まだ時間がありましたので、市立図書館さんへ。久しぶりに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」を拝見。
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光太郎から贈られた品々、光太郎歿後に田口氏が集められた品々など、出品物を替えながら展示されています。
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最も目を引くのは、聖書の一節を書いた光太郎の大きな書。敬虔なキリスト教徒でもあられた田口氏のご子息誕生祝いに、光太郎から贈られました。曰く「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。聖書の文言を大書したものは他に類例がなく、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。ただし、こちらで展示されているのは、後の書簡を含め、複製です。
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光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)詩碑拓本。
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光太郎から田口氏宛書簡類。
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その他の書など。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の風景を描いたスケッチ。
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智恵子及び生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のためのデッサン。
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これから光太郎について語る上で、これらを見てテンション爆上がりとなりました(笑)。

そして会場に。
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パワーポイントのスライドショーを使いながら、約90分。前半は光太郎の人となり、休憩を挟んで後半は田口氏や高田との関連で、東松山市と光太郎のご縁について。皆さん、熱心にお聴き下さいました。有り難うございました。

講座修了後、そのまま帰らず、少し足を延ばしました。目指すは同じ埼玉県比企地域のときがわ町。東松山から20数㌔というところです。

目的地は正法寺さんという寺院。鎌倉時代創建の古刹です。
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本堂前には、もうすぐ咲きそうな蓮の花。いい感じでした。
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こちらには、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が納められています。平成11年(1999)、同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社さんの代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。

当方、寄進された頃(まだ「ときがわ町」が「都幾川村」でした)にも一度拝見に伺いましたが、20数年ぶりにもう一度見ておこうと思い立ち、お邪魔いたしました。ご住職に「これこれこういう者でして、拝見させて下さい」と申し上げると、快く見せて下さいました。20数年前に対応して下さったのはご先代で、今回はその息子さんでした。
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20年以上経っても色あせず、鮮やかです。

もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の実弟にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたもの。般若心経がらみの書籍などで、よく取り上げられる筆跡です。
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ちなみに、のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念ということで、高村家から大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。

本堂の外には、石川九楊氏による解説板。平成11年(1999)に寄進された際に作られたリーフレットに掲載されたものと同一でした。
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帰りがけ、気さくなご住職、「こんな山の中までご苦労様です」と、ペットボトルの麦茶をお渡し下さいました。多謝。また、「展覧会等にお貸し願うことは可能でしょうか」と問うと、「全然かまいませんよ」とのこと。実は上記の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に、お借りできるものならお借りしようかとも考えたのですが、複製であることがネックで、その際は候補から外した経緯があります。今後、複製であっても構わないという展示等をお考えの関係の方、よろしくご検討下さい。

遅めの昼食を正法寺さんの近くの、古民家を改修した手打ちうどんのお店・「やすらぎの家」さんで。
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事前に調べていったわけではありませんで、たまたまこういうお店があったので入りました。「ふるカフェ系 ハルさん」ではありませんが、古建築好きの当方としましては、またまたテンション爆上がりでした(笑)。
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もちろん、手打ちうどんも美味しく頂きました。

さて、東松山市光太郎関連各所、ときがわ町正法寺さんなど、ぜひ足をお運び下さい。また、このあたり、比企郡ということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも盛り上がっています。

【折々のことば・光太郎】

夕六時半南江氏の車迎にくる、日比谷公会堂アンダソン夫人独唱会、


昭和28年(1953)5月25日の日記より 光太郎71歳

「南江氏」は南江二郎、詩人にして人形劇研究家でもありました。「アンダソン夫人」はマリアン・アンダーソン、アメリカの歌手で、黒人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台で歌い、人種差別撤廃のための活動を行いました。

3日前の日曜日、調べ物があって、隣町にある県立図書館の分館に行って参りました。その帰途、ふと立ち寄った道の駅的な(公的な「道の駅」ではないのですが、似たような)施設で、見つけました。
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グロキシニアの鉢です。ちなみに1鉢300円でした。

「智恵子抄」に複数回登場するので、光太郎智恵子ファンにはその名が広く知られていますが、一般には珍しい花の部類だと思います。当方、それほどフラワーショップ等に足繁く通っている訳ではありませんが、店頭で売られているのを見つけたのは初めてでした。もっとも、都会のシャレオツなフラワーショップさんなどでは、意外と普通に売られているのかも知れませんが。

かつて自宅兼事務所に1鉢あったのですが、残念ながら枯死してしまいました。そちらは平成28年(2016)、智恵子の故郷、福島二本松で開催された智恵子を偲ぶ「レモン忌」の際に会場内に飾られていて、それをいただいて帰ったものでした。平成30年(2018)までは元気に咲いていたのですが、その年の冬は越せませんでした。

なぜ「智恵子抄」にグロキシニアが出て来るかというと……。

まず散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)。

彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。

光太郎智恵子が出会ったのは明治44年(1911)末、翌年の6月に、駒込林町の光太郎実家近くにアトリエ兼住居が竣工し、その新築祝いにと、智恵子が持ってきたのがそもそもです。

その頃の光太郎は、欧米留学で身につけてきた新しい彫刻のありようが日本で認められない苦悩を抱え、荒んだ生活を送っていました。そこで、智恵子を受け入れるかどうかも、非常に逡巡。そんな時期に書かれた詩「あをい雨」に、初めてグロキシニアが現れます。長い詩なのでその部分だけ抜粋します。
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寄席で、大川端で
そして
ミステリアスな南米の花
グロキシニアの花弁の奥で
薄紫の踊り子が、楽屋(フオワイエエ)の入口で
さう、さう
流行(はやり)の小唄をうたひながら
夕方、雷門のレストオランで
怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで
待つてゐる、マドモワゼルが
待つてゐる、私を――


この詩が書かれたのが明治45年(1912)6月21日。6月6日には新築なったアトリエに転居した通知を方々に出していますので、智恵子が鉢を持って訪れたのもおそらくこの月。貰ってすぐに詩に詠んでいるわけです。ただし、この詩は「智恵子抄」には収められませんでした。

「智恵子抄」でのグロキシニア初出は、巻頭の詩「人に」。同じ年7月作のもの。「大正」に改元となった9月、雑誌『劇と詩』への発表当初は「N――女史に」という題でした。大正3年(1914)の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、内容もかなり改訂され、さらに最終的には昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』の巻頭を飾っています。最終詩形がこちら。

   人に
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 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです
 一人の世界から
 万人の世界へ0324
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう
 まるでさう
 チシアンの画いた絵が
 鶴巻町へ買物に出るのです
 私は淋しい かなしい
 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤ
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な  
 空を旅してゆく鳥の
 ゆくへをぢつとみてゐる様な
 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
 はかない 淋しい 焼けつく様な
 ――それでも恋とはちがひます
 サンタマリア
 ちがひます ちがひます
 何がどうとはもとより知らねど
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 おまけにお嫁にゆくなんて
 よその男のこころのままになるなんて

次にグロキシニアが謳われるのは、智恵子没後の詩「亡き人に」(昭和14年=1939)。

   亡き人に
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 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

書かれているシチュエーションがフィクションでなければ、おそらく智恵子没後に智恵子を偲ぶため、智恵子を象徴する花であったグロキシニアを購入したのだと思われます。

フィクションではないことを祈ります。というのは、同じ頃書かれた「レモン哀歌」はフィクションくさい部分がありまして……。

末尾の二行、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」とありますが、この詩が書かれたのは2月、桜など咲いていようはずがありません。雑誌『新女苑』への発表が4月になるということで、それに合わせたのでしょう。まぁ、「桜咲く4月にはそうしよう」と思っていて、実際、4月になったらそうしたのだとは思いたいところですが……。

ところでグロキシニア。以前にいただいたものは、悪い奴に囓られてほとんど丸坊主になってしまったことがありました。そこから復活して花を咲かせましたが、その時の無理がたたったのか、翌年は駄目になってしまいました。凶悪犯人ならぬ極悪犯猫(はんにゃん)はこいつです(笑)。
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今度は気を付けます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

三宅坂にて下りモニユマンを見る、


昭和28年(1953)2月23日の日記より 光太郎71歳

モニユマン」は「モニュメント」。仏語で表すと「モニュマン」となる感じです。

具体的には、現在の最高裁前、内堀通りに青山通りがぶつかる丁字路のかたわらにある、菊池一雄制作の「平和の群像」を指します。
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昭和26年(1951)に設置されたもので、おそらく野外の公共空間に置かれた初めての裸婦像ではないかと思います。戦後の風潮の中で、裸婦像は平和や自由を象徴するものとして、これを皮切りに流行します。

同じ公共空間の裸婦像ということで、光太郎も生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の参考にするために見たのでしょう。菊池は「乙女の像」制作のための下見にも同行し、光太郎に助手として小坂圭二を紹介しましたし、健康に不安があった光太郎は、自分が倒れて制作不能になった場合の代わりの制作者に菊池を指名していました。

また、台座との関わりも、光太郎は参考にしたと思われます。

「平和の群像」、一見して、台座とのバランスが非常に悪いのですが、それもそのはず、この台座の上には、もともと北村西望制作になる、寺内正毅陸軍大将の騎馬像が乗っていました。寺内は戊辰戦争では長州藩士として箱舘戦争まで戦い、その後、陸軍大臣、朝鮮総督、そして内閣総理大臣も務めています。ちなみに尖った禿頭がアメリカ生まれのキャラクター「ビリケン」に似ており、さらに総理在任中は国民から国民無視の政権運営だと不評で、「非立憲(ビリケン)宰相」と揶揄されました。結局、第一次大戦後の米騒動がきっかけで政権の座を追われています。同じ長州の「でんでん宰相」は、いかに不評でも自分で投げ出すまで居座り続けましたが(笑)。

その寺内像が戦時の金属供出で無くなり、残っていた台座を「平和の群像」に転用したわけです。ある意味、象徴的なできごとですね。

光太郎、この像の台座と本体とのバランスの悪さが気になり、「乙女の像」では同じ轍を踏むまいと、この後、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房の庭に、台座の雛形を木で作ってもらい、台座とのバランス、向かいあう二体の像の位置関係など、ああでもないこうでもないと、いろいろ試行錯誤しました。
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昨日から、一泊二日で長野県に来ております。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・碌山忌ということで、安曇野の碌山美術館さん。

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久しぶりに開催された碌山忌記念行事の講演会を拝聴。さらに守衛の墓参。

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その後、長野市に移動し、信濃善光寺さん仁王門のライトアップを拝見。

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長野市内のビジネスホテルに宿泊致しました。

今日は長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」を拝見し、さらに御開帳が行われている善光寺さんに参拝して帰ります。

詳細は明日以降、レポート致します。

昨日は福島県三春町に行っておりました。光太郎智恵子ゆかりの地ではないのですが、この地に咲く「三春滝桜」が満開とのことで、妻が見たいと云っていたものですから……。

一昨日、このブログで智恵子の故郷・二本松の桜の名所についてご紹介しました。三春町は郡山の東隣で、二本松ともそう遠くないのですが、他の雑事もあり時間的に余裕が無く、二本松へは行きませんでした。いずれ二本松の桜の名所も廻りたいと思っております。

こいつは自宅兼事務所でお留守番(笑)。
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ひる頃、現地に到着しました。平日、さらに昨日は小雨模様でしたが、それなりに多くの方々が観桜に訪れていました。これが週末とかで天気も良ければ、芋の子を洗うような状態だったかもしれません。
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青空がバックだと、なお映えたのでしょうが……。それでも推定樹齢1,000年超という生命力の凄さ、この木を守り続ける地元の皆さんのご努力などなど、感じ入りました。

それから、この木だけがずどんとあるのではなく、周辺一帯にもたくさんの桜。その中でひときわの巨木が滝桜、というわけです。
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当方の大好きな古民家も多く、いい感じでした。
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さらに云うなら、常磐自動車道で関東平野が尽きて山間部に入る茨城県の日立市あたりから、いわきジャンクションを経ての磐越道と、沿線はほぼ山桜が咲き続けている状態でした。

助手席の妻が撮った画像。
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山全体が若葉の新緑と桜のピンクによって、パッチワークのように(陳腐な常套句ですみません(笑))なっている箇所もありました。このルートはしょっちゅう通っていたのですが、4月のこの時期に走ったのは、もしかすると初めてだったようです。これまで、この沿線にこんなに桜の木が生えていたとは気づいていませんでした。

さて、桜と云えば、光太郎にずばり「さくら」という詩があります。

   さくら
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 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門
 離弁花区薔薇科桜属
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凜しさよ 親しさよ


初出は昭和16年(1941)4月の雑誌『家の光』。「こども」欄に掲載されました。その際の題名は「ぼくらの花、桜」でしたが、昭和18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められた際、「さくら」と解題され、詩句も一部、変更されました。ちなみに「顕花部被子類双子葉門/離弁花区薔薇科桜属」には「けんくわぶひしるゐさうしえふもん/りべんくわくいばらくわさくらぞく」とルビが振られています。旧仮名遣いでは却ってわかりにくいところですが……。

昭和16年4月といえば、太平洋戦争はまだ始まっていませんが、昭和12年(1937)からの日中戦争は既に泥沼化していた時期です。その時代背景がぷんぷん臭いますね。「大和心のはげしさ」は云うまでもなく、「世界にまたとない」とか「日本の国花」とか……。そして「堂堂と咲く 咲いて散る/このいさぎよさ きれいさよ」。

昭和16年4月では、まだ特攻作戦は始まっていませんが、有名な軍歌「同期の桜」の元となった、西条八十の詩「二輪の桜」はすでに世に出ており、「花と散る」的な発想はもう一般的だったのかもしれません。

こういう詩こそ光太郎詩の真髄だ、大和魂の顕現だ、皇国臣民の鑑だと、涙を流して有り難がるアナクロニストが現代にも少なからず居て閉口しています。

一昨日オンエアされたNHK青森さんのローカル番組「あっぷるワイド」(18:10~19:00)の中で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の成り立ち等を取り上げて下さいましたが、光太郎の戦争責任についても言及されました。ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトだったため、ビデオ出演した当方も、需めに応じてその当たりを詳しく語らせていただきました。すると早速、幼稚なネトウヨが「けしからん」とSNS上で噛みついてきましたが(笑)。

そんなこんなで、桜と戦争的な連想が浮かんだわけです。桜には何の罪もありませんが……。

さて、昨日の帰途、サービスエリアでなみえ焼きそばを購入。当方も妻も好物です。
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少し前にはコロナ禍で工場がストップしていて入荷されていませんでした。少しでも復興支援になればと存じます。

こんなものも買ってしまいました。金属のプレートのついたストラップ。「ペア」と書いてあり、どういうことかと思ったら、刳り抜いた方と刳り抜かれた方と、雌型と雄型の関係ですね。本来、自分の名前の一字とかを購入するものなのでしょうが、光太郎の「光」の字のものを買いました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の別棟の便所「月光殿」に彫られた「光」一字を彷彿とさせられまして(笑)。
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まだ間引き運転ですが、東北新幹線も全線復旧。東北方面、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時半藤島氏来り、共に中野の中西氏宅に車、津島知事アトリエに来る、映画やラジオの人来り、草野君他皆と一緒に撮影、又座談、

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

「乙女の像」制作のため7年半ぶりに帰京、千駄木の実家に泊まって、朝には空襲で焼け落ちた自分のアトリエがあった場所を見ましたが、午後には像の制作のために借りた貸しアトリエに入りました。ここで起居することにし、結局はここが光太郎終焉の地となりました。

001当会で会報的に発行しております冊子『光太郎資料』の第57集が完成しました。今日あたりから関係各位に順次発送いたします。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集まで不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、現在は4月2日の光太郎忌日・連翹忌、10月5日の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十一回 「婦人」その1
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている項目です。今号では「婦人」をキーワードに、明治から昭和戦前期のものをを集成しました。婦人雑誌に寄せた散文、婦人問題に大きく関わった広岡浅子に関する書簡、ミスコンの審査評座談会等です。
 散文 美術家の眼より見たる婦人のスタイル 明治43年2月1日発行『婦人くらぶ』
  光太郎の婦人雑誌への、確認出来ている限り最初の寄稿です。
 書簡 大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛
 雑纂 (日本の婦人の) 大正10年(1921)5月26日『読売新聞』
 散文 帽子に応用したアイリツシユレース 大正13年4月1日『婦人之友』
 座談 現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準 昭和4年8月7日『アサヒグラフ』
  朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による座談会。
  光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史学者)、
  杉田直樹(医学博士)、西成甫(にしせいほ)(解剖学者)、村山知義(劇作家)、
  鏑木清方(画家)が審査員でした。
  写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。
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003
 書簡 昭和15年(1940)1月12日 資生堂ビル内 花椿社 篠原眞男宛
  資生堂さんのPR誌『花椿』に関わる書簡です。

・光太郎回想・訪問記  「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――  永瀬清子
 賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、光太郎も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会を中心とした回想文です。
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・光雲談話筆記集成 
  和合の徳 『太元老僧懐古録』より 
   現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている、光雲原型の懐中仏に関わります。
  高橋鳳雲の話
   光雲の師匠・髙村東雲のさらに師匠、髙橋鳳雲について。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十一回  那須温泉(栃木県)
 大正14年(1925)9月、母・わかを喪った傷心を癒やすために訪れた那須温泉について。 
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十一回 ぼろぼろな駝鳥 橋本国彦
 昭和8年(1933)、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」に、作曲家の橋本国彦が曲を付けた歌曲について。

・高村光太郎初出索引(年代順)
 現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正4年(1915)から同9年(1920)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(見本的にこの号のみ欲しいという方は、一金500円)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝角川書店主来訪、「昭和文学全集」企画の由、承諾。ひる辞去。


昭和27年(1952)9月28日の日記より 光太郎70歳

『昭和文学全集』、翌年刊行の第22集が「高村光太郎集/萩原朔太郎集」、さらに昭和29年(1954)刊行の第47集は、100余名の詩を集めたアンソロジー「昭和詩集」で、光太郎が100余名の著作者代表としてクレジットされました。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。

花巻、昨日は☔でしたが、今日は吹雪です。
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昨日は主に市街地をぶらぶら、大沢温泉♨さんに宿泊。今日は光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座のリモート収録に臨みました。同館で開催中の企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関連行事で、同展も拝見しました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。


誠に遺憾ながら、本年4月2日(土)に予定しておりました、第66回連翹忌の集い、今回も中止とさせていただきます。

昨秋から年末にかけ、新型コロナ新規感染者数がほぼゼロとなり、今年こそは、と思っていたのですが……。その後、オミクロン変異株による感染爆発が起こり、本日現在、その収束が見通せない状況が続いています。
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「ピークアウトはしたのではないか」という見方がある一方、新規感染者数が激減するということもなく、頼みの3回目ワクチン接種も遅々として進んでいません。

また、会場とすることを予定していた日比谷松本楼さんが、感染の最も多い東京都内であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動が必要な方々もいらっしゃることなど、不安要素は尽きません。さりとて会食を伴わない形での開催も趣旨になじまないでしょう。

あまり考えたくはありませんが、来年以降も、皆様が安心して集まれる状況にならないかぎり、開催を見送り続けるしかないのかな、と思っております。そうならないことを切に祈念いたしておりますが……。

既に昨年12月、文治堂書店さん発行のPR誌『とんぼ』第13号で開催案内を出していただき、早々にお申し込み下さった方もいらっしゃいまして、申し訳ありませんが、来年の第67回分の参加費ということで、プールさせていただきます。

一昨年昨年同様、4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

2月5日(土)、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」を拝見する前、安中市の磯部温泉に寄り道をしていきました。寒いので温泉であたたまりたい、というのももちろんですが、光太郎が足を運んだ温泉地、ということで。

ちなみに磯部温泉は、万治4年(1661)、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに幕府から出た判決文的なものに描かれた地図に、現在も使われている温泉記号「♨」が書かれており、おそらくこの記号の最も古い使用例ということで、「温泉マーク発祥の地」として宣伝されています。

温泉街の足湯。
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また、明治の児童文学者・巖谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話(日本昔噺)を書き上げました。同様の民話は各地に昔からあるものの、巌谷が児童文学として活字にしたことにより、磯部温泉は「舌切雀伝説発祥の地」とされています。

確認できている限り、光太郎の足跡は、明治42年(1909)と大正15年(1926)に、残されています。

まず明治42年(1909)8月、親友だった水野葉舟に送った書簡から。

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞に登つたのだ。

大洞」は赤城山中の地名です。

さらに大正15年(1926)7月、やはり水野へ送った絵葉書から。

老人や女達を送りに一寸磯部に来ました、東京と同じやうに暑いので驚きました。湯だけハまことに霊泉です。雷をふくんだ雲が妙義山の方をこめてゐます。 十六日 高村光太郎
 
老人」は、おそらく父・光雲、「女達」は、智恵子、母・わか、あるいいは妹たちも含まれているかもしれません。「湯だけハ」の「」は漢数字の「八」ではなくカタカナの「ハ」。光太郎、ときおり平仮名に片仮名を混ぜる癖がありました。

手がかりはこれだけで、光太郎が複数ある温泉旅館のどこに泊まったのか、不明です。そこで事前に、「老舗」と云われる宿の位置は調べておき、歩きました。

明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。
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その上にある、旭館さん。こちらも明治期の創業。
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磯部館さん。老舗宿の鳳来館(現存せず)から大正期にのれん分け、だそうで。
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その先にある桜や作右衛門さんは明治3年(1870)創業だそうです。

おそらくこのあたりの何処かに、光太郎が泊まったと推定されます。各所、歩いて行ける距離です。ただ、どこも建物は建て替わっているようでした。

ちなみに磯部館さんの元となった鳳来館、当方手持ちの古絵葉書です。
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「舌切雀のお宿 ホテル磯部ガーデン」という大きな温泉ホテルもあり、こちらも鳳来館の流れを汲んでいるとのこと。

ところで、この鳳来館の創業者・大手万平は、詩人の大手拓次(明治20年=1887~昭和9年=1934)の実祖父だそうで、拓次も鳳来館で産まれたとのこと。拓次は光太郎の朋友・北原白秋に師事し、萩原朔太郎、室生犀星とともに白秋門下の三羽烏と称されることもありました。ただ、朔太郎、犀星は二人揃って駒込林町の光太郎アトリエを訪れるなどしていましたが、拓次と光太郎の直接の交流は確認できていません。拓次にコミュ障的な部分があったらしいので……。

『高村光太郎全集』で、拓次の名はその没後に3回出て来るのみ。いずれも昭和22年(1947)に書かれ、詩人仲間などに送った書簡中で、拓次の詩集が再刊されるそうで楽しみだ、といった内容です。それでも嫌いなものは嫌いと公言する光太郎ですので、拓次の詩は認めていたことは伺えます。

光太郎が2度目に磯部を訪れた大正15年(1926)には、拓次の詩作がなされていましたが、鳳来館が拓次の生家であると光太郎が知っていたかどうか、微妙なところですね。

磯部館さんの裏手に、拓次の詩碑。
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温泉街のはずれにある赤城神社を中心とした磯部公園。
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こちらには、拓次をはじめ、数多くの文学碑が。先述の白秋、朔太郎、犀星以外にも、歌人の吉野秀雄も光太郎と交流がありました。

赤城神社。
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大正15年(1926)、光太郎と共に父・光雲も磯部に来ていたとすれば、絶対に参拝したはずです。赤城神社は髙村家の産土神(うぶすながみ)という扱いでしたので。

拓次の詩碑。
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犀星(左)と、吉野秀雄(右)。
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朔太郎。
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それから、温泉マークの碑、こちらにもありました。さらに拓次の祖父・万平の胸像も。
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さて、温泉。コロナ禍のため、温泉旅館さんはどこも日帰り入浴を断っているということで、共同浴場・恵みの湯さんへ。
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クセのない泉質で、長湯していても疲れない感じでした。
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駐車場には紅梅も。

群馬には、磯部以外にも光太郎が足を運んだ温泉地が数多く存在します。草津、法師、湯檜曾、川古、宝川、湯の小屋など。中には詩の舞台になっていたり、温泉宿の主人が光太郎回想文を残したりしているところも。ただ、磯部以外はどこも奥まったところで、当方、草津の他は未踏です。いずれ折をみて、その他の温泉地も訪ねてみようと思っております。

以上、群馬レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

夜コタツ、(ニカワを煮て大倉翁のテラコツタを修繕、)


昭和27年(1952)1月10日の日記より 光太郎70歳

「大倉翁のテラコツタ」は、光太郎が磯部温泉を訪れた大正15年(1926)に制作された「大倉喜八郎の首」。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した実業家・大倉喜八郎に、光雲が肖像彫刻制作を依頼され、光太郎がその原型として作ったものです。

いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。戻ってきた時に既にそうだったのか、その後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でやっちまったのか(笑)、像の左耳の部分が破損していたため、修繕したという記述です。
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画像は翌年、ブリヂストン美術館さんが制作した「美術映画 高村光太郎」から。手は光太郎の手です。

昨日から一泊二日の日程で、青森県に来ております。

東北新幹線🚄で七戸十和田駅に下り立ち、十和田湖奥入瀬観光機構の方に迎えに来ていただき、十和田湖へ。
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早速、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と久しぶりに対面。
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その後、十和田湖観光交流センターぷらっとさんで、地元の観光関係の皆さんと懇談。
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日が暮れてから、イルミネーションのイベントカミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」を拝見しました。
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「乙女の像」もいい感じにライトアップ。
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宿泊は十和田市街に戻り、「ポニー温泉」さんで。

今日は青森市に移動し、国際芸術センター青森[ACAC]さんで、彫刻家の小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」を拝見します。

さらに青森空港で、昨年2月に序幕された、三沢市ご出身の森本千絵氏による幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」も拝見、そのまま羽田に飛ぶ予定です。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに行きました。

例年ですと、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里町の真亀地区、国民宿舎サンライズ九十九里さんのあたりで遙拝していましたが、今年はずっと北の旭市で。まぁ、同じ九十九里浜の一部ですから、勘弁して下さい、という感じです(笑)。

ちなみに千葉県民あるあるで、「チーバくんの後頭部あたり」などと説明するのですが、千葉県民以外には通じません(笑)。
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チーバくん」は千葉県のゆるキャラ。
決してメタボ犬ではありません。第一、犬ですらなく「不思議ないきもの」です。JR東日本さんの「Suica」も手掛けられた坂崎千春氏のデザインですが、「Suica」も西の方の人には通じません(笑)。


九十九里町には巨大防潮堤が出来てしまい、波打ち際の辺りはそうでもないのですが、どうも風情に欠ける感じになってしまいましたし、遠方からも初日の出を見に来る皆さんが多く、密の状態に成りかねないと判断したため、今年は旭市に。

昨日行った場所は、足川浜、矢指ヶ浦と呼ばれる辺りで、九十九里浜の北端に近いゾーンです。九十九里町と異なり、自動車専用道がこの辺りまでは延びてきていないので、都内からの初日の出参拝客などはほとんどいなかったようですが、それでも地元ナンバーの車で駐車場等はいっぱいでした。
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サーファーの皆さんが、既に波乗り初め。
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南の方、智恵子が療養していた九十九里町方面。
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6時46分、水平線から太陽が顔を覗かせているはずですが、この季節、西高東低の冬型の気圧配置のため、絶対といっていいほど、水平線上には雲がかかっています。
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6時50分頃、その雲の上に太陽が。
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海面に反射して、きれいです。

コロナ禍完全収束、そして一昨年、昨年と開催できなかった光太郎智恵子関連もろもろの諸行事等が、今年こそは元に戻せますようにと、祈願しました。
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希望を感じさせてくれる、美しい初日の出でした。空振りに終わらないことも祈ります。

【折々のことば・光太郎】

蠅とり茸で蠅がとれる。 昭和26年(1951)9月30日の日記より 光太郎69歳

「蠅とり茸」は「ハエトリシメジ」。その名の通り、このキノコをなめたハエが死ぬ(実際には仮死状態になる)という特性があるそうです。ところが食用として料理に使われ、味もよいとのこと。ただし、やはり大量に摂取すると人体にも毒だそうです。
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一昨年、花巻在住の方に茸を大量に頂き、煮物や茸ご飯にしていただきましたが、このハエトリシメジも入っていたように思われます。たしかに美味でした。

2022年、令和4年となりました。
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個人としては、当方、喪中ですので、個人の皆様への年賀状は欠礼させていただきましたが、法人、団体様へは、こちらも公人として上記をお送りいたしました。画像は光太郎、東京美術学校在学中の彫刻で、「虎の首」。上野動物園(または浅草花やしき)に通って作ったものです。

動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。象、獅子、虎、熊、猪、鷲、鶴などが常連であつたが、虎には油断するとよく尿をひつかけられた。人をめがけて放尿する癖が虎にはある。
(「モデルいろいろ」昭和30年=1955)


ところで、昨年は『智恵子抄』発刊80周年でしたが、今年はその辺り、どんなものだろうと思って調べてみました。

130年前 明治25年(1892) 光太郎10歳(数え年。以下同じ) 一家が今も髙村家の続く本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木)に引っ越しました。

120年前 明治35年(1902) 光太郎20歳 雑誌『百虹』に、現在知られている最も古い詩「なやみ」が掲載されました。

110年前 明治45年/大正元年(1912) 光太郎30歳 この年はいろいろありました。まず、実家にほど近い駒込林町25番地に、光太郎アトリエが竣工しました。続いて、前年に知り合った智恵子への最初の詩「N――女史に」(のち「人に」と改題)を書きました。その智恵子と、銚子犬吠埼で愛を誓い合ったのもこの年。そして秋には岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会を結成、第一回展に油絵を出品しました。

100年前 大正11年(1922) 光太郎40歳 眼を病み、医師から彫刻も執筆も読書も禁じられました。

90年前 昭和7年(1932) 光太郎50歳 心を病んでいた智恵子が自殺未遂……。一命は取り留めました。

80年前 昭和17年(1942) 光太郎60歳 前年の『智恵子抄』に続く第三詩集『大いなる日に』を刊行しました。戦時中ということで、全篇、翼賛詩です。

70年前 昭和27年(1952) 光太郎70歳 生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を後に、中野桃園町の貸しアトリエに移りました。

ちなみに「来年の話をすると鬼が笑う」と申しますが、来年、2023年は、光太郎生誕140年に当たります。ちょっと中途半端な周年ですが、関係の方々、今から来年に向け、生誕140周年記念のなにがしかを企画していただきたいものです。協力は惜しみません。

というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝ラジオで年賀ハカキ放送をきく。一日ラジオをかける。 雑煮、抹茶、 元村長さん宅から餅少々もらふ。


昭和27年(1952)1月1日の日記より 光太郎70歳

上にも書きました通り、70年前の今日、光太郎70歳の元日です。

今年も最後の一日となりました。

昨日までのこのブログで、今年1年を振り返ってみましたが、昨年ほどではなかったものの、やはりコロナ禍前よりは紹介した事項が少なかったという感じでした。徐々に元に戻りつつはありますが、以前に行われていた大きな行事等のうち、今年も行えなかったこともありました。

4月2日の当会主催の連翹忌の集い、5月15日で花卷高村祭、8月9日に行われてきた女川光太郎祭、10月第1週の智恵子を偲ぶレモン忌、11月で高村光太郎研究会など。来年は、これらも元通りに開催できる事を切に願います。

また、コロナ禍前には、例年、1年間で皆様から頂いた郵便物に貼ってあった切手をJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)さんに寄付していましたが、整理するボランティアさんの密を避けるということで、来年3月まで受け付け停止中。昨年末もそうでしたので、2年分、ごっそり溜まっています。来年末には3年分、ごっそり贈らせていただきます。
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同様にベルマークは、ベルマーク教育女性財団さんの方で受付中でしたので、先月半ばにお送りしましたところ、寄贈者名簿に当会の名を記載して下さっています。受取証的な文書も届きました。
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さて、明日は2022年元日。そして元日といえば初日の出。当方、例年、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜に初日の出を観に行っており、明朝もその予定です。ただ、かつて行われていた九十九里町の元旦祭は、やはりコロナ禍で中止と発表されています。

ところで今日未明は、にわか雨ならぬにわか雪。道路に積もる程ではありませんでしたが、家々の屋根や車にはうっすら。その後はからりと晴れました。明朝も晴れて欲しいものです。
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以前にもご紹介しましたが、九十九里浜以外にも、光太郎智恵子ゆかりの地で、初日の出スポットとして有名な場所がいくつかあります。

同じ千葉県で、大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子市の犬吠埼。緯度と経度の関係で、離島や高山を除いて日本一早い初日の出が拝めます。
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智恵子の故郷・福島二本松では、このところ、二本松霞ヶ城の天守台址が初日の出スポットとして注目されています。下記は『広報にほんまつ』2022年1月号(二本松市さんでは、毎月末に翌月号をネット上にアップしています)から。
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そして、山梨県南巨摩郡富士川町上高下地区。昭和17年(1942)に光太郎がここを訪れたことを記念して建てられた文学碑のそばが、富士山頂から初日の出が上がるダイヤモンド富士の鑑賞ポイントとして有名です。
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さらに、宮城県女川町のショッピングモール、シーパルピア女川さん(女川光太郎祭の会場となり、こちらにも光太郎文学碑があります)。こちらも初日の出スポットとして、近年、有名になりつつあります。

というのも、東日本大震災で壊滅した町中心部に新たに建設され、JR石巻線の女川駅から女川港に向かうメインストリートの延長線上に初日の出が上るためです。計算してそう設計したわけではないのでしょうが、すごい偶然ですね。下記写真は女川町の「女川町民カレンダー」令和3年度版から。
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ちなみにシーパルピア女川さん、既存の施設をそのまま道の駅として認定されたりもしています。
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九十九里浜で迎える予定の明日の初日の出、来年1年にかける様々な願いを込めて、見てきたいと思っております。寝坊しないように気をつけます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

夜ラジオをきき、除夜の鐘をきいてからねる、


昭和26年(1951)12月31日の日記より 光太郎69歳

この項、昨日までの流れですと、まだ9月なのですが、少し順番を入れ替えました。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で迎える7度目の大晦日。聞こえた除夜の鐘は、昌歓寺さんでしょうか、それとも清水寺さんでしょうか。8度目の大晦日をここで迎えることが無くなるのを、光太郎はまだ知りません。

この項、最終回です。

10月2日(土)
沖縄県立芸術大学音楽学部第32回洋楽定期公演~沖縄から発信する現代の音楽~」が、那覇市の沖縄県立芸術大学奏楽堂ホールさんで開催されました。江幡侑奈氏作曲の「《冬が來た》高村光太郎の詩による」が演奏されました。
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10月2日(土)~11月14日(日)
二本松市の智恵子生家二階部分の特別公開、智恵子紙絵の実物展示が行われました。

10月3日(日)
文芸誌『ウルトラ』第17号が発行されました。詩人の木戸氏による安達太良山を謳った詩 、と、エッセイ「百千倍のアトムその充填――智恵子抄を離れて――」が掲載されています。
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10月5日(火)
当会から冊子『光太郎資料』第56集を発行いたしました。

10月6日(水)
つむぎ書房さんから野樹優氏著の小説『非愛の海』が刊行されました。光太郎智恵子に触れられています。
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10月8日(金)~10月10日(日)    
東京都北区の北とぴあドームホールさんを会場に、演劇公演「小夜なら×表現集団蘭舞 あの夕暮れをもう一度」が行われました。4本立ての内の「金魚鉢の夜」で、光太郎智恵子に触れられていました。

10月8日(金)~10月30日(土)
東京都港区のCLEAR GALLERY TOKYOさんで、現代アート作家来田広大氏のインスタレーション「あどけない空#2 The artless sky #2」が開催されました。
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10月8日(金)~11月23日(火)
鎌倉市のギャラリー笛さんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その8」が開催されました。
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10月8日(金)~11月28日(日)
富山市の富山県水墨美術館さんで「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が開催されました。

10月9日(土)~11月3日(水)
宮崎市の宮崎県立美術館さんを会場に開催された「皇室と宮崎~宮内庁三の丸尚蔵館収蔵作品から~」の前期日程で、光雲の木彫「文使」(明治33年=1900)が展示されました。
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10月12日(火)~12月26日(日)
兵庫県三田市の兵庫県立人と自然の博物館さんで「身近な海のベントス展」が開催されました。光雲の弟子であった故・小林三郎氏旧蔵の、光太郎が留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌 「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を揮毫した短冊が出品されました。

10月16日(土)
福岡県太宰府市の太宰府市文化ふれあい館さんで「第6回太宰府学講座 日本近代木彫史と山崎朝雲、冨永朝堂」が開催され、光雲にも触れられました。講師は田鍋隆男氏(元福岡市博物館学芸課長)でした。

10月20日(水)
生活の友社さんから雑誌『美術の窓』№458 2021年11月号が発行されました。富山県水墨美術館さんの 「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関し、記事が2本載りました。まず、同館館長であらせられる中川美彩緒氏が「和魂洋才-書画のススメ」というコーナーで、展示中の光太郎画帖「有機無機帖」について。さらに拙稿「五匹目の「蝉」」。
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10月21日(木)~11月23日(火)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」が行われました。イルミネーションを中心としたイベントで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されました。

10月23日(土)
テルミン奏者大西ようこさんによる「第12回RCAテルミンの夕べ ウルトラマンが読む「智恵子抄」」がオンラインでライブ配信されました。初代ウルトラマンのスーツアクターを務められた古谷敏氏による「智恵子抄」朗読が為されました。
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同日、石川県金沢市のNigiwaiSpace新保屋さんで「金沢ナイトミュージアム 秋色探し朗読会 」が開催され、こちらでも「智恵子抄」朗読がプログラムに入りました。
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10月27日(水)
講談社さんから小田原のどか氏著『近代を彫刻/超克する』が刊行されました。「光太郎とロダン」という章を含みます。

10月29日(金)~11月21日(日)
東京都港区六本木の国立新美術館さんで、第8回日本美術展覧会(日展)が開催され、第5科・書部門で、光太郎詩文を書いた作品が入選し、展示されました。
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10月30日(土)
大分市のiichiko総合文化センターさんで第74回全日本合唱コンクール全国大会 高等学校部門が開催され、高等学校部門Bグループ九州代表として出場の鹿児島高等学校音楽部さんが、西村朗氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」を自由曲で演奏、みごと銀賞に輝きました。

同日、吉夏社さんから髙橋純氏編訳『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺』が刊行されました。光太郎にも触れられています。
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10月31日(日)
東京都渋谷区の代々木能舞台さんで「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」が開催され、ゆきね氏の和編鐘演奏、河崎卓也氏の朗読により、「第二部 智恵子抄 愛はすべてをつつむ」が上演されました。

同日、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムドラマ山女日記3」の「第三話 あどけない空・安達太良山」が放映されました。再放送が11月7日(日)でした。
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11月3日(水)
ハピネット・メディアマーケティングさんから 朗読CD「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」」がリリースされました。光太郎詩詩「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(同)が含まれています。朗読は、声優の豊永利行さんでした。
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11月5日(金)~11月28日(日)
京都市の知恩院さんで「秋のライトアップ二〇二一」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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11月8日(月)
二本松市の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんが投票を募っていた「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」の結果発表がありました。最多得票は「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でした。
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同日、『毎日新聞』さんに「美とあそぶ 秋川雅史さん/1 これまでで一番の自信作」が掲載され、テノール歌手秋川雅史氏が、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、第105回記念 二科展彫刻部門で入選を果たした件について語られました。
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11月9日(火)
作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。複数のご著書で光太郎智恵子にも触れられていました。

11月10日(水)
幻冬舎さんから湊かなえ氏著『残照の頂 続・山女日記』が刊行されました。「プレミアムドラマ山女日記3」の原作です。「武奈ヶ岳・安達太良山」の章で、「智恵子抄」がモチーフに使われています。
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11月13日(土)11時~11月30日(火)
花巻市のいわて花巻空港で、光太郎が終戦後に7年過ごした高村山荘(同市太田)周辺を撮影した写真や、光太郎の詩をしたためた書作品など約20点の展示「高村光太郎と花巻」が開催されました。
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11月15日(月)
樹海社さんから間島康子氏著『ハユラコ hajurako 間島康子随想集』が刊行されました。「智恵子の空」というエッセイを含みます。
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11月19日(金)
マガジンハウス社さんから雑誌『 & Premium no.97 January 2022 PEACEFUL MOMENTS 静かに過ごす時間が、必要です。』が発行されました。「あの人が愛した、静かな時間。」という項で智恵子が紹介されました。

11月20日(土)
BS朝日さんで「ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!」が放映され、安達太良山の紹介の中で「智恵子抄」が取り上げられました。出演は女優の酒井美紀さん他でした。
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11月21日(日)
東日本大震災の津波により甚大な被害を受けた宮城県女川町で、光太郎文学碑の精神を受け継いで募金で建設費用を集め、町内の各浜、21箇所に津波の際の避難の目安となるランドマークとして建てられ続けてきた「いのちの石碑」最後の1基が完成 ・除幕されました。
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11月22日(月)
虹色社(なないろしゃ)さんから、なみ氏編のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』が刊行されました。明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された光太郎エッセイ「珈琲店より」を含みます。
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12月3日(金)
福島二本松の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんから『「智恵子抄」出版80周年記念文集』が刊行されました。
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12月4日(土)~2022年2月20日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」が開催中です。イルミネーションを中心としたイベントで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されています。
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12月4日(土) ・12月12日(日)
松竹さんプロデュースの「朗読劇 智恵子抄」が、東京音中央区銀座の銀座ブロッサム中央会館さん、二本松市の安達文化ホールさんで、それぞれ上演されました。光太郎役は横内正氏、智恵子役が一色采子さんでした。
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12月5日(日)
地上波フジテレビさんで「正しく学んで福招き!おてらツアーズ」の放映があり、信州善光寺さんの光雲とその高弟米原雲海による仁王像が取り上げられました。
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12月10日(金)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第13号が発行されました。巻頭に、光太郎終焉の地・中野のアトリエの持ち主でいらっしゃる中西利一郎氏の玉稿。光太郎がここで暮らした最晩年の回想や、北川先生がここを訪れ、光太郎に親炙するに至った経緯などが書かれています。文治堂書店主・勝畑耕一氏は、「小川義夫さんを悼む」という一文。ご生前の北川先生を支え、各種出版のサポート等をなさっていた、北斗会(北川先生が高校教諭だった頃の教え子さん達の会)会長であらせられた、故・小川義夫氏の追悼文です。巻末近くに、北川先生のご遺著『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』書評が4本。さらに当方の連載「連翹忌通信」も掲載されました。
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同日、中央公論新社さんから、室生犀星 文/濱谷浩 写真の『写文集 我が愛する詩人の伝記』が発行されました。昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載されたものから、犀星の文章のみで『我が愛する詩人の伝記』、濱谷の写真集として『詩のふるさと』として二分冊で刊行されたものを一冊にまとめ、犀星没後60年記念出版という位置づけで「完全版」として出版したものです。

12月10日(金)~12月19日(日)
東京藝術大学大学美術館正木記念館さんを会場に、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」が開催されました。
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12月12日(日)
詩人の高良留美子さんがご逝去されました。女性史に関する複数の御著書で智恵子に触れて下さっていました。

12月15日(水)
 マガジンハウス社さん刊行の『BRUTUS』2022年1月1日・15日合併号が発行されました。「百読本 何度でも読む。読むたびに知る」という特集で、各界著名人等の愛読書が紹介されています。デザイナーの皆川明氏が、『智恵子抄』をご紹介下さっています。
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12月17日(金)
あすなろ書房さんから、宮川健郎氏編『日本の文学者36人の肖像(上)』が刊行されました。当方、未入手でして、手に入り次第改めてご紹介します。

12月19日(日)
名古屋市の電気文化会館さんで「日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~」公演があり、朝岡真木子氏作曲「 ”智恵子抄”より レモン哀歌」が演奏されました。
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12月20日(月)
『週刊現代』さん12月25日・1月1日合併号に、「巨弾ノンフィクション 丹波哲郎は二度死ぬ 大スターはなぜ晩年に「大霊界」へ傾斜したのか」の第4回として、「岩下志麻と共演した『智恵子抄』に秘められた真実」という記事が載りました。

12月22日(水)
左右社さんから西川清史氏著『文豪と印影』が刊行されました。目次に光太郎の名が見えますが、こちらも未入手でして、手に入り次第改めてご紹介します。
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12月23日(木)
東京都八王子市の八王子市芸術文化会館大ホールにおいて「こうもりクラブプロデュース 星降る夜のクリスマスオイリュトミー」が開催されました。光太郎・相田みつを・茨木のり子らの詩がモチーフとして使われました。

12月25日(土)~2022年2月13日(土)
青森市の国際芸術センター青森[ACAC]さんで、彫刻家の小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」が開催中です。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型試作、「乙女の像」オマージュの作品等が展示されています。
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12月(日付不明)
文芸誌『風越(かざこし)―詩とエッセイの同人誌―』第5号が発行されました。詩人の小山修一氏による「「道程」から考える詩の追求」が掲載されています。
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それから、その都度の月日に載せませんでしたが、「光太郎レシピ」が連載されている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんが隔月刊で発行されました。また、毎月15日には、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されました。
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昨年同様、コロナ禍が猛威を振るった一年でしたが、秋以降、それも収まりつつあり、昨年よりも多くの事項をご紹介する事ができました。特に、美術館さん等での企画展示、音楽/演劇系の公演、各種市民講座等、昨年は中止に追い込まれたものがまた開催されるようになり、喜ばしい限りです。

来年はさらにそれが拡大し、コロナ禍前の水準まで復して欲しいと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

晴れ、雲あり、涼、 栗落ちはじめる


昭和26年(1951)9月27日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺、栗の木が多く自生しており、その実は貴重な食材となりました。

今年1年を振り返る企画、7月から9月です。

7月2日(金)・3日(土)
東京古書会館さんに於いて、明治古典会さん主催の古書市「七夕古書大入札会2021」の下見展観が行われ、光太郎自筆の書・書簡等が出品されました。
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7月9日(金)~8月22日(日)
京都国立近代美術館さんで、「モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―」が開催され、光雲、旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作「福禄封侯図飾棚」(明治16年=1883)、光太郎実弟の豊周による「蝋型朧銀筒形花生」(昭和38年=1963)が出品されました。

7月16日(金)~12月18日(土)
花巻市高村光太郎記念館さんで、コロナ禍による中断期間を挟み、企画展「光太郎の三陸廻り」が開催されました。
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7月17日(土)
第23回比較文学研究会が、オンラインで開催されました。中里まき子氏(岩手大学)、エリック・ブノワ氏(ボルドー・モンテーニュ大学)による「高村光太郎『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって」が含まれていました。

同日、『朝日新聞』さんの読書面で劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。題して「高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念」。

7月19日(月)
BSフジさんで、「ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬」が放映され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が紹介されました。11月7日(日)、11月28日(日) 、そして来年1月3日(月)にも再放送があります。
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7月20日(火)~8月29日(日)
皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」が、福岡県太宰府市の九州国立博物館さんで開催されました。光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)、そしてブロンズの「萬歳楽置物」(大正5年=1916)が出品されました。
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7月22日(木)~8月22日(日)
東京都台東区の東京藝術大学 大学美術館さんで「藝大コレクション展 2021 I 期 雅楽特集を中心に」光雲木彫の「蘭陵王」(明治37年=1904)が展示されました。

7月29日(木)~9月26日(日)
山口市の中原中也記念館さんで、特別企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」が開催され、光太郎装幀・題字揮毫の『山羊の歌』(昭和9年=1934)についても詳しく取り上げられました。
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7月31日(土)~9月20日(月)
二本松市のあだたら高原リゾートで「あだたらイルミネーション」が開催されました。併せて『智恵子抄』で謳われた「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」の販売も行われました。
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8月1日(日)
新潮社さんから末盛千枝子氏著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が新潮文庫の一冊として発行されました。平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されたもので、末盛さんの父君、彫刻家の舟越保武が光太郎に「千枝子」の名をつけてもらったエピソードなどが紹介されています。
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8月3日(火)
論創社さんから『吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971』が刊行されました。吉本の講演「高村光太郎について―鷗外をめぐる人々 」(昭和41年=1966年4月2日、日比谷図書館)、「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」(昭和42年10月24日、東京大学三鷹寮)が収録されています。

8月3日(火)~15日(日)
北海道深川市のアートホール東洲館さんで「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」が開催され、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)を書いた書などが展示されました。
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8月7日(土)
立川市のたましんRISURUホールさんで「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」が開催され、劇団ひなた村さんが4月に初演した「青鞜の女たち」が再演されました。

8月7日(土)~8月13日(金)
宮城県女川町の女川つながる図書館さんで「詩人 光太郎と啄木~東北のゆかりを訪ねて~」展が行われました。
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8月15日(日)
文芸社さんから伊原勇一氏著『明治画鬼草紙』が刊行されました。幕末から明治初年の江戸・東京を舞台とし、奇想の画家・河鍋暁斎を狂言回しとしたもので、若き日の光雲が登場します。

8月17日(火)
当会顧問であらせられた故・北川太一先生が都立向丘高校さんに勤務されていた頃の教え子の方々、北斗会さんの会長を永らく務められ、北川先生のご出版等にご協力を惜しまなかった、小川義夫氏が亡くなりました。ご本業の印刷会社経営のかたわら、演歌歌手としてもご活躍でした。
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8月21日(土)
近代東アジア書壇研究プロジェクトさんの主催で、「国際シンポジウム 近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―」がZOOMによりオンラインで開催されました。矢野千載氏(盛岡大学教授)の「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」が含まれました。

8月30日(月)
ミネルヴァ書房さんより石川九楊氏著『思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない』が刊行されました。「彫刻的筆画」、「やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎」の項で光太郎に触れられています。
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8月31日(火)
東京都豊島区の東京芸術劇場さんで「東京混声合唱団特別演奏会~田中信昭と共に~東混オールスターズ」が開催され、西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』」より「レモン哀歌」が演奏されました。
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同日、小学館さんから『小学8年生』10・11月号が発行されました。「文豪探偵の事件簿」という連載小説で「山の中の芸術家」と題し、光太郎が取り上げられました。

9月1日(水)
古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん、2021年9月号に光雲「聖徳太子像」(大正元年=1912)が紹介されました。古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆でした。
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同日、花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん編で、写真集『山からの贈り物 やつかの森の四季』が刊行されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を撮影したものです。

9月1日(水)~9月13日(月)
岡山市の 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリーで「浜口陽三とパリの芸術家たち展」が開催され、
光太郎の短歌揮毫色紙「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作された『幼き QLAUAPATRAT』の木版画が展示されました。

全く同じ日程で、東京都港区の国立新美術館さんで「第105回記念 二科展」が開催され、テノール歌手秋川雅史氏が、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、彫刻部門で入選を果たしました。
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9月3日(金)~9月6日(月)
静岡県舞台芸術センターSPACさんの主催で「でんわde名作劇場」が開催されました。電話を使ってのオンライン朗読で、池田真紀子さんによる「◉高村光太郎 作『智恵子抄』より」がプログラムに入っていました。
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9月14日(火)~9月26日(日)
THE EXPO 善光寺2021~甲信越戦国物語~特別展」が、長野市立博物館さんで開催されました。光雲とその高弟・米原雲海の手になる、善光寺さんの仁王像の試作(ひな形)が展示されました。

9月15日(水)~12月5日(日)
東京都新宿区の中村屋サロン美術館さんで「自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait」展が開催され、光太郎作の油絵「自画像」(大正2年=1913)も出品されました。 
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9月18日(土)~10月10日(日)
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 皇室の名品展 皇室の美-東北ゆかりの品々」が、仙台市の宮城県美術館さんで開催され、光雲作の「養蚕天女」(大正13年=1924)が出品されました。

9月22日(水)
平凡社さんから同社編でアンソロジー『作家と酒』が刊行されました。光太郎随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)が収められています。
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9月25日(土)
東京都江東区の古石場文化センターさんで、「第 43 期江東シネマプラザ」の一環として、昭和32年(1957)に封切られた、原節子さん主演の「智恵子抄」が上映されました。
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9月26日(日)
東京都文京区の旧安田楠雄邸庭園において「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」が開催されました。朗読が北原久仁香氏(語りと和楽の芸人衆 かたりと)、講話を当方が務めさせていただきました。

同日、青森県弘前市の弘前学院大学さんで「日本語・日本文学科 2021年度第3回オープンキャンパス(来校型)」が開催され、「詩の世界-宮沢賢治・草野心平・高村光太郎について-」という公開講義が行われました。

9月30日(木)
月曜社さんから谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』が刊行されました。「レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」という項で、光太郎に触れられています。
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次回は最終回、10~12月を。

【折々のことば・光太郎】

花巻行。 カーテンの材料、タオルねまき等をかふ、 ビール2本、 高橋精一氏にあふ。理髪、 かなり重いリユツクを背負ひてかへる。


昭和26年(1951)9月25日の日記より 光太郎69歳

カーテンの材料」は、増築された新小屋のためのものでした。しかし光太郎、料理の腕はそれなりでしたが、裁縫は意外と苦手で、結局、11月に来訪した詩人の宮静枝に縫って貰いました。
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今年一年を振り返る第2回です。本日は、4月から6月の事項。05b72b5d-s

4月2日(金)
光太郎65回目の忌日・連翹忌でしたが、残念ながらコロナ禍のため、昨年に引き続き、日比谷松本楼さんでの集いは中止としました。全国の皆様を代表して当方が光太郎奥津城に墓参、それをもって第65回連翹忌に代えさせていただきました。

同日、高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究』第42号(北川太一先生追悼号)、当会から『光太郎資料』第55集が刊行されました。
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さらに同日、『読売新聞』さん東北各県版での連載「とうほく名作散歩」で、「詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」と題し、光太郎が大きく取り上げられました。
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4月5日(月)
4月1日(木)から東京都江戸川区のタワーホール船堀さんで開催されていた「もやい展2021東京」の一環として、能楽師・清水寛二氏による朗唱「「智恵子抄」より」が上演されました。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」を元にしたものでした。
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4月10日(土)~4月18日(日)
千葉県柏市の大洞院ギャラリーさんにおいて、「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」が開催され、山本氏脚本、北川太一先生監修、仙道作三氏作曲の「オペラ智恵子抄」(平成元年=1989)関連資料等が展示されました。

4月15日(木)
筑摩書房さんから長山靖生氏著『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』が刊行されました。第「三章 戦意高揚する詩人たち」中の「高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ」、「終章 それぞれの戦後」内の「死んだ者、生き残った者」で光太郎に触れられています。
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同日、劇作家の清水邦夫氏が亡くなりました。清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、劇団木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。平成5年(1995)には再演も為されました。

4月21日(水)~6月20日(日)
仙台市の島川美術館さんで「島川コレクション 春の展覧会 『横山大観から現代アートまで』」が開催され、光雲作の「聖観音像」が出品されました。
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4月24日(土)
『読売新聞』さん東北各県版での連載「とうほく名作散歩」で、「詩集智恵子抄 福島県二本松市 愛する妻思う青い空」と題し、光太郎智恵子が大きく取り上げられました。

同日、町田市子ども創造キャンパスひなた村カリヨンホールを会場に、ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」が行われました。キャストに光太郎智恵子も含まれていました。
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4月24日(土)~5月30日(日)

二本松市の智恵子記念館において、通常は複製が展示されている智恵子紙絵の実物公開が為されました。併せて4月29日(木)~5月30日(日)まで、隣接する智恵子生家の2階特別公開も行われました。

4月29日(木)
花巻市で光太郎顕彰にあたる「やつかの森LLC」さん から「光太郎の食卓カレンダー」が発行されました。
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4月30日(金)
文治堂書店さんから、昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』が刊行されました。
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5月12日(水)
BS TBSさんで、「美しい日本に出会う旅▼福島 花めぐり湯めぐり 絶景の桃源郷と山桜のはちみつ酒」が放映され、安達太良山麓土湯温泉、不動湯温泉の紹介の中で、光太郎智恵子に触れられました。
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5月20日(木)
祥伝社さんから志川節子著の小説『博覧男爵』が刊行されました。明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた田中芳男を主人公とし、光雲も登場します。
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5月21日(金)
平松混声合唱団さんの「第36回定期演奏会 明日へ向かって発つ~心ひとつに~」が、渋谷区文化総合センター大和田 さくらホールで開催されました。平吉毅州作曲「混声合唱組曲  レモン哀歌」 より抜粋で演奏がありました。
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5月22日(土)~6月20日(日)
現代アートのインスタレーション「毒山凡太朗 反転する光」が、東京都目黒区のLEE SAYAで開催されました。福島の帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的とし、福島出身の智恵子、その夫・光太郎が象徴的に使われました。
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5月30日(日)
山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」が東京都港区の銕仙会能楽研修所舞台で開催され、能楽師・山本順之氏らによる「連吟 智恵子抄」が演じられました。
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6月1日(火)
マガジンハウスさんからムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』が刊行されました。デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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6月1日(火)~8月31日(火)
明治の洋館を改装した京都市のカフェ「デザートカフェ長楽館」で、「明治の洋館で楽しむドリンクフェア「文学浪漫巡り」~浪漫を味わうひとり時間 レトロなドリンクフェア~」が開催され、『智恵子抄』をイメージして作られた「シトラスジュレのゆずジュース」がメニューに入りました。
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6月3日(木)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 祭りのかけごえ」が放映され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。再放送が6月17日(木)にありました。
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6月10日(木)
論創社さんから根岸理子氏著の『マダム花子』が刊行されました。ロダンのモデルを務め、その思い出を光太郎に語った日本人女優・太田花子の評伝で、光太郎にも触れられています。
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同日、文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第12号が発行されました。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。他に当方の連載「連翹忌通信」も掲載されています。

6月11日(金)
東京オリンピックの聖火リレーが、青森県十和田湖の、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に到着しました。
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6月20日(日)
潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」が、千葉市文化センターを会場に開催されました。
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6月23日(水)~7月4日(日)
六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」が開催されました。同人の部・会長奨励賞の平井澄圓氏の作品が、昭和10年(1935)の光太郎エッセイ「新茶の幻想」からの抜粋でした。他に光太郎詩文を題材とした作品が複数入賞・展示されました。

6月26日(土)~7月18日(日)
花巻市の旧菊池捍邸で「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」が開催され、戦後、光太郎も訪れた古建築が一般公開されました。関連行事として、光太郎詩の朗読会等も行われました。
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6月26日(土)~7月25日(日)
石川県七尾美術館さんで「26th year 池田コレクション」が開催され、光雲作の木彫「聖観音像」が出品されました。

6月26日(土)~8月29日(日)
花巻市博物館さんでテーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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6月30日(水)
左右社さんから岡本勝人著『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』が刊行されました。「高村光太郎の造形芸術」という項を含みます。
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6月30日(水)~8月11日(水)
地上波日本テレビさんで「心に刻む風景 高村光太郎・智恵子」が、オリンピック中継による中断を含み、6回にわたり放映されました。6回の内訳は、「#1 福島・二本松」「#2 フランス・パリ」「#3 千葉・犬吠埼」「#4 東京・日比谷松本楼」「#5 栃木・塩原温泉」「#6 岩手・花巻高村山荘」でした。
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6月(日付不明)
  仏訳智恵子抄『 Poèmes à Chieko』が、中里まき子氏の翻訳によりフランス・ボルドー大学出版会より刊行されました。
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明日は7月から9月分を。

【折々のことば・光太郎】

昨夜新小屋にねる。もう湿けず。カヤなくてよろし。


昭和26年(1951)9月24日の日記より 光太郎69歳

新小屋」は、この年6月に完成した、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築部分です。竣工当初は材木の湿気が気になり、就寝も元々のあばら屋でしていましたが、この日から機密性の高い新小屋で寝ることにしました。

こちらが現在の新小屋。現在は数十㍍移動され、倉庫として使われています。
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このブログ、年末恒例の1年間の回顧です。

初めに断っておきますが、出来る限り情報を集めはしましたが、抜けも多いことと存じます。「こんなこともあったけど、書いてない」ということがありましたら、御教示いただけると幸いです。

1月1日(金)
2021年、丑年がスタートしました。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県では、県として「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」を開始し、光太郎にもからめて、様々な事業を展開しました。
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同日、『盛岡タイムス』さんに「困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙」という記事が載り、光太郎が大きく取り上げられました。
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この頃、丑年ということで、新聞各紙等で光太郎詩「牛」(大正2年=1913)などが数多く取り上げられました。

1月7日(木)~3月14日(日)
岐阜県大垣市守屋多々志美術館第82回企画展「どうぶつ集合!」が開催され、日本画家守屋多々志による「智恵子と光太郎」と題した絵も展示されました。
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1月12日(火)
評論家・半藤一利氏が亡くなりました。平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)、平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』などで光太郎智恵子に触れて下さっていました。

1月14日(木)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」が放映され、「ベベンの冬が来た」(詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン)が取り上げられました。再放送は1月28日(木)でした。
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1月28日(木)~2月1日(月)
劇団空感演人の演劇公演「チエコ」が、両国・エアースタジオで行われました。平成25年(2013)、平成30年(2018)にも同じ会場で上演されたものの再演でした。
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1月31日(日)
ソレイユ出版さんから宮沢賢治実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏著『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。
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同日、春陽堂書店さんが根本知氏著『書の風流 近代藝術家の美学』を出版しました。「高村光太郎   書と造型」という章を含みます。

さらに同日、彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました。
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智恵子の故郷・二本松にルーツをお持ちで、二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」を作られました。

2月10日(水)
光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周が、昭和初期に蝋型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎が碑文を揮毫した大伴家持歌碑の碑文銅板が、富山県高岡市の万葉歴史館さんに寄託されました。
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2月20日(土)~4月4日(日)
黒田大スケ氏による現代アートの個展「未然のライシテ、どげざの目線」が、京都芸術センターさんで開催され、《高村光太郎のためのプラクティス》と題された映像作品も出品されました。
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2月20日(土)~4月11日(日)
東京ステーションギャラリーさんで、「没後70年 南薫造」展が開かれました。南は光太郎の留学中間の画家で、光太郎から南宛の書簡も展示されました。その後、4月20日(火)~6月13日(日)に広島県立美術館さん、7月3日(土)~8月29日(日)で久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんを巡回しました。

2月23日(火)
テレビ東京さん系「開運!なんでも鑑定団」に光雲作の聖徳太子孝養像が出品され、1,500万円の鑑定額がつきました。BSテレ東さんでの放映が5月6日(木)、地上波での再放送が6月20日(日)でした。
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2月24日(水)
青森空港で、幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」の完成披露除幕式が挙行されました。三沢市出身のアートディレクター森本千絵氏の作品で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。
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2月26日(金)
コールサック社さんから鈴木比佐雄氏著の詩集『千年後のあなたへ ―福島・広島・長崎・沖縄・アジアの水辺から』が刊行されました。『智恵子抄』オマージュの「「ほんとの空」へ」という詩を含みます。
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2月末
盛岡市の桜城小学校さんに、光太郎の書幅「詩魂萬機」が寄贈され、3月10日(水)まで一般公開されました。
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3月1日(月)
株式会社トゥーヴァージンズさんから3枚組朗読CD「【近代文學の泉】 普及版 朗読で味わう文豪の名作4 太宰治・島崎藤村・高村光太郎」がリリースされました。一昨年、全13巻で発行されたものの分売で、寺田農さんによる「「智恵子抄」より」が収められています。

同日、美術家の篠田桃紅さんが107歳の大往生を遂げられました。エッセイ『百歳の力』(平成26年=2014 集英社新書)、『一〇三歳になってわかったこと』(平成27年=2015 幻冬舎)などで光太郎に触れて下さっていました。
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3月8日(月)
NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 日本全国いいとこコンサート 福島・楢葉(1)」が放映され、坂本龍一氏作曲の「道程」が演奏されました。再放送は3月20日(土)でした。
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3月11日(木)
3月12日(金)~30日(火)
上野の森美術館を会場に、現代アートの展覧会「VOCA展2021 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」が開催され、光雲作「老猿」もモチーフとして使われた、尾花賢一氏による《上野山コスモロジー》も展示されました
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3月17日(水)
NHKさんのラジオAM第1・第2、それからFMの5分間番組「音の風景」で、光太郎詩の朗読がありました。その後、放送時間の異なる地方局を含め、繰り返し放送されました。サブタイトルが「朗読シリーズ うた景色~高村光太郎~」。『智恵子抄』から、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」(昭和13年=1938)が、松重豊さんの朗読で放送されました。
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3月24日(水)~6月13日(日)
新潟県長岡市の駒形十吉記念美術館さんにおいて、「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」が開催され、光太郎から地元の美術愛好家グループ「風羅会」に贈られた短歌揮毫の色紙が展示されました。
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3月26日(金)~4月4日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ二〇二一」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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3月28日(日)
静岡県熱海市の起雲閣さんで「潮見佳世乃起雲閣コンサート「歌物語×JAZZ」」が開催されました。
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同日、1月31日(日)に亡くなった橋本堅太郎氏遺作の智恵子像「今ここから」が、JR東北本線安達駅前に除幕されました。

3月30日(火)
千代田区の紀尾井ホールでコンサート「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」が開催されました。独唱歌曲「智恵子抄 より」中の「樹下の二人」「レモン哀歌」が演奏されました。
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3月31日(水)
夢月堂さんから宮尾壽里子氏の『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』が刊行されました。「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。
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3月31日(水)~4月26日(月)
東京都北区の青猫書房さんで「鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」」が開催されました。絵本作家のノグチクミコさんによる『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。
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1月から3月、この時期はコロナウィルスがまだ猛威を振るっていた時期でしたが、それなりにいろいろとありましたね。
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明日は、4月から6月の事項を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

かたづけ、学校行、創元社の詩集十冊くる、

昭和26年(1951)9月21日の日記より
 光太郎69歳

創元社の詩集」は、9月15日刊行の『高村光太郎詩集』。当会の祖・草野心平の編集です。

心平は戦後、鎌倉書房の『高村光太郎詩集』(昭和22年=1947)を皮切りに、中央公論社の『高村光太郎選集』(昭和26年=1951~)、昭和31年(1956)の角川文庫『高村光太郎詩集』(角川書店)など、たてつづけに光太郎詩集等の編集を手掛け、その作品を後世に残すよすがとしてくれました。

「吉原レポート」と言っても、風俗店の突撃取材ルポではありませんのでよろしく。

過日書いた花巻レポートと前後しますが、12月12日(日)、上野の東京藝術大学さんで「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見した後、方角的に近いので、台東区の千束地区、いわゆる吉原をぶらぶら散歩しました。

欧米留学から帰朝した明治42年(1909)末か、翌年の初めくらいから、光太郎が通い詰めた「河内楼」という妓楼があった場所です。
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 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、といふことになつた。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

光太郎が通っていた「河内楼」のあったあたり、これまで一度も行ったことがないので、この機会に、と思い、行ってみました。10月に、NHKさんの「歴史探偵」で吉原遊郭が取り上げられたのを拝見し、「ほおお」という感じでしたし、谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』を読んだこともきっかけとなりました。

頼りにしたのは、明治27年(1894)の古地図。光太郎が通っていた頃と、ほぼ同じ配置のはずですので。
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上野から地下鉄日比谷線で2駅の、三ノ輪駅で下車、歩きました。

標柱が立っており、いよいよ吉原ゾーン。河内楼のあった「京町通」で、上記地図で言うと左下の方です。
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ほどなく、吉原で一、二を争う規模だった、角海老楼のあった場所。
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そういう場所である、ということで、吉原遊郭全体の説明板が立っていました。
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角海老楼は、明治期に当時としては珍しかった時計塔が据えられていた大店でした。
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その前を通り過ぎ、河内楼があったはずのあたり。
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何だかサイケデリックな(死語ですね(笑))ビルが建っていました。光太郎がここいらに立って、懐からスケッチブックを出し、若太夫を描いたのか、と思うと、感慨深いものがありました。

こちらが明治末の河内楼。角海老楼ほどではありませんでしたが、それなりの格式の店だったようです。
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若太夫は、本名・真野しま。名古屋の出身でした。光太郎はその風貌をモナ・リザに例えています。

光太郎が若太夫に入れあげているのを知った阿部次郎や木村荘太(光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄)などが、あえて若太夫を指名し、通うようになります。

 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(同)

そのため、木村と光太郎は決闘寸前まで行ったとのこと。

しかし、当の若太夫は、やはり誰にも本気だったわけではなかったようで、年季が明けると郷里に帰っていきました。

 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(同)

そして、明治44年(1911)、吉原大火。河内楼も角海老楼も灰燼に帰しました。このあたり、木村の小説『魔の宴』に詳述されています。

さて、河内楼址を後に、ぶらぶら散歩。

メインストリートの仲之町通りを歩き、吉原神社さんへ。
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かつて若太夫ら遊女たちもお参りしたのかな、などと考えながら、参拝。

仲之町通りを逆に歩くと、かつてのメインゲート・大門のあったあたり。
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今も通りには柳の並木があり、風情が感じられます。
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右上は、かつて吉原全体をぐるりと取り囲んでいた、「お歯黒どぶ」だった道。今も周囲より一段低くなっています。

大門のちょっと先には、吉原土手のあった辺り。
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空襲や区画整理を免れたであろう古い町家があって、いい感じでした。

テキトーに歩きながら、三ノ輪駅に戻る途中、偶然にも……。

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吉原ゾーンに入る前、町名が「竜泉」でしたので、一葉が暮らしていたのはこの辺だったはず、とは思っていましたが、こんなふうに道端に碑が立っているとは存じませんでした。

光太郎と一葉、直接の交流はありませんでしたが、光太郎は、明治25年(1892)、肺炎のため数え16歳で早世した長姉・咲(さく)の面差しが、一葉そっくりだったとくり返し書いています。

面差し、といえば、やはり気になるのが、光太郎をしてモナ・リザを彷彿とさせられたという、若太夫。どこかに写真が残っていないか、常に気になっています。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

晴時々小雨、涼、 雨のあと、紙屑四俵を畑でやく、

昭和26年(1951)9月10日の日記より 光太郎69歳

灰は肥料になるとはいえ、「紙屑四俵」……(笑)。

一昨日から昨日にかけ、光太郎第二の故郷・花巻に行っておりました。レポートいたします。

今回は、特に現地で何かのイベント等があるために行ったわけではなく、友人3人を案内するというのがメインの目的でした。あとはついでに花卷高村光太郎記念会さんなどと、事務的な手続き、相談等もありましたが。

18日(日)朝、東京駅に集合し、東北新幹線で一路、花巻へ。雪が心配でしたが、花巻の積雪はほとんどありませんでした。
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今年の花巻のトレンドと言えば……。
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他にも菊池雄星選手ら、花巻東高校さんや富士大学さんの関係で、ゆかりのプロ野球選手がたくさん。新花巻駅の待合室、観光案内所を兼ねた展示スペース「ステップイン・はなまき」です。
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レンタカーを調達し、市街へ。

まずは光太郎ゆかりの松庵寺さん。光太郎歌碑、詩碑が計3基。
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その後、周辺を歩きました。

少し前にこのブログでご紹介した、嘉司屋さんで昼食。
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左上は光太郎揮毫の賢治詩碑拓本の縮小版。右上は店内にあった書籍の一節。そう遠くないところにかつてあった支店の方に、光太郎が訪れていたということでした。ただ、残念ながら「四代目の佐々木喜太郎さん」の名は、『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。またお店がすいている時にでもお邪魔し、何か光太郎ゆかりのものをお持ちでないかどうか訊いてみようと思いました。

続いて、「賢治の広場」。どうも宮沢家の親戚で、さらに賢治の妹のシゲ(光太郎とも交流)が嫁いだ岩田家の関係で作られた施設のようです。
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宮沢家の親戚筋などに保存されていたとおぼしきいろいろなものも展示されていました。

そして、マルカンビル。大食堂で、名物の10段巻きソフトクリームに挑戦。当方、2度目でしたが、作法通りに割り箸を使って(笑)美味しく頂きました。女性陣はお二方で一つをシェア。実はお一人ずつでも食べられそうでしたが(笑)。
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腹もふくれたところで、再びレンタカーで、花巻南温泉峡。宿泊させていただく大沢温泉さんを一旦通り過ぎ、「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使い、昔の商店街を再現し、レトロな昭和グッズを大量に展示しています。
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現役の小学校だった頃、卒業記念として昔の児童さん達が作ったらしい、大きな銅板のプレート。地元ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」がモチーフです。
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南下して、大沢温泉山水閣さん。

当方、大沢温泉さんでは、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風による土砂崩れで物資搬入が不可能となり、現在休業中。その後は自炊部に泊まり続けています。今回、お連れしたのはセレブの方々ですので、さすがに自炊部というわけにはいかず、通常の温泉ホテル形態の山水閣さんにしました。自炊部は自炊部で非常に風情があるのですが、裏を返せば風情しかありません(笑)。自炊部ではこの季節、コタツも有料。コタツの台とコタツ布団は常備ですが、頼んで別途料金を支払わないと、コードを貸してくれません(夏場は扇風機も有料だったはず)。一人旅ならそれがいいのですが……。

ただ、館内でつながっていますので、温泉は自炊部棟の温泉にも入れます。
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自炊部棟にある、大露天風呂「大沢の湯」。当方、ここに入らないと気が済みません(笑)。女性専用の時間帯もあり、同行のレディーたちにも気に入っていただけたようです。

豪華な夕食をいただき、就寝。この夜は10㌢くらいの雪が降ったようでした。

翌朝の窓外の風景。眼下には豊沢川の清流。木々は樹氷のように見えました。
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朝食後、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村(現・花巻市太田地区)の高村光太郎記念館さんへ。
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この周辺は、だいぶ道路にも積雪がありました。レンタカーがセダンタイプで、屋根に積もった雪がずり落ちてトランクの上に溜まり、後ろが見えなくなったりもしました。いつもワンボックスで、雪はすぐ落ちるのためそういうことはなかったのですが、セダンだとそうなるんだ、と初めて知りました。

こちらで、企画展「光太郎の三陸廻り」の際にお貸ししていた鳥瞰図や古絵葉書などを返していただき、ありがたいことにその分のギャラが出て、拝受。さらに事務的な相談を少々。その間に友人達には展示を見て貰いました。

隣接する光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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これでもまだ雪が少ない状態です。来月には1メートル以上積もるでしょう。そうなるとここに近づけません。
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中尊寺金色堂のように、二重の套屋(カバーの建物)の中に、山小屋が保存されています。通常非公開ですが、久しぶりに山小屋内部に入れてもらいました。この季節に中に入ったのは初めてかもしれません。
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光太郎の蟄居生活、それを「単に戦争責任を反省しているポーズにすぎなかった」的な論調を眼にしますが、「そう思うならここでこの季節に一晩でもすごしてみろ」と言いたくなります。

駐車場にはジャンボレトロタクシー、どんぐりとやまねこ号。現在は1日3,000円で、ここや賢治記念館などを廻っているそうです。
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その後、ほど近いところに昨年オープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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光太郎グッズコーナー。新製品も。
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インフォメーションスペースには、いわて花巻空港さんに先月まで展示されていた写真パネルなども。
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こちらで、地元の関係者の皆さんとお会いし、また事務的な話など。
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お土産を大量に頂いてしまいました。多謝。

そして最後の目的地、宮沢賢治記念館に。

と、その前に、予定にはありませんでしたが、花巻駅近くの公民館的な「市民の家」に寄り道。元の花巻町役場を移築したものです。
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敷地内には、光太郎も乗った花巻電鉄デハ3型
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そして、新花巻駅近くの宮沢賢治記念館へ。
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こちらは平成27年(2015)にリニューアルされましたが、新しくなってから初めて足を踏み入れました。リニューアル後の展示については、賛否両論いろいろです。賛否両論いろいろだろうな、というのがわかる感じでした。

敷地内の「注文の多い料理店 山猫軒」さんで昼食。
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レンタカーを返却し、帰途につきました。

細かくレポートする余裕がなく、アバウトに辿っただけでしたが、心も胃袋も満腹の1泊2日でした。コロナ禍も漸く落ち着きつつあり、観光客も戻ってきています。皆様もぜひどうぞ。また、依頼があって、日程的な都合などかみ合えば、今回のようにツアーガイド的なことも致します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

昨日式場から Black & White ヰスキーをもらふ。


昭和26年(1951)9月5日の日記より 光太郎69歳

式場」は式場隆三郎。精神科医でしたが、文学にも関心が強く、戦前には白樺派の面々と親しく交わり、この頃は『日曜日』という雑誌を主宰?していました。同誌には光太郎の山小屋の訪問記も写真入りで掲載されています。

Black & White」は高級ウイスキーですね。

昨日から一泊二日の日程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。
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今回は、普段の単独行ではなく、友人3名と共に、です。
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何やら珍道中ですが(笑)、詳しくは帰りましてからレポート致します。

昨日から、富山県富山市に来ております。
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富山県水墨美術館さんで今日始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の最終準備にお邪魔。
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書の数々や、「白文鳥」、新発見の「蝉」などの彫刻などをじっくり拝見しました。今日はこれから同展の開会式に行って参ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日から一泊二日で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」、続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」を拝見。
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宿泊は例によって、大沢温泉さんにお世話になっております。
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このあと、高村光太郎記念館さん、道の駅花巻西南(愛称・賢治と光太郎の郷)などを回って帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養生活を送っていた、旧片貝町(現・九十九里町)方面に行きました。

もともとそのつもりではなく、調べ物のため、自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市にある、県の東部図書館さんに行ったのですが、調査終了後、足を伸ばしました。旭市は九十九里浜の北端で、旧片貝町辺りは浜のほぼ中央部。旭まで行けば、そこからは車で30分ほどです。毎年の初日の出拝観をはじめ、よく行く場所ですが、気になる情報を新たに得たので、行ってみました。
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一般の方のfacebook投稿で、永らく草木に覆われ埋もれていた光太郎歌碑が、周囲の草刈りが為されて再び見られるようになった、という情報で、今年5月の投稿でした。

歌碑はそう古いものではなく、平成10年(1998)の建立です。下は、その頃撮った写真。
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『智恵子抄』に収められた、光太郎短歌三首が刻まれています。

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

最初の「いちめんに……」の歌は、この地で詠まれたものです。

昭和9年(1934)に、智恵子が療養していた家は、所有者の名を取って「田村別荘」と呼ばれていましたが、空き家となったあと、昭和47年(1972)に、元の場所から500㍍ほど離れた、大網白里町に移築され、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。下は、平成のはじめ頃に撮った写真です。
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ところが、元々があまり立派な家屋でもなく、さらに無人の状態だったため、中に入り込んで悪さをする馬鹿者もいたりで、内部にゴミ等が散乱していた時期もありました。

平成6年(1994)頃には、元の位置に近い所に戻す、という計画もあったのですが、いつの間にかうやむやに。
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そこで、平成10年(1998)、観光資源としての活用を図ろうと、地元有志による保存修復の動きが出、実際、きれいになりました。その際、建物の傍らに、歌碑が建てられたのです。
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ところが、田村別荘、翌平成11年(1999)に、管理を巡る感情的な行き違いから、突如、解体されてしまいました。

歌碑は残されたのですが、その後、敷地全体は草木が繁茂するままとなり、ここ数年は、元の位置もどこだかわからなくなっていました。

それが、先述の通り、今年5月に草刈りが行われ、碑が見えるようになったという情報。そこで、見に行ってみたわけです。

ところが、やはりよくわかりません。ようやく、周囲より草木の少なめの場所を見つけ、「ここか?」と思って、踏み込んでみると、ありました。県道から20㍍ほど、海側に入ったところです。
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5月に草刈をしたはずなのですが、2ヶ月でもうこの状態です。雑草、恐るべし。

足で草をかき分け、撮影。
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ちなみに県道沿いの、入り口に当たる部分はこんな感じです。このままだと、遠からずまた、碑に近づくことも出来なくなりそうだと思いました。
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歌碑自体はきれいに残っているので、どこか適当な場所に移すことは出来ないのでしょうか……。

その後、ちょうど昼時でしたので、川を渡ってすぐの国民宿舎サンライズ九十九里さんへ。
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レストランのある2階のエレベーターホールには、光太郎智恵子像。制作は日展作家の久保田俶通氏。こちらの像はミニチュアで、本体は、東金九十九里有料道路の今泉PAにあります。

ついでだ、と思い、そちらにも足を伸ばしました。
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なぜか、以前はなかったお賽銭が、それも、かなり。
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別に、ご利益は無いように思うのですが(笑)。

ここまで来たら、さらについでだ、と思い、田村別荘が元々建っていた場所にも。サンライズ九十九里さんのすぐ近くのテニスコート付近です。
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以前は、右の木の下に木製の標柱が建っていたのですが、それも無くなっており、ここと知らなければ通り過ぎてしまう所です。

さらにサンライズ九十九里さん裏手の方の、「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
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昭和36年(1961)の建立で、この場所は砂浜だったのですが、碑と海の間に有料道路が造られてしまいました。
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上は、昭和46年(1971)の新聞記事です。「千鳥と遊べぬ智恵子」うまい見出しですね。

さらに現在、有料道路の海側に、巨大防潮堤も建設中。
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波打ち際は、智恵子が千鳥と遊んだ昔のままなのでしょうが……。
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各場所の細かな位置は、最初の画像をご覧下さい。文学散歩的な取り組みで、ガイドが必要、というような場合にはお声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩「人体飢餓」書きかけ。 十時頃ねる。


昭和23年(1948)4月6日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では、戦争責任へ自ら与えた罰として、「天職」とまで考えていた彫刻を封印する日々でした。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、きちんとした「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、それもまだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして、雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめました。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。


「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

003やはりコロナ禍のため、各種イベントの中止/延期、或いは内容変更等が相次いでいます。予定通り実施されれば、「光太郎歿後年譜」に記載となるはずでしたが……。

例を挙げますと……

・ 日経カルチャーツアー「ほんとの空」に咲き誇る桜(福島県二本松市)
 当初予定 2021年4月18日(日) → 中止

智恵子実家の長沼家菩提寺である、二本松市の満福寺さんを会場としたイベントの予定でした。昨年、二本松で開催された「智恵子講座2020」で当方が講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)による「智恵子抄」朗読等が組まれていました。都内出発のツアーで、やはりコロナ禍のためでしょう、最小催行人数に達せず、中止となりました。

・第111回碌山忌(安曇野市碌山美術館)
 当初予定 2021年4月22日(木) → 関連行事等中止、入館料無料措置のみ

光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日イベント。例年であれば、館内グズベリーハウスで懇親会。光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読から始まっていました。

・芸能福島県人会 40周年記念 ふるさと特別公演(福島市とうほう・みんなの文化センター)
 当初予定 2021年4月30日(金) → 延期(詳細日程未定)
福島県出身・ゆかりの芸能人らでつくる芸能県人会の設立40周年記念ふるさと特別公演。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生から10年の節目に、復興への祈りを込めた音楽を県民に届ける。初代会長を務めた作曲家・古関裕而(福島市出身)、二代目会長の作詞家・丘灯至夫(小野町出身)らの名曲を披露する。

昨年亡くなった二代目コロムビア・ローズさんのヒット曲「智恵子抄」がプログラムに入っていました。
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・歌曲集『智恵子抄』独唱会(世田谷区響堂ホール
 当初予定 2021年5月8日(土) → 延期(秋以降) 
清水脩:歌曲集『智恵子抄』他 中村 仁(テノール)/石川奈々歩(ピアノ)

・高村祭(花巻市高村山荘敷地内)
 当初予定 2021年5月15日(土) → 中止

昭和20年(1945)、光太郎が花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念してのイベント。例年通りであれば、記念講演、地元の小中高生、看護学校生による詩朗読等が行われていました。

・安達太良山山開き(福島県二本松市)
 当初予定5月16日(日) → 規模縮小して実施

智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山の登山シーズンオープン。これも例年であれば、山頂で各種イベントが開催されていましたが、登山口で関係者のみ出席の安全祈願祭だけとなりました。
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・ 田端文士村記念館ひととき講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」(北区田端文士村記念館)
 当初予定 2021年5月16日(日) → 中止

智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』がらみの市民講座でしたが……。

それぞれ、企画して下さったことに感謝し、ご紹介いたしました。一度「中止」となったものも、再度復活することを望みますし(富山県水墨美術館さんで、昨年、「中止」と発表された「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は、今年、10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。同様の措置を期待します)、逆に「延期」となったものが、「再延期」や「中止」とならないように祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

豊沢川畔にて院長さん宅よりもらひし弁当をたべる。中島橋の仮橋無事。


前日の賢治祭のため、花巻町中心街に出ていた帰り。中島橋は花巻電鉄の二ツ堰駅があった近くです。その数日前、豪雨で豊沢川が氾濫していました。
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001当会発行の冊子『光太郎資料』55集、完成し、各所には概ね発送し終えました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。

北川先生の時代、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは受け継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。


その手作り感も踏襲し、現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十九回 音楽・映画・舞台芸術
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、明治大正期のものを集成しました。
 アンケート 初めて蓄音機を聞いた時(大正11年=1922)
 アンケート 我が好む演劇と音楽(明治44年=1911)
 散文 辞書を喰ふ女優(大正8年=1919)
 散文 外国映画と思想の輸入(大正9年=1920)
 書簡 田村松魚宛2通(大正8年=1919、大正9年=1920)
 書簡 吉村幸夫宛(大正11年=1922)

光太郎、サブカルチャー的な方面にもいろいろ興味があったようで、蝋管式蓄音機の話や、好きな芸能人の話など。長唄の六代目芳村伊十郎、ロシア人女優アラ・ナジモワ(光太郎はニューヨーク留学中に舞台を見ています)、フランスの女優メアリー・ガーデンとジョーゼット・ルブラン、子役時代の初代水谷八重子、音楽はフランス音楽、戯曲でメーテルリンク等々。

000・光太郎回想・訪問記  「千鳥と遊ぶ智恵子さん」  北条秀司
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、劇作家の北條秀司の文章から。戦時中、駒込林町のアトリエを訪れた際の回想、光太郎最晩年に「智恵子抄」舞台化を企画し、そのために智恵子役の初代水谷八重子が、中野の貸しアトリエに光太郎を訪れた件、結局光太郎が歿した翌年に上演された舞台「智恵子抄」の話などです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 彰義隊
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』昭和4年(1929)1月『江戸文化』第三巻第一号。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。慶応4年(1868)、江戸城無血開城後の上野戦争で、薩長相手に奮戦した彰義隊に関する元隊士の回想等が語られます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十九回  磯部温泉(群馬県)
現在も使われている温泉記号「♨」発祥の地とも言われる、群馬県の磯部温泉を紹介しました。確認できている限り、明治42年(1909)と大正15年(1926)の2回、光太郎がここを訪れています。
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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その三)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についての三回目。昨年、盛岡の岩手県立図書館さんで調査した結果、新発見がいろいろあり、それをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順 三)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では明治44年(1911)から同45年(1912、大正改元前の7月)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

【折々のことば・光太郎】

晴、朝もや美し。 坂上まで散歩。うぐひすしきりなり。アマドコロ、チゴユリなどとつて写生。

昭和22年(1947)5月28日の日記より 光太郎65歳

「坂上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、光太郎歿後「智恵子展望台」と呼ばれるようになったところでしょう。「アマドコロ」は、遠く明治末、智恵子が『青鞜』の表紙にあしらった花です。この絵、以前はスズランと言われていましたが、どうみてもアマドコロですね。

光太郎、智恵子がアマドコロを描いていたのを知っていたのか、知らなかったのか、何ともいえないところですが……。左が智恵子のアマドコロ、右が光太郎のアマドコロです。
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