カテゴリ: 日記

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

昨日は3.11でした。あの日から12年……。

あの日、津波に呑まれて亡くなった、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で光太郎文学碑の建立に尽力され、「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏を偲ばせていただきました。

12年前の春に自宅兼事務所に植えた桜の樹。3.11には咲いているものを、と思い、早咲きの品種にしました。今年も満開です。ついでにいうとその隣のミモザも。
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さらについでにいうと、連翹(光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていて、「連翹忌」命名の由来となった連翹の子孫です)やユキヤナギもぽつぽつ咲き始めました。
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春ですね。

『毎日新聞』さん、今朝の紙面から。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラムです。

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

小さな溝を流れている水、その水を春の水だと思うと、流れのさま、水音、水の色などにまさに春を感じるのだ。そして、小さな何げない溝がとってもすてきな場所に転じる。作者は詩人、彫刻家のあの光太郎である。上手な句とはいえないが、数多い「い段」の音が響いて流れが速いことを感じさせる。雪解けの水がさらさらと流れているのだろう。<坪内稔典>

明治42年(1909)、欧米留学末期のイタリア旅行中に詠まれた光太郎のこの句、このコラムで取り上げられるのは2回目です。最初に紹介されたのは平成29年(2017)でした。

もう1件、和歌山県の地方紙『日高新報』さんの一面コラム。昨日の掲載分です。メインは光太郎を敬愛していた宮沢賢治ですが、光太郎もちらっと。

日高春秋 詩の言葉が持つ強い力

年度末が近づくと、毎年発行されている日高地方小中学生の詩集が本社に届けられる。例年文芸欄で、原則として全文を順次紹介している◆日本では近世まで詩といえば漢詩を指し、現代のような詩は近代以降、高村光太郎や萩原朔太郎、中原中也らが隆盛させた。11日で東日本大震災から12年が経ったが、岩手県が生んだ童話作家の宮沢賢治は詩人でもあった◆今年で没後90年。生前出版された詩集「春と修羅」には、彼がイーハトーブと名づけた岩手県の荒々しく美しい自然、ひたむきに取り組んだ農作業、教員を務めた花巻農学校の生徒たちへの想いが表現されている◆卒業シーズンになると思い出す彼の詩がある。表題は「生徒諸君に寄せる」。「諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか」「新しい時代のコペルニクスよ」「新しい時代のダーウィンよ」「新たな詩人よ/雲から光から嵐から/新たな透明なエネルギーを得て/人と地球にとるべき形を暗示せよ」◆言葉には力がある。心を動かすという力だ。人の心が動けば、深い部分で物事を変えられる。論旨ではなく、言葉そのものがダイレクトに人の心を打つのが詩という自由な表現だ◆日高地方小中学生の詩集「子ども日高」は、もう20年以上読み続けてきた。当然だが一つとして同じものはない。言葉を操り始めて間もない小学生の作品には、初めて出会うものたちへの驚きがストレートにあふれている。中学生の作品は、その年代ならではの、大人が及ばない鋭敏で繊細な感性と発想で見事に構成され、読む人の心に若い情熱を伝えてくる◆若い世代の力の片鱗を感じるのは、頼もしく心躍ることだ。宮沢賢治が「新たな詩人」にエールを送ったように。

「岩手」、「3.11」といえば、昨日のWBCで先発し、見事に4回途中1失点8奪三振の快投を見せた日本代表の佐々木朗希投手

『スポーツ報知』さんのサイトから。

東山紀之、世界デビューの佐々木朗希に万感…「3・11に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」

004 俳優の東山紀之が12日、MCを務めるテレビ朝日系「サンデーLIVE!!」(日曜・午前5時50分)に生出演した。
 番組では、「カーネクスト2023 WBC東京プール」で11日に日本が1次ラウンド(R)第3戦のチェコ戦に臨み、ロッテの佐々木朗希投手)が快投で世界デビューを果たしたことを報じた。
 初回に失策絡みで1失点したが、3回2/3で被安打2、8奪三振。東日本大震災から12年たったその日にWBCでは日本人最年少での勝利投手となり、故郷・岩手に、被災地に勇気を与えた。打線は同じく岩手出身のエンゼルス・大谷翔平投手が打球速度約191キロの弾丸適時二塁打を放ち、3連勝に貢献。12日のオーストラリア戦に勝てば、B組1位での準々決勝進出が決まる。
 東山は3連勝の侍ジャパンを「大谷選手を始め、すべての選手が躍動しています」と絶賛。11日のチェコ戦をドームで観戦したことを明かし、佐々木の投球を「160キロ台の速球がビシビシ決まった」と感嘆していた。
 さらに「3・11のこの日に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」とし「震災を経験されて。地元の人に伺うと風化していくのが一番恐ろしいので、佐々木投手が投げるたびに風化させない思いが強くなると思います」とコメントしていた。

御存じの方は御存じでしょうが、佐々木投手、あの日、お父さまとお祖父さま、お祖母さまを津波で亡くされています。その13回忌に、何よりのご供養となったように、テレビ中継を見ながら感じました。

これからも、被災地の、そして日本全体に希望を届ける牽引役として頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

来月は僕も“LES IMPRESSIONS DES WONNAS”といふ長い詩を出すつもりです。或る人にデヂケエトするのです。


明治43年(1910)3月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

前年の欧米留学からの帰朝以来、旧態依然の日本美術界への失望は、光太郎をしてデカダン生活に追い込みます。吉原河内楼の娼妓・若太夫にのめり込み(「或る人」は若太夫です)、鬱屈した心境を詩に吐き出します。「LES IMPRESSIONS DES WONNAS」は、翌月の雑誌『スバル』に「LES IMPRESSIONS DES OŨONNAS」と解題されて発表されました。4篇の詩から成る連作です。

花巻レポートの2回目です。

2月15日(水)、宿泊していた大沢温泉さんをあとに、レンタカーを駆って花巻高村光太郎記念館さんへ。この日も天気は上々でした。
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さっそく館内へ。

市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」、こちらでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』という題で、1月22日(日)まででしたが、パネル等まだ撤去されず、端に寄せられて残っていました。
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宮沢賢治の親友でもあり、戦前から光太郎と交流のあった藤原嘉藤治が、戦後、開拓関連の仕事に従事していたため、光太郎もそれを助け、開拓者を讃える詩を執筆しました。その関連を中心にした構成です。
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当方執筆の説明パネル。
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当方撮影の写真。
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昨年12月、雫石町まで足を伸ばして撮影したものです。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は正規の日程で開催中。
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当方出演の展示解説動画、まだYouTube上で公開中です。

記念館さんを出て、隣接する(100メートルほど離れていますが)高村山荘へ。
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ピークは過ぎたようですが、まだまだ雪深い状態です。
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絵に描いたような氷柱(つらら)。

二重の套屋(カバーの建物)の中に、光太郎が独居自炊の生活を送った粗末な山小屋が保存されています。こんなところで7年間も……と、特にこの季節は胸が締めつけられる思いがします。

大沢温泉さんの駐車場にもありましたが、やはりキツネの足跡。かつて光太郎が見たキツネたちの子孫でしょうか。
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詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルにした詩碑。

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まさにこの季節にぴったりの詩です。全文はこちら。詩碑自体は昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、この碑の前で花巻高村祭が開催されていました。

再びレンタカーを駆り、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。その辺りは明日レポートします。

その後、花巻市東部の土沢地区へ。こちらにはやはり市立の萬鉄五郎記念美術館さんがあり、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として「歌人 小田島孤舟」展が開催中です。
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当初、この日は光太郎の足跡の残る釜石方面へ行こうかと考えていたのですが、「歌人 小田島孤舟」展で、光太郎にちらっと触れているという情報があり、急遽、こちらにうかがいました。
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この地出身の萬鉄五郎は、大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のち「フユウザン会」)で光太郎と共にメンバーだった画家、ここからほど近い旧小山田村生まれの小田島孤舟は石川啄木との関係から『明星』とも関わった歌人で、戦後には光太郎とも交流がありました。この二人、小学校(同館が現在立つ位置)で同級生。長じてからもつながりが続き、小田島が萬に自著の装幀をしてもらったりしていました(そのあたりは存じませんでした)。また、画家になることをめざしていた小田島は、親しい萬の才能に打ちひしがれ、志望を変更したそうです。

光太郎と萬は同じヒユウザン会のメンバーでしたが、あまり仲良くはなかったようです。昭和11年(1936)の回想「ヒウザン会とパンの会」から。

 琅玕洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあつたのは岸田劉生及その友人門下生の一団であつて、私も大体に於て岸田のグルウプであつた。その他、川上凉花、真田久吉、萬鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れてゐた。
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 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となつたのである。


小田島は戦後、光太郎に自著『孤舟歌碑』の序文を依頼し、光太郎もそれに応えています。そのあたりを踏まえ、当方、花巻高村光太郎記念館さん内の常設展示説明パネルには小田島についても言及しました。
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萬鉄五郎記念美術館さんの展示でも、『孤舟歌碑』の序文関係が。
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盛岡市先人記念館さん所蔵の、光太郎から小田島宛の葉書2通(ともに昭和22年=1947)。かつて同館の御厚意により、当方編集の「光太郎遺珠」で紹介させていただきました。
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さらに『孤舟歌碑』序文の原稿。全文は『高村光太郎全集』第8巻に収録されていて、写しでしたが、初めて拝見。「ほほぉ」という感じでした。
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「歌人 小田島孤舟」展、2月26日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

レンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

新花巻駅待合室には、大沢温泉さん同様、おひな様。鹿踊りバージョンも。
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明日は、途中、すっ飛ばした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん関連を。

【折々のことば・光太郎】

昨夕引越し申候。 ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。


明治40年(1907)10月19日(推定) 南薫造宛書簡より 光太郎25歳

6月にニューヨークからロンドンに渡った光太郎ですが、ロンドンの中でも転居しています。

ポリテクニツク」は、美術学校ではなく、一般人が通う技芸学校。当初はザ・ロンドン・スクール・オブ・アートという美術学校でデッサン等を学んでいました(ここで陶芸家となるバーナード・リーチと親しくなりました)が、あまり学ぶものがないと考え、ポリテクニックに移りました。

父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格を得、毎月60円の給与が出るようになった代わりに、家具や室内装飾などの応用美術の調査報告が義務づけられたことも関わるかも知れません。

宛先の南薫造は留学仲間の画家です。
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光太郎第二の故郷、岩手県花巻市に来て、現在、光太郎も愛した大沢温泉さんにおります。

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昨日は花巻市街で、宮沢賢治実弟の故・清六氏令孫にあたる宮沢和樹氏と公開対談でした。

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今日は光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんなどを訪れるつもりです。

詳しくは帰りましてから。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

2023年、令和5年となりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
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画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。

未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。


さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。

それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。

130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳

光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。

また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。

120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。

智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。

110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。

光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。

100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。

結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。

9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。

90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。

心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。

80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。
黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。

70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。

というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。

何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。

昭和30年(1955)10月27日の日記より 光太郎73歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。

2022年の最後の日となりました。

昨日まで、このブログサイトでは光太郎歿後年譜的に今年1年の主な出来事をご紹介して参りましたが、振り返ってみると、コロナ禍前の状況にかなり戻った感がしました。一昨年はとにかく自粛・自粛で各種イベントが軒並み休止、昨年もその余波がまだ続いていました。それが今年、特に秋以降はイベントの開催がまた以前のように為されるようになってきたように思われ、ありがたく存じました。ただ、関係者の方にコロナ感染が出て、中止となった公演等もあり、まだまだ予断を許さぬ状況ですね。

それから、コロナ感染症で、という方はいらっしゃらなかったように見受けられましたが、関係者の方々の訃報が相次ぎ、残念でした(例年のことではありますが……)。改めまして今年一年で亡くなった関係の皆様に、謹んで哀悼の意を表したいと存じます。

コロナ禍前の状況、といえば、皆様から頂いた郵便物に貼ってあった切手のJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)さんへの寄付。整理するボランティアさんの密を避けるということで2年ほど受付が休止されていたのが復活したので、約3年分をまとめてお送りしました。
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ご協力団体一覧」ということで、サイトに当会の名も載せて下さっています。

それからベルマークは「ベルマーク教育助成財団」さんに、さらに未使用の筆記用具やらノートやらがごっそりあって、これらは「NPO法人もったいないジャパン」さんに、それぞれ当会の名義で寄付させていただきました。

さて、別件で、明日放映されるテレビ番組の情報です。

暦に集う 「ダイヤモンド富士」

私たち日本人が暦の訪れを感じるのは、「自然」「生きもの」「人々」が見せてくれる、四季折々の表情です。「暦に集う」では日本各地の祭りや行事に集まる人々、四季の花々、季節の生き物たちなど、心温まる季節感を全国各地に追って、“味わいのある集い”を紹介します。

甲府盆地の南西に位置する山梨県・富士川町に、早朝多くの人が集っていました。実はここは「ダイヤモンド富士」の撮影スポット。富士山頂からのご来光を撮影するためです。朝7時20分、雲一つない空に「ダイヤモンド富士」が現れました。詩人の高村光太郎はこの地を訪れた際、「こんな立派な富士山は初めてだ」と感嘆したそうです。一年の始まりを「ダイヤモンド富士」で迎えて、今年も良い一年になることをお祈りしています。

【語り】三田寛子
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舞台は山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、光太郎がこの地を訪れました。それを記念して光太郎文学碑が昭和62年(1987)に建てられています。

その碑にほど近い場所が「ダイヤモンド富士」が見られるスポット。過去にやはり光太郎にからめ、『日本経済新聞』さんや、『毎日新聞』さん、漫画『ゆるキャン△』などで紹介して下さいました。

元日早々番組説明欄に光太郎の名が入った番組の放映があるとは、来年は良い年になりそうな予感が致します。

皆様もどうぞ良いお年を。

【折々のことば・光太郎】

夕方花巻の木彫家佐藤清三郎氏くる、観音山の観音のこと、監督といふ事断り、

昭和30年(1955)10月21日の日記より 光太郎73歳

清三郎」は「精三郎」の誤記です。佐藤は「瑞圭」と号した仏師で、光雲の孫弟子に当たります。花巻の出身で、昭和23年(1948)には光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたこともありました。その山小屋にほど近い音羽山清水寺さんなどに作品が残っています。

「観音山」云々は詳細不明です。

今年一年を振り返る企画、最終回です。

10月4日(火)
若松英輔氏著『言葉を植えた人』が亜紀書房さんから刊行されました。「かたちの詩人――舟越保武」という項で光太郎に触れられています。
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10月5日(水)
当会から会報的な『光太郎資料』第58集を発行いたしました。

10月7日(金)
当会の祖・草野心平が創刊した詩誌『歴程』編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子氏が亡くなりました。

10月8日(土)~12月11日(日)
千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんで、「月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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10月9日(日)~11月8日(火)
神奈川県鎌倉市のカフェ兼ギャラリー笛さんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催されました。関連行事として10月16日(日)には朗読会も催されました。

10月11日(火)
心とカラダを整える おとなのための1分音読CDブック』が自由国民社さんから刊行されました。俳優の平田満氏による「道程」の朗読も含まれています。
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10月19日(水)~11月10日(木)
埼玉県東松山市の市民文化センターさんで、「彫刻家 高田博厚展2022」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月20日(木)~11月21日(月)
岩手県花巻市の土沢カフェくるみさんで、「器と楽しむ光太郎ランチ」展が開催され、michino氏の色鉛筆画が展示されました。
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10月22日(土)~2023年1月29日(土)
文京区立森鷗外記念館さんで「特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」が開催され、新発見の光太郎から鷗外宛書簡が展示されました。
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10月25日(火)~10月30日(日)
大阪府豊中市の日本民家集落博物館さんで、「第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」が開催されました。

10月27日(木)~11月8日(火)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「智恵子記念館開館30周年記念事業」が行われ、紙絵実物展示、生家二階部分特別公開、そして智恵子が着る予定だった花嫁衣装の特別展示が行われました。
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10月27日(木)~11月1日(火)
石川県金沢市の文化ホ-ル展示ギャラリーさんで「教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展」が開催され、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の作品が展示されました。

11月1日(火)~2023年3月31日(木)

福岡県柳川市の北原白秋生家・記念館さんで「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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11月2日(水)~11月6日(日)
文京区の旧安田楠雄邸で、「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されました。

11月6日(日)
えつ子とまき子のコンサート 2022秋」が中央区の王子ホールさんで開催され、朝岡真木子氏作曲の「「智惠子抄」より 」あどけない話・レモン哀歌が演奏されました。歌唱は清水邦子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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11月7日(月)・11月8日(火)
シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサート「新・智恵子抄 智恵子飛ぶ」が渋谷区のアコスタディオさんで開催されました。

11月8日(火)
文京区のBON ARTさんで朗読系の公演「満ちてゆく秋の午後 IN BON ART & 霜月 満月 一日遅れの誕生日」があり、仏訳『智恵子抄』の『Poèmes à Chieko』から、「山麓の二人」が朗読されました。
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11月8日(火)~11月21日(月)
茨城県水戸市の茨城大学図書館さんで、「茨城大学五浦美術文化研究所所員企画展2022 「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」が開催され、光太郎書簡が展示されました。

11月10日(木)
中央区の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」公演が行われました。昨年上演されたものの再演で、智恵子役が一色采子氏、光太郎役は松村雄基氏でした。11月13日(日)には、二本松市安達文化ホールさんで福島公演も行われました。
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11月12日(土)
京都市の本屋ともひさしさんで「茶子 TeaTime 小さな朗読会 ~2022 秋~」が開催され、「智恵子抄」中の詩篇朗読がありました。

11月12日(土)~12月3日(土)
京都市の知恩院さんで「秋のライトアップ2022」が行われ、光雲作の聖観音像のライトアップも為されました。
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11月12日(土)~12月25日(日)
和歌山市の和歌山県立美術館さんで「ニッポンの油絵 近現代美術をかたち作ったもの」展が開催され、光太郎油絵「佐藤春夫像」が出品されました。
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11月17日(木)
大分市のiichiko音の泉ホールさんで、コンサート「「智恵子抄」~智恵子と高村光太郎の生涯をたどって~」が行われ、清水脩氏作曲の「歌曲集「智恵子抄」(全曲)」が、三人の歌手の皆さんによって演奏されました。

11月20日(日)
『日本経済新聞』さんが、「美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 メンバーの間で「生の芸術」論争」という2面ぶち抜きの大きな記事を掲載して下さいました。

同日、兵庫県神戸市の日本基督教団神戸聖愛教会さんで、「やすらぎコンサートin神戸 癒しの響き 鐘シンフォニー(和編鐘)への誘い」が開催されました。和編鐘・有機音氏、朗読・大山りえ氏による「智恵子抄より 「愛はすべてをつつむ」抜粋版」がプログラムに入れられ、当方が「光太郎智恵子と神戸」と題し講話を行いました。
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11月23日(水・祝)~2023年3月21日(火・祝)
花巻市の花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が開催中です。

11月26日(土)
文京区のアカデミー千石さんで第65回高村光太郎研究会が開催されました。発表は「彫刻家 高村光太郎」西浦基氏、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」安藤仁隆氏でした。
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12月4日(日)
鳥取県日野郡日南町の日南町総合文化センターさんで、「Art train 2022『藝術列車』プレイベントVol. 0.5」が開催され、シャンソン系歌手モンデンモモさんによる「舞踊音楽劇 文藝ビジュアル『智恵子飛ぶ』」がプログラムに入れられました。
 
12月8日(木)
光太郎が登場人物の一人である演劇「青年団第96回公演『日本文学盛衰史』北海道・岩手公演」巡回が、北海道網走郡大空町教育文化会館さんで始まりました。原作が高橋源一郎氏、脚本・演出は平田オリザ氏でした。11日(日)には北海道中川郡幕別町百年記念ホールさん、13日(火)で北海道富良野市の富良野演劇工場さん、15日(木)に北海道大麻中町のえぽあホールさん、18日(日)が岩手県盛岡市の盛岡劇場さんでした。
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12月10日(土)
日本詩人クラブさんの2022年12月例会が、新宿区の早稲田奉仕園さんで開催され、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」、会員の皆様による「高村光太郎「智恵子抄」朗読ドラマ――発刊80周年を過ぎて振り返る」が行われました。

同日、文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第15号が発行されました。勝畑耕一氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じだった北川節子様の追悼文が掲載されています。それから、当方の連載「連翹忌通信」も。

12月10日(土)~2023年1月22日(日)
岩手県花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市博物館、花巻市総合文化財センター、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に開催される企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」が行われています。花巻高村光太郎記念館さんでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、寄贈資料「開拓に寄す」とともに、関係資料の展示を行いました。
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12月14日(水)
ToneforestさんからCD「Be -別宮貞雄 歌曲集-」がリリースされました。別宮貞雄氏作曲「歌曲集 智恵子抄」全曲の、紀野洋孝氏(テノール)、森裕子氏(ピアノ)による演奏が収められています。

12月17日(土)~2023年2月19日(日)
杉並区立郷土博物館さんで、企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」が開催中です。光太郎に関わる展示も為されています。
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12月22日(木)
岩手県盛岡市の岩手大学学生センターさんで「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」が開催され、エリック・ブノワ 氏(ボルドー・モンテーニュ大学教授/フランス文学)、中里まき子氏(岩手大学人文社会科学部准教授/フランス文学)による「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」という発表が為されました。

12月23日(金)~2023年3月15日(水)
福井市の福井県ふるさと文学館さんで「福井県ふるさと文学館・荒川区吉村昭記念文学館おしどり文学館協定5周年記念イベント 特集展示 津村節子「智恵子飛ぶ」~芸術家夫婦を描いて~」が開催中です。
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 12月(日付不明)
山梨県の中央線社さんから文芸同人誌『中央線』第79号が発行されました。坂本富江氏による「甲州の森の詩人 野澤一という人」が掲載されました。

それから、その都度の項には入れませんでしたが、花巻市のoffice風屋さんから、「光太郎レシピ」が連載されている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』が4冊発行されました。今年途中から、それまで隔月刊だったものが、季刊へと移行されました。
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また、毎月15日には、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されました。
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以上、今年一年を振り返る「回顧2022」でした。

【折々のことば・光太郎】

前水道工事屋くる、湯沸器とりつけ終る、


昭和30年(1955)10月19日の日記より 光太郎73歳

終焉の地となった中野の貸しアトリエ。ガスは引いてあったので、ガス湯沸かし器でしょう。昭和30年当時、既にあったのですね。

今年一年を振り返る、7~9月編です。

7月1日(金)
土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』7月号で光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集が組まれ、光太郎にも触れられました。
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7月4日(月)
岩手県花巻市の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ、隣接するガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープンを記念し、運営会社の冨士見総業さんから光太郎・賢治関連等の新刊図書が大量に寄贈されました。

7月6日(水)
宝島社さんから硯昨真氏著のライトノベル『小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない』が刊行されました。「高村光太郎の牛鍋」の章で、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフとして使われました。
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7月8日(金)・7月9日(土)
大阪府豊中市の大阪大学豊中キャンパス 学生会館で、「劇団星今宵 第一回公演 売り言葉」の公演がありました。登場人物が智恵子一人の演劇で、脚本は野田秀樹氏でした。

7月9日(土)
新宿区の矢来能楽堂さんで、和編鐘奏者・有機音(ゆきね)氏による「CD発売記念コンサート in矢来能楽堂 癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い」が開催されました。菜月ひとみ氏朗読による「智恵子抄より 愛はすべてをつつむ」がプログラムに入っていました。
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7月16日(土)~9月30日(金)
花巻高村光太郎記念館さんで、令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、海を航る」が開催され、光太郎から実弟道利に宛てた留学中のローマ絵葉書などが展示されました。

7月16日(土)~9月19日(月)
青森市の青森県近代文学館さんで、令和4年度特別展「教室で出会った文学」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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7月17日(日)
宮野真生子氏著、奥田太郎氏編『言葉に出会う現在』が、ナカニシヤ出版さんから刊行されました。「「一つになる」愛の果てに」の章が「⑴ 高村光太郎・智恵子夫妻の悲劇」「⑵ 二人が目指した理想の結婚」「⑶ 「一つになること」の真相」「⑷ 不可能な理想と化した「愛」」という構成になっていました。

同日、文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。元山梨県立文学館館長であらせられ、在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。

7月31日(日)
岩手県花巻市で、小学生時代、生前の光太郎にかわいがられ、近年まで光太郎の語り部として活動されていた高橋征一氏が亡くなりました。
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7月(日付不明)
michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ』が刊行されました。企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLCさん、色鉛筆画/MICHINO氏でした。刊行を記念し、花巻市の道の駅はなまき西南さんで「器と楽しむ光太郎ランチ」展が開催されました。

8月4日(木)
『財界ふくしま』2022年9月号が、㈱財界21さんから発行されました。「時代の最先端を走り抜いた福島県出身の偉大な女性たち、そして現在日本の看護を支える「令和の瓜生岩子」―新島八重、高村智恵子、田部井淳子、そして福井トシ子―」という記事が掲載されました。
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8月5日(金)
渡辺祐真/スケザネ氏著『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』が、笠間書院さんから刊行されました。「第二章 虫の視線で読んでみる」中の「メタファーを使いこなせ!-『呪術廻戦』で呪術師たちは何を祓うのか?」で、詩「道程」(大正3年=1914)を引いて下さいました。

8月6日(土)
3D彫刻複製さんから 「西郷隆盛像」高村光雲【大】が発売されました。
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8月6日(土)~9月25日(日)
台東区の 東京藝術大学大学美術館さんで、特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」が開催され、光雲作の「矮鶏置物(ちゃぼおきもの)」(明治22年=1889)、「鹿置物」(大正9年=1920)が展示されました。

8月7日(日)
北海道北見市総合福祉会館さんで「北見市朗読赤十字奉仕団創立40周年記念朗読会」が開催され、岩井正氏(元NHKアナウンサー)による「高村光太郎「智恵子抄」から「智恵子の半生」」がプログラムに入りました。

8月9日(火)
第9回 松岡貴史&みち子作品展 小川明子、加耒徹が歌う 新作日本歌曲コンサート」が世田谷区のオーキッドミュージックサロンさんで開催され、松岡みち子氏作曲の新作(初演)「『智恵子抄』~女性から見た智恵子と光太郎の愛のかたち~」が演奏されました。徳島公演が8月30日(火)、徳島県板野郡北島町の北島町立図書館 創世ホールさんで行われました。
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8月10日(水)
杉並区の名曲喫茶ヴィオロンさんで、朗読公演「ノスタルジックな世界」が開催され、「智恵子抄」が取り上げられました。朗読はMIHOE氏、藤澤由二氏がピアノ演奏をなさいました。

8月18日(木)
競馬に関するエッセイ集『月をみるケンタウルス 紳士の心得帳』(法橋和彦氏著 未知谷さん発行)が刊行されました。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章で光太郎詩が引用されました。
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同日、盛岡市ご在住だった、光太郎の年齢の離れた従妹、加藤照さんが亡くなりました。105歳の大往生でした。

8月16日(火)
当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様、節子氏が亡くなりました。御夫妻で最晩年の光太郎を訪問されたことがおありでした。

8月18日(木)
福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。

8月26日(金)
郁朋社さんから智本光隆氏著の小説『猫絵の姫君 戊辰太平記』が刊行されました。若き日の光雲が登場します。
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8月27日(土)
盛岡市の岩手県立美術館さんで、「館長講座2022 作り手の視点 第2回 岩手の美術教育」が行われ、光太郎に触れられました。講師は同館館長・藁谷収氏でした。

8月30日(火)
朝日新聞出版さんから高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』が刊行されました。光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』、光太郎が推薦文を書いた山本和夫編『野戦詩集』などを取り上げ、光太郎にも言及されました。
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9月3日(土)~10月10日(月・祝)
調布市武者小路実篤記念館さんで、秋季展「作家の筆跡(ひっせき)」所蔵原稿名品展が開催され、
光太郎が訳した『ロダンの言葉』の一節「鐘の鳴るのをきゝに ロオマに行きたい」を光太郎が揮毫した短冊、実篤の書いた光太郎追悼文(昭和31年=1956)の原稿などが展示されました。

9月10日(土)~10月8日(土)
港区のタカ・イシイギャラリーさんを会場に、現代アート作家・梅津庸一氏の個展「緑色の太陽とレンコン状の月」が開催されました。光太郎の評論「緑色の太陽」からのインスパイア作品が展示されました。

9月10日(土)
平櫛田中著、小平市平櫛田中彫刻美術館さん編『平櫛田中回顧談』が、中央公論新社さんから刊行されました。随所で光雲、光太郎に触れられています。
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9月11日(日)
岩手県一関市の一関文化センターさんで、「曽部遼平 増田達斗 リートデュオリサイタル」の公演があり、増田達斗氏作曲の「あどけない話」がテノール歌手・曽部遼平氏の歌唱で演奏されました。豊橋公演が9月23日(金・祝)に開催されました。

9月15日(木)
京都市の池坊学園こころホールさんで「モンデンモモありがとうコンサート はじまりは 花に溢れ」が行われ、シャンソン系歌手のモンデンモモ氏と、華道家のロザリア氏のコラボによる「智恵子抄」収録詩にモモ氏が曲を付けた作品の演奏、ライブパフォーマンスが行われました。
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9月17日(土)~9月19日(月・祝)
特別企画 秋川雅史 木彫展」が、中央区の靖山画廊さんで開催されました。昨年の二科展入選作「木彫楠公像」が展示されました。

9月17日(土)
兵庫県養父市のやぶ市民交流広場さんで、「豊岡演劇祭2022」の一環として、高橋源一郎氏原作、平田オリザ氏脚本の演劇で、光太郎も登場人物の一人である演劇「日本文学盛衰史」が上演されました。9月24日(土)、25日(日)には豊岡市民会館さんでの上演もありました。
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9月17日(土)~10月16日(日)
第46回千葉県移動美術館」が木更津市郷土博物館金のすずさんで開催され、光太郎ブロンズ「薄命児男児頭部」が展示されました。
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9月22日(木)
岩手県花巻市で、光太郎が山居7年を過ごした高村山荘などを巡る「新花巻発見探訪ツアー太田・湯口地区」が開催されました。花巻市コミュニティ会議の地域振興部会さんが主催でした。

9月24日(土)
NHK FMさんの「ビバ! 合唱」で「合唱で聴く詩人の世界(13)~高村光太郎の世界」のオンエアがあり、清水脩氏、鈴木輝昭氏、西村朗氏、三好真亜沙氏、新実徳英作曲の「智恵子抄」詩篇に作曲された合唱曲が一挙に放送されました。
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同日、台東区の旧東京音楽学校奏楽堂さんで「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」が開催され、朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲「組曲 智恵子抄」の演奏が行われました。歌唱は清水邦子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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9月24日(土)・9月25日(日)
京都市の東山青少年活動センターさんで「演劇ビギナーズユニット2022(#28)修了公演XX文士(ハロゲンブンシ) 日本文学盛衰史」の公演がありました。高橋源一郎氏原作、平田オリザ氏脚本の演劇で、光太郎も登場人物の一人でした。

9月25日(日)
椿エンタープライズさん主催の演劇公演『
百花繚乱』が、福岡市のシアターカフェ愛と青春のふる~れさんで行われ、玄海椿氏のひとり芝居「智恵子抄」が上演されました。
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9月30日(金)
福島県二本松市で智恵子顕彰活動に当たっていた「智恵子の里レモン会」さんが、会長であらせられた渡辺秀雄氏の逝去に伴い、解散することを発表しました。

明日はこの項の最終回、10~12月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】013

藤島宇内氏くる、武智鉄二氏の話を伝言、面のスケッチを示すこと、京都の或職人がそれによつて面打をすること、「智恵子抄」能形式演能のこと、


昭和30年(1955)10月9日の日記より
 光太郎73歳

武智鉄二構成演出、観世寿夫作曲の新作能「智恵子抄」。光太郎も乗り気で、面のスケッチも残しましたが、結局、光太郎生前には実現せず、昭和32年(1932)になって上演されました。

以後、ダイジェスト版の舞囃子の形式などで演じられることが多くありました。来年2月にも公演があります。近くなりましたらご紹介します。


今年1年を回顧する第2回、4~6月分です。

4月1日(金)
齋正機氏著『福島鉄道物語』が福島民報社さんから刊行されました。「ほんとの空」という章で智恵子に触れられています。
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同日、青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文「故旧哀傷・北川太一 」が掲載されました。

4月2日(土)
第66回連翹忌でしたが、新型コロナウイルス感染症のオミクロン変異株による第6波で「まん延防止等重点措置」が発令され、集いは3年連続での中止となりました。

同日、高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究(43)』が発行されました。安藤仁隆氏による「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」、「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」、当方編集の「光太郎遺珠⑯」、「高村光太郎没後年譜 令和2年1月~令和3年12月」等が掲載されました。
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さらに同日、当会から『光太郎資料』第57集を発行いたしました。

4月2日(土)~5月8日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」展が開催され、光太郎の父・光雲を含む帝室技芸員とその候補者、東京美術学校教授らにより制作された木製のつづら折りになる小屏風「綵観」が出品されました。
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4月2日(土)~6月26日(日)
長野市の長野県立美術館さんで「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展が開催され、光雲とその高弟・米原雲海による善光寺仁王像関連の展示が、AR技術を駆使して為されました。

4月9日(土)~6月5日(日)
神奈川県平塚市の平塚市美術館さんで「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」が開催され、光雲木彫「魚籃観音」「寿老舞」が展示されました。その後、栃木県足利市立美術館さんに6月12日(日)~7月21日(木)、富山県高岡市美術館さんで7月29日(金)~8月31日(水)、広島県ふくやま美術館さんが9月23日(金・祝)~11月20日(日)、新潟市美術館さんへ11月29日(火)から2023年1月29日(日)、それぞれ巡回があり、さらに福岡県久留米市美術館さんには2023年2月11日(土・祝) 〜 2023年4月2日(日)で巡回予定です。
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4月15日(金)
全音楽譜出版社さんから『朝岡真木子歌曲集2』が刊行されました。独唱歌曲の組曲「智惠子抄」を含みます。

4月16日(土)~6月19日(日)
茨城県筑西市のしもだて美術館さん、廣澤美術館さん、板谷波山記念館さん3館合同の同時開催で「特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」展が開催され、光太郎ブロンズ「手」、光雲木彫「三猿置物」「瓜生岩子像」が展示されました。その後、6月25日(土)~7月24日(日)に石川県立美術館さん、9月3日(土)~10月23日(日)で京都市の泉屋博古館さん、11月3日(木・祝)~12月18日(日)には港区の泉屋博古館東京館さんを巡回しました。来年1月2日(日)~2月26日(土)には茨城県近代美術館さんに巡回予定です。
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4月16日(土)~6月26日(日)
島根県益田市の益田市立雪舟の郷記念館さんで「雪舟等楊 終焉の物語 ~室町から令和へ~」展が開催され、光雲作の「雪舟禅師像」が出品されました。

4月19日(火)
朗読系公演「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」が、荒川区の日暮里サニーホールさんで開催されました。「「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード」(宮尾壽里子氏の翻案構成・朗読、電子ピアノ・Yoshi氏)がプログラムに入りました。
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同日、渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホールさんで「第11回 21世紀合唱音楽祭」が開催され、安藤由布樹氏作曲「女声合唱組曲 青鞜の女たち(ショパンのエチュードに基づくパラフレーズ) 」の初演がありました。「樹下の二人(高村智恵子のつぶやき)」を含みます。

4月22日(金)
NHK青森さんで放映されているロカールワイド「あっぷるワイド」で「"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~」の放映がありました。
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4月23日(土)~5月8日(日)
千葉県成田市の三里塚コミュニティセンターさんで「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月28日(木)~5月29日(日)
二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、紙絵の実物展示、生家2階特別公開、上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験等の催しがありました。

4月29日(金)
BS松竹東急さんで、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)が放映されました。再放送は5月1日(日)でした。
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4月29日(金)~5月5日(木)
鎌倉市の建長寺得月楼さんで「三門楼上五百羅漢特別展」が開催され、通常非公開の光雲の師・高村東雲による鋳銅五百羅漢像の一部が展示されました。
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4月30日(土)
河出書房新社さんから同社編集部編『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

5月16日(月)
地上波NHK総合で「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」の放映があり、光太郎実妹・しづ令孫の山端夫妻がご出演、光太郎やしづについて語られました。
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5月17日(火)
戦中、戦後に光太郎と交流のあった渡辺正治氏(渡辺えりさん御父君)が亡くなりました。
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5月18日(水)
CD「朗読喫茶 噺の籠~あらすじで聴く文学全集~あらくれ/詩集「永訣の朝」/金色夜叉」が、噺RECORDさんからリリースされました。光太郎詩「樹下の二人」、「あどけない話」、「風にのる智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「亡き人に」を含みます。朗読なさっているのは、声優の森川智之氏でした。
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5月20日(金)
名古屋市の宗次ホールさんで「ランチタイム名曲コンサート vol.2313 音の情景 語りの調べ ~風を聴く~」が開催され、シューマン作曲「飛翔」に乗せて、光太郎詩「風にのる智恵子」朗読が為されました。ピアノは佐藤美和氏、朗読は野田育子氏でした。
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5月23日(月)~6月1日(水)
豊島区の映画館・新文芸坐で「丹波哲郎 生誕100年祭」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」も上映されました。

6月1日(水)
写真家の田沼武能氏が亡くなりました。生前の光太郎を撮影された他、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれました。

6月2日(木)
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会DVDが発売されました。1月に公演があった演奏会のライブ録画で、新実徳英氏に委嘱作曲の「愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」、初演が含まれています。
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6月10日(金)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第14号が発行されました。作曲家・仙道作三氏による当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼文「人間の魂を愛し続けた人 北川太一」、平成29年(2017)に亡くなった、版元の文治堂書店さん創業者・渡辺文治氏の追悼文「渡辺文治さんのこと」(佐藤博久氏ご執筆)、当方の連載「連翹忌通信」が掲載されました。

6月13日(月)
BSJapanextさんで、二本松市を舞台とした「徳永ゆうきの一期一会はなうた旅 #12」の放映があり、智恵子に触れられました。再放送が6月20日(月)に為されました。
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6月17日(金)~7月23日(土)
京都市の京都精華大学ギャラリーTerra-Sさんで、「京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展 越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」が開催され、 3月、東京上野の森美術館さんで開催された「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」に、智恵子紙絵、『青鞜』表紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」を出品され、VOCA佳作賞を受賞された谷澤紗和子氏が、同作を出品なさいました。

6月27日(月)
石川善助詩集『亜寒帯』復刻版』が、モリナカヒデキ氏編で、あるきみ屋さんから刊行されました。昭和11年(1936)刊行の元版の光太郎による序文も収録されました。
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6月30日(木)
文藝春秋さんから夢枕獏氏著『仰天・俳句噺』が刊行されました。「第四回 「おおかみに螢が一つ――」考」という章で、光太郎について触れられています。

同日、河出書房新社さんから奥泉光氏/加藤陽子氏著『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』が刊行されました。「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」で光太郎に言及されています。
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明日は7~9月を。

【折々のことば・光太郎】

后、NHKより録音にくる、草野心平さんと「よもやま話」2回分、20分づつ2回、十月十八日、廿五日放送の由、


昭和30年(1955)9月25日の日記より 光太郎73歳

この際の対談テープがNHKさんに残っており、そこからCD化もされました。余命半年余りの光太郎でしたが、声にはまだ張りがあり、気のおけない心平との対談ということもあり、楽しそうに笑う場面も見受けられました。

もうそういう時期か、という感じですが、今年1年を振り返ります。今日は1~3月です。最初にお断りしておきますが、主な事項のみの紹介とさせていただきます。

と、その前に、昨年のこの項で漏れていた、昨年12月の件を少し。

2021年12月15日(水)
西川清史氏著『文豪と印影』が左右社さんから刊行されました。昭和15年(1940)、詩人の宮崎丈二を通じて依頼した、中国の斉白石制作の印が紹介されています。
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2021年12月20日(月)
あすなろ書房さんから宮川健郎氏編『日本の文学者36人の肖像(上)』が刊行されました。「高村光太郎 近代詩の父」という項を含みます。

さて、ここから2022年。

1月4日(火)~1月23日(日)
特別展 和歌山と皇室―宮内庁三の丸尚蔵館名品展―」が和歌山県立博物館さんで開催され、後期展示で光太郎の父・光雲の木彫「猿置物」(別名「猿・三番叟」 大正12年=1923)が出品されました。
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1月10日(月・祝)
東京芸術劇場さんで慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会が行われ、新実徳英氏作曲 『愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために』の委嘱初演がありました。指揮は佐藤正浩氏、管弦楽はザ・オペラ・バンドさんでした。

1月15日(土)
同曲の楽譜『愛のうた―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために[ピアノ・リダクション(四手連弾)版]』が、全音楽譜出版社さんから刊行されました。
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1月15日(土)~3月13日(日)
群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

1月19日(水)   
岩手県の地上波テレビIBCテレビさん「で「わが町バンザイ【花巻市】」が放映され、高村山荘、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんの模様が紹介されました。
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1月20日(木)
致知出版社さんから齋藤孝氏著『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』が刊行されました。光太郎詩「道程」、「レモン哀歌」が収められました。
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1月21日(金)
第2回 JILA朗読芸術祭」が墨田区のすみだトリフォニーホールさんで開催されました。朗読「智恵子抄 より」がプログラムに入れられ、小林己恵子氏、鈴木裕美氏の朗読が披露されました。

1月24日(月)
集英社さんから武田綾乃氏原作、むっしゅ氏作画のコミック『花は咲く、修羅の如く』第1巻が発行されました。朗読を愛する少女を主人公とした漫画で、光太郎詩「道程」が取り上げられました。
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1月25日(火)
地上波NHK Eテレさんで「びじゅチューン! 老猿は主役じゃなくても」が放映されました。アニメーション、歌、解説は井上涼氏でした。
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2月2日(水)~3月21日(月)
大阪市の大阪中之島美術館さんで開館記念の「Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―」展が開かれ、光雲作の木彫「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914)が出品されました。
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2月3日(木)~2月9日(水)
新宿区の日本写真会館さんで「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」が開催されました。

2月5日(土)
亜紀書房さんから若松英輔氏著『詩集 美しいとき』が刊行されました。「あとがき」で光太郎に触れられていました。
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2月23日(水)~5月15日(日)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで、「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」展が開催され、光雲木彫「鈿女命」、光雲原型制作の鋳銅仏「准胝(じゅんてい)観音像」などが展示されました。

2月23日(水)
フェリシモミュージアム部さんから「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」が発売されました。「高村光太郎著『智恵子抄』× 天のものなるレモンの紅茶」がラインナップに入っていました。
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2月24日(木)
横浜市栄区民文化センター リリスホールさんにおいて、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」が開催されました。宮本益光氏の歌唱で、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」がプログラムに入っていました。
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3月1日(火)
学研プラスさんから芳賀靖彦氏編『マンガ 教科書に出てくる美術・建築物語 ② 日本の美術 下』が刊行されました。雛川まつり氏作画「高村光雲「老猿」」が含まれていました。

3月1日(火)~3月6日(日)
中央区の東京銀座画廊・美術館さんで「古稀 北野攝山書展」が開催され、光太郎詩「牛」を書かれた作品が出品されました。
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3月2日(水)
NHK仙台放送局さん制作のローカルラジオ番組「ゴジだっちゃ!」で、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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3月5日(土)~5月29日(日)
京都市の清水三年坂美術館さんで「明治・大正時代の木彫」展が開催され、光雲木彫14点が展示されました。
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3月11日(金)~3月30日(水)
台東区の上野の森美術館さんで現代アートの「VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─」展が開催され、谷澤紗和子氏作の智恵子作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイア「はいけい ちえこ さま」が出品されました。

3月13日(日)
中央区の王子ホールさんで「朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回」が開催され、朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲「組曲〈智恵子抄〉」から「人に」が演奏されました。歌唱は清水邦子氏でした。
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3月19日(土)~4月9日(土)
大阪市のstudio Jさんで、現代アート作家・谷澤紗和子氏の個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」が開催され、智恵子作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイア作品が多数展示されました。

3月20日(日)
日本近代文学館さんから『日本近代文学館年誌-資料探索』第17号が発行されました。吉田昌志氏による「尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって――」が掲載されました。
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3月23日(水)
Octavia Records IncさんからCD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」がリリースされました。歌唱は宮本益光氏。加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が収められました。

3月25日(金)~4月5日(日)
京都市の知恩院さんで「春のライトアップ2022」が行われ、光雲作の鋳銅聖観音像もライトアップされました。
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3月28日(月)
書肆九十九合同会社さんより小田原のどか氏著『近代を彫刻/超克するー雪国青森編』が刊行されました。昨年12月から今年1月にかけて(本来2月まででしたが、コロナ禍のため会期短縮)、青森市の青森公立大学国際芸術センター青森 [ACAC]さんで開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」図録です。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像 昭和28年=1928)」を大きく取り上げています。

3月30日(水)
NHKラジオ第1さんの「マイあさ!」で、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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同日、オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座「若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む」の第1回が配信されました。4月27日(水)、5月25日(水)と、全3回でした。
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明日は4~6月を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

藤原嘉藤治氏くる、開拓十周年のこと「岩手川」とバタをもらふ、


昭和30年(1955)9月24日の日記から 光太郎73歳

藤原嘉藤治は、生前の宮沢賢治の親友で、光太郎ともども戦前の『宮沢賢治全集』出版にも携わりました。

戦後は郷里岩手に帰って岩手県開拓者連盟の仕事につき、昭和25年(1950)には、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎に開拓5周年記念の詩「開拓に寄す」執筆を依頼、そして10周年となったこの年も記念の詩を依頼しました。光太郎はそれに応え「開拓十周年」という詩を執筆しています。

その辺りに関わる展示が、現在、花巻高村光太郎記念館さんで共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環としての『高村光太郎の「開拓に寄す」』で取り上げられています。

昨日から一泊二日で岩手県花巻市に来ております。

花巻高村光太郎記念館さんで11月23日(水)から開催されている企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説をYouTubeで配信するというので、その収録がメインでした。

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さらに夕方からは、花巻市街で来春行われるイベントの打ち合わせ。

今日は雫石町まで足を伸ばします。詳しくは帰りましてから。

11月20日(日)、兵庫県神戸市の神戸聖愛教会さんで開催された「やすらぎコンサートin神戸 癒しの響き 鐘シンフォニー(和編鐘)への誘い」というコンサートに応援出演、光太郎智恵子について軽く話させていただきました。レポートいたします。

神戸へは、空路を使いました。自宅兼事務所は千葉県ですが、少し北上すると茨城県。その茨城県の南部に自衛隊さんの百里基地と滑走路等を共有している茨城空港があり、そちらから神戸便が出ています。空港までは車で45分ほど、フライト時間は1時間ちょっと。鉄道で神戸となると、まず自宅兼事務所から東京駅まで出るのが2時間近くかかりますので、空路の方が断然早いわけです。
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駐車場はターミナルビルの目の前、しかも無料! ありがたし!!

自衛隊さんと共用なので、ターミナルビルの脇にはこんな展示も。先月、空港の下見に行きまして、その際に撮ったものですが、空自さんで使っていたF4ファントムです。これで神戸まで飛べれば更に早いのですが(笑)。
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1ヶ月前に航空券の手配をした際、すでに「残席2」。「えっ?」と思ったら、それもそのはず、空港近隣にある公立中学校さん(それも2校)の修学旅行とかち合っていました。最近は公立中でも飛行機の旅なのですね。
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搭乗した機体がこちら。
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あっという間に神戸空港に着きました。

そこから鉄道で市街へ。下記は車窓から撮った神戸港です。
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光太郎、確認出来ている限り、生涯に2度、神戸港を訪れています。

最初は明治42年(1909)、3年半にわたる欧米留学を終え、ロンドンから日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に降り立った時です。

一九〇九年(明治四十二年)七月に阿波丸は神戸についたが、船が波止場に横づけになつたか、はしけで上陸したか、忘れてしまつた。父が一人で迎へに来てゐた。私は船中無一文で、洗濯代も払へずにゐたのを、父に払つてもらつたことをおぼえてゐる。紐育、サザンプトン、テームズ河口等をはじめ、コロンボ、香港等の港を見てきた眼には、神戸港はただ乱雑な、けち臭い船着場にしか見えなかつた。船から上つて薄ぎたない船宿の一室に案内され、一休みしてその晩の夜汽車ですぐ東京に向つたやうに思ふ。(「父との関係」 昭和29年=1954)

神戸港を「ただ乱雑な、けち臭い船着場」とディスっていますが、明治末はまだそんな感じだったのでしょう。下記はその頃と思われる当方手持ちの古絵葉書です。
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2度目に光太郎が神戸を訪れたのは、昭和10年(1935)。神戸港に、すぐ下の弟・道利がフランスから送還されてくるのを迎えに、です。道利は父・光雲に、軍人志望、さらに結婚も反対されて自暴自棄となり、勝手にヨーロッパに渡って音信不通となっていましたが、体調を崩して、フランスの慈善病院に収容されていました。そのころと思われる古絵葉書。瀟洒なビル等も出来ていました。
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コンサート会場に行く前に、寄り道。大倉山の神戸文化ホールさん。昭和48年(1973)の竣工だそうです。
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こちらの側面外壁に、智恵子の紙絵をあしらった巨大壁画が。
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右上は心を病んだ智恵子が、南品川ゼームス坂病院で作った紙絵の一つで、これが原画です。紫陽花は神戸市の花だそうで。

ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生。市長から相談を受けた柳原が、それなら、と、この紙絵を原画に使うことを提案したそうです。そこで当時の髙村家当主だった光太郎令甥にして写真家の故・髙村規氏に相談が持ちかけられ、規氏も写真技術を駆使して協力。仲介したのはやはり光太郎と交流のあった美術史家・土方定一でした。さらに土方の推薦した画家・田中岑(たかし)が色彩監督となって、規氏の写真から愛知県の瀬戸で色彩タイルを1,000枚以上焼成し、貼り付けたとのこと。その辺りの経緯は平成21年(2009)の『日本古書通信』に載った規氏の回想「髙村規の語る戦後の写真」に述べられています。阪神淡路大震災でも、この壁画には奇跡的に損傷がなかったことなども。
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壁画の真下の植え込みには、智恵子と田中の名を刻んだプレートと、さらに光太郎詩碑。
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当会の祖にして光太郎智恵子と親しかった詩人・草野心平の筆になる『智恵子抄』中の「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてに 溢れこぼるゝ ものあれ われらつねに みちよ」が刻まれています。心平を担ぎ出したのも、土方なのではないかと思われます。土方は心平主宰の『歴程』に依った詩人でもありましたので。或いは規氏→心平というホットラインも考えられます。

さて、その後、新神戸駅近くの神戸聖愛教会さんへ。さすが神戸、巨大な教会で驚きました。さらに驚いたことに、こちらの牧師さん、光太郎第二の故郷・花巻のご出身だそうで、ひとしきり花巻談義に花が咲きました。
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こちらの2階にある礼拝堂がコンサート会場です。
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有機音(ゆきね)さんの和編鐘、地元の朗読家・大山りえさんの朗読がメインでした。

リハーサル風景。
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有機音さん、様々な事象からインスパイアを受けて曲作りをなさる方で、津田梅子オマージュの曲も作られ、今回のプログラムにも。そこで津田梅子を主人公とした小説『ハドソン河の約束―米国女子留学生による近代女子教育への挑戦―』の御著者、こだまひろこ氏のトークもあり、地元のカリヨン演奏家・則定まりさんとそのお仲間の方々によるリコーダー演奏もありました。カリヨン演奏もあるのかな、と思っていたのですがそれはありませんでした。
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そしてプログラムの最後が、有機音さんの演奏と大山さんの朗読による「組曲 愛はすべてをつつむ」からの抜粋。その前座として、当方のトーク。上の方に書きました光太郎智恵子と神戸との関わりを中心に語りました。

ステージというか、祭壇というか、とにかく正面脇の壁面に大型モニター画面があって、HDMIケーブルで繋げるというので、パソコンを持参、画像を映させていただきました。文化ホールの壁画はその日撮った画像をすぐ取り込みました(笑)。

その後の演奏と朗読の際にも、光太郎智恵子の写真を映しっぱなしにさせていただきました。
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そんなこんなでコンサート終了。

教会独特の音響効果、さらに和編鐘という楽器がものすごく残響時間が長く、実に不思議な空間が現出されたように思われました。

ところで「宣伝せよ」という有機音さんの厳命があったので(笑)、事前にお近くに住まわれている知り合いに片っ端から案内を送ったところ、連翹忌にご参加下さっている大阪市ご在住の女性がお友達とご一緒に聞きに来て下さいましたし、20数年前、当方がまだ勤め人だった頃の親しかった同僚(神戸市ご在住)も駆けつけて下さいました。20数年ぶりに会え、感激でした。

また、やはり神戸ご在住で、令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた料理研究家の中野由貴さんは、他のイベントの先約があって無理、と御返事を頂いていたのですが、なんとそちらに行かれる前、こちらの開演前に会場にいらして下さり、お土産まで頂戴してしまいました。ありがたし。

そんなこんなで、人と人とのご縁、的なものの大切さをしみじみ感じる神戸行でした。

以上、神戸レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

食事後理髪にゆく、 帰宅後太田村の昌歓寺住職神武男氏くる、子息同伴、

昭和30年(1955)2月12日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核も小康状態を見せ、久しぶりに床屋へ。ただし4月末にはまた重症化し、入院することになってしまいます。

昭和20年(1945)から同27年(1952)まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺さんから、親しかった住職・神武男が訪問。久闊を叙しました。

昨日から神戸に来ております。和編鐘奏者・有機音さんを中心とした「やすらぎコンサートin神戸鐘シンフォニーへの誘い」というコンサートで、光太郎智恵子について喋らせていただきました。
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詳しくは帰りましてから。


当会で会報的に発行している冊子『光太郎資料』の第58集が完成し、関係先には発送が終わりました。

元々は当会顧問・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として第36集まで不定期に発行されていて、その後休刊状態だったもの。平成24年(2012)の第37集からその名跡を譲り受けました。題字は北川先生作の木版から採っています。4月の連翹忌、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

B5判ホチキス留め、49ページ。今号の内容は以下の通りです。

・ 「光太郎遺珠」から 第二十二回 「婦人」(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめています。前号から婦人雑誌に載った光太郎作品、「婦人」をテーマに書かれた光太郎作品を載せました。

 座談 新女性美の創造 昭和16年(1941)1月20日~2月14日の『読売新聞』婦人欄に断続的に15回にわたって掲載された座談会筆記録です。
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光太郎以外の出席者は、西田正秋(東京美術学校助教授)、吉田章信(体育研究所技師、文部省体育官、医学博士)、豊島与志雄(フランス文学研究家、作家)、竹内茂代(医学博士)、宮本百合子(作家)でした。

太平洋戦争開戦の年の1月、日中戦争は膠着状態に陥っていた時期でしたので、翼賛的な発言も目立ちますが、女性も旧時代の旧弊に囚われず、健康的な美を身につけるべし、といった内容になっています。

散文 新しい女性美 昭和18年=1943 1月1日発行『青年』第28巻第1号 女子版新年号から。上記「新女性美の創造」ともかぶる(やはり翼賛的な内容も含む)女性美創出への提言です。

少し引用しますと、

 ふるい俗悪な社会意識の滓(かす)は完全に取り去られねばなりません。何でも見た眼に一寸きれいに見えるものを飾り立てて美だと思ふやうな低級な気持ちは棄(す)てねばなりません。流行を追ひ、流行に左右せられて、(つまり営利資本に左右せられて)結局無駄(むだ)な苦心をして天下の資材を空費するやうな愚かな事は止めねばなりません。美が生ずる根源は必要にあります。必要によく適つたものからは必ず美が生まれます。
(略)
 女性の服装や化粧にしても、「必要にして十分」なものが一番美しいのであつて、不必要な無駄なものをたくさん身につけたものは醜なのであります。それゆゑ職場のきりりとした仕事着は見る眼もすがすがしい美であり、野良で働く時の野良着(のらぎ)はこれ亦比類もない美であります。その事に十分自信を持つべきです。遊惰(いうだ)の象徴のやうなぴらぴらした長い袖や、酒樽(さかだる)の箍(たが)のやうな厚い重い帯は決して美ではありません。少くとも眉をひそめさせる類の美であります。それを立派な美だと思つてゐた時代もあつたのはその時代が病的であつたからに過ぎません。
 
なるほど。

縄田林蔵詩集『日本の母』序 昭和18年8月執筆。縄田は岡山県出身の詩人です。詩集『日本の母』は、春陽堂から刊行された『日本の母』(昭和18年=1943 日本文学報国会編)――軍人援護会の49府県支部から推薦された「日本の母」を、光太郎を含む49人の文学者が訪問して書かれたもの――の内容を縄田が叙事詩にしたものですが、結局未完に終わったようです。

・ 光太郎回想・訪問記 桐後亭日録より「高村光太郎の罹災」(抄)野田宇太郎
詩人・評論家・編集者の野田宇太郎が自身の過去の日記を引用し、その前後の様子を捕捉した『桐後亭日録 灰の季節と混沌の季節』(昭和53年=1978 ぺりかん社)から、昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれ、近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎を訪問した際の部分です。その後、光太郎は宮沢家の誘いで花巻に疎開することとなります。

・ 光雲談話筆記集成 たゞ仕事に没頭
光太郎の父・光雲が残した談話筆記は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)などにまとめられていますが、それに収められなかった談話筆記がさまざまな書籍・雑誌等にも載っており、それらを拾い集めています。今号では昭和3年(1928)文海書院発行、田中正雄著『回春長寿生の喜び』より。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた光雲を含む各界著名人の体験談等が掲載されています。他に渋沢栄一、高橋是清など。

他のものもそうですが、光雲の談話はとにかく落語のようで面白いものです。特にこれは、暴飲暴食をやめて健康になった話や、自身のいびきがひどい話など、笑えます。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第二十二回  川治温泉(栃木県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今号は川治温泉。
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記録に残る光太郎の川治温泉訪問は、昭和13年(1938)の11月。前月には最愛の妻・智恵子が南品川ゼームス坂病院において、粟粒性肺結核のため数え53歳でその生涯を閉じています。智恵子の付き添いを務め、ゼームス坂病院で共に起居していたのは、当時の「一等看護婦」の資格を持っていた智恵子の姪・春子。その労苦の慰安を目的に、春子を連れて川治を訪れたことが、春子の回想に書かれています。

005・音楽・レコードに見る光太郎  第二十二回  ぼろぼろな駝鳥 弘田龍太郎
光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)に、弘田龍太郎が曲を付け、昭和18年(1943)にレコード化された歌曲について。弘田は「靴が鳴る」「雀の学校」「春よ来い」などの童謡作品が有名です。弘田の「ぼろぼろな駝鳥」は、正確な作曲年が不明で、公刊された楽譜も見あたらないのですが、情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

・高村光太郎初出索引(年代順)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正10年(1921)から同12年(1923)までに初出があったものを掲載しました。

006ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

午前机の前にてメマヒをつよく感じる、空気の為らしく、窓を明け、ガラス戸をあけたら直る、

昭和29年(1954)5月2日の日記より 光太郎72歳

「メマヒ」は眩暈(めまい)です。いよいよ光太郎の体調が深刻になりつつあります。

昨日まで、1泊2日で岩手県に行っておりました。レポートいたします。

1日目、7月15日(金)。東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りました。まず向かったのは、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。北東北はまだ梅雨明けが発表されていないということで(関東も「戻り梅雨」的様相ですが)、この日も結構降っていました。
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こちらのインフォメーションコーナー的な一角。
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過日、近くにガソリンスタンドをオープンさせた冨士見総業さんが、光太郎賢治関連書籍などをごそっと寄贈なさいました。なかなかできることではありませんね。
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書棚が3つ、約470冊、10万円相当だそうで。書棚にはガラスの戸が付いており、夜間は施錠するそうですが、日中は自由に取り出して読めるようになっています。

光太郎関連。
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図書館さんのように貸し出しをするわけではないので、ここで読むにはどうなのかな、というものもありますが、図版の多い書籍なども含まれ、いいのではないでしょうか。
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書棚の隙間には、光太郎を描いたイラストも(写真を撮り忘れましたが、賢治も)。
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こちらの元ネタは、この写真です。
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宮沢賢治関連の書籍。光太郎関連よりも賢治関連の方が、さまざまな書籍等が出ていますので、やはりスペース的に光太郎関連の倍以上。
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シリーズ物で、光太郎・賢治関連もラインナップに入っているものなども。
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これから学校さんは夏休みに入っていきますし、ぜひ小中学生さんたちにも活用していただきたいものです。

その隣では、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品です。
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食欲をそそられます(笑)。

実物の写真等も。
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この日は15日で、「光太郎ランチ」の販売日でした。そこで、一つ、確保していただいておりました。
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この日のメニューは、「ごま飯・おにぎり」、「赤魚塩麹焼き」・「ズッキーニグラタン」、「野菜サラダ」、「スナップエンドウの卵とじ」、「塩麹卵焼き」、「お新香」、「茹でトウモロコシ」、「梅干し寒」。彩りも鮮やかですし、栄養バランスもしっかり考えられていますね。

と、まぁ、「賢治と光太郎の郷」という愛称通りに、さまざまな取り組みをなさっている道の駅はなまき西南さん。今後も地元の皆さん、さらに市外の方々にも愛されていってほしいものだと思いました。

この後、近くの花巻高村光太郎記念館さん、そして光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)へ。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

鶴千代是秀翁くる、 藤島さんくる、 澤田伊四郎氏土方氏くる、土方氏の出版の序文の事、転載承諾、


昭和28年(1953)7月8日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成し、ほっと一息、と思いきや、千客万来です(笑)。

鶴千代是秀」は「千代鶴是秀」の誤りです。伝説的道具鍛冶で、光太郎とは戦前からの付き合い。かつて光太郎も是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。
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是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを行っています。

藤島さん」は詩人の藤島宇内。再上京後の光太郎の身の回りの世話等をよくしてくれました。

澤田伊四郎氏」は、『智恵子抄』版元・龍星閣主。「土方氏」は彫刻家・土方久功。「転載」は、この年1月の『朝日新聞』に光太郎が寄せた土方の個展評「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」を、龍星閣から出版する土方の著書『文化の果てにて』の序文として転用するということです。

昨日から
の日程で花巻に来ております。

本日から始まる花巻高村光太郎記念館さんの企画展示「光太郎、海を航る」の展示内容確認がメインです。開会前でしたが、昨日の内に確認して参りました。

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その前後、道の駅はなまき西南さん、花巻市立図書館さんにも足を運び、宿泊はいつものように大沢温泉♨さん。

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今日は盛岡まで足を伸ばして、調べものをして帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、埼玉県に行っておりました。

メインの目的は、同県東松山市の生涯教育施設「きらめき市民大学」さんでの講座。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があったため、そのご縁です。田口氏は市内の小学校に光太郎碑を建てられたり、同じく光太郎と交流のあった高田博厚とも親交を深め、光太郎胸像を含む高田の彫刻作品群からなる「高坂彫刻プロムナード」整備にも骨を折られたりしました。また、亡くなる前に光太郎からの書簡や書などを市に寄贈。現在、市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として展示されています。

午前10時半開講ですが、圏央道を使って約1時間半、途中、事故渋滞でもあったらアウトなので、余裕を十分にもって自宅兼事務所を出発。結局、何事もなかったためかなり早く着きました。こうした場合に、東松山市は時間がいくらでもつぶせる街です。

まず市役所さん。ロビーに高田の彫刻を新たに展示し始めたというので、拝見。
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やはり光太郎と交流のあった詩人・中野重治の像でした。高田を紹介する解説版には光太郎の名も。
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高坂彫刻プロムナードの案内。
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まだ時間がありましたので、市立図書館さんへ。久しぶりに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」を拝見。
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光太郎から贈られた品々、光太郎歿後に田口氏が集められた品々など、出品物を替えながら展示されています。
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最も目を引くのは、聖書の一節を書いた光太郎の大きな書。敬虔なキリスト教徒でもあられた田口氏のご子息誕生祝いに、光太郎から贈られました。曰く「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。聖書の文言を大書したものは他に類例がなく、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。ただし、こちらで展示されているのは、後の書簡を含め、複製です。
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光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)詩碑拓本。
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光太郎から田口氏宛書簡類。
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その他の書など。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の風景を描いたスケッチ。
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智恵子及び生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のためのデッサン。
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これから光太郎について語る上で、これらを見てテンション爆上がりとなりました(笑)。

そして会場に。
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パワーポイントのスライドショーを使いながら、約90分。前半は光太郎の人となり、休憩を挟んで後半は田口氏や高田との関連で、東松山市と光太郎のご縁について。皆さん、熱心にお聴き下さいました。有り難うございました。

講座修了後、そのまま帰らず、少し足を延ばしました。目指すは同じ埼玉県比企地域のときがわ町。東松山から20数㌔というところです。

目的地は正法寺さんという寺院。鎌倉時代創建の古刹です。
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本堂前には、もうすぐ咲きそうな蓮の花。いい感じでした。
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こちらには、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が納められています。平成11年(1999)、同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社さんの代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。

当方、寄進された頃(まだ「ときがわ町」が「都幾川村」でした)にも一度拝見に伺いましたが、20数年ぶりにもう一度見ておこうと思い立ち、お邪魔いたしました。ご住職に「これこれこういう者でして、拝見させて下さい」と申し上げると、快く見せて下さいました。20数年前に対応して下さったのはご先代で、今回はその息子さんでした。
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20年以上経っても色あせず、鮮やかです。

もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の実弟にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたもの。般若心経がらみの書籍などで、よく取り上げられる筆跡です。
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ちなみに、のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念ということで、高村家から大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。

本堂の外には、石川九楊氏による解説板。平成11年(1999)に寄進された際に作られたリーフレットに掲載されたものと同一でした。
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帰りがけ、気さくなご住職、「こんな山の中までご苦労様です」と、ペットボトルの麦茶をお渡し下さいました。多謝。また、「展覧会等にお貸し願うことは可能でしょうか」と問うと、「全然かまいませんよ」とのこと。実は上記の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に、お借りできるものならお借りしようかとも考えたのですが、複製であることがネックで、その際は候補から外した経緯があります。今後、複製であっても構わないという展示等をお考えの関係の方、よろしくご検討下さい。

遅めの昼食を正法寺さんの近くの、古民家を改修した手打ちうどんのお店・「やすらぎの家」さんで。
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事前に調べていったわけではありませんで、たまたまこういうお店があったので入りました。「ふるカフェ系 ハルさん」ではありませんが、古建築好きの当方としましては、またまたテンション爆上がりでした(笑)。
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もちろん、手打ちうどんも美味しく頂きました。

さて、東松山市光太郎関連各所、ときがわ町正法寺さんなど、ぜひ足をお運び下さい。また、このあたり、比企郡ということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも盛り上がっています。

【折々のことば・光太郎】

夕六時半南江氏の車迎にくる、日比谷公会堂アンダソン夫人独唱会、


昭和28年(1953)5月25日の日記より 光太郎71歳

「南江氏」は南江二郎、詩人にして人形劇研究家でもありました。「アンダソン夫人」はマリアン・アンダーソン、アメリカの歌手で、黒人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台で歌い、人種差別撤廃のための活動を行いました。

3日前の日曜日、調べ物があって、隣町にある県立図書館の分館に行って参りました。その帰途、ふと立ち寄った道の駅的な(公的な「道の駅」ではないのですが、似たような)施設で、見つけました。
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グロキシニアの鉢です。ちなみに1鉢300円でした。

「智恵子抄」に複数回登場するので、光太郎智恵子ファンにはその名が広く知られていますが、一般には珍しい花の部類だと思います。当方、それほどフラワーショップ等に足繁く通っている訳ではありませんが、店頭で売られているのを見つけたのは初めてでした。もっとも、都会のシャレオツなフラワーショップさんなどでは、意外と普通に売られているのかも知れませんが。

かつて自宅兼事務所に1鉢あったのですが、残念ながら枯死してしまいました。そちらは平成28年(2016)、智恵子の故郷、福島二本松で開催された智恵子を偲ぶ「レモン忌」の際に会場内に飾られていて、それをいただいて帰ったものでした。平成30年(2018)までは元気に咲いていたのですが、その年の冬は越せませんでした。

なぜ「智恵子抄」にグロキシニアが出て来るかというと……。

まず散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)。

彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。

光太郎智恵子が出会ったのは明治44年(1911)末、翌年の6月に、駒込林町の光太郎実家近くにアトリエ兼住居が竣工し、その新築祝いにと、智恵子が持ってきたのがそもそもです。

その頃の光太郎は、欧米留学で身につけてきた新しい彫刻のありようが日本で認められない苦悩を抱え、荒んだ生活を送っていました。そこで、智恵子を受け入れるかどうかも、非常に逡巡。そんな時期に書かれた詩「あをい雨」に、初めてグロキシニアが現れます。長い詩なのでその部分だけ抜粋します。
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寄席で、大川端で
そして
ミステリアスな南米の花
グロキシニアの花弁の奥で
薄紫の踊り子が、楽屋(フオワイエエ)の入口で
さう、さう
流行(はやり)の小唄をうたひながら
夕方、雷門のレストオランで
怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで
待つてゐる、マドモワゼルが
待つてゐる、私を――


この詩が書かれたのが明治45年(1912)6月21日。6月6日には新築なったアトリエに転居した通知を方々に出していますので、智恵子が鉢を持って訪れたのもおそらくこの月。貰ってすぐに詩に詠んでいるわけです。ただし、この詩は「智恵子抄」には収められませんでした。

「智恵子抄」でのグロキシニア初出は、巻頭の詩「人に」。同じ年7月作のもの。「大正」に改元となった9月、雑誌『劇と詩』への発表当初は「N――女史に」という題でした。大正3年(1914)の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、内容もかなり改訂され、さらに最終的には昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』の巻頭を飾っています。最終詩形がこちら。

   人に
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 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです
 一人の世界から
 万人の世界へ0324
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう
 まるでさう
 チシアンの画いた絵が
 鶴巻町へ買物に出るのです
 私は淋しい かなしい
 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤ
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な  
 空を旅してゆく鳥の
 ゆくへをぢつとみてゐる様な
 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
 はかない 淋しい 焼けつく様な
 ――それでも恋とはちがひます
 サンタマリア
 ちがひます ちがひます
 何がどうとはもとより知らねど
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 おまけにお嫁にゆくなんて
 よその男のこころのままになるなんて

次にグロキシニアが謳われるのは、智恵子没後の詩「亡き人に」(昭和14年=1939)。

   亡き人に
無題
 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

書かれているシチュエーションがフィクションでなければ、おそらく智恵子没後に智恵子を偲ぶため、智恵子を象徴する花であったグロキシニアを購入したのだと思われます。

フィクションではないことを祈ります。というのは、同じ頃書かれた「レモン哀歌」はフィクションくさい部分がありまして……。

末尾の二行、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」とありますが、この詩が書かれたのは2月、桜など咲いていようはずがありません。雑誌『新女苑』への発表が4月になるということで、それに合わせたのでしょう。まぁ、「桜咲く4月にはそうしよう」と思っていて、実際、4月になったらそうしたのだとは思いたいところですが……。

ところでグロキシニア。以前にいただいたものは、悪い奴に囓られてほとんど丸坊主になってしまったことがありました。そこから復活して花を咲かせましたが、その時の無理がたたったのか、翌年は駄目になってしまいました。凶悪犯人ならぬ極悪犯猫(はんにゃん)はこいつです(笑)。
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今度は気を付けます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

三宅坂にて下りモニユマンを見る、


昭和28年(1953)2月23日の日記より 光太郎71歳

モニユマン」は「モニュメント」。仏語で表すと「モニュマン」となる感じです。

具体的には、現在の最高裁前、内堀通りに青山通りがぶつかる丁字路のかたわらにある、菊池一雄制作の「平和の群像」を指します。
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昭和26年(1951)に設置されたもので、おそらく野外の公共空間に置かれた初めての裸婦像ではないかと思います。戦後の風潮の中で、裸婦像は平和や自由を象徴するものとして、これを皮切りに流行します。

同じ公共空間の裸婦像ということで、光太郎も生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の参考にするために見たのでしょう。菊池は「乙女の像」制作のための下見にも同行し、光太郎に助手として小坂圭二を紹介しましたし、健康に不安があった光太郎は、自分が倒れて制作不能になった場合の代わりの制作者に菊池を指名していました。

また、台座との関わりも、光太郎は参考にしたと思われます。

「平和の群像」、一見して、台座とのバランスが非常に悪いのですが、それもそのはず、この台座の上には、もともと北村西望制作になる、寺内正毅陸軍大将の騎馬像が乗っていました。寺内は戊辰戦争では長州藩士として箱舘戦争まで戦い、その後、陸軍大臣、朝鮮総督、そして内閣総理大臣も務めています。ちなみに尖った禿頭がアメリカ生まれのキャラクター「ビリケン」に似ており、さらに総理在任中は国民から国民無視の政権運営だと不評で、「非立憲(ビリケン)宰相」と揶揄されました。結局、第一次大戦後の米騒動がきっかけで政権の座を追われています。同じ長州の「でんでん宰相」は、いかに不評でも自分で投げ出すまで居座り続けましたが(笑)。

その寺内像が戦時の金属供出で無くなり、残っていた台座を「平和の群像」に転用したわけです。ある意味、象徴的なできごとですね。

光太郎、この像の台座と本体とのバランスの悪さが気になり、「乙女の像」では同じ轍を踏むまいと、この後、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房の庭に、台座の雛形を木で作ってもらい、台座とのバランス、向かいあう二体の像の位置関係など、ああでもないこうでもないと、いろいろ試行錯誤しました。
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昨日から、一泊二日で長野県に来ております。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・碌山忌ということで、安曇野の碌山美術館さん。

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久しぶりに開催された碌山忌記念行事の講演会を拝聴。さらに守衛の墓参。

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その後、長野市に移動し、信濃善光寺さん仁王門のライトアップを拝見。

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長野市内のビジネスホテルに宿泊致しました。

今日は長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」を拝見し、さらに御開帳が行われている善光寺さんに参拝して帰ります。

詳細は明日以降、レポート致します。

昨日は福島県三春町に行っておりました。光太郎智恵子ゆかりの地ではないのですが、この地に咲く「三春滝桜」が満開とのことで、妻が見たいと云っていたものですから……。

一昨日、このブログで智恵子の故郷・二本松の桜の名所についてご紹介しました。三春町は郡山の東隣で、二本松ともそう遠くないのですが、他の雑事もあり時間的に余裕が無く、二本松へは行きませんでした。いずれ二本松の桜の名所も廻りたいと思っております。

こいつは自宅兼事務所でお留守番(笑)。
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ひる頃、現地に到着しました。平日、さらに昨日は小雨模様でしたが、それなりに多くの方々が観桜に訪れていました。これが週末とかで天気も良ければ、芋の子を洗うような状態だったかもしれません。
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青空がバックだと、なお映えたのでしょうが……。それでも推定樹齢1,000年超という生命力の凄さ、この木を守り続ける地元の皆さんのご努力などなど、感じ入りました。

それから、この木だけがずどんとあるのではなく、周辺一帯にもたくさんの桜。その中でひときわの巨木が滝桜、というわけです。
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当方の大好きな古民家も多く、いい感じでした。
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さらに云うなら、常磐自動車道で関東平野が尽きて山間部に入る茨城県の日立市あたりから、いわきジャンクションを経ての磐越道と、沿線はほぼ山桜が咲き続けている状態でした。

助手席の妻が撮った画像。
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山全体が若葉の新緑と桜のピンクによって、パッチワークのように(陳腐な常套句ですみません(笑))なっている箇所もありました。このルートはしょっちゅう通っていたのですが、4月のこの時期に走ったのは、もしかすると初めてだったようです。これまで、この沿線にこんなに桜の木が生えていたとは気づいていませんでした。

さて、桜と云えば、光太郎にずばり「さくら」という詩があります。

   さくら
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 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門
 離弁花区薔薇科桜属
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凜しさよ 親しさよ


初出は昭和16年(1941)4月の雑誌『家の光』。「こども」欄に掲載されました。その際の題名は「ぼくらの花、桜」でしたが、昭和18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められた際、「さくら」と解題され、詩句も一部、変更されました。ちなみに「顕花部被子類双子葉門/離弁花区薔薇科桜属」には「けんくわぶひしるゐさうしえふもん/りべんくわくいばらくわさくらぞく」とルビが振られています。旧仮名遣いでは却ってわかりにくいところですが……。

昭和16年4月といえば、太平洋戦争はまだ始まっていませんが、昭和12年(1937)からの日中戦争は既に泥沼化していた時期です。その時代背景がぷんぷん臭いますね。「大和心のはげしさ」は云うまでもなく、「世界にまたとない」とか「日本の国花」とか……。そして「堂堂と咲く 咲いて散る/このいさぎよさ きれいさよ」。

昭和16年4月では、まだ特攻作戦は始まっていませんが、有名な軍歌「同期の桜」の元となった、西条八十の詩「二輪の桜」はすでに世に出ており、「花と散る」的な発想はもう一般的だったのかもしれません。

こういう詩こそ光太郎詩の真髄だ、大和魂の顕現だ、皇国臣民の鑑だと、涙を流して有り難がるアナクロニストが現代にも少なからず居て閉口しています。

一昨日オンエアされたNHK青森さんのローカル番組「あっぷるワイド」(18:10~19:00)の中で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の成り立ち等を取り上げて下さいましたが、光太郎の戦争責任についても言及されました。ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトだったため、ビデオ出演した当方も、需めに応じてその当たりを詳しく語らせていただきました。すると早速、幼稚なネトウヨが「けしからん」とSNS上で噛みついてきましたが(笑)。

そんなこんなで、桜と戦争的な連想が浮かんだわけです。桜には何の罪もありませんが……。

さて、昨日の帰途、サービスエリアでなみえ焼きそばを購入。当方も妻も好物です。
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少し前にはコロナ禍で工場がストップしていて入荷されていませんでした。少しでも復興支援になればと存じます。

こんなものも買ってしまいました。金属のプレートのついたストラップ。「ペア」と書いてあり、どういうことかと思ったら、刳り抜いた方と刳り抜かれた方と、雌型と雄型の関係ですね。本来、自分の名前の一字とかを購入するものなのでしょうが、光太郎の「光」の字のものを買いました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の別棟の便所「月光殿」に彫られた「光」一字を彷彿とさせられまして(笑)。
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まだ間引き運転ですが、東北新幹線も全線復旧。東北方面、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時半藤島氏来り、共に中野の中西氏宅に車、津島知事アトリエに来る、映画やラジオの人来り、草野君他皆と一緒に撮影、又座談、

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

「乙女の像」制作のため7年半ぶりに帰京、千駄木の実家に泊まって、朝には空襲で焼け落ちた自分のアトリエがあった場所を見ましたが、午後には像の制作のために借りた貸しアトリエに入りました。ここで起居することにし、結局はここが光太郎終焉の地となりました。

001当会で会報的に発行しております冊子『光太郎資料』の第57集が完成しました。今日あたりから関係各位に順次発送いたします。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集まで不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、現在は4月2日の光太郎忌日・連翹忌、10月5日の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十一回 「婦人」その1
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている項目です。今号では「婦人」をキーワードに、明治から昭和戦前期のものをを集成しました。婦人雑誌に寄せた散文、婦人問題に大きく関わった広岡浅子に関する書簡、ミスコンの審査評座談会等です。
 散文 美術家の眼より見たる婦人のスタイル 明治43年2月1日発行『婦人くらぶ』
  光太郎の婦人雑誌への、確認出来ている限り最初の寄稿です。
 書簡 大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛
 雑纂 (日本の婦人の) 大正10年(1921)5月26日『読売新聞』
 散文 帽子に応用したアイリツシユレース 大正13年4月1日『婦人之友』
 座談 現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準 昭和4年8月7日『アサヒグラフ』
  朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による座談会。
  光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史学者)、
  杉田直樹(医学博士)、西成甫(にしせいほ)(解剖学者)、村山知義(劇作家)、
  鏑木清方(画家)が審査員でした。
  写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。
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003
 書簡 昭和15年(1940)1月12日 資生堂ビル内 花椿社 篠原眞男宛
  資生堂さんのPR誌『花椿』に関わる書簡です。

・光太郎回想・訪問記  「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――  永瀬清子
 賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、光太郎も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会を中心とした回想文です。
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・光雲談話筆記集成 
  和合の徳 『太元老僧懐古録』より 
   現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている、光雲原型の懐中仏に関わります。
  高橋鳳雲の話
   光雲の師匠・髙村東雲のさらに師匠、髙橋鳳雲について。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十一回  那須温泉(栃木県)
 大正14年(1925)9月、母・わかを喪った傷心を癒やすために訪れた那須温泉について。 
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十一回 ぼろぼろな駝鳥 橋本国彦
 昭和8年(1933)、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」に、作曲家の橋本国彦が曲を付けた歌曲について。

・高村光太郎初出索引(年代順)
 現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正4年(1915)から同9年(1920)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(見本的にこの号のみ欲しいという方は、一金500円)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝角川書店主来訪、「昭和文学全集」企画の由、承諾。ひる辞去。


昭和27年(1952)9月28日の日記より 光太郎70歳

『昭和文学全集』、翌年刊行の第22集が「高村光太郎集/萩原朔太郎集」、さらに昭和29年(1954)刊行の第47集は、100余名の詩を集めたアンソロジー「昭和詩集」で、光太郎が100余名の著作者代表としてクレジットされました。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。

花巻、昨日は☔でしたが、今日は吹雪です。
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昨日は主に市街地をぶらぶら、大沢温泉♨さんに宿泊。今日は光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座のリモート収録に臨みました。同館で開催中の企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関連行事で、同展も拝見しました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。


誠に遺憾ながら、本年4月2日(土)に予定しておりました、第66回連翹忌の集い、今回も中止とさせていただきます。

昨秋から年末にかけ、新型コロナ新規感染者数がほぼゼロとなり、今年こそは、と思っていたのですが……。その後、オミクロン変異株による感染爆発が起こり、本日現在、その収束が見通せない状況が続いています。
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「ピークアウトはしたのではないか」という見方がある一方、新規感染者数が激減するということもなく、頼みの3回目ワクチン接種も遅々として進んでいません。

また、会場とすることを予定していた日比谷松本楼さんが、感染の最も多い東京都内であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動が必要な方々もいらっしゃることなど、不安要素は尽きません。さりとて会食を伴わない形での開催も趣旨になじまないでしょう。

あまり考えたくはありませんが、来年以降も、皆様が安心して集まれる状況にならないかぎり、開催を見送り続けるしかないのかな、と思っております。そうならないことを切に祈念いたしておりますが……。

既に昨年12月、文治堂書店さん発行のPR誌『とんぼ』第13号で開催案内を出していただき、早々にお申し込み下さった方もいらっしゃいまして、申し訳ありませんが、来年の第67回分の参加費ということで、プールさせていただきます。

一昨年昨年同様、4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

2月5日(土)、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」を拝見する前、安中市の磯部温泉に寄り道をしていきました。寒いので温泉であたたまりたい、というのももちろんですが、光太郎が足を運んだ温泉地、ということで。

ちなみに磯部温泉は、万治4年(1661)、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに幕府から出た判決文的なものに描かれた地図に、現在も使われている温泉記号「♨」が書かれており、おそらくこの記号の最も古い使用例ということで、「温泉マーク発祥の地」として宣伝されています。

温泉街の足湯。
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また、明治の児童文学者・巖谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話(日本昔噺)を書き上げました。同様の民話は各地に昔からあるものの、巌谷が児童文学として活字にしたことにより、磯部温泉は「舌切雀伝説発祥の地」とされています。

確認できている限り、光太郎の足跡は、明治42年(1909)と大正15年(1926)に、残されています。

まず明治42年(1909)8月、親友だった水野葉舟に送った書簡から。

実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞に登つたのだ。

大洞」は赤城山中の地名です。

さらに大正15年(1926)7月、やはり水野へ送った絵葉書から。

老人や女達を送りに一寸磯部に来ました、東京と同じやうに暑いので驚きました。湯だけハまことに霊泉です。雷をふくんだ雲が妙義山の方をこめてゐます。 十六日 高村光太郎
 
老人」は、おそらく父・光雲、「女達」は、智恵子、母・わか、あるいいは妹たちも含まれているかもしれません。「湯だけハ」の「」は漢数字の「八」ではなくカタカナの「ハ」。光太郎、ときおり平仮名に片仮名を混ぜる癖がありました。

手がかりはこれだけで、光太郎が複数ある温泉旅館のどこに泊まったのか、不明です。そこで事前に、「老舗」と云われる宿の位置は調べておき、歩きました。

明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。
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その上にある、旭館さん。こちらも明治期の創業。
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磯部館さん。老舗宿の鳳来館(現存せず)から大正期にのれん分け、だそうで。
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その先にある桜や作右衛門さんは明治3年(1870)創業だそうです。

おそらくこのあたりの何処かに、光太郎が泊まったと推定されます。各所、歩いて行ける距離です。ただ、どこも建物は建て替わっているようでした。

ちなみに磯部館さんの元となった鳳来館、当方手持ちの古絵葉書です。
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「舌切雀のお宿 ホテル磯部ガーデン」という大きな温泉ホテルもあり、こちらも鳳来館の流れを汲んでいるとのこと。

ところで、この鳳来館の創業者・大手万平は、詩人の大手拓次(明治20年=1887~昭和9年=1934)の実祖父だそうで、拓次も鳳来館で産まれたとのこと。拓次は光太郎の朋友・北原白秋に師事し、萩原朔太郎、室生犀星とともに白秋門下の三羽烏と称されることもありました。ただ、朔太郎、犀星は二人揃って駒込林町の光太郎アトリエを訪れるなどしていましたが、拓次と光太郎の直接の交流は確認できていません。拓次にコミュ障的な部分があったらしいので……。

『高村光太郎全集』で、拓次の名はその没後に3回出て来るのみ。いずれも昭和22年(1947)に書かれ、詩人仲間などに送った書簡中で、拓次の詩集が再刊されるそうで楽しみだ、といった内容です。それでも嫌いなものは嫌いと公言する光太郎ですので、拓次の詩は認めていたことは伺えます。

光太郎が2度目に磯部を訪れた大正15年(1926)には、拓次の詩作がなされていましたが、鳳来館が拓次の生家であると光太郎が知っていたかどうか、微妙なところですね。

磯部館さんの裏手に、拓次の詩碑。
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温泉街のはずれにある赤城神社を中心とした磯部公園。
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こちらには、拓次をはじめ、数多くの文学碑が。先述の白秋、朔太郎、犀星以外にも、歌人の吉野秀雄も光太郎と交流がありました。

赤城神社。
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大正15年(1926)、光太郎と共に父・光雲も磯部に来ていたとすれば、絶対に参拝したはずです。赤城神社は髙村家の産土神(うぶすながみ)という扱いでしたので。

拓次の詩碑。
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犀星(左)と、吉野秀雄(右)。
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朔太郎。
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それから、温泉マークの碑、こちらにもありました。さらに拓次の祖父・万平の胸像も。
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さて、温泉。コロナ禍のため、温泉旅館さんはどこも日帰り入浴を断っているということで、共同浴場・恵みの湯さんへ。
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クセのない泉質で、長湯していても疲れない感じでした。
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駐車場には紅梅も。

群馬には、磯部以外にも光太郎が足を運んだ温泉地が数多く存在します。草津、法師、湯檜曾、川古、宝川、湯の小屋など。中には詩の舞台になっていたり、温泉宿の主人が光太郎回想文を残したりしているところも。ただ、磯部以外はどこも奥まったところで、当方、草津の他は未踏です。いずれ折をみて、その他の温泉地も訪ねてみようと思っております。

以上、群馬レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

夜コタツ、(ニカワを煮て大倉翁のテラコツタを修繕、)


昭和27年(1952)1月10日の日記より 光太郎70歳

「大倉翁のテラコツタ」は、光太郎が磯部温泉を訪れた大正15年(1926)に制作された「大倉喜八郎の首」。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した実業家・大倉喜八郎に、光雲が肖像彫刻制作を依頼され、光太郎がその原型として作ったものです。

いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。戻ってきた時に既にそうだったのか、その後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でやっちまったのか(笑)、像の左耳の部分が破損していたため、修繕したという記述です。
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画像は翌年、ブリヂストン美術館さんが制作した「美術映画 高村光太郎」から。手は光太郎の手です。

昨日から一泊二日の日程で、青森県に来ております。

東北新幹線🚄で七戸十和田駅に下り立ち、十和田湖奥入瀬観光機構の方に迎えに来ていただき、十和田湖へ。
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早速、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」と久しぶりに対面。
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その後、十和田湖観光交流センターぷらっとさんで、地元の観光関係の皆さんと懇談。
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日が暮れてから、イルミネーションのイベントカミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第2章 光の冬物語」を拝見しました。
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「乙女の像」もいい感じにライトアップ。
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宿泊は十和田市街に戻り、「ポニー温泉」さんで。

今日は青森市に移動し、国際芸術センター青森[ACAC]さんで、彫刻家の小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」を拝見します。

さらに青森空港で、昨年2月に序幕された、三沢市ご出身の森本千絵氏による幅11メートルの大型ステンドグラス「青の森へ」も拝見、そのまま羽田に飛ぶ予定です。

詳しくは帰りましてから。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに行きました。

例年ですと、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里町の真亀地区、国民宿舎サンライズ九十九里さんのあたりで遙拝していましたが、今年はずっと北の旭市で。まぁ、同じ九十九里浜の一部ですから、勘弁して下さい、という感じです(笑)。

ちなみに千葉県民あるあるで、「チーバくんの後頭部あたり」などと説明するのですが、千葉県民以外には通じません(笑)。
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チーバくん」は千葉県のゆるキャラ。
決してメタボ犬ではありません。第一、犬ですらなく「不思議ないきもの」です。JR東日本さんの「Suica」も手掛けられた坂崎千春氏のデザインですが、「Suica」も西の方の人には通じません(笑)。


九十九里町には巨大防潮堤が出来てしまい、波打ち際の辺りはそうでもないのですが、どうも風情に欠ける感じになってしまいましたし、遠方からも初日の出を見に来る皆さんが多く、密の状態に成りかねないと判断したため、今年は旭市に。

昨日行った場所は、足川浜、矢指ヶ浦と呼ばれる辺りで、九十九里浜の北端に近いゾーンです。九十九里町と異なり、自動車専用道がこの辺りまでは延びてきていないので、都内からの初日の出参拝客などはほとんどいなかったようですが、それでも地元ナンバーの車で駐車場等はいっぱいでした。
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サーファーの皆さんが、既に波乗り初め。
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南の方、智恵子が療養していた九十九里町方面。
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6時46分、水平線から太陽が顔を覗かせているはずですが、この季節、西高東低の冬型の気圧配置のため、絶対といっていいほど、水平線上には雲がかかっています。
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6時50分頃、その雲の上に太陽が。
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海面に反射して、きれいです。

コロナ禍完全収束、そして一昨年、昨年と開催できなかった光太郎智恵子関連もろもろの諸行事等が、今年こそは元に戻せますようにと、祈願しました。
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希望を感じさせてくれる、美しい初日の出でした。空振りに終わらないことも祈ります。

【折々のことば・光太郎】

蠅とり茸で蠅がとれる。 昭和26年(1951)9月30日の日記より 光太郎69歳

「蠅とり茸」は「ハエトリシメジ」。その名の通り、このキノコをなめたハエが死ぬ(実際には仮死状態になる)という特性があるそうです。ところが食用として料理に使われ、味もよいとのこと。ただし、やはり大量に摂取すると人体にも毒だそうです。
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一昨年、花巻在住の方に茸を大量に頂き、煮物や茸ご飯にしていただきましたが、このハエトリシメジも入っていたように思われます。たしかに美味でした。

2022年、令和4年となりました。
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個人としては、当方、喪中ですので、個人の皆様への年賀状は欠礼させていただきましたが、法人、団体様へは、こちらも公人として上記をお送りいたしました。画像は光太郎、東京美術学校在学中の彫刻で、「虎の首」。上野動物園(または浅草花やしき)に通って作ったものです。

動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。象、獅子、虎、熊、猪、鷲、鶴などが常連であつたが、虎には油断するとよく尿をひつかけられた。人をめがけて放尿する癖が虎にはある。
(「モデルいろいろ」昭和30年=1955)


ところで、昨年は『智恵子抄』発刊80周年でしたが、今年はその辺り、どんなものだろうと思って調べてみました。

130年前 明治25年(1892) 光太郎10歳(数え年。以下同じ) 一家が今も髙村家の続く本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木)に引っ越しました。

120年前 明治35年(1902) 光太郎20歳 雑誌『百虹』に、現在知られている最も古い詩「なやみ」が掲載されました。

110年前 明治45年/大正元年(1912) 光太郎30歳 この年はいろいろありました。まず、実家にほど近い駒込林町25番地に、光太郎アトリエが竣工しました。続いて、前年に知り合った智恵子への最初の詩「N――女史に」(のち「人に」と改題)を書きました。その智恵子と、銚子犬吠埼で愛を誓い合ったのもこの年。そして秋には岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会を結成、第一回展に油絵を出品しました。

100年前 大正11年(1922) 光太郎40歳 眼を病み、医師から彫刻も執筆も読書も禁じられました。

90年前 昭和7年(1932) 光太郎50歳 心を病んでいた智恵子が自殺未遂……。一命は取り留めました。

80年前 昭和17年(1942) 光太郎60歳 前年の『智恵子抄』に続く第三詩集『大いなる日に』を刊行しました。戦時中ということで、全篇、翼賛詩です。

70年前 昭和27年(1952) 光太郎70歳 生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を後に、中野桃園町の貸しアトリエに移りました。

ちなみに「来年の話をすると鬼が笑う」と申しますが、来年、2023年は、光太郎生誕140年に当たります。ちょっと中途半端な周年ですが、関係の方々、今から来年に向け、生誕140周年記念のなにがしかを企画していただきたいものです。協力は惜しみません。

というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝ラジオで年賀ハカキ放送をきく。一日ラジオをかける。 雑煮、抹茶、 元村長さん宅から餅少々もらふ。


昭和27年(1952)1月1日の日記より 光太郎70歳

上にも書きました通り、70年前の今日、光太郎70歳の元日です。

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