カテゴリ: 日記

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
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4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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新しい年がやって参りました。昨年の今頃は、昨年があんな年になるとは予想だにしていませんでしたが、今年は果たしてどんな年になるのやら、です。

願わくは、コロナ禍も終息し、世界中にまた笑顔が戻る年であってほしいものだと、切に願います。

本年も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

画像は当会よりお送りした年賀状です。昭和12年(1937)、丑年生まれの山形の銀行家・長谷川吉三郎の求めに応じて光太郎が描いた牛の絵をあしらいました。何で間違えたか、昭和13年(1938)と書いてしまいましたが、その前年でした(笑)。

【折々のことば・光太郎】

飯盒にて朝食を用意はじめたる時、分教場の佐藤勝治さん来る。小豆餅重箱にひとつ。大根のつけもの二本、キヤベツの煮びたし一壺持参さる。食前に届けんとせられし由。雑煮の代りにそれをいただかんとす。勝治さんと年賀交換、生れてはじめての新年也。


昭和21年(1946)1月1日の日記より 光太郎64歳

「佐藤勝治さん」は、光太郎に太田村移住を勧めた、山口分教場の教師です。

「生れてはじめての新年」。雪深い山小屋で自らの戦争責任と向かい合う生活の中で、初めて迎える新年ということで、「新生」光太郎の初めての新年、ということでしょうか。

今年一年を振り返る企画、最終日です。

9月2日(水)
 『毎日新聞』の夕刊文化面に「大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す」という記事が掲載され、光太郎にも触れられました。

9月4日(金)~9月23日(水)
花巻高村光太郎記念館で企画展「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」が開催され、光雲令孫の藤岡貞彦氏から寄贈された「鈿女命像」が展示されました。9月15日(火) には、関連行事として高村光太郎記念館講座「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」が開催されました。当方が講師を務めさせていただきました。
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9月9日(水)~9月21日(月)
岡山市の丸善岡山シンフォニービル店ギャラリーで、「高田博厚とパリの仲間たち展」が開催され、光太郎作の木版で、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作された『幼き QLAUAPATRAT』が展示されました。

9月11日(金)
BS-TBSで「日本の名峰・絶景探訪 #58  紅葉色めく湯の山 安達太良山」が再放送されました。初回放映は平成26年(2014)、光太郎智恵子にも触れられました。
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9月11日(金)~12月13日(日)
鎌倉市川喜多映画記念館で「特別展 生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」が開催されました。昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(原節子さん主演)に関する展示がなされた他、会期中、「智恵子抄」の上映もありました。

9月17日(木)
『毎日新聞』大阪版が、光太郎作「みちのく(十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作)」を含む御堂筋の野外彫刻群に、何者かの手によって謎の花飾りが付けられていることを報じました。
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9月18日(金)~12月13日(日)
台東区立中央図書館で企画展「上野公園~近代の歩み~」が開催され、光雲が主任となって東京美術学校が制作に当たった西郷隆盛像に関する資料等が展示されました。

9月19日(土)~12月20日(日)
和歌山市の和歌山近代美術館で、「コレクションの50年」展が開催され、光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が展示されました。
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9月20日(日)

こぶし書房から石巻学プロジェクト編『石巻学VOL.5』が刊行されました。古関良行氏「紀行文を旅する」などで、昭和6年(1931)、光太郎が三陸廻りの旅を紀行文にしたためたことなどが紹介されました。

9月26日(土)~10月25日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館で、「藝大コレクション展 2020――藝大年代記(クロニクル)」が開催され、光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年頃=1930頃)が展示されました。
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9月29日(火)~10月11日(日)
千葉県成田市の文化芸術センタースカイタウンギャラリーで第44回千葉県移動美術館~近代日本を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで~」が開催され、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。

10月1日(木)
株式会社ユニプランからユニプラン編集部編『散策&観賞 岩手(南部地域)編 ~修学旅行に行く前に読む本~』が発行されました。「高村光太郎記念館・高村山荘」の項の他、「光太郎の軌跡」というコラムも含みます。
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10月3日(土)~2021年1月31日(日)
北海道函館市の北海道立函館美術館で「ミュージアム・コレクション秋~冬 鷗亭と賢治・光太郎」が開催され、書家の金子鷗亭による光太郎詩文の書が展示されました。関連行事として、11月7日(土)、道立松前高書道部による書道パフォーマンスが行われ、光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)の書が制作されました。

10月4日(日)~11月22日(日)
鎌倉市のカフェ兼ギャラリー・笛で「想い出 高村光太郎」展が開催され、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)や直筆の書などが展示されました。
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10月5日(月) 
智恵子忌日・レモンの日に合わせ、地方紙『福島民友』が
【高村光太郎の詩集】智恵子抄 心にずっと...古里の『ほんとの空』」という記事を掲載しました。

同日、当会に於いて会報的な冊子『光太郎資料54』を発行しました。
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10月5日(月)~11月23日(月・祝)
花巻高村光太郎記念館で、高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」展が開催されました。メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。
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10月7日(水)~11月3日(火・祝)
埼玉県東松山市の市総合会館で「高田博厚展2020」が開催され、高田作の光太郎胸像(昭和33年=1958)に関する展示も行われました。
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10月9日(金)~11月29日(日)
岡山県井原市の井原市立田中美術館で特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」が開催され、「獅子吼」(明治35年=1902)など、光太郎作のブロンズ7点も出品されました。

10月10日(土)~11月23日(月・祝)
福島県二本松市の智恵子の生家で、通常、非公開としている生家2階の一部が公開されました。また、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示が行われました。
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10月15日(木)
8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)で、同駅テナント・ミレットキッチン花 (フラワー)の新メニュー「光太郎ランチ」お披露目会が開催されました。この後、毎月15日に光太郎ランチの限定販売が行われています。

10月19日(月)~12月20日(日)
栃木県佐野市の佐野東石美術館で「第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」」が開催され、光雲作の木彫「牧童」(大正9年=1920)が展示されました。
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10月20日(火)
京都大学学術出版会から、田路貴浩編『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』が刊行されました。神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品を模写したものであることを突き止められ、その件について書かれています。
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11月3日(火)、11月15日(日)、11月23日(月・祝) 
福島県二本松市の男女共生センターに於いて智恵子のまち夢くらぶ主催の市民講座「智恵子講座2020」が開催されました。講師は、11/3・西浦基氏(高村光太郎研究会)、11/15・当方、11/23・熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ代表)でした。

11月7日(土)~11月29日(日)
京都市の浄土宗 総本山知恩院で「秋のライトアップ二〇二〇」が開催され、光雲原型のブロンズ聖観音像のライトアップも為されました。
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11月10日(火)
伊集院静氏著『文字に美はありや。』が文藝春秋から文春文庫の一冊として刊行されました。「猛女と詩人の恋」という項で、光太郎書が取り上げられています。元版のハードカバーは平成30年(2018)に同社から刊行されています。             
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11月14日(土)~12月13日(日)
千代田区の三の丸尚蔵館で「第87回展覧会 名作を伝える-明治天皇と美術 後期展示 明治天皇のまなざし」が開催され、光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が展示されました。

11月16日(月)
短歌研究社から塩川治子氏著『歌人番外列伝|異色歌人逍遥』が刊行されました。「白斧の人──高村光太郎」という章を含みます。
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11月18日(水)~2021年1月31日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe」が開催中です。これまで行われてきた「十和田湖冬物語」に代わるイベントで、イルミネーション、3D、レーザー、ライトアップ、プロジェクションマッピングなどを主体とし、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されています。

11月20日(金)
盛岡ご在住の加藤千晴氏(光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息)が冊子『高村光太郎と共に』を自費出版されました。親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。
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11月26日(木)~12月2日(水)
台東区の東京都立美術館で「第42回 東京書作展」が開催されました。最優秀賞に当たる内閣総理大臣賞、それにつぐ東京新聞賞で2点、光太郎詩を題材にした書が選ばれました。

11月30日(月)
文芸同人誌『青い花』第95号が発行されました。詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子氏のエッセイ「巴里 パリ PARIS(三)」で、光太郎に触れられています。
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12月1日(火)~2021年1月31日(日)
仙台市博物館に於いて「特集展示 福島美術館の優品」が開催中です。かつて同市内にあり、平成30年(2018)に閉館した私立の福島美術館の旧蔵品を展示するもので、光雲作の木彫「聖観音像」が並んでいます。

12月2日(水)
「智恵子抄」を課題に開催された「第13回⼭形⼤学⾼校⽣朗読コンクール」の審査結果が発表されました。例年は山形市内の大ホールでの開催でしたが、今年はコロナ禍のため、録画による審査でした。
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12月5日(土)
岩手県花巻市交流会館に於いて「はなまき通検定」の受検が行われました。一般を対象とした花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、光太郎に関する設問も3問含まれていました。のちにこのブログで問題等、詳述します。

12月5日(土)~2021年1月24日(日)
埼玉県比企郡川島町の遠山記念館で「コレクション展 2」が開催されています。「干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示」というコンセプトで、光雲木彫「牛」(大正2年=1913)が展示されています。
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12月5日(土)~2021年1月24日(日)
岩手県花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマにした共同企画展「令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として、花巻高村光太郎記念館で「光太郎と佐藤隆房」が開催中です。
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5c33331b12月7日(月)
 『朝日新聞』夕刊に「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事が掲載され、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡に建つ「レモン哀歌詩碑」などが紹介されました。

12月10日(木)
文治堂書店からPR誌『とんぼ』第11号が発行されました。表紙に当会顧問であらせられた故・北川太一先生の版画が使われています。子息の北川光彦氏による「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」、当方の「連翹忌通信」などが掲載されています。

12月11日(金)~12月25日(金)
台東区の東京藝術大学大学美術館陳列館で「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」展が開催されました。ロダン、光太郎へのオマージュ的な作品、彫刻家・小田原のどか氏の「《ロダンの言葉/高村光太郎をなぞる》」が出品されました。
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12月19日(土)
明治美術学会から『近代画説』第29号が発行されました。「特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」中に、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏による「今戸精司――趣味人としての彫刻家――」が含まれ、光太郎についても言及されています。この書籍、昨日届きまして、詳細は改めてご紹介いたします。

12月21日(月)
智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2020文集』が発行されました。上記「智恵子講座2020」受講者・当方を含む講師らの寄稿によるものです。
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また、この項で月ごとのご紹介はしませんでしたが、隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんが、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載を続けて下さっています。

以上、3日間にわたって、今年1年を振り返ってみました。情報の収集には努めましたが、見落としは多々あるかと存じます。よろしくご寛恕の程お願い申し上げます。「こういう出版物があった」「こんなイベントもやっていたよ」という情報をお持ちの方は、コメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

今年一年は、コロナ禍を抜きには語れない年となりまして、この世界でも多くの展覧会やイベント、公演等が中止に追い込まれました。それでも出版やテレビ放映などの分野では、ほぼ例年通りに光太郎智恵子、光雲等を取り上げて下さいました。感謝に堪えません。コロナ禍終息後には、またさらに多くの方面で、光太郎智恵子らが取り上げられることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

風にて雪が空をとぶ。壮観なり。


昭和20年(1945)12月11日の日記より 光太郎63歳

いわゆる「地吹雪」。一度、当方も青森に行った際に経験しましたが、それが連日となると……ですね。

今年一年を振り返る2回目で、今日は5月から8月です。

5月14日(木)
地方紙『岩手日報』に、「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事が載りました。昭和20年(1945)の花巻空襲の際に、自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たった花巻病院の関係者に贈った詩「非常の時」が、コロナ禍に立ち向かう現在の医療従事者の皆さんに対するエールとしても読める、ということで話題になっているという内容でした。

5月16日(土)~5月31日(日)
福島二本松の智恵子の生家/智恵子記念館で「高村智恵子 生誕祭」が開催されました。「上川崎和紙で作ろう智恵子の紙絵」、智恵子作「紙絵」実物展示公開、生家二階の特別公開などが行われました。
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6月2日(火)~6月7日(日)3d3c3058-s
神戸市の兵庫県立美術館で「特別展 開館50周年 超・名品展」が開催され、光太郎作のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。コロナ禍のため、会期を大幅に短縮しての開催でした。

6月2日(火)~6月8日(月)
千葉市のそごう千葉店美術画廊で、「近代秀作木彫展」が開催され、光太郎の父・光雲作の「孔子像」、「大国主命」、「瑞雲」、光雲の師・髙村東雲の孫にして光雲の弟子・髙村晴雲の「釈迦如来像」などが展示されました。

6月2日(火)~8月23日(日)
立川市のたましん美術館で、「開館記念展Ⅰたまびらき―たましんの日本近代美術コレクション―」が開催され、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出品されました。
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6月2日(火)~8月30日(日)
長野県安曇野市の豊科近代美術館で、
高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

6月5日(金)~9月6日(日)
愛知県小牧市 のメナード美術館で「所蔵企画展 画家たちの欧羅巴」が開催され、光太郎の木彫「鯰」(昭和6年=1931)が展示されました。
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6月6日(土)
地方紙『岩手日日』に、「手作りマスク人気 一節印字した紙片同封も 高村光太郎記念館」という記事が掲載されました。花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件でした。マスクは光太郎の揮毫「正直親切」をあしらった手ぬぐいを素材とし、「光太郎の食卓カレンダー」もセットで販売されたりもしました。

 6月8日(月)
1月25日(土)~2月2日(日)に新国立劇場小劇場にて公演された鈴木勝秀×る・ひまわり第3弾公演舞台『る・ぽえ』DVDが発売されました。「高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話」を含みます。
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6月13日(土)
地上波テレビ東京の「新美の巨人たち」が「希望を与え続けてきた『ノートルダム大聖堂』復活への祈り」を放映し、昨年、火災に遭ったノートルダム・ド・パリが取りあげられ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が紹介されました。系列のBSテレ東では6月20日(土)に放映がありました。

6月14日(日)
『毎日新聞』に、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「今よみがえる森鷗外15 美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」と言う記事が掲載され、光太郎と鷗外について紹介されました。

6月15日(月)
文治堂書店からPR誌『トンボ』第10号が発行されました。1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼特集が組まれました。
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6月20日(土)
ナカニシヤ出版から渡邊毅氏著『道徳教育における人物伝教材の研究 人は偉人を模倣する』が刊行されました。「第三章 偉人に学び生きた偉人たちの群像」中の「第七節 僕の後ろに道は出来る ―高村光太郎とオーギュスト・ロダン」で光太郎に触れられています。

6月27日(土)・28日(日)
新宿区のパフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』で、「角田佳代ひとり芝居『売り言葉』」の公演がありました。智恵子を主人公とする一人芝居でした。
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6月24日(水)
ローカルテレビ局IBC岩手放送の「わが町バンザイ」のオンエアが「花巻南温泉峡」。花巻高村光太郎記念館・高村山荘が大きく取り上げられました。

6月27日(土)~7月4日(土)
高知県安芸郡安田町の映画館、大心劇場で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さんほかご出演)が上映されました。
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dfa8dbd36月27日(土)~9月13日(日)
石川県七尾市の石川県七尾美術館で、企画展「伝えゆく池田コレクションの魅力 〈第1期〉~日本画・彫刻を中心に~/~美濃焼と漆工を味わう~」が開催され、光太郎の父・光雲の木彫、昭和6年(1931)の「聖観音像」が出品されました。

7月1日(水)
雑誌『群像』2020年7月号に、彫刻家・小田原のどか氏による「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」が掲載されました。

7月3日(金)
海竜社から、中川越氏著『愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ』が刊行されました。「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」という章を含みます。
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7月4日(土)~8月23日(日)
広島県呉市の呉美術館で「令和2年度コレクション展Ⅰ 呉の美術 没後70年 南薫造をしのぶ」が開催され、南と交流のあった光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)が出品されました。

7月6日(月)
日本コカ・コーラ社から、「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」が発売され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の一節「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」も採用されました。
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7月8日(水)
テノール歌手の永田峰雄さんが亡くなりました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんから「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」をリリースされていました。

7月10日(金)
宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏が亡くなりました。光太郎に関する著書もおありでした。

7月11日(土)~9月27日(日)
和歌山県伊都郡高野町の高野山霊宝館で「令和2年度夏期企画展「如来 -NYORAI-」が開催され、光雲作の「仏頭」(昭和8年=1933頃)が展示されました。金剛峯寺さんご本尊の薬師如来坐像のための習作です。
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7月15日(水)
広報はなまき7月15日号に、「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編 高村光太郎『手』」という記事が載りました。

7月18日(土)~9月21日(月)
千葉市の千葉県立美術館で、「コレクション展 高村光太郎の生きた時代」 が開催され、光太郎ブロンズ8点と、交流のあった作家の作品が出品されました。

7月20日(月)
秀明大学出版会から、同大学長の川島幸希氏著『140字の文豪たち』が刊行されました。氏がツイッター上で「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したものです。光太郎にも触れられています。
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8月5日(水)
ソニーミュージックから、J-POPアーティスト・米津玄師さんのニューアルバム「STRAY SHEEP」が発売されました。米津さんご自身、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっている「Lemon」を含みます。

8月7日(金)
岩手県花巻市の花巻高村光太郎記念館近くに、道の駅「はなまき西南」(愛称・賢治と光太郎の郷)がオープンしました。施設内に光太郎、賢治に関する説明板等が展示されています。これにあわせ、花巻高村光太郎記念会で、新商品「智恵子のレモンキャンディー」を発売しました。
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8月7日(金)~13日(木)
宮城県女川町の女川つながる図書館で、「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」展が開催されました。
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8月9日(日)
地上波テレビ朝日の「秘湯ロマン」が、栃木県那須塩原市の「塩の湯温泉柏屋旅館」を取り上げ、昭和8年(1933)に逗留した光太郎智恵子にも触れられました。

8月10日(月)
東京都中央区の浜離宮朝日ホールで、「サードアルバムリリース記念 精緻な歌声でつづる日本の心 小林沙羅 ソプラノ・リサイタル 日本の詩(うた)【3/12振替公演】」が開催され、光太郎詩に曲を付けた「或る夜のこころ」「あなたはだんだんきれいになる」「亡き人に」(中村裕美さん作曲)が演奏されました。
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8月16日(日)
歌手の二代目コロムビア・ローズさんが亡くなりました。昭和39年(1964)、丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲の「智恵子抄」がヒットし、その年の紅白歌合戦に出場されました。

8月17日(月)~8月23日(日)
全国31局のコミュニティFM局でオンエアされているラジオ番組「仮面女子 雪乃しほりのワクワクサワー」という番組で、「智恵子抄」へのオマージュ的な「ほんとうの空・青い空」というラジオドラマが放送されました。
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b6977be8-s8月20日(木)
三笠書房から板野博行氏著『眠れないほどおもしろいやばい文豪 こうして生まれたあの名作』が刊行されました。「智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎」という項を含みます。

同日、静岡は伊東で刊行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号が発行されました。主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されています。

8月22日(土) 
『朝日新聞』さんの岩手版に「光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開」という記事が載りました。

同日、劇作家・女優の渡辺えりさんがご出演なさったテレビ番組「ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ 渡辺えり×石原正康」がBS朝日でオンエアされました。渡辺さんが、光太郎と交流のあったお父様・渡辺正治氏や、ご自身と光太郎詩との思い出などを語られました。
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8月25日(火)
BS-TBSで、「日本の名峰・絶景探訪▼雪煙舞う厳冬の安達太良山 福島」が放映されました。初回放映は平成26年(2014)の再放送でした。

8月29日(土)
岩手のテレビ局・めんこいテレビさんで1時間の特番「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」が放映されました。
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8月30日(日)
地上波TBSで、「東京の空 #ぼくの、わたしの“ほんとの空”。」の放映がありました。さまざまな事情を抱える人々の、「東京の空」への思いを紹介するもので、光太郎詩「あどけない話」(昭和2年=1927)にも触れられました。

【折々のことば・光太郎】001

学校までの道にて雪中に兎の足あとを発見す、図の如し この形兎になること亘さんにきけり


昭和20年(1945)12月9日の日記より 光太郎63歳


明治生まれとはいえ、都会育ちの光太郎にとっては珍しかったのでしょう。

横に並んでいる二つが後ろ足 、縦の二つが前足です。 ウサギは前足をついてから後足を広げて前に出るため、後ろ足の足跡が前につきます。

今年も残すところあとわずかとなりました。このブログ恒例の、今年一年を振り返る作業にかかります。今日は1月から4月。主な事項のみ取り上げさせていただきます。書籍等の刊行月日は、奥付等に依りました。

1月1日(水)
『月刊致知』2020年2月号で、国際コミュニオン学会名誉会長・鈴木秀子氏という方が、「人生を照らす言葉」と題する連載で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さいました。
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同日、株式会社ダイアプレスから『レジェンド文豪のありえない話』が刊行されました。コラム「文豪たちがしたためた恋文」で、大正2年(1913)、結婚前の智恵子に宛てた光太郎からの書簡が紹介されています。

1月12日(日)
当会顧問にして、晩年の光太郎に親炙、その没後は常に顕彰活動の先頭に立ってこられた北川太一先生が亡くなりました。葬儀は1月17日(金)でした。
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同日、元映画女優の小林みどりさん(芸名・青山京子さん)が亡くなりました。東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督、智恵子役は故・原節子さん、光太郎役は故・山村聰さん)にも出演され、智恵子の姪にして、看護師の資格を持ち、その最期を看取った長沼春子の役でした。

1月15日(水)
新潮社から信濃川日出雄氏著のコミック『山と食欲と私』第11巻が発売されました。安達太良山が描かれ、光太郎智恵子に触れられてています。
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1月18日(土)・19日(日)
長野市のギャラリー花蔵で、智恵子を主人公とした一人芝居『売り言葉』野田秀樹脚本)の公演がありました。

1月24日(金)
杉並区のソノリウムで、コンサート「中嶋俊晴×白取晃司 いのちの対話 その2」が行われました。出演は中嶋俊晴さん(カウンターテナー)、白取晃司さん(ピアノ)。帯刀菜美さん作曲「 <高村光太郎> レモン哀歌 (委嘱作品)」がプログラムに入っていました。
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1月24日(金)~2月24日(月)
青森県十和田湖畔休屋地区特設会場他で「十和田湖冬物語2020 雪と光とアートの世界」が開催されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されました。

1月25日(土)
名古屋市のウィルホールで、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武の息女にして、絵本作家・編集者としてご活躍の末盛千枝子さんがご出演された「朗読コンサート&講演会 人生に大切なことはすべて絵本から教わった。」が開催され、光太郎にご自身のお名前を付けてもらったエピソードなどが紹介されました。
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同日、福島県・棚倉町文化センター倉美館で「小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル~福島県棚倉町公開収録」が行われました。小林さんの歌唱、河原忠之さんのピアノで、中村裕美さん作曲の「或る夜のこころ」が演奏されています。NHK FMの「ベストオブクラシック」で2月24日(月)、NHK BSプレミアムの「クラシック倶楽部」で3月27日(金)、さらにNHK Eテレの「クラシック音楽館」で5月24日(日)に、それぞれオンエアされました。

1月25日(土)~2月2日(日)51755bf9
渋谷区の新国立劇場小劇場で、演劇公演『る・ぽえ』が開催されました。出演は碓井将大、辻本祐樹、木ノ本嶺浩、林剛史、加藤啓の各氏。「高村光太郎「智恵子抄」をモチーフにした夫婦の話」がプログラムに入っていました。

1月29日(水)
福岡市の当仁公民館で、市民講座、遊友塾 『日本の文学作品を読む』が開催され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。講師は船津正明氏(元九州大学非常勤講師)でした。

2月3日(月)~7日(金)
NHK Eテレの「にほんごであそぼ」で、光太郎特集が組まれました。3日(月)「冬が来た」、4日(火)「人に」、5日(水)「道程」、6日(木)「あどけない話」、7日(金)「牛」が、それぞれ取り上げられました。2月17日(月)~21日(金)で、再放送も為されました。

2月7日(金)
『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、詩「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられました。

2月9日(日)
神奈川県秦野市のクアーズテック秦野カルチャーホールで、郷土芸能の発表や物産展などを行う「ふるさとお国じまん 県人会フェア」が開催され、ステージ発表で「福島(安達ケ原の鬼ばば、智恵子抄)」が披露されました。
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2月11日(火)~2月16日(日)
中央区の東京銀座画廊美術館さんで「東京書作展2020 選抜作家展」が開催され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914、雑誌『美の廃墟』に発表された際の102行あった原型から抜粋)を書かれた作品も出品されました。

2月12日(水)~2月18日(火)
新宿区の小田急百貨店新宿店で、「幕末・明治 偉人の書展」が開催され、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を揮毫した光太郎の書も展示されました。
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2月13日(木)c9a008dc-s
福島県双葉郡富岡町の文化交流センター学びの森で、「福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウムin 富岡 ~ほんとの空が 戻る日まで~」が開催され、当会の祖・草野心平ゆかりの同郡川内村の遠藤雄幸村長がパネラーとして発表なさいました。

2月15日(土)
茨城県守谷市の守谷中央図書館で「梅花の朗読会」が開催され、詩「道程」(大正3年=1914)も取り上げられました。

2月16日(日)
『福島民友』さんの連載「ふくしま湯けむり探訪」が、「【二本松市・岳温泉】 山を遊び尽くす拠点 新風を吹き込む温泉宿」を組み、光太郎智恵子にも言及されました。

2月19日(水)
森まゆみ氏著『谷根千のイロハ』が亜紀書房から刊行されました。光太郎智恵子、光雲に言及されています。
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2月21日(金)~4月12日(日)
練馬区立美術館で、「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展が開催され、光太郎に関する展示も為されました。

2月23日(日)
静岡市の人宿町やどりぎ座で、智恵子を主人公とした一人芝居「売り言葉」(野田秀樹脚本)の公演がありました。演出・大石明世氏、​出演は滝沢麻友さん、山内梓未さんでした。
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2月24日(月)
学研プラスから目黒哲也氏企画・編集『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』が刊行されました。北田ゆきと氏作画「高村光太郎」を含みます。

3月1日(日)
 日本絵手紙協会発行の『月刊絵手紙』で、平成29年(2017)から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されてきた「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が終了しました。
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同日、豊島区の広報誌『広報としま』に「春のぽかぽかさくら散歩」という記事が掲載され、光太郎智恵子に言及されました。

3月9日(月)
小学館から井上涼+NHK びじゅチューン!制作班著『びじゅチューン! DVDBOOK 5』が発行されました。NHK Eテレで放映中の同名番組をまとめたもので、「指揮者が手 高村光太郎「手」」を含みます。
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3月10日(火)
京都市のピアノサロン Atelier Minoyaで、「魂に響く朗読と音楽のle petit boheur reading aloud&piano vocal concert」が開催され、光太郎詩「さびしきみち」(大正元年=1912)が取り上げられました。出演は松本愛子さん(Sop/Pf)、木暮昌子さん(フリーアナウンサー)でした。
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3月11日(水)
小学館から早瀬耕氏著『彼女の知らない空』が刊行されました。七編から成る短編集で、第一作「思い過ごしの空」で、光太郎詩「あどけない話」(昭和2年=1927)がモチーフとして使われています。
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3月12日(木)
『週刊新潮』3月12日号の五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」が「高村光太郎の国民歌」という副題で、光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」(昭和15年=1940)を取り上げました。

3月14日(土)d6d5bd09-s
NHKラジオ第一の「 石丸謙二郎の山カフェ」が「春を感じよう!」という副題で、光太郎随筆「山の春」(昭和26年=1951)を取り上げました。5月30日(土)に再放送がありました。

3月17日(火)
『朝日新聞』に「休校中の子へ、詩集をどうぞ コールサック社、1千冊を無料配布」という記事が掲載されました。出版社コールサック社が、平成28年(2016)刊行の『少年少女に希望を届ける詩集』(光太郎の「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)を含む)を、小中高などの教育関係者、保育園、幼稚園、障害者施設などの従事者、子ども食堂などでボランティアをしている支援者らに無料で配付することの紹介でした。

3月19日(木)
文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て、長野市の信濃善光寺仁王門が国登録有形文化財に登録されました。納められている仁王像二尊、三面大黒天像、三宝荒神像は、光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になるものです。
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3月20日(金)
公益財団法人日本近代文学館編刊『日本近代文学館年誌 資料探索 15』が発行されました。書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏による「高村光太郎と「書」」が掲載されています。
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3月31日(火)
山と渓谷社編刊、『山と溪谷2020年5月号増刊 「最も美しい上高地へ」』が発行されました。大正2年(1913)、一夏を上高地で共に過ごした光太郎智恵子に随所で言及されています。

4月1日(水)
アルテヴァンから、柳原義達著『孤独なる彫刻 造形への道標(みちしるべ)』が増補版として改訂発行されました。「高村光太郎」の項、ロダンの項、「私と彫刻」の項などで光太郎に触れています。
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4月2日(木)
コロナ禍のため、千代田区日比谷公園松本楼で開催予定だった第64回連翹忌の集いを中止と致しました。この日発行の当会会報的な『光太郎資料53』は後日、郵送いたしました。同日、高村光太郎研究会から『高村光太郎研究(41)』が発行されました。
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4月10日(金)
勉誠出版から日本近代文学館編『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』が刊行されました。上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎 」を含みます。

4月11日(土)
國學院大學名誉教授で、光太郎についての著作もおありだった傳馬義澄氏が亡くなられました。

4月11日(土)~4月17日(金) 5月21日(木)~6月28日(日) 
コロナ禍による中断をはさみ、福島県いわき市の市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月14日(火)
日本郵便株式会社東北支社からオリジナルフレーム切手「十和田湖・奥入瀬渓流~四季のひとこま~」が発行されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の写真もデザインされました。

4月15日(水)
『日本古書通信』2020年4月号に、同誌編集長の樽見博氏による「感謝 北川太一さん」という記事が掲載されました。
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4月19日(日)
『しんぶん赤旗』日曜版、「たび」という連載で、福島二本松の智恵子生家とその周辺が大きく紹介されました。
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4月22日(水)
一兎舎から田丸めぐみ氏著『荻原碌山伝記小説 我がいのち「女」へ』が刊行されました。光太郎も登場します。
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4月26日(日)c8617d4e-s
岩手の盛岡でシニア世代向けに発行されている情報誌『シニアズ』に、生前の光太郎をご存じで、花巻ご在住の浅沼隆さんの談話筆記「晩年を花巻で過ごした芸術の天才 高村光太郎の人柄」が載りました。 

4月28日(火)
俳優の金内喜久夫さんが亡くなりました。金内さんは平成23年(2011)と翌年、渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」で、主役の光太郎役を演じられました。

3月半ば頃までは、例年通りにいろいろなイベント等も組まれていたんだな、と改めて思いました。その後は、当会主催の連翹忌をはじめ、櫛の歯が抜けるように中止、延期のオンパレード。

例年なら、今日の内容に花卷高村祭(5/15)や碌山忌(4/22)などが入っていたのですが……。

とにかくこのコロナ禍が早く収まることを願って已みません。

明日は5月から8月を。

【折々のことば・光太郎】

日出頃東天の朝焼茜色に美し。雪雲の反映とみゆ、午前中に雪となり、午后やむ。二寸程つもる。 〒来らず 此雪が根雪となるか、一度きえるか分らず。夜中々冷える。流場も凍る、


昭和20年(1945)12月3日の日記より 光太郎63歳

前日から断続的に、この冬初めての雪でした。故・北川太一先生が「生涯で最も鮮烈な冬」と呼んだ、過酷な季節の始まりです。

ほぼ毎年、同様のご紹介をしていますが、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。
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最初に
大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼

2021年銚子市初日の出インフォメーション

初日の出時刻 午前6時46分頃
関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。
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新型コロナウイルス感染拡大防止のため、マスク着用、手指の消毒、3密の回避など感染防止対策のご協力をお願いいたします。また、発熱のある方や体調の優れない方の来銚はお控えください。
元日の未明は、初日の出にお越しになる自動車で相当の混雑が予想されるため、犬吠埼周辺道路において交通規制を行います。詳しくは「2021年銚子市初日の出情報」内の「初日の出マップ」をご覧ください。また、危険防止のため犬吠埼灯台前園地の一部と遊歩道を立入禁止といたします。

今年は、例年実施していた「初日の出ハッピーバルーンリリース」に代わり、元日から3日間、「新型コロナ収束祈念ハッピーバルーンフォトCHOSHI」として、市内6カ所にバルーンオブジェの展示を行います。市内各所を巡り、「CHOSHI」を完成させてください。
展示箇所については「2021年銚子市初日の出情報」内の「2021年年始イベント情報」をご覧ください。また、その他各店舗の情報についても、広告欄に掲載しています。
元日オープン情報
銚子ポートタワー 開館:午前6時から
(注意)午前6時から午前7時の間は、入場先着100名限定となります。
地球の丸く見える丘展望館 開館:午前5時30分から
(注意)午前5時30分から午前7時の間は、入場先着200名限定となります。
犬吠テラステラス 開店:午前7時から

当方はこのところ毎年、銚子より少し南に下った九十九里町真亀で初日の出を拝んでいます。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が約半年間療養し、毎週のように光太郎が見舞いに訪れた地です。例年ですと九十九里町元旦祭が開催されていたのですが、例によってコロナ禍で中止となりましたが……。
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続いて、智恵子の故郷・福島二本松。『広報にほんまつ』の2021年1月1日号(既にネット上にアップされています)から。

二本松城本丸跡で迎える初日の出

1月1日・元旦、初日の出を迎えようと、二本松城本丸跡には毎年市内外からたくさんの人が訪れます。暗闇から一変、東方の阿武隈山地から太陽が姿を現すと、眼下には市街地が広がり、その見晴らしは絶景です。ぜひ一度足を運んでみてください。
※駐車場には限りがあります
※日の出は午前6時45分頃の予定です。
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最後に、この時期、富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」で有名な、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、日本文学報国会の事業「日本の母顕彰」のため光太郎が訪れ、光太郎文学碑も建てられています。
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今月21日のNHKさんのニュースから

冬至 見事なダイヤモンド富士

21日は冬至です。
例年冬至の日の頃から元旦ごろにかけて、富士山の頂上付近に太陽の光が輝いてみえる「ダイヤモンド富士」が見られる富士川町のスポットでは、21日朝、見事なダイヤモンド富士が見られました。
富士川町の高下地区は、例年冬至の日の頃から元旦ごろまで、日の出の太陽の光が富士山頂付近でダイヤモンドのように輝いて見える「ダイヤモンド富士」のスポットとして知られています。
21日朝も、絶景を撮影しようと、夜明け前から県内外の写真愛好家などが訪れました。
午前6時半ごろから東の空が明るくなり、午前7時20分すぎに雲1つない富士山の山頂から朝日が昇ると、まばゆい光が輝いてダイアモンド富士となりました。
カメラを構えていた人たちは一斉にシャッターを切り、一瞬の美しさを切り取っていました。
富士吉田市から来た男性は「初めて来ましたが、自分なりに満足のいくものが撮れました」と話していました。
また、毎年訪れているという新潟県三条市の男性は、写真の出来栄えについて「まだまだです」などと話していました。
富士川町高下地区のダイヤモンド富士は、来年の元旦ごろまで見られるということです。
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こうした場所で見るのも一興、そうでなくても各地で初日の出はあまねく起こります。コロナ禍収束を願う意味でも、ぜひ祈りを込めてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方戸来恭三さんランプを持つてきてくれる。院長さんのたのみの由、石油一瓶針金も持参、贈与の由、 夜ランプをつける。

昭和20年(1945)11月23日の日記より 光太郎63歳

「戸来恭三さん」は山小屋のある旧太田村山口地区の住民。「院長さん」は佐藤隆房です。この日から、昭和24年(1949)までの3年以上、電気のないランプ生活を送りました。
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一昨日、昨日と、1泊2日で花巻、盛岡を廻っておりました。レポートいたします。

12月4日(金)、新幹線を新花巻駅で降り、迎えの車に乗って、まずは花巻市役所さんへ。市の主催で来年度に計画されているイベントや展示の打ち合わせを行いました。市民講座の講師、展示の監修等を仰せつかりまして、ありがたいかぎりです。

再び市の公用車に乗せていただき、花卷高村光太郎記念館さんへ。
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まだ積雪には至っていませんでしたが、気温はかなり低い状態でした。

こちらでは昨日から、花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマとした共同企画展の一環、「光太郎と佐藤隆房」が始まっています。一昨日は内覧ということで、地元紙の取材も入っており、対応しました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、郊外旧太田村に移る前の1ヶ月程、光太郎を自宅離れに住まわせてくれ、その後も援助を惜しまなかった佐藤隆房元総合花巻病院長と光太郎の交流を紹介する展示です。
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隆房は光太郎歿後、財団法人高村記念会を設立、初代理事長となり、それは子息の故・進氏に引き継がれました。
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左上画像は光太郎が1ヶ月暮らした佐藤家離れの2階。ここを光太郎は「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。「潺湲(せんかん)」は「水のせせらぎ」。すぐそばに豊沢川の清流があることに由来します。右画像は佐藤家を訪れた際に光太郎が愛用していたという椅子です。

佐藤が絵を描き、光太郎が賛を書いたものが四点。
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「天しろし」
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「ひかりをつゝむ」
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「孤坐」
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「人は野をおもひ山をおもふ」

いつもながらに味のある書です。

そのうちに地元紙に報道が出るはずですので、またその際にご紹介します。

花巻高村光太郎記念会として来年度に行う企画展示の打ち合わせ等を行い、こちらを後にしました。

その後、車で送っていただき、盛岡へ移動。こちらでは、「ゆかりの盛岡から高村光太郎を知る会」の会合。コロナ禍の為中止となりましたが、今年の5月に岩手県公会堂で、同会主催の講座「光太郎の食卓から」が開かれる予定で、当方も一役買うはずでした。下記は幻の要項です。
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この講座では、盛岡でイタリアンの「アッカトーネ」さん、さらに「光太郎山荘」ならぬ「敲太楼山荘」さんのオーナーソムリエ・松田宰氏にもお話をいただく予定でした。

そこで、この日は松田氏の料理に舌鼓を打ちつつ、会合。当初はお店で開催のはずでしたが、三密を避けるため、農林会館という建物の会議室で行いました。
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テイクアウト的なこういう状態でしたが、実に美味でした。

この日は中の橋地区のホテルブライトイン盛岡さん(アッカトーネさんの向かいです)に宿泊。昨日のブログにも同じ画像を使いましたが、翌朝、部屋の窓から取った岩手山。
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南隣は啄木・賢治青春館さん。
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北隣は盛岡てがみ舘さんの入っているプラザおでってさん。さらに道路を渡ると旧岩手銀行赤レンガ館さん。
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部屋で朝食を摂った後、ロビーで地元紙『盛岡タイムス』さんの取材を受けました。来年元日の同紙で、光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、そのためです。てがみ館さんで直筆原稿が常設展示されている光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)をメインとするとのことでした。その後、連れだっててがみ館さんへ。
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現在、盛岡とその周辺の古絵葉書などを中心とした「なつかしの盛岡」展が開催中です。光太郎も見た風景ということで、興味深く拝見しました。
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「岩手山の肩」原稿はこちら。
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006紙面は来年、送って下さるそうです。ちなみに紙面を送って下さる、と言えば、明日、12月7日(月)だかの『朝日新聞』さんの夕刊でも光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、岩手行きの前に電話取材等に対応しました。品川のレモン哀歌詩碑などに関わるようです。やはり紙面を送って下さるそうで、そのうちにご紹介します。

その後、記者さんと別れ、当方は盛岡駅前の岩手県立図書館さんで調べ物。光太郎が題字を揮毫し、昭和二、三十年代に刊行されていた地方紙『花巻新報』を閲覧してきました。

当会発行の冊子『光太郎資料』で、光太郎が作詞、邦楽奏者の杵屋正邦が作曲し、昭和26年(1951)に花巻で日本舞踊を振り付けて上演された「初夢まりつきうた」について書いたのですが、まだ不分明な点が多く、その補完が主目的でした。すると、やはり当たりで、いろいろと分かりまして、次号の『光太郎資料』にその辺を書こうと思っております。

また、それ以外にも光太郎が昭和25年(1950)に花城農業高校(現・花巻農業高校)で行った講演の長い筆録も掲載されていたのを発見した他、『高村光太郎全集』未収の談話筆記等多数見つかりました。

コロナ禍のため、長時間の滞在が出来ないという制約があり、1時間あまりで撤収しましたが、他にも目星を付けている蔵書がありますので、またいずれ、と思っております。

というわけで、有意義な岩手紀行でした。

おまけ。東京駅から高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所最寄りのバス停・JR佐原駅で降りたところ、田舎の駅で普段はあり得ない人山の黒だかり、もとい黒山の人だかり。何事だ、と思ったら、JR東日本さんの超豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が停車していました。そういえばちょっと前にこっちの方に来ると新聞で予告されてたっけ、と思いあたりました。
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赤いのはお出迎えでやって来た、千葉県のゆるキャラ・チーバくんです。ちょんまげは当地の偉人・伊能忠敬がらみですね。
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0001泊2日コースで、2名1室最高50万円、最低でも37万円。一人旅だとそれぞれ75万円と55万5千円に跳ね上がります。当方には一生無理でしょう(笑)。ちょっと前に、元宝塚の遼河はるひさんと、深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 で智恵子役をなさった紺野まひるさんが2泊3日コースを体験乗車するというテレビ番組を拝見し、バーチャル体験はしましたが。

ちなみに現在の2泊3日コース、岩手も通るルートで運行されています。こちらは2名で55万円から75万円、1名だと82万5千円から112万5千円だそうで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻着(午前七時過) 宮沢家に入る、 雨、


昭和20年(1945)5月16日の日記より
光太郎63歳

4月13日の空襲で駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居を焼け出され、しばらくは近くにあった妹の婚家で過ごしていましたが、そこも他の被災者で手狭になり、宮沢賢治の実父・政次郎、実弟・清六、そして佐藤隆房等の誘いで花巻へ疎開。上野駅を発ったのが前日の夕方でした。光太郎が「TRAIN SUITE 四季島」などを見たら、腰を抜かすのではないでしょうか(笑)。

究極の雨男・光太郎、花巻に着いた時も雨でした。その魂を背負ってしまった当方も究極の雨男となり、昨日も関東に帰ってきたら雨でした(笑)。

昨日から岩手盛岡に来ております。
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昨日は花巻に立ち寄り、市役所、それから花巻高村光太郎記念館さんへ。同館で今日から始まる企画展示「光太郎と佐藤隆房」を内覧。
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市役所、それから盛岡に移動し、こちらのいろいろな団体さんと、来年度のイベントや展示等の打ち合わせ。

これから地元紙の取材を受けます。

詳細は帰りましてから。





昨日から一泊で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

昨日は都内台東区の東京藝術大学大学美術館さんに寄り、「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見。光太郎木彫「蓮根」を久しぶりに拝観しました。

その後、一路花巻へ。宿泊している花巻南温泉郷大沢温泉さんにチェックイン。
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早速ひとっ風呂浴びた後、8月にオープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)へ。花巻高村光太郎記念館さんの方々と、テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで夕食。
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今日は、まず記念館さんに行き、企画展示「高村光太郎とホームスパンー山居に見た夢ー」を拝見します。

その後、再び道の駅に。テナントの「ミレットキッチン花」さんで販売される手作り弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に参加して参ります。

詳細は帰りましてから。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。

メインの目的地は、北鎌倉。「あじさい寺」として有名な名月院さん近く(「徒歩365歩」だそうです(笑))のカフェ兼ギャラリー・笛さん。光太郎のすぐ下の妹・しづの婚家で、令孫の山端夫妻が経営されています。
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こちらでは、毎年この時期に、光太郎に関わる展示をなさってくださっています。昨年は当方がバタバタしており伺えなかったのですが、今年はご案内もいただきまして、昨日の初日にお邪魔して参りました。
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近くに、光太郎と親交の深かった詩人の尾崎喜八が住んでいて、その尾崎の結婚(妻は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子)祝いに光太郎が贈ったブロンズ(大正13年=1924)です。ミケランジェロの「聖母子像」の模刻ですが、石膏原型は既に喪われ、鋳造もこれ一点しか確認できていない貴重なものです。

平成26年(2014)にお邪魔した時には、尾崎夫妻ご息女の故・榮子様がご健在で、ちょうどいらしていて、子供の頃、智恵子に抱っこされた思い出など、貴重なお話を伺うことができました。ちなみに今日、10月5日は智恵子命日「レモンの日」です。

その他、複製が中心ですが、智恵子の紙絵や光太郎デッサンなどなど。書(色紙)は複製でない光太郎肉筆のものが一点飾られていました。
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また、展示されていなかった古写真も拝見。
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昭和18年(1943)、「笛」オーナーの山端夫妻のご両親である敏夫氏(しづ四男)・静江様ご結婚の折の記念写真だそうです。

光太郎も写っています。珍しく(笑)ネクタイ姿です。
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最後列一番右が光太郎(長男)、その前に実弟・豊周(三男)夫妻、豊周の右隣は藤岡家に養子に行った孟彦(四男)と思われます。次男・道利はなぜか写っていないようです。

こんなものも展示されていました。
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東大地震研究所さんで作った光太郎木彫「鯰」のレプリカ。昭和45年(1970)、同所の創立45周年の記念品です。言わずもがなですが、「地震」で「鯰」、洒落が利いています。当方は5年後に作られた同50周年記念のものを持っていますが、そちらは樹脂で周りを固めたペーパーウェイトになっています。
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さて、「笛」さんでの展示、11月22日(日)までです。ただし、火・金・土・日のみですので、ご注意を。

「笛」さんにお邪魔する前、同じ鎌倉の川喜多映画記念館さんで、「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。明日はそのあたりを。


【折々のことば・光太郎】

僕は上等な料理よりも栄養のある料理のほうがいいのです。上等な料理は体裁がよくても、栄養がないということが多いのです。臓物や尾などの捨てるところに栄養があるのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二一」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎、当時は精肉店などで捨てられていた牛のシッポを貰ってきて、オックステールスープを自作していたそうで……。

001当会発行の冊子『光太郎資料』54集、完成しました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められその後、様々な「資料」を掲載、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十八回 父母弟妹・親族・姻族(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、親族や姻族に宛てた書簡等を載せました。

明治42年(1909)、欧米留学の末期に1ヵ月ほど旅して歩いたイタリアから実弟の道利に送った絵葉書(今年、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されました)、同じく花巻高村光太郎記念館さんに平成26年(2014)に寄贈された、実弟豊周の妻、美和にあてた書簡などを載せています。

・光太郎回想・訪問記  宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる 鈴木重郎
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。平成26年(2014)公開の映画「テルマエ・ロマエⅡ」(阿部寛さん主演)のロケ地にもなった群馬県の宝川温泉を光太郎は2度訪れていますが、その際の思い出を、同温泉主が回想した文章です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。底本には、平成18年(2006)柏書房発行、『大江戸座談会』を使っていますが、同書の監修に当たられた竹内誠氏(元江戸東京博物館館長)が、先月、亡くなっています。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十八回  宝川温泉/湯の小屋温泉(群馬県)
上記「光太郎回想・訪問記」とリンクさせました。宝川温泉は、かつては「熊と一緒に露天風呂に入れる温泉」というのが売りでした。光太郎が泊まった当時の建物、部屋が現存しているようです。
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さらに宝川温泉と同時期に訪れた湯の小屋温泉についても。

・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その二)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。

・高村光太郎初出索引(年代順 二)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号は明治42年(1909)と翌43年(1910)に初出があったもの。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

よく「田舎に住みたい」という人がいます。しかし、ほんとうに田舎の生活が出来る人は少ないと思います。一カ月もしたら耐えられなくなってしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一八」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「田舎」の定義にもよりますが……。光太郎が住んでいた当時の花巻郊外旧太田村、闇屋の買い出しさえ来なかったという場所でしたので……。

花巻レポートの最終回です。

9月14日(月)から1泊させていただいた花巻南温泉峡の大沢温泉さん。かつて光太郎もたびたび宿泊した温泉地です。
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こちらはゴージャスめの温泉旅館「山水閣」、南部藩のお殿様も泊まった(光太郎もですが)築170年近い萱葺きの別館「菊水館」、そして湯治客用の「自炊部(湯治屋)」の三棟に分かれています。経営はグループで同一です。

当方、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、一昨年の台風により、そちらに通じる道が被災したため宿泊棟としては休業中です。

そこで、このところ自炊部さんにお世話になることがほとんどとなっています。
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窓を開けると豊沢川の清流、その対岸に菊水館。
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菊水館の建物は無事でしたし、自炊部からは曲がり橋という橋で歩いていけますので、昨年からは「昔ギャラリー茅(ちがや)」として活用されています。やはり人が出入りしないと建物は死んでしまいますから、いい取り組みだと思います。当方、昨秋以来2度目の訪問となりました。
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まず目にとまったのは、昨秋は無かったと記憶していますが、元のロビーだったところに、大型テレビを縦に置いた液晶ディスプレイ。東北新幹線の新花巻駅待合室にも同じような機器がセットされていましたが、当節、流行なのでしょうか。
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現在の展示内容についての動画などが流れ、さらに「古き良き花巻 昭和35年観光映像」ということで、昭和35年(1960)撮影の映像も。
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ディスプレイ下部は固定で「馬面電車」といわれた花巻電鉄。2系統あったうちの一つが、かつて花巻中心街から南温泉峡の鉛温泉まで通じていて、大沢温泉さんにも駅があり、その画像です。

さて、動画部分。当時としては画期的だったと思われるカラー映像です。
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タイトルの後は東北本線花巻駅ですね。
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ナレーションは花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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こちらでも花巻電鉄。

花巻といえば宮沢賢治。そういえば高橋圭三さん、賢治とは遠縁だそうです。
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市街桜町の賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫しました。
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当時は普通に見られたイギリス海岸(現在は水面が上がり、通常は水底です)。

そして、光太郎。
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まだ記念館は建てられていませんでしたが、光太郎の暮らした山小屋には套屋がかぶせられ、高村山荘として整備されていました。
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「雪白く積めり」詩碑も既に建っていました。

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山荘裏手の高台には智恵子展望台。ここで夜な夜な光太郎が「チエコーッ」と叫んでいたという証言から名付けられました。
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現在はウッドデッキが整備され、きれいになっています。

その他、市内各所の見どころや、年中行事など。なかなか見応えのあるものでした。

その他の展示。昨秋と同じだったところもあれば、変わっていたスペースもありました。
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こんなコーナーも。
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先ほどの映像のナレーター、花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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作家の夢枕貘さん。
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故・西城秀樹さん、そして渡辺えりさん。
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渡辺さんのものは、平成25年(2013)5月、高村祭などでご講演いただいた際のものです。その時は渡辺さんは山水閣さんの牡丹の間、当方は菊水館に泊まりました。一緒ではありませんでしたので、念のため(笑)。

さて、菊水館。こうした利用方法も一つの手ではありますが、やはりまた宿泊棟として復活して欲しいものです。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

古老の天気に関する考えを記録に取ることもあります。これは科学的な予報ではないのですが、長い間の体験から生まれでる感じによって、当たることがあります。人よりも動物のほうが天候や天気に対する感覚が強いと考えられるくらいですから、あながち、でたらめなことでもないと思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 四」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。自然と一体化して暮らすという、光太郎にとっては若い頃からの理想の実現という意味もありました。

一昨日・昨日と1泊2日で、市民講座講師のため岩手花巻に行っておりました。3回にわけてレポート致します。

花巻到着後、まず向かったのは、先月オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。
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あいにくの雨模様でした。

さらに平日の日中でしたが、そこそこお客さんが入っており、胸をなで下ろしました。オープン早々閑古鳥が鳴いていては先行きが心配ですし。

向かって左が産直コーナー的な物産館「すぎの樹」さん。
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地元の農産物、お弁当、加工食品などが並んでいます。

壁には花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた絵。ここにこういう絵があったことに気がつきませんで、後で花巻高村光太郎記念館さんの方に、「こういう絵があったでしょう」と言われ、「?」。そこでスマホの画像を見てみると、ちゃんと写っていました(笑)。拡大すると……。
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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということで、賢治グッズ/光太郎グッズのコーナーも。
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こちらのオープンに合わせて開発された新商品「智恵子のレモンキャンディー」、当方が訪れる頃には売り切れ必至だろうと、今月初めに送って下さったのですが、まだ残っていました。
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当方大好物のリンゴも売られていまして、買わないという選択肢はありませんでした(笑)。購入したのは小さめの品種でしたが4つで230円と激安。少し前には当方地元・千葉のスーパーで1個200円くらいでしたので、嬉しい価格でした。
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産直コーナーの隣は焼き肉レストラン「味楽苑」さん。この日は既に新幹線車内で昼食(駅弁)を済ませていたのでパスしましたが、いずれこちらで食べさせていただこうと思いました。

さらにその奥がコミュニティスペース的になっており、テーブルと椅子。
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壁面には賢治と光太郎に関する説明パネル。地元の方のご執筆ですが、こちらにも原稿が回ってきまして、校閲、加筆させていただきました。
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空いている壁面もありますし、まだまだ工夫の余地はありそうです。市内の賢治/光太郎マップとか、それぞれのスポットの紹介とか。さらに映像機器等を置く構想もあるやに聞いています。

建物の外には海鮮系の移動販売車。
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草花のコーナーも。リンドウが綺麗でした。いかにも、秋。
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全体としては、まだオープンしたばかりなので、まだまだこれからどう発展していくか、という感じですね(同じ敷地内にコンビニも建設中でした)。

今後はここを拠点にいろいろな活動等が展開していくことを望みます。当方地元の道の駅では、地元ラジオ局とのタイアップでコンサートが開かれたり(かつては「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみさんなどもいらっしゃいまして拝聴しました)、日曜日、今回の花巻行きのための手土産を買いに行ったら、フリーマーケットが行われていたりしました(いずれ出店しようかな、などとも思いました(笑))。地元の皆さんで、どんどん良いアイディアを出して行っていただきたく存じます。

みなさまもぜひ花巻にお越しの際はお立ち寄りを。


【折々のことば・光太郎】

子供は先生のいうことはよくききます。しかし、親子で教えることはできません。教えるというのではなくて空気です。耳や目からでなくて、いつとはなしに体で覚えます。いつのまにか染みこみます。染みこんだものはなかなか取れません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた山小屋近くにあった山口小学校の保護者懇談会での発言です。

明日、レポートいたしますが、市民講座で光雲・光太郎親子の彫刻の系譜的なお話しをさせていただきました。それぞれに傑出した彫刻家であった二人、しかし目指す方向性は異なり、いろいろな問題を孕んでいるのだな、と、改めて感じました。

昨日から岩手花巻に来ております。
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先月オープンした「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」を訪れ、さらに花巻高村光太郎記念館さんに。
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開催中の企画展示「光太郎の父高村光雲の鈿女命」を拝見。今日はそちらの関連行事の市民講座で講師を務めます。
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宿泊は大沢温泉♨さん。

詳細は帰ったらレポートいたします。

またもやネタ不足となりまして、最近手に入れた古いものシリーズです。

先だって、昭和30年代はじめの花巻絵葉書セットをご紹介しましたが、その後、およそ10年後の昭和40年代はじめの花巻絵葉書セットを入手しました。

まず、カバー。昭和39年(1964)に開港した花巻空港です。飛行機は懐かしの双発プロペラ機YS-11ですね。

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題字の「はなまき」の文字は、何と、光太郎の花巻疎開に尽力し、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房花巻病院長の揮毫です。

カバー裏側に解説文。光太郎の名も。

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イラストマップもカバーの裏に。

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昭和43年(1968)に廃線となった花巻電鉄鉛線が描かれていますし、下記の高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)のキャプションには「昭和41年10月ここに高村記念館を建立して遺作を保存しております」とあるので、昭和41年(1966)~昭和43年(1968)の間の発行ということになります。発行元は「花巻市観光協会」となっていました。

葉書宛名面の切手貼付欄は「7円」と印刷されています。葉書の料金が7円だったのは昭和41年(1966)~昭和47年(1972)、年代的に合いますね。金魚のデザインの7円切手、記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか(歳がバレますね(笑))。

さて、絵葉書本体。8枚セットでした。

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縦長で、上半分が光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑、下半分が高村山荘です。現在は二重の套屋に蔽われていますが、この当時は第一套屋のみ。第二套屋の竣工は昭和52年(1977)です。

昭和30年代の絵葉書セットもそうでしたが、あとは温泉地が中心です。

花巻温泉佳松園。昭和40年(1965)、建築業協会賞を受賞したとあります。

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左下は台温泉。過日も書きましたが、小規模な温泉宿が多数軒を連ね、その中の松田屋旅館さんに光太郎、それから当会の祖・草野心平が泊まっています。まだ道路が舗装されていないようです。

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右上はこれのみ戦前の絵葉書の画像ですが、花巻南温泉峡の西鉛温泉秀清館。昭和20年(1945)、花巻疎開直後に結核性の肺炎で1ヶ月臥床した光太郎が、予後を養うために6月に1週間滞在しました。昭和47年(1972)に閉館となったそうですが、下記にはまだ健在で写っています。

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奥に写っている愛隣館さんが昭和35年(1960)に創業し、「西鉛温泉」という呼称は「新鉛温泉」と改められ、絵葉書キャプションもそうなっています。

鉛温泉藤三旅館さん。中央の古い建物、三階の一番奥が光太郎の泊まった31号室です。

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それから温泉ではありませんが、鉛温泉スキー場。なぜかスーツにネクタイでスキー板を履いている人が居るのですが(笑)。

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大沢温泉さん。立て替えられる前の山水閣さんのようです。

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志戸平温泉さん。現在の姿にだいぶ近くなっています。

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各温泉さん、緊急事態宣言の解除を受け、徐々に再開しているようです。連休明けには既に再開したところ、宿泊はまだでも日帰り入浴のみ再開しているところもあり、大半は今月末や来月初めから全面的に再開するようです。ちなみに高村山荘・高村光太郎記念館さんも6月1日(月)から再開の予定だそうです。まだ油断は禁物ですが、早く元の状態に戻って欲しいものですね。

特に急ぎの情報が入らなければ、明日も最近手に入れた古いものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

もう六年です。すっかり住みなれて、都会へ出る気はしません。僕はもう都会を信用しません。都会は腐りかけている。

対談「高村さんと語る」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

ところが翌年には「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、帰京します。まあ、花巻郊外太田村ではあれだけの大作を制作することが不可能だったためですが、帰京したら帰京したで、ぶつぶつ言いながらも東京の生活も楽しんでいた部分もありますが……。しかし、住民票は本当に身体が動かなくなり、死を予感するようになった昭和30年(1955)まで太田村に残していました。

繰り返し書きますが、新型コロナの影響で、各種イベント等がほとんど行われなくなり、このブログのネタにも困っています。

新着情報系がない時は、最近入手したもののご紹介。少し前に同様の趣旨で「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。」という記事を書きましたところ、意外と反響が大きくて驚きました。

今回は「新発見」というものではないのですが、ちょっと珍しいと思われるものが手に入ったので、そちらをご紹介します。光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻の昭和30年代はじめと思われる絵葉書セットです。

まずはカバー。二つ折りの状態のものを開いてスキャンしました。画像をクリックしていただくと拡大します。

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花巻市さん、花巻市観光協会さんが発行元ということになっています。裏表紙的な方には、アバウトな地図。2系統あって、ともに昭和40年代に廃線となった花巻電鉄(細い弧線)がここでは健在です。右上には光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建てられた十和田湖も。このあたりは縮尺を無視しています。

カバーの裏には手書きの文字で「33.9」とあります。おそらく最初に購入した方が、昭和33年(1958)9月にゲットした、という意味でしょう。その日の体温だとしたら低すぎます(つまりませんね(笑)、すみません)。

中身は8枚入っていました。やはり昭和30年代はじめと思われる写真でした。なぜわかるかというと、こちら。

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昭和20年(1945)から7年間、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)です。中央が元々の小屋(鉱山の飯場小屋を移築したもの)、左の白い建物は昭和26年(1951)、オリジナル『智恵子抄』の版元、龍星閣の肝煎りで増築された二間×三間の別棟、右の方は便所と風呂場です。

光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)には、中央の元の小屋を保存するための套屋(カバーの建物)がかけられ、左の新小屋は50㍍ほど移築されています。しかし写真はそれが行われる前のもの。それから、カバーには先述の通り「花巻市」とあり、花巻に市政が施行されたのが昭和29年(1954)ですから、おそらく昭和30年(1955)前後の撮影でしょう。

右は光太郎の山小屋と同じく旧太田村の音羽山清水寺さん。光太郎も何度か足を運んでいます。

花巻といえば、宮沢賢治。

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昭和11年(1936)建立の、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」碑も取り上げられています。イギリス海岸は2枚にわたって。

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もう一つ、花巻といえば、温泉。有名な温泉5カ所が採用されています。

豊沢川沿いに点在する花巻南温泉峡の一番奥、鉛温泉藤三旅館さん。

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光太郎が泊まった当時の建物で、令和となっても健在です。

光太郎がもっとも多く逗留したと思われる、大沢温泉さん。

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左は「菊水館」となっていますが、本来の菊水館さんは写真左の方、江戸時代竣工の茶色い茅葺きの部分です。赤い屋根の方の建物は、位置関係からして現存しないのではないかと思われます。菊水館さん、一昨年の台風で道路の法面が崩れ、車が通行できないため宿泊棟としては休業し、「昔ギャラリー茅」として活用されています。ここにも光太郎が宿泊しています。

右は山水閣さん。現在は建て替えられて近代的な建物になっていますが、光太郎が居た頃はちょっと高級な温泉旅館的な棟でした。光太郎がよく泊まった部屋が「牡丹の間」という名で再現されています。

続いて、志戸平温泉さん。

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光太郎、ここにも泊まっています。ただ、残念ながら当時の建物は残っていません。おそらく画像は光太郎が泊まった頃の建物なのでしょう。

南温泉峡から一山越えた花巻温泉さん。

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こちらは建物がメインではなく、庭園を前面に押し出しています。松雲閣は、やはり光太郎の定宿の一つ。現在は旅館としては廃業しましたが、建物は健在で、一昨年、国の有形文化財に登録されました。

最後に台温泉さん。南温泉峡とは異なり、小さな温泉旅館がたくさん。その中の松田屋旅館さんに光太郎の足跡が残っています。絵葉書には松田屋さんは写っていないように思われますが、すぐ近くでしょう。

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以上8枚のセットでした。元の購入者の方が、他の何枚かを使ったりしていなければ、これで全部です。

この手の古絵葉書、かえって戦前のものなどの方が、その古さ故の資料的価値などから、市場に多く出回っています。このような昭和30年代位のものだと、中途半端に古い、的な感じなのでしょう、あまり見かけません。ただ、当方としては、光太郎が居た頃とそう離れていない時期のものなので、ありがたいのです。

ところで、気になって各温泉宿のHPを見てみました。案の定、何軒かは新型コロナの影響で休業中のようです。岩手県では感染者ゼロが続いていますが、やはり気をつけるに超したことはありませんね。

昨日のこのブログでは、「世界がもとに戻ったらしたいこと」ということで、「図書館系に行って調べものをしたい」と書きましたが、やはり「温泉に行きたい」も挙げねばなりません(笑)。大手を振って温泉に行ける碑が戻ってくることを念じつつ……。


【折々のことば・光太郎】

秋水かげふかし  短句揮毫  戦後期  光太郎70歳頃

おそらく花巻郊外旧太田村に蟄居していた頃の揮毫です。

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イラストレーター・ただまひろさんのツイート「『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』」が話題になっています。

Yahoo!さんのニュースサイトから。 

飲み会に部活?『世界がもとに戻ったらしたいこと』ツイートに反響、自粛の我慢を希望へ変換

『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』と題した漫画のツイートが、大きな話題となったイラストレーター・ただまひろさん(@mappy_pipipi)。同ツイートは31.1万のいいねを集めたほか、「コロナが終息したら、みんなは何したい?」という問いかけに応えたユーザーから、多くの「したいこと」が寄せられ、1000件以上のコメントが付いた。この漫画に込めた思い、自粛生活を送るユーザーへのメッセージを聞いた。

■31.1万の“いいね”集めた漫画、大反響の裏に「みんなの我慢」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』をツイートしようと考えたきっかけは?

【ただまひろさん】私にできることは、「自粛しよう」と注意喚起するよりも、漫画を読んでくれた方にこの先の楽しいことを想像してもらい、それを実現するために今がんばろうと感じてもらうことだと思い、公開しました。

――漫画の中には11個の「したいこと」が描かれていますが、どんなことを意識して制作したんですか?

【ただまひろさん】「したいこと」はもっといっぱいあると思いますが、自分がしたいことや、周りの人がしたいと言ってることを選びました。またイラストについても、読者の方が自分に当てはめて読めるように、一つのキャラクターを使うのではなく、いろんな人を描きました。

――“いいね”はもちろん、多くの人が自分のしたいことを書いてリプライしています。

【ただまひろさん】想像以上のたくさんの「したいこと」があって、今みんなが我慢してるんだと改めて感じました。みんなのしたいことを絶対できるようにするために、今一人一人ががんばらないといけないと思います。

――ただまひろさんは、イラストレーターのほかにクレープ屋でも働かれているとか。やはり、コロナの影響を感じますか?

【ただまひろさん】そうですね。今何も影響がないという人はいないと思います。いつまで続くのかわからない状態でストレスが溜まりますが、誰かのせいにはしたくないなと思っています。

■バイト先のクレープ屋にもコロナの影響、「誰かのせいにはしたくない」
――今回にしても、クレープ屋のお客さんを描いた漫画にしても、絵や言葉にとても温かみがありますね。描く際に心がけていることは何でしょうか?

【ただまひろさん】ありがとうございます。ちょっと笑えてホッとするものを目指してるので嬉しいです。一人一人思うことは似ていたとしても、まったく同じわけではありません。自分は良かれと思って描いたとしても、誰かを傷つけてしまうかもしれない。そういうことがなるべく無いように心がけています。

――多くの反響がありましたが、SNSで作品を発信することの良い点、また大変だと思うことはありますか?

【ただまひろさん】良い点は、実際に会ったことがない人にも作品を見てもらえたり、自分では想像できなかった考えを知れる点です。誰でも見られて何でも言えるのが良いところですが、それが大変な面でもあると思います。

■嘆いてもどうしようもない、「家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジ」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』の最後には「したいことを楽しみに過ごそう!」とありますが、まさにゴールデンウイークも自粛生活となっています。ユーザーへ何か伝えたいことは?

【ただまひろさん】私も、旅行や帰省など色々と計画を立てていました。もう近場にも行けない状態ですので、家でお菓子作って食べて筋トレしての繰り返し...の予定です。どこにも行けないのを嘆いていてもどうしようもないので、今は家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジするほうがいいと思います。

――ちなみに、ただまひろさんの一番したいことは?

【ただまひろさん】まずは帰省して両親や祖父母に会いたいです。あとは友だちと集まって、ごはんや飲み会をパーッとやりたいです!

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したいことを楽しみに過ごそう!」というポジティブな考え方がいいですね!

当方も、「① 集まって、飲み会したい」、「③ お祭りに行く」、「④スーパー銭湯とサウナに行きたい」、「⑥ 旅行する」、「⑪ 普通の生活を送りたい」あたりはまさに当てはまります。

それ以外に是非やりたいこと、というか、今、やれなくて困っていることなのですが「図書館系で調べものをしたい」と思っています。

少し前に、このブログで紹介すべきネタが不足している、と嘆いたところ、メールで情報提供があったり、ネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報があったりしています。で、その情報について詳しく調べたり、ご教示いただいた資料を閲覧したりしたいのですが、主要な図書館系はどこも休館中……。困っています。

例えば、当方と同じ千葉県ご在住で、連翹忌にもよくご参加いただいている方から、ご自宅近くだという千葉県文書館さんの情報をご提供いただきました。こちらは「県の行政文書や古文書などの資料を収集保存し、その活用を図るとともに、県の行政に関する情報を提供する施設」だそうですが、こちらにローカルテレビ局・チバテレさん制作の「房総プロムナード」という番組がDVDで保存されていて、視聴できるというのです。

同番組、現在は制作は終了しているようですが、'90年代末、'00年代くらいのものは、時折、再放送されています。ご教示いただいたのは、それより古いもので、2本。まず、昭和52年(1977)制作の「文学散歩 九十九里の浜」。こちらに当時存命だった智恵子の妹・斎藤セツが出演しているというのです。セツは昭和4年(1929)の智恵子実家・長沼家の破産後、あちこち転々としたのち、九十九里に夫や子ども、そして母・センと共に落ちつき、昭和9年(1934)には、半年余り、心を病んだ智恵子を引き取っていました。その智恵子の思い出を語っているということで、これはぜひ見てみたいと思っております。写真はいくつかの資料に載っているのですが、動画となると、見たことがありません。ちなみに下記は昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のパンフレットから。

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また、平成2年(1990)制作の「文学散歩 ~九十九里町~」。こちらには、智恵子が療養していた斎藤家(田村別荘)が紹介されているとのこと。やはり「智恵子抄」の故地、という扱いです。この建物は移築・保存されていたのですが、平成11年(1999)、感情的な行き違いが元で、突如、取り壊されてしまって今は見ることが出来ません。


それから、他の方からの情報提供で、どうも『高村光太郎全集』未収録の短歌が載っているらしい雑誌についても教えていただきましたし、先述の通りネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報もあります。

そうした場合、平時であれば国会図書館さん、日本近代文学館さん、神奈川近代文学館さんなどに出向いて調べるのですが、三館とも休館中です。

昨日の政府見解では「図書館や公園の再開は容認」ということですが、個々の館の対応等まだ不透明ですし、たとえ再開しても、そこまで行くためには公共交通機関を利用しなければならず、結局はまだ当分無理でしょう。国会図書館さんのデジタルデータは、自宅兼事務所のPCで見られるものもありますが、当方が必要とする情報はほぼ「国立国会図書館内限定」か「図書館送信資料」。後者であれば隣町の成田市立図書館さんで見られますが、こちらも休館中(GW中、臨時に開館という話でしたが、PCの置いてあるフロアは閉鎖)……。

まったく、困っています。

それから、自分で自分に腹が立っていることが一つ。

当会として年2回発行しております『光太郎資料』、次号(智恵子命日の10月5日発行予定)の執筆にかかっているのですが、そのために必要な資料(光太郎と交流のあった詩人・風間光作執筆の回想)が見あたらなくなってしまっています。読んだ記憶が確かにあるので、書庫の蔵書のどこかに転載されているはずなのですが、いったいどの本に載っていたのか、忘れてしまいました。

言い訳させていただければ、書庫はこういう状況でして……。

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4畳半の部屋ですが、三方が作り付けの書棚(20年ほど前、現在の自宅兼事務所を新築した際に造ってもらいました)、それ以外にも通常の本棚を置いてあります。書棚は天井が吹き抜けですのでやけに高く、9段、天板の上まで使っているので10段です。蔵書がどれだけ冊数があるのか、数えるのは早々にやめてしまいました(笑)。書物以外に、上記の図書館さん系で取ってきたコピーなども多数。何処に何が書いてあるかほぼ頭に入っているのですが、どうしても今探している文章が見つかりません。

元は戦時中の雑誌に載っていたことが分かっていますので、やはり平時であれば、国会図書館さん等に出向いてすぐコピーが取れますが、いかんせん、主要な図書館さん系はこぞって休館中……。まいっています。

そんなわけで、「世界がもとに戻ったらしたいこと」、当方は、まず「図書館系で調べものをしたい」です。やっぱり、変わり者なのでしょうかね(笑)。

さて、皆さんの「世界がもとに戻ったらしたいこと」は何でしょうか? そして、ただまひろさんのツイートにある通り、「「したいことを楽しみに過ごそう!」ですね。


【折々のことば・光太郎】

美しきものをおさむ   短句揮毫  昭和24年(1949) 光太郎67歳

東北大学総長を務めた結核学者・熊谷岱蔵の描いた画帖を収める箱のための箱書きとして揮毫しました。

上記当方書庫、6:4、いや、7:3くらいで古書の方が多いと思います。中には100年以上前のものも。となるとかなりボロボロだったりもしますが、そこに描かれている内容は、光太郎の詩文をはじめこれもまた、まごうかたなき「美」です。

新型コロナウイルスの影響で、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で例年執り行っておりおりました集いは中止といたしましたが、昨日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日でした。

集いに代えて、運営委員会代表ということで、当方が染井霊園・光太郎の墓にお参りさせていただきました。例年も松本楼様での集いの前に、墓参しているのですが、昨日は集いを中止にした関係上、例年よりじっくりと頭(こうべ)を垂れて参りました。

例年、この時期は花見、というか、散策に訪れている方が多い染井霊園ですが、昨日はさすがに閑散としていました。ただ、例年ですといっぱいの無料駐車場に車を駐められたのはラッキーでした。

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早くに咲いてしまった、この地原産のソメイヨシノも、まだ保(も)っていました。

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高村家墓所には、昨年は無かった、光雲・光太郎・智恵子を紹介する説明板が新設されていました。ここは光太郎一人の墓ではなく、高村家の墓所ですので、三人の紹介となっています。


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自宅兼事務所から剪(き)って持参した連翹を花立てに。

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光太郎が歿した際、その終焉の地・中野の貸しアトリエの庭に咲き、葬儀の折には愛用のビールのコップに生けられた連翹から株分けされたものです。こちらも桜同様、今年は早く花が咲き、葉も出始めています。

線香に火をともし「今年は皆さんで集まることが出来なくなってしまいましたが、それぞれの場所できっと光太郎さんを偲んで下さることと思います。来年こそはまた皆さんで集まれるよう、お力添えを」と、心の中で語りかけて参りました。

続いて、松本楼様に行かねばなりません。集いの席上で配付予定だったチラシ、招待券の類、毎年、最初の案内で松本楼様にお送りいただくようお願いしております関係上、今年も何種類か届いているとのことで、その受け取りです。

偶然なのか必然なのか、染井霊園から日比谷公園に車を進めますと、途中で、今年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生の菩提寺・浄心寺さんの前を通ることになります。同寺は先生のお通夜・葬儀の会場でもありました。

これは寄らざるをえまい、と思い、車を駐めて北川先生の墓参もさせていただきました。

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浄心寺さんは、別名「さくら寺」。1月のお通夜・葬儀の際には底冷えしていましたが、昨日はおだやかな陽気に桜が満開で、いい感じでした。

そして日比谷松本楼様。日比谷公園の桜も見事でした。しかし、やはり例年とは異なり、花見客は皆無……。

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松本楼様も、午前11時頃に着いたのですが、普段ですと行列が出来ている時間帯なのに、閑古鳥……。

留め置いていただいていたチラシ類を受け取り、さらに、いつもお世話になっているスタッフの方と立ち話させていただきました。やはりとてつもなく厳しい状況とのこと。お互いに「来年こそは」、「ええ、来年こそは」と、約して松本楼様をあとにしました。

受け取ってきたチラシ類、また、自宅兼事務所に届いたチラシ、招待券、書籍類、それから当会発行の『光太郎資料53』等、参会予定だった皆様などに、順次発送させていただきます。今しばらくお待ち下さい。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふインスチチユウシヨンが出来たり消えたりしながら総体的に進んでゆく社会の波動に活発な力を感じます。

アンケート「詩話会解散に対する感想」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「インスチチユウシヨン」は英語の「institution」。「公共団体」、「協会」といった意味合いです。「詩話会」は、光太郎と親しかった川路柳虹らの旗振りで、大正6年(1917)に結成された詩人の会。年刊『日本詩集』、雑誌『日本詩人』などを発行し、会員に名を連ねていた光太郎もそれらに寄稿しました。

このアンケートが書かれた大正15年(1926)、いわゆる民衆詩派(白鳥省吾、福田正夫、富田砕花ら)といわゆる芸術派(北原白秋、日夏耿之介、西条八十ら)との対立から、解散となりました。

光太郎はどちらに与するわけでもなく、アンケート回答にあるように、こうして世の中が進んで行くのだ、と、達観していたようです。

無理くりですが、昨日、都心を車で走りつつ、報道で見るゴーストタウンのようなパリや、野戦病院のようなニューヨークの惨状との違いに、「活発な力」を感じました。総体的に少ないものの、人も車も普通に動き(それが感染拡大につながっているといえばそれまでですが)、おそらく、今年、色々なことを断念せざるを得なかった人々も、「来年こそは」と、心に期しているのではないかとも思いました。

連翹忌の集いも、「来年こそは」です!

1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。

手前味噌で恐縮すが、当会発行の『光太郎資001料53』、完成しました。

本来、4月2日(木)に開催のはずだった第64回連翹忌の集い席上で配付し、その後、お申し込みいただいている各位、関係諸団体等に発送する予定でした。

元々は当会顧問であらせられた北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺等を旨として、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継ぎ、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。

現在はパソコンで原稿を作成、印刷のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費で7万円ほどかかっています。

表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十七回 父母弟妹・親族・姻族(一)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、父・光雲、母・わか、妹・山端しづに関する光太郎作品をまとめました。

・光太郎回想・訪問記  
文壇の人々 高村光太郎氏(『秀才文壇』より)/日暮里渡辺町界隈(抄)(『長谷川利行』より)矢野文夫

これまであまり知られていない(と思われる)、戦前の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。「文壇の人々」は、明治45年(明治45年)4月、雑誌『秀才文壇』の第12巻第5号に載った無署名の記事ですが、光太郎と交流があった編輯主筆・野口安治の執筆によるものと思われます。一昨年、智恵子も通っていた太平洋画会(現・太平洋美術会)の松本昌和氏よりそのコピーを頂きました。
「日暮里渡辺町界隈」は、画家・長谷川利行(明24=1891~昭15=1940)と親しかった詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫(明34=1901~平7=1995)による、智恵子が歿した直後くらいの光太郎に関する回想。日暮里渡辺町界隈の飲み屋で時々光太郎と出くわしたことや、駒込林町の光太郎アトリエを訪問した体験談です。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その一)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十七回  川古温泉(群馬県)
昭和4年(1929)に光太郎が訪れ、詩「上州川古「さくさん」風景」(同)の舞台となった、群馬県みなかみ市の川古温泉をご紹介しています。

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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その一)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。
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・高村光太郎初出索引(年代順 一)

現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、今号から年代順ということで。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号

〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139


【折々のことば・光太郎】

街を歩く時、松飾の香(にほひ)のする中で美しい娘さん達が追羽子をしてゐる図を思ひ出すと新年は全く新しい詩に満ちてゐますね。

アンケート「我家の三ヶ日」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

少々季節外れですが(笑)。「新年」同様、もうすぐやってくる「新年度」も例年であれば「新しい詩に満ちて」いるように思われますが、今年は新型コロナの影響で、なにやら不穏な新年度になりそうですが、こんな時こそ、心は豊かにしておきたいものです。

012来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことを苦渋の決断として決定致しました。

参加申し込みが少なく、政府の云う「大規模イベント」には当たらないという判断でしたし、今回は去る1月に亡くなられた当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼という意味合いもあり、何とかぎりぎりまで状況を見極めて開催したいと思っておりましたが、関係各位と協議の結果、中止のやむなきに至りました。間際の決定となり、申し訳ありません。

今日までにいろいろな方から、ご意見、ご要望等頂いております。有り難うございました。本当にさまざまなご意見がありました。正反対のご意見をいただいても、それぞれに「なるほど」と思わせられる点があり、また、報道や世の中の方向性も日によってめまぐるしく変わり(各種施設や公演等の再開を前面に押し出す日もあれば、情勢の悪化をトップにする日もあり……)、非常に頭を悩ませました。

しかし、どなたにもお優しかった北川先生がご存命であれば、「今年はおやめなさい」とおっしゃったように思われ、それが最終決定の要因となりました。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

4月2日当日は、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参致します。皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

ご入金頂いた参加費に関しましては、当日配付予定だった各種資料と共に、後日発送致しますので、よろしくお願い申し上げます。この点に関しましても、一律に返金させていただくことに決めております。「会の運営に使って下さい」というありがたいお申し出も複数ありましたが、「あの人は寄附をした」「あの人はしなかった」など、そういうのが後々しこりを残すことにもなりかねませんので。

寄附を受けた場合、こちらで「誰それは寄附をした」「誰それには返金した」というようなことは決して明かしませんが、寄附を受けた後に「寄附ということで返金を受けなかった人も居るんですか?」と問われたら、それに対し「ええ、いらっしゃいませんでした」と嘘はつけません。この点につきましてもご了承の程、よろしくお願いいたします。

来年以降、この騒ぎが収束し、また開催にこぎつけ、お会いできることを楽しみにしております。


【折々のことば・光太郎】

無に到るにあらず 無より出でゝ進むなり     


短句揮毫より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

上記の通り、今年の第64回連翹忌の集いは中止とさせていただきますが、それは「無に到るにあらず」です。必ずやまた「無より出でゝ進むなり」という気持でやっていこうと思っております。

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このブログで、開催予定ということご紹介してきたイベントのうち、いくつかが新型コロナウイルス対策ということで、中止や延期の措置がとられています。

声に出してみる美しい日本語 ワークショップ・公演(大阪府枚方市) → 中止

斎藤与里没後60年特別展(埼玉県加須市) → 延期(詳細日程等未定)


それから、順次ご紹介していこうと思っていたイベントも。

しかし、企画して下さったこと等につき敬意を表し、一応ご紹介させていただきます。

3月7日(土)・3月14日(土) 茅ヶ崎市松林公民館文学講座 “うた”のこころとかたち  中止

文学の起源は、人の思いがふとこぼれ出る瞬間に口ずさまれる“うた”にあったといえます。今回の文学講座では、いくつかの時代において人々のこころを解き放ち、時に癒し、鼓舞したであろう“うた”に着目してみたいと思います。古典的な詩から実験的な詩まで、教科書に載るような有名な詩からあまり知られていない隠れた名詩まで、“物語”とは異なることばの魅力や可能性に触れ、詩の面白さとは何なのか考えてみましょう。高村光太郎・宮沢賢治・中原中也・中野重治・金子光晴・黒田三郎・茨木のり子…みなさんの心に響く、お気に入りの詩の一篇に出 逢う機会になればと思います。

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3月14日(土) スタートアップ・チャレンジ事業 朗読と音楽で紡ぐ“ちば“の魅力 中止

朗読と音楽で、千葉にちなむ民話、高村光太郎、竹久夢二の作品を通して「ちばの魅力」を紹介します。歌や朗読を一緒に、楽しみませんか。
 

3月19日(木)~22日(日) 13回声楽アンサンブルコンテスト全国大会2020 -感動の歌声 響け、ほんとうの空に。- 中止003

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第13回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアで「ほんとうの空」の語を冠して下さっているこのイベント、毎年ご紹介していますが、平成23年(2011)の東日本大震災時以来の中止です。


もう1件。 

3月20日(金) 第14回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年 中止000

誰もが知る与謝野鉄幹と晶子との恋愛。そして文芸美術誌「明星」を舞台に花開いた明治浪漫主義。その発端は、遡ること120年前の1900年(明治33)4月、タブロイド紙「明星」創刊によるものでした。すでに詩歌集『東西南北』により詩壇で名を挙げていた鉄幹は、時代を読むジャーナリスティックな才覚と編集者としての才能を発揮して、文学を愛好する青年たちを「明星」に引き寄せます。晶子、山川登美子、高村光太郎、平出修、平野万里、石川啄木らは皆そうした人々でした。また森鷗外ら優れた文学者の協力を得て誌面を活性化し、鉄幹は文芸の新時代に打って出ました。
文芸誌衰退が嘆かれる現代、鉄幹の吹き起こした清新な風を検証してみます。
多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。



残念ですが、仕方がないでしょう。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――につきましては。今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ感染拡大には十分配慮をする上で、予定通り実施の方向です。詳細はこちら

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。


【折々のことば・光太郎】

貝は、自分の貝殻を形成するに当つてこの波と砂との力に最もよく抵抗し得るやうな形を自然と取るやうになつたのである。自然の妙味は無尽であるし、自然の造型が決して気まぐれや、でたらめでない事をよく示してゐておもしろい。

散文「彫刻その他(二)」より  昭和19年(1944) 光太郎62歳

かつて智恵子が療養していた九十九里浜で、智恵子が集めた蛤などの貝殻や、二枚貝の形に磨滅した石を見て思ったことです。

自然には妙味もありますが、手痛いしっぺ返しのような猛威もあります。難しいところですね。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第64回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。ただ、払込取扱票の在庫が少なくなっていることに気づきませんで、これから発注いたします。少し到着が遅くなるやも知れませんが、よろしくお願い申し上げます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。


第63回連翹忌御案内



日 時  令和2年4月2日(木) 午後5時30分~午後8時

会 費  11,000円 (ビュッフェ形式での食事代を含みます
      消費増税に伴い金額を改定いたしました

会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
       tel 03-3503-1451(代)

内 容  高村光太郎およびこの1年に亡くなった関係各位への黙祷
       アトラクション(朗読)/スピーチ
       この1年間に発行された高村光太郎/光雲/智恵子関係資料等展示
       他


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第64回連翹忌へのお誘い

昨年五月の改元に伴い、新元号「令和」初となる連翹忌を開催いたします。

「平成」最後の連翹忌の後、昭和32年のその第1回から、永らくこの会を運営して来られた北川太一先生はじめ、光太郎令姪・高村珊子さん、光太郎の親友であった水野葉舟の子息にして元総務庁長官・水野清氏、前花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤進氏など、生前の光太郎と交流があった方々の訃報が、残念ながら相次ぎました。

光太郎本人をはじめ、そうした方々への追悼の思いを胸に、新たな時代の幕開けとなる連翹忌を、別紙の通り開催いたします。皆様お誘いあわせの上、ご参加方、よろしくお願い申し上げます。

令和2年 2月吉日
                                  高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明


会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。会費お支払いは当日でもけっこうですが、できるだけ事前にお支払い下さい。申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。

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過去7年間の様子はこちら。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


追記  新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

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当会顧問にして、晩年の高村光太郎に親炙、その没後は顕彰の第一人者として、実にさまざまな活動に取り組んでこられた、北川太一先生。

1月12日(日)に大動脈乖離のため亡くなられ、そのお通夜が一昨日の1月16日(木)、葬儀が昨日・1月17日(金)に、それぞれ文京区の浄心寺さんで執り行われました。


まず、お通夜。棺の中の先生は、お気に入りの茶色いジャケットに、これまたお気に入りだったループタイ。「ああ」と思いました。

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次いで、ご葬儀。朝は雨。究極の雨男だった光太郎、その関連の大きな何かが行われる時は、必ずと言っていいほど雨でした。天気予報も数日前から雨の予想。1月14日(火)に、先生のお宅にお伺いした際、ご家族も「きっと光太郎さんが雨を降らせるでしょうね」と、おっしゃっていました。しかし、雨は朝のうちに上がりました。光太郎は雨男でしたが、北川先生はご生前、「太一」の「太」の字は「太陽」の「太」、と周りから言われていたそうです。まさしく太陽のようなお方でした。しかし朝晩は雨、ことによると雪だそうで……それは光太郎からの贈りものだったのでしょう。
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両日とも、ご家族、ご親族をはじめ、高村家とそのご親族の皆さん、先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の北斗会の方々(本来なら、1月11日(土)に、北斗会の方々と、例年行われている北川先生を囲む新年会の予定でしたが、先生、あまりお加減宜しくないとのことで、昨年暮れには中止の連絡が入りました)、元同僚の方やご朋輩、出版・美術館・文学館等関係者、女優の渡辺えりさん他さまざまなつながりで連翹忌に集って下さっている皆さん(遠くは四国、宮城女川などからも)など、多数のご参列を賜りました。また、急なこと故、参列叶わなかった多くの方々より、お心の籠もった弔電等を頂きました。僭越ながら、故人に成り代わりまして、厚く御礼申し上げます。

浄心寺さんのご住職も、北川先生の教え子のお一人であるやに聞きました。そこで、昨今主流となった葬祭ホールではなく、ぜひともうちの寺で、ということだったようです。また、光太郎顕彰の第一人者であらせられたことをよくご存じで、ご住職、通常の葬儀の中では読まれない「一枚起請文」を読まれました。

光太郎フリークの方はすぐに思い当たるでしょうが、智恵子の法要を謳った光太郎詩「松庵寺」(昭和20年=1945)に出て来る「一枚起請文」です。

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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは、花巻市街に今も健在の浄土宗の寺院で、光太郎は花巻疎開後、ほぼ毎年、そちらでご両親や智恵子の法要を営んで貰っていました。光太郎歿後は花巻としての連翹忌法要を毎年営んで下さっています。浄心寺さんも浄土宗ということで、ご住職の粋な計らいには感動を覚えました。

さらに、閉式直前のお話では、「浄土再会」というお話をされました。たとえ今生の別れとなっても、やがて西方浄土でまた再会できるのだそうで。まさしくそう考えたいものです。北川先生、今頃はあちらで光太郎や、髙村豊周や、草野心平や、高田博厚や、伊藤信吉や、そして先に逝かれたお嬢さんや、その他大勢の人々に囲まれているのだ、と。

また、ご遺族からは、かようなメッセージ。

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式での喪主としてのご挨拶では、子息・光彦氏、丑年生まれの北川先生、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)のごとく、じりじりと一歩ずつ歩まれてきた先生のお姿に触れられていました。

ご葬儀終了後は、先生の棺を載せた霊柩車を先頭に、バス2台に分乗して、近しい一同で町屋斎場へ。

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こちらでご遺体が荼毘に付され、当方も拾骨に加わらせていただきました。

再び浄心寺さんに戻り、お清め。

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午後3時、滞りなく全日程を終えました。両日ともに、本当に心のこもったいいお式でした。こういうと何ですが、仕事上のつきあいや義理での儀礼的な参列者は皆無で、皆さん、心の底から先生のご逝去を悼まれているように感じられました。これも故人のお人柄のなせる業。まさに「人徳」でしょう。


さて、当方自宅兼事務所の書庫から、先生に関わる書籍等いろいろ引っ張り出していた中で、その存在をすっかり失念していて、改めてこんなものを再発見した、というのをご紹介させていただきます。

書籍は、昭和60年(1985)、先生が都立向丘高校教諭をご退職になられた際に、北斗会の皆さんが中心となってその記念に編まれた私家版の『北川太一とその仲間達』(のちに平成23年(2011)にも、同名の書籍が文治堂書店さんからやはり北斗会さんの編集で公刊されていますが、そちらとは内容を異にします)。

その最終ページに近い当たりに、版画をご趣味とされていた先生の手になると思われる、シルクスクリーンでしょうか、とにかく先生御自筆の文字がドンとでっかく刷られた紙が貼られていました。

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書籍の存在は勿論忘れていませんでしたが、この紙が中に貼られていたことは、すっかり失念していまして、この紙を再発見した時は、まるで、彼岸の先生からのメッセージのように感じ、涙が溢れました。「そんな……お礼を賜る筋合いなんて、これっぽっちもありませんよ……」と。

と、ここで、はたと気がつきました。「これをブログ?とやらに載せて、皆さんに伝えて下さい」という、先生からのメッセージなのではないか、と。

というわけで、これまた僭越ながら、故人に成り代わりまして、皆様に画像でお届けいたします。お受け取り下さい。

そして、北川先生、あらためまして、こちらからも、ありがとうございました。どうぞお安らかに……。


【折々のことば・光太郎】

素直さにも深浅大小がありますが、此はともかく詩の基礎を成すものと思ひます。

散文「旭山浩第一詩集『輝かしい朝』」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

北川先生、「深」く「大」きな「素直さ」、すなわち、そのお心に「詩」をお持ちの方でした。

まず大事な連絡を。北川太一先生お通夜/葬儀の日程等決まりました。

お通夜 2020年1月16日(木) 18:00~  ご葬儀 同1月17日(金) 11:00~
会場はともに文京区向丘2-17-4の、浄心寺さんです。こちらのお寺、「さくらホール」という葬祭場を併設なさっていますが、そちらではなく、本堂で執り行うとのことでした。公共交通機関ですと、東京メトロ南北線・本駒込駅、あるいは都営三田線・白山駅からそれぞれ徒歩5分ほどのところ。先生が永らく教壇に立たれていた都立向丘高校さんの近くです。

生花の受付は、フリーダイヤル0120-621-192。葬儀社の東京福祉会さんです。こちらに電話し、FAXを受け取り、必要事項を記入して返信するという手はずになります。花輪はなく生花のみ、16,500円で、のちほど振り込みだそうです。FAXの無い方、とりあえず電話してみて下さい。


昨日、朝一番で1月12日(日)に亡くなられた当会顧問・北川太一先生のお宅に行って参りました。

東京メトロ千代田線千駄木駅で下り、光太郎旧居跡のある団子坂方面とは逆に、不忍通りを根津方面へ。何度も通い慣れた道ですが、こんな気持でここを歩くとは、と思いながら歩を進めました。

主亡きお宅。かつては先生の盟友だった故・吉本隆明氏が、刑事の尾行をまくために立ち寄ったりもされたそうです。玄関先には「高村光太郎記念会」の看板も。

午後からは葬儀社さんや、葬儀委員長的なことをなさって下さるという、先生のかつての教え子の北斗会の方がいらっしゃるということでしたが、当方が伺った9時頃にはご家族だけでした。奥様で、昭和30年(1955)には結婚のご報告に、北川先生ともども光太郎のもとを訪ねられたこともある節子様、子息の光彦氏(「光」の字は光太郎にちなみます)、よく連翹忌の受付や資料の袋詰めなどを手伝って下さった、おじいちゃん子だったお孫さん。そこにあるべき先生のお姿が無いことが、不思議に思えるような……。「あれ、先生、二階の書庫にでもいらっしゃるんですか」と問いたくなるような……。

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居間兼応接室の、いつも、この椅子に座られて、当方が伺うとにこにこしながら出迎えて下さった北川先生……。ちなみに写っている絵は、平成23年(2011)、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏の筆になる先生の肖像画です。

「会ってやって下さい」とのことで、隣室にてご尊顔を拝見させていただきました。安らかなお顔でした。お顔を目にしてしまうと……駄目ですね……。滂沱禁じ得ませんでした……。

亡くなった日のご様子を伺いました。朝、普通に目覚められ、朝食のため居間の椅子にお座りになったところで意識を失われ、テーブルに突っ伏されたそうです。食事をされながら、調べものでもするおつもりだったのか、何かのご本を手にされていたとのことでした。いかにも先生らしい、と思いました。

救急車で、近くにあるかかりつけの日本医大病院さんに搬送。以前も硬膜下出血でそういうことがあって、しかし、その時は溜まった血を抜いたらすぐに恢復なさったため、ご家族の皆さんは今回も、と思ったそうです。しかし、お医者様の診断は無情にも、心臓の大動脈乖離で、手の施しようが無い、的な……。

結局、その後、お話をなさることは出来なかったそうですが、ご家族が手を握られると握り返されたとのことで、意識は朦朧とされつつも、ある程度わかっていたのではないか、と、光彦氏の弁。この日は日曜でしたので、奥様はじめ、お子さん、お孫さんもお集まりになり、皆さんに看取られて、午後11時20分、先生は天然の素中に還られたそうです。「長く苦しむ事もなく、みんなに看取られて逝ったのは、幸いだったと思うべきでしょうかね」とは、奥様のお話でした。

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その後、上記お通夜やご葬儀の日程等をお聞きし、「遺影をどれにしようか迷ってるんですよ」とおっしゃるので、いくつかの候補の中から「やっぱり、これがいいんじゃないですか」と、当方。普段着で(この上っ張り姿で、この居間で行われたテレビ番組のロケにも臨まれました)、いつもどおりのにこやかな。当方にとっての北川先生は、まさにこういう方です。

おいとまを告げ、電車と高速バスを乗り継いで千葉の自宅兼事務所に帰る間、今月開設したフェイスブックにスマホで情報を上げ(こんなことのために始めたんじゃないんだけどな、と思いつつ)、片っ端から関係の方々の携帯にメールを送り、電話やPCのメールでなければ伝えられない方には帰ってから伝え、しかし、そうして何かやっていないと落ち着かないような、昨日はそんな一日でした。メールの返信等で、そんな当方を気遣って下さった皆様、恐縮です。この場を借りて御礼申し上げます。

17日のご葬儀では、しっかりと、先生をお送りしたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も想像いたされます。

散文「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

八木はこの前年、数え30歳で亡くなっています。北川先生は、おん年94。世間的には「大往生」「天寿」といわれるお年でしたが、早世であれ、大往生であれ、残された者の悲しみには共通するものがあるわけで……。

とうとうこの日がやって来てしまったか、という感じです。いずれこの日が来ることを覚悟してはおりましたが、いざ、そうなると、なぜこんな日が来るんだ、と、やり場のない怒りと、虚脱感……。

当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。

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先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。

昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。

同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。

同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。

「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。

昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。

光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。

先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。

また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。

そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。

しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。

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当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。

000平成10年(1998)以後、先生のご編集になった増補版の『高村光太郎全集』が完結した後、それに洩れていた光太郎作品を見つけ、先生の元にコピーをお送りすると、「すごいものを見つけましたね」と賞めて下さり、それが嬉しくてさらに未知の作品発掘に力を注ぐようになり、光太郎没後50年の節目となった平成18年(2006)には、それらをまとめて『光太郎遺珠』として、先生との共同編集という形で世に出させていただきました。'90年代にはインターネットが普及し、情報収集がしやすくなったので、未知の作品発掘もそれほど大仰なことではありません。インターネットはおろか、コピー機さえもなかった時代に、公共図書館などで光太郎作品を発掘し、ご自分の手で筆写し、『全集』にまとめられた先生のご苦労を思えば、頭が下がります。

そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。

その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。

そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。


本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。

追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。

季節外れの冷やし中華ではありませんが(笑)、フェイスブックを始めました。

少し前にも書きましたが、このブログ、平成24年(2012)にヤフーブログとしてスタート。ところがヤフーさんが12月でブログサービスを終了するということで、投稿は8月いっぱいで締め切り。そこで8月中にライブドアさんに移転しました。いくつか他の移転先候補もあったのですが、機能的にライブドアさんが使いやすそう(ヤフーさんで出来ていたことがやはり出来そう)、サーバー的に重くない(ある大手のブログは重くて重くてなかなかつながりません)などの理由から、ライブドアさんを選びました。

その予想通り、ブログを書くぶんにはあまり不自由を感じず、スムーズに移行できたかなと思っております。

ところが、悩みの種は訪問者数。ヤフーさんが訪問者数を表示していた頃は、だいたい1日に百数十人の方が訪れて下さっていました。ごくたまに100を切って2桁となることがあり、「あれま」という状況でした。しかし、移転後は2桁(それも前半)があたりまえ、たしか、3桁行った日はなかったんじゃないかと記憶しています。昨日もそうでしたが、1桁という日もありました。

気になって、アクセス数解析のページを見てみましたところ、今月を含め、3ヶ月分しか表示されませんでしたが、11月、12月とも惨憺たる状況でした。


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上記が11月、下記が12月です。それぞれ下の方の黄色い線が訪問者数(UU)、赤い線(PV)は閲覧数ということで、「のべ」でのカウントのようです。10人の方のご訪問があり、記事を5件ずつ閲覧して下さったら50件、という意味だと思われます。

古い記事に関しては、12月まではヤフーさんにブログが残っていましたので、そちらでの閲覧が多いのだろうと思っておりました。実際、そうだったんだと思います。ただ、ヤフーさん、10月頃には訪問者数の表示機能が無くなり、はっきりわかりませんが。

で、ヤフーさんからブログが削除された後は、こちらの訪問者数が増えるだろうとたかをくくっていましたが、逆にどんどん減っています。ヤフーさんのブログには、最後の投稿としてこちらのURLを貼り付けておいたため、それを見てこちらに入って下さった方がいらしたようで、それが無くなったため、減ったように感じました。

それから、検索エンジン。グーグルさんなどで「高村光太郎連翹忌運営委員会」で検索しても、こちらのトップページが表示されません。さらに、キーワード検索で「高村光太郎」+「○○」。ヤフーさんのブログが健在の頃はそれでバンバン引っかかり、「○○について調べている者ですが、光太郎と○○についてもう少し詳しく教えて下さい」と、コメントやメールがきたものですが、移転後はそういうこともほとんどありません。検索ワード「高村光太郎」+「○○」でライブドアさんのブログが表示されないようで(無くなってしまったヤフーさんのブログがいまだに色々表示されます)。

長々書きましたが、そういうわけで、発信している情報が伝わらないことに危機感を抱いております。

そこで、フェイスブック。これまでは必要性をあまり感じていなかったため手を付けていなかったのですが、こちらのブログの更新などの情報を発信し、少しでも訪問者数増加につなげようという魂胆です(笑)。

実際、始めて見ると、「知り合いかも」という欄に見知ったお名前がずらり。やはり「ブログ」というとなかなか面倒でやっていないという方も、フェイスブックなら手軽なので、というケースが多いようですね。そこで、何人かの方にこちらから「友達」申請をしましたら受けて下さいましたし、逆に当方の名を見つけた方から、「友達」申請がありました。そんなこんなで輪を広げようと思っております。

今後はツィッター、インスタグラムなどにも手を広げようかと考えていますが、まぁ、あせらずにやっていこうと思っております。

ただ、フェイスブックもまだその機能をしっかり把握しきれていませんので、もしかするといろいろ失礼の段があるかもしれません。よろしくご寛恕の程。


【折々のことば・光太郎】

誰でも毎日為てゐる事、経験してゐる事がこんなに詩であり得るのだといふ事に気がつけばほんとにさうだと思はない人はないでせう。さういふ事は喜びです。
散文「矢野克子詩集『太洋ノ母』読後感」より 昭和18年(1943)

矢野は明治38年(1905)生まれの詩人。昨日ご紹介した伊波南哲同様、沖縄出身です。

2年後の昭和20年(1945)には、光太郎、「琉球決戦」というトンデモ詩を『朝日新聞』に発表するのですが、もしかするとその脳裏には伊波や矢野の顔が浮かんでいたかも知れません。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、九十九里浜の片貝海岸に行きました。16歳になった愛犬がお伴でした。

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赤く見えるのは、傍らで流木を燃やして焚き火をしていたためです。

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愛犬、以前は人に触られるのをあまり好まなかったのですが、歳をとって丸くなったようで(笑)。見ならわなければ、と思いました(笑)。

ここは、南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養していた場所です。智恵子の妹・セツ(節子)の一家と、母のセンも同居していました。

下記写真は明治41年(1908)頃。智恵子数え23歳、前年に日本女子大学校を卒業し、東京に残って太平洋画会で油絵制作に取り組んでいた頃のものです。何かの折に帰省した際に撮られたもので、当時の智恵子の一家が勢揃いしています。

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後列左から、四女・ヨシ、長女・智恵子、次女・セキ、三女・ミツ(後述する宮崎春子の母)、父・今朝吉、長男・啓助。前列左から祖父・次助、五女・セツ(昭和9年=1934当時、九十九里在住)、祖母・ノシ、六女・チヨ、次男・修二、母・センです。

明治、大正と、福島油井村(現二本松市)で、大きな酒蔵を経営していた智恵子の実家は、父・今朝吉の没後に経営が傾き始め、昭和4年(1929)の恐慌のあおりをもろに受けて破産、一家は離散しました。

五女のセツ夫婦が暮らしていた九十九里に母・センも引き取られ、昭和6年(1931)頃から心の病が顕著になっていた智恵子も、先述の通り、昭和9年(1934)5月にセツの元に預けられます。しかし、その病状は好転することなく、完全に夢幻界の住人となってしまい、日がな浜辺の千鳥と遊んだり、「光太郎智恵子、光太郎智恵子」とつぶやいていたりしたそうです。

のちにその頃の智恵子を謳った光太郎詩に「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)などがあります。

しかし、セツには幼い子供もおり、教育上宜しくないと判断され、智恵子は12月には再び駒込林町のアトリエに引き取られ、翌昭和10年(1935)に、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院することとなります。妹・ミツの娘、春子が看護師の資格を持っていたこともあり、付き添いに入りました。

下記は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、このあたりでロケが行われた東宝映画「智恵子抄」撮影時のスナップ写真です。

左端がセツ、右端が春子。智恵子に扮する原節子さん、光太郎を演じた山村聰さん、それから春子役の青山京子さんも写っています。

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そんなことを考えつつ、片貝海岸で初日の出を待ちました。

しかし、今年は(去年もでしたが)雲が多く、日の出から15分後の7時を過ぎても太陽は拝めませんでした。

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渋滞を避けるため、早めにあきらめて撤収。

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帰りぎわ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑で。昭和36年(1961)、地元の俳句グループや、当会の祖・草野心平らの尽力で建てられたものです。

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上記は雑誌『文学散歩』第10号に載った、当会顧問・北川太一先生による除幕レポートです。心平や、やはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤信吉、彫刻家の高田博厚、皆すでに鬼籍に入っていますが、若かったのですね、半裸で九十九里の荒波に飛び込んだそうで(笑)。

自宅兼事務所を目指して、九十九里沿岸を北上中、蓮沼あたりで、雲の切れ間から太陽が姿を見せそうな気配となりました。そこで再び浜辺へ。

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できれば片貝で見たかったのですが、いたしかたありませんね。まぁ、今年もいいことがあるような、そういう感じのする初日の出でした。

というわけで、しつこいようですが、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出でその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。

散文「山本和夫編『野戦詩集』」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

『野戦詩集』は、日中戦争に出征した山本以下6人の詩人(西村皎三、加藤愛夫、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫)の作品を集めたアンソロジーです。前線で実際に戦闘をしていた詩人の作品集ということで、このような評となっています。ちなみに6人のうち、西村は戦死しています。

たしかに光太郎の言う通りなのでしょうが、こうした時代が再び訪れることの無いように、と思わざるを得ません。

というわけで、新年となりました。改めましてあけましておめでとうございます。

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上記は今年の年賀状。画像は明治29年(1896)、光太郎数え14歳の作になる木彫レリーフです。毛並みの表現の仕方など、父・光雲作の重要文化財「老猿」を思わせる見事な出来ですね。

この年、光太郎は3月に下谷高等小学校を卒業、東京美術学校の予備校として卒業生が作った共立美術学館に編入、旧制中学の課程を学びました。翌年には美校に進んでいます。まさしく「栴檀は双葉より芳し」ですね。


今年も光太郎智恵子、光雲やそれぞれの周辺人物等につき、さまざまな情報をお届けするつもりで居ります。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かういふ詩人が教壇にたてばなるほど教室は明るいであらう。かういふ詩人に育てられた子供等は、幸であると思はずには居られない。

散文「実にめづらしい詩集だ――小野忠孝詩集
『日本の教室は明るい』――」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

小野忠孝(のちに「おの・ちゅうこう」と仮名書きにペンネームを改名)は、明治41年(1908)生まれの詩人・児童文学者です。地元・群馬や、上京して大森の小学校で教壇に立ちつつ、詩作に励みました。

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本年の皆様方にも、「幸」あれと念じつつ。

この日には毎年同じようなことを書いていますが、今年もとうとう大晦日とあいなりました。とりあえず無事に一年を終えられそうで、胸をなで下ろしております。

さて、2019年最後の日、再放送ではありますが、テレビ放映で光太郎が取り上げられます。大晦日ということで、ありがたさが一入(ひとしお)です。 

びじゅチューン! 「指揮者が手」

NHK Eテレ 2019年12月31日(火) 19:50~19:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

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『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という漫画を連載されているマルチアーティスト・井上涼氏の作になるアニメーションを根幹とした5分間番組です。

初回放映は平成30年(2018)10月31日でした。その後、何度目かの再放送となります。

鯰やらレモンやら、それからおそらく九十九里浜など、光太郎を象徴するさまざまなアイテムがちりばめられ、光太郎フリークにはたまりません(笑)。ぜひご覧下さい。


ところで、このブログ、平成24年(2012)にYahoo!ブログとしてスタートしましたが、Yahoo!さんがブログ事業から撤退、やむなく今年8月にLivedoorさんのブログに移転しました。移行ツールを使い、過去の記事は無事にすべて移動できましたが、文字のサイズや画像の位置などがむちゃくちゃになっていたり、Yahoo!ブログ内でリンクを貼っていたりといった点を修正せねばならず、コツコツやって参りました。新しい記事から順次修正し、平成26年(2014)まで来ましたが、結局、今年中には終わりそうにありません。まあ、気長にやろうと思っております。

以前のYahoo!ブログの頃は、そのサービスが終了した今年の初夏ごろまで、毎日のように「閲覧数が多い」ということでご褒美にTポイントが加算されていました。ある程度たまったところで、さまざまな寄付に使わせていただいていましたが、もうそれもできなくなり、その点は寂しい限りです。

閲覧数といえば、Livedoorさんのブログに移転後は、日々の訪問者数が激減しています。特にYahoo!ブログの方がサーバーから削除された後は、1日に十数人とかが当たり前。それもそのはず、googleさんやYahoo!さんなどの検索エンジンで、このブログがほとんど引っかからないというのが大きいようです。別に訪問者数、閲覧数を伸ばして悦に入りたいわけではなく、情報を皆様にお伝えしたいので、今後はフェイスブックやツイッターなどとの併用なども視野に入れなければならないかな、と思っております。


Tポイントの寄付は出来なくなりましたが、皆様方から頂いた郵便物に貼られていた切手の寄贈は、例年通り公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに郵送して寄付いたしました。同会サイト上の「協力団体一覧」の先月分に、「高村光太郎連翹忌運営委員会」として掲載して下さっています。

それから、Tポイントの寄付は出来なくなった分、何かないかと思っていましたところ、思いついたのがベルマーク。以前は当方の子供達がかつてお世話になっていた保育園さんに匿名で郵送していたのですが、そちらは子供達が卒園して20年ほど経ち、現在もベルマークを集めているかどうかわからない状況なので、今年からベルマーク教育助成財団さんにお送りすることに致しました。こちらも郵送で寄贈を受け付けており、しかも東日本大震災被災校支援に限定して使われる「震災寄贈」というカテゴリがあるとのことで、あちらにいろいろご縁のある当会としては、うってつけです。ところが、「震災寄贈」と「一般寄贈」があり、封筒に「震災」か「一般」か明記せねばならなかったのですが、そのあたりの注意事項をよく読まずに何も書かないで送ってしまい、「一般」扱いとなってしまいました。来年以降、気をつけようと思いました。

で、過日、お礼状が届きました。

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さらにJOCSさん同様、サイト上の「今月の寄贈者」欄に載せていただいております。ただ、「高村太郎連翹忌運営委員会」となっていて、笑いましたが(笑)。


さて、明日から2020年。明朝は、これまた例年通り、愛犬をお供に、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年間療養生活を送った九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行って参ります。

来年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

進むに従つて又いろいろな段階を経る事であらうが、大切なのは、どんなに詩境が深くなつても、いつまでも此の初一歩の魂を失はない事である。

散文「藤井照子詩集『石花采』序」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

「石花采」は「てんぐさ」。ところてんなどの原料となる海藻ですね。藤井照子は、光太郎が選者を務めていた雑誌『新女苑』の投稿詩欄から出た詩人。そのため、上記のようなアドバイスが贈られています。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めた藤井照子とは、同姓同名の別人です。

ちなみにこのブログ、現在開設から8年目。来年5月には9年目に突入します。やはり「光太郎智恵子らに関する情報を広く紹介する」という「初一歩の魂」を「失はない」ようにやっていきたいと存じます。

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