カテゴリ: 日記

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

先週、埼玉県越生(おごせ)町に行って参りました。県中央部やや西寄り、秩父山塊の麓です。

基本、光太郎とは関係なく、日頃さんざん世話になっている妻に女房孝行と申しますか、ご機嫌取りと申しますか、でした(笑)。

メインの目的地は、それなりに花好きの妻のために、越生梅林さん。梅といえば昨年は水戸偕楽園さんに行ったのですが、若干盛りには早く三分咲きといったところでしたので、リベンジの意味も兼ねて(笑)。

今回の越生梅林さんでは、ほぼ満開でした。
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やけに風の強い日でしたが、それだけに快晴、青空をバックにした梅花がいい感じでした。

それから温泉好きの妻のために(当方もですが)、日帰り温泉へ。さらに妻は御朱印マニアですので、寺社めぐりも。

事前にネットで調べたところ、大慈山正法寺さんという鎌倉時代開山の古刹に、複製ながら、光太郎の父・光雲作の大黒天像がおわすという情報を得まして、そちらに。

町の中心街から少し山に入ったところで、落ちついたたたずまいでした。
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よくある「七福神巡り」の一箇所で、御本尊は聖観音菩薩ですが、大正期の職人による大黒天像も鎮座ましましています。
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閻魔様もいらっしゃり、いつもそうしていますが、「後々お世話になりに行きますのでよろしくお願い申し上げます」と念じて参りました(笑)。

お寺の方にお話を伺うと、光雲原型の大黒天像、てっきり大きめの露座と思い込んでいましたが、そうではなく、像高一尺ほど、庫裡的な一角に納められているということで、わざわざ式台まで運んできて下さいました。七福神巡り大黒天のお寺ということで、寄進されたものでしょう。
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やさしいお顔をなさっていました。

御朱印もゲット。
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越生梅林さん、昨夕、NHKさんの関東甲信越ローカルニュースでも「見頃を迎えています」的な紹介が為されていました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

空の美しさ、殊に夜の星空のうつくしさは言語を絶してゐます。夜明け未明の東の空に北上連山が暗碧に浮き出して来る刻々の変化には思はず見とれて朝の食事の事を忘れるほどです。


昭和21年(1946)10月25日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、光害などとは無縁の地で、明け方の空の美しさはまさに絶景だったことでしょう。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

岩手レポート2回目です。

2月12日(月)、郊外旧太田村の高村光太郎記念館/高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんを廻り、再びレンタカーを市街に向けました。

次なる目的地は南万丁目地区の「わいんさっぷ」さん。
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以前はカレー屋さんとして営業なさっていましたが、現在は閉店されているとのこと。こちらはリンゴ園の一角です。
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リンゴ園を開かれたのが、故・阿部博氏。花巻農学校での宮沢賢治の教え子で、宮沢家を通じて光太郎とも知り合い、交流を重ねました。おそらく光太郎もここに足を運んでいます。
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子息の阿部弥之氏は、宮沢賢治花巻市民の会会長、宮沢賢治学会副代表などを歴任された方。光太郎についても花巻高等看護専門学校さんで特別講義をなさいました。昨年10月には、宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」の際にパネラーのお一人として登壇されています。当方はコーディネーターでした。

その阿部氏を中心に、花巻とその近隣の方々で「光太郎を知る会」という会を結成、花巻に疎開してからの光太郎日記を会員の皆さんで読み合わせしたりといった活動をなさっているそうです。他にもいろいろと光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCの方、花巻南高校文芸部さんの顧問の先生などもメンバーです。

で、そちらの会に招かれまして、参上した次第です。
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会員の皆さんが日頃から疑問に思われていることを挙げてもらい、当方が質問に答えたりといった形で進めました。

印象的だったのは、光太郎の花巻及び郊外旧太田村での足かけ8年、特に太田村での戦後のまる7年の位置づけに関して。リアルタイムでは当会の祖・草野心平らがとにかく早くその生活を切り上げて帰京するように繰り返し催促していました。光太郎実弟の豊周も光太郎の世話をしてくれた人々に感謝しつつも、特に彫刻の部分で空白となったこの時期が惜しいとか、光太郎の寿命を縮めた年月だったかもしれないとか回想に残しています。地元の皆さんにとってはそれが悔しい、というわけで。

なるほど、そういう見方もあるか、という感じでした。で、当方の返しは、「光太郎が戦争責任を含め、自分を見つめ直すためにどうしても必要な時間だった」。光太郎は繰り返し「脱却」という言葉を使いましたが、1年やそこらでは「ほんとに「脱却」できたのかよ、早すぎるだろ」という感じです。やはり7年という長さに重みを感じざるを得ません。豊周の言い分ももっともですが。

閉会後、リンゴ園の敷地内にある光太郎碑を拝見。
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昭和62年(1987)に建立されたもので、光太郎が故・博氏に贈った「酔中吟」という即興詩が刻まれています。
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 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう呼んだわけですね。

当方、こちらの拝見は3度目でした。最初は平成の初め頃。その際は一面識もなかった阿部氏のご自宅に突撃訪問し、案内していただきました。2度目は花巻市さん主催の市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で講師を務めさせていただいた際。それももう5年前になるか、という感じでした。

その後、定宿の大沢温泉さんへ。
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着いてすぐ、真夜中、さらに翌早朝と、3回、温泉を愉しみました。

2月13日(火)となり、大沢温泉さんから午前7時30分頃出立しました。午前11時に花巻市役所近くでやつかの森LLCの皆さんとお会いする約束でしたが、それまでどうしようかというところで、ふと思い立ち、レンタカーを東に向けました。目指すは沿岸の釜石市。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため船で訪れた街です。それを記念して平成7年(1995)には「三陸廻り」の釜石を訪れての一節を刻んだ文学碑が建立されました。建立された頃拝見に伺ったのですが、その後御無沙汰しており、いずれまたと思っておりました。
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平成31年(2019)には花巻-釜石間の東北横断自動車道が全線開通し、概算で1時間ちょっとで着けそうだな、というわけで、その通り午前9時頃に到着しました。
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釜石駅。

NHKさんの「あまちゃん」で一躍有名になった三陸鉄道、通称「三鉄」さん(「あまちゃん」では「北鉄」)。
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光太郎碑は市街地の只越町というところにあったはずで、そちらに向かいました。約30年前には意外とすぐに見つけられました。しかし、街の様子が一変していて、戸惑いました。まぁ、何もなくても30年経てばいろいろ変わるでしょうし、何と言っても平成23年(2011)の東日本大震災がありましたから。その爪痕を物語るもろもろ。
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青いプレートは津波がここまで来たよという目印です。
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午前11時には花巻に戻らねばならず、30分程探し、石川啄木の歌碑などは見つかったのですが、結局、光太郎碑は発見できずでした。もしかすると津波で流されたり、損壊したので撤去されたりしたのかもしれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

というわけで、午前11時、花巻に戻ってやつかの森LLCの皆さんと会食。その席上、6月にはまたイベントを開きたいというようなお話がありました。詳細が出ましたらまたご紹介します。

以上、岩手レポートを終わりますが、明日以降も地元で仕入れてきた花巻ネタ等を取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

身のまはりの品など可笑しい程簡単ですが不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由です。電燈なくランプとローソクです。


昭和21年(1946)9月13日 西岡文子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での7年間、まさに「不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由」。禅問答のようですが(笑)。

2月12日(月)、13日(火)と1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻方面に行っておりました。レポートいたします。

1日目。あちら方面に行く際には、ほぼほぼ毎回これに乗る東北新幹線やまびこ53号で北へ。特に急ぐ場合でもなければ全席指定のはやぶさ号は使いません。

途中、智恵子の故郷・福島二本松を通りますが、この日は智恵子の愛した安達太良山の上に拡がる「ほんとの空」が実にみごとでした。
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正午前、新花巻駅着。花巻在住の方々のSNS等で情報を得てはいましたが、ほんとうに雪が全くなく、驚きでした。この日のためにワークマンさんで防水のブーツを購入して履いていったのですが(笑)。
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右上画像はこの日の夕刻、宿で見たその日の『岩手日報』さん。除雪に当たられている業者さん、この冬は商売あがったりだそうで。まあ、安全面等を考えれば積雪が少ないのも悪くはないのかもしれませんが、農業面等で春以降の水不足が心配という声も多く聞かれました。

新花巻駅の観光案内的なスペースでは、花巻東高さん出身の菊池雄星投手、大谷翔平選手にまつわるコーナーがリニューアルされていました。
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駅前でレンタカーを借り受け、市内西部、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地からだらだらと長い坂を上り続けてたどりつく奥羽山脈山麓ですので、さすがにこちらでは雪が見られました。
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令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。今回の展示では、当方、読めないという字を読んであげた程度であまり関わりませんでしたが。
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劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さま、故・渡辺正治氏に宛てた葉書。宮沢賢治にも触れられています。
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平成28年(2016)に寄贈されたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。当方、20年ぶりくらいに現物を拝見しました。

その他は、光太郎の花巻疎開やその後の生活などに支援を惜しまなかった、総合花巻病院長・佐藤隆房とその家族に宛てたもの。
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佐藤編著の『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から関連する一節を抜き出したり、当時の写真をパネルにしたりで並べて展示。

フライヤーに画像が使われていた光太郎愛用の矢立は、常設展示コーナーに。
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ロビーに戻ると、こんなものが。
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昨年、同館で開催された企画展「山口山の木工展」で作品が展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作なさっているさとうつかさ氏の新作と思われます。素晴らしい。

記念館さんを後に、隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)へ。
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多い年ですと1㍍以上の積雪で、この時期には山荘に近づくこともできないのですが、今年はこんな感じで。

山小屋内部の光太郎遺影に「また来ました」と合掌。
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さらに山小屋裏手の智恵子展望台に。この季節に展望台に登れるというのは通常ではありえません。ある意味、そら恐ろしく感じました。
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展望台からの眺望。これだと例年の3月末から4月初めの感じです。
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展望台下の「雪白く積めり」詩碑。
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ここも雪はかすかに「積めり」状態でした。

その後、車で10分程の、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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産直等のコーナー。光太郎肖像画も掲げられています。
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無料休憩所、図書コーナーを兼ねたインフォメーションスペース。
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その一角で、主に地元の方々によると思われる写真展が開催されていました。
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光太郎がらみの写真も出品、ありがたく存じました。

光太郎がよく足を運んだ旧山口小学校跡地。
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光太郎が歩いた道。
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この後、市街地に戻りましたが、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

旧盆を過ぎると自然界は急に変つてくるやうです。夏の土用までが生成の盛季であとは成熟期に入るやうです。足並揃へてゐた草木が今は銘々がそれぞれが自分流の歩き方をはじめた感じがします。昨夜の明月は山中特に冴え渡つて凄いほどでした。万籟死してただ蟲の声ばかりでした。


昭和21年(1946)9月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

前年5月まで東京暮らしだった光太郎、花巻郊外旧太田村に移ってことさら自然の季節による推移には敏感となりました。今年のような異常な暖冬の様子を見たら、何と言ったでしょうか。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。

市街地は全く雪がありませんでした。
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さすがに光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺には積雪が有りましたが、例年より全然少ない状態。

隣接する高村光太郎記念館さんで、令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。
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その後、道の駅はなまき西南さん、市街地のリンゴ園などを訪問。地元で光太郎顕彰にあたられている方々とお会いして参りました。
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宿泊は例によって大沢温泉さん。
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今日もこれからいろいろと廻ります。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

PXL_20240209_233655421昨日は車で10分程のところにある隣町の映画館で映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見して参りました。

元々、NHK BSプレミアムさんで一昨年に放映された全3回のドラマを再編したもので、オンエアを拝見しましたし、録画も保存してあるのですが、大スクリーンで見るのもいいだろうと思い、拝見した次第です。やはりテレビ画面で見るのとでは大違いでした。

智恵子と入れ替わりの時期に青鞜社に入り、智恵子の先輩にして主幹だった平塚らいてう(松下奈緒さん)から『青鞜』を引き継ぐ伊藤野枝(吉高由里子さん)を主人公とし、光太郎と交流のあった辻潤(稲垣吾郎さん)や大杉栄(永山瑛太さん)らとのからみで、その激動の半生を描く映画です。原作は令和2年(2020)に刊行された村山由佳氏の長編小説『風よ あらしよ』
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原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されています。

公式パンフをゲット。通常の映画ですと公式パンフはB5版くらいでカラフルな表紙のリーフレット、30ページ前後という感じですが、今回のものは一見して映画パンフに見えません。四六判の通常の書籍のようなスタイルです。頁数も66ページあります。そこで最初、売店ですぐに見つけられませんでした(笑)。ちなみに定価1,000円(税込)です。
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目次
 ディレクターズメッセージ 柳川強
 序説
 物語
 インタビュー 吉高由里子 伊藤野枝を演じて、1から10のこと
 登場人物
 無政府の事実 伊藤野枝
 伊藤野枝略年譜
 スタッフ
 わたしたちが人の「弱さ」にいまどうやって立ち向かうのか、問いかける作品 田中ひかる
 伊藤野枝のアジテーション ブレイディみかこ
 伊藤野枝のまなざしの先には 加藤陽子
 戦いと恋と 大杉豊
 原作者・村山由佳の言葉


執筆陣も豪華ですね。ブレイディみかこ氏は野枝と同郷、大杉豊氏は筑波大学教授にして大杉栄の令甥です。さらに野枝自身の文章「無政府の事実」(大正10年=1921)も掲載されています。

大河ドラマ「光る君へ」で紫式部役を熱演されている吉高由里子さんへのインタビューも読み応えがありました。「辻さんもらいてうさんも同じパターンなんですけど、憧れから野枝が押しかけて、付き合っているうちに、野枝のエネルギーと気持に火がついて、そのうちに野枝のすごい行動力で、2人を追い越しちゃって、という部分があって、それに対しては2人とも悔しかったんだろうなと思います」など、的確に捉えられています。

実際、追い越されてしまった二人、辻潤と平塚らいてう、稲垣吾郎さんと松下奈緒さんのそうした場面での演技は素晴らしいものでした。

そして公式パンフ大トリに掲載されている原作者・村山由佳氏の言葉が特に刺さりました。曰く「あれから百年が経った。私たちはすっかり牙を抜かれてしまった。選挙へ行こうと口にする人に対して、たかが一票では世界は変わらないと嗤う。戦争を止めようと声をあげる人に向かって、現地に行って叫ばなければ意味がないと嘲る。(略)意味なら、ある。世界は、変わる。かつて野枝たちが身をもって証明してくれたのに、百年の間に多くのことが元に戻ってしまっただけだ。」。

百年」は、関東大震災直後のドサクサで、野枝と大杉、そして大杉の甥の橘宗一少年が憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺されてから100年です。

以前にもご紹介しましたが、この事件を受けて智恵子は2ヶ月後の雑誌『婦人之友』に次の一文を寄せました。
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この言葉も染みます。

100年後の我々が歴史に何を学ぶか、考えさせられる映画です。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今「宮沢賢治文庫」の装幀をやつてゐますがこれが又ひどくむつかしくて案をかへる事十三、四回、試作二十五、六枚に及びました。明日はきめてしまふつもりです。

昭和21年(1946)9月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

「宮沢賢治文庫」は、賢治実弟の清六と共に編んだ日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』。
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当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

まずは昨日の能登半島を震源とする地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。

昨日の元旦は、例年通り九十九里浜に初日の出を拝みに行きました。以前は智恵子が療養していた現・九十九里町まで足を延ばしておりましたが、やはり少し遠いということもあり、ここ3年は隣町の旭市で拝観。同じ九十九里浜の一部ではあります。

旭市と言えば、平成23年(2011)の東日本大震災時には津波が発生、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。
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下の方の赤枠で囲まれている部分が、90年前に智恵子が療養し、週に一度は光太郎が訪れていた現・九十九里町です。当方自宅兼事務所のある香取市は右上の方。

午前6時過ぎ、旭市の海岸に到着。一昨日の大晦日は夜になっても雨がぱらついており、どうかと思っていたのですがまずまずの好天でした。
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右手に目をやると、かつて智恵子が居た九十九里町方面。
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昨年の正月飾り等を持参、それを焚き付けにして、あとは流木を集め、焚き火。令和6年(2024)の迎え火としました。
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波乗り初めのサーファーさんたち。小学生くらいの少年もいました。
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6時45分頃、水平線から太陽。
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10年以上九十九里浜で初日の出を拝んできましたが、いつも水平線上に雲がかかっていて、水平線から上る太陽を見たのは今年が初めてでした。

ちなみに左下は一昨年、右下は昨年の初日の出です。
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いつもこんなふうに雲の上から日が昇る、という感じだったのが、今年は水平線からのご来光で、驚きました。もっとも、やはり雲があっていったん隠れてしまいましたが。
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波打ち際に鳥がいて、智恵子の友達だった千鳥かと思ったので近づいてみましたが、どうやら鷗のようでした。

やがて雲の上に太陽。
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令和6年も光太郎智恵子の世界が盛り上がることを祈念し、手を合わせました。

それにしても、13年前にこの海が牙を剥いたことなどほぼほぼ忘れていましたが、昨日のニュース映像で改めて地震の恐ろしさを再認識しました。身を引き締めて今年1年を過ごそう、と思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

此処へ来てからお風呂にはまだ一度も入りません。しかし湯を沸して時々からだ拭きをやり、下着もとりかへて洗濯をちよいちよいやります。

昭和21年(1946)3月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし初めて約5ヶ月。小屋には風呂がありませんでした。のちに見かねた村人たちが風呂を作ってやりますが、大量の薪が必要で効率が悪く、結局あまり使いませんでした。その代わり、落ちついてからは大沢温泉さんなどに足繁く通うようになります。

2024年となりました。あけましておめでとうございます。
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個人としては喪中でして、個人の皆さんへの賀状は欠礼させていただきましたが、高村光太郎連翹忌運営委員会として法人各位には上記の賀状を送らせていただきました。
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画像は光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)、光太郎が手許に残した自筆原稿です。詩は以下の通り。

     
 
 一天の黒雲を咄嗟に破り、
 大洋の波を漏斗(じやうご)に吸ひあげ、
 あんたんたる熱帯の島かげに、
 ぎりぎりとまき起す水の柱を
 斜に光るは爪、
 縦につんざくは
 尾端の剣、
 眼を射る火花の
 一瞬、
 海底を干して、
 洞穴にへうへうの風をよび、
 気圧の鬱血に
 暴烈の針をさし、009
 たちまち見え、たちまち隠れ、
 天然の素中に
 清涼無敵の秩序を
 投げて
 天上する波、
 龍。


連作詩「猛獣篇」の一篇として書かれ、雑誌『草』第六号に掲載されました。

アナーキストやプロレタリア文学者達と近い位置にいた頃の作品だけに、世俗に馴れず、孤高の位置を保とうという意志を、天上に駆け上がる龍に託して謳いあげた一篇です。一時期の光太郎詩の真骨頂とも言えるでしょう。

さて、昨年は光太郎生誕140周年でしたが、令和6年(2024)はどんな「周年」かをご紹介します。

150年前 明治7年(1874) 光太郎生誕前 光太郎の父、光雲が11年の奉公を終え、「光雲」の名を許され独立しました。

130年前 明治27年(1894) 光太郎12歳 シカゴ万博で光雲の木彫「老猿」が優等賞を受賞しました。
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120年前 明治37年)(1904) 光太郎22歳 イギリスの美術雑誌『ステュデイオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見、衝撃を受けました。
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110年前 大正3年(1914) 光太郎32歳 10月、第一詩集『道程』を刊行しました。12月には長沼智恵子と上野精養軒にて結婚披露を行いました(入籍はずっと後、昭和8年=1933)。
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100年前 大正13年(1924) 光太郎42歳 連作詩「猛獣篇」の第一作「清廉」を書きました。

90年前 昭和9年(1934) 光太郎52歳 5月から12月、心を病んだ智恵子が九十九里浜に移っていた母・セン、妹・セツの元で療養生活を送りました。10月、父・光雲が没しました。同じ月、前年に没した宮沢賢治の作品を集めた文圃堂版『宮沢賢治全集』全三巻が刊行され、その装幀、編集にあたりました。
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80年前 昭和19年(1944) 光太郎62歳 光太郎の黒歴史、三種類刊行したうちの最後の翼賛詩集『記録』を刊行しました。

70年前 昭和29年(1954) 光太郎72歳 ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)が「美術映画 高村光太郎」を制作、公開しました。
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特筆すべきは大正3年(1914)の、詩集『道程』刊行及び智恵子との結婚披露110周年でしょうか。110周年というのがちょっと半端ですが。ちょうど100周年ということであれば、連作詩「猛獣篇」。そのあたりにからむ企画展示等、どこかでやっていただければ幸いなのですが……。

さてさて、今年はどういうとしになりますやらですが、今年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

こちらはまだまつたく雪に埋れてゐます。木の芽もまだ堅く草木の冬眠はまださめません。


昭和21年(1946)3月3日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

立春を過ぎて1ヶ月ですが、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)はこういう状況でした。3月でこういう状況というのは予想していなかったようです。

早いもので、とうとう大晦日となってしまいました。

昨日まで、例年通り、今年1年の光太郎関連で主な出来事をご紹介して参りました。コロナ禍もほぼ終息ということもあり(未だ予断を許さぬ状況ではありますが)、多くの方々がそれぞれの分野で光太郎らを取り上げて下さり、ありがとうございました。

さて、こちらも例年通り、寄付等のご報告。

まず、皆様方からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会さんにお送りしました。アジアやアフリカの保健医療協力のため役立てられています。今日に間に合うように先月送付いたしまして、先月分の「ご協力団体一覧」に当会の名を記していただいております。
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同様に、ベルマーク。こちらはベルマーク教育助成財団さんに送付。
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やはり11月分の「今月の寄贈者」に名を記して下さいました。
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少しでも光太郎のイメージアップにつながれば、という下心があるのですが(笑)。

さて、別件で、正月のテレビ番組から。

日本歌手協会新春12時間歌謡祭<第一部>

BSテレ東 2024年1月2日(火) 12:00~15:00

一挙12時間!全160曲放送! 第一部<お昼12時〜>

「東京ブギウギ」ミラクルひかる 「大阪ブギウギ」中村美律子 「買物ブギー」川中美幸 「東京の花売娘」大江裕 「アルプスの牧場」関大八 「さいざんす・マンボ」谷龍介 「こんなベッピン見たことない」小桜舞子/合田道人 「石狩エレジー」大川栄策 「お祭りマンボ」津吹みゆ 「黒百合の歌」上野さゆり 「雪の降る町を」新沼謙治 「ヴァイヤ・コン・ディオス(Vaya Con Dios)」香西かおり 「リンゴの花は咲いたけど」コロムビア ローズ 「智恵子抄」市川さよ子 「霧子のタンゴ」神穰ひろし 「ここに幸あり」大津美子 「お別れ公衆電話」富士きぬ子 「浪曲子守唄」一節太郎 「ギター仁義」北山たけし 「出世街道」畠山みどり 「東京五輪音頭」畠山みどり/北山たけし 「大利根無情」大林幸二 「夫婦春秋」金嶋昭夫 「長崎の女」北川裕二 「あの娘が泣いてる波止場」村木弾「お花ちゃん」南部姉妹 「ヘイ・ポーラ」田辺靖雄/九重佑三子 「雨の新宿」津山洋子・髙樹一郎 「みれん海峡」扇ひろ子 「美しい十代」三田明 「愛と死をみつめて」青山和子 「青春の城下町」梶光夫 「下町育ち」笹みどり 「君が好きだよ」しょうじ 「銀座ブルース」櫻井まり 「ベッドで煙草を吸わないで」弓純子 「経験」辺見マリ 「どうにもとまらない」山本リンダ 「それがあなたで本当に良かった」九重佑三子 「人生これから」宇山保夫 「女のひとり酒」石岡みどり 「夕顔」沢田亜矢子 「どうぞこのまま」丸山圭子 「バラが咲いた」マイク眞木 「花と小父さん」渚まゆみ 「みんな夢の中」髙田恭子 「愛のさざなみ」安倍理津子 「星のフラメンコ」松阪ゆうき 「東京⇔大阪」田辺靖雄

<司会>アグネス・チャン、川中美幸、香西かおり、伍代夏子、森口博子/合田道人
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「智恵子抄」がラインナップに入っており、てっきり令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの過去の映像が流れるのだろうと思い込んでおりましたところ、市川さよ子さんという方の歌唱でした。

調べてみましたところ、10月27日(金)に江戸川区総合文化センターさんで公開収録が行われたようで、小桜舞子さんという方のブログに市川さんが「智恵子抄」を歌われた由、記述がありました。「名曲を歌いつぐ」というコーナーの一環だったようで、二代目コロムビア・ローズさんが歌われた丘灯至夫氏作詞・戸塚三博氏作曲「智恵子抄」なのでしょう。
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さらに再放送系ですが。

にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 2024年1月4日(木) 15:35〜15:45

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

初回放映が9月18日(月)でした。俳優の高杉真宙さんによる「あどけない話」朗読が含まれます。
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もう1件。直接、光太郎には関わりませんが、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。

ねこのめ美じゅつかん 31歩め 「考える人」は何も考えていない!?

地上波NHK Eテレ 2024年1月4日(木) 08:25〜08:35  1月6日(土)  11:30~11:40

キャッチュアイの2匹が静岡県立美術館で目にしたのは「考える人」。実は、何も考えていなかったのではないかと言い出す弟子ネコにボスもびっくり!一体どういう事なのか?

19世紀フランスを代表する彫刻家、オーギュスト・ロダンの傑作「考える人」。その造形を見てリアルだなあと感想を漏らすボスネコに対し、弟子ネコはそうではなく、“無理している”からこそ迫力があるのだと語り出す。さらにはそもそも、「考えていない人」かも知れないと、ボスを混乱させ始める。「考える人」にこめられたヒミツに迫る。そして古川琴音の「画家のうた」ではドラクロワの気になる超有名絵画を取り上げる。

【声】カミナリ,【出演】古川琴音
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それぞれぜひご覧下さい。

それでは皆様、よいお年をお迎えください。

【折々のことば・光太郎】

小生山に居て物の値段をまるで知りませんが下駄などは恐らく莫大なお値段なのだらうし又、中々入手いたし難きものと推察、恐縮に堪へません。


昭和21年(1946)3月1日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎64歳

「山に居て物の値段をまるで知りません」。光太郎、仙人じみて来ましたね(笑)。

今年1年の振り返り、最後です。

10月2日(月)
『しんぶん赤旗』さんの歌人の寺井奈緒美氏の連載「くねくねTANKAロード」が「レモン哀歌 高村光太郎」でした。

10月5日(木)
当会より『光太郎資料』第60集を発行しました。
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10月5日(木)~11月19日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館 さんで「高村智恵子レモン祭」が開催され、生家二階部分の特別公開及びライトアップ、紙絵実物展示、紙絵制作体験など様々なコンテンツが用意されました。

10月5日(木)~11月30日(木)
岩手県花巻市の花巻高村光太郎記念館さんで「令和5年度高村光太郎記念館企画展 光太郎と吉田幾世」が開催されました。関連行事として11月2日(木)、当方による同題の市民講座が開催されました。
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10月6日(金)~11月28日(火)1ab34b95-s
鎌倉市の笛ギャラリーさんで「高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10」展が開催されました。11月11日(土)には関連行事として朗読会が行われました。

10月7日(土)
札幌市資料館さんで「第31回 葦の会 朗読会」が開催され、佐藤春夫著『小説智恵子抄』の一節の朗読も為されました。

10月7日(土)~12月24日(日)
和歌山市の和歌山県立近代美術館さんで小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」が開催され、光太郎油彩画「佐藤春夫像」が展示されました。

10月9日(月)
福島県二本松市の市民交流センターさんで「智恵子講座2023」の第一回が開催されました。主催は智恵子のまち夢くらぶさん。講師は同会代表・熊谷健一氏。同じく熊谷氏による第二回、第三回が11月19日(日)、12月17日(日)、同じ会場で開催されました。
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10月12日(木)~12月17日(日)
愛媛県西条市の五百亀記念館さんで「開館10周年記念企画展 秋川雅史彫刻展~彫り奉らん~」が開催され、テノール歌手にして木彫にも取り組まれている秋川雅史氏作の楠正成像模刻の他、氏のコレクションから光雲木彫数点が展示されました。
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10月13日(金)
岩波書店さんから谷川俊太郎氏選『永瀬清子詩集』が岩波文庫の一冊として刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

10月14日(土)~11月26日(日)
石川県金沢市の石川県立美術館さんと国立工芸館さんで「第38回国民文化祭 第23回全国障害者芸術・文化祭 いしかわ百万石文化祭2023 皇居三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室と石川-麗しき美の煌めき-」が開催され、光雲、山崎朝雲、由木尾雪雄の合作「萬歳楽置物」、光雲と竹内久一の合作「鶴亀置物」が展示されました。
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10月16日(月)~11月7日(火)
埼玉県東松山市の東松山市民文化センターさんで「彫刻家 高田博厚展2023」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月17日(火)
東京都中野区のオルタナティブスペースRAFTさんで「くつろぎの朗読会」が開催され、朗読家・出口佳代さんによる「智恵子抄」朗読がプログラムに入りました。
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10月19日(木)
東京都渋谷区のHakuju Hallさんで「Hakuju Hall 20周年記念 カウンターテナーの饗宴」が開催され、藤木大地氏による加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。

同日、株式会社ワークスさん発行、一般社団法人パズル検定協会さん監修の『別冊漢字館 Vol.112』が「特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎」を組んで下さいました。
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10月25日(水)
千葉県立図書館さん3館(中央・西部・東部図書館)において「千葉県誕生150周年記念 房総文学カード 第2弾」の配付が開始されました。「高村光太郎 智恵子抄 九十九里エリア 九十九里町」がラインナップに入っていました。

10月27日(金)~11月15日(水)
東京都荒川区のギャラリーHIGURE17-15casさんで、「『消えないし、 』展 O JUN 船木美佳 ー戦時下資料ラボー」が開催されました。現代アート作家のO JUN氏、船木美佳氏による光太郎詩を含む翼賛詩歌をモチーフとしたものでした。11月14日(火)に船木氏の故郷・福岡に本社を置く『西日本新聞』さんで紹介されましたが、会期終了前日で、このブログではご紹介しませんでした。この場を借りて取り上げさせていただきます。
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10月29日(日)
岡山市の岡山シンフォニーホールさんで「岡山市民合唱団鷲羽 第50回記念定期演奏会」が開催され、上月明氏作曲「智恵子抄 三章」(岡山市民合唱団鷲羽 第50回定期演奏会記念作品)が演奏されました。
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10月29日(日)、11月26日(日)
富山県高岡市の市民大学たかおか学遊塾さんで市民講座「高村光太郎『智恵子抄』を語り合おう」が開催されました。講師は茶山千恵子氏でした。

10月31日(火)
愛知県名古屋市のメニコンHITOMIホールさんで「藤木大地カウンターテナー・リサイタル」が開催され、藤木大地氏による加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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11月1日(水)
文藝春秋さん発行の月刊文芸誌『文學界』2023年11月号に近現代史研究者の辻田真佐憲氏による「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」という記事が載りました。

同日、岩手県花巻市の宮沢賢治イーハトーブ館さんでトークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」が開催されました。メインパネラーは宮沢賢治実弟・清六の令孫にして林風舎代表取締役の宮沢和樹氏、パネリストは生前の光太郎をご存じの皆さんなど、コーディネーターは当方でした。
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11月2日(木)
散文「智恵子の半生」の一節と詩「レモン哀歌」が課題文で録音審査による開催だった「第16回山形大学高校生朗読コンクール」の審査結果発表がありました。

11月4日(土)
東京都中央区の王子ホールさんで「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」公演があり、朝岡真木子氏作曲の「冬が来た」が初演されました。歌唱は福成紀美子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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11月5日(日)
千葉県木更津市の木更津市中央公民館さんで「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」が開催され、光太郎についても触れられました。講師は渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)でした。

11月8日(水)
『毎日新聞』さんの連載「山は博物館」で「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」が掲載され、光太郎がメインで取り上げられました。
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11月12日(日)~11月20日(月)
京都市の複数の寺院を会場に「京都非公開文化財特別公開」が行われ、一念寺さんでは光太郎の書が展示されました。
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11月15日(水)~2024年1月14日(土)
東京都港区の大倉集古館さんで「大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉」展が開催され、光雲作の「大倉鶴彦翁夫妻像」が展示されました。

11月16日(木)
茨城県水戸市の水戸市立東部図書館さんで朗読会「あなたに贈る読みがたりーいい夫婦の日ー」が開催され、「あどけない話」の朗読がありました。
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11月23日(木)~11月30日(木)
大阪市の竹井事務所さんで「古美術上田 EXHIBITION」が開催され、光太郎ブロンズ「手」の展示即売が行われました。

11月24日(金)
作家の伊集院静氏が亡くなりました。平成30年(2018)に文藝春秋さんから刊行された『文字に美はありや』で光太郎の書について取り上げて下さった他、小説でも光太郎詩を引用したりなさっていました。

11月25日(土)
東京都文京区のアカデミー茗台さんで「第66回高村光太郎研究会」が開催されました。
研究発表は前田恭二氏「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」、北川光彦氏「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」、当方の「智恵子、新たな横顔」でした。

11月26日(日)
千葉市の千葉アートサロンさんで「潮見佳世乃 CD発売記念LIVE 歌物語×JAZZ」が開催されました。第1部が「歌物語 智恵子抄」でした。
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11月29日(水)
東京都渋谷区の渋谷区文化総合センター大和田伝承ホールさんで「弓田真理子ソプラノ・リサイタル~歌声をあなたのもとに~」が開催され、甲田潤氏作曲「冬の朝のめざめ《智恵子抄》より」が演奏されました。

12月1日(金)
メディア業界紙「文化通信」を発行する文化通信社が主催する「ふるさと新聞アワード」の第3回の受賞記事が決まり、『いわき民報』元日号掲載で光太郎にも触れられた「草野心平生誕120周年記念特集」が「ひと」(一部「もの」)部門で優秀賞を受賞、表彰式が行われました。

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12月4日(月)
東京都渋谷区の渋谷区文化総合センターさくらホールさんで「男声合唱のためのウルトラセブン 楽譜出版記念コンサート」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「『智惠子抄』より あどけない話」がテノール歌手・加耒徹氏の歌唱で演奏されました。

12月6日(水)
山形県北村山郡大石田町の大石田町町民交流センター虹のプラザさんで「第3回読書会「声に出して読みたい日本語 part2」が開催され、光太郎詩「道程」が取り上げられました。
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12月10日(日)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第17号が発行されました。評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポート、当方の『連翹忌通信』などが載っています。

12月16日(土)
東京都台東区のやなか音楽ホールさんで「歌曲個展+5 ドイツロマン派の歌曲――残照の時――」の公演があり、根本卓也氏作曲「組曲『智恵子抄』(新作初演)」の演奏がありました。ご出演はソプラノ・坂口真由氏、バスバリトン・牧山亮氏、ピアノ・蓜島啓介氏でした。
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12月18日(月)
地上波NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 健康」の放映があり、俳優の津田健次郎さんによる「レモン哀歌」朗読がありました。再放送は12月21日(木)、12月23日(土)でした。

12月22日(金)~2024年2月12日(月)
石川県七尾市の石川県七尾美術館さんで「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」展が開催され、光雲作の「聖観音像」が出品されました。
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12月23日(土)
新潟市のゆいぽーとさんで市民講座「二葉アーツスクール2023 めだかの学校 高村光太郎にとっての新潟」が開催されました。講師は山浦武夫氏でした。

同日、光太郎第二の故郷・岩手県の地方紙『岩手日日』さんに以下の記事が載りました。

賢治没後90年・光太郎生誕140年 人間味伝わる話題を

 宮沢賢治没後90年の今年は取材を通じて知らなかった賢治の一面に触れた。今春公開の映画「銀河鉄道の父」は父政次郎とその家族を通じて賢治の人生を描いた物語。家業を継ぐのを拒否し謎の商売を始めようとしたり、宗教に生きると言って家出したりと人間味にあふれる賢治を、舞台あいさつに立った成島出監督は「天真爛漫(らんまん)」と表現した。
 命日に営まれる賢治祭では生前に録音してあった父政次郎の肉声を聴いた。イメージよりも少し高い声でとうとうとお経のことを説き、賢治の弟・清六の孫に当たる宮澤和樹さんは「こういうお父さんに育てられたからこそ賢治があると思う」と語った。
 清六を頼って花巻に疎開した詩人で彫刻家の高村光太郎も生誕140年の節目の年だった。サンタクロースに扮(ふん)して子供を喜ばせたり、訪ねてきた女学生に足を崩してくつろぐよう勧めたりする光太郎の思いやりにあふれたエピソードを生前親交のあった人たちが披露し、主催した太田地区振興会の平賀浩会長は「後世に語り継がれる一材料になれば」と願った。
 今も昔も変わることのない人間味を伝えられる話題を届けていきたい。


さらに同日、新宿区のK’s cinemaさんで、映画「火だるま槐多よ」が封切られました。タイトルは光太郎詩「村山槐多」から採られ、劇中でも抜粋して朗読されました。
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12月25日(月)
東洋館出版社さんから山本茂喜氏著/野宮レナ氏イラスト『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』が刊行されました。第5章 「そんなにもあなたはレモンを待っていた~文豪もときめきがお好き~」中に「1 愛する人に捧げます/「レモン哀歌」」という項が含まれました。

また、この項でその都度ご紹介はしませんでしたが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。令和2年(2020)からの毎月15日に限定販売、今年も継続されました。
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同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんでは、やつかの森LLCさんによる「こうたろうカフェ」の出店も5回、なされました。こちらも光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジした料理が振る舞われました。
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というわけで、いろいろあった1年でした。新型コロナウイルス感染症が感染症法上の位置づけで「5類感染症」に変更された影響もあり、さまざまなイベントやコンサート、企画展示等が旧に復した感があり、ありがたいところです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になるとこうは行きませんので、そうならないよう来年以降も微力ながら努力いたします。ご協力の程、よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

雪はまだとけず、降雪も三日に一日位は降ります。雪をかいて道をつけると又忽ち埋れます。雪解は三月末でせう。


昭和21年(1946)2月28日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし始めた初めての冬。まだまだ物珍しいことが多かったようです。

今年1年の回顧、3回目です。

7月2日(日)
NHK Eテレさんで「日曜美術館「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争」の放映があり、光太郎の戦後の花巻郊外旧太田村での生活が紹介されました。
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7月7日(金)
東京都杉並区の座・高円寺さんで、「ろうどくdeおもてなし 🌟七夕公演🌟~会えば何かがはじまる~【夜公演】」が開催され、唐ひづる氏・葉月のりこ氏による「高村光太郎「智恵子抄」より『千鳥と遊ぶ智恵子』『僕等』『おそれ』」朗読劇がプログラムに入っていました。
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7月7日(金)~7月9日(日)
東京都中野区のBook Trade Cafe どうひんさんで「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」の公演がありました。光太郎智恵子を登場人物とした二人芝居でした。

7月8日(土)
福島県双葉郡川内村の村民体育センターさんで、当会の祖・草野心平を偲ぶ第58回天山祭りが開催されました。当方による記念講演「草野心平と高村光太郎 魂の交流」がありました。
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7月8日(土)~8月2日(水)
秋田県横手市の皇室の秋田県立近代美術館さんで「名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」前期展示が開催され、光雲の木彫「文使」が展示されました。

7月8日(土)~8月20日(日)
山形県米沢市の米沢市上杉博物館さんで「今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯」展が開催され、光太郎木彫「鯰」が展示されました。
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7月8日(土)~9月2日(土)
名古屋市のSee Saw gallery + hibitさんで「谷澤紗和子個展 彼方の手に触れる。」が開催され、智恵子紙絵オマージュの作品が展示されました。

7月13日(木)~10月1日(日)
宮城県宮城郡松島町の瑞巌寺宝物館 さんで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催され、光雲作の「聖観音像」を描いた作品が展示されました。
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7月15日(土)
東京都文京区の宝生能楽堂さんで「第二回 掬月会」公演があり、テノール歌手の紀野洋孝氏、伴奏(箏)福田恭子氏による別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》より「晩餐」の演奏がありました。

7月19日(水)~11月5日(日)
東京都千代田区の半蔵門ミュージアムさんで「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が開催され、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」を描いた絵画が出品されました。
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7月21日(金)~9月10日(日)
長野県安曇野市の碌山美術館さんで「夏季特別企画 生誕140周年高村光太郎展」が開催され、同館所蔵の光太郎ブロンズ全て及び関連資料等が展示されました。

7月21日(金)
僧侶、教育評論家の無着成恭氏が亡くなりました。「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」を含む『無着成恭の詩の授業』(昭和57年=1982)という御著書がおありでした。
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7月24日(月)
作家の森村誠一氏が亡くなりました。「レモン哀歌」をモチーフの一つとした『新・人間の証明』という御著書がおありでした。

7月27日(木)~10月1日(日)
山口県山口市の中原中也記念館さんで「特別企画展 草野心平生誕120年 草野心平と中原中也」展が開催され、光太郎に関わる資料も展示されました。
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7月28日(金)
東京創元社さんから柳川一氏著の小説『三人書房』が刊行されました。光太郎も登場します。

7月29日(土)
横浜市イギリス館さんで「元井美智子自作自演コンサート2023」が開催され、箏曲奏者・元井美智子氏による「智恵子抄より」がプログラムに入りました。
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7月31日(月)
NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」で俳優の高杉真宙氏による詩「あどけない話」の朗読が為されました。再放送が8月5日(土)、再編集されたものが9月18日(月)、9月21日(木)、9月23日(土)に放映されました。

8月1日(火)
埼玉県東松山市さんの『広報ひがしまつやま』の8/1号、イラストレーター・絵子猫さんによる連載「絵子猫さんのアイテム探し」で高田博厚作の光太郎胸像が取り上げられました。
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8月1日(火)~8月3日(木)
岩手県花巻市の生涯学園都市会館で「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」が開催されました。作品の展示は12/20(水)~1/21(日)、花巻高村光太郎記念館さんにおいてでした。

8月8日(火)~8月27日(日)
岡山市の岡山県立美術館さんで特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示が開催され、光雲作の木彫「松樹鷹置物」が展示されました。
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8月9日(水)
宮城県牡鹿郡女川町のまちなか交流館さんで、第32回女川光太郎祭が開催されました。コロナ禍を経ての4年ぶりの通常開催でした。

8月15日(火)
宮部修氏著『父、高祖保の声を探して』が思潮社さんから刊行されました。光太郎にも触れられています。
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8月21日(月)
講談社さんから安西水丸氏著『安西水丸が遺した最後の抒情漫画集 陽だまり』が刊行されました。表題作で光太郎詩がモチーフとして使われました。

8月22日(火)~10月9日(月)
東京都台東区の東京国立博物館さんで「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」展示があり、光雲作の「檀木釈迦如来立像」と、光雲と豊周の合作「誕生釈迦仏立像」が出品されました。
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8月24日(木)
岩手県立花巻南高等学校文芸部さんから『門 ⅩⅦ』が発行されました。2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート、旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記などが掲載されています。

8月31日(木)
絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫氏が亡くなりました。複数のご著書で光太郎書について言及された他、主宰されていた『月刊絵手紙』で、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を執筆なさいました。

9月1日(金)
亜紀書房さんから森まゆみ氏著『聞き書き・関東大震災』が刊行されました。光雲、光太郎に触れられています。
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9月1日(金)~9月27日(水)
千葉県富里市の富里市立図書館で「第47回千葉県移動美術館~読書へのいざない~」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が展示されました。

9月2日(土)~10月15日(日)
東京都港区の泉屋博古館東京さんで「特集展示 住友コレクションの近代彫刻」が開催され、光雲木彫「楠木正成銅像頭部木型」が出品されました。

9月4日(月)
NHkさんのラジオ第2で「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る1」のオンエアがあり、昭和25年録音の光太郎の肉声が流れました。

9月7日(木)
仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんの一面コラム「河北春秋」で、光太郎の短句「いくらまはされても針は天極をさす」「正直親切」がメインで取り上げられました。

同日、作曲家の西村朗氏が亡くなりました。平成20年(2008)、「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲され、広く歌われています。

9月9日(土)~11月19日(日)
東京都中央区のアーティゾン美術館さんで「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展が開催され、旧ブリヂストン美術館さん制作の『美術映画 高村光太郎』『美術家訪問 第7集』の光太郎が撮影された動画2本が上映されました。また、ブロンズ「手」の出品もありました。
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9月11日(月)
地上波NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 服装」の放映があり、俳優の津田健次郎さんによる「あなたはだんだんきれいになる」朗読がありました。再放送は9月14日(木)、9月16日(土)でした。

9月15日(金)
 岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に、連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が、「いいトコ発見! 地域おこし協力隊」という記事では同隊員・森川沙紀さんによる『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』が、それぞれ取り上げられました。
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9月16日(土)~10月9日(月)
横浜市の横浜市民ギャラリーさんで「新・今日の作家展2023 ここにいる―Voice of Place」が開催され、現代アート作家・来田広大氏による映像作品《東京には空がない (Rooftop Drawing)》が出展されました。

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北海道小樽市の似鳥美術館さんでトピック展「岸田劉生とその時代」が開催され、光太郎ブロンズ「十和田湖畔の裸婦像のための手」と書が2点展示されました。

9月30日(土)
澤正宏氏編『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻がクロスカルチャー出版から刊行されました。光太郎にも触れられています。

9月30日(土)~12月17日(日)
新潟県長岡市の駒形十吉記念美術館さんで「2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力」が開催され、光太郎書「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」が展示されました。

数多くの方々がそれぞれの分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、いつもながらに感謝感激雨あられです。

明日はこの項最終回、10月から今月までを取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夕小正月用のお酒一升配給あり、コタツで晩酌、狐の声をききながら鼠と遊びました。耳づくは此処でもボロスケボオボオとなきます。


昭和21年(1946)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での独居生活、冬場は訪れる人も少なく、ことに夜間はまったくの一人。その点は気楽ではあったとは思われますが。

今年1年を振り返る企画、今日は4,5,6月分です。

4月2日(日)
千代田区の日比谷松本楼さんで第67回連翹忌の集いを開催いたしました。コロナ禍を経て4年ぶりの開催となりました。
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同日、高村光太郎研究会から『高村光太郎研究』第44号が、高村光太郎連翹忌運営委員会から『光太郎資料』第59集がそれぞれ発行されました。
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同日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」で「重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史」の放映があり、光雲作の「老猿」が取り上げられました。再放送が4月23日(日)でした。
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4月5日(水)
大阪府豊中市の文化芸術センターさんで「Raffiné 春の音楽祭 in Osaka~心に響く名曲の調べ~」が開催されました。詩人の宮尾壽里子さんによる自作の「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」朗読がプログラムに入りました。
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4月9日(日)
マルチアーティスト・井上涼氏が『毎日小学生新聞』さんに連載されている漫画「井上涼の美術でござる」が「高村光雲の巻」でした。

4月15日(土)
BSフジさんの「アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜」の第47回「いま会いに行ける銅像」の放映があり、光雲作の「西郷隆盛像」「楠正成像」に触れられました。再放送が4月29日(土)でした。
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4月20日(木)~5月15日(月) 
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「山口山の木工展」が開催されました。 木工房さとうのさとうつかさ氏による光太郎をモチーフとした木工作品等が展示されました。
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4月21日(金)~4月23日(日)
東京都中央区の銀座大黒屋ギャラリーさんで「志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会 五月のウナ電」が開催され、光太郎詩「五月のウナ電」をモチーフとした染色作品が出品されました。京都展が5月19日(金)~5月21日(日)でした。

4月22日(土)
碌山美術館さんから同館編『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。
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4月22日(土)~6月11日(日)
長野県諏訪市のサンリツ服部美術館さんで「近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて」展が開催され、光雲作の木彫「鍾馗像」が展示されました。

4月23日(日) 
神戸市の神戸文化ホールさんで「合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~」で、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がテノール歌手・藤木大地さんの歌唱で演奏されました。
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4月23日(日)~6月30日(金)
千葉県旭市の千葉県立東部図書館さんで資料展示「高村光太郎 生誕140周年」が行われ、光太郎著書、関連書籍等の展示が行われました。関連行事的に当方の市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」が6月25日(日)に行われました。
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4月27日(木)~5月21日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、紙絵実物展示、紙絵制作体験などが行われました。

4月29日(土)~5月4日(木)
千葉県松戸市の戸定が丘歴史公園内『松雲亭』で「千葉県150周年記念 文学で千葉を旅するカフェ」が開催され、「智恵子抄」朗読等が行われました。
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4月30日(日)
徳間書店さんから時代小説作家・山田風太郎の名著を漫画化した『追読 人間臨終図巻 芸術家編』が刊行されました。サメマチオ氏画。光太郎の項を含みます。

5月1日(月)
詩人の平田好輝氏が亡くなりました。氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌にもたびたびご参加下さいました。

同日、三重県の紀北民俗研究会さんから『奥熊野の民俗』№16が発行されました。太田豊治氏による「詩人 東正佳さんを知る」で、光太郎に触れられています。
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5月14日(日)~5月23日(火) 
東京都杉並区のラピュタ阿佐ヶ谷さんで「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」もラインナップに入りました。

5月20日(土)
東京都目黒区の中目黒GTプラザホールさんで「東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート」が開催され、故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っていました。
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5月27日(土)
岩手日報社さんから『北の文学 第86号』が発行されました。小説部門の優秀作に選ばれた瀬緒瀧世(せお・たきよ)さんの「fantome(ファントーメ)」に光太郎が登場しました。

6月3日(土)
兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センターさんで「初夏にうたう ~日本歌曲の夕べ~」が開催され、新井俊稀氏の歌唱で「あどけない話」(野村朗氏作曲)が演奏されました。
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6月10日(土)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第16号が発行されました。中西利一郎氏追悼文、当方の連載「連翹忌通信」などが掲載されました。

6月16日(金)~6月18日(日)
兵庫県尼崎市の武庫川KCスタジオ公演さんで「武庫川KCスタジオ オープニングプログラム EVKK6月『売り言葉』」の公演がありました。野田秀樹氏作の智恵子を主人公とした一人芝居でした。
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6月17日(土)
東京都武蔵野市の三鷹古典サロン裕泉堂さんで「憧れ本読書会 #29 高村光太郎『智恵子抄』」が開催されました。講師は吉田裕子氏でした。

6月17日(土)~8月31日(木)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「テーマ展『山のスケッチ』」が開催されました。
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6月20日(火)
岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センターさんから『賢治学+ (第3集) 』が発行されました。中里まき子氏、エリック・ブノワ氏「講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」」が収められています。

6月21日(水)
高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏が亡くなりました。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。

6月24日(土)
東京都練馬区の光が丘美術館さんで「齊藤恵ソロコンサート にほんのうた」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」全曲の演奏がありました。
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同日、名古屋市の熱田文化小劇場さんで「歌とピアノとヴァイオリン ~そよ風にのせて vol.17~」が開催され、朝岡真木子氏作曲「組曲 智恵子抄」がプログラムに入りました。

6月25日(日)
福村出版さんから立元幸治氏著『デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う』が刊行されました。「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」という項を含みます。
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6月30日(金)
河出書房新社さんからfd652e74健太郎氏著河出新書『自称詞〈僕〉の歴史』が刊行されました。「高村光太郎の〈僕〉」という項を含みます。

6月(日不明)
千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号に劇作家・女優の渡辺えりさんによる「さんぶの里紀行」が掲載され、九十九里浜の智恵子抄詩碑などが紹介されました。

5月8日(月)から新型コロナウイルス感染症は、感染症法上の位置づけが「5類感染症」に変更され、まだまだ予断は許しませんが、各種イベント等はコロナ禍前の水準に近く開催されるようになりました。それに伴って連翹忌の集いも再開し、美術館さん/文学館さんでの企画展示等、各種コンサートや朗読会等も行われ、有り難いかぎりでした。

明日は7~9月を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

何しろ文化の仕事はせつかちには出来ません。気永に、落ちついて、しつかり、たゆまずやる外ありません。


昭和21年(1946)2月16日 島貫太吉宛書簡より 光太郎64歳

戦後の混乱期の中での発言ですが、コロナ禍を経た現代にも通じる内容ですね。

今年も残すところ1週間足らずとなりました。毎年恒例の1年間回顧を始めます。まずは1~3月、と、その前に、昨年のこの項で洩れていた、昨年末の件から。

2022年12月19日(月)
角川書店さんから青柳碧人氏著短編小説集『名探偵の生まれる夜 大正謎百景』が刊行されました。「姉さま人形八景」で光太郎智恵子が登場します。
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2022年12月30日(金)
朝日新聞出版さんから平田オリザ氏著『名著入門 日本近代文学50選』が刊行されました。「第五章 戦争と向き合う文学者たち」中に「『智恵子抄』高村光太郎」を含みます。

さて、ここから今年。

1月4日(水)~2月5日(日)
金沢市の石川県立美術館さんで「かねは雄弁に語りき 石川県立美術館の金属コレクション」が開催され、光太郎実弟・豊周の鋳金「朱銅三筋文花入」が展示されました。
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1月5日(木)~3月30日(木)
堺市立美原図書館さんで「伊東静雄没後70年記念展示 手紙にみる伊東静雄」が開催されました。光太郎から伊東宛の書簡(複製)が展示されました。

1月6日(金)~4月2日(日)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「メナード美術館開館35周年記念展 所蔵企画 35アーティストvol.Ⅱ」が開催され、光太郎木彫「栄螺」と「鯰」が出品されました。
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1月7日(土) 
青土社さんから鳥居万由実氏著『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』が刊行されました。「自己と他者が出会う場所――高村光太郎」という章を含みます。

1月7日(土)~2月28日(火)
千代田区の日比谷図書文化館さんで「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」が開催され、『智恵子抄』に関わる展示も為されました。
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1月16日(月)
明治7年(1874)創業で、光太郎智恵子が大正元年(1912)に滞在した千葉県銚子市犬吠埼の老舗宿「ぎょうけい館」(旧・暁鶏館)が廃業しました。

1月19日(木)
思潮社さん創業者にして評論家の小田久郎氏が亡くなりました。平成7年(1995)、『戦後詩壇私史』で光太郎に触れて下さっていました。

1月20日(金)~1月22日(日)
東京都八王子市の東京造形大学さんで「ZOKEI展 東京造形大学卒業研究・卒業制作展/ 東京造形大学大学院修士論文・修士制作展」が開催されました。長田ひかり氏の作品が「智恵子抄」オマージュの「白い病室」でした。
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1月20日(金)~2月19日(日)
那覇市の沖縄県立博物館・美術館さんで「美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展 宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」が開催され、光雲と山崎朝雲の合作「萬歳楽置物」が展示されました。
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1月21日(土)~1月31日(火)
鎌倉市の鎌倉芸術館さんで「没後35年 高田博厚展」が開催され、光太郎胸像を含む高田のブロンズ彫刻等が展示されました。

1月25日(水)
宮沢賢治研究家の天沢退二郎氏が亡くなりました。光太郎に言及した著書等もおありでした。

1月26日(木)
光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエを所有する中西家当主・中西利一郎氏が亡くなりました。最晩年の光太郎について多くの証言を残して下さいました。

2月5日(日)
横浜能楽堂で「企画公演 能役者 鵜澤久」が開催されました。「舞囃子 智恵子抄」がプログラムに入りました。
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同日、農文協さんからコーラ小林さん・編 中島陽子さん・絵の絵本『イチからつくる コーラ』が刊行されました。光太郎詩「狂者の詩」に触れられています。

2月8日(水)
平凡社さんから和田博文氏著『日本人美術家のパリ 1878-1942』が刊行されました。「高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という章を含みます。
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2月11日(土・祝)〜4月9日(日)
岐阜県現代陶芸美術館さんで「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展が開催され、光雲木彫「白衣観音像」が出品されました。巡回が以下の通りでした。
 長野県立美術館 2023年4月22日(土)〜6月18日(日)
 あべのハルカス美術館 2023年7月1日(土)〜9月3日(日)
 富山県水墨美術館 2023年12月8日(金)〜2024年2月4日(日)
 山口県立美術館(予定) 2024年9月12日(木)~11月10日(日)
 山梨県立美術館(予定) 2024年11月20日(水)~2025年1月30日(木)

2月14日(火)
花巻市のなはんプラザにおいて公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」が行われました。対談者は宮沢賢治実弟・清六の令孫にして林風舎代表取締役の宮沢和樹氏と当方でした。
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2月16日(木)
横浜市の横浜みなとみらいホールで「藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ」公演があり、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」がプログラムに入りました。新潟公演が5月3日(水)、奈良公演が5月21日(日)でした。

2月18日(土)
兵庫県姫路市の御国野公民館で市民講座「高村光太郎 智恵子抄を中心に」が開催されました。講師は元賢明女子学院短期大学教授・森本穫氏でした。
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2月18日(土)~4月25日(火)
山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺霊宝館さんで「身延山霊宝展」が開催され、光雲木彫「聖観音菩薩像」が展示されました。

2月19日(日) 
NHK BS8Kさんで「興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心」の放映があり、光太郎にも触れられました。BSプレミアムでの再放送が3月28日(火)、7月23日(日)、11月14日(火)に行われました。
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2月21日(火)~6月12日(月)
盛岡市の盛岡てがみ館さんで「第67回企画展 いわての芸術家の手紙」が開催され、光太郎書簡も展示されました。
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2月23日(木)
新宿区の 東京オペラシティリサイタルホールさんで「紀野洋孝テノール・リサイタル」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智惠子抄(改訂新版)」が演奏されました。3月6日(月)には大分市のiichiko音の泉ホールで大分公演がありました。

2月27日(月)
小学館さんから井上涼+NHK びじゅチューン!制作班さん編『びじゅチューン!DVD BOOK 7』が刊行されました。光雲作木彫「老猿」をテーマとした「老猿は主役じゃなくても」を含みます。
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3月1日(水)~6月4日(日)
福井市の福井県ふるさと文学館さんで「コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方」が開催され、小説『智恵子飛ぶ』関連の展示もなされました。

3月4日(土)
京都市のCaffe flookさんにおいて「東日本大震災復興支援ライブ 琵琶もの語り」が開催された。筑前琵琶奏者・宇佐美周子氏による光太郎詩「雪白く積めり」が演目に入っていました。
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3月5日(日)
岡山市天神山文化プラザさんで「佐々木英代の日本のうた講座【最終話】第30話 岡山の作曲家と歌手の選んだ名曲編」の公演があり、テノール歌手の松本敏雄氏が青木省三作曲の「智恵子抄三章」を演奏しました。

3月13日(月)
大阪市の大槻能楽堂さんで「至高の華 ~舞と語り~」公演があり、「舞踊詩劇 智恵子抄」が演目に入れられました。出演は梅若実桜雪さん、藤間勘十郎さん、高橋惠子さん他でした。
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同日、日本郵便株式会社東北支社さんが「オリジナル フレーム切手 高村光太郎と花巻」の販売を開始しました。光太郎生誕140年の誕生日に併せての発売でした。

3月14日(火)
札幌市の岩本珈琲さんで「マンスリー朗読ライブ VOL.26 智恵子抄を語る」公演がありました。出演は石橋玲さん(朗読)、つくねさん(音楽)でした。
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3月15日(水)
花巻市の有限事業組合machi R&Eさんから地域情報誌『花巻散歩マチココ』第34号が発行されました。平成29年(2019)4月以来続いていた連載「光太郎レシピ」が今号を以て最終回となりました。

3月17日(金)~5月14日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展が開催され、光雲作の「老猿」が展示されました。
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3月20日(月)~4月6日(木)
東京都中央区のギャラリーせいほうさんで「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」展が開催され、光太郎のブロンズが数点出品されました。

3月21日(火)
東京都中央区の王子ホールさんで「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」が開催されました。朝岡さん作曲の「組曲〈智惠子抄〉」より「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」がメゾソプラノ歌手・清水邦子さんの歌唱、朝岡さんのピアノで演奏されました。
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同日、ムジカフエンテさんからCD「清水邦子が歌う 組曲『智惠子抄』」がリリースされました。メゾソプラノ歌手・清水邦子さんの歌唱、朝岡さんのピアノで録音されています。映画監督の水谷俊之氏、それから当方がライナーノートを書かせていただきました。

3月22日(水)
集英社さんから佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』が刊行されました。「藤沢周平の斎藤茂吉批判」という項で、光太郎に触れられました。
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同日、評論家の芹沢俊介氏が亡くなりました。昭和57年(1982)には、筑摩書房さんから『高村光太郎』という書籍を刊行なさっています。

3月23日(木)
女優の奈良岡朋子さんが亡くなりました。昭和50年(1975)にラジオの文化放送さんで放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」で、「智恵子抄」から数編の朗読をなさった他、「智恵子抄」をモチーフの一つとした映画「こころの山脈」(昭和40年=1965)にご出演なさいました。
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3月24日(金)
岡山県赤磐市教育委員会さんから光太郎も登場する『マンガふるさとの偉人 詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』が刊行されました。シナリオ・和田静夫氏、マンガ・藤井敬士氏でした。

3月28日(火)
作曲家の坂本龍一氏が亡くなりました。NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」番組内でくりかえし使われた光太郎作詞「道程」を作曲、演奏なさいました。
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3月31日(金)~5月7日(日)
東京都台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「買上展 藝大コレクション展2023」が開催され、光太郎のブロンズ「獅子吼」、光太郎実弟・豊周の鋳金作品が出品されました。
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3月(日付不明)
花巻市さんから『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』が刊行されました。市の地域おこし協力隊で活動されている森川沙紀氏の手になるもので、光太郎が亡くなる2ヶ月前の昭和31年(1956)に語った談話筆記「花巻温泉」の全文と、その英訳が載せられています。

当方の勝手な判断で、主要な事項(と思われるもの)のみ紹介させていただいております。「この頃、こんなイベントもあったよ」「光太郎について書かれているこの本の紹介が無いぞ」というようなことがありましたら、コメント欄等から御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

書きたい詩はたくさんありながら夜間が使へないので遅々としてはかどりません。

昭和21年(1946)2月15日 水原宏宛書簡より 光太郎64歳

前年秋から暮らし始めた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。昭和24年(1949)、見かねた村人たちが電線を引っ張ってあげるまで電気が通じていませんでした。

昨日は銚子市に行っておりました。

どの程度光太郎智恵子に触れられているのか不明でしたので、事前にご紹介しませんでしたが、銚子市ジオパーク・芸術センターさんで昨日始まった「ぎょうけい館資料展」を拝見。

大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめ合った宿にして、残念ながら今年1月に廃業となってしまったぎょうけい館(元・暁鶏館)さんに関わる展示です。
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銚子市観光協会さんのサイトで「ぎょうけい館の長い歴史と、その中で旅館を訪れた人々について、そして旅館に残された作品を紹介」とありましたので、光太郎智恵子関連の展示もあるかと思い、見に行った次第です。

銚子市ジオパーク・芸術センターさん、廃校になった中学校を転用した施設でした。
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廃校と言っても、そう古い建物ではありません。
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教室を転用した展示室が4室ほど有り、そのうちの1室で「ぎょうけい館資料展」。
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ロゴは昔使われていた「暁鶏館」時代のものですね。

廃業以前に館内に展示されていた品々などが並んでいました。古写真、古絵葉書、鳥瞰図、そして宿泊した著名人の書など。書は伊藤博文、高浜虚子、稲畑汀子(虚子の孫)。光太郎が訪れた大正元年(1912)には光太郎はまだ無名の若造でしたので、光太郎は書などは残さなかったようです。

残念ながら、光太郎智恵子に関しては、「ぎょうけい館を訪れた著名人」という年表に名があったのと、宿泊室にでも置いてあったらしい冊子が展示されていて、そこに詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)、「人に」(同)が掲載されていた程度でした。ただ、古写真、古絵葉書などは光太郎智恵子が訪れた当時のものも含まれるかと思われます。

他に年表に名があったのは、島崎藤村、国木田独歩、尾崎紅葉、岡倉天心、泉鏡花、田山花袋、前田夕暮、若山牧水、高浜虚子、内田百閒、伊藤博文、渋沢栄一、野口英世ら。

一応、開催情報を。

ぎょうけい館資料展

期 日 : 2023年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 銚子市ジオパーク・芸術センター 千葉県銚子市八木町1777-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日、11月23日(木・祝)
料 金 : 無料

 犬吠埼に建つ「ぎょうけい館」。その創立は明治7年に遡り、旅館からの絶景は人々を魅了し、長きにわたって数々の著名人が宿泊しました。
 しかし、多くの方に惜しまれながらも、令和5年1月31日をもってぎょうけい館は閉店となりました。閉館後、所有している絵画などの資料は銚子市に寄贈されました。
 今回の企画展では、ぎょうけい館の長い歴史と、その中で旅館を訪れた人々について、そして旅館に残された作品を紹介します。
※ご来場者アンケート回答でぎょうけい館タオルをプレゼント!


アンケートに回答し、「ぎょうけい館タオル」を貰ってきました。廃業前に宿泊客等に配られていたものでしょう。ロゴ入りです。もったいなくて使えません(笑)。
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タオルプレゼントはなくなり次第終了だそうです。

銚子市ジオパーク・芸術センターさん、「ジオ」と冠していますので、他の常設と思われる展示はその関係がメインでした。
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他に考古資料等も。

銚子は白亜紀の地層が露頭になっていたりと地質学的に貴重な場所だそうで、市としては最近その方面での街おこしに力を入れているようです。先月には「第13回日本ジオパーク全国大会in関東」が開催されたりもしました。

しかし、暁鶏館をはじめ、文人墨客の来訪も多かった地ですので、そうした関連の展示も今後やっていただきたいところです。銚子出身で光太郎とも交流が深かった詩人・画家の宮崎丈二遺品などが市に寄贈されていますし。光太郎をはじめ室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助、高田博厚らからの書簡も含まれています。「銚子市デジタルアーカイブ」としてオンラインでの公開は為されていますが。

会場を後に、昼食を摂りに犬吠埼方面へ。

よく行く寿司屋さんが火曜定休でしたので、犬吠埼の少し北、海鹿島(あしかじま)にある海鮮料理の店へ。
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一山いけす」さん。その名の通り、店内に大きな生け簀があって、魚や伊勢海老が。
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うに丼を注文しました。伊勢海老のお吸い物付き。ついでに玉子の寿司を単品で。
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同行した妻はうにとマグロ丼。
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さらにハマグリやホタテも注文。口福でした(笑)。

窓の外はすぐ太平洋。ここも銚子ジオパークの一角です。
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上は「とんび岩」。確かにトンビっぽいですね。これも白亜紀の露頭です。

はとバスさんのツアーやら、埼玉県のとある市の教育委員会ご一行様のマイクロバスやらが次々とやってきて、平日にもかかわらず満員盛況でした。

あまり書きたくはないのですが、銚子市は、元首相とのズブズブで少し前に社会問題化した(結局有耶無耶なまま幕引き?)ある学校法人の誘致が元で財政破綻という状況です。そういうお馬鹿な行政の肩を持つ気はさらさらありませんが、亡母の出身地でもあり、衰退していくのを見るに忍びないという気持は一入です。

ぜひ足をお運びいただき、地元経済活性化に貢献していただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

東京を五月十五日出発、花巻に十六日到着、宮沢様のお宅に迎へられ、大に安心しましたら翌日から高熱を発し、肺炎と診断され、爾来臥床、御当家の一方ならぬお世話をうけて昨今漸く病床に起き上つて筆がとれるほど恢復して来ました。全快も程近い事とたのしみにして居ります。東京にて五月十五日までゐた藤岡氏の家も其後罹災焼失した由にて、それ以前に花巻に来られた事は天の恵みと存ぜられます。


昭和20年(1945)6月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

4月13日の空襲で自宅兼アトリエを失った後、ちかくにあった妹の婚家に転がり込んでいましたが、書簡の通り5月には花巻の宮沢賢治実家に疎開。その後、妹の婚家も空襲に逢って全焼。花巻到着後すぐに結核性の肺炎で1ヶ月近くの臥床。踏んだり蹴ったりでした。

10月31日(火)~11月2日(木)、2泊3日で花巻に行っておりました。レポートいたします。

10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
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同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
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設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
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今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
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11月2日(木)には、レンタカーで北上川にかかる朝日大橋を渡っている最中、ふと河岸を見ると何やら黒い塊。もしかすると熊だったかも知れません。市役所さんのホームページには11月1日(水)にその場所で目撃情報があったと記されていました。くわばら、くわばら(死語ですが)。

同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
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例によって説明パネルを書かせていただきました。
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吉田が雑誌『婦人之友』との関わりも深いということで、同誌の誌面を拡大したパネル、スコーレ高校さん所蔵の古写真なども。
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光太郎が同校に勧め、現在も続くホームスパンとぶどうジュースに関する展示。
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そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
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光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
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右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。

そして一番驚いたのがこちら。
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開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。

5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。

拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
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そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
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チェックイン後、再び市街へ出て、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の打ち合わせを兼ね、主催者の太田地区振興会、共催のやつかの森LLCの方々、そしてメインパネラーにして宮沢賢治令弟、故・清六氏令孫の宮沢和樹氏と会食。

翌朝、時間がありましたので、大沢温泉さん内のギャラリー茅(旧菊水館)で開催中の「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」を拝見。
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4月に続き、2回目です。

さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
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渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
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イーハトーブセンターさんに到着。
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勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。

二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
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第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
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皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。

本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。

太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。しかし昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡に、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあります。また、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた詩人の竹内てるよや、浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。しかし、現物は確認出来ていません。

その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。

そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
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翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
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この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
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約1時間半、光太郎と吉田、さらに『婦人之友』について、スライドショーを使いつつ話しました。近いうちにYouTubeに動画が上がると存じます。

終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。

そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

実に充実した3日間でした。

企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。


昭和20年(1945)2月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
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画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。

2泊3日、予定は全てこなし、帰りの新幹線🚄に乗り込みました。

昨日は宮沢賢治イーハトーブセンターさんで「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めました。
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今日は花巻高村光太郎記念館さんで
開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事として同題の市民講座講師を務めました。
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どちらもつつがなく終えることができました。

すみません。決まり文句ですが、詳しくは帰りましてからレポート致します。




昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
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今日、宮沢賢治イーハトーブセンターさんで、シンポジウム的な「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めさせていただきます。

昨日はその会場設営をちらっとお手伝い。
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その後、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄り、開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」を拝見。
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明日はこちらで関連行事としての市民講座講師を仰せつかっております。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)。いい感じに紅葉が始まっています。
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宿泊は定宿とさせていただいている大沢温泉自炊部さん。
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詳しくは帰りましてからレポート致します。



昨日はぶらりと銚子犬吠埼に行って参りました。ほぼ生活圏なのですが、最近はあまり銚子に所用も無く、久しぶりでした。

ふと、新鮮なネタを使った寿司が食べたくなったというのもあるのですが、今年1月に廃業となった旅館・ぎょうけい館さんの現状を見ておこうと行った次第です。SNS上で解体している、という情報が出ていまして……。

ぎょうけい館さん、元は漢字で「暁鶏館」と書き、明治7年(1874)創業の老舗でした。大正元年(1912)夏には前年に知り合った光太郎智恵子が宿泊、愛を確かめ合いました。光太郎、この年の12月には、雑誌『朱欒』へ、後に『智恵子抄』に収めた詩「郊外の人に」を発表、その中で「わがこころは今大風の如く君に向へり」と高らかに宣言しています。

また、ここで働いていた知的障害のあった青年を主人公に「犬吠の太郎」という詩も作りました。
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その後、経営が代わり、建物も創業当時のものはとっくに建て替わっていましたが、「ぎょうけい館」の名は受け継がれてきていました。

当方、宿泊したことはありませんでしたが、食事を摂ったことはあり、また、各種打ち合わせ等でロビーを使わせていただいたことも。

やはりコロナ禍が大きかったのでしょう、1月に閉館となりました。

そして昨日の様子。工事関係の皆さんはちょうど昼食休憩だったようでした。
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「はーーーーーー」という大きなため息が……。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。

明治期に作られ、生け簀として使われていた波打ち際の石組みはそのまま。
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そちらから見た犬吠埼灯台
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逆に灯台側から見たぎょうけい館址。
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「ふーーーーーー」と、再び大きなため息……。

更地にして、今後、どうなるのか、ネットで情報を探してみましたが見つかりませんでした。更地にしておくのではなく、なにがしかの活用がなされてほしいもので、さらに「暁鶏」の名も残していただきたいものです。

隣接していた「磯屋」さんという大きなホテル(こちらには当方、何度か宿泊しました)は数年前に廃業、しかし、「銚子グランドホテル」として再オープンするなど、明るい兆しも見えます。今後に期待したいところです。002

【折々のことば・光太郎】

今度「造型美論」といふ本を出しましたから別便でお送りします。一応御覧下さい。


昭和17年(1942)2月3日 
田村昌由宛書簡より 光太郎60歳

『造型美論』はこの年1月、筑摩書房から刊行された美術評論集です。書き下ろしではなく、かつて雑誌等に発表したものの集成。前年には同じ趣旨の『美について』を道統社から上梓しており、そちらの売れ行きがけっこう良かったようで、二匹目のドジョウを狙ったようです。

2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。

女川光太郎祭を昨日無事に終え、千葉に帰る途中で松島瑞巌寺さんに立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲作の木彫観音像を拝観、さらにそれを描かれた作品も含まれる墨画家・一関恵美さんの個展〈千貫之風 sengan no kaze〉を拝見。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜から宮城県牡鹿郡女川町に来ております。
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『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を訪れたのが昭和6年(1931)。それを記念しての「女川光太郎祭」が、今日、4年ぶりに通常開催されます。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜、自家用車で千葉の自宅兼事務所を出まして、塩尻の健康ランドで一泊、安曇野市の碌山美術館さん、松本市の窪田空穂記念館さんとハシゴしております。
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詳しくは帰りましてから。

岩手より帰って参りました。レポートいたします。

6月30日(金)、盛岡駅で花巻市役所の方々などの乗られる車に拾っていただき、盛岡スコーレ高等学校さんへ。
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同校は、光太郎と親しかった羽仁吉一・もと子夫妻が戦前に創立した都下東久留米市の自由学園さんの流れを汲み、その関係もあって光太郎との交流が生まれました。

同校サイトに載った沿革史から。
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創立者・吉田幾世は、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で光太郎が数多くの寄稿をし、智恵子も取材を受けた雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行い、その流れの中で昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」を開校させました(そこから数えて今年で創立90周年だそうで)。戦後に各種学校の認可を受け、さらに新制高校へと変わって行きます。
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そうした中で、羽仁夫妻の指示もあったのだと思いますが、吉田が花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪ね、交流が始まりました。光太郎は同校の「生活即教育」という理念のもと、いろいろと物づくりに取り組む姿勢に共鳴し、ホームスパン制作などを推奨し、それが現在も続いています。
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光太郎、盛岡を訪れた際には同校にも足を運び、同校からも遠足を兼ねて当時の生徒さんたちが光太郎の山小屋を慰問に訪れるなどしました。

戦後の光太郎、日本の将来を創っていく若い世代にかける期待は大きかったようで、山小屋近くの山口小学校や太田中学校、盛岡では県立美術工芸学校(現・岩手大学さん)、少年刑務所さん、そしてスコーレさん(当時は盛岡生活学校)などに積極的に関わりました。

さて、今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、吉田と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、当方にも協力要請があって、お借りするものの下見などを含め、お邪魔した次第です。

同校や関係者に贈られた光太郎直筆の書。
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光太郎の山小屋を生徒さんたちが訪問した際の写真パネル。
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現代の生徒さんたちが文化祭の展示として作った光太郎との交流史。
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羽仁夫妻、自由学園さん、『婦人之友』などにも触れつつ、これから展示構成を花巻市さんと詰めていこうと存じます。

その後、例によって花巻南温泉峡、大沢温泉さん自炊部に宿泊。
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翌7月1日(土)、旧太田村へ。

光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)。
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こちらの套屋の内部に、やはりスコーレさんで撮影された写真も。
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光太郎が着ているのはホームスパンの猟人服ですね。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』を拝見。
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パネル等の壁面展示のみでした。
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光太郎散文「山の春」(昭和26年=1951 ちなみにこれも『婦人之友』に寄稿されました)を元に、当時の写真、光太郎画集『山のスケツチ』(没後の昭和41年=1966、中央公論美術出版)から精密複製、そして描かれている植物を最近撮った写真。

以前にも書きましたが、牧野富太郎をモデルとしたNHKさんの「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。

関連資料として詩「山菜ミヅ」原稿(昭和22年=1947)、一点だけ実物の光太郎スケッチ(太田村風景)、「花は何とて」詩稿。
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このうち、「花は何とて」は、戦時中の昭和20年(1945)、花巻町の宮沢家に疎開していた折の作と推定されます。この頃構想していた翼賛詩ではない詩集『花と実』の序詩として書かれました。結局、詩集は未完に終わり、この詩も生前に発表されることはありませんでした。

展示されているのは、花巻病院長だった佐藤隆房に贈ったもの。光太郎が手元に残した手控えの詩稿と、若干の表記の相違が認められます。
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こちらのテーマ展示は8月31日(木)まで。是非足をお運び下さい。

さらに、4月から5月にかけて開催された企画展「山口山の木工展」で展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品の一部が、ロビーに展示されています。宮沢賢治や光太郎の世界観があたたかく表現されていて、ほっこり。
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併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

友の会の例会を左の通り催したいと存じます故どうぞ、 ○今月十五日午後二時より ○拙宅にて ○会費三十銭

昭和2年(1927)1月8日 今井武夫宛書簡より 光太郎45歳

「友の会」は「ロマンロラン友の会」。片山敏彦、高田博厚、尾崎喜八なども会員でした。
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昨日から岩手県に来ております。

昨日は戦後の昭和二十年代に光太郎が訪れたり、当時の生徒さんたちが花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪問したりという交流があった、盛岡スコーレ高等学校さんにお邪魔致しました。
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今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、同校創設者の吉田幾世と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、協力要請があったため、花巻市役所の方々などとともに、ご挨拶的な。

お借りする予定の品などを拝見。
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その後、公用車で送っていただき、花巻南温泉峡、大沢温泉さんに宿泊。
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今日はこれから花巻高村光太郎記念館さんに伺い、開催中のテーマ展『山のスケッチ』拝観の予定です。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

昨日は隣町にあります千葉県立東部図書館さん主催の文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」で、講師を務めさせていただきました。レポートいたします。
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館内に入って直ぐ左、以前にもご紹介しましたが、光太郎コーナーを作って下さっています(今月いっぱい)。
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会場は3階研修室。定員30名ということで募集をかけ、集まらないんじゃないかと危惧していましたが、杞憂でした。地元の方々はもちろん、遠くは柏市や茨城県土浦市の方もいらしてくださいました。ありがたし。

約2時間与えられましたので、前半50分程は予備知識的に光太郎智恵子の生涯のアウトラインを、休憩を挟み後半50分程でメインとも云うべき光太郎智恵子と房総との関わりを、それぞれ紹介させていただきました。

スライドショー画面を何枚か。
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まずは大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼。二人が泊まった暁鶏館(後、ぎょうけい館)の廃業の件、詩「犬吠の太郎」の話他。続いて、大正12年(1923)に光太郎の親友・水野葉舟が移り住み、光太郎も何度か訪れた成田三里塚、そして昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養生活を送った九十九里。この3箇所については詳しく取り上げました。

その他、館山にも二人の足跡が残っていること、千葉市の千葉県立美術館さんには光太郎ブロンズが8点収蔵されていること、市川の中山法華経寺さんには光雲原型の日蓮上人銅像が据えられていることなどなど。

やはり地元の話題ですので、皆さん、熱心に聴かれ、非常に有り難く存じました。終了後の質問もかなり出ましたし。

今回も取り上げた、九十九里で智恵子が暮らしていた家屋、田村別荘の間取り等も詳細に研究なさった千葉県職員の安藤仁隆氏もいらしてくださいましたし、お名前だけは存じていた意外な方もいらっしゃり、驚きました。一昨年になりますが、茨城県取手市のたまたま入った蕎麦屋さんで見た地元紙『茨城新聞』さんの投稿俳句欄に光太郎を呼んだ句が掲載されていまして、このブログでご紹介させていただきました。その句を詠まれた方がお見えで(先述の茨城土浦からの方)、しかも2年前のブログの記事も御覧になっていたとのこと。驚きました。

この方、『茨城新聞』さん投稿俳句欄入選のご常連で、他にも光太郎智恵子がらみの句が何度も掲載されているそうで、わざわざそのコピーも御持参下さいました。多謝。
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こういうこともあるのですね。

だいたい月に一度、こうした市民講座や講演の講師を仰せつかっている感じです。来月は福島県川内村、再来月は宮城県女川町。秋以降、花巻でもありそうです。交通費程度を支弁していただければどちらにでも参りますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

槐多は私も好きでした、殊に居なくなつてから思ひ出すとその生命をはつきり感じます、彼は消えません。


大正14年(1925)9月3日 八束清宛書簡より 光太郎43歳

「槐多」は村山槐多、光太郎を慕っていた画家です。大正8年(1919)、猛威をふるっていたスペイン風邪のため、数え24歳の若さで没しました。

光太郎には詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文(大正9年=1920)などがあり、槐多には光太郎が高く評価した画家という評がついてまわっていますが、この他には槐多に触れたものは実は多くなく、書簡でも確認できているものはこれ一通のみです。

昨日は都内に出ておりました。

まずはよく行く国立国会図書館さん。例によって調べものです。
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昨年12月の、同館デジタルデータリニューアルに伴い、閲覧できる件数が飛躍的に増え、自宅兼事務所のPCでも見られるデータからも続々、これまで知られていなかった光太郎文筆作品等を見つけ続けています。が、「館内限定」ということで、同館まで足を運ばないと見られないデータも多く、先月も調査に赴きましたが、今月も行って参りました。

その結果、書籍の短評、それからアンケート回答で『高村光太郎全集』未収録のものを発見しました。来年4月発行の雑誌『高村光太郎研究』内の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

ただ、昨日はその方面の調査より、別件の調べものがメインでした。雑誌『婦人之友』に関してです。同誌、今年で創刊120年を迎える我が国婦人雑誌の最古参の一つ。過日も新刊書店の店頭で立ち読みして参りましたが、森まゆみ氏らによる創刊120周年キャンペーン的な連載も為されています。

同誌、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が始めたもので、光太郎は明治期の創刊間もない頃から亡くなる直前まで、断続的に寄稿を続けました。雑誌としての光太郎寄稿数の多さはおそらく十指(ことによると五指)に入るのではと思われます。また、その数だけでなく、寄稿していた期間の長さも特異です。下記は当方作成の資料から。
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その羽仁夫妻が創設し、これまた健在、都下東久留米市の自由学園さんの出身で、『婦人之友』にも関係していた盛岡出身の吉田幾世。自由学園さんの精神を引き継ぐ新制の「向中野学園高校」を昭和23年(1948)に創立(前身は昭和8年=1933創立の私塾的な「盛岡友の会生活学校」)しました。こちらは「盛岡生活学校」「向中野学園高等学校」そして「盛岡スコーレ高等学校」と名を改め、やはり現在も続いています。

吉田は光太郎と交流があり、盛岡生活学校時代に、生徒たちを花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に引率していったりしましたし、光太郎も同校の卒業式に参列したり、カリキュラムについてさまざまなアドバイスをしたりしていました。そのため、同校には光太郎関連の書や写真等が残っているそうです。下の画像は昭和31年(1956)刊行の『日本文学アルバム高村光太郎』(筑摩書房)から。光太郎、ウハウハですね(笑)。
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そこで今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、花巻市の主催で吉田や盛岡生活学校と光太郎の交流をメインとした企画展示を行うとのこと。当方、そのための事前調査で、花巻市の職員の方々などと共に今月末に同校へ伺うことになりました。

そのため、『婦人之友』の調査です。同誌には光太郎の寄稿以外にも、吉田その他による複数の光太郎訪問記や、光太郎の消息の紹介などがたくさん載っており、それらは国会図書館さんまで行かないと閲覧できないため、足を運んだ次第です。ごっそりコピーを取ってきました。今後、精査し、今秋の展示に生かしたいと存じます。

調査終了後、同館最寄りの永田町駅から東京メトロ半蔵門線で2駅、表参道駅で下車。北青山に向かいました。絵画の個展の拝見です。
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描かれたのは加藤真夢さん。やはり光太郎や吉田と交流の深かった画家・深沢省三、紅子夫妻の令孫です。また、お父さまの竜一氏は光太郎の後輩で詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデル。お母さまのトシ様との新婚時代、現在の雫石町にお住まいで、昭和25年(1950)にはそちらに光太郎が逗留したこともありました。そして真夢さんご自身も自由学園さんの卒業生です。

会場はギャラリーコンセプト21さん。
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お隣は青山セントグレース大聖堂さん。
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ちょうど御夫妻で在廊なさっていて、いろいろお話をさせていただきました。御夫妻、それからお母さま、息子さんと、4名様で今年の第67回連翹忌の集いにご参加して下さいました。

油彩、水彩で花を描かれた作品が中心。
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その色彩の鮮やかさに眼を奪われました。

お祖父さま、お祖母さまが手がけられていたような、挿画等の作品の載った子供向けの書籍も展示されていました。
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001さらに真夢様、吉田幾世をよく御存じだそうで、驚きました。お祖父様が岩手大学に奉職なさっていた頃、さらに退官なさって上京、練馬に居を移されてからもたびたびお宅でお会いになったそうです。吉田の著書『忘れ得ぬ人々』には、深沢家を訪れたエピソードも書かれていましたので、考えてみれば不思議はないのですが。ちなみに同書には、光太郎の項も設けられています。

それから、先述の国会図書館での『婦人之友』調査で、お祖母様と吉田、さらに羽仁夫妻の令嬢・説子らによる座談会の記事「新しき農村工芸を語る」(昭和26年=1951)もコピーを取ってきました。この中で光太郎も話題に上がっています。

「そういうことでしたら、吉田の関係で公開するに差し支えのないものがお宅にありましたら、お貸しいただけますか」と、お願いして参りました。

というわけで、来月初めには盛岡での調査の報告も載せさせていただきます。ちなみに花巻高村光太郎記念さんでは、今秋の吉田がらみの展示以前に、光太郎が太田村で残したスケッチに関わる展示をされるそうです。来週末からと聞いていますがまだ詳細が発表されていません。わかりましたら改めてご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

そのうち自由学園の建物を拝見させて頂きにまゐりたいと思つております。


大正12年(1923)3月10日 龍田秀吉宛書簡より 光太郎41歳

龍田はこの当時の『婦人之友』編集長。のち三上姓となりますが、やはり戦後まで光太郎との交流が続きます。

「自由学園の建物」は、おそらくフランク・ロイド・ライト設計の「明日館(みょうにちかん)」と思われます。光太郎、建築にも造詣が深く、自身で建築設計も行っていました。
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先述の『婦人之友』記事中に、翌大正13年(1924)、羽仁もと子によるもので、光太郎が同校を訪れたことが記されているものもありました。

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

昨日は3.11でした。あの日から12年……。

あの日、津波に呑まれて亡くなった、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で光太郎文学碑の建立に尽力され、「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏を偲ばせていただきました。

12年前の春に自宅兼事務所に植えた桜の樹。3.11には咲いているものを、と思い、早咲きの品種にしました。今年も満開です。ついでにいうとその隣のミモザも。
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さらについでにいうと、連翹(光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていて、「連翹忌」命名の由来となった連翹の子孫です)やユキヤナギもぽつぽつ咲き始めました。
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春ですね。

『毎日新聞』さん、今朝の紙面から。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラムです。

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

小さな溝を流れている水、その水を春の水だと思うと、流れのさま、水音、水の色などにまさに春を感じるのだ。そして、小さな何げない溝がとってもすてきな場所に転じる。作者は詩人、彫刻家のあの光太郎である。上手な句とはいえないが、数多い「い段」の音が響いて流れが速いことを感じさせる。雪解けの水がさらさらと流れているのだろう。<坪内稔典>

明治42年(1909)、欧米留学末期のイタリア旅行中に詠まれた光太郎のこの句、このコラムで取り上げられるのは2回目です。最初に紹介されたのは平成29年(2017)でした。

もう1件、和歌山県の地方紙『日高新報』さんの一面コラム。昨日の掲載分です。メインは光太郎を敬愛していた宮沢賢治ですが、光太郎もちらっと。

日高春秋 詩の言葉が持つ強い力

年度末が近づくと、毎年発行されている日高地方小中学生の詩集が本社に届けられる。例年文芸欄で、原則として全文を順次紹介している◆日本では近世まで詩といえば漢詩を指し、現代のような詩は近代以降、高村光太郎や萩原朔太郎、中原中也らが隆盛させた。11日で東日本大震災から12年が経ったが、岩手県が生んだ童話作家の宮沢賢治は詩人でもあった◆今年で没後90年。生前出版された詩集「春と修羅」には、彼がイーハトーブと名づけた岩手県の荒々しく美しい自然、ひたむきに取り組んだ農作業、教員を務めた花巻農学校の生徒たちへの想いが表現されている◆卒業シーズンになると思い出す彼の詩がある。表題は「生徒諸君に寄せる」。「諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか」「新しい時代のコペルニクスよ」「新しい時代のダーウィンよ」「新たな詩人よ/雲から光から嵐から/新たな透明なエネルギーを得て/人と地球にとるべき形を暗示せよ」◆言葉には力がある。心を動かすという力だ。人の心が動けば、深い部分で物事を変えられる。論旨ではなく、言葉そのものがダイレクトに人の心を打つのが詩という自由な表現だ◆日高地方小中学生の詩集「子ども日高」は、もう20年以上読み続けてきた。当然だが一つとして同じものはない。言葉を操り始めて間もない小学生の作品には、初めて出会うものたちへの驚きがストレートにあふれている。中学生の作品は、その年代ならではの、大人が及ばない鋭敏で繊細な感性と発想で見事に構成され、読む人の心に若い情熱を伝えてくる◆若い世代の力の片鱗を感じるのは、頼もしく心躍ることだ。宮沢賢治が「新たな詩人」にエールを送ったように。

「岩手」、「3.11」といえば、昨日のWBCで先発し、見事に4回途中1失点8奪三振の快投を見せた日本代表の佐々木朗希投手

『スポーツ報知』さんのサイトから。

東山紀之、世界デビューの佐々木朗希に万感…「3・11に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」

004 俳優の東山紀之が12日、MCを務めるテレビ朝日系「サンデーLIVE!!」(日曜・午前5時50分)に生出演した。
 番組では、「カーネクスト2023 WBC東京プール」で11日に日本が1次ラウンド(R)第3戦のチェコ戦に臨み、ロッテの佐々木朗希投手)が快投で世界デビューを果たしたことを報じた。
 初回に失策絡みで1失点したが、3回2/3で被安打2、8奪三振。東日本大震災から12年たったその日にWBCでは日本人最年少での勝利投手となり、故郷・岩手に、被災地に勇気を与えた。打線は同じく岩手出身のエンゼルス・大谷翔平投手が打球速度約191キロの弾丸適時二塁打を放ち、3連勝に貢献。12日のオーストラリア戦に勝てば、B組1位での準々決勝進出が決まる。
 東山は3連勝の侍ジャパンを「大谷選手を始め、すべての選手が躍動しています」と絶賛。11日のチェコ戦をドームで観戦したことを明かし、佐々木の投球を「160キロ台の速球がビシビシ決まった」と感嘆していた。
 さらに「3・11のこの日に佐々木朗希投手が投げることに大変な意味があります」とし「震災を経験されて。地元の人に伺うと風化していくのが一番恐ろしいので、佐々木投手が投げるたびに風化させない思いが強くなると思います」とコメントしていた。

御存じの方は御存じでしょうが、佐々木投手、あの日、お父さまとお祖父さま、お祖母さまを津波で亡くされています。その13回忌に、何よりのご供養となったように、テレビ中継を見ながら感じました。

これからも、被災地の、そして日本全体に希望を届ける牽引役として頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

来月は僕も“LES IMPRESSIONS DES WONNAS”といふ長い詩を出すつもりです。或る人にデヂケエトするのです。


明治43年(1910)3月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

前年の欧米留学からの帰朝以来、旧態依然の日本美術界への失望は、光太郎をしてデカダン生活に追い込みます。吉原河内楼の娼妓・若太夫にのめり込み(「或る人」は若太夫です)、鬱屈した心境を詩に吐き出します。「LES IMPRESSIONS DES WONNAS」は、翌月の雑誌『スバル』に「LES IMPRESSIONS DES OŨONNAS」と解題されて発表されました。4篇の詩から成る連作です。

花巻レポートの2回目です。

2月15日(水)、宿泊していた大沢温泉さんをあとに、レンタカーを駆って花巻高村光太郎記念館さんへ。この日も天気は上々でした。
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さっそく館内へ。

市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」、こちらでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』という題で、1月22日(日)まででしたが、パネル等まだ撤去されず、端に寄せられて残っていました。
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宮沢賢治の親友でもあり、戦前から光太郎と交流のあった藤原嘉藤治が、戦後、開拓関連の仕事に従事していたため、光太郎もそれを助け、開拓者を讃える詩を執筆しました。その関連を中心にした構成です。
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当方執筆の説明パネル。
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当方撮影の写真。
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昨年12月、雫石町まで足を伸ばして撮影したものです。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は正規の日程で開催中。
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当方出演の展示解説動画、まだYouTube上で公開中です。

記念館さんを出て、隣接する(100メートルほど離れていますが)高村山荘へ。
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ピークは過ぎたようですが、まだまだ雪深い状態です。
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絵に描いたような氷柱(つらら)。

二重の套屋(カバーの建物)の中に、光太郎が独居自炊の生活を送った粗末な山小屋が保存されています。こんなところで7年間も……と、特にこの季節は胸が締めつけられる思いがします。

大沢温泉さんの駐車場にもありましたが、やはりキツネの足跡。かつて光太郎が見たキツネたちの子孫でしょうか。
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詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルにした詩碑。

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まさにこの季節にぴったりの詩です。全文はこちら。詩碑自体は昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、この碑の前で花巻高村祭が開催されていました。

再びレンタカーを駆り、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。その辺りは明日レポートします。

その後、花巻市東部の土沢地区へ。こちらにはやはり市立の萬鉄五郎記念美術館さんがあり、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として「歌人 小田島孤舟」展が開催中です。
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当初、この日は光太郎の足跡の残る釜石方面へ行こうかと考えていたのですが、「歌人 小田島孤舟」展で、光太郎にちらっと触れているという情報があり、急遽、こちらにうかがいました。
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この地出身の萬鉄五郎は、大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のち「フユウザン会」)で光太郎と共にメンバーだった画家、ここからほど近い旧小山田村生まれの小田島孤舟は石川啄木との関係から『明星』とも関わった歌人で、戦後には光太郎とも交流がありました。この二人、小学校(同館が現在立つ位置)で同級生。長じてからもつながりが続き、小田島が萬に自著の装幀をしてもらったりしていました(そのあたりは存じませんでした)。また、画家になることをめざしていた小田島は、親しい萬の才能に打ちひしがれ、志望を変更したそうです。

光太郎と萬は同じヒユウザン会のメンバーでしたが、あまり仲良くはなかったようです。昭和11年(1936)の回想「ヒウザン会とパンの会」から。

 琅玕洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあつたのは岸田劉生及その友人門下生の一団であつて、私も大体に於て岸田のグルウプであつた。その他、川上凉花、真田久吉、萬鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れてゐた。
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 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となつたのである。


小田島は戦後、光太郎に自著『孤舟歌碑』の序文を依頼し、光太郎もそれに応えています。そのあたりを踏まえ、当方、花巻高村光太郎記念館さん内の常設展示説明パネルには小田島についても言及しました。
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萬鉄五郎記念美術館さんの展示でも、『孤舟歌碑』の序文関係が。
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盛岡市先人記念館さん所蔵の、光太郎から小田島宛の葉書2通(ともに昭和22年=1947)。かつて同館の御厚意により、当方編集の「光太郎遺珠」で紹介させていただきました。
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さらに『孤舟歌碑』序文の原稿。全文は『高村光太郎全集』第8巻に収録されていて、写しでしたが、初めて拝見。「ほほぉ」という感じでした。
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「歌人 小田島孤舟」展、2月26日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

レンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

新花巻駅待合室には、大沢温泉さん同様、おひな様。鹿踊りバージョンも。
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明日は、途中、すっ飛ばした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん関連を。

【折々のことば・光太郎】

昨夕引越し申候。 ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。


明治40年(1907)10月19日(推定) 南薫造宛書簡より 光太郎25歳

6月にニューヨークからロンドンに渡った光太郎ですが、ロンドンの中でも転居しています。

ポリテクニツク」は、美術学校ではなく、一般人が通う技芸学校。当初はザ・ロンドン・スクール・オブ・アートという美術学校でデッサン等を学んでいました(ここで陶芸家となるバーナード・リーチと親しくなりました)が、あまり学ぶものがないと考え、ポリテクニックに移りました。

父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格を得、毎月60円の給与が出るようになった代わりに、家具や室内装飾などの応用美術の調査報告が義務づけられたことも関わるかも知れません。

宛先の南薫造は留学仲間の画家です。
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