カテゴリ: 智恵子

千葉は柏からイベント情報です。 

公開講座 「光太郎と智恵子の愛」

日 時 : 2014年6月14日(土) 13:00~16:00
場 所 : 柏市民活動センター2階会議室
      (柏駅東口・イトーヨーカドー筋向い 柏市柏1-5-18) 
参 加 : どなたでも。無料。申込不要です。
講 師 : 末永亮子さん
主 催 : NPO法人エアロームかしわ
                
『智恵子抄』に象徴される「高村光太郎と智恵子の愛」を取りあげてみました。
―あなたは私の半身です―
 というほどに智恵子を求めた光太郎と
―唯ひたむきに、芸術と光太郎とへの愛によって生きていた―
 という智恵子の「愛の生活」を考えてみましょう。
 もちろん、フェミニズムの視点も見逃せません。

当日直接会場へご参加ください。出入り自由です。
和気あいあいとした雰囲気の中で話し合い、情報交換もします。
 
同じ千葉県内ですので、行ってみようかなと思っています。ただ、その日はその足で福島は二本松に一泊、翌日、智恵子のまち夢くらぶさんの研修旅行で女川に行くことになっており、少々強行軍になりそうです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月10日007

平成6年(1994)の今日、明石書店から藤原牧子著『『智恵子抄』を訪ねる旅』が刊行されました。
 
藤原さんは兵庫で女性牧師を務めていらっしゃり、連翹忌にもご参加いただいていた方です。平成11年(1999)に亡くなられました。
 
題名の通り、『智恵子抄』及び『智恵子抄その後』の故地、二本松、九十九里、駒込染井霊園、岩手花巻などを歩かれたレポートです。

一昨日の日曜日、二本松市コンサートホールでは「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」が開催されましたが、同じ日に安達太良山では「第60回安達太良山山開き」でした。
 
地元紙に報道されていますのでご紹介します。 

「ほんとの空」目指し頂へ 安達太良山開き

 福島県内の主要な山のトップを切り、安達太良山(1700メートル)が18日、山開きした。60回の節目を迎え、過去最多となる1万5000人(主催者発表)が山頂を目指した。
 県内外から訪れた登山客が奥岳、塩沢などの登山口から入山した。互いに声を掛け合い、「智恵子抄(ちえこしょう)」でうたわれる「ほんとの空」を見上げながら、一部に雪が残る登山道を歩いた。
 「乳首山」と呼ばれる岩峰の山頂付近は濃いガスに覆われていたが、晴れ間が広がると安達太良連峰や吾妻連峰、猪苗代湖などの雄大な景色を見渡すことができた。
 60回目の山開きを祝い、餅つきなどの記念行事が催された。
(『福島民報』)
 
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「安達太良山」山開き 過去最多1万5000人“絶景”満喫

 日本百名山で知られる安達太良山(1700メートル)の第60回山開きは18日行われ、登山者は岩場やぬかるみを踏みしめながら山頂を目指し、眼下に広がる絶景のパノラマを満喫した。
 節目の山開きとなった今回は、県内外から昨年を約7000人上回る過去最多の約1万5000人が訪れた。登山者は新緑と残雪が入り交じる雄大な景観を堪能しながら、登山道を一歩一歩進んだ。時折、晴れ間がのぞくと、猪苗代湖や阿武隈山系、吾妻連峰などの景色が広がり、登山者が疲れを癒やした。
 山頂では、60回記念行事の餅つきと恒例の安全祈願祭が行われ、安達太良連盟会長の新野洋二本松市長をはじめ関係団体の代表が玉串をささげ、シーズン中の安全を願った。ミズあだたらコンテストでは、ミズあだたらに福島大4年の桑名真美さん(21)=福島市=が選ばれた。
(『福島民友』)
 
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桑名さん(福大)ミズに 安達太良山開きでコンテスト

 第50回ミズあだたらコンテストが安達太良山頂付近で催され、ミズは福島大4年の桑名真美さん(21)、準ミズは福島市臨時職員の今泉綾さん(22)が輝いた。
 桑名さんは初めての安達太良山登山で、景色を楽しみながら登ったという。「選ばれると思っていなかった。素晴らしい賞を頂きうれしい」と白い歯をのぞかせた。今泉さんは小中高と安達太良山に親しんできた。山開きに合わせた登山は今回が初めてだった。「なじみの山。60回の節目に選ばれてうれしい」と満面の笑みを見せた。
 2人には後援の福島民報社提供のトロフィーなどが贈られた。コンテストは年齢不問で、50人が出場した。着こなしなどが評価対象となった。
(『福島民報』)
 
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60回というキリ番の山開きに、過去最多の人出。よかったと思います。「智恵子抄」中の「ほんとの空」というキャッチフレーズが一役買っているのであれば、嬉しい限りです。
 
秋の紅葉冬の幻想的な樹氷、これからも四季折々に美しさを見せる安達太良山。山開きだけでなく、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月20日

昭和31年(1956)の今日、光太郎四十九日。智恵子も眠る駒込染井霊園の高村家墓所に、光太郎の遺骨が埋葬されました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】でご紹介しましたが、今日は奇しくも智恵子の誕生日です。

智恵子の故郷にそびえ立つ、福島は安達太良山関連の情報です。

安達太良山山開き

2014年5月18日(日)
今年で記念すべき第60回を迎える安達太良山山開き。日本百名山の一つに数えられている安達太良山は『智恵子抄』で有名な高村智恵子が「ほんとの空」がある山として愛したことでも知られる。山開き当日は、毎年恒例の記念ペナント配布、安全祈願祭、ミズあだたらコンテストに加え、第60回記念イベントとして、山頂での餅つき・餅配布、お楽しみ抽選会、記念グッズ配布の他に奥岳登山口付近では福島県内の郷土料理の提供も行われる。前夜祭は、安達太良山の麓でイルミネーションイベントやコンサートのアトラクションも企画されている。
(「るるぶ・com」より)
 
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安達太良山は標高約1,700メートル。天候さえよければ、陽気のいい季節ですから爽快でしょう。JR二本松駅からシャトルバスで30分、奥岳登山口→ゴンドラで10分、8合目→徒歩90分だそうです。
 
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前夜祭もあるそうですし、当日もいろいろイベントが盛りだくさんのようです。
 
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前夜祭には、地元在住のトランペッターで、智恵子関連のイベントによくご出演なさっているNobyさんがご登場なさいます。
 
当方、山歩きも好きなので、行きたいのはやまやまなのですが、この日はやはり二本松で「智恵子生誕祭」です。
 
『福島民報』さんに、予告の記事が出ています。

光太郎との愛の軌跡 詩の朗読聴いて 18日 二本松智恵子の生誕祭

詩人高村光太郎の妻・智恵子の生誕祭「朗読とギターで綴(つづ)る智恵子と光太郎の道程」は18日、智恵子の古里・二本松市で開かれます。
主催する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」事務局の熊谷さつきさんは「今年は2人の結婚、光太郎の詩集『道程』の出版がともに100周年となる記念の年です。詩とギター演奏を聴いて、夫妻の人生に思いをはせてみませんか」と誘っています。
ラジオ福島アナウンサーの菅原美智子さんが詩集「道程」「智恵子抄」などから詩23編を朗読します。ドラマ仕立てで、2人の純愛の軌跡をたどります。フラメンコギターの演奏が雰囲気を盛り上げます。
 
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「『道程』100周年」とうたって下さっていますので、000当日は当方手持ちの初版『道程』をお持ちして、御来場の皆様にお目にかけようかと考えております。
 
「安達太良山山開き」、「智恵子生誕祭」、どちらもよろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月10日

昭和46年(1971)の今日、明治図書から伊藤栄洪著『ああ光太郎・智恵子』が刊行されました。
 
「明治図書中学生文庫」シリーズの一冊で、中学生対象の評伝です。
 
古書市場等でほとんど見かけることがありませんが、非常にわかりやすく書かれた優れた評伝です。

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

もう一日福島ネタで。
 
昨日、BSフジさん放映の「旅するハイビジョン 全国百線鉄道の旅 第85回「北へ向う大幹線 東北本線」を見ました。公式サイトなどの番組説明に光太郎智恵子の名があったので期待していたところ、期待に違わず約3分間にわたって取り上げられました。
 
二本松市の智恵子生家、智恵子記念館、さらにその裏手の智恵子の杜公園にある「樹下の二人」の詩碑など。けたたましいレポーターのタレントなどは登場せず、落ち着いたナレーションで淡々と風景を紹介する作りに、かえって好感が持てました。この番組はオンエアされたものが順次DVD化、発売されていますので、そちらにも期待したいものです。
 
さて、この一帯で開催されるイベントに関し、いろいろと報道されています。 

第10回智恵子生誕祭 好きです智恵子青空ウォーク~桜章~ 桜満開の空の下 智恵子ゆかりの地を歩く―参加者募集

20日(日)午前9時半(午前9時受付)・二本松市智恵子純愛通り記念碑前発(着も)。約5キロを歩く。定員50人(先着順)。昼食は各自持参。参加費は1000円、学生500円(智恵子記念館入館料、保険代含む。麦茶、プレゼント付き)。智恵子のまち夢クラブ熊谷さん0243・23・6743。
(『読売新聞』福島版) 
 
智恵子青空ウォークに関しては、『福島民報』さんのサイトでもPDFで紹介されています。
 
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さらに別件で一つ。 

“二本松の桜の名所”巡る 臨時バス「春さがし号」発車

 ふくしまプレDCに合わせ、内容を充実させた、二本松市内の桜の名所などを巡回する臨時バス「二本松春さがし号」は1日、運行をスタートした。5月16日までは毎日、5月17日から6月29日までの土、日曜日の約3カ月間、1日8本のバスを運行し、春の観光シーズンを迎えた同市内を巡る。
 今年は、プレDCに合わせ、これまでの「春らんまん号」を改称、運行期間を延長するなどした。
 コースはJR二本松駅前を出発点に本町から亀谷坂露伴亭、智恵子の生家を経て、霞ケ城公園や大隣寺を巡って駅前に戻る。料金は、大人(中学生以上)が170~500円、子どもは90~250円。1日フリー乗車券は、大人(同)500円、子ども250円(乳幼児無料)。1日フリー乗車券の提示で、同市の大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割り引きされる。
 このほかは、10日から5月6日まで実施する第4回城下町すたんぷラリーにも参加している。
 同駅前で1日行われた出発式では、半沢典明福島交通二本松営業所長が「市街地活性化の一助となるよう安全運行に努めたい」とあいさつ。引き続き、半沢所長と安斎文彦二本松観光協会長、高野正幸二本松駅長がテープカットした。問い合わせは福島交通二本松営業所(電話0243・23・0123)か二本松観光協会(電話0243・55・5095)へ。
(『福島民友』)
 
「ふくしまプレDC」とは、来年、平成27年4月から6月に開催する「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレキャンペーンとして、今年4月から6月まで「福が満開、福のしま。」として展開されている福島県観光キャンペーンだそうです。
 
これから春爛漫の福島。ぜひ訪れて、光太郎智恵子に思いを馳せてください。
 
ちなみに当方、明後日は福島市に行って参ります。シャンソン歌手、モンデン・モモさんのコンサートです。千葉では盛りを過ぎてしまった桜がまだ見られそうで、期待しています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月14日

昭和47年(1972)の今日、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てした、日本女子大学校での智恵子の先輩、柳八重(旧姓・橋本)が歿しました。
 
八重の夫は洋画家の柳敬助。敬助は荻原守衛や光太郎と親しく、留学からの帰朝後に荒れた生活をしていた光太郎を心配していたといいます。

昨日夕刻にNHK総合で放映された「特集 小さな旅「山の歌」」を拝見しました。昨秋放映された「シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」を含む「小さな旅」の総集編でした。
 
安達太良山の項では、昨秋の放映でも使われていた光太郎・智恵子のエピソードがカットされずに使われていました。その後は安達太良山で訓練中の地元・安達高校山岳部女子部員の話でした。
 
今日の夕刻には、BSフジさんで「旅するハイビジョン 全国百線鉄道の旅 第85回「北へ向う大幹線 東北本線」の放映があります。また銚子に出かける用事があるので、リアルタイムでは見られませんが、録画予約をしておきました。番組説明には高村光太郎の詩で有名な安達太良山」の語がありましたので、期待しています。
 
ところで過日、二本松市出身の日本画家、故・大山忠作氏のご息女、大山采子さん(女優・一色采子さん)からお手紙を頂きました。4/2の第58回連翹忌にご出席下さった御礼状をお送りしたのに対してのご返信でした。
 
その中に、俳句が一句。曰く、
 
連翹忌 亡父(ちち)知る婦人(ひと)の 細き杖
 
連翹忌には、光太郎の甥にあたる高村規氏をはじめ、大山忠作氏をご存知の方がいらしたようで、その中の杖をつかれた老婦人を詠まれたようです。
 
ちなみに市販の気の利いた歳時記には、「連翹忌」が春の季語として登録されています。
 
「おそまつ」とありますが、いやいやどうして、毛筆の流れるような筆跡で、内容的にも感動しました。
 
さらに大山さん、お父さまの描かれた、安達太良山をあしらった一筆箋(30枚組)を同封してくださいました。大切に使わせていただきます。

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さて、過日の『福島民報』さんに、安達太良山の麓、国道4号線沿いの「道の駅安達智恵子の里」に関するニュースが載りましたので、ご紹介します。  

万燈桜幻想的な姿 来月6日まで

福島民報 4月11日(金)9時45分配信
 福島県二本松市の道の駅「安達」智恵子の里下り線内にある万燈(まんとう)桜のライトアップが10日、始まった。5月6日まで、幻想的な夜桜が浮かび上がる。
 道の駅開所一周年記念イベント「万燈桜まつり」に合わせて企画した。初日は点灯式が行われ、道の駅を運営する二本松市振興公社長の新野洋市長がスイッチを入れた。毎日午後6時から午前零時まで明かりがともる。
 万燈桜は樹齢270年で高さ約15メートルの一本桜。花は咲き始めの状態だという。
 桜まつりは4月末まで。期間中の土・日曜日に二本松市産のコメや風船アート作品のプレゼントなどがある。
 問い合わせは道の駅 電話0243(24)9200へ。
 
他にも二本松周辺には桜の名所がたくさんあります。霞ヶ城、安達ヶ原公園、岳温泉の桜坂などなど。智恵子生家・智恵子記念館と併せて足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月13日

大正13年(1924)の今日、『読売新聞』に詩「春駒」が掲載されました。
 
  春駒
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三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、003
ただ一心に草を喰ふ。

かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
当方の住む千葉県香取市のお隣、成田市の三里塚にかつてあった、皇室の御料牧場を訪れて書かれた詩です。この近くに光太郎の親友で作家の水野葉舟が移り住んでいました。
 
画像は三里塚に建つ「春駒」詩碑です。

先日、また音楽関連の用事で銚子に行って参りました。目的地は小畑町の銚子市民センター。公民館的な施設です。ここは、大正元年(1912)に、光太郎と智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼にほど近く、せっかくですので用件が終わった後、犬吠埼まで足を伸ばしました。ま、このブログのためのネタ稼ぎです(笑)。
 
光太郎智恵子がしばらく滞在した宿は「暁鶏館」。経営は変わりましたが、今も残っています。
 
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ただ、ひらがなで「ぎょうけい館」と改称しています。しかし正面玄関には昔ながらの漢字のロゴ。
 
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公式サイトの他、「ゆこゆこネット」「近畿日本ツーリスト」など、あちこちの観光サイトで、やはり光太郎智恵子ゆかりの宿として紹介されています。
 
戦前の絵葉書がこちら。
 
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宿の目の前には太平洋の荒波が押し寄せています。
 
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中央がぎょうけい館。右手の大きな建物は別のホテルでしたが、廃業してしまいました。東日本大震災以降、観光客が減少した影響です。
 
ぎょうけい館前の波打ち際には、こんな遺構が残っています。
 
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この石組みは、生け簀の跡です。昔はここに魚を泳がせておき、宿泊客に供したとのこと。現在は使用されていません。
 
振り返れば犬吠埼灯台。
 
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ぎょうけい館からは、徒歩5分ぐらいでしょうか。
 
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灯台入り口手前の丘の上には、光太郎と親しかった佐藤春夫の詩碑があります。
 
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光太郎智恵子がここを訪れた前年、佐藤は与謝野鉄幹らと犬吠を訪れ、「犬吠埼旅情のうた」という詩を作りました。その一節が刻まれています。
 
佐藤と光太郎が親しくなるのはもう少し後なので、光太郎は鉄幹あたりから犬吠の魅力を教えてもらったのではないでしょうか。
 
ぎょうけい館は灯台の南。灯台を挟んで反対の北側は君ヶ浜。光太郎智恵子はこの浜も歩いています。
 
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逆にぎょうけい館から南下していくと、光太郎の詩「犬吠の太郎」に登場する太郎こと阿部清助の墓もあります。
 
銚子も震災の影響を受け、低迷しています。春の観光シーズンです。ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月11日

明治40年(1907)の今日、智恵子が日本女子大学校家政学部を卒業しました。
 
4月のこの時期に卒業式というのはちょっと変わっているな、と思いました。下記は平成23年(2011)、群馬県立土屋文明記念文学館での企画展「『智恵子抄』という詩集」の図録から拝借しました。智恵子卒業写真です。
 
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この後も智恵子は郷里に帰らず、東京にとどまって油絵を続けます。知人を頼って色々な先輩芸術家を紹介してもらったりし、そうした中で明治44年(1911)に、光太郎と知り合うことになるのです。犬吠行きはその翌年でした。
 
2016/3/13追記 上記写真、中央に広岡浅子が写っていました。

先週、千駄木のカフェギャラリー幻さんにて開催中の「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」を観てきましたが、そちらに行く前に、駒場の日本近代文学館さんにも足を伸ばしました。例によって調べものです。
 
館内のカウンターに各地の文学館等の企画展チラシ、各種イベント案内等が置かれていますので、4月2日の連翹忌の案内も置かせていただこうと、若干部、置いてきました。
 
ちなみに連翹忌案内はこちら。ご参加お待ちしております。
 
入れ替えに頂いてきたのが下記です。
 
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NPO法人・現代女性文化研究所さんで刊行している『現代女性文化研究所ニュース№37』。1月31日発行でした。
 
同研究所は『読売新聞』の記者で、『青鞜』の関係者―平塚らいてう、尾竹紅吉、伊藤野枝など―を直接知っていた望月百合子の顕彰なども行っているようです。
 
昨年、平凡社さんから刊行された青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』に関し、作家の森まゆみさんの文章が載っていました。智恵子にも言及されています。
 
 
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昨年11月30日、同研究所にて開催された森さんの講演会の内容をまとめたものでした。ご希望の方は、同研究所ホームページより注文できます。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月4日

昭和27年(1952)の今日、十勝沖地震が発生しました。
 
震源地は北海道襟裳岬東方沖約50km、地震の規模を表すマグニチュードは8.2、北海道では震度6を観測しました。厚岸湾が最高で6.5m、青森県八戸市で2mの津波が発生、厚岸郡浜中町の中心部霧多布地区では津波による被害で壊滅、死者は28人にのぼったそうです。
 
光太郎の住む花巻郊外太田村山口の山小屋でも強い揺れを感じたようで、この日の日記に記述があります。
 
三月四日 火 くもり、時々雪、 午前十時過かなりの地震あり、後三陸に津波ありし由(略)夜、コタツ、ラジオ。ニュースをきく。
 
もうすぐ3・11です。新聞等でも関連記事や特集が目立ってきました。明日はその当たりを書いてみます。

東京銀座からイベント情報です。

高村智恵子紙絵展

会 期 : 2014年3月3日(月)~20日(木) 日曜休廊
会 場 : 永井画廊 東京都中央区銀座4-10-6

出品作品
高村智恵子紙絵15点
「シンメトリー」「花」「はな」「魚」「魚」「洋梨」「柿とみかん」「鍋と小鉢」「のり筒」「くだものかご」「さつまいも」「ロールケーキ」「クリームケーキ」「スプーン」「教会(思い出のアトリエ)」
※いずれも昭和12年(1937)~同13年(1938) 「生誕130年彫刻家高村光太郎展」出品作
 
他に紙絵複製画40点
 
関連イベント
日 時 : 2014年3月11日(火)
 13:30~14:30 トークショー「智恵子を語る」
  高村朋美(高村規氏長女) 佐藤浩美(高村光太郎研究会)
 14:46~ 来場者とともに被災者へ黙祷
 15:00~ フォルクローレ演奏 ソンコ・マージュ
       高村智恵子へのオマージュ 祈りのメッセージ 等
 
 
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昨年、全国3館巡回で行われた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んだ智恵子の紙絵のうち、15点が再び展示されます。永井画廊さんは、2012年以後、毎年3月に被災地への祈りのメッセージ展を開催していて、その一環です。そこで、3・11に関連イベント、というわけですね。
 
ちなみに永井画廊代表取締役の永井龍之介氏は、テレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、洋画系の鑑定士としてご出演なさっています。

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月27日

昭和12年(1937)の今日、麹町のレストラン・ツクバで開催された親友・水野葉舟の小品集「村の無名氏」出版記念会発起人に名を連ねました。

昨日のインターネットサイト『産経ニュース』の福島版に以下の記事が載りました。『産経新聞』さんの福島版にも載ったのでしょうか。 

道程刊行と結婚100周年 智恵子の生家・智恵子記念館

日本百名山の一つ、福島県の安達太良山を眺めるとき、雄大な山の美しさだけでなく、その広い大きな空に魅せられる。澄んだきれいな青い空が、もう一つの主役-。高村光太郎の詩集「智恵子抄」の『あどけない話』に登場する妻、智恵子の語る「ほんとの空」が、そこにはある。
  
 《智恵子は東京に空が 無いといふ、
 ほんとの空が見たいとい ふ。
 〈略〉
 智恵子は遠くを見ながら 言ふ。
 阿多多羅山(あたたらや ま)の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だと いふ。》(青空文庫「智恵子抄」より抜粋)
  
 智恵子抄では、『樹下の二人』にも、安達太良山や阿武隈川が歌われている。
 
 ■裕福な少女時代
 智恵子は明治19(1886)年、福島県油井(ゆい)村(現在の二本松市)の酒蔵で生まれた。
 生家はいったん売却され、民家として使われていたが、今は当時の姿を再現し、土蔵があった裏庭には、「二本松市智恵子記念館」が併設されている。
 智恵子記念館によれば、智恵子は、油井小学校高等科、福島高等女学校を経て、日本女子大に進学。卒業後、実家には戻らず、洋画家の道を歩み始める。同44年に初めて光太郎のアトリエを訪ね、翌年から光太郎が智恵子に向けた詩を書くようになった。
 そして、今から100年前に当たる大正3(1914)年10月、光太郎が詩集「道程」を世に出したのをきっかけに12月、2人は結婚生活をスタートした。
 智恵子の生家のそばで、同11年に開業した理髪店の3代目、熊谷健一さん(63)は「智恵子のまち夢くらぶ」代表を務める。理髪店は、「先代の頃は、智恵子の父も常連客だった」(熊谷さん)という。
 夢くらぶは平成17年1月に活動を開始し、10年目を迎えた。智恵子に関する私的な研究会だが、熊谷さんらは、旧安達町の商工会青年部のメンバーとして昭和60年代から生家の保存運動を進め、同4年の記念館設立にこぎつけるなど、「智恵子の里」づくりに貢献してきた。
 
療養に訪れた故郷
 今でこそ、道の駅もでき、たくさんの智恵子抄ファンが訪れるものの、熊谷さんは「智恵子の生家の長沼家は破産し、智恵子は末期に精神的な病気を患ったことから、町も『智恵子の故郷』をアピールすることに積極的でなかった」と打ち明ける。
 智恵子は、自らの芸術活動の行き詰まりの中で、昭和4(1929)年の生家の破産と一家離散をきっかけに同6年、46歳のときに統合失調症を患う。翌年、自殺未遂を起こし、同8年に光太郎と東北旅行に出た。
 2人は東京出発前に正式に籍を入れたため、油井村役場に智恵子の除籍に訪れた。「朝、役場が開く時間まで、2人が安達太良山を望む鞍石(くらいし)山を歩く姿を油井小学校に登校する子供が見ており、その道は今、愛の小径として整備されている」(熊谷さん)。
 智恵子は、母や妹一家のいる千葉県九十九里海岸で療養生活を送った後、都内のアトリエに戻り、間もなく入院。そこで制作した千数百点の紙絵を遺作として、同13年に53歳の若さで死去。3年後に、光太郎が「智恵子抄」を刊行した。
 今年は「道程」の刊行と結婚100周年、夢くらぶ発足10周年の記念の年。10回目を迎える智恵子のゆかりの場所を歩く「好きです智恵子青空ウオーク」(4月20日)、生誕祭と道程朗読会(5月18日)など、多くのイベントが開かれる。
 【メモ】東北自動車道・二本松インターチェンジから約10分、JR安達駅からタクシーで約3分、二本松駅から約8分。福島交通八軒町(はちけんまち)バス停から徒歩2分。問い合わせは智恵子記念館(二本松市油井)(電)0243・22・6151、智恵子のまち夢くらぶ(熊谷代表)(電)0243・23・6743。
 
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このブログで何度もご紹介している「智恵子のまち夢くらぶ」さんが大きく取り上げられています。
 
さらに「道程刊行と結婚100周年」という見出しもありがたいと思いました。光太郎・智恵子顕彰の今年のツボですので。
 
昨日のこのブログでは、その「道程刊行と結婚100周年」の節目の連翹忌案内を載せました。広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な精神で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。お申し込み下さい。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月22日無題1

昭和58年(1983)の今日、郷原宏著『詩人の妻 高村智恵子ノート』が刊行されました。
 
すぐれた智恵子評伝の一つです。
 
帯文より。
 
智恵子伝説を解読する――
詩人高村光太郎の妻であり、名詩集『智恵子抄』のヒロインでもあるひとりの女の生涯を通覧することによって、詩人とその妻の関係の真相をミステリアスに究明する長編評伝。
 
未来社刊。2014年現在、いまだに新刊で手に入ります。

今秋の話なので、半年以上先の話ですが、報道が出ていますのでご紹介します

県北を重点開催地 県芸術祭

福島民報 2月15日(土)10時14分配信
 
 福島県芸術祭運営委員会は14日、福島市民会館で開かれた。平成26年度の県芸術祭の重点開催地を県北地区とし、開幕式典・開幕行事を9月13日に二本松市の二本松文化センターで催すことを承認した。 
  開幕行事のテーマは「智恵子の里に集う文化で深める絆」とする方針。開幕式典に続いて、文化団体・民俗芸能団体による発表を行うほか、県北地区の物産コーナーや展示コーナーも開設する方向で準備を進める。 
  今年度の県芸術祭の実施状況も報告された。主催行事は27件で、来場者は2万7712人だった。参加行事は46件で6万440人が来場した。合計の来場者は8万8152人となり、前年度を4081人上回った。 
  運営委員会には文化団体の代表ら約40人が出席した。運営委員長の高城俊春県芸術文化団体連合会長があいさつし、県芸術祭の成功を誓った。

二本松菊人形衣替え 地元に根差したテーマに

福島民報 1月30日(木)9時31分配信
 
 NHK大河ドラマを長年、主要テーマにしてきた福島県二本松市の「二本松の菊人形」は今秋、展示内容を一新する。今年は60回の節目で、二本松城築城600年にも当たることから、地元に根差した内容に衣替えする。運営する二本松菊栄会が29日、市役所で理事会を開き、企画内容を決めた。 
 
■「八重効果」追い風に
 二本松の菊人形は昭和50年からほぼ毎年、大河ドラマを主要テーマに開催してきた。59回目の昨秋は「八重の桜」をテーマに、北は北海道、南は沖縄県と全国から多くの観光客が訪れた。 
  60回の節目と、二本松城築城600年を迎える今年は、昨年の「八重の桜」効果を追い風に、二本松の良さを全国に発信する。二本松藩や二本松少年隊、結婚100周年になる高村光太郎・智恵子夫妻といった地元にゆかりある人物や歴史に焦点を当てた内容にする。 
  展示方法も変える。これまで一体となっていた会場を(1)菊花品評大会(2)菊人形観賞(3)菊花庭園-の3会場に分ける。庭園会場は菊本来の美しさを楽しんでもらおうと、初めて設ける。ガーデニングの専門家に監修を依頼し、見せ方を工夫する。 
  会期は10月11日から11月24日の45日間とし、前回から一週間延長する。料金は据え置き、大人500円(高校生以下無料)とした。 
  会長の新野洋市長は席上「今年は節目の年。先人から伝わる良き伝統を引き継ぎ、さらに充実させるために全力を尽くす」とあいさつした。

こうした活動が、智恵子や光太郎の遺勲を後世に伝えていくよすがとなってほしいものです。
 
菊人形は昨年初めて行きましたが、今年も行かねば、と思いました。

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現地を訪れることが大きな復興支援となります。みなさんもどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月18日

昭和29年(1954)の今日、リンゴの紙絵を作りました。
 
智恵子が、ではなく、光太郎が、です。
 
晩年の光太郎と親しく接した美術史家・奥平英雄の求めに応じ、この年1月から3月にかけて書いた、「有機無機帖」と題した30ページ余りの書画帖の中の見開き2ページです。
 
同じページには詩「リンゴばたけに」。昭和22年(1947)の作です。

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 リンゴばたけに008
 雨ふりて
 銀のみどりの
 けむるとき
 リンゴたわゝに
 枝おもく
 沈々として
 あかきかな
 
最後の「な」(那)の字を失敗して書き直しています。
 
光太郎日記には以下の記述があります。
 
二月十八日 木 
くもり、少雨、  ストーブ、 胸像、 奥平さんの帖に揮毫、リンゴの画を切紙でつくる、洋モク、ペルメルの赤い包紙でつくる、
 
「ペルメル」は「ポールモール(PALL MALL)」。アメリカのたばこで、現在でも日本で、ほぼ変わらぬ赤いパッケージで販売されています。「洋モク」という語に懐かしさを感じるのは当方の世代で最後ではないでしょうか……。
 
さて、紙絵。明らかに智恵子のそれの影響が見て取れますね。輪郭線を墨書している点は智恵子の作品にはない特徴ですが。

福井県鯖江市からのイベント情報です。

夢みらい館・さばえフェスタ ~女と男 つなげよう ひろげよう 新たな明日へ~

◆日時◆ 2014年2月23日(日) 8:30~15:00

◆内容◆
 8:30 開場
 9:30 オープニング
  式典
  各サークル・団体発表

13:30 講演「『智恵子抄』をめぐる物語」
講師 荒井 とみよ 氏   鯖江市出身、元・大谷大学教授
※詩人・高村光太郎は、狂った妻を介護した夫でした。
その記録ともいえる『智恵子抄』は今の私たちに何を語りかけるのでしょうか。

・パネル作品展示(終日)
・バザー(なくなり次第終了します。)
 
◆お問い合せ◆
 夢みらい館・さばえ(鯖江市三六町1丁目4-20) TEL 0778-51-1722  FAX 0778-51-7830
 
 
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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻座でフランス映画を観ました。
 
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花巻座
 
日記の記述によれば、題名は明記されていませんが、キャストがシャルル・ボワイエとダニエル・ダリューだったとのこと。
 
ここから調べてみると、昭和11年(1936)制作の「うたかたの恋」ではないかと思われます。この映画は戦前の日本では検閲により公開禁止、戦後、昭和21年(1946)になって公開されました。
 
ちなみにこの時、賢治の弟で、光太郎と親しかった宮澤清六も一緒に映画を観ています。

昨日のブログでは、明治末から光太郎がスケートに興じていたことについて書きました。
 
それでは一方、智恵子はどうだったのでしょうか。
 
智恵子はスケートではなくスキーに興じていたという記録が残っています。
 
平成11年(1999)、『新潟日報』に載った若月忠信氏による「新潟名作慕情 高村智恵子-新潟ゆかりの写真」を参照させていただきます。
 
時に大正2年(1913)1月から2月にかけ、智恵子は日本女子大学校時代の友人、旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に滞在していました。光太郎との婚約直前です。
 
スミの姉・ヤヱは日本女子大学校で智恵子と同期入学、のちに妹のスミも同校に入学、姉妹で智恵子と交友を深めていました。しかしヤヱは明治40年(1907)に急逝。以後も、スミと智恵子の交友は続きます。そうした中で、智恵子の旗野家逗留が実現しました。
 
ちなみに智恵子の祖父・長沼次助の出自は同じ新潟の南蒲原郡田上町。そのあたりの関わりもあったかも知れません。その後、大正5年(1916)にも智恵子は旗野家を訪れており、その際の写真が残っています。
 
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前列左端が智恵子、後列中央がスミです。
 
旗野家は地元の名家で、当主の美乃里(ヤヱ・スミの兄)は東京専門学校(現・早稲田大学)卒、欧米留学の経験もあり、当地の酪農の先駆者だったそうです。一族には歴史学者、地理学者の吉田東伍、政治家、随筆家の市島春城がいました。上記写真にも吉田や市島の子供が写っています。
 
雑誌『春秋』の昭和52年(1977)4月号に載ったスミの「智恵子回想」から。
 
冬は積雪の多いところで、何尺かはいつも積っておりました。高田に日本ではじめてスキーが来た頃で、兄は冬仕事の足のために男衆を連れて習いに行ってきたのです。もちろん女などやったものではありません。そのスキーを持ち出して、私達はずいぶん滑りました。モンペに赤いセーターを着て。大きな原っぱで人通りもありませんので、私たちの滑っている姿を見かけたあのあたりの人が、バケモノが出るといって騒いだというこっけいなお話もあります。あんまり熱心なので、朝起きると体中が痛み、首が動かないほどでしたが、それでも一冬よくやりました。
 
「高田」云々は、「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、
 
1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現在の新潟県上越市)において、オーストリア陸軍少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒが陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用し、堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員に技術を伝授したことが、日本に於ける本格的なスキー普及の第一歩とされている。(これが我が国におけるスキー発祥と言われている。)また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。
 
とのことです。
 
それから3年しか経っておらず、光太郎のスケート同様、智恵子のスキーも、日本人として先駆の部類にはいると思います。しかも女性。さすがにテニスや乗馬、自転車、バスケットボールなどにいち早く取り組んだ智恵子ですね。
 
ちなみに智恵子が新潟でスキーに興じていた頃、光太郎が新潟の智恵子に送った手紙が現存しており、光太郎から智恵子への唯一のラブレターとして、昨年の今日、NHKさんの「探検バクモン」で紹介されました。
 
旗野邸は、併設された吉田東伍記念博物館とともに現存しているとのこと。いずれ行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月6日

昭和29年(1954)の今日、未完のまま絶作となった彫刻「倉田雲平胸像」の制作を開始しました。
 
倉田はその当時既に故人でしたが、「つちやたび」という会社を興した人物です。同社は日華ゴム、月星化成と社名を変え、現在はムーンスター。運動靴メーカーとして有名ですね。

今日からしばらく、土・日と1泊2日で出かけて参りました東北地方のレポートをいたします。
 
まずは福島駅で東北新幹線から福島交通飯坂線に乗り換え、美術館図書館前駅(ある意味すごい駅名ですね)で下車、福島県立図書館に参りました。
 
最近は、ほとんどの図書館で、居ながらにしてインターネットで蔵書のキーワード検索等が可能です。以前に同館の蔵書を「智恵子」のキーワードで検索してみたところ、当方の足しげく通う首都圏の図書館、文学館等にはないものが何件かあぶり出されました。やはり地方で刊行されたものなど、その地方でしか所蔵されていないものが多いのです。
 
また、最近はレファレンスサービスも充実しており、現地に足を運ばなくても「××という書籍の○○に関する部分のコピーを送って欲しい」というお願いをして送っていただくことも可能です。ただ、内容がしっかり分かっていないと無駄なものを手に入れることになったり、手続きが煩瑣だったりします。親身になって資料探しをして下さる館も多いのですが、逆に中にはあからさまに面倒がったり、簡単な話が通じなかったりする館もあり、不愉快な思いをしたことも一度ならずあって、だったら「レファレンス受け付けます」などと謳うな、といいたくなります。やはり可能であれば現地に行って、自分の目で資料を確かめるのが一番ですね。
 
そういうわけで、以前にあぶり出した未見の資料を閲覧し、必要な部分は複写して参りました。その中で、特に『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』(平成24年=2012)という書籍は凄い、と思いました。美術館などの企画展図録のような体裁で、200頁弱あり、しかもオールカラーです。
 
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明治病院は、福島市内で開業している個人病院で、創立は明治43年(1910)。創設者幡英二の妻・ナツは二本松の隣・本宮町の出身で、日本女子大学校での智恵子の先輩にあたります。同書では随所に幡夫妻と智恵子との関わりが記述されています。
 
智恵子は卒業後も女子大が運営する寮に住み続けていましたが、明治42年(1909)に突如その寮が閉鎖されることになりました。その際に、途方に暮れる智恵子に手をさしのべたのがナツと、さらにすでにナツと結婚していた幡です。二人は二人が当時暮らしていた駒込動坂町の日本画家・夏目利政の家に智恵子を住まわせてくれました。下の写真は夏目家で撮影されたもの。左端が幡英二、一人おいて智恵子、右端がナツです。
 
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他にも、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の005口絵に使われている、幡夫妻と、息研也氏と一緒に撮った写真もあります。
 
幡夫妻は同じ年に福島に戻り、明治病院を開院しますが、その後も智恵子との交流は続き、智恵子も何度か明治病院を訪れたそうです。智恵子は明治45年(1912)4月に開かれた太平洋画会の展覧会に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」の2枚の油絵を出品しましたが、このうち「雪の日」は、同年2月に明治病院に滞在した折りに、同院の中庭を描いたものではないかという説があるそうです。
 
さらに同書によれば、この当時の中庭や建物がまだ残っているとのこと。これはやはり現地を見なければ、と思い、県立図書館を後にし、明治病院を目指しました。実は行く前からネットで有る程度の情報を得ており、場合によっては現地に行くつもりだったので、予定の行動でした。

福島駅から歩くこと約10分、受付の方に来意を告げると、「それでは事務部長を呼びます」とのことで、出ていらしたのはなんとナツの曾孫に当たるという幡哲也氏でした。快く問題の中庭を見せて下さり、いろいろレクチャーもして下さいました。
 
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東日本大震災の折には灯籠が倒れたり、それ以前にも少し手を入れたりということがあったそうですが、基本的に智恵子が訪れた当時のままだとのこと。感慨深いものがありました。
 
帰り際、ダメ元で「『明治病院百年のあゆみ』はまだ残っていますか?」と訪ねたところ、なんと、一冊いただけてしまいました。非売品なので手に入れようと思ってもなかなか手に入るものではありません。実にありがたい限りでした。
 
早速、福島からさらに北上する新幹線の車中で詳しく読んでみたところ、東日本大震災がらみの記述も多くありました。
 
震災当時は外来診療中でしたが、壁に亀裂が入るなど、建物が危険かも知れないという判断で、職員、患者さんたちすべて広い駐車場に移動したところ、一人の妊婦さんの陣痛が始まってしまったそうです(同院は元々産科医院)。そして、駆けつけたご主人の車の中で無事出産したそうです。
 
それにしても、震災からもうすぐ3年になりますが、福島もまだまだ復興途上ですね。街頭ではこんな署名活動をやっていました。
 
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除染作業中の場所もありましたし、下記のステッカーもまだあちこちに掲示されています。
 
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当方のいろいろな活動が、少しでも復興支援になればと念じております。
 
明日は花巻のレポートを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月20日

昭和15年(1940)の今日、朝日新聞本社で行われた「朝日賞贈呈式並に記念講演会」で、「「和気清麻呂公」銅像について」の題で講演をしました。
 
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この年の朝日賞受賞者は以下の通りです。
 
石原忍色盲検査表の研究
川合玉堂絵画「彩雨」
佐藤清蔵銅造「和気清麻呂公像」
滝精一「国華」による東洋美術文化の宣揚
柳田国男日本民俗学の建設と普及
山田耕筰
交響楽運動と作活動
 
このうち佐藤清蔵は光雲の孫弟子にあたり、かつては「朝山」と号していましたが、師匠との不仲から、この時期は本名の「清蔵」を名乗っていました。さらに後に「玄々」という号も使用します。日本橋三越の巨大彫刻が有名です。
 
「朝山」時代の作品がいくつか、光太郎とほぼ同時期ということで、昨年各地で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」で参考出品されました。
 
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さて光太郎の講演。新聞報道に「高村光太郎氏が品格の高い清浄さの感じられる名作と絶賛」とある程度で、具体的な内容の筆録等が確認できていません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
「和気清麻呂」銅像は大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三人によるコンペが行われ(朝倉はコンペと知らず途中で辞退)、佐藤の作品が選ばれました。今も東京メトロ竹橋駅近くにあるそうです。

2週間ほど前に、このブログで、彩流社刊・近藤祐氏著『脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する』をご紹介しました。
 
12月22日付の『朝日新聞』に、作家の荒俣宏氏による書評が出ました。
 
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◇別角度の文学史が見えてくる

 日本近代の精神科病院は、公立施設に限定するならば、都市の美観と治安を守るために路上生活者を一掃する政策から誕生した。明治5年にロシア皇太子が訪日するのに合わせ、困窮者や病者を収容すべく設置された「養育院」内の「狂人室」が起源である。
 
 病者には背に「狂」の字を染めた衣服が着せられ、手枷足枷(てかせあしかせ)を付けられた。明治12年にはこれが独立して東京府癲狂(てんきょう)院となるのだが、やがて有名な相馬事件が発生、発狂と称して癲狂院に押し込められた旧相馬藩主を忠臣が救いだすという大騒動となった。
 
 監獄まがいの悪いイメージを嫌った病院側も、癲狂という語句を抹消するが、「内分泌の多い患者の睾丸(こうがん)を別の患者の腕に移植する」怪実験が行われた戸山脳病院が業務停止になるなど、おぞましい話に付き纏(まと)われた。
 
 本書は知られざる脳病院の歴史を東京エリアに絞って詳述した後、後半で精神科病院が林立する大正期前後に精神を病んだ著名文学者の運命を検証する。
 
 芥川龍之介や宇野浩二の眼(め)に「死ぬまで出られぬ監獄」と映った脳病院の情況を筆頭に、高村光太郎が妻の智恵子を入院させることを最後まで躊躇(ちゅうちょ)し、結局は入院後すぐに彼女を亡くした事情、その脳病院で治療する側にいた歌人斎藤茂吉の心情などを読み進むうちに、精神科病院を介して意外なほど多数の文学者が深く関係を結んでいたことに驚かされる。この文脈で別角度の文学史が語れる。
 
 ただ、本書では作家たちの病歴や妄想幻覚の深い分析が慎重に控えられている。精神科病院に入院させられた中原中也が自宅の屋根に座って弟を見送る場面で、芥川龍之介最後の映像がやはり高い木に登っているシーンだったとする指摘などが興味深いだけに、もう少し突っ込んでもよかった。蛇足だが、中村古峡や石井柏亭の人名が誤植のままなのは、稀(まれ)な書だけに残念。
 
なかなか的確な評です。
 
実は当方、まだ読んでいる途中です。荒俣氏も指摘していますが、時代遅れで、牽強付会に過ぎる精神分析学的手法を取っていないため、読んでいて納得いかない部分はありません。また、芥川や辻潤、宇野浩二らがどんな病状だったのかというあたりを、当時の社会状況や思想史的な潮流に当てはめた論旨が非常に興味深いのですが、やはり何というか、読んでいて非常に痛々しいものがあります。そう感じさせる著者の筆致に感心させられる部分が大きいともいえます。
 
この後、太宰治、中原中也と続いていきます。近いうちに読み終えようと思っています。
 
ところで版元の彩流社さん。今度は光太郎と特異な交流を持っていた詩人、野澤一(のざわ・はじめ)関連の書籍を刊行しました。題して『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』。さっそく注文しましたので、届き次第詳しくご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月25日006

昭和21年(1946)の今日、宮澤清六と共に編者を務めた日本読書組合版『宮澤賢治全集』全6巻の刊行が始まりました。
 
第一回配本の「第二冊」は、『春と修羅』などの詩を収めています。
 
装幀、題字も光太郎。実にいい文字だと思いませんか?
 
黒いもやもやはシミではなくそういうデザインです。

今日は福島県・二本松に行って参りました。
 
「智恵子のまち夢くらぶ」さんにより、4月から開催されていた「智恵子講座’13」が今日で閉講ということで、お邪魔した次第です。
 
「安達太良山はもう雪化粧」という情報は、事前に得ていまして、「それなら途中では名残の紅葉が見られるかな」などと考えておりましたところ、どうも福島を甘く見ていました。常磐自動車道から磐越自動車道に入るあたりで雪がちらつき始め、阿武隈高原の辺りからは銀世界でした。
 
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安達太良山も雪雲に覆われ、ご覧の通りでした。
 
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ただ、吹雪くということはなかったので助かりました。それでも郡山ジャンクションから東北道に入ってすぐあたりで、乗用車2台大破の事故のため渋滞になっていました。改めて気をつけようと思いました。
 
さて、午前中はいわき市暮らしの伝承郷館長の小野浩氏による講座・「草野心平と宮澤賢治」。2人が光太郎とどのように関わったか、というか3人のつながり、といった点でお話がありました。
 
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午後は閉講式ということで、受講された皆006さん一人一人、感想や光太郎智恵子に関する思いを語る時間が設けられ、当方も話をして参りました。
 
地元の方がほとんどでしたので、やはりいかに二本松という地域に根ざした活動を続けていくか、といった話題にもなりました。日本中どこでもそうですが、今後の課題ですね。
 
それから今年の活動記録、新聞報道のコピー、受講者の皆さんや我々講師の文章をまとめた文集も配布されました。講座の企画から運営、こうしたものの作成、さらに講座以外に研修旅行などの手配もされた熊谷代表、本当にお疲れ様でした。
 
来年は「智恵子のまち夢くらぶ」さん結成十周年だそうで、これまでと活動内容を大幅に変え、講座は行わず(光太郎智恵子を語るつどい的なことはやられるようですが)、研修旅行系の部分を充実させるそうです。6月には女川、そして秋にはなんとパリに行かれるとのこと。凄い行動力ですね。
 
当方も女川や語るつどいなどの部分は、やはりできる限りお手伝いするつもりでおります。
 
「講座」といえば、名古屋在住の高村光太郎研究会会員・大島裕子様からメールをいただきました。ご主人の名古屋学芸大学教授とお二人で、「名古屋・高村光太郎談話会」という講座を始められる由。「田舎の小さな出来事なので、公開には及びません」とのことでしたが、せっかくですのでとりあえず簡単にご紹介いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月15日

昭和14年(1939)の今日河出書房から『現代詩集』第一巻が刊行されました。
 
光太郎は「猛獣篇其他」として近作22篇を載せました。
 
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気がつけば12月も中旬。年の瀬の雰囲気が漂ってきましたね。
 
1月に行われるイベント等をいくつか把握していますが、来年の話だからまだいいか、と思っていましたが、考えてみればあと半月で来年なのですね。
 
まずは元旦に行われるイベントです。  

片貝中央海岸 初日の出 九十九里町元旦祭

昭和9年(1934)、智恵子が半年余り療養のため滞在し、詩集『智恵子抄』中の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などの歌枕となった九十九里浜でのイベントです。
 
観光スポット・イベント情報サイト「じゃらん」から。
 
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片貝中央海岸では、太平洋の地平線から昇る初日の出を見ることができます。九十九里町は見渡す限り果てしなく続く九十九里浜の中央部に位置し、太平洋の海原が一望できます。午前5時30分頃から、甘酒やいわしの丸干しが集まった人々に無料で配られます。
 
開催場所:千葉県九十九里町 片貝中央海岸
所在地:〒283-0104 千葉県九十九里町片貝
交通アクセス:JR東金線「東金駅」から片貝線のバス約25分「西の下」~徒歩10分、または東金九十九里有料道路「九十九里IC」から車約5分
開催期間:2014年1月1日 5:30~
主催:九十九里町観光協会
 
「人気の周辺観光スポット」ということで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑も紹介されています。ただ、イベントの行われる地点から3㎞ほど離れているようですが。
 
 
主催の九十九里町観光協会さんのサイトから。

九十九里町のビックリ鏡餅イベント開催!!

「もういくつ寝ると、お正月~♪」こんな歌がそろそろ聞こえてくる時期となりました。
 九十九里町では、これからの正月の時期に様々なイベントを開催いたします。今年で9回目を数える「もちつき大会」。前回以上の出来栄えを目指し、もちつきに参加してみませんか。また、その他イベントを掲載いたしますので、ご確認ください。
 
元旦祭
  ・日 時  平成26年1月1日(水・祝) 午前5時30分
  ・場 所  片貝中央海岸
  ・問合せ  九十九里町観光協会 TEL 0475-76-9449
 
その前後に行われる「大もちつき大会」「006大鏡開き」とあわせて紹介されています。
 
大もちつき大会
日時 平成25年12月23日(月・祝) 午前9時
会場 JA山武郡市片貝支所
大鏡開き
日時 平成26年1月13日(月・祝) 午前10時
会場  九十九里町商工会前駐車場


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九十九里周辺は、緯度・経度の関係で、離島を除く日本本土でもっとも早く初日の出が見えるスポットです。しかも東は広大な太平洋。水平線から昇る初日の出を見ながら、光太郎智恵子に思いをはせるのもいいのではないかと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月14日

明治19年(1886)の今日、光太郎一家が下谷区仲御徒町に転居の登記をしました。
 
それ以前は、同じ下谷区の西町(現・東上野)に住んでいました。この後、やはり下谷区の谷中町を経て、本郷区駒込千駄木林町に移ることになります。

新刊です。 

脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する

近藤祐著 彩流社刊 定価2500円+税
 
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戦前の東京地図に散見し、しかし現在はその場所から消失した「脳病院」とは何か!?
 
芥川龍之介が神経衰弱の末に自殺した昭和二年以降、文学史にさまざまな狂気が連鎖する。辻潤は天狗となって二階窓からの飛翔を試み、太宰治はパビナール中毒で強制入院させられる。愛児を失った中原中也は忘我状態となり、高村智恵子は精神分裂病で生涯を終えた。わずか十年余りに連鎖するこれらの狂気には、何か共通因子があるのか。また彼らはどのような治療を施されたのか。明治・大正・昭和と帝都東京における脳病院の成立と変転を辿り、都市と人間、社会と個人の軋轢の精神史を探索する。
(帯より)
 
目次は以下の通りです。
 
プロローグ
第一部 
 第一章 初期癲狂院
 第二章 正系としての帝国大学医科大学・呉秀三・府立巣鴨病院
 第三章 脳病院の登場
 第四章 郊外へ
第二部
 第一章 芥川龍之介の小さな世界
 第二章 辻潤または飛翔するニヒリスト
 第三章 家族はどうしたのか ―高村光太郎と長沼智恵子―
 第四章 ここほ、かの、どんぞこの ―太宰治の分岐点―
 第五章 中原中也 暴走する精密装置
エピローグ
主要参考文献
年表
あとがき
 
昨日手元に届き、まだ光太郎智恵子に関する章しか読んでいませんが、それだけでもなかなかのものです。
 
著者の近藤氏はその道の専門家ではない、とのことですが、かえってそれだけに同じく専門家でない我々にわかりやすい書き方になっています。といって、門外漢が浅薄な知識で論じているものではなく、精神医学史についての調査は綿密に行き届いています。智恵子発病時に光太郎が短期間治療を依頼した諸岡存についての記述など、当方も知らなかったことがたくさんありました。
 
また、光太郎がなぜ智恵子の入院先として南品川のゼームス坂病院を選んだか、といった点の考察も、なるほど、と思わせるものでした。
 
惜しむらくは年代の記述で若干の事実誤認があるのですが……。
 
版元・彩流社さんのサイトへから注文可能です。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月13日

平成4年(1992)の今日、日本テレビ系の教養番組「知ってるつもり?!」で、光太郎がメインで取り上げられました。
 
関口宏さんの司会で、比較的長寿の番組でしたので、ご記憶の方も多いでしょう。かつてはこういう番組がけっこうありましたが、最近、特に民放ではこの手の番組は減ってしまいましたね……。

智恵子の故郷・二本松情報です。
 
まず智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'13」。今年は「光太郎に影響を与えた人々」というテーマで行っており、その最終回と閉講式が行われます。
 
日時:2013/12/15(日)
会場:二本松市市民交流センター
 
講義:「草野心平と宮沢賢治」 小野浩氏(いわき市く暮らしの伝承郷館長) 午前10:00~
閉講式及び「智恵子抄」を語る集い:午後1時~
 
今回で第6回となりますが、単発での参加も可能(参加費1,000円)ということです。
連絡先は智恵子のまち夢くらぶ・熊谷さん 0243-23-6743
 
当方も行って参ります。今年最後の二本松となると思いますが、安達太良山は既に冠雪しているとのこと。きれいでしょうね。
 
それから二本松の国道4号線沿いにある「道の駅「安達」智恵子の里」がらみの報道が何件かありましたのでご紹介します。

来場者100万人を達成 道の駅「安達」 智恵子の里下り線

福島民報 11月12日(火)10時19分配信
 福島県二本松市米沢の4号国道沿いにある道の駅「安達」智恵子の里下り線は10日、今年4月5日の開業以来、来場者100万人を達成した。 
 100万人目は同市渋川の会社員大藤健次さん(53)。同道の駅を運営する二本松市振興公社社長の三保恵一市長から記念品として岳温泉のペア宿泊券を贈られた。前後の20人にもコシヒカリの新米や道の駅「安達」の商品券などを贈呈した。 
 大藤さんは「地元の農産物や食品などを買いに、よく利用している。まさか自分が100万人目とは」と驚いた様子だった。 
 同道の駅は既設の上り線に次いで開業し、農産物直売所や地元物産コーナーに加え、焼きたてパンのベーカリー、レストランなどが人気を集めている。振興公社によると、当初の予想より1カ月ほど早く100万人を達成したという。 

夜空に浮かぶ「万燈桜」 二本松でイルミネーション点灯

福島民友新聞 11月24日(日)13時14分配信

来年2月16日まで冬の夜空を彩る万燈桜のイルミネーション
 二本松市米沢の道の駅安達智恵子の里下り線の入り口にある桜の名所「万燈桜(まんとうさくら)」のイルミネーションが「冬の万燈桜さくらまつり」と題して22日始まった。同日は点灯式が行われ、夜空に浮かび上がった冬の桜を来場者が楽しんだ。
 イルミネーションは来年2月16日まで毎日午後4時30分から午前3時まで。12月下旬にはクリスマスイベントも予定している。
 式では関係者らがスイッチを押して点灯。高さ約15メートルで、樹齢約270年の高く伸びた枝ぶりに約1万個の発光ダイオード(LED)の電飾が施され、幻想的に映し出された。
 


 
さらにテレビ放映情報です。

東北トラベラー! #26

CS旅チャンネル
2013/12/07(土)6:00~6:30 20:00~20:30 
2013/12/08(日)4:30~5:00  9:30~10:00 
2013/12/10(火)9:00~9:30  15:00~15:30  21:00~21:30 
 
旅チャンネルは東北の観光を応援します! 東日本大震災で様々な影響を受けた東北各地の観光地。復興に向かい懸命に頑張る現地の方々のメッセージを交え、東北各地の観光情報を東北在住女性リポーター二人が紹介します。
 
旅の舞台は福島県中通り地方。二本松伝統の菊人形祭り、東北サファリパーク、奥州三名湯・飯坂温泉を訪れ、福島の旅を満喫!

番組内容

東北の魅力あふれる旅を紹介する観光情報番組。絶景スポットや新旧ご当地グルメ、癒しの温泉宿など、旅に欠かせない要素が盛りだくさん!震災からの復興を目指す現地の人々のメッセージとともに、東北の元気をお伝えします。  旅人:さとう千日(宮城県出身) 佐々木麻美(宮城県出身)
第26話「福島県」  今回は福島県中通り地方を旅します。二本松市では定番観光スポット「二本松城」を訪れ、伝統の「菊人形祭り」を鑑賞。野生の王国「東北サファリパーク」では、全国でも数か所の動物園でしか見られないホワイトライオンを見学します。奥州三名湯に数えられる飯坂温泉を散策しながら、名物料理を堪能!見どころ満載の福島市を巡ります。
 
昨日も書きましたが、あの東日本大震災から1,000日が経ちました。津波被害とはまた違った意味で復興途上の福島県。ぜひこの冬は福島の温泉地、スキー場等をご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月5日007

大正4年(1915)の今日、抒情詩社から『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』が刊行されました。
 
抒情詩社は光太郎の第一詩集『道程』(大正3年=1914)の版元でもあります。ただし、『道程』が自費出版だったのに対し、こちらは光太郎を援助する意味合いでの厚意で出版されました。
 
ただ、光太郎は初期の短歌は鉄幹の添削が激しく、自分のものという感が乏しかったため、ありがた迷惑と思う部分もあったようです。

【今日は何の日・光太郎】 11月19日
 
大正10年(1921)の今日、智恵子とともに新詩社房州旅行に参加しました。
 
というわけで、今回は「今日は何の日・光太郎」ネタで。
 
同じ大正10年11月に雑誌『明星』が復刊、光太郎はその復刊号に長詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのを皮切りに、昭和2年(1927)の再びの終刊まで、詩、短歌、翻訳、散文、時には素描も発表し続けました。
 
その『明星』発行元の新詩社としての一泊旅行があり、光太郎智恵子も参加しています。他には与謝野鉄幹・晶子夫妻、歌人の平野万里、詩人の深尾須磨子、版画家の伊上凡骨、文化学院の創立者・西村伊作、画家の石井柏亭などが同道しています。19日には現在の館山市北条に泊まり、翌日、同じ館山の那古、現在の南房総市白浜などを巡って帰ったとのことです。
 
昭和41年(1966)に書かれた深尾須磨子の「高村智恵子」という散文に、この時の回想が書かれています。ただ、半世紀近くを経て書かれたものなので、時期などに若干の記憶違いがあるようで、深尾はこの旅行を「たしか大正十一年早春だつた。」としています。光太郎智恵子関連でも、古い文献はこの旅行を深尾の回想を元に大正11年としていますが、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜などでは大正10年になっています。
 
それはともかく、この時期としては数少ない智恵子の様子が描かれていますので、引用しましょう。ちなみに深尾と智恵子、この旅行が初対面でした。
 
 翌日は午後の出発まで、うららかな日ざしのなかを、めいめい思いおもいに、なぎさからなぎさを伝つて歩いた。私のかなり前方に光太郎のうしろ姿があり、そのまたはるかな前方に智恵子のうしろ姿があつた。よく見ると、砂に足をとられながらも、智恵子は前へ前へとぐんぐん歩いていくのだつたが、その早いこと、彼女を呼ぶ光太郎のほうは振りかえりもせず、まるでなにかに追いすがるように、飛鳥の早さで遠ざかつていく智恵子の姿をみつめつつ、私は一種異様な予感めいたものを覚えずにはいられなかつた。
 その智恵子が帰りの車中では私のとなりに座つたので、なにか話しかけたいような気持ちにかられたが、わざと黙つていた。やがて智恵子がとぎれがちに私に声をかけた。彼女がいつたのは、良人に死別してまもない私へのいたわり言葉ではなく、孤独がほんとうの人間の姿だから、というようなつきつめたものだつた。ちなみに、そのときの旅装といえば、晶子が洋装、私とあや(注・西村伊作長女)も洋装、智恵子は黒つぽいきものを着ていた。
 
智恵子が統合失調症を発症したのがいつか、正確なところはわかりません。昭和6年(1931)夏、『時事新報』の依頼で光太郎が三陸方面へ約1ヶ月の旅行に出ている間に訪ねてきた智恵子の母と妹が、智恵子の異状に気づいたといわれています(自殺未遂はさらにその翌年)が、それ以前からその兆候があったとしても不思議はありません。
 
少なくとも深尾はその10年前の智恵子に、すでに異様なものを感じていたのです。
 
光太郎自身も、昭和15年(1940)に書かれ、詩集『智恵子抄』にも収められている「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)という散文の中で、次のように語っています。
 
だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

ここがあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩ずつ最後の破綻に近づいて行つたのか、病気が螺旋のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。
 
さらに深尾の回想では、次のようなエピソードも語られます。
 
 二度目に智恵子に会つたのは、昭和五、六年のころ、本郷駒込の光太郎のアトリエをおとずれたときのことだつた。そのころ、ある新聞社から、婦人欄の文化批評を担当するようにと、社長みずから足を運んでの再三の懇望がことわりきれず、さりとて引受ける気にもなれず、思いあまつたあげくのはて、ふと、わんぱく呼ばわりされていた光太郎のことを考えつき、ずばりその裁断にまちたいと、近よりがたい気持ちをおさえて出かけたわけである。
 入口のとびらの右手にのぞき窓があり、そこから訪問客のだれかをたしかめ、来意をきいたうえでとびらをあけるという順序どおり、智恵子が私を迎えいれた。黒いセーターに光太郎のおさがりの、黒いズボンをはき、ぞうきんがけをしていた智恵子は、アトリエから仕事中の光太郎を呼びよせ、二人で私の話をきいた。そのとき、即答をしぶる光太郎に引きかえ、智恵子は大賛成、自分もその新聞社で働いたことがあり、不思議な縁だ、視野をひろげるためにもぜひ承諾するようにといい、自分も思いきつて働きたいなどともいうのだつた。
 
智恵子が新聞社で働いていたという事実はありません。うそいつわりを言うシチュエーションではないので、妄想でしょう。こうなると、明らかに統合失調症の症状だと思われます。時期がはっきりしないのですが、早ければ昭和5年(1930)にはこういう出来事があったのです。
 
だからどうというわけではないのですが、時折、智恵子が突然変調をきたした、的な記述などを見かけることがありますので、そうではなさそうだ、ということを記しておく、というわけです。
 
イメージ 1
 
画像は大正14年(1925)、千駄木林町のアトリエでの光太郎智恵子。昭和31年(1956)筑摩書房発行の草野心平編『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されていますが、それ以外にはこの写真はほとんど掲載されていないようです。参考までに。

過日のブログでご紹介しましたピアニスト・荒野(こうの)愛子さんのCD「『智恵子抄』によるピアノとクラリネットのための小曲集」が届きました。
 
早速聴いてみました。
 
「ピアノとクラリネットのための小曲集」ということで、当然ですが全てインストゥルメンタルです。ピアノは荒野さん、そこに新實(にいのみ)紗季さんのクラリネットが入ります。曲は全て荒野さんのオリジナルです。曲目は以下の通り。
 012
 1. アトリエにて
 2. 人類の泉
 3. 深夜の雪
 4. 僕等
 5. 樹下の二人
 6. あどけない話
 7. 分岐
 8. 風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子
 9. 値ひがたき智恵子
 10. 同化
 11. 終曲Ⅰ--亡き妻智恵子
 12. 終曲Ⅱ--夜風も絶えた
 
以下、あくまで当方の個人的感想です。全体に切ない感じのメロディーラインで統一されていますが、決して暗い雰囲気ではなく、一種の清澄さを感じます。宗教曲にも通じるような。詩の「言葉」に頼らず、音楽のみで表現するのはかなり難しいと思いますが、あえてそれに挑戦したところにピアニストとしての荒野さんの矜恃が感じられましたし、実際、それが成功していると思います。
 
「あどけない話」を聴けば、安達太良山の山の上に広がる智恵子の「ほんとの空」が目に浮かびますし、「風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子」では、九十九里浜の千鳥の鳴き声がピアノで表現されています。荒野さんのピアノに寄り添うような新さんのクラリネットも澄んだ音色で、音楽世界の幅を広げています。
 
ぜひお買い求めを。荒野さんのブログから註004文できます。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月7日

明治8年(1875)の今日、光太郎の両親・光雲とわかが結婚しました。
 
その前年に年季奉公が明けて独立した光雲ですが、この年数えで24歳でした。わかは光雲の師・東雲の妹の日本橋小舟町の穀物問屋・金谷善蔵に嫁いでいたおきせの養女(わかは実父の呉服商・金谷浅吉が亡くなり、子供がなかった浅吉の弟・善蔵の養女となりました)。この年、善蔵が病没、店も閉めることとなり、不憫に思った光雲がわかを見そめたというところです。光雲より6歳下の数え18歳でした。

またまた二本松ネタです。012
 
二本松市で智恵子顕彰活動を続けられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催による「智恵子講座'13」。第5回ということで、以下の日程・内容で行われます。
 
日 時 : 2013年11月17日(日) 午前10時~12時
会 場 : 二本松市市民交流センター
講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)
内 容 : 「与謝野鉄幹と水野葉舟」
参加費 : 1,000円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん
       tel/fax0243-23-6743
 
講師の澤氏は、『福島県文学全集』(郷土出版社・平成14年=2002)の編集をされた他、平成13年(2001)には翰林書房から『詩の成り立つところ 日本の近代詩、現代詩への接近』というご著書を刊行されています。
 
同書には「与謝野晶子と高村光太郎」という1章がある他、他の章でも光太郎・智恵子に触れています。
 
11月17日、ちょうどこの日は、同じ二本松市交流センター内の大山忠作美術館で開催中の「五星山」展最終日にもあたります。
 
併せて足をお運びいただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月6日

明治42年(1909)の今日、本郷区千駄木町の森鷗外邸・観潮楼で催された観潮楼歌会に出席しました。
 
観潮楼歌会は、光太郎留学中の明治40年(1907)から始められました。一説には歌壇内部の勢力争い的なものを融和しようと考えた鷗外が広く声をかけ、毎月第一土曜日に開催、与謝野晶子、伊藤左千夫、石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉等、錚々たるメンバーが集まったとのことです。
 
筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜には、「鷗外邸の観潮楼歌会例会に出席するが、つまらなくて一度でやめる。」とあります。与謝野夫妻の新詩社系の歌会にはよく参加していた光太郎ですが、こちらは肌に合わなかったようです。
 
その際の光太郎の詠歌。
 
一力の小てるとわれと酒のめば飯をつぐとて盆を出すひと
 
この夜は「盆」を題詠として行われたそうですが、どうもふざけた作品ですね。

当方、あちこち出かけておりますが、基本的にいつも一人です。
 
すると妻が「日帰りでいいから、たまにはどこかちゃんとした温泉に連れて行け」と言い出しました。
 
そこで、一昨年、全線開通した北関東自動車道を使えば、栃木までは比較的楽に行けるので、塩原温泉に行って参りました。
 
二人とも塩原には行ったことがありませんでしたし、訪れてみたい場所があったからです。
 
こんな写真があります。
 
イメージ 1
 
昭和8年(1933)9月、光太郎智恵子、塩原で撮影された一葉です。
 
光太郎智恵子が一緒に写っている写真で、現在でも普通に見られるものは6葉しかありません。
 
大正15年(1926)に、駒込林町のアトリエで撮られた3葉、その翌年に箱根大湧谷で撮られた2葉、そしてこれです。つまり、光太郎智恵子がそろって写っている最後のものです。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。8月24日のことです。
 
ちなみにその前日には、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
巡った温泉は福島の川上、青根、土湯など。今年8月末に全焼してしまった不動湯を訪れたのもこの旅の途次でした。
 
そして塩原。おそらくここが最後に寄った温泉だろうと推定されています。
 
しかし、9月中旬に東京に帰ってみると、智恵子の病状は出発前より悪化していたと言われています。
 
さて、上記の写真。二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたとのこと。そこでこの場所に行ってみたいと思い立ったわけです。
 
こんな時にも光太郎がらみか、と突っ込まれそうですが、妻も当方の仕事には理解を示してくれているので甘えました。
 
さて、柏屋旅館さんは今も健在。
 
 
イメージ 2
 
イメージ 11
 
調べてみると、本館は昭和10年(1935)の竣工。惜しいところで光太郎智恵子が訪れた時期に重なっていません。ただ、看板はもっと古いもののような気がしました。
 
さて、問題の写真が撮られた場所、柏屋さんのサイトの記述をたよりに探してみました。
 
初めは林道から渓谷へ下りる道の入り口が分からず、一度通り過ぎてしまいましたが、何とかたどり着けました。
 
010
 
この鹿股川、大雨で氾濫することも多いようで、さらにちょうど80年経っているので、多少は地形も変わっているかと思いますが、まずここで間違いないと思います。感慨深いものがありました。
 
ちなみに光太郎智恵子が柏屋さんから智恵子の母・センに送った葉書が残っています。
 
イメージ 6   イメージ 7
 
帰りがけに塩原によりました 智恵
此間福島のそばやで二本松の久保さんに偶然あひました 光太郎
 
光太郎との連名ですが、これが確認されている智恵子最後の直筆書簡です。
 
また、旅から帰って、光太郎はやはりセンに、上記の二人の写真を絵葉書にして送っています。
 
しばらく方々を歩いてゐましたが、先日帰宅しました、
秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、
高村光太郎 智恵
 
こちらは署名のみ智恵子自筆と思われます。
 
ところでこの一角、実は塩原温泉の中心部からはけっこう離れています。下記画像で赤マルが柏屋さんのあるあたり、青マルが塩原温泉の中心部です。
 
イメージ 8
 
他の温泉を巡った時-焼失した不動湯さんにしてもそうだったようですが、智恵子を落ち着いてゆっくり静養させるため、わざわざ中心部から離れた静かな宿を選んで泊まっていたとのこと。
 
さて、当方夫婦、その後、塩原温泉の中心部に行き、上記地図にもある「塩原もの語り館」というところに入ってみました。
 
塩原周辺出身だったり、塩原を訪れたりした文人墨客に関する展示があるというので、光太郎智恵子も紹介されているかと思ったわけです。
 
イメージ 9
 

ありました。塩原に関する大きな年011表があり、昭和8年(1933)の項には光太郎智恵子の名。それから二本松市教育委員会さん発行の『アルバム 高村智恵子』も手に取ってみられる状態で置いてありましたし、例の写真もパネルに拡大されて展示されていました。
 
ただ、光太郎は塩原では詩歌を作っていないということもあり、あまり深く紹介されていませんでした。
 
ここでは室生犀星や尾崎紅葉などが大きく取り上げられていました。
 
その後、新そばを食べ、温泉につかり、足湯も堪能し、帰りました。紅葉にはまだ早かったのが残念でしたがなかなか有意義なプチフルムーン旅行でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月13日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野桃園町のアトリエに入居しました。
 
智恵子の顔を持つ、といわれる十和田湖畔の裸婦像制作のため、7年半ぶりに上京した光太郎は、水彩画家の故・中西利雄のアトリエを借りました。それまで住んでいた花巻郊外太田村山口の山小屋では、大きな彫刻を作る事は不可能だったためです。
 
本日、夜8:00からNHKEテレで「日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」」の再放送があります。この中野のアトリエ、さらに塩原での写真も映ります。先週の本放送を見逃された方、ぜひご覧下さい。

一昨日・10/5は智恵子命日「レモンの日」でしたが、昨日・10/6、智恵子の故郷福島県二本松市に於いて、智恵子を偲ぶ集い「第19回レモン忌」が開催され、行って参りました。
 
会場は智恵子生家に近い「ラポートあだち」さん。JAさんの施設です。参加された方の大半は地元の方でしたが、今年は青森は十和田から、社団法人十和田湖国立公園協会の方、十和田市役所の方をはじめ、現地で観光ボランティアをされている方など、総勢22名の皆さんが貸し切りバスで駆けつけられました。いろいろ貴重な情報等戴きましたが、スペースの都合上、明日、ご紹介します。
 
さて、午前10時半、開会のことばに続き、智恵子への献花・献果。献花はよく聞きますが、「献果」というのは珍しいですね。「果」は「果実」。ではなんの果実かというと、そう、レモンです。
 
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さらに参会者全員で光太郎詩「風に乗る智恵子」を朗読(群読)。その後、主催されているレモン会の会長・渡辺秀雄氏のご挨拶、二本松市の教育長さんなどの来賓祝辞と続きました。
 
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そして記念講演。昨年、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江さんによる講演「~旅のエピソード そして紙絵からのメッセージ……」がありました。
 
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御著書を書かれるにあたって訪れられた光太郎智恵子ゆかりの地での思い出などを、時に感動的に、時にユーモラスに語られ、皆さん非常に興味深そうに聴き入っていました。
 
ちなみに坂本さんになりかわり宣伝いたしますが、呼ばれればどちらででも講演なさいますのでお声がけ下さい(笑)。こちらに連絡いただければ仲介致します。
 
ところで、坂本さんはかつて智恵子が通っていた太平洋画会の会員でいらっしゃり、そこで太平洋画会さんで発行した智恵子素描2点の複製をお土産に持参され、参会者全員に配布されました。レアなものをいただけて、サプライズでした。この素描は平成11年(1999)、九州のやはり太平洋画会会員だった方の遺品の中からひょっこり見つかったものです(このニュースも衝撃的でした)。太平洋画会さんで複製を発行しているというのも存じませんでした。
 
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その後は会食しながらのスピーチ。先述の十和田の方々、地元二本松で智恵子生家の復元にあたった方、二本松市教委が発行した『アルバム高村智恵子』製作に当たられた方、智恵子母校の油井小学校校長先生など、いろいろ興味深いお話が聞けました。当方も喋って参りました。
 
さらにアトラクションとして、シンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんによるギター弾き語り。「あどけない話」「レモン哀歌」にオリジナルの曲を附けて熱唱されました。当方と腐れ縁、もとい縁の深いシャンソン歌手・モンデンモモさんも光太郎詩に自作の曲を附けて歌われていますが、モモさんの「智恵子抄」とはまたちがった素晴らしさがありました。
 
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失礼ながらこういう方がいらっしゃるとは存じませんで、もっけの幸い、瓢箪から駒、棚からぼた餅、連翹忌にお誘いして参りました。西新井在住だそうで、日比谷にはそう遠くありません。いずれ連翹忌でも演奏していただきたいものです。ちなみに北村さん、光太郎以外にも宮澤賢治や中原中也などの詩に曲を附けて歌われているそうです。
 
先日の劇団空感エンジンさんにしてもそうですが、若い方々が光太郎智恵子の世界を取り上げてくださるのが非常に嬉しい限りです。そうしてさらに次の世代、その次の世代と、100年、200年、いや、永久に光太郎智恵子の世界が語り継がれていってほしいものです。
 
最後は十和田の皆さんによる「湖畔の乙女」(十和田湖畔の裸婦像へのオマージュとして、その建立に関わった詩人・佐藤春夫が作詞した歌です。後に本間千代子さんの歌唱でレコード化されました)、会場全員による二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」斉唱で幕を閉じました。
 
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いつもいつも同じことを書いていますが、こうした地域の取り組みには本当に頭が下がります。連翹忌同様、レモン忌も末永く続けていっていただきたいものです。
 
千葉の自宅に帰ってから、録画しておいたNHK Eテレさんの「日曜美術館」を観ました。ある意味手前味噌になってすみませんが、こちらも改めて素晴らしいと思いました。Vは先日渋谷の放送センターさんで見せていただいたとおりでしたが、何度観てもいいものだと思いました。スタジオでの伊東敏恵アナ・ARATA改め井浦新さん、ゲストの作家・平野啓一郎氏のトークもよかったです。
 
ただ、平野氏ご自身、ツイッターでつぶやかれていますが、スタジオ収録の段階では今日のオンエアの3倍位話されていまして、それが3分の1に編集されているのが残念です。45分という枠があるので仕方がないのですが……。それはVでも同様です。二本松や九十九里などの映像が入りませんでしたし。もう、それをいいだしたらきりがありませんね。
 
昨日の放送を見逃した方、次の日曜日(10/13)、午後8:00~やはりNHK Eテレさんで再放送があります。お見逃しなく。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月7日

昭和23年(1948)の今日、『新岩手日報』に、石川啄木と高等小学校・盛岡中学校で同級生だった伊東圭一郎と光太郎の対談「清談を聴く」の後編が掲載されました。

昨日は智恵子命日「レモンの日」ということで、染井霊園の高村家墓所に行って参りました。
 
生憎の雨でしたが(というか、わりと有名な話ですが、光太郎がらみの日は見事なくらいいつも雨です)、香華とレモンをお供えして参りました。
 
高村家墓所の周りになぜか黒猫が二匹。睦まじくじゃれあっていました。光太郎智恵子夫妻も駒込林町のアトリエで黒猫を飼っていたことを思い出し、猫たちが光太郎智恵子に見えました(笑)。
 
その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台、「チエコ」を見て参りました。
 
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演劇等で、アイロニカルな視点で光太郎智恵子を描く場合も少なからずありますが、この舞台では最期に智恵子が救われるような、そしてそれによって光太郎も救われる的な終わり方で、なかなかいい感じでした。
 
さりとて全てを肯定するのでなく、よく言われる「光太郎が智恵子を追い詰めた」的な光太郎を糾弾する部分も、智恵子の親友・田村俊子の台詞で表されていました。俊子は、智恵子の絵画作品が放っていた輝きが結婚後に失われたことを残念がり、あまっさえ夢幻界の住人として逝ったことを抗議します。しかし、七年にわたる光太郎の看護の苦労を知り、さらに夢幻の縁で智恵子が作った紙絵を見て、矛先を収めるという流れでした。
 
キャストは7人(光太郎智恵子夫妻、田村俊子、智恵子の姪・宮崎春子、光太郎の弟・豊周、光太郎を敬愛する後輩詩人・草野心平と中原綾子)。若い役者さん達のフレッシュな体当たりの演技で、好感が持てました。
 
脚本的にも、それぞれの登場人物がその当時こんなことを言っていたとしてもおかしくない、またはこんなエピソードが実際にあったかも知れないと思わせるような無理のない、わかりやすいものでした。
 
時折、前衛的すぎて何を表現したいのかさっっっぱりわからない舞台もありますが、今日の「チエコ」は非常にわかりやすいものでした。そういう意味では「レモンの日」の今日、智恵子に対してのよい供養となったのではないでしょうか。
 
公演は明日10/7(月)までと、10/9(水)~14(月・祝)。1日2~3回の公演で、それぞれ3班にわかれて、6班のべ42人の役者さんが出演されます(一部、重なっているようです)。こうした若い方々に頑張っていただき、さらに光太郎智恵子の世界を広めていっていただきたいものです。
 
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さて、当方、今日は福島二本松での智恵子を偲ぶ集い「第19回レモン忌」に行って参ります。
 
例の「日曜美術館」は録画予約済み。帰ってからじっくり観ます。ご覧下さった方、ご感想等お寄せいただければ幸いです。ただし、当方あくまでアドバイザーですので苦情を持ち込まれても困りますが(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月6日

平成元年(1989)の今日、赤坂草月ホールで仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」初演が行われました。
 
型破りのキャスト2人だけのオペラで、智恵子役は010連翹忌や女川光太郎祭ご常連の本宮寛子さん、光太郎役は高橋啓三さん。伴奏は田中信昭さん指揮の10人編成管弦アンサンブルでした。
 
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10月となりました。
 
10月前半に行われるイベント情報は紹介しましたが、10月後半のイベントを何回かに分けてご紹介します。
 
まず、ピアニスト荒野愛子(こうのあいこ)さんのコンサート。
 
荒野さん、平成18年(2006)にリリースされた「オトヒトシズク」というピアノインストゥルメンタルのオリジナル曲を集めたアルバムで、「レモン哀歌」という曲をラインナップに入れられました。
 
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さらに10月20日には以下のアルバムがリリースされます。 

『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集

荒野愛子 ピアノ010
新實紗季 クラリネット
 
1. アトリエにて
2. 人類の泉
3. 深夜の雪
4. 僕等
5. 樹下の二人
6. あどけない話
7. 分岐
8. 風にのる智恵子~千鳥と遊ぶ智恵子
9. 値ひがたき智恵子
10. 同化
11. 終曲Ⅰ--亡き妻智恵子
12. 終曲Ⅱ--夜風も絶えた


さらにCDの発売を記念してコンサートも開かれるそうです。
 
<日時> 2013年10月26日(土) 開場 18:00  開演 18:30
<出演> 荒野愛子 ピアノ  新實紗季 クラリネット  田辺日太 朗読
<料金> 2,500円
<場所> 両国門天ホール 墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階 Tel:080-3172-3891(黒崎)

 
荒野さんブログ http://aikokono.blogspot.jp/
 
光太郎の詩を歌詞にしたり、あるいはオリジナルの詩を作ったりで、歌で光太郎智恵子の世界を取り上げるケースは結構ありますが、インストゥルメンタルでどのようにその世界を表現されるのか、非常に興味があります。
 
コンサートにはぜひ行きたいのですが、同じ日に福島川内村での草野心平忌日の集い「かえる忌」があり、講演を頼まれており、そちらに参ります。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月1日

明治39年(1906)の今日、ニューヨークの美術学校・アート・スチューデント・リーグの夜学に通い始めました。
 
講師には、それ以前に光太郎を通勤助手として雇ってくれた彫刻家のガットソン・ボーグラムがいました。
 
ボーグラムはその名前より作品で有名です。代表作は、どなたも一度は画像や映像でご覧になったことがあるのではないでしょうか。これです。画像はフリー百科事典「ウィキペディア」さんからお借りしました。
 
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現在でもアメリカの観光案内などでよく紹介されるもので、サウスダコタ州キーストーンにあるマウント・ラッシュモアの岩壁に作られた巨大彫刻です。制作は1927(昭和2年)~1941(同16年)。モチーフはすべてアメリカ大統領のワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーン。
 
ボーグラムはこの作品以前にもジョージア州のストーンマウンテンの岩壁に作られた、南北戦争の英雄、リー将軍やジャクソン将軍などの巨大レリーフを手がけています。こちらは1910年代。ただ、途中でスポンサーと対立して手を引いていますが。
 
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昭和26年(1951)に発表された光太郎の談話筆記「青春の日」によれば、このレリーフを作る際、ボーグラムは光太郎に手伝いに来いと手紙を送ったそうです。
 
しかし光太郎、こういう彫刻には関心を示せず、また、ボーグラムに対しても人間的には尊敬していたようですが、彫刻家としては余り高い評価を与えていなかったようで、協力要請を断っています。
 
歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし断らずに、このレリーフや後のマウント・ラッシュモアの巨大彫刻などのプロジェクトに参加していれば、光太郎の名も今とは違った形で伝わっているのではないかと思います。

来月5日は智恵子の命日ですが、それに合わせて智恵子の故郷、福島・二本松にて智恵子を偲ぶ集い・レモン忌が開かれます。  

第19回レモン忌

日 時  10月6日(日) 10:30~15:00
会 場  ラポートあだち 福島県二本松市油井濡石16
会 費  3,000円
主 催  智恵子の里レモン会
 
記念講演:坂本富江先生「―智恵子抄を訪ねて―旅のエピソード……そして紙絵からのメッセージ」
 
申込先:〒969-1404 二本松市油井漆原34 戸田屋商店  FAX 0243-23-4858
 
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毎年、講演が行われていますが、今回の講師は昨年『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江先生です。
 
この日は先日のブログでご紹介したNHK Eテレさんの「日曜美術館」放映の日なのですが、そちらは録画予約し、こちらに行こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月19日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『労農』の編集顧問に就任しました。
 
『労農』というと戦前に山川均や荒畑寒村等によって刊行されていたアナーキズム系の雑誌が有名ですが、そちらではなく、詩人・森英介が中心になって山形で刊行された雑誌です。

昨日に続き、福島レポートの2回目です。
 
午前中、智恵子の母校・油井小学校での音楽集会を見せていただいた後、安達太良山の麓を通り、岳温泉郷を越え、土湯温泉方面に向かいました。先月29日に全焼した不動湯温泉をの様子をこの目で見るためです。
 
昭和8年、統合失調症の進んだ智恵子の療養のため、光太郎と智恵子は福島・栃木の温泉巡りをし、その際に不動湯にも滞在しました。「二人が宿泊した旅館」というだけなら他にもたくさんあるのですが、不動湯の場合、二人が泊まった部屋が特定でき、さらにそのまま残っていたこと、それからおそらく確認できているものとしては唯一、光太郎が書いた宿帳が残っていたという点で貴重でした。それらが灰燼に帰してしまったわけです。
 
さて、土湯の温泉街からさらに数キロ入った山の中に不動湯温泉がありました。当方、約10年ぶりに現地に立ちました。10年前は自分の運転ではなかったのですが、今回、自分で運転して行ってみて、あらためてとんでもない山の中だというのを再確認しました(そのため消火作業がはかどらなかったそうです)。
 
現地に着き、まず目に飛び込んできたのは、道沿いにあった母屋から離れた車庫でした。
 
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そこから山の斜面を下りていくと、かつて母屋のあった場所につきました。火災から2週間経っていましたが、まだ焦げ臭いにおいが立ちこめていたのには驚きました。
 
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建物は跡形もなく焼け落ち、周りの森の立木まで真っ黒に焼けています。さらに下を見ると、渓流沿いの露天風呂に通じる階段の跡。この階段も不動湯名物の一つでした。
 
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かつて玄関だった辺りだと思いますが、花が供えられていました。従業員の方が一人、亡くなっていますので、そのためでしょう。当方も手を合わせ、ご冥福をお祈りして参りました。
 
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おそらく帳場があった辺りには、燃え残った書籍類や食器などが見て取れました。
 
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例の光太郎が書いた宿帳は燃え残っていないかと探してみました。それより新しいと思われる宿帳―それもほとんど黒焦げの状態でした―は見つかりましたが、光太郎が書いたものは見つかりませんでした。

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迷ったのですが、このままここで土に帰るよりはと思い、見つけた宿帳の切れ端を持って帰ることにしました。「土湯村」の文字が見えるので、これも相当古いものでしょう。保管して不動湯を偲ぶよすがとしたいと思います。
 
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以下、火災から2日後の『福島民報』さんの記事です。

秘湯、消火作業阻む 温泉街から4キロ、険しい道、水利悪く鎮火に7時間

 福島市土湯温泉町の「不動湯温泉 白雲荘」で29日夜に起きた火災は、焼け跡から一人が遺体で見つかる惨事となった。旅館は大正6年創業の老舗で、詩人高村光太郎・智恵子夫妻が宿泊したことで知られる秘湯。険しい山道と水利の悪さが消火作業を阻んだ。「浴衣のまま、はだしで逃げた」。30日に無事が確認された男性宿泊客は福島民報社の取材に対し、出火当時の緊迫した様子を語った。

 土湯温泉街から山道を約4キロ上った先にあった秘湯。一軒宿で周辺は水利が悪い上、狭い道がつづら折れになっていた。大型水槽を備えたタンク車が火災現場まで入れず、消火作業は難航を極めた。
 消防署12隊、消防団12隊の合わせて約120人が駆け付けた。地元消防団員の先導で小さな沢などを探し、土湯温泉街近くまで小型動力ポンプを運び、ホースを何本もつないで中継放水した。
 鎮火したのは、日付が変わった30日午前4時40分。火災発生から約7時間がたっていた。

 県消防保安課によると、昨年6月に福島市消防本部が同旅館に立ち入り検査した際、自動火災報知器や誘導灯、消火器などの安全を確認していた。旅館の延べ床面積は666平方メートルで、消防法で定めるスプリンクラーの設置義務はなかったという。

■無事確認の男性宿泊客 迫る炎、はだしで避難
 30日に無事が確認された神奈川県鎌倉市の男性客(46)は、旅館から着の身着のまま逃げた状況を生々しく振り返った。
 「もう駄目だ、逃げろ」。消火活動をしていた男性従業員の叫び声が響き渡った。出張で福島市を訪れていた男性は29日夕、宿泊の手続きを済ませ、名湯に漬かり、晩酌を楽しんでいた。午後9時半ごろ、「赤い明かりが見える」と切迫した大おかみの声が聞こえた。男性が廊下につながるふすまを開けると、白い煙と真っ赤な炎が辺りを包んでいた。惨事を予感し、浴衣姿のまま、はだしで車に駆け込んだ。
 秘湯を後にし、市内の飲食店駐車場で一夜を明かした。「二度とこんな経験はしたくない」。男性の表情に疲れの色が見えた。
 大おかみの阿部美千子さん(77)は、客の誘導中に旅館内が瞬く間に炎に包まれていくのを目撃した。「どうにもできなかった」と、力なく振り返った。

■老舗旅館惜しむ声 原発事故後も人気「貴重な存在」
 土湯温泉では、東日本大震災で被災し、廃業に追い込まれる旅館もあったが、大正時代に建築された白雲荘の本体は震災に耐えた。
 破損した約80段の外階段を4月から6月にかけて県の補助金で補修したばかり。9月から11月にかけて秘湯と歴史を満喫してもらうモニターツアーを企画し、参加者を募集中だった。おかみが大正時代から続く同旅館の歴史を「語り部」として説明する時間も設けていた。
 土湯温泉観光協会事務局長の池田和也さん(55)は「秘湯と歴史で、全国の温泉通の間で人気が高く、原発事故後も県外からお客を呼べる貴重な存在だった」と惜しんだ。

■智恵子の宿帳、焼失か
 白雲荘には高村光太郎、智恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊し、その筆跡が残る宿泊者名簿も焼失したとみられる。
 智恵子の研究を続ける二本松市文化財保護審議会委員の根本豊徳さん(62)は「光太郎と智恵子の最後の旅行の行程を裏付ける貴重な証拠だっただけに、大きな損失だ」と嘆いた。
 
色即是空、諸行無常と申しますが、それにしても……です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月15日

昭和26年(1951)の今日、「創元選書」の一冊として、『高村光太郎詩集』が刊行されました。編集に当たったのは草野心平でした。

昨日、奥出雲で歌われたモンデンモモさん情報です。
 
今週金曜日(9/13)、二本松市でコンサートだそうです。 

福モモプロジェクト・復興支援コンサート「音楽と歌で楽しいひとときを!」

2013年9月13日(金)
時間/18:00~20:00 
場所/二本松市市民交流センター 1F 多目的室
入場無料
出演/歌手 モンデンモモ ピアニスト 砂原dolce嘉博 
賛助出演/トランペッタ― 長屋伸浩 メゾソプラノ 紺野由香里  ピアノ 本多裕子
主催 二本松ロータリークラブ お問合せ 090-2270-4460 【高橋】
 
また、この日、午前中には智恵子の母校・二本松市立油井小学校で児童たちとの音楽集会的な活動に参加されるそうです。子供たちは鼓笛隊で二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を演奏するとか。
 
 
それから9/23(月・祝)には外苑前でライヴレコーディング。 

G-MAGIC MOMO 6

2013年9月23日(月・祝)
時間/17:00~
場所/Z.imagine 港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F 03-3796-6757

無題2 
光太郎との関わりで宮澤賢治「雨ニモマケズ」、智恵子との関わりで平塚らいてう「元始女性は太陽であった」など、モモワールドがどんどん拡大中のようです。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月9日

明治25年(1892)の今日、光太郎の姉・咲(さく)が肺炎のため歿しました。数え16歳の早逝でした。
 
さくは日本画を狩野派に学び、かなりの力量を持っていたといわれ、光雲にとっては期待の娘、光太郎にとっては自慢の姉でした。
 
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井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の開会式が行われ、そちらに出席、先ほど、帰って参りました。そちらのレポートは明日以降書きます。
 
開会式が終わり、展示を観て、コインロッカーから荷物を出し、携帯を見ると、花巻の高村記念会様から着信が入っていました。折り返し電話してみると、「不動湯温泉が全焼したのをご存じですか?」とのこと。
 
実は開会式の後で、参加されていた方の一人が「そういえばニュースで光太郎ゆかりの旅館で火事だったそうですよ」とおっしゃっていて、「まさか不動湯じゃないだろうな」と思っていました。他の旅館ならいい、というわけではありませんが……。
 

旅館火災、2人不明 高村光太郎夫妻も宿泊の老舗 福島

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 29日午後9時半ごろ、福島市土湯温泉町大笹の老舗旅館「不動湯温泉」で火災があり、旅館がほぼ全焼した。市消防本部によると、宿泊客や旅館の従業員ら計9人のうち7人の無事が確認されたが、男性客と旅館関係者の女性で、いずれも50代の2人の行方が分からなくなっているという。
 旅館のホームページによると1917(大正6)年創業で、宿泊者名簿には療養のため訪れたとみられる詩人の高村光太郎、智恵子夫妻の名前も残る。大正時代に建築されたという旧館も焼失したという。
 土湯温泉街から山道を約4キロ入った、秘湯として知られる一軒宿。
(『朝日新聞』)
 
 その後、NHK福島放送局さんからも携帯に電話が入り、不動湯温泉と光太郎智恵子について質問されましたのでお答えしましたが、できればこのような報道に対してではなければ……との思いでした。
 
 結局、夕方の続報では、従業員とみられる方、一人の死亡が確認されたとのこと。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

福島「不動湯温泉」火災で1遺体が見つかる

 29日午後9時30分ごろ、福島市土湯温泉町、不動湯温泉「白雲荘」=阿部久雄社長(80)=から出火、温泉旅館の木造2階、地下1階建て本館と棟続きの旧館約667平方メートル、隣接する木造平屋の物置約33平方メートルを全焼した。市消防本部によると、出火当時、旅館には宿泊客、従業員合わせて9人がいたが、焼け跡から1人の遺体が見つかった。所在が分からない従業員の50代女性とみられる。8人は逃げて無事だった。
 その後の調べで、阿部社長がけがを負っていたことが分かった。
(『福島民友新聞』)
 
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(『テレビ朝日』)
 
【今日は何の日・光太郎】 8月30日008

昭和40年(1965)の今日、社会思想社から現代教養文庫の一冊として『紙絵と詩 智恵子抄』が刊行されました。
 
不動湯を訪れた直後に回った裏磐梯での作、「山麓の二人」も含みます。

最近、新刊書店で「現代教養文庫」を見かけないな、と思って調べてみましたところ、平成14年(2002)に同社は事業停止だそうでした。なかなか硬派の出版社が生き残れない時代なのですね……。

【今日は何の日・光太郎】 8月24日

昭和8年(1933)の今日、智恵子とともに、東北・北関東の温泉巡りの旅に出ました。
 
同じ年の昨日、入籍を果たした光太郎と智恵子。進行する智恵子の統合失調症を恢復させようと、智恵子の故郷、安達(現・二本松市)にある長沼家菩提寺満福寺に墓参、その後、川上温泉、青根温泉、土湯温泉不動湯、塩原温泉などを巡り歩きました。また、その途中に通った裏磐梯での体験を元に作ったのが、「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な詩、「山麓の二人」です。
 
結局、翌月に東京に帰った時には、智恵子の症状はさらに進行していました。
 
さて、その福島土湯温泉からタイムリーなニュースです。 

歴史ある秘湯楽しんで 土湯温泉でモニターツアー

福島民報 8月23日(金)9時50分配信
 
 福島県の土湯温泉観光まちづくり協議会は東日本大震災からの復興事業の一環として「土湯秘湯と大正の宿ロマンモニターツアー」を9月から11月までの週末を中心に実施する。
 日帰りと1泊2日の2コースを用意。大正6年創業の老舗旅館・不動湯温泉で温泉を楽しみ、高村光太郎、智恵子夫妻も宿泊したという長い歴史を誇る同旅館や土湯温泉についての話を聞く。さらに、ガイド付きで土湯温泉の源泉を訪れ、噴気や、バイナリー発電計画地を見学する。

 料金は日帰りコースが大人2000円(最低催行人員5人)、1泊2日コースが大人1万1000円(同1人)。申し込みは開催日の10日前まで。問い合わせは同協議会 電話024(595)2217へ。
 
 
不動湯さんは、土湯温泉の中心街から山深く入っていった所にある一件宿です。まさに「秘湯」の名にふさわしい場所です。
 
光太郎智恵子が訪れた当時の部屋が残り、さらに光太郎が書いた宿帳も奇跡的に保存されています。

追記・平成25年(2013)8月の火災で、建物、宿帳とも焼失しました。その後、焼け残った露天風呂を使って日帰り温泉施設としてリニューアルオープンしました。
 
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温泉大好きの皆さん、いかがでしょうか?

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