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ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

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第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

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画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

昨日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車を見に行ってきました。
 
まずこちらは「寺宿」という町内の山車に施された彫刻です。これが光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の家系の仕事です。

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こちらは「荒久(あらく)」という町内の山車で、山車の上部に据え付けられる巨大な人形。活人形(いきにんぎょう 「生人形」とも表記)という種類のもので、作者は三代目安本亀八。同じ亀八の作品、「下中宿」の菅原道真は、光雲に激賞されたという話も。その菅原道真をいただいた「下中宿」の山車、今日は行き会えませんでした。夜8:45~のNHK総合の関東甲信越ニュースではばっちり映っていました。

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他の山車にも幕末から明治、大正、昭和初めの職人達の精魂込めた仕事が為されています。
 
こうした木彫や人形をじっくり見たいという方のために、「水郷佐原山車会館」という博物館があります。山車の実物が展示されている他、祭りの歴史を紹介するコーナーや古い写真パネルなど、興味深い展示になっています。彫刻や工芸の歴史に興味のある方は、必見です。
 
また、周辺の古い街並みも非常に風情があります。是非一度お越しあれ。

昨夜、地上波TBS系で始まった木曜ドラマ9「ビギナーズ!」を見ました。藤ヶ谷太輔さん主演の青春ドラマです。主人公達の在籍する警察学校の校長「高村光太郎」が、鹿賀丈史さん。光太郎と何か関係のある設定かと思っていましたが、第1話見る限り、そういうエピソードはありませんでした。今後、そういう展開になるかも知れません。
 
さて、同じ地上波TBSで、現在、昼間に「浅見光彦~最終章~」というドラマの再放送を、1日に2本ずつ放映しています(関東地区以外ではどうだかわかりませんが)。5/14のブログでも紹介しましたが、内田康夫原作の人気推理小説のドラマ化で、今回再放送中のものは連ドラ枠で平成21年(2009)に放映されたものです。探偵・浅見光彦役は沢村一樹さん。来週17日(火)のオンエアは、「第8話 エキゾチック横浜編」「最終話 草津・軽井沢編」の2本です。時間は13時55分~15時50分。このうち「最終話 草津・軽井沢編」は、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」(昭和61年=1986)を原作としています。原作では福島岳温泉、島根県などを舞台としていますが、なぜか草津や軽井沢が舞台に変更されています。
 
こちらはDVD化もされています。

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さて、これも以前のブログで書きましたが、今日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われます。間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車(だし)が出ます。天気が心配ですが、暇を見つけて見に行ってきます。

一昨日、練馬区立美術館さんに講演を聴きに行く途中、江東区の東京都現代美術館さんに寄り道しました。こちらには美術図書室という施設があり、古い美術関係の蔵書が充実しているからです。
 
目当ては『芸術新聞』という古い新聞。その名の通り、美術や音楽、文学や演劇など、芸術全般についての記事が載った新聞です。昭和18年(1943)初め頃の号に、光太郎の「われらの道」という詩が載っているかも知れないと考え、調査してみました。
 
「われらの道」は、光太郎の詩集『記録』に収められたので、内容は分かっています。しかし、初出-雑誌等に初めて発表された状況-が不詳です。光太郎の手許に残された控えの原稿には「芸術新聞へ」のメモ書きが残されています。
 
さて、収蔵庫から出していただいたのは、マイクロフィルム。国会図書館では所蔵品のデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧するシステムになっていますが、他館ではまだそうしたシステムが不十分で、古い書籍や新聞雑誌等、写真撮影したマイクロフィルム(リールになっているもの)やマイクロフィッシュ(シートになっているもの)を専用の機械で閲覧するという方式が多く採られています。
 
事前に書誌情報として「欠号多」という文字を眼にしていましたので覚悟はしていましたが、やはり「われらの道」、発見できませんでした。ちょうど掲載された号が脱けているのだと思います。普通に考えれば、数十年前の特殊な分野の新聞がきっちり揃っていないというのも仕方のない話でしょう。まあ、あきらめずに探索は続けます。
 
そのままだと癪にさわりますし、まだ時間もあったので、開架コーナーから総目録的なものを取り出し、知られていない光太郎作品の掲載がないかどうか調べました。6/7のブログにも書きましたが、特定の雑誌の執筆者、記事の題名等の索引がしっかりしているものは重宝します。
 
さて、『東京美術学校校友会雑誌』『工芸』などの雑誌の総目録を調べましたが、目新しいものは見つかりません。ところが、『美術新報』という雑誌の総目録を見ると、持参した当方作成のリストに載っていない光太郎作品が記されています。題名は「美しい生命」。しかし、大喜びはできません。こういう場合、落とし穴があることがわかっているからです。
 
ともあれカウンターに行き、該当する明治43年(1910)の号を含む合冊(復刻版でした)を出してもらい、当該ページを見てみましたら、題名のあとに「高村光太郎氏(早稲田文学)」とあります。「やはりな。」と思いました。この時期の特に美術系雑誌は、他の雑誌に載った記事の転載が非常に多いのです。そこで、持参したリストで『早稲田文学』を調べてみました。しかし、「美しい生命」という題名の作品は載っていません。しかし、この時点でも大喜びはできません。まだまだ落とし穴があることがわかっているからです。

 
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当該ページをコピーし、そろそろ時間なので東京都現代美術館を後に、練馬区立美術館へ。講演を聴き、帰宅。『高村光太郎全集』を引っ張り出し、『早稲田文学』所収の作品を調べます。すると明治43年(1910)7月の第56号に載った「ENTRE DEUX VINS」という作品の一部が、コピーしてきた「美しい生命」と完全に一致することが判明しました。「やはりそうか。」と思いました。予想はしていましたが、少し悔しいものです。
 
特に古い美術系雑誌では、こういうふうに他の雑誌や新聞、書籍などから記事を転載し、さらに題名を変えてしまうというケースも結構多いのです。試みに手持ちのリストでページを繰ってみますと、備考欄に「転載」の文字がたくさん入っています。例えば明治45年(1912)の『読売新聞』に載った「未来派の絶叫」という文章は大正7年(1919)の『現代之美術』という雑誌に転載、同じ『読売新聞』に大正14年(1925)1月掲載の「自刻木版の魅力」という文章は同じ年5月の『詩と版画』という雑誌に転載、大正2年(1913)7月の『時事新報』に載った「真は美に等し」という文章は翌月の『研精美術』という雑誌に転載、というように枚挙にいとまがありません。そして、転載の際に題名が変えられることも多く、混乱することがあるのです。初めてこのケースの落とし穴にはまった時は、腹立たしいやら喜んでいた自分が情けないやらでした。以後、こういう落とし穴があるということを肝に銘じ、注意しています。
 
光太郎以外の書き手についてはよく知りませんが、この頃の美術系雑誌ではこういうこと(転載、題名の改変)が半ば当たり前のように慣習化していたのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけるとありがたい限りです。
 
ただ、逆のケースもあるので注意が必要です。明日はその逆のケースを紹介します。

昨日拝聴して参りました、日本大学芸術学部髙橋幸次教授のご講演からのインスパイアで、光太郎彫刻の空間認識といったことについて述べてみたいと思います。
 
まず有名な十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)について。これは昭和28年(1953)の作。光太郎はこの像を造るため、7年間の山居を切り上げて上京しました。智恵子の顔をもつ、といわれています。
 
この像の除幕式で述べた「裸婦像完成記念会挨拶」(『全集』第11巻)には、こんな一節があります。
 
造形的には群像になりますから、像ばかりでなくて、像と像の間に出来るいろいろな空間が面白い。それで、それを考慮して、いろいろなシンメトリカルな穴が出来るわけです。それが面白いわけです。
 
また、『東奥日報』に載った「高村氏制作の苦心語る"見て貰えば判ります"像の意味は言わぬが花」という談話(「遺珠」③)では、以下の通りです。
 
あの像は全体がこういう(手で形を示して)ピラミツド型になつていて上へ行つて交叉している気持なんです。それを中途で切つた辺が頭になつていて、二人の中間のあたりが、ちょうど将棋の駒みたいなかつこうを形づくつている。彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

図にしてにると、下の画像のようになるでしょうか。写真は『高村光太郎彫刻全作品』(穴沢一夫他編 六耀社 昭和54年=1979)からスキャンさせていただきました。
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この隙間というか、余白に注目するという考え方は、書道でもよく行われます。光太郎が特に晩年、書の制作に意欲を燃やしたのも、あながち無縁ではないでしょう。

続いて平成14年(2002)、実に70余年ぶりに見つかった栄螺(さざえ)の木彫です。

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これについても、少し長いのですが、光太郎自身の言葉を引用してみましょう。出典は昭和20年(1945)の「回想録」(『全集』第10巻)です。
 
 実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて、針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 
こういう光太郎の空間認識を意識して、光太郎の彫刻を見ると、また違った見え方になります。画像ソフトでいたずらしてみました。参考にしてみて下さい。写真は平成2年(1990)に茨城県近代美術館他で行われた企画展「高村光太郎・智恵子-その造形世界」の図録からスキャンさせていただきました。
 
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ただし、「白文鳥」の木彫は2体をどういう向きに並べるべきなのかはよくわかりません。
 
結局、光雲たち草創期の近代彫刻家には、こういう意識が欠如、あるいはあっても不十分だったということではないのでしょうか。専門の方の御意見を伺いたいものです。
 
今日の内容が、みなさんがどこかで光太郎彫刻を目にする時の一助となれば幸いです。

今日は練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参りました。本日まで開催の日本大学芸術学部美術学科さん(N)と練馬区立美術館さん(N)の共同企画展「N+N展2012」の関連行事です。
 
「N+N展2012」は「触れる」というテーマのもと、日本大学芸術学部美術学科教職員の皆様による作品を展示していました。最近の美術界の傾向として、視覚だけに頼るのではなく、もっと五感(五官)を駆使すべしという流れがあるそうで、こちらのテーマも「触れる」ですから、自由に触れられる作品が多く展示されていました。
 
そして講演は「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。講師は同大教授の髙橋幸次氏。パワーポイント等使いながら、非常にわかりやすいお話で、1時間40分ほど、あっという間でした。
 
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光太郎は昭和3年(1928)の時点で、既に五感(五官)すべてが「触覚」に帰結する、という趣旨の発言をしていることをご紹介されました。そう考えると、光太郎は時代を突き抜けていたといえるかも知れませんね。
 
それから有名な「手」の彫刻を実例に挙げての光太郎の空間認識。当方、あの彫刻の画像を名刺に使ったりしていながら、今までそういう見方をしたことがなかったのですが、てのひらの部分に空間が設定されており、それを包み込みながら回転運動、そして人差し指が指す天を目指してあがってゆくイメージがあるとのこと。確かにそう見えます。
 
下の画像は平成19年(2007)、新潟市の会津八一記念館で行われた企画展の図録の表紙です。「手」が使われているので載せさせていただきました。おわかりになるでしょうか。

 
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あのロダンの「考える人」も、実はものすごいねじり、ひねりが入ったポーズです。自分でやってみるとわかりますが、右の肘を左の膝に置いています(このあたり、ミケランジェロの影響を指摘する説もあります)。こういうイメージ、いわば「視覚で触る」というようなイメージですね。それを光太郎も意識している、と、こういうわけです。
 
実にいい勉強になりました。
 
確かに光太郎は他にも様々な彫刻で、空間認識を大事にしているな、ということに思い当たりました。明日はその辺を書いてみようと思います。

昨日と今日は、以前のこのブログで紹介した明治古典会七夕古書入札会の一般公開でしたが、昨日も今日も他に所用があり、結局行きませんでした。
 
さて、先日、石川光明やら大熊氏廣やら、明治の日本近代彫刻草創期の彫刻家の話題を書きましたので、手持ちの資料の中からそのあたりに関するものを引っ張り出しました。暇をみて読み返したいと思っています。 

明治の彫塑「像ヲ造ル術」以後」

平成3年(1991)3月30日 中村傳三郎著 文彩社 定価4000円+税

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書き下ろしではないのですが、結果的に明治期の彫刻の編年体的通観がなされています。それにしても、帯がいいですね。内容もさることながら、この帯に惹かれて購入したことを覚えています。 

平成6年(1994)3月1日 田中修二著 吉川弘文館 定価6,214円+税

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『明治の彫塑』がどちらかというと編年体で書かれているのに対し、こちらはどちらかというと紀伝体です。高村光雲、後藤貞行、大熊氏廣の三人について、一章ずつ費やして論じています。後藤貞行はやはり東京美術学校に奉職した彫刻家で、動物彫刻を得意とし、「楠木正成像」の馬、「西郷隆盛像」の犬を手がけています。他に、石川光明、米原雲海ら同時代の彫刻家、朝倉文夫、荻原守衛ら次の世代の彫刻家にも触れています。
 
明日はやはり以前のこのブログで紹介した練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参ります。午後3時からなので、午前中は調査。日曜は国会図書館さん、駒場の日本近代文学館さんが休みですので、木場の東京都現代美術館さんに行きます。美術館でも、図書館のように図書の閲覧サービス等を行っているところがあり、東京都現代美術館さんもその一つです。

本日も香取市(旧佐原市)ネタです。佐原と光雲の間接的なつながり、ということで、昨日は佐原の大祭についてご紹介しました。もう一つ、似たような例があるので今日はそちらを。
 
JR佐原駅の改札を出て、まっすぐ南に行きますと、500㍍ほどで小高い山にぶつかります。山の上には諏訪神社。山の手前、右側は公園になっており、こちらに建っているのが下の画像の銅像です。
 
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我が国で初めて実測による日本地図を作成した、伊能忠敬の銅像です。
 
忠敬は元々は九十九里の生まれでしたが、醸造業だった佐原の伊能家に養子として入り、傾いていた家業を盛り返し、また、佐原本宿の名主としても、天明の飢饉の際に私財をなげうって窮民救済にあたったなどといわれています。そしてその名を一躍有名にした実測地図作成。これが実は隠居後の仕事だったというのですから驚きです。佐原旧市街には、現在も残る忠敬の旧居、平成10年に開館した伊能忠敬記念館などがあり、佐原観光の拠点になっています。
 
というわけで、地元の誇りというわけで、古くから顕彰活動が行われていまして、この銅像は大正八年、忠敬没後百年を記念して当時の佐原町有志が中心となって建立されました。
 
この像の作者は、大熊氏廣。安政三年生まれの彫刻家で、日本近代彫刻の草創期を担った一人。靖国神社に建つ「大村益次郎像」(明治26年=1893)など、我が国最初期の銅像の作者です。
 
もっとも、光太郎はこの大村益次郎像に対しては非常に手厳しい文章を残しています。曰く「大熊氏廣氏作の大村益次郎像は九段靖国神社前に日本最初の銅像として今日でもその稚拙の技を公衆に示してゐる。(中略)本来塑像家としての素質無く、その作るところ殆ど児戯に等しい観があつて、何等の貢献をも日本彫刻界に齎(もたら)してゐない。」(「長沼守敬先生の語るを聴く」昭11=1936『全集』第7巻)。
 
草創期なんだからある意味仕方がないじゃないかと思いますが、どうでしょうか? ちなみに光太郎、勘違いしています。大村像完成より古い明治13年に、金沢兼六園に建てられた「日本武尊像」が日本初の銅像という説が有力です。参考までに光雲が関わった皇居前広場の「楠木正成像」は明治29年(1896)、上野の「西郷隆盛像」は同30年(1897)の竣工です。
 
さて、大熊は「東京彫工会」とう組織に所属していました。元々は例の石川光明ら、牙彫(げちょう=象牙彫刻 廃仏毀釈のあおりで木彫の注文が激減したため外国人向けに作られ、一世を風靡 光明は一時期牙彫に専心)の人々が中心になって作られた団体ですが、光雲も参加しています。
 
というわけで、大正8年(1919)頃、次のような会話が交わされていたかもしれません。
 
大熊 「今度、下総の佐原という町に伊能忠敬翁の銅像を造ることになりました。」
光雲 「ほう、佐原ですか。先頃亡くなった石川光明先生の先々代の頃、あそこの祭りの山車を何台か手がけたと聞きましたな。」
大熊 「なるほど。そうだ、山車といえば、活人形の安本亀八さんが、佐原の山車の人形を作るとも聞いていますぞ。」
光雲 「そいつは楽しみですなあ。」
 
こんな想像をすると、何とも楽しいではありませんか。
 
しかし、佐原の伊能忠敬像、説明板には忠敬の業績ばかりで、作者大熊の名が記されていません。一般に銅像というもの、「誰が作った」より「誰を作った」の方ばかり注目されている嫌いがあるように思われます。「渋谷のハチ公の作者は?」と訊かれて「安藤照」とパッと答えられる人はまずいないでしょう(現在は二代目ハチ公で照の子息、士(たけし)の作)。かくいう当方も、今、ネットで調べて書いています(笑)。
 
日本彫刻史をしっかり押さえるためにも、こうした風潮には釘を刺したいものです。

以前にも書きましたが、当方、千葉県香取市在住です。その中でも平成の大合併で香取市となるまでは佐原市といっていた区域で暮らしています。ここは千葉県の北東部に位置し、成田や銚子にも近い水郷地帯です。
 
もともとは古代に香取神宮の門前町としてその発展を始めましたが、江戸の昔には利根川の水運、水郷地帯特産の米を利用しての醸造業などを中心に商都として栄え、「小江戸」と称されました。日本で初めて実測による地図を作成したかの伊能忠敬も、佐原で醸造業を営んでいました。
 
しかし、明治に入り、鉄道網の整備と共に水運が廃れ、佐原の街の発展もかげりを見せます。そのおかげ、というと語弊がありますが、太平洋戦争時には空襲をまぬがれました。銚子には空襲がありましたし、成田では空襲はなかったものの、撃墜されたB29が炎上しての火災があったそうです。そのおかげ(こちらはほんとにそのおかげです)で、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
それまではさびれた街でしたが、もともと営業していた店は息を吹き返し(幕末に建てられた店がそのまま営業しています)、廃屋になりかけていた古民家もおしゃれなカフェやレストランなどにリニューアル、現在では休日ともなれば都心方面からのバスツアーなど、観光客の皆さんでにぎわっています。昨年の震災で受けた被害からも徐々に復興してきました。ただ、まだ足場を組んで修理中の建物も多いのですが。
 
余談になりますが、佐原では古い街並みを利用しての映画、テレビなどのロケもよく行われています。後のブログでも書こうと思っていますが、昭和42年公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)のロケも行われたのではないかと思っています(確証がないのですが)。
 
というわけで、古来から佐原には文人墨客の滞在、来訪が多くありました。近代でも有名どころでは、芥川龍之介にその名もずばり「佐原行」という小品がありますし、与謝野晶子、若山牧水、柳原白蓮、新村出(かの『広辞苑』編者)なども訪れています。あまり有名ではありませんが、光太郎の彫刻のモデルを務めたこともある歌人・今井邦子の夫も佐原にゆかりの人物です。実は佐原、古い街並み保存などの方面には力を入れていますが、文人との関わりなどの方面はまだまだ光を当てていません。
 
近隣の銚子や成田には光太郎、智恵子の足跡が残されています。しかし佐原と光太郎には、今のところ深い関わりは発見できていません。今後、佐原に住んでいた誰々に宛てた書簡などが出て来る可能性も皆無ではありませんが、おそらくないでしょう。大正元年に光太郎と智恵子は銚子の犬吠埼で「偶然に」出会っていますが、この頃の東京から銚子へのルートとしては佐原経由の成田線がまだ開通しておらず、もう少し南の八日市場・旭経由の総武線で往復し、佐原は通っていないと思われます。
 
ただ、間接的なつながり-光太郎というより光雲との-はいくつかあります。その一つが来週末に行われる「佐原の大祭・夏祭り」です。先日のブログに書いた佐原の骨董市が行われる八坂神社の祭りです。
 
佐原の大祭は夏と秋の二回、それぞれ3日間ずつ行われます。夏と秋では異なる地区が担当します。旧市街中心を流れる小野川を境に夏は東岸の「本宿」(旧市街の中でもより古くから発展していた地区)、秋は西岸の「新宿」(旧市街の中では比較的新しく発展した地区)が担当です。基本的には山車(だし)の引き回しをする祭りです。江戸期に繁栄していた頃、佐原の商人達がこぞって豪勢な山車を作らせ、その妍(けん)を競いました。

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山車の命は上部に据えられる巨大な人形と、山車全体を覆う木彫です。
 
まず、木彫の方では、先のブログで紹介した、東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の家系が関わっています。来週末に行われる夏祭りでは本宿地区10台の山車が出ますが、そのうちの4台に石川系の木彫が施されています。それぞれ江戸後期から幕末に作られたもので、「寺宿」「船戸」(本宿の中のさらに細かな町名です。以下同じ)の山車には、光明の先々代、豊光の門人であった石川常次郎の彫刻が、「下新町」の山車(こちらは秋ですが)にはやはり豊光の門人であった石川三之介の彫刻が施されています。また、詳細は不明とのことですが、「仁井宿(にいじゅく)」の山車にも石川系の彫刻が入っているらしいとのことです。佐原の商人達は、当時の江戸の有名な宮彫師(神社仏閣の外装などを手がける職人)であった石川一派に依頼したというわけです。どれも非常に精緻な木彫で、江戸の職人の水準の高さがよくわかります。
 
残念ながら高村一派の木彫が入った山車はありません。光雲は、自分の地元の駒込林町の祭礼で使う御輿(みこし)の木彫などは手がけていますが、あくまで地元だからであって、やはり御輿や山車の彫刻は仏師としての仕事の範疇から外れるのだと思います。
 
それから人形。佐原の山車には一部の例外を除き、歴史上の人物や神話の神々などの巨大な人形が据え付けられています。夏祭りで出る山車のうち、「下仲町」の人形・菅原道真(大正十年)、「荒久(あらく)」の人形・経津主神(ふつぬしのかみ=香取神宮の祭神 大正九年)の作者は、三代目安本亀八(かめはち)。これらの人形はとてつもなくリアルな「活人形(いきにんぎょう)」という種類のもので、これは幕末から明治、大正にかけて見世物小屋などで展示されることが多かったということです(一番下のリンクで画像が出ます)。光雲は活人形の祖、松本喜三郎を賞賛する文章を残しており、昭和四年に刊行された『光雲懐古談』に収められています。さて、「下中宿」の菅原道真。町内の人が書いた説明板には光雲がこの人形を見て絶賛した旨の記述があります。ただし、今のところ出典は確認できていません。
 
いずれ光雲の書き残したもの(多くは談話筆記)も体系的にまとめようと思っていますので、そうした中で調査してみたいと思います。
 
というような光雲との間接的なつながりのある祭りです。来週末の13日(金)から15日(日)の3日間。重要伝統的建造物群を背景に練り歩く山車を見るだけでもいいものです。タイムスリップしたような感覚も味わえます。十数年前までは、八坂神社に見世物小屋の興業が出ていました。さすがにそれは無くなりましたが、情緒溢れるレトロな雰囲気は昔のままです。といって、静かな祭りではなく、山車をその場でドリフトさせる「「の」の字回し」(平仮名の「の」のような動きということです)などの勇壮な曲引きもあったりしますし、山車に乗る「下座連(げざれん)」の人達の笛や太鼓の演奏も見事なものです。これも音楽史、民俗史的に貴重なもののようです。
 
是非、お越しください。
 
以下のサイトを参照させていただきました。
 
国指定重要無形民俗文化財 佐原の大祭
 
『生人形師 三代目 安本亀八展~日本人形の極致~』水郷佐原山車会館  

新刊情報です。 

スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡

坂本富江著 牧歌舎 平成24年7月10日 定価1,800円+税

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これも楽しみにしていた書籍の一つです。著者の坂本様から6月下旬に刊行予定と御案内を頂いておりましたが、少しずれ込んだようです。昨日届きました。
 
著者の坂本様は、若かりし頃の智恵子も所属していた太平洋画会の後身、太平洋美術会の会員(智恵子に惚れ込むあまり入会されたそうです)。高村光太郎研究会や福島の智恵子の里レモン会の会員でもあられます。
実は当方、タイトルの「スケッチで訪ねる」という文言から、勝手に単なる画集のようなものだろうと思いこんでいました。しかし、さにあらず。確かに坂本様のスケッチもたくさん載っていますが、それだけでなく、光太郎・智恵子ゆかりの地を訪れたレポートがびっしり書かれています。思わず一気読みしてしまいました。
 
画像でお判りになるかと思いますが、帯には渡辺えりさんの推薦文が掲載されています。曰く、「坂本さんのスケッチは温かく、まるで智恵子を抱きしめているように思える。智恵子自身が、故郷の山や川や植物を坂本さんと一緒に描いているようだ。」なるほど、その通りです。
 
驚いたことに、全ページカラー刷りの豪華な造りです(鉛筆スケッチはともかく、水彩でのスケッチはカラーでなければしょうがないといえばそれまでですが)。収められたスケッチは150点近く。その点数の多さもさることながら、訪れられた場所も実に多方面にわたっていて、その御労苦に頭が下がります(なんと、17年分のご成果だそうです)。定番の二本松、犬吠埼、十和田湖などはもちろん、智恵子が短期間暮らしていた雑司ヶ谷周辺や、1ヶ月程入院していた九段坂病院、人里離れた福島の不動湯温泉(光太郎直筆の宿帳が今も残っています)などなど。
 
そして文章を読むと、いろいろな場所で体当たり的取材を敢行されているバイタリティーにも感心させられました。さらに行間から滲み出る智恵子への愛惜の思いの深さ……。素晴らしい!
 
肝心のスケッチは、150点近くも収められていながら決してゴテゴテせず、全編を通して何というか、一つの統一された流れを感じました。時々、全ページカラー刷りというと「飲み屋街のネオンか?」と突っ込みたくなるようなけばけばしい書籍がありますが、この本はそういうことはまったくありません。表紙や見返し、年譜のページなど、智恵子が好きだったというエメラルドグリーンが非常に効果的に使われ、爽やかな感じです。さすがに絵心のある人は違いますね。羨ましい限りです。
 
是非とも第二弾「スケッチで訪ねる光太郎の旅」を出していただきたいものです。

昨日、当方の暮らす市内の神社で月に一度の骨董市があり、行ってきました。
 
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骨董市ですから、焼き物やら刀剣やらが主なのですが、とりあえず当方、だいたい毎月行っています。一部の業者が古書籍や「刷り物」といわれる一枚物の印刷資料等を持ってきていることがありますので。
 
結局昨日は何も買わず帰りましたが、時々買うのが、光太郎、智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書、特に戦前の発行と思われるモノクロのものです。先月は会津磐梯山のものを買いました。こうした骨董市だけでなく、古書店の店頭やネット販売や目録販売などでも気がつけば買っています。ネット販売や目録販売では結構高めの値段ですが(一枚数千円するものもあります)、骨董市などでは一枚100円くらいが相場ですし、宝探し的雰囲気が味わえて面白いものです。
 
光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで、ちょっとしたものを書く時に挿画として使えます。また、今は失われてしまった建造物などの画像は、結構貴重だと思います。
 
こうした古い絵葉書を使って、当方が刊行しています冊子『光太郎資料』にて光太郎たちの故地を紹介しています。『光太郎資料』については、後ほどのこのブログで紹介いたします。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された「第72回企画展 『智惠子抄』という詩集」の際には、当方手持ちの書籍やらポスターやらいろいろなものを出品物としてお貸ししたのですが、大正元年に光太郎と智恵子が「偶然」出会った銚子の犬吠埼や、大正2年に二人が一夏を過ごした上高地、昭和9年に智恵子が療養のために滞在した九十九里の絵葉書も当方のお貸ししたものが出品されました。ただし、あくまで光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで彼らの目に映った風景と若干異なるかも知れません。それでも、現在の姿より往時に近いものであることは確かでしょう。
 
さて、例によってお願いです。風景だけでなく、光太郎や光雲の彫刻(主に銅像)の絵葉書も集めているのですが、特に以下のものを探しています。もしお持ちの方で、譲っていただけるとか、画像を提供していただけるという方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。
 
光太郎彫刻 
 宮城県 青沼彦治像(光雲代作) 志田郡荒雄村公園 大正14年(1925)
  除幕記念の袋入り5枚組のものを入手しましたが像が大写しになっているものがありません。
 千葉県 赤星朝暉胸像 千葉県立松戸高等園芸学校 昭和10年(1935)
 岐阜県 浅見与一右衛門像(光雲代作) 恵那郡岩村町 大正7年(1918) 
 
光雲彫刻
 秋田県 坂本東嶽像 仙北郡千屋村浪花字一丈木 大正12年(1923)
 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年(1908)
 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年(1911)
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年(1906)
 愛媛県 広瀬宰平像 新居郡中萩村字中村 明治31年(1898)
 
参考:屋外彫刻調査保存研究会ページhttp://www4.famille.ne.jp/~okazaki/zenkokuchousa1.htm

昨日紹介した小説、下八十五著「盗作か? 森鴎外の『花子』」を読んで、改めて花子のことが気になり、手持ちの資料の中から花子関連をもう一度読んでみました。
 
つくづく不思議な女性です。きら星の如くそれぞれ違った光彩を放つ光太郎人脈の中でも、ひときわ異彩を放っている一人だと思います。
 
昨日書いた通り、花子は明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛されました。しかし、現在の日本で彼女の名を知っている人がどれだけいるか、このギャップ。それは花子が欧州で活躍していた頃からそうでした。
 
一つには、芝居の内容の問題があると思います。仮に花子一座が日本で公演したら、嘲笑と怒号に包まれたことでしょう。女性が切腹をしたり、剣豪と柔術家が闘ったりという荒唐無稽な内容なのです。これは何も花子の責任ではなく、外国人興行主の意向です。当時の欧州では正しい日本文化など理解されていませんから、過度に日本情調を演出した内容が受けていたのです。したがって当時の日本ではキワモノ扱い。どんなに花子が名声を勝ち得ても、本国日本では無視され続けていました。その流れが現代まで続いているのです。
 
そんな中で、花子に着目した鷗外や光太郎は、矢張り炯眼の持ち主と言えるでしょう。そして彼女を彫刻のモデルにしたロダンも。
 
驚いたことに花子一座の芝居は、全て日本語で演じていたそうです。プログラムやパンフレットの類には、あらすじ等が細かく書かれていたと言うことですが、一つ一つの台詞など、観客にはわかりません。それでも観客がこぞって花子を絶賛したのは、言葉を超えて伝えられた彼女の表現力のせいだと思います。ちょうど我々が、言葉の意味はわからなくとも外国のオペラやミュージカルに感動するのと同じでしょう。ロダンも、クライマックスに切腹して果てる断末魔の花子の表情に惹かれ、彫刻にすることを思い立ったそうです。荒唐無稽な内容がどうあれ、そうした表現力で観客を虜にした花子、立派な女優だと思います。
 
さて、下氏の調査等のおかげもあり、花子の故郷・岐阜県では、花子を見直そうという動きが巻き起こりました。花子の妹の孫に当たる澤田助太郎氏(連翹忌にご参加いただいたこともあります)は、詳細な評伝を書かれました。 

ロダンと花子

澤田助太郎著 中日出版社 平成8年(1996)10月 定価1,456円+税

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また、岐阜県としてもこんな本を出しています。 

マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優

澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画 岐阜県 平成12年(2000)3月 定価記載なし

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この漫画、昭和2年(1927)に光太郎が岐阜の花子を訪れる所から始まりますが、光太郎、随分とイケメンに描かれています。風采のあがらぬおっさんに描かれなくてよかったと思いますが(笑)。

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さらにこちらは4年前にお隣愛知で開かれた企画展のパンフレットです。 

特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-

一宮市尾西歴史民俗資料館 平成20年10月

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それぞれ光太郎にも言及されています。
 
最後にもう一つ。花子が持ち帰ったロダンの彫刻二点は、現在は新潟市美術館さんに収められているそうです。今度新潟方面に行く時には、見に行ってみようと思っています。

新刊情報です。 

盗作か? 森鴎外の『花子』

下八十五著 文芸社 平成24年7月15日(まだ7/15になっていませんが奥付記載の日付です) 定価1,600円+税

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最初に断っておきますが、これは、あくまで小説です。光太郎を含め、登場人物のほとんどが実在の人物ですし、書かれている出来事の大半も事実ですが、あくまで小説です。
 
内容を紹介する前に、主要登場人物をめぐる史実を説明しておかなければならないでしょう。
 
台風の目となるのは、女優・花子。実在の人物なのですが、ご存知でしょうか。
 
明治元年、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
ここでもう一人のキーパーソン、森鷗外。明治43年、雑誌『三田文学』に短編小説「花子」を発表。花子が初めてロダンのアトリエを訪れた際の様子が、通訳として同行した日本人留学生「久保田某」の視点で描かれています。
 
花子とロダンとの交流は、大正六年のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正十年、そのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。昭和2年、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行したロダンの評伝に描かれています。昭和20年、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
ここまでは史実です。
 
さて、この「盗作か? 森鴎外の『花子』」、冒頭に書きましたがあくまで小説です。小説なので虚実ない交ぜになっています。明治43年に発表された鷗外の小説「花子」に登場する通訳の「久保田某」のモデルが、鷗外の家で書生兼鷗外の長男・於菟(おと)の家庭教師であった大久保栄という人物で、「花子」は大久保の手記の盗作あるいは剽窃ではないか、という仮説が検証されていきます。
 
謎解きの探偵役、前半は光太郎です。昭和2年、岐阜の花子を訪れる前に森於菟の家に立ち寄った光太郎は、於菟から件(くだん)の仮説を聞かされ、謎解きを依頼されます。しかし光太郎は踏み込んだ調査が出来ずあえなく帰京(ある意味情けない!)。調査は光太郎死後、光太郎旧知の元新聞記者・山岡(著者の下氏がモデルです)に引き継がれ、実に百年近い歳月を経て、真実が明るみになる、というストーリーです。ネタバレになるのでオチはここには書きませんが。
 
全四百余ページの大作です。あくまで小説ですが、山岡が、花子や大久保の出自やら現在の子孫やらを捜し当て、当時の状況を解明していくくだりなどは、おそらくほぼ著者・下氏の調査体験の通りと思われ、非常な労苦に頭が下がります。現在刊行されている花子の評伝の類は、下氏の調査結果を基にしています。
 
全四百余ページの大作ですが、当方、2日で読破しました。皆さんも是非お買い求め下さい。
 
ただ、本書を読む前に、鷗外の「花子」、光太郎の「オオギユスト ロダン」中の「十七.小さい花子(プチトアナコ)」を先に読んでおくことをお勧めします。鷗外の花子は「青空文庫」で、光太郎の方はアルス刊の『ロダン』、筑摩書房『高村光太郎全集』第七巻、あるいは春秋社版『高村光太郎選集3』に掲載されています。後の二つは大きめの公共図書館なら置いてあると思います。

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明日も花子ネタで行ってみようと思っています。

新刊ではなく、昨年発行されたものですが、つい先程届きましたので紹介します。 

高村光雲と石川光明

 平成23年(2011)9月 清水三年坂美術館編・発行 定価2,000円

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昨年8月から11月にかけ、京都清水寺近くの清水三年坂美術館さんで開催された企画展「帝室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明」の図録です。光太郎の父・光雲と、もう一人、同時代の、というか同じ嘉永五年生まれの彫刻家・石川光明(こうめい)、二人の作品を約三十点ずつ集めた企画展だったようです。
 
不覚にも、この企画展があったことを知りませんでした。京都は大好きな街の一つですし、知っていれば観に行ったのですが、残念なことをしました。ただ、図録だけは同館のオンライン販売で入手できました。
 
光雲と光明、同じ年に生まれた彫刻家同士というだけでなく、もっとたくさんの共通点があります。まず、同じ浅草の生まれであること。そして、光雲は仏像彫刻の「仏師」の家に弟子入りし、光明は神社仏閣の外装などを主に行う「宮彫師」の家に生まれたという違いはありますが、ともに廃仏毀釈による苦難の時代を経て、復権した木彫で名を為したこと。そして共に東京美術学校(現・東京芸術大学)教授となり、共に帝室技芸員に任じられたこと。共に各種の博覧会や皇居造営の際の彫刻に腕を振るったこと、など。したがって、二人は莫逆の友です。この図録に、先に逝った光明を惜しむ光雲の談話(初出『美術之日本』第5巻第9号 大正2年=1913 9月)も掲載されていますが、友を失った光雲の語り口には、哀惜の意が深く込められています。
 
さて、図録に収められた光雲作品、当方も初めて見るものがほとんどでした。平成11年に中教から刊行された『高村規全撮影 木彫高村光雲』、平成14年に千葉市美術館他四館で開催された企画展の図録『高村光雲とその時代展』、それぞれ100点近くの光雲作品写真が掲載されていますが、今回掲載されている物との重複はほんの数点です。
 
驚いたのは同じモチーフ(例えば鍾馗、西王母、獅子頭など)の彫刻だから同一のものだろうと思うと、よく見たら木目や彩色の工合などが微かに違い、別の作品だとわかることです。もう光雲の頭の中にはそれぞれのモチーフの設計図が叩き込まれており、寸分違わぬものが幾つも出来るのですね。
 
そういった点を抜きにしても、その超絶技巧には舌を巻きます。この点は光明の作品にも言えることですが、「ここまでやるか」という細部まで細密に彫っています。例えば上の画像の観音像が手にしている蓮。実際に見た訳ではないので断言はできませんが、他の作品の例を当てはめれば、別に作って手に差し込んであるのではなく、一本の木から掘り出してあり、手とつながっているはずです。後ろの髪飾りや首飾りも同様です。
 
こうした作り方を光太郎は芸術ではなく職人仕事だ、と蔑む部分があったようです。光雲自身も自分を芸術家とは捕らえていませんでした。
 
当方など、実作者ではない立場から、「凄いものは凄い」「美しいものは美しい」と思います。明治初期の工芸、特に欧米向けの輸出品の中には、有象無象の作家が超絶技巧を見せようとするあまり、ゴテゴテとした装飾過剰に走ったゲテモノのような作品もあります。しかし、光雲の木彫にはそういう嫌らしさは感じられません。
 
明治期の彫刻、ゲテモノは別として、もっともっと評価されていいと思います。

最近入手した光太郎関連の書籍ですが、少し前に出版されたものを紹介します。調査がゆきとどきませんで、最近までこれらの書籍の存在に気づきませんでした。 

南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功 杉浦佐助 中島敦

 岡谷公二著 冨山房インターナショナル 平成19年(2007)11月29日 定価2,400円+税

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サブタイトルに名前のある3人は、大正から昭和初期にかけ、日本統治下のパラオに流れていった人々です。3人のうち光太郎と親交のあったのは、ともに彫刻家の土方久功(ひさかつ)と杉浦佐助。光太郎との交流を含めた3人の南島生活を中心とした評伝です。
 
杉浦佐助は昭和14年(1939)に開かれた彼の個展のパンフレットに、光太郎が「恐るべき芸術的巨弾-杉浦佐助作品展覧会」という文章を寄せ、絶賛しました。今では全くといっていいほど忘れ去られた彫刻家ですが、著者岡谷氏が幻の作品を探すくだりなどは、読んでいてワクワクさせられました。 
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左から川路柳虹(詩人)、杉浦、光太郎。右端の人物は不明です。

土方に関しても光太郎は昭和28年(1953)の『朝日新聞』に「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という文章を寄せています。のちに土方著『文化の果にて』(『智恵子抄』版元の龍星閣刊行)の序文として転用されました。

大江戸座談会

 竹内誠監修 柏書房 平成18年(2006)12月25日 定価2,800円+税

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昭和初期に刊行された雑誌『江戸時代文化』『江戸文化』に掲載された座談会の復刻です。画家の伊藤晴雨、編集者の山下重民らの有名どころから、元南町奉行所の与力、直心影流の達人、和宮に仕えた旧幕臣、江戸の商人など、さまざまな階層の人々が14のテーマで行った座談です。
 
光太郎の父・光雲も「江戸の見世物」「江戸の防御線-見附の話」「彰義隊」の3回に出席し、記憶を語っています。
 
光雲が江戸から明治初期にかけてを回想して語った回顧録の類は多く、光太郎が生まれ育った環境を知る上でも貴重な記録です。当方が発行しております冊子『光太郎研究』にそのあたりを少しずつ掲載しています。いずれはこの座談会も掲載しようと思っています。
 
冊子『光太郎研究』についてはまた後ほど紹介いたします。

6月となりました。
今日は近々行われるイベントをご紹介します。 

期 日 : 2012年6月3日(日)
会 場 : 東京晴海・第一生命ホール
時 間 : 14:30~
料 金 : S席¥5,500 A席¥4,500 B席¥3,500 C席¥2,500
      学生¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下¥800(当日¥1,000)
  
昨日、ネットで検索していたら見つけました(いきなり明後日ですが、申し訳ありません)。

「大阪コレギウム・ムジクム」は大阪を拠点とし、関西・東京・名古屋など国内各地、そして海外でも活動している演奏団体だそうです。

五部構成のプログラムの中に「西村 朗/混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」が含まれています。これは、2009年に楽譜が発売されたもので、光太郎の「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」「レモン哀歌」に曲をつけた混声四部合唱です。

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当方、個人的に合唱をやっているものですから、聴きに行きたいのですが、その合唱の本番が翌週にあり、最後の練習と重なっているため行けません。残念です。 

智恵子のまち夢くらぶ 智恵子講座’12 第3回「求愛熱愛期を中心にして」

期 日 : 2012年6月17日(日)
会 場 : 福島二本松市民交流センター
時 間 : 10:00~
料 金 : 参加費1,000円

講師・金田和枝さん(児童文学者) 

福島二本松の旧安達地区で活動している智恵子のまち夢くらぶさんの主催で、全7回の講座の3回目です。希望する会だけの参加も可能とのことです。

申込先は智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん。tel/fax0243-23-6743。1週間前まで申し込み受付中のようです。
当方、これには行くつもりでおります。 

 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」

期 日 : 2012年7月8日(日)
会 場 : 練馬区立美術館
時 間 : 15:00~
料 金 : 無料 

講師・高橋幸次さん(日本大学芸術学部美術学科教授) 
 
光太郎やロダンなどのテキストをひもときながら、美術作品と触覚についてのお話だそうです。参加費は無料ですが、事前申し込み(希望者多数の場合は抽選)が必要です。イベント自体はまだ先ですが〆切りが6/28までだそうですので、紹介してしまいます。こちらも早速申し込みをしました。
 
他にもこんなイベントがある、という情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。こちらでもできる限り調べているのですが、テレビ放映を含め、終わってしまってから気づくこともありまして……。
 
ちなみにこのブログを始めた5月以降で終わってしまってから気づいたイベントがこちら。

小原啓楼 独演コンサート
別宮貞雄作曲歌曲集『智恵子抄』、抜粋で演奏されたそうです。
 
また、同じく5月以降で終わってしまってから気づいたテレビ放映はこちら。

テレビ東京系『乃木坂浪漫』
アイドルグループ乃木坂46メンバーによる『道程』の朗読です。動画サイトで観ることができます。
 
明日はまた「光太郎遺珠」内容紹介に戻ります。

名古屋の方からこんなニュースがあったとお知らせいただきました。

高村光雲の木彫を無断売却=横領容疑、元美術商逮捕―横山大観作品も質入れ―警視庁

時事通信 5月15日(火)16時36分配信

 預かっていた高村光雲作の木彫を2500万円で勝手に売却し、横領したとして、警視庁捜査2課などは15日、業務上横領容疑で、鳥取市桂見、元美術商の山本麿容疑者(47)を逮捕した。同課によると、容疑を認めており、売却益は遊興費や借金返済に充てたという。山本容疑者は他の美術商らから横山大観や東山魁夷作の絵画など約11点の販売委託も受けていたが、いずれも質の出し入れを繰り返していた。
 逮捕容疑は昨年9月、静岡県内の美術館に販売する名目で、東京都練馬区の美術商から預かった高村光雲作の木彫を別の美術商に2500万円で売却し、横領した疑い。
 同課によると、山本容疑者が美術館に売却する話を持ち掛け、4000万円で商談が成立したが、売却話は架空だったという。 
 
バブルがはじけてだいぶ経ちますが、光雲の木彫ともなるとこのくらいの金額になるのですね。
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ムンクの「叫び」はオークションで96億円という話でしたが……。

最近入手した書籍(雑誌を除く、雑誌に関しては5/9参照)を紹介します。 

2011/3/22発行 西和夫著 集英社 定価720円+税

カバーより「かつてウサギ小屋などと海外から揶揄されたように、日本の住宅事情は劣悪だとされている。だが夏目漱石や内田百閒、高村光太郎など極小の空間を楽しみながら住んだ先人たちをみると、広さのみが豊かさに通じるとは言えないのではないか。本書は、究極の住居の実例を示し、住むことの根源を考えてみようとするものである。狭い住居の工夫を知って身の丈の生活の意味を再検討する。
 
光太郎に関しては、25頁にわたり、戦後の大田村山口での独居自炊生活を紹介しています。

2011/6/20 木下直之著  祥伝社 定価1100円+税

カバーより「西郷隆盛、楠木正成からフーテンの寅さん、アンパンマンまでこれ1冊で、日本と世界の英傑に会える東京の銅像めぐりパーフェクト・ガイド!!
 
光太郎より光雲に関する資料です。「序章 日本の銅像の基礎知識」で、近代彫刻黎明期に触れています。以後の各章は東京を地域別に分け、有名な銅像の紹介。光雲作の楠木正成像、西郷隆盛像、他にもロダンや光雲門下の彫刻家が作った銅像などが豊富なカラー写真とともに紹介されています。
 
この項、来週も続けます。

4/22(日)、信州穂高の碌山美術館さんで開催された碌山忌に行って参りました。
 
碌山(ろくざん)とは、光太郎と交流のあった彫刻家、荻原守衛(明12=1879~同43=1910)の号。守衛と光太郎はお互いが留学中だった明治末にニューヨークで知り合い、その後光太郎が移り住んだロンドンやパリでも交流を深めました。お互いの帰国後も、手を携え、古い日本彫刻界に新風を送り込む役割を果たしたのです。しかし、守衛は数え32歳の若さで夭折。現在残っている彫刻は15点だけだそうです。それでも古い日本彫刻界に新風を送り込んだ功績は大きく、彼の絶作「女」は国の重要文化財に認定されています。
 
碌山美術館さんはそんな守衛の功績を後世に残すべく、碌山の故郷、信州穂高に昭和33年に開館しました。碌山作品の他、光太郎の作品もたくさん展示されていますし、何度も光太郎に関わる企画展を開催、現在も学芸員の方が我が連翹忌に欠かさず参加して下さっています。
 
さて、4月22日は守衛の命日、碌山忌ということで、行って参りました。4月も中旬ということで、関東ではとっくに桜は散っていましたが、信州はまさに満開の時期でした。
 
当方が着いたのは昼前で、まずは守衛の墓参。美術館自体はたしか4回目の訪問でしたが、守衛の墓は初めて行きました。館から車で10分ほどだったでしょうか。館の方に送っていただきました。やはり守衛と交流のあった画家、中村不折(太平洋画会での智恵子の師でもあります)の筆で墓碑銘が書かれていました。光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。
 
その後は美術館に戻り、館内の見学と、碌山忌コンサート。高村光太郎研究会の会員で、「雨男 高村光太郎」の著者、西浦基さんも大阪から駆けつけていました。

 
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15:00から新宿中村屋CSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。新宿中村屋を創業した相馬愛蔵(明3=1870~昭29=1954)も穂高の出身。同郷の守衛をはじめ、多くの文化人が店に出入りし、「中村屋サロン」が形成されました。守衛の生前には光太郎もしばしば訪れたということで、現在でも光太郎の描いた油絵「自画像」が中村屋に残っています。しかし、吉岡氏曰く、あちこちの企画展等への貸し出しが非常に多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
 
続いて、学芸員の武井敏氏による研究発表「相馬黒光の追憶」。かつて光太郎も真壁仁との対談(昭和27年=1952 3月30日放送『全集』第11巻)で出演したNHKのラジオ番組「朝の訪問」で、相馬愛三の妻、黒光が出演した回の録音を聴かせていただきましたが、残念ながら、列車の時間があり、途中で退出いたしました。
 
碌山美術館では立派な研究紀要なども発行され、研究の拠点としての役割も果たしています。西浦さんとも話しましたが、光太郎顕彰にもこういう拠点があれば……というのが正直な感想です。
それを抜きにしても、碌山美術館、とてもいいところです。昨年度のNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台になった安曇野、他にも見所がたくさんあります。ぜひお越し下さい。

碌山美術館と周辺での光太郎スポット

碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。

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第一展示棟……守衛の友人や系譜につながる彫刻家、画家の作品が展示されています。「手」「腕」など光太郎の彫刻も多数。
 
「荻原守衛」詩碑……碌山館の裏手に平成12年(2000)に建てられました。光太郎の詩「荻原守衛」が刻まれています。
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「坑夫」……隣接する穂高東中学校に建つ守衛の彫刻です。台座にはめ込まれた題字を晩年の光太郎が揮毫しました。この彫刻「坑夫」は、守衛滞仏中の明治40年(1907)の作で、守衛の元を訪れた光太郎が、是非日本に持ち帰るように助言したといわれています。こちらには昭和30年(1955)に建立されました。


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