カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

神奈川発の情報を2つご紹介します。
 
まずは昨年の今頃も同じネタを書いたのですが…… 。

お三の宮日枝神社で「例大祭」-市内最大の神輿の巡行も

 「お三の宮」(おさんさま)として市民に親しまれている「日枝神社」(横浜市南区山王町5)の「例大祭」が9月13日~15日の3日間にわたり開催される。(ヨコハマ経済新聞)

 日枝神社は「横浜関外総鎮守」といわれ、寛文年間(1661年~1673年)に、当地では「吉田新田」開墾者として知られる吉田勘兵衛が江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分霊してまつったのが創建とされている。

 勘兵衛は摂州能勢郡(現在の大阪府能勢町付近)出身で、江戸へ出て一代で財を成した材木商。「釣鐘型」をした横浜の入海が埋立てに適している点に注目し、幕府の許可を得た後、新田開発事業に着手。地元の村民達の協力のもと、11年余りの歳月と多くの資金を投じて完成させた。この新田開発が後の横浜発展の礎になったとも言われている。

 日枝神社の例大祭は「かながわのまつり五十選」に選ばれている祭事。13日は、13時30分頃から伊勢佐木町1・2丁目で、彫刻家・高村光雲作の火伏神輿(ひぶせみこし)行列。14日には、市内随一の大きさの「千貫神輿(せんがんみこし)」(高さ約3メートル70センチ)が丸一日かけて氏子町内を巡る。最終日の15日には、大小約40基の氏子神輿による神輿パレードを実施。14日と15日には、有隣堂前で和太鼓演奏を行う。

 イセザキ・モール1・2 St.の石田隆さんは「火伏神輿行列は、2005年から行列を再現して今回で9回目。通常、神奈川県立歴史博物館に展示されている高村光雲作の火伏神輿を特別に展示・行列するのでぜひご覧いただければ」と話している。
 
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続いて合唱のコンサートです。  

洋光台男声合唱団 第11回演奏会

9月28日(土) 14:30開演
会場 神奈川県立音楽堂
入場料 1,500円
 
昨日のブログにも書いた作曲家・清水脩の合唱曲「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されます。ただし演奏は客演の常磐ひたちメンネルコールさんのようです。
 
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「芸術の秋」と申しますが、その名の通り、各地でいろいろと光太郎智恵子がらみのイベントがあるようです。
 
 
今日はその1つ(2つ)で、二本松に行って参ります。どちらもモンデンモモさんがらみで、午前中は油井小学校での子供たちとのイベント、夜は二本松交流館でのコンサートです。
 
その他にもネット検索でいろいろひっかかっていま011すので、おいおいご紹介します。
 
主催者の方や情報をお持ちの方、「こういうイベントがあるよ」との情報提供もお待ちしています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月13日

明治43年(1910)の今日、親友の水野葉舟とともに、浅草雷門近くのレストラン「よか楼」で夕食を摂りました。
 
まだ智恵子と出会う前で、この頃は吉原河内楼の娼妓・若太夫に惚れ込んでいました。若太夫との破局の後、明治44年(1911)には、この「よか楼」の女給・お梅に入れあげることになります。

先月のブログでご紹介した青森・十和田湖での「ろまんヒストリー講座」、第一回の模様が報道されています。

建立60周年「乙女の像」 誕生秘話など紹介

 十和田市の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)は8月29日、市視聴覚センターで「ろまんヒストリー講座」を開き、元青森県近代文学館室長で、市教育長の米田省三さん(64)が「乙女の像誕生秘話」と題し、像の作者高村光太郎の人生を紹介した。
 講座は、十和田湖の魅力に導かれて建立された乙女の像60周年を機に、あらためて歴史を振り返ろうと、同会が進めている「ろまんヒストリー発信事業」の一環。約60人が興味深く聞き入った。
(『デーリー東北新聞』 2013.9.2)
 
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主催する「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトにも紹介されています。

 
今月末には第2回の講座があるとのことです。
 
9月26日(木) 19:00〜
十和田市視聴覚センターAV研修室
講師 川口浩一(ATV青森テレビアナウンサー)
入場無料
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月3日
 
明治37年(1904)の今日、智恵子の妹・チヨが誕生しました

生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開催中の田中美術館がある岡山県井原市。光雲の高弟だった平櫛田中の故郷ということで、街のあちこちに田中の彫刻が配されています。
 
特に田中美術館にほど近い「田中苑」という公園には、たくさんの田中作品、田中の筆跡を刻んだ碑などがあります。また、田中美術館ロビーにも。
 
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「鏡獅子」
 
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田中筆跡
 
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 左:「岡倉天心胸像」  右:「西山公」
 
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左:田中筆跡  右:「鏡獅子」石膏原型
 
他にも市立図書館や福祉センター前にも田中の彫刻、それから町中至る所で現代作家やロダンの野外彫刻が観られます。
  
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月2日

昭和20年(1945)の今日、宮澤賢治の会主催の「高村先生からお聞きする会」で「美しく懐かしき国、日本」と題して講話を行いました。

岡山県井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。共催に入って下さっている『山陽新聞』さんで報道されました。 

井原で高村光太郎展が開幕 生命感あふれる彫刻ずらり

 井原市立田中美術館(同市井原町)で30日、特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」(同美術館主催、山陽新聞社など共催)が開幕。生涯にわたって制作を続けた彫刻作品を通して、詩集「道程」「智恵子抄」などで知られる詩人の顔とは違った芸術家の姿を紹介している。
 光太郎は、木彫家の父・光雲に幼少から彫刻を学び英仏など海外にも留学、創作に励んだ。同展は現存するほぼ全てという48点を核に、同時代の彫刻家の作品や妻・智恵子の美しい切り絵など計115点を展示している。
 会場には、西洋的なモチーフと仏教の印を融合した代表作「手」や、人物の内面までとらえた胸像、動植物の木彫などがずらり。傾倒したロダンや、親交のあった荻原守衛らの彫像も並び、入場者らは作風を見比べながら堪能していた。
 井原市制施行60周年記念展。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。


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井原は他にもいろいろと見所があります。明日はその辺りを書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月1日

大正12年(1923)の今日、関東大震災に遭いました。
 
この日、智恵子は福島に帰省中で難を逃れました。光太郎はアトリエで彫刻制作中でしたが、幸い駒込林町のアトリエは無事。その後、被災者のためにアトリエを開放したり、智恵子の実家から製品の日本酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めたりしました。

昨日、岡山県は井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開会式に行って参りました。
 
6月から8月20日にかけての千葉展に続いての巡回開催です。田中美術館は光雲の高弟だった平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の個人美術館として昭和44年に開館したものです。井原市は田中の故郷です。
 
午前10時から隣接する井原市民会館で開会式、市長や議員さんの挨拶の後、美術館に移動してテープカットが行われました。
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井原市のゆるキャラ、「でんちゅうくん」も駆けつけました。平櫛田中作の彩色木彫「鏡獅子」をモチーフにしています。

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その後は展覧会を観ました。
 
出品されているのは千葉展とほぼ同一ですが、いろいろ違いもあります。
 
まず木彫「鯰」。千葉では1点だけでしたが、こちらでは2点並んでいます。
 
それから千葉では2点のみ展示されていた木彫を包む袱紗(ふくさ)。光太郎が自作の短歌をしるしているものですが、こちらでは「蓮根」や「鯰」のものなど、多数出品されています。
 
また、田中美術館がもともと所蔵していた光太郎から田中にあてた書簡も3通並んでいます。このうち1通、留学先のパリから送られたものは未発表のもの。来春刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。
 
そして田中の作品の数々も観られます。光雲の系譜を引きつつも独自の世界に達した見事なものです。
 
逆にスペースの関係で智恵子の紙絵は千葉より少ない展示ですが、それでも43点並んでいます。
 
千葉展の際にも書きましたが、光太郎智恵子に関し、これだけの規模の展覧会はめったにありません。特に西日本では久しぶりの開催です。ぜひ多くの方に観ていただきたいものです。
 

【今日は何の日・光太郎】 8月31日007

昭和35年(1960)の今日、龍星閣から『光太郎智恵子』が刊行されました。
 
光太郎智恵子の詩文、書簡のうち、お互いに関するものをピックアップして一冊にまとめたものです。
 
昭和43年(1968)には増補版も刊行されています。
 
一昨日の火災で全焼した福島の不動湯温泉から、光太郎智恵子連名で、智恵子の母・センに送った葉書も収録されています。日付は昭和8年(1933)9月2日。この葉書は現在、二本松の智恵子記念館に展示されています。
 
青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。もう二三日ここにゐるつもりでゐます 九月二日
 
不動湯さんは本当に残念でした。
 
当方のコメントがNHK福島さんで流れ、ネットにも載りました。
光太郎智恵子が泊まった部屋や自筆の宿帳が焼けたのは残念ですが、それ以上に亡くなった方がいらっしゃるというのに心が痛みます。

「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。千葉市美術館での千葉展は好評のうちに幕を閉じ、明日から岡山県井原市の田中美術館(でんちゅうびじゅつかん)さんに会場を移して開催されます。
 
 
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井原市制施行60周年記念 田中美術館秋季特別展 「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」

会期 平成25(2013)年8月30日(金)~10月20日(日)  8月30日は開会式のため、10時30分より開館
 
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 
休館日 月曜日
 ただし、9月16日、9月23日、10月14日は開館、9月17日、9月24日、10月15日は休館
 ※8月24日(土)~8月29日(木)は、展示替えのため休館
 
主催 井原市立田中美術館
 
共催 NHKプラネット中国、山陽新聞社
 
企画協力 NHKプラネット中部
 
入館料 •一般:700円(560円)•65歳以上:350円(280円) •高校生以下 無料 ※( )内は有料団体20名以上の料金
            
(問)井原市立田中美術館(℡0866-62-8787)         
〒715-8601 岡山県井原市井原町315 井原市立田中美術館
         
記念講演会
日 時:平成25年9月29日(日) 13時30分~15時         
講 師:土生 和彦 氏 (碧南市藤井達吉現代美術館 学芸員)         
会 場:井原市民会館 鏡獅子の間         
演 題:木彫家・高村光太郎         
入場料:無料         

概要
髙村光太郎(1883-1956)は江戸末期から明治期に活躍した木彫家・高村光雲(1852-1934)の長男として東京・下谷に生まれ、幼い頃より後継者としての修練を与えられました。父から江戸時代そのままの指導方法によって木彫の基礎を学んだ光太郎は東京美術学校で木彫の他に塑造を学び、卒業後アメリカそしてフランスに留学します。
帰国後の光太郎の活動は、彫刻よりも文筆活動によって広く知られるようになります。日本最初のポスト印象派宣言とも、あるいはフォーヴィズムの先駆とも評される「緑色の太陽」(1910)に代表される評論、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)などの詩業、そして『ロダンの言葉』(1916)といった翻訳は、芸術家である彼の存在を印象付けました。
その一方で光太郎は、彫刻の制作とその発表については慎重であり続けました。残念なことに1945年の空襲によって彼のアトリエは被災し、多くの彫刻作品が失われ、彫刻家としてのあゆみは全体像が見えにくいものとなってしまいました。そして、疎開による環境の変化は、彫刻を制作する機会の妨げとなりました。
最晩年、光太郎は自ら「私は今でも自分を彫刻家だと思つているし、私の彫刻の仕事をかえり見て、それが詩の仕事に及ばないとは思わない。また、明治以來の日本の彫刻の中で自分の彫刻がどういう役割を果たしているかも知つている。そしてまだ相當の可能性を保持していることも信じている」(「自傳」)と記しました。彫刻家の歿後、戦災を免れた作品によって直ちに遺作展が開催され、今日に至るまで数多くの展覧会で彼の彫刻は近代日本を代表する作品として取り上げられています。
生誕130年の節目を迎えて開催される今回の展覧会では、光太郎の原点ともいえる木彫作品をはじめ、彼が参照したロダン(1840-1917)や同時代の佐藤朝山(1888-1963)、中原悌二郎(1888-1921)などによる作品と妻・智恵子(1886-1938)が制作した紙絵をあわせて展示します。本展が光太郎の彫刻作品を見直す契機となると共に、今日活発化している近代日本彫刻をめぐる研究への一助なとなることを願います。

出品作品
•高村光太郎作品(彫刻)48点、(スケッチブック)2冊、(クロッキー帳)1冊 
•高村智恵子作品(紙絵)43点
•光太郎周辺の彫刻家たち:ロダン3点、ブールデル1点、マイヨール1点、
 高村光雲1点、荻原守衛2点、毛利教武1点、佐藤朝山7点、中原悌二郎2点
•その他:土門拳撮影光太郎彫刻写真1点、デスハンド1点、
 高村光雲愛用で光太郎が受け継いだ彫刻刀1揃 
 
特に西日本在住の皆様、ぜひ足をお運び下さい。
 
当方、今夜から夜行高速バス、新幹線を乗り継いで岡山入りし、明日の開会式に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月29日

昭和62年(1987)の今日、愛媛松山いよてつそごうで開催されていた「高村光太郎と智恵子の世界」展の関連行事として、愛媛松山子規記念館を会場に、北川太一先生が記念講演をされました。
 
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先日のブログでふれた光雲の高弟・米原雲海がらみの情報です。『北日本新聞』さんの記事から。  

「清宵」高岡に“里帰り” 光雲弟子・米原雲海の木彫像

 高岡市の美術品収集家、荒俣勝行さん(70)が所有し、3月まで国登録美術品として東京国立近代美術館に預けられていた木彫像「清宵(せいしょう)」が高岡に“里帰り”し、24、25の両日、同市で行われる「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」(北日本新聞社後援)で展示される。高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925年)が1907年に制作し、東京と西欧で高く評価された作品で、荒俣さんは「優しい表情が何よりの魅力。多くの人に見てもらいたい」と話している。

 国登録美術品制度は、優れた価値を持つ作品に、美術館で広く公開の機会を設けるために国が実施している。登録されると、文化庁の推奨する全国の美術館で展示される。

 「清宵」は稚児天神像で、東京勧業博覧会で1等、日英博覧会で金賞となった雲海の出世作。文化庁の調査員は「どの方向から見ても欠点がない」と評価した。雲海は岡倉天心の教えを受けており、美術史上の価値も高いという。

 荒俣さんは2001年に県内の古物商から入手した。文化庁による鑑定を受け、翌年、国登録美術品に選ばれた。島根県立美術館に5年、その後、東京都国立近代美術館に5年預けたが、「手元に置き、県内で公開したい」との思いからことし3月に登録を取りやめ、作品を引き取った。

 土蔵造りフェスタでは、同市木舟町の国重要文化財「菅野家」に展示し、24日は午後1時から、25日は午前11時から見学できる。「清宵」のみ、両日とも午後6時まで。入場には菅野家の観覧料が必要。
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「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」は高岡市で恒例のイベントだそうです。土蔵造りの街並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている山町筋(やまちょうすじ)で「土蔵の家で所蔵のお宝展示」などが行われるとのこと。その一環として雲海の木彫が観られるようです。
 
高岡というと高岡銅器が有名で、彫刻と因縁浅からぬ土地柄、そういうつながりもあるのでしょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月23日

昭和8年(1933)の今日、光太郎・智恵子、正式に入籍しました。
 
二人が結婚披露宴を行ったのは大正3年(1914)暮。それ以来、世間の習慣に束縛されたくないということで、事実婚の状態でした。フランスでは事実婚は今も珍しくないそうで、光太郎の敬愛していたロダンとローズ・ブーレもそうでした。
 
日本でも智恵子と縁の深い平塚らいてうと奥村博なども大正元年(1912)から昭和16年(1941)まで事実婚状態でした。らいてうは長男の兵役に際し、「私生児」として不利益を被らないようにと入籍を決意したそうです。
 
光太郎の場合は、智恵子の統合失調症が関係しています。自分に万一のことがあった場合の財産分与などを考えてということだったそうです。

テレビ東京系にて昨日オンエアの「開運!なんでも鑑定団」。
 
新聞の番組欄では「高村光雲に意見する天才弟子!入魂の傑作に仰天鑑定!」とのことだったので、観てみました。
 
依頼人は川越市在住のご婦人。亡くなったご主人は島根県安来市のご出身で、近所に光雲の高弟・米原雲海が住んでおり、雲海にもらったと伝えられる木彫の鑑定依頼でした。
 
鑑定に入る前の解説的な映像では、雲海だけでなく光雲についても詳しくふれ、よく作ってあるな、と感心しました。
 
雲海についてはこのブログでも以前に書いたことがあります。
 
ところが鑑定の結果、雲海の作ではなく、雲海の弟子の木山青鳥という彫刻家の作品でした(銘も入っていました)。
  
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若干、拍子ぬけというか、羊頭狗肉の感は否めませんでした。それでも80万円と、そこそこの鑑定金額ではありました。
 
木山青鳥という彫刻家については当方、全く存じませんでしたが、雲海の弟子であれば、光雲の孫弟子ということになるわけですね。ちなみに雲海は養子に入って米原姓になる前は木山姓で、青鳥は甥だそうです。
 
光雲の弟子は、光雲自身の書いたものなどでその系譜は分かっていますが、孫弟子ともなるとなかなかすぐには名前が出てきません。先日のブログでご紹介した宮城石巻の高橋英吉も、光雲の弟子・関野聖雲に師事していますから、孫弟子になります。
 
そのあたりの系譜についても、少し調べてみようかな、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月21日

昭和29年(1954)の今日、3ヶ月ぶりに入浴しました。
 
最晩年、中野のアトリエ時代の話ですが、日記に記述があります。
 
光太郎、温泉は大好きでしたが、入浴自体はあまり好まなかったようで、普段は行水程度で済ませていたようです。花巻郊外太田村山口の山小屋時代も、村人が厚意で立派な風呂桶を作ってくれましたが、水を汲んだり沸かしたりが面倒で、また自分一人でもったいない、という感覚もあり、あまり利用しませんでした。

イベント情報です。 

乙女の像建立60周年記念講座

期 日 : 平成25年8月29日(木) 
会 場 : 十和田市視聴覚センターAV研修室(十和田市文化センター2階)
時 間 : 19:00~20:30
料 金 : 
無料

  : 米田省三氏(十和田市教育長)

 
主催は「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さん。「平成25年度元気な十和田市づくり市民活動支援事業」の対象事業となっているようです。
 
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当方、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の岡山展開会式が翌30日なので、こちらには行けませんが、紹介だけさせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月17日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに三河島のトンカツ屋・東方亭の主人が訪れました。
 
東方亭は戦前から戦中にかけ、光太郎がよく通った店です。武田麟太郎の短編小説「好きな場所」(昭和16年=1941)によれば、はじめ光太郎は店では正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。どこまで真実かわかりませんが、国策協力を余儀なくされていた時期に、肩書きなしの一個人に戻れる数少ない場所だったのはまちがいないでしょう。
 
店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、光太郎は彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

当方、8月8日、女川光太郎祭の前日に現地入りしました。宿を石巻に取ったので、仙台から小牛田(こごた)経由で東北本線、石巻線と乗り継ぎ、石巻駅に着きました。
 
女川光太郎の会の佐々木さんを待つ間、駅前を散策しました。すると、駅前ロータリーに彫刻が一つ。
 
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題して「母子像」。よくある地元の現代作家の作品かな、と思って説明板を見ると、昭和16年(1941)の作です。「意外に古いな」と思いつつ、作者名を見ると「高橋英吉」。記憶の底に引っかかる名前ですが、思い出せません。
 
その後、ロータリーの逆サイドにある「ロマン海遊21」という施設に行きました。1階は物産館のような感じで、いろいろと地のものや土産物等が並んでいました。地元で刊行された出版物のコーナーもあり、下記の書籍を購入しました。
 
こういう郷土史的な出版物を手に入れる(もちろん光太郎や智恵子にからむものですが)を手に入れるのも旅の醍醐味の一つです。
 
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『石巻圏20世紀の群像(上巻)文化・学術編』。平成13年(2001)ですから震災前の刊行です。
 
地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』に連載されたコラムの単行本化で、地元出身だったり、この地域を訪れたりした文化人を紹介するものです。光太郎に関しても4ページにわたって載っていたので、買いました。
 
買う前に立ち読みで光太郎の項を読んでしまったのですが、女川光太郎の会に関する記述があり、最後には「余談だが」と前置きの上、光太郎と同じ東京美術学校彫刻科に学んだということで、「高橋英吉(1911~42)」の名が記されていました。高橋は石巻出身でした。後で気がつきましたが、高橋の項も別に立てられていました。
 
「なるほど、やはり地元の彫刻家か。しかしやけに短命だったんだな」と思いつつ、駅前ロータリーに戻り、バッグから別の書籍を取り出しました。少し前のこのブログでご紹介した、姫路市立美術館学芸員の平瀬礼太氏のご著書「彫刻と戦争の近代」です。まだ熟読しておらず、道中読みながら来たので、その続きを読み始めました。
 
すると、「戦場に斃れた彫刻家たち」という項に、またもや「高橋英吉」の名が。この奇遇にはさすがに驚きました。やけに短命だと思ったら、戦死していたのですね。
 
曰く、
 
一九一一年宮城県石巻に生れた高橋英吉は東京美術学校で木彫を学び、一九三六年の文展鑑査会に「少女像」を出品して初入選、新文展でも入選するが、一九四一年に応召、一九四二年十一月にガダルカナルで戦死した。
 
「東京美術学校で木彫を学び」とあるので、光太郎の後輩ですし、もしかすると光雲の教えを受けているかも知れません。さらに高橋の絶作となった不動明王像について報じる当時の新聞記事も載っていました。
 
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これを読むと、戦場でたまたま持っていた針を使って彫ったものとのこと。造形作家としての執念のようなものを感じます。
 
しかし、たまたま彫刻の実作を目にし、十数分後に購入した書籍に名前があって、その数分後に読んだ書籍にも記述があり、不思議な縁を感じました。これはこのブログで紹介せよ、というメッセージかと思い、今日の記事を書いている次第です。
 
ちなみに『石巻圏20世紀の群像』に載っていた高橋の写真(前列右端)です。
 
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さて、千葉に帰ってから、『高村光太郎全集』別巻の人名索引を見ましたが、残念ながら「高橋英吉」の文字は見あたりませんでした。光太郎と直接の関わりはなかったか、あっても深いものではなかったのでしょう。
 
しかし、その名前が記憶に引っかかっていたのは確かです。そこでネットで調べてみたところ、平成22年(2010)にテレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に高橋作の木彫4点が出品されていたことが分かりました。この回のオンエアは確かに見た記憶があり、そこで覚えていたようです。
 
さらに調べると、今年3月17日のNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられていました。ただ、こちらは存じませんでした。
 
もうすぐ終戦記念日です。高橋のような前途有望な若者を死に追いやった戦争……。二度と繰り返してはならないと、つくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月13日

昭和28年(1953)の今日、雑誌『群像』掲載の座談「現代詩について」を西銀座の料亭・出井(いづい)で行いました。
 
座談の類は『高村光太郎全集』には収録されていませんが、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』、当方編集の「光太郎遺珠」に掲載されています。この座談は『高村光太郎資料』第三巻で読めます。
 
他の出席者は伊藤信吉、金子光晴、三好豊一郎。「出井」は関西割烹の名店で、現存します。

光太郎顕彰活動に取り組んでいることで、各地の美術館や文学館の学芸員さんと知遇を得ました。4/2の連翹忌にも、毎年多数ご参加いただいています。
 
現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」など、光太郎が関係する企画展を開催して下さった館の学芸員さん、光太郎と関連の深い作家の個人美術館等の学芸員さんなどなど。
 
昨日、このブログでご紹介した吉川弘文館さん刊行の『彫刻と戦争の近代』をお書きになった平瀬礼太氏も姫路市立美術館の学芸員さんです。
 
平成22年(2010)、同館で「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」という企画展がありました。白滝は光太郎より10歳年上の画家で、東京美術学校西洋画科に学んだ光太郎の先輩です。光太郎と同時期にイギリス、フランスに留学、彼の地で一時期共同生活をするなど、いろいろと光太郎の世話を焼いてくれました。
 
その白瀧と、さらに白瀧と同居していたやはり画家の南薫造両名に連名で宛てた光太郎の絵葉書2通が、「特別企画展 没後50年 白瀧幾之助展」に展示されました。どちらも明治41年(1908)、パリからロンドンの白瀧・南に送られたもので、『高村光太郎全集』等に未収録でした。
 
禿頭で体格の良かった白瀧を「入道殿」、小柄だった南を「アンフアン兄」(enfant=仏語で「小僧」)とあだ名で呼び、伝法なべらんめえ口調で書いた珍しい葉書です。また、パリでアフタ性口内炎を患い抜歯したことや、それまでの光太郎資料に名が見えなかった建築家の日高胖(ゆたか)の名も記されるなど、興味深い内容です。
 
後に図録でその存在を知り、同館にその内容を問い合わせたところ、対応して下さったのが平瀬氏。こころよく協力して下さり、大きく拡大したカラーコピーを送って下さいました。おかげで本年4月刊行の『高村光太郎研究34』所収の拙稿「光太郎遺珠⑧」で全貌を明らかにできました。
 
さて、『彫刻と戦争の近代』。たまたま『日本経済新聞』さんの書評欄に載っているのを目にし、まず平瀬氏のお名前に気づいて驚き、ついで評を読んで「これは買わなければ」と思い、取り寄せた次第です。
 
ちなみに書評は以下です。書評だけでなく、著者紹介も兼ねた記事ですね。
 
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最後に地方美術館の学芸員としてのご労苦も語られています。
 
当方の存じ上げている地方美術館・文学館の学芸員さんは皆、日々いろいろなご労苦との闘いのようです。予算の獲得、行政との折衝、施設設備の問題などなど……。
 
そうした中で頑張ってらっしゃる皆様には本当に頭の下がる思いです。あらためてそんな皆さんにエールを送りたい気持ちです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月7日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外大沢温泉の山水閣さんに宿泊しました。
 
大沢温泉さんは花巻での当方の定宿で、たびたびこのブログでも取り上げていますが、光太郎お気に入りの温泉一つでした。

今日は68回めの広島原爆の日です。この後、長崎原爆の日、そして終戦記念日と続き、この時期はあの戦争を振り返るイベントが続きます。
 
先頃、当時の世の中が彫刻家に何を求め、彫刻家たちがどのように戦争と向き合っていたのか、そういった点に関する考察が書かれた書籍が刊行されました
平瀬礼太著 平成25年7月1日 吉川弘文館刊 定価1,700円+税
 
戦争イメージから、平和のシンボルへ…。戦時体制下、戦争関連作品を創り続けた彫刻家の苦難の歴史から、近代日本彫刻の変容を描く。
戦時体制下、彫刻界ではどのような活動がなされていたのか。材料不足や表現活動の制限に不自由さを感じながらも、戦勝記念碑やモニュメントなど、戦争に関連した作品の創作を続けていた彫刻家たちの苦難の歴史を辿る。戦後、戦争イメージが、平和のシンボルに姿を変えながら現代まで残存している動向などにも言及し、近代日本彫刻の変容を描く。
 
目次(詳細項目略) 000
 近代彫刻の変容―プロローグ
 戦争と彫刻
  近代日本の彫刻と戦争
  芸術と社会
 戦争の時代
  戦争の時代への突入と彫刻
  彫刻制作への圧力
  傷痍軍人と彫刻
 日米開戦の衝撃
  変転相次ぐ彫刻活動
  盛り上がる彫刻界
  銅像の行方
  突き進む彫刻
 戦後へ
  敗戦とともに
  混乱の中で
 まだ終わらない戦争―エピローグ
 
光太郎についても随所に記述があります。
 
戦時中、光太郎は詩の方面では大政翼賛会文化部、中央協力会議などに関わった他、日本文学報国会の詩部会長の任に就いていました。そして実際に戦意高揚の詩を多数発表しています。
 
彫刻の方面では、実作としては他の彫刻家のように兵士の像などを造ったわけではありませんが、昭和17年(1942)には造営彫塑人会顧問に推され、就任しています。この会はその綱領によれば、「大東亜建設の国家的要請に即応して国威宣揚、日本的モニュマンタル彫塑を完成して、指導的世界文化の確立を期すこと、国民的造営事業に対し挺身隊たらんとすること」が謳われたそうです。
 
その発会式での光太郎の演説が残っています。一部、抜粋します。
 
今、大東亜戦争の勃発によつて、日本国民は忽ち我が国体本然の姿に立ちかへり、御稜威の下、一切が国民の総力によつて成るべきことを確認するに至りました。この時記念碑的製作に従ふ吾等彫刻家は再び祖先の芸術精神を精神として、おのづから昨日の狭小な風習をあらたむべきは当然のことであります。此の造営彫塑人会の志すところは即ち、聖代に生をうけた彫刻家の総力をかかる時代に値する記念碑的彫刻の本然の姿が如何やうのものである可きかを究めようとするものでありませう。
 
著者の平瀬氏、この辺りに関して「ここには「緑色の太陽」があってもいいと個性尊重を謳いあげた往年の高村はいない。」と評します。ある意味、その通りです。
 
こうした戦時の彫刻界の流れについての考察が本書の中心です。一読の価値大いにあり、です。
 
ところで、著者の平瀬礼太氏、姫路市立美術館の学芸員さんで、当方、以前の調査で大いにお世話になった方です。明日はその辺りを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月6日

昭和23年(1948)の今日、この月初めにできた面疔(めんちょう)がますます腫れたことを日記に記しました。

 
「面疔」は「とびひ」などと同じく黄色ブドウ球菌による感染症です。戦後の不自由な山小屋住まいの中では、このような苦労もあったのですね。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

千葉市美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。早いもので、開幕から1ヶ月が過ぎました。
 
いろいろな方のブログ等で、おおむね好意的にご紹介いただいており、ありがたいかぎりです。
 
昨日、『朝日新聞』さんの千葉版に紹介記事が載りました。
 
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それからやはり昨日、記事自体は7/17に載ったようですが、『日本経済新聞』さんのサイトにも、紹介がアップロードされました。
 
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もう一点。「インターネットミュージアム」というサイトがあり、そちらでは動画入りで紹介されています。
 
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彫刻は動きませんが、カメラが動き、実際に観に行ったようなバーチャル体験が出来ます。
 
しかし、バーチャルはあくまでバーチャル。実際にご覧いただきたいのはもちろんです。
 
千葉展の後、岡山井原、愛知碧南と巡回しますが、これだけの規模の光太郎展、首都圏では次はいつ開催されるかわかりません。二度と開かれない、ということはないように願いたいものですが、さりとて毎年のように開かれる、というのもありえません。
 
まだご覧になっていない方、ぜひお越し下さい。また一度足を運ばれた方も、二度、三度と繰り返し観ることで、その都度新たな発見があるものです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月3日

昭和11年(1936)の今日、『東京朝日新聞』に、評論「一彫刻家の要求」の第1回が掲載されました。
 
このあと、4日・5日と3回にわたって掲載されたこの評論は、前年公布された「帝国芸術院官制制定の件」による美術界の混乱に対する苦言です。
 
曰く、
 
帝国芸術院は政府の美術行政上の諮問機関だといふ事であるが、上から下に問ふだけの諮問機関では役に立たぬ。諮問されなければ黙つて居る事となるし、諮問するのは美術の表面しか分らない素人の役人風情であるから、このままでは帝国芸術院の機能は甚だ遅鈍な間の抜けたものとなるにきまつてゐる。……
 
手厳しい意見です。

昨日の続きです。
 
南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その当日まで、光太郎は5ヶ月間、智恵子を見舞いませんでした。
 
この五ヶ月の空白を巡り、昨日紹介したような手厳しい意見があるのはある意味仕方がないでしょう。
 
しかし、光太郎を擁護するわけではありませんが、光太郎自身は次のように述べていますので、ご紹介します。
 
チヱ子をも両三度訪ねましたが、あまり家人に会うのはいけないとお医者さんがいうので面会はなるたけ遠慮しています。
昭和10年(1935)3月12日 中原綾子宛書簡
 
これを裏付けるように、智恵子の付き添い看護にあたった姪の宮崎春子の回想にも次の一節があります。
 
はじめは、身内の看護はかえつていけないからというわけで、試験的につけるということであつたが、たいへん結果が良かつたので、院長先生はじめ伯父も喜んでくれ、「春子さんについてもらつて安心した」と言つてくれた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
要するに病院の方針、というわけです。
 
しかし、五ヶ月はあまりに長い……。
 
結局、答えは見つかりません。
 
この点について先哲諸氏はどう捉えているのか、いくつかご紹介します。
 
五ヶ月もの長い間、光太郎が智恵子を見舞いに訪れなかったのは、理解に苦しむところです。智恵子を興奮させないようにとの配慮からであったのか、それとも心の交流が不可能なほどに智恵子の人格荒廃が進行していたのか、今となっては確かめるすべもありません。
(『智恵子抄の光と影』 上杉省和 平成11年(1999) 大修館書店)
 
この五ヶ月の空白を、人は光太郎の愛の在り方を含めて、様々に詮索します。病状は刻々春子から報じられたに違いありません。五月の母の訪問が、智恵子にどんな結果をもたらしたか。光太郎が案じていた智恵子の興奮がどんな風に起こり、どんなふうに続き、それが結核の昂進もふくめて、どんな重篤な症状を引き起こしかねなかったのか。この時期にも医師は近親者の来院を押さえたのか。危篤は突然に起こったのか。実際の病状の変遷が記録されていない以上、恣意な想像は無意味でしかありません。
『智恵子相聞-生涯と紙絵-』 北川太一 平成16年(2004) 蒼史社)
 
結局、無理に答えを見つける必要もないのかもしれません。
 
繰り返しますが、南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その日の様子を光太郎は次のように記します。
 
百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。(略)最後の日其をひとまとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した表情であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。
(「智恵子の半生」 昭和15年(1940))
 
「其をひとまとめに自分で整理して置いたもの」の中に、例の「くだものかご」の紙絵も入っていたわけです。あらためてそれを見た光太郎の胸中はいかばかりか……。
 
そう考えると、「これは何の果物だろう」などと、脳天気に見ることはできない作品なのです。
 
さて、その後、太平洋戦争000が勃発。昭和20年(1945)4月には、駒込林町の光太郎アトリエは空襲で焼け落ち、多くの彫刻作品は灰燼に帰しました。
 
しかし、智恵子の残した紙絵は、そうなることを予想していた光太郎の機転で、花巻、茨城取手、山形の三カ所に分けて疎開させており、無事でした。自身の彫刻は焼けるに任せた光太郎も、智恵子の紙絵は事前に保護策を講じていたのです。そのおかげで、現代の我々も、智恵子遺作の紙絵を実際に見ることができるわけです。
 
こうした点も踏まえ、「五ヶ月の空白」の意味を捉えることも重要なのではないかと思われます。
 
そして、こうした点を踏まえ、皆さんには智恵子の紙絵の本物を見ていただきたいと思います。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、千葉市美術館さんでは8/18(日)まで。8/30(金)から、岡山県井原市田中美術館さん。その後、11月には愛知県碧南市藤井達吉美術館さんへと巡回されます。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月31日

昭和29年(1954)の今日、映画会社・新東宝が『智恵子抄』映画化を光太郎に申し入れましたが、断っています。

昨日、千葉市美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、三度目の観覧です。6/29(土)、オープン初日、関係者によるオープニングレセプションがあり、一度。7/7(日)、当方も喋った関連行事の講演会があり、一度。そして昨日は講演会の日等にいらっしゃれなかった元群馬県立文学館の学芸員の方がいらっしゃるということで、ご案内いたしました。何度見てもいいものです。
 
昨日は特に智恵子の紙絵をしっかり観ました。先日のこのブログでご紹介しましたが、『日本経済新聞』さんのサイトで今回展示されている紙絵に触れており、自分の中で答えの出ていない問題がクローズアップされてきたためです。
 
『日経』さんで取り上げているのは「くだものかご」と題された紙絵です。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。

 
しかし、ある意味、この紙絵は「何の果物かな」と脳天気に見られるものではないのです。
 
ご存じない方のために概略を書きますと、昭和6年(1931)、光太郎が三陸旅行中に智恵子が統合失調症を発症し(もっと早くに発症していたという説もありますが)、翌年には自殺未遂、同9年(1934)には九十九里にいた妹夫婦(智恵子の母・センも身を寄せていました)のもとに転地療養、しかし病状は悪化、同10年(1935)に南品川のゼームス坂病院に入院します。一連の紙絵は入院中、おそらく同12年(1937)から13年(1938)にかけて制作されたようです。そして智恵子の死は13年10月。直接の死因は肺結核でした。
 
さて、果物かごといえば、かつては病気見舞いの定番でした。では、この果物かごは光太郎が持参したものなのでしょうか。しかし、残念ながらどうもそうではないようなのです。
 
毎週一回か二回、かならず伯父さまのいいつけで銀座の千疋屋から季節の果物、それに鉢植えの花を届けられた。化粧籠に盛られたすばらしいゴールデン・デリシヤス、水々しいアレキサンドリア、さまざまな名も知らぬみごとな蘭花、シクラメン、ゼラニユームのいくつもの鉢、ざくろの木、等々。神田の万惣からも西瓜やりんごなど届いた。それを室内に運び入れた時の伯母の嬉しそうな優しい表情がわすれられない。一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
宮崎春子は智恵子の姪。看護婦資格を持ち、ゼームス坂病院入院後に智恵子の付き添いとなりました。
 
「一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。」とありますが、一番の楽しみは光太郎本人の見舞いではなく、こうして「届けられた見舞品」だったというのです。
 
光太郎、実はあまりゼームス坂病院に足を向けませんでした。智恵子が亡くなった日には枕元にいましたが、なんとそれが五ヶ月ぶりの来院でした。
 
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく又恢復してくれればいいと念じてゐます、 
(智恵子の母・セン宛光太郎書簡)
 
智恵子が九十九里で療養していた頃は、毎週のように見舞いに訪れていた光太郎が、なぜ同じ東京で五ヶ月も智恵子を見舞わなかったのでしょうか。しかも結核は重篤で、五ヶ月ぶりに見舞ったその日に智恵子は亡くなったのです。
 
この点を手厳しく批判する向きもあります。
 
すでに「人間界の切符を持たない」古女房をそう足しげく見舞えという方が無理かもしれない。だが、『智恵子抄』を純愛詩集として読む人は、それが五ヶ月も妻を病院に放ったらかしにしていた男の手になるものだということを忘れないほうがいい。
(『詩人の妻 高村智恵子ノート』 郷原宏 昭和58年(1983) 未来社)
 
智恵子「東京市民よ、集まれ! 今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどいさまです……五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました。遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類い希なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ!  これは智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! (略) そして五ヶ月ぶりにやってきた光太郎の目の前で智恵子は、すなわち私は死んでいくのであります。けれども、詩人によればこんな私でさえもこんなにも、綺麗に死なせてくれたのであります。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白く明るい死の床で (略) 」
(「売り言葉」 『二十一世紀最初の戯曲集』野田秀樹 平成15年(2003) 新潮社)
 
長くなりましたので、続きは明日。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月30日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『日曜日』掲載のため、文学を愛好した精神科医・式場隆三郎と対談しました。

現在、千葉市美術館さんで「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されていますが、8月30日(金)から、次の会場・岡山県井原市の田中(でんちゅう)美術館さんに移ります。
 
その田中美術館で、詳細情報が発表されました。
 
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関連行事として、9月29日(日)に記念講演会があります。講師は巡回の3館目になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館学芸員の土生(はぶ)和彦氏。ご期待下さい。
 
西日本在住の方などで、「千葉は遠いのでちょっと……」という方、ぜひ井原の方へお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月29日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養中の智恵子の見舞いに訪れました。
 
智恵子が九十九里にいたのはこの年5月から12月の半年余りでしたが、毎週のように光太郎は見舞いに訪れたそうです。ただ、正確な日付が特定できる日は意外と少ないので今日を選びました。
 
明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

【今日は何の日・光太郎】 7月26日

大正4年(1915)の今日、天弦堂書房から評論『印象主義の思想と芸術』が刊行されました。
 
光太郎が単独で著したものとしては、その前年に刊行された詩集『道程』に続き、2冊目の書籍です。文庫判250ページほど。当時の定価で50銭です。

当方、カバーなしの裸本を一冊持っています。画像は扉と奥付です。
 
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少し前に古書店のサイトでカバー付きが売りに出ていたのですが、12,000円。そのくらいしてもおかしくありません。というか、相場から考えるとむしろ安いような気がしました。しかし12,000円という金額は、絶対評価としては安い金額ではありません。そう思っているうちに売れてしまいました。
 
目次を見ると、第一章は印象主義の概観。その後、二章から八章まで、代表的な作家一人ずつを論じています。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ。さらに後期印象派―ゴッホ、ゴーギャン、マチス―などについての簡単な記述もあります。
 
光太郎が紹介される際、「彫刻家、詩人」とされることが多くあります。たしかに光太郎は自分では「私は何を措いても彫刻家である」と述べていますし、好むと好まざるとに関わらず、詩人としての名声も高かったのは事実です。
 
しかし、筑摩書房版『高村光太郎全集』を見ると、この「印象主義の思想と芸術」を含む評論の類が非常に多い事に気づきます。その内容も美術や文学など多岐にわたるのですが、それぞれに異彩を放つものです。といって、途方もない論旨を展開しているわけではなく、ある意味、当たり前のことを当たり前に書いていながら、それが当たり前に感じられず、妙に納得させられる、そういう評論が多いのです。
 
もう少し、「評論家」としての光太郎にスポットが当たってもいいのでは、と感じます。
 
さて、『印象主義の思想と芸術』、のちに戦時中の評論集『造形美論』に収められた他、戦後には「筑摩叢書」の一冊として再刊されています。
 
ところがそれ以前に、大正11年に天弦堂版の紙型をそのまま使って、三徳社という出版社から再刊された記録があります。同社からこの年12月刊行の吉江孤雁『近代神秘主義の思想』の巻末広告に、同社の刊行物のラインナップとして『印象主義の思想と芸術』が入っています。
 
ただ、現物が確認できません。実際に刊行されたのか、広告のみ先行し、結局は刊行されなかったのか、不明です。
 
三徳社は、大正6年(1917)に中村徳治郎によって創業、他社の古い紙型によって旧刊書をしばしば再生した出版社だそうです。のちに「白楊社」と改称したということですが、ネットではその時期が大正10年(1921)となっているページがあります。しかし、国会図書館のデジタルデータでは同12年(1923)の刊行物も「三徳社」として登録されています。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
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光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。

昨年の今頃もブログに書きましたが、昨日から当方の暮らす千葉県香取市佐原地区で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
巨大な人形を冠した10台の山車(だし)が江戸風情の残る佐原の町を練り歩いています。
 
山車には精巧な木彫が施され、中には東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明の家系が関わったものもあります。また、人形も地元では光雲が絶賛したという言い伝えも。
 
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祭りは日曜日までの3日間。その期間が忙しいという方は、通年で山車を観られる「山車会館」という施設もあります(月曜休館)。
 
江戸の職人技にご興味のおありの方、ぜひお越し下さい。
 
といいつつ、当方、昨日はあまりの暑さに観に行く気になれず、今日は福島川内村での草野心平を偲ぶ「第48回天山祭り」に行って参ります。明日、日曜は佐原の祭りを観に行こうと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月13日

明治43年の今日、光太郎の経営する画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・柳敬助の個展が開幕しました。
 
柳敬助と光太郎が知り合ったのはニューヨーク。一説には荻原守衛を光太郎に紹介したのが柳とのこと。双方帰国後も交友が続き、柳の妻・八重は日本女子大学校の卒業生だったこともあり、智恵子を光太郎に紹介する橋渡しをしました。

千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」。おかげさまで好評をいただいているようです。
 
新聞各紙などでもご紹介くださっています。
 
『朝日新聞』さんのサイト【朝日新聞デジタル】で、「彫刻家・高村光太郎展」という記事が載っています。ただし、全文を見るには会員登録が必要です。
 
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また、『日本経済新聞』さんのサイトでは、「アートレビュー」というコーナーで「高村智恵子「くだものかご」」という記事が閲覧できます。
 
企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」では、智恵子の紙絵の本物が展示されており、それを受けての掲載ですね。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。
 
「あなたはどう見ますか。」と問いかけていますが、『日経』さんではその答えを募集しています。
 
日本経済新聞朝刊「NIKKEI ART REVIEW」に読者の感想や専門家のひのひと言を掲載します。作品の感想は、〒100-8779 日本郵便銀局留め日本経済新聞社 生活情報部「アートレビュー」係、またはart-review@nex.nikkei.co.jpまで、名前、住所、職業、生年月日を記載の上、お寄せください。掲載者には図書カード2000円分を郵送します。応募締め切りは2013年7月22日到着分まで。
 
2000円めあてに当方も応募してみようと思っています(笑)。みなさんもいかがですか?
 
【今日は何の日・光太郎】 7月12日

明治22年(1889)の今日、光雲が東京美術学校教諭に昇進しました。
 
それまで「雇(やとい)」だったのが「教諭」に。さらに翌年には「教授」となり、同時に帝室技芸員にも任ぜられます。

千葉市美術館において開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としての講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」、つつがなく終了しました。
 
ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
 
150名定員のところ、140名ほどのお申し込みということで、抽選にはならず良かったと思いました。せっかくお申し込みいただいても抽選ハズレでは申し訳ありませんので……。
 
当方が把握しているだけでも、県内はもとより都内や神奈川、埼玉、さらには岩手、宮城、長野、愛知、大阪、兵庫など、遠方の皆様にもおいでいただきました。ありがとうございます。また、各地のお土産をいただき、恐縮でした。
 
花巻の記念会様からは、ご来場の皆様にまでお土産ということで、花巻で新たに作られたクリアファイルが配られました。太っ腹です(笑)。
 
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やはり高村光太郎記念会事務局長にして、晩年の光003太郎と親しく接せられた北川太一先生のお話がメインということで、脇で聞き手を務めつつもいいお話だな、と感じ入っておりました。
 
講演に先立って、昨夜、かつて平成11年(1999)に北川先生が雑誌『日本古書通信』に三回にわたって寄稿された「光太郎凝視五十年」上中下を読み返したのですが、改めて感動しました。昨日のお話でも触れられた戦時中や終戦直後の知識人が「高村光太郎」をどう捉えるか、というお話-先生の御同窓だった故・吉本隆明をはじめ-など、昨日のお話以上に詳しく描かれています(必要な方はご連絡下さい)。
 
さて、これで肩の荷が一つ下りましたが、企画展はまだまだ開催中です。今後も関連行事として、学芸係長さんによる市民美術講座「光太郎・そのあゆみ」(7/20(土)、8/10(土)-申し込み不要)などが予定されています。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月8日

昭和30年(1955)の今日、一時重篤に近かった結核が小康となり、4月から入院していた赤坂山王病院を退院しました。

閲覧数が15,000を超えました。ありがとうございます。
 
さて、千葉市立美術館では「彫刻家高村光太郎展」開催中ですが、千葉には市立でなく県立の美術館もあります。ただ、耐震改修工事のため、今年1月から再来年3月までの予定で閉館中です。
 
そこで、同美術館では収蔵作品のうち、主だったもので移動美術館を開催することになりました。例年も行っているそうですが、例年より多くの会場で行うとのこと。
 
光太郎の「手」も巡回します。「手」は現在開催中の千葉市美術館での企画展に出品されていますし、先頃仮オープンした花巻の高村光太郎記念館にも並んでいます。
 
ご存じない方のために書きますが、ブロンズの彫刻は同じ原型から作られたものが複数個存在する場合があります。「手」もそうです。国内に10点くらいはあるのではないでしょうか。このあたり、微妙な問題を含みますので余り詳しくは書けませんが、浮世絵でも初刷り、後刷りがあるように、ブロンズでも誰がいつどこから型を取ったか、という点で価値に差異ができます。
 
閑話休題。移動美術館、日程は以下の通りです。
 
7/6~21 栄会場 県立房総のむら
8/3~18 野田会場 県立関宿博物館
8/25~9/8 館山会場 県南総文化ホール
9/14~29 香取会場 県立中央博物館大利根分館
10/5~27 東金会場 東金文化会館
2014/1/31~2/16 銚子会場 銚子市市民センター
同2/22~3/19 大多喜会場 県立中央博物館大多喜城分館
 
ただし、会場ごとに作品の入れ替えがあるというので、「手」が全ての会場に並ぶかどうか不明です。
 
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【今日は何の日・光太郎】 7月3日

明治42年(1909)の今日、およそ3年半の留学の旅を終え、駒込林町の実家に戻りました。
 
パリからいったんロンドンに渡り、日本郵船の阿波丸に乗ったのが5/5、神戸に上陸したのが7/1です。神戸まで光雲が迎えに来ており、東京に向かう汽車の車中で、光太郎を中心に銅像会社を設立する計画を語りました。
 
当時の銅像というと、立体写真的なものでしかなく、功成り名遂げた者の自己顕示、もしくは周囲のごますりのため、景観などは無視して街頭のあちこちに乱立していました。いわば一種のブームで、光雲のプランは確かにタイムリーで十分に採算のとれるものでしたが、光太郎はそんな職人仕事は恥ずべきもの、という感覚でした。
 
この後、ロダンに代表される新しい彫刻を日本に根付かせるための、光太郎の苦闘の日々が始まります。

先週土曜日に開幕した千葉市美術館の「彫刻家高村光太郎展」。地元紙『千葉日報』さんに報じられました。

 
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右下の画像が今回の図録です。
 
A4判222ページ。巡回各美術館の担当学芸員さんと、名古屋のデザイン会社・株式会社アーティカルの小島邦康氏による力作です。
 
目次は以下の通り。003

ごあいさつ 主催者
伯父光太郎 思ひだすことなど 高村規
高村光太郎の造型―立体感と詩精神― 北川太一

図版
 Ⅰ 高村光太郎
 Ⅱ 周辺作家
 Ⅲ 高村智恵子
 
高村さんのこと 平櫛田中
高村光太郎の彫刻 木本文平
木彫家・高村光太郎 土生和彦
 
資料
高村光太郎自筆文献抄 藁科英也編
作家略歴
高村光太郎年譜
高村光太郎彫刻展覧会歴
高村光太郎総計関係文献目録
出品目録
 
これで1,800円ですので、非常にお買い得です。
 
ちなみに当方、年譜・展覧会歴・文献目録の部分を書きました。
 
それから館内で無料配布されている館の広報誌「C’n SCENE NEWS」第67号。こちらでは3ページにわたり今回の企画展の話と、同時開催の所蔵作品展「高村光太郎の周辺」についての記事があり、読みごたえがあります。
 
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会期は、8/18(日)まで。第一月曜日の今日と8/5のみ休館。金・土は20:00まで開館しています。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月1日

明治23年(1890)の今日、光太郎の弟で、後に鋳金の道に進んで人間国宝となった豊周(とよちか)が誕生しました。
 
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左から弟・道利、妹・しづ(双子です)、光雲、光太郎。光雲に抱かれているのが豊周です。

豊周は家督相続を放棄した光太郎、渡欧したまま音信不通となった道利に代わり、高村家を嗣ぎました。

というわけで、いよいよ昨日から千葉市美術館「生誕130年彫刻家高村光太郎展」が始まりました。
 
夕方からオープニングレセプションということで、関係者の顔合わせ的な会があり、行って参りました。もちろん早めに行って、実際に企画展も観て参りました。
 
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初日から(初日だから?)かなりの盛況でした。といって、展示物がよく見えないような混雑ではなく、じっくりと観て回ることができました。
 
久しぶりに観る木彫の数々(展示方法に工夫が凝らされており、「蟬」がずらっと3匹、「桃」や「柘榴」は真上から観ることもできました)、複製でない智恵子の紙絵(その数65点)など、やはり本物は違う、という感じでした。
 
ブロンズでも詩人尾崎喜八の結婚記念に贈ったミケランジェロの模刻の聖母子像や、光太郎の祖父・中島兼吉のレリーフなど、あまり展覧会に並ばないものも多く、大満足でした。まるで久しぶりに旧友に遭ったかのような感覚で、なぜか涙が出そうになりました。不謹慎なようですが、心の中で「兼吉さん(かねきっつぁん)、おひさしぶりっす。変わりはなかったかい?」みたいな(笑)。
 
光太郎智恵子と縁の深い作家……光雲やロダン、荻原守衛、佐藤朝山などの作品も並び、そちらも興味深く拝見しました。
 
会場の一角ではNHKプラネット中部が制作した15分の解説映像の放映も。的確な解説のあいまに、北川太一先生や高村規氏(光太郎令甥)が登場、それぞれの思いを語られていました。観に来られた方は皆、興味深そうに見入っていました。
 
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早速、ネットで調べますと他の方のブログやツイッター等で「良かった」的な記述がありました。ありがとうございます。
 
館の皆様、その他大勢の皆様のおかげで、実にいい展覧会が仕上がったと思います。当方も少しだけ力をお貸ししましたが、力をお貸しできたことを光栄に存じます。
 
来週、7月7日の日曜日には、北川太一先生と当方による講演が予定されております。花巻に出かける前に北川先生から送られてきた草稿を元にレジュメを作成、プロジェクタで投影する画像等も集め、準備万端です。
 
そちらの方もおかげさまで定員に近い人数のお申し込みがあったとのこと。当方からご案内差し上げた方々も、かなり申し込んでくださり、ありがたい限りです。ご期待下さい!
 
千葉市美術館。千葉市中央区役所の7・8階です。都心からは若干時間がかかりますが、ぜひぜひ足をお運び下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 6月30日

昭和27年(1952)の今日、河出書房から『現代短歌大系』第三巻が刊行され、光太郎短歌62首が掲載されました。
 
光太郎は短歌でも独自の境地に達し、味のある作品を数多く残しています。「蟬」などの木彫を包む袱紗(ふくさ)や袋にその木彫を歌った短歌を書くこともあり、今回の「彫刻家高村光太郎展」でも、それらが複数展示されています。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

乃木坂のTOTOギャラリーで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」。
 
花巻郊外旧太田村山口地区に光太郎が暮らした小屋・高村山荘について取り上げています。企画展会期は6/22(土)までです。
 
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リンクして刊行された、中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
「毎日新聞」さんに関連する記事が載りました。

読書日記:著者のことば 中村好文さん

2013年06月11日 東京夕刊
 ■中村好文 小屋から家へ(TOTO出版、2310円)
 
 ◇「不便で粗末」から学ぶ
 普段着のように居心地がいい住宅を手掛けて30年。建築家であり、世界の名建築や旅に関するエッセーでも知られる筆者が今回テーマに選んだのは「小屋」。鴨長明や彫刻家の高村光太郎、建築家のル・コルビュジエら、著名人ゆかりの小屋を文章や自筆のイラストで解説。「住まいの原型」だと考える素朴な魅力に焦点を当てた。
 「家との違いを聞かれると難しい。私が考える小屋の条件は狭いこと。間取りで言えばワンルーム。質素な素材で造られているのもポイントです」
 異色なものとしては1962年、太平洋横断の単独航海に成功した堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が登場する。「洋上の小屋。子供の時からあこがれた」。米国の博物館に保存されていると知り、交渉して内部を見学させてもらった。マーメイド号に搭載された食料や日常品を、詳細に描いたイラストが楽しい。
 「小屋好き」は年季が入っている。幼い時にはミシンの台を新聞紙で覆って自分用の「巣」を作り、大人になると国内外の有名無名の小屋を見て歩いた。
 8年前には長野県に、自分や事務所のスタッフが過ごすための小屋を構えた。ガスや水道はなし。たるにためた雨水を風呂に使い、料理は炭火を入れた七輪で。五感をフル稼働させて暮らすうち<生活の知恵がじわりじわりとわき出してくる>。便利さが人間の能力を退化させることに気付くくだりは説得力がある。
 自身が設計した小屋や小住宅も本書で紹介。家と住み手の個性が重なった爽やかな暮らしが浮かぶ。
 本書は元々、東京・乃木坂「TOTOギャラリー・間」で22日まで開催する中村さんの個展に合わせて企画された。会場で注目されているのは原寸大で造られた「ひとり暮らしの小屋」。記者が訪れた日も、中に入ってじっくりと見て回る人が目に付いた。
 「自分と心静かに向き合える場所。小屋にはそんな良さがあると思う。だからこそ、忙しい現代人に魅力的に映るのかもしれません。家は住む人の精神が表れるもの。不便で粗末な小屋暮らしから私たちが学べることは多いのです」


 
【今日は何の日・光太郎】 6月13日

大正3年(1914)の今日、作品を出品していた三笠会主催の「第一回歌箋展覧会」が閉幕しました。
 
……という内容が『高村光太郎全集』別巻の年譜に記載されているのですが、詳細がはっきりしません。三笠会とは何なのか、会場はどこだったのか(おそらく東京だとは思いますが)、などなど。有名な銀座のレストラン・三笠会館が出来るのはもっと後ですし。
 
ただ、翌月一日から十日まで、京都寺町通竹屋町南入の佐々木文具店芸術品展覧会場で同じ「歌箋展覧会」が開かれており、どうも巡回展だったようです。
 
京都展については主催の佐々木文具店が発行した『睡蓮』という小冊子で概要がわかります。それによれば、光太郎他27名の文学者の短歌・俳句が出展されています。『睡蓮』は、それらを活字で載せています。ちなみに『高村光太郎全集』未収録の短歌・俳句がかなり載っており、これを入手したときは快哉を叫びました。ただし、文庫本より小さい28ページの小冊子で4万いくらという値段でした。

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 しかし、「歌箋」がどういう状態のものなのか(便箋のようなものか、あるいはよくある短冊や色紙、扇面の類か)、出品作が27名の自筆なのかなどはやはり不明です。
 
さらに佐々木文具店についても詳細なことがわかりません。
 
「歌箋展覧会」「三笠会」「佐々木文具店」について情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
ただ、国会図書館に所蔵されている当時の新聞のデータを調べたところ、6月の東京?での「歌箋展覧会」を報じた記事があるようですので、近いうちに行って調べてみようと思っています。 
 
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小学館発行の雑誌『サライ』7月号。昨日発売されまして、早速買ってきました。
 
今月29日から始まる千葉市美術館の企画展「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の記事が6ページにわたり載っています。
 
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感心したのは「詩魂を以て木と青銅に生命を刻む」というコピーです。このライターさん、なかなかよく光太郎の精神を理解しています。
 
今後もこうした雑誌、あるいはTV等でもどんどん紹介していただきたいものです。また、いろいろな方のブログで「ぜひ行かなくちゃ」みたいな記述を見かけます。ありがたい限りです。
 
昨日、図録の最終原稿がメールで届きました。出品目録もついており、結局、光太郎作品は千葉では木彫15点、ブロンズ32点が並びます。その他に智恵子の紙絵が65点。光太郎素描や遺品、荻原守衛他周辺作家の作品も出品されます。
 
巡回で岡山井原の田中美術館、愛知碧南藤井達吉現代美術館も廻りますが、点数的には最初の千葉が最多です。以前のブログで井原と碧南には智恵子の紙絵が出ない、的なことを書いてしまったような気がしますが、井原で43点、碧南で26点出ることになりました。
 
この機会を是非お見逃しなく。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月11日

明治45年(1912)の今日、雑誌『文章世界』に詩「青い葉が出ても」が掲載されました。
 
はなが咲いたよ000
はなが散つたよ
あま雲は駆けだし
蛙は穴からひよつこり飛び出す
やあれやあれ
はなが散つたよ
青い葉が出たよ
青い葉が出ても
とんまな人からは便りさへないよ
女だてらに青い葉が出ても
やあれ青い葉が出ても
ちよいと意地を張つたよね
 
今ひとつ何が言いたいのかよくわからない詩ですが、どうも智恵子の姿が見え隠れするような気がします。
 
智恵子には故郷・二本松での縁談が持ち上がったと光太郎に告げ(ブラフの可能性も出て来ました)、この1ヶ月後には「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる有名な詩「人に」(原題「N――女史に」)を書いています。
 
ちなみに画像は我が家の紫陽花です。

新刊を取り寄せました。3ヶ月ほど前の刊行でしたが。

アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から

甲南大学人間科学研究所叢書 心の危機と臨床の知14 川田都樹子・西欣也編
2013/3/15 平凡社発行
定価 2800円+税
 
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治療法の一分野として幅広く実施されているアートセラピーの、臨床研究の成果のみならず、その歴史学的側面を考察し、高村智恵子やジャクソン・ポロックの事例を含めて、多角的に紹介する。


神戸の甲南大学さんに設置された人間科学研究所スタッフによる編著です。テーマは「アートセラピー」。芸術を媒体に使用する精神療法です。
 
第1部「近代日本のアートとセラピー」中の、「高村智恵子の表現-芸術の境界線(木股知史)」、「「治す」という概念の考古学-近代日本の精神医学(三脇康生)」、「アウトサイダー・アート前史における創作と治癒(服部正)」で、智恵子の紙絵や智恵子の主治医だった斎藤玉男について述べられています。
 
精神を病んだ智恵子は昭和10年(1935)から亡くなる同13年(1938)まで、南品川のゼームス坂病院に入院していましたが、そこの院長だったのが斎藤玉男です。この時代はまだ芸術療法という概念も曖昧で、作業療法に近い位置づけでした。それでもゼームス坂病院の実践は当時としては、ある意味画期的だったとのこと。
 
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とかく智恵子の紙絵やその終焉の様子などは、文学的、ドラマチックに捉えられがちですが、こうした科学の目を通してのアプローチも重要なのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月8日

明治45年(1912)の今日、埼玉県百間村(現・宮代町)の英文学者・作家の島村盛助に宛てて、駒込林町25番地に完成したアトリエへの転居通知を送りました。
 
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本文は自刻木版です。同一の版を使った転居通知は同月6日付で作家の生田葵山にも送られています。
 
日付を特定できませんが、この頃、アトリエが竣工したと言えます。同じく日付を特定できませんが、アトリエの新築祝いに、智恵子がグロキシニアの鉢植えを持って訪れたのもこの頃です。
 
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