カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

ネット上などで、けっこう鳴り物入りの紹介が為されています。

 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
 前期展示①:8月6日(土)~8月28日(日)
 前期展示②:8月6日(土)~9月4日(日)
 後期展示①:8月30日(火)~9月25日(日)
 後期展示②:9月6日(火)~9月25日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、9月19日(祝)は開館)
料 金 : 一般2,000円(1,800円)、高・大学生1,200円(1,000円)
       ( )は前売り料金 
   

じっと見る そっと見る うつくしい 宝もの

本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の珠玉の名品に、東京藝術大学のコレクションを加えた82件の多種多様な作品を通じて、「美の玉手箱」をひも解き、日本美術の豊かな世界をご覧いただくものです。代々日本の文化の中心に位置して美術を保護、奨励してきた皇室に伝わる優品の数々は、特筆すべき重要な存在です。

また、本展が開催される東京藝術大学は、前身である東京美術学校で岡倉天心が1890年に初めて体系的に日本美術史の講義を行った場所でもあり、以降、芸術の教育・研究機関として重要な役割を担います。本展は、このような歴史的背景をもつ両者共同ならではのアプローチで、貴重な美術品の数々の魅力をわかりやすくご紹介します。
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展覧会のみどころ
1 日本美術を分かりやすく「ひも解く」
 「文字からはじまる日本の美」「人と物語の共演」「生き物わくわく」「風景に心を寄せる」のテーマごとに、日本美術の世界をたどります。
2 三の丸尚蔵館所蔵の国宝全5件公開
 昨年、三の丸尚蔵館の収蔵品として初めて国宝に指定された5作品を、まとめて公開する初の機会になります。
 春日権現験記絵 やまと絵の集大成として名高い絵巻/通期展示
 蒙古襲来絵詞 元寇の様子を描いた絵巻/通期展示
 唐獅子図屏風 桃山時代を代表する狩野永徳筆/前期展示①
 動植綵絵 伊藤若冲の代表作/後期展示①
 屏風土代 平安時代三跡の一人・小野道風の書/後期展示②
3 若冲「動植綵絵(どうしょくさいえ)」10幅公開
 さまざまな生き物や植物を緻密に描いた傑作「動植綵絵」。あらゆる生き物の尊い生命、生きているからこその美しさを描き表わそうと、約10年をかけて若冲が制作した全30幅の大作。動植物の構図を熟慮し、自身が学んだ絵具の使い方や描き方を駆使して独特の世界観を表わしています。色鮮やかに表現された雄鶏が圧巻の〈向日葵雄鶏図〉や、70種類近くの虫が画面いっぱいに描かれた〈池辺群虫図〉など、本展では10幅を一堂に公開します。本展で公開される10幅は以下の通りです。
芍薬群蝶図、梅花小禽図、向日葵雄鶏図、紫陽花双鶏図、老松白鶏図、芦鵞図、蓮池遊魚図、桃花小禽図、池辺群虫図、芦雁図/後期展示①

序章 美の玉手箱を開けましょう
 「美術」を学問的にとらえた近代。岡倉天心は、未来の美術を作るための基礎となるように初めて日本美術史を教えました。そして、宮内省と東京美術学校によって後世に伝えるべき名品が作られます。
1章 文字からはじまる日本の美
 平安時代、日本人の感性によって生み出された優美な仮名は、物語や和歌を発展させ、さらにそれらによる様々なモチーフが豊かな美術意匠へと展開していく土壌を築きました。
2章 人と物語の共演
 人々の日常生活、信仰、回想や幻想などから創出された様々な物語は、折々の日本の四季の風景や人々の有り様を豊かに描き表わし、深遠な日本美の世界に我々を誘います。
3章 生き物わくわく
 人は様々な生き物と共存する中で、生き物への愛おしみや尊崇、感謝などの様々な想いを、美術造形に表現してきました。生命(いのち)あるものへの多彩な眼差しによる表現のかたちを見つめます。
4章 風景に心を寄せる
 豊かな自然は人々の心を動かし、古くから文学や絵画に表現されてきました。身近な風景や自然現象に対する素直な感動や畏怖の表現は、美の世界を広げ、さらなる感動をもたらします。

「3章 生き物わくわく」で、光太郎の父・光雲作の「矮鶏置物(ちゃぼおきもの)」(明治22年=1889)が展示されます。前期展示①ということで、8月6日(土)~8月28日(日)。
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他にも、日本美術史上に燦然と輝く優品の数々が出品されます。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

夕方アイスショーにゆきしが満員、火の車にゆく、草野君ゐる、


昭和28年(1953)10月4日の日記より
 光太郎71歳

「アイスショー」は「世界一アイス・ショウ アメリカン・ホリデイ・オン・アイス 日本公演」。昭和17年(1942)にアメリカで始まったフィギュアスケートの興行で、東京では後楽園で開催されました。

「ホリデイ・オン・アイス」といえば、当方の幼い頃、テレビCMなども放映されていました。

しかし満員で入れず、仕方なく当会の祖・草野心平の経営する居酒屋「火の車」へ。笑えます。

正直、これほど早く達成するとは思っていませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。64年前に建てられた煉瓦造りの本館「碌山館」の損傷が激しく、コロナ禍による入館者激減などもあり、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われていますが、昨日、目標額の700万円に到達したとのこと。まだまだ世の中捨てたもんじゃないなと思いました。

受付の始まった7月15日(金)にこのブログでご紹介し、「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、たった2週間での目標額到達。いかに同館が地域に、さらに全国的に愛されてきたかがわかりますね。

「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、このブログでもう一押しするか、と思っていた矢先で、そのためのネタも見つけてありました。当方、クラウドファンディングには詳しくありませんが、目標額をクリアしても終わりでなく、さらに支援を受け付けるようなので、ご紹介します。SBC信越放送さんのローカルニュース、7月21日(木)のオンエアでした。

雨漏り…レンガに亀裂…「碌山美術館」ピンチ! 修繕費は500万円超…どうする? 館長 長野・安曇野市

長野県内有数の観光地・安曇野のシンボルのひとつに碌山(ろくざん)美術館があります。教会をイメージさせるレンガ造りの趣きのある建物。この建物がピンチとなっています。館長が美術館を守るため選んだ方法とは?
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安曇野市穂高にある碌山美術館。

(幅谷啓子館長)「坑夫っていうのは、パリで作ったのを持ち帰った作品、高村光太郎が絶賛して持ち帰るようにすすめてくれた作品」
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美術館には明治時代の彫刻家・荻原碌山(おぎはら・ろくざん)の代表作の彫刻15点が、展示されています。碌山は、現在の安曇野市の出身、近代彫刻の礎を築きました。
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作品が展示される「碌山館(ろくざんかん)」。
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教会をイメージさせるレンガづくりが特徴の美術館は、住民の力で造られました。建設されたのは、今から64年前の1958年のこと。「碌山の美術館を作ろう」と、地元の教員たちが呼びかけ、賛同した人々、およそ30万人からの寄付金で、誕生しました。
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その証は、今も美術館に残っています。「開館に携わって頂いた方約30万人の方たちの力で生まれましたっていうプレート」
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幅谷館長が、美術館の異変に気づいたのは、2021年の夏のことでした。「風とか雨が強い時は雨が流れ落ちる状態、こういう跡があるんですけどずっと流れたような跡があります」美術館を襲った雨漏り。
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外の壁のコンクリートやレンガにも亀裂が入っていました。「これをこのまま放置しとくとどんどんひどくなるし」
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美術館の修繕は、待ったなしの状態。ですが、500万円以上かかる費用を捻出できる状況にないのです。
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「入館者の方が減ってまして、運営面も大変になりまして預貯金を取り崩して今運営をしている状態」新型コロナの感染拡大で、来館者が激減。コロナ前は、年間、2万7千人ほどが訪れていましたが、2021年はおよそ1万5千人にまで減りました。

美術館をどう守っていけばいいのか? 幅谷館長が、7月ある挑戦を始めました。インターネットで寄付を募る「クラウドファンディング」です。
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住民の寄付で誕生した美術館。もう一度、住民の力に美術館のこれからをゆだねることに決めました。「皆さんの力で修理を始めたいと思って、碌山の彫刻をこれからもずっと長く皆さんに親しんでもらいたい、この碌山館を作品とともに長く後世に伝えたい」目標金額は700万円。
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住民の力で誕生した美術館、幅谷館長の思いは届くのでしょうか? 寄付の募集期間は、8月31日までです。
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8月31日(水)まで、寄附の受付は継続されるようです。目標金額以上、いくら集まっても困ることはないでしょう。こうなったら大台突破も有りうるかもしれませんし、ぜひよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

夜熊谷氏(AK)来訪せし由、 九時半「九十九里」放送の中に余のもの引用の由。

昭和28年(1953)9月24日の日記より 光太郎71歳

AK」はJOAK、NHKさんの東京放送ですね。昭和9年(1934)、半年あまり智恵子が療養した千葉の九十九里浜を紹介する番組内で、光太郎作品を引用するその許諾ということでしょう。当該番組、録画放映の技術はまだ確立されておらず、おそらくテレビではなくラジオだったと思われます。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、書簡が届きました。

何かと思えばこういう内容で……。
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同館のフェイスブックにこの件が出ていました。

【予告】7月15日(金)からクラウドファンディングに挑戦します!

碌山美術館はこれまで、施設の拡大とともに碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品コレクションを充実させ、 日本近代彫刻の展開をご覧いただけるよう努めてきました。

しかし64年の月日による傷みが「碌山館」を侵食しています。当館の本館にあたる荻原守衛の作品を展示する「碌山館」には雨漏りが見られ、修繕は早急の課題です。本来であれば補助金や自己資金で賄うところですが、昨年から続く新型コロナウイルス感染症の影響で、収入が大幅に減少し、今はなんとか積立金を取り崩しながら運営しているのが現状です。

この状況を打破し、貴重な作品を守り未来へとつなぐ為に、クラウドファンディングに挑戦することといたしました。目標金額は700万円。目標に届かなければいただいたご支援は全て返金になってしまう「All or Nothing」というルールです。クラウドファンディングでは、公開直後の5日間でどれだけ支援を集められるかが成功のポイントだといわれております。

そこで、今回の取り組みに少しでも共感していただけましたら、公開直後のタイミングで、ぜひご支援をいただけないでしょうか?

今回皆様からいただいた資金は、碌山館の修繕費に充てさせていただき、雨漏りの修繕、扉の再塗装などもあわせておこない、美しい姿で皆様をお迎えいたします。長い歴史の中でたくさんの方々のお力をお借りしてここまでつないできた想いを後世へつないでいきたい。そのために一生懸命取り組んでまいります。

是非、ご支援ください。

▼詳細・ご支援方法は7月15日(金)以降下記からご覧いただけます。
第一目標金額:700万円
支援募集期間:7月15日(金)9時〜8月31日(水)23時

申込書を兼ねたフライヤーも同封されていました。
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同館は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎ブロンズも複数所蔵されており、第1展示棟で入れ替えながら常設展示して下さっています。

そしてメインの建物が、碌山館。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風。安曇野のシンボル的な建造物でもありますね。
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入り口の内壁には、守衛を支えた人物ということで、光太郎の名も刻まれています。
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内部には、国指定重要文化財の「女」をはじめ、現存する守衛彫刻の全作品。

その碌山館が、ピンチです。こんなところにもコロナ禍の影響か、という感じですが。

当会としまして、早速、3万円コースで申し込み、入金を致しました。皆様方におかれましても、是非とも御支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半出かけ車で浴風園、レントゲン検査、結局結核性と分る、静脈瘤ではないらし、いろいろ注意をきいてかへる、


昭和28年(1958)7月6日の日記より 光太郎71歳

「浴風園」は、現在の浴風会病院さん。こちらの医師・尼子富士郎に診てもらい、正式に結核と診断されました。自覚症状もあって自分ではわかっていたはずですが、これまで対外的には認めていませんでしたが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型も完成し、一区切り、ということだったのでしょう。

京都精華大学ギャラリーさんで開催中のリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」の展覧会評が、7月6日(水)、『毎日新聞』さんの大阪夕刊に載りました。

今、11作家が問う「越境」 京都精華大ギャラリーでリニューアル記念展

 人やモノが日常的に国境を越えるグローバル化社会の風景を、新型コロナウイルス禍は一変させた。ロシアによるウクライナ侵攻は、今この瞬間も新たな悲劇を生んでいる。人類の歴史の中で繰り返されてきた「越境」だが、個人の人生に目をやれば、解放や成長をもたらす行為でもある。誰もが経験し直面する「越境」をテーマに据えた展覧会が、京都精華大学(京都市左京区)で開かれている。
 今年2月にリニューアルされた「ギャラリーTerra-S(テラス)」の開館記念展。大学が収蔵するコレクションの中から塩田千春ら6人のアーティストと、2000年代以降に活動を開始した若手ゲスト作家5人の作品を展示する。

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 前身の「フロール」から1・5倍の広さになったギャラリー中央のスペースには、「個と社会(ジェンダー/アイデンティティ/歴史/身体(からだ))」のサブテーマのもと、女性作家4人の作品が並ぶ。陶芸や切り紙のインスタレーションを手がける谷澤紗和子(1982年生まれ)による「はいけいちえこさま」(2021年)は、近年取り組んでいる高村智恵子へのオマージュ作だ。
 高村光太郎の「智恵子抄」で知られる智恵子だが、谷澤は、夫の目を通した智恵子像ではなく、切り紙作家としての智恵子個人に光を当てる。「はいけい―」は谷澤の智恵子への手紙などを切り絵にした6枚の連作。智恵子作品のモチーフを取り入れた1枚は、中央部分に目や口が表現されている。谷澤が、自身の言葉で語る智恵子を想像したという。6枚とも、額には解体された家屋の建材を利用。「家」に縛られてきた女性にとっての越えがたい境界が浮かび上がってくるようだ。
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谷澤紗和子「はいけいちえこさま」(2021年、部分)

 さまざまな角度から越境について考える展示を締めくくるのは、潘逸舟(はんいしゅ)(87年生まれ)によるユニークな作品だ。タイトルは「あなたと私の間にある重さ―京都」。円形に並べられたカラフルなはかりには食器が置かれ、箸やしゃもじで隣のはかりとつながれている。目盛りはそれぞれ数値を示しているが、果たしてそれは何のどの部分の重さなのか。
 上海出身で幼少期に青森に移住したというバックグラウンドを持つ潘は、体を使ったパフォーマンスで、社会と個の関係に感じた疑問や自身のアイデンティティーの揺らぎを表現してきた。今回もサブテーマ「身体/アイデンティティ」のコーナーに、自分と同じ重さの石をテーマにした映像作品「呼吸―蘇州号」(13年)が展示されている。「人間の重さは、自分だけの重さなのかと考えるようになった」。潘は同展の公開トークイベントで、「呼吸―」から「あなたと私の―」に至る数年の変化について語った。「自分の中には量れない重さ、どこかとつながっている部分がある。はかりが示しているのは、フィクションでもあると考えるようになった」
 展覧会を企画したのは、芸術学部の吉岡恵美子教授とギャラリーの伊藤まゆみキュレーター。準備中にウクライナ侵攻が始まり、期せずして「越境」はさらなる注目を集めることになった。「人類にとって、良い意味でも悪い意味でも重要なテーマであり続けてきた。一方で、潘さんの作品からもわかるように、境界はあると思えばあるし、ないと思えばない、曖昧なものでもあると思う」と吉岡教授。
 ギャラリーは同大明窓館3階。23日まで(075・702・5263)。日曜休館。入場無料。教員ら総勢22人が「『越境』を考えるためのおすすめ情報」として書籍や映画、音楽などを紹介する大学ならではの試みも。詳しくは展覧会特設サイト(https://gallery.kyoto−seika.ac.jp/exhibition/220617/)。

谷澤紗和子氏の「はいけいちえこさま」に関しては、以下もご覧下さい。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。

京都精華大学さんでの展示は7月23日(土)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后五時半千光園ほととぎす行、 青森県副知事、佐藤春夫夫妻、土方定一氏、小坂氏、藤島氏、草野心平氏、谷口吉郎氏集る、


昭和28年(1953)6月16日の日記より 光太郎71歳

千光園ほととぎす」は、当時中野区にあった「黄檗流普茶料理」と掲げる料亭。現在、中野区産業振興センターのある場所です。

この日は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型完成記念報告会が催されました。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんでの「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」、神保町の東京古書会館さんでの「七夕古書大入札会一般下見展観」に向かう前、まず最初に訪れたのが台東区の谷中霊園さんでした。最近、こちらに光太郎の父・光雲作の、当方が知らない銅像があるという情報を得まして、拝見に、というわけです。

この日は公共交通機関での移動で、JR日暮里駅にて下車、紅葉坂を上って園内へ。目指す銅像は徳川慶喜の墓所近くということで、そちら方面を目指しました。

途中には、谷中の五重塔跡。
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徳川慶喜墓所。
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さて、目指す銅像はこの近く、ということなのですが、なかなか見つかりません。というのも、慶喜の墓所敷地がかなり広大で、「近く」の範囲も相当なものだからです。

関係ない渋沢栄一の墓所などが見つかりました。
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それでも、ようやく発見。
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2体並んでいるうちの、左の方です。
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「初代 小川源兵衛之像」というキャプション。背面には「高村光雲作」の銘。

小川源兵衛は、嘉永三年(1850)年生まれ(光雲より2歳年長)。日本橋で「近江屋」という店を構えていた織物商です。屋号は出身地の近江に由来します。光雲は、この手の実業家等の銅像を全国でいくつか手がけており、不思議ではありません。ただ、どちらかというと、光雲個人の作というより工房作かな、という感じです。それにしても愚劣な立体写真的な像とは一線を画していますね。

中には原型を光太郎が代作したものも2体。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。いずれも戦時の金属供出で像本体は失われてしまいました。この「小川源兵衛之像」は、それらとは異なり、光太郎イズムは感じられませんし、光太郎が描き残した文章にもこの像の話は出て来ません。

さらに言うなら、この像の建立の経緯はまったくわかりません。その人物の追悼録的な書籍が刊行されていれば、そこに詳細が記されることが多いのですが、そうした書籍も見つけられていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

また、こんな都心にあって戦前の作であるにもかかわらず、金属供出を免れている点も謎です。同じ谷中霊園内の「川上音二郎像」は、おそらく供出されたのでしょう。現在は台座だけが空しく残っています(左下画像)。
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ちなみに2体並んでいる右の方は、「二代目小川源兵衛」の像。背面の銘(右上画像)によると、山本稚彦による昭和48年(1973)の作だそうです。山本稚彦は、光雲の高弟の一人・山本瑞雲の子息。光太郎とも交流がありました。

昭和48年(1973)であれば、もはや金属供出は関係ないわけで、もしかすると左の初代の像も、一旦は金属供出に遭ったものの、戦後になってから保存されていた原型を元に新たに鋳造されたのかも知れません。やはり原型光雲作で、愛媛県新居浜市の広瀬公園にある「広瀬宰平像」などはそのパターンです。あるいは金属供出を免れるため、遺族が像本体を戦後になるまで秘匿していたという例(光太郎の親友・碌山荻原守衛作の「宮内良助像」など)もあり、そういうケースも考えられます。

さて、「小川源兵衛之像」、谷中霊園、正確にはその中の東京都ではなく寛永寺さんが管理している一角にあります。そのため「甲の何々」「乙のいくついくつ」という表示のないエリアです。
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ご興味のおありの方、ぜひ探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

石膏とりつづき午后終、小坂さん粘土かたつけ、二時過運送屋三輪車で牛越さん等と一緒に石膏型を持ち去る、牛越さんの家までの由、


昭和28年(1953)6月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、石膏取りも終わり、石膏型が中野の貸しアトリエから運び出されました。これで、光太郎の手を離れた、ということになるわけです。それにしてもオート三輪で、というのが時代を感じさせますね(笑)。この光景、見てみたかったものです(笑)。

小坂さん」は制作のため雇った助手・小坂圭二。「粘土かたつけ」は、石膏型を取り終わった後、中から原型の粘土を掻き出したりする作業で、七尺もの巨像となると、光太郎一人では不可能だったでしょう。

牛越さん」は石膏取り師の牛越誠夫、道具鍛冶千代鶴是秀の娘婿です。

ネタがなければ足で探せ、というわけで、一昨日、昨日と、ふらふら出歩いておりました(笑)。

一昨日は、自宅兼事務所隣町の成田市へ。こちらでは、以下の展示が開催中です。

関東の山車人形と成田祇園祭展

期 日 : 2022年6月4日(土)~7月10日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリー 千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

 成田山奥之院の祭禮(成田山祇園会)について、文献では享保6年(1721年)には行われていたとの記載があり、これを起源とすると令和3年(2021年)に300年の節目を迎えました。昨年開催されました「関東の山車人形と成田祇園祭展」は盛況のうちに終了することができ、今年は3年ぶりに開催される成田祇園祭を盛り上げるため、昨年に引き続き、「関東の山車人形と成田祇園祭展」を開催いたします。
 前期(6/4~6/19)はスカイタウンギャラリー4階では歌舞伎をモチーフにした作品に加え、本展にちなんだ浮世絵を、5階では成田祇園祭の歴史を紹介したパネルやミニチュアの山車などの展示を行います。
 後期(6/25~7/10)は4階では関東各地の歴史ある作品と前期に引き続き浮世絵を、5階ではおとぎ話の主人公である桃太郎など魅力あふれる作品と前期に引き続き成田祇園祭に関する展示を行います。
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成田市で開催される山車祭り「成田祇園祭(成田山祇園会)」に合わせ、成田以外にも、関東各地の山車祭りで山車の上に飾られる人形などを借りてきて展示するものです。昨年も開催されていたそうですが、存じませんでした。
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このうち、8月上旬に行われる群馬県桐生市の「桐生祇園祭」では、松本喜三郎の生人形(いきにんぎょう)が使われているということで、その展示もあり、「これは見てみたい」と思って参上しました。
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4月に神奈川の平塚市美術館さんで開催された「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」で、光太郎の父・光雲の木彫も出るというので拝見に行きましたが、その際、喜三郎の生人形も展示されていて、その迫力に圧倒されました。喜三郎は光雲も絶賛した生人形師です。そして同展の図録を兼ねた書籍『リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと』を拝読、明治になって西洋から伝わった写実表現とは別系統で、生人形などに日本独自の超絶写実の技法があったことにも注目すべし、的な内容で「なるほど」と思わされました。

その喜三郎の作品。
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なるほど、見事でした。

他の人形師たちの作品も、「ほう」と思わせられるものばかり。
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ただ、「生人形」と、「生」がつかない人形との区別はどう定義されるのだろうと、疑問が湧きました。手の表し方など、下記のように血管まで作っているものは「生人形」と言っていいのかとも思うのですが、どうなのでしょう。詳しい方、御教示いただければ幸いです。
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KIMG6353それから、意外だったのが、人形師たちの肩書き。上の方の画像にもありますが「法橋(ほっきょう)」を名乗っている者が複数いました。

これは、「僧綱(そうごう)」の一種で、本来は僧侶の位階なのですが、名誉称号として仏師にも与えられました。「法橋上人位(僧正階)」、「法眼和尚位(僧都階)」、「法印大和尚位(律師階)」などがあり、平安時代の仏師定朝が、仏師として初めて「法橋位」に補任され、のちに興福寺の復興の功績で「法眼位」に進みました。その弟子長勢は法勝寺造仏の賞として最高位の「法印位」に補任。以後、名のある仏師は僧位を叙せられる習慣となります。

実は光太郎の父・光雲も「法橋位」。国指定重要文化財の「老猿」背部に刻まれた銘には「法橋高村光雲」とあります。光雲の師・高村東雲、更にその師・高橋鳳雲は「法眼位」でした。ただ、江戸期や明治期、誰がその位階を授けたのか(自称ということは有り得ないと思います)、当方、寡聞にして存じません。この辺りも詳しい方、御教示いただければ幸いです。

そして、人形師にも光雲と同じ「法橋位」がいたというのがわかり、「へー」という感じでした。専門の方にとっては当たり前のことなのかも知れませんが(笑)。

その他。

「成田祇園祭(成田山祇園会)」過去のポスター、山車のミニチュア。
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かつて江戸の神田明神でも行われていた山車祭りなどの錦絵。明治期までは山車が出ていたそうで。
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今回の展示に人形を貸し出して下さった関東各地の各祭礼の地図。
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なぜか、隣町であるにもかかわらず、当方自宅兼事務所のある香取市の山車祭り(他の複数の山車祭りと一括でユネスコ世界文化遺産にも指定されています)がありませんでした。やはり光雲が絶賛したという三代安本亀八の生人形を乗せた山車が複数ありますし、他の人形も今回展示されている作品と較べても、勝るとも劣らないものばかりなのですが……。どうも何らかの「大人の事情」があったとしか思えません。

それにしても、こうした人形の系統、もっともっと評価されていいものだと思われます。成田での展示、7月10日(日)まで。会場はJR成田駅前、京成成田駅もすぐ近くです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大悟法利雄氏くる、講道館雑誌の事、断り、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

大悟法利雄」は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

大悟法はこの日の出来事を含む戦前からの光太郎回想を書き残し、『文壇詩壇歌壇の巨星たち』平成10年=1998 短歌新聞社)に収められています。

 光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。

柔道初段の当方としては、光太郎の全日本選手権観戦記をぜひ読みたかったところでしたが(笑)。

前田光世(みつよ)は、講道館黎明期の柔道家。ブラジルのグレイシー柔術の祖としても知られています。光太郎より1年早く、明治37年(1904)に柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。

昨日はデジタルアーカイヴサイトについてご紹介いたしました。同様にネット上でこんな動画も公開されているよ、ということで。公開は昨年だったのですが、最近のネタ不足を補う意味で、このタイミングでご紹介させていただきます。

2本ご紹介しますが、どちらも竹橋の国立近代美術館さん制作で、光太郎のブロンズ代表作「手」についてのものです。

まずは10月に公開された「高村光太郎《手》1918年頃|キュレータートーク|所蔵品解説006」。


7分余りの尺ですが、その中で、学芸員さんが「手」の魅力等につき、語られています。
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これは以前から指摘され続けてきたことですが、作品の制作背景として、ロダンの影響、それから仏像からのインスパイアがある、と。ただ、それが見る角度によって西洋的要素と東洋的印象とが変わる、という指摘には、なるほどそういう風に考えたことはなかったな、と思わされました。
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そのあたり、武蔵野美術大学美術館さんで平成27年(2015)に開催された「近代日本彫刻展」で、こちらの「手」と、朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と、2点(どちらも光太郎の生前鋳造、台座の木彫部分も光太郎作)を同時に並べた際の発見だそうで。
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そして、最も驚いたのが……。
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動画で5:00頃からですが、何とブロンズの部分と、台座を分離。

当方、画像では見たことがありましたが、動画では初めて見ました。もちろん実際に見たこともありません。
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この作品を元々所有していた有島武郎の名が記されていることは存じていましたが、自殺した有島から受け継いだ秋田雨雀、さらにその後の所有者名も記されているとのこと。それは存じませんでした。
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ここまで公開するとは、実に素晴らしいと思いました。

ちなみに同じシリーズでは光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」篇などもありました。

もう1本、こちらの方が先にアップされたもので、「ガイドスタッフが選ぶイチオシ作品|#29 高村光太郎《手》」。こちらもなかなかのものです。


「手」を見た子供たちの声が紹介されていまして、笑ったり、感心したりでした。
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こういう取り組みも、一種のアーカイヴと言えましょう(特に台座を紹介した方など)。そして、実際に作品を見に行ってみよう、という契機にもなるのでは、と思います。そうした意味で、こういう取り組み、全国の美術館さん、文学館さん等で、もっともっと広がってほしいものだとも思います。

【折々のことば・光太郎】

中原綾子さんくる、夜食に東中野モナミといふフランス料理の御馳走になる、有島生馬氏に偶然あふ、

昭和28年(1953)4月4日の日記より 光太郎71歳

中原綾子」は歌人。昭和初期、光太郎が中原に宛て、智恵子の心の病の症状を詳細に記した書簡を複数送ったことで有名です。「有島生馬」は画家で、武郎実弟。光太郎とは留学仲間でした。

東中野モナミ」は、かつて存在したレストラン兼結婚式場。建物はフランク・ロイド・ライトの設計だったそうです。文化人の交流の場ともなり、主に光太郎より1~2世代下の岡本太郎、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生、野間宏、安部公房らが集っていました。

また、上記の秋田雨雀、小説「智恵子飛ぶ」を書かれた津村節子氏なども。

光太郎の父、光雲のからみで、見落としていた新聞記事がありました。『夕刊フジ』さん4月8日(金)掲載で、その後気づいたものの、紹介するタイミングを失っていました。

今日になって『毎日新聞』さん東京版にも同じ記事が出ました。どうも共同通信さんあたりの配信記事のようです。

東京舞台さんぽ 越後屋の歴史継ぐ日本初の百貨店「三越」 東京・日本橋室町

 江戸時代後期に歌川広重が描いた浮世絵「名所江戸百景・するがてふ」は、買い物客らでにぎわう呉服店「越後屋」と遠くに見える富士山を描いた作品。するがてふ(駿河町)は、現在の東京都中央区日本橋室町のことで、越後屋は日本橋三越本店として当時と同じ場所で営業を続けている。
 三井高利が1673年に江戸に開いた越後屋は、83年に駿河町に移転。現金掛け値なし、切り売りといった画期的な商売手法で大繁盛した。江戸庶民の憧れの地であり、富士山の眺望が良かった駿河町は、浮世絵の格好の題材だった。
 1904年に三越呉服店と屋号を改め、日本初の百貨店となった。堂々たるルネサンス様式の本館は35年に完成したもので、2016年に国の重要文化財に指定された。完成当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築だった。
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 正面玄関で買い物客を迎え入れる2頭のライオン像は、三越の象徴的存在。内装は華やかで、本館1階中央ホールにそびえる高さ約11メートルの天女像は、まるでゲームの〝ラスボス〟のよう。壁面には大理石が張り詰められており、隠れたアンモナイトの化石を探すのも楽しい。
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 建物の屋上には三井家を守る三囲神社があり、商売繁盛と幸運をもたらすとされる活動大黒天の木像が祭られている。日本を代表する彫刻家、高村光雲が、1912年に手掛けた。
 越後屋が伝説の名工左甚五郎に大黒を彫るよう依頼する、古典落語「三井の大黒」とよく似た話であることに興味をかき立てられる。しかし三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からないという。
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【メモ】屋上には「漱石の越後屋」と刻まれた石碑がある。夏目漱石の作品に越後屋や三越が多く登場することを記念して、2006年に建てられた。

日本橋三越さん。実は当方(「実は」というほどのことでもありませんが(笑))、学生時代の4年間、冬休みはお歳暮の時期ということで、三越さんでアルバイトをさせていただいておりました。と言っても店舗ではなく、配送の方でしたが。バブル前夜の景気が上向いていた時期で、バイト代もけっこうなものでしたし、何と言っても老舗中の老舗だけあって、扱う品物も豪勢なものでした。当時のN首相宛のお歳暮、ウィスキー1本40,000円也とか(笑)。

閑話休題。

屋上に鎮座まします三囲(みめぐり)神社さんに納められているという光雲作の大黒天像。通常非公開でして、当方、画像も見たことがありませんでした。こういうものだったのか、さすが光雲、という感じです。

記事では「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」とあり、残念です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に「光雲に依頼した経緯や落語との関係」が載っていますので。もっとも、光雲が語っているのは落語ではなく講談との関わりですが、内容的には同一でしょう。

少し長くなりますが、関係する部分を引用します。「左甚五郎と其研究」という章の、まず冒頭「未だ曾て出会つたことがない」という項から。明らかな誤字は正しました。

 左甚五郎と其作の事に就いては、予も子供の時分からいろいろ聞ては居るが、真実甚五郎の作なるものには、未だ曾て出会つたことがない。思ふに左甚五郎といふ人は、机山系に属する左利きの彫物大工ではあるまいか。併(しか)し乍ら、何分にも其遺作が明瞭ならぬので、其人の有無さへも疑はれて只今の処では、未だ何れとも断言することの出来ないのは、甚だ遺憾とする処である。
 従来何処でも堂宮の彫物に、無銘の美事な作があると、其多くは甚五郎作と称せられ、また木像彫刻になると、拙劣極まる大黒天の像にも甚五郎作の名を附けて、巧拙ともに甚五郎にしてあるのは、実に不思議な訳であるが、考へて見ると、之れには相当の理由があると思ふ。
(略)
 後者は左甚五郎が江戸に出て来て、大工の棟梁某の家に食客となつて居た時、小刀で彫つた不状(ぶざま)な大黒天の像を、越後屋(今の三越呉服店)へ持つて往つて見せた処、其大黒天が莞爾(につこ)と笑つたと云ふので、直ぐさま大枚百両に買つて呉れ、越後屋も此大黒天を買つてから、店が一層繁昌したといふ話から起つたもので、之れは講釈師が張扇に花を咲かせた作り話であるが、これから考へついて、大工彫の拙(まづ)い大黒天でさへあれば左甚五郎作と云ふ名を附けて、狡猾(ずる)い古道具屋などが担ぎ廻すのではあるまいか。
(略)


それに続く「三越の大黒天」という項。

 越後屋の大黒天の事に就て、三四年前の事、予は三越呉服店の日比翁助氏に、其実否を尋ねた処、氏は一向知らぬとあつて、更に同店の大黒柱と云はれて居る、藤村喜七老人へ、其事を問合せてくれられたが、藤村老人も、然(さ)う云ふ大黒天は全く無いと答へたさうだ。乃(そこ)で日比氏は此話を縁として店に大黒天を祀りたいと言出し、其製作を予に依頼されたから、随分念を入れて彫つたが、此大黒天には、予の銘を入れて置いたから、後世に至つて伝来の甚五郎作の大黒だなどゝ、間違へられる気遣ひはない。
(略)


日比翁助は三越専務、藤村喜七は常務です。このあと、藤村の還暦祝にと三越から贈られた黄金の大黒像原型も、光雲が依頼されて彫ったという話が続きます。

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』は、700ページ超の分厚いものです。前半3分の2ほどが「昔ばなし」で、光太郎の友人だった作家・田村松魚が光雲宅に出向いて語ってもらい筆録した回顧談(一部はそれ以前に公の場で語ったもの)、後半3分の1ほどは「想華篇」と題し、国華倶楽部などさまざまな場で語ったさまざまな内容の話の筆録集成です。

「昔ばなし」の方は、後に中央公論美術出版さんと新人物往来社さん、日本図書センターさんからハードカバーの覆刻が出、岩波文庫さんでも『幕末維新懐古談』の題名で出版されました。さらにインターネット上の青空文庫さんにもおそらく全文が掲載れていると思われます。

ところが「想華篇」の方は、その後の各種覆刻ではカットされており、そのため一般にはあまり知られていません。三越さんの大黒天像については「想華篇」で語れており、そこで「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」ということになってしまったのでしょう。

「想華篇」部分も含めた覆刻、あるいは「想華篇」単独での覆刻がなされてほしいものです。三越さんの大黒天像以外にも、生人形の松本喜三郎や光雲の師・髙村東雲、さらにそのまた師・髙橋鳳雲、主に関東の寺社建築や装飾彫刻などについても語られており、貴重な記録です。

ところで余談というと何ですが、上の方の画像にもある、やはり日本橋三越さん所蔵の巨大天女像、正式な作品名は「天女(まごころ)像」といい、作者は佐藤玄々。佐藤は元々、光雲の高弟の一人・山崎朝雲の弟子で、「朝山」と号していました。従って光雲から見ての孫弟子に当たります。ところが、思うところあって朝雲門下を離れ、「玄々」と改名しています。

参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿行、三越にてウドン等 二幸にて肉まん、タキシでかへる、


昭和28年(1953)2月25日の日記より 光太郎71歳

光太郎、三越さんの日本橋本店ではなく、新宿店でうどんを食べたか、あるいは自宅調理用に買ったかしたようです。「二幸」は現在の新宿アルタの場所にあった総合食品店。やはり三越さんのグループ企業でした。

まず、先週の『毎日新聞』さん大阪夕刊記事から。

西洋近代画と民芸、所蔵品から厳選 カンディンスキーやリーチ作品 大山崎山荘美術館

 アサヒビール大山崎山荘美術館(京都府大山崎町)が「コレクション春」展を開催している。収蔵品の中核をなす、近代西洋絵画や民芸運動ゆかりの器を中心に構成。約100年前に同時代を生きた作家たちの作品とともに、その経歴や関わりにも迫る。
 フランスの画家、モーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・バラドンの絵画「静物 果物」は1922年に描かれた。バラドンは自身も絵描きであると同時に、ルノワールやロートレックなどが描いたモデルでもあった。自由奔放な性格だったと伝わる。主任学芸員の中村祐美子さんは「意志の強さを感じる強い線が印象的」と評価する。ユトリロの絵も併せて鑑賞でき、画風の違いが面白い。20年ごろに描いた「田舎の村役場」、40年ごろに描いた「雪景色」が並ぶ。前者と比べて後者は色彩が華やか。しかし、空元気のような空虚さを感じる。中村さんは「自らの目と足でモチーフを探していた前者と絵はがきを見て描いた後者。描きたいものの差かもしれません」と指摘する。
 欧州では、20年ごろからドイツでナチスが力を持ち始め、40年にはフランスに侵攻した。ロシア出身の画家、ワシリー・カンディンスキーは22年にドイツの芸術学校「バウハウス」の教授に就任したが、ナチスから逃れるため33年からフランスに亡命。本展では、22年に制作した幾何学的な抽象絵画「コンポジション」が展示されている。「題名はさまざまな要素を組み合わせるという意味。色彩、空間、(音楽の)リズムを組み合わせている」と中村さんは解説する。リズムを含むのは自らも演奏するなど音楽を好んだため。音楽好きの画家、バウハウスの同僚という共通点がある友人、パウル・クレーの絵画「大聖堂(東方風の)」も並ぶ。
 今年生誕135年の陶芸家、バーナード・リーチは日本で暮らし、民芸の人脈とつながりがあった英国人。濱田庄司とともに20年に渡英。失われていた伝統的な陶器、化粧土を使ったスリップウエアの研究をする。同年、同国のコーンウォール州セントアイブスで東洋式の登り窯を築き、工房「リーチ・ポタリー」を設立した。今回は2人のスリップウエアを見比べられる。中村さんは「スリップウエアには2系統ある。飾り皿と実用皿。リーチは両方作り、濱田は実用品のみを作った」と特徴を紹介する。
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 同館が所蔵する民芸運動ゆかりの作品の多くは実際に使われた。元所有者のアサヒビール初代社長、山本為三郎(ためさぶろう)は民芸の草創期からの支援者。手仕事の日用品に美しさを見いだす民芸の考え方「用の美」に共鳴し、普段使いをしたと考えられる。広報の池田恵子さんは「どんな盛り付けをしたか想像すると面白いかもしれません」と視点を変えた楽しみ方を提案する。
 2人が英国生活中に出会った染織家、エセル・メレが20年代に作った上着とショール、服地も見られる。民芸にも影響を与えたとされる19世紀末にイギリスで起こった手工芸の復興運動「アーツ・アンド・クラフツ」の流れをくむ作家だ。羊毛の刈り込みから仕立てまで全て手作業で行う。展示品の状態の良さが驚きである。「大切に保管されたのも大きいが、丁寧に作られたからこそ」と中村さん。
  詩集『智恵子抄』で知られる高村光太郎の妻、智恵子もメレに魅せられた一人。「物をねだる性格ではなかったようですが、とても欲しがったそうです。高価だったために光太郎が頑張ってお金を工面したといいます」と池田さん。
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 「釉薬(ゆうやく)の魔術師」と呼ばれたオーストリア出身の陶芸家、ルーシー・リーの器なども含め全68点で構成。7月3日まで。月曜休館。同館(075・957・3123)。

イギリスの染織工芸家、エセル・メレの関係で、光太郎智恵子の名を出して下さいました。

記事にあるように、光太郎は智恵子にせがまれて、メレ作のブランケットを購入。それがおそらく大正末のことで、奇跡的に2度の空襲(東京駒込林町/岩手花巻)をくぐり抜けて現存し、花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。令和元年(2019)には盛岡で、翌年には花巻で公開されました。
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光太郎遺品等を突っ込んであった中からみつかったものですが、どうも伝統的毛織物のホームスパンらしいということで、岩手県立大学さんの菊池直子教授らに調査を依頼、その結果、メレかその工房の作で間違いない、と鑑定されました。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、これがそれである、ということです。

智恵子が欲しがった云々は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村にホームスパン制作指導に来ていた福田ハレ(岩手のホームスパンの祖・及川全三の弟子)の回想にありました。

 夫人が作った掛け布を見たのは戦後、稗貫郡太田村(現花巻市)の駿河定見氏宅である。駿河氏のめい・さつ子にホームスパンの紡織を教えてほしいという話があり、太田村に私が初めて行ったとき、駿河氏宅から五百メートルぐらい離れたお住まいから高村先生が持参して見せてくださった。幅五十センチ、長さ二メートルぐらい、地は平織り、両端の柄は筵織り、地色はよく覚えていないが白茶ぐらいだったか、ざっくりとした風合い、その布は驚くほど気楽に織ってあり、それでいて勘どころはちゃんと押さえてある。用途第一のあか抜けた出来栄えだった。
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 戦災で丸焼けになられた高村先生は、逃げる時それをかぶっていられたという。メレー作品展が銀座の資生堂か丸善だったかで催されたとき、智恵子夫人がこの一点だけは何としても欲しいと懇望された。結婚してから夫人自身が身につけるものなど一度も欲しいと言われたことがないので、望まれるようにしたいと思ったが、その時先生はお金がなくて困ったと笑いながら話された。
   後日、先生の山小屋に伺ったとき、座布団代わりに当てるようにと、小さく畳んで出してくださったが、もったいなくて敷くなどできず、ただなでさすって眺めていたのだった。
(「メレー夫人と高村光太郎」『岩手日報』平成14年)

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の写真に、このブランケットが写っているものが複数枚ありましたが、最近、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られた写真の中にもそれを見つけました。
メレ毛布太田村
左の方に無造作に置かれています。

菊池教授、花巻のブランケット調査の際、国内でメレ作品を収蔵している数少ない施設の一つであるアサヒビール大山崎山荘美術館さんの、今回展示されているというショールなどと比較検討を行い、花巻のものもメレ(或いはその工房)作と結論づけられました。
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左が花巻、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんのもの。確かによく似ています。ただ似ているというだけでなく、花巻のものは、日本にいない種類の羊の毛を使っているというのも根拠でした。

アサヒビール大山崎山荘美術館さんでは、その際に花巻から調査が入ったことで、光太郎智恵子のエピソードを知られたのでしょう。そして『毎日』さんの取材でご紹介下さったと思われます。ありがたし。

そしてメレ作品以外にも、光太郎の盟友、バーナード・リーチの陶芸作品も展示されています。光太郎が件(くだん)のブランケットを購入したのは、大正末、銀座鳩居堂画廊でののリーチとメレの二人展の際のことと推定されています。

さて、アサヒビール大山崎山荘美術館さんでの展示情報を。実はもう開幕して結構たっています。

コレクション 春 ―所蔵作品による名品展

期 日 : 2022年3月19日(土)~7月3日(日)
会 場 : アサヒビール大山崎山荘美術館 京都府乙訓郡大山崎町銭原5-3
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般900円(団体:800円) 高・大学生500円(団体:400円)
      中学生以下無料 障害者手帳をお持ちの方300円

アサヒビール大山崎山荘美術館は、1996年春に開館しました。所蔵品の中核を成すのが、クロード・モネ《睡蓮》をはじめとする西洋近代絵画と、開館に際して寄贈された、朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎による民藝運動ゆかりのコレクションです。このたびは、当館のおよそ1000件の所蔵品から選出した、多彩な作家たちとその作品をご紹介する展覧会を開催いたします。
地中館では、モネ《睡蓮》をはじめ、シニャック《ヴェネツィア》など水の情景を特集し、「地中の宝石箱」の名にふさわしい小さくも見ごたえのある空間で皆さまをお迎えします。山手館は、カンディンスキー、クレーをはじめ印象派以降の主要な芸術運動に関わった作家を、本館では、生誕135年のバーナード・リーチと同じく120年のルーシー・リー、英国陶芸を代表する二人の作品をその関係性からひも解きます。
美術館の庭園に花々が咲き誇る春から、池が睡蓮で満ちる初夏のころ、遺された貴重な建築物や美しい風景とともに、珠玉の逸品をお楽しみください。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時過中央公論社より迎の車くる、出かけて、高輪「松」といふ料亭にゆく、リーチ、柳、濱田の三氏。他に石川欣一氏松下英麿氏あり、和、英の速記者4人、中食を共にしながらしやべる、


昭和28年(1953)2月23日の日記より 光太郎71歳

『中央公論』第68年第4号(この年4月)に載った座談会「敗けた国の文化-東西美術・工芸の交流-」です。2日後にはラジオ放送も為されました(録音音源が残っていないか探しているのですが……)。

」は「柳宗悦」、「濱田」は濱田庄司、「石川欣一」は翻訳家・ジャーナリスト、「松下英麿」は『中央公論』編集者です。

この座談で、メレの話題が出ました。

石川 織物のマダム・メアリーは?
リーチ 去年死にました。
柳 ぼくら訪ねたが、いいことしましたよ。それから何カ月目かに死んだんです。
石川 いいお年でしよう。
リーチ 八十以上です。
高村 どこでやつていたのですか。
柳 デイツチリングといつて、サセツクスです。
リーチ ロンドンからずつと南、四十マイルくらいです。
濱田 近くにブライトンという海水浴場がある。そのブライトンにも店がありましてね。今思うと、あの店へ行つて、品物がもつとほしかつた。僕達が訪ねたことを非常に喜んでくだすつて、いろいろいただきものをして、今私たちやつているのも、今度もらつて来たものですし、それから焼物なんかも、フイツシリーという人の英国の焼物で、最後の伝統的陶工ですが、そういうものをたくさん持つて来られたのです。どれでもいいから持つて行けといつて、みんな出してくださつた。
柳 一番いいのをもらつて来た。
リーチ 私の考えですが、夫人の仕事なんか日本で見せるために展覧会やりたいな。
柳 記念会をやろうよ。
リーチ 英国ばかりじやないのです。世界中の織物に影響を与えた人ですから。
石川 あとを継ぐ人はないのですか。
柳 ほんとうにいい後継者はないですね。


メレは、日本では名前の表記が一定していません。ファーストネームは「エセル」でほぼ統一されていますが、ファミリーネームの方は「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイレ」「メレー」、そしてここにもあるように「メアリー」。

それが原因とも思えませんが、光太郎、自分の所有しているブランケットについて話しませんでした。リーチ、柳、濱田の三人は、光太郎がそれを持っていることを知っていたと思われますが。

現在、長野県立美術館さんで開催中の「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展について。

関連行事として、先月末には彫刻家・修復家の藤曲隆哉氏と東京芸術大学大学院小島久典助教によるご講演が行われましたが、一昨日は同大の藪内佐斗司名誉教授、山田修講師のご講演。地元紙『信濃毎日新聞』さんがその模様を報じています。

善光寺から文化財を考える 東京芸術大の2氏、県立美術館で講演

 県立美術館(長野市)で11日、善光寺(同)御開帳記念企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)関連の講演会が開かれた。善光寺仁王門の金剛力士像を弟子らと共に作った彫刻家高村光雲(1852~1934年)や文化財のデジタル化に関する紹介があり、約30人が耳を傾けた。
 講師の一人で、東京芸術大名誉教授の藪内佐斗司(やぶうちさとし)さんは高村光雲について「日本伝統の木彫に西洋的な彫刻技法を取り入れ、写実的な彫刻表現を確立した」と説明。同時代を生きた思想家岡倉天心にも触れ「文化とは、その土地に根差す固有のアイデンティティーを深めることで生まれる美意識。普遍性や効率を求める文明とは異なる」とした。
 同大非常勤講師の山田修さんは、3Dスキャナーなどを活用した文化財のデジタル化を紹介。仏像の色や内部の形を緻密に再現することで制作当時の状態を知る手掛かりも得られるとし、「本物を超えた新たな見方を示してくれるのがデジタル技術だ」と力を込めた。
 企画展は26日まで。仁王像に関する同大の調査結果などを展示している。
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藪内氏、奈良県のゆるキャラ「せんとくん」の作者としても有名な方ですが、本来は仏像の保存修復がご専門です。平成19年(2007)、NHK教育テレビ(現・Eテレ)で放映されていた「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」(全8回、テキストも刊行)の中で、やはり光雲に触れて下さいました。
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もう1件、ご開帳記念グッズ情報です。

令和四年善光寺御開帳記念大判

善光寺で御祈祷を受けた令和四年善光寺御開帳記念大 判(本金メッキ〈24K〉仕上げ)。過去 2 回の善光寺御開帳 でも、家内安全・商売繁盛などを願って、多くの参拝 客の皆さまにお求めいただきました。縦約 7 センチ・横約 4.3 センチの大判を収める台紙は観音開き。中央の大判を護るように、左右に善光寺仁王 像が配置されています。SDGs の観点から、台紙には 牛乳パックを再生した厚紙を使用。台紙を開いて、お 仏壇など、お好きなところにお飾りいただけます。 

▼サイズ
パッケージ A4サイズ
台紙・・・縦 15cm  横 8cm (観音開き時 横20cm)
大判・・・縦    7cm  横 4.3cm

▼配送について
・配送方法:宅急便コンパクト
・送料:全国一律 ¥660
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大判はともかく、パッケージに光雲とその高弟・米原雲海作の仁王像があしらわれてしまっているもので(笑)、購入しようかどうか迷っております。

さて、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展、今月26日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝九時頃谷口氏くる、一緒に駒場の民芸館にリーチ 柳氏をたづねる、久しぶりでリーチにあふ、中食御馳走になり、二時過辞去、


昭和28年(1953)2月21日の日記より 光太郎71歳

谷口氏」は建築家の谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」を含む一帯の公園設計を担当しました。

過日もご紹介しましたが、「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末、ロンドン留学中の光太郎と親しくなり、それが直接のきっかけで来日、柳宗悦(「柳氏」)ら、白樺派の面々とも交流を持ちました。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この時が18年ぶりの来日。翌年まで日本に滞在しました。

駒場の民芸館」は、日本民藝館さん。昭和11年(1936)の竣工で、当方、近くの日本近代文学館さんに行ったついでなどで何度か訪れましたが、光太郎もここに来ていたというのは見落としておりました。

京都から現代アート系の展覧会情報です。

京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」

期 日 : 2022年6月17日(金)~7月23日(土)
会 場 : 京都精華大学ギャラリーTerra-S 京都市左京区岩倉木野町137
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

​京都精華大学(京都市左京区、学長:澤田昌人)では、2022年2月に学内ギャラリーがリニューアルオープンしたことを記念して、企画展覧会「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」を開催いたします。

リニューアル記念展として開催する本展では、既存のジャンルや制度、価値観における「越境」をテーマとし、「ジェンダー/歴史」「身体/アイデンティティ」「土地/記憶」などのキーワードを参照しながら、11名のアーティストの作品を展観します。

過去から今日まで、世界中で地政学上の境界線をめぐる対立や抑圧、秩序の固定化とその崩壊が繰り返されてきました。現在、高度情報化・グローバル化によって人・物・情報の「越境」が日常化し、感染症や環境問題、貧困などの越境的な課題も顕在化しています。一方で、ある集団もしくは個人に固有の慣習や文化、記憶や価値観は、目に見えない境界によって繋ぎとめられ、アイデンティティの構築に結びついています。複雑で緊張に満ちた世界に生きる私たちにとって、時には境界のこちらとあちらを水のように自由に移動し、自分と世界を見つめ直す「越境」の態度が求められるのではないでしょうか。

見どころ①:日本~アジア、近代~現代を見渡す作家たちの眼差し
見どころ②:現代美術の最前線で活躍する作家たちと多様な価値観を発信する注目の表現者たちの協奏
 
本展では、京都精華大学が収蔵するシュウゾウ・アヅチ・ガリバー、今井憲一、ローリー・トビー・エディソン、塩田千春、嶋田美子、富山妙子の作品に加え、2000年代以降に活動を開始した5名のゲストアーティスト(いちむらみさこ、下道基行、谷澤紗和子、津村侑希、潘逸舟)の作品を紹介します。出身や世代、表現手法は多様ですが、個人と社会、自己と他者、想像と現実、ジェンダーなどにおける固定的な輪郭をしなやかかつ鋭く揺さぶる11名の表現者が織りなす本展が、私たちのこれからを予感させる複数のしらべが響く場所となること、そしてその響きが多くの方に届くことを願っています。
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今年3月、東京上野の森美術館さんで開催された「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」に、智恵子紙絵、『青鞜』表紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」を出品され、VOCA佳作賞を受賞された谷澤紗和子氏が、同作を出品なさいます。
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谷澤氏、VOCA展と並行して大阪で開催されていた個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」でも、智恵子紙絵、油絵インスパイア作品を出品されていました。ありがたし。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、檜材の事、一緒に中村屋にてライスカレー夕食、別れてタキシでかへる、

昭和28年(1953)2月12日の日記より 光太郎71歳

宮崎丈二は詩人。同じく詩人だった西倉保太郎、西倉と同郷(北海道)出身の材木商・浅野直也と3人で、たびたび光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れたり、光太郎を夜の街に連れ出したりしました。

「檜材の事」は、浅野の回想に語られています。

 お酒と木材のお蔭で高村先生にお逢いしお話の出来るようになつたのは本当に喜びでした。お酒の友で詩人の宮崎丈二氏が今日は高村先生を銀座に引張り出して一緒に飲もうと紹介されたのは新橋附近のマーケットの変な店でした。私は若い時から彫刻、詩共に先生の作品は好きでしたのでお逢いする迄はまるで恋人を待つような気持ですつかりあがつてお待ちしていたので、思うようにお話が出来なかつたように思います。その時の先生は、私が木材に関係を持つ者であつたので、木彫に使う木に就いて色々お話しされ、『近頃は良い木の入手が困難で思うようにゆかない。』と嘆かれておられました。お聞きすると、木曽檜の木が欲しいとの事でお送りすることを約束し、後日大阪からお送りした処大そうお喜びで早く元気になつて何か作りたいと話されていました。
(「高村光太郎先生の想出」昭和34年4月『政治公論』第35号)

宮崎は大正期から光太郎と交流がありましたが、浅野は光太郎との初対面が前年秋。この時に檜材の話をしたそうです。

さらにこの年6月、西倉宛の書簡。

檜材、とても見事なものおとどけ下さつて感謝してゐます。檜の膚の香りプンプンする大作をモニユマン製作後に張切つてやりたいと念願したくなりました。浅野直也さんに小さな木彫を作る心算ですので、お礼を言つて下さい。

おそらく浅野は出先の大阪で檜材を入手したものの、光太郎の住所がわからず、西倉宛に発送して転送して貰ったのだと思われます。

ただ、この時期に光太郎が木彫を制作した事実は確認出来ていません。浅野の回想にも木彫を作ってもらったとは書いてありません。結局、健康上の理由もあったりで実現しなかったのではないかと思われます。

中村屋」は、親友だった故・碌山荻原守衛が遠く明治期に世話になった新宿の中村屋さん、「ライスカレー」は今も名物の「カリー」でしょう。

光太郎と交流の深かった彫刻家・舟越保武の関連です。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。先月下旬の掲載でした。

パリから75年ぶり帰郷 彫刻家・舟越保武さん作品「女の顔」 「作家生活の岐路となった石像」 岩手県立美術館で公開

  岩手県一戸町出身の彫刻家、舟越保武さん(1912~2002年)が盛岡市で制作後、長く所在不明となっていた胸像「女の顔」が同市の県立美術館の新収蔵作品展で公開されている。昨年、パリで見つかって同美術館に渡り、75年ぶりの「帰郷」を果たした。
  大理石の「女の顔」は家族で盛岡市に疎開していた1947年の作品。長男の誕生を祝って作られたとされる。フランスの近代彫刻の影響を受け、女性のあでやかな表情が表現されている。
 東京の展覧会で当時の駐日フランス大使が称賛して買い上げた後、所在不明となっていた。昨夏、パリ在住の日本人がオークションに出品。現地の画廊が落札し、昨年12月に県立美術館が購入した。
 学芸普及課の吉田尊子課長は「舟越さんは『女の顔』が芸術の本場に渡ったことで自信を持ち、東京での制作活動再開を決心している。作家生活の岐路となった石像で、盛岡に戻ってきたことは非常にうれしい」と話した。
 舟越さんは高村光太郎賞をはじめ数々の賞を受賞した日本を代表する具象彫刻家。処刑された宣教師らの像「長崎26殉教者記念像」や、島原の乱から着想を得た「原の城」などで知られる。
 新収蔵作品展は7月24日まで。午前9時半~午後6時。月曜休館。一般410円、学生310円、高校生以下無料。「女の顔」は作品展終了後も常設展示される。連絡先は019(658)1711。
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後追い、同じ件で『朝日新聞』さん岩手版。

舟越保武の幻の「女の顔」 75年ぶりに里帰り 県立美術館に収蔵

 彫刻家の舟越保武(1912〜2002)が終戦直後に盛岡で制作し、長く所在が分からなくなっていた大理石の胸像「女の顔」が見つかり、岩手県立美術館で展示されている。75年ぶりに故郷へ戻り、家族は再会を喜んでいる。
 舟越は岩手県一戸町で生まれ、幼少期から東京美術学校(現東京芸術大学)に進学するまで、盛岡で過ごした。処刑されたカトリック信者を描いた「長崎26殉教者記念像」など、キリスト教の信仰をテーマにした作品で知られ、秋田県の田沢湖畔に立つ「たつこ像」も制作している。
 「女の顔」は、戦争末期に疎開して以来、盛岡で暮らしていた舟越が1947年、長男の誕生を祝って制作した。東京の展覧会に出品され、駐日フランス大使が買い上げて本国に持ち帰ったあと、所在が分からなくなっていた。
 ところが昨夏、作品がパリのオークションに出品されたことが判明。落札したパリの画廊から、東京の画廊関係者を経て、舟越の作品を収蔵している県立美術館が購入した。購入にあたって、パリに住む三女の茉莉(まり)さん(76)の協力を得たという。
 長女で岩手県八幡平市に住む末盛千枝子さん(81)は75年ぶりに作品と対面。父が戦後の混乱期に、穏やかな表情から静けさが伝わる作品をつくったことに改めて感銘を受けた。
 舟越は、高村光太郎が訳した「ロダンの言葉」を読んで彫刻家を志した。ロダンを生んだ国の大使に評価されたことに特別な意味があったという。
 「もう一度彫刻でやっていこうという時期に大使に買い上げていただき、どれほどうれしかったことか」と振り返る。
 次女で東京都内で暮らす苗子さん(79)も「父が若いころにあこがれていた芸術の街パリに父の作品が長い間あったこと、父の故郷・盛岡に帰ってきたことが、夢のように思えます」と話している。
 妻・道子さんの著書「青い湖」によると、舟越は大使の評価に力づけられ、制作活動を本格的に再開するため再び上京した。
 一方、作品をつくった翌年、長男が生後8カ月で病死。それをきっかけに洗礼を受け、キリスト教関係の美術に向かっていく。
 県立美術館の吉田尊子(たかこ)・学芸普及課長は「女の顔」について、舟越の人生において分岐点にある作品と指摘。「ほほえみの中に女性のつややかさがある。同時に、舟越作品の特徴である静かで内省的なものが感じられる」と話す。
 「女の顔」は7月24日まで開かれている新収蔵作品展で展示され、その後も常設展示される予定。
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003光太郎に名付け親になってもらった編集者・末盛千枝子さんの談話も載っていて、興味深いところでした。

舟越の「女の顔」、実にきれいな彫刻ですね。舟越が光太郎訳『ロダンの言葉』を通じて親しんだ、ロダンの「パンセ」(右画像)などを彷彿とさせられます。

それにしても、このように光太郎彫刻が海外でひょっこり見つかることもあるかな、という気もしました。ただ、光太郎の場合、生前に個展らしい個展は晩年の昭和27年(1952)に一度やったきりで、それも即売は行わなかったはずですので、可能性は低そうです。

木彫「栄螺」が、大阪の高島屋百貨店で昭和5年(1930)に開催された「木耀会木彫展覧会」という合同展兼即売会に出されて売れ、平成14年(2002)に約70年ぶりに見つかったことはありましたが。

【折々のことば・光太郎】

此頃少しやせたので、なるべく多くたべるやうに努める、出京以来食事の量不足せしかと思ふ、自炊時間不規則のためなり、


昭和28年(1953)1月10日の日記より 光太郎71歳

この時期の日記はかなり簡略になっていて、その日の出来事や訪問者等の事務的な記録がほとんどなのですが、この日には珍しくこういった記述がありました。

「帰京」ではなく「出京」としているところも興味深いところです。軸足は花巻郊外旧太田村に残しているよ、という感覚だったのでしょう。実際、住民票は昭和30年(1955)まで移しませんでした。

先日の渡辺正治氏に続き、またしても生前の光太郎をご存じの方の訃報です。

時事通信さんから。

田沼武能さん死去、93歳 世界の子ども撮影、文化勲章

100 世界の子どもや下町の風景などを長年記録し続けた写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)さんが東京都内の自宅で死去したことが2日、分かった。93歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
 東京・浅草の写真館に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)を卒業後、木村伊兵衛に師事。月刊誌「芸術新潮」の嘱託写真家として小説家や美術家ら文化人の肖像を撮り、米タイム・ライフ社の契約写真家としてフォト・ジャーナリズムの世界でも活躍した。
 1972年に同社との契約が終了し、ライフワークとして世界の子どもたちを撮影。国連児童基金(ユニセフ)親善大使の黒柳徹子さんの各国訪問にも同行し、120を超える国と地域に足を運んだ。
101 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長、日本写真保存センター代表などを歴任し、写真家の地位向上やフィルムの保存活動に尽力した。東京工芸大教授として後進の指導にも熱心に取り組んだ。
 長年の業績が認められ、85年に菊池寛賞を受賞。90年に紫綬褒章、2002年に勲三等瑞宝章を受け、03年には文化功労者に選ばれた。19年、写真家として初めて文化勲章を受章した。

氏が文化勲章を受章された際の投稿で詳しく書きましたが、氏は昭和27年(1952)、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後、複数回、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れ、光太郎を撮影なさっています。残念ながら光太郎日記にお名前は記されていませんが。

また、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれています。当方、氏にお会いしたのはこの時が最初で最後でした。

今朝の『朝日新聞』さんでは、一面コラムで氏のご逝去に触れています。

天声人語

日本を代表する写真家、田沼武能(たけよし)さんが楽しそうに見せてくれたのは、1冊667円の薄い冊子だった。子どもの素朴な笑顔が満載。「こういう写真集を作りたかったんだよ。立派な表紙の高い本じゃなくてさ」と笑った▼生涯かけて子どもの表情を撮った。ソマリアの廃墟で遊ぶ男児たち。津波に襲われたインドネシアの少女。極限化でなお好奇心あふれる瞳を鮮やかに写した▼原点は東京大空襲にあった。浅草の自宅近くで黒こげの幼児の遺体を見た。防火水槽の中に立った姿だった。母親が炎の熱から「せめて水の中に」と入れたに違いない。幼児の表情は神々しく、地蔵のように見えたという▼「戦場はどうしても撮りたくない」。米誌「ライフ」との契約の際は、ベトナム戦争の取材を勧められても固辞した。報道写真家として名を上げる好機だったが、「空襲で死体をいやになるほど見た。戦争の悲惨を撮る気にはなれませんでした」▼そんな思いを直接伺ったのは3年前の春のこと。月給の16倍もするライカが欲しくて生活費を極端に切り詰め、「タヌちゃんは趣味倹約貯蓄」とからかわれたこと。南米アンデスを撮るため自宅を抵当に入れて出張資金を捻出したこと。欲や得にまどわされぬ人生談義に時のたつのを忘れた▼永遠のカメラ小僧が93歳で旅立ったと聞き、667円の冊子を読み返してみた。題は『地蔵さまと私』。焼け野原の街で見た黒こげの地蔵の記憶が、子どもに向けたやさしい言葉でつづられていた。

『朝日』さんは、氏がかつて会長を務められていた全日本写真連盟の後援に入っている関係もあり、社会面でも大きく取り上げていました。長いので全文引用しませんが、末尾の黒柳徹子さんのコメントのみ。氏はユニセフ親善大使としての黒柳さんの海外訪問等に同行し、125カ国以上を廻られたそうです。

黒柳徹子さん 「世界一上手」

 黒柳徹子さんは2日、コメントを寄せ、「子どもを撮ったら世界一というくらい、子どもの写真を上手に撮りました。秋ごろに、ユニセフの視察に行く約束をしていました。『93歳でも子供たちのところに行こうとなさっていたのか!!』と、改めて感動したのです」と追悼した。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】103

中央公論社より、栗本、松下、宮本氏三氏くる、紙絵展の事、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「紙絵展」は、智恵子の紙絵展。翌月2日から、丸ビル内の中央公論社画廊で開催されました。都内では光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。


現在、長野県立美術館さんで開催中の「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展について、地元紙『信濃毎日新聞』さんの報道。

まず、先週金曜の記事。

「善光寺さんと高村光雲」展 入館1万人達成 長野県立美術館

 県立美術館(長野市)で開催中の善光寺(同)御開帳記念の企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)の入館者が27日、1万人に達した。節目の入場者となった埼玉県宮代町の契約社員渡辺裕美さん(59)に、記念品が贈られた。
 企画展は4月2日に始まり、48日の開館日での達成となった。県内の美術館を巡る1泊2日のツアーで同館を訪れた渡辺さんは前日に善光寺にも足を運んだといい、「企画展を楽しみにしていた。美術館のデザインも格好良いですね」と笑顔。松本透館長は、同館で販売中の御朱印帳を渡辺さんに手渡した。
 企画展では、善光寺の仏像研究と修復を続けてきた東京芸術大の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。28日午後1時半、同大関係者らが研究内容について話す。先着30人(30分前に整理券配布、企画展の観覧券が必要)。
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地方の美術館の企画展、さらにコロナ禍という逆風の中、50日ほどで1万人の入場達成というのはなかなかのものです。ちなみに1万分の1は当方です(笑)。

続いて、やはり『信毎』さんから同展関連行事の開催報告的な。昨日の記事です。

金剛力士像の制作技法を解説 県立美術館、企画展で講演会

 県立美術館(長野市)は28日、善光寺御開帳を記念して開催中の企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)の記念講演会を同館で開いた。企画展の展示に携わった専門家2人が、彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが手がけた同寺仁王門の金剛力士像の制作手法などを解説した。
 彫刻家・修復家の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(39)は、金剛力士像の制作には、原型から正確に模刻できる「星取り法」と呼ばれる西洋技法が用いられたと説明。粘土からかたどった石こうを原型として、木彫にしていったといい「星取り法の導入でリアルな表現が可能となった」とした。
 東京芸術大学大学院の小島久典助教(35)は、古仏を分析して内部構造を明らかにする研究手法や成果を発表。企画展では東大寺(奈良市)の古仏を3D(3次元)計測などを用いて模刻して展示しており、「実際に模刻してみることで研究が進んだ」と話した。企画展は6月26日まで。
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画像に写っている羅漢像は、少年時代の光太郎が彫った手板浮彫(レリーフ)の習作です。光太郎にも触れて下さったんですね。多謝。

ついでというと何ですが、もう1件。5月22日(日)、長野朝日放送さんで「「善光寺さん」に憧れて 第二章 ~春風まとい 御開帳へ~」という50分の番組が放映されました。レポーターは女優の常盤貴子さん。
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番組後半で、同展のレポートも。
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テレビ朝日さんのサイト、それからテレビ配信サイト「Tver」さん等で、期間限定ですが視聴出来ます。同館については42:35頃から、同展については45:10頃から。ぜひご覧下さい。

ちなみにタイトルに「第二章」とありますが、やはり常盤さんご出演の「第一章」が1月に長野朝日放送さんで放映されました。その後、当方自宅兼事務所のある千葉県でも、チバテレさんが遅れて放映して下さいまして、視聴いたしました。今回も期待しております。おそらく他の地方局さんでも放映があるのではないでしょうか。

また、同展、記事にもあるとおり、6月26日(日)までと、かなり長めの開催期間です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

モデル、手を終る、払、七日まで休みのこと、 午前岡氏来り、大工さん連行、床下の補強をしてくれる、根太にツカを立つてくれる、この補強で二三トンの重さに堪へるといふこと、

昭和27年(1952)12月31日の日記より

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、大晦日までやっていたのですね。さらにその後はアトリエの床の補強工事に立ち会いました。過日も書きましたが、この貸しアトリエ、元々は水彩画家の中西利雄が建てたもので、中西没後にイサム・ノグチ、さらに光太郎が借りました。画家のアトリエですから、「乙女の像」のような巨大彫刻の制作を想定していなかったための補強工事です。

少し前のものですが、3月に駒場の日本近代文学館さんから発行された『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、注文しておいたものが届きました。

B5判167ページ、目次的には以下の通り。

エッセイ
 文は人なりき 中村明
 調べることの楽しさと限界 樽見博
 フランスにおける日本文学の受容 ――翻訳と研究の近況 坂井セシル
 有島生馬の小説「彫千代」と関連資料について 山本芳美
 『谷崎潤一郎と書物』その後 ――『春琴抄』赤表紙本の謎 山中剛史
 とうに終わっていた「女流文学」 水村美苗
論考
 内田魯庵訳『小説罪と罰』と二葉亭四迷 高橋修
 耐震元年の「五重塔」――濃尾大地震と〈暴風雨〉 馬場美佳
 尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって―― 吉田昌志
 獅子文六「やっさもっさ」原稿にみる「混血児」・売春婦・女のビジネス 小平麻衣子
 漱石「野分」前後と絵画の領域 ――『草枕絵巻』を補助線として―― 関礼子
資料紹介
 資料翻刻 伊藤整宛諸氏書簡 ――チャタレイ裁判関係書簡を中心に 
  青木裕里香・石川賢・小川桃・加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・信國奈津子・宮川朔
  ・宮西郁実

昭和女子大学教授・吉田昌志氏による「尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって――」が目当てで注文いたしました。

尾崎紅葉は『金色夜叉』で知られる小説家。慶応3年(1868)の生まれで、光太郎より15歳年長です。胃ガンで亡くなったのは明治36年(1903)、数えで36歳ということになり、早世と言っていいでしょう。何となく「明治文壇の重鎮」的なイメージがあって、これは意外でした。

光太郎、紅葉とは文学的な交流ではなく、彫刻の制作を通しての関係がありました。確認できている限り、光太郎は紅葉の肖像彫刻を3点作っています。

 紅葉は、死ぬ少し前に肖像を作ったんだ。研究科の頃で、二、三日通って寝床のそばで作った。それを家に帰って完成したんだが、大きいのと小さいのと二つ石膏で作った。一つは紅葉にあげたかも知れない。寝床のまわりに、鏡花・風葉等の弟子がいっぱい取り囲んでいて、その隅で作ったんだ。痩せている紅葉だな。それでも洒落をとばしたりしていた。
(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

これで2点。ただし、この2点は現存が確認出来ていません。時に光太郎数え21歳、東京美術学校の本科を卒業後、研究科に残っていた頃です。この後、西洋画科に入り直し、さらに明治39年(1906)には欧米留学へと旅立ちました。

そしてもう1点は、紅葉が亡くなった直後、東京帝国大学医科大学で、紅葉の遺言により解剖が施された際の制作。光太郎は解剖に立ち会い、その印象をもとに「解剖台上の紅葉山人」という塑像を仕上げました。

こちらは幸い、現存が確認出来ています。
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さらに素描も。
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この時期、光太郎は当時の文化人の中で、これは、と思う人物の肖像彫刻を作ることを企図しており、元々紅葉もその中の一人としてターゲットにしていました。そこで、紅葉の親戚だった小説家・劇評家の山岸荷葉の知遇を得、尾上菊五郎や紅葉に繋ぎを取ろうとしました。そのあたりはたまたま残っていた明治36年(1903)の日記に記述があります。ところが残念ながら、紅葉像を制作したり解剖に立ち会ったりした時期の日記は失われています。

さて、吉田氏の論考。上記のような光太郎サイドの記録(実弟・豊周の証言等を含め)の他に、紅葉サイドのそれが細かく紹介されていて、非常に興味深く拝読いたしました。

中でも驚いたのは、紅葉の解剖時の写真が掲載されていたこと。元ネタは吉田精一旧蔵の『阿免乃安渡』、紅葉の葬儀写真集で、日本近代文学館さんに所蔵されているそうです。これは存じませんでした。
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この中には光太郎の姿もあるとのこと。ただ、手前の人物の頭に阻まれて、よくわかりません。それにしても、明治36年(1903)にはまだ美校の研究生だった数え21歳の光太郎にしては、貫禄があるような気もします。むしろ矢印の人物の後の学生服二人組のうちの、右側の長い顔の方が光太郎なのではないかと感じます。矢印の人物の髪が長いのも気になるところです。これまでに確認出来ている明治37年(1904)の写真では、光太郎は坊主頭です。
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ことによると『阿免乃安渡』には細かな説明が書いてあって、「これは誰々」と特定出来るのかもしれませんが……。

最後に紅葉逝去に際し、光太郎が詠んだ歌。翌年1月の第一期『明星』辰歳第1号に「白斧」の総題で発表されたうちの一首です。

やがて見む国に巨人の生(あ)れし日をさらば讃へよとばかり泣かる(紅葉山人の死に)

さて、『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、オンラインで入手可です。頒価1,040円(送料別途)とのこと。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方エントツ屋くる、とりつける、ストーブよくもえる、


昭和27年(1952)12月24日の日記より 光太郎70歳

場所は終焉の地となった中野の貸しアトリエです。ストーブは前日、大枚19,500円を払って購入しました。2ヶ月前まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では囲炉裏生活だったことを考えると、格段の違いですね(笑)。
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膝に掛けているのは、かつて智恵子にせがまれて買ったエセル・メレ作のホームスパンの毛布かと思われますが、この写真では判然としません。

新刊です。

近代を彫刻/超克するー雪国青森編

2022年3月28日 小田原のどか著 書肆九十九合同会社 定価2,200円+税

2021年冬、国際芸術センター青森[ACAC]主催にて開催された「小田原のどか個展 近代を彫刻/超克するー雪国青森編」の展覧会図録、刊行。

雪中行軍遭難事件、工部美術学校と東京美術学校、ロダンと高村光太郎、模型、義手、墓碑、彫像、慰霊碑──。彫刻と近代の分岐点としての、青森・八甲田。「創造的断層」が立ち現れる。
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目次:
 ◎はじめに
 ◎図版[撮影:小山田邦哉]
 ◎本展のためのキーワード集[執筆:小田原のどか]
 ◎論考「彫刻の来た道:「国民のはじまり」をたどる」[執筆:小田原のどか]
 ◎作品リスト
 ◎関連作家プロフィール
 ◎小田原のどかと巡る青森[執筆:慶野結香]
 ◎関連イベント
 ◎展覧会情報
 ◎謝辞

3月刊行ということで、すぐ注文しましたが、つい先日届きました。昨年12月から今年1月にかけて(本来2月まででしたが、コロナ禍のため会期短縮)、青森市の青森公立大学国際芸術センター青森 [ACAC]さんで開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」図録という位置づけです。なざぜ会期終了後の発売なのかよくわからないのですが……。

同展、八甲田山系を挟んで南北に位置する二つの彫刻――大熊氏廣作「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」(明治39年=1906)と高村光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像 昭和28年=1928)」――それぞれへのオマージュでした。

光太郎より一世代前で、十分にその基本構想を果たせないまま閉校となった工部美術学校出身の大熊と、その創立が工部美術学校のアンチテーゼとしての側面も持つ東京美術学校出身の光太郎。この二人が「欧化と国粋のはざまで揺れ続けた、この国の近代彫刻史の裏と表」、そして先述の二像を「八甲田山の両側に立つこれらの彫刻の足元には、創造的断層が走っています。それは、ありえたはずの彫刻の分岐点です。」「八甲田の山並みは彫刻史の起伏と重なり、彫刻は歴史の定点観測装置に転じます。」としています。

ロダニズムの洗礼を受けていない大熊、もろにロダンと向き合わざるを得なかった光太郎、その点以外でも、二人の一世代の差は、当時の社会的状況の中、近代化や戦争の問題等、ジェネレーションギャップを生んでいます。そういう意味ではまさに「創造的断層」ですね。そして小田原氏が以前から取り組まれている、公共彫刻のあり方という問題でも、この二像にはそれぞれに一つの答えが包摂されていると思います。そんなことも感じつつ、当方、1月に同展を拝見して参りました。特に大熊の「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」については、当方、ほとんど知識がありませんでしたので、興味深く存じました。
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今回の書籍(図録)も、「雪中行軍記念像(歩兵第5連隊遭難記念碑)」の方にウェイトが多くかかっているように感じます。反面、「乙女の像」や光太郎についてはもう少し調べていただきたいな、という感があります。小田原氏が昨年刊行された『近代を彫刻/超克する』でも、戦時の金属供出に遭った光太郎の公共彫刻の存在をご存じないまま書かれていたようですし、今回のものでも「「乙女の像」が光太郎最後の彫刻作品」「台座の石は福島産」と、ネット上などにも散見される誤った記述が為されています。光太郎最後の彫刻作品は、小品ではありますが、「乙女の像」除幕の際に関係者に配付された「大町桂月記念メダル」です。
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台座の石は「折壁石」で、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているサイトが多く、閉口しています。「折壁石」、かつては日本橋三越さん等にも使われ、しかし現在ではほぼ枯渇してしまいました。「乙女の像」を含む一帯の設計に当たった建築家・谷口吉郎が「石材は福島県産の折壁石」(「十和田記念像由来」『高村光太郎と智恵子』昭和34年=1959所収)と書いてしまったことが原因で、勘違いが起こっているようです。まず「福島県産の折壁石」というのが矛盾しています。

谷口は「湖畔の像」(雑誌『文学散歩』第10号 昭和36年=1936)では、こんなことも書いています。

 私は、このモニュマンが年月のために、あまり、わびしい姿になるのを好まなかったので、台座の表面には、福島産の黒ミカゲを張ることにした。これなら、光沢のある肌にコケがすぐはえる心配もなく、変色もない。
 そのことを草野心平氏に話すと、「福島県の石なら、智恵子さんの故郷だから、それがいい」と、すぐ讃意を得た。心平さんも福島の産だった。


105ここでは「折壁石」が「黒ミカゲ」に変わっています。それでは、先に「折壁石」と書いたのが誤りだったのかというと、そうではありませんでした。「乙女の像」の設置工事の監督を務められた当時の青森県技師・小山義孝氏の証言によれば、これは間違いなく岩手県産の「折壁石」であるということでした。氏はサンプルとして渡された「折壁石」の石版を永らく保管されていましたが、終活の一環として寄贈され、現在、このサンプルは十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されています。『十和田湖乙女の像のものがたり』(平成27年=2015 十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会編)所収、寄贈の際の小山氏の談話。

 こちらは、台座の石でございます。名前は折壁石と申しまして岩手県産のものでございます。(略)見た目は黒っぽくて御影石ということになるんでございましょうけれども、ちゃんとした名前になりますと折壁花崗閃緑岩。閃緑岩というのは地球の古い地質から出て来るものでございますが、北上山地・北上山脈の南の方で尽き果てる所で地表に現れたのではと推測しています。
 それで、折壁石が使われているところは東京の三越デパートの床や壁、それから国会議事堂にも使われておりますよと。ところが十年位前には採り尽くしてしまい現在はもうほとんどないそうです。要は、名品なんですね。


なぜ「岩手産」が「福島産」に間違われてしまったのか不明ですが、一度その誤りがある程度定着してしまうと、なかなか真相が表に出て来ない、そういう例ですね。こうした件は光太郎智恵子がらみでいくつもあり、このブログ等で必死に配信しているのですが、なかなか正しく伝わりません。

閑話休題、そういった点を差し引いても『近代を彫刻/超克するー雪国青森編』、好著です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后古田晁氏来る、詩人叢書のこと、承諾、中山義秀氏に解説をたのむこと、

昭和27年(1952)12月13日の日記より 光太郎70歳

古田晁」は筑摩書房社主。「詩人叢書」は、翌年三月刊行の『現代日本名詩選 道程・典型』。小説家の中山義秀が解説を書いています。中山には「智恵子抄」を一つのモチーフとした短編「生ける魂」(昭和18年=1943)があり、それをめぐって光太郎と書簡のやりとり等がありましたし、中山の回想文も残っています。

この時、解説文執筆者として中山を推したのが古田なのか光太郎なのか、日記の文脈だけでは不分明ですが……。
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情報を得るのが遅れまして、会期残りわずかですが……。

お店と作家の本づくり展

期 日 : 2022年4月9日(土)~5月9日(月)
会 場 : bupposo 東京都杉並区高円寺南3-49-12セブンハウス202号室
時 間 : 14:00~20:00
料 金 : 無料

会期中、お店や作家が出版した数々の本が集まります。出版社を経由せずに作られた本とその活動に着目してこの展覧会を開催いたします。

会場では『ほんとうの空の下で』(ノグチクミコ著)の展示と『まどのむこうには』(まつむらまいこ著)の原画の展示販売をいたします。

〈参加店舗〉
 URESICA ON READING/ELVIS PRESS SUNNY BOY BOOKS 庭文庫/あさやけ出版
 もりのこと
〈参加作家〉
 安藤智 大桃洋祐 児玉由紀子 椎木彩子 しばらく(安藤智 児玉由紀子 角谷慶)
 たんじあきこ ノグチクミコ ぬまのうまき 本田潤 本田亮 まつむらまいこ
 みのわりょうすけ もうりひとみ

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以前にもご紹介した、ノグチクミコさん著の絵本『ほんとうの空の下で』の原画が展示されているそうです。

同書は平成29年(2017)の刊行。タイトルが光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアで、福島を舞台としています。浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、東日本大震災後、二本松市内の避難所で幻灯会を催して子供たちを元気づけ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)と、愛犬のシマを主人公とした実話です。
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これまでも福島や埼玉都内で原画展が開催されていて、当方、昨年の連翹忌の日、赤羽の青猫書房さんで拝見いたしました

久しぶりに書架から引っ張り出して読んでみました(ただ、読む、といっても基本的に文字のない絵本なのですが)。
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主人公・川本さんの愛犬シマが、およそ一年前に17歳で逝ってしまった当方の愛犬とよく似ていて、涙がこぼれてしまいました。
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閑話休題。「お店と作家の本づくり展」、他にもさまざまな作家さんたちのあたたかみのある絵本等、展示されているようです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后小坂、藤島、桑原さん等くる、 夕方一緒にタキシでニュートーキョー、色紙をかいて社長森卯一郎氏に呈す、御馳走になる、八時半かへる、


昭和27年(1952)11月18日の日記より 光太郎70歳

003ニュートーキョー」は現在も続く老舗のビヤホール。ビール好きを公言し、消費に一役買ってくれた光太郎にビールを贈ってくれ、その礼を兼ねて足を運んだようですが、逆にまた御馳走になってしまったようです。色紙には「白髪三千丈ビールによつてかくの如く美し」としたためました。

同一の句の揮毫は複数存在し、古書店で売られていたこともありましたし、当会顧問であらせられた故・北川太一先生旧蔵のものは、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。

先週も行ったのですが、昨日も鎌倉に行っておりました。

北鎌倉の建長寺さんで「三門楼上五百羅漢特別展」が始まり、先週行った時には会期前だったため、昨日、改めて伺った次第です。我ながらフットワークが軽いな、と思いますが、人間も軽いもので(笑)。

午前中は都内永田町の国立国会図書館さんで調べ物。そちらで昼食を摂ってから、鎌倉へと向かいました。北鎌倉駅から徒歩。
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昨日は暑くもなく寒くもなく、この時間帯には雨も降っていなかったので、ラッキーでした。

拝観料500円也をお納めして、山内へ。
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三解脱門、略して「三門」。国指定重要文化財です。
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こちらの楼上に、光太郎の父・光雲の師匠であった髙村東雲のさらにそのまた師・髙橋鳳雲が原型を制作した鋳銅の五百羅漢像が納められています。普段は非公開ですが、この中から一部を運び出しての特別展示。
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会場は得月楼という堂宇でした。
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こんな感じです。
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数えてみましたところ、およそ50体ちょっと。幕末のものですが、いずれも保存状態が良く、かといってつい最近作られたようなぎらつきもなく、いい感じに経年による風合いが備わっていました。そして50体ちょっとのそれぞれが違ったお顔で、ポージングや持物もバリエーションに富み、見応えがありました。中には象に乗ったり犬を連れていたりの羅漢様もいらっしゃり、微笑ましくもありました。

こちらはポストカード(100円)。
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三門楼上ではこのような形で配置されているわけですね。

それから、図録、ではないのですが、図録のような調査報告書(3,000円)が販売されていましたので、そちらも購入。
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ちょっと前のもので、平成15年(2003)の刊行でした。このさらに少し前に、三門の大修理が行われた際、羅漢像他を他に移し、一体一体の細かい調査が行われ、その報告書的なものです。論考二本とすべての像の写真、さらに「台帳」として、大きさや鋳造の際に打たれた刻銘の銘文、像の特徴などなど、詳細に記されています。

ナンバーも振られており、それによれば全514体。光雲の回想では700体ほど、ということでした。ナンバリングでは、一つの台座に複数体の羅漢様が配されているものも一つと数えていますので、それをどう数えるか、というあたりにそのズレの一因があるようです。ただ、それでも700までは行かないようで、光雲、話を盛ったな、という感じですね(笑)。あるいは、あまり考えたくありませんが、流出してしまったものも皆無とはいいきれないでしょう。

報告書を見て、「おやっ」と思ったのは、意外と同じポージングの像が多いこと。結跏趺坐だったり、座って合掌していたりというお像はけっこうたくさんありました。それでも衣の様子や顔立ちはそれぞれに異なっていますし、「同一の型から鋳造されたものは無かった」と記述されていました。

報告の中では、やはり光雲の回想が重要な資料として引用されたりしていました。また、それ以外の文献や、明治期の新聞記事なども引かれ、興味深く拝読いたしました。

それによると、光雲の回想にはなかったのですが、原型制作には光雲の師・東雲もあたっていたとのこと。まぁ、あり得る話ですし、実際、以前に見たことがある東雲作の僧形の像の中には、こちらの羅漢像とよく似た作もありました。

また、光雲は「村田整珉の鋳造」「整珉没後に弟子の木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継いだ」的なことを書き残しましたが、実際には村田整珉の銘が入った像はなく、ほとんどに栗原貞乗の銘が入っているとのことでした。

それにしても、見事。ただ、やはり、三門楼上に納められている状態も拝見したいものだな、と思いました。いずれそういう機会が訪れることを期待しております。

さて、「三門楼上五百羅漢特別展」、5月5日(木)までの会期です。ちょっと短いのが残念ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷公会堂にデユアメルのコンフエランスをききにゆく、片山敏彦、田内静三、今井氏等にあふ、


昭和27年(1952)11月13日の日記より 光太郎70歳

デユアメル」は、フランスの作家、ジョルジュ・デュアメル。この年、読売新聞の招待で来日しています。

コンフエランス」は仏語の「conférence」で、英語風に読んだ外来語としては「カンファレンス」。直訳すれば「会議」ですが、「講演」的な意味で用いたのではないかと思われます。

片山敏彦」と「今井氏」(今井武郎)は、戦前、光太郎と共に「ロマン・ロラン友の会」のメンバーでした。大正15年(1926)、友の会の招聘で来日した シャルル・ヴィルドラックは、デュアメルの姻戚です。
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田内静三」は詩人。やはり光太郎とは旧知の仲でした。

テレビ東京さん系で放映されている「出没!アド街ック天国」。明後日のオンエアは、現在ご開帳期間中の信州善光寺さんがメインで取り上げられます。

出没!アド街ック天国〜善光寺〜

地上波テレビ東京 2022年4月30日(土) 21:00~21:54

7年に一度の秘仏ご開帳!「信州 善光寺」▼人生を変えた!?極上みそ汁&名物おやき▼そば好き長野県民絶賛の信州ラーメン&山菜名人やま爺の草鍋▼泊まれるアートなお寺

待ちに待った7年に一度のご開帳!「信州善光寺」へ出没。門前にはご開帳に合わせた新店を始め、そば好きの地元民も行列する“信州ラーメン”、山菜名人・やま爺の春限定“草鍋”など美味しい名物が揃います。長野県産食材を使ったアップルパイ、栗バーガーなどのスイーツや、野沢菜たっぷりのおやきやニラせんべいなど地元のおばあちゃんお手製のおこびれ(おやつ)も人気。秘仏のご開帳で盛り上がる門前散策を楽しみましょう。

【司会者】 井ノ原快彦、片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【レギュラー出演者】 峰竜太、薬丸裕英、山田五郎
【ゲスト】 もう中学生、羽賀朱音(モーニング娘。’22)
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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる仁王像、三宝荒神像、そして三面大黒天像の納められている仁王門をぜひ取り上げていただきたいものです。

テレ東さん、系列局が少ないためテレビではリアルタイムでの視聴が不可能、という地域が多いのですが、動画配信サイト「GYAO!」さんでは最新回を1週間無料放映して下さいます。

また、同じく「TVer」さんでは、プライム帯(19:00~22:00)の放映についてはリアルタイム配信が始まりました。その告知のためにテレ東さんが出した広告が「自虐的で面白い」と、話題になっています。
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この手の取り組み、もっと広まってほしいものです。

さて、「出没!アド街ック天国〜善光寺〜」、ぜひご覧下さい。ついでに言うなら、明日は無料放送のBS松竹東急さんで、過日ご紹介した岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」(昭和42年=1967)の放映があります。そちらもお見逃しなく。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、「智恵子抄」皮製、劉生日記皮製をもらふ、50,000圓印税、

昭和27年(1952)11月2日の日記より 光太郎70歳

「智恵子抄」皮製」は、光太郎の帰京記念という名目で、澤田伊四郎が興した龍星閣が発行した特製本です。二重函、表紙が羊皮製でした。
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昨日は鎌倉に行っておりました。妻が「大河ドラマ館を見たい」といいだしまして、連休に入ってしまうとかなりの混雑が見込まれるので、その前に、というわけでした。

事前に、せっかく鎌倉に行くのなら、他に光太郎智恵子や光太郎の父・光雲がらみで何かないか(長勝寺さんの光雲原型日蓮像、東慶寺さんの智恵子親友・田村俊子碑などは以前に拝見したので、それ以外)と探しました。

真っ先に思いついたのが、建長寺さん。こちらの三門(山門)楼上には、光雲の師・髙村東雲のさらに師・髙橋鳳雲の手になる五百羅漢像が納められていて、時折、公開が為されています。

そこでネットで調べてみましたところ、「五百羅漢特別展」。「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、会期が明後日・4月29日(金)からでした。また来週あたり、行って参ります(笑)。

三門楼上五百羅漢特別展

期 日 : 2022年4月29日(金)~5月5日(木)
会 場 : 建長寺得月楼  神奈川県鎌倉市山ノ内8
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料 別途拝観料(高校生以上500円、小中学生200円)

普段は三門楼上にお祀りされ、非公開になっている『五百羅漢像』。その一部を特設会場にて展示させて頂きます。また期間限定の特別御朱印もご用意しております。是非お越し下さい。
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フライヤーには「高橋鳳雲と弟子高村東雲(高村光太郎の父)」とありますが誤りで、東雲は先述の通り、光太郎の父・光雲の師匠です。似たような名前なので混乱が生じることはしばしばあります。
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幕末に、伊勢屋嘉右衛門という豪商が発願し、鳳雲に五百羅漢の制作を依頼しました。さらに木像のままだと火災等が恐ろしいというので、当時の鋳金の名人・村田整珉に鋳造を依頼。整珉没後はその弟子・木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継ぎました。「五百羅漢」といいつつ、鳳雲は七百体ほど作ったそうです。鳳雲は、七百もの羅漢像を一気呵成に彫り上げたわけではなく、他の仕事の合間に少しずつ制作したとのこと。そういう契約だったようです。そしてできた端から整珉が鋳造していったというわけです。鋳金の方は建長寺さんに納められ、木彫原型はしばらく伊勢屋が自宅に置いていたのですが、徳川幕府瓦解と共に伊勢屋は破産し、甲州の身延山久遠寺さんに納められました(その際に東雲と光雲が修繕を行ったそうです。破産しても羅漢像を道具屋等に売り払わなかった伊勢屋を光雲は絶賛しています)。ところが伊勢屋が心配した通り、その後、久遠寺さんの火災で焼失してしまっています。

一昨年、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で、建長寺さんを含む「鎌倉五山」の回がありまして、その中でこの羅漢像が取り上げられ(ナビゲーター・近藤サトさん)、興味深く拝見しました。まず番組冒頭近く、予告編的に。
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番組後半に入ると、詳細を紹介。
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いやぁ、実に見事です。

光雲による評。

是はモウ私も聊か彫刻は致しますが、口でこそ五百羅漢と言ひますが、ナカナカ大変なもので、十体か十五体はどうか、斯うか図が纏まるものでありますが、五百体の羅漢が皆坊主頭で被て居るものは袈裟と法衣、是が五百体が五百体ながら同一の図が出来ぬやうに色々と変化の有るやうに拵へるといふことは、ナカナカ容易な苦心では無い。
(「光雲懐古談」昭和4年=1929)


さもありなん、ですね。しかも、少しずつ作っていって出来た端から鋳造に廻したわけで、それでも最初の頃に作ったもののポージング等、しっかり記憶に残していてかぶらないようにしていたということなのでしょうから、舌を巻かされます。

さて、明後日からの展示は、三門楼上での公開ではなく、得月殿という堂宇に羅漢像の一部(選抜チームでしょうか(笑))を移しての展示だそうです。ぜひ足をお運び下さい。

おまけで、昨日の鎌倉レポートを。

鎌倉の大河ドラマ館
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市川猿之助さん演じる文覚。光太郎の親友だった碌山荻原守衛が彫刻のモチーフにしています。元は北面の武士・遠藤盛遠でしたが、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って殺してしまい、出家したという伝説があります。守衛は自身と、中村屋創業者相馬愛蔵の妻・黒光をそこに重ねていたふしがあります。

ところで大河ドラマ館、新たに建造物が建てられたわけではなく、鶴岡八幡宮境内の鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムさんでの展示が、現在、大河ドラマ関連というわけです。

同館、平成28年(2016)までは、神奈川県立近代美術館・鎌倉館でした。土地貸借契約等の関係で鶴岡八幡さんに返却され、一時は取り壊しの話もありましたが、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして再生、コルビジェの弟子・坂倉準三設計のその建物は一昨年、重要文化財指定を受けています。

昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった美術評論家にして詩人でもあった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。また、最後の企画展示「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」でも光太郎作品を並べて下さり、拝見に伺いました。中に入ったのはそれ以来でしたが、懐かしさに胸がいっぱいでした。
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その後、鶴岡八幡宮さんを皮切りに、御朱印マニアの妻とともに、源氏や御家人たちゆかりの寺社巡り。
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八幡宮境内、源氏池の中の旗上弁天社さん。
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段葛。
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比企氏ゆかりの妙本寺さん。
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上はシャガの花。下は妙本寺さんの幼稚園。
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千葉氏ゆかりの妙隆寺さん。ただし無人で御朱印はいただけず。
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北条氏ゆかりの寶戒寺さん。
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御本尊の地蔵菩薩様以外にも、閻魔大王様もいらっしゃり、「後々お世話になります」と、手を合わせて参りました(笑)。

昨日も雨。過日、福島に三春滝桜を見に行った際もそうでしたが、どうも妻も雨女のようで(笑)。まぁ、雨の鎌倉も風情がありましたが。

閑話休題。建長寺さんの五百羅漢特別展示、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ニユートーキヨー社長より生ビール6本届けくる、

昭和27年(1952)10月31日の日記より 光太郎70歳


「ニユートーキヨー」は老舗のビアホール。光太郎がビール好きを公言、周囲にもビールを勧めたりしていたため、その感謝の意を込めての進呈だったようです。この後もメーカーや店からビールを贈られることが相次ぎました。

長野レポートの2回目です。

4月23日(土)、宿泊した長野駅近くのビジネスホテルをチェックアウトし、再び善光寺さんへ。まだ朝のうちでしたが、御開帳期間ということで、結構な人出でした。ただ、人山の黒だかりとまでは行っていませんでしたが。
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まずは前夜、ライトアップを拝見した仁王門をもう一度拝観。
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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海の手になる仁王像、阿形。
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同じく吽形。
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仁王門をくぐった先にそびえる山門。
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そして本堂。
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前立本尊と巻かれた布でつながった回向柱。これに触れることで、前立本尊に触れるのと同じご利益だということで、そうさせていただきました。
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その後、本堂裏手の忠霊殿内にある善光寺史料館へ。普段こちらで展示されている、仁王像や三宝荒神像、三面大黒天像の雛形は、現在、長野県立美術館さんに出張中ですので、この日はパスしようと思っていたのですが、空いたスペースを使って、現代アート作家の小松美羽さんの作品が展示されているというので、行きました。
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小松さん、平成28年(2016)には、現代アートの「福島ビエンナーレ」の一環として、二本松の智恵子生家を会場にインスタレーションをなさった方です。その後も各地でご活躍中。
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今回もがっつり小松ワールドが展開されていました。
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史料館の通路に掲げられた説明パネル。仁王門、仁王像について。
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なるほど、という感じでした。

その後、隣接する長野県立美術館さんへ。
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こちらでは「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展が開催中です。
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東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会」という触れ込みで、善光寺史料館さんから仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像の雛形を移し、関連資料等と共に展示、さらに詳細な説明パネル、映像、光雲令曾孫・髙村達氏撮影の写真等で構成されていました。
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ただ、全体の出品点数は多くなく、そのためか図録は刊行されておらず、少し残念でした。特に説明パネルに書かれていた内容、ぜひ公刊していただたきたいと思いました。雛形は5センチ角のパーツを木寄せで組んであること、仁王像はそれを4倍、三宝荒神と三面大黒天は3倍に拡大し、その際には伝統的な寄せ木造りの技術と、星取りの技法を組み合わせていること等々。制作に先立って、千葉県松戸市の萬満寺さんの仁王像を視察した件などにも触れられていました。

それからAR技術を駆使し、スマートフォンなどでQRコードを読み取ると仁王像の3D画像データが見られるようになっているということで、試してみましたが、当方のスマホ、というか、インストールされているGoogle Chromeあたりのバージョンが古いためか、うまく起動しませんでした。

ただ、会場内でプロジェクタを使って流されていた映像が、それに近いものだろうと思われ、そちらを拝見。仁王像の背面など、通常では見られない部分について、特に興味深く拝見しました。背部の衣の裾にあたる部分に、光雲と雲海の銘が入っているというのも初めて知りました。やはりこのあたりの画像を含む書籍等、公刊していただきたいものです。概要的なものがweb上に出てはいますが。

関連資料として展示されている光雲の制作日誌、星取り機などの道具類、髙村達氏撮影の写真などは、東京藝術大学さんで昨年開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展とかぶるものが多かったのですが、藝大さん所蔵の光雲が講義で使ったという木寄せ模型など、初見のものもありました。

会期は6月26日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。

その後、長野駅方面へ歩きました。

土産物屋さんで購入したピンバッヂ。
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参道沿いにある老舗旅館・藤屋さん。
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公式サイトには、光雲も宿泊した旨、記述があります。おそらく仁王像開眼の大正8年(1919)頃でしょう。現在の建物はその後の大正14年(1925)竣工だそうですが。それでも古建築好きにはたまりません(笑)。

というわけで、充実した1泊2日の長野行でした。以上、長野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

午后一時半主婦之友より迎へ、紀尾井町福田家、川島四郎博士、竹内てるよさんと座談会、七時頃かへる、


昭和27年(1952)10月27日の日記より 光太郎70歳

紀尾井町福田家」は、老舗の料亭。まったくの偶然だったようですが、これ以前の光太郎の花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活中、女将・福田マチが、光太郎の暮らしぶりを報道で知り、さまざまな食料などを送ってくれました。当会の祖・草野心平ら知り合いが食料等を贈ることはあっても、未知の人物からの援助は珍しい例でした。

この日行われた元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよとの座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」は、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。

一昨日、昨日と、1泊2日の行程で長野県に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず一昨日、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・碌山忌ということで、安曇野の碌山美術館さんへ。以前はこの日を含め、必ず年に1、2回お邪魔していたのですが、コロナ禍後は碌山忌も講演会や懇親会等のイベントを削除していたため、足が遠のいていました。調べてみましたところ、コロナ禍前の平成31年(2019)の碌山忌にお邪魔したのが最後でした。

これまでは千葉の自宅兼事務所から自家用車で出向くことがほとんどでしたが、今回は中央本線あずさ号で松本まで行き、松本からレンタカーを借りました。

途中、昼食を摂った町中華の駐車場からみたアルプスの山々。少しピンぼけですみません。
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碌山美術館さんに到着。3年ぶりということで、多少の懐かしさを感じました。
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まずは一通り、昨年寄贈された守衛生前の鋳造になる「宮内氏像」など、守衛や光太郎らの彫刻作品等を拝見。

その後、碌山館(右上写真)裏手の光太郎詩碑へ。
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詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)が刻まれています。コロナ禍前の碌山忌では懇親会がプログラムに入っており、その冒頭、参加者全員でこの詩を音読するのがルーティーンでした。
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碑の周辺には、光太郎が愛した連翹が植えられていまして、千葉ではもう散ってしまっていますが、こちらではまだ花が残っていました。
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右上は詩碑同様、光太郎の名が刻まれたプレート。碌山館の入り口裏側の壁に嵌められています。

午後1時半から、「宮内氏像」のモデル・宮内良助の令曾孫・郡司美枝氏によるご講演「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」を拝聴。
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宮内良助は、日本橋や浅草橋で帽子とその関連商品を扱っていた実業家。守衛の兄・本十も同じような商売をしていたので、その紹介で像が作られたようです。同じく守衛作の「北条虎吉像」(国指定重要文化財)のモデル、北条寅吉(正しくは「寅」なのですが、像の名前が誤っているそうで)も同業者とのこと。本十は守衛のきょうだいの中で、このように最も守衛に対する支援を行い、そのため、上記のプレートにも光太郎と並んで名が刻まれています。
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戦前の帽子をめぐる文化史的なお話等々、非常に興味深く拝聴させていただきました。

「宮内氏像」は、守衛が歿する直前の明治43年(1910)1月には、同郷の山本安曇によって鋳造が為され、守衛の歿した直後の同年5月からロンドンで開催された日英博覧会に出品されました。

ちなみに日英博覧会には、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が監督となった「台徳院殿霊廟模型」も出品されています。

さらに、山本安曇は光太郎実弟にして鋳金家の髙村豊周の2つ先輩で、守衛没後に鋳造されたその絶作「女」の鋳造(これも明治43年=1910)の際には、豊周にも手伝わせています。
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そこで、「宮内氏像」の鋳造にも豊周が関わっていないかと調べてみましたが、残念ながらそちらとは無関係だったようでした。

閑話休題。明治43年(1910)に鋳造された「宮内氏像」、一時行方不明だったそうですが(安曇野の守衛生家にあったかも、とのことでしたが)、宮内家に戻り、しかし、日暮里の本行寺さん(こちらのご住職・加茂行昭氏は荒川区芸術文化振興財団のお仕事もなさっていて、平成18年(2006)日暮里サニーホールでの「光太郎智恵子フォーラム」開催等に御尽力されました。余談ですが、司会は当方でした。)の宮内家の墓所や、大宮の宮内家、さらに都内のマンションに宮内家が移転するとそちらにも、と、演題の通り「《宮内氏像》の旅」状態だったそうです。碌山美術館さんに寄贈され、その長い旅も終わったかと、郡司氏、ほっとなさっていたご様子でした。
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高野前館長から、寄贈に対する感謝状の贈呈。

その後、関係者で守衛の墓参。
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太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折揮毫の墓碑。裏面には戒名。ただ、後に荻原家が曹洞宗(?)から日蓮宗に宗旨替えしたため、戒名も変えられたなど、墓前で現荻原家ご当主の荻原義重氏にいろいろお話を伺いました。

今年もコロナ禍のため、懇親会は行われず(それでも講演会が復活しただけでも喜ばしいところですが)、これにて当方は安曇野を後に、レンタカーを駆って長野市へ。

レンタカーを返却、長野駅近くのビジネスホテルにチェックインし、荷物を置いて、善光寺さんへ。もうとっぷりと日は暮れていましたが、逆にその時間を狙いました。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による仁王像等のライトアップが為されているためです。
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いい感じでした。

向かって左、阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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裏に回ると……。
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三宝荒神像。
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三面大黒天像。
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裏側の二尊は、かえって昼間だと薄暗くてよく見えないのですが、照明が絶妙でかなり細かい部分まで拝見でき、有り難く存じました。

ホテルまで戻り、Good night。続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小平英雄氏来訪、疎開した老人首は火事で色はげし由、


昭和27年10月25日の日記より 光太郎70歳

小平英雄氏」は、思想家の江渡狄嶺の縁者です。「老人首」は、ブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)。光太郎生前の鋳造で、戦火を避けるためもあって江渡家に贈られていました。
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その後上野の東京国立博物館さんに収められ、時折常設展に出品されています。同型のものは碌山美術館さんでも展示されています。

モデルは光太郎のアトリエに時々花を売りに来ていた、元旗本の老人です。

昨日は神奈川県平塚市、それから東京都荒川区に行っておりました。ネタがない時には分割して書くところですが、紹介すべきネタが溜まっており、一気にレポートします。

まず、平塚市美術館さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の木彫二点が出ている「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」が開催されています。
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「写実」をテーマに、光雲ら近代の作家たちがどのように「写実」に取り組んだのか、その後「抽象」に押されて一段下に見られるようになった「写実」の系譜が、現代作家さんたちにどのように受け継がれ、されにどうエボリューションされてきているのか(メチエの部分、精神性といった方向で)というコンセプトで、「なるほど」という感じでした。

「彫刻」と「絵画」の二本立てで、「彫刻」パートでは、松本喜三郎と安本亀八の生人形にはじまり(「彫刻」の項に入れるのは一つの冒険ですね)、光雲やその高弟・平櫛田中、それから富山高岡系のそれほどメジャーではない金工作家の作など。そしてそれぞれにその系譜に連なると思われる現代作家さんたちの作品、という構成です。「絵画」では「写実」の祖として高橋由一(もう何人か出していただけるとなおよかったのですが)。あとは現代作家さんたちでした。
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フライヤー表に使われている安本亀八の「相撲生人形」は、分解したパーツの状態で出品(5月10日(火)からの後期展示では組み立てて展示するそうで)。西洋彫刻の「写実」が本格的に入ってくる前に、既に日本には独自の「写実」があったことが象徴されていました。

ちなみに初代の孫に当たる三代安本亀八の生き人形が、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市の大祭の山車に複数据えられています。

そして西洋の写実を取り入れた光雲、という位置づけで、光雲作品が2点。明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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共に20数年ぶりに拝見。どちらもほれぼれするような作でした。

「魚籃観音」の手に提げた魚籠(びく)、それから衣の袂(たもと)や裾など、一木から彫り出されているわけで、光太郎などはこうした超絶技巧にあまり価値を認めていなかったようですが、こうした部分の凄みが光雲作の人気が衰えない一つの要因であることは確かでしょう。もちろん、全体のフォルムの優美さなどもそうですが。

「寿老舞」は、開会前に問い合わせたところ、「個人蔵」と御教示いただきましたが、もしかするとテノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものかな、と思っておりましたら、まさにその通りでした。

最近流行りの図録を兼ねた書籍(ISBNコード付き)を帰りがけに購入。
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昨日は公共交通機関を使っての移動でしたので、電車内等で熟読いたしました。ただ、版元がやる気があるのか無いのか、公式サイトが一年以上更新されていないようで、この書籍の情報がヒットしません(アマゾンさん等では出て来ますが)。余計なお世話かも知れませんが……。内容的には各地のキュレーターさんの寄稿、秋川さんと現代作家さんたちとの対談など、非常に読みごたえがあるものでした。

巻末に同展の巡回情報が出ていました。以下の通りです。

・足利市立美術館 会期:2022年6月12日(日)~7月21日(木
・高岡市美術館  会期:2022年7月29日(金)~8月31日(水)
・ふくやま美術館 会期:2022年9月23日(金・祝)~11月20日(日)
・新潟市美術館  会期:2022年11月29日(火)~2023年1月29日(日)
・久留米市美術館 会期:2023年2月11日(土)〜4月2日(日)

お近くの会場にぜひ足をお運びください。

その後、同時開催の「けずる絵、ひっかく絵」展も拝見しました。こちらも近代の井上三綱、鳥海青児と現代作家さんたち。

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フェイスブックで友達申請してきて下さった方の作品も出ており、興味深く拝見しました。

神奈川を後に、都内荒川区へ。日暮里サニーホールさんで朗読公演「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」を拝聴して参りました。
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、同誌に光太郎智恵子がらみの文章もよく寄稿されています。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。その都度、内容・構成等も少しずつ変えられ、「今日はこんな風にやるか」という感じです。

昨日は、光太郎詩の朗読はまるまる一篇読まれたのは冒頭の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)のみで、智恵子の詩「無題録」(大正3年=1914)、昭和7年(1932)の智恵子から母・セン宛て書簡、それ以外はト書き的にやられ、朗読というより一人芝居のような趣向でした。

以前にもコラボされた、Yoshi氏による電子ピアノ(伝・カッチーニ作「アヴェ・マリア」)がバックに流れ、いやが上にも漂う悲壮感、寂寞の思い……。いい感じでした。
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終演後、宮尾さん、それから宮尾さんも加盟されているという日本詩人クラブさんの理事の方々と会食及び打ち合わせ。先の話ですが、12月に行われる会合で、宮尾さん他による「智恵子抄」系の朗読と、さらに当方に講演をして欲しいというオファーでした。一般には非公開かも知れませんが、詳細が出ましたらまたご紹介します。

というわけで、充実した一日でした。と言いつつ、2日休んでまた明後日からは信州方面に出かける予定ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

創元社秋山孝男氏毛利氏来訪、天上の炎文庫版承諾、


昭和27年(1952)10月21日の日記より 光太郎70歳

『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されました。昭和26年(1951)には、白玉書房から約30年ぶりの復刊。そして文庫化、というわけです。

昭和30年(1955)には新潮文庫のラインナップにも入りました。創元文庫版、新潮文庫版、共に同一の金子光晴による解説文が付されています。
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お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第42号が届きました。多謝。いわずもながなですが、同館は光太郎の親友だった碌山荻原守衛(明治12年=1879~明治43年=1910)の個人美術館です。
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年刊で、毎号数十ページの濃密な内容となっています。
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今号の巻頭には、新たに寄贈されたという「宮内氏像」(明治42年=1909)。作品自体は以前から知られていたものですが、これはブロンズに鋳造されたのが守衛の生前というのが貴重だというわけです。意外といえば意外でしたが、同館に収蔵されているものを含め、現存するほとんどの碌山ブロンズ作品は、守衛没後の鋳造だそうです。生前に鋳造されたと確認出来ているものは、「北条虎吉像」(明治42年=1909)に一つ、そして今回の「宮内氏像」と、2点だけだとのことでした。

結局、数え32歳で亡くなり、生前には「巨匠」「大家」という地位を得られなかったことが大きいのでしょう。ただ、守衛は亡くなる前、明治41年(1908)と翌年の文展に「北条虎吉像」以外に「女の胴」、「坑夫」、「文覚」、「労働者」を出品しており、それらの出品形態はどうだったのかな、と、疑問に感じました。粘土原型のままだったのか、石膏に取ったものだったのか、鋳造されていたのか、ということです。来週末には現地に赴きますので、訊いてこようと思っております。

光太郎のブロンズ彫刻についても、光太郎生前の鋳造と確認出来ているものは、そう多くありません。現在、全国の美術館さん等で展示されているものの多くは、没後の鋳造です。代表作の「手」にしてもそうで、生前鋳造と確認出来ているものは、竹橋の国立近代美術館さん蔵のもの(有島武郎旧蔵品)、谷中の朝倉彫塑館さん蔵のもの、そして髙村家に一つと、三点のみです。

もっとも、光太郎ブロンズは、最初から多数の人々に頒布される目的で、まとまった数が鋳造されたものも存在します。生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で関係者に配られた「大町桂月メダル」(小品ではありますが、完成品としては、これが光太郎最後の彫刻です。「乙女の像」を「絶作」、「最後の作品」とする記述が目立ちますが、誤りです)、さらに遡って、昭和12年(1937)作の「日本水先人協会記念牌」(こちらは当方も一つ入手しました)なども。
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それにしても小品ですし、ものすごく大量に鋳造されたわけでもありませんが。

閑話休題。『碌山美術館報』では、同館学芸員の武井敏氏による「《宮内氏像》について」、さらに同じく武井氏の「荻原守衛のロダン訪問」など、興味深い考察が満載でした。光太郎についても随所で触れて下さっています。リンクを貼っておきましたので、お読み下さい。

その「宮内氏像」の特別展示が、同館で4月22日(金)から始まります。4月22日といえば守衛の忌日・碌山忌。コロナ禍前は懇親会等も行われていましたが、そちらは今年もありません。ただ、守衛墓参と、「宮内氏像」特別展示の関連行事を兼ねた講演会「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」が行われます。講師は「宮内氏像」モデルの宮内良助令曾孫・郡司美枝氏。

長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」も拝見したいので、併せて行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏小坂氏来訪、 回転台しん棒中、小型届く、払、


昭和27年(1952)10月15日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。おそらく、平成30年(2018)、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きな回転台のものと思われます。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の図録、というか、展示内容等を解説した冊子が届きました。
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A5判で22ページ、無料で配布中とのことです。

編集は当方ではありませんが、執筆はほとんど当方です。といっても、新たに書き下ろした部分はあまりなく、今回の企画展示及び一昨年に開催された「高村光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の際の展示解説パネル、双方の関連行事としての市民講座で語った内容を文字起こししていただいたものに手を入れた感じです。
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巻頭の「ご挨拶」的なページは書き下ろしましたが。

内容的には光雲と光太郎、それぞれの歩み、おのおのが目指したもの、共通する点、相違点等々で9ページ、展示の目玉である光雲作「鈿女命」像について2ページ、やはり光雲作の文京区の金龍山大圓寺さんに納められた「准胝(じゅんてい)観音像」の胎内仏のコピーとして寄進者や檀家に配付された懐中仏について1ページ、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、光雲の師・髙村東雲の孫・晴雲(三代東雲)作の聖観音像について1ページ。

さらに彼の地の光太郎ゆかりの寺院、音羽山清水寺さん、法音山昌歓寺さんに関わる光太郎日記・書簡からの抜粋で1ページ。それから英文学者の長沼重隆に送った葉書も新たに寄贈され、展示されていますので、その解説と、やはり光太郎日記・書簡からの抜粋及び散文「ホイツトマンの「草の葉」が出た」(昭和4年=1929)全文。

最後に今回の展示の目録。
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100円くらいで販売しても売れるんではないかな、と思うのですが、無料で配布中だそうです。気前のいいことで(笑)。

ご入用の方、花巻高村光太郎記念館さんまで、お問い合わせ下さい。送っていただけるかどうかは不明ですが。

合わせて企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までの開催です。地震により不通となっている東北新幹線も、当初予定より早く、明後日には全線復旧だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

夕方停車場前瀬川氏宅にゆき、発車まで休む、 夜十一時42分停車場、見送人多し、汽車は駐留軍用のもの、しん台車、 汽車ゆれる、


昭和27年(1952)10月11日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半を過ごした岩手を後にしました。およそ1年後には、短期間、また花巻に戻るのですが。

当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究』の第43号が届きました。
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巻頭に2本の論考。いずれも千葉県教育庁にご勤務の、安藤仁隆氏によるものです。安藤氏、建築に造詣が深く、それぞれ建築に関する内容で、1本目は「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」。明治45年(1912)、光太郎自身の設計により竣工した、旧本郷区駒込林町25番地(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居(昭和20年=1945、空襲により焼失)の建築が徹底的に解剖されています。
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何とまぁ、光太郎本人が書き残した図面、当時の写真、周辺人物の回想等から、完璧な図面を再現されました。
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これまでも、簡略な図面は再現されてはいたのですが、あくまで簡略なもので、今回のものはレベチですね。

さらに、外観も。現代のコンピュータでは、ここまでできてしまうんだ、と舌を巻きました。
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これまで、アトリエ外観の写真は、上のほうに載せた画像(尾崎喜八撮影)を含め、南東側から撮ったものしか確認されておらず、他の方向から見るとこうだった、というのが手に取るように分かります。

さらに、光太郎によるこの設計、英国風の影響が色濃い、というご指摘。実際の建築の写真と比較すると、これもうなずかされます。
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光太郎、イギリスには明治40年(1907)から翌年にかけ、約1年滞在しましたが、こののちに移り住んだパリと比べ、美術の部分では、あまり影響を受けることはなかったと回想しています。ところが、人々のライフスタイルという面では、伝統ある英国ということで、好ましいものと感じていました。そこで、帰国後に設計したアトリエ兼住居にも、英国風の要素を多く取り入れたと思われます。

安藤氏の論考、2本目は「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養のため滞在した、千葉九十九里にあった家屋についてです。こちらは移築が繰り返され、最終的には平成11年(1999)に取り壊されてしまい、今は見ることが出来ません。

氏の亡父が、彼の地に今もある伊勢化学工業に勤務されており、移築にも関わられたそうで、移築後に住まわれた方とも交流があったとのこと。そこで、その方への聞き取り調査などを元に(一度、当方も同行させていただきました)、「田村別荘」の竣工から取り壊しまでをまとめられています。登記簿や昔の航空写真等も丹念に調べられ、こちらも凄いものだと驚愕しました。

元々は、大正9年(1920)に東京本郷区の田村豊蔵という人物が建てた家屋で、福島の智恵子の実家の破産後、智恵子の妹のセツ一家、そして智恵子の母・センが、昭和8年(1933)に移り住みました。そして翌年には智恵子が預けられています。
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その後、セツ一家が転居、所有者が何度か変わって、場所的にも移築され、昭和46年(1971)には地元の観光組合に譲渡されて、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。しかし、前述の通り、平成11年(1999)に取り壊されています。

重要なのは、昭和30年(1955)、大規模な改築が行われたこと。これにより、間取りも大きく変わり、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていた時期は、智恵子が暮らしていた頃とは似て非なる家屋だったというわけです。ただ、改築の際に、元々の部材等がかなり再利用されたようですが。

安藤氏、ここでも聞き取り調査等を元に、元々智恵子が暮らしていた頃の図面を起こされています。
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先述の駒込林町アトリエにしてもそうですが、こうすることで、光太郎智恵子の息吹的なものが、また違った角度から感じられますね。

安藤氏の論考2本の後に、当方の連載。

まずは「光太郎遺珠」。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品等を、年に一度ご紹介するものです。ただ、昨年の『高村光太郎研究』は、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼号ということで、広く稿を募り、「光太郎遺珠」および後述の「高村光太郎歿後年譜」はカット。そこで、2年分の発見を載せてあります。

短歌が4首。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただいた、新発見の木彫「蝉」を収める袋(智恵子手縫いと推定)にしたためられていたものが1首、そして、東京美術学校で同窓だった彫刻家・今戸精司の死去に伴い、弔文的に贈ったものが三首。

散文が七編。ブロンズ彫刻の代表作、「手」(大正7年=1918)について語った「手紙」(大正8年=1919)と「」(昭和2年=1927)、彫刻家・毛利教武の彫刻頒布会パンフレットに寄せた「毛利君を紹介す」(大正8年=1919)、詩人・童謡作詞家の平木二六について述べた「藻汐帖所感」(昭和6年=1931)、さらに「リルケ全集について」(昭和18年=1943)、「賢治詩碑除幕式に於いて」(昭和25年=1950)、「(花巻の人は)」(昭和27年=1952)。談話筆記として「高村光太郎先生説話」(昭和27年=1952)。

雑纂という扱いにしましたが、新聞に載ったインタビューで、昭和12年(1937)、『北越新報』に載った新潟長岡での「高村光雲遺作展観」の観覧感想、昭和26年(1951)、『花巻新報』に載った、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築と、交流のあった写真家・内村皓一に関するもの。

書簡が13通。明治42年(1909)、欧米留学の最後に訪れたイタリアから、実弟の道利に宛てた絵葉書などを含みます。

それから、「高村光太郎歿後年譜」。これも一昨年、昨年の2年分で、このブログでご紹介してきたさまざまなイベントや刊行物等をまとめてあります。

ご入用の方、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。頒価1,000円だそうです。ちなみに「光太郎遺珠」作成にご協力いただいた方には、当方よりのちほどお送りします。その分を手配中でして。

【折々のことば・光太郎】

小屋片づけをしてゐる、 田頭さん夫人に婦人之友七年間の全部を進呈、


昭和27年(1952)10月8日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの帰京に向けての片付けです。ただ、像の完成後にはまた太田村に戻るつもりで居ましたし、実際、翌年にごく短期間戻りました。しかし、結局は宿痾の肺結核が、山小屋生活を続けることを許しませんでした。

福島出身の日本画家・齋正機氏。地元紙『福島民報』さんに、平成30年(2018)から「福島鉄道物語」というエッセイを連載されています。昨年12月までの37回分が一冊にまとめられ、出版されました。

福島鉄道物語

2022年4月1日 齋正機 福島民報社 税込定価1,800円

福島民報の連載企画「福島鉄道物語」は2018(平成30)年11月にスタート。本書には2021(令和3)年12月掲載の第37回までを収録しています。  福島市出身の日本画家・齋正機さんが古里ふくしまを中心に美しい風景と人々の生活に溶け込んだ鉄道を柔らかなタッチの日本画と心温まるエッセーで語り掛けます。作品には東北線、奥羽線、只見線、常磐線、東北新幹線、福島交通飯坂線、阿武隈急行など福島県民に密着した路線と車両が登場します。
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令和2年(2020)9月20日掲載分が「ほんとの空」。智恵子に触れられています。東京出身の亡友と、「ほんとの空」はどこにある、と、お互いに譲らなかったという思い出が語られています。

版元の『福島民報』さん記事。

日本画家斎正機さんの随筆集「福島鉄道物語」4月1日発売 民報社から書籍化

 福島市出身の日本画家斎正機さんによる随筆集「福島鉄道物語」が福島民報社から書籍化され、4月1日に発売される。福島民報に掲載している同名の連載をまとめた。古里を走る鉄道の車両と雄大な風景を描写した日本画、優しく語り掛けるようなエッセーを収めている。
 2018(平成30)年11月の連載初回「夕日の飯坂線」から昨年12月の第37回「縁側天国」までを収録した。花モモが満開の中を走る阿武隈急行、雪景色に映えるJR只見線など、福島県民の暮らしに密着した風景を描いた日本画に、昭和の記憶を見つめた懐かしさを感じさせる文章が添えてある。随所に斎さんのスケッチが描かれている。
 A5判、208ページ。税込み1800円。福島県内の各書店、福島民報社本社・郡山本社・各支社支局、福島民報販売店などで扱う。4月2日に福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開幕する「斎正機展2022『福島今昔物語』」会場でも販売する。
 問い合わせは福島民報社出版部へ。
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記事にあるとおり、文章だけでなく、氏の描かれた絵がふんだんに盛り込まれ、それぞれ非常に温かみのある絵で、心が洗われる感じです。

また、エッセイも秀逸。氏は東京藝術大学さんに入学する際、何と4浪もなさった苦労人で、しかしそのご苦労もユーモアたっぷりに、それでいて哀感もしっかり描かれ、読んでいて応援したくなりましたし、4浪の末とうとう合格、という部分では嬉しくなりました(笑)。

氏のお父さまは旧国鉄の機関士をなさっていたそうで、「正機」の「機」は「機関車」の「機」とのこと。そこで、幼い頃からの(氏は昭和41年=1966生まれ)、お父さまや鉄道にまつわるエピソードが多いのですが、それも「キハ何型がどうこう」といった鉄オタ的な文脈ではなく、あくまでほのぼとした回想が中心です。

Amazonさん等でも取り扱いがあります。ぜひお買い求めを。

この出版とコラボし、氏の個展が福島市で開催されています。このブログで取り上げるべき事項が溜まっており、一気にご紹介します。

絵と映像とエッセイで綴る 齋正機展2022 『福島今昔物語』

期 日 : 2022年4月2日(土)~5月8日(日)
会 場 : とうほう・みんなの文化センター  福島県福島市春日町5-54
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 4月11日(月)、25日(月)
料 金 : 一般 1,200円 中高生 600円 小学生以下無料

福島市出身の日本画家・齋正機の作品展。郷土「ふくしま」への想いあふれる珠玉の作品およそ90点に加え、特別映像の上映など様々な角度から齋さんの魅力に迫ります。
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主催の『福島民報』さん記事。

斎正機さんの作品展 2日に開幕 会場準備整う 福島県文化センター

 福島県福島市出身の日本画家斎正機さんの作品展「斎正機展2022『福島今昔物語』―絵と映像とエッセイで綴(つづ)る―」は2日、市内のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開幕する。1日は会場の準備が整った。
 福島民報社、福島テレビ、ラジオ福島の主催。福島民報創刊130周年記念事業。県文化振興財団の共催。東邦銀行、福島交通、斎正機後援会、斎さんの母校・福島東高の同窓会の特別協力。
 富岡町の桜を描いた最新作や、福島民報で連載している「福島鉄道物語」の掲載原画など絵画約90点を展示する。花モモが咲き誇る桃源郷のような世界や夕焼けの中を走る鉄道を描いた作品、子を思う親の愛情がにじむ一作など、郷土への愛着にあふれた絵画が並ぶ。
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作品イメージした庭が登場 福島市で開催中の斎正機作品展の会場

 福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開かれている福島市出身の日本画家斎正機さんの作品展「斎正機展2022『福島今昔物語』―絵と映像とエッセイで綴(つづ)る―」の会場に、斎さんの作品をイメージした庭が展示され、来場者の目を引いている。
 県造園建設業協会が企画した。斎さんの作品「穏ヤカナ午後ノ鶴ヶ城」に描かれている会津若松市の鶴ケ城から着想を得て、同協会の青年部が施工した。
 石や砂利、人工芝の他、シャクナゲ、アセビ、サツキといった植物を配置し、温かな雰囲気を表現している。
 10日午前11時からと午後2時から、会場で斎さんによるギャラリートークを催す。午前、午後ともトーク後に斎さんのサイン会を開く。書籍「福島鉄道物語」(福島民報社刊)の購入者を対象にする。
 物販コーナーでは8日まで、斎さんがサインを直筆した書籍「福島鉄道物語」を1日20冊限定で販売する。
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同じく主催に名を連ねるFTV福島テレビさん。

【展覧会】福島市出身の日本画家・齋正機さんの作品展示

福島市出身の日本画家、齋正機さんの展覧会がきょう(4月2日)から福島市で始まった。とうほう・みんなの文化センターで始まった「福島今昔物語」。
福島の花や田園風景、雪景色といった四季折々の景色や、電車から見える風景など約90点の作品が展示されている。
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報告:松山理穂「額縁いっぱいに夜の森の満開の桜が咲き誇っています。ここにいるだけでお花見気分を味わえます」
こちらは富岡町のサクラの名所・夜の森。
齋さんが実際に現地を訪れ、町の人がサクラを愛でる様子を見て制作した。
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訪れた人「懐かしい風景が繊細なタッチで描かれているので、心がほっこりする」
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齋正機さん「気持ちが緩やかになる、そういう風景を福島は持っている。福島の風景の魅力っていうのを再確認していただければ画家冥利に尽きます」
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この展覧会は来月8日まで。
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ちなみに最後の画像に映っている作品は「ふくしま物語~桃源郷59の願い~」と題されたものです(縦1.8メートル、横6メートル)。「59」は、現在の福島県の市町村の数。下部に配された桜一つ一つの形が、59の市町村の形になっているそうで。

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当方、ほぼ1年前、箱根の成川美術館さんで開催された氏の個展拝見して参りました。日本画でありながら、パステル画のような温かみのある画風で、福テレさんのニュースにあるように、やはり「心がほっこり」いたしました。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より菊池暁輝氏等6人はかり来訪、肉、芋の子など持参してコンロにて煮て草上にて会食、夕方にいたる、

昭和27年(1952)10月5日の日記より 光太郎70歳

菊池暁輝氏」は宮沢賢治の顕彰を行っていた人物です。

東北各地で江戸時代から行われていたという「芋煮会」ですね。コロナ禍前には、テレビなどでもアウトドアブームに乗ってよく紹介されていました。

ただ、この日は智恵子忌日。光太郎としては、前日に賢治実弟の清六から贈られた香でも焚いて、静かに智恵子を偲んで過ごしたかったのではなかったのかと思われます。訪れた面々は智恵子忌日と云うことを知ってか知らずか……。

本日も光太郎の父・髙村光雲作品の出る展覧会情報です。

まず、神奈川県から。

市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと

期 日 : 2022年4月9日(土)~6月5日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9時30分 ~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般900円/高大生500円

幕末から明治初めに流行った生人形の迫真の技は、当時の日本人はもとより、来日した西洋人にも大きな衝撃を与えました。明治20年代に滞日した人類学者シュトラッツは「解剖学の知識もなしに強い迫真性をもって模写することができる」生人形師の力量に感嘆しました。また、彼は、生人形が理想化も図式化もされず、ありのままの姿であることにも着目しています。

高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。

ここで重要なのは、写実表現はそもそもこの国にあったということです。遡れば江戸期の自在置物、さらには鎌倉時代の仏像に行きつきます。写実は洋の東西を問わず追求されてきたと見るべきでしょう。日本は近代化する過程において西洋由来の新たな写実表現を受容しました。これは既存の写実の方法や感性を新たに上書きする、もしくは書き替える作業であったことと思われます。

今また写実ブームが到来しています。現代の作家が手がけた作品にも先祖返り的な要素が見受けられます。これは旧来の伝統的な写実が息づいている証です。連綿と続く写実の流れが、いわば間欠泉の様に、息吹となって彼らの作品を介して噴出しているのです。また、彼らの作品の中には近代的なものと土着的なものが拮抗し、新たな写実を模索している姿勢も見出せます。このような傾向は、高橋由一まで遡ることができます。

本展は、松本喜三郎らの生人形、高橋由一の油彩画を導入部として、現代の絵画と彫刻における写実表現を検証するものです。西洋の文脈のみではとらえきれない日本の「写実」が如何なるものなのか、またどのように生まれたのか、その手がかりを探ります。

出品作家作品
【序章】松本喜三郎、安本亀八、高橋由一、室江吉兵衛、室江宗智、高村光雲、関義平、須賀松園(初代)、平櫛田中
【彫刻】佐藤洋二、前原冬樹、若宮隆志、小谷元彦、橋本雅也、満田晴穂、中谷ミチコ、本郷真也、上原浩子、七搦綾乃
【絵画】本田健、深堀隆介、水野暁、安藤正子、秋山泉、牧田愛、横山奈美
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近代の巨匠たちから現代作家の皆さんの作まで、幅広く展示するようです。メインはフライヤーにも使われている、生(いき)人形。

フライヤーの作品は安本亀八ですが、喜八と並ぶ松本喜三郎(喜三郎作も複数展示されます)について、案内文に「高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。」とあります。出典は『光雲懐古談』(昭和4年=1929)。まず、安政年間、江戸で初めて喜三郎の生人形が見世物小屋に出た際のことが語られています。喜三郎は肥後の出身でした。

曰く「江戸の人形師は申すに不及(およばず)、彫刻師でも惣(すべ)て製作品として多少関係のある人が見て皆驚いた。どうして斯(こ)んなものが出来るだらうと云つた位。」「それが評判なことは湯や髪結床(かみどこ)のやうな人の集る所で、此人形の噂の無い所は無い。どうだ見たかといふやうなもので、見て驚いて迚(とて)も叶はぬといふのが一般の評でありました。

何がそれほど凄いのかというと、「其時分人形の困難なのは裸体である。人形は多くは手頭を拵へて人形の胴組をして着物を被(き)せる、足に足袋を穿かせるといふことで余程迯(に)げが出来る。裸体のものは継目が無い。全身作らねばならぬ。余程困難だ。其の困難な製作を意地にやつたので、皮肉に人のやらぬことをやつた。」というわけです。ご覧になる方、ここが一つのポイントですので、よろしく。

この他にも、その後評判になった喜三郎の作品を数多く紹介し、その手間のかけ方(毛髪を一本ずつ植える、植えた髪を自身で結う、衣服も自分で仕立てて着せる、など)を細かく解説し、「実に見事な出来で、結構過ぎて凄い。」「到底他の工人の及ぶ所では御座いません。」等々、手放しで絶賛しています。

光雲は、喜三郎本人とも面識があり、その思い出も語られています。光雲がまだ修行中だった頃、師匠・髙村東雲の元に、喜三郎が製作の参考にしたいということで、仏像を借りに来ました。すると東雲は、自分の師匠・髙橋鳳雲のさらに師匠・幸慶の十一面観音像を寺院から借りられるよう手配してあげます。そうして出来た張り子の観音像を見て、「さう申すと可笑(をか)しいが、康慶(註・「幸慶」の誤り)さんの十一面様よりも余程是は良い出来だ。」。

そして喜三郎本人を「是丈の作者でありますから定めし立派な人物で、非常な権式で、如何にも先生らしい人と何人も想像いたしませうが、私は面会致し実に案外に思ひました。至つて背の低い田舎風の老人で、着物は綿服、羽織は鉄色の極く短いので、千種色股引を穿き、口数の少ない人で、一見田舎風の老人が江戸の青物市場へ野菜の仕切を集めに来たやうな風俗で御座いました。」と回想しています。

さて、その光雲の作も2点、展示されるそうです。

まず、明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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「魚籃観音」は、最近ですと平成30年(2018)から翌年にかけ、全国巡回のあった「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」に展示されましたが、当方が拝見に伺った東京展では出品されず、残念に思っておりました。それ以前に拝見したことはありましたが。

「寿老舞」は「個人蔵」とのこと。上記画像のものではないかも知れません。もし上記画像のものであれば、テノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものです。

再来週に拝見に伺う予定ですので、確かめて参ります。また、巡回があるようなのですが、情報が不足しています。そのあたりも調べてきます。

もう1件、ご紹介いたします(また、このブログで取り上げるべき事項が溜まって来てしまいましたので)。島根県益田市からの情報です。

雪舟等楊 終焉の物語 ~室町から令和へ~

期 日 : 2022年4月16日(土)~6月26日(日)
会 場 : 益田市立雪舟の郷記念館 島根県益田市乙吉町イ1149
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜(5/3㊋㊗は開館)、5月9日(月)、5月11日(水)
料 金 : 一般300(240)円/小中高100(80)円
      ※( )内20名以上団体料金及び各種割引料金

室町時代の画聖・雪舟等楊は、その生涯のうち何度も益田を訪れ、東光寺(現・大喜庵)で終焉を迎えたと伝えられています。雪舟没後から現代に至るまで、時代によって数々の雪舟顕彰活動が行われてきました。本展では、世紀を超えて継承されてきた雪舟に関する絵画、遺跡など幅広く紹介します。

同時開催 特別企画 あの日せっしゅうになった!part2

益田市雪舟顕彰会は昭和 55 年第三次同会結成以来、市内の幼児を対象に「絵の好きな子どもを育てる幼児の絵画展」を開催しています。今回は平成 23 年から令和 2 年までの“雪舟特別賞”受賞作品を展示します。子どもらしい色彩豊かで自由な表現をお楽しみください。
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フライヤーに使われているのが、光雲作の「雪舟禅師像」(大正15年=1926)。市の指定文化財だそうです。こちらは同館で常設展示されているものとばかり思っていましたが、そうなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。
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左上画像は平成12年(2000)、茨城県立近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際のもの、右上は当方手持ちの戦前と思われる古絵葉書です。戦前から地元の宝として珍重されていたことが分かります。

絵画と彫刻、分野は違えど同じ造型作家として、大先輩へのリスペクトが感じられる作ですね。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

飛田先生清六さんより托されたりとて線香、両関を届けらる、明日の智恵子命日のため、

昭和27年10月4日の日記より 光太郎70歳

「飛田先生」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校教員、「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

戦後の光太郎、毎年10月には花巻町中心街の松庵寺さんなどで、光雲や母・わか、そして智恵子の法要を行ってもらっていましたが、この年は一週間後に帰京(生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため)を控え、ルーティーンを崩したようです。

それを知った清六が、わざわざ線香と酒を届けてくれました。ありがたいことです。

このところ、光太郎の父・光雲の作品が展示されている企画展示が各地で相次いで開催されています。それらを報じた報道等をご紹介します。

最初に、長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」。地元紙『信濃毎日』さんが主催に名を連ねており、詳しく報道してくださっています。

まず、開幕直前、内覧会を受けての報道。

仁王像の迫力、AR技術で実感 企画展「善光寺さんと高村光雲」、2日から県立美術館で

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まる。善光寺の仏像調査を重ね、修復にも携わってきた東京芸術大(東京都)の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。AR(拡張現実)技術で表現した仁王門の仁王像も見ることができる。
 大正時代に制作された仁王像や三面大黒天像、三宝荒神像などについて、同大大学院の保存修復彫刻研究室が行った近年の調査内容をパネルなどで紹介。それぞれひな型を作ってから当時の最新技術を用いて3~4倍の大きさの像を作る技法などを伝えている。制作に関わった高村光雲の画帳なども並ぶ。
 制作技法を解明するため、同研究室は仁王像の3D(3次元)計測も実施。展示ではこのデータを活用し、会場に掲示したQRコードをスマートフォンで読み取ると、画面に仁王像が立体的に再現され、迫力のあるたたずまいを実感できる。
 1日、同館で関係者向けの内覧会が開かれ、霜田英子学芸員(56)は「善光寺の仏像を巡る制作技術の継承と解明は連綿と続いてきた。善光寺の仏像を身近に感じてもらう機会にしたい」と話した。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下・18歳未満は無料。
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さらに開幕後の報道。

仏師・光雲と西洋彫刻の技術、関係性を解説 長野県立美術館で記念展「善光寺さんと高村光雲」始まる

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが仁王門の金剛力士像などを制作するために作ったひな型を、東京芸術大(東京都)の調査研究などと合わせて紹介している。
 仁王門の金剛力士像や三面大黒天像、三宝荒神像は光雲や弟子の米原雲海(1869~1925年)らが大正時代に制作。展示では明治期に伝わった西洋彫刻の技法で、ひな型から3~4倍の大きさの像を作る「星取り法」が用いられたことを解説している。仏像の調査、修復を手掛けた東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の研究も紹介。AR(拡張現実)技術で表現した金剛力士像はスマートフォンで見られる。
 この日の開会式には関係者約20人が出席。同研究室の岡田靖准教授は「善光寺の各仏像を通じ、日本古来の仏師であった光雲が西洋芸術を柔軟に受容して制作した歴史を感じてほしい」と述べた。将来に向けた保存につながる研究の重要性にも触れた。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下と18歳未満は無料。
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同展、善光寺史料館さんに収蔵されている、仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の各原型の他、光雲令曾孫の写真家・髙村達氏が、2月に都内で開催なさった「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」に出品された写真も展示されています。

御開帳に行かれる方、ぜひこちらにも足をお運び下さい。

続いて、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。一昨日の放映で、京都清水三年坂美術館さんで開催中の「明治・大正時代の木彫」展が取り上げられました。
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トップが光雲作のレリーフ「江口の遊君図額」(明治32年=1899)。
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ただ、残念ながら現地ロケはなく、画像を提供してもらっての紹介でした。他に13点、光雲作品が出ていますが、そちらは映りませんでした。

光雲以外に、光雲の盟友・石川光明の木彫、それから超絶技巧の自在置物が取り上げられました。
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こちらは5月29日(日)までの会期です。

最後に、花巻高村光太郎記念館さん。2月に始まった「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」につき、先月末に『岩手日報』さんが報じて下さいました。

光雲の木彫像「鈿女命」公開 花巻・高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作した木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を公開している。
 日本神話の「天鈿女命」が題材。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもり世界が暗闇になったとき、岩戸の前で踊りを披露した天鈿女命の姿を表現している。揺れる服のしわや、しなやかな指先などが繊細に作られている。
 公開は5月15日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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会期は5月15日(日)まで。先月の地震の被害を受けた東北新幹線、仙台以北は復旧しましたし、郡山-仙台間も20日頃には復旧の見通しだそうです。

上記三展以外に、上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催されている「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」でも、光雲作品、というか、光雲と橋本雅邦、濤川惣助ら18名の合作「綵観」(明治38年=1905)が展示中です。

4月2日(土)の連翹忌当日、光太郎、そして当会顧問であらせられた北川太一先生の墓参の帰り、立ち寄って拝見して参りました。
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あくまで「天平」がメインで、「綵観」は、「ついでに出しました」感がにじみ出ていましたが(笑)、いいものでした。

珍しく写真撮影も可でした。ただ、作品保護のためでしょう、照明がかなり落とされていて、明瞭に撮影出来ませんでした。光雲木彫作品「猗子」は上の画像、右から二面めです。その下の画像は裏面になります。
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さらに今後、今月中に光雲木彫の出る展覧会が、確認出来ている限り各地であと二つ、始まる予定です。何だかここに来て、光雲人気がまた高まっているのかな、という感じです。また追ってご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

朝教材社の人、外山卯三郎氏の名刺を持ちて来訪、出版物の推薦文をかき与へる、

昭和27年(1952)10月4日の日記より 光太郎70歳

外山卯三郎」は美術評論家。「出版物」は、外山が刊行に関わった『児童の図画教育』。推薦文自体は草稿が残っていて、そこから採録したものが『高村光太郎全集』に掲載されていますが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

3月29日(火)、『朝日新聞』さんの大阪版夕刊から。大阪で開催中の、現代アート作家・谷澤紗和子さんの個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」展評です。

女性と芸術「甘い気分」で何が悪い 「智恵子に捧げる」谷澤紗和子個展 ジェンダーロールへの批判 作品に

  切り紙による平面作品やインスタレーションなどを手がける美術家・谷澤紗和子は近年、ジェンダーへの関心を作品に取り込んできた。大阪市西区のstudio Jで開催中の個展では、明治~昭和期の洋画家・紙絵作家、高村智恵子をオマージュしたシリーズを発表している。
 和紙の切り紙作品「Emotionally Sweet Mood」は、3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ「花(ヒヤシンス)」をモチーフとする。タイトルは、智恵子の夫で彫刻家・詩人の高村光太郎のエッセーから引用した。彼は妻の死後、彼女が若い頃に描いた絵画について「幾分(いくぶん)情調本位な甘い気分のものではなかったか」とつづっている。
 「ネガティブな言い回し。だけど、甘くて何か悪いの?」と問う谷澤は、その言葉をむしろ肯定的なものとして逆手に取った。自身の作品によってではなく、夫の代表作「智恵子抄」のヒロインとして有名になった智恵子。その存在は、男性の陰で正当に評価されなかった無数の女性芸術家たちとオーバーラップする。
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 精神を病んだ智恵子は死の間際、病床で無数の紙絵作品を生み出した。智恵子の紙絵を題材にした谷澤の連作では、「I am so sweet!」という宣言と並んで、「NO」の文字があしらわれている。オノ・ヨーコの「天井の絵/イエス(YES)・ペインティング」から着想された「NO」は、現代社会においてもなお、女性やマイノリティーが奪われがちな言葉だ。
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 マティスの切り絵紙「ブルーヌード」を再解釈した「Pink nude」シリーズも、女性を排除してきた芸術の歴史をあぶり出す点で、智恵子のシリーズに通じる。理想的な女性像の全身に生えているのは、トゲのような「ムダ毛」。女の身体を縛るルッキズムに怒り、かつ笑い飛ばすかのようだ。
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 「Pink nude #2」では、もう一つのモチーフとしてアニメのセーラームーンの変身シーンが重なる。衣服が消えた瞬間、光の中で裸のシルエットと化した美少女戦士の、全身を覆うムダ毛。それは性的搾取の告発か、既存のジェンダーロールを脱ぎ捨てて戦う者たちへのエールか。
 「そこは見る人によって解釈が分かれるような、両義性がある方がいい」と谷澤。ヌードを覆うのはブルーではなく、赤やピンクの複雑なまだら模様。一義的には捉えきれない「甘い気分」で武装する戦闘服のようだ。
 4月9日までの水~土曜。


なかなか深く突っ込んだ評で、感心させられました。まず、フライヤーにも使われた「Emotionally Sweet Mood」について。元になった作品は、智恵子の故郷・二本松の智恵子記念館さんで展示されている「ヒヤシンス」(大正初期と推定)。
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よく見ると、全体のフォルムは、智恵子の元絵と左右反転の状態になっています。それがまたキモなのでしょう。それから、鉢の部分に顔があしらわれています。

こうした智恵子の油彩画が、光太郎曰く「甘い気分」。引用元は詩集『智恵子抄』にも収められた随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)です。

卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。

本来「情調本意」ですが、「情調」では分かりにくいので、個展のタイトルは「情緒」となさったようです。

ところで、余談ですが、記事では「3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ」とありますが、正しくは「3点しか現存が確認されていない智恵子の油彩画のひとつ」とすべきですね。まだ広く知られていない智恵子の油彩画が、新たに見つかる可能性も皆無ではありませんので。細かい話ですが。

同じことは光太郎の彫刻などにも言えます。昭和20年(1945)の空襲で、住居兼アトリエと共に焼失したと推定される彫刻がかなりありますが、それも「推定される」であって、「焼失」と断言はできません。それらを「焼失」または「現存せず」と断言している「論文」等をよく見かけますが、「焼け落ちるところを見たのか?」と突っ込みたくなります。

閑話休題。

「Pink nude #2」と題された作品。最初に画像で拝見した時、てっきり智恵子の紙絵からのインスパイアかな、と思ったのですが、元ネタはマティスの切り紙絵だったのですね。
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当方が何故智恵子紙絵からのインスパイアだと思ったのかといいますと、記事で「ムダ毛」と書かれいてるトゲトグの表現から。ぱっと見、「蟹か」と思いまして、下記の智恵子紙絵との関連が頭に浮かびました。智恵子が台紙に使ったのは、切り開いた封筒です。
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一昨日まで上野の森美術館さんで開催されていて、谷澤さんが佳作賞を受賞された「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」に出品された下記の作品は、まさに上記の紙絵がモチーフですね。
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ここから居なくなった蟹が、大阪の「Pink nude #2」に現れたのか、と思ったわけです。

智恵子紙絵の制作現場を目撃した殆ど唯一の人物、ゼームス坂病院で智恵子の付き添い看護に当たった姪の宮崎春子の回想。

 こうして、毎日の食膳を賑わすものを次々とつくられた。珍しいものがつけば、それを紙絵にしないうちは箸をつけないので、たいてい食事時間はおくれてしまうのであつた。
 ある日、千葉県九十九里の親戚から蟹をたくさん頂いたとき、四、五十匹を大盆にのせて伯母にみせたところ、顔を輝かして大喜びされ、中でもみごとな一匹をとられた。その夜は十一時ごろまで一心につくられ、蟹を食べ終つたのは、十二時をすぎ、そばにいた私は居眠りをしてしまつた。こうして紙絵は一枚一枚と大切に押入へしまわれて、伯父さまのおいでになられた時だけお見せするのであつた。
(「紙絵のおもいで」昭和34年=1959)

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画像は昭和30年(1955)、問題の紙絵を見る春子です。

このエピソードが頭に残っていたので、「蟹か」と思ったのですが、トゲトゲはムダ毛、元ネタはマチスだったそうで……。さらに「美少女戦士セーラームーン」までからむか、と驚きました。ちなみに光太郎とマティス、面識がありましたし、書簡のやりとりもありました。

さて、「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」、4月9日(土)までの開催です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

九時20分の電車で花巻駅、郵便局、銀行にて金を出す、買物いろいろ、 太田屋にて中食、タキシにて山に帰る、


昭和27年(1952)9月10日の日記より 光太郎70歳

花巻町中心街と思われる「太田屋」という飲食店、詳細が分かりません。のちに女将が、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたりもしていたのですが。「あそこにあったこういう店だ」等、ご存じの方は御教示いただけると幸いです。

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