カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

8月26日(土)の『毎日新聞』さんに、震災直後、貼り紙が無数に貼られた上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)の写真が半ページ使って掲載されましたが、NHKさんのニュース番組内でも同様の画像が流れました。

上野だけでなく、都内(当時は「東京府」でしたが)各所の被災の様子等でした。

関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。
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皇居外苑 二重橋前 ~ 被災者がバラックで避難生活
 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。100年前と現在の写真を動画で比較しています。皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。
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こちらには西郷隆盛像と同様に、光雲主任、チーム美校で制作した楠木正成像が既にあったのですが、西郷像のように伝言板的な使い方はされなかったのでしょうか。

日本橋 三越 ~ 建物火災も“ライオン像”は被害免れる
 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。100年前と現在の写真を比較した動画です。内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

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三越さんには、光雲作の「活動大黒天」が納められていましたが、たまたま金庫に保管されていて焼け残り、現在は屋上の三囲神社さんに奉納されています。

日本橋 ~ 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。
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隅田川 吾妻橋 ~ 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。
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隅田川べりは、明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場となった幾つかの料亭などがあった場所です。

浅草寺 ~ 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も
 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。
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浅草 仲見世 ~ 炊き出しや給付に向かう人々の列
 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

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浅草寺さんが焼けなかったのは、本堂裏手に広大な池があったためとも言われているようです。その池の中央にあった噴水には、光雲作の「沙竭羅龍王像」が配されていました。現在は本堂手前の手水舎に移転されています。

そして、西郷像。

上野公園 ~ 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難
 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。100年前の写真と現在を動画で比べてみました。体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。
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あの上野公園に50万人とは驚きでした。光雲はこの時、まだ存命でしたが、どう感じていたのでしょうか。

上野駅 ~ 多くの避難者がホームや線路にあふれる
 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。避難した大勢の人たちが写っています。内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
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明日も関東大震災関連で、新刊書籍をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

与謝野先生が御病気で中々御重態の事を一昨日平野万里さんからの電話ではじめて知り昨日慶応病院にお見舞い申上げました、一昨日が一番容態が悪く、昨日はよほど持ち直された御様子で此の分ならばまづ安心といふ事でありました、

昭和10年(1935)3月22日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

「与謝野先生」は光太郎の師・鉄幹与謝野寛。「よほど持ち直された御様子」とありますが、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきだったようで、3月26日には亡くなりました。死因は気管支カタルでした。

今日、9月1日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
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光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。

光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。

心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。

まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。

 期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
 首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
 ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
 眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
 如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
 今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
 すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。


アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。

もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
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言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。

ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。

昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。

100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。

【折々のことば・光太郎】

智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。


昭和10年(1935)3月22日 齋藤セツ宛書簡より 光太郎53歳

セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。

当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。

もう8月も終わりですが、最近気がつきまして……。

戦時中から光太郎と交流があった埼玉県東松山市元教育長の故・田口弘氏が、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで、やはり光太郎と深い繋がりのあった彫刻家・高田博厚と意気投合。その結果整備されたのが、東武東上線高坂駅前から伸びる高田の彫刻群を配した「高坂彫刻プロムナード」。光太郎胸像(昭和35年=1960)も含まれています。

その光太郎胸像が、『広報ひがしまつやま』の今月号で取り上げられていました。
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不定期に掲載されている「絵子猫さんのアイテム探し」というコーナーです。
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作者は同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さん。サンリオさんやポケモン系などのお仕事のかたわら、市の母子手帳表紙なども手がけられています。絵子猫さんの手に掛かると、武骨な光太郎像が何ともメルヘンチック(笑)。

絵子猫さん、昨年は、同市で開催された「彫刻家 高田博厚展2022」の関連事業として、彫刻プロムナード設置作品の数点を描かれ、ご講演もなさいました。
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この際には、ぜひ光太郎胸像も描いていただきたいものだと思っていたのですが、実現していました。多謝。

5月号にはやはり新作の「憩い」。
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もうこうなると、プロムナードの全作品(32点)を描かれ、画集として出版(当然、市が補助をして(笑))していただきたいものです。

同市、昨年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した比企氏ゆかりの街(同市は元々は比企郡松山町でした)として脚光を浴び、さらに今年はWBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表チームの斬り込み隊長・ヌートバー選手の関係で有名になりました。お若い頃、ソフトボールをなさっていたヌートバー選手のお母さまが同市のご出身、現在もお祖父様とお祖母様は同市ご在住です。

「高坂彫刻プロムナード」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

チエ子は病勢ますます募るので知人の周旋で品川のゼームス坂病院といふ病院へ先月末入院させました、実に可哀想でありません、其後小生家事整理に日を送つてゐますがさびしさ極まりありません。


昭和10年(1935)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎53歳

心の病がもはやどうにもならなくなった智恵子、ついにその終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しました。
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知人」は、根津で貸家業を営んでいた津谷宇之助だと、津谷の子息が回想に残しています(『谷中根津千駄木』第69号 「津谷明治聞き書き 根津の旦那津谷宇之助と賢者河口慧海」平成14年=2002)。津谷は光雲と親しい間柄で、同院の顧問だったそうです。

都内から企画展情報です。

創造の現場―映画と写真による芸術家の記録

期 日 : 2023年9月9日(土)~11月19日(日)
会 場 : アーティゾン美術館 東京都中央区京橋1-7-2
時 間 : 10:00 〜 18:00 祝日を除く毎週金曜日は20:00まで
休 館 : 月曜日 祝日の場合は開館し翌平日は振替休日
料 金 : 一般1,200 円(ウェブ予約チケット)
      ※予約枠に空きがある場合、窓口販売チケット(1,500円)購入可

 1953 年、アーティゾン美術館の前身となるブリヂストン美術館は映画委員会を発足しました。「美術映画シリーズ」と冠し、1964年までに61人の芸術家を取材して17本の記録映画を製作しました。これらは梅原龍三郎(1888-1986)や高村光太郎(1883-1956)、前田青邨(1885-1977)と いった日本の芸術家たちの制作風景や日常の様子を記録した、大変貴重な映像資料です。プロジェクトの発案者は当館創設者石橋正二郎の長男、石橋幹一郎でした。映画委員会の委員長に就任した幹一郎は「本当に美術を愛し、理解に努力している人びとの助けとなり、また芸術の先達たちの動く肖像画を伝える」ことを念願し、事業を主導しました。その結果、1950年代に盛んになる美術映画において特に近代美術の分野で先駆的な役割を果たし、イタリアの国際映画祭で受賞するなど国内外で評価を得ました。

 また、近年当館は現代美術の現場を記録し続けた写真家、安齊重男(1939-2020)の作品を収集しています。安齊は自らを現代美術の伴走者と称し、1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本展では「美術映画シリーズ」の全貌をご紹介するとともに、その取材対象となった芸術家たちによる作品、そして安齊による写真作品を展観します。当館のコレクションに国内の美術館からの借用作品を加えた約80点で構成します。「美術映画シリーズ」と安齊作品とを並列することで、日本の近現代美術の制作現場を概観することにもなるでしょう。「創造の現場」を捉えた映画と作品の魅力をお楽しみください。

見どころ
1 ブリヂストン美術館映画委員会製作「美術映画シリーズ」を一挙公開
 ブリヂストン美術館は開館翌年の1953年から1964年までに61人の芸術家 を取材し17本の映画を製作しました。日本映画近代化の立役者ヘンリー小谷の甥で記録映画プロデューサーの高場隆史や、抽象画家の小谷博貞、青木繁の一人息子で尺八奏者の福田蘭童らが製作に携わり、記録性だけでなく芸術性にも配慮された内容でした。これまであまり紹介されてこなかったこれらの映画について、その全貌をご紹介します。

2 安齊重男によるアーティストたちの
制作現場を捉えた写真約30点を展示
 安齊重男は自らを現代美術の伴走者と称し、国内外のアーティストたちのポートレイトや制作現場を写真によって記録してきました。当館には安齊が生前自ら選んだ206点の写真作品が収蔵されており、それらのなかから特に石橋財団コレクションと関連の深い作家の肖像写真や制作風景などをおさめた約30点をまとめて展示します。

3 日本近現代美術の「創造の現場」を一堂に
 「美術映画シリーズ」では1950~60年代、安齊重男の作品では1970年代以降の日本の芸術家たちのアトリエでの制作風景や日常の素顔などが記録されています。映画には梅原龍三郎が実際に左手に絵筆を持って描く姿や川合玉堂の肉声などがおさめされ、貴重な記録となっています。本展はこれらの映画と写真を一堂に集めて日本近現代美術の「創造の現場」を展観する試みです。

展覧会構成
第1章 映画のなかの芸術家たち─美術映画シリーズ
 梅原龍三郎、川合玉堂、高村光太郎、前田青邨など美術界の巨匠たちを取材し、アトリエでの制作風景や日常の様子を記録した、ブリヂストン美術館「美術映画シリーズ」。本章では、これらに登場する作家たちの映像とともに彼らの作品をご紹介します。

第2章 写真のなかの芸術家たち─安齊重男の眼
 安齊重男(1939-2020)は、自らを現代美術の伴走者と称し1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本章では、現在200点以上所蔵する当館の安齊作品のなかから約30点ご紹介します。
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というわけで、美術家たちのまさしく「創造の現場」を追う展示です。

光太郎のそれ(昭和29年=1954)を含む、旧ブリヂストン美術館時代に制作された「美術映画」17本と、それらとその他のスチール写真、関連する作品等の展示。光太郎彫刻は、竹橋の国立近代美術館さん所蔵の「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、大人の事情があるようで、9月12日(火)からの展示だそうです。
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「美術映画 高村光太郎」は、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年ぶりに岩手から上京して入った中野の貸しアトリエでの制作風景が映ります。また、像の除幕後、一時的に帰村した花巻郊外旧太田村での映像も。

他に取り上げられる作家は、梅原龍三郎、川合玉堂、鏑木清方、坂本繁二郎、前田青邨ら。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

よく観察してゐますと智恵子の勝気の性情がよほどわざはひしてゐるやうに思ひます、自己の勝気と能力との不均衡といふ事はよほど人を苦しめるものと思はれます、智恵子に平常かかる点で徹底した悟入を与へる事の出来なかつたのは小生の無力の致すところと存じます、


昭和10年(1935)2月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

療養先の九十九里浜から引き取られた心を病む智恵子を評しています。この頃は郊外に静かな貸家を探していましたがことごとく断られていました。

9月1日(金)は、関東大震災からちょうど100年となります。

区切りのいい年ですので、各種メディア等でも取り上げていますし、関連するイベント等も多く計画されているようです。

一昨日の『毎日新聞』さん夕刊。

震災時の写真を手に探した影 関東大震災100年

 関東大震災から100年の移り変わりを写真に収めるため、本社に残る1世紀前の写真を手に街を歩いた。1923(大正12)年9月1日に発生し、近代以降で最大規模の被害となった災害の死者・行方不明者は10万人以上に及んだ。
 発生当初の惨状を記録した数百枚から人の営みが伝わる写真を選定した。当時のカメラマンの正確な撮影位置を探し求めて炎天下を汗だくになって歩いた。東京大空襲や高度成長を経た首都圏の風景は形を変え、結局、当時と比較できたのはわずかだった。
 2枚を見比べると、私たちが見慣れた風景に100年前の未曽有の災害が現実味を帯びてくる。東京都防災会議の昨年5月の発表によると、最大震度7の「都心南部直下地震」は今後30年以内に70%の確率で起こると予想されている。
 もし再び大地震が発生したら、我々も公園や駅などの開けた場所に逃げるかもしれない。ファインダーの中に地続きの歴史を垣間見た気がした。

記事本体は短いものですが、写真が大きく掲載されていました。そのうちのトップの1葉が、光太郎の父・光雲を主任として東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像。この画像だけでB4判ほどの大きさでした。
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まったく同じアングルから撮影した写真を合成したもので、左が現在の様子、右が震災時の古写真。長いキャプションがついています。

彫刻家の高村光雲作で1897年に完成した上野公園の西郷隆盛像。その周辺は震災直後から行方不明者を捜す張り紙であふれていた。火災を免れた公園内は救護所などが設置されたという=写真右は1923年9月

同じ手法で、銀座、浅草、日暮里駅、そして鎌倉鶴岡八幡宮の画像も。

オリジナルの写真がこちら。
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この伝言板と化した西郷像のインパクトは大きかったようです。

こちらは古絵葉書。
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日本画家の堅山南風の描いた「大震災実写図巻」の一部。昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 アートシーン」内で映りました。
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こちらは千代田区の半蔵門ミュージアムさんで開催中の特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」で展示されているそうです。フライヤーにも使われていました。

堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春

期 日 : 2023年7月19日(水)~11月5日(日)
会 場 : 半蔵門ミュージアム 東京都千代田区一番町25
時 間 : 10時00分~17時30分
休 館 : 毎週月曜日・火曜日(月曜日・火曜日が、祝日や振替休日にあたる場合も休館)
料 金 : 無料

1923年の関東大震災から100年の節目をむかえる本年、堅山南風《大震災実写図巻》を展示します。巣鴨で被災した南風は浅草や上野に出向いて、被害状況や復興に至る様子を描き留め、のちに31枚の絵を3巻に仕立てました。その描写から、当時の人々の苦悩・悲哀や助け合いの様相が伝わります。

あわせて、南風と同時代の画家による作品12点を初公開します。会期前半の9月10日までは、日本の風景を題材とした、横山大観、川合玉堂、棟方志功、山田申吾の作品です。9月13日以降の会期後半は、竹内栖鳳、鏑木清方、小杉放菴、前田青邨、山口蓬春による人物や動植物の絵画を紹介します。
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歴史に学び、防災意識を高めるためにも、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声がかれ息がつまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度、器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、


昭和10年(1935)1月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

心を病んだ智恵子の病状、親交のあった歌人の中原綾子に宛てた複数の書簡に細かく記されています。

千葉市にある千葉県立美術館さん。収蔵品からセレクトされた品々をいわば出開帳する「移動美術館」を以前から開催なさっています。同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵、毎回のようにその中からなにがしかがラインナップに入っています。

約1年ぶりとなる次回は県北部・富里市での開催。「手」(大正7年=1918)が出ます。

第47回千葉県移動美術館~読書へのいざない~

期 日 : 2023年9月1日(金)~9月27日(水)
会 場 : とみらいテラス(富里市立図書館) 千葉県富里市七栄653-1
時 間 : 火曜日から木曜日 9時30分から18時 金曜日 9時30分から19時
      土曜日・日曜日・祝日 9時30分から17時
休 館 : 月曜日(9月18日(月曜日・祝日)は開館し、19日(火曜日)休館)
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。
47回目となる今回は、「富里市立図書館」を会場に、洋画・日本画・彫刻・工芸の分野から、浅井忠や高村光太郎、香取秀真など15点を展示するとともに、図書館司書が厳選した作品と関連する書籍もご紹介します。
展示後は、富里市立図書館や連携する県内図書館で書籍を借り受け、ご自宅でお楽しみいただけます。

学芸員によるギャラリートーク
 県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。
 日時 9月9日(土曜日)、16日(土曜日)いずれも10時30分から
 定員 各回20名  料金 無料
 申込方法 9月1日(金曜日)から電話で申し込み 富里市立図書館 電話0476-90-4646
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「手」以外でフライヤーに載っている作品は、浅井忠「裸婦」「小丹波村」、津田信夫「鷲」、香取秀真「美々豆久香爐」、安井曾太郎「熱海付近」、板倉鼎「金魚と雲」、梅原龍三郎「竹窓読書図」、福田平八郎「椿大瑠璃」、富取風堂「南天」。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんのこの病気は小生今後の運命をも決する大難でもあります、昨今の様な容態では御迷惑の程お察し申上げますし、又殊に俊太郎さんの教育上にも悪い影響があり相なので心痛に堪へません。事によつたら今度参上の時は一度ちゑさんを東京に連れて来ようかと考へてゐます。


昭和9年(1934)12月9日 齊藤せつ子宛書簡より 光太郎52歳

せつ子(セツ)は智恵子実妹。夫と幼い息子(俊太郎)、そして実母・センともども、九十九里浜に移り住んでおり、この年5月から心を病んだ智恵子を預かっていました。

智恵子の病状は一向に好転せず、子供の教育上よろしくないとのことで、結局、月末には光太郎が智恵子を引き取ることになってしまいます。

一昨日から始まっていました。

日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―

期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円

日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
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河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
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下記画像では、左が光雲、右が
慧海です。
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さて、今回の展示。

「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。

その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。

ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。

こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、


昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳

結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。

山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」につき、NHKさんのローカルニュースで紹介されました。

米沢出身の美術評論家 今泉篤男氏 論評と美術作品の特別展

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東京国立近代美術館の創設にも携わった米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏の作家の思いなどをくんだ論評と美術作品をあわせて展示する特別展が米沢市で開かれています。
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米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏は、美術作品に込められた作家の思いなどをくんだ評論が昭和20年代に高く評価され、東京国立近代美術館で現在の副館長にあたる次長を初めて務めたほか、京都国立近代美術館の初代館長も務めました。
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米沢市の上杉博物館で開かれている特別展では、美術誌に掲載された今泉氏の論評と作品をセットにしたものなど、およそ50点が展示されています。
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このうち、彫刻家・高村光太郎氏の木彫りの作品「鯰」について、今泉氏は「高村光太郎の作品にはなにか東洋の骨格、東洋の詩精神を感じられる」などと評価しています。
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また、美術作品の評論を活動を軸にしていた今泉氏が青年時代に描いた絵画、「監獄の外郭」も展示されています。
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米沢市上杉博物館の遠藤友紀学芸員は「今泉氏は地元の米沢であまり知名度は高くないが、美術にまつわる非常に大きな仕事をした人物でこれを機会にぜひ身近に感じてほしい」と話していました。
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この特別展は、今月20日まで開かれています。
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光太郎木彫「鯰」(大正15年=1926)、目玉の出品物の一つということで、大きく取り上げて下さいました。ありがたし。

竹橋の東京国立近代美術館さんからの借り受けで、同館でのコレクション展に時折出品されるのですが、常に出ているわけではありませんし、他館に貸し出される例もそうそうないものです。

もうすぐ閉幕ですが、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。
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【折々のことば・光太郎】

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう、あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。そしておいしい新らしい食物。よくたべてよく休んでください。智恵さん、智恵さん。


昭和9年(1934)5月9日
 高村智恵子宛書簡より
光太郎52歳

心の病の療養のため、智恵子は九十九里浜真亀海岸に移り住んでいた智恵子の母・セン、妹・セツ(節子)夫妻の元に預けられました。

その智恵子宛で送られたはがき。現存が確認できている最後の智恵子宛書簡です。もはや文字を読むことも叶わなくなった智恵子のため、「節子さんによんでもらつて下さい」としています。

末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、光太郎の万感の思いが込められているように感じます。

先月から始まっていたのですが、気づきませんでした。会期が長く設定されているのが救いです。

谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」

期 日 : 2023年7月8日(土)~9月2日(土)
会 場 : See Saw gallery + hibit 愛知県名古屋市瑞穂区密柑山町2-29
時 間 : [水・木] 12:00 - 17:00 / [金・土] 12:00 - 19:00
休 館 : [日・月・火] 8月13日(日)から8月22日(火)
料 金 : 無料

ヒヤシンスをモチーフにした切り紙シリーズや、高村智恵子へのオマージュの新作などを発表します。 是非ご予定ください。
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以前から智恵子紙絵等のオマージュ作品を制作、発表なさっている谷澤紗和子氏の個展。今回も智恵子作品からインスパイアされた作が複数出ています。同展のイメージ画像として使われている上記の切り絵作品も、智恵子油絵「ヒヤシンス」が象られています。
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また、智恵子が太平洋画会研究所に通っていた明治40年(1907)頃のデッサンも。

『中日新聞』さんに紹介記事が載り、そちらの画像で確認いたしました。

<ミニ美術> 谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」(See Saw gallery + hibit)

 「はいけい ちえこ さま」と名付けられた切り紙のシリーズは、戦前に活動した洋画家で紙絵作家、高村智恵子へのオマージュという。智恵子が画業の初期に取り組んだという男性ヌードの素描のイメージと、食べものをモチーフにした紙絵を模写して切り紙にし、組み合わせている=写真。
 詩人・高村光太郎の妻として、長らく彼の代表作「智恵子抄」を通して語られてきた智恵子。新作の「彼方の手に触れる。」シリーズでも、智恵子の残したヒヤシンスの油彩画を、切り紙に仕立てた。智恵子の創作を追体験する作家の営みは、近代美術史の潮流の中でともに「こぼれ落ちてきた」女性の存在、そして切り紙をはじめとした「手仕事」にも光を当ててくれる。
 1982年大阪府生まれ。京都市立芸術大学大学院修了。(宮崎正嗣)
展覧会は名古屋市瑞穂区密柑山町2のSee Saw gallery + hibit(シーソーギャラリー)で9月2日まで開催中。
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男性像の背後は、下記画像のバナナを描いた智恵子紙絵がモチーフです。
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昨日から画廊がお盆休みに入ってしまいましたが、8月23日(水)から再開とのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子儀一時は殆ど精神喪失して癡呆状態にまで陥りましたが療養と看護をつづけ居りますうち幾分か快方に向ひ、最近にては昔やつて居りました機織りを又始める程になりました、かういふ機械的の仕事は出来るやうになりましたが、まだ意識と智能の全部を取りもどすところまではまゐりません、 おてがみの事を話しましたらあなたの事をよくおぼえて居りました、


昭和9年(1934)3月20日 秋広朝子宛書簡より 光太郎52歳

この年に入ると、智恵子の心の病が一時、機織りが出来るまで快方に向かいました。しかし、それも長くは続きませんでしたが。

秋広は日本女子大学校での智恵子の同窓。家庭の事情で中退しましたが、一時、学生寮で智恵子と同室でした。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

都内から写真展の情報です。

壊死するフウケイ/ Landscape of death

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月20日(日)
会 場 : TOTEM POLE PHOTO GALLERY 東京都新宿区四谷4-22 第二富士川ビル1F
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

下総の牧の広野の暁の、空をばいそぐいそぐ水鳥 ー水野葉舟「滴瀝」より

 昭和の激動期に建設された、成田国際空港。政治的問題を抱えながらも、40年以上日本の玄関口としての役割を果たしてきた。現在、成田空港では新しい滑走路の建設が進んでいる。約1000haの建設用地(現在の空港敷地は1198ha)が買収される事で、空港の南東に広がる古くからの里山や明治以来の開墾地が失われてしまうのだ。 私は典型的な里山風景という表象をこの地に求め、失われる農村を撮影しようと試みた。しかし時すでに遅く、過疎化により、集落としての共同体は崩壊しかけ、農地は荒廃していた。聞くところによると、集落の殆どが空港拡張に賛成だと言う。 私は空港拡張に反対する立場ではないが、環境保護が叫ばれている昨今、更に自然に手を加え、大規模な人工物を建造するという事に関しては、一考の余地があるだろう。この風景たちは現代の縮図であり、状況の一部なのだと思う。

 展示では、新滑走路建設により失われる農村風景の写真を中心に、現場で録音されたフィールドレコーディング作品、映像作品の3点で構成される。フィールドレコーディングは写真撮影にちなんで「フォノトグラフィー」とも呼ばれ、今回は風景写真の延長として制作した。映像作品は、静止画では伝わり難い現地の動感を表現するために展示した。この3点をサウンドインスタレーションとして構成する事で現地の雰囲気が一層伝わるよう工夫した。

出典 水野葉舟著 歌集「滴歴」草木屋出版部, 1940
   のら社同人, 北井一夫他箸「壊死する風景―三里塚農民の生とことば」のら社, 1970

水野葉舟 ー 1883-1947 明治ー昭和時代の歌人、詩人、小説家。トルストイや高村光太郎の影響により、大正13年から三里塚駒井野で半農生活に入った。
のら社 ー 写真家北井一夫が主宰する出版社。北井一夫「三里塚」、木村伊兵衛「パリ」などを出版。
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光太郎の親友・水野葉舟の短歌が全体のイメージとして使われています。出典の歌集『滴瀝』(草木屋出版部 昭和15年=1940)は光太郎の装幀・題字です。
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大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎は日本画家・山脇謙次郎のために千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)の宮内省三里塚御料牧場近くに開墾小屋を設計し、建ててやりました。結局、この地に定着できなかった山脇に代わり、親友の水野葉舟がこの小屋を譲り受け、さらに近くに家を建てて、昭和22年(1947)に没するまで、ここに住みました。光太郎もしばしば葉舟の元を訪れ、詩「春駒」(大正13年=1924)を書くなどしています。

その後、御料牧場は那須に移転、跡地に成田空港が建設されました。空港建設が決まった当初から、いわゆる「三里塚闘争」。用地取得を巡って強引に事を進めた政府に対し、地元農民等が黙っていませんでした。そして現在、拡幅工事。それが終われば倍する面積となります。もはやほとんど反対運動はないそうです。

そこで、まだ僅かに残っている、葉舟や光太郎が愛したこの地の里山や開墾地の風景を撮った写真展。タイトルの「壊死するフウケイ」は、闘争の歴史の中で出版された『壊死する風景―三里塚農民の生とことば』(のら社 昭和45年=1970)から。「壊死」、ドキリとさせられる言葉です。

成田空港を巡る問題は、実に複雑です。あれだけ騒いで開港したものの、結局、羽田の国際線機能が拡大され、何だったの? という部分もありますし……。開港したからには半端な形での運用を続けるな、という意見ももっともですし、さりとて風景を壊死させることが正しいのか、という考えも正論です。ちなみに当方自宅兼事務所は成田の隣町。これを書いている現在も、離着陸する飛行機の爆音が響いています。もはや慣れてしまって、まったく気になりませんが……。

というわけで、写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます


昭和8年9月2日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養の旅。「青根」は蔵王青根温泉。「土湯で一番静かな涼しい家」は、福島土湯温泉のさらに奥、一軒宿の不動湯温泉。平成25年(2013)に火災で焼失するまで、光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎が書いた宿帳が当時のまま残っていました。
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焼失後、焼け残った露天風呂を使って日帰り入浴施設として再開しましたが、コロナ禍のためでしょうか、令和3年(2021)から再び休業中です。

岡山から企画展情報です。

特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月27日(日)
会 場 : 岡山県立美術館 岡山県岡山市北区天神町8-48
時 間 : 午前9時~午後5時 8月26日(土曜日)は19時まで夜間開館
休 館 : 8月21日(月曜日)
料 金 : 一般 1,400円 65歳以上 1,300円 大学生 1,000円 
      高校生 800円 中学生以下 無料

 三の丸尚蔵館は、皇居の東御苑内において、皇室に代々受け継がれた絵画・書跡・工芸品などの美術品を収蔵管理・調査・公開する施設です。現在約9,800点におよぶ収蔵品は、皇室から国への御寄贈品、御遺贈品などからなり、古代から近現代までの各時代・さまざまな分野にわたる貴重な作品が数多く収められています。
 三の丸尚蔵館では令和元年度から新施設の建設工事が始まり、令和7年度の全館完成までの移行期間中に、より多くの方々に作品をご覧いただき、皇室と日本文化に親しんでいただきたいとの方針のもと、各地で展覧会が実施されています。
 このたび岡山県立美術館においては、やまと絵の最高峰とされる高階隆兼筆《春日権現験記絵》(国宝)をはじめ、横山大観による水墨風景画の逸品《秩父霊峯春暁》、極めて精緻な彫金による《神龍呈瑞》など、各時代・分野の名品をご紹介します。また、近代の洋画家・松岡壽、満谷国四郎、児島虎次郎、鹿子木孟郎や、人形作家・平田郷陽ら、岡山が輩出した作家たちによる皇室ゆかりの作品を一挙に展覧いたします。皇室の御慶事の記念品として作られてきた、趣向を凝らした手のひらサイズの菓子器・ボンボニエールも見どころのひとつです。
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前期展示は7月15日(土)に始まっていますが、8月8日(火)からの後期展示で、光太郎の父・光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されます。
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何度か拝見しましたが、像高約1メートル、なかなかの大作です。

出品目録は以下。
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逸品ぞろいですね。

ちなみに同様の趣旨、宮内庁三の丸尚蔵館さん蔵品の出開帳的な展示で、やはり光雲作の木彫「文使」(明治33年=1900)が出ている「皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」が、秋田県立近代美術館さんで開催中です。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日久しぶりにて二本松万福寺にまゐりゑ子と一緒にお墓に香華を手向けました、役場へも一寸立寄りました、午后磐梯山下の川上温泉に投宿、無事、


昭和8年(1933)8月25日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

万福寺」は「満福寺」の誤記。智恵子実家の長沼家の菩提寺で、現在も長沼家墓所が残っています。

前日、本郷区役所に婚姻届を提出し、この日はまだ籍が残っていた油井村の長沼家の戸籍から智恵子を除籍した、ということでしょう。












新刊です。

三人書房

2023年7月28日 柳川一著 東京創元社 定価1,700円+税

 大正八年東京・本郷区駒込団子坂、平井太郎は弟二人とともに《三人書房》という古書店を開く。二年に満たない、わずかな期間で閉業を余儀なくされたが、店には松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれた──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、横山大観、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の数々を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩の姿を通じて描く。第十八回ミステリーズ!新人賞受賞作「三人書房」を含む連作集。
 乱歩デビュー作「二銭銅貨」発表から百年の年に贈る、滋味深いミステリ。

目次
 「三人書房」
 「北の詩人からの手紙」
 「謎の娘師(むすめし)」
 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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というわけで、若き日の江戸川乱歩の元に持ち込まれた謎の数々を、快刀乱麻を断つ如く(死語ですね(笑))、博覧強記頭脳明晰で行動力にも富む乱歩が次々と解決していく、という連作推理小説です。

全五話から成り、それぞれに語り手が交代。乱歩の友人だったり、弟たちだったり……。ちなみにタイトルの「三人書房」は、乱歩が二人の弟と共に一時期経営していた古書店の屋号です。

そして最終話「光太郎の〈首〉」では、光太郎が語り手。戦後の七年間、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、光太郎がやはり乱歩によって真相の解明された昭和初期の奇妙な事件を回想するという形です。

奇妙な事件というのは、光太郎が作ったブロンズの胸像が依頼主の元から盗難に遭い、さらに無残に破壊されて見つかるということがたてつづけに起こり……というもの(架空の話ですが)。イタズラや怨恨や金目当てなどではなく、犯人には、光太郎彫刻を破壊しなければならない切羽詰まった事情があって……という設定ですが、詳しくはお買い求めの上、お楽しみ下さい。

ちなみに乱歩の代表作の一つ「D坂の殺人事件」の「D坂」は、かつて「三人書房」があり、さらに光太郎アトリエ兼住居にも近い団子坂です。『高村光太郎全集』には乱歩の名はありませんが、近くに住んでいた同士、顔を合わせたことくらいはあったでしょう。

その他、内容説明欄にある通り、宮澤賢治(第二話の章題にある「北の詩人」)、宮武外骨、横山大観らが登場。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたく存じました、又先日は届書の事にていろいろ御世話さまになりましたが、昨日区役所へ無事に届済みとなりました。今晩小生等は二本松へ出発いたします、お墓まゐりを致した上どこかの温泉にてしばらく静養いたしてまゐります、

昭和8年(1933)8月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

」は婚姻届。永らく事実婚だった光太郎智恵子でしたが、ついに届けを出しました。智恵子の心の病が昂進し、光太郎は結核。万が一、先に自分が死ぬことがあったら、法律上、妻ではない智恵子に相続の権利がないことを考慮し、正式な夫婦となりました。

光太郎自身には財産と呼べるものはほとんどなかったのですが、この頃まだ健在だった父・光雲が没すれば、相当額の遺産が入ることが予想され(実際、翌年に光雲が亡くなり、相続した遺産が後の智恵子のゼームス坂病院入院費用に宛てられます)、それをふいにしたくないという……。

ただし、夢幻界の住人となってしまっていた智恵子に、その意味が理解できたかどうか……。

どこかの温泉」は、巡った順に、裏磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車の出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2023年8月5日(土)・6日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8/5 午前10時 献石神楽朝御饌祭 午後5時30分 夕御饌祭
      8/6 午後5時30分 夕御饌祭 午後6時10分 斎火受渡・渡祭始式
         午後6時30分~午後11時30分ごろ 渡祭

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。地区の名前でしょうか。
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他にも「太一丸」という団体?の祭車にも光雲工房作の彫刻が使われていますが、こちらは人手不足で最近出ていないようです。

同祭、昨年、BSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、いわば演奏・演舞を奉納します。
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ちょうど放送が始まった時間、まさに「羽衣」の祭車の順番でした。
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光雲の手になる彫刻も、何となくわかりました。

ただ、これより後の順番だった祭車はしっかり彫刻などが映り、番組ゲストの小川雅生氏(桑名石取祭保存会研究員)による細かな解説もあって、「羽衣」も、もう少し後の登場だったらよかったのに、という感じではありました。
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ちなみにゲストはもうお一方、女優の大西礼芳さん。三重県のご出身だそうで。
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大西さん、光太郎と面識のあった村岡花子をモデルとした平成26年(2014)の朝ドラ「花子とアン」や、『青鞜』編集部を舞台とした演劇「私たちは何も知らない」にご出演されていた方です。

番組では、平成28年(2016)に同祭を含む日本全国33の山車祭りがユネスコ世界遺産に登録された件についても触れられていました。
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一度、拝見に伺いたいものです。お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草津へ来ましたがちゑ子は始めてです、お湯がよいのでからだにきき相談に思ひます、

昭和8年(1933)5月18日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の湯治のため、草津に。この際は現在も続く旅館「望雲」さんに宿泊しました。8月から9月にかけては、東北、栃木と複数の温泉めぐりに出かけ、そちらは有名ですが、草津行きの件はあまり取り上げられていません。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

テレビ番組の再放送情報です。

興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHKBSプレミアム 2023年7月23日(日) 13:30~14:30

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】
 興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介
 東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

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BS8Kさんで今年2月に放映された番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月に放映されました。で、今回、再放送。

前後編60分ずつで、前編は明日放映ですが、日曜日放映の後編の方で光太郎に触れられています。

天平彫刻と、鎌倉期の康慶・運慶父子の彫刻作品との比較の中で。
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光太郎の担当は天平彫刻、釈迦十大弟子の一人、富楼那(ふるな)像の映像と共に。
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昭和17年(1942)の『婦人公論』に6回にわたって連載された評論「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)から言葉を引用。
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ただし、引用部分はこの像だけに対する評ではなく、広く天平彫刻全般についてのものです。平安期の神護寺薬師如来像を語る中で、それ以前の天平期はこうだった、という文脈です。光太郎には「十大弟子像」そのものを論じた詩文もあるのですが、それらからの引用ではありませんでした。ついでにいうと、テロップに「随筆」とあるのもちょっとなぁ……という感じなのですが、いたしかたありますまい。これに限らず、光太郎の評論は無機質な評論の枠を超えた名文ですので。

その他、番組内容説明にもある通り、興福寺さんの魅力が様々な角度から取り上げられます。ご覧になっていない方(ご覧になった方も(笑))ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】001

おたづねの団扇は左図のやうなものですが果して今日も存在するや否や、頑古にして風雅、風流にして実用的。


昭和4年(1929)4月25日 原静枝宛書簡より
 光太郎47歳

時折ある絵入りの書簡の一つ。原という人物からの往信がどんなものだったのか不明なのですが、うちわについての問い合わせに対する返答です。

本日開幕です。

CHIBA ハートフルアート展 ―「千葉市障害者作品展」出展者による作品展―

期 日 : 2023年7月19日(水)~8月20日(日)
会 場 : ちばぎんひまわりギャラリー
       東京都中央区日本橋室町一丁目 5 番 5 号 [コレド室町 3] 4 階
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時  最終日は午後 4 時まで
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

本展は、障がい者が自らの障がいを乗り越え制作した作品を公開することで、社会に多様性の意義や価値を伝えるとともに、障がいを持つ方に自信と希望を持っていただきたいとの想いで開催するものです。多くの皆さまにご覧いただくことで、ダイバーシティーへのご理解と共生社会を実現し、作者のさらなる創作意欲向上の一助となることを希望しています。本企画展では、約 30 点の作品を一堂に展観しますので、この機会にご覧くださいますようご案内申し上げます。

おかげさまで、当ギャラリーは 2014 年 3 月のオープン以来、10 万人を超えるお客さまにご来場いただきました。今後も、多くの方々の心安らぐ空間となり、地域における文化・芸術活動の発展にお役に立てれば幸いです。
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いわゆる「パラアート」の展覧会。過去の「千葉市障害者作品展」出展作等が再び並ぶ、というコンセプトだそうです。

フライヤー裏面に、書の作品で「高村光太郎“樹下の二人”より」。
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一昨年開催された第27回展で千葉市議会議長賞に輝いた作品だそうです。その際にはそういう展覧会があり、この作品が入賞していたというのには気がつきませんでした。
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こうした作品をその時限りの展示で終わりにするのではなく、また改めて、さらに地元を出て都内での展示というところに、主催者の方々などの熱意が感じられます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「ロダンの言葉」別封で送ります。持つて参上したいと思つてゐたのですが、まだ仕事が片づかないので出られません。表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします。


昭和4年(1929)3月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎47歳

「ロダンの言葉」は、この年、叢文閣から出版されたペーパーバックの普及版(元版は大正5年=1916、阿蘭陀書房)。この後、版を重ね、舟越保武、佐藤忠良等、次世代の彫刻家達がバイブルのように身辺に置いた書籍です。
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表紙画は、ロダンの裸婦デッサンです。光太郎、同一のデッサンを明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分とされてしまいました。

そこで「表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします」。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

実施期日的にはまだ先ですが、〆切りが間近でして……。

高村光太郎記念館夏休みワークショップ「紙絵をつくろう!」

期 日 : 2023年8月1日(火)~8月3日(木)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 10:00~12:00
料 金 : 500円程度(材料費)

高村光太郎の妻・智恵子は、数々の紙絵作品を世に残しました。智恵子の紙絵をお手本に自由なテーマで紙絵をつくってみましょう。3日間で一つの作品を制作するワークショップとなります。

対 象 : 花巻市内の小学生
締 切 : 7月18日(火曜)

定員をこえる場合は抽選となります。定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。次のいずれかの方法でお申し込みください。
 ・花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
 ・専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。
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智恵子の故郷、福島県二本松市では毎年「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施しており、今年で28回目。作品募集の対象が「福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童」ということで、このワークショップで作った作品をそちらに応募、ということも考えているそうです。
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なるほど。

こういう活動も通じて、自治体さん間の交流がさらに活発となれば、という気もします。ゆくゆくは光太郎智恵子がらみの自治体さんなどから担当者の方などに集まっていただいて、「光太郎智恵子サミット」的なものもあるといいか思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

私も習つてゐます。そのうち「東方」へも「エスペラント」で文章を書く気でゐます。

昭和3年(1928)7月2日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

エスペラントは19世紀末に考案された人工の言語。世界共通語として普及させようという動きがたびたびありました。日本でも知識階級を中心にエスペラントを学ぶ機運が高まり、宮沢賢治などもその一人。「イーハトーヴ」などの造語はエスペラントを意識して作られたとする説があります。光太郎のエスペラントによる作品の発表は幻と終わりましたが……。

下の画像は「樹下の二人」(大正12年=1923)のエスペラント語訳。
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平成25年(2013)、日本エスペラント協会さんが刊行した『Japana Literatura Juvero』に掲載されています。近現代詩50篇ほどの訳を集めた書籍です。

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都内の画廊で開催中、及び明日からの展示を2件。

まずは地方紙『福島民報』さんの記事から。

安達太良高原の自然生かした作品注目集める 15日まで都内で作品展 福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん

 福島県の安達太良高原の自然光や風景、音をアートにした作品展「MIND LIGHTNESS」が東京・銀座のギャラリー「巷房」で開かれ、注目を集めている。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(65)=東京・LIGHTDESIGN社長=が二本松市に建設した光の研究観測施設「あだたらキャビン」からライブ配信される映像のインスタレーション(空間芸術)と、東海林さんが現地で受けた印象を描いたクレヨン画50点を展示している。15日まで。
 ライブ映像にはあだたらキャビンから見える安達太良山の空の変化が映し出され、風や森のざわめき、野鳥のさえずりや虫の音が響く。作品名を「ほんとの空/Watch inside yourself」と名付けた。画面を薄い紙で覆い、幻想的な効果を演出する一方、鮮明な自然の音で想像力を刺激。都会と本県の雄大な自然を結び、来場者を魅了している。
 クレヨン画はさまざまな色の空や山、街の明かりなどを「光のかけら」として10センチ角のキャンバスに抽象的に表現した。世界各地を旅して浴びた光の印象を描いた作品もある。
 東海林さんは「東京で感じ、発信する安達太良山の力は一層大きく感じる」と語る。2025年大阪・関西万博の会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを務めており、あだたらキャビンで得られた光と照明の研究成果を生かす考えだ。
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照明デザイナー・東海林弘靖氏。やはり『福島民報』さんで今年2月、「ほんとの空」がらみで紹介されていました。

で、東海林氏の個展。

東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE

期 日 : 2023年7月3日(月)~7月15日(土)
会 場 : 巷房 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル3F+B1F
時 間 : 12:00 - 19:00 / final day 17:00
料 金 : 無料

 コロナ禍で人々が孤立し、自然豊かな場所に回帰していく流れに、東海林はこれからの光の在り方を問いました。そして、太陽が生み出す豊かなフルスペクトルの波長と、赤外域のあたたかさが、人間の心を包む光の原点ではないかと考えるに至りました。
 東海林は、人工的な照明によって自然光を模倣するのを嫌い、むしろ、その場を訪れた人が自らの内にある、記憶の中の光景をみつけに行くためのトリガーとして、光の要素をデザインしていくことで、自然光、人工光を問わず人間の心を包む光に到達できないだろうかと考えています。
 本展覧会では、照明デザイナーである東海林弘靖が光をデザインする立場から離れ、光と人との新しい関係を考えるインスタレーションを行います。
 人間の五官の情報能力のうち、視覚が87%、聴覚が7%とされています。約9割を占める視覚は、光の刺激を受けることで生じる感覚です。
 3階巷房では、視覚にはやや曖昧な情報、聴覚にはクリアで臨場感溢れる情報、感覚比率の逆転した実験を提示します。地下1階では、東海林が採取した光の断片を展示します。この時、人は目から入る情報を補うために、時に聴覚情報を頼りに記憶の中の光を探しにいくのか?
 多くの皆様に体験いただけますと幸いです。
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もう1件。東京藝術大学さんの院生、学部生の皆さんによる絵画の展示。

『うたの心—絵筆に託す—展』Vol.2

期 日 : 2023年7月14日(金)~7月20日(木)
会 場 : 東京九段耀画廊 東京都千代田区三番町7-1-105 (朝日三番町プラザ1F)
時 間 : 12:00〜19:00 (最終日 〜17:00) ※会期中無休
料 金 : 無料

 人にはそれぞれ大切にしている歌があります。悲しい時ふと思い出す歌、嬉しい時つい口ずさむ歌、そして愛する人を思い出したい時の歌などいろいろとあります。
 本展の『うたの心』展では、第一回と同様に参加の作家の皆さんが大切にしている歌を思い出して、「うたの心」を想い音符ではなく絵筆で表出して頂く展示であります。

出品作家
東京藝術大学大学院:原澤亨輔(二年)、陳天逸(二年)
東京藝術大学:四年生:今野沙知子、三年生:伊勢菜々美、中川理裟、中原玲奈
       二年生:伊東彩那、金井玲、竹石楓、新沼緑、日野樹来
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日本画を詩歌からのインスパイアで、ということなのでしょう。

「出品作家」欄に名のある竹石楓さんという方がツイッターに「高村光太郎の詩から2篇選んで制作しました。🌙🐕 是非お越しください!」と投稿していらっしゃいました。ありがたし。

「東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE」の方は、気づくのが遅れ、明日までとなってしまっていますが、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

瀧波さんに彫つてもらつた印を捺す為に色紙など書いたら皆画きそこないました。さういふ事を考へてかかるとやつぱりいけません。


昭和3年(1928)3月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎46歳

瀧波さん」は瀧波善雅、篆刻家です。「彫つてもらつた印」は、おそらく左下画像のもの。この年刊行された評伝『ロダン』のペーパーバック普及版奥付の検印紙です。同じ『ロダン』でも前年に出たオリジナルのハードカバーの検印紙(右下)に捺されていたのは何だか三文判のような……。
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新しい印を捺したいばかりに色紙に何か描いたところ、そんな不埒な考えで描くとやっぱりだめだったと云うわけで、笑えますね。

ちなみに後に愛用するようになる斉白石制作の印も、宮崎を通じて作ってもらっています。

本日開幕です。

一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉

期 日 : 2023年7月13日(木)~10月1日(日)
会 場 : 瑞巌寺宝物館 宮城県宮城郡松島町松島字町内九十一番地
時 間 : 8:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 大人700円 小中学生400円

墨画は水と墨と紙から生まれる無限の濃淡と、滲みと調和から表現される作品です。この度瑞巌寺宝物館では、仙台在住で墨画家として活動されている一関恵美氏の墨画展を開催いたします。皆さまの心に恵風が吹き渡りますように。関連企画として墨色七夕の展示・制作実演・墨画体験ワークショップなどもございます。(瑞巌寺さんサイトより)

伊達政宗公の菩提寺 国宝 瑞巌寺にて 松島湾から青龍山をつなぐ杉の参道 禅寺の静寂 神秘的な風吹く松島の地 墨画の世界 心をこめて墨を磨り 濃淡やあわいにじみで表現した墨画を展示致します。 瑞巌寺の夏から秋にかけて 季節のうつろい 木々や花々の変化も愛でながら 「千貫乃風」ご高覧頂きたくご案内申し上げます。(一関さんサイトより)
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墨画家の一関恵美さん。光太郎作品の朗読にも取り組んで下さった朗読家の荒井真澄さん、光太郎がらみのコンサートを開かれたピアニスト・斎藤卓子さんとともに「シューマンと智恵子抄」(平成24年=2012)、「楽園の月」(平成25年=2013)等に作品を寄せられた方です。日比谷松本楼さんでの第57回連翹忌の集いでは、斎藤さんのピアノにのせてアクションペインティングをご披露下さいました。

昨夜、荒井さんから画像が届きまして、それがこちら。今日現在、こちらのフライヤーの画像がネット上に見つけられませんで、そのまま載せます。
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左上が一関さんが描かれた聖観音像。光太郎の父・光雲作の大きな像で、瑞巌寺さんの庫裡に納められているものです。こちらの絵も展示されるということでしょう。ありがたし。

10月1日(日)までと、会期が長いのもありがたいところです。今年は4年ぶりに女川光太郎祭が元の規模で開催されますので、その帰りに立ち寄ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君の葉書にある通り晴朗こそ欲しい。しかし其は言葉で書かれた晴朗では役に立たない。晴朗が言葉にあらはれたのでなければ意味を持たず、又人を決して打たない。内なる世界が晴朗である時のみ晴朗なものが生きてあらはれる。僕も晴朗を自分に望んでゐるが、まだ中々晴朗なものは及びもつかない。ウソの晴朗を書いて死んだものを作るよりは、むしろ自己のなりのままをさらけ出して人に訴へるものを書く気でゐる。さうして心を鍛へてゆけばおのづから晴朗な内奥の自己に到達すると信じてゐる。


昭和3年(1928)2月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

ポジティブですね。しかし、そのポジティブさが脳天気なそれではないところが、光太郎の光太郎たる所以の一つです。

明日開幕の企画展等、2件。いずれも東北地方での開催です。

今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯

期 日 : 2023年7月8日(土)~8月20日(日)
会 場 : 米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日 (月曜日が休日の場合はその直後の平日)
料 金 : 一般490(390)円 高大生340(270)円 小中生240(190)円
      ※( )内は20名以上の団体

今泉篤男(いまいずみあつお 1902~1984 米沢市出身)は、戦前から評論活動をスタートし、国内外の美術工芸に関する幅広い分野を対象とした美術評論家です。一方で、東京国立近代美術館初代次長、京都国立近代美術館初代館長を勤めた美術館人でもありました。国立美術館の仕事のほか、資生堂ギャラリーをはじめとする多くの美術館運営に関わり、評論家としては1950年代に日本の「近代絵画」をめぐる問題提起が「今泉旋風」を巻き起こすなど、今日でも美術界全体に今泉の足跡をみることが出来ます。本展では、今泉篤男の遺した多彩な仕事を、ゆかりの作家の作品と今泉の言葉を通して紹介します。

展示構成
第一章 生い立ち 米沢・山形での学生時代 第二章 東京帝国大学~留学 初期の評論活動
第三章 美術批評家 今泉篤男の誕生    第四章 美術館人として 美術評論家として
第五章 工芸への情熱           第六章 ゆかりの作家たちと郷里へのまなざしと

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今泉は光太郎とも親しく、光太郎は戦時中の昭和19年(1944)には雑誌『美術』に載った「回想録」を今泉に口述したりしています(掲載は翌年)。

そこで、光太郎の木彫「鯰」のうち、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの(大正15年=1926)が出張。
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他に濱田庄司、椿貞雄、梅原龍三郎、安井曾太郎、平櫛田中、バーナード・リーチら、光太郎と関わりのあった面々の作も。さらにルノワールや加守田章二(高村光太郎受賞者)なども。

もう1件。同日開幕で、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~

期 日 : 前期 2023年7月8日(土)~8月2日(水)
      後期 2023年8月5日(土)~9月3日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 8月3日(木)、8月4日(金)
料 金 : 一般 ¥1200 (1000) 高・大学生 ¥1000(800)  中学生以下無料
      ※( )内は前売り、20名以上の団体

本展では、伊藤若冲や琳派を中心とした江戸時代の絵画や近代絵画の名品など、皇室ゆかりの名宝をご覧いただくとともに、秋田県出身の平福百穗が結成した「金鈴社」のメンバーの作品など、秋田県ゆかりの絵画や美術工芸品(明治時代の七宝や彫刻、金工品)を展示します。あわせて、明治天皇や秩父宮雍仁親王による秋田県訪問の様子を納めた写真をパネル展示し、皇室と秋田県のつながりをご覧いただきます。
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皇居内の三の丸尚蔵館さんが改修中のため、出開帳的な。これまでも各地で行われてきていますし、今年はこの後も、光雲作品が出るそれが岡山と石川でも予定されています。

秋田で出品される光雲木彫は「文使」(明治33年=1900)。ただし前期(7/8~8/2)のみです。

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当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し逓信省から献上されたもので、台座部分には螺鈿と蒔絵の装飾も施されているなど、入魂の作です。

光太郎、光雲共に木彫作品を直に見られる機会はそう多くありません。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻界の対人関係などにあまり頭を使はない方がいいかと思ひます。さういふ事は皆一場の喜劇に過ぎません。


昭和2年(1927)5月6日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

山本の父・瑞雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。稚彦自身も彫刻家となりました。光太郎同様、二代目的な部分でいろいろあったのでしょうか。

テレビ番組の再放送系、2件ご紹介します。

日曜美術館「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争

地上波NHK総合 2023年7月9日(日) 20:00~20:45

ゴーギャンと並んで教科書にも登場した「クォ・ヴァディス」。題は聖書の引用「何処へ行くのか?」。前衛画家の終戦直後の作だが作者の意図は謎だった。今意外な真実が明らかに。

シュルレアリスム画家・北脇昇が終戦後、死の直前に残した「クォ・ヴァディス」。画家の意図は謎に包まれてきた。後姿の復員兵らしき男は何処へ行こうとしているのか? シュルレアリスムが日本にもたらされたのは戦時下。画家たちは抑圧の中で絵を描き終戦を迎えた。その心情の反映なのか?過去の評論家は行き暮れた男の姿に作者の挫折を重ね、戦争でシュルレアリスムが結実しなかったことを嘆いた。だが、近年の研究で意外な秘密が。

出演者
【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
【キャスター】小野正嗣 柴田祐規子


シュルレアリスム画家・北脇昇を中心に取り上げたもので、本放送は7月2日(日)でした。
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同番組、光太郎智恵子や光太郎の父・光雲らと関わらないと思われる作家を取り上げる際などは、拝見しないことがあります。今回がそうでした。ところが、放映終了後、お仲間の一人からメールで「光太郎が紹介されたよ」。「ありゃま」と思い、見逃し配信のNHKプラスさんで拝見。

すると、戦時中や終戦直後、当時の芸術家等が戦争や敗戦とどう向き合ったのか、という中で光太郎が紹介されていました。
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他に金子光晴など。例によって金子に関しては、光太郎同様戦時中にコテコテの翼賛詩も書いていたことには触れられず、「反戦の詩人」と云った扱いでしたが。金子に対してはもはやそういう評価がほぼ定着してしまっていますね。別に金子をディスるつもりもありませんが、翼賛詩は書かなかったことにしてしまおう、という本人あるいは取り巻きの策謀が功を奏しているようです。

閑話休題、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2023年7月11日(火) 17:58~19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

楽曲1
「東京アンナ」大津美子  「ダイナ」ディック・ミネ  「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介  「傷だらけのローラ」高道(狩人)  
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄  「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ
楽曲2
「サチコ」ニック・ニューサ  「ひとみちゃん」神戸一郎
「そんな夕子にほれました」増位山太志郎  「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「お吉物語」天津羽衣  「おーい中村君」若原一郎
「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ  「姿三四郎」姿憲子  「与三さん」照菊

<司会>合田道人
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物故者を含め、過去の歌唱映像の再編で構成されている番組。令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)も流れます。亡くなって以来、何度かこの手の番組で取り上げられ続けています。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「大調和」が予想にたがはず、内容豊富で、又体裁も奇麗なので喜びました。あなたの労苦も思ひやられました。お金も思ひがけなく沢山もらつて大よろこびです。早速出しにゆきます。講演会のお礼には本当に恐縮しました。

昭和2年(1927)3月23日 笹本寅宛書簡より 光太郎45歳

この年創刊された「大調和」は武者小路実篤主宰の雑誌。笹本はその編集者で、後に小説家としても名を馳せます。

3月17日にはその「創刊記念文芸講演会」が催され、光太郎も登壇、「五分間」と題して講演をしました。また、創刊号には光太郎の評論「ホヰツトマンの事」も載りました。そのあたりのもろもろで振り込みがあったようで、「沢山もらつて大よろこび」「早速出しにゆきます」(笑)。

今日の朝刊を広げて「ああ……」という感じでした。

野見山暁治さん死去 戦没画学生の遺作に光、美術界を先導 102歳

 抽象性の高い伸びやかな画風で戦後の美術界を先導し、戦没画学生の遺作に光を当てたことでも知られる文化勲章受章者の画家、野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんが22日、心不全のため福岡市の病院で死去した。102歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、東京と福岡でお別れの会を開く予定。
 福岡県の炭鉱地帯、嘉穂郡穂波村(現飯塚市)で生まれた。1943年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科を繰り上げ卒業し、中国東北部へ出征。病気で内地送還され、終戦を迎えた。
 戦後、自由美術家協会に参加(64年退会)。52年に渡仏し、64年までパリなどで制作した。58年に「岩上の人」で具象画家の登竜門だった第2回安井賞を受賞。渡仏中に水墨画など東洋の美への関心をもち、風景などをもとに、色と形が溶け合うような抽象性の高い画風へと変化した。
 帰国後、自宅のある東京のほか、福岡の海沿いにアトリエをもち、空や海、風など、うつろう自然と向き合って制作を続けた。東京国立近代美術館など、各地の美術館で大規模個展が何度も開かれた。
 戦争体験から、戦没画学生の遺族を回って遺作を集めた画集「祈りの画集 戦没画学生の記録」(共著)を77年に刊行。その遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の設立に、作家の窪島誠一郎さんとともに尽力した。
 東京芸術大教授などとして多くの後進を育てた。東京芸大名誉教授。00年に文化功労者、14年に文化勲章。
 日本エッセイスト・クラブ賞の「四百字のデッサン」(78年)や自伝的エッセー「いつも今日」(05年)などを出し、名文家としても知られた。
 体調を崩し、今月8日から入院していた。

■■評伝
 飄逸(ひょういつ)かつ朗らかに語り、画風も生き生きとした筆が魅力だった。しかしそこに潜む、鈍さ、重さ。102歳の人生をまっとうした野見山暁治さんは「近代」を背負い続けた画家だった。
 日本の産業化を支えた産炭地に生まれ、「すべて人工の中」で育った。美術学校を繰り上げ卒業させられ中国の戦地に向かったものの、病のため終戦は内地で迎えた。
 戦後は故郷のボタ山を描いたこともある。その後、華やかなパリで過ごし、伸びやかなタッチを獲得し、実際の風景や写真から心象とも抽象ともいえる画風を確立した。
 絵が売れることや名声には関心がなく、教員時代は多くの学生から慕われた。「無言館」に結実する戦没画学生への思いは強く、文化勲章を受けた後も「友人は戦争で亡くなったのに後ろめたい」と語った。
 晩年まで福岡県のアトリエ近くの海に潜り、活力に満ちた筆の伸びは永遠に元気なのではと思わせるほど最晩年まで衰えを見せなかった。「生き残った」身体をフルに動かした跡であり、100歳にして、絵を描くことは「こんなに楽しいものか」という境地を語っていた。
 産業化で富を生む一方、戦いや多くの矛盾を抱えた近代という時代。野見山さんは、その光と影を身をもって、色と形が溶け合う表現で示した人だった。

■■野見山暁治さんの歩み
1920年 福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ018
 38年 東京美術学校予科入学
 43年 同校油画科を繰り上げ卒業
 48年 自由美術家協会賞
 52年 私費留学生として渡仏(64年まで)
 58年 安井賞
 72年 東京芸術大教授に
 96年 毎日芸術賞
2000年 文化功労者に
 03年 東京国立近代美術館などで個展
 14年 文化勲章
 20年 東京メトロ・青山一丁目駅にステンドグラス
(『朝日新聞』)

直接、光太郎に関わられた方ではないのですが、当方、一度お会いしてお話を伺いました。氏は早世した荻原守衛を除いてほぼ唯一、光太郎が高く評価した彫刻家・高田博厚とパリで親しくなられ、昭和32年(1957)、高田の帰国に伴い、高田が使っていたアトリエを引き継いだ方です。そのため、高田の顕彰に力を入れている埼玉県東松山市に招かれ、平成30年(2018)に作家の堀江敏幸氏と公開対談をなさいました。その際にはおん年97歳。ジーパン姿でいらっしゃり、それがよく似合っていて舌を巻かされたのもいい思い出です。
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その前年に、鎌倉の高田のアトリエ閉鎖に伴い、そちらにあった作品や遺品類等が東松山市に譲渡されることとなり、その際にも一肌脱がれています。そこで、翌年の公開対談に繋がったようです。遺品類の中には、光太郎に関わる品も含まれていました。

また、記事にある通り、長野県上田市に開設された戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんの設立にもご協力。この件は、昨年、日本テレビさん系で放映された「24時間テレビ45スペシャルドラマ 無言館」で描かれ、興味深く拝見しました。野見山氏の役は寺尾聰さんでした。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間母のなくなりました時はおこころのこもつた御てがみをいただいてあの時大変に慰められました。


大正14年(1925)10月6日 室生犀星宛書簡より 光太郎43歳

前月、光太郎の母・わかが68歳で大腸カタルのため亡くなりました。髙村家(光雲は健在)では、これを機に墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

訃報を2件。

まず、彫刻家にして元東京藝術大学さん学長の澄川喜一氏。今朝の『朝日新聞』さんから。

澄川喜一さん死去 彫刻家 スカイツリー監修

000 抽象的な木彫で知られた文化勲章受章者で、東京芸術大学長も務めた彫刻家の澄川喜一(すみかわ・きいち)さんが4月9日に91歳で死去していたことが分かった。同大学が発表した。
 島根県に生まれ、山口県の錦帯橋を見て木の造形にひかれ、同大学で彫刻を学んだ。母校の教授や美術学部長を歴任し、95年~2001年に学長を務めた一方、新制作展を中心に作品を発表。70年代後半から続く、木の反りを生かした抽象的な「そりのああるかたち」シリーズで評価された。 その造形性を生かし、東京湾アクアライン川崎人工島「風の塔」に関わり、東京スカイツリーではデザイン監修。平櫛田中賞、本郷新賞といった彫刻賞のほか、日本芸術院会員にもなった。各地で石や金属による野外彫刻も多く手がけた。

戦後、東京美術学校から改組された東京藝術大学さんの美術学部彫刻科を卒業され、母校の教壇に立たれました。光太郎の父・光雲から連綿と続く同大の彫刻の伝統を受け継ぎつつも、革新的な抽象彫刻を得意とされました。さりとて具象彫刻を否定されたわけではなく、公共空間での彫刻のあり方として、光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像などは高く評価なさいました。また、氏は島根県のご出身で、同郷の森鷗外の顕彰などにも関わられたことがありました。

もうお一方、昨日、亡くなられました。高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。
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しばらく前から闘病されていたそうでしたが、昨年の高村光太郎研究会ではご病気をおして発表、今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さいました。

お通夜が本日6月22日(木)18時~、告別式は明6月23日(金)11時~、それぞれ大阪府泉南郡田尻町葬祭場(〒598-0092 大阪府泉南郡田尻町吉見335番地1)で執り行われるとのことです。

澄川氏、西浦氏、謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

急に来たくなつて、昨夜遅く高崎へ来て、今朝一番の汽車で沼田へ行くところです。右の窓には例の赤城、左には榛名がすつかり晴れ渡つて見えます。 今日は又山を歩いて法師の湯までゆかうと思つてゐます。


大正14年(1925)6月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎43歳

温泉好きだった光太郎、東京在住時には、特に上州の温泉をよく訪れました。「例の赤城」とあるのは、かつて水野と共に赤城山の猪谷旅館に長期滞在したことがあるためです。



今年2月、平凡社さん刊行、和田博文氏著の『日本人美術家のパリ 1878-1942』に関し、6月17日(土)、『東京新聞』さんから。

<土曜訪問>時代の風景 読み解く 1次資料駆使し日本モダニズム探る 和田博文さん(東京女子大特任教授)

000 近代日本の美術家は“芸術の都”パリにどう迎えられ、何を学んだのか。東京女子大特任教授の和田博文さん(69)の『日本人美術家のパリ1878−1942』(平凡社)は、明治から昭和戦前期の美術家たちのパリ体験に焦点を絞った最新の単著だ。高村光太郎、佐伯祐三、藤田嗣治らが、言葉や習慣の違いに戸惑いながらも新しい表現を求めて苦闘する日々を、彼らの手記や当時の紙誌の記事の資料をもとに丹念に跡付けた。
 「私は美術の専門家ではないですが」と前置きして「戦前の美術雑誌に載っているパリ関係の資料を、一度全部洗ってみようと。これはたいへんな作業で、誰もやったことがないんです」と大部の自著に達成感をにじませた。
 文化史、比較文化が専門で、とくに「モダニズム」研究の分野のトップランナーだ。モダニズムは、十九世紀末から二十世紀初めに世界で起きた文芸変革の潮流であり、和田さんはその時代のさまざまな資料の収集と調査、復刻を通じて、日本でのモダニズムの実相を明らかにしてきた。
 作家の宇野千代が一九三〇年代に創刊した雑誌『スタイル』は、女性の映画俳優を採用して洋装和装を問わず最先端の流行を発信。ファッション以外の趣味の文化を取り込む中で、食器の専門家として登場させたのが、シュールレアリスム詩誌『リアン』を創刊、マルクス主義にも傾倒した竹中久七だったことを突き止めた。
 また、そのころ文学雑誌に文学者の顔写真が掲載されるようになり、それが文学の読まれ方にどう影響したのかを考察した。「中原中也の瞳のぱっちり開いた、いかにも無垢(むく)な印象の写真が、彼の詩の読まれ方と連動した」。「モダンガール」の実像に迫るため、写真雑誌『アサヒカメラ』を端から端まで読んだ。
 和田さんは「モダニズムとは、最も新しいものに価値を見いだすという意味」と定義する。モダニズム期の一次資料(本、雑誌、詩集、写真、ポスターなど)からは、西洋のハイカラな文化や技術が、時間をかけて日本化されていく過程を読み取ることができる。「一次資料と向き合っていると、つくられた時代の風景がよみがえってくる」
 詩を研究していた三十代前半のころに転機があった。学生時代の友人が開いた古書店、石神井書林(東京都練馬区)との出会いだ。短詩系文学の専門で、有数の目録を誇っていた。「店主が古書つまり一次資料の話をしても、私は何も分からなかった」。全集と、誰かが書いた評論を机に置いて論文を書いても、それらを通り道に同じような論を再生産していくしかない。一次資料を徹底的に集めて論文を書くという研究スタイルに方針を転換した。
 ただ、戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ。当時勤めていた大学とは別に非常勤で勤めたりもして、一次資料の購入を続けた。その額は計約四千万円にも。この膨大な蓄積が、全百巻のシリーズ「コレクション・モダン都市文化」(ゆまに書房)の監修などに実を結んだ。
 「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる。だから私は、特定の専門の研究者ではなく、ジャンルをクロスする研究者になった」
 肩書は「人文学科日本文学専攻特任教授」だが、作家個人の名前を冠して書いた本は、宮沢賢治についての一冊だけという。
 六〇年代に日本近代文学館ができて資料を集め、出版社と大学の研究者と協力して個人全集を刊行する「作家主義」が隆盛したが、それも八〇年代終わりに終了したとみる。岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない。「全集を通して見えてくる風景が目新しくなくなった」
 かといって、近代文学が全く読まれないかというとそうではない。二〇一七年に編んだ二巻の『猫の文学館』(ちくま文庫)は多くの読者を獲得した。寺田寅彦、太宰治、佐藤春夫らの作品から、猫が生き生きと描かれる短編やエッセーを集めた。猫がいかに豊かなインスピレーションを作家に授けたかを知る、ユニークなアンソロジー。「作家主義は終わったが、文学はまだ面白い可能性を秘めていることを、いろいろな切り口で伝えたい」
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『日本人美術家のパリ 1878-1942』。好著だな、と感じつつ拝読したのですが、その舞台裏というか、制作秘話というか、なるほど、こういうことだったか、と思いました。

和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。

また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。

それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。

光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。

ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。

大正14年(1925)5月11日 田内静三宛書簡より 光太郎43歳

「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。

昨日は三越百貨店日本橋本店さんに行っておりました。主目的は、渡辺えりさんご出演の舞台「三婆」の拝見。
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特に光太郎智恵子らと関わる内容ではないのですが、渡辺さんからの「観に来なさい」圧が凄く、さらに、妻が「チケット取って!」。どうも当方と共にえりさんご出演のテレビ番組をいろいろ観ているうちに、あろうことか(笑)渡辺さんのファンになってしまったようです。

ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
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そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
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当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。

その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
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残念ながら通常非公開で、当方も現物は拝見したことがありません。

この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。

それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。

そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
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ところが、これ以前にも三越さんがらみの大黒天像が、光雲によって制作されていました。

先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
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『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。

生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。

三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
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恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。

「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。

ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。

箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。

ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。


大正14年(1925)1月28日 川西英雄宛書簡より 光太郎43歳

川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。

昨日の段階ではネット上にはフライヤー等が出ていないのですが、一応、花巻観光協会さんのサイト、それから『広報はなまき』に情報が出ました。

テーマ展『山のスケッチ』

期 日 : 2023年6月17日(土)~8月31日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

 東京から花巻へ疎開した高村光太郎は、滞在した先々で目にした初夏の光景に感動し、花や野菜などをスケッチして残しました。
 その後移住した山口集落では暮らしの中で接した植物などがスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想もうまれました。
 詩集は未完に終わったものの、山の暮らしの中で詠んだ詩やスケッチは当時の文芸誌や雑誌に掲載され、世に知られることとなりました。
 この展示では、光太郎が太田村(現花巻市)で過ごした自然をテーマとして、草花のスケッチや詩稿などの資料を紹介します。

展示資料
 ・散文『山菜ミヅ』原稿           1点
 ・詩『花はなにとて』原稿          1点
 ・鉛筆淡彩『山口集落』           1点
 ・草花素描集『山のスケッチ』より精密複製  6点
 ・光太郎写真(昭和26年9月撮影)     2点
  他、草花写真パネル

展示の見どころ 
 詩『花はなにとて』草稿は今回が初公開の資料です。光太郎全集や回想録などで作品の存在は知られていましたが、直筆原稿の公開は初めてです。
 散文『山菜ミヅ』は、鉛筆淡彩による山菜のスケッチとともに雑誌『婦人公論』昭和22年6月号で発表された作品です。東京出身の人として知られていた光太郎が、岩手の自然の中で生活を送っていることを世に知らせた資料であると言えるでしょう。

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スケッチに関しては、複製での展示。現物は三冊、現存が確認できていますが、おそらく髙村家の所蔵のはずです。

それらの中から十数葉を原色版で複製し、中央公論美術出版さんから『山のスケッチ』という画集が昭和41年(1966)に出ています。光太郎の画集としては唯一の出版です。
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「らんまん」に出てきそうな(笑)。

これらを描くため、というわけではないのですが、光太郎、牧野富太郎の著書を都内在住の人々に手に入れてくれと依頼し、実際、光太郎の山小屋には牧野の『植物集説』上下、『植物分類研究』上下、『続植物記』が遺されていました。戦前のものも含まれていますが、依頼されたうちの一人、筑摩書房編集者の竹之内静雄が何とか見つけてくれたようです。

「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明日久しぶりの短歌会に参上いたしたいのも山々ながら、留守中つもつて居ります緊急の用事を先づ片つけねばならず、残念ながら多分まゐれない事と存じます。来会諸士によろしく。


大正13年(1924)11月27日 与謝野晶子宛書簡より 光太郎42歳

確認できている晶子宛唯一の書簡です。二人の関係を考えればかなりの数が送られているはずなのですが……。晶子の夫・寛宛は十数通確認できています。

この書簡も、晶子の著書『女子作文新講 巻二』に画像入りで紹介されているため、確認できた次第です。

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昨日のこのブログ、国会図書館さんで調べた『婦人之友』の記事について触れましたので、ついでにそのあたりをもう少し。

先月の調査の際に見つけたのですが、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事です。タイトルが「変つた形のエプロン二種」。「恵美子」という署名で書かれており、同誌の記者が執筆したもののようですが、「二種」のうちの一つが、なんと智恵子デザイン、製作のエプロンです。

 高村光太郎氏の御宅に伺つたとき、手を拭きながら出ていらしつた夫人が、ほんとうに面白い前掛をかけてゐらつしやいました。何だかわからない厚地の渋い茶色に印度更紗を取り合せてある、めづらしい形ちのものでした。早速拝借して来たのがこの写真のものです。
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 布地(きれぢ)はお酒をしぼる時に使つた袋なのです。色も厚さも丁度ズツクのやうで、これに古代更紗でふちが取つてあるのです。エプロンの中央には随分大きなポケツトがついて居ります。このポケツトは大変役にたつので、お炊事の時に一寸ふきんをはさんでおいたり、お仕事の時は、鋏や絲など失(なく)しやすいものを入れておいたりすることが出来ます。而もその形が如何にも大まかなので、よく全体の調和を保つてゐるのです。
 何でも有り合せの布(きれ)を利用して、うまく配合させると、中々面白いものになります。夫人がもう一つ見せて下すつたのは形は同じで、キヤラコの地に、水色の四角な輪を散つてゐる麻布(あさぎれ)を取り合せてありました。大変すゞしさうに見えました。雑ぱくな仕事着よりずつと趣味が豊かで上品なかんじがいたします。一寸したお客様の時なら着たまゝで出てもさしつかへはないでせう。
 作り方は左の図をごらんになればすぐわかります。これは頸(くび)にかける紐が輪になつてゐますが、髪が崩れる恐れがありますから、紐の中央を裁(き)つてホツク止めにするか、紐の一方の端だけはなしておいてこれにスナツプをつけ、胸の三角形の所にとめ合せるやうに工夫したらよいでせう。着物の場合、袂(たもと)は左右についてゐるひもでしつかり結ぶと大丈夫となります。
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 赤ちやんのあるお母様にまたこのエプロンは大変便利ではありませんか。哺乳の度(たび)に、いちいち取り外さなくてもよいのですから。
 全体の巾(はば)や長さは着る方の身体によつて適当にして頂きます。たゞ御参考までに大体の出来上り寸法をかき入れてみました。


原文は総ルビですが、分かりにくいと思われるもの以外は外しました。あきらかな誤字は正してあります。

何だか現代でも売っていそうなデザインですね。大正末といえば、まだ婦人は和装が中心だったのではないかと思われ、家事の際にはエプロンより割烹着的なものが多かったのではないでしょうか。その時代にこのエプロン、斬新だったかもしれません。

素材が「お酒をしぼる時に使つた袋」ということで、智恵子は福島の実家・長沼酒造から持ち帰ったのではないでしょうか。となると、麻や絹ではなく、コットンでしょう。もう一つの同型のものはキャラコと書かれていて、これも綿布の一種ですね。

ところで、型紙の図。単位が記されていませんが、尺貫法で書かれているようです。たて「247」は247㌢=2㍍47㌢では長すぎますね(笑)。といって、247㍉=24.7㌢では赤ちゃんのよだれかけです(笑)。「247」は2尺4寸5分=約74.2㌢でしょう。そこで、全て㍉に換算してみました。
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紐の長さは書いてありませんが、適当に、ということでしょう。まぁ、体型によっても変わるでしょうし(笑)。

それにしても、写真は智恵子が使っていたものを借りてきて撮影したそうで、「おお」という感じでした。これを装着した状態の智恵子の写真が載っていれば、なおよかったのですが……。

ところで、エプロンというと家事のイメージ。「智恵子」「家事」といえば、1ヶ月位前でしょうか、有名なフェミニズム系のセンセイ(昔よくテレビでジェンダー論を吠えていた女性の方です)が「光太郎は炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」的な発言をなさっていました(そのセンセイ、昔から「智恵子抄」を眼の敵にされているのですが)。しかし、「ちょっと待てよ」です。

たしかに光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、次の一節があります。

彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であつた。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまふ。さういふ日々もかなり重なり、結局やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くといふやうな事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食はれる事になるのであつた。

しかし、同じ文章には

私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。

とあり、「炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」とは言えますまい。

また、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居近所の住民の目撃証言で、光太郎が買い物カゴを下げて歩いているのはよく見かけたが、智恵子の買い物姿は見たことがない、といったものもあります。「やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず」と云いつつも、かなり分担は為されていたのではないかと思われ、やはり「炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」は言い過ぎのような気がします。

ま、この辺りを論じ始めるときりがありませんし、いずれにしても当人達にしか分からない、いわば真相は「闇の中」なのですが……。

さて、「智恵子のエプロン」。型紙を御参考に、この方面で腕に覚えのある方、ぜひ作ってみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京はあのやうな始末故ちゑさんも今暫くそちらにて静養の方よろしきかと存候間何分御願申上候

大正12年(1923)10月6日 長沼セン宛書簡より 光太郎41歳

東京はあのやうな始末」は、この年9月1日の関東大震災に関わります。光太郎アトリエ兼住居は無事でしたが。智恵子は震災当日も実家に帰っていまして、もう少しそちらに置いてくれという依頼です。

ハンドメイド系の通販サイトから最近見つけた商品を2点。

レモンのイヤリング

チェコガラスビーズでできたレモンのイヤリングです。

レモンのお色は高村光太郎の『智恵子抄』から、「レモン哀歌」をイメージした「トパアズ」と、梶井基次郎の『檸檬』をイメージした「イエロー」の2種類、金具はゴールドとシルバーの2種類、計4種類をご用意しました。ご注文の際はよくご確認下さい。

A1:トパアズ×ゴールド ¥ 600  A2:トパアズ×シルバー ¥ 600
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B1:イエロー×ゴールド ¥ 600  B2:イエロー×シルバー ¥ 600
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「トパーズ」ではなく「トパアズ」として下さっているのが心憎いところです。

もう1件。

【レモン哀歌ネックレス】天然石きらめく物語アクセサリー

 高村光太郎が妻・智恵子を偲んで書いた「レモン哀歌」は、永遠の愛の詩です。「愛し合うすべての人々が幸福でありますように」。そんな思いで作ったネックレスです。
 みずみずしいレモンクオーツをトップに付けました。ラフカットなので不規則にきらめきます。「自分らしく」と励ましてくれるシトリンを3粒並べ、レモン果汁の香気を表現しました。
 きらめく雫のようなアクアマリンを、レモンクオーツの隣に付けました。幸せな結婚の象徴でもあり、自由の象徴であるアクアマリンは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる石です。
 青白いオーロラのような石は、レインボームーンストーン。小さな奇跡に巡りあわせてくれるロマンティックな石です。
 長さ調節できるアジャスターには、「希望の石」アマゾナイトを付けました。

チェーン(真鍮) 約36cm  長さ調節アジャスター 約3cm

★ラッピングについて
 「レモン哀歌」についての文章と天然石の紹介を書いた、小さな本にお入れします(無料)。
★天然石について
 石の形状や大きさ、色味は写真とは異なることがありますが、ひとつとして同じものがない天然石の味わいと思って頂けると幸いです。また、天然のクラックやキズが見られる石がありますことをご了承ください。
~天然石の紹介~
◆レモンクオーツ
 レモンの香気のようなみずみずしい水晶で、水晶特有の冷涼感と温かみがあります。この石を見ていると、窓からの陽射しで朝目覚めたときの、何もかも新しく生まれ変わっているような清々しさを感じます。フレッシュな明るさをもつ石ですが、包みこむような優しさと安心感もあります。
◆シトリン
 柔らかな太陽の光のような石で、日光浴をしているときの体に染みいる温かさを放つ石です。「自分らしく」と元気づけてくれ、心に明るく朗らかな光をもたらしてくれます。瞬間々々の充実感や満足感、無理のない自分らしさや自信、問題を乗りこえ前進していく勇気を与えてくれます。
◆アクアマリン
 穏やかに打ち寄せる波や、きらめく雫を思わせる、みずみずしい石で、感情の滞りを洗い流して心を癒してくれます。自由を象徴する石でもあり、何事にも囚われない水のような柔軟性や、相手を受け容れる大らかさをもたらし、壁のないコミュニケーションを助けてくれます。そのため「幸せな結婚」を象徴する石でもあります。また、アクアマリンは「夜の女王」とも呼ばれるように、暗がりできらめきを増すという特徴がありますが、この優しいきらめきは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる気がします。
◆レインボームーンストーン
 朧月のような、神秘的な美しさをもつ石で、インスピレーションを高め、小さな奇跡と思える出来事や出会いに導いてくれるといわれています。
◆アマゾナイト(ペルー産)
 希望や幸運を呼び込んでくれるといわれています。明るい青緑色がアマゾンの川や森を思わせることから、石名が付けられたそうです。心が安らぐ色をしていますが、原始の川や森に木漏れ日が差すような明るさも。
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画像を見るとけっこう以前から売られているようですが(2016年という文字が見えますので)、つい最近検索網に引っかかりました。

「こんなのもあるよ」という情報、お待ちしております。作家さんご本人でも、それ以外の方でも。できるかぎり紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

あなたが外国へ向はれてからもうまる三年たちました。 そして私はまだあの成瀬先生の胸像をいぢつて居ります。 学校の方の人々のよく忍耐して待つてゐて下さるのを ありがたいと思つてゐます。 しかし私が今こんなに長くかかつてやつてゐるのは 私としては 無意味ではないのです。この胸像は私の彫刻製作上の一転機をつくるものと信ぜられるのです。私はこの三年間 煉瓦をつむやうに研究して来ました。そして心の全く澄んで 静かな時だけ此の彫刻に手をつけました。雑念の心を乱すやうな時は幾日でも手をつけずに 只見てばかりゐました。


大正11年(1922)3月11日 小橋三四子宛書簡より 光太郎四十歳

010小橋三四子は日本女子大学校での智恵子の先輩。同じく柳八重らとともに、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしてくれた一人です。その小橋らを通じて、同校の創設者にして大正8年(1919)に亡くなった成瀬仁蔵の胸像制作の依頼がありました。依頼は成瀬が没する直前で、3年経ってもまだ出来ていないという報告です。

しかし、3年どころではなく、結局、この胸像が完成するのは昭和8年(1933)。造っては毀しの繰り返しで実に14年もかけました。光太郎、この胸像には書簡に書かれているようなものすごい思い入れがあったようです。後から注文があった松方巌胸像、黒田清輝胸像の方が先に完成してしまいました。もっとも、それらは注文主が待ってくれなかったのかもしれませんが。

この像、現在も同校の成瀬記念講堂に据えられています。下の画像は同校創立90周年記念のテレホンカードです。平成3年(1991)頃のものでしょう。
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