カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

昨日は、第65回高村光太郎研究会ということで、都内に出ておりました。同会、コロナ禍のため3年ぶりの開催となりました。

会場は文京区のアカデミー千石さん。
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ご発表はお二方。

『高村光太郎小考集』という書籍の御著者・西浦基氏。千葉県職員であらせられる安藤仁隆氏。
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西浦氏は「彫刻家・高村光太郎」と題し、様々な私見やヨーロッパで撮影された画像等ご紹介しつつ、光太郎の造型について語られました。
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安藤氏は、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」。まず旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎住居兼アトリエについて、建築の方面からの実に詳細なアプローチ。光太郎自身が書き残した図面や文章、周辺人物の回想、さらに戦前の航空写真などから、建築系のソフトやCG等も駆使され、住居兼アトリエの姿を浮き彫りにされました。
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同様に、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」についても。
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安藤氏、既に今年4月に発行された同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、二つの建物についての論考を発表なさっていますが、さらに詳細な点が解明されていました。

ところで、光太郎アトリエといえば、今回会場のアカデミー千石さんのロビーで、こんなものをゲットしました。「谷根千ゆかりの文人まっぷ」。文京区立本郷図書館さんの制作です。
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A4判を3枚、横につなげた判型で、その表裏両面に印刷されていますから、全6ページ。2ページずつ、地図、谷根千ゆかりの文人たち紹介、彼らの生没年表となっていました。

光太郎智恵子、光雲も。
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アカデミー千石さんのような文京区内の区立施設には、ほぼ必ず置いてあるのではないでしょうか。ご入用の方、探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏檜材(小)持参、


昭和30年(1955)2月23日の日記より 光太郎73歳

肺結核のため、ほとんど臥床していた光太郎ですが、木彫作品用の木材を手配を頼んでいました。結局、それを使って木彫作品が作られることはありませんでしたが。光太郎自身も無理だろうとわかっていたように思われるのですが、それでも入手するあたり、彫刻家としての「業(ごう)」のようなものを感じます。

宮崎丈二」は詩人。宮崎の親友で、光太郎が起居していた貸しアトリエを、宮崎と共に何度か訪れた浅野直也という人物が材木商でしたので、入手経路はその関係と思われます。

智恵子の故郷、福島県二本松市の観光地域づくり法人・にほんまつDMOさんのサイトから。

二本松の風景や歴史描いた「絵手紙かるた」が完成

 二本松市を代表する風景や名物、歴史を描いた「絵手紙ふるさとかるた」が出来上がりました。絵手紙かすみ会が15周年記念に制作に着手、読み札の文面づくりから絵を描き終えるまで丸3年を費やした労作で、岩本久仁子会長は「歴史や文化、自然、食、人物など題材が多く、選択するのは大変な作業だった。手作り感満載のかるたを通してふるさとの素晴らしさを再発見してほしい」と話しています。
 同会は平成17年の市民講座を機に有志が集い、波入ヨシさん(郡山市)の指導で月1回、季節の草花や身近なものを描いています。かるたは会員16人が制作にあたり、特に文面は2年掛かりで推こうを重ねたそうです。安達太良山、霞ヶ城、二合田用水、合戦場の桜などの絵はいずれも色鮮やかで会員のふるさとへの想いが伝わってきます。
 「二本松の宝が詰まった」かるたは80セット製作し、市内の小学校、公民館に寄贈されました。また、原画は二本松信用金庫金色支店、市民交流センターなどに順次、展示する予定。
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「あ」から「ん」までで、全部で46枚。いきなり「あ」が、「安達太良の本当の空へ深呼吸」。できればひらがなで「ほんとの空」としていただきたかったところですが、しかたありますまい。さらに「く」は「鞍石山光太郎と智恵子の愛の道」。「鞍石山」は智恵子生家/智恵子記念館さんの裏手の山で、ここを光太郎智恵子が歩き、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインが印象的な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)の元となった場所です。

他にも智恵子モチーフの日本画が展示されている大山忠作美術館さん(「う」…「美しい日本画の宝庫大山忠作美術館」)、阿武隈川で、「も」…「紅葉も光り輝くあぶくま川」など。「た」…「玉ようかんぷつんと刺してさあ食べよう」が一番笑えましたが(笑)。

二本松市の「市民との協働による地域づくり支援事業」の補助金を受けてやられたとのことですが、それにしても、こうした手作り感と郷土愛溢れる取り組みには感心させられます。全国の自治体等関係者の方々、絵手紙等愛好家の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后外出、はじめて中野駅北口の方に行つてみる、セトモノを買ひ、うなぎかば焼をかふ、 夜食かば焼、大根汁、米飯、


昭和30年(1955)2月22日の日記より 光太郎73歳

起居していた貸しアトリエから中野駅北口は、直線距離で1㌔弱。結核の病状が小康状態だったこともあり、買い物がてら散歩したようです。「うなぎかば焼」は光太郎の大好物の一つでした。

3年ぶりの開催です。

第65回高村光太郎研究会

期 日 : 2022年11月26日(土)
会 場 : アカデミー千石 東京都文京区千石1‐25‐3
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「彫刻家 高村光太郎」 西浦基氏

 「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」
   安藤仁隆氏

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、コロナ禍前は年に一度開催されていました。昔は年に数回ということもあったようで、65回目のようです。

発表されるのはお二方。

西浦基氏は『高村光太郎小考集』という書籍の御著者。

安藤仁隆氏は、一昨年の研究会でご発表の予定でしたが、コロナ禍のため中止となり、今回にスライド。今年同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」及び「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」という論考2本を執筆されていて、そちらを元にされたご発表でしょう。

建築に造詣の深い同氏、タイトルの通り、旧本郷区駒込林町にあって、昭和20年(1945)の空襲で焼け落ちた光太郎アトリエ兼住居、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」について、実に詳細な調査を行われています。最近もまた、新たな発見があったとお知らせいただきました。

研究会への参加はご自由に、です。組織としての会に加入せずとも、発表の聴講のみも可能です。ぜひご参加を。

【折々のことば・光太郎】

タバコ買ひに一寸外出、 
昭和30年(1955)2月9日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、前年から臥床していることが多く、一時は外出もままなりませんでしたが、この時期は小康状態。おそらく前年5月以来の外出でした。

しかし、その用事が「タバコ買ひ」。肺結核なのに、自殺行為ですね……。

光太郎の父・光雲が監督となって制作された聖観音像もライトアップされる、京都東山知恩院さんのライトアップ。一昨日から始まっています。

秋のライトアップ2022

期 間 : 2022年11月12日(土)~12月3日(土)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂(外観のみ)
       経藏(外観のみ・11年ぶりの公開)、大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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主な見どころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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大鐘楼
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。
寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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経蔵
内部の天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳されています。また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれています。 ※ライトアップの拝観は11年ぶり
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昨日から、妻がお友達と京都に行っておりまして、「では、知恩院さんのライトアップ観に行って、聖観音像の写真を送ってくれ」と頼んでおいたところ、届きました。
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池の水面にも映り込む紅葉、風情がありますね。

昨年11月、BSイレブンさんで放映された「京都紅葉生中継2021 古都を照らす希望の光〜曼殊院の紅葉を堪能!」という番組から。
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まずは事前に撮影しておいた昼間の映像等。
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そして「生中継」。
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光雲の手になる作である解説もあり、ありがたく存じました。

他の場所も。
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例年、そうですが、期間中にさまざまなイベントも企画されています(最上部リンクご参照)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】001

難波田さんくる、夫人よりガウンをもらふ、手製の由、


昭和29年(1954)12月30日の日記より
 光太郎72歳

難波田さん」は難波田龍起、かつて駒込林町にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいた画家です。光太郎に私淑して美術の世界に入り、詩作にも取り組みました。

難波田夫人も、光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエを訪問したことがありました。その夫人から贈られたという手製のガウン、1年ほど後の写真ですが、これかな、という気がします。

昨日開幕でした。

ニッポンの油絵 近現代美術をかたち作ったもの

期 日 : 2022年11月12日(土)~12月25日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生は無料
*11月19日(土)、20日(日)は「関西文化の日」として入館無料
*11月22日(火)は「和歌山県ふるさと誕生日」として入館無料
*11月26日、12月24日(毎月第4土曜日 ) は「紀陽文化財団の日」として大学生無料
*12月4日(毎月第1日曜日)は入館無料

 「油絵」は、日本の近現代美術史のなかで重要な位置を占めています。近代美術館である当館がコレクションの柱としている「和歌山ゆかりの作家たち」のなかにも、日本で最初期の洋画家となった神中糸子をはじめ、油絵に向き合うことから彫刻を含む自身の創作を始めた保田龍門、油絵を自らの表現方法として選び、生涯描き続けた石垣栄太郎、川口軌外、村井正誠など、重要な作家たちが含まれます。
 いまでは多くの人にとって見慣れた技法になっている油絵ですが、広く普及したのは、明治維新後に殖産興業のための技術として美術学校で教えられ、展覧会などの発表の場が設けられてからです。油絵の多彩な表現は、西洋のものの見方や、新しい思潮に裏打ちされており、それらへの憧れや共感とともに多くの若い画家たちを魅了しました。
 本展ではまず、ひとりひとりの画家が、どのように油絵と出会い、油絵によって学び、表現する者として成長していったかを作品を通して見ていきます。画家たちのまなざしは油絵を生み出した海外の表現に向かい、ひるがえって日本美術とは何であるかを問うことにもなりました。
 また、油絵具の素材としての魅力そのものにも注目したいと思います。油絵具には独特の艶と透明感があり、筆触や盛り上げを残すこともできる強い物質性を持っていることが特徴です。多くの新しい画材が開発された現代でも、絵具の層を重ねて表現する深み、ゆっくりと固まる絵具の性質を生かした表現など、油絵は材料の多様性のなかに埋もれることなく存在感を放っています。
 日本の近代美術の中に油絵がなかったなら、今日の美術表現はずいぶん違ったものになっていたでしょう。本展は、当館のコレクションを中心に、およそ100点で構成します。油絵を通して、日本の近現代美術の魅力を再発見していただく機会ともなれば幸いです。
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001上記はプレスリリースの画像。ここに紹介されていませんが(100点ほどの出品だそうで)、同館所蔵の光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)も出ているとのこと。

同館、当方の把握している限り、何だかんだで2~3年に1度は、この絵を出品して下さっています。一昨年に開催された「コレクションの50年」展、令和元年(2019)で「 時代の転換と美術「大正」とその前後」展、平成28年(2016)には「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」。同展は全国巡回でしたが、巡回先にも貸与して下さっていました。

佐藤春夫は和歌山出身ですので、同館が入手なさったのでしょう。そして、死蔵とせずにこうしていろいろな機会に出して下さるのは有り難い限りです。

現存が確認できている光太郎の油絵は、10点ちょっとしかありません。この機会をお見逃し無く。

【折々のことば・光太郎】

豊周と規君くる、規君写真をとる、弟に研石をたのむ、白ブドウ酒一本もらふ、

昭和29年(1954)12月23日の日記より 光太郎72歳

光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周には、研石(砥石)の入手を頼んでいます。まだ木彫をやりたいと思っていたのでしょうか。

豊周子息で、のち写真家となった故・規氏。この年、日本大学芸術学部写真学科に入学していました。この日はカメラを持参し、光太郎を撮影しました。

規氏の回想「写真家の目と駒込林町の家 高村規の語る戦後の写真(2)」(『日本古書通信』第952号 平成20年=2008 11月)より。

002 大学一年だった僕もカメラを持ってついて行った。そのときに撮った写真が、智恵子さんが織った布地で作ったチャンチャンコを着て微笑んでいる光太郎だった。
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 光太郎から「今度出す本(『全詩集大成現代日本詩人全集』昭和三十年三月・創元社)の口絵に使いたいんだけどいいかしら」と電話をもらった。そんな電話にも驚いたし、写真を始めて一年足らずの僕の写真が初めて印刷されることがうれしかった。
(略)

 昭和三十一年四月二日未明、光太郎が亡くなった。(略)相識の写真の相談が始まった。北川太一さんが本棚から最近出た本をいくつかだしてきたらしい。その本の口絵の写真を見ながら、草野心平さんをはじめとした葬儀委員の方々が、「その写真は光太郎さんが気に入ってたからこれがいいのでは、ただ写したのが誰だかわからないね」と話していた。肩越しに覗いたらアトリエで撮った僕の写真だった。「僕のです」と話したら草野さんが「これに決まりだ」と言い出した。

昨日も都内に出ておりました。

まずは泉屋博古館東京館さんで、「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」を拝見のため、六本木へ。
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都内でも紅葉が始まっている感じでした。
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陶芸家・板谷波山。創立間もない東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に学んだという異色の経歴があります。そこでの教えが後の波山芸術バックボーンの一つとなっている点は確かに感じられました。

撮影可だった作品。
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紋様は描かれているだけでなく、浮き彫り風になっており、確かに彫刻のエッセンスが感じられます。1ミリにも満たない凹凸で感じられる立体感という意味では、智恵子の紙絵にも通じるものがあります。そういえば智恵子も太平洋画会で彫刻を学んだ経験がありました。

師・光雲の木彫が2点。波山に乞われて造ったという「瓜生岩子像」は、個人的な依頼に対して気楽に応じた、という感じでした。といってもいい加減に造っているわけではなさそうですが。もう1点の「三猿置物」は、きちっと「作品」として仕上げたという様相。拝見に行く以前に入手していた図録にサイズが記されており、「高24.2 幅27.2 奥行18.6」。その数値から「こんなもんか」というイメージを固めていたのですが、実際に拝見すると、その倍くらいに感じられました。

光雲にしても、光太郎にしても、優れた彫刻はやけに大きく見える傾向があります。現在、常設展で出ているトーハクさんの「老猿」にしても、実際に見たことがあるという方と話す中で「像高90㌢ほどですよ」という話をすると「え? 1㍍50㌢くらいと思ってましたが」ということがままあります。内部から迸るエネルギー的な物の発露がそういう錯覚を起こさせるのでしょうか。

003波山の木彫「元禄美人」にも驚きました。図録で見た時には「ふーん」という感じだったのですが、実物を見ると実にいいのです。特に驚いたのは、着物の柄を陰刻で彫ってあること。図録の画像もよく見ればそれが分かるのですが見落としていまして、実物を見て「うおー、こんなことをやっていたのか」と初めて気がつきました。波山の本業である作陶にも通じる技法ですね。

そしてメインの陶磁器(というかほとんど磁器)。当方、いわゆる「焼き物」にはあまり興味はないのですが、波山の葆光(ほこう)彩磁は以前から好きでした。多くの作をまとめて見たのは今回が初めて。目を奪われました。また、波山は焼き上がったものに少しでも納得が行かない点があると、叩き壊してしまうことで有名でしたが、その破片も数多く展示されていました。妥協を許さない芸術家の魂的な物を強く感じました。

ついでにというと何ですが(笑)、波山と交流のあった光太郎の「手」も出ています。どこから借りてきたものか不明なのですが、苦言を呈させていただければ、台座が稚拙なのが残念です。

ちなみに光太郎と波山。光太郎が美校に入学する前、旧制中学の課程を本郷にあった共立美術学館予備科で学びましたが、数学が苦手でどうにもならなかったそうです。そこで波山に頼み、数学を得意とする人物を紹介してもらって個人教授をお願いしたとのこと。それでも駄目だったようですが(笑)。

さて、拝観後、六本木を後に銀座へ。同じ都内でも下町方面を廻ることが昔から多いので、「ギロッポンからザギンって、俺らしくないな」などと思いつつ(笑)。

次なる目的地は王子ホールさん。こちらでは作曲家・朝岡真木子氏の作品が演奏される「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」を拝聴して参りました。朝岡氏から招待状を頂いてしまいまして、馳せ参じた次第です。
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9月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」。歌唱はその際と同じく清水邦子氏。情感たっぷりに歌い上げていらっしゃいました。

他の曲目も、9月の演奏会とは異なるものがほとんどでしたし、二重唱などもあって、合唱経験者の当方としては生で聴くハモりは心地よいものでした。

演奏中は撮影禁止でしたが、終演後。
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左から朝岡氏、清水氏、メインで歌われた前澤悦子氏、加賀清孝氏。

その後、ホワイエで朝岡氏、清水氏とお話をさせていただきました。清水氏、「智恵子抄」を歌われたことで光太郎智恵子の世界に非常に興味を持たれ、明日、二本松の智恵子生家/智恵子記念館に行かれるそうです。明日まで生家二階の特別公開、智恵子の花嫁衣装の展示が為されていて、そちらをご覧になりたいとのことでしたので、フライヤー等お渡ししておきました。

今週はもう1度、都内に出ます。10日(木)、三越劇場さんでの「朗読劇 智恵子抄」。主演の一色采子さんから「来なさい」という至上命令ですので(笑)。今月、というと、またのちほどご紹介しますが、20日(日)に神戸で和編鐘の有機音さんのコンサートに「応援出演」ということで行って参りますし(光太郎智恵子について語って参ります)、月末には高村光太郎研究会でまた都内。千葉の田舎から出て行くのはなかなか大変なのですが、「芸術の秋」ですから仕方がありません(笑)。というか、コロナ禍で自粛、中止が相次いでいた頃に較べれば、足を運べる催しが多いことは幸いと云うべきでしょう。ただ、「第8波が懸念」という報道もあり、まだまだ予断を許さぬ状況ですが……。

【折々のことば・光太郎】

火の車より使、清六さんからのマヒ茸松茸、ベニマス等もらふ、夜それをくふ、

昭和29年(1954)10月9日の日記より 光太郎72歳

火の車」は当会の祖・草野心平が経営していた居酒屋。「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

この頃の光太郎は、宿痾の肺結核で外出も出来ない状態でしたが、食欲だけは旺盛でした。

昨日は都内に出ておりました。

まずは中目黒。めぐろ歴史資料館さんで昨日から始まった特別展「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」を拝見。
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明治生まれで既に故人となった目黒ゆかりの名工二人(道具鍛冶・千代鶴是秀と蒔絵筆師・小宮又兵衛)、昭和生まれで現在も目黒でご活躍中の刀装師・髙山一之氏の三人にスポットを当てたものです。

このうち、千代鶴是秀は光太郎と直接交流があり、光太郎は是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。

今回の展示、是秀は朝倉文夫と交流が深かったため、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵の是秀作品が数多く、さらに、平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされた土田昇氏(土田刃物店さん)所蔵のものなどが展示されていました。

図録(700円)から。
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以前に朝倉彫塑館さんで拝見した記憶があるのですが、何度見ても素晴らしいものです。

昭和15年(1940)に土門券が撮影した光太郎の写真には、これとよく似た彫刻刀が映っています。
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もしかすると、これも是秀作かな、と思っております。

ただ、同じ日に撮影された別のショットでは、是秀っぽくない道具を使っています。まぁ、一つの彫刻を制作するにも色々な道具を使うのでしょうが。
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その他、是秀から朝倉宛の書簡なども多数展示されており、興味深く拝見しました。他の二人の「名工」の作も。

続いて、地下鉄を乗り継いで文京区千駄木へ。旧駒込林町の、光太郎アトリエにほど近い旧安田楠雄邸庭園さんが次なる目的地でした。こちらでは一昨日から「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催中。
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こちらは、入り口の向きは逆なのですが、まさに髙村家(光太郎実家)の隣です。当方、昨年「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で講話をさせていただいて以来、約1年ぶりでした。

2階建ての1階では、髙村家所蔵の光雲作品や古写真など。
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2回の座敷では、昨年から今年にかけての、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展東京藝大さん)、「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」(日本写真会館さん)、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」(長野県立美術館さん)などに展示された、光雲作品の写真タペストリー等(光雲令曾孫・髙村達氏撮影)が中心でした。
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達氏がいらしていて、久しぶりにお目にかかりました。コロナ禍前の令和元年(2019)の連翹忌以来だったでしょうか、久闊を除しました。この写真類をお借りして、当方が関わっている花巻の高村光太郎記念館さんあたりで企画展示が行えないものかと、そんな提案をしておきました。

安田邸をあとに、ここまで来たついでなので(笑)、指呼の距離にある光太郎旧居址。今は一般の住宅になってしまっています。
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その中間には、過日ご紹介した洋画家・近藤洋二が厄介になっていた、宮本百合子の実家。
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この案内板の前を通って、細い路地をくねくね行き、突き当たりを左折すれば光雲邸(光太郎実家)のあった現・髙村邸。さらに安田邸の裏門となります。

さて、「目黒の名工」は12月11日(日)まで、「となりの髙村さん展」は会期が短く11月6日(日)までです。さらに安田邸にほど近い文京区立森鷗外記念館さんでは、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」も開催中です。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后山端静子くる、果物をもらふ、丈夫のやうなり、155番地にゆきたる由、筆談、

昭和29年(1954)9月29日の日記より 光太郎72歳

山端静子」は光太郎のすぐ下の妹。現在、令孫が北鎌倉でカフェ兼ギャラリー笛を経営なさっています。この兄妹が会ったのは戦後2回目、そしておそらく光太郎生前最後だったようです。

155番地」は先述の光太郎実家。光太郎、しづ(静子)兄妹のさらに下の豊周が跡を継いで居住していました。

直接は光太郎らに関わらないのではないかと思われますが……。

令和4年度めぐろ歴史資料館特別展 「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」

期 日 : 2022年11月3日(木・祝)~12月11日(日)
会 場 : めぐろ歴史資料館 東京都目黒区中目黒三丁目6番10号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

大正から昭和前期にかけての目黒地域は、目黒川沿いを中心に工場地帯を形成していて、当時は、ものづくりの音の響く街でした。工業化が進む中でも伝統的な技術を継承し、ひたむきにその姿勢を貫き、現在でも名工として語り継がれている技術者もいました。本展では、目黒の2人の名工「千代鶴是秀(大工道具鍛冶)」と「小宮又兵衛(蒔絵筆製作)」に再注目してその業績を紹介します。また併せて、平成30年に国の「選定保存技術」保持者に認定された高山一之氏を現在の目黒区内で活躍中の名工として紹介します。

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関連行事 特別展「目黒の名工千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」記念講演会
現在、目黒区内の活躍中の名工で、国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」に認定されている高山一之氏、千代鶴是秀研究の第一人者である土田昇氏(土田刃物店店主)のお二人をお迎えして、令和4年度めぐろ歴史資料館特別展の記念講演会を開催します。また、当館蔵の小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について当館学芸員が解説いたします。

 開催日 令和4年11月26日(土曜日)
 時 間 午後1時から
 場 所 めぐろ学校サポートセンター第1研修室(めぐろ歴史資料館と同じ建物です)
 講 師
  高山一之(国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」)
  土田昇(有限会社土田刃物店 店主 「千代鶴是秀研究の第一人者」)
  当館学芸員(当館蔵 小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について)
 定 員 40名(応募多数の場合は抽選)
 申 込 ハガキ・ファックス・電子申請のいずれかでお申し込みください。
     令和4年9月30日(金曜日)から11月3日(木曜日・祝日)まで(必着)

取り上げられる三人のうち、千代鶴是秀は、伝説的道具鍛冶。光太郎と直接の交流があり、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展では、光太郎が使っていた是秀作の彫刻刀が展示されました。他に平櫛田中や朝倉文夫などが是秀の作品を愛用していました。

また、是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を石膏に取っています。

関連行事の講演会講師に名を連ねられている土田昇氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

腫、猛暑、36.3 今年最高といふ、 来訪者なし、


昭和29年(1954)8月23日の日記より 光太郎72歳

地球温暖化が進行した現今、真夏の36℃ちょっとは当たり前になってしまいましたが……。

10月23日(日)、『東京新聞』さんの埼玉版から。

「浦和画家」近藤洋二に脚光 遺族所有4作品、うらわ美術館に収蔵 川越の藤井さん「魅力、再び伝えたい」

002 昭和の初め、芸術の都パリに憧れて、妻子を連れて日本を飛び出した埼玉の画家がいた−。川越出身で「浦和画家」としても名が残る近藤洋二(一八九八〜一九六四年)。地元の縁で画家を知った川越市の女性が「こんな面白い人生があったとは」と関係者を訪ね歩き、長年遺族が所有していた四作品が、うらわ美術館(さいたま市浦和区)に収蔵されることになった。
  「お金もないのに、妻と生後十一カ月の長男を連れて上海行きの船に乗り込んだ。金が尽きると絵を描いて稼ぎ、さらに先へ進んだ。それでパリまで行っちゃったんですよ」。そう語るのは、川越市の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人の藤井美登利さんだ。
 藤井さんは、地元で「旧制川越中学を卒業した絵描きがいた」という話を聞いて興味を持ち、調べ始めた。資料を読み込む過程で、長男の近藤乃耶(のや)さん(故人)が書いた評伝「『偉い人』にならなかった絵描きの生涯」(東宣出版、現在は絶版)を手にした。画家の魅力的な逸話や数多くの著名人との交流が記され、ぐいぐいと引き込まれた。
 明治生まれの近藤洋二は、医大に進むはずだったが父が急死し、家計を助けるために働きながら画家を目指すように。パリで絵を描きたいと二八年、上海までの片道切符を手に親子三人で船に乗り込んだ。詩人の金子光晴夫妻とも一時同道。近藤一家の姿は、金子の「どくろ杯」という小説に登場する。上海からインド、イタリアなどを経て翌年、フランスへ到着した。
   当時のパリ画壇ではピカソや藤田嗣治らが活躍していた。だが、近藤は生活が厳しく美術学校に入れず、毎月三十枚以上、ひたすら絵を描き続けた。ついに滞在費が尽きて帰国する船で、日本郵船の船長が三等船室だった親子を貴賓室に移してくれた。「当時の外国航路の船長は高給取りで、大勢の若い画家を援助していた」と藤井さん。このとき同じ船に乗っていたのが、作家宮本百合子の実家、中条家の人々だった。その縁で、近藤一家は帰国後、都内の屋敷町にある中条家の離れに住んだ。戦時中、百合子の夫顕治は刑務所に拘留されていた。向かいは詩人の高村光太郎宅。高村は警防団長で、兜(かぶと)をかぶって棒を振り回し、空襲の火を「消せ!消せ!」と怒鳴っていた−と本には書かれている。
 藤井さんは「画家の情熱と、おおらかな時代の空気に魅了された。生前は人気があったが、埋もれてしまったその魅力を、再び伝えたいと思った」と語る。多作だった近藤は、穏やかな風景画を数多く描き、今回収蔵した作品にも、雪に埋もれる集落や、欧州の道を自転車が走るのどかな光景が描かれる。六十六歳の時、散歩中にバイクにはねられて急逝した。「ただ死ぬまで毎日毎日、次々に楽しそうに描いて描いて描きまくっていて、それが父の生きがいであり、喜びであった。およそ賞だとか名誉だとかに無関心だった」と乃耶さんは記す。
 うらわ美術館では、一般公開に向けて修復や調査を進めている。近藤の甥(おい)で川越市在住の近藤繁さん(85)は「いつもパイプをくゆらせ、もの静かな人だった」と生前を振り返り「生きていたころの記憶がある人はどんどんいなくなる。作品が収蔵され、これからも見てくださる方がいると思うと、うれしいです」と話している。
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近藤洋二という画家、『高村光太郎全集』の二箇所に名前が出て来ます。

まず、「式場莞爾詩集「海の星座」序」(昭和30年=1955)。

 昔の隣組仲間の近藤洋二画伯のむすこさんは立派な海員になつて今休暇で東京にきている。そのむすこさんの友達だという式場さんは海員組合の仕事をしている海洋詩人だとの事だ。この三人の人にあつて海員生活の話をしているうちに、海の好きな私は、いつのまにか、式場さんの海の詩集に序文をかくようなきつかけを持つようになつてしまつた。一面識もなかつた人の詩集なんだが、それが海員の助け合い運動の何かになるというだけきいても多分気持ちのよい詩集だろうと思えた。何にもいう事がないので今から丁度五十年前に私が太平洋のまん中でアゼニヤンという船にいて作つた歌を二つ書いておく。

  海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと
  地を去りて七日十二支六宮のあいだに物の威をおもい居り


もう一箇所は、昭和30年(1955)12月9日の日記。

 近藤洋二氏他二人くる、

どちらも同じ年なので、「他二人」が近藤の子息と式場なのでしょう。この日の出来事が『海の星座』序文に書かれていると見て間違い有りますまい。

それにしても、近藤洋二という画家の詳細については、東方、寡聞にして存じませんでした。子息が書かれ、光太郎にも言及されているという『『偉い人』にならなかった絵描きの生涯』も存じませんでした。調べてみましたところ、国会図書館さんに所蔵がありますので、いずれ見てみます。

ちなみに「浦和画家」は、関東大震災後、浦和に居住する画家が多かったことから彼らの総称として生まれた語です。有名どころでは、倉田白羊、須田剋太、瑛九など。「うらわ美術館」さんは、さいたま市立だそうで、こうした地元作家の作品等の収集にも力を入れているようです。大事なことですね。近藤作品、公開されたら観に行ってみようと思いました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんくる、 三時辞去後風呂に入る、三月ぶりの入浴、


昭和29年(1954)8月21日の日記より 光太郎72歳

5月頃からだいぶ体調を崩し、外出もままならなくなって、一日ベッドで過ごす日もありましたので、入浴もしていませんでした。もっとも、昭和20年(1945)から7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中も、村人らの好意で鉄砲風呂を贈られたものの、薪を大量に使わねばならず、そのため入浴をほとんどしませんでした。その分、温泉に足を運ぶ機会が多かったのですが、上京後は近くに温泉もなく、また、銭湯に行ったという記述も見当たりません。当然、タオルで身体を拭いたりはしていたとは思うのですが……。

光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ鋳金家で人間国宝の豊周の作品が出ます。

教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展

期 日 : 2022年10月27日(木)~11月1日(火)
会 場 : 金沢市文化ホ-ル展示ギャラリー 石川県金沢市高岡町15番1号
時 間 : 10:00~17:00 最終日は13:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 金沢美術工芸大学は、令和 5 年(2023)10 月 1 日より、更なる飛躍を期して新キャンパスでの歩みを始めます。地域に開かれた大学をめざす新キャンパスでは、市民のみなさまをはじめ学外の方々が気軽に訪れることのできる展示施設を整備し、絵画・彫刻・工芸・デザイン・その他の分野にわたる貴重な芸術資料の公開の拡充を予定しています。
 本学は、昭和 21 年(1946)の開学以来、教育研究用の資料として、また、優れた芸術に接する機会を市民に提供するために、世界的に著名な芸術家の作品を含む約 6,700 点の芸術資料を収集してきました。この展覧会は、キャンパス移転に先立ち、日々の〝教材〟として活用してきた芸術資料を身近に感じていただくために、学内ではなく、まちなかで開催する〝出開帳〟です。
 第三弾である今回は、所蔵品の中から工芸の優品を中心に展示いたします。芸術資料の鑑賞を通して、本学の教育研究に関するご理解を深めていただければ幸いです。
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豊周は東京美術学校鋳金科を卒業し、母校の教授を務めていましたが、戦時中に退官。戦後になって昭和24年(1949)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授に就任しました。のち、教壇から下り名誉教授となりましたが、その肩書きは昭和47年(1972)に歿するまで継続していたと思われます。

そんな関係で、同校には豊周作品が現存、富本憲吉ら他の工芸家の作品ともども「教材としての芸術資料」という扱いで、今回展示されるわけです。
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豊周作品は「朧銀花入 雨」。正確な制作年代は不明のようですが、いずれ戦後のものでしょう。「朧銀」は銅と銀の比率を3:1とした合金で、豊周も好んで使った材の一つでした。

意外と豊周作品を見られる機会は多くありません。会期が短いのが残念ですが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

むしあつく、しう雨あり、今日は殊に暑気を感ず、 ビール一本、夕、オムレツ等、 〈ヘチマに肥料〉


昭和29年(1954)8月16日の日記より 光太郎72歳

終戦の年から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋では、野菜類は畑でほぼ自給していた光太郎。終の棲家となった中野の貸しアトリエでも、ヘチマ程度は栽培していたようです。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、市民文化センターさんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2022」の拝観。さらに昨日は関連行事として、同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんのご講演があり、どうせ行くならこの日に合わせようと思った次第です。

いつも書いていますが、高田博厚は光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎はいち早くその才を認めて高田のフランス留学を支援しました。光太郎歿後、帰国した高田は光太郎顕彰に協力し、その縁でやはり生前の光太郎をご存じだった同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏と親しくなりました。そして同市で高田の個展や講演会を開催するなどし、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて、東武東上線高坂駅前から伸びる道路に「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品が野外展示されています。

昨日の絵子猫さんのお話、それから展示自体も彫刻プロムナードに関係しますので、まず、彫刻プロムナードに立ち寄りました。

当方、初めてプロムナードを歩いたのは平成25年(2013)。その後、光太郎像だけは、今年1月にもすぐ近くのレストランで食事をした際に拝見しましたが、昨日は久々に全作品を見つつ歩きました。
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まずは光太郎像。
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これがクリソツかというと、そうではありません。それもそのはず、高田がこれを制作したのは光太郎歿後、しかも昭和6年(1931)に日本を離れて以来、光太郎には会っておらず、記憶の中の光太郎と、晩年の写真とを頼りに作られたものだからです。それでも、この像から立ち上るオーラは、まぎれもなく光太郎のものです。

その他、全作品は撮りませんでしたが、光太郎とも交流のあった人々を作ったもの。

詩人の高橋元吉。
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さらに宮沢賢治。
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どうも当方、この賢治の顔が、お世話になっている某美術館さんのキュレーター氏に似ていると感じる、というか「ああ、××さん!」と呼び掛けたくなります(笑)。どなたのことか、関係の方はご想像下さい(笑)。

その後、昼食を摂って、市民文化センターさんへ。
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高田の彫刻群。
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一昨年の同展で、やはり関連行事のご講演をなさった元NHKアナウンサー・室町澄子氏の像。
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そして、昨日、ご講演なさった絵子猫さんとのコラボ。
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ブロンズ彫刻がずらっと並んでいると、それはそれで迫力があってよいのですが、いかんせん色彩がありません。その点、今年は実に色鮮やかでした。

同時開催で、「探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~」。光太郎を含む、彫刻プロムナードでモデルとなった人物たちを題材にした紙芝居を、地元の小中高生の皆さんが制作、元になった彫刻の写真と共に展示されていました。
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光太郎。
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制作は東京農大三高美術部の皆さん。ありがとうございます!
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高橋元吉。
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宮沢賢治。
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そして、彫刻は無いものの、プロムナード整備の功労者、故・田口弘氏についても。これは意外でした。
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光太郎との交流から始まり、戦時中の九死に一生を得られた体験、戦後の高田との交流。
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うるっときてしまいました(笑)。

さて、時間となり、絵子猫さんの講演会。
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冒頭、森田市長のご挨拶。
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この後は、絵子猫さんご自身の希望により、講演というより、インタビュー形式で。インタビュアーは市職員の方でした。

いかにして独自のイラストレーションの世界が作られたか、これまでの歩み的なお話。
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そして、彫刻プロムナード。お近くにお住まいだそうで。
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美大時代、裸婦デッサンがお好きだったという絵子猫さん、最近は個人でモデルを雇うわけにも行かず、しばらくそちらから離れていたところ、ある日、「あ、これも裸婦じゃん」と、高田の裸婦像を描くことを思いつかれたそうです。なるほど。

そうして生まれたのが、こちら。
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デジタルとアナログの融合的な手法で描かれているとのこと。

お土産はこちらのポストカード、さらにモノクロ版A4サイズ。塗り絵になりそうです。
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光太郎像は描かれていないようですが、マハトマ・ガンディーはありました。絵子猫さん曰く、「初めてオジサンを描きました」(笑)。
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何だかガンディー、「スターウォーズ」のヨーダみたいです(笑)。

閑話休題、こういう形で地域の人材を活用するのは非常に理想的ですね。他の市町村の関係の皆さん、ご参考までに。

というわけで、「彫刻家 高田博厚展2022」。11月10日(木)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

平熱、セキもタンもさっぱり出ず、 午后奥平さんくる、ビール、余もビール少〻のむ、岡本先生くる、診察だけ、容態よき由、 夜食に玉ずしをとる、

昭和29年(1954)7月30日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核、病状は一進一退でした。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

現在、京都府の泉屋博古館さんで開催中で、来月初めから同館の東京館に巡回される特別展「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」の図録が届きました。2,500円也。
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当方、いわゆる骨董としての焼き物にはあまり興味がありませんが、波山の作品は別です。表紙にもある淡いパステルカラーのような葆光(ほこう)彩磁の色合いは非常に好きです。実作も何度か拝見しましたが、図録で見ても見飽きることがありませんね。

さて、それよりも購入の目的は、「参考出品」ということで出ている、光太郎の父・光雲の木彫2点。波山は東京美術学校卒業で、光雲に木彫の手ほどきを受けています。陶芸と彫刻、一見、あまり関連はなさそうですが、やはり立体造形という点で共通点がありますし、図柄の構成などにも洗練された美意識が必要ですから、美校での教えは後の波山芸術に大きく影響しているのだろうと思います。

下記は図録にあった美校彫刻科の写真。右端に映っているのが波山だそうです。
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そんなわけで、師・光雲の作品も出しているのだろうと思いまして、実際、「三猿置物」という光雲作品は、美校時代の波山の木彫と共に展示され、これが波山の師匠の作品だよ、という意味での参考出品のようでした。
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「三猿置物」、昭和6年(1931)の作で、稲荷山光明院さんという川崎市にある寺院の所蔵だそうですが、当方、寡聞にしてこういう作品があったことは存じませんでした。面白いなと思ったのは、日光東照宮の三猿や、各地で石仏としての庚申塔などに刻まれている三猿は、それぞれが対等の感じで配されているのに対し、三匹を親子猿にしている点。さすが光雲、一筋縄ではいかないな、という感じです。

ちなみに下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の場所にある江戸時代の庚申塔。今、撮ってきました(笑)。
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下の三猿、ちょっとわかりにくいかもしれませんが。

同じく光雲の「瓜生岩子像」(明治32年=1899)。こちらも存じませんでした。
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波山が光雲に頼んで作って貰ったものだそうです。

図録に曰く

 波山の妻・まるは、福島県喜多方市出身の社会慈善家・瓜生岩子の内弟子だった。その縁により、波山との結婚の際には瓜生が媒酌人をつとめている。波山夫妻は瓜生の生き方を敬慕し、1897(明治30)年に瓜生が亡くなって、その三回忌を迎えた際に、恩師であった高村光雲に「瓜生岩子像」(参考作品3)の制作を依頼した。慈善事業に尽力した瓜生の人柄が伝わる光雲の佳作であり、波山夫妻は本作を座右に置いて日々の励みにしたという。

なるほど。

光雲、人物肖像の木彫はやや苦手としており、後の大倉喜八郎夫妻像や法隆寺の管長・佐伯定胤の像などは、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを木に写すという手法で作られました。しかし、この瓜生岩子像には光太郎の手は入っていないようです。というか、明治32年(1899)では、光太郎はまだ数え17歳の美校生でしたし。


003その光太郎のブロンズ代表作「手」も参考出品ということで展示され、図録にも載っています。が、過日も指摘しましたが、やはり誤記。制作年が大正7年(1918)であるところ、明治35年(1902)となっています。

「個人蔵」だそうで、もしかすると高村家のものかな、と思っていたのですが、台座の形を見る限り、光太郎歿後の新しい鋳造のようです。それで価値が大幅に下がるわけではありませんが。

さて、先述の通り、京都展(10月23日(日)まで)が終わると、東京展(11月3日(木・祝)から12月18日(日)、泉屋博古館東京館さん)。当方、拝見に伺う予定で居ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野君くる、 すすめられて電気冷蔵器を草野君に一任、筑摩書房の金で買ふとの事、

昭和29年(1954)7月11日の日記より 光太郎72歳

「冷蔵器」は冷蔵庫のことですね。白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

以下、心平著『わが光太郎』(昭和44年=1969)より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
こういう交渉には押しの強い心平はうってつけです(笑)。

この冷蔵庫をモチーフに、詩人の平田俊子氏が「アストラル」という詩を書かれています。また、最近、心平の別荘だった福島県川内村の天山文庫に、どうやらこの冷蔵庫が保存されているらしいという話を知りました。次に訪れる際に確かめてみたいと思います。

明日開幕、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品展示ですが、光太郎も関連します。

彫刻家 高田博厚展2022

期 日 : 2022年10月19日(水)~11月10日(木)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 無料

東松山市では高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品やデッサン等を、2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は高田作品の展示に加え、市内在住の人気イラストレーター絵子猫さんと高坂彫刻プロムナードのコラボ企画をご用意しました。ぜひこの機会に「東松山市の芸術の秋」をご堪能ください。

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過去の同展の様子はこちら。

  平成30年(2018)  令和2年(2020)  

関連行事等

同時開催 探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~

高坂彫刻プロムナードに立つ、高田博厚ゆかりの著名人たちのエピソードをもとに市内中学生、高校生が紙芝居を制作しました。この紙芝居をご覧いただき、その後、その銅像をスケッチをしました。描いていただいた絵は、東松山市民文化センターで展示します。
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高坂彫刻プロムナード」は、高田の作品群が屋外展示されている、東武東上線高坂駅前から延びる通りです。同市の元教育長であらせられ、生前の光太郎と交流のおありだったた故・田口弘氏が、昭和40年(1965)に、当会主催の連翹忌の集いで高田と意気投合。以後、高田の個展や講演会を同市で開催するなど親交を深め、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品から成ります。

その「高坂彫刻プロムナード」を市民の皆さんが描くというイベントが9月24日(土)に開催され、作品の展示が行われます。光太郎胸像を描いたものもあるんじゃないかな、と思い、拝見に伺うことにしました。

もう1件。

特別講演会「絵子猫さんと高坂彫刻プロムナード」

イラストレーターとして第一線で活躍する絵子猫さんに、幼少時代のお話や幻想的で夢のような作品はどうやって生まれるのかなどを伺います。また、身近なアートの楽しみ方についても教えていただきます。
日時:令和4年10月22日(土曜日)午後2時から午後3時30分まで
会場:市民文化センター 大会議室
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)市内外問わず
定員:80名
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫(エコネコ)さんの講演会。こちらも「高坂彫刻プロムナード」がらみです。

どうせ東松山まで行くならこの日に合わせようと思い、講演会に申し込みました。定員80名、抽選だそうで、外れたとしても裏技で伝手(つて)を頼れば(当方、毎年、同市で市民講座の講師を務めさせていただいたりしておりますので)関係者枠で入れてくれるだろうと思っておりました。ズルですが(笑)。で、昨日、当選の通知、というか「当講演会は定員80人に達しなかったため、抽選は実施しませんでした。そのため、お申込みいただきました皆さまは当選となります。」とのこと。裏口入学ならぬ裏口入場をしなくて済みました(笑)。さらに「なお、講演会には空きがまだございますので、お近くにご興味がある方がいましたら、お声がけいただければ幸いです。」だそうですでので、この場を借りてご紹介いたします。お申し込みはこちら

案内に使われている絵子猫さんのイラスト、「高坂彫刻プロムナード」の高田彫刻をお描きになったものです。
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共に女性像ですからそんなでもありませんが、ブロンズ彫刻にはどうしても「武骨さ」が伴います。しかし、こうしてキラキラのイラストになると、なんともイメージが変わりますね。

このタッチで光太郎胸像をお描きになったとしたらどうなるんだろう、と興味深いものがあります。既に描かれているのかも知れませんが。
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となると、光太郎彫刻の数々も、ぜひ描いていただきたいものです。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などはいい感じになりそうですし、同じくブロンズの「裸婦坐像」や木彫の「白文鳥」なども面白く出来そうです。しかし、光太郎の父・光雲の「老猿」や「仁王像」などだとどうなってしまうのだろうなどとも思いました。

というわけで、東松山市高田博厚展2022、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方大川先生くる、ストマイ注射、脈高し、 夜に入りて高熱出らしく、せきもつよく、呼吸困難、悪寒手足のふるへくる、クロロマイセチン3錠、ネオフイリン2のみ、ややおさまる、


昭和29年(1954)7月7日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は、確実に光太郎の命を削っています。ただし、この後、かなり持ち直しては行きますが。

こんな状態で日記を書いてる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなりますが、亡くなる3日前の昭和31年(1956)3月30日まで、日記は続けられます。よほど具合の悪かった日は書かなかったようですが、それでも小康状態になると、遡って書いています。この日の分もそうかもしれません。

大川」は誤記で、正しくは「大気」。「チーム光太郎医師団」の一人、大気(おおき)寿郎医師のことですが、名前を誤記したり「高熱出たらしく」の「た」が脱字になったり、痛ましさを感じます。

情報を得るのが遅れまして、会期あとわずかですが……。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月23日(日)
会 場 : 泉屋博古館 京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町24
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,000円 高大生800円 中学生以下無料

 陶芸家 板谷波山は、明治5年(1872)茨城県下館町(現・筑西市)に生まれ、昭和28年(1953)には陶芸家として初の文化勲章を受章し、昭和29年(1954)には日本画の横山大観とともに茨城県名誉県民の第一号となりました。
 波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さないという強い信念により、端正で格調高い作品を数多く手がけました。その一方で、波山は、故郷のまちと人々をこよなく愛し、共に信頼し、共感し合いながら、生きていくことを大切にした人物でもありました。
 令和4年(2022)3月3日、我が国の至宝である板谷波山は、生誕150年を迎えました。この記念すべき年に、住友コレクションはじめ波山の選りすぐりの名作を一堂に集め展覧します。あわせて、波山が生まれ愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、そして試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」と謳われる波山の様々な姿を紹介いたします。
 波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、そして、波山の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
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陶芸家・板谷波山。東京美術学校彫刻科卒という、ちょっと変わった経歴です。したがって、光太郎の父・光雲に彫刻の手ほどきを受けており、光太郎の先輩でもあります。

そこで、「参考作品」ということで、光雲の木彫二点と、光太郎の「手」も出品されていました。波山展をやってるなぁ、というのは存じておりましたが、光雲・光太郎の作品が出ているとは気づきませんでした。
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光雲の木彫二点は、「瓜生岩子像」(明治32年=1899)と、「三猿置物」(昭和6年=1936)だそうですが、当方、二点とも拝見したことがありません。

光太郎の「手」は、ブロンズの代表作「手」と思われますが、出品目録には「明治35年 1902」と書かれています。代表作の「手」は大正7年(1918)作ですので、誤植なのだろうと思うのですが、もしかすると全く違う「手」なのでしょうか? オンラインショップで図録が購入可能でしたので、早速註文しました。届き次第見てみます。

ところで同展、全国巡回でした。これまでにも波山の故郷・茨城県筑西市のしもだて美術館さん、廣澤美術館さん、板谷波山記念館さん3館合同の同時開催で4~6月に、石川県立美術館さんでは6~7月で。

さらに来月から泉屋博古館さんの東京館でも開催されます。当方、こちらを拝見に行こうと存じます。また、来年1月2日(日)~2月26日(土)には茨城県近代美術館さんにも巡回だそうです。

東京展の情報を。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年11月3日(木)・祝~12月18日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号 
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,200円(1,000円)、高大生800円(700円)、中学生以下無料

京都展は10月23日(日)まで。その後の東京、茨城と、お近くの会場にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前長谷川仁夫妻玄関まで、藤島武二先生の写真うけとり、預る、

昭和29年(1954)5月18日の日記より 光太郎72歳

長谷川仁」は、ジャーナリスト。この頃、戦時中に亡くなった洋画家・藤島武二の胸像制作の話があり、光太郎に制作依頼がありました。光太郎は欧米留学前の明治38年(1905)、西洋美術を学び直そうと、東京美術学校の西洋画科に再入学(結局、留学のため中退)しましたが、その際に藤島は同科の教授でした。そこで、「先生」の文字。

光太郎、体調が回復すれば、この頃手がけていた「倉田雲平胸像」を完成させ、さらに藤島像の依頼も受けたかったようですが、それは幻に終わりました。

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

今日10月5日(水)はレモンの日。昭和13年(1938)の今日、智恵子が南品川ゼームス坂病院で、いまわの際に光太郎が持参したレモンをがりりと噛んだことに由来します。

かつて数々の女優さんが演じてきたそのシーン。

昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で、原節子さん。
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その10年後、昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」では、岩下志麻さん。
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テレビでは、平成3年(1991)、NHKさんで放映されたスペシャルドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」で、佐久間良子さん。
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テレ東さんでも、平成6年(1994)に「日本名作ドラマ 智恵子抄」。南果歩さんが演じられました。
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それから、ドラマではありませんがNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」(平成27年=2015)。再現Vのパートで前田亜希さん。
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智恵子役といえば、平成21年(2009)、日テレさん系の深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 での紺野まひるさんが、個人的には非常にいいと思ったのですが、ドラマの演出上、レモンを噛む智恵子臨終のシーンはありませんでした。
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さて、真面目な話も(ここまでが不真面目だったわけではありませんが(笑))。

最近、こんな絵葉書を入手しました。

明治40年(1907)、智恵子の母校・日本女子大学校の同窓会(イベントとしての同窓会ではなく、組織としての)である桜楓会発行のもので、エンボス加工(レリーフのように図柄を盛り上げた印刷)が為されており、カラーですし、当時としては高級なもののようです。
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「Souvenir Post Card. The Ofukai Bazar 1907-」「桜楓会バザー記念」の文字。このバザーというのが、日本女子大学校の名物行事の一つでした。その際に来場者にお土産として配付されたものでしょうか。

平成2年(1990)、二本松市教育委員会刊行の『アルバム高村智恵子-その愛と美の軌跡-』(当会顧問であらせられた北川太一先生編)所収の智恵子年譜に拠れば「当時のバザー、学芸会の装飾、背景などは、智恵子によるものが少なくない」とのこと。すると、この絵葉書も原画は智恵子が描いたものなのかもしれません。

傍証は、図柄。書籍が描かれていますが、背の部分に「三つの」という金文字が見えます。どうやらこの書籍は『三つの泉』ではないかと推定出来ます。

『三つの泉』は、明治39年(1906)、日本女子大学校で、皇族等を招いて大々的に開催された「秋期文芸会」(今で言う学園祭的な行事)を記念して、翌年(上記絵葉書と同じ年です)に、やはり桜楓会から刊行されたものです。
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こちらはその表紙、中のカット(右上、写真の周りの縁取り)を智恵子が描いたことが既にわかっています。

となると、上記絵葉書もやはり智恵子が原画を描いたと考えるのが妥当なような気がします。花の描き方も、『三つの泉』のカットと共通するような……。

作者のサインがありませんので断言できないのですが……。

これが智恵子の手になるものだということが証明出来る、光太郎智恵子、あるいは周辺人物の回想文や書簡などが出て来ることを望みます。

さて、今日は「レモンの日」。皆様方には、ぜひ智恵子という鮮烈な生き方をした人物を、それぞれの場で偲んでいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房の人くる、全集用の写真をかし又色紙一枚かく、「いろはにほへと」とかく、

昭和29年(1954)4月23日の日記より 光太郎72歳

全集」は『現代日本文学全集』。第24巻が「高村光太郎 萩原朔太郎 宮沢賢治集」でした。「いろはにほへと」の書は、光太郎の部の最初に印刷されています。
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新刊です。

平櫛田中回顧談

2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編
中央公論新社刊 定価2,200円+税


自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
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目次
 刊行にあたって 平櫛弘子002
 1 生いたち
 2 大阪と中谷一家
 3 奈良と森川杜園
 4 東京に出る
 5 禾山和尚
 6 長安時の生活
 7 茶屋町の生活
 8 米原雲海と山崎朝雲
 9 岡倉天心と日本彫刻会
 10 岡倉天心の思い出
 11 日本美術院の再興
 12 上野桜木町の家とその頃の諸作
 13 二児を失う
 14 色々の天心像
 15 素材と用具と伝統技法の復活
 16 帝展参加と“霊亀随”
 17 肖像彫刻
 18 鏡獅子の制作
 19 六代目の手紙
 20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
 21 美術学校に勤めた頃
 解説
掲載作品一覧
年譜

光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。

当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。

平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。

内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。

光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。

そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。

 米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
 『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。


平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。

その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。

また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、

昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳

「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。

 一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
 所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。


新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。

流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。

2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

平成5年(1993)にアメリカで創刊されたICT系の雑誌『WIRED』さん。日本版も発行されています。9月14日(水)発行のVOL.46、クリエーター・川田十夢氏による連載「Way Passed Future 川田十夢の「とっくの未来」」が、「第23回 プロンプトエンジニアリングと『智恵子抄』」。
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「プロンプトエンジニアリング」とは、AI(人工知能)の思考を人間が補助すること。18世紀・明治前半生まれの光太郎と最新テクノロジーのAIがどう結びつくのか、と思って拝読しましたが、なるほど、と思わされました。ちなみに言わずもがなですが、記事に添えられた右上イラストでゴーグルを装着しているのが光太郎、見つめる先はブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)です。

日進月歩のAI技術ですが、まだまだ、という部分が多いようです。川田氏、いわゆる「お絵描きAI」を例に挙げられています。数年前には元になる画像を与え、それをアレンジするのが限界だった「お絵描きAI」。最近は任意の言葉を与えればグラフィックを生成してくれるまでに進化しているそうです。

しかし、そうして作られるグラフィックは、川田氏いわく「クリシェ」。仏語で「 cliché」、「常套句、決まり文句」の意です。誰もがイメージするような当たり前のグラフィックしか書けない、ということですね。ちょっとしたカットなどに使う程度ならそれでいいのでしょうが、それを芸術作品として世に出せるかと問われれば、否、というわけです。

そこで、「それがAIの限界だからそこまででいい」としてしまうのでなく、「プロンプトエンジニアリング」のスキル向上が必要だ、という論旨です。

例に挙げられるのが光太郎。「緑色の太陽」(明治44年=1911)、「触覚の世界」(昭和3年=1928)などの美術評論、文学評論の「詩について語らず」(昭和25年=1950)、さらには詩「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを引用しつつ、光太郎の為し得た対象認識を良しとしています。視覚、触覚を通しての物体に対する把握、そして様々な事象を言語によって表現すること、そのどちらにも光太郎は並外れた能力を持っていて、今後、「プロンプトエンジニアリング」にはそうしたスキルが必要だというのです。

川田氏曰く「最新テクノロジーを駆使するために人間側に改めて求められてくる能力は何だろう。卓越された言語能力、そして空間把握能力にほかならない。その手本になる人物が日本には存在した。高村光太郎である」。光太郎の歩んだ道程、残した業績の数々を思う時、この文言は決してほめすぎとは言えないでしょう。

もっとも、川田氏、元々光太郎ファン的な部分がおありのようで、やはり『WIRED』誌の4月号(VOL.44)の同じ連載でも光太郎に触れて下さっていました。そちらは「能と拡張現実」というサブタイトルで、光太郎の評論「能の彫刻美」(昭和19年=1944)が引かれています。他に高浜虚子、夢野久作なども。
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こうした過去の範とすべき人物や事象に学ぶ姿勢-「温故知新」とでも申しましょうか-こそ、かえって最新のテクノロジーには欠かせないのではないかと、改めて考えさせられました。

というわけで、『WIRED』誌、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

胸像の骨つくり、鉛管、  昭和29年(1954)2月6日の日記より 光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。この日から本格的に制作を開始しました。

光太郎第二の故郷・花巻からの情報を書くつもりでしたが、予定変更。昨日開幕し、今日は中日(なかび)、明日には閉幕という彫刻個展です。

特別企画 秋川雅史 木彫展

期 日 : 2022年9月17日(土)~9月19日(月・祝)
会 場 : 靖山画廊 東京都中央区銀座 5-14-16 銀座アビタシオン 1F
時 間 : 11:00~17:00
料 金 : 無料

究極の声を追い求めて歌をうたう。思い描くイメージを一本の木から彫り出していく。どちらもやり直しはきかない。このたびテノール歌手秋川雅史が、ジャンルを超えた芸術家として初の個展を開催致します。3年の歳月をかけ制作した「木彫楠公像」など、魂が込められた作品をご覧ください。

※場合によっては、入場制限させて頂く可能性もございます。

テノール歌手の秋川雅史さん。仏師の関侊雲氏に師事して木彫にも取り組まれ、昨年の二科展では、光太郎の父・光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品により、彫刻部門で入選を果たされました。当該作品、さらに今年の二科展入賞作品も展示されるとのこと。秋川さんご本人によるプレス対応を、報道各社さんがニュースにしています。

『東京スポーツ』さん。

秋川雅史は木彫で二刀流 歌手活動回復し「最近彫れないストレスがあって…」

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・中央区の「靖山画廊」で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)の開催に伴い、取材に応じた。
 大ヒット曲「千の風になって」で知られる秋川だが、趣味で木彫を始め、個展の開催が決定した。
 コロナ禍の影響で、コンサートなどは中止や延期となり、木彫を制作。最近は状況が徐々に回復傾向で、歌手としての活動も戻ってきており、秋川は「最近彫れないストレスがあって…。テレビ番組収録の楽屋で彫っています。、待ち時間が長いので」と明かした。
 歌手と木彫の二刀流については「歌手はメインの本業。お客様が求める以上のパフォーマンスをするというプレッシャーがあって、歌の練習ってつらいことが多いけど、彫刻の練習は楽しいですね。自分なりに自分のレベルで成長していけたら」と語った。
 個展では、昨年の第105回二科展彫刻部門で入選した木彫楠公像(楠木正成像)などを展示。同像の制作は、皇居外苑国民公園にある楠木正成像を見てかっこいいと思ったことがきっかけだという。
 同像を前に「これが彫りたくて、最終目標と思って彫り始めて3年。最初は四角い木で、遠い道のりでした」と振り返った。
東スポ
『中日スポーツ』さん。

「歌手は辛いことも多いが…彫刻は楽しいことばかり」秋川雅史が自身初の個展「これからも二刀流で」  

 テノール歌手の秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で自身初の個展「木彫展」の取材会を行った。
 昨年の「二科展」彫刻部門で入賞した「楠木正成像」や「金剛力士 仁王像」など、この11年間に彫りためてきた木彫刻11点を19日まで同画廊で展示。さらに今年の二科展で入賞した「木彫龍図」は二科展終了後の19日に披露する。
 念願だった個展に秋川は「10年前の作品を見ると、未熟だなと思います。人間はいつまでも成長するんだなとも思いました。11年の成長の過程を見てほしいです」とアピール。2年連続での二科展入賞には、「昨年とは違って、今回はアーティストとしてちゃんと作っているか、ということを見られた結果だと思うので、昨年以上にうれしいです。来年から? どうしましょうかね。また頑張って作ります!」と笑顔を見せた。
 木彫刻を始めたのは、故郷愛媛県西条市に伝わる西条だんじり彫刻の魅力に触発されたのがきっかけだったという。彫刻教室にも通い、1年に一作のペースで作品を仕上げてきた。「本業の歌手はプレッシャーがあって辛いことも多いです。でも、彫刻は楽しいことばかり。のめり込める時間がいいです」。今後には「歌と木彫刻、これからも二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい」と力を込めた。
中日スポーツ
『サンケイスポーツ』さん。

歌手、秋川雅史が木彫の初個展を開催 「1日5、6時間。彫れない日はストレスで」と〝二刀流〟を宣言 二科展も2年連続入選 

 テノール歌手、秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」(19日まで)を開いた。
 「彫刻を始めて11年。念願だった個展ができることになりました」と秋川は感激しきり。東京・新国立新美術館で19日まで開催中の「第106回二科展」彫刻部門で「木彫龍図」が2年連続の入選。個展では、昨年の彫刻部門で芸能界初の入選を果たした「木彫楠公像(楠木正成像)」を中心に、二科展出品中の最新作を除く過去の全作品12点や、代表曲「千の風になって」の歌詞をしたためた書などを展示する。
 出身の愛媛・西条市でだんじり祭りの彫刻に幼少期から「血が騒いだ」と言う。43歳で一念発起し、「彫刻、教室、東京でネットで検索して、一番上に出てきた先生に入門した」と笑って告白。「いまでは1日5、6時間、地方公演中やテレビ局の楽屋でも彫ります。彫り始めると止まらなくなる。彫れない日はストレスで」とのめりこむ。
 昨年の入選作のモデルとなった皇居外苑前の楠公像は「とにかくかっこいい。彫りたい!と思った」。埼玉・深谷市にある畠山重忠像にも心をひかれていると言い、「コンサートで全国に行くときも銅像をチェックしています。いま(山梨・JR甲府駅前の)武田信玄像を彫り始めたところ」と〝銅像シリーズ〟を今後のテーマに掲げる。
 二科展挑戦のきっかけは同じ事務所所属のモデル、押切もえ(42)の絵画での入選に「触発された」ことだったという。最後は「彫刻家と歌手という〝二刀流〟で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷選手? 超えたいですねえ!」と取材陣への笑顔のリップサービスで締めくくった。
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日テレさん。

秋川雅史、彫刻家と歌手の二刀流“大谷選手を超え目指す”

 『千の風になって』の楽曲で知られる、テノール歌手の秋川雅史さん(54)が17日、これまで秋川さんが彫り続けた彫刻作品を集めた、自身初の個展イベントに登場。歌手と彫刻家の“二刀流”を宣言し、世界で活躍する”二刀流選手”超えの記録を目指すと語りました。
 木彫刻家としての顔も持つ秋川さんが、これまでの彫刻作品を集めた初の個展『秋川雅史 木彫展』を17日~19日までの3日間開催します。秋川さんの彫刻作品は、昨年の美術の展覧会『第105回 二科展』の彫刻部門で初入選し、今年の『第106回 二科展』でも2年連続となる入選に輝きました。
■秋川「ネットで調べて一番上のところに」彫刻の師との意外な出会い
 43歳から彫刻を始めたという秋川さんは、『第106回 二科展』で入選となった『木彫龍図』について「愛媛県の西条市出身で、だんじり彫刻を見て育ったので、彫刻を見ると血が騒ぐ。だんじり彫刻は、龍が見せ場なんで、自分だったらこういう龍を彫りたいとイメージがありました」と語りました。
 また、彫刻を始めるにあたり、教室に通ったそうで「インターネットで『彫刻、教室、東京』とキーワードを入れて一番上に出てきたところに行きました。そこの先生が超一級の先生でした」と、師匠となる先生との運命的な出会いを明かしました。
 歌手としても活動する秋川さんは今後について「彫刻もアートだし、歌もアート。広い意味でアーティストと。だけどその中で、歌手と彫刻家の二刀流で、数々の記録を打ち立てたい。大谷選手を超えたいですね」と、世界で活躍する“大谷選手超えの二刀流”を目指すと宣言しました。
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テレ朝さん。

秋川雅史、初の個展スタート「“二刀流”で数々の記録を」 

 テノール歌手・秋川雅史(54)が17日、東京・銀座の靖山画廊で初の個展「秋川雅史 木彫展」を開催(19日まで)。報道陣の取材に応じた。
 秋川は昨年の二科展彫刻部門に「木彫楠公像(楠木正成像)」で初入選。今年、「木彫龍図」で2年連続となる入選を果たした。
 個展では「木彫楠公像」をはじめ、これまで手がけた彫刻や書を展示。秋川は、「彫刻を始めて11年。念願だった個展が初開催出来ることになりました」と喜び、「成長の過程を見てもらえたら」と呼びかけた。
 地元・愛媛県西条市の「西条まつり」で彫刻を見て育ち、「彫刻を見ると血が騒ぐ」とルーツを明かす。1日5~6時間を彫刻に費やしているが、「のめり込める時間」と表現し、「歌手は本業で、求めている以上のものを提供しないといけない。歌の練習はつらいことが多いけど、彫刻は楽しいことばっかり」と笑った。
 今後の目標を聞かれると、「全国に格好良い銅像がある。その銅像を木で彫るのがテーマ。武田信玄像に手をかけ始めた」と掲げた。歌手と彫刻家の“二刀流”だが、「広い意味でアーティスト。その中の二刀流で数々の記録を打ち立てていきたい。大谷(翔平)選手を超えたいですね」とライバル視した。
テレ朝3
テレ朝 テレ朝2
今後とも、秋川さんのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

高村晴雲くる、玄関で。


昭和29年(1954)1月11日(火)の日記より 光太郎72歳

「高村晴雲」は、光雲の師・初代高村東雲の孫で、本名は東吉郎。かつては光雲に師事し、この時点では三代東雲を襲名していたのですが、光太郎はうっかり昔の号の晴雲と記録してしまったようです。しばらく北海道にいた三代東雲、光太郎に先立って昭和26年(1951)に帰京しています。

























日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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先月6日から上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催中の「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」展。先月末、一部作品の展示替えが行われ、後期展示となりました。
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光太郎の父・光雲作品。前期では「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ていましたが、後期に入って「鹿置物」(大正9年=1920)にバトンタッチ。こちらも逸品です。
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公式サイト上で「出品目録」を見つけました。
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国宝に指定された「蒙古襲来絵詞」、高橋由一の「鮭」などは通期展示。それから目玉の一つ、伊藤若冲の「動植綵絵」なども後期からの展示です。

前期展示のレポートですが、主催に入っている読売新聞社さん発行の『読売中高生新聞』に関連記事が出ていましたのでご紹介します。

日本の風土を記録

004 日本美術の奥深にふれる特別展「日本美術をひも解く― 皇室、美の玉手箱」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開催されています。宮内庁三の丸尚蔵館の名品と、東京芸術大学の収蔵品が結集した同展の魅力を、同美術館の黒川廣子館長に聞きました。
 本展は、皇室ゆかりの品が収蔵されている宮内庁三の丸尚蔵館と、近代以降の日本で芸術の教育・研究 機関として重要な役割を担ってきた東京芸術大学のコレクションを合わせて、日本美術の魅力を紹介するものです。タイトルにある「玉手箱」には、「様々なジャンルや作品に出会える」(黒川館長)という意味が込められています。
 時代ごとではなく「生き物」や「物語」「風景」などのテーマごとに作品が区分されていて、所々に「蒔絵・螺鈿」「やまと絵」「障壁画」などの伝統技法や形式の解説もあります。小さい子どもも楽しめるワークシートも用意されていて、与えられたミッションをもとに、楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 会場に入るとまず、黄金の蒔絵とオーロラのような螺鈿が調和しながら 輝きを放つ「 菊蒔絵螺鈿棚」が来場者を迎えます。明治天皇の許可のもと、東京美術学校(現・東京芸大)と、宮内省(現・宮内庁)が 制作した、 記念的な作品です。
 文字をテーマとしたコーナーでは、 伝藤原行成「粘葉本和漢朗詠集(でっちょうぼんわかんろうえいしゅう)」などが目をひきます。 雲母(きら)とよばれる鉱物を粉末状にして 描かれた文様がある料紙など、素材と文字の美しさのかけ合わせが印象的です。
 また、だれもが一度は教科書などで見たことがあるであろう、鎌倉時代の元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」も、物語をテーマとしたコーナーに展示されています。「当時は写真がない時代なので、絵で表現して現在に伝えているところに 歴史的な 価値があります」と、黒川館長。多くの画家が模写を行った作品だそうです。
 「蒙古襲来絵詞」を 含め、宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品として 昨年初めて国宝指定された5件が展示されるのが、本展の見所のひとつです。この中で、桃山時代の武士のように力強い獅子が描かれた狩野永徳の「唐獅子図屏風」は生き物を集めたコーナーに展示され、会場に威風を放っていました。
  豪華絢爛な屏風絵から、月ごとに咲く花と鳥や虫を合わせた 酒井抱一「 花鳥十二ヶ月図」のような繊細な掛け軸まで、バラエティー豊か。重要文化財となっている、明治時代の高橋由一「鮭」は油絵です。「身近な画題を描くことで、洋画を受け入れてもらおうと一生懸命でした」という黒川館長の説明に、当時の洋画家たちの挑戦に思いをはせました。雌雄のつがいで展示されている 高村光雲のかわいらしい木製彫刻「矮鶏(ちゃぼ)置物」は、元々雄のみだったのが、明治天皇が気に入って購入され、それに合わせて雌を急きょ制作したそうです。
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 黒川館長によると、貴重な作品を守るために、作品ごとに当てる光を変えたり、温度も作品にとってちょうどいい温度にしたりと、気をつけているそうです。美術館が少し肌寒く感じたのはそのせいだったのかと納得しました。
 日本美術の特徴がぎゅっと詰まった展覧会。「日本で起きる全てを大切に記録するのが美術。日本ならではの表現で、日本という風土を記録しているのが魅力です」という、黒川館長の言葉が心に残りました。これからは作品の背景にも気を配って、作品を見ていきたいと思いました。
 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は、東京芸術大学、宮内庁、読売新聞社主催。9月25日まで、会期中、一部展示替えあり。詳細はホームページ 。

編集後記
 国宝級の美術品は、何度鑑賞しても飽きませんでした。美術や歴史の教科書に載っている実物を、目の前で見られるのは感動します。特に同世代には、日本人として、世界に 誇る日本美術の素晴らしさを知ってもらいたいと思いました。ぜひ足を運んでみてください。(岡島)
 ★企画者・ 岡島花蓮記者(中3)、 児玉龍之介記者(高2)、 飯島記者(高2)、 池上颯記者(中2)、 那須祐香記者(小5)

9月の金・土は午後7時30分まで開館だそうです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前志戸平より車で花巻温泉松雲閣別館に移る。 再び出て理髪等、


昭和28年(1953)12月2日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。かつてたびたび宿泊した松雲閣別館に宿を移し、5日の朝、再上京するまで逗留しました。

都内から現代アートの展覧会情報です。

緑色の太陽とレンコン状の月

期 日 : 2022年9月10日(土)~10月8日(土)
会 場 : タカ・イシイギャラリー 東京都港区六本木6-5-24 complex665 3F
時 間 : 12:00~18:00
休 廊 : 日・月・祝祭日
料 金 : 無料

「人は案外下らぬところで行き悩むものである。いわゆる日本画家は日本画という名に中てられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。」という書き出しから始まる高村光太郎のエッセイ《緑色の太陽》は、僕が近年ずっと抱えていた問題意識と共振するような内容で驚いた。100 年以上も前に書かれたこのテキストはたんに芸術論であるばかりか、現在わたしたちが直面しているコロナ禍、そして不安定な世界情勢の中でどう生きるべきかを示唆しているように思う。「人は、そして芸術家は国家に規定されるのか?」という根本的な問いを造形言語のレベルから検討し可視化したい。
梅津庸一

タカ・イシイギャラリーでは、9 月 10 日(土)から 10 月 8 日(土)まで、梅津庸一「緑色の太陽とレンコン状の月」を開催いたします。梅津のタカ・イシイギャラリーでの初個展となる本展では、梅津が近年新たに制作に打ち込んでいる陶作品を中心に、30 点以上の大小様々なドローイングと、大塚オーミ陶業株式会社の協力のもと制作された陶板作品を展示いたします。

梅津は、「美術とはなにか」、「人がものをつくるとはなにか」という根本的な問いについて、様々な角度から思考、実践してきました。日本における美術の受容史を自らの身を以て体現した代表的な自画像シリーズや、パフォーマンスを記録した映像作品で知られてきましたが、自身が主宰するアートコレクティブ「パープルーム」や、非営利のギャラリーの運営、展覧会のキュレーション、テキストの執筆、そして、一昨年より新たに加わった陶作品の制作など、その活動領域は、近年より一層の多面性を見せています。2021 年にワタリウム美術館にて開催された個展「ポリネーター」では、これまであまり知られていなかった梅津の活動の全貌が明らかになりました。なかでも、140 点もの陶作品により構成された「黄昏の街」は、SF的な想像力と、粘菌の増殖に見られるような秩序とが同居したメルクマール的作品と言えるでしょう。 

2021 年、梅津は、六古窯のひとつである信楽の製陶所を間借りして作陶を始めます。明治時代から日本を下支えしてきた産業のひとつである「窯業」を起点に、現代アートにおける「ものづくり」について考察を深めています。今年 7 月には、信楽の複数会場にて「一人芸術祭」の様相を呈した「窯業と芸術」展を企画・開催し、作家による「やきもの」だけではなく、それを下支えするインフラにもスポットを当てました。また、梅津は現代アートで近年注目の高まる陶芸を単なる「オーガニックなもの」や「手仕事への回帰」としては捉えておらず、陶芸における柳宗悦や河井寛次郎らによる民藝運動と、それに付随する「オリエンタリズムの功罪」を積極的に見出すことで、一連の作品を編み上げているのです。 

梅津のドローイング作品は、ひとつの表現様式に一元化しない複雑さを有しています。ポエジーと物理法則、私小説的な感受性、フォーマリズム絵画の原理が互いに作用しながら編まれる作品は、1 点 1 点が独立した作品でありながらも、それぞれが有機的な結びつきをみせています。本展では、陶芸とドローイング、窯業と芸術、モダニズムと図画工作の間を行ったり来たりしながら練り上げられた、およそ 100 点に及ぶ作品群を展示いたします。決してひとつの結論に回収されることのない梅津の複合的なアプローチは、その作品や活動の全体を介して私たちに「美術とはなにか」という疑問を投げかけているようです。梅津の思考の基盤と、次なる展開をこの機会に是非ご高覧ください。 

梅津庸一は 1982 年山形県生まれ。相模原在住。東京造形大学絵画科卒業。絵画作品、ドローイング作品、自身を題材とした映像作品、セラミック作品、陶板作品と多様なメディアを介して制作を行うほか、自身が主宰する「パープルーム予備校」(2014 年~)および「パープルームギャラリー」の運営、美術手帖 特集「絵画の見かた」(2020 年 12 月号)の監修、テキストの執筆など活動領域は多岐にわたる。主な個展に「未遂の花粉」愛知県美術館(愛知、2017 年)。「ポリネーター」ワタリウム美術館(東京、2021 年)。 作品集に『ラムからマトン』(アートダイバー、2015 年)。 
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光太郎の評論「緑色の太陽」からのインスパイアだそうで。

「緑色の太陽」は、光太郎帰朝後の明治44年(1911)、雑誌『スバル』に発表された「日本初の印象派宣言」とも呼ばれるもので、同時代の美術家たちに多大な影響を及ぼしました。のちに妻となる長沼智恵子も、これを読んで目からウロコだったようです。

題名の「緑色の太陽」は、次の一節に象徴的に使用されています。

人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。(略)「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。

さらに、

僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。

PERSOENLICHKEIT」は独語で「個性」。まさに印象派宣言といえましょう。

梅津氏、存じ上げない方ですが、絵画、陶芸などの作品を作られているとのこと。そこで今回の個展では、大塚オーミ陶業株式会社さんの協力のもと制作された陶板作品も並ぶそうです。大塚オーミ陶業さんといえば、埼玉県比企郡ときがわ町の正法寺さんに寄進された光太郎筆の「般若心経」を写した陶板を制作なさった会社です。不思議な縁を感じました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻病院長さん夫妻車でくる、そのうち「わんこそば」などの催あるとの事、
昭和28年(1953)11月28日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻ですが、郊外旧太田村の山小屋には起居せず、大沢温泉さん、志戸平温泉さん(この日も)、花巻温泉さんなどを泊まり歩いていました。宿痾の肺結核は既に老体を長く蝕んでおり、また初冬とはいえ岩手の寒さは厳しく(この日も雪が舞っていました)、むべなるかな、です。

花巻病院長さん」は佐藤隆房。「「わんこそば」などの催」は不分明です。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎、柳敬助ら、守衛の周辺にいた作家の作品も収蔵、展示なさっています。

現在、コレクション展的な「中村屋サロンの芸術家たち」が開催されていて、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916頃)、「十和田湖裸婦像のための小型試作」(昭和27年=1952)も展示されています。
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出品目録的には以下の通りです。

彫刻11点
 戸張孤雁 《をなご》1910年  《足芸》1914年
 中原悌二郎 《老人》1910年 《若きカフカス人》1919年 《憩える女》1919年
 高村光太郎 《裸婦坐像》1916年頃  《十和田湖裸婦像のための小型試作》1952年
 保田龍門 《臥女》1924年 《裸婦立像》1927年
 堀進二 《中原悌二郎像》1916年 《中村彝氏頭像》1969年
平面(デッサン、油彩等)(12点)
 荻原守衛 《こたつ十題其一》1910年頃 《こたつ十題其二(複製)》1910年頃
  ※会期中入れ替えます
 戸張孤雁 《荒川堤》1910年《橋を渡る農婦》制作年不詳
 柳敬助 《荻原守衛肖像》1910年頃 《千香》1910年頃 《婦人》1910年
 齋藤与里 《花あそび》1950年 《山峡秋色》1957年
 鶴田吾郎 《窓辺》制作年不詳 《ネパール国境のヒマラヤ》制作年不詳
      《リガ》制作年不詳

そちらの関連行事として、市民講座が開かれます。

美術講座「中村屋サロン展の作家たち」

期 日 : 2022年9月10日(土)
会 場 : 碌山美術館 杜江館2階 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:30~20:00
料 金 : 無料
講 師 : 武井敏氏(碌山美術館学芸員)


ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

ところで碌山美術館さんというと、本館に当たる碌山館修繕のためのクラウドファンディングが、明日まで実施されています。

当初目標額は700万円でしたが、あっという間にそれを達成、その後も寄附の勢いとどまらず、「セカンドゴール」に設定されていた1,000万円、「サードゴール」の1,800万円もクリア。今朝の段階で2,100万円を突破しています。

世の中、まだまだ捨てたものではないなと実感させられました。繰り返しますが、明日までの実施です。さらなる支援をよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋の中ゐろりでいろいろ撮影、井戸水くみ、大根きざみ、スルガさん宅でそば食を皆でやる。

昭和28年(1953)11月27日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。

前日に続き、この日もブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
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光太郎帰村についての報道については、こちら

岩手県盛岡市からイベント情報です。

館長講座2022 作り手の視点 第2回「岩手の美術教育」

期 日 : 2022年8月27日(土)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 14:00-15:30(開場13:30)
料 金 : 無料

当館の藁谷収館長が専門の彫刻を中心に「作り手の視点」で語る美術講座。彫刻作品の制作の裏側や美術教育などをテーマとして、全4回シリーズでお話しします。当日、直接ホールにお越しください。参加無料、申込不要です。

第2回 「岩手の美術教育」
 疎開した彫刻家高村光太郎と美術評論家森口多里の交流が始まり、岩手美術研究所、岩手県立美術工藝学校、盛岡短期大学美術工藝科、岩手大学特設美術科へと発展的に継承された岩手の美術教育は、多くの美術に関わる人材を輩出してきました。これまでの検証と、今後の展望を紐解きます。

講 師 : 藁谷収(わらがいおさむ) [当館館長]
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藁谷館長、平成31年(2019)の同講座「岩手の近代彫刻Ⅱ」、同30年(2018)の「岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」」でも、光太郎と岩手について語って下さいました。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

運送屋七尺石膏像を持ちくる、十和田関係の費用旅費日当等全部払(42,000)


昭和28年(1953)11月4日の日記より 光太郎71歳

七尺石膏像」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型。鋳造を担当した伊藤忠雄の工房から帰ってきた、というわけですね。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに収められています。七尺像ということでなかなか大変なのですが、ぜひ展示する機会を設けてほしいものです。

費用旅費日当等」は運送屋さん関係と思われます。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。午後1時に天心記念五浦美術館さんに伺う予定で、時間が早かったので、野口雨情記念館さん、野口雨情生家、天心遺跡(六角堂)などに立ち寄りましたが、午後1時近くになりましたので、満を持して同館へ。
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少し前、同館刊行の『新納忠之介旧蔵資料目録Ⅰ 「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年=2016)という厚冊の書籍を、自宅兼事務所の隣町の図書館で見つけ、頁を繰ってみたところ、光太郎の父・光雲、光太郎、そして光太郎実弟・豊周から新納忠之介に宛てた書簡類がリストに載っていました。
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001新納は明治元年(1868)鹿児島生まれ、東京美術学校の彫刻科第3回卒業生で光太郎の大先輩です(光太郎は第11回卒業)。光太郎在学時には同校助教授を務めていましたが、いわゆる美術学校事件で天心らとともに連袂辞職、日本美術院に加わりました。

ちなみに同期卒業生のうち、「本山辰吉」は本山白雲。高知桂浜の坂本龍馬像、国会議事堂前庭の伊藤博文像などで有名ですね。

それから「板谷嘉七」は陶芸家となった板谷波山です。「黒岩倉吉」は黒岩淡哉。そこそこ有名な彫刻家です。

新納はその後奈良に移り住み、主に仏像修復の分野で活躍しました。奈良東大寺さんの不空羂索観音像、京都三十三間堂さんの千手観音像などは新納の手により修復されています。また、光雲は信州善光寺さんの仁王像を制作するにあたって、東大寺さんの金剛力士像も参考にしていますが、その調査にも協力しています。今年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」には、新納から光雲に送られた、東大寺さん金剛力士像のレポートも展示されていました。

さて、新納宛書簡。調べたところ、『高村光太郎全集』及びその補遺として当方が編集を続けている「光太郎遺珠」に未掲載でした。

そもそも新納の名は、『高村光太郎全集』には4回しか出て来ていませんでした。光太郎の後輩で、仏像修復の分野で新納の右腕となった明珍恒男の追悼文(昭和15年=1940)の中に一箇所、明治38年(1905)、光太郎から光雲に宛てた書簡二通に。奈良を訪れた光太郎が新納の世話になったという記述でした。それから、明治42年(1909)、来日直前のバーナード・リーチ宛の英文書簡。日本でリーチの世話をしてくれそうな人物をリストアップする中で、新納は英語もしゃべれるし、日本彫刻に関する知識も半端ない、的なことが書かれています。

そんなわけで、光太郎から新納宛書簡、ぜひ拝見したいと存じ、同館に閲覧許可の申請をして伺った次第です。ついでというと何ですが、光雲、豊周からのそれも拝見させていただくことに致しました。

リストに「年賀状」とありましたが、本当に年賀状でした(笑)。文面は「賀正 大正十二年一月 駒込林町二十五 高村光太郎」のみ。それでもこの時期に光太郎と新納が年賀状のやりとりをする間柄だったということがわかります。豊周からのものもほぼ同じような感じでした。

元同僚だった光雲からの書簡は、さすがに数も多く、長文のものがほとんどでした。丁寧な時候の挨拶に始まり、美校の近状、東京の美術界の動向等々。時には愚痴も(笑)。光太郎が欧米留学後、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞に関する記述もありました。こちらでは光太郎の仲間の新しい芸術作品も販売していましたが、伝統的な漆器なども扱っており(そちらの方がよく売れたようです(笑))、その手配を頼むような内容でした。

閲覧に際しては、学芸員の方に大変お世話になりました。百年以上前の史料と言うことで、机の上には大きな中性紙を敷き、その上に三人がかりで一通一通広げてくださったり、撮影も許可して下さったり……。恐縮してしまいました。

閲覧後、展示を拝見。そちらも学芸員さんのご配慮で、無料でした。

常設展は天心の関係。
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企画展は「並河靖之の雅な技――世界を魅了した明治の京都七宝――」。並河の有線七宝の作品は、超絶技巧系の展覧会や、京都の清水三年坂美術館さんの常設展示などで何度か拝見していましたが、何度見ても舌を巻かされます。並河と共に「二人のナミカワ」と称される無線七宝の濤川惣助の作品も並び、眼福でした。
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まだまだ全国のこうした施設に光太郎書簡等、眠っているかと存じます(島根で新たな発見があったそうですし、北海道にあるという情報は既に得ておりまして、来年あたり拝見に伺おうと思っていますが)。光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨にいたるまで埋もれさてはならない、というのが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のスタンスでした。当方もそれを引き継いで、今後ともやっていこうと思っております。

以上、北茨城レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

三時過ぎ副知事来る、小型像其他につき協定、尚礼として500,000円もらふ(小切手)夜八時青森駅より上車、しん台車、津島知事、横山副知事等見送りにくる、

昭和28年(1953)10月24日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のための青森行、最終日です。宿泊していた浅虫温泉東奥館に横山武夫副知事が訪れ、最後の事務手続きが行われました。「小型像」は、「乙女の像」の小型試作。「乙女の像」本体と同じく伊藤忠雄による鋳造で、青森県に寄贈されました。現在、青森県立郷土館に所蔵され、昨年から今年にかけて開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」で展示されました。

上車」は「乗車」の誤りですね。

8月10日(水)、茨城県北茨城市レポートの2回目です。

野口雨情記念館さん等を後に、『高村光太郎全集』等未収録の光太郎書簡を閲覧するため、市内北部の天心記念五浦美術館さん方面へ。まだ時間がありましたので、近くの六角堂に立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲を東京美術学校に招聘し、光太郎入学時に同校校長だった天心岡倉覚三が、明治39年(1906)、日本美術院を移した地です。当方、30年近く前、学生時代の友人の結婚披露宴がすぐ近くのホテルで行われ、その際に訪ねて以来でした。

その時には気づかずスルーしていましたが、六角堂入り口前に天心の墓がありました。天心は光雲、光太郎等と同じ都立染井霊園に墓所がありますが、こちらは分骨だそうで。光雲、光太郎の代参のつもりで香を手向けて参りました(こういう機会が多いので、愛車には線香を常備しています)。
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光太郎同様、天心の薫陶を受けた平櫛田中お手植えの椿がかたわらに。天心の墓は円墳のようでした。
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裏手には天心の娘のそれも。
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さて、六角堂。正式には周辺の建物等を併せて「天心遺跡」と称しています。敷地内には天心邸や小規模な天心記念館などがあり、また、茨城大学さんの五浦美術文化研究所も併設。
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自生していたヤマユリが見事でした。

天心記念館内。特に撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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天心像や「活人箭」などの田中作品。
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天心と共にこの地にやってきた横山大観による表札(左)と、六角堂の棟札(右)。
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この地で釣りに興じていた天心の舟。

天心の教え子の一人で、アメリカの美術史家、ラングドン・ウォーナーの像。こちらも田中作です。ウォーナーは太平洋戦争中、日本の文化財を空襲しないよう提言した人物の一人という説があります。
海が見えてきました。
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そして、六角堂。
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東日本大震災による津波でさらわれてしまったのですが、復元されました。
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前日に行くはずだった宮城県女川町でも、行くたびに感じますが、あの日、この海が牙を剥いたのかと思うと、粛然とさせられます。
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天心邸。
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かたわらの「亜細亜ハ一なり」碑。
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天心のグローバル思想すら、「八紘一宇」の亜流に韜晦されてしまっていたのですね。そういえば、揮毫した横山大観は戦時中、日本美術報国会の会長でした。ちなみに実務に当たっていた事務局長は、光太郎の実弟にして鋳金家の豊周でした。

さて、満を持して天心記念五浦美術館さんへ。以下、明日レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

四時図書館行、ここに一同集まる、知事等の案内で夜文芸講演会、


昭和28年(1953)10月23日の日記より 光太郎71歳

会場が明記されていませんが、青森市の野脇中学校でした。光太郎以外に、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎、佐藤春夫が登壇し、講演を行いました。
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十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されている光太郎胸像「冷暖自知」の作者、田村進氏はこの講演をお聴きになったそうです。

8月10日(水)の『読売新聞』さん文化面から。

[鉄道150年]文化を運ぶ<5>美術・工芸 海外誘客に一役 気鋭の画家がポスター 車両に城や仏閣風天井

000 桜の木のもとで、静かにほほえむ女性。着物の柄や花びらが一筆一筆丁寧に描き込まれ、雪をいただく富士が遠くに裾を伸ばす。
 「大正の広重」と呼ばれた絵師、吉田初三郎による鉄道省国際観光局の1930年のポスター「Beautiful Japan(駕籠に(かご)に乗れる美人)」だ。約1万枚が発行された。
 中国東北部を走る南満州鉄道とユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の連絡運輸が11年頃に始まると、欧州との時間的距離は格段に縮まった。日本では12年、半官半民の外客誘致組織「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立される。
 外貨獲得と文化を宣伝するため外国人観光客の誘致が進み、30年の鉄道省国際観光局発足により、動きはより本格化した。二つの世界大戦の戦間期、欧米では中産階級にも旅行ブームが広がっていた。
 各組織や汽船会社、ホテルなどは、競うように観光ポスターや旅行案内書、雑誌を発行し、誘客キャンペーンを展開した。表紙をはじめビジュアルな部分は、吉田のほか、版画家の川瀬巴水(はすい)、図案化の杉浦非水ら気鋭の美術家が起用された。「大部数で多色刷りは、彼らにも大きな仕事だった」と、武蔵野美術大の木田拓也教授(近代工芸史・デザイン史)は説明する。
 豪華な装幀や洗練されたデザインを凝らし、写真をたくさん載せた刊行物も多く作られた。「外国の目を意識することが、出版印刷技術の向上にもつながったのではないか」と、関西学院大の荒山正彦教授(刊行の文化史)は話す。
 これらの出版物には、「美しい日本」を象徴する四季の自然や神社仏閣などとともに、西洋風のホテルをはじめ近代都市としての姿も描かれた。木田教授は「日本は外国人客の誘致を通して、より客観的に自国文化の魅力や将来像を考えることになった」と指摘する。
 戦前の鉄道や海運の発展は、東洋の優美さと近代性を併せ持つ国としての“自画像”を日本に意識させるきっかけともなった。

*「御料車」に外国要人001
 日本の美術や工芸技術は、皇族方が乗るための鉄道車両「御料車」にも生かされた。第1号は1876年、明治天皇の京都-神戸間の鉄道開業式出席を前に製造された。明治、大正、昭和にかけて18両が製造され、うち1両が重要文化財、8両が鉄道記念物に指定されている。
 西欧のロイヤルレトレインの様式を取り入れながら、日本的な文様や図柄を装飾に用いた。明治後期から大正期の6~9号には、城郭や仏閣を思わせる折上(おりあげ)二重天井が採用された。外国からの賓客を迎えた10号には展望デッキが備えられた。1922年に来日した英皇太子のエドワード・アルバート殿下や、シャム国皇帝、満州国皇帝が乗車した記録も残る。
 日本画家の川端玉章(ぎょくしょう)や橋本雅邦(がほう)、漆芸家の六角紫水(しすい)、彫刻家の高村光雲ら、歴代の車両の内装には、時代を画する芸術家が関わっていた。

*現代列車に継承
 御料車の精神は現在、国内各地を走る豪華列車にも生かされている。JR九州の「ななつ星in九州」は、ふんだんに木をあしらった内装に様々な工芸技術を用いた美しい車両で知られる。デザインを手がけ、JR九州のデザイン顧問を務める工業デザイナーの水戸岡鋭治さん(75)は、「御料車には最高のものを作りたいという美術工芸家や職人の心意気、国力が凝縮されている。かけた手間暇の分だけ感動が生まれることを体現したお手本のような列車で、その心を継承することが大切だ」と語る。
 「ななつ星」は外国人にも人気で、昨年、米国の旅行雑誌の読者投票で1位に選ばれた。一台の車両に凝縮した日本人の美意識や感性、技術が、世界に誇れるものであることを現代に伝えている。


御料車に関しては、平成27年(2015)に富山県水墨美術館さんで「北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 ~東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に~」が開催され、光太郎の父・光雲が手がけた装飾彫刻も展示されました。同展図録から。
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その他、川端玉章や橋本雅邦、六角紫水なども関わっていたとなると、さながら「動く美術館」ですね(笑)。

ちなみに東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさんでは、今年10月から来年1月にかけ「鉄道と美術の150年」展を開催するそうです。予告では河鍋暁斎や五姓田義松、長谷川利行、香月泰男の絵画などがピックアップされています。上記光雲監督作品もぜひ出していただきたいところです。

ところで、「鉄道150年」ということで、いろいろ記念行事等が行われていますが、逆に廃線の危機にさらされている鉄道も少なからずあり、複雑な思いです……。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃湖畔御前浜にてモニユマン除幕、 雨かなりふる、


昭和28年(1953)10月21日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がついに除幕されました。
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除幕式直前。像は紅白幕に覆われています。
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大町桂月令孫の幼女がお母さんに助けられて紐を引き、除幕。
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三本木高校女生徒による献花。
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それらを見つめる光太郎、佐藤春夫(青森県と光太郎の仲介役)、谷口吉郎(公園全体の設計担当)、伊藤忠雄(鋳金家)ら。後列には像のモデルを務めた藤井照子も。
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三本木高校女生徒による佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」合唱。このあたりの方々で、ご存命の方はまだいらっしゃると思います。
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光太郎スピーチ。

これが昭和28年(1953)ですので、来年は70周年となります。「乙女の像」も古稀を迎えるというわけで(笑)。それから、同じく来年は光太郎自身の生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

こういうのもありかな、と。

3D彫刻複製 「西郷隆盛像」高村光雲【大】

¥500,000 税込  送料無料でお届けします000
受付開始:2022年8月6日(土)
原型:上野公園 西郷隆盛像
彫刻:高村光雲
高さ:37cm(台座含む)
横:14.5cm
奥行11cm
技法:STH方式(3D計測・3D出力)
材質:pla

3D彫刻複製の主な特徴
すべての形情報をそのまま取り込める世界唯一の技術、3Dスキャン。独自の3D計測プロセスがもたらす圧倒的な正確さ。豊かな凹凸と、立ち上がるような立体感あふれる像質は、まさに「ハイパー複製」。原型の再現にどこまでも応えうる忠実性を提供すること。3D計測、3D出力、大きさ、質感などあらゆる要素をこの観点から徹底的に考え、一から開発いたしました。そして、3D彫刻複製の哲学である「彫刻研究のための複製」としての方向性を先鋭化させ、本格的な芸術表現をより身近にするための本質だけに特化して生まれたのが、この新世代の3D彫刻複製です。
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3D複製技術を彫刻等に応用する試みは、徐々に広がっているようです。

美術館さんの貴重な収蔵品の3Dコピーを作り、来館者が手にとることができるようにしたり、磨崖仏など現地から動かせないものの縮小コピーを作って研究に使用したり。

また、平成31年(2019)、火災で大きな被害を受けたパリ・ノートルダム大聖堂の再建においても、火災前に採ってあった内部の3Dデータを使うの使わないのという報道も目にしました。その後どうなったか存じませんが。

そう考えると、活用の幅はいくらでもありそうな気がしますね。

そして「西郷隆盛像」。権利的な部分はどうなっているのかな、と思うのですが、どうなのでしょう? 今回発売されたものは【大】だそうで、価格は50万円。やがて【中】とか【小】とかも出るのでしょうか?

この手の情報、今後も気を付けてみていこうと思います。

【折々のことば・光太郎】

夜去年上京の記念につき藤島さんと外でビフテキ、ビール、リオにてカクテル、夜十時かへる、

昭和28年(1953)10月13日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋をあとに上京して、丸1年が経ちました。

先月末の『中国新聞』さんから。

「売れない」ものを作る【いかさミュージアム散歩】井原市立田中美術館

001 1907年、横山大観や菱田春草を育て上げて日本画の革新にめどがついた岡倉天心は、次に木彫(もくちょう)の振興を目指した。天心の依頼により、高村光雲が選抜した6人の中に平櫛田中の名があった。
 6人は天心の待つ上野の寺に集う。ある者が宮内省御買い上げ品以外に彫刻の需要がないことへの苦しさを訴えると、天心は即座に「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と一言だけ言った。
 売りたいという心で人にこびたものを作ることは、自分の心を裏切っている。言下に田中は、売れないものを作るのは造作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感得した。この言葉をもって、名作「活人箭(かつじんせん)」が生まれた。坊さんを作れば、誰も買わないだろうと。000
 田中は、上京翌年の26歳から参禅し、禅を精神の支柱にしていた。自分の好む禅など作品にしたところで需要はありはしないと思っていた。「一生の早い時期に偉い人に会うという事は、人間の第一の幸福です」。この幸福な時期は13年、天心が50歳で世を去ることで終わる。「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。誠に恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」
 07年の年齢を列記しよう。光雲55歳、天心45歳、大観39歳、田中35歳、春草33歳。美術界は風雲児天心の下、硬骨漢たちがこれまでの常識を打ち破って「売れない」ものを作り、芸術上の大革新が行われる。そして、当時、理解し難かった作品は今、傑作として人々の称賛を得ている。(田中美術館学芸員・青木寛明)
 <メモ>新館建設のため休館中。来年4月にリニューアルオープンする。住所は井原市井原町315。グッズは、井原市民会館内の仮事務所で販売中。通信販売もある。☎0866(62)8787 http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/

題名の「いかさ」って何だ? と思い、調べたところ、「井笠」。岡山県井原市、笠岡市を中心とした地域の略称でした。青森県の「三八上北(さんぱちかみきた……三戸郡・八戸市・上北郡)」などと同じ伝ですね。当方、東北によく行くので、現地で見るテレビのローカル天気予報などで使われる「三八上北」は、その語呂の良さから耳に残っています(笑)。

その井原市にあり、現在新館建設のため休館している田中(でんちゅう)美術館さん、というよりそちらで作品がまとめて収蔵されている平櫛田中の紹介です。

記事冒頭の、明治40年(1907)に岡倉天心、光太郎の父・光雲により6人の彫刻家が集められた、というのは日本彫刻会の結成を指します。田中以外の5人は、米原雲海、山崎朝雲、加藤景雲、森鳳聲、滝澤天友。とりあえず全員、光雲の高弟といって良いかと思われます。

田中の「活人箭(かつじんせん)」画像は制作直後のもの。田中がこれを天心に見せたところ、天心は「なぜ余計な弓矢を作った?」と一喝したそうです。実際に弓矢を手にしていなくとも、見た人にその存在を感じさせるような彫刻でなければ駄目なんだ、というわけです。「余白の美」と申しましょうか、「象徴的技法」と申しましょうか、確かにその通りですね。
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そして田中は上記のように改作します。田中が傾倒した禅の精神にも通じるところがあるのでしょう。

同じことは天心の「売れないものを作れ」という一語にも表されているような気がします。世の中に迎合するな、という意味と、判ってもらおうとして説明しすぎるな、といった意味もあるように感じます。光太郎なども、こうした精神を持って彫刻制作に当たっていたのではないでしょうか。光太郎も、一時、親しかった田中の影響もあって禅に親しんでいました。そうした制作態度を「気取っている」と評する向きもありますが……。

ちなみに最初の田中の写真、元になったのはこちら。
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東京美術学校での光雲門下生の集合写真です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』口絵に使われているもので、光太郎も写っていまして、明治35年(1902)頃の撮影と推定されます。これが田中の若い頃唯一の写真だそうです。上記記事を書かれた学芸員の青木氏から、「写真のオリジナルプリントがどこに所蔵されているか知らないか」と問い合わせがあったのですが、当方も存じませんで、役に立てませんでした。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

さて、井原市立田中美術館さん、建設中の新館は10月に竣工予定、来年4月にリニューアルオープンだそうです。まだ先の話になりますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后一時メダル150個全部出来、内山氏持参、青森県事務所に届けてもらふ、

昭和28年(1953)10月10日の日記より 光太郎71歳

「メダル」は、生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。正式なものは内山嘉一郎により150個鋳造されたということで、時折、ネットオークションに出ます。2度ほど、10万円ちょっとまで粘って入札したのですが、負けました(笑)。



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