カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

宮城県から展覧会情報です。今日開幕だそうで。

島川コレクション 春の展覧会 『横山大観から現代アートまで』

期 日 : 2021年4月21日(水)~6月20日(日)
会 場 : 島川美術館 宮城県仙台市青葉区本町2-14-24
時 間 : 5/5まで10:00~16:00 5/6以後10:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般 1,200円 高校生 500円 小・中学生 300円 ※団体割引あり

2020年3月から臨時休館していました「島川美術館」は、今年から春と秋に約2ヶ月間の期間限定で開館いたします。

近代日本画壇の巨匠、横山大観が1936年、巨大な画面に描いた「霊峰不二」(131.9×200.3cm)。藤田嗣治の人気版画シリーズ「猫十態」の原画1点「猫」(1928年)、小磯良平がバレリーナを真上から描いた「踊り子」、加山又造「青富士」・「不二」(1984年)、森本草介「フランスパンのある静物」(1990年)、野々村仁清「色絵牡丹文中次」、他に、草間彌生「イエロースポット」など、現代アートの作品も多数、初展示いたします。

更に、高橋由一「江ノ島図」、青木繁「海」、岸田劉生「麗子像」、林武「薔薇」、安井曽太郎「立像」、梅原龍三郎「富士山図」、佐伯祐三「白い道」、荻須高徳「街角」、橋本関雪「玄猿」、田中一村「蓮上観音像」、速水御舟「芙蓉」・「八重椿」、東山魁夷「春梢」・「湖静寂」、加山又造「しだれ桜」・「猫」、前田青邨「春暖」、平山郁夫「マルコ・ポーロ東方見聞行」・「流沙浄土変」、中島千波「白牡丹」・「赤牡丹」、マルク・シャガール「サンポールドヴァンスの恋人たち」など。

陶器、樂茶碗、西洋ガラスも含め、合わせて150点程度展示いたします。
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002案内文にはありませんが、光太郎の父・光雲の木彫「聖観音像」も展示されています。光雲が最も得意とした図題の一つで、柔和なお顔のいいお作ですね。

島川美術館さん、健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹の美術館です。以前は同じ宮城県内の蔵王町の遠刈田温泉さんにありました。その頃の名称は「エール蔵王 島川記念館」。それが、一昨年、仙台市に移転して改称されたそうで、それは存じませんでした。

当方、平成29年(2017)に、遠刈田温泉さんを超えた先の青根温泉湯元不忘閣さん(昭和8年=1933、光太郎智恵子が逗留)に泊めていただきました。その際には「エール蔵王 島川記念館」さんが美術館だとは知らず、スルー。帰ってから程なく、そちらに光雲の聖観音像も展示されていたことを知り、「ぬがーっ」(笑)。

間抜けな当方の身には、時折そういうことが起こります。島根県の出雲に行った際も、帰ってきてから、出雲大社内の彰古館に光雲作の恵比寿様と大黒様の木彫が展示されていると知って、「ぐわーっ」(笑)。

閑話休題。島川さん、コロナ禍のため休館中だったのが、今日から再オープンだそうですが、当面は通年開館ではなく、春秋の期間限定開館だそうです。上記案内文を読むと、錚々たる顔ぶれの出品。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

晴れて、ますます痛快な好晴となる、風あり、青嵐の趣あり、


昭和22年(1947)6月22日の日記より 光太郎65歳

その前2日間は雨。貴重な梅雨の晴れ間でした。「青嵐」は青葉の頃に吹く少し強い風。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部、今朝もですが、このところ時折そんな感じです。

一昨日、千葉東葛地区の柏市で「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」を拝見して参りましたが、先週は隣接する野田市に行っておりました。行き先は、茂木本家美術館さん。

続けて同じ地域に行ったのは、まったくのたまたまです。この日は、御朱印集めを趣味としている当方の妻が、「野田の櫻木神社さんに行きたい!」と言いだし(というか、前々から言っていたのですが)、じゃあ行くか、ということになって、では近くに茂木本家美術館さんというのがあるはずだから、そちらも、となった次第です。

同館、醤油メーカーのキッコーマンさんの創業家の一つ、茂木家の十二代目・茂木七左衞門氏のコレクションを根幹に、平成18年(2006)に創設された美術館です。光太郎の父・光雲の木彫も常設展示されているらしいという情報を得、以前から行ってみようと思っておりました。
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右下に変なものが写っていますが、気にしないで下さい(笑)。
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「ファウンダーズ・ルーム」という展示室に、光雲作の木彫が展示されていました。フラッシュをたかなければ撮影可。ありがたし。
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キャプションによれば、大正12年(1923)作の「孔子椅座像」。久しぶりに光雲木彫の現物を見ましたが、いつみても舌を巻くような精緻さです。

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隣り合わせで、光雲の高弟の一人、平櫛田中の木彫も。
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さらに、光雲の孫弟子・宮本理三郎。これも一つの材から彫り出した木彫です。
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他には、梅原龍三郎、小倉遊亀らの絵画等。

続いて、「ギャラリー1」という部屋。こちらは富士山を描いた日本画、洋画。
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やはり梅原や、中島千波氏らにまじって、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さま、故・大山忠作画伯の絵も。
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その奥の「ギャラリー3」では、「広重の富士 不二三十六景を中心に」展。
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北斎の「富岳百景」の、まあ、悪く言えばパクリ、よく言えばインスパイアされた広重の浮世絵です。基本、嘉永5年(1852)に出されたものだそうで、この年は光雲の生まれた年です。

途中途中で、光太郎と交流の深かった、舟越保武のブロンズ。
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この後、屋外の庭園へ。
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おそらく、隣接する茂木家の住宅の一角と思われる稲荷神社があり、受付のお姉さんが「江戸時代の彫刻があるのでご覧下さい」とおっしゃっていましたので、行ってみました。

まずは社殿。漆喰の鏝絵ですね。
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脇の手水舎には木彫。
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稲荷神社だけに、狐の嫁入り。洒落が利いています。いずれも作者は不明のようですが、名のある職人の手によるものと想像できました。もしかすると、木彫の方は光雲の系譜(高橋鳳雲、高村東雲など)に関連があるかもしれません。

美術館はこんな感じ。眼福でした。

ついでですので、妻が行きたがっていた櫻木神社さん。
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当方、その存在を存じませんでしたが、御朱印マニアの間では有名だそうで。

ご神木はその名の通り、桜の老木でした。それも珍しいのかな、と思います。
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ご神木の花や、境内各所のソメイヨシノ系は既に散ってしまっていましたが、種類によってはまだ満開の桜も。

それぞれ、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方血がのどから出る。わたのやうな形のものまじる。蒲団をしいて横臥。


昭和22年(1947)6月17日の日記より 光太郎65歳

明らかに結核の自覚症状があったはずなのですが、診療はかたくなに拒否。ある意味、自殺行為に近いようにも思えます。

先月から今月にかけ、各種報道で光太郎の名がいろいろ出たりしていたのですが、3.11関連を続けて取り上げたり、速報性が重要な情報を先にご紹介したりで、申し訳ないと思いつつも、後回しにしていた件が結構あります。数日間、その関係でいきます。

まずは青森の地方紙『デーリー東北』さん、先月初めの記事。

郷土教育に「あおもりアッテラ」 はちつぶ(八戸)が十和田の小学校に寄贈/青森

 青森県内40市町村の祭りや名産品などが描かれた絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」を考案した、八戸市の情報発信メディア「はちつぶ」(大山知希代表)は3日、郷土教育の教材として活用してもらおうと、十和田市教委を通じて市内16小学校に寄贈した。
 カードは全54枚。3種類の遊び方ができ、県の魅力を子どもから大人まで楽しく学べるゲームとなっている。同市を代表する絵柄には、十和田湖と「乙女の像」が描かれている。
 この日は、大山代表のほか、同ゲームのデザインなどに携わった、デーリー東北新聞社の社内分社「東北のデザイン社」の担当者らが市役所を訪問。市教委教育総務課の白山利明課長補佐に目録を手渡した。白山課長補佐は「いろんな面で使えるゲームなので大事に活用したい」と話した。
 大山代表は「(同ゲームの)遊びを通じて、青森県の名産品や地域に興味を持つきっかけになってほしい」と語った。
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絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」。調べてみましたところ、昨年には既に販売が開始されていました。

あおもり絵合わせカードゲーム「あおもりアッテラ!」

あおもりを遊んで学ぼう!
 ★ 遊びながら青森を学べる絵合わせカードゲームが誕生
 ★ 青森県内40市町村の祭りや文化、名産品をイラスト化
 ★ 作画はニシワキタダシさん 幅広い年代が一緒に楽しめる
 ★ お土産に 知育玩具に 郷土教材にも
 ● ルールは3通りでいずれも簡単。
 ● トランプとしても遊べる。
 ● 絵合わせゲームのため、年齢、性別、国籍に関係なく楽しめる。
 ● 家庭での知育玩具として、また 幼保園・小学校での郷土教育の教材として。

カードは全54枚。青森県内40市町村の祭りや文化、有名人、名産品などをピックアップし、イラストレーターのニシワキタダシさんに作画を依頼。ニシワキタダシさんの作風と青森の朴とつとしたイメージが相まって、とてもステキなカードができました。

3歳以上からお年寄りまで楽しめる簡単なルール。遊び方は、絵を合わせるだけなのでとても簡単。 基本的なルールは3通りで、年齢、性別、国籍に関係なく、誰でもすぐに覚えられ、一緒に楽しめます。トランプとしても使えます。

カードゲームは対面コミュニケーションがベースとなるため、子どもの対話力や社会性、思考力、想像力を育む効果があると言われています。青森の魅力を知るお土産としてだけではなく、コロナ禍でステイホームが日常になる中、家庭での知育玩具として、また幼保園や小学校での郷土教育の教材として、「アッテラ!」をぜひご活用ください。

イラストレーター■ ニシワキタダシ氏
イラストレーター。1976年生まれ。なんともいえないイラストやモチーフで、書籍や広告、グッズなど幅広く活動中。著書に『かんさい絵ことば辞典』(パイ インターナショナル)、『えでみる あいうえおさくぶん』(あかね書房)、『ぼくのともだちカニやまさん』(PHP研究所)、『かきくけおかきちゃん』(大福書林)、『くらべる・たのしい にたことば絵辞典』(PHP研究所)などがある。

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なるほど、青森県の名物いろいろの絵を担当させていただきました。関西在住なので「なるほど」「へぇ~」と青森を感じながら描いていました。子どもたちがゲームを通じて、自分の育つ場所のことを自然と覚えられるのはとても素敵だなと思います。それを担う絵で関わらせてもらえてうれしいことですし、子どもに限らず大人や他府県の人たちにも青森の色が広がるゲームになればうれしいなと思います。
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なるほど、という感じでした。これなら小さいお子様でも楽しめそうですね。さらに、自然と青森の郷土遺産、特産品などに詳しくなれそうです。

上記『デーリー東北』さんの記事にありましたが、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をあしらったカードも入っています。ありがたし。
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他に「リンゴ」、「弘前城」、「太宰治」、「遮光器土偶」、「津軽三味線」などなど。しかし、「何じゃ、そりゃ?」というものも(笑)。「なぜに青森で自由の女神?」、「よもぎたトマト四姉妹って誰?」、「スチューベンって、何?」という感じです。不勉強で申し訳ありません(笑)。

ニシワキタダシ氏のほっこりしたイラストもいいですね。それにしても上記商品説明欄中の氏の紹介で、「なんともいえないイラスト」って、「なんとか形容しなさいよ!」と突っ込みたくなりましたが(笑)。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ホロホロを採取。宮沢さんへおみやげの為。タランボは院長さん宅へのつもり。

昭和22年(1947)5月15日の日記より 光太郎65歳

「タランボ」は「タラの芽」、「ホロホロ」は正確には料理の名前なのですが、どうやら「ウコギ」のことのようです。

「宮沢さん」は賢治の父・政次郎や、実弟清六らの一家、「院長さん」は佐藤隆房です。光太郎が疎開してきてちょうど2周年記念ということもあり、この日から4泊5日で花巻町の佐藤邸に滞在しました。

都内から現代アートの展覧会情報です。

もやい展2021東京

期 日 : 2021年4月1日(木)~4月8日(木)
会 場 : タワーホール船堀 東京都江戸川区船堀4丁目1-1
時 間 : 10:00~20:00 7日(水)21時まで 8日(木)17時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

3.11 そして福島原発事故から10年。 絵画、彫刻、写真、 映像、そしてパフォーマンス… 表現は未来へ何を語り紡ぐのか? 金沢21世紀美術館で好評を博した「もやい展」が 2021年春、東京にあらわる! そして、立ち寄ったあなたも未来への表現者の一人となる。
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出展作家:安藤榮作/ウッキー富士原/大塚久/片平仁/金原寿浩/加茂昂/加茂孝子/小林桐美/小林憲明/鈴木邦弘/津島佳子/中筋純/fuu/矢成光生/山内若菜

基本、現代アートの展覧会ですが、展示室に於いてステージパフォーマンスも行われます。
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明日、4月5日(月)、19:00からは、「高橋アキ(ピアノ)×清水寛二(能楽、謡)」。

4月5日(月)開演:19:00@タワーホール船堀2F ”瑞雲”
高橋アキ:サティ、シューベルト、湯浅譲二、武満徹
清水寛二:観世元春「隅田川」より謡 柳田國男「遠野物語」より朗誦
     高村光太郎「智恵子抄」より朗誦
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能楽師・清水寛二氏による朗唱「「智恵子抄」より」。清水氏、銕仙会さんご所属だそうで、そうなると、同会の祖とも言うべき観世寿夫昭和32年(1957)に新作能「智恵子抄」を上演しており、そのあたりとも関係があるのかな、と思いまして調べたところ、平成22年(2010)6月にあった公演「観世寿夫三十三回忌 観世雅雪二十三回忌 追善能」で、清水氏が地謡を務められていました。

高橋アキさんという方のピアノ。郡山ご出身の
湯浅譲二氏の作品がプログラムに入っています。湯浅氏といえば、「二本松市民の歌」の作曲者ですし、平成28年(2016)には、郡山市制施行90周年・合併50年を記念する「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の2人』による」も作曲されています。今回の演奏曲目は不明ですが。

メインの現代アート展示の方も、「ほんとの空」を希求して已まない、福島の人々の声なき叫びの代弁、といった趣の作品が多く出ているようです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口部落のスケツチをする。「至上律」に送る淡彩画にするため。 山桜美しく赤らむ。
昭和22年(1947)5月5日の日記より 光太郎65歳

『至上律』は、北海道で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。「淡彩画」は、この年11月発行の第2輯にカラーで掲載されました。
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現物は花巻高村光太郎記念館さんの所蔵です。

今年1月にご逝去された、日展彫刻家にして光太郎の父・光雲の孫弟子にあたられた橋本堅太郎氏の遺作「今ここから」が、3月28日(日)、JR東北本線安達駅前に除幕されました。

画像は三保恵一二本松市長さんのツィートから。
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除幕前の3月18日(木)、『福島民報』さんの記事。

【橋本氏の功績】遺作にも古里への思い

 二本松市ゆかりの彫刻家で文化功労者の橋本堅太郎さんの遺作となるブロンズ像の除幕式が二十八日、市内で行われる。同郷の画家の高村智恵子を題材にしており、二本松市が生んだ偉大な芸術家二人が共鳴する意義深いモニュメントが誕生する。
 一月三十一日、九十歳で亡くなった橋本さんの功績は枚挙にいとまがない。日展を舞台に木彫作品を発表し、一九九六(平成八)年に日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に推戴された。日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の五部門で構成する国内最大の公募展・日展の理事長を九年間にわたり務めた。本県の美術振興にも情熱を注ぎ、県展の審査を長く担当した。
 JR安達駅近くに設置される智恵子の像は二本松市の依頼を受け、制作にかかった。家族によると、昨年十一月に集中的に取り組んだ。祖母から伝え聞いた智恵子の印象を膨らませ仕上げたという。直後に療養生活を強いられ、退院さえかなわず不帰の人となった。遺作と呼ぶにふさわしい、まさに渾身[こんしん]の思いがこもった一点だ。智恵子が愛した安達太良山を背景にすることを思うと、なお感慨深い。
 会津若松市の鶴ケ城に二〇一三年(平成二十五)年に設置された「八重之像」も古里への思いが結実した作品だ。NHK大河ドラマ「八重の桜」の放映が決まると、数人の彫刻家が制作を思案していることを聞き及んだ。「八重さんだけは必ず自分の手で作る」と心に決めたそうだ。
 建立予定地に何度も足を運び、構想を固めていった。橋本さんへの報酬はなく、制作実費を市と市内経済界、住民有志が寄せ合うという画期的なプロジェクトでもあった。新島(山本)八重を顕彰する貴重な像が、一人の作家の信念で会津に残されている。
 最初にお目にかかったのは一九八四(昭和五十九)年、福島市の中合で開かれた父・高昇さんとの親子展だ。当時、東京学芸大の教授でもあり、学究肌のもの静かな振る舞いが忘れられない。敬愛する奈良、京都にある古仏の話も取材の際、たびたびうかがった。プロ野球のファンで応援するチームが躍動するや、子どものように破顔した。
 東京都小平市の平櫛田中[でんちゅう]彫刻美術館で九月から作品展を開くことが既に決まっていた。東京芸大で師事した恩師の記念館であり、故人にとって無念の極みだろう。木の風合が生かされた木彫の作品群が並ぶはずだ。県内で鑑賞できる数々の名作とともに、巨星が残した美の軌跡を末永くしのびたい。

除幕を報じた『福島民友』さんの記事。

「市民に夢を」安達駅に智恵子像 彫刻家・橋本堅太郎氏遺作

002  二本松市名誉市民で1月31日に死去した文化功労者、彫刻家橋本堅太郎氏の遺作となった智恵子像「今ここから」が二本松市のJR安達駅西口に設置された。28日、現地で除幕式が行われ、市民にお披露目された。
 智恵子像は高さ約1.8メートル。同市出身の洋画家高村智恵子の青年期の清純なイメージを着物姿のブロンズ像に仕上げた。市が同駅の東口整備と新駅舎の完成を記念して、橋本氏にシンボル像の制作を依頼。昨夏から制作が始まったが、今年1月初めに石こう像が完成した時に橋本氏の体調が悪化し、他界した。
 作品は、新しい駅舎の完成を機に未来に向かって発展してほしいという願いや、駅という場から旅の始まりなどの意味が、夢や希望にあふれる青年期の智恵子の姿と重ねて命名された。橋本氏は生前、「市民や駅利用者に夢を与える作品にしたい」と話していたという。
 三保恵一市長や橋本氏の妻芳子さんらが除幕。出席者が橋本氏をしのびながら完成を祝った。
 三保市長は「今ここから市民の幸せな人生、新たなまちの発展を願う」とあいさつした。芳子さんは式後、「(除幕式に出席できずに)主人は無念だと思う。二本松には作品がたくさんあり、ここに来ると主人がまだいるように思える」と話した。

橋本氏、ご自身は東京のお生まれですが、お父さまが二本松ご出身ということで、福島との関わりは深いものがあり、県内各地に作品が設置されています。以前にも書きましたが、安達駅の一つ手前の二本松駅前には、平成21年(2009)制作のやはり智恵子像「ほんとの空」。
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昨年の3.11には、浪江町に東日本大震災犠牲者追悼のための「母子像」が除幕されています。
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それから、上記『福島民報』さんの記事にある、「八重の桜」の新島八重像(平成25年=2013)。

さらには二本松霞ヶ城箕輪門前の二本松少年隊群像。
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他にもいろいろあるのでは、と思われます。

ご遺作が智恵子像、というところにも不思議な因縁を感じますね。近いうちに拝見に伺おうと思っております。皆様もあちら方面にお越しの際にはぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

みぞれ止まず。風も相当につよし。冷。


昭和22年(1947)4月23日の日記より 光太郎65歳

青森に住んでいる学生時代の友人が、「GWまでは冬用タイヤを交換できない」と言っていましたが、岩手の山村でもそうなのですね。

3月28日(日)、箱根を後に、愛車を熱海方面に向け、南下しました。メインの目的である「潮見佳世乃起雲閣コンサート 歌物語×JAZZ」拝聴のためです。

コンサート会場の起雲閣に入る前に、ほぼ道中にある來宮神社さんに立ち寄りました。こちらには、光太郎の父・光雲の手になる弁財天像が納められています。ただし、御開帳は年一回、毎年11月23日の弁天祭の時だけです。それは存じていましたが、当方、由緒ある古社寺の雰囲気は大好きですし、あわよくば弁財天像のポストカードでもゲットできれば、と思って立ち寄りました。
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そこそこの人出でした。こちらで式を挙げられたのか、新婚さんとご両家ご一統も。
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光雲作の弁財天像は、摂社扱いの來宮弁財天さんに納められています。
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やはり拝観はできませんでしたし、結局、ポストカード的なものも販売されていませんでした。まぁ、それでも古社の清澄な空気に身も心も洗われる感を味わうことができ、良かったと思いました。ちなみに当方、台所で夕食後の洗い物(当方の担当です)をしている際、妻に「他に洗われるべきもの無い?」と訊くと、「あなたの心!」と返されます(笑)。

社伝によれば、來宮神社さんとしては和銅年間(奈良時代)の創建だそうですが、來宮弁財天さんは磐座(いわくら)と思われる巨石の上に立ち、神社としての鎮座以前からアニミズム的な信仰の聖地だったのではないかと思われます。
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ご神木は樹齢約1,300年という楠でした。ご神木が楠、というのは珍しいような気がします。

さて、こちらを後に、起雲閣さんへ。
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船舶事業で財をなし、のち、政界にも進出した内田信也の別邸として、大正8年(1919)に竣工した建物です。
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こちらの中に音楽ホールとして使われる部屋があり、そこでコンサートが開催されるのですが、この手の古建築も当方大好きなもので、拝観しました。
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広大な敷地の中に、後から建て増しが繰り返され、純和風の棟と擬洋風の棟が混在しており、それがまた変化に富んだ感じを醸し出しています。
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昭和22年(1947)には旅館としてリノベーションされ、多くの文人墨客なども利用したそうです。
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ことに太宰治は、この起雲閣の別館(こちらは現存せず)で、かの「人間失格」(昭和23年=1948)を執筆したと、キャプションにありました。

熱海といえば、貫一お宮。尾崎紅葉に関する展示も為されていました。
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dfc2bdecちなみに光太郎、明治36年(1903)に歿した紅葉の解剖に立ち会い、塑像「尾崎紅葉像」(現存確認できず)、「解剖台上の紅葉山人」(右画像・故髙村規氏撮影)を制作しました。

ここで光太郎と熱海について。

故・北川太一先生が編纂された『高村光太郎全集』別巻の年譜に拠れば、光太郎は大正14年(1925)8月、母・わかと共に熱海を訪れています。調べてみましたところ、8月23日の消印(駒込)で、のちに編集者となる龍田秀吉という人物に送った絵葉書が典拠でした。

此間中熱にゆきました。お葉書ありがたう。東京は今頃になつてひどく暑くなりましたが今年は大層健康で夏が送れさうです。毎日仕事をしてゐます。 御健康をいのる。

「熱にゆきました」は、「熱海にゆきました」の「海」脱字です。光太郎、やらかしました(笑)。絵葉書が熱海の写真ですので、熱海でまちがいありません。ただ、なぜ母と二人で熱海へ行ったのかまでは不明です。そういう機会は他にほとんどなかったようですし。

すると、その直後の9月1日、わかは急性の大腸カタルに罹患、10日には亡くなってしまいます。なんとまぁ、ある意味、予期せぬ最後の母親孝行だったわけですね……。

その他、年譜には記載がありませんが、戦時中にも光太郎は熱海を訪れています。行き先は岩波書店創業者・岩波茂雄の別荘「惜櫟(せきれき)荘」、昭和17年(1942)のことでした。
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左から、作曲家・信時潔、岩波、光太郎。信時は「海ゆかば」などで有名です。昭和17年(1942)、光太郎作詞・信時作曲で、岩波書店店歌「われら文化を」が作られ、岩波書店の「回顧三十年感謝晩餐会」で初演されました。おそらくその関係と思われます。

惜櫟荘は、「居眠り磐根江戸草子」「酔いどれ小籐次留書」シリーズなどで有名な時代小説家の佐伯泰英氏が買い取り、建造当時の形に解体復元されたことが話題になりました。平成25年(2013)にはBS朝日さんでその様子を追ったドキュメンタリー「惜櫟荘ものがたり」が放映され、光太郎についても触れられていました。岩波書店本社には、惜櫟荘を訪れた人々の芳名帳が残されており、光太郎の名も記されています。
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谷川俊太郎氏の父君・徹三氏の名も見えますね。

確認できている限り、光太郎の熱海行きはこの2回ですが、都内からもそう遠くはないので、記録に残っていないところで熱海を訪れているかもしれません。惜櫟荘訪問も複数回だった可能性があります。

惜櫟荘はもろに海べりの海光町に現存。しかし一般公開はされていません。そういった機会があれば、ぜひ訪れてみたいものです。吉田五十八設計のこの建物にも、非常に興味があります。

さて、起雲閣。建築と庭園をたっぷり堪能した後、いよいよ潮見さんのコンサート開演です。以後、明日。

【折々のことば・光太郎】

朝芝林の畠山さん来訪、廿三日(旧三月三日也)ひる花見をしたしとの事にて晴天ならば分教場の庭にゆく約束。(花はまだ咲かず、)


昭和22年(1947)4月20日の日記より 光太郎65歳

4月下旬でもまだ桜が咲いていなかったのですね。

下記は自宅兼事務所(千葉)近くの公園、今朝の様子です。
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昨日は神奈川の箱根と静岡の熱海に行っておりました。

メインの目的は、熱海で開催された、潮見佳世乃さんの「歌物語×JAZZ」コンサートでしたが、他にもいろいろと廻りました。レポートいたします。

まず愛車を向けたのは、箱根。県は違えど熱海と意外と近く、芦ノ湖畔の成川美術館さんで、ちょうど「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」が開催中ですので、そちらを拝見しておこうと思った次第です。

首都高がまったく渋滞もなくスカスカで、午前中には到着。
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駐車場からの芦ノ湖。

長いエスカレーターで登って、入り口へ。
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入るとすぐ、光太郎と交流の深かった舟越保武のブロンズがお出迎え。以前にも書きましたが、作者名を見ずとも「ああ、舟越だ」という感じで、これが個性というものなのでしょう。
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館内から見た芦ノ湖。高台にあるので眺望がいい感じです。晴れていればもっと良かったのでしょうが、当方、究極の雨男・光太郎の魂を背負って歩いているので仕方がありません(笑)。
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「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は、二階の展示室でした。
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同館所蔵のもののコレクション展的な位置づけだったようです。同時開催的に別の展示室では「齋正機 コドモシリーズ~女の子~」も。
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分類上は日本画なので、鉱物顔料で描かれているはずなのですが、色遣いやタッチはパステル画のようで、こういう描き方ができるんだ、という感じでした。
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観ていて思い出しました。だいぶ以前、安達太良山麓の岳温泉さんに泊まった際、フロントに無料で置いてあった会津あたりの雪景を描いたポストカードをもらってきたのですが、どうも齋氏の絵だったようです。探したのですがみつかりませんで、どなたかに絵葉書として送ったようです。

風景画の方は、基本、齋氏の故郷・福島のもの。下記は花見山です。
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同展の開催を報じた『福島民報』さんの記事に、「古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作」とあったので、「ほんとの空」という作品を探しましたが、ありませんでした。

どうやら、こちらのことを言っていたようですが、題名は「ほんとの空」ではなく「トンボノ空ニ」。
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昨年、『福島民報』さんで為されている齋氏の連載「福島鉄道物語」で、この絵が「ほんとの空」という題のエッセイと共に掲載されたため、混乱が生じたのだと思われます。

キャプション的に、「ほんとの空」全文がパネルに印刷されていました。
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途中でオチが予想できてしまいましたが、予定調和的にうるっときました。やはりこういうご経験が、作品創出の一つの契機ともなるのでしょう。そして、夕暮れの町を「コハク色」と捉える感性なども。

ミュージアムショップで、この絵のポストカード等がないか探しましたが、新作ということもあるのでしょう、ありませんでした。

その他、平山郁夫のシルクロード系がまとめて展示されていましたし、東山魁夷、加山又造といった大御所の絵も出ていまして、眼福でした。

ところで箱根といえば、光太郎、確認できている限り、4回程は足を運んでいます。

まず明治33年(1900)、「箱根山蘆のみづうみ雪にみて叔父の翁と詩のこと語る」という短歌があります。「叔父」は両親の弟(兄なら「伯父」)。光雲の弟・牧蔵は光太郎出生前に夭折していますので、母方の叔父なのでしょうが、詳細は不明です。

続いて昭和2年(1927)夏、智恵子を伴って。この際に撮ったのが、このブログのトップに出てくる写真です。撮影場所は大湧谷でした。
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翌年には、智恵子と、智恵子の母・センも連れて訪れています。

さらに智恵子が歿した昭和13年(1938)、南品川ゼームス坂病院で付き添いの看護婦として智恵子を看取った智恵子の姪・春子の慰労のために。この際には伊豆大島にも足を伸ばしました。

調べれば、もう1回2回、訪れたことがあるかも知れません。

それから箱根といえば、彫刻の森美術館さん。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の同型の作が「みちのく」の題で野外展示されていますし、絶作「倉田運平胸像」(未完)も所蔵されています。

大湧谷や彫刻の森美術館さんも廻ろうかとも考えましたが、次の予定がありますし、またの機会にと思い、愛車を熱海方面に向けました。以後、明日。

【折々のことば・光太郎】

野末氏よりオレンジの小包、大半ぬきとらる。


昭和22年(1947)4月13日の日記より 光太郎65歳

野末氏」は編集者の野末亀治。花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた光太郎に、たびたび食糧等を送ってくれていました。「大半ぬきとらる」、まだまだ食糧不足のこの頃、郵便事情はこういうことだったのでしょうか……。

この年、東京地方裁判所の山口良忠判事(当時34歳)が、栄養失調で死亡しました。法律違反の闇市で食糧を手に入れることを拒否し、正式な配給の食糧だけで生きようとしたためでした。

昨日に引き続き、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品関連で。

鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」

期 日 : 2021年3月31日(水)~4月26日(月)
会 場 : 青猫書房 東京都北区赤羽2-28-8
時 間 : 3月 11:00~18:00  4月 11:00~19:00 日曜 11:00~17:00
休 業 : 火曜日
料 金 : 無料

福島県浪江町の山里で暮らしていたおじいさんと犬のおはなしを描いた絵本の原画展
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絵本『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。

東日本大震災前から、子供たちのために幻灯の上映を続けていた川本さん、原発事故後の避難生活の中でも幻灯会を続け、最期は郡山の介護施設で亡くなりました。老いた愛犬・シマは、その前年に、川本さんの施設入所に伴って貰われていった里親さんの元で亡くなっていました。
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ラストは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした「ほんとうの空」がある浪江の山里に還って行く、というシーンです。
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絵の中に文字が書かれていることはあるのですが、基本、言葉がありません。それが却って効果的で、幻灯を一コマずつ見ていくような感覚が呼び起こされ、最後は涙腺崩壊に導かれます。

原画展、当方が把握している限り、これまでも埼玉や福島で開催されていましたが、今回は都内の絵本専門店さんで行われるそうです。関連イベントとして以下も予定されています。

 4月4日(日)  双葉郡高野病院医師・NGOシェア代表 本田徹さんのおはなし
 4月11日(日) NPOひなん生活を守る会代表 鴨下祐也さんのおはなし
 4月18日(日) 『ほんとうの空の下で』について ノグチクミコさん
 4月26日(月) 詩とライヤー演奏 福島で被災した星ひかりさん


コロナ感染には十分お気をつけた上で、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ひる分教場へゆく。道路雪解水ながれ。路なき雪の上をよつて歩く。困難。 知事、国分謙吉、村長高橋雅郎、投票、郵便物うけとる。


昭和22年(1947)4月5日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、4月に入ってもこういう状態だったのですね。

国分謙吉は地方自治法の施行に伴って、初めて選挙で選ばれた知事の一人です。これ以前は中央官庁から派遣された人物が知事でした。この時、後に光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼する津島文治(太宰治実兄)が、青森県知事に当選しています。

国分と光太郎は、昭和25年(1950)に新聞社の企画で対談を行っています。光太郎、この時点では、そんなことになるなどとは考えていなかったでしょうね。

知事選挙といえば、先般、当方の住む千葉県で知事選挙が行われました。とんでもない泡沫候補が何人も「売名のため」と公言して立候補したりし、変な意味で注目されてしまいました。千葉県民として恥ずかしい限りです。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品が展示されている展覧会をご紹介します。

齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~

期 日 : 2021年3月11日(木)~7月14日(水)
会 場 : 成川美術館 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根570番
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 大学生・高校生 900円(700円)
      中学生・小学生 600円(500円) 幼児 無料 ( )内は団体(10名以上)

現代の日本画に新たな風を吹き込む齋正機の展覧会。ローカル鉄道や田園風景、何気ない暮らしの情景を描いた作品は、懐かしい記憶や思い出を呼び起こす心温まる優しい世界です。本展のために作家が特別に制作したオイルパステル作品も会場限定で販売いたします。

Masaki sai 1966~
福島県生まれ。東京藝術大学日本画専攻卒業、同大学院修了。2003年洋画の登竜門として知られる昭和会賞(日動画廊)を日本画家として初めて受賞。明るく柔らかな作風で、機関士だった父の思い出である鉄道や、郷愁を感じさせる里山などをモチーフに、詩情溢れる日常の情景を描き続けている。

地方紙『福島民報』さんで、この展覧会について報じていました。

福島県内の風景画並ぶ 7月14日まで斎正機さん企画展 箱根

 福島市出身の日本画家斎正機さんの企画展「斎正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は十六日までに神奈川県箱根町の箱根・芦ノ湖成川美術館で始まった。七月十四日まで。柔らかい雰囲気の作品が来場者の目を引いている。
 古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作を含め、日本画とオイルパステル画約三十点が並んでいる。県内の風景を描いた作品が多い。
 入館料は大人千三百円、高校生九百円、小中学生六百円でいずれも税込み。開館時間は午前九時から午後五時。
 斎さんは福島民報で「福島鉄道物語」を連載している。
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同紙には、記事にある「福島鉄道物語」の連載で、昨年、「ほんとの空」という作品が掲載されました。
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背景の山は、「ほんとの空」だけに、安達太良山でしょう。温かみのある絵ですね。これが今回展示されているものかどうか不明なのですが、別物だとしても、こんな感じの作品と思われます。

齋氏、『福島民報』さんでの連載以外にも、地元の地銀・東邦銀行さんのカレンダーなどにも作品が採用されているそうです。ちなみに同行のカレンダーには智恵子の紙絵が使われたこともありました。

氏のオフィシャルサイトはこちら

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

分教場にて田頭さんの演説会に余出場の事を遠慮すべき旨、勝治さんより田頭さんに伝へるやうたのむ。よくさん会詩部会長其他の経歴該当すと思ふ。

昭和22年(1947)3月29日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の村長選挙に関わります。山小屋のあった山口地区の高橋雅郎が立候補、その応援演説を頼まれたものの、戦時中の肩書きを理由に遠慮したというのです。「田頭」は屋号です。

「よくさん会詩部会長」は、正確には日本文学報国会詩部会長。「其他」は、中央協力会議議員や、大東亜文学者会議議員などを指します。

高橋は光太郎の応援演説が無くとも当選しました。そのお嬢さん、高橋愛子さん(平成30年=2018にご逝去)は、光太郎詩「山の少女」のモデルとなり、永らく光太郎の語り部として活躍されました。

京都東山の浄土宗総本山知恩院さん。春秋に行われている恒例のライトアップ、2021春が始まります。コロナ禍のため、昨春は中止でした。

春のライトアップ二〇二一

期 間 : 2021年3月26日(金)~4月4日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門周辺、国宝御影堂、方丈庭園(一部公開)
料 金 : 大人600円(高校生以上) 小人300円(小・中学生)

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、昨年4月に落慶を迎えた御影堂をライトアップします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。

方丈庭園
江戸時代初期、小堀遠州と縁のある僧・玉淵(ぎょくえん)によって作庭されたと伝えられる池泉式の庭園です。方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景をかもしだしています。

聞いてみよう!お坊さんのはなし
お坊さんの話を聞いたことがない方も大歓迎!気さくなお坊さん達が温かく出迎え、身近な仏教のお話をいたします。お話の後には、木魚に触れ「南無阿弥陀仏」とお称えするプチお寺体験もあります。今回は平成大修理の工事を終え、参拝可能となった御影堂にて開催いたします。荘厳な空間の中、日常から離れた心静かなひとときを味わってみませんか?
 日程:ライトアップ期間中、御影堂にて毎夜開催
 時間:①18時00分~ ②18時45分~ ③19時30分~ ④20時15分~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
 ※状況により時間が変更になる場合がございます。
 ※堂内空間を保つため、人数制限を行う場合がございます。

「補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像」は、明治25年(1892)、東京美術学校として依頼を受け、光雲が主任となって制作されました。鋳造は岡崎雪声です。
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コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝こまかい雪ふりしき居る。軒につらら多数下り美し。風出て午后雪やむ。寒さ冴え返る。

昭和22年(1947)3月12日の日記より 光太郎65歳

つららがたくさん出現するのは、却って春が近づいてからだそうですが、花巻郊外旧太田村、まだまだ寒そうです。

この日描いたつららのスケッチがこちら。「大根か」と突っ込みたくなりますが(笑)。
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3月19日(金)、展覧会ハシゴの2つめは、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん。
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こちらでは「没後70年 南薫造」が開催中です。
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先週3月14日(日)、NHK Eテレさんの「アートシーン」で取り上げられました。
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南は広島県で、光太郎と同年の明治16年(1883)に生まれています。東京美術学校西洋画科出身で、光太郎との本格的な交流は、ともに留学でロンドンに滞在していた明治40年(1907)からと思われます。

009光太郎から南に宛てた明治40年(1907)の葉書が展示されていました。

昨夕引越し申し候。
ポリテクニツクの直ぐ側候へば学校の
御帰りがけにても御寄り被下度候。午後
二時頃には小生大抵帰宅致し居候。
夜は大方在宅
の筈に候。
                光
          高村光太郎


描かれている絵は、近くの酒場のギャルソンかなにかでしょうか。または日本の蕎麦屋の出前持ちのようにも見えますが。

「ポリテクニツク」は、チェルシー・ポリテクニック。アカデミックな美術学校ではなく、さまざまな技芸を教える学校でした。

「引越し」は、元はロンドンのパトニー地区にいたのが、チェルシー地区に移ったことを表します。チェルシーでは、やはり留学仲間の白瀧幾之助とルームシェアをしていましたし、近くにはバーナード・リーチが住んでいました。

この頃の南は、
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光太郎はその後、パリに移って明治42年(1909)に帰国、南は同43年(1910)、アメリカ経由で日本に帰りました。
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「木版」は、光太郎が神田淡路町で経営していた画廊・琅玕洞で展示されました。
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南はまた、装幀も手がけていました。『白樺』の「ロダン号」。光太郎も寄稿し、日本に於けるロダン受容の、一つのエポックメーキングとして語り継がれていますが、この表紙が南の装幀で、これは存じませんでした。その他、やはり光太郎が寄稿していた『美術新報』や『詩歌』でも、南が装幀を行っています。

光太郎は光太郎で、やはり明治43年(1910)、『南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会目録』のために、「南薫造君の絵画」という一文を寄せています。

ただ、大正初め以後は、疎遠になったようです。確認できている限りでは、光太郎が南に送った書簡の最後のものは、大正元年(1912)11月3日付けのもの。何か行き違いがあって、南の機嫌を損ねたことを謝る内容になっています。

それ以前、文展の評などで南の出品作について、光太郎が新聞雑誌にいろいろ言及していますが、好意的な評もする反面、歯に衣着せぬ物言いも為されていて、その辺りが疎遠になった一つの原因かとも思われます。

晩年(南は光太郎より早く昭和25年=1950に歿しています)の南は、郷里広島で活動。
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当方、南の絵は、多くの作家の作品を集めた展覧会で、数える程しか見たことがなかったため、今回、まとめて見ることができ、なるほど、という感じでした。いろいろな意味で「なるほど」ですが……。
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図録は250ページ近い労作です。いったいに、ステーションギャラリーさんで行われる展覧会の図録は、かなり厚冊のものが多く、値がはりますが(今回のものは2,400円也)、それだけに素晴らしいものです。

「没後70年 南薫造」、ステーションギャラリーさんでは4月11日(日)まで。その後、4月20日(火)〜6月13日(日)で広島県立美術館さん、7月3日(土)〜8月29日(日)には久留米市美術館/石橋正二郎記念館さんに巡回だそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

電話は東京から岩手に移転できるなら欲し。出来ないなら不要、随意に処分せられたしと書く、

昭和22年(1947)3月6日の日記より 光太郎65歳

駒込林町の実家に暮らす実弟・豊周へ送る書簡の内容の一部です。昔は固定電話の加入権というのが、一つの財産といった意味合いがありました。それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

この時期に光太郎が電話を欲しがっていたというのは、意外といえば意外でした。この時点ではまだ蟄居中の花巻郊外旧太田村の山小屋には、電気すら通っていませんでしたし。ただ、結局電話は設置されずじまいでした。

昨日は都内に出て、展覧会を2つ、ハシゴして参りました。

まずは上野公園内、上野の森美術館さん。
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こちらでは、現代アートの展覧会「VOCA展2021 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」を開催中です。

VOCA展2021 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-

期 日 : 2021年3月12日(金)~30日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般800円/大学生500円/高校生以下無料

VOCA(ヴォーカ)展は1994年にスタートした、絵画や写真など平面美術の領域で高い将来性のある若手作家を奨励する展覧会です。昨年来、世界的な新型コロナウイルスの感染に見舞われる状況のもと、開催への準備を進め、今回で28回目の展覧会を迎える運びとなりました。

「VOCA展2021」には、全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などから推薦された40才以下の作家30名(組)が出品します。このなかから5名の選考委員によりVOCA賞1名、奨励賞2名、佳作賞2名が選ばれました。そして大原美術館賞が館の選考により決定しました。

今回のVOCAも絵画のほか写真や半立体的な作品など多様な技法・メディアによる意欲的な新作が集まりました。ユニークな造形や意匠とともに自身や家族、場所の歴史を探るもの、史実や社会問題に取材したモチーフやメッセージを含むものなど、重層的な読み解きへと誘う作品が多く見られます。

1年前には予期しなかった状況のなかでも作家たちは真摯に制作を続け、途切れることなく新しい才能が芽生えていきます。気鋭の作家たちが現在なにを考え、伝えようとしているのか。それぞれが切り開いている表現をぜひご覧ください。
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「VOCA(ヴォーカ)」とは、「The Vision of Contemporary Art(現代美術の展望)」 の頭文字だそうです。

入賞作の選考委員に、お世話になっている水沢勉氏(神奈川県立近代美術館長)が名を連ねていらっしゃいますし、大賞に当たる「VOCA賞」受賞作品が、一見の価値があるなと思ったので、拝見して参りました。

その作品がこちら。尾花賢一氏による《上野山コスモロジー》。
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トポスとしての「上野」に焦点を当て、古今の風景やアイテム、関連する人物、また、かつて上野で展示されたり、現在、上野の各施設に所蔵されたりしている美術作品などをモチーフとしています。

光太郎がとことん影響を受けたロダン作「考える人」(東京国立近代美術館さん前庭に野外展示中)や、光太郎の盟友・碌山荻原守衛の「女」(かつて上野で開かれた文展出品作)、光太郎の父・光雲を東京美術学校(現・東京藝術大学さん)に招聘し、光太郎入学時の校長だった岡倉天心。
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そして光雲作の国指定重要文化財「老猿」(トーハクさん所蔵)。
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ど迫力です。

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つげ義春氏の「ゲンセンカン主人」(右下)などを彷彿とさせられるような部分(左下)も。
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紙幅の都合(紙ではありませんが(笑))で割愛しますが、他の作品も、それぞれに力作揃い。また、現代アートに疎い当方など、「こういう素材をこう使うか」という点や、もちろん個々の作のメッセージ性、それを如何に伝えようとするかなど、新鮮でした。
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図録は1,800円也。
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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

雪かき、道をつくり、雪解に備へて水路を作らんとす。


昭和22年(1947)3月2日の日記より 光太郎65歳

雪解けに備える水路、温暖な房総半島に暮らしている身には、思いもよりませんでした。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での2度目の冬が終わろうとし、前年の経験が生かされていたようです。

美術家の篠田桃紅さんが亡くなりました。今日の朝刊で知って、驚いている次第です。

『朝日新聞』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去 107歳、エッセーも人気

002 前衛書から出発して独自の表現空間を切り開いた美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名篠田満洲子〈ますこ〉)さんが1日、老衰のため死去した。107歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめい篠田爽子(そうこ)さん。
 中国・大連市生まれ。幼いころから家庭で書、水墨画の手ほどきを受けた。文字の枠をはみ出して、書を基礎にしつつ、戦後は墨による抽象表現を模索した。
 1956~58年の米ニューヨーク滞在中、米国など各地で個展を開いて注目を集めた。
 大英博物館などに作品が収蔵されているほか、国立京都国際会館や東京・芝の増上寺にも壁画の大作がある。岐阜県に本籍があったこともあり、同県関市に市立篠田桃紅美術空間がある。
 せまいジャンルに限られたくないと、自ら「美術家」と称した。年齢を重ねても凜(りん)としたたたずまいや、「絶対描きたくないものは描きません」「人として何が完成形なのか、わかりません」といったきっぷのいい語り口が、多くの共感を呼んだ。79年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた随筆「墨いろ」など著作も多く、「一〇三歳になってわかったこと」などが人気を呼んだ。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

『時事通信』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去

 水墨を使った独自の抽象作品で国際的に知られる美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名満洲子=ますこ)さんが1日、老衰のため東京都内の病院で死去した。
 107歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主はめい、爽子(そうこ)さん。
 中国東北部(旧満州)の大連生まれ。幼少から書を始め、第2次世界大戦後、文字を解体した抽象表現「墨象」に取り組んだ。1956年に渡米し、ニューヨークを拠点にシカゴやパリなど欧米で個展も開いた。58年に帰国し、東京・芝の増上寺大本堂の壁画やふすま絵を手掛けるなど精力的に活動を続けた。
 エッセイストとしても活躍。著書に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した「墨いろ」などがある。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

当方、篠田さんの御著書を2冊、拝読しました。どちらも軽く光太郎に触れて下さっています。

平成26年(2014)刊行の『百歳の力』(集英社新書)。
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帯が「一〇三歳」となっていますが、増刷の関係ですね。

曰く、

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

達観、ですね……。

もう一冊は、『一〇三歳になってわかったこと』(幻冬舎)、平成27年(2015)刊行です。

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こちらでは、

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

とのこと。

もしかすると、他の御著書にも同様の記述があるのかも知れません。

光太郎が「道程」を書いたのは、大正3年(1914)。篠田さんのお生まれはその前年の大正2年(1913)。そう考えると、すごいものがありますね。ちなみに同じ大正2年(1913)生まれというと、森繁久弥さん、丹下健三氏、金田一春彦氏、家永三郎氏など。驚いたことに、『ごんぎつね』の新美南吉や、『夫婦善哉』を書いた織田作之助もそうでした。この二人は早世していたので、意外でした。

上記両著の中にも、当方にとっては様々な歴史上の人物とも言える人々との交流の様子などが記されています。会津八一、中原綾子、三好達治、北村ミナ(北村透谷未亡人)、イサム・ノグチ、ロバート・キャパ、それから、たまたま見かけただけだそうですが、芥川龍之介……。くらくらします。光太郎智恵子とは交流がなかったようですが。

その107年のご生涯で、抽象表現による新しい美を産み出し続け、現役でありつづけられたその道程には、まさに感服です。ちなみに来月には横浜そごう美術館さんで、「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が開催予定とのこと。急遽、追悼展的な形になるのではないかと思われます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

粉雪 終日来訪者なし。 昭和22年(1947)1月4日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。厳冬期には、さすがに来訪者も少なく、光太郎自身もステイホーム。おのずと、自分自身と向き合う時間が長くなり、詩の創作に影響していきます。

過日ご紹介しました、青森空港に新たに設置の巨大ステンドグラス「青の森へ」が除幕されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。

青森の地方紙『東奥日報』さんの記事。

幅11メートル 青森空港に大型ステンドグラス

 日本交通文化協会(東京)と青森空港ビルは、青森市の同ビル1階ロビーに三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都在住=が原画・監修を手掛けた大型ステンドグラス「青の森へ」を設置し24日、現地で完成披露除幕式を開いた。
 完成した作品は縦2.4メートル、横11.4メートル。ガラスは約3200ピースにも及び、85色を使い分け、中でもこだわりの青系統は25色を使った。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が発令されていた昨年春、森本さんは約3カ月をかけ、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、リンゴ、こけし、十和田湖、奥入瀬の風景など青森県の風物詩を描いた原画を完成させた。
 この原画を基に、静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房の職人6人が、昨年5月から半年以上をかけて作品を仕上げた。
 除幕式で三村申吾知事は「(コロナ収束後)いずれ全国、世界から訪れるたくさんの方を出迎えるシンボルとして親しまれれば」とあいさつ。
 森本さんは式典後の取材に「緊急事態宣言のさなか、ねぶたに行けない悲しさから、おはやしやねぶた祭りの動画や音楽をアトリエに響かせ、跳ねながら原画を描いていた。このような状況でなければ、これほど情熱的に絵に思いをぶつけることはなかった」と制作を振り返った。
 地域活性化や観光振興を目的に、地元に縁がある作家のアート作品を空港や駅などに設置する日本交通文化協会の事業の一環。日本宝くじ協会が助成した。森本さんは2019年の第4回東奥文化選奨受賞者。
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同じく『デーリー東北』さん。

青森空港に大型ステンドグラス 三沢出身の森本さん、光とガラスで青森表現

 三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんが原画と監修を手掛けた大型ステンドグラス作品「青の森 へ」が24日、青森空港旅客ターミナルビル1階ロビーにお目見えした。作品には奥入瀬渓流の流れや、青森ねぶた祭で躍動するハネトなどが多彩な色彩のガラスで描かれている。森本さんは「季節ごとに変わる光の表情を楽しんで」とPRしている。
 全国の駅や空港、公共施設などでアートの普及を進める日本交通文化協会(本部・東京)が企画し、森本さんに依頼。日本宝くじ協会が助成し、青森空港ビルに作品が寄贈された。
 作品は縦2・4メートル、横11・4メートルの大きさ。森本さんの切り絵を基に、クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市)の職人6人が約3200ピースのガラスを使い制作した。
 使われている色は全85色で、森本さんが特にこだわったのは青。微妙に色彩の異なる25色を巧みに使い分け、青森の自然や文化をきめ細やかに表現した。
 除幕式には森本さんをはじめ三村申吾知事、林哲夫青森空港ビル社長らが出席。三村知事は「青森への深い愛情と圧倒的なクオリティーに感激した」と褒めたたえた。
 制作に携わったこの10カ月間、新型コロナウイルスの影響で恒例だった里帰りがかなわなかったという森本さん。望郷の思いも込めた作品について「青森に初めて降り立った人も青森らしさを感じられると思う」と自信をのぞかせた。
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続いて、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

青の彩りお出迎え 青森空港にステンドグラス設置

  青森空港(青森市)のターミナルビルに24日、青森県の祭りや自然をモチーフにした大型ステンドグラス「青の森へ」が設置された。青色だけでも25種類を使い分け、青森ねぶた祭や奥入瀬渓流など青森を代表する風物を繊細な色合いで表現。除幕されると、搭乗客らから歓声が上がった。
 横11・4メートル、縦2・4メートルの大きさで、85色が用いられた。原画作者のアートディレクター森本千絵さん(44)=三沢市出身=は「青森へ行きたくても行けない状況だからこそ、いとしさを込めることができた。春夏秋冬、それぞれの光で変化を楽しんでほしい」と語った。
 三村申吾知事は「青森の空の玄関口が鮮やかに彩られた。訪れる人にとって心地よい場所になるよう願う」と期待した。
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テレビのローカルニュースでも。

NHKさん。

青森空港に大型ステンドグラス

青森空港に、三沢市出身の芸術家が監修した大型のステンドグラスが設置され、24日、完成披露の除幕式が行われました。
このステンドグラスは、新型コロナウイルスの影響が続く中、文化や芸術の面から人々を元気づけようと活動している日本交通文化協会が、日本宝くじ協会の助成を受けて青森空港に寄贈したものです。
24日の完成式典には、三村知事や、ステンドグラスの原画を描いた三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんたちが出席し、光をいっぱいに受けたステンドグラスが披露されました。
「青の森へ」と名付けられたこの作品は、縦2.4メートル、横11.4メートルで、静岡県の工房に依頼して制作されました。
ねぶた祭やこけし、奥入瀬渓流など、85種類の色を使ったおよそ3200のガラスピースを組み合わせて青森県の魅力を表現しています。
アートディレクターの森本千絵さんは、「青森県に住んでいる人もそうでない人にも楽しんでもらえると思います。光の入り具合で表情が違うので季節ごとに楽しんでほしいです」と話していました。
岐阜県から受験で青森県を訪れていた18歳の男性は、「とてもきれいです。ひと目見ただけで青森と分かるのでいいと思います」と話していました。
このステンドグラスは、青森空港の1階、国内線のチケットロビーに展示されています。
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RAB青森放送さん。

青森空港に新たなシンボル 名物や景勝地を描いたステンドグラス完成

青森空港に県内の名物や景勝地を描いたステンドグラスのアート作品が完成し24日お披露目されました。
青森空港の1階ロビーに完成したこの鮮やかな作品は三沢市出身の
アートディレクター、森本千絵(もりもと・ちえ)さんが原画と制作を監修した大型ステンドグラス『青の森へ』です。
作品は日本交通文化協会が森本さんに制作を依頼し、青森空港ビルに寄贈しました。縦2・4メートル、横11・4メートルの作品にはねぶたやこけし、りんごや十和田湖など、県内の工芸品や風景などをイメージしたガラスが散りばめられています。森本さんは去年5月から原画となる切り絵を描き、静岡県熱海市の職人たちが仕上げたもので、85種類の色と3200ピースのガラスが使われています。
★利用客は…
「すごく青森っぽくていいなと思いました」
「SNSにアップして使わせてもらおうと思っています」
★アートディレクター 森本千絵 さん
「たぶん春夏秋と表情が違うのでその光の表情を楽しんでもらいたいと同時に、歩いたりして楽しんで見ていただきたいと思います」 
ステンドグラスは青森の空の玄関口の新たなシンボルとして、訪れる人たちを出迎えます。
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あちらにお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日賢治同志会の当日なり。新聞に余の名も講演題目までつけて広告中にあり、後藤氏のなせる事ならん。不都合なり。余はゆかず。

昭和21年(1946)10月20日の日記より 光太郎64歳

本人の承諾を得ぬまま、勝手に講師として名を出されたそうで……。花巻郊外旧太田村の七年間で、何度かこういうことがあったそうです。

「最近手に入れた古いものシリーズ」を、もうすこし続けようかとも思っていましたが、3日間それを書いているうちに新着情報がいろいろ入ってきましたので、またそちらの紹介に戻ります。

京都から、展覧会情報、既に始まっています。

黒田 大スケ「未然のライシテ、どげざの目線」

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月4日(日)
会 場 : 京都芸術センター 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2
時 間 : 10:00~20:00
休 館 : 3月1日(月)
料 金 : 無料

京都芸術センターが実施する Co-program カテゴリー B では、アーティストと京都芸術センターが共同で展覧会を実施しています。今年度は黒田大スケと共同で、展示『未然のライシテ、どげざの目線』を開催します。

日本において銅像をはじめとする公共彫刻は、ただの彫刻というよりも、そのモデルとなった人物と同一視したり、あるいは服を着せ食事を供えたり、最近でいえばマスクをつけたりと、人格を持った人間のように扱われることがしばしばあります。例えば此処京都芸術センターの入り口にある二宮金次郎像にマスクがつけられているように、(最近は靴も履いています。)ごく自然な振る舞いとして日常に溶け込んでいます。ところでこうした感覚は何処からやってきたのでしょうか?

本展は、京都市内にある有名な公共彫刻を起点に、彫刻が帯びる霊性、言い換えれば、彫刻が人格を持った人間であるかのように感じる感覚を、あらゆる実験的芸術的アプローチによって創造的に視覚化し、彫刻の持つ意味や背景を捉え直す試みを展示しています。また、会場内では黒田のこれまでのリサーチ等の資料も併せてご覧いただけます。その彫刻はなぜ作られたのか?彫刻家は何を目指したのか?彫刻とは何か?彫刻を改めて捉え直し、公共と彫刻の関係について再考する機会となれば幸いです。

黒田大スケ / 美術家
1982 年京都府生まれ。2013 年広島市立大学大学院総合造形芸術専攻(彫刻)修了。橋本平八「石に就て」の研究で博士号取得。2019 年文化庁新進芸術家海外研修制度で渡米。帰国後、関西を中心に活動している。歴史、環境、身体の間にある「幽霊」のように目に見えないが認識されているものをテーマに作品を制作している。最近の展覧会に「本のキリヌキ」(瑞雲庵、2020)、「ギャラリートラック」(京都市街地、2020)等がある。
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関連企画
【作家によるギャラリーツアー】
出展作家の黒田大スケが、館内を巡って展示作品について話をします。
日時:2021年2月23日(火・祝)11:00~12:00頃 3月20日(土・祝)14:00~15:00頃
集合場所:京都芸術センター エントランス
申込方法:公式サイトより申込
定員:10名

基本、ビデオインスタレーション(映像作品による展示)のようです。

核となるのは《地獄のためのプラクティス》 という作品。

パンフレットによると、

 《地獄のためのプラクティス》 は黒田が学び手本としてきた彫刻についての作品です。黒田は自分に身についた彫刻の技術や考え方が、どのようなものなのかを知るために様々なリサーチを重ねてきました。この映像作品は作者の身体化された彫刻、あるいは無意識の造形感覚としての彫刻を取り出すために、黒田が複数の彫刻家を演じるパフォーマンスを記録したものです。台本などはなく、その内容は、これまでの彫刻体験と彫刻に関するリサーチに基づいたもので、即興的に演じられています。作中に登
場する動物は全て実在の彫刻家をモデルにしたもので、彫刻家の魂があの世で彫刻を作り続けている様子が表現されています。具体的には、多くの日本の近代の彫刻家が手本としたオーギュスト・ロダンが日本の近代彫刻の概観を偲ぶ様子を起点にしたビデオインスタレーションで構成されています。そして、個別の物語については地獄めぐりならぬ、日本の近代の彫刻の歴史をなぞるように館内各所に展示しています。芸術センターの建物も非常に趣のある見応えあるものです。各ビデオは 5 分~10 分となっています。ごゆっくりお楽しみください。

多くの日本の近代の彫刻家が手本としたオーギュスト・ロダンが日本の近代彫刻の概観を偲ぶ様子」は、かの「考える人」が、京都国立博物館さんで屋外展示されていることと無縁ではないのでしょう。
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日本の近代の彫刻の歴史をなぞる」「個別の物語」の中に、光太郎も。

6.《高村光太郎のためのプラクティス》 ビデオ、2021
高村 光太郎(1883-1956)
詩人、彫刻家。高村光雲の長男として生まれ幼少期より彫刻に親しむ。彼が編集し翻訳した「ロダンの言葉」は多くの彫刻家のバイブルとして読まれた。また新聞雑誌などで彫刻の批評も旺盛に繰り広げた。彼の批評に一喜一憂する彫刻家は多く、良くも悪くも彼が近代の彫刻表現に与えた影響は大きい。一方で高村自身の作品は他の彫刻家に比べて決して多いとは言えない。また渡仏時にロダンに感化されたはずが、残された作品のほとんどは彼が遠ざけようとした高村光雲的な江戸から続く木彫作品である。卓抜な詩人の才能を駆使し言葉で彫刻を作ったとも言えるだろう。

残された作品のほとんどは彼が遠ざけようとした高村光雲的な江戸から続く木彫作品である。」という部分には疑問が残りますが……。現存が確認できている作品は、ブロンズの方が多いもので……。

光太郎以外のラインナップは以下の通りです。

1.《オーギュス・ロダンのためのプラクティス》 ビデオ、2021
2.《建畠大夢のためのプラクティス》 ビデオ、2021
3.《佐藤忠良のためのプラクティス》 ビデオ、2021
4.《金学成のためのプラクティス》 ビデオ、2021 
5. 小倉右一郎(1881 - 1962)
7.《金景承のためのプラクティス》 ビデオ、2021
8.《本郷新のためのプラクティス》 ビデオ、2021
9.《渡辺長男のためのプラクティス》 ビデオ、2021 
10.《北村西望のためのプラクティス》 ビデオ、2021 


なぜか「オーギュスト」の「ト」が抜けています。また、「小倉右一郎」のみ「~のためのプラクティス」となっていません。何らかの意味があるのでしょうか?

他に、《どげざの目線》《青年の目線》《子供の目線》と題した作品も。制作には「カメラオブスタチュー」を使用したとのこと。

カメラオブスタチューとは、カメラ・オブ・スクラ(現代のカメラの原型となったピンホールカメラのような光学機械)の箱や部屋に当たる部分に彫刻(銅像など)を用いた風変りなカメラのこと。銅像の内に潜むあるいは像の下敷きになっているような霊性を視覚化しようと考案された。
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展示されている映像はすべて「カメラオブスタチュー」で撮影した京都市内の風景で、像の大きさに応じてトラックや自転車などで運び撮影したものです。今回モチーフとしたのは、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)、京都府立図書館横の「二宮尊徳先生像」(作者:小倉右一郎、上田貴九丸の合作)、「わだつみ像」(作者:本郷新)

だそうで……。「カメラ・オブ・スクラ」は、ヨハネス・フェルメールも使っていただろうと推測されていることが有名ですね。それを彫刻に仕込んで軽トラや自転車に乗せて……これだけでもアートですね(笑)。

コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】004

父の十三回忌。朝小屋の西側に栗の実(院長さんよりもらひしもの)四顆を捲く。十三回忌記念のため。昨日棒杭を樹ててその旨墨書し置けり。


昭和21年(1946)10月10日の日記より
 光太郎64歳

昭和26年(1951)7月の『文藝春秋』第29巻第9号の巻頭グラビアページに右の画像が掲載されています。写真家・田村茂の撮影です。昭和21年の日記は9月21日から10月9日までの間のものが欠けており、墨書したという10月9日の詳細がわかりません。写真がこの日に撮影されたのか、のちに書き直したりした時のものなのか……。

まいた栗の実は芽を出し、巨木に成長しました。のちに標柱は石にコピーされてそちらが立てられ、光太郎自筆のものは花巻高村光太郎記念館さんで保存しているはずです。
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ところが、残念なことに、平成29年(2017)頃にこの栗の木が枯死してしまい、倒壊の危険があるということで、やむなく伐採されてしまいました。石の標柱は現存しています。
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001古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。

昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。

先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。

佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。

手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
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祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。

そして、光太郎の写真。
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キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。

また、別の日の写真。
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こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。

こんな写真も。
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「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。

グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。

こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。

 或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。

寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。

それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。

その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。

岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。

古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。

昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳

山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。

コロナ禍の明けやらぬ中、やはりイベント等の開催が少なく、相変わらずこのブログもネタ不足です。

これまでもこうした際にたびたびそうしてきましたが、またネタが集まるまでの数日間、「最近手に入れた古いもの」をご紹介します。

新刊書籍等と異なり、皆様が同じものを入手しにくいものとは存じますが、「こういうものもあったんだ」ということで。

今日は光太郎の父・光雲がらみの品々を。

まず、こちら。戦前の絵葉書です。
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光雲作の仏像で、現在の韓国ソウルにあった春畝山博文寺(しゅんぽざんはくぶんじ)の本尊・釈迦如来像です。

博文寺は、初代韓国統監で、明治42年(1909)にハルビンで暗殺された伊藤博文の二十三回忌を記念し、昭和7年(1932)に建てられた寺院。山号の「春畝」も伊藤の号です。その本尊の制作を光雲が依頼され、手がけました。完成は翌昭和8年(1933)。光雲が歿する前年です。

下の画像は、かなり前に入手したものですが、上野松坂屋で行われた開眼供養の模様を撮ったキャビネ版の写真。光雲も写っています。
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裏にはリーフレットが貼り付けてありました。
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曰く、

◎博文寺本尊佛開眼式
日鮮融和の大道場として故伊藤博文公に縁故ある官民有志の発起で、昨年十月に京城に落成を見た曹洞宗春畝山博文寺に納められる本尊佛は、過般来斯界の権威高村光雲翁が製作中であつたが、此程漸く等身大に及ぶ釈迦如来像を完成、十七日午前十時より伊藤公記念会主催で上野松坂屋で開眼供養を行つた。
写真は、完成した如来像と参列の高村光雲、今井田朝鮮政務総監、児玉秀雄伯

絵葉書は像を正面から大写しにしたもので、この像の写真として、このアングルのものは見たことがなく、これは貴重だと思い、購入しました。

時折、ネットオークションなどでこれを含む博文寺としての絵葉書セットが出ていますが、セットになると1万円近くの値。当方が入手したのは釈迦如来像の一枚だけ千円ぽっきりで出ていたもので、安く手に入ってラッキーでした。

ところでこの像本体は、現在はどうなっているのか、当方寡聞にして存じません。おそらく現存していないのではないのかと思うのですが、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

光雲がらみでもう1点。
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おそらく明治後半の錦絵です。題して「東京名所 上野公園雪景」。

雪景がメインですが、ワイプ画面的に西郷隆盛像。言わずもがなですが、東京美術学校として依頼を受け、光雲が主任となって制作されたものです。除幕は明治31年(1898)でした。
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錦絵作者は、左下に「巨泉」の落款があり、大阪出身の川崎巨泉と思われます。

こちらはかなり前に入手したものですが、やはり巨泉による「東京名所 楠公乃銅像 桔梗御門」。やはり光雲が主任となって制作された楠木正成像が描かれています。
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こちらは枠外に「明治三十一年一月一日印刷」とあり、年代がはっきりしています。上記「上野公園雪景」と比べ、「東京名所」の部分のロゴが同一ですし、紙のサイズも同じですので、同じ頃、同じ版元なのではと思われます。

この手の西郷像と楠公像の錦絵の類、10枚程集まりました。詳細は未定ですが、今秋、花巻高村光太郎記念館さんで、昨年も展示された光雲作の「鈿女命」をまた出す計画があり、その際にこれらをお貸しして一緒に並べてもらう予定です。

詳細が決まりましたら、またご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

真壁さんより昨日テカミ来り、切抜絵の複製の見本封入。甚だ不出来にて話にならず、今泉さん等も延期と定め居る由につき同意の返事を出す。

昭和21年(1946)9月16日の日記より 光太郎64歳

戦後になると、智恵子紙絵を画集として出版する計画が持ち上がりました。「真壁さん」は智恵子紙絵を疎開させていた山形の詩人・真壁仁。「今泉さん」は真壁と同郷の美術評論家で、各種美術雑誌の編集に関わっていた今泉篤男です。

智恵子の紙絵、当時の製版・印刷の技術では、光太郎の納得のいくものが出来ず、雑誌に散発的に掲載されたり、展覧会図録に載ったりはしましたが、単独の画集として刊行されたのは光太郎歿後のことでした。

テレビ放映情報です。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

地上波テレビ東京 2021年2月23日(火) 20:54〜21:54

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗
【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

鑑定士軍団
中島誠之助(古美術鑑定家)北原照久(「ブリキのおもちゃ博物館」館長)
安河内眞美(「ギャラリーやすこうち」店主)増田孝(愛知東邦大学客員教授)
大熊敏之(日本大学芸術学部教授)山本清司(『COLLECTIBLES FIELD』代表)
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この番組では、以前にも何度か光雲作の木彫の本物が出ています。

歌手の秋川雅史さんご所蔵の「寿老舞」、タレントの山口もえさんのご実家に伝わっていた「朝日に虎」、それから、このブログではご紹介していませが、他にも複数光雲作の本物がでたことがあります。逆に昨年には、真っ赤なニセモノが出てきたこともありましたが……。

いったいに、光雲作と称するニセモノは非常に多く、以前にも書きましたが、主に富山県の悪徳業者がネットオークションで、彫刻とすら言えないような稚拙なものを光雲作として出品し続けています。また、このブログで何度かご紹介した伝統あるアートオークションでも、今年の初めに真っ赤なニセモノ。あきれました。主催者の良識を疑います。

今回の「なんでも鑑定団」、画像で見る限りはいいもののようです。どんな鑑定になりますやら。視聴可能な地域にお住まいの方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ふるい米に蟲がつき、又同じ箱に入れておいたスルメに大蟻が子を生みて食ひあらし、殆と用をなさず。スルメ半分は肥料にし、半分は外にて干す。麦入の古米は堆肥の中にあける。食用にならず。二升ばかり。


昭和21年9月12日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での山小屋暮らし。うっかりしているとこうなってしまう、ある意味、虫や獣たちとのバトルの連続でした。

昨日は、隣町の千葉県立東部図書館さんに行っておりました。国会図書館さんのデジタルデータベースの閲覧が目的でした。過日レポートいたしました、茨城県取手市の大鹿山長禅寺さんに立つ、地元の名士・蛯原萬吉の銅像について調べるためです。
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蛯原萬吉像。かいつまみますと、昭和8年(1933)に立てられた最初の銅像が、戦時中に金属供出にあって亡失。昭和50年に、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏が原型を制作して再建されました。新たに付けられた銘板に、初代の銅像作者が光太郎だったと記されていました。しかし、『高村光太郎全集』等に蛯原の名は一切出て来ず、この像についても全く記述がありません。
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そこで閲覧したのが、昭和15年(1940)刊行の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』。この中に「翁の寿像と頌徳碑」という項があり、像の作者についても記述があるのでは、と、期待したわけです。

ところが、その項、像が建てられた経緯が簡潔に記され、最初の銘板の銘文が引用されているだけで、作者については何も書かれていませんでした。

 是迄述べた如き、翁数々の徳行を讃し、且又稀に見る翁の大成功を喜ぶ郷党の有志は、郷党の亀鑑並に誇りとして永世に伝ふべく、昭和八年春翁と縁故深き取手長禅寺境内に寿像を、又一万余円の巨資を寄付して改築せる郷村井野小学校々庭に巨大なる頌徳碑が建てられた。
 斯くして翁の英名は青史と共に永遠に輝くであらう。
 寿像の文に曰く、
 蛯原家ハ世々下総ニ住ミ、萬吉翁ハ先考亀吉ノ三男トシテ文久元年八月二十一日井野村ニ生ル、少壮志ヲ立テテ東都ニ上リ精励維レ努メ以テ正金商事株式会社ヲ創立シ之カ社長トナル、今ヤ古稀ヲ過ギ帝都財界ノ覇者トシテ矍鑠壮者ヲ凌グ、翁平素ヨリ事業報国ヲ晶ヘ無駄排除ヲ説キ躬行ヨク後進ヲ扶掖シ巨資ヲ育英事業ニ投ジテ惜ム所ナシ、取手農学校、井野小学校ノ建設ハ翁ノ寄附ニ俟ツ所多ク、官紺綬褒章ヲ賜ヒ之カ徳行ヲ彰ス、蓋シ翁ノ如キ身ヲ窮乏ニ起シ奮闘遂ニ東京多額納税者中ノ首班ニ列セルガ如キ洵ニ郷人ノ軌範タリ、乃チ有志茲ニ議リ徳ヲ讃シ、信仰厚キ長禅寺境内ニ寿像ヲ建テ功ヲ不朽ニ伝フ。
  昭和八年四月十三日之ヲ建ツ

結局、像の作者が誰なのかはわからずじまいでした。

光太郎、昭和8年(1933)というと、智恵子の心の病が進行し、前年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂、翌年には九十九里浜の妹の元に預けるなどしていた時期で、危険だからと、木彫用の鑿や彫刻刀は仕舞いこんでいた時期です。ただ、塑像は少ないながらも制作しており、前年には「黒田清輝胸像」、レリーフの「徳富蘇峰古稀記念像」(光雲代作)、この年には「成瀬仁蔵胸像」、「輪王寺四十一世福定無外の首」(光雲代作)、レリーフ「種蒔く人」(岩波書店社章原案)、翌年にはレリーフ「嘉納治五郎像」(光雲代作)を手がけています。

そこで、この時期にこうした像を作らなかったとはいえません。しかし、やはり『蛯原萬吉伝』に光太郎の名がないというのも妙です。ちなみに他の部分も斜め読みしましたが、光太郎の名は見えませんでした。

ちなみに巻頭のグラビア(といってもモノクロですが)ページに、金属供出間の前の最初の像の写真もありました。
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ここにも作者名等、記載がありません。

謎は深まるばかりですね……。

ただ、これであきらめることなく、調査を継続したく存じます。取手の市立図書館さんには『蛯原萬吉伝』以外の蛯原に関する資料がありそうですし、長禅寺さんに問い合わせるという手もありますし……。

ただ、情報をお持ちの方は、コメント欄等からご連絡いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

朝食、冷飯、みそ汁(大根葉、いんげん、煮干、畑のとりたて長茄子)トマトとりたて一個、つけもの胡瓜ぬかみそ、とりたて蔕紫茄子の足跡塩づけ。ヘタムラサキは真壁さんから種子をもらひ、苗から育てたもの、今朝はじめて収穫。

昭和21年(1946)8月29日の日記より 光太郎64歳

春に始めた農作業も実を結び、自作の野菜が食卓に並ぶようになってきました。嬉しかったことでしょう。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号、昨日は連載「光太郎レシピ」について書きましたが、今号は特集「まちのモニュメント」が組まれていますので、今日はそちらについて。
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市街を中心に、花巻のあちこちで見られる、特徴的だったり、ちょっとおもしろかったりといったモニュメントの数々が紹介されています。

右上の画像は花巻駅前に聳えるオブジェ「風の鳴る林」。斉藤ヒサ氏という方の作品だそうですが、宮沢賢治の世界観からのインスパイアだそうです。

やはり花巻といえば賢治、ということで、多くのモニュメントが賢治がらみですね。
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見開きのSLは「銀河鉄道の夜」をイメージした、「未来都市銀河地球鉄道」。コンクリートの壁に特殊塗料で描かれており、昼間は輪郭しか見えません。

そして、こちら。題して「やすらぎの像」。
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平成7年(1995)、やはり花巻駅前に設置されたものです。この年は太平洋戦争終戦から50周年。終戦の年の8月10日にあった花巻空襲で亡くなった方々への、慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。

像の原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

池田氏、絵画が制作の中心でした。平成30年(2018)には花巻市内の萬鉄五郎記念美術館さんで「詩情をつむぐ写実 池田次男展」が開催されました。市内5つの文化施設の共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環でした。

花巻空襲を題材とした、当方手持ちの『花巻がもえた日』という絵本があります。

文は岩手の県立高校に勤務されていた加藤昭雄氏、絵は花巻で絵手紙講師等をなさっていた遠藤市子氏。平成24年(2012)の刊行です。
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この中で、最終ページに「やすらぎの像」。
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戦争が終わって六十数年がたちました。
今日は花村ユキさんが「やすらぎの像」の前で小学生に空襲の話をする日です。
「このあたりでたくさんの人が死にました。私たちは何人ものけが人を手当てし、病院まで運んだんです。
十六歳の私に、どうしてそんな勇気や力が出せたのか、今でも不思議でなりません。
何十年も看護師をしてきましたが、あの日のような恐ろしい体験はありませんでした。
この像は、花巻の人たちがお金を出し合って、二度と戦争を起こさないと誓うために建てたものです。
でも、世界のどこかで、今も戦争は続いています。
皆さんは、今日のお話を忘れないで、どうか戦争のない平和な世の中にして下さいね」
ユキさんの目は涙でうるんでいました。


「花村ユキさん」は架空の人物ですが、終戦の年に看護学校を卒業して花巻病院に就職し、空襲の際に身を挺して負傷者の救護に当たった看護師という設定です。実際、モデルになった方がいたのでしょう。

終戦後の9月5日、花巻病院で行われた空襲の際に奮闘した職員の表彰式で、光太郎は彼ら彼女らを讃える詩「非常の時」を朗読し、敬意を表しました。絵本ではそのエピソードも扱われていますし、巻末に「非常の時」全文を引用して下さっています。
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昨年、この詩がコロナ禍で逼迫する医療体制を支える医療従事者の皆さんへのエールとしても読めるということで、岩手ではちょっとした話題になりました。

感染者数が減少傾向とはいえ、まだまだ予断を許さぬ状況が続いています。そこに立ち向かわれている医療従事者の皆さんには、本当に頭の下がる思いです……。

それにしても、コロナ発生の状況はある意味、防ぎようがなかったかも知れませんが、戦争は人類の叡智をもってすれば、防げるはずです。そうした思いを多くの人が抱き続けるよすがとして、「やすらぎの像」、そしてそこに込められた思い、これからも語り継がれていって欲しいものです。

さて、『マチココ』さん。昨日も書きましたが、
オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

尚花巻広徳寺にゐる多田等観師が余にあひたしといひ居る由にて、圓次郎翁の家にてあふ事。翁の都合次第にていつでもゆく旨返答す。お盆過ぎといふ話。河口慧海さんの友人。チベットに居た僧侶也。

昭和21年(1946)8月2日の日記より 光太郎64歳

「広徳寺」は「光徳寺」、「圓次郎」は「圓治郎」(山小屋近くの住人)の誤りです。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、明治45年(1912)から大正12年(1923)までチベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現・市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、光太郎と交流を持つようになりました。

河口慧海も僧侶にしてチベット仏教学者。
光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流がありました。

光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周関連です。

まず、『中日新聞』さんの記事。

家持歌碑 高岡市に保管依頼 尾竹睦子さんの遺志継ぐ 長男・正達さん「肩の荷が下りた」

 万葉集を編さんしたとされる歌人大伴家持を顕彰して戦前に高岡市伏木で結成された「伏木家持会」が建立した歌碑の碑文銅板が、同市万葉歴史館で保存展示されることになった。万葉集愛好家の故尾竹睦子さんが保管していたが、長男正達さん(68)=同市宝町=が遺志を引き継ぎたいと10日、市に保管を依頼した。 (武田寛史)
 銅板は、太平洋戦争の金属供出を恐れ、建立を予定していた石雲寺喜笛庵(きてきあん)の縁側に隠し、1963年に銅板をはめ込んだ歌碑が完成した。しかし、風化した歌碑が倒れる恐れが生じ、会員だった万葉集研究家の田辺武松氏の三女睦子さんが銅板を家で保管していた。
 銅板は縦108センチ、横68センチで、揮毫(きごう)者は金沢市出身の国文学者(歌人)の尾山篤二郎。木彫家・高村光雲の三男で、詩人・高村光太郎の弟の鋳金家・高村豊周(とよちか)が制作した。
 碑文の歌は、家持が越中国守として赴任し伏木の地で詠んだ「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ」(訳・海に行くなら水に漬かる屍となり、山に行くなら草の生える屍となっても天皇の側で死ぬならば後悔はしない)。
 奈良時代に聖武天皇が大伴氏に期待する言葉に感動した家持が詠んだ長歌の一節。これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた。
 正達さんは「肩の荷が下りた」と安堵(あんど)。高橋正樹市長は「銅板を大事にされたことに感謝したい」と話した。
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この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。

家持の歌碑 万葉歴史館に 高岡・伏木で詠まれた「海ゆかば」 尾竹さんが保管依頼

  高岡市伏木国分の石雲寺に設置されていた昭和初期の「万葉歌碑」銅板が市万葉歴史館で保管されることになった。大伴家持(おおとものやかもち)が伏木で詠んだ「海ゆかば」で始まる長歌が記され、自宅で大切に保管していた市内の万葉愛好家が「碑を通じ家持が地元で詠んだ歌を広く知ってほしい」と望んでいた歌碑だ。10日に市役所で引き渡され、愛好家の願いがかなった。
 歌碑銅板を保管していた尾竹正達(まさたつ)さん(68)=宝町=が市役所に高橋正樹市長を訪ね、歌碑を引き渡した。縦108センチ、横68センチの銅板で、家持の「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」が記されている。
 1940(昭和15)年、石雲寺の住職らが中心となり結成した「伏木家持会」が、地域住民の寄付を募って制作した。鋳金家の高村豊周(とよちか)が蝋(ろう)型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎(とくじろう)が碑文を揮毫(きごう)した。戦時中は寺の縁の下に隠されていたが、63(昭和38)年に境内に建立された。
 2015年に亡くなった尾竹さんの母・睦子さんが万葉集の普及に尽力しており、歌碑の劣化により倒壊の恐れがあったため、銅板を設置場所から取り外し、自宅で保管していた。長男の正達さんが受け継ぎ、歌碑の存在を知らしめたいとの生前の睦子さんの思いに応えるため、市に管理を依頼した。寄付者名を記した名板や伏木家持会の趣意綱領も引き渡された。
 歌碑銅板は10日から21日まで万葉歴史館で展示される。尾竹さんは「伏木で誕生した有名な万葉歌をあらためて知ってもらうきっかけにしたい」と話した。
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こちらの記事で、制作年が昭和15年(1940)だったとわかりました。

しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。

碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。

『詩歌
』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。

おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、

先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。

揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。

家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。

こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。

それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。

【折々のことば・光太郎】002

夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。

昭和21年(1946)7月23日の日記より 光太郎64歳

この日の日記はイラスト入りでした。

「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。

都内から企画展情報です。光太郎と親しかった画家・南薫造の作品が集められました。

没後70年 南薫造

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月11日(日)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(4/5は開館)
料 金 : 一般 1100円 / 大学・高校生 900円 / 中学生以下無料
      入館券はローソンチケットで販売、日時指定・事前購入制。
      詳細は公式ウェブサイトへ

日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
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南薫造は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。東京美術学校西洋画科で学び、在学期間は光太郎とかぶっています。本格的な交流は明治40年(1907)、ともに留学でロンドンに滞在していた際からと思われます。もう一人、二人の先輩に当たる白瀧幾之助を交え、すき焼きパーティーなどにも興じたそうです。

光太郎の南評。

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。
(散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910))

そんな南ですが、上記案内に「これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。」とあります。なるほど、そうなんだという感じです。確かに昨年も南の作品を集めた展覧会がありましたが、広島県呉市での開催でした。

また、古書店で入手した当方手持ちの図録も広島県立美術館さんでのもの(平成10年=1998の「南薫造展―イギリス留学時代を中心に―」)ですし、実際、多数の作家の作品を集めた展覧会でしか南の絵を見たことがありません。
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ちなみに広島県美さんの図録に、南、白瀧、光太郎のスリーショットとキャプションの付けられた写真が載っていますが、光太郎とされる人物は光太郎ではありません。似ているといえば似ているのですが……。これが誰なのかおわかりの方、ご教示いただければ幸いです。

さて、新型コロナの影響で、今回の展覧会は事前予約制となっています。いたしかたありますまい。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切りぬき、小まいは残す。風ぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風も入るやうになる。


昭和21年(1946)7月21日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、当初は北側に窓がありませんでした。そこを自分で刳り抜いて、無理くり窓にしてしまったというわけです。窓と言っても、ガラスではなく障子紙でふさぐ形でした。

とにかくこの小屋は山の麓にあるため湿気が多く、そうなると大して気温が高くなくとも熱中症の危険が増します。実際、後の昭和24年(1949)の夏には、熱中症とみられる症状のため4回も臥床し、村人の世話になっています。当方も一度、7月頃でしたか、隣接する旧高村記念館(現・森のギャラリー)で数時間かけて寄贈された資料のリスト作成をしていた際に、ひどい眩暈(めまい)に襲われました。外気温は30℃に届いていなかったと思うのですが……。

都内から企画展情報ですが、まず『高田馬場経済新聞』さんの記事から 

早稲田の「漱石山房記念館」で特別展 漱石山房に集う文人たち生き生きと

000 明治の文豪 夏目漱石晩年の住居後地に新宿区が設置した漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7、TEL 03-3205-0209)で現在、漱石の著書「道草」の装丁などで知られる津田青楓と漱石山房に集った人々との交流に焦点を当てた特別展「漱石山房の津田青楓」が開催されている。
 同館は、漱石が亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれた家の跡地に新宿区が2017 (平成29)年9月に開設した施設。この山房では「木曜会」と呼ばれた漱石のサロン的な会合が開かれ多くの文化人が集った。同展は、そのうちの一人である津田青楓の生誕140年の年が2020年であることから企画された。青楓の手による漱石とその門下生たちの著書の装丁、漱石山房を描いた絵画などに加えて文章にも着目。青楓の仕事や書簡は、当時の漱石および門下生らの交友をみずみずしく伝える。
 同館の客間や書斎、ベランダ式回廊など在りし日の漱石山房を復元したフロアと、青楓が描いたその客間や書斎、回廊を同時に観賞できる展覧会は同館ならでは。

001 同展を担当した学芸員の鈴木希帆さんは「青楓といえば、装丁家、画家としての評価が一般的だが、『ホトトギス』や『白樺』などの文芸誌に小説を発表するなど『書く』仕事も手がけている。本展では、青楓の『描く(えがく)』『書く(かく)』の2つの仕事を紹介する。青楓は97歳まで存命したが、特に漱石および漱石没後の門下生との交流に焦点を当てた。このコロナ禍の中で、青楓にゆかりのある個人、文学館、美術館などから多くの貴重な資料提供や協力を得られたことでこの展示が充実した」と説明する。
 鈴木さんは「青楓は漱石を父のように慕っていた時期があり、漱石の死に際しては慟哭したと聞く。漱石山房の中でも重要な人物だったのだと感じる。青楓の文や描いたものから、ここ早稲田南町の漱石山房での青楓と漱石および門下生との心の交流までも感じとることができる。ここでこの展覧会を行うことの意義を、この土地に来てぜひ感じていただきたい」と呼び掛ける。
 関連イベントとして、講師に柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)、大野淳一(武蔵大学名誉教授)による「対談 津田青楓のデザインと文章」(要予約)も3月7日に同館で開催予定。
 開館時間は10時~18時(入館は17時30分まで)。月曜休館。観覧料は、一般=500円、小・中学生=100円。3月21日まで。
 

《特別展》漱石山房の津田青楓

期 日 : 2021年1月26日(火)~3月21日(日)
会 場 : 新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
料 金 : 一般500円、小中学生100円 
      ※団体(20名以上・要事前連絡)は個人の観覧料の半額
      ※小中学生は土日祝日は無料

夏目漱石の『道草』を装幀した画家・津田青楓は、2020年に生誕140年を迎えました。
染色図案やプロレタリア美術運動への関与など、青楓の画業についてはこれまでにも検証が行われていますが、その文筆活動についてはまとまった研究は行われていません。
青楓は『ホトトギス』や『白樺』などの文芸雑誌に小説を発表し、生涯に20冊以上もの単著を刊行しています。
画家青楓のみずみずしい文章は、「翻訳ものを読むような新しさ」で漱石山房の門下生たちをも唸らせ、漱石山房への青楓の出入りもパリで書かれた青楓の小説を読んだ小宮豊隆による紹介で始まりました。
青楓は描くだけでなく、「書く」画家でもありました。
本展示では、漱石や漱石の門下生たちの本の装幀、漱石山房を描いた絵画に加えて、青楓の文章に着目して、漱石に最も愛された画家・津田青楓に迫ります。
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関連行事
特別展記念講演会「対談 津田青楓のデザインと文章」
日時:3月7日(日)14時~15時30分
講師:柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)・大野淳一(武蔵大学名誉教授)
申込:2月15日(月)必着
会場:漱石山房記念館地下1階講座室・多目的スペース
定員:40名(申込多数の場合は抽選)
料金:500円(特別展招待券付)

津田青楓は光太郎より3歳年上の画家。光太郎とは留学仲間で、俳句仲間でもありました。明治42年(1909)、光太郎は留学の終わり近くに約1ヶ月、イタリアを旅行しますが、その旅先からパリの津田に送った俳句が50句以上知られています。

双方の帰国後も、しばらくは交遊が続いていましたが、やがて疎遠になりました。どちらかというと光太郎が嫌っていた(光太郎も嫌われていた)漱石の関係かも知れません。津田は漱石の著書の装幀を多く手がけ、漱石に絵の手ほどきをしています(結局、ものにならなかったようですが(笑))。

また、津田は光太郎と知り合う前の智恵子とも、絵画つながりで交流がありました。智恵子の言葉として現代でもよく引用される「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。」は、津田が書き残したものです。

昨年、練馬区立美術館さんで、津田の大規模な回顧展がありましたが、コロナ禍のため、結局、行かずじまいでした。今回は行ってこようと思っております。皆様も感染対策に配慮しつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝食の頃雪囲ひを取り外しに青年達来る。又恭三さんかんとくに来る。お礼をのべる。皆はづし、萱と丸太とを始末してかへつてゆく。萱はそれぞれ背負つてゆく。

昭和21年5月13日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、冬場は村人達が小屋の回りに雪囲いを作ってくれていました。「恭三さん」は戸来恭三。光太郎と親しかった村人の一人です。
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右は当会の祖・草野心平。昭和26年(1951)の写真です。後に光太郎の山小屋と雪囲いが写っています。

それにしても、これを外すのが5月中旬とは……。

昨日の続きで、茨城取手レポートです。

父の葬儀のため、2月4日(木)は通夜終了後、都内から来た息子と2人で、取手駅近くのビジネスホテルに宿泊しました。

翌朝、ホテルから徒歩数分のところにある大鹿山長禅寺さんへ。昨日もちらっと書きましたが、こちらは光太郎が講話を行ったり、光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基建っていたりするゆかりの寺院です。

下の画像は門前にある、取手ゆかりの著名人を紹介する説明板。
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智恵子を『青鞜』に引き込み、その表紙絵を依頼した平塚らいてうも。
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臘梅が見事でした。
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光太郎ゆかりの寺院ですので、何度もここは訪れていますが、改めて伺ったのは、これまで気がつかずにいた銅像を見るためでした。

昨秋、「日本の銅像探偵団」というサイトに、長禅寺さんにある銅像についての情報がアップされました。蛯原萬吉という人物の像で、制作者の名が光太郎となっていました。戦時の金属供出により現在の像は2代目、的な記述も。

調べてみましたところ、蛯原は、昨日も名を挙げた宮崎仁十郎や中村金左衛門同様、取手の名士でした。ところが、『高村光太郎全集』にその名が無く、光太郎が蛯原の像を作ったという記録も確認できていません。そこで、サイトの記述は何かの間違いなのでは、と思いつつ、像そのものを見てみないことには何とも言えないなと思い、見に行った次第です。

こちらが問題の像。
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台座の向かって左側に、建立当時のプレート。
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これによると、像の最初の建立は昭和8年(1933)とのこと。ただ、ここに光太郎の名はありませんでした。

像の裏側には、再建時(昭和50年=1975)のプレート。
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こちらに確かに光太郎の名。「蛯原萬吉像(作者 高村光太郎)は 第二次世界大戦末期 国策に殉じて之を供出」。そして現在の像は、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏の作とのこと。

この記述をそのまま信じれば、最初の像は光太郎の作だったということになります。しかし、先述のように『高村光太郎全集』に、この像に関する記述は一切ありませんし、蛯原の名も出て来ません。

考えられるケースは二つ。

一つは、父・光雲の代作であったというケース。岐阜県恵那郡岩村町に建てられた「浅見与一右衛門銅像」、宮城県大崎市に建てられた「青沼彦治像」がこのケースですが、ともに光雲の代作として光太郎が制作しました。光太郎、この二つは完全な自分の作とは言えないと考えていたようです。そこで、やはり『高村光太郎全集』には、浅見、青沼、二人のフルネームが出て来ません。浅見は「木曽川のへりの村の村長さん」、青沼は「青柳とかいふ人」(名前すら間違っています)として、随筆「遍歴の日」(昭和26年=1951)に語られている程度です。

また、光太郎遺品の中に、誰を作ったのか、また誰が作ったのかも判らない(しかし光太郎風の)胸像の写真なども残っており、知られざる光太郎彫刻というものも存在する可能性は大いにあります。
無題
ところで、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、『青沼彦治翁遺功録』(昭和11年=1936)という書籍に光太郎は短い文章を寄せており、その中で像の制作について語られています。蛯原に関しても、蛯原の立志伝や追悼録的な書籍が刊行されているようですので、その中にもしかすると像の由来等、記述があるのではないかとも思っております。

もう一つは、何かの間違いで、像の作者が光太郎ということになってしまったというケース。それほど詳しくは語らなかったものの、浅見、青沼については「遍歴の日」で一応書き残しているわけで、そこに蛯原の名が無いというのは不思議です。

こうしたケースも皆無ではなく、伊東忠太・新海竹蔵作の靖国神社の狛犬が、なぜか光太郎作だとまことしやかに伝わっている例などもあり、閉口しています。

蛯原萬吉像については、もう少し調べてみますが、情報をお持ちの方、コメント欄等からご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

「余の詩をよみて人死に就けり」を書かんと思ふ。


昭和21年(1946)5月11日の日記より 

自らの来し方と、戦争責任について省察した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」。翌年7月の雑誌『展望』に発表されましたが、その構想を初めて記した一節です。

1009「余の詩をよみて人死に就けり」は、「わが詩をよみて人死に就けり」と改題され、「暗愚小伝」に組み込まれるはずでしたが、光太郎自らボツしました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

新刊です。

書の風流 近代藝術家の美学

2021年1月31日 根本知著 春陽堂書店 定価2,200円+税

様々なジャンルの芸術家の代表的な書をビジュアルに見せながら、彼らの美学を論じる!

本書に登場する藝術家は、自身の専門分野以外に、「書」にも勤しんだ。それは、展覧会で審査されるものではないから、 まさに「風流」だった。さらには自身の藝術から抽出された美学をもって筆をとったため、どの人物の書も実に個性的だった。 よって本書では、その美学を一つずつ浮き彫りにすることを目標にした(「はじめに」より)

著者紹介
根本 知(ネモトサトシ)(著/文)
書家。平成25年、大東文化大学大学院博士課程修了。博士号(書道学)取得。 現在、大東文化大学文学部書道学科、放送大学教養学部人間と文化コース、大東文化大学第一高等学校、 日本橋三越カルチャーサロンなどで教鞭を執る。 テレビ・雑誌でも活躍中。
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目次
 はじめに
 松田正平 書と原点
   松田正平の評価 犬馬難鬼魅易 書について
 「書く」と「掻く」
 熊谷守一 書と心象
  身の丈に合うことば 守一の生活 小さなもの音
  守一の絵とフォーヴ へたも書のうち
 柳宗悦 書と用
  民藝について 独走と作為 「こと」と「もの」
  他力道 用の美について 書の模様化
  柳宗悦の書の原点
 白井晟一 書と常
  簡素な美 特異な工夫 戦争と原爆の図
  原爆堂計画 縄文的なるもの
  ヤスパースと原爆堂
 内側に満ちる光
 中川一政 書と遅筆
  一政の絵について 一政の読みやすい書
  一政の書に対する姿勢 一政と金冬心 自分のための技術 ムーヴマン 一政の眼
 高村光太郎   書と造型
  光雲と智恵子 姿勢は河の如く、動勢は水の流の如く 造型美論 書について
 武者小路実篤 書とことば
  「新しき村の精神」 「天に星 地に花 人に愛」 「自然は不思議」
  「君は君 我は我なり されど仲よき」
「龍となれ 雲自づと来たる」 戦後の書壇について
 おわりに

基本、書道論です。しかし、取り上げられている人々は、光太郎を含め、いわゆる「書家」ではありません。武者小路を除いて(武者も文人画的なものをよく描いていましたが)、全員が美術家です。そして程度の差こそあれ、それぞれに優れた書も残したことで有名。そこで、彼等の美術造型意識が、ある種の「余技」的な書作品にどう反映されているか、といった論考です。したがって、彼等の書そのものより、その背景がどうであったのかといった点に主眼が置かれ、いっぷう変わった書論集となっています。

おどろいたのは、光太郎ともども熊谷守一と中川一政が取り上げられていること。この三人、昨年開催予定だったもののコロナ禍で中止となった、富山県水墨美術館さんでの「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」ともろにかぶります。やはり美術界から書をよくした人物というと、この3人は外せないのかな、という感じですね。

ちなみに富山の展覧会、来年度以降に開催の方向、と、公式HPに出ました。まだ確定ではないようですが、当方としましても、諸方への作品の借り受けや図録の編集など、数年越しに関わっていた展覧会ですし、何より、ぜひ皆さんに光太郎書の優品の数々(本邦初公開のものも多数展示予定でした)をご覧頂きたいので、立ち消えにならないようにと願うばかりです。
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2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

閑話休題。本書で取り上げられている人物は、熊谷、中川以外にも、光太郎と浅からぬ縁。柳宗悦と武者は光太郎の朋友でしたし、建築家の白井晟一は高村光太郎賞造型部門の受賞者です。

そういった意味でも興味深い一書でした。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学校のうしろに一軒、家を建てかけてゐる。村人多数にて萱ぶき屋根の萱をふいてゐる。棟の方に萱の束を並べてゐるのが見える。春昼の普請風景のどかに見える。

昭和21年(1946)5月5日の日記より 光太郎64歳

萱(茅)葺き屋根、いいですねぇ。……と、光太郎も思ったことでしょう(笑)。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為された青森県十和田湖畔での「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe」。昨年11月に始まり、先月いっぱいで閉幕しました。
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上の画像は十和田奥入瀬観光機構さんのサイトから。

閉幕直前の地方紙二紙の記事をご紹介します。まず『デーリー東北』さん

十和田湖光の冬物語、来場者1万人突破/青森

 十和田湖畔休屋で昨年11月から開催している光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 in 国立公園十和田湖 十和田神社 by フェスタ・ルーチェ」(十和田湖冬物語実行委員会主催)の来場者が25日、1万人を突破した。節目の来場となったのは、十和田市東十二番町の介護士安藤麻紀さん(30)。同神社入り口の鳥居前で記念セレモニーを行い、実行委の中村秀行委員長が安藤さんに記念品を贈呈した。
 毎年恒例の雪祭り・十和田湖物語は今冬、「光の冬物語」としてリニューアル。同神社周辺約1キロのコースを、十和田湖伝説をモチーフにしたイルミネーションなどで演出し、幻想的な空間を創り出している。
 写真共有アプリ「インスタグラム」やテレビCMからイベントを知り、八戸市在住の友人と一緒に足を運んだという安藤さん。中村委員長から記念品として、限定グッズや十和田市の地酒、秋田県小坂町のワインを受け取り、思い掛けない幸運に驚きながら、「最高の贈り物、時間になった」と喜んでいた。
 「光の冬物語」は31日まで。開催時間は午後5~8時。入場は当日1600円、小学生以下無料。問い合わせは専用ウェブサイトか、同実行委=電話0176(75)1531=へ。
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続いて『東奥日報』さん

「光の冬物語」来場者1万人/十和田

 青森県十和田市休屋地区の十和田神社をメイン会場に昨年11月に開幕した「光の冬物語」の来場者数が25日、1万人を突破し、対象者に記念品が贈られた。
 1万人目は、同市の介護士安藤麻紀さん(30)と、友人で八戸市の看護師沼澤由佳さん(30)。イベント実行委員会の中村秀行委員長らが記念品のオリジナルマグカップや地酒、秋田県小坂町のワインを贈呈した。安藤さんは「テレビCMを見てとてもきれいだったので来てみた。1万人目は予想もしていないこと。友人と最高の時間にしたい」と話した。
 光の冬物語開催は午後5時〜8時、1月末まで。200発の花火が会場を彩る関連イベント「冬花火in十和田湖」を入場者数の制限を設けて28〜30日午後6時すぎに行う(30日は満員)。問い合わせは実行委(電話0176-75-1531)へ。
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以前は「十和田湖冬物語」として開催されていたイベントが、イルミネーションなどを中心に形を変えて実施されたもので、どうなることかと心配していたのですが、それなりの賑わいだったようで、胸をなで下ろしました。

初めての試みで、来て下さる人がいないと仕方がありませんし、さりとてクラスターを起こしては大変だし、関係者の皆さんのご苦労はさぞ大変だったと思われます。調べてみましたところ、やはりコロナ禍対策ということで、会期中に開催時間の変更などもあったようでした。

記事にあるとおり、地元ではテレビCMも放映されていたのですね。


下の動画、「乙女の像」は1分54秒頃から。

来冬以降、どういう形になるのか未知数ですが、もしまた実施され、さらにコロナ禍が終息するようであれば、ぜひ行ってみたいものです。

関係者の皆さん、お疲れさまでした。

【折々のことば・光太郎】

早池峯に霞かかり山脈の遠近大和絵の如し。平和な村の風景。 暑からず、寒からず、空気かをる如し。
昭和21年(1946)5月4日の日記より 光太郎64歳

終戦後初めて迎えた春。空には爆撃機も戦闘機も飛んでいないわけで、「平和」の語が実感されたことでしょう。

彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました

彫刻家・橋本堅太郎さん死去 文化功労者、木彫界を代表

 日本の木彫界を代表する彫刻家で文化功労者の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんが1月31日午前10時44分、誤嚥性肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。90歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻芳子(よしこ)さん。
 東京芸大で平櫛田中に師事。東京学芸大教授として教壇に立ちながら優れた作品を発表し、芸術文化の振興発展に寄与した。日展理事長などを歴任し、2011年に文化功労者に選ばれた。日本芸術院会員。
 主な作品に日本芸術院賞を受賞した「竹園生」がある。
(共同通信)

橋本堅太郎さん死去

 橋本堅太郎さん(はしもと・けんたろう=彫刻家、文化功労者)1月31日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻芳子さん。
 東京芸術大では平櫛田中(でんちゅう)に学んだ。長く日展で、木彫の温和な人物像などを発表した。日展理事長や東京学芸大教授を務めた。日本芸術院会員。
(朝日新聞)

橋本氏というと、当方、その代表作ではありませんが、真っ先にこれを想起します。
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JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」(平成21年=2009)。氏のお父さまが二本松出身の彫刻家・橋本高昇ということで、氏ご自身は東京ご出身ですが、ゆかりの地のため、氏に依頼がありました。

こちらも橋本氏の作。二本松霞ヶ城の二本松少年隊像です。銅像研究家の遠藤寛之氏が選んだ「キングオブ銅像」では、光太郎の父・光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」についで、第2位に輝きました。
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福島ゆかりということで、福島の地方紙二紙は、ご逝去を大きく報じています。

020橋本堅太郎さん死去 彫刻家、元日展理事長 90歳 二本松ゆかり

 二本松市ゆかりの彫刻家で文化功労者、元日展理事長の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんは三十一日午前十時四十四分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都の病院で死去した。九十歳。自宅は東京都杉並区今川一ノ一ノ三。葬儀は近親者による家族葬で営む。喪主は妻芳子(よしこ)さん。木彫部門の国内第一人者で、長年にわたり日本最大規模の美術団体・日展を舞台に活躍した。伝統的な木彫による女性像など清らかで生命力にあふれた作品を数多く手掛けた。
(福島民報)

彫刻家・橋本堅太郎氏死去 木彫・文化功労者、二本松市名誉市民

 木彫の第一人者とされる文化功労者で、二本松市名誉市民の彫刻家橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)氏は31日、東京都の病院で死去した。90歳。東京都出身。日本芸術院会員、日展顧問。葬儀・告別式は家族と近親者で執り行われる。
 二本松市出身の彫刻家橋本高昇の長男として都内で生まれ、幼少期に同市で多くの時間を過ごした。東京芸術大彫刻科で平櫛田中に師事、卒業翌年の1954(昭和29)年に日展初入選。56年から連続入選し、66年に「弧」で特選を受賞、92年に「清冽」で文部大臣賞を受けた。95年の出品作「竹園生(たけのそのう)」が96年に日本芸術院賞に輝いた。
 木のぬくもりを新しい感覚で表現し、豊かな叙情性をたたえた作品を生み出し続け、木彫では「弧」「竹園生」など裸婦像、「釈迦如来」や「不動明王」などの仏像を手掛けた。「宮沢賢治像」などブロンズ作品も制作した。石こうまで完成し、ブロンズ像にする作業中の「智恵子像」が遺作となった。制作を依頼した二本松市は状況を見て、JR安達駅に設置する。
 日展では理事、常務理事、事務局長を歴任し、2000年に理事長に就任。9年間にわたる在任中、日展会館の建設など、広く親しまれる美術団体としての運営に尽力、組織発展に貢献した。また82~94年に東京学芸大教授を務め、後進の育成に力を注いだ。2009年に旭日中綬章を受章。11年に文化功労者に選ばれた。

愛された作品と人柄 創作鋭く、人には温かく022
 文化勲章受章も期待されていた木彫の第一人者。一方では、二本松市など県内で作品と人柄が広く愛された、ゆかりの作家。31日、90歳で亡くなった彫刻家橋本堅太郎さんを語る人々の話からは、鋭く熱い作家性と、温かな大衆性を兼ね備えた芸術家の姿が浮かび上がる。
 「彫刻の新しい近代性を確立した希有(けう)な人」。日展作家の遠藤徳(のぼる)さん(84)=本宮市=は故人の偉大さを語り「控えめな人なのに、創作にはすごい執念で取り組んでいた」と言う。
 現代彫刻家の吉野ヨシ子さん(70)=田村市出身、千葉県在住=は、橋本さんと一緒に作品を審査したことがあり「具象、抽象ともに鋭い目で本質を見抜き、作家に適切な助言をしていた」と振り返る。
 本県への功績を誇る声も多い。県美術家連盟の酒井昌之会長と斎藤正勝前会長は「県在京美術家協会の会長などとして、県総合美術展覧会(県展)に(出展や助言などで)長く気遣っていただいた」と口をそろえる。
 霞ケ城に二本松少年隊士像、二本松駅前に智恵子像など作品が多い「地元」二本松市では、橋本堅太郎後援会の鈴木安一副会長が「二本松の芸術力、ブランド力の向上にも尽力してもらった」と話す。
 鈴木副会長は、橋本さんが日展理事長時代、「岳温泉十二支めぐり」を制作する際に、同市出身の日本画家大山忠作氏(故人)が描いた原画を基に、版木にする彫刻を橋本さんに依頼した。「ロダンにゴーギャンの絵を版画にしてと頼むようなもので、失礼極まりないお願いだった。それを引き受けてくれた」と、橋本さんの懐の大きさをしのんだ。
(福島民友)

新たに智恵子像を制作されていたとは存じませんでした。それが遺作となったというのも、奇縁を感じます。

平成28年(2016)、福島の出版社・歴史春秋社さんから刊行されたムック『奥州二本松』。こちらでも二本松ゆかりということで、智恵子と並んで氏が大きく取り上げられていました。
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氏の代表作「竹園生」、「清冽」も。
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また、氏は平櫛田中に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたります。そこで、田中が大きく紹介される際には、氏の出番。

平成31年(2019)刊行の雑誌『美術の窓』。「平櫛田中、荻原守衛から現代まで 凄いぞ!にっぽんの彫刻」という特集の中で、小平市平櫛田中彫刻美術館長・平櫛弘子氏、同館学芸員で当方もお世話になっている藤井明氏、そして橋本氏による鼎談「ここが凄い‼ 平櫛田中」が掲載されました。
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テレビでも、「美の巨人たち」や「日曜美術館」にご出演。彫刻の空間認識に関する深い造詣と、的確なコメントには実に感心させられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

分教場の桜花満開。誰の家か知らず一軒の家の山桜らしき淡紅の桜樹こんもりまろく、花をつけ見事なり。

昭和21年(1946)5月2日の日記より 光太郎64歳

関東あたりとは、一ヶ月くらいずれているんですね。

facebookを開いていたところ、気になる広告が。
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地図柄ケースが続々登場! 全国1000都市からあなたの街を探してみよう!」だそうで。

展開しているのはクロスフィールドデザインさんという会社で、商品名は「Crossfield(クロスフィールド)」。

普段は情報ツールとして接している「地図」。そこには暮らす人や旅した人の様々な思い出が交差して詰まっています。人それぞれ、好きな街や懐かしい街への思いを身近なグッズとして近くに感じてほしい。そんな気持ちからクロスフィールドはラインアップを広げていきます。」ということで、日本全国の主要都市約1,000の地図をあしらったスマホケースだそうです。
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光太郎智恵子ゆかりの地について、探してみたところ、ありました、ありました(笑)。
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光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市。それから智恵子のふるさと、福島県二本松市

花巻疎開前に光太郎のアトリエ兼住居があった文京区千駄木。23区内はかなり細かい区割りになっています。
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それから古地図も(右上)。1860年の江戸だそうで、安政7年、途中で改元があって万延元年です。光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれですから、その頃ですね。

千葉県では、大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼を含む銚子市。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里
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光太郎最後の大作「十和田湖湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖はないかと思って探しましたが、残念ながら十和田は市街のみが印刷されていて、郊外の十和田湖までは範囲に入っていませんでした。

ぜひご自分の街、気になる街をお探し下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后畑仕事。 ジヤガイモ六うねばかりいける。紅丸。人糞をほどこしたものの上へわらや木の葉まじりの土をかぶせその上へ中くらいのイモは丸のまま、大なるは半切にして置き、土をかぶせる。灰を少しかけて置く。

昭和21年(1946)4月28日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、いよいよ本格的に農作業の始まりです。

1月22日(金)の『日本経済新聞』さん。光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀(ちよづる・これひで)を取り上げて下さっています 

大工道具、芸術の域へと高めた名工を追って 千代鶴是秀、常識覆すデザインの足跡 土田昇

 大工や職人が使うノミやカンナ、ノコギリなどの木工道具にも、名工とされる作り手がいた。研ぐと刃がすれていく消耗品なので、使い心地のよい名品はあまり残されない運命にある。
 東京・三軒茶屋の大工道具店3代目の私は、父を継いで古い木工手道具数千点を集め、道具を芸術の域へ高めたとされる千代鶴是秀(ちよづるこれひで)(1874~1957)ら名工の仕事や生涯を調べてきた。
 父、土田一郎が東京・目黒の是秀を訪ねたのは1939年だった。刃物や金具を作る鍛冶として名高かったが、戦争が迫って細々と仕事をしていたそうだ。職人には珍しく道具の歴史や技術に精通し、12歳の少年の父を客として遇してくれた。父は週2~3回、外回りの合間などで入りびたるようになった。
 私は是秀の没後に生まれ、高校を出た80年、刃物の販売・整備を営む家業の土田刃物店に入った。職人気質の父のもとで摩耗したノコギリの目立て、ノミやカンナの研ぎを身につけた。しかし熟練大工がいなくても木造住宅が建つ時代になり、この業界の先行きは危ぶまれていた。
 仕入れ先で跡継ぎのいない高齢の道具職人らは皆、優しかった。世間話ついでに惜しみなく技術やノウハウを教えてくれた。名品や名工に話が及ぶこともあり、数々の破天荒な逸話が面白くて仕方ない。自然と父が是秀から口伝えられた知識の値打ちが分かってきた。
 刃物にかかわる人の中に、是秀は不世出の工人という評価や神話めいた信奉もあるが、私には幻想と思われる。人間の力量に大した差があるわけではなく、精進すればおそらく誰でも名工になれるはずだ。しかし実際、是秀に肩を並べる鍛冶屋を探すと見当たらない。
 およそ2万点を是秀は制作したとされるが、私は約300点を研いだことがある。直角ひとつとってもきわめて精度が高く、刃は研ぎやすく、とても扱いやすかった。使い手のことを考え、一切手を抜かずに作ったことが分かるのだ。
 是秀は祖父が米沢藩上杉家のお抱え刀工だった鍛冶の名家に生まれた。しかし世の中の変化で刀の仕事はなく、大工道具や小刀に活路を見いだした。20代半ばになった明治中期、政府高官の西郷家の出入り大工の棟梁に認められ、道具鍛冶として名が売れた。
 東洋のロダンと呼ばれた彫刻家、朝倉文夫らと親交ができた大正期に作風が変わる。機能美に加え、持ち手を魚のようにするなどデザイン性も高い小刀を作り、富裕層にも愛用者が広がった。
 ただ是秀は、新たに開発された研磨機などの機械を使わず、手仕事を守り続けた。晩年には1本のノミを3年がかりで作るなど時間をかけている。ひとつひとつの作品は幾分高く売れたのだが、量産できずに貧しさから抜け出せず、弟子も育たなかった。こうした研究成果は折に触れて本にまとめてきた。
 自らも鍛冶を手がけたくなり、約20年前に山梨に作業場を設け、毎月のように通い続けている。あくまで趣味だが、手作業で鋼をたたいて鍛えると、さまざまな感覚が磨かれてくる。研磨機では5分の作業でも、自ら作った刃物を半日がかりで研ぐと、鋼の硬さやもろさ、粘りなどの性質を深く理解できる。
 もちろん便利な機械を使うのを否定しようというわけではない。しかし利便性や経済性を優先すると失うものがあることには自覚的になったほうがいいと思う。
 鍛冶としての目標は是秀だが、なかなか及びそうもない。
(つちだ・のぼる=大工道具店経営)
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名工・千代鶴是秀が晩年に作ったノミ

今回の記事を書かれた土田氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。同書で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りをした牛越誠夫が是秀の娘婿と知りました。是秀自身も光太郎と戦前(または戦時中)から交流があり、「乙女の像」制作中の光太郎を、中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。光太郎は遡って終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。ただ、それが実現したかどうかは不明です。また、これも確認できていないのですが、是秀作の彫刻刀類を光太郎が使っていた可能性もあります。

是秀については、下記のリンクもご覧下さい。
信親、正次、是秀。
『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』書評/「美の巨人たち 平櫛田中 鏡獅子」。
台東区立朝倉彫塑館 特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」。
都内レポート 太平洋美術会研究所/台東区立朝倉彫塑館。

ちなみに、平成30年(2018)放映のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、是秀作の鉋が出品され、120万円の鑑定額でした。担当した鑑定士は土田氏。
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これ以後、「是秀作」と称するニセモノがかなり出回るようになったとか……。なげかわしいことです。

たまたまこの回は拝見していましたが、調べてみましたところ、平成26年(2014)にも是秀の作が出ていました。長谷川幸三郎の玄翁とセットで200万。切り出しだけだと150万だそうで……。
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光太郎と是秀の交流について、詳しいところがまだ不明です。何とかして調べようとは思っているのですが……。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

鴬しきりに啼いてゐる
昭和21年(1946)4月22日の日記より 光太郎64歳

少し前に蛙の合唱の件を書きましたが、ウグイスも田舎あるあるです。温暖な当地(千葉県)でも、今年はまだ聞こえていませんが。

まず地方紙『東奥日報』さんの記事から

巨大ステンドグラス 制作大詰め/2月下旬、青森空港に設置 原画・森本さん(三沢出身)出来栄え絶賛

  青森県三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都=が原画・監修を担当した大型ステンドグラス「青の森へ」が来月、青森空港に設置される。制作が大詰めを迎えた19日、森本さんは静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房を訪れ、出来栄えを確認した。取材に対し「すごくきれい。想像を超えるクオリティー」と絶賛した。
 ステンドグラスは縦2.4メートル、横11.4メートル。森本さんは、切り絵の原画に、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、太陽のように赤いリンゴ、十和田湖や奥入瀬、白神山地といった青森県の風景を描いた。
 原画を基に工房の職人6人が昨年5月、制作に着手。使用したガラスは約3200ピースにも及び、色は85種類を使い分け、中でもこだわった青系統は25種類を使用した。
 森本さんはこの日、十和田湖畔にある高村光太郎制作の「乙女の像」を描いた部分を自然光で確認し、形を整えるなどした。「毎年、青森に行っているが、昨年はねぶた祭りに行けず悔しい思いをした。作品は青森の方へのラブレターのつもり。この絵を通し新たなつながりが生まれたらうれしい」と話した。
 ステンドグラスは青森空港の公共スペースに2月下旬に設置される予定。今回の設置は、パブリックアート普及や、地元に縁のある作家の作品による地域活性化を目指し、全国の公共施設にアート作品を設置する日本交通文化協会(東京)の事業の一環。森本さんは第4回東奥文化選奨受賞者。
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010当方、森本さんが表紙を描かれた書籍を一冊持っております。平成27年(2015)刊行の『少女は本を読んで大人になる』(クラブヒルサイド・スティルウォーター編・現代企画室刊)。東京・代官山クラブヒルサイドさんにて、平成25年(2013)から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

光太郎と交流のあった彫刻家舟越保武のご息女・末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」が掲載されており、そのお話そのものも拝聴に伺いました。

森本さんも同じ講座の別の回で「赤毛のアン」を担当され、その筆録も収録されています。

調べてみましたところ、昨年11月にも『東奥日報』さんに今回のステンドグラス「青の森へ」制作の予告的な記事が出ていましたが、その折には「乙女の像」の語が含まれていなかったため、当方の検索網には引っかかりませんでした。

「青の森へ」、パブリックアート制作集団「クレアーレ熱海ゆがわら工房」さんのお仕事だそうです。公益法人日本交通文化協会さんのサイトで、「青の森へ」についての詳細な情報を発見しました

青森空港に大型パブリックアート作品設置 青森出身のアートディレクター森本千絵氏 原画・監修 ステンドグラス「青の森へ」 2021年2月完成予定

 当協会と青森空港ビル株式会社(青森県青森市、代表取締役社長:林哲夫)は、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受け、青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビーに大型ステンドグラス「青の森へ」を設置することが決定しました。2021年2月に完成を予定しています。
 青森空港は、毎年夏に開催される青森ねぶた祭や、青森県立美術館や十和田市現代美術館などへのアート鑑賞、世界遺産の白神山地をはじめとした自然などを目的に国内外から訪れる多くの観光客や、青森県民にとって重要な玄関口となっています。昨年旅客ターミナルビルの大規模リニューアル工事が完了し新しく生まれ変わった青森空港に本パブリックアート作品を設置し、訪れる人々を幻想的な青の光でお迎えします。
 この作品の原画・監修を務めるのは、青森県三沢市出身で、アートディレクターとして企業の広告制作やミュージシャンのアートワークを手掛けるなど多方面で活躍している森本千絵氏。青森県が誇る青森ねぶた祭のねぶたや跳人(ハネト)と呼ばれる踊り手、太陽のような赤いりんご、十和田湖や奥入瀬や白神山地など、人々を魅了してやまない青森の風物風景が表現されています。そして、森本氏が青森空港のために特別に制作した切り絵をもとに、「クレアーレ熱海ゆがわら工房」(静岡県熱海市)で6人のステンドグラス職人が製作します。
 本作品を空港利用者の大半が利用する場所に設置することで、多くの利用者に青森の風情を鮮烈に印象づけ、より一層の賑わいや心地よさをご提供できると考えています。設置後には、青森空港にて完成披露除幕式を行う予定です。

※このパブリックアートは、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受けて整備されています。

○当事業の目的
①アートディレクター・森本 千絵氏の切り絵をもとにしたステンドグラス作品により、パブリックアートの普及を促進
②パブリックアートを通じて気軽に芸術に慣れ親しむことで、人々の心を和ませ、元気づける空間を創出
③青森県に縁のある作家の作品によって地域の活性化、観光開発に貢献

○題名 「青の森へ」
○原画・監修 森本 千絵氏
○設置場所 青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビー
○規模と仕様 縦2.4m×横11.4m
○ステンドグラス製作
クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市泉230-1)
建築家・隈研吾氏の設計によるクレアーレ熱海ゆがわら工房はステンドグラススタジオ、釉薬研究施設、焼成サンプル室、ショールームなども完備され、数多くのアーティストとのコラボレーションが展開される第一級のパブリックアートの創造拠点です。
○作家プロフィール 森本 千絵(もりもと・ちえ)
アートディレクター・コミュニケーションディレクター・武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科客員教授
1976年青森県三沢市で生まれ、東京で育つ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を経て博報堂入社。2007年、もっとイノチに近いデザインもしていきたいと考え「出会いを発見する。夢をカタチにし、人をつなげる」をモットーに株式会社goen°(ゴエン)を設立。現在、広告の企画、演出、商品開発、ミュージシャンのアートワーク、本の装丁、映画・舞台の美術や、動物園や保育園の空間ディレクションを手がけるなど活動は多岐にわたる。ニューヨークADC賞、東京ADC賞グランプリ、伊丹十三賞、日本建築学会賞など多数受賞。

「青の森へ」の原画も掲載されていました。
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上記『東奥日報』さん記事ではよく判らなかったのですが、かなり横長の作品なのですね。そしてほぼ中央に「乙女の像」。ありがたいことです。

当方、青森へも時々足を運びますが、いつも新幹線です。今度はこれを観るために空路を使ってみようかな、などと思いました。ただ、あまり飛行機に搭乗するのは好きではありませんで……(笑)。「あんな重たいものが空を飛ぶはずがない」などと非科学的なことは言いませんが、着陸態勢に入った際のツンツンツンと少しずつ高度を下げていくあの感覚が気持ち悪いのです。20年以上前になりますが、北海道に飛んだ際、濃霧のため新千歳空港になかなか着陸出来ず、1時間程も上空を旋回したことがあり、その際は酔いそうでした(笑)。

さて、続報に注意していたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

〈(前の水田で蛙がしきりに啼く。美しき声なり。)〉〈夕方蝙蝠一匹軒をとぶ〉

昭和21年(1946)4月9日の日記より 光太郎64歳

田舎あるあるですね(笑)。当方も、以前、古い友人から夏の夜に電話がかかってきた際、受話器を通しても友人の耳には蛙の声が凄かったそうで「お前、どんな所に住んでるんだ?」と言われました。こちらは蛙の合唱など、慣れてしまってまったく気にならなかったのですが(笑)。

ついでに言うなら、コウモリも時折見かけます(笑)。

明治美術学会さん発行の雑誌『近代画説』。雑誌といってもハードカバーに近い上製で、パラフィン紙がかけられた立派なものです。先月発行された第29号、執筆者のお一人である小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏からいただきました。多謝。

氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
9784908287336 000
近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。

加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。

決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
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左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。

これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。

昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。

わが友の今戸精司はしらぶれぬ物の一義をたゞ追ひしため
わが友の今戸精司は捨石となるをよろこび世を果てしかな
わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき

しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。

昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。

ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。

さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。

[巻頭論攷]
・山本鼎の生いたち 付論 国柱会との関わり(金子一夫)
[特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?]
・特集解題 近代日本美術史は、作品の現存しない作家を
いかに扱うことができるか?(大谷省吾)
・国安稲香─京都の近代「彫塑」を育てた彫刻家(田中修二)
・今戸精司─趣味人としての彫刻家(迫内祐司)
・自己に忠実に生きようとした画家─船越三枝子(コウオジェイ マグダレナ)
・「近代日本美術史」は「女性人形作家」を扱うことができるのか?
─上村露子を例に(吉良智子)
[公募論文]
・公募論文の査読結果について(塩谷純)
・大阪博物場と同美術館─書を起点として─(前川知里)
・「民衆藝術家」矢崎千代二のパステル表現─「色の速写」と作品の値段─(横田香世)
・荒城季夫の昭和期美術批評─忘れられた〈良心〉(渡邊実希)
[研究発表〈要約〉]
・戦時下の東京美術学校─工芸技術講習所の活動と意義─(浅井ふたば)
・太田喜二郎研究─京都帝国大学関係者との交流を中心に─(植田彩芳子)
・矢崎千代二とパステル画会─「洋画の民衆化」を目指して─(横田香世)
・萬鐵五郎の雲と自画像─禅を視点とする解釈(澤田佳三)
・文展における美人画の隆盛と女性画家について─松園を中心に─(児島薫)
・山本鼎の生いたち─新資料による解明、そして国柱会のこと─(金子一夫)
・戦時下の書と空海(志邨匠子)
・前衛書家上田桑鳩に見る書のモダニズム
─「日本近代美術」を周縁から問い直す(向井晃子)
・太平洋画会日誌にみる研究所争議と太平洋美術学校の開校
─洪原会、NOVA美術協会の活動にもふれて(江川佳秀)
編集後記(児島薫)
明治美術学会 会員業績録(2019年4月1日~2020年3月31日)

各種オンライン書店等で購入可(定価3,000円+税)です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの。葉書よりやや小にかく。

昭和21年(1946)3月2日の日記より 光太郎64歳

光太郎、7年間の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。「北方風物」は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。

前月に鉛筆で描いたものをペンで清書。そこで日付は2月15日となっています。

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