カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。000
■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

昨日、『毎日新聞』さんの現代アート作家谷澤紗和子紹介記事を引用し、「谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます」と書きましたが、書いてるそばから都内で個展(三人展?)です。

星センセイと一郎くんと珈琲

期 日 : 2024年3月1日(金)~3日(日)、3月8日(金)~10日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

星信郎センセイ: デッサン 山口一郎くん: ドローイング 元明健二さん: 珈琲焙煎

東京渋谷区神宮前のギャラリー『 装丁夜話 』にて セツモードセミナー時代の先生 星先生と 山口一郎の絵の展示(販売)が始まります
星先生はデッサン 山口はレモンの絵(A5サイズ額装)です
星先生のデッサンのポストカードブック 山口一郎の、詩人 高村光太郎のレモン哀歌の詩の
装丁夜話オリジナルのポストカードブックの販売もあります
3月の同じ日に生まれた星先生と山口一郎の絵の展示です
セツ モード セミナーの皆さん 興味のある方 ぜひ見に来てください
初日 3月1日(金)星先生 山口一郎 在廊しています(山口は午後3時ごろ、1時間少し打ち合わせで居なくなります)

 ●星信郎 水彩画家 1934年 福島県会津生まれ 春日部たすく・長沢節・穂積和夫に学ぶ
元セツ・モードセミナー講師

●山口一郎 静岡出身。セツ・モードセミナー卒。卒業後、イラストレーターとして雑誌広告の仕事を始める。 1999年、チョイス展 入選、第6回CLSビジュアル・アート展 大賞
JACA展 入選、第5回ART・BOX展 入選、タンカレージン イラストデザイン 入選
2007より、東京青山DEE’S HALLにて定期的に個展を開催。
2011年、香川県人権問題ポスター・CMに作品「コルク人形」が採用される。
同年、香川県の保育所にて芸術士として活動。香川県在住。

●元明健二(がんみょうけんじ) 1955年宮崎県出身、所沢市在住
セツ・モードセミナー美術科研究科卒、ゲリラ
受賞歴-シェル美術賞入選、ターナーアワード大賞
SCAJ(The Specialty Coffee Association of Japan)コーヒーマイスター。
2016年リメナスコーヒー(Limenas Coffee)創業

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レモン、一枚一枚異なるようです。

来週、また中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、その際に立ち寄ってみようかと思っております。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此処にアトリエを建築、正式に御招待して彫刻に花を生けていただくやうな日がいつになるか、それは日本の社会事情の恢復次第と存ぜられます。


昭和21年(1946)10月11日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで約一年。もう少し経つと、彫刻は完全に封印してしまいますが、この頃はまだ彼の地にきちんとしたアトリエを建設するつもりがまだあったようです。

現代アート個展(会期終了していますが)のレビューを兼ねた作家さん紹介が、昨日の『毎日新聞』さんに大きく掲載されました。

男性優位への疑念、アートに フィルター外した「女性像」を模索

 太陽をかたどった金色の紙の中心に、目と口が切り抜かれている。『智恵子抄』で知られる高村智恵子の顔だという。口を開き、こちらに何か伝えようとしているのか。古びた木枠の中の小さな顔を見つめていると、もどかしさに駆られた。
 タイトルは「はいけいちえこさま」。京都を拠点に活動する現代美術家・谷澤紗和子さんが、洋画家・紙絵作家の高村智恵子をオマージュした作品だ。自身も切り紙を手がける谷澤さんは智恵子の作品にひかれ、その創作について調べ始めたが、行き当たるのは夫・高村光太郎のフィルターを通した智恵子像ばかり。故郷を離れ大学に進み、親の反対を押し切って洋画家に。『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、病室では千数百点もの紙絵を作った。「一途(いちず)」や「純朴」といった世間のイメージとは違う、自立した個人・智恵子の声が聴きたい。小さな顔には、そんな思いがこもる。
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  「フェミニストとして、自身 ... 気づきになるような制作態度を示したいと考えています」。自身のサイトでこう宣言し、ジェンダーをテーマに作品を制作する谷澤さんだが、問題意識が明確になったのは数年前からという。
 それまでも、引っかかることはあった。京都市立芸術大で教わった教授陣はみな男性だったし、院試でフェミニズムに言及すると、「そういうのはもう飽きたんだよね」と返されたこともあった。卒業後は同世代の男性の方がいい仕事をもらっているとも感じた。ただ、大きな壁を感じるほどではなかった。
 2018年、出産。「親になるのは大歓迎だったのに、突然『母』という代名詞が舞い降りてきた」。保育園の申し込みで役所に行くと、来ているのは全員女性。指定された時間は夕刻で、赤ん坊たちは泣いている。谷澤さんも泣く子を抱いて職員とやり取りするが、泣き声にかき消されお互いの声が聞こえない。予算を割いて託児サービスさえ用意してくれていれば。そもそもなぜここに父親はいないのか。社会の仕組みに対する疑問や怒りが、あふれた。
 産後しばらくは時間と場所の制限から、大きな作品が作れない。発表するあてもなく、A4の紙に描き始めた。当時のファイルには、顔の中に「くそやろう」や「NO」といった言葉を配したドローイングが並ぶ。「女性が使うべきではない」罵倒や抵抗の言葉。抑圧をかいくぐり、やっと発せられた言葉だと表現したくて、うねる線で描いた。
 ジェンダー研究の文献にも目を通し思索を深めていた翌年、作家・藤野可織さんとの共作「信仰」を発表し、ジェンダーをテーマに据えることに手応えを感じた。智恵子について本格的に調べ始めたのも、この頃。「はいけい――」は冒頭の「太陽」のほか、智恵子による「青鞜」の表紙絵や産後のドローイングから生まれた「NO」などをモチーフにした6点組みで、木枠に日本家屋の廃材を用い、女性の足かせとなってきた家父長制度を象徴させた。金と赤の美しい造形の中に切実なメッセージを織り込んだ作品は、若手芸術家の登竜門「VOCA展2022」で佳作に選ばれた。
 昨年12月には、大阪で個展「矯(た)めを解(ほぐ)す」を開催。タイトルは社会や教育に矯正され、知らず知らず染まってしまった価値観を解きほぐす、という意味で付けた。同名の新作は、ぺしゃんこになったショベルカーやクレーン車に赤い線が絡む紙の作品。モチーフにしたのは子どものおもちゃだという。
 息子が好む重機のおもちゃ。何がかっこいいのか、正直わからない。ある時そんな話をしたら、男性作家が「かっこよさ、わかるよ!」と興奮気味に応答した。「それを聞いて、仕組みがわかった!と思いました」。自分が身を置いているのは「重機をかっこいいと思う」人たちが築き上げたコミュニティーではなかろうか。男性優位の世界で感じてきた不条理に、説明がついた気がした。「そこに一生懸命入ろうとするのではなく、別の仕組み、別の見方で考えていかなきゃいけない」
 会場で、白一色の作品に目が留まった。エンボスによる和装の女性と、切り紙のくしゃくしゃの塊。女性は智恵子で、塊は自画像だという。美術の歴史の中で男性によって客体化されてきた「女性像」の問題は、根深い。人間としての女性をどう描くか。今はまだ模索中だ。 いびつでくしゃくしゃな塊は、不思議と楽しそうに見えた。時空を超えた女性の連帯が放つ輝きだろうか。小さな作品を前に、空想にふけった。
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あえて切り紙で表現
 「はいけいちえこさま」は愛知県美術館所蔵。収蔵に関わった学芸員の中村史子さん(現在は大阪中之島美術館勤務)は、谷澤さんについて「以前からしっかりした技術でスペクタクルな面白い作品を作っていたが、20年ごろから作品にぐっと緊張感が生まれ、強く、クリティカルな表現になった」と評価する。美術界で等閑視されてきた女性や非西欧圏の作家を再評価する動きは、キュレーターや研究者の間では世界的潮流となっているが、「谷澤さんは同じ作り手という立場で、今まで軽く見られてきた女性作家を再考している点に特徴がある」と中村さん。谷澤さんは実際の制作を通じて、智恵子の高い技術や理知的な構成力に気付いたという。
 絵画や彫刻が美術の「王道」とされる一方で、女性が主に担った手芸などは一段下に見なされてきた。切り紙も絵画の周縁に位置づけられてきた手法の一つ。近年では歴史的背景を理解した上で、あえてそうした手法を取る現代美術家も活躍する。谷澤さんも、ヒエラルキーの上位に位置しない、紙とハサミさえあれば誰にでも開かれた切り紙という手法で、女性をはじめ、弱い立場に置かれた人たちの存在を表現している。010

昨年12月2日(土)~12月23日(土)に、大阪市のstudio Jさんで開催された「矯めを解す」(こちらについては情報を得られていませんでして、このサイトではご紹介していませんでした。汗顔の至りです)レビューから、谷澤氏の歩みをまとめられています。

なるほど、こういう背景があったのかという感じでした。

記事にもあるVOCA展など、谷澤氏に関しては以下もご参照下さい。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」展覧会評。
谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます。やはり100年前に智恵子が投げかけた問いは、現代にも重くのしかかっているということなのでしょう。

今後とも多くの方々に取り組んでいただきたいものですし、そこから発せられるメッセージをさらに多くの皆さんに受けとめてほしいとも存じます。

【折々のことば・光太郎】

十月五日には染井のお墓へおまゐりして下さる由、まことにありがたく存じます。墓もさぞ荒れ果てゝゐる事と推察してゐます。


昭和21年(1946)10月11日 秋広あさ子宛書簡より 光太郎64歳

秋広あさ子は遠く明治期、日本女子大学校の寮で智恵子と同室でした。故あって中退したため卒業生名簿に名が無く、学科までは不明ですが、当時の智恵子と最も親しかった一人で、貴重な智恵子回想文も残しています。

十月五日」は智恵子の命日、「染井のお墓」は現在の都立染井霊園の髙村家墓所。11日付の書簡で「おまゐりして下さる」は「おまゐりして下さつた」の誤記か、或いは秋広からの書簡に「毎年十月五日にはお参りしてゐます」的な記述があって、それへのいらえなのか、というところです。

またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
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「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
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終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」ライトアップも為されているはずの「第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう」が先週金曜に開幕し、その模様が報じられています。

ATV青森テレビさん。

冬空に200発の花火や名物「かまくらバー」も!「十和田湖冬物語」が開幕

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冬の十和田湖をイルミネーションや花火で彩る「十和田湖冬物語」が、2日に開幕し、訪れた人たちが、幻想的な世界を楽しみました。
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十和田湖冬物語は十和田湖休屋地区の特設会場で始まりました。イルミネーションで色鮮やかに飾り付けられた会場では大きな「かまくら」を使ったバーが登場。訪れた人たちはお酒を飲んだり、肉まんや串焼きといった温かい食べ物を食べたりして楽しんでいました。
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また午後7時半を迎えると、冬の澄んだ夜空に200発の花火が打ち上げられました。
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※訪れた人は「きれいでした。よかったです見に来て。」「花火、音楽と一緒に上がってきれいでした」「雪があっての花火ですごいきれいでした」
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十和田湖冬物語は2月25日まで毎週火曜日と水曜日を除いて開催され、イベント期間中の週末にはステージイベントも行われます。
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RAB青森放送さん。

十和田湖冬物語 開幕 毎日 冬空に花火

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冬の十和田湖が満喫できる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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会場の十和田湖畔休屋地区では4年ぶりにコロナ禍前に戻して、地元の食を味わえる雪灯り横丁やスノーパークが設置されました。
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雪不足が心配されましたが名物のかまくらバーもお目見えしました。

また今月25日までの期間中、午後7時30分から毎日打ち上げられる花火が冬空に大輪の花を咲かせて訪れた人たちが冬の十和田湖を楽しんでいました。
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地方紙『デイリー東北』さん。

澄んだ夜空に光の大輪 「十和田湖冬物語」開幕

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔休屋地区で2日、厳寒期の自然の魅力に触れる「十和田湖冬物語」が開幕した。雪が舞う夜空に光の大輪が咲き、来場者が見入っていた。25日まで。
 冬期の誘客促進などを目的に、実行委員会(中村秀行委員長)が主催して26回目。期間中は火、水曜を除き、午後7時半から花火約200発を打ち上げる。1玉7千円のメッセージ花火もある。
 会場の多目的広場は入場無料。新型コロナウイルスの5類移行を経て、飲食を提供する屋台村が4年ぶりに復活した。酒類を扱うかまくらバーを含め、地元業者ら7店舗が出店し、家族連れや訪日客らでにぎわいを見せた。
 初日は十和田市無形文化財の「晴山獅子舞」も披露された。週末には青森、岩手、秋田3県の芸能パフォーマンスが行われる。
 東京都から夫婦で訪れた主婦服部博子さん(68)は「澄んだ空の冬花火は華やかできれい。思い出の一つになった」と喜んでいた。
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会場の十和田湖畔休屋地区、半端ない寒さですが、その寒さを吹き飛ばす熱気に溢れていることと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

あのいただいた和紙は実に珍重です。秋には障子をすつかり新しくします。ワラビ糊をつくつて張るつもりです。 貴下手植えの萩は今年花を持つかどうか分りませんが、勢は盛んです。

昭和21年(1946)8月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

前年5月の花巻疎開の折には光太郎を花巻まで送りとどけた宮崎が、久しぶりに茨城から光太郎に会いに来ました。障子紙や萩の苗は手土産。花巻町中心街の宮沢賢治実家や花巻病院長・佐藤隆房から託されたものかもしれませんが。

この書簡には萩の葉のイラストが描かれていました。
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光太郎智恵子と交流のあった画家・津田青楓の評伝です。

津田青楓 近代日本を生き抜いた画家

2023年12月5日 大塚信一著 作品社 定価2,700円+税

洋画・日本画・書の作家、図案家・装幀家、俳人・歌人・随筆家――明治・大正・昭和の激動の時代を必死に生き抜いた多面的な芸術家の生き方を描く、初の本格的評伝!

 明治・大正・昭和と、正に日本近代を必死に生き抜いたのが津田青楓であった。彼が逆境の中でどのように自らの道を開拓していったか、日本近代の激動の歴史に翻弄されつつもそれらといかに対峙していったか、その軌跡はまことに類稀れなものである。芸術は彼にそのための手段を与えた。彼は存分にそれらを活用して、可能な全てのことを行い、時に挫折し、時には成功したのであった。
 私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。
(本書「プロローグ」より)
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目次002
 プロローグ
 第一章 京都に生まれて――芸術家の誕生
 第二章 軍隊と戦争の体験
 第三章 結婚と留学
 第四章 漱石との親交
 第五章 続・漱石との親交
 第六章 三重吉と寅彦
 第七章 苦悩する青楓
 第八章 開花する才能
 第九章 河上肇との交流
 第一〇章 続・河上肇との交流、そして挫折?
 第一一章 日本画家としての成熟
 第一二章 青楓にとっての良寛
 エピローグ
 あとがき
 作品図版一覧/人名索引


『朝日新聞』さんの広告で見つけ、購入しました。「初の本格評伝」とあり、言われてみれば津田の評伝って見たことないな、というわけで。

津田は光太郎より3歳年長の明治13年(1880)生まれ。光太郎とは留学仲間で、津田は明治40年(1907)から同43年(1910)にかけ、農商務省の海外実業練習生としてパリに。一方の光太郎は明治41年(1908)にロンドンからパリに移り、そこで知り合ったと考えられます。

光太郎、そして津田も俳句が好きだったようで、光太郎は明治42年(1909)、留学の最後に約1ヶ月旅したイタリア各地からパリの津田宛にせっせと絵葉書を送りましたが、そこには旅の吟がびっしり。現在確認できている光太郎の俳句100句あまりのうち、半分以上がそれです。光太郎から津田宛の書簡はかなり散逸してしまっており、『高村光太郎全集』完結後にもその中の1枚が見つかったり、両者帰国後の明治44年(1911)、光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅玕洞」をたたんで北海道に渡る旨を知らせる葉書が見つかったりもしています。他の書簡もまだどこかに人知れず眠っているような気がします。
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琅玕洞では津田の個展も開いています。光太郎は自分の画廊の展評を『読売新聞』に寄稿しました。題して「津田青楓君へ-琅玕洞展覧会所見-」(明治44年=1911)。その中で「友人といふので口の利き易い所から、感じた儘を無遠慮に書いた」とし、確かに歯に衣着せぬ評をしています。曰く「少し失望したよ。君が思ひの外、油絵具にこき使はれてゐるからさ」「君のいつもの熱は何処へ行つたのだらう。あべこべに顔料に追はれて居る様に見えるのは、製作時に於ける此の熱の不足から来たのぢやないかと思はれる」など。たとえ親しい間柄でも、このあたり、光太郎は妥協しませんでした。

津田は智恵子とも交流がありました。

おそらく明治43年(1910)のことと思われますが、後に津田が書いた『老画家の一生』という書籍(昭和38年=1963)に次の記述があります。

 亀吉の陋屋にも、人の出入りが次第に多くなつた。
 目白駅に通じる大通りには、成瀬仁蔵といふ人の創立した女子大学があつた。自然画好きの女学生もやつてきた。
 近所にはアメリカ帰りの柳敬助といふ画家がゐた。その奥さんは女子大出身で、後には柳君の家庭とも往来するやうになつた。
 巴里時代知り合ひだつた斎藤与里君も、程近い処に住んでゐたので、散歩の行きか帰りにしばしば訪れた。その横町の足袋屋の二階には相馬御風君がゐた。彼は早稲田出で、当時『早稲田文学』の編輯をやつてゐた。
 亀吉の町内に小川未明君がゐた。彼は東北出身で、言葉に特別な訛りがあつた。我儘で短気者だつた。
 往来してゐる者はすべて地方出身の野武士で、亀吉のやうな京都そだちはあたりに居なかつた。
 すこしあとになつてからのことかもしれないが、長沼智恵子(後の高村光太郎氏夫人)といふ、女子大の生徒もきた。家では教へなかつた。彼女が画架を据ゑて描いてゐる所へ行つて助言したり、雑司ヶ谷にある彼女の住居へも出かけて行つたことがある。彼女は艶といふか色つぽいといふか、いつも裾の方に長襦袢の赤いものを少しのぞかせて、ぞろぞろ歩きだつた。カチカチの女子大には珍らしい存在だつた。


「亀吉」は本名「亀治郎」の津田自身です。

また、同じ頃の回想で、津田の最初の妻でやはり画家の山脇敏子もこう書いています。

 その頃夫の友人で色々の人々と交際していた。先ず女の人では青鞜社の物集和子、平塚雷鳥、杉本正生、長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)、文士では寺田寅彦、鈴木三重吉、内田百閒、小宮豊隆、森田草平、小川未明、茅野蕭々、滝田樗蔭、島中健作、秋山光夫、阿部次郎、安倍能成、それと先生の夏目漱石の諸氏が私の記憶に残つている。

そして再び津田。昭和23年(1948)に発行された『漱石と十弟子』の一節で、「美代子」という仮名になっていますが、やはり智恵子が登場。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

最後の智恵子のせりふは、智恵子評伝や二次創作などの中でよく使われるものです。当方も使いました(笑)。

そんな津田の「初の本格的評伝」だそうで、まだ精読していないのですが、おいおい読んでいきたいと存じます。ただ、光太郎に関わる箇所をざっと見たのみでも誤植などが目立つのが残念ですが……。

ともあれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

資材不足には小生も閉口してゐます。絵具が無くなつてはお困りでせうが当分は鉛筆だけでも勉強する外ありません。小生もまだ彫刻には本当に取りかかれずにゐますが、野山のものを写生しながらますます自然の美の深さにうたれます。

昭和21年(1946)8月2日 小林治良宛書簡より 光太郎64歳

戦後になっても物資不足がすぐ解消したわけではなく、特に画家は絵の具の入手に困難を極めていたようです。

評論家の東浩紀氏主宰の雑誌『ゲンロン』。昨秋刊行された第15集『ゲンロン15』に、光太郎がらみの論考が掲載されているという情報を得まして、慌てて購入しました。

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2023年10月20日 東浩紀編集 株式会社ゲンロン 定価2,300円+税

『訂正可能性の哲学』にもつながる消費とリゾートをめぐる東浩紀の論考、アジアを代表する若手哲学者ユク・ホイ氏へのインタビュー、川上未映子氏によるエッセイ、原一男氏・大島新氏・石戸諭氏による鼎談など、豪華内容を収録。

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【目次】
 [巻頭論文]東浩紀|哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について
 [ゲンロンの目]川上未映子|春に思っていたこと
 [座談会]原一男+大島新+石戸諭|
ドキュメンタリーはエンターテインメントでなければならない
 [特別寄稿]三宅陽一郎|異世界転生とマルチバースと未来のコンテンツ
 [エッセイ]宮﨑裕助|脱構築のトリセツ──脱構築入門(の彼方へ)の一歩
 [ゲンロンの目]山内志朗|〈セカイ系〉に捧げられた花束 中世ラテン哲学のすすめ
 [インタビュー]ユク・ホイ 聞き手=東浩紀 訳=伊勢康平|
「わたしは自分の問いに忠実でありたい」ポストモダンとアジアと哲学をめぐる対話
 [連載]ユク・ホイ 訳=伊勢康平|
共存の言葉について 惑星的なものにかんする覚書 第2回
 [連載]石田英敬|詩とアルコールと革命と 飛び魚と毒薬 第1回 + 第2回
 [連載]イ・アレックス・テックァン 訳=鍵谷怜|
ベルクソンとアフリカ 理論と冷戦 第5回
 [連載]田中功起|見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア
 3月1日から9月2日 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回
 [連載]上田洋子|演劇に自由はあるのか、あるいは可視化される孤独の問題
 ロシア語で旅する世界 第12回
 [論考]能勢陽子|失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品
 [エッセイ]川原伸晃|園芸とは超越の飼い慣らしである
 [創作」猿場つかさ|海にたゆたう一文字に 第6回SF新人賞受賞作 [解題]大森望
 [コラム]山森みか|イスラエルの日常、ときどき非日常
#10 「産めよ」「育てよ」「つがいになれ」
 [コラム]辻田真佐憲|国威発揚の回顧と展望 #5 近鉄から逃れられない
 [コラム]福冨渉|タイ現代文学ノート #8 変わる南の島
 [コラムマンガ]まつい|島暮らしのザラシ #4
 ネコデウス15
 寄稿者一覧
 English Contents and Abstracts

光太郎に触れて下さった論考は、愛知県豊田市美術館学芸員の能勢陽子氏による「失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品」。

メインは一昨年に都内で開催された現代アート作家・梅津庸一氏の展覧会「緑色の太陽とレンコン状の月」などの紹介です。そこから梅津氏も注目した光太郎の評論「緑色の太陽」(明治44年=1911)における「個」と「国家」などとの関係、さらに戦時中に翼賛詩文を書きまくった光太郎の変節、戦後の花巻郊外旧太田村での大いなる悔恨等にも拡がっていきます。そこに同時代の黒田清輝や夏目漱石、岸田劉生、「民芸」運動などにも言及されています。

目次の通り、他にも色々と充実の内容です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩もたくさん書いてゐます。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

たくさん書いてゐます」と言いつつ、この時期の発表が確認できている詩は、『週刊少国民』に「雲」、『新岩手日報』で「絶壁のもと」の2篇だけです。おそらく、翌年7月の『展望』に載った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」を指しているのではないかと思います。幼少年期から始まり、戦時中の愚行を含め、自己の半生を振り返り、自らの戦争責任を省察した連作です。






昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
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こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
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先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
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新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
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大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
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あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
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その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
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さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
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光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
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宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

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もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」の立つ、青森県十和田市からイベントの復活情報です。

第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう

期 日 : 2024年2月2日(金)~2月25日(日)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

 1998年度に十和田湖畔で誕生したイベント「十和田湖冬物語」が、今年で26回の開催を迎えました。
 今年は屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します。また、毎年好評の「冬花火」や、県境を跨ぐエリアの特徴を活かした冬の国境まつりなど、冬の十和田湖をお楽しみいただけるコンテンツをご用意しております。
 その他にも、冬ならではのアクティビティや、期間限定の食魅力などが追加される予定です。詳細が決まり次第、公式HPにて公開いたします。
 当イベントを通して、閑散期の集客を促進し、観光施設やサービスの利用増加に繋げて、地域を盛り上げていきたいと考えております。
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冬花火 19:30打ち上げ(音楽と花火ショープログラム5分程度)
厳しい冬の澄み切った夜空だからこその「冬花火」。木曜〜月曜まで、音楽と花火がシンクロした花火ショーが行われます。
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雪灯り横丁 17:00~20:00
コロナの規制がなくなり屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します!わいわい楽しい屋台料理をお召し上がりください。
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冬の国境まつり
青森・秋田・岩手の北東北三県の芸能のパフォーマンスを毎週末開催。
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スノーアクティビティの充実
好評の滑り台やスノーランプなどのほか、雪でつくった特別観覧シート、連携事業者によるバナナボートなど。
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このイベント、平成10(1998)年度に始まり、永らく湖畔休屋地区での屋台村を中心としたイベントでした。当方、平成25(2013)年度平成29(2017)年度と、2回、お邪魔いたしました。その後、スタイルが変わり、令和2(2020)年度と翌令和3(2021)年度はイルミネーションが中心に。当方、2度目の際に行って参りました。それぞれ「乙女の像」のライトアップが為されていました。

そのままイルミネーション系のイベントとして続くのかな、と思っておりましたところ、昨年度はウォーキングのイベントがあった程度で「あらら……」という感じでしたが、今年度、また屋台村を中心とした昔のスタイルに戻して実施とのこと。「乙女の像」のライトアップもまた為されるやの情報も得ております。

JRさんのバスが八戸から、そおれとは別に十和田市街から「十和田湖アクセスバス」というのも出ているそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は東京でよく食べに行つたトンカツヤの主人がだしぬけに訪ねてきたので驚きました。秋田の温泉に行つたかへりとの事。コーヒーとサツカリンをもらつて久しぶりにカフエノワールを賞味しました。


昭和21年(1946)7月12日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

終戦からおよそ1年、世の中もだんだん落ち着いてくると、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に昔の知り合いがぽつりぽつり訪れるようになりました。

「トンカツヤ」は三河島の「東方亭」。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。
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新刊です。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻

2023年11月30日 小田原のどか著 制度社青土社 定価4,200円+税

破壊される瞬間に、彫刻はもっとも光り輝く
彫刻を「思想的課題」と自らに任じ、日本近現代の政治・歴史・教育・芸術そしてジェンダーを再審に付す。問い質されるは、社会の「共同想起」としての彫像。公共空間に立つ為政者の銅像が、なぜ革命・政変時に民衆の手で引き倒される無残な運命に出遭うのか――。画期的かつ根源的な思索の書。
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目次
 プロローグ
 1部 彫刻をめぐって
  1.彫刻という名前
  2.われ記念碑を建立せり――「水俣メモリアル」を再考する
  3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく
  4.不可視の記念碑
  5.モニュメント・マスト・フォール?――BLMにおける彫像削除をめぐって
  6.彫刻とはなにか――「あいちトリエンナーレ2019」が示した分断をめぐって
  7.女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか?
  8.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?
  9.箱(キューブ)をひらく――ジャコメッティの彫刻とコレクション/
キューレイション/エキシビジョン
  10・三島由紀夫への手紙
 2部 固有の場所から
  1.爆心地の矢印[長崎]――矢形標柱はなにを示したか
  2.この国の彫刻のために[長崎]
  3.彫刻を見よ[東京]――公共空間の女性裸体像をめぐって
  4.拒絶から公共彫刻への問いをひらく[福島]
ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって
  5.被爆者なき後に[広島]――広島平和記念資料館
  6.“私はあなたの「アイヌ」ではない”[白老]――ウポポイ(民族共生象徴空間)
  7.「過去」との絶え間ない対話のために[韓国]――《平和の女子像》をめぐって
  8.旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築
 3部 時代との共鳴
  1.ウェブ版「美術手帖」ファイル
   1.ナガサキのあとに彫刻は作れるのか――「森淳一 山影」
   2.共産主義と資本主義の裂け目で――
The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Projects
   3.彫刻という困難――小谷元彦「Tulpa-Here is me」
   4.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか? Ⅱ――青木野枝「霧と山」
   5.私たちは何を学べるのか?――「表現の不自由展・その後」評
   6.公共建築から芸術祭へ――到達/切断地点としての「ファーレ立川」
   7.美術史という「語り」を再考する――コレクション特集ジャコメッティと Ⅱ
   8.名の召喚――柳幸典展
   9.「傷ついた風景の向こう」に見えるもの――
DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに
   10.帰宅困難と自宅待機――Do'nt follow the Wind
   11.コロナ禍は美術館に何をもたらすか?
――『ラディカル・ミュゼオロジー』『美術館の不都合な真実』を手がかりに
   12.女性器が「選ばれない」世界で――遠藤麻衣×百瀬文 新水晶宮
   13.「歌う」から「語る」へ――彼女たちは歌う Listen to Her Song
   14.「個」と「公」を仲立ちし、たぐり寄せる。――加藤翼「Supersturing Secrets」
   15.マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト
――カタルシスの岸辺「光光DEPO」
   16.相次ぐ告発、美術業界の変化のただ中で――居場所はどこにある?
  2.「東京新聞」ファイル
   1.彼女たちは歌う
   2.アイヌの美しき手仕事
   3.性差(ジェンダー)の日本史
   4.石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
   5.小泉明郎+オヤマアツキ「王の二つの身体」
   6.シアターコモンズ/第13回恵比寿映像祭/TPAM
   7.アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド――建築・デザインの神話
   8.女が5人集まれば皿が割れる
   9.膠を旅する――表現をつなぐ文化の源流
   10.白川昌生展 ここが地獄か、天国か。
   11.山城千佳子リフレーミング
   12.ロニ・ホーン――水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
   13.Vira Video!――久保田成子展
   14.イミグレーション・ミュージアム・東京多国籍美術展
  3.ぐるぐるキョロキョロ展覧会記――『芸術新潮』ファイル
   1.コレクションを活かす/隠す
   2.越境者を照らす光――ヤン・ヴォーーヴ・ンヤ
   3.“世界初”の国際芸術祭は新たな基準となるか
――ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW――光の破片を捕まえる」
   4.選べない私を選ぶ
――鴻池朋子 ちゅうがえり ジャムセッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
   5.名品という視座を味わう――もうひとつの江戸絵画大津絵
   6.排除と収奪の日本史――性差(ジェンダー)の日本史
   7.サイレンスを見つめる――ミヒャエル・ボレマンス マーク・マング
――ダブル・サイエンス
   8.希代のプロモーターの原点を知る――式場隆三郎「脳室反射鏡」
   9.幻視者(ヴィジョナリー)が問いかけるもの
――平成美術:うかかたと瓦礫1989-2019
   10.どっちだと思う?――アネケ・ヒューマン&クミ・ヒロイ、
潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点
   11.時の可能性と対峙する――3.11とアーティスト:10年目の想像
   12.歴史の編み目をくぐり抜ける――
ホーツーニェンヴォイス・オブ・ヴォイド――虚無の声
   13.風穴を開け、空気を入れ換える
――SIDE CORE presents EVERY DAY HOLIDAY SQUAD soloexbition"underpressure"
   14.差異に宿るエナジー――アナザーエナジー展:挑戦し続ける力
――世界の女性アーティスト一六人
   15.破滅と熱狂、その先に――加藤翼 縄張りと鳥
   16.残/遺されたものを見る――Walls & Bridges 世界にふれる 世界を生きる
   17.むき出しの写真と対峙する――
ユージン・スミスとアイリーンスミスが見たMINAMATA
   18.背後の戦争画――3.11とアーティスト小早川秋声 旅する画家の鎮魂歌
   19.「3.11から一〇年」の影に
――せんだいメディアテーク開館二〇周年展 ナラティブの修復
   20.開かれた「フェミニズム」へ向かって
――ぎこちない会話への対応策――第三波フェミニズムの視点で
   21.地球を感知する場――池内晶子あるいは、地のちからをあつめて
   22.「人類よ消滅しよう」――生誕一〇〇年 松澤宥
   23.稀有な複数性の発露 Chim↑Pom展
   24.未然の迷宮――森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
   25.版画に宿る抵抗の精神――彫刻刀が刻む戦後日本
   26.見ること、極限の問い――ゲルハルト・リヒター展
   27.交差点としての美術展――アーティスト支援プログラム
 あとがき


目次を書き写すだけで疲れました(笑)。

彫刻等の実作のかたわら、この手の文筆活動を盛んに行われている小田原のどか氏の評論集です。目次にあるとおり、あちこちに発表されたものの集成で、雑誌『群像』2020年7月号に載った「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」他、ところどころで光太郎に触れて下さっています。

先週末、『朝日新聞』さんに書評が出ました。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻 小田原のどか〈著〉 平和プロパガンダと女性裸体像

 この国には街や公演の随所で女性の裸体像が立っている。なぜ「裸の女」なのか。本書によると、日本の公共空間に「平和」を冠するその第一号がお目見えしたのは1951年のこと。東京・三宅坂に「平和の群像」と題された三体の彫刻が設置された。同じ台座には、戦時中には軍閥の力の象徴として「寺内元帥騎馬像」が置かれていた。
 ところが戦時中の物資不足で騎馬像が金属回収されると台座だけが残される。そこに戦後、当時の電通社長、吉田秀雄の指針で「軍服を脱ぎ捨てた『三美神』」を建立し、新生日本の平和と自由を「広告宣伝とタイアップの彫刻」により広く演出したのだ。著者はそこに連合国軍総司令部(GHQ)が関与した可能性についても触れている。
 街中に氾濫(はんらん)する女性の裸体像は、この平和の宣伝戦略(プロパガンダ)が行き届いた結果だった。だが、そのことで起源は忘れられる。「彼女」たちは「無言」で「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」(高村光太郎)と命じられるしかなかった。しかし忘れてはならない。先の騎馬像の作者は現在、長崎の「平和公園」にそびえる「平和祈念像」と同じ彫刻家、北村西望で、筋骨隆々な裸体の巨人像は力の顕現そのものに見える。先に新生日本と書いたが「ここに『新しさ』はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性がある」――そう著者は書き「戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所」と断言する。
 戦後、日本に「自由と平和」をもたらしたのは、歴史的に言えば「敗戦と占領」にほかならない。ゆえに著者はこの国に氾濫する女性裸体像を「戦後民主主義のレーニン像」と名付ける。そしていつか、それらが引き倒される時が来るかもしれないことに思いを馳(は)せ、長崎に、広島に、水俣にあるモニュメントに「無言」ではなく「応答」しようとし、あえてこれらの「彫刻を見よ」と呼びかけるのだ。
評・椹木野衣 美術評論家・多摩美術大学教授

近年、公共の場に設置された彫刻作品についての論考等がちょっとした流行りになっていますが、平瀬礼太氏などともに、小田原氏もその急先鋒のお一人ですね。

彫刻の場合、同じく昔からある美術作品でも、絵画との大きな相違点の一つがこの辺りにあるような気がしています。絵画でも戦時中の藤田嗣治らの戦争画、戦後も各地に設置された巨大壁画的なもの、或いは大きくないものでもバンクシーの作品群など、プロパガンダ性、メッセージ性を色濃く持つものも存在しますが、3Dの表現である彫刻の方がそうした性格を色濃く持たざるを得ないと感じています。「屋外」ということも大きいと思われます。肖像画が屋外に出ることはめったにありませんが、肖像彫刻は銅像として乱立していますし。

とにもかくにも、ご興味おありの方、お買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

右掌の切開手術をうけに花巻病院長邸に起居。六月末やうやく全治、十日程前に帰つて来ました。右手で文字が書けるやうになつたのも昨今です。畑が遅れ、今大多忙です。


昭和21年(1946)7月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、生まれて初めての本格的な農作業を始めたところ、掌にできたマメが潰れて化膿し、手術まで受ける羽目になりましたが、ようやく完治。

しかしそのため5月16日から7月16日まで、まるまる2ヶ月、日記は書きませんでした。この間(またはやはり日記が欠けている9月21日~10月9日)に昨年国の重要文化財に指定された花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を訪れたのではないかと推定されます。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

1月13日(土)、世田谷文学館さんにお邪魔しました。
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こちらで開催中の「コレクション展 衣裳は語る――映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」拝見のためです。
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会場内部は撮影禁止でした。

映画史上に残る数多くの映画で衣裳デザインを担当された故・柳生悦子氏の原画を中心とした展示で、約3,000点の寄贈を受けたうちの厳選されたものが並んでいました。
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お目当ては昭和42年(1967)封切りの松竹映画「智恵子抄」衣裳デザイン原画。光太郎役の丹波哲郎さんのものが1点、岩下志麻さん演じる智恵子のものが約30点。
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上記はX(旧・ツイッター)に上げられた同館のポスト(ツイート)です。それぞれにいろいろと書き込みがしてあり、こりゃ現物を見ないとしょうがないなと思って参じた次第です。

で、書き込みも細かく読んで参りました。映画の「原作」という位置づけになっている佐藤春夫の『小説智恵子抄』や、当会の祖・草野心平が書いた随筆の一節、それからそれぞれの衣裳に於ける注意事項等がびっしり。驚きました。

上記画像を事前に見て、そうだろうな、と思っていたのですが、左上から始まって右下まで、シーンの順に並んでいます。光太郎と出会う前の若き日の智恵子から、最晩年まで。当然と言えば当然ですが、結婚前の恋愛時代の衣裳は華やかなものが多く、結婚後、特に心を病んでからのそれはシックな感じに移っていきます。

驚いたのは、一番左下のエプロン。同一のものがあと2ヶ所でも描かれていますが。
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雑誌『婦人之友』第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に掲載された「変つた形のエプロン二種」という記事に写真と型紙(尺貫法で書かれています)が載った、実際に智恵子が自作し着用していたエプロンほとんどそのままです。
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こういう形のエプロンが一般的だったわけではないようで、『婦人之友』には「高村光太郎氏の御宅に伺つたとき、手を拭きながら出ていらしつた夫人が、ほんとうに面白い前掛をかけてゐらつしやいました。」と書かれていますし、少し調べてみてもこういう形のエプロン画像は見かけません。

ということは、柳生氏、大正時代の『婦人之友』のこの記事を読まれたのだと思われます。舌を巻きました。

録画して置いた映画「智恵子抄」を見返してみましたところ、ちゃんとこのエプロンを着用しているシーンがありました。
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「いや、こういうエプロン、一般的に使われていたよ」というような情報、資料をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

他の映画等のデザイン原画も拝見。ジャンルが実に多岐に亘っているのに驚きました。「裸の大将」「若大将」「風林火山」「八つ墓村」「戦国自衛隊」「敦煌」などなど。

残念ながら図録は作成されておらず、このコレクションに特化した書籍がもしかしたらあるかな、と思ったのですがありませんでした。ぜひとも3,000点をカラーで収録し、出版していただきたいものです。

会期は3月31日(日)まで。同時開催で「江口寿史展 ノット・コンプリーテッド」も2月4日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
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【折々のことば・光太郎】

毎日荒地を掘り起して畑を作つてゐます。実にその仕事が爽快で朝起きるが待ち遠しいやうです。

昭和21年(1946)4月23日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、数え64歳にして生まれて初めて本格的に農作業に取り組み始めました。嬉々として取り組んでいる様子がうかがえますね。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号の2024年2月号
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巻頭特集が「骨董を楽しむ 再再訪K氏コレクション」全28ページ。「K氏」というのは、記事自体を執筆なさっている古美術愛好家・加瀬礼二氏という方のようです。

古陶磁が中心ですが、光太郎の父・光雲の作も2点。
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まず、鋳金にして量産したと思われるレリーフの原型「因陀羅大将」。おそらく石膏でしょう。裏面には見覚えのある光雲の筆跡で「大正六年一月二日 試作」と書かれています。因陀羅大将は薬師如来十二神将の一柱で、元々インドの土俗信仰の神だったものが仏教に取り入れられたものです。十二、というわけで他の神将ともども方角や年月日などの干支に割り振られ、因陀羅大将は「巳」の担当です。

もう一点、こちらはブロンズで「聖徳太子孝養立像」。
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何が「孝養」かというと、父・用明天皇の病気平癒を祈願するお姿、というわけです。こちらもある意味伝統的な図題で、聖徳太子信仰とともに昔から作られ続けてきたモチーフです。

光雲も好んだというか、注文されることが多かったようで、木彫による複数の作例が確認できています。令和3年(2021)にはテレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に木彫の像が登場、1,500万円の鑑定額がつきました。
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人気の図題と言うことで、ブロンズに写されたものが販売されています。現代の鋳造であればさほどの値段にはなりませんが、光雲生前に、光太郎実弟にして光雲の三男・豊周が鋳造を手がけたものであれば、そこそこの値がつくものです。『小さな蕾』さん掲載のものは大正9年(1920)、豊周鋳造だそうで、まさにこのタイプのものですね。

ちなみに筆者の加瀬礼二氏、令和3年(2021)9月号の同誌にも「高村光雲 聖徳太子像」という記事を寄稿され、他のタイプのブロンズ聖徳太子像をご紹介下さいました。

というわけで、『小さな蕾』2月号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨日は猛烈な吹雪で二丁も歩けないほどでした。もうもうとけむるやうな雪の粉が風景をまつたくかき消してしまひました。開墾にもまだ手がつきません。

昭和21年(1946)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる地吹雪というやつですね。前年秋から独居生活を始めた花巻郊外旧太田村、3月半ばでもこうなのか、と、新鮮な驚きだったようです。

昨秋から始まっている展示です。年末年始休館が明けて今日再開します。

コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事

期 日 : 2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
会 場 : 世田谷文学館 東京都世田谷区南烏山1-10-10
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 1月8日(月・祝)、2月12日(月・祝)は開館、翌日休館
料 金 : 一般 200円 大学・高校生 150円 65歳以上・小中学生 100円

 1950年代から80年代まで、数々の映画で衣裳デザインを担当した柳生悦子(やぎゅう・えつこ 1929~2020)。舞台衣裳デザインの道を志していた柳生は東京美術学校在学中から映画美術監督・松山崇に師事、美術助手として映画制作に携わります。『ロマンス娘』(東宝 1956年)で映画衣裳を手がけるようになり、以降「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」ものなどの東宝の人気シリーズから音楽映画、文芸作品、時代劇、戦争、SF映画などあらゆるジャンルの映画衣裳デザイナーとして活躍していきます。85年の『Mishima』(日米合作映画・日本未公開)、88年の『敦煌』(大映・電通)まで作品数は100本以上に上ります。
 現在でこそ映像作品におけるコスチューム・デザインは作品を成り立たせる重要な要素として認識されていますが、柳生がキャリアをスタートした1950年代から60年代の映画界はモノクロからカラー、ワイド画面への転換期と軌を一にし、登場人物たちの色調やスタイルを全体バランスの中で考える専門職としての衣裳デザイナーの必要性がようやく認められはじめた時期でもありました。柳生は手さぐりの中で、映画全体と調和する「グッド・デザイン」とは何かを追求し続けました。
 世田谷文学館は柳生の生前、約3000点に及ぶデザイン画の寄贈を受けました。本展は、歳月を経てなお色彩鮮やかなデザイン画の数々を中心に構成し、映画衣裳デザイナーのパイオニア・柳生悦子の仕事をご紹介いたします。約400点の衣裳デザイン画を閲覧できるデジタル展示とともにお楽しみください。
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昨年末にX(旧ツイッター)世田谷文学館さんの公式アカウントに出た投稿で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」岩下志麻さんが演じられた智恵子役の衣裳に関する展示も為されているということを知った次第です。
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手許の資料とつつきあわせてみますと、何点かは「ああ、このシーンでの衣裳か」という感じでした。
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ちなみに光太郎役は丹波哲郎さんでした。
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改めてお着物をよく見てみますと、意外と凝った柄になっていますね。しかしそれが違和感を感じさせず、非常に自然です。柳生さんという方、存じませんでしたが、いい仕事をなさっていましたね。
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

苦しめる間は必ず進みます。これでもういいと思つた時はお仕舞です。


昭和21年(1946)3月19日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

なるほど。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

新春を彩るにふさわしい企画展です。

開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美

期 日 : 2024年1月4日(木)~3月3日(日)
      前期:1月4日(木)―2月4日(日) 後期:2月6日(火)―3月3日(日)
会 場 : 皇居三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-8 皇居東御苑内
時 間 : 午前9時30分〜午後5時
休 館 : 月曜日(ただし月曜が祝日または休日の場合は開館し、翌平日休館)
料 金 : 一般1,000円、大学生500円

本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。

※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。

皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22 年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25 年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。

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今秋リニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館さんの開館記念展。第1期の「三の丸尚蔵館の国宝」が既に先月から始まっており、年明けから第2期「近代皇室を彩る技と美」期間に入ります。
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光太郎の父・光雲の木彫、絶対になにがしかは出品されるだろうと予想し、何が出るかなといろいろ調べていたのですが詳細が分からずやきもきしていたところ、昨日になって詳細が発表されました。

それによると光雲作は「猿置物」(大正12年=1923)。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。
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第2期の中でさらに前期(1月4日(木)―2月4日(日))、後期(2月6日(火)―3月3日(日))に分かれ、前期のみの展示だそうです。

他の目玉の展示品は川合玉堂の「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」、横山大観で「日出処日本」、海野勝珉による「蘭陵王置物」(重要文化財)など。いずれも新春らしく吉祥感あふれる作です。

出品目録がこちら。
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観覧には予約が必要ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の冬籠ももう半分通り越して残り惜しいやうな、又春が待たれるやうないろいろの気がします。今年は暖冬に属してゐるやうで零下二〇度の日は一朝だけでした。吹雪のひどいのも一晩だけ。幸に健康でゐます。


昭和21年(1946)2月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

マイナス20℃の日があっても暖冬ですか……。岩手県、おそるべしです。

昨日は約1ヶ月ぶり、おそらく今年最後の上京をしておりました。レポートいたします。

まずは虎ノ門の大倉集古館さん。
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こちらでは先月から「大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉」が開催中です。
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基本、大倉財閥創業者の大倉喜八郎・喜七郎父子の本人たち、それから交流のあったさまざまな人々の書が中心の展示でした。

しかし、受付カウンター脇、展示ナンバー1が光太郎の父・光雲作の木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は喜八郎の号です。

残念ながら撮影禁止。さらに発行されていた図録にも画像が載っていませんでした。特別展示的な扱いなのでしょうか。下記は過去の他の展覧会の図録から。
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像高約50センチ。実に緻密な作りです。二人の着物に大倉家の家紋までうっすら彫り込んであるのには舌を巻きました。また、座布団など、まさに座布団としか思えません。

この像を拝見するのは20数年ぶり2度目。初回は他の光雲作品数十点と共に見たため、この像だけの印象というのがあまり残っておらず、その意味ではいい機会でした。

生きている人物の肖像をやや苦手としていた光雲が、喜八郎の顔の部分は光太郎に塑像で原型を作らせ、それを元に木彫に写すという、何度か行われた手法で作られているため、出品目録では光雲・光太郎の合作ということになっています。

光太郎の喜八郎原型はこちら。粘土を焼いてテラコッタにし、さらにそこからブロンズに写され、同型の物は全国に存在します。左上と下がテラコッタ、右上はブロンズです。テラコッタは左耳の部分が欠けてしまいました。
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ロダン風の荒々しい光太郎の原型も、光雲が木に写すと柔和な感じに。光太郎はそれが気に入らなくて八つ当たりみたいな詩「似顔」(昭和6年=1931)も書きましたが、記念像として注文主がいる作品ではしかたありますまい。

ところで、夫人の方は光太郎が原型を作ったという記録が見あたりません。どうなっていたのでしょうか。詳しい方、御教示いただければ幸いです。

その他、出品目録は以下の通り。残念ながら他に直接光雲、光太郎に関わる展示品はありませんでした。それでもなかなかの優品揃いでしたが。
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その後、新宿へ。

JR新宿駅東南口を出てすぐのK’s cinemaさんで一昨日封切られた映画「火だるま槐多よ」を拝見。
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「槐多」は光太郎と交流のあった画家、村山槐多。タイトルの「火だるま」は光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用です。赤い絵の具「ガランス」を愛した槐多を「火」として表した光太郎、それほど深い関わりではありませんでしたが、鋭く本質を見抜いていたことがうかがえます。

といっても、槐多の伝記映画ではなく、槐多の絵、それから槐多は詩も書いていましたので、その詩と、まぁいわば槐多ワールドを映画で表現するといった趣。ある意味、現代アートのインスタレーションに近い感じでした。槐多本人がこの映画を観たら、「美しい」と言ったような気はします。

したがって、ストーリーはあるものの、緻密な伏線が張られて山あり谷あり、ラストに向けて伏線が回収されてどんでん返しが複数回、最後に大団円、というタイプの作りではありません。困ってしまった映画評論家のセンセイは「映像美を楽しもう」的な評でごまかしています(笑)。

公式パンフ(1,000円)。佐藤寿保監督と、佐野史郎さんら主要キャストの皆さんのサイン入りでした。
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光太郎詩「村山槐多」の全文も収録されています。
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映画の中では抜粋で引用されていました。

また、槐多に惚れ込んだ窪島誠一郎氏の文章も掲載されています。当方、窪島氏が設立し槐多の作品を多数展示していた信濃デッサン館さんを訪れたことが複数回ありますが、その後、同館閉鎖後、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルされてからはまだ行っていません。すぐ近くに亡父の実家があるのですが、交流もほぼ無くなってしまいまして……。いずれ近いうちに、とは思っております。

映画「火だるま槐多よ」、K’s cinemaさんでは1月12日(金)までの上映、その他、年明け早々には大阪や槐多と縁の深い長野で封切られますし、順次全国で公開されます。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜は猛烈な吹雪で小屋の中へも吹き込みました。今日は吹雪はやみ、細雪がちらちらしてゐます。


昭和21年(1946)2月4日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。屋根は杉皮葺きで天井板は張らず、壁は粗壁、窓は障子。吹雪の際には寝ている布団にもうっすら雪が積もる程でした。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが、花巻高村光太郎記念館さんで始まった展示です。

小学生紙絵作品展

期 日 : 2023年12月20日(水)~1月21日(土)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(木)~1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金
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8月に行われた「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」で制作された、花巻市内の小学校児童の皆さんによる紙絵の展示です。

市役所の方から展示風景の画像を頂きました。
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10月に智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第28回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」と連動しての企画でした。
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展示作品のほとんどはそちらに応募されたそうです。そのうち、上の画像3枚目の右下、「きつね」の紙絵が入賞していました。
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光太郎記念館の周辺など普通にキツネが歩いており、おそらく実物を見た記憶で作られたものでしょう。下の画像は今年の2月、当方が記念館近くで撮ったキツネの足跡です。
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光太郎も書簡に記していました。
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10月に二本松で入賞作品展があり、その後、作品が返却されて花巻で展示、というわけですね。二本松での展示風景はこちら。
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こういった企画を含め、さらに花巻市さんと二本松市さん、光太郎智恵子つながりでのさまざまな交流がさらになされていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の干柿の小包昨日到着、感謝いたします。小包の板箱二つに割れて届きましたが中身は傷ついて居りません。多分原型のままと存じます。早速賞味いたしましたが、お言葉の通り、自然の甘味無類にて、此の醇乎たる味の美は名状し難い高さがあります、


昭和21年(1946)1月22日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

三輪吉次郎は山形在住だった詩人。当方、以前に光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)内部に入れていただいた際、三輪から送られた木箱を目にしました。ラベルが貼ってあり、三輪の名が記されていたのです。この時のものか、その後も同様に食料などを送った際のものかは判然としませんでしたが。現在もそのまま山荘内部にあると思われます。

光太郎の父・光雲作品が出ます。

彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜

期 日 : 2023年12月22日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日 ※1/8(月.祝)、2/12(月.祝)は開館、1/9(火)
      12/29(金)から1/3(水)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
      ( )は20名以上の団体料金

 開館時の平成7年(1995)、400点に満たなかった当館の所蔵品は、現在800点を超えました。これらの所蔵品は、七尾市出身の実業家・池田文夫氏が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」289点と、能登七尾出身の長谷川等伯の作品6点を含む「能登ゆかりの作品」に大別されます。ジャンルは絵画・工芸・彫刻・書・写真など幅広く、時代も中世から現代までと多岐にわたっています。
 当館ではこれらの作品を多くの方にご鑑賞いただくため、年に数回テーマを変えながら展覧しています。今回は「自然とともに」「彫刻って面白い!」の2テーマで計57点を紹介します。
 一言で「彫刻」といっても、粘土・石膏・ブロンズ・FRP(繊維強化プラスチック)・石・木・金属などの素材があります。技法においても、粘土のように肉付けして成形する塑像(そぞう)や、型を作って制作するもの、石や木を彫ったり組み合わせたりしたもの、さらには様々な金属を加工した作品など多種多様です。
 また、「これはなんだろう?」と思う抽象作品から、「本物そっくり!」と思える具象作品まであって、それら彫刻作品の多様性が、面白さや魅力でもあるのです。ここでは、様々な素材による、味わい深い彫刻作品34点をお楽しみください。
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七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品を「池田コレクション」として収蔵している石川県七尾美術館さん。

光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)も含まれ、これまでもたびたび展示して下さっています。他に光雲高弟の一人・山崎朝雲の彩色木彫「土部」(昭和27年=1952)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)なども。
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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「記録」一巻は大本営を過信した小生の不明の記録となりました。


昭和20年(1945)12月26日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

詩集『記録』は昭和19年(1944)3月、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された翼賛詩集です。戦争終結後、光太郎の戦争責任を糾弾する声がほうぼうから上がり、その際、最も槍玉に挙げられたのが『記録』でした。

「記録」というタイトルについては、同書の序文に述べられています。

「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。(略)物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

そして昭和22年(1947)に書かれた自らの半生を省みる連作詩「暗愚小伝」でも。

    真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのは
 ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
 つひに太平洋で戦ふのだ。002
 詔勅をきいて身ぶるひした。
 この容易ならぬ瞬間に
 私の頭脳はランビキにかけられ、
 咋日は遠い昔となり、
 遠い昔が今となつた。
 天皇あやふし。
 ただこの一語が
 私の一切を決定した。
 子供の時のおぢいさんが、
 父が母がそこに居た。
 少年の日の家の雲霧が
 部屋一ぱいに立ちこめた。
 私の耳は祖先の声でみたされ、
 陛下が、陛下がと
 あえぐ意識は眩(めくるめ)いた。
 身をすてるほか今はない。
 陛下をまもらう。
 詩をすてて詩を書かう。
 記録を書かう。
 同胞の荒廃を出来れば防がう。
 私はその夜木星の大きく光る駒込台で
 ただしんけんにさう思ひつめた

太平洋戦争が始まり、もはや抒情的な詩など書いている場合ではない、そこで代わりに叙事詩的な詩でもって、この未曾有の時を「記録」するのだ、というわけでしょう。

しかし、戦後となって振り返ってみれば、その自分の選択は大きな過ちであったということに気づかされます。『道程』、『智恵子抄』などで積み上げてきた豊かな抒情詩の世界を自らぶち壊してまで挑んだ「記録」は、ただ空虚な「不明の記録」に過ぎなかった、と。この場合の「不明」はイコール「暗愚」ですね。

何度も書きますが、こうした光太郎の真摯な反省などには目もくれず、詩「十二月八日」(昭和16年=1941)の一節をSNSに上げて喜んでいる幼稚なネトウヨには怒りを覚えます。今年の12月8日には、何ととある地方議会の議員のセンセイまで。ぞっとします。

また、「暗愚小伝」中の「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」についても、それこそが「暗愚」だったと光太郎が書いているのに、それが理解できず「光太郎、すばらしい!」と言っている輩も……。頭を抱えたくなります。






新作映画の情報です。

火だるま槐多よ

上 映 : 東京都  K’s cinema    12/23(土)~
      神奈川県 横浜シネマリン  2/10(土)~
      栃木県  宇都宮ヒカリ座  1/26(金)~2/1(木)
      長野県  千石劇場     1/5(金)~1/18(木)
           上田映劇     2/16(金)~
      愛知県  シネマスコーレ  時期調整中
      大阪府  第七藝術劇場   1/6(土)~
      京都府  アップリンク京都 1/19(金)~
出 演 : 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 田中飄 佐野史郎
監 督 : 佐藤寿保

映画『火だるま槐多よ』は、22 歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。

あらすじ
 大正時代の画家・村山槐多の「尿する裸僧」という絵画に魅入られた法月薊(のりづき・あざみ)が、街頭で道行く人々に「村山槐多を知っていますか?」とインタビューしていると、「私がカイタだ」と答える謎の男に出会う。その男、槌宮朔(つちみや・さく)は、特殊な音域を聴き取る力があり、ある日、過去から村山槐多が語り掛ける声を聴き、度重なる槐多の声に神経を侵食された彼は、自らが槐多だと思いこむようになっていたのだった。
 朔が加工する音は、朔と同様に特殊な能力を持つ者にしか聴きとれないものだが、それぞれ予知能力、透視能力、念写能力、念動力を有する若者4人のパフォーマンス集団がそれに感応。彼らは、その能力ゆえに家族や世間から異分子扱いされ、ある研究施設で”普通”に近づくよう実験台にされていたが、施設を脱走して、街頭でパフォーマンスを繰り広げていた。研究所の職員である亜納芯(あのう・しん)は、彼らの一部始終を観察していた。
 朔がノイズを発信する改造車を作った廃車工場の男・式部鋭(しきぶ・さとし)は、自分を実験材料にした父親を殺そうとした朔の怒りを閉じ込めるために朔のデスマスクを作っていた。薊は、それは何故か村山槐多に似ていたと知り…

村山槐多(むらやま・かいた)
 1896~1919大正時代の日本の画家で、詩人、作家でもある。
 従兄の山本鼎(画家)に感化され画家を志し、中学生(旧制)の頃より美術、文学に異彩を発揮。ガランス(深紅色)を多用した独特の生命力に溢れた絵画は、二科展、日本美術院展などに入選し、異色作家として注目されたが、破滅的な放浪生活の末、流行性感冒で1919年2月20日死去。
 絵画の主要作に「カンナと少女」「湖水と女」「尿する裸僧」など。詩集に「槐多の歌へる」(遺稿集)など。小説に「悪魔の舌」など
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光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとした作品です。ただし、槐多自身を主人公としているわけではなく、槐多の精神に感応した現代の若者がさまざまな事件に巻き込まれ……というストーリーのようです。

したがって、光太郎も登場しないと思います。ただ、過去に槐多が見た風景、的なシーンがあればそこに光太郎の姿があるかもしれませんが。





タイトル「火だるま槐多よ」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から。

   村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

昭和10年(1935)というと、大正8年(1919)の槐多死去から15年以上経っています。光太郎、翌年にはやはり数十年前に亡くなった碌山荻原守衛をテーマにした詩「荻原守衛」を書きました。なぜこの時期に相次いで古い友人たちを唐突とも思えるタイミングで詩に謳ったのか、不思議です。

ところで、X(旧ツイッター)上で、「火だるま」がトレンド入りしていました。
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てっきりこの映画のからみかと思い、「おお!」という感じでしたが、さにあらず。実はこういう件で、笑いました。
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笑っている場合ではないのかもしれませんが(笑)。

X(旧ツイッター)といえば、当会アカウント、「映画「火だるま槐多よ」公式」さんがフォローして下さいました。ありがとうございます。
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というか、さっさとブログで紹介しろよ、ということでしょうか(笑)。

閑話休題。多くないのが残念ですが、ぜひお近くの上映館にてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の戦時中の詩について摘発云々の事はいささかも驚きません。先方の解釈次第にて如何やうにでも取扱はれるがいいと思つてゐます。小生の詩は多く戦争によつて触発された人間美をうたつたものですが此際解明などしたくもありません。


昭和20年(1945)12月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

この年12月8日、日本共産党が開いた「戦争犯罪人追及人民大会」で、光太郎もリストアップされたことに関わると思われます。結局、光太郎は公的には戦犯として訴追されることはありませんでした。しかし、自分の詩を読んで戦場で散華していった多くの前途有為な若者たちがいたことを知るにつけ、私的に自らを罰する方向に梶を切っていきます。そうなるまでまだ少し時間を要しますが。

始まってしまっている展覧会ですが、昨日、気が付きました。

大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉

期 日 : 2023年11月15日(水)~2024年1月14日(土)
会 場 : 大倉集古館 東京都港区虎ノ門2-10-3
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、
      12/29~12/31 ※年始は1月1日より開館します
料 金 : 一般 1,000円 大学生・高校生 800円 中学生以下 無料

今から150年前の明治6(1873)年10月、大倉喜八郎によって大倉組商会が設立されました。大倉組商会は後に15財閥の一つに数えられる大企業に成長します。本展では大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示し、詩作や書の贈答によって結ばれた交流の様を展観いたします。

大倉集古館には、大倉喜八郎と交流をもった中国清時代や、明治大正の偉人たちの書が所蔵されています。彼らは折に触れ歌を詠み、それを贈り合いました。また、喜八郎自身は、光悦流と称する自らの書風によって歌を書きあげ、嫡子の喜七郎は、松本芳翠に書を学び、友とともに漢詩を作り軸に仕立てました。大倉財閥150年をめぐる偉人たちの交流の跡を示す書の数々を展示いたします。
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はじめ、各地に同型のブロンズがある光太郎作の「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出ているのかと思ったのですが、さにあらずでした。出品リストによれば、展示されているのはそちらを元に光太郎の父・光雲が制作した木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は大倉の号です。
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リストでは光雲・光太郎合作となっています。現に生きている人物の肖像彫刻はやや苦手としていた光雲、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを見ながら木彫にすることがあって、この像もその一つ。法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもその手法で制作されています。また、塑像となると、まるまる光太郎が代作した作品が4点ばかり確認できています。

光太郎はこんなことを書き残しています。

 首は可成作つたが、半分以上は父の仕事の下職のやうにしてやつてゐたから、半ば父の意志が入つて居り、数は沢山拵へたけれど自分の作には入らない訳だ。私が粘土で原型を拵へても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀されて了ふ。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵へたものだが、出来上つたものはまるで元のものとは違ふ。(「回想録」昭和20年=1945)

ある意味、仕方のないことだと思いますが。

ところで、この書きぶりだとまだ同様の作がたくさんあるような感じですね。個人の肖像などで知られていない例が相当数あるのかもしれません。

「大倉鶴彦翁夫妻像」、二十数年前に一度拝見しましたがそれ以降目にしておりません。今月末に上京する予定がありますので、その際に、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野心平さんの事大に心配してゐたところ、おてがみに同封の同君のテガミ拝受、又おてがみによりて草野夫人や子供さん達が郷里にかへられて居る事を知り、なつかしく存じました。


昭和20年(1945)11月6日 川鍋東策宛書簡より 光太郎63歳

戦時中、中国にいた心平の消息が終戦後にまるでわからず、気を揉んでいたところにもたらされた心平無事の報。心平にしても、光太郎が岩手に疎開し、そのまま居着いているとは夢にも思っていなかったため、連絡が取れなかったのでしょう。

心配は翌年3月には復員、9月に光太郎の隠棲していた太田村を訪れ、再会を果たします。

キーワード「高村智恵子」でヒットしました。神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さん記事。

小田原在住天羽間さん 切り絵の原画展 東口図書館で10日まで

 小田原市曽比在住のイラストレーター天羽間(あまはま)ソラノさん(61)が12月10日(日)まで、小田原駅東口図書館で切り絵イラストの原画展を開催している。
 天羽間さんは洋画家の高村智恵子の切り絵作品に感銘を受けて、2005年から切り絵の創作を開始した。06年にギャラリーコンペで賞を初めて受賞した後、化粧品メーカー「資生堂」の宣伝広告物や本の装幀イラストなどの製作を行ってきた。
 原画展ではこれまで製作してきた作品約30点が展示されている。天羽間さんは「たくさんの人に見に来ていただきたいです」と話している。午前9時から午後6時(最終日は4時)。問い合わせは同館【電話】0465・20・5577。
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展覧会詳細は以下の通り。

天羽間ソラノ 切り絵イラスト原画展

期 日 : 2023年11月28日(火)~12月10日(日)
会 場 : 小田原駅東口図書館 多目的スペース 神奈川県小田原市栄町1-1-15
時 間 : 午前9時~午後6時 最終日は午後4時まで
料 金 : 無料

小田原市在住で、本の装丁イラストなどで活躍中の天羽間ソラノさんの切り絵イラスト原画展を開催します。細密で美しい切り絵をぜひ見に来てください。
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天羽間氏という方、当方寡聞にして存じ上げませんでしたが、各種デザインの多方面で活躍なさっている方だそうです。調べてみましたところ、プロフィール的なページに確かに「2005年 高村智恵子が精神分裂病を発症した後に、切り絵細工を始めた作品に感銘を受け、「折り紙」を使ったシンメトリーの切り絵の創作を開始する。」という記述がありました。

智恵子紙絵からのインスパイアというと、もろに智恵子の紙絵や油絵、『青鞜』の表紙絵などをモチーフとした切り絵等を発表されている谷澤紗和子氏が思い浮かびます。天羽間氏、谷澤氏とは異なり、智恵子作品そのものをモチーフとされているわけではないようですが。

上記画像の作品もおそらくシンメトリーで制作されているようです。その精緻さに舌を巻かされます。

もう会期が明日までとのことですが、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

十月十七日に此村に移転してからまだ分教場(風の又三郎そつくりの学校です)に御厄介になりながら毎日小屋に通つて雑作を自分で作つてゐます。昨日は炉の自在カギをつくりました。今度は井桁にかかります。


昭和20年(1945)11月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。嬉々として大工仕事に精を出している様子がうかがえます。この頃詠んだ光太郎の句に「新米のかをり鉋のよく研げて」という吟があります。いい句ですね。
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