カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

いわゆる「超絶技巧」系の展覧会で、光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA

期 日 : 2023年9月12日(火)~11月26日(日)
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号 三井本館7階
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(但し9月18日、10月9日は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)
料 金 : 一般 1,500(1,300)円 大学・高校生 1,000(900)円
      ( )内団体料金 中学生以下 無料

 三井記念美術館を皮切りに2014年から2015年にかけて全国を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展、2017年から2019年に全国巡回した「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展で、多くの人々を魅了した「超絶技巧」シリーズの第3弾。本展では、金属、木、陶磁、漆、ガラス、紙など様々な素材を用い、孤独な環境の中、自らに信じられないほどの負荷をかけ、アスリートのような鍛錬を実践している現代作家17名の作品、64点を紹介します。いずれも単に技巧を駆使するだけでなく、「超絶技巧プラスα」の美意識と並外れたインテリジェンスに裏打ちされた作品をセレクトしました。
 また超絶技巧のルーツでもある七宝、金工、漆工、木彫、陶磁、刺繍絵画などの明治工芸57点もあわせて展覧します。
 明治工芸のDNAを受け継ぎながら、それらを凌駕するような、誰にも真似できないことに挑戦し続ける作家たちの渾身の作品を、ぜひその目でお確かめください。
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メインは現代の作家さんたちによる超細密工芸ですが、そのルーツということで、明治工芸等も出ています。光雲作品は「白衣観音像」。その他、光雲と並び称される石川光明、光雲高弟の一人・米原雲海の作なども。出品目録はこちら
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同展、今年2月から全国巡回が始まっており、三井記念美術館さんで4館めです。

 岐阜県現代陶芸美術館 2023年2月11日(土・祝)〜4月9日(日)【終了】
 長野県立美術館 2023年4月22日(土)〜6月18日(日)【終了】
 あべのハルカス美術館 2023年7月1日(土)〜9月3日(日)【終了】
 富山県水墨美術館 2023年12月8日(金)〜2024年2月4日(日)
 山口県立美術館(予定) 2024年9月12日(木)~11月10日(日)
 山梨県立美術館(予定) 2024年11月20日(水)~2025年1月30日(木)

長野展あたりで光雲作品が出ているらしいという情報を得ていたのですが、詳細が不明でいるうちに失念していました。ひところの「超絶技巧」ブームもだいぶ下火になったような感もあり、これまでの巡回、あまり話題にならなかったような気もしています。

ところで、光雲といえば、当方は拝見しませんでしたが、昨夜、テレビの某人気クイズ番組で光雲の「老猿」が問題に出たそうです。作者名として光雲を問う問題だったようですが(違っていたらすみません)、それに対しX(旧Twitter)上で「難問過ぎる」という御意見と「わかって当然」という御意見と、半々くらいだったでしょうか。個人的には「日本人としてマストの知識でしょ」と思うのですが……。ちなみにその放送中あたりから、そのあおりで当ブログへのアクセス数が跳ね上がりました(笑)。

閑話休題、「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」。今後の巡回を含め、お近くの会場にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生例の通り光の一字を彫つていただければ仕合に思ひますが、一字分のお礼ではすまない事に存じますゆえ、臨機幾字分かの割になりましてもかまひません、まづはお願まで


昭和15年(1940)5月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

この後、光太郎が終生愛用した「光」一文字の印を、宮崎を通じて中国の画家・書家・篆刻家の斉白石に依頼したことに関わります。昭和20年(1945)には駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲で全焼しますが、この印は彫刻刀などの道具類、智恵子ゆかりの毛布等と共に防空壕に入れて置いて難を逃れたようです。

横浜から、現代アートの展覧会情報を。既に始まってしまっていますが……。

新・今日の作家展2023 ここにいる―Voice of Place

期 日 : 2023年9月16日(土)~10月9日(月・祝)
会 場 : 横浜市民ギャラリー 横浜市西区宮崎町26番地1
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 「新・今日の作家展」は、横浜市民ギャラリーが開館した1964年から40年にわたり開催した「今日の作家展」を継承した展覧会で、同時代の表現を紹介・考察しています。今年度は「ここにいる―Voice of Place」を副題に2名のアーティストを紹介します。
 来田広大は、土地や場所と人との関係を探るため、山等におけるフィールドワークをひとつの拠点としています。そこから臨む風景を地図と捉え、作品に対峙した際「今ここにいる」という自覚を導く、チョークを用いた制作を中心に行っています。古橋まどかは、自身に関わる地域や場所の中にある自然や人工物の変遷や軌跡に着目します。自らの経験との関係性を掘り下げ、リサーチをもとに立体や映像、収集物を用いたインスタレーションを発表してきました。
 私たちはみな、どこかの場所や土地に関係しながら今ここにいます。対人距離や移動に制限のあったコロナ禍を経た今、2名の作品に相対することは、場や土地が内包する時間、人びとや生物の身体や記憶等に思索を巡らせ、自己や他者に対する内的な気づきをもたらすことでしょう。

[出品作家]
来田広大、古橋まどか

※展覧会にあわせて事前収録した作家2名のインタビュー映像をWebおよび会場で公開の予定です。
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出品作家お二人のうち、来田広大氏。「智恵子抄」インスパイアで、令和2年(2020)には福島県いわき市で「来田広大個展「あどけない空」KITA Kodai Solo Exhibition “Candid Sky”」、同3年には都内で「あどけない空#2 The artless sky #2」を開催。後者は拝見して参りました。

その際に出品された映像作品《東京には空がない (Rooftop Drawing)》が、今回も出ているとのことです。
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YouTube上に予告動画。


来田氏へのインタビューも。12:50頃から「あどけない空」として、光太郎智恵子に触れて下さっています。


ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お電話の趣により、執筆をつづけて居りましたがどうしてもまとまりさうもありません。今度はわざわざ御来訪の上のおたのみだつたのに甚だ不本意ですが右御諒承下さい、 今年十月は智恵子の三回忌になりますので出来ればその頃出させていただければ一番気持が済むやうに思はれます。智恵子に話しかけるやうに書けるかと思ひますから。


昭和15年(1940)4月28日 栗本和夫宛書簡より 光太郎58歳

栗本和夫は『婦人公論』編集者。同誌のこの年12月号に載った随筆「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)に関わります。のち、詩集『智恵子抄』に転載されましたが、いかにも苦しみつつ書き足し書き足ししながら書いたというのがわかる文章です。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

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美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
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劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
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円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
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『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
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光太郎の揮毫は題字のみです。

テレビ番組の放映情報です。

まず再放送。

再 にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 9月21日(木) 15:35~15:45  9月23日(土) 07:00~07:10

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

昨日が本放送。これまでに番組内で使われた高杉真宙さんと津田健次郎さんの朗読をまとめて流す回です。7月に放映された高杉さんによる「あどけない話」(昭和3年=1928)を含みます。
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続いて、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。珍しく、相次いで二つの番組で取り上げられます。

四大化計画 〜世界は3つで語れない〜 教養バラエティー「未完成作品」

地上波NHK総合 2023年9月20日(水) 22:00~22:45

内村光良司会の知的教養バラエティー。世界の三大〇〇に4つ目を提案して“四大化”してしまおう!人類史に残しておくべき、完成を凌駕する「未完成」の芸術的魅力とは!?

あなたの好奇心をゆさぶる知的エンタメ!未完成でありながら輝きを放つ作品たちを深堀り!世界初!未完成なのに世界遺産「サグラダ・ファミリア」、20世紀を代表する作家カフカの未完の最高傑作「城」、天才彫刻家ロダンの人生を映す代表作「地獄の門」▽世界の小沢の人生観を変えた日本漫画の金字塔VS.強火担・中川翔子による超有名アクション映画▽ジャッジするのはいとうせいこう、宇垣美里、片桐仁、川島明、ニッチェ近藤

【出演】内村光良,小沢一敬,中川翔子,いとうせいこう,宇垣美里,片桐仁,川島明,近藤くみこ,【語り】甲斐田裕子,成田剣
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通常時、「歴史探偵」が放映されている枠です。この日は「歴史探偵」がお休みで、単発のこの番組が入ります。

もう1件。

ねこのめ美じゅつかん 31歩め 「考える人」は何も考えていない!?

地上波NHK Eテレ 2023年9月21日(木) 08:25〜08:35 
 再放送 9月23日(土) 11:30〜11:40 9月26日(火) 15:45〜15:55

キャッチュアイの2匹が静岡県立美術館で目にしたのは「考える人」。実は、何も考えていなかったのではないかと言い出す弟子ネコにボスもびっくり!一体どういう事なのか?

19世紀フランスを代表する彫刻家、オーギュスト・ロダンの傑作「考える人」。その造形を見てリアルだなあと感想を漏らすボスネコに対し、弟子ネコはそうではなく、“無理している”からこそ迫力があるのだと語り出す。さらにはそもそも、「考えていない人」かも知れないと、ボスを混乱させ始める。「考える人」にこめられたヒミツに迫る。そして古川琴音の「画家のうた」ではドラクロワの気になる超有名絵画を取り上げる。

【声】カミナリ,【出演】古川琴音
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「ねこ目線」で有名美術作品を見るという番組、一昨年に始まり、何度か拝見しました。笑えます。しかし、笑えるだけでなく、なかなかの鋭い視点で感心もさせられました。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先般智恵子逝去の節は早速御弔電をいただき感謝したしました。匆々の間に日を過ごし思はず延引いたしましたが右厚くお礼申上げます。 お返し ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアルキシ


昭和13年(1938)10月28日 山崎斌宛書簡より 光太郎56歳

山崎斌(あきら)は染織工芸家。「草木染」の命名者でもあります。心を病む前、駒込林町のアトリエ兼住居で機織りにも取り組んでいた智恵子とも交流がありました。

山崎からの弔電には「ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)」という短歌が打電されていました。

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌が、やはり電報のスタイルでしたためられました。無理くり書き下せば、(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)。この歌を読んだ山崎、「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」とも回想しています。

「絵手紙」の創始者、小池邦夫氏が先月末に亡くなりました。今月初めには訃報が出たようですが、気づきませんでした。今朝の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」に氏が亡くなったことが書かれていて知った次第です。

共同通信さん配信記事。

書家の小池邦夫さん死去 絵手紙を普及、82歳021

 手がきの素朴な絵と文字で心情を伝える絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫(こいけ・くにお)さんが8月31日午後3時57分、胃がんのため東京都狛江市の自宅で死去した。82歳。松山市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京学芸大書道科で学び、1985年に日本絵手紙協会を設立。「ヘタでいい、ヘタがいい」を合言葉に絵手紙の普及に励み、初心者の指導にも力を入れた。2021年に文化庁長官表彰。著書に「小池邦夫絵手紙50年」など。

小池氏故郷のテレビ愛媛さん。

絵手紙の創始者 松山出身の小池邦夫さん 胃がんのため死去 葬儀は近親者で

絵手紙の創始者で松山市出身の小池邦夫さんが、8月末に亡くなっていたことが5日までに分かりました。82歳でした。
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小池さんは8月31日に胃がんのため都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。葬儀は近親者のみで執り行われる予定です。
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小池さんは松山市生まれで松山東高校から東京学芸大学へ進学。19歳から絵手紙を描き始め1985年に日本絵手紙協会を設立し、テレビなどによる発信で全国に文化を広げました。
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また2021年には文化の振興に貢献したとして文化庁長官表彰を、去年は松山市文化スポーツ栄誉賞を受賞していました。
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小池さんの絵手紙はその時々に感じた感動を素直に表現。思いがそのまま相手に伝わるのが特徴でした。
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日本絵手紙協会は「故人の遺志を引き継ぎ、絵手紙の普及活動に取り組む」としています。

氏が主宰されていた日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。氏が光太郎ファンだったようで、繰り返し光太郎特集を組んで下さいましたし、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていました。
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また、氏の編著等でも、光太郎の絵手紙をご紹介下さったりも。

『心を贈る絵手紙入門』(平成11年=1999 日本放送協会出版)。当時のNHK教育テレビで放映されていた「趣味悠々」のテキストです。
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『芸術家・文士の絵手紙』(平成16年=2004 二玄社)。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子葬儀も無事終了、明日は早や三七日となりました、明日は春子と一緒に墓参をいたします、


昭和13年(1938)10月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎57歳

智恵子実母に宛てた書簡から。「春子」は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めた長沼春子です。

葬儀は10月8日、駒込林町のアトリエ兼住居で執り行われました。その様子を謳った詩。約3年後、詩集『智恵子抄』刊行に際し、書き下ろされました。
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   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

画像は最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで作ってみました。

9月10日(日)、最後の訪問先、東京国立博物館さんに着きました。
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常設展的な総合文化展の中で、光太郎の父・光雲や光太郎と交流のあった僧侶・河口慧海をメインとした「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」が開催中です。
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チベットからの将来品などが中心ですが、サムネイル的に使われているのは、光雲の弟子・藤田光田作の慧海像。
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光太郎も慧海像(塑像)の制作に着手したのですが、残念ながら未完のまま戦災で焼失したと考えられ、作品の現存が確認できていません。
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これが観たかったので足を運びました。河口が持ち帰った白檀に光雲が彫った釈尊像。
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同趣旨の作が平成28年(2016)、慧海の出身地・大阪堺市で開催された「河口慧海生誕150年記念事業 慧海と堺展」に出たのですが、そちらは念持仏のような小さいものだったようです。

もう1点、光雲原型で、光雲三男の豊周による鋳造仏。やはり釈尊ですが、「天上天下唯我独尊」のポージングをとった誕生仏です。
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制作年代がはっきりしないのですが、いい感じですね。

他は将来品の仏像等。世界史的には「仏像」というものの源流に近いと思われますが、当方、やはり日本風にアレンジされた仏像の方に親しみを感じます。
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拝観後、他の展示室もざっと拝見。

第18室は「近代の美術」。同館目玉の作の一つ、光雲の「老猿」が時折出る部屋です。残念ながら「老猿」はお休み中。
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しかし、光太郎の親友・碌山荻原守衛の「北条虎吉像」と「女」が出ていました。
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「女」は最近の鋳造だそうですが、古色を着けての仕上げ。
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石膏原型からの3D計測によって作られたそうで、今後、ブロンズの鋳造はこの方式が主流になっていくのかな、と思いました。

9月12日(火)から展示替えとなり、残念ながら「女」はお休みに入っています。逆に高村真夫筆の「河口慧海師像」が新たに出ています。高村は新潟出身の画家。たまたま同じ「高村」で、光太郎等との血縁関係はありません。

「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」は10月9日(月)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それから小生の木彫小品の事ですが誌上で紹介して下さる御厚意をありがたく存じます、小生の彫刻は数が多く出来ないので割に高く譲つてゐるので如何かと思ひますが、小品例へば蟬とか小果とかいふ類のものを百円にしてゐます、又丸額(一尺二寸位)の「シシ合ひ彫り」を百二十円位にしてゐます、やすく頒ちたいのですが手間がかかるのでどうしてもその位になります、床の間へ置くやうな所謂置物といふやうな大きさになると五百円以上になります、心ぐるしいけれどやむを得ません、


昭和12年(1937)11月9日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳
大熊座
翌年、更科が発行していた雑誌『大熊座』に載った「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告に関わります。

広告の「フシシ合ひ彫り」は「シシ合ひ彫り」の誤植。漢字では「肉」と書いて「しし」、レリーフのことですね。

広告は出したものの、昭和12年(1937)の時点では、木彫の作品はほとんど手がけなくなっていました。僅かに未完に終わった「鯉」が知られている程度です。ただし、知られざる木彫作品がどこかにひっそりと眠っている可能性も否定できません。

9月10日(日)、京橋のアーティゾン美術館さんを後に、地下鉄を乗り継いで千代田区の半蔵門ミュージアムさんへ。こちらでは「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が11月5日(日)まで開催中です。
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日本画家・堅山南風が関東大震災を描いた「大震災実写図巻」全3巻を中心に、横山大観、棟方志功ら同時代の作家の作品(そちらは震災とは無関係)が展示されています。
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南風は震災当時巣鴨に住んでいましたが、翌日から紙と矢立を手に東京市内、特に被害の大きかった下町方面を中心にスケッチをして廻り、二年後に31葉の絵を全3巻の絵巻として完成させました。ただし今回の展示、31葉全てが見られるように広げられているわけではありませんでした。

日本画ならではの墨が効果的に使われ、恐ろしいまでの臨場感でした。浅草凌雲閣(通称・十二階)が倒壊する様子(空中に投げ出された人まで描き込んでありました)などは伝聞や想像を元に描かれたものでしょうが、大半は自身の見た惨状。ドサクサに紛れて追い剥ぎをする人物なども描かれ、人間の暗部も描かれています。しかし、上中下と巻が進むにつれ、助け合って復興に向かう人々や、市外からの支援の様子なども題材となり、最後は犠牲者への鎮魂の祈りを込めた仏画で締めくくられています。

図録は刊行されていませんでしたが、4枚だけポストカードが販売されていました。

時系列順に。
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残念ながらポストカードになっていませんでしたが、目当てはフライヤーにも使われていた中巻の「貼札ヲ着タ銅像」。光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の西郷隆盛像が描かれています。

現物は撮影禁止だったものの、エントランスの大看板にほぼ実物大の画像があしらわれていて、そちらを撮りました。
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この西郷像の姿、当時の動画にも収められていたり、現代でも森まゆみ氏の新著『聞き書き・関東大震災』では表紙に使われていたりと、いわば関東大震災を象徴するアイコンともいえるような感じですね。

再び地下鉄を乗り継いで、上野へ。

100年後のリアル西郷さん。
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こちらが目的で上野に行ったわけではなく、「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」を拝観するため東京国立博物館さんに行くのが目的でしたが、ちょうど通り道だったもので。

というわけで、明日はトーハクさんをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今年のお初穂の餅は殊におめでたく早速亡父の霊前にもお供へいたしました 父光雲はすべてのたなつものの類に敬虔の念を持つて居りました 又納豆は小生の好物とて是又ありがたく頂戴いたしました


昭和12年(1937)11月6日 長谷川吉三郎宛書簡より 光太郎55歳

一昨日のこの項でご紹介した色紙二点の礼として、山形の銀行家・長谷川から餅と納豆を贈られた礼状の一節です。

「たなつもの」は穀物。「納豆は小生の好物」だったのですね。そういえば、花巻高村光太郎記念館さん前の「詩の森」さんで出していた「光太郎そば」には、「光太郎の好物だった」ということで納豆がトッピングされていました。「ほんとかよ?」と思っていたら本当でした(笑)。

ちなみに「詩の森」さん、先月末で閉店とのこと。残念です。しかし、キッチンカーで移動販売をなさっている方が「光太郎そば」を受け継ぐと言うお話もあるようです。

一昨日、久々に上京し、美術館さん・博物館さん三館を巡りました。

まずは京橋のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)さん。こちらでは「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展が開催中です。

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同館では旧ブリヂストン美術館さんだった時代、昭和28年(1953)から昭和39年(1964)にかけ、17本の「美術映画シリーズ」を制作し、それらを複数のモニターで一挙上映、取り上げられている作家の作品等を併せて展示するというもの。

第3作が「高村光太郎」。昭和28年(1953)に撮影され、公開は翌年でした。
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前半は昭和28年(1953)の11月26日と27日、一時帰村(前年に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京していました)した花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)とその付近での撮影。
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光太郎彫刻の紹介が挟まり、後半はそれより前の同年5月25日、中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景。
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こちらは現代でも様々な美術館さん、文学館さん等で上映される機会が多く、また、回りまわって当方手元にはDVDも存在し、少なくとも数十回拝見しています。

そこで、はっきり言うとあまり期待せずに出かけました。

ところが行ってみてびっくり。もう1本、光太郎が登場する作品が存在したのです。題して「美術家訪問」第7集。「高村光太郎」よりだいぶ後、光太郎歿後の昭和33年(1958)制作でした。
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これは存じませんでしたが、「「高村光太郎」からの使い回しの動画を使っているんだろう」と思いました。ところが、実際に見てみて驚天動地でした。光太郎の部はぴったり2分間。撮影日は同一と思われるものの、使い回しのカットはほとんどなく、初見の映像のオンパレードだったのです。尺の関係などがあって「高村光太郎」で使えなかった映像をもったいないから使ったということでしょう。

「高村光太郎」同様、花巻郊外旧太田村のシーンから。
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作品紹介。これも「高村光太郎」にはなかった「鯰」。
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そして中野の貸しアトリエ。
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一緒に映っているご婦人は、貸しアトリエの大家さん・中西富江氏(水彩画家・中西利雄未亡人)と思われます。

帰って来てから気がついたのですが、ネット上でこの動画が公開されていました。


ぜひご覧下さい。

それから、同じく「美術家訪問」の第1集(昭和29年=1954)には、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周も。これも存じませんでした。
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一緒に映っているのは君江夫人でしょうか。こちらは残念ながらネット上には公開されていません。

全17本のラインナップは以下の通り。取り上げられている作家は全61名です。
伊東深水  川島理一郎 斎藤与里  高村豊周  熊谷守一  平櫛田中  川端龍子
児玉希望  石井柏亭  近藤浩一路 小絲源太郎 木村荘八  北村西望  辻永
中川一政  田辺至   松林桂月  山下新太郎 山口蓬春  梅原龍三郎 中村岳陵
朝倉文夫  中沢弘光  白瀧幾之助 前田青邨  金山平三  奥村土牛  西山翠嶂
堅山南風  飯塚琅玕斎 徳岡神泉  坂本繁二郎 安田靫彦  和田三造  福田平八郎
有島生馬  松田権六  横山大観  高村光太郎 正宗得三郎 結城素明  石川寅治
榊原紫峰  富本憲吉  吉田三郎  小野竹喬  寺内萬治郎 堂本印象  中村研一
鏑木清方  川合玉堂  小杉放庵  野田九浦  斎藤素巌  中川紀元  岩田藤七
清水多嘉示 森田元子  鳥海青児  山本豊市  林武
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あらためて貴重な映像の数々だな、という感じです。全ては拝見しませんでしたが、それぞれの作家の制作風景、鬼気迫るものさえ感じさせられました。しかし、戦前に亡くなった、光太郎の父・光雲や光太郎の親友・荻原守衛などの動画が残っていないのは返す返す残念だな、とも思いました。

それぞれの作家の作品等。
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光太郎の「手」(大正7年=1918)は、今日からの展示です。

「美術映画」シリーズのパンフレットなども展示されていました。
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「これは欲しい」と思いました(笑)。

ミュージアムショップで図録を購入。
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表紙は光太郎とも交流の深かった梅原龍三郎です。

フィルムを象った4枚組のしおりも購入しました。右上に光太郎も居ます。
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もったいなくて使えませんが(笑)。

拝観後、地下鉄を乗り継いで半蔵門ミュージアムさんでの「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展へ(ちなみにアーティゾンさんでは堅山の動画もありました)。明日、そちらをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

中原君の夭折は残念でした、


昭和12年(1937)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎55歳

「中原君」は中原中也。その第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の装幀・題字は光太郎でした。

コロナ禍前は毎年ご紹介していました。おそらく4年ぶりの本格開催と思われます。しかも記念大祭だそうで。

お三の宮日枝神社御鎮座350年記念大祭~お三の宮秋祭り~

期 日 : 2023年9月15日(金)~17日(日)
会 場 : お三の宮日枝神社 神奈川県横浜市南区山王町5-32
      イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
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 15日(金) 例祭(式典)   午後5時 斎行
 16日(土) 神社大神輿御巡行 午前9時 出御祭
 17日(日) 町内神輿連合渡御 午前9時 出発式
  〜神賑行事〜
 16日(土) 午後5時居合奉納演武(横浜無外会)
 17日(日) 午後5時和太鼓 奉納演奏(ヒビカス横浜)
 両日 日中 お囃子奉納演奏(横浜やっしゃ鯛)
     19時 奉納演芸会(お三の宮奉納演芸委員会)
 終日縁日・献灯

「お三の宮」「おさんさま」として親しまれている日枝神社の例祭で、《かながわのまつり50選》にも選ばれています。横浜随一の大神輿「千貫みこし」による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小30〜40基にも及ぶ町内神輿連合渡御が神社からイセザキ町へと練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。境内では神賑行事として、奉納演芸会やお囃子・和太鼓・居合演武の奉納などが催され、献灯や縁日で賑わいます。

今年(令和5年)は、御鎮座350年の佳節を迎えます。皆さまと共に奉祝の誠を捧げるべく、御鎮座350年記念大祭を盛大に斎行したいと存じます。
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イセザキモールさんのサイトによれば、光雲が装飾彫刻を担当した「火伏神輿」がモール内に展示されるそうです。

9月15日(金)朝10時~夕方4時ころ007
伊勢佐木町1・2丁目【火伏の神輿】展示(有隣堂ヨコ、神酒所)

1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、伊勢佐木町町内会として高村光雲(上野、西郷隆盛像ほか)に制作を依頼しました。ちょうど100年前の1923年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたことから「火伏の神輿」と言われるようになりました。祭礼期間以外は、神奈川県立歴史博物館エントランスにて展示しています。

「火伏神輿」、以前に拝見に伺ったときはかつがれていましたが、今回は展示のみなのでしょうか? また、やはり光雲作の木彫獅子頭一対も併せて展示されていましたが、そのあたりも不明です。
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それにしても、またもや関東大震災がらみか、と、少し驚きました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

チヱ子には春子さんを附添にたのみました。今日お給料を看護婦会へ払ひました。

昭和12年(1937)1月21日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「春子さん」は長沼春子。智恵子実妹にして大正11年(1922)に30歳で早世したミツの遺児です。したがって、智恵子にとっては姪ですが、ミツの死後、智恵子の母・センが養女として届けましたので、戸籍上は妹の扱いでした。戦後、光太郎が間を取り持って茨城取手の詩人・宮崎稔に嫁ぎました。

当時の一等看護婦の資格を持ち、光太郎の依頼で、ゼームス坂病院に入院していた智恵子の付き添い看護にあたることとなりました。

春子の回想「紙絵のおもいで」より。

「昨日血を吐いたのですが大した事もないのですよ。」
とおっしゃって寒々としたソファーに寝ておられた。伯母の病院の地図を書いてくれたり、いろいろと今までの病状を伺い、お暇をした。翌日南品川ゼームス坂病院に行った。病院ではやはり看護服の方が働きよいだろうというので、服をきて行った。
 そうっとドアを開けて、
「伯母さま、御機嫌よう、春子です。」と声をかけた。変り果てた伯母の姿! 私は思わず胸をしめつけられ涙があふれてきた。
 じっと立って見ていた伯母は、
「啓助は死んだの?」
「はい死にました。」
 重ねて「修二は?」と二人の弟たちのことをきかれた。そののち三年あまり看護中身内の者のことを聞いたのはこの時だけであった。
(略)
 私はそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれはてた姿を見ては泣いた。ただ神に祈った。


三年あまり」は記憶違いで、実際には2年弱でした。春子が付き添いに入った頃、まだ紙絵制作は為されていませんでしたが、千羽鶴や紙灯籠などは作り始めていたそうです。
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都内で開催中の企画展です。

楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス

期 日 : 2023年9月2日(土)~10月15日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時 間 : 午前11時 ~ 午後6時 金曜日は午後7時まで開館
休 館 : 月曜日、9月19日(火)、10月10日(火)
      9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開館
料 金 : 一般1,000円 高大生600円 中学生以下無料

 安らぎと自由の追求。
 忙しない俗世を離れ、清雅な地での隠遁生活を送りたいと願うのは、超高速の情報が飛び交う現代社会に生きる私達ばかりではありません。むかしの人たちも政治や社会のしがらみから逃れ、清廉な生活にあこがれたがために、自ら娯しみ遊戯の精神を忘れず、自由を希求する「自娯遊戯」の世界を描いた絵画や工芸品を求めたりしました。そのために、東洋の山水画には、生き方の理想や文学的なテーマが隠されていることが少なくありません。そこには、田舎暮らしのスローライフを求める「楽しい」隠遁から、厳しい現実を積極的に切り抜ける「過激な」隠遁まで、実に多種多様な隠遁スタイルが見いだせます。
 本展は、理想の隠遁空間をイメージした山水・風景や、彼らが慕った中国の隠者達の姿を描いた絵画作品とともに、清閑な暮らしの中で愛玩されたであろう細緻な文房具なども併せて展示いたします。中国の士大夫や日本の文人たちが抱いたマインドフルネス(安寧な心理状態)に触れることで、暮らしを楽しむ生の充実の一助となれば幸いです。

同時開催:特集展示「住友コレクションの近代彫刻」
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メインの「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」ではなく(そちらはそちらで優品がいろいろ出ているのですが)、同時開催としてひっそり行っている特集展示「住友コレクションの近代彫刻」で、光太郎の父・光雲作の「楠木正成銅像頭部木型」(明治26年=1893)が出品されています。

その名の通り、皇居前広場に立つ「楠木正成銅像」の頭部の木型です。像自体が巨大なものですので、頭部のみとはいえ、像高70㌢ほどの大きなものです。当方、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」、平成30年(2018)に小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」で拝見しました。

元々「楠木正成銅像」は、住友家の別子銅山開坑200周年という意味合いもあって奉納され、その関係でこの作品が住友コレクションに入っています。頭部以外の木型は行方不明となりました。
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他に光雲高弟の一人、山崎朝雲や東京美術学校での光雲の同僚にして盟友・石川光明、光太郎と交流のあった木内克の作なども出ています。
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また、「住友コレクションの近代彫刻」に絞った記念講演会も開催されます。

講師:野城今日子氏(渋谷区立松濤美術館学芸員) 定員:50名(予約制)

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日碑文の石刷り到着、彫刻の早く出来たのに驚きました。 文字の拙さは汗顔の至りでありますが、石屋さんの彫刻は大層やはらかにうまく彫れたと感心しました。 今部屋にかけて眺めて居ります。


昭和11年(1936)11月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎54歳

この年、宮沢家の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が届けられたことに対する返信です。同碑は全国に数ある賢治碑の第一号です。

石屋さん」は今藤清六。昭和21年(1946)、詩碑の誤字脱字の追刻の際にも鑿を振るいました。

昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

8月26日(土)の『毎日新聞』さんに、震災直後、貼り紙が無数に貼られた上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)の写真が半ページ使って掲載されましたが、NHKさんのニュース番組内でも同様の画像が流れました。

上野だけでなく、都内(当時は「東京府」でしたが)各所の被災の様子等でした。

関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。
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皇居外苑 二重橋前 ~ 被災者がバラックで避難生活
 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。100年前と現在の写真を動画で比較しています。皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。
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こちらには西郷隆盛像と同様に、光雲主任、チーム美校で制作した楠木正成像が既にあったのですが、西郷像のように伝言板的な使い方はされなかったのでしょうか。

日本橋 三越 ~ 建物火災も“ライオン像”は被害免れる
 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。100年前と現在の写真を比較した動画です。内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

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三越さんには、光雲作の「活動大黒天」が納められていましたが、たまたま金庫に保管されていて焼け残り、現在は屋上の三囲神社さんに奉納されています。

日本橋 ~ 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。
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隅田川 吾妻橋 ~ 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。
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隅田川べりは、明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場となった幾つかの料亭などがあった場所です。

浅草寺 ~ 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も
 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。
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浅草 仲見世 ~ 炊き出しや給付に向かう人々の列
 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

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浅草寺さんが焼けなかったのは、本堂裏手に広大な池があったためとも言われているようです。その池の中央にあった噴水には、光雲作の「沙竭羅龍王像」が配されていました。現在は本堂手前の手水舎に移転されています。

そして、西郷像。

上野公園 ~ 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難
 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。100年前の写真と現在を動画で比べてみました。体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。
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あの上野公園に50万人とは驚きでした。光雲はこの時、まだ存命でしたが、どう感じていたのでしょうか。

上野駅 ~ 多くの避難者がホームや線路にあふれる
 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。避難した大勢の人たちが写っています。内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
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明日も関東大震災関連で、新刊書籍をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

与謝野先生が御病気で中々御重態の事を一昨日平野万里さんからの電話ではじめて知り昨日慶応病院にお見舞い申上げました、一昨日が一番容態が悪く、昨日はよほど持ち直された御様子で此の分ならばまづ安心といふ事でありました、

昭和10年(1935)3月22日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

「与謝野先生」は光太郎の師・鉄幹与謝野寛。「よほど持ち直された御様子」とありますが、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきだったようで、3月26日には亡くなりました。死因は気管支カタルでした。

今日、9月1日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

『朝日新聞』さんでは、「(関東大震災100年)帝都被災、おののく文豪たち」と題し、光太郎の名はありませんでしたが、光太郎と交流のあった与謝野晶子、室生犀星、芥川龍之介らの文章等を紹介していました。それぞれ震災時の様子が生々しく記されたもので、貴重な証言記録です。
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光太郎が震災時の様子を書いたレポート類は確認出来ていません。しかし、直後には智恵子ともども震災に触れた提言を発表しています。

光太郎のものは、11月に雑誌『女性』第4巻第5号に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同月『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」(『中央建築』第2巻第5号 大正13年=1924に転載)がありました。いずれも留学中には都市計画にも多大な興味を持ち、自身で建築設計も行った光太郎ならではのものです。こちらをご覧下さい。

心を病む前の智恵子の提言も、2篇確認出来ています。

まず、やはり11月の雑誌『女性』に光太郎のそれと共に載ったアンケート回答「建設の根源は此処に在り――帝都復興に対する民間からの要求――」。

 期間を画して、一都市が思ひきり一掃されるとすれば、この激震の予想を、考量のすべてに入れる事はむしろ、当然すぎる事とおもふ。
 首都のあらゆるものが、僅か一世紀にも満たず煙りと消え、陰惨な墓場と化するやうなミゼラブルに、今後われわれは堪へようとするのか。国が歴史を持つやうに、都市の姿にも代々の人々の、堅実な精神と叡智との堆積が聳え輝くやう、そして世紀より世紀へ、累畳(るいでう)されなければ、われわれは文明に恥づべきである。
 ゴシツクやルネサンスが、永遠への、偉大な精神的観念に裏づけられる事なくして、あの優美と崇高の生ける姿を現はし得たであらうか。たとへサンマルコやサンピイトロの寺院また数々のフランスの本寺などが、われらの都に花さく夢想はしなくとも、せめてこの都をして永久に生かしめる確信によつて、すべての火は内に燃ゆべきであらう。少くともわれわれの全生命を傾けた、はるかな時代への忠実な寄与として、来るべきものを鼓舞し高め、更によき生命の胚胎の園生(そのふ)とするだけの覚悟がなくては。この考へが人々のこころに潜力となり地盤となつて、芽生えをもつ。
 眼をあげて高きものへの、趣味と憧憬(どうけい)とその不撓の力とをもつて、石をとれ、岩石を彫刻せよ。剛堅にしてしかも温かい生命を蔵する石材によつて、焼け失せ蝕まぬわが首都の衣裳となさしめよ。そして山嶽の威風と優美と、森林の荘厳と軽快と、大洋の自由と勢力とを理想せよ。
 如何に経済と機械と能率との問題に尽きてゐる事務的な、会社、商会、諸官省にしても、あの無味乾燥な、人をして重苦しい憂鬱の虜(とりこ)とするやうな洋風建築が、どこ迄もどこ迄も拡がつてゆく安価な木造家屋。失はれたわれらの東京の建築に、不朽のものとして真に哀惜に堪へないものが、幾何(いくら)そこにあつたであらう。恵まれない優越国の都であつた。
 今日創造される都市として、必然的な基本設備である上下水道、公園、街路、運河、筑港、交通機関、種々の区画、配置、防備其の他の設計については、もとより間然されないであらう。ただけちな制限を費用をおかずに遠大を期されたい。
 すべてを破滅し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新らしい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。


アンケート回答と言いつつ、かなりの長文です。震災発生時、智恵子は福島の実家に帰省中で、その後も東京は大変な状況だったこともあり、しばらく帰って来ませんでした。そこで、この文章、光太郎の代筆ではとも思ったのですが、読点の打ち方など、明らかに光太郎のそれとは異なります。建築についての提言内容などが光太郎の考えともかぶっているのは、光太郎の影響と思われますが。

もう一篇、おなじく11月の雑誌『婦人之友』に載ったアンケート回答「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
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言わずもがなですが、震災直後のドサクサに紛れ、憲兵大尉・甘粕正彦が、無政府主義者・大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一少年を惨殺した事件に関わります。野枝は智恵子とほぼ入れ違いに『青鞜』メンバーとなりましたし、光太郎は大杉等の活動に理解を示し、シンパに近い立ち位置でした。

ちなみに、ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子がそれを知っていたかどうか……。

昨年ドラマ化もされた村山由佳氏の小説『風よ あらしよ』などの影響で、もう少し大杉・野枝夫妻らの殺害について各種メディアで紹介されるかと思っていましたが、そうでもありません。いわゆる朝鮮人虐殺や「福田村事件」などについてはそれなりに取り上げられていますが(どこかの知事は相変わらずだんまりを決め込むようですけれど)。

100年経っても、防災に対する意識、大災害後の心構え等、学ぶべき点はたくさんありますね。

【折々のことば・光太郎】

智恵子入院後やはり同じ容態のやうです、十日毎に病院へ会計に参りますが家族の者は面会せぬ方がよいといふのでもう二十日以上もあひません。


昭和10年(1935)3月22日 齋藤セツ宛書簡より 光太郎53歳

セツは智恵子実妹。前年、九十九里浜で半年あまり智恵子を引き取ってくれていました。九十九里へは毎週のように見舞いに行っていた光太郎ですが、この書簡にあるように「家族の者は面会せぬ方がよい」と言われ(それを免罪符にしてしまっていたような気もしますが)、ゼームス坂病院へは会計に行くだけのことが多かったのは事実です。

当時としては最先端の精神科医療をうたっていた同院、その入院費用には前年に亡くなった光太郎の父・光雲の遺産が役立ちました。

もう8月も終わりですが、最近気がつきまして……。

戦時中から光太郎と交流があった埼玉県東松山市元教育長の故・田口弘氏が、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで、やはり光太郎と深い繋がりのあった彫刻家・高田博厚と意気投合。その結果整備されたのが、東武東上線高坂駅前から伸びる高田の彫刻群を配した「高坂彫刻プロムナード」。光太郎胸像(昭和35年=1960)も含まれています。

その光太郎胸像が、『広報ひがしまつやま』の今月号で取り上げられていました。
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不定期に掲載されている「絵子猫さんのアイテム探し」というコーナーです。
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作者は同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さん。サンリオさんやポケモン系などのお仕事のかたわら、市の母子手帳表紙なども手がけられています。絵子猫さんの手に掛かると、武骨な光太郎像が何ともメルヘンチック(笑)。

絵子猫さん、昨年は、同市で開催された「彫刻家 高田博厚展2022」の関連事業として、彫刻プロムナード設置作品の数点を描かれ、ご講演もなさいました。
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この際には、ぜひ光太郎胸像も描いていただきたいものだと思っていたのですが、実現していました。多謝。

5月号にはやはり新作の「憩い」。
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もうこうなると、プロムナードの全作品(32点)を描かれ、画集として出版(当然、市が補助をして(笑))していただきたいものです。

同市、昨年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した比企氏ゆかりの街(同市は元々は比企郡松山町でした)として脚光を浴び、さらに今年はWBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表チームの斬り込み隊長・ヌートバー選手の関係で有名になりました。お若い頃、ソフトボールをなさっていたヌートバー選手のお母さまが同市のご出身、現在もお祖父様とお祖母様は同市ご在住です。

「高坂彫刻プロムナード」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

チエ子は病勢ますます募るので知人の周旋で品川のゼームス坂病院といふ病院へ先月末入院させました、実に可哀想でありません、其後小生家事整理に日を送つてゐますがさびしさ極まりありません。


昭和10年(1935)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎53歳

心の病がもはやどうにもならなくなった智恵子、ついにその終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しました。
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知人」は、根津で貸家業を営んでいた津谷宇之助だと、津谷の子息が回想に残しています(『谷中根津千駄木』第69号 「津谷明治聞き書き 根津の旦那津谷宇之助と賢者河口慧海」平成14年=2002)。津谷は光雲と親しい間柄で、同院の顧問だったそうです。

都内から企画展情報です。

創造の現場―映画と写真による芸術家の記録

期 日 : 2023年9月9日(土)~11月19日(日)
会 場 : アーティゾン美術館 東京都中央区京橋1-7-2
時 間 : 10:00 〜 18:00 祝日を除く毎週金曜日は20:00まで
休 館 : 月曜日 祝日の場合は開館し翌平日は振替休日
料 金 : 一般1,200 円(ウェブ予約チケット)
      ※予約枠に空きがある場合、窓口販売チケット(1,500円)購入可

 1953 年、アーティゾン美術館の前身となるブリヂストン美術館は映画委員会を発足しました。「美術映画シリーズ」と冠し、1964年までに61人の芸術家を取材して17本の記録映画を製作しました。これらは梅原龍三郎(1888-1986)や高村光太郎(1883-1956)、前田青邨(1885-1977)と いった日本の芸術家たちの制作風景や日常の様子を記録した、大変貴重な映像資料です。プロジェクトの発案者は当館創設者石橋正二郎の長男、石橋幹一郎でした。映画委員会の委員長に就任した幹一郎は「本当に美術を愛し、理解に努力している人びとの助けとなり、また芸術の先達たちの動く肖像画を伝える」ことを念願し、事業を主導しました。その結果、1950年代に盛んになる美術映画において特に近代美術の分野で先駆的な役割を果たし、イタリアの国際映画祭で受賞するなど国内外で評価を得ました。

 また、近年当館は現代美術の現場を記録し続けた写真家、安齊重男(1939-2020)の作品を収集しています。安齊は自らを現代美術の伴走者と称し、1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本展では「美術映画シリーズ」の全貌をご紹介するとともに、その取材対象となった芸術家たちによる作品、そして安齊による写真作品を展観します。当館のコレクションに国内の美術館からの借用作品を加えた約80点で構成します。「美術映画シリーズ」と安齊作品とを並列することで、日本の近現代美術の制作現場を概観することにもなるでしょう。「創造の現場」を捉えた映画と作品の魅力をお楽しみください。

見どころ
1 ブリヂストン美術館映画委員会製作「美術映画シリーズ」を一挙公開
 ブリヂストン美術館は開館翌年の1953年から1964年までに61人の芸術家 を取材し17本の映画を製作しました。日本映画近代化の立役者ヘンリー小谷の甥で記録映画プロデューサーの高場隆史や、抽象画家の小谷博貞、青木繁の一人息子で尺八奏者の福田蘭童らが製作に携わり、記録性だけでなく芸術性にも配慮された内容でした。これまであまり紹介されてこなかったこれらの映画について、その全貌をご紹介します。

2 安齊重男によるアーティストたちの
制作現場を捉えた写真約30点を展示
 安齊重男は自らを現代美術の伴走者と称し、国内外のアーティストたちのポートレイトや制作現場を写真によって記録してきました。当館には安齊が生前自ら選んだ206点の写真作品が収蔵されており、それらのなかから特に石橋財団コレクションと関連の深い作家の肖像写真や制作風景などをおさめた約30点をまとめて展示します。

3 日本近現代美術の「創造の現場」を一堂に
 「美術映画シリーズ」では1950~60年代、安齊重男の作品では1970年代以降の日本の芸術家たちのアトリエでの制作風景や日常の素顔などが記録されています。映画には梅原龍三郎が実際に左手に絵筆を持って描く姿や川合玉堂の肉声などがおさめされ、貴重な記録となっています。本展はこれらの映画と写真を一堂に集めて日本近現代美術の「創造の現場」を展観する試みです。

展覧会構成
第1章 映画のなかの芸術家たち─美術映画シリーズ
 梅原龍三郎、川合玉堂、高村光太郎、前田青邨など美術界の巨匠たちを取材し、アトリエでの制作風景や日常の様子を記録した、ブリヂストン美術館「美術映画シリーズ」。本章では、これらに登場する作家たちの映像とともに彼らの作品をご紹介します。

第2章 写真のなかの芸術家たち─安齊重男の眼
 安齊重男(1939-2020)は、自らを現代美術の伴走者と称し1970年代からアーティストのポートレイトや、一過性のインスタレーション、パフォーマンスなどの撮影を手がけてきました。本章では、現在200点以上所蔵する当館の安齊作品のなかから約30点ご紹介します。
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というわけで、美術家たちのまさしく「創造の現場」を追う展示です。

光太郎のそれ(昭和29年=1954)を含む、旧ブリヂストン美術館時代に制作された「美術映画」17本と、それらとその他のスチール写真、関連する作品等の展示。光太郎彫刻は、竹橋の国立近代美術館さん所蔵の「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、大人の事情があるようで、9月12日(火)からの展示だそうです。
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「美術映画 高村光太郎」は、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年ぶりに岩手から上京して入った中野の貸しアトリエでの制作風景が映ります。また、像の除幕後、一時的に帰村した花巻郊外旧太田村での映像も。

他に取り上げられる作家は、梅原龍三郎、川合玉堂、鏑木清方、坂本繁二郎、前田青邨ら。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

よく観察してゐますと智恵子の勝気の性情がよほどわざはひしてゐるやうに思ひます、自己の勝気と能力との不均衡といふ事はよほど人を苦しめるものと思はれます、智恵子に平常かかる点で徹底した悟入を与へる事の出来なかつたのは小生の無力の致すところと存じます、


昭和10年(1935)2月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

療養先の九十九里浜から引き取られた心を病む智恵子を評しています。この頃は郊外に静かな貸家を探していましたがことごとく断られていました。

9月1日(金)は、関東大震災からちょうど100年となります。

区切りのいい年ですので、各種メディア等でも取り上げていますし、関連するイベント等も多く計画されているようです。

一昨日の『毎日新聞』さん夕刊。

震災時の写真を手に探した影 関東大震災100年

 関東大震災から100年の移り変わりを写真に収めるため、本社に残る1世紀前の写真を手に街を歩いた。1923(大正12)年9月1日に発生し、近代以降で最大規模の被害となった災害の死者・行方不明者は10万人以上に及んだ。
 発生当初の惨状を記録した数百枚から人の営みが伝わる写真を選定した。当時のカメラマンの正確な撮影位置を探し求めて炎天下を汗だくになって歩いた。東京大空襲や高度成長を経た首都圏の風景は形を変え、結局、当時と比較できたのはわずかだった。
 2枚を見比べると、私たちが見慣れた風景に100年前の未曽有の災害が現実味を帯びてくる。東京都防災会議の昨年5月の発表によると、最大震度7の「都心南部直下地震」は今後30年以内に70%の確率で起こると予想されている。
 もし再び大地震が発生したら、我々も公園や駅などの開けた場所に逃げるかもしれない。ファインダーの中に地続きの歴史を垣間見た気がした。

記事本体は短いものですが、写真が大きく掲載されていました。そのうちのトップの1葉が、光太郎の父・光雲を主任として東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像。この画像だけでB4判ほどの大きさでした。
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まったく同じアングルから撮影した写真を合成したもので、左が現在の様子、右が震災時の古写真。長いキャプションがついています。

彫刻家の高村光雲作で1897年に完成した上野公園の西郷隆盛像。その周辺は震災直後から行方不明者を捜す張り紙であふれていた。火災を免れた公園内は救護所などが設置されたという=写真右は1923年9月

同じ手法で、銀座、浅草、日暮里駅、そして鎌倉鶴岡八幡宮の画像も。

オリジナルの写真がこちら。
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この伝言板と化した西郷像のインパクトは大きかったようです。

こちらは古絵葉書。
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日本画家の堅山南風の描いた「大震災実写図巻」の一部。昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 アートシーン」内で映りました。
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こちらは千代田区の半蔵門ミュージアムさんで開催中の特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」で展示されているそうです。フライヤーにも使われていました。

堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春

期 日 : 2023年7月19日(水)~11月5日(日)
会 場 : 半蔵門ミュージアム 東京都千代田区一番町25
時 間 : 10時00分~17時30分
休 館 : 毎週月曜日・火曜日(月曜日・火曜日が、祝日や振替休日にあたる場合も休館)
料 金 : 無料

1923年の関東大震災から100年の節目をむかえる本年、堅山南風《大震災実写図巻》を展示します。巣鴨で被災した南風は浅草や上野に出向いて、被害状況や復興に至る様子を描き留め、のちに31枚の絵を3巻に仕立てました。その描写から、当時の人々の苦悩・悲哀や助け合いの様相が伝わります。

あわせて、南風と同時代の画家による作品12点を初公開します。会期前半の9月10日までは、日本の風景を題材とした、横山大観、川合玉堂、棟方志功、山田申吾の作品です。9月13日以降の会期後半は、竹内栖鳳、鏑木清方、小杉放菴、前田青邨、山口蓬春による人物や動植物の絵画を紹介します。
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歴史に学び、防災意識を高めるためにも、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声がかれ息がつまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度、器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、


昭和10年(1935)1月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

心を病んだ智恵子の病状、親交のあった歌人の中原綾子に宛てた複数の書簡に細かく記されています。

千葉市にある千葉県立美術館さん。収蔵品からセレクトされた品々をいわば出開帳する「移動美術館」を以前から開催なさっています。同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵、毎回のようにその中からなにがしかがラインナップに入っています。

約1年ぶりとなる次回は県北部・富里市での開催。「手」(大正7年=1918)が出ます。

第47回千葉県移動美術館~読書へのいざない~

期 日 : 2023年9月1日(金)~9月27日(水)
会 場 : とみらいテラス(富里市立図書館) 千葉県富里市七栄653-1
時 間 : 火曜日から木曜日 9時30分から18時 金曜日 9時30分から19時
      土曜日・日曜日・祝日 9時30分から17時
休 館 : 月曜日(9月18日(月曜日・祝日)は開館し、19日(火曜日)休館)
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。
47回目となる今回は、「富里市立図書館」を会場に、洋画・日本画・彫刻・工芸の分野から、浅井忠や高村光太郎、香取秀真など15点を展示するとともに、図書館司書が厳選した作品と関連する書籍もご紹介します。
展示後は、富里市立図書館や連携する県内図書館で書籍を借り受け、ご自宅でお楽しみいただけます。

学芸員によるギャラリートーク
 県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。
 日時 9月9日(土曜日)、16日(土曜日)いずれも10時30分から
 定員 各回20名  料金 無料
 申込方法 9月1日(金曜日)から電話で申し込み 富里市立図書館 電話0476-90-4646
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「手」以外でフライヤーに載っている作品は、浅井忠「裸婦」「小丹波村」、津田信夫「鷲」、香取秀真「美々豆久香爐」、安井曾太郎「熱海付近」、板倉鼎「金魚と雲」、梅原龍三郎「竹窓読書図」、福田平八郎「椿大瑠璃」、富取風堂「南天」。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんのこの病気は小生今後の運命をも決する大難でもあります、昨今の様な容態では御迷惑の程お察し申上げますし、又殊に俊太郎さんの教育上にも悪い影響があり相なので心痛に堪へません。事によつたら今度参上の時は一度ちゑさんを東京に連れて来ようかと考へてゐます。


昭和9年(1934)12月9日 齊藤せつ子宛書簡より 光太郎52歳

せつ子(セツ)は智恵子実妹。夫と幼い息子(俊太郎)、そして実母・センともども、九十九里浜に移り住んでおり、この年5月から心を病んだ智恵子を預かっていました。

智恵子の病状は一向に好転せず、子供の教育上よろしくないとのことで、結局、月末には光太郎が智恵子を引き取ることになってしまいます。

一昨日から始まっていました。

日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―

期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円

日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
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河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
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下記画像では、左が光雲、右が
慧海です。
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さて、今回の展示。

「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。

その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。

ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。

こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、


昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳

結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。

山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」につき、NHKさんのローカルニュースで紹介されました。

米沢出身の美術評論家 今泉篤男氏 論評と美術作品の特別展

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東京国立近代美術館の創設にも携わった米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏の作家の思いなどをくんだ論評と美術作品をあわせて展示する特別展が米沢市で開かれています。
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米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏は、美術作品に込められた作家の思いなどをくんだ評論が昭和20年代に高く評価され、東京国立近代美術館で現在の副館長にあたる次長を初めて務めたほか、京都国立近代美術館の初代館長も務めました。
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米沢市の上杉博物館で開かれている特別展では、美術誌に掲載された今泉氏の論評と作品をセットにしたものなど、およそ50点が展示されています。
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このうち、彫刻家・高村光太郎氏の木彫りの作品「鯰」について、今泉氏は「高村光太郎の作品にはなにか東洋の骨格、東洋の詩精神を感じられる」などと評価しています。
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また、美術作品の評論を活動を軸にしていた今泉氏が青年時代に描いた絵画、「監獄の外郭」も展示されています。
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米沢市上杉博物館の遠藤友紀学芸員は「今泉氏は地元の米沢であまり知名度は高くないが、美術にまつわる非常に大きな仕事をした人物でこれを機会にぜひ身近に感じてほしい」と話していました。
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この特別展は、今月20日まで開かれています。
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光太郎木彫「鯰」(大正15年=1926)、目玉の出品物の一つということで、大きく取り上げて下さいました。ありがたし。

竹橋の東京国立近代美術館さんからの借り受けで、同館でのコレクション展に時折出品されるのですが、常に出ているわけではありませんし、他館に貸し出される例もそうそうないものです。

もうすぐ閉幕ですが、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。
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【折々のことば・光太郎】

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう、あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。そしておいしい新らしい食物。よくたべてよく休んでください。智恵さん、智恵さん。


昭和9年(1934)5月9日
 高村智恵子宛書簡より
光太郎52歳

心の病の療養のため、智恵子は九十九里浜真亀海岸に移り住んでいた智恵子の母・セン、妹・セツ(節子)夫妻の元に預けられました。

その智恵子宛で送られたはがき。現存が確認できている最後の智恵子宛書簡です。もはや文字を読むことも叶わなくなった智恵子のため、「節子さんによんでもらつて下さい」としています。

末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、光太郎の万感の思いが込められているように感じます。

先月から始まっていたのですが、気づきませんでした。会期が長く設定されているのが救いです。

谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」

期 日 : 2023年7月8日(土)~9月2日(土)
会 場 : See Saw gallery + hibit 愛知県名古屋市瑞穂区密柑山町2-29
時 間 : [水・木] 12:00 - 17:00 / [金・土] 12:00 - 19:00
休 館 : [日・月・火] 8月13日(日)から8月22日(火)
料 金 : 無料

ヒヤシンスをモチーフにした切り紙シリーズや、高村智恵子へのオマージュの新作などを発表します。 是非ご予定ください。
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以前から智恵子紙絵等のオマージュ作品を制作、発表なさっている谷澤紗和子氏の個展。今回も智恵子作品からインスパイアされた作が複数出ています。同展のイメージ画像として使われている上記の切り絵作品も、智恵子油絵「ヒヤシンス」が象られています。
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また、智恵子が太平洋画会研究所に通っていた明治40年(1907)頃のデッサンも。

『中日新聞』さんに紹介記事が載り、そちらの画像で確認いたしました。

<ミニ美術> 谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」(See Saw gallery + hibit)

 「はいけい ちえこ さま」と名付けられた切り紙のシリーズは、戦前に活動した洋画家で紙絵作家、高村智恵子へのオマージュという。智恵子が画業の初期に取り組んだという男性ヌードの素描のイメージと、食べものをモチーフにした紙絵を模写して切り紙にし、組み合わせている=写真。
 詩人・高村光太郎の妻として、長らく彼の代表作「智恵子抄」を通して語られてきた智恵子。新作の「彼方の手に触れる。」シリーズでも、智恵子の残したヒヤシンスの油彩画を、切り紙に仕立てた。智恵子の創作を追体験する作家の営みは、近代美術史の潮流の中でともに「こぼれ落ちてきた」女性の存在、そして切り紙をはじめとした「手仕事」にも光を当ててくれる。
 1982年大阪府生まれ。京都市立芸術大学大学院修了。(宮崎正嗣)
展覧会は名古屋市瑞穂区密柑山町2のSee Saw gallery + hibit(シーソーギャラリー)で9月2日まで開催中。
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男性像の背後は、下記画像のバナナを描いた智恵子紙絵がモチーフです。
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昨日から画廊がお盆休みに入ってしまいましたが、8月23日(水)から再開とのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子儀一時は殆ど精神喪失して癡呆状態にまで陥りましたが療養と看護をつづけ居りますうち幾分か快方に向ひ、最近にては昔やつて居りました機織りを又始める程になりました、かういふ機械的の仕事は出来るやうになりましたが、まだ意識と智能の全部を取りもどすところまではまゐりません、 おてがみの事を話しましたらあなたの事をよくおぼえて居りました、


昭和9年(1934)3月20日 秋広朝子宛書簡より 光太郎52歳

この年に入ると、智恵子の心の病が一時、機織りが出来るまで快方に向かいました。しかし、それも長くは続きませんでしたが。

秋広は日本女子大学校での智恵子の同窓。家庭の事情で中退しましたが、一時、学生寮で智恵子と同室でした。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

都内から写真展の情報です。

壊死するフウケイ/ Landscape of death

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月20日(日)
会 場 : TOTEM POLE PHOTO GALLERY 東京都新宿区四谷4-22 第二富士川ビル1F
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

下総の牧の広野の暁の、空をばいそぐいそぐ水鳥 ー水野葉舟「滴瀝」より

 昭和の激動期に建設された、成田国際空港。政治的問題を抱えながらも、40年以上日本の玄関口としての役割を果たしてきた。現在、成田空港では新しい滑走路の建設が進んでいる。約1000haの建設用地(現在の空港敷地は1198ha)が買収される事で、空港の南東に広がる古くからの里山や明治以来の開墾地が失われてしまうのだ。 私は典型的な里山風景という表象をこの地に求め、失われる農村を撮影しようと試みた。しかし時すでに遅く、過疎化により、集落としての共同体は崩壊しかけ、農地は荒廃していた。聞くところによると、集落の殆どが空港拡張に賛成だと言う。 私は空港拡張に反対する立場ではないが、環境保護が叫ばれている昨今、更に自然に手を加え、大規模な人工物を建造するという事に関しては、一考の余地があるだろう。この風景たちは現代の縮図であり、状況の一部なのだと思う。

 展示では、新滑走路建設により失われる農村風景の写真を中心に、現場で録音されたフィールドレコーディング作品、映像作品の3点で構成される。フィールドレコーディングは写真撮影にちなんで「フォノトグラフィー」とも呼ばれ、今回は風景写真の延長として制作した。映像作品は、静止画では伝わり難い現地の動感を表現するために展示した。この3点をサウンドインスタレーションとして構成する事で現地の雰囲気が一層伝わるよう工夫した。

出典 水野葉舟著 歌集「滴歴」草木屋出版部, 1940
   のら社同人, 北井一夫他箸「壊死する風景―三里塚農民の生とことば」のら社, 1970

水野葉舟 ー 1883-1947 明治ー昭和時代の歌人、詩人、小説家。トルストイや高村光太郎の影響により、大正13年から三里塚駒井野で半農生活に入った。
のら社 ー 写真家北井一夫が主宰する出版社。北井一夫「三里塚」、木村伊兵衛「パリ」などを出版。
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光太郎の親友・水野葉舟の短歌が全体のイメージとして使われています。出典の歌集『滴瀝』(草木屋出版部 昭和15年=1940)は光太郎の装幀・題字です。
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大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎は日本画家・山脇謙次郎のために千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)の宮内省三里塚御料牧場近くに開墾小屋を設計し、建ててやりました。結局、この地に定着できなかった山脇に代わり、親友の水野葉舟がこの小屋を譲り受け、さらに近くに家を建てて、昭和22年(1947)に没するまで、ここに住みました。光太郎もしばしば葉舟の元を訪れ、詩「春駒」(大正13年=1924)を書くなどしています。

その後、御料牧場は那須に移転、跡地に成田空港が建設されました。空港建設が決まった当初から、いわゆる「三里塚闘争」。用地取得を巡って強引に事を進めた政府に対し、地元農民等が黙っていませんでした。そして現在、拡幅工事。それが終われば倍する面積となります。もはやほとんど反対運動はないそうです。

そこで、まだ僅かに残っている、葉舟や光太郎が愛したこの地の里山や開墾地の風景を撮った写真展。タイトルの「壊死するフウケイ」は、闘争の歴史の中で出版された『壊死する風景―三里塚農民の生とことば』(のら社 昭和45年=1970)から。「壊死」、ドキリとさせられる言葉です。

成田空港を巡る問題は、実に複雑です。あれだけ騒いで開港したものの、結局、羽田の国際線機能が拡大され、何だったの? という部分もありますし……。開港したからには半端な形での運用を続けるな、という意見ももっともですし、さりとて風景を壊死させることが正しいのか、という考えも正論です。ちなみに当方自宅兼事務所は成田の隣町。これを書いている現在も、離着陸する飛行機の爆音が響いています。もはや慣れてしまって、まったく気になりませんが……。

というわけで、写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます


昭和8年9月2日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養の旅。「青根」は蔵王青根温泉。「土湯で一番静かな涼しい家」は、福島土湯温泉のさらに奥、一軒宿の不動湯温泉。平成25年(2013)に火災で焼失するまで、光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎が書いた宿帳が当時のまま残っていました。
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焼失後、焼け残った露天風呂を使って日帰り入浴施設として再開しましたが、コロナ禍のためでしょうか、令和3年(2021)から再び休業中です。

岡山から企画展情報です。

特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月27日(日)
会 場 : 岡山県立美術館 岡山県岡山市北区天神町8-48
時 間 : 午前9時~午後5時 8月26日(土曜日)は19時まで夜間開館
休 館 : 8月21日(月曜日)
料 金 : 一般 1,400円 65歳以上 1,300円 大学生 1,000円 
      高校生 800円 中学生以下 無料

 三の丸尚蔵館は、皇居の東御苑内において、皇室に代々受け継がれた絵画・書跡・工芸品などの美術品を収蔵管理・調査・公開する施設です。現在約9,800点におよぶ収蔵品は、皇室から国への御寄贈品、御遺贈品などからなり、古代から近現代までの各時代・さまざまな分野にわたる貴重な作品が数多く収められています。
 三の丸尚蔵館では令和元年度から新施設の建設工事が始まり、令和7年度の全館完成までの移行期間中に、より多くの方々に作品をご覧いただき、皇室と日本文化に親しんでいただきたいとの方針のもと、各地で展覧会が実施されています。
 このたび岡山県立美術館においては、やまと絵の最高峰とされる高階隆兼筆《春日権現験記絵》(国宝)をはじめ、横山大観による水墨風景画の逸品《秩父霊峯春暁》、極めて精緻な彫金による《神龍呈瑞》など、各時代・分野の名品をご紹介します。また、近代の洋画家・松岡壽、満谷国四郎、児島虎次郎、鹿子木孟郎や、人形作家・平田郷陽ら、岡山が輩出した作家たちによる皇室ゆかりの作品を一挙に展覧いたします。皇室の御慶事の記念品として作られてきた、趣向を凝らした手のひらサイズの菓子器・ボンボニエールも見どころのひとつです。
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前期展示は7月15日(土)に始まっていますが、8月8日(火)からの後期展示で、光太郎の父・光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されます。
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何度か拝見しましたが、像高約1メートル、なかなかの大作です。

出品目録は以下。
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逸品ぞろいですね。

ちなみに同様の趣旨、宮内庁三の丸尚蔵館さん蔵品の出開帳的な展示で、やはり光雲作の木彫「文使」(明治33年=1900)が出ている「皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」が、秋田県立近代美術館さんで開催中です。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日久しぶりにて二本松万福寺にまゐりゑ子と一緒にお墓に香華を手向けました、役場へも一寸立寄りました、午后磐梯山下の川上温泉に投宿、無事、


昭和8年(1933)8月25日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

万福寺」は「満福寺」の誤記。智恵子実家の長沼家の菩提寺で、現在も長沼家墓所が残っています。

前日、本郷区役所に婚姻届を提出し、この日はまだ籍が残っていた油井村の長沼家の戸籍から智恵子を除籍した、ということでしょう。












新刊です。

三人書房

2023年7月28日 柳川一著 東京創元社 定価1,700円+税

 大正八年東京・本郷区駒込団子坂、平井太郎は弟二人とともに《三人書房》という古書店を開く。二年に満たない、わずかな期間で閉業を余儀なくされたが、店には松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれた──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、横山大観、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の数々を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩の姿を通じて描く。第十八回ミステリーズ!新人賞受賞作「三人書房」を含む連作集。
 乱歩デビュー作「二銭銅貨」発表から百年の年に贈る、滋味深いミステリ。

目次
 「三人書房」
 「北の詩人からの手紙」
 「謎の娘師(むすめし)」
 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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というわけで、若き日の江戸川乱歩の元に持ち込まれた謎の数々を、快刀乱麻を断つ如く(死語ですね(笑))、博覧強記頭脳明晰で行動力にも富む乱歩が次々と解決していく、という連作推理小説です。

全五話から成り、それぞれに語り手が交代。乱歩の友人だったり、弟たちだったり……。ちなみにタイトルの「三人書房」は、乱歩が二人の弟と共に一時期経営していた古書店の屋号です。

そして最終話「光太郎の〈首〉」では、光太郎が語り手。戦後の七年間、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、光太郎がやはり乱歩によって真相の解明された昭和初期の奇妙な事件を回想するという形です。

奇妙な事件というのは、光太郎が作ったブロンズの胸像が依頼主の元から盗難に遭い、さらに無残に破壊されて見つかるということがたてつづけに起こり……というもの(架空の話ですが)。イタズラや怨恨や金目当てなどではなく、犯人には、光太郎彫刻を破壊しなければならない切羽詰まった事情があって……という設定ですが、詳しくはお買い求めの上、お楽しみ下さい。

ちなみに乱歩の代表作の一つ「D坂の殺人事件」の「D坂」は、かつて「三人書房」があり、さらに光太郎アトリエ兼住居にも近い団子坂です。『高村光太郎全集』には乱歩の名はありませんが、近くに住んでいた同士、顔を合わせたことくらいはあったでしょう。

その他、内容説明欄にある通り、宮澤賢治(第二話の章題にある「北の詩人」)、宮武外骨、横山大観らが登場。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたく存じました、又先日は届書の事にていろいろ御世話さまになりましたが、昨日区役所へ無事に届済みとなりました。今晩小生等は二本松へ出発いたします、お墓まゐりを致した上どこかの温泉にてしばらく静養いたしてまゐります、

昭和8年(1933)8月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

」は婚姻届。永らく事実婚だった光太郎智恵子でしたが、ついに届けを出しました。智恵子の心の病が昂進し、光太郎は結核。万が一、先に自分が死ぬことがあったら、法律上、妻ではない智恵子に相続の権利がないことを考慮し、正式な夫婦となりました。

光太郎自身には財産と呼べるものはほとんどなかったのですが、この頃まだ健在だった父・光雲が没すれば、相当額の遺産が入ることが予想され(実際、翌年に光雲が亡くなり、相続した遺産が後の智恵子のゼームス坂病院入院費用に宛てられます)、それをふいにしたくないという……。

ただし、夢幻界の住人となってしまっていた智恵子に、その意味が理解できたかどうか……。

どこかの温泉」は、巡った順に、裏磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車の出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2023年8月5日(土)・6日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8/5 午前10時 献石神楽朝御饌祭 午後5時30分 夕御饌祭
      8/6 午後5時30分 夕御饌祭 午後6時10分 斎火受渡・渡祭始式
         午後6時30分~午後11時30分ごろ 渡祭

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。地区の名前でしょうか。
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他にも「太一丸」という団体?の祭車にも光雲工房作の彫刻が使われていますが、こちらは人手不足で最近出ていないようです。

同祭、昨年、BSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、いわば演奏・演舞を奉納します。
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ちょうど放送が始まった時間、まさに「羽衣」の祭車の順番でした。
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光雲の手になる彫刻も、何となくわかりました。

ただ、これより後の順番だった祭車はしっかり彫刻などが映り、番組ゲストの小川雅生氏(桑名石取祭保存会研究員)による細かな解説もあって、「羽衣」も、もう少し後の登場だったらよかったのに、という感じではありました。
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ちなみにゲストはもうお一方、女優の大西礼芳さん。三重県のご出身だそうで。
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大西さん、光太郎と面識のあった村岡花子をモデルとした平成26年(2014)の朝ドラ「花子とアン」や、『青鞜』編集部を舞台とした演劇「私たちは何も知らない」にご出演されていた方です。

番組では、平成28年(2016)に同祭を含む日本全国33の山車祭りがユネスコ世界遺産に登録された件についても触れられていました。
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一度、拝見に伺いたいものです。お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草津へ来ましたがちゑ子は始めてです、お湯がよいのでからだにきき相談に思ひます、

昭和8年(1933)5月18日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の湯治のため、草津に。この際は現在も続く旅館「望雲」さんに宿泊しました。8月から9月にかけては、東北、栃木と複数の温泉めぐりに出かけ、そちらは有名ですが、草津行きの件はあまり取り上げられていません。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

テレビ番組の再放送情報です。

興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHKBSプレミアム 2023年7月23日(日) 13:30~14:30

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】
 興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介
 東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

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BS8Kさんで今年2月に放映された番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月に放映されました。で、今回、再放送。

前後編60分ずつで、前編は明日放映ですが、日曜日放映の後編の方で光太郎に触れられています。

天平彫刻と、鎌倉期の康慶・運慶父子の彫刻作品との比較の中で。
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光太郎の担当は天平彫刻、釈迦十大弟子の一人、富楼那(ふるな)像の映像と共に。
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昭和17年(1942)の『婦人公論』に6回にわたって連載された評論「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)から言葉を引用。
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ただし、引用部分はこの像だけに対する評ではなく、広く天平彫刻全般についてのものです。平安期の神護寺薬師如来像を語る中で、それ以前の天平期はこうだった、という文脈です。光太郎には「十大弟子像」そのものを論じた詩文もあるのですが、それらからの引用ではありませんでした。ついでにいうと、テロップに「随筆」とあるのもちょっとなぁ……という感じなのですが、いたしかたありますまい。これに限らず、光太郎の評論は無機質な評論の枠を超えた名文ですので。

その他、番組内容説明にもある通り、興福寺さんの魅力が様々な角度から取り上げられます。ご覧になっていない方(ご覧になった方も(笑))ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】001

おたづねの団扇は左図のやうなものですが果して今日も存在するや否や、頑古にして風雅、風流にして実用的。


昭和4年(1929)4月25日 原静枝宛書簡より
 光太郎47歳

時折ある絵入りの書簡の一つ。原という人物からの往信がどんなものだったのか不明なのですが、うちわについての問い合わせに対する返答です。

本日開幕です。

CHIBA ハートフルアート展 ―「千葉市障害者作品展」出展者による作品展―

期 日 : 2023年7月19日(水)~8月20日(日)
会 場 : ちばぎんひまわりギャラリー
       東京都中央区日本橋室町一丁目 5 番 5 号 [コレド室町 3] 4 階
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時  最終日は午後 4 時まで
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

本展は、障がい者が自らの障がいを乗り越え制作した作品を公開することで、社会に多様性の意義や価値を伝えるとともに、障がいを持つ方に自信と希望を持っていただきたいとの想いで開催するものです。多くの皆さまにご覧いただくことで、ダイバーシティーへのご理解と共生社会を実現し、作者のさらなる創作意欲向上の一助となることを希望しています。本企画展では、約 30 点の作品を一堂に展観しますので、この機会にご覧くださいますようご案内申し上げます。

おかげさまで、当ギャラリーは 2014 年 3 月のオープン以来、10 万人を超えるお客さまにご来場いただきました。今後も、多くの方々の心安らぐ空間となり、地域における文化・芸術活動の発展にお役に立てれば幸いです。
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いわゆる「パラアート」の展覧会。過去の「千葉市障害者作品展」出展作等が再び並ぶ、というコンセプトだそうです。

フライヤー裏面に、書の作品で「高村光太郎“樹下の二人”より」。
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一昨年開催された第27回展で千葉市議会議長賞に輝いた作品だそうです。その際にはそういう展覧会があり、この作品が入賞していたというのには気がつきませんでした。
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こうした作品をその時限りの展示で終わりにするのではなく、また改めて、さらに地元を出て都内での展示というところに、主催者の方々などの熱意が感じられます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「ロダンの言葉」別封で送ります。持つて参上したいと思つてゐたのですが、まだ仕事が片づかないので出られません。表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします。


昭和4年(1929)3月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎47歳

「ロダンの言葉」は、この年、叢文閣から出版されたペーパーバックの普及版(元版は大正5年=1916、阿蘭陀書房)。この後、版を重ね、舟越保武、佐藤忠良等、次世代の彫刻家達がバイブルのように身辺に置いた書籍です。
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表紙画は、ロダンの裸婦デッサンです。光太郎、同一のデッサンを明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分とされてしまいました。

そこで「表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします」。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

実施期日的にはまだ先ですが、〆切りが間近でして……。

高村光太郎記念館夏休みワークショップ「紙絵をつくろう!」

期 日 : 2023年8月1日(火)~8月3日(木)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 10:00~12:00
料 金 : 500円程度(材料費)

高村光太郎の妻・智恵子は、数々の紙絵作品を世に残しました。智恵子の紙絵をお手本に自由なテーマで紙絵をつくってみましょう。3日間で一つの作品を制作するワークショップとなります。

対 象 : 花巻市内の小学生
締 切 : 7月18日(火曜)

定員をこえる場合は抽選となります。定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。次のいずれかの方法でお申し込みください。
 ・花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
 ・専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。
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智恵子の故郷、福島県二本松市では毎年「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施しており、今年で28回目。作品募集の対象が「福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童」ということで、このワークショップで作った作品をそちらに応募、ということも考えているそうです。
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なるほど。

こういう活動も通じて、自治体さん間の交流がさらに活発となれば、という気もします。ゆくゆくは光太郎智恵子がらみの自治体さんなどから担当者の方などに集まっていただいて、「光太郎智恵子サミット」的なものもあるといいか思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

私も習つてゐます。そのうち「東方」へも「エスペラント」で文章を書く気でゐます。

昭和3年(1928)7月2日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

エスペラントは19世紀末に考案された人工の言語。世界共通語として普及させようという動きがたびたびありました。日本でも知識階級を中心にエスペラントを学ぶ機運が高まり、宮沢賢治などもその一人。「イーハトーヴ」などの造語はエスペラントを意識して作られたとする説があります。光太郎のエスペラントによる作品の発表は幻と終わりましたが……。

下の画像は「樹下の二人」(大正12年=1923)のエスペラント語訳。
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平成25年(2013)、日本エスペラント協会さんが刊行した『Japana Literatura Juvero』に掲載されています。近現代詩50篇ほどの訳を集めた書籍です。

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都内の画廊で開催中、及び明日からの展示を2件。

まずは地方紙『福島民報』さんの記事から。

安達太良高原の自然生かした作品注目集める 15日まで都内で作品展 福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん

 福島県の安達太良高原の自然光や風景、音をアートにした作品展「MIND LIGHTNESS」が東京・銀座のギャラリー「巷房」で開かれ、注目を集めている。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(65)=東京・LIGHTDESIGN社長=が二本松市に建設した光の研究観測施設「あだたらキャビン」からライブ配信される映像のインスタレーション(空間芸術)と、東海林さんが現地で受けた印象を描いたクレヨン画50点を展示している。15日まで。
 ライブ映像にはあだたらキャビンから見える安達太良山の空の変化が映し出され、風や森のざわめき、野鳥のさえずりや虫の音が響く。作品名を「ほんとの空/Watch inside yourself」と名付けた。画面を薄い紙で覆い、幻想的な効果を演出する一方、鮮明な自然の音で想像力を刺激。都会と本県の雄大な自然を結び、来場者を魅了している。
 クレヨン画はさまざまな色の空や山、街の明かりなどを「光のかけら」として10センチ角のキャンバスに抽象的に表現した。世界各地を旅して浴びた光の印象を描いた作品もある。
 東海林さんは「東京で感じ、発信する安達太良山の力は一層大きく感じる」と語る。2025年大阪・関西万博の会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを務めており、あだたらキャビンで得られた光と照明の研究成果を生かす考えだ。
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照明デザイナー・東海林弘靖氏。やはり『福島民報』さんで今年2月、「ほんとの空」がらみで紹介されていました。

で、東海林氏の個展。

東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE

期 日 : 2023年7月3日(月)~7月15日(土)
会 場 : 巷房 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル3F+B1F
時 間 : 12:00 - 19:00 / final day 17:00
料 金 : 無料

 コロナ禍で人々が孤立し、自然豊かな場所に回帰していく流れに、東海林はこれからの光の在り方を問いました。そして、太陽が生み出す豊かなフルスペクトルの波長と、赤外域のあたたかさが、人間の心を包む光の原点ではないかと考えるに至りました。
 東海林は、人工的な照明によって自然光を模倣するのを嫌い、むしろ、その場を訪れた人が自らの内にある、記憶の中の光景をみつけに行くためのトリガーとして、光の要素をデザインしていくことで、自然光、人工光を問わず人間の心を包む光に到達できないだろうかと考えています。
 本展覧会では、照明デザイナーである東海林弘靖が光をデザインする立場から離れ、光と人との新しい関係を考えるインスタレーションを行います。
 人間の五官の情報能力のうち、視覚が87%、聴覚が7%とされています。約9割を占める視覚は、光の刺激を受けることで生じる感覚です。
 3階巷房では、視覚にはやや曖昧な情報、聴覚にはクリアで臨場感溢れる情報、感覚比率の逆転した実験を提示します。地下1階では、東海林が採取した光の断片を展示します。この時、人は目から入る情報を補うために、時に聴覚情報を頼りに記憶の中の光を探しにいくのか?
 多くの皆様に体験いただけますと幸いです。
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もう1件。東京藝術大学さんの院生、学部生の皆さんによる絵画の展示。

『うたの心—絵筆に託す—展』Vol.2

期 日 : 2023年7月14日(金)~7月20日(木)
会 場 : 東京九段耀画廊 東京都千代田区三番町7-1-105 (朝日三番町プラザ1F)
時 間 : 12:00〜19:00 (最終日 〜17:00) ※会期中無休
料 金 : 無料

 人にはそれぞれ大切にしている歌があります。悲しい時ふと思い出す歌、嬉しい時つい口ずさむ歌、そして愛する人を思い出したい時の歌などいろいろとあります。
 本展の『うたの心』展では、第一回と同様に参加の作家の皆さんが大切にしている歌を思い出して、「うたの心」を想い音符ではなく絵筆で表出して頂く展示であります。

出品作家
東京藝術大学大学院:原澤亨輔(二年)、陳天逸(二年)
東京藝術大学:四年生:今野沙知子、三年生:伊勢菜々美、中川理裟、中原玲奈
       二年生:伊東彩那、金井玲、竹石楓、新沼緑、日野樹来
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日本画を詩歌からのインスパイアで、ということなのでしょう。

「出品作家」欄に名のある竹石楓さんという方がツイッターに「高村光太郎の詩から2篇選んで制作しました。🌙🐕 是非お越しください!」と投稿していらっしゃいました。ありがたし。

「東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE」の方は、気づくのが遅れ、明日までとなってしまっていますが、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

瀧波さんに彫つてもらつた印を捺す為に色紙など書いたら皆画きそこないました。さういふ事を考へてかかるとやつぱりいけません。


昭和3年(1928)3月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎46歳

瀧波さん」は瀧波善雅、篆刻家です。「彫つてもらつた印」は、おそらく左下画像のもの。この年刊行された評伝『ロダン』のペーパーバック普及版奥付の検印紙です。同じ『ロダン』でも前年に出たオリジナルのハードカバーの検印紙(右下)に捺されていたのは何だか三文判のような……。
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新しい印を捺したいばかりに色紙に何か描いたところ、そんな不埒な考えで描くとやっぱりだめだったと云うわけで、笑えますね。

ちなみに後に愛用するようになる斉白石制作の印も、宮崎を通じて作ってもらっています。

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