カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

6月15日(土)のことですが、千葉県匝瑳(そうさ)市にある松山庭園美術館さんに行って参りました。

そもそもは先月末の地元のタウン紙に載った紹介記事。
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「第21回猫ねこ展」だそうで、こちらを拝読し、猫好きの妻を連れて行こうと考えました。

ちなみに妻に溺愛されているのはこいつです。子猫の時に娘が拾ってきて、今月で8歳になりました。
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あくまで溺愛しているのは妻であって、当方ではありません(笑)。

閑話休題。同館について調べてみると、光太郎とゆかりの作家達の作品も複数点が収蔵展示されていることが分かり、これは行かねば、と思った次第です。

自宅兼事務所から1時間弱。
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「庭園美術館」と謳うだけあって、なるほど、里山的な環境を取り入れた庭園。新緑がいい感じでした。
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楓の木が多いので、紅葉シーズンは見事でしょう。館のパンフレットも紅葉をあしらっていました。
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元々はアート作家・此木三紅大(このきみくお)氏がご自身のアトリエを美術館に改修されたそうで、開館25周年だそうです。

此木氏、猫好きなのでしょう。猫をモチーフとした氏の作品がお出迎え。
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氏の作品に混じって、氏が集められたと思われる年代物の猫アート、猫オブジェもあちこちに。
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既に「猫だらけ」(笑)。

さて、第一目的の常設展示室へ。
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まずは、何はなくともこれが観たかった、光太郎曰く「火だるま槐多」こと村山槐多のデッサン。4月に信州で見逃しましたので。
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右側に槐多自身の詩が書き込まれています。

われもし盲せば/この語程かなしく辛きはあらず、/われには更に二十年の艶麗なる視覚世界のまてるに、/大丈夫 天は俺を愛して居るぞ

いいですね。

他にも光太郎人脈。

光太郎が東京美術学校彫刻科を卒業してから入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二。ちなみにその際の同級生には藤田嗣治、岡本一平などがいました。ただし光太郎、そちらは卒業せず、中退の形で欧米留学に出ました。そこで卒業生名簿の西洋画科の項には名が無く、藤田や岡本と同級生だったことは意外と知られていないようです。
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大正初め、ヒユウザン会(のち、フユウザン会)で光太郎と一緒だった萬鉄五郎。
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主宰する雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いだ松本竣介。
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他に三岸好太郎、長谷川利行などのビッグネームも。
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これらを堪能したところで、第二目的の「猫ねこ展」。猫好きの妻は既にそちらに(笑)。
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プロアマ問わずの公募展で、何と350名、500点ほどの「猫」。絵画あり、彫刻あり、写真あり、クラフト系あり、モチーフ的にも写実にとどまらず、パロディあり、オマージュあり……。とにかく「猫づくし」です(笑)。
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右上の縦に2枚並んでいる絵は、お笑い芸人コンビ・U字工事さんのお二人の作。6月5日(水)にオンエアのあったBS-TBSさんの番組「ねこ自慢」で、お二人が同館をご訪問、「猫ねこ展」紹介の後、お二人も猫絵に挑戦、というコンセプトで描かれたものでした。
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ちなみに、観覧者を対象に展示作品の人気投票があり、当方が選んだのはこちら。
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こうしたメッセージ性もアートの重要な要素ですから。

展示室にはリアル猫も(笑)。
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同館、10匹の猫がいて、気ままに過ごしています。

「ねこ自慢」から。
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この日はこのうち7~8匹程と遭遇できました。

まず既に入場する前から。
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同一の個体かどうか、のちほどバックヤードでご飯中の黒猫も(笑)。
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下の画像の子は我々が到着してから帰るまで、ずっとこうでした(笑)。
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オッドアイの子も。
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まだまだ居ます(笑)。
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まさに「猫まみれ」(笑)。

「第21回猫ねこ展」、7月28日(日)までの開催です。ただし、金土日および祝日のみの開館ですのでご注意下さい。

帰途、回り道をして、隣接する旭市の「道の駅 季楽里(きらり)あさひ」さんに立ち寄りました。
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花卉の販売コーナーが充実しており、「あるかな?」と思って入ったところ、ありました。
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グロキシニアです。通常の花屋さんなどだとほとんど見かけません。明治45年(1912)5月末か6月初頭、竣工成った駒込林町の光太郎アトリエ兼住居の新築祝いとして、前年に知り合った智恵子が持参した花です。その後光太郎は、くりかえしこの花を詩文に謳い込みました。

かつて二本松でいただいたもの一昨年購入したものは枯れてしまい、またぜひ入手したいと思っていましたので、タイムリーでした。

というわけで、松山庭園美術館さん、道の駅 季楽里(きらり)あさひさん、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田さんから数日前に「智恵子抄」の再出版の見本を送つて来ましたが、貴下のおてがみによると、澤田さんと十分の諒解が無かつたことが分り、その当時澤田さんの許諾をうけたやうに申された鎌田さんの言を信じてゐた小生としては、何だかみんなイヤになりました。又当分出版に関係するのは止めようかと考へてゐます。


昭和23年(1948)1月11日 森谷均宛書簡より 光太郎66歳

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に澤田伊四郎の龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田敬止が『智恵子抄』復刊を企図し、澤田から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加して前年に刊行されました。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

ここまでいかずとも似たようなトラブルが他にもあり、光太郎にとって受難の時期でした。

昨日、年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』最新号中の当方の連載についてご紹介しました。今号では、建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関しても複数箇所で触れられています。

まず、会の代表、渡辺えりさんの名で、大きく広告的な内容で1ページまるまる。題して「高村光太郎終焉の地、「中西アトリエ」保存活動にご協力を」。
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それ以外にも、会の中心人物にして日本詩人クラブ理事・曽我貢誠の4ページに亘る長詩「光太郎爺さんと連翹と――中西利一郎氏の話から――」。さらに曽我氏、エッセイ的な「最も大切な物は朽ちやすい」(1ページ)でも。ともにアトリエの所有者であらせられた故・中西利一郎氏との思い出が根幹です。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、1部600円だそうですが、お申し込み下さい。また、文治堂さんのサイトからも注文可です。
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さて、アトリエ保存に関してですが、6月1日(土)、NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」でも取り上げて下さいました。
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まずは4月2日(火)、日比谷松本楼さんで開催した当会主催の連翹忌でのロケ。
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息巻く渡辺えりさん(笑)。

「あそこのアトリエ」とは何ぞや? ということで、現地取材。
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ここに最晩年の光太郎がいたんだよ、ということで。
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下の画像は、アトリエで中西氏が保管されていた写真です。背景はアトリエの外壁。この写真、当方も初めて見ました。
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しかしこのアトリエ、老朽化が目立ち……という紹介。
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多少順番が前後していますが、アトリエロケの後は、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々のご紹介。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。
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こちらで智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん熊谷代表。
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同会主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際、智恵子生家での撮影でした。

続いて、花巻でのロケが入りますが、諸事情により、明日に回します。

最後に光太郎最後の大作「乙女の像」が据えられた十和田湖。この像の塑像原型が中野のアトリエで制作されました。
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こちらでボランティアガイドを務められている吉崎明子さん。当方、さんざんお世話になった方です。お元気そうで何よりでした。
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光太郎が像に込めた思いの中には、15年戦争と、さらに戦後の混乱期を生きた光太郎の平和に対する希求も含まれているということで、吉崎さん、自らの戦争体験と重ね合わせ……。
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そして、アトリエ。
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ちなみに十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」には、光太郎コーナーもあり、平成30年(2018)には、中野のアトリエで像の制作の際に実際に使われた大きな彫刻用の回転台が寄贈され、展示中です。

割愛した花巻編では、主に「食」を通じて光太郎顕彰に取り組まれているやつかの森LLCさんの井形幸江さんがご出演。そちらは実際のやつかの森さんの最新の活動と合わせ、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

日報社からもらつた一級酒一升は元日に皆のんでしまひました。一級酒といつてもまるでたわいの無い酒で一升のんでもさつぱり陶然としませんでしたが、それでも何となくめでたい気がしました。


昭和23年(1948)1月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

戦後間もない時期で、酒の品質などもまだあまりよくなかったのかも知れませんが、それにしても一升とは……(笑)。

6月2日(日)、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「教壇に立った鷗外先生」を拝見した後、同じ文京区内のトッパンホールさんへ。
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こちらでアマチュア男声合唱団のコール淡水・東京(CTT)さんの第11回定期演奏会を拝聴しました。
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3ステ構成。すべて次郎丸智希氏という方の作・編曲です。
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1stステージは、紀貫之の「土佐日記」に曲を付けた作品。続いて、ザ・ビートルズのヒットナンバーのアレンジ。ともに男声合唱ならではの曲作りになっていたように感じました。

そして最終ステージが「雨にうたるるカテドラル」。同名の光太郎詩(大正10年=1921)をテキストにしたもので、演奏時間30分近く。大作といっていい感じでした。
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原詩が110行もある長大なもので、どう料理するのかな、と思っておりました。110行を一字一句変えずそのまま使うのもありですが、次郎丸氏、そうはなさいませんでした。
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上記画像の太字の部分のみが歌詞として使われていました。かなり思い切って切り捨てた部分もありますね。その代わり、特徴的なフレーズはリフレイン。ですので全体の分量はやはり多く、演奏時間30分近くになっているわけです。なるほど、そういう手もありか、と思いました。

そして全体を4部構成とし、4分の4から4分の3のワルツ調、さらに8分の6も取り入れ、いろいろ変化をつけていました。楽譜を見ればさらに「ああ、ここでこういう工夫をしているのか」というのがある程度見えるのですが、残念ながら当方の音楽レベルでは一度聴いただけだと細かなことはわかりません。

歌われたコール淡水さん、ちょうど20人だったと思います。それで最低限の人数かな、という感じでした。それより少ないアンサンブル的な編成になるとちょっと迫力不足になりそうな……。逆に4、50人の大編成でグワーッと鳴らすともっと「吹きつのるあめかぜ」感が出たかな、と、無い物ねだり。まぁ、それでもいい感じでした。

終演後、次郎丸氏と少しお話をさせていただきました。他にも曲を付けたい光太郎詩がたくさんあるとのこと。ありがたし。その一つが「氷上戯技」(大正14年=1925)だそうです。光太郎、明治末のパリ留学時代になぜかアイススケートにはまり、リンクに通っていたそうで、そうした経験を元にアイススケートをモチーフとして書いた詩です。ぜひ実現していただきたいものです。

再び「雨にうたるるカテドラル」。言わずもがなですが、やはりパリのノートルダム大聖堂を謳った詩です。コール淡水さんの演奏会中、指揮者の永原恵三氏がMCでおっしゃっていましたが、たまたま今年、平成31年(2019)の火災で焼け落ちた部分の修復が完了するとのこと。

それを受けて、お台場の日本科学未来館さんでは、今秋、「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」を開催予定です。これまで世界16都市を巡回した展覧会だそうで、さすがにそれだと「雨にうたるるカテドラル」は触れられないかな、という気がしますが、とりあえず。

さて、コール淡水さん、次郎丸氏、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

これはいそぎませんから、御面倒ながら東京へ出たついでにお願いたします。 村上忠敬著「全天星図」定価八〇円〒一二円 銀座西八の八、恒星社厚生閣出版 又以前神田三省堂で売出してゐた「星座早見表」が今日あるかどうか、調べていただき度、又あつたら送つていただき度存じます。


昭和22年(1947)11月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも光害とはほぼ無縁の場所ですが、戦後すぐのこの時期には、恐ろしいほどの星空が拝めたことでしょう。戦前から天文にはある程度興味を持っていた光太郎、さらにそれがつのったようです。

本日開幕です。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月29日(水)~6月4日(火)
会 場 : 大和百貨店富山店 5階コミュニティギャラリー 富山市総曲輪3丁目8番6号
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

今展は、大仏師松本明慶先生の仏像彫刻作品を中心とした木彫作品約40点の展観です。

《出品予定作家》
 松本明慶 高橋勇二 高村光雲 平櫛田中 他

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フライヤーに光太郎の父・光雲の「太子像」。光雲が得意としたモチーフの一つで、複数の作例が確認できています。ただ、画像だけでは、弟子の手が入った「工房作」なのか、光雲単独の作なのかは判然としません。

おそらく5月8日(水)~18日(土)、そごう大宮店さんで開催された同名の展観の巡回的な、同じ業者さんによるものだと思われます。

光雲の木彫、間近に見られる機会はそう多くありません。

ところで「光雲」「弟子」といえば、昨夜、地上波テレビ東京さん系でオンエアされた「開運!なんでも鑑定団」。番組予告欄に「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像」とあったので、てっきり光雲だと思って紹介したのですが、光雲ではなく、上野公園の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠正成像の馬を手がけ、「馬の後藤」と呼ばれた後藤貞行の作でした。「ウマすぎる像」の「ウマ」は「馬の後藤」に引っかけていたのですね。気づきませんで、「そうだったのか、やられた!」という感じでした。

依頼品はその後藤作という馬の丸彫り。
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以前に同じ番組で、レリーフが出たことがありましたが、丸彫りは初めてではないでしょうか。

作者紹介のVはいつもどおり秀逸な出来でした。光雲にも触れて下さいました。
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この「ツン」の部分は後藤の手になるものだ、と。

西郷像より前に楠公像制作の依頼があった際(いろいろあって除幕は西郷像の方が先でしたが)は、後藤は東京美術学校に勤務しておらず……しかし、馬の部分にはどうしても後藤の手を借りたい光雲は校長・岡倉天心に直談判。このエピソードは『光雲懐古談』に語られています。
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そうして美校に雇ってもらった後藤ですが、だからといって妙な忖度はせず、光雲ともやり合いました。このあたり、気骨を感じますね。
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「なるほど、そういうものか」と、後藤の方が折れましたが。

依頼品は、明治天皇に献上された南部馬「金華山号」に関わるもののようでしたが、そうだと断定できない、また、「おそらく後藤の作」としか言えないという点で金額は差っ引かれました。それでも高額の鑑定がつきました。

後藤貞行、もっともっと注目されていい彫刻家だと思います。

さて、富山大和さんの「近代木彫秀作展」。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花巻滞在中にはレコードコンサートであのバツハの「ブランデンブルグ」をきいて感動したり、「モロツコ」の映画再演を見たりしました。十数年前見たデイトリヒを久しぶりで又見て、昔の映画情趣を味ひました。今日のアメリカのスリラアなどに比べると随分テムポののろいものですがやはりいいものがあります。芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。

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昭和22年(1947)10月24日 椛沢ふみ子宛書簡より
 光太郎65歳

隠棲していた旧太田村から花巻町に出ると、賢治実弟の清六らとともに映画を観ることもしばしばでした。この際は、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演の「モロッコ」。昭和5年(1930)公開のアメリカ映画でした。

芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。」そのとおりですね。

テレビ放映情報です。

追記 光雲ではなく後藤貞行でした‼

開運!なんでも鑑定団【超絶彫刻&昭和<美人画巨匠>東郷青児作にド級値】

地上波テレビ東京 2024年5月28日(火) 20:54〜21:54

■エッ東郷青児!?…昭和<美人画巨匠>の超大作にド級鑑定額■上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値■人気<ロレックス>に…仰天鑑定■

番組内容
 コレクションは全てネットオークションで入手した絵画コレクターが登場!その審美眼は鑑定団で証明済みで、過去2回出演し、2回とも高額鑑定を出している。それに自信をつけ、さらに買いまくり、遂には調子に乗って114万円で、家に飾れないほど巨大な絵を購入!
 それは昭和洋画壇の重鎮の傑作だというが…3匹目のどじょうを狙うが、果して結果は!?

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香    【ゲスト】岩城滉一
【出張鑑定】出張鑑定 in 愛知県犬山市   【出張リポーター】岡田圭右
【出張アシスタント】吉川七瀬     【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

鑑定士軍団
 中島誠之助(古美術鑑定家)       北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長)
 安河内眞美(ギャラリーやすこうち店主) 山村浩一(永善堂画廊代表取締役)
 川瀬友和(株式会社ケアーズ会長)    大熊敏之(日本大学大学院非常勤講師)
 森由美(陶磁研究家)          額賀大輔(ヌカガファインアート代表取締役)
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番組説明欄や次回予告等では、イチオシは東郷青児の絵。本物かどうかまだわかりませんが。
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そして「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値」とあり、「天才彫刻家」は光太郎の父・光雲ですね。いわずもがなですが、「アノ像」の「上野」は西郷隆盛像、「皇居前」は楠正成像でしょう。

この番組、光雲の真作が出たこともしばしば。平成17年(2005)にはゲストとしてご出演なさった山口もえさんのご実家にあったレリーフ「朝日に虎」、平成31年(2019)にはやはりゲストの秋川雅史さんがお持ちの「寿老舞」、令和3年(2021)には富山県の一般の方の鑑定依頼で「聖徳太子像」。逆に真っ赤なニセモノもありましたが、たとえニセモノであっても、鑑定結果オープンの前に為される作者等の紹介のVはなかなか凝った作りです。また、「出張鑑定」が智恵子の故郷・二本松市で開催されたこともありました。

今回は番組紹介欄に「驚き値」。高額なので「驚き」なのか、何千円とかで「驚き」なのか……。前者であってほしいものですが。

地上波テレビ東京さん系は全国に系列局が少なく、この日に見られないという地域が多いのですが、ネットの見逃し配信(https://video.tv-tokyo.co.jp/kantei/)、後日、BSテレ東さんでの再放送、さらに番販によるローカル局での放映がありますのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

バツハのブランデンブルグのレコードに実に打たれました。その美は天上のものでこんな高い、しかも親しい美があるものかと今更のやうに驚きました。

昭和22年(1947)10月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

レコードは宮沢家で聴いたものと思われます。ことによると賢治の遺品だったりしたのでしょうか?

初めて聴いたわけではないので「今更のやうに」と書かれていますが、改めてその魅力にとりつかれ、すぐにずばり「「ブランデンブルグ」」という比較的長い詩を書きました。

   「ブランデンブルグ」006

 岩手の山山に秋の日がくれかかる。
 完全無欠な天上的な
 うらうらとした一八〇度の黄道に
 底の知れない時間の累積。
 純粋無雑な太陽が
 バツハのやうに展開した
 今日十月三十一日をおれは見た。

 「ブランデンブルグ」の底鳴りする
 岩手の山におれは棲む。007
 山口山は雑木山。
 雑木が一度にもみじして
 金茶白緑雌黄の黄、
 夜明けの霜から夕もや青く澱むまで、
 おれは三間四方の小屋にゐて
 伐木丁丁の音をきく。
 山の水を井戸に汲み、
 屋根に落ちる栗を焼いて
 朝は一ぱいの茶をたてる。
 三畝のはたけに草は生えても
 大根はいびきをかいて育ち、008
 葱白菜に日はけむり、
 権現南蛮(ごげなんばん)の実が赤い。
 啄木は柱をたたき
 山兎はくりやをのぞく。
 けつきよく黄大癡が南山の草蘆
 王摩詰が詩中の天地だ。
 秋の日ざしは隅まで明るく、
 あのフウグのように時間は追ひかけ
 時々うしろへ小もどりして
 又無限のくりかへしを無邪気にやる。
 バツハの無意味、009
 平均率の絶対形式。
 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

 おれは自己流謫のこの山に根を張つて
 おれの錬金術を究尽する。
 おれは半文明の都会と手を切つて
 この辺陬を太極とする。
 おれは近代精神の網の目から010
 あの天上の音に聴かう。
 おれは白髪童子となつて
 日本本州の東北隅
 北緯三九度東経一四一度の地点から
 電離層の高みづたひに
 響きあふものと響きあふ。

 バツハは面倒くさい岐道(えだみち)を持たず、
 なんでも食つて丈夫ででかく、
 今日の秋の日のやうなまんまんたる
 天然力の理法にに応へて
 あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
 バツハの蒼の立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。
 おれはこれから稗飯だ。
 
「平均率」は「平均律」の誤りですが、原文の通りとしました。

最後の画像は北上市の飛勢城趾に建てられた、この詩の一節を刻んだ詩碑。「北上平野の展望」の語があるので、選ばれたようです。

この後、光太郎自身は「幻聴」としていますが、いわゆる「脳内リフレイン」の状態になったようです。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。 「ラジオと私」(昭和28年=1953)

『読売新聞』さん青森版、先週末に出た記事です。

十和田湖 輝く新緑

 十和田湖畔に広がる木々に若葉が生え始め、訪れる人の目を楽しませている。遊覧船やボート、カヌーなどに乗ると、新緑と湖水の青とのコントラストが一望でき、湖畔とはひと味違った風景が楽しめる。
 十和田八幡平国立公園の中にある十和田湖は、周辺にブナなどの林が広がる。透明度が約12メートルの湖水は、光の反射で深い青色からエメラルドグリーンまで様々な表情を見せる。
 10日は白波が立つ荒れた天候だったが、高村光太郎の最後の作品として知られる「乙女の像」の近くにボートツアーがさしかかると、雲の切れ間から日光が差し込み、ブロンズ像と新緑、湖水のブルーが輝いていた。
 十和田奥入瀬観光機構は、「10、11月の晩秋まで多くの観光客に楽しんでほしい」としている。
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画像からも湖畔の新緑の美しさが伝わってきますね。

ただ、記事中の「最後の作品」というのは誤りで、「最後の大作」というべきです。何度も書いておりますが「最後の作品」は、完成したものとしては、昭和28年(1953)10月21日に行われた「乙女の像」の除幕式の際に関係者に配付された記念メダルです。小品ですが黙殺されていいものではありません。また、体調不良で未完のまま終わりましたが、その後取り組んだ「倉田雲平胸像」も含めれば、そちらも「最後の作品」ということになります。
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004ネット上や印刷物だと関係団体さんなどの紹介であっても「乙女の像」を「光太郎最後の作品」としている記述が目立ち、辟易しておりますが、一度こうとなってしまうとたとえ事実と異なっていてもそれが定着してしまうという例ですね。

閑話休題、「新緑」ということで、これも再三取りあげていますが、「新緑」を謳歌する光太郎詩を。

     新緑の頃
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて005
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

昭和15年(1940)、雑誌『婦人之友』に掲載されました。既に日中戦争が泥沼化、国家総動員法がしかれていた時期で、「日本という国は何と素晴らしい国なのだ!」というプロパガンダ的な要素が見え隠れします。

そういう点を抜きにすれば、いい詩ですね。

さて、「新緑」の十和田湖、ぜひ足をお運び下さい。先月末からは遊覧船の運航も再開していますし。

【折々のことば・光太郎】

他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。


昭和22年(1947)9月15日 菊池正宛書簡より 光太郎65歳

自著に序文を書いてくれ、という依頼に対しての断りの一節です。詳しくはこちら

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

関西でこぢんまりと刊行されている雑誌です。

『B面の歌を聞け』4号

2024年4月20日 夜学舎 定価990円(税込み)

特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」

夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
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目次
 はじめに 太田明日香
 インタビュー
  創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
 るるるるんメンバー(かとうひろみ、UNI、3月クララ)
  アートとことば アートを通じて社会をほぐす 
谷澤紗和子さんのアートと「ことば」 谷澤紗和子
 特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
  権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
  子どもとことば 「あらない」の神秘 鼈宮谷千尋
  文化とことば 幼い密輸 むらたえりか
  ことばのDIY B面の言語学習 石井晋平(イム書房)
  声、体ということば 俺は言葉に毒されていたか 服部健太郎(ほんの入り口)
 シリーズ 地方で本を作るとは?
  持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
 編集後記・次号予告


智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
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単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。

また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。

光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。

似たようなことは繰り返し述べました。

青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)

自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)

しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)

そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。

何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】d8ac5c36

今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。

昭和22年(1947)9月8日
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。

髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

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高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

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こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
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「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
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P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。

盛岡市先人記念館で池田龍甫展 没後50年に合わせ、作品や遺品を展示

 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
 池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
 同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
 展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
 展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
 晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
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同展詳細はこちら。

没後五十年 池田龍甫展

期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日 
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
      団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)

令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。

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『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
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校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。

その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
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盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
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発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。

ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら
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旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。

池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。

昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳

佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。

先週末に開幕しましたが、昨日になって市のHPに情報が出ました。

令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」

期 日 : 2024年4月27日(土)~7月7日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、昭和二十年の空襲で東京のアトリエを失い、同年五月に賢治の実家を頼って花巻に疎開しました。東京からの疎開後に滞在した先々で目にした岩手の初夏の光景に感動した光太郎は、花や山菜などをスケッチして残しました。
また、山口集落(現 花巻市太田)での自然に囲まれた暮らしの中で接した植物もスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想がうまれました。
 結局詩集は未刊に終わったものの、光太郎が山の暮らしの中で詠んだ詩や散文、スケッチは文芸誌や雑誌、詩集『智恵子抄 その後』に掲載され、世に知られることとなりました。
 今回のテーマ展『山のスケッチ』では、光太郎が花巻で過ごした七年間で描いたスケッチを中心に紹介し、自然を題材にした散文の原稿などの資料を展示します。

展示資料
 散文『七月一日』直筆原稿(初公開資料)4枚
 素描集『山のスケッチ』より鉛筆画および精密複製10点
 他、山のスケッチに登場する草花写真パネル

展示の見どころ
 散文『七月一日』直筆原稿は今回が初公開の資料です。本作は昭和21年に執筆され、昭和25年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載されました。文中では当地で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓にあがる様子が山菜の描写と共に詳細に記されています。東京在住時代に刊行された最初の「智恵子抄」は有名ですが、花巻在住当時に刊行された「智恵子抄 その後」の存在は広く知られてはいません。現在刊行されている「智恵子抄」の原型となった詩集で詠まれた花巻の自然を、今回の展示を通じて知っていただければ幸いです。
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展示風景の画像を市役所さんから送っていただいています。
展示風景 (1) 展示風景 (2)
展示風景 (3) 展示風景 (4)
7月1日原稿写真1 7月1日原稿写真2
風薫る5月となり、同館や隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)周辺にも山野草が色とりどりの花を付けたり、新緑が萌え立ったりしていると思われます。ぜひ足をお運びの上、展示と共に自然美もご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

海草でヤギといふ彫刻材ある由、小生始めて聞く事でまるで此迄知らず、むろん彫つた経験がありません。根付材になりのかと想像しますが、使つてみたいと存じますので、あまり面倒でなかつたら小さいのでいいですから御送り下さいませんか。苟も彫刻に関する事は何でもやつてみたいと存じます。


昭和22年(1947)7月13日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

「ヤギ」は「海草」というより珊瑚の一種です。東は三重県在住。あちらの方の海で産出していたのでしょうか。

花巻郊外旧太田村の山小屋在住中、作品としての彫刻は一点も発表しなかった光太郎ですが、技倆を鈍らせないための鍛錬などのために彫刻刀をふるっていました。現存が確認できていませんが、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りましたし、「蟬」を彫っていたという目撃談も複数存在します。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、昨日も上京しておりました。

行き先は「三岸アトリエ/アトリエM」さん。画家の三岸好太郎(明36=1903~昭9=1934)・節子(明38=1905~平11=1999)夫妻のアトリエで、不定期に開催される一般公開の日に当たっていました。先日、中西アトリエ保存意見交換会の第3回会合がやはり中野区で行われ、その席上で話題に上り、光太郎と三岸夫妻の直接の交流は確認できていませんが、同じ中野区ということもあり、足を運んだ次第です。
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現地は鷺宮の住宅街で、カーナビは新青梅街道から信号のない交差点を右に入って数十㍍と指示。「えっ、こんなとこ入ってくの?」というような狭い路地でした。駐車スペースはなく、アトリエ前を通り過ぎて突き当たりを左折、数百㍍行ったところに三井のリパークを見つけて愛車を置き、歩きました。立地条件的には中西アトリエと似たような感じです。
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建物は昭和9年(1934)竣工、設計は山脇巌。山脇はドイツのバウハウスで学んだ建築家です。現在の外観は戦時中の空襲による被害の修理で手が入っていますので、一見するとバウハウス感があまりないのですが、古写真を見ると竣工当時はコッテコテのバウハウス風ですね。昭和9年(1934)当時、かなり目をひいたのではないでしょうか。
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早速、内部へ。三岸夫妻の令孫に当たられる山本愛子様が対応して下さいました。
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入口を入ると、まず応接スペースとして使われていたエントランス。
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節子の写真も。
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左手の小部屋を通り抜けると、広々としたアトリエです。
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まず驚いたのが、窓が南面していること。通常、アトリエは北から採光するものです。南からの陽光は時刻によってかなり変わってしまうので。なぜこうなっているのか、山本様もよくわからないとのことでした。
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節子と好太郎、波乱に充ちた二人の生涯にしばし思いを馳せました。節子の方はつい先月、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられましたし。

エントランスとの間の小部屋、螺旋階段を上がった二階部分の座敷、廊下、中庭等も拝見。
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アトリエ内の古写真。上でご紹介した外観同様、無料でいただけるポストカードです。
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気になるこのアトリエの活用法について、山本様に伺いました。この手の建築、単に保存するだけでなく、どう活用するかが肝心です。

すると、「三岸アトリエ/アトリエM」というのがこちらの正式名称で、レンタルス多ジオ的な活用が為されているとのこと。
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ここで撮影が行われた写真が載っているというファッション誌を拝見。なるほど、いい感じでした。現代の写真スタジオでは醸し出しようのない、有機的な空気感というか何というか、そういうものが感じられる写真が掲載されていました。その点、南面の窓から差し込む光がいい方向に作用しているようです。

それから、さらに驚いたのが、映画の撮影でも使われたというお話。吉高由里子さん、横浜流星さん主演の「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)でした。
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2月にやはり吉高さん主演の映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見したばかりでしたので、なおさら驚きました。

いわゆる「聖地巡礼」でこちらを訪れる方もいらっしゃるそうで、それも驚きでした。

それ以外にもギャラリーや講演会の会場、さらに予約制ながらカフェとしても活用されているとのこと。維持管理していくランニングコストという部分を考えると、ご苦労が覗えました。国の登録有形文化財指定は受けているものの、それによる経済的なメリットはないとのことでしたし。

光太郎の使った中西アトリエ、保存が為されたとしても、どのように活用していくべきなのか、ほんとに大きな課題だな、と感じました。

火のない所に煙は立てるわけにもいかないので、かつては中西アトリエの保存にからめた記述は避けてきましたが、当方、各地の「○○生家」や古建築を使った「××記念館」などを数十個所廻りましたその裏側には、それらがどのような経過でそこに存在しているのか、維持管理運営などをいかにして行っているのか、その母体は、原資は、などといった点からの興味もありました。いずれ中西アトリエでもそうした動きが起こるかも、という推測の元に、でした。

現実にアトリエ保存運動が起きて一枚噛ませていただくことになり、そうした点への興味・関心がますますつのっております。

今後は特に光太郎智恵子・光雲らとの縁故はあまり考えず、そうしたスポットを折に触れて見て回ろうと思っております。「ぜひここは見ておいた方がいいよ」という場所がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

それから「三岸アトリエ/アトリエM」の公開、5月5日(日)と5月11日(土)にも開催されるそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日開墾にゐる復員者の青年から配給の蚊帳を譲つてもらひました。青年は二帳持つてゐるので不用との事でした。六尺-八尺の一人用白蚊帳で中々よろしく、代金二百六十円。今日としてはやすいと思ひます。


昭和22年(1947)7月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、山裾ですので湿気が多く、ボウフラもかなりわいていたのでは、と思われます。

それにしても、今さらながらにこの小屋が光太郎没後に村人達や花巻病院長・佐藤隆房(初代花巻高村記念会理事長)、宮沢家などの尽力によって保存されるにいたり、現代まで残されていることに感慨深い思いです。

ほぼほぼ一気読みしました。

不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯

2024年4月29日 渡邉茂男著 東京図書出版 定価1,800円+税

敬助没後百年──芸術家は死んでも、またその作品が多く失われても、その画業は私たちの心に残っている。敬助が見た未知の世界に私たちも旅立ちませんか。
関東大震災で不幸にも多くの代表作を失った。
柳敬助は東京美術学校西洋画科に学び、アメリカ・フランス・イギリス留学を経て帰国、人物画に秀でていた。荻原守衛・高村光太郎・岸田劉生・青木繁などと同時代の画家である。
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目次
 はじめに
  関東大震災に遭遇
  柳敬助との出会い  
 第一章 幼少期の柳敬助
  敬助の誕生  敬助とその家族  佐藤校長との出会い  
 第二章 千葉中学校へ
  千葉中学校への進学  堀江正章との出会い  
 第三章 東京美術学校へ
  西洋画科へ  入谷の五人男  美校生活の一コマ  アメリカ留学準備  
 第四章 渡米時代
  アメリカ留学  シアトルからセントルイスへ  セントルイス万国博覧会  
  ニューヨークへ  ヘンライとの出会い  荻原守衛や高村光太郎らとの出会い  
  ヨーロッパに向かう敬助  
 第五章 帰国と様々な出会い
  生家へ  新宿中村屋  荻原守衛の死  信州穂高へ  『白樺』派との付き合い  
  中村屋裏のアトリエ  橋本八重との出会い  パンの会  新井奥邃との出会い  
 第六章 結婚へ――充実した作家活動
  八重と結婚へ  光太郎へ智恵子紹介  画家仲間との交流  
  アトリエ完成(雑司ヶ谷)
  高村光太郎と『読書読』  山を愛した敬助
  
日本女子大学と成瀬仁蔵   西田天香との出会い  
 第七章 死に向かいて
  充実した作家活動  穂高再訪  最後の旅路  死に向かいて  追悼展に向けて  
 第八章 おわりに
 参考文献
 柳敬助年譜

著者プロフィール
 渡邉茂男  (ワヤナベシゲオ)  (著/文)
1950年生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業。卒業後、千葉県内の公立高校教員を務める傍ら、地方史の研究に従事。退職後、君津地方社会教育委員連絡協議会会長を経て、現在君津市文化財審議会委員、千葉県文書館古文書調査員。主な著書・論文に以下のものがある。
『学校が兵舎になったとき』(分担執筆 青木書店 1996年)、『君津市史 通史』(分担執筆 君津市 2001年)、『御明細録―上総久留里藩主黒田氏の記録―』(編修代表 上総古文書の会 2006年)、『房総の仙客 日高誠實』(三省堂書店/創英社 2017年)など。

光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。

昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。

まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。

ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。

柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。

行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。

柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。

そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。

それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。

さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。


昭和22年(1947)6月26日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。

注文しておいた新刊が届きました。

瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家

2024年4月10日 土田昇著 みすず書房 定価4,200円+税

 町の仏師から日本を代表する木彫家、帝室技芸員、東京美術学校教授へと登りつめた高村光雲。巨大な父の息子として二世芸術家の道を定められながら、彫刻家としてよりもむしろ詩人として知られることになる高村光太郎。そして、刀工家に生まれた不世出の大工道具鍛冶、千代鶴是秀。
 明治の近代化とともに芸術家へと脱皮をとげ栄に浴した高村光雲は、いわば無類の製作物を作る職人でありつづけた。その父との相似、相克を経て「芸術家」として生きた光太郎の文章や彫刻作品、そして道具使いのうちに、著者は職人家に相承されてきた技術と道徳の強固な根を見る。
 戦後、岩手の山深い小屋に隠棲した光太郎が是秀に制作を依頼した幻の彫刻刀をめぐって、道具を作る者たち、道具を使って美を生みだす者たちの系譜を描く。
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目次
第一章 職人の世界――火造り再現の旅のはじまり
火起こし / 千代鶴是秀の鍛冶場 / 仕事の領分――冷たい鉄と熱い鉄 / 鋼作り / 地金作り / 鍛接 / 火造り / 山の鍛冶場 / 最後の職人たち――作業感覚に支えられて / 売るためでなく / 「絶滅種」の道具 / 剣錐を造る / 本三枚の刃物の難しさ / 本三枚と格闘する / 出来る時には出来てしまう / 驚異の青年鍛治 / 本三枚の切出小刀の製作仲介 / 作業感触の支配下で

第二章 道具と芸術
不思議を転写した彫刻 / 芸術家とはなにか / 美しいとはなにか / 大工の技術、彫刻家の技術 / 大工の研ぎ、彫刻家の研ぎ / 岐れ道を歩む者たち――千代鶴是秀と高村光太郎 / 千代鶴是秀と明治日本 / 高村光雲と明治日本 / 明日の小刀を瀏瀏と / 高村光雲の彫刻道具 / 仏像作家、森大造と道具 / 特殊鋼の刃物、純炭素鋼の刃物 / 是秀作、左右の印刀――実用本位の刃物 / 津田燿三郎の墨坪 / 道具はどう機能すべきか――森大造と津田燿三郎

第三章 職人的感性と芸術家――高村光雲と光太郎
高村光雲『幕末維新懐古談』との出会い / 『光雲懐古談』想華篇――「省かれてしまった部分の方が面白い」 / 芸術家父子と技法の移譲――岩野勇三と岩野亮介 / 息子がなす無謀――父親と同じではいない / 職人手間、物価の話と、道具の単位 / 世間に知られぬ名人の話 / 無類の制作物を作る「職人」たち――村松梢風『近代名匠傳』 / 職人の道徳――錆びた木彫道具 / 父との相似、相克――息子、光太郎と「のつぽの奴は黙つてゐる」 / 《薄命児》と川縁の地 / 二代目芸術家の洋行 / 帰国と芸術論「緑色の太陽」 / あやうい上手さからの脱却のシミュレーション――「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」 / 鋸の色と切味の間の微妙な交渉 / 鋸の製作 / 健康な道具の色 / 三尺の目と一厘の目 / 職人と社会の問題 / 芸術家と社会の問題、芸術家と戦争――佐藤忠良、西常雄 / 「まだうごかぬ」――高村光太郎と西常雄 / 千代鶴太郎と彫塑の師、横江嘉純 / 息子がみつめた「父の顔」 / 工房の中の芸術家――光太郎による光雲作品の評価 / 木彫地紋――修業の第一歩 / 木彫地紋を彫る小刀 / 小さな木彫作品群――《桃》と《蟬》、光雲の荒彫りの洋犬 / 道具調べと職人道徳 / 後進の彫刻家にとっての高村光太郎 / 十和田湖畔の裸像 / 研ぎという刹那な達成 / 名人大工<江戸熊>の研ぎ / 光太郎の変容、是秀の変容 / 随筆身近なものへの感触の確かさ――「三十年来の常用卓」/ 折りたたみの椅子

第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎
コロナ禍の研ぎ比べ――是秀の二本の叩鑿 / 錆びた彫刻刀――光太郎と是秀の接点たる道具 / 光雲の玄能、光太郎の彫刻刀 / <マルサダ>の一文字型玄能 / 錆落とし / 父の検証 / 研ぎ / 焼班やきむら / 仮説と消えゆくウラの文様 / 異形、異例の彫刻刀

借受記録帳より――光太郎のアイスキ刀 図面および寸法と覚書
参考文献
あとがき

著者の土田昇氏は、三軒茶屋の土田刃物店三代目店主であらせられます。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等を行う職人さんであると同時に、お父さまの二代目店主・一郎氏と交流のあった伝説の大工道具鍛冶・千代鶴是秀作品の研究家としてもご活躍。平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を刊行されています。

千代鶴是秀は光太郎の木彫道具も制作しましたし、実現したかどうか不明なのですが、光太郎は終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。また、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎を、是秀が中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。「乙女の像」の石膏取りをした牛越誠夫は是秀の娘婿でした。

是秀が光太郎のために作った彫刻刀は、令和3年(2021)に東京藝術大学正木記念館さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で初公開されました。その少し前に髙村家で見つかったもので、土田氏がその錆び落とし、研ぎにあたられたとのこと。「第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎」に、その経緯や作業の工程などが詳しく語られていて、実に興味深く拝読いたしました。

問題の彫刻刀は、先端部分のみを木製の柄にすげる通常の彫刻刀と異なり、柄の部分まで鉄で出来た「共柄」と呼ばれるタイプ。当方、この手の道具類にはさほど詳しいわけではなく、現物を拝見した時には「へー、このタイプか」と思っただけでした。しかし、本書を読むと「共柄」のものは実用に適さず、土田氏は「異形」とまで言い切られています。光太郎と交流のあった朝倉文夫は、わざわざ是秀が作った「共柄」の彫刻刀の鉄製の柄に木製の柄をかぶせていたそうで。

また、材質も特殊。是秀は早い時期から日本の伝統的な「玉鋼」ではなく、より良質な輸入鋼の「洋鋼」による制作を主流としていたにもかかわらず、光太郎の彫刻刀は「玉鋼」製だったとのこと。そうした異形、異質な作品が光太郎に作られた理由について、考察が為されています。

また、光太郎の父・光雲が使っていた玄能(げんのう)についても。こちらは「丸定」という明治期の名工の作。こちらも錆び落としや柄の補修などを土田氏が担当され、そのレポートも読み応えがありました。作業が一段落した際の記述に曰く「空振りするだけで、握る手、振り上げ振り下ろす肩や腕に制作者丸定と、柄をすげて実用した光雲が憑依しているかのように感じました」。

昨日届いたばかりですし、300ページに迫る厚冊ですので、まだ全て読み終えていませんが、他にも『光雲懐古談』、光太郎のさまざまな評論やエッセイ、詩についての考察などがちりばめられています。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等に取り組まれている土田氏の読み方は、やはりいわゆる「評論家」のセンセイとはひと味もふた味も違います。なにげに読み飛ばしてしまうような一行に、「この背景にはこういうことがある」という指摘、唸らせる部分が多々ありました。

また、光雲や光太郎の周辺にいたさまざまな彫刻家などについての記述も。荻原守衛はもちろん、森大造などについても触れられていて、舌を巻きました。

ちなみにタイトルの「瀏瀏と研ぐ」は、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)からの引用です。

   鯰

 盥の中でぴしやりとはねる音がする。000
 夜が更けると小刀の刃が冴える。
 木を削るのは冬の夜の北風の為事(しごと)である。
 煖炉に入れる石炭が無くなつても、
 鯰よ、
 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
 檜の木片(こつぱ)は私の眷族、
 智恵子は貧におどろかない。
 鯰よ、
 お前の鰭に剣があり、
 お前の尻尾に触角があり、
 お前の鰓(あぎと)に黒金の覆輪があり、
 さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
 何と面白い私の為事への挨拶であらう。
 風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
 智恵子は寝た。
 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水(とみづ)を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

土田氏にかかると、終わりから二行目の「研水(とみづ)を新しくして」だけでも深い意味。詳しくはぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩稿「暗愚小伝」(題名未定)は、いつまでも書き直してゐてもきりがありませんから此の十五日までに遅くもそちらに届くやうにするつもりで居ります。 一応読んでみて下さい。雑誌でも検閲があるのでせうが一切自由に書きましたからご注意下さい。

昭和22年(1947)6月1日 臼井吉見宛書簡より 光太郎65歳

自己の生涯を振り返り、同時に戦争責任にも言及した20篇から成る連作詩「暗愚小伝」。前年から取り組んでいて、ようやくほぼ脱稿しました。これを書く前と後とでは、花巻郊外旧太田村での山小屋生活の意味もかなり変容したように思われます。移住当初はここに仲間の芸術家たちを招いて「昭和の鷹峯」を作るといった無邪気な夢想もありましたが、続々入る友人知己の戦死の報(木彫「鯰」を贈った新潟の素封家・松木喜之七なども)、東京で巻き起こった戦犯追及の声などに押され、自らの戦争責任を直視せざるを得ず、「自己流謫」へと。「流謫」は「流罪」に同じです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

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 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。

雑誌の新刊です。

月刊 アートコレクターズ』№181 2024年4月号

2024年3月25日 生活の友社 定価952円+税

宇宙のような無限の広がりを持つ「色彩」。本特集では、「色彩」にこだわりを持った現代の実力派作家たちを紹介。さらに美術史における「色彩芸術」の変遷や、日本人ならではの色彩感覚についてなど、様々な観点から「色彩」を探究。あたりまえのように感受している「色彩」のパワーを改めて見直します。

表紙:入江明日香「雪月花之舞」2024年 ミクストメディア 85×65cm
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目次
 【巻頭特集】 色彩の宇宙 実力派カラリスト勢ぞろい


◇寄稿
 岡﨑乾二郎 目から転がり落ちる色
 谷川渥 絵画は色彩芸術か
 赤瀬達三 都市のなかの色彩 
 三木学 サイン色彩概念を疑う
◇アーティストインタビュー
 流麻二果 色に遺る生活の跡
 岡村智晴 ノイズの創造性
 氏家昂大 ―異物としての陶芸―
◇グラビア
 中村功/藤井孝次朗/横溝美由紀/前田信明/福本百恵/加来万周/曽谷朝絵/戸泉恵徳
 上野英里/Yeji Sei Lee/木村佳代子/少女(SONYO)/ATSUYA/今実佐子/石倉かよこ
 蓮水/間島秀徳/坂口寛敏/名古屋剛志/西岡悠妃/オーガ ベン/福井江太郎
 大久保智睦/中島麦/中津川博之/小泉遼/銀ソーダ/水津達大/岡田菜美/盧思/城愛音
 長谷川喜久/堀川理万子/天野雛子/やましたあつこ/松下徹/吉川民仁/平体文枝
 CAIQIN/那須佐和子/今津奈鶴子/西川茂/Pin-Ling Huang/小林正人/松浦延年
 近藤亜樹/片山雅史/木下めいこ/井崎聖子/野地美樹子/末松由華利/入江明日香
 南依岐/塚本智也/谷保玲奈/福室みずほ/春田紗良/坪田純哉/篠田教夫/浜田浄
 佐藤裕一郎/梶岡俊幸/藤森哲/田島惠美
【展覧会情報】 神戸アートマルシェ 他
【連載】 鹿島茂/水沢勉/森孝一/田辺一宇/飯島モトハ
 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

この3月末で退任された、元神奈川県立近代美術館長であらせられた水沢勉氏の連載「色と形は呼び交わす」の第13回「盛田亜耶 被膜の虚実」で、智恵子紙絵が紹介されています。

メインは標題の通り、切り絵作家・盛田亜耶氏の作品紹介ですが、同じ切り絵ということで、智恵子の紙絵が話の枕になっています。ちなみに智恵子のそれは光太郎の意図で「紙絵」という呼称が定着していますが、ジャンル的には切り絵です。

水沢氏、昨秋、二本松市の智恵子生家/智恵子記念館で開催された「高村智恵子レモン祭」に足を運ばれ、智恵子紙絵の実物展示(平時は複製展示)をご覧になったそうで、その印象など。

曰く、

 智恵子の「紙絵」は、紙を折ることによるシンメトリーの効果や皺による無意識の偶然性などを冴え切った感覚で活かし、重なりあった複数の紙の繊細極まりない表情をハサミで震えるような切れ目を入れることによってみごとに際だたせるものであった。その抜きんでた才能を、印刷物や複製ではなく、原作をまのあたりにすることで確かめることができた。

そして先述の通り、盛田氏の切り絵の紹介。

ちなみに盛田氏、昨年全国巡回のあった「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展に出品されていました。当方、日本橋の三井記念美術館さんで拝見しました。
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氏の作品、モノトーンが基調のようですが、色彩を効果的に使った作品も見られます。再び水沢氏曰く「一見薄っぺらともいえる紙による造形が特別な存在感を纏っていた」。

こうした点は智恵子紙絵にも共通していえることだと思われます。くりかえし書いていますが、智恵子紙絵は台紙に貼り付けることで生じる1㍉に満たない厚みが不思議な立体感を醸し出しています。これは複製や印刷物では味わえない感覚で、その意味ではぜひ実物をご覧になって納得していただきたいところです。

昨日も書きました通り、今月末から来月にかけ、やはり二本松市の智恵子記念館さんで恒例の実物展示が行われます。また近くなりましたら詳細をご紹介します。

さて、『月刊 アートコレクターズ』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの赤ちゃんの名は宮崎さん自身で光太郎とつけたと言つて来られました。これには少々驚きました。あんまり近いところに光太郎さんが居る事になるので何だか変ですが、もう届けてしまつたことなので是非もありません。

昭和22年(1947)5月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「宮崎さん」は宮崎稔。茨城在住の詩人で、戦前からその父・仁十郎ともども光太郎と交流がありました。戦後になって昭和20年(1945)、光太郎の仲介で、智恵子の姪にしてその最期を看取った看護師だった長沼春子と結婚。そして生まれた第一子を「光太郎」と名付けてしまったとのこと。夫婦とも光太郎を限りなく敬愛していたためなのでしょう。

昨日も上京しておりました。

目的地は2箇所、まずは上野桜木町の旧平櫛田中邸。山手線だと鶯谷駅か日暮里駅からの方が近いのですが、せっかくの桜のシーズンですので、上野駅から歩きました。

トーハクさん前。
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藝大さん前。
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寛永寺さん。
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谷中霊園入り口的な。
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と、桜を見つつ歩いて目的地、旧平櫛田中邸へ。木原萌花さんという方による舞踊の公演「旧平櫛田中邸 de タコダンス」を拝見。
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公演も勿論ですが、この建物がどう活用されているのか、という部分に非常に興味がありまして。昨年から、光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、その関係です。
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邸宅は住居兼アトリエ。大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

平櫛田中は光太郎の父・光雲の高弟の一人ですし、ここは一度見ておきたいと前々から思っていたのですが、イベントがある場合のみ公開されるということで、何もない時に行っても見られません。するとちょうどいいタイミングで今回の公演があったというわけです。
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こちらは保存に関わられた「たいとう歴史都市研究会」さんのパンフレット。他にも古建築の保存に当たられています。同会の方がいらっしゃればお話を伺おうと思っていたのですが、昨日は不在でした。

外観。
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細々したパーツなども実にいい感じです。
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大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。その間に部分的には少し手が入れられているかな、という感じでしたが、全般的には竣工時のままでしょう。
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住居部分内部。「おばあちゃんの家」みたいな懐かしさを感じます。
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あちこちに田中グッズ。
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アトリエ部分。
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ここが公演会場で、バイアスのないフラットな床面でどうお客さんに観(み)せるのかと思っていましたが、カーペットやクッションなどを活用していました。もちろん椅子も。
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キャパ的には詰め込んで30くらいでしょうか。昨日は20名程でした。

中野のアトリエも、保存活用が為されるようになったあかつきには、こういった公演等での活用も考えられ、その意味では非常に参考になりました。

さて、開幕。
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上演時間は約60分。あえて分類すればコンテンポラリーダンスに入るのでしょうが、通常のダンスというイメージはほとんど無く、能楽やバレエのような動作もあり、激しい動きとゆるやかなそれと予想のつかない緩急、そうかと思うといきなり不可思議な「語り」も入り、後半では一度引っ込んでから黒い大きなゴミ袋を纏って再登場したりと、異界に迷い込んでしまったような感覚を味わわされました。
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将来的に中野のアトリエが活用されるようになったら、ぜひそちらでも演じていただきたいものだと思いました。

終演後、原宿の「デザイン&ギャラリー装丁夜話」さんへ。こちらでは水彩画の個展「ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日」が開催中です。
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先月開催された「星センセイと一郎くんと珈琲」の際にもお邪魔しまして、2回目です。偶然でしょうが、光太郎智恵子に関わる個展が短期間に開かれ、ありがたいかぎりでした。

今回は光太郎、中原中也、芥川龍之介の作品からインスパイアを受けたという水彩画の展示。作者のASAKO(井出朝子)氏もご在廊でした。
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「智恵子抄」系。
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智恵子肖像は売約済みになっていました。

中也/芥川系。
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それぞれの作品と、元ネタの詩文を併せて掲載した画集『琥珀糖』が販売されていて、ゲットしました。装丁夜話さんのオンラインショップでも購入出来ます。
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「星センセイと一郎くんと珈琲」の際の山口一郎氏の作品と画集もまだ置いてありました。
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こちらもオンラインショップで注文可。

今日は開廊、その後、来週4月12日(金)~14日(日)の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

四五日あたたかだつたので畑をはじめたら、昨夜猛烈な嵐が来て小屋が飛ぶかと思ふほどでしたが、今日はアラレ交りの雪がふつてゐます。


昭和22年(1947)4月22日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。4月下旬でも降雪が普通にある、厳しい環境でした。

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
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今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
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おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

最近、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、芸術家ゆかりの建造物の保存活用などについていろいろ調べています。なかなか一筋縄ではいかない問題です。ケースバイケースですし。

そんな中で保存活用がうまくいっている例として、台東区上野桜木に現存する「平櫛田中邸」があります。光太郎の父、光雲の高弟・平櫛田中が使っていたアトリエ兼住居で、大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

小平にも移転後の旧居が保存されていて、隣接する小平市平櫛田中彫刻美術館さんと併せて何度か足を運びましたが、上野の方は未踏です。令和元年(2019)にはジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄」公演がここであって、ご案内も頂いたのですが、智恵子故郷福島二本松に行く用があって欠礼しました。

さて、その平櫛田中邸でダンスパフォーマンスの公演があります。

旧平櫛田中邸 de タコダンス

期 日 : 2024年4月5日(金)~4月7日(日)
会 場 : 平櫛田中邸 東京都台東区上野桜木2-20-3
時 間 : 4月5日 19:30〜 4月6日 13:00〜 / 18:00〜 4月7日 18:00〜
料 金 : 一般 3000円 U-25 2000円 当日 3500円

作・出演/木原萌花

ダンサー・表現者であり、演出も行う木原萌花さんが、『他者から見た自己』をテーマにソロパフォーマンス〝タコダンス〟を披露するイベントが開催されます。

舞台は彫刻家・平櫛田中の元住居兼アトリエ「旧平櫛田中邸」。3日間で4公演での開催となります。

“タコダンス”とは、踊りを軸にパフォーマンスやプロデュースを展開する表現者、木原萌花(きはらももか)さんが、クラシックバレエを習い始めた幼少時代に独自に踊っていたタコのようなダンスのこと。

タコ=他己(たこ)という意味も掛け合わせており、他人から見た自分を主題に置いたダンス表現だそうです。

『他者や自然とのつながりに意識を向け、自分が外の世界と繋がっていると感じられる時、人は固く閉じていた「自己」の鎧から解放され、少し軽くなった自分を発見できるのではないか?』そんな仮定から「自分に集中しない」ダンスを魅せます。
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平櫛邸の様子も見てみたいところですし、また建築保存の関係の方もいらっしゃるようならそのあたりのお話も伺いたいと思っておりますので、行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろ花といふものは画や彫刻と違つて自然そのものを取つて来てそれに人間が手を加へるものなので恐ろしいやうでもあり、又よく自然の心にきく事が出来た時は人間の思量以上のものが現前するものと思へます。自然の美は中々人間並でない超常識のものですから、之を相手にする者は一通りでない智慧と情熱と力とがいるわけです。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

華道について述べた一節です。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

昨日、『毎日新聞』さんの現代アート作家谷澤紗和子紹介記事を引用し、「谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます」と書きましたが、書いてるそばから都内で個展(三人展?)です。

星センセイと一郎くんと珈琲

期 日 : 2024年3月1日(金)~3日(日)、3月8日(金)~10日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

星信郎センセイ: デッサン 山口一郎くん: ドローイング 元明健二さん: 珈琲焙煎

東京渋谷区神宮前のギャラリー『 装丁夜話 』にて セツモードセミナー時代の先生 星先生と 山口一郎の絵の展示(販売)が始まります
星先生はデッサン 山口はレモンの絵(A5サイズ額装)です
星先生のデッサンのポストカードブック 山口一郎の、詩人 高村光太郎のレモン哀歌の詩の
装丁夜話オリジナルのポストカードブックの販売もあります
3月の同じ日に生まれた星先生と山口一郎の絵の展示です
セツ モード セミナーの皆さん 興味のある方 ぜひ見に来てください
初日 3月1日(金)星先生 山口一郎 在廊しています(山口は午後3時ごろ、1時間少し打ち合わせで居なくなります)

 ●星信郎 水彩画家 1934年 福島県会津生まれ 春日部たすく・長沢節・穂積和夫に学ぶ
元セツ・モードセミナー講師

●山口一郎 静岡出身。セツ・モードセミナー卒。卒業後、イラストレーターとして雑誌広告の仕事を始める。 1999年、チョイス展 入選、第6回CLSビジュアル・アート展 大賞
JACA展 入選、第5回ART・BOX展 入選、タンカレージン イラストデザイン 入選
2007より、東京青山DEE’S HALLにて定期的に個展を開催。
2011年、香川県人権問題ポスター・CMに作品「コルク人形」が採用される。
同年、香川県の保育所にて芸術士として活動。香川県在住。

●元明健二(がんみょうけんじ) 1955年宮崎県出身、所沢市在住
セツ・モードセミナー美術科研究科卒、ゲリラ
受賞歴-シェル美術賞入選、ターナーアワード大賞
SCAJ(The Specialty Coffee Association of Japan)コーヒーマイスター。
2016年リメナスコーヒー(Limenas Coffee)創業

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レモン、一枚一枚異なるようです。

来週、また中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、その際に立ち寄ってみようかと思っております。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此処にアトリエを建築、正式に御招待して彫刻に花を生けていただくやうな日がいつになるか、それは日本の社会事情の恢復次第と存ぜられます。


昭和21年(1946)10月11日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで約一年。もう少し経つと、彫刻は完全に封印してしまいますが、この頃はまだ彼の地にきちんとしたアトリエを建設するつもりがまだあったようです。

現代アート個展(会期終了していますが)のレビューを兼ねた作家さん紹介が、昨日の『毎日新聞』さんに大きく掲載されました。

男性優位への疑念、アートに フィルター外した「女性像」を模索

 太陽をかたどった金色の紙の中心に、目と口が切り抜かれている。『智恵子抄』で知られる高村智恵子の顔だという。口を開き、こちらに何か伝えようとしているのか。古びた木枠の中の小さな顔を見つめていると、もどかしさに駆られた。
 タイトルは「はいけいちえこさま」。京都を拠点に活動する現代美術家・谷澤紗和子さんが、洋画家・紙絵作家の高村智恵子をオマージュした作品だ。自身も切り紙を手がける谷澤さんは智恵子の作品にひかれ、その創作について調べ始めたが、行き当たるのは夫・高村光太郎のフィルターを通した智恵子像ばかり。故郷を離れ大学に進み、親の反対を押し切って洋画家に。『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、病室では千数百点もの紙絵を作った。「一途(いちず)」や「純朴」といった世間のイメージとは違う、自立した個人・智恵子の声が聴きたい。小さな顔には、そんな思いがこもる。
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  「フェミニストとして、自身 ... 気づきになるような制作態度を示したいと考えています」。自身のサイトでこう宣言し、ジェンダーをテーマに作品を制作する谷澤さんだが、問題意識が明確になったのは数年前からという。
 それまでも、引っかかることはあった。京都市立芸術大で教わった教授陣はみな男性だったし、院試でフェミニズムに言及すると、「そういうのはもう飽きたんだよね」と返されたこともあった。卒業後は同世代の男性の方がいい仕事をもらっているとも感じた。ただ、大きな壁を感じるほどではなかった。
 2018年、出産。「親になるのは大歓迎だったのに、突然『母』という代名詞が舞い降りてきた」。保育園の申し込みで役所に行くと、来ているのは全員女性。指定された時間は夕刻で、赤ん坊たちは泣いている。谷澤さんも泣く子を抱いて職員とやり取りするが、泣き声にかき消されお互いの声が聞こえない。予算を割いて託児サービスさえ用意してくれていれば。そもそもなぜここに父親はいないのか。社会の仕組みに対する疑問や怒りが、あふれた。
 産後しばらくは時間と場所の制限から、大きな作品が作れない。発表するあてもなく、A4の紙に描き始めた。当時のファイルには、顔の中に「くそやろう」や「NO」といった言葉を配したドローイングが並ぶ。「女性が使うべきではない」罵倒や抵抗の言葉。抑圧をかいくぐり、やっと発せられた言葉だと表現したくて、うねる線で描いた。
 ジェンダー研究の文献にも目を通し思索を深めていた翌年、作家・藤野可織さんとの共作「信仰」を発表し、ジェンダーをテーマに据えることに手応えを感じた。智恵子について本格的に調べ始めたのも、この頃。「はいけい――」は冒頭の「太陽」のほか、智恵子による「青鞜」の表紙絵や産後のドローイングから生まれた「NO」などをモチーフにした6点組みで、木枠に日本家屋の廃材を用い、女性の足かせとなってきた家父長制度を象徴させた。金と赤の美しい造形の中に切実なメッセージを織り込んだ作品は、若手芸術家の登竜門「VOCA展2022」で佳作に選ばれた。
 昨年12月には、大阪で個展「矯(た)めを解(ほぐ)す」を開催。タイトルは社会や教育に矯正され、知らず知らず染まってしまった価値観を解きほぐす、という意味で付けた。同名の新作は、ぺしゃんこになったショベルカーやクレーン車に赤い線が絡む紙の作品。モチーフにしたのは子どものおもちゃだという。
 息子が好む重機のおもちゃ。何がかっこいいのか、正直わからない。ある時そんな話をしたら、男性作家が「かっこよさ、わかるよ!」と興奮気味に応答した。「それを聞いて、仕組みがわかった!と思いました」。自分が身を置いているのは「重機をかっこいいと思う」人たちが築き上げたコミュニティーではなかろうか。男性優位の世界で感じてきた不条理に、説明がついた気がした。「そこに一生懸命入ろうとするのではなく、別の仕組み、別の見方で考えていかなきゃいけない」
 会場で、白一色の作品に目が留まった。エンボスによる和装の女性と、切り紙のくしゃくしゃの塊。女性は智恵子で、塊は自画像だという。美術の歴史の中で男性によって客体化されてきた「女性像」の問題は、根深い。人間としての女性をどう描くか。今はまだ模索中だ。 いびつでくしゃくしゃな塊は、不思議と楽しそうに見えた。時空を超えた女性の連帯が放つ輝きだろうか。小さな作品を前に、空想にふけった。
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あえて切り紙で表現
 「はいけいちえこさま」は愛知県美術館所蔵。収蔵に関わった学芸員の中村史子さん(現在は大阪中之島美術館勤務)は、谷澤さんについて「以前からしっかりした技術でスペクタクルな面白い作品を作っていたが、20年ごろから作品にぐっと緊張感が生まれ、強く、クリティカルな表現になった」と評価する。美術界で等閑視されてきた女性や非西欧圏の作家を再評価する動きは、キュレーターや研究者の間では世界的潮流となっているが、「谷澤さんは同じ作り手という立場で、今まで軽く見られてきた女性作家を再考している点に特徴がある」と中村さん。谷澤さんは実際の制作を通じて、智恵子の高い技術や理知的な構成力に気付いたという。
 絵画や彫刻が美術の「王道」とされる一方で、女性が主に担った手芸などは一段下に見なされてきた。切り紙も絵画の周縁に位置づけられてきた手法の一つ。近年では歴史的背景を理解した上で、あえてそうした手法を取る現代美術家も活躍する。谷澤さんも、ヒエラルキーの上位に位置しない、紙とハサミさえあれば誰にでも開かれた切り紙という手法で、女性をはじめ、弱い立場に置かれた人たちの存在を表現している。010

昨年12月2日(土)~12月23日(土)に、大阪市のstudio Jさんで開催された「矯めを解す」(こちらについては情報を得られていませんでして、このサイトではご紹介していませんでした。汗顔の至りです)レビューから、谷澤氏の歩みをまとめられています。

なるほど、こういう背景があったのかという感じでした。

記事にもあるVOCA展など、谷澤氏に関しては以下もご参照下さい。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」展覧会評。
谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます。やはり100年前に智恵子が投げかけた問いは、現代にも重くのしかかっているということなのでしょう。

今後とも多くの方々に取り組んでいただきたいものですし、そこから発せられるメッセージをさらに多くの皆さんに受けとめてほしいとも存じます。

【折々のことば・光太郎】

十月五日には染井のお墓へおまゐりして下さる由、まことにありがたく存じます。墓もさぞ荒れ果てゝゐる事と推察してゐます。


昭和21年(1946)10月11日 秋広あさ子宛書簡より 光太郎64歳

秋広あさ子は遠く明治期、日本女子大学校の寮で智恵子と同室でした。故あって中退したため卒業生名簿に名が無く、学科までは不明ですが、当時の智恵子と最も親しかった一人で、貴重な智恵子回想文も残しています。

十月五日」は智恵子の命日、「染井のお墓」は現在の都立染井霊園の髙村家墓所。11日付の書簡で「おまゐりして下さる」は「おまゐりして下さつた」の誤記か、或いは秋広からの書簡に「毎年十月五日にはお参りしてゐます」的な記述があって、それへのいらえなのか、というところです。

またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
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「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
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終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
無題
昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」ライトアップも為されているはずの「第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう」が先週金曜に開幕し、その模様が報じられています。

ATV青森テレビさん。

冬空に200発の花火や名物「かまくらバー」も!「十和田湖冬物語」が開幕

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冬の十和田湖をイルミネーションや花火で彩る「十和田湖冬物語」が、2日に開幕し、訪れた人たちが、幻想的な世界を楽しみました。
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十和田湖冬物語は十和田湖休屋地区の特設会場で始まりました。イルミネーションで色鮮やかに飾り付けられた会場では大きな「かまくら」を使ったバーが登場。訪れた人たちはお酒を飲んだり、肉まんや串焼きといった温かい食べ物を食べたりして楽しんでいました。
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また午後7時半を迎えると、冬の澄んだ夜空に200発の花火が打ち上げられました。
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※訪れた人は「きれいでした。よかったです見に来て。」「花火、音楽と一緒に上がってきれいでした」「雪があっての花火ですごいきれいでした」
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十和田湖冬物語は2月25日まで毎週火曜日と水曜日を除いて開催され、イベント期間中の週末にはステージイベントも行われます。
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RAB青森放送さん。

十和田湖冬物語 開幕 毎日 冬空に花火

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冬の十和田湖が満喫できる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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会場の十和田湖畔休屋地区では4年ぶりにコロナ禍前に戻して、地元の食を味わえる雪灯り横丁やスノーパークが設置されました。
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雪不足が心配されましたが名物のかまくらバーもお目見えしました。

また今月25日までの期間中、午後7時30分から毎日打ち上げられる花火が冬空に大輪の花を咲かせて訪れた人たちが冬の十和田湖を楽しんでいました。
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地方紙『デイリー東北』さん。

澄んだ夜空に光の大輪 「十和田湖冬物語」開幕

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔休屋地区で2日、厳寒期の自然の魅力に触れる「十和田湖冬物語」が開幕した。雪が舞う夜空に光の大輪が咲き、来場者が見入っていた。25日まで。
 冬期の誘客促進などを目的に、実行委員会(中村秀行委員長)が主催して26回目。期間中は火、水曜を除き、午後7時半から花火約200発を打ち上げる。1玉7千円のメッセージ花火もある。
 会場の多目的広場は入場無料。新型コロナウイルスの5類移行を経て、飲食を提供する屋台村が4年ぶりに復活した。酒類を扱うかまくらバーを含め、地元業者ら7店舗が出店し、家族連れや訪日客らでにぎわいを見せた。
 初日は十和田市無形文化財の「晴山獅子舞」も披露された。週末には青森、岩手、秋田3県の芸能パフォーマンスが行われる。
 東京都から夫婦で訪れた主婦服部博子さん(68)は「澄んだ空の冬花火は華やかできれい。思い出の一つになった」と喜んでいた。
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会場の十和田湖畔休屋地区、半端ない寒さですが、その寒さを吹き飛ばす熱気に溢れていることと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

あのいただいた和紙は実に珍重です。秋には障子をすつかり新しくします。ワラビ糊をつくつて張るつもりです。 貴下手植えの萩は今年花を持つかどうか分りませんが、勢は盛んです。

昭和21年(1946)8月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

前年5月の花巻疎開の折には光太郎を花巻まで送りとどけた宮崎が、久しぶりに茨城から光太郎に会いに来ました。障子紙や萩の苗は手土産。花巻町中心街の宮沢賢治実家や花巻病院長・佐藤隆房から託されたものかもしれませんが。

この書簡には萩の葉のイラストが描かれていました。
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光太郎智恵子と交流のあった画家・津田青楓の評伝です。

津田青楓 近代日本を生き抜いた画家

2023年12月5日 大塚信一著 作品社 定価2,700円+税

洋画・日本画・書の作家、図案家・装幀家、俳人・歌人・随筆家――明治・大正・昭和の激動の時代を必死に生き抜いた多面的な芸術家の生き方を描く、初の本格的評伝!

 明治・大正・昭和と、正に日本近代を必死に生き抜いたのが津田青楓であった。彼が逆境の中でどのように自らの道を開拓していったか、日本近代の激動の歴史に翻弄されつつもそれらといかに対峙していったか、その軌跡はまことに類稀れなものである。芸術は彼にそのための手段を与えた。彼は存分にそれらを活用して、可能な全てのことを行い、時に挫折し、時には成功したのであった。
 私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。
(本書「プロローグ」より)
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 プロローグ
 第一章 京都に生まれて――芸術家の誕生
 第二章 軍隊と戦争の体験
 第三章 結婚と留学
 第四章 漱石との親交
 第五章 続・漱石との親交
 第六章 三重吉と寅彦
 第七章 苦悩する青楓
 第八章 開花する才能
 第九章 河上肇との交流
 第一〇章 続・河上肇との交流、そして挫折?
 第一一章 日本画家としての成熟
 第一二章 青楓にとっての良寛
 エピローグ
 あとがき
 作品図版一覧/人名索引


『朝日新聞』さんの広告で見つけ、購入しました。「初の本格評伝」とあり、言われてみれば津田の評伝って見たことないな、というわけで。

津田は光太郎より3歳年長の明治13年(1880)生まれ。光太郎とは留学仲間で、津田は明治40年(1907)から同43年(1910)にかけ、農商務省の海外実業練習生としてパリに。一方の光太郎は明治41年(1908)にロンドンからパリに移り、そこで知り合ったと考えられます。

光太郎、そして津田も俳句が好きだったようで、光太郎は明治42年(1909)、留学の最後に約1ヶ月旅したイタリア各地からパリの津田宛にせっせと絵葉書を送りましたが、そこには旅の吟がびっしり。現在確認できている光太郎の俳句100句あまりのうち、半分以上がそれです。光太郎から津田宛の書簡はかなり散逸してしまっており、『高村光太郎全集』完結後にもその中の1枚が見つかったり、両者帰国後の明治44年(1911)、光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅玕洞」をたたんで北海道に渡る旨を知らせる葉書が見つかったりもしています。他の書簡もまだどこかに人知れず眠っているような気がします。
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琅玕洞では津田の個展も開いています。光太郎は自分の画廊の展評を『読売新聞』に寄稿しました。題して「津田青楓君へ-琅玕洞展覧会所見-」(明治44年=1911)。その中で「友人といふので口の利き易い所から、感じた儘を無遠慮に書いた」とし、確かに歯に衣着せぬ評をしています。曰く「少し失望したよ。君が思ひの外、油絵具にこき使はれてゐるからさ」「君のいつもの熱は何処へ行つたのだらう。あべこべに顔料に追はれて居る様に見えるのは、製作時に於ける此の熱の不足から来たのぢやないかと思はれる」など。たとえ親しい間柄でも、このあたり、光太郎は妥協しませんでした。

津田は智恵子とも交流がありました。

おそらく明治43年(1910)のことと思われますが、後に津田が書いた『老画家の一生』という書籍(昭和38年=1963)に次の記述があります。

 亀吉の陋屋にも、人の出入りが次第に多くなつた。
 目白駅に通じる大通りには、成瀬仁蔵といふ人の創立した女子大学があつた。自然画好きの女学生もやつてきた。
 近所にはアメリカ帰りの柳敬助といふ画家がゐた。その奥さんは女子大出身で、後には柳君の家庭とも往来するやうになつた。
 巴里時代知り合ひだつた斎藤与里君も、程近い処に住んでゐたので、散歩の行きか帰りにしばしば訪れた。その横町の足袋屋の二階には相馬御風君がゐた。彼は早稲田出で、当時『早稲田文学』の編輯をやつてゐた。
 亀吉の町内に小川未明君がゐた。彼は東北出身で、言葉に特別な訛りがあつた。我儘で短気者だつた。
 往来してゐる者はすべて地方出身の野武士で、亀吉のやうな京都そだちはあたりに居なかつた。
 すこしあとになつてからのことかもしれないが、長沼智恵子(後の高村光太郎氏夫人)といふ、女子大の生徒もきた。家では教へなかつた。彼女が画架を据ゑて描いてゐる所へ行つて助言したり、雑司ヶ谷にある彼女の住居へも出かけて行つたことがある。彼女は艶といふか色つぽいといふか、いつも裾の方に長襦袢の赤いものを少しのぞかせて、ぞろぞろ歩きだつた。カチカチの女子大には珍らしい存在だつた。


「亀吉」は本名「亀治郎」の津田自身です。

また、同じ頃の回想で、津田の最初の妻でやはり画家の山脇敏子もこう書いています。

 その頃夫の友人で色々の人々と交際していた。先ず女の人では青鞜社の物集和子、平塚雷鳥、杉本正生、長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)、文士では寺田寅彦、鈴木三重吉、内田百閒、小宮豊隆、森田草平、小川未明、茅野蕭々、滝田樗蔭、島中健作、秋山光夫、阿部次郎、安倍能成、それと先生の夏目漱石の諸氏が私の記憶に残つている。

そして再び津田。昭和23年(1948)に発行された『漱石と十弟子』の一節で、「美代子」という仮名になっていますが、やはり智恵子が登場。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

最後の智恵子のせりふは、智恵子評伝や二次創作などの中でよく使われるものです。当方も使いました(笑)。

そんな津田の「初の本格的評伝」だそうで、まだ精読していないのですが、おいおい読んでいきたいと存じます。ただ、光太郎に関わる箇所をざっと見たのみでも誤植などが目立つのが残念ですが……。

ともあれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

資材不足には小生も閉口してゐます。絵具が無くなつてはお困りでせうが当分は鉛筆だけでも勉強する外ありません。小生もまだ彫刻には本当に取りかかれずにゐますが、野山のものを写生しながらますます自然の美の深さにうたれます。

昭和21年(1946)8月2日 小林治良宛書簡より 光太郎64歳

戦後になっても物資不足がすぐ解消したわけではなく、特に画家は絵の具の入手に困難を極めていたようです。

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