カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

一昨日の『福島民報』さんから。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

心地よい光探る 光の在り方の研究拠点完成 福島県二本松市 照明デザイナー東海林さん建設

 福島県二本松市の安達太良高原に、人の心を優しく包む光の在り方を研究する拠点が完成した。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(64)=東京都=が自然の光を存分に取り入れられる景観にほれ込んで建てた。太陽や月、星が照らし出す自然の移り変わりを体感し、データ化して分析する。2025年の大阪・関西万博の照明デザインを手がける東海林さん。古里の「ほんとの空」から本当に心地よい光を見つけ出し、世界に伝える。
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安達太良高原に完成した光の観測拠点と東海林さん

 新型コロナウイルス感染拡大の影響でリモートワークを進めていた2020(令和2)年、母が暮らしている県内に仕事の拠点を作ろうと考えた。子どものころに福島市でホタルを追った記憶、ほの暗いかやぶき建築の風景などを胸に、「空」をキーワードに適地を探した。伸びやかな空が広がり、自然光にあふれる安達太良高原に決めた。魅力的な温泉にも引かれた。
 完成した施設は鉄筋コンクリート造りの高床式平屋で延べ床面積は37平方㍍。二本松市岳東町の標高585㍍の地点にある。縦2・4㍍、横3・2㍍の大きなガラス窓からは安達太良の山並みが一幅の絵画のように見える。室内の浴槽には月の光を映すことができ、まきストーブを置いて炎のゆらぎも人の心に響く光として捉える。
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安達太良高原の自然光の移り変わりを体感できる室内

 外壁の東西南北と空の計5方向に向けて照度の計測装置を取り付けた。明るさの推移を自動で記録する仕組みだ。さらに小型カメラのライブ映像をオンラインで確認できる。人の心や身体に癒やしや勇気を与える光について、感覚だけでなく、こうしたデータを積み上げながら科学的にも研究する。
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観測拠点付近から見た安達太良山。早朝、昇る太陽に赤く照らされる

 東海林さんは福島高、工学院大工学部卒、同大学院修了。2000(平成12)年に都内に照明デザイン会社LIGHTDESIGNを設立し、社長を務める。大阪・関西万博では会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを担う。
 新たな拠点には各分野の専門家や幅広い友人らを招き、社員らとともに創造的な討論の場としても活用する。「人にとって心地よい明かりを古里の空で考えていく。この素晴らしい景観の中に身を置くことで、さまざまな気付きを得たい」と語った。
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観測拠点付近から望む昼の安達太良山。雪の山並みの上に真っ青な冬空が広がる

照明デザインという概念、近年、注目度が増していますね。「人の心に響く光」「人の心や身体に癒やしや勇気を与える光」、いいですね。

【折々のことば・光太郎】

黒檜大沼の山水をおもへば身の都門にあるを忘れ果て候


明治38年(1905)7月13日 猪谷千代宛書簡より 光太郎23歳

猪谷千代は、光太郎がたびたび訪れた上州赤城山の猪谷旅館の女将。その弟がスキー選手・猪谷六合雄で、さらに六合雄の子息が日本人初の冬季五輪メダリスト・猪谷千春氏です。

「黒檜」は赤城山系の最高峰、「大沼」は「沼」というより「湖」、カルデラ湖です。このほとりに猪谷旅館がありました。
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光太郎は、『明星』の面々(与謝野鉄幹、水野葉舟、伊上凡骨ら)、後には当会の祖・草野心平や彫刻家の高田博厚などを案内して訪れています。

智恵子にとってのソウルマウンテンが安達太良山だったのに対し、赤城山が光太郎のソウルマウンテンだったのでしょう。

1月ももう終わりですが、今年のカレンダーを新たにゲットしました。

We Love Towada 2023 卓上カレンダー

青森県十和田市の春夏秋冬をイラスト化したWe Love Towada カレンダー2023卓上カレンダーです。

こちらのカレンダーは、ハガキサイズの月めくり卓上タイプで、青森県十和田市出身のデザイナー藤森加奈江さんがデザインしたものです。

お買い求めは、道の駅とわだや十和田市内各所、とわこみゅオンラインショップでご購入できます。

価格 ¥1,100円 (税込)
※オンラインで購入の場合は、別途送料300円加算されます。

販売場所
・とわこみゅオンラインショップ (販売中) → 購入ページはこちら
・道の駅とわだ (1月上旬から予定)
・十和田市観光物産センター(1月上旬から予定)
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がデザインされています。

まず表紙的な1枚。下部中央やや右の位置に。
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1月も小さく右の方に。
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2月は像のシルエットが大きく。
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7月は像がメインです。
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4回も使っていただき、ありがたし。

他に、奥入瀬渓流、北里大学さん、官庁街通りなどの風景や、イベントとしての桜流鏑馬、夏の花火大会などがあしらわれています。

オンラインでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

何卒御養生十分被遊たく存上候 東山の翠微鴨川の清流朝夕の御薬と存じまゐらせ候

明治30年(1897)頃8月9日 高村光雲宛書簡より 光太郎15歳頃

この項、今日より書簡から抜粋します。

現在確認できている3,500通余りの光太郎書簡のうち、最も古いと推定されるものから。封筒が欠けているのですが、京都に出張中の父・光雲に宛てたものです。光雲、どうも出張先で体調を崩したらしく、それを気遣う文面となっています。光太郎、この頃はまだ孝行息子でした。

昨夕気がつきまして、昨日までの会期でした。残念です。ただ、「WEB開催」という形で続いてはいますのでご紹介します。

ZOKEI展 東京造形大学卒業研究・卒業制作展/ 東京造形大学大学院修士論文・修士制作展

期 日 : 2023年1月20日(金)~1月22日(日)
会 場 : 東京造形大学 東京都八王子市宇津貫町1556
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 無料

WEB開催 : 2023年1月22日(日)~3月31日(金)


ZOKEI展は、当該年度に本学を卒業予定の学部4年生、並びに修了予定の大学院修士課程2年生が、本学での教育研究の集大成として卒業研究・制作/修士論文・制作を一堂に出展・展示する展覧会であり、本学キャンパスにて作品をご観覧いただけます。

また、WEB展示は3月31日まで開設しています。「会場で見た作品をもう一度見たい」という方も、「WEB展示でじっくり見たい」という方も、期間中何度もお楽しみ頂けます。ぜひご高覧ください。
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デザイン学科グラフィックデザイン専攻領域の長田ひかり氏の作品が、「智恵子抄」オマージュの「白い病室」。
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高村光太郎が、妻 智恵子への思いを綴った数々の詩 智恵子の死の床である病室にはこれまで綴った高村の詩が 2人の人生のように編まれ、絡まり、繋がり、囲んでいただろう」だそうで。

インスタレーションの空間そのものが、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院の一室をイメージしているようです。そこに材質がよく分からないのですが、パーテーション用の有孔ボードでしょうか、おそらく黒っぽい糸で「智恵子抄」収録詩篇のいくつか(画像にあるのは「冬の朝のめざめ」「人に」)が刺繍のように表されているようです。ところどころに赤い糸、それが文字から文字へと繋がっているのが見て取れます。

福島二本松の智恵子生家も会場になった「重陽の芸術祭2017」で、生家二階の智恵子居室などに展示された清河あさみ氏の作品「わたしたちのおはなし」を彷彿とさせられました。

昨年の「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」で佳作賞を受賞なさった谷澤紗和子氏の「はいけい ちえこ さま」などもそうですが、現代アートの皆さん、意外と光太郎智恵子の世界観からのインスパイアが多いようです。明治大正期、時代を突き抜けてとんがっていた光太郎智恵子だけに、現代アートの方々もシンパシーを感じるのでしょうか。そこにリスペクトの精神さえあれば、ありがたいかぎりです。

しかし、ぜひ現物を拝見したかったものです。この展示が為されていると知っていれば、大船での高田博厚展の帰りに八王子を廻ったのですが……。

上記リンクからWEBでご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

尾崎喜八夫妻くる、アイス等、 よし田女将くる、春山菜 谷口、藤島両氏くる〈み津枝さんくる〉

昭和31年(1956)3月26日の日記より 光太郎74歳

危篤状態に陥り、一週間記載されなかった日記が復活しました。おそらく日記の中断中からでしょうが、光太郎危篤の報を受け、この後も親族や旧知の面々が続々と見舞いに訪れます。

昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
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夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。

会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
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受付で出品目録を頂きました。
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思っていたより展示点数が多いので、驚きました。

まずは肖像彫刻群。
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武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。

続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
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ともに360°から鑑賞可能。

光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
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昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。

何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
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その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
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なかなか充実した展示でした。

昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。

彫刻家 高田博厚 没後35年記念し展示会 鎌倉

 日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家、高田博厚の没後35年を記念した展示会が、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市で開かれています。
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 高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
 鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
 このうち、代表作の「カテドラル」は、戦争の砲弾で傷ついたフランスの大聖堂を女性の胴体として表現した、高さおよそ55センチの彫刻作品です。
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 また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
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 訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
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 鎌倉市文化課の竹下歩実さんは、「高田作品を一堂に会して展示していますので、作品のポーズの違いなどさまざまな差異を楽しんでもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。

ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。

会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、

昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳

宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。

神奈川県鎌倉市から、企画展情報です。

没後35年 高田博厚展

期 日 : 2023年1月21日(土)~1月31日(火)
会 場 : 鎌倉芸術館 神奈川県鎌倉市大船6-1-2
時 間 : 午前10時から午後5時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本市ゆかりの彫刻家・高田博厚の没後35年を記念し、高田博厚展を鎌倉芸術館において開催します。高田博厚は、昭和41年に鎌倉市に住居とアトリエを構え、昭和62年に亡くなるまで多くの彫刻作品を創作した彫刻家です。
 本展覧会では、多くの優れた作品を生み出した高田博厚の生涯を、3つの時代(渡仏前、パリ時代、東京・鎌倉時代)に分け、それぞれの時代の作品を展示することで、作品の変遷を辿ります。中でも、生涯を通じて多数制作されたトルソを主に、高田の言葉と共に紹介することで、彼のトルソに対する想いや、個々の作品の細やかな違いを楽しめる他、作風に影響を与えたロダン等、他作家の彫刻作品も展示します。
 ロダン、ブールデル、マイヨールらヨーロッパ近代彫刻家についての研究を通じ、彫刻についての思索を深め、高い精神性が込められた作品を数多く残した、高田博厚の世界をぜひお楽しみください。
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早世した碌山荻原守衛を除き、戦前の光太郎が唯一深い交流を持っていた彫刻家・高田博厚。光太郎の援助もあって昭和6年(1931)に渡仏し、以後、光太郎と直接会うことは叶いませんでしたが、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国するや、光太郎顕彰活動の一端を担ってもくれました。

帰国後にアトリエを構えていた鎌倉で開催される歿後35年記念展だそうで、光太郎胸像(昭和34年=1959)も展示される予定です。同型のものは各地に存在しますが。
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『毎日新聞』さんの神奈川版に、予告記事が出ていました。光太郎の名も出して下っています。

高田博厚の世界たどる 没後35年展、鎌倉で21日から 胴体彫刻など50点/神奈川

002 晩年を鎌倉市で過ごした彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の没後35年展が21日から鎌倉芸術館ギャラリーで開かれる。生涯を通じて多く制作されたトルソ(胴体彫刻)のほか、西田幾多郎、萩原朔太郎らの頭像、デッサンなど約50点が展示される。
 高田は石川県生まれ。幼いころから、語学に優れ、文学や芸術に親しんだ。18歳で上京後、高村光太郎の勧めで彫刻を学び、31歳でフランスに渡った。作家のロマン・ロランや画家のポール・シニャックらと交流。第二次世界大戦中も帰国せず、新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会の要職を勤めた。
 展示では、渡仏前▽パリ時代▽東京・鎌倉時代――の3期に分け、作品の変遷をたどる。胴体部分をクローズアップしたトルソを中心に「君は指で思索する」とロマン・ロランに称賛された高田博厚の世界が楽しめる。31日まで。無料。


ロダンやマイヨールの作も並ぶということですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧をうける、


昭和31年(1956)2月8日の日記より 光太郎74歳

昭和30年代、40年代、故・浪越徳治郎氏の「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の名言と共に展開された普及活動もあって、指圧は民間療法として流行していました。

しかし、余命2ヶ月となった光太郎には焼け石に水だったようです。

光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周の作品が出ています。

かねは雄弁に語りき 石川県立美術館の金属コレクション

期 日 : 2023年1月4日(水)~2月5日(日)
会 場 : 石川県立美術館 石川県金沢市出羽町2-1
時 間 : 午前9時30分から午後6時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般600円(500円) 大学生400円(300円) 高校生以下無料 ( )内団体料金

 美術館活動の核はコレクション(収蔵品)です。日本では、全国約5700館のミュージアムがそれぞれ独自のミッションのもとで作品を収集し、研究・展示・活用を行っています。ある分野に特化した美術館も多い中、石川県立美術館のコレクションの特色は、幅広い分野・時代の作品を所蔵していることです。「石川ゆかり」をキーワードに、古美術・工芸・絵画・彫刻などを網羅する作品群が、1959年の開館以来、今日まで受け継がれています。
 このたび、当館コレクションの魅力を発信する事業として本展を開催します。「金属」というテーマのもと、古美術から現代までの作品が一堂に会します。ふだんは時代や技法ごとに別々の展示室で紹介されている作品を同時に紹介する内容は、当館としては新たな試みとなります。「用途」「技巧」「素材」という3章構成で、音や重さ、“超絶技巧”など、様々な視点から金属の魅力に迫ります。冷たい、無機質などとイメージされることも多い金属ですが、実は色彩豊かで様々な表情をみせる素材であることをご体感いただけることでしょう。
 本展は、金属の魅力を紹介するとともに、コレクションの魅力をこれまでとは異なる視点から発信する機会となります。当館コレクションを見慣れた方も、そうでない方も、新たな発見を楽しんでいただければ幸いです。
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ネット上に出品目録がアップされていました。さらに「デジタル図録」も。
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豊周作品は「朱銅三筋文花入」。昭和40年(1965)の作品です。
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それから、豊周の弟子筋にして、光太郎歿後に光太郎ブロンズ作品を多数鋳造された、故・齋藤明氏の作品も。
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左が「青銅壺」、右は「朧銀斜交細文壺」。

豊周作品、齋藤氏作品、ともに金属でありながら、不思議な温かみが感じられます。それをいえば、優れた金工作品には共通する属性なのかもしれませんが。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる過北川太一氏くる、デユボンネ2本もらふ、 自民党某といふ人くる、病気の旨のべる、

昭和31年(1956)1月30日の日記より 光太郎74歳

デユボンネ」は、現代では「デュボネ」と表記することが多いようですが、フランス系のワインです。

自民党某」については、その場にいらした故・北川先生(当会元顧問)の証言が残っています。

あるとき、自由党の偉い人が来て、党の詩の選出を高村さんに頼みにきたことがあったんです。そのとき、晩年の高村さんは「今自分は身体が悪いから」と断ったんです。そしたら「いくつか選んでくるから、その中から一つを選んでくれればよいので」って言ったんです。それを聞いた高村さんは声を荒げて「詩の選をするなら、全部読んでその中からよいと思うものを選ぶので、君たちが選べばよいものをみんな落としてしまう」と答えた。声を荒げた高村さんはそのとき見ただけですが、上の人に対してそんな態度をとる一方で、僕ら青二才が行ってもまともに答えてくれるのは、すごい人だなと思ったんですよね。

北川先生の証言では「自由党」となっていますが、前年に「自由党」と「日本民主党」がいわゆる保守合同で「自由民主党」となり、55年体制が確立しました。

光太郎、戦前や戦時中に、雑誌の投稿詩の選者を務めたことが複数回あって、そのうち、編集部が一次審査的に選別してから光太郎に廻すというスタイルの場合もありました。それで、自分がいいと思う作品が落とされていたという経験があったのかもしれません。

それにしてもこの日の光太郎の塩対応、痛快ですね(笑)。

沖縄から企画展情報です。

美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展「宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」

期 日 : 2023年1月20日(金)~2月19日(日)
会 場 : 沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般¥800(¥640) 高校・大学生¥500(¥400) 小・中学生¥200(¥160)
      ( )内は前売券または20名以上の団体料金。

 復帰50年を節目として行われる国民文化祭「美ら島おきなわ文化祭2022」の一環として、沖縄で初めて皇室に伝えられた美術工芸品の展覧会を開催します。
 宮内庁三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品などが平成元年(1989)に国に寄贈されたの機に、皇居東御苑に平成5年に開館した施設です。
 この度、三の丸尚蔵館が所蔵する沖縄ゆかりの油彩画や工芸品と、皇室に伝えられた名品の数々を紹介します。
 絵画や写真を通して、皇室に伝えられた沖縄の姿をご覧ください。

沖縄ゆかりの品々
 明治20年(1887)頃の沖縄を写生した山本芳翠の連作画をはじめ、旧桂宮家に伝えられた「琉球塗料紙箱・硯箱」、昭和天皇や秩父宮家に献上された沖縄ゆかりの作家による作品や沖縄に根ざした特色ある工芸品を展示します。
 また、宮内庁が所蔵する明治時代の古写真の中から沖縄ゆかりの人物写真や明治20年の沖縄を写した写真、明治34年撮影の「沖縄県内各学校写真帖」をパネルで紹介します。

皇室の美 北斎の肉筆画、沖縄で初披露
 三の丸尚蔵館が所蔵する名品から、江戸時代に活躍した円山応挙「張飛図」と葛飾北斎「西瓜図」を紹介します。
 また、明治時代初期に記録のために作成された「雅楽図」や、高村光雲・山崎朝雲「萬歳楽置物」、綴織による大型の壁掛けなど、皇室がその伝承に深く関わってこられた雅楽を主題とした作品や儀式で用いられた伝統的な装束、着物など、高貴で優美な染織美をご覧ください。
このほか、皇室の御慶事の折に記念品として作られてきた愛らしいボンボニエールなどを紹介します。
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三の丸尚蔵館さんといえば、今年年秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。

今回は、九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」でも出品されたブロンズの「萬歳楽置物」(大正4年=1915)が展示されます。木彫原型が、光太郎の父・光雲と、その高弟・山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されたものです。
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当方、一度、現物を拝見しましたが、実に見事な作でした。何より皇室で大切に保管されてきただけあって、状態がいかにもよく、まるで最近作られたばかりのようでした。

沖縄で光雲作品の展示というのはめったにありませんし、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后浅沼政規氏くる、余の談話筆記の原稿をあずかる、ヰスキーソーダを出す、

昭和31年(1956)1月19日の日記より 光太郎74歳

004浅沼政規氏」は、昭和27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山口小学校校長を務めていた人物。光太郎にかわいがられた子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、光太郎の語り部を務めて下さっています。

余の談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。

浅沼は活字にすることを希望して、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、光太郎生前には実現しませんでした。

いわゆるコレクション展で、光太郎木彫2点が出ています。

メナード美術館開館35周年記念展 所蔵企画 35アーティストvol.Ⅱ

期 日 : 2023年1月6日(金)~4月2日(日)
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(1月9日は開館)、1月10日
料 金 : 一般 900円 (700円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

開館35周年記念展の第2弾「35アーティストvol.Ⅱ」では、当館を代表する作家35人のなかから9人の作品をご紹介いたします。大胆な筆づかいと色彩による作品を描いたゴッホ、北斎の娘で美人画の名手とうたわれた葛飾応為(後期展示のみ)、戦後の日本洋画壇をけん引した梅原龍三郎、詩人としても知られる彫刻家の高村光太郎らの作品をご覧いただきます。さらには、9人を軸にゆかりのある作家たちの作品をともに展示し、より当館のコレクションをお楽しみいただけるものとなっています。

主な出品作家
フィンセント・ファン・ゴッホ、ジェームズ・アンソール、尾形光琳(前期展示)
葛飾応為(後期展示)、安田靫彦、梅原龍三郎、国吉康雄、高村光太郎、鈴木五郎ほか


初公開コレクション
ノーマン・ロックウェル《牛乳配達夫とカップル(パーティー出席者たち)のための習作》
土佐光芳《三十六人歌合帖》、鈴木五郎《石との融合 五利部椅子》


その他の出品作家          
ピエール=オーギュスト・ルノワール ポール・ゴーギャン フェルナン・クノップフ
エドヴァルド・ムンク ピエール・ボナール ジュール・パスキン 
ノーマン・ロックウェル ポール・デルヴォー アレクサンダー・カルダー
本阿弥光悦(前期展示)  俵屋宗達(前期展示) 烏丸光広(後期展示) 葛飾北斎(後期展示)
小林古径 前田青邨 安井曽太郎 岸田劉生 前田寛治 高田博厚 佐藤忠良
など

というわけで、光太郎木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が展示されています。
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「栄螺」は平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。
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その後、同館が買い取り、時折展示して下さっています。光太郎彫刻の中では、一つのエポックメーキングとなった作品です。これを作る前と後で、彫刻の概念そのものに大きな変化があったとのこと。

「鯰」は、複数作られたもののうち、新潟の素封家・松木喜之七に贈られたものです。松木は鯉の木彫を光太郎に依頼し、光太郎も何とか彫り上げようとしましたが、どうしても自分で納得の行く作が出来ず、代わりに、とこの鯰を進呈しました。しかしその後、松木は太平洋戦争末期、もういい年だったにも拘わらず「根こそぎ動員」に遭って出征、台湾沖で戦死してしまいました。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔んだようです。
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光太郎木彫が見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜になつてから山口の浅沼菊蔵さん、重次郎さん細君忠善さん細君、佐々木といふ人とくる、昌歓寺に観音像との事、約束しがたき事告げる


昭和30年(1955)12月5日の日記より 光太郎73歳

山口」は昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた岩手県花巻郊外旧太田村山口地区。「昌歓寺」は太田村の古刹で、蟄居中に光太郎も何度か足を運んでいます。

そちらに新たに十一面観音像を奉納、その制作をお願いしたいという依頼はこれ以前からあり、おそらく来訪した面々は、見舞いがてらの催促だったように思われます。結局、それは実現出来ず、光太郎歿後になって光太郎の父・光雲の弟子筋に当たる彫刻家・森大造が光太郎の代わりに制作に当たりました。この像は同寺に現存しています。

2023年、令和5年となりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
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画像は今年の年賀状。竹橋の東京国立勤惰美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」です。

未だコロナ禍明けやらぬ感がありますが、3年間中止としてきた連翹忌の集い(4月2日(日))、今年こそは実施したく存じます。


さて、今年は明治16年(1883)出生の光太郎生誕140周年となります。これから企画展示等の計画に着手される皆様、その点を推しにしていただければと存じます。

それ以外に光太郎がらみはどんな周年になるか調べてみました。

130年前 明治26年(1893) 光太郎11歳 智恵子8歳

光太郎の父・光雲が、シカゴ万博出品作の木彫「老猿」を完成させました。また、光雲が主任となって東京美術学校として引き受けた「楠木正成銅像」の木型が完成し、宮中で天覧に供されました。

また、智恵子が数え8歳で福島県安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に入学しました。

120年前 明治36年(1903) 光太郎21歳 智恵子18歳
東京美術学校在学中の光太郎が、海外の雑誌に載ったロダンの彫刻作品の写真を初めて目にしました。

智恵子は福島高等女学校を首席で卒業し、日本女子大学校に入学しました。

110年前 大正2年(1913) 光太郎31歳 智恵子28歳
光太郎智恵子、一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしました。

光太郎は解散したフユウザン会に代わって、岸田劉生らと生活社を興しました。

100年前 大正12年(1923) 光太郎41歳 智恵子38歳
光太郎が有島武郎にブロンズの「手」を贈りました。有島もそれに応えて詩「手」を書きましたが、その後、自ら命を絶ちました。

結婚以来途絶えていた「智恵子抄」収録詩篇でしたが、「樹下の二人」が書かれ、復活しました。

9月には関東大震災。光太郎は福島の智恵子の実家・長沼酒造から酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めました。

90年前 昭和8年(1933) 光太郎51歳 智恵子48歳
心を病んでいた智恵子の状態が芳しくなく、先に自分が逝ってしまった場合の遺産相続等を考え、光太郎はそれまでの事実婚に終止符を打ち、婚姻届を提出しました。

心を病んでいた智恵子を伴って、東北・北関東の温泉巡りをしました。廻ったのは5月には草津温泉、8月から9月にかけては磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

9月には花巻で宮沢賢治が没。智恵子の世話にかかりきりの光太郎は、当会の祖・草野心平を自分の名代として花巻に遣りました。

80年前 昭和18年(1943) 光太郎61歳
太平洋戦争中。
黒歴史の最たるもの、翼賛詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。

70年前 昭和28年(1953) 光太郎71歳
青森県十和田湖畔に、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されました。

というわけで、光太郎生誕140周年と共に、「乙女の像」が古稀を迎えます。そのあたり前面に押し出してのイベント等企画していただけるとありがたいのですが……。

何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、果物、はんぺん等もらふ。

昭和30年(1955)10月27日の日記より 光太郎73歳

当会顧問であらせられた故・北川太一先生。奥様の故・節子様ともども新婚の挨拶に光太郎を訪問されました。「二本松訪問」はお二人の新婚旅行でした。

2022年も残りあと僅かとなりました。もうすぐ2023年、兎年となります。

 そこで、展覧会情報等のサイト「インターネットミュージアム」さんのイベント。

ミュージアム干支コレクション アワード 2023 兎

2023年は卯年。インターネットミュージアムでは「兎」が入っている館蔵品をサイトでご紹介するとともに、好きな1点にネットで投票していただく「ミュージアム 干支コレクション アワード」を実施します。

投票期間 12月13日(火) 15:00 ~ 2023年1月26日(水) 15:00

お一人様、一日一票のみ投票可能です。複数回の投票は行えません。詳しくは、「ミュージアム 干支コレクション アワード 投票について」をご覧ください。
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エントリー (全 70 点)
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全国の美術館さん所蔵の「兎」の名品がエントリー、投票が行われています。

竹橋の国立近代美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」(明治32年=1899頃)も参戦。一館一点のエントリーだそうでして、膨大な所蔵品を誇るMOMATさんではこれを選んで下さったというわけで、ありがたいことです。
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東京美術学校在学中、数えで17歳の作品です。とても10代の少年の作とは思えませんね。まぁ、父・光雲なりその高弟なりの作った手本があって、それを模刻したものかもしれませんが。

投票の途中経過も公開中。それを見ると光太郎の兎、苦戦中のようです。ぜひ皆様の清き一票を(笑)。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、 くもり、晴、暑、 平熱、


昭和30年(1955)10月5日の日記より 光太郎73歳

昭和13年(1938)に歿した智恵子の忌日。光太郎生前最後となりました。戦後すぐの花巻郊外旧太田村蟄居時代は、ほぼ毎年、花巻町に出て、松庵寺さんで父・光雲、母・わかのそれと併せて法要を営んでもらっていましたが、もはやほぼ臥床していたこの年は、特別に何も行えませんでした。

テレビ放映の情報です。

まずは「開運!なんでも鑑定団」。地上波テレビ東京さんで8月30日(火)に初回放映のあったものの再放送。

開運!なんでも鑑定団3本の矢!戦国大名<毛利家秘宝>衝撃値!

地上波テレビ東京 2022年12月25日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2022年12月29日(木) 18:54〜20:54


■3本の矢…戦国大名<毛利家3代の秘宝>に衝撃値■樹齢500年…アノ超絶彫刻にも使用<巨木宝>に仰天鑑定額■ブルース・リーら…<伝説映画>お宝一挙鑑定

【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】クミコ(歌手)
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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BSテレ東さんでの放映は、他の回と2本合わせての放映となります。

問題の鑑定依頼品は、トチノキのテーブルと椅子。長野県の方からの鑑定依頼でした。
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由緒があるものではなく、現代の実用家具だそうですが。
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司会の今田耕司さんが座らせてもらったところ……
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ここで、トチノキについての解説。
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連翹忌の集いで使わせていただいている日比谷松本楼さん近くの桜田通りです。
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さらに木材としてのトチノキ。
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ここで、番組説明にある「アノ超絶彫刻」。光太郎の父・光雲の代表作「老猿」です。
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なるほど。

光雲が使ったのは栃木県鹿沼市のトチノキ。伐採した後の切り株からまた芽が出、10年ほど前にはまだ健在だったそうですが、現在はどうなっているのでしょうか。

ちなみに「老猿」、上野の東京国立博物館さんの所蔵で、今年は常設展にずいぶん長い間展示していただきましたし、来年3月から竹橋の東京国立近代美術館さんで開催される記念展「重要文化財の秘密」展に目玉の一つとして貸し出されます。また近くなりましたらご紹介します。

余談ですが、番組内ではトチの実の紹介も。
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これはパリ留学中の光太郎が好んで食べた食材の一つです。さすがに番組でそこまでは触れられませんでしたが。

もう1件。

宮川一朗太のおっ!さんぽ #37

BSJapanext(無料) 2022年12月26日(月) 19:58〜21:00

俳優・宮川一朗太が、おっさんの嗅覚をいかして北海道・東北地方の知られざる魅力を掘り起こします!その地でしか味わえない極上グルメに、息を飲む絶景など、旅気分をゆったり楽しめる60分!
今回は福島県・二本松市をお散歩!
▼あの有名人の御用達?名物のソースカツ丼 ▼極上の癒し、安達太良山の岳温泉 ▼世界一の日本酒、奥の松酒造

出演者 宮川一朗太
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智恵子の故郷・福島二本松を、俳優の宮川一朗太さんがお散歩。光太郎智恵子、「智恵子抄」、「ほんとの空」といった話になるかどうか……というところですが。
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それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】000

夕方草野心平氏くる、「文学アルバム」について、すしを一緒にたべる、玉ずし、


昭和30年(1955)9月11日の日記より 光太郎73歳

「文学アルバム」は、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。光太郎が歿しておよそ2週間後の翌年4月20日に刊行されました。

幼少期からの光太郎の生涯を豊富な写真で追ったもので、亡くなる直前の光太郎、そのゲラを確認し、「That's the endか」と言ったと伝わっています。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎のブロンズ作品も多数所蔵、入れ替えながら展示して下さっています。

今年7月から8月にかけ、昭和33年(1958)竣工の本館(碌山館)修復のためのクラウドファンディングが行われました。当初目標額は700万円。それがあっという間に達成され、セカンドゴールの1,200万円、サードゴールの1,800万円も次々にクリア。最終的には、1,088名の方から総額23,702,000円が集まったそうです。

この秋から早速改修工事が始まり、それもほぼ終わったようです。

地元紙『信濃毎日新聞』さん、11月17日(木)の記事。

美術館を守ろう CFで広がる支援の輪、改修や展示充実に 中信の文化施設で予想超える反響

 中信地方の美術館が施設を維持・管理していくために行ったクラウドファンディング(CF)に県内外から多くの支援が寄せられている。新型コロナ下で集客が安定せず、美術館の経営が厳しさを増す中、文化施設を後世に残したいという趣旨に大勢が賛同。関係者らは予想を超えた反響を喜び、施設を守っていく決意を新たにしている。
 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(ろくざん)(本名守衛(もりえ))の作品を展示する同市穂高の碌山美術館で今月上旬、国登録有形文化財「碌山館」の改修工事が始まった。壁の剥離やひびを直し、扉や雨どいを修繕する。工事は12月中に完了する見込みで、碌山館の展示物は一時的に美術館の別の建物に移している。
 碌山館は1958年4月に開館。教会風のれんが造りで市内観光の見どころの一つとなっていたが、壁にひびが入ったり、雨漏りしたりするなど傷みも目立っていた。新型コロナの感染拡大で来館者が減少し、自己資金での修繕は難しいとみて、7月15日から8月末までCFで改修工事の資金を募った。
 目標の700万円は開始2週間で突破し、8月末までに県内外の1088人から2370万円余が集まった。「結婚式の前撮り写真を撮影した思い出の場所」「なくならないでほしい」など多くのメッセージも寄せられた。中には支援金を手渡しに訪れる人もいたという。
 碌山館はもともと、地元住民らの寄付によって建てられた。学芸員の武井敏さんは想定を超える支援に感謝しつつ「この場所と雰囲気を守っていかねばならないと感じた」と気を引き締める。残った資金は別の建物の改修などに充てる方針という。
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 同市穂高有明の絵本美術館「森のおうち」は、4月20日から5月末にかけてCFで運営資金を募集。入館者数の減少に加え、併設して営業している結婚式場や宿泊施設の収入も落ち込んだことから、施設を存続させるため広く協力を求めた。絵本作家いせひでこさんや作家の柳田邦男さんらも応援メッセージを寄せ、県内外の513人から目標の800万円を超える1400万円が集まった。
 資金は人件費や光熱費など運営資金の他、施設の魅力向上に使う。展示品を並べるショーケースを新調し、美術館のじゅうたんを張り替え、敷地内に桜の木を植えることも計画する。学芸員の米山裕美さんは「皆さんに支援をいただける施設なんだと実感し、励みになる」と話した。
 展示内容の充実にCFを活用する施設もある。木曽町新開に19日にオープンする公設民営の「ふるさと体験木曽おもちゃ美術館」は、館内で遊べるおもちゃを拡充する費用として9月20日にCFを開始。当初目標の300万円は10月中に超え、今月5日までに413万円余が集まった。
 木製の積み木やパズルなどベースとなる備品は町が購入するが、指定管理者として施設を運営する同町のNPO法人「ふるさと交流木曽」は、「木曽らしい体験ができるプログラムを充実させたい」と判断。地元特産の野菜や果物をかたどった木のおもちゃ、木曽五木を加工したおもちゃなどを新たに製作する。星野太郎副館長は「子どもたちに木曽町特産の木になじんでもらい、町の魅力や文化も伝えていきたい」と話している。

で、今月初め、「返礼品」が届きました。寄付のコースによって、あらかじめこれこれ、と指定出来るシステムで、当方が申し込んだのは鋳金製のペーパーウェイト。材質は錫で、同館のワークショップで扱われているものです。その他、ポストカードと無料入館券。
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煉瓦造りのロマネスク風の碌山館がモチーフ。いやぁ、実にシャレオツですね。

ところで同館、12月21日(水)~12月31日(土)まで冬期休館だそうです。で、来年1月1日(日)から再び開館とのこと。1月の方が寒い気がするのですが(笑)。

きれいになった同館、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后関先生くる、退院の話相談


昭和30年(1955)7月2日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院の話。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるよりは、自宅療養に切り替えてはどうかという話でした。

ちなみに光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとちょうど9ヶ月でした。

昨日のこのブログで、先週、地方紙二紙に掲載された一面コラムをご紹介しましたが、昨日の『福島民報』さんの一面コラムにも智恵子の名が出ていました。アニソン歌手の水木一郎さんが12月6日(火)に亡くなったことを受けてのものです。

あぶくま抄 ロケットパンチ

♪空にそびえるくろがねの城…。歌い出しから胸は躍った。♪無敵の力はぼくらのために…。強靱[きょうじん]なパワーで自分たち子どもが守られているような気がした。「マジンガーZ」の主題歌を半世紀にわたって歌い続けた水木一郎さんが世を去った▼「アニメソングの帝王」と評され、持ち歌は1200曲を超えるが、当初は子ども相手の歌と軽んじられた。アニメが世界に誇る日本の文化に定着するまで並々ならぬ苦労があったからこそ、若手に優しいまなざしを向け、アニキと慕われた▼実父のように敬愛した小野町出身の作詞家丘灯至夫さんから、10曲以上の楽曲を受けて足場を築く。仲間と登山部を結成して2015(平成27)年、安達太良山に登った。丘さん作詞のヒット曲「智恵子抄」の譜面を山頂で配り、「ほんとの空」に感謝の歌声をささげた。恩義を忘れぬ人柄がしのばれる▼革ジャンに赤いスカーフを巻いた姿は、昭和の子どもを熱狂させた正義のヒーローそのものだった。不穏な令和の今に憤りを感じつつ旅立ったに違いない。追悼にふさわしい言葉が浮かんできた。地球の平和を乱す不義へ、天上から今度は自ら飛ばせ、鉄拳ロケットパンチ。
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水木さんが「アニソン登山部」を結成されたというのは存じていましたが、故・丘灯至夫氏作詞の「智恵子抄」(昭和39年=1964 二代目コロムビア・ローズさん歌唱)のからみだったとは初めて知りました。山頂で歌われたということも。そういえば水木さん、都内で開催された「丘灯至夫さんの作品を歌う会」にも参加なさっていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、先月から今月にかけ、全国の地方自治体さんの広報誌に光太郎やその父・光雲、さらに智恵子の名。まぁ、どれもほんのちょっとですが(笑)。

鹿児島県いちき串木野市さんの『広報いちき串野』11月24日号。
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同市は「短歌のまち」を標榜しているそうで、同市出身の歌人・萬造寺斉の紹介。与謝野夫妻の新詩社を通じ、光太郎とも交流がありましたので、光太郎の名も出して下さいました。

続いて、新潟県新発田市さんの『広報しばた』12月1日号。
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それ以前の号から「もっと知りたい! 郷土の偉人 大倉喜八郎」という連載が為されていたようで、この号では大倉と交流のあった人々の紹介。「芸術家」として、木彫による肖像彫刻の制作を依頼された光雲、そのための原型塑造を作った光太郎の名が出ています。

さらに、市町村ではなく、県。群馬県さんの広報誌の増刊的な『tsulunos PLUS(ツルノスプラス)』の12月号。特集が「群馬発、世界に誇る温泉文化」だそうで、草津温泉の紹介の中に光太郎智恵子の名。
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ただし、「「草津」の碑」は智恵子療養のために訪れた昭和8年(1933)の作ではなく、昭和2年(1927)のものですが。

最後に智恵子の故郷、福島県二本松市さんの『広報にほんまつ』12月号。「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」表彰式の話題。
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光太郎つながりで花巻からも募集していたのですね。

少しずつですが、いろいろ取り上げて下さりありがたいことです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になると、こうは行きませんので、そうならないよう努力いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

細雨、涼、 横になると痰せきが出る、相当に出るやうになる、


昭和30年(1955)6月26日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結果のため、赤坂山王病院に入院したものの、病状は一進一退でした。治癒に至るには既に進行しすぎていたようです。

先週書きかけて途絶してしまった新刊紹介の続きです。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんから発行されている文芸同人誌的な『とんぼ』。第15号が届きました。
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版元店主・勝畑耕一氏による「追慕録」に、今年8月に亡くなった北川節子様の追悼文が掲載されています。節子様、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じの方でした。

それから、手前味噌で恐縮ですが、当方の連載「連翹忌通信」。前号から最近の「もの」の発見ということで、今号は花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫天鈿女命像と、鋳銅製准胝(じゅんてい)観音像について。

ご入用の方、文治堂書店さんまでご注文なさってください。頒価500円+税とのことです。

新刊、といえば、最近、光太郎の名を冠した自費出版の書籍が出ました。早速購入してみましたが、読み始めて驚きました。「こんなものを出版するとは何事だ」という感じで。

極端な話、1ページに1箇所は事実誤認。それから同じく1ページに1箇所は根拠不明の独断(そういう事実は確認出来ていないという事柄を根拠にしての論の展開)。さらにいうなら、1ページに1箇所は「てにをは」の崩壊や誤字脱字。人様に読んでいただくという姿勢が欠落しています。話の進め方もあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、明治期の話かと思うと突然脈絡もなく戦中や戦後の話に飛び、予備知識がない読者には、いつの話をしているのかさっぱり分からないと思います。途中、いろいろ出典が書かれてはいるのですが、どうも『高村光太郎全集』に眼を通していないようですし。いくら自費出版だといっても、ありえませんね。

3分の1くらいまでは我慢しながら読んだのですが、途中でやめました。時間の無駄ですし、精神衛生上もよくありません。

「××」という本が出ているのに、なぜこのブログで紹介しないんだ? と思われた方、そういうわけですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

二時回診、ラジオで角力、


昭和30年(1955)5月19日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。

この日、光太郎が聴いていた大相撲中継は、夏場所。かの栃錦が横綱として優勝し、のちの大横綱となる初代若ノ花が関脇でした。平幕には元寺尾関・元逆鉾関の父・鶴ヶ峯など。大鵬はまだデビューしていませんでした。

たまっている新刊等紹介の2日目です。こちらも刊行から2ヶ月経ってしまいました。

言葉を植えた人

2022年10月4日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,500円+税

〈暗闇にあるとき人は、一つの言葉を抱きしめるようにして生きることもあるだろう〉――確かな杖となる言葉を味わうエッセイ集。

舟越保武、 志村ふくみ、石牟礼道子、吉本隆明、池田晶子、神谷美恵子、北條民雄、宮﨑かづゑ、井筒俊彦……。言葉にならないものの波打ち際に立って言葉を紡いできた人々の、珠玉の名言と対話するように紡がれるエッセイ集。

本当の誇りとは、誰かの役に立っていると感じることではおそらくない。それは愛される者であるよりも、愛する者であることを真に望む、自己への信頼なのである。(本文より)
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目次
 祈り001
 かたちの詩人――舟越保武
 アッシジの聖女――舟越保武
 生ける幻――舟越保武
 彼方からやってくる色――志村ふくみ
 光の人――志村ふくみの詩学
 秘められたコトバ――志村ふくみと石牟礼道子
 常世の国と「沖宮」――石牟礼道子
 語らざるものからの手紙――石牟礼道子
 叡知の遺産――石牟礼道子
 死者たちとの連帯を求めて――宇井純
 生命のつながり――中村桂子
 世界という書物――池田晶子
 無垢なる魂への贈り物――上皇后美智子さま
 詩人はなぜ、思想家になったのか――吉本隆明の態度
 かなしみの詩学――中原中也と小林秀雄
 魂との邂逅――中原中也の詩学
 「生きがい」の哲学の淵源――神谷美恵子
 幸福の哲学者――神谷美恵子003
 いのちのひびき――北條民雄の詩学
 幸福の証人――宮﨑かづゑ
 求道としての哲学――久松真一
 宗教を超えて――久松真一の書と霊性
 言葉といのちのコスモロジー――大峯顯
 月影の使徒――河波昌
 哲学は人間を救い得るのか――井筒俊彦
 詩人哲学者の誕生――井筒俊彦
 文化の奥に潜むものを求めて――井筒俊彦
 言葉とコトバ――井筒俊彦
 禅の彼方、禅の深み――鈴木大拙の悲願
 霊性と宇宙の地平――山崎弁栄と内村鑑三
 内村鑑三の書
 批評家の誕生――粟津則雄の眼
 あとがき


様々な新聞雑誌等に発表されたエッセイの集積です。

目次に光太郎の名は見えないのですが、光太郎と交流の深かった舟越保武の項で光太郎に触れられています。曰く「彫刻家高村光太郎の真の後継者は、舟越保武ではなかったか。一見すると似ていない作風だが、一個の存在のなかに永遠の実在を見つけようとした態度において二人は強く響き合う。高村光太郎が作る蟬は、岩手の山を飛ぶ蟬であり、同時に永遠なる世界に生きる蟬でもある。舟越が作る女性も、この世の人でありながら同時に、悠久(ゆうきゅう)の世界を生きる人でもある。

また、舟越による光太郎評も紹介されています。

そういえば若松氏、今年刊行された詩集『美しいとき』のあとがきでも、光太郎と舟越について触れて下さっていました。また、他の書籍でも。

『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
『詩と出会う 詩と生きる』。

ほんの少しだけ光太郎に触れられているという御著書はまだあるかもしれませんが。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生血清をとりにくる、とたんに血痰が出る、それをみせる、かなり出る、 横臥安静、

昭和30年(1955)4月11日の日記より 光太郎73歳

この日の症状は喀血に近い状態だったようで、これを機に、月末には赤坂山王病院に入院ということになってしまいます。

「芸術の秋」が過ぎ、きっぱりと冬が来ました。

思えばこの秋は、光太郎智恵子、光太郎の父・光雲がらみのイベントやコンサート、美術館さん等での展示などがたくさん行われ(展示等でまだ続いているものもありますが)、それらの紹介やレポートなどで毎日てんやわんや(死語ですね(笑))でした。イベント系は期日があるので、ブログで紹介するにもタイミングがありまして……。今月もさまざまなイベント等があり、追々紹介していきますが、ようやく一段落という感じです。

そこで、期日がないため後回しにしてきてしまっていた新刊紹介を、今日から3日間続けます(飛び込みで何もなければ、ですが)。

刊行順に、まず、光雲が登場する小説です。だらだら後回しにしていたら、刊行から3ヶ月経ってしまいました。

猫絵の姫君 戊辰太平記

2022年8月26日 智本光隆著 郁朋社 定価1,500円+税

フランス革命の女戦士マリアンヌのように幕末維新を駆け抜けた新田義貞の末裔・武子姫。やがて鹿鳴館の華になる――。

目次
 序章  黒船の海
 第一章 風吹く大地の姫君
 第二章 密勅
 第三章 新田官軍
 第四章 戊辰無情
 第五章 明治の風景
 第六章 維新の十字架
 第七章 箱館戦争
 終章  鹿鳴館の華

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主人公はのちの井上馨夫人・武子。元勲であった夫とともに、いわゆる鹿鳴館外交を担った女性です。ちなみに鹿鳴館の開館は明治16年(1883)、光太郎が生まれた年です。その鹿鳴館外交については終章で扱われる程度で、メインは武子の少女時代からそこまでの歩み、特に戊辰戦争時です。

武子は上野国の小領主・岩松俊純の娘として生まれました。それが嘉永3年(1850)ですので、同5年(1852)生まれの光雲より2歳年長です。岩松家は鎌倉時代末期の新田義貞の子孫にあたるという触れ込みで、幕末には新田姓に戻し、戊辰戦争時にはいわゆる官軍側にたって「新田官軍」を編成、幼い頃からお転婆(これも死語ですね(笑))だった武子も銃をとって参戦しました。「八重の桜」の山本八重、後の新島八重のようですね。立場は逆ですが。

ところでタイトルの「猫絵」は、まだ平和だった頃、俊純が歳末になると猫の絵を描いて世話になった人々に贈る習慣があり、それを方々に届けるのが武子の役目だったというところから来ています。ちなみに小説の中では、「武」にはほど遠く温厚な人物であった俊純を、武子が「猫絵を描くしか能がない」と蔑む描写が見られます。しかしその猫絵がのちに一家やさらに戊辰戦争の行方をも変えるきっかけになる……という展開です。

当方、「敗者の美学」とでも言いましょうか、旧幕側の人物たち――旧会津藩、新選組、彰義隊、遊撃隊など――にシンパシーを感じており、いわゆる官軍側の人物を主人公としたものはまず読みません。そこで、この小説に描かれている事柄がどの程度史実に即しているのかよくわからないのですが……。

さて、「第五章 明治の風景」及び「終章 鹿鳴館の華」に、若き日の光雲が登場します。

006昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に、光雲は大隈綾子(大隈重信夫人)と旧知の間柄だったことが記されており、綾子と武子もつながりが深かったため、作者の智本氏、光雲と武子もどこかで出会っているはず、と、登場させたのでしょう。武子、綾子、光雲の三人が会しているというシーンがあります。光雲はまだ「光雲」と号して独立する前、高村東雲の元での修業時代です。そこで「第五章 明治の風景」では、幼名の「光蔵」。「終章 鹿鳴館の華」で、実は「光蔵」は高村光雲だった、というわけです。

小説中の光蔵少年、かなりのおっちょこちょい(これも死語ですね(笑))で、いきなり往来に飛び出し、薩摩の兵にぶつかってあやうく斬られそうになったりしています。実際、『光雲懐古談』などで、光雲は自らをおっちょこちょいと評しており、そういうエピソードがあっても不思議ではないでしょう(笑)。

ただ、苦言を呈させていただければ、「光蔵」のルビが「こうぞう」になっていること。正しくは「みつぞう」です。右は『光雲懐古談』から。

余談になりますが、光太郎も本名は「みつたろう」。「みつぞう」の「みつ」を採ったわけです。のちに自ら「こうたろう」と名乗るようになりましたが。

そういう部分は差っ引いても、実に面白い小説です。官軍側が主人公ですが、旧幕側の土方歳三、小栗忠順らも気骨或る人物として描かれていますし。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸子さんくる、東芝のミキサー持参、13,000円のもの、10,000円に割引の由、

昭和30年(1955)4月10日の日記より 光太郎73歳

幸子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた三河島のトンカツ屋の娘。アルバイト的に光太郎が起居していた貸しアトリエの片付け等に訪れていました。

東芝のミキサー」は下のようなものだったと思われます。

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昨日に続き、11月20日(日)の『日本経済新聞』さんに掲載された「美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視」という記事の後半をご紹介します。

美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 西洋の精神に加え父譲りの木彫技術

 「生の芸術」論争を見ても、様々な意見を持った芸術家たちが会する「パンの会」が談論風発な集まりであったことは想像に難くない。高村光太郎の創作に、そうした仲間たちとの交流が刺激を与えたのは間違いない。
 さらに大きな影響を与えた人物が身近に2人いた。1人目が木彫の大家で東京美術学校教授を務めた父・高村光雲(1852~1934年)、2人目が妻の高村(旧姓・長沼)智恵子(1886~1938年)である。
 「私が父の彫刻の仕事を承(う)けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了(しま)っていたことだ」
 光太郎は「回想録」(「昭和文学全集」第4巻に所収)でそう記す。小学生の時に彫刻刀を譲られたことで、父・光雲の意志を感じたという。
 1897年(明治30年)、14歳のときに東京美術学校予備ノ課程に入学。日蓮をモチーフとした木彫「獅子吼(ししく)」は卒業制作、学校の展覧会では注目されたようだが、本人は「その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった」(「回想録」)と記し、やむにやまれぬ思いだったと明かしている。
 教授や父の勧めで米欧に留学。その経験が帰国後に「芸術界の絶対の自由」を求めた評論「緑色の太陽」につながる。それは日本の美術界、彫刻界への挑戦状であり、対抗する相手には父・光雲も含まれていた。
 光太郎は雑誌で辛辣な美術評論を執筆するとともに、洋画家の斎藤与里、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八らと美術団体「ヒュウザン会(後のフュウザン会)」を結成した。
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 油彩画「自画像」はこの頃に描かれた。「彫刻を作っても発表する場がない」として絵に力を入れていた時期という。光太郎は米国で知り合った荻原守衛に連れられ、東京・新宿のパン店、中村屋に出入りしていた。鋭い視線でこちらを見つめる男の表情は、旧態依然とした日本の彫刻界、美術界への怒りを示しているのかもしれない。
 彫刻では代表作「手」を発表して以来、6年ほどのブランクを経て発表したのは、「鯰(なまず)」「蟬(せみ)」などの木彫だった。「塑造は(粘土を重ねるという)足していく彫刻であるのに対し、木彫は削っていく彫刻。光太郎の木彫作品には父親譲りの刀のキレが感じられます」と藁谷収氏は話す。
 ロダンをはじめ西洋の精神を生かして日本の彫刻界に斬り込んだ光太郎。しかし、ブロンズの「手」に日本の伝統が見いだされるように、父・光雲から学んだ木彫の技術は、独自の彫刻を生み出すに至ったのだ。
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 一方、智恵子との出会いについて、光太郎自身は次のように記す。若太夫に振られた後も、東京・浅草の「よか楼」の女給・「お梅さん」に入れあげていたときのことだ。「私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである」(「ヒウザン会とパンの会」)
 日本女子大学校(現・日本女子大学)卒で、1911年に平塚らいてうらが創刊した雑誌「青鞜」の表紙絵を描いた智恵子の登場で、光太郎の放蕩(ほうとう)は終わりを告げる。
 13年(大正2年)、光太郎は智恵子と婚約し、妻をモデルにして彫刻の勉強をする。しかし、幸せな日々は長くは続かない。31年(昭和6年)には智恵子の精神変調が明らかになり、翌年自殺未遂を起こす。38年、彼女は多くの紙絵を残し、52歳で亡くなる。
 終戦近い45年4月には東京のアトリエが空襲で炎上し、作品原型の多くを失う。同年10月からは現在の岩手県花巻市太田の小屋に移り、農耕自炊の生活を送る。
 「木彫作品をつくる材料は用意しながら、彫刻刀を振るおうとはしませんでした。戦争責任を感じていたからでしょう」と花巻高村光太郎記念会事務局長補佐の高橋卓也さんは語る。そこには戦時中、戦意高揚の詩を書いたことへの深い自省の念があった。
 再び彫刻制作に挑んだのが青森県から依頼を受けた「十和田湖畔裸婦像」だ。2人の女性が向き合うが、その顔は智恵子をモデルにしている。やはり彼女は光太郎のミューズだったのだ。
 明治末期から大正期に生まれた「パンの会」などのグループは海外からもたらされた芸術思潮が刺激となった。大切にされたのは作家の主観。「僕の後ろに道はできる」(「道程」)と詠んだ光太郎はその申し子といえる。

KEYWORD 高村山荘
 高村光太郎が晩年の七年間を過ごした岩手県花巻市太田の小屋。彼は詩人で童話作家の宮沢賢治が1933年に37歳で死去した後、全集や詩碑の建立に尽力した。その縁もあり、45年4月に東京のアトリエを焼け出された際は花巻市の宮沢家に疎開する。しかし、そこも空襲で焼失、移住した先が太田だった。
 小屋は木造平屋で板の間と土間だけの質素な作り。独居自炊の生活の中で、詩作や書の制作に専念した。「近くの小学校を訪れ、子供たちと交流しました。英字新聞も取り寄せており、地方にあっても世界とつながっていたのでしょう」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん。敷地内には高村光太郎記念館があり、彫刻や書などが展示されている。


前半に続き、限られた紙幅の中で、光太郎造型について要所要所のポイントを抑えた紹介をしていただきました。自称「研究者」の書くわけのわからない独断と事実誤認だらけの文章等とは比ぶべくもありません(笑)。『日経』さん読者の方の中には、この記事で「高村光太郎って、こういう人だったんだ」と初めて知られたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

記事にある「藁谷氏」は、昨日ご紹介した前半部分で光太郎彫刻の解説をなさって下さった、岩手県立美術館館長・藁谷収氏です。

ちなみに最後に紹介されている花巻高村光太郎記念館さんでは、先週から企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が始まっています。その設営作業の様子、展示に協力なさったやつかの森LLCさんのサイトから。
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今週末には当方、現地におもむき、展示解説のオンライン配信の収録に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

春暖の如し、 中西夫人にたのみ、吸入器をかふ、

昭和30年(1955)3月3日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核は呼吸困難も引き起こしていたようです。「中西夫人」は、起居していた貸しアトリエの大家。「吸入器」は、上記花巻高村光太郎記念館さんに、他の遺品と共に展示されているものではないかと思われます。

11月20日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版的なページに、2面ぶち抜きで光太郎が大きく取り上げられました。「美の粋」と題した連載の一環のようでした。

光太郎について、非常にわかりやすくポイントを抑えて紹介されています。長いので2回に分けてご紹介しますが、今日は芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーとして活動していた青年期。

美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 メンバーの間で「生の芸術」論争

  「パンの会」発足は1908年(明治41年)12月である。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)は当時、パリ留学中だったから参加していない。加わるのは帰国した09年。雑誌「スバル」に評論などを発表したのが縁で、両方のメンバーだった詩人・歌人の木下杢太郎から誘われたとみられる。
 ブロンズ、木彫を手がける彫刻家であるとともに、「道程」(14年)、「智恵子抄」(41年)などで知られる詩人でもあった光太郎。彼自身は「私は何を措(お)いても彫刻家である。(略)彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである」(「自分と詩との関係」=「昭和文学全集」第4巻に所収)と記しているが、文学と美術の響き合いを目指した「パンの会」を一人で体現する存在といえるだろう。
 光太郎は、「ヒウザン会とパンの会」(同書に所収)で「パンの会」をこう振り返っている。
 「当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した」
 その文章では「失はれたるモナ・リザ」という詩のモデルとなった吉原遊郭の娼妓・若太夫との恋愛と別離についても触れている。彼女を光太郎から奪ったのは「パンの会」のメンバー、作家の木村荘太だった。
 10年に「スバル」に発表した光太郎の評論「緑色の太陽」は「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」と記した。美術家が自らの信じるままに表現することを求めたこの文章は、日本に於ける印象派宣言として注目された。
 注目されるのは、そこで「パンの会」創設メンバー、洋画家・版画家の石井柏亭に言及していることだ。光太郎は柏亭が重視する「地方色(ローカルカラー)」、すなわち日本の絵が持つ独自性の存在は認めるが、そこに価値は認めないと主張する。
 論争のきっかけは、洋画家の山脇信徳が09年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品した「停車場の朝」。クロード・モネ「サン・ラザール駅」を思わせるこの絵を、陶芸家のバーナード・リーチ、作家の永井荷風らは高く評価したが、柏亭らは認めなかった。
 光太郎は「『天の光』を写そうとする努力が尊い」と山脇を弁護したが、柏亭は美術・文芸雑誌「方寸」で反論する。それへの再反論が「緑色の太陽」だった。光太郎は「DAS LEBEN(生命)の量」で絵を評価したいと記す。その後、杢太郎や作家の武者小路実篤らを巻き込んで繰り広げられた議論は「生の芸術」論争と呼ばれた。
  光太郎が山脇の絵以上に「生の芸術」だと捉えていたのは10年に30歳で亡くなった荻原守衛(碌山)の彫刻だ。碌山は留学中にフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンに会った。光太郎は碌山の作品に長年敬愛するロダンと同じ魂の輝きを感じていたのだろう。
 光太郎は武者小路や作家の志賀直哉らが10年に創刊した文芸・美術雑誌「白樺(しらかば)」でロダンを紹介する。
007 「光太郎は日本の近代彫刻の扉を開いた一人です。対象をアウトラインとして表現するのではなく、かたまりとしてどう捉えるかを重視した。『私』の中で確認するという感覚的な手法はゴッホからの影響が感じられます」。彫刻家でもある岩手県立美術館館長の藁谷収さんはそうみる。
 5本の指がそれぞれ異なった曲がり具合、伸び具合を示す左手を表現した「手」は光太郎の代表作の一つだ。その絶妙なかたちによって「手という本来は表面的なものを題材に立体的な彫刻を生み出しています」(藁谷さん)。
 その独特な形は作家の強い意志や内に秘めた生命力を感じさせ、ロダンの思想をうかがわせる。一方で手のひらなどの滑らかな部分には木彫からの影響が見られ、光太郎自身も仏像の印相の一つである施無畏印をヒントに東洋的技法で近代的感覚を表現したと語っている。東洋と西洋の折衷が光太郎独自の彫刻を生み出したわけだ。
 文展で活躍し、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授を務めた彫刻家・朝倉文夫とは、光太郎の朝倉への歯に衣(きぬ)着せぬ批評もあり、微妙な関係にあったとされる。もっとも生前作られた「手」のうち1体を所有していたのは朝倉。光太郎をひそかにライバル視していたのだろう。

後半は「西洋の精神に加え父譲りの木彫技術」と題し、ロダンへの感化以前から、光太郎彫刻のバックボーンとして身体にしみ込んでいた伝統的木彫技術、それを叩き込んだ父・光雲との関わりが紹介されます。また、光雲と同様、光太郎の人生に大きな影響を与えた妻・智恵子についても。

その後半部分は明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

七時に一寸おき食事、又ねて十一時おきる、 ポストまで外出、 足のゆび痛む、油脂剤をつける、
昭和30年(1955)3月1日の日記より 光太郎73歳

結核の症状は一進一退で、小康状態と重篤状態をくり返し、しかし快方には向かわず少しずつ昂進して行ったようです。光太郎が二度寝するのは珍しいことでしたし、郵便物の投函に出たこの日以降、また10日ほど外出不能になっています。

昨日は、第65回高村光太郎研究会ということで、都内に出ておりました。同会、コロナ禍のため3年ぶりの開催となりました。

会場は文京区のアカデミー千石さん。
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ご発表はお二方。

『高村光太郎小考集』という書籍の御著者・西浦基氏。千葉県職員であらせられる安藤仁隆氏。
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西浦氏は「彫刻家・高村光太郎」と題し、様々な私見やヨーロッパで撮影された画像等ご紹介しつつ、光太郎の造型について語られました。
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安藤氏は、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」。まず旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎住居兼アトリエについて、建築の方面からの実に詳細なアプローチ。光太郎自身が書き残した図面や文章、周辺人物の回想、さらに戦前の航空写真などから、建築系のソフトやCG等も駆使され、住居兼アトリエの姿を浮き彫りにされました。
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同様に、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」についても。
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安藤氏、既に今年4月に発行された同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、二つの建物についての論考を発表なさっていますが、さらに詳細な点が解明されていました。

ところで、光太郎アトリエといえば、今回会場のアカデミー千石さんのロビーで、こんなものをゲットしました。「谷根千ゆかりの文人まっぷ」。文京区立本郷図書館さんの制作です。
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A4判を3枚、横につなげた判型で、その表裏両面に印刷されていますから、全6ページ。2ページずつ、地図、谷根千ゆかりの文人たち紹介、彼らの生没年表となっていました。

光太郎智恵子、光雲も。
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アカデミー千石さんのような文京区内の区立施設には、ほぼ必ず置いてあるのではないでしょうか。ご入用の方、探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏檜材(小)持参、


昭和30年(1955)2月23日の日記より 光太郎73歳

肺結核のため、ほとんど臥床していた光太郎ですが、木彫作品用の木材を手配を頼んでいました。結局、それを使って木彫作品が作られることはありませんでしたが。光太郎自身も無理だろうとわかっていたように思われるのですが、それでも入手するあたり、彫刻家としての「業(ごう)」のようなものを感じます。

宮崎丈二」は詩人。宮崎の親友で、光太郎が起居していた貸しアトリエを、宮崎と共に何度か訪れた浅野直也という人物が材木商でしたので、入手経路はその関係と思われます。

智恵子の故郷、福島県二本松市の観光地域づくり法人・にほんまつDMOさんのサイトから。

二本松の風景や歴史描いた「絵手紙かるた」が完成

 二本松市を代表する風景や名物、歴史を描いた「絵手紙ふるさとかるた」が出来上がりました。絵手紙かすみ会が15周年記念に制作に着手、読み札の文面づくりから絵を描き終えるまで丸3年を費やした労作で、岩本久仁子会長は「歴史や文化、自然、食、人物など題材が多く、選択するのは大変な作業だった。手作り感満載のかるたを通してふるさとの素晴らしさを再発見してほしい」と話しています。
 同会は平成17年の市民講座を機に有志が集い、波入ヨシさん(郡山市)の指導で月1回、季節の草花や身近なものを描いています。かるたは会員16人が制作にあたり、特に文面は2年掛かりで推こうを重ねたそうです。安達太良山、霞ヶ城、二合田用水、合戦場の桜などの絵はいずれも色鮮やかで会員のふるさとへの想いが伝わってきます。
 「二本松の宝が詰まった」かるたは80セット製作し、市内の小学校、公民館に寄贈されました。また、原画は二本松信用金庫金色支店、市民交流センターなどに順次、展示する予定。
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「あ」から「ん」までで、全部で46枚。いきなり「あ」が、「安達太良の本当の空へ深呼吸」。できればひらがなで「ほんとの空」としていただきたかったところですが、しかたありますまい。さらに「く」は「鞍石山光太郎と智恵子の愛の道」。「鞍石山」は智恵子生家/智恵子記念館さんの裏手の山で、ここを光太郎智恵子が歩き、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインが印象的な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)の元となった場所です。

他にも智恵子モチーフの日本画が展示されている大山忠作美術館さん(「う」…「美しい日本画の宝庫大山忠作美術館」)、阿武隈川で、「も」…「紅葉も光り輝くあぶくま川」など。「た」…「玉ようかんぷつんと刺してさあ食べよう」が一番笑えましたが(笑)。

二本松市の「市民との協働による地域づくり支援事業」の補助金を受けてやられたとのことですが、それにしても、こうした手作り感と郷土愛溢れる取り組みには感心させられます。全国の自治体等関係者の方々、絵手紙等愛好家の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后外出、はじめて中野駅北口の方に行つてみる、セトモノを買ひ、うなぎかば焼をかふ、 夜食かば焼、大根汁、米飯、


昭和30年(1955)2月22日の日記より 光太郎73歳

起居していた貸しアトリエから中野駅北口は、直線距離で1㌔弱。結核の病状が小康状態だったこともあり、買い物がてら散歩したようです。「うなぎかば焼」は光太郎の大好物の一つでした。

3年ぶりの開催です。

第65回高村光太郎研究会

期 日 : 2022年11月26日(土)
会 場 : アカデミー千石 東京都文京区千石1‐25‐3
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「彫刻家 高村光太郎」 西浦基氏

 「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」
   安藤仁隆氏

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、コロナ禍前は年に一度開催されていました。昔は年に数回ということもあったようで、65回目のようです。

発表されるのはお二方。

西浦基氏は『高村光太郎小考集』という書籍の御著者。

安藤仁隆氏は、一昨年の研究会でご発表の予定でしたが、コロナ禍のため中止となり、今回にスライド。今年同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」及び「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」という論考2本を執筆されていて、そちらを元にされたご発表でしょう。

建築に造詣の深い同氏、タイトルの通り、旧本郷区駒込林町にあって、昭和20年(1945)の空襲で焼け落ちた光太郎アトリエ兼住居、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」について、実に詳細な調査を行われています。最近もまた、新たな発見があったとお知らせいただきました。

研究会への参加はご自由に、です。組織としての会に加入せずとも、発表の聴講のみも可能です。ぜひご参加を。

【折々のことば・光太郎】

タバコ買ひに一寸外出、 
昭和30年(1955)2月9日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、前年から臥床していることが多く、一時は外出もままなりませんでしたが、この時期は小康状態。おそらく前年5月以来の外出でした。

しかし、その用事が「タバコ買ひ」。肺結核なのに、自殺行為ですね……。

光太郎の父・光雲が監督となって制作された聖観音像もライトアップされる、京都東山知恩院さんのライトアップ。一昨日から始まっています。

秋のライトアップ2022

期 間 : 2022年11月12日(土)~12月3日(土)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂(外観のみ)
       経藏(外観のみ・11年ぶりの公開)、大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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主な見どころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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大鐘楼
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。
寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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経蔵
内部の天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳されています。また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれています。 ※ライトアップの拝観は11年ぶり
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昨日から、妻がお友達と京都に行っておりまして、「では、知恩院さんのライトアップ観に行って、聖観音像の写真を送ってくれ」と頼んでおいたところ、届きました。
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池の水面にも映り込む紅葉、風情がありますね。

昨年11月、BSイレブンさんで放映された「京都紅葉生中継2021 古都を照らす希望の光〜曼殊院の紅葉を堪能!」という番組から。
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まずは事前に撮影しておいた昼間の映像等。
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そして「生中継」。
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光雲の手になる作である解説もあり、ありがたく存じました。

他の場所も。
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例年、そうですが、期間中にさまざまなイベントも企画されています(最上部リンクご参照)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】001

難波田さんくる、夫人よりガウンをもらふ、手製の由、


昭和29年(1954)12月30日の日記より
 光太郎72歳

難波田さん」は難波田龍起、かつて駒込林町にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいた画家です。光太郎に私淑して美術の世界に入り、詩作にも取り組みました。

難波田夫人も、光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエを訪問したことがありました。その夫人から贈られたという手製のガウン、1年ほど後の写真ですが、これかな、という気がします。

昨日開幕でした。

ニッポンの油絵 近現代美術をかたち作ったもの

期 日 : 2022年11月12日(土)~12月25日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生は無料
*11月19日(土)、20日(日)は「関西文化の日」として入館無料
*11月22日(火)は「和歌山県ふるさと誕生日」として入館無料
*11月26日、12月24日(毎月第4土曜日 ) は「紀陽文化財団の日」として大学生無料
*12月4日(毎月第1日曜日)は入館無料

 「油絵」は、日本の近現代美術史のなかで重要な位置を占めています。近代美術館である当館がコレクションの柱としている「和歌山ゆかりの作家たち」のなかにも、日本で最初期の洋画家となった神中糸子をはじめ、油絵に向き合うことから彫刻を含む自身の創作を始めた保田龍門、油絵を自らの表現方法として選び、生涯描き続けた石垣栄太郎、川口軌外、村井正誠など、重要な作家たちが含まれます。
 いまでは多くの人にとって見慣れた技法になっている油絵ですが、広く普及したのは、明治維新後に殖産興業のための技術として美術学校で教えられ、展覧会などの発表の場が設けられてからです。油絵の多彩な表現は、西洋のものの見方や、新しい思潮に裏打ちされており、それらへの憧れや共感とともに多くの若い画家たちを魅了しました。
 本展ではまず、ひとりひとりの画家が、どのように油絵と出会い、油絵によって学び、表現する者として成長していったかを作品を通して見ていきます。画家たちのまなざしは油絵を生み出した海外の表現に向かい、ひるがえって日本美術とは何であるかを問うことにもなりました。
 また、油絵具の素材としての魅力そのものにも注目したいと思います。油絵具には独特の艶と透明感があり、筆触や盛り上げを残すこともできる強い物質性を持っていることが特徴です。多くの新しい画材が開発された現代でも、絵具の層を重ねて表現する深み、ゆっくりと固まる絵具の性質を生かした表現など、油絵は材料の多様性のなかに埋もれることなく存在感を放っています。
 日本の近代美術の中に油絵がなかったなら、今日の美術表現はずいぶん違ったものになっていたでしょう。本展は、当館のコレクションを中心に、およそ100点で構成します。油絵を通して、日本の近現代美術の魅力を再発見していただく機会ともなれば幸いです。
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001上記はプレスリリースの画像。ここに紹介されていませんが(100点ほどの出品だそうで)、同館所蔵の光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)も出ているとのこと。

同館、当方の把握している限り、何だかんだで2~3年に1度は、この絵を出品して下さっています。一昨年に開催された「コレクションの50年」展、令和元年(2019)で「 時代の転換と美術「大正」とその前後」展、平成28年(2016)には「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」。同展は全国巡回でしたが、巡回先にも貸与して下さっていました。

佐藤春夫は和歌山出身ですので、同館が入手なさったのでしょう。そして、死蔵とせずにこうしていろいろな機会に出して下さるのは有り難い限りです。

現存が確認できている光太郎の油絵は、10点ちょっとしかありません。この機会をお見逃し無く。

【折々のことば・光太郎】

豊周と規君くる、規君写真をとる、弟に研石をたのむ、白ブドウ酒一本もらふ、

昭和29年(1954)12月23日の日記より 光太郎72歳

光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周には、研石(砥石)の入手を頼んでいます。まだ木彫をやりたいと思っていたのでしょうか。

豊周子息で、のち写真家となった故・規氏。この年、日本大学芸術学部写真学科に入学していました。この日はカメラを持参し、光太郎を撮影しました。

規氏の回想「写真家の目と駒込林町の家 高村規の語る戦後の写真(2)」(『日本古書通信』第952号 平成20年=2008 11月)より。

002 大学一年だった僕もカメラを持ってついて行った。そのときに撮った写真が、智恵子さんが織った布地で作ったチャンチャンコを着て微笑んでいる光太郎だった。
(略)
 光太郎から「今度出す本(『全詩集大成現代日本詩人全集』昭和三十年三月・創元社)の口絵に使いたいんだけどいいかしら」と電話をもらった。そんな電話にも驚いたし、写真を始めて一年足らずの僕の写真が初めて印刷されることがうれしかった。
(略)

 昭和三十一年四月二日未明、光太郎が亡くなった。(略)相識の写真の相談が始まった。北川太一さんが本棚から最近出た本をいくつかだしてきたらしい。その本の口絵の写真を見ながら、草野心平さんをはじめとした葬儀委員の方々が、「その写真は光太郎さんが気に入ってたからこれがいいのでは、ただ写したのが誰だかわからないね」と話していた。肩越しに覗いたらアトリエで撮った僕の写真だった。「僕のです」と話したら草野さんが「これに決まりだ」と言い出した。

昨日も都内に出ておりました。

まずは泉屋博古館東京館さんで、「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」を拝見のため、六本木へ。
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都内でも紅葉が始まっている感じでした。
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陶芸家・板谷波山。創立間もない東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に学んだという異色の経歴があります。そこでの教えが後の波山芸術バックボーンの一つとなっている点は確かに感じられました。

撮影可だった作品。
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紋様は描かれているだけでなく、浮き彫り風になっており、確かに彫刻のエッセンスが感じられます。1ミリにも満たない凹凸で感じられる立体感という意味では、智恵子の紙絵にも通じるものがあります。そういえば智恵子も太平洋画会で彫刻を学んだ経験がありました。

師・光雲の木彫が2点。波山に乞われて造ったという「瓜生岩子像」は、個人的な依頼に対して気楽に応じた、という感じでした。といってもいい加減に造っているわけではなさそうですが。もう1点の「三猿置物」は、きちっと「作品」として仕上げたという様相。拝見に行く以前に入手していた図録にサイズが記されており、「高24.2 幅27.2 奥行18.6」。その数値から「こんなもんか」というイメージを固めていたのですが、実際に拝見すると、その倍くらいに感じられました。

光雲にしても、光太郎にしても、優れた彫刻はやけに大きく見える傾向があります。現在、常設展で出ているトーハクさんの「老猿」にしても、実際に見たことがあるという方と話す中で「像高90㌢ほどですよ」という話をすると「え? 1㍍50㌢くらいと思ってましたが」ということがままあります。内部から迸るエネルギー的な物の発露がそういう錯覚を起こさせるのでしょうか。

003波山の木彫「元禄美人」にも驚きました。図録で見た時には「ふーん」という感じだったのですが、実物を見ると実にいいのです。特に驚いたのは、着物の柄を陰刻で彫ってあること。図録の画像もよく見ればそれが分かるのですが見落としていまして、実物を見て「うおー、こんなことをやっていたのか」と初めて気がつきました。波山の本業である作陶にも通じる技法ですね。

そしてメインの陶磁器(というかほとんど磁器)。当方、いわゆる「焼き物」にはあまり興味はないのですが、波山の葆光(ほこう)彩磁は以前から好きでした。多くの作をまとめて見たのは今回が初めて。目を奪われました。また、波山は焼き上がったものに少しでも納得が行かない点があると、叩き壊してしまうことで有名でしたが、その破片も数多く展示されていました。妥協を許さない芸術家の魂的な物を強く感じました。

ついでにというと何ですが(笑)、波山と交流のあった光太郎の「手」も出ています。どこから借りてきたものか不明なのですが、苦言を呈させていただければ、台座が稚拙なのが残念です。

ちなみに光太郎と波山。光太郎が美校に入学する前、旧制中学の課程を本郷にあった共立美術学館予備科で学びましたが、数学が苦手でどうにもならなかったそうです。そこで波山に頼み、数学を得意とする人物を紹介してもらって個人教授をお願いしたとのこと。それでも駄目だったようですが(笑)。

さて、拝観後、六本木を後に銀座へ。同じ都内でも下町方面を廻ることが昔から多いので、「ギロッポンからザギンって、俺らしくないな」などと思いつつ(笑)。

次なる目的地は王子ホールさん。こちらでは作曲家・朝岡真木子氏の作品が演奏される「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」を拝聴して参りました。朝岡氏から招待状を頂いてしまいまして、馳せ参じた次第です。
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9月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」。歌唱はその際と同じく清水邦子氏。情感たっぷりに歌い上げていらっしゃいました。

他の曲目も、9月の演奏会とは異なるものがほとんどでしたし、二重唱などもあって、合唱経験者の当方としては生で聴くハモりは心地よいものでした。

演奏中は撮影禁止でしたが、終演後。
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左から朝岡氏、清水氏、メインで歌われた前澤悦子氏、加賀清孝氏。

その後、ホワイエで朝岡氏、清水氏とお話をさせていただきました。清水氏、「智恵子抄」を歌われたことで光太郎智恵子の世界に非常に興味を持たれ、明日、二本松の智恵子生家/智恵子記念館に行かれるそうです。明日まで生家二階の特別公開、智恵子の花嫁衣装の展示が為されていて、そちらをご覧になりたいとのことでしたので、フライヤー等お渡ししておきました。

今週はもう1度、都内に出ます。10日(木)、三越劇場さんでの「朗読劇 智恵子抄」。主演の一色采子さんから「来なさい」という至上命令ですので(笑)。今月、というと、またのちほどご紹介しますが、20日(日)に神戸で和編鐘の有機音さんのコンサートに「応援出演」ということで行って参りますし(光太郎智恵子について語って参ります)、月末には高村光太郎研究会でまた都内。千葉の田舎から出て行くのはなかなか大変なのですが、「芸術の秋」ですから仕方がありません(笑)。というか、コロナ禍で自粛、中止が相次いでいた頃に較べれば、足を運べる催しが多いことは幸いと云うべきでしょう。ただ、「第8波が懸念」という報道もあり、まだまだ予断を許さぬ状況ですが……。

【折々のことば・光太郎】

火の車より使、清六さんからのマヒ茸松茸、ベニマス等もらふ、夜それをくふ、

昭和29年(1954)10月9日の日記より 光太郎72歳

火の車」は当会の祖・草野心平が経営していた居酒屋。「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

この頃の光太郎は、宿痾の肺結核で外出も出来ない状態でしたが、食欲だけは旺盛でした。

昨日は都内に出ておりました。

まずは中目黒。めぐろ歴史資料館さんで昨日から始まった特別展「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」を拝見。
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明治生まれで既に故人となった目黒ゆかりの名工二人(道具鍛冶・千代鶴是秀と蒔絵筆師・小宮又兵衛)、昭和生まれで現在も目黒でご活躍中の刀装師・髙山一之氏の三人にスポットを当てたものです。

このうち、千代鶴是秀は光太郎と直接交流があり、光太郎は是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。

今回の展示、是秀は朝倉文夫と交流が深かったため、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵の是秀作品が数多く、さらに、平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされた土田昇氏(土田刃物店さん)所蔵のものなどが展示されていました。

図録(700円)から。
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以前に朝倉彫塑館さんで拝見した記憶があるのですが、何度見ても素晴らしいものです。

昭和15年(1940)に土門券が撮影した光太郎の写真には、これとよく似た彫刻刀が映っています。
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もしかすると、これも是秀作かな、と思っております。

ただ、同じ日に撮影された別のショットでは、是秀っぽくない道具を使っています。まぁ、一つの彫刻を制作するにも色々な道具を使うのでしょうが。
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その他、是秀から朝倉宛の書簡なども多数展示されており、興味深く拝見しました。他の二人の「名工」の作も。

続いて、地下鉄を乗り継いで文京区千駄木へ。旧駒込林町の、光太郎アトリエにほど近い旧安田楠雄邸庭園さんが次なる目的地でした。こちらでは一昨日から「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催中。
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こちらは、入り口の向きは逆なのですが、まさに髙村家(光太郎実家)の隣です。当方、昨年「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で講話をさせていただいて以来、約1年ぶりでした。

2階建ての1階では、髙村家所蔵の光雲作品や古写真など。
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2回の座敷では、昨年から今年にかけての、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展東京藝大さん)、「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」(日本写真会館さん)、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」(長野県立美術館さん)などに展示された、光雲作品の写真タペストリー等(光雲令曾孫・髙村達氏撮影)が中心でした。
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達氏がいらしていて、久しぶりにお目にかかりました。コロナ禍前の令和元年(2019)の連翹忌以来だったでしょうか、久闊を除しました。この写真類をお借りして、当方が関わっている花巻の高村光太郎記念館さんあたりで企画展示が行えないものかと、そんな提案をしておきました。

安田邸をあとに、ここまで来たついでなので(笑)、指呼の距離にある光太郎旧居址。今は一般の住宅になってしまっています。
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その中間には、過日ご紹介した洋画家・近藤洋二が厄介になっていた、宮本百合子の実家。
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この案内板の前を通って、細い路地をくねくね行き、突き当たりを左折すれば光雲邸(光太郎実家)のあった現・髙村邸。さらに安田邸の裏門となります。

さて、「目黒の名工」は12月11日(日)まで、「となりの髙村さん展」は会期が短く11月6日(日)までです。さらに安田邸にほど近い文京区立森鷗外記念館さんでは、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」も開催中です。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后山端静子くる、果物をもらふ、丈夫のやうなり、155番地にゆきたる由、筆談、

昭和29年(1954)9月29日の日記より 光太郎72歳

山端静子」は光太郎のすぐ下の妹。現在、令孫が北鎌倉でカフェ兼ギャラリー笛を経営なさっています。この兄妹が会ったのは戦後2回目、そしておそらく光太郎生前最後だったようです。

155番地」は先述の光太郎実家。光太郎、しづ(静子)兄妹のさらに下の豊周が跡を継いで居住していました。

直接は光太郎らに関わらないのではないかと思われますが……。

令和4年度めぐろ歴史資料館特別展 「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」

期 日 : 2022年11月3日(木・祝)~12月11日(日)
会 場 : めぐろ歴史資料館 東京都目黒区中目黒三丁目6番10号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

大正から昭和前期にかけての目黒地域は、目黒川沿いを中心に工場地帯を形成していて、当時は、ものづくりの音の響く街でした。工業化が進む中でも伝統的な技術を継承し、ひたむきにその姿勢を貫き、現在でも名工として語り継がれている技術者もいました。本展では、目黒の2人の名工「千代鶴是秀(大工道具鍛冶)」と「小宮又兵衛(蒔絵筆製作)」に再注目してその業績を紹介します。また併せて、平成30年に国の「選定保存技術」保持者に認定された高山一之氏を現在の目黒区内で活躍中の名工として紹介します。

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関連行事 特別展「目黒の名工千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」記念講演会
現在、目黒区内の活躍中の名工で、国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」に認定されている高山一之氏、千代鶴是秀研究の第一人者である土田昇氏(土田刃物店店主)のお二人をお迎えして、令和4年度めぐろ歴史資料館特別展の記念講演会を開催します。また、当館蔵の小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について当館学芸員が解説いたします。

 開催日 令和4年11月26日(土曜日)
 時 間 午後1時から
 場 所 めぐろ学校サポートセンター第1研修室(めぐろ歴史資料館と同じ建物です)
 講 師
  高山一之(国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」)
  土田昇(有限会社土田刃物店 店主 「千代鶴是秀研究の第一人者」)
  当館学芸員(当館蔵 小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について)
 定 員 40名(応募多数の場合は抽選)
 申 込 ハガキ・ファックス・電子申請のいずれかでお申し込みください。
     令和4年9月30日(金曜日)から11月3日(木曜日・祝日)まで(必着)

取り上げられる三人のうち、千代鶴是秀は、伝説的道具鍛冶。光太郎と直接の交流があり、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展では、光太郎が使っていた是秀作の彫刻刀が展示されました。他に平櫛田中や朝倉文夫などが是秀の作品を愛用していました。

また、是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を石膏に取っています。

関連行事の講演会講師に名を連ねられている土田昇氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

腫、猛暑、36.3 今年最高といふ、 来訪者なし、


昭和29年(1954)8月23日の日記より 光太郎72歳

地球温暖化が進行した現今、真夏の36℃ちょっとは当たり前になってしまいましたが……。

10月23日(日)、『東京新聞』さんの埼玉版から。

「浦和画家」近藤洋二に脚光 遺族所有4作品、うらわ美術館に収蔵 川越の藤井さん「魅力、再び伝えたい」

002 昭和の初め、芸術の都パリに憧れて、妻子を連れて日本を飛び出した埼玉の画家がいた−。川越出身で「浦和画家」としても名が残る近藤洋二(一八九八〜一九六四年)。地元の縁で画家を知った川越市の女性が「こんな面白い人生があったとは」と関係者を訪ね歩き、長年遺族が所有していた四作品が、うらわ美術館(さいたま市浦和区)に収蔵されることになった。
  「お金もないのに、妻と生後十一カ月の長男を連れて上海行きの船に乗り込んだ。金が尽きると絵を描いて稼ぎ、さらに先へ進んだ。それでパリまで行っちゃったんですよ」。そう語るのは、川越市の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人の藤井美登利さんだ。
 藤井さんは、地元で「旧制川越中学を卒業した絵描きがいた」という話を聞いて興味を持ち、調べ始めた。資料を読み込む過程で、長男の近藤乃耶(のや)さん(故人)が書いた評伝「『偉い人』にならなかった絵描きの生涯」(東宣出版、現在は絶版)を手にした。画家の魅力的な逸話や数多くの著名人との交流が記され、ぐいぐいと引き込まれた。
 明治生まれの近藤洋二は、医大に進むはずだったが父が急死し、家計を助けるために働きながら画家を目指すように。パリで絵を描きたいと二八年、上海までの片道切符を手に親子三人で船に乗り込んだ。詩人の金子光晴夫妻とも一時同道。近藤一家の姿は、金子の「どくろ杯」という小説に登場する。上海からインド、イタリアなどを経て翌年、フランスへ到着した。
   当時のパリ画壇ではピカソや藤田嗣治らが活躍していた。だが、近藤は生活が厳しく美術学校に入れず、毎月三十枚以上、ひたすら絵を描き続けた。ついに滞在費が尽きて帰国する船で、日本郵船の船長が三等船室だった親子を貴賓室に移してくれた。「当時の外国航路の船長は高給取りで、大勢の若い画家を援助していた」と藤井さん。このとき同じ船に乗っていたのが、作家宮本百合子の実家、中条家の人々だった。その縁で、近藤一家は帰国後、都内の屋敷町にある中条家の離れに住んだ。戦時中、百合子の夫顕治は刑務所に拘留されていた。向かいは詩人の高村光太郎宅。高村は警防団長で、兜(かぶと)をかぶって棒を振り回し、空襲の火を「消せ!消せ!」と怒鳴っていた−と本には書かれている。
 藤井さんは「画家の情熱と、おおらかな時代の空気に魅了された。生前は人気があったが、埋もれてしまったその魅力を、再び伝えたいと思った」と語る。多作だった近藤は、穏やかな風景画を数多く描き、今回収蔵した作品にも、雪に埋もれる集落や、欧州の道を自転車が走るのどかな光景が描かれる。六十六歳の時、散歩中にバイクにはねられて急逝した。「ただ死ぬまで毎日毎日、次々に楽しそうに描いて描いて描きまくっていて、それが父の生きがいであり、喜びであった。およそ賞だとか名誉だとかに無関心だった」と乃耶さんは記す。
 うらわ美術館では、一般公開に向けて修復や調査を進めている。近藤の甥(おい)で川越市在住の近藤繁さん(85)は「いつもパイプをくゆらせ、もの静かな人だった」と生前を振り返り「生きていたころの記憶がある人はどんどんいなくなる。作品が収蔵され、これからも見てくださる方がいると思うと、うれしいです」と話している。
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近藤洋二という画家、『高村光太郎全集』の二箇所に名前が出て来ます。

まず、「式場莞爾詩集「海の星座」序」(昭和30年=1955)。

 昔の隣組仲間の近藤洋二画伯のむすこさんは立派な海員になつて今休暇で東京にきている。そのむすこさんの友達だという式場さんは海員組合の仕事をしている海洋詩人だとの事だ。この三人の人にあつて海員生活の話をしているうちに、海の好きな私は、いつのまにか、式場さんの海の詩集に序文をかくようなきつかけを持つようになつてしまつた。一面識もなかつた人の詩集なんだが、それが海員の助け合い運動の何かになるというだけきいても多分気持ちのよい詩集だろうと思えた。何にもいう事がないので今から丁度五十年前に私が太平洋のまん中でアゼニヤンという船にいて作つた歌を二つ書いておく。

  海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと
  地を去りて七日十二支六宮のあいだに物の威をおもい居り


もう一箇所は、昭和30年(1955)12月9日の日記。

 近藤洋二氏他二人くる、

どちらも同じ年なので、「他二人」が近藤の子息と式場なのでしょう。この日の出来事が『海の星座』序文に書かれていると見て間違い有りますまい。

それにしても、近藤洋二という画家の詳細については、東方、寡聞にして存じませんでした。子息が書かれ、光太郎にも言及されているという『『偉い人』にならなかった絵描きの生涯』も存じませんでした。調べてみましたところ、国会図書館さんに所蔵がありますので、いずれ見てみます。

ちなみに「浦和画家」は、関東大震災後、浦和に居住する画家が多かったことから彼らの総称として生まれた語です。有名どころでは、倉田白羊、須田剋太、瑛九など。「うらわ美術館」さんは、さいたま市立だそうで、こうした地元作家の作品等の収集にも力を入れているようです。大事なことですね。近藤作品、公開されたら観に行ってみようと思いました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんくる、 三時辞去後風呂に入る、三月ぶりの入浴、


昭和29年(1954)8月21日の日記より 光太郎72歳

5月頃からだいぶ体調を崩し、外出もままならなくなって、一日ベッドで過ごす日もありましたので、入浴もしていませんでした。もっとも、昭和20年(1945)から7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中も、村人らの好意で鉄砲風呂を贈られたものの、薪を大量に使わねばならず、そのため入浴をほとんどしませんでした。その分、温泉に足を運ぶ機会が多かったのですが、上京後は近くに温泉もなく、また、銭湯に行ったという記述も見当たりません。当然、タオルで身体を拭いたりはしていたとは思うのですが……。

光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ鋳金家で人間国宝の豊周の作品が出ます。

教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展

期 日 : 2022年10月27日(木)~11月1日(火)
会 場 : 金沢市文化ホ-ル展示ギャラリー 石川県金沢市高岡町15番1号
時 間 : 10:00~17:00 最終日は13:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 金沢美術工芸大学は、令和 5 年(2023)10 月 1 日より、更なる飛躍を期して新キャンパスでの歩みを始めます。地域に開かれた大学をめざす新キャンパスでは、市民のみなさまをはじめ学外の方々が気軽に訪れることのできる展示施設を整備し、絵画・彫刻・工芸・デザイン・その他の分野にわたる貴重な芸術資料の公開の拡充を予定しています。
 本学は、昭和 21 年(1946)の開学以来、教育研究用の資料として、また、優れた芸術に接する機会を市民に提供するために、世界的に著名な芸術家の作品を含む約 6,700 点の芸術資料を収集してきました。この展覧会は、キャンパス移転に先立ち、日々の〝教材〟として活用してきた芸術資料を身近に感じていただくために、学内ではなく、まちなかで開催する〝出開帳〟です。
 第三弾である今回は、所蔵品の中から工芸の優品を中心に展示いたします。芸術資料の鑑賞を通して、本学の教育研究に関するご理解を深めていただければ幸いです。
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豊周は東京美術学校鋳金科を卒業し、母校の教授を務めていましたが、戦時中に退官。戦後になって昭和24年(1949)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授に就任しました。のち、教壇から下り名誉教授となりましたが、その肩書きは昭和47年(1972)に歿するまで継続していたと思われます。

そんな関係で、同校には豊周作品が現存、富本憲吉ら他の工芸家の作品ともども「教材としての芸術資料」という扱いで、今回展示されるわけです。
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豊周作品は「朧銀花入 雨」。正確な制作年代は不明のようですが、いずれ戦後のものでしょう。「朧銀」は銅と銀の比率を3:1とした合金で、豊周も好んで使った材の一つでした。

意外と豊周作品を見られる機会は多くありません。会期が短いのが残念ですが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

むしあつく、しう雨あり、今日は殊に暑気を感ず、 ビール一本、夕、オムレツ等、 〈ヘチマに肥料〉


昭和29年(1954)8月16日の日記より 光太郎72歳

終戦の年から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋では、野菜類は畑でほぼ自給していた光太郎。終の棲家となった中野の貸しアトリエでも、ヘチマ程度は栽培していたようです。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、市民文化センターさんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2022」の拝観。さらに昨日は関連行事として、同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんのご講演があり、どうせ行くならこの日に合わせようと思った次第です。

いつも書いていますが、高田博厚は光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎はいち早くその才を認めて高田のフランス留学を支援しました。光太郎歿後、帰国した高田は光太郎顕彰に協力し、その縁でやはり生前の光太郎をご存じだった同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏と親しくなりました。そして同市で高田の個展や講演会を開催するなどし、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて、東武東上線高坂駅前から伸びる道路に「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品が野外展示されています。

昨日の絵子猫さんのお話、それから展示自体も彫刻プロムナードに関係しますので、まず、彫刻プロムナードに立ち寄りました。

当方、初めてプロムナードを歩いたのは平成25年(2013)。その後、光太郎像だけは、今年1月にもすぐ近くのレストランで食事をした際に拝見しましたが、昨日は久々に全作品を見つつ歩きました。
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まずは光太郎像。
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これがクリソツかというと、そうではありません。それもそのはず、高田がこれを制作したのは光太郎歿後、しかも昭和6年(1931)に日本を離れて以来、光太郎には会っておらず、記憶の中の光太郎と、晩年の写真とを頼りに作られたものだからです。それでも、この像から立ち上るオーラは、まぎれもなく光太郎のものです。

その他、全作品は撮りませんでしたが、光太郎とも交流のあった人々を作ったもの。

詩人の高橋元吉。
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さらに宮沢賢治。
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どうも当方、この賢治の顔が、お世話になっている某美術館さんのキュレーター氏に似ていると感じる、というか「ああ、××さん!」と呼び掛けたくなります(笑)。どなたのことか、関係の方はご想像下さい(笑)。

その後、昼食を摂って、市民文化センターさんへ。
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高田の彫刻群。
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一昨年の同展で、やはり関連行事のご講演をなさった元NHKアナウンサー・室町澄子氏の像。
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そして、昨日、ご講演なさった絵子猫さんとのコラボ。
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ブロンズ彫刻がずらっと並んでいると、それはそれで迫力があってよいのですが、いかんせん色彩がありません。その点、今年は実に色鮮やかでした。

同時開催で、「探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~」。光太郎を含む、彫刻プロムナードでモデルとなった人物たちを題材にした紙芝居を、地元の小中高生の皆さんが制作、元になった彫刻の写真と共に展示されていました。
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光太郎。
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制作は東京農大三高美術部の皆さん。ありがとうございます!
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高橋元吉。
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宮沢賢治。
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そして、彫刻は無いものの、プロムナード整備の功労者、故・田口弘氏についても。これは意外でした。
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光太郎との交流から始まり、戦時中の九死に一生を得られた体験、戦後の高田との交流。
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うるっときてしまいました(笑)。

さて、時間となり、絵子猫さんの講演会。
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冒頭、森田市長のご挨拶。
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この後は、絵子猫さんご自身の希望により、講演というより、インタビュー形式で。インタビュアーは市職員の方でした。

いかにして独自のイラストレーションの世界が作られたか、これまでの歩み的なお話。
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そして、彫刻プロムナード。お近くにお住まいだそうで。
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美大時代、裸婦デッサンがお好きだったという絵子猫さん、最近は個人でモデルを雇うわけにも行かず、しばらくそちらから離れていたところ、ある日、「あ、これも裸婦じゃん」と、高田の裸婦像を描くことを思いつかれたそうです。なるほど。

そうして生まれたのが、こちら。
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デジタルとアナログの融合的な手法で描かれているとのこと。

お土産はこちらのポストカード、さらにモノクロ版A4サイズ。塗り絵になりそうです。
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光太郎像は描かれていないようですが、マハトマ・ガンディーはありました。絵子猫さん曰く、「初めてオジサンを描きました」(笑)。
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何だかガンディー、「スターウォーズ」のヨーダみたいです(笑)。

閑話休題、こういう形で地域の人材を活用するのは非常に理想的ですね。他の市町村の関係の皆さん、ご参考までに。

というわけで、「彫刻家 高田博厚展2022」。11月10日(木)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

平熱、セキもタンもさっぱり出ず、 午后奥平さんくる、ビール、余もビール少〻のむ、岡本先生くる、診察だけ、容態よき由、 夜食に玉ずしをとる、

昭和29年(1954)7月30日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核、病状は一進一退でした。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

現在、京都府の泉屋博古館さんで開催中で、来月初めから同館の東京館に巡回される特別展「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」の図録が届きました。2,500円也。
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当方、いわゆる骨董としての焼き物にはあまり興味がありませんが、波山の作品は別です。表紙にもある淡いパステルカラーのような葆光(ほこう)彩磁の色合いは非常に好きです。実作も何度か拝見しましたが、図録で見ても見飽きることがありませんね。

さて、それよりも購入の目的は、「参考出品」ということで出ている、光太郎の父・光雲の木彫2点。波山は東京美術学校卒業で、光雲に木彫の手ほどきを受けています。陶芸と彫刻、一見、あまり関連はなさそうですが、やはり立体造形という点で共通点がありますし、図柄の構成などにも洗練された美意識が必要ですから、美校での教えは後の波山芸術に大きく影響しているのだろうと思います。

下記は図録にあった美校彫刻科の写真。右端に映っているのが波山だそうです。
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そんなわけで、師・光雲の作品も出しているのだろうと思いまして、実際、「三猿置物」という光雲作品は、美校時代の波山の木彫と共に展示され、これが波山の師匠の作品だよ、という意味での参考出品のようでした。
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「三猿置物」、昭和6年(1931)の作で、稲荷山光明院さんという川崎市にある寺院の所蔵だそうですが、当方、寡聞にしてこういう作品があったことは存じませんでした。面白いなと思ったのは、日光東照宮の三猿や、各地で石仏としての庚申塔などに刻まれている三猿は、それぞれが対等の感じで配されているのに対し、三匹を親子猿にしている点。さすが光雲、一筋縄ではいかないな、という感じです。

ちなみに下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の場所にある江戸時代の庚申塔。今、撮ってきました(笑)。
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下の三猿、ちょっとわかりにくいかもしれませんが。

同じく光雲の「瓜生岩子像」(明治32年=1899)。こちらも存じませんでした。
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波山が光雲に頼んで作って貰ったものだそうです。

図録に曰く

 波山の妻・まるは、福島県喜多方市出身の社会慈善家・瓜生岩子の内弟子だった。その縁により、波山との結婚の際には瓜生が媒酌人をつとめている。波山夫妻は瓜生の生き方を敬慕し、1897(明治30)年に瓜生が亡くなって、その三回忌を迎えた際に、恩師であった高村光雲に「瓜生岩子像」(参考作品3)の制作を依頼した。慈善事業に尽力した瓜生の人柄が伝わる光雲の佳作であり、波山夫妻は本作を座右に置いて日々の励みにしたという。

なるほど。

光雲、人物肖像の木彫はやや苦手としており、後の大倉喜八郎夫妻像や法隆寺の管長・佐伯定胤の像などは、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを木に写すという手法で作られました。しかし、この瓜生岩子像には光太郎の手は入っていないようです。というか、明治32年(1899)では、光太郎はまだ数え17歳の美校生でしたし。


003その光太郎のブロンズ代表作「手」も参考出品ということで展示され、図録にも載っています。が、過日も指摘しましたが、やはり誤記。制作年が大正7年(1918)であるところ、明治35年(1902)となっています。

「個人蔵」だそうで、もしかすると高村家のものかな、と思っていたのですが、台座の形を見る限り、光太郎歿後の新しい鋳造のようです。それで価値が大幅に下がるわけではありませんが。

さて、先述の通り、京都展(10月23日(日)まで)が終わると、東京展(11月3日(木・祝)から12月18日(日)、泉屋博古館東京館さん)。当方、拝見に伺う予定で居ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野君くる、 すすめられて電気冷蔵器を草野君に一任、筑摩書房の金で買ふとの事、

昭和29年(1954)7月11日の日記より 光太郎72歳

「冷蔵器」は冷蔵庫のことですね。白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

以下、心平著『わが光太郎』(昭和44年=1969)より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
こういう交渉には押しの強い心平はうってつけです(笑)。

この冷蔵庫をモチーフに、詩人の平田俊子氏が「アストラル」という詩を書かれています。また、最近、心平の別荘だった福島県川内村の天山文庫に、どうやらこの冷蔵庫が保存されているらしいという話を知りました。次に訪れる際に確かめてみたいと思います。

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