カテゴリ: 東北

地方紙『福島民友』さんから。

日本人は星より月の文化 渡部潤一さん「季節ごと違い楽しんで」

000 国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)は17日、福島市で「日本人はいかに宇宙を愛(め)でてきたか」と題して講演し、日本人の宇宙への向き合い方について解説した。
 国際天文学連合(IAU)の「アジア太平洋地域の天文学に関する国際会議(APRIM)」が7~11日に郡山市で開催されたことを記念し、県文化振興財団が企画した。
 渡部さんは「日本は季節感が明瞭なため、方位や季節を知る目的で星を見る必要がなかった」とした上で「日本人は星よりも月の文化」と紹介。小説や短歌にも月が登場することに触れ「季節ごと、時間ごとの月の違いを楽しみ、積極的にめでてほしい」と語った。
 月への信仰にも触れ、江戸時代、旧暦23日と26日に人々が集まり、寝ずに月の出を待ち祈る「月待ち行事」が流行したと説明。県内にも行事を記念して造られた月待ち塔が数多く残るとし「オールナイトで大宴会したようだ。楽しみの一つだったのだろう」と思いを巡らせた。
 渡部さんは「県内は天文施設も充実しており、日新館天文台跡(会津若松市)などの貴重な史跡も残っている」と解説。詩人高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「ほんとの空」を例に挙げ「福島にはほんとの夜空がある。月や星を見上げ、自由に思いをはせてほしい」と話した。

この講演会、福島県歴史資料館さんで開催中の企画展示「収蔵資料展 空を眺めて-江戸・明治時代の天文・大気現象など-」の関連行事だったとのこと。
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福島ご出身の渡部氏、昨年やはり福島市で開催された「写真展 138億光年宇宙の旅」(同氏ご監修)で「ほんとの空」の語を使って下さいましたし、郡山市ふれあい科学館さんで過去6回開催された「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト “ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」で審査員を務められたりもなさいました。

今後とも福島の「ほんとの空」の伝道師として、ご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの病気はどうか気ながに御看護下さい。今度は二十一日に参上いたし一泊御厄介になつて二十二日に帰京したいと存じてゐます。薬もその時持参します。父の方は今の処かはりありません。


昭和9年(1934)5月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「」はホルモン剤の「オバホルモン」。ほとんど効果はなかったのではないかと思われますが……。「父の方」は、光太郎の父・光雲が胃潰瘍で帝大病院に入院していたことを指します。
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掲載日順にまず『毎日新聞』さん。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラム、8月11日(金)掲載分です。

季語刻々 立山の秋に腰掛けかりんとう 鶴濱節子

「立山の秋に腰掛け」が雄大でいいなあ。かりんとうが実にうまそう。句集「始祖鳥」(2012年)から。この作者、私の近所に住むが、かつていっしょに立山に登った。俳句仲間に山好きがいて彼に先導されての登山だった。以来、節子さんは山ガールだ。「安達太良(あだたら)の智恵子の空へ登山道」も彼女の作。今日は山の日。

メインは立山連峰の句ですが、最後に智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の句。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語が使われた光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュですね。

続いて『山形新聞』さん。8月13日(日)の一面コラムです。

談話室

▼▽「新鮮なものになるとまったくうまい」。明治生まれの詩人・高村光太郎はこう綴(つづ)る。果物や野菜、肉魚ではなくビールの話である。注ぎたてのグラスをぐっと干す。酷暑で、夜ごと欲しくなるという方は多いだろう。▼▽いつ飲んでもうまいが最初の一杯の喉越しは格別だ。高村は一口目の感動を「いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」と記す。そんな爽快感を大勢で味わえるイベントが先日、山形市で開かれた。山形一小旧校舎が会場の「ビアナイト」だ。▼▽こだわりグルメの店もあったが、この日の主役は県内にある複数の醸造所が手がけるクラフトビール。中には県の花・紅花を使った山形らしさ満開の地ビールもあった。若い人のビール離れが言われているが、会場では友人同士や会社の同僚といった感じの若者が多かった。▼▽大量生産とは異なる個性的な味や香りがクラフトビールの魅力だろう。加えて多彩なラベルが目を引く。「取りあえずビール」ではない楽しさがいい。高村は1、2本でやめておくのが良さそうとも書いている。味わいを追求するには度を超えないこと。助言は今に通じる。

引用元は昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表された随筆「ビールの味」。以前も抜粋でご紹介しましたが、再掲します。

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。(略)何でもさうだがビールも器物で味が違ふ。錫の蓋のついたいはゆるシユタインで飲むとコクが出る。薄手の大きいギヤマンもよし、キリコもいい。いつも無色透明なのがいい。一番飲み心地のいいコツプの大きさは四分の一リツトルくらゐであらう。ビールはうまいが、本当の味は一二本で止めて置く所にあり相だ。(略)
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全文を読みたい方は、令和3年(2021)、平凡社さん刊行のアンソロジー『作家と酒』をどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は一時よくなりかけたのに最近の陽気のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送つて来ました。小生の三年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねをしてゐるちゑ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。


昭和9年(1934)5月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎52歳

昨日ご紹介した書簡と前後してしまいました。

九十九里浜に預けられた智恵子、その当日から「千鳥と遊ぶ智恵子」だったとは驚きです。

『朝日新聞』さん岩手版、8月10日(木)掲載の記事です。

(賢治を語る 没後90年)湯あみや自炊、昔の風情を 大沢温泉・高田貞一社長/岩手県

 花巻市の山あいにある秘湯「大沢温泉」は、北東北の詩人・宮沢賢治が通い詰めた温泉としても有名だ。賢治と温泉の関わりについて、同温泉の高田貞一社長(67)に聞いた。

――大沢温泉の歴史は?
 今から約1200年前、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)軍の毒矢に負傷した際、現在の大沢温泉のお湯につかったところ、ほどなく傷が癒えた、と伝えられています。
――映画化された門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」にも、大沢温泉が出てきます。
 賢治は少年のころ、信仰心のあつい父に連れられて、仏教会の講習会場だった大沢温泉に何度も足を運んでいます。学生時代は悪ふざけをして、湯をくみ上げる水車を止めてしまい、風呂場が大騒ぎになったという逸話も残っています。花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯あみにも来ていたようです。
 また、賢治の死後になりますが、詩人の高村光太郎も1945年、空襲で東京のアトリエを焼失し、賢治の親類を頼って花巻に疎開しています。以後7年間、花巻を愛し、大沢温泉を「本当の温泉の味がする」と言って喜んで頂きました。
――温泉が賢治の作品にも影響したと思いますか?
 それはどうでしょうね。ただ、賢治の作品は岩手の大自然や生活などを題材にしたものが多いです。大沢温泉は山あいにあり、豊かな自然に恵まれています。あるいはそういうこともあったかもしれません。
――賢治の写真は今も、昔ながらの雰囲気が味わえる「湯治屋」に飾られています。
 宮沢家から頂いた集合写真はパンフレットに使わせて頂いたり、館内に飾らせて頂いたりしています。
 約200年前の建物で、賢治ゆかりの自炊部がある「湯治屋」も、賢治の時代から徐々に変わってきています。例えばトイレなどは水洗になり、自炊部で自分で料理して食事を取っている人は全体の1~2割程度。多くの方が館内の食堂でご飯を食べていらっしゃいます。
 かやぶきの屋根を含め、古い建物を維持していくのは大変ですが、賢治が通った場所でもあり、「昔ながらの雰囲気が好きだ」というお客さんもたくさんいるので、今後も維持していきたいと考えています。

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上記集合写真、明治39年(1906)の撮影だそうです。豊沢川にかかる「曲り橋」の上と思われます。手前のガス燈(?)が何ともいい感じです。
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というわけで、賢治や光太郎の息吹が今も確かに感じられる大沢温泉さん、花巻にお泊まりの際にはぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

先程申すのを忘れましたが、ボール紙の菓子折の中にちゑさんのよく喰べるアツプルパイがありますから出して下さい。出さないと二三日で腐ります。今日は乗合が無くてタクシで来ました。


昭和9年5月12日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

千葉九十九里に移り住んでいた母と妹夫婦の元に預けた智恵子を見舞っての帰り、途中の大網停車場から。現代ならスマホで電話をかけるか、LINEを送るか、という内容ですね。「乗合」は乗合馬車かと思われます。

山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」につき、NHKさんのローカルニュースで紹介されました。

米沢出身の美術評論家 今泉篤男氏 論評と美術作品の特別展

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東京国立近代美術館の創設にも携わった米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏の作家の思いなどをくんだ論評と美術作品をあわせて展示する特別展が米沢市で開かれています。
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米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏は、美術作品に込められた作家の思いなどをくんだ評論が昭和20年代に高く評価され、東京国立近代美術館で現在の副館長にあたる次長を初めて務めたほか、京都国立近代美術館の初代館長も務めました。
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米沢市の上杉博物館で開かれている特別展では、美術誌に掲載された今泉氏の論評と作品をセットにしたものなど、およそ50点が展示されています。
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このうち、彫刻家・高村光太郎氏の木彫りの作品「鯰」について、今泉氏は「高村光太郎の作品にはなにか東洋の骨格、東洋の詩精神を感じられる」などと評価しています。
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また、美術作品の評論を活動を軸にしていた今泉氏が青年時代に描いた絵画、「監獄の外郭」も展示されています。
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米沢市上杉博物館の遠藤友紀学芸員は「今泉氏は地元の米沢であまり知名度は高くないが、美術にまつわる非常に大きな仕事をした人物でこれを機会にぜひ身近に感じてほしい」と話していました。
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この特別展は、今月20日まで開かれています。
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光太郎木彫「鯰」(大正15年=1926)、目玉の出品物の一つということで、大きく取り上げて下さいました。ありがたし。

竹橋の東京国立近代美術館さんからの借り受けで、同館でのコレクション展に時折出品されるのですが、常に出ているわけではありませんし、他館に貸し出される例もそうそうないものです。

もうすぐ閉幕ですが、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。
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【折々のことば・光太郎】

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう、あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。そしておいしい新らしい食物。よくたべてよく休んでください。智恵さん、智恵さん。


昭和9年(1934)5月9日
 高村智恵子宛書簡より
光太郎52歳

心の病の療養のため、智恵子は九十九里浜真亀海岸に移り住んでいた智恵子の母・セン、妹・セツ(節子)夫妻の元に預けられました。

その智恵子宛で送られたはがき。現存が確認できている最後の智恵子宛書簡です。もはや文字を読むことも叶わなくなった智恵子のため、「節子さんによんでもらつて下さい」としています。

末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、光太郎の万感の思いが込められているように感じます。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

宮城レポートの2回目です。

8月9日(水)、第32回女川光太郎祭が行われ、その様子は昨日レポートいたしましたが、そちらが始まる前、さらに午前中の光太郎文学碑への献花と午後の式典の間などに、会場周辺をうろうろしました。

見ておこうと思ったのは、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、「100円募金」で建てられた「いのちの石碑」。避難の際の目印となるよう、東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され続け、一昨年、予定の全21基がすべて完成しました。

以前にも拝見したのですが、港の東、山祇神社さん境内に建てられた碑。
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この碑を発案した、震災当時の中学生たちが作った碑ごとに異なる俳句、それから全碑共通の避難マニュアル的な文章などが刻まれています。これも全碑共通の右肩が上がったシルエットは町内の遺跡から発掘された鎌倉時代の板碑をモチーフとし、供養塔の意味合いも込められているとのこと。

1号碑が建てられたのは、平成25年(2013)。
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女川光太郎祭会場のまちなか交流館さんや、光太郎文学碑と隣接する震災遺構・旧女川交番などに設置されたパネルに、その際の様子が記されています。

それから毎年のように少しずつ碑が建てられ続け、最後の一基が建ったのが一昨年。その最後の碑は、新設された女川小中学校内に設置され、まちなか交流館さんからも見えました。
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高台に建てられたそれは、まるで町中心街を見守る守護神のようにも見えました。これからも、その役割を果たし続けてほしいものです。

8月10日(木)、女川町を後に、松島町に向かいました。そのあたりは、明日。

【折々のことば・光太郎】

今ちゑ子は殆ど癡呆状態をつづけてゐます、此は体質に潜んでゐた精神病の素質が出て来たのではないかと心配してゐます、遺伝梅毒の懸念を持つて血液検査をしてもらひましたところ此方は痕跡無しといふ事です、 年齢上の更年期に来る強い神経衰弱かとも思ひますがそれにしては少し度が強過ぎます、

昭和8年(1933)11月6日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

8月から9月にかけ、東北と北関東の温泉廻りをした後、智恵子の心の病状は却って悪化していました。そこで脳梅毒の検査をしてもらったところ陰性だったとのこと。わざわざ陽性だったものを陰性だったと虚偽の記述をしないでしょうから、これは真実でしょう。

しかし、ネット上などではまことしやかに「智恵子は脳梅毒だった、若い頃の光太郎が女遊びにうつつをぬかしていたせいだ」と、エビデンスも明記せず面白おかしく書いている輩が多く、閉口しています。

2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。

女川光太郎祭を昨日無事に終え、千葉に帰る途中で松島瑞巌寺さんに立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲作の木彫観音像を拝観、さらにそれを描かれた作品も含まれる墨画家・一関恵美さんの個展〈千貫之風 sengan no kaze〉を拝見。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜から宮城県牡鹿郡女川町に来ております。
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『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を訪れたのが昭和6年(1931)。それを記念しての「女川光太郎祭」が、今日、4年ぶりに通常開催されます。
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詳しくは帰りましてから。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのレストランです。

7月27日(木)が3回目の出店だったそうで、画像等送って下さいました。メニュー的には、かつて光太郎が実際に使った食材や作った料理などの記録から、現代風にアレンジを施してのメニューとなっています。
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令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた、兵庫県ご在住の料理研究家・中野由貴さんが、当ブログをご覧になって足をお運びになり、フェイスブックでご紹介下さっています。インフルエンサー的な方のレポートは実に有り難いところです。

明後日、8月3日(木)にも「こうたろうカフェ」出店があるとのこと。次回メニューは「
サーモンのガレットロール・ローストビーフ・トマトと卵の炒め物・里芋のクルミかけ・お新香・ご飯・おくらのスープ・ベイクドチーズケーキ・コーヒー」だそうです。

紹介すべき事項がたまっていますので、もう1件、花巻関係で。

花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』につき、NHKのさんローカルニュースで取り上げられました。先月の放映でしたので、「来月」というのは今月のことです。

高村光太郎が疎開していた花巻で描いた植物などのスケッチ展

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦時中に疎開していた花巻市で描いた身近な植物などのスケッチの展示会が開かれています。
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高村光太郎は、昭和20年、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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「山のスケッチ」と題された今回のテーマ展には、疎開中に光太郎が描いた身近な草花のスケッチなど7点が展示されています。
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このうち光太郎が湯治先の西鉛温泉で描いたスケッチは山菜の「ミズ」を描いたものです。
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昭和20年6月20日という日付けとともに「丈1尺5寸」などと観察した内容がつづられています。
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また白い6枚の花弁が優しいタッチで描かれた「チゴユリ」というスケッチや、光太郎が過ごした花巻の山口地区のかやぶき屋根の集落を描いた作品もあります。
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鹿児島県の奄美大島から観光で訪れたという男性は「光太郎さんの『道程』や『智恵子抄』の詩はよく知っていますが、スケッチは初めて見ました。小さな命を愛しながら過ごしていたのがわかりました」と話していました。
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高村光太郎のスケッチの展示は花巻市の高村光太郎記念館で来月31日まで開かれています。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう略 肉どりは出来ました故仕上げる前に一度見て下さい、今週中は午前午后宅に居ります、

昭和8年6月19日 岩波茂雄宛書簡より 光太郎51歳

岩波書店の社章として依頼を受けたメダル制作に関わります。
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モチーフはミレーの「種まく人」。

以前にも書きましたが、これはボツとなりました。新たにエッチングで描かれた社章は、作者が不明です。

紹介すべき事項が多すぎて、もう始まってしまっていますが、智恵子の故郷・福島二本松からのイベント情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/29(土)開幕! インスタ映えメニューが多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。
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 今年で12年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにしたイルミネーションが光り輝くあだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、ゲレンデに広がる光の天の川に、昨年好評だった「夏の大三角形」「カシオペア座」などに加え、「てんびん座」「さそり座」「いて座」といった夏の星座が新たに加わりスケールアップした星座のイルミネーションです。そのほか、「ADATARA LOVE」をテーマにした「ハートのオブジェ」や「光のひまわり回廊」など、夜の安達太良山を美しく彩ります。

また、期間中の特定日には、安達太良山の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型イベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、世界でここだけの幻想的な光景が広がります。

 さらに、食堂「富士急レストハウス」では夏ならではのメニューが多数登場いたします。昼には、暑い日にぴったりのピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感のあだたらスノーアイス」など、ひんやり冷たいメニューが充実。また、おやつにおすすめなのが「岳」の文字型をした「岳チュロス」。その新シリーズとして、今夏「空チュロス」が登場いたします。夜には、暗闇に光るかき氷や光るドリンクなど、イルミネーションを鑑賞しながらスイーツを味わえます。

 この夏は、標高1,700mと夏でも涼しく、日本百名山の一つに数えられる安達太良山の絶景と幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

「あだたらイルミネーション」概要
 ・開催期間 2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)  
  ※8月28日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
 ・営業時間 19:00~21:00  
  ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
 ・料金  入場料:中学生以上700円、小学生以下500円
  入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,500円、小学生以下1,000円
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■LEDスカイランタン【ほんとの空に願いをこめて】
 今年で3年目を迎える「LEDスカイランタンフェスティバル」がこの夏も皆様の期待にお応えし開催いたします。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが夜空に浮かび、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

・開催日 8月12日(土)、15日(火)、19日(土)、26日(土)、9月2日(土)、
     9日(土)、16日(土)、17日(日)
・時間 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金 4,000円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法 各開催日前日までの予約申込み ※各日先着80名様限定
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■夏の爽やかメニューが多数登場!
 富士急レストハウスでは、暑い夏にぴったりのメニューを多数販売いたします。ピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」、「あだたらかき氷ソフト」、「あだたらソーダ」もご賞味いただけます。
 さらに、今春に販売開始した人気の文字型チュロス「岳チュロス」に、新たに「空チュロス」も仲間入り。青空や緑の木々をバックに撮影すれば、インスタ映えすること間違いなしです!
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■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

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個人的には「空チュロス」が非常に気になります(笑)。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は追々よろしくなりましたが此頃お目にかかりたいやうに申して居ります。まだ頭が疲れて居る様子で外出が出来ませんので母上に勝手ながら一二泊のおつもりでおいで願へれば幸に存じます、


昭和8年(1933)5月11日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

前年の睡眠薬アダリン大量摂取による自殺未遂から身体的には恢復し、心の病の方も小康状態でした。智恵子の実家、二本松の長沼酒造は既に破産、一家はちりぢりになっており、母のセンはこの頃、世田谷に逼塞していました。「ほんとの空」を見ることが叶わなくなったのが、心の病の大きな要因の一つだったと思われます。

毎月15日に、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分がこちら。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像を送りいただきました。
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メニューは「さやえんどう入り炒飯」「味噌焼おにぎり」「マグロ焼き魚」「じゃが玉ねぎ煮込み」「さやいんげんの油炒め」「トウモロコシ焼」「キュウリの酢の物」「こかぶ漬け」「塩麹入り卵焼き」「番茶寒天」だそうです。かつて光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で作っていた野菜類がふんだんに盛り込まれています。

メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさん、今月27日、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店の予定。
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そちらのメニュー、「白身魚のムニエル~バジルソース~」「ズッキーニのソテー」など。光太郎が好きだったバター、あんこなどをたっぷり使うそうで。茄子やキュウリなど夏野菜は、光太郎が暮らしていた花巻太田産を使われるとのことです。

花巻ついでにもう1件。今月15日発行の『広報はなまき』。
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市内の博物館・記念館等の文化施設などで所蔵している逸品を紹介する「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」というコーナーがあり、花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』で展示されている光太郎のスケッチが紹介されています。ただし、こちらは複製だったような気がするのですが……。

27日、「ワンデイシェフの大食堂」さんの「こうたろうカフェ」、それからテーマ展『山のスケッチ』、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏にはまつたく年々愛想がつきます。とてもやりきれません。此は私の個人的生理に基づく事です。それでますます北緯五十度の方へ牽かれます。 北海道で自分の生活と仕事とを大成したい念願が強まるばかりです。山へヒツコムのでは無くて前進するのです。人生への一つの道を開墾するのです。そこを根拠にして一つの生活と空気とを創りたい気がします。


昭和3年(1928)9月25日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

夏の暑さに弱かった光太郎、明治末にほとんど無計画で北海道移住を企てましたがすごすごと1ヶ月程で退散したにも拘わらず、またぞろこの時期に北への憧れを募らせていました。

結局、この時期にもそれは果たせず、意外な形で実現するのは、戦後の花巻郊外旧太田村移住においてでした。

実施期日的にはまだ先ですが、〆切りが間近でして……。

高村光太郎記念館夏休みワークショップ「紙絵をつくろう!」

期 日 : 2023年8月1日(火)~8月3日(木)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 10:00~12:00
料 金 : 500円程度(材料費)

高村光太郎の妻・智恵子は、数々の紙絵作品を世に残しました。智恵子の紙絵をお手本に自由なテーマで紙絵をつくってみましょう。3日間で一つの作品を制作するワークショップとなります。

対 象 : 花巻市内の小学生
締 切 : 7月18日(火曜)

定員をこえる場合は抽選となります。定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。次のいずれかの方法でお申し込みください。
 ・花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
 ・専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。
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智恵子の故郷、福島県二本松市では毎年「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施しており、今年で28回目。作品募集の対象が「福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童」ということで、このワークショップで作った作品をそちらに応募、ということも考えているそうです。
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なるほど。

こういう活動も通じて、自治体さん間の交流がさらに活発となれば、という気もします。ゆくゆくは光太郎智恵子がらみの自治体さんなどから担当者の方などに集まっていただいて、「光太郎智恵子サミット」的なものもあるといいか思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

私も習つてゐます。そのうち「東方」へも「エスペラント」で文章を書く気でゐます。

昭和3年(1928)7月2日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

エスペラントは19世紀末に考案された人工の言語。世界共通語として普及させようという動きがたびたびありました。日本でも知識階級を中心にエスペラントを学ぶ機運が高まり、宮沢賢治などもその一人。「イーハトーヴ」などの造語はエスペラントを意識して作られたとする説があります。光太郎のエスペラントによる作品の発表は幻と終わりましたが……。

下の画像は「樹下の二人」(大正12年=1923)のエスペラント語訳。
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平成25年(2013)、日本エスペラント協会さんが刊行した『Japana Literatura Juvero』に掲載されています。近現代詩50篇ほどの訳を集めた書籍です。

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まずは7月8日(土)に行われた、川内村さんの第58回天山祭りについて。

『福島民報』さん。当方の名も出して下さいました。

福島県いわき市出身の詩人草野心平さんしのび献花や朗読 川内村で天山祭り 児童生徒が自作の詩披露

 福島県いわき市出身で、川内村名誉村民の詩人草野心平さんをしのぶ第58回天山祭りは8日、村内の村民体育センターで開かれ、村民やファン、現代詩誌「歴程」の同人らが心平さんに思いをはせた。
 実行員会の主催。村、村観光協会などの共催。福島民報社などの後援。村内外から100人以上が参加した。井出茂実行委員長、遠藤雄幸村長があいさつした後、歴程同人の斎藤貢さんと渡辺一夫村議会議長が祝辞を述べた。
 献花に続き、心平さん自身が朗読する「富士山 作品第肆」と「青イ花」のCDが流れた。川内小中学園6、7年生が歴程同人から指導を受けてつくった詩を披露した。歴程同人による朗読では、参加者が心平さんの詩の世界に浸った。
 心平さんの生誕120周年を記念し、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して講演した。アトラクションでは、村に伝わる西郷獅子や紙芝居が披露された。
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同じ件で『福島民友』さん。

草野心平しのび詩朗読 生誕120周年、川内で天山祭り

 福島県川内村の名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平(いわき市出身)を顕彰する「天山祭り」が8日、同村で開かれた。今年は心平の生誕120周年に当たることから、関係者が詩の朗読などを通じて心平をしのんだ。
 雨模様だったため、会場を心平の蔵書を収めた「天山文庫」から、村民体育センターに移して開催した。会場には村民に加え、心平らが創刊した同人詩誌「歴程」の同人が集まり、実行委員会の井出茂委員長らが心平の写真に献花した。
 祭りでは、川内小中学園6、7年生による連詩「川内村の未来を創る」が朗読された。「か」から「る」までの文字を最初の一文字に、児童生徒14人が作詩したもので、川内での生活をみずみずしい言葉で詠み上げた。
 このほか、伝統芸能の西郷獅子や紙芝居なども披露された。
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続いて、『福島民報』さんの連載「福島県 今日は何の日」。

7月9日 1991年(平成3年)7月9日 智恵子の生家修復 仮オープン

001 二本松市の高村智恵子の生家が修復され仮オープンした。
 旧国道4号沿いにある智恵子の生家は造り酒屋で、1883(明治16)年に建てられた。木造2階建て延べ300平方㍍。智恵子は1886年に生まれ、女学校に進むまでこの家で生活した。
 しかし、智恵子の生家の長沼家は大正末期に没落し建物は人手に渡っていた。前年、ふるさと事業の一環として建物の永久保存を決定。建物を買い取るなどし修復していた。
 外観は全面的に化粧直しされ、醸造していた清酒「花霞」の大看板を設け、新酒のできたことを知らせる直径70㌢の杉の玉「酒林」も軒下に下げた。

ただし、民報さん、ネットに出た記事の見出しで1年間違えています。「1991年」は合っているのですが、カッコして「平成2年」。1991年は正しくは平成3年です。
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カッコの位置も変ですし、担当された記者? の方、かなりテンパッていたようですね(笑)。

調べてみましたところ、翌月の8月14日、当方、初めて智恵子生家を訪れていました。
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翌年4月には生家裏手に智恵子記念館がオープン。

まだ二本松市と合併する前の旧安達町の時代で、一連の事業には当時の竹下内閣の「ふるさと創成事業」で全国各市町村に配られた1億円が使われました。平成7年(1995)には、旧建設省が主催し、その1億円の使い方がナイスだったという自治体などに贈られた「手づくり郷土(ふるさと)賞」が安達町に授与されてもいます。
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バブル景気真っ盛りとはいえ、1億円をドブに捨てるような(死語ですかね(笑))使い方をした自治体も少なくない中、旧安達町の英断には頭が下がりました。それまで長沼家に関しては、初代の次助が流れ者だったこと、智恵子を含めた一家の悲惨な末路等もあり、この地域ではタブー扱いされていた面がありましたし……。

川内村さんの心平顕彰を含め、今後とも、継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

用事でちゑ子の帰京が二十日頃迠のびたため友の会の小旅行が月末まで出来なくなりました。 残念ながら此事ご報告まで。


昭和3年(1928)6月7日 今井武夫宛書簡より 光太郎46歳
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智恵子実家の長沼酒造は智恵子の弟・啓助があとを嗣いでいましたが、経営がどんどん傾き、この年にはどうしようもない状態になっていました。「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」が書かれたのが5月11日ですが、長沼酒造は不動産登記簿によれば、前日の5月10日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。

友の会」は「ロマンロラン友の会」。「東方」の文字は、この年刊行された「友の会」メンバーによる雑誌『東方』の題字と同一の木版です。「あどけない話」も『東方』に掲載されました。

本日開幕です。

一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉

期 日 : 2023年7月13日(木)~10月1日(日)
会 場 : 瑞巌寺宝物館 宮城県宮城郡松島町松島字町内九十一番地
時 間 : 8:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 大人700円 小中学生400円

墨画は水と墨と紙から生まれる無限の濃淡と、滲みと調和から表現される作品です。この度瑞巌寺宝物館では、仙台在住で墨画家として活動されている一関恵美氏の墨画展を開催いたします。皆さまの心に恵風が吹き渡りますように。関連企画として墨色七夕の展示・制作実演・墨画体験ワークショップなどもございます。(瑞巌寺さんサイトより)

伊達政宗公の菩提寺 国宝 瑞巌寺にて 松島湾から青龍山をつなぐ杉の参道 禅寺の静寂 神秘的な風吹く松島の地 墨画の世界 心をこめて墨を磨り 濃淡やあわいにじみで表現した墨画を展示致します。 瑞巌寺の夏から秋にかけて 季節のうつろい 木々や花々の変化も愛でながら 「千貫乃風」ご高覧頂きたくご案内申し上げます。(一関さんサイトより)
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墨画家の一関恵美さん。光太郎作品の朗読にも取り組んで下さった朗読家の荒井真澄さん、光太郎がらみのコンサートを開かれたピアニスト・斎藤卓子さんとともに「シューマンと智恵子抄」(平成24年=2012)、「楽園の月」(平成25年=2013)等に作品を寄せられた方です。日比谷松本楼さんでの第57回連翹忌の集いでは、斎藤さんのピアノにのせてアクションペインティングをご披露下さいました。

昨夜、荒井さんから画像が届きまして、それがこちら。今日現在、こちらのフライヤーの画像がネット上に見つけられませんで、そのまま載せます。
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左上が一関さんが描かれた聖観音像。光太郎の父・光雲作の大きな像で、瑞巌寺さんの庫裡に納められているものです。こちらの絵も展示されるということでしょう。ありがたし。

10月1日(日)までと、会期が長いのもありがたいところです。今年は4年ぶりに女川光太郎祭が元の規模で開催されますので、その帰りに立ち寄ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君の葉書にある通り晴朗こそ欲しい。しかし其は言葉で書かれた晴朗では役に立たない。晴朗が言葉にあらはれたのでなければ意味を持たず、又人を決して打たない。内なる世界が晴朗である時のみ晴朗なものが生きてあらはれる。僕も晴朗を自分に望んでゐるが、まだ中々晴朗なものは及びもつかない。ウソの晴朗を書いて死んだものを作るよりは、むしろ自己のなりのままをさらけ出して人に訴へるものを書く気でゐる。さうして心を鍛へてゆけばおのづから晴朗な内奥の自己に到達すると信じてゐる。


昭和3年(1928)2月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

ポジティブですね。しかし、そのポジティブさが脳天気なそれではないところが、光太郎の光太郎たる所以の一つです。

7月7日(金)、都内で「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」をハシゴして拝聴、拝見後、最終の高速バスで千葉の自宅兼事務所へ(都心から2時間近くかかる田舎です)。

入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。

この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
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遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
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本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
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当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
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ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。

開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
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そして開会。
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実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
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献花。
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小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
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かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
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氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。

ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
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今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
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レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。

その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
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やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
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うるっと来てしまいました。

閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
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コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
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さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
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古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
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店内には心平の書も。
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さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
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さらにアガりました(笑)。

先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あの詩集の原稿はまだドラ社に廻つてゐません。 紛雑なノオトの中から集めるので、時間の少いため遅れてゐるのです。原稿さへまとまれば、印刷はぢき出来るさうです。 既に御払込の由、御気の毒に思ひますが、決して無責任な事はしません。此事一寸、

昭和2年(1927)10月31日 堀久松宛書簡より 光太郎45歳

07fe8679あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。

心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。

ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。

光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。

ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。
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昨日は都内に出て、「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」及び「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」と、ハシゴして参りました。レポートしたいところですが、本日は福島県川内村にて「第58回天山祭り」があり、もう出かけねばなりません。

それぞれのレポートは明日以降ゆっくり書くこととし、本日はサクッと書けるところで地方紙記事系のネタを2本。

まずは『岩手日報』さん。花巻高村光太郎記念館さんでのテーマ展『山のスケッチ』について報じて下さいました。

高村光太郎が見た自然美体感 花巻・記念館でテーマ展

 花巻市太田の高村光太郎記念館でテーマ展「山のスケッチ」が開かれている。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が花巻疎開の際に目にした花や山菜のスケッチ複製のほか、詩の直筆原稿も初公開。展示品を通して、光太郎が目にした自然の美しさを感じることができる。
 直筆原稿と水彩画、スケッチの精密複製など計11点と写真パネルを展示。スケッチは、散文「山の春」に登場する草花が中心で、ショウジョウバカマなど柔らかなタッチの作品だ。ゼンマイは繊細な筆遣いで、創作活動に生かすための精緻さが見て取れる。
 8月31日まで。午前8時半から午後4時半。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは0198・28・3012へ。
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もう1件、『福島民報』さんから。

論説 【トクヨと智恵子】顕彰・交流の広がりを

  「日本女子体育の母」と呼ばれる二階堂トクヨは若いころに本県で学び、教え、二本松市出身の洋画家高村智恵子の少女時代に師弟の絆を結んだ。トクヨが創立した日本女子体育大学は今年10月、100周年の記念式典を催す。出身地の宮城県大崎市では顕彰する取り組みが進んでいる。改めて2人の歩みに光を当て、交流拡大につなげたい。
 トクヨは1880(明治13)年に生まれ、福島民報社初代社長の小笠原貞信の養女となって本県尋常師範学校(現福島大)で勉学に励んだ。卒業後、油井小の教員を務め、在籍していた6歳下の智恵子と親交を深めた。後年、トクヨが英国留学に旅立つ際、智恵子は夫となる高村光太郎と港で見送り、留学中の恩師に着物を送ったという。
 英国で女性の健康と体育の重要性を深く学び、日本の女子体育の道を切り開いていく。1922(大正11)年、東京に二階堂体操塾を創設し、女性の体育指導者の育成に努める。門下から陸上女子800メートルで日本女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝が羽ばたいた。塾は専門学校、短大を経て日本女子体育大学となり、著名な選手と多くの指導者を輩出している。
 故郷の大崎市三本木地区で2016(平成28)年、有志らが「日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会」を発足させた。収集資料や研究成果を会報などで紹介し、生家のあった場所に案内板を設置した。地元の小学校で「二階堂トクヨ杯」のなわとび大会を開くなどして、功績を伝えている。
 本県でも智恵子との絆を入り口に、時代の先駆者となった生き方や思いを広く知ってほしい。二本松市智恵子記念館には智恵子が福島高等女学校(現橘高)時代に書いた手紙が展示されている。達筆の文面に「小笠原先生」としてトクヨが登場する。若き智恵子のユーモアと親しみがにじみ、ほほえましい。
 二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」をはじめ、郷土の偉人に熱い思いを寄せる人々がそれぞれの地元にいる。今年は高村光太郎の生誕140年にも当たり、関連する企画が各地で催されている。トクヨと智恵子への関心が高まり、ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい。

旧安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校で智恵子の恩師だった、二階堂トクヨの顕彰活動が起こっているそうで。

トクヨと智恵子についてはこちら。
福島民報あぶくま抄「女子体育の母」。
大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」第二章。

ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい」。まさにそのとおりですね。

【折々のことば・光太郎】

いつぞやわざわざあなたが来て下さつて御話をきいてゐるうちに自然とその気になつて御承諾いたし、承諾した以上はどうしてもやらうと存じ、あれから一度「大調和」主催の講演会といふものに試みに出てみましたが、十分間位話すのがやつとの事にて、それも意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬し、結局小生はとても講演は出来ない人間と思ひきめてしまひました。幸ひ今の処演説する必要の無い仕事を職業としてゐるわけで、此点大いに安心してゐる次第なのです。


昭和2年(1927)6月9日 石井鶴三宛書簡より 光太郎45歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と親しかった画家の石井柏亭の実弟です。この頃、自由学園さんで美術教師を務めていました。そこで、同校で光太郎に講演をしてくれるよう依頼、光太郎も一旦は引き受けたものの、結局、断っています。

当方も、あちこちで講演や市民講座講師等をする機会が多く(今日もこれから川内村で講演ですが)、いつも「意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬」しているな、と感じています。人前でしゃべるのに抵抗はありませんが、自信もない、という感じです。光太郎もそうだったのではないかと思われます。

ただ、それが戦時中になると一転、かなり積極的に講演に取り組むようになっていきます。

明日開幕の企画展等、2件。いずれも東北地方での開催です。

今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯

期 日 : 2023年7月8日(土)~8月20日(日)
会 場 : 米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日 (月曜日が休日の場合はその直後の平日)
料 金 : 一般490(390)円 高大生340(270)円 小中生240(190)円
      ※( )内は20名以上の団体

今泉篤男(いまいずみあつお 1902~1984 米沢市出身)は、戦前から評論活動をスタートし、国内外の美術工芸に関する幅広い分野を対象とした美術評論家です。一方で、東京国立近代美術館初代次長、京都国立近代美術館初代館長を勤めた美術館人でもありました。国立美術館の仕事のほか、資生堂ギャラリーをはじめとする多くの美術館運営に関わり、評論家としては1950年代に日本の「近代絵画」をめぐる問題提起が「今泉旋風」を巻き起こすなど、今日でも美術界全体に今泉の足跡をみることが出来ます。本展では、今泉篤男の遺した多彩な仕事を、ゆかりの作家の作品と今泉の言葉を通して紹介します。

展示構成
第一章 生い立ち 米沢・山形での学生時代 第二章 東京帝国大学~留学 初期の評論活動
第三章 美術批評家 今泉篤男の誕生    第四章 美術館人として 美術評論家として
第五章 工芸への情熱           第六章 ゆかりの作家たちと郷里へのまなざしと

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今泉は光太郎とも親しく、光太郎は戦時中の昭和19年(1944)には雑誌『美術』に載った「回想録」を今泉に口述したりしています(掲載は翌年)。

そこで、光太郎の木彫「鯰」のうち、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの(大正15年=1926)が出張。
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他に濱田庄司、椿貞雄、梅原龍三郎、安井曾太郎、平櫛田中、バーナード・リーチら、光太郎と関わりのあった面々の作も。さらにルノワールや加守田章二(高村光太郎受賞者)なども。

もう1件。同日開幕で、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~

期 日 : 前期 2023年7月8日(土)~8月2日(水)
      後期 2023年8月5日(土)~9月3日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 8月3日(木)、8月4日(金)
料 金 : 一般 ¥1200 (1000) 高・大学生 ¥1000(800)  中学生以下無料
      ※( )内は前売り、20名以上の団体

本展では、伊藤若冲や琳派を中心とした江戸時代の絵画や近代絵画の名品など、皇室ゆかりの名宝をご覧いただくとともに、秋田県出身の平福百穗が結成した「金鈴社」のメンバーの作品など、秋田県ゆかりの絵画や美術工芸品(明治時代の七宝や彫刻、金工品)を展示します。あわせて、明治天皇や秩父宮雍仁親王による秋田県訪問の様子を納めた写真をパネル展示し、皇室と秋田県のつながりをご覧いただきます。
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皇居内の三の丸尚蔵館さんが改修中のため、出開帳的な。これまでも各地で行われてきていますし、今年はこの後も、光雲作品が出るそれが岡山と石川でも予定されています。

秋田で出品される光雲木彫は「文使」(明治33年=1900)。ただし前期(7/8~8/2)のみです。

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当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し逓信省から献上されたもので、台座部分には螺鈿と蒔絵の装飾も施されているなど、入魂の作です。

光太郎、光雲共に木彫作品を直に見られる機会はそう多くありません。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻界の対人関係などにあまり頭を使はない方がいいかと思ひます。さういふ事は皆一場の喜劇に過ぎません。


昭和2年(1927)5月6日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

山本の父・瑞雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。稚彦自身も彫刻家となりました。光太郎同様、二代目的な部分でいろいろあったのでしょうか。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第58回天山祭り

期 日 : 2023年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時40分
料 金 : 500円

故草野心平先生の遺徳をしのび、7月の第2土曜日に毎年開催されています。詩の朗読や伝統芸能の披露など文化的なお祭りとなってます。これを機に、川内村の伝統にふれてみてはいかがでしょう。

今年は草野心平生誕120周年ということもあり、村の子どもたちによる発表なども予定されておりますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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まぁ、ほんのおまけのような扱いなのでしょう、要項等に記述がありませんが、当方の講演も予定されています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。
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以前にも似たような話をあちこちでさせていただいておりますので、その焼き直しのような……。

同祭、何度か参加させていただきました。最後はコロナ禍前の第54回(令和元年=2019)。コロナ禍中の第55回(令和2年=2020)は例によって中止となり、一昨年の第56回は福島県内在住者に限っての参加で実施、昨年の第57回から再び広く参加を呼びかけるようになりました。ただ、今年もそうですが、以前のように名物のイワナ付きお弁当が饗されるところまでは旧に復していないようです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は四十年来といふ寒さで、此間零下八度六分。彫刻の粘土を凍らせないやうにするので厄介です。ロンドンは割に暖かなのでせう。霧はどうですか。

昭和2年(1927)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎45歳

中野秀人は編集者・詩人。この頃ロンドンに居ました。

零下八度六分」は間違いでも誇張でもなく、この年1月24日に東京地方で記録され、気象台開設以来の寒波として記録に残っています。

これで思い出されるのが、『智恵子抄』所収の詩「金」。前年の大正15年(1926)に書かれたものです。
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 工場の泥を凍らせてはいけない。
 智恵子よ、
 夕方の台所が如何に淋しからうとも、
 石炭は焚かうね。
 寝部屋の毛布が薄ければ、
 上に坐蒲団をのせようとも、
 夜明けの寒さに、
 工場の泥を凍らせてはいけない。
 私は冬の寝ずの番、
 水銀柱の斥候(ものみ)を放つて、
 あの北風に逆襲しよう。
 少しばかり正月が淋しからうとも、
 智恵子よ、
 石炭は焚かうね。

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」。アトリエのことです。「泥」は彫刻用の粘土ですね。

こういうところが、『智恵子抄』が「智恵子不在」とか「モラハラ野郎」とか云われる所以なのでしょうが……。

岩手より帰って参りました。レポートいたします。

6月30日(金)、盛岡駅で花巻市役所の方々などの乗られる車に拾っていただき、盛岡スコーレ高等学校さんへ。
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同校は、光太郎と親しかった羽仁吉一・もと子夫妻が戦前に創立した都下東久留米市の自由学園さんの流れを汲み、その関係もあって光太郎との交流が生まれました。

同校サイトに載った沿革史から。
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創立者・吉田幾世は、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で光太郎が数多くの寄稿をし、智恵子も取材を受けた雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行い、その流れの中で昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」を開校させました(そこから数えて今年で創立90周年だそうで)。戦後に各種学校の認可を受け、さらに新制高校へと変わって行きます。
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そうした中で、羽仁夫妻の指示もあったのだと思いますが、吉田が花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪ね、交流が始まりました。光太郎は同校の「生活即教育」という理念のもと、いろいろと物づくりに取り組む姿勢に共鳴し、ホームスパン制作などを推奨し、それが現在も続いています。
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光太郎、盛岡を訪れた際には同校にも足を運び、同校からも遠足を兼ねて当時の生徒さんたちが光太郎の山小屋を慰問に訪れるなどしました。

戦後の光太郎、日本の将来を創っていく若い世代にかける期待は大きかったようで、山小屋近くの山口小学校や太田中学校、盛岡では県立美術工芸学校(現・岩手大学さん)、少年刑務所さん、そしてスコーレさん(当時は盛岡生活学校)などに積極的に関わりました。

さて、今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、吉田と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、当方にも協力要請があって、お借りするものの下見などを含め、お邪魔した次第です。

同校や関係者に贈られた光太郎直筆の書。
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光太郎の山小屋を生徒さんたちが訪問した際の写真パネル。
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現代の生徒さんたちが文化祭の展示として作った光太郎との交流史。
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羽仁夫妻、自由学園さん、『婦人之友』などにも触れつつ、これから展示構成を花巻市さんと詰めていこうと存じます。

その後、例によって花巻南温泉峡、大沢温泉さん自炊部に宿泊。
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翌7月1日(土)、旧太田村へ。

光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)。
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こちらの套屋の内部に、やはりスコーレさんで撮影された写真も。
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光太郎が着ているのはホームスパンの猟人服ですね。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』を拝見。
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パネル等の壁面展示のみでした。
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光太郎散文「山の春」(昭和26年=1951 ちなみにこれも『婦人之友』に寄稿されました)を元に、当時の写真、光太郎画集『山のスケツチ』(没後の昭和41年=1966、中央公論美術出版)から精密複製、そして描かれている植物を最近撮った写真。

以前にも書きましたが、牧野富太郎をモデルとしたNHKさんの「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。

関連資料として詩「山菜ミヅ」原稿(昭和22年=1947)、一点だけ実物の光太郎スケッチ(太田村風景)、「花は何とて」詩稿。
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このうち、「花は何とて」は、戦時中の昭和20年(1945)、花巻町の宮沢家に疎開していた折の作と推定されます。この頃構想していた翼賛詩ではない詩集『花と実』の序詩として書かれました。結局、詩集は未完に終わり、この詩も生前に発表されることはありませんでした。

展示されているのは、花巻病院長だった佐藤隆房に贈ったもの。光太郎が手元に残した手控えの詩稿と、若干の表記の相違が認められます。
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こちらのテーマ展示は8月31日(木)まで。是非足をお運び下さい。

さらに、4月から5月にかけて開催された企画展「山口山の木工展」で展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品の一部が、ロビーに展示されています。宮沢賢治や光太郎の世界観があたたかく表現されていて、ほっこり。
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併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

友の会の例会を左の通り催したいと存じます故どうぞ、 ○今月十五日午後二時より ○拙宅にて ○会費三十銭

昭和2年(1927)1月8日 今井武夫宛書簡より 光太郎45歳

「友の会」は「ロマンロラン友の会」。片山敏彦、高田博厚、尾崎喜八なども会員でした。
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昨日から岩手県に来ております。

昨日は戦後の昭和二十年代に光太郎が訪れたり、当時の生徒さんたちが花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪問したりという交流があった、盛岡スコーレ高等学校さんにお邪魔致しました。
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今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、同校創設者の吉田幾世と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、協力要請があったため、花巻市役所の方々などとともに、ご挨拶的な。

お借りする予定の品などを拝見。
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その後、公用車で送っていただき、花巻南温泉峡、大沢温泉さんに宿泊。
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今日はこれから花巻高村光太郎記念館さんに伺い、開催中のテーマ展『山のスケッチ』拝観の予定です。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

テレビ放映情報です。

出川哲朗の充電させてもらえませんか?【村上佳菜子&ケンコバ<奥州街道>SP】

地上波テレビ東京 2023年7月1日(土) 18:30〜20:54
【見逃し配信】https://video.tv-tokyo.co.jp/degawacharging/

■行くぞ<奥州街道>116キロ■福島<東北のお伊勢さま>からゴールは宮城の名湯<遠刈田温泉>ですが■村上佳菜子が超天然でケンコバはドシャ降り!ヤバいよ×2SP■

 福島・郡山市「みちのくのお伊勢さま」開成山大神宮をスタートして宮城・蔵王町の遠刈田温泉を目指す充電旅。開成山大神宮にお参りした出川と熊谷Dは電動バイクで旅をスタート。奥州街道を北上していると、ゲストの村上佳菜子と合流する。ショーが近いので髪の毛をオレンジ色にしたという村上に、出川は「ファンキーな方なんで」と驚く。初バイクの村上と出発すると、本宮駅付近でソースかつ丼のお店が有名と知り、行ってみる。
 出川はあいもり丼、村上はカツ丼を頼むも、熊谷Dのソースカツ丼が気になってカツ交換。熊谷Dの丼がちょっとだけ残念な感じに…。この先に伝説の鬼婆がいた場所があると聞いて向かっていると老舗和菓子店を発見、冷凍生どら焼きを購入する。その後、高村智恵子の生家を発見するも、出川は鬼婆伝説と混ざって混乱してしまう。その後、鬼婆伝説の寺に到着した3人は、鬼婆の恐ろしさを知ることになる。
 再び出発すると熊谷Dと出川のバッテリーが切れ、村上がひとりで充電場所探しへ。充電させていただいたお宅と鬼婆伝説の寺に繋がりがあるとわかり、ご縁を感じる。充電後、現れない熊谷Dを心配しながら出川と村上は福島市の中心部へ。すると村上は急に自分の姿を恥ずかしがる。熊谷Dと合流し、名物の円盤餃子が食べられるお店で「妖怪サラダおばけ」とよばれる村上と円盤餃子やねぎそばなど福島名物を満喫。
 今晩の宿探しへ向かおうとするも、外はまさかの雨。温泉街へ向かおうとしていた3人は急遽作戦会議をする。翌朝、宿で村上と別れ、出発した出川と熊谷Dはどしゃ降りの中に佇むゲストのケンドーコバヤシと合流。飯坂温泉の公衆浴場で撮影交渉するも入れず、紹介してもらった日帰り入浴のある旅館で湯船がおかめの温泉に入浴。すると、出川が体の一部を吸われてしまう。湯あがり後は、カフェでラヂウム玉子のパスタをいただく。
 宮城・白石市でケンコバのバッテリーが切れ、出川と熊谷Dは充電場所探しへ。民家で充電させていただき、白石うーめんのお店へ向かうもまさかの閉店後。しかし、お店の方のご厚意に3人は感激する。その後も強まる雨の中、発見した温泉で体を温め、男性の背中を流す。英気を養った3人は、ゴールの遠刈田温泉を目指すのだが、強雨の中、出川が「人の声が聞こえる」と言い、ケンコバを怯えさせる。はたしてゴールできるのか!?

【出演】 出川哲朗、熊谷D 【ゲストライダー】 村上佳菜子、ケンドーコバヤシ
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福島・郡山から宮城・遠刈田温泉への電動バイク旅。智恵子の故郷・二本松では、智恵子生家に立ち寄られるそうです。
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出川さんと村上佳菜子さん、智恵子実家の長沼酒店のはっぴ姿の画像が公開されています。

また、鬼婆伝説の観世寺さんでのやりとりが予告編としてYouTubeに。


出川さんを上回る村上さんの天然ぶりが何とも云えません(笑)。

試聴可能な方、是非ご覧下さい。地上波テレ東さん系、放映されていない地域の方、ネットでの見逃し配信もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

二ケ月ばかり手許を離れて東京 大阪等の奉讃展覧会に出品せられをり候拙作彫刻、やうやうく昨日無事返還いたされ候。 貴下におゆづり申上候「なまづ」も何等損傷無く、僅かに着色に少しばかりの変化ありたるのみに候。 ついては二三日手許に置きて調色いたしたる上、尚外箱を造りて 直接貴下宛発送いたす可く候間 此段御承知置被下度候。


大正15年(1926)7月31日 小沢佐助宛書簡より 光太郎44歳

奉讃展覧会」は、「第一回聖徳太子奉賛美術展」。文展などの官設の展覧会には出品しようとしなかった光太郎が、ブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)、木彫「鯰」(大正15年=1926)を出品し、「高村が展覧会に彫刻を出した!」と周囲を驚かせました。

同展が無審査の展覧会だったためで、それならば出品もやぶさかでない、という考えでした。この後も昭和2年(1927)と翌年に開催された、やはり無審査の「大調和展」にも作品を出しています。

ちなみにこの時出品された「鯰」は現在、竹橋の国立近代美術館さんの所蔵です。
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昭和53年(1978)から続く行事ですが、基本、クローズドなので報道されることがあまり多くありません。ただ、今年は地方テレビ局ローカルニュースで取り上げられました。

岩手めんこいテレビさん。

盛岡少年刑務所で「高村光太郎祭」 “心はいつでもあたらしく”

 彫刻家で詩人の高村光太郎は岩手県花巻市で暮らしていた73年前、講演のため盛岡少年刑務所を訪れていました。
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 6月23日、教えを引き継ぐ伝統の行事が行われました。
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 盛岡少年刑務所では、23日に46年間続く行事「高村光太郎祭」が行われました。
 盛岡少年刑務所では1950年に彫刻家で詩人の高村光太郎が講演に訪れ、その際、光太郎から「心はいつでもあたらしく」という書が贈られました。
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 施設の運動場にはその言葉を刻んだ石碑が建てられています。
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 この行事は、書に込められた「前向きに生きる大切さ」を受刑者に引き継ごうと指導の一環として行われています。
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 23日は受刑者が光太郎をしのんで花を手向けたあと、その作品の一つである「私は青年が好きだ」を朗読しました。
受刑者
「私の好きな青年は麦のように踏まれるほど根を張って起き上がる」
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 続いて受刑者の代表が光太郎の書を踏まえて自ら記した作文を発表しました。
受刑者代表
「いつか出所して困難な壁にぶつかったときには『心はいつでもあたらしく』という盛岡で出会った言葉を胸に乗り越えたい」
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 また23日は高村光太郎記念館の梅原奈美館長の講演も行われ、受刑者たちは盛岡少年刑務所とゆかりがある光太郎の歴史に思いをはせていました。

光太郎がこちらを訪れたのは、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居中だった昭和25年(1950)1月。この際はこちらだけでなく、県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、盛岡警察署、県立図書館などで講演を行っています。

少年刑務所さんに残した書は、「心はいつでもあたらしく」。普段は所長室に掲げられています。前年にはプラスアルファの「心はいつでもあたらしく/毎日何かしらを発見する」という文句を、山小屋のあった旧太田村の新制太田中学校さんに校訓として贈っており、そこからの転用です。

少年刑務所さんでは昭和52年(1977)にこの書を元にした石碑を建立し、翌年から「高村光太郎祭」を実施。受刑者が自分を見つめ直す機会とするといった意図があるようです。

当方、平成28年(2016)の「高村光太郎祭」に招かれ、講演をさせていただきました。その際には光太郎も戦争協力などで罪多き人生だったこと、そしてそれを自ら烈しく悔い、きちんと自分なりに総括をしたことなどを語りました。

その頃も受刑者の方が光太郎詩を朗読したり、作文を発表したりというプログラムがありましたが、継続されているのですね。

今年、皆さんが群読したという詩「私は青年が好きだ」、以下の通りです。

   私は青年が好きだ

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は麦のやうに017
 踏まれるほど根を張つて起きあがる。
 私の好きな青年は玉菜のやうに
 霜にあふほどいきいきとしてまろく育つ。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は木曽の檜の柾目のやうに
 まつすぐでやわらかで香りがいい。
 私の好きな青年は鋼のバネのやうに
 しなやかでつよく弾みがいい。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は朝日に輝く山のやうに
 晴れやかできれいで天につづく。
 私の好きな青年は燃え上がる焚火のやうに
 熱烈で新鮮であたりを照らす。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は真正面から人を見て
 まともにこの世の真理をまもる。
 私の好きな青年はみづみづしい愛情で
 ひとりでに人生をたのしくさせる。

フォーシームのど直球ですね(笑)。それもそのはず、大日本青少年団発行の雑誌『青年』へ昭和15年(1940)2月に発表されたもので、既に日中戦争は泥沼化、事態の打開を図って翌年には太平洋戦争に突入する時期ですので、現人神の赤子たる若き皇国臣民はかくあるべし、ということです。そうした背景を抜きにして考えれば、「道程」などにも通じるストイックな求道の精神も垣間見え、悪い詩ではないと思います。

そこで戦後になってもこの詩は他の翼賛詩とは異なり、お蔵入りにされることなく、家の光協会さんで朗読のレコードを出したり(昭和30年=1955)、故・清水脩氏によって混声合唱曲として作曲されたり(昭和44年=1969)しています。

こちらに収容されている皆さんのように、特殊な状況に置かれている人々には、カットボールやチェンジアップのような変化球よりも、こうした100マイルのフォーシームの方が心に響くのではないでしょうか。

少年刑務所高村光太郎祭、末永く続くことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

此間の会は実に特異な会で忘れがたい愉快な一夕でした。あれから又ラヂオでもヸルドラツク氏の朗読をききました 巴里で金曜毎に皆が会ふときいて羨ましく思ひました。


大正15年(1926)5月3日 尾崎喜八宛書簡より 光太郎44歳

此間の会」は、来日したフランスの詩人・劇作家、シャルル・ヴィルドラックの歓迎会。ヴィルドラックは光太郎も敬愛していたロマン・ロランとも親しく、「巴里で金曜毎に皆が会ふ」メンバーにロランも含まれていたようです。
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グルメ系の取り組み3件です。

まず、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるもの。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「シュガートースト」、「グリーンピースのバターライス」、「鮭の塩焼き」、「豚肉と筍の煮物」、「イカとミズの酢味噌かけ」、「蕗の油炒め」、「卵焼き」、「蓬餅のきな粉かけ」だったそうです。

ミズや蕗、蓬など、山菜系がふんだんですね。かと思うと洋風のシュガートーストやバターライス。見事に東西の味覚が融合しているようです。

毎月15日、店頭販売は10食限定ということなのですが、予約が入ったのでしょうか、19食出たそうです。ありがたし。

2件目、同じくやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で、先月から参入されている、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店です。

こちらも15日(木)だったそうで、やはり画像等送って下さいました。
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メニュー的には「ちりめん山椒ご飯」、「ローストビーフと彩り野菜のガレットロール」、「むね肉の香味焼き」、「山菜ミズのたたき」、「ゼンマイの煮物」、「菊芋とラディッシュのピクルス」、「サヤエンドウと南瓜のサラダ」、「赤魚とミズのお吸い物」、「黒豆ゼリー」、「カフェドシトロン」。こちらでも旬のミズが使われていまして、光太郎詩「山菜ミズ」(昭和22年=1947)のレクチャーもして下さったそうです。

社会教育系の「シニア大学」の団体さん、先月も入らしたリピーターの方、今月初めてという方など、こちらも36食完売だとのことで。

お客様の声。「ウワバミ草(ミズ)って初めて知った」「父が好んで酒の肴にしていた」「手が込んでいる」「工夫されててどれもおいしい」「菊芋のピクルスをもっと食べたかった」「メニュー表を見ながらこれは何と味わった」だそうです。

3件目、富山県高岡市から。以前にやつかの森LLCさんが考案したレシピを元に、「光太郎ランチ」として個人でご自宅を開放して振る舞われている、茶山千恵子さんの取り組み。6月6日(火)、7日(水)、18日(日)と、3回行われたそうです。
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読書会を兼ねての開催だそうで、岐阜の高山、石川の金沢や七尾からいらしたという方も。
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茶山さん、来月は「宮沢賢治セット」で「ざる蕎麦」「炭酸ソーダ」「人参フライ🥕私流」「サラダ」だとのこと。

今後とも末永く継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

無題3木喰上人の遺跡絵葉書お送り下されて忝く存じます。柳さんの研究で図らず世に出た此等の彫刻を興味深く見て居ります。


大正14年(1925)1月30日 
硲真次郎宛書簡より 光太郎43歳

木喰は江戸時代後期の僧侶。100年程前の円空同様、諸国を行脚しながら独特な木彫の仏像(いわゆる木喰仏)を彫り続けました。近代に入ってのその再評価には、「柳さん」=柳宗悦の功績が大きかったようです。

光太郎のそのプリミティブな美を高く認め、「徹底した庶民的無差別的無我没入の境」(「技法について」昭和16年=1941)と評しています。







昨日の段階ではネット上にはフライヤー等が出ていないのですが、一応、花巻観光協会さんのサイト、それから『広報はなまき』に情報が出ました。

テーマ展『山のスケッチ』

期 日 : 2023年6月17日(土)~8月31日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

 東京から花巻へ疎開した高村光太郎は、滞在した先々で目にした初夏の光景に感動し、花や野菜などをスケッチして残しました。
 その後移住した山口集落では暮らしの中で接した植物などがスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想もうまれました。
 詩集は未完に終わったものの、山の暮らしの中で詠んだ詩やスケッチは当時の文芸誌や雑誌に掲載され、世に知られることとなりました。
 この展示では、光太郎が太田村(現花巻市)で過ごした自然をテーマとして、草花のスケッチや詩稿などの資料を紹介します。

展示資料
 ・散文『山菜ミヅ』原稿           1点
 ・詩『花はなにとて』原稿          1点
 ・鉛筆淡彩『山口集落』           1点
 ・草花素描集『山のスケッチ』より精密複製  6点
 ・光太郎写真(昭和26年9月撮影)     2点
  他、草花写真パネル

展示の見どころ 
 詩『花はなにとて』草稿は今回が初公開の資料です。光太郎全集や回想録などで作品の存在は知られていましたが、直筆原稿の公開は初めてです。
 散文『山菜ミヅ』は、鉛筆淡彩による山菜のスケッチとともに雑誌『婦人公論』昭和22年6月号で発表された作品です。東京出身の人として知られていた光太郎が、岩手の自然の中で生活を送っていることを世に知らせた資料であると言えるでしょう。

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スケッチに関しては、複製での展示。現物は三冊、現存が確認できていますが、おそらく髙村家の所蔵のはずです。

それらの中から十数葉を原色版で複製し、中央公論美術出版さんから『山のスケッチ』という画集が昭和41年(1966)に出ています。光太郎の画集としては唯一の出版です。
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「らんまん」に出てきそうな(笑)。

これらを描くため、というわけではないのですが、光太郎、牧野富太郎の著書を都内在住の人々に手に入れてくれと依頼し、実際、光太郎の山小屋には牧野の『植物集説』上下、『植物分類研究』上下、『続植物記』が遺されていました。戦前のものも含まれていますが、依頼されたうちの一人、筑摩書房編集者の竹之内静雄が何とか見つけてくれたようです。

「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明日久しぶりの短歌会に参上いたしたいのも山々ながら、留守中つもつて居ります緊急の用事を先づ片つけねばならず、残念ながら多分まゐれない事と存じます。来会諸士によろしく。


大正13年(1924)11月27日 与謝野晶子宛書簡より 光太郎42歳

確認できている晶子宛唯一の書簡です。二人の関係を考えればかなりの数が送られているはずなのですが……。晶子の夫・寛宛は十数通確認できています。

この書簡も、晶子の著書『女子作文新講 巻二』に画像入りで紹介されているため、確認できた次第です。

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山形大学さんで毎年行っている、高校生朗読コンクール。毎年違った東北ゆかりの文学作品を課題とし、かつては本選が大ホールを使って公開されていました。「東日本大震災により地域が分断された東北に、文化によるネットワークを構築することを目的」というコンセプトを付与していた時期もありました。

確認できている限り、過去2回、「智恵子抄」を課題として下さいました。平成27年(2015)の第8回、それから令和2年(2020)の第13回です。第13回はコロナ禍の始まった年で、この年から予選・本選とも録音審査ということになり、ホールでの公開はなくなりました。

今年も録音審査で行われるそうで、4月にはプレスリリースが出、昨日、YouTube上に解説動画がアップされました。今年も「智恵子抄」(散文「智恵子の半生」)を課題として下さるとのこと。

第16回⼭形⼤学⾼校⽣朗読コンクール出場者募集

・ 第16回山形大学高校生朗読コンクールの出場者を募集します。
・ 令和5年度は予選・本選とも録音審査により開催します。
・ 基盤共通教育「イベントマネジメントとプレゼンでみがく社会人基礎力」を受講する本学学生が、本コンクールの企画・運営を授業の一環として行います。

概要
 山形大学は、東北6県の高校生の文化交流を支援することを目的に、第16回山形大学高校生朗読コンクールを開催します。
 令和5年度は、予選・本選とも録音審査により開催し、予選課題は、福島県出身の妻・智恵子との思い出を綴った高村光太郎の作品「智恵子抄」を取り上げます。
 本コンクールの企画・運営は、基盤共通教育「イベントマネジメントとプレゼンでみがく社会人基礎力」を受講する本学学生が授業の一環として行い、予選・本選の録音審査は、山形大学教員で構成した審査委員会が行います。
 昨年度に開催した第15回山形大学高校生朗読コンクール本選(録音審査)の出場者の朗読を、YouTube山形大学公式チャンネルにより一般公開中です(令和5年6月30日(金)まで公開予定)。
 本コンクールは、例年たくさんの高校生に応募していただいており、昨年度は13校から48名の応募がありました。今年度も東北地方の多くの高校生の応募をお待ちしております。

 詳しくは、こちら(リリースペーパー)をご覧ください。

予選について
・課題文「智恵子抄」(高村光太郎)の朗読データを提出する録音審査により開催します。
・応募方法等の詳細は別紙チラシをご参照ください。

本選について
・予選審査を通過した高校生10名程度が出場できます。
・本選の上位3名を山形大学学長賞として表彰し、記念品を進呈します。
・本選の朗読は、YouTube山形大学公式チャンネルにより公開します(令和6年6月30日(日)まで公開予定)。
・本選出場者の氏名、所属高校、学年及び録音データを一般公開しますので、その旨ご了承の上でご応募ください。

開催日程
6月23日(金)迄  予選課題録音データの提出締切(当日消印有効)
7月28日(金)頃  予選審査の結果と合わせて予選通過者へ本選を通知
8月25日(金)迄  本選課題録音データの提出締切
9月29日(金)頃  本選結果の通知

参考
第15回高校生朗読コンクール本選(令和5年6月30日(金)まで公開)
YouTube山形大学公式チャンネル < https://youtu.be/koj77gA-kws >
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解説動画がこちら。


なかなかよくまとまっています。

応募資格が「高等学校、中等教育学校に在学中の生徒又は高等専門学校(1年生から3年生まで)に在学中の学生で、下記①、②のいずれかの条件を満たす者。①東北6県に在住 ②東北6県の学校に在学」だそうです。奮ってご応募下さい。

それにしても、本選は以前のように大ホールで公開審査という方が盛り上がると思います。今年度分の計画段階ではまだコロナ禍がどうなるか……という判断があったのかもしれませんし、録音審査の方がやりやすい、というのもあるのかもしれませんが……。また、実際に朗読する方としても、大きな会場で大勢のギャラリーを前に、というのはちょっと……というのがあるかもと思いますが、それでもやはり……という気がします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子のお父さんの三回忌の法要で急に出懸けました。 君の処の花を思ひながら野山の美しい緑を見てゐます。帰途此の温泉に一寸立寄りました。


大正9年(1920)5月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎38歳

此の温泉」は現在の福島市郊外の穴原温泉。下の画像は当方手持ちの古絵葉書です。
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同日、田村松魚に宛てた絵葉書はこの吉川屋のもので、おそらくここに泊まったのでしょう。

その前に訪れた智恵子の故郷・安達郡油井村(現・二本松市)の印象が、「智恵子抄」中の詩「樹下の二人」に謳われました。ただ、「樹下の二人」では「この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理」とあり、季節が合いません。この矛盾に関し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生曰く「ここには幾度かの訪問の印象が重複しているのであろう」とのことです。

岩手日報社さん発行の文芸誌『北の文学』。最新号が先月末に出まして、「出たら一冊送って下さい」と、花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの方にお願いしておきましたところ、届きました。多謝。

北の文学 第86号

2023年5月27日 岩手日報社 定価1,100円+税

 『北の文学』は岩手日報社が発行する新人発掘・育成のための文芸誌です。第86号は応募作品から選ばれた小説部門の優秀作と入選それぞれ2編を収録。巻頭コラムはデビュー作「家庭用安心坑夫」が第168回芥川賞候補になり、一躍注目を集めた小砂川チトさん(盛岡市出身)が登場しています。
 日上秀之さん(宮古市出身)の特別寄稿小説「溺生(できせい)」や早坂大輔さん(盛岡市・書店BOOKNERD)と、くどうれいんさん(盛岡市出身)の対談も掲載。これまで以上に充実した内容となっています。
 小説部門の優秀作に選ばれたのは瀬緒瀧世(せお・たきよ)さん=宮城県在住、花巻市ゆかり=の「fantome(ファントーメ)」と、谷村行海(ゆきみ)さんの「どこよりも深い黒」。瀬緒さんは初応募での受賞です。谷村さんは過去7回入選を重ね、11度目の応募で優秀作をつかみました。

■主な内容
・巻頭コラム 小砂川チト「罪やかなしみでさへ、そこでは」
・特別寄稿小説 日上秀之「溺生」
・特集・対談 早坂大輔×くどうれいん 「行くべき街」盛岡
・第86号小説部門優秀作
 瀬緒瀧世「fantome(ファントーメ)」 / 谷村行海「どこよりも深い黒」
・小説部門入選作
 森葉竜太「トマト祭り」 / 咲井田容子「卯年炭」
・第86号選考経過・選評
・寄稿・文芸評論 春日川諭子「においの描写から考える『悲の器』の女性像」
・俳句 兼平玲子「世界で二番目の街」/  川柳 澤瀬海山「天動説」/  エッセー 4編
・85号合評会から
・投稿 あの日あの時7編
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同誌、年2回の発行で、毎号、作品の公募を行っているそうです。
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「小説・戯曲・文芸評論」の3部門だそうですが、小説の応募が大多数。今号では応募総数27篇で、内訳は小説21篇、戯曲と文芸評論が3篇ずつ。各部門で優秀作を選ぶわけではなく、3部門を通観して優秀作を選ぶ形で、今回の受賞(優秀作2篇、入選2篇)はすべて小説でした。どうもこのところ小説のみ選ばれているようです。

受賞作決定の際の『岩手日報』さん記事はこちら

で、優秀作の一つ、瀬緒瀧世氏の「fantome(ファントーメ)」。昭和20年代前半の花巻と郊外旧太田村を舞台とし、光太郎も登場します。タイトルの「fantome」はエスペラント語だそうで、英語の「fantome(ファントム)」からの派生でしょうが、名詞ではなく形容詞のようです(あえて細かな訳は載せません)。

主人公である10歳の少女・シズ江は、他の人間には見えぬそこにいるはずのない人が見え、さらに会話もできるという特殊能力の持ち主。そこで、「fantome」です。ちなみにその力のない普通人も、シズ江と手をつなげば同じことができるという設定です。

シズ江はその力で、光太郎の山小屋で「蒼白い顔をした女」と、花巻まつりの夜に花巻上町通りで「季節外れの黒いコートを着た男」を見、会話をします。そしてシズ江と手を繋いだ光太郎も……。光太郎ファンの皆様には、それぞれ誰なのか、言わずもがなでしょうね。

選評に次のようにありました。

高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。

たしかに「幻想的」。一歩間違えば「荒唐無稽」に陥るところですが、その一歩を間違っていません。ただし、一点、史実と異なるところがあり(一昨年刊行されたある書籍に同じ誤りがあり、どうもその書籍を参考にされてしまったようで)ますが、いたしかたありますまい。

当方、いただいてしまいましたが、オンラインでの購入も可能です(最上部リンク参照)。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀座の辻村農園にてダリアの球根を選び荷造を叮嚀にして直接農園より御送附いたすやう依頼致し候 球には皆それぞれ名称を附するやうたのみ置き候

大正9年(1920)4月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

明治期創業の「辻村農園」は神奈川県小田原市にあり、この頃、東京にも売店を設けていました。そこで買い求めたダリアの球根を、福島の智恵子の実家に送りました。福島では珍しい花で、近隣の人々が長沼家の庭にずいぶんと見に来たそうです。

今年、光太郎は生誕140周年を迎えました。そして当会の祖・草野心平は光太郎のちょうど20歳下になりますので、生誕120周年。

140より120の方が区切りがいい感じもあるのでしょうか、生誕120周年でけっこう頻繁に取り上げられています。いろいろあるのですが、これはと思う報道を3件。

まず『いわき民報』さん。心平の誕生日5月12日(金)の記事です。

草野心平 きょう生誕120年迎える 小川の生家にカエルのキャンドル並ぶ

 〝蛙の詩人〟として親しまれている、小川町出身の草野心平(1903~1988)は12日、生誕120年を迎えた。少年時代を含め20年ほど暮らした生家には、母校の小川小と、地元小玉小の4年生が作成したカエルのキャンドル約60個が展示された。
 キャンドルは、心平が生家で生活していたころと、同世代の子たちの古里を思う気持ちを育むため、市立草野心平記念文学館が依頼した。ウインクをしたり、ひげをたくわえたりと、チャーミングな姿に、来場者たちも思わずほっこりした気持ちに包まれている。展示は6月25日まで。
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かわいらしいキャンドルですね。一瞬、ピ○チュウかと思ってしまいましたが(笑)。

続いて『福島民報』さん。こちらは文学史上、重要な発見を報じています。誕生日翌日の5月13日に報じられました。

草野心平自筆「最後の詩」か 最晩年の未発表原稿 寄り添った女性への感謝著す

 12日に生誕120年を迎えた福島県いわき市出身の詩人草野心平(1903~1988年)が最晩年に書いたとみられる未発表の自筆原稿1枚があることが分かった。病に伏せる晩年の心平に寄り添った山田久代さん(故人)への感謝の気持ちをうかがわせる内容で、原稿を保管する元いわき市草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん(75)=市内在住=は「心平の『最後の詩』の可能性がある。心平の最晩年や2人の関係を理解する上で貴重だ」としている。
 久代さんの遺族が保管していたものを関内さんが2012(平成24)年に譲り受けた。久代さんは心平と筆談したメモや書簡など100点以上を残しており、保管状況や筆跡から原稿は心平の直筆と判断できるという。1987(昭和62)年ごろ、東京都東村山市の自宅で書いたとみられる。
 原稿は「何も言はない。」で始まり、「何も言ふべきことない。」「声をだすな。許せ。」「いろいろ言うべき多し。許せよ」などとつづられている。最後は「かんベン かんベん! ありがたう。」で終わる。
 「草野心平日記」などによると、心平は病の影響で1987年7月ごろから言葉が不自由になり、周囲と筆談でやりとりしていた。最後の詩集が出版されたのは1986年で、1987年4月の詩誌「歴程」で発表した詩が最後の詩とみられていた。心平を約20年研究する市教育文化事業団の渡辺芳一さん(49)は「言葉がうまく出ない苦しさや、相手を大事に思いながらもささいなことで口論してしまう心境を表現しているのでは」と指摘する。
 久代さんは1949年に東京の酒場で心平と出会い、心平の妻の死後は籍を入れないまま一緒に暮らした。心平の日記には「チャ公」との愛称で登場する。2011年5月、89歳で亡くなった。
 関内さんは心平の親戚に当たる。「籍を入れなかった2人だが、形式にとらわれない絆や愛の深さがあったことを後世に残したい」と話し、久代さんの遺族から譲り受けた資料を同文学館などへ寄託できるかどうか検討しているという。
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かんベン かんベん! ありがたう。」、いかにも心平が照れ笑いを浮かべつつ言いそうな……。

最後に仙台に本社を置く『河北新報』さん。5月28日(日)の記事です。ちらっと光太郎にも触れて下さいました。

東北の文化人と親交深く いわき出身・草野心平 生誕120年 <リポート2023>

 いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)が12日に生誕120年を迎えた。旺盛な創作の傍ら、東北の多彩な文化人たちと親交を深めた。詩人で童話作家の宮沢賢治を世間に広め、板画家棟方志功とは共著の詩画集を出した。写真家土門拳の「助手」も務めた。草野心平記念文学館(いわき市)が所蔵する本人の所持品と残した文章から、交流の軌跡をたどる。(いわき支局・坂井直人)

宮沢賢治、棟方志功、土門拳… 「良いものは良い」
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍(ご)しても彼は断然異常な光りを放っている」
 草野は、花巻市出身の宮沢賢治(1896~1933年)を激賞した。きっかけは1924年4月に自費出版で1000部刊行した詩集「春と修羅」との出合い。愛蔵書の背表紙は欠け、ぼろぼろになったほどだ=写真(1)=。
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 「彼の詩集と一緒に何度か旅をし、数十回読み返した。そんなに恥(はず)かしい感激を私は日本で彼の詩集にだけ経験した」。ほれ込み具合は相当なものだった。
 自身が手がける同人詩誌「銅鑼(どら)」に賢治を誘い、13編の作品を載せた。ただ、会うことなく、「天才」は無名のまま早世。花巻の宮沢家に弔問に訪れて初めて、遺影で対面した。膨大な未発表の遺稿に驚き、没後1~2年で編集のほとんどを担った賢治の選集的全集を刊行。作品を世に知らしめた。
 青森市出身の棟方志功(03~75年)とは同い年。児童文学雑誌の仕事を通じて縁が芽生えた。66年には、草野が主題の一つとした「富士山」のタイトルで共著の詩画集を出した=写真(2)=。
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 「彼はいつもフイゴのように熱っぽく火達磨(だるま)のようにぐるぐるしている」「彼の近眼も底なしの善意もケタ外れであり仕事の独自性もケタ外れである」。その人柄を愛し、終生の友として家族ぐるみで付き合った。
 草野は右目、棟方は左目が見えなかった。インド旅行に出かけた際、2人で一人前だなと大笑いした。帰国後、2度目の共著を編集中に棟方が亡くなり、その後に詩画集「天竺(てんじく)」が出版された。
 草野が創刊に携わった詩誌「歴程」は、酒田市出身の土門拳(09~90年)の撮影した写真が表紙を飾ったことがある=写真(3)=。
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 被写体は草野と親交のあった高村光太郎の彫刻作品。土門の指示で、草野らはまぶし過ぎるライトの光を遮断する役割をさせられた。
 草野はある時、文学賞でもらった時計を質に入れた。土門に撮られた自身の写真を質屋に見せ、信用獲得に役立ったといい、「首実検の結果まんまととほった(通った)」と明かす。
 草野心平記念文学館の長谷川由美専門学芸員は「良いものは良いという確かな目を持ち、きちんと伝えられる強さを持っていた」と、詩作にとどまらない草野の人間的魅力を指摘する。

土門拳撮影の光太郎彫刻は「黄瀛の首」。大正15年(1926)の作です。黄瀛は日本人の母と中国人の父の間に重慶で生まれ、千葉県で育った詩人。心平を光太郎に紹介しました。その後、心平の主宰した『歴程』同人として活躍します。

賢治、黄瀛らを世に出す労を惜しまなかった心平、その本物を見分ける確かな眼には驚かされます。既に詩人として名を成していた光太郎に対しても、『銅鑼』『学校』『歴程』などに寄稿を求め、さらに名を高からしめる一助。まぁ、光太郎詩文や挿画が載っているということで、それらの詩誌の売り上げや評価も上がったでしょうから、ギブアンドテイクだったようにも思われますが。

ところで、心平と言えば、来月、心平を名誉村民に認定して下さっている福島県川内村で58回目となる「天山祭り」が開催されます。村民の皆さんが心平のために建ててくれた別荘的な天山文庫が会場です。郷土芸能等の披露があり、生前の心平が愛した祭り、心平没後は心平を偲ぶ行事とも成り、さらに東日本大震災後は復興祈念の意味合いも付与された感があります。

で、心平生誕120周年、ついでに(笑)光太郎生誕140周年なので、そのあたりを語れ、という依頼がありまして、記念講演をさせていただきます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよつと抱いてやりたい気のする子でした。


大正9年(1920)2月12日 田村松魚宛書簡より 光太郎38歳

新協劇団が行った公演「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ての感想です。「チルチルになつた子」は、子役時代の初代水谷八重子。のち、昭和32年(1957)、北條秀司作の演劇「智恵子抄」で智恵子役を演じることになります。光太郎が難色を示し実現しませんでしたが、光太郎生前からその話があり、その際に水谷と光太郎を仲介したのも心平でした。
水谷八重子

グルメ系で2件。それぞれかつて光太郎が自分で調理したりしたメニューを元に、現代風の料理にアレンジしての取り組みです。

まずは富山県高岡市から。

地元を中心に演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子氏が、ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっていますが、今月(5月)から花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に、「光太郎ランチ」の日も設定なさっています。

今月(5月)は1回のみの実施でしたが、ご好評だったということでしょう、来月(6月)は3回に増えました。
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一昨年、やつかの森LLCさんで刊行された「光太郎の食卓カレンダー」のうちの1食分を参考に作られるそうです。

それから岩手。本家のやつかの森LLCさんの活動です。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店で、こちらも今月(5月)からやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」という名で参入なさっています。
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6月は15日(木)に「こうたろうカフェ」。
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山菜の「ミズ」の語が2回。旬なのでしょう。正式には「ウワバミソウ」という名です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。
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    山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり001
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

カラー画像は昭和21年(1946)、光太郎が描いたスケッチ、モノクロ画像はそれを元に描かれ翌年の雑誌『婦人公論』第31巻第6号に詩「山菜ミヅ」と共に載ったものです。下の方は鶴首南瓜です。

さて、富山光太郎ランチ、花巻こうたろうカフェ、お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたの本を昨日うれしくおうけとりしました あれは雑誌に出たときも愛読したものです 世間でも認めてゐるやうですがあれは全く今の文学壇には珍らしいものです 事件でなしに生活が書かれて居ます あれをよむものは必ずあなたのこころのひゞきをうけとります そしてそのひゞきは人を脅かすものでなくて人をあたためるもの清めるものです 私は此をよみながらいくど微笑しいくど遠くを望み見たかしれません 私のやうに悪の分子の多いものにとつて斯ういふものは実に貴いものに思はれます 実際此をよんであなたを敬愛せずに居られる人が此世にあるだらうかと思はれます あなたに対する私の愛をどうか心からうけとつて下さい


大正9年(1920)3月30日 室生犀星宛書簡より 光太郎38歳

あなたの本」はこの月、新潮社から刊行された犀星の小説『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』。何だかほめ殺しに近いような手放しの賛辞ですね。

犀星と光太郎の関係は、なかなかに複雑です。犀星、昭和4年(1929)には光太郎をして「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。」(『天馬の脚』)と書いていたのに、光太郎歿後には「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」(『我が愛する詩人の伝記』)。

残された書簡によれば、互いの母親が亡くなった際にはそれぞれ衷心からのお悔やみ、励ましなど交わしていたようなのですが……。

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