カテゴリ: 東北

3.11が近づいてきました。今年は震災から10年ということで、各種メディアも、例年より取り上げられる回数が多いようです。

あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
006
その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。

【ぶらり、ぶんがく。本と歩く】津波被害からの復興に思い巡らす 高村光太郎「三陸廻り」 宮城県女川町・高村光太郎文学碑

001 出張先の宮城県女川町で、大きな碑を見つけた。震災遺構として整備された旧女川交番に立ち寄ろうと港に車を止めたら、駐車場のわきにある巨大な岩が目に留まった。碑面には、彫刻家としても文筆家としても知られる高村光太郎(1883~1956年)の文章と絵が彫られていた。
 〈古さびた女川の町が夜になると急に立ち上る。ただ海から来た人々への夜の饗宴の為にのみあるかと思う程、此の小さな町が一斉に一個の盛り場となる〉
 ネットで調べると「三陸廻り」という随筆の一節だった。昭和6(1931)年に時事新報に10回掲載された紀行文で、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古などを旅したという。平成3(91)年に建立されたこの文学碑は、東日本大震災で倒れはしたものの流されずに残った。町の再整備が進んで、再建されたそうだ。
 10年前の3月11日。女川に押し寄せた津波の高さは20メートルに達した。高台にある病院の1階まで冠水して、市街地は壊滅。港からその病院を見上げると、人々を襲った津波のとんでもない大きさを実感して、へたり込みそうになる。とはいえ再建は少しずつ進んでいる。かさ上げした土地に女川駅が再建され、駅前にはシーパルピア女川という商業施設が整備された。観光客の姿もあった。
   〈女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている〉
 文学碑にはそんな一節も刻まれていたが、町はまた立ち上がろうとしている。
 帰宅後に「三陸廻り」の全文を読みたくなって、文芸評論家の北川太一が著した『光太郎智恵子うつくしきもの』を入手した。そこで知ったのが、光太郎が旅した昭和6年は、2万人以上が犠牲になった明治三陸地震の35年後だったということだ。被災地が活気を取り戻してきた時期にあたる。
 旅人の視点で景色や暮らしが生き生きと描かれる「三陸廻り」にも、ちらほらと災後の意識が浮かび上がる。釜石では自然の調和力に思いを巡らせ〈自然と人工とは衝突とはいえない程一方が大きい〉。宮古については〈海溝に異変のあるたび大海嘯(つなみ)の害をうける〉ので、海岸を避けて街が作られたと推察し、〈裏が今は表になっている〉と記した。光太郎も死者を想っただろうか。いま三陸を歩く私たちが「あの日」を想うように。 (阿蘇望)
005
この碑が多くの人々の募金によって建立されたことに倣い、震災後に避難の目安となるランドマークとして建てられ続けている「いのちの石碑」についての、仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事。

<ストーリーズ>1000年先の命を守る碑に/鈴木智博さん(21)宮城県女川町

「自分たちの活動が形となり、石碑ができた時はすごくうれしかった」。
 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台に造成された住宅地。「いのちの石碑」と刻まれた碑のそばで、大学生鈴木智博さん(21)が思い返した。
 震災当時は女川二小6年。漁港のある集落に家族7人で暮らしていた。津波で祖父母と母を亡くした。
 その年、入学した女川中の社会科の授業で「1000年先の命を津波から守ろう」と生徒たちから石碑を建てる案が出た。周囲に勧められリーダー役を引き受けた。活動は保護者や地域に広がった。
 13年11月、女川中の敷地内に1基目が完成した。「世界中から多くの支援がもらえて感謝しかなかった」。約300人の関係者が集まる中、生徒の先頭に立って除幕の綱を引いた。
 町内21カ所に建てられる予定の石碑は、津波到達地点より高い場所にある。現在は18基。教訓や震災を詠んだ俳句も刻まれる。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」。鈴木さんは石碑に刻まれた俳句の一つを口にした。「今後、1000年に一度の大災害があっても石碑より上に逃げ、みんなの命が救われてほしい」。改めて石碑を見つめた。
001
002
鈴木さん、テレビにも出演されます。

テレメンタリー2021「“3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」

地上波テレビ朝日 2021年3月7日(日) 04:3005:00

最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

死者・行方不明者が約2万2000人に上る東日本大震災。宮城県は、被災した自治体の中で最も多い犠牲者が出ました。
女川町の漁師・鈴木高利さんは、津波で両親と妻・智子さんを失いました。遺されたのは長男・智博君、長女・奈桜さん、そして当時まだ2歳だった次女・柚葉ちゃん。7人家族が突然4人家族になって10年。子どもたちが成長するに伴って接し方にも悩みながら、高利さんは男手一つで子どもたちを育ててきました。
今、智博君と奈桜さんは仙台市の大学に通う学生です。智博君は震災を語り継ぎ、津波が襲った故郷に石碑を建てる活動を続けています。奈桜さんは「保育士」になるために勉強中です。まだ2歳だった柚葉ちゃんは、この春、中学生になります。
最愛の人を突然失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのかー。彼らを支えたものは何だったのかー。ある家族が歩んだ10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

◇ナレーター 滝藤賢一
◇制作    東日本放送


智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
007
もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。

news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜

地上波日本テレビ 2021年3月6日(土) 16:00〜16:55

東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」

【メインキャスター】藤井貴彦(日本テレビアナウンサー)
【サブキャスター】 中島芽生(日本テレビアナウンサー)

三浦裕紀(テレビ岩手記者) 藤田耕司(ミヤギテレビ記者)
緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
008
そして、3月6日(土)には、過日ご紹介した草彅剛さん主演の「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。

一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
003
004
それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。

昭和22年(1947)1月1日の日記より 光太郎65歳

詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
1007
  この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。

その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

過日ご紹介しました、青森空港に新たに設置の巨大ステンドグラス「青の森へ」が除幕されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。

青森の地方紙『東奥日報』さんの記事。

幅11メートル 青森空港に大型ステンドグラス

 日本交通文化協会(東京)と青森空港ビルは、青森市の同ビル1階ロビーに三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都在住=が原画・監修を手掛けた大型ステンドグラス「青の森へ」を設置し24日、現地で完成披露除幕式を開いた。
 完成した作品は縦2.4メートル、横11.4メートル。ガラスは約3200ピースにも及び、85色を使い分け、中でもこだわりの青系統は25色を使った。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が発令されていた昨年春、森本さんは約3カ月をかけ、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、リンゴ、こけし、十和田湖、奥入瀬の風景など青森県の風物詩を描いた原画を完成させた。
 この原画を基に、静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房の職人6人が、昨年5月から半年以上をかけて作品を仕上げた。
 除幕式で三村申吾知事は「(コロナ収束後)いずれ全国、世界から訪れるたくさんの方を出迎えるシンボルとして親しまれれば」とあいさつ。
 森本さんは式典後の取材に「緊急事態宣言のさなか、ねぶたに行けない悲しさから、おはやしやねぶた祭りの動画や音楽をアトリエに響かせ、跳ねながら原画を描いていた。このような状況でなければ、これほど情熱的に絵に思いをぶつけることはなかった」と制作を振り返った。
 地域活性化や観光振興を目的に、地元に縁がある作家のアート作品を空港や駅などに設置する日本交通文化協会の事業の一環。日本宝くじ協会が助成した。森本さんは2019年の第4回東奥文化選奨受賞者。
000 001
007 008
009
同じく『デーリー東北』さん。

青森空港に大型ステンドグラス 三沢出身の森本さん、光とガラスで青森表現

 三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんが原画と監修を手掛けた大型ステンドグラス作品「青の森 へ」が24日、青森空港旅客ターミナルビル1階ロビーにお目見えした。作品には奥入瀬渓流の流れや、青森ねぶた祭で躍動するハネトなどが多彩な色彩のガラスで描かれている。森本さんは「季節ごとに変わる光の表情を楽しんで」とPRしている。
 全国の駅や空港、公共施設などでアートの普及を進める日本交通文化協会(本部・東京)が企画し、森本さんに依頼。日本宝くじ協会が助成し、青森空港ビルに作品が寄贈された。
 作品は縦2・4メートル、横11・4メートルの大きさ。森本さんの切り絵を基に、クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市)の職人6人が約3200ピースのガラスを使い制作した。
 使われている色は全85色で、森本さんが特にこだわったのは青。微妙に色彩の異なる25色を巧みに使い分け、青森の自然や文化をきめ細やかに表現した。
 除幕式には森本さんをはじめ三村申吾知事、林哲夫青森空港ビル社長らが出席。三村知事は「青森への深い愛情と圧倒的なクオリティーに感激した」と褒めたたえた。
 制作に携わったこの10カ月間、新型コロナウイルスの影響で恒例だった里帰りがかなわなかったという森本さん。望郷の思いも込めた作品について「青森に初めて降り立った人も青森らしさを感じられると思う」と自信をのぞかせた。
025
続いて、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

青の彩りお出迎え 青森空港にステンドグラス設置

  青森空港(青森市)のターミナルビルに24日、青森県の祭りや自然をモチーフにした大型ステンドグラス「青の森へ」が設置された。青色だけでも25種類を使い分け、青森ねぶた祭や奥入瀬渓流など青森を代表する風物を繊細な色合いで表現。除幕されると、搭乗客らから歓声が上がった。
 横11・4メートル、縦2・4メートルの大きさで、85色が用いられた。原画作者のアートディレクター森本千絵さん(44)=三沢市出身=は「青森へ行きたくても行けない状況だからこそ、いとしさを込めることができた。春夏秋冬、それぞれの光で変化を楽しんでほしい」と語った。
 三村申吾知事は「青森の空の玄関口が鮮やかに彩られた。訪れる人にとって心地よい場所になるよう願う」と期待した。
024
テレビのローカルニュースでも。

NHKさん。

青森空港に大型ステンドグラス

青森空港に、三沢市出身の芸術家が監修した大型のステンドグラスが設置され、24日、完成披露の除幕式が行われました。
このステンドグラスは、新型コロナウイルスの影響が続く中、文化や芸術の面から人々を元気づけようと活動している日本交通文化協会が、日本宝くじ協会の助成を受けて青森空港に寄贈したものです。
24日の完成式典には、三村知事や、ステンドグラスの原画を描いた三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんたちが出席し、光をいっぱいに受けたステンドグラスが披露されました。
「青の森へ」と名付けられたこの作品は、縦2.4メートル、横11.4メートルで、静岡県の工房に依頼して制作されました。
ねぶた祭やこけし、奥入瀬渓流など、85種類の色を使ったおよそ3200のガラスピースを組み合わせて青森県の魅力を表現しています。
アートディレクターの森本千絵さんは、「青森県に住んでいる人もそうでない人にも楽しんでもらえると思います。光の入り具合で表情が違うので季節ごとに楽しんでほしいです」と話していました。
岐阜県から受験で青森県を訪れていた18歳の男性は、「とてもきれいです。ひと目見ただけで青森と分かるのでいいと思います」と話していました。
このステンドグラスは、青森空港の1階、国内線のチケットロビーに展示されています。
010 017
011 012
013 014
015 016
RAB青森放送さん。

青森空港に新たなシンボル 名物や景勝地を描いたステンドグラス完成

青森空港に県内の名物や景勝地を描いたステンドグラスのアート作品が完成し24日お披露目されました。
青森空港の1階ロビーに完成したこの鮮やかな作品は三沢市出身の
アートディレクター、森本千絵(もりもと・ちえ)さんが原画と制作を監修した大型ステンドグラス『青の森へ』です。
作品は日本交通文化協会が森本さんに制作を依頼し、青森空港ビルに寄贈しました。縦2・4メートル、横11・4メートルの作品にはねぶたやこけし、りんごや十和田湖など、県内の工芸品や風景などをイメージしたガラスが散りばめられています。森本さんは去年5月から原画となる切り絵を描き、静岡県熱海市の職人たちが仕上げたもので、85種類の色と3200ピースのガラスが使われています。
★利用客は…
「すごく青森っぽくていいなと思いました」
「SNSにアップして使わせてもらおうと思っています」
★アートディレクター 森本千絵 さん
「たぶん春夏秋と表情が違うのでその光の表情を楽しんでもらいたいと同時に、歩いたりして楽しんで見ていただきたいと思います」 
ステンドグラスは青森の空の玄関口の新たなシンボルとして、訪れる人たちを出迎えます。
019
020 021
022 023
あちらにお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日賢治同志会の当日なり。新聞に余の名も講演題目までつけて広告中にあり、後藤氏のなせる事ならん。不都合なり。余はゆかず。

昭和21年(1946)10月20日の日記より 光太郎64歳

本人の承諾を得ぬまま、勝手に講師として名を出されたそうで……。花巻郊外旧太田村の七年間で、何度かこういうことがあったそうです。

岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。

言葉の深さ知って 佐藤智一校長 祖父から受け継いだ書を桜城小に寄贈へ 高村光太郎の「詩魂萬機」

 盛岡市立桜城小(児童356人)の佐藤智一校長(60)は、祖父で同校第6代校長の故・佐藤憲政さんから受け継いだ高村光太郎(1883~1956)の書「詩魂萬機」を同校に寄贈する。1950(昭和25)年冬、当時大慈寺小校長だった憲政さんが、花巻市太田(当時・稗貫郡太田村山口)の山荘に暮らしていた光太郎を訪ね、揮毫(きごう)してもらった。盛岡市内の自宅に70年ほど保管していたが、佐藤校長が3月の定年退職を前に寄贈することに。「子どもたちには、高村光太郎の言葉を通じてたくさんの詩に親しみ、言葉の深さを味わってほしい」と願う。
 憲政さんは1895(明治28)年生まれ。岩手師範学校本科(現岩手大教育学部)卒。戦中から戦後の42~46(昭和17~21)年度に桜城小校長を務めた。同小は憲政さん、佐藤校長の母校で、佐藤校長の祖母のフヨさんも教員として勤めた。同校が国語教育に重点をおいていることから、「お世話になった学校の教育に役立つことができれば、祖父も喜んでくれると思う」と感謝の気持ちを託した。
 「詩魂萬機」の書は、細身の筆を執って彫り付けるように書かれている。
 「詩魂」は、「詩をつくる心、詩で表現しようとする心」の意があるが、書に添えられた研究者の北川太一さん(故人)の記によると、「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。「これを揮毫せる他例を知らない」とも記されている。
 光太郎の「彫刻十箇條」(1926・大正15年)の冒頭には、「彫刻の本性は立體感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」との一文がある。
 佐藤校長は「この書を通じて〝詩魂〟という言葉を知ったが、物事の本質を極めようとする心や、そこから得られる感動という解釈もできると感じた。子どもたちには物事を深く掘り下げ、『本物とは何か』を考える心を持ってほしい」と語った。
 佐藤校長の自宅には、山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡も残っており、再訪を願うような文面に二人の温かな出会いがにじむ。
 書は佐藤校長が全校児童に紹介した。
 3月11日まで校長室前に展示し、来校した保護者らにも公開する予定。
002
驚きました。

まず「詩魂万機」の書。『高村光太郎全集』第二十巻、「短句」の項に掲載がありますが、故・北川太一先生が書かれた解題の部分に詳しい説明がなく、詳細は不明でした。まぁ、おそらくこういう形で誰かに贈られた書から採ったのだろうとは予想していましたが、盛岡の学校の先生に贈ったものだったか、という感じでした。

ちなみに毎日このブログの最後に書いている【折々のことば・光太郎】で、出典不明のまま、昨年5月16日に紹介していました。

記事にある北川先生が書かれた鑑定書的な「記」。「「詩魂萬機」は光太郎の造語で、その世界観を表白するもの。これを揮毫せる他例を知らない」まったくその通りです。

それにしても、ある意味、物凄い書です。高級な筆で、墨をたっぷり含ませ、流れるように書かれた優雅な書、などといった評は一切当てはまりません。この大きさの紙に書くには細すぎる筆で、まるでギチッ、ギチッと音を立てながら、木を彫るかのような書き方ですね。それでいて、恐ろしい気魄が感じられます。画像で見ただけで涙が出そうになりました……。

いつ書かれたものか、詳細は不明です。ただ、消去法的に考えると、やはり日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)かな、という気がします。それ以外の年でしたら、日記に佐藤憲政氏のために揮毫、といった記述が有ってしかるべきですので。

『高村光太郎全集』に、佐藤憲政氏の名は5回出て来ています。

まず書簡。憲政氏宛のものが一通。昭和25年(1950)11月20日付けでした。

 おてがみ拝見、
 先日は御来訪、おかげで思はぬ浅酌閑談の快を味ひました、山にては御らんの通りの生活ゆゑまるでお構ひも出来ませんが時にお越し下さらばいつでも炉辺に招じまゐらせます、尤もこれからは少々雪がつもり過ぎますが、


おそらくこれが記事にある「山荘で訪問を受けた光太郎が後日、憲政さんに宛てて書いた書簡」「再訪を願うような文面」なのでしょう。

前述の通り、昭和25年(1950)の日記は失われていますが、その分、郵便物の授受を記録した「通信事項」は掲載されており、11月19日に「佐藤憲政氏よりテカミ」、11月21日に「佐藤憲政氏に返ハカキ(大慈寺小学校長)」とあります。

日記では、昭和27年(1952)9月5日。

十時頃盛岡大慈寺小学校長佐藤憲政氏来訪、ひる頃まで談話、別に用事なし、

別に用事なし」にはクスリとさせられました。

さらに意外なことに、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した後の昭和29年(1954)1月15日。

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、

光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに来たというのは、出張か何かのついでだったのでしょうか。

これらを総合して勘案すると、「詩魂万機」の書、昭和25年(1950)の書簡で「先日は御来訪」とある時に書いて渡したと考えるのが、妥当なような気がします。

もっとも、日記に佐藤氏の名を添えずに「詩魂万機」を書いたという記述があるかも知れません。幸い、【折々のことば・光太郎】のために、また日記を最初から読み返している最中ですので、継続して調査していきましょう。

それにしても、光太郎の肉筆の書がある小学校、何とも贅沢な話です。それが死蔵とならないよう、先生方には活用の方向を考えていっていただきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

はじめて美味の南瓜にあたる。鶴首甚だ甘味に富み、質もうまし。種子を取る。来年大につくらん。一顆、鍋に一ぱい。此間中試食用の南瓜みな不味なりしが、これにて安心。

昭和21年(1946)10月15日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で栽培していたカボチャ。それまでに収穫していた別種のものはあまり美味しくなかったと書かれていましたが、鶴首のカボチャを初めて収穫し、食べたところ、大当たり(笑)。その喜びが文面から伝わってきます。

4件ほどご紹介します。

にほんごであそぼ「福島のわっぱめし」

NHK Eテレ 2021年3月2日(火) 06:35〜06:45 再放送 17:00〜17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…文楽「あどけない話」高村光太郎、あいだのじいさん「わっぱめしのあいだ」、童謡「マーチング・マーチ」、ひこうき山陽のごとくごとく「さざえ堂」、歌舞伎/天地の見得〜応用編〜「さるかに合戦」、うた「日本全国むかし歩き」

【出演】美輪明宏,神田山陽(三代目),竹本織太夫,鶴澤清介,中村勘九郎,中村勘太郎,中村長三郎,おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか


平成31年(2019)にも「文楽「あどけない話」」がラインナップに入った回がありました。
026
027
028
その際の映像を使い廻すのか、新作なのか、不明ですが……。

その他、「わっぱめし」やら「さざえ堂」やら、福島特集的な感じのようですね。

続いて、やはり福島。

福島をずっと見ているTV・選(74)「復興からその先へ〜川内村の夏〜」

NHK Eテレ 2021年2月28日(日) 00:30〜01:15

震災からわずか1年で、全村避難していた住民に「帰村宣言」を出した川内村。それから6年。村が1年で一番盛り上がるお盆の3日間に密着。2018年9月23日放送回。

帰還率が73%(震災前:3000人/2018年:2200人)と周りに比べて突出している川内村。しかし帰村者の9割が50才以上で、子どもはわずか。そんな村が一年で一番盛り上がるのがお盆。恒例行事の「盆野球」「盆ダンス」、「成人式」も開かれ、村出身の若者が数多く帰って来る。この夏、村に暮らす人、村外から通いで働く人、お盆だけ帰省する人、それぞれにとっての村の未来を見つめる。

【ゲスト】猪苗代湖ズメンバー/ミュージシャン…渡辺俊美,【司会】箭内道彦,【アナウンサー】合原明子,【語り】相沢舞


こちらは完全に再放送です。初回放映は平成30年(2018)でした。
029
川内村では、当会の祖・草野心平を名誉村民にしてくださっており、心平の別荘・天山文庫が取り上げられています。
030
031

川内村といえば、当方も親しくさせていただいております遠藤雄幸村長が、今夜(正確には明日未明)、TV出演なさいます。

朝まで生テレビ!

地上波テレビ朝日 2021年2月27日(土)  01:2504:25

東日本大震災・福島原発事故から10年。今、福島は?廃炉作業は?10年目にして明かされる事実、10年目に浮かび上がる課題は?…事故の教訓と課題を、当時事故処理にあたった政治家と福島の県民を交え討論。そして「2050脱炭素社会」への取り組みは?「原発推進派VS再生可能エネルギー推進派」の二局対立の現状をどう克服するのか。福島の教訓は生かされるのか。日本のエネルギー政策を徹底討論!

【司会】田原総一朗 【進行】村上祐子・斎藤康貴036

パネリスト
 柴山昌彦(自民党・衆議院議員、前文部科学大臣)
 菅直人(立憲民主党・衆議院議員、元内閣総理大臣)
 細野豪志(無所属・衆議院議員、元原発事故収束担当大臣)
 飯田哲也(NPO環境エネルギー政策研究所所長)
 遠藤雄幸(福島・川内村村長)
 木幡ますみ(福島・大熊町議会議員)
 澤田哲生(東京工業大学先導原子力研究所助教)
 竹内純子(国際環境経済研究所理事)
 三浦瑠麗(国際政治学者、政府『成長戦略会議』民間議員)
 吉野実(テレビ朝日報道局原発担当)

やはり3.11で大きな被害を受けた宮城県女川町、光太郎ゆかりの町を舞台にしたドラマも放映されます。

宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ

NHK BSプレミアム 2021年3月6日(土) 22:30~23:30

あの日から10年。人生はシンプルで難しい。

イタリアンレストランを津波で失い、失意のなかアルコールに溺れたオーナーシェフの小野寺潔(草彅剛)。その後、潔は新しく店を建て直し、震災から10年の3月11日に友人を招きある宴席を企画する。潔は突然の招待に戸惑う友⼈たちに、その意図を語り始めるー。そして、宴会が進むなか、発災から10年間のそれぞれの秘めた物語が浮かび上がってくる・・・。苦難があっても前向きに人生を送れるかもしれない。そんな思いになれる極上の群像劇。

出演 草彅剛 吉田羊 國村隼 矢田亜希子 富田望生 一色洋平 齊藤夢愛 蒼波純 古川凜 他

作 一色伸幸  音楽 世武裕子  制作 NHK仙台放送局

035
032
0323
033
034
予告動画を見て驚きました。昨年は新型コロナの影響で女川光太郎祭が中止となり、女川には一昨年夏以来行っておりません。どうもその間に、女川駅裏に高層住宅が何棟か建ったようで、だいぶ風景が変わっているようです。

町の復興は進めど、人の心はなかなかそうもいかない、というわけで、平成31年(2019)に、やはり女川を舞台に制作されたドラマ「女川いのちの坂道」も、そうした内容になっていました。今回の草彅剛さん演じる主人公も、だいぶダメダメ男として描かれる部分があるようです。それも、むべなるかな、ですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后勝治さん自転車で村役場にゆかれ、戦災者としての余への配給もの、アルマイト鍋一個フライパン一個うけとり来らる。


昭和21年(1946)10月11日の日記より 光太郎64歳

「アルマイト」。「懐かしい、いやぁ、死語だなぁ」と思ったら、さにあらず、まだまだ現役でいろいろ販売されているようです。

001古いというほど古い訳ではありませんが、こんな書籍を入手しました。

昭和62年(1987)刊行の『岩手の美術と共に歩んで』。著者は岩手大学名誉教授であらせられた画家の故・佐々木一郎氏(大正3年=1914~平成21年=2009)。版元の記載がなく、おそらく自費出版と思われます。

先頃、花巻駅前の「やすらぎの像」について書きました時に、作者の故・池田次男氏が岩手県立美術工芸学校に学ばれたことを知り、同校について調査中、この書籍の存在を知りました。

佐々木氏は同校の活動を通じて光太郎とも親しく、『高村光太郎全集』にその名が頻出します。さらにこの書籍に光太郎に関する回想等が載っているということですので、購入しました。

手元に届き、開いてみてまず驚いたのは、巻頭のグラビアページ。昭和23年(1948)、美術工芸学校開校の際に光太郎が寄せた、原稿用紙4枚にわたる祝辞がそのままの形で掲載されていました。
002
祝辞自体は『高村光太郎全集』第11巻に収録されており、初めて読んだわけではありませんが、光太郎の文字で読むと、また違った印象でした。

そして、光太郎の写真。
003
キャプションがなく、正確な日付が不明ですが、右に写っている式次第が「校舎落成式次第」となっており、おそらく開校の翌年・昭和24年(1949)の11月17日です。光太郎は前年の開校式には欠席しましたが、校舎落成式には出席したというのが初めて確認できました。というのは、この年の光太郎日記が失われており、11月に盛岡に行っていたことは分かっていたものの、詳細な行動が今一つ不明であるためです。

また、別の日の写真。
005
こちらのキャプションは「高村光太郎先生の講演」とのみ書かれており、年月日は不明です。光太郎が同校で講演(講話)をしたのは、確認できている限り、上記の昭和24年(1949)の11月以外に、昭和25年(1950)の1月と5月、昭和27年(1952)の7月です。手前に写っている生徒たちの服装、夏服と冬服が混在していることから、昭和25年(1950)5月がもっともあり得るかな、という感じですね。

こんな写真も。
004
「校舎落成作品展での高村先生」だそうで。すると、最初の写真と同じ昭和24年(1949)ですね。この写真は花巻高村光太郎記念館さんの説明パネルにも使われていた記憶があります。

グラビアページ以外の本文でも、光太郎に関して随所に触れられています。上記の光太郎が寄せた開校式祝辞、同じく光太郎による「第一回卒業式によせて」(昭和26年=1951)は全文が収録されていますし、「高村先生との出会い」「美校と高村先生」という項があります。

こんな一節が。光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問した際の記述です。

 或日、先生をたずねた時、先生はまだやすんでおられた。掛布団の上に軍隊用の毛布をかけられ、その上を茣蓙で覆うておられたが、すき間からの雪が、休んでおられる先生の体のとおりうっすらと白く積っていて、何とごあいさつしたらよいものか、言葉も出なかった。

寝ている布団にもうっすらと雪が積もることがあった、というエピソードの具体的な証言です。

それから、喀血した血の溜まった洗面器を見せられたことも紹介されています。いつも接していた村人や花巻町の人々などには、結核の件は秘匿していた光太郎も、時折訪ねてくるだけの佐々木氏には隠さなかったのですね。

その他、美術工芸学校に関わったりした、様々な岩手の美術家たちのエピソード等が語られています。深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、森口多里、堀江赳、萬鉄五郎などなど。さらに当方も何度か足を運んだ盛岡市の岩手県立美術館が開館に至るまでの経緯なども。

岩手は美の世界でも日本のホープだと思っている」という光太郎の言葉が引かれています。たしかに、ある意味そういう部分があるのだな、と納得させられる書籍でした。

古書市場等にて入手可能です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

尚二十日清潔法検査日につき十九日に掃除しておくやうにとの事。

昭和21年(1946)9月17日の日記より 光太郎64歳

山小屋を訪れた村人からの伝言です。「清潔法検査」は、伝染病予防などのため、地域の自治会や市町村の担当者が各戸を廻って衛生状態等を点検したことだそうです。

過日ちらっとご紹介した、花巻観光協会さん制作のプロモーション動画「いわて花巻12湯(はなまきじゅうにとう)」について、地元紙『岩手日日』さんが記事にしました。

「ぬぐだまるじゃ…」“鹿”が温泉巡り 花巻12湯プロモ動画公開

001 花巻観光協会は、湯のまち花巻をPRするため、花巻市内の温泉を紹介する「花巻12湯(とう)」プロモーション動画を作成し、公開した。郷土芸能の鹿(しし)踊りの鹿が湯巡りする内容で、テロップで表示する素朴な花巻弁とともに温泉地の魅力を伝えている。
 花巻12湯は、花巻温泉郷にある花巻温泉、台温泉、金矢温泉、松倉温泉、志戸平温泉、渡り温泉、大沢温泉、山の神温泉、鉛温泉、新鉛温泉、花巻北温泉、東和温泉の12温泉地の総称で、2年ほど前から観光PRに使用している。
 動画の作成は、ひなびた温泉街や先人も好んだ趣ある湯治宿、リゾート気分を味わえる近代的な温泉ホテルなど、東北有数の温泉地としてさまざまな特色を持つ花巻の温泉に特化した形でPRする狙い。
 動画は、かつて温泉地と花巻駅を結んでいた花巻電鉄(1971年廃線)に鹿踊りの鹿が乗り込み、いくつかの温泉地を巡って終点の花巻駅に降り立つまでを2分44秒にまとめた。
 二つの源泉を持つ大型リゾートホテルの志戸平温泉、歴史ある温泉街の台温泉、六つの湯巡りが楽しめて宮沢賢治や高村光太郎も訪れたといわれる大沢温泉、深さ1・25メートルの立ち湯が有名な鉛温泉などを紹介。
 鹿踊りの鹿は、太鼓を打ち鳴らしながら温泉地を散策し、花巻温泉そばの釜淵の滝や立ち湯「白猿の湯」の周りでは踊りも披露。最後は湯につかって手足を伸ばし「ぬぐだまるじゃ…」「いうごどねじゃ」と温泉を満喫する。
 1月下旬に動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開後、SNS(インターネット交流サイト)上では「鹿踊りの鹿がかわいい」「電車に乗ったり、温泉に入るのが面白い」「癒やされる」などと好評。公開から約2週間で閲覧回数が3万回を超える人気となっている。
 新型コロナウイルスの感染拡大が観光面にも大きな影響を及ぼす中、花巻観光協会は「予想以上の反響があり、うれしい。動画を見て行きたいと思ったなら動ける時にぜひ訪れてほしい」と話している。

動画はこちら。



「12湯」は以下の通りです。
009
花巻の伝統芸能・鹿(しし)踊りの鹿が、幻の花巻電鉄に乗って、湯巡りをします。
002
003
004
動画で詳しく紹介されるのは5湯。すべて光太郎の足跡が残っています。

志戸平温泉さん、花巻温泉さんに続き、台温泉さん。
005
光太郎が、当会の祖・草野心平と共に泊まった松田屋旅館さんが写っています。

大沢温泉さん。光太郎が最も多く泊まった宿です。
006
007
鉛温泉さん。深さ約1.25㍍、立って入る名物「白猿の湯」は、やはり光太郎が日記回想文に書き残しています。
008
コロナ禍終息後、またのんびり行ってみたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる前花巻町より来りしとて未知の青年来訪。詩をつくり居り、そんな事にて漫然と来訪せらるらし。詩は教へ得るものにあらずといふ事を述べる。


昭和21年(1946)9月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活。この手の迷惑を顧みない招かれざる来訪者が時折あったのも、悩みの種でした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号、昨日は連載「光太郎レシピ」について書きましたが、今号は特集「まちのモニュメント」が組まれていますので、今日はそちらについて。
001 003
市街を中心に、花巻のあちこちで見られる、特徴的だったり、ちょっとおもしろかったりといったモニュメントの数々が紹介されています。

右上の画像は花巻駅前に聳えるオブジェ「風の鳴る林」。斉藤ヒサ氏という方の作品だそうですが、宮沢賢治の世界観からのインスパイアだそうです。

やはり花巻といえば賢治、ということで、多くのモニュメントが賢治がらみですね。
004
見開きのSLは「銀河鉄道の夜」をイメージした、「未来都市銀河地球鉄道」。コンクリートの壁に特殊塗料で描かれており、昼間は輪郭しか見えません。

そして、こちら。題して「やすらぎの像」。
001
平成7年(1995)、やはり花巻駅前に設置されたものです。この年は太平洋戦争終戦から50周年。終戦の年の8月10日にあった花巻空襲で亡くなった方々への、慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。

像の原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

池田氏、絵画が制作の中心でした。平成30年(2018)には花巻市内の萬鉄五郎記念美術館さんで「詩情をつむぐ写実 池田次男展」が開催されました。市内5つの文化施設の共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環でした。

花巻空襲を題材とした、当方手持ちの『花巻がもえた日』という絵本があります。

文は岩手の県立高校に勤務されていた加藤昭雄氏、絵は花巻で絵手紙講師等をなさっていた遠藤市子氏。平成24年(2012)の刊行です。
002
この中で、最終ページに「やすらぎの像」。
003
戦争が終わって六十数年がたちました。
今日は花村ユキさんが「やすらぎの像」の前で小学生に空襲の話をする日です。
「このあたりでたくさんの人が死にました。私たちは何人ものけが人を手当てし、病院まで運んだんです。
十六歳の私に、どうしてそんな勇気や力が出せたのか、今でも不思議でなりません。
何十年も看護師をしてきましたが、あの日のような恐ろしい体験はありませんでした。
この像は、花巻の人たちがお金を出し合って、二度と戦争を起こさないと誓うために建てたものです。
でも、世界のどこかで、今も戦争は続いています。
皆さんは、今日のお話を忘れないで、どうか戦争のない平和な世の中にして下さいね」
ユキさんの目は涙でうるんでいました。


「花村ユキさん」は架空の人物ですが、終戦の年に看護学校を卒業して花巻病院に就職し、空襲の際に身を挺して負傷者の救護に当たった看護師という設定です。実際、モデルになった方がいたのでしょう。

終戦後の9月5日、花巻病院で行われた空襲の際に奮闘した職員の表彰式で、光太郎は彼ら彼女らを讃える詩「非常の時」を朗読し、敬意を表しました。絵本ではそのエピソードも扱われていますし、巻末に「非常の時」全文を引用して下さっています。
005
昨年、この詩がコロナ禍で逼迫する医療体制を支える医療従事者の皆さんへのエールとしても読めるということで、岩手ではちょっとした話題になりました。

感染者数が減少傾向とはいえ、まだまだ予断を許さぬ状況が続いています。そこに立ち向かわれている医療従事者の皆さんには、本当に頭の下がる思いです……。

それにしても、コロナ発生の状況はある意味、防ぎようがなかったかも知れませんが、戦争は人類の叡智をもってすれば、防げるはずです。そうした思いを多くの人が抱き続けるよすがとして、「やすらぎの像」、そしてそこに込められた思い、これからも語り継がれていって欲しいものです。

さて、『マチココ』さん。昨日も書きましたが、
オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

尚花巻広徳寺にゐる多田等観師が余にあひたしといひ居る由にて、圓次郎翁の家にてあふ事。翁の都合次第にていつでもゆく旨返答す。お盆過ぎといふ話。河口慧海さんの友人。チベットに居た僧侶也。

昭和21年(1946)8月2日の日記より 光太郎64歳

「広徳寺」は「光徳寺」、「圓次郎」は「圓治郎」(山小屋近くの住人)の誤りです。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、明治45年(1912)から大正12年(1923)までチベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現・市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、光太郎と交流を持つようになりました。

河口慧海も僧侶にしてチベット仏教学者。
光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流がありました。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号が届きました。
001
平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想文などに書き残された食事の記録から、光太郎が作ったメニューを再現したり、現代風にアレンジしたりというコンセプトです。今号は「酢豚とお粥」。
002
001
酢豚の方は、昭和20年(1945)の日記に「夕食古鹵肉をつくる」とあるのが元ネタです。

昨年の暮れ頃でしたか、こちらの連載に関わっていらっしゃる花巻高村光太郎記念会さんの女性スタッフの方からメールが来まして「古鹵肉って何ですか?」。当方、光太郎はともかく、料理には詳しくありませんが(笑)。

調べてみたところ、国会図書館さんのデジタルデータで答えを見つけました。
002
大正15年(1926)刊行の『手軽に出来る珍味支那料理法』。

そこで、さも以前から知ってましたよ、という顔をして「酢豚のことです」と返信(顔は関係ありませんが(笑))。というわけで、今回の「光太郎レシピ」、当方も軽~く協力させていただきました(笑)。

それにしても光太郎が「古鹵肉」などという語を知っていたというのも不思議です。光太郎の知識や興味は実に多岐にわたっており、まさに「博覧強記」という語がよくあてはまります。

『マチココ』さん、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

明日も『マチココ』24号ネタで(このところまたブログのネタが不足気味なので、卑怯ですが2回に分けます(笑))。

【折々のことば・光太郎】

カツコー、時鳥、此頃更に声をきかず、鴬のみ相変らずさかん也。候鳥已に去りしか。キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイといふやうに鳴く鳥あり。カナカナ終日さかんになく。油蝉もなく。


昭和21年(1946)7月24日の日記より 光太郎64歳

「時鳥」はホトトギス、「候鳥」は渡り鳥です。「キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイ」野鳥好きの方はこれで何の鳥なのかわかるのでしょうかね。

まず、青森十和田とその周辺の情報を扱うネット上のニュースサイト「BUNKKA新聞」さんから。

十和田市郷土館企画展 新収蔵資料展開催 新たに収蔵品となった資料を公開

 十和田市郷土館で1月9日から3月21日迄の期間、企画展「新収蔵資料展」を開催することとなった。
 十和田市郷土館は重要な歴史的文化遺産の収集、保存及び展示を行い、郷土の歴史にちて理解を深めるために昭和43年に設置が決まった。
 市民から全面的な協力を得て資料を収集している郷土館として収蔵品は1万点を超え、平成24年に現在の場所(道の駅奥入瀬ろまんパークを過ぎて西コミュニティセンター(旧十和田湖支所)を左折)に移転した。
 主に考古・歴史・民俗の3分野の展示を行っている。
 《考古》明戸遺跡、寺上遺跡等から発見された縄文時代の土器、石器、土偶、ヒスイ等を中心に展示。土器を実際に触れるコーナーもあり、復元された土器から時代の流れや、当時の流行りなども想像できる。
 《歴史》中世から近現代までの時代の変化を知ることが出来る。苫米地家から寄贈された兜・陣笠・古文書や滝沢家から寄贈された古文書等を展示。軍馬補充部資料も豊富で馬具や当時の日記等もある。
《民俗》昔の生活用品や麻布や絹織り用の器具や製品、漁業や林業等で使われていた道具も展示。昔の農家を再現したコーナーもあり、バッコウやマンガ等の農具を展示している。
 また、十和田湖を愛した文豪、佐藤春夫氏「十和田湖上口吟」が飾られている。佐藤氏は詩人、作家として著名で、三本木高校の校歌を作詞したことが縁となり、十和田湖・奥入瀬渓流の景観に感動したとされる。その後、十和田国立公園指定15周年記念事業にも参加。旧知の仲であった高村光太郎を功労者顕彰記念碑(乙女の像)の制作者となるよう尽力。
 資料展は収蔵品数が豊富で歴史を振り返りながら楽しめる。入場は無料。午前9時から午後5時までの開館で、月曜休館となっている。お問い合わせは...0176‐72‐2340迄
000
調べたところ、詳細は以下の通りでした。

十和田市郷土館企画展「新収蔵資料展」

期 日 : 2021年1月9日(土)~3月21日(日)
会 場 : 十和田市郷土館 十和田市大字奥瀬字中平61-8
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

市民の皆様から寄贈いただいた資料など、新たに郷土館の収蔵品になった資料を一同に集め公開します。ぜひご来館ください。
001
佐藤春夫の「十和田湖上口吟」は、昭和27年(1952)6月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため十和田湖を訪れた光太郎に随伴した際に作られた詩です。

佐藤の『小説高村光太郎像』(昭和32年=1957)から。

 湖畔と湖上とを二日がかりに隈なく周遊して、十和田は晩春首夏、新緑と残紅との最も絢爛な季節であつた。
(略)
 高村氏は湖上でもしきりに感歎の声を上げて、この清澄な水底に水に浸み入る太陽を反射してきらりと光る金色の女体を横臥させて沈めてみたらといふやうな奇想もあつたらしいが「子の口」の地を見つけてここに台座七尺といふ大作をしやうと乗気になり県庁では附近に地を相してアトリエを建ててもよいと言つてゐたが、制作にはやはり田舎は不便だからと、あれほどの執着を見せてその後は例の月光堂やら、離れの書斎などもできてゐた太田村山口の山居をも捨てて、東京に出ようと、思ひがけない決意の程をも見せて一切は急速に確実に決定した。
(略)
 わたくしも、最初の遊覧では僅に奥入瀬だけを歌ひ得て、ただ風景に圧倒されて歌ふすべも知らなくかつ親しみにくかつた十和田湖を、わたくしも今度は、はじめて歌へるやうな親しみを湖上の船で感じ、わたくしは早速に、はじめの二三行を捉へたものであつた。
 その夜わたくしは枕頭で湖上吟を推敲してどうやらまとめることのできたのを手帳に浄写して置いた。
 翌日みんな集つての食事の席で、食後こつそりとこれを隣席の大先輩に示して久しぶりに高教を仰いだ。ほんの即興詩だといふのを、即興詩と呼び捨てるには惜しい構成のしつかりしたものと気に入つてもらへた。おそらく前日来の上機嫌でこの好評を嬴(かちえ)たものと思ふ。
(略)
 さうして感心してゐるわたくしの方へ、おもむろに笑顔を向けながら、佐藤君には今度湖上での名吟ができてゐるのだ。と記者に言つてから、再びわたくしを顧み、どうですあれを見せてやりませんか。言はれてわたくしは自分の部屋に近いのを幸と、座を飛び出してノートを持ち出して来た。高村氏は例の大きな手をひろげてそれを受け取り、003
   ここにして
   わがこころ
   放たれて
   禽(とり)となり
   水潜(みづかつ)ぎ
   魚となり
   湾(わた)に住む
   岸べには
   うちけむる
   ななかまど002
   橅(ぶな) 桂(かつら)
   さみどりの
   したたりて
   瑠璃に溶け
   咲き残る
   躑躅花(つつじばな)
   照り映えて
   十和田湖に
   逝く春は
   絢爛(きららか)に
   ささらなみ
   風光り

 しづかに調子づいて読み終つてから、一行に棒書きにだらだらと書き流してしまつてはいけないのだよ、とノートを記者たちの前へ突き出して見せ、そら、ね、かういふ短い句を、かういふふうにずらつと頭をそろへて並べたところに湖上の水面を見せてゐるのだから。とわたくしのため、記者にねんごろな説明をしてやるのであつた。


引用が長くなりましたが、こういう背景で作られた詩です。色を変えた部分を、のちに色紙に揮毫したものと思われます。

ちなみに「ささらなみ」の部分、原文では「漣」と「⺡(さんずい)」に「奇」で「ささらなみ」とルビが振ってあるのですが、「⺡(さんずい)」に「奇」の字がどうしてもみつかりません。色紙の方では「さゝ羅なミ」となっています。

さて、お近くの方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜ホタルとぶ  昭和21年7月19日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、現在でも蛍が生息しています。当方も平成29年(2017)の7月に、その幻想的な光を見ました。

千葉の自宅兼事務所の近くでも、20年くらい前までは蛍が普通に見られたのですが、農業用水の岸をコンクリートで固めてしまって以来、見られなくなりました。残念です。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為された青森県十和田湖畔での「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 2020-2021 in国立公園十和田湖 十和田神社 by FeStA LuCe」。昨年11月に始まり、先月いっぱいで閉幕しました。
017
上の画像は十和田奥入瀬観光機構さんのサイトから。

閉幕直前の地方紙二紙の記事をご紹介します。まず『デーリー東北』さん

十和田湖光の冬物語、来場者1万人突破/青森

 十和田湖畔休屋で昨年11月から開催している光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 光の冬物語 in 国立公園十和田湖 十和田神社 by フェスタ・ルーチェ」(十和田湖冬物語実行委員会主催)の来場者が25日、1万人を突破した。節目の来場となったのは、十和田市東十二番町の介護士安藤麻紀さん(30)。同神社入り口の鳥居前で記念セレモニーを行い、実行委の中村秀行委員長が安藤さんに記念品を贈呈した。
 毎年恒例の雪祭り・十和田湖物語は今冬、「光の冬物語」としてリニューアル。同神社周辺約1キロのコースを、十和田湖伝説をモチーフにしたイルミネーションなどで演出し、幻想的な空間を創り出している。
 写真共有アプリ「インスタグラム」やテレビCMからイベントを知り、八戸市在住の友人と一緒に足を運んだという安藤さん。中村委員長から記念品として、限定グッズや十和田市の地酒、秋田県小坂町のワインを受け取り、思い掛けない幸運に驚きながら、「最高の贈り物、時間になった」と喜んでいた。
 「光の冬物語」は31日まで。開催時間は午後5~8時。入場は当日1600円、小学生以下無料。問い合わせは専用ウェブサイトか、同実行委=電話0176(75)1531=へ。
015
続いて『東奥日報』さん

「光の冬物語」来場者1万人/十和田

 青森県十和田市休屋地区の十和田神社をメイン会場に昨年11月に開幕した「光の冬物語」の来場者数が25日、1万人を突破し、対象者に記念品が贈られた。
 1万人目は、同市の介護士安藤麻紀さん(30)と、友人で八戸市の看護師沼澤由佳さん(30)。イベント実行委員会の中村秀行委員長らが記念品のオリジナルマグカップや地酒、秋田県小坂町のワインを贈呈した。安藤さんは「テレビCMを見てとてもきれいだったので来てみた。1万人目は予想もしていないこと。友人と最高の時間にしたい」と話した。
 光の冬物語開催は午後5時〜8時、1月末まで。200発の花火が会場を彩る関連イベント「冬花火in十和田湖」を入場者数の制限を設けて28〜30日午後6時すぎに行う(30日は満員)。問い合わせは実行委(電話0176-75-1531)へ。
016
以前は「十和田湖冬物語」として開催されていたイベントが、イルミネーションなどを中心に形を変えて実施されたもので、どうなることかと心配していたのですが、それなりの賑わいだったようで、胸をなで下ろしました。

初めての試みで、来て下さる人がいないと仕方がありませんし、さりとてクラスターを起こしては大変だし、関係者の皆さんのご苦労はさぞ大変だったと思われます。調べてみましたところ、やはりコロナ禍対策ということで、会期中に開催時間の変更などもあったようでした。

記事にあるとおり、地元ではテレビCMも放映されていたのですね。


下の動画、「乙女の像」は1分54秒頃から。

来冬以降、どういう形になるのか未知数ですが、もしまた実施され、さらにコロナ禍が終息するようであれば、ぜひ行ってみたいものです。

関係者の皆さん、お疲れさまでした。

【折々のことば・光太郎】

早池峯に霞かかり山脈の遠近大和絵の如し。平和な村の風景。 暑からず、寒からず、空気かをる如し。
昭和21年(1946)5月4日の日記より 光太郎64歳

終戦後初めて迎えた春。空には爆撃機も戦闘機も飛んでいないわけで、「平和」の語が実感されたことでしょう。

テレビ放映情報です

土曜スペシャル 冬本番! 雪見の名湯&絶景露天風呂SP~いいお湯・夢気分~

地上波テレビ東京 2021年2月6日(土)  18時30分~19時54分

「“冬に行きたい”名湯ベスト10」をご紹介!全国の雪見風呂&絶景が広がる温泉が続々と登場する! 1位に輝いた温泉には、大久保佳代子とたんぽぽ川村の仲良しコンビが来訪。 一度は入ってみたい…誰もが感嘆する絶景風呂を堪能する。落ち着いたら、絶対に行きたい温泉であること間違いなし!
005
▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天
▽雲の上から望む!標高1300mの天空風呂
▽空と海とひとつに!潮風香る絶景の湯
▽大正ロマン漂う湯の郷!夜の雪化粧風呂
▽開湯から1900年!乳白色の雪見温泉
▽川岸に湧く…緑と黒 2色のにごり湯
▽宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天
▽創業140年!国の有形文化財の湯
▽江戸時代から続く湯治場!湯も景色も白い幻想的な世界

出演者 大久保佳代子(オアシズ)   川村エミコ(たんぽぽ)

このうち、「宮沢賢治が愛した!清流の混浴露天」は、おそらく花巻南温泉峡・大沢温泉さんでしょう。賢治は、父・政次郎が関わっていた仏教講習会の場だった同温泉をたびたび訪れていました。子どもの頃の賢治が写った写真も残っています。
006
光太郎も大沢温泉の混浴露天風呂を利用していました。

『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から。

009 大沢温泉は川向きの室で、夜になると豊沢川の流れの音がするし、カジカの鳴声もするし、閑静で、考えごとの仕事などにとてもよいです。湯は体のためにも大変よいし、気分もさわやかになり、病後やけがなどした時は温泉はいいです。豊沢川添いの温泉は、遊蕩的な気分が割になくって、閑静で、落ついてけばけばしさのないことが何よりです。大沢で変なことがありましたよ。泊まったある夜、入浴しようと風呂に行ったところ、中年の婦人がたった一人入っておるんです。みんなが混浴する風呂だから、入っても差し支えないとは思ったが、婦人一人のところに入っていくのもどうかと考えて、その婦人の上がるのを待ちました。ところがまたそこに別の婦人が来て入れ替わりにその人が入ってしまった。おやおやと思ってみたものの、入っていく機会をなくしてしまった。待っているうちにまたも婦人がやってきた。そうこうして一時間半ばかり待ってやっと入れたんですよ。女風呂の風呂番みたいなことを長々やりました。滑稽でしたね。

昭和26年(1951)、村人に語った内容です。笑えますね。

ちなみに少し前、動画投稿サイトYouTubeに、花巻観光協会さん作成の「【岩手・花巻】花巻12湯(はなまきじゅうにとう)プロモーション動画【花巻温泉郷】」がアップされました。


大沢温泉さんの部分(1:11~)では、光太郎の名も出して下さっています。
007
さて、「土曜スペシャル」。他にも光太郎が浸かった温泉が複数取り上げられます。

▽大自然に囲まれる!120畳の雪見大露天」は、おそらく、群馬県みなかみ町の宝川温泉汪泉閣さん。映画「テルマエ・ロマエⅡ」(平成26年=2014 阿部寛さん主演)のロケにも使われ、一躍有名になりました。光太郎は昭和4年(1929)と、同17年(1942)の2回、宿泊しています。どうも2度目に泊まった際の建物、部屋がそのまま残っているようで、いずれ訪れようと思っております。
010
011
上の画像は当方手持ちの古絵葉書、下は不鮮明ながら、昭和17年(1942)、宿の主人(鈴木重郎)と一緒に撮った写真です。鈴木の回想文(『藤原風土記』(安達成之、川崎隆章編 宝川温泉汪泉閣発行)所収「宝川温泉にちなんだ話 高村光太郎氏訪れる」昭和38年=1963)から採りました。
012
また、「▽創業140年!国の有形文化財の湯」は、同じく群馬県みなかみ町の法師温泉長寿館さんと思われます。大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んでいます。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築が有名です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられてここで撮影、話題となりました。
013
014
視聴可能な地域にお住まいの方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜半セキと一緒に廻虫一匹出る。いかの脚の如き弾力ある強靱さなり。三寸五分以上あり。
昭和21年(1946)5月3日の日記より 光太郎64歳

「廻虫」は「カイチュウ」。現代ではほぼ聞かなくなった寄生虫ですね。こうした部分が、光太郎の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしが「自虐的」とも評されるゆえんです。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。1月24日(日)に載ったコラムです 

デスク日誌(1/24):あぁ雪国

 雪化粧した山が快晴の空に映える。美しい。門灯に照らされた銀世界の夜景は幻想的。眺める分にはいいが、雪がしんしんと降り積もれば試練の域だ。
 山形総局は自社の建物。前任者から申し送りされた「大切な仕事」に除草と雪かきがある。着任し初めての冬は昨年12月半ばから早くも雪の日が増え、暖冬の昨季分を含むかのようだ。
 気合を入れ、玄関前や駐車場など朝から雪かきに精を出す。白いウエアに、前任地の塩釜支局で魚市場取材のため購入した白い長靴。以前いた泉支局(現・富谷支局)の時に頂いたラジオ体操や山岳遭難救助隊の赤い帽子に、緑の手袋が定番スタイルになった。
 新雪なら踏みしめる感覚が楽しい。高村光太郎の詩「道程」の一節<僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る>の気分だ。若手だった青森総局時代、「けんかになるから隣の敷地には絶対除雪しないこと」と教わったことも思い出す。ただ除雪車が路肩に残していく雪の塀には閉口する。
 近年では珍しい大雪。候補者陣営関係者も同僚も奔走した山形県知事選は、本日が投開票日だ。どうか荒天になりませんように。
(山形総局長 松田佐世子)

同紙は東北一円を範囲としていますので、山形総局があり、そちらのデスク方がご執筆なさったようです。

やはりこの冬の雪は尋常ではないようで、温暖な房総に暮らしている身としては申し訳ないような気がします。

同じ東北、岩手花巻の高村光太郎記念館さんのブログサイトから、最近の画像を拝借。
000
太平洋側である岩手でこうですから、日本海側の山形は推して知るべし、ですね。左下はウサギの足跡です。

昨年末のこのブログで書きましたが、光太郎が面白いと思って日記にスケッチした通りですね。
004

明日が節分、明後日は立春です。雪国の皆さん、もう少しのご辛抱を。


【折々のことば・光太郎】

晴、風なし、朝やや冷える。露一ぱい。 食前、分教場の近くまで馬糞を拾ひにゆく。塵取りと箒を持ちゆく。

昭和21年(1946)5月1日の日記より 光太郎64歳

畑の肥料のためなのでしょうが、ここまでやっていたのですね……。

地方紙『いわき民報』さんの、おそらく一面コラムなのでしょう。ネットで見つけました 

片隅抄

詩人草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展に足を運んだ。中でも目を引いたのは、高村光太郎賞のブロンズ賞牌(はい)。天平は没後、昭和34年に詩部門を受賞している▼同賞はわずか10年で終えるが、概要や背景を調べる中で彫刻部門に日本を代表する偉大な具象彫刻家、佐藤忠良と舟越保武を見つけ心を躍らせた。両名とも数々の門弟を輩出。本市を代表する北郷悟氏も2人に師事したことは、多くが知るところだ▼小川にアトリエを置き、国内外で活動する湯川隆氏も舟越に師事したひとり。東京五輪を前に、都内のJOC会館にクーベルタン男爵銅像を置くなど年々活躍の舞台を広げている▼豊間に開設する木村眼科クリニックの研修センター「兎渡路(とどろ)の家」では30日、舟越と湯川氏をはじめ国内外の作家たちのグループ展が始まる。それも実際に手で触れていいという貴重な展示。コロナで人数を限るため事前連絡が必要だが、これを機に足を運んでみては。観覧無料。

草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展」は、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中です。

011草野天平は、当会の祖・草野心平の実弟。明治43年(1910)生まれで、心平とは7歳、光太郎とは27歳差です。昭和27年(1952)、42歳の若さで病没しています。右は天平と、妻の梅乃。夫婦ともども光太郎と交流がありました。

そして記事にある通り、没後の昭和34年(1959)、『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞を受賞しました。同賞は、筑摩書房さんから刊行された第一次『高村光太郎全集』の印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和33年(1958)から同42年(1967)まで、10年間限定で実施されました。光太郎が彫刻、そして詩、二つの面で大きな足跡を残したことから、同賞も造形と詩二部門で受賞者を選定することになりました。その第二回の詩部門受賞者が天平だったわけです。ちなみに同じ年の造型部門は、一昨年亡くなった彫刻家の豊福知徳氏でした。

天平のスポット展示が行われているの情報は耳に入っていましたが、光太郎賞の賞牌が展示されているのは存じませんでした。というか、賞牌が同館に所蔵されていたというのも初耳でした。以前にも天平に関するスポット展示がありましたが、その際には賞牌の展示はありませんでした。

こちらが賞牌。
008
010
光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」という短句を刻んだ木皿を原型に、豊周がブロンズに鋳造したものです。

第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞した詩人の田中冬二が授かった賞牌が、山梨県立文学館さんに寄贈されており、閲覧も可能ですが、こちらにもあったのか、という感じでした。探せば他にも公共施設等での所蔵があるのでしょう。逆に、売りに出ていたのをネットで見たことがあり、残念な思いも抱きましたが……。

歴代受賞者は、造形が『いわき民報』さんに記述があった佐藤忠良、舟越保武をはじめ、柳原義達、黒川紀章、建畠覚造、加守田章二、そして先述の豊福知徳など。詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一、金井直、中桐雅夫ら、錚々たる顔ぶれでした。審査員も高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

さて、いわき市立草野心平記念文学館さんでのスポット展示「草野天平」、3月28日(日)までです。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后分教場行。郵便とけとり。勝治さん今日盛岡にゆかれし由。奥さんに日をきく。廿一日、日曜といふ事はつきりする。

昭和21年(1946)4月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、昭和24年(1949)まで電気をひいておらず、ラジオも聴けなかった生活で、時折、日付や曜日の感覚がおかしくなっていたようです。しかし、日付や曜日に追い立てられない生活というのも、一興かも知れません。「勝治さん」は、光太郎を太田村に招いた分教場の教師です。

とけとり」は「うけとり」の誤記と思われます。光太郎の日記には誤字脱字が散見されます。

新刊情報です

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」

2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税

賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!

出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
001
目次
はじめに
 伝え、残したいこと
 含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫010
 大伯父は「賢治さん」
 イギリスとの深い縁
 イギリスびいき
 一族の一員という立場
 縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
 曽祖父・政次郎
 最大の理解者、祖父・清六
 炎天下の「イギリス海岸」で
 祖父と山に登る
 高村光太郎さんと祖父
 志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
 願望としての「雨ニモマケズ」
 「ヒドリ」論争
 「賢治ブーム」のなかで
 「行ッテ」のもつ深い意味
 「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
 大伯父がつなぐ縁
 親子を超えた曽祖父の慈愛
 詩と音楽の協演
 私が好きな作品
 ファンタジーではなくSF
 「ほんとうの幸せ」とは
 ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて


昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。

上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。

016中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。

清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。

さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。

 以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
 子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
 その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。

高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。

やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。

 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。

和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。

 もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
 これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
 つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
 そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。


一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。

この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。

それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。

また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。

現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。

ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。

和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。

そして……

 みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
 このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
 そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
 いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
 自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。


和樹氏ご自身も、

 私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
 だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。


だそうで。

当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。

その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。

たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。

ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。

こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。

昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳

場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。

まず地方紙『東奥日報』さんの記事から

巨大ステンドグラス 制作大詰め/2月下旬、青森空港に設置 原画・森本さん(三沢出身)出来栄え絶賛

  青森県三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都=が原画・監修を担当した大型ステンドグラス「青の森へ」が来月、青森空港に設置される。制作が大詰めを迎えた19日、森本さんは静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房を訪れ、出来栄えを確認した。取材に対し「すごくきれい。想像を超えるクオリティー」と絶賛した。
 ステンドグラスは縦2.4メートル、横11.4メートル。森本さんは、切り絵の原画に、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、太陽のように赤いリンゴ、十和田湖や奥入瀬、白神山地といった青森県の風景を描いた。
 原画を基に工房の職人6人が昨年5月、制作に着手。使用したガラスは約3200ピースにも及び、色は85種類を使い分け、中でもこだわった青系統は25種類を使用した。
 森本さんはこの日、十和田湖畔にある高村光太郎制作の「乙女の像」を描いた部分を自然光で確認し、形を整えるなどした。「毎年、青森に行っているが、昨年はねぶた祭りに行けず悔しい思いをした。作品は青森の方へのラブレターのつもり。この絵を通し新たなつながりが生まれたらうれしい」と話した。
 ステンドグラスは青森空港の公共スペースに2月下旬に設置される予定。今回の設置は、パブリックアート普及や、地元に縁のある作家の作品による地域活性化を目指し、全国の公共施設にアート作品を設置する日本交通文化協会(東京)の事業の一環。森本さんは第4回東奥文化選奨受賞者。
009
010当方、森本さんが表紙を描かれた書籍を一冊持っております。平成27年(2015)刊行の『少女は本を読んで大人になる』(クラブヒルサイド・スティルウォーター編・現代企画室刊)。東京・代官山クラブヒルサイドさんにて、平成25年(2013)から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

光太郎と交流のあった彫刻家舟越保武のご息女・末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」が掲載されており、そのお話そのものも拝聴に伺いました。

森本さんも同じ講座の別の回で「赤毛のアン」を担当され、その筆録も収録されています。

調べてみましたところ、昨年11月にも『東奥日報』さんに今回のステンドグラス「青の森へ」制作の予告的な記事が出ていましたが、その折には「乙女の像」の語が含まれていなかったため、当方の検索網には引っかかりませんでした。

「青の森へ」、パブリックアート制作集団「クレアーレ熱海ゆがわら工房」さんのお仕事だそうです。公益法人日本交通文化協会さんのサイトで、「青の森へ」についての詳細な情報を発見しました

青森空港に大型パブリックアート作品設置 青森出身のアートディレクター森本千絵氏 原画・監修 ステンドグラス「青の森へ」 2021年2月完成予定

 当協会と青森空港ビル株式会社(青森県青森市、代表取締役社長:林哲夫)は、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受け、青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビーに大型ステンドグラス「青の森へ」を設置することが決定しました。2021年2月に完成を予定しています。
 青森空港は、毎年夏に開催される青森ねぶた祭や、青森県立美術館や十和田市現代美術館などへのアート鑑賞、世界遺産の白神山地をはじめとした自然などを目的に国内外から訪れる多くの観光客や、青森県民にとって重要な玄関口となっています。昨年旅客ターミナルビルの大規模リニューアル工事が完了し新しく生まれ変わった青森空港に本パブリックアート作品を設置し、訪れる人々を幻想的な青の光でお迎えします。
 この作品の原画・監修を務めるのは、青森県三沢市出身で、アートディレクターとして企業の広告制作やミュージシャンのアートワークを手掛けるなど多方面で活躍している森本千絵氏。青森県が誇る青森ねぶた祭のねぶたや跳人(ハネト)と呼ばれる踊り手、太陽のような赤いりんご、十和田湖や奥入瀬や白神山地など、人々を魅了してやまない青森の風物風景が表現されています。そして、森本氏が青森空港のために特別に制作した切り絵をもとに、「クレアーレ熱海ゆがわら工房」(静岡県熱海市)で6人のステンドグラス職人が製作します。
 本作品を空港利用者の大半が利用する場所に設置することで、多くの利用者に青森の風情を鮮烈に印象づけ、より一層の賑わいや心地よさをご提供できると考えています。設置後には、青森空港にて完成披露除幕式を行う予定です。

※このパブリックアートは、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受けて整備されています。

○当事業の目的
①アートディレクター・森本 千絵氏の切り絵をもとにしたステンドグラス作品により、パブリックアートの普及を促進
②パブリックアートを通じて気軽に芸術に慣れ親しむことで、人々の心を和ませ、元気づける空間を創出
③青森県に縁のある作家の作品によって地域の活性化、観光開発に貢献

○題名 「青の森へ」
○原画・監修 森本 千絵氏
○設置場所 青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビー
○規模と仕様 縦2.4m×横11.4m
○ステンドグラス製作
クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市泉230-1)
建築家・隈研吾氏の設計によるクレアーレ熱海ゆがわら工房はステンドグラススタジオ、釉薬研究施設、焼成サンプル室、ショールームなども完備され、数多くのアーティストとのコラボレーションが展開される第一級のパブリックアートの創造拠点です。
○作家プロフィール 森本 千絵(もりもと・ちえ)
アートディレクター・コミュニケーションディレクター・武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科客員教授
1976年青森県三沢市で生まれ、東京で育つ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を経て博報堂入社。2007年、もっとイノチに近いデザインもしていきたいと考え「出会いを発見する。夢をカタチにし、人をつなげる」をモットーに株式会社goen°(ゴエン)を設立。現在、広告の企画、演出、商品開発、ミュージシャンのアートワーク、本の装丁、映画・舞台の美術や、動物園や保育園の空間ディレクションを手がけるなど活動は多岐にわたる。ニューヨークADC賞、東京ADC賞グランプリ、伊丹十三賞、日本建築学会賞など多数受賞。

「青の森へ」の原画も掲載されていました。
013
上記『東奥日報』さん記事ではよく判らなかったのですが、かなり横長の作品なのですね。そしてほぼ中央に「乙女の像」。ありがたいことです。

当方、青森へも時々足を運びますが、いつも新幹線です。今度はこれを観るために空路を使ってみようかな、などと思いました。ただ、あまり飛行機に搭乗するのは好きではありませんで……(笑)。「あんな重たいものが空を飛ぶはずがない」などと非科学的なことは言いませんが、着陸態勢に入った際のツンツンツンと少しずつ高度を下げていくあの感覚が気持ち悪いのです。20年以上前になりますが、北海道に飛んだ際、濃霧のため新千歳空港になかなか着陸出来ず、1時間程も上空を旋回したことがあり、その際は酔いそうでした(笑)。

さて、続報に注意していたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

〈(前の水田で蛙がしきりに啼く。美しき声なり。)〉〈夕方蝙蝠一匹軒をとぶ〉

昭和21年(1946)4月9日の日記より 光太郎64歳

田舎あるあるですね(笑)。当方も、以前、古い友人から夏の夜に電話がかかってきた際、受話器を通しても友人の耳には蛙の声が凄かったそうで「お前、どんな所に住んでるんだ?」と言われました。こちらは蛙の合唱など、慣れてしまってまったく気にならなかったのですが(笑)。

ついでに言うなら、コウモリも時折見かけます(笑)。

『朝日新聞』さんの投稿短歌欄。全国での入選作は、毎週日曜日に「朝日歌壇」として、俳句の「朝日俳壇」とともに掲載されています。かつては石川啄木、窪田空穂、島木赤彦、佐佐木信綱、斎藤茂吉らもその選に当たっていた、伝統あるコーナーです。

全国の選に漏れたものなのか、それとも別口で募集しているのか、寡聞にして存じませんが、地方版にも「歌壇」欄が掲載されています。

少し前ですが、1月15日(金)、当方自宅兼事務所のある千葉県版のもの。
001000
智恵子の名を詠み込んだ歌が一首。曰く

 福島の旅に見上げるあかね雲智恵子の愛でし空に続くか

いい歌ですね。

「福島の旅」ということですが、智恵子の故郷・二本松で詠まれたものではないのでしょう。二本松での詠歌であれば、そこに広がる空が「智恵子の愛でし空」そのものです。少し離れた場所、しかし同じ福島県内ということで、「智恵子の愛でし空に続くか」とされているのだと思われます。

それを言ったら、空は地球上、何処へでも繋がっていますが、そうすると「続く」とはならないわけで、そのあたりが巧いと思う所以です。

言わずもがなかも知れませんが、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」へのオマージュですね。

ところで、欄外に編集部よりの「おことわり」の文言。

「歌壇」「俳壇」は、新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言に伴う編集作業の都合により、しばらく休載します。投稿の受付も休みます。再開の時期については改めて紙面でお伝えします。

とのこと。「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いましたが、考えてみればさもありなん、です。

例年11月頃、当会として、皆様からお送りいただいた郵便物に貼られていた切手を切り取り、JOCS日本キリスト教海外医療協力会さんに送っていたのですが、昨年はやはりコロナ禍のため、切手等を整理するボランティアさんの活動を休止せざるを得なくなり、現在、受付を停止中とのこと。似たような例ですね。

また、短歌ということになると、これも例年1月に開催されていた「宮中歌会始」。こちらもコロナ禍のため延期だそうで、「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いました。

歌会始といえば、平成25年(2013)の歌会始では、福島郡山の方が詠んだ下記の歌が入選しました。

 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

上記「朝日歌壇」の歌同様、『智恵子抄』からのインスパイアが入っているという作です。

光太郎が「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳ったことが、人々の記憶から無くなってしまうと、特に「朝日歌壇」の歌などは成立しなくなってしまいます。「智恵子って誰?」、「何で空を愛でるの?」ということになってしまいます。
000
そうならないためにも、光太郎智恵子の顕彰活動、心して続けていかねばと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

昨日の川鍋東策氏よりのテガミにより、草野心平君の消息わかり、又黄瀛の生きてゐた事もわかる。
昭和21年(1946)4月6日の日記より 光太郎64歳

心平は戦時中、中華民国中央政府(汪兆銘政権)顧問として中国に居り、この年3月末に帰還。黄瀛は対立する国民政府軍の将校でした。交流の深かった二人の健在を知って、安堵したのでしょう。ただし、黄瀛はのちの文化大革命で投獄。生前、光太郎と再び相まみえることは叶いませんでした。

1月4日(月)のこのブログでご紹介しました岩手県としての「いわてモー!モー!プロジェクト2021」。その時点ではまだだった詳細が、1月7日(木)に発表されていました

「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」について 

012
令和3年(2021 年)の丑年に合わせ、「うし」で岩手を盛り上げながら各種事業を総合的に展開する「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」のプロジェクト全体概要やPRキャラクターについて、お知らせします。 

1 プロジェクト全体概要
 モー!っと育てよう/産地支援プロジェクト
  本県畜産業の産地力強化に向けた取組を支援します。
   ゲノム評価に優れる県有種雄牛の造成
   県有種雄牛の魅力を全国の生産者へPR
   全国和牛能力共進会鹿児島大会に向けた生産者の取組支援
 モー!っと食べよう/消費拡大プロジェクト
  トップセールスや、いわて牛・いわて短角牛、乳製品などの消費拡大イベント等を実施し
  ます。
   民間企業との連携による、全国的な乳製品イベント開催
   トップセールスや有名シェフとの連携等によるPRの実施
   民間企業との協働による、いわて牛商品開発や販売支援
   いわて牛取扱推奨店との協働によるフェア開催
   県内小中学校を対象とした「いわて牛・いわて短角牛学校給食の日」実施
 モー!っと楽しもう/体験・交流プロジェクト
  観光等との連携による牛と親しむ体験・交流事業等を促進します。
   東北DC※を契機とした、体験型産地ツアー等開催
   旅行会社との連携による、牛関連施設を巡るコース提案(くずまき高原牧場、小岩井農
    場、牛の博物館など)
   「塩の道」「闘牛大会」等との連携によるフードツーリズムの促進
   ※東北デスティネーションキャンペーン(2021.4.1~9.30)
 モー!っと伝えよう/ブランド強化プロジェクト
  県産牛や乳製品の美味しさや、プロジェクトの取組等の情報を国内外へ発信します。
   アジア・北米・豪州等に向けた、いわて牛PR
   県内外百貨店におけるいわて牛や県産品のPR
   県内スポーツプロチームとの協働による、いわて牛等のPRや牛肉・乳製品販売
   公式サイトの開設
   応援ソング制作・配信、オリジナルピンバッチ等PRグッズ制作

 ※ 県が中心となって、JA全農いわて等の関係団体や民間企業との連携により実施します。
008
2 PRキャラクター 
 チャンプくんとそばっち
[説明]
・ 「チャンプくん」は、第 7 回全国和牛能力共進会のPRキャラクターとして平成 9 年に誕生し、以来、いわて牛普及推進協議会のPRキャラクターとして活躍
・ 今回、岩手県イメージキャラクター「そばっち」との異色のコンビとして起用
000
やはり今回も光太郎がらみで発表がありました。ありがたく存じます。
011
1月7日(木)の達増岩手県知事の定例記者会見で、事業の詳細が発表され、その中でも光太郎について触れて下さいました(9分03秒くらいから)。
曰く、

そして、やはり今年はうし年ということから話を始めたいと思います。岩手ゆかりの詩人、高村光太郎さんが「岩手の人」という詩を書いています。岩手の人は牛の如しということで、いろいろ慎重に歩んで、ついに成すべきを成すというふうに結ばれています。新型コロナウイルス対策もあります、慎重に歩みを進めて、しかしやるべきことはやると、ついに成すべきを成すというような、そういう年にしたいと思います。

なるほど。

今後も光太郎がらみで推進していただければ、と存じます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

〈朝山鳩の声をきく〉〈(雪解水の流れる音が一面にきこえる。)〉


昭和21年4月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、ようやく遅い春がやって来た、という感じですね。

昨日は、大学入試共通テストについて書きましたが、先月5日には、一般の方対象に、花巻観光協会さん主催のご当地検定「はなまき通検定」が行われました。その際に出題された問題が、同会のサイト上で公開されましたのでご紹介します。

問題は全50問で、そのうち、直接光太郎に関わる問題が3問含まれていました。このブログをいつも読んで下さっている皆さんには、お茶の子さいさい(死語ですね(笑))の設問でしょう。

【問題35】
昭和16年(1941 年)に出版された、高村光太郎が夫人智恵子に対する思慕や二人の生き方の希望などを表現した作品集のタイトルは次のうちどれか。
1 智恵子抄
2 智恵子抄その後
3 案内
4 道程

【問題36】
高村光太郎が高村山荘で生活するなかで、唯一彫刻刀を使い便所の明り取りとしてくり抜いたといわれる文字は次のうちどれか。
1 道
2 智
3 高
4 光

【問題37】
高村光太郎記念館の近くにある「雪白く積めり」の詩碑を鋳金した人間国宝の鋳金家、高村豊周と高村光太郎の関係として正しいものは次のうちどれか。
1 高村光太郎の弟
2 高村光太郎の甥
3 高村光太郎の息子
4 血縁関係はない

念のため、正解を記しておきますと、【問題35】は「1 智恵子抄」、【問題36】が「4 光」、そして【問題37】で「1 高村光太郎の弟」ですね。
013
012
014
3枚目の画像、左から光太郎の父・光雲、豊周、そして光太郎です。

また、「光太郎」の語は含まれていませんが、こんな問題も。

【問題 6】
令和2年8月7日にオープンした花巻市内にある「道の駅」は次のうちどれか。
1 道の駅とうわ
2 道の駅石鳥谷
3 道の駅はなまき西南
4 道の駅はやちね

正解は「道の駅はなまき西南」。愛称が「賢治と光太郎の郷」ですね。
015
この「はなまき通検定」、6年ぶり4回目の実施だそうです。初回は平成24年(2012)、この際は68人が受検し、合格者わずか1人という超難関。翌年の2回目では難易度を見直したところ、89人受検で59人合格。第3回は平成27年(2015)に実施され、56分の7の合格だったとのこと。そして今回は、42名の方がチャレンジし、合格は22名だったそうです。全50問(1問2点、100点満点)で、合格基準は80点以上とのことでしたが、やはりそう簡単ではなかったようですね。

ちなみに当方、光太郎に関わる問題以外は、宮沢賢治関連、温泉関連などはほぼほぼ大丈夫でしたが、次のような問題はお手上げでした(笑)。

【問題17】
毎年2月11日に花巻市で開催されている「わんこそば全日本大会」の横綱歴代最高杯数は次のうちどれか。
1 158杯
2 208杯
3 258杯
4 408杯

ちなみに正解は「3 258杯」だそうで(笑)。

こうした取り組みもいわゆる「町おこし」に有効でしょう。全国自治体等の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】003

ツマゴをはいてゆく。雪相当につもりてツマゴを没す。あるきにくし。

昭和21年3月11日の日記より 光太郎64歳

「ツマゴ」は藁で編んだ雪靴。光太郎が暮らした花巻郊外旧太田村山口地区でも、現在では作れる人があまりいなくなってしまった由、聞いたような記憶があります。

画像は翌年、令甥の髙村規氏に送ったはがき。ツマゴが描かれています。

まず地方紙『岩手日報』さんの記事から

光太郎ランチ弁当を開発した「ミレットキッチン花(フラワー)」の代表 本舘博子さん

002 彫刻家で詩人の高村光太郎の日記を基に、地元の食材をふんだんに用いる光太郎ランチ弁当を開発。花巻市轟木の道の駅はなまき西南で毎月15日に限定販売している。「人が集まり、にぎわう地区にするため食からサポートしたい」と意気込む。
 同市轟木出身。子どもの頃は自宅裏山で竹スキーをしたり、ゴム跳びをして遊んだ。「ジャンパースカート」に憧れ、当時女子高だった花巻南校に進学。友達の推薦で応援団リーダーになり、華やかな校風ながら「あえてビリッと厳しい態度を取っていた」と笑う。
 盛岡市の盛岡中央職業訓練校の事務科で和文タイプライターや簿記、珠算を学び、花巻商工会議所に就職。結婚を機に退職し、旧笹間、花巻農協で金融関係の業務に長く携わった。
 農協女性部の活動で雑穀料理のレパートリーを広げる活動や幼児の食育に取り組んだ。「地域の人と接する機会が増え、人生が豊かになった」と振り返る。
 かごや花器に自由に花を飾るフラワーアレンジメントが趣味。「花を見ていると心が安らぐ」と自宅には生花を絶やさない。花巻市北笹間で夫、次男夫婦と4人暮らし。

光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋近くに昨年オープンした、道の駅はなまき西南さんのテナントで、記事にある通り毎月15日に限定販売の「光太郎ランチ」産みの親の方です。高齢者向けに弁当の宅配などの事業もなさっているそうで、頭が下がります。

さて、今月の「光太郎ランチ」。下記のメニューだったそうです。
001
さらに画像も花巻光太郎記念会の女性スタッフの方から送っていただきました。
DSC060930001
DSC060890003
DSC060910002
美味しそうですね。

実際に召し上がっての感想は、特に大根とソーセージのケチャップ炒め、イカとキャベツの酢味噌和えが特に美味しかったとのこと。

フルーツは、キウイを煮たものとミカンだそうです。また、メニューにありませんが、塩こうじ入り玉子焼きもリクエストして入れてもらい、ボリューム満点だったそうで。これで定価は800円。十分に元は取れそうですね(笑)。

ちなみにボストンビーンズは、光太郎が明治末の海外留学中に作り方を覚え、現地でもよく食していたものです。その他も、記事にある通り、光太郎の日記などから着想を得てのメニューで、こじつけではありません。
003
そういう意味では、なかなかメニューを考えるのも制約があって大変だと思いますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる食、ソバ粉をスルメをつけてある汁にてとき、飯盒中皿に入れてむす。一種のパンとなる。味淡泊にてあしからず。バタでくふ。 こいか漬けを仕込む。大根千六本、刻みスルメ、せん切コブ、それに伊藤光富久氏よりもらつたアラレ(焼米と黒豆)をも入れる。唐辛子。醤油を補充す。


昭和21年3月3日の日記より 光太郎64歳

ついでですので、この項も食事内容で。昭和21年(1946)から翌年の春ぐらいまでは、細かに作ったメニューを記録しています。この日もこれ以外に朝食、夕食の品目をすべて書き残しました。

そば粉パン、光太郎の得意料理の一つとなりました。「大根千六本(せろっぽう/せんろっぽん)」は、マッチ棒ほどの太さに刻んだもので、味噌汁の具などに使いますね。これも光太郎の好物の一つでした。

地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から、掲載順に2本

まずは元日の紙面から。

困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙

 文学者や芸術家、政治家らが後輩に宛てた手紙、若い日をつづった手紙…。明治以降の盛岡ゆかりの著名人の書簡、原稿などを収集する盛岡てがみ館(及川政己館長、盛岡市中ノ橋通)の資料から、コロナ禍を乗り越えようとしている中高生ら若い世代に触れてもらいたい手紙を紹介する。先人たちの自筆の手紙には、それぞれの時代の息遣いとともに、困難の中から見いだした希望も感じさせる。

高村光太郎【「岩手山の肩」の原稿 昭和22(1947)年作、同23年発表】
 「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ。あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
 終戦後に花巻市に疎開し、農民のような暮らしをしながら、多くの作品を生んだ詩人・彫刻家の高村光太郎(1883-1956)。「岩手山の肩」は、稗貫郡太田村(現花巻市)で過ごした7年間のうち、2度目の冬を迎えた1947(昭和22)年の12月に書き上げられた。岩手山をのぞむ、岩手人への力強いメッセージとして、翌48年1月1日付けの「新岩手日報」に発表された。
 20年4月の空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、花巻の宮沢家に疎開。同年11月から「山口」という集落の山小屋をすまいとし、山口小学校(当初山口分教場)に自ら寄贈した幻灯機で幻灯会を開くなど、子供たちとも積極的に交流した。同小において、盛岡市にあった県立美術工芸学校の生徒に講話をしたり、同校の卒業式に祝辞を寄せたりと、岩手の教育にも心を傾けていた。
 「岩手山の肩」について、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんは「戦後の復興の意味も込めて書かれた詩と思われるが、『も一度天地に立て』と、コロナ禍のいまも響くものがある」と話す。
 光太郎は十和田湖畔のモニュメント制作のため岩手を離れてからも、1955年までは太田村に住民票を残した。「制作が終わったら山口に帰るつもりでいた。岩手に強いシンパシーを感じていたのだろう」と語った。
003
この後、金田一京助、田子一民、舟越保武・道子夫妻、そして石川啄木が紹介されていますが、そちらは割愛します。

当方のコメントが載っていますが、先月はじめに盛岡に行った際に取材を受けました。詩「岩手山の肩」の原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、盛岡にお立ち寄りの際には是非ご覧頂きたく存じます。

続いてもう1件、1月7日(木)掲載の記事。

「高村光太郎と共に」自費出版 盛岡市小杉山の加藤千晴さん 24歳時の肖像など紹介 哲学の視点交え生き方つづる

000 盛岡市小杉山の加藤千晴さん(72)は、本県ゆかりの彫刻家・詩人の高村光太郎(1883―1956)の生き方、父・高村光雲や縁のある人々について、哲学の視点を交えてつづった「高村光太郎と共に」(B6判、41㌻)を自費出版した。光太郎が米国ニューヨークに留学中、幼なじみである加藤さんの祖母・金谷ふゆ(60年に82歳で逝去)に送った24歳のポートレートなどを紹介し、青年期の心についても解説。「驚きは芸術の始まり。若い人たちに光太郎の心意気も知ってもらいたい」と話す。
 加藤さんは、ふゆの娘の照さん(104)=樺太・豊原生まれ、旧姓金谷=の長男。静岡大学大学院を修了し、東京芝浦電気の半導体プロセス開発に従事。定年退職後に盛岡市に帰郷し、照さんの話や光太郎に関する資料を少しずつまとめた。
 「あまり知られていない光太郎さんの姿を知ってもらいたい」と、金谷家の女性たちやゆかりの人々についてつづった「光太郎と女神たち」(花巻高村光太郎記念会発行)を2017年に発行。併せて、県立盛岡短大(現県立大盛岡短期大学部)教授などを務めた父の故・千代司さんの残した講義ノートなどを通じて、哲学にも関心を持つようになった。
 本書は「光太郎と女神たち」の姉妹版ともいえ、Facebook(フェイスブック)に投稿した光太郎の話題を再編集。彫刻家の父・光雲が師事した高村東雲のエピソードや光太郎の言葉から考える「美の力」、戦後に花巻に疎開した光太郎と照さんとの交流などについて、書簡などの資料も合わせて紹介した。
 加藤さんが「若い人たちに伝えたい」と取り上げたのが、「紐育(ニューヨーク)の光太郎」のエピソード。
 1906(明治39)年、留学先のニューヨークで撮影したと思われる若き光太郎の肖像を「若さのエネルギー、ここには夢があります」と紹介する。
 一方で、世界を見て帰国した光太郎は日本の芸術界に受け入れられず、アイデンティティー崩壊の危機にあったと解説。「認められない寂しさのはけ口の一つが詩で、後にそれらをまとめたのが『道程』」と話す。
 同詩集は、後に芸術院賞受賞。自己崩壊の危機から救い出してくれたのが(後に妻となる)智恵子だったと光太郎が回想録に記していることにも触れた。
 「アイデンティティーの崩壊という青年期に直面する問題から、どのようにして自分を救っていくのか、光太郎の姿からも見ることもできる。若い人たちの勇気にもなるといい」と願う。

光太郎の従妹(いとこ)に当たる加藤照さんの子息・千晴氏による『高村光太郎と共に』が11月に自費出版され、その紹介です。

照さんには平成28年(2016)に一度お会いしましたが、104歳になられ、まだお元気のようで、何よりです。

「岩手山の肩」、そして光太郎自身の生き様、そういったものが若い人たちの生きる指針と成るようでしたら、望外の喜びですね。

【折々のことば・光太郎】

風もなし。湯のたぎる音しづかなり。


昭和21年(1946)1月30日の日記より 光太郎64歳

雪に覆われた太田村の山小屋、おとなう人もない時には、まさしく静寂に包まれていたのでしょう。

状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
003
県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/
つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
000
ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
004
09B0E7E1-A499-4617-84ED-89E782C742AC-e1609226077677 B1D6BBA5-C775-42FF-8254-7F83544C52B8-e1609226112937
60443D0F-F0CB-448D-B48D-1CB02B757265-e1609226095434   A3393931-045C-4BA2-9DB3-5149825A25A0-e1609226128695
この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
040
041
昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2020文集』が届きました。

基本、11月に行われた「智恵子講座2020」(当初、今月20日にも予定されていましたが、そちらは中止になったようです)に参加した方々の感想集的なものですが、それ以外の会の活動報告的な内容、それらが取り上げられた地方紙のコピーなども載っています。
KIMG4592 KIMG4594
001
寄せられた原稿をそのままコピーして綴ったものですので、手書きの原稿も多数。

KIMG4593
この手作り感があたたかみを感じさせます。

当方も講師として参加させていただきましたので、何か書くようにというお達しがあり、講座終了後に宿泊した岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんに関して。
無題
扇やさんでは、新たに入手された光太郎書と智恵子の紙絵の実物が飾られており、さらに展示はされていないものの、光太郎の生写真なども所蔵されています。

実際に見てみるまでは不確かな情報でしたので、講座の中ではその件には触れませんでした。そこで、この場を借りて紹介し、二本松の皆さんにぜひご覧頂きたいと思った次第です。

来年は『智恵子抄』初版の発刊(昭和16年=1941)から80周年の記念の年(ということはイコール太平洋戦争開戦80周年でもありますね。幼稚なネトウヨが大喜びしそうで今から憂鬱です(笑))なので、夢くらぶさんとしても、さまざまなイベントを考えられているようです。その計画案も載っていました。
003
『智恵子抄』、それから『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)等所収の詩の人気投票的な「「智恵子抄」総選挙」、「「智恵子抄」安達太良キャンプ」(この中でまた講座の講師をやれといわれております)、そして第2回「「智恵子抄」朗読全国大会」(第1回の模様はこちら)などなど。

それぞれまた詳細が出ましたらご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

夜度々おきる、 暁天に廿八九日の細き弦月を見る。甚だ凄し。


昭和20年(1945)11月2日の日記から 光太郎63歳
005
田舎では今でもそうですが、月明かりのない夜は本当に真っ暗です。ましてや終戦直後の花巻郊外旧太田村、夜の闇はまさに「漆黒」だったことでしょう。

すると、いきおい、光太郎の目は夜空に向けられたのだと思われます。日記には天体に関する記述が頻出しています。東京住まいの長かった光太郎には、光害のほとんどない場所で見る月や星の美しさは、実に新鮮だったのでしょう。

先週の『読売新聞』さんの岩手版に8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

いわて経済便 地域の「食」支える道の駅 はなまき西南 高齢者へ弁当宅配も

 県内で特色のある道の駅が増えている。花巻市の「はなまき西南」は、道路利用者へのサービスに加え、スーパーがない地元住民の暮らしを支える役割も果たしている。
 同所は、県内34番目の道の駅として8月にオープン。市中心部から西南に約7㌔・㍍離れた田園地帯にあり、近くには彫刻家の高村光太郎が終戦後の一時期、暮らした山荘が残る。この山荘や温泉地にやって来た観光客がターゲットだ。施設内には高村のほか、花巻生まれの詩人・宮沢賢治の写真や詩が掲げられている。
 同時に力を入れているのが、地区住民への生活のためのサービスだ。
 西南地区では6年前、唯一のスーパーが閉店。住民の中には、隣の北上市まで買い物に行かざるを得なくなった人もいる。
 閉店の前後から、地元の住民組織が道の駅誘致の運動を始め、「高齢者などが気軽に立ち寄れ、買い物もできる場所」にするよう市に訴えた。さらに住民ら約170人が出資して株式会社「はなまき西南」を設立し、道の駅の運営を担うことになった。
 同社がテナントに迎えたのが、JAいわて花巻の農産物直売所「すぎの樹」。道の駅オープンに合わせ、地区の別の場所から移転した。観光客向けに漬け物などの土産物を販売する一方、住民ニーズの高い野菜や果物などの生鮮食料品も維持した。「車で中心部に出られない高齢者を意識した」(JAの担当者)という。
 「以前は市中心部のスーパーで買い物していた。近くで買えるようになって便利になった」。近くに住む男性(52)は出店を喜ぶ。
 さらに、買い物が困難な高齢者のため、道の駅を拠点に、弁当や総菜の宅配サービスも始まった。
 地元の女性たちで作る加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」は、元々ボランティアで、宅配活動を行ってきた。これを事業化し、規模や配達地域を拡大。地元産野菜をふんだんに使い、道の駅でも店頭販売している。代表の本舘博子さん(70)は「高齢者を見守りながら、一般のお客さんにも飽きのこない味を提供したい」と意欲を見せる。
 隣接地には10月、地区初の大手コンビニチェーン店もオープンした。安藤功一駅長(62)は、「コンビニと産直の組み合わせで、スーパーに代わる役割を果たすのが目標。外からの利用者と住民の両方を意識し、品ぞろえを充実させていきたい」と話している。

県内の特色ある道の駅
 くじ(久慈市) 久慈秋まつりの山車などを展示 
 三田貝分校(岩泉町) 廃校になった分校の跡地を利用
 石神の丘(岩手町) 彫刻美術館に隣接。緑豊かな立地
 雫石あねっこ(雫石町) 日帰り温泉施設を併設
 とうわ(花巻市) 温泉と宿泊施設を併設
 遠野風の丘(遠野市) 沿岸被災地の鮮魚を売る店舗併設
 厳美渓(一関市) 伝統の餅料理を提供
003
なるほど、オープンの裏側にはこういう経緯があったのかと、納得させられる記事でした。

紹介されている「ミレットキッチン花(フラワー)」さんは、毎月15日、限定販売の「光太郎ランチ」も手がけられています。

今月の「光太郎ランチ」はこんな感じ。花巻高村光太郎記念会さんから画像を頂きました。
012
010
美味しそうですね。

この取り組みも地域活性化に一役買い続けていってほしいものです。

001【折々のことば・光太郎】

栗をひろつてやいてくふ。美味限りなし。


昭和20年(1945)10月19日の日記より 光太郎63歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、初めて囲炉裏で火を起こし、最初に手がけたのが焼き栗でした。

一昨日の『岩手日報』さんから、花卷高村光太郎記念館さんで開催中の「光太郎と佐藤隆房」の報道をご紹介します。花巻市内五つの文化施設で「令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」として行われている一環です

花巻疎開の縁たどる 高村光太郎記念館展 尽力した佐藤博士紹介 人柄伝わる水彩画も

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎(1883~1956)と花巻共立病院(現総合花巻病院)設立者で、初代院長の佐藤隆房(たかふさ)博士を紹介する企画展を開いている。光太郎の花巻疎開に尽力し、暮らしを支えた佐藤博士。2人の軌跡を貴重な色紙や写真でたどっている。
 佐藤博士の水彩画に光太郎が文章を書き添えた色紙4枚を中心に、関連資料や解説パネル計25点を展示。リンゴの絵に光太郎が「ひかりをつつむ」と書き添えた色紙からは、2人の人柄が感じ取れる。
 佐藤博士は宮沢賢治の主治医で、賢治の死後に同市桜町の「雨ニモマケズ」詩碑の建設委員長を務めた。その際に光太郎に揮毫(きごう)を依頼。1944(昭和19年)には、花巻疎開前野光太郎を東京の自宅に訪ね、詩碑の詩文に脱字があり追刻を依頼したエピソードも紹介されている。
 光太郎が佐藤博士の邸宅の離れ「潺湲楼(せんかんろう)」に滞在していた時に愛用した椅子は風格が漂い、息子で同病院長を務めた佐藤進さん(2019年10月死去)を交えた3人の写真は、家族ぐるみで親交があったことを伝える。
 佐々木館長(55)は「佐藤博士の絵に光太郎が画賛した色紙は大変貴重な品だ。花巻疎開の縁をつくってくれた人物でもあり、功績を紹介し身近に感じてもらいたい」と語る。 同展は来年1月25日まで。12月28日~1月3日休館。午前8時半~午後4時半。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
003
しれっと一般人のような顔をしていますが、写真は市役所の方と当方です(笑)。

記事にある通り、期間は来年1月25日(月)まで。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡より池野のぶ子女史来訪、草木染の和紙をもらふ。及川全三といふ人の話をきく、メーレー夫人の毛布見せる。


昭和20年(1945)9月24日の日記より 光太郎63歳

「メーレー夫人の毛布」は、過日、花巻高村光太郎記念館さんで開催された「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」他で展示された、イギリスの染織工芸作家、エセル・メレ作の毛布です。「及川全三」は花巻郊外土沢で工房を開いていたホームスパン作家。のちに直接会って交流を深めます。

「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、50日間の開催で1,950人の入場者だったそうで、コロナ禍の中ではまずまずというところ、という判断とのことでした。

智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山の、あだたら高原スキー場から出されたプレスリリースです

「あだたら高原スキー場」12月26日(土)営業開始!「雪だるまカレー」や「ADTR(あだたら)丼」など、“ゲレンデ飯”が充実!

 富士急安達太良観光株式会社では、「あだたら高原スキー場」(福島県二本松市)の今シーズンの営業を、2020年12月26日(土)より開始いたします。

 あだたら高原スキー場は、最大傾斜28度の緩急ある「ベガコース」やスキー競技大会で使用される「アンドロメダコース」をはじめ、バリエーション豊かな7種類のコースがあり、ファミリーから上級者までお楽しみいただけます。また、ゲレンデには広々とした雪遊び広場や、ソリ遊びやチュービングが楽しめるキッズパークがあり、小さなお子さまでも安心して遊ぶことができます。そして、スキー・スノーボードを楽しんだ後は、安達太良山麓に広がるさわやかな高原の日帰り温泉施設「あだたら山 奥岳の湯」で、疲れた身体を癒すこともできます。

 本年は食事タイムもお楽しみいただけるよう、新たに4種類のメニューを販売いたします。がっつり食べたい方には、唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華に盛られた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さまにも満足していただけるよう、自分でデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」や、冷えた体を温める「マシュマロココア」などが登場いたします。

 さらに、お得にスキーやスノーボードをお楽しみいただけるよう、マイカーでお越しの方向けに、高速道路のETC利用料金が割引になる「ドラ割ウィンターパス2021」も実施いたします。

 また、年末年始には年越しそばを振る舞う他、リフト1日券が割引になる特別券のプレゼントや宝探し大会といったお楽しみイベントを開催いたします。さらに、毎週木曜日はレディースデー、毎週金曜日はシニアデー、毎月第3日曜日をスキー子供の日として、リフト1日券が割引になる感謝デーを設定しています。

 あだたら高原スキー場では、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この冬は、阿武隈の山々を見渡す抜群のロケーションと美しい樹林に囲まれた「あだたら高原スキー場」で、ウィンタースポーツをお楽しみください。
000
今シーズンのトピックス
■小さなお子さまでも安心して楽しめるスキー場
(1)雪遊び広場
 長さ100m・幅30mの広々とした雪遊び広場は、雪山に登ったり、雪だるまを作ったり、気軽に雪あそびを楽しんでいただける無料のゲレンデです。一般ゲレンデから独立しているため、小さなお子さまでも安心して遊んでいただけます。
(2)キッズパーク
 スノーエスカレーターが設置されたキッズパークには、長さ50mのソリすべりコースと長さ50mのチュービングコースがあり、スノーアクティビティを楽しむことができます。
(3)スキーこどもの日
 1月、2月の第3日曜日を「スキーこどもの日」として設け、小学生以下のお子さまのリフト1日券が2,300円から1,000円になる他、雪の中に埋まった宝を探して賞品をゲットする宝探し大会も開催いたします。

■ゲレンデ飯で、お腹いっぱいに!
 ゲレンデで思いっきり遊んだ後は、富士急レストハウスであったかグルメをお楽しみください。今シーズンは、新メニューが4種類追加。唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華にトッピングされた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さま向けに、ライスの上に自分でトッピングをデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」、冷えた体を温める「マシュマロココア」を販売いたします。

■お得に楽しめる交通商品
「ドラ割ウィンターパス2021」
 首都圏、新潟、仙台エリアを対象に、スキー場までの高速道路をETCでご利用いただくと、利用料金が割引になる商品です。さらに、リフト1日券も割引になる優待特典も付いています。
<ご利用例>
東北自動車道 川口JCTからご利用の場合(普通車
東北自動車道 川口JCT ⇒ 東北自動車道 二本松IC ⇒ 東北自動車道 川口JCT
通常料金:10,030円 ⇒ ドラ割料金:8,700円
※通常料金より、1,330円お得。
001

■年末年始イベント
 あだたら高原スキー場では、年末年始にかけて様々なイベントを実施いたします。
(1)年越しそばの振る舞い
 年明けに向けて、年越しそばを振る舞います。
 開催日:12月31日(木)
 時間:15:00~16:00
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様 ※先着200名
(2)お年玉プレゼント
 1日券が1,000円引きになる特別割引券をプレゼントいたします。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様
(3)宝探し大会
 雪の中を掘り起こして、素敵な賞品をゲット。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 時間:13:30~
 参加料:無料
 対象:小学生以下のお子さま

2020-2021シーズンの営業概要
1.営業期間
 2020年12月26日(土)~ 2021年3月14日(日)※予定
2.定休日
 1/6(水)、12(火)、13(水)、2/24(水)、25(木)、3/2(火)、3(水)、9(火)、10(水)
3.営業時間
 平日9:00~16:00
 土日祝 8:30~16:30(12/30~1/4は土日祝で営業)
 ※詳細はHPをご確認ください。http://www.adatara-resort.com/ski/
4.料  金
004
 ※大人は高校生以上、小人は3歳~小学生、シニアは50歳以上(要証明)が対象になります。
5.ゲレンデ
 ■コース数 7本
 A.アンドロメダ(中級)700m   斜度/最大 23°、平均 14°
 B.ヘラクレス(中級)700m    斜度/最大 23°、平均 17°
 C.シリウス(初~中級)700m   斜度/最大 28°、平均 18°
 D.ベガ(上級)700m       斜度/最大 28°、平均 20°
 E.アルタイル(初~上級)600m  斜度/最大 28°、平均 18°
 F.ジェミニ(初~中級)800m   斜度/最大 20°、平均 15°
 G.ペガサス(初級)450m     斜度/最大 18°、平均 13°
 ■リフト数 4基
 1.オレンジライン   クワッドリフト(4人乗り)/510m
 2.ブルーライン    ペアリフト/350m
 3.バイオレットライン ペアリフト/450m
 4.ゴールドライン   ペアリフト/760m
6.お問い合わせ
 福島県二本松市奥岳温泉 TEL:0243-24-2141
002
​・感染症予防対策の取り組みについて
 「あだたら高原スキー場」では、「三密対策」と「お客様・スタッフの健康管理」の2つを軸に感染症予防対策を徹底しております。施設全体としては消毒液の設置や屋内施設の換気、リフト乗車時は間隔をあけてお並びいただき、グローブの着用を必須とさせていただきます。レストランでは飛沫感染防止用パネルの設置に加え、キャッシュレス決済を推奨といたします。
 また、全ての従業員は出退勤時に体温や健康状態のチェックを行い、37.5℃以上の発熱や体調不良が見受けられた場合出勤いたしません。また、全ての従業員は必ずマスクを着用し、施設に応じてフェイスシールドや使い捨てゴム手袋を着用させていただきます。

・大好評、絶景の露天風呂「あだたら山 奥岳の湯」も営業中!
 標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
【施設概要】
・所在地:福島県二本松市奥岳温泉
・営業日:年中無休※メンテナンス休業あり
・営業時間:10時00分~18時00分
・施設内容:収容可能人数80人(男女各40人)
      内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡) ※男女別
・利用料金:大人650円/小人(4才~小学生)450円
・pH値:2.5(強酸性)
・泉質:単純酸性温泉
・適応症:神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復健康増進
     慢性皮膚病
・アクセス
 車 /東京から東北自動車二本松IC(約150分)
    国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
 鉄道/東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)
    郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)
    二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)
    岳温泉からタクシー約10分
003
コロナ禍の中、「ぜひ足をお運び下さい」と、積極的にお薦めはしにくいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

午后、佐藤昌先生宅をいでて、佐藤隆房先生宅に移転す。離れの二階二間なり。

昭和20年(1945)9月10日の日記より 光太郎63歳

8月10日の花巻空襲で、疎開先の宮沢家を焼け出され、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に1ヶ月厄介になっていましたが、さらにそこから花巻病院長・佐藤隆房宅に移った記述です。

佐藤家では離れの二階を借り、すぐ近くを流れる豊沢川のせせらぎからの連想で、ここを「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。ここでも約1ヶ月を過ごし、その後、郊外太田村に移ることになります。
005

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』。月2回の発行です。今月15日号で、8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

賢治さんのまちづくり 第93回 宮沢賢治と高村光太郎

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、宮沢賢治と深いつながりを持つ人物です。今回は二人の縁について紹介します。
 賢治の作品で生前に発刊されたのは詩『春と修羅』と童話『注文の多い料理店の』2作品。このうち『春と修羅』を詩人・草野心平から薦められた光太郎は、その世界観に魅了され、以降文通により賢治や心平と交流を深めました。光太郎は、賢治の死後も「賢治全集」の編集や装丁のほか、花南地区にある「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫(きごう)などを行っています。
 昭和20(1945年)、東京の自宅兼アトリエを空襲で失った光太郎は、賢治の父・政次郎や弟の清六を頼って花巻の宮沢家に疎開しました。しかし疎開先の宮沢家も空襲で焼失。その後、光太郎は太田の小屋(高村山荘)で7年間過ごし、その間には地域の人々との交流もありました。
 道の駅はなまき西南は、高村山荘がある花巻西南地域に建てられ、8月7日にオープンしました。多くの人が立ち寄り、西南地域に新たなにぎわいを創出しています。
 一般公募により「賢治と光太郎の郷(さと)」という愛称が付けられた同施設。休憩スペースには、賢治と光太郎とのつながりが記されたパネルが展示されています。皆さんもぜひ立ち寄ってご覧ください。

【問い合わせ】本館賢治まちづくり課 (☎ 41-3890)
003

また、今年一年の回顧的なページでも

▲道の駅「はなまき西南」がオープン

 西南地域に道の駅「はなまき西南」がオープンしました。同施設は道路利用者への安全で快適な道路環境を提供するほか、地域を支える拠点としての役割を担います。
002
花巻方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。

花巻といえば、昨夜、花巻高村光太郎記念館の方から届いたメールに、昨日の同館周辺の画像が添付されていました。
001
000
すごいことになっていますね(笑)。80㌢ほど積もっているそうですし、雪の重みで倒れた木も一本あるとのこと。「きっと光太郎は喜んでいるでしょう」ということですが、「冬の詩人」と言われる光太郎、その通りかもしれません。

【折々のことば・光太郎】

松庵寺にて一枚起請文をもらふ。

昭和20年(1945)8月23日の日記より 光太郎63歳

004松庵寺」は花巻市街にある浄土宗の寺院です。ほぼ毎年、光太郎はこちらで智恵子や父・光雲の法要を営んでもらっていました。そうした縁から、今年はコロナ禍で中止となりましたが、4月2日には花巻としての連翹忌を開催して下さってもいます。

この年にはずばり「松庵寺」という題名の詩も書かれました。

   松庵寺

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


境内には、佐藤隆房の揮毫によるこの詩の碑も建っています。

光太郎の手元に残された控えの詩稿欄外のメモ書きによれば、執筆は「昭和二十年十月五日下書、二十二年六月清書」。ところが、この年の松庵寺での法要は日記によると10月10日。そこで『高村光太郎全集』のこの詩の解題では、「制作の日付には疑問が残る」となっています。

しかし、謳われている情景が10月10日の法要ではなく、上記の8月23日のことであれば、10月5日執筆でも矛盾はありません。ただ、そうなると詩の中の「秋の村雨ふりしきるあなたの命日」と一致しません。智恵子命日(レモンの日)は10月5日です。8月23日では月命日とかにもなりませんし……。

やはり光太郎が日付を書き間違えたということなのでしょうか。または下書きと清書の間で、かなりの変更があったのかもしれません。8月23日、10月10日双方の出来事を一篇にまとめてしまったというようなことも考えられます。


定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第23号が届きました。
001 002
平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「リンゴとサツマイモのケーキ」。
000
意外と光太郎はスイーツ好きだったようで、戦前の文章にもそうした記述がありますし、今号で紹介されていますが、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋で、ケーキを自作していたとのこと。昭和22年(1947)の日記には「午後シヨートケーキをつくりくふ。」の一文があります。あのぼろぼろの小屋でどうやって作っていたのか、ちょっと想像ができませんが(笑)。

山小屋でケーキといえば、以前にも書きましたが、昭和26年(1951)の日記には「昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。」の記述があります。数ある光太郎笑えるエピソードの中でもポイントの高いものの一つです(笑)。

リンゴに関しては、宮沢賢治の教え子で、花巻で林檎園を経営していた阿部博とのからみ。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。
a11d8ce4
甘く酸っぱいリンゴの味と人生の甘酸との掛詞で、ザブトン一枚ものです(笑)。

また、光太郎は阿部に、即興で詠んだ「酔中吟」という詩も揮毫して贈りました。
006
「たいしよ」は「大将」ですね。のちに阿部はこの書を石碑に刻み、リンゴ園の敷地に建立しました。
eab477a8-s
昨年開催された市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で、花巻、北上の光太郎碑を案内して歩いたのですが、この碑も行程に入れていただきました。

こちらのリンゴ園では、この揮毫から文字を採ったリンゴジュース「阿部のたいしよ」を販売していたとのこと。『マチココ』さんの画像にも写っています。
リンゴジュースのラベル
現在はやめてしまったそうですが、ぜひ復刻していただきたいものです。

ちなみに『マチココ』さんの撮影、こちらのリンゴ園内にあるレストラン「わいんさっぷ」さんで行われたとのこと。
リンゴ園のカレー屋さん表札 阿部リンゴ園
牛すじカレー
牛スジカレーが人気だそうです。

また、花巻高村光太郎記念会さんから、こちらのリンゴも送っていただきました。
KIMG4588
007
まだ手を付けていません。それ以前にも、石鳥谷地区産のものを送っていただき、そちらを食べているところです。
KIMG4586
ちなみに特にこの時期、全国から色々なものが届きます。ありがたし。
KIMG4583
積んである一番下が阿部さんのリンゴ、その上が石鳥谷地区産のリンゴ、さらに昨日落手した十和田産の長芋(箱に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が印刷されています)、右は愛媛から届いたミカンです。
KIMG4587
KIMG4585
KIMG4584
さて、『マチココ』さんに戻ります。

今号の特集は「看板」。
003 004
花巻市街などの、どちらかというとレトロな、味のある看板が多数取り上げられています。何度か泊めていただいた在来線花巻駅前のかほる旅館さんのそれも。
005
昨日、『朝日新聞』さんの先週の夕刊に掲載された「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事をご紹介する中でも書きましたが、どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。

【折々のことば・光太郎】

正午鳥谷崎神社々務所ニテ天皇陛下の玉音録音放送ヲキキ平和再建の詔書渙発を知る。

昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

鳥谷崎神社、そしてその時の模様を綴った詩「一億の号泣」についてはこちら

⼭形⼤学さん主催の⾼校⽣朗読コンクール。東北6県(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島)在住の高校生、または各県内の高校に在学中の高校生(高等専門学校生は1~3年生)を対象にしています。毎年、東北ゆかりの作家の作品を課題にし、宮沢賢治、井上ひさしなどに混じって、光太郎も取り上げられました。平成27年(2015)年開催の第8回で、課題は「智恵子抄」でした。予選、本選があり、本選はホールを使って大々的に行われていました。

今夏、「大学ジャーナル」さんというサイトに、今年度の第13回の応募案内が出ました。それによると久々に光太郎の「智恵子抄」が課題ということで、「おお、これはありがたい」と思ったものでした。

ところが、その後、いつまでたっても主催する山形大学さんのサイトには詳細な情報が出ませんで、「あ、こりゃ、コロナ禍で中止になったんだろうな」と思っておりました。

すると、今月に入って同大の学長定例記者会見が行われ、その中に「第13回⼭形⼤学⾼校⽣朗読コンクール審査結果発表」も含まれていました。「えっ、やったの?」という感じでした。
001
「どういうことだ」と思っていたら、昨日、『毎日新聞』さんの山形版に関連記事が出ました。

山大高校生朗読コン 山形東・吉田さん2位「気持ち伝わるように」/山形

000 山形大は、東北6県の高校生の文化交流を目的に同大が開催している「山形大学高校生朗読コンクール」で、県立山形東高2年の吉田遥さんが、予選を通過した14人のうち、上位3人に与えられる学長賞で2位に輝いたと発表した。
 コンクールは2008年度に始まり、今年で13回目。東北にゆかりのある作家が課題文となる。今年は、高村光太郎とその妻智恵子(福島県出身)の出会いから恋愛時代や結婚、智恵子の発病から死へと続く物語の「智恵子抄」だった。 選考基準は、内容を理解しているかや話し方など。今年度は東北地方の23の高校から84人が応募した。
 記念品の盾と賞状を受け取った吉田さんは「2人の気持ちが聞いている人に伝わるように心がけた。今後も聞いていたいと思ってもらえる朗読をしていきたい」。同大の玉手英利学長は「テキストは同じだが一人一人違った色合いがある。多くの人に聞いてもらえたら」と話した。本選出場者の朗読は同大のユーチューブチャンネルで視聴できる。

そこで、YouTubeを拝見。
これを見てようやく腑に落ちました。例年のようにホールを使って大がかりにではなく、録音審査での実施だったそうで。上記のプレスリリースもよく読めば小さく書いてありました。
002 003
課題文は「智恵子抄」中の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)の一節。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の制作背景的な部分で、「あどけない話」自体も引用されている箇所でした。
004 008
動画の最後は審査に当たられた山本陽史教授の講評的なご挨拶。
009
曰く「東北は10年前の震災を乗り越えて来て、今年は世界中がコロナ禍で大変な思いをしている。そんな時に「言葉」の力で分断をくい止めて、皆さんが繋がっていけるよう……」なるほど、その通りですね。

また、こうした活動を通し、多くの方々に光太郎智恵子の世界がもっと広まっていってほしいものだと、いつもながらに思います。

【折々のことば・光太郎】

朝六時、詩碑に詣づ。

昭和20年(1945)8月1日の日記より 光太郎63歳

「詩碑」は花巻桜町に立つ宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑です。昭和11年(1936)、花巻からの依頼で光太郎が筆をふるい、同詩の後半部分を揮毫しました。除幕式の際には智恵子が入院中ということもあったのでしょう、光太郎は不参加。代わって当会の祖・草野心平が赴きました。

かつて自分が文字を書いた碑を初めて眼にしたその心境は、いかばかりだったのでしょうか。
010

光太郎の父・光雲の木彫が出ています

特集展示「福島美術館の優品」

期 日 : 2020年12月1日(火)~2021年1月31日(日)
会 場 : 仙台市博物館 宮城県仙台市青葉区川内26
時 間 : 9時00分から16時45分
休 館 : 月曜日(祝日・振替休日の場合は開館)
      祝日・振替休日の翌日(土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)
      年末年始 12月28日(月)~1月4日(月)
料 金 : 一般・大学生 460円(360円)高校生 230円(180円)
      小・中学生 110円(90円) ( )内団体料金

仙台市若林区土樋(つちとい)にあった福島美術館(社会福祉法人共生福祉会運営)は、仙台で活躍した実業家・福島家が三代にわたり集めた約3,000点の美術工芸品を収蔵していました。
その内容は、伊達家ゆかりの文化財をはじめ、仙台四大(しだい)画家による絵画、さらに福島家が支援した近代の画家・書家の作品や、茶道具・香道具といった工芸品など多岐にわたります。
「街の小さな美術館」の愛称で親しまれてきた同館は平成30年に活動を休止し、文化財の多くが当館に寄託されました。
この特集展示では、福島美術館の資料の中から選りすぐりの優品を紹介します。
000
仙台にかつてあった私立の福島美術館さん。当方も2度お邪魔しました。一昨年に閉館となり、所蔵品はどうなったのだろうと思っておりましたが、こちらに寄託されていたのですね。散逸しなかったのは幸いでした。

同館では、光雲作の木彫を2点所蔵されていました。

1点は光雲・光太郎父子と交流があった僧侶にしてチベット仏教学者の河口慧海にかかわる如来坐像。
001 002
もう1点は、「聖観音像」。こちらは平成23年(2011)の東日本大震災まで、光雲作であるという認識がなく、神棚に置かれていていたそうです。それが震災で倒れ、初めて光雲作の銘が確認されたとのこと。そして神棚から「落ちなかった」ことで、一時、受験生に霊験あらたかという都市伝説が広まりました。

今回の展示では、「聖観音像」が出品されているそうです。

コロナ禍に充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003 (2)

入湯。幽邃境也

昭和20年(1945)6月18日の日記より
 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢賢治実家に疎開してきて、翌日、肺炎のため41℃の高熱を発し、1ヶ月臥床。6月15日には床上げをし、この日から24日まで、予後を養うため花巻郊外西鉛温泉に滞在しました。

「幽邃」は「ゆうすい」。「景色などが奥深く静かなこと」といった意味です。西鉛温泉、当時は明治館改め秀清館という一軒宿で、明治22年(1889)の創業。この頃は、賢治の母の実家が経営していました。当時としては珍しい四階建ての日本家屋で、建築設計にも手を染めていた光太郎、その造作に感心しきりでした。

現在は西鉛温泉の呼称は廃され、少し離れた場所で新鉛温泉となっています。

一昨日、昨日と、1泊2日で花巻、盛岡を廻っておりました。レポートいたします。

12月4日(金)、新幹線を新花巻駅で降り、迎えの車に乗って、まずは花巻市役所さんへ。市の主催で来年度に計画されているイベントや展示の打ち合わせを行いました。市民講座の講師、展示の監修等を仰せつかりまして、ありがたいかぎりです。

再び市の公用車に乗せていただき、花卷高村光太郎記念館さんへ。
KIMG4534
まだ積雪には至っていませんでしたが、気温はかなり低い状態でした。

こちらでは昨日から、花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマとした共同企画展の一環、「光太郎と佐藤隆房」が始まっています。一昨日は内覧ということで、地元紙の取材も入っており、対応しました。
001
002
光太郎の花巻疎開に尽力し、郊外旧太田村に移る前の1ヶ月程、光太郎を自宅離れに住まわせてくれ、その後も援助を惜しまなかった佐藤隆房元総合花巻病院長と光太郎の交流を紹介する展示です。
KIMG4543
隆房は光太郎歿後、財団法人高村記念会を設立、初代理事長となり、それは子息の故・進氏に引き継がれました。
KIMG4539
左上画像は光太郎が1ヶ月暮らした佐藤家離れの2階。ここを光太郎は「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。「潺湲(せんかん)」は「水のせせらぎ」。すぐそばに豊沢川の清流があることに由来します。右画像は佐藤家を訪れた際に光太郎が愛用していたという椅子です。

佐藤が絵を描き、光太郎が賛を書いたものが四点。
KIMG4535
「天しろし」
KIMG4536
「ひかりをつゝむ」
KIMG4537
「孤坐」
KIMG4538
「人は野をおもひ山をおもふ」

いつもながらに味のある書です。

そのうちに地元紙に報道が出るはずですので、またその際にご紹介します。

花巻高村光太郎記念会として来年度に行う企画展示の打ち合わせ等を行い、こちらを後にしました。

その後、車で送っていただき、盛岡へ移動。こちらでは、「ゆかりの盛岡から高村光太郎を知る会」の会合。コロナ禍の為中止となりましたが、今年の5月に岩手県公会堂で、同会主催の講座「光太郎の食卓から」が開かれる予定で、当方も一役買うはずでした。下記は幻の要項です。
005 004
この講座では、盛岡でイタリアンの「アッカトーネ」さん、さらに「光太郎山荘」ならぬ「敲太楼山荘」さんのオーナーソムリエ・松田宰氏にもお話をいただく予定でした。

そこで、この日は松田氏の料理に舌鼓を打ちつつ、会合。当初はお店で開催のはずでしたが、三密を避けるため、農林会館という建物の会議室で行いました。
KIMG4545
KIMG4546
テイクアウト的なこういう状態でしたが、実に美味でした。

この日は中の橋地区のホテルブライトイン盛岡さん(アッカトーネさんの向かいです)に宿泊。昨日のブログにも同じ画像を使いましたが、翌朝、部屋の窓から取った岩手山。
KIMG4564
南隣は啄木・賢治青春館さん。
KIMG4548 KIMG4547
KIMG4549 KIMG4550
北隣は盛岡てがみ舘さんの入っているプラザおでってさん。さらに道路を渡ると旧岩手銀行赤レンガ館さん。
KIMG4562 KIMG4552
部屋で朝食を摂った後、ロビーで地元紙『盛岡タイムス』さんの取材を受けました。来年元日の同紙で、光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、そのためです。てがみ館さんで直筆原稿が常設展示されている光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)をメインとするとのことでした。その後、連れだっててがみ館さんへ。
KIMG4565
KIMG4566
現在、盛岡とその周辺の古絵葉書などを中心とした「なつかしの盛岡」展が開催中です。光太郎も見た風景ということで、興味深く拝見しました。
003
「岩手山の肩」原稿はこちら。
KIMG4568
006紙面は来年、送って下さるそうです。ちなみに紙面を送って下さる、と言えば、明日、12月7日(月)だかの『朝日新聞』さんの夕刊でも光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、岩手行きの前に電話取材等に対応しました。品川のレモン哀歌詩碑などに関わるようです。やはり紙面を送って下さるそうで、そのうちにご紹介します。

その後、記者さんと別れ、当方は盛岡駅前の岩手県立図書館さんで調べ物。光太郎が題字を揮毫し、昭和二、三十年代に刊行されていた地方紙『花巻新報』を閲覧してきました。

当会発行の冊子『光太郎資料』で、光太郎が作詞、邦楽奏者の杵屋正邦が作曲し、昭和26年(1951)に花巻で日本舞踊を振り付けて上演された「初夢まりつきうた」について書いたのですが、まだ不分明な点が多く、その補完が主目的でした。すると、やはり当たりで、いろいろと分かりまして、次号の『光太郎資料』にその辺を書こうと思っております。

また、それ以外にも光太郎が昭和25年(1950)に花城農業高校(現・花巻農業高校)で行った講演の長い筆録も掲載されていたのを発見した他、『高村光太郎全集』未収の談話筆記等多数見つかりました。

コロナ禍のため、長時間の滞在が出来ないという制約があり、1時間あまりで撤収しましたが、他にも目星を付けている蔵書がありますので、またいずれ、と思っております。

というわけで、有意義な岩手紀行でした。

おまけ。東京駅から高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所最寄りのバス停・JR佐原駅で降りたところ、田舎の駅で普段はあり得ない人山の黒だかり、もとい黒山の人だかり。何事だ、と思ったら、JR東日本さんの超豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が停車していました。そういえばちょっと前にこっちの方に来ると新聞で予告されてたっけ、と思いあたりました。
KIMG4570
赤いのはお出迎えでやって来た、千葉県のゆるキャラ・チーバくんです。ちょんまげは当地の偉人・伊能忠敬がらみですね。
KIMG4572
0001泊2日コースで、2名1室最高50万円、最低でも37万円。一人旅だとそれぞれ75万円と55万5千円に跳ね上がります。当方には一生無理でしょう(笑)。ちょっと前に、元宝塚の遼河はるひさんと、深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 で智恵子役をなさった紺野まひるさんが2泊3日コースを体験乗車するというテレビ番組を拝見し、バーチャル体験はしましたが。

ちなみに現在の2泊3日コース、岩手も通るルートで運行されています。こちらは2名で55万円から75万円、1名だと82万5千円から112万5千円だそうで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻着(午前七時過) 宮沢家に入る、 雨、


昭和20年(1945)5月16日の日記より
光太郎63歳

4月13日の空襲で駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居を焼け出され、しばらくは近くにあった妹の婚家で過ごしていましたが、そこも他の被災者で手狭になり、宮沢賢治の実父・政次郎、実弟・清六、そして佐藤隆房等の誘いで花巻へ疎開。上野駅を発ったのが前日の夕方でした。光太郎が「TRAIN SUITE 四季島」などを見たら、腰を抜かすのではないでしょうか(笑)。

究極の雨男・光太郎、花巻に着いた時も雨でした。その魂を背負ってしまった当方も究極の雨男となり、昨日も関東に帰ってきたら雨でした(笑)。

↑このページのトップヘ