カテゴリ: 東北

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月6日(水)のコラムから。

デスク日誌(12/6):光るレモン

 自宅で育てている鉢植えのレモンが先月下旬にようやく色づいた。夏の猛暑の影響なのかどうか、いつもより1カ月近く遅い。
 この少し前、二本松市の智恵子記念館を訪ねた。レモン祭と銘打って開かれていた催しに引かれた。
 詩集「智恵子抄」で知られる高村光太郎が、死の際にあった妻智恵子をうたった詩「レモン哀歌」にちなんだ企画。レモン忌と称される智恵子の命日の10月5日から1カ月半、生家のライトアップや智恵子の「紙絵」作品が展示された。
 レモン哀歌では、光太郎に手渡されたレモンを「がりりと」かんだ智恵子が目にかすかな笑みを浮かべ、深呼吸を一つして息を引き取る様子が描かれる。
 痛切な作品だ。宮沢賢治の「永訣(えいけつ)の朝」と共に「近代挽歌(ばんか)の双璧」ともいわれる。切なさが胸に迫るが、重苦しい暗さはない。光太郎が「すずしく光る」と形容したレモンの視覚効果だろうか。
 ビタミンカラーのレモンは見ているだけで元気が出る。家のレモンは色づいたものから順に収穫し、これから味わう。ハイボールにでも浮かべて英気を養い、師走を乗り切ろう。

福島総局長の方が書かれたコラムです。同県二本松市にある智恵子生家/智恵子記念館さんを会場に、10月5日(木)~11月19日(日)の日程で様々なコンテンツが用意された「高村智恵子レモン祭」に足をお運びいただいたそうで、有り難い限りです。

レモン祭に関してはこちら。
高村智恵子レモン祭。
レモンの日(レモン忌)。
智恵子生家ライトアップ/テレビ放映情報。

当方もライトアップ期間に伺うつもりでおりましたが、この時期、他にいろいろ行くべき所が多く欠礼いたしました。おそらく来年以降もライトアップを行ってくださるだろうという期待の元に、と考えてのことでしたが。

続いて山口県の『宇部日報』さん、12月8日(金)の記事。

島木健作に贈った「山羊の歌」 中也の自筆署名入り本を特別展示、10日まで

002 山口市湯田温泉1丁目の中原中也記念館(中原豊館長)で、中原中也(1907~37年)の第1詩集「山羊の歌」が刊行された日に合わせた特別展示として、中也が作家の島木健作宛てに贈った自筆献呈署名入りの本が公開されている。10日まで。
  同作は1934年12月10日に文圃堂書店から限定200部(市販150部)が発行された。装丁は詩人の高村光太郎。
  島木は、権力による共産主義への弾圧から思想を捨てた過程や苦悩を描いた転向作家。小説「生活の探求」で知られる。中也が詩を発表した雑誌「文学界」の同人で、37年ごろ互いに鎌倉の雪ノ下に住み、交流した。
  多くの署名本が右に宛名、その左下にフルネームの署名が配されているのに対し「中原」と署名が名字だけなのは特徴的だという。
 奥付の通し番号は139番。3桁台での署名本は、第100部の小林秀雄宛てを除き、著名人や知人はほとんどいない。記念館は谷崎潤一郎宛てなど13冊を所蔵している。
 展示では合わせて中也の遺品である島木の名刺も並べている。
 今年9月の中原中也の会第28回大会で講演した秀明大の川島幸希学長が寄贈した。
 中原館長は「『文学界』の同人とはいえ、中也と転向作家の島木健作では作品の傾向が異なる。島木は中也追悼文『追悼』で、島木の作品を読み感想を述べる中也の姿を伝えており、中也が島木の作品に興味を持ち、評価していたことは間違いない。その交友の一端を具体的に示す資料として大変、興味深い」と話している。

数々の装幀も手がけた光太郎ですが、そのうち最も有名になった書籍の一つが『山羊の歌』でしょう。自らも味わい深い字を書けた中也が「高村さんのような字が好きなんだ、あれはいい字だよ」と語ったそうで、その目の確かさは流石ですね。
003

ちなみに昨年は谷崎潤一郎宛署名の入った『山羊の歌』が、大阪の一般の方から寄贈されて同様に特別展示されたそうです。その際も『宇部日報』さんが報じていましたが、そちらには光太郎の名が書かれていませんでした。

寄贈者の川島幸希氏、『日本古書通信』さんにこの手の署名本に関する考察をたびたび発表なさっています。また、ご自身が学長を務められている秀明大学さんでそれらを展示なさったこともあり、当方、2回ほど拝見に伺いました。最初は光太郎の『道程』特装本が出品された平成26年(2014)の学祭・飛翔祭。その際には三好達治ら宛の署名が入った『山羊の歌』も出ていました。

今回寄贈された島木健作宛は奥付の番号が139番。昨年展示された谷崎宛は18番。他に谷川徹三に16番、仏文学者の中島健蔵へ19番、志賀直哉宛で20番がそれぞれ贈られています。三角関係等いろいろあった腐れ縁の小林秀雄には100番でした。他は当方の専門ではないので存じません。

で、当然、光太郎宛もあったと推定され、おそらく1桁の番号だったのでしょう。しかし、それ以前に光太郎が処分したり、誰かが借りパクでもしたりしていない限り、昭和20年(1945)4月13日の空襲で光太郎アトリエ兼住居共々焼失したと推理できます。返す返す戦争の愚かさを感じます。

戦争の愚かさといえば、予想通り一昨日の12月8日(金)、太平洋戦争開戦の日には、SNS上で光太郎詩『十二月八日』を引用して「大日本帝国バンザイ!」的な書き込みをしている愚か者が目立ちました。超迷惑です。

【折々のことば・光太郎】

今日の明治節を迎へて感慨無量です。明治大帝に対して申わけなき次第、言上すべき言葉もありません。


昭和20年(1945)11月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

終戦から3ヶ月弱、まだ皇国史観から抜け出せていなかったことが見て取れます。ただし「申わけなき次第」は、米英に敗れてしまったことを指すわけではなく、勝ち目のない無謀な戦争を仕掛けたことを指すと思われます。

当会の祖、草野心平。今年生誕120周年を迎えて、地元福島では様々に顕彰活動等が行われました。そんな中から、地方紙『いわき民報』さんが組んだ「草野心平生誕120周年特集」 が、「ふるさと新聞アワード優秀賞」に輝いたとのこと。

まず先月7日の同紙報道。

いわき民報「草野心平生誕120周年特集」 ふるさと新聞アワード優秀賞

 メディア業界紙「文化通信」を発行する文化通信社(東京都千代田区、山口健代表取締役)が主催する「ふるさと新聞アワード」の第3回の受賞記事が決まり、いわき民報元日号掲載の「草野心平生誕120周年記念特集」と、心平も利用したJR小川郷駅の駅舎解体にかかる一連の報道が、「ひと」(一部「もの」)部門で優秀賞に輝いた。同部門での受賞は3年連続となる。
 文化通信社が創業75周年に合わせて、一昨年に創設した賞で、地域紙の持つ〝地域ジャーナリズム〟を全国に発信するとともに、各紙の権威と価値の向上、記者のやりがいにつなげるために毎年開催している。
 各分野で活躍する著名な外部審査員が記事を選考しており、今回も昨年と同様に、歴史家・作家の加来耕三、放送作家・脚本家の小山薫堂、中川政七商店会長の中川政七、温泉エッセイストの山崎まゆみ、ディスカバー・ジャパン代表取締役社長の高橋俊宏・各氏が参加した。18紙から寄せられた約200本の記事をまず、社内選考で各部門10本に絞った後、外部審査員が投票して各賞を決めた。
 優秀賞を受賞した正月版の特集は、今年生誕120周年を迎えた小川出身の詩人草野心平の偉業を振り返る内容で、心平の縁戚で弊紙連載「雜学ゼミナール」を担当する関内幸介さんをはじめ、市立草野心平記念文学館の学芸員、いわき地域学會の吉田隆治顧問、心平が立ち上げた「歴程」同人の齋藤貢氏らがテーマごとに、作品の魅力や人となりに迫った。
 また、心平が利用した往時の姿を残すJR小川郷駅の木造駅舎について、解体へとかじを取るJR側と保存を模索する住民たちの話し合い、解体を惜しむ声や、本紙の報道をきっかけに、福島高専の布施研究室がデジタルアーカイブを作成するなど、一連の動きを追った報道も合わせて受賞対象となった。
 審査員の高橋氏は、受賞作について「地元の偉人を『ゆかりの地域ならでは』の切り口で深掘りできるのが地域紙の強み。草野心平を丁寧にひもといた筆致はさすがだと思った」などと評価。個人的に天山文庫を訪れたこともあるといい、「(正月号は)そのロケーション、建物の佇まいに大感動したことを思い出しながら読ませていただいた」とコメントした。
 今回グランプリを受賞したのは、和歌山県新宮市の地方紙「熊野新聞」の記事「嗚呼壮絶かな、観光合戦!!」。表彰式は12月1日、東京都台東区の東天紅上野本店で行われる。

続いて表彰式に関して、やはり同紙から。

ふるさと新聞アワード表彰式 いわき民報社の草野心平特集に優秀賞

 メディア業界の専門紙「文化通信社」(東京都千代田区、山口健代表取締役)主催の第3回「ふるさと新聞アワード」の表彰式が1日、東京都台東区の東天紅上野本店で開かれた。Google News Initiative、PR TIMESの協賛。
 同アワードは同社創業75周年を記念し、2021(令和3)年から設けられた。地元に根差しながら社会、経済、文化などを日々伝える中で、独自の視点で掘り下げた優れた記事を表彰し、その努力に光を当て、地域紙の存在を広く発信することを目的にしている。
 いわき民報社は、今年の元日号(1月1日付)に掲載した「草野心平生誕120周年記念特集」が、「ひと」部門の優秀賞に選ばれた。この特集では、元市立草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん、市教育文化事業団の渡辺芳一さん、同館専門学芸員の長谷川由美さん、同学芸員の馬目聖子さん、小泉屋文庫主宰の緑川健さん、いわき地域学會前代表幹事の吉田隆治さん、いわき賢治の会会長の小野浩さん、「歴程」同人の斎藤貢さんらの執筆協力を得て、紙面構成するなどあらためて郷土が生んだ、詩人草野心平の業績などを紹介した。
 審査員の高橋俊宏ディスカバー・ジャパン代表取締役は「地元の偉人をゆかりの地域ならではの切り口で、深掘りできるのが地域紙の強みである。草野心平を丁寧にひもといた筆致は、さすがだと思った。かなり力を入れて作られたことをひしひしと感じた」と評している。
 いわき民報社は、2021年に「シリーズ震災10年―未来へのメッセージ」が「ひと」部門最優秀賞、2022年に「『最後の詩』など直筆を紙面公開」が「ひと」部門最優秀賞、「常磐炭礦に女子野球チームの活躍」が同優秀賞を受賞している。
 表彰式には約30人が出席し、山口社長が「地域紙には、まだまだ大きな可能性を持っている。今後もこの取り組みを続けていきたい」とあいさつ。いわき民報社は、鈴木淳代表取締役社長が表彰状を受け取った。
 グランプリは、地元の鉄道路線の赤字状況を起点に、熊野の観光、交通の活性化などのヒントを探った熊野新聞(和歌山県新宮市)「嗚呼!!壮絶かな、観光合戦!!」が選ばれた。
008
当該記事「草野心平生誕120周年特集」は今年元日の正月版に載ったものだそうですが、光太郎の名も記されていました。
007

草野心平生誕120周年特集

 1903(明治36)年、卯年の5月12日、後に「蛙の詩人」として知られる草野心平は、5人きょうだいの二男として福島県岩城郡郡上小川村(現いわき市小川町)に産声を上げた。
 実祖父は渋沢栄一を師に仰ぎ、自由民権運動家の河野広中と親交のあった実業家で政治家の白井遠平。父親が叔父に養子入りした縁から、義理の祖父母に育てられた。幼少時は腕白で癇が強い子供だったというが、県立磐城中学校(現磐城高校)を中退し上京後、慶應義塾大をへて中国に渡り、詩や短歌を志す。
 酷い貧困を味わう中で新聞記者、屋台の焼き鳥屋、出版社の校正係などで食い扶持(ぶち)を繋(つな)ぎ、28(昭和3)年初の活版印刷の詩集「第百階級」を発表する。“ふるさと”への想いを心層深くに抱え、あらゆる人々とともに生きようという高い理想を掲げて蛙、富士山、天、石などを主題に次々と詩を生み出す一方、高村光太郎、萩原朔太郎、中原中也、北原白秋らと親交を深め、中央詩壇の発展に寄与。ふるさとで文学を志す猪狩満直、三野混沌、吉野せいとも心の会話を繰り返した。現在の日本詩壇に天才がゐるとしたなら、私はその名誉ある「天才」は宮澤賢治だと言ひたい――賢治を世に出すため、夭折後も力を尽くしたことは広く知られている。
 昭和59年にはいわき名誉市民、62年には文化勲章を受章。生涯1400篇余の詩を残したが、心平について語ることのできる市民はそう多くない。若い世代はなおさらだ。「『ケルルン クック。』の人だね」。国語の教科書に掲載されている「春のうた」で、かろうじて分かる程度か。本市にはいわき市立草野心平記念文学館をはじめ、全国に誇る心平ゆかりの財産が多く残る。生誕120周年を機に、あらためて心平が残した偉業を振り返り、後世に伝えていきたい。


写真は心平の村民の皆さんが建ててくれた別荘、川内村天山文庫で撮影されたもののようです。

引用部分は「特集」の冒頭ページの一部。おそらくこの他に複数ページあったか、その後、さまざまな切り口から「特集」の記事が掲載され続けたのではないでしょうか。上記表彰式の記事に「この特集では、元市立草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん、市教育文化事業団の渡辺芳一さん、同館専門学芸員の長谷川由美さん、同学芸員の馬目聖子さん、小泉屋文庫主宰の緑川健さん、いわき地域学會前代表幹事の吉田隆治さん、いわき賢治の会会長の小野浩さん、「歴程」同人の斎藤貢さんらの執筆協力を得て、紙面構成」とあり、それぞれご執筆なさったのではないかと思われます。このうち半数程の方は当会主催の連翹忌にもご参加下さったことがおありです。

ちなみに昨年のこの賞では、同紙の心平がらみの記事が最優秀賞を受賞なさっていました。光太郎の名が出て来なかったので気づきませんでしたが。

心平の未発表にしておそらく最後の詩の発見についてで、『福島民報』さんなどでは今年に入ってから報じられていました。

009
今後とも心平顕彰の一翼を担っていっていただきたいものです。心平は当会の祖ですので、当方も及ばずながら力をお貸ししていかねばならないのですが。

【折々のことば・光太郎】

お言葉の通りおなじみ深かつた駒込林町の拙宅もつひになくなり、あの当時を偲ぶよすがも消え去りました。小生はそのうち近村の山中に移住して開墾と仕事とに専念する気です。小屋も九分通り出来上りました。新文化の創造に努めます。厳寒零下二〇度の由ですが、冬に強い小生の事とて大に意気込んでゐます。 東京へはめつたに出かけないでせう。


昭和20年(1945)10月2日 日野岩太郎宛書簡より 光太郎63歳

心平も足繁く訪問した駒込林町のアトリエ兼住居は4月13日の空襲で灰燼に帰し、花巻の宮沢賢治実家に疎開。戦後になっても、結局「めつたに」どころか7年半も上京せずにいました。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で光太郎顕彰活動にあたられているやつかの森LLCさん。同市土沢にあるレストラン・ワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」としておおむね月に一度出店なさっています。一般の皆さんが店の調理場を借りてランチを作り、それを販売するというシステムなので「ワンデイシェフ」というわけです。

11月28日(火)に「こうたろうカフェ」出店があったということで、画像等送っていただきました。
1701168419866
1701168333855
1701168621732
1701140717098
光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、光太郎に親しんでもらおうという取り組みです。

今回のメニューは下記画像の通り。
1701159686532
「新米ご飯」、「キャッシュトースト」、「鮭のムニエル」、「野菜畑のローストチキンテリーヌ」、「ごぼうチップス」、「ミネストローヌスープ」、「シュークルート風浅漬け」、デザートに「焼き林檎のアイスクリーム添え」(林檎は光太郎の暮らした山小屋近くの林檎園のもの)、「アメリカンコーヒー」だそうで、いつもながらバラエティーに富んでいますね。早めのクリスマスバージョンというコンセプトだそうです。

予約ががっつり入り、過去最高の42食、スタッフ分を併せて51食分を作られたとのこと。今年は鮭が不漁ということで、中々手に入るめどが立たず苦労なさったそうでした。

いつも書いていますが、「食」へのこだわりも一方ならぬものがあった光太郎、その方面からのアプローチも大切なことです。

現地ではこれから雪深い季節となるため、「こうたろうカフェ」としての出店はしばらくお休み、次回は3月だそうです。その間にこれまで(5月から計7回行われたそうで)の検証と今後のメニュー作りに当たられるとのことですが、もう予約が入っているそうで、盛況ぶりが何よりです。

再開後のさらなる飛躍を期待します。

【折々のことば・光太郎】

太田村には今小屋が建ちつつあります。うしろに山を負ひ、前に山清水がわき、畑と林とに囲まれたところ。開墾が楽しみです。明日又検分にゆきます。人情実に純朴。ほんとの日本の山村です。稗とおジヤガを主食として小生もやります。山羊を飼つて栄養と肥料をとります。山には兎が多く、これから茸で一ぱいのやうです。


昭和20年(1945)9月15日 小盛盛宛書簡より 光太郎63歳

約1ヶ月後の10月17日に太田村に移り、しばらく山口分教場の宿直室に寝泊まりしながら小屋の造作を整え、独居生活を始めます。

山羊を飼ったり兎を捕ったりということは実現しませんでしたが、野菜類の自給自足(ほぼ、ですが)、茸や山菜などの採集は実際に行われました。

山形県から朗読イベントの情報です。

第3回読書会「声に出して読みたい日本語 part2」

期 日 : 2023年12月6日(水)
会 場 : 大石田町町民交流センター虹のプラザ 山形県北村山郡大石田町緑町28
時 間 : 午前10時~11時30分
料 金 : 無料

コロナ禍により長期間お休みしていた読書会を今年度から再開しています! ベストセラー『声に出して読みたい日本語』に紹介されている有名な作品を、みなさんで一緒に読んでみませんか。 今回の読書会では、気軽に音読をしながら、宮沢賢治の童話や川端康成の小説の一部、高村光太郎の詩を味わいます。

『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝著、草思社刊)で紹介されている文学作品の一部を取り上げ、参加者で感想を交わしながら読みあいます。図書館担当者から作者や本の紹介等もあります。

 ・宮沢賢治 風の又三郎ほか「どっどどどどうどどどうどどどう」
・川端康成 伊豆の踊子ほか「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に」
・高村光太郎 道程「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
000
001
『声に出して読みたい日本語』(平成13年=2001 草思社)は、NHKさんの「にほんごであそぼ」の監修もなさり、昨年ご紹介した『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』など、この手の書籍等を随分出されている齋藤孝氏の編著です。当方、CDブック版(平成15年=2003)を持っています。
002 002
平成3年(1991)、NHKさんで放映された単発の2時間ドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」で光太郎役を演じられた小林薫さん(智恵子役は佐久間良子さんでした)が「道程」を朗読されています。

同町、朗読に力を入れているようで、12月14日(木)には「宮沢賢治 朗読の夕べ」なども企画されています。
005
お近くの方等、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

火事のあとは少しずつ整理され、そちこちに小屋が建てられ始めました。高台から眺めると白い屋根や羽目板が目立つて来ました。


昭和20年(1945)9月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

「火事」は8月10日の花巻空襲によるものです。疎開していた宮沢賢治実家も燃え、光太郎は現在の市役所近くの佐藤昌宅を経て、宮沢家の人々が避難していた羅須地人協会のあった桜町に近い佐藤隆房邸に寄寓していました。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず、光太郎も登場する小説、柳川一氏の『三人書房』書評。今月初めの『読売新聞』さんから。

『三人書房』柳川一著  乱歩謎解き 賢治・大観ら鍵 評・金子拓(歴史学者・東京大教授)

 今年は江戸川乱歩が大正12年に「二銭銅貨」でデビューして100年という節目の年である。乱歩こと平井太郎は、デビュー前の大正8年2月から翌年10月にかけ、二人の弟と「三人書房」なる古本屋を営んでいた。自製のスクラップブック『 貼雑はりまぜ 年譜』によれば、店は本郷区駒込林町の団子坂上にあった。
 本書の書名にもなっている表題作「三人書房」は、そこに持ちこまれたある謎を解く物語であり、語り手はこの店に身を寄せていた乱歩の友人井上勝喜である。 本篇ほんぺん により作者はミステリーズ!新人賞を受賞した。本書にはその続篇4篇が併録され、いわゆる連作短篇集の体裁になっている。続篇のうち3篇が書き下ろしであり、すべて語り手が異なるという工夫がなされている。
 二作目の「北の詩人からの手紙」には宮沢賢治が謎解きの重要人物として登場する。『新校本 宮澤賢治全集』第十六巻下によると、賢治は大正7年から翌年3月まで妹トシの看病のため在京しているから、三人書房開業とかろうじて重なる。乱歩と賢治に接点があったかも、という設定にワクワクする。
 それだけでない。有名どころでいえば、宮武外骨や横山大観、高村光太郎も登場する。大観が語り手の一人となる一篇「秘仏堂幻影」は、デビュー直後の大正12年が舞台である。153 頁ページ からページをめくった瞬間、そうか、と驚かされた。この年は乱歩にとってだけでなく、大観にとっても重要な年であったわけか。
 あの謎や、登場人物のあの行動が、乱歩ののちの作品にこうつながってくるという仕掛けも巧妙で、語り口も乱歩のそれを強く意識しているとおぼしく、大正の雰囲気がただよう。本書は物騒な謎というより日常の謎に近い謎解きの物語であるが、そんな謎に 嬉々きき としてたわむれる乱歩の姿が 頬笑ほほえ ましい。その兄の姿を羨望のまなざしで見つめる二人の弟。次弟通は平井蒼太の筆名で小説を書いたことでも知られる。二人のことをもう少し知りたい人には、鮎川哲也の名著『幻の探偵作家を求めて』を薦めたい。(東京創元社、1870円)

001
もう1件、過日、ちらっとご紹介しましたが、『福島民報』さんから。

創作に励み切磋琢磨 福島県いわき市の東日大昌平高文芸部 県文学賞入賞、活躍続く

 いわき市の東日大昌平高文芸部が近年、県文学賞で入賞を果たすなど目覚ましい活躍を遂げている。現在部員5人が在籍し、今年で顧問17年目を迎える斎藤久子教諭と切磋琢磨(せっさたくま)しながら短歌や俳句の創作に打ち込む。
 2000(平成12)年の開校とともに創部した。部員に短歌や俳句、小説などの指導をしながら斎藤教諭も創作をする。
 県文学賞では、2020(令和2)の第73回で当時の3年生が短歌部門で青少年奨励賞、2021年の第74回で斎藤教諭が短歌部門で準賞、昨年の第75回で仁田かのんさん(2年、当時1年)が短歌部門で青少年奨励賞をそれぞれ受賞。今年の第76回では猪狩冴空さん(2年)が詩部門、根本悠平さん(3年)が俳句部門でそれぞれ青少年奨励賞に輝き、同部としては4年連続入賞を果たした。
 県高校文芸コンクールでの活躍も顕著で、猪狩さんは今年の散文、短歌の両部門で優秀賞を受け、短歌部門で来年の全国高校総合文化祭への出場が内定している。
 創作に向かう感性を磨こうと、部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む。二本松市出身の洋画家・高村智恵子の生家では「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れた。斎藤教諭は「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」と話す。
 現在、部員は来年3月に発行する部誌「閃光」の編集作業を進めている。今後の活動について仁田さんは「さまざまなジャンルに挑戦し、うまく言語化できるようにしたい」、渡辺紗月さん(1年)は「多くの人に読んでもらえるような作品を作りたい」と目標を語った。
000
高校の文芸部というと、過日、このブログで岩手県立花巻南高等学校文芸部さんについてご紹介しましたが、こちらは智恵子の故郷・福島県。ただし、同県の地区区分は沿岸部が「浜通り」、山間部が「会津」、その中間が智恵子の生まれた二本松を含む「中通り」で、記事にある東日本国際大学附属昌平高さんは「浜通り」のいわき市にあります。いわきと云えば、当会の祖・草野心平の出身地。そこで、記事にある「部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む」とある中には心平生家も含まれているのかな、と思います。

それが浜通りの智恵子生家まで足を運んで下さり、「「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れ」て下さったそうで、すばらしいですね。顧問の先生の「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」というお言葉に全てが集約されているような気もします。

今後ともさらなるご活躍を、と祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます。又昔の状態に逆戻りするのでは情けない事ですから是非とも心ある者の努力が必要です。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

終戦から約1ヶ月、少しずつ「戦争」への省察が始まっています。やがてその矛先が自らの戦争責任へと向かっていき、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)などに繋がります。

で、「子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます」。戦前からそういう考えはありましたが、特に戦後は具体的な行動でそれを実現しようともしていきます。この後移住する旧太田村の山小屋では、近くの山口分教場(のちに山口小学校)や太田中学校、盛岡だと県立美術工芸学校や生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)などにたびたび通い、若い世代へのエールを送り続けました。

道の駅はなまき西南愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今月分の画像を送っていただきました。
002 003
001
004
今月のメニューは「アマランサスご飯」「大根餅」「牛すき煮」「魚のムニエル」「白菜と菊花のお浸し」「キャベツのオイスターソース炒め」「りんご入りさつまいも巾着」「塩麹入り卵焼き」「お新香」。ちゃんと栄養バランスも考えた上で、いい感じの品々が詰め合わさっています。

やつかの森LLCさん、これ以外の活動として、不定期に(おおむね月イチで)花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店なさっていますが、今月は1週間後の11月28日(火)だそうです。

「食」からの光太郎へのアプローチ、これもまた一つの方法ですね。光太郎自身、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。

そちらもこんな料理を饗しましたというご報告を頂きましたらご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の詩集について左の通り略定めました。 ○書名 詩集「花と実と」(或は「花と実」) ○頁数 十二行詰六〇頁程 ○篇数 三〇篇ほど ○内容 草木の花、果実、蔬菜、穀類などを短章の詩にうたひたり。日本の山野に取材せるもの多し。

昭和20年(1945)7月4日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎63歳

終戦直前のこの時期、こんな詩集を出すことを構想していました。戦争の敗色濃厚ということもあり、もはや翼賛詩は阿呆らしくて書けないという感じだったかも知れません。「果実、蔬菜、穀類など」を謳うとのことでしたが、この後の花巻空襲、終戦の玉音放送、花巻郊外旧太田村への移住などのバタバタで、結局この詩集の計画は頓挫しました。入れる予定だった詩篇は断片的に残ってはいますが。

これが実現していたら、「光太郎ランチ」「こうたろうカフェ」などのよいネタになったことでしょう。

いただきものの書籍と雑誌をご紹介します。

まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。

永瀬清子詩集

2023年10月13日 永瀬清子著 谷川俊太郎選 岩波書店(岩波文庫) 定価1,050円+税

女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。

妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)

001
目次
 はしがき(谷川俊太郎)無題
 [詩]
  『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『大いなる樹木』――(桜井書店、一九四七)より
  『美しい国』――(爐書房、一九四八)より
  『焰について』――(千代田書院、一九五〇)より
  『山上の死者』――(日本未来派発行所、一九五四)より
  『薔薇詩集』――(的場書房、一九五八)より
  『永瀬清子詩集』――(昭森社、一九六九)より
  『海は陸へと』――(思潮社、一九七二)より
  『続 永瀬清子詩集』――(思潮社、一九八二)より
  『あけがたにくる人よ』――(思潮社、一九八七)より
  『卑弥呼よ 卑弥呼』――(手帖舎、一九九〇)より
 [短章ほか]
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『女詩人の手帖』――(日本文教出版、一九五二)より
  『蝶のめいてい 短章集1』――(思潮社、一九七七)より
  『流れる髪 短章集2』――(思潮社、一九七七)より
  『焰に薪を 短章集3』――(思潮社、一九八〇)より
  『彩りの雲 短章集4』――(思潮社、一九八四)より
 渦巻の川――わが詩作の五十年(永瀬清子)
 《対談》やさしさを教えてほしい(永瀬清子・谷川俊太郎)
 《研究ノート》(白根直子)
 永瀬清子自筆年譜

先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。

永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。

永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。

残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。

特に「へー」と思ったのが、こちら。

 高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。


おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。

 高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。

その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。

ぜひお買い求め下さい。

紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。

門 ⅩⅦ

2023年8月24日 岩手県立花巻南高等学校文芸部
002
目次(抄)
 特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
  座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
  文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ 
   ――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
        兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
  コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
 特集Ⅱ 聖地開演
  一幕 「こども本の森遠野」
  二幕 「高村光太郎記念館」
 随筆
 詩
 小説
 短歌
 戯曲
 花南文芸部活動録
 編集後記


賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。

で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。

特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。

他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。

そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。

若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。

ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。

この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。

昭和20年(1945)7月3日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎63歳

智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。

この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。

11月8日(水)、『毎日新聞』さんの山梨版記事から。光太郎の花巻郊外旧太田村隠棲、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)についてです。

山は博物館 光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る

 岩手県花巻市のJR花巻駅から西へ9キロ余り。彫刻家で詩人としても知られる高村光太郎(1883~1956年)は太平洋戦争後、太田村(現花巻市)の外れの「岩手の山」で7年間、おんぼろ小屋に一人で住んだ。東京にいた時、戦争を支持する詩を多数発表した自らに「暗愚」を見いだし、流刑を意味する「流謫(るたく)」を科した。
 戦争詩を最初に書いたのは、日本が日中戦争を始めた1937年と言われる。「事変(じへん)二周年」で<植民地支那にして置きたい連中の貪慾(どんよく)から君をほんとの君に救ひ出すには、君の頭をなぐるより外ないではないか>と戦争を正当化。精神の支柱は、欧米のアジア支配からの解放だった。太平洋戦争開戦の「十二月八日」は<東亜(とうあ)を東亜にかへせといふのみ。彼等(かれら)の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ>と主張。光太郎にとってこの戦争は「大東亜戦争」だった。
 44年の詩集「記録」には「特別攻撃隊の方々に」「海軍魂を詠ず」「戦に徹す」などを載せた。
 45年4月、東京のアトリエが空襲で焼け、翌月、宮沢賢治の縁で花巻町(同)に疎開。敗戦後の11月、太田村の小屋に落ち着いた。鉱山などで使い古した建物を移築したため、粗末で当初は電気も通じておらず、まるで炭焼き小屋と同情された。光太郎は62歳で、当時は老人とみられた年齢。肺を病み、しばしば吐血して心配されたが、以前から土に根差した文化を理想とし、地方暮らしは希望していたものだった。
 そのころ、戦争協力者への糾弾は文学にも広がり、光太郎も対象になった。知人へのはがきには、詩集の「『記録』は大本営を過信した小生の不明の記録となりました」との記述がある。
 47年7月号「展望」に、転機となる詩20編の「暗愚小傳(しょうでん)」を発表。自分の精神史を告白した。「真珠湾の日」で<天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した>とあるように、戦争支持のもう一つの柱は天皇崇拝だった。「山林」では<おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容(い)れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく>と吐露した。
 これに収めなかった詩で、中国の抗日戦争の指導者だった蒋介石に対する「蒋先生に慙謝(ざんしゃ)す」では<天皇の名に於(お)いて強引に軍が始めた東亜経営の夢はつひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、国力つきて破れ果てた。わが同胞の暴逆むざんな行動を仔細(しさい)に知つて驚きあきれ、わたくしは言葉も無いほど慙(は)ぢおそれた>。そして「ブランデンブルグ」で<岩手の山におれは棲(す)む。おれは自己流謫のこの山に根を張つて>と言い切った。
 鋳金家で弟の豊周(とよちか)は著書で「本気でむきになって、自分を島流しにした。国家に協力し、いかにうかつだったかを思い、自分の暗愚を感じていた」と振り返った。光太郎は50年発表の詩集「典型」の序文でも「私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、愚劣の典型を見るに至つて戦慄(せんりつ)をおぼえずにゐられなかつた。詩は悪罵せられ、軽侮せられ、処罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみ」と、嫌悪感を繰り返し表した。
 本職は彫刻だが、岩手にいる間は彫塑、木彫とも1点の作品も発表しなかった。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」事務局長補佐の高橋卓也さん(46)は「一般に、自ら与えた罰は流謫と言われるが、実はそれより重い罰を彫刻の封印という形で科し、苦しんだ」と指摘する。
 だが、彫刻刀はよく研ぎ、材料の木も乾燥させていた。それでもだ。モチーフを欲する「人体飢餓」で<渇望は胸を衝(つ)く。氷を噛(か)んで暗夜の空に訴へる。雪女出ろ。この彫刻家をとつて食へ。とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。その時彫刻家は雪でつくる。汝(なんじ)のしなやかな胴体を>ともだえた。
 知人の手記によると、「岩手山の肩の強さに魅力があり、粘土で手の上で作ってみた」と話していた。高橋さんは「手慰みだろう」と推察する。弟は、光太郎が晩年「気もちが楽しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」とつぶやいたエピソードを紹介し「兄が好んで試みた木彫の小品は、心が豊かな時でなければ、また心に他念が混入してゐる時などでは出来るものではない」と振り返った。
 光太郎が彫刻の封印を解いたのは52年。10月に帰京し、青森県の依頼で十和田湖畔に建立する像の制作に取りかかった。仕事が終われば戻るつもりで、「小屋はそのままに」と言い残したが、53年10月の「乙女の像」除幕後に急に体が弱り、帰れないまま2年半後に死去した。死後、いろりの灰の中から土で作ったウサギの頭が出てきた。小屋は「高村山荘」として保存されている。
001
◇亡き妻に思いはせ
  戦後、小屋で独居の高村光太郎は、寂しくないかと心配されたが、1938年に他界した妻の「智恵子がいるから大丈夫」と答えていた。<智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。私の肉に居る智恵子は、そのままわたくしの精神の極北>と、50年の詩文集「智恵子抄その後」の「元素智恵子」で書いた。
 小屋から西へ徒歩5分に、高さ約30メートルの小さい山がある。東京方面の南側に景色が開け、光太郎はここに登っては妻の名を呼んでいたと、地元住民に語り継がれてきた。花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さんは「絶叫していたという人もいれば、ほがらかな感じだったという人もいる」と話す。 同書の「裸形(らぎょう)」で<つつましくて満ちてゐて、星宿のやうに森厳で山脈のやうに波うつていつでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙(めのう)質に奥の知れないつやがあつた。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう>と予言した。そこへ、十和田湖畔の像制作の依頼が舞い込んだ。現地視察に同行した建築家は「『智恵子を作ろう』と、ひとりごとのようにいわれた」と書いている。モデルを頼んで裸像を作ったが、出来上がった顔は智恵子だった。 智恵子は紙絵を多数残し、高橋さんは「光太郎先生は死期が近付くと、作品を預けていた知人に『返してほしい』とお手伝いさんに電報を打ってもらい、永眠に間に合った」と話す。
002
なかなかよくまとまっていますね。

光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。

冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。

昭和20年(1945)5月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎63歳

実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。

10月24日(火)、『毎日新聞』さんの奈良版記事から。飛鳥時代、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた東北方面の人々と都のあった飛鳥との関わりについてです。

「万葉古道」を尋ねて 交流・別れ・流浪/127 山田道/4 蝦夷の民、飛鳥京目指す

 大和政権が律令による中央集権化を進めた7世紀ごろ、国への反抗、服従を繰り返した最北の民・蝦夷(えみし)が、恭順の意思を示すため、山田道を飛鳥の京(みやこ)を目指してやって来た。
007
 この連載で万葉時代に入れている時期だ。蝦夷は、「日本書紀」には景行紀から持統紀までに登場。斉明紀(7年間)には32カ所に蝦夷の字が出る。始まりは、6世紀半ば、大和朝廷が地方豪族を任じた国造(くにのみやつこ)の支配地域から外れた東北地方以北の住民を、政権の側から呼んだ名だった。蝦夷の地は、新潟、宮城両県の中部を結ぶ線の北だが、境界は時代により変化している。
005
 581(敏達天皇10)年2月の「書紀」の記述は、蝦夷と国の関係を示す。
  「蝦夷数千、辺境に寇(あたな)ふ(害意を示す)」。首領らを呼び「詔(みことのり)して」今「(景行天皇の世のように)元悪を誅(ころ)さむとす」と言うと首領らは「恐懼(かしこ)みて(恐れ敬い)」、「泊瀬(はつせ)(桜井市)の中流(川の中)に下て、三諸岳(みもろのおか)(三輪山)に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)」った。「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫」、「天闕(みかど)に事(つか)へ奉らむ」。
 敏達天皇の訳語田(おさだの)幸玉宮は磐余(いわれ)にあった。蝦夷は、東国からの街道が通じていた名張を経て初瀬の谷の道を下ったのだ。
 次は蝦夷との緊張を示す。
 647(大化3)年、「渟足柵(ぬたりのき)(新潟市付近)を造りて、柵戸(きのへ)(屯田兵)を置く」。 
 万葉歌に出る北限地周辺の一つに、東山道は巻十四「東歌」にある「陸奥國」の「安達太良(あだたら)の嶺」(福島県)(3428)がある。高村光太郎の詩集「智恵子抄」が名を広めた。北陸道は、佐渡島の対岸にある神の山「弥彦(いやひこ)」(新潟県弥彦村)(巻十六 3883)。 福島県の南側は防人たちの出身地だ。
 蝦夷の生活、姿の描写も「書紀」にある。 659(斉明天皇5)年7月、遣唐使は「道奥(陸奥)の蝦夷男女二人」を伴い、唐第3代の高宗に見せた。
 高宗が「此等(これら)の蝦夷の國」の位置を問うと、使者は「國は東北に有り」、蝦夷には「三種有り。遠き者をば、都加留(つかる)(津軽)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熱(にき)蝦夷と名く」と答えた。2人は熱蝦夷で毎年、朝廷に「入(まい)り貢(たてまつ)る」。蝦夷の「國」には「五穀」は無く「肉(しし)を食(くら)ひて存活(わたら)ふ」。家屋は「無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む」。
 高宗は初めに「日本國の天皇(すめらみこと)」の平安を尋ね、「日本」の国号の最古の使用例の一つとされるが、誤写の可能性も指摘される。それまで中国書で日本は「倭国」であり、日本人も自ら倭と呼んでいた。
 皇帝は2人の蝦夷を見て「身面(むくろかほ)の異(け)なるを見て、極理(きはま)りて(この上なく)喜び怪む(不思議だ)」と珍しがったが、2人は倭人の生活圏に一番近い蝦夷だった。同行させたのは倭国が多様で大きいと示したかったのだろう。わざと異装をさせていたのではないか。蝦夷の地は倭国の外と意識されていたことも分かる。2人は飛鳥に寄っただろうし、7世紀、東国から飛鳥京に行くには、山田道を通った。 西日本で稲作が広がった弥生~古墳時代の紀元前5~紀元6、7世紀、北海道は稲作をせず、狩猟、漁、採集を中心とした続縄文文化の時代だった。同文化は後期(3~6世紀ごろ)には、東北地方北部にも渡り広まる。 稲作は、弥生時代前期に本州日本海側北端の津軽に伝わった後、中期以降は衰退、7世紀末頃までその状態が続く。
 唐に行った蝦夷の説明と続縄文文化の特徴は重なる部分がある。
 「夷」は中国では、東方の未開蛮族を指す。蝦夷は蔑称だが、強さも意味した。「乙巳(いっし)の変」(645年)で殺された蘇我入鹿の父親で、自宅に火をかけて死んだ大臣の名は蝦夷だ。「壬申(じんしん)の乱」(672年)の大海人皇子方の「豪傑」の一人に鴨君蝦夷がいる。
 斉明紀には、「渡嶋(わたりのしま)の蝦夷」が出る。「渡嶋」は北海道とみられるが、斉明4年には「阿倍引田臣比羅夫、肅愼(みしはせ)を討ちて、生羆(ひぐま)二つ・羆の皮七十枚を獻(たてまつ)る」。ヒグマは北海道に生息し本州にはいない。
 「書紀」は蝦夷と肅愼を区別した。
 斉明6年3月にも、阿倍臣に肅愼国を討たせた。臣が「陸奥の蝦夷」を船に乗せて行くと、「渡嶋の蝦夷」が海辺に居て「肅愼が我らを殺そうとする」と助けを求めた。戦いとなり「賊破れて己が妻子を殺す」。5月には一転して「石上(いそのかみの)池(いけ)の邊(ほとり)」(天理市)で「肅愼四十七人に饗(あへ)たまふ(饗応した)」。
 「書紀」は、蝦夷と肅愼の関係には触れていない。現在のアイヌ文化の形成は13世紀以後とされる。 7世紀、飛鳥に来た蝦夷はどんな文化、歴史を持っていたのか。以上のように、なお不明な点が多い。

「蝦夷」というと、平安初期の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いや、さらに平安末期の前九年・後三年の役などが有名ですが、それらより遡る飛鳥時代、蝦夷とヤマト王権との関わりを追っています。

それ以前から、ヤマト王権と小競り合いがあった蝦夷のうち、降伏したり捕虜になったりした者たちは「俘囚」として全国各地に強制的に移住させられるなどしていました。西日本でも蝦夷風の蕨手刀が出土するのがその証左。ちなみに鬼婆伝説で有名な観世寺さん(智恵子生家近く)で「鬼婆の出刃包丁」として伝えられ、展示されているのは蕨手刀です。

それでも「まつろわぬ」者たちも存続し、阿弖流為の乱に繋がりますし、処遇改善を求める俘囚の反乱なども頻発、平将門の挙兵もそうした流れの中に位置づける説もあります。遣唐使に連れられて海を渡ったという「蝦夷男女二人」も俘囚でしょう。

飛鳥京を経て唐の都・長安に渡った蝦夷。もしかすると「飛鳥には空が無い」「長安にも空が無い」とつぶやいたかも知れません。1,300年後に「東京に空が無い」と語った智恵子、蝦夷の血を色濃く受け継いだであろうその出自から、「あどけない話」が読み取れる気もします。無理くりですが(笑)。さらに言うなら、若い頃から北方の風土に惹かれ続け、ついに晩年には花巻郊外に隠棲した光太郎にも蝦夷の血が受け継がれていたのかも知れません。いっそう無理くりですが(笑)。

飛鳥時代ついでに奈良時代がらみで。

テレビ番組の再放送情報です。

再 興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHK BSプレミアム 2023年11月14日(火) 23:00〜00:00

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像。

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介 
    東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬
008
BS8Kさんで今年2月に初回放映があった番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月と7月に放映がありました。

光太郎の評論美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)が使われます。
009
ぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

只今はとりあへず妹の家に立退いてゐますが五月中旬には岩手県花巻町の宮沢賢治さんの実家にまゐります。一時そこに滞在して木彫材料を得て仕事する気でゐます。これからは諸方を行脚いたします。


昭和20年(1945)4月30日 西出大三宛書簡より 光太郎63歳

4月13日の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎。その月のうちには花巻への疎開を決意していました。

前年には陸軍軍医学校での講習を受ける為に上京していた賢治の主治医だった佐藤隆房に花巻疎開を勧められていましたし、焼失してしまったと思われるものの、宮沢家からの誘いの書簡等もあったと思われます。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
009
『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

002
生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

10月31日(火)~11月2日(木)、2泊3日で花巻に行っておりました。レポートいたします。

10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
PXL_20231031_042533982
同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
PXL_20231101_033316994
PXL_20231101_033324889
設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
PXL_20231031_062056383
今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
PXL_20231031_062113636 PXL_20231031_062108575
11月2日(木)には、レンタカーで北上川にかかる朝日大橋を渡っている最中、ふと河岸を見ると何やら黒い塊。もしかすると熊だったかも知れません。市役所さんのホームページには11月1日(水)にその場所で目撃情報があったと記されていました。くわばら、くわばら(死語ですが)。

同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
PXL_20231031_062458074
例によって説明パネルを書かせていただきました。
PXL_20231102_001030316
吉田が雑誌『婦人之友』との関わりも深いということで、同誌の誌面を拡大したパネル、スコーレ高校さん所蔵の古写真なども。
PXL_20231031_062516638 PXL_20231102_000823196.MP
光太郎が同校に勧め、現在も続くホームスパンとぶどうジュースに関する展示。
PXL_20231031_062449054
そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
無題
PXL_20231031_062436326 PXL_20231031_062429250
光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
PXL_20231031_062421726 PXL_20231031_062414805
右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。

そして一番驚いたのがこちら。
PXL_20231031_062404129
開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。

5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。

拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
PXL_20231031_063323383
そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
PXL_20231031_231457608
PXL_20231031_233249246
1000001743
1000001742
チェックイン後、再び市街へ出て、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の打ち合わせを兼ね、主催者の太田地区振興会、共催のやつかの森LLCの方々、そしてメインパネラーにして宮沢賢治令弟、故・清六氏令孫の宮沢和樹氏と会食。

翌朝、時間がありましたので、大沢温泉さん内のギャラリー茅(旧菊水館)で開催中の「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」を拝見。
PXL_20231101_000138420 PXL_20231101_000119976
PXL_20231101_000157051.MP PXL_20231101_000252554
PXL_20231101_000530853
PXL_20231101_000612924
4月に続き、2回目です。

さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
PXL_20231101_024954295
渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
PXL_20231101_023301982
イーハトーブセンターさんに到着。
PXL_20231101_030519236 PXL_20231101_030932092.MP
PXL_20231101_030947884
勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。

二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
1698832446707
PXL_20231101_052458343
001
第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
1698832367891
PXL_20231101_060636489
002
皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。

本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。

太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。しかし昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡に、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあります。また、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた詩人の竹内てるよや、浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。しかし、現物は確認出来ていません。

その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。

そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
PXL_20231101_084727235 PXL_20231101_084712380
翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
PXL_20231101_234952145
この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
PXL_20231102_010013352
IMG_6945
IMG_6946
約1時間半、光太郎と吉田、さらに『婦人之友』について、スライドショーを使いつつ話しました。近いうちにYouTubeに動画が上がると存じます。

終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。

そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

実に充実した3日間でした。

企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。


昭和20年(1945)2月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
2744d647
画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。

2泊3日、予定は全てこなし、帰りの新幹線🚄に乗り込みました。

昨日は宮沢賢治イーハトーブセンターさんで「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めました。
1000001769
今日は花巻高村光太郎記念館さんで
開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事として同題の市民講座講師を務めました。
1000001777
どちらもつつがなく終えることができました。

すみません。決まり文句ですが、詳しくは帰りましてからレポート致します。




昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
1000001720
今日、宮沢賢治イーハトーブセンターさんで、シンポジウム的な「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めさせていただきます。

昨日はその会場設営をちらっとお手伝い。
1000001724
その後、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄り、開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」を拝見。
1000001726
明日はこちらで関連行事としての市民講座講師を仰せつかっております。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)。いい感じに紅葉が始まっています。
1000001741
宿泊は定宿とさせていただいている大沢温泉自炊部さん。
1000001742
詳しくは帰りましてからレポート致します。



智恵子の故郷、福島から写真コンテストの応募案内です。キャッチコピーが「“ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えてください」す。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採られています。

第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト作品募集

“ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。

 郡山市ふれあい科学館では、星や月の輝く夜とともに、福島県の豊かな自然・そして人の暮らす風景を捉えた写真作品を募集し、広く全国に紹介することを目的に「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」を開催いたします。
 星や月の輝く夜空と地上の夜の景色の融合した風景、月明かりに照らされた幻想的な夜の風景など、あなたの視点での「星・月の風景」を撮影してご応募ください。

 2023年11月5日(日)締切です!

作品テーマ 福島県内で撮影された、星・月の風景
※星空や月と風景を併せて写した「星景写真」
※月の光を効果的に生かして撮影された「月光写真」や、湖面に映る星などを捉えた写真など、"星や月を感じられる"風景写真を広く対象とします。

【注意】比較明合成を含め、画像合成などの加工を施した写真は今回の募集対象外です。(カメラの撮影モードで、上記と同様の処理がなされた作品も対象外となります。)

応募締切 2023年11月5日(日) ※消印有効

送 付 先
〒963-8002 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
郡山市ふれあい科学館 ふくしま星・月の風景フォトコンテスト係
※直接持参される場合は開館日の10時~17時の受付となります。

審 査 員
【全体審査】
 鈴木 一雄 氏 (自然写真家/福島県出身)
 渡部 潤一 氏 (天文学者・名誉館長/福島県出身)
 郡山市ふれあい科学館長

選 賞
【大賞】1点(副賞5万円) 
【審査員特別賞】2点(副賞3万円) 
【特別賞】5点程度  
【入賞】30点程度
※表彰者には、作品写真集を贈呈いたします。

応募規定/応募形式
・カラープリント 四つ切(254×305mm)、ワイド四つ切(254×365mm)、A4サイズ、B4サイズ
※今回から応募はプリントのみの受付となります。
※トリミングの有無を応募用紙に記入してください。
※画像処理による被写体自体の加工、極端な色彩の変更を加えた作品は失格とします。また、倫理に反する(立ち入り禁止区域での撮影、木の枝を折るなどの行為による)作品は、判明次第失格とします。

・応募点数に制限はありません
※発表済みの作品でも応募可とします。ただし他のコンテストで発表の場合、当該コンテストの規定等をご確認の上で応募ください。

・応募者のプロ・アマを問いません。モラルとマナーを守って、自然や周囲に配慮しての撮影をお願いします。

応募方法
作品1点ごとに、必要事項を記入した応募票を、作品の裏側にセロハンテープでとめて応募ください。

作品の返却
プリントの返却はいたしません。

作品の著作権
応募いただいた作品の著作権は、基本的に撮影者に帰属するものとします。ただし、以下の点において、主催者が作品を使用する権利を有するものとします。
・写真展での展示(今後予定している巡回展を含む。)
・主催者が本事業に関連して発行する刊行物および雑誌・新聞等への掲載、インターネットへの掲載
・科学館事業における写真使用
・今後の本事業のための宣伝・広告のための印刷物への掲載
このほか(本企画の趣旨に合致した事業を実施するために行う展示への貸し出し、およびその宣伝広告のための印刷物への掲載許可など)については、その都度協議の上で対応するものとします。

選考と発表
選出作品については、新聞紙上・カメラ雑誌・郡山市ふれあい科学館ウェブサイトなどで氏名とともに発表いたします。また、令和5年度以降に郡山市ふれあい科学館で行う写真展、および作品写真集「ふくしま 星・月の風景 Vol.7」に掲載します。

※選考後に、作品原版(ポジ・データ)の提出をお願いする場合があります(原版は一定期間後に返却いたします)。また、応募時より詳細な撮影データ(特に撮影地と撮影年月日)についても、お伺いすることがあります。

個人情報の取り扱い
応募に際していただいた個人情報は、郡山市ふれあい科学館が管理し、本コンテストの実施運営に関わる作業のみを目的として使用いたします。個人情報は、契約に基づく委託先を別として断りなく第三者には提供いたしません。

審査結果を発表する際には、表彰者の賞名、作品、作品タイトル、氏名、住所(市町村まで)を公表いたします。

主 催 郡山市ふれあい科学館(公益財団法人郡山市文化・学び振興公社)
協 賛 (株)シグマ (株)ケンコー・トキナー
後 援 福島県 一般社団法人郡山市観光協会 福島民報社 福島民友新聞社 
    朝日新聞福島総局 毎日新聞福島支局 読売新聞東京本社福島支局 NHK福島放送局
    福島テレビ 福島中央テレビ 福島放送 テレビユー福島 ラジオ福島
    ふくしまFM 郡山コミュニティ放送ココラジ
001
前回の第6回は令和2年(2020)に募集でしたので、約3年ぶりとなります。その際までは、漫画家の故・松本零士氏が名誉館長でしたので、審査員に名を連ねられていました。

当方、平成28年(2016)開催の第4回の際は、郡山で入賞作品展を拝見して参りました。

かなりのハイレベルですが、腕に覚えのある方、ぜひ福島の「ほんとの空」(ただし「星・月の風景」ですから基本的に夜間でしょうが)の素晴らしさを広めるためにも、お力をお貸し下さい。

【折々のことば・光太郎】

それでは二十六日にはそのつもりで居ります、暗いうちから支度しようと思つてゐます、電車の都合ではここから上野駅まで歩かねばならないかも知れません、話はただ平常思つてゐることをとりとめもなく話す外ありません、


昭和19年(1944)3月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎62歳

宮崎の父で、素封家だった仁十郎が檀家総代を務めていた、茨城取手の長禅寺で行われた講話に関わります。
009
長禅寺には戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。聴衆は40名程。それを聞いた稔の姪の話では「母というのはいいものだ」というような話があったということです。

光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。活動報告をお送り下さいまして、そこからご紹介させていただきます。

グルメ系で、花巻市土沢地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さんでの取り組み。同店は一般の皆さんが店の調理場を借りてランチを作り、それを販売するというシステムです。やつかの森LLCさんでも、不定期ながらおおむね月に一度、「こうたろうカフェ」としてランチをご提供。

一昨日が「こうたろうカフェ」で、その画像等が届きました。
メニュー看板
メニュー表 (2)
本日のランチ
香茸おこわ、鶏もも肉 リンゴのソテー
ハムのトッピング
洗い場基本的には、日記等から読み取れる、光太郎が自分で作ったメニューや使った食材などを現代風にアレンジして、ということですが、かなり本格的ですね。メニューは画像にもありますが、文字起こししますと、以下の通り。

 ・香茸おこわ
 ・ピザトースト
 ・鶏もも肉のマスタード焼き
 ・青菜のエチュベ
 ・しめじの菊花和え
 ・赤ささげ豆煮
 ・南瓜の野菜スープ
 ・お新香
 ・栗入り小豆寒天
 ・アメリカンコーヒー


季節感もたっぷりです。

以下、画像が添えられていたメール本文からコピペ。

・鶏もも肉のマスタード焼き 粒マスタードに蜂蜜を入れてます。
・付け合わせは、マカロニポテトサラダ、ハムのせ
・りんごは、バターで焼くと甘くなっておいしいです。
・青菜のエチュベは、ほうれん草、小松菜、豆苗、キャベツのバター味の蒸し煮です。
・バターナッツカボチャは、スープに合います。サツマイモ、玉ネギ、ササゲ、ベーコンなど具沢山です。
・香茸おこわは、香りが良くて、初めの方も沢山いらっしゃいました。
・煮豆は、程よい甘味に仕上げてます。
・シメジの和え物は、和風だしで菊花の食感と香りを楽しみます。
・ピザトーストは、アンチョビソースをベースにして、パプリカと紫玉葱のスライス、こんがりチーズの上に塩ゆでしたむきエビをのせて焼きました。
・仕上げにイタリアンパセリを添えます。
・デザートは、ほんのり甘く煮た栗をあずき寒天に閉じ込めました。コーヒーに合います。
・太田産の食材を使い、秋を満喫していただければ幸いです。お腹いっぱいのこうたろうカフェのランチでした!

「太田」は光太郎が7年間暮らした旧太田村(現・花巻市太田)です。

驚いたのは、平日昼間にもかかわらず、用意した32食分があっという間に完売とのこと。大都会、あるいは地方でも有名観光地とか利便性の良い商業施設内とかならいざ知らず、失礼ながら、そういう場所ではありません。「こういうことを始めます」とお知らせを頂いた今春、これまた失礼ながら「あんな立地のところで成り立つんだろうか?」と心配したのですが、杞憂に終わったようです。常連さんもついたそうですし。

それもこれも料理のおいしさ、さらに価格の点(ワンデイシェフの大食堂さんの共通取りきめで1,000円)もあるのでしょう。

もう1件、やつかの森LLCさんの活動。「出前講座」だそうです。

花巻市では、各種市民団体や、おそらく学校さんや企業さんなど、講座を受けたいという場合に「この人の、あるいはこのグループのこういう講座を開いてほしい」と要望を出せば、それが実現するというシステムがあるそうで、それが「出前講座」です。

依頼主はどういう団体か当方は存じませんが「わかくさ新緑の会」という方々だそうで、テーマは「高村光太郎のハイカラ料理を知ろう」とのこと。

調理法の講座というわけではなく、料理はあらかじめ、やつかの森LLCさんと以前にもコラボなさった盛岡郊外の紫波郡矢巾町にあるTOM CREPERIE&DELIさんがご用意。

メニュー
トム特製ランチ
やつかの森LLCさんは、寸劇の形で旧太田村時代の光太郎をご紹介なさったそうです。
勝治先生と吉田幾世
洗い場 洗い場
1697594767302
郵便荷物届ける女先生
洗い場 洗い場
現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」にもからめて下さったそうです。

バイタリティー溢れる各方面でのご活動、頭が下がりますし、光太郎の世界をご紹介下さり、有り難く存じます。偉人の顕彰といっても、何も小難しい文章を書いたり何だりではなく、こういう切り口も大いにありだな、と存じます。全国の各種顕彰活動に携わる皆さん、御参考までに。

【折々のことば・光太郎】

八木重吉さんの詩集決定版のやうなものがあなたの手で編まれ、書物展望社から出る運びとなられた由、およろこび申上げます、題字も書きませう、お示しのどちらの題名がよいか小生も迷ひます、

昭和18年(1943)12月27日 八木登美子宛書簡より 光太郎61歳

八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されましたが、誤植等が多く、改めて登美子の編集による決定版詩集の刊行が企図されました。

登美子はその題字揮毫を光太郎に依頼し、それに対する返答です。この時登美子が題名の候補として挙げたのが「麗日」「花がふつてくるとおもふ」。それぞれ重吉の詩の題名ですが、どちらかを詩集の題名にも使おう、というわけでした。

光太郎は二種類とも揮毫し、登美子に送りましたが、やはり戦時中ということもあり、個人での出版は不可能で、光太郎の揮毫はお蔵入りとなりました。現物は神奈川近代文学館さんに収蔵されています。

岩手から市民講座の案内です。手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業「続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」

期 日 : 2023年11月1日(水)
会 場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 ホール 岩手県花巻市高松1-1-1
時 間 : 14:00~16:30
料 金 : 無料
      ※ 先着200名限定、満席となり次第入場不可 整理券の発行は行いません。

花巻市太田・山口での7年間の生活について、見た事、伝え聞いた事について語り合いながら、光太郎の生き様について紐解いてみる。
第一部は太田地区の皆さんから、第二部は地域外の方々から光太郎観について伺いながら、光太郎ファンの幅広い拡大につなげる。

メインパネラー
 宮沢和樹氏 「林風舎」代表取締役 賢治実弟・宮沢清六令孫

パネラー 
 浅沼隆氏  高村光太郎記念会理事 太田の高村山荘近くに居住 花巻農学校卒
 寺沢三夫氏 花巻地方農業共済組合総代並びに総代長を歴任
 照井康徳氏 高村光太郎山口会会長 花巻農学校卒
 阿部彌之氏 「宮沢賢治」花巻市民の会元会長 「宮沢賢治学会」元副代表
 菊池節子氏 俳句結社「藍生」「樹氷」会員
 森川沙紀氏 花巻市地域おこし協力隊員

コーディネーター
 小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表

002
003
主催は、かつて光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん。今年2月、やはり同会主催で行われた宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」が好評だったとのことで、第二弾です。

今回は生前の光太郎をご存じの方々などにお集まりいただき、いろいろと語っていただきます。当方はコーディネーターということで、皆様からお話を引き出す役です。

今回もご登壇いただく浅沼隆氏を含め、やはり生前の光太郎の思い出を語って貰う座談会が、平成30年(2018)5月、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で当時行われていた「高村祭」の中で催されまして、司会を務めさせていただきました。
004
その際にお話を伺った高橋愛子さん高橋征一さんは既に亡くなられました。

それからつい最近、今回のパネラー候補のお一人だった平賀タエさんという方が亡くなったそうです。平賀さんは、愛子さんと同級。御年91歳であらせられました。光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎の長女で、光太郎の日記にも「たえ子」として30回近く名が出て来る方でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、11月1日(水)、平日昼間ですが、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。現在、会場の宮沢賢治イーハトーブ館さんでは賢治がらみで「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」も開催中です。併せてどうぞ。
005 006
また、翌日の11月2日(木)には、現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事として、同館で当方ピンでの同名の講座も予定されています。というわけで、当方2日連続です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

辻詩の集といふのは小生まだ見ませんが、へんな誤植のあつた事はほんとにお気の毒に存じます、詩の誤植は殊に閉口にて殆ど全篇を傷ける事になります、小生なども常に新聞雑誌でこの誤植になやまされて居ります。


昭和18年(1943)11月10日 上田静栄宛書簡より 光太郎61歳

007「辻詩の集」は『辻詩集』。光太郎が詩部会長となった日本文学報国会の編集で刊行されたアンソロジーで、多くの詩人の翼賛詩が集められました。なぜかこの手のアンソロジーには必ずと言っていいほど採られている光太郎の作は載っていませんが。

誤植は本当に恐ろしいと思います。

当方も最近、よくやります。上述の「光太郎と吉田幾世」講座のレジュメ、花巻市役所さんに送ったところ指摘があり、「地方」を「痴呆」としていました(笑)。「痴呆はお前だ!」とツッコミが入りそうです(笑)。

また、過日発行した『光太郎資料』60集でも、「当会」とすべきところを「倒壊」(これもなかなか笑えます)、「特異な」が「得意な」(こちらは「あるある」ですが)。これも指摘されて初めて気づいた有様で……。一応、それぞれプリントアウトして確認しているのですが、ふっと集中力の途切れた時に視線がそこを通り過ぎると、見落とすのですね。そうでなければ「痴呆」や「倒壊」はありえません。気をつけます。

3件ご紹介します。

まず、昨日もお伝えした青森県十和田市の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について。地方紙『東奥日報』さんが報じて下さいました。

十和田湖・乙女の像70歳、感謝込めきれいに

003 十和田湖畔休屋(青森県十和田市)の御前ケ浜に立つ乙女の像の除幕式から70周年を迎えた21日、湖のシンボルに感謝の意を表そうと、地元の休屋町内会が像や周辺の清掃活動を行った。
 地域住民のほか、十和田湖を世に広く紹介した文人・大町桂月や乙女の像の研究に携わる市民団体有志ら約20人が参加。観光客でにぎわう前の午前7時半から30分余り、像や台座などを雑巾で水拭きし周辺の敷石にブラシをかけた。
 雨の中の作業となったが、同町内会の金村金作会長(74)は「乙女の像は十和田湖一番の名物なので、末永く大事にしたい」と話した。
 都内在住で、夫と観光に訪れた小田奈緒子さん(70)は清掃活動のことを知り「像は力強いという印象。地元の方は誇りを持っているのでしょうね」と話していた。
 乙女の像は、大町桂月、県知事・武田千代三郎、法奥沢村長・小笠原耕一ら十和田湖の「三恩人」の功績をたたえ、湖の国立公園指定15周年を記念し建てられた。1953年10月21日、制作者の彫刻家高村光太郎らが参加して除幕式が行われた。

あと30年経てば、100周年なのですね。光太郎自身は像を題材にした詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」で、「いさぎよい非情の金属が青くさびて/地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と謳いましたが。

続いて、智恵子の故郷・福島県の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」というコラム的な連載です。

福島県 今日は何の日 10月19日 2002(平成14)年10月20日 ねんりんピック開幕 福島市で開会式

002 第15回全国健康福祉祭ふくしま大会(うつくしまねんりんピック2002)が開幕した。総合開会式は福島市の県営あづま陸上競技場で常陸宮ご夫妻をお迎えして行われた。
 テーマは「ほんとうの空に響け ねんりんの輪」。全国47都道府県と12政令指定都市選手団が入場行進、ウエルカムコンサート、マーチングバンドなどが行われた。
 全国から60歳以上の約9800人が参加、3日間にわたって県内10市13町1村を会場にスポーツや文化の23種目で熟年の力と技を競った。 

『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとうの空」(正確には「ほんとの空」ですが)の語、福島では折あるごとに使われていますが、同じ「福島県 今日は何の日」によれば、県と県観光連盟が「観光ふくしま」のキャッチフレーズとして「“ほんとの空”があるふくしま」を制定したのが昭和54年(1979)。意外と古い話でした。

その後、平成2年(1990)には、5年後に開催された第50回国民体育大会のスローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」となっています。その流れでねんりんピックでも「ほんとうの空に響け」としたのでしょう。

今後も使い続けていただきたいところですが、出来れば正確に「ほんとの空」の方で、と存じます。

最後にテレビのローカルニュース。FNN系の福テレさん、10月15日(日)の放映でした。

安達太良山の雄大な自然に抱かれ”ととのう” 絶景サウナと極上水風呂<岳温泉 陽日の郷 あづま館>

 2022年10月には客室がリニューアルした、福島県二本松市にある岳温泉「陽日の郷あづま館」 洋室の「東扇」は、木のぬくもりあふれる、広々としたスタイリッシュな空間。窓からは、安達太良山を望むことができる。この「あづま館」に、日々の疲れを癒してくれるサウナがリニューアルオープンした。
 施設最上階の7階に、サウナフロアがリニューアル。サウナプラン利用者限定で、特別なサウナを楽しむことができるという。サウナは「空サウナ」と「山サウナ」の2タイプで、貸し切りもできるという。
◆一日最大4組限定・朝夕付ビュッフェプラン 一泊24200円~
 昼も夜も景色を楽しめる「山サウナ」は、被災地で採れた木材を使用。樽型のバレるサウナで、森を眺める1台と空間を楽しむ1台、計2台を完備。自然を存分に感じることができる。
 「空サウナ」では、全面ガラス張りの開放的な空間が広がり、“ほんとうの空”を見渡すことができる。サウナヒーターは東北初導入のikiヒーター。選べるアロマオイルをかけロウリュウを満喫。
 火照った体のクールダウンは「インフィニティ水風呂」へ。自然と一体化したような気分で、絶景を眺めながらととのうことができる。
 サウナを出た後には、ラウンジでレモンサワーやビールが飲み放題。
 この極上のサウナが利用できる一日一組限定の日帰りプランや宿泊プランなど、詳しくは「陽日の郷 あづま館」のホームページをご覧ください。
<陽日の郷 あづま館> 二本松市岳温泉1-5 https://azumakan.com/
005
006
007
008
009
010
011





「空サウナ」、いい感じですね。

十和田湖、そして岳温泉、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御著“生ける魂”を拝受、忝く存じましたが、昨夜何げなく繙読いたしましたところ、身につまされるやうな事ばかりにて、貴下の衷情に思をはせ、殆ど涙を流しながら読了しました。 殊に最後の章に至つて同感に堪へず、巻をふせて長大息いたしました、小説をよんでこんなに感動したのはめづらしい事でした、

昭和18年(1943)5月24日 中山義秀宛書簡より 光太郎61歳

中山義秀は智恵子と同じ福島中通りの西白河郡大屋村(現・白河市)出身の小説家。『生ける魂』はこの年刊行された中山の小説で、『智恵子抄』から詩篇を引用しつつ、亡妻との思い出にふれています。そういう内容だから、ということもあるのでしょうが、光太郎が小説をこれほど賞めたのは珍しいことでした。

今からちょうど70年前の昨日、昭和28年(1953)10月21日、青森県十和田湖畔休屋御前ヶ浜において、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式が行われました。二人の「乙女」も古稀を迎えたわけで……(笑)。
022
016
017
021
018
節目節目の日には、必ず雨、もしくは雪だったという光太郎。この日も雨でした。光太郎は「清めの雨だ」と言ったそうです。
001 023
光太郎と一緒に写っている女性は、モデルを務めた藤井照子です。まだご存命なのかも知れませんが、消息が分かりません。情報をお持ちの方はコメント欄等から御教示いただけると幸いです。

さて、昨日、現地では、式典とまでは行きませんでしたが、地元の皆さんが「乙女の像」の清掃を行って下さいました。元・十和田奥入瀬観光機構の方が音頭を取って集まって下さり、やはり雨の中、本格的に。ありがたいことです。
004
015
013
像の傍らにたつ「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑も。
014
005
泉下の光太郎も喜んでいることと思います。

バックの木々、少し色づいていますね。これから十和田湖、そして奥入瀬渓流と、紅葉シーズンです。ぜひ足をお運び下さい。

「乙女の像」といえば、今夜(日付が変わって明日未明ですが)、BS放送で下記の番組が放映されます。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2023年10月23日(月) 00:0000:25 

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
024
025
026
初回放映が一昨年。その後、繰り返し再放送があり、今回で7回目くらいかな、と思われます。

ぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

“海洋詩集”への拙詩御選択、お示しの通にて結構に存じます、


昭和18年(1943)2月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎61歳

「海洋詩集」は宮崎と小森盛の共編で刊行予定だったアンソロジー。二部構成で、第一部には一般の船員らの書いた詩、第二部では光太郎を含む職業詩人の詩が集められる予定でしたが、結局、戦争による出版事情の悪化で日の目を見ずに終わりました。

お蔵入りになりましたが、光太郎は序文も書きました。その中には「今日此の大東亜戦争の決戦段階に戦局は進み入り、船の意義、船員諸士の重大任務の真剣さは平時の比倫をはるかに絶し……」といった文言も見られます。おそらく単に「海洋」を題材とするだけでなく、翼賛的な内容のものが大半を占めていたと思われます。

光太郎詩も載ったこの手のアンソロジーは数多く存在し(手許に40冊ばかりあります)、国民の戦意高揚に資することが期待されました。

月に一度はネタを提供していたけだるので、非常に助かっております(笑)。光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に近い、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで毎月15日に限定販売される「光太郎ランチ」、今月分の画像等が届きました。
002
005
004
003毎月、かつて光太郎が自分で作った料理や、使った食材などを現代風にアレンジして、構成されています。

今月のメニューは以下の通り。

 ・ サツマイモご飯
 ・ 新米ご飯
 ・ 焼き鮭松茸添え
 ・ 蛸と里芋煮
 ・ 風呂吹き大根
 ・ 大根葉の塩昆布和え
 ・ キノコソテー
 ・ 塩麹入り卵焼き
 ・ お新香
 ・ リンゴ

何と、松茸が使われています。今年は夏の暑さとその後の残暑で、キノコ類全般が不作だとのことですが……。

リンゴも今秋収穫されたものなのでしょう。リンゴ中毒の当方としては(笑)、早く岩手の新リンゴを食べたいものです。
 
令和2年(2020)の10月15日に「光太郎ランチ」販売が始まりましたので、丸3年が終わり、4年目に突入したわけですね。末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今度僕の家の隣に八百屋さんが開業しました、これで大いに助かります。ついでに肴屋さんと肉屋さんでも出来ればいいと思つてゐます、 外食券のお礼その他一筆

昭和17年(1942)4月11日 風間光作宛書簡より 光太郎60歳

東京の食糧事情、まだ新規に開店する店舗があるくらいには余裕があったのですね。

「外食券」は、単身の勤め人など自炊をあまりしない者に米の配給の代わりとして配付された券です。これを持って「外食券食堂」に行けば、外食が出来たというわけです。この書簡は風間から外食券を貰った礼状です。

この時期の光太郎に「光太郎ランチ」を饗したら、あまりの豪華さに目を回したでしょう(笑)。

文藝春秋さん発行の月刊文芸誌「文學界」。同社の公式サイトにはまだ情報が出ていませんが、最新の2023年11月号、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏による連載「煽情の考古学」が「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」となっています。
001 002
同連載、日本各地、さらには海外まで含め、戦争遺跡などを実地に歩かれてのレポート。今号で第22回だそうです。

「高村光太郎の戦争詩碑」は、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑です。

以前にも書きましたが、詩「一億の号泣」は、終戦二日後の昭和20年(1945)8月17日、『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されたもので、8月15日の玉音放送を鳥谷崎神社社務所で聴いた時の感懐を謳ったものです。
001
  一億の号泣

 綸言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来(きた)る
 玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
 五体わななきてとどめあへず
 玉音ひびき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく
 宸極に向つてひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

戦時中の翼賛詩の流れを汲み、文語体。敗けた悔しさが滲み出ています。

この詩を刻んだ石碑、光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会が光太郎自筆揮毫を石に刻み、鳥谷崎神社に建立しました。ところがその建立を巡っては、すったもんだがいろいろありました。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・豊周は、一度はこの碑の建立を許可したのですが、当会の祖・草野心平が「この詩はマズい」。すると豊周も「なるほど、その通りだ」。ところが観光協会では既に碑を作ってしまった後でした。結局、碑は正式に除幕されることなく、昭和39年(1964)には一旦撤去され、神社の床下に格納されました。ゴタゴタがあった中で、碑文を削り、碑ではなくすという案もあったようですが、そうはなりませんでした。

ところがどうしたわけか、昭和57年(1982)頃に床下から出され、再び建立されました。豊周が没したのは昭和47年(1972)、心平は同63年(1988)。無関係ではないような気もします。

「煽情の考古学」では、この碑を巡る経緯、さらには福島二本松の智恵子記念館レポートも。そうした中で、「光太郎の屈折」として、翼賛詩を巡る問題を提起しています。

ちなみに大沢温泉山水閣さんには、宮沢賢治や光太郎などに関わる展示コーナーがあり、この碑の拓本も展示されています。
002
ところで、豊周はこの詩を巡り、興味深い回想を残しています。長野県に疎開していた終戦前日のことです。

 八月十四日のこと、座敷で寝ころんでいると、朝日新聞の長野支局から記者が訪ねて来た。私に何の用があって来たのかさっぱりわからないので「何の用か」と聞くと、「実はまだ絶対秘密なのだが戦争が終る」と言うのだ。
 「明日の昼、天皇陛下がラジオの放送でそのことを国民にお告げになることになった。」
 私は本当にびっくりして飛び起きた。
 「それで先生に明後日の新聞に詩を書いてもらいたいのです。」
 おかしいなと私は思ったが先方は、
 「一億号泣という詩を作ってもらいたい、明後日の新聞に出すから、すぐ作って渡してもらえないでしょうか。」
 兄と私を間違えたらしい。
 「俺は高村光太郎じゃないよ。光太郎の弟だよ。」
 「えっ、光太郎先生じゃないんですか。これは困ったな。光太郎先生は何処に居るんです。すぐ行って来ます。」
 「いや、ここにはいないんだ。すぐ行くと言ってもちょっくら行かれはしないよ。」
 「何処なんです。」
 「岩手県の花巻の在にいるよ。」
 記者は慌てて帰って行ったが、さすがは新聞社で、その日のうちに兄に通じて、どうやら用は間に合ったらしい。兄としても考える時間もないし、非常に迷惑千万なことだったろうと思う。しかし戦争の詩といえば高村光太郎と決っていたから、最後のお務めと思って、曲がりなりにも詩を作って間に合わせたものだろう。だが、光太郎の詩としては決していいものでなく、私は好きでない。のみならずその詩が後で攻撃の材料になり、兄も自分で不覚を感じていた。

(『自画像』昭和43年=1968 中央公論美術出版)

おおむねこの通りだったのでしょう。新聞社の方で既に「一億号泣」というタイトルまで指定していたとは驚きでしたが。

光太郎自身は、のちに昭和23年(1948)、戦後の一時期住まわせてもらった佐藤隆房に宛てた書簡にこう記しています。

あの時は一途の心から一億の号泣と書きましたが、其後の国民の行動を見てゐますと、あの時涙をしんに流したものが果して一億の幾パーセントあつたのか、甚だこれは小生の思ひ過ごしであつたやうに感ぜられます。

鳥谷崎神社に行かれる方、あくまで「負の遺産」として、この碑を見ていただきたいと存じます。

というわけで、『文學界』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十二月八日以来たてつづけにいろいろの当面の用事に従つて居りますにつけ、ますますわれわれが美の内面世界を深く探り進まねばならぬ事を痛感します、われわれ東方の美をどういふ風に世界像として造型すべきか、猛然とした気持になります、


昭和16年(1941)12月22日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎59歳

ひるがえって開戦直後には、このような感懐を抱いていました。

ともに光太郎とゆかりの青森県十和田市と岩手県花巻市、30年程前から友好都市の協定を結んでいます。

そもそもは光太郎ではなく、新渡戸一族の縁だそうです。現在の十和田市中心街となっている三本木地区は元々は川が通っておらず、不毛の原野でした。そこで江戸時代の文政年間、花巻出身で盛岡藩士だった新渡戸傳(つとう)が、十和田湖を源流とする奥入瀬川から水を引いて人口の河川・稲生川を作る工事に着手しました。傳は旧5,000円札の肖像だった新渡戸稲造の祖父に当たります。灌漑工事は明治まで続き、稲造の父・十次郎、兄・七郎の三代が関わり、十和田市には三人の銅像も建てられています。作者は光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作時に光太郎の助手を務めた、青森野辺地町出身の小坂圭二でした。
009
そういうわけで、両市の交流事業がこれまでもいろいろありました。

さらに来月、十和田市から花巻市への探訪ツアーが開催されます。『広報とわだ』の先月号から。
005
002
花巻高村光太郎記念館、隣接する高村山荘さんも行程に入っています。ありがたし。若干先の話ですが、申し込みが10月13日(金)までとのことで……。

調べてみましたところ、昨年のこの時期にあった同じツアーでも記念館・山荘を訪れて下さっていました。記念館には「乙女の像」の中型試作なども展示されており、その意味ではインパクトがあったということでしょうか。今年もご訪問下さいます。
010
また、遡って令和元年(平成31年)には、友好都市協定締結30周年の記念イベント等もあったとのこと。
011 007
逆に花巻市から十和田市への訪問市民ツアーは、10月21日(土)。ただ、「乙女の像」やそれに関わる展示が為されている観光交流センター「ぷらっと」のある十和田湖には行かれないようですが。

今後はもう少し光太郎を前面に押し出しての友好都市交流が為されるとありがたいところです。そうしますと、他にも光太郎智恵子所縁の自治体さんはいろいろあるわけで、各地を結んで「光太郎智恵子サミット」なども開かれるといいのですが、なかなか難しいのかもしれませんね。

さて、十和田の皆さん、11月11日(土)の「花巻市探訪ツアー」、ぜひご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は山百合の花をたくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速亡父と智恵子との写真に供へましたが殆ど部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。厚く御礼申上げます。 尚近く詩集「智恵子抄」を龍星閣から出版しますがお送りします故御註文なさらぬやうに願ひます。


昭和16年(1941)7月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎59歳

「好きだったので」と過去形ではなく「好きなので」と現在形。光太郎の中ではまだ智恵子は生きているのでしょう。

『智恵子抄』の刊行は1ヶ月後でした。

10月5日の智恵子忌日「レモンの日」にちなみ、「高村智恵子レモン祭」として様々なコンテンツを展開中の二本松市智恵子生家/智恵子記念館さん。

新たな試みとして行われた生家のライトアップに関し、報道されています。

地元紙『福島民友』さん。

智恵子の生家...浮かぶシルエット 福島・二本松、幻想的な投影で彩る

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日の5日、同市の智恵子の生家・記念館でライトアップイベントが行われた。生家に智恵子のシルエットが浮かび上がり、背景を幻想的なプロジェクションマッピングで彩った。
 「高村智恵子レモン祭」の一環として実施。生家内や庭園は竹あかりや和紙ランプシェードで演出され、来場者はゆったりとした時を感じながら、智恵子への思いをはせた。
 11月19日まで開かれるレモン祭では、生家2階の特別公開など多彩なイベントを実施する。入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは同館へ。
007
彼の地の友人から送られてきた画像。プロジェクションマッピングが為されており、智恵子シルエットの背景がどんどん変わるとのこと。
010 009
右上は期間限定公開中の生家内部です。

ライトアップは11月6日(月)~19日(日)にも行われるそうで、この頃、一度行ってみようと思っております。

さて、ついでというと何ですが、二本松系のテレビ番組のご紹介。

日本最強の城▼秋の絶景!城ハイキング▼あなたも絶対行きたくなる!魅力の城

NHK総合 2023年10月9日(月) 22:00〜22:45

城は誰もが楽しめるアミューズメント・スポット。全国に3万以上もあると言われる城の中から、えりすぐりの名城をピックアップ。驚きの秘密や知られざる魅力に迫ります!

秋、城へハイキングに出かけよう!絶景望む城のディープな魅力を堪能▼「平戸城(長崎)」異国情緒あふれる港町を見下ろす城。幕府も一目置いた海の覇者の本拠▼「二本松城(福島)」みちのくの要衝抑える城からは名峰・安達太良山。見事な石垣の大パノラマ▼「春日山城(新潟)」山全体を要塞化した上杉謙信の壮大な山城。目前に広がる日本海に強さの理由が!“最強の城”を決めるのはアナタ!HPで投票をお待ちしています。

出演者
【司会】恵俊彰 赤木野々花
【出演】高橋英樹 春風亭昇太 村井美樹 千田嘉博 
005
013
012
011
014
「智恵子抄」詩碑や、もと智恵子生家にあった藤棚などのある、二本松霞ヶ城が取り上げられます。「ほんとの空」、智恵子抄ゆかりといった話になるといいのですが……。

もう1件。

ミステリー・セレクション・湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿1 露天風呂に浮かぶ遺体の謎…22年ぶりの兄妹対面で起こった兄殺し欲望渦巻く故郷で迎えた驚愕の結末とは!!

BS-TBS 2023年10月10日(火) 09:59~12:00

高校生の娘と中学生の息子を持つシングルマザー・桜庭さやかは、ベテランバスガイド。しっかり者の子供たちに今日も起こされ、元気いっぱい仕事へと飛び出していく。今回のツアーは、猪苗代湖〜安達太良山〜会津若松を巡り、山形へと向かう旅。大盛り上がりのサンライズ商店街御一行様を前にさやかの名調子が冴える。ツアー客の中にはフラワーショップを営む佐野雄二と香織の兄妹も参加していた。2人はツアーの途中で22年ぶりに兄・修一に再会できることを楽しみにしていた。しかし、その兄が安達太良山で死体となって発見される。

出演者 萬田久子、葛山信吾、酒井美紀、石橋保、大浦龍宇一、未來貴子、伊藤洋三郎、
    斉藤暁、徳井優、竜雷太(他)
015
初回放映は平成21年(2009)。年に何度か再放送されています。

安達太良山が第一の事件現場という設定で、「智恵子抄」にもちらりと触れられます。
016
それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

いかにしても此の役目は小生に不向きにて とても つとまりかぬる事 明らかと存候に至り 文部省へは 右おうけいたし難き旨 返事さし出し候


昭和16年(1941)5月30日 平櫛田中宛書簡より 光太郎59歳

官設美術展「新文展」に関わります。光太郎の父・光雲に師事した平櫛田中が、光太郎を同展審査員に推挙。しかし若い頃から官展には拒否反応を抱いていた光太郎、やはり断ります。大政翼賛会文化部の任、さらにもう少し後には日本文学報国会詩部会長は受けたものの、ゆずれない一線は残っていました。

昨日は智恵子忌日「レモンの日」でした。「レモン忌」とも称しますが、「××の日」としていただけると、取り上げられやすいように感じます。皆様のSNS等拝見しますと、カーナビが「今日は「レモンの日」です」としゃべったりだそうですし。

さて、「レモンの日」がらみで、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、「中の人」が光太郎智恵子ファンなのでしょうか。高い頻度で夫妻に触れられています。多謝。

2023.10.5 みすず野

 ともに明治生まれで、50代で亡くなった2人の女性に思いをはせる。新刊コーナーの『杉田久女全句集』(角川ソフィア文庫)は帯書きに〈師・虚子による破門後、未発表の句も収録〉とある。図書館へ行かなくても手元に置けるようになった◆編者の坂本宮尾さんが句の背景や味わいどころを挙げた〈十五句鑑賞〉には、もちろん代表句の〈紫陽花に秋冷いたる信濃かな〉が入っている。城山公園に句碑が立つ。随筆選から漏れたが、これを機に父のふるさと松本への愛着をつづった佳文も読まれ、もっと多くの市民が〈女性俳句の先駆者〉ゆかりの地を誇れたらいい◆もう一人は高村智恵子。夫・光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた〈レモン哀歌〉にちなみ、きょうはレモン忌。光太郎は滞在中の上高地から―徳本峠で待っていても同じなのに―岩魚留まで迎えに行った。待てなかったのだ。汗を拭い、顔をほころばせる智恵子が目に浮かぶ◆峠道の復旧に汗をかく人たちがいる。何かお手伝いができないだろうか。日本近代登山の黎明期を支えた古道だから1人の名というわけにはいくまいが、ひそかに「智恵子の道」と呼びたい。

大正2年(1913)夏、先に上高地に滞在していた光太郎が、後を追って入山してきた智恵子を迎えに行った件について触れて下さいました。この後、二人は一夏を上高地で過ごし、結婚の約束を果たします。

ひそかに「智恵子の道」と呼びたい」道はクラシックルートとも呼ばれる旧道。たびたび土砂災害に見舞われ、今も「峠道の復旧に汗をかく人たちがいる」。ありがたいことです。

さて、「レモンの日」ということで、今週に入ったあたりから、全国の学校さん、各種施設さん等での給食などで、レモンを使ったメニューの提供が相次ぎました。こちらもありがたいことです。

その中で福島県福島市の平田小学校さん。昨日はずばり「レモンの日献立」。自校給食で同校独自のものだったのか、センター給食で複数校に提供されたのかわかりかねますが、同校サイトから。

レモンの日献立。〔給食〕

本日はレモンの日献立で「さばの味噌煮・レモン和え・ざくざく汁・ごはん・牛乳」でした。レモンの日は、安達町(現在の二本松市)出身の洋画家・高村智恵子さん、夫で詩人の高村光太郎さんにちなんだ日だそうです。智恵子さんが好きだったさばの味噌煮、二本松の郷土料理「ざくざく」が提供されました。さっぱりとしたレモン和えとともに美味しくいただきました。ごちそうさまでした。
011
智恵子さんが好きだったさばの味噌煮」の出典が不明なのですが……。「ざくざく」は当方も何度か口にしましたが、「福島県の」あるいは「中通りの」ではなく、「二本松の」郷土料理なのですね。

「レモンの日」の定着、そこから波及して光太郎智恵子の世界が世の皆さんに広く知られていくことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

今度はたつた三日間限りの委員でありますから何の提案も出来ないでせう、


昭和15年(1940)12月6日 小野綾子宛書簡より 光太郎58歳

この月16日から18日にかけて開催された大政翼賛会臨時協力会議に関わります。光太郎は岸田国士のたっての薦めで委員に就任し、翌年まで都合3回、会議に出席しました。

この時の会議では「何の提案も出来ない」と云いつつ、「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて発言しました。

ニュース映像が残っています。どこかに光太郎が映り込んでいるかもしれません。


智恵子を亡くした後の空虚感を埋めるため、さらには「芸術家あるある」の俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省、さらにはそんな生活をしていては自分も精神の危機を迎えるかも知れないという危惧もあったのでしょう、光太郎は一転して社会と向き合う方向に梶を切りました。その社会の方がおかしな方向にどんどん突き進んでいたのが、光太郎にとっての大きな悲劇でした。

智恵子の故郷・福島二本松。智恵子生家/智恵子記念館さんでは、智恵子忌日の今月5日(木)から「高村智恵子レモン祭」ということで、さまざなまコンテンツが用意されていますが、それ以外の件を。

まず、『読売新聞』さん福島版から。

レモンサワーの素人気 二本松「奥の松酒造」 1か月半で3500本達成

 二本松市の「奥の松酒造」が7月に売り出した「二本松のレモンサワーの 素もと  すっかいがな」が、印象的な名前と爽快な酸味で人気を呼んでいる。発売7か月で3500本を売る目標を、1か月半で達成した。市の補助金を活用して開発した新商品で、21日に市役所で報告会が開かれた。
   「すっかいがな」は、地元の方言で「すっぱいもの」を意味する。濃縮レモン果汁や同社のかすとり焼酎が原料で、アルコール度数は25%。炭酸水と1対3の割合で割って飲むのがおすすめという。
 50万円を上限に事業費の3分の2を支援する市新事業チャレンジ補助金を活用し、同社がにほんまつ観光協会と協力して開発に取り組んだ。レモンサワーにしたのは、詩人・高村光太郎が同市出身の妻・智恵子を詠んだ詩「レモン哀歌」にもちなんでいる。
 この日、市役所を訪れた奥の松酒造の遊佐丈治社長は「猛暑も売り上げ好調の追い風となった」と喜び、三保恵一市長は「ふるさと納税の返礼品にすることも検討する」と応じた。
 市内の「道の駅『安達』智恵子の里」など、県内各地で販売中。500ミリ・リットル入りの瓶で、希望小売価格は税込み1430円。
006
奥の松酒造さんの「すっかいがな」、発売当初に「ほう、こんなの出たんだ」と気づいてはいましたが、「レモン哀歌」がらみとは明言されていませんでした。「何だ、やっぱりそうだったんかい」という感じです。

続いて地元紙『福島民報』さん。智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅のJR東北本線安達駅関係です。

30日から「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」

 「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」は30日、福島県二本松市のJR安達駅東西自由通路西口1階コンコースで始まる。1917(大正6)年の開業から2016(平成28)に新駅舎に引き継がれるまでの歴史を写真などで振り返る。
 あだち観光協会の主催。和紙産業と駅誘致の経緯に始まり、駅の発展、出征、無人化反対運動と大規模な町民旅行などの写真パネル約30点を展示。観光協会が保管している旧駅舎の切符売り場、当時使われていた用品などもある。
 29日に内覧会を開いた。加藤和信協会長が「安達駅は地域の大きな核であり、ますますにぎやかになっていくよう努める」とあいさつした。地元関係者が「懐かしい」などと熱心に見入った。同展は観覧無料で10月29日まで。10月9日午後1時30分から会場でトランペットとピアノの「ほんとの空」コンサートを催す。
005
「いにしえの安達駅 旧駅舎98年の歩み展」および「ほんとの空コンサート」についてはこちら
007 008
009
「ほんとの空コンサート」、トランペッターのNoby氏、もう10年前になりますが、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているモンデンモモさんのコンサート等でご一緒しました。ピアノは一昨年に設置された駅ピアノを使うようです。

「芸術の秋」となり、紹介すべき事項が溜まりつつあるので、もう1件。二本松市の『広報にほんまつ』今月号から。

智恵子講座2023 「智恵子抄」全作品を熟読するパート2~その背景と意味を読み解く~

美と愛に生涯を捧げた高村光太郎と智恵子。2人の波乱万丈の生涯を赤裸々に表現した「智恵子抄」。その核心に肉迫します。

会 場 市民交流センター  
講 師 智恵子のまち夢くらぶ代表 熊谷健一 氏
定 員 20人
参加料 3,000円(全3回分、テキスト代含む)
申込方法 下記までお申し込みください。
◎問い合わせ・申し込み…智恵子のまち夢くらぶ事務局☎(23)6743(受付:9:00~18:00)
010
「智恵子講座」。以前は外部から講師を招いてということで、当方も何度か務めさせていただきました。このところ、主催の智恵子のまち夢くらぶさん熊谷代表が講師となって開催されています。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今月十日に父の七回忌、智恵子の三回忌を一しよに法要しました。五日には小生だけお墓まゐりしました。智恵子の事を友達はよくおぼえてゐてくれました。

昭和15年(1940)10月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

千葉九十九里浜在住だった智恵子実母宛です。

新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいる三回目、亡くなられたお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんです。

えりさん地元の『山形新聞』さん。

渡辺えりのちょっとブレーク (220)演劇を続け、訴える平和 舞台「ガラスの動物園」の稽古が始まった。

009
005 ローラ役の吉岡里帆さんとは、この日が初対面。ローラ役にぴったりだと思い、私が手紙を出して実現したキャスティングだ。芯が強く純粋でまっすぐなイメージ。会ってみると私が想像していた通りの、まじめで細やかな方だった。ジム役の和田琢磨さん(山形市出身)は先日、私の母校の山形西高演劇部とのワークショップに参加していただいた。山形県民特有の純朴で礼儀正しい気質の方で、信頼できると思った。
 トム役の尾上松也さんはまだ10代の頃、私が歌舞伎を演出した際に出演していただいた。その後、ミュージカル「狸御殿」で親子役で共演した。その時の舞台美術は、山形市出身の絵本作家荒井良二さんだった。
 尾上さんとは、コロナ禍の2020年、本多劇場で2人芝居を上演した。「ガラスの動物園」の後日談「消えなさいローラ」で、探偵役を演じていただいた。尾上さんがテレビドラマ「半沢直樹」の撮影で忙しい最中、午前9時からの稽古を1週間という無謀なスケジュールで行った。緊急事態の公演が大好評で、「こうなったら本編もやろう!」と誓い合った企画が、今回の2本立て公演である。
 私が山形県民会館で文学座の「ガラスの動物園」を見たのは、1971(昭和46)年11月19日の夜、16歳の時だった。その日の昼間は、全共闘の火炎瓶で東京・日比谷公園の松本楼が全焼した。そして、71年は前年の11月に自決した三島由紀夫の葬式があった年だ。
 ベトナム戦争が終わったのは75年。反戦活動が続き、アメリカとの安保条約や地位協定に対する不安と不満が爆発し、日本人のアイデンティティーを問う活動が盛んになっていた時代であった。
 そんな中で見た「ガラスの動物園」のローラは私自身と重なり、世の中の常識と保身で縛ろうとする母親は自分の母と重なった。号泣したまま、席からしばらく立ち上がれなかった。
 公演後、西高演劇部の先輩に誘われ、アポなしで楽屋へ行った。トム役の江守徹さんは何事もなかったようにボテ(張りぼて)をトラックに運び、ジム役の高橋悦史さんは楽屋をほうきで掃いていた。「長岡輝子先生の楽屋はどちらですか?」と先輩が尋ねると、案内してくださった。
 アマンダ役で演出も手がけた長岡さんとローラ役の寺田路恵さんは、同じ楽屋にいらした。先輩は、役者を目指すための方法や覚悟などさまざまな質問をした。長岡さんは、宿泊していた八洋館までの移動を含めて1時間余りも付き合ってくださった。
 あの日の出会いがなければ、私はこうして演劇を志すことはなかった。
 あの日から52年。ともに楽屋を訪ねた先輩は突然の病で異界に旅立った。高村光太郎と智恵子がよく2人で食事していた松本楼の全焼に胸を痛めていた父も、昨年亡くなった。今回の舞台は、11月23日に山形市でも上演する。新しいやまぎん県民ホールで長年の夢がかなう。
 「ガラスの動物園」の時代設定は37年4月26日。ナチスと手を組んだフランコ将軍によるゲルニカの絨毯(じゅうたん)爆撃があった日だ。国際法を破った初めての攻撃とも言われる。その庶民を狙った無差別攻撃は、のちの広島、長崎の原爆投下へとつながっていった。時代は繰り返し、ウクライナ戦争は終わらない。戦争の残酷さは今もまだ止められない。私にできるのは、諦めずに演劇を続けて平和を訴えることしかない。
(俳優・劇作家、山形市出身)

舞台「ガラスの動物園」は、アメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズが昭和19年(1944)に書いた戯曲です。世界全体が閉塞的状況だったともいえる1930年代後半のセントルイスを舞台に、アメリカ下層階級一家の日常を描いています。

日本でも繰り返し舞台化されていて、昭和46年(1971)、文学座の長岡輝子さん、江守徹さん、高橋悦治さんによる公演をご覧になったえりさんの、演劇の道を志すきっかけになった作品だそうです。

その「ガラスの動物園」と、後日譚である「消えなさいローラ」の二本立てを、吉岡里帆さん、尾上松也さん、和田琢磨さんで上演とのこと。演出はえりさんです。
008
えりさんが山形で「ガラスの動物園」をご覧になった日、東京日比谷公園ではいわゆる日比谷暴動事件が起こり、沖縄返還闘争の学生デモ隊によって、連翹忌会場として使わせていただいてる(当時は違いましたが)日比谷松本楼さんが焼け落ちました。

松本楼さんは、光太郎や木下杢太郎・北原白秋等による芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われたり、明治末には光太郎智恵子が訪れてアイスクリームを食べたりといった記録が残っています。

アイスクリームの件は新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)に掲載(オリジナル『智恵子抄』には無し)されている詩「涙」に書かれており、光太郎と交流のおありだったえりさんのお父さま、「あの松本楼が……」というわけだったのでしょう。

ちなみに地上波テレビ朝日さんで昨日放映されていた「午後もじゅん散歩」。平成30年(2018)放映の回を編集し直したものだそうでしたが、高田純次さんが信州善光寺さんに行かれるというので拝見しました。
056
057
光太郎の父・光雲の名は出ませんでしたが、光雲とその高弟・米原雲海による仁王像が納められた仁王門。

で、この番組、後半はテレビ通販です。すると、松本楼さん。驚きました。
058
059
しかも、ゆかりの文人ということで、漱石と光太郎。
060
通販で扱った商品は、松本楼さんのデミグラスハンバーグとビーフシチューを冷凍食品にしたものでした。
061
ところで、過日、えりさんから突然電話が掛かってきまして(いつものことですが(笑))「今、エッセイ書いてるんだけど、昭和46年に松本楼さんが焼けた経緯、わかる?」。当方も焼けたことは存じていましたが、詳しいいきさつまでは存じませんでした。それどころか焼けたのが二度目というのは存じていたものの、一度目は明治38年(1905)の日比谷焼き討ち事件と思い込んでいて、実は大正12年(1923)の関東大震災だったという有様。汗顔の至りです。

閑話休題、演劇を通して平和の尊さを訴え続けられているえりさん、今後ともご活躍なさるを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子の三回忌が近づきました。五日は今年は防空訓練最終の日にあたるので十日にのばして法事をします、今年は父の七回忌にもあたりますから丁度一緒に父の命日に営むわけです、 満二年たつたのですが、まだ昨日のやうに思はれます。


昭和15年(1940)9月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

太平洋戦争開戦までは未だ1年以上間があるのですが、「防空訓練」。光太郎の周辺もだいぶきな臭くなっていました。

昨日のこのブログで書きましたが、このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

今日は、宮沢賢治令弟にして光太郎と交流の深かった故・宮沢清六氏令孫・宮沢和樹氏。『朝日新聞』さん岩手版から。

賢治を語る 没後90年 切ない願い「雨ニモマケズ」 「林風舎」代表・宮沢和樹さん

 北東北の詩人・宮沢賢治が亡くなって21日で90年になった。賢治の代表作の一つとなった「雨ニモマケズ」の詩にはどのような思いが込められていたのか。彼の死後、多くの作品を世に送り出した賢治の実弟・清六さんの孫で、賢治のゆかりの品や肖像などを保護する「林風舎」(花巻市)の代表、宮沢和樹さん(59)に聞いた。008

――祖父の清六さんは、どのような人物でしたか?
 賢治と年が八つ離れていましたが、妹トシと並んで、賢治の最も良き理解者でした。
 賢治は多くの作品を世に残しましたが、生前刊行できたのは詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の2冊だけです。賢治の作品のほとんどは死後、祖父の手を通して発表されました。童話にしてはやや難解ですので、最初はどの出版社からも相手にされませんでしたが、尊敬する兄の作品を世に送り出すことを、祖父はどこか自分の使命のように考えていました。

――詩人・高村光太郎も賢治を評価していました。
 当時、すでに詩人として成功を収めていた光太郎は、賢治と生前に一度面会し、その作品を「自分の作品よりも後世に残るものになるかもしれない」と高く評価していました。賢治の死後に刊行された全集の題字は、光太郎によるものです。
 戦争中、東京のアトリエが空襲で焼かれた光太郎は、疎開先として賢治の実家に身を寄せます。その際、清六は光太郎から「念のために防空壕(ごう)を作り、あらかじめ大切な物を避難させておいた方がいい」と助言され、賢治の原稿や資料を防空壕と土蔵の二つに分けて避難させました。結果、1945年8月10日に空襲が花巻を襲い、賢治の実家は焼けてしまいましたが、作品は奇跡的に残すことができました。

――花巻には「雨ニモマケズ」の詩碑があります。
 賢治の没後3年目の36年秋に建てられた最初の詩碑で、毎年賢治の命日には詩碑の前で「賢治祭」が開かれます。
 碑文は「雨ニモマケズ」が選ばれましたが、長いために後半部だけが刻まれました。
 碑文の字は光太郎によるものです。実は届いた文面には誤りがありましたが、高名な詩人の字であるため、そのまま刻印されました。その後、光太郎が誤りを正すために追刻を施し、世にも珍しい「直しの跡が見える詩碑」になっています。

――「雨ニモマケズ」で、清六さんが考えていたことは?
 「雨ニモマケズ」は、賢治が作品として残したものではなく、死の約2年前に病床で手帳に書いたものでした。
 そこには「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」という文がありますが、祖父は常々、「この『行ッテ』が大事なのだ」と話していました。
 自分が実際に動くことが大事なのだ、そしてそれは、病床にいて自分では動くことのできない、賢治の切ない願いではなかったか、と。
 作品を通じて、賢治の願いや夢みた世界が、多くの人に伝わっていくことを願っています。


こうしたお話、氏のご著書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』(令和3年=2021 ソレイユ出版)などにも記されていますし、今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」などでも語られました。

過日も書きましたが、その公開対談が好評だったということで第2弾が11月1日(水)、宮沢賢治イーハトーブ館ホール行われます。今回はさらに生前の光太郎をご存じの方々などにもパネラーとなっていただき、当方がコーディネーターとしてお話を伺います。

昨日、フライヤーその他が届きました。
001 002
詳細はまたのちほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生の過去を知るべき詩集は“道程”一冊しかなく、それが絶版になつてゐて不便なので文献上再版して置くべきだといふ事になるのでせう、これは拒否するいはれが無いやうです、それであなたの編輯といふ條件で再版を承諾します、

昭和15年(1940)8月8日 三ツ村繁蔵宛書簡より 光太郎58歳

この年11月、三ツ村の山雅房から刊行された『道程改訂版』に関わります。大正3年(1914)の初版『道程』をベースにしていますが、削除した詩篇もあり、その後の詩篇も多数追加、『道程』とはいいうものの、別の詩集というべきものでした。

11月には「150部限定版」、通常の「書店版」が同時に刊行され、翌年には「普及版」。こちらは昭和18年(1943)の9刷まで版を重ねました。昭和17年(1942)にはこれにより昭和16年度の第一回帝国芸術院賞受賞。

どうも戦時下における文化人代表の一人として光太郎を引っぱり出すため、実績を積ませようとする軍部や大政翼賛会(8月の時点では準備段階で、未だ正式に発足していませんが)の意図が、出版そのものの裏側に透けて見えます。

10月5日(木)が智恵子の命日「レモンの日」ということで、その故郷、福島県二本松市での顕彰事業もろもろが、今年から「レモン祭」と名付けられました。新しい取り組みも含まれています。

高村智恵子レモン祭

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井漆原町35
休 館 : 水曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
      子供(小・中学生) 個人:210円 団体:150円

■みんなで作るシンメトリー展 ~作製編~
 智恵子も数多く生んだシンメトリー作品を、オリジナルで作成できます。
 作成いただいた方には、粗品(今季限定)をプレゼントいたします。
 皆様の作品は、ひとつの作品に仕上げ、次回自主事業開催時に展示いたします。
 実施期間 10月5日(木)~11月19日(日)

■蘇る智恵子 ~生家のライトアップ~
 智恵子の命日に生家がライトアップされます。
 ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
 実施期間 10月5日(木) 午後5時~午後8時 11月6日(月)~19日(日) 開館時間内

■智恵子の生家 2階公開
 公開日
 10月7日(土)~9日(月)、14日(土)~15日(日)、21日(土)~22日(日)、28日~29日(日)
 11月3日(金)~5日(日)

■奇跡といわれる「紙絵」の実物展示
 展示期間 10月5日(木)~17日(火)
005
例年行われている智恵子居室を含む生家二階部分の公開、智恵子紙絵の実物展示に加え、新たな取り組みとして、生家のライトアップ、シンメトリー紙絵の制作体験が盛り込まれました。

心を病んで入院していた智恵子によって南品川ゼームス坂病院で作られたシンメトリーの紙絵はこんな感じです。
006 008
007
011 010
光太郎の回想が残っています。

模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼はりつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。(「智恵子の切抜絵」昭和14年=1939)

下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見え」るという「切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたの」は、たとえばこれ。
012
智恵子の並々ならぬ造型感覚が見て取れますね。

こうしたシンメトリーの紙絵(もうちょっとシンプルなものだったとは思いますが)、智恵子が心を病む前から手がけていたという証言が残っています。光太郎智恵子と親しかった詩人の尾崎喜八の回想から。

智恵子さんは後の紙絵の大家で、立派な工芸家だと思いますがとっても折り紙がお上手だったんです。我々が作る幼稚な折鶴とか云ったものでなく、とってもすばらしいもので、それをもうすでにいわゆる、そのシンメトリカルに紙をたたんでシンメトリカルに切ると、あるきそくに立派な模様ができる。ああいうものをすでにやっていらした。それを三つになる女の子のために作って下さった。オバチャマに頂いた、とそれをもって帰って来た事があります。(「尾崎喜八氏聞き書き―智恵子三十年忌―」  請川利夫著『高村光太郎論』昭和44年=1969所収)

三つになる女の子」は、尾崎の長女・榮子さん。平成28年(2016)までご健在で、当方も智恵子の思い出を聴かせていただいたことがあります。大正14年(1925)のお生まれでしたので、「三つ」ということは、数えなら昭和2年(1927)、満なら同3年(1928)、いずれにしてもまだ智恵子の心の病が誰の目にも顕在化する以前です。

それにしても、ゼームス坂病院で作られた智恵子のシンメトリーの紙絵、まさに光太郎の云う通り「紙は一個のカムバスとなつた」状態ですね。複数のシンメトリー作品を組み合わせたものなど、まさにこの紙絵が奇跡と云われる所以の一つでしょう。

残念ながら智恵子を偲ぶレモン忌の集いは、主催されていた智恵子の里レモン会さんが解散してしまったため無くなりましたが、当方も期間中に一度足を運ぼうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先年智恵子が造つて置いてくれた梅酒をのみました、感慨無量です、彼女はまだ生きてゐます、


昭和15年(1940)3月29日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

『智恵子抄』所収の詩「梅酒」の光景です。光太郎手控えの草稿に依れば、この書簡の2日後に書かれています。

    梅酒013
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村にある高村光太郎記念館さんでの企画展です。

令和5年度高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」

期 日 : 2023年10月5日(木)~11月30日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

吉田幾世は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校)の創始者です。高村光太郎と吉田幾世の関わりについて写真や掛け軸などの資料とともに紹介します。
006
 2023年11月2日(木) 10:00~12:00 高村光太郎記念館第一展示室
 講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 高村光太郎と吉田幾世の交流について解説。

 申し込み締め切り日 10月20日(金)
 定員をこえる場合は抽選となります。
 定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
 次のいずれかの方法でお申し込みください。
 高村光太郎記念館(0198-28-3012)へお電話ください。
 専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

吉田幾世(大正元年=1912~平成15年=2003)は、盛岡出身の教育者。戦前に羽仁吉一・もと子夫妻が東京東久留米に創設した自由学園に学びました。卒業後、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で、明治末から光太郎が数多くの寄稿をした雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行いました。その流れの中で、吉田は友の会のメンバーと共に、昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を開校させ、自由学園の精神を受け継ぐ岩手女子教育の新生面を担うこととなりました。

戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎が移住すると、吉田は『婦人之友』に光太郎の寄稿を仰ぐべく山荘を訪れ、以後、学校ぐるみでの光太郎とのさまざまな交流が続くことになります。吉田が生徒たちを引き連れて光太郎の山小屋を訪れたり、光太郎が盛岡の同校で講演を行ったり、さまざまなアドバイスをしたりと。

そうした交流についての紹介、それから光太郎から吉田や同校などに贈られた書、当時の古写真などを展示します。当方、展示パネルおよびフライヤー裏面の解説文を執筆いたしました。

特に書は、新たに確認されたこれまで未公開のものの展示も。こういう書を書いた、という記録は残っていたものの、その現物が確認できていなかった作品が含まれ、「こんなものも見つかった」という報せと共に市役所さんから送られてきた画像を見て仰天しました。

11月2日(木)には関連行事としての当方の講座があります。今回、参加資格に花巻市在住とか勤務とかの縛りが特に無いようなので、ぜひどうぞ。もちろん展示のご高覧も、です。

【折々のことば・光太郎】

毎日お送りの書きものは面白くよんでゐますが一々御返事は書きません、御ゆるし下さい、

昭和14年(1939)8月20日 野澤一宛書簡より 光太郎57歳

野澤一は山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで四尾連湖畔に独居生活を送り、そののち上京。なぜか面識がなかったと思われる光太郎に対し膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その数300通超、一通が3,000字を超えることもありました。光太郎、ある意味辟易しながら、それを面白がってもいました。

智恵子の故郷・福島二本松でのイベントです。

観月の宴~十五夜~

期 日 : 2023年9月29日(金)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 500円(お茶菓子代)

十五夜の当日に、抹茶と和菓子を楽しみながら、箏(こと)の音色と共に月見をいたします。「ほんとの空」に輝く仲秋の名月を眺めてみませんか?

005
直接は光太郎智恵子には関わらないと思いますが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使われては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

ただし、定員30名、既に埋まっているという話でした。それでもキャンセル等あるかもしれませんので、一応。

今年の十五夜は9月29日(金)なのですね。智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の十五夜は智恵子葬儀の執り行われた10月8日だったようで、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は、「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったような気がします。

当日、晴れるといいですね。

【折々のことば・光太郎】

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒に食べるやうな気がします、


昭和14年(1939)7月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎57歳

光太郎、智恵子の陰膳的にビールをコップ二つに注いでおくと、いつのまにかそちらも無くなっているという回想を残しています。絶対、自分で飲んで居るんですけれど(笑)。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されている花巻市土沢地区の「ワンデイシェフの大食堂」さん。9月13日(水)がご出店日でした。

かつて光太郎が実際に作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりしたメニューは以下の通り。

栗ご飯、アンチョビサンド(軽くトーストしたバケットにレタス・チーズ・ドライトマトをのせアンチョビソースとオリーブオイル)、ピーマンの肉詰め(人参・コーン・エリンギを細かいサイノメに切り和風だしのあんかけに)、林檎とナッツのサラダ(リーフレタスに皮つきのリンゴを刺してオシャレに盛り付け)、夕顔のポトフ(大きめに切った夕顔に鶏の旨味が染み込ませ)、ゴーヤの佃煮、舞茸スープ、お新香、コーヒーゼリーサンデー(寒天とコーンフレークの食感も加えアイスとチョコソース・バナナ・ポッキーのトッピング)、お茶(煎茶にミントを加えて煎れたモロッコ風ミントアイスティー)。
1694650730532
1694582433442
1694582341680 1694582680596 1694582605628
1694582322553
専門の料理人でない皆さんがここまで作るか、という感じですね。

9月15日(金)には、道の駅はなまき西南さんでの豪華弁当「光太郎ランチ」の販売もありました。
IMG-6684
IMG-6685
IMG-6686
こちらのメニューは以下の通り。

栗ご飯、そば粉クレープ鶏照りレタス、牛肉入りジャガバタ炒め、里芋と厚揚げの煮物、塩麹入り卵焼き、きゅうりとトマトの酢の物、蒸しかぼちゃのごまかけ、舞茸当座煮、糠漬け、フルーツ。

どちらにも光太郎が好んだ栗ご飯や舞茸が入っています。秋ですね。

それぞれ末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の死は小生にとつてかなりひどい打撃ですがしかし遠からず平常の常態に復して今度は猛烈に仕事に専念しようと考へてゐます、四十九日がもうぢきです、

昭和13年(1938)11月16日 更科源蔵宛書簡より 光太郎56歳

智恵子の死にも不屈の光太郎。しかし前年に始まった日中戦争は既に膠着化、挙国一致体制が求められ始め、彫刻も詩作も自由には出来なくなっていきます。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
005
高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
015
直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

↑このページのトップヘ