カテゴリ: 東北

ともに再放送ですが、テレビ放映情報です。

まず、岩手系。

新日本風土記「銀河の鉄路 釜石線の旅」

NHK BS 2024年6月16日(日) 午前6:00~7:00

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルといわれる岩手県の釜石線。賢治のふるさと花巻、河童と馬の里遠野、鉄の町・釜石を結ぶ。この鉄路に思いを込めて暮らす人々を訪ねる。

釜石線の前身は明治13年に鉄鉱石を運ぶために作られた釜石鉱山鉄道。日本で3番目の路線だった。近年はSL銀河が人気を博したが、昨年運行終了。そんな鉄道をコスプレで応援する家族、早朝の列車で大谷翔平の母校に通いダンスに熱中する少女、子どもやぶさめで地域の伝統を守る「撮り鉄」宮司、東日本大震災からよみがえった釜石の居酒屋と常連客の絆、宮沢賢治の銀河を手作りアクセサリーで表現する女性職人、思いをたどる旅。

語り 松たか子 井上二郎 渡邊佐和子

〇オープニング
 花巻と釜石を結ぶJR釜石線 愛称「銀河ドリームライン」
 子どもたちが歌う、宮沢賢治 作詞作曲「星めぐりの歌」
〇これからもずっと見送り隊(遠野市)
 観光列車「ひなび」
 土日・祝日に「柏木平駅」近くで観光列車を見送る活動をする見送り隊
 道の駅と宮守川橋梁、通称「めがね橋」
 令和5年まで走っていた「SL銀河」
 人気アニメキャラクターの観光列車
〇鉄だけじゃないぞ(釜石市)
 2024年現在、全日本鉄鋼弓道大会三連覇中の製鐵会社の弓道部
 鉄製の鳥居を構える「山神社(さんじんじゃ)」
 製鐵会社の歴史と鉱山跡
 仙人峠と釜石線開通までの道のり
〇カッパと馬の遠野物語(遠野市)
 カッパ渕とカッパおじさん
 カッパが多く棲んでいたと伝わる猿ヶ石川
 馬を大切に扱う家の間取り~曲り家
〇宮司は撮り鉄(遠野市)
 800年の歴史をもつ「遠野郷八幡宮」
 ホップの蔓(つる)から作られた和紙の御朱印
〇青春のレール(花巻市)
 大リーグで活躍する大谷翔平選手や菊池雄星選手が卒業した花巻東高等学校
 ダンス部
〇守とお恵(釜石市) 
 かつての吞ん兵衛横丁の店主と常連で再出発した飲み屋
〇花巻発 温泉郷行き(花巻市)
 花巻電鉄レール跡のサイクリングロード
 宮沢賢治もたびたび訪れた、1200年の歴史を持つ温泉
〇残雪の幸せ争奪戦(花巻市)
 早池峰山(はやちねさん)
 早池峯神社~「蘇民祭(そみんさい)」
〇夢を射止める馬場(遠野市)
 遠野郷八幡宮で春から秋にかけて月に一度開催される朝市
 5月5日に行われる子ども流鏑馬(やぶさめ)
〇賢治の銀河に憧れて(遠野市)
 宮沢賢治の世界をイメージして作品作りをするアクセサリー作家
 卯子酉(うねどり)神社
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初回放映が6月4日(火)でした。拝見しようと思っていたのですが、うっかり録画予約を失念し、まだ見ていません。

宮沢賢治がメインで、説明欄に光太郎の名がないのですが、「宮沢賢治もたびたび訪れた、1200年の歴史を持つ温泉」とあり、光太郎も訪れたどこかの温泉が紹介されたと思われます。その前に「花巻電鉄レール跡のサイクリングロード」とありますし。

もう1件。こちらは光太郎がメイン。

10min.ボックス現代文 道程(高村光太郎)

NHK Eテレ 2024年6月19日(水) 午前6:00~6:10

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を10分間でコンパクトに解説します。朗読は、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さんです。20年近く前に制作されましたが、最新の映像技術により、高画質のハイビジョン映像でお楽しみいただけます。今回は、高村光太郎の詩人としての代表作「道程」。詩の完成までの経緯を紹介するとともに、様々な人に、この詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらいます。

【朗読】加賀美幸子

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「20年く前に制作されました」ということで、何度も再放送されてきましたし(最近だと今年2月)、実はネット上でも常時視聴可能なのですが、ハイビジョンリマスター版だそうで、DVDで保存するにはいいと思います。

タイトルのの通り10分間番組ですが、なかなか濃い内容です。

scene 01 詩人・彫刻家 高村光太郎
『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。

scene 02 西洋の芸術から受けた衝撃
光太郎は、8人兄弟の長男として生まれました。父は、明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のことでした。14歳のとき、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学。アメリカやヨーロッパで学びました。そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。

scene 03 新しい芸術を生み出す苦しみ
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいていました。

scene 04 智恵子との出会い
そんなとき転機が訪れます。のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが『道程』です。1914年、31歳のときの作品でした。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。

scene 05 広く共感を呼ぶ詩
自分の人生を自分の力で切り拓いていこうという強い決意がこめられた光太郎の『道程』。この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。入学したばかりの不安と、大学生活でどんなことが起きるんだろうという期待を持って読んだという大学一年生。将来への不安のなか、自分を奮い立たせるような気持ちで読んだという就職活動中の大学四年生。親としての責任や、家族のことを考えたという31歳の夫婦。さまざまな受けとめ方があります。

scene 06 自立する決意
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻。ここに、初めて雑誌に掲載されたときの『道程』の原型が収められています。オリジナルの『道程』は、102行からなる、いまとはまったく違う詩だったのです。光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。それは、偉大な父との精神的な決別であり、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。

scene 07 未来への道程003

それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は二日で例年の通り書初をやりました。硯凍らず。「顕真実」と「金剛心」と四枚書きました。

昭和23年(1948)1月2日 
宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も、足かけ4年目、数え年で66歳となりました。

正月二日は書き初めをする習慣があったそうで、戦前からだったのかもしれません。「顕真実」「金剛心」ともに仏典由来の語です。この頃、これらの書き初めは世話になっている人々に進呈するのが常で、この年の書き初めは複数現存しています。

6月9日(日)、花巻市のなはんプラザで開催されましたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」。地方紙で報道されていますのでご紹介します。

まず、『岩手日日』さん。

智恵子エプロン披露も 高校生がデザイン復刻 高村光太郎顕彰イベント

000 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、ゆかりの先人高村光太郎(1883~1956年)の顕彰イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、光太郎に関する児童生徒の学習活動や光太郎が暮らした環境に理解を深めるとともに、生前の食卓を再現した昼食を楽しみ、光太郎の暮らしぶりに触れた。
 光太郎に関する認知度・親密度を高め、顕彰活動の維持向上が目的。2022年度の対談、23年度のトークリレーに続き企画した。
 市立太田小学校の藤田聖子校長は「正直親切」を掲げた学校活動や総合学習の時間の柱となっている光太郎先生学習の実践内容などについて紹介。県立花巻南高校文芸部の生徒は光太郎と宮沢家や花巻とのつながりを調べた成果、同校家庭クラブの生徒は「智恵子さんのエプロン復刻プロジェクト」、県環境アドバイザーの望月達也さんは光太郎が7年間暮らした巨木林がある山口山の環境を映像で紹介した。
 同プロジェクトでは、大正時代の雑誌「婦人之友」に掲載された光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の協力を得て製作。酒を搾る時に使った袋を生地に使い、古代更紗で縁を取り、中央に大きなポケットが付いている。同校2年の高橋萌菜さんは「酒袋には防水や防腐などの効果があり、智恵子の実家が福島の造り酒屋だったことから酒袋を利用したと思う。使い方や組み合わせからリメークして生活を楽しんでいたことがうかがえる」と語った。
 昼食には「ソバ粉のむしパン」など光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した弁当を味わった。
 イベントは同市大通りのなはんプラザで開かれ、約100人が参加。平賀会長は「光太郎について学び、次世代に語り継いでいくことが大切。地元太田からもっと情報を発信して光太郎ファンになってもらい、高村山荘や高村光太郎記念館を訪れる人が増え、地域の活性化につなげたい」と話していた。


続いて、『岩手日報』さん。

いわて旧村巡り 40/642 太田村 現花巻市太田 光太郎顕彰 脈々と 清掃やエプロン復刻 地区振興会 活動を共有

001 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、同市大通りのなはんプラザで「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)に関する地元の小学校、高校の取り組みなどを共有し、地域を愛した偉人の顕彰を誓った。
 市内外の約100人が参加。太田小の藤田聖子校長(59)は、児童による高村山荘周辺の清掃や詩の音読活動など紹介した。市内の多くの小学校では宮沢賢治を「賢治先生」と呼ぶ一方、「太田小では先生といえば光太郎。『光太郎先生』『賢治さん』と呼んでいる」と説明した。
 花巻南校の家庭クラブは、妻智恵子が使ったエプロンの復刻制作について発表。大正時代に雑誌「婦人之友」に掲載されたもので、同校文芸部の依頼で取り組みを始めた。研究者のブログなどを参考に作り、酒袋や古代更紗(さらさ)を使った完成品を披露した。
 1年の小原優羽奈さんは「制作の合間に光太郎や智恵子について調べた。活動を通じ視野が広がった」と学びを深めた様子だった。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、賢治の実家を頼って花巻に疎開。太田村(現花巻市太田)に移り、約7年間過ごした。山荘生活の中、詩や書の創作に励み、旧山口小学校児童ら住民と交流を深めた。
 同日は、当時の日記などに残る食事記録を基にした弁当も提供され、光太郎が口にした「ソバ粉のむしパン」から着想したそば粉のパンケーキなど味わった。
 新型コロナウイルス禍を機に地元の高村祭の中止が続く中、振興会は2022年度から催しを継続する。平賀会長(73)は「光太郎を知る輪が広がる機会となった」と充実感をにじませ高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(59)=千葉県=は「若い人たちが(伝承の)バトンを受け継いでいる。光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」と評した。


やはり智恵子のエプロンに関してはインパクトが強かったようで、2紙ともそちらを前面に押し出しています。下画像は家庭クラブさんのスライドショーから。
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また、2紙とも紙幅の都合もあったと思われ、詳細が取り上げられませんでしたが、文芸部さんの発表は、光太郎と花巻との関わり、智恵子についてを知る上での、ある意味基調講演のような役割を果たして下さいましたし、文芸部さん自体プラス地域の方々の活動も紹介され、会場の皆さんの興味を惹いたようです。
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太田小さんは、まさに学校ぐるみで取り組んで下さっていることがわかり、ただただ感謝です。
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『岩手日報』さんの当方コメント最後の部分「光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏のご発表を受けてのものです。
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さらにランチが加わり、そんなこんなで、実に有意義なイベントでした。

各団体さんの取り組み、今後の継続とさらなる発展を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

来年は相当に書くでせう。彫刻にも手をつけるでせう。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

旧太田村での生活、足かけ3年目の昭和22年(1947)が暮れて行きました。

新年へ向けての、詩や文章、書などを「書くでせう」は実現したものの、「彫刻にも手をつけるでせう」は、戦争への加担に対する自責の念の深化に伴い、逆に自らへの罰として封印する方向に転じてしまいます。

東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

午前11時前、仙台駅に到着。
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駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
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空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。

その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。

公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
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舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。

森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
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文学館さんには裏口から入ることになりました。PXL_20240608_025256594

こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。

石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。

『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。

光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。

図録、出品目録がこちら。
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図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
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最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。

国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。

いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。

国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。

そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
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右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。

石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。

常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
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ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
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さらにこんなものも。
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開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
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平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。

当時のフライヤー等。
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当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。

この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。

正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
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当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。

この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。

以上、東北レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。

「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

昨日は、6月9日(日)に花巻市で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の模様をご紹介いたしました。

今日は遡って前日の6月8日(土)、花巻に到着してからのレポートを。

いつものように東北新幹線新花巻駅に降り立ち、予約して置いたレンタカーを受けとって、旧太田村の高村山荘/高村光太郎記念館さんを目指しました。今年2月以来です。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。
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こちらではテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中。
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光太郎が戦後の7年間を過ごしたこのあたり一帯で描かれた山野草などのスケッチ(複製)を中心にした展示です。
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スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示。このあたり一帯の環境破壊が進んでいないためにできることですね。もしかすると、中には描かれている植物がもはや見あたらない、というケースもあるのかも知れませんが。

昭和26年(1951)秋に撮られた写真も。
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それから光太郎の肉筆原稿。
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昭和25年(1950)刊行の詩文集『智恵子抄その後』が初出と推定される「七月一日」と題するエッセイ。つくづく味のある文字です。

昭和22年(1947)の雑誌『至上律』に口絵としてカラー印刷で掲載された「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」(複製)。当時の太田村山口地区は茅葺きの農家ばかりだったのですね。少し離れた所には開拓地が設けられ、引き揚げ者などが続々入植、そちらはまた違った感じだったのでしょうが。
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今日のブログ、一番下の【折々のことば・光太郎】を併せてご覧下さい。

この展示、これはこれで見応えはあるのですが、問題も。まず、昨年、ほぼ同じ内容のテーマ展示を行っているということ。どうしても二番煎じ感がぬぐえません。「またか」という感じなのでしょうか、地元メディア等にもあまり紹介されていません。積極的に宣伝もしていないのかもしれません。

それから、壁面を使ったパネルやスケッチ等の展示のみであるということ。平面的というか、平板というか、美術館等での絵画の展示はそうなりがちですが、展示ケース等を活用すればもっと立体的に変化をつけた展示が出来るはずなのですが……。聞くところによると、使用出来る展示ケースが無いとのこと。ちょっと有りえない事態なんじゃないかな、と思い、市の方には何とかしてくれと提言はしておきました。

まだ詳細は公表されていないので内容は明かせませんが、先月、新たな資料がごっそりと寄贈されました。質・量ともにとんでもない品々です。いずれそれらの展示も為されるはずですが、その際には二次元的な展示に終わることの無いようにしていただきたいものです。

こちらを拝見後、隣接する、といっても数百メートル離れていますが、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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いつものことですが「また来ました」と遺影に合掌。

そろそろ閉館時間で、そうなると熊の出没も心配ですので、周辺散策はせずに引き上げました。
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小屋の南側、かつて光太郎が三畝の畑を営んでいた一角には、ハナショウブでしょうか。「では、また」と念じつつ。

レンタカーを東に向けました。いつもは北に向けて定宿の花巻南温泉峡の大沢温泉さんなのですが、今回は宿泊予約が取れず、やむなく花巻空港近くのルートインさんに。
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たまにはこういうのもありかな、という感じでした。

夕食は、翌日の「五感で楽しむ光太郎ライフ」打ち合わせを兼ね、共催に入られているやつかの森LLCの皆さんと、市内の和食店で。

その席上、というか会食開始前、「こんなものが出てきました」と、見せられたのがこちら。
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光太郎に山小屋の土地を提供した旧太田村の顔役の一人、駿河重次郎宛の葉書2通です。共に差し出し元は「乙女の像」制作のため借りた中野区の貸しアトリエ。保存運動が起きている場所です。

1通目は昭和28年(1953)10月11日。

青森へ行つたかへりに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます、

青森」云々は10月21日に行われた、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式参加を指します。「」は太田村山口地区。除幕式後、25日に帰京した光太郎は、11月25日から12月5日、太田村に帰りましたが、半分はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケのためでした。映画には駿河夫妻も出演しています。
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太田村から帰京したあとで投函された2通目ではその映画についても言及。

お餅と白いんげんとたくさんいただきありがたく存じました。
これでお正月のお雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。
此間の映画はまだ見ませんがよくとれて居るとききました。

同じ昭和28年(1953)12月25日付けです。

この頃、光太郎は宿痾の肺結核が悪化。そこで厳冬期には中野の貸しアトリエで、それ以外は太田村の山小屋で、と二重生活を目論んでいたようなのですが、もはや健康状態が山での暮らしに耐えられる状態ではなく、結局、太田村に帰ったのはこの時が最後となりました。

見せられた際には「新発見かも」と思ったのですが、帰りましてから調べたところ、2通とも既に『高村光太郎全集』に収録済みでした。貴重なものであることには変わりありませんが。

それから、ソースが不明なのですが、何かの雑誌の切り抜き。表は管理を任されていた光太郎の山小屋内で撮られた駿河の写真。
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光太郎もそうでしたが、古武士のような風格ですね。

裏は山小屋近くに昭和33年(1958)に除幕された光太郎詩「雪白く積めり」碑。山小屋近くの山口小学校の児童が碑を取り囲んでいます。おそらく竣工間もない頃と思われます。ことによると現在地に設置する前なんじゃないかとも思えます。
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すべて駿河の令孫のご所蔵。貴重なものを拝見できました。

この後、ホテルに帰り、翌朝は「五感で楽しむ光太郎ライフ」の前に、以外とホテルに近かったので、花巻農業高校さんへ。

宮沢賢治の羅須地人協会の建物が移築されています。
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この像、以前に見た時には作者名を見落としていたのですが、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たり、智恵子の故郷・福島二本松に2体の智恵子像を作られた故・橋本堅太郎氏の作です。不思議な縁を感じました。
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そして在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさんへ。この後、昨日のブログに続きます。

明日はさらに遡って、花巻到着前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ忝く拝見、「至上律」のは随分ひどい印刷でやれやれと思ひました。あの屋根の中に村長さんの家もあります。うしろの山の三ツ目の山には熊がゐます。

昭和22年(1947)12月31日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

上記の高村光太郎記念館テーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」で展示されているスケッチ「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」に関してです。この当時のカラー印刷のクオリティはまだまだでした。それもあって、光太郎は生前には智恵子の紙絵の画集としての出版は承諾しませんでした。

1泊2日の東北行を終え、昨夜、千葉の自宅兼事務所に帰りました。レポートいたします。時系列に逆行し、昨日行われ、メインの目的だった岩手花巻でのイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」参加の件から。

会場は在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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主催は花巻市の太田地区振興会さん。太田地区というのは光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村です。

同じ太田地区振興会さん主催の光太郎関係イベントのうち、昨年2月に開催された、宮沢賢治実弟清六の令孫にして株式会社林風舎代表取締役・宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」もこちらの会場でした。
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満員御礼でした。ありがたし。見知った顔もたくさん。

今回は3組の方々のご発表がメイン。先に教育関係で、地元の学校さんによる光太郎顕彰の取り組み。その後で環境保護の観点から、特に光太郎が7年間暮らした旧太田村の自然について。当方はコメンテーター的な役割でした。
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まずは市立太田小学校校長の藤田聖子先生による「光太郎先生と太田小のまなび」。
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光太郎が7年間暮らした山小屋の近くにあり、児童や先生方と深く交流した山口小学校は、もともと光太郎移住時には太田小学校山口分教場。その後、周辺に開拓地が広がって児童数が増加したことから、昭和23年(1948)に山口小学校として独立しました。その際に光太郎は「正直親切」という校訓や詩「お祝いの言葉」、直筆の「山口小学校」という看板などを贈りました。また、同校の学芸会や運動会、卒業式などに招かれたり、PTAの会合等で講話を行ったりもしましたし、楽器や講堂の幔幕、幻灯機などの寄附も行いました。

光太郎歿後には山小屋敷地内で開催されるようになった「高村祭」で、児童たちが光太郎から贈られた楽器を使って演奏を披露したりもしていました。しかし同校は昭和45年(1970)に廃校となり、再び太田小学校さんに統合。以来、太田小学校さんでは山口小学校の精神を受け継いで、高村祭への参加なども続けてこられました。下は平成30年(2018)の第61回高村祭です。
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ところが高村祭はコロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。いろいろ大人の事情もあるようで……。

しかし、太田小さんでは各学年とも教育活動の一環として、光太郎顕彰への取り組みは継続して行って下さっていました。1、2年生は生活科で、3~6年生は総合的な学習の時間での活動が中心だそうですが、それ以外にも様々な学校行事等で。山荘周辺の清掃等も行って下さっているそうで、頭が下がりました。
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上はかつて光太郎が山口小学校の学芸会に、サンタクロースのコスプレで乱入したエピソードの再現。サンタ役の児童さんは、下記の写真に写っている当時の児童のお孫さんだそうで、それを聞いて、うるっと来てしまいました(笑)。
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他にも「朗読朝会」という催しがあるそうで、児童の皆さんが光太郎詩を群読。その映像も流されました。群読はかつての高村祭で楽器演奏と共に行われていまして、その灯は途切れていないんだと、こちらでもうるっと来てしまいました。

続いて、花巻南高校さん。賢治の最愛の妹・トシの母校にして、トシ自身も教壇に立った花巻高等女学校の後身です。そちらの文芸部の生徒さんと、家庭クラブの生徒さんによるご発表。

文芸部さんは、これまでの活動のご報告や光太郎詩の朗読。
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家庭クラブさんは、何と、「智恵子のエプロン」を再現して下さいました。

そもそもは昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した人物で、「友の会」は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部。同校は同誌主宰の羽仁吉一・もと子夫妻が創設した自由学園の精神を受け継ぐ学校でした。

当方、同展の関連行事としての市民講座を仰せつかり、そこで、『婦人之友』と光太郎について改めて調査。その結果、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事を見つけました。たまたま駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れた同誌記者が、智恵子がまとっていたエプロンを「面白い」と、写真入りで紹介した記事です。

型紙まで載っていましたので、講座の際に紹介しつつ、「誰か作ってくれませんかね?」とつぶやいたところ(自分では絶対に作れませんので(笑))、講座を聴きにいらしていた文芸部さんから家庭クラブさんに話が伝わり、実際に作って下さったというわけです。素晴らしい。
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会場の皆さんも、「おお」という感じでした。

のちほど改めて撮らせていただきました。
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素材は酒袋(さかぶくろ)。日本酒を造る際に使われるもので、茶色いのは柿渋が塗られているためです。最近は帆布のように、これを使ったトートバッグなどもひそかに人気のようです。智恵子は実家が造り酒屋でしたから、酒袋をいち早く身の回りの素材に取り入れたというわけでしょう。また、『婦人之友』の記述通りに上部の縁取りには古代更紗。かなり忠実に再現して下さり、舌を巻きました。
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発表の中では、右上画像で智恵子が締めている帯も更紗っぽい、というお話でした。「へー」という感じでした。
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ぜひともこのエプロン、世に広めていただきたいものだと思います。

休憩を挟み、最後のご発表は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏。題して「奇跡の里山・山口山」。
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「山口」は光太郎が暮らした山小屋のあるあたりの字(あざ)名で、光太郎詩などにも「山口山」の語は頻出します。当方、漠然と「山口地区の山」程度の意味だと思い込んでいたのですが、さにあらず。ちゃんと「山口山」という山があるそうで、これは存じませんでした。
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上記航空写真の左上部分一帯でしょうか。何の変哲もない里山だと思い込んでいましたが、望月氏曰く「日本中探してもこんな原生的な森は少ないと思う」。
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特に植物の種類がとんでもないそうで。
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単に種類だけでなく、巨木も数多く。
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さらには動物。
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クマタカの生息地だというのも存じませんでした。今度行く時には空にも注意してみます。それから、ここでは紹介されていませんが、リスやキツネ、タヌキもいます。ちなみに当方、上記航空写真の中央あたりの場所で、レンタカーを運転中、道端からシカが飛び出してきたことがあり、驚きました。高村祭からの帰りで、その年は光太郎詩碑前で花巻農高鹿踊り部さんの演舞があり、それに誘われてきたのかな? などと思ったことを覚えております。

休憩時間には望月氏撮影のビデオも上演されました。
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こうした自然が破壊され、旧太田村山口地区を訪れる人々が、「光太郎が書いた詩のとおりじゃないぞ」ということにならないようにと願わざるを得ませんでした。

3組の発表の後は、ランチタイム。
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ガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店です。
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そば粉のパンケーキは光太郎もよく作って食べていた一品です。

今回、共催に入られていたやつかの森LLCさんによるメニュー等解説。
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美味しく頂きました。

最後の最後は、参加者の方による感想発表、当方のコメント。とにかくいつも言っていることですが、光太郎の生きざまや業績を正しく受けとめ、こういう人がいたんだ、と、次の世代へと橋渡しをしていって欲しいというお願いを致しました。そうした意味では、今回、学校さん2校の取り組みで、若い皆さんにもバトンが繋げられていることを知り、有り難かったのですが。

さらに、ついでというと何ですが、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存についてもお話をさせていただき、署名もお願いいたしました。多くの方がご協力くださり、有り難く存じました。

終了後、会場にいらしていた、生前の光太郎をご存じの方ともお話ができました。宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行い、以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続た児童劇団「賢治子供の会」の団員だった女性です。たぶん左下の画像にも写っていると思われます。「優しいおじいさんだった」などと貴重なお話を伺えました。
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会場片付け終了後、すぐ近くの林風舎さんへ。ちょうど宮沢和樹氏もいらっしゃいましたので、久闊を叙し、帰途に就きました。

というわけで、実に有意義なイベントでした。お骨折り下さった皆様方の、さらなるご活躍を祈念いたします。

明日以降、時系列を遡ってレポートを続けます。

【折々のことば・光太郎】

点字抜粋詩集を作り終られた由、随分大変なお仕事であつた事と思ひます。小生もいろいろの仕事があるため、おたよりするのも遅れました。お約束の「花のひらくやうに」といふ詩をうつして同封しました。


昭和22年(1947)12月29日 照井登久子宛書簡より 光太郎65歳

照井登久子は、「賢治子供の会」主宰の謹二郎の妻。夫妻で「賢治子供の会」を運営していました。また、点字の普及活動等にも取り組んでおり、光太郎詩を点訳してほうぼうに寄贈したり、光太郎自身に贈ったりもしていました。それらの表紙を光太郎が揮毫することもありました。

この頃まで光太郎は点字についての知識がほとんど無かったようで、人一倍指先の感覚が鋭敏だった光太郎(ガラスの鏡板を撫でて凹凸を感知したといいます)、非常に興味をひかれたようです。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
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今日は花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「五感で楽しむ光太郎ライフ」にコメンテーター的な役割で出演させていただきます。

市内の学校さんの光太郎顕彰的な取り組み、自然保護団体さんの活動などが報告されます。その後、光太郎が食べたメニューに基づくランチ。

詳細は帰りましてからレポート致します。

3件ご紹介します。

まず、智恵子の故郷・福島の地方紙『福島民報』さん、6月2日(日)の一面コラム。

あぶくま抄

「日本百名山」の出版に先立つ1960(昭和35)年の晩秋、著者の深田久弥さんは安達太良山に登る。万葉集や高村光太郎の詩にうたわれる文学性に憧れていた。岳温泉の食堂の2代目で安達高山岳部OBの佐藤龍一郎さんと、後に郡山市長を務める藤森英二さんの青年2人が案内した▼中腹のくろがね小屋で温泉に漬かって1泊すると、翌朝は雪。霧にも包まれた中、的確な先導で登頂を果たす。著書「わが愛する山々」につづられている。今、食堂を守る3代目が店先に立てた看板には、同伴した父の誇らしげな山男姿の写真がある▼父子の絆は二本松の酒蔵にも受け継がれている。蔵元の男性は安達太良山の古名にちなむ酒「甑峯[こしきみね]」を背負い、今年も山開きに参加した。亡くなった先代がぜひ、その名を冠した酒を造りたいと願っていた。先代は明治大山岳部で冒険家の植村直己さんの後輩だった。仕上がった酒の味わいは山好きの思いを映し、「晴れた空のよう」とも評される▼あれが阿多多羅山―と、光太郎は妻智恵子の郷里を慈しんだ。名峰がよこすやまびこは、たくさんの面影を乗せてくる。百名山の中でもひときわ輝く光を放って。安達太良山のほんとの空に。

かの『日本百名山』で安達太良山も選出し、今回の『福島民報』さん同様「樹下の二人」(大正12年=1923)や「あどけない話」(昭和3年=1928)を引用してくれた深田久弥。地元の人々との交流もひとかたならぬものがあったのですね。

続いては、『山陰中央新報』さん、6月1日(土)の掲載分。

きょうの歴史

▽「青鞜社」設立(1911年)

 女性運動家の平塚らいてうら女性5人が東京の駒込で発起人会を開き、文芸集団「青鞜社」を設立した。9月に日本初の女性文芸誌「青鞜」を創刊。

智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』。発刊は明治44年(1911)9月でしたが、発起人会は6月1日だったそうですが、あまりその日付は意識していませんでした。

ちなみに会場は「東京の駒込」とありますが、当時の本郷区駒込林町の物集和子邸。跡地(現在はマンション)には文京区教委による「青鞜社発祥の地」の案内板が建っています。和子の父は国文学者・物集高見でした。現在は駒込というより千駄木です。JRの駒込駅からはそこそこ離れています。山手線だと日暮里駅や西日暮里駅の方が近い感じです。かつての森鷗外邸・観潮楼(現・文京区立森鷗外記念館)はすぐ目の前、光太郎智恵子の愛の巣のアトリエ兼住居も、翌年、彼我の距離に竣工します。
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発起人は5人。らいてう、物集、木内錠子、保持研子、中野初子。おそらくこの席上では智恵子に表紙絵を依頼することは決まっていたのだと思われます。

最後に埼玉県東松山市の広報誌『広報ひがしまつやま』今月号、市民の皆さんの投稿文芸欄。
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短歌の部の二首目、「主夫として家事に勤しむ連翹忌歩行器の妻の後ろを歩む」。「連翹忌」の語を入れて下さいました。ありがたし。

同市は亡くなった元教育長の田口弘氏が光太郎と交流があり、さらにそこに氏と意気投合した高田博厚がからんで、光太郎関連のもろもろが同市に残されていますので、「連翹忌」の語も意外と自然に出てくるのではないかと思われます。それでも「「連翹忌」って何?」という方のために選者氏が「連翹忌は四月二日の高村光太郎の命日」と解説して下さいました。

よく書いていますが、「「連翹忌」って何?」程度ならともかく「高村光太郎って誰?」という世の中にならないよう、活動を続けていきたいものだとあらためて思っておりますので、ご協力よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

暗愚は暗愚なりに書きたいものを書く外ありません。


昭和22年(1947)11月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

この年発表した、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」が念頭に置かれています。何だかんだ言いながら結局筆を折ると言うことをしなかった光太郎、つくづくクリエイティブな人間だったんだな、と思います。

講座的なイベントを2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

移住者交流会・花巻めぐりバスツアー 花巻エリア編

期  日 : 2024年6月8日(土)
集合場所 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時  間 : 9時45分   受付開始 
       10時00分 まなび学園出発
       15時00分 アンケート記入・解散
料  金 : 昼食代:1,000円程度
対  象 : 花巻市へ移住希望の方 花巻市外からの移住者(時期は問いません)
       移住者と交流したい市民
見学場所 : まなび学園、こどもセンター、母ちゃんハウスだぁすこ
       高村光太郎記念館、花巻図書館、花巻市文化会館
       また、バス車内から花巻エリアのマストスポットを眺めます。
昼  食 : マルカンビル大食堂(各自注文・支払いをお願いします。)
       移住の先輩トーク&交流タイム
〆  切 : 6月5日(水)

 花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向けに交流会・バスツアーを開催します。「ここはおさえておきたい!花巻マストスポット」を中型バス・フラワーロール号で巡ります。
 6月は花巻エリア編と東和エリア編を実施します。また、年度内に石鳥谷エリア編と大迫エリア編も実施予定です。花巻市の魅力を知り、交流を楽しみましょう。
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なるほどね、という感じですね。高村光太郎記念館さんも廻って下さるということで、ありがたいところです。

他の自治体等のこの手の事業の関係者さん、ご参考までに。

もう1件、福岡から市民講座の情報です。

遊友塾 日本の文学作品を読む 第3回

期 日 : 2024年6月12日(水)
会 場 : ふくふくプラザ6階 601号室 福岡市中央区荒戸3丁目3番39号
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料

講 師 : 船津正明先生(元九州大学非常勤講師)
内 容 : 『平家物語』~小督~  高村光太郎『道程』
申 込 : 6/5までに当仁公民館まで(電話可)092-751-6824
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講師の船津氏、幅広く日本文学全般に関する講座をなさっているようで、今回は「平家物語」と光太郎「道程」。

「道程」に関しては、令和2年(2020)に開催された同じ遊友塾さんの講座でも扱われていました。

こちらも主体は自治体さんのようです。そうでないとなかなか「無料」というわけにはいかないでしょう。

当方もあちこちで市民講座講師を務めさせて頂いておりますが、やはり自治体さん等が主体で「無料」の際にはそこそこ集まるものの、民間の運営で「有料」となると人集めに苦労する場合があるようです。

過日ご紹介した6月9日(日)にやはり花巻で行われる「五感で楽しむ光太郎ライフ」、「有料」の、しかも1,000円(ほぼ昼食代ですが)ということで、どうなのかなと思っていたのですが、定員を上回る103名もの申込があったと言うことで、胸をなで下ろしております。

閑話休題、上記2件、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】[]

今日は青年達が集つて小屋のまはりにヤトヂを造つてくれました。此の風除けが出来ると城砦のやうになり、まつたく冬らしくなります。其後雨がふつて雪は消えました。

昭和22年(1947)11月14日
宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は「家閉じ」なのでしょう。茅(かや)の束で家屋の周りを囲み、雪よけとするものです。この年は11月12日に初雪、さっそく3㌢ほど積もったそうです。

昨日同様、あまり関係ないかなと思って紹介しないでいたら、光太郎の名を出して報道されてしまった(笑)展示です。

状況をわかりやすくするためにまずNHK仙台局さんのローカルニュースから。

仙台出身の“知られざる詩人” 石川善助の企画展

 仙台出身の詩人で将来を期待されながら31歳の若さで亡くなった石川善助の生涯を紹介した企画展が仙台市の仙台文学館で開かれています。
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 石川善助は現在の仙台商業高校時代に詩作に目覚め、卒業後も働きながら創作を続けた詩人で、萩原朔太郎などから将来を期待されながら不慮の事故により、31歳の若さで亡くなりました。
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 仙台文学館では、地元出身の詩人を広く知ってもらおうと、石川が残した作品をはじめ創作ノートや手紙などの資料およそ130点を紹介した企画展を開催しています。
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 会場には石川の作品がタペストリーに印刷されて展示され、志半ばでこの世を去った詩人の足跡や人柄、生き方などをじっくり味わうことができます。
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 また、同時代を生きた詩人の高村光太郎や宮沢賢治などとも交流があり、このうち賢治の手紙には石川が亡くなったあとの追悼会に関することなどが記されています。
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 仙台文学館の赤間亜生副館長は「幼い頃に足が不自由となった石川が、その運命を受け入れながら創作した詩を展示しています。手紙などの資料とともにその生き方を感じて欲しい」と話していました。
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 この企画展「詩人・石川善助をたずねて」は仙台文学館で来月30日まで開かれています。

展示詳細はこちら。

開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」

期 日 : 2024年4月27日(土)~6月30日(日)
会 場 : 仙台文学館 宮城県仙台市青葉区北根2-7-1
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日、第4木曜日
料 金 : 一般810円、高校生460円、小・中学生230円 ※各種割引あり

 1901(明治34)年に仙台の国分町に生まれた石川善助は、仙台商業学校在学中から詩作に目覚め、校友会誌などに詩を発表し始めます。卒業後、仕事の傍ら、友人と詩誌を刊行、『日本詩人』をはじめとする中央の詩誌に作品を発表するなどし、詩人として将来を嘱望されましたが、1932(昭和7)年、31歳で不慮の事故により命を落としました。
 宮城県出身の詩人として、尾形亀之助と並び称されてきた善助ですが、生前に一冊の詩集を出すこともかなわず、その死後に友人たちにより遺稿集として、詩集・随筆集・童謡集がそれぞれ一冊ずつ刊行されることになりました。しかしこれまでその創作活動の全容はあまり知られてきませんでした。
 今回、書籍・原稿・書簡・創作ノート・作品掲載詩誌など、現在残されている膨大な石川善助関係の資料の全貌を紹介するとともに、改めて日本近代詩史における善助の位置づけを明らかにし、その詩の魅力を探ります。また、善助は民俗学的視点での随筆や童話、方言を用いた作品も残しており、その多様な表現活動と、仙台のスズキヘキや天江富弥をはじめ、草野心平や宮沢賢治など、様々な人々との交友についても紹介します。
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光太郎と石川、当会の祖である草野心平を通して知り合ったようです。その死後に刊行された石川唯一の詩集『亜寒帯』の序文は光太郎が書きました。全文はこちら

ネット上には展示品の目録が出ていないのですが、おそらく『亜寒帯』の説明の中で、光太郎の序文についても触れられているのでしょう。序文の原稿そのものが残っていればぜひ見てみたいものですが、現存は確認できていません。

ただ、NHKさんの報道でも触れられているとおり、賢治の書簡が出ているとのことで、「ほう」という感じでした。石川は、賢治と親しく戦後には光太郎とも繋がる直木賞作家・森荘已池を通じて賢治と直接会っています。賢治が生前に会った詩人というと、光太郎、黄瀛など、数が限られており、その数少ない一人が石川でした。

また、館の案内文には天江冨弥の名も。天江は仙台出身の児童文学者ですが、やはり光太郎と軽く関わりがありました。

さて、関連行事。既に終わってしまったものもありますが、これからというもののみ。

1.連続講座「石川善助を知ろう」定員:各60名(先着)
 ③「石川善助と宮沢賢治をつなぐもの」
  日時:6月29日(土)13:30~15:00
  講師:宮川健郎(一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団理事長)
  申込み受付開始:6月12日(水)10時~

2. トークイベント
 「詩人・石川善助との出会いと、100年前からのメッセージ」
  日時:6月1日(土)13:30~15:00
  出演:木村健司(石川善助研究者) 聞き手:赤間亜生(当館副館長)
  定員:60名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

3.朗読と音楽の調べ「石川善助・その生と言葉の軌跡」
  日時:6月15日(土)13:30~14:30
  出演:芝原弘(黒色綺譚カナリア派/コマイぬ) 菊池佳南(青年団/うさぎストライプ)
  定員:50名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

【申込方法】電話で仙台文学館まで(022-271-3020)

ところで、冒頭にNHK仙台放送局さんの報道をご紹介しましたが、同局制作で東北6県向けに放映されている「ウイークエンド東北」、明日のオンエアで光太郎が大きく取り上げられます。
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元々、光太郎終焉の地・東京都中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関わりで、保存会の日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏がNHKさんに取材の依頼をされました。すると、その件と、プラス「光太郎智恵子顕彰で頑張る東北の人々」というコンセプトで制作が為されました。

中野アトリエ以外、東北では、GW中に光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」などで、食を通して光太郎顕彰に取り組むやつかの森LLCさんの活動、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の模様、それから光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖から、ボランティアガイドの方のお話。

10分ほどの尺だそうですが、東北6県の皆さん、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

どんな消息よりもよく貴下の全存在を話してくれるのはやはり詩だとおもひました。ますますむきに前進せられん事をのぞみます。


昭和22年(1947)11月10日 田村昌由宛書簡より 光太郎65歳

田村は北海道出身の詩人。この当時は新潟に住んでいました。光太郎は戦時中の昭和17年(1942)には田村の詩集『蘭の国にて』の序文を書いた他、この後、昭和28年(1953)には同じく『下界』の題字揮毫も行いました。また、遡れば太平洋戦争開戦直前には田村の編輯した『日本青年詩集』にも序文を寄せましたが、こちらは出版事情の悪化でお蔵入りとなりました。

書簡は田村から自著詩集『風』を贈られた返礼の一節です。単に「ありがとうございます。」ではなく、実に気の利いた文言ですね。

5月19日(日)、当方が智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子生誕祭」に参加しておりました同日、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山は第70回山開きでした。今年のキャッチフレーズが「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。ありがたし。

同日、NHK福島放送局さんのローカルニュース。

安達太良山で山開き

 二本松市や猪苗代町などにまたがる安達太良山で、19日、山開きが行われ多くの登山客でにぎわいました。
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 磐梯朝日国立公園内にある安達太良山は、標高およそ1700メートルで、「日本百名山」の1つに数えられ毎年、多くの登山客が県内外から訪れます。
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 19日は今シーズンの山開きで、二本松市の奥岳登山口では午前8時から安全祈願祭が行われ、地元の関係者らが玉串をささげて登山の安全を祈りました。
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 訪れた大勢の登山客は山頂を向かって登り始め列をつくって進んでいきました。
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 19日は雲の切れ間から青空も見え、山の中腹では、安達太良山の山頂と周囲に連なる山々の風景や眼下に望む町並みなどを写真におさめて楽しんでいました。
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 千葉県から訪れた70代の女性は「気持ちいです。ことしは70回目の山開きということで、楽しみして来ました」と話していました。
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 また、仙台市から訪れた50代の男性は「智恵子抄でいう“ほんとの空”が見えたなと思いました。山登りは苦しいですが、景色を見ると疲れがとれます」と話していました。
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 二本松市によりますと昨シーズンの奥岳登山口からの登山者は9万7000人余りで、今シーズンも10万人ほどを見込んでいるということです。
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翌日の地方紙『福島民友』さん。

安達太良山、70回目の山開き 「ほんとの空」と絶景満喫

013 二本松市などにまたがる日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)で19日、第70回山開きが行われた。節目の年となった今回は県内外から昨年を千人ほど上回る約5千人が訪れた。登山道や岩場を踏みしめながら山頂を目指し、眼下に広がる絶景のパノラマを満喫した。
 青空が広がる中、登山者は新緑が生い茂る雄大な景観を眺めながら歩みを進めた。山頂では安達太良連盟が70回記念のピンバッジとペナントを登頂者に配布した。二本松市から毎年訪れている根本和子さん(64)は「汗をかきながら登ってきた。頂上で食べるお弁当が楽しみ」と笑顔で話した。
 安全祈願祭は安全面などを考慮し、会場を山頂から奥岳登山口(二本松市)に移して行われた。安達太良連盟会長の三保恵一市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさん(福島市出身)らが無事故を願った。

同紙ではYouTubeさんに動画もアップして下さいました。


途中の薬師岳パノラマパークに聳える「ほんとの空」木柱が取り上げれています。多謝。
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『福島民報』さん。

本格的な登山シーズンの到来、多彩な行事で祝う 安達太良山開き 「ミズあだたら」に橋本さん(福島県三春町)

 日本百名山の一つ、安達太良山(1、700メートル)で19日に行われた山開きでは、本格的な登山シーズンの到来を多彩な行事で祝った。登山者は〝ほんとの空〟の下、美しい自然の中を歩いて山頂を目指した。
【安全祈願祭】奥岳登山口で二本松市の塩沢神社の滝本和栄宮司による神事に続き、安達太良連盟会長の三保恵一二本松市長が「安達太良山の春はツツジやシャクナゲ、様々な草花、秋は紅葉、冬は雪山と四季を通じて楽しめる。多くの人に楽しんでほしい」とあいさつした。
【山頂】県内外からの登山客でにぎわった。家族連れやグループが昼食を取ったり、眼下に広がる雄大な景色を背に記念撮影する姿が見られた。福島市出身のタレントで安達太良山観光大使のなすびさんとの写真撮影も行われ、登山客が列を作った。
【ミズあだたらコンテスト】出場した女性38人の中から「ミズあだたら」に選ばれた三春町の主婦橋本由香里さん(54)は「I LOVE 安達太良山」と書かれた特製ボードを用意して審査に臨んだ。「70回の節目に選ばれてうれしい。また参加したい」と笑顔を見せた。
【ペナント】山頂で70回記念のピンバッジとペナントを配った。バッジは直径2・5センチで、残雪の安達太良山の写真に「70th 安達太良山 山開き 標高1700M 2024.5.19」と記されている。
【あだたらマルシェ】奥岳登山口で初開催し、周辺の観光案内、軽食、アクセサリーなど11のブースが並んだ。登山客に二本松食や魅力をアピールした。
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ところで、山開きは終わってしまいましたが、こんなイベントが開催されます。

第23回オリエンテーリングあだたら高原大会・あだたら高原ロゲイニング大会

期 日 : 2024年6月2日(日) 雨天決行
会 場 : あだたら高原・岳温泉周辺(福島県二本松市)
時 間 : 7:15 ロゲイニング5時間受付
       8:00 ロゲイニング5時間スタート
       8:15 開 場
       9:15 ロゲイニング3時間スタート
       9:45~グループクラス初心者説明(※)
       10:00~オリエンテーリング個人スタート
       10:15 オリエンテーリンググループスタート
       13:30 フィニッシュ閉鎖(予定)
       14:30 閉 場
料 金 : 
 オリエンテーリング
  個人クラス 2,200円(大学生以下1,700円、当日申込は3,000円)
  グループクラス・個人初心者クラス
  小中学生 500円/名(当日申込は700円)※未就学児は無料
  高校生以上 1,000円/名(当日申込は1,200円)
  個人初心者 1,500円/名(当日申込は2,000円)
  Eカードレンタル (※個人クラス、個人初心者クラス)300円
 ロゲイニング  中学生 1,000円 高校生以上 3,000円

 今年も、オリエンテーリング(ミドルディスタンス競技と家族・グループ向けのスコアO)とロゲイニング(3時間、5時間)と多彩な内容で皆様の参加をお待ちしています。
 恒例の「温泉無料券」の配布と「宿泊助成券」が当たる抽選会も予定しています。
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キャッチコピーが「歩いて 楽しんで 「ほんとの空」を探そう」。「ほんとの空」の語を冠されてしまっては、紹介しないわけに参りません(笑)。

申込は今日まで。我こそはと思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の正当な製作物が資材の関係でまだ三四年は得られないので少々遺憾ですが、小生はあせりません。人体に対する渇望は嘔吐をもよおすほど強いのですが、今はこらへてゐます。そして健康と精力との涵養につとめてゐます。七十歳を目当にしてゐます。


昭和22年(1947)9月29日 水澤澄夫宛書簡より 光太郎65歳

この頃から、彫刻は封印、という方向に梶を切り始めたようです。

5月18日(土)、翌日の二本松市での智恵子生誕祭が午前9時開会と早めだったこともあり、郡山市に宿泊しました。そこでこの日は少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出、寄り道しながらの行程でした。

立ち寄り先は田村郡小野町の「ふるさと文化の館」さん。
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こちらの一角に、同町出身の作詞家・丘灯至夫を顕彰する丘灯至夫記念館が含まれています。
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丘灯至夫の代表作は、舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」。それ以外にも、令和2年(2020)に放映された朝ドラ「エール」で効果的に使われた共に古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさん歌唱の「智恵子抄」。
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安達太良山が謳い込まれ、二本松市ではソウルソングとして防災無線の正午のチャイムにも採用されています。5月19日(日)にもちょうど光太郎詩碑のある鞍石山で聞きました。

記念館には「智恵子抄」に関わる展示も為されていて、平成25年(2013)に一度お邪魔いたしました。

今回は、今年、丘灯至夫の伝記漫画が出版されたということで、そちらにも「智恵子抄」に関わる部分があるだろうと思い、それをゲット出来ないかと考えての訪問でした。

小野町の広報誌『広報おのまち』今月号の記事。
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伝記漫画は、B&G財団さんの助成を受けて刊行。同じシリーズで昨年、岡山県赤磐市さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子のそれが刊行されています。B&Gさん、広く全国で「ふるさとゆかりの偉人マンガ」シリーズの助成を行っています。

丘灯至夫の伝記漫画に関して、先月出た『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの伝記漫画完成 故郷の福島県小野町でお披露目 「高原列車は行く」「高校三年生」など作詞

 福島県小野町の名誉町民で作詞家の丘灯至夫さん(1917〈大正6〉年~2009〈平成21〉年)の伝記漫画が完成し、町が27日に町内でお披露目した。「高原列車は行く」「高校三年生」などの国民的ヒット曲を世に送り出した人生が描かれており、町民の郷土愛を育むために活用される。
 漫画は「小さな巨人」のタイトルでB6判100ページ。幼少期は病弱だった丘さんが新聞記者となり、詩人の西條八十さんや作曲家の古関裕而さん(福島市出身)らと出会いながら作詞家として活躍していく姿を伝える。小野町の豊かな自然も描かれている。
 町民らでつくる製作実行委員会が構成を考え、シナリオを高見沢功さん(猪苗代町)、作画を吉川むつみさん(郡山市)が担当した。3500冊を作り、全戸に配布するほか、町の図書館にも配置。小中学生の授業で教材として活用し、郷土の将来を担う人材育成に役立てる。秋には作詞コンクールを計画している。
 B&G財団(本部・東京都)の「ふるさとゆかりの偉人マンガ製作と活用事業」に採択され、費用の一部について補助を受けた。同財団のホームページで漫画を無料公開し、全国の人に見てもらう。
 27日は丘さんの記念館を併設する町ふるさと文化の館でお披露目式が行われ、村上昭正町長や丘さんの長男西山謹司さん(千葉県)らがテープカットした。西山さんは「私が知らない父の姿も描かれている。漫画になって里帰りでき、父も光栄だと思う」と謝意を述べた。漫画の完成を記念し、館内で8月25日まで丘さんの特別記念展が開かれている。
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「小野町ふるさと文化の館」内には町立図書館さんもあり、そちらに置いてありまして、拝読。予想通り「智恵子抄」に関する部分がありました。しかも、これは予想外でしたが、当会の祖・草野心平とのからみがそこにありました。それは後述します。

「よっしゃ」と思い、「これ、販売はしてますか?」ところが、答は「NO」。「では、コピー取れますか?」するとこちらも「NO」。残念ですが、いたしかたありますまい。8月頃にB&G財団さんのサイトで公開が為されるそうですので、その頃またご紹介します。

代わりに、というわけではありませんが、こんな書籍を無料で下さいました。『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』。A4判100ページ程の豪華なものです。
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平成28年(2016)の刊行でしたので、以前に足を運んだ際にはこれはありませんでした。

こちらにも「智恵子抄」関連の記述。
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二本松出身の大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の描いた安達太良山の絵に、丘が歌詞を書き込んだ作品、こちらは記念館に展示されています。

下半分は、「智恵子抄」リリースの翌年、昭和40年(1965)に行われた「丘灯至夫・郷土訪問リサイタル」関係。二代目コロムビア・ローズさんもいらしたとのこと。写真に写っていますね。

丘灯至夫とローズさん、前年には二本松も訪れています。「智恵子抄」がそこそこヒットしたのを受けて日本コロムビアが発行したソノシートブック「智恵子のふるさとを訪ねて」。全26頁で、ソノシートが4枚付いています。
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この中に……
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ちなみにローズさんは智恵子生家、二本松霞ヶ城の光太郎詩碑、安達太良山などもご訪問。
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ところで上半分に戻りますが、「智恵子抄」リリースに際しては、すんなり行かなかったという記述があります。「高村光太郎を顕彰する会から作品化の許可がなかなかおりず、世に出るまでに大変な苦労がありました。しかし詩人・草野心平の助言などにより、『智恵子抄』(二代目コロムビア・ローズ:歌)は昭和39年に世に送り出されたのです」。

『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』後半には丘自身の回想も。平成20年(2008)、福島ペンクラブの会合の中でで行われた座談会的な催しの一節、聞き手は元NHKアナの宇田川清江さんです。

酒飲まされて作った「智恵子抄」

宇田川 先生、「智恵子抄」は二代目コロムビア・ローズですね。この曲はレコード会社から言われたというより、先生がご自分で書きたいと思われた歌、と伺いましたが…。
丘 これは二本松の歌ですから高村光太郎の詩集「智恵子抄」から頂いてこしらえたものです。実は二本松には「高村会」というのがあって、高村先生の銅像とか作品の碑とかを守っていこうという会なんです。その会から「智恵子抄を歌にするのは罷りならん」と言われたんです。高名な詩集をモチーフにした歌謡曲をぜひ出したい、という思いが強かったんです。そしたら高村会の中に先輩詩人の草野心平さんがいたんです。そこで心平さんに頼みに行ったら「まず、酒を飲め」という。この酒がただものじゃないんです。口に入れると火の出るような、燃えるような酒。「これを一杯飲んだら許してやる」ってんで飲みました。酒を飲んで作詩したのはこれが初めてです。そして「この詩ならいいだろう」と許しを受けました。二代目コロムビア・ローズさんもよくて、これが紅白歌合戦にも出ました。


「酒」はたぶんウオッカだと思うのですが、むちゃくちゃですね、心平(笑)。「1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍」だそうでしたから、これ以外にも、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で秋田に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったとか、中原中也・心平がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じたとか、酒にまつわるエピソードには事欠きませんが。

二本松の高村会というのは誤りで、おそらく東京の高村光太郎記念会のことでしょう。理事長は光太郎実弟の豊周、事務局長は当会顧問であらせられた北川太一先生、心平もメンバーでした。このころ記念会では、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていました。

ところで丘作詞の「智恵子抄」。つい先週『サンケイスポーツ』さんに載った記事に記述がありました。

美貴じゅん子が新曲発売イベント 来年6月にデビュー30周年パーティー開催

000 演歌歌手、美貴じゅん子(50)が15日、東京・六本木クラップスで新曲「海峡流れ星」の発売イベントを開催した。
 タイトルにちなみ流れ星がデザインされた着物姿で登場し、同曲や「放浪(さすらい)かもめ」など全15曲を熱唱。初めてリクエストコーナーを行い、千葉紘子(79)の「折鶴」や二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を披露して会場を沸かせた。
 2021年に17年ぶりのシングル「土下座」で復帰したことにふれ、「新曲が出せない時期が長くあったので、新曲を出せることには人一倍強い思いがあります」と力を込め、「新曲を出せない時期にお世話になり励ましてくれた方々に少しでも恩返しができるよう頑張ります」と誓った。
 デビュー30周年パーティーを来年6月22日に東京・紀尾井町のホテルニューオータニで開催予定であることも発表し、「女手一つで育ててくれた84歳の母に報告します」と喜んだ。

他紙でも同一イベントは紹介されていましたが、「智恵子抄」に触れられていたのはサンスポさんだけだったようです。

美貴じゅん子さん、先月NHK BSさんでオンエアがあった「新・BS日本のうた」でも「智恵子抄」を歌われました。持ち歌の一つとして下さっているという感じなのでしょうか。ありがたいところです。
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同じく持ち歌にして下さっていた森昌子さんは引退なさり、「智恵子抄」CDもリリースされた「三代目コロムビア・ローズ野村未奈」さんは「コロムビア・ローズ」を返上なさり、本名である「野村美菜」さんに改名され、「智恵子抄」は歌われていないようですし。

先述の通り、二本松市では防災無線の正午のチャイムは「智恵子抄」ですが、それ以外の部分でも、さまざまな人間ドラマの詰まった「智恵子抄」、歌い継がれていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

そしていはゆる「詩」からの脱走はますます意識的に烈しくなるでせう。いはゆる「詩」をますますふみにじるでせう。それが別個の詩を生むか生まないか、それはずつと後の人が知るでせう。


昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

昨日も同じ書簡の中の別の部分を取りあげましたが、この年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をした美術評論家・水澤への返信の一節です。

元々、そういう意識が強かったのですが、翌年には詩「おれの詩」で「おれの詩は西欧ポエジイに属さない。/二つの円周は互に切線を描くが、/つひに完くは重らない。」と書き、やや後の昭和25年(1950)には「藤村――有明――白秋――朔太郎――現代詩人、といふ系列とは別個の道を私は歩いてゐます。」(「詩について語らず――編集子への手紙――」昭和25年=1950)とも書いています。

無論、15年戦争中、愚にもつかない翼賛詩を連発してしまったことへの悔恨、そこからどう立て直していけばいいのだろうという意識も込められた発言です。

一昨日、昨日と、一泊二日で福島県に行っておりました。

メインの目的は、智恵子の故郷・二本松市で昨日開催されたイベント。地元で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」でした。
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昨年もほぼ同一のイベントが行われたのですが、市内、特に智恵子生誕の地の旧安達町エリアを中心に、智恵子ゆかりの場所を見て回るというイベントです。ちなみに今日・5月20日が智恵子の誕生日です。

智恵子生家近くで開会式。
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6月1日(土)オンエア、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで10分程の放映が行われるそうで、そのロケも入りました。

ちなみに4月2日(火)、当会主催の連翹忌の後、ご案内をお送りしたもののご欠席だった方々などに当日の配布資料等を後日発送したのですが、その中に今回のイベントの案内も同封しましたところ、静岡で文芸同人誌『岩漿』を主宰なさり、光太郎智恵子にも触れた文章を書かれている小山修一氏御夫妻もいらして下さいました。ありがたし。

智恵子生家。
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午前中はよい天気で、「ほんとの空」という感じでした。
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二本松市さんとしては、先月末から「智恵子生誕祭」期間。5月26日(日)までです。土日には紙絵制作のワークショップや通常非公開の生家2階部分の特別公開が行われています。
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一階の座敷を横目に土間を通り抜け、二階へ。階段を上ってすぐ、かつての智恵子の部屋です。
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奥は弟妹の部屋的な。
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生家裏手の智恵子記念館。紙絵の実物展示が5月12日(日)までだったのが少し残念でしたが。
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左の窓に映っているのは、昨秋の「高村智恵子レモン祭」期間中に開催されたワークショップ「みんなで作るシンメトリー展」で来場者の方々が作られた作品だそうです。

その後、夢くらぶさん会員の方々の車輌に分乗、ゆかりの地を巡りました。智恵子母校の油井小学校さん、JR東北本線安達駅前の智恵子像「今 ここから」(故・橋本堅太郎氏遺作)、満福寺さんの智恵子実家・長沼家墓所、生家裏手の鞍石山の詩碑など。
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最後は二本松市街、霞ヶ城。
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敷地内に昭和35年(1960)に建てられた光太郎詩碑。
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遠景には、安達太良山。
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銅板のプレートは三面あり、正面と背後は光太郎自筆を写しています。
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碑陰記的なプレートは、当会の祖・草野心平筆。
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ついでにご紹介しますが、この碑の近くには戊辰戦争で名を馳せた二本松少年隊を顕彰する碑も。
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レリーフ原型は橋本堅太郎氏父君の橋本高昇です。高昇、堅太郎氏父子共々、光太郎の父・光雲の流れをくみます。高昇は二本松出身、堅太郎氏は東京出身でしたが、のちに二本松市名誉市民に認定されました。 

さて、光太郎詩碑前で、参加者による光太郎詩朗読。
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泉下の光太郎智恵子も眼を細めているような気がしました。

この後、この場で昼食のお弁当をいただき、解散。

地味な活動ですが、アップデートしつつ継続していっていただきたいものです。

智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんでは、この後もいろいろとイベント等企画されています。
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また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下の絶対否定のお言葉をよんでなるほどと思ひましたが、小生はやはり貴下に憫れまれながら死ぬまで詩を書くでせう。詩は、小生内部からの自己爆破に備へる為の安全弁の作用をするので已むを得ません

昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

水沢は美術評論家。光太郎がこの年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をしたようで、それに対する返答の一部です。

安全弁」云々は、遠く明治期の留学帰朝後からの光太郎の持論でした。

愛車を駆って一泊二日で福島県に来ております。

昨日は途中の田村郡小野町に立ち寄り、宿泊は郡山市郊外でした。

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昨夕、宿の近くから見た安達太良山です。

今日はこれから北上し、智恵子の故郷・二本松で開催される「高村智恵子生誕祭」に参加させていただきます。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

花巻で光太郎顕彰にあたられている民間の方々の活動をご紹介します。

まず「光太郎を知る会」さん。文字通りの会で、かつて花巻及び郊外旧太田村に足かけ8年を過ごした光太郎の生活ぶりなどを、当時の光太郎日記などの読み合わせをする読書会的な感じで繙いていく活動などをなさっています。今年2月に当方が花巻にお邪魔した際、わざわざお集まり下さいまして、懇談させていただきました。

かつて花巻では毎年5月15日、光太郎が昭和20年(1945)に花巻の宮沢賢治実家に疎開のため東京を発った日を記念して、「高村祭」が開催されていました。最初は「高村記念祭」という名称でしたが、いつの頃からか「高村祭」となりました。
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第一回は、光太郎が歿して2年後の昭和33年(1958)。宮沢家、そして賢治の主治医だった佐藤隆房、それから旧太田村民の皆さんたちなどの醵金で、光太郎が暮らした山小屋の套屋(カバーの建物)と初の本格的な光太郎詩碑が作られ、そのお披露目という意味合いもあったようです。光太郎実弟の豊周をはじめ、当会の祖・草野心平や伊藤信吉、会田綱雄ら、錚々たるメンバーも来花。おそらく当会顧問であらせられた北川太一先生も列席なさったのではないでしょうか。

その頃撮られたと推定される16㍉フィルムから。
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もう少し後、昭和40年頃の絵葉書から。
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高村祭はこの詩碑の前で連綿と続けられていたのですが、コロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。

そこで、「光太郎を知る会」さん、その代わりにということで5月15日(水)に詩碑前にお集まり下さり、皆さんで詩碑に献花、さらに光太郎詩の朗読をなさったそうです。ちなみに詩碑の地下には、分骨的に光太郎の遺髯が埋められています。
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かつての高村祭では、こうした朗読は市内の学校の生徒さんが行って下さっていましたし、児童の皆さんは器楽合奏や歌唱など、さらに途絶する直前には花巻農高さんによる鹿踊りの披露もありました。器楽合奏は高村祭が始まった頃には、実際に光太郎から寄贈された楽器を使用してのものでした。

そうした若い世代の光太郎顕彰行事参加の機会が無くなってしまったことに危機感を抱き、地元の太田振興会さんで、昨日このブログでご紹介した 「五感で楽しむ光太郎ライフ」を企画なさったという流れです。

さて、もう一つの顕彰団体、やつかの森LLCさんの取り組み。

まず、GW中の5月4日(土)、5日(日)に開催された、「土澤アートクラフトフェア2024春」へのご参加。こちらは光太郎と交流のあった画家・萬鉄五郎の出生地である花巻市東和町を会場に「絵画、陶芸、木工、アクセサリー、イラスト、写真、革製品、ガラスなど色々な手作りの品物が並ぶアート市。展示会場は、空き家・空き地はもちろん、営業中の店舗や、実際に生活している家屋まで、さまざまな場所が利用され、商店街や美術館前が彩られます。」だそうで。

光太郎が自作したメニューの現代風再現や、光太郎が使った食材の活用など、「食」を中心とした光太郎顕彰活動がメインのやつかの森LLCさんですので、お弁当の販売で参戦なさったとのことです。
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初日は110食、45分で完売だったそうです。すごいですね。

それから、5月15日(水)、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案にやつかの森LLCさんが入られています。
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2405メニュー
何事も継続していくことは困難も伴うと存じますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

ちなみに「土沢アートクラフトフェア」の件、光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、NHKさん東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で取りあげられるそうです。詳細が入りましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

もう秋でススキ、ハギ、ヲミナヘシがさかん。栗もキノコももう直です。

昭和22年(1947)9月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

山小屋周辺で採れる栗やキノコは貴重な食材でした。

若干先の話ですが、申込締め切りがありまして……。

五感で楽しむ光太郎ライフ

期 日 : 2024年6月9日(日)
会 場 : なはんプラザ COMZホール
       岩手県花巻市大通一丁目2番21号 東北本線/釜石線花巻駅前
時 間 : 10:30~14:00
料 金 : 1,500円(昼食代金込み)

申 込 : kotarocafe@gmail.com (下記フライヤー画像にQRコード有り)
〆 切 : 5月27日(月) 先着100名

趣 旨 :
 ここ数年「高村祭」の中止が続いていること等から、一般市民はもちろん、毎年高村祭に参加していた小中高生達の高村光太郎に関する認知度・親密度の低下が懸念される。
 宮沢賢治を世に出した人であると言う事を含め、光太郎の偉業について、各種企画展のみならず、次世代を担う子供達との対談やふれあいの場を設けることから光太郎顕彰の維持向上を継続的に図っていく必要がある。

内 容 :
 10:30~12:00 アーティストのまなざしにふれて 
  ① 「光太郎にかかわる総合学習」の状況について 花巻市立太田小学校長 藤田聖子氏
  ②  花巻南高校の取り組み紹介
      「文芸誌作品・詩朗読及び感想」「智恵子のエプロン紹介」  
      文芸部・家庭クラブ生徒数人及び担当教師
  ③ 「光太郎の愛した山口山の自然」 岩手県環境アドバイザー 望月達也氏
  アドバイザー 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明

 12:15~12:50 おいしいランチ 光太郎を食べよう
  TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当
  ドリンク&デザート やつかの森LLC
 
 12:50~13:15 参加者交流

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前半は、花巻市内の学校さんの光太郎に関する取り組みの紹介および、岩手県環境アドバイザー・望月達也氏による光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山口山の環境説明。

学校さんは、まず光太郎の山小屋近くにあった旧山口小学校の後身の太田小学校さん。「後身」というか、元々山口小学校は光太郎が移住した時点では太田小学校の山口分教場で、光太郎が暮らしていた間に山口小学校に昇格、しかし光太郎没後にまた太田小学校に統合されて廃校となった経緯があります。そちらの「総合的な学習」の時間での学年ごとの取り組みを、校長先生がご紹介下さるそうです。

もう1校、花巻南高校さん。こちらは宮沢賢治の妹にして「あめゆじゆとてちてけんじや」のトシの母校にして、日本女子大学校を卒業後、トシも教壇に立った花巻高等女学校の後身です。文芸部さんが光太郎と宮沢家や花巻とのつながりについて調べた結果などを、家庭クラブさんは昨年このブログでご紹介した「智恵子のエプロン」(大正時代の雑誌『婦人之友』で紹介されました)を実際に作って下さったそうで、その紹介。

順番的には学校さん2校が先で、トリが望月氏です。望月氏のパワーポイントのスライドショーを添付ファイルで送っていただき拝見しましたが、改めて旧太田村山口山、貴重な自然が残っている里山だな、という感じでした。

後半はランチタイム。メインディッシュはガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店で、やはり光太郎がらみのメニューとなるのではないでしょうか。

ドリンクとデザートは、花巻で「食」を軸に光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんのご提供。

その後、閉会行事的に少し時間を取って、13:15終了だそうです。

当会も共催として名を連ねさせていただいており、当方も参上、コメンテーター的なことをやらせてていただく予定です。

皆様方もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻の水害にも驚きましたが賢治忌への参集者の多いのにもおどろきました。あの夜の鹿踊は見事でした。


昭和22年(1947)9月25日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

「水害」はカスリーン台風によるものです。

賢治忌」は9月21日。光太郎は旧太田村在住中、この日に合わせてほぼ毎年花巻町に出て、賢治忌で講演を行ったりしていました。「参集者の多いのにもおどろきました」とありますが、戦後2年が経過し、こうしたイベントへの他地域からの参加も以前より容易になったのでしょうし、清六と光太郎の編集になる『組合版宮沢賢治文庫』の刊行も始まって、賢治ファンの増殖につながったのでしょう。

この年の講演については、筑摩書房版『高村光太郎全集』に漏れていましたが、10年ほど前、『新岩手日報』に筆記が掲載されていたのを発見しました。一字一句、光太郎が語ったとおりではないとは思われますが、概要は捉えられます。若干読みづらいのですが、原文のまま。

 ◇…ここに来て二年になる、岩手はいい、風土に接し実際に経験をつむと東京にいたとき考えていたのと賢治さんの相ぼうが大部違つて来た、理解が深まつたようだ、芸術そのものは独立しているものだがその人の時代を越え、土地を越え、国をも越えて世界中に広まる性質をもつものである、必ずしもその人を知らなくともいい、ぼくらはボードレールもフランスのパリも知らなくても詩はわかるように賢治さんを知らぬ東京でも詩はわかる、判るほど詩は強い
 ◇…本質的には―大綱のところは世界のどこへ行つてもわかるけれども智のうがこまかい言葉の中にある、肉体的にも奥のあるような人間的親しみが言葉の陰にかくされている、真正面から詩をよむのではわからない、文字ばかと机の上でコネていては本当の詩は生れない、妙な言いかたかも知れないが文学的詩人というものは多いが人間的詩人というものは実に少ない、賢治さんは世界に通ずる本当の詩人だと思う
 ◇…賢治さんはそのほか生活の中でせられたことが全部詩となり行動そのままが詩で、ラヂウムが放射されるように体から放射された一つ一つが詩ということがこちらへ来てこまかく聞いたり、みたりしてはつきりわかつた、賢治さんの根底は宗教つまり法華経の実に熱烈な実行家で、その念願にもえて行動がともないそれが生れつきの詩人的素質と結びついているが、宗教詩人のようなくさみもなく、大きく自然から受けるものを素直に自分の体を通じてうたつている、自然にうたつたことが自ら法華経の教えにピツタリ合つて自然にうたつているようにみえる、これはえらく精進されたのですが――ともかくご自分で行者として精進されたばかりでなく一般の人を無上道に誘おうとして自分の体を投げ出して働いた、こうした中から人工で出来ないものを実現してくれた、これは非常に貴い
 ◇…賢治さんがいたということは将来の日本の詩人へ暗示を与える、また岩手は社会主義的詩人石川啄木をうみ対照的なのも面白いし時代を前後して出たのも輝かしいことだ、こゝに来てダンダン感ずることは岩手の国のよさ岩手県人の性格、人間の厚みなどこの性格は今後の日本の大きな背骨になるのだと考える

また紹介すべき事項が山積しつつあり、2件まとめてご紹介します。

まず、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」について、地方紙『岩手日日』さん。

山菜味わい推敲重ね 光太郎直筆原稿「七月一日」初公開  高村記念館・花巻

000  東京から疎開し花巻の山口集落で過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が山の暮らしの様子を記した散文の直筆原稿が、花巻市太田の高村光太郎記念館で初公開されている。村人として生活を送っていたことがうかがえる内容で、光太郎の原稿では珍しい推敲(すいこう)の跡もそのまま残っている。
 光太郎は、1945年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開し、8月に山口集落(現同市太田)で暮らし始めた。散文は翌年に執筆され、50年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載された。題名は「七月一日」。200字詰め原稿用紙4枚にブルーインクで書かれている。
 散文には地域で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓に上がる様子が山菜の描写と共に詳細につづられている。東北に来て初めて知った山菜「ミヅ」について山奥の谷川の水場にしげり、おひたしや塩漬け、汁の実にして食べると、「ワラビのようなぬめりがあって歯切れが良く、味に癖がなくてさっぱりしている」「ミヅのぬめりとニシンの脂とがよく調和する」などと記し、村人と同じ食生活を送っていたことが読み取れると同時に、東京では絶対に口にすることのないものへの感動が伝わる。
 テーマ展は7月7日まで。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

記事にあるエッセイ的な「七月一日」、全文はこちら。
001
『智恵子抄その後』が刊行されたのは昭和25年(1950)11月20日。太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に『智恵子抄』を上梓した澤田伊四郎の龍星閣が、ある意味、二匹目のドジョウを狙って出版しました。「詩集」と冠されていますが、詩は同年1月に雑誌『新女苑』に発表した「智恵子抄その後」の総題を持つ6篇の連作詩、同じ『新女苑』や他の雑誌に発表されたものが5篇。その他は散文で、散文の方が圧倒的に分量が多いものです。

この「七月一日」は、それまでに他の雑誌や新聞等に発表された形跡が無く、初出と推測されます。というか、光太郎本人による「あとがき」に、「澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を校正してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。」とあり、「山小屋日記に類する文章」として、澤田が光太郎から借りた日記の一部なのではないかと推定されます。

目次の「七月一日」下部には「昭和二一・七・一」の文字。実際、この年の5月16日から7月16日までの日記が失われています。同様にやはり『智恵子抄その後』には昭和25年(1950)に書かれた「九月三十日」というエッセイも掲載されており、こちらも他の新聞雑誌等に掲載が見あたらず、そして当該日前後の日記が失われています。「物色」のひと言から澤田による借りパクと断定は出来ませんが……。

閑話休題、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件は、『毎日新聞』さんの千葉版から。

君津出身 不運の画家、柳敬助に光 渡辺茂男さんが評伝出版 /千葉

  明治・大正期に渋沢栄一や北原白秋の肖像画を描くなどして活躍した君津市出身の洋画家、柳敬助(1881~1923年)の評伝が出版された。執筆したのは同市の文化財審議会委員を務める渡辺茂男さん(73)。柳が42歳で没した年に関東大震災が発生、多くの作品が失われた。歴史に埋もれた画家の人生を丹念に掘り起こした。
 本のタイトルは「不運の画家―柳敬助の評伝」(東京図書出版)。「西洋画黎明(れいめい)期に生きた一人の画家の生涯」のサブタイトルが付けられている。
  柳は現在の君津市小糸地区で医師の子として生まれた。通っていた籾山尋常小の佐藤善治郎校長に才能を見いだされ、絵描きになることを勧められたと伝わる。後年、柳が描いた佐藤校長の肖像画が小糸小に残されている。
 東京美術学校(東京芸大の前身)で西洋画を学んだ後、米欧に留学。帰国後は渋沢や北原、思想家の三宅雪嶺、政治家の野田卯太郎ら各界で活躍する人物を描き、肖像画家としての地位を確立した。
 だが、1923年5月に42歳の若さで病死。その年の9月1日から日本橋三越で遺作展が開かれる予定だったが、関東大震災が起き、代表作を含む約40点を焼失してしまった。残された作品の多くは現在、柳が終生の友とした彫刻家の荻原守衛(もりえ)を記念した碌山(ろくざん)美術館(長野県安曇野市)に所蔵されている。
 君津市出身の渡辺さんは昨年、柳の没後100年を迎えたのを機に執筆を始めた。「郷土が生んだ洋画家が、どんな絵を描き、どんな人生を送ったのか、記さないといけない」と使命を感じたという。数点の手紙を除き、柳の日記や手記などは見つかっていない。関わった周辺の人物の書籍などから、その歩みを探った。昨年には柳の作品などをまとめたパネル展示も小糸公民館で開いた。
 柳は詩人で画家の高村光太郎らと親交を深め、多くの芸術家が集った「中村屋」(現在の新宿中村屋)の支援を受けて創作活動に打ち込んだ。「多くの作品が焼失し、その絵を見ることはできない。現在の私たちには不運なことではあるが、柳本人の人生は幸せだっただろうと思う」と話す。
 <小糸川の水一滴は七つの海につうじる>。同市の君津高校上総キャンパスに建つ石碑に刻まれている言葉だ。小糸川流域で生まれた人々が「七つの海」、すなわち世界で活躍することを願った言葉とされる。渡辺さんは「柳の人生は、この言葉を正に体現していたと思う。小糸から羽ばたいた青年の人生を広く知ってほしい」と願う。
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君津市出身の画家、柳敬助の評伝「不運の画家」を出版した渡辺茂男さん。
手前は小糸公民館での展示で使用したパネルの原本=君津市

過日ご紹介した『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』についてです。

柳の名は光太郎顕彰に携わる身としてはマストなのですが、やはり一般にはあまり知られていない名前なんだな、と感じさせる書きぶりでした。まぁ、当方も渡邉氏のご講演拝聴するまで、柳の生涯をそれほど詳しく知っていたわけでもありませんが。

ところで「詩人で画家の高村光太郎」とありますが、「詩人で彫刻家の高村光太郎」としていただきたかったところです(さらに云うなら、光太郎自身の優先順位としては「彫刻家で詩人の高村光太郎」でしたが)。おそらく書いた記者さん、光太郎についてもあまりご存じないようで……。

何はともあれ、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。Amazonさん等でも入手可能です。

さらに、記事にある安曇野の碌山美術館さんに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

稚拙の美は無意識にして始めて価値あり、世上に往々あるやうな意識的な稚拙のものは甚だ厭味になります。又いい気になつた稚拙のものは棄てる外なし。無技巧といふ事は本来芸術には存在せず。一見無技巧と見えるものには別個の技巧があるものと思ひます。


昭和22年(1947)9月17日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の芸術論の一端が、端的に表されています。光太郎はいわゆる「ヘタうま」的なものに価値を認めていませんでした。

「始めて」は原文のまま。「初めて」とすべきですが、「始」と「初」の使い分け、光太郎は意外といい加減でした。

『読売新聞』さん青森版、先週末に出た記事です。

十和田湖 輝く新緑

 十和田湖畔に広がる木々に若葉が生え始め、訪れる人の目を楽しませている。遊覧船やボート、カヌーなどに乗ると、新緑と湖水の青とのコントラストが一望でき、湖畔とはひと味違った風景が楽しめる。
 十和田八幡平国立公園の中にある十和田湖は、周辺にブナなどの林が広がる。透明度が約12メートルの湖水は、光の反射で深い青色からエメラルドグリーンまで様々な表情を見せる。
 10日は白波が立つ荒れた天候だったが、高村光太郎の最後の作品として知られる「乙女の像」の近くにボートツアーがさしかかると、雲の切れ間から日光が差し込み、ブロンズ像と新緑、湖水のブルーが輝いていた。
 十和田奥入瀬観光機構は、「10、11月の晩秋まで多くの観光客に楽しんでほしい」としている。
000
画像からも湖畔の新緑の美しさが伝わってきますね。

ただ、記事中の「最後の作品」というのは誤りで、「最後の大作」というべきです。何度も書いておりますが「最後の作品」は、完成したものとしては、昭和28年(1953)10月21日に行われた「乙女の像」の除幕式の際に関係者に配付された記念メダルです。小品ですが黙殺されていいものではありません。また、体調不良で未完のまま終わりましたが、その後取り組んだ「倉田雲平胸像」も含めれば、そちらも「最後の作品」ということになります。
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004ネット上や印刷物だと関係団体さんなどの紹介であっても「乙女の像」を「光太郎最後の作品」としている記述が目立ち、辟易しておりますが、一度こうとなってしまうとたとえ事実と異なっていてもそれが定着してしまうという例ですね。

閑話休題、「新緑」ということで、これも再三取りあげていますが、「新緑」を謳歌する光太郎詩を。

     新緑の頃
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて005
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

昭和15年(1940)、雑誌『婦人之友』に掲載されました。既に日中戦争が泥沼化、国家総動員法がしかれていた時期で、「日本という国は何と素晴らしい国なのだ!」というプロパガンダ的な要素が見え隠れします。

そういう点を抜きにすれば、いい詩ですね。

さて、「新緑」の十和田湖、ぜひ足をお運び下さい。先月末からは遊覧船の運航も再開していますし。

【折々のことば・光太郎】

他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。


昭和22年(1947)9月15日 菊池正宛書簡より 光太郎65歳

自著に序文を書いてくれ、という依頼に対しての断りの一節です。詳しくはこちら

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

明治19年(1886)5月20日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生を受けた智恵子を偲ぶイベントです。

第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館とその周辺 福島県二本松市油井漆原町35
時 間 : 9:00~14:00
料 金 : 2,000円(お弁当付き)
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~


高村智恵子ゆかりの地を説明付きで巡ります。霞ヶ城公園の「智恵子抄」詩碑前で参加者の詩朗読。
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昨年も参加させていただきました。要項に記載がありませんが、主催の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の方の車輌に分散しての移動です。行程はほぼ同一ですが、それぞれの場所で智恵子や光太郎の息吹が感じられますので、なかなかよい試みかと。

特に智恵子生家は現在、通常非公開の二階部分(智恵子居室や光太郎も泊まった部屋)の公開が為されています。智恵子の実家・長沼家は裕福な造り酒屋だったですので、しつらえのあちこちに工夫が垣間見えして、古建築好きの方にもおすすめです。
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ちなみに智恵子の父・今朝吉は、家業の造り酒屋以外にも、同じ福島の白河にあった白河醸造の監査役も務めていました。まぁ、名誉職のようなものかも知れませんが。
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その父・今朝吉が大正6年(1917)に歿し、弟・啓助があとを継ぐと家業はどんどん傾き、昭和に入ると恐慌のあおりで破産してしまいましたが。

昨年と異なるのは最後の「参加者による詩の朗読」の場所。昨年は生家/記念館裏手の鞍石山にある「樹下の二人」詩碑前でしたが、今年は二本松城(霞ヶ城)内の智恵子抄詩碑前で行うそうです。

昨日書いた安達太良山間の山開きが同日で、どちらに参加しようか迷ったのですが、こちらを選びました。

話せば長いことながら、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、とりまとめ役の曽我貢誠氏がNHKさんに連絡をとったところ、仙台放送局のディレクター女史が4月2日(火)の連翹忌にご参加下さり、アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で10分程の放映が行われることになりました。そのロケも入ると云うことで、こちらに参上しようと決めた次第です。

他に光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に料理を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取材も為されたとのこと。

この件はまたのちほど詳しくご紹介いたします。

さて、第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

待望のクマゼミ到着、感謝に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧出来なかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。


昭和22年(1947)8月6日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

東は三重県在住。光太郎の求めに応じ、東日本では珍しいクマゼミ標本を送りました。

さらに東からは彫刻用の椿の木材、ヤギという珊瑚の一種なども送られ、光太郎はこれらで蟬を彫ったようです。ただし、作品として発表することはせず、技倆を鈍らせないための鍛錬などのためという側面が強かったようです。

実際に蟬の彫刻の目撃談が複数あり、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りました。ただし現存が確認できていません。

この頃の短歌で「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」という歌もあり、揮毫した色紙等も複数残されています。
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智恵子のソウルマウンテン、福島は二本松の安達太良山で山開きです。

第70回記念 安達太良山山開き 絵になる、詩になる、ほんとの空。

期 日 : 2024年5月19日(日)

奥岳登山口(あだたら高原スキー場)でのイベント
 ①安全祈願祭【午前8時~】
  1年間の安達太良山登山の無事を参加者で祈願します。
  (荒天時はランデブー内で実施します)
 ②あだたらマルシェ【午前9時~(予定)】
山頂でのイベント
 ➀ペナント配布【午前9時30分~】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ②70回記念ピンバッジ配布【午前9時30分~】
  先着500個を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ➂ミズあだたらコンテスト【午前11時~】

福島県出身のタレントなすびさん(安達太良山観光大使)が今年の70回記念山開きに参加!! ぜひ一緒に登山を楽しみましょう!!(記念撮影可能)
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二本松市さん発行の『広報にほんまつ』今月号にも情報が。
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同誌では、市長さんのコーナーでも山開きをメインに。「智恵子抄」にも触れて下さいました。ありがたし。
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今年のキャッチフレーズも「絵になる、詩になる、ほんとの空。」ということで、「智恵子抄」にからめて下さっています。多謝。

当方、コロナ禍前の令和元年(2019)に参加しました。翌年からはコロナ禍のため、大幅に規模を縮小しての開催が続き、昨年、4年ぶりに旧に復しました。

今年、久しぶりに参加しようかと考え、それにも使えるようにとワークマンさんで気合いの入った靴も買ったのですが(笑)、同じ日に二本松で智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催のイベントがあり、天秤にかけた結果、そちらに参加することに致しました。

そちらについては明日、ご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

今夏東京の酷暑のひどかつた事は聞いていましたが、おてがみをよんで夏に弱い小生などたまらない気がしました。東京都の設計には気候調節の顧慮が必要のやうです。例へばラングーンの森林都市といふやうな。


昭和22年(1947)8月28日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

「ラングーン」は現・ヤンゴン。旧ビルマ(現・ミャンマー)の首都で、森の多い都市でした。

光太郎は安藤の骨折りで英文雑誌『リーダーズダイジェスト』を購読しており、そのあたりから情報を得ていたようです。

状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。

盛岡市先人記念館で池田龍甫展 没後50年に合わせ、作品や遺品を展示

 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
 池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
 同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
 展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
 展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
 晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
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同展詳細はこちら。

没後五十年 池田龍甫展

期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日 
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
      団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)

令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。

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『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
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校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。

その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
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盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
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発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。

ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら
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旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。

池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。

昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳

佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。

先週末に開幕しましたが、昨日になって市のHPに情報が出ました。

令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」

期 日 : 2024年4月27日(土)~7月7日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、昭和二十年の空襲で東京のアトリエを失い、同年五月に賢治の実家を頼って花巻に疎開しました。東京からの疎開後に滞在した先々で目にした岩手の初夏の光景に感動した光太郎は、花や山菜などをスケッチして残しました。
また、山口集落(現 花巻市太田)での自然に囲まれた暮らしの中で接した植物もスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想がうまれました。
 結局詩集は未刊に終わったものの、光太郎が山の暮らしの中で詠んだ詩や散文、スケッチは文芸誌や雑誌、詩集『智恵子抄 その後』に掲載され、世に知られることとなりました。
 今回のテーマ展『山のスケッチ』では、光太郎が花巻で過ごした七年間で描いたスケッチを中心に紹介し、自然を題材にした散文の原稿などの資料を展示します。

展示資料
 散文『七月一日』直筆原稿(初公開資料)4枚
 素描集『山のスケッチ』より鉛筆画および精密複製10点
 他、山のスケッチに登場する草花写真パネル

展示の見どころ
 散文『七月一日』直筆原稿は今回が初公開の資料です。本作は昭和21年に執筆され、昭和25年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載されました。文中では当地で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓にあがる様子が山菜の描写と共に詳細に記されています。東京在住時代に刊行された最初の「智恵子抄」は有名ですが、花巻在住当時に刊行された「智恵子抄 その後」の存在は広く知られてはいません。現在刊行されている「智恵子抄」の原型となった詩集で詠まれた花巻の自然を、今回の展示を通じて知っていただければ幸いです。
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展示風景の画像を市役所さんから送っていただいています。
展示風景 (1) 展示風景 (2)
展示風景 (3) 展示風景 (4)
7月1日原稿写真1 7月1日原稿写真2
風薫る5月となり、同館や隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)周辺にも山野草が色とりどりの花を付けたり、新緑が萌え立ったりしていると思われます。ぜひ足をお運びの上、展示と共に自然美もご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

海草でヤギといふ彫刻材ある由、小生始めて聞く事でまるで此迄知らず、むろん彫つた経験がありません。根付材になりのかと想像しますが、使つてみたいと存じますので、あまり面倒でなかつたら小さいのでいいですから御送り下さいませんか。苟も彫刻に関する事は何でもやつてみたいと存じます。


昭和22年(1947)7月13日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

「ヤギ」は「海草」というより珊瑚の一種です。東は三重県在住。あちらの方の海で産出していたのでしょうか。

花巻郊外旧太田村の山小屋在住中、作品としての彫刻は一点も発表しなかった光太郎ですが、技倆を鈍らせないための鍛錬などのために彫刻刀をふるっていました。現存が確認できていませんが、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りましたし、「蟬」を彫っていたという目撃談も複数存在します。

過日ご紹介した「花巻周遊デジタルスタンプラリー」について、地方紙『岩手日報』さんから。

温泉も まちも楽しんで 花巻北高生CF企画スタンプラリー27日開始 スマホ使い参加 市内観光地周遊

 花巻北高(佐々木信明校長、生徒675人)の2年生4人は27日、花巻市内の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを始める。2月に実施したクラウドファンディング(CF)で善意が集まり企画が実現。花巻温泉郷にとどまらない魅力あるスポットを観光客らにアピールする。
 ラリーは温泉施設のほか、昭和の学校など見学体験施設、そばやジェラートといった飲食店の計20カ所が参加。5月27日までに、スマートフォンで各所にある2次元コードを読み取るとスタンプがたまる。
 景品は2種類を準備。スタンプ3個以上か6個以上でそれぞれ抽選に応募でき、市内5企業が提供する地元の特産品などが当たる。どのように施設を巡りスタンプを獲得したかなど、計測データを基に新たな観光アイデアを検討し市に提案する。
 メンバーは菊池碧斗(あおと)さん、伊藤琉賀(りゅうが)さん、三瓶由偉(ゆうい)さん、斎藤蒼大(そうた)さん。探求活動の一環で2023年度から企画に取り組み、2月にCFに挑戦。目標額を7万円余り上回る67万600円が集まった。支援者からは「楽しい街に変える企画」「若いエネルギーにワクワクしている」など多くの応援メッセージが届いた。
 同市大通りのビアバル「リットワークプレイス」を経営するトルクストの高橋亮代表(39)は「企画の完成度が高い。(自身も)温泉以外の魅力をつくりたいとの思いで事業を始めた。ぜひ次につなげてほしい」と応援する。
 4人は春休みを利用して各店舗に自作のポスターやチラシを配り準備に励んだ。斎藤さんは「地元住民のまちを活性化したいとの思いや応援の気持ちに触れ、一緒に頑張りたかった。花巻の暖かさに触れてほしい」と力を込めた。
 ラリーへの参加や抽選への応募は特設ウェブサイトで受け付けている。

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過日も書きましたが、スタンプがもらえるポイントに、高村山荘・高村光太郎記念館さんも含まれています。

ところで高村光太郎記念館さんでは、同じく昨日からテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催されています。

市役所さんから通知が来たのですが、送られてきた画像が切れており、会期が分かりません。
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「これじゃ宣伝しようがありません」と返信したのですが、ナシのつぶて。市のHPにも何らの情報も出ていませんし(昨年行った同名の展示の情報は残っていますが――また、2年続けて同じ企画というのもどうかと思いますし……)、館のX(旧ツイッター)は2年近く更新されていません。

苦言を呈させていただけるなら、真剣に集客を考えているのか? と感じざるを得ません。困ったものです。

閑話休題、やる気に溢れている花巻北高生さん考案のスタンプラリーは、ぜひ皆さん、チャレンジして下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻はまだ出来ません。仕事部屋が出来ないので当分は手がつきません。畑や開墾にはいろいろのものをつくり、副食物は自給してゐます。此辺には山菜もあるので仕合です。

昭和22年(1947)7月15日 山端静子宛書簡より 光太郎65歳

山端静子は光太郎の直ぐ下の妹。鎌倉在住でした。鎌倉では令孫夫妻が「カフェ兼ギャラリー笛」さんを経営なさっています。

キーワード「乙女の像」でヒットしました。

4月26日(金)、RAB青森放送さんのローカルニュース。

十和田湖遊覧船運航開始

あすから最大で10日間の大型連休が始まります。十和田湖では遊覧船の運航が始まり、観光客は春の装いに変わり始めた景色を楽しんでいました。
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十和田湖遊覧船はきょうから運航が始まり、地元の人たちが観光客を見送りました。ことしも中山半島と御倉半島を巡る休屋発着便と、休屋と子ノ口を結ぶ便の2つのコースで1日12便が運航されます。
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恵比須大黒島や乙女の像を眺めながら進むと、雪が残る外輪山に囲まれた十和田湖が目の前に広がります。
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また緑色に色づき始めた木々の中にヤマザクラが咲いていて、訪れた観光客は春の装いに変わり始めた景色を眺めながらおよそ1時間の遊覧を楽しんでいました。
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★観光客
「ゆっくりと大自然の中でいい感じです」
「きれいですねほんとうに、自然が豊かに残っていてこんなにきれいなところだとは思っていませんでした。感激しました」
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遊覧船を運航している十和田観光電鉄によりますと去年の乗客7万8,000人のうち外国人観光客は約1万人で、インバウンドはコロナ禍前まで回復しているということです。
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★十和田観光電鉄 佐藤行洋社長
「十和田湖、いろんな意味で自然という部分で大変豊かなところですし休屋もだいぶ変わってきたというか、新しい魅力のある十和田湖・休屋になってきたのかなと思うのでそういう楽しみ方をしていただきたい」
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十和田湖遊覧船は11月18日まで運航されます。
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11月18日(月)の頃は、紅葉シーズンなのでしょう。それまでの間、多くの方が乗船なさることを祈念いたします。4月13日(土)から、青森・八戸~十和田湖休屋までのJRバスの運行も始まっているそうです。

【折々のことば・光太郎】

南海の名物鰹節をいただき、何よりのものとよろこびました。ウルヰ、シドケのやうな山菜も此のこの黒潮の味と香りとを得て一段と美味を加へる事でせう。

昭和22年(1947)7月9日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

東正巳は三重県在住、公立学校の事務職員を務めるかたわら詩歌句に親しみ、同人雑誌等を刊行、光太郎も寄稿していました。

ウルヰ」はオオバギボウシ(大葉擬宝珠)、「シドケ」はモミジガサ(紅葉笠・紅葉傘)。現代でも食されている山菜です。光太郎、鰹節を添えたおひたしにでもしていたのでしょう。

此のこの」は当方ではなく、光太郎の誤記です(笑)。

つい先日、光太郎第二の故郷花巻ご在住で、少年時代に光太郎と深く交流された浅沼隆氏の訃報を伝えたばかりですが、またお一人、生前の光太郎と深く交流のあった方が花巻で亡くなりました。

宮沢潤子さん――宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏の次女で、賢治から見れば令姪にあたられます。ただ、昭和12年(1937)のお生まれだったとのことで、昭和8年(1933)に歿した賢治には会われていません。

しかし、光太郎とは一時期、同じ屋根の下で生活されていました。昭和20年(1945)4月、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で失った光太郎は、翌月、賢治の父・政次郎や清六氏らの誘いで、花巻の宮沢家に疎開しました。その際に潤子さんも居住されていたわけです。そこで光太郎のこの年の日記には潤子さんの名も現れます。光太郎滞在中に潤子さんが痲疹(はしか)に罹患され、光太郎が心配していたことが記されています。

それから終戦後、秋になって光太郎が郊外旧太田村に移住すると、光太郎の山小屋を訪ねたこともおありでした。

また、光太郎から潤子さん宛の書簡も遺されています。昭和23年(1948)8月19日付けで、文面は以下の通り。

おみまひのおたよりをいただいてありがたく思ひました。畑で虫にくはれたのがもとらしく鼻の下のまんなかに面疔がでてき困りましたがよい薬を手に入れてつづけてのんでゐるのでもう九分通り退治しました。このはれものは中々すごい勢のものです。もう安心ですからおぢいさまはじめ皆様によろしくお伝へください。

「面疔」は黄色ブドウ球菌などによる炎症で、化膿を伴う大きな腫れ物。8月15日に清六氏に宛てた書簡に面疔になったと書いたところ、数え12歳の潤子さんから御見舞の書簡が届き、それへの返信です。「おぢいさま」は賢治や清六氏の父・政次郎ですね。

さらに潤子さん、「花巻賢治子供の会」のメンバーでした。同会は賢治の教え子の一人、故・照井謹二郎氏、登久子氏ご夫妻が立ち上げた児童劇団で、主に賢治の童話を劇化して上演していました。
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その第一回公演は昭和22年(1947)。光太郎の山小屋の前でした。もともとは光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

当方、潤子さんにお会いしたことはおそらく無いのですが、子息で林風舎代表取締役の和樹氏とは昨年、ともに花巻で行われた、公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」、トークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」などでご一緒させていただいております。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十五日の日には潤子さん共々路のわるいところを遠くおいで下されどんなに喜んだか知れません その上いろいろいたゞき唯恐縮の外ございません。


昭和22年(1947)6月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

この項、現在は光太郎書簡からほぼ年月日順に「これは」と思う記述を拾っていますが、ちょうど紹介しようと思っていた頃の書簡に潤子さんの名があったので驚きました。

6月15日は日曜日で、「賢治子供の会」の第一回公演の日でした。この日の日記のうち、関連する記述は以下の通り。

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。宮沢さん夫人も同道、ジユン子さんもゐる。ケイ子さんもゐる。ジユン子さんに水飴をもらふ。宮沢夫人よりみそをもらふ。(略)小屋前で一同田植え連中に向つて唱歌をうたふ。ひる学校にて弁当を宮沢夫人にもらふ。劇、唱歌、朗読等あり。村の少年も集る。二時頃すむ。三時半頃余もかへる。

昨日に引き続き、光太郎第二の故郷・花巻ネタで。

まずは花巻で光太郎顕彰活動に当たられているやつかの森LLCさんによる、「こうたろうカフェ」。同市郊外、旧東和町にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。日替わりで一般の方々が調理を担当されるというレストランですが、やつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として出店なさっています。

先月26日の「こうたろうカフェ」で饗されたのがこちら。
3月ワンデイ
3月ワンデイ (2)
甘酒・ガレット・シュークルート
鶏団子のスープ
バッケ味噌ご飯・茶碗蒸し・おひたし 白身魚の黒酢あんかけ (2)
ベリーベリーベリーアイス
3月メニュー表
お品書きは「林檎の甘酒」「ほっけ味噌ご飯」「ビアソーセージのガレットロール」「白身魚の黒酢あんかけ」「ふきのとうとチーズの茶碗蒸し」「紅菜苔のおひたし」「春野菜の鶏団子スープ」「お新香」「カフェドシトロン」「ベリーベリーベリーアイス」。

光太郎日記などを元に、光太郎が実際に作った料理を現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりして考案されています。

この充実のメニューで驚きの1,000円。固定ファンがついているようで、今回はメニュー公開前から予約で満席だったそうです。

続いて、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチの今月分がこちら。
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やはりやつかの森LLCさん考案によるメニューが、「白六穀ごはん」「筍ごはん」「ホッケの塩焼き」「茹で豚肉の香味ダレがけ」「ほうれんそうとコーンのバター炒め」「カッコ菜の酢味噌和え」「塩麹卵焼」「漬物」「フルーツ白玉」。

これもいい感じですね。

あまり食材等には詳しくない当方、「こうたろうカフェ」の「紅菜苔」というのは存じませんでしたし、「光太郎ランチ」の「カッコ菜」というのも「?」。調べてみましたところ山菜の「野萱草(のかんぞう)」の東北方言のようでした。「野萱草(のかんぞう)」と言われても分からないのですが(笑)。

「こうたろうカフェ」「光太郎ランチ」、それぞれ末永く愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

此処ではジヤガイモもやつと芽が出たところです。茄子のいつかいただいた種子が苗になりかかつてゐます。今年は去年より二割増しのつもりでやつてゐます。ゴマもまきました。紅花をまきました。食料兼染料です。 酸性土壌のため出来ないとされてゐたハウレン草がタンカルで中和したら立派に出来ました。

昭和22年(1947)6月3日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

こんな感じで野菜類は概ね自給できていました。「タンカル」は炭酸カルシウム。かつて宮沢賢治が肥料として推奨していたものです。

過日、智恵子の故郷、福島二本松での「春のにほんまつドライブスタンプラリー2024」をご紹介した中でちらっと触れておきましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でもスタンプラリーが開催されます。チェックポイント的な場所の一つに、高村山荘/高村光太郎記念館さんも。

花巻市の魅力発見!花巻周遊デジタルスタンプラリー

期 間 : 2024年4月27日(土)~5月27日(月)

アプリをインストールせず楽しめるスタンプラリー! 花巻の魅力的な施設20か所にQRコードを設置し、デジタルスタンプラリーを開催♪ スタンプは温泉(日帰り入浴でも対象)、見学・体験、飲食店の3種類。条件を満たすことで、花巻の特産品や温泉宿泊券が当たる抽選に応募できます(*^▽^*)
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●A賞(花巻の特産品 40名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ1個 飲食店スタンプ1個
 白金豚二刀流セット 10名
 早池峰のむヨーグルト 720ml×2本 5名
 佐々長醸造 銀河のしずくセット 10名
 佐々長醸造 つゆ 15名
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●B賞(温泉宿泊券など 15名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ3個 飲食店スタンプ2個
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<利用推奨環境>
 iPhoneの場合:iOS 13 以降+Safari(ブラウザ)
 Androidの場合:Android 10 以降+Chrome(ブラウザ)
 ※上記OSのスマートフォンに搭載されているブラウザ以外は推奨しておりません。
  スタンプラリーの参加はスマートフォンからのみ可能でございます。
  パソコン、タブレット、フィーチャーフォンは非対応となります。

参加方法
 STEP1 対象施設を利用しQRコードを読み取る
 STEP2 初めての場合は規約に同意
 STEP3 スタンプをGETしていき条件達成
 STEP4 特産品が当たる抽選に応募

※エントリー数を上限1万人に設定しております。人数に達し次第、新規エントリーはできません。
※イベントは予告なく変更、中止する場合がございます。

対象施設
〇温泉
 花巻温泉 ホテル千秋閣 ホテル花巻 ホテル紅葉館
 志戸平温泉 湯の杜ホテル志戸平
 鉛温泉 藤三旅館
〇見学・体験施設
 宮沢賢治童話村 賢治の学校 宮沢賢治記念館 花巻市博物館 花巻新渡戸記念館
 高村山荘・高村光太郎記念館 母ちゃんハウスだぁすこ 花巻おもちゃ美術館 昭和の学校
〇飲食店
 レストランポパイ マルカンビル大食堂 やぶ屋花巻総本店 嘉司屋 山猫軒本店
 Lit work place 茶寮かだん 森のジェラートポエーマ 金婚亭
 ※金婚亭、茶寮かだんはお買い物でもスタンプをGETできます

よくあるスタンプラリーかな、と思ったのですが、フライヤーの一番下を見て「えっ⁉」。何と主催が「岩手県立花巻北高校 Revolotions」。調べてみたところ、高校生が発案し、クラウドファンディングで資金を集め、実施されるとのこと。

2月の『岩手日報』さんなどに記事が出ていました。

花巻の観光振興へ周遊スタンプラリー 高校生が企画、資金募る

 花巻北高(須川和紀校長、生徒683人)の1年生4人は、花巻市の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを計画している。データを分析し、新たな観光アイデアを市に提案する目標も掲げ「花巻の未来への一歩に」と熱を注ぐ。活動資金を29日までクラウドファンディング(CF)で募っている。
 探究活動の一環で行う。スタンプラリーは5月ごろ開始予定で、宿泊・観光施設、飲食店など約20カ所に2次元コードを設置する。スマートフォンで読み取り、スタンプを集めると特産品が当たる抽選に応募できる仕組みだ。
 花巻の魅力を観光客ら多くに知ってもらう機会としつつ、リアルなデータを収集。それを基に地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案する。
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記事中に「高村光太郎記念館」の文字があればもっと早く気づき、当該クラウドファンディングにもご協力できたのですが……。

まぁ、それでも目標を超える金額が集まったそうで、良かったと思いました。
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さらに素晴らしいのは、今回の試みが単なるスタンプラリーで終わるのではなく、そこからデータを収集し、「地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案」というくだり。なるほど、と思いました。こういう柔軟な発想は、「キックバック」だの「中抜き」だの、そんなことばかり考えているジジイどもには出てこない発想でしょう。もっとも、若くても、「セクシーダンス」だのにうつつを抜かしている輩もいましたが(笑)。ちなみにその中心メンバーのセンセイも岩手でしたね。

ちなみに花巻北高さん、全く別の分野ですが、超小型人工衛星「YODAKA」のミッションにも関わられているそうです。光太郎が「内にコスモスを持つ」と評した宮沢賢治の精神が脈々と息づいているように感じます。

全国の学校関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

部落の図書館をつくりたいと青年達がいつてきてさしあたり分教場に図書棚をつくり、小生も書籍や雑誌を寄附、今後大いに助力しようと思ひます。部落の青年が自発的にかういふ事を発案したのをよろこんでゐます。いい村に、そして進んだ村にしたいものです。


昭和22年(1947)6月30日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

およそ80年前にも、光太郎、花巻(というか旧太田村ですが)の若者たちに感銘を受けていました。

智恵子の故郷、福島二本松でのイベントです。二本松市さんの主催で、期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。

高村智恵子 生誕祭

期 日 : 2024年4月25日(木)~5月26日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

「智恵子の生家」は、明治初期に建てられた造り酒屋で、酒銘は「花霞」と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。

明治、大正、昭和と激動の時代を生きた智恵子の愛と美の軌跡をぜひご覧ください。

智恵子の生誕日5月20日(月)に来館された方には紙絵マグネットをプレゼントいたします。

 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月27日(土) ~4月29日(月) 
      5月3日(金)~5月6日(月) 11日(土)・12日(日)
      18日(土)~5月20日(月) 25日(土)・26日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 
奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月25日(木)~5月12日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月18日(土)・19日(日)・25日(土)・26日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 みんなで作るシンメトリー展~展示編~
  開催日 4月25日(木)~5月26日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  昨年開催の“レモン祭”で作製いただいた皆様のシンメトリー作品を展示いたします。
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これとは別に、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが、「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂のつどい~」を5月19日(日)に開催します。また、同日は安達太良山の山開きも行われる予定です。それらはまた近くなりましたら詳細をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

つい昨年まで水野君からいろいろの野菜の種子などをもらつてゐましたが、今年播種期になつて、もう水野君が居ないのだと強く悲しく思ひました。鶴首南瓜の種子も絶え、ブンズウ豆やセリフオンの種子だけはどうやら形見にのこりました。


昭和22年(1947)6月10日 押尾孝宛書簡より 光太郎65歳

「水野君」は水野葉舟。明治後期の第一期『明星』以来、光太郎の一番の親友でした。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京を離れ、千葉の遠山村(現・成田市)で半農生活に入り、その意味では光太郎の大先輩でした。

先週から始まっています。

状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民報』さん記事から。

桜の名所、巡って当てて 4月1日から「春のにほんまつドライブスタンプラリー」 福島県二本松市

 福島県二本松市の桜の名所を満喫する「春のにほんまつドライブスタンプラリー」は1日から30日まで催される。二本松城、安達ケ原、中島の地蔵桜、合戦場のしだれ桜、岳温泉桜坂など18のスポットを巡り、取得したスタンプの数に応じて豪華賞品が当たる。
 にほんまつDMOの主催、日本自動車連盟(JAF)福島支部の協力。スマートフォンの位置情報を使って各スポットでスタンプを集める。賞品は岳温泉宿泊券、安達太良山満喫コース(ロープウエー往復券とバーベキューセット4人分)、牛肉、特産品詰め合わせなど。
 スポットは次の通り。
 二本松城、蓮華寺、鏡石寺、本久寺、円東寺、安達ケ原ふるさと村、万燈桜(道の駅安達下り線)、智恵子の杜公園、ムトーフラワーパーク、合戦場のしだれ桜、道の駅さくらの郷、道の駅ふくしま東和、中島の地蔵桜、祭田の桜、岳温泉桜坂、日向の人待地蔵桜、島山・稚児舞台の桜、愛蔵寺の護摩ザクラ
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というわけで、智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園もスタンプ押印地点の一つに。
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数年前から桜の街で自薦している二本松市。東北はこれからが桜の本番ですし、また近くなりましたら詳細をご紹介しますが、今月末には毎年恒例の智恵子生家二階部分の特別公開、智恵子紙絵の実物展示などが始まります。
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ぜひ足をお運びの上、豪華賞品ゲットにチャレンジなさって下さい。

ちなみに豪華賞品は以下の通り。

 A賞 スタンプ18個で応募 岳温泉宿泊券3万円分 抽選で2名様
 B賞 スタンプ15個で応募 安達太良山満喫コース 抽選で3名様
  ロープウェイ往復券・レストハウスで使えるバーベキューセット券がそれぞれ4人分
 C賞 スタンプ15個で応募 エム牧場生体熟成和牛焼肉 抽選で3名様
 D賞 スタンプ10個で応募 二本松詰め合わせセット(1万円相当) 抽選で5名様
 E賞 スタンプ5個で応募 二本松詰め合わせセット(3,000円相当) 抽選で10名様
 F賞 スタンプ3個で応募 肌とうじ1枚 抽選で30名様
  「純米酒」と美肌の湯で有名な岳温泉の天然温泉を配合した、フェイシャルマスク

羊頭狗肉ではなく、実際に豪華ですね。応募方法など詳細はこちら

また、高村光太郎記念館さんを含む花巻市での同様のスタンプラリーも今月末に始まるようです。そちらも後ほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

桜温泉入浴から始まり、連日の御もてなしに心のびのびと数日を送り、せんかん楼のあつき褥に身を横たへて実に命ののびる思をしました。又山下新太郎の画に誘はれて思ひがけぬリンゴの詩を得たのも喜でした。


昭和22年(1947)5月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町市街地に出、太田村移住前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸に数日滞在、山に帰ってから送った礼状の一節です。

「桜温泉」は、佐藤邸の所在地が桜町だったためのもじり、「せんかん楼」は「潺湲楼」で、光太郎が太田村移住直前の1ヶ月起居していた佐藤邸離れです。

「リンゴの詩」は、佐藤邸で見せられた留学仲間・山下新太郎の絵を見てインスパイアを受け、即興的に作った詩。即興詩ではありますが、光太郎自身気に入ったようで、最晩年の昭和30年(1955)、交流の深かった美術史家・奥平英雄に贈った書画帖『有機無機帖』にもこの詩を書きました。
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リンゴばたけに 雨ふりて 銀のみどりの けむるとき リンゴたわゝに 枝おもく 沈ゝとして あかきかな

またお一人、生前の光太郎をご存じの方がお亡くなりになりました。

浅沼隆さん。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村のご出身で、その当時は小学生。お父さまが分教場から昇格した山口小学校の校長先生だった関係もあり、小学校までしか届けてくれない光太郎宛の郵便物を光太郎の山小屋に届けられたこともしばしばでした。光太郎もそんな浅沼さんを随分とかわいがってくれたそうです。
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こちらは比較的有名な写真ですが、昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と小学校の児童たち。右手後方の窓から顔を出してこちらを見ているのが浅沼さんです。

光太郎歿後はその語り部として、ご活動くださいました。花巻高村光太郎記念会さんの理事も務められました。
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平成25年(2013)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。

令和2年(2020)、花巻周辺で発行されているタウン誌的な『シニアズ』
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かつて旧太田村で毎年5月15日に開催されていた高村祭では、運営の中心的な役割を務められ、平成30年(2018)の第61回では、当方が司会を務め、浅沼さんはじめ4名の光太郎を直接知る方々にお話を伺うトークイベントも行いました。昨年、同様の企画を花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんで行い、それが浅沼さんとお会いした最後となりました……。

花巻以外でも、当会主催の連翹忌、二本松でかつて行われていた智恵子を偲ぶレモン忌、同じく二本松での野村朗氏作曲「歌曲集智恵子抄」コンサート(二本松と言えば、二本松の皆さんをおもてなしなさったことも)、仙台で行われたテルミン奏者の大西ようこさんと朗読の荒井真澄さんのコラボ公演、さらには十和田湖でお会いしたこともありました。

かつて花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット。「せいいち」はやはり冒頭のサンタの写真に写っている高橋征一さん。一昨年、亡くなりました。
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こんなエピソードを元に、当方、平成27年(2015)に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中のジュブナイル「乙女の像ものがたり」で、光太郎を慕う太田村の少年「隆くん」を登場させました。言わずもがなですが、幼い日の浅沼さんがモデルです。
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思い出は尽きません……。

ご葬儀は4月6日(土)11:00~ 〒025-0089 花巻市岩手県花巻市豊沢町8-8 花巻葬祭センターさんで執り行われるとのことです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山でも急に春になり、雪がとけ、草が芽を出し、畑仕事が忙しくなりました。今月中にいろいろ種子まきや植込みをするので今畝つくりです。畑をやつてゐると汗みづくです。


昭和22年(1947)4月20日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

浅沼さん、光太郎への来信を山小屋に届けるだけでなく、こうした手紙を預かって郵便屋さんに渡すということもなさっていたのではないでしょうか。

智恵子の故郷・二本松系の情報を。

まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。同市では毎月末に来月号をサイト上にアップしていまして、4月号です。

ここ数年、「桜の街」を謳っている同市ですので、毎年4月号は市内の桜関係の情報が満載。表紙も二本松城(霞ヶ城)の桜です。
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令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズ「ほんとの空にさくら舞う」が使われ続けています。
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市内の銘木紹介。智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園の桜が紹介された年もあったのですが、今年はありません。
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桜がらみのイベント情報。

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臨時バス情報。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も行程に入っている「二本松春さがし号」にも触れられています。
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ただし、思いのほか開花が遅れたということで、3月29日(金)~4月7日(日)だった当初運行予定が変更となり、1週間先送りで4月5日(金)~4月14日(日)となったそうです。広報では訂正が間に合わなかったようです。
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過日ご紹介した周遊観光タクシーともどもご利用をご検討下さい。

二本松系でもう1件、テレビ番組の放映情報です。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 2024年3月30日(土) 03:00~03:30

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は福島県、岳温泉「奥岳の湯」「花かんざし」、宮城県、鬼首温泉「ホテルオニコウベ」、温湯温泉「佐藤旅館」。

【旅人】秦瑞穂 【ナレーション】丸山未沙希
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安達太良山の登山口にある奥岳の湯さん、中腹の花かんざしさん。

奥岳の湯さんはこの番組で平成30年(2018)にもが取り上げられ、光太郎智恵子の名を出して下さいましたが、使い回しの映像なのか、新作なのか、というところです。花かんざしさんは初の登場です。

ちなみに令和2年(2020)8月放映の那須塩原温泉・塩の湯柏屋旅館さんが取り上げられた回では、光太郎智恵子が泊まった宿というご紹介をして下さいました。
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今回、「ほんとの空」「智恵子抄」といったワードが出てくるかどうか微妙なところですが……。

というわけで、二本松、岳温泉、ぜひ足をお運びいただき、桜と温泉をご堪能ください。

【折々のことば・光太郎】013

写真たくさん届きました。みんなにあつたやうな気がしました。中々よくとれてるのもあります。笑つて居るのはみんないいです。ありがと。ツマゴといふのは雪の中を歩くワラグツです。小生のは特大です。


昭和22年(1947)3月3日
 髙村規宛書簡より 光太郎65歳

令甥の故・髙村規氏宛の絵手紙です。後に写真家となられた規氏、このころはまだ高校生でしたが、既に趣味的に写真撮影に取り組まれていました。おそらく御家族(父君は光太郎実弟・豊周)の写真を光太郎に送ったのでしょう。戦争末期、豊周一家は光太郎の花巻疎開より前に長野に疎開していたため、2年以上会っていませんでした。

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